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【小説】バッカスからの招待状 -8- テキーラ・サンライズ

Posted by 八少女 夕

「scriviamo! 2017」の最中ですが、今日発表するのは、WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

しばらくスペシャルバージョンが続きましたが、また田中はいつものオブザーバーに戻りました。今回の話は、ちょっと古い歌をモチーフにしたストーリーです。あの曲、ある年齢以上の皆さんは、きっとご存知ですよね(笑)


月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


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バッカスからの招待状 -8- 
テキーラ・サンライズ


 その二人が入って来た時に、田中に長年酒場で働いている者の勘が働いた。険悪な顔はしていないし、会話がないわけでもなかった。だが、二人の間には不自然な空間があった。まるでお互いの間にアクリルの壁を置いているように。

 大手町のビル街にひっそりと隠れるように営業している『Bacchus』には、一見の客よりも常連の方が多い。だが、この二人に見覚えはなかった。おそらく予定していた店が満席で闇雲に歩き回って見つけたのだろう。

 店などはどうでもいいのだ。未来に大切にしたくなる思い出を作るつもりはないのだろうから。どうやって嫌な想いをせずに、不愉快な話題を終わらせることができるか、それだけに意識を集中しているのだろう。

 二人は、奥のテーブル席に座った。田中は、話が進まないうちに急いで注文を取りに行った。彼らも話を聞かれたくはないだろうから。

「カリブ海っぽい、強いカクテルありますか」
女が田中に訊くと、男は眉をひそめたが何も言わなかった。
「そうですね。テキーラ・サンライズはいかがでしょうか。赤とオレンジの日の出のように見えるカクテルです」
「それにして。氣分は日の入りだけれど……」

「僕はオールドの水割りをお願いします」
男は女のコメントへの感想も、田中との会話をも拒否するような強い調子で注文した。田中は頷いて引き下がり、注文の品とポテトチップスを入れたボウルをできるだけ急いで持っていくとその場を離れた。

* * *


 亜佐美はオレンジジュースの底に沈んでいる赤いグレナディンシロップを覗き込んだ。ゴブレットはわずかに汗をかき始めている。かき混ぜてそのきれいな層を壊すのを惜しむように、彼女はそっとストローを持ち上げてオレンジジュースだけをわずかに飲んだ。
「こうやってあなたと飲むのも今日でおしまいだね」

 和彦は、先ほど田中に見せたのと同じような不愉快な表情を一瞬見せてから、自分の苛立ちを押さえ込むようにして答えた。
「あの財務省男との結婚を決めたのは、お前だろう」

「……ごめんね。私、もう疲れちゃったんだ」
「何に?」
「あなたを信じて待ち続けることに」

 和彦は、握りこぶしに力を込めた。だが、その行為は何の解決にも結びつかなかった。
「僕が夢をあきらめても、財務省に今から入れるわけじゃない。お前に広尾の奥様ライフを約束するなんて無理だ。それどころか結婚する余裕すらない」

「私が楽な人生を選んだなんて思わないで。急に小学生の継母になるんだよ。あの子は全然懐きそうにないし、お姑さんもプライド高そうだから、大変そう」
「なぜそこまでして結婚したがるんだよ」

 亜佐美は黙り込んだ。必要とされたということが嬉しかったのかもしれない。それとも、プロポーズの件を言えば、和彦が引き止めてくれると思いたかったのかもしれない。彼は不快そうにはしたけれど引き止めなかった。

「カリブ海、行きたかったな」
「なぜ過去形にするんだ。これからだって行けるだろう」

 彼女は、瞼を閉じた。あなたと行きたかったんだよ。それに、もう憶えていないかな。まだ高校生だった頃ユーミンの『真夏の夜の夢』が大ヒットして、一緒に話したじゃない。こんな芝居がかった別れ話するわけないよねって。なのに私は、こんなに長く夢見続けたあなたとの関係にピリオドを打って、まるであの歌詞と同じような最後のデートをしているんだね。

 サンライズじゃない。サンセット。私の人生の、真夏の夜の夢はおしまい。

 二人は長くは留まらなかった。亜佐美がテキーラ・サンライズを飲み終わった頃には、水割りのグラスも空になった。そして、支払いを済ませると二人は田中の店から消えていった。

* * *


 おや。田中は意外な思いで入ってきた二人を見つめた。常連たちのように細かいことを憶えていたわけではないが、不快な様子で出て行く客はあまりいないので、印象に残っていた。おそらく二度と来ないであろうと予想していたのだが、いい意味で裏切られた。

「間違いない。この店だよな」
「そうね。6年経ってもまったく変わっていないわね」

 二人の表情はずっと穏やかになっていた。男の方には白髪が増え、カジュアルなジャケットの色合いも落ち着いていたが、以前よりも自信に満ちた様子が見て取れた。

 女の方は、6年前とは違って全身黒衣だった。落ち着いて人妻らしい振舞いになっていた。

「カウンターいいですか」
男が訊いたので田中は「どこでもお好きな席にどうぞ」と答えた。

「どうぞ」
おしぼりとメニューを渡すと、女はおしぼりだけを受け取った。

「またテキーラ・サンライズをいただくわ」
それで田中は、この二人が別れ話をしていたカップルだったと思い出した。
「僕も同じ物を」
彼もまたメニューを受け取らなかった。

「それで、いつ発つの?」 
「来週。落ち着いたら連絡先を報せるよ。メールでいいかい?」
「ええ。ドミニカ共和国かぁ。本当に和彦がカリブ海に行く夢を叶えるなんてね。医療機器会社に就職したって年賀状もらった時には諦めたんだと思っていたわ」

「理想と現実は違ってね。ODAって、場所やプロジェクトにもよりけりだけれど、政治家やゼネコンが癒着して、あっちのためになるどころか害にしかならない援助もあってさ。それで発想を変えて本音と建前が一致する民間企業の側から関わることにしたんだ」
「夢を諦めなかったあなたの粘り勝ちね。おめでとう」

「お前に振られてから、背水の陣みたいなつもりになっていたからな。それにしても驚いたな。お前の旦那が亡くなっていたなんて」

 田中はその言葉を耳にして一瞬手を止めたが、動揺を顔に出すようなことはしなかった。亜佐美は下を向いて目を伏せたが、すぐに顔を上げた。

「そろそろ半年になるの。冷たいと思うかもしれないけれど、泣いているヒマなんかなかったから、かなり早く立ち直ったわ」
「まだ若いのに、何があったんだ?」

 亜佐美は、田中がタンブラーを2つ置く間は黙っていたが、特に声のトーンを落とさずに言った。
「急性アルコール中毒。いろいろ重なったのよね。部下の女の子と遊んだつもりでいたら、リストカットされちゃってそれが表沙汰になったの。上層部はさわぐし、お姑さんともぶつかったの。それで、彼女が田舎に帰ってしまってからすこし心を病んでしまったのね」
「マジかよ」

「受験も大学も、財務省に入ってからもずっとトントン拍子で来た人でしょう。挫折したことがなかったから、ストレスに耐えられなかったみたい。和彦みたいに紆余曲折を経てきたほうが、しなやかで強くなるんじゃないかな」

「それは褒めてないぞ。ともかく、お前も大変だったんじゃないか?」
「そうでもないわ。事情が事情だけに、みな同情的でね。お姑さんもすっかり丸くなってしまったし、奈那子も……」
「それは?」
「ああ、彼の娘。もうすぐ大学に入学するのよ。早いわね」

「えっと、亜佐美が続けて面倒見るのか?」
「面倒見るっていうか、これまで家族だったし、これまで通りよ」

「その子の母親もいるんだろう?」
「母親が引き取らなかったから、慌てて再婚したんじゃない。今さら引き取るわけないでしょ。最初はぎこちなかったけれど、わりと上手くいっているのよ、私たち。継母と継子って言うより戦友みたいな感じかな。思春期でしょ、父親が若い女にうつつを抜かしていたのも許せなかったみたい」

「お前は?」
「う~ん。傷つかなかったといえば嘘になるけれど、でもねぇ」

 亜佐美はタンブラーの中の朝焼け色をじっと眺めた。
「あの人、あんな風に人を好きになったの、初めてだったみたい。ずっと親に言われた通りの優等生レールを進んできて、初めてわけもわからずに感情に振り回されてしまったの。それをみていたら、かわいそうだなと思ったの。別れてくれと言われたら、出て行ってもいいとまで思っていたんだけどね」

 和彦は呆れたように亜佐美を眺めた。
「おまえ、それは妻としては変だぞ」
「わかっているわよ。奈那子にもそう言われたわ。でも、今日私があなたと会っているのも、あの子にとっては不潔なんだろうな」

「いや、今日の俺たちは、ただ飲んでいるだけじゃないか」
「それでもよ。でも、いいの。奈那子に嫌われても、未亡人らしくないって世間の非難を受けても、あなたが日本を離れる前にどうしてももう一度逢いたかった。逢って、おめでとうって言いたかったの」

「これからどうするんだ?」
和彦はためらいがちに訊いた。

 亜佐美は、ようやくストローに口を付けた。それから、笑顔を見せた。
「奈那子が下宿先に引越したら、あの家を売却して身の丈にあった部屋に遷ろうと思うの。奈那子の将来にいる分はちゃんと貯金してね。それから、仕事を見つけなきゃ。何もしないでいるには、いくらなんでもまだ若すぎるしね」

 和彦は、決心したように言った。
「ドミニカ共和国に来るって選択肢も考慮に入れられる?」

 亜佐美は驚いて彼を見た。
「本氣?」

 彼は肩をすくめた。
「たった今の思いつきだけど、問題あるか? 奈那子ちゃんに嫌われるかな」

 亜佐美は、タンブラーをじっと見つめた。あまり長いこと何も言わなかったので、和彦だけでなく、成り行きかから全てを聞く事になってしまった田中まではらはらした。

「新しい陽はまた昇るんだね」
彼女はそういうと、瞳を閉じてカクテルを飲んだ。

「今さら焦る必要もないでしょう? 一度、ドミニカ共和国に遊びにいくわね。カリブ海を眺めながら、またこのカクテルを飲みましょう。その時にまだ氣が変わっていなかったら、また提案して」
亜佐美の言葉に、和彦は明るい笑顔を見せた。

 田中は、安心してグレナディン・シロップの瓶を棚に戻した。


テキーラ・サンライズ (Tequila Sunrise)
標準的なレシピ
テキーラ - 45ml
オレンジ・ジュース - 適量
グレナディン・シロップ - 2tsp

作成方法: テキーラ、オレンジ・ジュースをゴブレットに注ぎ、軽くステアする。
ゴブレットの縁から静かにグレナディン・シロップを注ぎ、底に沈める。



(初出:2017年2月 書き下ろし)
.08 2017 小説・バッカスからの招待状 trackback0

【小説】バッカスからの招待状 -7- アイリッシュ・アフタヌーン

Posted by 八少女 夕

WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

今回は、それと同時にもぐらさんの主催する「クリスマス・パーティ」に参加しようと思い、クリスマスバージョンで短めのものを書いてみました。(でも、あそこ用には長すぎるかなあ……うるうる)

スペシャルなので、主要人物がみな出てきて、さらに田中本人に関係のある話になっています。次回から、また彼はオブザーバーに戻ります。(たぶん)


月刊・Stella ステルラ 12、1月号参加 連載小説 stella white12
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バッカスからの招待状 -7- 
アイリッシュ・アフタヌーン


「こんばんは、田中さん、それに夏木さん」
大手町のとあるビルの地下にある小さなバー『Bacchus』のドアを開けて、久保すみれはいつも自分が座るカウンターの席が空いていることを確認してにっこりした。

「久保さん、いらっしゃいませ」
虹のような光沢のある小さな赤い球で飾られたクリスマスツリーの向こうから、田中の落ち着いた声がいつものようにすみれを迎えてくれる。

 店主でバーテンダーでもある彼が歓迎してくれるのは客商売だから普通だろうが、それであっても嬉しかった。ここはすみれにとって最初で唯一の「馴染みのバー」なのだ。

 カウンターの奥にいつも座っている客、夏木敏也のことは、この店から遠くないビルに勤めていること以外は何も知らない。すみれが『Bacchus』に来る日と決めている火曜日には、かなりの確率で来ているので、たいてい隣に座ってなんということはない話をする『Bacchus仲間』になっていた。そして彼は、すみれが来るまで鞄を隣の席に置いて、他の人にとられてしまわないようにしてくれているようだ。

 彼女は、バッグから小さな包みを2つ取り出した。
「来週は、もうクリスマスなんて信じられる? わたし、今年何をしたのかなあ。ともあれ、ここに一年間通えたのは、居心地をよくしてくれたお二人のおかげなので、これ、どうぞ」

「私にですか。ありがとうございます」
「僕にもかい?」
田中に続き、夏木は嬉しそうに包みを開けた。

 それはとあるブランドのハンカチーフで表裏の柄が違うのが特徴だった。それだけでなく形態安定でアイロンがけも楽だ。すみれは、この二人のどちらも独身であることを耳にしていたからこれを選んだ。

「へえ。こんな洒落て便利なハンカチがあるんだ。嬉しいなあ」
紺地に赤と白い細い縞が入り、裏は赤と白の縞が入っている。夏木はそれをヒラヒラさせながら喜んだ。

 田中も浅葱色に白と紫の縞の入っているハンカチを有難く押し頂いた。大切に仕舞っているところに、ドアが開いたので、三人はそちらを向いた。薔薇のような紅いコートを着た、すみれがこれまで一度も見たことのない女性が立っていた。

「涼ちゃん!」
田中は、もう少しでハンカチの入った箱を落とすところだった。

 田中が客に対して、さん付け以外で呼びかけたのを聞いたことのなかったすみれはとても驚いた。女性がにっこりと笑って「久しぶりね、佑二さん」と言ったので、思わず夏木と顔を見合わせた。

「どうしたんだ、お店は?」
田中は、すみれの横の席を女性に薦めた。彼女は颯爽とコートを脱いで入口のハンガーにかけてから、その席にやってきた。

「表の道で水道管の工事中に何か予想外のことが起こってしまったんですって。それで今夜は水道が使えなくなってしまって臨時休業。こんな稼ぎ時に、困っちゃう。でも、せっかく夜がフリーになったから、お邪魔しようと思ったのよ。何年ぶりかしら」

 それから夏木とすみれに、微笑んで会釈をした。

 田中は、女性におしぼりを渡しながら二人に言った。
「こちらは伊藤涼子さん。昔からの知り合いで、今は神田にお店を出す同業者なんです。涼ちゃん、こちらは夏木さんと久保さん、よくいらしてくださるお客様」

 『知り合い』にしては親しそうだなと思ったけれど、そんなことを詮索するのは失礼だろうと思って、すみれは別のことを訊いた。
「神田のお店ですか?」

「はい。同業者といっても、こちらのような立派なお店ではなくて、二坪ほどの小さな和風の飲み屋なんです。『でおにゅそす』と言います。お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りくださいね」

 すみれはこの『Bacchus』に来るまでバーに足を踏み入れたこともなかったが、和風の飲み屋はさらに遠い世界だった。大人の世界に足を踏み入れられるかと思うと、嬉しくて大きく頷いた。夏木も嬉しそうに頷いた。

* * *


 彼らの様子を微笑ましく見てから、田中は涼子に訊いた。
「何を飲みたい? あの頃と同じ、ウイスキー・ソーダ?」

 涼子は懐かしそうに微笑みながら答えた。
「それも悪くないけれど、外がとても寒かったから、よけい冷えそう。よかったら、ウイスキーを使って、何か冬らしい体の温まる飲み物を作ってくださらない?」

 ほんの少し考えてから、田中は何かを思いついたように微笑んだ。
「アイリッシュ・アフタヌーンにしようか。暖かい紅茶をつかった飲み物だよ」

 涼子だけでなく、すみれと夏木も興味深そうに田中を見た。彼はカウンターに緑色のラベルのタラモアデュー・ウイスキーを置いた。

「ウイスキーの中では、市場に出回っている量は少ないんだが、このアイリッシュ・ウイスキーは飲みやすいんだ。憶えているかわからないけれど、君にあのとき出したウイスキー・ソーダは、これで作ったんだ」

 彼は紅茶を作ると、ウイスキーとアマレット、そしてグレナデンリキュールをグラスに入れてから香りが飛ばないようにそっと注ぎ、シナモンスティックを添えて涼子に出した。

「へえ。これがアイリッシュ・アフタヌーンっていうカクテルなの?」
すみれは身を乗り出して訊いた。

 田中は笑って言った。
「便宜上、アイリッシュ・アフタヌーン、もしくはアイリッシュ・アフタヌーンティーと呼んでいますが、アイルランドでは特別な名前もないくらいありふれたの飲み物のようですよ」

「焼酎のお湯割みたいなものかな」
夏木もすみれごしに香り高い紅茶を覗き込んだ。

「お二人もこれになさいますか? 久保さんにはすこし薄くして」
田中が訊くと、二人は大きく頷いた。

 田中は、すみれ用にはアルコールをずっと減らしたものを、アルコールを受け付けない体質の夏木にはグレナデンシロップを入れたものを出した。夏木の前に出てきたのは甘い紅茶でしかないのだが、女性二人のところから漂う香りで一緒に飲んでいる氣分が味わえる。

 三人が湯氣を立てるグラスを持ち上げて乾杯をするのを眺めながら、田中は若かった頃のことを思い出していた。

 いま夏木が座っている位置に、涼子の姉、田中の婚約者だった紀代子がいた。開店準備をしていた午後に三人でなんということもない話をしていた。涼子はウイスキー・ソーダを傾けながらよく笑った。

 紀代子が黙って彼の元を去って、姿を消してしまってから、氣がつくと二十年以上が経っている。あの幸せだった時間も、それに続いた虚しく苦しかった日々も、ガラス瓶の中に封じ込められたかのように止まって、彼の心の奥にずっと眠っていた。彼は仕事に打ち込むことで、その思い出に背を向けてきた。

 久しぶりに紀代子のことを考えても、以前のような突き刺すような痛みもやりきれない悲しみも、もう襲っては来なかった。

 そういえば、涼子の姿を見たのもあの歳の暮れ以来だ。そんなに歳をとったようには見えないけれど、彼女も尖った感じがなくなり、柔らかく深みのある大人の女性になった。

 彼は、タラモアデュー・ウイスキーの瓶をきゅっと閉めてから、棚に戻した。他の瓶の間に何げなく納まったその瓶は、照明の光を受けて煌めいた。毎年この季節になると飾るクリスマスツリーの赤い球にも、照明は同じ光を投げかけている。彼の城であるこの店は、平和なクリスマスと年末を迎えようとしていた。温かいカクテルから漂うまろやかな香りの中で。

 彼は、ひとつ小さく息を吸い込んだ。いつもの接客する店主の心持ちに戻ると、彼の大切な客たちをもてなすために振り向いた。

アイリッシュ・アフタヌーン(Irish Afternoon)

アマレット:20ml
グレナデンリキュール:10ml
アイリッシュ・ウイスキー:20ml
シナモンスティック:1本
暖かい紅茶:適量

作成方法: アイリッシュ・ウイスキーとグレナデンリキュールとアマレットをグラスに入れた後、香りが飛ばないようにゆっくりと暖かい紅茶を入れて混ぜ合わせる。



(初出:2016年11月 書き下ろし)
.30 2016 小説・バッカスからの招待状 trackback0

【小説】バッカスからの招待状 -6- ナイト・スカイ・フィズ

Posted by 八少女 夕

WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

そして、前の記事でもお伝えしたように、今回は記念すべき「Stella」の創刊5周年記念号です。主催者のスカイさんは、このお祝いにみんなで同じテーマで書く企画を用意してくださいました。お題は「夜空」です。というわけで、急遽「夜空」をイメージした話を書いてみました。


月刊・Stella ステルラ 10、11月号参加 連載小説 stella white12
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バッカスからの招待状 -6- 
ナイト・スカイ・フィズ


「こんばんは、夏木さん」
今日は少し早いな、そう思いながら田中は微笑んだ。

 夏木敏也は片手をあげて、最近いつも座るカウンターの一番奥に座った。

 大手町にあるバー『Bacchus』は、氣をつけていないと見過ごしてしまうような小さな看板しかだしていない。来る客の多くは常連で、しかも一人で来る客が多い。夏木もその一人だ。全くアルコールの飲めない彼は、バーに来る必要などないのだが、この店の居心地はよくて、バーテンダーで店主の田中佑二にノンアルコールのカクテルをあれこれ作ってもらっている。

 彼は最近、火曜日に来ることが多い。理由は、その隣の席にあるのだろう。田中は思ったが余計なことはいわなかった。

 夏木は空いている隣の席に鞄を置いた。
「今日は、久保さん、来ないんだものね」

 火曜日には、たいてい久保すみれがこの店にやってくる。先日サマー・デライトをごちそうして以来、すみれは夏木を見かけると隣にやってきて、一緒にノンアルコールか、アルコール度数の低いカクテルを一杯だけ楽しんで、少し喋って帰っていく。特に約束をしているわけではないし、色っぽい展開にもなりそうもないが、夏木は火曜日を楽しみにしていた。

「お友だちと一緒に『シャトー・マルゴー』のスカイラウンジでのディナーに行くっておっしゃっていましたね」
田中は、夏木の前にハムとリコッタチーズのペーストを載せたクラッカーを出しながら言った。

「誕生日の前祝いだったっけ。最近の女の子たちは、羽振りがいいよね。『シャトー・マルゴー』のフランス料理なんて、僕は一生縁がないんじゃないかな」
夏木はメニューのノンアルコールカクテルを検討しながら言った。

「お友だちが抽選で当てたとおっしゃっていましたよ」
「そうか。だから、あの店で食事ができるのはきっと最初で最後のチャンスだって喜んでいたんだな。まあ、そうだろうな。あんなに高い店なのに、予約が一年後までいっぱいだなんて、不況なんて嘘だ」

 カランと音がして、扉が開いた。田中と夏木は同時に驚いた顔をした。
「久保さん!」

 すみれは、少し下唇を突き出しながら、肩をすくめて入ってきた。
「聞いてよ。本当にひどいんだから」

「『シャトー・マルゴー』は今夜じゃなかったっけ?」
夏木は、鞄をどかしてすみれの席を作った。彼女は、まっすぐにそこに向かって座り、田中からおしぼりを受け取った。

「間違いなく今夜だったわよ。それが、今日になって急に残業だからいけなくなった、ごめんなさいって言われたの」
「それは氣の毒だったな。でも、一人でフランス料理はキツいだろう?」

「本当に残業だったら別に怒らないわ。でも、さっきたまたま彼女がずっと憧れていた外商の彼とその同僚が話しているのを聞いてしまったの。彼女ったら、一緒に予約していた子が残業でいけなくなったから一緒に『シャトー・マルゴー』のディナーに行ってほしいって頼んだらしいの。私は、ダシに使われただけでなく、嘘で約束を反古にされたのよ。もう、女の友情は本当にハムより薄いんだから!」

 田中と夏木は思わず顔を見合わせた。すみれは半分泣きそうな顔をして田中に言った。
「これは飲まずにいられないわ。そうでしょう?」

「お誕生日の前祝いなんですよね。お氣の毒に」
田中が言うと、すみれは大きく頷いた。

「そうなの。あの満天の星空みたいな素敵な部屋で、ディナーができると思ったのに。この歳だし誕生日を祝ってもらわないと嫌だってわけじゃないけれど、ここまで期待した後だと、本当にがっかり」

 夏木は肩を落とすすみれを見て言った。
「そんなに氣落ちするなって。代わりに今日は僕がおごるから、田中さんに美味しいお酒と肴でお腹いっぱいにしてもらえよ」

 すみれは心底驚いて夏木を見た。
「そんなつもりで騒いだんじゃないのよ!」
「でも、誕生日の前祝いだろう? 『シャトー・マルゴー』でごちそうするのは僕には無理だけれど、ここならたぶん大丈夫だよ。田中さん、そうだよね」

 懇願するような顔をしたのがおかしくて、田中とすみれは同時に笑い出した。

「じゃあ、夏木さんのお誕生日には私が同じようにご馳走するって条件で、遠慮なく。田中さん、いいですか?」

「わかりました。では、可能な限り久保さんと夏木さんのお氣に召しそうなものをご用意しましょう。まずはお飲物をお作りしましょう。これは私にごちそうさせてください。何がよろしいですか。本当に強いお酒ですか?」

 すみれは笑って首を振った。
「本当に? 嬉しい。ううん、強いのはダメ。酔っぱらったら、せっかくのコースの味がわからなくなってしまうもの。私でも大丈夫ぐらいので、何か特別なカクテルはあるかしら」

「そうですね。では、せっかくですから夜空をイメージしたカクテルをお作りしましょう。ヴァイオレット・フィズはご存知ですか?」

 すみれは首を振った。田中は、一本の瓶を二人の前に置いた。
「これは柑橘系の果実で作り、ニオイスミレの花などで香りを付けたリキュールでパルフェ・タムールと言います。フランス語で完全なる愛という意味があるんですよ。ヴァイオレット・フィズはこのボルス・パルフェ・タムールにレモンジュースと炭酸水などを合わせたカクテルです。スミレを思わせる紫色のカクテルなんです」

 すみれの名前にかけての選択か。なるほどなと夏木は感心した。けれど、田中はその瓶を棚に戻し、別の瓶を取り出した。
「でも、今日はちょっと趣向を変えてみましょう」

「それを使わないの?」
「こちらもパルフェ・タムールです。でも、先ほどのボルス・パルフェ・タムールと違って、このマリー・ブリザール・パルフェ・タムールは色が青いのです」

 青いリキュールにシロップとレモンジュースをシェイクしてよく冷えたグラスに注いだ。そして、炭酸水を静かに注ぐと、その泡が青い液体の中でまるで星空のように煌めきだした。
「久保さんのための満天の星空をイメージして作りました。夜空をグラスの中に。ナイト・スカイ・フィズをどうぞ」

「そして、これもパルフェ・タムールだからスミレの香りなのね! 田中さん、ありがとう。それに、夏木さんも!」
すみれは嬉しそうにナイト・スカイ・フィズを覗き込んだ。

 夏木はその美しい夜空を模したカクテルを羨ましそうに眺めた。自分も一緒に飲めたらどんなにいいだろう。でも、リキュールが入っているなら無理だよな。

 そう思っていると、そっくりの飲み物が彼の目の前に置かれた。
「あれ?」

 田中は笑って言った。
「こちらはパルフェ・タムールの代わりにブルーキュラソー・シロップと巨峰ジュースで作りました。スミレの香りはしませんが、やはり柑橘系のカクテルです。いかがですか」

 完璧な愛パルフェ・タムール ではないけれど、それに、有名レストランのスカイラウンジでもないけれど、満天の星空は一緒。そしてずっと居心地がいい。二人は大手町のお酒の神様の祝福する夜空のカクテルで楽しく乾杯をした。

 田中はそんな二人を微笑ましく眺めながら、コースに匹敵するどんな肴を組み合わせようかと頭の中をフル回転させた。

ヴァイオレット・フィズ(Violet Fizz)

パルフェ・タムール - 45ml
シロップ - 1tsp
レモンジュース 20ml
炭酸水

作成方法: 炭酸水以外をシェイクしてグラスに注ぎ、炭酸水で満たす。



(初出:2016年10月 書き下ろし)
.12 2016 小説・バッカスからの招待状 trackback0

【小説】バッカスからの招待状 -5- サマー・デライト

Posted by 八少女 夕

WEB月刊誌「Stella」用に連載してきた「Infante 323 黄金の枷は完結しましたので、新しいものをと思ったのですが、しばらくはこのシリーズを書いていこうと思います。「バッカスからの招待状」ですね。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしようと思います。
月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 連載小説 stella white12
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バッカスからの招待状 -5- 
サマー・デライト


 ドアを開けると、時間は遅くなかったのにもうカウンター席はほとんど埋まっていた。一番奥の席が二つ空いていたので、彼はホッとした顔をした。

「夏木さん、いらっしゃいませ」
バーテンダーの田中はいつものように穏やかに言った。

「あそこの席、座ってもいいかい?」
夏木敏也はほとんど聴き取れない小さい声で訊いた。「どうぞ」と薦められると、ほっとしたように奥の席に腰掛けた。

 大手町のビル街の地下にあるバー『Bacchus』は、氣をつけていないと見過ごしてしまう。だが、居心地がよく、肴も美味しいので、常連たちが心地いいと思う程度にいつも賑わっていた。

「今日は何になさいますか」
田中が熱いおしぼりを手渡しながら訊いた。

「この間のをまた飲みたいな」
夏木は、言ってしまってから、しまったと思った。昨日の今日じゃあるまいし、「この間の」などと言ってわかるはずはない。だが、彼はそのカクテルの名前を憶えていなかった。
「あ~、僕の名前と関係のあるカクテルだったと思うんだけれど」

「サマー・デライトですね」
田中は困った様子もなく言った。

 田中は、常連客の嗜好や一人一人の語った内容を驚くほどよく憶えている。だが、夏木の場合は記憶するのも簡単だろう。彼はバーの常連客としては珍しいタイプだった。一滴のアルコールも飲めないのだ。

 彼は少し俯いて、それから口角をあげた。彼は、ここに受け入れられてもらっていると感じた。

 酒を飲めないのは体質でどうしようもない。だが、世の中には訓練や根性でその体質を変えられると信じている輩も多い。「付き合い悪いな」「つまらないヤツだ」「契約が取れないのは飲みニケーションが足りないからだ」そんな言葉を発したものに悪氣はなくても、それは少しずつ飲めない者の心を蝕んでいく。肩身が狭く、飲み会や宴会という言葉が嫌になる。

 そして、どれほど憧れていても、「馴染みのバー」などを持つことは出来ない、ずっと夏木はそう思っていた。ある上司にここに連れて来てもらうまでは。
「お前が飲めないのはわかっているよ。でも、あそこは肴も上手いし、田中さんならウーロン茶だけでも嫌な顔はしないさ」

 そして、『Bacchus』の落ち着いた佇まいがすっかり氣に入ってしまった夏木は、それから一人でも来るようになったのだ。はじめはウーロン茶などをオーダーしていたが、隣に座った女性がオーダーしていたのを聞いて、ノン・アルコールカクテルがあることを知った。

「田中さん、僕にも何か作ってくださいよ」
その言葉に、田中の顔が輝いたのがわかった。居酒屋や宴会では絶対に飲めない、それぞれの好みに合わせたカクテル。それは客の憧れであると同時に、バーを切り盛りするバーテンダーの誇りでもあるのだ。

 どの店に行っても肩身が狭くて、本来この場所にいるべきではないと感じていた夏木は、ようやく「この店から歓迎される客になれる」と秘かに喜んだ。

 カランと音がして、セミロングの髪の毛をポニーテールにした若い女性が入って来た。
「ああ、久保さん、いらっしゃいませ」
田中の挨拶で、常連なのだなとわかった。彼女は、カウンターを見回して、夏木の隣の席が空いているのを目に留めた。

「夏木さん、お隣、いいですか?」
田中に訊かれて、彼は「もちろん」と頷き、アタッシュケースを隣の椅子からどけて自分の背中の位置に置いた。

 久保すみれは、会釈しながらやってきて、慣れた様子で田中からおしぼりを受け取った。
「この時間なのに、満席なのね。座れてよかった」
「ほんの三十分前までは、ガラガラだったんですよ。何になさいますか」

 すみれは、メニューを受け取ると検討しだしたが、目移りしてなかなか決まらないようだった。

「お待たせしました」
田中は、夏木の前にタンブラーを置いた。淡いオレンジ色が爽やかな印象だ。彼は、田中に会釈をして、一口飲んだ。

 ライムの香りに続いて、炭酸の泡が喉をくすぐる。それからゆっくりと微かにグレナディンシロップの甘さが訪れる。

 そう、これこれ。甘さをライムジュースと炭酸で抑えてあって、とても爽やかだ。本当に「夏の歓び」だな。

 オレンジスライスが飾ってあると、いかにも女性用カクテルのように甘ったるく見えてしまうが、グリーンライムである所が心にくい。グラスの形もシンプルなタンブラーなのがいい。幸せだなあ。

 それから、隣からの視線に氣が付き、少し顔を赤らめた。別にノン・アルコールだと大きく書いてあるわけではないけれど。

「それ、美味しいですか?」
「え。はい、とても」
「私、お酒強くないんだけれど、飲めると思います?」

 夏木は大きく頷いて、それから田中を見た。田中は、メニューの一部を示して優しく言った。
「久保さん、大丈夫です。このカクテルは、サマー・デライトです」

 すみれは、その説明を見て、ノン・アルコールの記述に氣がついた。にっこり笑って「それを私にもお願いします」と言った。

 夏木は嬉しくなった。酒が飲めないことは、悪いことだとは思っていないが、多くの人の前で「こいつ飲めないんだ」と言われるのは好きではなかった。田中は、始めに来たとき以外、そのことに言及しない。だから、カウンターの他の客たちは、夏木が飲めないことにも氣がついていないだろう。そもそも、彼らは誰かが飲めないことになど興味はないのだ。

 田中も、酒に強くないこの女性も、飲めない者の居心地の悪さを知っていて、それに氣を遣ってくれる。この店が心地いいのは、そういうほんの少しの優しさを備えた人が集まっているからなのだろう。

「わぁ、本当に美味しい。いいカクテルを知っちゃった」
すみれは嬉しそうに飲んだ。

「せっかくのご縁ですから、このカクテルは僕にごちそうさせてください」
夏木は言った。すみれは驚いた。
「そんな、悪いです」

「いや、本当に一杯だけ。僕、これまでカクテルをごちそうするなんて洒落たシチュエーションになったことがないんですよ。一度、やってみたかったんです」
ノン・アルコールだから、酔わせてどうとやらは100%無理だけれど。心の中で笑いながら続けた。

 すみれは笑った。
「まあ、じゃあ、喜んで。ちなみに、私もバーで男性におごってもらうのは、生まれて初めてです。こういうのって楽しいですね」

サマー・デライト (Summer Delight)

標準的なレシピ
 ライム・ジュース = 30ml
 グレナデン・シロップ = 15ml
 シュガー・シロップ = 2tsp
 炭酸水 = 適量
作り方
炭酸水以外の材料をシェークし、氷を入れたタンブラーに注ぎ、炭酸水で満たす。



(初出:2016年8月 書き下ろし)
.03 2016 小説・バッカスからの招待状 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(25)雪の朝

Posted by 八少女 夕

永きにわたって連載してきた「Infante 323 黄金の枷」、ついに最終回です。

宣告という形で愛する23と一緒に暮らすことになったマイア。自分に触れようともしない彼の態度に傷ついて一夜を過ごしました。彼の真意はどこにあるのでしょうか。

最終シーンのイメージBGMは前回の記事で歌詞とともにご紹介しましたが、サブタイトルとなっている雪の朝のイメージBGMがあります。後書きとともに追記でご紹介しています。


月刊・Stella ステルラ 6、7月号参加 連載小説 stella white12
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「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(25)雪の朝

 パチパチと何かが爆ぜる音で目が醒めた。隣に23はいなかった。起き上がって最初に目に入ったのは、暖炉の中で赤く燃えている焔だった。火をおこしたんだ。今朝はそんなに寒いのかな。

 彼女は23の姿を探した。広い部屋のずっと先にいた。いつもの服を着て髪をきちんと結った彼は窓の向こうを見ていた。はらはらと舞い落ちる雪が静かに鉄格子の上に積もっている。

 この街を彩る赤茶色の屋根はすべて雪に覆われて、静かに眠っているようだった。いつもは騒がしく朝を告げるカモメたちも、震えて羽の間に頭を埋めているだろう。楽しいこと、つらいこと、歓び、悲しみ、そのすべてを紡ぐ活氣ある街を覆うように、雪は静かに降り積もっていた。

 23は黙って窓の外を見ていた。その姿がはじめて彼に逢ったあの日の記憶に繋がった。彼はあの日も格子の向こうの世界を見ていた。彼には出て行けない世界の輝かしい美しさと、そこを自由に飛び回るカモメたちの羽ばたきを眺めていた。生け垣の向こうから入ってきて言いたいことをいいながら帰って行くマイアを、鍵を開けて鉄格子の中へと入ってくる召使いたちが用事を終えて出て行くのを、この館から離れて街の中を自由に動く姉の姿を見ていた。その心持ちがどんなものだか、マイアは今はじめて思い至った。

 マイアにとって、ドラガォンの館に入ってくることも、23の居住区に入ることもつらいことではなかった。ここ鉄格子に区切られた空間は、彼女にとって一度たりとも牢獄ではなかった。昨日まで自由に出入りできた職場の一区画だったからではない。自分が鍵をかけられて閉じこめられる存在となってもつらくはなかった。その理由を突然彼女は悟った。

 それは、ここにいつも23がいたからだ。ここは彼の空間、マイアがもっと近づきたかった愛しい男の住まいだった。

 けれど、23にとって、そんな甘い意味はどこにもなかったのだ。彼はいつも牢獄の中で一人で孤独と戦ってきたのだ。マイアが仕事を選び、買い物を楽しみ、自由に散策しながら、パスポートがもらえない、船に乗れないと文句を言っていた間、彼はそれよりもずっと強い悲しみと戦ってきたのだ。存在することを否定され、名前ももらえず、心を込めて働いても認められることもなく。

 彼はいつもこうやって窓の外を眺めてきたのだろう。そして、その後に、誰かが自由に動き回り、世界を快適に旅して回ることのできる、あの素晴らしい靴を作るために暗い地下の工房へと降りて行くのだろう。今すぐ駆け寄って抱きしめたいと思うと同時に、そんなことをしてはいけないと思った。彼が雪と、全てを包む込む大いなる存在、父なる神と対峙しているこの神聖な時間を邪魔してはならないのだと思った。

 頬に熱いものが伝う。23、23、23……。痛いよ、心が痛い。あなたのために何をしてあげたらいいんだろう。

「起きたのか」
振り向いた23はマイアが泣いていることに氣がついた。

「どうした」
「……」
「閉じこめられたのがつらいのか?」
マイアは激しく頭を振った。

 彼は大きくため息をついてベッドに戻ってきた。それから彼女の頬に手を当てて、その瞳を覗き込んだ。瞳には初めて会った時と同じ暗い光が浮かんでいた。

「泣かれるとこたえる。嫌なのはわかっているが一年だけ我慢してくれ」
「何を?」
「俺と一緒にいることを。心配するな、何もしないから」
「イヤだなんて……。どうして何もしないの? 私じゃ全くその氣にならない?」

 23は首を振った。
「無理矢理に俺の自由にして苦しめたくない。お前の意志も訊かずに決めたことは悪かった。でも、信じてくれ。お前のためにこうしたんだ」

 マイアは自分も手を伸ばして23の頬にかかる髪に触れた。
「私のためって?」

 彼はマイアの手の上に自らの手を重ねた。彼女の心臓はまた強く速く動いた。23の声がすぐ近くで響く。

「一年経っても子供ができなければ、お前は用無しとみなされて、ここを出て行くことができる。そうなったらライサと同じように腕輪も外してもらえる。パスポートももらえるし、どこにでも好きな所に行って、どの星のある男にも邪魔されずに愛する男と結婚することもできる。お前が夢みていた自由を手に出来るんだ」

「どうして? どうして自由にしてくれるの?」
マイアがそう訊くと、23は泣きそうな顔をした。

「わからないのか。誰よりも大切だから。もう一度逢いたいとずっと願っていた。このままずっと側に居られたらと思っていた。だが、俺の望みと好きな男がいて自由を夢みているお前の幸せとは相容れないだろう。だから、俺がお前のためにしてやれることは、これしかないんだ」

 マイアは震えた。この人は、何を言っているんだろう。
「一年経ったら、あなたも一緒にここを出て行けるの?」

 23は黙って首を振った。口元は微笑んでいたが、その瞳は十二年前のあの日と同じように泣いていた。

「だったら、そんなの、私の夢でも幸せでもないよ……そんな自由なんかいらない。あなたのいない所には、どこにも行きたくないよ」

「マイア」
「一年だけなんてイヤだよ。あなたがここに居続けるなら、ずっとここに、あなたの側にいたい」

 23はようやくマイアの言っていることが理解できたようだった。震えながら両手をマイアの頬に当てた。

「俺でも、いいのか」
「『でもいい』じゃないよ。あなたがいいの。好きな人ってあなたのことだもの。他の人じゃだめなの」

 彼は泣きそうな顔のまま笑った。

「生まれてくる子供たちも孫たちもみな《星のある子供たち》になるぞ」
「星があっても、悪いことだけじゃなかったもの。腕輪をしていたから、私は23の側に来られたんだよ。生まれてきたから、私たち出会えたんだよ。そう思わない?」

 答える代りに23はマイアを強く抱きしめた。彼女はそのぬくもりに酔った。

* * *


 春が来た。風に散らされたアーモンドの花びらが緩やかに舞う河沿いを、古い自転車が走って行く。

 黒い巻き毛を後ろで束ねた少し猫背の青年が、風を起こしながらペダルを漕いでいる。

 その後ろに、茶色の髪をなびかせた若い娘が乗っている。青年の腰に腕をまわし、しっかりと抱きついて、D河の煌めく波紋を眺めている。

 カモメを追い越し、路面電車のベルと車輪のきしみを耳にして、自転車は大西洋をのぞむフォスへとさしかかる。

 波が岩場に打ちつけて、白いレースのように花ひらいて砕け散る。繰り返す波。海のそよ風。カモメの鳴き声。クリーム色のプロムナードに辿りつくと、青年は自転車を止めた。

 二人は自転車から降りて海を眺めた。どちらからともなく差し出した手を繋ぎ、波のシンフォニーに耳を傾けた。

 言葉はいらなかった。パスポートや船も必要なかった。お互いが切望していた約束の土地は重ねた手のひらの中にあった。枷だった金の腕輪は、いつの間にか絆の徴に変わっていた。

(初出:2016年5月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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この小説を書くことになったシーンのイメージの元になったのはこのベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章です。あ、動画は第3楽章まで一緒になっていますけれど。


Excerpt from Piano Concerto No. 5 in E-flat Major, Op.73 ("Emperor Concerto")

【後書き】

「黄金の枷」三部作の第一作である「Infante 323 黄金の枷」、これで完結です。2年以上の永きにわたりご愛読いただいた皆様に心から御礼申し上げます。

この作品は、2014年の春のポルト旅行中に突然頭の中に浮かんできた、本来はどこにもない世界を舞台にしたストーリーです。おそらく読んでくださった方はあちこちで明らかになる妙な設定に言葉を失って、もしくは失笑したことと思います。

この作品は、私の小説には珍しく完全なるフィクションの上に成り立っています。《星のある子供たち》や《監視人たち》と呼ばれる特別な血筋の人たち、現代としてはありえない強烈な伝統、その無茶苦茶と現実のポルトという美しくも素晴らしい街の観光案内(サブテーマは「五感で恋するポルト」でした)をミックスしてしまう強引な構成。勢いで2ヶ月ほどで書き終えたものの「これ、発表して大丈夫か?」とギリギリまで迷っていました。

なぜこの作品がこういう設定になったのか、今から考えると、全ては、メインテーマ「運命との和解」を端的に表すたった一つのシーン「抵抗し続けた運命を受け入れて静かに鉄格子から外を眺めている主人公の姿」「その姿を眺めながら彼のために何かをしたいと願うヒロインの心」を効果的に描きたかったから、それに尽きるのです。

主人公が望んでも出て行くことのできないこの格子は、おそらく誰の人生にもある普遍的なものだと思っています。奇妙奇天烈な「ドラガォンの伝統」やヒロインたちのしている「黄金の腕輪」もまた、普段意識していないながら、例えば「国民性」「伝統」「常識」という別の形で、私たちを強く縛っているものと変わらないと思っています。

でも、そういう「誰でも同じだよね」という共感部分に、主人公とヒロインの魂の結びつきが薄められないようにしたいと思いました。ごくあたり前の設定のもとでは、私の描写力では、強調したかったことを表現できないと感じたのです。

「なぜ彼は鉄格子の中にいるのか」「ヒロインを自由にするとなぜ永遠の別れになるのか」その疑問に帳尻を合わせるために無理矢理作った設定がこの「黄金の枷」ワールドなのです。が、2年間もそれにつき合っていると、私の中ではその世界も、あって当然になってしまいました。

そして、その強烈な違和感を乗り越えて「あのブログにはああいう世界があるんだ」と、ともかく受け入れてくださった読者の皆様の心の広さと、拍手やコメントによる応援が連載の支えとなってきました。「ひとつくらい、こういう世界があってもいいよね」と最後まで公開しようと思えたのは、ひとえに最後まで読んでくださった皆様のお陰です。

最初は、この「Infante 323 黄金の枷」だけだったこの世界、あれからどんどん設定と物語が進み、現在残りの二つの作品を用意しています。

といっても、実際には重要なのは三作目の「Filigrana 金細工の心」で、二作目の「Usurpador 簒奪者」はその背景を説明するための外伝的位置づけになります。発表までまだしばらくかかりますが、忘れられてしまわないように出来るだけ早く執筆を終わらせたいと思っています。他の作品同様、今後とも「黄金の枷」の世界に親しんでいただけることを願って後書きに代えさせていただきます。
.25 2016 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(24)宣告

Posted by 八少女 夕

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。

いつまでも完結しないと思っていたこの小説、今回と次回の2回で完結です。つまり、今回はストーリーとして(ようやく)クライマックス。もしかしたらドン引きする展開かもしれませんが、まあ、もともと、そういう話だし……。(開き直り)

もちろんマイアは、今回こうなってもまだよくわかっていません(笑)お花畑脳は強い。ま、23も五十歩百歩ですが。


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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(24)宣告

 その晩は、アマリアとマイア、それから三か月の監視期間を終えて復帰したばかりのミゲルが給仕に当たっていた。いつもの晩餐だったが、前菜とスープが終わり、アマリアとマイアがメインコースを取りに行っている時にそれは起こった。二人がキッチンから戻ってきた時に、テーブルでガチャンという音がした。

 二人が戸口から中を見ると、24が水の入ったグラスを手ではねつけたらしい。水を注いでいたミゲルはショックを隠せないでいた。座っていた他の三人も驚きの表情を見せた。24はミゲルを睨みつけた。
「お前には給仕されたくない。薄汚い策略家め」

 マティルダの件だと、マイアは氣がついた。先を越して、自分に挨拶もなく結婚したことが許せなかったのだろう。メネゼスがそっとミゲルの袖を引き、他の三人に水を入れるように目で指示すると、24の前のグラスを黙って片付けてから別のグラスを差し出した。メネゼスは皿を持っている二人にも、お出ししろと目で合図した。アマリアがドンナ・マヌエラと23の皿を持っていて、マイアはドン・アルフォンソと24の皿だった。

「何がハネムーンだ」
まだ腹の虫のおさまりかねる様子で24が続けた。

「よせ。ミゲルに当たるな」
23が嗜めた。すると24は今度は23を攻撃しだした。
「お前がまた裏で糸を引いたんだろう」

「なんだと」
「僕の子供が出来ないように、念の入った邪魔をしやがって。自分が檻から出られるチャンスをつぶされたくないんだろう」

「いいがかりだ」
「お前がアントニアを焚き付けて、ライサをここから強引に連れ出したのを僕が知らないとでも思っているのか。僕の子供を殺した上、ライサを精神異常にしたてやがって」

 ドン・アルフォンソが黙っていなかった。
「24。ライサの診断は二人の精神科医が行った。それにあれは自然流産だった。どちらも23が関われるはずがなかったことだ。言っていいことと悪いことがあるぞ」

「どうだか。そいつは昔からずっと陰険だった。みっともない姿で誰からも相手にされないからって、僕を逆恨みして邪魔ばかりする。僕と女の仲を裂く暇があったら、一人でもいいから女を口説けばいいんだ」

 マイアは怒りに震えつつも、黙ってドン・アルフォンソの前に皿を置き、それから、皿を頭から叩き付けたい衝動を堪えつつ24の前にも皿を置いた。その表情を24は横から見て、にやっと笑い、再び23に絡んだ。

「女の口説き方や連れ込み方も知らないんだろう。どうやるか実践で教えてやろうか。例えば、お前のお氣にいりのこの女なんかどう?」
そういって、離れようとしていたマイアの右手首をつかんだ。彼女ははっとして身を引こうとしたが、24はいつもの調子では考えられないほどの力で引っ張り、立ち上がると反対の腕でマイアを抱きかかえるようにした。

 ドンナ・マヌエラが眉をひそめた。
「メウ・クワトロ、いい加減になさい」

「なぜです、母上。僕には赤い星を持つどんな娘でも自由にする先祖伝来の権利があるはずですよ。ほら、例の宣告をすればいいんでしょう。《碧い星を》ってやつ。やってみようかな」

 あざ笑うような24の挑発に唇を噛んで黙っていた23は、突然席を立ち口を開いた。その口から聞こえてきたのは、普段使うものとは似ても似つかぬ古い時代の言葉だった。

「《碧い星を四つ持つ竜の直系たる者が命ずる。紅い星一つを持つ娘、マイア・フェレイラよ、余のもとに来たりて竜の血脈を繋げ》」

 沈黙が食堂を覆った。24は顔色を変え、マイアの手首をつかんだまま自分の席に座り込んだ。マイアは何が起こったのかわからず23と24、それから呆然とする人びとの顔を見た。

 ドン・アルフォンソが最初に反応した。23が使ったのと同じ、古い時代の言葉だった。

「《碧い星を五つ持つ竜の直系たる余は、碧い星を四つ持つインファンテ323、そなたの命令を承認する。竜の一族の義務を遂行せよ。紅い星一つを持つ娘、マイア・フェレイラよ、インファンテ323に従え。そなたには一年の猶予が与えられた》」

 それから24の方を向き普段の調子に戻って言った。
「24、その手を離せ。今後その娘に触れることは許されない」

 24は忌々しそうに、つかんでいたマイアの手首を離した。それと同時に彫像のように固まっていた召使いたちもほうっと息をついて動き出した。ドンナ・マヌエラがメネゼスの方を見て頷いた。

 メネゼスは、アマリアとミゲルに向かって言った。
「アマリア、マイアの荷物をまとめるのを手伝ってくれ。準備ができたらミゲル、お前が運ぶのだ。その前にジョアナの所に行き、ほかの者を給仕によこすように伝えてほしい」

 23が黙って自分の居住区に帰ってしまい、食事も給仕も中断して皆が急に動き出したので、何が起こったのかわからないマイアは慌てた。
「あの……いったい、何が……。私の荷物をまとめろってどういうことですか?」

 アマリアがマイアの腕をつかんで強引に食堂から連れ出した。
「何、どうなったの?」
「しっ。これからあなたは23の所にいくのよ」

「何のために?」
「子供を作るためよ」
「えええっ?」

「23がしたのは、正式の宣告よ。私も生まれてはじめて聞いたわ。とにかくあれをされたら、星を持つ女に拒否権はないの。詳しくは本人に話してもらいなさい」

 マイアはミゲルに連れられて23の居住区に入った。

 23は三階の寝室の外れにあるライティングデスクの前に腰掛けて両手で顔を覆っていた。彼女の荷物を寝室に運び込むと、ちらっとマイアを眺めてからミゲルは出て行った。

 マイアは所在なく立ち尽くしていた。二階に降りて行ったミゲルが格子を閉じて鍵をかけた音がした。その金属質の音はこれまで感じたこともないほど大きく、外界から遮断されたことを思い知らされた。

「23……」
後悔しているんだ。マイアは23のうちひしがれた様子がつらかった。子供を作るためとアマリアに言われた時、希望を持った自分が情けなかった。そうだよね。そんなわけないって、知っていたはずなのに。23が好きなのは、ドンナ・アントニアだって……。

「ごめんね……」
ぽつりとマイアが言うと、彼はようやく顔を起こして彼女の方を見た。

「すまなかった。お前の意志を無視した」
それからマイアの荷物をちらっと見ると、ため息をついていった。
「明日にでもしまう場所を決めよう。足りないもの、必要なものは、言えば館が購入してくれる。今日は遅いからもう寝てくれ」

 寝ろって言われても、一つしかないから、ここのことだよね。何度もベッドメイキングをした大きなベッドを見て、マイアは躊躇した。これからずっとここで。でも、イヤなんだろうな、私とじゃ……。

 とはいえ、突っ立っているわけにもいかなかったので、マイアは黙って洗面所に行くと顔を洗って歯を磨き、寝間着に着替えてすごすごとベッドに向かい、端のできるだけ邪魔にならない所に紛れこんだ。暗い部屋の中に鉄格子の嵌まった窓から月明かりが射し込んでいた。その光はライティングデスクに肘を持たせかけてうつむいている23を照らし出していた。彼の背中はいつもよりもずっと丸く見えた。マイアは布団の中で声を殺して泣いた。

 いつの間にか寝てしまっていたらしい。ベッドが軋んだのでマイアは目を覚ました。大きなベッドの反対側に23がいた。月は大きく移動して、ベッドの上に光を投げかけていた。マイアが少し身を起こすと、23がこちらを向いた。
「起こしてしまったか」
「うん……。あの……そんな端じゃなくてもっと真ん中で眠れば?」

 23は笑って首を振った。
「お前こそ、落ちそうなくらい端にいるじゃないか」
「だって、悪いかなと思って」
「悪いもへったくれもない、俺がお前に強制したんだろう」
「ちがうよ。24から守ってくれたんだよね。ごめんね。ドンナ・アントニアに誤解されるよね」

 23は、わからないという風にマイアを見つめた。
「どうしてそこでアントニアが出てくるんだ」

「だって、私とじゃなくて、ドンナ・アントニアと一緒になりたかったでしょう?」
「お前、何を勘違いしているんだ。アントニアと俺がどうこうなるわけないだろう」
「愛し合っているんじゃないの?」

 23はゲラゲラ笑った。マイアには何がおかしいのかわからなかった。

「道理でアントニアが来る度にあわてて出て行ったわけだ。誰もお前に言わなかったのか?」
「何を?」
「アントニアは俺たちの姉だよ」
「!」

 それから困ったように言った。
「そんなに怯えるな。襲ったりしないから安心して寝ろ」
「怯えていないよ。それに、邪魔にならないようにするから、そんなに落ち込まないで」

 23は笑って手を伸ばしマイアの頭をそっと撫で「おやすみ」と言った。それから背を向けた。月の光に浮かぶ彼の丸い背中を見ながらマイアはまた悲しくなって布団をかぶった。
.27 2016 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(23)遺言

Posted by 八少女 夕

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。今回は、月末にポルト旅行なのでちょっと早いですが、今日の発表です。

前回、いきなり当主アルフォンソと《監視人たち》の代表である執事メネゼスに抜け出してしまっている事がバレてしまった23。もちろんそのことは23もマイアもまだ知りません。

今回は、「追憶のフーガ - ローマにて」という番外編を発表した時に「え? これは誰と誰の事?」とみなさんに訊かれた件が明らかになります。

本編は今回を含めてあと三回で完結です。いろいろとヤキモキさせていますが、まだ続きます(笑)


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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(23)遺言

 マイアはいつものように三階と二階の掃除を手早く済ませて靴工房に降りてきた。彼はエスプレッソマシンの前に立っていた。
「おはよう。23」
「おはよう。新しいブレンドが届いたんだ。飲んでみるか?」
「うん。ありがとう」

 その時、二階で鉄格子が解錠される音がした。二人で同時に見上げる。体重を億劫に左右に傾けるこの音は、ドン・アルフォンソの歩き方だとすぐにわかった。

「おはよう。アルフォンソ。珍しいな、どうしたんだ? 今、上がっていく」
23は階段の途中まで行った。彼の兄は、ここまで来るだけで既に息を切らしかけていた。

「いや、下に行く」
当主は手すりにつかまりながらゆっくりと降りてきた。マイアは掃除用具と掃除機をまとめて、急いで出て行こうとした。アルフォンソはそのマイアをちらりと見ると手を振った。

「マイア、わざわざ席を外す必要はない。そのまま仕事を続けていろ」
「え。あ、はい。メウ・セニョール」

 マイアは心配そうに23を見たが、23も兄の意図がわからずただ肩をすくめた。マイアは少し離れたところに行って掃除を始めた。

「今日の氣分はいいのか。こんなに歩いて大丈夫か」
23は椅子に腰を下ろして息を整えているアルフォンソに、水を持っていった。当主はコップを弱々しくつかみゆっくりと水を飲んだ。それから黒いベルベットの上着の胸ポケットから白いハンカチを取り出して、その紫色の顔を拭いた。

「ありがとう。今朝はいつもよりいいんだ。お前とこうして話をできるうちに来たかった」
「話をしたいなら、食事のときでもいいし、俺がお前の部屋まで行ってもよかったのに。メネゼスがついて来れば逃げる心配もないだろう」

 アルフォンソは弟の顔をじっと見つめてから言った。
「逃げる心配なんてしていない。俺は、お前に食事のときの軽い会話をしたかったわけじゃない。それに、できればメネゼスも、母上も、それから24もいない時に話したかったんだ」

 なのに私はいてもいいのかな。マイアは余計困った。聴かない方がいいように思うけれど、でも氣になってしまう。

「アルフォンソ。コーヒー飲むか」
「いや、いい。水をもう一杯くれ」

 23は水をくんで兄の前に置くと、その正面に椅子を置いて座った。アルフォンソはもう一度額を拭くと、椅子の背に凭せ掛けていた身を起こして、弟の顔をじっと見た。

「二つ、頼みがある。口がきけなくなってからでは遅いので、聴いてほしい」
「聴くよ」

「一つめは、クリスティーナのことだ。彼女とは先日話をした。俺がいなくなった後、どうしたいかと」
「彼女はなんと?」
「代わりの人間が見つかったら、出て行きたいと言っていた」
「そうか」
「腕輪を外し、ライサにしたように生活に困らないようにしてやってほしい。だれか別の人間を見つけて幸せに生き続ける努力をすると約束させた」

「アルフォンソ。クリスティーナと結婚しないのか」
23は言った。マイアははっとした。クリスティーナとドン・アルフォンソがそういう関係だとは夢にも思わなかった。アルフォンソは笑った。
「そんなことをしたら俺が死んだ後、彼女がお前の妻になるんだぞ。お前がアルフォンソになるのだから」

 マイアの手の動きは停まった。23は意に介した様子も見せなかった。
「心配するな。名前だけの夫だ。お前に選ばれた女には俺は手を出せない。監視もたっぷりつく。わかっているだろう」
「その心配をしているわけじゃない。それに名前だけの当主夫人の座など、クリスティーナは望んでいない。お前を俺たちの犠牲にすることも考えてはいない」

 アルフォンソは水を飲んだ。それからいっこうに掃除を進めていないマイアをちらりと見てから、再び23に視線を戻して笑った。
「23。お前とアントニアは変なところがそっくりだ。人のことばかり慮って、自分の幸福を簡単にゴミ箱に放り込もうとする」

 23は視線を落とした。
「こんな風に生まれてきた俺には、選択の余地がない。簡単にはいかないんだ。わかっているだろう」

 マイアはやっぱり席を外せばよかったと思った。聞きたくない。アルフォンソはマイアの動揺はもちろん、23の言葉にも動じた様子はなかった。

「お前がお前自身と過去のインファンテたち、もしくは《星のある子供たち》の受けた苦しみから、ドラガォンに対して肯定的な想いを抱けないことは理解できる。当然だ。俺も二人の大切な弟たちを苦しめ、救えなかった自分に満足しているわけではない。だが、遠からずお前は俺に代わってこの巨大なシステムを統べていかなくてはならなくなる。大きな権能がお前の手に握られることになる」
「アルフォンソ」

 アルフォンソは、しっかりとした目つきで弟を見つめた。
「とても大切なことを言っておく。ドラガォンは複雑なシステムで、厳しく、当主であっても基本事項の変更は一切許されないが、それを動かしているのは血肉の通った人間だ。過去に於いても、そして、今でもだ」

 23は冷笑した。アルフォンソはため息を一つついてから、懐を探って書類の束を取り出して23に渡した。
「これは?」
「読んでみろ。そうしたらわかる」

 なんだろう。マイアは覗いてみたい欲求に駆られたが、我慢して埃とりに専念した。

「ほう……。よく調べたな」
23は冷静に紙を繰っていた。アルフォンソは愉快そうに口の端をほころばせた。
「いい仕事をしているだろう? 間違いないか」
「ほぼ、全部……、いや、サン・ジョアンの前夜祭の報告はないな」

 アルフォンソは大きく笑った。
「そりゃあ、その日くらいは《監視人たち》も仕事を忘れて楽しみたいだろう」
マイアはぎょっとした。

「《監視人たち》を悪く思うな。彼らは忠実に仕事をこなしているだけだ」
「わかっている。彼らに恨みがあるわけじゃない。どうするつもりだ。マイアを罰するのはやめてくれないか。あいつは俺の望みを叶えてくれただけなんだ」

 そうじゃない。やめて、23を罰しないで。何も悪いことをしていないのに。マイアははたきを握りしめて二人の方を見ていた。当主は首を振った。

「もちろん、罰したりしないさ。お前もだ。お前が見つけた出入り口は、たぶんこれまでも何人ものインファンテたちが使って、わずかな自由を楽しんだんだろうよ。そして、《監視人たち》や歴代の当主も、外にいるはずのないインファンテを見かけても、あえて星の数は確認せずに、《星のある子供たち》の一人としてごく普通に監視報告してきたんだろう。システムと掟は厳しくても、人の心はどこかに暖かさがあり、呼吸する余地を残してくれる。だから、心を閉ざすな。ドラガォンは、運命は、お前やアントニアの敵じゃない」

 23は少し意外そうに兄の顔を見ていた。アルフォンソは弟の顔をしっかりと見返した。
「俺は当主であると同時にお前の兄だ。お前が新しい当主としての責任を果たしてくれることを期待すると同時に、お前の幸福を心から願っている。そして、それは両立できるだろう。運命に逆らって苦しむな。お前がこのシステムを嫌って、血脈を繋ぐのを拒否しても、システムを止めることはできない。今のドラガォンは狂っていると思うだろう。三人の若い娘が苦しんだ。一人は命を絶った。俺にはそれは止められなかった。だが、お前には止められる」

「アルフォンソ。24は俺にとっても弟なんだ」
「24を罰しろと言っているんじゃない。だが、お前が血脈を繋げば、この館に未婚の娘を雇う必要はなくなる、そうだろう?」
「……」

「システムに対する怒りにこだわるな。望む相手を娶り、愛し、子供を慈しみ、あたりまえの幸せな家族を作れ。それが、今の歪んだドラガォンとそのシステムを暖かい血の通った人びとの集まりに変えるんだ。俺が新しい当主としてお前に望む二つめはそれだ」

 アルフォンソは、23の返事を待たずにゆっくりと立ち上がった。
「もう、いく。少し休まなくては。たぶん、こんな風に話せるのは、もうそんなにはないと思う。聴いてくれてありがとう」

 23は唇を固く結んだまま、兄を見送っていたが、ふと氣がついて手元の書類を返そうとした。

「お前が持っていていい。どうせ、もうしばらくしたら、その手の書類を持ってメネゼスが日参するようになるぞ」
アルフォンソが笑った。

 それからマイアの方を見て言った。
「この街で23をつれて歩くのは構わないが、電車は少しやりすぎだったぞ。レベル3で黒服を出動させた娘はここ一年でお前だけだ」

 マイアは夏の休暇中のスペイン行きの電車のことだとすぐにわかって、頭を下げた。23は、その二人の様子を見て、もう一度書類を繰って、その報告書を見つけた。それを読んでいる彼の表情は暗かった。マイアはあんなことをしなければよかったと悲しくなった。
.23 2016 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(22)推定相続人

Posted by 八少女 夕

久しぶりの「Infante 323 黄金の枷」です。今回の話の予告、年末の押し迫っている時に置いたんで、誰からもツッコミは入りませんでしたが、以前から数名の方から言われていた《監視人たち》はちゃんと仕事しているのか、のお話です。

前回、いきなり当主の健康問題がクローズアップされましたけれど、こう繋がるために必要だったのでした。

今回は、主役の二人は出てきません。たまには、ぐるぐる抜きで。


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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(22)推定相続人

 ペドロ・ソアレスは緊張の面持ちでドラガォンの館の書斎に入った。迎え入れたアントニオ・メネゼスは彼の従兄弟で子供の頃から親しんでいた。《監視人たち》の家系の中でも、代々中枢組織に加わるメンバーを生み出している名門一族の出身者として、ペドロも若いころから黒服のメンバーに加わってきた。そのペドロですら、ドラガォンの館に来る時には少々緊張した。メネゼスは館の執事であるだけでなく、《監視人たち》の中枢組織の上に君臨するドラガォンの当主ドン・アルフォンソとの橋渡しをする特別な存在だった。

「それで、ペドロ?」
「ちょっと、氣になるケースがあるので耳に入れておいた方がいいと思って。これだ」

 ペドロはアタッシュケースから書類の束を取り出して従兄弟に手渡した。メネゼスは不審な顔で紙の束の上の縁を見た。一枚だけ「レベル3」を意味するオレンジに染まっているが後は全て白かった。ドラガォンの館への報告義務があるのは黄色い縁のレベル2からだ。

「この一枚を除いて全てレベル1の報告だな。これが?」
「すべて一人の娘の報告だが、氣になる点がいくつかあってな」
メネゼスは一番上の書類を見て、名前を確認し、片眉を上げた。マイア・フェレイラ。
「氣になる点とは?」

「まず、その娘はここで働いている。それにしては目撃される頻度が多いんだ」
「休暇の他に、奥様の用事等でしばしば外出させている。外で見かけても不思議はない」

「二点め。この娘は、ある男とよく会っている」
「なんだと?」

「三つめ。これが最後でもっとも奇妙な点だが、その男は何人かの《監視人たち》の報告でやはり《星のある子供たち》であることがわかっているが、該当する人物が我々のデータに登録されていないのだ」

 メネゼスは真剣な面持ちで書類を繰り、その人物の外見描写を見つけて自分の目を疑った。
「まさか! そんなはずは……」
「アントニオ?」

 吹き出す汗を懐から取り出したハンカチで拭くと、息を整えてからメネゼスは黒服の従兄弟に言った。
「報告をありがとう、ペドロ。私からドン・アルフォンソに話をしよう。こちらから連絡があるまで、これまで通り監視と報告を頼む」

 ペドロは訝しげに頷いて、それから頭を一つ下げて退出した。

 メネゼスは再び、書類を見た。疑う余地はない。この特徴のある風貌はセニョール323だ。だが、どうやって。メネゼスはドン・アルフォンソのショックを考えて、まずドンナ・マヌエラに話すことも考えたが、思い直して当主の部屋に向かった。

「どうした。変な顔をしているが」

 メネゼスがいつも感心することに、ドン・アルフォンソはひと目でこちらの心理状態を見抜いてしまう。メネゼスは執事として自分の表情や動揺を極力見せないように訓練し、多くの人間からは感情を持たない人間と評されていることを誇りにすら思っていたが、この当主だけには考えを隠すことができなかった。

「ご報告しなくてはならないことがあります。もしかするとあなたの心臓に負担を掛けてしまうようなことなのですが、メウ・セニョール」
「そうか。言ってみろ」

 メネゼスはさきほどペドロ・ソアレスに受けた報告をかいつまんで話した。
「外に出ていると? どうやって」
「わかりません。マイアと一緒に出ているわけでないのは間違いありません」

 メネゼスが驚いたことに、彼の主人は大してショックを受けた様子を見せなかった。
「この館には、そもそも秘密の脱出口がいくらでもあるからな。あいつの居住区にあってもおかしくない」
わずかにがっかりしているように見えた。

「マイアに外出する用事を言いつけられるのはたいてい奥様なのです。ご存知なのかもしれません。どういたしましょうか。表立って出入り口を塞ぐとなると、セニョール323のご機嫌を損ねて面倒なことになる可能性もありますが」

「あいつはマイアと一緒に何かを企んでいるのか? 例えば、誰かと接触して逃亡を画策しているような兆候があるのか」
紫がかった顔が、一層疲れて見えた。

「報告されている限り、彼らは特に誰とも接触をしていません。というよりも、観光客が行くような所に行って、街を見学しているようなのです」

 彼はそれを聞いて意外そうに眉を上げた。
「それから?」
「カフェに入ったり、安食堂で食事をしたり……」

「……それは、つまり、デートみたいなものか?」
「そう申し上げても構わないでしょう」

 メネゼスは報告書を当主に渡した。彼はしばらく読んでいたが、その内容に苦笑した。大聖堂、ドン・ルイス一世橋、カステル・デ・ケージョ、ボルサ宮殿、サン・フランシスコ教会、ワイン倉庫街、セラルヴェス現代美術庭園。観光案内書を読んでいるみたいだ。

「ほっておけ。母にも何も言わなくていい。いつも通り《監視人たち》が見ていればそれでいい」
「メウ・セニョール。いいのですか」

「なあ、メネゼス。23が外の世界に興味を持つのはいいことだ。いきなり外へ出るように強制されてからでは遅すぎる。そうだろう」

 執事は主人の顔をじっと見つめた。ドン・アルフォンソは覚悟しているのだと思った。心臓発作の間隔はどんどん狭まっている。そうでなくても彼の脆い心臓は彼に結婚をすることも世継ぎを作ることも許さないだろう。

 もしドン・アルフォンソが亡くなれば、自動的に23は新しいドン・アルフォンソとしてメネゼスの主人になる。そうでないのは、ドン・アルフォンソの存命中に23か24により男子が生まれ、ドン・アルフォンソの長男として届けられた場合だけだ。

 24はライサ・モタも含めてすでに三人の女を自由にしていた。妊娠の兆候があったのは二人だったがどちらの女も子供を産むことはなかった。ライサは流産だったが、もう一人の娘は子供を道連れに命を絶った。

 最初に彼が手を出した娘は食事の時に逃げだそうとし、面目を失った24が放り出したので数日で逃れられた。が、それに懲りた彼は次に恋愛関係となった娘を居住区に閉じこめて格子の外に出さなくなった。召使いたちが入ってくる時には常に側にいて、助けを求められないようにした。

 死を選んだ娘の時には原因がうやむやになったが、流産の処置時に心を病んでいることが明らかになったライサの証言で、24が娘たちを彼のひどいサディズムの餌食にしていたことが明らかになった。ライサは肉体的にはすぐに回復したが、心的障害と使われていた薬物の副作用が残った。日常生活が営めるようになるまで、長い期間の治療が必要だった。

 ライサの件は、事前に防げたはずだと、館にいる多くの人間が考えていた。その罪悪感は彼らに重くのしかかっていた。それでも、ドラガォンには世継ぎの誕生が優先課題であるため、痛ましい結果が繰り返されるのを止めることができない。館の若い娘は短い間隔で入れ替わり、新しく入る娘たちには過去に起こったことが伏せられている。

 事情を知っている誰もが23が状況を変えてくれることを待っていた。だが、23は黙々と靴を作るだけでドラガォンの意志には無関心だった。閉じこめられ、脊椎後湾に対する手術もしてもらえず、抵抗を押さえつけられた彼はドラガォンを憎んでいるのだとメネゼスは思っていた。アルフォンソの方はもう少し楽観的に考えていたが、それでも23に協力的になるよう強制することは難しかった。

「23はずっと内に籠っていただろう。太陽からも顔を背けて、誰とも関わろうとせずに。《監視人たち》も俺たちも外に出て行こうとする者を止めることはできても、籠城している者を引きずり出すことはできない。あいつが自分の意志で出てきたのはいいことだ。あの娘が来て以来、23は変わってきている。家族以外のものと会話もできなかったのに、他の使用人たちとも口をきけるようになり、信頼関係を築きはじめている。あいつだけでなくドラガォンにとっても必要な変化だと思わないか」
「おっしゃる通りです」

 アルフォンソは椅子にはまった体を大儀そうに動かして立ち上がった。ゆっくりと窓辺に向かいD河の上を渡ってゆくカモメを目で追った。

「俺はね、メネゼス、23が失敗を怖れて開きたくても開けなかった扉を、あの突拍子もない娘が片っ端から開けているんだと思っているよ。母もそれがわかっているから黙っているのだろう」
「承知いたしました。では、仰せのままに」
.17 2016 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(21)発作

Posted by 八少女 夕

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。今年最後の小説更新なんですけれど、なんかちょっと切りが悪いかなあ。ま、これが年初に来るよりはいいか。

今回の話は、主人公二人のこととはあまり関係がないように思われると思います。ないと言ったらないんですけれどね。でも、入れるとしたらこの位置しかなかったのです。


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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(21)発作

「23、ねえ」
マイアは、階段を降りてくる23を見かけたので走り寄り、小さな声で鉄格子越しに呼んだ。
「なんだ」
「マリアからハガキが来たの。カサブランカですって!」

 23はマイアが渡したアラビアンナイトの舞台のような室内の写真の絵はがきを読んだ。
「ライサも旅を楽しんでいるようだな」

「ライサ、本当によくなって帰ることができたのね。豪華客船で世界一周かあ。高そう……」
「ドラガォンがスポンサーなら、心配することはないだろう」
「ふ~ん」

「お前も行きたいか?」
「そりゃね。でも、ライサはつらい目に遭ったから、なんでしょう? 私つらい目に遭っていないもの」

 23は笑って、ハガキを返した。船旅もいいけれど、23とこうして逢っている方がいいな。マイアは思った。

* * *


 工房に降りて行こうとする23に手を振って、仕事に戻るためにバックヤードへと向かった。正面玄関を横切ると、ちょうど入ってきた男が声を掛けた。
「マイア!」

 マイアは振り返った。
「サントス先生!」

 ホームドクターで、この館に勤める時にも世話になったサントス医師だった。

「すっかり、それらしくなったな。もう仕事には慣れたんだろう?」
「はい。その節は、紹介状をありがとうございました」
「自信を持って薦められる時に書く紹介状はなんでもないさ。君の事は子供の頃からよく知っているからね」

 サントス医師は、誰かを待っているようだった。
「今日はどうなさったんですか?」
「ドン・アルフォンソがまた発作を起こされたんでね。先ほどの検査の結果、入院する必要はないんだが、しばらくは医師がつめているほうがいいというので、今日から私がしばらく泊ることになったんだ」

 そう話している時に、マリオがスーツケースを持って玄関から入ってきた。
「お車は駐車場の方へと移動いたしました。鍵をお返しします」

 上の方から、ジョアナも降りてきた。
「先生。お部屋の準備もできました。マリオ、そのままご案内して。マイア、ちょうどいい所にいたわね。先生のお部屋にタオルを多めにお持ちして」
「はい」

 マイアは急いでバックヤードに戻った。今月は三度目だ。ドン・アルフォンソはここのところよく心臓発作を起こす。以前もそういう事があったけれど二ヶ月に一度ぐらいだった。朝食や昼食の時にわずかな階段を昇り降りするのも、以前よりもつらそうに見える。ドンナ・マヌエラがとても心配しているのが手に取るようにわかる。マイアも不安だった。

 タオルを抱えて、ドン・アルフォンソの部屋の斜め前にある客間に向かった。ノックをした時に、ドン・アルフォンソの部屋の方から当の医師の声が聞こえてきた。
「少しお休みになれましたか」

 しわがれた当主の声も聞こえた。
「ああ、先生、もうしわけない。わざわざ……」
とても弱々しい声だった。
「セニョール。起き上がってはいけません。脈を拝見いたしましょう」

 マイアは暗い顔で、医師の泊まる部屋に入り、バスルームにタオルを置いてから退出した。

 ドン・アルフォンソの部屋の掃除を担当することもなくあまり接点がなかったので、給仕の時に見かけるだけだったが、当主ははじめに思ったよりもずっと親切だと知っていた。太っていつも大儀そうな見かけとは違い、周りをよく観て心を配り、必要な時にはすぐに決断を下すことのできるドン・アルフォンソに敬意を持ちはじめていた所だった。だから、発作に襲われて苦しんでいると聞くとやはり心配になり氣の毒だと思った。

 バックヤードに戻るために二階を通った。ドンナ・マヌエラが23の鉄格子の鍵を開けているのが目に入り、マイアは黙って頭を下げた。

* * *


 女主人は会釈を返し、マイアが立ち去った後もしばらくその後ろ姿を眺めていたが、やがてドアを閉めると階段を降り、彼女の次男の姿を探した。

「母上?」
23は彼女の暗い顔を目にすると、ミシンを止めた。マヌエラは眉間に苦悩の深い皺をよせてしばらく目を瞑っていた。やがてその固く閉じられた瞼から、涙がこぼれだした。

「どうなさったのです」
「また発作で……」

「アルフォンソは、入院したのですか」
「いいえ。先ほど戻ってきました。サントス先生がしばらく詰めてくださるそうです。病院で検査の結果を言い渡されました。発作の波が治まれば、落ち着くでしょうといわれましたが……」
「が?」
「覚悟してほしいと……」

「そんなに悪いのですか」
「生まれた時に、二十歳まで生きられないだろうと言われました。ずっと覚悟はしていたつもりでした。でも……」

 彼女は本人や使用人の前では堪えていた涙を抑えられなくなり、23にすがって震えた。彼は目を閉じ、母親の背中をさすった。

「医者のいう事が必ずしも当たらないのは、それで証明されたではないですか。希望を捨てないでください」

「メウ・トレース。許してちょうだい。こんな時ばかり……」
「母上。お氣になさらないでください。俺はもう子供じゃない。あなたがどれほど多くのことに心を悩まされているかわかっています」
.27 2015 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(20)船旅

Posted by 八少女 夕

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。(月初だけど)

ここで話はドラガォンの館を離れて、ずっとライサ・モタを心配して探していた妹のマリアに視点が移っています。マリアは、連絡のない姉のことを調べてくれるようにマイアに頼んだ後、そのマイアとも連絡がとれなくなりやきもきしていました。

ライサ・モタのことは、この小説ではもう出てきません。彼女の物語は、この小説の続編である「Filigrana 金細工の心」に譲ります。そして、そちらはまだ執筆中です。


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Infante 323 黄金の枷(20)船旅

 潮風がここちよい。サングラスを額の上に持ち上げて、マリア・モタは遠ざかるPの街を振り返った。アラビダ橋は堂々とその姿を横たえ、離れていく船に別れを惜しんでいるように見えた。豪華客船の最上階デッキ、バルコニーつきの客室は広い上、ガヤガヤとした他の乗客たちにリクライニングシートをとられてしまう心配もなかった。

 マリアは、リクライニングシートに横たわっているライサを見た。身につけている華やかなサマーワンピースは、先ほど船内のブティックで入手したものだが、姉を本来の美貌にふさわしい艶やかな美女に変えていた。

「ブティックなんて、そんな贅沢は……」
尻込みをするライサの腕をマリアは強くつかんだ。

「贅沢も何も、この船にあるものは全て何もかも客室の値段に含まれているんですって。部屋の鍵カードを提示したらそう言われたの。服をもらってももらわなくても払ってくれた人には同じなんだって。だから、ねっ」

 いったい、どうしてこんな高価な船旅を、しかも二人分も用意してくれたんだろう。マリアは思ったが、疑問はとりあえず横に置いておくことにした。このチャンスを逃したらこんないい思いをするチャンスは生涯めぐって来ないだろう。とにかくこの100日間は旅を楽しむのに専念することにした。

 あれはほんの一週間前のことだった。マリアは、姉が突然帰って来たので驚いた。黒塗りの車が、家の玄関前に停まり、運転手が出てきて扉を開けた。ライサは小さなバックを一つ抱えていた。男が頷くと出てきて、小さく頭を下げた。

「ライサ!」
マリアは玄関から慌てて飛び出して、一年半以上も連絡の途絶えていた姉を抱きしめた。その間に車は静かに出発して角を曲がっていった。

 ライサはマリアが何を訊いても答えなかった。
「誓約があって話せないの」

 それはいつも通りのことだった。彼女がドラガォンの館で勤めだしてから、二ヶ月ごとに休暇で帰ってくる度にしつこいほど聞かされた言葉だった。けれど、こんなに長い間連絡もなく、また、再び勤めに戻るとも言わずに帰って来たというのにそんな話があるだろうか。

「館でマイア・フェレイラって子に逢わなかった? 姉さんを心配して、館に勤めだしたんだけれど」
ライサは、一瞬怯えたような顔をした。

「私、しばらくお館じゃなくて、ボアヴィスタ通りの別宅にいたの。だから、あなたの友達には会っていないわ」
「そこには誰が住んでいるの?」
 
 ライサは答えなかった。ただ遠い目をした。懐かしむような、愛おしむような表情だった。意外に思った。ドラガォンの館のことを聞いたときと、反応が全く違ったからだ。

「黄金の腕輪、どうしたの?」
「外してもらったの。もうしなくていいんですって」

 ライサはかつてそうであった以上に自信がなさそうに目を伏せてものを語った。マリアには理解できなかった。ライサの美しさは世界を恣にできるとは言わないが、少なくとも自分が彼女ほど美しかったら人生がもっと簡単になったと常々思っていた。それなのに、ライサときたら、それが罪であるかのようにびくびくと怯えて伏し目がちだった。

 二年半ほど前に知り合ったマイアも少し似た雰囲氣を持っていた。ライサほどではないが、人付き合いが下手で、上手くいかないことがあると簡単にあきらめてしまうようだった。二人に共通していたのは、ミステリアスな黄金の腕輪をしていることだった。

「この腕輪をしている限りどうにもならないの。子供の頃からずっとそうだった」
マイアは寂しそうに語った。マリアはライサの妹として、友人の無力感をもどかしくも理解することができた。

 そのマイアにマリアは姉の安否を確かめてほしいと頼んだ。けれど、マイアがドラガォンの館に勤めだして以来、彼女と話すことはできなくなった。休暇で帰って来ているなら連絡してくれると思っていたのだが、もしかしたらマイアも誓約に縛られてマリアに連絡できないでいるのかもしれない。

 マリアは七月にマイアからのメッセージをもらっていた。何の特徴もない白い紙が一枚入った封筒がマリア宛に送られてきた。その表書きはマイアの字とは似ても似つかない、おそらく男性が書いたものだった。差出人名はなくて、消印はPの街からだった。中にはマイアの字で書かれたメッセージが入っていた。とても慎重な内容で、マイアが誰かに知られるのを極度に怖れているのがわかった。

「親愛なるマリア。そう遠からずあなたは待ち人を迎えることでしょう。どうか、いまはこれ以上何もしないで待っていてください。私たちがこれ以上何もしないことが、一番の近道なのです。どうか私を信じてください。M.F」

 ライサがマイアに逢っていないのだったら、どうしてライサのことがマイアにわかったのだろう。それに、あの館では一体何が起こったのだろう。現在マイアはどうしているのだろう。マリアはマイアの妹に連絡を取ってみようかと思ったが、ライサと同様に誓約がどうのこうのと言われそうなので、電話はやめて、実家当てに簡単にはがきを書くことにした。

「親愛なるマイア。あなたと半年以上逢っていないわね。姉のライサも我が家に戻ってきたの。次の休暇で戻ってきたら、一緒にご飯でも食べない? これを読んだら連絡をちょうだいね。あなたのマリア」

 マリアは、ハガキを書き終えると、切手をとりに自分の部屋へと行き、一分もかからずにリビングに戻ってきた。そして、デスクに置いたはずのハガキを探した。
「ない……」

 窓際のソファに腰掛けて外を見ているライサに訊こうと目を移すと、彼女の手の中に切り裂かれて紙吹雪のようになったハガキが見えた。
「ライサ……?」
「ごめんなさいね、マリア。でも、私、ドラガォンの館に関わりのある人とは逢いたくないの。まったく関わりたくないの」

「何かつらいことがあったのね」
「訊かないで。思い出させたりしないで」
ライサは下を向いて涙をこぼした。それでマリアはそれ以上訊くことができなかった。

 それから奇妙なことが起こった。ライサは二人分の巨大客船での世界一周旅行のチケットを受け取った。それに、パスポートだけでなく、これまで一度も作ることのできなかったはずのクレジットカードも送られてきた。それは黒い特別なカードで、銀行に勤めているマリアも存在は知っていてもいままで一度も見たことのなかったプレミアムカードだった。そもそも自分で望んで発行してもらえるものではなく、さらにいうなら年会費だけでマリアの月収の三倍を軽く超える。

「どうしたの、これ?」
「わからないわ。もしパスポートがもらえたら海外旅行をしてみたいって言ったんだけれど……」

「このチケット、二人分あるわよ。誰と行くつもり?」
「誰って……。誰と行ったらいいのかしら。マリア、あなたと行けたら一番安心なんだけれど、仕事、休めないわよね……」

 マリアは丸一日考えて、旅の間に無給の休暇をもらえないかと上司に切り出した。彼はその場では非常に渋い顔をして、そうしたいのであれば、退職してもらうしかないし、引き継ぎのこともあるので一週間後に出発するのは不可能だと言った。マリアはかなり落胆して、仕事に戻った。

 夕方にマリアは再び上司に呼び出された。
「君の希望を全て叶えることに決定した。そのかわり今週末までに可能な限りの引き継ぎを終了してほしい。定常業務は全て他の人間に振り分けるので心配しないように」

「いったいどうなったんですか?」
「それはこっちが訊きたいよ。頭取からの直接の指示らしい」

 昨夜八時に銀行の従業員口から退出するまで、マリアはノンストップで働くことになった。食事時間も10分しかとらなかった。荷造りもまともにできなかった。実際の所、持ってきたのはパスポートとチケットと自分の財布、それに慌てて詰めた多少の着替えだけだった。カメラも双眼鏡も、それどころかサングラスすらも忘れてきたのだが、カメラを売っている売店で、「このチケットの場合は代金をお支払いいただく必要はございません」と言われたのだ。

 マリアはすぐに客室に戻り、ライサを連れてブティックに向かった。ライサを変身させて、自分もサングラスやほしかった白いジャケットを手に入れた。

 ライサが体験したことは何だったのだろう。それを贖うのにこれほどの贅沢を許すとは。知りたいと思う氣もちは変わらない。けれど、いま必要なのは、ライサにつらかったことを思い出させることではなく、忘れるさせるために一緒に楽しむことだろう。

 マリアはドラガォンの館にいる友のことを考えた。マイアの字はしっかりとしていた。ライサのように苦しんだりしていないでほしいと願った。
.02 2015 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(19)幸せなマティルダ

Posted by 八少女 夕

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。

マイアの休暇は終わり、またドラガォンの館での仕事の日々がはじまりました。彼女にとっては、仕事というより、誰かさんに逢えるルンルンな日々という方が近そうですが。前回、とても近くなった二人ですが、ここでもっと近くなるなんて親切な作者ではありません。ジェットコースターは、登ったらまた落ちる、これ鉄則ですものね。何の話だ。


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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(19)幸せなマティルダ

 一週間ぶりの制服とエプロンにマイアは身の引き締まる思いがした。昨夜戻ってくるとマティルダが満面の笑顔で迎えてくれた。自分のベッドとマグカップも「おかえり」と言ってくれているように感じた。厨房で朝番のメンバーと一緒にいつものコーヒーと菓子パンの朝食をとった。皆が口々に「おかえり」と言ってくれたのが嬉しかった。

 朝食の給仕の時に、ドン・アルフォンソが「お」という顔をしてくれたのも、ドンナ・マヌエラが微笑んでくれたのも、嬉しかったが、何よりも待ち望んでいたのは、掃除をするために23の居住区に入って行くことだった。といっても、彼に逢うのは丸一日と数時間ぶりだったが。

 23はマイアの顔を見るとなんでもないように「おはよう」と言って、エスプレッソマシーンに向かった。工房の奥にある木の丸テーブル。マイアはいつもの椅子に座った。何も言わないのに、マイア好みの砂糖とミルクが入った大きいカップがそっと前に置かれる。

「礼拝では怪しまれなかった?」
マイアが訊くと彼は微笑んで首を振った。

 サン・ジョアンの前夜祭での昂揚した想いが甦る。彼の腕の中にいたことや、頬にされた親愛のキス。まるで夢の中の事のようだけれど、あれは紛れもない事実だった。それに、こうして向かい合って座っている事も。

 彼は休暇前と全く変わらない。いや、違う。ひげを剃った。数日に一度彼が無精髭を剃ると、急に年相応の若さになる。数日経てばまたいつものようになる。剃っても剃らなくても、彼は彼だと思った。あ、23が一昨日言った事と同じ。髪を縛っていてもおろしていても、私は私。

 23は周りを見回してから、小さい声でライサの件について話しだした。
「まだしばらくかかるだろうけれど、心配せずに探さずに待っていてほしいというようなメッセージをライサの妹にうまく渡せないか」

 マイアは頷いて考えた。
「私がマリアと直接逢うのはダメよね」
「それはやめてくれ。監視しているやつらにすぐにわかってしまう」

「じゃあ、23がマリアに会うのは?」
「お前、頭がおかしくなったのか。マークされているマリアと逢ったりしたら、俺が外に出ていることがすぐにわかってしまうじゃないか」
当然だった。マイアは顔を赤くした。

「マリアがマークされているなら、ドンナ・アントニアが逢いに行くのも危険すぎるわよね」
23が頷いた。

「あ、こうしよう。ジョゼに頼むのよ」
「ジョゼ?」

「私の幼なじみ。マジェスティック・カフェでウェイターをしているの。私が行くと、話しかけてきちゃうから誰か他の人に言ってもらう必要があるけれど、誰かが客として彼にチップを渡す時にマリア宛の小さいメモを渡せば、きっと上手にマリアに届けてくれるわ。彼はモタ家とは接点がないし、監視されていないと思うの」

「そのジョゼは信用できるのか」
「もちろん」
「そうは見えなくても《監視人たち》に属しているかもしれない」
「そんなことないと思うな」
「なぜ」

「だって、《監視人たち》はこの街にいて《星のある子供たち》を監視していなくちゃいけないんでしょ。一家でスイスに出稼ぎに行ったりする?」
「しない。海外で暮らしていたと言うなら、《監視人たち》の一家ではないな」
「大丈夫よ。私の名前がなくても、字だけで私からだってわかるはずだし、頭の回転がいいから余計なことをしないでやってくれるわ」

「ずいぶん親しいんだな」
「えっ? だって、子供のときからの友達だから」

「そうか。だったら、そのジョゼに頼む手紙を書け。アントニアにマジェスティックに行ってくれるように頼むよ」

 23はそういうと、テーブルをすっと離れて作業机に向かうと、置いてあった靴を手に取った。それからマイアの方を見もせずに、靴の裏に釘を打ちはじめた。その激しい音にマイアはびくっとした。

 彼が不機嫌になったような氣がした。やきもちを焼いたみたいに。けれどマイアは、それは自分がそうあってほしいと願っているだけで、もう用が終わったので仕事に戻っただけかもしれないとも考え直した。ドンナ・アントニアの姿が浮かんで、彼女はまた悲しくなった。

* * *


 秋になった。ライサがどのくらいよくなったか、時々23が教えてくれていたが、マイアに最終的なことがわかったのは、ある日曜日の午餐の給仕をしている時だった。普段は明るく冗談ばかり言っている24が、笑顔も見せずにドン・アルフォンソに問いただしたのだ。

「ライサはいつ戻る」
「もう戻らない。腕輪を外された」
ドン・アルフォンソは今日のメニューを読み上げるのと変わらない口調で答えた。一緒に給仕していたホセ・ルイスとアマリアがはっとした様子を見せた。マイアは水を注いでまわっている時で、ちょうど座っている全員の顔が見回せる位置にいた。23は表情を変えなかった。ドンナ・マヌエラは視線を落とした。この二人は知っていたのだなと、マイアは思った。24は大きくショックを受けているようだった。明らかに知らされていなかったのだ。

「病が癒えたら戻るって言ったじゃないか。あれは嘘だったのか。僕とライサは合意の上で一緒になり、それで妊娠したんだぞ。腕輪を外される理由なんかないだろう」

 ドン・アルフォンソは右手を上げて、24の言葉を遮った。
「24。ライサの治療は完全には終わっていない。医者が長期にわたってお前との接触を禁止している以上、腕輪をしている意味はもうない。彼女は家に帰る」
「僕との接触を禁止? なぜ。流産は僕のせいじゃない」

 ドン・アルフォンソは黙って24を見た。普段、ものも言わずに食べてばかりいる当主の姿ばかり見ていたマイアは、彼がこれほど威厳のある強い目つきをできるとは思ってもいなかった。彼は何も言わなかった。マイアは23から聞いていたから知っていたけれど、24がライサに心的外傷を与えた忌むべき行為のことは、たぶん使用人たちには公にされていないのだろう。しかし、マイアはホセ・ルイスもアマリアもそれを知っているのだと感じた。

 24は多少変わった感覚はしているが、非常に無害な青年に見えた。容姿を誇り、ナルシストで自分のセリフに酔ったような言動をし、デザインや詩作にはその言動と合わない凡才ぶりを見せるので、どちらかというと愛すべき好青年の印象を与えるのだ。だが、いったん密室に籠ると医者が接触を禁止するほどの強いトラウマを与えるようなことをする。そしてそれを悪いとも思っていないような口ぶりだ。ドン・アルフォンソが黙って非難しているのはそれなのだと思った。24はこの日はそれ以上は言い募らなかった。

 けれどマイアには、それから24が変わったように思えた。掃除の時に居住区に入ると、今までのように朗らかに話しかけたりせずに、黙ってテレビゲームに興じていることが多くなった。それに、それまでは戸棚にしかなかったポルノ雑誌などが堂々と放り出されていることもあった。仕事部屋は何週間も入った形跡すらなく、同じデザイン画が放置されて埃をかぶりだしていた。

 氣のせいかもしれないが、マイアに対して距離をとっているように感じられることがあった。24の居住区の掃除は必ず二人一組なので、アマリアと行くか、マティルダと一緒なのだが、マイアにはほとんど話しかけない。私が警戒していること、顔に出ちゃっているのかな。それとも、私が23のところにばかり話しに行くので、ご機嫌が悪いのかな。その一方で、以前にも増して、マティルダに優しく話しかけることが多くなったように思われた。

「なんか変よね?」
掃除用具を持って、バックヤードに戻りながら、マティルダが首を傾げた。

 マイアは足を止めた。
「何が?」

「24よ。妙に猫なで声なんだけれど、なんでだろう。前はそんなことなかったのにな」
「あ、私もそう思った。氣のせいじゃなかったんだね」
「うん。23も親切になったし、変なことばっかりよね。ま、いいか」

 ライサに何があったかをマティルダに伝えて氣をつけるように言った方がいいのかと迷ったが、それを口にしたら自分がなぜ知っているかを話さなくてはならない。まわり回って23とドンナ・アントニアに迷惑をかけるように思った。23は、24とライサはもともとは恋仲だったと言った。つまり、ライサも24と一緒にいることを強要されたわけではないのだろう。マティルダがミゲルのことを好きな以上、そんなに危険はないように思う。それとも23にだけは言っておいた方がいいのかな。

「さっきから何を考え込んでいるんだ?」
想いに沈んでいたマイアははっとした。晩餐の給仕の最中だった。メインコースの皿を下げてデザートをとりに厨房へ向かう道すがら同じく当番にあたっていたミゲルが訊いたのだ。

「うわ。ごめん。また何か失敗した?」
マイアはドキドキしたがミゲルは笑って首を振った。
「それもわからないほど真剣に考え込んでいたのか。よく失敗しなかったな。大丈夫か」

 マイアはそうか、ミゲルに話せばいいのかと思った。
「うん、ちょっと氣になることがあるの」
「何? 僕は訊かない方がいいこと?」
「あら、そんなことないよ。実はね。ここしばらく24の様子が前と違って見えるのよね」

 ミゲルは意味ありげに笑って言った。
「それ、23の間違いじゃないのか」
そう言われてマイアは少し赤くなったが、ここで話をそらされている場合ではない。
「え。いや、それもそうかな。でも、いま氣になっているのは24」

「どう違っているんだ?」
「うん。なんかマティルダにご執心って感じなのよね……」

「なんだって」
ミゲルの声の調子ががらりと変わった。そうよ、そうこなくちゃ。マイアは心の中でつぶやいた。よく考えてみれば、ミゲルはライサが流産をしてから館を離れた時期にもこの館にいたのだ。たとえ詳細は知らされていないとしても、ライサが24に受けた仕打ちについては薄々わかっているはずだ。ミゲルとマティルダは仲がいいのだから、きっと彼から忠告をしてくれるはず。

 ミゲルはマイアのようにぐずぐず考えたりしていなかった。その日の仕事が終わるともう行動に移したらしかった。というのはシャワーを浴びてマイアが部屋に戻ってくると、マティルダが半ば踊りながらマイアに抱きついてきたのだ。
「マイア、マイア、ありがとう!」

 何がなんだかわからずマイアはマティルダの顔を見て、首を傾げた。
「なんのこと?」
「ミゲルがプロポーズしてくれたの!」
「えええっ! よかったじゃない! おめでとう」

「うん。突然だからびっくりしたの。だから、どうしてって訊いたら、マイアが24の事を話してくれて、氣が氣でなくなったって」
マティルダはライサの事を知らないからミゲルが何を心配しているのがわからず、単純に24に心移りするのではないかと思われたのだと信じていた。けれどマイアは何も言わないでおこうと思った。二人が結婚するなら、きっとミゲルがいずれは話すだろう。

「明日ね。二人でドン・アルフォンソのところに行くことにしたの」
「ドン・アルフォンソ?」
「そうよ。ほら、許可を得ないといけないでしょ」
「そうなんだ」

「そうよ。そうしたら、マイアとはしばらくお別れだな」
「え? どうして?」

 マティルダは笑って説明してくれた。
「《星のある子供たち》が一緒になるときは、一年間《監視人たち》の監視下で暮らさなくちゃいけないの。《監視人たち》と同じ屋根の下に住んで、外出時もずっとついてくるのよ。そうやって《星のある子供たち》以外の子供ができないようにするのね。もっともその間に妊娠したらまた普通の生活に戻れるんだって」

 あ。そういえば、ライサも24の所に閉じこめられたんだったっけ。そうか、本当に徹底して《星のある子供たち》だけの血脈を守ろうとしているのね。

「この部屋、マイアが独り占めできるよ」
マティルダは笑ったが、マイアは首を振った。
「独り占めなんてできなくていい。あなたがいなくなると寂しいよ」

 マティルダは、マイアをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう。でも、友達をやめるわけじゃないから。ねえ、マイア。結婚式の証人になってよ」

 マイアは心からびっくりした。
「私なんかがなっていいの?」
「私なんか、なんて自分を卑しめる事を言っちゃダメ。マイアは私の大好きな、とても大切な友達だよ」
そのマティルダの言葉を聞いて、マイアは涙をこぼした。


 ドン・アルフォンソは二人の結婚をすぐに承認した。本来ならば二人は未知の《監視人たち》の家庭に住むことになるのだが、ミゲルの養父母が《監視人たち》の一族のため、ミゲルの生家に住むことになった。三ヶ月間だけ完全監視下におかれるが、その後はまずはミゲルだけ通いで仕事に復帰する事になった。遅くとも一年の監視期間が終わればマティルダもまた戻ってくると聞いてマイアは嬉しくなった。

 マイアは早速23に報告に行った。結婚式の証人を務めるなんて生まれてはじめてだ。
「自分のことみたいに嬉しい」
「ん?」
「彼女、夢みていたんだもの。仕方なしに腕輪のあるもの同士で子供を作るんじゃなくて、本当に好きな人と結ばれるのが一番だって。マティルダ、ずっとミゲルのことを想っていたの。私、心から応援していたの。片想いのつらさ、よくわかるから」

「お前も、片想いしたことがあるのか」
「……」
本人に言われても困る……。マイアは黙ってうつむいた。

「すまない。訊くべきじゃなかった」
「ううん、いいの。その人ね、私にはどうやっても手の届かない人で、お似合いの恋人もいるの。だから、もうずいぶん前に諦めたんだ」

 23のは口を一文字に結んでマイアを見た。いつか海を見ながら話したときのように、言葉を探しているようだった。無理して慰めてくれなくてもいい。こんなことであなたを困らせたくないよ。
「大丈夫だよ、心配しないで。私ね、一人でも大丈夫だと思う。そういうタイプなんだよ、きっと」

「伝えなくていいのか」
やっと言葉を見つけたように、彼は言った。マイアは首を振った。
「好きになってもらえないのに、そんなことを言ったら距離を置かれちゃうでしょう。数少ない大事な友達の一人だから、そんなことをして失いたくないの」

 23はカップをもって立ち上がった。エスプレッソマシーンの前でしばらく佇んでいた。マイアには彼の表情が見えなかった。少し間を置いて低く小さいつぶやきが聞こえた。
「その感情は、よくわかるよ」
.28 2015 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(18)サン・ジョアンの前夜祭

Posted by 八少女 夕

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。

マイアの休暇のお話のラストです。最終回を除くと、「ここを発表せずには死ねない」級に盛り上がっているのが今回だと思います。祭りに抜け出してくることを提案し、「来ない」と言っていた23に、諦められないマイアは、「それでも待っている」と伝えて、休暇に入りました。さて、その当日、マイアは、待ち合わせの場所で彼を待っています。

月刊・Stella ステルラ 10、11月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(18)サン・ジョアンの前夜祭

 6月23日、約束した夜九時の数分前に、マイアは例のコーヒー店へ行った。23は来ていなかった。冬でもないのにイタリア風ホットチョコレートを頼み、表が眺められる窓際の席に座った。通りはいつもよりずっと人通りが多かった。すでに酒を飲んで騒いでいる人たちも多く、陽氣な声と、人いきれでいつもの街が全く違って見える。

 マイアは去年の祭りのことを思い出した。幼なじみのジョゼが仕切って同世代の仲間たちがカフェ・グアラニの前で待ち合わせた。同年代の友達とあまり交流のないマイアは大抵の集まりで忘れられてしまうのだが、ジョゼは必ず声を掛けてくれた。

 そのジョゼも今年は祭りに参加できない。かきいれ時なので休みが取れないからだ。だから、マイアはこの日が休暇に当たることを誰にも言わなかった。それに、もしかしたら23が来てくれるかもしれないと望みを捨てきれなかった。

 祭りに行くために約束をしている人たちが、入ってきては次々と出て行った。マイアは次第に目の前が曇ってくるのを感じた。

 23が自分の想いを知っているのだと思った。そして、遠回しに拒否しているのだと。「インファンテだなんて、そんな高望みしていないわよ」と言ったマティルダの声が甦った。

 わかっている。でも、苦しいよ。

 カップは空になった。もう帰らなくちゃ。一人でサン・ジョアンの祭りにはいられない。そんな虚しいことをする者はいない。けれど、マイアは立ち上がれなかった。もう少し、真っ暗になってしまうまで。

 酔って半分できあがった集団がまた大量に入ってきた。中で待っていた女たちが大きくブーイングして、カフェはとてつもなくうるさくなった。ものすごく混んできたので、今度こそ立ち去ろうとカップに使い終わった紙ナフキンを丸めて突っ込んだ。すると人びとの間をすり抜けてきた誰かがストンと前の席に座った。

 顔を上げると、それは23だった。
「遅れてすまなかった」
「23……来てくれたの」

「お前が待っているのに来ないわけないだろう。こんなに混んでいると知っていたら、もっと早く出たんだが」

 6月23日に外に出たのははじめてで、この日の街の混み方を予想もしなかったのだろう。マイアは嬉しくて、しばらく何も言えなかったが、氣を取り直して訊いた。
「コーヒー? それとも?」
ここのコーヒーよりも、彼が工房で淹れてくれるコーヒーの方が美味しいんだけどね……。

「お前は何を飲んだんだ?」
23は空になったカップを覗き込んだ。

「夏に飲むものじゃないけど、イタリア風ホットチョコレート」
そう言って、壁の写真を指差した。生クリームがたっぷりと載っているカップの写真に23は肩をすくめた。
「甘そうだな。でも、一度は試してみてもいいかな」

 マイアは笑って、トレーを持ってカウンターに向かい、二人分オーダーして持ってきた。それを見て23は眉をひそめた。
「二杯も飲めるのか?」
「いいの。今日は特別」

 23は肩をすくめて何も言わなかった。生クリームを混ぜ込んでから甘くてトロリとしたチョコレートを飲む彼を、マイアは感無量で見つめた。

 たった6日間逢っていなかっただけだ。彼にとっては何でもなかったに違いない。口を開けば「逢いたくてしかたなかった」と言ってしまいそうだった。絶対に言っちゃダメ。
 
 しばらく黙って二人でホットチョコレートを飲んでいる間に、多くの人びとが出て行って、カフェは再び静かと言わないまでもお互いの声が聴き取れる程度にはなった。

 23はほっと息をついて、マイアの瞳をじっとみつめて口を開いた。
「今日、アントニアがライサの様子を知らせてくれた」
「え?」

 23は頷いた。
「ライサの状態はかなり良くなっているそうだ」
「本当に? よかった」
「誓約が守れる程度に回復したら、たぶん腕輪を外されて家族の元に戻れるだろう」

 マイアはそれを信じた。直接ライサに逢ったわけではないが、23はドンナ・アントニアを信じている。23が好きになるような人なのだ。嘘をついたりするはずはないとマイアは思った。

「お前が館に戻ったら、《監視人たち》にわからないようにライサの妹に連絡する方法を考えよう」
マイアはそれを聞いて笑顔になった。
「うん」

「みんな出て行ったな」
23はあたりを見回した。マイアは壁の時計を見た。

「ここはもうじき閉店かな。露店は一晩中開いているし、今晩はずっと開いているお店もあるんだけれど」
「じゃあ、俺たちも行くか」

 往来は人でごった返していた。アリアドス通りや、もっと小さい通り、至る所にパラソルが出ていて、スイートバジルが薫っている。人びとは道の脇で売っているイワシや肉のグリルを食べ、ビールやワインをあおっている。ダンサーたちを引き連れた山車が練り歩き、人びとは楽しそうに歌って騒いでいる。

「髪、下ろしているの初めてだな」
23が言った。マイアは頬を染めて頷いた。
「お休みだから。ねえ、縛っているのと、どっちがいい?」

 23は何でもないように言った。
「どっちでも、お前はお前だ」

 それって、どっちもいいってことかな。それともどうでもいいってことかな。マイアには追求することはできなかった。

 グリルの煙があたりを白くしていく。リベイラの近くでは、焔を中に閉じこめた紙風船を氣球のように飛ばしている。23が珍しそうに狂騒の街を眺めている。普段は真面目に働くPの街の人びとが、今宵だけは何もかも忘れて騒ぐのだ。明朝、サン・ジョアンの祭日が明けるまで。

「あれは何だ?」
多くの人びと、子供はほとんどが持っている、プラスチック製のハンマーを見て23が訊いた。

「ああ、あれ? 今日は無礼講でね、知らない人でも、あれで叩いていいの。でも、ハンマーを持っていない限り叩かれないから大丈夫だよ」

 本当はもっと説明をすべきだったのだが、マイアはお腹が空いていて心ここに在らずだった。
「ねぇ、ちょっと待ってて。イワシ買ってくるね」
そういって斜め前の売店に入っていった。

 その場に立って辺りを見回していた23は、石壁にもたれかかっている一人の老婆が球形の紫の花を売っているのを見た。彼女は23を手招きしたが、例によって現金を持っていない彼は首を振った。

「金はいらないよ。今夜を過ぎたらもう用無しになる花だ。あんたの彼女の分と二つ持ってお行き」
「これはなんだ?」
「知らないのかい? ニンニクの花さ」

 23は礼を言って二本の花を受け取った。

 熱々のイワシを持ってパラソルの下に場所を確保したマイアの所に戻り、23はマイアにニンニクの花を手渡そうとした。それを見てマイアはぎょっとした。
「えっ。それは、まずい!」

 周りのプラスチックのハンマーを持った集団が目を輝かせてこちらに向かってきた。それは襲撃と言ってもよかった。マイアはニンニクの花を仕舞わせようと彼のもとに飛んできた。その二人をめがけてハンマー軍団は大笑いしながら走ってくる。23はとっさにマイアを抱きしめた。

 ピコンピコンという音がして、大量のハンマーが23を叩いた。けれど、それは大して痛くなかったし、人びとも攻撃というよりは楽しみながら叩いていた。そして、大人も子供も笑いながら去って行く。

 23はマイアを離した。
「すまなかった」
何か勘違いしていたようだとひどく戸惑っている。

 マイアは、心臓が壊れてしまったのではないかと思った。大きく波打ち、その鼓動は彼に聞こえてしまったに違いないと思った。彼の腕が外されても、まだ呆然として彼のシャツのひだをつかんでいた。

 我に返って慌てて手を離すと、真っ赤になって下を向いた。
「ご、ごめんね。びっくりしちゃって……」

 その間も、後ろを通りかかる人がピコン、ピコンと23を叩いていく。振り返ると彼らは親指を立てて意味有りげに笑っている。23の戸惑っている様子にマイアはすまない氣持ちになった。もっとちゃんと説明しておけばよかった。

「ニンニクの花もハンマーと一緒なの……。もともとはこれで顔を撫でていたんだって。そうすることでお互いに息災でいられるようにって祈ったんだね」
「そうか。それで、あれを持った途端、皆が襲ってきたんだ」

 23はニンニクの花をテーブルの中央、パラソルの支柱の所に挟んだ。二つ並んだ丸くて藤色の花が仲良く寄り添っているように見えた。マイアはまだドキドキしていた。
「守ってくれて、どうもありがとう」

 彼は困った顔をした。
「この程度じゃ守った内には入らない。おもちゃのハンマーの集団だ」
「それでもすごく嬉しかったよ。今まで、誰にもこんな風に守ってもらった事なかったし」

 23は手を伸ばして、風で頬にかかったマイアの髪をそっと梳いて言った。
「お前が館にいる限り、俺に可能な限り守ってやる」
「……」

 泣きそうになった。彼はマイアが館に来てから本当にいつも守ってくれた。彼がいなかったら、仕事では無防備に失敗して回って他の人に怒られただろうし、ライサのことを訊き回ってすぐに追い出されただろう。それに何があったかを知らずに24に近づいて、ライサと同じような目に遭ったかもしれない。

 23と、彼の作る靴は似ている。シンプルで飾りは何もないけれど、ぴったりと寄り添い優しい。一度履いたらもう他の靴を履く事など考えられない。

 館にいる限り、そう彼は言った。いつまでいられるのだろう。いつまで彼は一人でいてくれるのだろう。私はいつまで想いの痛みに耐えられるのだろう。何度も諦めようとしたけれど、それは不可能で、それどころか毎日もっと惹かれていく。一日一日が新しい思い出になり、この街の風景の上に積もっていく。

 真夜中が近づくとマイアは23をドン・ルイス一世橋が見える所へ連れて行った。0時になると花火が上がるのだ。かなりの穴場だと思っていたが、かなりたくさんの人が来ていた。プラスチックのハンマーがピコピコいって、人びとは陽氣に笑っていたが、最初の大きな花火が上がると、歓声とともにみな花火を楽しんだ。

 腹の底まで響くような轟音とともに花火は炸裂し、夜空を彩ってからD河へと落ちて行く。赤、青、緑、そしてマグネシウムの強烈な白。一段、二段、三段と、大きくなる花の輪が、これでもかと咲き誇る。そして、消えたはずのその場所から、黄金の煌めきが舞う。

「きれい……」
「ああ、本当に綺麗だな。見られてよかった」
「この花火、はじめて?」
「ああ、俺の窓からは見えないんだ。いつも音と空の色が変わるのだけを見ていた。お前に誘ってもらわなかったら、きっと生涯見なかったかもしれないな」

 マイアは23を見た。嬉しそうに目を細めて空を見上げるその横顔を。ただの友達だと思われていてもいい。ドンナ・アントニアにはしてあげられないことを、こうして彼の喜ぶことを、どんなことでもしてあげたいと思った。23は、マイアの方を見て笑った。

 花火が終わったが、人びとが解散する氣配はない。
「彼らは帰らないのか?」
「え。今晩は、みんな夜通しよ。あのね。夜が明けて最初の朝露が降りるまで外にいると、それからの一年間、健康で幸せでいられるんだって。夜明けと同時にD河でラベロ舟のレガッタもやるんだよ。23、朝までいられる?」

 朝までと言ったとき、彼はマイアの顔をまともに見た。マイアはしまったと思った。来てくれたことで、それに先ほど守ってくれたことで舞い上がっていたのだ。

 彼は静かに首を振った。
「サン・ジョアンの祭日は夜明けとともに礼拝があるんだ。イワシ臭くなって徹夜明けの疲れた顔をしているわけにはいかない。母やアントニアに感づかれてしまう」

 彼の口からドンナ・アントニアの名が出て熱く脈打っていたマイアの心臓の鼓動は弱まっていった。
「お前も明後日の早朝から出勤だろう。今夜更かししない方がいい、そうだろう?」
「うん。そうだね……」

 シンデレラの魔法は解けちゃった。マイアは悲しくなった。やっぱり私はほんの少し友達に近いだけの使用人なんだな。

「今夜はありがとう。家はどこなんだ?」
「え、レプーブリカ通り」

「送るよ」
「いいよ。遠くないし、一人でも帰れる」
「だめだ。こんな深夜で、酔っている人もたくさんいる」

 マイアはつま先を見つめた。23の作ってくれた、マイアをいつも柔らかく包んでいる靴が目に入った。
「23、本当に紳士だね……。そんなに優しくされると、私、誤解しちゃうよ」
「何を」
「王子様に守ってもらってる、お姫様みたいなつもりになっちゃう」
「馬鹿なことを言うな」

 馬鹿なことか……。お姫様じゃなくて召使いだものね……。
「俺は王子様なんかじゃないって、言っただろう」

 逆方向へと向かっていく楽しそうな人たちとすれ違いながら、二人は言葉少なに歩いた。公園の角を曲がり、狭い小路に押し合いへし合いするように建つ古い家々の一つの前でマイアは立ち止まった。「ここ」と濃い緑のタイルの家を示した。23は街灯に照らされた錆びたバルコニーを見上げた。ドラガォンの館に住む彼にはどんなあばら屋に見えているのだろうと思った。

「おやすみ。また明後日、いや、もう、明日か」
「おやすみなさい。今晩はありがとう」

 彼は「礼を言うのはこっちだ」と言ってから、急に顔を寄せて、マイアの頬にそっとキスをした。唇よりも彼の髭の感触が肌に残った。彼の髪からはイワシと花火の火薬の匂いがした。

 振り返りもせずに去っていく背の丸い後ろ姿を、彼女は見えなくなるまで目で追っていた。
.30 2015 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(17)遠出

Posted by 八少女 夕

月末の定番のはずが、三週間も押し出されて、もうそろそろ次の月末の「Infante 323 黄金の枷」です。

マイアの休暇のお話の二つ目です。二ヶ月ごとに一週間の休暇をもらえるドラガォンの館の従業員たち。でも、その間も「館で見聞きした事は部外者には話してはいけない」という誓約に縛られています。そして、恋するマイアには、23に逢えない事もまた苦痛である模様。どうやら少し迷走しているようです。

月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(17)遠出

 マイアはとほとぼと街を彷徨い、観光客が楽しく談笑するリベイラに辿りついた。ベンチに足を投げ出して座る。ドラガォンの館に勤めだす正にその日に期待に満ちて河を眺めた同じベンチだった。

 何もかもが二ヶ月前とは違っていた。マイアの心のほとんどを占めているのは23だった。掃除も洗濯も給仕も、それから自由時間にする靴のスケッチも、窓から眺めるD河の夕景もすべてが23と繋がっていた。リベイラの眺め、フォスの海岸、大聖堂へ至る坂道、Gの街へと渡る橋、ワイン倉庫街。生まれてからずっと愛し続けてきた街の思い出は、いつの間にか何もかも彼との思い出に変わっていた。

 けれど、その思い出にはどんな未来も約束もなかった。どこかで自分が抱き続けている脆く儚い幻想を見せつけられたようだった。二ヶ月前までずっと一人で見続けてきた街だ。そして、未来も一人で見続けることになるのだと感じた。

 彼があの美しい人と真に結ばれるとき、もう私と一緒に街を眺めることはなくなるだろう。マイアは心の中で呟いた。

 上手く人とつきあえなかったこれまでの自分のことを思い出した。これまで23以外に、こんなに早く親しく話せるようになった人はいなかった。こんなに長く特別に思ってきた存在もなかった。これから、彼を忘れられるほど心に寄り添える人と出会えるとは想像もできない。

 私はきっと生涯一人ぼっちだ。友達としか思ってくれない人を黙って想い続けていくしかないんだ。マイアはD河の上を渡っていくカモメの鳴き声を聞きながら両手で目を覆った。今、彼とのつながりは心地よく彼女を包み続けていてくれる靴だけだった。

 時間はたっぷりあった。自宅にいる時間が長いと、家族や同じ通りの隣人たちに「勤めはどうだ」「どんなところだ」と質問攻めにあう。街へと逃げだすしかなかった。

 ずっとやってみたかったことがあった。アリアドス通りのカフェ・グアラニの外に座って、道ゆく人びとを眺めること。ソフトクリーム屋に勤めていた時には、注文することは到底無理だった、レアチーズケーキとポートワインのセットを頼むこと。

 マイアの銀行預金はこれまで一度もなかったような残高になっていた。「ドラガォンの館」に住み込みで働いているので、それまで使っていた食事や衣装代にあたる金額が丸々残っていたし、外と連絡を取ることが禁止されているので携帯電話やネットの接続も解約していた。社会保障と保険は全て「ドラガォンの館」が払っていてくれて、毎月の給料がほぼそのままそっくりと残っていた。

 この二ヶ月でマイアが遣ったお金は、外出のついでに23と街で逢った時に払ったコーヒー代と貸自転車代が全てだった。

 レアチーズケーキとポートワインは確かに美味しかった。繊細な甘さと、バターのしみ込んだ台のさくっとした歯ごたえ。喉を通っていくポートワインの濃い甘さ。ウェイターたちの氣さくな笑顔、道往く人々の姿、全てが想像していた以上に素晴らしかった。けれどマイアは一人だった。本当は23とここに座りたかった。彼に逢いたかった。

 でも……。彼はこんなところでのんきにケーキを食べるよりも、きっとボアヴィスタ通りに行くことを夢みているのだろう。《監視人たち》がいっぱいで行くわけにはいかない、ドンナ・アントニアの住む場所。わかっている。私、何をやっているんだろう。マイアは手の甲で涙を拭った。いつまでもテラスに座っているわけにはいかず、マイアは会計をして立ち上がった。

 貸自転車屋に向かい、あの黒い自転車を借りた。マイアは前回よりもずっと軽いペダルを狂ったように漕いで、あっという間にフォスに来てしまった。止まらずに、赤い巨大な網のオブジェのあるラウンドアバウトを通り抜け、隣の市であるMに入った。マイアは今まで一度もMまで来たことがなかった。Pの対岸であるGに入ることは禁止されていなかった。だからPと地続きのMに入ることは大きい問題になるとは思えなかった。

 けれど、父親は家族で出かける時に、絶対にPの街から出ようとしなかった。Mはもともと漁師の街で、美味しい魚を食べさせるレストランが軒を並べている。妹たちは一度ならずともMへと行きたがった。父親は車を持っていたし、そんなに大変な遠出でもなかった。けれど、彼はいつもこんな風に言った。
「ブラガ通りに新しいレストランが出来たんだそうだ。そっちに行ってみないか」

 休暇で戻ってきたマイアを妹たちは明るく迎えてくれた。彼女たちにとってマイアは何も変わらぬ姉のままだった。けれど、二人がMのレストランに行ったと話していた時、夏の休暇でスウェーデンに行くと語ってくれた時、マイアは黄金の腕輪をした姉が家からいなくなったことは、二人にとってきっと幸せなことだったのだろうと感じた。彼女たちも、父親も、さぞ迷惑していただろう。マイアがこの街に閉じこめられて出て行けないのは、彼らには何の関係もないことだ。それなのにマイアの手前、彼女たちもまた多くのことを諦めてきたのだ。

 Mの街はこれからもどうしても行きたくてしかたないというところではなかった。魚の匂いはしたが、ケーキを食べたばかりのマイアは一人でレストランに入るつもりになれなかった。マイアは自転車にまたがって、Pの街に戻った。Mに行ったけれど、何も起こらなかった。マイアはふと考えた。だったら、電車に乗って、一瞬だけスペインに行ってくるのはどうだろう。

 D河を遡る船旅は始めからパスポート提示を求められるので、マイアには不可能だ。でも、サン・ベント駅から電車に乗るだけなら、切符を自動販売機で購入すればパスポートのことは誰も訊かないだろう。スペインまで行って、何をするというわけではなく、ただ、足を踏み入れてそのまま戻ってくる。やってみよう。

 翌朝、マイアはジーンズにTシャツ、それにハンドバックという軽装で、サン・ベント駅に向かった。旅立つためではなく、旅立つ人を眺め、それから装飾の美しさを眺めるためにこれまで何度も訪れていた美しい駅。二万枚のアズレージョでぎっしりと覆われた構内の連廊ををマイアは見上げた。セウタ攻略時のエンリケ航海王子は雄々しく軍隊に指令を出している。マイアも武者震いをして冒険に向かった。

 切符は問題なく買えたし、電車に乗り込み窓際に陣取っても何も起こらず電車は静かに出発した。マイアは嬉しくなってD河の流れに目をやった。子供の時にどれほど望んでも行けなかった遠足のルート。船ではなくて電車だが、見えている光景にきっと大きな違いはない。

 渓谷の両側は緑色の葡萄畑に彩られていた。濃い緑は艶のある葉で、淡い緑は実りはじめたまだ小さな実。わずかに赤っぽい地面の上に、印象的な縞模様が描かれている。風に揺られてそよぐと葡萄の葉が一斉に踊っているように見えた。空は青く、D河の緑の水が反射して煌めいた。

 この葡萄が、ワインになる。世界中へ送られて食卓を賑わす。そして、その同じワインは「ドラガォンの館」にも運び込まれ、マイアたちが給仕している食卓のクリスタルグラスに注がれる。ドンナ・マヌエラが、ドン・アルフォンソが、24が、そして23が楽しみながら飲むのだ。彼の庭で一緒に食事をした時に、お互いに微笑みながら乾杯したのもここで穫れた葡萄で出来たワインだった。

 ああ、まただ。何もかも、想いのすべてが彼へと戻っていってしまう。

 マイアはふと視線を感じたように思った。窓から目を離して通路側を見ると、男が一人座っていた。作業着風のジャケットと白いTシャツに灰色のパンツ姿で、帽子をかぶっている。特に目立つ特徴のない男性だった。彼はマイアを見ている様子でもなかったので、マイアは再び窓に目を戻した。

 いくつか駅を過ぎた。しばらく忘れていたが、マイアは再び視線を感じたように思い、もう一度斜め前の席に目を移した。その男はまだそこにいた。《監視人たち》の一人ではないかと思った。それとも、それを氣にしすぎて視線を感じるように思うんだろうか。マイアは意を決して、別車両に移った。もし男が《監視人たち》の一人なら、ついてくるだろうと思ったのだ。男はついて来なかった。けれど、マイアの斜め前に、別の男が座った。やはり全く目立たない服装の男だった。

 マイアは不安になった。ちょうど電車は県境へとさしかかっていた。国を離れたこともないが、県の外に出たことも一度もなかった。もし、《監視人たち》が私を追っているとしたらどうなるんだろう。ううん。ミゲルは《監視人たち》は絶対に危害を加えたりはしない、ただ見ているだけだって言ってた。だから、そんなに心配しなくても……。

 次の駅に着いてドアが開くと、斜め前にいた男は降りて行った。そして入れ違いに黒いスーツを着た男が二人が入ってきた。そして、やはり斜め前の席に黙って座った。マイアは震えた。母親が亡くなった時に腕輪を回収しにきた男たち、マイアの腕輪がきつくなった時に取り替えにきた男たちと同じ服装だった。これは偶然でも思い過ごしでもない。観察していた人たちから連絡を受けて、本部から呼ばれてきたんだろうか。

 マイアは、国外逃亡と見なされて黒服の男たちに止められたらどうなるのだろうかと思った。連行されて、どこかに閉じこめられるのだろうか。そうなったらその後はどうなるんだろう。「ドラガォンの館」に戻れなくなるのかもしれない。そうでなくてもこの休暇中の自由は制限されるかもしれない。サン・ジョアンの前夜祭にもし、23が来てくれる氣になって、私が行けなかったら……。それはダメ! アナウンスが次の駅に着くことを報せた。マイアは急いで立ち上がった。

 ドアが開くと、マイアはホームに降りた。黒服の男たちも一緒に降りた。彼らはマイアにはひと言も語りかけなかったが、マイアが階段を降りて反対側のホームへと向かうと、隠れる様子もなくついてきた。寂れた駅で、ホームにはマイアと黒服の男たちしかいなかった。次の上りの電車が来るまでには30分近くあった。マイアは落ち着きなく、ワインや葡萄の焼き菓子やキーホールダーなどが並ぶ売店をぶらぶらして時を過ごした。

 電車が来た。マイアが乗り込むと、男たちも後ろから乗ってきて、マイアが腰掛けた席の斜め前に座った。二人は話もしなければ、何かをしている様子もなかった。マイアは窓の外を眺めた。どうしてもスペインに行きたかったわけではない。《監視人たち》の存在が、夢物語ではなかったこと、本当に自分が監視されているのだということがはっきりしても、それほどつらくはなかった。

 23に自分が言った言葉を思い出した。
「叶わない夢なんて見てもしかたない」
あの時は、ほんの少しやせ我慢して口にした言葉だった。けれど、実際に県外に出てスペインを目指し、それを中断した今、それは違う意味を持ってマイアの中に響いた。遠くへ行く夢を諦めたのではない。スペインに足を踏み入れるよりもずっと大切なことができたのだ。23とサン・ジョアンの前夜祭にいくこと。また「ドラガォンの館」に戻り、23と逢うこと。想いが通じるかや、どんな未来が待っているかは関係なかった。

 電車はいくつかの駅を通り過ぎた。窓から目を離し、斜め前の席を見た。いつのまにか黒服の二人はいなくなっており、先ほどの下り電車から降りた目立たない服装の男が座って新聞を読んでいた。
.19 2015 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(16)休暇

Posted by 八少女 夕

月末の定番(といいつつ月初になってしまった)「Infante 323 黄金の枷」です。

長時間で土日の勤務もあり、さらに普段は許可なしでは館の外へも出られない生活をしているドラガォンの館の召使いたちには、二ヶ月に一度、一週間の休暇が与えられます。勤めだして二ヶ月。マイアもはじめての休暇をもらいます。このマイアの休暇の話は、今回を含めて三回にわけてお届けします。

月刊・Stella ステルラ 6.7月号参加 連載小説 stella white12
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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(16)休暇

「マイア、木曜日から一週間の休暇です。25日の朝からまた仕事なので、24日の夕方には戻ってきてください」
ジョアナに言われてマイアはびっくりした。
「休暇? でも、あれは二ヶ月経たないといただけないのでは?」

 ジョアナは笑った。
「ええ、そうですよ。忘れたみたいですが、あなたは昨日で二ヶ月ちょうど働いたのですよ。慣れないことばかりだったでしょうが、よく頑張りました」

 マイアはジョアナにほめてもらって嬉しくなった。もう二ヶ月経ったなんて、思いもしなかった。
「マイア、しつこいようだけれど、誓約を忘れないようにお願いしますね」
「はい」

 洗濯物を取りにいくついでに、23に休暇のことを報告した。
「ずいぶん急だな。ああ、そうか。もう二ヶ月経ったんだな」
「うん。私も、びっくりしているよ」

「家族に会うのも久しぶりだろう。よかったな」
「うん。休暇の間、何をしようかなあ、考えてもいなかった」

 23は笑った。マイアはふと思いついて意氣込んでいった。
「ねえ。23、休暇だったら、館に帰る時間を氣にしないでいいから、いつもより遠い所にも行けるよ。どこかに行かない?」

 23は、マイアを見たが、すぐに首を振った。
「休暇中はたぶんお前の家の近くの《監視人たち》が観察をするだろう。怪しまれるような行動は避けた方がいい」

 言われてみればその通りだった。マイアはひどくガッカリした。23は失望しているようには見えなかった。それまで作っていた靴を脇にどけると、作業台の引き出しから型紙を探し出した。忙しそうだなとマイアは思った。洗濯物の籠を持って退散することになった。落ち込んだように去っていくマイアの後ろ姿を、23はじっと見つめていた。

 休暇の前日、掃除当番だったので三階と二階を急いで終わらせて工房に降りて行くと、23はいつものように作業をしていた。私が明日からいなくても、なんでもないんだろうな。埃をはたきながら、マイアは靴を仕上げている23の横顔を眺めた。

 掃除機かけが終わり、コードをしまいながら、これが終わったらさようならを言わなきゃと思っていた。たった一週間なのに、私も大袈裟だな。

「できた」
その声でマイアは、顔を上げた。23はマイアに焦げ茶色のバルモラルタイプのウォーキングシューズを見せた。
「お前のだ」
「え?」

「休暇中は、街をたくさん歩くだろう。パンプスよりもこっちの方がいい」
「……。わざわざ、作ってくれたの?」
「パンプスを大切にしてくれているから。ほら、履いてみろ」

 マイアは嬉しくて涙をこぼす寸前だった。膝まづいて調整をしてくれている、23の丸い背中をじっと見ていた。

「なあ、マイア」
23は革ひもを縛りながら言った。

「何?」
「俺は、俺のことを信じて今はマリアに何も言わないと約束してくれたお前のことを信じている」

 ライサのことだ。メネゼスさんやジョアナが心配しているのも、そのことだ。
「23。わたし、約束を一度も破ったことがないほどいい子じゃないけれど、あなたとの約束だけは死んでも守るよ。マリアには休暇のことは言わないし、逢いにも行かない。だから、心配しないで」

 23はマイアを見上げて微笑んだ。
「ありがとう。お前にだけは言っておく。ライサはボアヴィスタ通りにいる。アントニアの家だ」
「23……」
「あそこには《監視人たち》がうじゃうじゃいるはずだ」
「大丈夫だよ。わたし、あんな高級住宅街にいく用事は何もないもの。ウロウロしたりしない。教えてくれてありがとう」

 立ち上がった23は、マイアの頭をぽんと叩いた。
「せっかくの休みだ。仕事のことは忘れて楽しんで来い」
忘れられるわけないじゃない。マイアは23を見つめた。

「6月24日、サン・ジョアンの日までか。いい時期に休みをもらったな。天候に恵まれるといいな」
マイアは飛び上がった。すっかり忘れていた。そうだ、サン・ジョアンの日!
「ねえ、23、前夜祭、行った事ないんでしょう? この街に住んでいてあれを見ないのはもったいないよ。それだけは一緒に行こうよ」

 23は、しばらく答えなかった。即答しない所を見ると、心を動かされているのだろう。毎年のあの騒ぎは、鉄格子の窓の向こうから聞こえていて、行きたいと思っているに決まっている。一年に一度しかないのだ。一緒に行こうよ、行くって言って。

 彼の瞳に諦めの色が灯った。それから静かに首を振った。マイアはその感情をよく知っていた。左手に金の腕輪をしている者が親しんでいる想い。「試しもしないで諦めるな」という人たちはわからないのだ。小さい子供の頃から、どれほど抵抗し、それが無駄だったと思い知らされ、多くのことを諦めさせられてきたかを。マイアはうつむいた。それでも諦めきれなかった。
「最初に待ち合わせたあのカフェに、夜の九時に行くから。もし、氣が変わったら来て、ね」

 23は微笑んだ。
「いい休暇を」

 朝早く、マティルダに短い別れを告げて、ドラガォンの館を出た。坂を上って、父親と妹たちの暮らす懐かしい我が家に戻った。

 レプーブリカ通りは間口の狭い家がぎっしりと並ぶ区画で、マイアの父親と二人の妹とが三階のアパートメントに暮らしている。書店に勤める父親の給料は決して高くない。妹のセレーノは菓子屋に勤め、エレクトラはお茶の専門店で働いている。どちらもあまり給料は高くなく、独立してアパートメントに住むのは難しい。ギリギリ四部屋あるこの小さい空間で肩を寄せあって暮らすのが当然のように思っていた。

 ドラガォンの館でマイアに割り当てられた部屋は、個室ですらなかったが、高い天井、広い室内、シンプルだけれどどっしりとした家具、そして窓から見渡せるD河の眺めがあり、マイアにはとても心地が良かった。それに召使いたちが仕事や休憩をするバックヤード、料理人たちの手伝いをする時におしゃべりもする厨房といる場所があちこちにあった。さらにマイアはこの家で三家族が暮らしているのよりもずっと広い空間に一人で住んでいる23の居住区に入り浸っていた。それに慣れた二ヶ月の後に我が家に戻ってみると、全てが狭苦しく、何よりも自分の存在がその空間をさらに圧迫しているように感じるのだった。

 誓約はマイアを苦しめた。これまで父親と妹たちに隠しごとをしたことはなかった。する必要もなかった。《星のある子供たち》であることで、この家庭に負担をかけていると感じていたマイアは、いつも彼らに誠実であろうと努めてきた。それなのに今回だけは何も言うことができない。彼らがどんな仕事をしているのか、どんな所かと訊くのはとても自然なことなのに。
「何も話してはいけないの」
そう答えることで自分がとても冷たくて嫌な人間になったように感じる。これまでよりもずっと、腕輪が自分と家族の間の壁を作っているように感じた。

 それだけではなかった。心の大部分を占めている悩みをマイアは妹たちに話して軽くすることができなかった。23その人が誓約で話すことを禁じられている事項の中に含まれるだけではなく、見込みがなくてもどうすることもできない今の状態を明るく前向きな妹たちに話すことができないのだ。進めと言われても、退けと言われても、自分が壊れてしまいそうだった。

 妹たちと父親は優しいのに居場所がない。マイアは少し前に23と行った河向こうのワイン倉庫街を思い出していた。

 河に面してたくさんの倉庫兼試飲所があった。たくさんの観光客が行き来して、にぎやかな一画だ。パラソルの下では人びとがポートワインとタパスを楽しんでいた。次々と到着するバスから降りてきた人びとは、試飲と購入のために大きなワイナリーへと吸い込まれていく。マイアには見慣れたGの街の観光街だった。けれど23にはそうではなかった。小さな鱈のコロッケが三つ載った小さな皿とSuper Bockビール。屋敷でクラウディオたちが作る洗練された料理とは正反対の庶民の楽しみが23には珍しそうだった。鋭く突き刺すような強い陽射しの中、23の笑顔も白くかすんでいるように思えた。

 どうしてそちらに行ったのか憶えていないが、その後二人は一つ山側の通りを歩いた。そこは河沿いの賑やかな通りと正反対で、ほとんど誰も歩いていなかった。白い壁が強い陽射しを反射していた。前を歩く23の白いシャツ。丸い背中。マイアの心は急に締め付けられた。彼は壁に溶け込んでいなくなってしまいそうだった。
「待って。ねぇ、待って」

 23は振り向いた。
「どうした?」
いつもの彼だった。ちゃんとした存在感があった。マイアは大きく息をした。
「なんでもない」
「何でもないようには見えないが」

 マイアは肩を落とした。
「……消えちゃうかと思ったの」
それを聞いて23は笑った。
「消えたりしないさ」

 消えそうだったのは、自分の方なのかもしれないとマイアは思った。あの午後に二人は一緒にいた。マイアとあそこにいた23はインファンテではなかったし、ドンナ・アントニアの恋人でもなかった。今、彼は元の居場所に戻り、物理的にも心も遠く離れていた。マイアはもとの世界にいる。ずっと当然だったレプーブリカ通りの小さなアパート暮らし。マイアにふさわしい狭い空間。それでいて拭うことのできない《星のある子供たち》であることの違和感。私はこの世界に一人ぼっち。マイアは言葉にして思った。マイアが浮かれていた23との時間は、叶わない夢、実体のない蜃気楼なのだと思った。
.01 2015 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(15)海のそよ風

Posted by 八少女 夕

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。

知られずに館の外に出られることがわかった23を、マイアは外出の度に誘い出します。現金を持つ事のできない彼と、お金がないとできない経験を一緒にして回るのです。二人の時間、秘密の共有、それに、自分だけが彼のためにしてあげられる事、マイアの一途な想いはまだ空回りぎみですが、23も十分に楽しんでいる模様。今回は徒歩では行けないほどの遠出に挑戦します。

そういえば、今回書いた、キリスト教騎士団の話やドラガォンが誰の血を守っているのかについての噂などは、本当はここで読者を「ええ〜!」と驚かせるような箇所だったのですが、すでに外伝でガンガン似たような事を書いてしまっていて、きっと皆さん「今さら」ですよね。

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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(15)海のそよ風

 マイアは鉛筆を削った。愛用のハガキサイズの画用紙を取り出して窓辺に座った。椅子に置いた靴を丁寧に写生していく。丸みを帯びたシェイプ。革の柔らかさを感じられるように艶を表現していく。大好きなパンプス。この素晴らしい靴を履き、幸せな人は他にもいるが、それを作った職人を個人的に知っている持ち主はほとんどいない。

 出来上がったスケッチを持ってマイアは23の工房に入っていった。
「見て。23」
 
 彼は驚いた。
「お前が描いたのか?」
「うん。どう?」
「こんな才能があるとは思わなかったな。称賛に値するよ」

 マイアは意氣込んだ。
「これから、23の作る靴、私にスケッチさせて」
「なぜ?」
「だって、靴は納品されたら、ここからなくなっちゃうでしょう? あなたが作った靴の記録を残したいの。公式には誰も知らなくても、あなたがこんなに素晴らしい靴を作っていたって証を残そう。いいでしょう?」

 23は驚いた顔のまま黙っていたが、しばらくすると目を細めて微笑んだ。
「ありがとう。マイア」

 マイアは、嬉しかった。私にも何かができる。ドンナ・アントニアのように存在だけで彼を幸福にすることはできないけれど。彼が自分のことを誇りに思える何かを残すことができる。

「ところで、なぜエプロンをしていないんだ?」
23は訊いた。

「あ、奥様に用事を頼まれて、これから街に出かけるの。カステロ・サン・ジョアンの側にあるお友だちのお家に花を届けるんですって」

「それは、確か河口のあたりだな?」
「うん。あ、23、あっちの方も行った事ある?」
「いや。さすがにそこまで遠くには足は伸ばしていない。徒歩だとかなり時間がかかるしな」

 マイアは目を輝かせた。
「じゃあ、抜け出して一緒に行こうよ。路面電車に乗ったらすぐだよ」

 23は首を振った。
「乗り物は出入り口でコントロールがあるだろう。近いから場合によっては腕輪の星の数も見える。運転手が《監視人たち》だったら確実に見つかってしまう」

 彼の言うことはもっともだったが、それで諦めるのは残念だった。海を見た事がないなんて。
「海、見たくない?」
「見たいよ」

 マイアは少し考えた。いい案が浮かんだ。
「わかった。じゃあ、私が自転車を借りるよ」
「自転車?」
「うん。ボルサ宮殿の先の河岸で待っていて。一緒に行こう」

 マイアは花屋で花束を受け取ると、リベイラに向かった。そのあたりにある貸し自転車屋を知っていた。その店は主に観光客用に営業しているのだが、置いている自転車のタイプが古いので、よほどのことがない限り出払わない。

 前に籠がついていて、後ろの荷台にもう一人座れるタイプの自転車は二つ残っていた。
「君なら、こっちの小さい方だね」
店主は言った。マイアは少し考えた。23は私と同じくらいの身長だから、これでいいのか。あれ、そもそも、23は自転車に乗れるんだろうか。

 自転車で河岸を少し進むと、ベンチに座っている23が簡単に見つかった。すーっと前に乗りつけたマイアを興味深そうに見ていた。
「なるほど」

 ああ、この口ぶりでは、やっぱり乗れるはずはないよね。マイアは納得して後ろの荷台を示した。
「ここに座って。私に掴まっててね」

 そういっている横を二人乗りをした少年たちがすっと通り過ぎていった。それを見て納得した23は荷台に座るとマイアの腰に手を回して掴まった。マイアは赤くなった。掴まれと自分で言ったのだから、そうなるに決まっているのに、この状況をまるで考えていなかった。アイロンのかけ方を習った時よりも近い。
 
 D河はカステロ・サン・ジョアンの側で大西洋に流れ込む。聖ニコラス教会の近くからレトロな路面電車が河沿いに走っている。その脇は自転車用に整備された道になっていて、カステロ・サン・ジョアン、ブラジル通りを通ってカステル・デ・ケージョまで行くことができる。その一帯は河口を意味するフォスと呼ばれている。

 カステル・サン・ジョアンに着くと、マイアは自転車と23を残して、急いで花を届けにいった。ドンナ・マヌエラの友人の家の近くまで二人で行くと、《監視人たち》の目につくかもしれないと考えたからだ。出てきたのは優しそうな婦人で、よかったら上がってコーヒーでも飲まないかと訊かれたが、「勤務中ですので」と断って急いで城塞ヘと戻った。

 戻ると23が一人で自転車に乗る練習をしていた。まだふらついているが、なかなか筋がいいとマイアは思った。私のときは、何日間もかかったのに。
「23、すごいね。次に遠出する時にはきっともう乗れるよ」
彼は得意そうに笑った。

 再びマイアが運転して、もう少し先まで走った。左手に漁をしている小舟がたくさん見えてきて、それから砂浜や岩で覆われた海岸が続く。人びとは釣りをしたり、ジョギングをしたりして、海にキラキラと反射する眩しい光を楽しんでいる。
「ほら。これが海。波がすごいでしょう?」
「ああ、本当だ。こんな風に打ち寄せるんだ」

 生まれてはじめて海を見た時のことを、マイアは憶えていない。繰り返す波の満ち引き、大きな音、湿った風、潮の薫り、果てしなく続く水平線。はじめて見た時はさぞかし驚いたのだろうと思う。23はテレビやネット上の写真でしか海を知らなかった。どれだけ違って感じられるのだろう。

 しばらく行くとクリーム色のパーゴラ柱廊が見えてきた。海を眺めるバルコニーのようだ。
「ここは?」
「素敵でしょう。とてもロマンティックなので、恋人たちのデートスポットなの。いつも一人で来ていたから、いつかはきっとって思っていたわ」

 彼がほんの少しきつく掴まったように感じて、マイアは心が痛くなった。勘違いしちゃダメ、この人にはドンナ・アントニアがいるんだもの。本当に恋人同士としてここにいられたら、どんなにいいだろう。自転車に乗っているからではなくて、ただ抱きしめてもらうのって、どんなきもちだろう。

 マイアはもう少し先で自転車を停めた。海を見渡すカフェがあって、その脇に砂浜へと降りる階段があった。23は少し沈んでいく感触に慣れるまで砂の上を慎重に歩いた。マイアは波打ち際まで来ると、裸足になった。23も同じようにした。波が足元の砂を運び去っていく、そして二人をも運び去ろうとする感覚をしばらく楽しんだ。

 23の方を見て笑いかけた時に、その後ろ、波止場にはためいている二つの旗に氣がついた。一つは赤と緑の国旗で、もう一つはやはりこの国でどこでも見られる白地に赤い十字の旗だった。その視線を追って、やはり旗を見た23は「どうかしたのか」と言いたげにマイアの顔を見た。
「あの十字、お屋敷の門の所にもついているわよね。竜の持っている盾の中に。ドラガォンって、王家かなにかと関係あるの?」

 23は笑って首を振った。
「この国では、王家とは関係なくあの十字を多用しているよ。あれが何を意味するシンボルなのかは知っているだろう?」
「大統領がああいう勲章を付けているわよね。サッカー連盟のマーク、ホテル、それに空軍も……。でも、もともとはキリスト教の何かよね」
「そうだ。キリスト騎士団のシンボルだ。大統領は共和国の元首であると同時にキリスト騎士団の総長でもある」

「キリスト騎士団ってそもそも何?」
「もともとは1119年に創設されたテンプル騎士団だ。第一回十字軍が終了した後、エルサレムへの巡礼者を保護するために創設された騎士修道会だが、巡礼者のために現在で言うトラベラーズチェックのようなものを発行する財務機関として力を持った」

「それで?」
「富めるものはさらに富み、だよ。テンプル騎士団は多くの人びとや国家の債権者になっていた。十四世紀のはじめにフランス国王は最大の債権者であるテンプル騎士団に借金を返す代わりにその財産を没収してしまおうと思ったのさ。そして、フランス人の教皇と結託してテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーを反キリスト・悪魔崇拝の異端に仕立てて生きたまま火あぶりにして処刑した。そして、その資産を自分たちの息のかかった聖ヨハネ騎士団に移すように命令したんだ」
「そんな、勝手な……。みんな、フランス王の言うなりになったの?」

「いや、ならなかった。当時の教皇クレメンス五世もフランスに加担したていたから、テンプル騎士団はローマ教皇庁により弾圧禁止されたが、ドイツでは裁判で証拠不十分のため無罪とされたし、スペインでも弾圧はされなかった。教皇の決定に真っ向から反対したのが、わが国の国王ディニス一世で、逮捕を拒否しキリスト騎士団の名前のもと存続を認め、資産と財産を継承する権利を次の教皇ヨハネス二十二世に交渉して認められたんだ。だから、現在でも教皇庁では聖ヨハネ騎士団の後継であるマルタ騎士団を親任しているのに対し、わが国ではキリスト騎士団を支持し、王制がなくなった今でも大統領が総長となってテンプル騎士団の伝統を引き継いでいるんだ」

「わからない。その騎士団の伝統を守る事が、二十一世紀の今でもそんなに大切なの?」
「守っているのは伝統だけじゃないんだ。多くの人の関心の中心にあるのはむしろその莫大な資産なんだよ」
「あ」

「キリスト騎士団の指導者となったエンリケ航海王子は、その経済的バックアップのもと大航海時代の幕を開いた。わが国が植民地としたブラジルで発見された黄金は、わが国を富ませた。その栄華の名残は、この街に残る豪奢な建物に見られるだろう?」
「……」

「さて。この街に大きな館を構え、働きもしないで豪奢な生活を続ける一族がいる。街の中に数百人の黄金の腕輪をした人間がいて、それを監視するためだけに二万人近い人間が配置されている。そのとんでもない人件費をまかなう財力はなんだと思う?」
「まさか……」

「テンプル騎士団が解体された後、キリスト騎士団に受け継がれた資産と財産はほんの一部だった。フランスや教皇庁が没収した財産もそんなに多くはなかった。では消えてしまった莫大な財産はどこに行ってしまったんだろうか。フリーメーソンなどの秘密結社に受け継がれたとも言われているし、確かな事は今でもわからない。だが、俺たちをここで飼うためだけのために遣われる恐るべき経費を考えるとき、テンプル騎士団の財産の多くを受け継いだのがドラガォンだと考えても不思議ではないと思う」
「だとしたら、ドラガォンが受け継ごうとしている血脈って言うのは、もしかして……」

「お前の示唆している人が誰かわかるよ。どうだろうな。その可能性がないわけじゃない。真偽のほどは別として、神の子であると定義されている特別な一人の男の子孫を守り続けていると信じている人間がいても不思議ではない。だが、別の仮説もある」
「別の仮説?」

「この地には、もともとケルト人が住んでいたんだ。そして、この街の象徴でもある竜はケルト人の神獣だ。だから、ケルトの伝説の英雄か王の子孫を守り続けているのかもしれない。たとえばアーサー王、ユーサー・ペンドラゴン……」

「23はインファンテなのに、誰の子孫か教えてもらっていないの?」
「もちろん、いない。俺はスペアであると同時に危険分子だからな。トップシークレットを明かしてもらえるような立場にはない。知っているとしたら、アルフォンソか、《監視人たち》の中枢組織だけだろう。それに誰だろうと、それは名目に過ぎない。本人の遺体でもない限り、本当に直系なのかは誰にも証明できないのだから」

 23はいつものように突然話題を変えた。
「ここによく来るのか?」

「ええ。前はよく来たわ。悲しいことやつらいことがあると、ここに来て海を眺めたの。繰り返す波をずっと見ていると、ちっちゃなことはいいかな、って思えてくるの。そして、叶わない夢のことを考えていた」

「それは?」
23がマイアの横顔をじっと見つめた。彼女は沖をゆっくりと進む大きな船を指差した。
「いつか腕輪を外してもらって、自由になったら、ああいう船に乗ってね。どこか遠くに行きたいって」

 マイアがまっすぐに伸ばした左の手首には黄金の腕輪が光っていた。彼女は23の顔を見て無理に笑おうとした。
「叶わない夢なんて、見てもしかたないわよね」

 彼はしばらく答えなかった。マイアを見つめ、それから打ち寄せては砕ける波に視線を遷した。何かを言おうと、何度か口を開きけれど言わなかった。

 マイアには彼の背中が一層丸く見えた。彼にとって残酷なことを言ってしまったのだと感じた。自由になりたいのは彼も同じ、それどころか、ずっと痛烈に願っているのだろうから。

 悲しくなって謝ろうと思った時に、マイアをもう一度見てはっきりと言った。
「夢は夢だ。願い続けていれば叶うこともある。お前は星一つだから、チャンスはある」

 でも、私は叶わない別の夢を抱いてしまったんだけれど。マイアは心の中でつぶやいた。
.27 2015 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(14)喫茶店

Posted by 八少女 夕

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。

王子様扱いだけれど、囚人でもある主人公23は、誰にも知られずにこっそりとPの街に行っていました。「すわ、なにか陰謀が?」と先読みをなさる読者の皆さんが脱力するような展開かもしれませんが、ひと時の自由を楽しんでいただけのようです。現金を持っていない上、人見知りも激しいんじゃ、外で何もできませんよね。前回、その秘密をヒロインであるマイアと共有することになったんですが、こちらもお花畑脳なので、陰謀とは無縁のようです。

月刊・Stella ステルラ 4.5月号参加 連載小説 stella white12
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「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(14)喫茶店

 マイアが朝食の給仕をしている時にドンナ・マヌエラがメネゼスに言った。
「手紙をサントス先生の奥様に直接渡してほしいんだけれど、今日、誰か外に行く時間があるかしら」
「もちろんでございます。マイア、お前はサントス先生や奥様に面識があったのだったな。ちょうどいい、ジョアナに伝えておくので、セニョール323のお住まいの清掃が終わったら、外出の準備をして奥様の居間に伺うように」
「はい」

 せっかく街に行くのだったらと、ジョアナからもいくつかの細かい用事を頼まれた。メネゼスは23の作った靴を、いつもの靴店に届けてほしいと言った。久しぶりに街に行けるだけでなく、外で休憩してもいいと言われたのででマイアはすっかり嬉しくなった。

 食堂の後片付けが終わってから、掃除のために23の工房に降りて行った。あの嵐の日以来、二人にはしばらく大きな秘密があった。彼の背中の傷が悪くなっていないか確認して消毒したのだ。ほとんど治り、もう絆創膏も消毒の必要もないと伝えたときの彼の笑顔は嬉しかったが、この秘密がなくなってしまうのは残念だった。共犯関係は絆のように感じられたから。

 口に出せない想いが悲しくて時々落ち込むのは同じだっけれど、秘密を共有するようになってからは、一々失敗はしない程度に平静を保てるようになっていた。

 ドンナ・アントニアが23に逢いに来るとき、その美しい笑顔を眺めてマイアはいつも複雑な氣持ちになった。この方なら世界中のどんな貴公子のハートだって射止められるだろう。それなのに靴職人をしているこの館に閉じこめられた青年を選んだのだ。お金やスティタスや容姿ではなくて、ただ純粋に惹かれる、マイアは説明のつかない想いのことを知っている。二人が惹かれあうのも当然だと思った。そしてだからこそマイアは悲しくなる。ドンナ・アントニアが登場するだけで、友達として、秘密の共犯者としてわずかに近づいた彼の視界から、彼女は完全に消え去ってしまうのだと感じるから。

 彼女が帰る時にも、マイアはやはり複雑な想いを持った。私だったら、檻に閉じこめられて出て行けない彼のもとをあんな風に颯爽と去ったりしないのに。ずっと彼のもとにいて慰めてあげるのに。彼のために、彼を幸せにし続けられる麗人にもっと長い時間を使ってほしいと願う。それでいて、これ以上彼の心を占めないでほしいとも願う。23は懇願したり、嘆息したりはしない。ただ去っていくドンナ・アントニアの背中をじっと見ているだけだ。ドンナ・アントニアのために鍵を開けて、それから再び閉めるとき、マイアは23の心を思って泣きたくなる。そのマイアを見て、彼は氣にするなと言いたげに微かに笑う。だから、マイアはこの瞬間が大嫌いだった。

 マイアが掃除で23の居住区に入る時は、できるだけ早く鍵を開けて鍵を閉める。彼にその瞬間を見られたくないから。

「おはよう、23」
「おはよう、マイア」
彼はすっと立ち上がって、エスプレッソマシンのもとに向かった。掃除の度に二人でコーヒーを飲むのはすでにあたり前のことになっていた。何も言わなくても大きいカップに淹れたコーヒーに砂糖を一つとたくさんのミルクが入って出てくる。だから、マイアは掃除を始める前に23としばらくおしゃべりをすることになっていた。

「今日はね、このあと街にお使いにいくことになっているの。奥様のお手紙を届けて、ジョアナの用事もあるけど、23の靴もお店に届けるんだって」
23は「ほう」と言ってコーヒーを飲んだ。

「二足あるんだが、持てるか」
「もちろんよ。あなたの靴がショーウィンドウに並ぶのを見られるの、嬉しいな」
「店主のビエラにいつもありがとうと伝えてくれ」
「うん」

 自分だけ街に行けるのは申し訳ないなと思った。彼は出て行けないのに。

 突然あの嵐の日の事を思い出した。彼は出て行けるんだ。私以外誰も知らないけれど!

 マイアは囁いた。
「ねえ。23、抜け出せるんだよね。抜け出しておいでよ。街で休憩していいって言われたの。喫茶店に一緒に行かない?」
「……」

「イヤ?」
「いや、そんなことはない。考えたこともなかったんだ。目立たない所で、確実に辿りつける所を知っているか?」

* * *


 マイアはアリアドス通りを下り、ドン・ペドロ四世の銅像を見上げた。あ、頭の上にカモメがとまっている。ウキウキする想いが止まらない。手紙を届けた時に、サントス夫人に「とても嬉しそうね」と言われてしまった。それから、ジョアナに頼まれて入った店で修理の終わった帽子を受け取るときも、はじめてなのに売り子がニコニコ対応してくれたので自分の表情が弛みっぱなしらしいとわかった。

 はじめてのデートをする時って、こんな感じなのかな。本当のデートじゃないけれど、でも嬉しい。ねえ、誰か聞いて。私、23と待ち合わせしているんだよ。

 あの嵐の日、秘密の外出中に破れて汚れたシャツの処分に彼は途方にくれていた。それを上手に切り刻み、掃除機のゴミパックの中に隠して処分することに成功した。あれ以来、信頼してくれることになったのだろうな。そんな風に思った。

 リベルダーデ広場を抜けて、坂を上りきった突き当たりに小さいチェーンの喫茶店がある。暖かい黄色い壁紙と茶色い木の桟やテーブルと椅子が落ち着いた店だった。入ると23はもう来ていた。落ち着かなそうに座っている。マイアが入ってくるとホッとしたように笑った。

「ちゃんと伝えてきたよ。ビエラさん、ものすごく嬉しそうだった。誰かお客さんに電話してた。いますぐ受け取りにくるそうですって言ってた。すぐ売れちゃうって、本当なんだね」
23は黙って微笑んだ。瞳に誇らしそうな光が浮かんでいる。

「注文してくるね。何が飲みたい?」
壁にいくつかのメニューが大きい写真で貼られている。23は自分の真横にあるカプチーノの写真を指差した。

 マイアは二人分のカプチーノをカウンターで頼んでトレーに載せてテーブルに運んだ。

 店内にはボサ・ノヴァがかかっている。23は珍しそうに耳を傾けていた。マイアは23の境遇が氣の毒になった。あんなにいい仕事をしても彼はこの喫茶店に入るだけのお金すら手にすることができない。秘密の出入り口がなければ、生涯あの館の中に閉じこめられたままだ。そもそもあの背中だって、ビタミンD不足、日光浴が足りなかったからに違いない。なんであんなひどい目に遭わなきゃいけないんだろう。

「ねえ。私、作ってくれた靴の料金を払うよ。そうしたら、23は自分の自由になるお金が少しでもできるじゃない?」

 だが、23は首を振った。
「氣もちだけ受け取っておくよ。このままの方がいい。もしかしたらとっくに《監視人たち》に見つかって報告されているかもしれない。だが、俺に制限があって、館に戻らざるを得ない状況のままだったら泳がせ続けてくれるかもしれない。俺にとってはあの出入り口を塞がれないことは何よりも重要なんだ」

「そっか。そうだね。でも、私は何かお礼をしたかったんだ」
「それはもうしてくれたよ」
「何を?」
「こうして、一人ではできなかった体験をさせてくれていること」

 マイアはほんの少し恥じて心の中でつぶやいた。これは、私がしたかったことだもの……。

「お礼か。ライサもそう言っていた……」
「ライサが?」
マイアはびっくりした。23が自分からライサのことを話すのははじめてだった。これまではマイアがしつこく訊いたので嫌々答えてくれていたのだ。

「いつだったか、彼女がワインを注ぐときに失敗を繰り返したことがあったんだ。ジョアナに厳しく叱られてね。二度と繰り返すなと言われたらしい。それがストレスになって次の時に、またこぼした。たまたま誰も見ていなかったから、俺が急に動いたと言ってかばった。まともに話をしたこともない俺に助けてもらったのがよほど意外だったのか、次の掃除の時にお礼をしたいと言ってきた」

「それで?」
「必要ない、落ち着いてワインを注げと言った。あの娘と話をしたのは多分それが最初で最後だったな。それから失敗はしなくなったし」

 マイアは頬杖をついて聴いていた。ぶっきらぼうだけれど優しいあなたらしい話だね。
「誰かが応援していてくれるのって、とても心強いもの。きっとライサは嬉しかったんだよ。わかるな」
「そうかもしれないな」
23はコーヒーを飲んだ。

 ライサのこと、今が訊くチャンスかもしれない。マイアは思った。今なら館の人が聴いている心配もない。
「一つだけ教えて。ライサは事故にあったの?」

 マイアの問いに23は答えなかった。けれどその暗い表情と目をまともに見てくれない視線に、マイアはライサに何かが起こったのだと思った。彼はしばらく躊躇していたが、やがて口を開いた。

「ここに来る前に、健康診断を受けさせられただろう」
「ええ。なんだかとても大仰な」
マイアは顔を赤くしてうつむいた。23はそのマイアの様子にはさほど興味がなさそうだった。

「館で働くお前たちに期待されているのは、もちろん任された仕事をきちんとすることだ。だが、《星のある子供たち》である以上、常に別の期待もかかっている。潜在的配偶者と出会い《星のある子供たち》を産みだすことだ。健康診断はその可能性のない者を排除するためにあるし、現実に館では多くのカップルが生まれて人員がよく入れ替わっている」
「……もしかして、ライサは……」

 23はマイアの問いを無視して続けた。
「青い星を持つ者は、赤い星を持つ娘に正式の宣告をすることで新しい《星のある子供たち》を作ることを強制することが出来る。かつてはそれは当然のことだった。だが、現代の男女同権や基本的人権の発想をもっている大抵の男は、嫌がる女に強制することはまずない。普通は同意を得るんだ。だが、そうでなかった場合、もしくは、同意は得たものの不本意な扱いを受けた場合、男の許を去ることは一年のあいだ許されない。その間、女にとって残酷な運命が襲うこともある。だがシステムはそれを抑止しない。竜の血脈をつなぐことが何にもまして優先するからだ」
「ライサは……」

「ライサは死んでいないし、肉体はどこも傷ついていない」
23はマイアの目を見て言った。彼女は証拠もないのに彼がそういっただけで一度安堵した。しかし、23が先ほどの話をした意図がつかめなくて不安になった。

「彼女はもともとは恋をした相手と一緒になったはずだった。だがその男は二つの顔を持っていた。甘い言葉で融かされた心が、恐怖に凍るのに時間はかからなかった。逃げたくても、それは許されなかった。そして、男の子供を身籠った。だが幸いというべきか、子供がきちんと胎内で育たなかった。ドラガォンにとっての最優先は子供だから、例外的に男のもとを離れて入院する事ができたんだ。そして、その時に心に大きな傷を受けていることがわかった。簡単に癒すことのできない傷だ」

 マイアはようやく理解した。きっとライサの心は壊れてしまったのだろう。だから彼女はもう館にいられなかった。でも秘密を守るために、家族には彼女の居場所も状態も隠されている。でも、ライサを妊娠させ心に傷を負わせた青い星の男は一体誰なんだろう。館にいる男のほとんどが腕輪をしているのでマイアには想像もつかなかった。だが、23はもう少し踏み込んだ。

「どんな理由があるにせよ、こんな風に閉じこめられた生活をしていると大きな影響が出る。俺の場合は、体に出たが、必ずしもそういう形でひずみが表れるわけではない」

 23の言っている意味が、はっきりとはわからなかった。けれど、閉じこめられたという言葉で朧げながら彼の示唆している人物のことが脳裏に浮かんだ。
「24のこと……?」

 彼は否定しなかった。マイアは青くなった。コーヒーを飲み干してから彼は付け加えた。
「あいつには氣をつけろ」
.29 2015 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(13)秘密

Posted by 八少女 夕

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。ちょうど私がポルトにいるのでタイムリーです。

それでですね。長いこと「出していいのか?」とためらっていた、例のシーンが来ちゃいました。いや、「入浴小説」ブログじゃないんですが、今月は多いですね。しかも、今回はいまいちシャレになっていません。でも、Stellaに出せるぐらいですし、大したことは起きませんので、過激な描写を期待されても困りますが。

月刊・Stella ステルラ 4.5月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(13)秘密

 その日、誰も朝から23の姿を見ていなかった。

 館の他の部分から23と24の住む格子の向こうを見る時、二階の居間しか見えない。厳重に管理されている鍵を使って二人の居住区へと入った者だけが一階と三階へ行き、二人が何をしているのか確認することができる。

 マイアはまず三階、それから二階を掃除して、それから一階にいるものと思って工房に来たが、23はいなかった。

 外は激しいにわか雨で稲妻が工房を青白く浮かび上がらせた。

 突然、後ろから小さな声がした。
「マイア……」

 彼女が振り向くと、そこにはずぶ濡れになった23がいて、人差し指を口に当てた。マイアはそっと彼に近づくと「どうしたの」と訊いた。

「頼みがある。誰にも氣づかれないように三階に行きたいんだ。それに、その後にもしてもらいたいことがある」

 23はひどく濡れているだけでなく泥だらけで、その動きは怪我をしているように見えた。

 マイアは頷くと、埃を払うフリをして二階の居間へ行き、格子の向こうには誰もいないのを確認して、階段の下の23にそっと合図をした。彼は靴を脱ぎ、音もなく上がってきて、三階へと消えた。マイアは素早く自分も三階に上がった。23はマイアの手を取って浴室に入り鍵をかけた。

「どうしたの。中庭にいたの?」
轟く雷鳴が館を震わせた。23はマイアの瞳をじっと見つめながら小さい声で言った。
「……。外にいたんだ」
「え?」

 23はバスタブに湯を張りはじめた。そしてマイアの耳に囁くように説明しだした。黒い髪から雫が滴っている。

「工房の奥に昔の脱出用に使われていたらしい、知られていない出入り口があるんだ。偶然見つけて、時々、誰にも見つからないように街に行っていた。もし、俺が外に出ていたことがわかったら、それを塞がれてしまう。お願いだ、この服を誰にも知られないように処分してほしい」
「急な雨だったものね。でも、どうして傘を買わなかったの? 雨の時は観光客用に店頭にでていたでしょう」

 23は首を振った。
「金を持っていないんだ」

 マイアは理解して、頷いた。それから、戸棚にしまってある彼の服や下着、タオルを取りに行くために浴室からそっと出た。

 狂ったように降る大粒の雨が窓に打ちつける激しい音がしていた。そして、稲妻が青白い閃光で部屋を照らし、窓の外の鉄格子をくっきりと浮かび上がらせた。平和な日常を打ち破る瞬間だと感じた。怖れよりもむしろ心が昂揚していた。

 秘密を打ち明けてくれたことが嬉しかった。23が、変わってきたというのはバックヤードで皆が言っていた。以前は使用人とは必要な事以外ほとんど話さなかったというのに、フィリペやミゲルとは時おり話し込むまで親しくなっていた。彼が皆に好かれていくのは嬉しかったが、自分だけ親しくしてもらっているのではなかったのかと、ほんの少し寂しかった。でも、こんなに大きな秘密は誰にでも話すわけはない。信頼されているのだ。

 クローゼットから衣類を素早く取り出した。フワフワのタオルと、かなり上手にアイロン掛けできたと自慢したいシャツを抱えて、再び浴室に飛び込んだ。そしてぎょっとしたことには、すでに23はバスタブに入っていた。

 な、何なの、この人。乙女の前で平然とお風呂に入るなんて! 泡がいっぱいで、また彼が入口に背を向けていたので何も見ずに済んだのが幸いだったが、時間とともに泡は消えてしまうだろう。真っ赤になってバスタブに背を向けると、汚れ破れてすらいる服を抱えた。

「タオルと下着と服、ここに置いたから。こっちの服はちゃんと見つからないように処分するから心配しないで……」

 慌てて出て行こうとするマイアに23は後ろから声を掛けた。
「待ってくれ、背中を見てほしい」

 はっとして振り向き彼の背中を見た。といっても、半分はカールした髪に隠れていた。マイアはバスタブに近づくと、そっとその髪をずらして、はっと息を飲んだ。赤く擦れて血がにじんでいた。背骨が変形して盛り上がってしまっている部分だった。その瘤のような背中を見て、マイアは自分がずっと勘違いしていたことを知った。ただの習慣的な猫背などではなかった。医学に疎いマイアは正式な病名を知らなかったが、くる病による脊椎後湾症だった。

「急いでいたので無理に狭い塀の間を通ったんだ。擦ってしまって、痛みがある。血が出るような怪我か?」
「うん。でも、お医者様に見せなきゃいけないほどの大怪我ではないから安心して。しみると思うけれど、消毒しておけば自然に治ると思う」
「そうか、よかった」

「化膿するかもしれないから、まずお湯だけで綺麗にするね」
マイアは清潔なハンドタオルを洗面台の温水で濡らして、丁寧に擦り傷をそっと洗った。彼の指示に従い、棚の中にあった消毒用アルコールで拭いてから絆創膏を貼った。「終わったよ」と言って泥と血で汚れた衣類を持って離れようとすると、背を向けたままひとり言のような小さな声で彼は言った。
「髪も洗ってくれるって、約束したじゃないか……」

 マイアは驚いて振り向いた。
「憶えていたの……?」

 彼の背中はもっと丸くなったように見えた。後ろを向いたままだったので表情は見えなかった。
「忘れる訳はないだろう」

「私、あの翌日に約束通り、石鹸持ってきたんだよ。でも、メネゼスさんにみつかっちゃった」
そう言うと、23は振り返った。
「知ってる。その戸棚、開けてごらん」

 彼女が洗面台の化粧戸棚を開けると、白いアラバスター製の石鹸箱が一つ入っていた。ふたを開けるとほとんど使い切ったようなすみれ色の石鹸が見えた。
「これ……」

「父が俺を罰するためにあそこに閉じこめた。でも、あの翌日に俺を心配した母が予定より早く館に戻してしまったんだ。何度も、わざと悪いことをしてあそこに閉じこめられるようにしたが、お前は二度と来なかった」
「来たくても来れなかったんだよ」
「わかってる。ずいぶん後になって、母が教えてくれた。お前の家族にも迷惑をかけたんだろう。すまない」

「23が悪いんじゃない。私がメネゼスさんに見つかるようなヘマさえしなかったら……」
彼は小さく笑った。
「ちゃんと約束通り、洗っただろう」

「こんなに素敵なバスルームがあるのに、なんであんなに汚くしていたの?」
マイアは父親のアパートメントの三部屋分よりも広い空間を見回した。扇形のバスタブは子供のころのマイア三姉妹が一緒に水浴びしても問題がないくらい広い。
「臍を曲げていたんだ。召使いもアントニアもみな24のことばかり褒めそやして面白くなかったんだろうな。それに噂されているのを聞いてしまって以来、背中を見られるのがイヤで風呂には入りたくなかった」

 マイアははっとした。たくさんの召使いに囲まれるこの暮らしで、産まれた時から召使いに世話をされてきた彼にとっては、使用人に肌を晒して入浴すること恥ではなかった。それよりもむしろ他の人と明らかに違う背中のゆがみを見られることの方を嫌っていたのだ。彼が使用人たちと関わろうとしないでいつも一人でいたのも、噂されてひどく傷ついたからに違いない。

 氣味悪がったり馬鹿にしたりしていないと、それどころか、背中がどうあっても好きだと思う心は全く変わらないと、できることならば言葉にして伝えたかった。友達としてならば、いや、使用人としてならば、それを言えたかもしれない。でも、マイアにとって23はもうただの友達でもご主人様でもなかった。

 いま以上に彼に近づくことはできなかった。空間と時間で量れば彼はとても近くにいた。けれどいくら近づいても、何も知らなかった友だちから何もかも心得ている使用人へとシフトしていくだけだ。ジョアナのように何もかも任せられる、けれど家族でも女でもない存在になってしまう。ドンナ・アントニアのような存在とは違うのだ。せめて十二年前にもっと親しくなれていたら。マイアは唇を噛んだ。

 けれど、先ほどの23の言葉を思い出して打ちひしがれた。あの頃、23はもうドンナ・アントニアを知っていたのだ。今ほど親しくなかった、むしろ当時はドンナ・アントニアと24の方が親しかったような口ぶりだったけれど、きっとだからこそ、当時から彼はあの美しい女性のことを見つめ続けていたに違いない。あの時に誰にも見つからずに、しつこく逢いに来れていたとしても、きっと今と変わりはなかっただろう。

 同じ金の腕輪を嵌めている。あのトリンダーデで逢った老婆も、マティルダも、この腕輪を嵌めている者は親戚だと言った。でも、私はボアヴィスタ通りに住む、ドンナの称号を持つ、そして誰もが振り返る美しい女性として生まれて来なかった。バックヤードに並んでいる、召使いたちの一人にしかなれなかった。背中を見て嗤った、彼の苦手な人たちの一人。

「背中、見ちゃってごめんね」
「服の上からだって隠せないんだ。抵抗しても状況は変えられない。これが自分なんだって受け入れるしかない」

「髪、今からでもよければ、洗うよ」
マイアがそう言うと、23はしばらく何も言わなかった。彼女はどうしたらいいのかわからなくて黙って立ち尽くしていた。やがて彼は後ろを向いたままシャンプーを差し出してきた。

 マイアは23の浸かっているバスタブの湯で手を湿らせて、シャンプーを泡立てた。石鹸と同じ爽やかな香りが広がった。余計なものを見ないで済むように彼の頭だけを見ながらそっと髪を洗った。

 ――髪も洗ってあげるね。十歳の少女の言葉は軽かった。それは庭の敷石を洗うことや縫いぐるみをきれいにするのと変わらなかった。その何げなくしてしまった約束を果たしているマイアは、誰よりも大切な人の頭に触れている。彼の命と想いを抱く特別な器。はじめて触れる彼の頭皮と黒髪。泡に輝く幾千もの虹。十歳のマイアだったら笑い声を上げて楽しく洗ったに違いない。社会階層の差も、恋も、何も知らなかった頃だったから。今は、ものも言わずにできるだけ優しく丁寧に指先を動かすだけだ。体中から溢れ出そうになる想いを堪えながら。こんなに近くにいるのに届かない、届けてはいけない想い。これが私のサウダージ。想うのを止められるならばとっくにそうしている。

 激しく高鳴る心臓の鼓動が彼の耳に聞こえているのではないかと思った。
.25 2015 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(12)礼拝

Posted by 八少女 夕

「Infante 323 黄金の枷」、本当はひと月に一回なんですが、イレギュラーに続きをアップすることにしました。理由は「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」連載休止中で、若干小説発表に余裕があること。それからlimeさんにいただいたイラストの関連で、今回の分を早く発表したくなったから。窓から夕陽を見つめるマイア、私の中ではすでにlimeさんのイラストそのまんまになっています。
マイア by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りします。



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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(12)礼拝

 マイアはパジャマに着替えて、窓からD河の対岸に浮かび上がるワイン倉庫街の明かりを眺めつつ、髪を梳かしていた。最後の赤い光を投げて大西洋の果てに太陽が沈んだ後、D河には人影が絶えたGの街の寂しい青い光が映る。サマータイムの設定のせいで、この時期の日暮れは九時近かった。週に二日ほど早めに仕事が上がるので、マイアは部屋の窓から陽が暮れていくのをじっくりと楽しむことが出来た。遅番はマティルダと交代なので、マイアが夕陽を見るのはいつも一人だった。心の中で彼女は、これよりもずっと下の位置、あの使われていない石造りの小屋の裏手の大きな石の上に座っていた。少年だった23が後ろから話しかけていた。

 夕陽って、こんなに悲しかったのかな。マイアはひとり言をつぶやく。答えてくれる少年はもういない。夕陽の代わりに、太陽のように輝かしい彼の女神を夢みて待ちわびているのだろう。

 バタバタと音がして、マティルダが戻ってきたのがわかった。マイアは振り返った。
「お疲れさま。遅かったのね」

「あ、仕事は三十分くらい前に終わったんだけれど、キッチンで遅番チームでお喋りしてたの」
マティルダはベッドの上にバフッと腰掛けると、パンプスを投げ捨てるように脱いでから大きく伸びをした。
「その話題だけれどね。今日は、本当に驚いたわ」

「何に驚いたの?」
「23よ。夕方にね、私、冷蔵庫の補充に行ったの。いつもよりトニックウォーターの減りが速いし、コーヒーも少なくなっているから、もう少したくさん注文しておきましょうかって訊いたらね」
マイアはドキッとした。例の美味しいトニックウォーターやコーヒーを減らすのに貢献しているのは間違いなく自分だ。

「そう訊いたら?」
「お前もコーヒーを飲むかって。天地がひっくり返ったかと思ったわよ」
「なんで?」
「だって、23よ。掃除や給仕の時のありがとうしか言われたことなくって、本当に取りつく島もなかったのに」

 今度はマイアが驚く番だった。十二年前のことがあるから、多少は他の人より氣軽に話しかけてもらっているとは思っていたが、まさか本当にアマリアが言ったようにほぼ無言だなんて思ってもいなかったのだ。

「で、淹れてもらったんでしょう」
「ええ。もちろん。もしかしたら一生に一度かもしれないと思ったから」
「美味しかったでしょう」

「マイア、もう飲んだことあるの?」
「うん。何度も。いつも淹れてくれるよ」
「ええ~っ!」
う、この調子じゃ、ポートワインのトニックウォーター割のことは言わない方がいいわね。

「23、どうしちゃったんだろう。さっき、フィリペも首を傾げていたよ」
「何に?」
「靴の踵がすり減っているって指摘してくれて、その場で修理してくれたんだって。しかも、その間、椅子に座ってろって、コーヒーまで出してくれたって。明日はピンクの雪が降るかもと言ってたもの」

「でも、23は私がここに来たときから、親切でいい人だったよ」
「ええっ?」
そんなに驚くなんて心外だなあ。マイアはマティルダの23のイメージに戸惑っていた。

「もしかしたら、マイアの影響じゃないの?」
「私の? ううん。私、何もしていないよ」
「まあ、マイアが何かできるとは思っていないけれど。そうすると、あれかな。ドンナ・アントニアが言ったのかしら。使用人ともっと仲良くしなさいって」

 それは大いにありえることだと思った。だから、私にも親切にしてくれたのかな。やだな、なんでガッカリしているんだろう、私。マイアはちらっと23の寝室の窓を眺めた。灯が漏れて鉄格子がくっきりと浮かび上がっていた。手前の窓に人影が映っていた。23だ。やっぱりGの街を見ているんだろうか。あの日に同じ夕景を眺めたように。マイアはもう夜景を見ていなかった。動かない人影を見つめていた。


 日曜日の朝は、礼拝堂でミサがある。礼拝堂といっても、別の建物ではない。食堂の後ろの廊下を奥に進み、インファンテたちの居住区と反対側にもうひとつの中庭がある。そのむこうが礼拝堂だった。

 祭壇の後ろは二つのアーチに囲まれた二つの薔薇窓と合計十二の縦長のステンドグラスで、朝の光が祭壇を青や赤に染めてとても美しかった。いつもやってくるボルゲス司教はサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会に所属している。彼の左手首にも金の腕輪が見えたので、それが彼がここにやってくる理由なのだと思った。オルガニストも毎週同じだった。向かって左側の二階ギャラリーにはパイプオルガンがある。二階の右側のギャラリーに23と24が座る。

 内陣にある貴賓席にはドン・アルフォンソとドンナ・マヌエラが座る。使用人たちは全て身廊に座り、マイアは一番後ろに座った。

 ドンナ・アントニアがある日曜日にやって来た時には案内されてドンナ・マヌエラの横に座った。その時にはじめて、マイアは二階の23と24はどうして貴賓席に座らないのだろうと思った。そもそも二人の態度はよくないとまでは言えないまでも、あまり褒められたものではなかった。24はしょっちゅう服装を直していたし、23はオルガンやステンドグラスの方を見ているばかりで司教の話をまともに聞いていないように見えた。ドンナ・マヌエラやドンナ・アントニアが信仰ぶかい様子で祈りを捧げているのを斜めに見ていた。

 月曜日に23の居住区の掃除にあたっていた。全部終わったところでマイアは仕事をしている彼に訊いた。
「司教様に怒られたことない?」
「なんだ? 薮から棒に」

「ごミサのとき、23も24も不真面目だなと思って」
「ああ、そのことか。怒られないさ」
彼はあっさりと認めた。

「真面目に受けるのが嫌だからいつも二階にいるの?」
「そうじゃないよ。インファンテはいつもあそこなんだ」
「ご主人様なのに?」
「神の国の迷える子羊じゃないから、本当はミサなんか出なくてもいいんだ。だがそんな事を言うと母が騒ぐからな」

「みんな子羊だよ。私みたいな平民だってそうなんでしょう」
「お前は教会の大事な子羊さ。俺たちは違う。だから、祈ったりしないし、天国に行こうとも考えない」
「祈れば誰でも行けるんじゃないの。神父さんはいつもそう言うよ」
 
「洗礼も受けていないのに?」
「え?」
「言っただろう。俺たちは存在していないんだ。教会のいうところの天国にはそんな奴らの椅子はない」

 考え込んでしまったマイアを見て、23は笑った。
「そんなに深刻になるな。お前が思うほど絶望的な思想を持ってはいないし、無神論者でもない」
彼女はよくわからないという顔をした。

「俺はカトリック教会や形式をありがたがっていない。教会はドラガォンと同じように人間の作った一つのシステムだ。人間のやることだからあきらかに矛盾したこともする。例えば、この街で最も豪華な教会はなんだ?」

 マイアは少し考えてから答えた。
「サン・フランシスコ教会かな」
ボルサ宮殿の隣にあるその教会は、豪華な内装で有名だ。
「その通りだ。聖フランシスコの名前を戴いているからには、もともとは清貧を尊ぶ思想のもとに建てられたはずだろう。それが、貴族が自分の先祖の墓を競って壮麗にしたがり、ブラジルから運んできた黄金をこれでもかと貼付けて、世界でも有数の金ぴかの教会にしてしまった。そうなってからこれが神の威光だといわれても、素直にそうですかとは思えないだろう」
マイアは頷いた。確かにそうかも。

「神を信じていないわけではない。だが、教会のいう事、聖書に書かれていることが全て正しいとは思えない。教会も聖書も、それにキリスト教共同体も、人間の手によって作られたものだ。そんなものに意味はないしありがたがる必要もない。この館のなかにある礼拝堂も同じだ」

「それでも、23。私は日曜日の礼拝ごとに祈るよ」
「何を」
「この平和で幸せな日常が続きますようにって」
23は笑って、頷いた。
「お前らしい祈りだな。俺の分も祈っておいてくれ」
「うん」

 マイアは昼食の準備のために出て行った。23はその後ろ姿をしばらく目で追っていた。
.21 2015 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(11)作業

Posted by 八少女 夕

Stella用連載小説「Infante 323 黄金の枷」です。普通は月末なんですが、「scriviamo! 2015」がどうなるかわからないので、とりあえず空いている月初にアップする事にしました。

さて、今回はマイアに視点が戻ってきています。このストーリーのちょうど半分くらいまで来ています。(まだそんなにあるのかという話はさておき)

いつだったか、cambrouseさんと盛り上がったサンドイッチを食べるシーン、ようやく登場です。それから、外伝でちらりと出てきた四角い石の話、元ネタはここでした。(その元ネタはさらにありますが)


月刊・Stella ステルラ 2月号参加 連載小説 stella white12
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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(11)作業

「マイア、午後からはセニョール323の所へ行くように。靴型を整理してわかりやすくしまいたいので手伝ってほしいと仰せだ」
メネゼスに言われて、マイアは喜んだ様子が顔に出ないようにするのに苦労した。

「前からやりたかったんだ。一人だとどのくらいかかるかわからないので、始められなかった」
23は淡々と言う。そうだよね。浮かれているのは、私だけだよね。マイアは恥ずかしくなった。23が逢って幸せになるのは、逢いたくて待っているのはドンナ・アントニアだものね。唇を噛んだ。それから無理矢理笑顔を作った。少なくとも今は一緒にいられるもの。たとえ単なる仕事でも。

 マイアが靴型に書かれている番号と氏名、ついているメモの内容を読み上げ、23はそれを銀の小さいノートブック型コンピュータにそれを入力していく。それが済むと、マイアは箱に靴型を納めていった。しばらく作業すると23はコーヒーを淹れてくれ、しばらく休憩した。夕方までやったが、靴型の山は三分の二くらいになっただけだった。23はメネゼスに翌日もマイアを借りていいかと訊いた。その晩マイアはあまり嬉しそうで、マティルダに「どうしたの」と訊かれてしまった。

 翌日マイアはまず、食堂で朝食の給仕をした後に、23の三階と二階の掃除をフルスピードで終わらせて、工房に降りてきた。
「掃除は終わったよ。昨日の続き、もうできるよ。今日、一日かかるよね、きっと」
「そうだな。時間が惜しいので昼食を作って運んでもらうことにしたが、お前の分も頼もう。それでいいか?」
「もちろん」
 
 二人は慣れた様子で靴型をしまっていった。靴型の山はゆっくりと丘になっていった。

 昼食時間になると、マイアはキッチンに行った。クラウディオが用意してあったバスケットを渡してくれた。中には二人分のクラブハウスサンドイッチが入っていた。美味しそうな香りの漂うバスケットを抱えて工房に降りて行くと、23は中庭にテーブルを出しているところだった。花が咲き乱れて美しい。
「お庭で食べるの? ピクニックみたいね」

 はしゃぐマイアを見て23は笑った。
「何を飲みたい? ポートワインの白があるが、飲めるか?」
「え。飲めるけど勤務中に酔うと怒られるかな……。あ、もし炭酸飲料があるなら、それで割ってもいい?」
「炭酸飲料か……。スプライトはないが、これでもいいか?」

 それはマイアが一度も見たことのないトニックウォーターだった。Fever Treeのものだ。普通のトニックウォーターと較べてマイルドで、さらに23がレモンを浮かべてくれたので、マイアがいつも飲んでいた白ワインの炭酸割と較べてずっと繊細でおいしかった。

 マイアは中庭を見回した。ブーゲンビリア、ジャスミン、アラマンダ、ヒメヒマワリ、紫陽花、一重のつる薔薇、デルフィニウム、ナスタチウム。アイビーやベンジャミン、今は季節ではないので花はないが、ライラックやニワトコ、それに椿の樹がひしめいていた。一見思うがままに繁らせているかのようだが、実はよく考えられて配置・管理されていることがわかった。暗すぎず、けれどもテーブルに座る時、そして暑い午後に散歩をする時にも、直射日光に晒されないように優しい日陰を作り出していた。

「この庭、すてきだね。専門の庭師がいるの?」
「普段はフィリペがみてくれている。あいつは代々庭師の家で生まれたんだ。年に二度、あいつの父親と家族がやってきて剪定してくれる」

「24の所と全く違う庭なんだね。自分の好きなようにさせてくれるんだ」
「あいつの所はどんな庭なんだ?」

 マイアは、あ、と思った。そうか。23と24はお互いの居住区にいくことは出来ないんだ。
「あっちは、フランス風っていうのかなあ。幾何学的に剪定されていて、左右対称。お花は園芸品種っぽい高そうな薔薇がメインで、どれも色ごとに決まった所に植わっているし、しかも時々、総取っ替えされている。どれも向こうまで見渡せるくらい低い植物だけなんだよ」

「そうか。あいつらしいな。そういう庭の方が好きか?」
「わたし? ううん。ああいうのも綺麗だけれど、こっちのほうがいいな。花も樹も、のびのびとしてるもの。それに、たくさん秘密が隠れていそうで、飽きないし」

 ガーデンテーブルの上に置かれたワイングラスの中で踊る氷とレモン。チキンとレタスとトマトがたっぷり入った作りたてのクラブハウスサンドイッチ。
「美味しいね」
幸せそうに食べるマイアを見て、23は笑った。

「笑わないでよ。こんなしゃれたランチ、食べる機会はほとんどないんだから」
「そんなに氣にいったなら、時々、昼飯つきの作業をしてもらうことにするよ」
マイアがあまり嬉しそうな顔をしたものだから、彼は大笑いした。

 食事が終わるとマイアは23と一緒に中庭を散歩した。ジャスミンの薫りがシャワーのように降った。夏がやってくる。マイアが想像もしなかった美しい季節。世界がこれほどまでに輝くとは信じられない。いつもと同じ太陽、同じ大氣、同じ若葉なのに。わずかな風のそよぎが、柔らかい新緑への光の反射が、彼女の心を震わせる。

 彼に逢う度にたくさん笑って、感受性を鈍らせていた卑屈な心の錆が落ちた。幾晩も人知れず流した泪に洗われて、彼女の魂は剥き出しになった。マイアの心は、世界のどんなわずかな刺激にも豊かに反応するようになっていた。そして、この魅惑的な世界へと誘う彼と一緒にいられるわずかな時が愛おしかった。

 歩いているうちに足元で何かがカツンとなった。マイアが見ると土の中に四角い石が埋まっていた。
「あれ」

 23はそっとマイアの肩に手をあてて、マイアの足がその石から離れるようにした。石の上には何かが書かれている。マイアが読もうとした時に、23が口にした。
「《Et in Arcadia ego》」

「ラテン語?」
「ああ」

「あの、あそこにもあったよね」
「どこだ?」
「ほら。私たちが出会った、あの小屋の裏手。小さい石があって、こういうラテン語が彫られていたと思うんだけれど」
「そうかもしれない。実際のところ、この街とおそらく近辺の郊外にすくなくとも321は作られたはずだから」
「321? 」

 23は屈んで、碑文の上をそっと撫でた。マイアは少し不安になって一緒に屈み、23の横顔を覗き込んだ。
「どういう意味なの?」
「《そして、私はアルカディアにすらいる》」

「アルカディアって?」
「古代ギリシャの理想郷のことだ」
「じゃあ、私ってだれ?」

 23はマイアの方を見て言った。
「死だよ」

 マイアはぎょっとして先ほど自分が踏んだ所を手で触れた。
「いいんだ。この下にあるのは存在しなかったものだから」

 マイアにははっきりとわかった。この下にはインファンテの誰かが眠っているのだ。存在しなかったことになっているので、葬儀もしてもらえなければ墓標すらも立ててもらえなかった321人のうちの誰かが。そして、今ここにいる23も死んだら同じようにされるのだと。

「……なぜ?」
「誰かが冗談半分に、この有名な句を刻んだんだろうな。そして、それが伝統になってしまったんだ。街の礎の一つに、忘れられた屋敷の片隅に、この碑文の彫られた石があり、その下には人骨が埋められていることもある。だが、それについて言及されることはない」

「冗談半分ってどういうこと?」
「このラテン語の文字を並べ替えるとどうなるかわかるか?」
「並べ替える?」

「アナグラムだよ。《I tego arcana dei》」
「意味は?」
「《私は神の秘密を埋めた》」
「神の秘密……」
「こんな文句を刻んでも、ほとんどの人間は氣にもとめない。新しい家を建てる時にはブルドーザーがひっくり返していく何でもない石だ」

 23は口の端を歪めた。その表情は、いつもの23とは違って、24がよく見せる冷笑にそっくりだった。二人が兄弟であること、もしくは同じインファンテであることを思い知らされるような嘲笑。シニカルで享楽的に生きる24とは全く違う性格のはずなのに、ちょっとした横顔がこんなにも似ていることにマイアはぞっとした。けれど、23が馬鹿にしてあざ笑っているのは、使用人たちでも、この碑文を考えた人たちでもなくて、彼自身なのだと感じてマイアはとても悲しくなった。そうじゃない。あなたにそんなふうでいてほしくないよ。自分自身を好きになってもらいたいよ。

「23。もし、街でこの石の碑文を見つけたら、私、ちゃんときれいにするから。花を周りに植えるから」
「花?」
「うん。三色すみれを植えるから。下に眠っている人たちが寂しくないように」

 それを聞いて23は少し表情を緩めた。それから訊いた。
「なぜ三色すみれなんだ?」

 マイアは言葉に詰まった。それは、23と出会ってもう腕輪をしているたった一人のおかしな子供じゃないと勇氣づけられた時に見た花だった。あの日以来、三色すみれはマイアの一番好きな花になっていた。けれど下手な事を言うと、23に自分の想いを悟られてしまうのではないかと怖れた。それでなんでもないように言った。
「私、すみれが好きなの」

 彼はほっとしたように優しく笑うと答えた。
「すみれは俺も好きだ。ところで、そろそろ作業に戻ろうか」
.07 2015 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(10)アヴェ・マリア

Posted by 八少女 夕

Stella用連載小説「Infante 323 黄金の枷」です。次のStellaは合併号なので二つ出すことになります。

さて、今回はドンナ・マヌエラの回想が主になります。この小説では最後の章まで主人公の意志や想いがほとんど出てきません。この章では、例外的に母親の回想という形で少年だった頃の23の言葉がたくさん出てきます。館の中における人間関係で、23が少し特殊な閉じこもり方をしている理由のいくつかがここで明らかになります。


月刊・Stella ステルラ 1・12月合併号参加 連載小説 stella white12
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「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(10)アヴェ・マリア

「ミニャ・セニョーラ(奥様)。ジョアナから報告がありました。マイアはやはりライサのことを訊き回っているようです」

 石のように無表情で報告するメネゼスをマヌエラはちらりと見た。けれど、特に動揺した様子は見せなかった。
「それなら、以前も言ったようにかえって好都合でしょう? ここにいる限りライサの家族とは連絡が取れないんですから」

「しかし二ヶ月経ったら、休暇を与えなくてはなりません。この屋敷に留めることは不可能です。それとも、それまでに宣告を受けるとお考えですか?」
「まさか」
「それでは、いかがなさいますか」

「もうしばらく様子を見て、必要なら私から話をします。どうかそっとしておいてください」
「かしこまりました、ミニャ・セニョーラ」

 メネゼスが下がると、マヌエラは机の引き出しから紙挟みを取り出して開き、一番上にあるマイアの書類を取り上げて眺めた。メネゼスが二人の応募者がいるとこの書類を持ってきた時のことを思い出した。

「一人はミカエラ・アバディス、星三つの娘です。もう一人がサントス先生の推薦してきたマイア・フェレイラという娘です」
「あなたはどちらが適任だと思うの」
「二人とも召使いとしての経験はありません。経歴からするとフェレイラの方が教えやすいと思いますし、サントス先生の推薦なら申し分ないのですが……」
「何か問題が?」

「はい、《監視人たち》側からの報告書によりますと、どうやらライサ・モタの妹と知り合いのようなのです」
「そう……」

 マイアの書類をもう一度眺めたマヌエラは、はっと息を飲んだ。マイア・フェレイラ……、サントス先生の推薦……。それから記憶を遡って年齢を逆算した。この子は、あの時の……。

「メネゼス。私、このフェレイラという娘を雇おうと思うんだけれど」
「ミニャ・セニョーラ? いいのですか?」
「この館にいれば、監視も行き届くしちょうどいいんじゃないかしら。それに、憶えている? この子は、あの石鹸を持ってきた子でしょう」

 メネゼスもはっとした。それから、女主人の意図がわかったので、深々と頭を下げた。

 彼女はメネゼスの出て行ったドアをしばらく見ていた。そして、書類を強く握りしめていたことに氣がつき、手を離すとゆっくりと手のひらを動かして作ってしまった皺を伸ばした。マイアの名前のところで手を止めて、その名をなぞった。

 十二年前、それは突然始まった。洗濯を担当する召使いが報告にやってきた。23が「寝ている間に下着を汚してしまった」と戸惑っていると。声変わりも始まっていたし、アルフォンソが先に同じようになったので、マヌエラには23も思春期が始まったのか程度にしか思えなかったのだが、夫であるカルルシュは青ざめた。「ついにその時が来てしまったか」

 それから、館では大きな変化があった。現在24の居住区となっている所に住んでいたカルルシュの弟、インファンテ322がボアヴィスタ通りの別邸宅に遷ることになった。そして、誰も住んでいなかった隣の居住区に23の部屋にあった全てが移され、十四歳になったばかりの少年は鉄格子の向こうに閉じこめられた。

 23はそれまでずっと手のかからない子供だった。少々内向的だとは思っていたが、彼女は心配もしていなかった。病氣がちだった夫と心臓疾患を抱えるアルフォンソ、甘える末っ子の24に忙殺されていたマヌエラには、その時間もなかった。閉じこめられたくないという子供の氣もちは痛いほどわかったが、父親である当主のカルルシュにすらどうすることも出来ない伝統だと言われ、そのことを考えるのはやめていた。直に背中が痛い、体が重いと訴えた彼を、誰もが鉄格子から出たいがための仮病だと決めつけた。それから高熱が出て、医者がやってきてくる病だと診断するまで、誰も彼の訴えを真面目に取り合わなかった。

 その時には脊椎後湾はずいぶんと進んでいた。もともと内向的で外に出たがらなかったために日光不足でビタミンDが不足していたのだ。閉じこめられてさらに日照量が減ったことも大きく作用した。マヌエラはそんなことになるまで我が子の状態に氣がつかなかったことに愕然とした。そして、さらにもっと厳しい現実を突きつけられることになった。インファンテは法律上は存在していないので、入院も手術もできなかったのだ。もし、アルフォンソが健康であったなら、彼の名前で手術することが出来たかもしれない。だが、アルフォンソは一ヶ月と開けずに入退院を繰り返していた。

 悪いことが続いた。脊椎後湾に対する使用人の心ない噂話を23は耳にしてしまった。いずれは自分も同じ待遇になると夢にも思わなかった24が格子の向こうの兄をあざ笑い、背中に関する意地の悪い言葉を投げつけた。叱責はこれらの再発は防いでも、既に発せられてしまった言葉を取り消すことは出来なかった。傷ついた23は体を見せることを嫌がり、風呂に入らなくなった。医師に処方されたサプリメントを勝手に過剰摂取して副作用の嘔吐と高熱にも苦しんだ。

 部屋をめちゃめちゃにし、教師の命じた課題をやらなくなり、これまで言ったことのない悪い言葉を遣い、食事の時に出してもらえると頻繁に24と取っ組み合いのけんかをして皿やコップを壊した。手を焼いた父親のカルルシュは、23が問題を起こす度に暗くて寒い元倉庫に閉じこめた。マヌエラが懇願して出来るだけ早く館に戻してもらったが、彼の蛮行はひどくなる一方だった。

 その23が急に風呂にだけは入るようになった。以前は当たり前だった使用人の手伝いを一切拒否し、一人で長いこと入っているとジョアナから聞き、マヌエラは様子を見に行くことにした。

 そっと浴室のドアを開けて覗くと、23は肌が赤くなるほど強く体をこすり、嗚咽を漏らしながら髪を洗っていた。
「ちゃんと洗っているのに、こないじゃないか……」

 マヌエラはそのつぶやきを聞いてすぐに理解した。二週間ほど前にメネゼスから報告を受けていた少女のことだと。生け垣から忍び込み、見つけたメネゼスが即座につまみ出したという少女は、元倉庫の裏手で23を探していたらしい。 

* * *


「ごめんなさい。勝手に忍び込んだりして。でも、泥棒じゃないんです。夕陽を観に来て、友達になった子がいるんです」
「いい加減なことをいうな。ここに子供なんかいない」
「嘘じゃないわ。あそこの窓の所にいたもの」

 なんてことだ。それでは、彼に逢ってしまったのか。メネゼスは心の中で舌打をした。

 少女はポケットから重そうに紫色の石鹸を取り出した。それは小さな少女の両手からはみ出すほど大きかった。
「これ、あの子に持ってきてあげるって約束したんです。逢わせてもらえないなら、あの子に渡してください」

 メネゼスはその時になって初めて少女の左手首に腕輪がついているのに氣がついた。助かった。《星のある子供たち》の一人ならすぐに素性がわかる。

「よろしい。渡してあげるが、誰からと伝えなくてはならない。お前の名前は」
「マイア。マイア・フェレイラです」
「もう二度と忍び込んだりしないと約束できるか」
「……。はい」

* * *


 メネゼスの連絡を受けて、《監視人たち》の本部はすぐに動いた。マイアの家族はナウ・ヴィトーリア通りに引越すことになった。街の東端にある地区で子供の足でドラガォンの館まで歩くのは不可能だ。そして生け垣はもう誰も忍び込めないようにすぐに修復された。

 侵入者はドラガォンにとっては排除すべき邪魔者に過ぎなかったし、マヌエラ自身もその報告を受けた時にそれが息子を悲しませることになるとは夢にも思っていなかった。23は新しい使用人にひどく人見知りをするので、知らない子供と友達になりたがるなどとは思っていなかったから。けれど、彼は少女を待っていた。

 彼女はドアを開けて、バスルームへ入っていった。彼ははっとして動きを止めた。濡れるのも構わず、マヌエラは息子を抱きしめて泣いた。
「あの子はね。お前がイヤで来ないんじゃないの。お前に会いに来たのに、メネゼスに見つかってしまって、近づけないように遠くヘ引越させられてしまったの。メウ・トレース、お前のきもちをわかっていなかった私を許してちょうだい」

 その夕方、彼は大きなすみれ色の石鹸を母の手から受け取った。それは、彼の手にもずっしりと重かった。彼は壊れやすいガラス細工に触れるようにそっとなでた。

「どんな子だったの?」
「健康そうだった。笑顔がかわいかった。軽やかに走っている姿は鹿みたいだった。あの夕陽の光景が好きで、こんな姿の俺にもイヤな顔をしなかった」
「あなたの初恋ね」
「そんなんじゃないよ!」

 そういってから、声を荒げたことを後悔して項垂れた。
「……友達ができると思ったんだ。本に書いてあるみたいに……」
それを聞いて、マヌエラはようやく思い至った。外に出ることのない三兄弟には友達がいない。自分には禁じられなかったが故に、そこまで渇望したことのない友という存在を、持つことが許されなかった23がどれほど必要としていたのかを。

 彼は格子のはまった窓から暮れていくD河を眺めながらぽつりと言った。
「ねえ、母上。教えてよ。どうしてなんだろう」
「メウ・トレース?」
「動物みたいに檻に入れられて。せっかくできた友達も遠ざけられて。父上もメネゼスも禁止するか罰するばかり。いつでもいい子じゃないのはアルフォンソや24だって同じなのに、どうして俺だけみんなに嫌われるんだろう」

 マヌエラは驚いて言った。
「何を言うの。誰もお前のことを嫌ったりしていないわ。理不尽なことだけれど、これは全てドラガォンの伝統で……」

 23はその言葉を遮った。
「母上。無理して慰めないでよ。俺を見るみんなの表情を見ればわかるんだ。話し方や、時間のとり方だって違う。アルフォンソは宿題をしないで寝ていてもいいし、24は悪戯をしてもみんなに可愛がられる。母上もアントニアも24と話す時はいつも笑顔だよ。でも、俺のことは動物が噛みつかないか心配するみたいに見るんだ」
「メウ・トレース、違うの、私は閉じこめられたお前が不憫で……」
「いいよ。困らせるようなことを言ってごめんなさい。もう言わないよ」

 兄であるアルフォンソはプリンシピであるが故に閉じこめられることはなかった。弟の24は23と同じ運命にあったが、まだその時期に来ていなかった。だがそれを説明した所で彼の心の傷が癒えるわけではなかった。アルフォンソは心臓病のため常にいたわられ、24は天性の甘え上手で屋敷の全ての大人たちに愛されていた。内向的で打ち解けない23に対しては、部屋の隅でひとり本を読んでいる姿に安心して、あえて話しかけたり一緒の時間を過ごそうとする人はほとんどなかった。マヌエラ自身も。

 そのことに一人で心を悩ませてきた少年は、閉じこめられたことで自己否定のループにはまり込んでいた。父親と兄の健康状態は深刻だったが、彼の症状は生命には関わらないという理由で放置され、それが自分の価値が低いからだと思うようになっていた。友達がいないことに加え、嫌われることを怖れて悩みを誰にも話せなくなっていた。マヌエラはずっと子供たちを等しく愛していると自信を持っていたし、全ての子供たちのことを理解していると信じていた。本当は何もわかっていなかったのだ。

 息子の誤解を解こうとするマヌエラにそれ以上言わせまいと23は話題を変えた。
「あの子はGの街に引越したの?」
「いいえ。河や海からは離れた所よ」
「じゃあ、もうD河に沈む夕陽は見られないの?」
「見られないでしょうね……」

「そんなの、ひどいよ! 元に戻してあげてよ」
マヌエラは23の剣幕にたじろいだ。
「メウ・トレース。あの子のお父さんは新しい職場で働きだしたし、あの子と妹たちはもう新しい学校に通っているの。《監視人たち》の中枢部が動いてしまったら、もう物事は簡単には動かせないの。かわいそうだけれど、私にもお父様にももうどうすることもできないの」

 23はひどく項垂れた。
「俺が話しかけたりしたから……」

 その少女が二度と来られないと理解してから、23は一切問題を起こさなくなった。悪い言葉を口にしたり、24と取っ組み合いのけんかをすることもなくなった。あのひどい反抗が、再びあの小屋に閉じこめてもらうための彼なりの努力だったことを知ってマヌエラの心はひどく痛んだ。友達がほしいという言葉を二度と口にすることもなかった。檻から出してほしいと頼むこともなくなった。

「ようやくわかってくれたか」
カルルシュは申しわけなさそうに息子を抱きしめた。23は表情を変えずに黙り込んでいた。

 あれから十二年が経った。23がマヌエラの人生に苦悩を投げかけたのは、後にも先にもあの時だけだった。けれど彼女にはわかっていた。息子の抱えている問題が解決したわけではないことを。むしろそれが深く潜っていってしまったことを。友達という名のわかりあえる誰かを求めて怯えながら伸ばした手を、握り返してくれようとした小さな手を無情に取り除かれてしまったがために、もう二度と伸ばそうとすらしなくなってしまった。

 牢獄のような鉄格子の向こうから、ギターラの音色が響いてきた。ほとんど誰とも関わろうとしない23が唯一見せる感情の発露、それがギターラを爪弾くことだった。いま弾いているのは「シューベルトのアヴェ・マリア」とも呼ばれる「エレンの歌第三番」。「アヴェ・マリア」マヌエラはつぶやいた。私はあなたに祈ります。どうか私の試みが、あの子を再び傷つけたりしないようにお守りください。

 ドラガォンと《監視人たち》が当主、プリンシピ、インファンテたちに求めているものは単純で明確だった。「竜の血脈」を繋ぐ子孫を作り出すこと。相手が誰でも構わなければ、それによって本人が幸せかどうかも関係なかった。たぶんメネゼスが彼女の意志を後押ししてくれたのも同じ理由からに違いない。

 けれど、母が我が子に望むのは機械的な伝統などではなかった。そんな冷たい伝統につぶされてしまいそうな魂に、真の幸福をつかませてやりたいという願いだった。マイア・フェレイラが自分の意志でここを目指していることを知った時に、彼女は決心したのだ。振り子を動かす最初の力を加えてやろうと。あの時から止まってしまっている23の魂の時計を再び脈打たせてやるために。

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「エレンの歌 第三番」はとても有名ですが、一応。さすがにギターラバージョンは見つからなかったので、クラッシックギターのもので。


Ave Maria Schubert Guitar Arnaud Partcham
.10 2014 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(9)ドンナ・アントニア

Posted by 八少女 夕

Stella用連載小説「Infante 323 黄金の枷」なんですが、なんか12月の単独号はないみたいなんで、月末ではないけれど出しちゃうことにしました。

今回、ようやく重要人物が全部揃いました。ドンナ・アントニアはダブル・ヒロイン制で書くことを予定しているこの三部作の最後の小説『Filigrana 金細工の心』のヒロインの一人です。……なんですけれど。読んでくださっている方からブーイングが上がりそう。


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「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(9)ドンナ・アントニア

 マイアはピカピカになったバスルームを満足げに見回した。流しの二つの金色の水栓は曇りなく輝いていたし、鏡にも浴槽やタイルにも水滴一つ残っていなかった。オーク製の浴槽プラットフォームは丁寧に水拭きした。二面の壁から扇形に広がっている大きな浴槽の縁にオークと大理石を使った石鹸台があり、そこに白い石鹸がぽつんと載っていた。ああ、これの香りだ。マイアは23の側を通る時、それから洗濯物を扱う時に感じるほのかで爽やかな香りの源を発見した。開けたばかりらしくREAL SABOARIAという刻印が読めた。「本物の石鹸工場」かあ。どう考えても最高級品に決まっているのに飾りっけが全くないんだなあ。この居住区そのままね。

 23の居住区の掃除は、24の所と較べて楽だった。散らかるほどのものを持っていなかったし、使ったものを掃除をする召使いの迷惑にならないように、自分で片付けているからだった。例外が靴工房で、ここだけは大量の靴型や革や道具があり乱雑というわけではないが、多くの物があって本人に言われない限り不可侵エリアのため、ほこりをかぶっている所もあった。

 掃除にやってくる他の召使いたちは23とほとんど口をきいたこともなかったので、「今日は工房の方の埃をとってほしい」と言われたこともなかったらしいのだが、マイアは掃除の度に工房に降りてきて何かと話しかけるので頼みやすいらしかった。
「悪いが、そこの革置き場もやってくれないか」
「もちろん!」

 前回は23が黙々と靴を叩いている音を聴きながら、丸めて立ててある革を少しずつ取り出して、掃除をしていった。自分が役に立っているのは誇らしかったし、終わると23がコーヒーを淹れてくれたのも嬉しかった。

 それにしても、23の所の掃除をする時にどうしてこんなにウキウキするのだろう。三階と二階の掃除が終わり、一階の掃除をするために降りていく。仕事をしている彼が顔を上げて笑顔を見せるその瞬間、話しかけると手を休めて答えてくれること、普通の掃除が終わりもう少し話したいのになと思っていると別の用事を頼んでくれてもう少し側にいられること、そのすべてが何とも言えない歓びを伴っていた。

 逢えなかった十二年間、マイアはずっと23のことを大切な仲間だと思っていた。腕輪を嵌めさせられている理不尽さを分かち合えるたった一人の大事な友達だと。ガッカリすることがある度に、心の中であの汚いけれど悲しい目をした少年に話しかけてきた。他の誰にわかってもらえなくても23だけはわかってくれると。それでいて、これは空想の中の友達に過ぎないのだと思ってもいた。たった一度会っただけの自分のことを憶えていてくれるかも怪しいと思っていた。トリンダーデの占いをする女に、青い宝石が四つ付いている腕輪をしているのはインファンテだと教えられてから、その想いはますます強くなった。召使いと贅沢に囲まれて、みすぼらしい女の子と話したことなど忘れてしまっているだろうと。

 だから、23がちゃんと憶えていてくれたこと、あの時と同じように友達として話しかけてくれたことがとても嬉しかった。仕事のことを教えてくれ、靴を作ってくれ、それに、ライサのことを聞き回って館のなかで窮地に追いこまれるのを心配してくれた。空想の友達ではなくて、実在する大事な存在だった。ライサのことを心配する氣持ちもわかってくれると確信できた。たとえ言う事を禁じられているとしても。

 この日はミシン周りを頼まれた。部品ひとつひとつを布で拭きながら、マイアは考え込んでいた。23の方を振り返りつつ、彼女はここしばらく言おうか悩んでいた問いを口にした。
「ねえ。ライサのこと、どうあっても、教えてくれないの?」

 23は型紙を裁断する手を止めて、マイアの方をまともに見た。マイアは慎重にしなくてはならない作業の邪魔をしたことに氣がついて慌てた。
「あ、ごめんなさい」

 それについては何も言わずに23は続けた。
「お前、俺のことを信用できるのか」
「え?」

「俺がお前を納得させるためだけに、でたらめを教えると思わないのか?」
「思わないよ」

「何故」
マイアにはその質問は想像もできなかった。マイアは23を100%信用していた。それは理屈ではなかった。十二年間話しかけ続けてきたたった一人の頼れる友達、23はその心の友が現実の人間としてそこになっている存在だったから。けれど、23にそう訊かれてマイアはその近さは自分だけが感じているものなのかと戸惑った。

「なぜって……。だって、あなたはいい人だもの。見ていればわかるよ。でたらめを言う人なら、とっくに言ったでしょう? それに、下手に嗅ぎ回ると追い出されるって忠告もしてくれたじゃない」

 23はため息をついた。
「今は何も言えない」
「今は……?」

「約束する。言えるようになったら、教えてやる。だから、今は何もせずに待ってくれないか」
マイアはほっと息をついた。やっぱり、味方をしてくれるんだ。それだけでもよかった。でも……。
「でも、ライサが無事なのか、心配なの」

「わかっている。そのことは心配しなくていい。お前と同じようにライサのことを氣にかけている味方の所にいる。危険はない」
「本当に?」
「ああ、でも、お前やライサの妹が下手に動き回ったり探したりすると、《監視人たち》が彼女を別の所に遷す可能性がある。そうなったら、俺の所には情報も入らなくなるし安全の保証もできなくなるんだ」

 マイアはしばらく下を向いて唇を噛んでいたが、やがて顔を上げた。
「わかった。私、あなたを信じる。そのかわり……」
「わかっている。時が来たら、必ず話す」
そう言って、彼は型紙裁断の作業に戻った。

 掃除を済ませ、鉄格子に鍵をかけているところにメネゼスがやってきた。
「ああ、ちょうどよかった。セニョール323のところへ行って奥様の伝言を伝えてきなさい」
「なんと?」
「ドンナ・アントニアがおいでで、いま母屋三階の居間で奥様とお話中なのだ。セニョール323を呼んでくるようにと仰せだ」
「わかりました」
「よいか、伝言して鍵を開けるだけではなく、必ず居間までご一緒するように」
つまり、籠の鳥が逃げださないように注意しろって言っているわけね。マイアは心の中でつぶやいた。

 マイアは再び鍵を開け閉めしてから、工房に降りて行き23を呼んだ。
「ドンナ・アントニアとおっしゃる方がお見えで、奥様の居間でお待ちだそうです。どうぞおいで下さいって」

 23は肩をすくめた。
「いま手が離せないんだ。後でここに来るように、彼女に伝えてくれ」

 彼女は頷くと、ドンナ・マヌエラの使っている居間へと向かった。城と言っても構わないこの大きな館で、当主であるドン・アルフォンソとその母親であるドンナ・マヌエラの生活空間である母屋の三階は、ジョアナとクリスティーナが掃除を担当していたので、マイアはあまり慣れていなかった。絨毯の敷かれた廊下にも十六世紀の中国の壺や、金箔の貼られた額に入った大きな風景画などがあり、床や壁に使われている石も高価な大理石だった。マイアは落ち着かない心持ちで居間へと急ぎ扉をノックした。

「ミニャ・セニョーラ。失礼します」
「どうぞ、お入りなさい」

 コーヒーをサーブしていたメネゼスが少し驚いた顔をした。セニョール323はどうしたのだと顔が訴えていた。マイアは恐縮しながら言った。
「伝言を申し上げたのですが、『いま手が離せないので、後でここに来てほしい』と仰せでした」

 ドンナ・マヌエラの隣に座っていた女性が声を立てて笑った。マイアははっとした。黒髪を高く結い上げているほっそりとした若い婦人で、赤と黒の鋭利なシルエットのワンピースを優雅に着こなしていた。黒い眉は細い三日月型に整えられていてきりっとしているが、水色の瞳がより柔らかな印象に変えている。マイアが今まで見たことのある女性の中でおそらく一番美しい完璧な容貌の持ち主だった。

「それなら今から行きましょう。案内してくださる?」
すっと立ち上がったその動きはとても優雅だった。マイアが見上げるほどに背が高いのは、履いている赤いハイヒールのせいでもあった。

 メネゼスがマイアに言った。
「ご案内しなさい。ドンナ・アントニアがお出になる時までお前は扉のところで待機していなさい」
マイアは頷いた。

 案内するまでもなく、ドンナ・アントニアは慣れた足取りで23の居住区に向かった。
「あなた、はじめてよね。新しく入ったの?」
「はい。フェレイラと申します」
「そう、よろしくね」

 鍵を開けて扉を開くと、彼女は勝手知ったる様子で工房へ降りて行った。マイアは扉に再び鍵をかけた。ドンナ・アントニアが23に対してドンナ・マヌエラと同じように「メウ・トレース」と呼びかけた。

「待ちかねてたかしら?」
「わかりきったことを訊くな。アントニア」
23の親しげな声。二人は庭に行ってしまったらしく、後の会話は聞こえなかった。だが、しばらくするとギターラの音色が聞こえてきた。

 その曲はマイアも知っていた。映画「青い年」のテーマ曲だ。彼がこんなに強い情念を込めて弾くなんて想像もしなかった。普段、マイアに小言を言ったり、靴を作っている23とは別人のようだった。澄んだ迷いのない音色だった。冬のドン・ルイス一世橋のてっぺんから眺めたPの街のようにくっきりとした美しさだった。はっきりとした言葉遣いの一つひとつ、飾りけのない装い、孤高の佇まいが音色と重なる。マイアは鉄格子をつかんだ。切なく美しい旋律に心が痛くなる。けれど、彼はただ一人の観客、ドンナ・アントニアのために弾いているのだ。

 曲が終わってからしばらくしても、マイアは鉄格子に額を押し付けてギターラの余韻を感じ続けていた。どうしてこんなに苦しいんだろう。

 二人の声が近づいてきた。階下の階段の近くにまで来ている。柔らかいドンナ・アントニアのささやきと、23の低いつぶやきがわずかに聞こえてくる。マイアはあわてて、まっすぐに立ち直した。二人は別れを惜しんでいるようだった。

「メウ・トレース。キスをしてくれないの?」
それからしばらくの間、二人の声が途絶えた。マイアはうつむいた。……そうだったんだ。体の中心、とても深いところに大きな石を抱えているようだった。

 ずっとわからないフリをしてきた。けれど、とても重くなってしまい、もはやなかったことには出来なくなっていた。人を好きになるのって、こういうことだったんだ。「お父さんや妹たちが好き」「パステイス・デ・ナタは大好きだからいくつでも食べられる」「とてもきれいなこの街が好き」マイアが当たり前のように遣ってきた言葉と同じ「好き」だから、きっと甘くて楽しくて幸せな感情なのだと思っていた。全く違う。息ができない。締め付けられて動くことも出来ない。

 直に二人は階段を上がってきて、鉄格子の前に立った。マイアは、鍵をまわしてドンナ・アントニアのために扉を開けた。その時にとてもきつく握りしめていたために手のひらに赤く鍵の痕がついてしまっていることに氣がついた。再び鍵をかけた時、23と目が合った。彼の表情には大きな変化は見られなかったが、悲しい瞳をしていると思った。

 マイアは晩餐の給仕にもあたっていた。普段は朝食と午餐の給仕のみだが、ホセ・ルイスとクリスティーナが休暇なのだ。一緒に給仕を担当したフィリペとマティルダ、それにメネゼスはハラハラすることになった。マイアは水をつぐグラスとヴィーニョ・ヴェルデを注ぐグラスを間違えたし、野菜のスープをよそう時に皿に添えた自分の手にかけて火傷をしそうになった。ドン・アルフォンソに「今日はどうした」と指摘されて平謝りしたが、アレンテージョ風の豚肉料理カルネ・デ・ポルコ・ア・アレンテジャーナ をサーブする時に、ドン・アルフォンソと23の皿を間違える失敗もやらかした。自分の前に二倍の量の料理が置かれたのを見た23は、ドウロの赤を飲みながら「フェレイラ、大丈夫か」と声を掛けた。

 一日が終わると、マイアはくたくただった。
「今日はどうしたの、マイア」
マティルダが部屋に戻ってから訊いた。

「なんでもない。でも、たくさん失敗しちゃった」
「どこか具合が悪いんじゃない?」

 うん。胸が苦しい。マイアは無理に笑った。
「さっきまで、胃が痛かったの。でも、もう大丈夫。今日は、ドンナ・アントニアがいらしたり、奥様の居間に一人で行ったりと、はじめてのことが多かったから、疲れちゃったのかも」
「あら、ドンナ・アントニアにお逢いしたのね。いいなあ。私、あの方にものすごく憧れているのよね。お優しかったでしょう?」
「ええ、とても」

「ドンナ・アントニアは本当の貴婦人よね。ああいう方を見ると、やっぱりクラスってあるんだと思うわ」
マティルダが夢みるように言った。
「よくいらっしゃるの?」
「そうね。二週間に一度くらいかしら。もっと頻繁にいらっしゃることもあるけれど」
「遠くにお住まいなの?」
「いいえ。ボアヴィスタ通りのお屋敷ですって」

 ボアヴィスタ通りはPの街でもっとも長い通りで、古い城塞カステロ・デ・ケージョまで続いている。有数の豪邸が建ち並ぶ場所だ。マイアが肩をすくめたのを見てマティルダは左手首の腕輪を見せて笑った。
「どっかに同じ血が流れていると言っても、えらい違いよね」

 マイアは23のことを浮浪者の子供だと思っていた。でもそんなことはどうでもいい、あの子とはいい友達になれる。だって、私たちには同じ金の腕輪が嵌まっているから。彼がインファンテだったと知るまで、彼女はずっとそう思っていた。この館の中で腕輪は特別なものではなかった。23には腕輪をしていない人間の方がずっと珍しい存在なのだ。ドンナ・アントニアの手首にも金の腕輪は輝いていた。輝いていたのは腕輪だけではなかった。どちらかというと貧しい家庭で育ったマイアだからこそ、「女」と「貴婦人」の違いがわかる。名前だけの問題ではなかった。マティルダの言う通りだった。

 あきらめなくてはいけない。あきらめるのは得意のはず。子供の頃から慣らされてきたもの。マイアは窓の外を眺めた。大きな月がD河の上に映っていた。23のために、この館に来たんじゃないもの。ライサのことに心を集中させよう。

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23が弾いていた「青い年」という映画の主題曲です。裏テーマである「五感で恋するポルト」、今回は聴覚ですね。この曲でマイアは撃沈してしまいました。「Verde」というのは「緑」という意味なんですが、同時に「若い」という意味もあるのですね。「Verdes Anos」は日本語で言う「青春」の意味もあるので「青い年」というのはいい訳だと思います。ちなみに若いワインを「Vinho Verde」といいます。マイアが間違ったグラスに注いだワインです。

Carlos Paredes - Verdes Anos
.19 2014 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(8)小言

Posted by 八少女 夕

月末のStella用連載小説「Infante 323 黄金の枷」です。一ヶ月って、異様に速いなあ。

この作品を作る時に注意したのは、社会的に特殊な状況で育った人間を、自分の(社会的な)常識をもとにした行動をさせてはならないということでした。人間関係には適切な距離(空間上でも、感覚でも)がありますよね。その距離感は幼少の頃からの社会生活の中で培われるものなので、その社会生活を禁じられた人間はそれがよくわからないはずだと思ったのです。主人公が他人とまともに話もしなかったかと思えば、「いきなりそれか」になってしまうのは、そういうわけです。で、もちろんヒロインは大混乱。


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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(8)小言

 マイアは考え事をしながらベッドメイキングをしていた。来たばかりの頃は、インファンテたちの巨大なベッドを整えるのは何よりも苦手な仕事だった。数日に一度シーツ類を完全にとりかえる時はまだいいのだが、一度眠った後のずれた布団やシーツでのベッドメイキングがうまくいかなかった。

 初日に24のところをアマリアがやっているのを見た時には簡単に見えたのに、23のところで一人でやったら変になってしまった。24のベッドと違って、23はかなり行儀よく寝ているように見えたにも関わらず。

 次に行った時には、23が待ち構えていた。
「いったいどうやったらあんなベッドメイキングになるんだ」
目の前でやらされて、ずれていたシーツをそのままマットレスの下に押し込もうとしたのを、まず止められた。
「そんな横着があるか。一度全部出して、上下左右をきちんとひっぱって中心線を整えてから押し込むんだ」

 23が実践してみせる方法を、確かにアマリアもやっていたように思う。23が続けてやってみせたのはその折り方だった。きちんと角を揃えて折り込まれたシーツはマットレスの下にきれいに収まった。

 目の前で動く23の姿を見て、マイアは変だなと思った。背中が丸いのだ。不自然に猫背に思える。いや、正確に言うと、変だなと思ったのはこれがはじめてではなかった。二日前、一階を掃除していた時にも思った。23は晴れている日は、休憩する度に中庭に出て行くのだが、上を見上げているのにまだ猫背に見えていた。しかし、わざわざ指摘すべきことにも思えなかったので、黙っていた。訊きたいことは他にあったのだ。

「なんで23、私たちの仕事のやり方みんな知っているの?」
「そりゃ、子供の頃からずっと目にしているからな。十六歳で靴の仕事を始めるまでは、毎日ヒマだったんだ」
「新しく入ってくる召使いに、いつもこうやって指導しているの?」
「するわけないだろう。お前みたいにめちゃくちゃな新人ははじめてだ」

 う。そうなんだ。マティルダは始めから上手にできたのかな。それにライサも。23はライサとはどんなことを話したんだろう。

 今日、23の指導の甲斐あってすっかり上手になったベッドメイキングをしながら考えていたのはライサのことだった。マイアはライサに一度も逢ったことがなかった。マリアが「いつか引き合わせるわ」と言っていたが、それは実現しなかった。ライサは二ヶ月働くと一週間帰れるのだと話していたという。「ドラガォンの館」と就労契約を結んだ時に、マイアもメネゼスから同じ事を言われていた。実際に、同僚たちは順番に休暇を取っていて、間もなくアマリアが出かけるところだった。

 ライサが休暇で戻ってきた時に、あえてマイアと逢いたがらなかったことの理由は想像できる。マリアは「お館であったことは一切話しちゃいけないって何も話してくれない」と言っていた。誓約に縛られて何も言わないつもりだったのだろう。でも、わざわざ引き合わされた金の腕輪をした娘に、黙りを決め込むのは難しい。だからライサはマリアの提案を断ったのだろう。

 ライサが最後に休暇で戻ってきたのは一年ほど前だった。もともと休暇以外でライサと連絡を取ることは不可能だったし、次にいつ帰ってくるという約束をして「ドラガォンの館」ヘと戻っていったわけではない。そうであっても一年も音沙汰がないのにマリアと家族に心配するなというのも無理な話だろう。帰って来ない理由を聞くために館に連絡しても「お話しすることはありません」と言われるだけだった。

 そのうちに「ドラガォンの館」が再び使用人を探しているという話が耳に入ってきた。マリアは銀行に勤めているのだが、それでもとにかく応募しようとした。けれど、ライサの推薦状を書いてくれたホームドクターに、私にも推薦状を書いてほしいと掛け合ったところ、即座に断られた。
「あそこは腕輪をしていることが就職の最低条件なんだよ」

 その話をマリアから聞いたマイアは自分の腕輪を見た。そしてマリアに言ったのだ。
「じゃあ、私が応募する。腕輪しているもの」

 23は「ライサのことをおおっぴらに嗅ぎ回るな」とマイアに忠告した。はじめはそれしか言ってくれなかったが、一昨日再び訊いたら、ライサがここで働いていたことはあっさりと認めた。いつまでここにいたのかとなおも問いつめると「一年くらい前だ」と答えた。今はどこにいるのかと訊くと「俺が答えると思っているのか」と訊き返された。思ってるから訊いているんだけれどな。

 ベッドメイキングが終わり、掃除機をかけ、バスルームもきれいにした。もともと散らかっていないから楽だとはいえ、やはり慣れたのだ。ずっと早く、上手に掃除ができるようになっていた。少しでも上手になると、23はきちんと褒めてくれた。それが嬉しくてマイアは言われたことをこなそうと努力した。一人ではこんなに早くいろいろなことが出来るようにならなかった。

 取り替えて洗濯室へと持っていくはずのシーツを抱えたマイアを24が呼び止めた。
「駒鳥の羽ばたきに関する詩を作った所なんだ。朗読するから聴かないか」

 またか。マイアは困ったなと思った。24の作る詩は前衛的すぎて、どう感想を述べていいのかわからないのだ。しかも、詩の話をしていたはずなのに、いつの間にか話題が服装のことに移っていたり、デザイン自慢にすり替わっていたりするのだ。しかし、24の仕事であるデザインと来たら、見事なまでに個性がない。つまり「インファンテは名をなすような仕事はしてはならない」と23の言っていた条件を立派に具現しているのだが、口が裂けてもそんなことはいえない。

 それにもましてマイアが苦手なのは、24がドン・アルフォンソや23の容姿を馬鹿にすることだった。ドン・アルフォンソは太っているけれど、心臓が悪くてスポーツはできないからだし、23はマイアにはちっとも醜くなかった。むしろ自分が美しいと言われたことがほとんどなかったために、美貌を鼻にかけている24に反感を持った。相槌は死んでも打ちたくないけれど、かといって反論するのも面倒だった。なんといっても、24もまたご主人様なのだから。

 そんなわけで、彼女は24が苦手になっていた。アマリアやマティルダのように上手にかわすことができなくて、マイアが戸惑っていると、そこに彼女がいるのを察知した23が「フェレイラ!」と怒りぎみに工房から上がってきた。

「あ、メウ・セニョール、なんでしょうか」
「なんだ、24と話をしているのか。失礼。終わったらこっちにも寄れ。いう事がある」
そういって、三階に上がっていってしまった。

「すみません、メウ・セニョール。またお小言を頂戴するみたいです。ちょっと行ってきます」
逃げだす口実を見つけたマイアはこれ幸いと24に言い訳をした。彼は肩をすくめた。
「君も大変だね、新人ちゃん。いいよ、行っておいで」

 23のところに入っていき、恐る恐る三階の踊り場から寝室を覗き込むと、昨日マイアがアイロンがけをした白いシャツを二枚、両手にもって仁王立ちしていた。
「なんだこのアイロンがけは。変な皺がいっぱいついているじゃないか」

 マイアは口を尖らせた。
「だって。こんなに襞のたくさんあるシャツ、アイロン掛けたことないんだもの」

 23は呆れた顔をした。それからマイアの抱えているシーツの山を眺めて言った。
「それをさっさと洗濯室に持っていけ。それから、そっちの仕事が終わったら、アイロン台を持ってここにもう一度来い」
「え?」
「こんなひどいアイロン掛けを見たら母は卒倒するぞ。特訓してやる」

 洗濯室に行って、その事を言うとその場にいたクリスティーナとジョアンは顔を見合わせてから、どっと笑った。
「ここはもういいから、すぐにアイロン台を持っていってらっしゃい」
クリスティーナは目元の涙を拭っている。そんなに笑わなくても……。そこまでひどいのかなあ、マイアは首を傾げつつ、アイロン台とアイロンを抱えて、再び23の居住区に行った。

「霧吹きはどこだ」
「あ。忘れてきちゃった」
「しょうがないな」
23は工房に行って、霧吹きを調達してきた。

「やってみろ」
「うん」

 マイアは、シャツをアイロン台に載せて霧を吹きかけた。
「近すぎる。一部分だけびしょ濡れだ」
「あ、そうか」

「ちょっと待て。いきなり身頃から掛けるヤツがあるか」
はじめから指摘が相次ぐ。
「どこから掛けるの?」
「細かいところから。襟や袖口だ」

 23は一つひとつ丁寧に説明した。襟を裏返し、端を引っ張りながらアイロンを滑らせる。皺の伸びた状態で表に返して、再び霧吹きで湿らせてから表の襟にアイロンを掛けると、ねじれもなく綺麗になる。袖口も同じ要領だが、マイアがボタンをかけたまま掛けようとしたのでまた止められた。

 袖を掛けることになった。裏返し、袖下の縫い目を両手で押さえてから伸ばし、手で皺を伸ばす。袖口から肩の方向にゆっくりとかけていく。
「そうだ。少し先を浮かせるように。アイロンは揺らさないでまっすぐに動かせ。おい、左できちんと押さえないと」

 突然、23はマイアの後ろに回った。左手で彼女の左手に重ねて肩山をきちんと押さえさせ、アイロンを誘導するように柄を持つマイアの右手にがっちりとした手のひらを重ねた。
「ほら、この左手でわずかに引っ張るようにして持つんだ」
声はマイアの右耳のすぐ後ろからした。背中は彼には触れていないのにわずかに暖かさを感じた。靴の型を取ってもらった時と同じだった。彼は淡々と説明をしているだけなのに、マイアは心臓が飛び出しそうなほど強い鼓動を感じている。まるで後ろから抱きすくめられているみたいだ。左手首の二つの腕輪が触れて小さい音がした。

 アイロンどころではなくなってしまい、上手く力が入らない。アイロンをほとんど動かしていないのを感じ取った23はため息をついた。
「お前、ちゃんと覚える氣はあるのか」
「あ、ごめんなさい」
マイアは恥じた。わざわざ教えてくれているのに、ドキドキしている場合じゃなかった。ポンポン言われるのはほんの少し腹立たしいが、23の言っていることは一々理にかなっている。

 午後にバックヤードに休憩にいくと、アマリアとマティルダはマイアが23にアイロンの特訓を受けたことをもう知っていた。クリスティーナが腹を抱えながら話してくれたのだと言う。
「で、どうだった?」
マティルダは絞りたてのオレンジジュースを飲みながら訊いた。

「あ、うん。みっちり絞られた。教えてもらった通りにやったら、嘘みたいに綺麗に仕上がったよ」
二人は顔を見合わせてから笑った。それからアマリアが不思議そうに言った。
「あの方はこれまで誰もそばに近づけなかったし、掃除やアイロンのことで誰かに小言を言うなんて事はほとんどなかったのにね」
「私、そんなに役立たずなんだ」

「そんなことないけれど、あの方が叱ってくださるからあなたは助かっているのよ」
「え? なんで?」
「だって、私たちのときは、ジョアナやメネゼスさんからこっぴどく叱られて、よく泣かされたもの。誰も手取り足取り教えてくれなかったから何度も怒られたし」
マティルダがぺろっと舌を出した。

 そういえば、ジョアナやメネゼスに叱られたことはまだなかったし、ドンナ・マヌエラの叱責を受けたこともなかった。23に言われっぱなしのマイアを見て、かなり手加減してくれているようだった。23に叱られるのがあまり嫌でなくなっていることは、アマリアたちには言えなかった。
.29 2014 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(7)靴

Posted by 八少女 夕

普通はStella用に月末の月一回発表する小説ですが、このブログのメイン小説デーが水曜日なので一日遅れました。「Infante 323 黄金の枷」です。今回からようやく本題に入りました。ちょっと恋愛小説っぽくなってくると同時に、読者のみなさまの「?」を二つ、23自身が回答しています。

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Infante 323 黄金の枷(7)靴

「失礼します。洗濯物いただきにきました」
その午後、マイアはマティルダと一緒に洗濯当番に当たっていた。まず二人で24の所に行き、大量の衣類を集めた。23の方も持てそうだったので、その居住区に入っていった。

 階段を下りていこうとすると、23が作業を中断して自ら昇ってきた。
「フェレイラ、その前に、ちょっと来い。今日の掃除、なってないぞ」
厳しい声でマイアを三階の方に行くように促した。

「ええと、どこがまずかったんでしょうか、メウ・セニョール」
「いろいろ言いたいことはあるが、まずはバスルームだ」
マティルダは目で「先に行くね」と合図したので頷き、マイアは23に続いて昇っていった。

 バスルームに来ると洗面台を指差した。
「水滴が残っているし、付け根の所が拭けていない。このままにしておくと痕になるんだ。どうやって拭いたんだ、再現してみろ」
「ええと」
マイアは23に渡されたタオルで今朝やったとおりに蛇口をひと通り拭った。

「それじゃ付け根は触ってもいないじゃないか。よこせ」
そういって蛇口の周りにタオルを巻き付けて左右に交互に引っぱり付け根を磨いた。
「あ、そうか」

 納得したマイアが言われた通りにやっている時に小声で言った。
「ライサのことをおおっぴらに嗅ぎ回るな。すぐに追い出されるぞ」

 マイアは振り向いて彼を見た。23は人差し指を口に当てていた。
「知っているのね」
23は知っているとも知らないとも言わなかった。その時にはもうマイアの足下を見ていた。

「お前、いつも変な歩き方しているな」
「え?」

「歩く時になぜそんなにバタバタしているんだ。その靴、履き慣れていないのか」
「しょうがないでしょう。普段はもっと楽な靴だけど、このお館ではパンプスを履かなくちゃいけないんだもの。男の人にはわからないと思うけど、パンプスで歩くのって痛いんだから」
「見せてみろ」

 マイアは素直に片方脱いでみせた。その靴を見て、23は眉をしかめた。三センチヒールのソールが真っ平らな安物の靴だった。

 次の朝にアマリアが掃除に入った時に、23は後でマイアに来るように伝言した。
「また何かを怒られるのかなあ」
マイアは首を傾げながら行った。居住区に入り声をかけると彼は下から呼んだ。
「来たか。こっちに降りて来い」

 工房に行くと、23は作業をやめて床に置いた小さな箱の上に座った。その前には水を張ったバケツ、粘土に見える物を入れた箱が二つあった。さらにその前には椅子があってマイアにそこに座るように言った。彼女は怖々座った。

「靴下を脱いで足を出せ」
「え? 両方?」
「まずは右だけ」

 言われるままに椅子に座り、右の靴と靴下を脱いだ。彼はその足首とかかとを両手で持って粘土の上に移動させた。
「まず力を抜いて。俺が動かせるように。そう、この形のまま、ゆっくり下に降ろして……」
マイアの足は粘土にわずかに沈んだ。型を取っているのだ。

 粘土からマイアの右足をそっと引き上げると粘土を自分の後ろに移動させてバケツをマイアの前に動かし、粘土で汚れた足をそっと洗った。

 昨日からのきつい言葉や態度とは裏腹に、マイアの足を扱う23の手はとても丁寧で優しかった。冷たい粘土の感触、そっと洗ってくれる彼の手指にドキドキした。心臓がきゅうとねじられたようだった。

「あの……何をしているの」
23はなんでもないようにマイアの顔を見上げた。
「お前の靴を作る。そんなひどい靴を履いていたら、直に足がおかしくなる」
そう言って、タオルで彼女の右足を拭くと、左足も同じように型を取った。


「まあ、なんてうらやましい」
キッチンでジャガイモの皮を剥いている時に、その話をしたらアマリアは驚いて言った。
「ご主人様だから?」
マイアが訊くとアマリアは首を振った。
「それもそうだけれど、それよりも、作っていただく靴よ」
「?」

「23の作られる靴の一部はね、ノーブランドで街のちょっと有名な老舗の靴屋で売られているのだけれど、常連が待ち構えていて店頭に出すとすぐに売り切れてしまうの。それ以外はイタリアの有名デザイナーの所に送られて、そこでマークが刻印されてメイド・イン・イタリーのデザイナーブランドシューズになるのよ。評判が良いのでここ数年はそれぞれの靴型に合わせたオーダーメードの注文がほとんどなんだけれど、聞いたところによるとイタリアでの末端価格は1000ユーロを超しているらしいわ」
「ええ~」

「どんな成り行きで作っていただくことになったの?」
「……。私の靴がひどすぎて許せないって」
アマリアは思わず吹き出した。

 次に掃除に入った時に見ると、23はパンプスを作っていた。
「これ、お前のだぞ」

 たくさんの注文品を横においてマイアの靴を作ってくれているので「いいの」と訊くと23は笑った。
「俺たちインファンテは経済的には、働かなくてもいいんだ。でも、何もしていないでブラブラしていると腐るから働くことを奨励されている。そんな理由での仕事なので、絶対的な納期は設定されていない。どうしても俺の作る靴がほしいヤツは、待つしかない。だれもその靴職人がどこにいるのか知らないし、その職人を急がせることはできない。ドイツ人や日本人のようにせっかちな奴らが理由を訊くと、受け答えをするヤツはこう答える。イヤなら他の靴屋に行きなってね」

 楽しそうに靴を仕上げている彼を眺めながら、マイアは近くに寄った。
「ねえ。23、訊いてもいい?」
「何を」

「どうして番号の名前なの?」
23は顔を上げてマイアを見た。特に怒っているようにも見えなかったので、彼女はほっとした。

「番号の名前じゃない、番号なんだ。名前はない」
「23って名前じゃないの?」

「323というのはインファンテの通番だ。といってもインファンテ1がどの時代のどの当主の子だったかはわからない。いつ生まれていつ死んだかもわからないし、1の前に同じ境遇の人間がいたかどうかも知られていない。単に1から数えて323人めが俺というだけだ。ドラガォンのインファンテに関する記録は一切ないんだ。それに伝統的に名前はつけない」

「どうして?」
「存在していないから」

 マイアは口を尖らせた。
「存在しているよ。ここにいるじゃない」

 23は道具を横において、立ち上がるとエスプレッソマシンの所へ行ってコーヒーをセットした。シューッという音がして、コーヒーがカップに注がれた。マイアは23が二つ目のコーヒーを淹れるのを黙って見ていた。答えたくないのかな。けれど、彼はコーヒーをテーブルに置いて、目でマイアに座るように指示した。勤務中なんだけどな、そう思いながらもマイアは素直に座った。

「俺たちはね。番号で呼ばれてきた324人の男たちは、歴代当主のスペアなんだ」
「スペア?」

「食堂に飾ってある系図、変だと思わなかったか?」
「え?」

「何代になるのかも数えられないような長い間、ずっと直系の男子一人だけが続いている。兄弟姉妹もなければ、配偶者の名前もない。自然じゃないと思わないか」

 そう言われれば確かに。普通の家系図はもっと広がり、当主になるものは時々遡ったり、傍系に移ったりするのに、ドラガォンの家系図はずっと一本だけだった。

「当主の最初の男子は名付けられて星五つのプリンシペとなる。そして父親が死んだら当主になる。だが、その当主が子供を残す前に死んでしまったら? もしくはあちこちに、似たような相続権を持つ男子が散らばって争いだしたら? この家系が途絶えてしまうかもしれない。そのリスクを最小限にするためにプリンシペに完全に入れ替われるようなスペアを用意しているんだ。その子たちは同じ父親の血を引いているので、直系に間違いはない。もし当主が跡継ぎとなるプリンシペを作る前に死んだら、同世代のスペアと入れ替える。インファンテには生まれた順に番号がついていて、機械的に繰り上げるだけだ。争いも起きようがない。インファンテが当主やプリンシペの名前を引き継ぎ、その人間として生きるんだ」

「でも、そんなの変だよ。普通の家みたいに、次男、三男として普通に生きていてもお兄さんが亡くなった跡を継げるじゃない」
「そうだね。でも、他の家と違うことがある。この家系で何よりも大切なのは血脈を途絶えさせないことだ。それぞれの人間がどんなことを成し遂げるか、どんな人生を生きるかよりも、子孫を残すことの方が重要なんだ。いや、それだけが重要なんだ」

「あの家系図の最初の人の血を残しているの? 何者なの?」
「あの人じゃないよ。あれはたった五百年前の人じゃないか」
「たった……」
「あれは《監視人たち》のシステムも《星のある子供たち》の腕輪もちゃんと整い、この館ができた時の当主だ」

「じゃあ、一体誰の血脈なの?」
「知らない。それに、それはもう重要じゃない」
「なんで?」
「そんなことに関係なくシステムが作動しているからだ。誰の子孫だろうと関係なく、《星のある子供たち》には腕輪が嵌められ、この街から出て行けないように閉じこめられるんだ」

「濃い血脈を途絶えさせないためだけに?」
「そうだ」

 それから突然話題を変えた。
「このコーヒー、どうだ?」
「え。すごく美味しい。とてもいい香り。ここで挽いているの?」
「ああ、専門店から取り寄せてもらったんだ。このブレンドに辿りついたのは最近なんだ」
「どうして?」
「一人で飲んでいるとなかなか減らないんだ」

 マイアは不思議に思った。あれ、だっていま私と飲んでるのに。マティルダたちとは飲まないのかな。
「もしかして勤務中にこんなことしてちゃいけないのかしら」
「俺に頼まれて手伝っていたと言えばいいさ」

 
* * *


 出来上がった靴は、マイアがそれまで履いていたよりも一センチヒールが高いにも関わらず、どこも痛くなかった。足全体がぴったりと包み込まれ、土踏まずもぴったりと寄り添った。履いて立ったその瞬間だけでなく、歩いた時の全ての動きに靴はついてきた。

「23、すごいよ、この靴。パンプスなのに、どこも痛くない。歩いてもぴったりついてくる」
「しばらく履いていると、馴染んでくる。そうしたらもう一度調整しよう」

「ねえ、23。どうして靴を作ることになったの?」
「ん?」
「靴が好きだったの?」
「はじめから好きだったわけじゃない。習える仕事の中で、一番興味があったから。変か?」

「うん。お金持ちの子息が習う仕事のイメージと違う」
「どんな仕事がイメージ通りなんだ?」
「作家とか。音楽家、評論家、それに、画家やデザイナー」

 23は口先だけで笑った。
「そりゃ、全部ダメだ」
「ダメって?」

「この作品はだれが作ったのだろうと、疑問を持たせるようなものを作ることは許されていない」
「あ……」
「ラジオの部品を組立てる。服を縫う。プラリネを作る。それらを作るには時間と手間がかかり、誰かが完成させたことは意識していても、誰がやっているかは考えないだろう? 俺たちに許されているのはそういう仕事だ。叔父の322はニワトリの形をした木彫りのコルク飾りに彩色をしている。24は観光客用のTシャツや絵はがきをデザインしている。そして俺は靴を作る」

 その午後いつものように働いて、マイアは23が作ってくれた靴にとても驚いた。前の靴と全く違うのは履いた感触だけではなかった。今までは夜になると足が痛くて悲鳴を上げていたのに、まったく疲れていなかった。

 マイアは翌日の朝、礼を言うために工房に降りて行った。すると驚いたことに、二足目の靴ができていた。
「どうして二つも?」

23は呆れた顔をした。
「靴は毎日続けて履くな。ちゃんと休ませるんだ」

 マイアは23に言われるまでもなく、毎晩靴の手入れをした。こんな風に靴を大事に思ったことはなかった。靴が歩き方や姿勢、ひいては生き方にまで影響を及ぼすような存在なのだとはじめて理解した。
.01 2014 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(6)《監視人たち》

Posted by 八少女 夕

普通はStella用に月末の月一回発表する小説ですが、先月と今月だけはイレギュラーに月二回出しています。というターボ発表もこれでおしまい。今回はこの小説の奇妙な設定のひとつ《監視人たち》についてです。

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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(6)《監視人たち》

 マイアはついに意を決して、ライサのことをマティルダに訊いてみた。簡単に教えてくれるとは思わなかったが、開け広げで人好きのする彼女とは、すっかり仲良くなっていたし、案外あっさり教えてくれるかもしれないと思ったのだ。だが、マティルダの答えは単純明快だった。
「ライサ? 知らないな。私ここに来てからまだ半年だもの。アマリアに訊いてみれば? 彼女は十年以上勤めているし」
それもそうか。マイアは頷いた。

 翌日、洗濯室でアマリアに訊いた。それは明らかに不意打ちだったらしい。いつもの穏やかで優しい表情が戸惑い、伏し目がちになった。マイアはアマリアが何かを知っていることを確信した。
「その……」

 けれど、アマリアが答える前に、ジョアナが通りかかった。つかつかと二人の所に歩み寄ってきて厳しい顔を向けた。
「マイア。仕事に関係のない質問をしてはなりません」
「……すみません」
「ここに来たのは働くため? それとも探偵ごっこをするため?」
マイアは下を向いて黙り込んだ。

「誓約を忘れないように」
それだけ言って、再び去っていった。アマリアを見るとほんの少しだけ表情を緩めて洗濯機に衣類を入れはじめた。一切話はせずに。

 アマリアには教えてもらえないんだな、と思ってがっかりした。ジョアナが教えてくれないのは当然のこととして、もう一人いる召使いのクリスティーナも、主にジョアナと組んで母屋の方の掃除を担当しているので、話をしたことが少なく質問はしにくかった。男の使用人たちとも仕事上の会話しかしたことがない。まず親しくなる所からはじめなくちゃダメか。長期戦になっちゃう。ああ、前途多難だなあ。

 友達を作る。マイアが一番苦手なことだった。マティルダはマイアが努力する必要もなくあっという間に親しくなってくれたので問題はなかったが、誰ともこう上手くいくとは思えない。そう言えば、いつもそうだった。友達といえる仲になれた人は、いつも向こうから声を掛けて近づいてきてくれたのだ。幼なじみのジョゼも、マリア・モタも。それも親友もしくは心友と言えるほどではなかった。ジョゼにはマイアよりも親しい友達が何百人もいるだろうし、マリアもマイア個人というよりも姉のライサとの共通点に興味をおぼえて話しかけてくれたのだから。マティルダも同室でなければ親しくなることはできなかっただろう。

 マイアにとってのたった一人の心友は、十二年前に出会った少年の幻影だった。悲しいこと、理不尽なことがあると、いつも心の中で話しかけてきた。23はその少年その人で、マイアを忘れずに話しかけてくれたけれど、心の友達であり続けた少年とは同じではない。一緒にすべきではないと、自分に言い聞かせていた。

 仕事が終わって部屋に戻ってくるとマティルダはベッドに腰掛けて雑誌をめくっていた。彼女はいつも機嫌が良くて楽しそうだった。人間関係で悩んだことなど皆無のように見えたし、物事の飲み込みが早くて、どんな仕事でもこなせそうだった。そういえば、どうして召使いの仕事をしようと思ったんだろう。

「ねえ。マティルダ。あなたはどうしてここで働こうと思ったの?」
「え……」

「あ、訊いちゃダメだった?」
「そんなことないけれど、ちょっと恥ずかしい」
「どうして?」

 マティルダはウィンクをした。
「パパとママみたいな恋愛結婚をしたかったのよね」
「?」

 マイアがまったくわかっていない様子なので、マティルダはおかしそうに笑った。それから、丁寧に説明してくれた。
「パパとママはここで知り合ったの。ほら、私が《星のある子供たち》でない人と恋愛結婚をするとなると、その前に星のある男と子供を作らなくちゃいけないじゃない? だったらはじめから星のある相手と恋愛がしたくて。でも、街にいるとそんなに星のある相手に遭えないでしょ?」

「本当に、そうなんだ」
「何が?」
「星のある子供を生まないかぎり、誰とも結婚できないって」
「うん。それはそうよ。過去にいろいろな人が抵抗したらしいけれど、成功したって話は聞いたことがないなあ」

 マイアはそれじゃ私には生涯無理だなと思った。男の人と親しくなることなんてこれまで全然なかった。街中にあれだけたくさんの男性がいたにも関わらず。同年代の仲間たちが集まる時に、数合わせのように混ぜてもらう時にも、周りにいくらでもカップルができたが、マイアは空氣のような存在に終始することになった。そんな体たらくなのだから、街では全然見たこともない、つまりほんのわずかの数しかいない腕輪をしている男性とそんな関係になるなんて不可能だ。

 あ、だからマティルダはここに働きにきたんだっけ。確かにここには結構な数の腕輪をしている男性がいるもんね。

「そうなんだ。それで、半年経って、いい人見つかった?」
「ふふふ。まあね。片想いなんだけれど」
「誰?」
「わかると思うけどな。かっこいいから」

「かっこいいって、もしかして、24?」
そうマイアが言うと、マティルダは大きく首を振った。
「よしてよ! インファンテだなんて、そんな高望みしていないわよ」
「あ、だったら……。誰だろう?」

「ミ・ゲ・ル。かっこいいと思わない?」
「あ、うん、そうね。背が高くて印象的よね」
「う~ん、マイアがライバルにならないといいな」
「え。私は、そんな、別に。マティルダ、あなたアタックしたの?」
「まあね。振られたわけじゃないけど、なんか煮え切らないのよね」

 悪いこと訊いちゃったみたい。マイアは慌てて話題を変えた。
「ところでさ。外にいたら、星のある子供なんて産めるわけないと思わない? 今まで腕輪をしている人、外で一度も遭ったことないよ?」
「ん? 《監視人たち》がオーガナイズしてくれるらしいわよ。私はそういうのがイヤでここに来たんだけれど」
「《監視人たち》って何?」

 マティルダは目を丸くした。そんな質問は想像もしていなかったらしい。
「知らないの?」
「うん。監視しているって人がいるって話は聞いたことある。みんな、お父さんかお母さんにそういう話、教えてもらうんだよね」

 マティルダは納得した顔をした。
「マイアのお母様、小さい時に亡くなったのよね。それじゃ、一度誰かにちゃんと説明してもらわなくちゃね」

 それから立ち上がってマイアの腕を取った。
「そういう話こそ、ミゲルに訊くのがベストよ」
と言って、マイアを部屋から連れ出した。マイアは何がなんだかわからなかったがついていくことにした。

「ミゲル。ちょっと、ちょっと」
マティルダは小部屋で燭台を磨いていたミゲルをの所に行って話しかけた。
「なんだ?」
「マイアったら《監視人たち》のこと、全く知らないみたいなの。説明してあげてよ」

 ミゲルは目を丸くした。
「は? しょうがないなあ。ま、いいや、教えてやるか。《監視人たち》と呼ばれる人たちがいるんだよ」

「腕輪を付けたり外したりする黒服の男たち?」
「あ? そうだよ。でも、それは中枢部にいる特別な人たちさ。大多数の《監視人たち》は普通の人たちと同じ格好をしているし、腕輪みたいな目印もないから、誰が《監視人たち》なのか僕たちにはわからない」

「どうやって《監視人たち》になるの?」
「親から子供に引き継がれるんだ。そういう一族があるのさ」

「でも、同じ人がいつも見ていたら、あの人かってわからない?」
「一人が特定の一人を常時監視しているわけではないから、尾行みたいな事はしない。歩いている時にたまたますれ違った人が、こちらを観察しているかどうかなんてわからないだろう? この街にはたくさんいて、腕輪をした《星のある子供たち》を見かけると、観察して上に報告するんだ」
「そんなにたくさんいるの?」
「《星のある子供たち》よりずっと多いはずだ。詳しい数は知らないけれど、一万人か二万人くらいいるんじゃないか」

「《星のある子供たち》ってどのくらいいるの?」
マイアは小さな声でマティルダに訊いた。
「え? 数百人くらいじゃない? ミゲル、違う?」
「多分そのくらいだと僕も思うな」

「その中枢部っていうのはどこにあるの?」
マティルダはミゲルに問いかけた。彼は首を振った。
「知らない。下っ端はほとんど誰も知らないんじゃないか。もちろんドン・アルフォンソやドンナ・マヌエラは知っているはずだ。それにメネゼスさんや運転手のマリオは星を持たない者なのにここに勤めているということは《監視人たち》組織の中枢に属するのだと思う。だから彼らは知っていると思うよ。訊いても教えてくれるはずはないけどね」

「なぜあなたは《監視人たち》のことをよく知っているの?」
マイアが訊くと、ミゲルはマティルダと顔を見合わせて笑った。それから彼は答えた。
「僕が預けられたのが《監視人たち》の一家だったからさ」

「え?」
「僕の両親にはどちらにも星のない恋人がいて、結婚するためにとにかく子供を作ってしまいたかったんだそうだ。そのためだけだから、試験管で。で、どちらも生まれてきた僕を引き取りたがらなくてね」
マイアは淡々と語るミゲルの様子に驚いた。
「傷ついたって、状況は変わらないさ。そういう定めで生まれてきたなら、受け入れるしかないだろう?」

「その……親がいない星のある子供は、みな《監視人たち》の所に引き取られるの?」
「皆じゃないけれど、当然、《監視人たち》の目の届く所に置かれる。一つには養父母に星のある子供が虐待されてないか監視するためでもある。もう一つは適齢期になったときに勝手に《星のある子供たち》同士でない子供を作られたりしないように」

「じゃあ、私の家の近くにも《監視人たち》がいるのかな」
マイアはどの家族だろうと考えたが、全く思いつかなかった。
「マイアもお母さんが亡くなっているのよね」
マティルダがミゲルに補足をした。

 ミゲルは断言した。
「なら住んでいるところから三ブロック以内にいたはずだ。街にも常に配置されている。カフェで仲間とおしゃべりに興じていたり、新聞を読みながらビールを飲んでいたりするけれど、近くに《星のある子供たち》が通りかかれば、細かく観察して必要があれば報告しているんだ。でも、別に困ったことはないだろう? 普通の《監視人たち》は無害なんだ」
「有害な《監視人たち》もいるの?」
マティルダが訊いた。

「有害っていうのは語弊があるな。《星のある子供たち》の行動にはレベルがあるんだ。街で普通に生活しているのはレベル1。通勤を見かけたとか、喫茶店でコーヒーを飲んでいたとかさ。日常的に繰り返される場合は、報告書を作る必要すらない。レベル2は腕輪をしていない特定の異性とグループでよく逢っているとか、境遇を家族以外に話して助けを求めたりしている場合とかさ。こんなことでも、《監視人たち》は報告するだけで何もしないんだ。ただ、レベル3以上になると、中枢部から黒服が派遣されてくる。彼らは行動がレベル4に達した時には実力行使で止めることを許されているんだ」

「レベル4って?」
「この国から逃げだしたり、腕輪のことを街の外の人間に話したり、《星のある子供たち》と子供を作る前にそれ以外の異性と性的関係を持ったりすること」
 マイアはため息をついた。結局そういうことなんだ。

 マティルダは、その話題には飽きたらしく、別の質問をした。
「ところで、どうしてミゲルはここで働こうと思ったの?」
ミゲルは肩をすくめた。
「星のある女を紹介するのをやめてほしかったからさ」
「?」
マイアは首を傾げた。マティルダとミゲルは顔を見合わせた。これも知らないのかと無言で確認しているようだった。

「星のある女と子供を作れと言われても、そこら辺にはいないから作れないじゃないか。だから、《監視人たち》が上手く星のある二人が上手く出会うように操作するんだ」
「たとえば?」
「コンサートのチケットに当選しましたとかさ。誰かからサッカーの当日券をもらったりなんてこともある。そうやって普段いかない所にいくと、偶然隣に腕輪をした女が座っていたりするのさ」

「あ!」
マイアは小さく叫んだ。
「心当たりあるだろ?」
「うん。応募もしていなかったコンサートの抽選に当たったって、送られてきた……」
「で?」
「えっと。人のいる所、苦手だから行かなかった」
それを聞いて、ミゲルとマティルダは楽しそうに笑った。

「とにかく、この女はちょっと違うなと、手を出さないでいると、次々そういうアプローチが来てさ。そうやって操作されているみたいなのが嫌だったんだよ。ここで働くとなると、星のある女との出会いもへったくれもないから、その手のアプローチはなくなるんだ。自分で探したいし」

そういって、ミゲルはちらりとマティルダを見た。マティルダは天井の方を見上げて素知らぬ顔をした。マイアは、なんだ、ミゲルの方も十分に脈ありじゃないと思った。マティルダのために上手くいくといいなと思った。
.27 2014 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(5)占いをする女

Posted by 八少女 夕

普通はStella用に月末の月一回発表する小説ですが、先月と今月だけはイレギュラーに月二回出しています。今回は、マイアの回想の章です。といっても、子供の頃ではなくて二年ぐらい前の話。彼女がはじめて腕輪の事について説明してもらった時の事です。

そういえば、この小説ようやく全て書き上げました。まだ若干直す所が出てくるかもしれないですが、並行して外伝の方に入ろうかなと思っています。


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「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(5)占いをする女

 マイアがライサ・モタの妹であるマリアと知り合ったのは、二年ほど前だった。

 マイアはカサ・ダ・ムジカという大ホールに行った。クラッシックのコンサートに定期的に行っている知人が急用が入ったのでとチケットを譲ってくれたからだった。マイアはクラッシック音楽を聴く趣味はなくて、しかもその時の演目は現代音楽でちっとも興味がなかったのだが、美しいと評判のこのホールそのものに入ってみたかった。

 この国の伝統的建築を好きなマイアは現代建築が嫌いだった。カーサ・ダ・ムジカは、Pの街を代表する現代建築で、四角い白い箱をあちこち削り取って放置したように見える。その様式が周りの街とは相容れないため、バスで横を通る時にマイアはいつも顔をしかめていた。けれど、一度でもそこへ行ったことのある人は「美しい」と絶賛するのだ。だから、マイアも機会があったらその中に入ってみたいと思っていた。

 そして、人びとの言っていたことは間違いではなかった。黄色や白い壁にガラスの間しきり、光と遊ぶように設けられたいくつものガラスのオブジェや、平行でない直線に形成された空間と階段が続く。緩やかな曲線を描く平面が光と遊び、内部に様々な陰影を作り出している。それは労力を削ぎ取るためではなく、伝統という枠を取り払いながらも、機能が遊びや美しさと共存することを示した魅惑的な空間だった。マイアは心が開放されるのを感じた。光の射し込んでくるガラスの窓を見上げてしばらく動かずに立ちすくんでいた。

「とてもきれいよね」
そういって話しかけてきたのがマリア・モタだった。赤い鮮やかなジャケットを身につけてブルネットが所々混じる綺麗な金髪をラフにシニヨンにしていた。マイアは戸惑いながらも頷いた。学校を出たばかりで、公式の場に一人で行くことも少なかったマイアは、コンサートホールに一人でいるというだけで、少し冒険をしている氣分だった。一方のマリアは堂々としていてとても眩しく感じた。実際にはマリアの年齢はマイアと一つしか離れていなかった。

 マリアに誘われて、マイアはホール内にあるレストランへと行った。マリアは白ワインを炭酸飲料で割るように頼み、マイアも同じものを試して、それを機会にその飲み物の虜になった。人付き合いが苦手でなかなか新しい友だちのできないマイアが、マリアに対して警戒を持たずに新しい友だちになれたのは、カーサ・ダ・ムジカの非日常性のおかげだったのかもしれない。

 その日、マリアは何も言わなかったが、彼女は出会ったその日からマイアの金の腕輪に氣がついていた。というよりは、たぶんそれでマイアに声を掛けたのだ。
「姉のライサもその腕輪をしているの。姉以外でそれをしている人、はじめて見たから、どうしても声を掛けたくなってしまって」
マリアは何回目かにあった時にそう告白した。

「お姉さんは、いまどこに?」
「ドラガォンの館で働いている。たまに帰ってくるけれど。今度帰って来たら、マイアと友達になったって話すわね」

 ドラガォンの館と聞いて、マイアはどきりとした。子供の頃の思い出が甦った。あの建物の中には、あの悲しい瞳をした少年が今もいるんだろうか。それとも、とっくに追い出されてどこかに行ってしまったんだろうか。わかっていることは一つだった。あの館は昔から変わらずにあの美しい街の夕闇をのぞみ続けている。

「ねえ。マリアのお母さんもこの腕輪しているの?」
マイアは氣になっていたことを訊いてみた。自分の境遇がやはり同じ腕輪をしていた亡き母親と関係があるのかわかると思ったから。
「いいえ。どうして?」
「私の母はしていたの。そうか、それとは関係ないのかな」
「わからないわ。だって、ライサはパパともママとも血がつながっていないもの」
「え?」
「養女なの。でも、腕輪のことを知りたいなら、いい人を知っているわ」

 マリアは地下鉄のトリンダーデ駅の近くへと連れて行った。銀行や郵便局など大きくて立派な建物のある裏手に細い路地があった。バルコニーに洗濯物が翻るカラフルだが古いタイルに彩られた細い建物が身を寄せあうように建っている。時おりショウウィンドウがあって、金物屋や洗濯屋それに肉屋などが見えた。マリアは脇目も振らずにその奥の小さな何の看板も出ていない入り口に入って行った。カラフルな布切れがかかっているので表からは家の中は見えないようになっている。表は日差しが強くて汗ばむほどだったが、家の中はとても涼しかった。

「何か用かい」
下の方から声がした。暗闇に目が慣れていなかったマイアは目を凝らした。マイアが座っている老婆を見つけたのと、マリアが声を掛けたのがほぼ同時だった。

「こんにちは。以前《星のある子供たち》の一人である私の姉が訪ねて来たことがあるんだけれど、憶えているかしら」
老婆はゆっくりとマリアを見たが、首を振った。
「私は何も憶えていないよ。世界の深淵を覗き見るために、占いをするだけさ」

 マリアは老婆のもってまわったいい方に慣れているらしくマイアの左腕をつかむとぐいと老婆の顔の前に金の腕輪を見せつけた。老婆はまったく動じたふうもなく、ただ頭の上のショールを少しずらして顔を隠そうとした。その時にマイアには老婆の左腕にも赤い星のついた金の腕輪が嵌まっているのがわかった。マイアは急いで言った。
「あの……。この腕輪のことについて、教えていただけないでしょうか」

 老婆はマイアの戸惑ったような瞳を覗き込むと言った。
「お前さん、母親は?」

「私が七歳の時に他界しました」
「それでその歳だというのに何も知らないわけだね」
「はい」

 それから老婆はマリアを指してマイアに言った。
「腕輪を買い取るようなことはしていないよ。この娘と帰りなさい。そして、一人の時にまた来るんだね。お前の悩みについて占ってやることもできるだろう」
マリアには聞かせたくないという意味だと思った。だから二人は大人しく帰り、翌日にマイアは一人出直してきた。

「おや、赤い星を持つ子がまた来たのかね」
「先日、IDカードの申請に行ったんです」
「IDカードとはなんだね」
「身分を証明してくれる小さなカードです。クレジットカードを作ろうとしたり、大きい企業に勤めようとすると必ず提示を求められるんです。それにそれを持っていれば、パスポートなしのヨーロッパ旅行もできるんです」

「それで」
「書類が不備だっていうんです。もう五回も行ったんです。言われた通りに書類を用意して。行く度に違う不備を指摘して申請を受理してくれないんです」
「役所とはそういうところだろう」

「でも……いつも私だけそうなるんです。同じことを妹たちのために申請すると大丈夫なんです。子供の時からずっとそうでした。パスポートも作ってもらえない、自動車の仮免ももらえない。絶対に変です」
「それで」
「この腕輪のせいなんじゃないかと思って」

「お前さん、頭は確かかね。腕輪なんてただの装飾品を見てお役所が意地悪をしているとでも」
はぐらかす老婆を見てマイアは悲しくなってきた。この老婆は同じ腕輪をしている。亡くなった母親のことを訊いた時に、マイアが知っていなくてはならないことを知らないことを指摘した。だったら教えてくれてもいいのに。

 涙を浮かべたマイアを見て、老婆は人差し指を口に当てるとそっと座るように指示した。それからどこからかロウソクを取り出してくると火をつけて、表の扉を閉めにいった。暗闇の中、ロウソクの炎だけがオレンジ色に浮かび上がった。

「お前さんの母親の星はいくつだったか憶えているかい」
「二つでした。これとまったく同じ腕輪で赤い石だけ一つ多かったんです」
「そうかい。すると、お前の父親は青い星ひとつだったんだね」
老婆は何でもないように言った。マイアにはさっぱり意味が分からなかった。

「この腕輪はだね。この街に住む、特別な血筋の子供であることを示す証なんだよ。こういうことは、ある程度の年齢になったら親がわかるように説明するものなんだがね。中にはお前さんや、お前さんを連れてきたあの娘の姉のように、話してくれる人間が一人もいないってこともあるわな」

「誰の血筋なんですか」
「知らないよ。知っている人間がいるかどうかも怪しいね。だが、これを付けているということは、私とお前さんはどこかで血がつながっているということだ」

「なぜ腕輪を付けなくちゃいけないんですか」
「その血筋を絶やさないようにするためさ。しかもできるだけ濃いままね」
「?」

「青い星の腕輪を持つ男は、赤い星を持つ女のうち一人以上を選び自分の子供を産むように強制できる。そのかわり星のある子供を得る前に《星のある子供たち》でない女と交わることや、一度他の星を持つ男に選ばれた女に触れることは許されない。そして生まれた子供は親の星と同じか少ないものとなる。両親の星の組み合わせによって子供の星の数が決まるんだ。星をもつ女は星を持つ男の子供を一人でも産めば、その男のもとを去ることが許される。もちろん、その男と一緒にいたければいても構わないがね。《星のある子供たち》を生まないかぎり腕輪をしていない男との結婚は許されない。《星のある子供たち》はどこにいるかが管理され、この街から出て行くことは許されない」

「赤い星一つでも?」
「そうだとも。だが、二つ以上の星を持つ者たちと違う点もある。他の《星のある子供たち》の腕輪は生涯外してもらえないが、星一つの場合は役目が終わった時点で外してもらえるのさ。パスポートだのIDカードだのももらえるようになる。それに相手が青い星ひとつだった場合には、子供は《星のある子供たち》にはならない。そこまで薄くなった血は不要ってことだ」

「でも、今は二十一世紀なのに、なんでそんなおかしなことが続いているの? 本人たちがみんなでイヤだって言えば……」
「イヤなんて言えないようになっているのさ。《星のある子供たち》は監視されている。その義務を遂行するように、それだけを忠実に守るように定められた星を持たない人たちもいるんだよ。《監視人たち》っていうんだ。彼らのトップには大きな権力が与えられていて、連絡が来るとすぐ問題を修正に来るのさ」
マイアは母親の葬式の前にやってきた黒服の男たちを思い出した。同じような男たちは、マイアが十三歳の時にもやってきた。

 マイアの記憶にあるかぎり常に付いていた金の腕輪は、マイアの成長とともにきつくなってきた。ある時からはその締め付けが痛くて我慢できなくなってきたので、家庭医であるサントスのところにいって訴えた。するとサントス医師はどこかに電話をした。すぐに2人組の黒服の男たちがやってきて、マイアの腕輪を外し、ひと回り大きいものに嵌め替えて帰って行った。

「お前の申請書類を毎回却下しているのも同じ人たちだ。この街から出て行かないように。それも法的には問題がないように巧妙にね。私たち《星のある子供たち》は、どこに《監視人たち》がいて、誰が監視しているのかを知ることはできない。確かなのは、常に監視されているってことさ。私たちがこうして話しているのもきっと知られているだろう」
「いいんですか」
「別にお前さんの海外逃亡の算段をしているわけじゃないからね。私はただ、本来ならお前さんの母親が伝えるべきだったことを話しているだけさ。悪いことは何もしていない」

「竜の血脈の源は、あそこだよ。ドラガォンの館。あそこの代々の当主は青い星を五つ持っているのさ」
マイアははっとした。あの少年の腕輪には青い石が四つ付いていた。
「青い石が四つ付いているのは?」

 老婆は少し驚いたようにマイアの顔を見た。
「そりゃ、インファンテだよ」
「インファンテ?」
「当主の子供か、兄弟だ。そこらへんで逢うはずはないんだが。お前さん、どこかで逢ったのかい?」
マイアはあわてて首を振った。
「いいえ、そういうわけじゃないんです」

 一年以上も前の老婆の言葉が甦る。23と24はつまり、ドン・アルフォンソの弟なのだ。でも、なぜ数字の名前なんだろう。マイアは訝った。
.20 2014 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(4)居住区

Posted by 八少女 夕

普通はStella用に月末の月一回発表する小説ですが、今月と来月だけはイレギュラーに月二回出しています。今回はその二つめ。インファンテと呼ばれている二人の青年が住んでいる所の紹介です。部屋というには三層に別れていて大きく、かといって館の中で独立しているわけではないこの空間、何と呼ぶのか悩みましたが「居住区」と表現することにしました。長い章ですが、切らずにそのまま一度にお届けしています。

月刊・Stella ステルラ 8月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(4)居住区

 翌朝、マイアはアマリアと一緒に24の部屋の掃除に行くと言われた。朝食の給仕はマティルダ担当の日だった。
「どうして? 一人で四人分だと大変じゃないの?」

「ううん、食堂で朝食をとられるのはお二人だけよ」
「二人?」
「うん。ドン・アルフォンソとドンナ・マヌエラ。24はベッドで食べたいとかで寝室に運ばせているの。お昼は氣まぐれね。食堂に来ることもあるし、運ばせることもあるし」

「23は?」
「あの方はね、必要がない限り、出てこないのよね。朝もお昼も工房でとられるの。私たちは毎朝焼きたてのパンをお届けして、コーヒーやハムやチーズやジャムなど用意してほしいと言われた物を時々補充するだけ。対照的なご兄弟なのよね。24は全てのことに仕えてもらうのが好きで、23は必要以上に構われるのが嫌いなの」
「ふ~ん」

「じゃ、私いくわね。マイアは、24の所の掃除か、大変だと思うけれど頑張ってね」
マティルダはウィンクして部屋から出て行った。大変? マイアは首を傾げながら用具置き場で待つアマリアの所に急いだ。

「行きましょうか」
アマリアは掃除用具を用意して待っていた。自ら一番重い掃除機を持とうとしたので、マイアがそれを制して持つと「ありがとう」とにっこり笑った。

 アマリアはまずマイアを鍵の置き場に連れて行った。
「こちらが23の所の鍵で、こちらが24。ドン・アルフォンソ、ドンナ・マヌエラ、それからメネゼスさんはそれぞれご自分でこの鍵を持っていらっしゃるけれど、他の人たちがあそこへ入る時にはここから鍵を持っていくの。必ずここにサインして、使ったらすぐに戻すこと。戻ったらまたサインしてね」
「はい」
「居住区に入ったら、すぐに内側から鍵をかけること」
「はい……」

 なぜ鍵をかけなくちゃいけないのですか。その根本的な質問をしていいのかわからずマイアが戸惑っているのをアマリアは見て取った。
「あなたの訊きたいことはわかるわ。ご主人様と呼んでおきながら、囚人みたいに扱うのはなぜかって思うでしょう?」
マイアは頷いた。

「理由は私にもわからないの。でも、鍵をかけるのは、あそこに住む方が私たちの目を離した隙に逃げだしたりしないため。私たちは一階や三階で仕事をすることもあるけれど、あそこはとても広いので、どこにいらっしゃるのか把握できないことが多いのよ」

 アマリアが連れて行った24の居住区は、大きな鉄格子と鍵のかかった入口がある以外は、インファンテ(王子)と呼ばれる人の住まいにふさわしい豪奢で贅沢な空間だった。上下三階に及び、三階は寝室と浴室、二階は居室で一階には高価な応接家具と書斎、中庭に出ることができた。広い庭には美しい花が咲き乱れ、洒落たガーデン・テーブルと椅子が置かれていた。
「このつくりは、ドン・アルフォンソやドンナ・マヌエラのお住まいとほとんど一緒よ」

 アマリアはまず一階の応接室を片付けだした。ここは24が実質的に居間として使ってるらしく、大きな壁掛けディスプレイとスピーカーが設置されていた。その正面には白い革のソファセットと大理石のローテーブルが置かれていた。そして、衣類、雑誌、新聞、ゲーム機と思われるいくつもの機械、CD、DVD、たくさんのリモートコントロールなど、何もかもが出しっぱなしになっていた。マイアはアマリアがそれらを手際よくあるべき所へと収めていった後を拭き掃除をしながら追っていった。それから乾拭きと掃除機がけをした。庭と反対側の奥には小さなスポーツジムのようにトレーニングマシンのたくさん置かれた部屋があり、そこも片付けて掃除をした。

 アマリアがどかした物を元に戻している間に、マイアはまだ手を付けていない書斎の中を覗き込んだ。テーブルの上にはデザイン用の筆記用具、マスキングテープ、製図用品などが見えた。素人ながらも絵を描くマイアは、その高価な用具一式を羨ましげに眺めた。もっとも机の上にあるデザイン画は、よく街の土産物屋で見かけるTシャツの図柄のように見えた。
「こちらは24の仕事場。大切な物があるので、ここは言われない限りノータッチでいいの」
アマリアがマイアの袖を引っ張った。マイアは頷いて、後に続いて二階の居間の掃除に移った。

 二階は、一階ほどは使っていないらしく、掃除はかなり楽だった。拭き掃除をしている時に、何かを規則的に叩くような音が聞こえてきた。マイアは何だろうと思って、辺りを見回した。アマリアがそれに氣がついて微笑んだ。
「23の所から聞こえてくるのよ。靴をお作りになっていらっしゃるの」
「靴?」
「ええ、あの方は靴職人なの。24がデザイナー」
「働いていらっしゃるんですか?」
「ええ。そういう伝統なの」
変わった伝統だ。ご主人様が、働くんだ……。しかも、靴職人? マイアは首を傾げた。

 マティルダが大変よとウィンクした意味が分かったのは、三階の掃除に入った時だった。階段を上がると、踊り場となっていて正面にドアがあった。

「おはようございます、メウ・セニョール。失礼してもよろしいでしょうか」
アマリアが礼儀正しくノックすると中から24の声がした。
「ああ、掃除に来たんだね」

 ドアが開いて、24が顔を出した。イギリス風の千鳥格子のハンタースーツを着ている。建物の中にいるのに、どうしてこの人鳥打ち帽なんかかぶっているんだろうか。マイアは思った。

「おや、新入りちゃんも来たのか。なんて名前だったっけ」
「フェレイラ、マイア・フェレイラです、メウ・セニョール」
「そう、茶色い瞳が森の奥の神秘的で氣高い樫の樹を思わせるよ。僕は下に行って、新入りちゃんを歓迎する詩でも書こうかな。掃除が済んだら呼んでよ」
そう言って、かなり上機嫌で階段を降りていった。マイアは面食らって無言だったが、その様子を見てアマリアは必死で笑いをかみ殺した。

 広い寝室だった。二メートルごとに、合計で五つの窓があった。全てに鉄格子が嵌まっているが、光が射し込んで明るかった。窓のない方の奥にドアがあり、そちらがバスルームだった。手前には作り付けになった大きなクローゼットがあり、八つのうち二つは扉が開いていて中から大量の衣類が見えていた。

 床、キングサイズのベッド、ライティングデスクの前の椅子、ソファなど至る所に清潔に見える衣類が散らばっていた。
「今日お召しになる物を決める前に迷われたのね」
手慣れた様子でアマリアは服を拾いだすと、きちんと畳んだりハンガーにかけたりしてクローゼットに仕舞っていった。その時に中の様子を見てマイアは開いた口が塞がらなかった。デパートの洋服売場じゃあるまいし、こんなにどうするんだろう。

 二人はどんどんと片付けていったが、言われた所を開けようとして、マイアは間違って隣の扉を開けてしまった。
「ひっ」
マイアは慌ててそこを閉めてアマリアの顔を見た。アマリアは中身を知っていたらしく、何も言わずに、肩をすくめた。それは手錠や革の鞭、ラテックス製のスーツにひと目でそれとわかる電動製品など、初な娘には刺激が強すぎる怪しげなコレクションの数々だった。

 アマリアは全くそれには言及せずに、片付けを終えると、ベッドメイキングをマイアに教え、拭き掃除と掃除機かけ、さらにバスルームの掃除も一緒にした。いくつものガラスの大きな瓶に入ったバスソルトとバスキューブや巨大な香水瓶、ありとあらゆるブランドもののシャンプーとリンスなどがひしめいているバスルームの片付けと掃除もかなりの時間を要した。これで午前中はほぼ終わってしまう。24の居住区の毎日の掃除に二人の召使いが配置されている理由がわかった。

 その日は、そのまま二人で洗濯をすることになっていたので、掃除中にあらゆる場所から集めてきた何日分かの洗濯物を持って居住区を後にした。マイアは洗濯室に入ってからアマリアに訊いた。
「あのものすごい量のお洋服、全部お一人のものなんですか」

 アマリアはおかしそうに答えた。
「あれでも、少なくなった方なのよ。三年前までこの五倍くらいあって……」
「なんですって?」

「ある日、どうしてもあるジレをお召しになりたくてね。でも、見つからなくて」
「それで?」
「五日間、ぶっ通しでお探しになったの。そして、癇癪を起こされて……ほとんどのお衣装を一度処分されてしまわれたの。今あそこにあるのは、それから増えた分」
マイアはびっくりして目を丸くした。

「23の方は?」
「あの方は逆の意味で極端よね」
「というと?」
「同じ服しかお召しにならないの。もちろん毎日取り替えていらっしゃるけれど、デザインは全く一緒。とある職人が手作りしているところに定期的に注文するの。判で押したように。生活もそうよ。とても規則正しくて、きちんとしていらっしゃるけれど、とても距離を置かれていらしてね。お掃除中も全く話しかけてこられないし、難しい注文もなさらない。私たち召使いは楽だけれど、十年以上勤めていて、まだ五分以上続けて会話をしたこともないのも、なんだかねぇ」
そうなんだ。マイアはかつての少年の姿を思い出した。前はずいぶん氣さくに話しかけたのに、偏屈な人嫌いになっちゃったのかな

「23の所のお掃除は?」
「今日は、マティルダ。朝食の給仕の当番が、その後にすることになっているけれど、もう終わったと思うわ。明日はあなたね。今日のことを考えたら、嘘みたいに簡単だから安心して。散らかっているのは靴工房だけだけれど、あそこはノータッチでいいし、それ以外の所はきちんとしていて、すぐに終わるわ」
マイアは頷いた。

 24の昨日着ていたジャケットをみていたアマリアはため息をついた。
「やだ、これ、本格的に染み抜きしなくちゃだめだわ。すぐにやらないと。マイア、一緒に行ってあげるつもりだったけれど手が離せなくなっちゃったから、一人で23の所に行って洗濯物を受け取ってきてちょうだい。あの方は受け取りにきましたと言えば無言でくださるだけだと思うから面倒はないわ」

 マイアはアマリアから鍵を受け取ると23の居住区に向かって鉄の扉を開けた。言われたようにすぐに内側から鍵を閉めると小さい声で23を呼んだ。
「メウ・セニョール。洗濯物をいただけますか」

 階下でしていた何かを打つような音が止むと、下から23が上がってきた。緑色のエプロンをしている。
「お前か」
「はい」
「悪いが、手が汚れているんだ、こっちにあるから取りにきてくれ」
「はい、メウ・セニョール」

 一緒に下に降りて行こうとマイアが続くと、23は階段の途中で振り返って嫌な顔をした。
「おい。そんな風に呼ぶな」

 アマリアの嘘つき。無言じゃないじゃない。
「え。なんと呼べばいいんですか」
「23」

「そんな風に呼んだら、ジョアナにもメネゼスさんにも怒られます」
「誰か他の人間がいる時はご主人様でも何とでも呼べ。だが、誰もいない時はやめてくれ」
「でも……理由を訊いてもいいですか」
「理由も何も、前はそんな風には話さなかったじゃないか、マイア」

 マイアは彼が突然名前で呼んだのではっとした。この館に来てから、まだ一度も23とは話をしていなかったから、前と言うのは十二年前のあの時の事を言っているのだとわかった。
「……。私があの時の子だって、わかっていたの?」
「あまり変わっていないからな」
う……。どうせ、大人っぽく育っていませんよ……。

「確かに、あの時は図々しく友達みたいに話しかけたけれど、今は召使いだから立場をわきまえないとまずいでしょう?」
「俺はそんなに偉くないんだ。お前は召使いかもしれないが、俺だって一介の靴職人だ」
アマリアやマティルダが「必要以上に構われるのが嫌い」と言っていたのを、人嫌いという意味に取っていたけれど、もしかして王子様扱いが嫌なのかしら。

「本当にそんな風に呼んでもいいの?」
「よくなきゃ、わざわざ言わないよ。呼んでみろ。そうしたら次からはそんなに難しくないから」
「……。わかった……23」
ついに言ってしまった。すると彼は屈託なく笑った。あの時の笑顔と同じだった。マイアは彼の姿はすっかり大人になってしまっても、中身はあまり変わっていなかったのだと思った。

 一階には、24の部屋にあったような応接家具やスポーツルームはなかった。巻いてある革が立ててある一画や、靴底などがたくさん積まれている棚、大量の靴型がぶら下がっている壁があった。奥には、鑿やハサミなどの工具、いくつもの糊のポット、ミシンが置かれている作業台があった。
「すごい。本当に靴工房だ」
「そりゃそうだよ。何だと思っていたんだ」
「え。だって、24の所は、あまり本格的にやっているって感じじゃなかったから、趣味の延長線なのかと……」
マイアはかなり失礼な事を言っていることに氣がついて口を押さえた。23は笑った。

「洗濯物は、そこにある。いつもそこに置いておくので、必要な時はここに取りにきてくれ」
彼の指差した所をみると、そこは小さなキッチンのようになっていて、シンクと小さい冷蔵庫と二つの丸い電気コンロがあった。小さい木の丸テーブルと椅子があり、その奥にラタン製の大きな籠があった。開けてみると、確かに彼が着ているのとまったく同じ服が三セットほど入っていた。マイアは籠ごと抱えて階段にむかった。

「これ、持っていくね。後でまた空の籠、持ってくるから」
そういうと、23は「ありがとう」といって作業台に戻った。抱えている籠からほのかにあの石鹸のような香りがした。
.30 2014 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(3)午餐

Posted by 八少女 夕

普通はStella用に月末の月一回発表する小説ですが、今月と来月だけはイレギュラーに月二回出すことにしました。理由は、この四回を四ヶ月もかけているのが我慢ならないから、です。この四回の中で、この変わった世界の説明がほぼ全てなされるのですが、本題はその後に来るのですよ。五ヶ月間も本題を待てるか、ということで二ヶ月ほどこういう形で発表させていただきます。今回は、ええと、単なる前々回と前回の続きです。わりと短めです。

月刊・Stella ステルラ 8月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(3)午餐

 あれから十二年が経っていた。自分も二十二歳になっているのだから、彼が少年のままであるはずはないと知っていたが、考えているのと目にするのは違った。あの時と同じなのは髪の色と瞳の色だけだった。その髪もジプシーの子供のように汚れて梳かしもせずにいた当時とは違って、たぶん肩ぐらいまであるだろう巻き毛をきっちりと後ろで縛っていた。太い眉、どちからというとがっちりとした顔の輪郭、そしてわずかに生やしている無精髭が、華奢で壊れそうだった悲しげな少年とは大きく違っていた。横を通るとき、わずかな香りがした。それは高級な石鹸か控えめな香水のようだった。

 向かいに座っている24ことInfante 324は全く対照的な男性だった。まず背がずっと高い。体型もすらりとしている。三人の中で一番ドンナ・マヌエラに似ていて、青い瞳が印象的で端正な顔立ちだ。短い金髪を綺麗に撫で付けている。23は黒いパンツに白いひだの多いバンドカラーのドレスシャツというあっさりとした姿なのに較べて、24はいかにもイタリアのデザイナーものと思われるグレーのジャケットにピンク地に白い襟のカジュアルワイシャツを着崩して、ポケットにピンクのネッカチーフを入れていた。香水はアラミスのようだ。すこし量が多過ぎる。

 二人が席に座ると、メネゼスが目で合図をし、アマリアがマイアの袖を引いた。前菜をバックヤードにとりに行くのだ。メネゼスが食前酒を注いでいた。

 キッチンでマイアは目をぱちくりさせた。用意された四つの前菜の皿は同じ大きさだったが、盛られているチコリとスモークサーモンの量が全く違ったのだ。ミゲルがごく普通の量の皿と少量のを一つずつ持ち、残りのやたら多く盛られた皿と少ない皿を目で示した。
「こちらはドン・アルフォンソに、それからそちらの少量のは23にお出しして」

 マイアはドン・アルフォンソの皿からチコリが落ちてしまうのではないかと心配しながら運んだ。なんとか無事に食堂まで運び、教えられた通りに出した。「どうぞ、メウ・セニョール(ご主人様)」と言うと、しゃがれた声で「ありがとう」と答えるのが聞こえた。フォークを持つのすら億劫に見え、その紫がかった顔はあきらかに健康を害しているように見えるのに、食欲は旺盛だった。

 23にも「どうぞ、メウ・セニョール」と皿を出した。同じように「ありがとう」と言われた。低くて深い声だった。ドン・アルフォンソのようにすぐには食べず、しばらく冷えた白ワインを飲みながら、ドンナ・マヌエラと24の会話に耳を傾けていた。

「母上、今日のミサで使われた詩篇ですが、少々退屈でしたね」
「メウ・クワトロ、どういう意味ですか」
「『主は大いなる神で大いにほめたたえられるべきです。その大いなることは測りしることができません』繰り返しの文言ばかりですよ。僕だったら、もっと詩的な言葉を挟むなあ」

「メウ・クワトロ。聖書にけちをつけるような不遜なことは言うべきではありません」
「わかっていますよ、母上。単に僕の詩心がうずくのです。言葉は軽やかで美しいべきではありませんか。詩ならばなおさらです。その響きに心が飛べるようでなくては」

 24の話し方は、まるで舞台でセリフを語る俳優のようだった。よく響くテノールのような声、朗々としてどう話し、どう振る舞えば注目が集まるのかを熟知していた。マイアは瞬きしながらふたりの会話に耳を傾けていたが、ふとミゲルが目で合図をしているのに氣がついた。いつの間にか、ドン・アルフォンソの皿も、23の皿も空になっていた。当主の皿はドレッシングやチコリが少し残っていたが、23の皿はパンで綺麗に拭われていた。そして、白ワインに戻っていた。マイアは二人の皿とカトラリーを下げた。

 キッチンにミゲルと一緒に戻った。見ると24の皿は半分以上が残してあった。
「なぜ24のお皿も少量にしないの?」
「してほしいと言われないかぎり、勝手に少量にはできないさ。奥様と23はご要望で少なくしてあるんだ。あの二人は絶対に残さないな」
「へえ」
マイアはつぶやいた。

 続いて食堂ではポットに入った野菜のスープがサーブされた。その間に、マイアとミゲルは再びキッチンに向かった。頃合いを見て用意された鴨のローストはいい香りをさせていた。ポートワインのソースが艶やかだ。ドンナ・マヌエラの皿は肉と付け合せの両方が少なめで、23のは今回は24と同じ量だった。ドン・アルフォンソのは倍量で、そんなに食べるからあんなに太るんだなとマイアは納得した。

 鴨がサーブされた時に、23はドウロの赤を飲んでいた。マイアを見上げて何かを言いたそうにしていたが、ただ「ありがとう」とだけ言った。マイアは私を憶えていたのかなと考えたが、いずれにしてもあれは秘密だった。ここでおおっぴらに確認できるようなことではなかった。

 十二年前、十歳だったマイアは時おりドラガォンの館の庭に忍び込んで夕陽を眺めていた。偶然知り合った少年は23と名乗った。そんな馬鹿な名前があるわけないと思っていたが、彼は嘘を言っていたわけではなかった。翌日も彼に逢うために忍び込んだのだが、あの冷えた石造りの家に彼はいなかった。それどころか、彼がぶら下がるようにして話しかけてきた足元の鉄格子のついた小さな窓から呼んでいるうちに、黒服の執事、今日メネゼスと紹介されたその人にみつかってしまったのだ。

 それから、一週間も経たないうちにマイアの父親は引越すことになった。あまりにも突然のことでマイアも妹たちも不満を表明したが父は「しかたないんだ」というばかりだった。今の彼女にはわかっている。あの館にマイアがもう近づかないように、あの黒服の男たちが父親に引っ越しを強制したのだと。数年前に、再びレプーブリカ通りに住むようになってから、マイアは再びドラガォンの館に来てみたが、その時にはマイアが忍び込んだ生け垣はきちんとした塀になっていて犬一匹でも入り込めないようになっていた。
.19 2014 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(2)腕輪をした子供たち

Posted by 八少女 夕

月末の定番、月刊Stella用の「Infante 323 黄金の枷」です。今回の更新分は、先日と公開した断片小説が含まれています。あの時に使わせていただいたユズキさんのフリーイラスト を再び使わせていただいています。ユズキさん、どうもありがとうございます。この章は、第一章の時点から十二年前の回想シーンです。この時マイアは十歳、23は十四歳です。夕陽だけは十二年くらいでは変わりません。

月刊・Stella ステルラ 7月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


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あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(2)腕輪をした子供たち

 十歳だったマイアは泣きながら細い路地を歩いた。坂の多いこの街の、華やかな川岸とは対照的な灰色の小路だ。宿無したちのぬくもりが残っているような、抜け殻のように見えるボロボロの毛布が、壁のくぼみに見えていた。そこは小便臭い一角で、マイアは息を殺して足速に通り過ぎる所だった。でも、今日はそこに辿りついた事すらも氣がつかなかった。

 左の手首にしっかりと巻き付いた金の腕輪を外したかった。全てはその腕輪のせいで、それさえ外せたなら何もかも妹たちと同じようになれるのならどんなにいいだろう。けれど、マイアにはもうわかっていた。それは腕輪のせいではなかった。マイア自身が妹たちとは違っていて、その違いをはっきりとわかるようにするためにこの腕輪を付けられているのだと。

 マイアの母親、やはり金の腕輪をしていたテレサが亡くなったのは三年前だった。マイアが忘れられないのは、葬儀の前に黒い服を着た男たちが来て、母親の黄金の腕輪を外した事だった。その腕輪は誰にも外せないと言われていたのに、かちゃっと言う音がして外れた。マイアは男たちに自分の腕輪も見せた。
「これもはずして」

 男たちは笑いもせずに言った。
「まだ、だめだよ」

「でも、妹たちはしていないよ」
「その通りだ。妹たちは星を持たない子、君は紅い星を一つ持つ子なんだ」
男たちのいう意味はよくわからなかった。でも、マイアの手首にぴったりとついた腕輪には赤い透き通った石が一つついていた。亡くなった母親の腕輪には同じ石が二つ付いていた。

 母親が生きていた頃、マイアにわかる妹たちとの違いはそれだけだった。それから三年経って、父親の態度が変わったのではない。父親はマイアと妹たちとに違った愛情を注いだわけではなかった。たとえマイアだけが彼の本当の娘ではなかったとしても。けれども、彼はマイアにわかりやすく説明する事ができなかった。

――なぜ、マイアだけ学校の遠足に行ってはいけないのか。
――なぜ、マイアだけ船に乗ってはいけないのか。
――なぜ、マイアだけ金の腕輪をしなくてはいけないのか。

 納得できるような理由は誰も言ってくれない。葡萄畑の広がるのどかな渓谷。D河を遡る遊覧船に乗って明日級友と妹たちを含む学校の生徒は遠足に行く。隣国との国境を超えるので、子供たちは皆パスポートを用意させられた。二年前に行けなかったマイアは、今度こそ行けると喜んでいた。それなのに、妹たちが手にして見せあっているパスポートを、マイアだけがまたもらえなかったのだ。

「ごめんな。マイア。父さんが提出した書類に間違いがあったらしいんだ。それでお前の申請書だけ戻ってきてしまったんだよ」

 マイアは泣きながら街を歩いた。海からの風がマイアの頬に触れて通り過ぎていく。カモメは高く鳴いて飛んでいく。理不尽な事ばかりだ。

* * *

  暗くて冷えた石造りの壁。明かりの入ってくる窓には彼の手首ほどもある太い鉄格子が嵌まっている。彼はその錆臭い格子をつかんで外を見た。停まっていたカモメがさっと飛び立った。どこまでも続く赤茶けた屋根の上を悠々と飛んでいく。彼の目はその飛翔をずっと追っていたが、やがて格子をつかんでいるみっともなくやせこけた自分の手に視線を移した。左の手首にぴったりと嵌まった金の腕輪だけが、キラキラと美しく輝いていた。D河の向こうを目指してゆっくりと沈んで行く太陽の投げかけた光が、腕輪にあたり鋭く目を射た。彼は格子に額を押し付けて瞳を閉じた。

* * *

 マイアは坂道を上りきった。車や人びとが行き交い、華やかなショウウィンドウが賑わう歴史地区の裏手に、D河とその岸辺の街並に夕陽のあたる素晴らしい光景が広がっている。ここは貧民街の側でもあるが、どういうわけか街でも一二を争う素晴らしい館が建っていて、その裏庭に紛れ込むと夕景を独り占めできるのだった。

 その館が誰のものであるのか、幼いマイアはよく知らなかった。父親は「ドラガォンの館」と言っていた。門の所に大きな竜の紋章がついているからだ。竜はこの街の古い紋章でもあるので、マイアはこの館は昔の王族の誰かが住んでいるのだろうなと思っていた。テレビで観るようにまだ王様が治めている国もあるが、この国は共和制でもう王様はいない。だから大きな「ドラガォンの館」が何のためにあるのか、マイアにはよくわからなかった。

 彼女は四つん這いになって、生け垣の間の小さな穴を通って、館の裏庭に侵入した。生け垣のレンギョウは本来なら子供が入れるほど間を空けずに植えられているのだが、ここだけは二本の木が下の方で腐り、それを覆い隠すように隣の木の枝が繁っていて大人の目線からは死角になった入口になっていた。ここを見つけたのは秋だった。自分だけの秘密。見つかれば二度とあの光景を独り占めできないことはわかっていた。

 緑と黄色のトンネルを通って下草のある所に出た。手のすぐ近くに草が花ひらいていた。三色すみれだ。マイアはまた少し悲しい顔をした。

パンジー by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。

 花弁の一番上だけ、他の花びらと異なっている。父親の出稼ぎ先であるスイスで生まれ育ったジョゼが言った。
「この花ってさ。ドイツ語だと継母ちゃんっていうんだぜ」
「どうして?」
「ほら、みろよ。同じ花の中に、三つは華やかで上だけ地味な花びらだろ。この派手なのがいい服を来た継母とその実の娘たちで、地味でみんなと違っているのが継子なんだってさ」

 ジョゼはマイアのことを当てつけて言ったわけではない。彼は転校してきたばかりで、マイアの家庭の事情には疎かった。それに彼女は継母にいじめられている継子ではなかった。妹たちとは同じ母親から生まれたし、実子でないからと言って父親に差別されたりいじめられたりしたこともなかった。単純に母親が死んでから、マイアの周りには腕輪をしている人間が一人もいなくて、それがマイアを苦しめていただけだった。

 マイアは三色すみれを引き抜いてレンギョウの繁みに投げ込んだ。花に罪はないのはわかっていたが、理不尽に憤るまさにこの夕方に彼女の前に生えていたのがその花の不運だった。

 彼女は涙を拭うと、忍び足で裏手の方へと向かった。空はオレンジ色に暮れだしている。カモメたちの鳴き声も騒がしくなってきた。きっと今日はとても綺麗な夕陽が観られるに違いない。明日の船旅には行けないのだ。明日だけではない。きっとマイアはずっと船に乗せてもらえないだろう。どこまでも続く悠々たるD河を遡って、それとも、大きな汽船に乗って、いつかどこか遠くに行きたい。一人で夕闇に輝くPの街を眺めるとき、マイアはいつもそう願った。

 大きく豪華な館の側を通る時は、見つからないように慎重に通り抜けた。けれどしばらく行くと、ほとんど手入れもされていない一角があり、みっともない石造りの小屋が立っていた。きっと昔は使用人の住居だったのだろう。けれど今は廃屋になっているようだった。その石の壁に沿って進み、小屋の裏側に出ると、思った通り空は真っ赤だった。そしてD河も腕輪の黄金のようにキラキラと輝いていた。
「わあ……」
マイアは自分の特等席と決めている放置されている大理石の一つに腰掛けると、足をぶらぶらさせた。

「お前、誰だ?」
突然声がしたので、マイアは飛び上がった。

 怖々後ろを振り返ると建物の下の方に小さな窓があった。錆びた鉄格子が嵌まっている。誰もいないと思っていたのに、しかも薄暗い地下室のような所に誰かいる。その声からすると子供のようだった。マイアはそっと目を凝らして中を覗き込み、それから顔をしかめた。浮浪者の子供かしら。黒いボサボサの髪はずっと洗っていないようだったし、薄汚れた服や肌から何とも言えない悪臭を漂わせていたのだ。

「お前、誰だ」
その少年は問いを繰り返した。マイアは闖入者であったが、その少年を同じように侵入して閉じこめられた浮浪者だと思ったので、謝ろうというつもりはなくなった。
「夕陽を観に来たの。泥棒じゃないわ」

 少年は「そんなことを訊いているわけじゃないのに」という顔をしたが、マイアが立ち去ろうとすると慌てて言った。
「夕陽を観てから帰れよ。これからもっと綺麗になるぜ」

 マイアはそういわれると、余裕ある氣もちになって、つんとすまして自分の定位置に座った。けれど、そうすると少年に背を向けることになったので、一分もすると落ち着かなくなって、少年の方を振り返った。
「なんで、そこにいるの?」

「いなきゃいけないから」
少年は口を尖らせた。マイアよりもずいぶんと年上のようだった。もう中等学校に行くぐらいだろうか。でも、こんなに臭くて汚い子がクラスにいたらみんな迷惑だろうなと思った。

「ここに来たのははじめてじゃないんだろう?」
少年が訊くと、マイアはこくんと頷いた。
「今まで誰もここにいなかったし、見つからなかったの」

 それから二人は黙って夕陽を眺めていた。カモメが何羽も連なって、水面に近づいたり高く舞ったりしている。樽を運ぶ小舟ラベロがゆっくりと行き来している。鉄製の美しいドン・ルイス一世橋が夕陽に照らされていた。あたりが少しずつ涼しくなっていき、憤っていたマイアの心が少しずつ落ち着いてきた。この街は美しい。泣きたくなるほど美しい。遠足に行けなくて、一日一人でいられる時間ができたのだから、また街を探検しようかな。

「俺、誰にも言わないから、また来いよ」
少年は突然言った。マイアははっとして鉄格子の中を再び見た。そして、格子をつかむ彼の左手首に黄金の腕輪があるのに氣がついた。
「あ」

 マイアの視線で彼は格子から彼の左手首をさっと隠したが、同時にマイアの左手首にある同じ腕輪を眼にして目を見開いた。
「腕輪……」

 マイアはそっと少年の方に近づいて自分の左手を差し出して彼によく見えるようにした。すると彼もまた、その手首をマイアに見せた。それはまったく同じ黄金の腕輪だったが、彼の方には青い石が四つついていた。マイアはつぶやいた。
「腕輪している子、はじめて見た……」

 それを聞くと少年は口元を歪めた。
「たくさんいるんだよ。普段は見ないけれどね」

「この腕輪のこと、知っているの?」
少年は黙って頷いた。とても悲しそうだったので、マイアはきっと彼も腕輪を外したくて苦しんでいるのだと思った。
「教えてくれる?」

 彼は唇を噛んで少しだけ考えていたが、やがて言った。
「……長くなるよ」

 マイアははっとした。いつもよりも遅くなっている。
「それはダメ。今日はもう帰らなきゃ。でも、また来たら教えてくれる?」
「またっていつ? 明日?」

 マイアは目を見開いてから頷いた。
「うん、いいよ。明日は一日暇だから、昼から来られるよ」
それから少し眉をひそめて続けた。
「明日来るとき、大きな石けん、もってきてあげる。あなた、汚すぎるもの」

 少年の顔は真っ赤になった。マイアは悪い事を言ったかなと思い取り繕うように言った。
「あたし、マイア。あなたは?」

 少年は小さい声で言った。
「23」

「……」
マイアは馬鹿にされたのだと思った。そんな名前があるわけないでしょう。腹が立ったので、さよならも言わずに大股で歩み去った。少年は懇願するように後ろから言った。
「明日、来るだろう? ちゃんと洗うから……」

 マイアは戸惑って、後ろを振り返った。格子にぶらさがるようにこちらを見ている少年の目はとても悲しそうだった。その目を知っていると、マイアは思った。左手首の腕輪が目に入った。思い直して、小さく頷いた。
「うん。たらいも持ってくるね。髪を洗うの、手伝ってあげる」

 彼が笑ったので、嬉しくなってマイアも笑った。小さく手を振ると、彼女は建物の角を曲がって急いで出口である生け垣へと急いだ。辺りはどんどん暗くなっている。早く帰らないとお父さんが心配する。家出したと思われちゃう。

 生け垣の所でかがむと別の三色すみれが目に入った。先ほどみたいには悲しくなかった。色の薄いすみれの花弁は、もう自分だけではない。あの汚い子とはきっといい友達になれるだろうな。そうだ、家にあるとても大きいすみれの香りの石けんを持ってきてあげよう。マイアは、そう思った。
.25 2014 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】Infante 323 黄金の枷(1)ドラガォンの館

Posted by 八少女 夕

月に一度の月刊Stella用に新連載をはじめます。昨日の記事でご案内したように、ポルトガルのポルトをモデルにした街を舞台にした小説です。今年の三月に生まれてきたばかりの、私にしては急ピッチで公開することになった小説ですが、更新は月に一度なので「夜のサーカス」なみに長いおつきあいになるかと思います。普段よりも一回分の文字数が若干多いのですが、月一連載のためキリのいいところまでを一章にしています。ご容赦くださいませ。

月刊・Stella ステルラ 6月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


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Infante 323 黄金の枷(1)ドラガォンの館

 カモメが飛んでいた。翼を畳んでいる時には想像もしないほど大きな鳥だ。ベンチに腰掛けてD河を見ているマイアの上を悠々と、西の方へ、つまり、大西洋の方へと飛んでいった。河にはかつてはワインの樽を運んでいた、現在は主に観光客用に浮かべられている暗い色の舟ラベロがゆったりと進んでいる。リベイラと呼ばれる河岸には色とりどりの美しい建物が建ち並び、その前にはレストランが用意したテーブルと椅子、そして強い陽射しから観光客たちを守る大きなパラソルがたくさん並んでいた。

 世界中からこの美しい街を眺めにたくさんの観光客がやってくる。ヨーロッパからはもとより、南北アメリカから、アジアから、それにアフリカからも。ポルトガル語、スペイン語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、それにマイアにはまったくわからないアジアの言葉で、人びとはこの美しい眺めを賞賛していた。河の上を、そしてカモメたちのはるかに上をジェット機が飛んでいく。マイアは大きく一つ息をつく。ハガキサイズのスケッチブックには、対岸のワイン倉庫街が水彩色鉛筆で精彩に描き込まれていた。このベンチに座って絵筆を走らせながら、次々と入れ替わる観光客たちの休暇の空氣に触れるのが好きだった。マイア自身はパリにもロンドンにもリオ・デ・ジャネイロにも行けないだろう。

 子供の頃は理不尽に悩んだこともある。けれど、今は「そういうものだ」と納得している。それに、テレビで見るパリやローマだって、この街ほど美しいとは思えない。ここに生まれて、この美しい光景を見て生きることはそんなに悪いことではないと思う。それに……。

 マイアはこの河をのぞむとても美しい光景を知っていた。夕闇に河がオレンジ色に染まり街が柔らかい色に染められていく時間を俯瞰できる素晴らしい場所。子供だったマイアが見つけた。けれどその光景は誰にでも公開されているわけではなかったので、マイアは十年以上眼にしていなかった。もう機会はないかとあきらめていたが、今日から再び見ることができる。彼女の胸は期待に高鳴った。

 教会の鐘の音が響いた。マイアは立ち上がって、隣に置いていた鞄を肩にかけた。
「そろそろ時間ね。行かなきゃ」

 坂を上る。この街Pは起伏が激しい。タイルに彩られた建物がたくさん立ち並ぶ。この道は旅行者用の土産物を売る店ばかりだ。駅の近くを左折して、さらに道を登っていく。鞄屋、台所用品屋、地元民用のカフェ、金物屋などを通り過ぎる。観光客と住民と車が忙しく通り過ぎる街でも忙しい一角だ。大きな教会のある広場に出た。そこを左へ曲がると、急に人通りが少なくなる。迷路のような小路はもう上り坂ではなかった。陽射しも届かず少し涼しくなった。マイアは息を整えながら歩いていく。

 間口の狭い建物が途切れた。その代わりに長い塀と生け垣に囲まれた大きな建物が見えてきた。城と呼んでも構わないほどの大きな建物が堂々と建っている。「ドラガォンの館(パラチオ・ド・ドラガォン)」だった。マイアは大きく息をつくと正面玄関の大きな門の前に立った。それは重厚な鉄製で、絡まる唐草文様に囲まれ大きい二頭の竜が向かい合っていた。彼女は呼び鈴を押した。

 背の高い男が出てきて、マイアを中に迎え入れた。マイアは正面玄関ではなくて、脇の出入り口の方に連れて行かれた。黒いスーツを着た壮年の男と、召使いの服装を着た女が待っていた。

「マイア・フェレイラです。お世話になります」
マイアが頭を下げると二人は頷いた。

「私はアントニオ・メネゼス。この館の執事を勤めています。こちらは召使い頭のジョアナ・ダ・シルヴァです。サントス先生からの紹介状を持ってきたと思いますが」
マイアは二人に頭を下げると。荷物から紹介状を取り出してメネゼスに渡した。その時に、この人に物を渡すのは二度目だと思った。きっと忘れているだろうけれど……。

 メネゼスは紹介状に目を通すと頷いてジョアナにそれを渡した。それからマイアに向かって言った。
「腕輪を見せていただきましょうか」

 マイアは左の手首についている、金の腕輪を見せた。その腕輪は表面にたくさん浮き彫りがあり少しゴツゴツとした手触りだった。内側に一つだけ赤い透き通った石が付いていた。何の石かは知らない。それはマイアが買ったものではなく、好きで付けているものでもなかった。それどころか彼女には決して外せないのだ。確認されている間、紹介状を見ているジョアナに目を移すと彼女の左手首にも同じ腕輪が付いていた。この館で召使いをするものは全員この腕輪をしているのだという。

「では、一番大切なことだが、ここで誓約をしてもらおう」
そういってマイアに聖書を差し出して右手を載せるように示した。彼女は頷いて言う通りにした。
「私に続きなさい。《私、紅い星を一つ持つマイア・フェレイラは誓約します》」
「《私、紅い星を一つ持つマイア・フェレイラは誓約します》」
「《この館の中で見聞きしたことは、館の外の人間には一切語りません》」
「《この館の中で見聞きしたことは、館の外の人間には一切語りません》」

「よろしい。中に入りなさい。ジョアナ、彼女を案内してください」
「わかりました、メネゼスさん。ついていらっしゃい」
マイアはメネゼスに再び頭を下げると、荷物を抱え直して召使い頭に従った。

「ダ・シルヴァさん、どうぞよろしくお願いします」
女はマイアの言葉に振り返るとニコリともせずに言った。
「私のことは皆と同じようにジョアナと呼んでください。使用人はメネゼスさんを除いて全員ファーストネームで呼び合っています。あなたのこともこれからマイアと呼びます」
「はい」
マイアは小さくなった。

 石の狭い階段には燭台に見えるランプがついていた。冷たい音を立てて昇りながらジョアナは続けた。
「こちらの当主はドン・アルフォンソとおっしゃいます。『メウ・セニョール(ご主人様)』とお呼びするように。そして、母上のドンナ・マヌエラには『ミニャ・セニョーラ(奥様)』と呼びかけてください」
マイアは小さく「はい」と答えた。

 階段を上がると少し広い所に出た。ジョアナはパンパンと手を叩いた。すぐにあちらこちらから召使いたちが集まってきた。黒いワンピースに白いエプロンを身につけた召使いの女が三人いた。それに黒いズボンの上に白いマオカラーの上着を着た男たちが四人、料理人の服を着た男性が二人いた。

「紹介します。本日から働くことになったマイアです。マティルダ、あなたの部屋と同室になるのでよろしく」
ジョアナが紹介した。一番左にいた金髪の若い召使いがにっこり笑ってマイアに手を振った。ジョアナはマティルダをひと睨みしたが小言は言わなかった。そして、もう少し年長の女に言った。
「アマリア、マティルダだけでは心もとないので、少し面倒を見てあげてください」
黒髪の少しふくよかな女性が頷いてからマイアに笑いかけた。マイアは仲間が優しそうだったのでホッとした。

 ジョアナは続けて全員の名前を言った。門を開けてくれた背の高い男性がミゲルという名前なのは憶えた。あとはジョアン、ホセ・ルイス……。さすがに全ては憶えられない。でも、一つだけはっきりしたことがある。ライサ・モタという名の女性が紹介された中にいなかったこと。予想はしていたけれど……。マイアは唇を噛んだ。

 紹介が終わると、マティルダについて自分の部屋に行くことになった。

「よろしくね」
そう言って笑いかけてくるマティルダが明るくて人懐っこい性格のようでマイアは嬉しかった。マイア自身ははじめての人と打ち解けるのにとても時間がかかる方だった。新しい環境に立ち向かうのも苦手だった。学校を卒業してから勤めていたのは小さなソフトクリーム専門店で、そこをやめて新しい環境に行きたいと思ったことはなかったが、店が潰れてしまったので新しい職を探す他はなかった。召使いとして働くなどこれまで考えたことは一度もなかったが、この職に応募したのは二つの理由があった。

 一つは子供の頃の思い出だった。マイアはかつてこっそりこの屋敷の敷地に忍び込んだことがあった。好奇心からだったが、そこで忘れられない美しい夕景に出会った。それから一人の少年とも。十二年経ってもそのことが氣になっていた。

 もう一つは、もっと大きな理由だった。友人マリアの姉で、ここに勤めていたライサ・モタが家族と連絡を絶ってから一年近くが経っていた。ライサに何があったのかマリアは知りたくて自らこの仕事に応募したがチャンスはなかった。腕輪をしてなかったから。その話を聞いたときにマイアはこの仕事に応募することを決めたのだ。腕輪をしていることは、常にマイアの人生を邪魔してきた。そのことが事態を有利にしてくれたことなど、今まで一度もなかった。けれど今回は違う。給料もソフトクリーム屋の二倍以上だった。そして、マリアの代わりにライサのことを調べることもできる。マイアはこれからのことを考えて武者震いした。

 三階の一番奥にマティルダとマイアの部屋があった。下の階のような石の床ではなくて、茶色のタイルが敷き詰めてあり、壁も淡いクリーム色の落ち着く部屋だった。窓に面した通路をはさんで、白いカバーのかかったシングルのベッド、茶色い木製の戸棚、机と椅子が一つずつ対称的に置かれていた。
「こっちがあなたのコーナーね」
マティルダは窓に向かって左側のベッドを指して言うと、さっと窓のカーテンを開けた。

「わあ!」
思わずマイアは窓に駆け寄って外を見た。D河に面していたのだ。子供の頃に忍び込んで眺めていたのはこの光景だった。ずっと下の方にある河べりまでこの街の特徴である赤茶色の屋根がずっと続いている。夕陽の時間はもっと素晴らしい眺めになるに違いない。
「うふふ。絶景でしょ? 私たちの部屋の特権なのよ」
マティルダがウィンクした。

 身を乗り出していたマイアは建物の反対側、ずっと大きくせり出した翼を見た。マイアたちの窓と違って、そちらの窓にはいかめしい鉄格子がはまっている。泥棒よけかな? でも、ここ、こんなに高いのに。
「マティルダ、あっちの建物はなに?」

「ん? ああ、あっちはご主人様たちの居住区。あれは24のところかな、いや、こっち側だから23のところだわね」
「……23」

 妙な顔をしているマイアをマティルダはおかしそうに笑った。
「あはは、わからないわよね。正確にはインファンテ323と324。番号だから敬称はつけなくていいの。でも呼びかけるときはちゃんと『メウ・セニョール(ご主人様)』っていうのよ。今日は午餐のある日だから、その時にきっと紹介されるわ」

 召使いの制服である黒いワンピースとエプロンに着替え、マイアはマティルダに連れられて再び二階に行き、アマリアから仕事の指導を受けた。掃除、洗濯、調理の手伝いに給仕と、様々な仕事があったが、今日は主人たちへの紹介も含めて昼食の給仕を手伝うことになっていた。ひと通りの説明と皿を運ぶ簡単な訓練を受けた後、マイアはアマリアとミゲルに連れられて母屋の食堂に向かった。

 飾りも少なく質素だったバックヤードと比較して、母屋は豪華絢爛と言ってよかった。シャンデリアが煌めいていて、同じ石造りの壁もずっと明るく見えた。家具の類いは重厚で、足もとには臙脂の大きな絨毯が敷かれていた。

 階段の踊り場には大きな花瓶にマイアが名前も知らないカラフルで珍しい花が生けられていた。食堂はもっと大きくて華やかな装飾で満ちていた。マイアの背丈ほどもある花瓶や、引き出しがたくさんある珍しい戸棚、大きな花の絵や風景画、巨大な燭台。壁には系図とみられる金の字で年月日と名前がずらりと書かれた黒い板が掲げられていた。たくさんの物があったが、それが氣にならないほど広く天井も高かった。

 マイアたちは大きなテーブルに四人分の食器をセットしていった。準備が終わると執事のメネゼスが確認してからミゲルに目配せをした。ミゲルは主人たちにテーブルの準備ができたことを報せに出て行った。

 シャラシャラという衣擦れの音ともに、婦人が入ってきた。光沢のあるわずかに緑がかった紺の絹ドレスを身にまとい、茶色に近い金髪をシニヨンでまとめていた。亡くなったマイアの母親と同世代と思われる、灰色の瞳と優しい口元の印象的なとても美しい貴婦人だった。マイアはこの方が「奥様」であるドンナ・マヌエラなのだと嬉しくなった。

 彼女がメネゼスの引いた椅子に腰掛けると同時に、重い足取りで入ってきた者があった。マイアは息を飲んだ。その太った男は、紫がかった顔をしていた。ドンナ・マヌエラよりもずっと若そうだが、目の下に、目の幅と同じくらいの隈があり、その色は顔よりもさらに紫がかっていた。階段を上がってきたのか、ひどく激しい息づかいをしている。メネゼスが一番奥の椅子を引いて座らせた。それでマイアは、彼こそが当主のドン・アルフォンソだと知った。

 メネゼスは大きな鍵を二つアマリアに渡した。アマリアがかしこまってそれを受け取ると、マイアについてくるように目配せをし食堂をでた。広間と廊下を挟んだ反対がわにある大きな鉄格子が見えた。それはこの屋敷には全く不釣り合いで、まるで牢獄のように見えた。しかし、その鉄格子の奥は広間や食堂と同じように豪華な調度が置いてあった。アマリアはひとつの扉のように見える鉄格子の方に歩いていき、鍵を開けて扉をギイと開いた。それから、十メートルくらい離れた別の鉄格子の扉の方にも行って、もう一つの鍵で扉を開けた。マイアがよく見ると、その二つの鉄格子の間には厚い壁があり、お互いには行き来できないようになっていた。

「お食事の時間でございます」
アマリアが言ってしばらくすると、一つの鉄格子の向こうでは上の方から、もう一つは下の方から誰かが歩いてきた。上から来たのは背が高くて短い金髪を綺麗に撫で付けた美青年だった。下から上がってきたのは黒い巻き毛を後ろで縛り少し無精髭を生やした背の低い青年だった。二人はそれぞれの扉から出ると食堂の方に歩いていき、一人は北の席に、もう一人は南の席に座った。

 23……。紹介されるまでもなく、マイアにはどちらがインファンテ323と呼ばれている青年なのかがわかった。南の方に座った黒髪の青年がじっとみつめているマイアを不思議そうに見た。メネゼスの声がした。
「お食事の前に、新しく入りました召使いを紹介させていただきます。マイア・フェレイラです」
.28 2014 小説・Infante 323 黄金の枷 trackback0

【小説】夜のサーカスと夕陽色の大団円

Posted by 八少女 夕

月末の定番「夜のサーカス」の最終回です。(この回から読むとわけがわかりません。もし、ここから読もうとしている方がいらっしゃいましたら、前回を先にお読みになることをお薦めします)

永らくみなさんをヤキモキさせてきたヨナタンの謎は全て明らかになり、ステラとの恋の顛末も行方が定まり、そしてサーカスは今まで通り興行を続けていきます。これまで応援してくださったみなさまに篤く御礼申し上げます。


月刊・Stella ステルラ 5月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物





夜のサーカスと夕陽色の大団円


夜のサーカスと夕陽色の大団円

 彼は、狭いアントネッラの居住室に所狭しと立つ人びとをゆっくりと見回し、静かに言った。
「あの船に乗っていたのは、確かに僕です。けれど、アデレールブルグ伯爵ではありません。ゲオルク・フォン・アデレールブルグ、ピッチーノは城で病死しました。僕はイェルク・ミュラーです」

 皆は驚きにざわめいた。
「ちょ、ちょっと待って……。どういうこと?」

「説明してくれるかね。君がイェルク・ミュラーとはどういうことかね? 披露パーティにいたのは君だろう?」
「はい。僕はピッチーノ、ゲオルクの代わりにアデレールブルグの表向きの城主になるように教育を受けたのです」
「なんてことだ」

「じゃあ、使用人の証言していた若様は確かにあなただけれど一つ歳下のイェルクで、小さい若様が実は年長のゲオルクだったというの?」
アントネッラが訪ねた。
「はい。彼の成長は、とても遅くて、たぶんもうあの姿以上には育たなかったのだと思います」

「それで、いったい何が起こったんだ?」
《イル・ロスポ》の問いはこの場の全員を代表したものだった。ヨナタン、いやイェルクと名乗った青年ははっきりと答えた。
「簡単です。ゲオルクが城で亡くなった後、僕が自分で湖に飛び込んだんです。だからヨナタン・ボッシュは冤罪です」 

 一同ざわめいた。
「どういうことかね」
「ツィンマーマンは、邪魔な僕をどうあっても殺すつもりだった。アデレールブルグ夫人はその兄に逆らうことができなかった。ボッシュは、死ぬしかなかった僕に生きるチャンスをくれたんです」


 十二年前の六月だった。夜闇にまぎれて連行されたイェルク少年は絶望していた。アデレールブルグ夫人にも見捨てられた。車に乗せられ右にヨナタン・ボッシュ、左にもう一人のツィンマーマンの手下が拳銃を持って座っていた。扉を閉める時にツィンマーマンは言った。
「お前が下手なことをすると、両親が死ぬ。黙って、そいつらの言う通りにするんだ。助けを求めたりして大騒ぎになったら、わかっているな」

 ボーデン湖・ナイトクルーズの船に乗り込んだのは、体をぴったりと寄せて目立たぬように拳銃を押し付けたヨナタン・ボッシュ一人だった。二人は予約してあった船室に入った。

「おい小僧。何を考えている」
「僕は結局のところ殺されるんだろう」
「実はボスにはそう命じられた。お前さんもよく知っているように、ボスは手下だろうと容赦はしない冷血漢だ。しくじればしっぽを切るためにこっちが殺られるんだ」
「僕の父さんと母さんはこのことを知っているのか」
「どうかね。どっちにしても、もうこの世にはいないだろうな」
「どうして……」

「お前さんの両親は欲を出したんだ。ボスをゆすった。ボスは身の安全のためならどんなことでもする。だからお前を助けてほしいと言う妹の必死の願いもはねつけた」
イェルク少年は、唇を噛んだ。金に目のくらんだ両親と、その両親から離れて聖母子のような親子とともに暮らしたがった自分とは、同じ穴の狢だった。

「ドロテアは、弱い女だ。自分の力で兄を止めることもできなければ、全てを捨てて警察に行く勇氣もない。だから賭けをしたのだ」
「賭け?」

「俺だよ。俺はドロテアと同じ学校に通っていた。ずっとドロテアに憧れていた。彼女がアデレールブルグ伯爵と結婚した後も、ずっと彼女を慕って、側にいたくて、それでボスの手下になった。その彼女が危険を冒して俺に頼んだんだ。どんなことでもする、だから、どうにかしてパリアッチオの命を助けてやってくれってね」
イェルクは、震えた。

「俺は、ただドロテアのために、バレたら確実にボスに殺られる危険を冒すことにしたんだ。いいか。これからのことは、俺とドロテアの両方の命がかかっているんだ、よく聞け」

 少年はボッシュが何を言いだしたのか最初は理解できなかった。ボッシュは小さな携帯酸素ボンベを渡した。

「この後、お前はもう死にたいとか大袈裟に騒ぎながら、俺の制止を振り切ってこの湖に飛び込め。ボスのプランでは、氣を失っているところを俺が人に見られないように突き落とす手はずになっているんだが、とにかくできるだけ目につくように錯乱したフリをして飛び込め。このボンベがあればたぶん岸までは何とかなるはずだ。そして人に見られないように消えろ。どこか遠くに行くんだ。いいか。生きていることを誰にも知られるな。もし、お前が誰かに生きたまま助けられれば、俺も、ドロテアも終わりだ」

 チルクス・ノッテの連中も、アントネッラとシュタインマイヤー氏も黙ってイェルク青年の話を聞いていた。

「泳ぎついたのはリンダウでした。人目につかないように隠れて電車に乗り、無賃乗車がバレないようにところどころで乗り換えて、辿りついたのがミラノの近くでした。空腹で動けなくなっているところを団長が拾ってくれたんです」

「そうだったのか。では君が人の命がかかっていると言ったのは、ドロテア・アデレールブルグ夫人とヨナタン・ボッシュのことだったのだね」
「はい」

「確かにあのツィンマーマンなら、自分に害が及びそうになったら手下や実の妹ですら手にかけるだろうな。現にボッシュの逮捕後も知らぬ存ぜぬで通している。自分の政治力を利用してボッシュ一人にミュラー一家殺害の件を押し付けるつもりだろう」

「つまり……」
アントネッラがつぶやいた。
「ツィンマーマンは叔父として当主ゲオルクの後見人となったものの、そもそも伯爵には成人になっても統治能力がないことがはっきりしていた。当主の座を狙っているアデレールブルグの分家にそれを知られる前に身代わりとしてイェルク・ミュラーを引き取り、すり替えて傀儡当主にしようとした、ってことね」

 シュタインマイヤー氏が続ける。
「そうだ。ところが、肝心のゲオルクが成人となる前に病死してしまったので、計画を変更してアデレールブルグを財団にして理事長に納まることに成功した。そうなるとそれまでのペテンの全容を知っているミュラー夫妻とイェルクが邪魔になった」

「なんて勝手な……」
マッダレーナがつぶやく。
「そう。だが、もともとは手切れ金ぐらいで済ませるつもりだったんだろうね。だが、ミュラー夫妻は、イェルクが当主になって生涯困らない金が手に入るのを期待していた。はした金では納得できずに強請ってしまったんだろう。それが命取りになった……」

「それだけではありません」
青年は静かに言った。
「ゲオルクの死後、アデレールブルグ財団を設立し初代理事長をツィンマーマンとするあの遺言状にサインしたのは、僕だったんです。それまでのすべての伯爵のサインも」

「そうか。それが明らかになったら、彼はすべてを失う。ミュラー夫妻はそれを知っていた」
シュタインマイヤー氏が深く頷いた。

 ヨナタンは項垂れていた。彼は天使のようなピッチーノとは違っていた。ミハエル・ツィンマーマンのペテンに自らの意志で加担した。下品で暴力的な両親の元を離れ、アデレールブルグ城で、優しいドロテアとゲオルクと一緒に幸せに暮らしたかった。それが曲がったことだとわかっていても、生涯若様のフリをしようとしていた。

「ツィンマーマンは、すべてをボッシュに押し付けて知らぬ存ぜぬを通し、好き勝手を続けるつもりだ。我々は、手をこまねいているわけにはいかない。あいつを逮捕して立件するためには、どうしても君の証言が必要だ。君も公文書偽造の罪には問われるかもしれないが、情状酌量されるようこの私が全力を尽くす。だから、協力してくれるね、ミュラーくん」

「はい。僕の存在がもうアデレールブルグ夫人を困らせることがなく、ボッシュを冤罪から救えるなら……」
「ありがとう。そして、アントネッラ、バッシさん、それにサーカスの皆さんも、未解決事件に対する大いなる協力にドイツ連邦とドイツ警察を代表して心から感謝する」
シュタインマイヤー氏は、ミュラー青年の肩をそっと叩いた。

 仲間たちは彼らがずっとヨナタンと呼んでいた青年を見た。名のない道化師は、悲運の王子様ではなく、運命に翻弄されてきた一人のドイツ人だった。思いもしなかった結末に誰もが言葉少なくなっていた。サーカスの一同は、そのまま《イル・ロスポ》のトラックに乗ってテントに帰ることになった。ヨナタンはしばらくアントネッラとシュタインマイヤー氏と今後のことを話していたが、やがて塔から降りてやってきた。

「ステラ、早く乗って」
マッテオの言葉に、ステラはヨナタンを氣にしながら頷く。

「ヨナタン?」
ヨナタンはじっとステラを見ていたがやがて言った。
「僕は、コモ湖沿いに歩いて帰るよ。ステラ、よかったら君も一緒に」
ステラは黙って頷いた。ああ、さよならを言われるんだなと思うと泣きたくなった。すべて自分が引き起こしたことだった。

 マッテオが不満を表明して降りようとするのをブルーノが黙って羽交い締めにし、マッダレーナはトラックの扉を閉め、《イル・ロスポ》に出発するように頼んだ。

 トラックが去ると、ヨナタンはゆっくりと歩き出した。ステラは半歩遅れてその後に続いた。二人は黙ったまましばらくコモ湖の波を眺めながら進んだ。

「ヨナタン……。いいえ、あの、イェルク……さん」
ステラはぎこちなく呼びかけた。

「ヨナタンでいいよ」
彼は振り向いて言った。ステラが意外に思ったことに、彼は前と同じ柔和な暖かい表情をしていた。関わりを拒否していた頑な佇まいがほどけて消え去っていた。

「あの、怒っていないの? 私のしたこと……」
ヨナタンは首を振った。
「怒っていない。僕の方が、頑なすぎたんだ。そんな必要はなかったのに」

「でも、行ってしまうんでしょう? もう、道化師のふりをして隠れている必要はなくなったし、パスポートも……」

 彼は小さく笑った。
「新しいパスポートの名前欄にヨナタンも入れて欲しいと頼んだんだ。ミドルネームでいいならと言われたよ。ドイツのパスポートがあればイタリアの滞在許可はいらないんだ」

 彼女の心臓は早鐘のように鳴った。小さな希望の焔が再び胸の奥から熾るのを感じた。
「じゃあ、これからもチルクス・ノッテにいてくれるの?」
彼の頷く姿を見て、ステラの笑顔が花開いた。歓びは体中から光り輝くように溢れ出た。ヨナタンはこれほど美しいと思った事はないと心の中でつぶやいた。

 ステラは夕陽に照らされている青年の横顔をじっとみつめた。彼女は今までとは全く違う彼の瞳の輝きを見つけた。ステラ自身が持つ内側から放つきらめきと同じ光だった。生き生きとして強い想いがあふれていた。彼は正面に向き直って彼女の両手を握った。

「僕はずっとただの動く屍体だった。息をして機能していても、心も魂もどこか暗い部屋に置き去ったままだった。君がその小さな手で扉を叩いてくれた。その輝きで暗闇から戻ってくる道を示してくれた。もう一度、生きて、夢を見て、愛し、愛されたいと思わせてくれた」
静かな暖かい声がステラの胸にしみ込んでいく。
「君は僕に名前までくれた。もう一度生きて存在する人間にしてくれた。お返しに僕が君にしてあげられる事はあるんだろうか」

 ステラは涙をいっぱい溜めて、愛する青年を見上げた。
「そばにいて。ずっと好きでいさせて。他には何もいらないから」

 彼は深く頷くと、愛おしげに彼女の前髪を梳いて、それからゆっくりとそこに口づけをした。願いは叶ったのだ。おとぎ話はようやく本当になったのだ。二つのシルエットはひとつになって、コモ湖の夕陽に紅く染まった。

 ステラを探して、湖畔に行こうとするマッテオをマルコとエミーリオが必死で止めていた。
「だめだって」
「いま行くのは、嫌がらせですよっ」
「なんだと。うるさい。これから僕は堂々とステラに求愛に行くんだ。これでヤツとは五分五分だからな」

 マルコは頭を振った。
「どこが、五分五分なんですかっ。もうちょっと現実ってものを把握したほうがっ」
「うるせぇっ。ステラを想う氣持ちは誰にも負けないんだっ」

 そう騒ぐマッテオの肩をぽんぽんと叩くものがあった。振り向くと、それはロマーノだった。
「よくわかるよ、マッテオ。私もたった今、12年分の愛を失った所なんだ。どうだね。愛を失ったもの同士、慰めあわないかね」

 マッテオは青くなって、首を振った。
「ふざけんなよ、この、セクハラ親父! 僕はヘテロだって何度言ったらわかるんだ!」
「まあまあ、そういうセリフは、一度試してから言いなさい」
「勘弁してくれっ」
マッテオは、すたこらと逃げ出した。マルコとエミーリオは楽しそうに笑った。

 色とりどりの電球がもの哀しく照らすテントに、風がはらはらと紙吹雪を散らす。テントの中には光が満ちている。美しく官能的なマッダレーナの鞭に合わせてヴァロローゾはたてがみを振るわせながら勇猛に火の輪をくぐる。ブルーノのたくましい躯が観客たちの目を釘付けにする。ルイージは一歩一歩確実に天上の綱を渡ってゆき、マッテオは華麗な大車輪で喝采を浴びる。ロマーノの率いる馬たちは舞台に風を呼び起こす。

 道化師が白いボールをいくつも操り、人々を爆笑の渦に巻き込む。常連の観客たちは、いつにも増して、この日のチルクス・ノッテで愉快で幸福な氣持ちになっている事に驚く。エアリアル・ティシューに躯を絡めて登場したステラは、その歓びをさらに増幅する。この一瞬を生きることの美しさを、舞台の上と観客席の垣根を越えた想いの躍動を具現する。暗闇の中に輝く、生命の営みの勝利。地上に舞い降りた楽園、それが今夜のチルクス・ノッテだった。

 それが、今夜も満員のチルクス・ノッテだった。

(初出:2014年4月 書き下ろし)

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【後書き】
そして、これで「夜のサーカス」は完結です。もともとは2012年の九月に10000Hit記念にスカイさんからいただいたリクエストにお応えして、旅行中にiPhoneで書いた小説でした。「謎めいたピエロの話」というお題からはじまった妄想がこんなに長い間続くとは夢にも思いませんでした。

サーカスにいたことがあるわけでなく、予備知識はありませんでした。イメージ優先でしたね。演目についてはずいぶん昔に大好きなシルク・ド・ソレイユを観に行った時のことを思い出して、それに毎年テレビでやっている、モナコのモンテ・カルロのサーカスの祭典でイメージを補完しました。登場人物や背景となる場所は主に私が行って感じたイタリアの雰囲氣、ステラの故郷はバルディをイメージし、アントネッラのヴィラもコモ湖やマッジョーレ湖で見た実際の建物をモデルにしました。そのつぎはぎのイメージの中で、やがて「チルクス・ノッテ」の仲間たちが私の中に生き生きと存在するようになりました。

読んでくださった読者のみなさんが、ステラの不屈の精神に、マッダレーナの大人の愛し方に、ブルーノの屈折に、アントネッラのカオスに、団長のしょうもなさに、そしてヨナタンの頑固ぶりに暖かい視線と応援を送ってくださるようになり、毎月の発表でコメントを読む楽しみを与えてくださいました。

これでこのストーリーは完結ですが、彼らの興行は終わっていません。またこのブログか、ほかのどこかで、またみなさまとお逢いできる日を、一同楽しみにしています。

最期に、このストーリーのイメージづくりの大きなよりどころとなった(そして私のブログで最もよく検索されている)シルク・ド・ソレイユの「アレグリア」をもう一度ここで紹介します。(歌詞とその訳はこちらでどうぞ)



ご愛読、本当にありがとうございました。
.30 2014 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】夜のサーカスと黒緑の訪問者 Featuring「チュプとカロルとサーカスと」

Posted by 八少女 夕

scriviamo!

月刊・Stella ステルラ 5月号参加 掌編小説 月刊・Stella ステルラ


scriviamo!の第十七弾です。(ついでにStellaにも出しちゃいます)
スカイさんは、受験でお忙しい中、北海道の自然を舞台にした透明な掌編を描いてくださいました。本当にありがとうございます。


スカイさんの書いてくださった掌編 チュプとカロルとサーカスと

スカイさんは、現在高校生で小説とイラストを発表なさっているブロガーさんです。代表作の「星恋詩」をはじめとして、透明で詩的な世界は一度読んだら忘れられません。また、篠原藍樹さんと一緒に主宰なさっている「月間・Stella」でも大変お世話になっています。

「Stella」で一年半ちかく連載し、間もなく完結する「夜のサーカス」はもともと10,000Hitを踏まれたスカイさんのリクエストから誕生しました。それまでどこにもいなかったサーカスの仲間たちは、スカイさんのおかげでうちのブログの人氣シリーズになったのです。

今回スカイさんが書いてくださったお話は、北海道を舞台にゴマフアザラシと本来ならその天敵であるはずのワタリガラスの微笑ましい友情を描いたお話ですが、「チルクス・ノッテ」が少し登場します。そこで、とても印象的なワタリガラスのライアンをお借りして、「夜のサーカス」の番外編を書いてみる事にしました。



「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと黒緑の訪問者 Featuring「チュプとカロルとサーカスと」
——Special thanks to Sky-SAN

夜のサーカスと黒緑の訪問者


 風が吹いてきて、バタバタとテントを鳴らした。バタバタ、バタバタと。エミリオが大テントの入口の布を押さえようと顔を出して、山の向こうからゆっくりとこちらに向かってくる真っ黒な雲を眼にした。
「あれ、ひと雨来るかな……」

 それ以上バタバタ言わないように、入口の布をくるくるっと巻いて、しっかりと紐で縛っている時に氣配を感じた。真横にいつの間にか一人の男性が立っていた。

 黒い三つ揃いのスーツは、不思議な光沢だった。光の加減で緑色に見えるのだ。しかも、その男は黒いエナメルの靴、黒いシルクのワイシャツ、そして黒いネクタイに、黒いシルクハットを被っていた。真っ黒い前髪が目の辺りまであって、その奥から黒い小さい瞳がじっとこちらを眺めている。

 エミリオはとっさにどこかの王族かなにかだと思った。こんなに堂々とした様子で立っている、しかもひと言も発しない相手ははじめてだった。男はエミリオの顔を注意深く観察すると、納得したように頷いてから堂々とした足取りで大テントの中に入ろうとした。

「あっ。いや、まだ入れないんですよ。開場時間は午後七時なんです」
男は何も言わずにエミリオをじっと見つめた。何も悪い事をしていなくても「ごめんなさい」と謝ってしまいたくなるような鋭い一瞥だった。だが少なくとも彼はエミリオの制止を振り切るつもりでないらしく、黙って立っていた。

「え。あ、いや、だから、あと二時間経ってから、暗くなってから来てくださいよ」
しどろもどろでエミリオが言った。それでも入ってきてしまったら、僕には止められないな、そう思いながら。だが、男は納得したようで、黙って頷くと踵を返して歩いていった。あのひと足が悪いのかなあ、変な歩き方だ。エミリオは首を傾げた。

 まったく今日は変な闖入者の多い日だ。午後一番には、テントでリハーサルをしていたマッテオがエミリオにあたりちらしたのだ。
「お前! 何テントにカラスを入れてんだよっ!」
「えっ?」
そう言われて客席を見ると、こともあろうにVIP席の背もたれに、ワタリガラスが停まっていた。

「うわぁ」
背もたれに粗相でもされたら、団長とジュリアにこっぴどく怒られる。エミリオは棒を振り回しながら、その巨大な鳥をテントから追い出そうとした。一体どうやって入ってきたんだろう。だがカラスはポールの上の方へと飛んでしまって、なかなか降りて来ない。どうしたもんだろうかと考えあぐねていたが、たまたまマッダレーナがリハーサルのためにヴァロローゾを連れて入ってきたので問題は解決した。雄ライオンがエミリオも逃げだしたくなるようなものすごい咆哮を轟かせた途端、ワタリガラスは入口へと一目散に向かい、そのまま出て行ってしまったのだ。

 無事に開演準備の仕上げを終えると、共同キャラバンへと走った。わぁ、みんな食べ終わっちゃったな。すっかり遅くなってしまった。キャラバンに駆け込むと、案の定、そこにはもう今日の当番のステラしかいなかった。
「ごめん。遅くなった」
「大丈夫。まだ時間あるから。みんなは本番前に集中したいからって、もう行っちゃったけれど。でも、何か問題があったの?」
「いや。風が強かったから、全ての入口の布を丸めていたんだ。そしたら、変なヤツが来てさ」
「変なヤツ?」
「うん。全身真っ黒のスーツを着た男。まだ開演時間でもないのに中に入ろうとしてさ。ダメですって断ったら帰ってくれたんだけれど、ひと言も喋らなくてさ……」
「そう……」

 その真っ黒な男は、その日から興行に毎晩やってきた。マルコはその晩のチケット担当だったのだが、エミリオから話を聞いていたのですぐにわかった。立派な服装なのに、チケットは誰かが落として踏みにじられたようなしわくちゃ紙だった。その次の日はマッテオが本番前に見かけたと言うし、次の日にはマッダレーナも「私も見た」と報告してきた。

「毎日チケットを買っていらしてくださるとは、大事なお得意様じゃないか。喜べ」
団長が団員の不安を笑い飛ばしたので、彼らもそれもそうかとそのままにしておく事にした。

「それよりも、ステラ。ジュリアが言っていたが、三回転半ひねりが上手くできなくて、二回転半で誤摩化していると言うじゃないか。チラシにわざわざ載せたんだし、しっかりしてくれないと困るな」
「すみません」

 実際には三回転半のジャンプそのものは成功していて、ちゃんと毎晩披露していた。問題は、二回転と三回転半の連続技で、タイミングがまだはっきりとつかめていない。落ちるのが怖くて上手くできないのだ。いや、以前のシングル・ブランコのときだったら落ちても下にいるのはヨナタンで、きっとネットを拡げて受け止めてくれると信じていたので安心して飛ぶ事ができた。でも、この興行で下にいるのはマルコだ。マルコもちゃんと受け止めてくれるとは思うのだが、ヨナタンほど信用できない自分が情けなかった。

 ステラはレッスンを終えてから自分のキャラバンに戻りながら、自分の腕を目の前で泳がせてタイミングを反復してみた。
「ここで、一、二、んで、ジャンプ! 一回転、二回転……」

 その時、「カポン」という声がした。

「ん?」
ステラが見上げると、目の前の楡の木にワタリガラスが停まっていた。大きな翼を一、二度拡げたり閉じたりしてから再び「カポン」と叫ぶと、不意に黒い鳥は飛び上がった。そして、二回転半してから隣の枝に一瞬脚を掛けると、停まらずにすぐに飛び立って三回転半をしてみせた。

 ステラはぽかんと口を開けた。その間にワタリガラスはもっと上の枝に着地するとまた「カポン」と鳴いた。

「ねえ! もう一度、やって、お願い!」
そうステラが頼むと、まるで人間の言葉がわかっているかのように、黒い鳥は同じ連続ジャンプをすると、今度は停まらずに飛んでいってしまった。ステラは呆然として、もう一度練習するために大テントに向かって歩き出した。
「あのタイミングなんだわ……」

* * *


 風がバタバタいう宵だった。色とりどりのランプが、ひゅんひゅんと何度もテントに打ち付けられた。チルクス・ノッテは満員だった。この街で最期の興行なので、一度観にきた観客たちももう一度駆けつけてきた。あのセクシーなライオン使いをもう一度観たいな……。俺は、あの馬の芸を観ておきたいよ。チラシで宣伝していたブランコ乗りのデュエットも、悪くないよな。

 ステラは、舞台の袖でマッテオと一緒に立っていた。衣装の左胸の裏側にはいつものお守り、黄色い花で作った押し花も入っている。大丈夫……。ヨナタンが応援してくれると、もっと心強いんだけれどな。もう何日もヨナタンと話をしていなかった。こんなことは入団以来はじめてだった。でも、いつかは、また……。涙をこらえるようにして、左胸に手を当てた。あふれそうになった涙を抑える。いけない。今は演技に集中しないと。

 マッテオに泣いているのを見られないように、急いで後ろを向いた。すると誰かが更に奥の袖にさっと隠れた。ステラはその衣装を目の端でとらえていた。コメディア・デラルテのアルレッキーノの衣装。ヨナタンだ。団長に怒られていたから、心配して見に来てくれたのかな……。ステラは嬉しくなって、下を向いた。頑張るね。

 舞台の眩しい光。観客の割れるような拍手。熱氣。マッテオがみごとな大回転でブランコに膝の裏でつかまり、ゆっくりと揺れはじめる。ステラは、タイミングを数えはじめる、あのワタリガラスを思い出しながら。いち、に……。

 華麗な二回転半の後、マッテオの手にしっかりと掴まったステラは、そのまま再び飛び立った。一回転、二回転、三回転半! 手はしっかりともう一つのブランコをつかんでいた。できた! 今日も二回転半だと思っていたジュリアとロマーノが袖であっけにとられて立ちすくんだ。エミリオの「やった!」という声は観客の大拍手でかき消された。派手な衣装と仮面を身につけた青年も袖から眩しそうに少女を見上げていた。

 観客席には、真っ黒い衣装を身に着けた例の男がじっと座っていた。その隣には、やはり緑の光沢のある黒いドレスを身に着けた黒髪で黒いトーク帽に黒いヴェールをかけた女が座っていて、そっと体を傾けて黒服の紳士に顔を近づけた。紳士は大きく頷いてから他の観客には聞こえない小さな声で「カポン」と言った。
 
(初出:2013年4月 書き下ろし)

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この小説の不思議な設定は、すべてスカイさんの小説をもとにして書いてあります。大体の事は想像できるように書いたつもりですが、もし氣になった方はスカイさんの小説で設定をご確認ください。

本文中にはまったく出てこないのですが、今回のBGMです。

Nocturne from Cirque du Soleil's Alegria
.11 2014 scriviamo! 2014 trackback0

【小説】夜のサーカスとミモザ色のそよ風

Posted by 八少女 夕

本日は月末の定番「夜のサーカス」です。いよいよ、この長かったストーリーも、おしまいに近づいています。ステラはマッテオと一緒にアントネッラの所へ行き、ヨナタンの秘密に近づいていきます。アントネッラの乱雑すぎる部屋にも春の風が飛び込んできています。イタリアの春と言ったらミモザですよ。今回はアントネッラのブログの親友エス(by 山西左紀さん)にはご登場いただいていませんが、アントネッラがステラに見せる資料はエスが協力してくれたものです。もう一度左紀さんとエスに御礼申し上げます。

月刊・Stella ステルラ 4月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物





夜のサーカスとミモザ色のそよ風

夜のサーカスとミモザ色のそよ風


 アントネッラはステラの姿を見てにっこりと微笑んだ。想像通り! 《イル・ロスポ》の描写も的確だったってことね。後ろで金髪を束ねていた。金色の瞳はただならぬ決意に煌めいていた。氣もちは逸っているのだが、初対面のアントネッラに対してはにかんだ様子が、桃色の口元に現れている。

「ようこそ。ステラ。あなたに会えてとても嬉しいわ」
コモ湖にはそろそろ春の氣配が訪れている。あちこちでミモザが砂糖菓子のように花ひらいている。
「こんにちは。アントネッラ。あの、あの……」

 どこから話をしていいかわからないでいるステラに代わってマッテオが用件を切り出した。
「なあ、あんたの調べたこと、例の警察のオッサンとやり取りしてわかったことを、ステラに見せてやってくれよ。そしたら、こいつも納得すると思うんだ。あいつが絶対に自分が誰だか言わない理由は、今の僕にはわかんないけどさ。でも、このままじゃステラは生殺しだぜ?」

「存在しない人間とは結婚できないよ」
「僕とはもう関わらない方がいい」
ヨナタンはそう言ってステラと関わろうとしなくなってしまった。マッテオは、あいつは大切な人間にも言えない悪いことをしてきたに違いないと言い、ステラは、そんなはずはない、何か事情があるなら助けてあげたいと、藁にでもすがる思いでここにやってきたのだ。

「事情はわかったわ。まずは私にわかっていることを整理して説明するわね」
アントネッラは努めて理性的に説明を進めた。ただの推論は一切入れなかった。

「まず、この新聞の切り抜きをみてちょうだい」
アントネッラは黄ばんだ新聞の切り抜きをステラの前のテーブルにそっと置いた。
「両親を殺害後、罪の意識に耐えかねて自殺か? — ボーデン湖」
十二年前の六月の新聞記事はドイツ語だったので、ステラには読めなかったがアントネッラが訳して読み聞かせた。マッテオが、ほらみろと眉を上げた。

「イェルク・ミュラーという15歳の少年の両親は刺殺された。それから一人の少年が湖に飛び込んで行方不明になった。同乗していた男の証言から、この飛び込んだ少年がイェルク・ミュラーだということになっているけれど、そうだとすると納得のいかないことがいくつかあるの。それと同時に、あなたたちと一緒にいる道化師の青年が、その飛び込んだ少年じゃないかと思われるいくつかの根拠もあるの」

 アントネッラはコンピュータの脇に積まれたバベルの塔のように不安定な書類の山の下の方から、器用に書類ばさみを引き抜くと、その中に入っていたイタリア語で書かれたメモといくつかのプリントアウトされた書類を見せた。一枚は十二年前の五月末から一ヶ月間のヨーロッパの各都市の天候、一枚はミラノ市エンターテーメント広報委員会の「今月の催し物一覧」で、チルクス・ノッテの名前が見えた。

「このミラノ興行の最中にあなたたちの団長がずぶ濡れで飢えていたヨナタンと名乗る少年をサーカスに連れ帰った。ところが、この一帯には少なくとも二週間以上雨は降っていなかった。そして、ボーデン湖で少年が消息を絶ったのは六月十一日。彼の年齢とも合うでしょう?」

「当時ヤツは十五歳と言ったってことだ。本当かどうかはわかんないけどさ」
「でも、そのイェルク・ミュラー少年じゃないって話は?」

「ええ、このメモをみてちょうだい。ミュラー少年は事件の四年前から、ミュンヘン郊外の伯爵家アデレールブルグ城に引き取られてそこで暮らしていたの。伯爵はミュラー少年より一つ年上なんだけれど、ボーデン湖事件の直後に伝染病で急死しているの」

 アントネッラのメモには、元ドイツ警察にいたシュタインマイヤー氏から得た情報を整理した二人の少年の特徴が書かれていた。
「ゲオルク・フォン・アデレールブルク伯爵(若様、パリアッチオ)十六歳、ブルネットで鳶色の瞳。聡明でもの静か。イェルク・ミュラー(小さい若様、ピッチーノ)十五歳、金髪で青い瞳、明るく人なつこい性格。重度の知的障害あり」

「金髪で青い瞳。ヨナタンじゃない。ヨナタンは人殺しなんかじゃない」
ステラが憤慨すると、アントネッラはまあまあという顔をした。
「実はね。ボーデン湖遊覧船には匿名の目撃者がいてね。飛び込んだ少年は同乗者に拳銃で脅されていたというの。そして、その目撃者の情報によると少年はブルネットでしっかりした様子だったというのよ」

「つまり、イェルク少年の両親を殺したのは伯爵の方だってことだろう」
マッテオが口笛を吹くとアントネッラは彼を睨んだ。
「少年がミュラー夫妻を殺したと言われているのは、同乗した男の証言からでしょう。その男が少年を拳銃で脅していたとしたら、その証言は信用できないわ」

「なぜ、その男は逮捕されないんですか?」
「拳銃で脅していたというのは匿名の電話の情報だけ、同乗していた男は伯爵の伯父ミハエル・ツィンマーマンの腹心の部下。そして、伯爵の母、つまりツィンマーマンの妹であるアデレールブルグ夫人が伯爵は病死したと証言しているので立件できなかったらしいの」

 アントネッラは一冊のドイツで発行された十二年前の社交雑誌を取り出した。
「これはね、少年伯爵が生前にたった一度だけ人びとの前に姿を現したときの写真なの。とあるパーティなんだけれどね。ちょっと遠いんだけれど、伯爵があなたの知っている人かどうかわかるかしら」

「……ヨナタン」
「確かに似てると言っちゃ似てるけど、遠目だし少年だよな」

 そういうマッテオを制してステラははっきりと言った。
「私、十一年前にヨナタンと逢っているの。この写真は間違いなくヨナタンよ。嘘だと思うなら、団長やジュリアにも証言してもらえばいいわ」

「やっと証人ができたわ。あれはイェルク・ミュラーではなくてアデレールブルグ伯爵だった。つまり、ボッシュの証言、ミュラー少年が両親を殺して自首のために警察に行く途中だったってのは嘘で、伯爵殺害未遂だったのよ」
そういうとアントネッラはシュタインマイヤー氏に電話を始めた。

 ――でも、変ね。なぜ彼はよりにもよってヨナタンと名乗ったのかしら? 船に同乗して彼を殺そうとしたのはボッシュ。ヨナタン・ボッシュ……。

 テントに戻る道すがら、ステラと並んで歩きながらマッテオは首を傾げている。
「やっぱり納得できないな。お城を持っている伯爵さまで、乗っ取られたんならなぜ自分で違うって言わないんだよ。殺されそうになった、殺人の濡れ衣を着せられたって言えばいいじゃないか」

 それからステラの泣きそうな様子に目を留めた。
「なんだよ。さっきまでの勢いはどうしちゃったんだよ」

「ヨナタン、伯爵さまだったんだね」
「あん? お前がそうだって断言したんだろ」
「うん。間違いなく、ヨナタンだった。そして、だからヨナタン、結婚できないって言ったんだね」
「は?」
「パスポートのないままでは、結婚できない。でも、自分が誰かをはっきりさせて、パスポートをもらっても、お城の王子様がサーカスのブランコ乗りと結婚できるわけないものね。だから、だから……」

* * *


 ジュリアは金切り声をあげた。
「ステラ! いい加減にしなさい! いったい何をしているの!」

 ステラはデュエットの練習中だったが、まともに演技が出来なかった。集中しようと思っても想いは先ほど見た雑誌に戻っていく。ロココ調の美しい広間に佇む少年ヨナタン。きちっとした黒い背広を身につけて背筋を伸ばして立っていた。彼の後ろにはオーケストラが奏でているようだった。ヨナタンはいつもラジオでクラッシック音楽を聴いていた。彼はあの世界に属しているのだ。ここ、大衆が喜ぶテントのサーカスではない。

 ネットに落ちた。ジュリアは金切り声で罵った。ステラはもう動けなくなって、泣き出した。何もかも終わりだ。子供の頃から、ヨナタンにふさわしくなりたくてここを目指してきたのに。そして、もうここ以外のどこにも行くことはできなくなってしまったのに。ヨナタンといつか上手くいくという夢は無惨に壊れてしまった。これからの人生、何を目指していけばいいのかわからない。

 マッテオはネットに飛び降りてきて、ステラを慰めようとした。ステラが激しく泣いているすぐ脇を、鍛錬を終えたヨナタンが出口に向かって通り過ぎていった。ヨナタンはステラたちの方を見ようともしなかった。烈火の如く怒っていたジュリアもその冷淡な様子にぎょっとしたようだった。

 マッテオはカッとなった。誰のせいなんだよ! 結局お前はステラを弄んだだけじゃないか。自分に害が及びそうになると、トカゲが尻尾を切るみたいに捨てやがって。彼はネットから飛び降りるとヨナタンを出口の手前で捕まえて胸ぐらをつかんだ。

「てめえだけは許せない!」
「僕は君には何もしていない」
「僕にじゃねえょ! ステラがあんなになったのはてめえのせいだ。わかっているんだろう」
「君には関係ないだろう」
「関係ないだって! すかしてんじゃないぞ。アデレールブルグの坊ちゃんだかなんだか知らないけれど」

 その言葉を聞いた途端にヨナタンの表情が変わった。
「……今、なんて言った?」

 ステラはぎょっとして泣くのをやめた。マッテオは勝ち誇ったように口の端を歪めた。
「ふふん。クールなフリもおしまいかよ。俺たちが何も知らないとタカをくくっているんだろ。アデレールブルグの伯爵さま……」

 マッテオもステラもジュリアも全く予想していなかった事に、ヨナタンはマッテオに飛びかかった。
「どこでその名前を聞いたんだ!」
「なっ、なんだよ! 暴力反対!」

 ヨナタンは全く聴かずに、マッテオを押し倒しその上に馬乗りになった。マッテオは鍛え抜かれた肉体をもち、そう簡単に組み敷かれたりする体力ではないのだが、突然のことで準備ができていなかった。それに、ブルーノと違って、マッテオはこれまで一度もヨナタンと取っ組み合いの喧嘩をした事がなかったので、ヨナタンにこれほどの力がある事を知らなかったのだ。そして、ヨナタンの剣幕はただ事ではなかった。
「言え! どこでその名前を知った!」

 ステラはあわててネットから飛び降りると、二人の所に走っていった。
「ごめん。ヨナタン! マッテオを責めないで。私のせいなの。私が知りたがってアントネッラに頼んだの。お城のパーティでのヨナタンの写真見たの。それで、ヨナタンが殺されそうになったことも調べてくれて、警察と協力して、助けてくれるっていうの。だから、だから……」


 ヨナタンはステラの言葉を聞いて、マッテオを放して立ち上がった。あれ以来、はじめてステラにまともに話しかけた。けれども剣幕は先程と同じで切羽詰まっていた。
「ステラ。そのアントネッラのところに連れて行ってくれ」
「ヨナタン?」
「今すぐ! 行かなくちゃいけないんだ。一刻も早く行かないと」
「どうして?」
「頼む。人の命がかかっているんだ……」
三人はぞっとして口をつぐむしかなかった。

* * *


 アントネッラの小さな部屋は、いつもより片付けてあったが、それでも全員が入ることは叶わなかった。シュタインマイヤー氏がドイツから来ていた。ヨナタン、ステラとマッテオはともかくジュリア、双子、ブルーノ、マッダレーナまでが《イル・ロスポ》のトラックにちゃっかり乗って来ていた。

「ち。なんでお前らまでも来るんだよ」
マッテオがぶつくさ言う。
「だって、謎解きシーンを逃すのは悔しいじゃない」
マッダレーナが好奇心丸出しで言うと、双子たちも頷いた。

 ただの物見塔でも、これだけの人数が集うには狭かったが、このアントネッラの居室にはほとんど足の踏み場がなく全員が中に入るのは至難の業だった。唯一客がまともに座れるのは古びたソファだけで、そこにはシュタインマイヤー氏が座っていた。《イル・ロスポ》はちゃっかりと窓辺の空間を確保し、あとにはほとんど立てる所はなかったのだが、さすがサーカスにいるメンバーで、どんなにわずかな足場でも、たとえそれがかなり身体を傾けないと立てない場所でも、まったく問題なく立つことができた。そして、これから起きることを固唾をのんで見守っていた。

「ようこそ。あなたがヨナタン、いいえ、ゲオルグ・フォン・アデレールブルグね。ようやく会えて嬉しいわ」
アントネッラが手を伸ばす。皆が息を飲む。道化師は背筋を伸ばし、挑戦するような目つきで手を伸ばした。

「違います。それは僕の名前ではありません。僕のことはヨナタンと呼んでくださればそれでいいんです」
「ねえ。もう、本当の事を隠す必要はないのよ」
「そうだ。君の安全は、この私が責任を持って……」

「あなたがシュタインマイヤーさんですね。もと警察にいらしたという……」
「そうだ、よろしく。さあ、訊かせてくれ。君は、あのイェルク・ミュラー少年が両親を殺害後に入水自殺をしたとされる事件の真相を知っているはずだ」
ヨナタンはそれを遮って言った。
「どうかその少年を行方不明の、おそらく死んだものにしておいてください」

「そうはいかない」
シュタインマイヤー氏は首を振った。
「いいかい。君は、可哀想なイェルク少年の両親殺しの冤罪を晴らしたくないのか。あの事件を立件できなかったことは私が退職するときの一番の心残りだったのだ。あの頃からの部下が今、ミュンヘンで動いているんだよ。そこのお嬢さんの証言でいま生きている君がゲオルグ・フォン・アデレールブルグであり、あれがイェルクを装った殺人事件だと立証できることになったので、実行犯としてヨナタン・ボッシュにようやく逮捕状が出てね」

 ヨナタンは驚いてステラの顔を見た。ステラは自分がヨナタンの絶対にしてほしくないことをしてしまったことを知った。ああ、どうしよう。

「彼が逮捕されたと……?」
「もちろん、我々の最終的な目標はミハエル・ツィンマーマンを主犯として逮捕することだ」
「そんな。そんなことをしたら、アデレールブルグ夫人は。あの人の立場は……」

「ドロテア・アデレールブルグ伯爵夫人は、君のお母さんは……昨年亡くなったよ。心からお悔やみ申し上げる。もっとも彼女は、あの事件以来、ずっと生きていても死んでいるのと変わらない精神状態だった」

 ヨナタンは、がっくりと頭を垂れた。顔を両手で覆い、しばらく何も言わなかった。ステラの胸は締め付けられた。私は、なんてことをしてしまったんだろう。こんな風にヨナタンを苦しめるなんて。

 皆は辛抱強く待った。それは永遠にも思える時間だった。一番こらえ性のないマッテオが何か言おうとした時に、鳶色の髪をした青年は再び頭を上げた。窓辺から見えているミモザがわずかに揺れた。

「では、真実をお話しましょう。もう、隠しておく意味はなくなったのですから」

(初出:2014年3月 書き下ろし)
.26 2014 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】夜のサーカスと小麦色のグラス

Posted by 八少女 夕

う〜む。ここしばらくずっと二日に一度の小説更新になってる。scriviamo!の締切間近って、去年もこんなでしたっけね。scriviamo!は、お題をいただいてから二日が勝負です。これ以上ぐずぐずしていると、次のお題が上がってきてしまって、脳内がごった煮になってしまう。現在、いただいた分のラストの執筆中。既に手を上げてくださった方はいつまでもお待ちしますが、まだ手を挙げていない方、締切は本日でございます。

で、本日は月末の定番「夜のサーカス」です。ステラと上手くいっていたはずのヨナタン。また面倒なことになってしまいました。いよいよこのストーリーも終わりに近づいています。今回ようやくドイツの政治家シュタインマイヤー氏が登場です。アントネッラとシュタインマイヤー氏のやっている謎解きに挑戦なさりたい方は、どうぞご一緒に。(謎ときってほどのことは、何もないんですけれどね〜)


月刊・Stella ステルラ 3月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物





夜のサーカスと小麦色のグラス

夜のサーカスと小麦色のグラス


「なんだって……」
チルクス・ノッテの団員たちは、団長ロマーノがぽかんと口を開けているのをはじめて見た。春の興行の方向性を話し合う会議で、ついでに今年の休暇のプランを知りたいと言うと、今まで休暇を申請したことのないブルーノがマッダレーナと立ち上がって宣言したのだ。
「夏に二人で一週間くらい休みたい」

「なぜ二人でなんだ。演目が限られて困るんだが」
ロマーノは多少苛ついた様相で難色を示した。するとマッダレーナは腕を組んで挑発的に微笑んだ。
「挙式とハネムーンってのは一人では出来ないのよね」

「ええ~!」
共同キャラバンの中は蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、ロマーノはショックを隠しきれずに棒立ちしていた。が、ジュリアがすばやく二人の元に来て、それぞれの頬にキスして祝福し、他の団員たちも大喜びでそれに連なった。

「やったな、やったな、ブルーノ!」
「おめでとう。本当によかったな」

 普段はめったに笑顔を見せないブルーノが嬉しそうにはにかみ、マッダレーナはそのブルーノの逞しい腕にぶら下がるように腕を組み、皆の祝福を楽しんでいた。

「本当によかった! ね、ヨナタン」
会議が終わり、それぞれのキャラバンの方へと歩いている時に、ステラは道化師に話しかけた。ヨナタンは静かに微笑んで頷いた。

「ブルーノとマッダレーナ、カプリ島に行くんですって。青の洞窟でハネムーンなんて、ロマンティックでいいなあ。マッダレーナの花嫁姿、綺麗でしょうねぇ」

 バージンロードをゆっくりと歩む美しい花嫁姿を想像しているうちに、ステラの想像の中ではいつの間にか花嫁がマッダレーナから自分の姿へと変わっていた。その白昼夢の続きで、ふと彼女は隣を歩いている大好きな青年の横顔を眺めた。そうよ、夢も未来も、こんなふうに……。
「ねぇ、ヨナタン。私もいつか、あんな風に幸せな発表してお嫁さんになりたいなあ」

 ヨナタンはステラの方に顔を向けた。期待いっぱいに目を輝かせる少女と目が合った。彼は少し震えたように見えた。柔和で優しい表情が強ばって、微笑みが消えた。ステラは戸惑った。え? どうして?

 短い沈黙の後、彼の唇がそっと動き、一度きつく一文字に結ばれた後、もう一度開いた。かすれた声がステラの耳に入ってきた。
「存在していない人間とは結婚できないよ……」

 ステラはぞっとした。すっかり忘れていた。ヨナタンにはパスポートがなかった。どこから来たかや誰なのかも秘密だった。もちろん役所で結婚はできないだろう。でも、彼女にとってはそんなことはどうでもよかった。だから、考えもしなかったのだ。それで、慌てて言った。
「あ、ごめんなさい。そういうことじゃなくて……」

 けれど、ヨナタンにとっては、それは別のことでもなければ、どうでもいいことでもなかった。
――僕が幸せになりたくて真実をねじ曲げようとしたから、彼らは犠牲になった……。また同じ事をするつもりか。全て諦めて死んだ人間になるつもりじゃなかったのか。何も知らない、疑う事を知らない、穢れないステラをどうするつもりだったんだ。

「僕が間違っていた。君のためにも、もう、僕には関わらない方がいい」
そういうと、すっと離れると自分のキャラバンカーに入って鍵をかけてしまった。

「ヨナタン、ヨナタン、どうしたの? そんなことで怒らないで! いやなら、もう、言わないから」
ステラが何を言おうと、彼は答えなかった。

 それから、ヨナタンはステラに関わろうとしなくなってしまった。他の団員たちとはいつも通り多少距離のある普通の関係を保っていた。ステラにだけ親しくて微笑み、泣いていればそっと力づけていた優しい対応だけが完全に消えてしまった。演技上必要な時以外は口もきかず、視線を合わせることもしなくなってしまった。諦めの悪いステラが何度懇願しても同じだった。

「どうしよう。どうして? お嫁さんになんかなれなくてもいい、こんなのいや」
泣きじゃくるステラの様子がたまらなかったらしく、ダリオやルイージがそっとヨナタンに話をしようと試みたが、ヨナタンは首を振るだけだった。
「しばらくすれば、彼女も諦めて他の幸せを探すでしょう。そのほうがいいんです」

* * *


「なあ、ステラ。お前のしつこさは重々わかっているけどさ。あれから二週間も経っているじゃないか」
その晩、マッテオは食事当番だった。舞台点検が長引いて食事の遅れているヨナタンを待っているステラにいいチャンスだと話しかけた。彼は最近よく飲んでいるベルギービールの缶を傾けてとくとくとグラスに注いだ。小麦色の液体は綺麗な泡をつくってグラスを満たした。ステラはそのグラスを睨みつけた。

「うるさい。マッテオには関係ないでしょ」
「関係なくないよ。僕は、お前のことを子供の頃からよく知っている。疑うことを知らない純真なお前のことは氣にいっているけどさ。でも、時には眼を逸らさずに現実を見つめられるよう、手助けをしてやるのが本当の友情で愛情だと思うぜ」

「現実って何よ」
ステラはマッテオがいつもヨナタンに批判的なので、警戒しながら唇を尖らせた。

「パスポートがなかったのは、ブルーノも同じだろう。事情があって、正規の名前が名乗れないこと自体は、僕だってそんなに悪いことだと思わないさ。だけどさ、本当に大切な人には、その事情を話せないなんてことはないよ。あいつがそれをお前に話さないのは、一、お前を大して大切に思っていないか、二、どんな大切な人にも話せないとんでもない悪いことをしてきたか、そのどっちかしかないだろう。どっちにしてもあんなヤツやめた方がいいってことさ」

 ステラは拳を振り上げてマッテオに挑みかかった。マッテオは、ビールがこぼれないようにグラスをそっとテーブルの上に置いて、それから余裕の表情でステラを見た。
「ほら、涙ぐんでいる。いくら怒っても、お前だって僕の話が正論だって分かっているんじゃないか」

「正論なんかじゃない! マッテオにだってわかっているはずよ。ヨナタンがどんなに優しい人か。悪いことなんかしてきたはずがないでしょう」
「どうかねぇ。お城の坊ちゃんで、何不自由なく暮らせる大金持ちが、こそこそ道化師のフリをして隠れているとしたら、何か犯罪が絡んでいると思っても……」

 ステラはきょとんとした。
「お城の坊ちゃん……?」

 マッテオはほんの少しだけしまったという表情をしたが、ちろっと舌を見せるとむしろ得意そうになって上を見上げた。

「マッテオ。ちゃんと言いなさいよ。何を隠しているの。この間からコソコソしていたでしょう」
ステラの追求に、マッテオは声を顰めた。
「まあな。実は、まだ決定的な証拠はないんだけどさ、かなりの確率で正しそうな推論を持っているのさ」

「どういうこと」
「あいつが誰かを偶然知った人がいるんだ。ほら、《イル・ロスポ》に教えてもらったコモ湖の小説を書くおばさんだけどさ。僕は、あの人の推論は間違いないと思うぜ」

「どんな推論よ」
「はっきりするまで内緒。でも全部説明がつくんだ。あいつが何者で、なぜ濡れて行き倒れかけていたかが。明日、また行くんだ。もしかしたら写真が手に入るかもしれないって言っていたからな。写真があればもう間違いないだろう?」

 ステラはすくっと立ち上がって宣言した。
「私も行く」

「なんだよ。おまえ、いきなりあいつは悪者だって現実に直面するつもりになったのか? いいことだけどな」
「違うわよ。ヨナタンがああやって隠れていなくちゃいけないのには、何かちゃんとした理由があるのよ。それがはっきりしたら、助けて上げられることだってあるはずでしょう? ヨナタンにパスポートを取り戻してあげることだってできるかもしれない」

「なんだよ。まあいいや、とにかくお前がつらい現実を直視しなくちゃいけない瞬間には、この僕がちゃんと支えてやるからさ、安心しろよ。じゃ、明日、八時のバスに乗るからちゃんと用意しとけよ」

* * *


 シュタインマイヤー氏はベルリン警察の資料室にいた。すでに警察を退職した彼にはこの部屋に入る権利はなかったのだが、現在の警察署長は在職中の彼の同僚だった男で、ミハエル・ツィンマーマンの尻尾をつかむチャンスがあるかもしれないと言われれば、多少の規則違反には目をつぶってくれた。

 ツィンマーマンはアデレールブルグ財団の理事長だ。未解決のボーデン湖事件をはじめ、いくつものきな臭い件に関わっているとされ、バイエルンの闇社会の中心と目されている人物だが、故伯爵の母アデレールブルグ夫人の実兄であり社交界と実業界に大きな影響力を持っていて、確証なしには手が出せない。

 シュタインマイヤー氏はローヴェンブロイの満たされたグラスをそっと持ち上げて口に運んだが、目はずっと報告書に釘付けになっていた。

 彼が読んでいるのは、かつて自分が作成した報告書だった。ボーデン湖事件に関してアデレールブルグ城で家政取締を勤めていたマグダ夫人の証言。アントネッラからボーデン湖で自殺したとされている少年とおぼしき青年がいると連絡を受けて、彼はもう一度あの事件の要点を整理してみようと思ったのだ。あの時の自分の一番の疑問は、あそこで飛び込んだ少年は本当にイェルク・ミュラーだったのかということだった。

「はい。私は伯爵さまがなくなるまで三年ほどお屋敷でお世話になりました。はい、存じ上げております。私どもは伯爵さまを若様とおよび申し上げ、もう一人の少年を小さい若様とお呼びしていました。お二人はとても仲がよく、奥さまもお二人を同じように愛しておられましたので、私ども使用人は当時お二人は実のご兄弟だと信じておりました」

――イェルク・ミュラー少年、歳の若い方の少年が両親を殺害してボーデン湖に身を投げた件だが、実の両親を突然刺殺するような衝動的な所のある少年だったのかね。
「とんでもございません。あの小さい若様に限って、そんなことが出来るはずがございません。本当に天使のようなお方で。もちろん、その、言葉は悪いですが、知能という面で多少の問題がおありの方でしたので、刃物で刺されるとどうなるかわからなかったという可能性はないとはいいきれませんが……」

――しかし、そこまで知能の低い少年が自力で六十キロ離れた自宅に戻るという事が可能かね。
「それは不可能だと思います。小さい若様は、私の知るかぎり、お城から一歩も出たことはありませんし、電車の運賃のシステムなどもご存じなく、地図もお読みになれなかったと……」

――別の質問をしよう。伯爵は健康に問題があったのかね。
「いいえ、とても健康で、発育もおよろしく、しかも摂生にも努められておられました」

――その伯爵が突然亡くなられたと。彼が急死した時、あなたはどこにいたのか。
「私はミュンヘン市内の実家におりました。小さい若様が最初にご病氣になられたのです。若様と奥さまはとても心配なさって看病をなさっていらっしゃいました。お医者さまが伝染病の可能性があるとおっしゃって、私ども使用人のほとんどがお屋敷を離れたのです。残ったのは、ああ、かわいそうなアニタとミリアム……」

――伯爵葬儀の直後に亡くなったケラー嬢とマウエル嬢だね。
「ええ、お二人の看病をしているうちに伝染ったのだと聞きました」

――そして、無事に元氣になったミュラー少年が、自分を看病してくれた伯爵や使用人が病で倒れている隙に、城を勝手に出て、自分の両親を殺害して自殺したと……。
「私にはそのお話はとても信じられません。今でも何かの間違いだと信じております」

――最後に一つ。伝染病の疑いで城を出てから、最後にアデレールブルグ城を訪れたのは、伯爵の葬儀のときだったのか。
「いいえ。私どもはお葬式には参列していません。自宅で待機するようにと言われ、ニュースでご葬儀が行われたと知ってびっくりしたのです。でも、奥さまは自宅待機の分も含めて半年分のお給料を払ってくださった上、全ての使用人の次の勤め先を決めてくださいました。文句を言うつもりは毛頭ございません」

(初出:2014年2月 書き下ろし)
.28 2014 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】歩道橋に佇んで — Featuring 『この星空の向こうに』

Posted by 八少女 夕

scriviamo!

月刊・Stella ステルラ 3月号参加 掌編小説 月刊・Stella ステルラ


scriviamo!の第十三弾です。(ついでに、TOM-Fさんの分と一緒にStellaにも出しちゃいます)
TOM-Fさんは、 Stellaで大好評のうちに完結した「あの日、星空の下で」とのコラボの掌編を書いてくださいました。本当にありがとうございます。


TOM-Fさんの書いてくださった掌編 『この星空の向こうに』-Featuring『マンハッタンの日本人』

TOM-Fさんは、小説書きのブロガーさんです。代表作の『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』、天平時代と平安時代の四つの物語を見事に融合させた『妹背の桜』など、守備範囲が広いのがとても羨ましい方です。こだわった詳細の書き込みと、テンポのあるアクションと、緩急のつけ方は勉強になるなと思いつつ、真似できないので眺めているだけの私です。

「あの日、星空の下で」は、TOM-Fさんの「天文オタク」(褒め言葉ですよ!)の一面が遺憾なく発揮された作品で、さらに主人公のあまりにも羨ましい境遇に、読者からよくツッコミが入っていた名作です。お相手に選んでいただいたのが、何故か今年引っ張りだこの「マンハッタンの日本人」谷口美穂。TOM-Fさんの所の綾乃ちゃんと較べると、もう比較するのも悲しい境遇ですが書いていただいたからには、無理矢理形にいたしました。今年も同時発表になりますが、できれば先にTOM-Fさんの方からお読みくださいませ。


とくに読む必要はありませんが、「マンハッタンの日本人」を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
 「マンハッタンの日本人」
 「それでもまだここで 続・マンハッタンの日本人」
 「花見をしたら 続々・マンハッタンの日本人」



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歩道橋に佇んで 〜 続々々・マンハッタンの日本人
— Featuring 『この星空の向こうに』

——Special thanks to Tom-F-SAN

 風が通る。ビルの間を突風となって通り過ぎる。美穂はクリーム色の歩道橋の上で忙しく行き来する車や人のざわめきをぼんやりと聞いていた。

「あ……」
髪を縛っていた青いリボンが、一瞬だけ美穂の前を漂ってから飛ばされていった。手を伸ばしたが届かなかった。艶やかなサテンは光を反射しながらゆっくりと街路樹の陰に消えていった。

「お氣にいりだったんだけれどな……」
留学時代や銀行に勤めていた頃に手に入れたものは、少しずつ美穂の前から姿を消していた。仕事や銀行預金だけではなくて、もう着ることのなくなったスーツ、高級さが売り物の文房具、デパートでしか買えない食材は今の美穂とは縁のないものだった。

 美穂の勤めている《Star's Diner》に、突然現れたあの少女のことが頭によぎった。春日綾乃。かちっとした紺のブレザー、ハキハキとした態度。希望と野心に満ちた美少女。コロンビア大学の天体物理学に在学中で、ジャーナリズム・スクールにも所属しているとは、とんでもなく優秀な子だ。はち切れんばかりのエネルギーが伝わってきた。私も、かつてはあんなだったんだろうか。ううん、そんなことはない。私はいつでも中途半端だった。学年一の成績なんてとった事がない。そこそこの短大に進み、地元のそこそこの信用金庫に就職して、これではダメだと自分を奮い立ててようやくした留学だって、ただの語学留学だった。そして、ニューヨーク五番街にオフィスを構える銀行の事務職に紛れ込めただけで、天下を取ったつもりになっていた。それだって、もはや過去の栄光だ。

 昨日も彼女は、自転車に乗って颯爽とやってきた。レポートを完成するために取材をするんだそうだ。何度書いても突き返されると彼女はふくれていた。課題は「マンハッタンの外国人」で、ありとあらゆるデータを集めて、貧困と失業と犯罪に満ちた社会を形成する外国人像を描き出したらしい。
「でも、受け取ってくれないの。間違いを指摘してくださいと言っても、首を横に振って。私は答えが欲しいのに、あの講師ったらわけのわからないことを言ってはぐらかすだけなんですよ。せっかく早々と入学が認められて、留学の最短期間で効率よくジャーナリストのノウハウを学べると思ったのに、外れクジを引いちゃったのかな」

「効率よく、か……」
「ええ。私にはぐずぐずしている時間なんてないんです。一日でも早くジャーナリストになるためにわざわざニューヨークまで来たんだから、必要な事だけを学んだら、どんどん次のステップに進まなくちゃ」

 美穂は自分の人生について考えてみた。効率よく物事を進めた事など一度もなかったように思う。綾乃のように明確な目標と期限を設定して、自分の人生をスケジュール化した事もなかった。 

 綾乃にレポートのやり直しを求める講師が何を求めているのか、美穂にはわからない。けれど、綾乃のレポートの内容には悲しみを覚える。それは完膚なきまでに正論だった。正しいからこそ、美穂の心を鋭くえぐるのだ。美穂自身も貧困と失業と犯罪に満ちた社会を形成するこの街のロクでもない外国人の一人だ。もっと過激な人間の言葉を借りれば排除すべき社会のウジ虫ってとこだろう。なぜそれでもここにいるのかと問われれば、返すべきまっとうな答えなどない。けれど、自分がこの世界に存在する意義を声高に主張できる存在なんて、どれほどいるのだろうか。

 最低限のことだけをして効率よく泥沼から抜け出す事ができれば、だれも悩まないだろう。それはマンハッタンに限った事ではない。

 《Star's Diner》で要求される事はさほど多くはなかった。正確に注文をとり、すみやかに出す事。会計を済まさずに出て行く客がいないか目を配る事。汚れたテーブルを拭き取り、紙ナフキンや塩胡椒、ケチャップとマスタードが切れていたらきちんと補充する事。可能なら追加注文をしてもらえるように提案をする事。美穂にとって難しい事はなかった。かなり寂れて客も少ない安食堂で、固定客が増えてチップをたくさんもらえる事が、生活と将来の給料に直接影響するので、美穂は愛想よく人びとの喜ぶサービスを工夫するようになった。

 おしぼりサービスもその一つだ。大量のミニタオルを買ってきて、用意した。一日の終わりにはふきん類を塩素消毒するのだから一緒に漂白消毒して、アパートに持ち帰ってまとめて洗う。自分の洗濯をするのと手間はほとんど変わらない。勤務中のヒマな時間にはダイナーの隅々まで掃除をする。害虫が出たり、汚れがついて客がイヤな思いをしないように。

 そうした契約にない美穂の働きに、同僚はイヤな顔はしなかったがあまり協力的ではなかった。それに賛同してくれたのは、新しく入ったポール一人だった。先日、失業していると言っていたのでこのダイナーがスタッフを募集している事を教えてあげたあの客だ。彼はもともとウォール街で働いていたぐらいだから、向上心が強い。言われた事を嫌々やるタイプではないので、美穂が何かを改善していこうとする姿勢については肯定的だった。ただ、彼自身はこのダイナーの経営にはもっと根本的な解決策が必要だと思っているようだった。美穂にはそこまで大きなビジョンはない。小人物なんだなと自分で思った。

 はじめは無駄のように思われた美穂の小さな努力だったが、少しずつ実を結び、必ずチップを置いていってくれる馴染みの客が何人もできた。ウォール街で誰かが動かしているようなものすごい金額の話でもなければ、成功と言えるような変化でもない。けれど、そうやって努力が実を結んでいく事は、美穂の生活にわずかな歓びとやり甲斐をもたらした。

 でも、綾乃のレポートの中では、美穂もポールも地下鉄の浮浪者も「低賃金」「貧困」を示すグラフの中に押し込められている。マンハッタンの煌めく夜景の中では、存在するに値しない負の部分でしかない。「いらないわ」綾乃の言葉が耳に残る。もちろん、彼女は「マンハッタンに外国人なんかいらない」と言ったわけではない。「アンダンテ・マエストーソ、あの部分はいらない」そう言ったのだ。綾乃との昨日の会話だった。

「ジョセフにヘリに乗せてもらって、マンハッタンの夜景を見せてもらった時に、ホルストの『木星』のメロディを思い浮かべたんですよ。知っています、あの曲?」
「ええ。『惑星』はクラッシックの中ではかなり好きだから。綾乃ちゃんは天文学を学ぶだけあって、あの曲はやっぱりはずせないってところかしら」
「ええ、そうなんです。でも、『木星』はちょっといただけないな」
「そう? どうして?」
「ほら、あのいきなり民族音楽みたいなメロディになっちゃうあそこ、それまでとてもダイナミックだった雰囲氣がぶち壊しだと思うんですよ。ロックコンサート中に無理矢理聴かされた演歌みたい。アンダンテ・マエストーソ、あの部分はいらないわ」

 美穂は小さく笑った。確かにSF映画に出てくる惑星ジュピターをイメージしていたら、違和感があるかもしれない。合わないからいらない、その言葉はちくりと心を刺した。

「演歌ね、言い得て妙だわ。ホルストもそう意図して作ったんじゃないかな」
「えっ?」

「あの曲、『惑星』という標題があるために『ジュピター』は木星の事だと思うじゃない? でもホルストが作曲したのはローマ神話のジュピターの方みたいよ」

 綾乃のコーラを飲む手が止まった。
「天体の音楽じゃないんですか?」
「そう。もともとは『七つの管弦楽曲』だったんですって。第一次世界大戦の時代の空氣をあらわした一曲目がローマの戦争の神になり、他の曲もそれぞれローマの神々と結びつけられて、それからその当時発見されていた惑星と結びつけられて『惑星』となったってことよ。本当かどうかは知らないけれど、私はそう聞いたわ」

 美穂は、忙しくなる前に各テーブルにあるケチャップとマスタードを満タンに詰め直しながら続けた。
「あの『the Bringer of Jollity』って副題、快楽をもたらすものと日本語に訳される事が多いけれど、実際には陽氣で愉快な心持ちを運ぶものってことじゃない? 人びとの楽しみや歓びって、祭典なんかで昂揚するでしょう。とてもイギリス的なあのメロディは、それを表しているんだと思うの。それってつまり、日本でいうと民謡や演歌みたいなものでしょう?」
「そうなんですか……」

 美穂は日本にいた頃は『木星』を好んで聴いていた。冒頭部分はファンファーレのように心を躍らせた。その想いは輝かしい前途が待ち受けているように思われた人生への期待と重なっていた。でも、あれから、たくさんのことが起こった。自分を覆っていたたくさんの金メッキが剥がれ落ちた。人生や幸福に対する期待や価値観も変わっていった。テレビドラマのような人生ではなくて、みじめで辛くとも自分の人生を歩まなくてはいけない事を知った。綾乃とは何もかも正反対だ。最短距離でも効率的でもなく、迷い、失敗して、無駄に思える事を繰り返しつつ、行く先すらも見えない。

 今の美穂の耳に響いているのは同じホルストの『惑星』の中でも『木星』ではなくて『土星』だった。『Saturn, the Bringer of Old Age』。コントラバスとバス・フルートが暗い和音をひとり言のように繰り返す。長い、長い繰り返し。やがて途中から金管とオルガンが新たなテーマを加えていく。それは、次第に激しく歌うようになり、怒りとも叫びともつかぬ強い感情を引き起こす。けれど最後には鐘の音とともに想いの全てが昇華されるように虚空へと去っていく。

 美穂は老年というような年齢ではない。それでも、今の彼女には希望に満ちて昂揚する前向きなサウンドよりも、葛藤を繰り返しつつ諦念の中にも光を求める響きの方が必要だった。

 綾乃の明確な言葉、若く美しくそして鋼のように強い精神はとても眩しかった。そして、それはとても残酷だった。この世の底辺に蠢く惨めな存在、這い上がる氣力すら持たぬ敗者たちには、反論すらも許されないその正しさが残酷だった。階段を一つひとつ着実に駆け上がっていくのではなく、青いリボンが風に消えていくのを虚しく眺めているだけの弱い存在である自分が悲しかった。

 自分もまた、あんな風に残酷だった事があるかもしれない。美穂は思った。挫折と痛みを経験したことで、私は変わった。失業を繰り返していたポール、桜を観る事を薦めてくれた鳥打ち帽のお爺さん、よけいな事をやりたがらない同僚たち、地下鉄で横たわる浮浪者たち。このマンハッタンにいくらでもいるダメ人間たちの痛みとアメリカンドリームを目指せない弱さがわかるようになった。

 綾乃に話しても、きっとわからないだろうと思った。頭のいい子だから、文脈の理解はすぐにできるだろう。レポートを上手に書きかえる事もできるだろう。でも、本当に彼女が感じられるようになるためには、彼女が彼女の人生を生きなくてはならないのだと思った。美穂は綾乃には何も言わない事にした。そのかわりに五番街で買った青いリボンの代りに、今の自分にふさわしいリボンを買おうと思った。簡単にほどけないもっと頑丈なものを。

(初出:2014年2月 書き下ろし)

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作中に出てくるホルストの『惑星』です。高校生くらいのとき、LP(というものがあった時代です)で、聴きまくりましたね〜。「土星」だけの動画もあったのですが、ホルスト自身がバラバラにするのを好まなかったというので、全曲のものを貼付けておきます。


G. Holst - The planets Op. 32 - Berliner Philharmoniker - H. von Karajan
00:00 I.Mars, the Bringer of War
07:21 II.Venus, the Bringer of Peace
15:58 III.Mercury, the Winged Messenger
20:14 IV.Jupiter, the Bringer of Jollity
27:50 V.Saturn, the Bringer of Old Age
37:12 VI.Uranus, the Magician
43:15 VII.Neptune, the Mystic
.26 2014 scriviamo! 2014 trackback0

【小説】追跡 — 『絵夢の素敵な日常』二次創作

Posted by 八少女 夕

scriviamo!


月刊・Stella ステルラ 3月号参加 掌編小説 二次創作 月刊・Stella ステルラ


「scriviamo! 2014」の第九弾です。山西左紀さんの今年二つ目のご参加は、大好きな『空気の読めない(読まないかな?)お嬢様』絵夢の活躍する「絵夢の素敵な日常」シリーズの最新作です。私の大好きな街ポルトを題材にした作品、私の写真も共演させていただいています。ありがとうございます。

山西左紀さんの書いてくださった掌編 絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso

山西左紀さんは、ブログでの小説交流をはじめたもっとも古いお友だちの一人で、私の作品にコメントをくださるだけではなくて、実にいろいろな形で共演してくださっています。先日発表した「夜のサーカス」のアントネッラと「もの書きエスの気まぐれプロット」のエスの交流や、「254」シリーズのコトリたちとうちの「リナ姉ちゃん」シリーズだけでなく、そしてこの「絵夢」シリーズでもArtistas callejerosと共演してもらったり、リクエストをして脇キャラストーリーをたくさん作っていただいたり、毎回無茶をお願いしてもちっとも嫌がらずに、ほとんどオーダーメードのように作品を書いてくださるのです。

今回の話は私の休暇の話からイメージをふくらませて書いてくださった、ポルトが舞台のお話。とてもよく調べてあって「本当に行ったことがないの?」とびっくりするくらい細かい所をご存知でした。で、せっかくなのでポルトの話を続けます。個人的にツボだったサキさんの作品の最後の一文からふくらませたしょうもないトーリーです。短いんですが、これ以上引き延ばすほどの内容でもないので(笑)左紀さん、キャラ四人まとめて貸していただきました。ありがとうございました。



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追跡  〜 『絵夢の素敵な日常』二次創作
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 最高の秋晴れだ。幸先がいい。

 アパートを出て、最初に寄ったのはセウタ通りの菓子屋。何種類もの菓子パンやミニタルト。ばあちゃんに頼まれたものだけれど、アリアドスにつくまでに二つ胃袋に消えた。ここの坂は勾配がきつくて転げ落ちるみたいに小走りになる。たくさんの車が市役所前広場を通って、サン・ベント駅の方へと曲がっていく。僕も同じ方向へと行く。徒歩だから橋まではちょっとあるけれど、それでも渋滞中の車よりも早く着くだろう。

 リベルダーデ広場にはいくつものカフェの椅子とテーブルがでていて、観光客たちが眩しい陽光を楽しんでいる。通りの向こうには、赤や黄色の観光客用の二階建てバスが出発時間になるのを待っていた。真っ青な空、白い市庁舎、ドン・ペドロ四世の銅像。僕が生まれ育ったこの美しい街の誇りだ。

 経済の悪化とともにリスボンの治安はとても悪くなったが、ポルトガル第二の都市ポルトは危険なこともほとんどなく観光客の受けもすこぶるいい。だから、いつもたくさんの外国人が来て、旅を楽しんでいる。真夏はさすがにとても暑いけれど、さすがに過ごしやすくなってきた。

Porto


 今日は休みなので、僕は橋を渡ってワイン会社が軒を重ねる対岸へ行く。観光客のためにポートワインの試飲をやっているので、適当に混じるのだ。たぶん、もう僕が観光客じゃないのはバレていると思うけれど。でも、僕はちょっとだけ東洋人みたいな顔をしているので、彼らについていく。最近は中国人観光客の方が多いのだけれど、彼らは独特の騒ぎ方をして、僕は上手く溶け込めないので、日本人をさがす。あ、いた! あの三人は日本人っぽいぞ。

 一人は年配の女性、それから髪をツインテールにしたティーンエイジャー、そして髪が長くて綺麗な女性だ。妙なことに三人は英語で話している。年配の女性が二人をワイナリーに案内するらしい。しめしめ。上手く警戒されないくらいに近くに行って、試飲のご相伴に……。

 そこで僕は妙なことに氣がついた。僕よりも三人に近い位置に、妙な黒服の男がいる。やはり東洋人だ。三人の連れではないようなのだが、男はじっと例の若い女性の方を見ている。年配の女性が何かを説明するために立ち止まったら、そいつもぴたりと止まった。なんだあいつ、あの三人、いや、あの女性を付けているのか?

 三人の誰もあいつには話しかけないから、知り合いじゃないだろう。大体、コソコソ付けているなんて普通じゃない。あの服装は、いかにもマフィアらしい! 東洋人なのは変だけれど、日本にもマフィアはきっといるんだろう。僕はどうしたらいいんだろう。このままにしておいたら、近いうちにあの女性は誘拐されるかもしれない。そうだ、ワインでほろ酔いになるのを待っているんでは。このままにしておいたら彼女が危ない!

 僕は男が女性に意識を集中しているのをいいことにそっと近づいた。そして一氣に足にタックルして男を突き倒した。そして反撃されないよう、全力でふくらはぎに抱きついた。

「うわっ!」
男は情けない声を出した。それを聞いて、周りの観光客と一緒に例の三人組もこちらを振り向いた。すぐに行動を起こして駆け出したのは例の女性だった。
「山本!」

「何、何が起こったの?」
年配の女性が叫んだ。あれ、ポルトガル語だ。この人、もしかして日本人じゃないの?

 日本語で何かわめく男と、びっくりして助けに来る女性、それに年配の女性の言葉で、僕はわけがわからなくなってきた。

「あんた、いったい、何やっているのよ」
腰に手を当てて、両足を肩の広さに広げてツインテールの女の子が言ったので、僕はしぶしぶ彼のふくらはぎから手を離した。

「こいつが、その人を尾行していたみたいだったから」
「尾行じゃないわよ、警護でしょ! だいたい、あんた、どこの子なのよ」
「え……」

 どうやらこの男はこの人たちの知り合いみたい。じゃ、マフィアが誘拐しようとしているってのは、僕の勘違い?
「その人の誘拐を企むマフィアだと思ったんだ」

 僕の説明を年配の女性が訳してくれて、一同はどっと笑った。きれいな女性は僕の頭を撫でて
「助けてくれようとしたのね、ありがとう」
と言った。

「私は絵夢。はじめまして。こちらは、メイコにミクに山本。あなたは?」
女性が順番に紹介してから、僕に手を差し出した。僕は助けてもらって立った。そしたら彼女の胸までにも届かない背しかなかった。

「僕、ジョゼです。この近くの小学校に通っています」
「地元の小学生が、こんな所で何してんの?」
ミクが痛い所を突っ込んでくる。ポートワインの試飲の話をしたら、四人は目を丸くした。
「一緒について来てもいいと言いたい所だけれど、ワインはダメよ」

 それでも、四人は僕を川岸の眺めのいいレストランに連れて行ってくれた。大人三人はポートワインで、そしてミクと僕は絞りたての葡萄ジュースで乾杯した。こうして僕には、新しい友だちができたんだ。

(初出:2014年2月 書き下ろし)
.17 2014 scriviamo! 2014 trackback0

【小説】夜のサーカスと赤銅色のヴァレンタイン

Posted by 八少女 夕

月末の定番「夜のサーカス」です。今月、「scriviamo! 2014」の関係でStellaに出す小説、合併号とはいえ三本になってしまいました。すみません! ですが、どうしてもこれは外せない。だって、ヴァレンタイン特別仕様の作品で、二月にあわせるために一年前から作品数を調節してきたんですもの。多すぎてごめんなさい!

月刊・Stella ステルラ 1、2月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物





夜のサーカスと赤銅色のヴァレンタイン


夜のサーカスと赤銅色のヴァレンタイン


 聖ヴァレンタインの公演。珍しく紅い薔薇を持つ道化師とのシングルブランコだったのは、ジュリアからステラへの贈り物だったのかもしれない。

 公演が終わり舞台の点検をするヨナタンを、ステラがいつものように眩しそうに嬉しそうに見ていた。それを感じたヨナタンは思わず立ち上がって、彼女を見た。

 十二年前の宵の事を思い出した。ステラの母親マリの経営する小さなバルで、ひっそりと食事をとっていた彼の側に、六歳になったばかりのステラがやってきた。輝く金髪と琥珀色の瞳に、ヨナタンは思わず息を飲んだ。ピッチーノ……。出会った日に喜びを隠せずに微笑みかけてきた天使のような少年もまた、輝くような金髪をしていた。ピッチーノと二度と逢う事が出来なくなって一年が経っていた。もう忘れたはずだった。だが、ステラの無邪氣な笑顔がヨナタンを想い出に引きずり戻した。ピッチーノ。天使のようなピッチーノ……。

「次に逢ったら赤い花をちょうだいね」
白い花を受け取ったステラはヨナタンに言った。翌日の興行で、みなに嗤われている道化師が氣の毒で泣きそうになっているステラに、ヨナタンは約束通り赤い花を差し出してしまった。その時のステラの笑顔。十年後にすっかり大きくなって現れたステラの溢れるばかりの愛情。

 ステラにとって赤い花と白い花のおとぎ話が特別だったように、ヨナタンにとっても彼女の金の柔らかい髪と見返りを求めずに注がれる愛情は特別だった。もう届かない遠くの過去の投影だと自分に言い聞かせていたはずが、いつの間にかなくてはならない大事な存在に変わっていた。ピッチーノよりも大切になっていた。

 言葉にするのは苦手だった。何かをしてやれる立場にあるわけでもない。だが、この聖ヴァレンタインの日に、彼女が喜ぶのは何かを形にする事だと思った。この花? 舞台に使った薔薇? そんなものでいいんだろうか。ヨナタンは舞台の袖の一輪挿しから薔薇を抜くとステラに向かって声を掛けようとした。

 その時、ものすごい勢いでやってきたのはブルーノだった。
「おい、それをよこせ!」
そう言って薔薇をひったくると、何も言えないでいるヨナタンとステラをその場に残して去っていった。

「あ。行っちゃった……」
ステラはくすっと笑った。ヨナタンは困惑して言った。
「薔薇……。明日買いにいくよ」

 ステラはその意味を感じてぱっと顔を輝かせた。
「いいの。もう、もらったから。白いのも、赤いのも、そして黄色いのも」
その屈託のない様子にヨナタンは救われたような氣もちになった。ヨナタンは黙ってステラの額に口づけた。

 ブルーノが薔薇を必要としたのはもっと切実にだった。

 公演が終わるとマッダレーナはプレゼント攻めになった。そんな光景はチルクス・ノッテではただの年中行事だった。去年もスターのマッダレーナはファンからの花やチョコレートに埋もれていたし、その前の年はジュリアがプレゼントに埋もれていた。それをどうと思った事なぞなかった。それに、マッダレーナはブルーノの恋人とは言えなかった。

 いや、外から見たら、二人は恋人と言ってもよかったかもしれない。というのは、あの晩以来ブルーノはいつもマッダレーナのキャラバンで眠っていたから。でも、それは愛しあっているからというわけではなくて、肌寂しい女と事情のある男の利害が一致しただけだった。

 あの晩の翌日、マッダレーナは全くいつもと変わりなかった。そのことに、ブルーノはほんの少しがっかりしたが当然だと思った。この女が愛しているのはあの男だ。何かを望んだわけでもなかった。でも、その晩、ロマーノがブルーノのキャラバンにやってきて、当然のように中に入ろうとした。ブルーノは何故だかとても理不尽だと思い、小さな声で「いや、今日は……」と抵抗した。

「なんだね。他に予定でもあるのかね」
そう畳み掛けるロマーノに、ブルーノは言葉に詰まったまま、昨夜泊ったキャラバンを見た。煙草を吸っていたマッダレーナと目が合った。彼女は煙草を投げ捨てると自分のキャラバンの扉を開けた。行ってしまいそうだったが、思い直したかのようにはっきりとした口調で言った。
「団長。あんたがそこに泊るのは勝手だけれど、ブルーノは今晩もここに泊るから」

 ぽかんと口を開けて目をしばたたかせるロマーノの横をすり抜けて、ブルーノは女のもとに走った。それから毎晩、ブルーノは当たり前のようにマッダレーナのもとに泊る事になったのだ。

 それだけのはずだった。なのに、マッダレーナが多くの男たちからの花やプレゼントに囲まれて、麗しい笑顔で礼を言っているのを見ているうちに、ブルーノはおかしな心持ちとなってきた。そんな嬉しそうな顔をするな。俺に見せない顔をするな。俺も、何かをあの女にあげなくては。といっても今から町に行っても花なんかどこにも残っていないだろう。そうだ、いつも通り舞台に紅い薔薇があるなら……! ブルーノは考える前に行動していた。ようやくまともな思考ができたのは、真っ赤な薔薇を手にして息を切らしながらマッダレーナの前に立った時だった。俺は、いったい何をしているのか?

 マッダレーナは、彼の手にある紅い薔薇を見て、笑顔を消した。いつもの余裕のあるふざけた態度が、潮が引くように消え去った。

 彼は震えた。突如として悟ったのだ。この紅い薔薇はあの道化師のもの、つまり、この女が心待ちにしているものではないか。奪い取った花、かすめ取った関係。

 つい数日前の宵、絹糸のごとくつややかな赤銅色の長い髪が、明かり取りの窓から射し込む満月の柔らかな光に浮かび上がっていた。彼はその髪と額にそっと触れた。どこからか、何とも形容しがたい優しくて柔らかい想いが浮かび上がってきて、それがなんだかわからなくて彼は戸惑った。そして、ふいに違和感が起きた。それに触れている自分の手が白くないこと。楽園の住人の白い肌、あの道化師の持つ、透き通るような肌ではないことに。

 お互いに、ただ空間を埋めるためだけの関係のはずだった。彼女の心がどこにあろうがどうでもよかったはずた。そう、彼女があの男を愛しているのは、はじめからわかっていた。では、これは何だ。

 のろのろとした彼の思考の中に、はじめて閃光のように何かが浮き上がった。情熱の時間も、ふざけた語らいのひとときも、どうして彼のことを渇かせ続けたのか。本当に欲しかったのは、全く別のものだったのだ。欲望の満たされる歓びだけではなく、肌のぬくもりの中にまどろむ安らぎでもなく。どこかもっとずっと奥から湧きだす疼きがあった。舞台にあふれる光にも似た、攫みたくてもつかめない何か。闇に渦巻く灼熱の情念。薔薇は奪えてもそこまでだったのだ。彼女は、その花が欲しかっただろう。でも、この手によってではないのだ。

 マッダレーナは、紅い薔薇を手にしたまま、所在なく立ちすくむブルーノを見て戸惑っていた。それは、彼が感じたように、その薔薇の所有の移管に関してではなかった。目の前にいる、今のところ最も親しい関係を持っている、つまり、ほぼ毎晩を共に過ごしている男の、かつて見たことのない佇まいを感じたからだった。屈強な体と、粗野な言動の内側に絶対に見つからないように隠していた、おそらく彼自身も知らないでいたのであろう、傷つきやすい無防備な魂が剥き出しになっていた。それを彼女は彼の瞳の中に見た。

 彼女の中につむじ風が巻き起こった。小さなかがり火だったもの、柔らかく平和に点っていたものが轟々と燃え上がった。雷鳴にあたったように唐突に、彼女もまた自分の心を悟った。

 けれど、絶望して女の心の動きに感づく余裕のなかったブルーノは、紅い花を取り落とすとそのまま走り去った。マッダレーナは、プレゼントの山の中からゆっくりと立ち上がって、彼のいた所まで歩くと薔薇を拾って香りをかぐと、そっと微笑んだ。

「ブルーノは?」
ステラが訊くと、マルコが指を宙に向けた。
「また、ポールに登っているの?」
ヨナタンが頷いた。ステラはそっとマッダレーナを見た。彼女はあまり関心もない様子で頬づえをついていた。目の前に小さなコップが置かれていて、紅い薔薇が刺さっていた。わざわざヨナタンから奪ったあの花、どうなったんだろう。ステラは後ろを振り返ったが、ブルーノが戻ってくる氣配はなかった。

「食べよう」
ルイージが言った。そっとしておいた方がいいこともあるのだ。みな頷いて、手を付け出した。マッダレーナを除いて。彼女は頬づえをついたまま、黙ってその場に座っていた。誰も食べろと勧めたりはしなかった。

 いつもなら我慢出来なくなって降りてくる頃になっても、ブルーノはやってこなかった。片付け当番のマッテオが戸惑いながら、いまだに食事に手を付けていないマッダレーナの前に立った。彼女はひらひらと手を振った。
「あたしが責任を持って片付けるから、このままにしておいてよ」
「OK。じゃ、よろしく」

 みな、共同キャラバンを出て行った。ダリオに頼んで、調理キャラバンに特別に入る許可をもらうと、マッダレーナは何度かシチューを温めた。何とも言えない香りが鼻をくすぐる。食べてしまいたくなる誘惑を押さえて、マッダレーナは待った。

 もう諦めて、これを食べたら片付けて寝ようと思っていた、五回目の時に、ギシリと足音がした。
「ダリオ。なあ、俺は本当に食欲がないんだ。こんな遅くまで、待っていてくれて悪いけれど」

 ブルーノは短くなってしまったロウソクと、二人分の食器と、テーブルの中央に置かれた紅い薔薇を見た。シチューの香りのする方を見ると、マッダレーナがお玉を持って立っていた。
「さっさと座りなさいよ。こっちはお腹ぺこぺこよ」
「待っていたのか? お前が」

 マッダレーナは肩をすくめた。
「聖ヴァレンタインの夜のディナーはあんたと一緒に食べたかったの」
それからちらっと壁時計を見てから付け加えた。
「あと40分しか残っていないから、早くして」

 ブルーノは何がなんだかわからないまま、怯えた表情で彼女を見た。なんて言った? 聖ヴァレンタインの夜を一緒に過ごしたかったって? それは、つまり、その……。

 さっきまで、全くなかった食欲が急に存在を激しく主張しだした。
「せっかく美味しそうだったのに、すっかり煮詰まっちゃったわ。あんたのせいなんだから、ダリオに文句を言ったら承知しないわよ」
マッダレーナがお玉で彼のスープ皿に注ぎ終わるのを待つまでもなく、ブルーノは皿に覆いかぶさるようにして食べだした。右手にスプーン、左手にパンを持ってほぼ同時にかぶりついた。そのとんでもない行儀に、彼女は片眉を上げたが、ふふっと笑うと自分も食べだした。暖まってきたのはシチューのお陰だけではないだろう。

 食事が終わる頃になると、マッダレーナは再び調理キャラバンに行って、お盆を持って帰ってきた。いくつものデザートがその上に載っていた。ブルーノは首を傾げる。マッダレーナはにっこり笑った。
「ほら、みんながあんたのためにとっておいたのよ。なんてみんなに愛されている人かしら。これがステラの、ルイージの、それからヨナタン、マッテオ……」
一つだけ自分の前に置くと、マッダレーナは残りのすべてのパンナ・コッタをブルーノの前に並べた。彼は上目遣いに彼女を見ると訊いた。
「お前のは、くれないのか?」
彼女は呆れて言った。
「これだけもらって、まだ足りないの?」
「他の全部食べていいから、お前のをよこせ」
マッダレーナは雪だるまも溶けてしまうほどの笑顔を見せると、自分の前の器とブルーノの前の器を取り替えた。ブルーノは手の甲で目を拭いながら、デザートをすくった。

 共同キャラバンの影から、ぱたぱたと走り去ると、ステラは煙草を吹かしているヨナタンの所へ駆けていった。
「マッダレーナと一緒に、ドルチェ食べてる! 大丈夫みたい」

 ヨナタンは、嬉しくて仕方ない様子のステラをちらっと見ると言った。
「覗き見はよくない趣味だな」

 それから、いつものようにステラの前髪をくしゃっと乱した。

(初出:2014年1月 書き下ろし)
.31 2014 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】夜のサーカスと赤錆色のアーチ - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」

Posted by 八少女 夕

scriviamo!

月刊・Stella ステルラ 1、2月号参加 掌編小説 月刊・Stella ステルラ


scriviamo!の第六弾です。(ついでに、左紀さんの分と一緒にStellaにも出しちゃいます)
山西左紀さんは、人氣シリーズ「物書きエスの気まぐれプロット」と、当方の「夜のサーカス」ならびに「大道芸人たち Artistas callejeros」のコラボの掌編を書いてくださいました。本当にありがとうございます。


山西左紀さんの書いてくださった掌編 物書きエスの気まぐれプロット6

山西左紀さんは、小説書きのブロガーさんです。代表作の「シスカ」をはじめとして並行世界や宇宙を舞台にした独自の世界で展開する透明で悲しいほどに美しくけれど緻密な小説のイメージが強いですが、「絵夢」シリーズや今回の「エス」シリーズのようにふわっと軽やかで楽しい関西風味を入れてある作品も素敵です。普通は女性のもの書きがとても苦手とする機械関係の描写も得意で羨ましいです。

左紀さんのところのエスとうちのオリキャラのアントネッラのコラボははじめてではなくて、もう何度目かわからないほどになっています。この話を読んだことのない方のためにちょっと説明しますと、この二人はもともと独立したキャラです。でも、二人ともブログ上で小説を書いているという設定なので無理矢理にブロともになっていただき、交流していることになっています。今回の左紀さんの作品では、アントネッラが「scriviamo!」を企画し、エスがアントネッラの小説「Artistas callejeros」のキャラとコラボした、ということになっています。つまり実際の私と左紀さんの交流と同じようなものとお考えください。

そういうわけで、「物書きエスの気まぐれプロット」のメインキャラのエスと、劇中劇の登場人物コハクをお借りして、「夜のサーカス」の番外編を書いてみました。舞台は、アントネッラのいるイタリアのコモと劇中劇の方ではスペインのコルドバ、使ったキャラはカルちゃんです。(カルちゃんって誰? という方はお氣になさらずに。ただのおじさんということで)

番外編とはいえ「夜のサーカス」シリーズなので、表紙付きです。



「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物


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「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと赤錆色のアーチ - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
——Special thanks to Yamanishi Saki-SAN

夜のサーカスと赤錆色のアーチ

「あらあら。なんて面白い試みをしてくれるのかしら。さすがはエスね」
アントネッラはくすくす笑った。

 一月のコモは、とても静かだ。クリスマスシーズンに別荘やホテルを訪ねていた人たちはみな家に帰り、スノップな隣人たちは暖かい南の島や、スイスやオーストリアのスキーリゾートへと出かけ、町のレストランも長期休暇に入る。

 アントネッラにはサン・モリッツで一ヶ月過ごすような真似はもちろん、数日間マヨルカ島に留まるような金銭的余裕もなかったので、大人しく灰色にくたびれた湖を臨む彼女のヴィラの屋上で一月を過ごすことにしていた。今年、彼女がこの時期にここを離れない理由は他に二つあった。一つは、先日から関わっている「アデレールブルグ事件」がどうやら進展しそうな予感がすること。つまり、チルクス・ノッテのマッテオが新情報を持っていつ訪ねてくるかわからないことや、ドイツのシュタインマイヤー氏から連絡が入るかもしれないという事情があった。そして、もう一つは、趣味の小説ブログで自分で立ち上げた企画だった。「scriviamo!」と題し、ブログの友人たちに書いてもらった小説に返掌編を書いて交流するのだ。企画を始めてひと月、友人たちから数日ごとに新しい作品を提出してもらっているので、ネットの繋がらない所にはいけないのだ。

 そして、今日受け取ったのは、ブログ上の親友エスの作品だった。エスは日本語で小説を書く日本人女性らしいが(詳しいプロフィールはお互いに知らない)、どういうわけかイタリア語も堪能で、小説を二カ国語で発表している。そして、アントネッラの小説もよく読んでくれている上、情報検索が上手くできないアントネッラを何度も助けてくれるなど、既にブログの交流の範囲を超えた付き合いになっていた。

 エスが書いてきた小説は、先日発表された「コハクの街」の前日譚で、主人公のコハクがアントネッラの代表作「Artistas callejeros」のキャラクター、ヤスミンと邂逅する内容だった。アントネッラがコラボレーションで遊ぶのが好きだとわかっていて、わざわざ登場させてくれたのだろう。
「まあ、コハクは設計士候補生なの。そして、スペインのイスラム建築を見て、建築のスタイルに対して心境の変化が起こったのね」

 アントネッラは、ベッドの代わりにデスクの上に吊る下げているハンモックによじ上り、しばらく静かに眠っているようなコモ湖を眺めながら考えていた。彼女が、数年前に訪れたアンダルシアのこと。掘り起こしていたのは「Artistas callejeros」を書くに至った、心の動き。美しいけれど古いものをどんどん壊していく現代消費世界に対する疑問なども。

 それから、ハンモックから飛び降りて、乱雑なものに占領されてほんのわずかしかない足の踏み場に上手に着地すると、デスクの前に腰掛けてカタカタとキーボードを叩きはじめた。


 また悪いクセだ。カルロスはひとり言をつぶやいた。先ほどからそこにいる女性が氣になってしかたがない。女性が彼の好みだと言うのではなかった。それは少女と表現する方がぴったり来る、いや、少し少年にも似通う中性的な部分もあり、カルロスがいつも惹かれるようなセクシーで若干悪いタイプとは正反対だった。カルロスが氣になっているのは、それが日本人のように見えたからだった。

 見た所、その女性は困っているようには見えなかった。だが、問題がないわけでもなさそうだった。メスキータ、正確にはスペインアンダルシア州コルドバにある聖マリア大聖堂の中で、十五分も動かずに聖壇の方を見ているのだ。声を掛けようかどうか迷いながら横に立っていると、向こうがカルロスの視線に氣付いたようで、不思議そうに見てから小さく頭を下げた。

「不躾に失礼。でも、あまりに長く聖壇を見つめていらっしゃるのでどうなさったのかと思いまして」
カルロスは率直に英語で言ってから付け加えた。
「何かお手伝いできることがあったらいいのですが」

 女性は知らない人に少々警戒していたようだが、それでも好奇心が勝ったらしくためらいがちに言った。
「その、勉強不足でよく知らないんですが、これはキリスト教の教会なんですよね? でも、当時敵だったイスラム教のモスクの装飾をそのまま使っているのはなぜなんですか?」

 カルロスは小さく笑った。それが十五分も考え込むほどの内容ではないことはすぐにわかったので、この女性の心はもっと他にあるのだと思ったが、まずは彼女が話しかけることを許してくれたことが大事だった。
「いくら偏狭なカトリック教徒でも、これを壊すのは惜しいと思ったのでしょう。美しいと思いませんか?」

「ええ、とても」
「もともとここには教会が立っていたのです。八世紀にこの地を征服した後ウマイヤ朝はここを首都として、モスクを建設しました。十三世紀にカスティリャ王国がこの地を征服して以来、ここはモスクとしてではなく教会として使われるようになり、モスクの中心部にゴシックとルネサンスの折衷様式の礼拝堂を作ったのですよ」

「壊して新しいものを作るのではなく……」
「そうですね。壊してなくしてしまうと、二度と同じものはできない。その価値をわかる人がいたことをありがたく思います。当時のキリスト教というのは、現在よりもずっと偏狭で容赦のないものだったのですが」

 二人はゆっくりと広い建物の中を歩いた。「円柱の森」と言われるアーチ群には赤錆色とベージュの縞模様のほかには目立った装飾はなかった。だがその繰り返しは幻想的だった。天窓から射し込む光によって少しずつ陰影が起こり、近くと遠くのアーチが美しい模様のように目に焼き付いた。

 聖壇の近くのアーチには白い聖母子像と聖人たちの彫像が配置されている。本来のモスクには絶対に存在しないものだが、光に浮かび上がる白い像は教義に縛られてお互いを攻撃しあってきた二つの宗教を超越していた。どちらかを否定するのではなく、また、どちらかの優位性を強調するのでもなく。

 ステンドグラスから漏れてきた鮮やかな光が、縞模様のアーチにあたって揺らめいていた。ほんのわずかな陰影が呼び起こす強い印象。

 メスキータから出ると、外はアンダルシアの強い光が眩しかった。カルロスはさてどうすべきかと思ったが、女性の方から話しかけてきた。
「あの、お差し支えなかったら、もう少しアンダルシアの建築のことを話していただけませんか?」

 カルロスはニッコリと笑うと、頷いてメスキータの外壁装飾について説明していった。

「あなたは建築に興味をお持ちなんですか?」
「え、ええ。わたしは建築士の卵なんです。日本人でシバガキ・コハクと言います」
「そうですか。私はバルセロナに住んでいまして、カルロス・マリア・ガブリエル・コルタドと言います。やっぱり日本の方でしたね」
「やっぱりというのは?」
「私には親しくしている日本の友人がいましてね。それで、東洋人を見るとまず日本人かどうかと考えてしまうのですよ」
「それでわたしを見ていらしたのですね」
「ええ。もっとも、氣になったのはずいぶん長く考え込んでおられたので、何か問題がおありなのかなと思ったからなのです」

 コハクは小さく息をつくと、わずかに首を傾げて黙っていた。カルロスは特に先を急がせなかったが、やがて彼女は自分で口を開いた。
「関わっていたプロジェクトから外された時に、なぜ受け入れられなかったのかわからなかったのです。所長はわたしの設計が実用的・画一的、面白みに欠けるって言いました。学校で習った時から一番大切にしていたのは、シンプルで実用的、そして請け負って作る人が実現しやすい設計で、さらに予算をクリアすることです。それは所長だって常々言っていたことです。それなのにいきなり面白みなんていわれても……」

 カルロスはなるほどと頷いた。
「わたしの信念、間違っているんでしょうか」
コハクが思い詰めた様子で訊くと、カルロスは首を振った。
「そんなことはありません。私は実業家なのですが、実用性や予算を度外視したプランというものは決して上手くいかないものです。あなたの上司も、あなたにアルハンブラ宮殿の装飾やサクラダ・ファミリアのような建築を提案してほしいとおっしゃっているわけではないのだと思いますよ」
「だったら、どうして」

「それは、教えてもらうのではなく、あなたが考えるべきことなのです。ここに来たのは本当にいい選択でした。ご覧なさい」
そう言って、外壁の細かい装飾を指差した。ひとつひとつはシンプルな図形だが、組み合わせによって複雑になるアラブ式文様だった。アーチ型を重ねることでメスキータの内部の「円柱の森」を思わせた。

「壁という目的だけを考えればこれは全く不要です。省いても雨風をしのぐという目的は同じように果たせるでしょう。けれどもこの文様にはこの建物全体に共通の存在意義があるのです」
「それは?」

「祈りです。偉大なる神への畏敬の念です。それは彼らにとってはコストや手間をかけてでも表現しなくてはならないものだったのです。建物を造るよう命じたもの、設計者、工芸家一人一人が心を込めて実現し、そして、人びとはその想いのこもった仕事に驚異と敬意を抱いたことでしょう。その真心に七百年の時を経ても未だに人びとは打たれ、同じようにここに集うのです。もし、ここが何の変哲もない柱と屋根と壁だけの建物であったなら、人びとはさほど関心を示さなかったでしょう。そして、為政者が変わった時にあっさりと取り壊されてしまったのではないでしょうか。カスティリャの人びとは、これを作った一人一人の心を感じたからこそ、イスラム教の人びとの手によるものだとわかっていても、尊重し後世に残そうと、そして同じ場所で祈り続けようと決めたのではないでしょうか」

 コハクはじっとカルロスの大きな目を見つめた。
「建物自身から感じられる存在意義……。使う者が感じる、作った者の心……」
それから大きく頷いた。
「そうですね。わたしは事業としての建築や建設の使用目的については真剣に考えていたのですが、空間としての建物の意義を見落としていたのかもしれません。まだもう少し旅を続けますので、よく考えてみようと思います」

 カルロスは嬉しそうに頷いた。それから胸ポケットから名刺を取り出した。
「私は普段ここにいます。バルセロナの郊外です。もしバルセロナに寄ることがあったら、連絡をください。今、私の日本人の友人たちもしばらくは滞在していますのでね」



 アントネッラは時計を見た。あらやだ。もう夜中の一時だわ。そろそろ寝なくちゃ。この最後の部分はもう少し練らないとダメね。なぜArtistas callejerosの仲間たちがバルセロナにいるのかはまだ内緒だし。ま、でも、いいかしら。お祭りの企画だから。

 彼女はコンピュータの電源を落とすと、再び器用にハンモックによじ上って毛布をかけた。今夜はメスキータの夢が見られそうだった。

(初出:2013年1月 書き下ろし)
.29 2014 scriviamo! 2014 trackback0

【小説】夜のサーカスと漆黒の陶酔

Posted by 八少女 夕

今年最後の小説は、月末の定番「夜のサーカス」です。長いこと読者の皆様をヤキモキさせてきましたが、ようやくあの人の「で、どっちがいいわけ?」についてはっきりした答えが出ます。あ、もっとも、ご安心くださいませ。「Stella」のR18不可はちゃんとクリアしていますので。

それと、かつてバトンでちらっと開示したある人物のセリフが今回ついに登場です。


月刊・Stella ステルラ 1、2月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


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あらすじと登場人物





夜のサーカスと漆黒の陶酔


夜のサーカスと漆黒の陶酔


 クリスマスの喧噪が過ぎ去った後、ご馳走の食べすぎで疲れた顔をした人びとが、つまらなそうに街を行き来するようになる。石畳は冷え込み、夏の夜は遅くまで賑わう広場も中途半端に溶けた雪が出しっ放しのスチール椅子の上に汚れて光っているだけだ。カーニバルの狂騒が始まるまでのひと月間、サーカスの興行を観に隙間風の吹くテントへと向かう観客は恐ろしく減る。

 とはいえ、完全に閉めてしまうと、団員や動物たちの食い扶持がかさむ一方なので、「チルクス・ノッテ」は昼の興行を中心に営業していた。ステラは開いた時間にエアリアル・ティシューの訓練に余念がなく、その横ではヨナタンが次の興行でいよいよ披露する事となった八ボール投げを根氣づよく訓練していた。

 マッテオは大車輪の大技を訓練している事もあったが、時おり外出の身支度をして出て行った。
「どこに行くの?」
「ちょっと。コモまで」
ステラはマッテオの様子が少し氣になる。なんかコソコソしているのよね。企んでいる感じ。まあ、いいけれど。

「ねえ。この間からマッテオは何をしているんだと思う?」
大テントに戻ってヨナタンに問いかけようとすると、もういなかった。

「知るかよ。ガキはあっちへ行け。どうでもいい事を嗅ぎ回るんじゃない!」
野太い声が上から降ってきた。ブルーノだ。ポールに登っているらしい。虫の居所が悪い時に来ちゃった。ステラは慌ててテントから逃げだした。すると後ろからあざ笑うように言葉が落っこちてきた。
「お前の大好きな道化師は、共同キャラバンで逢い引き中だよ! 邪魔すんなよ」

 ステラは走ってテントから離れた。それから、共同キャラバンの方を見た。また音楽を一緒に聴いているのかな。それとも……。見に行くつもりになれなかった。どうしてなんだろう。氣にしないようにしようって、決心したのに。頑張ろうと思ったんだけれどな……。まぶたの辺りを拭いながら、ステラは反対の方に歩いた。

 ライオン舎が見えた。ヴァロローゾ、いるかな。話、聞いてもらおうかな。ステラは雄ライオンの姿を探して覗き込んだ。あ、いたけれど、寝てる……。

 ヴァロローゾはステラが檻の前に立つと、ちらと瞼をあげたがすぐにまた閉じた。そして、彼女がその前に立ち続けても動こうとしなかった。当てが外れたステラは所在なくライオン舎を見回した。二匹の雄ライオンと二匹の雌ライオン、そして仔ライオンのアフロンタが目に入った。他のライオンたちは横たわって目を瞑りじっとしていたが、アフロンタだけはステラに興味を示して柵の方に向かってきた。

 仔ライオンは少し大きめの猫のようだ。それでいて、犬のように人間に媚びた目つきをする。つぶらな瞳で見つめられ、小さな舌がヒュルリと動くと、思わず笑顔になってしまう。遊んでほしいとねだられたようだ。ステラはアフロンタを撫でようと柵の中に手を伸ばした。

 すると、ものすごいスピードで小麦色の固まりが柵の方に向かってきた。眠っていたはずの母親ライオン、ジラソーレだった。我が子に害をなそうとしたと判断したのだろう。わずかの差でステラが手を引っ込めたので噛まれずに済んだ。けれど、ライオン舎はすごい騒ぎになった。他のライオンたちが全て目を覚まし、いくつもの咆哮が轟いた。ステラは耳を塞いでうずくまった。

 二分もしないうちに、鞭の音が空氣を引き裂いた。それと同時にライオンたちは吼えるのをやめた。突然の静寂は、ステラには轟音よりも恐ろしかった。怖々、顔を上げて振り向くと、明るい外からの逆光を背負ってマッダレーナが立っていた。その後ろには、息を切らして走ってきたヨナタンのシルエットも見えた。

 マッダレーナはつかつかと歩み寄ると、ステラの襟首をつかんで立たせた。
「ここは私のいないときは立ち入り禁止だって、よくわかっているはずよね。いったい何のつもりなのよ」
「ご、ごめんなさい。何もしていないの……」
「何もしていないのに、この騒ぎ? 出て行って! 二度とここに近づかないで」

 ステラは泣きながら、ヨナタンの脇をすり抜けて自分のキャラバンへと帰っていった。
「ステラ!」

 言い訳をしても無駄だった。近づいていけないのは知っていた。理由を訊かれても話せない。ヴァロローゾに愚痴を聞いてもらいたかったなんて。アフロンタと子猫と遊ぶみたいに遊びたかったなんて。馬鹿みたいだ、どんなに背伸びをしても、私はどうしようもなく子供だ。ヨナタンも呆れたに違いない。馬鹿だ、馬鹿だ。


 ステラが走り去った後、興奮したライオンたちを順に毛繕いして落ち着かせると、マッダレーナは自分のキャラバンに戻って煙草に火をつけた。ヨナタンが近づいてきて言った。
「少し歩かないか」
彼女は煙草をくわえたまま、黙って頷くとゆっくりと大テントの方へと歩いていった。この時期は日が暮れるのが早い。四時だというのに、周りはすでに夕暮れに染まっていた。

「あの子はわかっていないのよ。あそこにいるのは大きな猫じゃないのよ。ライオンなの」
「僕は、君を諌めたいわけじゃない」

「私が十三のときだったわ。近隣に住む間抜けな男の子が、勝手にライオン舎に入り込んだのよ。そして、子供のライオンを抱こうとしたの。あたりまえだけれど、母親ライオンが飛んできてね。その子は金切り声を出したわ」

 ヨナタンは、ぎょっとしてマッダレーナの横顔を見た。
「私の父さんが、ライフルを持って飛んできた。その男の子はちょっと足をかじられただけで済んだけれど、ライフルの音にライオン舎はパニックになった。そして、妻を守ろうとしたジャスィリが父さんに飛びかかったの。私の母さんもライフルでジャスィリを脅そうとしたけれど、もともとライフルなんてまともに使えない人だったから、すぐにやられてしまった」

 マッダレーナは、深呼吸をして空を見上げた。両親は助からなかった。そして、ジャスィリはすぐに処分された。少女は楽園から追い出され、それからずっと楽ではない浮き世を歩き続けている。ヨナタンは、大人のたしなみとしていつもは隠しているマッダレーナの疼みを感じた。

「あの子は何もわかっていないのよ。もし、私のライオンたちが人に危害を加えたら、私は彼らを処分しなくてはならない。だから、嫌われたって、ひどいと言われたって、私は……」

「ステラは、君を嫌ったりしていない。むしろ尊敬しているよ」
「どうかしら。いいのよ、わたし世界中の人間に愛されたいなんて思っていないから」

 やはりきちんと謝ろうとマッダレーナを探して歩いてきたステラは、ヨナタンの声を聞いて、あわててテントの影に身を潜めた。夕闇の中で、ステラの心には十一歳のときの、忘れられない光景が浮かび上がった。一人でそっと煙草を吸っていた、優しく孤独なヨナタン。その横顔に夕陽があたっていた。今、目にしている光景は、その絵にとてもよく似ていた。けれど、その脇に美しく憂いに満ちた大人のマッダレーナが立っている。ストロベリーブロンドに夕陽が輝く。今にも泣きそうな彼女が弱さをさらけ出している。ステラは項垂れた。松明の火がチラチラと背中に火花を届けて熱いが、つま先と心が冷えていった。

「そんな風に、投げやりになるな」
マッダレーナは、そういいながら、ヨナタンが別に意識を逸らしたのを感じた。

 黙ってヨナタンの視線を追う。テントの向こうからチラチラと動く影を見つけてマッダレーナはそっと笑った。彼女は、意地悪な氣持ちになって、ことさら柔らかくヨナタンに近寄るとよく通る声を出した。
「じゃあ、私を慰めてよ。今晩、月があの山にさしかかる頃、あなたのキャラバンカーに行くから。ノック三回が合図よ。鍵はかけないでね」

 走り去るステラの足音を聴きながら、ヨナタンは呆れたように言った。
「わざと嫌われるような事をしなくてもいいんじゃないか」
マッダレーナはクスクスと笑った。半分は本音なんだけれどね。言葉を飲み込む。


 夜半。震える拳が月の光に浮かび上がる。トン、トン、トン。

 カチャリと音がしてドアが開くと、力強い腕が彼女を中に引き入れ、すぐにドアが閉められた。完全な暗闇の中で、施錠される音が響く。そして、彼女を力の限り抱く。あきらかに、待っていたのだ。こんなに情熱的に切望して。

 知らなければよかった。ヨナタンはこんなにマッダレーナの事を愛しているのだ。夢にまで見たひとの腕の中にいるのに、ステラの涙は止まらなかった。悲しくてつらくてどうしていいかわからなかった。

 暗闇の中で、彼が小さくため息をつく。それから、くしゃっとステラの前髪を乱した。
「自分から男の部屋に押し掛けてきて、そんなに泣く事はないだろう? ステラ」

 彼女は、仰天した。
「わかっていたの?」
「当たり前だろう。あの時うろちょろしていたから、絶対来ると思っていた」
そういってヨナタンはステラの額と、それから頬にキスをした。

 彼女は慌てた。彼がマッダレーナと愛し合っていること、だから迫っても拒否される事しか予想していなかったので、キャラバンカーに入り込んだ後に何が起こるかは考えていなかったのだ。そもそも、マッダレーナのふりをして、どうするつもりだったのだろう。

 どうしていいのかわからなくて硬くなっていると、わずかなため息とともに、彼が体を離すのを感じた。
「ヨナタン?」

 カチャリと鍵の音がして、淡い月の光がキャラバンカーの中に入ってきた。彼の柔らかいシルエットが浮かび上がる。
「そんなに震えていちゃね……。次回は、ちゃんと覚悟をしてから忍び込んでおいで。さあ、おやすみ」

 ステラは、とても幸福な氣持ちになって、泳ぐような足取りで自分のキャラバンカーに戻って行った。今までの百倍、いえ、百万倍、ヨナタンの事が好き。大好き。

 ふわふわと去るステラの様子を目で追い、ヨナタンのキャラバンカーの扉の施錠の音がして静寂が戻ると、自分のキャラバンカーの前に立っていたマッダレーナは、山の上に差し掛かった十七夜の月に向かって煙を吐きかけた。今夜の星ときたら、まあ、寒々しい事。参ったわね。

 ギシリと音がしたので暗闇の中に目をやると、それよりも黒く屈強な男のシルエットが浮かび上がっていた。何だって言うのよ、まったく。

「ガキをからかうのはやめろ」
「あんたに言われたくないわ。ちょっとは落ち込んでいるのよ、これでも」
「お前はブランコ乗りのために我慢するように生まれついているんだよ」

 ブルーノが古傷にまで塩を塗り込んだので、マッダレーナはキッと睨んだ。
「じゃあ、あんたはオカマ掘られるように生まれついたってわけ?」

 ブルーノはにやりと笑って「まあな」と答えた。マッダレーナは月の光に沈むブルーノの暗い顔色を覗き込み、星のように浮かぶ双つの眸を見つめた。
「じゃあ、今夜くらいは、お互いにその忌々しい運命に休日をあげない?」

 そして、口の端を曲げて笑うブルーノを自分のキャラバンカーに押し込むと、自分も入ってカチャリと鍵をかけた。

(初出:2013年12月 書き下ろし)
.25 2013 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】夜のサーカスと純白の朝

Posted by 八少女 夕

月末の定番「夜のサーカス」です。前半はちょっと前向きになったステラの話、そして後半はアントネッラが少しずつ安楽椅子探偵の役割を果たしだす話になっています。

山西左紀さんのところのエスに再び助っ人をお願いしています。アントネッラは実は機械音痴。苦手なことをブロとものエスに助けてもらっているという設定です。左紀さん、大事なキャラを快く貸してくださり、本当にありがとうございます。


月刊・Stella ステルラ 12月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物





夜のサーカスと純白の朝


夜のサーカスと純白の朝


 橋の欄干が湿っていた。早朝にびっしりと覆っていた霜の華が燦々と輝く陽光で溶けたのだ。ステラは白いダッフルコートの襟を合わせてふうと息を吐いた。フェイクのウサギ毛皮風の縁飾りのついたこのコートはステラのお氣に入りだった。学校に通っていた最後の年のクリスマスに母親のマリが買ってくれたのだ。通販「Tutto Tutto」ではこういう可愛い服がお手頃価格で揃う。

「あっ。《イル・ロスポ》のおじさん!」
橋の向こうから歩いてきたのは、ひきがえるに酷似しているために誰にでも《イル・ロスポ》と呼ばれてしまう大型トラック運転手バッシ氏だった。

「おや、ブランコ乗りのお嬢ちゃん。今日はオフなのかい?」
「ええ。私の出番はないの。それで講習会に参加してきたのよ」
自分から団長夫妻に提案して、エアリアル・ティシューの訓練を始める事にしたのだ。テントの上に吊るされた布にぶら下がったり、包まれたり、回転したり、一連の動きを見せる空中演技だ。

 紅い薔薇とシングルのブランコにこだわってぐずぐすするのはやめようと思った。泣いていてもマッダレーナとヨナタンが親しくなっていく事は止められない。だったら少しでも自立した演技の出来るサーカスの演技者となって、マッダレーナのように自身の魅力で振り向いてもらえるようにしたい。

 ジュリアとロマーノは賛成してくれた。新しい試みは新しい演目に繋がる。興行を続けていくためには、目先の事だけでなく常に新しい挑戦が必要だ。

「そうか。熱心で偉い事だね」
《イル・ロスポ》に褒められてステラはとても嬉しくなった。
「あ。そういえば、私おじさんにお願いがあるんだけれど」
「なんだい?」

「あのね。この間の設営の時にTutto Tuttoのカタログを見せてくれたでしょう。あそこにあったセーターがとっても素敵だったの。ヨナタンへのクリスマスプレゼントにしたいんだけれど……」
「けれど……?」

 ステラは少し顔を赤らめた。
「ほら、私、これといった住所がないでしょう?」

《イル・ロスポ》は笑った。
「大丈夫だよ。Tutto Tuttoの商品は定期的にワシが運んでいるのさ。ちょうど今度の月曜日はこのコモ地区の担当だから、テントに運んであげよう」

 月曜日に約束通りに彼はテントに商品を持ってきてくれた。ちょうどステラが食事当番で共同キャラバンで準備中だったので、マッテオが案内して連れてきた。

「まあ、素敵にラッピングまでしてくれたのね。どうもありがとう!」
ステラは大喜びだった。
「ねえ。ダリオに頼んであげるから、お昼ご飯食べていかない?」

 《イル・ロスポ》は首を振った。
「とても残念だけれど今日はアントネッラに招待されているんだ」
「アントネッラって誰?」
「ヴィラに住んでいる物好きなお客さんさ。いろいろ話を聞きたがるんだ。趣味で小説を書いているらしくてね。今夢中になっているのはこのサーカスだよ」
「サーカスの何が面白いの?」
「人間関係の話さ。ブランコ乗りの乙女の恋愛話や謎の道化師の素性なんかだろう」
ステラはくすくす笑った。

「ちょっと待てよ」
横で聴いていたマッテオが口を挟んだ。《イル・ロスポ》とステラは顔を見合わせた。
「なあに?」
「それって、個人情報に関わる事じゃないか。どんな小説を書いているのか調べないと。なあ、《イル・ロスポ》。そのアントネッラのヴィラを教えてくれよ」



 マッテオはその日の夕方にもうアントネッラを訪ねて行った。《イル・ロスポ》にあらかじめ言われなかったらとても人が住んでいるとは思えないほど荒れ果てたヴィラに、彼はずんずんと入っていった。中はもっと驚きで、まるで廃墟、蜘蛛の巣だらけで人が住んでいるなんて信じられなかった。《イル・ロスポ》に言われた通りに屋根裏まで辿りつくと確かにそこだけは居室になっていたが、その乱雑さは目を覆うばかりだった。どこに立っていいのやら。

「あなたがマッテオね。個人情報の心配をしているってバッシさんから聞いたわ」
アントネッラが言うと、マッテオは首を振った。
「あれはステラの前だから、そういっただけ。個人情報なんてどうでもいいよ。僕には前からあんたと共通の興味があってさ。その事について意見を交わしてみたいと思ったのさ」
「何に?」
「あの道化師の正体」
アントネッラは吹き出した。ブランコ乗りに横恋慕した青年が行動を起こしたって訳ね。ますます小説が面白くなりそう。

 マッテオはアントネッラの態度なんかおかまいなしに続けた。
「まずは、僕の推理から話させてもらうよ。つまりね、ヨナタンはなんか犯罪組織に関係あるんじゃないかと思うんだよ」
アントネッラはその色眼鏡をかけた言い回しに多少警戒する。
「証拠もなしにそんな事決めつけるものじゃないわ」

 マッテオはムキになった。
「何があろうと絶対に自分の事を話そうとしないんだぜ。団長に拾われた時に、絶対に何も話さないと頑張ったって話は有名なんだ。びしょ濡れで飢えてたからかわいそうだと親切に奢ってくれたって言うのにさ」

「あら。雨の日に拾ってもらったのね」
「違うよ。これも大きな謎の一つなんだぜ。雨不足で濡れる理由なんかなかった六月にびしょ濡れだったって言うんだから」
「それは……どういうことかしらね。何か……ひっかかるんだけれど」
アントネッラは、考え込んだ。何か具体的なアイデアがあるわけではないのだが、ものすごく重要な何かを忘れているような、そんなもどかしさがあった。十年くらい前、夏、びしょ濡れの少年……。

「まあいいさ。僕、もう行かなくちゃ。夜の興行があるからね。コーヒーをありがとう。おせっかいかもしれないけれど、この部屋、もうちょっと片付けた方がいいと思うよ。じゃ、また来るから」
マッテオは一人で言いたい事だけ言うと、階段を駆け下りていった。途中で「わっ」と言う声がしたので、二階あたりで土埃に滑って転んだのだろう。

 アントネッラは、すっかり自分の中に入り込んで、それから五時間もあれこれ考えていたが、どうしてもどこに引っかかっているのかわからずに、あきらめてハンモックの上の寝床に横たわった。

 ハンモックの上からは大きく育った樹に遮られずに、コモ湖がはるかに見渡せた。夜の水面に月が静かに映り込み、チラチラと黄金の光を揺らめかせていた。その揺らめく光を見ていたアントネッラは突然がばっと起き上がるとハンモックから飛び降りた。そうよ、湖だわ、夜の湖!

 そして、電灯をつけると、「顧客情報整理ノート」の束を取り出して、デスクの上に載せた。探しているのは「シュタインマイヤー氏」の秘密に関するノート。ドイツ警察の未解決事件に関する告白だ。
「どこだったかしら、例の事件のノートは……」

 半時ほどして、アントネッラはノートを見つけた。シュタインマイヤー氏の告白に興味を持って自分で切り抜いた新聞記事も一緒に挟まっていた。十二年の時を経てわずかに黄ばんでいる記事には、少々センセーショナルな題名が踊っていた。思った通り、それも六月だった。
「両親を殺害後、罪の意識に耐えかねて自殺か? ー ボーデン湖」

 ドイツとスイス、オーストリアの国境に横たわるボーデン湖の遊覧船から、一人の少年が身を投げた。警察の調べによると、彼は遊覧船に知り合いの男と一緒に乗った。口論から自分の両親を殺害したと告白してきた少年を自首のために警察に連れて行く途中だったと言う。知り合いの男の制止を振り切って錯乱した少年が夜の湖へ飛び込むところを何人もの乗客が目撃していた。以上が新聞記事の内容だった。

 少年の遺体は見つからなかった。元警察幹部で、現在は政治家であるシュタインマイヤー氏は、当時この事件の責任者だった。湖に飛び込んだのはイェルク・ミュラーという15歳になる少年で、新聞記事にあるようにその日、両親はナイフで刺されて殺害されていた。少年には多少変わった経歴があったが、目撃者の談から当初は警察も新聞記事で伝えられているように事件を被疑者行方不明のまま処理する方向でいた。だが、「少年は同乗していた男に拳銃で脅されていた」と匿名の情報者が電話をかけてきてから、シュタインマイヤー氏はこの事件を疑いだした。

「イェルク少年は、事件の四年ほど前から、ミュンヘン郊外のアデレールブルグ城に引き取られていた……未成年である当主のゲオルク・フォン・アデレールブルグ伯爵の遊び相手として……」
アントネッラは、殴り書きされた自分の字を読んだ。
「このボーデン湖事件の二日後に……伯爵は病死(享年16)……アデレールブルグは財団に……」

 船に同乗していた知り合いの男とは、伯爵の叔父で、遺言によって設立されたアデレールブルグ財団の理事長に納まったミハエル・ツィンマーマンの腹心の部下だった。シュタインマイヤー氏は、二人の少年が突然死亡する事になったのをただの偶然とは思えなかった。本当にイェルク少年は両親を殺害したのか。彼は自殺に見せかけて殺されたのではないか。だが、名家アデレールブルグ家と、黒い噂は絶えないが政治家として活躍しているツィンマーマンを証拠もなしに疑う事はできない。事件の匂いがぷんぷんするのに、調べる事はできない不満を、彼はアントネッラに滔々と述べ立てたのだ。

 アントネッラは時計を見た。二十二時半だった。顧客に電話をするような時間ではない。ましてや、アントネッラの仕事は電話を受ける事であって、顧客に電話をかける事ではない。彼女はコンピュータの電源を入れて、インターネットで十二年前のチルクス・ノッテの興行記録を検索する。彼女の常として、検索すると全く関係のないつまらない情報しか出てこない。十五分ほど頑張った後、彼女はため息をついた。そして、チャットアプリをダブルクリックした。

 あ、ログインしている! ブログ上の親友、エスの名前の横に緑色のアイコンがついていた。
「エス、今、邪魔していい?」

カタカタカタ。現在、エスさんが書き込み中です。
「あら、マリア。あなたがログインしてくるなんて珍しい。どうしたの?」
「また困っているの。今から十二年前に、チルクス・ノッテというサーカスがミラノで興行していた日にちを調べられる?」
「ちょっと待ってて」

 アントネッラは、ぼうっと画面を見ていた。五分ほどすると、再び画面が動き始めた。エスさんが書き込み中です。カタカタカタ。

「わかったわよ。ここをどうぞ」
書かれたURLをクリックすると、それはミラノ市エンターテーメント広報委員会の「今月の催し物一覧」のアーカイブページだった。ドンピシャ。日程表の中にチルクス・ノッテの名前も見える。イタリア語ネイティヴではないエスにこんなに早く検索できるってのはどういう事なんだろう。やっぱり、私はネット社会に向いていないのしら。

「ありがとう。それと、もしかして、その月のヨーロッパの各都市の天候なんてのも調べられるものなの?」
「待ってて」

 今度は二分だった。カタカタカタ。パッ。URLをクリックしたらヨーロッパ主要都市の天候と気温、降水量が一覧になったページだった。すごい、こんな統計、どうやって検索するんだろう。
「ありがとう、エス。とても助かったわ」
「どういたしまして。作品ができたら、きっと読ませてね」

 ミラノ興行は六月九日から十日間だった。そしてボーデン湖の事件があったのは六月十一日。合致する。そして、五月十九日から六月十四日まで、ドイツ、スイス、オーストリア、北イタリアは毎日晴天だった。

(初出:2013年11月 書き下ろし)
.27 2013 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】夜のサーカスと紺碧の空

Posted by 八少女 夕

月末の定番「夜のサーカス」です。

今回は、褐色の逆立ち男ブルーノに関する件です。大して話が進むわけではないのですが、まあ、チルクス・ノッテの仲間同士の関わり方がわかるかもしれませんね。次回以降は、最終回まで毎回話がどんどん進むようになります。なんて、毎月言っているような……

月刊・Stella ステルラ 10月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物




夜のサーカスと紺碧の空

夜のサーカスと紺碧の空


 晴天が続いていた。巷では誰一人まともに仕事をするつもりのない八月。夏休みに浮かれたイタリア上空を太陽の馬車が勤勉に移動していく。「人びとの休みは我等が繁忙期」こういうときだけはまともな経営者らしい発言をするロマーノに大きく反論する団員はいなかった。

 実をいうと契約上チルクス・ノッテには一ヶ月の有給休暇があった。次の興行のプランの発表される前に申請すればいいことになっていた。実際に双子は毎年夏に二週間とクリスマスに二週間、一週間ずつずらして休んだし、ダリオは時々一週間ほどいなくなった。ちゃっかりもののマッテオに至っては、入団したてにも関わらずすでに九月の一週から休暇を申請していた。

 ステラもそろそろ夏休みのことを考えようと周りを見回したが、ステラの知るかぎり絶対に有給休暇を申請しないメンバーが幾人もいた。団長ロマーノ本人、帰るあてのないブルーノとヨナタン、シチリアで離婚した妻といざこざがあって以来二度と帰らなくなったと噂のルイージ、それに家族がおらずライオンの世話を誰かに頼むのが嫌なマッダレーナだった。演目変更以来、ヨナタンとマッダレーナが親しくなっていくのが心配で、ステラは結局二週間の休暇の申請をしかねていた。

 ダリオが休暇な上、移動で夕方の興行がないその日、昼の興行が終わったら街の食堂に行こうと言い出したのは確かブルーノのはずだった。ところが皆が私服に着替えて、さらに舞台点検を終えたヨナタンが出てくるまで待っても集合場所にブルーノは来なかった。

 ヨナタン、マッダレーナ、マッテオ、マルコ、ルイージ、そしてステラの六人は、しばらく待っていたが、しびれを切らしたマルコがちょっと見に行った。そして、大テントを覗くとすぐに戻ってきた。
「ポールだ。待ってもしかたないよ」

 すると、マッダレーナとヨナタン、そしてルイージはあっさりと動き出した。
「おい。少し待ったら」
マッテオが、ちょうどステラが言いたかったことを代弁した。マルコがその二人を追い越しながら言った。
「当分降りてこないよ。待っていたら、僕らが喰いっぱぐれてしまう」

 ブルーノがなぜポールの上に登るのか、ステラはようやくわかりはじめてきたところだった。前回マッテオがその理由をマルコたちに問いただし、あけすけにステラに語ってくれたからだった。ブルーノは団長の夜伽をさせられているというのだ。そして、その後にはいつもポールの上に登ってしばらく降りてこない。高いポールの上から遠くここではないどこかをじっと見つめているというのだった。

 団長が、妻であるジュリアがいるのにも関わらず、どうしてブルーノとそんなことをしなくてはいけないのか、ステラには納得がいかなかった。それにブルーノは男なのだ。
「つまり男色ってことだよ。そういえば、あいつ、最初のころ僕にも言い寄ってきたぜ。触るなセクハラ親父って一喝したら、笑っていたから冗談だと思っていたけれど」

 ステラは思い出した。いつだったかマッダレーナが言っていた。
「ヨナタンがいまだに団長にオカマ掘られていないのも、その手の験かつぎの結果だしね」

 ということは、ヨナタンはそういう目には遭っていないんだろうけれど。みんなはよく知っているんだ。ブルーノが、違法入国して他に行くところがないのをわかっていて、団長が嫌なことを強制しているんだって。ステラは憤慨した。

「ステラ、何か怖い顔しているけれど、ラビオリ、冷めちゃうよ」
隣に座ったマルコが指摘した。ステラが我に返ると、反対側の隣に座っているヨナタンが黙ってパルメザン・チーズの入れ物を差し出していた。

「いただきます」
そう言って、他のメンバーはラビオリを食べだした。

「何か言いたそうね」
ワインを飲みながら、マッダレーナがフォークを振り回した。

「ねぇ、談判しましょう!」
ステラはがたっと立ち上がって、仲間を見回した。

「何を?」
「ブルーノのことよ。ブルーノは立場が弱くて、嫌って言えないんでしょう。私たち仲間で団結して、団長にやめてください、かわいそうでしょうって言うのよ」

 マッダレーナはクスッと笑った。マルコとルイージは何も言わずにそのままラビオリを食べ続けた。

「僕は、ステラの意見に賛成だな。なんていうのか、労働組合的な一致団結って悪いことじゃないと思うし」
そう言ったのはマッテオだった。潜在的な次のターゲットとしては他人事ではない。

 ヨナタンは、ヨナタンは優しいから、賛同してくれるわよね。そう思ってステラは横を見た。ヨナタンは静かに言った。
「ステラ。ラビオリが冷めるから、早く食べなさい」

 どうして? ステラは泣きたくなった。

 食事が終わると、なんとなく白けたまま、全員がテントに戻っていった。ブルーノはまだポールの上にいるらしい。何もできないことに不甲斐なさを感じて、それにヨナタンが賛同してくれなかったことが悲しくて、ステラはそっと裏山を登っていった。

 そこはこの興行がはじまってすぐにステラの見つけた場所で、一面に花の咲く草原の傍らに静かに涼をとれる木立があった。ステラは地面に座ってしばらく草原を眺めていた。明るくて輝かしい夏だった。真っ青な空が広がっている。世界が曇りのない明るさを見せつける。ステラは世の中の不公平について考えた。

 アフリカで何があったのか知らなかったが、ブルーノは幸せを求めてここに来たはずだ。そして、一生懸命働いている。どこか外国で何があったのかわからないが、ヨナタンもここに流れ着いた。やっぱり一生懸命働いている。性格は違うけれど二人とも邪悪ではなくていい人だと思う。でも、苦しむときはそれぞれで、問題をオープンにして、協力しあっていこうとしない。ヨナタンはあんなに優しいのに人には一切関わろうとしない。大好きでも仲間以上の近さに寄って行くことができない。どうしてなんだろう。私には何もできないのかなあ。

 かさっと音がして、ステラの近くに影が落ちた。ステラははっとして顔を上げた。立っていたのはルイージだった。ステラは急いで涙をぬぐった。

「ステラ。一緒していいかい」
ルイージが言った。ほとんど口を利いたことのないルイージが、わざわざ話しにきてくれたことに驚きながら、ステラはこくんと頷いた。

「さっきの話?」
「そうさな。お前さんは、納得できていないようだったし、他の連中は説明が苦手みたいだから」
「説明?」
 
 ルイージは黙って頷くと、ステラの斜め前にある大きな岩に腰掛けた。ルイージも、人と関わるのが苦手なほうだった。だから、それぞれのことには無理して踏み入らないチルクス・ノッテの団員たちの態度をありがたく思ってきた。けれど、彼は良く知っている。その仲間たちの態度は冷たいのではない。本当に助けが必要な時、例えばルイージが何度か起こしてしまった「無花果のジャムがなくなった」事件の時に、仲間たちは一致団結して走ってくれるのだった。ルイージは忘れていなかった。最後の「無花果ジャム騒ぎ」で、入団したてのステラがどれほど骨を折ってくれたか。

「お前さんは、本当にいい子だ。ブルーノは時にお前さんに辛辣な事を言ったりするが、それを根に持ったりせずに、ひたすら彼のためを思って何かをしてあげたいと思っているんだろう?」
ルイージの静かな語りはステラの高ぶった心を落ち着かせていった。

「なあ、ステラ。お前さんはようやく17歳になったところだ。まだ、ボーイフレンドと長くつき合ったりしたこともないんだろう?」

 ステラは黙って首を振った。学校にいた頃、同級生は次々とボーイフレンドができたと話をしてくれたが、ステラはヨナタン以外の人とつき合うなどということを考えたこともなかった。ルイージは笑って続けた。

「学校で習ったかもしれないけれど、全ての動物には子孫を残そうって本能がある。そして、それは時には頭で思っていることとは違う形で人間を支配してしまうことがあるんだよ。お前さんが、そしてわしが、誰かを愛している、大切にしたいっていう想いとは全く別の次元で」
ステラは少し不安になって、言っている事を理解しようと、その顔を見上げた。ルイージは彼女が理解できているか確認しながら、心配するなといいだけに頷いて続けた。

「その本能は、たぶん女よりも男のほうに強くて、その人をもっと支配してしまうじゃないかと、わしは思うんだよ」
「それは、その……」

「お前さんには好きな人がいるだろう?」
ステラは大きく頷いた。ルイージだって知っているはずなのだ。ステラがヨナタンに夢中なことは。

「もしお前さんの心から好きな人が、その本能に支配されて、お前さんがしてほしくない嫌な事をしたらどう思うかい」
ステラはとても驚いた。そして、ゆっくりと確かめるように言葉を選んだ。
「それは、つまり、ヨナタンが、変なことをしたがるってこと?」

 ルイージは眼を丸くして、それから笑った。
「違う、違う。そういう話ではないんだよ。わしが言いたいのは。ヨナタンの話じゃない。ヨナタンにどんな性的嗜好があるかなんてわしにどうしてわかるかね。これは一般論だ」

 ステラは少しだけ安堵したが、まだ話の主旨がつかめていなかった。
「う~ん。わからない。でも、どうしても嫌なら、嫌って言うかな。でも、それで嫌われるのはつらいな」

「そうだろう。どんなに好きな人にでも、されたくないことがあって、そのことで思い悩んでしまうことはあるんだ。そしてね、ステラ。まだ若い君にはわからないかもしれないけれど、その反対もあるんだよ。それで悩んでしまうこともあるんだ」

 ステラはルイージの言っていることを理解しようとした。「好きな人に嫌なことをされる」の反対ってことは「好きじゃない人に嫌でないことをされる」ってこと? え?

「もし、ブルーノが本当に嫌だと助けを求めてきたら、ヨナタンもマッダレーナもみんな一致団結して協力するに違いないよ。だけれども、それまではわしらがどうこうすることじゃないんだ。わかるかい? どうしたいか、まずブルーノが知らなくちゃいけない。だからああやってポールの上で考えているんだ。わしらは待つしかないんだよ」
そういうと、ルイージは放心したように考えるステラをその場に残してまたテント場へと戻っていった。

 ステラは大人の世界にはまだ自分の知らない秘密があるのだと思った。嬉しいことと嫌なことが同じであるかもしれない奇妙な世界。ヨナタンも、その大人の世界に属していて、ルイージと同じように考えていたから賛成しなかったんだろう。少し遠く感じた。それでも彼を好きであることは変わらないと思った。雲ひとつない青空のように明らかなことだった。

(初出:2013年9月 書き下ろし)
.25 2013 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】夜のサーカスとターコイズの壷

Posted by 八少女 夕

月末の定番「夜のサーカス」です。

さてさて。今回の話はほとんどが過去に属するものです。「極彩色の庭」で出てきた二人の少年の話が、もう少し詳しく開示されています。続けて読んでくださっている方にも多少わかりにくい書き方をしているこの小説、それでもサーカスの仲間たちよりも読者の方が多く知っている状態になってきています。

来年の初夏を予定している最終回までに、ステラの恋の行方、ヨナタンの謎、そしてブルーノの悩みの三つの問題を終息させていきます。

ちなみに毎月一定数あるこのブログの検索キーワードに「シルク・ド・ソレイユ アレグリア 歌詞」というのがあります。この小説の構想をする時にイメージした曲を私が訳した記事(「Alegria」の歌詞を訳してみた)なのですが、その中の「Vai Vedrai 」の歌詞がこの過去の物語の骨格になっています。ま、歌詞読んでも謎は解けませんけれど。

月刊・Stella ステルラ 9月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物




夜のサーカスとターコイズの壷


夜のサーカスとターコイズの壷

「その小さなサーカスには、背の低くて鼻の真っ赤なピエロがいました」
鳶色の髪をした少年が、はっきりと絵本を朗読した。
「白いサテンのだぼたぼのつなぎ服には鼻とそっくりの赤い水玉がたくさんついていました」

 金の髪、青い目をした小さな少年は、嬉しそうにその朗読に耳を傾けていた。そして、すっかりそらで憶えている続きを、もう一人の少年と一緒に唱和した。
「ピエロは、ただ道化師パリアッチオと呼ばれていました」
二人の笑い声が、天井の高いホールに響いた。

 それは城の中でも特に美しい部屋で、白い漆喰に複雑に浮き出た飾りはすべて金で縁取りされていたし、色とりどりの牧歌的で晴れやかな絵が壁面と天井を覆っていた。ピカピカに磨かれた大理石の床には、数カ所紅い絨毯が敷かれていて、少年二人はそこに座っていたのだ。

 鳶色の瞳の少年は、青い瞳の少年の求めに応じて、絵本を朗読している。大好きな絵本。小さな手が、大好きな挿絵の上をそっとたどる。それから、本を支えているもう一人の手にいき、白いシャツで覆われた腕を通り、頬に触れる。

「ほら、ここにもいる。パリアッチオ!」
金色の髪が揺れてクスクス笑いが響く。鳶色の瞳も笑ってその小さな指を捕らえる。
「やめて、ピッチーノ。くすぐったいよ」

 二人の少年は頭一つ分くらい背丈の違いがあったが、実のところ歳の差は一つだった。鳶色の髪を持つ背の高い方の少年は、使用人からは若様と呼ばれ、女主人ともう一人の少年からはパリアッチオと呼ばれていた。背の低い方の少年は金髪に青い瞳で、ピッチーノと、もしくは小さい若様と呼ばれていた。本当は二人とも学校に通っている年齢だったが、城の中から一歩もでない生活をしていた。若様の方には家庭教師が何人もついていて、今日は古典、午後からは数学、明日はイタリア語と科学という具合に学校に行く以上の厳しい教育がなされていた。

 けれど、ピッチーノこと小さい若様の方は、かくれんぼをしたり、美しい庭で花を摘んだり、もしくは、奥様や若様が朗読してくれる絵本に耳を傾けて、機嫌良く日々を過ごすのみだった。小さい若様はあと何年経とうともイタリア語の先生に教わることはできないだろうと診断されていた。文字を憶えることはできない。絵本以上の複雑な言葉を理解することもできない。けれど、少年はいつも幸福に満ちていた。

 ルネサンスの巨匠たちが、ピッチーノの姿を見たら、きっとインスピレーションに揺り動かされて、素晴らしい天使の絵や幼きキリストの絵を描いたことだろう。白くふっくらとした肌にほんのりとピンクがかった頬。その柔らかくて滑らかな様に誰もが触れたくなる。アクアマリンのようにキラキラと輝く瞳が向けられると、その透明さに吸い込まれてしまいそうになる。明るく弾んだ笑い声。人懐っこくて、とくにパリアッチオが、そして、奥様が大好きで、ためらうこともなくぎゅっと抱きついてくる。その屈託のない天真爛漫さが、見るものの全ての顔をほころばせた。

「パリアッチオ。秘密を守れる?」
「うん。何だい、ピッチーノ?」
「あのね、あそこの壺にね」

 ピッチーノが指差す先には、とても大きなターコイズ色をした壺があった。どこかの東洋の国で大切に窯から姿を現したとても高価な磁器で、耳を寄せてそっと爪で叩くと、楽器のように澄んだ音がした。けれど、奥様も執事も、ここで遊んでもいいけれどあの壺の周りで取っ組み合いをしたりして壊してはならないと何度も言っていた。

「何をしたの?」
「パリアッチオと僕の絵をね。こっそりと入れたの。僕たちが、いつまでも一緒にいられるようにって」
パリアッチオはちょっと口を尖らせてみせたが、クスクスと笑う少年につられて、笑い出してしまった。二人は、今までずっと一緒にいたわけではなかった。二人がこの城ではじめて引き合わされてから、まだ一年少ししか経っていなかった。冬の朝、雪に反射した光がとりわけ明るくこの大広間ではじめて顔を合わせて、おずおずと自己紹介をした。二人は、すぐに仲良くなった。これまで別々の場所にいたのが信じられないほど、親密な関係を築いた。対照的な見かけの二人の少年が共にいる光景は一幅の絵のように美しい光景だった。城の女主人である奥様は二人が一緒にいるのを見るのが好きだった。

「いいよ。僕たち二人の秘密だよ。見つかったら、とても怒られると思うし」
「うん。一緒に怒られてくれる?」
「うん。あげる」

 パリアッチオは知っていた。たとえ悪戯が発覚しても、だれもピッチーノを本氣で怒ったりはしない。彼のやることは、本当に無害で、天使のように愛くるしいのだ。そっと、音もしないように願いを込めた絵を壺に隠した少年を、天におわします父なる神も微笑んで見ていたに違いない。地上は楽園ではないけれど、ピッチーノのいるところだけはいつも平和で愛おしかった。

 パリアッチオ自身は、天使ではなかった。城で「若様」と使用人たちに持ち上げられているけれど、王子様のような楽な日々ではなかった。

「あなたはいずれアデレールブルグを背負って立つお方ですから」
そう言われ学校で義務教育を受ける同世代の子供たちの何倍もの努力を強いられていた。苦手な英語と物理にはとりわけ厳しい先生が付けられた。花を摘んで笑うピッチーノの横で、綴り帳にドイツ語をぎっしりと埋めていかなくてはならなかった。日曜日は授業がない代わりに、神父のところで宗教問答に耳を傾けなくてはならなかった。

 アデレールブルグ夫人のピアノに合わせて歌いたい。一緒に花を摘んで笑いたい。ゆっくりと絵を描いて、それをプレゼントしたい。ピッチーノと一緒に、ピッチーノのように。パリアッチオにはよくわかっている。彼にそれが許されないのは、彼の方がピッチーノよりも恵まれているからだと。もう少し高い知能があるから。

「パリアッチオ」
落ち着いた美しい声がした。鳶色の髪と金色の瞳をした美しい女性、そう、この城の女主人であるアデレールブルグ夫人が静かに広間に入ってきた。
「ママ!」
ピッチーノが走って抱きつく。彼女は愛おしげにピッチーノの頬にキスをして、それから少し遅れて近寄ってきたパリアッチオの頬にも手を伸ばした。彼女の唇が頬に触れる時に微かに薔薇の香りが移ったように感じられた。

「イタリア語の時間よ。先生が書斎でお待ちよ」
「はい」
「授業が終わったら、食堂でお茶にしましょうね」
「はい」

 パリアッチオは素直に戸口に向かったが、立ち去りがたい想いでアデレールブルグ夫人とピッチーノを振り返る。「ピエロとサーカス」の絵本を開き、読んでくれるように頼むピッチーノ。彼を愛しげに見つめながら絵本を受け取る夫人。二人の笑い声は、廊下を歩いているパリアッチオの背中に届く。瞳にほんのわずかに、悲しげな光が宿る。

* * *

「ヨナタン?」
マッダレーナの声に彼ははっとした。
「このペンダントが、どうかした?」

 マッダレーナはその宵、水色のロングスカートを着て大振りのトルコ石のペンダントをつけていた。夕闇の中で、ふと目についたそのターコイズが、彼を記憶に引きずり込んでいた。あの壺と同じ色だ。ヨナタンは眼を逸らした。
「すまない。じっと見たりして」

「見ていなかったわよ」
マッダレーナは、ふうっと煙を吐くと、煙草を落として、サンダルのかかとで火を消した。

「見ていたのは、ここじゃない、そうでしょう?」
ヨナタンは何も答えずに、胸のポケットから携帯灰皿を取り出し、火を消した。

「そんな泣きそうな顔をしてまで、何もかも隠さなくてもいいのに。別に名前と住所を言えってわけじゃないんだから」
「泣きそうな顔をしていたのか?」
「自分でわかんないの?」
「していたかもしれないな。言ってもしかたないことなんだ。もう、手の届かない遠くの話だ」

 道化師パリアッチオは、ライオン使いに背を向けると、ひとり街の方へと歩いていった。彼女はその背中が暗闇の中に消えるまでずっと目で追っていたが、もう一本煙草に火をつけて煙を吸い込むと小さく「ばか」と言った。

(初出:2013年8月 書き下ろし)
.31 2013 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】夜のサーカスと黄色い幸せ

Posted by 八少女 夕

月末の定番「夜のサーカス」です。前回話があさっての方向に飛んだので戸惑われた方も多いかと思いますが、今回はいつもの「チルクス・ノッテ」に戻ってきています。

このお話を最初から読んでくださっている皆さんは「いい加減、どっちなの? ヨナタン、はっきりしろよ」と思われているんじゃないかと思います。冷たいんだか優しいんだかわからない「のらりくらり野郎」は、今回珍しくメッセージ性のあることをやっています。ま、それでも「のらりくらり」ですけれど。

ようやく半分過ぎましたね。今日の分を入れて、あと十回で完結ですよ。もう少々、おつき合いくださいませ。


月刊・Stella ステルラ 8月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物




夜のサーカスと黄色い幸せ


夜のサーカスと黄色い幸せ


 マッテオの力強い腕が鉄棒をしっかりとつかむ。風を切るようにして、スピードを上げ、揺れるブランコの上で鮮やかな大車輪を繰り返す。スペクタクルあふれる演技は好評だった。彼の若い肢体は多くの女性ファンを作った。大胆で躍動感あふれた動きは、ロマーノはもちろん、生徒には厳しいジュリアをも満足させた。自信を持ったマッテオは演目の事についても進んで意見を言うようになった。

「え。デュエット?」
ステラはとまどった。子供の頃からずっとイメージしていたのは、一人でブランコに乗る事だった。そして、その孤高なブランコ乗りを憧れに満ちた演技で道化師が追ってきてくれる、その事ばかりだった。

「そうよ。幸いあなたとマッテオは昔からの知り合いで、体操の教室でもずっと一緒だったって言うじゃない。普通よりも早くデュエットのコツもつかめると思うのよ」
ジュリアはにっこりと笑った。彼女の愛したたった一人の男、相方であったトマがブランコから落ちる事故で亡くなってから、彼女は一人でブランコに乗ってきたが、ジュリアにとって一人ブランコはあるべき姿ではなかった。

「ねえ、ヨナタン。どう思う?」
舞台の端で黙々とジャグリングの練習をしている青年に、ジュリアはにこやかに問いかけた。大成功をおさめたマッダレーナの演目へのアドバイス以来、ジュリアは演目のアイデアについてはヨナタンの意見を尊重するようになっていた。ステラは不安な面持ちでヨナタンの答えを待った。

「そうですね。確かにデュエットはシングルより華やかでしょうね。マッテオなら投げ技も早くマスターできそうですし」

 ヨナタンが反対してくれる事を願っていたステラはがっかりした顔を見られないようにうつむいた。やっぱり、薔薇を持って追いかけてきてくれるのは、仕事だからなのね……。

 デュエットが決まり、ジュリアによるブランコのレッスンはマッテオとの合同になった。そして安全確認のために控えるのは、エミーリオの役割となった。その代わりに、ヨナタンはマッダレーナの新しい演目に出演する事になった。マッダレーナにちょっかいを出し彼女を守ろうとするライオンに怯えて逃げ回る役回りだ。もちろん、デュエットを公演に出せるようになるまでは、現在の一人ブランコと薔薇を持った道化師の演目は続き、マッテオは大車輪の演技を続ける。マッダレーナも人氣のレカミエソファに寝そべるセクシーな演技を続行する。でも、いつかは薔薇はなくなってしまう。ステラは泣きたくなった。

「そうじゃないでしょう。もっと勢いをつけて飛ばないと、マッテオだって受け止められないでしょう?」
ジュリアの厳しい叱咤が飛ぶ。マッテオの腕の中に飛び込むのがどうのこうの言っている場合ではないのはわかっている。命綱がついているとはいえ、落ちたら大けがをする事だってあるのだ。練習ではネットが常に広げられている。でも、本番では危険を感じたエミーリオが広げるのが少しでも遅れたら……。

「なあ、ステラ。お前はそんなに怖がりじゃなかったじゃないか。三年前のイタリア選手権での跳馬の演技を思い出せよ」
マッテオが語りかける。怖がっているわけじゃないわ。それに、あの時はチルクス・ノッテに入るって夢のために飛んでいたんだもの。ステラは涙を拭った。

 ステラは首を伸ばして、ヨナタンの姿を探した。彼はちょうど舞台の反対側でロマーノの指導でマッダレーナとの演目の練習をしているところだった。
「そうだ、そこで嫌がるマッダレーナに抱きつこうとする」
ロマーノが模範演技で抱きつくと、マッダレーナは片眉を上げて腰にまわされた団長の手をはたいた。団長は笑って、ヨナタンに同じ演技をするように言った。

 ヨナタンは肩をすくめて、マッダレーナに馴れ馴れしく抱きつこうとする。マッダレーナは団長にしたような嫌悪感は示さずにほんのわずか体をよじってみせた。まるで本当の恋人同士がじゃれあっているように見えたので、ステラは心臓をフォークでぎりっと傷つけられたように感じた。

「ステラ! 何をよそ見しているの」
ジュリアの声にはっとすると、マッテオが既に勢いをつけてブランコの上で逆さまになっていた。タイミングを間違えて飛び立ったステラはなんとか三回転をこなしたがマッテオの手に届かず、ネットへと落下した。

「ステラ!」
ステラはしゃくり上げながら泣き出した。ジュリアは頭を振って、今日のレッスンを打ち切ると言った。こんなに集中できないのでは、レッスンにならない。同時にロマーノも二人に今日の練習はここまでと言って、怒り狂うジュリアをなだめるために出て行った。

「なあ、ステラ。あんなにタイミングがズレてちゃ俺にだって、どうにもできないぜ。飛ぶ前にこっちを見てくれよ」
ネットを片付けながらマッテオが言う。ステラは泣きながら、つぶやいた。
「だって……」

「だってじゃないだろう」
厳しい声がするのでマッテオとステラが同時に顔を上げると、ヨナタンが近くに歩いてきていた。
「ヨナタン……」

「ステラ。サーカスはお遊びじゃない。一瞬一瞬が命に関わる危険をはらんでいる事ぐらいわかるだろう」
「ごめんなさい。ちゃんとやろうとしたの、でも、今日は……」

「何があっても演技の時は集中する事、それが出来ないヤツは、この職業に向いていない。だったら、大怪我をする前にやめたほうがいい」
その厳しい言葉にショックを受けたステラは、もっと激しく泣きながら大テントから走って出て行ってしまった。

「ステラっ」
慌てて追おうとするマッテオの襟首をはっしとマッダレーナがつかんだ。
「な、なんだよっ。離せよ。あんな状態にしておいたら、今夜の演目にも差し支えるだろっ」

 マッダレーナは首を振った。
「あんたが行っても、大して役には立たないわよ」

 それからヨナタンに向かって言った。
「ねえ、あんたの言った事は完膚なきまでに正論だけれど、心理学的にはあまり好ましくないわ。マッテオのいう事にも一理あるのよ。子供みたいに見えても、女心って複雑なんだから」

 ヨナタンは肩をすくめてステラを探しにテントを出て行った。マッダレーナはそのヨナタンの背中をじっと見つめていたが、我に返ったマッテオが襟首にかけられた彼女の手を払って憤懣やるかたなく食って掛かったので、そちらを見た。
「なんだよっ。またあいつに曖昧な態度をされたら、ますますステラは身動きとれなくなるじゃないかっ。僕の方がずっとステラの事を……」

「それはどうかしら」
マッダレーナは、あまり勢いのない様相で答えた。いつもはきついマッダレーナらしくない態度だったので、マッテオは少しうろたえた。
「なんだよ」

「自分の方を見てほしいって、あなたをこんなに想っているって迫ることだけが愛じゃないわ。そんなのは、子供のおもちゃの争奪戦と変わらないもの。時には相手のために心を鬼にしなくちゃいけない事だってあるのよ。それに、自分の意に染まぬ決断を相手に促さなくちゃいけない事も……」

 マッテオは、自分の愛情が子供っぽいと言われたのも同然だったので、腹を立ててその言葉の裏側を考えてみようともしなかったが、マッダレーナはそっと、自分の左の二の腕に触れた。ちょうど、先ほどヨナタンが、コミカルな演技でつかんでいたあたりだった。


 サラサラと水音が爽やかな川縁の土手に座り込み、ニセアカシアの幹にもたれてステラはしゃくり上げていた。ヨナタンの言葉は、意地悪なんかではなかった。その通りでステラ自身がよくわかっていた事だった。

 ステラは「サーカスのブランコ乗り」という職業を選んだのではなかった。ただ、ヨナタンの側に来たかっただけだった。子供っぽい憧れと思い込みに流されてきただけだった。普通と違ったのは、そのためにありえないほどの努力を重ねてきてしまった事だった。いまやステラはチルクス・ノッテから給料をもらって働くプロで、ヨナタンと一緒に出る演目以外はやりたくないなどという自由はない。ましてや彼が他の女性と同じ舞台に立っているだけでまともな演技が出来なくなるなど許される事ではなかった。

 他の誰か、たとえば団長やマッテオに同じ事を指摘されたとしたら、素直に反省できただろうか。自信はなかった。マッダレーナにいわれたとしたらさらに反発したに違いない。でも、悲しかった。ヨナタンは「白い花と赤い花をくれた」。それ以来ステラにとってヨナタンは運命の人になってしまっている。馬鹿馬鹿しい子供のおとぎ話なのはわかっている。けれど、舞台の上での紅い薔薇が自分にとって大きな意味を持ってしまっている事を、どうする事も出来ない。実生活で恋人にしてもらえないのに、これまで取り上げられてしまうのは耐えられそうになかった。

 誰かの走ってくる足音がして、ステラは身を固くして顔を覆った。泣いているのを見られるのは恥ずかしかった。

「ステラ……」
びくっとして振り向くと、そこにはヨナタンが立っていた。ステラはあわてて涙を拭って取り繕おうとしたが、かえってたくさん涙が出てきてしまった。
「ご、ごめんなさい。わかっているんだけれど……。でも、もう紅い薔薇がなくなっちゃうかと思うと……」

 ヨナタンはため息をつくと、ステラの隣に座った。あたりは色とりどりの小さな野の花が咲き乱れていて、花の絨毯のようになっていた。

「シングルの演目が完全になくなるわけじゃない。ローテーションでデュエットが増える、マッダレーナも別の演目が増えるっていうだけの事だ。僕たちは観客を、繰り返し観に来てくれる人たちをも楽しませなくちゃいけないだろう?」
「それは、わかっているの。それに、『白い花と赤い花』のおとぎ話と現実をごっちゃにしてもいけないってことも。でも、わかっていても悲しくなってしまうの……」

 ヨナタンは泣きじゃくるステラを半ば哀れむようにそして半ば愛おしそうに見ていたが、やがて言った。
「白い花と赤い花がそんなに大切なら、黄色い花にはどんな意味があるんだ?」

 思ってもいなかった言葉に、ステラは顔を上げた。そして少し不安な心持ちで答えた。
「知らないわ。おとぎ話には一度も出てこなかったもの」

 ヨナタンは手元の鮮やかな黄色い花を手折ると、ステラに渡して言った。
「じゃあ、自分で意味を探せ。おとぎ話ではなくて、君の人生なんだから」

 ヨナタンはいつものように優しく微笑んでいた。その黄色い花は、演技でくれる紅い薔薇とは違っていた。演技中の道化師としての彼からではなくて、彼自身からステラがもらった三本目の花だった。自らの意志でステラの人生に関わってきてくれている証。ステラの心臓は早鐘のごとく高鳴った。

 その晩の興行で、ステラは絶好調だった。出演者たちと、観客の何人かはステラが髪にいつもはつけていない黄色い花をさしている事に氣づいたが、それと彼女の演技の変化の関連についてはまったくわからなかった。ただ一人、その花の意味を想像する事のできたマッダレーナは、興行のあと言葉少なくライオン舎に向かうと、長いあいだ心ここにあらぬ様子で雄ライオンヴァロローゾの毛繕いをしていた。

(初出:2013年7月 書き下ろし)
.24 2013 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】夜のサーカスとアプリコット色のヴィラ

Posted by 八少女 夕

月末の定番「夜のサーカス」です。いきなりサーカス団から離れていますが、別の小説ではありません(笑)

今回、ちょっとしたゲストに登場いただいています。山西左紀さんのところのエス(敬称略)です。イタリア語でネット小説を書いているアントネッラのブロともになっていただきました。左紀さん、快くキャラを貸し出してくださいまして、どうもありがとうございました。


月刊・Stella ステルラ 7月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物




夜のサーカスとアプリコット色のヴィラ

夜のサーカスとアプリコット色のヴィラ

 コモ湖の西岸を走る国道はさほど広くない。そして、例によって、道には雨が穿ったひび割れや小さな穴があった。そこを巨大なトラックが走ると、ガタガタと地震が起きたかのような音がするのだった。

 湖畔の美しいヴィラにすむ裕福でスノッブな隣人たちに、その騒音は当然不評であった。アントネッラも好きとは言えなかったが、少なくとも毎月の第一月曜日だけは例外だった。通販会社「Tutto Tutto」で頼む商品は、毎週月曜日に大型トラックでこの湖畔を通る。なぜ第一月曜日に届くようにアントネッラが注文するのかと言えば、運転手に理由があった。ひきがえるに酷似しているために、秘かに《イル・ロスポ》と呼んでいるバッシ氏がこの地域を担当するのは、月初だけなのだ。

 隣人たちは、安物のカタログ通販「Tutto Tutto」など利用したりはしなかった。買い物はミラノでするもの。その時間も金銭的余裕もたっぷりあるのだから。そうでないものは、コモ湖畔にヴィラを持ったりはしないのだ。

 隣人たちは、門の閉ざされたアントネッラの住むアプリコット色のヴィラの庭を覗き込んでは、すこし眉をしかめる。それは、まるでいつまでも買い手の付かない空き家のようだった。手入れが行き届いていないというのではなく、全く手を入れていない荒野のような庭だった。

 チャンスがあって、ヴィラの中に足を踏み入れることのできた者は、さらに驚くだろう。大きな五メートルもの高さのあるエントランスも、その脇にある大広間や控えの間、キッチンやかつては使用人が控えていたと思われる小部屋も、蜘蛛の巣や埃にまみれて、石飾りは剥がれ落ち、壁紙は色あせて破れていた。つまり、廃屋同然なのだった。

 二階にもかつては豪華な寝室だったと思われる部屋がいくつもあったが、そこも同様の有様だった。わずかに、洗面所と小さなレトロな浴槽のある古い浴室だけは、なんとか使えるような状態になっていた。というのは、そこは実際に使われていたからだった。

 アントネッラは、しかし、普段はその階にはいなかった。小さな螺旋階段を登っていくと、その上に小さな物見塔があった。そう、まるで東屋のように、コモ湖を見渡す、かつての展望台だった。そこは階下のような木の床ではなくてタイルが敷き詰められていて、かつてはお茶が飲めるように丸テーブルと籐製の椅子がいくつか置いてあっただけだが、アントネッラは小さな彼女のアパートから運び込んできた全ての家財をここに押し込んでいた。木製のどっしりとしたデスクには年代物のコンピュータと今どき滅多に見ない奥行きのあるディスプレイ、ダイヤル式の電話などが置いてあった。小さな冷蔵庫や本棚、携帯コンロと湯沸かしを上に置いた小さい食器棚、それからビニール製の衣装収納などが場所を塞ぐので、ベッドは省略してハンモックを吊るし、デスクの上空で眠るのだった。

 このヴィラの最後のまともな持ち主はアントネッラの祖母だった。彼女は二十年近く老人ホームで過ごし、ただ一人の身内であるアントネッラにこのヴィラを残してこの世を去ったのである。慎ましく暮らすだけの収入しかないアントネッラにはこのヴィラをちゃんと維持することはできないのだが、どうしても売る氣になれなかったのは、子供の頃に過ごしたヴィラのこの屋根裏部屋からの光景を失いたくなかったからだった。

 アントネッラは、天涯孤独であったが、そのことを悲しく思うような精神構造は持っていなかった。父親から受け継いだドイツ的論理思考と、母親から受け継いだイタリア式楽天主義が、じつに奇妙な形で花ひらき、このコモ湖のヴィラで至極満足した生活を送っていた。

 この小さな屋根裏部屋は、彼女の全ての宇宙だった。ここは彼女の住まいであり、仕事場であり、趣味の部屋でもあった。仕事はこの電話。趣味はこのコンピュータ。アントネッラはにっこりと笑った。

 アントネッラは電話相談員だった。かつては大きな電話相談協会で仕事をしていたが、どうしても彼女だけに相談したいという限られた顧客がいて、このヴィラに遷る時に独立したのだ。そう、回線費用は高い。つまり相談料は安くない。けれど、なによりも「誰にも知られない」ということに重きをおくVIPたちには費用はどうでもいいことだった。

 彼女の顧客のほとんどはドイツ語を話した。そして、彼らは相談をしているのではなかった。アドバイスを必要としているわけでもなかった。彼らはとにかく抱えている秘密を口に出したいだけなのだ。どれほど多くの人間が、言いたいことを言えないでいるのか、アントネッラは驚いた。

 たとえば、隣の庭から勝手に伸びてくる植木をことあるごとに刈ってしまう男からは、定期的にかかってきた。自分の息子がどれほど美しくて賢くて有能かを言いたくてしかたない老婦人がいた。姪への断ち切れない恋心を長々と語る老人がいる。姪にはそろそろ孫が生まれるというのだから、いい加減幻滅してもいい頃だろうに。婚約式に初めて会った未来の花嫁の姉に一目惚れしてしまったという青年。前衛的すぎて意味がさっぱり分からない詩を朗読する男。別にこんなに高い回線で相談する必要もないだろうと思うものばかりだが、彼らは誰にも知られないということにはいくらでも払うというのだった。

 それから、有名な女優からも定期的にかかってきた。主に、現在つき合っている男のことで、タブロイド紙が知ったら大変な金額を積むだろう内容を詳細に語ってくれるのだった。自然保護活動で有名なある作家は、実は昆虫の巣をみつけては破壊する趣味があった。さらに、彼は狩猟料理が大好物なのだが、もう二十年も口にできてないと、何十分も訴えてくるのだった。

 アントネッラは、電話をとり、黙々と話を聞く。顧客は満足して電話を切る。その繰り返しで、彼女の中にたくさんの人生が積もる。女優や作家の話は無理だが、誰にでも起りそうなたくさんの話は、彼女の中で新たな形をとって出ていく。それが彼女の趣味である。インターネット上でイタリア語の短編小説を書いては発表するのだ。

 アントネッラには親しいネット上の友人がいる。エスというペンネームのもの書きで、主にSF小説を書いている。マリアと名乗っているアントネッラは、作品の公開前に必ずエスに読んでもらう。

「こんばんは、マリア。『風の誘惑』って、素敵な題名ね。南風が吹くと、昔去った恋人のことを思い出してしまう老婦人のお話、本当にロマンティックだと思うわ」

「こんばんは。エス。ありがとう。陳腐すぎないかって、心配だったの。あなたの〝フラウンホーファー炉〟みたいな独創的な発想がうらやましいわ」

「あら、マリア。あなたの小説の醍醐味はいかにも実際にありそうなことを書くことじゃない? よく深みのある話を次から次へと思いつくなあと、とても感心しているのよ」

 だって、事実なんだもの。事実は小説より奇なり。ここには書けないけれど、本当に面白い話はもっとたくさんあるのよ。

 アントネッラがエスにすら口外できない話を語るのは三人のVIP顧客であった。一人目は先ほどの女優。もう一人は欺瞞に満ちた例の作家。そして、三人目はシュタインマイヤー氏だった。

 シュタインマイヤー氏は、かなり有名な政治家だ。かつては警察幹部だった異色の経歴を持っている。政敵が多いのでスキャンダルは御法度だ。それなのに、妻は口から生まれたごとくにおしゃべりで、しかも当の本人も職業上で得た秘密を話したくてしかたない困った性質を持っていた。彼がアントネッラの顧客となったのは、今から十年以上も昔のことだった。まだ警察にいた頃である。

 ありとあらゆる奇妙な事件があった。解決した事件もあれば、迷宮入りになった事件もあった。真実に近づいたと思われるのに、時の権力者の介入で捜査を打ち切らなくてはならなかった事件もあった。その逐一を、アントネッラは聞いていた。それと同時に政治家としての彼の人氣を失いかけないような告白も聞いていた。

「たった一目見た時から、どうしても忘れられないのだよ。真の理想の女性というのだろうか。甘酸っぱい思いに胸が締め付けられる」
日本のアニメに出てくる女の子に恋をしたと真面目に語るのだ。五十五歳のひげ面の名士が。アントネッラは、吹き出しそうになるのを必死でこらえながら、告白に耳を傾ける。これで、彼は明日からまたしばらくすっきりとして仕事に励み、アントネッラは再び安心して「Tutto Tutto」の注文サイトで氣にいった商品の注文ボタンをクリックすることができるのだ。

「ごめんください。Tutto Tuttoです。ご注文の品をお届けに来ました」
《イル・ロスポ》の低い声がエントランスから響く。

「いつも通り、上がってきて。コーヒーとお菓子も用意してあるわ」
「はい」

《イル・ロスポ》は、慣れた足取りで屋根裏部屋に入ってきた。商品の箱を入り口の戸棚の脇に置き、わずかに残された足の踏み場を上手に渡って、いつも通りに用意された籐の椅子にぎしりと腰を埋めた。アントネッラは、丸テーブルを挟んで座っている。ほっそりとした体にアプリコット色の安物のワンピースを身に着けている。もちろんTutto Tuttoの商品だ。ブロンドの髪は銀髪への道のりの半分くらいで、化粧っけの全くない白い顔に、茶色い瞳がいたずらっ子のように煌めいている。外見だけでいうならば特に心惹かれるタイプでもないが、彼にこんなに親切にもてなしをしてくれる客は多くなかった。だから、月初めの月曜日は彼も楽しみにしているのだった。

「待っていたのよ。さあ、話してちょうだい。例のおかしなサーカスで、先月おこったことをね」

 アントネッラは、運転手のひきがえるそっくりの顔が動き、彼女の期待している話をはじめてくれるのを厳かに待った。チルクス・ノッテの移動の度に《イル・ロスポ》が仕入れてくる、サーカスの人間模様だった。新しい長編小説の題材にしようとしているのだ。とくに、謎の道化師ヨナタンと、彼に夢中の娘ステラのことは、何度聞いてもワクワクしてしまう。最近マッテオという青年が入団してきて、ステラを追い回していると言う。どんな面白い展開があったのか、この一ヶ月、待ちきれない想いだったのだ。

「そうさね。狼騒ぎがあったらしいですよ」
《イル・ロスポ》は、どうしてこの女性はこんな話が好きなんだろうと、半ば呆れながら、先月の移動の時に仕入れた情報を語りだした。アントネッラは、頷きながらメモを取った。

(初出:2013年6月 書き下ろし)
.23 2013 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】夜のサーカスと極彩色の庭

Posted by 八少女 夕

月末の定番「夜のサーカス」です。少しずつですが読者に誰かさんの過去が開示されています。といっても、何が何だかだろうな。
このストーリー、半年以上前から連載しているので、最近このブログを知った方は取っ付きにくいかもしれません。が、まだ「あらすじと登場人物」だけ読めば十分付いていけます。よろしかったらどうぞ。


月刊・Stella ステルラ 5,6月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


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あらすじと登場人物




夜のサーカスと極彩色の庭

夜のサーカスと極彩色の庭


 レモン色のボールがくるくると宙を舞う。軽やかに弾んで、高く、低く、生きもののように整然と綺麗な放物線を描く。右の掌から飛び立って、行儀良く左の掌に戻ってくる。一つ、二つ、三つ、あまりに速いので、その数はなかなかわからないが、現在飛び立っているボールは六つだ。この辺までは熟練したジャグラーには余裕がある。ヨナタンの動きはおどけて滑稽だが、目は笑っていない。

 丁寧に一つひとつの動きを鍛錬する。本番でヨナタンが失敗することは至極稀だった。彼は覚えたての八ボール投げを興行で使用することはしない。練習で百回試して、すべて成功するレベルにならないと、誰に何を言われても興行には使わない。団長ロマーノやその妻のジュリアは、そのことに文句を言わない。彼が、どれだけの時間を割いて鍛錬を続けているかよく知っているからだ。

 チルクス・ノッテの出演者たちは、ジュリアのプランによって鍛錬をしていたが、基本的には本人の意思が最も尊重された。たとえば、早朝に大テントの舞台でステラがバレエのレッスンを自主的にはじめた時にも、すぐに許可がおりた。空中ブランコ、大車輪、馬の上での倒立、ライオン芸、空中綱渡りのレッスンは一人で行うことは許されない。事故が起った時に即座に応急処置ができるよう、かならず誰かが監視しなくてはならないからだ。マッテオにはエミーリオ、ルイージにはマルコが、ステラのレッスンには主にヨナタンがついた。

 そういうわけで、ステラが早朝バレエのレッスンをする時には、同じテントの端の方でヨナタンがジャグリングの鍛錬をし、それから引き続き二人でブランコの訓練をするというのがここ数ヶ月のパターンになっていた。ステラはヨナタンと二人で過ごす朝のひと時を大切に思っていた。もっとも、ここしばらくはブランコの時間には、ようやく起きだしてきたマッテオがバレエレッスンを同じテントではじめるので、完全に二人きりというわけではなかったのだが。

「今日の午後、何か予定はある?」
ステラはブランコから降りてくるとヨナタンに訊いた。この日は昼の興行がないので自由時間になったのだ。ヨナタンは首を振った。
「特に何もないけれど、どうして?」

ステラはヨナタンからタオルを受け取って、汗を拭くと小さな声で言った。
「あのね。肉屋に行きたいの。でも、一人で外出しちゃダメだって……」

 先日のチルクス・ノッテでの野犬騒ぎ、目撃譚によってそれが狼であったことが伝わると、町は大騒ぎになり、昼でも一人での外出は避けるようにとの通達が来たのだった。襲われかけた当のステラとしては、一人で外出するのが怖いのは当然だった。しかも、肉屋に行くというのでは。

「一緒に行こう。でも、なぜ、肉屋なんだ?」
ヨナタンが訊くと、ステラは少し顔を赤らめて答えた。
「ヴァロローゾにお礼をしたくて」
ヨナタンは笑って頷いた。狼に囲まれて絶体絶命のピンチに陥ったステラとヨナタンは、襲われる覚悟をした。あの時、マッダレーナが連れてきてくれた雄ライオン、ヴァロローゾが狼たちを追い返してくれなかったら、二人はこうして無事ではいられなかっただろう。

「なんだよ、それ」
マッテオが怪訝な顔で近づいてくる。この若い青年は、ステラとヨナタンが親しくするのを快く思っていないのだ。ましてや二人だけの秘密があるなんて聞き捨てならない。

「この間の、野犬騒ぎの件なの。マッテオには関係ないでしょ」
「ふ~ん。僕も、この後、町に行こうと思っていたんだ。ヨナタンに用事がないなら無理していかなくても、僕がステラと……」

 それを聞くとステラはものすごい形相でマッテオを睨みつけた。余計なことを言わないで! ヨナタンは肩をすくめて言った。
「用事はあるよ。注文したナットを取りにいかなくちゃいけないんだ」

 ステラは大急ぎで言った。
「ほらね。私たち、この後すぐに行くから、マッテオはブランコレッスンの後で、エミーリオといきなさいよ。団長の用事で町に行くって言っていたもの」
それから、ぽかんとするマッテオをそのままにして、肩をすくめるヨナタンの腕を取って大テントを出て行った。


 
 それは大きな肉のかたまりだった。もちろんステーキ用肉などではないので、キログラムあたりは廉価なのだが、ライオンへのプレゼントに一キログラムというわけにはいかない。

「ヴァロローゾ、喜んでくれるかしら」
ステラが心配そうに言うと、ヨナタンは笑ってその重い紙袋を持った。
「間違いなく喜ぶよ。他のライオンたちが妬まないといいけれど」

 キャラバン村へと戻る道すがら、ステラは紙袋が重すぎるのではないかと、心配そうにヨナタンを見た。
「心配いらないよ。そんなには重くないから」
「でも、あのね。もし、重すぎなかったら、二分ほど遠回りなんだけれど、こっちの道を行ってもいい?」
そう言って、左側の道を示した。ヨナタンは微笑んで頷くと、通ったことのない道へと向かった。

「こっちに何があるんだい?」
「あのね。とっても素敵なお庭のお屋敷があるの。この前通った時、花がいっぱいで、ヨナタンにも見せたいなって思ったの」

 そうして、ステラは長い塀のしばらく先にある華奢な鉄細工の門の前にヨナタンを連れて行った。
「ほら」

 それは、大きなヴィラだった。春から初夏の花がこれでもかと咲き乱れている庭が広がっていた。薔薇、飛燕草、ダリア、百日草、ナスタチウム、牡丹、かすみ草……。アーチに、華奢な東屋に、木陰にこれでもかと咲いた花が寄り添い、風に揺られて薫りを運んできた。ステラはこの庭が大好きだった。こんなに美しい庭は見たことがないと思った。

 ヨナタンも好きでしょう? そう言おうとして、彼の方を振り向いた時、青年の顔に浮かんでいる表情にドキッとして、押し黙った。

 彼は、眉をひそめて、むしろ泣きそうな表情でその庭を見ていた。どこか苦しげで悲しそうですらあった。

 その瞳が見ていたのは、イタリアの郊外の町にあるヴィラの庭ではなかった。現在、咲き乱れている花でもなかった。



「ねえねえ、パリアッチオ、この花。一緒に球根を植えたやつだよね」
金色の髪の少年が満面の笑顔で言う。ぷっくりとした小さな手がもう一人の少年の掌をそっと包む。嬉しくて嬉しくて仕方ない、幸せな少年。遅咲きのチューリップの、艶のある赤と黄色の花びらを愛おしそうに撫でる。その中には秘密のようにおしべとめしべが見えている。二人でその花を覗き込んで微笑みあう。

「あ、そうだ。ママに花束を作ろう」
「そうだね、ピッチーノ。花の女神様になるくらいたくさんの花を贈ろう」
二人で摘んでも摘んでも、その庭の花は尽きることがなかった。白、ピンク、黄色、赤、薄紅、橙、紫、青……。花の薫りにむせ返るようだった。青空には翳りがなく、陽射しが強かった。遠く薔薇のアーチから、すらりとした影がこちらに向かってくる。
「まあ、二人ともここにいたのね」

 鳶色の艶やかに輝く髪が、肩に流れている。金色の輝く瞳が微笑んでいる。あたりは薔薇の香水の薫りに包まれる。

「ママ! ほら、これ!」
「僕たち、花束を……」
「まあ、二人とも、本当にありがとう」

背の高い方の暗い鳶色の髪の少年は、金髪の少年が女性に駆け寄ってその首に抱きついたのを眩しそうに眺める。一幅の絵のような光景。完璧な美。
「まあ、ピッチーノ。あなたは本当に赤ちゃんね」
それから、彼女はたくさんの花を抱えて立っている少年の方にも顔を寄せて、その頬に優しくキスをした。

 何かを口にしようとした時に、向こうから駆けてきた年配の女性が、それを遮った。
「まあ、皆さん、こんな所に。若様、イタリア語の先生が書斎でお待ちですわ」

 彼は、その女性、マグダ夫人が持ってきたニュースに失望の色を見せた。
「でも、まだ時間は……」
「そうですが、先生をお待たせはできませんわ。奥様、そうでしょう?」

「パリアッチオ。マグダ夫人の言う通りだわ。さあ、お行きなさい」
そう言って、彼女はもう一度、濃い鳶色の髪の少年の頬に優しくキスをした。マグダ夫人と一緒に城の方へと向かいながら、少年はもう一度花園の方を振り返った。二人が笑いながら花を摘んでいた。青い空。眩しい陽射し。楽しげな歓声。

「さあ、若様。イタリア語の授業が終わりましたら、お母様と、それから小さい若様とお茶を召し上がれますよ」



「ヨナタン?」
その声で、彼は我に返った。
「大丈夫、ヨナタン?」
ああ、そうだった。僕はヨナタンで、ここはイタリアの……。肉の入った紙袋の重み。それからステラの心配そうな顔。金色の瞳。

「私、悪いことしてしまった? このお庭、嫌だった?」
ヨナタンはステラの方に向き直ると、優しく笑って首を振った。
「そんなことはないよ。本当に綺麗な花園だ。連れてきてくれてありがとう」
そう言うと、ステラの前髪を、その柔らかい金髪をそっと梳いた。鳥のさえずりが小さい少年の笑い声のように聞こえた。

(初出:2013年5月 書き下ろし)
.25 2013 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】夜のサーカスと鬱金色の夕暮れ

Posted by 八少女 夕

月末の定番「夜のサーカス」です。今回は、少し話が動きますね。まあ、ほんの少しですが。このストーリー、半年以上前から連載しているので、最近このブログを知った方は取っ付きにくいかもしれません。が、実をいうと、「あらすじと登場人物」だけ読めば十分付いていけます。よろしかったらどうぞ。


月刊・Stella ステルラ 5,6月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物




夜のサーカスと鬱金色の夕暮れ



夜のサーカスと鬱金色の夕暮れ


 日はずいぶんと長くなってきた。夜の興行がない日は、皆が町にでかけることができるように六時に夕食だった。そして、食べ終わった面々が次々と出て行ったあとも、まだ完全には暗くなっていなかった。

 片付け当番にあたっていたマッダレーナは、立ち上がって、ヨナタンの席を見た。「舞台の下のナットのいくつかに問題があるので、先に食べていてほしい」と言われて、他のメンバーは待たなかったのだ。しかし、ヨナタンが食べ終わっていないのに、テーブルクロスまで片付けるのはためらわれたので、彼女は他のすべてのテーブルを片付けてから様子を見るために共同キャラバンの入り口に立った。

 灰色と白の雲が交互に空を覆い、そこにあたる夕陽が暖かい色彩の複雑な綾織りを拡げていた。マッダレーナはケニアで過ごした少女時代を思い出してため息をついた。

「すまない」
小走りの足音に意識を元に戻すと、ヨナタンが戸口に向かっていた。

「ああ、手こずったみたいね」
そう訊くと、彼はわずかに肩をすくめた。
「相当すり減っていたみたいで、締まらなくなったのが二つあったんだ。予備がなくて、町に買いに行ったので遅くなった」

 マッダレーナは、ワインを彼と自分のグラスに注ぎながら言った。
「でも、どうして、いつまでもあなただけが点検作業をやっているわけ? 最初の頃はともかく、今は道化師としてもジャグラーとしてもちゃんと働いているんだし、点検はこの片付け当番同様、みんなで持ち回りにするように団長に掛け合えばいいのに」

 ヨナタンは首を振った。
「別に、掛け合うほどのことじゃないよ」
こうヨナタンが断言すると、あとは何を言っても会話が続かないことを知っていたので、マッダレーナはそれ以上言わなかった。実際にはマッダレーナも、この仕事をやれと言われても、きちんとできるとは思えない。舞台の点検は、仲間の命に関わる重大事だ。ちゃらんぽらんなマルコや、入ったばかりだけれど態度がでかく面倒なことを嫌がるマッテオが適当にやるよりは、十年以上にわたり黙々と点検を続けているヨナタンに任せておくのが安心なのは間違いなかった。

 マッダレーナは、立ったままワインを口に運ぶ。食事をしながらヨナタンは言った。
「みんなは町に行ったんだろう。君も行っていいよ。終わったらちゃんと片付けておくから」
「ああ、言い忘れていたけれど、町役場からの伝達があったの。野犬に襲われる被害が続いているので、夜に一人で外出するなって。つまり今からは出かけられないの。どうせだから、このままつき合うわよ」
そういうと、マッダレーナはヨナタンの後ろの壁ぎわにおいてある古い木製のラジオのつまみを回してスイッチを入れた。

 騒がしいロックに眉をひそめてチューニングをしたが、次に聞こえてきた曲で手を止めた。
「あ」
それは子供の頃に繰り返し聞かされたメロディだった。マッダレーナは、曲をそのままにして、椅子に座ってワイングラスを口に運んだ。
 
 ヨナタンは静かに食事を済ませると、やはりワイングラスを傾けながら、クラリネットと弦楽器の静かな対話に身を置いていた。マッダレーナは、そのヨナタンの様子を見て、小さく微笑むと、ためらいがちに口を開いた。
「誰の曲だか知っている?」

 ヨナタンは小さく頷いた。
「モーツァルトの『クラリネット協奏曲』だよ。これは二楽章だ」
「そう。父はいつも『愛と追憶の日々』の曲って言っていたわ」
「映画で使われたんだろう」
「そう。父がアフリカ狂いになる手助けをした映画よ。すっかりかぶれちゃって、こればかり聴いていたの。今日みたいに夕陽のたまらなく綺麗な日にはお約束みたいなものだったのよね」

 少年だったヨナタンの周りには、アフリカ狂はいなかった。彼がこの曲を知っているのは、映画の挿入曲としてではなくて、純粋にモーツァルトの協奏曲としてだったが、やはり思い出に郷愁を誘われていた。

 彼の思い出が連れて行った先は大きくて明るい広間だった。多くの人びとが着飾り、手にはさまざまな形のグラスを持ちざわめいていた。広間の奥には室内楽の楽団が陣取り、『クラリネット協奏曲』を奏でていた。残念ながら多くの客たちは、会話に夢中で音楽を聴いていなかった。少年だった彼は、その曲をゆっくりと聴きたかった。大切な人と何度か一緒に聴いた思い出の曲だったから。けれど、けばけばしく着飾った客がグラスや皿をがちゃがちゃ言わせてひきりなしに語りかけてくるので、彼は曲を静かに聴くことができなかった。

 ヨナタンは、ワインを傾けながら、ラジオから流れてくるクラリネットの響きにしばらく耳を傾けていた。暖かい夕陽が最後の光を投げかけてから、テント村に別れを告げた。後ろにいるマッダレーナのわずかな氣配は彼の郷愁を邪魔しなかった。

 マッダレーナは、何も言わないヨナタンの様子に、過去のことを訊いてみたい衝動に駆られたが、これまでも絶対に口を割らなかったので、無駄だろうなと思った。けれど、いつもよりもリラックスしている様子の彼のことを少し身近に感じた。ワインや夕陽でメランコリーな心地になったせいもあったかもしれない。ヨナタンのすぐ後ろに椅子を近づけて座ると、低い声で語り出した。

「あたしね、ライオンたちがいつも閉じ込められているのが可哀想だったの。今日みたいな夕陽の綺麗な時にはね、父さんに知られないように、ライオン舎に行ってジャスィリを連れ出してね。一緒に丘の上のガーデニアの樹のあるところまで駆けっこしたのよ。父さんは、蓄音機でこの曲をかけていて、その音が途中まで聞こえていた」
「ライオンと。綱が付いているわけじゃないんだろう? 逃げだしたりしなかったんだ」
マッダレーナは笑った。
「しないわ。だって、ジャスィリは、うちで生まれたんですもの」

 共同キャラバンから漏れてくる光と、クラリネットの音色、そして二人の和やかな会話。ほんの少し離れたところに立っている少女の影は項垂れていた。ステラもみんなに誘われて町に行こうとしていた。でも、ヨナタンを待っていたのだ。もう点検が終わったか、大テントに確認に行ったら暗くなっていたので、共同キャラバンに探しにきたのだ。

 ステラはこの曲を知らなかった。二人が浸っている思い出の世界に入っていくことができなかった。二人の会話のウィットや大人の機智、静かな目配せや微笑についていくことができなかった。自分だけが子供で、二人は大人に思えた。

 ステラは、項垂れたまま踵を返すと、自分のキャラバンに向けて歩いていった。マッテオたちと一緒に町に行っていればよかった。そしたら、こんな光景は見ずに済んだのに。目の前がにじんできた。私、いったい、何をしているんだろう。何を泣いているんだろう。ヨナタンは何も悪いことをしていない。ただ、私が勝手に好きになって、勝手に期待して……。

 その時、ガルルルといううなり声が聞こえた。ステラは、涙を拭いて振り向いた。暗闇の中、四対、いやもっと、目の光が浮かんでいる。野犬……。町役場から言われていた……。一人で外にいるなって言われていたのを忘れていた。ステラはそっと、後ずさりながら、共同キャラバンの方へと戻ろうとした。あそこには、ヨナタンとマッダレーナがいるから……。

「助けて…」
小さな叫び声だったが、共同キャラバンの扉が開いていたので、ヨナタンとマッダレーナはすぐに氣がついた。マッダレーナはすぐに立ち上がって、ラジオを消した。走るステラの叫びと、獣のうなり声が聞こえて、ヨナタンはすぐに走り出した。

「ステラ!」
ヨナタンはステラの側に駆け寄ると、少女と獣たちとの間に立ち、小石を拾って投げた。獣たちはそれに怯んで、動きを止め、一度下がった。だが、すぐに体制を整えて、再び近づいてくる。月明かりの中、獣たちの姿が浮かび上がる。野犬なんかじゃない、野生の、狼だ……。ヨナタンは心の中で呻いた。だめだ、石なんかでは追い払えない。怯えるステラをかばいながら、彼は飛びかかられるのを覚悟した。

 その時、突然、恐ろしい咆哮がとどろき、二人と狼たちとの間に何かが飛び込んできた。巨大な獣の登場に狼たちは仰天した。それはヴァロローゾだった。マッダレーナはすぐにライオン舎に行って、頼りになる雄ライオンを連れてきたのだ。狼たちはライオンに脅されるなどという経験はしたことがなかったので、慌てて尻尾を後ろ足の間に隠して逃げ出した。

 ステラは体の力が入らなくなり、その場に座り込むとガタガタと震えて泣き出した。ヨナタンは、そっと彼女を抱きしめると背中をさすって言った。
「大丈夫だ。もういなくなったから」

 それは、温かい手だった。静かな声でそう言われると、本当にもう二度と恐ろしいことはおこらないように思われた。

 ヨナタンが来てくれて、守ってくれたことが嬉しかった。この人はやっぱり私の王子様。わたし「だけ」の王子様でなくてもかまわない。願いが叶わなくてもしかたない。ただの子供と思われていてもいいから、どうしても側にいたい。ステラは気持ちの抑えがきかないまま子供のように泣きじゃくった。

 ステラが落ち着くのを辛抱強く待ちながら、ヨナタンはマッダレーナに礼を言った。マッダレーナは首を振って言った。
「私は何もしていないわ。ヴァロローゾが追っ払ってくれただけ」

 それからヨナタンにウィンクすると、共同キャラバンに鍵をかけて、雄ライオンと一緒にライオン舎に向かってゆっくりと歩いていった。

(初出:2013年4月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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マッダレーナとヨナタンが聴いている曲を聴いてみたいなという方のために動画を貼付けておきます。



W.A. Mozart "Clarinet Concerto in A major K622 Adagio"
クラリネット: Sabine Meyer
指揮:Claudio Abbado
演奏:Berliner Philharmoniker
だそうです。
.28 2013 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】夜のサーカスと西日色のロウソク

Posted by 八少女 夕

月刊・Stella ステルラ参加作品です。「夜のサーカス」を発表すると月末。このスタイルももう半年以上なんですねぇ。今日は団長ロマーノの回想の話です。


月刊・Stella ステルラ 4月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物




夜のサーカスと西日色のロウソク


夜のサーカスと西日色のロウソク


「まあ、きれいなロウソクね。西に沈む夕陽を思い出すわ」
ジュリアの声に、はっとしてロマーノは目の前に燃えるロウソクに目をやった。エミーリオがプリモ・ピアットの皿を運んでくるまでの間、つぎの興行の事を考えて意識が飛んでいたのだ。テーブルの上には、二日前にマルコに渡しておいたオレンジと黄色のグラデーションのかかったロウソクが静かに燃えていた。

「ああ、これか。近くで見つけたので買ったのだよ。あなたとの二人っきりの時間には、できるだけロマンティックにしたいからね、私の小鳥さん」
ロマーノがささやくと、ジュリアはにっこりと笑った。
「あなたはいつも私の事をとても大切にしてくれるのね。嬉しいわ」

 繰り返される、お互いに心にもない甘い会話。これは必要な結婚だった。いまだに熱烈なファンを持つジュリアを連れてパーティに行く事で、ロマーノはたくさんの協賛金を集め、多くのチケットを売る事ができた。ジュリアは、肉体の衰える前に、どうしても身の保証をしてくれる存在が必要だった。

 そう、私たちは人格者ではない。だが、さほど悪い事をしているわけでもない。税金も少しは払い、団員たちの面倒を見て、社会にも貢献している。キリスト教精神にのっとって。私の人生最大の失敗も、このキリスト教精神から起こしてしまったのだったな。

 あれはミラノ興行のための設営の夜だった。ロマーノはくるんとした髭をしごきながら十一年前の初夏の夜の事を考えていた。

 とても暑い夜だった。まだ六月だというのに湿めっぽく、どこからか湧いた蚊が耳元でうるさかった。こういう宵にはブルーノを相手にするとことさら憂鬱な顔を見せて、ことの後で妙な罪悪感に悩まされるので、むしろ外で商売男でも探すかと、彼はテント場を出て外を歩いた。

 そこは、ミラノ中央駅から数駅は離れた小さな鉄道駅の側で、華やかで物価の高い中心地とは全く趣の違う、寂れてわびしい地区だった。そう、華やかなものと言ったら、チルクス・ノッテの色とりどりの電球ばかり。テントから離れれば、薄暗い道に所々悲しげなオレンジ色の街灯がようやく足元を照らした。ネオン灯の青白いバルには地元の男たちがたむろしている。もう少し明るそうな駅の方を目指せば、ほんのわずかに黄色い光を宿す窓がまばらに見え出した。

 食事はもう済ませたからな。ダリオのコース料理は、今日も素晴らしかった。ロマーノはそうつぶやいて、リストランテの前を通り過ぎ、小さな駅舎の裏手へと歩いていった。男娼はこういうところで待っていることが多いというのが、長年の経験から育てた勘だった。

 だが、それらしい男はどこにもいなかった。いるのは、なんだ、浮浪者のガキか。彼は子供とも若者ともつかぬ華奢な体の影が、壁にもたれかかってぐったりと座っているのを軽く無視して去ろうとした。けれど、暗闇の中で見たその姿がどこか普通でないと感じて、もう少しよく観るために踵を返して近寄った。

 それは少年だった。ロマーノが近づくと瞳をあげて、黙ってその顔を見た。何も言わず、怖れた様子も、媚びた様相もなかった。ただ、まっすぐにロマーノが何をしにきたのかを訝るように見上げていた。ロマーノは奇妙に思った事が何だったか理解した。少年の服が濡れていたのだ。汗で湿ったというのではなく、一度完全にびしょぬれになったものが、時間とともにわずかに蒸発した、そのようなひどい濡れ方だった。

「しばらく雨は降っていなかったはずだが」
我ながら奇妙な挨拶だと思いながら、ロマーノは最初の言葉を口にした。少年は何も答えずに目を落とした。興味を失ったかのように。少し身をよじると、ぎゅるるという小さな音がした。少し苦しそうに息をつくと、少年はうつむいて膝を抱えた。腹の音はまた続き、ロマーノは三年前に拾ったブルーノの事を思い出した。

「来なさい。すぐそこにリストランテがある。何かの縁だ、食事をおごってやろう」
そういって少年に手を差し出した。少年は訝しそうに見上げたが、その時再び腹が鳴り、ため息をついて彼はゆっくりとロマーノの手を借りずに立ち上がった。そして小さな声で言った。
「ありがとうございます」

 外国人だ。少年のイタリア語を聴いてロマーノは直感した。

 小さなリストランテにはテーブルが五つほどしかなかった。焼けこげのできた赤いギンガムチェックのテーブルクロスの上には、オレンジから黄色へとグラデーションがかかった大きなロウソクが焔をくゆらせていた。目の前に座った少年の顔を、そのロウソクの光でロマーノははじめてはっきりと見た。暗い茶色の髪と瞳。意志の強そうな眉に整った鼻梁、これはこれは、なかなかの上玉だ。ロマーノは知らず知らずのうちに笑顔になっていた。

 自分のためにはワインとチーズを、そして少年のためには、ミネラルウォーターにスープとサラダ、そしてパスタを注文した。スープとパンが少年の前に置かれた時、彼は目の前のびしょぬれの固まりが、どれほど長く食事を望んでいたのかを理解した。目がわずかに潤んでいた。けれど、初めて会った時にブルーノがそうしたように、ものも言わずにかぶりつくような事はしなかった。半ば震えるようにナフキンを膝の上に置き、わずかに頭を下げてロマーノに礼を言ってから、震える手でスプーンを手にした。

 そのスプーンがスープをすくうのを片目で見ながら、ロマーノは単なる世間話のつもりで言った。
「ところで、どうしてそんな格好をして飢えているのか、訳を話してくれるかね? お前はどこから来たんだ?」
この少年は、ただの浮浪者などではない。こんなにきちんとした行儀を仕込まれた子供が、何故こんなところで飢え死にしかけているのか。

 カチャンと音がした。ロマーノが目をやると、少年はスプーンをスープ皿に立てかけて手を膝の上に戻してうつむいた。そして、それほどまでに待っていた食事をしようとしなかった。

「おい、どうしたんだ。食べていいんだぞ」
ロマーノは言った。

 少年の肩は震えていた。少し訛りのある妙にきちんとしたイタリア語がその口から漏れた。
「訳をいわなくてはいけないなら、食べるわけにはいきません」
「馬鹿な事を。そんな事を言っていたら、次に誰かが酔狂を起こす前に死んじまうぞ」
「覚悟していました。このまま、死んでもしかたありません」

 ロマーノは震えた。ありえない事だった。拾ったときのブルーノとさほど変わらない年齢に見えるのに、勝手が全く違った。考えている事が手に取るようにわかった褐色の少年と違って、この年若い男は、ロマーノには全く理解できない精神構造をもっていた。完全な大人のような恐ろしい意志を体の中に秘めているのだった。いやなら適当な嘘でも言えばいいのに、食事を与えてくれたロマーノに対して欺瞞や裏切りをしようとしない、馬鹿正直でまっすぐなところも持っていた。そこが得体が知れなくて薄氣味悪かった。

「いや、そういうのは、やめてくれ。別にどうしても訊きたいってわけじゃないんだ。とにかく食えよ」
ロマーノがそう言っても、少年は潤んだ瞳をあげたまま、動かなかった。そこで仕方なく、ロマーノは続けた。
「いいか。これは純粋なキリスト教精神だ。うちは生粋のカトリックだからな。お前にはいかなる説明も、見返りももとめない。なんなら神に誓うよ。お前には、生涯、言いたくない事は言わせないし、何かの代償をもとめることは絶対にしない。父なる神と子なるキリスト、精霊の御名によって、アーメン。ほら。これで安心しただろう、食え」

 そこまで言ってしまってから、ロマーノははっとした。しまった。なんて事を誓ってしまったんだ。この子があと五年も育ったらどんないい男になることか。こんなチャンスはめったにないのに!

 少年はもう一度頭を下げると、ゆっくりとスプーンを持ってスープを口に運んだ。ロマーノはパンの籠を少年の近くに押してやった。再び頭を下げると、上品な手つきでそのパンを取るとちぎって口に運んだ。それからほうっと息をついた。

 ロマーノはミネラルウォーターをグラスに注いでやりながら、少年に話しかけた。
「お前、今夜泊るところもないんだろう」
少年は素直に頷いた。

「こうなったら乗りかかった船だ。私のところに来て寝泊まりするといい。私はロマーノ・ペトルッチ。『チルクス・ノッテ』の団長だ。約束したから、代わりに何をしろとは言わないが、手伝いたければ手伝えばいいし、出て行きたい時には自由に出て行ってもいい。どうだ」
「いいんですか」
「神に誓うってのはそういうことだからな。言葉は守るさ。サーカスってのはだな。世の中からはみ出したような連中ばかりだ。必要なのは、自分のやるべき事をやること、それだけでいいんだ。完璧なイタリア語が話せなくても、社会のありがたがるような紙っ切れがなくても誰も氣にしない。お前みたいな訳あり小僧には悪くないところだと思うぞ」

 少年は、スパゲティを食べ終えると、ナフキンで丁寧に口元を拭い、それから静かに答えた。
「僕にでもすぐにできる裏方作業などがあるでしょうか」

 ロマーノは少し考えて言った。
「そうだな。例えば、興行後には毎晩舞台のナットが弛んでないか確認する作業がある。それくらいなら、お前でもできるだろう」
「はい。やらせてください」

 ロマーノは笑った。
「よし。ところで、お前はなんていうんだ。あ、本名でなくてもいいんだぞ。なんと呼べばいいのか、それと年齢がいくつかぐらいは言えるだろう?」

 「十五歳です。名前は……。」
少年は瞑想するような顔つきでしばらく口ごもった。それから、ロマーノを見てはっきりと答えた。
「ヨナタンと呼んでください」

(初出:2013年3月 書き下ろし)
.24 2013 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】教授の羨む優雅な午後 — 『ニボシは空をとぶ』二次創作

Posted by 八少女 夕

scriviamo!

月刊・Stella ステルラ 4月号参加 掌編小説 読み切り月刊・Stella ステルラ


「scriviamo!」の第十七弾です。高橋月子さんは、『ニボシは空をとぶ』 シリーズの世界に、なんと私を登場させてくださいました。ありがとうございます! 

高橋月子さんの書いてくださった小説『桜坂大学医学部付属薬学総合研究所 桜井研究室のある一日』

月子さんは、オリジナル小説をメインに、イラストや活動日記などを載せていらっしゃる星と猫とお花の大好きなブロガーさんです。月刊・Stellaでもおなじみの『ニボシは空をとぶ』 シリーズでは有能で個性的な研究者と優しい事務の女性が活躍するとても楽しくて素敵な小説です。

お返しの掌編小説は、月子さんの小説の設定そのまま、翌日の設定で作らせていただきました。せっかく小説家「ヤオトメユウ」(何故かプロの小説家になっていて、拙作「夜のサーカス」が書店で平積みになっているらしいです!)を登場させてくださったのに、結局こうなってしまうのは、私のお茶やお菓子に対する煩悩が……。

※まさか、本氣になさる方はいらっしゃらないとは思いますが、この話はフィクションです。私は小説家デビューはしていませんし、「夜のサーカス」が出版されている事実もありません。念のため。


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教授の羨む優雅な午後 — 『ニボシは空をとぶ』二次創作
——Special thanks to TSUKIKO-SAN



「ところで、フラウ・ヤオトメ」
クリストフ・ヒルシュベルガー教授は、歩みを緩めて厳かに口を開いた。

「なんでしょうか、教授」
花が咲き乱れ彩りに満ちた桜坂大学の広い構内を、シンポジウムの会場間の移動中であった。開始時間が氣になっていた彼女は、片眉をちらりとあげて、教授の真剣な面持ちを見た。教授はツィードの仕立てのいい背広の襟をきちっと合わせ直し、まともに彼女を見据えて問いただした。
「あなたは、私に隠していることがあったのだね」

「おっしゃる意味が分かりませんが」
う~、今はやめてほしいな、と心の中で舌打をしながら、夕は教授の厳しい追及を逃れられないことを感じていた。

「まず第一に、『チルクス・ノッテ』とは、何かね?」
「なぜ、その単語を?」
夕は、訝しく思った。教授が日本語をひと言も解せないのは間違いない。昨日、桜井准教授の研究室で何名かが話題にしていた彼女の小説『夜のサーカス』のことがわかるはずはないのだ。

 夕は国際結婚をしてスイスに住んで十三年になる。ようやく長年の夢が叶って日本で小説が出版されたが、それだけで食べていくことは到底無理で、秘書業務をしていた。ヒルシュベルガー教授の研究室に秘書として雇われ、週に四日は研究室に通っている。三日前より日本での国際医学シンポジウムに出席する教授の通訳を兼ねて、久しぶりに日本に帰って来ていた。本来ならば、勤めて半年で海外シンポジウムに同行することなどありえないのだが、行き先が日本だったことと、扱いの難しい教授の世話が上手だという評判で、大学側も喜んで旅費を計上してくれたのだった。

 せっかく日本に帰って来たので、わずかな自由時間に書店に出向いた。わずかの間とはいえ、自分の本が書店に並んでいるのは嬉しくて思わず顔が弛む。ましてや、目の前で自分の本を買ってくれる人を見るなど、夢にも思っていなかった僥倖だった。それをしてくれたのが、偶然にも、昨日桜井研究室で紹介された今井桃主任だった。聡明で自信に満ちた優秀な研究者が、小説を褒めてくれたのだ。でも、日本語のわからないヒルシュベルガー教授がどうやってその話題に感づいたのだろう。

「フラウ・イマイと、フラウ・イヌイの手にしていた、同じ本の表紙に、その単語が書かれていた。あなたはあの本について、とても詳しそうに話していたね」
ちっ。確かに、装丁にはアルファベットで「Circus Notte」と書かれている。それを見られてしまったのか。夕は天を見上げた。面倒くさいことになってきたな。

「実は、あれは、私の書いた小説です。でも、日本でしか売られていない本ですし、教授があのような本に興味があるとは夢にも思いませんでしたので、申し上げなかっただけですわ」
「興味があるかどうかは、私が自分で判断する。あなたは、私の秘書なのだから、公式な活動のすべてをきちんと報告する義務があることを忘れないように。次回からは、本が出版されたら必ず報告しなさい。それから、帰りの飛行機の中で、その本を朗読してもらおうか」
「え。朗読しても、教授には日本語がおわかりにならないではないですか」
「もちろん、ドイツ語に翻訳しての朗読だ」

 夕は、頭を抱えた。この教授付きの秘書になってまだ半年だが、彼女はここ数年で勤務暦が一番長い女性だと、周りから驚愕されていた。彼がことごとく型破りな要求をするので、なかなか秘書が居着かないのである。

「それだけではない」
続けて教授は畳み掛けた。
「なんでしょう」

「昨夜、テッパンヤキの店に行くことを断った、納得のいく理由をまだ聞いていない」
夕は毅然とした態度で言った。
「昨夜は歓迎パーティに出席なさると、二ヶ月も前からお返事なさっていたではないですか。パーティのお料理がそんなにお氣に召さなかったのですか」

「ふむ。あれは前菜みたいなもので、適当にぬけ出して、マツザカ・ビーフを食べようと来る前から思っていたのだ。それを、あっさりと却下したね。だいたい、あなたはパーティでもほとんど料理に手をつけていなかった。何か理由があるのではないか」

 ううう。なんて鋭いのよ。夕はたじたじとなった。これだけは知られないようにしようと思っていたのに、仕方ない。
「すみません、パーティの前にちょっと食べ過ぎてしまいまして、ほとんど食欲がなかったのです」

「パーティの前とは、私が、あのつまらない学長にミュンヘンの思い出を語られていたときだね。グリーン・ティしか出てこなくて、私がひもじい思いをしていた時に、あなたがいったい何を食べていたのか、報告してもらおうか」
「はあ、実は、桜井先生の研究室で、美味しいお茶を……」
「お茶だけかね」
「いえ、その、三色さくらプリンや……」

「三色さくらプリンだと!」
はじまった……。夕は絶望的な心地がした。どうしてこの人は、こんなに甘いものに固執するんだか。
「あの学長と私が薄い茶を啜っている時に、あなたはフラウ・イマイやフラウ・イヌイと三色さくらプリンを食していたというのか? 断じて許せる行為ではない!」
「わかりました。この後、再びフラウ・イマイに連絡して、どこで入手できるか確認して調達しますので、とにかく今はシンポジウムの会場に行ってください。本当に、もう」

 シンポジウムがはじまると、夕はそっと会場をぬけ出して、昨日楽しい時間を過ごした研究棟に向かい、入り口から今井桃主任に電話を入れた。

「主任~、入り口からお電話です」
今井桃は銀縁眼鏡の長身の青年から怪訝な顔で受話器を受け取る。
「誰かね」
「それが、昨日の、あのヤオトメユウさんですよ」
「なんだって」

 研究室の桜井チームの面々は、電話で話す今井桃の様子を興味津々で伺っていた。最初は怪訝そうだった桃は、次第に笑顔になり、それから大声で笑ってから言った。
「心配ありません。今からうちの高木研究員をデパートに走らせます。ええ、シンポジウムが終わりましたら、どうぞ教授とご一緒にお越し下さい。昨日のミーティングの続きですな」

「デパート?」
高木研究員は、自分の名前が出たので首を傾げながら、受話器を置いた桃に訊いた。彼女は愉快そうに笑いながら言った。
「昨日の三色さくらプリンを、あるだけ買い占めてきておくれ。それと、君の偉大なセンスで、日本国最高のスイーツを厳選したまえ。どうやらヒルシュベルガー教授は我々の同志らしい。このあと、教授と桜井准教、それから夕さんもまぜて盛大なミーティングだ」

 その午後に桜井研究室では再びミーティングという名のお茶会が催された。テーブルの上には、桜のフレーバーティに、イチゴのタルト、チョコレートブラウニーに、クリーム入りどら焼き、さくっと軽いパイ菓子、種類の豊富なクッキー、オレンジ・ティラミス、そして、もちろん三色さくらプリンが、所狭しと並べられていた。そのほぼ全種類に舌鼓を打ったヒルシュベルガー教授は、すっかり今井桃主任と意氣投合し、来年のチューリヒでのシンポジウムに桜井准教授と必ず一緒に来るように約束させた。

「我が家で、チョコレート・フォンデュを一緒にしましょう。日程の調節はまかせたよ、フラウ・ヤオトメ」

 イチゴのタルトに夢中になっていた夕は、我に返ると急いで口元を拭いた。桜フレーバーティを飲んでから、取り繕ってにっこりした。

 桜井研究室は今日も春らしい和やかな笑いに満ちていた。

(初出:2013年3月 書き下ろし)
.17 2013 scriviamo! 2013 trackback0

【小説】星売りとヒトデの娘 — 『星恋詩』二次創作

Posted by 八少女 夕

scriviamo!

月刊・Stella ステルラ 4月号参加 掌編小説 読み切り月刊・Stella ステルラ


「scriviamo!」の第十六弾です。スカイさんは、「大道芸人たち」の蝶子と、そのフルートに耳を傾ける私のイメージイラストを描いてくださいました。ありがとうございます! 

蝶子 from スカイさん

スカイさんの描いてくださったイラスト「Dedicate to 『scribo ergo sum』」

スカイさんは、おなじみ「月刊・Stella ステルラ」の主宰者さんのお一人で、とてもお世話になっている方です。学生さんで、星と空をモチーフにした素晴らしい小説やイラスト、私の大好きなノート生まれのキャラたちなどを次々と生み出されています。

さて、お返しは掌編小説にさせていただきました。スカイさんの代表作「星恋詩」から主役の星売りさまをお借りして、二次創作をさせていただくことにしました。


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星売りとヒトデの娘 — 『星恋詩』二次創作
——Special thanks to sky-SAN




 祭は終わった。年老いた賢人の瞳と、獣の尾をもち、過去の記憶を持たない少年が、暗闇の中を一人歩いていた。彼を祭に連れてきた鬼の子は、姫君の生み出した星に乗り、天上へと帰っていった。だから、彼は一人、祭に背を向けて、夜の暗闇へと潜り込もうとした。

 けれど、彼は星売りだったので、歩き動く度に、頭から金粉が舞落ちた。それが一つひとつ星となり、あたりを輝かせるので、完全な暗闇に沈むことは出来なかった。

 ザワザワンと打ち寄せる波を、遠くに聞いた。その繰り返す波にのせて、わずかなすすり泣きが届いたので、彼は足をそちらへと向けた。

 海だった。そこには、ぐっしょりと濡れた、赤い娘がいた。両手で瞳を覆い、ヒュクヒュクと震えて泣いていた。

「いったい、どうしたというのだ」
星売りは尾を振るわせて訊ねた。赤い娘は振り向いて星売りを見た。そして、彼の頭からキラキラキラと、星が舞落ちるのを見て、一層悲しげに泣き出した。

 星売りは困って、頭を傾げた。するともっとたくさんの星がこぼれ落ちてシヤンシヤンと音を立てた。そこで娘は泣くのをやめて小さく答えた。
「私は、海の底のヒトデでございます。海星と言われているのに、私は全く光ることが出来ません。それを申し上げたら、海神さまがお前はくだらないことを考えて本業をおろそかにしているとお怒りになられました」

 星売りはつと考えた。ヒトデならば、海の底の珊瑚の林で合唱をしているはずであった。確かに娘の声は鈴が鳴るように美しかった。

「海神さまは正しい。お前の美は体にではなく、その声にあるのだから」

「でも、私はあなたのように美しく光りたいのです。どうあっても、光ることは出来ないのでしょうか。たとえば、あの祭の火吹き男に松明をわけてもらうことはできないのでしょうか」

 祭の火吹き男は、アルデバランの赤蠍の一人息子であった。本当ならば真っ赤な玉座の上で、紅玉でできた盃から蠍酒を傾けている結構な身分なのだが、周り中が赤くてかなわんと言って、放浪の旅に出た王子だった。星売りはかつて赤蠍王からの使者に頼まれて、火吹き男に一瓶の蠍酒を届けた縁でこの男をよく知っていた。火吹き男の舌にはいつもチラチラと焔が燃えていて、蠍酒やその他の強い酒を飲もうとすると、大氣に酸素が多く含まれているこの星では、口から劫火が生まれてしまう。だから火吹き男は常に息を吹き出して焔が軀の他の部分に燃え移らないようにしていた。それがいつの間にか松明に火をつけて人びとを魅了する芸人のようになってしまったのだった。

 星売りは頭を振った。大好きな強い酒を飲む度に、焔を吐き出さなくてはならない火吹き男はヒトデの娘が思うほど幸せに燃えているわけではない。一方、この娘が同じような焔を口の中に持ったとしても、水の中では火は消えてしまう。それを避けようと焔を飲み込めば、その熱は娘の美しい声を生み出す黄金の喉を焼いてしまうだろう。
「だめだ。お前の大切な声を失わずに、その舌で火を安全に燃やすことは出来ないから」

「それでは、天上に輝く月の柔らかい光を、ぎゃまんの瓶に閉じ込めて、私の額にとりつけることはできませんか?」

 星売りは、そのアイデアについて考えた。天の川にいくらでも落ちいてる天のぎゃまんの瓶にならば、満月の冷たく明るい光を閉じ込めることができる。けれどその光は地上にいる時にだけ光り、海の底へ行くとぎゃまんの瓶をすり抜けて、泡となって消えてしまうのだった。

「お前が、ずっと海の上にいるならいいけれど、そうでないと月の光は一晩と持たないのだよ」

 それを聞くと、娘は絶望して、再び泣きはじめた。これではいけないと思った星売りは、尾を振ってもう一度考えた。考えて、考えて、考え抜いた。けれど、何も思いつかなかったので、残念だと頭を振った。すると星がふたたびシャラランと音を立てて、波間に落ちた。その星は、すぐに海の夜光虫になって、優しく輝きながら海の底へと泳いでいった。これだ。星売りは思った。美しく光る海の生きものもいる。それと協力すればいいと。
「いいことを思いついた」

「なんでしょう」
娘は涙を拭いて、星売りを見て首を傾げた。シャラララと麗しき音がした。

「星売りとヒトデの娘」イラスト by スカイさん
イラスト by スカイさん
このイラストの著作権はスカイさんにあります。スカイさんの許可のない二次利用は固くお断りいたします。


「美しく光るがためにいつも魚たちに追われている海の夜光虫と友達になりなさい。そして、彼らをその胸の中に隠してあげなさい。そうすれば、歌って息を吸い込む度に、夜光虫がお前の体を照らし輝かすだろう。美しく歌えば歌うほど、お前は輝くだろう」

 その助言を聞いて、海星の娘は大喜びになり、本来の姿を現した。それは、海神の美しき七人の娘の末っ子で、つやつやと滑らかな赤い腕の一つひとつに、ぎっしりと真珠がついていた。
「ありがとう、星売りさん。あなたに海のすべての幸運が授かりますように」

 そう言って、娘は海の底の珊瑚の宮殿へと戻っていき、姫君を待ち望んでいた合唱団の真ん中におさまり、コロラトゥーラソプラノで深海のあらゆる賛美を歌った。

 ザワザワンと打ち寄せる波の間に、その麗しき旋律を聴いた星売りは、満足して頭を振った。するとたくさんの星がシャラシャランとこぼれ落ちて、波の合間消えながら幾万もの海の夜光虫に変わった。小さな光る虫たちは、姫と合唱団のコーラスに惹かれて、ぐんぐんと海神の宮殿に向かった。それぞれが姫や合唱ヒトデたちの胸の中に飛び込んで、その歌を子守唄に眠った。

 夜光虫たちの夢みる輝きは、合唱団を光らせ、喜んだ姫たちはますます美しい歌を海神に捧げた。星売りは、ぼうっと光る海の底を眺めて、いたく満足し、シャランと音をたて、それからまた、尻尾を振りつつ、暗闇の中を星を振りまきながら歩いていった。

(初出:2013年3月 書き下ろし)
.13 2013 scriviamo! 2013 trackback0

【小説】「樋水龍神縁起」 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」

Posted by 八少女 夕

scriviamo!


月刊・Stella ステルラ 3月号参加 掌編小説 読み切り月刊・Stella ステルラ


「scriviamo!」の第十三弾です。TOM-Fさんの小説と一緒にStellaにもだしちゃいます。

TOM-Fさんは、「樋水龍神縁起」の媛巫女瑠璃を登場させて「妹背の桜」の外伝を書いてくださいました。ありがとうございます!


TOM-Fさんの書いてくださった小説『花守-平野妹背桜縁起-』「妹背の桜」外伝 競艶 「樋水龍神縁起」

現在TOM-Fさんが執筆連載中の「フェアリ ーテイルズ・オブ・エーデルワイス」は舞台がロンドンで、「大道芸人たち」のキャラが押し掛けて、当ブログ最初のコラボ作品を実現する事が出来ました。TOM-Fさんはとても氣さくで、「コラボしたい〜」という無茶なお願いを快く引き受けてくださったのです。ですから今回のコラボは二度目です。TOM-Fさんの「妹背の桜」は、私と交流をはじめる前に完結なさっていた小説です。もともとは天平時代の衣通姫伝説を下敷きにしているミステリー風味のある時代小説ですが、設定上は平安時代のお話になっています。そこで確かに「樋水龍神縁起」の二人と時代が重なるわけです。

お返しは、最初はストレートに瑠璃媛を出そうかと思ったのですが、この女性、この時点では出雲から一歩も出たことのない田舎者ですし、キャラ同士の話の接点が作れません。そこで思いついたのが、もう一人の主役、安達春昌。こっちはフットワークも軽いですしね。TOM-Fさんの「妹背の桜」からは橘花王女と桜を二本お借りしました。ありがとうございました! 『花守-平野妹背桜縁起-』を受けての桜の移植がメインの話になっています。

もっとも、「瑠璃媛」だの「安達春昌」だのいわれても、「誰それ?」な方が大半だと思います。「樋水龍神縁起」本編は、FC2小説と別館の方でだけ公開しているからです。だからといって、「scriviamo!」のためだけにこの四部作を今すぐ読めというのは酷なので(もし、これで興味を持ってくださいましたら、そのうちにお読みいただければ幸いです)、一部を先日断片小説として公開いたしました。この二人は基本的に本編にもここにしか登場しないので、手っ取り早くどんなキャラなのかがわかると思います。ご参考までに。


この小説に関連する断片小説「樋水龍神縁起 第一部 夏、朱雀」より「樋水の媛巫女」」


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官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。
縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く 縦書きPDFで読む(scribo ergo sum: anex)




「樋水龍神縁起」 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」
——Special thanks to TOM-F-SAN


 退出する時に、左近の桜をちらりと見た。花はとうに散り、若々しい緑が燃え立つが、特別な氣も何も感じない、若い桜だ。ただ、南殿にあるということだけが、この木に意味を持たせている。殿上人たちと変わりはない。今これから動かしにいく大津宮の桜も同じであろう。かつての帝が植えさせたというだけ。斎王を辞したばかりの内親王に下賜され、平野神社に遷されるのだそうだ。木の方違えとはいえ、師がご自分で行かないということは、やはり大した仕事ではないのであろう。

 安達春昌は二年ほど前に陰陽寮に召し抱えられたばかりの年若き少属である。彼は安倍氏の流れもくまず賀茂氏とも姻戚関係はなく、安達の家から御所への立ち入りを許された最初の者であった。従って、本来ならば殿上人にお目見えする機会などもないはずであったが、あらゆる方面にすぐれた知識を持つだけでなく、陰陽頭である賀茂保嵩がここぞという祓いにかならず同行するので、すでに右大臣にも顔と名を知られていた。とはいえ、彼はいまだに従七位上である陰陽師よりも遥かに下位の大初位上の身、昇殿などは望むべくもなかった。

 春昌は野心に満ちて驕慢な男であったが、陰陽頭に対しては従順であった。摂津にいた彼を見出し、その力を買って陰陽寮に属する見習い、得業生にしてくれたのは他でもない陰陽頭であった。それは彼の力が見えているということだった。実をいうと、陰陽寮には「見えるもの」は数名のみであった。見えていない者が判官となり助となっていることは春昌を驚かせたが、彼の力と野心をしても、いまだに陰陽師どころか大属への道も開けなかった。生まれ持った身分で人生が決定するこの世の常は、彼を苦しめた。はやく手柄を、明確な力を示す実績を。春昌は焦っていた。

 それだというのに、桜の方違えだ。御所の庭にも《妹背の桜》と言われる桜が植わっている。大津の同じ名で呼ばれる桜とともに平野神社へ遷されるという木で、もともとは二本揃って吉野に立っていたものだと聞かされた。春には滴るごとく花を咲かせ見事な木ではあるが、それだけのことで陰陽寮の者による方違えが必要とも思えぬ。同じような木であるならば、何ゆえ師は、この私に大津へ行けなどと申し付けられたのか。

「よいか。今、私と安倍博士は御所を離れられぬ。ここしばらく皇子様の瘧、甚だしく、しかも祓っても祓っても、よからぬものが戻ってくる。だが、あの桜の方違いに『見えぬ』陰陽師を遣わすわけにはいかぬ」
陰陽頭みずからにそういわれては、「私めも皇子様の祓いに加わらせてくださいませ」とは言えなかった。

「その桜には、何かが取り憑いているのですか。平野神社に遷す前にそれを祓えばいいのでしょうか」
春昌が、手をついて伺うと、陰陽頭は小さく首を振った。
「確かに特別な桜だが、何も祓う必要はない。祓うなどという事も不可能であろう。平野神社に着くまでに、怪異が起らぬように、そなたが監視すればそれでよい」

 なんだ、やはり大したことのない仕事か。その思いが顔に出たのであろう、陰陽頭はじっと春昌を見て、それから、つと膝を進めた。
「春昌、そなたに言っておくことがある」
そして、安倍天文博士に目配せをした。頷いた博士はその場にいたすべての者を連れて部屋を出て行った。

「春昌。そなた、ここに来て何年になる」
陰陽頭は、厳しい表情の中にも、暖かい声色をひそませて、この鋭敏な若者を見つめた。
「故郷でお声をかけていただいてから、八年に相成ります」

「その間、そなたは実に精励した。文字を読むのもおぼつかなかったのに、寝る間も惜しみ、五経を驚くべき速さで習い、天文の複雑な計算を覚え、医学や暦、宿曜道に通じた。他のものには見えぬ力も、強いだけで制御もままならなかったのに、たゆみなく訓練を続け、符呪をも自由に扱えるようにもなってきた」
思いもよらなかった褒め言葉に、春昌は儀礼的に頭をもっと下げた。

「だが、陰陽師になるには、それだけではだめなのだ」
春昌はその言葉を聞いて、弾かれたように師の顔を見た。陰陽頭の顔は曇り、目には哀れみの光がこもっていた。

「忘れてはならぬ。そなたの未来を阻んでいるのは、特定の人や、生まれついた身分などではない。その驕り高ぶった、そなたの不遜な態度なのだ」
「師。私は決して……」

「言わずともよい。そなたはまだ若く、私の言う事を腹の底から理解する事が出来ぬのはわかっている。だが、大津に行って、あの桜に対峙しなさい。あの痛みを感じるのだ。今のそなたに必要なのは、一度や二度の皇子様の祓いに参加する事などではない。よいか。大津に行かせるのは、そなたのためなのだ」

 近江は忘れられた京だった。造営の途中で戦乱となり、打ち捨てられたために、にぎわいを見せたこともなく、ただ大津宮が近淡海を見下ろすように立っている。摂津より京に上がった春昌は、近江には二度ほどしか来たことがなかった。一人でここまで来るのははじめてだった。

 伴としてついてきた下男に馬を任せ、春昌は大津宮にほど近い丘の上から近淡海を見渡した。なんという開放感。いつもの京の雑踏、光の足らぬ陰陽寮での息を殺した測量と卜占・術数が、どれほど氣をめいらせていたかがわかる。心を割って話せる友もなく、取るに足らぬ家に生まれたくせに生意氣な奴と蔑まれる日々に疲れていた事にもはじめて思い至った。

 師が言わんとした事は、わかったようで、はっきりしなかった。

 得業生となったのは私よりも後なのに、左大臣様の姻戚というだけで、あっという間に出世した判官どのや助どの。彼らに対して隠そうとも燃え立ってしまう妬みの氣を、師は見ていたのかもしれぬ。春昌はため息をついた。

 視線を背後の大津宮に移そうとして、ふと氣配を感じた。
「だれ……。あなた? あなたなの? ようやく、来てくださったの……」

 なんだ、この氣は? それは突然、風のように増幅して、丘の上を満たした。この季節に咲いているはずのない満開の桜の氣だった。これが師のおっしゃっていた桜なのか?

 春昌は、京で何度か陰陽頭とともに百鬼夜行をやりすごしたことがあり、禍々しいものを祓ったことも数多くあったので、怖れはしなかった。だが、それは悪意の漂う怨霊の氣配とはまったく異なるものだった。かといって、聖山に満ちる清浄な氣とも違っていた。

 ねっとりとまとわりつく、真夏の宵のような氣、カミに近い清らかさはあるものの、どこかで感じた、もっと身近なものに似通う重さもある。

 ああ、五条の芦原の女房だ。春昌は、愛想を尽かしてしまった品のない女のことを思い出す。
「お恨み申し上げます。私のことは、遊びだったのですね。これほどお慕い申し上げても、お返事もくださいませんのね」
涙で白粉がはがれ、それでもこちらの氣持ちが変わるのを期待するように、袖の間から覗く、どこかずる賢い女の視線。こびりつく妄執。離すまいと縋り付く、重い、重い、想い。

「おのれ。出たか」
春昌は、身構えた。だが、氣はそれ以上近寄ってこようとはしなかった、それどころか、急激に規模を小さくしている。

「なぜ……。私は、あなたを待っていただけなのに……」

 春昌は、ひと息つくと、身を正して大津宮の門へと歩を進めた。そして、怖々と、しかし、氣を引かんとするように、こちらの身に度々触れる例の氣を感じながら、礼を尽くして訪問の意を伝えた。

「お待ち申し上げておりました」
中からは、年を経た郎党が深々と頭を下げて迎え入れる。何人かの老女と、桜の移植のためにすでに控えている人足たちが土に手をついて都からの陰陽寮職員を迎えた。

「実は、平野神社には前斎王様がお忍びでお見えになっており、この桜の到着を待っているとの報せがございました。長旅でお疲れの所、誠に申しわけございませんが、すぐにはじめていただきたいのです」

 春昌は眉をひそめた。
「吉日である明日に事をはじめるよう、準備をして参りました。今すぐはじめるのであれば、再び方位を計算しなおさねばなりませぬ」

「それでも、是非」
「明日から始めたのでは、前斎王様の物忌みにさしつかえてしまうのです」

 春昌は大きくため息をついた。わがままな内親王め。こっちの迷惑も考えろ。だが顔に出すわけにはいかない。まじめに計算しなおしていたら、明日になってしまう。彼は、腹を決めて、桜の木の助けを求める事にした。こちらにはありとあらゆる星神の位置を鑑みて計算しなければわからない事でも、この桜にははっきりわかっているはずだ。本人にとって大切な事なのだから、文句は言わずに教えてくれてもいいだろう。

 彼は黙って、桜の前に座った。新緑の燃え立つ、葉桜だ。しかし、いまだに満開の花氣を発している。奇妙な木だ。師のおっしゃっていた意味が分からない。この木の痛みを感じる事がどうして私のためになるのか。

「私に何をしてほしいの?」

 春昌は、声に出さずに、木に語りかける。
「今すぐに、あなたを平野神社に遷さねばなりませぬ。予定してきた明日の方位は使えませぬ。あなたにとって一番の移動の方位をお示しください」

「なぜ、ここにいてはいけないの? 私は、待っているのです。ここにいないと、あの方は私に帰り着かないでしょう」
「平野神社にお連れするのは、主上さまの御意志です。あなたをもう一本の桜と一緒にするためだそうです」

「どの桜?」
「あなたと同じく《妹背の桜》と呼ばれる御所にある桜です。確か、吉野ではあなたと一緒に立っていて、みまかりし先の帝がここと御所とに……」
「ああ、ああ、ああ」
春昌が語り終えるのを待たずに、桜の氣は再び大きくなった。激しい歓びの氣だ。
「今すぐに平野神社に行けば、また私たちは一緒になれるのですね」

 急にハッキリとした意志を持ったかのように、桜は氣を尖らせてまっすぐに近淡海の南端を示した。その先には、石山寺がある。一夜を明かすのにふさわしい。そして、そこから再び折れてまっすぐに平野神社の方位を示した。春昌はかしこまり、その方位を懐紙にしたためた。

* * *


 平野神社に着いたのは二日後の夕暮れだった。ねっとりとした女の氣に辟易しながらも、それにも慣れてきた頃だった。何ゆえにこの桜は、いつまでも満開の氣をしているのだろう。なぜ、これまで誰も祓おうとしなかったのだろう。明らかに、ただの桜ではないのに。旅の途上で春昌が思う度に、桜は責めるように、けれど、どこか誘うように生温い氣を這わせてくるのだった。それで、春昌は一刻も早く、物好きな前斎王にこの木を引き渡したいと願った。

 平野神社には、驚いた事に、御所にあったもう一本の桜が既に届いていた。そちらは、当然のごとく花の氣ではなく、季節に応じた氣を漂わせていたが、御所で見た時のような凡庸なものではなく、内側から震えるように輝き、大津の《妹背の桜》を心待ちにしていた事がわかった。

「ようやく、ようやく、願いが叶った」
「ああ、やっと、ほんとうにお逢いできたのですね。あなた……」

 すべての儀式を終え、退出の準備をしている所に、位の高そうな女房が近づいてきた。
「もうし……」

 春昌が、かしこまると、前斎王様が直々にお逢いしたいと仰せだと春昌を本殿へと連れていった。春昌は言われた通りに、本殿の前に用意された桟敷の上に座り、頭を下げた。

 御簾の向こうから衣擦れの音がした。
「どうぞ、頭を上げてください」
暖かく、深い声が聞こえてきた。名に聞こえた伝説の斎王がその場にいる。春昌は武者震いを一つした。

「無理を言った事をお許しくださいね。どうしても、一刻も早く桜を見たかったのです。主上さまや陰陽頭には私から重ねて礼を伝えさせていただくわ」
やれやれ。そうこなくては。春昌はかえって都合が良くなってきたと腹の内で喜んだ。

「あなたは、とても早く新しい方位を割り出してくださったと、みなが驚いていました。どうやったのですか?」
長く斎王をつとめ、賀茂大御神に愛された偉大な巫女ともあろう方が、このような質問をするとは。
「《妹背の桜》ご自身にお伺いしたのです。急な変更で、計算する時間がございませんでしたので」

 前斎王は、はっと息を飲むと、衣擦れの音をさせた。御簾にもっと近づいたらしい。
「話をしたのですね。あなたは、桜と話せるのですね」

 なんと、このお方は「見えぬ者」なのか。わずかに呆れながらも春昌はかしこまった。
「教えてください。桜はなんと言っていましたか。私の決定は間違っていないと言っていましたか」

 春昌は、面を上げて、御簾の、前斎王がいると思われる場所をしっかりと見据えて答えた。
「ご安心くださいませ。かの桜の喜びようは、またとないほどでございました」
「桜が……喜んでいるのね」
「はい」

 御簾の向こうから嗚咽が聞こえた。どれほど長い事、こらえていたのだろうか。引き絞るような深い想いだった。春昌は、御簾の向こうの前斎王の強い氣を感じた。それは、一瞬にして甦った過ぎ去りし時の記憶だった。春昌のまったく知らない人びとの幻影が通り過ぎる。衣冠をつけた若く凛々しい青年、華やかで匂いたつような美しい女、帝の装束を身に着けた壮年の男、高貴で快活な青年……。二本の桜から立ち昇る歓びの氣と、前斎王の記憶に混じる楽しさの底に、同じ哀しみが流れている。春昌が、これまで愚か者の妄執と片付けていた、ひとの情念。生きていく事そのものの哀しみと痛み。

 ああ、師のおっしゃっていた、感じてくるべき痛みとはこの事なのだろうか。悼むというのは、この感情を持つ事なのだろうか。

 前斎王がこの桜にどのような縁があるのかはわからなかった。だが泣いているということは、相当深い縁なのであろう。三人の帝に、斎王として仕えた長い人生。我々が知る事も出来ないほどの過去に、何かがあったのであろう。春昌は退出すると、狂喜乱舞しながら哭く二つの桜の氣を背中に感じて、京への帰途に着いた。

 別れ際の前斎王の言葉が耳に残る。
「あなたのように、本当に能力のある人が、主上さまにお仕えしているのは、頼もしい事です」
「もったいなきお言葉です」

「つい先日、あなたのように素晴らしい能力を持った方にお会いしたわ。奥出雲で」
「樋水の媛巫女さまでございますか」
「ご存知なの?」
「滅相もございません。お名前を噂で漏れ聞くばかりでございます」

「そう。お美しい方でした。神に愛されるというのは、ああいう方の事をいうのね」
この私とは正反対だな。春昌は心の中で笑った。

「陰陽寮と奥出雲、場所も立場も違いますが、あなた方のような若い人たちに未来を託せるというのは嬉しい事です」

 前斎王の声には、疲れが響いていた。長い人生。見てきた事、見続けるだけで果たせなかった事。未来を夢みる事のなくなった響き。
「私は、ようやくこれで、安心して眼をつぶれます。大切な二本の桜が私を弔ってくれる事でしょう」

 帝の内親王として何不自由なく育った女の低いつぶやくようなささやきは、春昌の心にしみた。生まれの高いものを羨み、妬みや悔しさに身を焼く自分の苦しみは、この女にはなかったであろう。だが、そうではない痛みに長く貫かれてきたのだろうことは、彼にも想像できた。やんごとなき血に生まれようとも、何十年ものあいだ神聖なる社で過ごそうとも、人はやはり人なのだった。春昌もまた、陰陽寮にて市井では得られぬ知識を学び、他の者には見えぬものを見て祓うことができようとも、ひとの心の中にうごめく情念と哀しみは如何ともしがたかった。

 人はみな、苦しみや哀しみと無縁ではいられぬのであろうか。呪を操る世界に生きるという事は、このような哀しみと痛みを感じ続けるという事なのだろうか。師のおっしゃっていたのは、こういうことなのだろうか。

 彼は初夏の風を受けながら、魍魎のうごめく京へと戻っていった。大津の自由な風、歓びに震える桜の木の叫び、そして、哀しく終焉を待つ女の静かな祈りは春昌の中に残り、静かに沈んでいった。彼が陰陽頭である賀茂保嵩の推薦を受けてようやく陰陽師となったのは、それから二年後の事であった。

(初出:2013年2月 書き下ろし)
.28 2013 scriviamo! 2013 trackback0

【小説】夜のサーカスとわすれな草色のジャージ

Posted by 八少女 夕

月刊・Stella ステルラ参加作品です。二月ももうじき終わり。そう、投稿期間なのです。いつもの「夜のサーカス」シリーズです。ようやく、チルクス・ノッテ側の主要メンバーが全部揃いました。今回登場するのは、ヒロイン・ステラの幼なじみと言ってもいい青年、マッテオです。バリバリのイタリア人です。


月刊・Stella ステルラ 3月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


あらすじと登場人物
「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む



夜のサーカスとわすれな草色のジャージ


夜のサーカスとわすれな草色のジャージ

 オリンピックの選考から漏れたと知った時、マッテオは悲しいとか、悔しいとか思う余裕はなかった。この日が来る事は、予想していてもよかったはずだ。でも、心がついていかない。子供の頃から体操界で活躍する夢しか持ってこなかったからだ。

 マッテオは二十歳だった。学校に行ったり、見習いを始めたりといった、新しい人生の切り直しをするには育ちすぎていた。かといって引退して悠々自適の生活をするほど歳をとっている訳でもなかった。ずっと体操しかしてこなかったのでカーブが下を向いた時にどうしたらいいかわからなくなるのはマッテオだけではなかった。

 たくさんの仲間たちとしのぎを削ってきた。選抜選手を決めるための合宿に参加していた馴染みの少年少女たちは、大会の成績に応じていつの間にか少しずつ入れ替わった。マッテオは、同期の中ではいつも一番だったので、たくさんの出会いと別れを経験した。でも、それは他の誰かが出たり入ったりするだけで、彼の居場所は常に約束されていたのだ。これまでは。急に未来がなくなって、マッテオは途方に暮れた。

「望むのは優勝、少なくともイタリア代表になる事」
そう豪語してきたマッテオにみな賛同した。
「俺も」
「私もよ」

 けれど、一人だけ、にっこりと笑って何も言わなかった少女がいた。マッテオはその金色の瞳の少女の事を考えた。彼女は、もう選考会にも合宿にも参加しなくなった。他の子たちの場合とは違って成績が落ちたからではなかった。

 不思議な魅力を持った少女だった。マッテオは彼女を十年ほど知っていた。彼女が合宿に連れられてきた時のことを、いまでも鮮明に思い出す事が出来る。まだ学校にも入っていな年齢の少女に彼は訊いた。
「君、小さいね。もう体操を始めたの?」
「大車輪を出来るようになりたいの」

 そんなはっきりとした目標を六歳の少女が口にするとは夢にも思わなかったマッテオも、横にいた教師も驚いた。少女は、きらきらとした瞳を輝かせて言った。
「わたし、ステラよ。あなたは?」

 ステラはとても優秀だった。しなやかで軽やかだった。床運動や平均台ではバレリーナのように美しく芸術的に動いた。段違い平行棒や跳馬は正確に、でもスピード感を持っていた。天性のものもあるのかもしれないが、それだけではないようだった。教師やコーチに言われたままに、得点の上がるような演技を目指す他の少女たちと、どこかが全く違っていたのだ。

 金色の瞳がいつもキラキラと光っていた。女性らしい柔らかな動きでマットの上を跳躍していった時、段違い平行棒で見事な大車輪をしていた時、平均台の上で意識を集中させて回転した時、全身から生き生きとした歓びが、隠しきれない情熱が溢れ出していた。確実に得点出来るように無難なステップを選んだり、コーチに言われたから見せる硬い作り笑いをする少女たちとはあまりにも違っていた。そのために、時として彼女の成績は芳しくない事があった。

 彼女は得点には興味がなかった。驚くほどの自己克己と努力をしていたが、目指しているのは大会での競技ではなかったのだ。だから、彼女はオリンピックで金メダルを穫りたいというような目標を口にする事はなかった。

 彼は今、ジャージをボストンバッグに丸めて突っ込みながら、自分の行く末について想いを馳せている。世界選手権に、オリンピックにいけなくなったら、どんな人生が待っているかなんて考えてもいなかった。どこか田舎で体操の教師としての職を探すか。それともスポーツインストラクターになって都会の有閑マダムの相手をするか。ちくしょう。それはちっとも輝かしい未来には思えなかった。そう、あのステラが目を輝かしていたような、希望に満ちた未来には。

 マッテオは協会の重い木の扉を押して外に出ると、木枯らしの吹くパルマの街をとぼとぼと歩いていった。風が木の葉をくるくると遊ばせて、ホコリが彼の目を襲った。くそっ。
かさかさ音を立てる枯れ葉の間に、しわくちゃになった一枚のチラシがあった。ふと足を止める。サーカス。チルクス・ノッテ。……チルクス・ノッテ?

「じゃあ、これで、さよならね」
半年前の大会が終わった日、ステラは握手を求めてきた。

「これでって、どういうこと? 来月には選抜の合宿があるよ」
「わたし、就職が決まったの。だから、もう競技には出ないの」
「嘘だろう? 君は入賞候補なのに。何か事情があるのかい? お金の問題かい?」

 ステラは生き生きとした瞳で微笑んだ。
「違うの。ようやく夢が叶ったの。私ね、サーカスに入ったの」
マッテオはぽかんと口を開けてステラの顔を見つめた。サーカス?

 チルクス・ノッテは、そのステラが入団したサーカスだった。マッテオはあわててチラシを拾って指で丁寧に拡げた。そんなに古くないチラシだった。パルマでの興行は終わっていなかった。明日が最終日だ。ステラは、この街にいるんだ! マッテオは、いま来た道と反対側、チルクス・ノッテのテントのある方へと走った。切符を手に入れるために。

* * *

 舞台には光があふれていた。妖艶で美しい女が、ライオンを操っていた。たくましく異国情緒をたたえた屈強な黒人が、見事な逆立ちをしてみせた。赤い水玉のついた白いサテンの服を来たピエロが滑稽ながらも鮮やかなジャグリングをしていた。派手な縞の服を来た男が操る馬たちの曲芸。観客の叫びと、喝采の中で場内は熱い興奮に包まれていた。

 やがて、照明は清らかな青に変わった。静かで宗教的とも思える音楽とともに、先程の道化師が紅い薔薇を手にして舞台に上がってくる。彼は憧れに満ちた様子で上を見つめている。その先に眩しい蒼い光が満ちて、ゆっくりとブランコが降りてきた。ゆったりとしたワルツに合わせて、ブランコは大きく揺れだす。神々しいほどの優雅な動き。彼女はブランコから、道化師めがけて飛び降りるかのように宙に飛び出す。けれどももちろん落ちたりなんかはしない。見事な回転のあとで、しっかりとブランコを掌でつかむのだ。

 マッテオは、その回転が体操界でなんと呼ばれるものか、すべて言う事が出来た。けれど、そんなことはここでは全く意味がなかった。落ちるかと思ったのに、足だけでブランコに引っかかる。片手だけでぶら下がりながら、美しいアラベスクのポーズをとる。ステラの動きの一つひとつに、観客から大きな拍手が起こった。

 喝采を浴びながら、道化師の優しい眼差しのもとで、超新星が爆発したごとき猛烈な輝きを放っている。仲間の体操選手たちの中で、一人だけ違う方向を見つめていた少女は、ここを目指していたのだ。何十人もの選手の中に埋没した一人としてではなく、何百人もの観客の視線を一身に集めていた。そして、光の中であふれる生命力と、息苦しくなるような哀しみと、狂おしい歓びを謳歌していた。

 なんという美しさだろう。マッテオは強い憧れがわき起こるのを感じた。これが彼女の言っていたことなんだ。
「ようやく夢が叶ったの。私ね、サーカスに……」

 カーテンコールが終わって、観客がどんどん去っていっても、マッテオはずっと席に座っていた。

 抱えているボストンバックには、イタリアチームの青いジャージが入っている。どうする? もう一度体操界でトップになるために、そして、いずれは失ってしまう場所を勝ち取るために、高得点のためだけの技術を競うか? このまま、諦めて、イゾラの街に帰るか? それとも……。マッテオは暗くなった誰もいない客席で、舞台を見つめたままじっと座っていた。

 舞台に小さな光が点り、薄紫のシャツにジーンズ姿の一人の青年が入ってきた。そして、膝まづいて、端から舞台のナットが弛んでいないかを点検しだした。慣れているらしく、正確で素早い動きだった。そして、よどみなく移動していく。彼が三分の一ほどの点検を終えた所に、ぱたぱたと音がして青色の何かが走り込んできた。
「あ、いたいた。ヨナタン!」

 その声は、間違いなくステラだった。目を凝らすと、少女は先程の輝く美しい衣装とは打って変わり、明るい金髪をポニーテールにして、マッテオとお揃いのわすれな草色の、つまり、イタリアチームに支給されたジャージを着ていた。何を着ていても、彼女の生き生きとした様子は変わらなかった。いや、むしろ際立って見えた。

 ヨナタンと呼ばれた青年は膝まづいたまま顔を上げて、すぐ側にやってきたステラを見た。
「あのね。マルコたちが街のバルに行くんだって。マッダレーナとブルーノも行くみたいだし、ヨナタンも一緒に行かない?」

 ヨナタンはすっと立ち上がった。ステラよりも頭一つ分背が高い。彼女を見下ろすと、優しく静かに言った。
「この点検が終わったら行くよ。先に行っていてくれてもいいよ」

 ステラは大きく首を振って答えた。
「着替える前に、どこで待ち合わせるか、みんなに訊いておくね。点検が終わるまで待っているから、一緒に行かない?」

 ヨナタンは同意の印に、片手でくしゃっと彼女の前髪を乱してから、その小さな背中をやって来た方向へと押した。スキップするようにステラが去ると、青年は何事もなかったかのように点検を続けて、終わりが来るとすっと立ち上がり、舞台の電灯を消して立ち去った。

 マッテオは、立ち上がった。テントの出口を手探りでみつけて月夜に躍り出ると、雄牛のような勢いで、キャラバンカーのたくさん並んでいる所に向かった。

「すみません!」
たまたますれ違った中年の男を捕まえると、つかみかからんばかりに責任者に会わせて欲しいと頼み込んだ。よく見たら、それは先程、舞台の上で綱渡りをしていた小男だった。マッテオの態度に怯えたルイージは、彼を団長ロマーノのキャラバンに案内してくれた。

 馬の曲芸師がでて来た。こいつが団長だったんだ。彼はマッテオを見ると髭をしごきながら興味深そうに訊いた。
「私に何か用かね?」
「ぼ、僕、マッテオ・トーニといいます。体操をやっていて、イタリア選手権にもでた事があります。そ、その、ここの入団テストを受けたいんですが!」

 ロマーノは、じっとマッテオを見つめた。服の上からでもわかる筋肉質の均整のとれた体型を上から下まで堪能した。それから再び髭をしごきながら、笑顔をみせると言った。
「明日、十時に撤収と移動が始まる。その前に、君のテストをしよう。朝の八時に舞台となったテントに来れるかね?」

 マッテオは、大きく頷いた。ボストンバックをしっかりと抱きしめた。このジャージを着てテストを受けよう。待ってろ、ステラ。数日後には、僕は君の同僚になっているからな。

(初出:2013年2月 書き下ろし)
.24 2013 小説・夜のサーカス trackback0
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