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Posted by 八少女 夕

【小説】黒色同盟、ついに立ち上がる

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十二弾です。

かじぺたさんは、写真と文章を使った記事で参加してくださいました。ありがとうございます!


かじぺたさんの書いてくださった記事 『雅たちの宴(scriviamo! 2017に参加させて頂きますm(_ _)m)』

かじぺたさんは、旅のこと、日々のご飯のこと、ご家族のことなどを、楽しいエピソードを綴るブロガーさんで、その好奇心のおう盛な上、そして何事にも全力投球で望まれる方です。もっとも印象的だったのは、お正月の準備で徹夜をなさった件。今はもちろんのこと、日本にいたときもお正月の準備が紅白に間に合わなかったら、「ま、いっか」と一年延長していた私とは正反対だわ〜と感心しておりました。

さて、二回目の参加となった今回は、創作によるご参加ではなく、おそらく実際に起こったことを綴られている記事です。そうなんですよ、scriviamo!は創作でなくてもOKなんです。非創作カテゴリーのブロガー様たち、よかったら遠慮せずにご参加くださいませ。

で、お返しは、記事ではなくて掌編小説、さらにこの記事に関連したことがいいんだろうなあと思ったのです。こんな感じの若干ファンタジーな話になりました。

なお、今回のストーリーは、先にかじぺたさんの記事を読まれることを推奨いたします。そうしないと意味不明かも……。


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黒色同盟、ついに立ち上がる
——Special thanks to Kajipeta san


 その家を窓から覗き込みながら、タンゴは「ちっ」と舌打した。また新しい案件だ。今日の会議で話し合わなくちゃ。

 タンゴは誇り高き野良猫だ。真っ黒のつややかな毛並みが自慢。もちろん前足や後足などに白足袋を履いているような中途半端な黒さではなく、中世のヨーロッパにでもいたら真っ先に魔女裁判で薪の上に置かれたような完全な黒猫だ。

 もちろん今は黒いからといって焼き殺されることはないが、普通に歩いているだけで
「いやだ、もう! 朝から黒猫が横切るなんて、縁起が悪い」
などど恨みがましく叫ばれることはよくある。自分を何様だと思っているんだ。お前の方が縁起が悪いぞ。

「よう、タンゴ。なにをそんなに急いでいるんだ?」
声を掛けてきたのは、カラスヘビだ。シマヘビなのだが、全身が黒くなるメラニスティックとして生まれてきたので、虹彩に至るまで黒い。タンゴと同様に黒色同盟の理事を務めている。

「会議の議題を一つ追加しなくちゃいけないんだ」
「なんだって? 今になって?」
「そうさ。捨て置けない案件を、たったいま目撃してしまったんだ」
「そうかい。もう広場にみんな集まっていると思うぜ」

 太陽が黒松のてっぺんにさしかかった頃、黒色同盟の今年三回目の会議が開催される。議長は、持ち回りで今日は黒山羊のバアルだ。

「皆さん、ご静粛に。これより今年三回目の黒色同盟定例会議をはじめます。まずは出欠者の確認です。黒い皆さんはみんないらしていますか。白ヤギやシマリスなどの関係のない皆さんは、しばらく退席してください」

 ガヤガヤとその場で移動する音がして、黒松広場には文字通り黒い生き物だけが残った。黒山羊バアル、黒猫タンゴやカラスヘビ以外にも、黒鳥のオディール、蜘蛛のブラック・ウィドー、カラスたちの代表ダミアン、黒い蛙のブフォ、その他たくさんの黒い動物たちが参加していた。議題は主に「黒いからといって排除されたり嫌われたりする理不尽について」である。

「静粛に。今週の理不尽事例の発表は……。ああ、まずオディールから」
バアルは黒い髭をゆらゆらと揺らして、優雅に座る黒鳥を指名した。

 黒鳥はカモ科ハクチョウ属に分類されるオーストラリア固有種である。探しても無駄なことのたとえとして「黒い白鳥を探すようなもの」と慣用句で使われていたが、17世紀にオーストラリアで発見されてしまい、それ以来ことわざの意味が「常識を疑え」という意味に変わってしまったことでも有名だ。

「本日、私が申し上げたいのは、あのバカ王子の件です」
オディールはぷんすか怒って、黒松の下に据え付けられたステージによじ上ると、黒いチュチュをバタバタさせた。ああ、バレエ『白鳥の湖』の件ね。多くの参加者が「その話は知っているよ」という顔をした。

「いいですか。白鳥オデットに甘い言葉を囁いていたのに、後から私に結婚を申し込んだのは、私がオデットに化けて騙したからだっていうんですよ。自分が浮氣しただけなのに、ふざけやがって。私はちゃんと自分の黒い衣装で出かけていったのに。そして、私が悪魔の娘だっていうんです。ホント失礼しちゃう!」

 すると、カラスヘビが木の上から吊り下がって来た。
「悪魔と言えば、俺もムカつく件があるよ。アダムとイブを騙したのは俺っちだって濡れ衣さ。ヘビは狡猾でした、とか書きやがったヤツがいて、その挿絵にはいつも俺っちみたいな黒ヘビが描き込まれる。それなのに、あの人間どもときたら白ヘビは神様の使いとか言っちゃって、抜け殻を財布に入れたりするんだぜ」

 黒蜘蛛のブラック・ウィドーも糸を伝わってするするとステージに降りてきた。
「私は確かに交尾が終わるとオスを食べちゃいますけれど、それはオスも合意の上ですし、そもそも一度だって相手に保険をかけたことはないんですよ。それなのにあのがめつい人間の女たちと一緒にするなんてひどいと思います」

 黒山羊のバアルは、角でガンガンとステージを叩き、議長を無視して勝手に発言する輩を牽制した。

「静粛に。ここにいるほとんどの同盟者諸君は、みな人間の『黒い生き物は縁起や心がけが悪い』という偏見による被害を受けているのだ。過去の事例はいいから、現在進行中で抗議変更すべき事例はないのかね!」

 黒猫のタンゴは「はいはいっ!」と前足の肉球を高く持ち上げて発言許可を待った。

「なんだね。タンゴ。君が横切ると人間が不吉だと騒ぐ話は、わかっているから言わなくていいよ」
「違います。その話じゃありません。現在進行中の案件です」

 その場に集まった真っ黒の集団は、一様にざわめいた。
「なんだって! 現在進行中?」

「たった今、あの角を曲がったところにある家で、由々しき事態を目撃したのであります」
「なんと。いったい何を見たというのかね」

「はい。僕はこの会議に遅刻しないように、近道をしてその家の窓の外を通っていました。リビングで一人の女が大量の折り鶴を前に何かを騒いでいました。よく聴くと『こんなに黒い折り鶴が!』って、いうんです。どうやら何かのお祝い事で手分けして折り鶴を作らせて取りまとめている時に、黒い紙で折ったものを発見、それが縁起が良くないので取り除いていた模様であります!」

「なんだって。それは、我々が迫害されている動かぬ証拠ではないか」
黒山羊バアルは立ち上がり、興奮して黒松の上によじ上った。

「ようやく動かぬ証拠の現場に立ち会えるというわけだな。しかも、すぐそこというのが素晴らしい。早速抗議に行こう」

「そうだそうだ! 不当差別反対!」
「黒を葬式に使うのを阻止せよ!」
「黒はハードロックとパンクの色!」
「イカスミスパゲティにもっと愛を!」

 口々に叫ぶうちに、どうもおかしなスローガンに変わりつつあったが、みな興奮しているのでそれに氣づいていない者も多かった。

 会議場に招集された黒色同盟日本支部会員資格を持つ58万6742匹の動物たちは、足並みを揃えて黒猫タンゴが目撃した折り鶴を選り分けていた女性の住む家へと向かった。あまりにたくさんの黒い動物が移動したので、あたりは真っ暗になって、近隣の人びとは何事が起こったのかとドキドキした。

「あそこです! あの家です。そしてあの窓から見てください!」
タンゴがぴょんと窓枠に飛びのると、先ほどまで折り鶴を選り分けていた女性は奥に引っ込んでしまっていて見当たらなかった。そして、五百羽以上はあった色とりどりの他の折り鶴がなくなった机の上に、小さくてかわいらしい黒い折り鶴が六、七匹、ちょこんと残っていた。

「ほ、ほらっ。あんな風に迫害されて! 他の折り鶴はなくなってしまいましたが、あんなところに黒いのだけが放置されています!」
「どれどれ。たしかに黒いのだけ残っているな……。では早速抗議行動を……」

 その時、奥の部屋から女性の明るい声が聞こえてきた。
「ねえねえ、ちょっとこっちに来て見てみない? お祝いの折り鶴の山からしかたなく取り除いた黒い子たちだけれど……」

「なんだ? 黒い折り鶴がどうしたって?」
もっと奥から、優しそうな男性の声がした。

 明るい女性の声は続けた。
「うん。それがね。とってもかわいいから、このまま我が家に飾っておこうかなって思うの。こういう風に並べると、素敵だね」

 怒りの拳をあげていた黒色同盟の会員たちは、「あれ」と顔を見合わせた。

「迫害されていないじゃないか」
黒山羊バアルがいうと、タンゴはオロオロしながら頷いた。

「それどころか、他の折り鶴はまとめて持ち去られましたが、黒い折り鶴は永久保存してもらえるようですよ」
カラスヘビがとぐろを巻きながら言った。

「な~んだ。たまには僕たちも優遇されることがあるんだね」
「そうか~。そりゃ、よかったよかった」

 すっかり氣をよくした黒い動物たちは、ウキウキした心持ちでその場から解散した。帰り道にもみな上機嫌で、普段は喧嘩を引っ掛ける相手である白いチンチラ猫や白馬などにも朗らかに挨拶する者まで現れた。

 この一件があってから、しばらく黒色同盟の会議は開催されなかった。黒松広場は空いていることが多かったので、かわりに「灰色の動物たちをグレーゾーンから保護する会」の第一回総会が開催されるなど、近年にない様相を見せた。

 黒猫のタンゴと言えば、例の家の窓を訪ねては大事にされている黒い折り鶴たちを眺めて喜んでいる日々を送っていたが、あまりにもしょっちゅう来るのでその家の二匹のコーギー犬にすっかり憶えられてしまい、時々ドッグフードを恵んでもらう仲になったらしい。

 猫がドッグフードを食べるとどうなるのかについてはまだ黒色同盟では明らかにされていない。おそらく次の定例会では、例の黒い折り鶴たちの現状とともに、その件についても報告があると予想されている。


(初出:2017年2月 書き下ろし)

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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】絶滅危惧種

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十一弾です。

大海彩洋さんは、『ピアニスト慎一』シリーズの番外編で参加してくださいました。ありがとうございます!


彩洋さんの書いてくださった短編 『サバンナのバラード』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。年代が近い、物語を書いてきた長さが近い、ブランクがあったことも似ているなどなど「またシンクロしている!」と驚かされることの多い一方で、えらい違いもあり「ううむ、ちゃんと精進するとこれほどすごいものが書けるようになるのか」と唸らされてしまうことがとても多いのです。

今回書いていただいた作品とその本編に当たる「死と乙女」でも、私のよく書く「好きなクラッシック音楽をモチーフに」に挑戦されていらっしゃるのですが、「なんちゃってクラッシック好き」の私とまさに「えらい違い」な「これぞクラッシック音楽をモチーフにした小説!」が展開されています。

で、今回書いてくださったのは、またまた「偶然」同じモチーフ「女流写真家アフリカヘ行く」が重なった記念(?)に、彩洋さんのところの女流写真家ご一行と、うちの「郷愁の丘」チームとのコラボです。というわけで、こちらはその続きを……。

しかし! 大人の事情で「ジョルジア in アフリカ with グレッグ」は出せませんでした。出すとしたら「郷愁の丘」が終わったタイミングしかなくて、それはあまりにもネタバレなので却下。そして、せっかくゲスト(奈海、ネイサン、ソマリア人看護師の三名)に来ていただいているというのに、某おっさんは、これまた大人の事情で取りつく島もない態度……orz。彩洋さん、ごめんなさい。ここで簡単にネイサンたちと仲良しになれるようなキャラに変更すると、本編のプロット大崩壊なんです。

ということで、おそらく彩洋さんの予想と大きく違い、別のもっとフレンドリーなホストで歓待させていただきました。こっちは、たぶん五分で意氣投合すると思います。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む(第1回のみ公開済み)
あらすじと登場人物


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郷愁の丘・外伝
絶滅危惧種 
——Special thanks to Oomi Sayo san


 普段はあまり意見を言わない看護師がぼそっと言った。
「どうしてわざわざシマウマを観に行くの」

 運転席で、それは当然な問いかけだなと彼は思った。アフリカのゲーム・サファリをする時に、シマウマを観るためだけに車を走らせたりする者はない。ライオンやチーターを探すついでに見たくなくても見えてしまうのが普通だからだ。

「見せてもらうのはただのシマウマじゃないんだよ。ね、スコット博士」
フランスから来た医師が彼に話しかけた。

「はい。これからお目にかけるのは、グレービー・シマウマです」
彼は後を振り返って答えた。彼の運転するランドクルーザーには、三人の客と一匹の犬が同乗している。助手席にはソマリア出身の看護師が座り、フランス人の医師と日本人の女性カメラマンは後部座席に座っている。そして、その後に踞るのは彼の愛犬であるローデシアン・リッジバック、ルーシーだ。

 ネイサン・マレ医師は、撮影をしたがるに違いない奈海が助手席に座った方がいいと主張したのだが、ルーシーがソマリア人を執拗に威嚇するので、距離を開けるためにしかたなくその配置にしたのだ。

「よくあることなんだよ」
スコット博士がソマリア人に謝っているとき、ネイサンは奈海に耳打ちした。

「なにが?」
「アフリカの番犬は、黒人にひどく吠えることが多いんだ。別にそういう教育をしているわけじゃなくても。そして、多くの黒人は番犬が苦手になる。そうすると、それを感じとる犬はもっと吠えるんだ」
「でも、ルーシー、最初は私やあなたにもずいぶん吠えていたわよ」
「まあね。番犬として優秀ってことかな」

 その説明を聞きながら彼は申しわけなさそうに言った。
「彼女は、ほぼ全ての初対面の人間にひどく吠えるんです」

「ってことは、例外的に吠えなかった人もいるってことかい?」
ネイサンが訊くと、彼は短く「ええ」とだけ答えた。

 彼自身の父親であるジェームス・スコット博士でも、その恋人であるレイチェル・ムーア博士でもなく、そして二人の娘のマディでもない。初対面の人間にひどく吠え立てるルーシーがはじめからひどく尻尾を振って懐いたのは、半年ほど前に滞在したアメリカ人女性だった。

 それは、やはり今日のようにマリンディの父親の別荘に滞在した時だった。彼の意思とは関係なく別荘に行くことになったのは今回と同じだったが、その女性は自分で招待したのだ。彼が誰かを招待したのはここ十年では彼女一人だけだった。そもそも、断られると思いながら誘ったのだが、彼女が意外にも簡単に招待に応じてくれたのだ。

 その時たまたまその場にいた旅行エージェントを営む友人リチャード・アシュレイは、彼のことを誤解したようだった。しばらく逢わないうちにすっかり社交的になったのだと。実際には、あいかわらず人間との交流を可能な限り避けている。リチャードは、半年前に彼の人生の沙漠に突然訪れた夢のような一週間のことは知らないだろう。それとも、不器用なために何の成果も手にしなかった話がすでに面白おかしく伝わっているのかもしれない。

 そもそもリチャードは、今回この三人の客を彼に紹介したわけではなかった。ホスピタリティにあふれ、時おりビジネスの範囲を大きく超えて客を歓待するリチャードは、彼に三人の客を見事に接待する能力があると思うほど楽天的ではなかった。

 そうではなくて、この別荘を実質的にいつも使っている人懐こい夫婦に、三人のもてなしを依頼したのだった。つまり、マディとその夫であるイタリア人アウレリオ・ブラスだ。

 アウレリオはオックスフォード時代から付き合いのあるリチャード・アシュレイの親友だ。彼が、リチャードを通じて性格の全く違う無口で人付き合いの下手なケニア出身の学生スコットに近づいたのは、大いなる下心があってのことだった。すなわち、一目惚れした彼の腹違いの妹と親しくなるための布石だ。

 その甲斐あって、マデリン・ムーアと首尾よく結婚したアウレリオは、今では彼の義理の弟となってケニアに移住している。そして、イタリア系住民のコミュニティのあるマリンディの別荘でバカンスを楽しむことも多かったし、親友リチャードの依頼を愛想良く受けてその友人を歓待することも好んだ。だが、愛すべきアウレリオには、大きな欠点があった。肝心な時に決してその場にいないのだ。

 今回もリチャードから紹介され、三人の客の受け入れを快諾したものの、ミラノでの商談の時間がずれ込み約束の日にケニアに戻って来ることが出来なかった。だが、別荘の本来の持ち主である義父ジェームス・スコット博士に代わりに接待をしろとは言えない。妻のマディは二人の子供を抱えていて簡単に250キロも移動できない。そこで急遽、鍵を持っているジェームスの息子であるヘンリーが呼びつけられたのだ。

「グレービー・シマウマって、普通のシマウマとどう違うの?」
日本人カメラマン奈海の声で彼は我に返った。シマウマの研究者である彼は、説明を始めた。

「グレービー・シマウマは、アフリカ全土でよく見られるサバンナシマウマ種よりも大型です。縞模様がよりはっきりしていますが、腹面には模様がありません。ケニア北部とエチオピア南部のみに生息しています」

「ずいぶん減っているんだろう?」
「はい。ワシントン条約のレッドデータでEN絶滅危惧種に指定されています。1970年代には15000頭ほどいたのですが、現在およそ2300頭ほどしか残っていません」

 奈海は驚いた声を出した。
「そんなに減ってしまったの? どうして?」
「縞模様が格別にきれいで、毛皮のために乱獲されたんです。そして、家畜と水飲み場が重なったためにたくさん殺されました」

「今は保護されているんだろう?」
「ええ、捕獲や殺戮は禁止されていますしワシントン条約で保護されたためにここ数年の生息数は安定しています。でも、エチオピアが建設を予定している大型ダムが完成するとトゥルカナ湖の水位が大きく下がると予想されています。それで再び危機的な状況になると今から危惧されています」

 ランドクルーザーは、アラワレ国立自然保護区に入ってから、ゆっくりと進んでいた。マリンディから130キロしか離れていないと聞いていたので、すぐに到着して簡単にシマウマが見られると思っていたが、すでに三時間が経っていて、いまだにヌーやトムソン・ガゼルなどしか目にしていなかった。

「ほら、いました」
彼は、言った。
「あ、本当ね」
ソマリア人が答えた。

「え? どこに?」
奈海は後部座席から目を凝らした。彼女にはシマウマの姿は見えていない。ネイサンが笑った。
「都会の人間には、まだ見えないよ」
「え?」
「サバンナに暮らす人間は視力が6.0なんてこともあるらしいよ。遠くを見慣れているからだろうな。十分くらいしたら君や僕にも見えてくるさ」

 本当に十分以上してから、奈海にもシマウマが見えてきた。彼は生態や特徴などについて丁寧に説明してくれるが、奈海が満足する写真を撮れるほどには近づいてくれない。窓を開けてカメラを構えるがこの距離では満足のいくアングルにならない。

「もう少し車を近づけていただけませんか」
「これが限界です。これ以上近づくことは許可されていません。向こうから近づいてくればいいのですが」

「でも、周りには誰もいないし、僕たちはシマウマにとって危険じゃないから、いいだろう」
ネイサンは、奈海のために頼んだ。
「車で近づくのがダメなら、私、降りて歩いてもいいわ」

「近づくのも降りるのも不可です。彼らをストレスに晒すことになりますから。この規則は、あなたたちに問題が降り掛かるのを避けるためでもありますが、それ以上に生態系を守るためにあるんです」

 警戒心の強いシマウマたちは、どれだけ待っていても近づいてこなかった。やがて彼は時計を見て言った。
「申しわけありませんが、時間切れです。もう帰らないと」

「まだ陽も高いし、少しスピードあげて戻ればいいんだし、あと一時間くらいはいいだろう? まだ彼女が撮りたいような写真は撮れていないんだ」
ネイサンがまた奈海のために頼んだが、彼は首を振った。

「この保護区内では時速40キロ以上を出すことは禁じられているんです。そして、夕方六時までに保護区の外に出ないと」

 これまでのサファリで、こんなに融通の利かない事を言われたことはなかったので、ネイサンと奈海は顔を見合わせた。頼んでも無理だということは彼の口調からわかったので、大人しく引き下がった。

 出かける前にパリに電話をかけていて出発が遅くなったことが悔やまれた。そう言ってくれれば、電話は帰ってからにしたのに。奈海は名残惜しい想いで遠ざかるグレービー・シマウマの群れを振り返った。

* * *


「ヘンリー!」
マリンディに戻ると、アウレリオと二人の子供たちと一緒に到着したマディが待ち構えていた。夫が三人の客たちに無礼を詫びつつ、リビングで賑やかに歓待している間、彼女は彼を台所に連れて行った。

「私たちの到着が遅くなって、三人の世話をあなたにさせたのは悪かったわ。でも、ヘンリー、あなた、まさかお客様にあれを食べさせたわけ?!」
彼女は、流しの側に置いてあるコンビーフの空き缶を指差した。

 彼は肩をすくめた。
「僕にフルコースが作れると思っていたのかい」
「思っていないけれど、いくらなんでも!」

 彼は首を振った。
「心配しなくても、焼きコンビーフを食べさせたわけじゃないよ。そうしようかと思っていたら、見かねたマレ先生があれとジャガイモでちゃんとした料理を作ってくれた」
「あきれた。マレ先生に料理させちゃったのね」

「だから、今夜は、まともに歓待してやってくれ。僕は、帰るから」
「食べていかないの?」
「今から帰れば、明日の朝の調査が出来る。それに、僕がここにいても場は盛り上がらないから」

 マディは、居間にいる四人と子供たちがすっかり打ち解けて楽しい笑い声を上げているのを耳にした。そして、打ち解けにくい腹違いの兄との時間で三人が居たたまれない思いをしたのではないかと考えた。ヘンリーは決して悪い人ではない。ないんだけど……。

「そんなことないわ。それにあの日本女性、写真家だし、弾む話もあるんじゃないの?」
マディは、含みのあるいい方をしたが、彼は乗ってこなかった。

 彼女は続けた。
「彼女と連絡取り続けているんでしょう? 行くって聞いたわよ、来月ニューヨークに」
「どういう意味だ」
「ママがあなたも行くって。あなたが海外の学会に行くなんて、珍しいことだもの。ミズ・カペッリに会うんでしょう?」

 彼は首を振った。
「ニューヨーク学会に行くのは、レイチェルがスポンサーに紹介してくれるからだ。もしかしたら援助してもらえるかもしれないから。ミズ・カペッリは忙しいだろうし、押し掛けたら迷惑だから連絡していない」

「どうして?! せっかく再会できるチャンスなのに、この間、ずいぶん仲良くなったじゃないの」
マディは、よけいなおせっかいとわかっていながら言い募った。

 彼は、答えずに彼女の瞳を見つめ返した。暗い後ろ向きな光だった。彼女は、よけいな事を言ったことを後悔した。上手くいっていたと思っていたのに……。

 彼は、「じゃあ、これで」と言うと表で待つルーシーを連れて車に乗り込み去っていった。

 人付き合いが下手な上、父親ともほとんど没交渉の彼のことを、マディと母親のレイチェルはいつも氣にかけていた。クリスマスや復活祭の食卓に招んだり、別荘での休暇に呼び出したり、学会でも声を掛けたり、彼が《郷愁の丘》に引きこもり続けないように心を砕いてきた。彼は、それを感謝し嫌がらずに出かけてくるが、自ら打ち解けることはまだ出来ない。

 逢ってまだ三十分も立っていないのに、もう昔からの親友のように楽しそうに語り合うアウレリオとマレ医師たちの声を聴きながら、彼女はこの世と上手くやっていけない腹違いの兄と比較してため息をついた。

 夫は彼女に近づくのに躊躇したり、迷惑だろうからと遠慮したりはしなかった。そして、それが彼女自身の幸せにつながった。だが、それをヘンリーに言っても助けにはならないだろう。彼はそういう人間ではないのだから。

 彼女は両親や兄のように動物学者ではないから、学術的なことはわからない。でも、進化論で「絶滅した種は環境に適応できなかったから」と言われているのくらいは知っている。他の生物と同じく環境に適応できないために種を保存できない人間もいるのかもしれない。

 彼女は頭を振ると、去っていった兄の愛するアメリカ人ではなく、パリから来た女流写真家と会話を楽しむべく居間へと向かった。

(初出:2017年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】その色鮮やかなひと口を -5 -

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十弾です。

嬉しいことに今年もココうささんが、俳句で参加してくださいました。冬と春の二句です。ありがとうございます!


ココうささんの書いてくださった俳句

冬木立手より重なる影ありぬ  あさこ
 
春の水分かれてもまた出会ひけり  あさこ


この二句の著作権はココうささん(あさこさん)にあります。無断転載ならびに転用は固くお断りします。


ココうささんは、以前素晴らしい詩や俳句、揮毫を発表なさっていらっしゃいましたが、現在はブログをお持ちではありません。でも、今でもこのブログを訪ねてくださり、時々、お話ししてくださるんです。実生活と違って、ブログ上でのお付き合いは連絡先を知らない限り簡単に途切れてしまいますが、こうして交流が続くこと、本当に嬉しく思います。

そして、毎年のお約束になっていますが、一年間放置した二人をココうささんの俳句で動かさせていただきました。島根県松江市で和菓子職人になったイタリア人ルドヴィコと店でバイトをしている大学生怜子のストーリーです。年に一度という寡作の割になぜか展開が早いのですが、もう五年もこのままですからね。


【参考】この話をご存じない方のために同シリーズへのリンクをつけておきます。
その色鮮やかなひと口を

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その色鮮やかなひと口を -5 - 
Inspired from 2 Haikus by Asako-San
——Special thanks to Kokousa san


 二月だというのに、道には雪はほとんどなかった。まだ肌寒いが、枝の蕾のふくらみや、穏やかな陽の光に歌う小鳥のさえずりが、春はそう遠くないことを報せてくれる。

 怜子は、運転席に座るルドヴィコに視線を移した。さほど空間の広くないレンタカーの中で、彼の頭と天井との空間はたくさんは残っていなかった。怜子は背の高い穏やかな青年の横顔に微笑みかけた。

「どうしましたか。怜子さん」
彼は、いつも通り流暢な日本語で語りかけた。怜子は「なんでもない」と言って窓の外に視線を戻した。

 注文品を届けることがあるので、彼は仕事で運転することはあるが、プライヴェートでは一畑電鉄のバスや電車にのんびりと乗るのを好んでいた。でも、今日は、山口県との県境まで行かなくてはならず、交通の便が今ひとつなので車を借りたのだ。怜子は、彼とドライブしたことは一度くらいしかないので、妙にワクワクしていた。もっとも、怜子の両親のところに行く用事の方にもっとドキドキすべきなのだが、そちらの方はいまいちピンと来ていなかった。

 そもそもの事の起こりは、二週間ほど前だった。怜子が将来のことでルドヴィコに相談を持ちかけたのだ。

「ゼミの指導をしてくれている助教授がね。恩師が教鞭をとっている京都の大学院を受けてみないかっておっしゃるの。どうしようかなあ」
「怜子さんは文学の研究を続けたいんですか?」

「う~ん。もっと研究したら面白いとは思うけれど、将来のこともあって考えちゃう。研究職に就きたいってことではないのよね。京都に行けば京阪神の大都会で仕事をする可能性が開けるとゼミ仲間は言うけれど、大学院卒ってよほど優秀じゃないと就職先ないし」

「怜子さん、都会で仕事したいんですか」
「私、島根県から出たことないもの。このままここで就職活動したら、井の中の蛙のままになるんじゃないかなあ。それでもいいれど、先生がせっかく奨めてくれるのは自分を試すチャンスかもしれないと思って。ルドヴィコはどう思う?」

「もし、こちらで就職活動をするとしたら、どんな所に勤めたいんですか?」
「とくに決めていないよ。私は特殊技能もないし、事務職かなあ。そもそも求人があるかしら」

「『石倉六角堂』にこのまま勤めるのは嫌なんですか?」
「いや、嫌じゃないけれど、私はバイトだもの。ルドヴィコみたいに和菓子職人としての技能があれば社長も正社員として採用してくれるけれど、バイトの正社員登用なんてないと思う」

 彼は腕を組んで納得のいかない顔をしていたが、どうやら社長に打診してくれたらしい、翌日怜子は石倉夫人と社長に呼ばれた。

「怜ちゃん、ルドちゃんから聞いたんだけれど、卒業後にここで働くつもりはないの?」
石倉夫人に訊かれて怜子は驚いた。
「え。考えたことなかったです。去年、千絵さんも就職活動の時期に辞められたのを見ていたから、はじめから無理だと思っていて……」

「うちはそんなにたくさん正社員を雇えないし、一度雇ったら誰かが辞めるまでは新しく募集できないさ」
社長がいった。怜子は、ほら、そうだよね、と思いながら頷いた。

「だからね。怜ちゃんが卒業するまでは、少しキツいけれどバイトのシフトだけでなんとか凌ごうって去年、アルバイトを増員したのよ」
石倉夫人は夫の言葉を継いだ。

「え?」
怜子は、目を瞬かせて二人の顔を見た。その反応に二人は顔を見合わせた。

「ルド公は、何にも言っていないのか?」
「なにをですか?」

「困ったヤツだな」
社長はため息をもらした。それから、ばっと事務所の扉を開けると、奥の厨房にいるルドヴィコに向かって叫んだ。
「おい。ルド公! 俺から言ってしまうからな!」

 奥から「どうぞ」という彼の声が聞こえると、社長は再びドアを閉めて、また怜子の前に座った。

「実はな。一年ぐらい前から具体的に話しているんだが、数年後にもう一軒支店を増やすつもりなんだ。新しい店は義家と真弓さんに任せるつもりでいる。そうなると、こっちでメインに作ってもらうのは佐藤とルド公になるだろ。で、真弓さんの代わりに昼夜関係なく働ける正社員がもう一人いるって話になったんだよ。そうしたらルド公が、自分の嫁じゃだめなのかといったんだよ」

「え?」
「その、ルドちゃんは、怜ちゃん、あなたが卒業したらお嫁さんになってもらって一緒にここでやっていくつもりだったの。もちろん私たちは大歓迎だけれど、彼ったら何も言っていなかったのね。まさか、こんな形で私たちから告げることになるとは夢にも思わなかったわ」

 あまりに驚いて何も言えない怜子に、社長は言った。
「あいつの嫁になるかどうかは別として、もしここを辞めて県外に行くなり、他の職種に就職したいって場合は、三月までに返事をくれないか? その頃には、正社員の募集をかけなくてはならないし」

 それで、その日の仕事から上がるとすぐにルドヴィコに詰め寄った。
「ルドヴィコ、わたし何も聞いていないよ!」

 彼は、肩をすくめて言った。
「だから、近いうちに怜子さんのご両親の住む街に行こうって言ったじゃないですか。怜子さんが試験が終わってからがいいと言ったんですよ」
「うちの両親なんて、これと関係ないでしょう。……って、あれ? まさか……」
「そうですよ。『お嬢さんをください』って、ご挨拶をしないと」

「ええっ? でも、ルドヴィコ、まだ私にプロポーズしていないよ?」
「しましたよ。怜子さんOKしたでしょう」
「いつ?」
「先週、城山稲荷神社で」
「え? あ……あれ?!」

 松江城の敷地内にある城山稲荷神社は千体もの石の狐がある不思議空間だ。店からもルドヴィコの住まいからもとても近いにも関わらず、この神社に一緒に行ったのはまだ三回目だった。石段を上るのが一苦労だからだ。

 でも、その日は二人で久しぶりにお稲荷さんにお詣りして、かつて小泉八雲が愛したと言う耳の欠けた狐や幸福を運ぶ珠を持った狐を二人で探した。

「小泉八雲は通勤中にここをよく訪れたそうですよ。日本らしい幽玄な光景、当時二千体もあったお稲荷さんを見て、そして、それが全て神として信仰されているのを知り、ここは故郷とどれほど違った国なのだろうと驚いたでしょうね」
「そうだよね。私たち日本人でも、これだけ揃っているとすごいなあって思うもの。八雲、よく日本に帰化する決心がついたよね」
 
 ルドヴィコは、怜子を見つめてにっこりと笑った。彼の後にある大きな樹から木漏れ日が射していた。
「彼は、日本とその文化を深く愛していたから、この国に居たいと思ったのでしょうね。でも、二度と故郷に戻らなくてもいい、ここにずっと居ようと決心させたのはセツの存在だと僕は信じます。この人が自分にとってのたった一人の人なのだと確信して、一緒に生涯を共にしようと思った。この松江で、僕もそういう人に逢えたことを神に感謝しています」

 そう言って、彼は怜子の手を取った。
「怜子さん。僕たちも、これからこの街の四季を眺めながら、ずっと長い人生を歩いていきましょう」

 葉を落とした大きな神樹の枝の影、背の高いルドヴィコの優しい影、そして繋がれた手のひらから伝わるぬくもりで、怜子の心は大きな安心感に満たされた。きっと小泉セツも、同じような確信を持って、異国の人と生涯を添い遂げようと思ったんだろうなと理解した。
「うん。ルドヴィコ。そうなるといいね」

 そのとき、怜子は、「いずれ彼と結婚することとなるに違いない」と確信したのだ。でも、まさかあれがプロポーズそのものだったなんて!

「あんな抽象的ないい方じゃ、プロポーズされているんだかどうだかわからないよ!」
「なんですって。じゃあ、僕がどんなプロポーズをすると思っていたんですか?」
「え。花もって、膝まづいて、結婚してくださいってヤツ?」

 ルドヴィコは「そんなベタなプロポーズは今どきイタリアでもしませんよ」と、大きなため息をついた。

 そして、ようやく怜子の試験が終わったので、レンタカーで両親のもとへ行くことにしたのだ。

 ナビゲーターに誘導されて、レンタカーは小さな谷間を走っていた。人通りの少ないのどかな田園風景がどこまでも続く。ルドヴィコは、車を停めて休憩をした。

「わあ。こんなところに、かわいい小川がある」
怜子は、道の脇から覗き込んだ。まだ残っている雪が溶けて、透明な滴をぽとり、ぽとりと川に注いでいた。

 休みの日に、こうやってルドヴィコと二人でのんびりと過ごせるのは、とても自然で嬉しいことだった。そして、それはこれからの人生ずっと続くことなのだ。あたり前のようでいて、とても不思議。怜子は考えた。

「あ。来週、先生に京都の件、断らなくちゃ」
怜子が言うと、ルドヴィコは「断っていいんですか」と訊いた。

「だって、大学院で研究しても、将来には結びつかないよ。京都や大阪で就職する必要もなくなったし」
「井の中の蛙は嫌なんじゃないんですか」
そう言われると、いいんだろうかと考えてしまう。

「ルドヴィコも、イタリアから外の世界に出てみたかったの?」
怜子が訊くと、彼は彼女の方を見て笑った。
「イタリアの外じゃなくて、日本に行きたかったんですよ。夢の国でしたから。今ほど簡単に情報が手に入らなかったので、混乱しましたけれど、その分、早く行ってみたいと想いを募らせていました」

「何があると思っていたの?」
「子供の頃は、ポケモンとニンジャですよ。少し大きくなってからは伊藤若冲とドナルド・キーン」
怜子はすこしずっこけた。子供の頃と少し大きくなってからが、全然つながっていない。

「日本に到着してからは、もっとたくさんの情報に振り回されましたが、松江にたどり着いてようやく落ち着きました。日本には本当に何でもありますが、自分にとって大切なものは、自ら削ぎ取らないと見失ってしまう。日本古来の美学は、それを知るいい指針となりました」

 怜子は、そうなのかなあと思いながら、田園風景を眺めた。確かにルドヴィコと私が両方とも大阪や東京にいたら絶対に出会えていなかっただろうし、お互いのよさに氣づく時間もなかっただろう。

「お茶室を初めて見たとき、ものすごく感動しました。家具と言えるものがほとんどなくて、畳の上に亭主と自分がいる。そして、お菓子とお茶がシンプルに出てきます。円形の窓から外の世界が見える。風の音、樹々のざわめき、鹿威しの音。わずかな音が静寂を際立たせる。僕に必要だったのはこの世界なんだと思いました。たくさん詰め込むのではなくて、不要なものを極限まで削ぎ取ったところに現れる世界。実際にはわずかな空間なのに無限の広がりを感じました。僕が日本に住もうと思った瞬間でした」

「だから、和菓子職人になろうと思ったの?」
「はい。小さな一つのお菓子の中に、季節ともてなしの心が詰まっている。伝統的であるのに、独創的で新しい。これこそ僕の探していたものだと思いました」

 探していたものかあ。私はなにか探したのかな。探す前に、いつも向こうからやってきているみたいだからなあ。怜子はまた考え込んだ。

「怜子さん。京都で研究したいなら、行ってください。結婚は大学卒業後すぐでなくても構いませんし、お店で働かなくてもいいのですから」
怜子は、はっとして彼を見た。

 ルドヴィコは、深い湖のような澄んだ瞳で見ていた。
「見てください。あそこで川の水は二手に分かれています。そして、少し離れてあそこでまた一つになっている。そしてどこを通ってもいつかは同じ海に流れていくんです。怜子さんがどちらに向かおうとも進む道に間違いはありません。したいと思うことを諦めずにしてください。僕はちゃんと待てますから」

 怜子は、その時にはっきりとわかった。自分がどうしたいのか。川の水もキラキラと光りながら迷わずに海へと向かっている。彼女はしっかりとルドヴィコを見つめ返していった。
「私、卒業したらすぐに『石倉六角堂』で働く。井の中の蛙でもいい。都会には行かないし、他のことも探さない。だって、私にとって大事なことは、ここにあるんだもの」

 彼はその言葉を聞くと笑顔になった。青いきれいな瞳が優しく煌めいていた。

 怜子は、続けた。
「その代わりに、私ね、イタリア語を始めようと思うの」
「え?」
「だって、ルドヴィコの家族とも親戚になるんでしょう? 挨拶も出来ないんじゃ、困るもの」

 彼は、目を見開いてから、嬉しそうに口を大きく開けて笑った。
「では、明日から特訓してあげましょう。鉄は熱いうちに打てって言いますからね。そして、遠からず行って僕の家族に引き合わせましょう」

(初出:2017年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -8- テキーラ・サンライズ

「scriviamo! 2017」の最中ですが、今日発表するのは、WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

しばらくスペシャルバージョンが続きましたが、また田中はいつものオブザーバーに戻りました。今回の話は、ちょっと古い歌をモチーフにしたストーリーです。あの曲、ある年齢以上の皆さんは、きっとご存知ですよね(笑)


月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む
「いつかは寄ってね」をはじめから読む「いつかは寄ってね」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -8- 
テキーラ・サンライズ


 その二人が入って来た時に、田中に長年酒場で働いている者の勘が働いた。険悪な顔はしていないし、会話がないわけでもなかった。だが、二人の間には不自然な空間があった。まるでお互いの間にアクリルの壁を置いているように。

 大手町のビル街にひっそりと隠れるように営業している『Bacchus』には、一見の客よりも常連の方が多い。だが、この二人に見覚えはなかった。おそらく予定していた店が満席で闇雲に歩き回って見つけたのだろう。

 店などはどうでもいいのだ。未来に大切にしたくなる思い出を作るつもりはないのだろうから。どうやって嫌な想いをせずに、不愉快な話題を終わらせることができるか、それだけに意識を集中しているのだろう。

 二人は、奥のテーブル席に座った。田中は、話が進まないうちに急いで注文を取りに行った。彼らも話を聞かれたくはないだろうから。

「カリブ海っぽい、強いカクテルありますか」
女が田中に訊くと、男は眉をひそめたが何も言わなかった。
「そうですね。テキーラ・サンライズはいかがでしょうか。赤とオレンジの日の出のように見えるカクテルです」
「それにして。氣分は日の入りだけれど……」

「僕はオールドの水割りをお願いします」
男は女のコメントへの感想も、田中との会話をも拒否するような強い調子で注文した。田中は頷いて引き下がり、注文の品とポテトチップスを入れたボウルをできるだけ急いで持っていくとその場を離れた。

* * *


 亜佐美はオレンジジュースの底に沈んでいる赤いグレナディンシロップを覗き込んだ。ゴブレットはわずかに汗をかき始めている。かき混ぜてそのきれいな層を壊すのを惜しむように、彼女はそっとストローを持ち上げてオレンジジュースだけをわずかに飲んだ。
「こうやってあなたと飲むのも今日でおしまいだね」

 和彦は、先ほど田中に見せたのと同じような不愉快な表情を一瞬見せてから、自分の苛立ちを押さえ込むようにして答えた。
「あの財務省男との結婚を決めたのは、お前だろう」

「……ごめんね。私、もう疲れちゃったんだ」
「何に?」
「あなたを信じて待ち続けることに」

 和彦は、握りこぶしに力を込めた。だが、その行為は何の解決にも結びつかなかった。
「僕が夢をあきらめても、財務省に今から入れるわけじゃない。お前に広尾の奥様ライフを約束するなんて無理だ。それどころか結婚する余裕すらない」

「私が楽な人生を選んだなんて思わないで。急に小学生の継母になるんだよ。あの子は全然懐きそうにないし、お姑さんもプライド高そうだから、大変そう」
「なぜそこまでして結婚したがるんだよ」

 亜佐美は黙り込んだ。必要とされたということが嬉しかったのかもしれない。それとも、プロポーズの件を言えば、和彦が引き止めてくれると思いたかったのかもしれない。彼は不快そうにはしたけれど引き止めなかった。

「カリブ海、行きたかったな」
「なぜ過去形にするんだ。これからだって行けるだろう」

 彼女は、瞼を閉じた。あなたと行きたかったんだよ。それに、もう憶えていないかな。まだ高校生だった頃ユーミンの『真夏の夜の夢』が大ヒットして、一緒に話したじゃない。こんな芝居がかった別れ話するわけないよねって。なのに私は、こんなに長く夢見続けたあなたとの関係にピリオドを打って、まるであの歌詞と同じような最後のデートをしているんだね。

 サンライズじゃない。サンセット。私の人生の、真夏の夜の夢はおしまい。

 二人は長くは留まらなかった。亜佐美がテキーラ・サンライズを飲み終わった頃には、水割りのグラスも空になった。そして、支払いを済ませると二人は田中の店から消えていった。

* * *


 おや。田中は意外な思いで入ってきた二人を見つめた。常連たちのように細かいことを憶えていたわけではないが、不快な様子で出て行く客はあまりいないので、印象に残っていた。おそらく二度と来ないであろうと予想していたのだが、いい意味で裏切られた。

「間違いない。この店だよな」
「そうね。6年経ってもまったく変わっていないわね」

 二人の表情はずっと穏やかになっていた。男の方には白髪が増え、カジュアルなジャケットの色合いも落ち着いていたが、以前よりも自信に満ちた様子が見て取れた。

 女の方は、6年前とは違って全身黒衣だった。落ち着いて人妻らしい振舞いになっていた。

「カウンターいいですか」
男が訊いたので田中は「どこでもお好きな席にどうぞ」と答えた。

「どうぞ」
おしぼりとメニューを渡すと、女はおしぼりだけを受け取った。

「またテキーラ・サンライズをいただくわ」
それで田中は、この二人が別れ話をしていたカップルだったと思い出した。
「僕も同じ物を」
彼もまたメニューを受け取らなかった。

「それで、いつ発つの?」 
「来週。落ち着いたら連絡先を報せるよ。メールでいいかい?」
「ええ。ドミニカ共和国かぁ。本当に和彦がカリブ海に行く夢を叶えるなんてね。医療機器会社に就職したって年賀状もらった時には諦めたんだと思っていたわ」

「理想と現実は違ってね。ODAって、場所やプロジェクトにもよりけりだけれど、政治家やゼネコンが癒着して、あっちのためになるどころか害にしかならない援助もあってさ。それで発想を変えて本音と建前が一致する民間企業の側から関わることにしたんだ」
「夢を諦めなかったあなたの粘り勝ちね。おめでとう」

「お前に振られてから、背水の陣みたいなつもりになっていたからな。それにしても驚いたな。お前の旦那が亡くなっていたなんて」

 田中はその言葉を耳にして一瞬手を止めたが、動揺を顔に出すようなことはしなかった。亜佐美は下を向いて目を伏せたが、すぐに顔を上げた。

「そろそろ半年になるの。冷たいと思うかもしれないけれど、泣いているヒマなんかなかったから、かなり早く立ち直ったわ」
「まだ若いのに、何があったんだ?」

 亜佐美は、田中がタンブラーを2つ置く間は黙っていたが、特に声のトーンを落とさずに言った。
「急性アルコール中毒。いろいろ重なったのよね。部下の女の子と遊んだつもりでいたら、リストカットされちゃってそれが表沙汰になったの。上層部はさわぐし、お姑さんともぶつかったの。それで、彼女が田舎に帰ってしまってからすこし心を病んでしまったのね」
「マジかよ」

「受験も大学も、財務省に入ってからもずっとトントン拍子で来た人でしょう。挫折したことがなかったから、ストレスに耐えられなかったみたい。和彦みたいに紆余曲折を経てきたほうが、しなやかで強くなるんじゃないかな」

「それは褒めてないぞ。ともかく、お前も大変だったんじゃないか?」
「そうでもないわ。事情が事情だけに、みな同情的でね。お姑さんもすっかり丸くなってしまったし、奈那子も……」
「それは?」
「ああ、彼の娘。もうすぐ大学に入学するのよ。早いわね」

「えっと、亜佐美が続けて面倒見るのか?」
「面倒見るっていうか、これまで家族だったし、これまで通りよ」

「その子の母親もいるんだろう?」
「母親が引き取らなかったから、慌てて再婚したんじゃない。今さら引き取るわけないでしょ。最初はぎこちなかったけれど、わりと上手くいっているのよ、私たち。継母と継子って言うより戦友みたいな感じかな。思春期でしょ、父親が若い女にうつつを抜かしていたのも許せなかったみたい」

「お前は?」
「う~ん。傷つかなかったといえば嘘になるけれど、でもねぇ」

 亜佐美はタンブラーの中の朝焼け色をじっと眺めた。
「あの人、あんな風に人を好きになったの、初めてだったみたい。ずっと親に言われた通りの優等生レールを進んできて、初めてわけもわからずに感情に振り回されてしまったの。それをみていたら、かわいそうだなと思ったの。別れてくれと言われたら、出て行ってもいいとまで思っていたんだけどね」

 和彦は呆れたように亜佐美を眺めた。
「おまえ、それは妻としては変だぞ」
「わかっているわよ。奈那子にもそう言われたわ。でも、今日私があなたと会っているのも、あの子にとっては不潔なんだろうな」

「いや、今日の俺たちは、ただ飲んでいるだけじゃないか」
「それでもよ。でも、いいの。奈那子に嫌われても、未亡人らしくないって世間の非難を受けても、あなたが日本を離れる前にどうしてももう一度逢いたかった。逢って、おめでとうって言いたかったの」

「これからどうするんだ?」
和彦はためらいがちに訊いた。

 亜佐美は、ようやくストローに口を付けた。それから、笑顔を見せた。
「奈那子が下宿先に引越したら、あの家を売却して身の丈にあった部屋に遷ろうと思うの。奈那子の将来にいる分はちゃんと貯金してね。それから、仕事を見つけなきゃ。何もしないでいるには、いくらなんでもまだ若すぎるしね」

 和彦は、決心したように言った。
「ドミニカ共和国に来るって選択肢も考慮に入れられる?」

 亜佐美は驚いて彼を見た。
「本氣?」

 彼は肩をすくめた。
「たった今の思いつきだけど、問題あるか? 奈那子ちゃんに嫌われるかな」

 亜佐美は、タンブラーをじっと見つめた。あまり長いこと何も言わなかったので、和彦だけでなく、成り行きかから全てを聞く事になってしまった田中まではらはらした。

「新しい陽はまた昇るんだね」
彼女はそういうと、瞳を閉じてカクテルを飲んだ。

「今さら焦る必要もないでしょう? 一度、ドミニカ共和国に遊びにいくわね。カリブ海を眺めながら、またこのカクテルを飲みましょう。その時にまだ氣が変わっていなかったら、また提案して」
亜佐美の言葉に、和彦は明るい笑顔を見せた。

 田中は、安心してグレナディン・シロップの瓶を棚に戻した。


テキーラ・サンライズ (Tequila Sunrise)
標準的なレシピ
テキーラ - 45ml
オレンジ・ジュース - 適量
グレナディン・シロップ - 2tsp

作成方法: テキーラ、オレンジ・ジュースをゴブレットに注ぎ、軽くステアする。
ゴブレットの縁から静かにグレナディン・シロップを注ぎ、底に沈める。



(初出:2017年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】赤スグリの実るころ

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第九弾です。GTさんは、オリジナル小説で参加してくださいました。ありがとうございます!

GTさんの書いてくださった『クロスグリのパイ』

GTさんは、わりと最近知り合って、交流してくださるようになったブロガーさんです。熱烈な世界名作劇場のファンで、ファンサイトとしてレビューなどを書かれる傍ら、名作劇場作品の二次創作、それから同じテイストの一次創作も発表なさっています。

私のブログにいらしてくださったのは、おそらく「スイス」に反応してだと思われますが、正直言って「アルプスの少女ハイジ」ともかく、スイスを舞台にした他の名作劇場作品を全く知らなかった私ではお話にならなくて、おそらくこのブログから得る知識は0かと思いますが、にもかかわらず熱心に作品を読んでくださり感謝しています。

今回、はじめてのscriviamo!参加のために書きおろしてくださったのは、オリジナル作品で私の生半可な知識ではどこの国のお話か、どの時代なのかまではちょっとわからなかったのですが、名前などから類推するとアメリカかカナダなどの英語圏のような感じがします。おそらく架空の土地のお話ですね。

GTさんのおすきな世界名作劇場でよく題材にされるのは18から20世紀初頭のストーリー、主に児童文学を原作にしたものが多いと思うのですが、たまたま私が不定期に連載している「リゼロッテと村の四季」シリーズが、その頃の話ですので、この世界の話でお返しを書くことにしました。

ところがですね。これがまたかなり苦戦しました。その経緯は、長くなりますので別記事にしますが、時代背景ならびにいくつかのモチーフを重ならせて書いています。GTさんの作品と合わせてお読みになると、同じ時代背景、同じモチーフを使って書いても、私の作品が全く「かわいく」なくて、さらにいうと児童文学には全く不向きだということがよくわかります。でも、私らしい作品を全力で書くことがGTさんに対して敬意を表する一番の方法だと信じてアップさせていただきます。


「リゼロッテと村の四季」
「リゼロッテと村の四季」・外伝

「scriviamo! 2017」について
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赤スグリの実るころ
——Special thanks to GT-san


 つるつるの赤い果実を房から外す作業に、アナリースはかなりの時間をかけた。赤スグリのルビーのような赤がとても好きだ。両親の家の垣根のそばにある数本の木は、夏になるとこの艶やかな実がたわわに実り、優しい緑の葉と相まって目を楽しませてくれる。

 そして、ヨーゼフ・チャルナーが、アナリースと新生活を始めるために買ったこの家にも、三本の赤スグリの木があって、彼女はやっと自由に出入りすることが出来るようになったので、熟れた実を集めていた。

 たくさん摘んで大きめのボールにたっぷり入れた果実は、まるで無人島の洞窟に隠された海賊の財宝箱の中身のごとく秘密めいた輝きを放った。ひとつ二つと口に含むことはあるが、酸っぱくてもっと食べたくなることはない。赤スグリはジェリーにすることでその価値をはるかに増す。

 日曜日の三つ編みパンに添えて、バターと一緒につけるのも美味しいが、ちょっとしたデザートに添えるのも色味ともにアクセントになっていい。それに、秋の狩猟シーズンには、洋梨のコンポートに赤スグリのジェリーを載せたものを付け合せに加える。

 だから、彼女は庭の赤スグリを一粒も無駄にしたくなかった。彼もきっと喜んでくれるはずだわ。

「ちょっと。アナリース! あなた、何をやっているのよ」
入ってきたのは幼なじみで今は兄嫁であるマリアだ。

「何って、赤スグリのジェリーを作っているのよ」
「それは見たらわかるけれど、私が聞きたいのは、どうしてよりにもよって今そんなことをするのってこと。ヨーゼフは今日帰ってくるんでしょう? おめかししなくちゃいけないんじゃないの?」

 アナリースは笑った。掛けてある黒いスタンドカラーの飾りの少ないブラウスに、縦縞のくるぶしまである広がりの少ないスカートを目で示すと、マリアはその質素で面白みのない服装にため息をもらした。

「なによこれ。ほとんど普段着と変わらないじゃない。ヨーゼフに会うのは何年ぶりだと思っているの? もっと美しく装わないと」
「どうして?」

「バーゼルは都会だからきれいな服を着た女性が多いに違いないわよ。そういう女性を見慣れているんだから、田舎娘は野暮ったいなって思われちゃうわ。流行っている膨らんだ袖のドレスは一枚もないの?」

 アナリースは首を振った。
「きれいなドレスに興味がないと言ったら嘘になるけれど、ああいう服装をするためには布地が二倍も必要になるもの。私はそれだったら図書館の入場料にして、一冊でもたくさん本を読みたいの。先週ついにコンラート・フェルディナント・マイヤーの『女裁判官』が入ったのよ」

「なんですって。あなた、そんな本を読むの? あれって、確かスキャンダルになったんじゃない」
「そうよ。いけない? あれはカール大帝時代を題材にした歴史小説じゃない」
「でも、ほら、兄と妹の恋の話と、実のお母さんへの愛憎がモデルになっているって……」

「だから?」
「ヨーゼフは牧師になるひとだし、あなたは……」
「代理教師だから、牧師の婚約者だから、女だから、コンラート・フェルディナント・マイヤーを読んじゃいけないなんてナンセンスだわ」
アナリースはわずかに強い語調で言った。

 マリアは、友の苛立ちを感じた。話題を変えた方がいいかもしれないと素早く考えた。
「それで、どうしてあなたは着替えもせずになぜジェリーなんて作っているのよ」

 アナリースは、マリアの戸惑いを感じたので、少し恥じて俯いた。彼女は薪オーブンの上に置いてあったやかんをどかすと、赤スグリと砂糖を入れた鍋を置いて焦げないようにかき混ぜた。スグリからは紅いジュースがしみ出してきてやがてそれは固形物から液体に変わる。

「彼と約束したんだもの」
「これを?」
返事をする代わりに、アナリースは微笑んだ。

* * *


 ヨーゼフと同じ教室で学んでいた頃、アナリースの成績はクラスで一番だった。彼女は知識欲と向学心に燃えて、大学に進み立派な教師になることを夢見ていた。彼女の成績がずば抜けてよかったにもかかわらず、彼女は大学に進むことも出来なかったし、中学校教師の資格をとるのがやっとだった。

 海外にでる覚悟があればもっと高等教育を受けることも可能だったかもしれない。そうであっても女性が大学に通うことは、まだ眉をひそめられることだった。ましてやこの国のこの州では、大学進学は不可能だった。女性は代理教員としてしか雇ってもらえないし、そういう将来しか望めない人間の学費を負担するのを村は拒否した。「学費の補助は、女性の趣味のためではなく、家計を支え国の将来を担う男性のために使われるべきだ」と。

 彼女が女に生まれた理不尽さに涙していても、村の少女たちは「アナリースったら、本氣でそんな事を言っているの? 困った人ね」と頭を振るだけで氣持ちをくんではくれなかった。彼女たちにしてみれば、学校は出来れば行きたくないおぞましいところだったし、そもそも教育が人生の役に立つのかピンと来ないぐらいで、アナリースのことも校長先生になりたがっている権威欲の強い娘だと感じていたからだ。

 唯一、彼女の悔しさを理解してくれたのが、ヨーゼフ・チャルナーだった。彼はもう幼いクラスメートではなく青年になりかけていたが、正直で真面目なところは子供の頃から変わらなかった。それに、彼は温かい心の持ち主で、アナリースも相応の敬意を持っていた。

「アナリース。君は、僕のことを怒っているんだろう?」

 それは、日が高くて、青々とした牧草地からたくさんの色とりどりの野の花が風に揺れる初夏の夕方だった。丘を越えて自宅へと戻ろうとせっせと歩く彼女を後から追いかけてきたヨーゼフは、しばらく口をきかずにいたが、丘のてっぺんまで来ると話しだした。彼は秋からラテン語学校への進学が決まっていた。

「私が? あなたに怒ってどうなるっていうのよ」
そういいつつも、自分の声音に刺々しいものがあると彼女は感じた。ヨーゼフのせいで彼女が進学できないわけではない。でも、自分が通いたかった大学への道を歩みだした彼が、これまで一度だって試験で自分を負かしたことがないのを思わずにはいられなかった。

 彼は、ラテン語とギリシャ語を習う。そして、ヘブライ語も。バーゼルヘ行き、神学科に籍を置くことになる。そして、やがて立派な牧師として尊敬を集めるようになるだろう。それにひきかえ、自分は、高等学校からチューリヒの教師養成セミナーに進むだろう。そして、病欠をしたり、兵役に行く教師の代わりに一日または数週間だけあちこちの教室に派遣されて、「女なら大人しく家で料理でもしていればいいものを」と陰口を叩かれる存在になるのだ。

「じゃあ、ちゃんと僕の目を見てくれよ」
ヨーゼフは真剣に言った。アナリースはため息をついた。
「ごめんなさい。あなたにむかっ腹を立てることじゃないのに。ねえ、イヴがアダムの脇腹の骨から作られた取るに足らない存在だってことは、どうやっても変えられないのかしら?」

 ヨーゼフは首を振った。
「聖書を振りかざしてそういう事を言う人がいるのはわかっているよ。僕はそんなことは思わない。アダムとイヴはしらないけれど、少なくともアナリースがヨーゼフより優秀なのくらいはちゃんとわかっている」

「私は、そんな事を言いたいわけじゃ……」
「でも、それが事実だよ。だけど、アナリース。女性がとるに足りないなんて僕は思わないけれど、男性と女性が全く同じだとも言えないとも思っているんだ」

「つまり?」
「子供を産むのは女性にしか出来ない。女が子供を産んで育てている間に、男が森や野原で獲物を捕まえてくると役割分担ができて、それが今の社会につながったんじゃないかと思うんだ。もちろん、獲物を捕まえるのが得意な女性や、むしろ家で料理を作る方が得意な男性の存在は無視されてしまっているけれど。僕たちは世界を一日で変える事はできない。無視されるわずかな例外はつらいけれど、どうにかして世界と折り合って行くしかないんじゃないか」

 彼女は瞳を閉じて、丘の上を渡る風を感じた。後にシニヨンにまとめた髪からこぼれた後れ毛が風にそよいだ。彼は、そんな彼女を黙って見つめていた。

「大丈夫よ。どんな形でも、理想的な教師になるように努力するもの。それに、学問や読書は、ずっと続けるつもりよ。大学に行って、校長先生の資格を取るだけが、教育に関わる唯一の道じゃないはずよね」
アナリースがそういうと、ヨーゼフは一歩前にでて大きく頷いた。

「僕もずっとそう思っていたんだ。ねえ、アナリース。君のその志、僕と一緒に完成させないかい?」
「あなたと? どうやって?」

 彼は、真剣なまなざしで彼女を見つめた。
「僕は、いつかこの村に戻ってくる。この村の牧師として、村人たち、次の世代を担う子供たちの精神的な支えになる、とても重い責任を背負うことになる。一度だって君よりもいい成績を取れなかった、この頼りない僕が。だから、僕には支えが必要なんだ。思慮ぶかくて、氣高い精神にあふれた君みたいな女性が。そして、君も、牧師の妻としてならただの代理教師としてよりもずっと尊敬を集めて、さらに幅広く子供たちの教育に中心的な役割を果たすことが出来る。違うかい?」

 彼女は、ぽかんとヨーゼフの顔を眺めていたが、氣を取り直すと言った。
「で、でも、牧師の妻って……その……結婚は好きな人とするものじゃないの?」

 彼は肩をすくめた。
「僕は、君のことをかなり好きだけれど、ダメかな?」

 アナリースは、真っ赤になって「そんなのはダメ」と言おうとしたけれど、どういうわけだか全くその言葉が出てこなかった。それで、ヨーゼフは勝手に納得して「そのつもりで大学に行くけれど、待っていてくれるね」と言った。

「そんなに待った後で、あなたに他に好きな人がいるから、結婚できないって言われたら、私もう結婚できなくなってしまうわ」
「わかっているよ。でも、僕は約束はちゃんと守る」

 ヨーゼフは彼女の手をとった。
「僕は必死で勉強する。そして、学問だけでなく、村の牧師として必要になりそうなあらゆることを身につける。だから、君も僕を待っている間に、村の大人たちや女性たちに受け入れてもらえる牧師夫人目指して苦手なことにも挑戦してほしい。そうしたら、後は、ずっと一緒に理想を目指して歩いていこう」

 彼の示唆していることは、なんとなくわかった。アナリースは、勉強は得意でも裁縫や料理はあまり得意ではなかったし、おしゃべりをする時間がもったいなくて村の娘たちとの付き合いに顔を出さないので浮いた存在になっていた。

「そうね。……何から始めようかしら」
彼は、優しく笑った。
「そうだな。たとえば、ほら、あそこにある赤スグリ。僕、あのジェリーがとても好きなんだ。子供の頃、三つ編みパンとあのジェリーを毎日食べられるように毎日日曜日にしてくださいってお祈りして父さんにこっぴどく怒られたことがあるんだよ」
「……。作り方、お母さんに習っておくわ」

* * *


 あれから何度も夏と冬が過ぎた。赤スグリも何度も実った。アナリースは、もうジェリーを何も見なくても作れるようになっていた。

 パン焼き日には、村のパン焼き釜にでかけ、娘たちと話をしながらパンの焼けるまでの時間を過ごした。村の泉で洗濯をする時も、年末に豚の腸詰めや燻製を作るときも村人たちと一緒に作業するようになった。

 くだらない噂話だと思っていた会話が、時に人生の悲哀がこもり、時に哲学的な示唆に満ちた時間だということも知った。本や大学の教授からだけではなく、けたたましく笑ったり泣き言を言う村人からも学ぶことがたくさんあるのだと知った。

 そして、アナリースは、家事が上手で人付き合いの上手い立派な娘だとの評判を勝ち得た。牧師となるチャルナーと婚約していることも、村人たちからの敬意を得る大きな要素になった。

 それは静かな宵に、誰にも邪魔されずに本を読むことを許され、教師としての勉強を続けても誰にも非難されることのない心地よい立場だった。

 赤スグリと砂糖を溶かした真っ赤な液体を、消毒したガラス瓶に詰めながら、首を傾げるマリアを前に、アナリースは微笑んだ。
「いいの。私がどんな装いをするよりも、あの人はこの瓶が並んでいるのを喜ぶのよ」

(初出:2017年2月 書き下ろし)

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このストーリーに登場するヨーゼフとアナリースは、「リゼロッテと村の四季」でカンポ・ルドゥンツの村人が通う教会の牧師夫妻です。

カンポ・ルドゥンツ村は、私の住む村をモデルとした、スイス・グラウビュンデン州にあるということになっている架空の村で、「リゼロッテと村の四季」は、19世紀末から20世紀初頭のこの地域の歴史と生き証人からの話の聞き取りを基にした小説です。
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】翼があれば

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第八弾です。limeさんは、今年も素敵なイラストで参加してくださいました。

limeさんの描いてくださった『またもや天使』
『またもや天使』 by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。

limeさんは、登場人物たちの心の機微を繊細かつ鮮やかに描くミステリーで人氣のブロガーさんです。各種公募企画で大賞をはじめとする受賞常連のすごい方です。穏やかで優しいお人柄に加えて、さらにこんなに絵も上手い。羨ましすぎる!

今回、scriviamo!参加用に出してくださったのは、ちょっとだけ脱いでいる(?)天使と蝶のイラストです。去年も私一人で七転八倒していたわりにみなさんはスラスラと素敵な作品を書かれていましたが、今年もすでに何名の方々がインスピレーションを受けて素晴らしい作品を発表なさっています。

で、他の方は自由参加ですが、私は何かを書かなくてはならないので「う〜ん」と悩みました。

もちろんあちらのコメント欄で盛り上がっていたナース服天使、という路線では書けません。(書いてもいいけれど、limeさんに絶交されるかもしれないし・笑)去年はふざけたストーリーでなんとかなりました(なっていないともいう)が、今年の天使はどちらかというと清楚でシリアス系なのでふざけておかえしするのはなし。しかも清楚なのに脱いでいるし。ここにかなり長くつまづいていましたね。「天使でなければ」「脱いでいなければ」って。

かといって、単に真面目に取り組んでもピンと来るストーリーにならなかったんですよ。私の作品って、あまり目立った色がないので、ごく正面からこの正統派で美しい絵に取り組むと、そのよさが台無しになるぼやぼやした感じの作品になってしまうんです。

じゃ、どうしようか、と思ってこうなりました。天使であること、脱いでいること、蝶がいること、そして、背景がああなっていること、全てを使ってみました。limeさん、みなさんが呆れる顔が今から目に浮かびます。すみません。今から謝っておきます。(毎年、毎年……orz)


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翼があれば
——Special thanks to lime-san


 若草がゆっくりと大地を埋め尽くし、柔らかな風が心地よく渡りはじめると、フラクシヌスは大きく広げた枝を微かに揺らした。停まっていた鳥たちは、わずかな間だけさえずりを止めたが、すぐにおしゃべりを再開した。

「ねえねえ。あなた初めてアフリカに行って戻ってきたんでしょう? 旅はどうだった?」
「どうってことはない、って言いたいところだけれど、大変だったなあ。去年の秋、ここを発ったところまではよかったけれど、ミラノのあたりでもうカスミ網に捕まりそうになったんだ」
「ああ、噂に聞くヤツね。南イタリアじゃないんだ、へえ」

「それから後も、ハプニングだらけ。でも、初めて見るものばかりで心躍ったなあ。フランスから来たコウノトリと仲良くなったんだぜ。それに、赤い湖でフラミンゴにもあったなあ。ところで、お前さんは?」
「私は、いつも通りこっちで越冬したわよ。雪が少なかったから、けっこう過ごしやすい冬だったなあ。あの山を越えたところに、美味しい餌を用意してくれるニンゲンがいてね。少し太っちゃった」

 フラクシヌスは、小鳥たちのさえずりに耳を傾けて、コウノトリやフラミンゴとはどんな鳥なのだろうかと想像した。赤い湖や山の向こうのニンゲンがどれほどここと違っているのだろうかと考えた。

 街はずれの小高い丘の上にたどり着き、大地の上に伸びをして小さな芽を出したあの日から、フラクシヌスはいつもここにいた。柔らかな緑色の芽はまっすぐに伸びて、やがて滑らかで青みかがった灰色の幹に変わった。それが分厚いたくさんヒビの入ったどっしりした幹に変わった頃には、大きく伸ばしたたくさんの枝には、たくさんの小鳥たちや虫たち、リスやヤマネなどが動き回るようになった。

 フラクシヌスは、そうやっていつも誰かの訪問を受けていたので、決して寂しくはなかったが、彼らがする噂話から、ここではない世界への憧れを募らせていた。

 夏が来ると、梢の葉はしっかりとしたものに変わり、暑い日差しを避けて立ち寄る動物や散歩の途中の人間などが、彼の根元で休みつつ新しい話を聞かせてくれるようになった。

 近頃の一番の楽しみは、黄金の髪の毛を持った優しい少女で、まどろむ小動物たちをアルトの優しい響きで歌いながら眠らせるのだった。

「ああ、私、本当にここが好きだわ。なんて美しい木陰なんでしょう。仕事も何もかも忘れて安らげるのはここだけよ」

 彼女は、誰に話しかけるでもなくよく呟いた。彼女のひとり言を耳にするのもフラクシヌスには楽しいひとときだった。

「本当に、私もあの鳥たちのように空を飛べたらねぇ。わずかな賃金と引き換えに、朝から晩まで工場で糸を紡いだりしないで、どこまでも自由に旅して行くのにねぇ」

 ああ、この娘も、私の同じ憧れを持っているんだ。翼を羽ばたかせて、世界の果てまで自由に飛んで行きたい。氷に閉ざされた光のカーテンのある国や、火を吹く怒りの山や、七色の湖のある谷間を探して飛んで行くことを夢見ている。そして、その願いをずっとここで、この私と共有してくれるのだ。

「お嬢さん、あなたは何を呟いているの?」
そこに来ていたのは、この間まで緑色の芋虫だった紫色の蝶だ。フラクシヌスの葉をたくさん食べて大きくなり、しばらく繭にこもったかと思うと、秋までには羽を持つ美しい姿に生まれ変わる。そして、仲間と一緒に隊列を組んで遠くの暖かい国まで飛んで行く。

「あら、きれいな蝶さん。まだ旅立たないの? 昨日、あなたのお仲間が隊列を組んでいたわよ」
「私は今朝、ようやく蝶になれたのよ。もう少し仲間が集まったら、私も旅立つわ。ところで、あなたは、何をおかしなことを言っているの?」

 紫の蝶は、ひらひらと娘の周りを飛んで、くすくすと笑った。

「笑うなんてひどいわ。私だって翼があったら、あなたのように飛んで行きたいのよ。でも、それが出来ないから、ため息が出ちゃうんじゃないの」

 すると蝶は娘の正面に戻ってきて、その瞳を覗き込んで言った。
「だから、おかしいのよ。あなただって飛んで行くことが出来るのに、何も試さないで文句ばかり言っているんですもの」

「飛んで行くことができる? どうやって? 私は貧乏な労働者で飛行機のチケットすら買えないのよ」
「チケットなんて必要ないわ。あなたにも翼があるのよ。知らないの?」

「翼が?」
「そうよ、服を脱いで、背中を湖に映してご覧なさい。翼が生えているのが見えるはずよ」

 娘が薄紅色の薄いワンピースを少し脱いで湖を覗き込むと、本当に白い一対の翼が現れた。彼女はひどく驚いて、触ったりくるくると回って確認したりした後に、本当に翼が動いて自分も空を飛べるのだということを納得した。

「なんて素敵なんでしょう。ねえ、蝶さん。あなたが南へ旅立つときまで、私に空を飛ぶ特訓をしてちょうだい。そうしたら、私もあなたと一緒に旅立つから」
「いいわ。じゃあ、すぐに始めましょう」

 嬉しそうに笑いながら、娘が紫の蝶と一緒に去ってしまうと、フラクシヌスは大きいため息をついた。

 娘は、彼の仲間ではなかった。鳥や蝶たちと同じように、翼を持って自由に飛んで行くことができる天使だった。彼はまた丘の上に取り残されて、小鳥たちのさえずりに耳を傾けた。

 夏が終わると、彼の枝にはたくさんの楕円形の種が用意された。新しい命を宿した、大地の実り。やがて何百年も生きる可能性を秘めた小さな、小さな、ユグドラシルの子孫。彼は旅立つ子供たちに、彼の憧れの全てを託した。空を飛び、遠くへと飛んで行けと。

 フラクシヌスの子供たち、セイヨウトネリコの種は、小さなヘリコプターのようにくるくると回りながら、風に運ばれて丘から森へ、森から平地へと飛んで行った。ある者は馬車の後に落ちて、隣町へと旅立った。また、別の種は、木こりたちの束ねた薪の間に着地して、都会への長い旅をはじめた。

 そして、フラクシヌスは、また長い生命のうちにめぐり来る厳しく白い冬を迎えるために、丘の上で眠りの準備に入った。

(初出:2017年1月 書き下ろし)


註・Fraxinus excelsiorは和名セイヨウトネリコ、英語ではアッシュ、ドイツ語ではエッシェンと呼ばれる大木になる広葉樹。成長が早い上、曲げやすくて衝撃にも強いので加工用木材としてよく使われる。燃料としても古くから使われていた有用な植物で、北欧神話の世界樹ユグドラシルはセイヨウトネリコである。秋になると楕円形の種がタケコプターのように飛来して行くのがよく見られる。

Fraxinus excelsior 4560
Fraxinus_excelsior, seeds
From Wikimedia Commons, the free media repository
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Posted by 八少女 夕

【小説】穫りたてイワシと塩の華

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第七弾です。夢月亭清修さんは、めちゃくちゃ美味しそうなお魚小説(?)で参加してくださいました。ありがとうございます!

夢月亭清修さんの掌編小説『フィッシュ&ソルト』

清修さんは、小説とバス釣りのことを綴られているブロガーさんです。サラリーマン家業の傍ら小説家としてブログの他に幻創文庫と幻創文芸文庫でも作品を発表なさっていて、とても広いジャンルを書いていらっしゃいます。そして、文筆に劣らぬ情熱を傾けているのがバス釣りで、ブログにはお魚の話題もたくさん載っています。

今回書いてくださった小説も釣り人としての知識と想いが詰め込まれた、短いながらも心と胃袋の両方をつかむ作品でした。

お返しは、悩んだ末、「お魚&塩」を踏襲しました。でも、日本の釣りや魚のことをよく知らない私が書いてもあまりにも見劣りがするので、舞台を去年行った場所に持ってきました。そして、一応、清修さんの作品のもう一つのモチーフにもかすってあります。でも、同じ登場人物なのかどうかは決めていません。たまたま似た状況の他人である可能性も含めて「この人かなあ」と読んでいただければありがたいです。


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穫りたてイワシと塩の華
——Special thanks to Mugetutei Seishu-san


 カモメか、それともウミネコか。飛んで行く白く大きい鳥を眺めて尚子は海の街から来た人を想った。

 もう何年経つんだろう。なぜ、あの時違う選択をしなかったんだろう。全ては遅すぎる意味のない問いかけだと知りつつ、彼女は波の音に耳を傾けた。

 ここは日本から遠く離れたポルトガル、海の街アヴェイロ。時間だけでなく距離もまた、彼からははるかに離れている。そして人生の道も。

 大企業をやめて、ポルトガル製品を扱う小さな店を開いた友人に協力すると決めた時、家族も含めて多くの人が反対した。必要だったのは「応援するよ」のひと言だけだったけれど、それはほとんど聞こえなかった。

 彼のプロポーズを断ったのは、会社を辞める前だったけれど、彼の妻になったら一生の夢が叶うチャンスを失うと思っていたことも理由のひとつだった。

 でも、今ならわかる。きっと彼は私の夢を応援してくれただろう。暖かい、人の心のわかる人だった。

 夢いっぱいではじめた店は、案の定、簡単には軌道に載らなかった。いや、思った以上に上手くいっていたのに、肝心の共同経営者である友人に裏切られてしまった。裏切ったというのは、よくないいい方なのかもしれない。彼女には、金銭的に他の選択肢がなかったのだろうから。

 開店から一年もしないうちに、尚子に何も言わずに、友人は夜逃げに近い形で姿を消した。連帯保証人となっていたが故の借金と商品の支払いが全て尚子にのしかかった。それでも必死で歯を食いしばって働き、ようやく返済を済ませ、よく儲かっているとは言えないまでもそこそこの利益を出せるようになってきた。

 もちろん完全な休暇の旅行をするような金銭的余裕はないが、買い付けと言う名目で、大好きなポルトガルに来れるようになったことはありがたい。

 このバタバタの間は、恋愛どころではなくて、彼のプロポーズを断って以来、異性とは何の縁もない。

 だから、想いはいつも簡単に、あの頃に帰って行く。元氣かな。あれから十年近く経ってしまったから、今でも一人でいるはずはないよね。あんなにいい人だったもの、もう結婚して子供もいるんだろうなあ。

「海がお氣に召しましたか?」
尚子は、その声にはっとして振り向いた。隣町にある陶器の工場の持ち主であるノゲイラ氏に案内してもらってここにいたのをすっかり忘れていた。

「すみません。海岸に来たの、久しぶりなんです。島国に住んでいるのにおかしいですね」
「いいえ。僕もこんなに近いのに、ここまで来たのは久しぶりですよ。せっかくですから、工場に行く前に、ここでご飯にしましょう。その前に、よかったら運河のモリセイロに乗りませんか?」

 モリセイロは、ポルトガルのヴェニスと呼ばれるこの街アヴェイロを縦横に走る運河に浮かぶ伝統的な小舟だ。このカラフルでフォトジェニックなボートは、かつては運搬用に使われていたが、現在は観光客用のアトラクションになっている。運河からアールヌーボー様式の美しいファサードを持つ街並を見て回るのだ。

 尚子は喜んでこの申し出を受けた。街並は確かに美しかったけれど、目をみはるほどではないなと思った。もちろんノゲイラ氏にはそんなことは言わなかったけれど。それにあっという間に折り返してきてしまい、もう終わりなのかとすこしあっけなく思った。

 だが小舟は船着き場を通り過ぎて、海の方へと進んで行った。船頭がポルトガル語に続き、英語で説明する。

「あの先を見てご覧なさい。あの白い小山は、塩です。この地域で伝統的に作られている天日の塩田です。引き込んだ海水を天日で蒸発させて塩をつくるんです。かつては250ほども塩田があったのですが、現在は少なくなってしまいました。量は少ないですが、かつてと同様にここで作られる上質な塩は、有名です。英国王室にも納品されたんですよ」

 へえ。天日の塩。アヴェイロの塩って、はじめて聞いたけれど、日本にお土産に買って行こうかしら尚子は塩の小山の写真を撮った。

 ノゲイラ氏はモリセイロを降りて、運河沿いのレストランに彼女を案内して説明した。

「天日の塩には、二種類あるんです。ごく普通のもの、そして、塩の華フィオール・ドゥ・サル という大粒のものです。これは海水を蒸発させる時にその表面に出来る結晶だけを集めたもので、とても美味しいのですが、たくさんのミネラルが含まれているので真っ白ではないんです。かつては、輸出用には普通の白い塩がたくさん取引されていて、塩の華はむしろ国内の上流家庭で消費していました。色はともかく格段に美味しいので。でも、フランス製の塩の華がグルメの間でブームになってから、ここの塩の華のよさも見なおされたんですよ。食べてみましょうか」

 出てきたのは、イワシのグリル。山のようなご飯、大雑把にカットされたレタスとトマトと玉ねぎだけの飾りっけのないサラダ。ポルトガルでよく見る実に素朴な料理だ。穫りたての焼いたイワシの香りが胃袋を直撃した。

 肉を焼く香りも美味しそうだと思うけれど、魚の脂が焦げる香りは、もしかしたら日本人のDNAのどこかを刺激するのではないかと思う。わずかな焦げも、パリパリになって波打っている皮と破れから覗く身の放つ湯氣も、「早く食べて!」と尚子を誘っていた。

 ポルトガルは、ヨーロッパの中でも特にたくさん魚料理を食べる国だ。さらにお米をたくさん食べるところも日本人には馴染みやすい。ヨーロッパの他の国を旅行しているとたまに和食とまではいかなくても中華料理でも食べようかなと思うことがあるのだが、ポルトガルでは一度もそう感じたことがない。どこかに懐かしさを感じる馴染みのある味によく出会う。

「さあ。食べてご覧なさい。これが塩の華。この良さを生かすために、他にはなにも味を付けないんです」

 大粒の塩の塊は、真っ白ではないと言われていて想像していたものとは違って、十分に白い。パラパラとかけてそっとナイフを入れてフォークで掬った。イワシの香りがさらにふわっと広がる。遅れて運ばれたフォークから熱々のイワシの身が舌の上に載った。

 尚子は思わず瞼を閉じた。魚の味、香り、そして塩の何とも言えぬ複雑な旨味が、口の中で極彩色になって飛び回りダンスを踊っているよう。ああ。なんて美味しいんだろう。

 こんなに美味しい魚を食べたのは、いつ以来なんだろう。東京でも魚は食べていたけれど、スーパーのパックの切り身や、定食屋のそこそこの焼き魚ばかりを食べていたように思う。

 不意に彼のことを思い出した。彼は、海辺の街の出身で、自身も熱心な釣り人だった。魚については強いこだわりがあって、デートの時にも店は汚くても格別美味しい魚を食べさせるところに連れて行ってくれた。

 そうか、彼のプロポーズを断って以来なのね。

 ノゲイラ氏に見せてもらったアヴェイロの街。街を彩るアズレージョにも通じるポルトガルの素朴な陶器づくり。好きだったポルトガル雑貨の販売で生計を立てられるようになったこと。今の穏やかで幸せと言えるようになった生活を得るために、失ってしまった時間と暖かくて穏やかな人のことを考えた。

 彼が、この十年近い時間を幸せに生きているといいと思った。そして、どこかで、ここで食べているような五臓六腑に染み渡るように美味しい魚を、誰かと笑い合いながら食べていてほしいと願った。

「ナオコ、どうしました? イワシ、熱すぎましたか?」
涙ぐんでいる彼女のことをノゲイラ氏は不思議そうに見た。

 尚子は笑って首を振り、極上のイワシの塩焼きを残さず味わうためにフォークとナイフを持ち直した。

(初出:2017年1月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】アプリコット色の猫

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第六弾です。たらこさんも、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

たらこさんは、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんです。「ひまわりシティーへようこそ!」の最終章を絶賛連載中です。

初参加の今回、いきなりのBプラン、なおかつご自分が描きやすくなるようなリクエストもなしという、前代未聞のチャレンジをなさっているので、全くフリーで書かせていただきました。しかも、普段ほとんど書かないファンタジー系。私が書きやすいファンタジーって、こういうのだなって改めて思いました。

せっかくたらこさんへのBプランなので、なんとなくキャバ嬢を絡めたくなってしまいました。いや、その、別にたらこさんがキャバクラ好きだと言いたいわけじゃありませんよ。ええ、そんなことは思っていませんとも。

で、書いていたらなぜか大幅に予定を越えて7000文字以上になってしまいました。これではいかんとどこかを削らねばと悩んだんですが、キャバクラ関連以外削るところがなかったので、削らずに長いままでいくことにしました。すみません。


【追記】
たらこさんが、素敵かつ笑える四コママンガでお返しを描いてくださいました!
たらこさんの描いてくださった 「アプリコット色の猫」



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アプリコット色の猫
——Special thanks to Tarako-san


 どこでおかしくなっちゃったのかなあ。姫子はバッグの奥をかき回しながら、考えた。

 今朝、ホテルでちゃんと持ちもの確認をしなかったから? あのホテルにエアコンがなくて、暑くて考えられなかったから? 安いホテルにしたのが悪かったの? そもそも夏のウィーンに来たのが悪いの? 

 いや、婚約破棄になって何もかも嫌になったせい? そもそも、キャバ嬢のバイトをしていたのが間違い? ううん、あの奨学金を返せるあてもないのに申し込んだのが悪かったの? っていうか、金持ちの娘に生まれてこなかったから?

 いや、落ち着こう。お財布は、どこかにあるはず。すられるほど人混みのところは歩いていないし、第一、こんなごちゃごちゃの鞄からお財布をするのはプロにも難しいはず。

「あ。あった」
キルティングのオレンジ色の財布は、お客さんにプレゼントしてもらったものの中で一番のお氣に入りで、これだけは転売しなかった。転売するような値段のものではなかったこともあるけれど、そういう問題ではない。大切な思い出が詰まっているのだ。

 姫子は、コーヒーの代金をつっけんどんな様子で待つ店員に払った。あ、これ最後の50ユーロ札だ。これからどうしようかなあ。

 姫子は勤めていた役所をクビになり、アパートも追い出されたので、荷物を処分して日本から逃げだしてきた。新婚旅行で行くはずだったウィーン。自暴自棄になって人生を諦める前に、ここだけは来てみたかった。でも、軍資金は底をついた。

 結婚したら、これまでの上手くいかない生活が全てリセットされて、白金や広尾で優雅にお茶の出来る日々が待っているんだと思っていた。ああいうちゃんとした人と結婚するなら、借金返済のためにキャバ嬢のバイトをしていたなんて言わない方がいいと思っていた。

「匿名で教えてくれた方がいましてね。興信所で調べてもらったんですよ」
あの人のお母さんが、とても冷たい目をして言った時、それでも一度でも結婚しようと思ったなら、少しはかばってくれるかと思ったんだけれど、避けるようにして帰っていったよね。

 公務員がバイトを、ましてや水商売の副業をしちゃダメなのはわかっていた。でも、あの給料で奨学金を返すのはどう考えても無理だった。

「ねえ、ちょっと」
日本語の声がしたので辺りを見回すと、誰もいない。つっけんどんな店員はもう別のテーブルに行っているし、隣のテーブルの熟年カップルは、熱々で二人の世界にどっぷり。こちらは存在していないかのような態度。ってことは、空耳かしら。

「ここだよ、ここ、ここ。下を見て」
また日本語なので、変だなと思って、足元を見た。

 猫がいた。つぶらな瞳をしたオレンジっぽい毛色の猫だ。何だっけなあ、この色。どっかで見た。ああ、今朝食べたアプリコットジャムの色だ。雑種かな。どこにでもいそうな普通の猫で、赤いコートを着ているわけでもないし、長靴も履いていない。それに見た感じでは人間の言葉は話してはいない。

「呼んだの、あなた?」
訊くと「みゃー」と短く鳴いた。

 馬鹿じゃないの、私。猫が日本語を話すわけないじゃない。空耳、空耳。姫子は、おつりを財布にしまうと、バッグにしまって出て行こうとした。するとまた声が聞こえた。
「ちょっと待ってよ。話は終わっていないんだから」

 姫子は、まじまじと猫を見た。
「今、呼んだの、本当にあなた? 本当なら、尻尾を三回振って」

 ゆらゆらゆら。尻尾が揺れた。へたりと椅子に座り直した姫子の膝に、その猫はストンと載って、ゆっくりと三回瞬きをした。それから頭の中にまた日本語が聞こえてきた。
「電車に乗ってフシュル湖へ行かないといけないんだ。協力してよ。お礼はちゃんとするからさ」

「フシュル湖? どこそれ? どうやって?」
幸い周りに日本語を解せる人がいないおかげで、変な目で見る人はいない。猫を可愛がっている無害な日本人観光客に見えるだろう。

「ザルツカンマーグートだよ。僕をペット用バスケットに入れてさ。バスケットはちゃんとあるんだ。上手くザルツブルグ行きの電車に乗せてくれたら、そこまででいい。お礼は最高のザルツブルグ観光を一日。どう?」
ザルツカンマーグートがどこにあるのかも知らない。でも、ザルツブルグは知っている。でも、今、観光させてもらって喜ぶような心境じゃないんだけれど。姫子は猫をじっと見つめた。

「一日観光はいいから、代わりに私の状況、少し変えてくれない? 私の人生詰んじゃっていて、いよいよ終わりにするかどうかってとこなのよ」

 猫は、一瞬だけ黙ってから、ヒゲを前足で弄びながら答えた。
「そんなの一介の猫には無理だよ」

 日本語テレパシーで喋っているくせに、都合が悪くなると「一介の猫」ですか。姫子はムッとした。そのまま彼女が立ち上がって払い落とされた猫は、慌てて言った。
「わかったよ。じゃあさ。あっちで僕としばらく一緒に暮らすといい。少なくとも人間の生活よりも面白おかしいぜ。会社に行ったりとか、税金の支払いとか、犬の散歩とか、そういう面倒なことは何もしなくていいんだ」

 姫子は、ちらっと考えた。心もとないけれど、どうせ路頭に迷うなら猫の世話になる方がいいかも。テレパシーが使えるなら魔法が使えるかもしれないし。

「そのザルツカンマーグートで、あなた、どんな所に住んでいるの?」
「小さめの城ってところかな。いくらでもいるヤマネを追いかけたり、鳥の羽根をむしったり、けっこういい暮らしをしていたんだぜ。でも、ここに連れてこられちゃってさ。早く帰りたいんだ」

 そのいい暮らしというのが、どうもネコ目線の意見で若干の不安はあるが、このままでは浮浪者となるのがほぼ確実なので、論議はしないことにした。

「でも、猫って、遠くに連れてこられても自力で歩いて帰るんじゃないの? 人間に頼んで連れて帰ってもらうなんてはじめて聞いたわ」
姫子は首を傾げた。猫は前足でヒゲをちょっと触ると上目遣いで言った。

「そりゃ時間がたっぷりあるならそうするさ。でも、僕は急いで帰らなくっちゃいけない事情があるんだ。協力するの、しないの? しないなら、他の人を……」

「え。するわよ。じゃ一緒に来て。荷物をホテルに取りに行くから。ところであなたのバスケットはどこにあるの?」
「そこの裏手さ、こっち」

 猫についていくと、カフェの裏手の暗い路地に、小さなプラスチックの猫移動用ケースが置いてあった。扉の部分が壊れている。
「これ、どうしたの」
「壊さないと出られなかったんだ。大丈夫だよ。電車の中ではペットらしくしているから」

 姫子はホテルに預けてあった全財産でもある小さな機内持ち込みサイズのスーツケースを受け取ると、猫についてウィーン中央駅に向かった。

「急いでよ。今日の電車がでちゃう」
電車の近くまで来ると、猫はちゃっかりとバスケットに収まって、飼い猫のフリをした。でも、姫子に指図する態度は一向に変わらない。

「あなた、なんで時刻表を知っているのよ」
「昨日と一昨日、上手く紛れ込めないかトライしたんだよ。でも、最近の電車は入口が電動で、高いところにあるボタンを押さなくちゃ開かないんだ」

 猫に案内されて、ザルツブルグに向かっている。細かいことは考えないに限る。ホテル暮らしをするお金はもうないんだし、猫でもなんでも頼らないと。

 電車が走り出すと、コンパートメントの扉を閉めてから、バスケットを椅子の上に置いた。猫は出てきて腰掛けると丁寧に顔を洗い始めた。

「ところで、ちゃんと説明してよ。なんでザルツカンマーグートからウィーンに来ることになったの? どうして急いで帰りたいの? どうして、私が助けてくれると思ったの?」
姫子は馬鹿馬鹿しいことを口にしているなあと思いながら立て続けに訊いた。

「僕は飼い主と賭けをしてね。彼の命が尽きるまでに僕が帰れることができれば僕はずっとあそこにいられる。それができなければウィーンの野良猫になるって。もうだめだと思ったけれど、君のアプリコット色のお財布を見て、ピンと来たんだ。この人が僕を連れ帰ってくれるってね。だから話しかけたんだよ」

 アプリコット色のお財布? ドキッとした。このお財布は、キャバクラであるお客さんが姫子にプレゼントしてくれたのだ。他の人がプレゼントしてくれたブランドものは、みなネットオークションで転売した。一円でも多く手にして返済に回したかったから。でも、そのお客さんは、姫子が奨学金の返済で困っているということを憶えていて、ブランド品の代わりにとても安いこのお財布の中にブランド品を買ってもおつりが来るだけのお金を入れてプレゼントしてくれたのだ。

「どうしてそんなによくしてくれるんですか?」
「全額返済してあげられるような甲斐性はないからね」

 そういって笑った彼は、キャバクラ通いをするお金が続かなかったらしく、やがて来なくなった。迷っていないでプライヴェートのメールを教えてあげればよかったなと思ったけれど、結局それっきりになってしまった。

 婚約した御曹司は、お金があって、私を救い上げてくれそうだった。でも、あのお客さんほどの真心も持っていなかったんだ。打算で結婚しようとした私もそれ以下の馬鹿だものね。姫子は考えた。

「でも、このお財布のことを知っているってことは、あなたのご主人は、あのお客さんなのかな?」
姫子がそう訊くと、猫は首を傾げた。
「なんのこと? 僕は仔猫の頃にその色をした古いお財布をオモチャにもらったんだ。僕と同じ色だからってね。それを思い出したんだよ」

 なんだ。そういうことか。

「飼い主は、年寄りで、病持ちで、もうそろそろアブナいんだって。だから、僕が死ぬまではつきあえないんだって。それで僕をウィーンに連れてきたんだ。帰りたいなら誰か信頼できる人に手伝ってもらえ、嫌ならウィーンの野良になれってね」

「猫のくせに、自由にしたくないの?」
「猫にだって、ホームが必要なんだよ。僕があそこに帰ったら、君だってあそこで自由にしていいんだ。時々、僕の世話はしなくちゃいけないけれど」

 それってねこまんまを作れってことかなあ。姫子は、窓の外の田園風景を眺めながら、それも悪くないかなと思った。

「ものすごくきれいなところなんだ。湖に光はキラキラしているし、大きな魚は撥ねているし、春にはレンゲや野菊やアプリコットの花が咲き乱れるんだ。ごちゃごちゃしたウィーンなんて目じゃないよ」

 へえ。ちょっとだけでもそういうところに暮らせたらいいなあ。姫子は思った。春までは無理としても、しばらく泊めてもらえないかな。飼い猫を届けるんだし。

 ザルツブルグでバスに乗り換えてフシュルまで行き、そこから歩いた。バスケットが邪魔なら捨てろと言われたけれど、ここまで持ってきたし、いつ必要になるかわからないし、軽いので持ち歩いた。

「急いでよ。早く!」
荷物がない身軽な猫にそう急かされて、姫子はふうふう言いながら上り坂を歩いた。途中から道は湖畔になり、輝く湖水が目を射た。

 ああ、本当だ。なんてきれいなところなんだろう。真っ青な湖、若緑の絨毯みたいな田園風景。揺れる木の葉に、落ち着いた緑の山並み。ウィーンも面白かったけれど、こんな静かで心洗われる風景ではなかった。それに蒸し暑かったウィーンと較べて、ずいぶんと爽やかだ。これならエアコンはいらないわよね。

 いつも東京の狭い六畳のワンルームアパートと、満員電車、灰色の役所、それにネオン街の往復しかしていなかったから、こんなに落ち着く光景に心うたれたのがいつ以来なのだかもう憶えていない。ここに来て、本当によかった。猫に急かされているとは言え。

 小走りで走っていた猫が、急にぴたっと止まった。それから、湖の方を眺めた。
「どうしたの?」
追いついた姫子が訊くと、項垂れて言った。
「もう急がなくていいよ。間に合わなかったんだ」

「ええっ。飼い主さんが死んじゃったの? なんでわかったの?」
猫は答えなかったが、再び歩き始めて、こんどはゆっくりと進んだ。それからひと言も話さなかったので、姫子は、さっきまで聴いていたのはもしかして自分の想像だったのかと思い始めた。

 やがて湖畔をそれてまた丘に登った猫は、果樹園のようなところを横切って、その中央にあるボロボロの小屋に向かって行った。え。ちょっと待って、さっき小さいお城って言わなかった? まさか猫のいうお城って、これ?

 小屋の前には、立派な車が三台ほど停まっていて、小屋の中からはドイツ語で話す声が聴こえていた。なんかお取り込み中みたいだな。私はどこかに隠れていた方がいいかも……。そう姫子が思った途端、開け放たれたドアの向こうにいた年配の女の人が大きな声を出して、姫子の方にやってきた。

 猫が姫子の足元にいて、姫子がバスケットを持っているので、猫を連れてきたのだと思ったのだろう。中にいた人たちも近寄ってきてみな口々に何かを言っている。ドイツ語なのでわからないけれど。

 小屋の中にはベッドがあって、亡くなったばかりと思われる老人が横たわっていた。猫は人間たちの足元を通り抜けて中に入り、そのベッドに飛び乗って、みゃーみゃーと鳴いた。それと入れ違いに出てきた眼鏡の男性が姫子に話しかけたが、言葉が通じないとわかると英語に切り替えて話しだした。

「あなたがあの猫を連れてきてくださったのですね」
「え。あ、はい。成り行きで……」

「そうですか。私は故人ケスラー氏の顧問弁護士トーマス・ウルリッヒです。こちらにいらっしゃるのは故人の息子のケスラー氏とその夫人です。奥にいて死亡診断書を書いているのがマイヤー医師です。あなたは?」
「あ~、日本人旅行者で永田姫子っていいます」

 名前を訊いたわりに、ケスラー夫妻とウルリッヒ弁護士の目は、なぜか姫子の持っている壊れたバスケットに釘付けになっていた。
「あなたは、この不明になっていた猫の事情をご存知ですか?」

 姫子は日本人らしく曖昧な笑顔を見せて肩をすくめた。猫から帰りたいと聞いたなんてことは言わない方がいいように思ったのだ。弁護士は深く頷くと話しだした。

「実は、故人には最近したためた遺言状がありましてね。古城を含めた全財産を慈善団体に譲るというものだったのです。もともとは、この果樹園小屋で暮らしたがる変わったご老人を息子さんたちが諌めたことが原因の諍いだったのですが、この遺言状が効力を持つと息子さんたちは全てを失うことになるんです」

「はあ」
それと猫がどう関係があるんだろう。

 弁護士は姫子の持っているバスケットに手を伸ばした。
「ちょっと見せていただきたいのですが、いいですか?」

 わからないまま頷くと、弁護士は壊れたバスケットの扉をどけて、中に手を伸ばした。床板をそっと動かすと、そこから立派な封筒が出てきた。
「あったぞ!」

 ケスラー夫妻が大喜びで、それを確認してから、姫子の手を握ってきた。
「ありがとう。あなたのおかげです」
姫子は、あいかわらず何がなんだかわからなかった。

 それから、古城に泊めてもらい、しばらく湖畔に滞在してわかったことには、バスケットに隠してあったあの封筒は全財産を慈善団体に寄付するとした遺言状よりも更に新しい、有効な遺言状だった。そして、遺産は元通りに息子夫婦が相続出来ることになった。

 ただし、あの果樹園と小屋だけは、バスケットを持って帰って来た人間に譲ると書いてあったので、なんと姫子がもらえることになった。さらに、息子夫婦は姫子が奨学金の残りを返済してもおつりが来るくらいのお礼をくれた。そして、姫子がこの村に住むことが出来るように面倒な手続きを全てしてくれた。

「あなたのおかげですもの」
「でも、どうしてあの方は果樹園小屋に住んでいたんですか?」
姫子は未だに納得がいかないままだった。

 ケスラー夫人は声を顰めた。
「それがね、お義父さまは、猫と意思疎通が出来るなんて言ったんです。主人はそれはナンセンスだと言って、売り言葉に買い言葉。それで、お義父様が家を出てしまわれて。帰って来いと主人が言っても猫と意思疎通が可能と認めなければ帰らないと言うし、主人も認めることは出来ないというし。そのうちに、あの猫と新しい遺言状を隠してきた、あの猫が誰かの助けを得て戻ってくるか、うちの主人が間違っていたと謝らない限りは、全財産は慈善団体に行くなんていいだして。しかも、どちらも折れないでいるうちに、お義父様があの日急逝なさってしまわれて、私たちは真っ青だったんですよ」

 姫子は、どうやって猫と一緒にここにたどり着いたかは言わなかった。ケスラー夫妻も追求してこなかった。ここはあやふやにしておくのが大人ってものだろう。

 こうして姫子は、猫と話せたおかげで新しい人生を始めることが出来た。かなりめちゃくちゃな結末だけれど、悪くない。

「とにかく、あなたのおかげで本当に私の人生、好転したのよ。どうもありがとう。果樹園の世話なんてどうやるのかわからないけれど、ケスラーさんたちが教えてくれるっていうから、きっとなんとかなるわよね」

 話しかけると、猫は大きく伸びをした。
「簡単だよ。水をやるのは、天の神様だし、授粉は蜂たちがやってくれるのさ。出来た木の実をもぐだけなんて、ネズミを狩ったりするほどの技術もいらないだろう」

 そういうものかな。なんか違うようにも思うけれど、これから家族になる猫だから、不要な喧嘩はしない方がいいだろう。そう思って、ふと思い出した。
「あなたの名前、訊いていなかったわね。なんていうの?」

 猫はきれいな瞳をくるくる回した。
「マリッレ。この木と同じだよ」

(初出:2017年1月 書き下ろし)

註・マリッレとはオーストリア方言でアプリコットのこと
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Posted by 八少女 夕

【小説】今年こそは〜バレンタイン大作戦

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第四弾です。ダメ子さんも、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

新しいプランができてる
じゃあ私も久しぶりに思い切ってBプランを注文しますです


ダメ子さんは、お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人です。かわいらしい絵柄と登場人物たちの強烈なキャラ、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

せっかくなので「ダメ子の鬱」のたくさんのキャラたちのうち、ダメ子さんのクラスの男の子三人組、とくにチャラくんをお借りしてお話を書かせていただくことにしました。といっても、実際の主役は、一年に一度だけ出てくる、あの「後輩ちゃん」です。チャラくんはバレンタインデーのチョコを自分ももらいたいと思っているのですが、毎年この後輩ちゃんからのチョコを受け取り損ねているんです。

快くキャラをお貸しくださったダメ子さん、どうもありがとうございました。名前はダメ子さん式につけてみました。「あがり症のアーちゃん」と「付き添いのつーちゃん」です(笑)


【追記】
ダメ子さんが、バレンタインデーにあわせてお返しのマンガを描いてくださいました! アーちゃんのチョコの運命やいかに(笑) ダメ子さん、ありがとうございました!

ダメ子さんの描いてくださった「チョコレート」



「scriviamo! 2017」について
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「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
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今年こそは〜バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 今日は例の日だ。2月14日、聖バレンタインデー。アーちゃんは、がたがた震えている。たかだか先輩にチョコを渡すだけなのにさ。

「ごめんね、つーちゃん。つきあわせて。でも、私一人だと、また去年の二の舞になっちゃう」

 アーちゃんは、とんでもないあがり症だ。昨日も授業で当てられて、現在形を過去完了に変えるだけの簡単な質問に答えられなかった。答えがわからなかったのではなくて、みんなの前で答えるというシチュエーションにパニックを起こしてしまったのだ。先生もいい加減アーちゃんがこういう子だって憶えりゃいいのに。

 そんなアーちゃんだけれど、意外と執念深い一面も持ち合わせていて、もう何年もとある先輩に懸想している。バスケ部のチャラ先輩だ。カッコ良くて女性の扱いの上手いモテ先輩ならわかるけれど、なんでチャラ先輩なんだろう。まあ、明るくてけっこう優しいところはあるけれどさ。

「前ね、今日みたいに授業で答えられなくて、クラスの男の子たちに下駄箱で嗤われたことがあるの。そこにチャラ先輩が通りかかってね。『かわいそうだから、やめろよ』って言ってくれたの」
「それ、いつの話?」
「えっと、中学のとき」

 何ぃ? そんな前のこと?
「もしかして、この高校を受験したのは……」
「うん。チャラ先輩がいたから。あ、それだけじゃないよ、偏差値もちょうどよかったし、家からもわりと近かったし」

 全然近くないじゃない。やっぱりこの子、変わってる。そんなに大好きなチャラ先輩に、告白が出来ないどころか、もう何年もバレンタインデーのチョコを渡しそびれているらしい。なにをやっているんだか。

 スイス産のクーベルチュール、70%カカオ、それにホワイトチョコレート。純国産のミルクチョコレートにとってもお高い生クリーム。彼女ったら、あれこれ買ってきて、レシピも調べて研究に余念がなかった。そして、なんとけっこうプロっぽい三色の生チョコを作ったのだ。

「わざわざ用意したんだから、あとは渡すだけじゃない。何で毎回失敗しているの?」

「だって、先輩、二年前は部活に来なかったの。去年は、ものすごく素敵なパッケージのチョコレートを食べながら『さすが、味も包装もまるでプロ並だよな』なんて言って通ったの。私のこんなチョコは受け取ってくれないかもと思ったら、渡せなくて」

 私はため息をついた。そんな事を言って食べているってことは、本命チョコのはずはないじゃない。でも、舞い上がっていて、そんなことを考える余裕がなかったんだろうな。

「わかった。さすがに一緒に行くってわけにはいかないけれど、途中まで一緒に行ってあげよう。どんなチョコにするの? パッケージもちょっと目立つものにするんだよ。義理っぽいものの中では目立つようにね」

 私がそういうと、アーちゃんはこくんと頷いた。
「ごめんね、つーちゃん。その日は他に用事ないの?」
「あ? 私は、そういうのは関係ないからさ。友チョコとか、義理チョコとか、そういう面倒くさいのも嫌いだからやらない宣言してあるし」

 というわけで、私は柄にもなく、きゃーきゃーいう女の子たちの集う体育館へと向かっているのだ。バレンタインでへの付き添い、この私が。チャンチャラおかしいけれど、これまた経験だろう。

 バスケ部のところに女どもが群がっているのは、どう考えてもモテ先輩狙いだろう。あんなにもらうチョコはどう処理しているんだろう。全部食べるわけないと思うんだけれど。女の私だって胸が悪くなるような量だもの。でも、目立つように処分したりするようなことはしないんだろうな。そう言うところは絶対に抜かりないタイプ。

 チャラ先輩は、そんなにもらうとは思えないから、いかにも本命チョコってパッケージのあれをもらったら、けっこう喜ぶと思うんだけれどな。アーちゃんは、かわいいし。

 もっとも男の人の「かわいい」と私たち女の思う「かわいい」って違うんだよね。男の人って、「よく見ると味がある」とか、「人の悪口を言わない性格のいい子」とか、「あがり症でも一生懸命」とか、そういうのはポイント加算しないみたい。むしろ「意外と胸がある」とか、「かわいいってのは顔のことでしょ」とか、「小悪魔でちょっとわがまま」とかさ。まあ、こういう分析をしている私は、男から見ても、女から見ても「かわいくない」のは間違いないけれど。

「つーちゃん、待って。私、ドキドキしてきた」
その声に我に返って振り向くと、アーちゃんが震えていた。まだ体育館にもたどり着いていないのに、もうこれか。これで一人で、先輩のところまで行けるんだろうか。

「いい、アーちゃん。あそこにモテ先輩と群がる女どもが見えるでしょ。あそこに行って彼女たちを掻き分けて先輩にそのチョコを渡すことを考えてご覧よ。どんなに大変だか。それに較べたら、ほら誰も群がっていないチャラ先輩のところにぴゅっと走っていって、『これ、どうぞ!』と手渡してくるだけなんて楽勝でしょ?」

 私は、チャラ先輩がムツリ先輩と二人で立っているのを見つけて指差した。二人は、どうやらモテ先輩がたくさんチョコをもらっているのを眺めながら羨ましく思っているようだ。
「これはチャンスだよ。自分も欲しいなあ、と思っている時に本命チョコを持って女の子が来てくれるんだよ。ほら、早く行っておいで」

 私の入れ知恵で、パッケージにはアーちゃんのクラスと名前が入っているカードが忍ばせてある。あがってひと言も話せなくても、チャラ先輩が興味を持ってくれたら自分から連絡してくれるはずだ。少なくともホワイトデーのお返しくらいは用意してくれるはず。……だよね。


 アーちゃんは、よろよろしながら体育館の方へと走っていく。えっ。何やってんの、そっちは方向が違うよ。

 彼女は、チャラ先輩の方にまっすぐ走っていかずに、モテ先輩の人だかりの方に迂回してしまった。人に紛れて見えないようにってことなのかもしれないけれど、それは誤解を呼ぶぞ。

 あらあらあら。あれはキツいバスケ部のマネージャーだ。モテ先輩とつきあっているって噂の。アーちゃんの持っているチョコを目ざとく見つけてなんか言っている。「抜け駆けする氣?」とかなんとか。

 アーちゃんは、慌てて謝りながら、モテ先輩の周りにいる女性たちから離れた。そして、動揺したせいか、その場に転んでしまった。私はぎょっとして、彼女の方に走っていった。

「アーちゃん、大丈夫?」
「う、うん」

 全然大丈夫じゃないみたい。膝が擦り剥けて血が出ている。手のひらからも出血している。
「わ。これ、まずいよ。保健室行こう」

 でも、アーちゃんは、自分よりもチョコの箱の惨状にショックを受けていた。
「つーちゃん、こんなになっちゃった」

 不器用なアーちゃんでもきれいに詰められるように、テトラ型のカートンにパステルカラーのハートを可愛くレイアウトして印刷したものを用意してあげたのだけれど、転んだ時のショックで角がひしゃげてしまっている。幸い中身は無傷のようだけれど。

「えっと、大丈夫?」
その声に見上げると、チャラ先輩とムツリ先輩だった。アーちゃんは、完璧に固まっている。

「だっ、大丈夫ですっ!」
彼女は、チョコの箱を後に隠して立ち上がった。
「わっ、私、保健室に行かなきゃ! し、失礼しますっ」

「あ、そのチョコ、モテにだろ? 僕たちが渡しておいてあげようか?」
チャラ先輩は、一部始終を見ていたらしく、覗き込むようにちらっと眺めながら言った。お。チャンス!

「え。いや。そうじゃないです! そ、それにもう、潰れちゃったから、渡せないし、捨てようかと……」
アーちゃんは、焦って意味不明なことを言っている。そうじゃなくて、これはチャラ先輩に持ってきたって言えって。

 パニックを起こしている彼女は、誤解を解くどころか、箱をよりにもよって私に押し付けて、ひょこひょこと校舎に向かって走っていった。ちょっと。これをどうしろって言うのよ。

 思いあまった私は、潰れた箱をチャラ先輩の手に押し付けた。
「これ、モテ先輩に渡したりしちゃダメですよ。 中身は大丈夫のはずだから、食べてくださいね!」
 
 あとはチャラ先輩がこれを開けて、中のカードをちゃんと読んでくれることを祈るのみ。中の生チョコが潰れていなければ、カードに必要な情報が全部書いてあるはずだから。

 ところでアーちゃんは「チャラ先輩へ」ってカードにちゃんと書いたのかな。今は、それを確かめようもない。私はアーちゃんを追わなくちゃいけないし。

 ああ、この私が加担したにもかかわらず、今年も前途多難だなあ。

(初出:2017年1月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】異国の女と謎の訪問者

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第二弾です。ポール・ブリッツさんは、私の小説群に出てくる架空の村、カンポ・ルドゥンツ村の出てくるスパイ小説で参加してくださいました。

ポール・ブリッツさんの書いてくださった『カンポ・ルドゥンツの来訪者』

ポールさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。どうも、こういう企画は難しい挑戦をしないといけないとお思いになっているらしくて、毎年しょっぱなから大いにハードルをあげてくださるブログのお友だちです。でも、挑戦されたからと言って、応える方の技量には限りってモノが……。まあ、いいや。

いやー最近読んでいるスパイ小説が面白くって(^^)


この参加宣言と、あちらの小説のみなさんのコメントでは、私もスパイ小説でお返しすることを期待されているような氣もしますが、そう簡単に書けるわけないじゃないですか。しかも舞台がカンポ・ルドゥンツ村ですよ。何もないし。というわけで、こんな話になりました。例によって真相は「藪の中」です。なにが本当でなにが憶測なのか、謎の男は何しにきたのか、ポーランド人と、ロシア人は、スパイ小説とどう関わっているのかもしくは全然関わっていないのか、それは読者の想像にお任せします。

登場するトミーとリナは、去年のscriviamo!をはじめとして、私の小説では既におなじみのキャラなのですが、別に読まなくても大丈夫です。一応シリーズのリンクはつけておきますけれど……。


【参考】
「リナ姉ちゃんのいた頃」シリーズ
「酒場にて」

「scriviamo! 2017」について
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異国の女と謎の訪問者
——Special thanks to Paul Blitz-san


 道は凍り付いている。育ち始めた霜は、結晶を大きくさせて、雪が降ったあとのようにあたりを白くしている。カンポ・ルドゥンツ村は、ライン河の東岸にある小さな村だ。小高い丘の上にある少し裕福な人たちの住む場所は別として、泉のある村の中心部には三ヶ月にわたり一度も陽の光が差さない。

 河向こうにあるサリス・ブリュッケと違い住民も少ないこの村は、冬の間はまるで死んだかのように人通りがない。かつては広場を囲んで三軒あった旅籠兼レストランのうち今も営業しているのは一軒のみで、他には村の中心部からかなり離れたところにバーとそれに隣接した有機食料品店があるだけだ。

「こんにちは、トミー!」
そのバーの扉を勢いよく開けて飛び込んできたのは、そんな寒村には全く似合わない派手な出立ちの娘だ。鮮やかな緑のコートは確か雑誌で見かけたバリーの新作だし、その下から現れた白いミニ丈のニットドレスは、どこのブランドかわからないけれど今年のトレンドであることは間違いない。黒いタイツに茶色いロングブーツのバランスもこだわりを感じさせる。それがわかるトミーだが、そんなことを容易く褒めてはやらないのが彼らしさだ。

「リナ。いつお外が春になったのよ」
「なっていないわよ。マイナス10℃ってところかな。寒かった~」
「だったら何でそんな恰好をしているのよ」
「だって今日はこういう氣分なんだもん」

 『dangerous liaison』は、コンサバティヴで過疎な寒村カンポ・ルドゥンツ村のはみ出しものが集うバーだ。ゲイのカップルであるステッフィとトミーが経営している。青とオレンジを基調とした南国風の室内装飾はこのあたりでは滅多にない派手なインテリアで、やってくる客もこの谷の半径三十キロ地点にいるはみ出しものばかりだった。

 この村に住むリナ・グレーディクもその一人で、週に二度ぐらいはこの店にやってきてトミーに新しいファッションを披露するのだった。

 カウンターの奥でクスっと笑う声がしたので顔を向けると、ノヴァコフスキー夫人で通っているイリーナが壁についたカラフルなシミのように座っていた。このバーの常連の中で最高齢だと思われ、正確な歳は誰も知らないがおそらく八十歳は超えているはずだ。夫のノヴァコフスキーは五十過ぎてから結婚してこの村に彼女を連れてきたが、彼が亡くなった後三十年ひとりで近くのアパートメントに住んでいる。

「あれ。一人? お客さん、帰ったの?」
リナは訊いた。

 前回この店にきた時に、常連である自動車工マルコが大騒ぎしていたのを耳にしていたのだ。
「おい。知っているか? ノヴァコフスキーの後家婆さんのところにボーイフレンドが来ているぞ! あの歳でやるよな」

「どんなヤツだ?」
「外国人だよ。顔立ちから言うと南欧の男かな。でも背はかなり高い。どこにでもいそうな老人だ」

 マルコの情報によると、村の中心にある旅籠に滞在しているということだった。そして、イリーナが彼を訪ねてきて二人で自宅に向かったのを目撃したレストランの常連たちが、驚きと興味を持って二人の関係についてあれこれ詮索して騒いでいたというわけだった。

「あの婆さんもポーランド人だったっけ」
「いや。確かロシア人だったはずだ。ティツィーノ州からやってきたらしく、イタリア語が達者なんだ」
「ああ。亡命貴族が多いんだよな。革命の時にごっそり持ち出した財宝でマッジョーレ湖のヴィラで優雅に暮らしている帰化者がいっぱいいるって話だ」
「そんな金持ちが、ヤン・ノヴァコフスキーみたいな貧乏人と結婚してこんな田舎に来るか」
「さあな。貴族の召使いの子弟ってのもいるだろう」

「そもそもヤン・ノヴァコフスキーは何でこの村に来たんだっけ?」
「ああ。ありゃ戦争捕虜だよ。フランスで従軍していたんだが、ドイツに投降するくらいなら、スイスに入った方がマシな扱いを受けるからって越境してきたんだ。で、戦後に村の娘と結婚して帰化したはずだ」
「なるほど。その娘が亡くなってから後添いに来たのがあのイリーナ婆さんってことだな」

「その婆さんが、今度は別の外国人をこの村に連れてくるってことか? はてはて。で、今度は何人かな」

 そんな噂が村の中心を駆け巡っていたのが四日ほど前だった。だが、村人の予想に反して、謎の南欧風の男は迎えにきた車に乗ってどこかへと去っていった。

 リナの質問は、村の噂がすでにバー『dangerous liaison』にまで広がっていることや、自分が村の好奇心の対象となっていることを示していたので、イリーナは笑った。銀髪を優雅に結った女性で、若いころと変わらずに魅力的で秘密めいた微笑みを見せる。未亡人となってからはいつも黒い服を身につけているが、纏っているスカーフが色とりどりで華やかだ。

「ええ。帰りましたよ。昨日ね」
それから、トミーにワインのお替わりを頼んだ。

 すぐに帰るつもりはないと判断したリナは、イリーナの隣に座った。
「イリーナの家族?」

 イリーナは首を降った。
「いいえ。友達よ。ペンフレンドね」
「ペンフレンド?」

「ええ。いつだったか州都のスーパーマーケットで、告知をみつけたの。キリル文字で書かれていたのよ。懐かしかったから近寄って見たらペンフレンド募集だったのよ。それで連絡して文通するようになったの。この歳になると、使わないと、すっかり忘れて使えなくなってしまうのよ」

 リナはカンパリソーダを飲みながらイリーナの顔を覗き込んだ。
「イリーナはポーランド人じゃなかったんだ」
「いいえ。私の両親はロシアの出身なのよ。革命から逃げてティツィーノ州に来たの。私はイタリア語圏スイスで生まれ育ったんですよ」

「でも、イリーナはずいぶんきれいなドイツ語を話すよ? どうやって覚えたの?」
「若いころにルガーノに住んでいたドイツの男爵のところで働いていましたからね」

「リナ。あんたはいろいろな事を不躾に訊きすぎるわよ」
トミーが注意した。リナは「ごめん」とは言ったが、反省している様子はなかった。

「いいのよ。変な噂を流されるよりは、訊いてくれた方がすっきりするわ」
イリーナはワインを飲んだ。

 それで、リナは勢いこんで更に訊いた。
「それで、文通をしていた友達が会いにきたのね?」

「そうよ。変わった人でね。ペンフレンドを募集しておきながら、応募してくる人間がいるとは思わなかったなんて書いてくるし、特に文通がしたかったわけでもないみたいだったの。単に婆さんの書いてくる田舎の日常が面白かったから、暇つぶしに時々手紙をくれたみたいね。だから、まさか逢いにくるとは夢にも思わなかったんだけれど」

「じゃあ、何で来たのかしらね?」
リナが訊くと、老女はおかしそうに笑った。
「オクローシカを食べたかったみたいね」

「何それ?」
リナとトミーが同時に訊いた。

 イリーナは笑って言った。
「冷たい野菜スープの一種よ。クワスという発酵飲料で作るの。私は母からクワスの作り方を習っていたので、パンと酵母で手作りしているんですよ。この前の手紙でその話を書いたら、一度訪問したいって書いて来てね。大都会ならペットボトル入りのクワスが専門店で買えると思うんだけれどねぇ」

「ああ、それはわかるわ。故郷を離れていると、なかなか手に入らない手作りの味が無性に恋しくなるのよね」
トミーが頷いた。

* * *


 その頃、村の中心にある旅籠のレストランでは、男たちがまさにイリーナ婆さんと謎の男の噂をしていた。

「俺は、あの男はにはどこかおかしいところがあるように思うんだ」
マルコが熱弁を振るっている。他の男たちはビールを飲みながら首を傾げた。
「どこが?」

「第一に、こんな何にもない村にいきなりやって来たかと思うと、へんな送迎の男たちと去っていっただろう」
「はい、はい。また始まった。お前、外国人とみるとすぐになんかの陰謀だと言い出すんだよな」

 マルコはムキになって続けた。
「おかしいのはそれだけじゃないぞ」
「なんだよ」
「あの顔さ。手は皺しわなのに、額や鼻にほとんど皺がなかった。あれは整形かもしれないぞ」

「へえ。そうなのかな」
「で、イリーナ婆さんのところに何の用だ?」
「諜報機関の奴らが、なんかの書類を受け渡しにきたとかさ。ロシアの亡命貴族とKGBの密会というのは面白い組み合わせだな。それとも亡きポーランド人の遺した第二次世界大戦の時の重要書類か」

 それを聞くと、ほかの男たちは馬鹿にした顔つきで眼を逸らすと、新しいビールを注文した。
「お前は、スパイ小説を読みすぎだ。そんなわけないだろう。寝言もいい加減にしろ。あの男はどうせ婆さんの家族か親戚か、そんなところさ」

(初出:2017年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと天空の大聖殿

scriviamo!


今年最初の小説は、「scriviamo! 2017」の第一弾です。山西 左紀さんは、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。下記のようなリクエストをいただいています。

夕さんが気になる、或いは気に入ったサキのキャラとコラボしていただけたら 嬉しいです。


山西左紀さんは、色鮮やかな描写と緻密な設定のSFをはじめとした素晴らしい作品を書かれる方です。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

既に多くの作品でコラボさせていただいていますが、もっとも多いのが、「夜のサーカス」のキャラクターの一人であるアントネッラと、そのブログ友達になっていただいたサキさんの「物書きエスの気まぐれプロット」のエスというキャラクターとの競演です。

記念すべき初のプランBですから、やはりこの組み合わせで書きたいなと思いました。アントネッラとエスの交流の話、もしくは劇中劇形式になっているストーリーの話、どちらで遊んでいただけるのかも興味津々です。どんな形でお返事いただけるのか、いまからワクワクです。



「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2017」について
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夜のサーカスと天空の大聖殿 - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
——Special thanks to Yamanisi Saki-san


 風を切って雲の間を抜けていく時、《勇敢なる女戦士》ロジェスティラは、イポリトの首筋の茶色い羽毛に顔を埋めた。彼女の忠実な乗り物となったこの巨大なヒッポグリフは、そっと顔を向けて「大丈夫か」と伺うかのごとく黄金色の大きな瞳を動かした。

「怖くなんかないわ。これは武者震いよ。あの天空の大聖殿に近づくのは、お前のような神獣の助けを借りなくちゃ不可能だし、わが軍で《翼あるもの》の使い手は、いまや私一人ですもの。オルヴィエート様をお救いすることが出来るのは、お前と私しかいないんだわ」

 初めて目にした天空の大聖殿は、何と美しいことだろう! いくつもの尖塔がぎっしりとひしめき、針の山のように見えた。灰色と赤茶けた岩しか存在しない、人里離れた地の果てのごときヘロス山に、遠く離れたグラル山塊でしか産出しない青白い大理石をこれだけ運ぶ労力はどれだけのものだったのだろう。

 このように壮大な聖殿を建てても、祭司に集まる貴族たちも、祈りを捧げる民らも到達することは出来ない。五百年前の大噴火によってヘロサ新山が生まれた後、馬はもちろん、徒歩ですら近づくことが出来なくなったのだ。厳しい渓谷に阻まれたこの壮麗なヘロス大聖殿は秘密に守られて、何世紀にも渡り伝説で語られるだけの存在であった。

 ロジェスティラは、モルガントとの対決を思って下唇を噛んだ。将軍である皇孫オルヴィエートを欺き誘拐してこの大聖殿に立てこもっているのが、自分と子供時代を共に過ごした乳兄弟であることを知った時、彼女は「何かの間違いよ!」と叫んだ。けれども、それは間違いではなく、彼が邪悪な《闇の子たち》のために働いていることも疑う余地はなかった。

 いま彼女が躊躇すれば、高貴なるオルヴィエートの命やこの国の命運が失われるだけでなく、《光の子たち》の築き上げてきた世界そのものが崩壊してしまう。

「イポリト。氣をつけて。そろそろモルガントがお前の飛来を感じ取るはずよ。どんな攻撃を仕掛けてくるかわからないわ」

 ロジェスティラのささやきに、イポリトは「わかっている」と言いたげに振り向いた。「あなたこそ、振り落とされないように、お氣をつけなさい」そう言っているかのように瞬きをした。

 そして、イポリトは、ますます速度を上げて、稲光の中に浮かび上がる青白い要塞に向かって降りて行った。



「う~ん。どうも陳腐だわね」
アントネッラは、ため息をつくと、エスプレッソ用品の置いてある窓辺のテーブルに向かった。

 もちろん、そこまでのほぼ全ての地面には、本と書類の山や、二ヶ月ほど前に買ってきてまだショッピングバッグに入れたままになっているトイレットペーパーや洗剤やパスタ、彼女としてはきちんと積み上げてあると認識している衣類の入った木箱などが道を塞いでいるので、彼女はその間のわずかな空間を身体を横にしたり少し飛んだりしながら通らなくてはならない。これもまたいいエクササイズだわ、というのが彼女のいつものひとり言だった。

「さてさて。ファンタジーもののセオリーには、乗っ取っているんだけれど。謀略。主人公と敵対者の闘争。主人公によるヒロインの救出……これは立場が逆ね。敵対者の仮面が剥がれ、主人公の欠如が解消される。でもねぇ。なんだかどこかで聞いたような話になっちゃっているのよねぇ。どこかに、こう、パンチのあるひねりが欲しいわ」

 窓辺に辿りつくと、彼女は少し大きめのアイボリーの缶の蓋をがたがた言わせて開けた。中からは深煎りしたコーヒー豆が現れる。彼女はフランス製の四角い木箱のついたアンティークコーヒーミルに、その豆を入れて、ハンドルをひたすら回した。美味しいエスプレッソを淹れるためには極細挽きにしなくてはならないのだ。挽きたての魅惑的な香りが、彼女の部屋に満ちた。

「ロジェスティラのイメージは、やはりあのライオン使いのマッダレーナかしらね。愛する貴公子を救うために勇敢にも敵地に一人で乗り込む美しきヒロインですもの。容姿のところを書き足さなくちゃ。オルヴィエートは、よく電話してくるあの金髪の俳優にしておこうかな。でも、敵役モルガントの容姿はどうしようかしら。暗い感じで、でも、一見は悪者に見えないような容姿がいいのよね。あ、ヨナタンの容貌は悪くないわね」

 マキネッタの最下部に水を、その上にセットしたバスケットにきっちりと粉を詰めると、ポット部分をセットして直火にかけた。フリーズドライのインスタントコーヒーを使えば、こんな手間はいらないのだが、第一に、彼女はまっとうなエスプレッソを飲む時間を持てないほど人生に絶望してはいないし、第二に、こうした単純作業は創作に行き詰まった時の氣分転換に最高だと知っていたからだ。

「なんでファンタジーを書く企画に参加しちゃったのかしら。まったく書いたことのないジャンルなのに」
彼女は、マキネッタがコトコトと音を立てはじめたのを感じながら、窓の外に広がる真冬のコモ湖を眺めた。

「そもそも私、ファンタジーをまともに読んだこともないし、この系統の映画もほとんど観ていないし。でも、参加すると手を挙げちゃったからには、何かは完成させないと。ああ、困った」

 夏場は観光客を乗せて軽やかに横断する遊覧船が、手持ち無沙汰な様相で船着き場で揺れている。谷間の陽の光は弱く、どんよりと垂れ込めた灰色の雲の間から、わずかに光が射し込んで湖畔の家々を照らしている。

 少なくともエスプレッソが完成するまでは、窓辺でこの光景を眺めていられたのだが、無情にも完成してしまったので、彼女は素晴らしい香りとともにそのコーヒーを愛用のカップに注いで、またコンピュータの前に戻らざるを得なかった。

「そうだ。エスに彼女の進捗状況を訊いてみよう。彼女は、SFは得意だけれど、ファンタジーはあまり書いたことがないって言っていたから、同じように苦労しているかもしれないし」

 エスというのは、日本に住んでいるネット上の創作仲間だ。アントネッラがインターネット上で小説を公開しだしてから数年になるが、ごく初期の頃から交流をもち、お互いの小説について忌憚なく意見を交わしている。あまり情報処理のことに詳しくないアントネッラのかわりに、エスは調べ物をしてくれたりもする。とても頼りになる友人なのだ。

 今回の企画には、エスも同じように参加している。彼女のファンタジーについての意見を聞いたら、自分の作品に足りない「何か」の正体がわかるかもしれないと思ったのだ。

 アントネッラは、創作に使っているエディタを閉じると、チャットアプリを立ち上げて、ログイン画面が現れるのを待った。

 一瞬「保存しますか?」と訊く画面がでたように思ったが、普段ならキーを押したあとに続く「どのフォルダに保存しますか」と言う問いかけが出てこないことに氣がついた。チャットアプリに保存は関係ないから、保存すべきだったのは何だったのかしらと考えてから青ざめた。

 慌ててエディタの方をアクティヴにしようと試みたが、大人しく終了してしまったらしく、うんともすんとも言わない。

 チャットアプリのログイン画面がポップに輝くのを絶望的に眺めてから、アントネッラは乱雑に机の上に積み上げられた書類の山の中に突っ伏した。


(初出:2017年1月 書き下ろし)


【11.01.2017 追記】
サキさんが、あっという間に素晴らしい返掌編を書いてくださいました! さすがです。みなさまどうぞご一読を!

サキさんの作品 「物書きエスの気まぐれプロット(26)クリステラと暗黒の石


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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】ヴィラ・エミーリオの落日 -3-

今年最後の小説更新、3つに切った短編「ヴィラ・エミーリオの落日」最終回です。

イタリアの保養地ストレーザを訪れたイギリス人オースティン氏と愛犬グルーバーは、謎めいたエミーリオ荘の女主人アントネッラに内密で夫の娘を捜してほしいと依頼されました。そして、屋敷で使用人として働くラウラこそがその娘であるのではないかと氣づきます。

今週は、公開がいつもより遅くなってしまいましたが、個人的にはスイス時間の水曜日中にアップできたので、セーフということにしておこう。(何が?)

今年一年、毎週のように読んでくださり、コメントを下さったみなさま、本当にありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。




ヴィラ・エミーリオの落日 -3-
〜 オースティン氏のイタリア紀行


 ファボニオが吹き荒れて、生ぬるい氣温のまま一晩を明した翌朝に、エミーリオ荘の白木蓮の大木は力尽きたように最後の数輪の花を落としていた。それはちょうど、門のところに朽ちて落ちている大理石の彫刻と同じ色をしていた。実際には残っているはずのない花の香りが灰色の雲にに閉ざされたストレーザに満ちているように感じられた。雨が近い。

 まだ、マンツォーニ夫人は眠っているのだろうか。ラウラが湖を見ながら庭に立っているのを見て、オースティン氏は急いでアルカディア荘の裏庭からエミーリオ荘の庭に侵入した。

 ゆっくりとした動作で、荒れ果てた庭の枯れ枝を集めるラウラの後ろからオースティン氏は声を掛けた。
「なぜそんなにひたすら働くのですか」

 少し驚いたように振り向いたラウラはオースティン氏の姿を認めると安心したように笑った。

 ラウラの笑顔はとてもあでやかだった。ルクレツィアの笑いは実に親しみ深いあけすけなものだったが、ラウラのそれはラ・ジョコンダのようにどこか秘密めいていてその分見えない壁を感じさせるのだった。

 よく考えると不思議だ。使用人の服を着て完璧な使用人として振る舞う女の笑顔が、最高品質のカシミヤのワンピースを着た裕福な令嬢の笑顔より遠いのだから。

「わたしの仕事ですもの」
「仕事への義務ですか。それともお父様の大切な屋敷へのオマージュですか」

 ラウラの顔から遠い笑顔が消えた。それから不思議なことに彼女は再び小さく微笑んだ。今度の笑顔は、もう少し距離が縮まったように感じられる疲れた笑いだった。

「どうしてたった一か月の滞在でわかったりするのかしら」
「あなたが、アダンソニア・マンツォーニなんですね」

 ラウラは再び枯れ枝を集めだした。
「父は生涯アフリカに憧れていました。だから他にもいくらでも植物の名前はあるでしょうに、よりにもよってアダンソニアなんて名前をつけたんです。母はごく普通にラウラとつけたかったのでそう呼んでいましたし、私はラウラ・ステリタといわれたほうがしっくりくるんです」

「でも、あなたがマンツォーニ夫人にアダンソニアと名乗らないのはそのせいだけじゃないでしょう」
オースティン氏はこの発言がラウラに非難めいて聞こえないことを祈った。

「一度でいいからここで暮らしたかったんです。マンツォーニ夫人がここを売りたがっていることは知っていましたから」

「あなたが望めば、このヴィラはあなたのものになるんじゃないですか」

 ラウラは訝しげにオースティン氏をみた。
「父の書いた遺言状がどんなものであれ、マンツォーニ夫人を無一文で追いだすなんてできませんわ。あの人は結局のところ父の妻なんですし、父は私のことだけではなくて、あの人の将来のことも考えて遺言状を書くべきだったんです。私はあの人には父の唯一のまともな財産であるこのヴィラを自由にする当然の権利があると思いますわ」

「だから、まもなく売られてしまうと思ったから、その前にここで暮らすために、使用人として潜りこんだんですね」

 ラウラは少し黙って、それからオースティン氏をまともに見た。
「もう少し待っていただけませんか? マンツォーニ夫人にいうのは」
「あなたが望むなら、生涯黙っていますとも」

 ラウラは笑った。
「いま、二人の人間がこのヴィラを買いたがっています。一人は修理してここに住むつもりのスウェーデン人だけれど、マンツォーニ夫人は高いお金を出すというホテルチェーンを経営するドイツ人の方にヴィラを売るつもりじゃないかと思うの。でも、ホテルが買ったらヴィラはすぐに取り壊されてしまうわ」

「少なくともあなたには、夫人にここをどういう形で処分するかいう権利があるんじゃないのか」
「母と私はマンツォーニ夫人に憎まれていますもの。何か指図がましいことをしたら、たぶん反対のことをされてしまうわ」

 ラウラは愛おしげにエミーリオ荘を仰いだ。
「みて。朽ちていくこの屋敷を。父が買い集めた大理石の彫刻も、自慢げに話してくれた外壁の装飾も、かつては三人の庭師が働いていたこの庭も、ゆっくりと雑草と錆びとひび割れた石の中に埋もれていってしまうのよ。父が精魂を傾けたすべては、太陽が沈んでいくようにいずれ消え去ってしまうのだわ」


 肩を落としてオースティン氏がアルカディア荘に戻ると、ルクレツィア・ゴルツィ嬢がグルーバーの毛繕いをしていた。オースティン氏の様子を見て、彼女は訳ありに頷いた。

「とくにこんな春の日には、このストレーザの空氣の重さは、人を絶望的にさせるのよね」
それからふいに眉を少しあげて小声で言った。
「あなたも私と同じ結論に達したようね」

 オースティン氏は反射的にルクレツィアの灰色の眸をみた。
「アダンソニア。アフリカ狂の付けそうな名前じゃない?」
「なぜ? あまり聞いたことのない名前だけど」

 ルクレツィアは大笑いをした。
「アダンソニアってのは巨木バオバブの学名よ。女の子の名前って感じではないわね。でも、ラウラにはあっているような氣がするわ。毅然としているところが」
そういうと、ルクレツィアはグルーバーのお腹をさすってやった。

「なんで、ラウラのことだってわかったんだ?」
「アダンソニアで氣付いた女学生の名字がステリタだったから。ラウラの名字だと思い当たるのにしばらくかかったけれどね。でも、あなたがラウラと話している様子を遠くから見て確信が持てたわ。あなた、ラウラがすきなんでしょ?」

 オースティン氏は口ごもった。イギリスではこんな身も蓋もない話し方をする令嬢はあまりいない。

「隠さなくてもいいじゃないの。ラウラは素敵で有能な女性だもの。ちょっとまじめすぎるから、私にはあまり面白くないけど、尊敬しているのよ。彼女、ヴィラや相続のこと、どうするつもりなの?」

「彼女は、諦めている。本当は取り壊さないでいてくれるスウェーデン人に売れればいいと思っているみたいだけれど、マンツォーニ夫人はドイツ人のホテルに売る氣なんじゃないかって」

「どうかしらね。アントネッラもそこまで夫の遺志を無下にできるかしら。まあ、夫を憎んでいても無理はないと思うけどね」

 オースティン氏も同感だった。エミーリオ荘をみるのはこの休暇が最後になるような氣がした。ふいに、会ったこともないエミーリオ・マンツォーニに軽い怒りを覚えた。

 自分の好きなことばかりやりやがって。経緯はどうあれ結婚した妻か、愛人とその娘か、ヴィラか、それともアフリカか、どれかひとつだけにして、それにきっちり責任をとればいいのに。欲張ってとっちらかしたままいなくなったせいで、結局残された女たちが意味のない争いや憎しみや哀しみに苦しむだけになったじゃないか。

 自分が何もできないまま、この地を去らなくてはならないことに、オースティン氏は果てしない無力感を感じた。ファボニオが重い……。

 黙っているオーステイン氏の横では、ファボニオなどかけらも感じないらしいゴルツィ嬢が、イタリア内閣の改造のことと、首相と秘書との情事とを、どういう筋道でかわからないがみごとに組みあわせて、とうとうと語っていた。どうやら秘書のファションもイタリアという国では政治の根幹を揺るがすらしい。

* * *


 ついにロンドンに帰る日がやってきた。ゴルツィ兄妹やエミーリオ荘の人びととイタリア式に別れを惜しみ、すっかり馴染んだストレーザの春やファボニオに別れを告げ、オースティン氏はグルーバーとミラノへ向った。

 ストレーザからミラノ、マルペンサ空港からからヒースロー空港へと、移動するたびにけだるさや哀しみは薄れ、帰ってからの仕事のことや、ロンドンの友人、マッコリー夫人や隣人や同僚のことなどが、幻から現実へと形を変えて心の中に浮かんでくるのだった。

 ロンドンについた後、オックスフォード・ストリートの絶え間ない交通と、忙しく歩き回る人びとを見て、オースティン氏は呆然とした。人間はこんなに颯爽と動き回れるんじゃないか。それは、あのゆるやかなストレーザの日々からは考えられないテンポであった。

 ゴルツィ兄妹のしゃべりがうるさいと思ったのが信じられないほどの喧騒に、彼はおののき、唯一のよりどころであるグルーバーの綱をしっかりと握った。グルーバーはしっかりとした足どりで前を進み、その細かい歩みを見ていると、オースティン氏も落ち着いてフラットに戻ることができたのだった。

 ロンドンの日々は、てきぱきと過ぎ去った。マッコリー夫人の用意してくれた心地の良い部屋も、彼の安心感を増した。いつも部屋着、いつものスリッパ、同じ生活の繰り返し、そういうものが彼の日々をあたりまえに支配するようになると、ストレーザの日々のほうが夢か幻のように遠ざかっていくのだった。

 そんなある日、ゴルツィ氏から連絡があり、ロンドンに滞在しているデュールソンというスウェーデンの夫婦が是非オースティン氏を訪ねたいといっているという連絡を受けた。そういう名前に全く心当たりはなかったのだが、向こうがどうしても会いたいというのに断わるまでもなかろうと思って、訪ねてきた二人をフラットに迎え入れようとドアを開けた。

「君は……」

 そこには背の高い北欧の青年と一緒にラウラが立っていた。あの時のような前時代的な使用人としての服装ではなく、ジーンズの上にアイボリーの上質なジャケットというラフだけれどもよく似合ったいでたちであった。ゆるやかに波打つつややかな黒髪が肩にかかり、あらためてどれほど美しい女性であるか思い知らされたオースティン氏は顔を赤らめた。精悍な整った顔立ちのデュールソン青年は悔しいほどラウラにお似合いだった。

「突然ごめんなさい。でも、どうしてもお礼をいいたくて。ロンドンに来る機会はそんなにしょっちゅうあるわけではないので」
オースティン氏は何にに対してお礼を言われているのかわからなかった。

「ルクレツィアが話してくれたの。あなたとルクレツィアがマンツォーニ夫人を説得してくれたって。主人のクリスチャンはドイツのホテルの十分の一の金額しか提示できなかったのに、それでもマンツォーニ夫人はその金額で主人にエミーリオ荘を売ってくれたの」

「じゃあ、ヴィラを買いたがっているスウェーデン人っていうのは、もしかして……」
「はじめまして。ラウラの夫のクリスチャン・デュールソンです」

 青年と握手して、彼らをフラットに招き入れながらも、オースティン氏はまだ事情が飲み込めなかった。

「ラウラが素性をかくしてマンツォーニ夫人のところで働くという決意を話してくれたとき、僕はなんとかヴィラを残せる方法はないだろうかと考えました。一番確実なのは自分が持ち主になることだけだった。でも、ラウラは相続を強行することだけはできないといった。そうしたら、馬鹿げた話ですが買うしかないじゃないですか。お陰で僕たちにはかなりの借金ができたので、当分しっかり働かなくてはいけないし、あそこも人に貸さないといけないけれど、少なくとも取り壊されるのだけは避けられた」

 デュールソン青年の言葉をひきとって、ラウラが続けた。
「マンツォーニ夫人はミラノの近くに遷りました。少なくともヴィラを売ったお金で生活はしていけるようになりましたし、その金額の一部を私に残してくれたので、改装費にかかると思っていた金額の方は借金をせずに済んだんです」

「でも、君がヴィラを相続すれば、借金はそもそもなかったんじゃないのかい?」

「お金は働いて取り戻すことができます。でも、誰かの人生をダメにしてしまったらそれは取り返しがつきませんもの。私は父を愛しています。でも、彼のしたエゴイズムを容認することはできませんわ。彼は自分の欲しいものを、何もかも手にしたがりました。そして、それによって何か他のものを失うつもりなく、あちこちに問題を作ってはそれをウソで塗り固めて誤魔化しました。アフリカから帰ってきたら、もう少しまともな状態にもっていくつもりだったのか、それとも実際に死ぬまで好き勝手をするつもりだったのかわかりませんけれど。マンツォーニ夫人は特別な人格者ってわけでもありませんけれども、少なくとも夫も財産も全て奪われて無一文で追いだされて然るべきってほど、悪いことをしたわけではありません。私もそのことで生涯恨まれるのもあまりいい氣持ちがしませんもの」

 ルクレツィアは上手に立ち回ったのだった。オースティン氏がみつけてくれたソニアが、ヴィラを取り壊さない人に売ってくれるならば財産放棄の書類にサインするといっていると話したのだ。さらにいくつかのドイツ人の建てたろくでもないホテルに案内して、マンツォーニ夫人にもヴィラを残したいという氣持ちにさせたのだ。

 マンツォーニ夫人はルクレツィアに言ったそうだ。
「私だって、この屋敷がずっと好きだったのよ。エミーリオとあの女に裏切られたと知って、何もかも失う前にここを売って新しい生活をはじめるつもりだったけれど、エミーリオの帰宅を待って一人でここで暮らした日々ですら、もはや忘れ難い大切な思い出になってしまっているのよ。ドイツ人のブルドーザーでここが踏み倒されるのが嬉しいわけはないわ。エミーリオとあの女のことは受け入れることができないし、あの女が生きていたとしても友達にはなれないけれど、娘のことまで理由もなく憎み続ける必要はないわ。そういうカップルの間に生まれてきたのは彼女が悪いわけではないもの。ソニアに逢って、私がそこまで性悪でないことを伝えたいわ」

 それで、ルクレツィアはラウラを呼んだのだ。

 アントネッラ・マンツォーニはショックを受けたが、それでも取り乱したりはしなかった。はじめからソニアだと知っていたら、決して抱かなかったであろう好意を有能な使用人に抱いていたことは確かであったし、ラウラが愛人の娘とわかったというだけでこの四年間自分と屋敷に対して示してくれた誠実と信愛に眼をつぶるほど偏狭な性格でもなかったからだ。アントネッラはきっぱりと言った。

「あなたの申し出を喜んで受け入れることにするけれど、あなたがエミーリオの娘であり、彼があなたの将来を何よりも大切にしていたことは確かなんだから、私は屋敷を売ったお金を独り占めしたりはしません。ちゃんとふたりでわけましょう」

 そして、それからアントネッラはスウェーデン人にエミーリオ荘を売却し、ミラノ郊外にフラットを買ったのだ。これまでのように常時使用人を置くことはできなくなったが、通いの使用人に給料を払うぐらいは十分に可能だった。それに、広大なエミーリオ荘と違って機能的なフラットは住み込みの使用人は必要なかった。

「私たちは借金を返すために、馬車馬のように働くことになりました」
そういってクリスチャンは快活に笑った。

 若い二人は希望に燃えているからそれもいいのだろう。裕福な実業家の父親と一緒にインテリア関係のビジネスをしているというクリスチャンと、ストックホルム大学でイタリア語とアフリカ史を教えているというラウラなら、さほど遠からず借金を返済してエミーリオ荘に自由に滞在できる日がくるのかも知れない。いずれにしてもイタリアのヴィラの購入などはなからお話にもならない経済状況のオースティン氏には遠い異星のできごとと変わりがなかった。

 二人が幸せそうに帰った後、オースティン氏は半ば落込んだ氣持ちで紅茶を淹れた。もらったスウェーデンの名産であるアクアビット酒の瓶を横目で眺めながらため息をついた。

 彼女は香り高いイタリアの薔薇だ。手の届かない高嶺の花。豪奢なヴィラだの、芳醇たるワインだの、北欧の銘酒だの、華々しいインテリアビジネスだのといった世界よりも、この動物園の近くのこじんまりとしたフラットが身近であり、紅茶を飲んでいると何よりも寛ぐ。

 あの若く美しいカップルと自分とは住む世界が違うのだとつくづく思った。けれど、足元にはグルーバーがやはりどこにいるよりも寛いで座っている。その他意のないつぶらな眸をのぞきこんで、やがてひとことつぶやいた。
「ま、いっか」

 明日は、またマッコリー夫人がやってくる。こんな平和な人生も悪くはない。グルーバーと暮らす、もと通りのロンドンのフラットでの日常。三十年以上変わらずに我が家で嗜む紅茶はおいしい。

 電話がけたたましくなった。まさかとおもって受話器をとってみると、予感通りゴルツィ嬢だった。

 オースティン氏が何も言えないうちに、ラウラのこと、ストレーザの近況、新たな隣人になりそうなドイツ系スイス人に対する軽蔑嘲笑、キリスト被昇天の休日の時にピクニックにでかけて悪夢の渋滞にあったこと、その他にオースティン氏が後でどうしても思い出せなかったありとあらゆる類いのゴシップなどを、あいかわらずのスピードでまくしたてる。

 少しだけ受話器を耳から離しながらグルーバーに向って小さく眉をあげてみせた。もう元通りの日常なんてないらしい。でも、ま、いっか。毎日顔を合わせるわけでないし、口から生まれてきたようなイタリアの奇妙な令嬢と適度な友情をはぐくむってのも、人生のスパイスだな。

 グルーバーはくわばら、という顔をしてベランダの方に向かっていった。彼はどれほどオースティン氏が骨を折ろうともこの電話が一時間よりも短くは済まないことを十分承知していたのである。

(初出:2007年4月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】ヴィラ・エミーリオの落日 -2-

「ヴィラ・エミーリオの落日」の二回目です。

イタリアの保養地ストレーザを訪れたイギリス人オースティン氏と愛犬グルーバーは、招待主が戻ってくるまでの間、その隣のエミーリオ荘の世話になることになりました。そして、その屋敷の女主人アントネッラに内密で夫の娘を捜してほしいと依頼されました。

三つに切った二回目の今回は、エミーリオ荘の二人とは対照的にとても散文的な兄妹が登場します。

また話題に上がっている「ファボニオ(フェーン現象)」は、人びとの体調にも影響を及ぼす現象ですが、影響には個人差があり、全く感じないラッキーな人もいます。おそらくこの兄妹はほとんど何も感じないタイプ。




ヴィラ・エミーリオの落日 -2-
〜 オースティン氏のイタリア紀行


「君は、ご主人の娘さんのこと、なんか聞いているかい?」
思い余ったオースティン氏は、それから二日ほどしてから、こっそりラウラに聞いてみた。

 ラウラは一瞬なんのことかわからない、という顔をしたが、それから納得したように小さく頷いて言った。
「ご主人様は二十年近く奥様に内緒で別のご家庭もお持ちだったそうです。私がここに参ったときには、お嬢様のことをご存知の方は、この屋敷にはいませんでしたのよ。ご主人様が行方不明になられたので、全てが明るみに出たということですわ」

 それ以上のことをラウラに訊いても、到底答えてくれそうにもなかったので、オースティン氏は話題を変えてみた。

「君は、ずっとストレーザで生まれ育ったのかい?」
「いいえ。私は、アオスタの出なんです。スイスとの国境に近い山の町ですわ。」

「どうしてここに来ることになったの?」
「私の様な仕事を探すには、ここはいい町ですのよ」

 確かに、使用人としての仕事を探すにはいい町かもしれない。使用人を必要とする金持ちがいっぱい住んでいるんだから。

 だが、オースティン氏はさらに考えた。どうして使用人なんだ?そもそもラウラほどの才覚があれば、使用人以外の仕事だっていっぱい見つかるはずなのに。

 オースティン氏はラウラがこの家に関るほとんど全ての用事をひとりで切り盛りしていることについて、驚きと同時に違和感を隠せなかった。ラウラは掃除や料理の他に家計管理から格式ばった招待状の作成まで全てひとりでこなしていた。イタリア語と英語を流暢に操るだけでなく、彼女に相当の教養があることは、余計なことは一切言わなくてもわかる。

「どうしてもっといい仕事を探さないの」
数日前に会ったばかりの人に失礼とは知っていても訊かずにはいられなかった。使用人の職にしても、あのマンツォーニ夫人よりはいい雇い主はたくさんいるに違いない。

「ここが好きだからです。ファボニオは重くても」
「ファボニオ? 重い?」

「アルプスから吹いてくる風です。氣圧の関係で体が重くなり、何もかもがおっくうになるんですよ。頭痛や吐氣に悩まされる方もいます。私はそれほど感じる方ではないので幸いでしたけれど」

「今日も吹いている?」
「ひどいファボニオですわ」

 ラウラはそう笑って朝食を片づけた。だから、てきぱきと動けないんだな、とオースティン氏は納得した。

 空氣が重いのも、退廃した氣分になるのもそのせいなんだろうか。それとも、このマグノリアの香りのせいなんだろうか。

 庭の大きなマグノリアを見ようと首を伸ばした途端、アルカディア荘の門のところに車が停っているのに氣がついた。ゴルツィ氏が帰ってきたのだ!

* * *


「まったく申し訳なかったね」
悪びれる風もなくゴルツィ氏はいった。

 アルカディア荘はエミーリオ荘と何もかも対照的な場所であった。中途半端にお金のかかっているモダンなインテリアの中に座って、ゴルツィ氏の途切れることのないシチリア話を適当に聞き流しながら、一週間前にはエミーリオ荘の荒れ果てた外観や、氣位の高いマンツォーニ夫人の虚勢に氣後れしたのに、すでにエミーリオ荘の方に馴染みを感じている自分に首を傾げるオースティン氏だった。

 五十メートル離れていない場所に、あの時代に取り残されたような不思議な空間が存在している。そこにはもはや手に残っていない若さと権勢を未だに忘れられない一人の女と、何もかも手に入れられるはずなのにあの空間に全てを閉じ込めている美しい女がひっそりと住んでいる。

 それなのに、自分はここでアンディ・ウォーホールの絵を前に、いつ息継ぎをするかもわからぬほどひっきりなしにしゃべる散文的なイタリア人の話を黙って聴いているのだ。

「アントネッラ・マンツォーニが君を泊めたってのは驚きだったな」
ゴルツィ氏の言葉に我に返ったオースティン氏は、マンツォーニ夫婦のことについて、ラウラよりもずっとしゃべりたがっている男を止めたりはしなかった。実際のところ、オースティン氏もマンツォーニ家に何があったのか、興味津々だったのだ。

「エミーリオ・マンツォーニには、長いこと秘密のもうひとつの家庭があったのさ。たしか、ヴァレーゼの方だった思うがね。どっちしてもアントネッラはコモの社交界に未練があって、実家にいることの方が多かったし」

 ヴァレーゼに住んでいたあまり身分の高くない女とエミーリオの間には娘が一人生まれた。マンツォーニ夫人が探しているソニアという娘だ。エミーリオは、七年前にアフリカへ行き、消息を経った。マンツォーニ夫人が夫の失踪宣告を求めようと、裁判官と管財人に申し出てはじめてわかったのだが、もし、エミーリオが亡くなった場合には、財産の大半はアントネッラが存在すら知らなかったソニアが相続することになっていたのだった。

 つまり、エミーリオが亡くなったことにしなくては今後の生活に必要な財産を自由に処分することもできないのに、それをした途端に無一文になってしまう可能性があるのだった。そういわけで、現在住んでいるヴィラを修復することすらできない困窮状態に陥っているのだった。

「アントネッラはおそらくソニアを探しだして、わずかな金と引き換えに財産放棄のサインを迫るだろうな。貧しい連中というのは、裁判とか管財人とかそういう話を聞くと縮み上がってしまうからな」

「そんなバカな話ってないだろう。サインしなければもっとたくさんの金が手に入るのに」
「それが、ソニアの遺産相続の条件というのが、あのヴィラに住み維持をすることっていうんだ。貧乏人には無理だろう」

 そんな理不尽な話の片棒を担がされるのはいやだ、とオースティン氏は思った。ソニアを探しだしたとしても、あの夫人のいいなりにならないようにと忠告をしてやらなくては。

「そもそもソニアって娘のことはどのくらいわかっているんですか」
ゴルツィ氏は身を乗り出してきたオースティン氏を楽しげに眺めた。

「僕はほとんど知らないよ。でも、妹なら何か知っているかもな」
そういうと彼は立ち上がりドアのところまで行って上に向って怒鳴った。

「ルクレツィア。ちょっと来てくれないか?」
ゴルツィ氏に同居している妹がいるなんて知らなかった。ルクレツィアというからには金髪で薄幸な感じのイタリア美女であろうか。

 あらわれたのは、オースティン氏の予想を大きく裏切るタイプの女性だった。髪は赤いというよりは燃えるようなオレンジ色だった。金髪を染めたのではないかと思われる。さらいうと、その染色に失敗したのではないか、と疑うほどの妙ちきりんな色であった。

 その髪をきっちりと切り揃えた様子も、実に品のいい服を着ているところも、兄のように一目でブランド品とわかるようなものは一切身に付けていないところも、英国人たる自分の審美眼に叶っているはずであった。

 よくよくみると、顔立ちも品よく整い、動きも裕福な家庭にふさわしいものであった。それなのに、このゴルツィ嬢には、どこか「深窓のお嬢様」とは決して言えない独特の雰囲氣があった。すくなともルクレツィアという感じではなかった。

「マンツォーニ家について知りたいんですって?」
ルクレツィアはずけずけと訊いた。

 いたずらっ子のように灰色の眸をキラキラと輝やかせている。
「私はちょっと詳しいわよ。前の使用人やアントネッラからもずいぶんいろいろ訊きだしたしね」

 ルクレツィアはラウラの完璧に近い発音と対照的な、英語の単語と文法を着たイタリア語、というような話し方をした。たとえ英語でも、しゃべることに苦痛は露ほども感じないらしく、ゴルツィ氏の妹らしい冗舌で、エミーリオとヴァレーゼに住んでいた女のことを語りだした。

 ヴァレーゼに住んでいた女の名前などは不明だが、長年マンツォーニ家に使えていたエミーリオの乳母の身内だということであった。そもそもこの家に仕えた召使の半分はこの乳母と親戚筋に当たるそうで、ラウラもたぶんそのひとりなのではないかとルクレツィアは推測した。

「あの一家の紹介状があると、エミーリオは問答無用で雇ったし、エミーリオがいなくなって、さらに実家も時を同じくして破産して、他の使用人が雇えなくなったアントネッラも使用人を探すのなんてはじめてだったので、とっくに引退していたエミーリオの乳母に頼んで紹介してもらったそうなの。もちろん、その当時はこの乳母の身内とエミーリオができていたなんて知らなかったしね」

 とにかく、ヴァレーゼの女とエミリオはアントネッラに知られることなく、関係を続けていたのだが、この女はいまから八年ほど前に病でこの世を去ったのだった。既にソニアはケンブリッジに留学中で、独り立ちをしたも同然だったので、エミーリオは長年の夢だったアフリカ旅行にでかけたのだった。

「おまえ、エミーリオ・マンツォーニが失踪したときの新聞記事、どっかにもっていないか?」

 オースティン氏はちょっと驚いた。七年前の記事なんか誰が持っているというんだろう。

 もっと驚いたことにはルクレツィアはちょっと首を傾げた後
「たぶん、あるわ」
と、いって二人を二階の自分の部屋へと案内したのだった。

 この部屋がまた驚かせてくれた。尻尾を振って一緒にあがってきたグルーバーまでもがすこしたじろいだようだった。アルカディア荘は天井が高く、二階の個室でもそれぞれ四メートルほどあるのだが、ルクレツィアの部屋の壁の一方はその高い天井までのつくりつけの本棚になっていてそこにぎっしりと本や雑誌が詰められていた。

 十八世紀のアンティークのライティングデスクの脇に、ベコベコのベニヤ板でできた形も材質も違う箱形家具がいくつも無計画に置かれていて、その中も書類やら封筒やらでぎっしりであった。

 それだというのに収まりきれない本や雑誌や紙の類いがライティングデスクの上はもちろん、箱形家具の上にも、さらにわずかに歩いたり立ったりする場所を残して床にも積んであり、ルクレツィアは迷うことなくその山の一つに向かい、しばらくひっくり返していた後、一冊の雑誌に挟まっていた新聞記事をとりだした。

「あきれるだろ、この部屋。でも、こいつ、なんでもみつけるんだ。図書館で探し物をしてもこうはいかないぜ」

 ルクレツィアが見せてくれたちいさな囲み記事はイタリア語だったので、オースティン氏にはちんぷんかんぷんであったが、黄ばんだ写真にうつるエミーリオ荘はいまよりもずっとマシな状態であった。そのことをいうと、ゴルツィ氏は頷いた。

「エミーリオはあの屋敷を実に愛していたんだ。自分の名前と同じだったから買ったという経緯もあったみたいだけれど、女房より屋敷の方が大事に違いないと、みんなに陰口を叩かれていたものさ。湖に面しているいい立地だから、昔から売ってほしいというホテル経営者は絶たなかったが、一度たりとも首を縦に振らなかった。アントネッラはここをホテルに売ってまたコモやミラノで暮らしたいんじゃないかな。若いソニアがどうしたいかは、神のみぞ知るだけどね」

「ここが好きだからです。ファボニオは重くても」
あの女の言葉が、オースティン氏の心に甦った。

 その時にオースティン氏の心にひとつの疑いが芽生えた。

 ラウラこそソニア・マンツォーニその人なのではないかと。年齢も、見事な英語も、それからあんな屋敷と女主人のもとで黙って仕えているのも、彼女がエミーリオの娘であるからではないのか。

 そうだとしたら、彼女の狙いはなんなのだろうか。

 オースティン氏は、アントネッラ・マンツォーニに委任状を書いてもらうとケンブリッジ出身の友人を通して、セント・アン・コレッジの該当年の卒業生名簿を入手してゴルツィ氏あてに郵送してもらった。

 到着までには二週間ほどかかった。たぶんイギリスからイタリアまでが四日ほどで残りは怠慢なイタリア郵便局のせいに違いないと推察した。イタリアの郵便が想像を絶するほどのろいのはイギリスでも有名な話だった。

 その間、オースティン氏は、ゴルツィ兄妹と休暇を楽しんだ。マッジョーレ湖に浮かぶ三島を船でまわったり、モッタローネ山へハイキングにいったりして、イギリスよりひと足早い春を堪能したのだ。

 郵便が着いたときには、実はマンツォーニ家への好奇心はかなり薄れていた。いいかえれば、ファボニオによる体の重さに慣れてしまい、違和感を感じなくなったように、アルカディア荘の散文的なインテリアとひっきりなしにしゃべり続ける兄妹との暮らしに馴染み、エミーリオ荘にいたときの重苦しい詩的な寂寥感に心をしめつけられることがなくなってしまったのだった。

 しかし、ゴルツィ兄妹の好奇心の方はそう簡単に薄れることはなかったらしい。氣がつくと、すでに二人が名簿を検討していた。

「この年のアフリカ史専攻にマンツォーニという学生はいないな」
「ソニアってファーストネームもないわね」
ゴルツィ兄妹は首を傾げている。

 オースティン氏はひとつの名前をみていた。
アダンソニア・ステリタ。

 これだ。アントネッラをはじめとする皆が「ソニア・マンツォーニ」を探しても見つからないはずだ。ラウラ・ステリタはやはりソニアだったんだ。少なくとも、ソニアの身内だ。

 オースティン氏は自分の考えをゴルツィ兄妹に話すべきか迷った。二人は信頼できる人間だが、いかんせんしゃべりすぎる。ソニアが邸内にいることがアントネッラに伝わるのはもう少し後がいいような氣がした。少なくともラウラと直接話してからの方がいいだろう。
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Posted by 八少女 夕

【小説】ヴィラ・エミーリオの落日 -1-

今年ラストの小説は、一応読み切りなのですが、2万字もあったので3回に分けてご紹介しようと思います。

この小説は先日ご紹介した「羊のための鎮魂歌」と同じイギリス人ジョン・ヘンリー・オースティン氏と愛犬グルーバーの物語です。前作は1995年に書いたものですが、こちらはわりと新しいと思っていたら、なんと2007年に書いたものでした(笑)

このブログで私の小説をたくさん読んでくださっている方は「あれ?」と思われることが多いかと思います。もう使わないと思って設定をいろいろと使い回した、その原形が残っているんです。

ひっかかっても、全く別の小説ですので、お氣になさらずにお読みください。




ヴィラ・エミーリオの落日 -1-
〜 オースティン氏のイタリア紀行


 白木蓮の花は散りかけて茶変していた。まるで恋に破れて泣きはらした乙女のように、くたびれた様子で散りゆく時を推し量っているようだった。ジョン・ヘンリー・オースティン氏はここストレーザの暖かい春に潜む疲れ果てた空氣を感じていた。それは、ほかならぬオースティン氏自身がくたびれて途方に暮れていたからでもある。

 愛犬グルーバーは不平の鳴き声を漏らしたりはしない。このような場合、いつもグルーバーは賢く立ち回るのが常だった。つまり、ことさらつぶらな瞳でオースティン氏を見上げ、従順について行くのである。かくて誰もグルーバーのことを「静かにしろ!」とか「さっさと来い!」と怒鳴ってすっきりするなどということが出来ない算段なのである。

 オースティン氏は毎週家政婦としてフラットに来てくれるマッコリー夫人の言葉が正しかったことを認めないわけにはいかなかった。彼女は昨日もロンドンの動物園に近いフラットで荷物を詰めるオースティン氏にくどくどと話しかけたのである。
「なんといってもイタリア人がきちっと期日にことを運んだためしはないんですからね」

 オースティン氏は友人ゴルツィ氏はロンドンで長年商売をして成功をおさめているひとかどの人物だし、イタリア人といってもイギリス人に近いのだと説明したが夫人は納得しなかった。

「でも、見てご覧よ、この手紙を。これはシチリアから先月の終わりに出したものだけどね、四月の第一週にはストレーザに帰るから、それ以後はいつでも寄ってくれ、前もっての連絡はいらないって、ほらここに書いてあるだろう?」

 マッコリー夫人はふん、と鼻をならした。
「何が書いてあるかってことじゃあないんですよ、オースティンさん。私がいいたいのはね。イタリア人の約束なんて疑ってかかるに限るってことなんですよ。私なら、そのゴルツィさんだかなんだか存じませんけれど、電話が通じて、客間のベッドが空いているか、本当にストレーザにヴィラがあるのか、確認してからじゃないと、とても荷物なんて詰める氣にならないってことなんです」

 そういうと彼女はグルーバーの皿に自宅から持ってきた大きなハムの塊を入れてやり、大きく尻尾を振る彼女のお氣に入りを優しく撫でてやった。

 彼女の懐疑のうち、少なくとも一つは晴らしてやることができた、とオースティン氏はひとりごちた。ストレーザには間違いなくゴルツィ氏の所有のアルカディア荘が堂々たる門構えで建っていたのである。

 残念なことに、件の門はぴったりと閉ざされ、オースティン氏が呼び鈴を何度押そうと、門につかまって激しく揺らそうと、大声で旧友の名を叫ぼうと、決して開かれることはなかったのであった。午前中に軽い足取りでヒースロー空港にむかったオースティン氏は、既に暮れかかったストレーザで今夜の宿に困りつつ大きな荷物とグルーバーを抱えて途方に暮れているというわけだった。

「失礼ですが、シニョーレ」
ふいに女性の声がしたので、オースティン氏は醜態をさらしていたのではと後悔しつつ振り向いた。

 そこには二十代後半と思われる漆黒の髪をきっちりと結った使用人風の女性が立っていた。大変まじめそうな様子だったが、その緑色の瞳は少し楽しそうにきらめいているように見えた。

「奥様が窓からあなた様のご様子をご覧になり、何かお困りのようだから見て来るようにと私に申し付けました」

 話している途中から、オースティン氏には彼女がイタリア語ではなくて完璧なクイーンズ・イングリッシュで話してくれていることに氣づいた。だが、彼女はどこから見ても完全なイタリア美人だった。たとえ引っ詰め髪をしていても、である。

「ええ、じつは招待主である友人がいないようなんですよ」
かなり間抜けな説明をこのような美人相手にしなくてはならないことを情けなく思いつつも、オースティン氏は事情を説明した。

「それは、お氣の毒です。でも、ゴルツィ様はまだシチリアからお戻りではないんですよ。いずれにしても、奥様がどうぞエミーリオ荘でお休みください、とおっしゃっていますので、よろしければこちらへ」

 それで、はじめてその女性の指さす隣のヴィラに眼をむけた。そして、あやうく驚きの言葉を出しそうになったが、あわててひっこめた。

 アルカディア荘の三倍はありそうな広大な敷地にはかつては壮麗だったと思われるヴィラが立っていた。わざわざ過去形を使わなければならなかったのは、現在はちっとも壮麗ではなく、それどころか言われなければそこに人が住んでいるとは到底思えないほどの荒れ果てた外観だったからだ。

 かつてはクリーム色に塗られていたと思われる外壁はほとんど剥げ落ち、ローマ風の人物像の壁画はみじめに薄れていた。屋根瓦は崩れ落ちているし、第一、玄関の扉の木が半ば腐っている。庭の木々は美しいが、ちょうど白木蓮の散りかけた様子は、まさにそのヴィラと調和をなしていた。

 女性はオースティン氏の当惑に礼儀正しい無関心を装い、華麗な装飾はされているものの錆び付いた門をギギィと押した。オースティン氏は正直言って凄惨な荒れ方のヴィラに恐れをなしていたが、この一ヵ月のバカンス用の荷物や、これからの宿探し、ストレーザの坂の多い地形などを思い巡らし、また、この英語の堪能なイタリア美人のことも考慮に入れた。

 ふと氣づくと、グルーバーは大人しく女性についていくではないか。オースティン氏自身は決して認めなかったが、いつも愛犬のとっさの行動には無意識に絶大な信頼を置いていたので、グルーバーのしっかりとした足取りを見ただけで、いつの間にかこの屋敷に足を踏み入れてみてもいいかな、という氣になっていた。

 芝生のところどころに、彫刻が倒れている。小さな花瓶のような形の石も落ちていて、ふと見上げると、それは二階の装飾の一部が落ちてきたものだということがわかった。頭上注意だな、オースティン氏は首をすくめる。

 玄関の扉は重くどっしりとした木で、着色が剥げ、装飾が落ちてしまっているために、とりわけ荒んだ感じがしたが、よく手入れすれば見事なものだと思われた。その扉をすっと開けると女性は「どうぞ」と中に入るよう勧めた。

 オースティン氏が驚いたことには、外側の荒れ方から鑑みて、中の状態は思ったほど悪くなかった。確かに階段の手すり部分の装飾や天井画や赤い絨毯は少々年代が経ちすぎていたと見て、手入れが必要だと思われたが、それ以外のところは塵一つなくピカピカに磨かれていて、居心地が悪いとはいえない感じだった。

 女性が案内してくれたのは二階の東向きの部屋で、白磁の花瓶には桜の花が豪快に生けてあった。窓からは美しいマッジョーレ湖とボロメ諸島が一望の元に見渡せた。

「私はラウラ・ステリタと申します。このヴィラの使用人です。ご用の向きがございましたらいつでも遠慮なくお呼びください。ただいま犬用のバスケットと毛布、トレイなどをお持ちいたします」

 ラウラは簡潔に言ってその場を離れた。窓を開け放し、夕暮れに赤く染まるベラ島を見渡すと、涼しい風が部屋に入ってきた。荷物を簡単にクローゼットに納め、ピカピカに磨かれたバスルームで軽くシャワーを浴びる。タオルがふかふかだったことも、オースティン氏の印象をさらによくした。

 バスルームからでて、氣持ち良く真っ白に洗濯された枕カバーなどをちらっと見ながらオースティン氏はこの屋敷の持ち主のことを考えた。

「いったい、奥様ってのはどんな人なんだろう、グルーバー?」
グルーバーはすでに、心地よいクッションの入ったバスケットの中に丸まっていた。近くの椅子には毛布が、そしてその横にはグルーバーのトイレ用のトレイがおかれていた。

 しばらくするとラウラが食事の用意ができたと呼びに来た。グルーバーも一緒にと言う。オースティン氏はその心遣いに感謝するとともにほっとした。

 彼自身は認めなかったが、グルーバーがいないといつも何故か大変心細い思いをするのだ。

 一階の食堂はやはりかつては大変豪奢だったとおもわれる造りで、大きなシャンデリアが天井から外れて落ちてきませんように、とオースティン氏は秘かに祈った。二十人は座れるだろうと思われるテーブルにただ一人女性が座っている。

 オースティン氏は彼女の近くまで行って恭しく挨拶をした。その女性は重々しく言った。
「ようこそエミーリオ荘へ。私はここの女主人でアントネッラ・マンツォーニと申します」

「窮地をお救いくださいまして、心より感謝いたします。私は英国からきました、ゴルツィ氏の友人でジョン・ヘンリー・オースティンと申します。これは、私の連れのグルーバーですが、犬が同席してもよろしいのでしょうか」
「ちっとも構いませんことよ。お客様が犬を連れて滞在なさるのは普通のことですもの。特に狩のシーズンは、ですけれど」

 この家にお客様? とオースティン氏は少しだけ思ったが、もちろん口には出さなかった。

 マンツォーニ夫人は少々神経質な感じのする金髪美人だった。年のころは四十代後半から五十代、濃い化粧と強い香水の匂いがする。差し出された手にキスをする時、その指に三個も指輪が嵌めてあるのに氣づき、オースティン氏は驚いた。

 幸い、オースティン氏の席はマンツォーニ夫人の向かい、つまり二十人以上座れるテーブルの端と端だったので食事の間夫人の香水の匂いに悩まされることもなさそうだった。

 ラウラがスープを運んできて、給仕する。アスパラガスの薫りが食欲をそそる。オースティン氏はマンツォーニ夫人に訊かれるままに、自分がロンドンの小さな法律事務所に勤めていること、独身で家族はグルーバーだけであること、ゴルツィ氏とは仕事を通じて七年ほどのつきあいのある親しい友人であることなどを話した。

 ラウラがクリーム風味のニョッキを運んできた後、マンツォーニ夫人はこの屋敷は夫が三十年ほど前に購入したこと、その夫は現在はここにはいないことなどを氣取った言葉遣いで話した。

 ペンネ・アラビアータに続き、ウズラ肉と香味野菜ソテー、デザートにはパンナコッタのオレンジソースがけが運ばれてきた。どれもレストランに負けない味であるだけでなく美しい盛りつけである。選ばれたワインも全てがしっくり合い、普段は食に頓着しない彼でもこの屋敷の食事は並みならぬ水準であることに氣づいた。

「素晴らしい夕食でした。こちらでは特別なシェフを雇っていらっしゃるのですか?」
「いいえ、これはラウラが調理しているのです。お恥ずかしい限りですわ」

 オースティン氏はびっくりした。じゃあ、調理、盛りつけ、給仕を全部一人でやっていたのか? しかも完全なタイミングで出てきた。

 エスプレッソを飲みながら、先程からなんとなく変だと思っていたことが急にわかった。この屋敷にはこのマンツォーニ夫人という支配者とラウラという使用人の二人しかいないのだ。それなのに、使用人が五人も十人もいるような生活をしている。それが破綻せずにまわっているのが妙なのだ。

 隅々まで行き届いた掃除と心遣い、手の凝った料理と大仰な給仕、氣持ちのいいホスピタリティと貴族的な氣位。それは、居心地はいいもののどこか痛々しい感じがするのだった。それも痛々しいのは超人並に働いているラウラの方ではなく、むしろ年代物のカットグラスを物憂げに傾けるマンツォーニ夫人の方なのである。

「私の夫は貿易で財をなしましたの。ストレーザに住むのは子供の頃からの夢だったと申しましたわ。私は子供の頃からローマとコモを行き来する生活でしたから、夫がこの屋敷を買ったときも、特に感慨はなかったんですけれどね。不思議なことに私だけがこのストレーザに住むことになりましたわ」

「あの、失礼ですがご主人様はお亡くなりになったのでしょうか」
オースティン氏は恐る恐る訊いてみた。

「ラウラ、濃いエスプレッソをもう一杯持ってきて頂戴」
夫人は突然そう言い、それから永いこと黙っていたが、蝋燭の燃えるジジ……という音をきいて我に返ったように言った。
「実のところ、私は死んだと思っていますの。アフリカにはライオンとか、豹とかが沢山いますでしょう?」

 面食らったオースティン氏が答えを探して脳味噌をフル回転させているとラウラが銀のコーヒーポットを持ってテーブルに近づいて来た。

「今年で七年になるはずだわ。そうだったわね、ラウラ」
「左様でございます。奥様、私がこちらでお世話になる三年前のことでございますから」

 オースティン氏は助けを求めるようにラウラの顔を見た。ラウラは小さく頷きながら続けた。
「ご主人様は、ボツワナへおでかけになって以来、行方知れずになってしまわれたのです」

「余計なことは言わなくていいのよ」
マンツォーニ夫人の語氣の鋭さにオースティン氏はびっくりした。マンツォーニ夫人はコーヒーに手をつけないまま席を立った。

「いつまででも構いませんから、どうぞゆっくりご逗留なさってくださいね。外国のお客様を迎えるのは何よりも楽しいひとときですもの。たった一人で暮らしているのは、大層退屈なものですわ」

 夫人がいなくなるとオースティン氏はラウラに詫びた。夫人の叱責を浴びるようなことを言わせてしまったのはほかならぬ自分だとわかっていたからだ。ラウラは冷たくなったコーヒーを大して落胆した様子もなく片づけながら言った。

「お氣になさらないでください。奥様のお話の仕方には、びっくりなさったでしょう。でも、ご主人様のことは本当ですもの。他に申しようがありませんわ」
「それ以来、あの人はこういうふうに暮らしているのかい?」
「ええ」

 ラウラはイタリア人にしては言葉の少ない女性だった。英国の女性でも使用人というのはもう少し面白おかしく話すものだが、ラウラの返事からはあまり多くの情報は期待できない。

 だが、それでもオースティン氏はラウラに大変な好印象を持った。それは、これだけの有能で誠実な使用人に対してあのように冷淡に振る舞うマンツォーニ夫人への若干の反感も手伝ってのことだった。また、この使用人の話す英語が高等教育を受けたはずの夫人の英語よりもはるかに達者で正確だったことも、英国人オースティン氏の印象に大きく影響していることは間違いなかった。もちろん、イタリアに来て英語で通そうとしている自分のことは全く棚に上げて、である。

 それにしても、今日はなんという一日だっただろう。ピカデリーラインに乗り込んだときは、まさかこのような謎めいたヴィラで休暇が始まろうとは露ほども考えなかったものだ。この一件はなんとしてでもマッコリー夫人には内緒にしなくては。

 オースティン氏は洗濯のりの爽やかな薫りのする枕カバーに頭を埋め、バスケットにうずくまるグルーバーに「おやすみ」と声をかけた。グルーバーは満足そうに尻尾を振って見せた。

 まくら元のランプを消すと今晩は満月らしく、窓の外の白木蓮の大木がぼうっと浮かび上がって見えた。重く疲れ果てたように垂れ下がっている花びらの大軍。甘ったるくねっとりとした薫りが空氣を不透明にしているような氣がする。物憂げな空氣はストレーザの印象を大きく変えた。

* * *


 翌朝、少し肌寒い中オーステイン氏は自然と目が覚めた。体が重い。というよりは、頭の奥が鈍くうずいている感じで体があまり持ち上がらない。よく眠ったはずなのにどうしてだろう。

 彼は大変目覚めのいい性質だった。ロンドンではよほど早起きをしなくてはいけないとき以外は目覚まし時計を必要としない。よほど早いのかと思い時計をみると既に八時半をまわっている。慌てて起きて大急ぎで顔を洗い髭をあたる。

 ふと見るとグルーバーも大儀そうに毛繕いをしている。
「なんだ、お前も寝過ごしたのか。俺達、昨日の騒動でよっぽど疲れていたのかな」

 恨めしげに窓からゴルツィ氏の屋敷を眺めるが、やはり人のいる氣配は感じられない。いそいそと食堂に降りていくと階段を掃除しているラウラと遭った。

「お早うございます。オースティン様」
「お早う。シニョーラ・ステリタ。朝食に遅れてしまったようで大変申し訳ない」
「ラウラで結構ですわ。いいえ、ちっとも遅くございませんわ。奥様の朝食はいつも九時過ぎです」
と、微笑んだ。オースティン氏はその笑顔の爽やかさにどきりとした。

「朝食の準備は食堂に用意してございます。コーヒーになさいますか?紅茶やホットチョコレートなどもございますけれども」
「紅茶をもらおうかな。ミルクティを用意するのは大変かい?」
「とんでもございません。すぐにお持ちしますわ。卵料理なども召し上がりますか」

 オースティン氏は感激した。通常朝食では食べない卵料理を、英国人の自分のために用意しようかと訊いてくれている。
「いや、いいよ。君はただでさえ忙しいんだから」

グルーバーはまたはじまった、という顔をした。うちのご主人様はどうしてこう美人に弱いのだろう。

 そういうわけで、トーストではなく丸いパンとバター、ジャムとミルクティの朝食の間中、オースティン氏はせっせと働くラウラを見ながら、少々ぼうっとしていた。

* * *


「ロンドンにお住まいの前は、確かケンブリッジにいらしたっておっしゃいましたわよね、オースティンさん」

 愛想の良い笑顔を浮かべながらマンツォーニ夫人が近づいてきたのは、エミーリオ荘に滞在して五日目の午後も遅く、庭の樹木も少しくたびれた様相を見せはじめる時間であった。

 マッジョーレ湖を望む美しい庭園、どちらかというと手つかずの自然に近いものだったが、そこが英国人として氣に入ったオースティン氏は午後の散歩をしていたのだった。アントネッラは人目をはばかるように近づいてきたので、あきらかにラウラの眼をさけて彼と何かを話したかったのだろう。

「はい、書籍の販売に少し関っていた時代に、五年ほど住みましたが」
「ということは、今から十年ぐらい前は、ケンブリッジにいらしたの?」
「そういうことになりますね」

「じゃあ、その頃に留学していたイタリア人留学生と知合いになったりしたこともありますか」
「まあ、一人、二人、思い出す人もいますけれど……。どうしてですか?」

「探している子がいるのよ。今から十二年前から四年間、ケンブリッジのセント・アン・コレッジでアフリカ史を専攻していたソニア・マンツォーニという娘をね」
「マンツォーニ? ご親戚ではないんですか?」

「主人の娘です」
私の娘といわなかったからには、先妻か愛人の娘なのだろう。アントネッラの顔からは一瞬愛想笑いが消えて、眼に鋭い光が宿った。

「残念ながら、私の知っている人ではありませんね」

 オースティン氏の返事に、マンツォーニ夫人は少しだけ落胆したように見えたが、言葉を続けた。
「イギリスに帰ったら調べていただくことはできないかしら、大学にその当時の学生が卒業後どこに行ったかの記録がないかとか……」

「さあ、そういった情報があるかどうか別として、私のように縁もゆかりもないものが、そうした情報を入手できるかどうか……」
「必要ならば、私が委任状を書きます。でも、できるだけ内密にことを進めたいのよ」

 オースティン氏は、この女性がなぜ困っている見ず知らずの英国人に大層親切にしたのかわかった氣がした。窮地を救ってもらい、これだけのもてなしを受けたのだから、この役目は引き受けざるを得ないであろう。

 その日、オースティン氏はなぜ夫人がその娘を探しているのかあれこれ想像しながら一日を過ごした。
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Posted by 八少女 夕

【小説】冬、やけっぱちのクリスマス



今日発表するのは、読み切り短編集「四季のまつり」の第4回、冬の話で「クリスマス」を題材にした掌編です。といっても、全世界的なクリスマスの話ではなくて、ちょっと歪んでしまっている日本的クリスマスの話(笑)そのクリスマスの風潮にいまいち乗り切れていない地味な紗英と、モテるお隣の歳下坊や宙の色氣のないクリスマスです。

もしかしたらデジャヴを感じる方もいるかもしれません。この二人は、以前に発表した「白菜のスープ」という作品のキャラクターたちです。といっても、とくに読む必要はありません。全部本文の中で説明されています。あ、出てくるもう一人のキャラも、別の作品で出てきている人だったりします。どうでもいいことですが。

今回、構成を作ったのは早かったんですが、書く時間がなくて本当にギリギリになってしまいました。はあ、落とすかと思った……。




冬、やけっぱちのクリスマス

 キッチンからは紗英を知るものなら首を傾げるような香りが漂っていた。熱したバナナとチョコレートってのは、どうしてこう甘ったるい匂いがするのかしらね。彼女は思った。

 この菓子を作っているのは、食べたかったからではない。ついつい食べ損ねて、真っ黒とまではいかないものの、皮が相当変色してしまったバナナが三本もあったのだ。世界には飢餓に苦しむ子供たちがたくさんいるというのに、熟しすぎたというだけで食品を捨てるのは嫌だった。それで、インターネットで検索して完熟バナナ三本を消費可能なレシピを探したのだ。

 中でも一番簡単なレシピを印刷した。本当に呆れるほど簡単で、十分も経たずに紗英はオーブンの前で腕を組んで立っていた。

「お。本当に紗英がデザート作ってるぞ。明日、雨が降るのか」
声に振り向くと、宙が台所の入口から覗いている。昔と違って背が高くなったので、紗英は彼を見上げなくてはならない。

「あんた、なに勝手に人ん家に上がり込んでいるのよ」
「勝手にじゃねぇよ。表でおばさんに挨拶したもん。お前が菓子作っているからどうぞって言われたぞ」
何がどうぞなのよ、お母さんったら。

 宙は、紗英の隣の家にずっと住んでいる。仲良しの母親同士がよく一緒にでかけたので、中学生だった紗英が小学生の彼の面倒をあれこれと看てやった。それなのに恩どころか人生の三年先輩に対する敬意すらも全く感じられないモノのいい方をする生意氣な大学生に育った。特にカッコいいとは紗英には思えないが、歳下の女の子たちにはやけにモテる。老人会の手伝いを嫌がらないせいか、町内のご婦人方からもちやほやされている。泣き虫の洟垂れ小僧だったくせに。

「それにしても、お前がこんなに可愛いもんを作るとは意外だよな。なになに、『簡単すぎる作り方はナイショ! 完熟バナナで愛されスイーツ』かあ。へえ。こんなに甘そうなのに材料も作り方もあっさりしてんなあ」
宙は、テーブルの上の印刷されたレシピを持ち上げて読んでいる。

 紗英はよけいな誤解をされるのはゴメンだと、ことさら渋い顔をして言った。
「何が『愛されスイーツ』よ。ただのチョコレートケーキじゃない」

「おい。ちゃんとレシピのタイトル読めよ。ケーキじゃなくてブラウニーだろ。正確には『チョコバナナブラウニー』だな。そのいい方だと『愛され』で検索したんじゃなくて『熟し過ぎバナナ』で探したんだろ」

 図星だったので少し赤くなったが、ちょうどタイマーがけたたましい音をさせたので、オーブンから取り出した。串で刺すと、ちょうどいい具合だったらしく生地はくっついてこない。紗英は大ざっぱに切り分けると大皿に載せてテーブルに載せた。ちゃっかり座り込んでいる宙は、嬉しそうに手を伸ばし「あちち」と言いながら食べた。

 あんたに食べさせるとはまだひと言も言っていないんだけれど。紗英はブツブツ言いつつ、彼の好きなほうじ茶を入れてやった。宙は甘ったるいフレーバーティの類いよりも、大袋で買える普通のほうじ茶が好きなのだが、カワイ子ちゃんの前ではかっこつけて言い出せないのだ。

「美味いじゃん、これ。砂糖は入れないでバナナの甘味だけで作ったんだ。これで十分だよな。どうせなら、これをクリスマスに作って食わせてくれよ」

 何を言っているんだ、この男は。私にクリスマスの予定があるんじゃないかと訊くくらいの礼をつくせんのか。紗英はムッとした。

 顔立ち、性格、生き方のどれも平凡でこれといって目立つことのない紗英には、クリスマスの直前に駆け込みで男を作るような才能はないと舐めきっているに違いない。その通りだけど。そこまで考えて、はたと思い出した。

「クリスマスって、大事な彼女の、名前なんだっけ、あ、そうそう、亜衣ちゃんはどうしたのよ」
「う~ん」

「もしかして、振られたの?」
意外な展開に、紗英は思わず単刀直入に質問してしまった。
「おいっ。そういうデリカシーのないいい方をすんなよ」

「ごめん。でも、なんで? あんたとつき合うまで、あんなに熱心だったじゃん、あの子」
「俺の誕生日にさ。同じゼミの後輩がザッハートルテを作ってきてくれたんだよ。それに美味かったってお礼を言ったらさ、他の女から受け取るのも食って喜ぶのもありえないって、激怒。いいじゃん、食ったって。せっかく作ってくれたのに、もったいないよ」

 宙はそう言いつつ、さほどハートブレイクという感じでもないようだ。いずれにしても他のカワイ子ちゃんたちが、隙を狙っているんだろうし。紗英はさほど同情していない。

「あははは。そういうのなんていうか知っている?『二兎を追うものは一兎を得ず』」
「追ってねえよ。お前こそ一兎ぐらい追ってみせろよ。どうせクリスマスはまた一人ぼっちなんだろ?」
「ふん。社会人はね。クリスマスイヴだって仕事があるんです。その日は総務の京極さんのお手伝いよ」

 総務の京極さんというのは、紗英の勤めている会社で一番人氣の課長補佐だ。切れ者で性格もよく、しかも超絶イケメンと呼ばれるのにふさわしい美形であるだけでなく、中央区に先祖代々伝わっているというとんでもなく広いお屋敷に住んでいる大金持ちのご令息らしい。もちろん、秘書課や外商の美人社員たちがこぞって狙っているので、はなからアタックするつもりはない。が、なぜかその日にだけ、いつも彼とペアで定例業務をしている先輩社員の代わりを務めることになって、多くの女子社員から羨望光線を浴びているのだ。

 だが、「クリスマスイヴに残業のできない予定はなさそうな女子社員」と烙印を押されたも同然だということは、紗英も薄々感づいていた。実際にそうなんだけれど。

「なんだ。結局毎年と一緒じゃないか。じゃ、帰って来たら電話しろよ。おじさんとおばさんは恒例の年末海外旅行なんだろ。お前の寂しい一人ディナーにつきあってやるからさ」

 何をエラそうに。自分の予定がなくなったからでしょ。でも、大人の余裕を見せるために断らないでおいてやった。

「なんか普通の美味いもんが食べたいな。フレンチみたいな小洒落たんじゃなくて子供ん時に食べていたみたいな懐かしい系」
「なにそれ。ただの晩ご飯じゃない」
「それそれ、そういうの。カワイ子ちゃんとのクリスマスデートって肩凝るもんな」

 なに負け惜しみ言ってんのよ。そう思いつつも、いつもの晩ご飯を作るだけなら氣が楽だと思った。それに、私が残業になっても、こいつは自分の家で普通に食べればいいんだし。ともあれ明日またバナナ買ってきて少し放置させなくちゃ。

* * *


 結局、本当に残業になってしまった。といっても、たった一時間程度で、普段の退社時間とあまりかわらない。宙には四時半の段階でちゃんとメールを入れた。
「今日は仕事が長引いて遅くなりそう。帰ってから料理すると遅くなるから、別の日に改めて。ブラウニーは、明日持って行く」

 彼からは「了解」という返事をもらったし、安心していた。むしろ京極さんに「クリスマスイヴなのに、本当に申し訳ない」と恐縮されて、たとえこんなくだらないシチュエーションでも、京極さんにこんなに氣を遣われるなんて嬉しいと思っていたのだ。

 それはそうと、京極さんこそこのクリスマスイヴに残業なんてしていていいのかしらと紗英は首を傾げていた。もっとも、だからこそ本当ならもっとかかりそうな量の作業を、恐るべきスピードでテキパキ片付けたのかもしれない。

 仕事は終わり、退出する会社の玄関で彼が訊いた。
「遅くなってしまったし、本当に今夜予定がないなら、近くで寿司でもごちそうしようかと思うんだけれど」

 ええ~! 京極さんと。ど、どうしよう。みんなに妬まれて大変なことになるかも。でも、これは天から私に与えられたクリスマスプレゼントかな。狼狽えているところに、コートのポケットから着信音が響いた。

 見ると、無粋なことに宙からだった。
「サンダース大尉のところでチキンを大量ゲット! 終わったら寄れ」

「チ、チキンを大量って、バーレルかしら……」
紗英が呟くと、京極は少し笑って「待ちかねている人がいるみたいだね」と言った。「そんなんじゃないです」と否定しても無駄だった。

 紳士的な別れの挨拶をして彼は去って行った。おそらくオーダーメードで作ったと思われる素敵なトレンチコートの後ろ姿に最敬礼をすると、紗英はクリスマスメロディとケーキを叩き売る街の喧噪に紛れて地下鉄の改札へと急いだ。

 私の生涯一度のチャンスをよくも。それにお寿司の代わりに、ファーストフードのチキンって、どうよ。心の中の罵倒とは裏腹に、紗英は妙にニヤニヤしながら電車に乗った。

(初出:2016年12月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -7- アイリッシュ・アフタヌーン

WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

今回は、それと同時にもぐらさんの主催する「クリスマス・パーティ」に参加しようと思い、クリスマスバージョンで短めのものを書いてみました。(でも、あそこ用には長すぎるかなあ……うるうる)

スペシャルなので、主要人物がみな出てきて、さらに田中本人に関係のある話になっています。次回から、また彼はオブザーバーに戻ります。(たぶん)


月刊・Stella ステルラ 12、1月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む
「いつかは寄ってね」をはじめから読む「いつかは寄ってね」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -7- 
アイリッシュ・アフタヌーン


「こんばんは、田中さん、それに夏木さん」
大手町のとあるビルの地下にある小さなバー『Bacchus』のドアを開けて、久保すみれはいつも自分が座るカウンターの席が空いていることを確認してにっこりした。

「久保さん、いらっしゃいませ」
虹のような光沢のある小さな赤い球で飾られたクリスマスツリーの向こうから、田中の落ち着いた声がいつものようにすみれを迎えてくれる。

 店主でバーテンダーでもある彼が歓迎してくれるのは客商売だから普通だろうが、それであっても嬉しかった。ここはすみれにとって最初で唯一の「馴染みのバー」なのだ。

 カウンターの奥にいつも座っている客、夏木敏也のことは、この店から遠くないビルに勤めていること以外は何も知らない。すみれが『Bacchus』に来る日と決めている火曜日には、かなりの確率で来ているので、たいてい隣に座ってなんということはない話をする『Bacchus仲間』になっていた。そして彼は、すみれが来るまで鞄を隣の席に置いて、他の人にとられてしまわないようにしてくれているようだ。

 彼女は、バッグから小さな包みを2つ取り出した。
「来週は、もうクリスマスなんて信じられる? わたし、今年何をしたのかなあ。ともあれ、ここに一年間通えたのは、居心地をよくしてくれたお二人のおかげなので、これ、どうぞ」

「私にですか。ありがとうございます」
「僕にもかい?」
田中に続き、夏木は嬉しそうに包みを開けた。

 それはとあるブランドのハンカチーフで表裏の柄が違うのが特徴だった。それだけでなく形態安定でアイロンがけも楽だ。すみれは、この二人のどちらも独身であることを耳にしていたからこれを選んだ。

「へえ。こんな洒落て便利なハンカチがあるんだ。嬉しいなあ」
紺地に赤と白い細い縞が入り、裏は赤と白の縞が入っている。夏木はそれをヒラヒラさせながら喜んだ。

 田中も浅葱色に白と紫の縞の入っているハンカチを有難く押し頂いた。大切に仕舞っているところに、ドアが開いたので、三人はそちらを向いた。薔薇のような紅いコートを着た、すみれがこれまで一度も見たことのない女性が立っていた。

「涼ちゃん!」
田中は、もう少しでハンカチの入った箱を落とすところだった。

 田中が客に対して、さん付け以外で呼びかけたのを聞いたことのなかったすみれはとても驚いた。女性がにっこりと笑って「久しぶりね、佑二さん」と言ったので、思わず夏木と顔を見合わせた。

「どうしたんだ、お店は?」
田中は、すみれの横の席を女性に薦めた。彼女は颯爽とコートを脱いで入口のハンガーにかけてから、その席にやってきた。

「表の道で水道管の工事中に何か予想外のことが起こってしまったんですって。それで今夜は水道が使えなくなってしまって臨時休業。こんな稼ぎ時に、困っちゃう。でも、せっかく夜がフリーになったから、お邪魔しようと思ったのよ。何年ぶりかしら」

 それから夏木とすみれに、微笑んで会釈をした。

 田中は、女性におしぼりを渡しながら二人に言った。
「こちらは伊藤涼子さん。昔からの知り合いで、今は神田にお店を出す同業者なんです。涼ちゃん、こちらは夏木さんと久保さん、よくいらしてくださるお客様」

 『知り合い』にしては親しそうだなと思ったけれど、そんなことを詮索するのは失礼だろうと思って、すみれは別のことを訊いた。
「神田のお店ですか?」

「はい。同業者といっても、こちらのような立派なお店ではなくて、二坪ほどの小さな和風の飲み屋なんです。『でおにゅそす』と言います。お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りくださいね」

 すみれはこの『Bacchus』に来るまでバーに足を踏み入れたこともなかったが、和風の飲み屋はさらに遠い世界だった。大人の世界に足を踏み入れられるかと思うと、嬉しくて大きく頷いた。夏木も嬉しそうに頷いた。

* * *


 彼らの様子を微笑ましく見てから、田中は涼子に訊いた。
「何を飲みたい? あの頃と同じ、ウイスキー・ソーダ?」

 涼子は懐かしそうに微笑みながら答えた。
「それも悪くないけれど、外がとても寒かったから、よけい冷えそう。よかったら、ウイスキーを使って、何か冬らしい体の温まる飲み物を作ってくださらない?」

 ほんの少し考えてから、田中は何かを思いついたように微笑んだ。
「アイリッシュ・アフタヌーンにしようか。暖かい紅茶をつかった飲み物だよ」

 涼子だけでなく、すみれと夏木も興味深そうに田中を見た。彼はカウンターに緑色のラベルのタラモアデュー・ウイスキーを置いた。

「ウイスキーの中では、市場に出回っている量は少ないんだが、このアイリッシュ・ウイスキーは飲みやすいんだ。憶えているかわからないけれど、君にあのとき出したウイスキー・ソーダは、これで作ったんだ」

 彼は紅茶を作ると、ウイスキーとアマレット、そしてグレナデンリキュールをグラスに入れてから香りが飛ばないようにそっと注ぎ、シナモンスティックを添えて涼子に出した。

「へえ。これがアイリッシュ・アフタヌーンっていうカクテルなの?」
すみれは身を乗り出して訊いた。

 田中は笑って言った。
「便宜上、アイリッシュ・アフタヌーン、もしくはアイリッシュ・アフタヌーンティーと呼んでいますが、アイルランドでは特別な名前もないくらいありふれたの飲み物のようですよ」

「焼酎のお湯割みたいなものかな」
夏木もすみれごしに香り高い紅茶を覗き込んだ。

「お二人もこれになさいますか? 久保さんにはすこし薄くして」
田中が訊くと、二人は大きく頷いた。

 田中は、すみれ用にはアルコールをずっと減らしたものを、アルコールを受け付けない体質の夏木にはグレナデンシロップを入れたものを出した。夏木の前に出てきたのは甘い紅茶でしかないのだが、女性二人のところから漂う香りで一緒に飲んでいる氣分が味わえる。

 三人が湯氣を立てるグラスを持ち上げて乾杯をするのを眺めながら、田中は若かった頃のことを思い出していた。

 いま夏木が座っている位置に、涼子の姉、田中の婚約者だった紀代子がいた。開店準備をしていた午後に三人でなんということもない話をしていた。涼子はウイスキー・ソーダを傾けながらよく笑った。

 紀代子が黙って彼の元を去って、姿を消してしまってから、氣がつくと二十年以上が経っている。あの幸せだった時間も、それに続いた虚しく苦しかった日々も、ガラス瓶の中に封じ込められたかのように止まって、彼の心の奥にずっと眠っていた。彼は仕事に打ち込むことで、その思い出に背を向けてきた。

 久しぶりに紀代子のことを考えても、以前のような突き刺すような痛みもやりきれない悲しみも、もう襲っては来なかった。

 そういえば、涼子の姿を見たのもあの歳の暮れ以来だ。そんなに歳をとったようには見えないけれど、彼女も尖った感じがなくなり、柔らかく深みのある大人の女性になった。

 彼は、タラモアデュー・ウイスキーの瓶をきゅっと閉めてから、棚に戻した。他の瓶の間に何げなく納まったその瓶は、照明の光を受けて煌めいた。毎年この季節になると飾るクリスマスツリーの赤い球にも、照明は同じ光を投げかけている。彼の城であるこの店は、平和なクリスマスと年末を迎えようとしていた。温かいカクテルから漂うまろやかな香りの中で。

 彼は、ひとつ小さく息を吸い込んだ。いつもの接客する店主の心持ちに戻ると、彼の大切な客たちをもてなすために振り向いた。

アイリッシュ・アフタヌーン(Irish Afternoon)

アマレット:20ml
グレナデンリキュール:10ml
アイリッシュ・ウイスキー:20ml
シナモンスティック:1本
暖かい紅茶:適量

作成方法: アイリッシュ・ウイスキーとグレナデンリキュールとアマレットをグラスに入れた後、香りが飛ばないようにゆっくりと暖かい紅茶を入れて混ぜ合わせる。



(初出:2016年11月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】最後の晩餐

今日の作品は、80000Hit記念。77777Hit記念作品がいっぱいたまっていたこともあり特に何も企画していなかったのですが、ちょうどぴったりお踏みになったと大海彩洋さんが申告してくださったので、急遽リクエストをお受けすることにしました。といってもずいぶん経ってしまってますね。彩洋さん、大変お待たせしました。

いただいたリクエストはこちらでした。

舞台は、アフリカのどこか(夕さんのお気に入りの場所、もしくは書いてみたいけれど、まだ書いていない場所)。キーワードは最後の晩餐。


で、全く違う話を書いてもよかったんですが、ちょうどアフリカの話を書いている途中だったので、他の登場人物は頭の中にでてきませんでした(笑)というわけで、こんなお話になりました。

この作品の主人公を知らないと思われても、ご心配なく。(ほとんど)初登場ですから。それにしても、本当に何もかもネタバレになっているな。ま、いっか。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む(第1回のみ公開済み)
あらすじと登場人物



郷愁の丘・外伝
最後の晩餐


 そっとドアを押して、台所を覗き込んだ。埃っぽく、あいかわらずきちんと掃除のされていない室内は、どこか饐えた匂いがした。転がっている空の酒瓶の多くには埃がたまりだしていて、それが彼の母親が迎えにくる時も決してこの家の中に足を踏み入れたがらない理由のひとつだった。

 それでもこれが見納めになるのかと思うと、この酒瓶ですら彼をセンチメンタルな心地にした。
「おじいちゃん?」
彼は、小さな声で祖父を呼んだ。答えはなく、彼は壁に新しくかかっている絵の人物と目が合ったような氣がして、思わず近寄った。

 それは額にすら納まっていなかった。どこかの雑誌から鋏で乱雑に切り取ったペラリとした一枚の絵画の写真で、画鋲で直接壁に刺さっていた。ブルーグレーや褪色したオレンジ色の服を着た人物が何人もいて、食卓を囲んでいる。暗いグレーの天井や、元は白かったのだろうが薄汚れて見える壁、全体に色褪せてしまった色合いが、埃にまみれて疲れていくこのだらしない台所のうら寂しさと妙にマッチしていた。

 食事中のようなのに、ある者は立ち上がり、大きな身振りで語り合い、もしくは恐慌をきたしていた。真ん中の人物と、その左側にいる人物だけは穏やかな顔をしているが、それが何を意味するかは彼にはわからなかった。

「それに氣がついたか、グレッグ」
声がしたので振り返ると、祖父が立っていた。あいかわらず汚れたシャツを着て、残り少ない髪はもじゃもじゃに乱れていた。

「おじいちゃん」
「それは『最後の晩餐』っていう絵なんだ。今日にふさわしいと思ってかけておいたのさ」

「これが? 誰の絵?」
「イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチっていう有名な画家さ。キリストが磔にされる前の晩餐会の様子を示しているんだとさ」

 そういいながら、祖父は戸棚からコンビーフ缶を取り出して開けた。洗ってある食器と、洗っていないと思われる調理器具がごちゃごちゃに置いてある山のようなところから、器用にフライパンを取り出すと、いくらか角度を変えながら眺めて、納得したように頷くとそのままコンロのところに持っていった。

 グレッグ少年には、祖父が「洗わないでもそのまま使えそうだ」と判断したことがわかった。実際に同じように準備された焼きコンビーフを彼は既に何度も口にしていたが、とくにお腹が痛くなったこともなかったので、意見はいわないことにした。

 最後の晩餐と言っても、祖父が彼に作る食事はいつもと一緒だった。スライスして焼いたコンビーフ、カットされたパンにマーマイトを塗る。運がよければ、生のトマトがカットされてついてくることもあった。それだけだ。

 この祖父の息子とはとても思えない几帳面な父親は、滅多に料理はしなかったが、する時はきちんとしたステーキに、シャトー型に切った人参とジャガイモ、完璧な固さに茹でられているが鮮やかな色を失っていないインゲン豆などをきちんと用意した。英国風のミンスミートやキドニーパイが得意な母親も、料理以前に混沌の極みにある義父の台所を料理をするところだとは認めなかった。非常に仲が悪くどんな小さなことにも反発し合う夫婦だったが、グレゴリー・スコットの家で食事をすることだけは決してしないことで意見が一致していた。

 だから、両親の離婚にともない、イギリスへと移住することになったグレッグ少年が、最後に祖父のところにお別れに行きたいと言った時には、二人とも馬鹿にしたような顔をした。

 グレッグは、コンビーフを焼いている祖父の横に行き、片付けていない洗った食器の山から、そっと皿を二枚取ると、テーブルのところに持っていった。まずは、テーブルに載っている沢山のいらないもの、請求書や古いクリスマスカード、それに空になったグラスなどを片付けて、皿を二つ置くスペースを作らねばならなかった。それからカトラリーをなんとか二組見つけ出して、皿の脇に置いた。

 固くなったパンと、きれいなグラスもみつけてテーブルに置いてから椅子に座り、壁の『最後の晩餐』を眺めた。

「この人たちもコンビーフを食べていたのかな」
そう訊くと祖父はゲラゲラ笑った。
「この時代にはまだ缶詰はなかっただろうよ。それはそれそうと、つい最近終わった修復で面白いことがわかったんだぞ」

 祖父は、絵の近くにやってきて目で示した。
「ここにパンがあるだろう? 聖書では、キリストはユダヤ教の伝統的な過ぎ越しの祭を祝ったことになっているんだ。イーストの入っていないぺっちゃんこのパンと、子羊の丸焼きを食べる伝統なんだ。それなのに見てみろよ、このパンは膨らんでいるし、それに料理は子羊じゃなくて魚料理なんだとさ。この画家、自分の好きな料理を描いたのかもしれないぞ。伝統なんてクソ食らえってさ」

 食事は、いつも通りに進んだ。祖父は安物のワインをたくさん傾けて、同じような話をろれつの回らない口調で繰り返した。
「それで。いつイギリスへ発つんだ」
「来週の月曜日。来月から、あっちの学校に通うんだって」

「そうか。ロンドンってのは面白いモノのある大都会だって言うからな」
「おじいちゃん。僕が行くのはバースってところだよ」
「そうか。そうだったな。ともかく、そこに行ったら、ケニアやじいちゃんのことなんてすぐに忘れてしまうさ」

 少年が「そんなことはない」と言おうとした時に、電話が鳴った。話している様子から、それは祖父が最近懇意にしているアリトン家の後家だということがわかった。
「今、孫が来ているけれど、すぐに帰るから、後でそちらに寄るよ」

 もうそろそろ帰ってほしいということなのかもしれないと思った。すぐに忘れてしまうのは僕じゃなくて……。グレッグは、バラバラになったコンビーフの塊が喉につかえそうになるのを、無理に水で流し込んだ。

 母親の車がやってくるのを待ちながら、グレッグ少年と祖父は、夕陽が真っ赤に染める丘を眺めていた。アカシアの樹のシルエットを彼は瞳に焼き付けようとした。バースになんて行きたくない。いられるものならば、ずっとここにいたい。

 でも、父親は彼を手元においておきたいとはまったく思っていないらしかった。母親も、話すのは「少しは愛想よくして、新しくお父さんになる人に嫌われないようにしてちょうだい」というようなことばかりだった。唯一彼を可愛がってくれたと感じられる祖父ですら、酒瓶やアリトン家の後家ほどの関心は持ってくれていない。ここには、僕のいられる場所なんてないんだ。

 遠くから、母親の運転するシトローエンが砂埃を巻き上げて近づいてくる。
「来たな」
祖父は、少し感傷的な声を漏らすと、グレッグをぎゅっと抱きしめた。

「元氣で頑張れよ、小さいグレッグ」
「うん。おじいちゃん。さようなら」

* * *


こんばんは、グレッグ。

あなたが帰ったあと、ニューヨークはひどい悪天候に見舞われたのよ。ハリケーンがやってくるような季節じゃなかったので、とても驚いたわ。クライヴは、こんな恐ろしい嵐は初めてだって、彼のお店にも行かないで、ずっと《Sunrise Diner》でお茶ばかり飲んでいたから、クレアがとても怒ってしまって、彼のトレードマークの傘を取り上げてしまったの。おかしかったわ。あなたもアフリカに帰るまではずっとイギリスにいたのよね。ハリケーンみたいなひどい嵐は、想像もつかないかしら?

ケニアは今、少雨期だったわね。《郷愁の丘》にシマウマたちが戻ってくるのを想像して、また行きたくなってしまったわ。だから、次の休暇で、イタリアに行くのはやめて、またケニアに行く案も考えたのよ。

でも、あなたからの問い合わせに少しびっくりしているの。

レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』は、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーチェ教会にあるのよ。そして、私の家族の故郷は、北イタリアなのでどちらにしてもミラノが基点になるの。もし、あなたも北イタリア旅行に興味があるのならば、私の休暇の時期をあなたの旅行に合わせてもいいのよ。

私のルーツ探しにはあまり興味がないかもしれないけれど、『最後の晩餐』の本物を見るチャンスだし、それ以外にもイタリアはアメリカともケニアともまったく違う文化と景色で、あなたを深く魅了すると思うわ。ウンブリア平原やフィレンツェにも、ダ・ヴィンチに縁の場所がたくさんあるの。きっとあなたにとっても有意義な旅になるはずよ。それに、あなたはイタリア料理をとても好きだったじゃない?

大して上手じゃないけれど、簡単なイタリア語通訳ぐらいはできると思うわ。いい返事を聴かせてね。

あなたの友達、ジョルジア



 彼は、放心したように手紙を見つめていた。

 ジョルジアへの手紙に『最後の晩餐』のことを書いたのは、イタリアヘ行くという彼女の言葉にセンチメンタルな想いを呼び起こされたからだ。今は亡き祖父が、壁に貼付けていた『最後の晩餐』の印刷された紙は、彼がケニアに戻ってきて祖父の遺産を相続した時にはとっくになくなっていた。

 あの絵のことをずっと考えていたわけではない。だが、ここしばらくあれも何かの符号だったのかもしれないと考えていた。まったく何の因果もなかったイタリアという国にいつか行ってみたいと思いつづけていたのは、祖父との最後の思い出に端を発しているのかと。そして、偶然出会い、心に住み着いてしまった女性がただのアメリカ人ではなくて、イタリア文化を色濃く受け継いでいたことにも、ただの偶然では片付けられない何かを感じていた。

 だから、彼女が次の旅行先に、祖父母の故郷をめぐることを考えていると書いて来た時に、「行けるものなら、僕もいつかイタリアに行ってみたい。でも、きっと夢で終わるんだろうから、代わりに、あの絵の小さなポスターか大きめの絵はがきを送ってくれないだろうか」と頼んでみたのだ。彼女の返事は彼の予想を大きく超えていた。
 
 一緒に旅行を? そんな多くを望んだつもりはなかった。いつかイタリアを旅してみたいと書いた時には、共に行くことを夢見ながら彼女が訪れた場所を一人で辿ることを想像していただけだ。もちろん一緒に行きたい、彼女もそれを望んでくれるならば。

 彼は、スケジュールを確認した。この秋には抜けることのできない大事な学会や会議などはない。調査の方はいない分だけ抜けてしまうが、毎年のことではないし諦めることができる。問題は費用だ。彼はどうしたら旅費が捻出できるか計算した。

 それからアメリカ人ダンジェロ氏からの援助のことを思い出した。ジョルジアが、ダンジェロ氏の妹であると知った時は驚いたが、結局彼女の口添えがあったからこそ、地味な研究をする自分に助成金を出してもらえることになったのだ。

 これまで、切り詰めて食べていくのが精一杯だったが、研究さえ続けられればいいと思っていたので、それ以外のことをする経済的余裕がないことを残念と思ったこともなかった。学会と関係のない純粋な休暇旅行など一度も行こうと考えたことがなかった。

 けれど、もうその心配はしなくていいのだ。ダンジェロ氏から定期的に振り込まれる助成金で、生活費を削ることなく、不在時のシマウマ調査を他の人間に頼むこともできるし、二週間程度の休暇ヘ行く費用もある。

 あの絵の実物を見に行くのだと、それも、心から大切に想う女性と一緒にイタリアに行くのだと知ったら、墓の下で眠る祖父はなんというだろうかと考えた。『最後の晩餐』にも描かれたイタリアのパンと、魚料理を食べて、その味を報告したら、彼は笑ってくれるだろうか。

 彼は、ジョルジアに快諾の返事を書くために、自室のデスクに向かった。


(初出:2016年11月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 リクエスト キリ番リクエスト 80000Hit

Posted by 八少女 夕

【小説】ジョゼ、日本へ行く

当ブログの77777Hit記念掌編、7つはすでに発表させていただいたのですが、最後のリクエストと数分の差でかじぺたさんにリクエストをいただいていたのでした。しかもちょうどその頃、かじぺたさんのお嬢さんがご結婚なさったとのことですので、お祝いを兼ねてリクエストにお答えすることにしたのでした。かじぺたさん、大変お待たせしました。

ご希望の選択はこちらでした。

*現代日本
*薬用植物
*地元の代表的な酒/もしくは嗜好飲料
*城
*ひどい悪天候(嵐など)
*「黄金の枷」関係


「黄金の枷」シリーズの主要キャラたち、とくに「Infante 323 黄金の枷」の主人公たちは設定上、今回のリクエストの舞台である日本には来ることが出来ないので、同じシリーズのサイドストーリーになっているジョゼという青年の話の続きを書かせていただきました。できる限り、この作品の中でわかるように書かせていただきましたが、意味不明だったらすみません(orz)

このキャラは、山西左紀さんのところのミクというキャラクターと絡んでいるんですが、全然進展しないですね。新キャラを投入して引っ掻き回していますが、私の方にはまったく続きのイメージがありません(なんていい加減!)この恋路の続きは、サキさんに全権委任します。


【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」Infante 323 黄金の枷



黄金の枷・外伝
ジョゼ、日本へ行く


 すごい雨だった。雨は上から下へと降るものだと思っていたが、この国では真横に降るらしい。それも笞で打つみたいに少し痛い。痛いのはもしかしたら風の方だったかもしれないが、そんな分析を悠長にしている余裕はなかった。目の前を立て看板が電柱から引き剥がされて飛んでいき、とんでもないスピードで別の電柱に激突するのを見たジョゼは、危険を告げる原始的なアラームが大脳辺縁系で明滅するのを感じてとにかく一番近いドアに飛び込んだ。

 それは小さいけれど洒落たホテルのロビーで、静かな音楽とグロリオサを中心にした華やかな生花が高級な雰囲氣を醸し出していた。何人かの日本人がソファに座っていて、いつものようにスマートフォンを無言でいじっていた。
 
 風と雨の音が遠くなると、そこには場違いな自分だけがいた。びっしょり濡れて命からがら逃げ込んできた人間など一人もいない。

「ジョゼ! いったいどうしたのよ」
エレクトラが、落ち着いたロビーの一画にあるソファに座って、薄い白磁でサーブされた日本茶と一緒にピンクの和菓子を食べていた。

 ジョゼは、とある有名ポートワイン会社の企画した日本グルメ研修に、勤めるカフェから派遣された。彼が職場の中でも勉強熱心で向上心が強いウエイターであるからでもあったが、日本人とよく交流していて仕事中にも片言の日本語で観光客を喜ばせているのも選考上で有利に働いたに違いない。

 彼は、日本に行けることを喜んだ。彼の給料と休みでは永久に行けないと思っていた遠くエキゾティックな国に行けるのだ。そしてその国は、なんと表現していいのかわからない複雑な想いを持っているある女性の故郷でもある。ああ、こんな言い方は卑怯だ。素直に好きな人と認めればいいのに。

 話をややこしくしている相手が、目の前にいる。日本とは何の関係もないジョゼの同国人だ。幼なじみと言ってもいい。まあ、そこまで親しくもなかったんだけれど。

 エレクトラ・フェレイラは、ジョゼとかつて同じクラスに通っていたマイアの妹だ。フェレイラ三姉妹とは学校ではよく会ったが、それはマイアの家族が引っ越すまでのことで、その後はずっと会っていなかった。ひょんなことから彼はマイアの家族が再び街の中心に戻ってきたことを知った。

 快活で前向きな三女のエレクトラは、小さいお茶の専門店で働いている。ジョゼの働いているカフェのように有名ではないし、従業員も少ないのでいくら組合の抽選で当たったとはいえ、休みを都合して日本へ来るのは大変だったはずだ。それを言ったら彼女はにっこり笑って言った。
「だってジョゼが行くって知っていたもの。一緒に海外旅行に行くのはもっと親しくなる絶好のチャンスでしょう」

「え?」
「え、じゃあないでしょう。そんなぼんやりしているから、そんな歳にもなって恋人もいないのよ。マイアそっくり。もっともマイアだって、さっさと駒を進めたけれどね」
「あのマイアに恋人が?」

 エレクトラは、人差し指を振って遮った。
「恋人じゃないわ、夫よ」

「なんだって?」
「しかも、もうじき子供も生まれるんですって」
「ええええええええ?」

「彼女、例の『ドラガォンの館』の当主と結婚しちゃったの。全く聞いていなかったから、のけぞったわ。私たちが知らされたのは結婚式の前日よ」
「マイアが?」

「あ。なんかの陰謀じゃないかって、今思ったでしょう」
「いや、そんなことは……」
「嘘。私も思ったわよ。でもね。結婚式でのマイアを見ていたら、なんだ、ただの恋愛結婚かって拍子抜けしちゃった。あの当主のどこがそんなにいいのかさっぱりわからないけれど、マイアったらものすごく嬉しそうだったもの」
「僕に知らせてもくれないなんて、ひどいな」

「仕方ないわよ。おかしな式だった上、それまでも、それからも、私たちですらマイアに会えないんだもの。妙な厳戒態勢で、私たちが結婚式に列席できただけで奇跡だってパパが言っていたわ」

 意外な情報にびっくりして、ジョゼは目の前の女の子に迫られているという妙な状況も、自分には好きな女性がいると告げることもすっかり意識から飛ばしてしまった。だから、最初にきっぱりと断るチャンスを失ってしまったのだ。それにエレクトラは、ものすごい美人というわけでもないが、表情が生き生きとしていて明るく、会話が楽しくて魅力的なので、好かれていることにジョゼが嬉しくないと言ったら嘘になった。

 この旅に出て以来、エレクトラはことあるごとにジョゼと行動を共にしたがった。彼は、曖昧な態度を見せてはならないと思ったが、朝食の席がいつも一緒になってしまい、一緒に観光するときも二人で歩くことが増えて、周りも「あの二人」という扱いを始めているくらいなのだった。

「一体、何をしてきたのよ、そんなに濡れて」
「あの嵐でどうやったら濡れずに済むんだよ」

 エレクトラは肩をすくめた。
「この台風の中、地下道を使わないなんて考えられないわ」
彼女が示した方向にはガラスの扉があり、人々が普通に出入りしていた。ホテルは地下道で地下鉄駅と結ばれていたのだ。ジョゼはがっかりした。

 彼女はバッグからタオルを取り出すと、立ち上がって近づき、ジョゼの髪や肩のあたりを拭いた。
「日本では、水がポタポタしている男性は、いい男なんですって。文化の違いっておかしいと思っていたけれど、案外いい線ついているのかもしれないわね」

 エレクトラの明るい茶色の瞳に間近で見つめられてそんなことを言われ、ジョゼはどきりとした。けれど、彼女はそれ以上思わせぶりなことは言わずにタオルを彼に押し付けるとにっこり笑って離れ、また美味しそうに日本茶を飲んだ。

「明日からは晴れるらしいわよ。金沢の観光のメインはお城とお庭みたいだから、晴れていないとね」

* * *


 あの嵐はなんだったんだと呆れるような真っ青な晴天。台風一過というのだそうだ。 ジョゼは、まだ少し湿っているスニーカーに違和感を覚えつつ、電車に乗った。ただの電車ではない。スーパー・エクスプレス、シンカンセンだ。

「この北陸新幹線は、わりと最近開通したんですって。だから車両の設備は最新なのね」
エレクトラは、ジョゼの隣に当然のように座り、いつの間にか仕入れた情報を流した。彼は、ホテルや町中のカフェなどと同じように、この特急電車のトイレもまた暖かい便座とシャワーつきであることに氣づいていたので、なるほどそれでかと頷いた。

 この国は不思議だ。千年以上前の建物や、禅や武道のような伝統を全く同じ姿で大切に継承しているかと思えば、どこへ行っても最新鋭のテクノロジーがあたり前のように備えてある。それは鉄道のホームに備えられた転落防止の扉であったり、妙にボタンの多いトイレの技術であったり、雨が降るとどこからか現れる傘にビニール袋を被せる機械であったりする。

 クレジットカード状のカードにいくらかの金額を予めチャージして、改札にある機械にピタンとそのカードを押し付けるだけで、複数の交通機関間の面倒な乗り換えの精算も不要になるシステム。40階などという考えられない高層にあっという間に、しかも揺れもせずに運んでくれるエレベータ。

 ありとあらゆる所に見られる使う側の利便を極限まで想定したテクノロジーと氣遣いは、この国では「あたりまえ」でしかないようだが、ジョゼたちには驚異だった。

 それは、とても素晴らしいことだが、それがベースであると、「特別であること」「最高のクラスであること」を目指すものには、並ならぬ努力が必要となる。

 ジョゼは、街で一二を争う有名カフェで働いていて、だから街でも最高のサービスを提供している自負があった。ただのウェイターとは違うつもりでいたけれど、この国からやってきた人にとっては、ファーストフードで働く学生の提供するサービスとなんら変わりがないだろう。彼女ミク にとっても。

 彼女は、ミュンヘンで彼のことを好きだと言った。あまりにもあっさりと言ったから、たぶん彼の期待したような意味ではないんだろう。知り合った時の小学生、弟みたいな少年。あれから月日は経って、背丈は追い越したけれど、年齢は追い越せないし、住んでいる世界もまるで違う。もともとはお金持ちのお嬢様だったとまで言われて、なんだか「高望みはやめろ。お前とは別の次元に住んでいる人だ」と天に言われたみたいだ。そして、彼女の故郷に来てみれば、理解が深まるどころか民族の違いがはっきりするばかり。

「なんでため息をついているの?」
エレクトラの問いにはっとして意識を戻した。「なんでもない」という事もできたけれど、彼はそうしなかった。

「この国と、僕たちの国って、大きな格差があるなって思ったんだ」
そういうと、彼女は眉をひとつ上げた。

「格差じゃないわ。違いでしょう。私は日本好きよ。旅行には最高の国じゃない。まあ、同化していくのは難しそうだから、住むにはどうかと思うけれど。結局のところ、物理的にも精神的にも、この国と人びとは私たちからは遠すぎるわよね」

* * *


 台風は秋を連れてくるものらしい。それまでは夏のようなギラギラとした陽射しだったのに、嵐が過ぎた後は、真っ青な空が広がっているのに、どこか物悲しさのある柔らかい光に変わっていた。

 金沢城の天守閣はもう残っていない。もっとも堂々たる門や立派な櫓、それに大きく整然としたたくさんの石垣があるので、エキゾティックなお城を見て回っている満足感はある。

 何百年も前の日本人が、政治の中心とは離れた場所で、矜持と美意識を持って独自の文化を花咲かせた。それが「小さい京都」とも言われる金沢だ。同じ頃に、ジョゼの国では世界を自分たちのものにしようと海を渡り独自の文化と宗教を広めようとした。かつての栄誉は潰えて、没落した国の民は安い給料と生活不安をいつもどこかで感じている。

 ジョゼたち一行は、金沢城を見学した後、隣接している兼六園を見学した。薔薇や百合や欄のような華やかな花は何ひとつないが、絶妙なバランスで配置された樹々と、自然を模した池、そして橋や灯籠や東屋など日本の建築がこれでもかと目を楽しませる。枯れて落ちていく葉も、柔らかい陽の光のもとで、最後の輝きを見せている。

「この赤い実は、山茱萸さんしゅゆ といいます。滋養強壮に役に立つのでお酒に入れて飲みます」
「こちらの黄色い花はツワブキといいます。茎と葉は火傷や打撲に対する湿布に使います。またお茶にすると解毒や熱冷ましにもなる薬用植物です」

 ガイドが一つひとつ説明して回る花は、見過ごしてしまうほどの地味なものだが、どれも薬になる有用な植物ばかりだ。
「野草をただ生えさせておいたみたいに見えるのに、役に立つ花をいっぱい植えているのねぇ」
エレクトラが言った。

 地味で何でもないように見えても、とても役に立つ花もある。そう考えると、没落した国の民、しがないウェイターでも、なんらかの役割はあるのかもしれない。それが彼女ミク にとって、なんらかの意味を持つかどうかはわからないが。

 なんだかなあ。彼女の国に行ったら、いろいろな事がクリアに見えてくるかと思っていたのに、反対にますますわからなくなっちまった。ジョゼはこの旅に出てから20度目くらいになる深いため息をついた。

(初出:2016年11月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ リクエスト キリ番リクエスト 77777Hit

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (6)ミュンヘン、鍵盤 -1-

「大道芸人たち Artistas callejeros 第2部」のチャプター1だけを先行公開することにしましたが、これがその最後の部分になります。残りの部分については、おそらく来年以降の公開になります。ひとまず落ち着くところに落ち着いて、四人は新たな環境の中で彼ららしさを模索して行くことになります。

今回も二つに分けました。今回はヴィルの子供時代のことですね。


「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(6)ミュンヘン、鍵盤 -1-


 グランド・ピアノのふたを開けて、ヴィルは軽く鍵盤に触れた。いまやそれは彼のピアノだった。はじめてこのピアノに触れた時の事をヴィルは憶えていた。まだ十歳になっていなかった。

 母親の小さなアパートメントにまったく不似合いないかめしい髭の男がやってきたのは、その一週間前の事だった。

 男がやってきた時に、母親はヴィルにフルートを吹かせ、それから居間の小さなアップライト・ピアノで数曲弾かせた。それまですぐにでも立ち去りそうにしていた男は、演奏を聴くと態度を改めた。

「フルートを吹くのは好きか」
男は、威厳ある様子で訊いた。ヴィルは小さく頷いた。
「はい」
「毎日どのくらい練習しているのか」

「二時間ずつ、レッスンさせていますが、それ以外にも暇さえあれば、自分で勝手に練習していますわ」
母親が横から口を出した。髭の男は母親を冷たく一瞥したが、特に何も言わずに、再びヴィルに話しかけた。
「ピアノを弾くのも好きか」

「はい。ピアノでいろいろな音が出せるのが面白いです」
ヴィルは素直に言った。

 髭の男はじろりと見たが口元の厳しさはなくなっていた。子供っぽい甘えた様子をまったく見せないヴィルを教授は好ましく思ったようだった。
「来週から、土曜日には私の館でレッスンをさせよう。朝の九時にトーマスに車で迎えに来させる」

 母親は勝ち誇ったような顔になり、頬を紅潮させた。
「私も一緒に……」

 髭の男はじろりと母親を見て冷たく答えた。
「トーマスは信頼できる運転手だ。お前がついてくる必要はない」

 その夜、母親はシュナップスで酔いながら言った。
「あれが、お前のお父さんよ。十年も会っていないのよ。少しは私を見てくれてもいいのに」

 ヴィルはあれが父親だと言われてもぴんとこなかった。マルクスのお父さんはいつも楽しそうに笑っている。グイドーはお父さんと毎週山歩きに出かける。あんな立派な洋服は着ていないけれど、ずっと親しみがある。

 お母さんは音楽のことと、どれだけお父さんが立派ですごい人だったかしか話さない。学校の皆のいくサッカークラブにも参加させてくれないし、だから友達もなかなか出来ない。暇さえあれば勝手にフルートを練習しているというけれど、他に何をすればいいんだ。学校の勉強?

 土曜日に立派な黒塗りの車が貧相なアパートメントの入り口に横付けされた。マルクスやグイドーが遠巻きに見ている中、ヴィルはスーツを着た運転手のトーマスに連れられて、車でミュンヘンに向かった。連れて行かれたのはおとぎ話のお城かと思うような大きな家で、貧しいアパートメントでは見た事もない豪華な調度と広い空間に半ば怯えながら、迎えでた召使いのミュラーに連れられてサロンへと向かった。そこでヴィルは新しいピカピカのフルートをもらい、それから大きなベーゼンドルファーのグランド・ピアノにはじめて触れたのだ。

 普段弾いている家のピアノはもちろん、母親に連れて行かれるピアノ教室のグランド・ピアノともまったく違う音がした。深くて複雑な響きだった。父親と言われた髭の男にはまったく会いたくなかったが、このピアノを毎週弾けるのは嬉しかった。

 もらったフルートも、それまでのフルートとはまったく違った。髭の男の指導は厳しかったが、言う通りに吹くように努力すると、楽器はいままでヴィルの出せた音とはまったく違う音を約束してくれた。

 父親が二時間のレッスンし、それから大きな食堂でヴィルがいままでほとんど食べた事のないおいしい食事を食べた。父親は眉をしかめてヴィルのテーブルマナーをたしなめた。ヴィルの喜びは半減した。

 午後は、フロリナ先生がサロンにやってきてピアノを二時間指導した。いままでの先生よりも厳しかったが、明らかに上手で指導もわかりやすかった。一週間分のフルートとピアノの課題をもらうと、ひとりで二時間ほどサロンで練習し、それからトーマスに連れられてアウグスブルグに戻った。

 トーマスの送迎はそれから三年ほど続いた。その後は、自分で電車に乗ってミュンヘンに通った。黒塗りの車の運転手や、取り澄ましたテーブルマナー、父親の用意したまともな洋服などが、ヴィルの無口な様子と相まってお高くとまっている嫌な子供とやっかまれ、大人たちがヴィルを避けるようになった。

 それに影響されて、マルクスやグイドーもほとんど口もきかなくなった。学校でも行事を欠席させられる事が多かったため、孤立していった。大人とも子供とも話す事がなくなり、家でも音楽のことしか話せなくなり、さらにミュンヘンから渡される膨大な課題に取り組むために、ヴィルはひたすら音楽に没頭するしかなくなっていった。

 フルートを奏でるとき、ミュンヘンのベーゼンドルファーの音色を生み出すとき、ヴィルは数少ない歓びを感じた。それは孤独の中の慰めだった。それが孤独である事にもその時のヴィルは氣づいていなかった。

 はじめてピアノに触れる時に、ヴィルはいつも息をのむ。期待と恐れの混じった感情。それは、大人になってからも同じだった。大学のレッスン室で、生活のために働きだしたアウグスブルグの小さなバーで、稔の聴くに堪えない演奏に代わって弾くことになったヴェローナのバーで、コモのロッコ氏のレストランで、コルタドの館で、真耶の家で、奥出雲の神社の中で、ヴィルははじめて女の子の手を握るティーンエイジャーのように、ためらいながらはじめての音を出した。レネの両親の調律のよく出来ていないアップライト・ピアノに触れた時もそうだった。

 初めの音が出ると、ようやく口をきいた女のように、そのピアノの性格がわかる。強引に弾くべきピアノか、繊細に歌わせるべきピアノか、どう扱っても大差ない粗野なピアノかがわかる。

 それでも、このエッシェンドルフの館のベーゼンドルファーは、初恋の女のようにヴィルを惹き付けた。このピアノは、いま彼のものだった。ヴィルは椅子に腰掛けると、ゆっくりとツェルニーの練習曲を弾きだした。

「懐かしいものを弾くのね」
いつの間にか入ってきていた蝶子が静かに言った。

「あんたもこれで練習したのか」
弾きながらヴィルは蝶子に話しかけた。

「こんなすごいピアノじゃなかったけれどね」
「俺も最初はしょうもないアップライトだった」

「ピエールの所みたいな?」
「あれよりはマシだったな。出雲くらいのだった」

「ああ、瑠水さんのピアノね。私のもあのぐらいだったわ。もっともピアノの違いなんか、あの頃は知らなかった。あの時は親も反対していなかったし、ただ弾けるのが嬉しくてしかたなかったわ」

「これで弾くか?」
「私は、フルートを合わせるわ。そのまま弾いていて」

 蝶子は即興で優しいメロディをつけた。

 稔とレネもサロンに入ってきた。
「へえ。ツェルニーでこんな変奏曲ができるとはね」

 邦楽の稔にとっては、ツェルニーの練習曲は音大受験のためのつらい義務のはじまりだった。ヴィルと蝶子が自由に奏でている変奏曲はそんな思い出を吹き飛ばすような楽しげな演奏だった。

 ヴィルにとっても、この部屋はもはや窮屈で冷たい父親のレッスン室ではなく、四人で楽しげに話しながら音楽を奏でられる場になっていたのだった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -6- ナイト・スカイ・フィズ

WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

そして、前の記事でもお伝えしたように、今回は記念すべき「Stella」の創刊5周年記念号です。主催者のスカイさんは、このお祝いにみんなで同じテーマで書く企画を用意してくださいました。お題は「夜空」です。というわけで、急遽「夜空」をイメージした話を書いてみました。


月刊・Stella ステルラ 10、11月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


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バッカスからの招待状 -6- 
ナイト・スカイ・フィズ


「こんばんは、夏木さん」
今日は少し早いな、そう思いながら田中は微笑んだ。

 夏木敏也は片手をあげて、最近いつも座るカウンターの一番奥に座った。

 大手町にあるバー『Bacchus』は、氣をつけていないと見過ごしてしまうような小さな看板しかだしていない。来る客の多くは常連で、しかも一人で来る客が多い。夏木もその一人だ。全くアルコールの飲めない彼は、バーに来る必要などないのだが、この店の居心地はよくて、バーテンダーで店主の田中佑二にノンアルコールのカクテルをあれこれ作ってもらっている。

 彼は最近、火曜日に来ることが多い。理由は、その隣の席にあるのだろう。田中は思ったが余計なことはいわなかった。

 夏木は空いている隣の席に鞄を置いた。
「今日は、久保さん、来ないんだものね」

 火曜日には、たいてい久保すみれがこの店にやってくる。先日サマー・デライトをごちそうして以来、すみれは夏木を見かけると隣にやってきて、一緒にノンアルコールか、アルコール度数の低いカクテルを一杯だけ楽しんで、少し喋って帰っていく。特に約束をしているわけではないし、色っぽい展開にもなりそうもないが、夏木は火曜日を楽しみにしていた。

「お友だちと一緒に『シャトー・マルゴー』のスカイラウンジでのディナーに行くっておっしゃっていましたね」
田中は、夏木の前にハムとリコッタチーズのペーストを載せたクラッカーを出しながら言った。

「誕生日の前祝いだったっけ。最近の女の子たちは、羽振りがいいよね。『シャトー・マルゴー』のフランス料理なんて、僕は一生縁がないんじゃないかな」
夏木はメニューのノンアルコールカクテルを検討しながら言った。

「お友だちが抽選で当てたとおっしゃっていましたよ」
「そうか。だから、あの店で食事ができるのはきっと最初で最後のチャンスだって喜んでいたんだな。まあ、そうだろうな。あんなに高い店なのに、予約が一年後までいっぱいだなんて、不況なんて嘘だ」

 カランと音がして、扉が開いた。田中と夏木は同時に驚いた顔をした。
「久保さん!」

 すみれは、少し下唇を突き出しながら、肩をすくめて入ってきた。
「聞いてよ。本当にひどいんだから」

「『シャトー・マルゴー』は今夜じゃなかったっけ?」
夏木は、鞄をどかしてすみれの席を作った。彼女は、まっすぐにそこに向かって座り、田中からおしぼりを受け取った。

「間違いなく今夜だったわよ。それが、今日になって急に残業だからいけなくなった、ごめんなさいって言われたの」
「それは氣の毒だったな。でも、一人でフランス料理はキツいだろう?」

「本当に残業だったら別に怒らないわ。でも、さっきたまたま彼女がずっと憧れていた外商の彼とその同僚が話しているのを聞いてしまったの。彼女ったら、一緒に予約していた子が残業でいけなくなったから一緒に『シャトー・マルゴー』のディナーに行ってほしいって頼んだらしいの。私は、ダシに使われただけでなく、嘘で約束を反古にされたのよ。もう、女の友情は本当にハムより薄いんだから!」

 田中と夏木は思わず顔を見合わせた。すみれは半分泣きそうな顔をして田中に言った。
「これは飲まずにいられないわ。そうでしょう?」

「お誕生日の前祝いなんですよね。お氣の毒に」
田中が言うと、すみれは大きく頷いた。

「そうなの。あの満天の星空みたいな素敵な部屋で、ディナーができると思ったのに。この歳だし誕生日を祝ってもらわないと嫌だってわけじゃないけれど、ここまで期待した後だと、本当にがっかり」

 夏木は肩を落とすすみれを見て言った。
「そんなに氣落ちするなって。代わりに今日は僕がおごるから、田中さんに美味しいお酒と肴でお腹いっぱいにしてもらえよ」

 すみれは心底驚いて夏木を見た。
「そんなつもりで騒いだんじゃないのよ!」
「でも、誕生日の前祝いだろう? 『シャトー・マルゴー』でごちそうするのは僕には無理だけれど、ここならたぶん大丈夫だよ。田中さん、そうだよね」

 懇願するような顔をしたのがおかしくて、田中とすみれは同時に笑い出した。

「じゃあ、夏木さんのお誕生日には私が同じようにご馳走するって条件で、遠慮なく。田中さん、いいですか?」

「わかりました。では、可能な限り久保さんと夏木さんのお氣に召しそうなものをご用意しましょう。まずはお飲物をお作りしましょう。これは私にごちそうさせてください。何がよろしいですか。本当に強いお酒ですか?」

 すみれは笑って首を振った。
「本当に? 嬉しい。ううん、強いのはダメ。酔っぱらったら、せっかくのコースの味がわからなくなってしまうもの。私でも大丈夫ぐらいので、何か特別なカクテルはあるかしら」

「そうですね。では、せっかくですから夜空をイメージしたカクテルをお作りしましょう。ヴァイオレット・フィズはご存知ですか?」

 すみれは首を振った。田中は、一本の瓶を二人の前に置いた。
「これは柑橘系の果実で作り、ニオイスミレの花などで香りを付けたリキュールでパルフェ・タムールと言います。フランス語で完全なる愛という意味があるんですよ。ヴァイオレット・フィズはこのボルス・パルフェ・タムールにレモンジュースと炭酸水などを合わせたカクテルです。スミレを思わせる紫色のカクテルなんです」

 すみれの名前にかけての選択か。なるほどなと夏木は感心した。けれど、田中はその瓶を棚に戻し、別の瓶を取り出した。
「でも、今日はちょっと趣向を変えてみましょう」

「それを使わないの?」
「こちらもパルフェ・タムールです。でも、先ほどのボルス・パルフェ・タムールと違って、このマリー・ブリザール・パルフェ・タムールは色が青いのです」

 青いリキュールにシロップとレモンジュースをシェイクしてよく冷えたグラスに注いだ。そして、炭酸水を静かに注ぐと、その泡が青い液体の中でまるで星空のように煌めきだした。
「久保さんのための満天の星空をイメージして作りました。夜空をグラスの中に。ナイト・スカイ・フィズをどうぞ」

「そして、これもパルフェ・タムールだからスミレの香りなのね! 田中さん、ありがとう。それに、夏木さんも!」
すみれは嬉しそうにナイト・スカイ・フィズを覗き込んだ。

 夏木はその美しい夜空を模したカクテルを羨ましそうに眺めた。自分も一緒に飲めたらどんなにいいだろう。でも、リキュールが入っているなら無理だよな。

 そう思っていると、そっくりの飲み物が彼の目の前に置かれた。
「あれ?」

 田中は笑って言った。
「こちらはパルフェ・タムールの代わりにブルーキュラソー・シロップと巨峰ジュースで作りました。スミレの香りはしませんが、やはり柑橘系のカクテルです。いかがですか」

 完璧な愛パルフェ・タムール ではないけれど、それに、有名レストランのスカイラウンジでもないけれど、満天の星空は一緒。そしてずっと居心地がいい。二人は大手町のお酒の神様の祝福する夜空のカクテルで楽しく乾杯をした。

 田中はそんな二人を微笑ましく眺めながら、コースに匹敵するどんな肴を組み合わせようかと頭の中をフル回転させた。

ヴァイオレット・フィズ(Violet Fizz)

パルフェ・タムール - 45ml
シロップ - 1tsp
レモンジュース 20ml
炭酸水

作成方法: 炭酸水以外をシェイクしてグラスに注ぎ、炭酸水で満たす。



(初出:2016年10月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】雪降る谷の三十分

しばらく間が空きましたが、リクエスト掌編、当ブログの77777Hit記念、77777Hit記念掌編の7つ目。リクエストはポール・ブリッツさんにいただきました。ポールさん、大変お待たせしました。

ご希望の選択はこちらでした。

*古代ヨーロッパ
*植物その他(苔類・菌類・海藻など)
*アペリティフまたは前菜
*乗用家畜
*ひどい悪天候
*カンポ・ルドゥンツ村在住キャラ
*コラボ (範子と文子の驚異の高校生活 より 宇奈月範子)


今回のリクエスト、どの方も全く容赦のない難しい選択でいただきましたが、ポールさんも例に漏れず。これだけ長く空いてしまったのも、書かせていただくからには原作を読まなくてはいけないと思ったからですが、「範子と文子の驚異の高校生活」さりげなくものすごい量があるんですよ。

誠に申し訳ないのですが、一つひとつが読み切りになっているのをいいことに、半分くらいまで読ませていただいた上で今回の作品を書かせいていただきました。ポールさん、もし「なんだよ、原作と違うこと書くなよ」ということがありましたらご指摘いただけるとありがたいです。

今回のストーリーは、その中でこの二本を元ネタに書かせていただきました。(と言っても、大して絡んではいませんが)

範子と文子の三十分一本勝負:FIGHT・6
範子と文子の三十分一本勝負:FIGHT・92

今回もまた、盛り上がりもなければオチもない妙な作品になっていますが、カンポ・ルドゥンツ村って、そうそうめくるめく話のあるような場所じゃないんですよ。大昔も今も(笑)

なお、77777Hitの記念掌編はこれでお終いですが、「タッチの差残念賞+お嬢様のご結婚祝い」のかじぺたさんと「80000Hitぴったり踏んだで賞」の彩洋さんのリクエスト、これも近いうちに発表させていただきます。




雪降る谷の三十分
- Featuring 「範子と文子の驚異の高校生活」


 その谷は豊かな森林に覆われて、射し込む陽の光は神々しいほどだった。澄んだ空氣はぴんと張りつめて、「祝福された聖なる土地」に降り立ったのではないかと、二人はほんの一瞬思った。そして、こういう光景はテレビや映画で映像としてみる方がずっと好ましいと同時に結論づけた。

「ここ、寒いわね、範ちゃん」
「文子。そういう事実は、わざわざ口にしなくてもいいのよ」
「でも、私たち、冬用の衣装着ていないよ」

 レザーアーマーにショートソードという格好の範子は、なぜかショートパンツ姿で太ももが露出している。本来は戦闘するなら全身を覆うべきで、そんな妙なところの装備を弱くするはずはないのだが、この衣装は日本国のゲーマーたちの目を楽しませるためのデザインなので、実用とは関係ないし、ましてや防寒は考慮されていない。

 ローブに杖という格好の文子の方は、少しはマシだったが、このローブはコスプレ用に売られているチープな作りで、残念ながらやはり防寒を目的として制作されたものではないようだった。

 宇奈月財閥の後継者であるお嬢様範子と、その友人である下川文子は、私立の紅恵高校および作者の都合でどこかの謎の学校または学校ですらない場所に神出鬼没に登場する女子学生である。氣の毒なことに、二人は予告なしで、台本すら渡されずに、どこかに放り出されるだけでなく、その事態に30分でオチをつけることを要求されていた。

 だが、その小説『範子と文子の驚異の高校生活』は、既に完結した。ようやく安穏の生活を手に入れたはずの二人は、またしてもこんな出立ちで、高校生活とはあきらかに縁のなさそうな森林に出没したことに、明らかに不満を持っているようだった。

「まず状況を把握しなくちゃいけないわ。この植生から推測すると、かなり北の方だと思う」
「それはこの寒さからも予想がつくわよ、範ちゃん」

 文子の指摘を無視して、範子はショートソードで当たりの草を掻き分けた。そして、どうやら丘の上のようなところにいることと、とてもそうは見えないけれど、そこが道であることを確認した。
「う~ん。まずいわね」

「なにがまずいの。範ちゃん」
「みてご覧なさいよ、文子。あの先にある集落」
「あれは、なんだったけ、えっと」

「竪穴式住居。今どき北半球にあんな文明未発達の集落があるわけないし、これって……」
「タイムスリップ?」

「もしくはパラレルワールドよね。そのこと自体はどうでもいいけれど、あんな家にセントラルヒーティングがあると思う?」
「……。ないと思う」

 とはいえ、寒空に立っていれば自動的に暖かくなるわけでもない上、どうも雲行きが怪しくてこのままでは更に震える羽目に陥りそうだったので、二人はその道を下り始めた。

「範ちゃん、待ってよ」
「今度は何?」
「このローブがあちこちの枝に引っかかってそんなに早く歩けないのよ。なんなの、ここは」
「しょうがないわね」

 範子は、ショートソードを振って、枝や草を切りひらきながら歩き始めた。そうやっているとわずかでも暖かくなるように思った。

「○×△※◆」
野太い男の声がしたので、二人は動きを止めた。後にいつの間にかロバを連れた男が立っていた。何種類かの獣の皮を繋ぎ合わせたような外套を身につけていて、濃いヒゲのある浅黒い男だった。

「範ちゃん! ガイジンさんだよ。なんか言ってる」
「文子。その情報は、わたしには必要ないわ。この場にいるんだから」
「でも、範ちゃんならなんて言っているかわかるんじゃないかなって」

「全然わかんないわよ。英語でも、イタリア語でも、フランス語でも、スペイン語でもないし、ラテン語ですらないわ。一応、ラテン語で訊いてみようかな - 《ラテン語、話せます?》」

 男は、厳しい顔をして答えた。
「《なんだ、お前ら、ローマ市民か!》

「つ、通じた……。でも」
「でも、何、範ちゃん?」
「どうやら怒っているみたい。ラテン語は使わない方がよかったのかしら」
「え。でも、その人も使っているんでしょう」

「言われてみれば、そうよね。ローマ市民がどうのこうのってことは、ここはローマ帝国時代なのかしら。その前提で話を進めてみようかしら」

 範子は日本人特有の意味のない微笑を浮かべながら、まったく好意を感じられないヒゲ男に語りかけた。

「《ローマ市民じゃないわ。あなたの言葉がわからないから、これなら通じるんじゃないかと思っただけ。私は範子、こちらは文子。旅の間に迷子になったみたいなの。あそこの集落はあなたの村なのかしら》」
「《その通りだ。俺はジヴァン。そのルドゥンツに住んでいる行商人だ》」
「行商人? 狩人かと思った。《何を商っているの?》」
「《いろいろ扱うが、メインは火打石や金属、それに塩だな。お前の持っている剣はなんだ?》」

「剣のこと訊かれちゃった。これってコスプレ用だからずいぶん軽いけれどプラスチック?」
「範ちゃん、この時代にプラスチックとか言わない方がいいんじゃないの?」
「言わないわよ。《よくわからないの。どっちにしても戦いには向かないチャチな剣よ》」

 ジヴァンは、ますます難しい顔をして、二人を眺めた。見れば見るほど、話せば話すほど怪しくなるのだろう。でも、高校の制服で登場しなかっただけでもマシな方だ。
「《本当にローマからの回し者じゃないんだろうな。俺たちは、コソコソ嗅ぎ回られるような悪いことはやっていないぞ。それに何度言われてもびた一文払わんからな》」

「《あ~、政治状況がわからないんだけれど、ここはローマの属州なのかしら》」
ジヴァンは、ムッとして手に持っている棒で殴ろうとしたが、範子がそれをショートソードで防ごうともせずに、単に逃げ腰になったので拍子抜けしたらしかった。

「《本当に何もわかっていないようだな。ここはラエティアだ。ローマの奴らはどんどん自分たちの陣地を増やして、ラエティア州などと自分たちのものにしたつもりかもしれんが、寒いのが苦手らしく、このあたりにはまだ来ないのさ。俺たちの先祖であるティレニア海の輝ける民はもともとローマの奴らに追い出されてここに来たんだ。ようやく見つけた安住の地をまた奪われてなるものか》」

 文子は範子をつついた。通訳しろという意味だ。
「おそらくここはドイツ南部からスイス東部のどこかね。この地形だとアルプスの麓、グラウビュンデン州あたりじゃないかしら。ローマ人に追い出されたエトルリア人かなんかの子孫の集落なんじゃないかな。ルドゥンツ村の行商人ジヴァンさんだって」

「ふ~ん。セントラル・ヒーティングの件は、やっぱり無理そうよね」
「無理無理。火打石とか言っているし。《すみませんが、すぐに嵐が来そうな感じだし、更にいわせてもらうと、とっても寒いんだけど》」
「《今日は、この季節にしたら暖かいじゃないか。見ろよ、これから雪がくるんだぞ》」
「《雪が降るのに何で暖かいのよ》」
「《わからないヤツだな。晴れていたらもっとずっと寒いだろ。そもそも、お前がそんな恰好をしているから寒いんだろう》」

 現代のスイスでも、真冬の晴天には-10℃を下回ることが多く、雪が降りそうな天候では摂氏0℃くらいまで氣温が上昇するのだが、日本の首都圏に住んでいる範子たちにとっては「雪=とっても寒い」なのだった。

 男が指摘した通り、範子は地球温暖化が進む前の、いや小氷河期と言っても構わない古代アルプス地方にふさわしい服装をしていない。が、ゲーマー好みのコスプレなどと言っても理解は得られないので、こほんと咳をして誤摩化すと畳み掛けた。
「《とにかく、あなたの村で暖をとらせてくれないかしら。お礼に、これをあげるから》」

 そういって、文子のマントを留めているプラスチック製のブローチを示した。ちょっと見には宝石のように見えなくもないし、そもそもプラスチック製のブローチが宝石よりも価値がないことはバレっこない。

 ジヴァンはちらっとブローチを眺めて、素早く何かを計算したようだった。そして、ついて来いと顔で示して、ルドゥンツの集落に入っていった。

 一番手前の家に入ると、ロバを杭に繋ぎながら大きな声を出した。
「○×△※◆」
おそらく、今戻ったぞとか、客を連れてきたなどと言ったのであろう。竪穴式住居の中からすぐに女性が顔を出して、何かを言った。

「《これが妻のミーナだ。ようこそと言っている。悪いが、その物騒な武器はこの入口に立てかけて中に入ってくれ》」

 範子にとっては、このショートソードは杖以上の役割は果たせないので、大人しく言う通りにして中に入った。中は、思っていたよりもずっと暖かくて、二人はホッとした。建物の真ん中に炉があって火が赤々と燃えている。火には串刺しになった肉類がくべられていて、バーベキューのようないい香りがしている。そして、その側にある平らな石にはピタパンかナンのようなパンが並べられていた。

「ラッキー! 暖かいだけじゃなくて、なにか美味しいものも食べられるみたい」
文子は嬉しそうに炉の前にぺたっと座った。ミーナはニッコリと笑って、まずはその謎のパンを手渡してくれた。

「熱っ。いただきま~す」
暖かさに幸せになりながら、ぱくついた二人は、すぐに目を白黒させた。

「何これ。苦い……」
文子は少し涙目だ。範子はジヴァンに訊いた。
「《これ、何ですか》」

「《これを挽いて作ったパンだよ》」
彼が指差した先には、淡い栗色の海藻みたいな外見の苔が山積みになっていた。

「何これ」
「えっと。地衣類みたいね。なんだっけ、Cetraria islandica。アイスランドゴケともいうエイランタイが日本での名称だと思うわ。解熱や腹痛のときに使う民間薬としても有名なのよ」

「ええっ。そんなの食べてお腹大丈夫?」
「大丈夫じゃないかも。まあ、北ヨーロッパでは現代でもパンにしたりするって聞いたことがあるから、こうやって食べるのは問題ないとしても、こんなに苦いのにたくさん食べるのはちょっとね。でも、お肉もそろそろ焼けるみたいだし……」

 そう言った途端、轟音とともに突風が吹いて、木のドアがばたんと開いた。雪のつむじ風が渦巻き、二人の高校生を巻き込むと、その場から連れ去った。

「ええ~、範ちゃん、お肉まだ食べていないよ~。あのまずい前菜だけで終わりなんてひどすぎる」
「しかたないわよ、文子。もう30分経ってしまったんだもの。どうしてこのシリーズって30分限定なのかしら!」

 約束のブローチを渡すこともなく、大事なパンをただ食いしたあげくに、礼も言わずに消えてしまった二人の女に、ジヴァンは腹を立てた。が、よそ者を安易に家に連れてくるからだと妻に怒られて終わった。ブツブツ言いながら戸締まりをした時に、雪にまみれてプラスチック製の子供騙しなショートソードが残っているのを発見した。

 見かけはなかなか派手だが戦いには全く役に立たないこのコスプレ用の剣が、当時のヨーロッパ中をババ抜きのババように売り渡されて、最終的にイギリスのストーンヘンジのあたりで埋められたあげくに後日発掘され、謎のオーパーツとして大英博物館に所蔵されることになるのは、もう少し後の話である。


(初出:2016年10月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (5)ミュンヘン、弔いの鐘 -3-

3つに分けた「ミュンヘン、弔いの鐘」の最後です。日本でもクラスというのはあるんですが、ヨーロッパだとそれがもっとはっきりしているような思います。お金があるとか、大学に行ったとか、そういう違いの他に、もうひとつ目に見えない壁があるように思います。

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(5)ミュンヘン、弔いの鐘 -3-


 ヴィルは大きく頷いた。

「俺の住所はここに移さなくてはならなくなる。必然的に蝶子もそうなるだろう。よかったら、あんた達二人も、一緒にしておかないか」

「僕に異議はありません。ドイツでもスペインでも」
「あんたがヴィザを用意してくれるなら、俺にも異存はないぜ」

「すぐにスペイン人と結婚するんじゃないの?」
蝶子がちゃかした。

「ヴィザやパスポートのために色仕掛けはしないって言っただろう」
稔が混ぜっ返した。

「パスポートといえば、俺とあんたのは書き換えになる」
ヴィルが蝶子に言った。

「なんで、またパスポートを書き換えるの? 先々週、書き換えたばっかりじゃない」
蝶子は訊いた。

「名前に称号が加わるんだ」
「は?」
「相続するとなると、領土やこの館だけでなくて、爵位もまとめてなんだ」

「え? ただのお金持ちじゃなくて、本当に貴族だったの?」
蝶子は驚いて言った。

「大した称号じゃない。イダルゴのと変わりない。ただ、パスポートにはそう書かれるんだ」
「なんて?」
「あんたは蝶子・フライフラウ・フォン・エッシェンドルフになる」
「あら。教授についてたフライヘルってのは三つ目の名前じゃなかったのね」

「フライヘルってなんだ?」
稔が訊いた。

「英語でいうとバロン、男爵だ」
「へえ、男爵に男爵夫人かよ。すげえ」

「だから、フランス警察が慌てたんですね」
レネも感心していった。

「そういう称号を持った人間が大道芸人なんてしていいわけ?」
蝶子が疑わしそうに訊いた。

「ダメだという法律はないと思うが、ミュンヘンではおおっぴらに公道には立たない方がいいだろうな」
「やっぱり」

「そうだよな。俺たちはこれからでもいつでも英国庭園で稼げるけれど、お前はもう絶対に無理だよな」
「そうね。ちょっと残念。そうと知っていたら例のパーティの前にでもやっておいたのに」

「そんなにあそこで稼ぎたければ、そのうちに『銀の時計仕掛け人形』をやればいい」
ヴィルはすましてワインを飲んだ。

 三人はにやりと笑った。広大な領地を相続しようが、男爵様になろうがヴィルは変わる氣はまったくなさそうだった。

「さてと。今朝の新聞に死亡広告が出たからそろそろ弔問客がぞろぞろやってくる。あんたと俺は、好奇の目にさらされるだろう。覚悟しておいてくれ」

「わかっているわ。こうなったら隠れているわけにいかないもの。私も喪服に着替えてこなくちゃ。まだあるといいけれど」
蝶子は、逃げる時に置いて行った喪服のことを考えた。

「あんたのものはみんな残っている。例の真珠は金庫の中だ。今すぐいるか?」
「まさか。あんなすごい真珠は、葬儀の日だけで十分よ」
結局、教授にもらったプレゼントを再び使うことになっちゃうわね、蝶子は複雑な心境だった。

「俺たちは、どうしている方がいい? さっさとスペインに帰った方がいいか、葬儀までここにいてなんか手伝いをするか」
「ここにいるといい。あんたたちがいるほうが、蝶子も氣が楽だろうから」
ヴィルはそういって出て行った。マイヤーホフが指示を待っているので、のんびりとはしていられなかった。

「大変だなあ。ただの葬式だって、てんてこまいなのに、男爵様の葬式だもんな」
「しかも、失踪していたのに突然呼び出されてですからねぇ。こんな複雑な事情のお葬式、滅多にないかもしれませんね」
稔とレネはひそひそと話した。

 あのヴィルがワインを空にしないで行ってしまった。もったいないから、飲んでしまおう。稔とレネは勝手に解釈して、応接室に残って飲んでいた。

 ヴィルはすぐにミュラーに頼んで仕立て屋を呼んでもらった。仕立て屋は、目を丸くしている稔とレネの寸法をさっさと測り、翌日には二人分の喪服が届けられた。

* * *


 弔問客の中には、市長夫妻をはじめ、あのパーティに招待されていた人々がいた。再び失踪したという噂のアーデルベルトが館に帰っている事には驚かなかった。上流社会ではそういう話は珍しくない。しかし、そのアーデルベルトが、「あの女」と結婚していたという事実には驚愕した。それだけでなく、あの時にアーデルベルトに殴り掛かりそうになっていた、「あの女」の連れの日本人が、喪服を着て葬儀の手伝いをしている。市長夫人は、しばらく瞬きも忘れ、用意してきたお悔やみの美辞麗句を思い出す事も出来なかった。

「わざわざお越しいただきましてありがとうございます、市長夫人。こちらは妻の蝶子です」
アーデルベルト・フォン・エッシェンドルフは、まったくの無表情で妻を紹介した。蝶子は悪びれた様子もなく「はじめまして」と手を出した。それで、市長夫人は、我に返って態度を取り繕った。

「それから、こちらは私どもの親しい友人で、安田氏とロウレンヴィル氏です」
「はじめまして」

 稔とレネも英語で澄まして挨拶した。パーティにいた客たちの呆け面が、判を押したようだったので、彼らが帰る度に稔は別の部屋に隠れて身をよじって笑った。

 ヴィルは、葬儀の厳粛で沈痛な雰囲氣のうちに、蝶子を出来るだけ多くの人間に紹介してしまうつもりだった。ただの社交の中では意地悪い扱いをしようとする人たちも、弔問中には攻撃の手を緩めざるを得ない。この場で優しく「よろしく」と言わせてしまえば、あとはこっちのものだ。

 ヴィルは社交界に積極的に進出するつもりはなかったが、まったく関わらないままでいる事も出来ないのをよくわかっていた。稔とレネも、この際に社交デビューさせてしまえば、あとで彼らが常に側にいる事を、使用人たちを含め、誰にも文句を言わせずに済む。それがヴィルの狙いだった。

 市長夫人はゴシップ女だったらしく、翌日からどう考えても教授と親交があったとは思えないご婦人方が興味津々の心持ちを喪服に包んで、弔問に押し掛けた。教授の音楽の知り合い、弟子たちも次々とやってきた。中には教授に婚約者として蝶子を紹介された事のある人たちもいた。蝶子もヴィルも平然と好奇の目に耐えた。

「僕にはとても我慢できないでしょうね」
レネはヤスミンに打ち明けた。

「そうね。きっとある事ない事言われるんでしょうね。頑張っているわ、二人とも」
ヤスミンは喪服を持参して手伝いにきていた。

「でも、これをやっちゃった方がいいっていうテデスコの判断は間違っていないよな」
稔はようやく慣れてきたアクアヴィットをちびちびとなめながら言った。

 受け取るのは銀行預金だけじゃない。あのときのヴィルの言葉は、こういう事も含んでいたのだ。稔やレネにとってはなんのデメリットもないヴィルの相続だった。だが、こうなってみてはじめて、稔は蝶子とヴィルが戦わざるを得ない事を知った。二人ともそれに耐えうる強靭な神経を持ち、自分たちの人生を切り開けることも。

「フロイライン・四条」
マイヤーホフが、つい以前呼んでいたままの呼び名で蝶子を呼んだとき、ヴィルははっきりと訂正した。
「フラウ・フォン・エッシェンドルフだ」

 その調子が珍しく厳しく、それを感じたマイヤーホフは、平謝りして氣の毒なほどだったので、蝶子は言った。
「蝶子と呼んでくださっていいのよ」

 マイヤーホフはヴィルに対してはファーストネームで呼んでいるのを知っていたからだ。けれど、マイヤーホフは蝶子に親しみを示そうとしなかった。蝶子はそれでマイヤーホフにわだかまりがあるのを知った。ミュラーもそうだった。

 マリアンは蝶子に同情を示していた。いずれにしてもマリアンはエッシェンドルフ教授よりもヴィルの方がずっと蝶子にお似合いだと昔から思っていたのだ。二人が出会うずっと前から。

 いつの間にか、マイヤーホフとミュラーは蝶子を「フラウ・シュメッタリング」と呼ぶようになった。ヴィルは二人の前ではいつも蝶子と呼んでいたので、彼らにしてみれば教授の呼び方を踏襲した嫌みな呼び方のつもりだったのかもしれないが、かつてはヴィルが、今はヤスミンが「シュメッタリング」の呼び方を使っていたので、蝶子にはなんともなかった。

 葬儀には、たくさんの弔問客が来た。二人を力づけようと、ヤスミンはアウグスブルグ軍団に連絡を取り、劇団員が山のようにやってきた。カルロスとサンチェス、それにイネスとマリサ、カデラス氏やモンテス氏もやってきた。稔とレネももちろん二人の近くにいた。

 マイヤーホフや教授と親しかった人たちは、エッシェンドルフが変わり、これまでとは違っていることをはっきりと知った。アーデルベルト様は亡くなられた旦那様のコピーでいるつもりはまったくないのだ。
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【小説】大道芸人たち 2 (5)ミュンヘン、弔いの鐘 -2-

3つに分けた「ミュンヘン、弔いの鐘」の第2回です。この4人、いろいろなことを
多数決で即決していくのに慣れていて、今回も大切なことをあっさりと決めています。人生には、時おりこういうことがあります。本当はもっとじっくり考えて決めたいけれど、そういう大問題ほど急いで決めなくてはならないのですよね。そして、後で「あの時がターニングポイントだったんだな」と思ったりするのかもしれません。


「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(5)ミュンヘン、弔いの鐘 -2-


「ヴィル? ああ、よかった。連絡がこないので心配していたのよ」
「蝶子。あんたと早急に話をしなくてはならない。だが電話で話せるようなことじゃない。葬儀まではやることがありすぎて、俺はスペインには戻れない。たぶん、あんたはここには来たくないだろうが、ミュンヘンか、それとも少なくともゲルテンドルフあたりにでも来てくれないか」

「いいわよ。明日、そっちに行くわ。平氣よ。迎えなんかいらないわ。道はわかっているもの」
そう答える蝶子を横目で見て、稔とレネは顔を見合わせた。

「行くのかよ」
電話を切った蝶子に稔が問いかけた。

「なにかとても大切な話があるんですって」
「なんだよ、それ。大丈夫なのか?」
「危険があるようには聞こえなかったけれど」

 蝶子の答えに、レネは心配そうに眉をひそめた。稔はじっと考えていたが、やがて言った。
「俺たちも行こう。もしかしたら助けが必要かもしれないし。もし、俺たちに用がなければ、俺たちはミュンヘンで稼げばいいじゃないか」

 レネも力強く頷いた。蝶子はほっとして笑った。
「またサンチェスさんに予約をお願いしてくるわね。すぐ出られるようにしてね」

「今度は、三味線持っていくぞ」
「ミュンヘンに行くって、ヤスミンに電話してこようっと」
三人はばたばたと行動に移った。

* * *


 翌日の午前の便が取れたので、二時にはもう三人はエッシェンドルフの館の前にいた。

 館に行くこと自体は怖くなかった。教授がもういないなら恐れるものはなかった。けれど、使用人たちの前にどんな顔をして入っていっていいのか、蝶子にはわからなかった。

「いいか。俺たちは外で待機している。三十分経ってもお前が戻ってこなかったら、突入するから」
蝶子の緊張の面持ちを見て、稔は言った。蝶子は笑った。
「心強いわ。行ってくるわね」

 以前と同じように手入れの行き届いた石畳の小道を通って、蝶子は玄関に向かった。意を決して呼び鈴を鳴らす。出てきたのは喪服を着たマリアンだった。

「まあ、蝶子様。ようこそ。アーデルベルト様がお待ちですわ」
「ありがとう、マリアン」

「あの、こんなときですけれど……」
「え?」
「ご結婚、おめでとうございます」

 蝶子は困ったように笑った。マリアンは皮肉ではなくて本心から言っているようであった。
「ありがとう」

 そうやって話している時に、階段の上からヴィルが降りてきた。やはり喪服を着ていた。
「蝶子。悪かったな。呼び出したりして」

 蝶子はヴィルに耳打ちした。
「あのね。ヤスとブラン・ベックも来ているの。私が三十分以内に安全に姿を現さない場合、強行突入するって手はずになっているの」

 ヴィルは少しおかしそうに顔を歪めて、そのまま玄関に向かい、外の二人を呼び寄せた。
「大丈夫だ。何の危険もない。今回は丁重に扱ってもらえるぞ。俺たちの待遇は改善されたんだ」

 二人は肩をすくめて、中に入ってきた。
「俺たち、心配だったから一応ついてきたけれど、なんでもないなら英国庭園あたりで稼いでいるぜ」

 稔の言葉にレネも頷いた。だがヴィルは頭を振った。
「いや、あんたたちにも一緒に聞いてもらいたい話なんだ。とにかく俺たちの今後のことに大きく関わってくる話だから」

 そういうと、ヴィルは三人を連れて応接室に向かった。途中で、マリアンに声をかけた。
「この二人のために、寝室を二つ用意しておいてくれないか」

「わかりました。二階の東の二部屋の準備をしておきます」
「ありがとう」

 応接室は広く、優雅な調度が置かれていた。がっしりとした座り心地のいいルイ十六世様式の椅子や重厚な飾り棚が、いかにもドイツという感じで、同じ裕福な館でも華やかで異国的な要素の強いバルセロナのコルタドの館とは好対照だった。

 ヴィルは重い扉を閉じると、棚からアクアヴィットの瓶と小さいグラスを四つ取り出してきた。
「一ダースも注文したのに、あの晩俺が一口飲んだだけで誰も手をつけていないんだ」

 レネがにっこりと笑った。
「まだ、飲んだことないんですよ」

「販売しているのにか?」
「あれが最初で最後の販売だったんで」

 四人はグラスを合わせて、その透明の酒を飲んだ。
「うげ。強い」
稔は目を白黒させた。レネは咳き込んだ。

「これ、12本もあるわけ?」
蝶子も氣が遠くなる思いがした。ヴィルだけが平然と飲んでいたが、一杯でやめて、代わりに白ワインを持ってきた。

「それで?」
蝶子がヴィルの顔を見た。

「俺は今、選択を迫られている。つまり、相続するか放棄するか」
「お蝶はともかく、俺とブラン・ベックに相談する必要はないだろう?」
稔はあっさりと言った。

「そういうわけにはいかない。Artistas callejerosの今後にも関係がある」
ヴィルは答えた。

「それはつまり、相続したら、お蝶とテデスコが抜けるってことか?」
稔の言葉に蝶子はびっくりしてヴィルの顔を見た。

 ヴィルは即座に首を振った。
「抜けるわけはないだろう。だが、活動には影響が出る。もらうのは単なる銀行預金ではないので、受け取るだけ受け取って、年中ほっつき歩いているわけにはいかなくなる」

「というと?」
「コモやバロセロナ、それにマラガの仕事をするぐらいは問題ない。また、秋にピエールを手伝うのも問題なくできる。だが、それ以外は半分くらいになるだろうな。月に一度、数日間はここに戻らなくてはならないだろうし、お偉方とつきあわなくてはならないことも増えると思う」

 蝶子はほっとした。思ったほど悪くないじゃない。
「相続したほうがいいと思う理由もあるんでしょう?」

 蝶子の言葉にヴィルは頷いた。
「以前、大道芸人は若くて健康でなければできないという話をしただろう。今は自由で氣ままな旅さえできればそれでいいが、そのうちに体が利かなくなる。その時に四人とも安心していられる」

「カルちゃんにたかってばかりいる状況も改善できるわね」
「そうだ、それが二つ目だ。彼の事業に協力することも可能になる」

 蝶子はそんなことは考えたこともなかったが、確かにそうかもしれないと思った。

「それから、三つ目だ。俺はあんたたちの才能を街角の小銭集めだけで終わらせるのは残念だと常々思っていた。俺が相続すれば、俺たちの活動の可能性がもっと広がる」

 ヴィルは稔、レネ、それから蝶子の顔を順番に見た。
「だったら、どうして相談する必要があるんだ?」
稔が訊いた。

「これは俺の考えで、あんた達がどう考えるかはわからないからだ。もしこの相続で、Artistas callejerosが壊れるなら、俺は相続を辞退するつもりだ。それほどの価値はないからね」

「いまのところ、壊れるようなことは考えられないよな。先のことはわかんないけれど、俺たちの氣持ち次第で続きもするし、壊れもするんじゃないかな。とくにマイナス要因はないよ。相続すればいいんじゃないか?」
稔が言った。レネも手を挙げて賛成の意を表した。

 ヴィルは蝶子の方を見た。
「あんたには、反対する他の理由があるだろう。ここに関わるのはイヤなんじゃないか?」

 蝶子は少し間を置いてから首を振った。
「日本の諺に『毒を食わらば皿まで』っていうのがあるのよ。こうなったらどんな恥を上塗りしても同じだわ。利点の方が大きいもの、私は意義なしよ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (5)ミュンヘン、弔いの鐘 -1-

しばらく記念掌編や企画ものを続けて発表していたので、「大道芸人たち 第二部」ずいぶん空いてしまっています。チャプター1はまだ終わっていません。「教授は第二部もでてくるんですか」という質問にうやむやな回答を続けていましたが、ここでようやくはっきりしましたね。

今回も、長いので、3つに分けています。


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あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(5)ミュンヘン、弔いの鐘 -1-


 サンチェスの持ってきた電報をじっと見ていたヴィルに、蝶子が心配そうに声をかけた。
「どうしたの?」

 ヴィルは黙って、電報を蝶子に渡した。差出人はエッシェンドルフ教授の秘書のマイヤーホフだった。蝶子の電報を持つ手が震えた。
「チチウエ シス シキュウ レンラクサレタシ」

 ヴィルはカルロスに電話の使用許可を求めた。そして、マイヤーホフにではなく、ミュンヘンのシュタウディンガー博士という医者の診療所に電話をかけた。またしても父親の策略ではないかと思ったからだ。

「アーデルベルト・フォン・エッシェンドルフです。シュタウディンガー先生とお話ができませんか」

 博士は不在だったが、診療所の指示で博士の携帯電話にかけ直した。
「アーデルベルト君か。よく電話してくれた。いま、私はちょうど君のお父さんの館にいるんだ。そうだ。本当にお父さんは亡くなった。心臓発作だ。マイヤーホフ君がどうしても君と連絡を取りたがっている。ここにいるから話してくれないか」
「替わってください」

 ヴィルはしばらくマイヤーホフと話していたが、電話を切ってから蝶子に言った。
「ミュンヘンに行かなくてはならない」

「わかったわ」
「向こうに着いたら、すぐ連絡する。あんたはここにいるんだ」

「連絡がこなかったらまた迎えに行くから」
ヴィルは蝶子の頬に手をやって頷いた。

「で、行っちゃったのかよ?」
マリサとのデートから帰ってきた稔は驚いて言った。

「そうなんです。ミュンヘン行きの飛行機をサンチェスさんがすぐ手配してくれたんで」
レネがイネスの作ったチュロスを食べながら言った。

「大丈夫なのか? またしてもカイザー髭がなんか企んでいるんじゃないのか?」
稔はとことんエッシェンドルフ教授を信用していない。蝶子はそれももっともだと思った。

「信頼できるお医者さんが、本当に亡くなったっておっしゃったみたいなの。でも、連絡がこなかったら、迎えにいかなくちゃいけないでしょうね」
「おいおい。二ヶ月に三回もバイエルンとバルセロナ往復かよ」
「ごめんなさいね。私たちのことで振り回して」

「いいけどさ。だけど、テデスコは複雑な心境だろうな。いくら逃げ出したとは言え父親だからな」
「パピヨンも、大丈夫ですか?」
レネが蝶子を心配した。
「ショックなのは確かだけれど、でも、ヴィルの方が心配だわ」

* * *


「まあ、アーデルベルト様」
家政婦のマリアンが半ば泣いているように迎えでた。

「マイヤーホフはここにいるのか」
「はい。先ほどから応接室で顧問弁護士のロッティガー先生と一緒にお待ちです」
「そうか」

 ヴィルは応接室に向かった。
「お待たせしました」

「ああ、アーデルベルト様、お待ちしていました」
マイヤーホフは心底ほっとしたようだった。
「二度と戻ってくるつもりはなかったんだが」

 ロッティガー弁護士とマイヤーホフのお悔やみの言葉を、ヴィルは軽くいなして、先を続けさせた。
「先日、フロイライン・四条あてに招待状を送ったときの指示メモが残っていたのが幸いでした。アーデルベルト様がみつからなかったら、葬儀も今後の使用人の身の振り方もお手上げなんですよ。他に取り仕切る権限のある方がまったくいませんからね」

「あんたがすればいいじゃないか」
「私は単なる使用人です。法的にも全く何の権限もないんです。たとえば、もう銀行預金が凍結されているので葬儀の準備も私どもでは手配できません。かといって先生ほどの方の葬儀をしないわけにもいきません。また、月末までこういう状態だと、全使用人が給料をもらえませんしね」

 マイヤーホフの言葉に頷いてロッティガー弁護士は続けた。
「アーデルベルト君。君は、お父様の死で自動的にこのエッシェンドルフの領主になったんですよ。わかりますか」
「俺は、親父が遺言状をとっくに書き換えたと思っていましたよ」

 弁護士は首を振った。
「エッシェンドルフ教授があなたが十四歳の時に作成した遺言状は一度も変更されていません。つまり、あなたを跡継ぎとしたその遺言が有効なのです。もちろん、あなたには相続を辞退する権利もありますが、少なくとも葬儀並びにすべての手続きが終わり、彼ら使用人の身の振り方が決まるまでは、煩雑な義務の山からは逃れられないんですよ、残念ながら」

「もちろん、このまま我々が新しい職場を探さずに済むなら、それに超したことはないのですが……」
マイヤーホフが小さく付け加えた。ヴィルはため息をついた。
「わかりました。とにかくすべきことをしましょう」

「なぜこんな急に親父は死んだんだ? 心臓が悪かったのか」
弁護士が帰ると、ヴィルはマイヤーホフに訊いた。

「いいえ。時々不整脈がある程度でしたが、もともと大きな発作があったわけではないのです。それが……」

 マイヤーホフは言いにくそうにしていたが、意を決したように顔を上げた。
「申し上げておいた方がいいでしょうね。どうぞこちらへ」
そういって教授の書斎にヴィルを案内した。そして、デスクの上にあった一枚の書類を見せていった。

「実は、遺言状のことをもう一度きちんと検討したいとおっしゃって、私にいくつかの書類を用意するようにお申し付けになったのです。それで、言われたように準備してお渡ししたところ、これをご覧になって非常にショックを受けられ、それで発作を……」

 それはヴィルの、つまりアーデルベルトの家族証明書だった。結婚したばかりの妻、蝶子の名前が記載されていた。ヴィルは黙ってそれを見ていた。つまり、これが原因で命を落としてしまったというわけか。

「じゃあ、親父は遺言状を変えるつもりだったんだな」
「検討したいとおっしゃっただけです。どうなさるおつもりだったかはロッティガー先生も私も伺っていません」

「だが、あんたたちは、俺が相続するのは腹立たしいだろう。そんな事情では」
「どういたしまして。代わりに私を相続人に指定すると言われていたなら悔しいでしょうが、そんなことはあり得ませんからね。私としては、見知らぬ方に放り出されるよりは、これまでのことを知っているあなたに公正な処遇をしていただくのを期待したいわけでして」

「とにかく、葬儀を進めよう。相続については、いますぐは決められない。もちろん、あんたたちの給料が出ないままなんかにはしておかないから安心してくれ」
「それを聞いて安心しました」
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Posted by 八少女 夕

【小説】秋、まつり囃子



今日発表するのは、読み切り短編集「四季のまつり」の第3回、秋の話で「秋祭り」を題材にした掌編です。

第1回と、第2回が両方とも既に書いた作品の外伝だったのですが、この作品は完全な読み切りにしました。モチーフは祭のお囃子で、イメージしたのは「葛西囃子」ですが、すみません、よくわかっていません。

それと、モーリシャスの密輸話が出てきますが、これは連れ合いの友人に起こった実話をモデルにしています。その人は、未だに服役しているみたいです。うまい話には氣をつけましょうってことで。




秋、まつり囃子

 西陣織の袋の紐を回して解いた。それはまるで茶道のお点前のように、定められた動きだ。どうしてもそうしなくてはならないわけではないけれど、誠也がそうしていた姿を忘れないために、私も同じようにする。

 甲斐のご隠居が、じっと私を見つめている。秋祭りは明後日に迫っている。約束の10年。私は誠也の代わりにこの伝統を受け継ぐのだ。

 子供の頃から、秋になると加藤誠也の付き合いは極端に悪くなった。彼だけでなく彼の家族全員の関心がおおとり 神社の祭礼に向いたからだ。

 私の通っていた小学校は、M区の11番目の学区にあった。隣のS区との境界が変則的で、一度S区に入ってそれから再びM区に入る通学路のせいで、同じ通学路を使うのは私と誠也だけだった。誠也は、祭が好きなだけあって氣っ風のいい江戸っ子で2つ歳下の私の面倒をよく看てくれた。帰宅時には待っていてくれたし、クラスのいじめっ子に上履きを隠された時も、談判して取り返してくれた。

 私は、孵ってすぐに犬を見てしまったアヒルみたいに、誠也の後について歩いていれば安心する変な子供になってしまった。

 でも、今、周りの人たちが思い込んでいるような、甘い想いを誠也に抱いたことはない。誰もが私が篠笛を吹くようになったのは、誠也に恋をしているからだという。でも、本当にそんなことじゃないのだ。

 私は残業をしない。「腰掛け女め」とあからさまに嫌味を言う男もいる。言いたければ言えばいい。私には営業時間中にダラダラと暇をつぶし、5時近くなってからようやく仕事を始めているような時間がないのだ。

 可能な限り定刻で上がり、甲斐のご隠居の家に急ぐ。そして、「とんび」つまり篠笛を習う。「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四丁目」曲目はこの4つだが、まともに吹けるようになってきたのはここ3年ほどだ。

 私が甲斐のご隠居に教えてほしいと頭を下げたとき、誰もが「冗談もたいがいにしろ」と言った。女の私がお囃子に加わるなんてとんでもないとも言われた。誠也があそこまで吹けたのは6年も精進していたからであって、そんな簡単に代わりができると思うなんて思い上がりだとも言われた。

 最終的に味方をしてくれたのは、他でもない甲斐のご隠居だった。

「今の時代、男だ女だと言っていたら、お囃子の伝統は途切れてしまう。やりたいと言うからには、弱音は吐かないだろう。10年精進できたらわしに代わらせよう。どっちにしても、わしがくたばるまでに他の志願者はもう出てこんだろう」

 私が「とんび」を習い始めて2ヶ月くらい経った頃、誠也のお母さんが私を訪ねてきた。
「秋絵ちゃん。話しておかなくてはいけないことがあるの」

 私は、静かな喫茶店で誠也のお母さんと向かい合った。彼女は、しばらく何でもない世間話をしていて、私は彼女が話を始めるのを待った。やがて、彼女は決心したように私を見た。
「ねえ、秋絵ちゃん。あなたがお囃子の笛を習いだしたことだけれど、誠也の代わりにと思ってくれたんじゃない?」
「はい」

「その……あなたと誠也は……何か約束をしていたの?」
私は首を振った。
「いいえ。誠也はお祭りのことやお囃子のことは、何も」

「ううん。そういう意味ではなくて、その……」
私は、お母さんが示唆していることがわかって、大きく首を振った。
「いいえ。つき合っているとかそういうことはなかったです。それに、誠也にはユキさんという彼女がいますよね」

「そう」 
誠也のお母さんはため息をついた。それから、またためらいがちに訊いた。
「あの子がどうしていなくなったか、知っている?」
「いいえ。いろいろな事を言う人がいますけれど……」

 そう。誠也は死んだとか、ユキさんと駆け落ちしたとか、伝染病で隔離されているとかみんなが勝手なことを言っていた。でも、お葬式もなかったし、ご家族が泣いているような様子もなかった。

 お母さんは、声を顰めた。
「全部違うの。あの子はね、モーリシャスで逮捕されたのよ」

 私は心底驚いた。逮捕? モーリシャス? 

 その後、誠也のお母さんが話してくれたことは、私の想像を大きく超えていた。誠也は、インターネットで知り合った誰かから特別なバイトを引き受けた。それは南アフリカ共和国からモーリシャスにダイアモンドの原石を運ぶだけの簡単なものだった。ただでモーリシャスに行けると知って彼は喜んだ。けれど、その箱にはダイヤの原石ではなくて麻薬が入っていたのだ。

「弁護士さんが言うには、誠也は囮に使われたみたいなの。あらかじめリークして、わずかな量の麻薬を持った人の捕り物をさせておき、その後からもっと大量の麻薬を持った目立たない人間を通らせる手口があるんですって。でも、誠也は現行犯で逮捕されてしまったので、どうにもならないの。彼には懲役20年が求刑されているの」

 私は言葉を失った。お母さんは申しわけなさそうに言った。
「その……もし、秋絵ちゃん、あなたが誠也の帰ってくるのを待っているんだとしたら……ちゃんと話してあげた方がいいと思ったの。待っているうちにあなたの人生を無駄にしてしまうから」

 私は首を振った。
「それは私じゃなくて、ユキさんにおっしゃることじゃありませんか」

 お母さんは悲しそうに肩をすくめた。
「ユキさんね、別の方と婚約したんですって。誠也の自業自得とはいえ、落ち込んでいるあの子に言いにくくて、まだ言っていないんだけれど」

 お母さんは後に、彼が本当に懲役刑になったことを教えてくれた。いつの間にか誠也がどうしたのか噂をする者はいなくなった。人間は簡単に忘れられてしまうんだなと、悲しくなった。私は一度だけ誠也に手紙を書いて、お母さんに送ってもらった。誠也が跡を継ぐはずだった甲斐のご隠居の「とんび」を私が習い始めていること、戻ってきたらいずれ一緒にお囃子をやりたいということを。

 返事はもらわなかった。

 そして、あっという間に10年が経った。甲斐のご隠居は、ようやく私に今度の鷲神社秋祭りのお囃子で演奏することを許してくれた。法被を作り、他の演奏者たちと1年にわたり入念な練習を重ねてきた。はじめは女だからと反対していた大太鼓の長さんも、鉦の大二郎さんとも息のあったお囃子が演奏できるまでになってきた。

 私は日本のお祭りの伝統を受け継ぐのだ。甲斐のご隠居が守ってきた、誠也が夢見ていた、失われてはいけない日本の文化を未来に受け継いでいくのだ。女であろうと、誰かの恋人ではなかろうと、そんなことは関係ない。私はおおとり 様に10年変わらぬお祈りをしてから「とんび」を奏でる。

* * *


 祭礼当日。昨日から少しずつ始まったお祭りの設営は、昼前には全て終わった。射的の屋台ではきれいに並べられた景品を手に入れようと銃を打つ音が聞こえだした。水色の浅いプールには金魚が泳いでいる。それにゴムのヨーヨー同士がこすれる音。風船を膨らます音。カルメ焼きや綿飴の屋台からは砂糖が焦げるいい香りがして、それにイカ焼き、焼きそば、トウモロコシ、今川焼などのたまらない香りが漂う。

 その全てにノスタルジックな祭らしさを加えるのがお囃子だけれど、それをいま演奏している社中にこの私が加わっているのだ。去年までは、脇に控えて甲斐のご隠居の演奏を聴いていた。今年はその位置にいて私たちを見ているのがご隠居だ。

 もちろん夜までずっと私が吹くのではなくて、朝、昼、夜と1回ずつの出番で、残りは今まで通り甲斐のご隠居が吹く。なんといっても「とんび」はお囃子の主導的な役割を担っていて、私のような若輩者が僭越ながらベテランの長さんたちを率いるのだ。

 十年もずっと練習してきただけのことがあって、指の動きも音色も滑らかにできた。それでも、祭の雰囲氣はいつもの練習とは違って、心が昂揚しているのがわかる。通りかかった親子が楽しそうに眺めていく。

 父親と母親は、心配そうに朝一番で見にきたが「思ったよりまともなお囃子になっているぞ」と失礼な驚き方をして帰っていった。

 去年まで実行委員で忙しくしていた誠也のご両親の姿は、今年は見ていなかった。一昨日のリハーサルの時に誠也のお母さんが少しだけ見にきて、何かを言いたそうにしていたけれど、時間がなかったのかそのまま帰ってしまった。

 もしかして、加藤のおばさんは、私が誠也の代わりにここで吹いているのを見るのがつらいのかな。そんな風に初めて考えた。モーリシャスの監獄で20年も過ごすなんて。その間の青春もキャリアも、みな無駄になってしまって。ユキさんと結婚でもしていたら子供はもう小学校に入る頃だ。

 今夜の最後の出番を終えた。「屋台」を威勢良く吹き終えて、五人揃ってお辞儀をした。笛を西陣の袋に収めて神楽殿から退出する。脇で待っていた甲斐のご隠居が「よくやった」と笑って褒めてくれた。

「ありがとうございました」
私は、ようやくほっとして、それから肩がひどく凝っていることに氣がついた。

「練習と違って、本番は、緊張するだろう」
「はい」

「来年は、もう少し出番を増やすからな」
「はいっ。この後は、ご隠居のお囃子を聴いて勉強しますね」

 そういうと、ご隠居は首を振った。
「今日はもういい。お前を待っていた人がいるから、屋台めぐりでもしてくるがいい」

 誰だろう? 私が今夜お囃子で演奏することを知っている人なんてそんなにいないはずなのに。ご隠居が示した方を見たら、ありえない人が立っていた。

「誠也!」
モーリシャスの監獄にいるはずの幼なじみが、立っていた。昔とあまり変わらないジーンズと、チェックのシャツを着ていたけれど、痩せて日に焼け、それにかなり白髪が交じっていた。でも、少なくとも彼はわずかに笑顔を見せていた。

「どうして? 帰って来れたの?」
「うん。判決では15年の実刑だったんだけれど、品行方正のせいか早く出してもらえた」
「いつ帰って来たの?」
「3日前」

 だから今年は加藤家が誰もお祭りの運営にいなかったんだ。息子が帰ってくる準備でそれどころじゃなかったから。

「よかった」
私は、ほっとしてパイプ椅子に座り込んだ。誠也はポケットに手を突っ込んだまま肩をすくめた。

「立派なお囃子デビューだったな、秋絵」
誠也の言葉に、私は顔を上げた。
「そう思う? 私は10年前の誠也の方が上手かったと思うけれど、でも、頑張ったんだよ」

 誠也はポケットからくたびれた封筒を取り出した。見憶えがあった。私が書いた手紙だ。
「これ読んでから、母に頼んで笛を差し入れてもらった。自由時間に練習したよ。何もかもダメになったと思ったけれど、少なくとも帰ったらまた、お前や社中のみんなとお祭りで演奏するんだって、励みになった」

 私は大きく頷いた。嬉しくてしかたなかった。
「来年のお祭りには出られるといいね」
「そうだな。なんか食いにいこうぜ。お祭りの屋台を見たら、ようやく本当に帰って来たんだって実感したよ」

「何が食べたい? 好きなものおごるよ。振興会のみなさんからデビューのお祝いももらったし」
「じゃあ、焼きそばから行くか。それから、お前の好きなりんご飴……」

「うん。でも、その前に神様にお参りしよう。お願い叶えてくれたお礼」
「お願い?」
「誠也が早く無事に帰って来ますようにって。たぶん、みんなが同じお願いして、うるさかったんじゃないかな、おおとり 様」

 誠也は笑った。
「だから早く出て来られたのか。じゃ、もう一度お参りするか」

 私たちは、おおとり 様にたくさんのお礼を言ってから、久しぶりに楽しい祭の宵を楽しんだ。

(初出:2016年9月 書き下ろし)
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【小説】夜のサーカスとガーゴイルのついた橋

さてリクエスト掌編、当ブログの77777Hit記念立て続けに発表させていただいていますが、77777Hit記念掌編としては6つ目。リクエストはスカイさんにいただきました。

ご希望の選択はこちらでした。

*現代・日本以外
*薬用植物
*一般的な酒類/もしくは嗜好飲料
*橋
*ひどい悪天候(嵐など)
*「夜のサーカス」関係


今回のリクエストは、先週発表したものに引き続き「夜のサーカス関係」でした。もともとこの「夜のサーカス」はスカイさんにいただいたリクエスト掌編が発展してできたお話。とてもご縁が深い作品なのです。今回の舞台は「現代・日本以外」ですので、いつものようにイタリアでメインキャラたちと遊んでもよかったのですが、せっかく団長とジュリアがいなくなっているのですから、たまにはサーカスの連中も海外に行かせるか、ということでドイツにきています。

何しにきたかは、読んでのお楽しみ。題名にもなっているガーゴイルとは、よくヨーロッパの建築についている化け物の形をした石像のことです。私はガーゴイルが結構好き。変なヤツです。

なお、この作品は外伝という位置づけですが「夜のサーカス」本編のネタバレ満載です。本編の謎解きをしたい方はお氣をつけ下さい。



「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物




夜のサーカス Circus Notte 外伝
夜のサーカスとガーゴイルのついた橋


 そのキャンプ場は、みすぼらしい外観からの予想を裏切って、立派な設備が整っていた。例えば、カフェテリアにはかなり大画面のテレビがあって、いま話題のニュースも確認できた。

 とはいえ、カフェテリアには大きなトラックの貨物室に乗ってやってきたイタリア人の集団がいるだけで、なぜ彼らがドイツ語放送のニュースを観て騒いでいるのか、カフェテリアの店番のハインツにはわからなかった。

 一人だけドイツ語の達者な女がいて、ニュースをイタリア語に訳して伝えていた。この女だけがログハウスを借りていて、残りの集団はみなそれぞれ持ってきたテントに寝泊まりしていた。この辺りは自然が豊かで、湖で泳いだりサイクリングをしたり、一週間くらい滞在する客は他にもいるが、この連中ときたら朝も晩もカフェテリアでニュースばかりを観ている。だったらイタリアにいた方が面白いだろうにと彼は首を傾げた。だが、彼はイタリア語が全くわからなかったので、興味を失いクロスワードパズルを解くために新聞に意識を戻した。

 アントネッラは、鋭い目つきでテレビを睨みながら、センセーショナルに報道されるいわゆる「アデレールブルグ・スキャンダル」の経過を説明していた。ミュラー夫妻殺人事件の公判に弁護士側の証人として登場したイェルク・ミュラー青年は、有名政治家ミハエル・ツィンマーマンこそがミュラー夫妻殺害の首謀者であると証言した。さらにアデレールブルグ財団設立をめぐるペテンの全容が公判で語られてしまったので、一大センセーションを巻き起こした。

 ツィンマーマンの配下による攻撃から証人ミュラー青年を守るために、警察は24時間態勢の警護をつけ、さらにその滞在先は極秘とされていた。

「なんで僕たちにまで秘密なんだよ」
キャンプ場の閑散としたカフェテリアを見回しながら、マッテオは口を尖らせた。

「知らせれば、こうやってゾロゾロみんながついていき、最終的にヨナタンがチルクス・ノッテにいることがバレちゃうからでしょう」
アントネッラは非難の目を向けた。

「都合良く《イル・ロスポ》がデンマークへ行くって言うからさ」
マルコが笑った。馴染みの大型トラック運転手《イル・ロスポ》ことバッシ氏が、彼らをこの南ドイツの街まで連れてきてくれたのだ。そして、一週間後に再びイタリアへと連れ帰ってくれる約束になっている。

 その場にいたのはマッテオだけでなく、ステラ、マルコ、エミーリオ、ルイージ、それに料理人ダリオまでいた。団長とジュリアが日本へ旅行に行き、チルクス・ノッテは珍しく一斉休暇になっていた。それで彼らは公判のために、シュタインマイヤー氏とともにドイツへと向かったヨナタンことイェルク・ミュラーを追ってドイツへやってきたのだ。ブルーノとマッダレーナも来たがったが、一週間ライオンたちを放置できないため、馬の世話も兼ねて二人は残っていた。

「それにしても、すごい天候になっちゃったわね」
ステラが、暗い外を眺めた。先ほどまでよく晴れていたのに、あっという間にかき曇り、大粒の雹が降り出したのだ。彼らは慌ててまずアントネッラのログハウスに向かったがすぐに6人もの人間が雨宿りするのは無理だとわかった。彼女の自宅同様、あらゆる物が床の上に散乱していたからである。

 それで、ダリオが腕を振るった特製ごった煮スープの鍋を持って、このカフェテリアに飛び込んだというわけだった。カフェテリアの中は、とてつもなくいい香りで満ちていた。普段は持ち込みの飲食は禁止なのだが、店番のハインツにもこの絶品スープを振るまい、さらにビールを多目に注文することで目をつぶってもらうことに成功した。ハインツは、上機嫌でパンを提供してくれた。

 食事が済むと、彼らはハインツに頼んでまたしてもテレビを付けてもらった。
「あっ、あれがツィンマーマンか!」
エミーリオが叫んだ。一同はテレビに意識を戻した。レイバンのサングラスをした背の高い男が、取材陣のフラッシュを避けながら裁判所の入口で待っていた黒塗りの車に乗る所だった。

 あれがヨナタンを利用したあげくに殺そうとした悪い男! ステラは、その有名政治家を睨んだ。

 報道規制が敷かれているのか、事件当時未成年だった証人のイェルク・ミュラー、現在ステラたちがヨナタンと呼んでいる青年は一切の報道で顔が明らかにされていない。一度だけ「法廷から滞在先向かう証人の車」を三流紙がスクープしようと追ったが、車の後部座席の窓にはカーテンがかかっていた。

 ステラはそのスクープとは言えない新聞も買った。ステラが興味を惹かれたのは、その車が通っているのはとある石橋で、氣味の悪い生き物を模したガーゴイルがその柱についていた。そして、それは今朝彼女が散歩した、このキャンプ場から3キロほど離れた所にあった橋のものに酷似していたのだ。

 もしかしてヨナタンもこの辺りに滞在しているのかしら。だったら、散歩の途中にばったりと出会ったりしないかな。

 そのアイデアを告げると、アントネッラは少し厳しい顔をしてステラに言った。
「ねえ。そういう思いつきで、ヨナタンの居場所を突き止めようとなんてしていないわよね」
「逢えたらいいなって思っただけよ」

「でも、なぜ彼が誰にも居場所を知らせないか、わかっているでしょう? ツィンマーマンの配下は血眼になって、ヨナタンを亡き者にするか、ヨナタンに証言させないための策略を練っているの。万が一、あなたたちとヨナタンのつながりを悟られたりしたら、わざわざ危険を冒して証言をしようとしている彼の迷惑になるのよ」

 そういわれると、ステラは自分がいかに思慮が浅かったか思い知らされて項垂れた。早く裁判が終わらないかな。こんなに長くヨナタンと離れているのは久しぶりなんだもの。

 青空が戻ってくると、みな自分のテントに戻った。雹の被害を受けていなかったのは、木の下に張ったステラのテントだけだった。

 他のみなが、テントを張り直して忙しそうだったので、ステラは水着の上にデニムのショートパンツとデニムシャツを着て、小さなリュックを背負うと川の方へと歩いていった。

 例の化け物のようなガーゴイルが沢山ついている橋の方をちらりと眺めた。ちょうど橋の向こうに黒塗りの車が2台停まって、黒いサングラスをして、黒い革ブルゾンや黒い背広を着た男たちが降りてきた。ステラはそっと身を隠すと、男たちの様子を伺った。

「この辺だ。よく探せ!」
一人の男が横柄な口調で命令していた。きっとあの悪者の手下たちだわ。ヨナタンを探して危害を加えようとしているのね。ステラは下唇を噛んだ。

 ステラは、そっと橋の下に移動すると、その裏側を腕の力だけでぶら下がりながら音を立てずに渡り始めた。川までは2mくらいあるが、ふだんサーカスのテントの上を飛び回っているステラには何でもなかった。無事に渡りきると、男たちに見つからないように身を屈めて車に近寄った。

 2台の車を停めてあった所は、セイヨウオトギリソウの自生地だった。背が高いものは1m近くにもなるので、身を隠すのにも丁度よかった。レモンのような香りのする可憐な黄色い花を咲かせる草で、怪我をした時に外用したり、お腹の調子を整えるハーブティーに入れたりもする有用な植物だ。

 この黄色い花は、ステラにはヨナタンとの思い出のある大事な花だった。それを無造作に車で踏みにじるなんて! ステラは「みていらっしゃい」と言うと、リュックからアーミーナイフを取り出すと、それぞれのタイヤをパンクさせた。

「なに、屋敷のようなものがあるって。本当か。あっちなんだな。よし、車で行くぞ」
その声が聞こえた時には、ステラはまた橋の下を伝わって向こう岸に戻っている途中だった。無事に渡りきると、いかにも今、泳ぎにきましたという風情で川の方へ降りて行った。2台ともパンクさせてあった黒い車は、男たちを乗せて発進した途端、変な方向に曲がり、そのままお互いに追突してしまった。

* * *


「変な話もあるものね」
シュタインマイヤー氏からの電話を切ったアントネッラが首を傾げていた。

「なにが変なのさ?」
マッテオが訊いた。

 雹の降った日の二日後、思い思いに休暇を楽しんでいたチルクス・ノッテの面々は、再びキャンプ場のカフェテリアに集い、ダリオが即席で作ったラズベリーの絶品ジェラートに舌鼓を打っていた。もちろんハインツにも振る舞ったので、コーヒーが勝手に出てきた。

「ミハエル・ツィンマーマンの手下がね。あちこちでヨナタンのことを探していたんだけれど、二日前からこの辺りだけを重点的に探すようになったんですって。嗅ぎ付けられないように氣を付けろって言われたわ。でも、どうしてなのかしら。撒き餌はあちこちにしたのに」

「撒き餌ってなんのこと?」
エミーリオが、その場にいた全員の疑問を代弁した。アントネッラは肩をすくめた。

「ヨナタンの乗っている車のフリをした囮の車、バラバラの方向に走らせているのよ。ほら。この近くの特徴のある橋の写真もその一つ」

「え。あれって、囮の車だったの? ヨナタン、この辺にはいないの?」
ステラは驚いて訊いた。

「いないわよ。私もどこにいるかは知らないけれど、少なくともこの辺りじゃないことは知っているわ。でも、どうして、あいつらは、この辺りばかりを重点的に探すようになったのかしら?」

 アントネッラの言葉にステラは申しわけなさそうに首を縮めた。
「もしかして、私のせいかも」
「ステラ? 何かやったの?」
「ええ。ちょっとね。見られていないはずだけれど、車をパンクさせちゃった」

 アントネッラがため息をついた。
「本当に困った子ね。でも、おかげであいつらがヨナタンを襲う確率は限りなく小さくなったからいいかしら。悪いけれど、もう二度とそんなことしないでよ。私たちとヨナタンの関係を知られるわけにはいかないんだから」
「ええ。ごめんなさい。もうやらないわ」

 ステラは内心すこしだけ嬉しかった。ヨナタンの身を守るのに貢献できたのだから。あとは足を引っ張らないように大人しくしていよう。

 イェルク・ミュラーの証言で裁判は、シュタインマイヤー氏の目論んだ通りに進み、ミュラー少年の命を助けた被告のヨナタン・ボッシュは実刑を免れた。一方で、ミュラー夫妻の殺害容疑ならびにアデレールブルグ財団設立に関する詐欺への捜査が始まり、主犯としてミハエル・ツィンマーマンの逮捕状が取られた。

 ステラたちの休暇も終わりが近づいていた。みなテントを畳んで撤収を済ませ、間もなく迎えにくる《イル・ロスポ》の貨物トラックを待った。ハインツは、ダリオと堅く握手をして、相伴に預かったおいしい料理の数々に対しての感謝を述べた。そして、「帰り道で飲んでくれ」とビールを2ダースも渡してくれた。

 通販会社Tutto Tuttoのロゴの入った大きなトラックが、キャンプ場に停まった。車窓から《イル・ロスポ》がそのあだ名の通りひきがえるにそっくりの顔を見せて「乗りなさい」と告げた。

 ヨナタンはいつ帰ってくるのかな。悪者たちにみつからないように、シュタインマイヤーさんがそのうちに届けてくれるんだろうか。早く逢いたいな。こっちではテレビでも、新聞でも、顔は見えなかったけれど、同じ国にいるだけで嬉しかったんだけれどな。ステラは後髪引かれる想いでしぶしぶトラックに乗った。

「早く帰らないと、マッダレーナとブルーノが怒るよな」
マルコが言った。そうよね。あの二人は、来ることもできなかったんだし、文句を言っちゃダメかな。ステラはしょんぼりして、トラックの荷台の扉を閉めた。トラックはすぐに発車した。

 アントネッラが、ステラに言った。
「ほら、この大きな包みを開けてごらんなさい」

 彼女の指差した先にはタンスの絵の描かれた大きな箱があった。「商品じゃないの?」と首を傾げたがよく見ると宛先は「チルクス・ノッテ」だった。ステラはドキドキしながらガムテープを剥がし始めた。マルコとエミーリオ、それにマッテオも続けて手伝いだした。開いた箱の中から、いつもの目立たないシャツとジーンズを身に着けた青年が出てきた。

「ヨナタン!」
みなが一斉に叫ぶと、チルクス・ノッテの道化師はニッコリと笑った。
「ただいま」

 ステラは大喜びで彼に抱きついた。《イル・ロスポ》の運転するトラックは、サーカスの一団を乗せて、一路イタリアへと帰っていった。

(初出:2016年8月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスとマリンブルーの輝き

さてリクエスト掌編、当ブログの77777Hit記念立て続けに発表させていただいていますが、77777Hit記念掌編としては5つ目。リクエストは山西左紀さんにいただきました。

ご希望の選択はこちらでした。

*現代日本
*野菜
*地元の代表的な酒/もしくは嗜好飲料
*公共交通機関
*夏
*「夜のサーカス」関係
*コラボ(太陽風シンドロームシリーズ『妖狐』の陽子)


今回のリクエスト、サキさんが指定なさったコラボ用のオリキャラは、もともとlimeさんのお題絵「狐画」にサキさんがつけられたお話なのですが、サキさんらしい特別の設定があって、これをご存じないと意味がないキャラクターです。というわけで、今回はご存じない方は始めにこちらをお読みになることをお薦めします。

山西左紀さんの 狐画(前編)
山西左紀さんの 狐画(後編)

そのかわり、私の方のウルトラ怪しい(っていうか、胡散臭い?)キャラクターは、「知らねえぞ」でも大丈夫です。

「夜のサーカス」はイタリアの話なんですけれど、現代日本とのことですので舞台に選んだのは、一応明石市と神戸市。でも、サキさんのお話がどことはっきり書かない仕様になっていますので、一応こちらもアルファベットにしています。前半の舞台に選んだのは、こちらのTOM-Fさんのグルメ記事のパクリ、もといトリビュートでございます。



「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物




夜のサーカス Circus Notte 外伝
夜のサーカスとマリンブルーの輝き


 蒸し暑い夏の午後だった。その日は、僕の個展が終わったので、久しぶりの休みを取りA市方面へ行った。長いほったらかしだった時間の埋め合わせをするように、出来る限り彼女の喜ぶデートがしたかった。

 ようやく僕が出会えた理想の女性。思いもしなかったことで怒らせたり泣かせてしまったりもしたけれど、誤解は解けて、僕たちはとても上手くいっている。少なくとも僕はそう思っている。

 今ひとつ僕の言葉に自信がないのは、陽子にどこかミステリアスな部分があることだ。もちろん、僕が一度経験した、夢のような体験に較べれば受け入れられる程度に謎めいているだけだけれど。

 朝食をとるにはとても遅くなってしまったので、僕たちはブランチをとることにした。彼女の希望で、A市に近い地元で採れた五十種類以上の野菜を使ったビュッフェが食べられるレストランを目指した。

 そこは広大な敷地、緑豊かな果樹園に囲まれている農作業体験施設の一部で、その自然の恵みを体で感じることが出来る。都会派でスタイリッシュな陽子が、農業や食育といったテーマに関心があることを初めて知った僕は、戸惑いを感じると同時に彼女の新しい魅力を感じて嬉しくなった。

 ビュッフェに行くと、僕はどうしても必要以上に食べたくなってしまうのだが、薄味の野菜料理なのでたとえ食べ過ぎてもそんなに腹にはこたえない。もっとも大量に食べているのは僕だけで、陽子はほんのわずかずつを楽しみながら食べていた。そして、早くもコーヒーを飲みながら静かに笑った。

「はじめての体験って、心躍るものね」
「初めて? ビュッフェが?」

 彼女は、一瞬表情を強張らせた後でにっこり微笑むと「ここでの食事が、ってことよ」と言った。それは当然のことだ。馬鹿げた質問をしてしまったなと、僕は反省した。

 そのまま農作業体験をしたいのかと思ったら、彼女は首を振って「海に行って船に乗りたいわ」と唐突に言った。

 海はここから車で三十分も走れば見られるが、船に乗りたいとなると話は別だ。遊覧船のあるK港まで一時間以上かけていかなくてはならない。だが、今日、僕は彼女の願いを何でも叶えてあげたかった。

「よし。じゃあ、せっかくだから、特別におしゃれな遊覧船に乗ろう」
「おしゃれな遊覧船?」
「ああ、クルージング・カフェといって、美しいK市の街並を海から眺めながら、洒落た家具の揃ったフローリングフロアの船室で喫茶を楽しむことが出来る遊覧船があるんだ。あれなら君にも満足してもらえると思う」

 K市の象徴とも言える港は150年の歴史を持つ。20年ほど前に起こった大きな地震で被害を受けた場所も多かった。港では液状化した所もあったが、今では綺麗に復旧している。災害の爪痕は震災メモリアルパークに保存され、その凄まじさを体感できるようになっているが、そこからさほど遠くないクルーズ船乗り場の近くにはショッピングセンターや観覧車などがある観光名所になっている。

 僕は陽子をエスコートしてチケットを購入すると「ファンタジー号」ヘと急いだ。船は出航寸前だったからだ。この炎天下の中、長いこと待たされるのはごめんだ。

 なんとか甲板に辿りつくと、この暑さのせいでほとんど全ての乗客は船内にいた。ところが、見るからに暑苦しい見かけの男が一人、海を眺めながら立っていた。

 その男は外国人だった。赤と青の縞の長袖の上着を身に着けていて、大きな帽子もかぶっていた。くるんとカールした画家ダリのような髭を生やしていて、僕と陽子を見ると丁寧に帽子を取って大袈裟に挨拶をした。

「これは、なんと美しいカップルに出会えた事でしょう、そう言っているわ」
陽子が耳打ちした。僕は、陽子がこの英語ではない言語を理解できるとは知らなかったので驚いて彼女を見つめた。陽子は「イタリア人ですって」と付け加えた。

 怪しいことこの上ない男は、それで僕にはイタリア語がわからず、陽子にだけ通じていることを知ったようだった。全く信用のならない張り付いた笑顔で、たどたどしい日本語を使って話しだした。
「コノコトバ ナラ ワカリマスカ」

 僕は、どきりとした。かつて僕が体験した不思議なことを思い出したのだ。人間とは考えられない異形の姿をしたある女性(異形であっても女性というのだと思う)を、僕は一時期匿ったことがあるのだが、その獣そっくりの耳を持った女性が初めて僕に話しかけてきた時、「コノコエデツウジテイル?」と言われたのだ。

 僕は、この人は日本語も話せるのか感心しながら「日本語がお上手ですね」と答えてみた。すると、男は曖昧な微笑を見せてすまなそうに英語で言った。
「やはり、日本語でずっと話すのは無理でしょうな。英語でいいでしょうか」

 僕は、英語ならそこそこわかる上、たどたどしい日本語よりは結局わかりやすいので、英語で話すことにした。

「日本にいらしたのは観光ですか?」
「ええ。私はイタリアで小さいサーカスを率いているのですが、こともあろうに団員の半分が同じ時期に休みを取りたいと言い出しましてね。それで、まとめて全員休みにしたのですよ。演目が限られた小さな興行で続けるよりは、全員の休みを消化させてしまった方がいいですからね。それで生まれて初めて日本に来たというわけです」

 サーカスの団長か。だからこんな派手な服装をしているのか。
「それにしても暑くないのですか? そんな長袖で」
「私はいつ誰から見られてもすぐにわかるように、常に同じでありたいと思っているのですよ。だからトレードマークであるこの外見を決して変えないというわけなのです」
変わった人だ。僕は思った。

「外見を変えない……。変えたら、同じではなくなるなんてナンセンスだわ」
陽子が不愉快そうに言った。すると、サーカスの団長といった男は、くるりとしたひげを引っ張りながらにやりと笑い、陽子の周りをぐるりと歩いた。

「そう、もちろん服装を変えても、中身は同じでしょう。ごく一般的な場合はね」
「なんですって?」

 男は、陽子には答えずに、僕の方に向き直ると怪しい笑顔を見せた。
「だまされてはいけません。美しい女性というものは、化けるのですよ、あなた」

「それは、どういう意味ですの」
陽子が鋭く言った。

「文字通りの意味ですよ。欲しいものを手に入れるために、全く違う姿になり、それまでしたことのない経験を進んでしたがる。時には宝石のような涙を浮かべてみせる。我々男にはとうていマネの出来ない技ですな」

「聞き捨てならないわ。私のどこが……」
言い募る陽子の剣幕に驚きつつも、僕はあわてて止めに入った。
「この人は一般論を言っているだけだよ。僕は、少なくとも君がそんな女性じゃないことを知っている」

 そういうと、陽子は一瞬だけ黙った後に、力なく笑った。
「そう……ね。一般論に激昂するなんて、馬鹿馬鹿しいことだわ。ねぇ、キャビンに入って、アイスクリームでも食べましょう」

 その場を離れて涼しい船内へと入ろうとする二人に、飄々とした声で怪しい男は言った。
「では、私もご一緒しましょう」

 陽子は眉をひそめて不快の意を示したが、そんなことで怯むような男ではなかった。それに、実のところ空いているテーブルはたった一つで、どうしてもこの男と相席になってしまうのだった。僕は黙って肩をすくめた。

 ユニフォームとして水兵服を着ているウェイトレスがにこやかにやってきて、メニューを示した。
「いらっしゃいませ。何にいたしましょうか」

「何か冷たいものがいいな。陽子、君はアイスクリームがいいと言っていたよね。飲み物は何がいい?」
「ホットのモカ・ラテにするわ」

 僕は吹き出した汗をハンカチで拭いながら、驚いて陽子を見た。ふと同席の二人を見ると、どちらも全く汗をかいた様子がない。いったいどういう事なんだろう。

「私は、このビールにしようかな。こちらの特別メニューにあるのはなんですかな」
サーカス団長の英語にウェイトレスはあわてて、僕の方を見た。それで僕はウェイトレスの代わりに説明をしてやることにした。

「ああ、期間限定で地ビールフェアを開催しているんですよ。このH県で生産しているビールですよ。城崎ビール、メリケンビール、あわぢびーる、六甲ビール、有馬麦酒、山田錦ビール、幕末のビール復刻版、幸民麦酒か。ううむ、これは迷うな。どれも職人たちが手作りしている美味いビールですよ」

「あなたがいいと思うのを選んでください」
そういわれて、僕は悩んだが、一番好きな「あわぢびーる」を選んで 二本注文した。酵母の生きたフレッシュな味は、大量生産のビールにはない美味しさなのだ。

「なるほど、これは美味いですな」
成り行き上、乾杯して二人で飲んでいる僕に陽子が若干冷たい視線を浴びているような氣がして僕は慌てた。
「陽子、君も飲んでみるか?」

「いいえ、私は赤ワインをいただくわ」
陽子は硬い笑顔を僕に向けた。結局、クルーズの運行中、謎の男はずっと僕たちと一緒にいて、陽子の態度はますます冷えていくようだった。

 下船の際に、さっさと降りて行こうとする陽子を追う僕に、サーカスの団長はそっと耳元で囁いた。
「言ったでしょう。女性というのは厄介な存在なのですよ」

 誰のせいだ、そう思う僕に構わずに彼は続けた。
「彼女のことは、放っておいて、どうですか、私と今晩つき合いませんか?」

 僕は、心底ぎょっとして、英語がよくわからなかったフリをしてから彼に別れを告げ、急いで陽子を追った。

 彼女は僕の青ざめた顔を見て「どうしたの」と訊いた。
「どうしたもこうしたも、あの男、どうやら男色趣味があるみたいで誘ってきた。女性を貶めるようなことばかり言っていたのは、それでなんだな」

 それを聞くと、陽子は心底驚いた顔をした。
「まあ……そういうことだったのね、わたしはてっきり……」
「てっきり?」

 彼女は、その僕の質問には答えずに、先ほどよりもずっとやわらかくニッコリと笑った。
「なんでもないわ。ところでせっかくだから、そこにあるホテルのラウンジに行かない? もっと強いお酒をごちそうしてよ」

「いいけれど、僕は車だよ」
「船内でもうビールを飲んでしまったでしょう。あきらめなさい」

 僕は予定していなかった支出のことを考えた。海を眺める高層ホテルの宿泊代ってどれだけするんだろう。それでも、誰よりも大切な陽子が喜ぶことなら……。

 Kの港は波もない穏やかな海のマリンブルーの輝きに満ちていた。

(初出:2016年8月 書き下ろし)


この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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【参考】
神戸シーバス クルージングカフェ ファンタジー号

そして、実は、次も「夜のサーカス 外伝」なんです。イタリアに残った連中がなにをしていたかは、来週までのお楽しみ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】旅の無事を祈って

さてリクエスト掌編、当ブログの77777Hit記念立て続けに発表させていただいていますが、77777Hit記念掌編としては4つ目。リクエストはlimeさんにいただきました。

ご希望の選択はこちらでした。

*中世ヨーロッパ
*薬用植物
*一般的な酒類/もしくは嗜好飲料
*乗用家畜(馬・ロバ・象など)
*雨や雪など風流な悪天候
*「森の詩 Cantum Silvae」関係


中世ヨーロッパをモデルにした架空世界のストーリー『森の詩 Cantum Silvae』は、魔法やかっこいい剣士など一般受けする要素が皆無であるにも関わらず、このブログを訪れる方に驚くほど親しんでいただいているシリーズです。他のどの作品にもまして、地味で活躍しない主人公よりもクセのある脇役たちが好かれるので、勝手にその個性の強い脇役たちが動き出して続編がカオスになりつつあります。

今回、limeさんに「森の詩 Cantum Silvae」関連でとのリクエストをいただきましたので、独立したストーリーでありつつ、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」で拾えなかった部分と、続編「森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠」に繋げる小さいスピンオフを書いてみました。

ここに出てくる兄妹(馬丁マウロと侍女アニー)以外のキャラクターは全て初登場ですので、「知らないぞ」と悩まれる必要はありません。また、マウロとアニーの事情も全部この掌編の中で説明していますので、本編をご存知ない方でも問題なく読めるはずです。

出てくる修道院はトリネア侯国にあるという設定ですので、センヴリ王国(モデルはイタリア)をイメージした舞台設定になっていますが、この修道院長はドイツに実在したヒルデガルド・フォン・ビンゲンという有名な女性をモデルに組立てています。

そして《ケールム・アルバ》という名前で出てくる大きな山脈のモデルはもちろん「アルプス」です(笑)


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む
あらすじと登場人物

森の詩 Cantum Silvae 外伝



森の詩 Cantum Silvae 外伝
旅の無事を祈って


 時おり子供のような天真爛漫さを見せるその娘を、エマニュエル・ギースはいつも氣にしていた。彼は、ヴァレーズの下級貴族の三男で受け継ぐべき領地や財産を持っていなかったが、生来の機敏さと要領の良さでルーヴランの王城に勤めるようになってからめきめきと頭角を現し、バギュ・グリ候にもっとも信頼される紋章伝令長官アンブローズ子爵の副官の地位を得ていた。

 同郷のその娘は、とある最高級女官の侍女だった。森林管理官の姪で両親を早くに失ったので兄と二人叔母を頼り、その縁で王城に勤めていた。健康で快活なその娘のことを好ましく思い、彼はいつもからかっていた。

「なんだ。そんなにたくさんの菓子を抱えて。食べ過ぎると服がちぎれるぞ」
「これは私が食べるのではありません。里帰りのお土産です」

「おや、そうか。楽しみすぎて戻ってくるのを忘れるなよ」
「まあ、なんて失礼な。私は子供じゃないんですから! ギース様だって侯爵様の名代としてペイ・ノードへいらっしゃるんでしょう。あなた様こそ遊びすぎて戻ってくるのを忘れないようになさいませ」

 彼女のぷくっと膨らんだ頬は柔らかそうだった。触れてみたい衝動を抑えながら、彼はもう少し近くに寄って、こぼれ落ちそうになっている菓子を彼女が抱えている籠の中に戻してやった。

「一刻、家に戻るそなたと違って、私は雪と氷に閉ざされた危険な土地ヘ行くのだぞ。長い旅の無事を祈るくらいの心映えはないのか?」

 娘は不思議そうに彼を見上げて言った。
「ギース様ったら、あなた様の槍はあちこちの高貴な奥方さまから贈られたスダリウム(注・ハンカチのような布)でぎっしりじゃないんですか?」

「まさか。私はそんなに浮ついてはいないよ」
「まあ。槍が空っぽなんて、かわいそうに」

 彼女は楽しそうに言うと、籠を彼に持たせると懐から白いスダリウムを取り出して彼の胸元に無造作に突っ込んだ。
「これでもないよりはマシでしょう? あなた様の旅の安全を!」

 屈託のない笑顔を見せてくれたその娘が、捨て石にされてその主人であった女官とともに異国に送り込まれたのを聞いたのは、彼がペイ・ノードから戻ってきた後だった。

* * *


 マウロは北側にそびえる白い山脈を見上げた。白く雪を抱いたそれは、グランドロンやルーヴランといった王国と、センヴリやカンタリア王国のような南の地域を分ける大きな山脈だ。あまりに高く、壮大で、神々しいために、人びとは「天国への白い階段(Scala alba ad caelum)」転じて《ケールム・アルバ》と呼んでいた。

 彼は国王の使者であるアンブローズ子爵に連れられて、センヴリ王国に属するトリネア侯国の聖キアーラ女子修道院に来ていた。そこではルーヴラン王族出身の福者マリアンナの列聖審査が進んでいる。ルーヴラン国王はそれを有利に進めたかった。それで教皇庁から審査に派遣されているマツァリーノ枢機卿へ芦毛の名馬ニクサルバを贈ることにしたのだ。馬丁であるマウロはその旅に同行することを命じられた。

 ただの馬丁でありながら、マウロは自分が非常に危うい立場にあることを自覚していて、できれば一刻も早くこの勤めから解放されたかった。

 ルーヴラン王国は、永らくグランドロン王国から領地を奪回するチャンスを狙っていた。だが国力に差があり普通に戦を交えても勝てないことは火をみるより明らかだった。それでルーヴラン世襲王女との婚姻を隠れ蓑にグランドロン王国に奇襲をかけようとした。そのために偽の王女が送られたが、その奸計はグランドロンに見破られた。
 
 マウロは親友ジャックと共に、偽王女にされた《学友》ラウラと恋仲であった教師マックスの逃亡を手伝った。死んだ振りをしていたマックスを地下に運んだジャックは身の危険を感じて早くに姿をくらましたが、マウロは侍女である妹アニーの身を案じて城に留まった。

 ラウラ付きの侍女としてグランドロン王国に行ったアニーは一度は戻ってきたものの、バギュ・グリ侯爵に伴われて再びグランドロンへ行った。そして、それきり戻ってくることはなかった。

「勝手にいなくなった。おそらく死んだのだろう」
侯爵はそれ以上の説明をしてくれなかった。

 心酔していたラウラの仇を討とうとしたアニーがグランドロン王の暗殺に成功すればいいと思って自由にさせたに違いないのに、それが失敗すればすぐ自分たちは関係ないと切り捨てる。身勝手で小心者の侯爵をマウロは憎いとすら思った。彼はすぐにも妹を捜しに行きたかったので退職したいと申し出たが、それも許されなかった。

* * *


 ルーヴランやグランドロンのある北側の土地とセンヴリやカンタリアのある南側の土地の間に横たわる長く連なる山脈《ケールム・アルバ》にはすでに深く雪が降り、アセスタ峠を越えることが出来ないので、一行はバギュ・グリ領を通って海からトリネアに入った。

 アンブローズ子爵は船室の奥でギースと話をしていた。
「バギュ・グリ侯は、あの馬丁を殺してくるようにと仰せだ」
「なぜですか」

「侯爵は、グランドロンとの関係を損なわぬために、ラウラ姫をはじめからフルーヴルーウー伯に嫁がせたということにしたいのだ。だからあの偽王女が実はラウラ姫だったことを知っているだけでなく、侯爵がフルーヴルーウー伯やグランドロン王を殺そうとした件も知っているあの兄妹を抹殺したいのだよ。王を狙った妹の方はグランドロンで秘かに始末されたらしいが」

 ギースが下唇を秘かに噛んだが、アンブローズは氣づかなかった。
「とにかく、我々が戻るまでに殺らなくてはならない。だが、他の者たちには、我々が手を下したとわからぬようにせねば。この船の上から突き落としてしまえば簡単じゃないかね」

 ギースは首を振った。
「それはなりません。あの馬の世話はただの召使いにはできません。馬を引き渡すまではお待ちください」

 一行の中で軍馬ニクサルバの世話が出来るのはマウロだけだった。エサや水をやるだけではなく、マッサージをし、蹄鉄や足の状態などのチェックをするには熟練した馬丁である必要があった。アンブローズもそれは認めた。

「だが、あの者は我々を警戒しているだろう。馬がいなくなったら早々に逃げだすんじゃないのか」

 ギースはしばらく考えていたが、やがて言った。
「私におまかせくださいませ。修道院長のマーテル・アニェーゼは、以前からの個人的な知り合いなのです。独自修道会を目指すあの方はルーヴラン王国の支援が喉から手が出るほど欲しいはず。私から上手く事を運ぶように手紙を書きましょう」

 トリネア港につく少し前に、ギースは巨大な軍馬の世話をしているマウロの所へ行った。
「まもなく大役も終わりだな」
「ギース様」

「マウロ。アニーのことは、本当に氣の毒だった」
その言葉を聞くと、馬丁は青ざめて下を向いた。

「グランドロン王の暗殺を企てたのなら、許されるはずはありません。そうわかっていても、ラウラ様のご無念を思うと、何事もなかったように暮らすことは出来なかったのでしょう。止めることも、代わってやることもできなくて、本当にかわいそうなことをしました」

 ギースは、マックスとラウラが生きて、しかもフルーヴルーウー伯爵夫妻の地位におさまっていることを口にはしなかった。今ここでそんな事を言ったら、無為に妹を失い、自らも命の危険に晒されているこの馬丁が怒りと絶望でどんな無茶を始めるかわからない。彼は黙って自分のすべきことを進めることにした。

「マウロ。お前は危険が迫っていることを知っているな」
「ギース様……」

「お前にチャンスをやろう。いいか。あの修道院で馬を渡す時に、具合が悪いと修道女に申し出よ。我々の誰もがいない所に案内されたら、この手紙を院長にお渡しするのだ。お前を助けて逃すように書いておいた」
「ギース様、なぜ? そんなことをしたらあなた様のお立場が……」

 彼は、黙って懐から白い布を取り出した。そのスダリウムをマウロはよく知っていた。刺繍の不得意なアニーが彼にもくれたスダリウムにも、言われなければそうとは到底わからぬ葡萄とパセリの文様がついていた。妹がエマニュエル・ギースを慕っていたような氣配はまったくなかったので彼はとても驚いたが、少なくとも彼がそのスダリウムを肌身離さず持っている意味は明確だった。マウロは心から感謝して、その手紙を受け取った。

* * *


 アンブローズ子爵の一行は、華麗な馬具を身につけたニクサルバを連れて修道院へ入った。大人の身丈の倍近くもあるその軍馬は、さまざまな戦いで名を馳せ、諸侯の垂涎の的だった。その堂々とした佇まいは、馬には目のない枢機卿をはじめとした人びとの賞賛を浴びた。

 長い退屈な引き渡しの儀式の後、修道院の食堂で枢機卿と子爵の一行、そして修道院長マーテル・アニェーゼが午餐を始めた。マウロは、ギースに言われた通りに具合が悪いと若い尼僧に申し出た。

 粗相をされると困ると思ったのか、尼僧はすぐにマウロを案内し、中庭に面した静かな部屋に案内した。
「横になられますか。ただいまお水をお持ちします」

 マウロはあわてて声を顰めて言った。
「あの、具合の方は問題ないのです。実は、伝令副官のギース様から、他の同行者に知られぬように院長にお渡しすべき手紙を預かっているのです」

 それを聞くと尼僧は驚いたが「わかりました」と言って出て行った。

 大きな扉が閉められ、嘘のように静かになった。中庭にある泉ではチョロチョロと水音が響いていた。冷え冷えとしていた。マウロはこれからどうなるのだろうと不安になった。逃げだしたことがわかれば子爵はすぐに追っ手をよこすだろう。そうすれば殺すことももっと簡単になる。貴族でもなければ、裕福な後ろ盾もない者の命は、軍馬のたてがみほどの価値もない。

 そうでなくても、土地勘も友人もないトリネアでどこに逃げればいいというのだろう。追っ手を恐れながらどんな仕事をして生きていけばいいというのだろう。道から外れた多くの貧しい者たちのように、じきに消え失せてしまうのだろうか。

 妹と同じように、この世からいなくなってもすぐに忘れられるのだろう。彼はアニーにもらったスダリウムを取り出して眺めてから目の所へ持っていった。

「何をメソメソしているんだ」
張りのある声がして、振り返ると戸口の所に華奢な少年が立っていた。ここにいるからには修道院つきの召使いなのだろうが、ずいぶん態度が大きい。

男装のエレオノーラ
このイラストの著作権はうたかたまほろさんにあります。無断転用は固くお断りします。

「なんでもない。君は誰だ。院長はいらしてくださらないのか」
「私はジューリオだ。院長は頃合いを見て抜け出してくるだろう。あの枢機卿は酒が入るとしつこいんだ。上手くあしらわないと列聖審査にも関わるし、大変なんだぞ」

「そうか。君は、ここで働いているのか。使用人にしては、ルーヴラン語、うまいな」
「トリネアの言葉はセンヴリの言葉よりもルーヴランの言葉に近いんだ。これは普段話している言葉さ。それに、私はここで働いているわけではない」

「じゃあ、なぜここにいるんだ? ここは女子修道院だろう?」
「マーテルお許しがあってここには自由に出入りできるのさ。それよりもお前こそ何しにきたんだ」

「マーテル・アニェーゼに手紙を渡すためだ」
「どの手紙だ、見せてみろ」
「そんなのダメだよ。それに君は読み書きが出来るのか」

 ジューリオと名乗った少年は口を尖らせた。
「失礼な。詩を作ったりするのは得意じゃないが、手紙を読むくらいなんでもないぞ。どのみちマーテルに言えば、私に見せてくれるに決まっているんだぞ。いいから見せてみろ」

 そう言われたので、マウロは懐から手紙を出して彼に渡した。マーテルがどんな反応をするのかわからなかったし、もしかしたらこの少年が逃げる時になんらかの手助けをしてくれるかもしれないと思ったのだ。ジューリオは笑って受け取ると丁寧に手紙を開いた。だが、手紙を読んでいるうちに眉をひそめて真剣な顔になった。マウロは不安な面持ちでそれを見つめた。

「なんて書いてあるんだ? 僕のことを書いてあると思うんだけれど」
ジューリオは、ちらっと彼を見ると頷いた。
「命を狙われているから逃がしてやりたいと書いてある」

 マウロはホッとした。少なくともギースは彼を騙したのではなかったのだ。

 その時、衣擦れの音がして二人の尼僧が入ってきた。一人は先ほどの若い尼僧で、もう一人が枢機卿の隣にいた修道院長だった。彼女はジューリオを見ると驚き、深くお辞儀をした。
「まあ、いらしていたのですか! ごきげんよう、エレオノーラさま。この方のお知り合いなのですか」
「いや。珍しい馬がいると聞いたのでやってきて、たまたまここで知り合ったのさ」

 マウロはぎょっとしてジューリオを見た。
「君は女性だったのか? それに……」

「この方はあなた様がどなたかご存じないのですか、エレオノーラさま」
「私は誰かれ構わず正体を明かすほど無防備ではないのだ」
「しかし、姫さま」

「そのことはどうでもいい。それよりもこの者が持ってきたこの手紙を見てくれ。この手紙を書いたギースという者はマーテル、あなたの友達か?」
「はい。古い知り合いでございます。以前ヴァレーズで流行病にかかった修道女たちを助け、薪の配達を停止した森林管理官に掛け合ってくださったことがございます。立派なお方です」
「そうか。この馬丁はルーヴで少々知りすぎたようで命を狙われている」

 そういうとジューリオことエレオノーラは手紙を院長に渡した。院長は厳しい顔で読んでいたが困ったようにマウロとエレオノーラの顔を見た。
「この方を亡き者にしたように振る舞いながら、フルーヴルーウー伯爵領へと逃してほしいと。神に仕えるこの私に演技とは言えそんなことを」

 エレオノーラは笑った。
「おもしろいではないか。あなたなら上手く切りぬけると期待されているのだ。マウロ、そもそも何を知ってしまったのか話してみろ。我々は口が堅いし、事情によっては、この私ひとりでもお前を助けるぞ」

 マウロは、ルーヴランで起こったことを院長とエレオノーラに話した。罪のない恋人たちと妹に起こった悲しい話に、修道女たちは同情の声を漏らした。妹が下手な刺繍をほどこしたスダリウムを見せながら、ギースが自らの危険を省みずに自分を救ってくれようとしていることも語った。院長はそのスダリウムを手にとった。

「これは珍しい意匠ですが、私どもとも縁の深いデザインです。あの薬酒を持っておいで」
院長は、若い尼僧に言った。やがて尼僧は小振りな壺と盃を三つ盆に載せて戻ってきた。院長は香りのするワインを注ぐとマウロとエレオノーラに渡した。

「これは特別なお酒なのですか?」
マウロが訊くと院長は微笑んだ。
「この修道院の庭で採れた葡萄で作った白ワインにお酢と蜂蜜、そしてパセリが入っています」

「なんだ。珍しくも何ともないではないか」
エレオノーラが不思議そうに覗き込む。院長は笑った。

「珍しいものではございません。けれども、そこにこの修道会の意味と神のご意志があると思っています。滅多に手に入らぬ珍しい植物で作った薬はとても高価で、王侯貴族や裕福な者しか使うことが出来ません。けれど貧しい者たちも健康な体を作ることで病に負けずに生き抜くことが出来るのです。どこでも手に入るものだけで出来たこの飲み物は強壮にいいのですよ。高価な薬を一度だけ使うよりも、日々体を丈夫にすることの方が効果があります。さあ、乾杯しましょう。あなたの妹さんが心を込めて刺繍をしたのと同じように、あなたの長生きを願って」
そう言って乾杯した。マウロはアニーを思って目頭が熱くなった。それから、この院長のもとに彼を逃してくれたギースに感謝して。

「マウロさん。時に私たちは試練の大きさに心砕かれ、父なる神に見捨てられたと感じるかもしれません。けれど、自暴自棄にならず、起こったことの意味を考えてください。あなたたちを利用し見捨てた方々をお恨みに思うお心はよくわかります。けれども、どうか憎しみの連鎖でお命を無駄になさらないでください。妹さんは、お仕えしていた方のために命を投げ出されましたが、同時にあなたとギースさまの幸運と安全を願われました。憎しみが妹さんのその想いよりも尊いはずはございません。ギースさまがあなた様のことをこの私に頼まれたのは、そうお伝えになりたかったからだと思います」

「しかし、なぜフルーヴルーウー伯爵領なのだろう? 腕のいい馬丁ならば、私の所に来てもいいのだが」
エレオノーラが言うと、院長はじろりと彼女を見てから言った。

男姫ヴィラーゴ ジュリアに憧れてらっしゃるあなた様が馬丁を連れて帰るなんて悪い冗談です。お父様がどんなに心配なさることか」
「ははは、そうだった。出奔したジュリア姫の夫になったのは馬丁だったな」

「マウロさん。ギースさまがフルーヴルーウー伯領ヘ行けとお書きになった理由は、私にはわかりませんが、何かご深慮がおありになるのでしょう。つい先日見つかったばかりの伯爵は、岩塩鉱で働く人びとの安全を慮って三人一組で働くようにと決まりを変えられたそうです。おそらく神の意に適うお心を持った方なのでしょう。私が腕のいい馬丁が働き口を求めているという推薦状を書きますので、それを持ってフルーヴルーウー伯爵の元をお訪ねになってみてはいかがですか」

 マウロは院長の言葉に深く頭を下げた。
「はい。ありがとうございます。フルーヴルーウー伯爵領にいれば、ルーヴランでの知り合いに会うことはないでしょうから、ギースさまにもご迷惑はかからないと思います。院長さまのご助力に心から感謝します」

「珍しくもない白ワインやパセリが、私たちの役に立つように、一介の馬丁であってもその天命を全うすることは出来ます。それに、エレオノーラさま。女の役目を全うしつつも活躍をすることは出来るのですよ。私たちはそれぞれに与えられた役割を受け入れることによって、真の力を発揮することが出来るのです」

 この手の説教には飽き飽きしているらしいエレオノーラは、手をヒラヒラさせると言った。
「わかった、わかった。では、私はじゃじゃ馬としての天命を全うすることにしよう。ここで出会ったのも神の思し召しだろう。この者がこの国を無事に出て、フルーヴルーウーへ辿りつけるように、私が手配しよう」

 それを聞いて院長はニッコリと笑った。

 彼女は枢機卿やアンブローズ子爵の元に戻ると、倒れた馬丁は性質の悪い流行病なのでしばらく修道院で預かると告げた。 

 マウロは、姫君エレオノーラの遊興行列に紛れてトリネアの街を出て、雪のちらつく峠を越えてフルーヴルーウー領へと向かった。

 数日後にルーヴランに帰る前に馬丁の様子を知りたいとやってきたアンブローズ子爵に対して、院長は「もうここにはいません」と答えた。ぎょっとしてどこにいると訊く子爵に、彼女は黙って上の方を指差し十字を切った。

 修道院長が十字を切るということは、決して嘘ではないことを知る子爵は、心の中で笑いながらも悲しそうな顔を作り、礼を言って暇乞いをすると一行に帰国を命じた。

 雪はゆっくりと里へと降りてくる。冬の間、トリネアやフルーヴルーウーと、バギュ・グリ領やルーヴランの間には、冬将軍が厳しい境界を作る。一刻でも早く帰らねばならなかった。

 子爵の横にいたギースには院長が指差した先は本物の天国ではなく雪を抱く《ケールム・アルバ》、かの伯爵領との国境であるフルーヴルーウー峠を指していることがわかっていた。

 マウロは、フルーヴルーウー伯爵となったマックス、妹が命よりも大切にしていた伯爵夫人ラウラと再会するだろう。兄がその二人の元で大切に扱われることこそ、アニーが心から望むことに違いない。

 彼は白いスダリウムの入っている左の胸に右手を当てた。

(初出:2016年8月 書き下ろし)

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全くの蛇足で、本編をお読みになった方はご存知のことですが、マウロの妹アニーも命を救われて、ラウラの侍女としてフルーヴルーウー伯爵に仕えています。つまり、マウロは遠からず死んだと思っていた妹とも再会することになります。この話の続きは、現在執筆中の「森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠」にご期待ください。(全然書いていないけれど)
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Posted by 八少女 夕

【小説】横浜旅情(みなとみらいデート指南)

さて、かなり間が空きましたが、リクエスト掌編、当ブログの77777Hit記念今週から、3つほど続けて発表させていただきます。そのひとつ目で、77777Hit記念掌編としては3つ目。リクエストはけいさんにいただきました。

ご希望の選択はこちらでした。

*現代日本
*針葉樹/広葉樹
*地元の代表的な酒/もしくは嗜好飲料
*橋
*晴天
*カンポ・ルドゥンツ村在住キャラ
*コラボ「秘密の花園」から花園徹(敬称略)


『秘密の花園』は、つい最近読ませていただいたけいさんの小説。花園徹はけいさんの小説群にあちこちで登場する好青年(ある小説ではすでに素敵な大人の男性になっています)で、本人には秘密めいた所はないのになぜか「秘密の花園」と言われてしまうお方。作品全てに共通するハートフルで暖かいストーリーからは、けいさんのお人柄と人生観がにじみ出ているのです。

うちでは「カンポ・ルドゥンツ村在住キャラ」「現代日本」ということですから、日本に縁のあるリナが一番適役なのは間違いないですが、あのお嬢はまったくハートフルではないので、毒を以て毒を制するつもりでもう一人強烈なキャラを連れて来日させました。

けいさん、私がもたもたしていたら、旅にでられてしまいました。これは読めないかな。ごめんなさいね。オーストラリアに戻られたらまた連絡しますね。


【参考】
「リナ姉ちゃんのいた頃」シリーズをはじめから読む



横浜旅情(みなとみらいデート指南)
Featuring『秘密の花園』


 晴れた。カラッカラに晴れた。桜木町駅の改札口で、花園徹は満足して頷いた。日本国神奈川県横浜代表として、スイスからやってきた少しぶっ飛んだ女の子とその連れに横浜の魅力を伝えるのに、申し分のないコンディション。

 徹は神奈川国立大学経営学部に在籍する21歳。オーストラリアにワーキングホリデーに行ったことがあり、英語でのコミュニケーションは問題ない。それに、そのスイス在住の女の子は、高校生の時に一年間日本に交換留学に来ていたことがあって、ただのガイジンよりは日本に慣れている。

 今日案内することになっているリナ・グレーディクとは、「友達の従妹の、そのまた知り合いの兄からの紹介」という要するに全く縁もゆかりもない仲だった。が、二つのバイトを掛け持ちしつつ学業に励む中での貴重な一日を潰されることにも怒らずに、徹は『インテリ系草食男子』の名に相応しい大人の対応で、誰も彼もいとも簡単に友達にしてしまう謎の女とその彼女が連れて来る男を待っているのだった。

 相手の男の名前は、トーマス・ブルーメンタール。厳つい筋肉ムキムキの男かな。リナが昨夜電話で徹につけた注文は「デートコース! ヨコハマデートにおすすめの所に案内してよね!」だったので、熱々の仲の男を連れてくるのかなと思った。でも、ってことは俺はお邪魔虫なんじゃ? 

「おまたせ!」
素っ頓狂な英語が聞こえて、徹は現実に引き戻された。見間違うことのないリナがそこに立っていた。栗色の髪の毛は頭のてっぺんの右側でポニーテールのように結ばれている。オレンジ色のガーベラの形をした巨大な髪留め。

 それが全く氣にならないのは、着ているものがオレンジと黒のワンピースなんだかキャミソールなんだかわからないマイクロミニ丈のドレスにオレンジのタイツ、そして、やけに高い黒のミュールを履いているド派手さのせいだった。徹は特にブランドに詳しいわけではないが、そのドレスがヴェルサーチのものであることはわかった。なんせ胸にでかでかとそう書いてあるのだから。

 だが、ド派手なのはリナだけではなかった。リナの連れは、ボトムスこそは黒いワイドパンツだけれど、カワセミのような派手なブルーに緑のヒョウ柄の、大阪のおばちゃんですら買うのに躊躇するようなすごい柄のシースルーブラウスを身につけていた。赤銅色に染めた髪の毛はしっかりとセットされている。その上リナにも負けない、いやもっと氣合いの入ったフルメイクをしていて、見事に手入れされた長い爪には沢山のラインストーンがついていた。

「はじめまして」
その「男」はにっこりと笑いかけた。

「トオル、紹介するわね。これがトミー。私がよく行く村のバー『dangerous liaison』の経営者よ。今回は、彼に日本のあちこちを紹介して回っているの」
「はじめまして、花園徹です」

「トミー、この人が『秘密の花園』ことトオルよ」
リナの紹介に彼は少しムッとした。
「ちょっと待て、俺には秘密なんかない。そのあだ名が嫌いだってこの前も言っただろう」

 リナは大きな口をニカッと開けてチェシャ猫のように笑って答えた。
「だからそう呼ぶのよ。ショーゴもそう言っていたわ」

 ちくしょう。田島、あいつのせいだ。なんでこんな変なチェシャ猫女に俺のあだ名を教えるんだ。徹は大きくため息を一つつくと、諦めて二人に行こうと身振りで示した。

「デートコースが知りたいって言っていたよね」
聞き違えたのかと心配になって徹が訊くとリナもトミーも頷いた。

「そうそう。デートの参考にしたいよね」
「そうね。侘び寂びもいいけれど、続いたから少し違ったものが見たいのよ。日本のカップルが行くような場所のことをスイスにいるアタシのパートナーのステッフィに見せてあげたいし」

 OK。では、間違いない。安心して歩き出す。

「わあ、きれい。これがベイブリッジ?」
リナが左右の海を面白そうに眺めながら訊いた。それは、長い橋のようになっている遊歩道だ。かつては鉄道が走っていた道を整備したものだが、眺めがいいのでちょっとした観光名所になっている。

「違うよ。横浜ベイブリッジは、ずっとあっち。この遊歩道は汽車道っていうんだ。いい眺めだろう?」
「そうね。海ってこんな香りがするのね」
トミーが見回した。スイスには海がないので青くどこまでも広がる海は、バカンスでしか見ることが出来ない。

 徹は、周りの日本人たちがチラチラとこちらを見ていることに氣がついていた。そりゃあ目立つだろうなあ。このド派手な外国人二人連れて歩いているんだから。

「横浜ベイブリッジに展望遊歩道があると聞いたの。留学してたときも横浜は中華街しか行ったことがなかったから、今度は行こうと思っていたんだけれど、今日は時間ない?」
リナは振り返って訊いた。

 徹は首を振った。
「残念ながら、あのスカイウォークは閉鎖されてしまったんだ。年々利用者が減って維持できなくなってしまったんだよね」

 横浜ベイブリッジの下層部、大黒埠頭側から約320mに渡って設置された横浜の市道「横浜市道スカイウォーク」は、1989年から20年以上市民に親しまれていたが、競合する展望施設が多かったことに加え、交通の便が悪いことや、隣接予定だった商業施設の建設計画がバブルの崩壊後に白紙に戻ったこともあり、年々利用者が減って2010年には閉鎖されてしまった。

「そのかわりに、これから特別な展望施設に連れて行ってあげるよ。そこからはベイブリッジも見える。いい眺めだぞ」
そう徹がいうと、リナはニカッと笑って同意を示した。

 徹は二人をよこはまコスモワールドの方へと誘導した。この遊園地は入園無料で、アトラクションごとに料金を払うことになっている。シンボルとなっている大観覧車にだけ乗るのもよし、キッズゾーンだけ利用するもよし、単純に散歩するだけでも構わない。

 もっとも、リナは、水の中に突っ込んで行っているように見えるジェットコースターに目が釘付けになっていた。
「あれに乗りたい!」
「はいはい」

 ダイビングコースター「バニッシュ!」は、祭日ともなると一時間も待たされるほどポピュラーなアトラクションだが、平日だったためか奇跡的にすぐに乗ることが出来た。徹はトミーとリナが並んで車両の一番前に陣取るのを確認してから、一番写真の撮りやすい場所に移動してカメラを構えた。

 すげえなあ、見ているだけで目が回りそうだ。ピンクのレールを走る黄色いコースターはくるくると上下に走り回る。人びとの悲鳴とともに、コースは水面へと向かうように走り落ちてくる。そして、水飛沫のように思える噴水が飛び交うと同時に池の中のトンネルへと消え去った。タイミングばっちり。二人が戻ってくるまでにデジカメの記録を確認すると、楽しそうに叫ぶリナと、引きつっているトミーがいい具合に撮れていた。

「きゃあ~! 面白かった〜。こういうの大好き!」
リナは戻ってきてもまだ大はしゃぎだ。

「アタシはこっちを試したいわ」
トミーが選んだのは、巨大万華鏡。星座ごとに違うスタンプカードをもらって迷路の中で正しい自分の星座を選んでスタンプを押して行くと最後にルーレットチャンスがあるらしいが、そもそも日本語が読めないトミーはそちらは無視して、中の幻想的な鏡と光の演出を楽しんだ。
「こういう方が、ロマンティックだわ」

 それぞれが満足したあとで、徹は二人とコスモクロック21に乗った。この大観覧車は100メートルの回転輪、定員480名と世界最大のスケールを誇っている。15分の間に、360度のパノラマ、横浜のあらゆるランドマークを見渡すことができる。
「ああ、本当だわ。あれがベイブリッジね!」

「あそこに見える赤茶色の建物は?」
トミーが訊いた。
「あれは赤レンガ倉庫だ。後で行こうと思っていた所だよ」
「そう。チューリヒにローテ・ファブリックっていう、カルチャーセンターがあって、あたし、そこで働いていたことがあるの。あの赤レンガの外壁を見てなんか懐かしくなってしまったわ」

「へえ。そうなんだ。あの建物も今は文化センターとして機能している所なんだ」

 横浜赤レンガ倉庫は、開港後間もなく二十世紀初頭に建てられた。海外から運び込まれた輸入手続きが済んでいない物資を一時的に保管するための保税倉庫で、日本最初の荷物用エレベーターや防火扉などを備えた日本が世界に誇る最新鋭の倉庫だった。関東大震災で半壊したあと、修復されて第二次世界大戦後にGHQによる接収を挟んで再び港湾倉庫として使用されていたが、海上輸送のコンテナ化が進んだことから1989年に倉庫としての役割を終えた。現在は「港の賑わいと文化を創造する空間」としてリニューアルされ沢山の来場者で賑わっている。

「ここにあるカフェ『chano-ma』はちょっと有名だぞ。ソファ席もあるけれど、靴を脱いでカップルでまったりと寛げる小上がり席やベッド席もあるんだ」

「なんですって? 靴を脱ぐと寛げるの? どうして」
トミーは首を傾げた。リナは肩をすくめる。
「日本人は靴を脱ぐと自宅にいるような感じがするんじゃないかしら?」

「へえ。トオルは、そのベッド席で可愛い女の子としょっちゅう寛いでいるわけ?」
「いや、俺は……そのいろいろと忙しくて、まだ……いや、俺のことなんてどうでもいいだろう!」

 その徹にリナはニカっと笑って言った。
「ふーん。いろいろと忙しいなんて言っていると、かわいいナミを他の人にとられちゃうよ?」
ちょっと待て。どこからそんな情報を。奈美さんは確かにとても素敵な人だけど!

 リナは、赤くなって口をぱくぱくさせている徹に容赦なくたたみかけた。
「この間、ショーゴに言われていた時にも、同じように赤くなっていたよ。あれからまだ連絡取っていないの? ゼンハイソゲなんでしょ」

「その話はいいから。ところで、夕方までここにいて、ライヴつきのレストランで食べたい? それとも、もっと歩いて横浜中華街に行きたい? デートコースっぽいのは、オシャレなライヴの……」
「中華街!」
確かデートコースを知りたいとか言っていたはずの二人は声を揃えて叫んだ。色氣よりも食欲らしい。まあ、その方がこの二人には似合うけどな。

 赤レンガ倉庫には何軒かの土産物屋があったので、出る前にそこをぶらついて行こうということになった。トミーは徹に訊いた。
「せっかくここまで来たんだから、うちのバーで出せる横浜らしいものを送ろうと思っているんだけれど何がいいと思う?」

「おすすめはこれだな」
徹は、黒いラベルのついた茶色の瓶を手にとった。
「横浜エール。開港当時のイギリスタイプの味を再現した麦芽100%のビールなんだ。国際ビールコンペティションで入賞したこともある」

「私はビール飲まないんだけれど」
リナが言うと徹はすぐ近くにあった透明な瓶を見せた。
「これもいいぞ。横浜ポートサイダーというんだ。爽やかな味が人氣だよ。この横浜カラーの水玉がかわいいだろ?」
「あ。これ、おしゃれ! 後から見ると水玉模様になってる。これ一本買って帰って、飲み終わったら花瓶にしようっと」

 そのセリフだと開けずにスイスまで持って行こうとしているように聴こえたが、見ているうちに待てなくなってしまったのか、リナはレジで払う時に栓を開けてもらい、山下公園への道を歩いている最中に飲んでしまった。
「荷物は軽い方がいいでしょ?」

 山下公園を歩いている時、白い花の咲く背の高い木を見上げてトミーが立ち止まった。スイスでは見かけない木だ。微かないい香りがしている。
「ああ、これは珊瑚樹だよ」
徹は、ついている木のネームプレートを確認してから二人に説明した。

「珊瑚樹?」
「赤いきれいな実がなるんでそう呼ばれているんだ。この厚くて水分の多い葉と枝が延焼防止に役立つというので、防火のために庭木や生け垣によく使われるんだ。銀杏などと一緒に横浜市の木に指定されているんだよ」
「へえ。そうなの」

「それにしても開放的でいい公園ね」
リナはそんな高いミュールでどうやってやるんだと訝るような軽やかさでスキップを踏んでいる。

 晴れ渡った青い空が遠い水平線で太平洋とひとつになる。氷川丸が横付けされたこの光景は、横浜らしい爽やかさに溢れている。太平洋の明るさが眩しい場所だ。この山下公園に、これまで何度来たことだろう。徹は思った。そして、この光景のある県が自分の故郷であることを誇らしく思った。

「さあ、中華街に行って美味しいものを食べましょう! 沢山食べたいものがあるの。道で売っている大きいお饅頭でしょ。ワゴンで運ばれてくる点心いろいろでしょ。それから回るテーブルのお店にも行かなきゃ。青椒肉絲に、酢豚に、海老チリソースに、レバニラ炒めに、フカヒレスープ。チャーハンも食べなきゃいけないし、焼きそばは硬いのと柔らかいのどっちも食べたいわ。それに〆はやっぱり杏仁豆腐!」

 どこの腹に、そんなに沢山入るんだよ。徹は呆れた。ツッコミもしないトミーの方もそんなに食べるつもりなんだろうか。なんでもいいや、久しぶりに美味い中華を楽しもう、彼は自身も食欲の権化になって、中華街への道を急いだ。


(初出:2016年7月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -5- サマー・デライト

WEB月刊誌「Stella」用に連載してきた「Infante 323 黄金の枷は完結しましたので、新しいものをと思ったのですが、しばらくはこのシリーズを書いていこうと思います。「バッカスからの招待状」ですね。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしようと思います。
月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 連載小説 stella white12
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バッカスからの招待状 -5- 
サマー・デライト


 ドアを開けると、時間は遅くなかったのにもうカウンター席はほとんど埋まっていた。一番奥の席が二つ空いていたので、彼はホッとした顔をした。

「夏木さん、いらっしゃいませ」
バーテンダーの田中はいつものように穏やかに言った。

「あそこの席、座ってもいいかい?」
夏木敏也はほとんど聴き取れない小さい声で訊いた。「どうぞ」と薦められると、ほっとしたように奥の席に腰掛けた。

 大手町のビル街の地下にあるバー『Bacchus』は、氣をつけていないと見過ごしてしまう。だが、居心地がよく、肴も美味しいので、常連たちが心地いいと思う程度にいつも賑わっていた。

「今日は何になさいますか」
田中が熱いおしぼりを手渡しながら訊いた。

「この間のをまた飲みたいな」
夏木は、言ってしまってから、しまったと思った。昨日の今日じゃあるまいし、「この間の」などと言ってわかるはずはない。だが、彼はそのカクテルの名前を憶えていなかった。
「あ~、僕の名前と関係のあるカクテルだったと思うんだけれど」

「サマー・デライトですね」
田中は困った様子もなく言った。

 田中は、常連客の嗜好や一人一人の語った内容を驚くほどよく憶えている。だが、夏木の場合は記憶するのも簡単だろう。彼はバーの常連客としては珍しいタイプだった。一滴のアルコールも飲めないのだ。

 彼は少し俯いて、それから口角をあげた。彼は、ここに受け入れられてもらっていると感じた。

 酒を飲めないのは体質でどうしようもない。だが、世の中には訓練や根性でその体質を変えられると信じている輩も多い。「付き合い悪いな」「つまらないヤツだ」「契約が取れないのは飲みニケーションが足りないからだ」そんな言葉を発したものに悪氣はなくても、それは少しずつ飲めない者の心を蝕んでいく。肩身が狭く、飲み会や宴会という言葉が嫌になる。

 そして、どれほど憧れていても、「馴染みのバー」などを持つことは出来ない、ずっと夏木はそう思っていた。ある上司にここに連れて来てもらうまでは。
「お前が飲めないのはわかっているよ。でも、あそこは肴も上手いし、田中さんならウーロン茶だけでも嫌な顔はしないさ」

 そして、『Bacchus』の落ち着いた佇まいがすっかり氣に入ってしまった夏木は、それから一人でも来るようになったのだ。はじめはウーロン茶などをオーダーしていたが、隣に座った女性がオーダーしていたのを聞いて、ノン・アルコールカクテルがあることを知った。

「田中さん、僕にも何か作ってくださいよ」
その言葉に、田中の顔が輝いたのがわかった。居酒屋や宴会では絶対に飲めない、それぞれの好みに合わせたカクテル。それは客の憧れであると同時に、バーを切り盛りするバーテンダーの誇りでもあるのだ。

 どの店に行っても肩身が狭くて、本来この場所にいるべきではないと感じていた夏木は、ようやく「この店から歓迎される客になれる」と秘かに喜んだ。

 カランと音がして、セミロングの髪の毛をポニーテールにした若い女性が入って来た。
「ああ、久保さん、いらっしゃいませ」
田中の挨拶で、常連なのだなとわかった。彼女は、カウンターを見回して、夏木の隣の席が空いているのを目に留めた。

「夏木さん、お隣、いいですか?」
田中に訊かれて、彼は「もちろん」と頷き、アタッシュケースを隣の椅子からどけて自分の背中の位置に置いた。

 久保すみれは、会釈しながらやってきて、慣れた様子で田中からおしぼりを受け取った。
「この時間なのに、満席なのね。座れてよかった」
「ほんの三十分前までは、ガラガラだったんですよ。何になさいますか」

 すみれは、メニューを受け取ると検討しだしたが、目移りしてなかなか決まらないようだった。

「お待たせしました」
田中は、夏木の前にタンブラーを置いた。淡いオレンジ色が爽やかな印象だ。彼は、田中に会釈をして、一口飲んだ。

 ライムの香りに続いて、炭酸の泡が喉をくすぐる。それからゆっくりと微かにグレナディンシロップの甘さが訪れる。

 そう、これこれ。甘さをライムジュースと炭酸で抑えてあって、とても爽やかだ。本当に「夏の歓び」だな。

 オレンジスライスが飾ってあると、いかにも女性用カクテルのように甘ったるく見えてしまうが、グリーンライムである所が心にくい。グラスの形もシンプルなタンブラーなのがいい。幸せだなあ。

 それから、隣からの視線に氣が付き、少し顔を赤らめた。別にノン・アルコールだと大きく書いてあるわけではないけれど。

「それ、美味しいですか?」
「え。はい、とても」
「私、お酒強くないんだけれど、飲めると思います?」

 夏木は大きく頷いて、それから田中を見た。田中は、メニューの一部を示して優しく言った。
「久保さん、大丈夫です。このカクテルは、サマー・デライトです」

 すみれは、その説明を見て、ノン・アルコールの記述に氣がついた。にっこり笑って「それを私にもお願いします」と言った。

 夏木は嬉しくなった。酒が飲めないことは、悪いことだとは思っていないが、多くの人の前で「こいつ飲めないんだ」と言われるのは好きではなかった。田中は、始めに来たとき以外、そのことに言及しない。だから、カウンターの他の客たちは、夏木が飲めないことにも氣がついていないだろう。そもそも、彼らは誰かが飲めないことになど興味はないのだ。

 田中も、酒に強くないこの女性も、飲めない者の居心地の悪さを知っていて、それに氣を遣ってくれる。この店が心地いいのは、そういうほんの少しの優しさを備えた人が集まっているからなのだろう。

「わぁ、本当に美味しい。いいカクテルを知っちゃった」
すみれは嬉しそうに飲んだ。

「せっかくのご縁ですから、このカクテルは僕にごちそうさせてください」
夏木は言った。すみれは驚いた。
「そんな、悪いです」

「いや、本当に一杯だけ。僕、これまでカクテルをごちそうするなんて洒落たシチュエーションになったことがないんですよ。一度、やってみたかったんです」
ノン・アルコールだから、酔わせてどうとやらは100%無理だけれど。心の中で笑いながら続けた。

 すみれは笑った。
「まあ、じゃあ、喜んで。ちなみに、私もバーで男性におごってもらうのは、生まれて初めてです。こういうのって楽しいですね」

サマー・デライト (Summer Delight)

標準的なレシピ
 ライム・ジュース = 30ml
 グレナデン・シロップ = 15ml
 シュガー・シロップ = 2tsp
 炭酸水 = 適量
作り方
炭酸水以外の材料をシェークし、氷を入れたタンブラーに注ぎ、炭酸水で満たす。



(初出:2016年8月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (4)バルセロナ、宴 -1-

またしてもしばらく間が空きましたが、「大道芸人たち」の続きです。この「バルセロナ、宴」で浮かれまくっている「ケッコン祭」はひとまず終わります。と言っても長いので3回に分けています。ブツブツと連載が途切れると、読みにくいと思いますので、77777Hit記念掌編の続きはこの3回(とStella用の作品)が終わってからになります。どうぞご了承ください。

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(4)バルセロナ、宴 -1-


 カルロスの言葉は嘘ではなかった。稔はコルタドの大聖堂が本当に満杯になっているのをみてのけぞった。前から四列だけはカルロスがリボンを引いて座れないようにしてあったので、招待客がやっと座れるという状態だった。

 領民たちはみな、日曜日用の背広やワンピースを着て、がやがやと座っていた。外には大きなテントがいくつも張られていて、結婚式の後の大宴会用の準備が忙しく行われていた。

 稔とレネは一張羅を堅苦しく着て、通路を一番前に向かった。真耶と拓人がもう座っていて、ここだと手招きした。証人の二人は通路に一番近い最前列に座るのだ。真耶たちの向こう側にはピエールとシュザンヌが晴れ晴れしい笑顔で座っていた。後ろはアウグスブルグの連中で、もうほろ酔い加減なのかと思うほど大声で騒いでいて、時折スペイン人に「しっ」と怒られていた。

 通路を隔てて反対側には、イネスやサンチェスをはじめとする主だったカルロスの使用人たち、それにスペインとイタリアの雇用主たちがすまして座っている。稔とレネは軽く頭を下げて挨拶した。その他の招待客は、クリスマスパーティでなじみになった、カルロスの友人たちだった。

 ヤスミンとマリサの姿は見えない。二人はブライズメイドをつとめるので蝶子と一緒に入ってくるのだ。カルロスの分も含めて三人分の席が、レネたちの反対側に確保してある。

 稔とレネに少し遅れて入ってきたのは、今日の花婿である。モーニングを着ていてもまったく衣装負けしていないのはいいが、フュッセンの時と違って、あまりの大騒ぎに勘弁してくれという顔をしている。もちろん、それを読み取れるのは証人の二人だけである。

 稔とレネは立ち上がって、ヴィルに「がんばれ」と目でサインを送った。ヴィルは淡々と、招待客たちに礼を言ってまわった。アウグスブルグの連中は嬉しそうに固い握手をし、女性陣はその頬にキスをして祝福した。真耶もその一人だった。拓人はがっしりと握手をしてからウィンクした。

 やがて、荘厳なオルガンの音がして、人々の目は一番後ろの大聖堂の入り口に集中した。ここにいる人間の九割がたの領主様であるカルロスが誇らしげに花嫁に腕を貸して入ってくる。美しい花嫁の父親役が出来る役得を大いに楽しんでいた。

 すっきりとしたマーメイドラインは蝶子の完璧なスタイルを強調している。ラインはシンプルだが、表面をぎっしりと覆い、腰から後ろにも広がっている長くて美しいレースが清楚でありながらスペインらしい豪華さだ。顔を隠している長いヴェールにも同じ贅沢な手刺繍がふんだんに使われている。真耶は思わずため息をもらした。

 稔とレネはヴィルの表情が変わったのをみて顔を見合わせて笑った。ほらみろ、テデスコ。教会での結婚式も悪いもんじゃないだろ。さすが、トカゲ女だ。こんな完璧な花嫁はなかなか観られるもんじゃないぜ。それからレネと稔は、マリサとヤスミンに笑顔を向けた。

 一ヶ月前のフュッセンでの婚式でもう正式な夫婦として認められていたので、ヴィルはこの教会の挙式を単なる義務か罰ゲーム程度にしか考えていなかったのだが、それは自分の考え違いだったと認めざるを得なかった。カルロスから蝶子の手を渡された時に、ようやく本当に蝶子と一緒になれたのだと感じた。

 それは美しい花嫁だった。ヴェールの下から見つめる瞳が、強い光を灯している。赤い唇の微笑みはついにヴィルの無表情に打ち勝った。ヴィルは稔とレネが驚くぐらいにはっきりと微笑んだ。

 フュッセンで行った婚式と違うのは、カトリックの結婚式でオルガン演奏と大コーラス付きの聖歌や祈りや、司教による説教などが入っているところだったが、基本的には同じ誓いを繰り返して、二人は宗教上も認められる夫婦となった。

 ヴィルは蝶子のヴェールを引き上げて優しくキスをした。大聖堂は歓声に満ち、二人が大聖堂から出てくると盛大なライスシャワー攻めにあった。そしてテントでは、さっそく領民たちが大騒ぎして飲み始めた。飲めれば何でもいいのは僕たちと同じだな、レネは密かに思った。

 真耶は蝶子に抱きついて祝福をした。
「おめでとう、蝶子!あなたは今までに私の見た一番きれいな花嫁よ」

「ありがとう、真耶。あなたにだけはどうしても来てほしかったの。はい」
そういって、蝶子は白い蘭のブーケを真耶に渡してしまった。

「おい、そのブーケを狙っているヤツはまだこっちにもたくさんいるんだぞ」
稔がヤスミンやその他の女性軍を目で示した。実は、マリサも密かにブーケを狙っていた。

「だめよ。もうもらっちゃったもの。私もここで結婚したいわ」
真耶は微笑んで大聖堂を見上げた。

 拓人が肩をすくめた。
「お前の結婚式がここなら、僕はまたお前と共通した四日連続の休みを見つけなくちゃいけないじゃないか」

「それって、親戚として? それとも音楽のパートナーとして? どういう立場で参列したいわけ?」
真耶は冷たく言い放った。

「もちろん花婿としてですよね」
レネが優しく突っ込んだ。拓人は大聖堂を見上げてうそぶいた。
「ここで挙式するのは、確かに悪くない。カルロスに予約しておこうかな。相手が誰かは別として」

 大聖堂前でいつまでものんびりしているわけにはいかなかった。この後、コルタドの館ではパーティがある。女性陣は着替えなくてはならないし、カルロスや使用人チーム、それに稔やレネ、花婿のヴィルですらやる事がたくさんあった。領民やアウグスブルグチームのように酔っぱらっている場合ではなかった。

「あまりここで飲み過ぎるな。パーティの始まる前に泥酔されると困る」
ヴィルが言ったが、ドイツ人たちはグラスを高く掲げてセルベッサを一息で流し込んでいるだけだった。

「ヤスミン! お前もここに来て飲めよ」
ベルンが誘ったが、ヤスミンは首を振った。
「冗談! ビール臭い息でダンスを踊れっていうの? ドレスだってせっかく新調したのよ」

「だから、女ってヤツは……」
団長がまわらぬ舌で文句を言ったが、ヤスミンはもうその場を去っていた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】薔薇の下に

先週に続きリクエスト掌編、当ブログの77777Hit記念のふたつめです。リクエストは大海彩洋さんにいただきました。

ご希望の選択はこちらでした。

*現代・日本以外
*毒草
*肉
*城
*ひどい悪天候
*「黄金の枷」関係
*コラボ・真シリーズからチェザーレ・ヴォルテラ(敬称略)


『真シリーズ』は、彩洋さんのライフワークともいっていい大河小説。何世代にもわたり膨大な数のキャラクターが活躍する壮大な物語ですが、中でも相川真に続くもっとも大切な主人公の1人が大和竹流ことジョルジョ・ヴォルテラです。今回リクエストいただいたチェザーレ・ヴォルテラはその竹流のパパ。ヴァチカンに関わるものすごい家系のご当主です。

うちでは「黄金の枷」関係、しかも毒草だなんて「午餐の後に」のような「狐と狸の化かしあい・その二を書け~」といわれたような。彩洋さん、おっしゃってますよね? どうしようかなと悩んだ結果、こんな話になりました。実は「ヴォルテラ×ドラガォン」のコラボはもう何度かやっていまして、いま私が書いているドラガォンの面々は、竹流と真の子孫と逢っていますので、チェザーレとコラボすることは無理です。で、23やアントニア、それにアントニオ・メネゼスの先祖にあたる人物を無理矢理作って登場させています。

彩洋さん、竹流パパのイメージ壊しちゃったら、ごめんなさい。モデルのお方のイメージで書いてしまいました……。


【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」Infante 323 黄金の枷



黄金の枷・外伝
薔薇の下に Featuring『海に落ちる雨』


 レオナルド・ダ・ヴィンチ空港の到着口で、ヴァチカンのスイス衛兵伍長であるヴィーコ・トニオーラは待っていた。

「出迎え、ですか?」
彼はステファン・タウグヴァルダー大尉に訊き直した。直接の上司であるアンドレアス・ウルリッヒ軍曹ではなく大尉から命令を受けるのも異例だったし、しかもその内容が空港に到着する男を迎えに行けというものだったので驚いたのだ。
「そうだ。ディアゴ・メネゼス氏が到着する。お待たせすることのないように早めに行け」

「これは任務なのですか」
「もちろんだ。《ヴァチカンの警護ならびに名誉ある諸任務》にあたる。くれぐれも失礼のないように」

「そのメネゼス氏は何者なのですか。……その、伺っても構わないのでしたら」
「竜の一族の使者だ」

「それはどういう意味ですか?」
彼は答えなかった。

「その……空港でお迎えして、その後こちらにお連れすればいいのでしょうか」
「いや、ヴォルテラ氏の元にお連れしてくれ。その後、すぐに任務に戻るか、それとも引き続き運転をしてどちらかにお連れするのかは、ヴォルテラ氏の指示に従うように」
「ヴォルテラ氏というと、リオナルド・ヴォルテラ氏のことですよね。ローマに戻っていたんですか」

 ヴォルテラ家はヴァチカンでは特別な存在だった。華麗なルネサンスの衣装を身に着け表立って教皇を守るスイス衛兵と対照的に、完全に裏から教皇を守る世には知られていない家系だ。ようやく部下を持つことになった程度の若きスイス衛兵ヴィーコは、当然ながらヴォルテラ家と共に働くような内密の任務には当たっていない。だが、当主の子息ではあるが氣さくなリオナルド・ヴォルテラとは面識があるだけでなく一緒にバルでワインを飲んだこともあった。彼は英国在住で、時折ローマに訪れるのみだ。

「まさか。寝ぼけたことを言うな。当主のチェザーレ・ヴォルテラ氏に決まっているだろう」
タウグヴァルダー大尉は、渋い顔をして言った。仰天するヴィーコに大尉は畳み掛けた。
「これはただの使い走りではない。君の将来にとって、転機となる任務だ。心して務めるように」

 ヴィーコは落ち着かなかった。彼は、スーツに着替えると空港に向かった。激しい雨が降っていた。稲妻が扇のように広がり前方を明るくする。それはまるで空港に落ちているかのように見えた。こんなひどい雨の中運転するのは久しぶりだ。故郷のウーリは天候が変わりやすかったので、彼は雷雨を怖れはしなかった。

 本来であったら今日はウルリッヒ軍曹とポンティフィチオ宮殿の警護に当たるはずだった。軍曹と二人組で仕事をするのが氣まずくて、この任務に抜擢され二人にならずに済んだことは有難いと思った。だが、これは偶然なのだろうか。

 ヴァチカン児童福祉省で実務の中心的役割を果たしているコンラート・スワロスキ司教がローマ教区での児童性的虐待に関わっている証拠写真を偶然見つけてしまった時、軍曹は「歯と歯を噛み合わせておけ」つまり黙認しろと命令した。
「俺たちの仕事は猊下とヴァチカン市国を守ることだ。探偵の真似事ではない」

 彼には納得がいかなかった。スワロスキ司教と個人的な親交を持つウルリッヒ軍曹が、彼をかばっているのだと思ったのだ。カトリック教会内における児童性的虐待は新しい問題ではなかったが、それを口にすることを嫌う体質のせいで永らく蓋をされてきた。プロテスタントの勢力が強いスイスでも問題視し告発する者がようやく現れた段階で、ヴァチカンの教皇庁内部の人間を告発したりしたらどれほど大きいスキャンダルになるかわからない。だが、このままにしておくことは、ヴィーコの良心が許さなかった。

 彼は親友であるマルクス・タウグヴァルダーにこのことを相談していた。マルクスはタウグヴァルダー大尉の甥だ。マルクスから大尉に伝わったのだろうか。彼は大尉に呼び出された時に、その件だと思った。だが、ポルトガル人を出迎えてヴォルテラ氏の所に行けというからには、自分にとって悪いことが起こる前触れではないだろうと、少し安心した。とにかくこの任務をきちんと果たそう。

 予定していた飛行機はこの雷雨にもかかわらず定刻に到着していた。ヴィーコは「メネゼスさま」という紙を掲げて税関を通って出てくる人びとを眺めた。

「出迎え、ご苦労様です」
低い声にぎょっとして見ると、いつの間にか目の前に黒い服を来た男が立っていた。きっちりと撫で付けたオールバックの髪、痩せているが背筋をぴんと伸ばしているので、威圧するような雰囲氣があった。丁寧な英語だが、抑揚が少なく感情をほとんど感じられなかった。

「失礼いたしました。スイス衛兵のヴィーコ・トニオーラ伍長です。ヴァチカンのヴォルテラ氏の所へご案内します。お荷物は?」
小さめのアタッシュケース1つのメネゼスに彼が訊くと、黙って首を振った。

 彼はまっすぐにヴァチカン市国に向かった。雨はまだ激しく降っていて、時おり稲光が走った。ヴィーコは不安げに助手席に座った男を見たが、彼は眉一つ動かさずに前方を見ていた。

 サンタンナ門からスイス衛兵詰所の脇を通って中央郵便局の近くに車を停めると、メネゼス氏を案内してその近くの目立たぬ建物に入った。扉が閉まると、激しい雷雨は全く聞こえなくなり、ヴィーコはその静けさに余計に不安になった。そこは、何でもない小屋に見えるが、地下通路でヴォルテラ氏の事務所に繋がっていた。

 緩やかな上り坂の通路の突き当たりにいかめしい樫で出来た扉があり、ヴィーコがセキュリティカードを脇の機械に投入すると数秒の処理の後、自動でロックが解除され扉が開いた。さらに先に進むと、紺のスーツを着た男が扉を開き頭を下げて待っていた。
「ようこそ、メネゼスさま。主人が待っております、どうぞこちらへ」

 メネゼスが応接室へと入ると、ヴィーコはその場に立って「もう戻っていい」と言われるのを待っていたが、紺の服の男は、ヴィーコにも目で応接室に入るようにと促した。戸惑いながら応接室に入ると明るい陽射しが目を射た。瞬きをして目が明るさに慣れるのを待つと、がっしりとしたマホガニーのデスクと、暗い色の革の椅子、そして同じ色の応接セットが目に入った。

 窓の所にいた男がこちらに歩み寄り、メネゼス氏に丁寧に挨拶をしているのが見えた。格別背は高くないが、灰色の緩やかにウェーヴのかかった髪と青灰色の意志の強そうな瞳が印象的で、一度見たら忘れられない存在感のある男だった。チェザーレ・ヴォルテラ。彼の事務所に足を踏み入れる日が来るなんて。ヴィーコは入口の近くに直立不動で立っていた。

「トニオーラ伍長、ご苦労だった。申し訳ないが、後ほどリストランテまで運転してほしいのだ。もう少しここで待っていてほしい」
ヴィーコは、ヴォルテラ氏に名前で呼ばれて仰天しつつ、頭を下げた。

「ドン・フェリペは、お元氣でいらっしゃいますか」
「はい。猊下とあなたにくれぐれもよろしくと申しつかっています」

 紺の服を着た男が、メネゼス氏とヴォルテラ氏の前にコーヒーを用意する間、二人はなんと言うことはない世間話をしていたが、男が部屋を出て扉が閉じられると、しばらくの沈黙の後、声のトーンを低くして厳しい顔で語りだした。

「それで。緊急に処理をしなくてはならないご用事とは」
ヴォルテラ氏が言うと、メネゼス氏はアタッシュケースから一枚の写真を取り出した。
「この方をご存知でしょうな」

 ヴォルテラ氏はちらっと眺めてから「ベアト・ヴォルゲス司教ですな。ヴォルゲス枢機卿の甥の」と言った。

 メネゼス氏は続けた。
「その通りです。私どもの街にいらして以来、実に精力的に勤めてくださいまして、ずいぶんと多くの信奉者を作られているようです」

「それは好ましいことです」
「ええ。正義感の強いまっすぐな方で、なんの見返りも求めずに人びとの幸福を願う素晴らしい神父でいらっしゃる。ところで私どもが問題としているのは、とある青年がある娘と結婚が出来ないことを悲しみ、ヴォルゲス司教に相談をしたことなのです」

「とおっしゃると、その女性は金の腕輪をしている方ということでしょうか」
「おや、あなたが女性のアクセサリーに興味があるとは存じませんでした。ええ、あなたがその素晴らしい指輪をしていらっしゃるのと同じように確かに彼女は腕輪をしているようです。それはともかく、司教は二人の問題をペレイラ大司教に訴えました。大司教は、私と同じ役割の家系出身で、当然ながらその件からは手を引くように説得したのですが、納得のいかない司教が叔父上である枢機卿とローマに掛け合うと言い出したのです」

 ヴィーコは、話の内容についていけなくなった。金の腕輪? 結婚できない二人の話? メネゼス氏と同じ役割の家系? 何の話だろう。

 ヴォルテラ氏とメネゼス氏は、ヴィーコに構わずに話を続けていた。
「それで、私どもにどうせよとおっしゃるのですか」
「私どもが、あなた方に何をお願いしたり、ましてや要求できるような立場にはないことは明白です」
「では?」

「たんなる情報としてお伝えしに参ったのです」
含みのあるいい方だった。まったく別の印象を抱かさせる物言いだ。ヴィーコは、メネゼス氏を送り込んだドン・フェリペとやらがヴォルテラ氏に何かをさせようとしていることを感じた。ヴォルテラ氏は、眉一つ動かさずに言った。
「つまり、これはイヌサフラン案件だとおっしゃりたいのですか」

 メネゼス氏は、即座に首を振った。
「まさか。あのように善良な方を『ゆっくりと、苦しみながら死に至らせる』なんてことは、キリスト教精神に反します」
「そうですか」

 ヴォルテラ氏の反応を確かめるように、メネゼス氏はゆっくりと続けた。
「そうですとも。ところで、ローマで珍しい樹の苗を扱う業者をご存じないでしょうか。私は最近園芸に興味が出てきまして、いい苗を買いたいと思っているのですよ。例えばミフクラギなどを」
「ミフクラギですか。Cerbera manghas。インドで自生する花ですな。わずかに胃が痛み、静かに昏睡し、三時間ほどで心臓が止まる。よりキリスト教精神に則った効果が期待できると」

 メネゼス氏は特に表情を変えずに言った。
「いいえ。私はあの白くて美しい花を我が家にも植えたいだけです」

 ヴィーコは、ぞっとして二人の話を聴いていた。恋する二人の信徒を助けたいと願った善良な司教についてなんて話をしているんだろう。

 ヴォルテラ氏は小さくため息をつくと言った。
「園芸業者のことは私は存じません。それはそうと、ヴォルゲス司教のことはいい評判を聞いていますので、早急にローマに戻っていただくのがいいと猊下に申し上げましょう。猊下でしたら枢機卿が話を大きくする前に、司教にふさわしい役目を用意してくださるでしょう。ちょうど空いたポストもあることですし」

 メネゼス氏は、黙って頭を下げた。ヴォルテラ氏はほとんど表情を変えないポルトガル人を見ていたが、青ざめて立っているヴィーコの方を向いて言った。
「リストランテ・サンタンジェロに予約が取ってある。悪いが一緒に来てもらい、その後メネゼス氏をもう一度空港へと送ってもらうことになる。いいね」

「はい」
ヴィーコは頷いた。

「サンタンジェロですか。というと、あの有名なイル・パセットを歩いていくわけですか?」
とメネゼス氏が言った。彼が言っているのは、ボルゴの通路(Il Passeto di Borgo)のことだ。サンタンジェロ城とヴァチカンを結ぶ中世の避難通路で、他国からの侵略があった時に歴代の教皇が使ってきたものだ。このポルトガル人はニコリともしないのでジョークなのか本氣で訊いているのかわからない。

「せっかくローマまでいらしたのですから、ご案内したいのは山々ですが、あの通路の半分以上には屋根がないのですよ。この悪天候ではリストランテには入れないほどびしょ濡れになってしまうでしょう」
ヴォルテラ氏は穏やかに微笑みながら返し、手元の小さいベルを鳴らした。

 ドアが開き、先ほどの紺のスーツの男が入ってきた。
「図書館の前にお車を回してあります。リストランテの予約は、スイス人ベルナスコーニ、3名で入れてあります」

 まさか! 3名ってことは、僕も一緒にってことか? 戸惑うヴィーコに、紺の服の男は「入口であなたがベルナスコーニだと名乗ってください」と言った。

 つまり、このイタリア人とポルトガル人が逢っていたことが噂にならないように注意しろという意味なのだと思った。だが、それならわざわざ何も知らないヴィーコにさせなくとも、この男か他のヴォルテラ氏の配下がやったほうが抜かりがないはずだ。なぜ? ヴィーコは訊きたかったが、余計なことをしてヴォルテラ氏を怒らせるようなことをしてはならないことだけはわかっていた。

 想い悩むヴィーコをよそに、図書館へと至る地下通路を歩きながら二人は和やかに話をしていた。
「ところでメネゼスさん、猪肉はお好きですか」
「ええ。そのリストランテは猪肉を出すんですか?」
「そうです。おそらくあれだけの味わい深いの漁師風赤ワイン煮込みは、あそこでしか食べられないと思います。ぜひご案内したいと思っていました」
「それは楽しみです。食通で有名なあなたが太鼓判を押す味なら、間違いありませんから」

「猪猟はトスカーナの伝統なのですが、本日ご案内する店で出している肉は、とある限られた地域のものなのです」
「ほう。何か特別な地域なのですか?」
「ええ。イタリアでも珍しくなってしまった手つかずの森がある地域でしてね。そこでしか育たない香りの高い樫があるのですよ。その店の肉は、その幻の樫のドングリをたっぷりと食べて育った若い猪のものなのです」

「幻の樫ですか」
「ええ。この国の者でもその存在を知る者はほとんどないでしょう。この世の中は深く考えずに踏み込み、滅茶苦茶に荒らしてしまう無責任で無知な者たちで満ちています。失われてはならぬものを守るためには、その存在を公から隠し、目立たぬようにしなくてはならない。いや、あなたにこのような話は無用でしたな」

 メネゼス氏は立ち止まり、しばらく間を置いてから低い声で呟いた。
「ご理解と、ご助力に心から感謝します」
「なんの。これで先日の借りを返せるのならば、お安いことです」
ヴォルテラ氏の張りのある声が地下道に響いた。

「ところで、トニオーラ伍長」
暗い地下通路の真ん中で、不意にヴォルテラ氏が立ち止まり振り返った。ヴィーコはどきっとして立ちすくんだ。
「はい」

「あなたも園芸に興味がありますか?」
唐突な問いかけだった。
「い、いえ。私は無骨者で、その方はさっぱり……」

 ヴォルテラ氏は、静かに言った。
「そうですか。児童福祉省のコンラート・スワロスキ司教は、コンゴへと赴任することになりました。あなたの上司のウルリッヒ軍曹がご家庭の事情で今日付けで急遽退官なさることになったのとは、全く関係のないことですが、おそらくあなたには報せておいた方がいいかと思いましてね」

 ヴィーコの背中に冷たい汗が流れた。ヴォルテラ氏はこれ以上ないほど穏やかに微笑みながら続けた。
「今日、特別な任務を引き受けてくださったお礼としてあなたに何かをお贈りしようか考えていたのですが、園芸に興味がないということでしたら、苗をお贈りしてもしかたないでしょうね」
「苗ですか。私に……?」
「もちろんミクフラギやイヌサフランではありませんよ。私が考えていたのは薔薇の苗です」

 ヴィーコは、即座にヴォルテラ氏の言わんとすることがわかった。彼が必要もないのにメネゼス氏の送迎を任された理由も。
「Sub rosa(薔薇の下に=秘密に) ……」
彼は、ヴォルテラ氏の望んでいる言葉を口にした。

 ヴォルテラ氏は満足そうに頷くと「ワインはタウラージの赤7年ものを用意してもらっているのですよ」とメネゼス氏との会話に戻っていった。

 すっかり震え上がっているヴィーコは、どんな素晴らしい料理を相伴させてもらうとしても、全く味を感じられないだろうと思いつつ、二人について行った。

(初出:2016年7月 書き下ろし)

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スイス衛兵というのは、十六世紀以来ローマ教皇をガードすることになっているスイス人のカトリック教徒による軍隊です。この写真のようなド派手なルネサンス式コスチュームで有名です。
Francis Inauguration fc03
Photo by Fczarnowski via Wikimedia Commons
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Posted by 八少女 夕

【小説】そばにはいられない人のために

当ブログの77777Hit記念掌編のひとつめです。最初のリクエストはTOM-Fさんにいただきました。

ご希望の選択はこちらでした。

*現代日本
*園芸用花
*一般的な酒類もしくは嗜好飲料
*家
*雨や雪など風流な悪天候
*「大道芸人たち」関係
*コラボ、『花心一会』の水無瀬彩花里(敬称略)


『花心一会』は、WEB誌Stellaでもおなじみ、若き華道の家元水無瀬彩花里とその客人たちとの交流を描くスイート系ヒーリングノベル。優しくも美しいヒロインと花によって毎回いろいろな方が癒されています。今回コラボをご希望ということで勝手に書かせていただいていますが、本当の彩花里の魅力を知りたい方は、急いでTOM-Fさん家へGo!

今回の企画では、リクエストしてくださった方には抽象的な選択だけをしていただき、具体的なキャラやモチーフの選択は私がしています。どうしようかなと思ったんですけれど、せっかくお家元にいらしていただくのだから、日本の伝統芸能に絡めた方がいいかなと。花は季節から芍薬を、嗜好飲料はとある特別な煎茶を選ばせていただきました。そして「家」ですけれど、「方丈」にしました。お坊さんの住居だから、いいですよね。ダメといわれてもいいことにしてしまいます。(強引)

TOM-Fさん、『花一会』の流儀、いまいちわからないまま書いてしまいました。もし違っていたら直しますのでおっしゃってくださいね。


【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説で、現在その第二部を連載しています。興味のある方は下のリンクからどうぞ

「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む このブログで読む
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あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
そばにはいられない人のために Featuring『花心一会』



 瞳を閉じてバチを動かすと、なつかしい畳の香りがした。湿った日本の空氣、夏が近づく予感。震える弦の響きに合わせて、放たれた波動は古い寺の堂内をめぐり、やがて方丈に戻り、懐かしいひとの上に優しく降り注いだ。

 浄土真宗のその寺は、千葉県の人里から少し離れた緑豊かな所にあった。『新堂のじいちゃん』こと新堂沢永和尚は四捨五入すると百の大台に乗る高齢にも関わらず、未だにひとりでこの寺を守っていた。日本に来る度に稔はこの寺を訪れる。これが最後になるのかもしれないと思いながら。

 彼の求めに応じて三味線を弾く。または、なんてことのない話をしながら盃を傾ける。死ぬまで現役だと豪語していた般若湯(酒)と女だが、女の方は昨年彼より二世代も若い馴染みの後家が亡くなってから途絶えたらしい。
「これもいつまで飲めるかわからん。心して飲まねばな」
カラカラと笑って大吟醸生『不動』を傾ける和尚を稔は労りながらゆっくりと飲んだ。

「何か弾いてくれ」
「何を? じょんがら節?」
「いや、お前がヨーロッパで弾くような曲を」

 それで稔は上妻宏光のオリジナル曲を選んだ。その調べは白い盃に満たされた透明な液体に波紋を起こすのにふさわしい。懐かしくもの哀しいこの時にも。Artistas callejerosはこの曲を街中ではあまり演奏しなかった。コモ湖やバルセロナのレストランでの演奏の時に弾くと受けが良かった。頭の中ではヴィルがいつものようにピアノで伴奏してくれている。

 まだ弾き始めだったのだが、和尚は小さく「稔」と言った。バチを持つ手を止めて、彼の意識のそれた方に目を向けると開け放たれた障子引き戸の向こうに蛇の目傘をかざし佇む和装の女性が見えた。

「ごめんください」
曲が止まったのを感じて、彼女は若く張りのある声で言った。和尚は「いらしたか」と言うと、稔に出迎えに行けと目で合図した。客が来るとは知らなかった稔は驚いたが、素直に立ち上がって方丈の玄関へと回った。

 その女性は、朱色の蛇の目傘を優雅に畳んで入ってくると玄関の脇に置いた。長い黒髪は濡れたように輝き、蒸し栗色の雨コートの絹目と同じように艶やかだった。そして、左腕には見事な芍薬の花束を抱えていて、香しい華やかな薫りがあたりに満ちていた。

「どうぞお上がりください」
稔はそれだけようやく言うと、置き場所に困っている女性から芍薬を受け取った。彼女ははにかんだように微笑むと、流れるような美しい所作で雨コートを脱ぎ畳んだ。コートの下からは芍薬の一つのような淡い珊瑚色の着物が表れた。

 色無地かと思ったが、よく見たら単衣の江戸小紋だった。帯は新緑色に品のいい金糸が織り込まれた涼やかな絽の名古屋、モダンながらも品のいい色の組紐の帯締めに、白い大理石のような艶やかな石で作られた帯留め。この若さで和装をここまで粋に、けれども商売女のようではなくあくまでも清楚に着こなせるとは、いったい何者なのだろう。

「おう、遠い所よくお越しくだされた。何年ぶりでしょう。実に立派になられましたな、彩花里さん。いや、お家元」
居室に案内すると、和尚は相好を崩して女性を歓迎した。

「ご無沙汰して申しわけありません。お元氣なご様子を拝見して嬉しく思います」
きっちりと両手をつき挨拶する作法も流れるように美しく稔は感心して「お家元」と呼ばれた可憐にも美しい女性を見つめた。

「あ~、このお花、花瓶に入れてきましょうか」
稔が訊くと、和尚は大笑いした。

「いかん、いかん。お前なぞに活けられたら芍薬ががっかりしてしぼむわい。わしもこの方に活けていただく生涯最後のチャンスを逃してしまうではないか」

 それから女性に話しかけた。
「ご紹介しましょうかの。ここにいるのは、わしの遠縁の者で安田稔と言います」

「安田さん……ということは……」
「その通りです。安田流家元の安田周子の長男です。稔、こちらは華道花心流のお家元水無瀬彩花里みなせあかり さんだ」

 稔は、畳に正座してきちんと挨拶した。
「はじめまして。大変失礼しました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」

「こやつは三味線とギターのこと以外はさっぱりわからぬ無骨者で、しかも今はヨーロッパをフラフラとしている根無し草でしてな。華道のことも、あなたが本日わざわざお越しくださっている有難さも全くわかっておりません」

 彩花里は、微笑んだ。
「いいえ。私たちが一輪の花を活けるのも、一曲に全ての想いを込めて奏でるのも同じ。先ほどの曲を聴いてわかりました。安田さんは、私と同じ想いでここにいらしたのですね」

 それから稔の方に向き直った。
「花心流の『花一会』はひとりのお客さまのために一度きりの花を活けます。本日は、和尚さまへのこれまでの感謝とこれからの永きご健康をお祈りして活けさせていただくお約束で参りました。安田さん、私からひとつお願いをしてもかまわないでしょうか」

「なんでしょうか」
「私が活けるあいだ、先ほどの曲をもう一度弾いていただきたいのです。私が来たせいで途中になってしまいましたから」
「わかりました。よろこんで」

 それから和尚の前の一升瓶を見て、彩花里はわずかに非難めいた目つきを見せた。般若湯などと詭弁をろうしても、住職が不飲酒戒を破っていることには変わりない。ましてや陽もまだ高い。堂々と一升瓶を傾けるのはどうかと思う。
「お届けしたお茶はお氣に召しませんでしたか?」

 和尚は悪びれることもなく笑った。
「いやいや、あの特別のお茶とお菓子はあなたとご一緒したくてまだ開けておりませんのじゃ。どれ、湯を沸かしてきましょうかの」

 彩花里が花の準備をしている間、稔は和尚を助けてポットに入れた熱湯と、盆に載せた茶碗、そして美しい茶筒、三つ並んだ艶やかな和菓子『水牡丹』を居室に運んだ。

 準備が整うと、彩花里は和尚の正面に、稔はその横の庭を眺められる位置に座して三味線を構えた。
「それではこれから活けさせていただきます」
彩花里は深々と礼をした。彩花里の目の合図に合わせて、稔は先ほどの曲をもう一度弾きだした。

 彩花里の腕と手先の動きは、まるで何度もリハーサルを繰り返したかのように、稔の奏でる曲にぴったりとあっていた。活けるその人のように清楚だが華やかな花の枝や葉を、たおやかな手に握られた銀の鋏が切る度に馥郁たる香りが満ちる。

 稔はかつてこの空間にいたはずの、和尚の失われた息子のことを考えた。彼のために奥出雲の神社で奉納演奏をしたのは何年前のことだったろう。妻に先立たれ、ひとり息子を失い、生涯が終わる時までこの寺で独り生きていく大切な『新堂のじいちゃん』の幸について考えた。

 この美しい女性も、たった一度の花を活けながら今の自分と同じ氣持ちでいるのだと考えた。真紅、白、薄桃色。雨に濡れて瑞々しくなった花が彼女の手によって生命を吹き込まれていく。寂しくとも、悲しくとも、それを心に秘めて人のために尽くし続ける老僧を慰めるために。

 バチは弦を叩き、大氣を振るわせる。その澄んだ音色は、もう一度、和尚の終生の家であるこの方丈の中に満ちていった。

 外は晴れたり降ったりの繰り返しだった。眩しいほどに繁った新緑がしっとりと濡れている。その生命溢れる世界に向けて三味線の響きは花の香りを載せて広がっていった。消えていく余韻の音を、屋根から落ちてきた滴が捉え抱いたまま地面に落ちていった。

 彼がバチを持った手を下ろして瞼を開くと、彼女は完成した芍薬を前にまた頭を下げていた。

 ほうっと和尚が息をつき、深く頭を下げた。
「先代もあなたがここまでの花をお活けになられると知ったらさぞお喜びでしょう」

 彩花里は、穏やかに微笑みながらゆったりとした動作で茶を煎れた。その色鮮やかな煎茶の香りを吸い込んで、稔は日本にいる歓びをかみしめた。

「八十八夜に摘んだ一番茶でございます。無病息災と不老長寿をお祈りして煎れさせていただきました」
「水牡丹」の優しい甘さが、新茶の香りを引き立てている。稔は、茶碗を持ったまま瞳を閉じている和尚に氣がついた。飲まないんだろうか。

「和尚さま、このお茶の香りに、お氣づきになられましたか」
彩花里は優しく言った。

「奥出雲の山茶……」
彼は、わずかに微笑みながら言った。

「はい。日本でもわずかしかない在来種、実生植えされ、百年も風雪に耐え、格別香りが高いこのお茶こそ、今日の『花一会』にふさわしいと思い用意いたしました」

 そうか。あの神社から流れてくる川の水で育ったお茶なんだな。それを飲んで無病息災を願う。本当にじいちゃんのために考え抜いてくれているんだ。

「お前もこの日本の味を忘れぬようにな」
彩花里が完璧に煎れてくれた一番茶を味わっている稔の様子を和尚はおかしそうに見ていた。

「安田さんは、ヨーロッパにお住まいとのことですが……どこに」
彩花里が思い切ったように口を開いた。

「はい。俺は大道芸人をしていて、あちこちに行くんです」
「では、あの、パリに行くことなども、おありになるのでしょうか」

「時々は。どうして?」
「母が、パリにいるんです」

「先代お家元の愛里紗さんは、彩花里さんに家元の座を譲られてからパリで華道家として活躍なさっていらっしゃるのじゃ」
和尚が「水牡丹」を食べながら言った。

「何か、お母様にお渡しするものがありますか?」
彩花里は首を振った。
「いま弾かれた曲を、母の前で弾いていただけませんでしょうか」

 稔は訊いた。
「無病息災と、不老長寿を祈願して?」

 彩花里は「はい」と微笑んだ。

 稔は彼女の母親は、この曲の題名を知っているのだろうかと考えた。『Solitude』。彼は、和尚にはあえて言わなかった。家元の重責に氣丈に耐えているこの女性もおそらく知っているけれど、あえて口にすることはないのだろう。共にはいられないことを言い募る必要はない。ただ想う心だけが伝われば、それでいいのだと思った。


(初出:2016年6月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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稔が弾いた曲はこちらです。

上妻宏光『Solitude』
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (3)バルセロナ、前夜祭

さて、バルセロナに戻っています。まもなく教会での結婚式と、パーティ。準備がたくさんあるのですね。

ちなみに、結婚パーティで新郎新婦がダンスをするのは、わりと普通です。もっとも証人や参列者までもが踊るのは少し珍しいかも。上流社会では多いようですが。いまの若者は、ボールルームダンスよりもっと今どきのダンスが好きなようです。

今回は三千字弱だったので、全部まとめて発表することにしました。来週はお休みして、外伝(記念掌編)を発表することになると思います。


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あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(3)バルセロナ、前夜祭


「いたっ、また踏んだわね!」
蝶子が呆れた声を出した。稔も叫んだ。
「悪いっ」

「どうしてこんな簡単なステップが覚えられないのよ」
「パピヨン。最初は無理ですよ」
レネが、稔に加勢した。ヴィルは黙ってワルツを弾き続けていた。

「もう一度、最初から。ねえ、そんなに腰が引けてちゃ、パートナーにステップがわかんないでしょ。ちゃんと足を踏み込んでよ」

「けど、そんなことしたら……」
稔は、蝶子の腰や足に密着してしまうのでうろたえていた。

「何照れてんのよ。ボールルームダンスってのは、そうやって踊るものなの。へなへなしている方がずっとイヤらしいのよ。ちゃんと踏み込まないと、マリサが困るでしょ!」

 トカゲ女ならまだしも、マリサにそんなことをするなんて。そう思っただけで稔は真っ赤になった。

「もうっ。ちょっと横で見ながらステップを覚えなさい。ブラン・ベック、お手本!」

 レネが上手にリードしながら蝶子と踊りだすと、稔は感心して頷いた。そうか。こうやって堂々としていると、傍目にはイヤらしくないんだな。でも、俺にあと三日でここまで踊れるようになれって? 絶対無理だよ。

「明日からは、マリサに来てもらうから。とにかく彼女の足を踏まないようにステップだけでも完璧に覚えなさい!」
蝶子は難題をふっかけた。稔は頭を抱えた。

「おい、テデスコ。なんでヨーロッパ人は結婚パーティでダンスなんか踊るんだよ」
「マリサと手もつないだことないんだろう? 一氣にステップアップできるじゃないか」

 ちくしょう。テデスコとお蝶がワルツを踊っているのを見たことはないが、上手いに決まっている。なんせ、あのアルゼンチン・タンゴを踊れる二人だもんな。ブラン・ベックも余裕の上手さだし、俺だけジャンル違いじゃないか。

「ところで、ヤスミンはいつ到着するの?」
蝶子は、レネに問いかけた。
「今晩、来るって言っていました。イダルゴ、怒っていないかなあ。すっかり無料宿泊所にしちゃって」

「だったら、ブラン・ベックの部屋に泊めれば?」
「とんでもないっ。だったら、僕が廊下で寝ます」
「ふ~ん? 前、私が使わせてもらっていた部屋が空いているもの、あそこに入れさせてもらえばいいわよ。私の洋服とか動かしておこうかな」

「真耶と拓人が着いたら、もう二つ部屋が必要ですよね。そろそろイダルゴに交渉しておきましょうか?」
「あら、それはもう確保済みよ。二階にねえ、アラベスク模様の壁紙の素敵な一対の客室があるのよ。あそこを使わせてくれるんですって。そのかわり、二人はカルちゃんのために二重奏を演奏しなくちゃいけなくなったけどね」

 ヴィルはレネと蝶子が楽しそうに踊っていても、平然とピアノを弾き続けていた。

「なんか、前とえらい違いだよな」
稔がじろりと見た。

「何がだ?」
「ギョロ目とトカゲ女がタンゴを踊っていた時と較べてだよっ」
「そうだな」
ヴィルは余裕だった。

「ヤス! 何さぼっているのよ。さっさとステップを覚えなさい!」
蝶子に叱り飛ばされて、稔はあわててフロアに戻った。

* * *


「ハロー、みなさん。ここ素敵ねぇ、いつもこんなところに居候しているんだ。うらやましいわ」
到着したヤスミンは、物珍しそうにコルタドの館を見回した。レネは嬉しそうに、案内して回った。 

「以前、パピヨンが使っていた部屋を空けてもらったんです。案内しますね」
レネがそういうと、ヤスミンはびっくりしたように言った。
「なんで今さら? もちろん私、レネと同じ部屋に泊まるわよ」
「……」

 真っ赤になっているレネを見て蝶子と稔はくっくと笑った。

「ねえ。これ見て。シュメッタリングに初めて会った時に見て以来、一度この色着てみたかったの」
そういってヤスミンが取り出したのは、朱色の炎が白地の裾に向かってゆくドレスだった。前の方が短くて足が見えるようになっている。

「まあ、すてきねぇ」
蝶子が嬉しそうに近寄った。

「もちろん、シュメッタリングは、今度はこの色じゃないんでしょう? もしそうなら他のドレスを用意しなくちゃいけなくなっちゃう」
「大丈夫よ。私のは別の色だから」

「パーティのドレスは俺とブラン・ベックがプレゼントしたんだぜ」
稔がウィンクした。

「そうなの。カルちゃんがプレゼントしてくれたウェディングドレスも、パーティのドレスもまだヴィルには見せていないのよ」

 蝶子は嬉しそうに、ヤスミンとドレス談義に入った。ヴィルは頭を振って稔やレネとワインを飲みに行ってしまった。

 次の日の午後のダンス練習会には、ヤスミンとマリサも参加した。稔は緊張でカチコチになっていた。救いを求めるように蝶子の方を見た。また、怖い顔をしているのかと思いきや、蝶子は微笑んで親指を上に向けた。それから、フルートをもってピアノの前に座るヴィルの横に立った。

「なんだよ、お蝶。指導しないのかよ」
「もう十分したでしょ。あとは音楽に乗って、マリサを幸せなダンスの世界に連れて行ってあげなさい」

 そういうと、ヴィルに頷いた。ヴィルは蝶子のリクエストに応えて、伴奏を弾きだした。

 あ、『美女と野獣』だ。稔は忘れていなかった。ヴェローナのトネッリ氏のバーで、はじめて二人が共演した曲だ。あの時、いつもケンカばかりしている二人が、まるで恋でもしているみたいに演奏したんでびっくりしたんだったよな。稔は嬉しくなって、緊張を忘れてしまった。マリサに手を伸ばすと、はにかんで嬉しそうに手を伸ばしてきた。特訓のように、精一杯背筋を伸ばしてマリサと正しいポジションを組み、おそるおそる足を踏み出した。

 ぎこちないながらも、稔は少なくともステップを覚えていた。隣でレネがヤスミンと嬉しそうに踊っている。ダンスは、義務ではなくて、パートナーと楽しむためのものだと稔はようやく実感できた。ちょうど蝶子とヴィルが競演を楽しんでいるように。

* * *


「蝶子!」
真耶が抱きついた。挙式前日の午後だった。蝶子はヴィルと一緒に空港に迎えに行った。真耶はヴィオラ以外の荷物を取り落として走ってきた。

「真耶、遠いところをありがとう、疲れたでしょう?」
「全然。興奮して、疲れるどころじゃないわ。招んでくれて本当に嬉しいわ」

「結城さんも、ほんとうにありがとう」
真耶が取り落とした荷物を拾って後ろから来た拓人に蝶子が微笑みかけた。ヴィルは、拓人に握手すると真耶の荷物を受け取って持った。

「おめでとう。こうなるとは予想していなかったな」
拓人が言うとヴィルは珍しく笑った。
「あんたのおかげだ」

「そのわりにはずいぶんかかったじゃないか。あれから一年以上経っているぞ」
「あれから、いろいろあったんだ」

 拓人はヴィルからそのいろいろを聞き出すのは困難だと知っていたので、あとで稔に洗いざらい話させようと思った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (2)フュッセン、白鳥の城の下で -2-

しばらく間が空きましたが、「大道芸人たち」の続きです。婚式は無事に終了して、ちゃっかり観光客になっている四人。まあ、ここまで来たらあのお城は入っておきたいですよね。

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あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(2)フュッセン、白鳥の城の下で -2-


「で、これが最初のハネムーンってわけか」
稔が笑いながら、ノイシュヴァンシュタイン城を見上げて言った。

「私たちいつも動き回っているんだもの。ハネムーンに行きたいって思い入れはゼロだわ」
蝶子が笑って言った。

「こう、どこかまったく行ったことのないところに旅したいって希望はないんですか?」
レネが訊いた。蝶子とヴィルは顔を見合わせた。

「南米はどうだ?」
「南太平洋の島もいいわよね?」

 それから蝶子はレネと稔の腕を取って言った。
「でも、私たちのハネムーンは特殊なのよ。証人がどこまでもついてこなくちゃいけないから」

「そういうのお邪魔虫って言うんじゃないのか?」
稔が後ろのヴィルを振り返ると、大して迷惑そうにも思っていない顔でヴィルは首を振った。
「特殊といえば、この場合のハネムーナーと証人は、現地で稼がなくちゃいけないんだ。邪魔する時間もされている時間もないよ」

 四人は一斉に笑った。

 ノイシュヴァンシュタイン城に入るためには、やはり予約した時間を待たなくてはならなかった。城前の広場には多くの人々が暇を持て余してたむろしていた。

「ちくしょう。三味線を持ってくればよかったぜ」
稔が言うと、レネはにやりと笑って、ポケットからカードを取り出した。そして、入場時間まで出来た人だかりの前で楽しく稼いだ。

「なんか氣前のいい客が多かったな」
入場がはじまって、城の中に入ると稔がレネにうらやましそうに言った。レネは笑った。
「そうですね。あとでこの儲けで祝い酒を飲みましょう」

「こういうの、どこかで見たような氣がするわ」
蝶子が城の中を見回して訝しげにつぶやいた。

「シェーンブルン宮殿やベルサイユ宮殿ですか?」
レネが訊いた。もちろんどちらもレネは行ったことがなかった。

「違うの。そういう本物のお城じゃなくて…」
「ああ、わかったぞ。東京ディズニーランドだろう」
稔が叫んだ。蝶子も突然納得がいった。

「そうそう。ちょうどそんな感じ。変ね。正真正銘、本物のお城なのに」
「外がディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったって言うけれど……」
ディズニーランドになぞもちろん行ったことのないレネはピンとこずに首を傾げた。

「この金ぴかの装飾がかえって作り物っぽく見えるんだろう」
ヴィルが言った。

 豪華な王座の間の派手な黄金の装飾、ワーグナーの楽劇を再現したという城の中にある洞窟など、通常の城にはなかなかない空間が稔と蝶子にはどうしてもテーマパークの作り物の城に見えてしまうのだった。

「カイザー髭の屋敷の方が、もっと格式あるように見えるよな」
パーティ客でごったがえす広間を見ただけだったが、エッシェンドルフの館の豪華さにはコルタドの館で豪奢になれていたはずなのに度肝を抜かれた。それを思い出して、もっと桁違いのお金がかかっているはずのこの城と比較して稔は首を傾げた。

「ああ、あそこはお金のかかっているものを、効果的に見せるように置いてあるしね」
蝶子も同意した。

「お前、あんなところで生まれ育ったくせに、よく大道芸人になれたな」
稔は感心してヴィルを見た。ヴィルは肩をすくめた。
「俺があそこで暮らした期間は蝶子よりずっと短いんだ」

「ええっ。そうなんですか?」
レネが驚いて訊き返した。

「ずっとアウグスブルグだったって家政婦のマリアンが言っていたわ」
蝶子が言った。

「レッスンの度に電車に乗ってミュンヘンまで行かされた。電車は好きだったな」
「ミュンヘンにそのまま住みたいと思わなかったのか? お前の親父だって知っていたんだろ?」
稔が、それまで訊かなかった分を取り戻すかのように踏み込んだ。ヴィルは特に迷惑している風でもなく答えた。
「いくら父親だと言われても、俺には厳しい教師にしか思えなかったんだ。周りの子供たちの父親というのはもっと別の存在だったからな。たとえばピエールみたいな」

 レネがいくらか氣の毒そうに頷いた。稔はどんなに大金持ちでも、あのカイザー髭と暮らすよりは浅草の家族の方がずっといいと思った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】夏、花火の宵



今日発表するのは、読み切り短編集「四季のまつり」の第二回、夏の話で「花火」を題材にした掌編です。

というところまでは、ずっと前に決まっていたんですが、最初に出来た作品はあまりにも地味なのでボツりました。ですが、この作品で、canariaさんの主催するwebアンソロジー季刊誌「carat!(カラット)」に参加するつもりなので、書かないで放置は出来ません。

二つ目挑戦しました。最初のよりはいいかなと思ったんですが、「黄金の枷」の外伝にしてしまったので、本編を読んでいない人は、あの特殊設定の山には全くついていけないという現実を思い出しました。「四季のまつり」だけならいいけれど、「carat!」でそれはないわ、とこれもボツ。考えてから書けばいいものを。

三度目の正直。今度も外伝ですが、まあ、「ファインダーの向こうに」は読んでいなくても特に問題のある設定はないので、これで押し通すことにしました。canariaさん、ごめんなさい。でも、もう締切間近ですし、これで許してくださいまし。




夏、花火の宵

 7月4日、独立記念日。この日を心待ちにしていたのは、ハドソン川沿いに集まって花火が上がるのを今かと待っている観客だけではない。

 マンハッタンのパークアベニュー、32階建ビルの最上階で開催されるパーティに招待された人たちも同じだ。華やかで朗らかな魅力ある成功者、マッテオ・ダンジェロのペントハウスで独立記念日を祝うのは、ある種の人びとにとっては自慢すべきステイタスであり、また、彼の妻の座を狙う女性軍にとっては輝かしい未来への前進であった。

 パーティールームに用意された巨大なスクリーンには、ハドソン川で打ち上げられる花火の中継が映し出されることになっている。子供を肩車した一般人に視界を遮られつつ屋外で花火を鑑賞するより、ルイ・ロデレールのシャンパンを傾けながら女優や銀行家たちと上品な歓声を上げる方が自分にふさわしい。参加者たちの多くはそう考えていた。

 楽しく談笑しながら、客の間をまわっているマッテオ・ダンジェロ自身は、しかしながら、今年はこの日が彼主催のパーティでなければどんなに良かったかと思っていた。もし、この日に予定が何もなかったならば、彼はイタリア産の軽いスプマンテを持って、ロングビーチに住む妹を訪ねたことだろう。

 彼の大切な妹、取り巻きの女性たちの言葉を引用するならば「その価値もないくせにミスター・ダンジェロに溺愛されている」ジョルジアは、毎年一番最初に独立記念日の招待状を手にするにも関わらず、一度も姿を現さなかった。
「だって、兄さん。私はあなたのビジネスやロマンスの邪魔はしたくないの。それに、ああいうパーティは私には場違いだわ」

 例年ならば、この日ジョルジアと逢えなくとも、また別の日に食事に誘えばいいと思っていた。だが、今年は、出来ることなら彼女と一緒に花火を見てやりたい。彼は、客たちににこやかな笑顔を向けたままで、半年前の光景に想いを馳せた。

 それは、スイスのサン・モリッツでのことだった。もう一人の妹、アレッサンドラの結婚披露宴の直後で、引き続き滞在している招待客たちと一緒に大晦日を迎えていた。クルム・ホテルの豪華なダンスホールには、新郎の親戚である貴族たち、某国の元首や総理大臣、ハリウッドスター、そうした人びとに混じって参列を許された富豪たちとその妻たちが華やかに年の瀬を楽しんでいた。

 マッテオは、世界中のVIPが集まる厳戒態勢の結婚式の総監督的役割をこなしていたので、この日でようやく重責から解放されることを喜んでいた。

 三度目の結婚とはいえ、永遠の愛を誓ったばかりの妹の幸せに溢れた様子は、疲れと緊張を忘れさせてくれた。美しく立派なカップルの幸福に満ちた様相は、招待客たちに伝染して、ダンスホールは華やいだ幸福感で満ちていた。そして、夜は更けていよいよ新年へのカウントダウンが始まると、人びとはシャンパンのグラスを片手にそれぞれのパートナーとその瞬間を待った。

「ハッピー・ニュー・イヤー!」
グラスの重なる音、新しいシャンパンの開く音、人びとのキス。そして、大きな花火が開放的な窓ガラスの向こうに広がり、感嘆の声があちこちからあがった。楽団はウィンナ・ワルツを演奏し、人びとは新年を祝った。

 マッテオは、多くの人と乾杯しながら、まだ新年を祝っていないジョルジアの姿を探した。

 彼女は、ダンスホールではなく、その外側のバルコニーになった回廊に一人で立っていた。ガラスで覆われているので寒くはないが、熱氣のこもるダンスホールに較べると涼しい。

 ドアが閉まり、楽団の音と楽しくはしゃぐ人びとの声が聞こえなくなると、まるで別の世界に来たかのように、寂しくなった。マッテオは、華やかな世界に背を向けて夜に佇む妹の背中に、ブルー・ノート・ジャズを感じた。

 幸せに酔っているアレッサンドラの前では決して見せない遣る瀬なさ。華やかな世界に馴染めない居たたまれなさ。そして、手にすることが出来ないものを想う苦しみ。どうしてやることも出来ない妹の寂しい姿に彼の心は締め付けられた。

「ジョルジア、ハッピー・ニュー・イヤー」
五分以上経ってようやく声を掛けると、彼女は振り向いた。彼女は泣いてはいなかった。苦しんでいる表情もしていなかった。微かに笑うと「ハッピー・ニュー・イヤー、マッテオ兄さん」と返した。彼は、妹を抱きしめた。

* * *


「あら、ジョルジア。いらっしゃい」
キャシーは入って来たジョルジアを歓迎した。

《Sunrise Diner》は独立記念日だからといって休みではないので、キャシーはテレビをつけて花火を楽しもうと待っている。もっとも、常連客で店はそこそこ埋まっているので、のんびりと花火を眺めている時間はなさそうだ。

 サンフランシスコから遊びに来ている元同僚の美穂、この春からほぼ毎日やってきては居座っている英国人クライヴとその従業員クレアが同じテーブルに座っていた。彼らは、椅子を動かして彼女の場所を作った。

 ジョルジアは感謝してその席に収まった。

「いいタイミングで来たわね。ちょうど花火が始まるところよ。何を飲む?」
キャシーが訊き、ジョルジアはグラスワインの赤を頼んだ。

「今、話をしていたんですよ。花火の時にはどんな音楽が似合うのかってね」
クライヴが自分の店から持ち込んだボーンチャイナで紅茶を飲みながら口火を切った。

「ほら、ハドソン川の花火だと、ミリタリーバンドによる吹奏楽と合唱じゃない? でも、国によって違うらしいのよね、いろいろと」
キャシーが説明する。

 隣の席にいた常連でオーストリア人のフェレーナが口をだした。
「私は、『美しき青きドナウ』だって思うわ。とくに、新年の花火はやっぱりウィンナ・ワルツじゃないと」

 ジョルジアは、そういえばサン・モリッツの新年の花火でもウィンナ・ワルツを演奏していたなと思い出し頷いた。

「僕の意見は誰にも賛同してもらえないと思うけれど」
そう言って話しだしたのは、フェレーナの連れのスイス人ステファン。
「8月1日のスイスの建国記念日は、花火を見ながら野外クラッシックコンサートってことが多くて、スイスの建国記念日のコンサートだとロッシーニの『ウィリアム・テル』が定番なんだよね。だから花火というとどうもあれが……」

「いや、やはりベルリンではなんといっても『第九』だよ。東西統一の記念祭を思い出すから」
マルクスがドイツ人らしい断乎とした口調で主張する。

 クライヴも負けていなかった。
「いや、花火と言ったらなんといってもエルガーの『威風堂々』ですよ。毎年『プロムス』の最終夜で演奏されますし」

「それに、『ルール・ブリタニア』と『ジェルサレム』でしょ」
と、クレアが彼の愛国主義を茶化した。 

「日本はどうなの?」
キャシーに訊かれて美穂は首を傾げた。
「う~ん、どうかな。花火大会で曲はかかるけれど、あまり特徴のない映画音楽みたいなものかしら。そもそも、花火の方がすごくてどんな曲がかかっているかなんてほとんど考えたこともなかったし、まさかこんなに国によって違うものだとは思わなかったわ」

 ジョルジアの前に赤ワインのグラスを置いて、キャシーは訊いた。
「あなたにとっては? ジョルジア」

 そうね、と微笑んでから彼女は《Sunrise Diner》の店内を見回した。
「ここでかけている曲、かな」

 キャシーは、「え」といった。有線放送をかけているが、夜は少し賑やかなボサノヴァ風ジャズが多い。花火って感じじゃないなあ。
「どうして?」

「私、これまでわざわざ花火を観る習慣がなかったの。だから、特にかかる曲のイメージはもっていないの。でも、ここの曲、いま、映っている花火とけっこう合っているわよ」
そう言って、テレビの花火に目を細めるとワインを飲んだ。

 彼女は去年の秋から冬にかけて、キャシーとその家族が写真のモデルになって撮影していた頃と較べてリラックスしている。ここでかかっているボサノヴァ風ジャズみたいに。それと同時に、少しずつではあるが、ウルトラ個性的な常連たちに馴染んで来た。

 いつも一人カウンターに座ってテレビのニュース番組を観ているか音楽に耳を傾けているだけだったのが、呼ばれると彼らのテーブルに移ってきて一緒に時間を過ごすようになっていた。

 時間をかけて重い鎧を脱いで、剣を身から離すことが出来るようになって来たのかな。それとも、この間のアフリカに旅行で何か特別な経験でもしたのかな。

 客たちは、次々上がる花火の映像に歓声を上げて、それぞれの日々の苦労や腹立ちを忘れて楽しんでいる。一年に一度の浮かれた祭りの宵。

 どこで観るのも自由。どんなこだわりがあっても構わない。大切なことはみんなでワイワイ楽しく観ることだものね。

 店の有線放送の『ワン・ノート・サンバ』に合わせて打ち上げられる花火か。うん、本当に悪くない。キャシーもまた、サンバのような軽快な足取りで、次々入る新しい注文を華麗にさばいていった。


(初出:2016年6月 書き下ろし)

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「carat!」は読み切りを前提としているので、敢えて読む必要はないのですが、一応、今回の話も既存のシリーズの外伝になっています。興味のある方はどうぞ。

「ファインダーの向こうに」
「ファインダーの向こうに」

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」

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Tag : 小説 読み切り小説 webアンソロジー季刊誌・carat!

Posted by 八少女 夕

【小説】 アヴェイロ、海の街

「大道芸人たち」を放置していますが、今週と来週も別件小説の発表です。すみません。
本日発表するのは、「黄金の枷・外伝」扱いにしてありますが、ブログのお友だちの間では「ポルト&ローマ陣営」で知られているコラボ作品の最新作です。山西左紀さんのところの「ポルトのミク&メイコ」と大海彩洋さんのところの「詩織&ロレンツォ&トト」と、うちの「黄金の枷」シリーズのキャラたちが交流しているのです。

そのうちの流れの一つが、左紀さんの所のミクとうちのジョゼの話なんですけれど、何だかよくわからないうちに、「ミクとジョゼをカップルに」的な流れになっていまして、人様のキャラ相手にこんなこと書いていいのかと首を傾げつつ、本日の展開になっている、とお考えください。急いで発表すべき大人の事情(笑)がありまして、急遽書き下ろしました。

うちのブログでは「黄金の枷・外伝カテゴリー」で追うと、「ポルト&ローマ陣営」の大体のことがわかるかと思います。ま、一つ前の「カフェの午後 - 彼は耳を傾ける」を読めばそれにほぼ情報は入っているかな。
サキさんの所ではこうやって追えば、わかるでしょうか。
ちなみに彩洋さんの所はこのカテゴリーかな? 今回の話にはからんでいないパートですが。



【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」Infante 323 黄金の枷



黄金の枷・外伝
アヴェイロ、海の街


 ずっと寒かったから心配していたけれど、その日は晴れ渡っていて正にドライブ日和だった。ジョゼが車を家の前に駐車して、呼び鈴を鳴らすと、ミクだけでなく祖母のメイコまで出てきた。

 メイコは口にこそ出さないが「子供が車に乗っていいのか」という顔をしていた。もちろんジョゼはもうれっきとした成人だし、自動車免許証をちゃんと取得している。もっとも、左側のバンパーがへこんでいるのを目ざとく見つけたメイコが十字を切るのを見て「安全運転するから大丈夫だって」と言い訳がましくつぶやいた。

 ミクは新しいブラウスを着ていた。それは若草色や水色、それに白などが鮮やかにプリントされたオーガンジーで、内側に着ている黄色いキャミソールと、日本人らしい彼女のわずかに黄味のある肌を引き立てていた。この前逢った時よりも少し髪の毛が伸びたみたいだ、ジョゼはちらりと横目で見て、あれ、今日はあのピンはしていないんだ、そう思った。

 長かった髪を切って以来、ミクはいつもあのトパーズのついた髪ピンをつけていた。キラキラして似合っていた。一度、落ちそうになっていたので指摘したら「ありがとう。これ、幸運のお守りなんだって」と言った。安いものには見えないから、誰かのプレゼントじゃないかと思ったけれど、どういうわけだか訊けなかった。訊かない方がいいと、どこかで思っていた。

 ミクの幸運を願う氣持ちは大いにあるけれど、ジョゼはそのピンを彼女がつけなくなったことにどこかホッとしていた。もっとも、今日はたまたま付けていないだけかもしれない。

「どこに連れて行ってくれるの?」
ミクは、車の窓を開けて風を入れた。

「うん。特にリクエストがなければ、アヴェイロはどうかな」
「どこ、それ?」

 ミクは、ティーンエイジャーの時にこの国にやってくるまではずっと日本にいた上、その後も留学やなんかで忙しかったから、この国の地理にそんなには詳しくない。そりゃ、リスボンやコインブラがどこにあるくらいは知っているだろうけれど。

「南に一時間弱走ったところだよ。運河の街だからポルトガルのヴェニスって呼ばれているんだ」
「へえ。面白そう。じゃあ、そこに行きましょう」

 ミクは、鼻歌を歌いながら運転するジョゼに顔を向けた。免許を取ったのはもう一年くらい前だと言っていたけれど、まだ一度も彼の運転している姿を見た事がなかった。彼女の滞在がいつも短くて、その度に逢っているものの車で遠出をする時間などあった試しがなかった。ポリープの手術の後の三ヶ月の療養期間は、歌手を目指し始めてから初めての長い休みだ。

 彼のハンドルさばきは鮮やかで安定していた。若者らしく少しスピードは超過しているが、無理な追い越しなどはしないし、ブレーキ操作もスムースだった。彼は、いつの間にこんな大人になったんだろう。ついこの間まで絵夢に甘えていた小学生だったくせに。

「なんだよ。あんまりカッコ良くて見とれている?」
ミクの視線を感じて顔を向け、おどけてジョゼは言った。

「よく言うわ。ちゃんと前見て運転してよ」
彼女は、一時間弱のドライブじゃ、短すぎるなと思ったけれど、死んでもそんなことは言ってあげないと心の中で呟いた。

* * *


 ポルトガル中部、アヴェイロ県の都でもあるアヴェイロは潟と運河で発展してきた海の町だ。現在は大西洋に面する重要な港湾都市として工業も盛んだが、街の中心部はかつての優美な姿を今に留めている。運河の前には美しいファサードの建物が並び、水の上には色とりどりに塗られたモリセイロと呼ばれる舟が浮かんでいる。かつては海藻や塩の運搬に使われていたこの舟も、今はヴェニスと同様に観光客用のアトラクションになっている。 

「でも、乗るだろ? せっかくここまで来たんだし」
ジョゼは、船着き場に向かう。二人で舟に乗るなんてロマンティックと思っていたら、なんのことはない十人以上の観光客が一緒に乗る舟だった。舟にはエンジンが取り付けてあって二人の船頭の役割は、方向転換とマイクによる観光ガイドだった。しかも英語だ。

 水の上は少し肌寒かったので、ジョゼは備え付けてあった毛布を広げてミクの膝にかけた。
「ありがとう。こんなに温度が変わるのね」
「そうだね。まだ春だから。いくらポリープは取れたといえ、風邪なんか引かない方がいいだろう?」

 アール・ヌーボーの美しい家々、塩づくりや漁業で財を成した人たちの豪邸、荒れる海との戦いを彷彿とさせるいくつもの海門、それに英国の王室にも納品しているという有名な塩田などを見学して舟は元の広場に戻ってきた。

「冷えちゃったから、コーヒーでも飲んでいこうぜ」
ジョゼは、船着き場からさほど遠くない一軒のカフェに入って行った。そのカフェは思ったよりも広いが、中は客がぎっしりと座っていた。ポルトガルに多い、対面のガラスケースにお菓子を所狭しと並べて販売している。

 二人が座ると、ウェイトレスが注文を取りに来た。
「大きなカップでコーヒーを二つと、それからオヴォシュ・モレーシュも二つ頼むよ」
ジョゼが注文した。

「オヴォシュ・モレーシュ?」
「ここの名産なんだ。ほら、きた」

 白い貝の形をした薄くてぱりっとした皮に黄身の甘いクリームが詰めてある菓子だった。
「あ、最中!」
ミクは懐かしそうに言った。

「モナカ?」
「そう、この皮にそっくりな日本のお菓子があるのよ。小豆で出来た餡を入れたり、アイスクリームを挟んだり。この黄色いクリームも日本で食べる黄身餡に似ているし、嬉しくなっちゃう。日本には大航海時代にポルトガルから伝わったお菓子や言葉が今でも残っているの」

「へえ。たとえば?」
「鶏卵素麺っていうお菓子はフィオス・デ・オヴォスのことだし、パン・デ・ローはカステラって名前になって、大人も子供もみんな食べるポピュラーなお菓子よ。それにコンフェイト(菓子)を語源にした金平糖という砂糖菓子もあるのよ。だからこちらで食べるお菓子は、あたしには懐かしいものが多いの。たとえ初めて食べるものでもね」

 ジョゼは、ミクをじっと見つめながら訊いた。
「日本が懐かしい?」

 ミクは答えるのに少し躊躇して言葉を選んでいた。ジョゼは、日本に帰りたいと言わないでくれたらいいなと思った。彼女はようやく口を開いた。
「懐かしくないと言ったら嘘になるけれど……」

 それから、笑顔を見せた。
「あたしね、故郷から遠く離れているんじゃなくて、あたしには二つの故郷があるって思うようにしているの。それに、今は日本よりこの国に大切な人がいるから」

「それって……」
メイコのことかな、それとも……。ジョゼが続きを訊こうとするのを無視して彼女は立ち上がり、対面ケースのところで、オヴォシュ・モレーシュの詰め合わせの箱を二つ買った。

 彼は肩をすくめてコーヒーを飲み干すと、会計をした。

 帰りに華やかな家々の並ぶ海岸沿いを通ってから、帰途についた。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。この三ヶ月間どのくらい彼女と会えるのかなあ。ジョゼは、今日もまた言えなかったじゃないかと思いながら、車を走らせていた。

「オヴォシュ・モレーシュ、メイコにお土産か?」
「ええ、一箱はね」
「じゃあ、もう一箱は?」

 ミクはいたずらっ子のように笑いながら、箱を開けて「こうして食べる用」と一つ取り出してかじった。
「え。一人で?」
ジョゼが不満顔で言うと、彼女は自分のかじった残りを冗談めかして彼の口元に持っていった。

 彼は、それをそのままひと口で食べてしまった。
「あ!」
ミクは目をみはった。間接キスしちゃった。

 ジョゼは、ミクが嫌がっていないのに氣をよくした。彼女の持っている箱から、もう一つ取り出すとひと口かじってから、ミクの口元に持っていった。そして、彼女がいつもよりずっと魅力的に微笑んでから、大きな口を開けてぱくっと食べてしまったのを確認した。彼は飛び上がりたい氣もちを抑えて真面目に運転した。

(初出:2016年6月 書き下ろし)

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オヴォシュ・モレーシュはこんなお菓子です。
オヴォシュ・モレーシュ
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(25)雪の朝

永きにわたって連載してきた「Infante 323 黄金の枷」、ついに最終回です。

宣告という形で愛する23と一緒に暮らすことになったマイア。自分に触れようともしない彼の態度に傷ついて一夜を過ごしました。彼の真意はどこにあるのでしょうか。

最終シーンのイメージBGMは前回の記事で歌詞とともにご紹介しましたが、サブタイトルとなっている雪の朝のイメージBGMがあります。後書きとともに追記でご紹介しています。


月刊・Stella ステルラ 6、7月号参加 連載小説 stella white12
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「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(25)雪の朝

 パチパチと何かが爆ぜる音で目が醒めた。隣に23はいなかった。起き上がって最初に目に入ったのは、暖炉の中で赤く燃えている焔だった。火をおこしたんだ。今朝はそんなに寒いのかな。

 彼女は23の姿を探した。広い部屋のずっと先にいた。いつもの服を着て髪をきちんと結った彼は窓の向こうを見ていた。はらはらと舞い落ちる雪が静かに鉄格子の上に積もっている。

 この街を彩る赤茶色の屋根はすべて雪に覆われて、静かに眠っているようだった。いつもは騒がしく朝を告げるカモメたちも、震えて羽の間に頭を埋めているだろう。楽しいこと、つらいこと、歓び、悲しみ、そのすべてを紡ぐ活氣ある街を覆うように、雪は静かに降り積もっていた。

 23は黙って窓の外を見ていた。その姿がはじめて彼に逢ったあの日の記憶に繋がった。彼はあの日も格子の向こうの世界を見ていた。彼には出て行けない世界の輝かしい美しさと、そこを自由に飛び回るカモメたちの羽ばたきを眺めていた。生け垣の向こうから入ってきて言いたいことをいいながら帰って行くマイアを、鍵を開けて鉄格子の中へと入ってくる召使いたちが用事を終えて出て行くのを、この館から離れて街の中を自由に動く姉の姿を見ていた。その心持ちがどんなものだか、マイアは今はじめて思い至った。

 マイアにとって、ドラガォンの館に入ってくることも、23の居住区に入ることもつらいことではなかった。ここ鉄格子に区切られた空間は、彼女にとって一度たりとも牢獄ではなかった。昨日まで自由に出入りできた職場の一区画だったからではない。自分が鍵をかけられて閉じこめられる存在となってもつらくはなかった。その理由を突然彼女は悟った。

 それは、ここにいつも23がいたからだ。ここは彼の空間、マイアがもっと近づきたかった愛しい男の住まいだった。

 けれど、23にとって、そんな甘い意味はどこにもなかったのだ。彼はいつも牢獄の中で一人で孤独と戦ってきたのだ。マイアが仕事を選び、買い物を楽しみ、自由に散策しながら、パスポートがもらえない、船に乗れないと文句を言っていた間、彼はそれよりもずっと強い悲しみと戦ってきたのだ。存在することを否定され、名前ももらえず、心を込めて働いても認められることもなく。

 彼はいつもこうやって窓の外を眺めてきたのだろう。そして、その後に、誰かが自由に動き回り、世界を快適に旅して回ることのできる、あの素晴らしい靴を作るために暗い地下の工房へと降りて行くのだろう。今すぐ駆け寄って抱きしめたいと思うと同時に、そんなことをしてはいけないと思った。彼が雪と、全てを包む込む大いなる存在、父なる神と対峙しているこの神聖な時間を邪魔してはならないのだと思った。

 頬に熱いものが伝う。23、23、23……。痛いよ、心が痛い。あなたのために何をしてあげたらいいんだろう。

「起きたのか」
振り向いた23はマイアが泣いていることに氣がついた。

「どうした」
「……」
「閉じこめられたのがつらいのか?」
マイアは激しく頭を振った。

 彼は大きくため息をついてベッドに戻ってきた。それから彼女の頬に手を当てて、その瞳を覗き込んだ。瞳には初めて会った時と同じ暗い光が浮かんでいた。

「泣かれるとこたえる。嫌なのはわかっているが一年だけ我慢してくれ」
「何を?」
「俺と一緒にいることを。心配するな、何もしないから」
「イヤだなんて……。どうして何もしないの? 私じゃ全くその氣にならない?」

 23は首を振った。
「無理矢理に俺の自由にして苦しめたくない。お前の意志も訊かずに決めたことは悪かった。でも、信じてくれ。お前のためにこうしたんだ」

 マイアは自分も手を伸ばして23の頬にかかる髪に触れた。
「私のためって?」

 彼はマイアの手の上に自らの手を重ねた。彼女の心臓はまた強く速く動いた。23の声がすぐ近くで響く。

「一年経っても子供ができなければ、お前は用無しとみなされて、ここを出て行くことができる。そうなったらライサと同じように腕輪も外してもらえる。パスポートももらえるし、どこにでも好きな所に行って、どの星のある男にも邪魔されずに愛する男と結婚することもできる。お前が夢みていた自由を手に出来るんだ」

「どうして? どうして自由にしてくれるの?」
マイアがそう訊くと、23は泣きそうな顔をした。

「わからないのか。誰よりも大切だから。もう一度逢いたいとずっと願っていた。このままずっと側に居られたらと思っていた。だが、俺の望みと好きな男がいて自由を夢みているお前の幸せとは相容れないだろう。だから、俺がお前のためにしてやれることは、これしかないんだ」

 マイアは震えた。この人は、何を言っているんだろう。
「一年経ったら、あなたも一緒にここを出て行けるの?」

 23は黙って首を振った。口元は微笑んでいたが、その瞳は十二年前のあの日と同じように泣いていた。

「だったら、そんなの、私の夢でも幸せでもないよ……そんな自由なんかいらない。あなたのいない所には、どこにも行きたくないよ」

「マイア」
「一年だけなんてイヤだよ。あなたがここに居続けるなら、ずっとここに、あなたの側にいたい」

 23はようやくマイアの言っていることが理解できたようだった。震えながら両手をマイアの頬に当てた。

「俺でも、いいのか」
「『でもいい』じゃないよ。あなたがいいの。好きな人ってあなたのことだもの。他の人じゃだめなの」

 彼は泣きそうな顔のまま笑った。

「生まれてくる子供たちも孫たちもみな《星のある子供たち》になるぞ」
「星があっても、悪いことだけじゃなかったもの。腕輪をしていたから、私は23の側に来られたんだよ。生まれてきたから、私たち出会えたんだよ。そう思わない?」

 答える代りに23はマイアを強く抱きしめた。彼女はそのぬくもりに酔った。

* * *


 春が来た。風に散らされたアーモンドの花びらが緩やかに舞う河沿いを、古い自転車が走って行く。

 黒い巻き毛を後ろで束ねた少し猫背の青年が、風を起こしながらペダルを漕いでいる。

 その後ろに、茶色の髪をなびかせた若い娘が乗っている。青年の腰に腕をまわし、しっかりと抱きついて、D河の煌めく波紋を眺めている。

 カモメを追い越し、路面電車のベルと車輪のきしみを耳にして、自転車は大西洋をのぞむフォスへとさしかかる。

 波が岩場に打ちつけて、白いレースのように花ひらいて砕け散る。繰り返す波。海のそよ風。カモメの鳴き声。クリーム色のプロムナードに辿りつくと、青年は自転車を止めた。

 二人は自転車から降りて海を眺めた。どちらからともなく差し出した手を繋ぎ、波のシンフォニーに耳を傾けた。

 言葉はいらなかった。パスポートや船も必要なかった。お互いが切望していた約束の土地は重ねた手のひらの中にあった。枷だった金の腕輪は、いつの間にか絆の徴に変わっていた。

(初出:2016年5月 書き下ろし)

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この小説を書くことになったシーンのイメージの元になったのはこのベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章です。あ、動画は第3楽章まで一緒になっていますけれど。


Excerpt from Piano Concerto No. 5 in E-flat Major, Op.73 ("Emperor Concerto")

【後書き】

「黄金の枷」三部作の第一作である「Infante 323 黄金の枷」、これで完結です。2年以上の永きにわたりご愛読いただいた皆様に心から御礼申し上げます。

この作品は、2014年の春のポルト旅行中に突然頭の中に浮かんできた、本来はどこにもない世界を舞台にしたストーリーです。おそらく読んでくださった方はあちこちで明らかになる妙な設定に言葉を失って、もしくは失笑したことと思います。

この作品は、私の小説には珍しく完全なるフィクションの上に成り立っています。《星のある子供たち》や《監視人たち》と呼ばれる特別な血筋の人たち、現代としてはありえない強烈な伝統、その無茶苦茶と現実のポルトという美しくも素晴らしい街の観光案内(サブテーマは「五感で恋するポルト」でした)をミックスしてしまう強引な構成。勢いで2ヶ月ほどで書き終えたものの「これ、発表して大丈夫か?」とギリギリまで迷っていました。

なぜこの作品がこういう設定になったのか、今から考えると、全ては、メインテーマ「運命との和解」を端的に表すたった一つのシーン「抵抗し続けた運命を受け入れて静かに鉄格子から外を眺めている主人公の姿」「その姿を眺めながら彼のために何かをしたいと願うヒロインの心」を効果的に描きたかったから、それに尽きるのです。

主人公が望んでも出て行くことのできないこの格子は、おそらく誰の人生にもある普遍的なものだと思っています。奇妙奇天烈な「ドラガォンの伝統」やヒロインたちのしている「黄金の腕輪」もまた、普段意識していないながら、例えば「国民性」「伝統」「常識」という別の形で、私たちを強く縛っているものと変わらないと思っています。

でも、そういう「誰でも同じだよね」という共感部分に、主人公とヒロインの魂の結びつきが薄められないようにしたいと思いました。ごくあたり前の設定のもとでは、私の描写力では、強調したかったことを表現できないと感じたのです。

「なぜ彼は鉄格子の中にいるのか」「ヒロインを自由にするとなぜ永遠の別れになるのか」その疑問に帳尻を合わせるために無理矢理作った設定がこの「黄金の枷」ワールドなのです。が、2年間もそれにつき合っていると、私の中ではその世界も、あって当然になってしまいました。

そして、その強烈な違和感を乗り越えて「あのブログにはああいう世界があるんだ」と、ともかく受け入れてくださった読者の皆様の心の広さと、拍手やコメントによる応援が連載の支えとなってきました。「ひとつくらい、こういう世界があってもいいよね」と最後まで公開しようと思えたのは、ひとえに最後まで読んでくださった皆様のお陰です。

最初は、この「Infante 323 黄金の枷」だけだったこの世界、あれからどんどん設定と物語が進み、現在残りの二つの作品を用意しています。

といっても、実際には重要なのは三作目の「Filigrana 金細工の心」で、二作目の「Usurpador 簒奪者」はその背景を説明するための外伝的位置づけになります。発表までまだしばらくかかりますが、忘れられてしまわないように出来るだけ早く執筆を終わらせたいと思っています。他の作品同様、今後とも「黄金の枷」の世界に親しんでいただけることを願って後書きに代えさせていただきます。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (2)フュッセン、白鳥の城の下で -1-

さて、今日のくだりは、ちょっと説明が必要かもしれません。日本では、打ち掛けやウェデスングドレスを着て誰かの前で今後のことを誓うのは結婚式でやることで、役所で籍を入れるときにはそういうことはしないのが普通です。

ところが、こちらでは「教会で神の前で愛を誓う」のとは別に、役所でサインするときにも式があるのですよ。役人が神父の立ち位置で、「夫婦とは」などとあれこれ話したあと、二人の証人の前で「結婚しますか」「はい」というのをそれぞれ言わないと結婚が成立しないのです。つまり、日本のような本人たちが揃わない状態で役所に行き籍を入れるなんて事はありえないのですね。今回は、その「役所での婚式」です。フュッセンの話は、次回。また2つに切りました。


「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(2)フュッセン、白鳥の城の下で -1-


「ヤスミンからメールが届いていますよ」
レネが図書室から呼んだ。三人は、図書室のコンピュータの前に集まった。

 ヴィルはメールを読んでいたが、蝶子の方に振り向いて言った。
「来週の金曜日に、フュッセンの戸籍役場で婚式を執り行ってくれるそうだ。思ったよりも早く決着がつきそうだ」

「来週? 真耶に頼んだ書類、昨日届いたばかりでまだここにあるじゃない。どうやったらそんなに早く出来るの?」
蝶子はびっくりした。

 書類はバルセロナのドイツ大使館に提出すると聞いていた。それがミュンヘンに送られて審査が行われるので、婚式は早くても一ヶ月後だと思っていたのだ。

「昨日、ヤスミンにFAXしたんだ。劇団の同僚のベルンの叔父がフュッセンの戸籍役場に勤めていて、審査をすべて飛ばしてくれたんだ。バロセロナでやると、問い合わせがミュンヘンに行くから、親父の息のかかった連中に捕まる可能性もある。ドイツに行かなくてはいけないが、フュッセンの方が安全だと思う」

「フュッセンは、ノイシュヴァンシュタイン城のあるところね」
蝶子はにっこりと笑った。

「俺、そこには一度行ってみたかった」
「僕もまだ行ったことがないんです」
稔とレネもすっかり乗り氣になった。

* * *


「ハロー、ヴィル。久しぶりね」
ヤスミンがヴィルに抱きついて、頬にキスをした。

「ブラン・ベックのメイクは見事だったよ。手品が始まるまで、まったく氣がつかなかった」
ヴィルは言った。

 ヤスミンは意地の悪い目をして言った。
「そっちも負けない大芝居をしたみたいじゃない。全員騙されたのよ」

「あんたは俺の演技を知っているだろう」
ヴィルはむすっと言った。あの大芝居以来、三人に散々な扱いを受けてうんざりしているのだ。

「私はその場にいなかったけれど、居たってどうせ見破れなかったでしょうよ。あなたの悪役ぶりは本当に板についているから」

 それからヤスミンは蝶子にも抱きついてキスをした。
「おめでとう、シュメッタリング。私、あなたたちの結婚式に立ち会えて本当に嬉しいの」

「どうもありがとう。ごめんなさいね。急にこんなことをお願いしてしまって」
「カイザー髭の目をくらますために急いでいるんでしょう。私、手伝うなと言われても勝手に協力しちゃうくらいよ」

 それからヤスミンは稔とレネにウィンクをした。
「急ぎましょう。あと三十分後に婚式が始まるのよ。戸籍役場は、ここから歩いて十五分ぐらいだから。ベルンもあそこで待っているはずよ」

 戸籍役場と聞いたので、つまらない四角い役所を予想していたのに、それは小さいながらもヨーロッパらしい美しい装飾のされた部屋だった。十八世紀くらいの建物だろうか。細やかな彫刻の施された木製の天井、細かな浮き彫りのある白い漆喰で囲まれたワインカラーの壁、時間の熟成を思わせる木の床。稔は「ほう」といって見回した。

 熊のように大きい青年ベルンはヴィルとしっかりと抱き合い、それから蝶子の手に恭しくキスをしてから、ヤスミンに頼まれて用意してあった花嫁用の花束を渡した。

 ベルンの叔父のスッター氏は、書類を抱えて嬉しそうに待っていた。
「さてと、始めましょうか。ええと、結婚指輪の交換しますか?」

 そんなことは、何も考えていなかった二人だったが、笑ってそれぞれずっとしていた銀の指輪を外して、スッター氏に渡した。

 婚式が始まった。スッター氏は二人に対するはなむけの言葉と、結婚生活のこつについて話した。それは二十分近く続き、稔やヤスミンがあくびを噛み締めるようになってから、ようやく一番メインの儀式に入った。
「アーデルベルト・ヴィルフリード・フォン・エッシェンドルフさん、あなたは四条蝶子さんの夫になりますか」

 ヴィルは「はい」とはっきり答えた。あまりにも迷いがなかったので、蝶子は意外に思ったほどだった。あのパーティでのヴィルの言葉は今でも蝶子の心にくすぶっていて、もしかしたら最後の最後に否定されるのではないかと思っていたのだ。

 蝶子は、ヴィルが自分を見ているのを感じた。同じ返事をしてくれるのを祈るように願っている青い瞳を。

「四条蝶子さん、あなたはアーデルベルト・ヴィルフリード・フォン・エッシェンドルフさんの妻になりますか」

 蝶子は「はい」と答えてからヴィルを見て微笑んだ。

 スッター氏は二人が夫婦になったことを宣言し、蝶子とヴィルに結婚証書にサインするように促した。続いて稔とレネも証人として同じ書類にサインした。蝶子とヴィルはお互いの左の薬指に銀の指輪をはめ、それから短いキスをした。

 後ろでベルンとヤスミンが用意してきたシャンペンを抜いて、グラスに注いだ。それからその場の全員で乾杯をした。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (1)バルセロナ、祝い酒 -1-

あまりにも長くお待たせしすぎて、既に忘れられているかもしれませんが、ようやく「大道芸人たち」第二部の連載開始です。あれから数年経っているように思われるかもしれませんが、本日のシーンは第一部の最終シーンの翌日です(笑)

長い話は、適当に切って公開していきます。今回も二つに分けました。




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(1)バルセロナ、祝い酒 -1-


 食堂での四時のコーヒーはコルタドの館のいつもの習慣だが、この日はイネスにとって特に感慨深かった。ずっと空だった席に当然のようにヴィルが座っている。蝶子を氣遣ってヴィルの話を避けていた稔やレネの腫れ物に触るような態度もすっかり消えていた。それどころか、帰って来たばかりのヴィルを三人はぞんざいに扱っていた。が、本人が氣に病んでいる様子もなかった。イネスはミュンヘンでのヴィルの大芝居の話を聞いていなかったので、全く訳がわからなかった。

 四人は、今後の予定の話をしていた。稔は既に予約の入っている仕事のことを筋立てて説明し、まじめに聴くレネと、ちゃかして冗談ばかり言って話を進ませない蝶子の舵取りに苦労していた。

 例のごとくほとんど口をきいていないヴィルが、突然言った。
「ところで、日本人が国際結婚する時の書類手続きは、みんなバルセロナでできるんだろうか」

 稔とレネはびっくりして蝶子を見た。

 蝶子はにこりともせずに言い返した。
「できるんじゃないの? いくつかの書類は日本から送ってもらう必要があるだろうけれど、ヨーロッパ式の婚姻が成立してからは、領事館への届けで済むんじゃないかしら。詳しくは知らないけれど。なんで?」
「手続きが済むまでは、小さい都市に移動するのを待ってもらいたいからだ」

 稔とレネは半ば立ち上がって笑いながら二人の顔を見比べた。しかし、蝶子の顔はむしろ険しくなった。
「誰と、誰が、婚姻の手続きをするのよ」

 ヴィルはむすっとしたまま答えた。
「ここに日本人は二人しかいないし、俺がヤスの婚姻手続きのことに首を突っ込むわけがないだろう」

「ってことは、あなたはもう一人の日本人である私の結婚の手続きのことを言っているわけ? でも、私、まだここにいる誰からもプロポーズされていないわよ」
「だから、今、その話をしているんだろう」

 稔とレネは椅子に座った。稔はこりゃ面白くなって来たぞと傍観を決め込んだ。

 レネはおずおずと口を挟んだ。
「テデスコ、パピヨンが言っているのは、役所の手続きのことじゃなくて、その、結婚の申し込みのことじゃ……」
蝶子は大きく頷いた。

 ヴィルは馬鹿にしたような顔でレネを一瞥すると蝶子の目をじっと見据えて言った。
「あんたは、俺がバラの花束を抱えながら跪いて訊かないと返事ができないのか。つべこべ言わずに答えろ。するのか、しないのかヤー・オーダー・ナイン

 蝶子は怒りに震えながら、何か言おうとしたが、ヴィルの青いまっすぐな目を見て考えを変えたらしく、口に出すのはやめてむすっと横を向いた。それから小さな声で、さもイヤそうに答えた。
するわよヤー

「ひゃっほうっ!」
「ブラボーっ!」

 稔とレネが同時に飛び上がり、一緒に腕を組みながらドタドタと踊りだした。

 その騒ぎを聞きつけて奥からイネスが飛び出て来た。
「どうしたんですか」

「乾杯だ! たった今、テデスコがプロポーズに成功したんだ」

 稔の言葉を聞くなり、イネスはやはり大声で叫びながら蝶子とヴィルの二人にキスをした。それからカルロスを呼んでくると言って出て行こうとした。

「カルちゃんはサンチェスさんと会議中でしょう」
蝶子があわてて止めるとイネスは断固として言った。
「これより大切なことなんてありませんよ。だいたいあの二人がコーヒーに遅れているのが悪いんです」

「よっしゃ、俺は酒を買いにいく!」
稔が立ち上がるとヴィルはそれを止めた。
「俺の話はまだ終わっていないんだが」

「そうよ。こっちの話も終わっていないわ。あなた、まさか書類の提出だけで終わらせようってんじゃないでしょうね」
蝶子が自分のペースを取り戻して詰め寄った。

「それが一番簡単じゃないか」
「簡単かどうかなんて、この際関係ないの。あなたが何を言おうと、結婚式は私のいいようにさせてもらいますから」

 ヴィルはむっとして、腕を組んだ。
「希望を言ってみろ」

 蝶子は勝利を確信してにんまりと笑った。
「証人はヤスとブラン・ベックよ」
「当然だな」
ヴィルもまだ余裕だった。

 稔とレネは嬉しそうに顔を見合わせて、再び椅子に座った。

「ちゃんと教会で結婚式をして、ウェディングドレスを着るわ」
ヴィルはうんざりして頭を振ったが、援護射撃は期待できなかったので、反論しなかった。

 蝶子はさらに続けた。
「父親役は、カルちゃんにしてもらうから」

 ヴィルが賛成とも反対とも言わないうちにドタドタと入って来たカルロスが叫んだ。
「もちろんですとも! 大聖堂の予約をしなくては。可能なら大司教に来てもらいましょう」

 今度は四人が慌てる番だった。
「待ってくれ。大聖堂が埋まるようなゲストは全く期待できないんだ。とくに、俺の親族に出席を期待されては困る」
ヴィルが迷惑そうに言うと、蝶子もうろたえて言った。
「私の方も誰も来ないわ」

「大丈夫ですよ。野外パーティ目当てに領民が山ほど来ますから入りきれなくなるはずです」

 蝶子は大聖堂でなくてもいっこうに構わなかったが、教会での結婚式が現実のものとなりつつあるのが嬉しかった。

「私、真耶を招待したいわ」
蝶子が夢見るように言った。

 ヴィルはいいとも悪いとも言わなかったが、しばらくしてこう続けた。
「じゃあ、俺は拓人を招待する」

 それを聞いて蝶子は勢いづいた。
「レネのご両親も招びましょうよ」

「アウグスブルグの連中にも声かけようぜ」
稔が笑いながら言うと、カルロスも続けた。
「私はカデラス氏やモンテス氏にも招待状を送りましょう」

「じゃあ、トネッリ氏やロッコ氏には僕から連絡を入れますね」
レネも笑った。

「とにかく一番に真耶と結城さんのスケジュールを訊かなくちゃ。あの超多忙な二人が、一緒に少なくとも四日も休むなんて可能かしら?」

 大騒ぎになって眉をひそめていたヴィルは蝶子の腕をとって座らせ、冷静に言った。

「いいか。こっちのばか騒ぎはいつでもいいが、書類の方は即刻始めるんだ。できれば今週中に手続きに入りたい」

 水をかけられたように、全員が騒ぐのをやめてヴィルの顔を見た。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(24)宣告

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。

いつまでも完結しないと思っていたこの小説、今回と次回の2回で完結です。つまり、今回はストーリーとして(ようやく)クライマックス。もしかしたらドン引きする展開かもしれませんが、まあ、もともと、そういう話だし……。(開き直り)

もちろんマイアは、今回こうなってもまだよくわかっていません(笑)お花畑脳は強い。ま、23も五十歩百歩ですが。


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「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(24)宣告

 その晩は、アマリアとマイア、それから三か月の監視期間を終えて復帰したばかりのミゲルが給仕に当たっていた。いつもの晩餐だったが、前菜とスープが終わり、アマリアとマイアがメインコースを取りに行っている時にそれは起こった。二人がキッチンから戻ってきた時に、テーブルでガチャンという音がした。

 二人が戸口から中を見ると、24が水の入ったグラスを手ではねつけたらしい。水を注いでいたミゲルはショックを隠せないでいた。座っていた他の三人も驚きの表情を見せた。24はミゲルを睨みつけた。
「お前には給仕されたくない。薄汚い策略家め」

 マティルダの件だと、マイアは氣がついた。先を越して、自分に挨拶もなく結婚したことが許せなかったのだろう。メネゼスがそっとミゲルの袖を引き、他の三人に水を入れるように目で指示すると、24の前のグラスを黙って片付けてから別のグラスを差し出した。メネゼスは皿を持っている二人にも、お出ししろと目で合図した。アマリアがドンナ・マヌエラと23の皿を持っていて、マイアはドン・アルフォンソと24の皿だった。

「何がハネムーンだ」
まだ腹の虫のおさまりかねる様子で24が続けた。

「よせ。ミゲルに当たるな」
23が嗜めた。すると24は今度は23を攻撃しだした。
「お前がまた裏で糸を引いたんだろう」

「なんだと」
「僕の子供が出来ないように、念の入った邪魔をしやがって。自分が檻から出られるチャンスをつぶされたくないんだろう」

「いいがかりだ」
「お前がアントニアを焚き付けて、ライサをここから強引に連れ出したのを僕が知らないとでも思っているのか。僕の子供を殺した上、ライサを精神異常にしたてやがって」

 ドン・アルフォンソが黙っていなかった。
「24。ライサの診断は二人の精神科医が行った。それにあれは自然流産だった。どちらも23が関われるはずがなかったことだ。言っていいことと悪いことがあるぞ」

「どうだか。そいつは昔からずっと陰険だった。みっともない姿で誰からも相手にされないからって、僕を逆恨みして邪魔ばかりする。僕と女の仲を裂く暇があったら、一人でもいいから女を口説けばいいんだ」

 マイアは怒りに震えつつも、黙ってドン・アルフォンソの前に皿を置き、それから、皿を頭から叩き付けたい衝動を堪えつつ24の前にも皿を置いた。その表情を24は横から見て、にやっと笑い、再び23に絡んだ。

「女の口説き方や連れ込み方も知らないんだろう。どうやるか実践で教えてやろうか。例えば、お前のお氣にいりのこの女なんかどう?」
そういって、離れようとしていたマイアの右手首をつかんだ。彼女ははっとして身を引こうとしたが、24はいつもの調子では考えられないほどの力で引っ張り、立ち上がると反対の腕でマイアを抱きかかえるようにした。

 ドンナ・マヌエラが眉をひそめた。
「メウ・クワトロ、いい加減になさい」

「なぜです、母上。僕には赤い星を持つどんな娘でも自由にする先祖伝来の権利があるはずですよ。ほら、例の宣告をすればいいんでしょう。《碧い星を》ってやつ。やってみようかな」

 あざ笑うような24の挑発に唇を噛んで黙っていた23は、突然席を立ち口を開いた。その口から聞こえてきたのは、普段使うものとは似ても似つかぬ古い時代の言葉だった。

「《碧い星を四つ持つ竜の直系たる者が命ずる。紅い星一つを持つ娘、マイア・フェレイラよ、余のもとに来たりて竜の血脈を繋げ》」

 沈黙が食堂を覆った。24は顔色を変え、マイアの手首をつかんだまま自分の席に座り込んだ。マイアは何が起こったのかわからず23と24、それから呆然とする人びとの顔を見た。

 ドン・アルフォンソが最初に反応した。23が使ったのと同じ、古い時代の言葉だった。

「《碧い星を五つ持つ竜の直系たる余は、碧い星を四つ持つインファンテ323、そなたの命令を承認する。竜の一族の義務を遂行せよ。紅い星一つを持つ娘、マイア・フェレイラよ、インファンテ323に従え。そなたには一年の猶予が与えられた》」

 それから24の方を向き普段の調子に戻って言った。
「24、その手を離せ。今後その娘に触れることは許されない」

 24は忌々しそうに、つかんでいたマイアの手首を離した。それと同時に彫像のように固まっていた召使いたちもほうっと息をついて動き出した。ドンナ・マヌエラがメネゼスの方を見て頷いた。

 メネゼスは、アマリアとミゲルに向かって言った。
「アマリア、マイアの荷物をまとめるのを手伝ってくれ。準備ができたらミゲル、お前が運ぶのだ。その前にジョアナの所に行き、ほかの者を給仕によこすように伝えてほしい」

 23が黙って自分の居住区に帰ってしまい、食事も給仕も中断して皆が急に動き出したので、何が起こったのかわからないマイアは慌てた。
「あの……いったい、何が……。私の荷物をまとめろってどういうことですか?」

 アマリアがマイアの腕をつかんで強引に食堂から連れ出した。
「何、どうなったの?」
「しっ。これからあなたは23の所にいくのよ」

「何のために?」
「子供を作るためよ」
「えええっ?」

「23がしたのは、正式の宣告よ。私も生まれてはじめて聞いたわ。とにかくあれをされたら、星を持つ女に拒否権はないの。詳しくは本人に話してもらいなさい」

 マイアはミゲルに連れられて23の居住区に入った。

 23は三階の寝室の外れにあるライティングデスクの前に腰掛けて両手で顔を覆っていた。彼女の荷物を寝室に運び込むと、ちらっとマイアを眺めてからミゲルは出て行った。

 マイアは所在なく立ち尽くしていた。二階に降りて行ったミゲルが格子を閉じて鍵をかけた音がした。その金属質の音はこれまで感じたこともないほど大きく、外界から遮断されたことを思い知らされた。

「23……」
後悔しているんだ。マイアは23のうちひしがれた様子がつらかった。子供を作るためとアマリアに言われた時、希望を持った自分が情けなかった。そうだよね。そんなわけないって、知っていたはずなのに。23が好きなのは、ドンナ・アントニアだって……。

「ごめんね……」
ぽつりとマイアが言うと、彼はようやく顔を起こして彼女の方を見た。

「すまなかった。お前の意志を無視した」
それからマイアの荷物をちらっと見ると、ため息をついていった。
「明日にでもしまう場所を決めよう。足りないもの、必要なものは、言えば館が購入してくれる。今日は遅いからもう寝てくれ」

 寝ろって言われても、一つしかないから、ここのことだよね。何度もベッドメイキングをした大きなベッドを見て、マイアは躊躇した。これからずっとここで。でも、イヤなんだろうな、私とじゃ……。

 とはいえ、突っ立っているわけにもいかなかったので、マイアは黙って洗面所に行くと顔を洗って歯を磨き、寝間着に着替えてすごすごとベッドに向かい、端のできるだけ邪魔にならない所に紛れこんだ。暗い部屋の中に鉄格子の嵌まった窓から月明かりが射し込んでいた。その光はライティングデスクに肘を持たせかけてうつむいている23を照らし出していた。彼の背中はいつもよりもずっと丸く見えた。マイアは布団の中で声を殺して泣いた。

 いつの間にか寝てしまっていたらしい。ベッドが軋んだのでマイアは目を覚ました。大きなベッドの反対側に23がいた。月は大きく移動して、ベッドの上に光を投げかけていた。マイアが少し身を起こすと、23がこちらを向いた。
「起こしてしまったか」
「うん……。あの……そんな端じゃなくてもっと真ん中で眠れば?」

 23は笑って首を振った。
「お前こそ、落ちそうなくらい端にいるじゃないか」
「だって、悪いかなと思って」
「悪いもへったくれもない、俺がお前に強制したんだろう」
「ちがうよ。24から守ってくれたんだよね。ごめんね。ドンナ・アントニアに誤解されるよね」

 23は、わからないという風にマイアを見つめた。
「どうしてそこでアントニアが出てくるんだ」

「だって、私とじゃなくて、ドンナ・アントニアと一緒になりたかったでしょう?」
「お前、何を勘違いしているんだ。アントニアと俺がどうこうなるわけないだろう」
「愛し合っているんじゃないの?」

 23はゲラゲラ笑った。マイアには何がおかしいのかわからなかった。

「道理でアントニアが来る度にあわてて出て行ったわけだ。誰もお前に言わなかったのか?」
「何を?」
「アントニアは俺たちの姉だよ」
「!」

 それから困ったように言った。
「そんなに怯えるな。襲ったりしないから安心して寝ろ」
「怯えていないよ。それに、邪魔にならないようにするから、そんなに落ち込まないで」

 23は笑って手を伸ばしマイアの頭をそっと撫で「おやすみ」と言った。それから背を向けた。月の光に浮かぶ彼の丸い背中を見ながらマイアはまた悲しくなって布団をかぶった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】リゼロッテと村の四季(3)教会学校へ

20世紀初頭のスイスの田舎カンポ・ルドゥンツ村を舞台にした不定期連載「リゼロッテと村の四季」をちょっと進めてみました。

今回は新しいキャラクターがわんさか出てきます。でも、びっくりしないでください。重要なキャラはそんなにいませんので。視点は初登場のドーラです。ジオンの姉ですね。牧師夫人であるアナリース・チャルナーとその甥でもあるハンス=ユルク・スピーザーも初のお目見え。

リゼロッテの村の生活はこの辺りから少しずつ変わっていきます。



「リゼロッテと村の四季」「リゼロッテと村の四季」をはじめから読む
あらすじと登場人物




リゼロッテと村の四季
(3)教会学校へ


 ドーラ・カドゥフは、丁寧に髪を編んでから、日曜日用の晴れ着を戸棚から取り出して、注意深く袖を通した。彼女の持つ唯一のスカーフを形よく胸元で結ぶと、窓から顔を出した。そして、まだ泥だらけの服装のままの弟を見つけるとため息をついた。

「ジオン! 今すぐ用意をしないと、間に合わないわよ」
鶏の卵を抱えた少年は、彼女に目を向けるといつもと同じように「わかっているよ。すぐに」と言った。

 彼らの家は、母屋の他に牛小屋と山羊小屋、そして鶏小屋がある。鶏に餌をやり卵を集めるのはかつてはドーラの仕事だったが、現在は弟のジオンが担当している。ドーラには、窯の火を絶やさないようにする役目と、泉から水を汲んでくる役目があった。それに彼女はジャガイモの皮を剥いて蒸かしたり、パンをこねるのも得意だ。もう12歳になるのだから、台所仕事の多くは母親の代わりに出来るようになっていた。

 ドーラは頭の回転がよくハキハキした子どもで、どんなことでも親の手をかけずに上手にやってのける。一年中休みなく働く両親の代わりに、3歳年下の弟の面倒を看ることも忘れない。親たちは10時のミサに行けばいいのだが、ドーラとジオンは8時半からの教会学校に行かなくてはならない。

 日曜日に仕事をすることは基本的に禁じられているので、牧畜農家を生業にしていない家の子どもたちはゆっくり起きだしてきてすぐに晴れ着を着て教会に向かうだけだ。一方、日曜日であっても動物の面倒を看ることと、牧草をひっくり返すことは例外的に許されているので、農家の子供たちには日曜日の朝もやることがあった。だが、子供のいる農家で教会から離れている所に住んでいるのはカドゥフ家だけなので、結局ドーラたちだけがいつも遅刻しそうになるのだった。私はいつもきちんと準備をしているのに、ジオンったらもう。

 あわてて入ってきたジオンは、かろうじて汚れていない日曜日用の半ズボンとシャツを着用していたが、髪は乱れていて、頬には泥がついていた。ドーラはたらいの側に彼を連れて行き、白い布をそっと水でぬらしてから彼の顔を拭いてやり、それから靴の汚れも取ってやると、その手を引いて急ぎ足で家を出た。

 カドゥフ家は、村の中心から少し離れたところにあった。小走りに牧草地を抜け、小径を途中まで歩いていると、横を馬車が通った。御しているのはロルフ・エグリだった。
「なんだ。お前たち、教会に行くところか?」

「ええ。もうどうやっても遅刻なの」
ドーラがいうと、ロルフは御者席を少し横にずれて「乗れ」という顔をした。
ジオンは首を伸ばして、馬車の中にリゼロッテが居るのをみつけると、「やあ」と言った。

「なんだ。お嬢さんを知っているのか」
ロルフが言うとジオンは大きく頷いた。

 リゼロッテは、ジオンと、それから初めて逢うドーラに嬉しそうに微笑んで会釈をした。ドーラも笑って「こんにちは」と言うと、二人の子どもは御者席に飛び乗った。

 リゼロッテが住んでいるのは、ジオンの家からさらに丘を登ったところにあるお屋敷だ。彼女は、これまで教会学校に来たことがなく、家庭教師のヘーファーマイアー嬢と一緒に朝早いミサに行くだけだった。家政を手伝っているカロリーネ・エグリと時々忍び込んで話をしているジオンから噂を聞くだけの村の子どもたちは、ドイツ人の令嬢がどんな子なのか興味津々だった。

 長い茶色の髪の毛を形よく結んで、白いレースの襟のついた品のよい焦げ茶の天鵞絨のワンピースを身に着けた少女の優しげな笑顔は、ドーラにはとても好ましく思えた。今日はどういうわけでヘーファーマイアー嬢抜きで教会に向かっているのかわからないが、ドーラにはいい風向きに思えた。

 ジオンの話では、お高くとまったところのないいい子で、村の子どもたちとも仲良くなりたがっているというのに、ヘーファーマイアー嬢が「まともなドイツ語も話せない野猿のような子どもたちと交際をするのは好ましくありません」と言っていたのだ。ドーラは、あの女のいない時に、さっさと自己紹介をしてあの子と仲良くなろうと思った。

 8月のカンポ・ルドゥンツ村は、穏やかで美しい。盛夏は過ぎて、わずかに秋の訪れが感じられる。背が高くなったトウモロコシの濃い緑の葉の先は乾き枯れてきており、小麦の穂がいつの間にか黄金に輝くようになっていた。

 それは、家族とともに牧草をひっくり返す作業をするときにいつも身に付けている赤い綿のスカーフが、いつの間にか色褪せていることに氣づいたことと似ていた。風は穏やかになり、日の長さも少しずつ短くなっていた。10月になれば学校が始まる。ドーラはまた一つ上の学年になることにときめいた。

 ロルフは馬車を教会の前にぴったりと着けた。ジオンがまず飛び降りて、ドーラも降りている間に、後に回ってドアを開けた。その手助けを受けてリゼロッテが降りたのを確認したロルフは、帽子を持ちあげて言った。
「では、お嬢さん、ミサの時にはまたあっしも参りますんで」

「ありがとう、エグリさん」
リゼロッテの声を、ドーラは鈴のようだと思った。

 馬車が言ってしまうと、リゼロッテはジオンとドーラの方を振り向いて、はにかんで笑った。ドーラはさっと手を出した。

「はじめまして。私、ドーラ・カドゥフよ」
「はじめまして。リゼロッテ・ハイトマンよ。お逢いできて嬉しいわ、ドーラ。ジオンのお姉さん、どんな女の子かいろいろと想像していたの」

「想像の女の子に、似ていた?」
「ええ、ほとんどそっくり。ジオンと似ているもの」

「あら。私は、この子みたいに、いつも泥だらけじゃないわよ」
ドーラが言うと、リゼロッテはクスッと笑った。
「ええ。そこだけ、想像と全く違ったわ」
それで、三人とも楽しく笑った。

「何をしているの、早くお入りなさい」
声に振り向くと、牧師夫人アナリース・チャルナーが牧師館の扉のところで呼んでいる。ドーラはリゼロッテに道を譲って言った。
「行かなきゃ。あ、それはそうと、プラリネのお礼を言っていなかったわね。どうもありがとう」

 リゼロッテは、ニッコリと笑った。数週間前に、彼女はジオンに初めてのプレゼントとして二粒のプラリネを手渡したのだ。彼は二つとも食べてしまわないで、一つをドーラにあげたいと言った。それで、リゼロッテは彼女の存在を知ったのだ。
「どういたしまして。少し溶けてしまっていたけれど、食べられた?」
「もちろんよ。あまり嬉しくて夢見心地だったわ」

 牧師館には既に村の子どもたちが揃っていた。一番前には8歳の泣き虫ルカ・ムッティを筆頭に6人の幼年組がいた。その次の列にはおしゃまなアネット・スピーザーやマルティン・ヘグナーなど10歳の子供たち、次の列にはアドリアン・ブッフリをはじめとする4人の11歳と12歳の子たちがいた。次の列はそれ以上の少し大きい子たちで最年長の14歳のマルグリット・カマティアスが奥に座っていた。一番後にアネットの兄であるハンス=ユルク・スピーザーが一人で座っていた。村の学齢に達した子どもたちは20人程度、決して教会に来ないモーザー家のマルクを除いて日曜日にはここに集まるのだった。

 1年前に、ドーラとジオンの兄クルディンと、アドリアンの姉コリーナが堅信式を迎えて、大人の仲間入りをした。それから、コリーナは長いスカートで装い、クルディンは長ズボンを履くようになった。そして、子どもの集まる場所には一切顔を出すことはなくなった。学校の先生からの伝達をする役目や、教会での行事の中心になるのは当時12歳のハンス=ユルクになった。

 他の同い年の子供もいたし、マルグリットは年長でもあったのだが、誰もそのことに異議を唱えるものはいなかった。

 ハンス=ユルクは、ドーラとひとつしか違わないが、ずっと落ち着いている。聡明で誰に対しても分け隔てなく対峙するので、カンポ・ルドゥンツ村だけでなく、同じ学校に通うラシェンナ村の子どもたちからも信頼されてている。

 チャルナー夫人に連れられて、ドーラたちと一緒にリゼロッテが入ってきたのを見て、子どもたちは騒ぎかけたが、ハンス=ユルクが「静かに」と言うと、すぐに大人しくなった。チャルナー夫人は満足げに頷いて、ドーラたちにハンス=ユルクの隣に座るように目で合図すると、リゼロッテを前に連れて行った。

「皆さんに紹介しましょうね。丘の上のハイトマンさんのお嬢さん、リゼロッテです。普段は家庭教師のヘーファーマイアーさんと早朝ミサにいらしていたのですが、彼女のお母さんが病に倒れたとの知らせで急遽ドイツにお帰りになったので、その間、皆さんと一緒にミサを受けることになりました。仲良くしてあげてくださいね」

 拍手と歓声が聞こえた。

「すげえ服着てんな」
ルイジは天鵞絨を見たのは初めてで、やわらかく艶やかな襞に感嘆して大きな声を出した。リゼロッテは、そんな事を言われたのは初めてだったので、少し赤くなった。チャルナー夫人が少し睨んでから、リゼロッテをドーラの隣に連れて行った。

「わからないことがあったら、このドーラとハンス=ユルクに訊いてね。二人ともお願いね」
チャルナー夫人にいわれて二人は頷いた。リゼロッテは、ハンス=ユルクに小さく会釈した。彼も礼儀正しく頭を下げた。
 
 チャルナー夫人は、一番前に戻っていき、「始めますよ」と言った。彼女は綺麗な正規ドイツ語を話した。単語によっては小さい子供たちも理解できるように方言による単語を交えて話したので、リゼロッテにとっては方言の単語を知るいい機会にもなった。

 マルグリットは、チャルナー夫人に名指しされて新約聖書のルカの第10章、「善きサマリア人のたとえ」の箇所を朗読した。

するとその人は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った。「わたしの隣り人とは誰の事ですか」

イエスが答えて言われた。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗たちが襲い、彼の衣をはぎ、殴りつけ、半殺しにして去って行った。

たまたまある祭司がその道を下って来た。彼を見ると,反対側を通って行ってしまった。

同じように一人のレビ人もその場所に来て、彼を見ると反対側を通って行ってしまった。

ところが、旅の途中のサマリア人が彼のところにやって来た。彼を見て氣の毒に思い、彼に近づいてその傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやった。彼を自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き介抱した。

次の日出発するとき、2デナリを取り出してそこの主人に渡して言った。『この人を見てやってください。費用が余計にかかったら、わたしが戻って来たときに払いますから』

さて、あなたは、この3人のうちのだれが、強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」

彼は言った。「その人にあわれみを示した者です」

するとイエスは彼に言った。「行って、同じようにしなさい」


 
 マルグリットがどうにか朗読を終えると、チャルナー夫人は子供たちの顔を見回した。多くの子供たちは、「よくわからない」という顔をしていた。かなり滞った朗読のせいでもあったのだが、その他に知らない単語もたくさんあったからだろう。「レビ人」「サマリア人」と言われても、幼い子供たちには何の事だかわからない。

「サマリア人というのは、主の時代のユダヤでは、異端の信仰を持ち、つき合ってはならない人たちとされていたのです。レビ人というのは、ユダヤ人の中で祭司に関わる特別な部族として敬われていた人たちで、祭司はもちろんユダヤの聖職者ですから、強盗に襲われた人にとっては同国人、サマリア人は付き合いのなかった外国人だったのです」

 チャルナー夫人が「外国人」と口にすると、多くの子供たちが振り返ってリゼロッテを見た。彼女は恥ずかしくなって下を向いた。

 ドーラはそのリゼロッテを横目で見た。「善きサマリア人のたとえ」はもう習った事があったから知っていた。でも、以前は外国人と言われても具体的によくわからなかった。ドーラの父親、マティアスが時々「《金持ちのシュヴァブ》はいい氣なもんだ。働きもしないで美味いもんばかり食いやがって」と言っていたので、「ガイコクジン」とは、なんだか自分勝手で傲慢な人たちだと思っていたのだ。けれど、こうして横に並んでみると親切そうでいい友達になれそうな普通の女の子だ。

 この子が強盗に襲われている図は、想像できないけれど、もしそうなっても私はもちろん助けて看病してあげる。ドーラは秘かに思った。私が強盗にあったら、この子は立ち止まって看病してくれるかな? 

 そう思って見つめていると、視線を感じたリゼロッテが振り向いた。それから、ドーラの方を見てニッコリと笑った。うん、きっと看病してくれる。ドーラは、嬉しくなった。

(初出:2016年4月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと黄色い羽 - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」

今日の小説は、ブログのお友だち山西左紀さんの20000HIT記念小説にインスパイアされて書きました。サキさんは、私のリクエストに応えて、この掌編を書いてくださいました。

山西左紀さんの『物書きエスの気まぐれプロット(22)午後のパレード』

サキさんの所のエスは、私の小説の登場人物アントネッラ(ハンドルネームはマリア)のブロともになってくださっていて、情弱ぎみのアントネッラのために情報検索の手伝いをしてくれたり、公開前の小説を読んで意見をくれたりする貴重な存在、という事にしていただいています。そして、今回そのエスが友人コハクとともにこっそりコモ湖に来ているのですが、アントネッラはそれを知りません。

というわけで「夜のサーカス」の主人公二人を登場させて、なんともビミョーなアンサー掌編を書いてみました。途中出てくる奇妙な存在は、サキさんの掌編にインスパイアされたものですが、サキさんの小説にでてくるパレードの正体と言いたいわけではありません。じゃあ、なんだよと言われそうですが、ええと、なんとなく。

「夜のサーカス」本編は読まなくても話は通じるはずですが、一応リンクも貼っておきますね。



「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物




「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと黄色い羽 Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」

 コモ湖は春の光に覆われて、これでもかというくらいに輝いていた。普段はサングラスをしないヨナタンすらも、ヴィラに辿りつくまで着用していた。ステラはそのヨナタンの姿にうっとりとしていた。

「なぜ見ているんだい」
困惑したように言う口調はヨナタンそのままなのに、急に映画スターにでもなったように感じたステラは、それをそのまま口にして、彼にため息をつかれた。

「えっと、そろそろだったわよね。まだ通り過ぎたりしていないわよね……」
ステラは慌てて言った。ヨナタンの口元が笑った。これまで通ってきた所にあったのはどれも立派なヴィラばかりで、至極残念な状態であるアントネッラのヴィラを見過ごすことなど不可能だからだ。

 それはかつては壮麗だったはずの大きなヴィラで、40年くらい前に塗ったと思われる外壁はアプリコット色だ。はげ落ちていない所は、という意味である。一階部分の大半は伸び放題になったひどい状態の庭(かつては庭だったと言った方がいいかもしれない)の枯れ枝に隠されてよく見えていなかった。玄関ドアはかろうじて閉めたり開けたりができる状態だったが、たとえ開けっ放しでも泥棒に入られることはなかっただろう。

 門の所に大きい松かさの形をした石のオーナメントが載っていたこともあるようだが、現在そのうちの1つは地面に横たわり、雑草の中に埋もれていた。

 そんな状態だったので、ようやくその前に辿りついたステラもすぐにここがアントネッラのヴィラだとわかった。ヨナタンは、錆び付いた門をギイと押して開けてやると、ステラを通した。

 二人は枯れた草の間を進んだ。もしこれが夏だったら雑草の間を泳ぐようにして進まなくてはならなかったことだろう。玄関ドアの所に進むと開けて「アントネッラ、こんにちは!」と叫んだ。すぐに上の方から「入っていらっしゃい!」と返答があった。

 埃にまみれて廃屋同然の一階と二階を通り過ぎ、さらに螺旋階段を昇っていくとたどりつくのが展望台として作られた小さな物見塔だ。アントネッラは茶菓子とコーヒーを用意して待っていた。

 アントネッラは小さな彼女のアパートから運び込んできた全ての家財をここに押し込んでいた。木製のどっしりとしたデスクには年代物のコンピュータと今どき滅多に見ない奥行きのあるディスプレイ、ダイヤル式の電話などが置いてあった。小さな冷蔵庫や本棚、携帯コンロと湯沸かしを上に置いた小さい食器棚、それからビニール製の衣装収納などが場所を塞ぐので、ベッドは省略してハンモックを吊るし、デスクの上空で眠るのだった。

 ステラはこの場所が好きだった。そこだけは足元が塞がれていないソファの前に立って、開け放たれた窓を眺めると、その向こうに青く輝くコモ湖が見える。マグノリアと花水木があちこちで咲き乱れていた。

「よく訪ねてくれたわね。何ヶ月ぶりかしら。どうしたのかと思っていたのよ」
アントネッラの頬にキスをしながら、ステラは元氣よく答えた。
「だって、南の方に行っていたのよ。私、ローマやナポリって初めてだったの。でも、やっぱり北イタリアに帰ってくるとホッとするわ」

 アントネッラは嬉しそうに笑った。ステラとヨナタンは、「チルクス・ノッテ」というサーカスに所属していて、街から街へとテントで移動して暮らしている。アントネッラとは、普段はヨナタンと呼ばれているこの青年にまつわる事件を通して友達になり、それ以来、興行でコモに来る時には必ず訪問することにしているのだ。

 アントネッラは、私設の電話相談員として生計を立てている。もちろんそんな仕事では、コモ湖畔のヴィラをまともに状態に保つだけの収入は望めないので、この崩れかけた祖母の形見のヴィラはまるで半世紀前から打ち捨てられているかのごとくなっていたが、彼女は全く氣にしていなかった。この窓から眺めるコモ湖の景色さえあればそれで満足だったからである。

「思ったよりも到着が遅かったから心配していたのよ。久しぶりで道に迷ったの?」
アントネッラが訊くとステラは首を振った。
「違うの。街で人助けをすることになったので、遠回りになっちゃった。コモから直接じゃなくて、一度東岸に行って、ヴァレンナから船に乗ってきたの」

「まあ、人助け?」
そうアントネッラが訊くとヨナタンが頷いた。
「二人の日本人が、変なところをウロウロしていたんです。どうやら病院に行った帰りに、レッコ行きのバスの出るポポロ広場へと向かう近道を行こうとしたらしく、表通りをそれてしまったようですね」

「日本人がレッコやヴァレンナに何の用事があるのかしら」
「どうやら一人の女性のお祖母さんがこの地方の出身だそうで、先祖の墓も探したかったみたいですよ。それで、コモの街で道を一本間違えてしまった所、迷路のようになった急な上り坂で、体の弱そうな女性の方が少しダウンしてしまったようで」
「そっちの女の子はイタリア語も話せるのよ。でも、具合が悪くてたくさんは話せなかったの」

 イタリア語の話せる日本人。それを聞いて、アントネッラはある友達の事を連想した。それは日本に住んでいるエスという名前以外はほとんど知らない女性だ。アントネッラと同様、趣味で小説を書いていて知り合ったのだ。

「それで。その二人は、無事に墓地に行けたの?」
アントネッラは、カップにコーヒーを注ぎながら訊いた。ステラは、ビスコッティとアマレットのどちらから食べようか迷っていたが、結局両方一度に手にとってから答えた。
「ええ。少し休んでから、私たちが連れて行ってあげたから。そして、とても面白いものも見たのよ」
「面白いもの?」

 それは、日本人女性たちと別れて船着き場へ向かうために墓地を横切り、出口付近にあった中世の納骨堂の前を通った時の事だった。その納骨堂は黒い艶やかな金属製の壁と柵で覆われているのだが、中には所狭しと頭蓋骨が並んでいるのだった。そして、黒い壁にはダンス・マカーブルよろしく、骸骨たちが楽しそうに人びとを連れて行列している絵が描かれていた。

 納骨堂の柵から、蟻が行列を作って出てきていた。それは二人がこれまで見た事もないような大きな蟻で、黒と赤茶色をしていた。そして、その多くが黄色っぽい三角の何かを運んでいるのだった。ステラが屈んでよく見ると、それは小さな蝶の羽だった。

 そうやってゾロゾロと練り歩く蟻の群れは、終わる事もなく次々と納骨堂から溢れ出てくるのだった。

「まるでカーニバルの行列のようだったのよ。アントネッラに見せてあげたくて、ひとつだけその蝶の羽を持ってきたの」
そういうと、ステラはポケットからハンカチーフを取り出して手のひらの上でそっと広げて見せた。

「あれ?」
そこに挟まっていたのは、黄色い蝶の羽などではなく、三角の金色の紙だった。

 アントネッラは、ステラとヨナタンの両方が「そんなはずはない」という顔をしているのを見て、二人が嘘をついているのではないなと思った。ハンカチごと受け取ると、金色の紙をしげしげと眺めた。
「不思議な事もあるものね」

 アントネッラは、この不思議な話を短い作品にまとめたらどうだろうかと考えた。サーカスのブランコ乗りと道化師が、カタコンブからゾロゾロと現れる骸骨のパレードに翻弄される話だ。

僧侶、裕福な商人、徴税人などの豪奢な中世風の衣装をまとった骸骨たちは、金色の三角の紙をまき散らしながら、コモ湖の方へと向かう二人を追う。

カタカタと歯を噛み合わせて嗤う白い髑髏は、面白おかしい歌を歌えとブランコ乗りに要求するが、道化師が「歌わない方がいい」と止める。ブランコ乗りを地の果てに連れて行こうとする骸骨たちを道化師は黄色いジャグラーボールを使って撃退する。だが、コモ湖の前で二人は追いつめられる。

その時、教会の厳かな鐘の音が鳴り響き、骸骨たちは全て蟻の群れに戻って二人の視界から消えていく。二人の手のひらには、黄色い蝶の羽だけが残される。



 このストーリーについてどう思うか、エスの意見を聞いてみよう。アントネッラは考えた。

 でも。どういうわけか、ここ数日、エスはチャットにログインしていないのよね。「サルベージ」とやらでしばらくチャットできないと予め言われていた時以外に、エスがこんなに長くログインしなかった事はなかった。アントネッラは、今夜こそエスが再ログインするといいなと、ぼんやりと考えつつ、またしても空になったステラのコーヒー茶碗に新しくコーヒーを注いだ。

(初出:2016年4月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】サバンナの朝

今日発表する小説は、最近お友だちになった夢月亭清修さんの企画に参加するために書き下ろしました。

夢月亭清修さんの ≪企画小説≫like a Sound Novel 『陽炎レールウェイ/百景』

「楽曲(インストゥルメンタル)」と「その楽曲のタイトル」を御題にします。
曲を聴きながら読んで、その雰囲気にハマるような掌編小説を書いてみようじゃないかという塩梅です。


お題となった『陽炎レールウェイ』、インストゥルメンタルではあるのですが、ものすごい難問でした。クセのない曲なのでいくらでも書けるだろうとお思いになるかもしれませんが、実際に挑戦してみるとわかります。二度くらい投げ出そうとしました(笑)

最初は日本の話を書くつもりだったのですが、起承転結どころかきっかけすらつかめない体たらく。結局、「少なくとも題名にだけはわずかにかすっているぞ」という言い訳のみを残し、マイ・フィールドに持ってくることにしました。そして、始めから断っておきますが、オチも全くありません。

この話にでてくる女性は去年まで連載していた「ファインダーの向こうに」のヒロインです。ですから、あの作品をお読みになった方には入りやすいと思いますが、直接の関係は何もありませんので読まないと通じないというほどのことはありません。単なる読み切りとしても読めるようになっています。

しかし、なんだな~。この世界、キャラが増える一方だ。しかも、既にアメリカですらないし。

◆参考までに
「ニューヨークの異邦人たち」シリーズ
「ファインダーの向こうに」
「ファインダーの向こうに」を読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ




サバンナの朝
——Inspired from “陽炎レールウェイ” by 百景


 きしむ金具をどうにかなだめて、彼女は外が曇って見えるほどに汚れたガラス窓を開けた。車輪の刻む規則的な音ともに、生温い風がコンパートメントに吹き込んでくる。どこまでも続く乾いたサバンナ。ジョルジアは、カメラを構える代わりに赤茶けた大地とオリーブ色の灌木を瞳に焼き付けようとした。

「一度アフリカに来たものは、いつの日か再びアフリカに帰る」
そう彼女に伝えたのは、リチャード・アシュレイだったか、それとも、ヘンリー・スコット博士だったか。

 ニューヨーク在住の写真家であるジョルジア・カペッリが初めてアフリカ大陸に足を踏み入れたのは、2年前だ。屈託のない笑顔を見せる子供たちをテーマに、世界の各国を訪ね歩き、写真集『太陽の子供たち』にまとめた。

 今回は休暇であって取材ではない。とはいえ、彼女は休暇のときもカメラなしでは心が休まらないので、モノクロフィルムを入れたライカと、それにフィルムが入手できなくなった時を想定してコンパクト・デジタルカメラもバッグに忍ばせいてる。どうしても我慢できなくなったときしか撮らないようにしているつもりだが、4日目にしてフィルムをもう2本も使ってしまった。

 ナイロビからモンバサへと向かう鉄道。モンバサにどうしても行きたいと思っていたわけではないが、明日、アメリカ大使館で開催されるパーティに一緒に行こうとリチャードにしつこく誘われて、逃げだしてきたのだ。

 世界のどこに行っても、どこかで同国人コミュニティと関わることになる。特に彼女のように仕事がらみで異国へ行くことの多い者にとっては、そのコミュニティに知り合いのいることはとても重要だ。特に、アフリカのような所では、素人にも可能な公式手続きと、幾多の苦悩の体験した地元民による手続きでは、結果が出るまでに数ヶ月の違い出来ることもある。

 リチャード・アシュレイは、もう15年もケニアに住んでいる。もともとは透けるように白かったのであろう肌は、強いアフリカの陽射しに焼かれて、荒れてそばかすだらけになっている。赤毛に近いブロンドをいつもきちんと撫で付けている。人間は誰であってもフレンドリーに楽しく会話をすることを望んでいるという信念または信仰に則って行動するタイプだ。ジョルジアは、人付き合いが苦手なのでその過剰なコミュニケーションが煩わしく、仕事以外では可能な限り彼に会わないようにしたいと思っていた。昨日は前回のアテンドに対する礼と写真集を届けるためにアシュレイの事務所に立ち寄った。

 もちろんリチャードが、前回の撮影で世界中の誰にも負けないほど熱心に撮影準備に協力してくれたことは間違いない。マサイの村で撮った3歳の少女のはち切れんばかりの笑顔は、何度か一般誌でピックアップされて、それが『太陽の子供たち』の売上を大いに押し上げ『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の6位入賞という輝かしい結果に繋がったのだ。撮影許可に袖の下を欲しがる地方役人たちや、車の手配を渋るエージェント、それに時間を過ぎてからオーバーブッキングで来られないと言い出すドライバーなど、次々と襲いかかる難問をリチャードが次々と解決し、最後は彼自身が仕事を休んで運転してくれたからこそあの写真が撮れたのだ。

 だが、それと彼女がパーティドレスを着て彼のやたらと多い友人たちに紹介され回る苦痛に耐え忍ぶというのは話が別だった。彼女が、ほとんど口からでまかせのように「鉄道でモンバサヘ行く」と告げた時、リチャードは大袈裟に落胆してみせたが、懲りずに「では、次のパーティには」と言った。

「モンバサに行くのなら、ぜひマリンディの私の別荘にいらっしゃい。この週末は私と家族も行きますから」
その場にいてそう言ってくれたのは、やはり2年前の撮影で協力してくれた動物学者のヘンリー・スコット博士だ。シマウマの研究者で普段はトサボ国立公園をフィールドにしている。サバンナで育ったせいか都市には可能な限り寄り付かず、人間の知り合いよりも動物の知り合いの方がずっと多いであろうと言われていた。昨日は、マサイ・マラにいるシマウマのDNAを採取するための手続きでアシュレイの事務所を訪れていた。そして、ジョルジアとの偶然にして2年ぶりの再会をはにかみながら喜んだ。

 ジョルジアは、スコット博士に丁寧に礼を言い、モンバサから電話を入れることを約束した。
「マリンディには、美味しいイタリアレストランがたくさんありますよ」
リチャードは、にっこりと笑いながら、ジョルジアがイタリア系であることを2年経っても忘れていないことをアピールしつつ口を挟んだ。

 モンバサ行きの夜行列車は19時、アフリカには珍しくたった5分程度の遅れで出発した。直に夕食に呼ばれて彼女は食堂車に行った。そのメニューは、まずいというのではなかったが、博士がおいしいイタリアンレストランに連れて行ってくれるのが以前よりも楽しみになる味だった。

 相席したのは、アイルランドから来た騒がしい男と刺々しい彼の妻、それに英語を話そうとしているのだがほとんど表現できていないアジアの若者だった。ジョルジアは最後まで彼がどの国から来たのか理解できなかった。

 コーヒーもそこそこに席を立つと、彼女は既にベッドの用意されていた自分のコンパートメントに戻り、寝間着に着替えると窓辺に踞り月に照らされたもモノトーンのサバンナを眺めた。

 朝、窓の陽射しに起こされて外を見やると、どこまでも広がる赤茶けた大地の中を軋みながら列車が通過していった。藁葺きの民家から子供たちが楽しそうに覗いている。そして大人たちは彼らの生活と生涯交わることのない観光客を乗せて朝夕に一度ずつ通る列車を億劫な様子で見やっていた。土ぼこりと強い陽射しに焼かれて、彼らの着ている古いシャツは全て色褪せている。

 そしてまたサバンナが続く。乾いた大地に昇った太陽は少しずつその暴君としての本性を現しはじめる。窓を開けて入ってきた風が、今日はひどく暑くなるのだと彼女に告げた。

 ここは、ニューヨークとどれほど違っていることだろう。かのビッグ・アップルには、ここにあるものがなく、ここにないものがあった。人の海、コンクリートのジャングル、数分ごとにめまぐるしく変わる信号機、車のクラクション。ベルトコンベアーに載せられた缶詰のように規則正しく生きる人びとの間で、それぞれのドラマが展開されていた。

 ジョルジアは、もう1年以上も彼女の心を占めている行き場のない感情について考えた。大都会の中で、偶然が用意したわずかな邂逅を彼女はただ黙って見過ごした。おそらく二度と交わることのない人生の行方を見知らぬ人間として他の誰かと歩いていく男のことを、彼女は考えた。そうした時に起こる痛みに、彼女はとっくに慣れてしまっていた。痛くとも消すことが出来ないのならば、そのままにしておく他はない。

 少なくともここに彼はいなかった。著名なニュースキャスターである彼の姿を一方的に見せつけて、彼女に忘れさせまいとするテレビジョンという残酷な箱も、この無限に広がるサバンナでは何も出来ない。ただ心の中に、彼女がフィルムに収めた真摯な横顔が、消えかけた蜃氣楼のように揺らぐだけだ。

 それでも、私は生きていく。ジョルジアは、曲がりくねり疲弊した線路を軋みながらひたすら走るこの鉄道は自分の人生に似ていると感じた。この旅が終わったら、編集会議がある。撮り貯めた膨大な人物写真から新しい写真集に使うものを選定する。私はそうやって一歩ずつ自分の人生を進めていく。これまで通りに。

 サバンナはまるで水の幕が降りたようになっていた。アカシアの樹々が頼りなげに歪む。熱に浮かされた大地の間を、埃にまみれた古い列車がひたすら走っていく。陽炎の向こうに、一向に姿を現さないモンバサと、まだ見ぬマリンディの街があるのだと彼女は思った。

 (初出:2016年4月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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これが課題曲の『陽炎レールウェイ』です。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(23)遺言

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。今回は、月末にポルト旅行なのでちょっと早いですが、今日の発表です。

前回、いきなり当主アルフォンソと《監視人たち》の代表である執事メネゼスに抜け出してしまっている事がバレてしまった23。もちろんそのことは23もマイアもまだ知りません。

今回は、「追憶のフーガ - ローマにて」という番外編を発表した時に「え? これは誰と誰の事?」とみなさんに訊かれた件が明らかになります。

本編は今回を含めてあと三回で完結です。いろいろとヤキモキさせていますが、まだ続きます(笑)


月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(23)遺言

 マイアはいつものように三階と二階の掃除を手早く済ませて靴工房に降りてきた。彼はエスプレッソマシンの前に立っていた。
「おはよう。23」
「おはよう。新しいブレンドが届いたんだ。飲んでみるか?」
「うん。ありがとう」

 その時、二階で鉄格子が解錠される音がした。二人で同時に見上げる。体重を億劫に左右に傾けるこの音は、ドン・アルフォンソの歩き方だとすぐにわかった。

「おはよう。アルフォンソ。珍しいな、どうしたんだ? 今、上がっていく」
23は階段の途中まで行った。彼の兄は、ここまで来るだけで既に息を切らしかけていた。

「いや、下に行く」
当主は手すりにつかまりながらゆっくりと降りてきた。マイアは掃除用具と掃除機をまとめて、急いで出て行こうとした。アルフォンソはそのマイアをちらりと見ると手を振った。

「マイア、わざわざ席を外す必要はない。そのまま仕事を続けていろ」
「え。あ、はい。メウ・セニョール」

 マイアは心配そうに23を見たが、23も兄の意図がわからずただ肩をすくめた。マイアは少し離れたところに行って掃除を始めた。

「今日の氣分はいいのか。こんなに歩いて大丈夫か」
23は椅子に腰を下ろして息を整えているアルフォンソに、水を持っていった。当主はコップを弱々しくつかみゆっくりと水を飲んだ。それから黒いベルベットの上着の胸ポケットから白いハンカチを取り出して、その紫色の顔を拭いた。

「ありがとう。今朝はいつもよりいいんだ。お前とこうして話をできるうちに来たかった」
「話をしたいなら、食事のときでもいいし、俺がお前の部屋まで行ってもよかったのに。メネゼスがついて来れば逃げる心配もないだろう」

 アルフォンソは弟の顔をじっと見つめてから言った。
「逃げる心配なんてしていない。俺は、お前に食事のときの軽い会話をしたかったわけじゃない。それに、できればメネゼスも、母上も、それから24もいない時に話したかったんだ」

 なのに私はいてもいいのかな。マイアは余計困った。聴かない方がいいように思うけれど、でも氣になってしまう。

「アルフォンソ。コーヒー飲むか」
「いや、いい。水をもう一杯くれ」

 23は水をくんで兄の前に置くと、その正面に椅子を置いて座った。アルフォンソはもう一度額を拭くと、椅子の背に凭せ掛けていた身を起こして、弟の顔をじっと見た。

「二つ、頼みがある。口がきけなくなってからでは遅いので、聴いてほしい」
「聴くよ」

「一つめは、クリスティーナのことだ。彼女とは先日話をした。俺がいなくなった後、どうしたいかと」
「彼女はなんと?」
「代わりの人間が見つかったら、出て行きたいと言っていた」
「そうか」
「腕輪を外し、ライサにしたように生活に困らないようにしてやってほしい。だれか別の人間を見つけて幸せに生き続ける努力をすると約束させた」

「アルフォンソ。クリスティーナと結婚しないのか」
23は言った。マイアははっとした。クリスティーナとドン・アルフォンソがそういう関係だとは夢にも思わなかった。アルフォンソは笑った。
「そんなことをしたら俺が死んだ後、彼女がお前の妻になるんだぞ。お前がアルフォンソになるのだから」

 マイアの手の動きは停まった。23は意に介した様子も見せなかった。
「心配するな。名前だけの夫だ。お前に選ばれた女には俺は手を出せない。監視もたっぷりつく。わかっているだろう」
「その心配をしているわけじゃない。それに名前だけの当主夫人の座など、クリスティーナは望んでいない。お前を俺たちの犠牲にすることも考えてはいない」

 アルフォンソは水を飲んだ。それからいっこうに掃除を進めていないマイアをちらりと見てから、再び23に視線を戻して笑った。
「23。お前とアントニアは変なところがそっくりだ。人のことばかり慮って、自分の幸福を簡単にゴミ箱に放り込もうとする」

 23は視線を落とした。
「こんな風に生まれてきた俺には、選択の余地がない。簡単にはいかないんだ。わかっているだろう」

 マイアはやっぱり席を外せばよかったと思った。聞きたくない。アルフォンソはマイアの動揺はもちろん、23の言葉にも動じた様子はなかった。

「お前がお前自身と過去のインファンテたち、もしくは《星のある子供たち》の受けた苦しみから、ドラガォンに対して肯定的な想いを抱けないことは理解できる。当然だ。俺も二人の大切な弟たちを苦しめ、救えなかった自分に満足しているわけではない。だが、遠からずお前は俺に代わってこの巨大なシステムを統べていかなくてはならなくなる。大きな権能がお前の手に握られることになる」
「アルフォンソ」

 アルフォンソは、しっかりとした目つきで弟を見つめた。
「とても大切なことを言っておく。ドラガォンは複雑なシステムで、厳しく、当主であっても基本事項の変更は一切許されないが、それを動かしているのは血肉の通った人間だ。過去に於いても、そして、今でもだ」

 23は冷笑した。アルフォンソはため息を一つついてから、懐を探って書類の束を取り出して23に渡した。
「これは?」
「読んでみろ。そうしたらわかる」

 なんだろう。マイアは覗いてみたい欲求に駆られたが、我慢して埃とりに専念した。

「ほう……。よく調べたな」
23は冷静に紙を繰っていた。アルフォンソは愉快そうに口の端をほころばせた。
「いい仕事をしているだろう? 間違いないか」
「ほぼ、全部……、いや、サン・ジョアンの前夜祭の報告はないな」

 アルフォンソは大きく笑った。
「そりゃあ、その日くらいは《監視人たち》も仕事を忘れて楽しみたいだろう」
マイアはぎょっとした。

「《監視人たち》を悪く思うな。彼らは忠実に仕事をこなしているだけだ」
「わかっている。彼らに恨みがあるわけじゃない。どうするつもりだ。マイアを罰するのはやめてくれないか。あいつは俺の望みを叶えてくれただけなんだ」

 そうじゃない。やめて、23を罰しないで。何も悪いことをしていないのに。マイアははたきを握りしめて二人の方を見ていた。当主は首を振った。

「もちろん、罰したりしないさ。お前もだ。お前が見つけた出入り口は、たぶんこれまでも何人ものインファンテたちが使って、わずかな自由を楽しんだんだろうよ。そして、《監視人たち》や歴代の当主も、外にいるはずのないインファンテを見かけても、あえて星の数は確認せずに、《星のある子供たち》の一人としてごく普通に監視報告してきたんだろう。システムと掟は厳しくても、人の心はどこかに暖かさがあり、呼吸する余地を残してくれる。だから、心を閉ざすな。ドラガォンは、運命は、お前やアントニアの敵じゃない」

 23は少し意外そうに兄の顔を見ていた。アルフォンソは弟の顔をしっかりと見返した。
「俺は当主であると同時にお前の兄だ。お前が新しい当主としての責任を果たしてくれることを期待すると同時に、お前の幸福を心から願っている。そして、それは両立できるだろう。運命に逆らって苦しむな。お前がこのシステムを嫌って、血脈を繋ぐのを拒否しても、システムを止めることはできない。今のドラガォンは狂っていると思うだろう。三人の若い娘が苦しんだ。一人は命を絶った。俺にはそれは止められなかった。だが、お前には止められる」

「アルフォンソ。24は俺にとっても弟なんだ」
「24を罰しろと言っているんじゃない。だが、お前が血脈を繋げば、この館に未婚の娘を雇う必要はなくなる、そうだろう?」
「……」

「システムに対する怒りにこだわるな。望む相手を娶り、愛し、子供を慈しみ、あたりまえの幸せな家族を作れ。それが、今の歪んだドラガォンとそのシステムを暖かい血の通った人びとの集まりに変えるんだ。俺が新しい当主としてお前に望む二つめはそれだ」

 アルフォンソは、23の返事を待たずにゆっくりと立ち上がった。
「もう、いく。少し休まなくては。たぶん、こんな風に話せるのは、もうそんなにはないと思う。聴いてくれてありがとう」

 23は唇を固く結んだまま、兄を見送っていたが、ふと氣がついて手元の書類を返そうとした。

「お前が持っていていい。どうせ、もうしばらくしたら、その手の書類を持ってメネゼスが日参するようになるぞ」
アルフォンソが笑った。

 それからマイアの方を見て言った。
「この街で23をつれて歩くのは構わないが、電車は少しやりすぎだったぞ。レベル3で黒服を出動させた娘はここ一年でお前だけだ」

 マイアは夏の休暇中のスペイン行きの電車のことだとすぐにわかって、頭を下げた。23は、その二人の様子を見て、もう一度書類を繰って、その報告書を見つけた。それを読んでいる彼の表情は暗かった。マイアはあんなことをしなければよかったと悲しくなった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】カフェの午後 - 彼は耳を傾ける

scriviamo!


scriviamo!の第十四弾です。山西 左紀さんは今年二つ目の参加として、ローマ&ポルト&神戸陣営シリーズ(いつの間にか競作で話が進むことになったシリーズの1つ)の続きにあたるお話を書いてくださいました。ありがとうございます!

山西 左紀さんの書いてくださった『絵夢の素敵な日常(初めての音) Augsburgその後』
山西 左紀さんの関連する小説
絵夢の素敵な日常(10)Promenade
絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso
絵夢の素敵な日常(初めての音)Porto Expresso2
Promenade 2
初めての音 Porto Expresso3
絵夢の素敵な日常(初めての音)Augsburg


「ローマ&ポルト&神戸陣営」は今年はほとんど進まなかったのですが、サキさんは66666Hit作品に、この作品と頑張って二つも進めてくださっています。

全くこのシリーズをご存じない方のために少し解説すると、この「ローマ&ポルト&神戸陣営」にはうちの「黄金の枷」サキさんの「絵夢の素敵な日常」大海彩洋さんの「真シリーズ(いきなり最終章)」のメンバーたちがヨーロッパのあちこちに出没してコラボしています。「黄金の枷」の設定は複雑怪奇ですが無理して本編を読む必要はなく、氣になる方は「あらすじと登場人物」をご覧下さい。このコラボで重要になっているのは、本編ではほとんどチョイ役のジョゼという青年です。もともとサキさんのとコラボのために作ったキャラです。他に、マヌエル・ロドリゲスというお氣楽キャラが「ローマ&ポルト&神戸陣営」ではよく出てきますが、今回は「神父見習い」というひと言以外は全く出てきません。「ローマ&ポルト&神戸陣営」の掌編は「黄金の枷・外伝」カテゴリーで読む事が出来ます。ただ、今回の作品にはジョゼ関係の必要な情報が全部入っていますので、読まなくても大丈夫です。

さて、今回サキさんが書いてくださったのは、「大道芸人たち Artistas callejeros」のサブキャラ、ヤスミンで、彼女はアウグスブルグで絵夢に逢い、さらにはミクと演出家ハンス・ガイステルの会話にちゃっかり聞き耳を立てています。というわけでこちらは、ポルト(本編ではPの街と言っていますが、この「ローマ&ポルト&神戸陣営」ではポルトと言いきってしまっています)に舞台を移し、こちらでも誰かさんが聴き耳を立てています。話しているのは、「黄金の枷」重要キャラと、やはり「大道芸人たち Artistas callejeros」のサブキャラ。以前サキさんがヤスミンを出してくださったお話で、お返しはやっぱりこの人の登場にした事があるのですが、それを踏襲しています。

サキさんは、とっとと話を進めてほしかったようですが、まだまだ引っ張ります。っていうか、この続きは今月末にロケハンに行ってからの方がいいかな~と。ちなみに本編(続編)の誰かさんに関わる情報もちょいと書いています。


【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」Infante 323 黄金の枷


「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



黄金の枷・外伝
カフェの午後 - 彼は耳を傾ける
——Special thanks to Yamanishi Saki san


 白いぱりっとした上着をきちんとひっぱってから、ぴかぴかに磨かれたガラスケースを開けて、中からチョコレートケーキを取り出した。ジョゼはそれをタウニー・ポートワインの30年ものを飲んでいる紳士の座っている一番奥のテーブルに運んだ。
「大変お待たせいたしました」

「おお、これは美味しそうだ。どうもありがとう」
 発音からスペイン人だとわかるその紳士は、丁寧に礼を言った。ジョゼは、ずいぶん目の大きい人だなと思ったが、もちろんそんな様子は見せなかった。

 ジョゼは、Pの街で一番有名なカフェと言っていい「マジェスティック・カフェ」のウェイターとして働いている。1921年創業のこのカフェは、アール・ヌーボーの豪華絢爛な装飾で有名で、その美しさから世界中の観光客が押し寄せるので、母国語だけでなく外国語が出来なくては勤まらない。ジョゼは英語はもちろん、スペイン語も問題なく話せるだけでなく、子供の頃にスイスに住んでいたことがありドイツ語も自由に話せるので職場で重宝されていた。

マジェスティック・カフェ


「こちらでございます」
振り向くと、黒いスーツを着た彼の上司が女性客を案内してきた。このカフェの壁の色に近い落ち着いたすもも色ワンピースと揃いのボレロを着こなしていた。ペイズリー模様が織り込まれたそのスーツは、春らしい鮮やかさながらも決して軽すぎず、彼女の高貴な美しさによく似合っていた。ジョゼは、はっとした。彼女に見憶えがあったからだ。

 彼のテーブルに座っていた、目の大きいスペイン人はさっと立ち上がり、その女性の差し出した手の甲に口づけをした。
「ドンナ・アントニア。またあなたにお逢いできてこれほどうれしいことはありません」

 黒髪の麗人は、艶やかに微笑んで奥の席に座った。革のソファの落ち着いた黒に近い焦げ茶色が、彼女の背筋を伸ばした優美な佇まいを引き立てる。
「遠いところ、足をお運びいただいてありがとうございます、コルタドさん」

 上司に「頼むぞ」と目配せをされて、この二人がVIPであることのわかったジョゼは、完璧なサービスをしてみせると心に誓って身震いをしてから恭しく言った。
「いらっしゃいませ。ただ今、メニューをお持ちいたします」
二人の客は、頷いてから、会話を始めた。

「二年ぶりでしょうか。いつお逢いしても月下美人の花のごとく香わしくお美しい。仕事の旅がこれほど嬉しいことは稀なことです」
「まあ、相変わらずお上手ですこと。お元氣そうで何よりです。お噂は耳にしていますわ。事業の方も、芸術振興会の方も絶好調だそうですね」

「おかげさまで。いつまでも活躍していてほしかった偉大なる星が沈むこともありますが、新しく宵の明星のごとく輝く才能もあります。それを見出し支援することが出来るのは私の何よりの歓びです。そして、同じ志お持ちになられているあなたのように素晴らしい方と会い、若き芸術家たちとの橋渡しができることも」

 麗人は無言で微笑んだ。どう考えても、目の大きい紳士の方がはるかに歳上だと思われるのに全く物怖じしない態度で、ジョゼは感心しながら見とれていた。ドンナ・アントニアか。相当に金持ちのようだとは考えていたけれど、そうか、貴族かなにかなんだな。彼は心の中で呟いた。

 彼女は、チョコレートケーキを嬉々として食べているコルタド氏に微笑んだが、自身はコーヒーしか頼まなかった。それもエスプレッソをブラックで。

 彼女は、ずいぶん前に立て続けにこのカフェに来たことがあった。その理由は、なんとジョゼにある伝言をするためだった。彼女からチップとともにそっと手渡された封筒に、幼なじみマイア・フェレイラからの秘密の依頼が入っていたのだ。彼は、何が何だか全くわからぬままに頼まれたことをやり、そのお礼としてこれまで一度も履いたことがないほど素晴らしい靴を作ってもらった。いま履いている黒い靴だ。

「それで、お願いした件は……」
アントニアは、つややかな髪を結い上げた形のいい頭を少し傾げて訊いた。コルタド氏は、大きく頷くと鞄からCDを取り出した。
「こちらがバルセロナ管弦楽団のチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番で、こちらがスイスロマンド管弦楽団によるメンデルスゾーンのバイオリン・コンチェルトです」

「まあ、もう二つもご用意くださったのですね。素晴らしいわ。ありがとうございます。録音していただくの、大変だったでしょう?」
「そうですね。世界に名だたるオーケストラと指揮者にソリストなしのカラオケを録音していただくのですからね。なんに使うのか、皆知りたがります。でも、ご安心ください。あなたのお名前を悟られるようなヘマはいたしておりません」
「心から感謝いたします。かかった費用はすぐにお支払いします。それに、あなたが理事を務めていらっしゃる芸術振興会にいつもの倍の寄付をさせていただきたいと思います」
アントニアは、真剣な面持ちで礼を言うと、CDを大切にハンドバッグにしまった。

「私が全く興味を持たなかったかと言えば嘘になります」
コルタド氏は誰もが引き込まれてしまうような、人懐っこい笑顔を見せた。アントニアはわずかに笑った。
「もし可能ならば、生のオーケストラをバックに演奏したいと願い続けている人のため。それ以上は、私が言わずとももうご存知でしょう?」

 コルタド氏は、意味有りげな顔をした。
「表向きは何の情報もありませんが、私の懇意にしているセビーリャのジプシーたちはこの街に住む特別な一族のことを話してくれますので」

 アントニアは、全く何も言わなかった。肯定も否定もしなかった。それから突然話題を変えた。
「それで。新たに見つけた才能のことを話してください。場合によっては、寄付をまた増やしてもいいのですから」

「そうですね。例えば、私が大変懇意にしている四人組の大道芸人たちがいます。でも、彼らのことは、私が個人的に支援しているだけですがね。ああ、そうだ。この街出身の素晴らしい才能が国際デビューしたことはご存知ですか」
「どこで?」
「ドイツです。ミュンヘンの、例の演出家ハンス・ガイステルが見いだしたようで。彼女の名前が少し特殊だったので、もしかしたらあなたのご一族なのかと思ったのですが」
「なんと言う名前ですか」
「ミク・エストレーラ」

 ジョゼはぎょっとして、思わず二人をしっかりと見てしまった。幼なじみで且つ想い人であるミクの名前をここで聞くとは! ミクは、正確にはこの街の出身者ではない。日本で生まれ育った日本人だ。ティーンエイジャーだった頃、母親を失いこの街に住んでいた祖母のメイコ・エストレーラに引き取られて引越してきたのだ。ジョゼは、その頃からの友達だった。

 ミクはその透明な歌声を見出されて、ソプラノ歌手としてのキャリアを歩み始めていた。ドイツのアウグスブルグで『ヴォツェック』のヒロインであるマリー役で素晴らしい成功をおさめたことは聞いていた。もちろん彼がアウグスブルグに行ったわけではないけれど、彼女の歌声が素晴らしいのは子供の頃からずっと聴いているから知っている。

 大学に進み、この街を離れるまでは単純に歌うのが好きな綺麗な姉貴だった。(ミクは6歳も歳上なのだ!)大学在学中に、テクニックとか曲の解釈とか、ジョゼにはよくわからない内容に心を悩ませ、迷い、それに打ち勝って単純に美しいだけではない深みのある歌い方をするようになった。

 夢を追っているミクは輝いていたし、ジョゼも心から応援していたが、彼女の夢が1つずつ叶う度にこの街に帰ってくる間隔が長くなり、さらには手の届かない空の星のような存在に変わっていってしまうように感じられて心穏やかではなくなった。

 そうだ、エストレーラ 。彼女の苗字がなんだって? この女性の一族? まさか!

 アントニアは、クスッと笑った。それから首を振った。
「私たちの一族でエストレーラ という苗字を持つものはおりません」

 コルタド氏はアントニアが左の手首にしている金の腕輪を眺めて「そうですか」と納得していない様子で呟いた。彼女は、婉然と微笑んだ。

星を持つOs Portadores da Estrela のと、Estrela であるのは違うのですよ。私たちの家名はどこにでもいるような目立たないものに限られているのです。誰もがその存在に氣がつかないように」

 それから何かを考え込むように遠くを見てから、コルタド氏に視線を戻して優しく微笑んだ。

「才能があり功名心を持つ人は、星など持たぬ方がいいのです。世界へ飛び立ち、自由に名をなすことができるのですから。《星のある子供たち》Os Portadores da Estrela は、あなたもご存知のように、この街に埋没し、世間に知られずにひっそりと生き抜くべき存在なのです」

「あなたも……?」
コルタド氏は、これまでに見たことのあるどの女優にも負けぬほど美しく、どの王族にも引けを取らず品をもつ麗人を見つめた。彼女は顔色一つ変えずに「私も」と答えた。

 そして、二人を凝視しているジョゼに視線を移すと、謎めいた笑みを見せた。彼は客の会話に聞き耳を立てるどころか、完全に注目して聴いてしまっていたことに思い至り、真っ赤になって頭を下げた。

「それで、あなたはそのエストレーラ嬢の後ろ盾になるおつもりなのですか」
アントニアは、コルタド氏に視線を戻した。

「いいえ。そうしたいのは山々ですが、彼女にはもう立派な後ろ盾がいるのですよ。ヴィンデミアトリックス家をご存知ですか」
「ええ。もちろん」
「かのドンナ・エム・ヴィンデミアトリックスが、彼女を応援しているのですよ。それに、どうやらイタリアのヴォルテラ家も絡んでいるようです。あなたが絡んでいないとしたら、どうやってそんな大物とばかり知り合いになれるのか、私にはさっぱりわかりませんね」

 絵夢ヴィンデミアトリックス! またしても知っている名前が飛び出してきたので、ジョゼの心臓はドキドキと高鳴った。絵夢は日本の高名な財閥令嬢で、ミクと同じ日にジョゼが知り合った、長い付き合いの友達だ。

 ミクがポリープで歌手生命の存続を疑われた時に、イタリアの名医を紹介してくれたのも絵夢だった。ついでに、メイコのところに来ている神父見習いの紹介でヴァチカンとつながりのあるすごい家も助けてくれたって、言っていたよな。ともかく、彼らのバックアップの甲斐あって、手術は大成功、彼女はまた歌えることになったんだ。ジョゼはわずかに微笑んだ。

 僕はその事情を全部知っています。言いたくてしかたないのを必死で堪えつつ、ジョゼは綺麗に食べ終えたチョコレートケーキの皿をコルタド氏の前から下げた。

 その時に、アントニアの視線が彼の靴を追っていることに氣がついた。彼は、そっと足を前に踏み出し、彼の宝物である靴を彼女に見せてからもう一度頭を下げた。この靴のことも、それから彼女がマイアの件で彼に伝言を依頼したことも、彼女は知られたくないことを知っていたので、ジョゼはあくまで何も知らない振りをした。アントニアは満足したように頷いた。

 コルタド氏は二人の様子にはまったく目を留めずに、話を続けた。
「来月、またこの街に参ります。その時は、もうひとつのご依頼である『ます五重奏』の方も持ってこれるはずです」
「何とお礼を申し上げていいのかわかりませんわ」

「あなたにまたお逢いできるのですから、毎週でも来たいものです」
コルタド氏が言うと、アントニアは微笑んだ。
「私がいつまで、こうした役目を果たせるかわかりませんわ」

「なんですって。ドンナ・マヌエラからお役目を引き継がれてから、まださほど経っていないではないですか」
「ええ。でも、ようやく本来私のしている役目を果たすべき者が決まりましたの。まだこの仕事には慣れていませんので、しばらくは私が代わりを務めますが」

「それは、ご一族に大きな慶事があったということでしょうか」
「ええ。その通りです」
「なんと。心からお祝い申し上げます。ドン・アルフォンソにどうぞよろしくお伝えください」
「必ず。ご健康と、そしてあなたのご事業のますますのご発展を祈っていると、彼からの伝言を受けていますわ」

「これはもったいないお言葉です。私の方からも心からの尊敬をお伝えください」

 コルタド氏は立ち上がって、アントニアに手を差し出した。その手に美しい手のひらを預けて優雅に立ち上がると、彼女は水色の瞳を輝かせながら微笑んだ。
「バルセロナへお帰りですか?」

「いえ、せっかくここまで来ましたのでひとつ商談をするためコインブラへと参ります。そのためにレンタカーを借りました。そして可能でしたら、少し足を伸ばしてアヴェイロにも行くつもりです。《ポルトガルのヴェニス》と呼ばれているそうですね」
「そうですか。よいご滞在を。またお逢いするのを楽しみにしています」

 二人が去った後に、テーブルを片付けると、コルタド氏の座っていた席に、多過ぎるチップとともに料金が置いてあった。ジョゼは、ミクが帰って来たら「姉貴のことを噂していた人がいたよ」と話そうと思った。

 ミクがまた歌えるようになるまで三ヶ月かかるとメイコは言っていた。その静養期間に彼女はしばらくこの街に戻ってくるとも。

 彼は、つい先日格安で中古のTOYOTA AYGOを手に入れた。小さい車だが小回りがきき丈夫でよく走る。アヴェイロか。そんなに遠くないよな。

 彼女が帰って来たら、ドライブに誘おう。ここしばらく話せなかったいろいろな事を話そう。そして、出来たらもう小さな弟代わりではなくて、友達でもなくて、それよりもずっと大切に思っていると、今度こそ伝えたいと思った。

 街には春のそよ風が心地よく吹いていた。

(初出:2016年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】王と白狼 Rex et Lupus albis

scriviamo!


scriviamo!の第十三弾です。

ユズキさんは、『森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架』をモチーフにした絵本風作品で参加してくださいました。ありがとうございます!


ユズキさんの書いてくださった作品『【絵本風】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架:デュランの旦那を慰める会 』


ユズキさんは、小説の一次創作や、オリジナルまたは二次創作としてのイラストも描かれるブロガーさんです。代表作『ALCHERA-片翼の召喚士-』は、壮大で緻密な設定のファンタジー長編で、現在物語は佳境に入ったところ、ヒロインが大ピンチで手に汗を握る展開になっています。

そしてご自身の作品、その他の活動、そしてもちろんご自分の生活もあって大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストを描いてくださっています。ご好意に甘えまくって、さらにキリ番リクエストなどでも遠慮なくお願いしてしまったりしているのです。

「大道芸人たち Artistas callejeros」の主人公四人を全員描いてくださり、そして、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」には《男姫》ヴィラーゴジュリアや、主要三人の素晴らしいイラストも描いてくださりました。昨年のscriviamo!では、《旅する傍観者》マックスをユズキさんのところのキャラで私の大好きなガエルと共演させてくださいました。

そして今回は、物語では一番活躍した割に踏んだり蹴ったり(?)だった人氣ナンバーワンキャラ、レオポルドを題材に絵本風のイラスト連作を作ってくださいました。傷に軽〜く塩を塗り込まれつつ(笑)村人に慰められるレオポルド、ニヤニヤが止まりません。背景に至るまで丹念に描きこんでくださり、嬉しくて飛び上がりました。本当にありがとうございました。

お返しをどうしようかと悩んだ末、以前に一度お借りしたことのあるフェンリルをもう一度お借りして、ユズキさんが描いてくださったシチュエーションをそのまま掌編にしてみました。フェンリルは、ユズキさんの『ALCHERA-片翼の召喚士-』にてヒロインを守る白い狼の姿をした神様です。実際の姿を現すと街にも入りきれないほど大きいので、普段は白い仔犬の姿で登場します。連載中の今は、正直言ってフェンリルもよその誰かを構っている場合ではないんですけれど、私がそのへんの空氣を全く読まず、無理やり中世ヨーロッパにご登場いただきました。

なお、下の絵は以前ユズキさんが描いてくださった「大道芸人たち」のヴィルと仔犬モードのフェンリル。あの時も本当にありがとうございました。


ヴィルとフェンリル by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない二次使用は固くお断りします。


なお、フェンリルは、彼(?)自体が神様なのですが、レオポルドたちのいる中世ヨーロッパでは一神教であるキリスト教価値観の制約を受けていますので、まるで「神の使い」みたいな受け止め方になってしまっています。これも時代と文化の違いということでお許しいただきたいと思います。

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2016」について
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森の詩 Cantum Silvae 外伝
王と白狼 Rex et Lupus albis
- Featuring「ALCHERA-片翼の召喚士」
——Special thanks to Yuzuki san


 深い森《シルヴァ》を臨む草原に、彼は無言で立っていた。その後ろ姿を見ながら、靴屋のトマスとその妻が小さな声で話していた。

「デュランの旦那は、また考え事をしていなさるんだね、あんた」
デュランというのは、彼すなわちグランドロン国王レオポルド二世が忍びで城下を訪れる時に使う名前である。トマスたちは、彼が王太子であった時代から身分の違いを超えて既知の仲であった。
「最近、多いな。まあ、無理もない。なんせ失恋したばかりらしいからな」

「し、失恋? まさか、あの方が?」
「そうさ。どうやら嫁にするつもりだった例の姫さんに、本氣だったらしい」
「でも、あの偽の姫は、デュランの旦那が首をちょん切らせておしまいになったじゃないのさ」

 トマスは、わかってねえなという顔で妻を見た。
「お前、氣がついていなかったのか?」
「何をさ」
「この間、デュランの旦那が見つかったばかりのフルーヴルーウー伯爵夫妻を連れてきたじゃないか」
「え。マックスの旦那と奥方のラウラさまかい?」
「そうさ。あのラウラさまの声、聞き覚えあるだろう?」

 トマスの女房はぽかんとしていたが、やがてぎょっとした顔をした。
「ま、まさか!」
「そのまさかだよ。俺もしばらくわからんかったが、デュランの旦那があの奥方さまを見ていた顔を見てぴーんときたね」

「あらあ。そりゃ傷心にもなるわね、旦那ったら。なんせあのお二人の仲のいいことったら……」
女房とトマスは、彼の後ろ姿を氣の毒げに見つめた。

「ちょっといって慰めてくるか……」
トマスは彼の方へと足を向けた。

* * *


(全部聞こえているんだが……)
背を向けたままのレオポルドは、片眉を持ち上げた。

(余は、失恋の痛手のためにここに来ているのではない……こともないか……)
彼は、苦笑した。忙しい政務の間のわずかな自由時間に、忍びでこの村へ来ることは時折あった。王太子時代に親しくなった村人たちとの交流を通して、臣下たちのフィルターを通さずに市井の状況を知るいい機会でもあったから。とはいえ、近年は高級娼館《青き鱗粉》から派遣されてくる娼婦たちと、私室で楽しい時間を持つことの方が多くなっていたのだ。

 だが、今日、侍従が「どうなさいますか」と訊いてきた時に、娼婦たちを呼べと言い出しかねた。一つには、先日からフルーヴルーウー伯爵夫人ラウラが、宮廷奥総取締ハイデルベル男爵夫人の副官として出仕していて、彼が娼婦たちを呼びつけると彼女にわかってしまうからだった。それはいいとしても、彼自身が娼婦たちと楽しく騒ぐ氣分にどうしてもなれないのだった。

 彼は国王としては若いが、未だに独身でいていいというほど若いわけではない。亡き父王フェルディナンド三世は十八歳で結婚した。今のレオポルドよりも十歳以上若い。それでも世継ぎが彼以外できなかったのであるから、誰も彼もが早く結婚してお世継ぎをと騒ぐのは道理であった。

 彼の結婚がここまで決まらなかったのには理由があった。彼の王太子時代には、父王と現在王太后であるマリア=イザベラ王妃は、レオポルドにふさわしい后について意見が一致したことがなかった。そして、薦められた姫君たちを悉く氣にいらなかったレオポルドは、反対する両親のどちらかを利用して上手に破談にしてきたのだ

 父王が流行病で急逝し、思いがけず即位することとなった後は、レオポルド本人もつべこべ言わずに結婚しなくてはならないことを自覚していた。ところが、即位後の五年間は、政務に追われて嫁探しに本腰を入れ時間はなくなった。彼は既に二度も戦争を体験していた。父王が統一したノードランドをめぐってルーヴラン王国に宣戦布告をされ敗戦、後に西ノードランドを奪回すべく再び戦いを交えたのだ。

 この騒ぎと戦後処理の間は、結婚どころではないとレオポルドは一切の縁談を退けた。縁談ごときは臣下で進められると母后は諌めたが、結婚相手に一度も会わずに決める事だけはすまいと思っている若き王は決して首を縦に振らなかった。そこまで彼が后選びに頑になっている理由は、政略だけで結婚した両親をよく見ていたからであり、さらに自分の息のかかったカンタリア王国ゆかりの王女のみを薦めようとする母親のカンタリア氣質に辟易していたからである。ありていにいえば、母親みたいな女だけはごめんだと思っていたのであった。

 今日も、政務もなく居室で自由にしていると、「母上様がこちらにご機嫌伺いにいらっしゃりたいとのことです」とハイデルベル夫人から連絡を受けたので、逃げだしてきたのだった。

 他にすることもないので、彼は政治のことをゆっくり考えることにした。明日大臣たちとの会議があり、実質ノードランドを支配管理しているヴァリエラ公爵と今後の交易権について話さなくてはならない。公爵は先日の謀略を行ったルーヴランに対する制裁の意味を込めて関税を高くすることを望んでいる。関税引上げ派と据置き派、双方の言い分に理はある。相手に非がある今こそこちらに有利に変更すべきだという公爵のいい分はもっともだ。もちろん現在ルーヴランは大人しいが、一方であまり厳しくすると不満がたまり後々再び宣戦布告を突きつけられる可能性もある。

「さて、どうすべきか」

 その時、《シルヴァ》から、白い仔犬のような姿の動物が出てきた。彼は、目を疑った。十五年前と全く変わっていない同じ姿だった。あの時もこの村に来る途中だった。

* * *


 それは、トマスを知った翌日のことだった。馬で遠乗りに来ていたレオポルドは、《シルヴァ》で苦くまずい木の実を集めていたガリガリに痩せたトマスと偶然知り合った。王宮で何不自由ない暮らしをしていた彼は、旱魃と飢饉が王国を襲っていることに氣がついていなかった。だが、本来なら食べることもないようなものまで食糧にしなくてはならない村人たちの窮状にショックを受けた。

 彼は、王宮から山積みになっていた菓子をごっそり持ち出すと、《シルヴァ》を再び通り、トマスの住む村を目指していた。途中まで来た時に、草むらから白い仔犬のような動物が顔を出しているのに氣がついて馬を停めた。そんなところに仔犬がいるのはおかしかったし、それに逃げもせずにじっとこちらを見ている様相も妙だった。

「なんだ。親とはぐれたのか? それともお前も餓えているのか?」
レオポルドは、話しかけた。「それ」は、じっと彼を見つめて動かなかった。おかしい。どう考えても仔犬の動きではない。じっと眺めると、犬ではないことに氣がついた。狼だ。だが、純白の狼など彼は見た事がなかった。この森の中、これほど目立つ仔狼が、熊や鷲にも教われずに一匹で悠然と歩いているなど、ありえない。

 レオポルドは、馬から下りて狼に近寄った。試しに菓子のひとつを取り出した。その菓子はいい香りのする焼き菓子で、彼は袋に詰める時にも食べたい誘惑と戦わなくてはならなかった。だが、トマスたちに一つでも多くあげたい思いやっとのことで堪えたのだ。その菓子を手にして、彼は狼の鼻先に近づけた。

 狼は菓子の先端を咥えてそっと折った。残りはとっておけ、そういっているようだった。動物が遠慮するのを始めてみたレオポルドは、これがただの仔狼ではないことを確信した。白い狼は、背を向けて草むらへと歩き去った。彼は馬に再びまたがり、先を進もうとした。すると、また狼がやってきて、黙って彼を見つめ、それから背を向けて草むらへと