scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

Tag: 連載小説 - 新しい順に表示されます。


Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(4)アカシアの道 - 2 -

「郷愁の丘(4)アカシアの道」の続きです。レイチェルのうっかり発言により、グレッグの片想いの相手は自分だとジョルジアは氣づいてしまいました。モテモテのひとは、こういう場合の上手なあしらい方というのをわかっているのでしょうが、彼女はそうでなく……。

人生には、時々こういう瞬間があると思います。これまでの経験がほとんど役に立たず、とっさに何かをしなくてはならない時。このとっさの行動が、実は人生のターニングポイントだったという事は、もちろんその時にはわかりません。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(4)アカシアの道 - 2 -

 苦痛に満ちた顔で、階段を降りていってしまった彼を見て、レイチェルは彼女に言った。
「ごめんなさい、私、ヘンリーに謝ってこないと」

 彼女が出て行き、閉まったドアをジョルジアは眺めていた。あまりの不意打ちで、彼女の思考は止まっていた。

 ジョルジアは、恋愛模様の当事者になった事はほとんどなかった。ティーンエイジャーの頃から人びとの関心は、美しく装った妹に集中し、彼女はそれを客観的に眺めるばかりだった。

 男性とデートするようになったのは通常よりずっと遅く、同僚のベンジャミンに紹介されてからだ。その相手であるジョンにひどく傷つけられて去られてから、彼女は人との交流そのものもまともに出来なくなり、社会からも背を向けた。

 一年ほど前から、意に反して恋に落ちてしまったが、その相手は知り合いでもなく実際に逢う事もないので、恋愛の当事者として当意即妙の反応を返す必要は全くなかった。

 突然、こんな形で男性を意識する事になり、彼女はどうしていいのかわからなかった。荷物の前に座り込み、何をするでもなくそれを見つめた。

 どれだけそうしていたかわからない。彼女は階段を上がってくる音を聞いた。短いノックが聞こえた。
「ジョルジア」
グレッグだ。

 彼女は立ち上がり、混乱して戸惑いながらドアに向かった。どんな顔をすればいいんだろう。

「開けなくていい、ただ聴いてほしい」
ジョルジアは、ドアノブに手をかけたまま立ちすくんだ。

「レイチェルが言ったことは、どれも本当だ。それに、あのとき君に話した、好きになってしまった女性というのは、君のことだ。でも、君をマリンディに招待したのも、こんな所まで連れてくることになってしまったのも、邪なことを企んでいたわけじゃない。ただ、リチャードの事務所で君に再会したときに思ったんだ。こんな奇跡は二度と起こらない。だから一分でも長く君と時間を過ごしたいと」

 彼女は、混乱していた。彼に対して一度も感じたことのなかった動悸にも戸惑っていた。それでいて、片想いをしている男に感じる強い痛みと熱情が欠けていることも冷静に感じていた。どうしていいのかわからなかった。ジョルジアは、望まぬ相手に愛の告白をされたことなどこれまでたったの一度もなかった。ましてや、その相手がこれまで一度も感じたことがないほど自分に近く感じる特別の相手なのだ。

「君がショックを受けて、僕に不信感を持つのは当然だ。距離を置かれたくなかったからだが、故意に隠していたのは事実だし、自業自得だと思う。君をちゃんとナイロビ行きの停まるヴォイかムティト・アンディまで送り届けてくれるようにレイチェルに頼んだ。せっかくの休暇に不快な思いをさせてしまって、本当にすまなかった」

 ジョルジアは、何か言わなくてはならないと思った。だが、何が言えるだろう。近いと思える存在を失いたくないから「無害な」友達でいてほしいと? そんな都合のいいことを言う権利があるとでも?

 しばらくしてから、彼が返事を待たずに去っていく足音が聞こえた。ジョルジアはドアを開けてその落胆した後姿が階段を降りて見えなくなるのを黙って見つめた。彼は振り返らなかった。

 何かを言わなくてはならない。もしくは、敵意のない態度を見せなくてはならない、例えば食事のときに、いや、リビングに行ってレイチェルに話しかけながらでも。

 彼が謝らなくてはならないことなどなにひとつなかった。もし、それが罪なら、ジョルジアが、自分を知りもしない相手のことをいつも考えてしまうのも大罪だった。彼女はグレッグと一緒にいた時間を不快に思ったことは一度もなかった。何と答えていいかもわからないほど混乱させられている彼の告白ですら不快ではなかった。

 ジョルジアが、それを告げようと決心して階下に降りようとした時、表からエンジン音がした。そしてルーシーの吠え声がドアの締まる音とともに消えたのも。

 彼女は、我に返って階段を走り下りた。玄関にはレイチェルがいて、ジョルジアを見て頷いた。

「彼は?」
「このまま、帰るそうよ。あなたをよろしくって、頼んでいったわ」

 ジョルジアは、そのまま彼女の横を通り抜けて表に出た。黒いランドクルーザーは、もう門を出て走り去っていた。ジョルジアは走って公道に出た。並木の間を赤茶けた道がずっと続いている。土ぼこりが舞い上がって、去っていく車が霞んでいく。彼女は、間に合わないと思いながらもただ走った。けれど、ぬかるみの中に隠れていた石につまづいて転んでしまった。

 膝と、それから手のひらに激痛が走った。こんなのは嫌。世界は突如として以前通り素っけなく親しみのないものに変わってしまった。アフリカも厳しく痛い存在になってしまった。どうして。

 こみ上げてくる苦しさを押し込もうとしたその時に、彼女は近づいてくる犬の吠え声を聞いた。顔を上げると、焦げ茶のローデシアン・リッジバックが走り寄って来ていた。
「ルーシー……」

 大きい犬は、尻尾を振ってジョルジアに駆け寄ると、振り向いて主人を呼んだ。グレッグが遅れて走って来ていた。彼は、駆け寄ると屈んで「大丈夫か」と訊いた。

「痛いわ」
彼女は、手のひらを見せた。赤茶けた泥まじりの土の下から血がにじみだしている。

「この辺りはアカシアの木ばかりだから、トゲがたくさん落ちているんだ」
彼はとても優しく手のひらの泥を拭って、棘がいくつも刺さっているのを見た。
「すぐに手当をしないと。立てるか」

 ジョルジアは、完全に安堵している自分に驚いていた。泥だらけの惨めな姿で、手のひらと膝は痛くても、心の方の痛みが消えていた。

「ルーシーが吠えて報せてくれなかったら、君が追って来ていたことも、こうして怪我をしたことも知らずにそのまま走り去ってしまう所だった」

「どうしてさよならも言わずに行ってしまうの? 約束したのに」
「約束?」
「約束したでしょう。私を《郷愁の丘》へ連れて行ってくれるって」

 彼は驚きに満ちた目で、彼女を見つめた。
「……。君は、二度と僕と二人きりにはなりたくないんだと思っていた」

「私はムーア博士に逢いにここに来たわけじゃないわ。マリンディに行こうと思ったのも、イタリア人街を見たかったからじゃない。あなたは、他のどんな人とも違う。あなたは私にとても似ていて、きっと誰よりもわかってくれる人だと感じたからよ。あなたと友達になりたかったの。それが迷惑だと言うなら諦める。でも、こんな風に黙って去っていったりしないで」

 グレッグは、ジョルジアを支えてゆっくりと立たせた。
「《郷愁の丘》までは日帰りできる距離じゃないんだ。それでも来るかい?」

 彼女は頷いた。
「荷物を取ってくるわ」

 グレッグは、少し間を置いてから言った。
「まず、この傷の手当をしてからだ。車をとってくるから、ルーシーとここで待っていてくれ」

 彼は、かなり先に乗り捨てたランドクルーザーの方に歩いて戻っていった。ジョルジアは、ルーシーの優しい鳴き声を聞きながら、その背中を見ていた。
関連記事 (Category: 小説・郷愁の丘)
  0 trackback
Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(4)アカシアの道 - 1 -

二週ほど別の小説が入りましたが、本年のメイン小説「郷愁の丘」再開です。五歳児メグを届ける目的で、祖母であるレイチェル・ムーア博士の家にやってきたジョルジアたち。ここでジョルジアは意外な事を知る事に……。

ところで、アフリカの白人のお家は平屋でやたらと広いものが多いのです。おそらく土地はいっぱいあるからなのでしょうね。以前ヨハネスブルグ郊外で滞在したお家は、とても広くて、トイレに行く時にギリギリまで我慢するとピンチになるくらいでした。ナイロビで滞在したお家、モンバサで滞在したお家も広かったなあ。

今回も二回に分けています。「よりによって、そこで切るか」と言われても、半分くらいがここだったんだもの……。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(4)アカシアの道 - 1 -

 四時間のドライブのあと、一行は赤茶けたサバンナの舗装されていない道をゆっくりと進み、たくさんのアカシアの樹が生えている一画に建つ家に入っていった。それはアフリカには多い大きな平屋建てで、二匹のドーベルマンが前庭を駆け回っていた。

 彼が降りて呼び鈴を押すと、電動で門が開き、彼は車を玄関先まで進めて停めると、メグを起こしてジョルジアと自分の荷物を玄関に運んだ。玄関が開いて映画でその姿に見覚えのある動物学者レイチェル・ムーア博士が出てきた。

 メグは祖母の姿を見ると、それまで必死で抱きついていたジョルジアからぱっと離れて、その腕の中に飛び込んだ。
「ナナー!」

 映画で見たときより少し歳とったとはいえ、レイチェル・ムーア博士は誰かの祖母という言葉がピンと来ないほど若々しくて生氣に溢れた女性だった。少し濃いめの金髪はボブカットに揃えられ、半袖のサファリシャツと太ももまでの丈のショートパンツから見えている手足は瑞々しかった。

 ああ、この人は光だ。ジョルジアは感じた。それは彼女が兄である実業家マッテオ・ダンジェロや、世界でもっとも成功したモデルの一人である妹アレッサンドラに対して感じる、抗えない強いパワーと同じエネルギーだった。

「なんてお礼を言ったらいいのかしら、ミズ・カペッリ。この子はどうしてもヘンリーのことが怖いらしいの。あの髭と生真面目さのせいだと思うんだけれど」

「レイチェル。僕は車を駐車場に入れてきます」
「あ、ヘンリー。申し訳ないんだけれど客用の駐車場に、アウレリオが買った鉢植えを八本も置いたまま行ってしまったの。適当にどけてくれる?」

 グレッグは頷いた。
「本来はどこに置くべき鉢なんですか」
「スイミングプールよ。置くスペースは作ったんだけれど、今日、雑用で来てくれているジェイコブが来なかったから移動できなかったの」
「わかりました。じゃあ、プールに運んでおきます」

「私も手伝うわ」
ジョルジアが言うと、グレッグは首を振った。
「君は、ゆっくりしててくれ。ようやく客らしい立場になれたんだし」

「そうよ。まず客間に案内するわね。その後すぐお茶を淹れるわ」
ジョルジアは少し慌てた。
「私の事はおかまいなく。ミセス・ブラスが大変な時で、それどころではないでしょう」

 レイチェルは笑顔で首を振った。
「最初の連絡では私も慌てたけれど、さっき本人から電話があってね。全く問題がないんですって。少しおかしいなと思った時に誰もいなかったのでパニックに陥ってしまったらしいの。ヘンリーがすぐに病院に運んでくれて、しかもあなたたちがメグを無事にここに届けてくれるとわかったら、安心したみたい。あっちは蒸し暑いでしょう。それで調子を崩したのね。明日、退院してアウレリオと一緒にこっちに戻ってくるわ。だから、マリンディではできなかった分、あなたをおもてなししたいの。よかったらこちらにお好きなだけ逗留していってくださいな」

 ムーア博士が彼女を二階に案内した。メグも嬉しそうについてきたが、客間の前でシャム猫をみかけると声を立てて駆け出し、猫と一緒にまた一階へ行ってしまった。

 ムーア博士は客間の扉を開けると言った。
「ねえ、どうか私をレイチェルと呼んでちょうだい。メグの友達になってくれたんですもの、私の友達にもなってほしいわ」
「光栄です。ジョルジアといいます」

 そう答えるとレイチェルはウィンクして答えた。
「知っているわ。あなたの名前も、それから、お仕事も。あなたとやっとお知り合いになれてとても嬉しいのよ。彼の幸せは私たちの重要な関心ごとなの。彼はどう思っているかわからないけれど、私もマディも、ヘンリーの家族のつもりだから」

 ジョルジアは、彼女が何を言っているのかよくわからなかった。どこから訊き直すべきか考えている間に、レイチェルは本棚から抜き出した写真集を見せて笑いかけた。それはジョルジアの『太陽の子供たち』だった。まさかケニア中部の初めてあった人の家でこれを目にするとは思わなかったので、彼女はさらに驚いた。

「これはヘンリーのところにあったのよ。この前のクリスマスに彼の家に行った時にマディが見つけてクリスマスプレゼント代わりにって強引にもらってきてしまったの。以前アテンドした写真家で、アメリカの有名な賞で入賞したって、アシュレイから訊いてから欲しがっていたのに、売り切れで手に入らなかったから」

 グレッグが『太陽の子供たち』を持っていた? まさか。

 今回の旅で、彼女は前回のアテンドのお礼として、リチャード・アシュレイとグレッグ用にそれぞれサイン入りの写真集を持ってきた。リチャードは「欲しかったのに手に入らなかったんですよ!」と大喜びしたが、グレッグははにかみながら礼を言って受け取っただけだった。関心があったとは思いもしなかったのでもう持っているかどうかは訊かなかったのだ。

「マリンディに出かける前に、マディがね。ヘンリーが招待した女性、どこかで聞いた名前だと思ったらこれだったんだわって、持ってきたのよ。私もね、彼が子供の写真集ばかり持っている理由がわかってホッとしたの。私たちがよく話すようになってからこのかたガールフレンドがいた形跡がないし、ペドフィリアの傾向があったら由々しき問題でしょう? でも、おつき合いしている女性の作品だったから集めていたんだとわかったから、本当に安堵したのよ」

「これ以外にも、私の写真集を?」
「ええ。七、八冊くらいあったかしら」

 それは、つまり、出版されている私の写真集をほとんど全て持っているってこと? 言葉がでてこなかった。

 彼が子供好きでないのは、メグの扱いを見てもわかる。それに七、八冊あるという事は、その前に撮っていた風景の写真集もあるはずだ。彼が写真集を買った理由は題材にあるわけではなく、写真家に興味があるとしか考えられなかった。けれど、彼はこれだけたくさんの事を話したのに一度もその事に触れなかった。それは……。

 彼との会話が甦る。
「知り合ってもいない人に恋をしたことがあるんですか?」
「いや、知り合ってはいます。でも、二度と逢う機会もない程度の知り合いだったから、あなたのケースとほとんど変わりありませんよ」

 彼女は、手にした自分の写真集を見つめた。あの言葉を聞いたとき、自分と結びつけて考えることはなかった。だが、そうではないと断言する理由などどこにもないのだ。

 レイチェルが誤解するのも無理はない。彼が、マリンディの別荘に誘った時に、ジョルジアは彼を既婚者だと思っていたのでそんなつもりはなく招待に応じたが、レイチェルやマディの立場で考えれば、彼が女性を連れてくると言ったら恋人だと思うだろう。

 彼が階段を上がってきたのが目に入った。ジョルジアが手にしている『太陽の子供たち』を見て、彼はレイチェルが何を話していたのか悟ったようだった。

「まさか……知らなかったの?」
レイチェルは、口元に手を当てて、痛恨のミスをどう取り戻そうかと考えているようだった。だが、ジョルジア自身は驚きと混乱で、氣の利いた言葉を返すことが出来なかった。
関連記事 (Category: 小説・郷愁の丘)
  0 trackback
Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -9- サラトガ

WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。もう二ヶ月か、早いなあ。

今回は、珍しく「ちょっと嫌われ者」の客が登場します。まあ、店主の田中にとってはどんな人でもお客様ですが。なぜか夏木が準レギュラー化しているなあ。それにバーの小説なのに、下戸のキャラばかりってどんなものでしょう。


月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む
「いつかは寄ってね」をはじめから読む「いつかは寄ってね」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -9- 
サラトガ


「今日は、いつものとは違う物を飲んでみたいな。田中さん、何でもいいからみつくろってくれないかな。お願いします」
夏木がそう言うと、田中はにっこりと笑った。
「かしこまりました。久しぶりのおまかせですね」

 大手町の隠れ家のような小さなバー『Bacchus』は、アルコールを全く受け付けない体質の夏木が唯一通っている店だ。店主でもあるバーテンダーの田中がいつも上手にノン・アルコールのカクテルを作ってくれる上、肴も美味しくカウンターに座る他の客との当たり障りのない交流も居心地がいいのだ。たった一人、あの男を除いて。この店は大好きなんだけれど、あの客だけは会いたくないんだよな。

 その客とはこの二月くらいから時々顔を合わせるようになった。

「いらっしゃいませ、近藤さん」
田中の声にはっとする。どうやら嫌な予感が的中したようだ。

「こんばんは、マスター。あれ、今日も先生が来ているね」
先生というのは夏木の事だ。夏木は教師でもなければ、医師でもないし、弁護士でもない。なのに、この近藤という男はいつも夏木をからかってそう呼ぶのだ。夏木が眼鏡をかけて、あまりオシャレではないコンサバなスーツを着、きまじめな様子でいるのが今っぽくないからというのが理由のようだった。

 近藤のスーツは、おそらくアルマーニだろう。やけに目立つ赤と黒のネクタイを締めて、尖ってピカピカに艶の出た靴を履いた脚を大袈裟に組むのだが、夏木は心の中で「お前はジョージ・クルーニーじゃないんだから、そんなカッコをしてもマフィアのチンピラにしか見えないぞ」と呟いた。もちろん口に出して言う勇氣はない。

「今日は、あのかわいいすみれちゃんと待ち合わせじゃないのかな。頑張ってアタックしないと、愛想を尽かされちゃうんじゃないかな」
放っておいてくれ、夏木は思ったが、田中を困らせたくなかったので喧嘩腰に口をきくのは控えた。

 近藤の話し方は早口で神経質だ。何がどうというのではないが、聴いているとイライラする。それに田中と他の客が話している時に、話しかけられてもいないのに割って入り、話題に関連した自分の知っている知識をこれでもかと披露する。そのせいでせっかくの話題の流れがおかしな事になってしまう事もある。どうしてもその話題をしたい訳ではなくても、話の腰を折られると面白くはない。

「マスター、僕のボトル、まだ空じゃないよね。いつものサラトガを作ってくれよ」
夏木が乗ってこないので興味を失ったように、近藤は田中に注文した。自分をからかう他に、夏木がこの男を氣にいらないもう一つの理由は、彼が田中を小僧のように扱う事だった。なんだよ、この上から目線。彼は心の中で毒づいた。

 田中は、いつものように穏やかに「かしこまりました」と言って、近藤の自筆で書かれたタグのついたブランデーのボトルを手にとり、規定量の酒をシェーカーに入れた。近藤は優越感に満ちた表情で夏木を見た。ボトルキープをしている自分はあんたとは違うんだよ。もしくは、ブランデーベースの強いカクテルを飲める自分はどうだい。そんな風に言われたようで、夏木は意味もなく腹が立った。

「お待たせしました」
近藤の前に、パイナップルスライスの飾られたカクテル・グラスが置かれた。

「これこれ。やはりバーにきたからにはサラトガを頼まないとね。このカクテルはバーテンダーの腕の差が出るよ」

 それから、夏木の方を見て言った。
「先生もどうです? なんなら、僕のブランデーをごちそうしますよ」

 夏木がアルコールを一滴も飲めないのを知っていての嫌味だ。彼はついに抗議しようと憤怒の表情を浮かべて近藤の方に向き直った。

 その不穏な空氣を察知した田中が、先に言った。
「夏木さんも、サラトガの名前のついたカクテルを既に注文なさっていらっしゃいます」

 夏木はぎょっとした。いくら悔しくても、女性にも飲める軽いカクテルですら飲めない彼だ。強い事で有名なサラトガは舐める事だって出来ないだろう。

 近藤も意外そうに田中の顔を見た。
「サラトガを先生が?」

 田中はコリンズ・グラスに砕いた氷を満たした。カクテル・グラスでないところから、少なくともサラトガは出てこないとわかって、夏木は安堵した。田中が夏木の飲めないものを出すはずがないと思い直し、彼は黙って出てくるものを待つ事にした。

 田中はライムを取り出して絞ったもの、シュガー・シロップに続き、グラスにジンジャーエールを注いだ。そして、軽くステアしてから夏木の前に出した。
「お待たせしました。サラトガ・クーラーです」

 クラッシュド・アイスはなくカクテル・グラスに入っているサラトガの方が色は濃いが、似た色合いのドリンクが並んだ。全く中身は違うけれど、どちらも丁寧に作られたカクテルで、全く遜色はないと主張していた。

 夏木は感謝して一口飲んだ。
「ああ。これは美味い。また新しい味を開拓できて嬉しいよ、田中さん」

 嬉しそうに飲む夏木の姿を見ながら、近藤はどういうわけかその晩は静かだった。十五分ほど黙ってカクテル・グラスを傾けていたが、料金を払うと「じゃあ。また」と言って去っていった。

 夏木は田中が片付けているカクテル・グラスを見て驚いた。
「あれ。ほとんど残っている」

「あの人、いつもそうだよね」
少し離れたところに座っている他の常連が口を挟んだ。

「わざわざポトル・キープまでしているわりに、全然飲まないんだから、本当はお酒は弱いんじゃないかなあ。無理してサラトガなんて頼まなくてもいいのに、何でこだわっているのかなあ」

 夏木は近藤が不愉快でいつも先に帰ってしまうので、知らなかった。田中は何も言わなかったが、それが本当に近藤がカクテルを飲み終わった事がないことを証言した形になった。

* * *


「近藤さん、こんばんは。今日はお早いですね」

 田中は、いつもよりもずっと早い時間にやってきた近藤にいつもの態度で歓迎した。今日の服装は、いつも通りのアルマーニのスーツではあるが、水色の大人しいネクタイだし、靴がオーソドックスなビジネスシューズだった。それだけでも印象が随分と変わる。さらによく見ると、髪を固めていた整髪料を変えたのか、艶やかにしっかりと固まっていた髪型が、わりとソフトになっている。

「うん。予定が変わって、時間が空いたんだ」
普段より大人しい様子の彼に、田中はどう対応していいのか迷った。だが、まずはいつも通りに対応する事にした。おしぼりを渡しながら訊いた。
「今日は、いかがなさいますか」

「いつものサラトガを……」
そう言いかけてから、近藤は言葉を切って、少し考えているようだった。田中はいつもとの違いを感じて結論を急がせないように待った。

 近藤は、顔を上げて言った。
「この間の、先生が飲んでいた方のサラトガを飲んでみていいかな」

「サラトガ・クーラーですね。かしこまりました」
田中は、なるほど風向きが本当に変わってきたんだなと思いつつ、コリンズ・グラスを取り出した。

 目の前に出てきたサラトガ・クーラーを一口飲んで、近藤はほっとひと息ついた。
「ああ。美味しいなあ。もっと前に、これを知っていたらよかったな」

「お氣に召して何よりです。本当はクーラーというのはアルコール飲料を炭酸で割ったものにつけられる名前ですが、こちらは完全なノンアルコールです。組み合わせが全く違うサラトガと同じ名前がついている由来も定説はないようです」

 近藤は、しばらく黙っていたがやがて言った。
「僕はね、もうわかっていると思うけれど、本当はアルコールにとても弱い体質なんだ。でも、ずっとそうじゃないフリをしてきた。飲めるのに飲めないフリはそんなに簡単にはバレないけれど、飲めないのに強いフリをしても無駄だよね。でも、マスターは、一度も他の人の前でそれを言わないでくれたよね。ありがとう」

「アルコールに弱い事は恥でも何でもなくて、体質ですから無理すべきではないのですが、そうはいかないときもありますよね」
「うん。でも、正直に言ってしまった方が、ずっと楽に生きられるんだよね。僕は、先生を妬んでいたんだろうな」

「どうしてですか?」
「最初にここで彼を見たとき、例のすみれちゃんと楽しそうに飲んでいたんだよ。僕は、ここじゃないバーで、女性にカクテルをごちそうしたりして、親しくなろうと何度も頑張ったけれど、うまくいかないんだ。最初はカッコいい名前のカクテルや、服装に感心していてくれた子たちも、僕が飲めなくて、ただの平社員で、カッコいい都心のマンションにも住んでいない事がわかると去っていく」

 それからグラスを持ち上げて爽やかなドリンクを照明に透かして揺らした。
「サラトガは、大学生の時に好きだった女の子が教えてくれたカクテルなんだ。彼女はもう働いていて、職場の出来る先輩が大人はこういうのを飲むんだって言ったらしくてね。サラトガというのは勝利の象徴だって。僕は、それから十年近くもその見えない大人の男に肩を並べなくてはと思っていたみたいだ。そうじゃないのに賢くてカッコいいヤツを装っていた。この間、マスターと先生の息のあったやり取りを見ていて、自分の目指していた大人像は間違っていて薄っぺらだったんだなと感じたよ」

 田中は、生ハムと黄桃のオリーブオイル和えをそっと近藤の前に出した。
「カクテルの名前の由来というのは、はっきりしているものもありますが、なぜそう呼ばれているのか説が分かれるものもあるんです。私に言えるのは、サラトガはブランデーの味のお好きな人のためのカクテルだということです。名前も、原材料も、どれが最高という事はありませんので、それぞれの方がご自身の好みに従ってお好きなものを注文なさるのが一番だと思っています」

「そうだよね。だから、もう背伸びするのはやめることにしたんだ。長い時間をかけて髪をセットするのも、窮屈な靴を履くのもやめてみたんだ。そうしたら、さっき約束していた子にイメージが違うと振られてしまったんだけれど」

 田中はぎょっとした。これは相当落ち込んでいるんじゃないだろうか。だが、近藤は笑った。

「心配しないで、マスター。僕は自分でも驚いているんだけれど、ほっとしているんだ。彼女は、とてもスタイリッシュで美人で目立つ人で、成功したエリートがいかにも好みそうなタイプだけれど、ご機嫌を取るのがとても難しくて僕にはひどいストレスだったんだ。振られて楽になったよ。負け惜しみと思うかもしれないけれど、本当なんだ」

 彼は、空になったグラスを持ち上げた。
「もう一杯、もらえるかな」

 田中は微笑んで頷いた。それぞれ好みのドリンクが違うように、最良の生き方も人によって違う。自分に合ったものが何であるかがわかれば、過ごす時間もずっと楽しいものになる。この店で逢う度に不穏な空氣になっていた夏木と近藤も、意外にも仲がよくなっていくのかもしれないと思った。

サラトガ(Saratoga)

標準的なレシピ
ブランデー = 60ml
マラスキーノ・リキュール = 2dash
アンゴスチュラ・ビターズ = 2dash
炭酸水 = 微量

作成方法: ブランデー、マラスキー・ノリキュール、アンゴスチュラ・ビターズをシェークし、カクテル・グラスに注ぎ、極少量の炭酸水を加えて、パイナップル・スライスを飾る。



サラトガ・クーラー(Saratoga Cooler)

標準的なレシピ
ライム・ジュース = 20ml
シュガー・シロップ = 1tsp
ジンジャー・エール = 適量

作成方法: クラッシュド・アイスを入れたコリンズ・グラスに、ライム・ジュースとシュガー・シロップを注ぎ、ジンジャー・エールでグラスを満たした後、軽くステアする。



(初出:2017年5月 書き下ろし)
関連記事 (Category: 小説・バッカスからの招待状)
  0 trackback
Category : 小説・バッカスからの招待状
Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(3)動物学者 - 2 -

第三回目「動物学者」、長いので三回に分けると前回書いて、三分の一に切ったんですが、この後に二つほど別の小説が入って間が空くので、この話はさっさとここで発表する事にします。ああ、行き当たりばったりだとこういう事に。いつもより長いですが、五千字程度なので、お許しください。すみません。

今回は、いろいろな設定上の情報がたくさん出てきます。(あ、無理に憶えなくても、必要になったら「あらすじと登場人物」を読めばいいのでご安心ください)それに、ようやく主人公の二人が「スコット博士」「ミズ・カペッリ」と呼び合うのを脱出します。やれやれ。でもまだ先は長い……。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(3)動物学者 - 2 -

 給油を済ませ、小さな村が遠ざかっていくのを振り返り、後方座席のメグとルーシーがともに寝いっているのを目にして彼女は微笑んだ。

「マニャニというのは大きい街ですか?」
ジョルジアが訊くと、彼は笑った。

「ニューヨークと比較したら村以前で集落と言った方がいいでしょうね。それにレイチェルは、少し街から離れた所に住んでいるんです。彼女は、ゾウの研究をしていて、裏庭にゾウが登場するような所に家を買ったんです」

 ジョルジアは、ふと思いついたように言った。
「じゃあ、ミセス・ブラスのお母様はもしかして……」

「ご存知かもしれませんね。レイチェル・ムーア博士です」
アフリカの動物研究者として、彼女は有名人だった。まだ五十代だが、ゾウの権威として認められる研究成果も知られていた。『夕陽の沈むさきに』と題した本人の半伝記映画に出演していたので、さほど動物学にも詳しくないジョルジアでもその名前を知っていた。

「あなたの義理のお母様でもあるんですよね」
ジョルジアが確認すると、彼はわずかに戸惑いを見せた。

「これから引き合わせるから、説明しておいた方がいいでしょうね。父の家はナイロビ郊外にあって、レイチェルの住む家とは別です。父ジェームス・スコットとレイチェルは、表向きはただの親しい友人ということになっています。もちろん同業者やこの辺りの人びとは、誰がマディの父親か知っていますし、二人はお互いの家を行き来しているのですが」

「ジェームス・スコット博士……あの映画にも出ていらっしゃいましたよね。確か、ライオンの権威で、大学の名誉学長をなさっていらっしゃる……。あの方があなたのお父様だったんですか」
「はい。でも、この世界でも僕と彼が親子であることを知らない人の方が多いでしょうね」

「どうして? ご自宅で他の研究者の方と顔を合わせたりはなさらないのですか?」
「僕は、八歳の時から彼とは別に暮らしているんです。今でも彼と会うのは年に一、二度、それも学会で遭う方がずっと多いんです」

 ジョルジアは、もしかしたら悪いことを訊いたのかと不安になって彼を見つめた。彼は顔を向けてまた微笑んだ。
「氣にしないでください。父と喧嘩しているわけではないのです。ただ、あまりにも僕の人付き合いが悪くて、家族ともまともにつき合えないし、父も自分から息子に歩み寄ろうというタイプではないんです。それで氣をもんだマディとレイチェルの方が、機会を作っては僕を家族の会と学会を含めた社会に引っ張りだしてくれているくらいなのです。あの二人には、感謝しています」

 ジョルジアは、また同じことを感じた。この人は、なんて私によく似ているんだろう。家族が嫌いなわけではないし、社会を憎んでいるわけでもないけれど、氣がつくと一人こもってしまう感覚は、彼女にはとても馴染みがあった。

「あなたが住んでいる所は、安心できる居場所なんですね?」
ジョルジアが訊ねると、彼は少し驚いたように彼女の顔を見た。揶揄でもなく、疑惑でもない、真摯な表情を見て、彼は少し間を置いてから力づよく答えた。
「ええ。あそこで僕は初めて安らぐことを知りました。《郷愁の丘》は、僕にとっての約束の地なんです」

「《郷愁の丘》ですって? なんて素敵な名前なの」
ジョルジアが言うと、彼は笑った。
「誰がその名前を付けたのかわかりません。前の持ち主はそんな三流ドラマみたいな名称は恥ずかしいから変えてもいいと言っていましたが、僕はそのままにしたかったんです」

「シマウマがたくさんいるんですか?」
ジョルジアは、訊いた。象の権威のムーア博士は、ゾウの生息地の近くに家を買ったというのだから、彼の自宅の側にも研究対象がいるのかと思ったのだ。

「ええ。シマウマも、ガゼルも、ヌーも。でも、彼らは留まりません、タンザニアヘ行き、それからまた次の年になると帰ってきます。研究には向いています。それに哲学者になるにもいい所かもしれません。あなたも、きっと数日間でしたらお氣に召すでしょう。写真に撮りたい景色がたくさんあるはずですから」

「どうして数日間なんですか?」
「ニューヨークと較べるまでもなく、とても退屈な所と思われるでしょうから。一番近い街まで一時間近くかかるんです。テレビやラジオの電波もよく途切れてしまうし、電氣や水道のといった公的ライフラインも通っていないんです。幸い、敷地内に泉があるので、ガスボンベと発電用のオイルを買うだけでなんとか生活はできますが」

「行ってみたいわ」
「本当ですか?」
「ええ。マリンディよりも、ずっと」

「じゃあ、お連れしましょう。今夜は、レイチェルの所に泊って、明日にでもあなたをムティト・アンディの駅にお連れしようと思っていました。でも、本当は、あなたにお見せしたいと思っていたんです。忘れられない風景や、心をつかむ瞬間を切り取る特別な目をお持ちのあなたなら、なぜあそこが《郷愁の丘》と名付けられたのか、きっとわかるでしょう」

 ジョルジアは遠くを見ている彼の横顔を見つめた。不思議だった。全幅の信頼としか言いようのない心の凪が、朝の砂漠のように鮮烈な陰影を持って横たわっていた。それは論理的ではなく、おかしな安心感だった。これまで独身男性の自宅に行こうとしたことは一度もなかった。ましてや街まで車で一時間も離れている陸の孤島に行くなど、考えたこともなかった。

 もちろんジョルジアは、彼もまた男性であることを忘れるほどナイーヴではなかった。けれど、彼女には失うものもなかった。片想いの相手には存在すらも知られておらず、かつてつき合った相手には女性としての存在を否定された。守る価値のないもののために、疑心暗鬼になる必要などないのだ。

 反対に、スコット博士のことは、もっと良く知りたかった。お互いのことをまだよく知りもしないのに、それでもこれほど近く感じる相手だ。一緒にいると心が安らぐだけではなく、話にも興味が尽きなかった。

 モンバサからマリンディへと向かう二時間、ジョルジアは彼といろいろな話をした。シマウマの縞の現れ方の話から、写真の印画と人間の虹彩に関する話題まで、お互いの専門を交えながら語り合った。

 彼の家族の話は、その二時間にはほとんど出てこなかった。その時は家庭があると思っていたので不思議だったけれど、今は納得していた。彼が独身だと知っていたら、マリンディの別荘への招待にどう答えただろうと彼女は考えた。異母妹マデリンの家族が常に一緒にいるとしても、おそらく彼女はイエスと言わなかったに違いない。

 でも、今、彼と同じ狭い空間を共有しても、彼女は彼に対して他の男性、例えばリチャード・アシュレイに対するような煩わしさや警戒心をまったく抱かなかった。モンバサからマリンディへと向かった二時間の後、彼はジョルジアにとってよく知らない男性ではなくて、ニューヨークで十年来の公私ともに強い信頼関係で結ばれている同僚のベンジャミン・ハドソンと同じような存在に変わっていた。

 マデリンの入院騒ぎを挟んで、再び彼の車で今度はマニャニへと向かうことになった時も、彼女は彼ともっと長い時間を過ごすことになることに躊躇いを感じなかった。彼の家である《郷愁の丘》へ行くことは、それとは少し意味合いが違うが、ジョルジアはこの成り行きに不安は全く感じなかった。彼はマリンディの別荘に誘っただけで、それ以降の行き先の変更は全てジョルジア自身が望んだことだ。

 彼は真面目で紳士的だった。そしてどういうわけだか、彼女が心地よいと感じる距離を知っていた。

 これ以上一センチでも近づけば、彼女が不安に感じる心理的な、もしくは物理的なテリトリーを、多くの人は無自覚に侵す。同僚であるベンジャミン・ハドソンのように長年知っている人や、《Sunrise Diner》のキャシーのように親しくしている人ですら、ジョルジアは時おりそれを感じて身を強張らせた。それが不必要な怯えだと思考ではよくわかっていても、反射的にびくついてしまうのだ。

 その一方で、彼女にはどうやっても近づけない類いの人たちがいる。ジョルジアの方から関心を持ちもう少し親しくなりたいと感じる時に、徹底的な無関心を示して近寄らせない人たちだ。自分からその距離を縮めなければ、親しくはなれないとわかっていても、その見えない壁や遠さを感じてわずかな一歩を踏み出すことが出来ないことが多くあった。

 彼がジョルジアとの間に置く距離は、その二つの距離の間にあった。どんな時でも。ジョルジアは、だから、自分が望む時に少しずつ彼に近づいていくことが出来た。いくつもの窓からそっと覗いてみると、心地よくて興味深い世界が存在している。そして、その世界は決して素っ氣なく扉を閉めて拒否したりはしない。どんな風に覗き込んでも優しく穏やかに歓迎してくれるのだ。

 そして、ジョルジアは新しく知り合う人から逃げるばかりだったこれまでと対照的に、むしろその場に留まり、彼の話をもっと聴き、自分のことを知ってもらいたいと思うようになっていた。

 それまで撮り続けていた子供たちの笑顔の写真を撮るのをやめて、モノクロームの人物写真を撮るようになったきっかけも、ニューヨークの知り合いにはほとんど話せなかったのに、彼には正直に話していた。

 秋の柔らかい陽が射し込む墓地で、彼女は一人の男の姿を偶然撮った。その横顔に浮かび上がった陰影は、自分の心を見つめ直すきっかけとなり、世間の喜ぶ子供の明るい笑顔ばかりを撮り続けていた彼女にとって、作品の方向転換のきっかけとなった。そして、彼女は有名キャスターであったその男に恋をした。

「一度も知り合っていない人にそんな感情を持つなんておかしいと、自分でもわかっているんです。でも、私の作品を創り上げるためには、その感情を無視することは出来ませんでした。自分と向き合わない限りはそれまでの殻を打ち破ることはできなかったんです」

 彼は、彼女の片想いについて、肯定してくれた。
「あなたはちっともおかしくなんかありません。あなたはそのニュースキャスターに迷惑をかけたわけではないんですから、そのことを恥じる必要はありませんよ。それに、恋とは論理ではないでしょう。いつの間にか身動きが取れないほど好きになってしまっている。僕にも似た経験があります」

「知り合ってもいない人に恋をしたことがあるんですか?」
「いや、知り合ってはいます。でも、二度と逢う機会もない程度の知り合いだったから、あなたのケースとほとんど変わりありませんよ」

「その女性への想いは、自然消滅したんですか?」
ジョルジアは訊いた。叶わない想いがいつかは解消された事例があれば、彼女自身が今の虚しい渇望に耐えることも楽になるかもしれないと思ったのだ。

 彼は、しばらく答えるのをためらっていたが、やがて首を振った。
「いいえ、まだ。いつか消えてくれればいいと思っています」

 ジョルジアは、彼が見せた表情の翳りに、悲しさをおぼえた。手の届かないものを想い続けることは苦しい。けれど、それを手放し失うことも、決して心躍ることではないのだ。それは人生に新たに刻まれる静かな敗北だった。それも、とても惨めな。自らを嘲笑して吹き飛ばそうとすれば、もっと激しい痛みとして心の奥に疼きだす、やっかいな感情の嵐。彼女のよく知っている世界だ。

「ミズ・カペッリ。まもなくマリアカニに着きます。給油を兼ねてまた少し休憩しますが、どのくらいお腹が空いていますか」
彼がそう言うと、ジョルジアは笑った。

「メグはとっくに名前で呼んでくれているのに、いつまで礼儀正しくミズ・カペッリなんですか」

 それを聞くと、彼は困ったように口ごもった。
「それは……親しくもない僕に馴れ馴れしくされたら、あなたは嫌だろうと……」

「でも、この数時間で、ずいぶん親しくなったと思うし、私はジョルジアと呼んでいただけたら嬉しいわ。私もスコット博士ではなくて、ヘンリーと呼んで構わないのかしら。そして、堅苦しい話し方をお互いにしないようにしません?」

 彼は、例のはにかんだような笑顔を見せた。ジョルジアはまた一歩彼に近づけたように感じて嬉しかった。彼は、少しの間黙っていたがためらいがちに口を開いた。
「その……もし嫌でなかったら、グレッグと呼んでくれないか」

「グレッグ?」
「ミドルネームがグレゴリーなんだ。とても小さかったとき、可愛がってくれた祖父にそう呼ばれていて……。もちろん、違和感があるならみんながそう呼ぶヘンリーでもいいんだが……」

 ジョルジアは微笑んだ。
「喜んで、グレッグ」
関連記事 (Category: 小説・郷愁の丘)
  0 trackback
Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(3)動物学者 - 1 -

タイトルにもなっている《郷愁の丘》という地名は、イタリアのポップグループ、マティア・バザールの歌「Amami」の邦題からイメージして命名しました。かなり年長の方でないとご存知ではないと思いますが、ずっと昔に三菱ギャランという車のCMにこの曲が使われていて、日本で発売された時の邦題は「郷愁の星」というものだったのです。イタリア語の歌詞そのものには、一度も「郷愁の星」という言葉は出て来ないのですが。この歌のイタリア語の歌詞からイメージしたモチーフは、この作品のあちこちに散りばめられています。

という話はさておき、第三回目「動物学者」です。長いので三回に分けます。こうやって分けていると、全然終わらないような氣がしてきたけれど、しばらくこれで行こうと思います。もしかしたら途中から巻くかもしれませんが……。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(3)動物学者 - 1 -

「お疲れじゃないですか」
ジョルジアは、訊いた。彼はモンバサにジョルジアを迎えに来てマリンディから往復しているので、既に四時間も運転しっぱなしだった。これから四時間再び運転して、こんどはツァボ国立公園内のマニャニまで行かなくてはならない。

 彼は穏やかに微笑んだ。
「慣れていますから。この辺りで運転するとなると、たいていこんな距離になるんですよ」

 スコット博士と二人では絶対に行かないと泣き叫んだメグは、結局、二十分も立たないうちに彼の愛犬ルーシーにもたれかかって寝てしまったので、ジョルジアは再び助手席に座って彼と静かに話をすることになった。

 道は舗装されているものの、状態はよくなかった。アメリカの都市部であればおそらく三十分もあればついたのではないかと思われる距離を、ランドクルーザーは二時間近く使って走っていた。海岸部を離れ、森林部を抜けた頃になって、ようやく空氣が乾いてきた。モンバサやマリンディは興味深いところだったので、ほとんど何も見ないまま去ったのはある意味残念だったが、あの猛烈な湿氣と暑さから解放されたことに、ジョルジアはほっとしていた。マラリアの恐怖も去ったのだろう。

 広大な赤茶けたサバンナの間に時おり現れて、休憩と給油を繰り返す小さな街をジョルジアは見回した。カラフルな建物と看板。アルファベットで書かれているが、スワヒリ語の固有名詞で占められている。そして、半分はアラビア文字だ。特に東部はイスラム教徒が多いので、街ごとにモスクが目立つ。異国にいるのだと強く印象づけられる景観だ。

 癖の強い英語を話す黒人たちは、白人が乗っている車に給油する時に必ず法外な値段をふっかけてくる。スコット博士は穏やかに彼らと交渉して相場の値段を払っていた。これはこの人たちの日常なのだとジョルジアは思った。

 人種のるつぼであるニューヨークの、比較的有色人種が多い地域に住むジョルジアは、親しい友達であるキャシーをはじめとして多くの黒人たちを知っていたが、白人たちと比較してつきあうのにエネルギーを消耗すると思った事はなかった。だが、ここでは全てがニューヨークとは違う。人種差別や人類愛とは関係ないのだ。

 スコット博士が、彼らに対して怒ったり悪態をついたりしない事に、ジョルジアは強い印象を受けた。二年前にジョルジアたちを連れて回ったリチャード・アシュレイは五分に一度は悪態をつくか、冗談を交えながらも不平を漏らしていた。今も状況がわかる度にジョルジアはまたかとため息をつきたくなるのだが、対応している彼自身は繰り返されるジョルジアにとっては試練とも言える状況を黙々と受け入れていた。

 このように、氣候も人びとも文化風俗も違う国で、先祖はヨーロッパから来たという人びとは一種独特のテリトリーの中に生きていた。植民地時代には宗主国から来た彼らは特権階級でアフリカ大陸を根に持つ人びとを奴隷や家畜のように見下して快適な暮らしをしてきた。国が独立し政権が黒人たちの手に渡ると、あからさまな支配は終わったものの私有地の権利やその他の経済的優位性が残ったために、あいかわらずプール付きの豪邸に住む白人と貧しい黒人という構図は消えていない。

 現地で生まれた二世三世以降の白いアフリカ人たちは、今も独特のコミュニティを形成している。そこにあたらしく移住してきた白人たちも加わる事が多い。中には、そういった白人ムラを嫌い、現地の黒人たちの中に一人飛び込む人もいるが、そのまま上手く受け入れてもらえる、もしくは本人が欧米社会とはかけ離れた観念を持つ部族の生活に順応する事はまれで、大抵は失意のうちに欧米に戻る事になる。

 ヘンリー・スコット博士は十九世紀に移住したイギリス人の血を引いているが、自己紹介をする時には「ケニア人です」と言った。ジョルジアが彼と知り合ったのは二年前で、マサイマラ国立公園の近くで撮影をした時に、オーガナイズしたリチャード・アシュレイが連れてきた。

「彼はヘンリー・スコット博士といって、大学で講師もしている動物学者です。サバンナの事をよく知っていてマサイ族との交渉も慣れているんで来てもらいました。普通の観光なら僕一人でも問題ないけれど、子供たちを撮影するなら、マサイ族の長老と交渉しなくちゃいけないんです。で、こればっかりは彼がやった方が成功率が高いんですよ」

 口から生まれてきたようなリチャードよりも交渉のうまい人とはどんな人かと思ったが、スコット博士はまったく弁が立つ人間ではなかった。そうではなくて、長年の付き合いから、彼はマサイの長老たちに信頼されていたのだ。

「彼の本来のフィールドはツァボ国立公園のあたりなんですが、マサイマラでも、アンボセリでもマサイ族の連中と知り合いになっているらしいんです。白人たちの共同体では名前を知らない人もいるくらいに目立たない存在だというのに。パーティにも全然顔を出さないし」

 リチャードがそう話を振ると、当時彼は言葉少なく答えた。
「マサイ族の長老と酒を飲んでゴシップの交換するためににいっているわけじゃない。研究のことで話さなくてはいけないことがあるから。彼らは僕らの知らない事をたくさん知っているんだ」

 ジョルジアが、この人は私の同類だと初めて思ったのは、二年前に出会ったこの時だった。
関連記事 (Category: 小説・郷愁の丘)
  0 trackback
Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(2)海の街 - 2 -

先週から連載を再開した「郷愁の丘」今回は「海の街」の後編です。モンバサに来たのは、特に理由があったわけではなく、パーティの誘いから逃げたかっただけなのですが、実はジョルジアはほとんどケニアの海岸の観光をしないまままたサバンナに向かう事になります。

とくにスコット家所有の別荘内には、足も踏み入れていないという事態に。ブログのお友だちの彩洋さんのところのキャラは宿泊もしているのに(笑)でも、この別荘の事は、いずれ別の作品(外伝かな?)でちゃんと描写しようと思います。いろいろと設定はあるんですよ。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(2)海の街 - 2 -

 ひと通り写真を撮り終えて振り向くと、彼は新しいよく冷えたペットボトルの口を緩めてから手渡した。ジョルジアが礼を言って受け取り飲むのを待ってから、彼は愛犬にやった残りのペットボトルから飲んだ。この人は、どこまでも紳士だと彼女は思った。一連の動きには全くわざとらしい所がなく、評価してもらおうと意識しての行動でもないことが感じられた。

「なんて美しい海かしら。私の育ったところも海辺だったけれど、こんなに鮮烈な青じゃなかったわ。素晴らしい所に別荘をお持ちなんですね」
ジョルジアは感心して言った。彼は笑った。

「別荘を持っているのは父です。でも、彼はほとんど来ません。マディに薦められて投機の代わりに買ったようです。使うのはマディばかり。僕はよく運転手兼、鍵の管理人として駆り出されるのです」

 奥様の名前はマディとおっしゃるのですか、そうジョルジアが訊こうとしたときに、携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。ポケットから取り出してちらりと見てから「マディだ、失礼」と言って彼は電話を受けた。

 すぐに緊迫した様相になった。
「なんだって。わかった、大丈夫だ。あと五分もかからない、すぐに行く。メグは? わかった。玄関にいてくれ」

「どうなさったんですか」
ジョルジアは、ペットボトルの蓋を閉めると、ルーシーの水のボールを空にして車に戻った。ルーシーはついて来て、開けられたドアにさっと飛び乗った。エンジンをかけながらスコット博士は説明した。
「マディは、いま妊娠七ヶ月なんですが、急な腹痛に襲われたんだそうです。切迫流産の怖れがあるので、すぐに病院に運ばなくてはならないらしいんです」

 ジョルジアはぎょっとした。
「奥様がそんな大変なときに、迎えにきていただいたりして、済みませんでした」

 すると、スコット博士は首を振った。
「マディは、僕の妻ではありません。それに、夫のアウレリオも今朝はマリンディにいたんですよ。もっとも彼は肝心なときにどこかに行ってしまう才能があって、それをわかっているマディが、最近はマリンディに来る度に僕を呼びつけているんです」

「ご家族っておっしゃっていたので、奥様やお子さんといらしているんだと思っていました」
ジョルジアが言うと、彼はジョルジアの方を見て微笑んだ。

「僕は独身で、マディは妹です。正確に言うと、腹違いの妹ハーフ・シスター です。夫は、ミラノの実業家でアウレリオ・ブラス。娘のメグは五歳になります」

 そう話している間に、車は白い壁と藁葺きの屋根の大きい家の門に入っていった。玄関の所にぐったりと女性が座っていて、その足元に金髪をポニーテールにした少女がいた。

 スコット博士は急いで車から降りると、彼女の方に駆け寄った。ジョルジアも降りると、椅子の脇にあった荷物を持って、車に運び込んだ。荷物と反対側に少女が来て、ジョルジアの手を握った。ジョルジアがその目の高さに屈むとぎゅっと抱きついてきた。母親の危機を感じてよほど怖かったのだろう。

 博士が妹を運転席のすぐ後に座らせ、それからジョルジアからメグを受け取って母親の隣に座らせた。ジョルジアから離されるときに少女は少し抵抗した。

「メグ」
スコット博士が咎めると、彼女は泣きそうな顔をした。ジョルジアは荷物を最後部座席、ルーシーの腰に当たらないようにそっと置いた。そっと撫でると、不安そうな犬はクーンと鳴いた。

 車が出ると、マディは苦しそうに言った。
「はじめまして、ミズ・カペッリ……ごめんなさいね」
「こちらこそ……ミセス・ブラス」

 病院はさほど遠くなく、彼女は玄関で待っていた担架に乗せられて診察室に入った。廊下で抱きついて離れないメグと一緒に待っていると、車を駐車してきたスコット博士が、紐に繋いだルーシーと一緒に入ってきて、謝った。
「ミズ・カペッリ。本当に申し訳ない。せっかくの休暇なのに……」
「そんなことをおっしゃらないでください。先生が中でお待ちです」

 スコット博士は、ノックをして診察室に入っていった。ルーシーはジョルジアの足元に踞った。彼女は、うとうとしだしたメグをさすりながら廊下のベンチでしばらく待っていた。

 やがて、携帯電話で話しながらスコット博士が診察室から出てきた。
「そうですね。それが一番だと僕も思います。アウレリオは、明日直接ここに来るそうです。はい。このままそちらに向かえば夕方にはそちらにつきます。そうするしかないと思います」

 彼は電話を切ると、苦悩に満ちた顔で切り出した。
「ミズ・カペッリ。何とお詫びをしていいのかわからない。僕は、これからメグをここから四時間かかるマディの母親の所に届けなくてはいけないんです。彼女はアンボセリから急いで戻ってきますが、ここに彼女を引き取りにくるには遠すぎるのです。あなたをこれ以上引きずり回すわけにはいかないし、一人で放っておく訳にもいかない。どこかホテルへとご案内しようと思いますが……」

 ジョルジアは、自分でなんとかするので氣にしないで欲しいと言おうとしたが、その前にメグが泣き出した。
「いや! ヘンリーと二人でなんか行かない! ジョルジアと一緒にここにいる! ママはすぐに元氣になるもん」

「メグ! マディはしばらく入院しなくちゃいけないんだ。病院はホテルじゃないし、ミズ・カペッリにお前の世話をさせるわけにはいかないだろう」
「いや!」

 必死になって抱きついてくるメグと、困り果てているスコット博士を見ていたジョルジアは口を開いた。
「私も一緒に行きましょうか。特に予定はないですし、道中の子守りくらいのお役には立てると思います」

 スコット博士と、メグが同時にジョルジアを見た。ルーシーも、黒い鼻を持ち上げて、騒ぎの収まったらしい人間たちを見あげた。

 前よりもさらに強くジョルジアに抱きついている少女を見て、彼はため息をついた。しばらく、言葉を探していたが、やがて済まなそうに頭をさげた。
「そうしていただけたら、助かります」
関連記事 (Category: 小説・郷愁の丘)
  0 trackback
Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(2)海の街 - 1 -

本日からまた小説の連載を始めます。外伝が既に二本も先に出てしまっていて、いろいろとネタバレをしている状態ではありますが、私が書いているのは推理小説ではないので、いいということにしましょう。「郷愁の丘」です。以前に読み切りとして発表した「サバンナの朝」がその本編の第一回で、今日は第二回に当たる「海の街」です。少し長いので来週との二回に分けます。

「郷愁の丘」はかつてこのブログで連載した「ファインダーの向こうに」の続編という位置づけで、ヒロインをはじめとしておなじみのキャラクターがたくさん出てきますが、おそらく前の作品を読んでいなくても話は通じるはずです。今回の話は、舞台のほとんどがニューヨークではなくてケニアに移っています。

ちなみに、ケニアだ、赤道直下だというと、どこに行っても暑くて死にそうのように思われるかもしれませんが、実は多くの場所は高山で過ごしやすいのです。でも、日本の夏にも負けずに暑いところがあります。それがモンバサやマリンディなどの海岸沿いの地域です。マラリア蚊がいるのもこのあたりです。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(2)海の街 - 1 -

 深い青を瞳に焼き付けたくて、彼女は助手席の窓を開けようとした。

「暑いんですか?」
穏やかな低い声がすぐ横からした。ジョルジアは、運転している彼の方を見た。その横顔からは、窓を開けることへの非難は読みとれなかったが、もしかしたらマラリア蚊が入るから、開けない方がいいのかもしれないと思った。

「海の色をもっと良く見たいと思ったんです」
そうジョルジアが言うと、顔をこちらに向けた。淡い茶色の瞳は優しい光を宿していた。短くきれいに手入れされた口髭の間から見えている口元は、暖かく口角をあげていた。

「すぐに見晴らしのいい海岸に出ます。良かったらそこで車を停めましょう」
その親切な提案に、彼女は「ありがとうございます」と答えた。

 彼はジョルジアの日常から考えると、常軌を逸して親切だった。ナイロビで偶然再会した時に、マリンディの別荘へと招待してくれたこともそうだった。それだけではなく、モンバサから電話を入れて、マリンディまでバスで行くので待ち合わせ場所を教えてほしいと訊くと、彼自身がモンバサまで迎えにくると申し出てくれたのだ。

 普段の彼女はよく知らない人とは距離を置いていた。別荘への招待も断っただろうし、ましてや片道二時間もかかるモンバサとの往復をしてもらうことに警戒心を持って断るのがあたり前だった。そもそも、モンバサに来たのも、パーティにしつこく誘ってくるリチャード・アシュレイの申し出から逃げるための口実だった。

 けれど、今、隣にいるヘンリー・スコット博士には、どういうわけなのか、彼女はまったく警戒心を持たなかった。招待に対しても「喜んで」と即座に返答してしまったぐらいなのだ。

 彼は二年前の写真集の撮影旅行のときに知り合い、世話になった動物学者で、ツァボ国立公園の近くに住んでいる。穏やかで誠実な上、口数が少なく、さらに必要以上に人とつき合おうとしない男だった。年齢はまだ四十には届かないようだが、あご髭のためにずっと年長者の印象を与える。

 初めて会った時から、ジョルジアは「彼は無害だ」という印象を持っていた。それは、アメリカ、とりわけニューヨークのような大都市では、決して褒め言葉ではない。むしろ口に出せば嘲笑と受け取られる心配すらある言葉だったが、彼女にとっては大いなる褒め言葉だった。

 彼は沈黙がもたらす平安を知っていた。あの時、車を運転していたリチャードは、沈黙を怖れて必死に何かを話し続け、ジョルジアは疲れて意識を遠くに飛ばした。そして、ふと意識が戻ったとき、バックミラーに映ったスコット博士も同じように違う世界で心を休ませているのに氣がついた。ジョルジアは、思わず後ろを振り返った。ゆっくりと視線を合わせたスコット博士は、ほんのわずかに口元を緩めた。

 リチャードが、郵便局へ寄るために席を外し、二人だけになったときにも、静かにいくつか言葉を交わしたが、そこには「間を持たせるための氣まずい会話」や「退屈な天候の話」などは何もなく、かといって有用な情報がたいていそうであるように脳内に緊張が満ちることもなかった。

 今よりも男性不信の傾向が強かったジョルジアは、仕事でつき合わざるを得なかったほぼ全ての男性と、八割以上の女性との会話に強い緊張を感じていたのだが、彼との会話だけは、まるで家族や親しい同僚としているかのごとくリラックスしたものであることにひどく驚いた。

 その印象が強かったので、彼のことはよく憶えていたのだが、偶然再会した後にもその印象はますます強くなっていた。

 彼女はそれと正反対の感情を知っている。もうやめたいと思っても未だに逃れられない片想いの相手を、テレビのニュースや雑誌の表紙で見かける時のことだ。その著名なニュースキャスターからは自分が見えるはずもなく、それどころかその存在すらも知られていないとわかっていても、動揺し、怯え、熱いとも冷たいともわからぬ何かが血管を駆け巡り、心は締め付けられる。それなのにスコット博士が自分とわずか二十センチも離れていない距離で、車という密室の中に座って微笑んでも、ジョルジアは完全にリラックスしているのだった。

 クーン、と小さい鳴き声がしたので、ジョルジアは思い出して後ろを振り返った。ランドクルーザーの最後部座席に、焦茶色のローデシアン・リッジバックが横たわっている。主人に劣らずもの静かな犬で、ライオン狩りにも使われる勇猛な性格は、ジョルジアの前ではまだ披露していなかった。元来大人しい性格の犬なのかと思ったが、スコット博士はモンバサでジョルジアと初対面をした時の愛犬の様子に驚きを示した。

 そこだけ黒い鼻先をジョルジアの太もものあたりにこすりつけて、彼女を見上げた。その赤茶色の透明な瞳に彼女は、すっかり魅せられてしまった。しゃがんで、そっと頭に触れると、頬にキスをしてきて、ちぎれんばかりに尻尾を振った。
「ルーシーが初対面の人にここまで懐いたのを始めてみました。たいていひどく吠えるんですが」

 ルーシーは、二時間のドライブの間、ほとんど身動きもせずに、座っていた。その存在を忘れてしまうほど静かなのだが、時折あくびをしたり体を伸ばす時の音でジョルジアが振り返ると、こちらを見つめて尻尾を振った。

「ルーシーに、水をあげた方がいいんじゃないでしょうか」
ジョルジアが訊くと、スコット博士はジョルジアの方を見て優しく微笑んだ。
「あなたも喉が乾いたでしょう。すぐそこの角で停まりましょう」

 それから本当に500メートルもいかない角を曲がったときに、ジョルジアは思わず息を飲んだ。そこは波止場になっていて、遮るもののない濃紺のインド洋が広がっていた。地平線はほんのわずかに球面を描き、ここは水の惑星なのだとジョルジアに告げた。

 しばらくサバンナの乾いて赤茶けた世界、埃がアカシアの灌木を覆うアフリカらしい光景ばかりを見ていたせいで、この鮮やかな海の煌めきがよけい眩しく感じられた。ジョルジアは、車の外に出ると、目は海に釘付けになったまま無意識にカメラを探した。

 そして思い出した。休暇で、ほとんどの装備はニューヨークに置いてきたのだ。持っているのはモノクロームのフィルムを装填したライカと、片手に収まるサイズのコンパクトデジタルカメラだけ。もし、この色を撮りたければデジタルカメラを使うしかない。

 立て続けにシャッターを切っているジョルジアを眺めながら、彼は後部のドアを開けてルーシーを出した。犬はすぐにジョルジアの側にやってきてその足元に座った。彼は、ステンレスのボウルをその前に置いてやり、冷えたペットボトルの水を半分ほど入れてやると、残りを持ってジョルジアを待った。
関連記事 (Category: 小説・郷愁の丘)
  0 trackback
Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -8- テキーラ・サンライズ

「scriviamo! 2017」の最中ですが、今日発表するのは、WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

しばらくスペシャルバージョンが続きましたが、また田中はいつものオブザーバーに戻りました。今回の話は、ちょっと古い歌をモチーフにしたストーリーです。あの曲、ある年齢以上の皆さんは、きっとご存知ですよね(笑)


月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む
「いつかは寄ってね」をはじめから読む「いつかは寄ってね」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -8- 
テキーラ・サンライズ


 その二人が入って来た時に、田中に長年酒場で働いている者の勘が働いた。険悪な顔はしていないし、会話がないわけでもなかった。だが、二人の間には不自然な空間があった。まるでお互いの間にアクリルの壁を置いているように。

 大手町のビル街にひっそりと隠れるように営業している『Bacchus』には、一見の客よりも常連の方が多い。だが、この二人に見覚えはなかった。おそらく予定していた店が満席で闇雲に歩き回って見つけたのだろう。

 店などはどうでもいいのだ。未来に大切にしたくなる思い出を作るつもりはないのだろうから。どうやって嫌な想いをせずに、不愉快な話題を終わらせることができるか、それだけに意識を集中しているのだろう。

 二人は、奥のテーブル席に座った。田中は、話が進まないうちに急いで注文を取りに行った。彼らも話を聞かれたくはないだろうから。

「カリブ海っぽい、強いカクテルありますか」
女が田中に訊くと、男は眉をひそめたが何も言わなかった。
「そうですね。テキーラ・サンライズはいかがでしょうか。赤とオレンジの日の出のように見えるカクテルです」
「それにして。氣分は日の入りだけれど……」

「僕はオールドの水割りをお願いします」
男は女のコメントへの感想も、田中との会話をも拒否するような強い調子で注文した。田中は頷いて引き下がり、注文の品とポテトチップスを入れたボウルをできるだけ急いで持っていくとその場を離れた。

* * *


 亜佐美はオレンジジュースの底に沈んでいる赤いグレナディンシロップを覗き込んだ。ゴブレットはわずかに汗をかき始めている。かき混ぜてそのきれいな層を壊すのを惜しむように、彼女はそっとストローを持ち上げてオレンジジュースだけをわずかに飲んだ。
「こうやってあなたと飲むのも今日でおしまいだね」

 和彦は、先ほど田中に見せたのと同じような不愉快な表情を一瞬見せてから、自分の苛立ちを押さえ込むようにして答えた。
「あの財務省男との結婚を決めたのは、お前だろう」

「……ごめんね。私、もう疲れちゃったんだ」
「何に?」
「あなたを信じて待ち続けることに」

 和彦は、握りこぶしに力を込めた。だが、その行為は何の解決にも結びつかなかった。
「僕が夢をあきらめても、財務省に今から入れるわけじゃない。お前に広尾の奥様ライフを約束するなんて無理だ。それどころか結婚する余裕すらない」

「私が楽な人生を選んだなんて思わないで。急に小学生の継母になるんだよ。あの子は全然懐きそうにないし、お姑さんもプライド高そうだから、大変そう」
「なぜそこまでして結婚したがるんだよ」

 亜佐美は黙り込んだ。必要とされたということが嬉しかったのかもしれない。それとも、プロポーズの件を言えば、和彦が引き止めてくれると思いたかったのかもしれない。彼は不快そうにはしたけれど引き止めなかった。

「カリブ海、行きたかったな」
「なぜ過去形にするんだ。これからだって行けるだろう」

 彼女は、瞼を閉じた。あなたと行きたかったんだよ。それに、もう憶えていないかな。まだ高校生だった頃ユーミンの『真夏の夜の夢』が大ヒットして、一緒に話したじゃない。こんな芝居がかった別れ話するわけないよねって。なのに私は、こんなに長く夢見続けたあなたとの関係にピリオドを打って、まるであの歌詞と同じような最後のデートをしているんだね。

 サンライズじゃない。サンセット。私の人生の、真夏の夜の夢はおしまい。

 二人は長くは留まらなかった。亜佐美がテキーラ・サンライズを飲み終わった頃には、水割りのグラスも空になった。そして、支払いを済ませると二人は田中の店から消えていった。

* * *


 おや。田中は意外な思いで入ってきた二人を見つめた。常連たちのように細かいことを憶えていたわけではないが、不快な様子で出て行く客はあまりいないので、印象に残っていた。おそらく二度と来ないであろうと予想していたのだが、いい意味で裏切られた。

「間違いない。この店だよな」
「そうね。6年経ってもまったく変わっていないわね」

 二人の表情はずっと穏やかになっていた。男の方には白髪が増え、カジュアルなジャケットの色合いも落ち着いていたが、以前よりも自信に満ちた様子が見て取れた。

 女の方は、6年前とは違って全身黒衣だった。落ち着いて人妻らしい振舞いになっていた。

「カウンターいいですか」
男が訊いたので田中は「どこでもお好きな席にどうぞ」と答えた。

「どうぞ」
おしぼりとメニューを渡すと、女はおしぼりだけを受け取った。

「またテキーラ・サンライズをいただくわ」
それで田中は、この二人が別れ話をしていたカップルだったと思い出した。
「僕も同じ物を」
彼もまたメニューを受け取らなかった。

「それで、いつ発つの?」 
「来週。落ち着いたら連絡先を報せるよ。メールでいいかい?」
「ええ。ドミニカ共和国かぁ。本当に和彦がカリブ海に行く夢を叶えるなんてね。医療機器会社に就職したって年賀状もらった時には諦めたんだと思っていたわ」

「理想と現実は違ってね。ODAって、場所やプロジェクトにもよりけりだけれど、政治家やゼネコンが癒着して、あっちのためになるどころか害にしかならない援助もあってさ。それで発想を変えて本音と建前が一致する民間企業の側から関わることにしたんだ」
「夢を諦めなかったあなたの粘り勝ちね。おめでとう」

「お前に振られてから、背水の陣みたいなつもりになっていたからな。それにしても驚いたな。お前の旦那が亡くなっていたなんて」

 田中はその言葉を耳にして一瞬手を止めたが、動揺を顔に出すようなことはしなかった。亜佐美は下を向いて目を伏せたが、すぐに顔を上げた。

「そろそろ半年になるの。冷たいと思うかもしれないけれど、泣いているヒマなんかなかったから、かなり早く立ち直ったわ」
「まだ若いのに、何があったんだ?」

 亜佐美は、田中がタンブラーを2つ置く間は黙っていたが、特に声のトーンを落とさずに言った。
「急性アルコール中毒。いろいろ重なったのよね。部下の女の子と遊んだつもりでいたら、リストカットされちゃってそれが表沙汰になったの。上層部はさわぐし、お姑さんともぶつかったの。それで、彼女が田舎に帰ってしまってからすこし心を病んでしまったのね」
「マジかよ」

「受験も大学も、財務省に入ってからもずっとトントン拍子で来た人でしょう。挫折したことがなかったから、ストレスに耐えられなかったみたい。和彦みたいに紆余曲折を経てきたほうが、しなやかで強くなるんじゃないかな」

「それは褒めてないぞ。ともかく、お前も大変だったんじゃないか?」
「そうでもないわ。事情が事情だけに、みな同情的でね。お姑さんもすっかり丸くなってしまったし、奈那子も……」
「それは?」
「ああ、彼の娘。もうすぐ大学に入学するのよ。早いわね」

「えっと、亜佐美が続けて面倒見るのか?」
「面倒見るっていうか、これまで家族だったし、これまで通りよ」

「その子の母親もいるんだろう?」
「母親が引き取らなかったから、慌てて再婚したんじゃない。今さら引き取るわけないでしょ。最初はぎこちなかったけれど、わりと上手くいっているのよ、私たち。継母と継子って言うより戦友みたいな感じかな。思春期でしょ、父親が若い女にうつつを抜かしていたのも許せなかったみたい」

「お前は?」
「う~ん。傷つかなかったといえば嘘になるけれど、でもねぇ」

 亜佐美はタンブラーの中の朝焼け色をじっと眺めた。
「あの人、あんな風に人を好きになったの、初めてだったみたい。ずっと親に言われた通りの優等生レールを進んできて、初めてわけもわからずに感情に振り回されてしまったの。それをみていたら、かわいそうだなと思ったの。別れてくれと言われたら、出て行ってもいいとまで思っていたんだけどね」

 和彦は呆れたように亜佐美を眺めた。
「おまえ、それは妻としては変だぞ」
「わかっているわよ。奈那子にもそう言われたわ。でも、今日私があなたと会っているのも、あの子にとっては不潔なんだろうな」

「いや、今日の俺たちは、ただ飲んでいるだけじゃないか」
「それでもよ。でも、いいの。奈那子に嫌われても、未亡人らしくないって世間の非難を受けても、あなたが日本を離れる前にどうしてももう一度逢いたかった。逢って、おめでとうって言いたかったの」

「これからどうするんだ?」
和彦はためらいがちに訊いた。

 亜佐美は、ようやくストローに口を付けた。それから、笑顔を見せた。
「奈那子が下宿先に引越したら、あの家を売却して身の丈にあった部屋に遷ろうと思うの。奈那子の将来にいる分はちゃんと貯金してね。それから、仕事を見つけなきゃ。何もしないでいるには、いくらなんでもまだ若すぎるしね」

 和彦は、決心したように言った。
「ドミニカ共和国に来るって選択肢も考慮に入れられる?」

 亜佐美は驚いて彼を見た。
「本氣?」

 彼は肩をすくめた。
「たった今の思いつきだけど、問題あるか? 奈那子ちゃんに嫌われるかな」

 亜佐美は、タンブラーをじっと見つめた。あまり長いこと何も言わなかったので、和彦だけでなく、成り行きかから全てを聞く事になってしまった田中まではらはらした。

「新しい陽はまた昇るんだね」
彼女はそういうと、瞳を閉じてカクテルを飲んだ。

「今さら焦る必要もないでしょう? 一度、ドミニカ共和国に遊びにいくわね。カリブ海を眺めながら、またこのカクテルを飲みましょう。その時にまだ氣が変わっていなかったら、また提案して」
亜佐美の言葉に、和彦は明るい笑顔を見せた。

 田中は、安心してグレナディン・シロップの瓶を棚に戻した。


テキーラ・サンライズ (Tequila Sunrise)
標準的なレシピ
テキーラ - 45ml
オレンジ・ジュース - 適量
グレナディン・シロップ - 2tsp

作成方法: テキーラ、オレンジ・ジュースをゴブレットに注ぎ、軽くステアする。
ゴブレットの縁から静かにグレナディン・シロップを注ぎ、底に沈める。



(初出:2017年2月 書き下ろし)
関連記事 (Category: 小説・バッカスからの招待状)
  0 trackback
Category : 小説・バッカスからの招待状
Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (6)ミュンヘン、鍵盤 -1-

「大道芸人たち Artistas callejeros 第2部」のチャプター1だけを先行公開することにしましたが、これがその最後の部分になります。残りの部分については、おそらく来年以降の公開になります。ひとまず落ち着くところに落ち着いて、四人は新たな環境の中で彼ららしさを模索して行くことになります。

今回も二つに分けました。今回はヴィルの子供時代のことですね。


「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(6)ミュンヘン、鍵盤 -1-


 グランド・ピアノのふたを開けて、ヴィルは軽く鍵盤に触れた。いまやそれは彼のピアノだった。はじめてこのピアノに触れた時の事をヴィルは憶えていた。まだ十歳になっていなかった。

 母親の小さなアパートメントにまったく不似合いないかめしい髭の男がやってきたのは、その一週間前の事だった。

 男がやってきた時に、母親はヴィルにフルートを吹かせ、それから居間の小さなアップライト・ピアノで数曲弾かせた。それまですぐにでも立ち去りそうにしていた男は、演奏を聴くと態度を改めた。

「フルートを吹くのは好きか」
男は、威厳ある様子で訊いた。ヴィルは小さく頷いた。
「はい」
「毎日どのくらい練習しているのか」

「二時間ずつ、レッスンさせていますが、それ以外にも暇さえあれば、自分で勝手に練習していますわ」
母親が横から口を出した。髭の男は母親を冷たく一瞥したが、特に何も言わずに、再びヴィルに話しかけた。
「ピアノを弾くのも好きか」

「はい。ピアノでいろいろな音が出せるのが面白いです」
ヴィルは素直に言った。

 髭の男はじろりと見たが口元の厳しさはなくなっていた。子供っぽい甘えた様子をまったく見せないヴィルを教授は好ましく思ったようだった。
「来週から、土曜日には私の館でレッスンをさせよう。朝の九時にトーマスに車で迎えに来させる」

 母親は勝ち誇ったような顔になり、頬を紅潮させた。
「私も一緒に……」

 髭の男はじろりと母親を見て冷たく答えた。
「トーマスは信頼できる運転手だ。お前がついてくる必要はない」

 その夜、母親はシュナップスで酔いながら言った。
「あれが、お前のお父さんよ。十年も会っていないのよ。少しは私を見てくれてもいいのに」

 ヴィルはあれが父親だと言われてもぴんとこなかった。マルクスのお父さんはいつも楽しそうに笑っている。グイドーはお父さんと毎週山歩きに出かける。あんな立派な洋服は着ていないけれど、ずっと親しみがある。

 お母さんは音楽のことと、どれだけお父さんが立派ですごい人だったかしか話さない。学校の皆のいくサッカークラブにも参加させてくれないし、だから友達もなかなか出来ない。暇さえあれば勝手にフルートを練習しているというけれど、他に何をすればいいんだ。学校の勉強?

 土曜日に立派な黒塗りの車が貧相なアパートメントの入り口に横付けされた。マルクスやグイドーが遠巻きに見ている中、ヴィルはスーツを着た運転手のトーマスに連れられて、車でミュンヘンに向かった。連れて行かれたのはおとぎ話のお城かと思うような大きな家で、貧しいアパートメントでは見た事もない豪華な調度と広い空間に半ば怯えながら、迎えでた召使いのミュラーに連れられてサロンへと向かった。そこでヴィルは新しいピカピカのフルートをもらい、それから大きなベーゼンドルファーのグランド・ピアノにはじめて触れたのだ。

 普段弾いている家のピアノはもちろん、母親に連れて行かれるピアノ教室のグランド・ピアノともまったく違う音がした。深くて複雑な響きだった。父親と言われた髭の男にはまったく会いたくなかったが、このピアノを毎週弾けるのは嬉しかった。

 もらったフルートも、それまでのフルートとはまったく違った。髭の男の指導は厳しかったが、言う通りに吹くように努力すると、楽器はいままでヴィルの出せた音とはまったく違う音を約束してくれた。

 父親が二時間のレッスンし、それから大きな食堂でヴィルがいままでほとんど食べた事のないおいしい食事を食べた。父親は眉をしかめてヴィルのテーブルマナーをたしなめた。ヴィルの喜びは半減した。

 午後は、フロリナ先生がサロンにやってきてピアノを二時間指導した。いままでの先生よりも厳しかったが、明らかに上手で指導もわかりやすかった。一週間分のフルートとピアノの課題をもらうと、ひとりで二時間ほどサロンで練習し、それからトーマスに連れられてアウグスブルグに戻った。

 トーマスの送迎はそれから三年ほど続いた。その後は、自分で電車に乗ってミュンヘンに通った。黒塗りの車の運転手や、取り澄ましたテーブルマナー、父親の用意したまともな洋服などが、ヴィルの無口な様子と相まってお高くとまっている嫌な子供とやっかまれ、大人たちがヴィルを避けるようになった。

 それに影響されて、マルクスやグイドーもほとんど口もきかなくなった。学校でも行事を欠席させられる事が多かったため、孤立していった。大人とも子供とも話す事がなくなり、家でも音楽のことしか話せなくなり、さらにミュンヘンから渡される膨大な課題に取り組むために、ヴィルはひたすら音楽に没頭するしかなくなっていった。

 フルートを奏でるとき、ミュンヘンのベーゼンドルファーの音色を生み出すとき、ヴィルは数少ない歓びを感じた。それは孤独の中の慰めだった。それが孤独である事にもその時のヴィルは氣づいていなかった。

 はじめてピアノに触れる時に、ヴィルはいつも息をのむ。期待と恐れの混じった感情。それは、大人になってからも同じだった。大学のレッスン室で、生活のために働きだしたアウグスブルグの小さなバーで、稔の聴くに堪えない演奏に代わって弾くことになったヴェローナのバーで、コモのロッコ氏のレストランで、コルタドの館で、真耶の家で、奥出雲の神社の中で、ヴィルははじめて女の子の手を握るティーンエイジャーのように、ためらいながらはじめての音を出した。レネの両親の調律のよく出来ていないアップライト・ピアノに触れた時もそうだった。

 初めの音が出ると、ようやく口をきいた女のように、そのピアノの性格がわかる。強引に弾くべきピアノか、繊細に歌わせるべきピアノか、どう扱っても大差ない粗野なピアノかがわかる。

 それでも、このエッシェンドルフの館のベーゼンドルファーは、初恋の女のようにヴィルを惹き付けた。このピアノは、いま彼のものだった。ヴィルは椅子に腰掛けると、ゆっくりとツェルニーの練習曲を弾きだした。

「懐かしいものを弾くのね」
いつの間にか入ってきていた蝶子が静かに言った。

「あんたもこれで練習したのか」
弾きながらヴィルは蝶子に話しかけた。

「こんなすごいピアノじゃなかったけれどね」
「俺も最初はしょうもないアップライトだった」

「ピエールの所みたいな?」
「あれよりはマシだったな。出雲くらいのだった」

「ああ、瑠水さんのピアノね。私のもあのぐらいだったわ。もっともピアノの違いなんか、あの頃は知らなかった。あの時は親も反対していなかったし、ただ弾けるのが嬉しくてしかたなかったわ」

「これで弾くか?」
「私は、フルートを合わせるわ。そのまま弾いていて」

 蝶子は即興で優しいメロディをつけた。

 稔とレネもサロンに入ってきた。
「へえ。ツェルニーでこんな変奏曲ができるとはね」

 邦楽の稔にとっては、ツェルニーの練習曲は音大受験のためのつらい義務のはじまりだった。ヴィルと蝶子が自由に奏でている変奏曲はそんな思い出を吹き飛ばすような楽しげな演奏だった。

 ヴィルにとっても、この部屋はもはや窮屈で冷たい父親のレッスン室ではなく、四人で楽しげに話しながら音楽を奏でられる場になっていたのだった。
関連記事 (Category: 小説・大道芸人たち 2)
  0 trackback
Category : 小説・大道芸人たち 2
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (5)ミュンヘン、弔いの鐘 -3-

3つに分けた「ミュンヘン、弔いの鐘」の最後です。日本でもクラスというのはあるんですが、ヨーロッパだとそれがもっとはっきりしているような思います。お金があるとか、大学に行ったとか、そういう違いの他に、もうひとつ目に見えない壁があるように思います。

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(5)ミュンヘン、弔いの鐘 -3-


 ヴィルは大きく頷いた。

「俺の住所はここに移さなくてはならなくなる。必然的に蝶子もそうなるだろう。よかったら、あんた達二人も、一緒にしておかないか」

「僕に異議はありません。ドイツでもスペインでも」
「あんたがヴィザを用意してくれるなら、俺にも異存はないぜ」

「すぐにスペイン人と結婚するんじゃないの?」
蝶子がちゃかした。

「ヴィザやパスポートのために色仕掛けはしないって言っただろう」
稔が混ぜっ返した。

「パスポートといえば、俺とあんたのは書き換えになる」
ヴィルが蝶子に言った。

「なんで、またパスポートを書き換えるの? 先々週、書き換えたばっかりじゃない」
蝶子は訊いた。

「名前に称号が加わるんだ」
「は?」
「相続するとなると、領土やこの館だけでなくて、爵位もまとめてなんだ」

「え? ただのお金持ちじゃなくて、本当に貴族だったの?」
蝶子は驚いて言った。

「大した称号じゃない。イダルゴのと変わりない。ただ、パスポートにはそう書かれるんだ」
「なんて?」
「あんたは蝶子・フライフラウ・フォン・エッシェンドルフになる」
「あら。教授についてたフライヘルってのは三つ目の名前じゃなかったのね」

「フライヘルってなんだ?」
稔が訊いた。

「英語でいうとバロン、男爵だ」
「へえ、男爵に男爵夫人かよ。すげえ」

「だから、フランス警察が慌てたんですね」
レネも感心していった。

「そういう称号を持った人間が大道芸人なんてしていいわけ?」
蝶子が疑わしそうに訊いた。

「ダメだという法律はないと思うが、ミュンヘンではおおっぴらに公道には立たない方がいいだろうな」
「やっぱり」

「そうだよな。俺たちはこれからでもいつでも英国庭園で稼げるけれど、お前はもう絶対に無理だよな」
「そうね。ちょっと残念。そうと知っていたら例のパーティの前にでもやっておいたのに」

「そんなにあそこで稼ぎたければ、そのうちに『銀の時計仕掛け人形』をやればいい」
ヴィルはすましてワインを飲んだ。

 三人はにやりと笑った。広大な領地を相続しようが、男爵様になろうがヴィルは変わる氣はまったくなさそうだった。

「さてと。今朝の新聞に死亡広告が出たからそろそろ弔問客がぞろぞろやってくる。あんたと俺は、好奇の目にさらされるだろう。覚悟しておいてくれ」

「わかっているわ。こうなったら隠れているわけにいかないもの。私も喪服に着替えてこなくちゃ。まだあるといいけれど」
蝶子は、逃げる時に置いて行った喪服のことを考えた。

「あんたのものはみんな残っている。例の真珠は金庫の中だ。今すぐいるか?」
「まさか。あんなすごい真珠は、葬儀の日だけで十分よ」
結局、教授にもらったプレゼントを再び使うことになっちゃうわね、蝶子は複雑な心境だった。

「俺たちは、どうしている方がいい? さっさとスペインに帰った方がいいか、葬儀までここにいてなんか手伝いをするか」
「ここにいるといい。あんたたちがいるほうが、蝶子も氣が楽だろうから」
ヴィルはそういって出て行った。マイヤーホフが指示を待っているので、のんびりとはしていられなかった。

「大変だなあ。ただの葬式だって、てんてこまいなのに、男爵様の葬式だもんな」
「しかも、失踪していたのに突然呼び出されてですからねぇ。こんな複雑な事情のお葬式、滅多にないかもしれませんね」
稔とレネはひそひそと話した。

 あのヴィルがワインを空にしないで行ってしまった。もったいないから、飲んでしまおう。稔とレネは勝手に解釈して、応接室に残って飲んでいた。

 ヴィルはすぐにミュラーに頼んで仕立て屋を呼んでもらった。仕立て屋は、目を丸くしている稔とレネの寸法をさっさと測り、翌日には二人分の喪服が届けられた。

* * *


 弔問客の中には、市長夫妻をはじめ、あのパーティに招待されていた人々がいた。再び失踪したという噂のアーデルベルトが館に帰っている事には驚かなかった。上流社会ではそういう話は珍しくない。しかし、そのアーデルベルトが、「あの女」と結婚していたという事実には驚愕した。それだけでなく、あの時にアーデルベルトに殴り掛かりそうになっていた、「あの女」の連れの日本人が、喪服を着て葬儀の手伝いをしている。市長夫人は、しばらく瞬きも忘れ、用意してきたお悔やみの美辞麗句を思い出す事も出来なかった。

「わざわざお越しいただきましてありがとうございます、市長夫人。こちらは妻の蝶子です」
アーデルベルト・フォン・エッシェンドルフは、まったくの無表情で妻を紹介した。蝶子は悪びれた様子もなく「はじめまして」と手を出した。それで、市長夫人は、我に返って態度を取り繕った。

「それから、こちらは私どもの親しい友人で、安田氏とロウレンヴィル氏です」
「はじめまして」

 稔とレネも英語で澄まして挨拶した。パーティにいた客たちの呆け面が、判を押したようだったので、彼らが帰る度に稔は別の部屋に隠れて身をよじって笑った。

 ヴィルは、葬儀の厳粛で沈痛な雰囲氣のうちに、蝶子を出来るだけ多くの人間に紹介してしまうつもりだった。ただの社交の中では意地悪い扱いをしようとする人たちも、弔問中には攻撃の手を緩めざるを得ない。この場で優しく「よろしく」と言わせてしまえば、あとはこっちのものだ。

 ヴィルは社交界に積極的に進出するつもりはなかったが、まったく関わらないままでいる事も出来ないのをよくわかっていた。稔とレネも、この際に社交デビューさせてしまえば、あとで彼らが常に側にいる事を、使用人たちを含め、誰にも文句を言わせずに済む。それがヴィルの狙いだった。

 市長夫人はゴシップ女だったらしく、翌日からどう考えても教授と親交があったとは思えないご婦人方が興味津々の心持ちを喪服に包んで、弔問に押し掛けた。教授の音楽の知り合い、弟子たちも次々とやってきた。中には教授に婚約者として蝶子を紹介された事のある人たちもいた。蝶子もヴィルも平然と好奇の目に耐えた。

「僕にはとても我慢できないでしょうね」
レネはヤスミンに打ち明けた。

「そうね。きっとある事ない事言われるんでしょうね。頑張っているわ、二人とも」
ヤスミンは喪服を持参して手伝いにきていた。

「でも、これをやっちゃった方がいいっていうテデスコの判断は間違っていないよな」
稔はようやく慣れてきたアクアヴィットをちびちびとなめながら言った。

 受け取るのは銀行預金だけじゃない。あのときのヴィルの言葉は、こういう事も含んでいたのだ。稔やレネにとってはなんのデメリットもないヴィルの相続だった。だが、こうなってみてはじめて、稔は蝶子とヴィルが戦わざるを得ない事を知った。二人ともそれに耐えうる強靭な神経を持ち、自分たちの人生を切り開けることも。

「フロイライン・四条」
マイヤーホフが、つい以前呼んでいたままの呼び名で蝶子を呼んだとき、ヴィルははっきりと訂正した。
「フラウ・フォン・エッシェンドルフだ」

 その調子が珍しく厳しく、それを感じたマイヤーホフは、平謝りして氣の毒なほどだったので、蝶子は言った。
「蝶子と呼んでくださっていいのよ」

 マイヤーホフはヴィルに対してはファーストネームで呼んでいるのを知っていたからだ。けれど、マイヤーホフは蝶子に親しみを示そうとしなかった。蝶子はそれでマイヤーホフにわだかまりがあるのを知った。ミュラーもそうだった。

 マリアンは蝶子に同情を示していた。いずれにしてもマリアンはエッシェンドルフ教授よりもヴィルの方がずっと蝶子にお似合いだと昔から思っていたのだ。二人が出会うずっと前から。

 いつの間にか、マイヤーホフとミュラーは蝶子を「フラウ・シュメッタリング」と呼ぶようになった。ヴィルは二人の前ではいつも蝶子と呼んでいたので、彼らにしてみれば教授の呼び方を踏襲した嫌みな呼び方のつもりだったのかもしれないが、かつてはヴィルが、今はヤスミンが「シュメッタリング」の呼び方を使っていたので、蝶子にはなんともなかった。

 葬儀には、たくさんの弔問客が来た。二人を力づけようと、ヤスミンはアウグスブルグ軍団に連絡を取り、劇団員が山のようにやってきた。カルロスとサンチェス、それにイネスとマリサ、カデラス氏やモンテス氏もやってきた。稔とレネももちろん二人の近くにいた。

 マイヤーホフや教授と親しかった人たちは、エッシェンドルフが変わり、これまでとは違っていることをはっきりと知った。アーデルベルト様は亡くなられた旦那様のコピーでいるつもりはまったくないのだ。
関連記事 (Category: 小説・大道芸人たち 2)
  0 trackback
Category : 小説・大道芸人たち 2
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (5)ミュンヘン、弔いの鐘 -2-

3つに分けた「ミュンヘン、弔いの鐘」の第2回です。この4人、いろいろなことを
多数決で即決していくのに慣れていて、今回も大切なことをあっさりと決めています。人生には、時おりこういうことがあります。本当はもっとじっくり考えて決めたいけれど、そういう大問題ほど急いで決めなくてはならないのですよね。そして、後で「あの時がターニングポイントだったんだな」と思ったりするのかもしれません。


「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(5)ミュンヘン、弔いの鐘 -2-


「ヴィル? ああ、よかった。連絡がこないので心配していたのよ」
「蝶子。あんたと早急に話をしなくてはならない。だが電話で話せるようなことじゃない。葬儀まではやることがありすぎて、俺はスペインには戻れない。たぶん、あんたはここには来たくないだろうが、ミュンヘンか、それとも少なくともゲルテンドルフあたりにでも来てくれないか」

「いいわよ。明日、そっちに行くわ。平氣よ。迎えなんかいらないわ。道はわかっているもの」
そう答える蝶子を横目で見て、稔とレネは顔を見合わせた。

「行くのかよ」
電話を切った蝶子に稔が問いかけた。

「なにかとても大切な話があるんですって」
「なんだよ、それ。大丈夫なのか?」
「危険があるようには聞こえなかったけれど」

 蝶子の答えに、レネは心配そうに眉をひそめた。稔はじっと考えていたが、やがて言った。
「俺たちも行こう。もしかしたら助けが必要かもしれないし。もし、俺たちに用がなければ、俺たちはミュンヘンで稼げばいいじゃないか」

 レネも力強く頷いた。蝶子はほっとして笑った。
「またサンチェスさんに予約をお願いしてくるわね。すぐ出られるようにしてね」

「今度は、三味線持っていくぞ」
「ミュンヘンに行くって、ヤスミンに電話してこようっと」
三人はばたばたと行動に移った。

* * *


 翌日の午前の便が取れたので、二時にはもう三人はエッシェンドルフの館の前にいた。

 館に行くこと自体は怖くなかった。教授がもういないなら恐れるものはなかった。けれど、使用人たちの前にどんな顔をして入っていっていいのか、蝶子にはわからなかった。

「いいか。俺たちは外で待機している。三十分経ってもお前が戻ってこなかったら、突入するから」
蝶子の緊張の面持ちを見て、稔は言った。蝶子は笑った。
「心強いわ。行ってくるわね」

 以前と同じように手入れの行き届いた石畳の小道を通って、蝶子は玄関に向かった。意を決して呼び鈴を鳴らす。出てきたのは喪服を着たマリアンだった。

「まあ、蝶子様。ようこそ。アーデルベルト様がお待ちですわ」
「ありがとう、マリアン」

「あの、こんなときですけれど……」
「え?」
「ご結婚、おめでとうございます」

 蝶子は困ったように笑った。マリアンは皮肉ではなくて本心から言っているようであった。
「ありがとう」

 そうやって話している時に、階段の上からヴィルが降りてきた。やはり喪服を着ていた。
「蝶子。悪かったな。呼び出したりして」

 蝶子はヴィルに耳打ちした。
「あのね。ヤスとブラン・ベックも来ているの。私が三十分以内に安全に姿を現さない場合、強行突入するって手はずになっているの」

 ヴィルは少しおかしそうに顔を歪めて、そのまま玄関に向かい、外の二人を呼び寄せた。
「大丈夫だ。何の危険もない。今回は丁重に扱ってもらえるぞ。俺たちの待遇は改善されたんだ」

 二人は肩をすくめて、中に入ってきた。
「俺たち、心配だったから一応ついてきたけれど、なんでもないなら英国庭園あたりで稼いでいるぜ」

 稔の言葉にレネも頷いた。だがヴィルは頭を振った。
「いや、あんたたちにも一緒に聞いてもらいたい話なんだ。とにかく俺たちの今後のことに大きく関わってくる話だから」

 そういうと、ヴィルは三人を連れて応接室に向かった。途中で、マリアンに声をかけた。
「この二人のために、寝室を二つ用意しておいてくれないか」

「わかりました。二階の東の二部屋の準備をしておきます」
「ありがとう」

 応接室は広く、優雅な調度が置かれていた。がっしりとした座り心地のいいルイ十六世様式の椅子や重厚な飾り棚が、いかにもドイツという感じで、同じ裕福な館でも華やかで異国的な要素の強いバルセロナのコルタドの館とは好対照だった。

 ヴィルは重い扉を閉じると、棚からアクアヴィットの瓶と小さいグラスを四つ取り出してきた。
「一ダースも注文したのに、あの晩俺が一口飲んだだけで誰も手をつけていないんだ」

 レネがにっこりと笑った。
「まだ、飲んだことないんですよ」

「販売しているのにか?」
「あれが最初で最後の販売だったんで」

 四人はグラスを合わせて、その透明の酒を飲んだ。
「うげ。強い」
稔は目を白黒させた。レネは咳き込んだ。

「これ、12本もあるわけ?」
蝶子も氣が遠くなる思いがした。ヴィルだけが平然と飲んでいたが、一杯でやめて、代わりに白ワインを持ってきた。

「それで?」
蝶子がヴィルの顔を見た。

「俺は今、選択を迫られている。つまり、相続するか放棄するか」
「お蝶はともかく、俺とブラン・ベックに相談する必要はないだろう?」
稔はあっさりと言った。

「そういうわけにはいかない。Artistas callejerosの今後にも関係がある」
ヴィルは答えた。

「それはつまり、相続したら、お蝶とテデスコが抜けるってことか?」
稔の言葉に蝶子はびっくりしてヴィルの顔を見た。

 ヴィルは即座に首を振った。
「抜けるわけはないだろう。だが、活動には影響が出る。もらうのは単なる銀行預金ではないので、受け取るだけ受け取って、年中ほっつき歩いているわけにはいかなくなる」

「というと?」
「コモやバロセロナ、それにマラガの仕事をするぐらいは問題ない。また、秋にピエールを手伝うのも問題なくできる。だが、それ以外は半分くらいになるだろうな。月に一度、数日間はここに戻らなくてはならないだろうし、お偉方とつきあわなくてはならないことも増えると思う」

 蝶子はほっとした。思ったほど悪くないじゃない。
「相続したほうがいいと思う理由もあるんでしょう?」

 蝶子の言葉にヴィルは頷いた。
「以前、大道芸人は若くて健康でなければできないという話をしただろう。今は自由で氣ままな旅さえできればそれでいいが、そのうちに体が利かなくなる。その時に四人とも安心していられる」

「カルちゃんにたかってばかりいる状況も改善できるわね」
「そうだ、それが二つ目だ。彼の事業に協力することも可能になる」

 蝶子はそんなことは考えたこともなかったが、確かにそうかもしれないと思った。

「それから、三つ目だ。俺はあんたたちの才能を街角の小銭集めだけで終わらせるのは残念だと常々思っていた。俺が相続すれば、俺たちの活動の可能性がもっと広がる」

 ヴィルは稔、レネ、それから蝶子の顔を順番に見た。
「だったら、どうして相談する必要があるんだ?」
稔が訊いた。

「これは俺の考えで、あんた達がどう考えるかはわからないからだ。もしこの相続で、Artistas callejerosが壊れるなら、俺は相続を辞退するつもりだ。それほどの価値はないからね」

「いまのところ、壊れるようなことは考えられないよな。先のことはわかんないけれど、俺たちの氣持ち次第で続きもするし、壊れもするんじゃないかな。とくにマイナス要因はないよ。相続すればいいんじゃないか?」
稔が言った。レネも手を挙げて賛成の意を表した。

 ヴィルは蝶子の方を見た。
「あんたには、反対する他の理由があるだろう。ここに関わるのはイヤなんじゃないか?」

 蝶子は少し間を置いてから首を振った。
「日本の諺に『毒を食わらば皿まで』っていうのがあるのよ。こうなったらどんな恥を上塗りしても同じだわ。利点の方が大きいもの、私は意義なしよ」
関連記事 (Category: 小説・大道芸人たち 2)
  0 trackback
Category : 小説・大道芸人たち 2
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (5)ミュンヘン、弔いの鐘 -1-

しばらく記念掌編や企画ものを続けて発表していたので、「大道芸人たち 第二部」ずいぶん空いてしまっています。チャプター1はまだ終わっていません。「教授は第二部もでてくるんですか」という質問にうやむやな回答を続けていましたが、ここでようやくはっきりしましたね。

今回も、長いので、3つに分けています。


「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(5)ミュンヘン、弔いの鐘 -1-


 サンチェスの持ってきた電報をじっと見ていたヴィルに、蝶子が心配そうに声をかけた。
「どうしたの?」

 ヴィルは黙って、電報を蝶子に渡した。差出人はエッシェンドルフ教授の秘書のマイヤーホフだった。蝶子の電報を持つ手が震えた。
「チチウエ シス シキュウ レンラクサレタシ」

 ヴィルはカルロスに電話の使用許可を求めた。そして、マイヤーホフにではなく、ミュンヘンのシュタウディンガー博士という医者の診療所に電話をかけた。またしても父親の策略ではないかと思ったからだ。

「アーデルベルト・フォン・エッシェンドルフです。シュタウディンガー先生とお話ができませんか」

 博士は不在だったが、診療所の指示で博士の携帯電話にかけ直した。
「アーデルベルト君か。よく電話してくれた。いま、私はちょうど君のお父さんの館にいるんだ。そうだ。本当にお父さんは亡くなった。心臓発作だ。マイヤーホフ君がどうしても君と連絡を取りたがっている。ここにいるから話してくれないか」
「替わってください」

 ヴィルはしばらくマイヤーホフと話していたが、電話を切ってから蝶子に言った。
「ミュンヘンに行かなくてはならない」

「わかったわ」
「向こうに着いたら、すぐ連絡する。あんたはここにいるんだ」

「連絡がこなかったらまた迎えに行くから」
ヴィルは蝶子の頬に手をやって頷いた。

「で、行っちゃったのかよ?」
マリサとのデートから帰ってきた稔は驚いて言った。

「そうなんです。ミュンヘン行きの飛行機をサンチェスさんがすぐ手配してくれたんで」
レネがイネスの作ったチュロスを食べながら言った。

「大丈夫なのか? またしてもカイザー髭がなんか企んでいるんじゃないのか?」
稔はとことんエッシェンドルフ教授を信用していない。蝶子はそれももっともだと思った。

「信頼できるお医者さんが、本当に亡くなったっておっしゃったみたいなの。でも、連絡がこなかったら、迎えにいかなくちゃいけないでしょうね」
「おいおい。二ヶ月に三回もバイエルンとバルセロナ往復かよ」
「ごめんなさいね。私たちのことで振り回して」

「いいけどさ。だけど、テデスコは複雑な心境だろうな。いくら逃げ出したとは言え父親だからな」
「パピヨンも、大丈夫ですか?」
レネが蝶子を心配した。
「ショックなのは確かだけれど、でも、ヴィルの方が心配だわ」

* * *


「まあ、アーデルベルト様」
家政婦のマリアンが半ば泣いているように迎えでた。

「マイヤーホフはここにいるのか」
「はい。先ほどから応接室で顧問弁護士のロッティガー先生と一緒にお待ちです」
「そうか」

 ヴィルは応接室に向かった。
「お待たせしました」

「ああ、アーデルベルト様、お待ちしていました」
マイヤーホフは心底ほっとしたようだった。
「二度と戻ってくるつもりはなかったんだが」

 ロッティガー弁護士とマイヤーホフのお悔やみの言葉を、ヴィルは軽くいなして、先を続けさせた。
「先日、フロイライン・四条あてに招待状を送ったときの指示メモが残っていたのが幸いでした。アーデルベルト様がみつからなかったら、葬儀も今後の使用人の身の振り方もお手上げなんですよ。他に取り仕切る権限のある方がまったくいませんからね」

「あんたがすればいいじゃないか」
「私は単なる使用人です。法的にも全く何の権限もないんです。たとえば、もう銀行預金が凍結されているので葬儀の準備も私どもでは手配できません。かといって先生ほどの方の葬儀をしないわけにもいきません。また、月末までこういう状態だと、全使用人が給料をもらえませんしね」

 マイヤーホフの言葉に頷いてロッティガー弁護士は続けた。
「アーデルベルト君。君は、お父様の死で自動的にこのエッシェンドルフの領主になったんですよ。わかりますか」
「俺は、親父が遺言状をとっくに書き換えたと思っていましたよ」

 弁護士は首を振った。
「エッシェンドルフ教授があなたが十四歳の時に作成した遺言状は一度も変更されていません。つまり、あなたを跡継ぎとしたその遺言が有効なのです。もちろん、あなたには相続を辞退する権利もありますが、少なくとも葬儀並びにすべての手続きが終わり、彼ら使用人の身の振り方が決まるまでは、煩雑な義務の山からは逃れられないんですよ、残念ながら」

「もちろん、このまま我々が新しい職場を探さずに済むなら、それに超したことはないのですが……」
マイヤーホフが小さく付け加えた。ヴィルはため息をついた。
「わかりました。とにかくすべきことをしましょう」

「なぜこんな急に親父は死んだんだ? 心臓が悪かったのか」
弁護士が帰ると、ヴィルはマイヤーホフに訊いた。

「いいえ。時々不整脈がある程度でしたが、もともと大きな発作があったわけではないのです。それが……」

 マイヤーホフは言いにくそうにしていたが、意を決したように顔を上げた。
「申し上げておいた方がいいでしょうね。どうぞこちらへ」
そういって教授の書斎にヴィルを案内した。そして、デスクの上にあった一枚の書類を見せていった。

「実は、遺言状のことをもう一度きちんと検討したいとおっしゃって、私にいくつかの書類を用意するようにお申し付けになったのです。それで、言われたように準備してお渡ししたところ、これをご覧になって非常にショックを受けられ、それで発作を……」

 それはヴィルの、つまりアーデルベルトの家族証明書だった。結婚したばかりの妻、蝶子の名前が記載されていた。ヴィルは黙ってそれを見ていた。つまり、これが原因で命を落としてしまったというわけか。

「じゃあ、親父は遺言状を変えるつもりだったんだな」
「検討したいとおっしゃっただけです。どうなさるおつもりだったかはロッティガー先生も私も伺っていません」

「だが、あんたたちは、俺が相続するのは腹立たしいだろう。そんな事情では」
「どういたしまして。代わりに私を相続人に指定すると言われていたなら悔しいでしょうが、そんなことはあり得ませんからね。私としては、見知らぬ方に放り出されるよりは、これまでのことを知っているあなたに公正な処遇をしていただくのを期待したいわけでして」

「とにかく、葬儀を進めよう。相続については、いますぐは決められない。もちろん、あんたたちの給料が出ないままなんかにはしておかないから安心してくれ」
「それを聞いて安心しました」
関連記事 (Category: 小説・大道芸人たち 2)
  0 trackback
Category : 小説・大道芸人たち 2
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (4)バルセロナ、宴 -1-

またしてもしばらく間が空きましたが、「大道芸人たち」の続きです。この「バルセロナ、宴」で浮かれまくっている「ケッコン祭」はひとまず終わります。と言っても長いので3回に分けています。ブツブツと連載が途切れると、読みにくいと思いますので、77777Hit記念掌編の続きはこの3回(とStella用の作品)が終わってからになります。どうぞご了承ください。

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(4)バルセロナ、宴 -1-


 カルロスの言葉は嘘ではなかった。稔はコルタドの大聖堂が本当に満杯になっているのをみてのけぞった。前から四列だけはカルロスがリボンを引いて座れないようにしてあったので、招待客がやっと座れるという状態だった。

 領民たちはみな、日曜日用の背広やワンピースを着て、がやがやと座っていた。外には大きなテントがいくつも張られていて、結婚式の後の大宴会用の準備が忙しく行われていた。

 稔とレネは一張羅を堅苦しく着て、通路を一番前に向かった。真耶と拓人がもう座っていて、ここだと手招きした。証人の二人は通路に一番近い最前列に座るのだ。真耶たちの向こう側にはピエールとシュザンヌが晴れ晴れしい笑顔で座っていた。後ろはアウグスブルグの連中で、もうほろ酔い加減なのかと思うほど大声で騒いでいて、時折スペイン人に「しっ」と怒られていた。

 通路を隔てて反対側には、イネスやサンチェスをはじめとする主だったカルロスの使用人たち、それにスペインとイタリアの雇用主たちがすまして座っている。稔とレネは軽く頭を下げて挨拶した。その他の招待客は、クリスマスパーティでなじみになった、カルロスの友人たちだった。

 ヤスミンとマリサの姿は見えない。二人はブライズメイドをつとめるので蝶子と一緒に入ってくるのだ。カルロスの分も含めて三人分の席が、レネたちの反対側に確保してある。

 稔とレネに少し遅れて入ってきたのは、今日の花婿である。モーニングを着ていてもまったく衣装負けしていないのはいいが、フュッセンの時と違って、あまりの大騒ぎに勘弁してくれという顔をしている。もちろん、それを読み取れるのは証人の二人だけである。

 稔とレネは立ち上がって、ヴィルに「がんばれ」と目でサインを送った。ヴィルは淡々と、招待客たちに礼を言ってまわった。アウグスブルグの連中は嬉しそうに固い握手をし、女性陣はその頬にキスをして祝福した。真耶もその一人だった。拓人はがっしりと握手をしてからウィンクした。

 やがて、荘厳なオルガンの音がして、人々の目は一番後ろの大聖堂の入り口に集中した。ここにいる人間の九割がたの領主様であるカルロスが誇らしげに花嫁に腕を貸して入ってくる。美しい花嫁の父親役が出来る役得を大いに楽しんでいた。

 すっきりとしたマーメイドラインは蝶子の完璧なスタイルを強調している。ラインはシンプルだが、表面をぎっしりと覆い、腰から後ろにも広がっている長くて美しいレースが清楚でありながらスペインらしい豪華さだ。顔を隠している長いヴェールにも同じ贅沢な手刺繍がふんだんに使われている。真耶は思わずため息をもらした。

 稔とレネはヴィルの表情が変わったのをみて顔を見合わせて笑った。ほらみろ、テデスコ。教会での結婚式も悪いもんじゃないだろ。さすが、トカゲ女だ。こんな完璧な花嫁はなかなか観られるもんじゃないぜ。それからレネと稔は、マリサとヤスミンに笑顔を向けた。

 一ヶ月前のフュッセンでの婚式でもう正式な夫婦として認められていたので、ヴィルはこの教会の挙式を単なる義務か罰ゲーム程度にしか考えていなかったのだが、それは自分の考え違いだったと認めざるを得なかった。カルロスから蝶子の手を渡された時に、ようやく本当に蝶子と一緒になれたのだと感じた。

 それは美しい花嫁だった。ヴェールの下から見つめる瞳が、強い光を灯している。赤い唇の微笑みはついにヴィルの無表情に打ち勝った。ヴィルは稔とレネが驚くぐらいにはっきりと微笑んだ。

 フュッセンで行った婚式と違うのは、カトリックの結婚式でオルガン演奏と大コーラス付きの聖歌や祈りや、司教による説教などが入っているところだったが、基本的には同じ誓いを繰り返して、二人は宗教上も認められる夫婦となった。

 ヴィルは蝶子のヴェールを引き上げて優しくキスをした。大聖堂は歓声に満ち、二人が大聖堂から出てくると盛大なライスシャワー攻めにあった。そしてテントでは、さっそく領民たちが大騒ぎして飲み始めた。飲めれば何でもいいのは僕たちと同じだな、レネは密かに思った。

 真耶は蝶子に抱きついて祝福をした。
「おめでとう、蝶子!あなたは今までに私の見た一番きれいな花嫁よ」

「ありがとう、真耶。あなたにだけはどうしても来てほしかったの。はい」
そういって、蝶子は白い蘭のブーケを真耶に渡してしまった。

「おい、そのブーケを狙っているヤツはまだこっちにもたくさんいるんだぞ」
稔がヤスミンやその他の女性軍を目で示した。実は、マリサも密かにブーケを狙っていた。

「だめよ。もうもらっちゃったもの。私もここで結婚したいわ」
真耶は微笑んで大聖堂を見上げた。

 拓人が肩をすくめた。
「お前の結婚式がここなら、僕はまたお前と共通した四日連続の休みを見つけなくちゃいけないじゃないか」

「それって、親戚として? それとも音楽のパートナーとして? どういう立場で参列したいわけ?」
真耶は冷たく言い放った。

「もちろん花婿としてですよね」
レネが優しく突っ込んだ。拓人は大聖堂を見上げてうそぶいた。
「ここで挙式するのは、確かに悪くない。カルロスに予約しておこうかな。相手が誰かは別として」

 大聖堂前でいつまでものんびりしているわけにはいかなかった。この後、コルタドの館ではパーティがある。女性陣は着替えなくてはならないし、カルロスや使用人チーム、それに稔やレネ、花婿のヴィルですらやる事がたくさんあった。領民やアウグスブルグチームのように酔っぱらっている場合ではなかった。

「あまりここで飲み過ぎるな。パーティの始まる前に泥酔されると困る」
ヴィルが言ったが、ドイツ人たちはグラスを高く掲げてセルベッサを一息で流し込んでいるだけだった。

「ヤスミン! お前もここに来て飲めよ」
ベルンが誘ったが、ヤスミンは首を振った。
「冗談! ビール臭い息でダンスを踊れっていうの? ドレスだってせっかく新調したのよ」

「だから、女ってヤツは……」
団長がまわらぬ舌で文句を言ったが、ヤスミンはもうその場を去っていた。
関連記事 (Category: 小説・大道芸人たち 2)
  0 trackback
Category : 小説・大道芸人たち 2
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (3)バルセロナ、前夜祭

さて、バルセロナに戻っています。まもなく教会での結婚式と、パーティ。準備がたくさんあるのですね。

ちなみに、結婚パーティで新郎新婦がダンスをするのは、わりと普通です。もっとも証人や参列者までもが踊るのは少し珍しいかも。上流社会では多いようですが。いまの若者は、ボールルームダンスよりもっと今どきのダンスが好きなようです。

今回は三千字弱だったので、全部まとめて発表することにしました。来週はお休みして、外伝(記念掌編)を発表することになると思います。


「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(3)バルセロナ、前夜祭


「いたっ、また踏んだわね!」
蝶子が呆れた声を出した。稔も叫んだ。
「悪いっ」

「どうしてこんな簡単なステップが覚えられないのよ」
「パピヨン。最初は無理ですよ」
レネが、稔に加勢した。ヴィルは黙ってワルツを弾き続けていた。

「もう一度、最初から。ねえ、そんなに腰が引けてちゃ、パートナーにステップがわかんないでしょ。ちゃんと足を踏み込んでよ」

「けど、そんなことしたら……」
稔は、蝶子の腰や足に密着してしまうのでうろたえていた。

「何照れてんのよ。ボールルームダンスってのは、そうやって踊るものなの。へなへなしている方がずっとイヤらしいのよ。ちゃんと踏み込まないと、マリサが困るでしょ!」

 トカゲ女ならまだしも、マリサにそんなことをするなんて。そう思っただけで稔は真っ赤になった。

「もうっ。ちょっと横で見ながらステップを覚えなさい。ブラン・ベック、お手本!」

 レネが上手にリードしながら蝶子と踊りだすと、稔は感心して頷いた。そうか。こうやって堂々としていると、傍目にはイヤらしくないんだな。でも、俺にあと三日でここまで踊れるようになれって? 絶対無理だよ。

「明日からは、マリサに来てもらうから。とにかく彼女の足を踏まないようにステップだけでも完璧に覚えなさい!」
蝶子は難題をふっかけた。稔は頭を抱えた。

「おい、テデスコ。なんでヨーロッパ人は結婚パーティでダンスなんか踊るんだよ」
「マリサと手もつないだことないんだろう? 一氣にステップアップできるじゃないか」

 ちくしょう。テデスコとお蝶がワルツを踊っているのを見たことはないが、上手いに決まっている。なんせ、あのアルゼンチン・タンゴを踊れる二人だもんな。ブラン・ベックも余裕の上手さだし、俺だけジャンル違いじゃないか。

「ところで、ヤスミンはいつ到着するの?」
蝶子は、レネに問いかけた。
「今晩、来るって言っていました。イダルゴ、怒っていないかなあ。すっかり無料宿泊所にしちゃって」

「だったら、ブラン・ベックの部屋に泊めれば?」
「とんでもないっ。だったら、僕が廊下で寝ます」
「ふ~ん? 前、私が使わせてもらっていた部屋が空いているもの、あそこに入れさせてもらえばいいわよ。私の洋服とか動かしておこうかな」

「真耶と拓人が着いたら、もう二つ部屋が必要ですよね。そろそろイダルゴに交渉しておきましょうか?」
「あら、それはもう確保済みよ。二階にねえ、アラベスク模様の壁紙の素敵な一対の客室があるのよ。あそこを使わせてくれるんですって。そのかわり、二人はカルちゃんのために二重奏を演奏しなくちゃいけなくなったけどね」

 ヴィルはレネと蝶子が楽しそうに踊っていても、平然とピアノを弾き続けていた。

「なんか、前とえらい違いだよな」
稔がじろりと見た。

「何がだ?」
「ギョロ目とトカゲ女がタンゴを踊っていた時と較べてだよっ」
「そうだな」
ヴィルは余裕だった。

「ヤス! 何さぼっているのよ。さっさとステップを覚えなさい!」
蝶子に叱り飛ばされて、稔はあわててフロアに戻った。

* * *


「ハロー、みなさん。ここ素敵ねぇ、いつもこんなところに居候しているんだ。うらやましいわ」
到着したヤスミンは、物珍しそうにコルタドの館を見回した。レネは嬉しそうに、案内して回った。 

「以前、パピヨンが使っていた部屋を空けてもらったんです。案内しますね」
レネがそういうと、ヤスミンはびっくりしたように言った。
「なんで今さら? もちろん私、レネと同じ部屋に泊まるわよ」
「……」

 真っ赤になっているレネを見て蝶子と稔はくっくと笑った。

「ねえ。これ見て。シュメッタリングに初めて会った時に見て以来、一度この色着てみたかったの」
そういってヤスミンが取り出したのは、朱色の炎が白地の裾に向かってゆくドレスだった。前の方が短くて足が見えるようになっている。

「まあ、すてきねぇ」
蝶子が嬉しそうに近寄った。

「もちろん、シュメッタリングは、今度はこの色じゃないんでしょう? もしそうなら他のドレスを用意しなくちゃいけなくなっちゃう」
「大丈夫よ。私のは別の色だから」

「パーティのドレスは俺とブラン・ベックがプレゼントしたんだぜ」
稔がウィンクした。

「そうなの。カルちゃんがプレゼントしてくれたウェディングドレスも、パーティのドレスもまだヴィルには見せていないのよ」

 蝶子は嬉しそうに、ヤスミンとドレス談義に入った。ヴィルは頭を振って稔やレネとワインを飲みに行ってしまった。

 次の日の午後のダンス練習会には、ヤスミンとマリサも参加した。稔は緊張でカチコチになっていた。救いを求めるように蝶子の方を見た。また、怖い顔をしているのかと思いきや、蝶子は微笑んで親指を上に向けた。それから、フルートをもってピアノの前に座るヴィルの横に立った。

「なんだよ、お蝶。指導しないのかよ」
「もう十分したでしょ。あとは音楽に乗って、マリサを幸せなダンスの世界に連れて行ってあげなさい」

 そういうと、ヴィルに頷いた。ヴィルは蝶子のリクエストに応えて、伴奏を弾きだした。

 あ、『美女と野獣』だ。稔は忘れていなかった。ヴェローナのトネッリ氏のバーで、はじめて二人が共演した曲だ。あの時、いつもケンカばかりしている二人が、まるで恋でもしているみたいに演奏したんでびっくりしたんだったよな。稔は嬉しくなって、緊張を忘れてしまった。マリサに手を伸ばすと、はにかんで嬉しそうに手を伸ばしてきた。特訓のように、精一杯背筋を伸ばしてマリサと正しいポジションを組み、おそるおそる足を踏み出した。

 ぎこちないながらも、稔は少なくともステップを覚えていた。隣でレネがヤスミンと嬉しそうに踊っている。ダンスは、義務ではなくて、パートナーと楽しむためのものだと稔はようやく実感できた。ちょうど蝶子とヴィルが競演を楽しんでいるように。

* * *


「蝶子!」
真耶が抱きついた。挙式前日の午後だった。蝶子はヴィルと一緒に空港に迎えに行った。真耶はヴィオラ以外の荷物を取り落として走ってきた。

「真耶、遠いところをありがとう、疲れたでしょう?」
「全然。興奮して、疲れるどころじゃないわ。招んでくれて本当に嬉しいわ」

「結城さんも、ほんとうにありがとう」
真耶が取り落とした荷物を拾って後ろから来た拓人に蝶子が微笑みかけた。ヴィルは、拓人に握手すると真耶の荷物を受け取って持った。

「おめでとう。こうなるとは予想していなかったな」
拓人が言うとヴィルは珍しく笑った。
「あんたのおかげだ」

「そのわりにはずいぶんかかったじゃないか。あれから一年以上経っているぞ」
「あれから、いろいろあったんだ」

 拓人はヴィルからそのいろいろを聞き出すのは困難だと知っていたので、あとで稔に洗いざらい話させようと思った。
関連記事 (Category: 小説・大道芸人たち 2)
  0 trackback
Category : 小説・大道芸人たち 2
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (2)フュッセン、白鳥の城の下で -2-

しばらく間が空きましたが、「大道芸人たち」の続きです。婚式は無事に終了して、ちゃっかり観光客になっている四人。まあ、ここまで来たらあのお城は入っておきたいですよね。

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(2)フュッセン、白鳥の城の下で -2-


「で、これが最初のハネムーンってわけか」
稔が笑いながら、ノイシュヴァンシュタイン城を見上げて言った。

「私たちいつも動き回っているんだもの。ハネムーンに行きたいって思い入れはゼロだわ」
蝶子が笑って言った。

「こう、どこかまったく行ったことのないところに旅したいって希望はないんですか?」
レネが訊いた。蝶子とヴィルは顔を見合わせた。

「南米はどうだ?」
「南太平洋の島もいいわよね?」

 それから蝶子はレネと稔の腕を取って言った。
「でも、私たちのハネムーンは特殊なのよ。証人がどこまでもついてこなくちゃいけないから」

「そういうのお邪魔虫って言うんじゃないのか?」
稔が後ろのヴィルを振り返ると、大して迷惑そうにも思っていない顔でヴィルは首を振った。
「特殊といえば、この場合のハネムーナーと証人は、現地で稼がなくちゃいけないんだ。邪魔する時間もされている時間もないよ」

 四人は一斉に笑った。

 ノイシュヴァンシュタイン城に入るためには、やはり予約した時間を待たなくてはならなかった。城前の広場には多くの人々が暇を持て余してたむろしていた。

「ちくしょう。三味線を持ってくればよかったぜ」
稔が言うと、レネはにやりと笑って、ポケットからカードを取り出した。そして、入場時間まで出来た人だかりの前で楽しく稼いだ。

「なんか氣前のいい客が多かったな」
入場がはじまって、城の中に入ると稔がレネにうらやましそうに言った。レネは笑った。
「そうですね。あとでこの儲けで祝い酒を飲みましょう」

「こういうの、どこかで見たような氣がするわ」
蝶子が城の中を見回して訝しげにつぶやいた。

「シェーンブルン宮殿やベルサイユ宮殿ですか?」
レネが訊いた。もちろんどちらもレネは行ったことがなかった。

「違うの。そういう本物のお城じゃなくて…」
「ああ、わかったぞ。東京ディズニーランドだろう」
稔が叫んだ。蝶子も突然納得がいった。

「そうそう。ちょうどそんな感じ。変ね。正真正銘、本物のお城なのに」
「外がディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったって言うけれど……」
ディズニーランドになぞもちろん行ったことのないレネはピンとこずに首を傾げた。

「この金ぴかの装飾がかえって作り物っぽく見えるんだろう」
ヴィルが言った。

 豪華な王座の間の派手な黄金の装飾、ワーグナーの楽劇を再現したという城の中にある洞窟など、通常の城にはなかなかない空間が稔と蝶子にはどうしてもテーマパークの作り物の城に見えてしまうのだった。

「カイザー髭の屋敷の方が、もっと格式あるように見えるよな」
パーティ客でごったがえす広間を見ただけだったが、エッシェンドルフの館の豪華さにはコルタドの館で豪奢になれていたはずなのに度肝を抜かれた。それを思い出して、もっと桁違いのお金がかかっているはずのこの城と比較して稔は首を傾げた。

「ああ、あそこはお金のかかっているものを、効果的に見せるように置いてあるしね」
蝶子も同意した。

「お前、あんなところで生まれ育ったくせに、よく大道芸人になれたな」
稔は感心してヴィルを見た。ヴィルは肩をすくめた。
「俺があそこで暮らした期間は蝶子よりずっと短いんだ」

「ええっ。そうなんですか?」
レネが驚いて訊き返した。

「ずっとアウグスブルグだったって家政婦のマリアンが言っていたわ」
蝶子が言った。

「レッスンの度に電車に乗ってミュンヘンまで行かされた。電車は好きだったな」
「ミュンヘンにそのまま住みたいと思わなかったのか? お前の親父だって知っていたんだろ?」
稔が、それまで訊かなかった分を取り戻すかのように踏み込んだ。ヴィルは特に迷惑している風でもなく答えた。
「いくら父親だと言われても、俺には厳しい教師にしか思えなかったんだ。周りの子供たちの父親というのはもっと別の存在だったからな。たとえばピエールみたいな」

 レネがいくらか氣の毒そうに頷いた。稔はどんなに大金持ちでも、あのカイザー髭と暮らすよりは浅草の家族の方がずっといいと思った。
関連記事 (Category: 小説・大道芸人たち 2)
  0 trackback
Category : 小説・大道芸人たち 2
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(25)雪の朝

永きにわたって連載してきた「Infante 323 黄金の枷」、ついに最終回です。

宣告という形で愛する23と一緒に暮らすことになったマイア。自分に触れようともしない彼の態度に傷ついて一夜を過ごしました。彼の真意はどこにあるのでしょうか。

最終シーンのイメージBGMは前回の記事で歌詞とともにご紹介しましたが、サブタイトルとなっている雪の朝のイメージBGMがあります。後書きとともに追記でご紹介しています。


月刊・Stella ステルラ 6、7月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(25)雪の朝

 パチパチと何かが爆ぜる音で目が醒めた。隣に23はいなかった。起き上がって最初に目に入ったのは、暖炉の中で赤く燃えている焔だった。火をおこしたんだ。今朝はそんなに寒いのかな。

 彼女は23の姿を探した。広い部屋のずっと先にいた。いつもの服を着て髪をきちんと結った彼は窓の向こうを見ていた。はらはらと舞い落ちる雪が静かに鉄格子の上に積もっている。

 この街を彩る赤茶色の屋根はすべて雪に覆われて、静かに眠っているようだった。いつもは騒がしく朝を告げるカモメたちも、震えて羽の間に頭を埋めているだろう。楽しいこと、つらいこと、歓び、悲しみ、そのすべてを紡ぐ活氣ある街を覆うように、雪は静かに降り積もっていた。

 23は黙って窓の外を見ていた。その姿がはじめて彼に逢ったあの日の記憶に繋がった。彼はあの日も格子の向こうの世界を見ていた。彼には出て行けない世界の輝かしい美しさと、そこを自由に飛び回るカモメたちの羽ばたきを眺めていた。生け垣の向こうから入ってきて言いたいことをいいながら帰って行くマイアを、鍵を開けて鉄格子の中へと入ってくる召使いたちが用事を終えて出て行くのを、この館から離れて街の中を自由に動く姉の姿を見ていた。その心持ちがどんなものだか、マイアは今はじめて思い至った。

 マイアにとって、ドラガォンの館に入ってくることも、23の居住区に入ることもつらいことではなかった。ここ鉄格子に区切られた空間は、彼女にとって一度たりとも牢獄ではなかった。昨日まで自由に出入りできた職場の一区画だったからではない。自分が鍵をかけられて閉じこめられる存在となってもつらくはなかった。その理由を突然彼女は悟った。

 それは、ここにいつも23がいたからだ。ここは彼の空間、マイアがもっと近づきたかった愛しい男の住まいだった。

 けれど、23にとって、そんな甘い意味はどこにもなかったのだ。彼はいつも牢獄の中で一人で孤独と戦ってきたのだ。マイアが仕事を選び、買い物を楽しみ、自由に散策しながら、パスポートがもらえない、船に乗れないと文句を言っていた間、彼はそれよりもずっと強い悲しみと戦ってきたのだ。存在することを否定され、名前ももらえず、心を込めて働いても認められることもなく。

 彼はいつもこうやって窓の外を眺めてきたのだろう。そして、その後に、誰かが自由に動き回り、世界を快適に旅して回ることのできる、あの素晴らしい靴を作るために暗い地下の工房へと降りて行くのだろう。今すぐ駆け寄って抱きしめたいと思うと同時に、そんなことをしてはいけないと思った。彼が雪と、全てを包む込む大いなる存在、父なる神と対峙しているこの神聖な時間を邪魔してはならないのだと思った。

 頬に熱いものが伝う。23、23、23……。痛いよ、心が痛い。あなたのために何をしてあげたらいいんだろう。

「起きたのか」
振り向いた23はマイアが泣いていることに氣がついた。

「どうした」
「……」
「閉じこめられたのがつらいのか?」
マイアは激しく頭を振った。

 彼は大きくため息をついてベッドに戻ってきた。それから彼女の頬に手を当てて、その瞳を覗き込んだ。瞳には初めて会った時と同じ暗い光が浮かんでいた。

「泣かれるとこたえる。嫌なのはわかっているが一年だけ我慢してくれ」
「何を?」
「俺と一緒にいることを。心配するな、何もしないから」
「イヤだなんて……。どうして何もしないの? 私じゃ全くその氣にならない?」

 23は首を振った。
「無理矢理に俺の自由にして苦しめたくない。お前の意志も訊かずに決めたことは悪かった。でも、信じてくれ。お前のためにこうしたんだ」

 マイアは自分も手を伸ばして23の頬にかかる髪に触れた。
「私のためって?」

 彼はマイアの手の上に自らの手を重ねた。彼女の心臓はまた強く速く動いた。23の声がすぐ近くで響く。

「一年経っても子供ができなければ、お前は用無しとみなされて、ここを出て行くことができる。そうなったらライサと同じように腕輪も外してもらえる。パスポートももらえるし、どこにでも好きな所に行って、どの星のある男にも邪魔されずに愛する男と結婚することもできる。お前が夢みていた自由を手に出来るんだ」

「どうして? どうして自由にしてくれるの?」
マイアがそう訊くと、23は泣きそうな顔をした。

「わからないのか。誰よりも大切だから。もう一度逢いたいとずっと願っていた。このままずっと側に居られたらと思っていた。だが、俺の望みと好きな男がいて自由を夢みているお前の幸せとは相容れないだろう。だから、俺がお前のためにしてやれることは、これしかないんだ」

 マイアは震えた。この人は、何を言っているんだろう。
「一年経ったら、あなたも一緒にここを出て行けるの?」

 23は黙って首を振った。口元は微笑んでいたが、その瞳は十二年前のあの日と同じように泣いていた。

「だったら、そんなの、私の夢でも幸せでもないよ……そんな自由なんかいらない。あなたのいない所には、どこにも行きたくないよ」

「マイア」
「一年だけなんてイヤだよ。あなたがここに居続けるなら、ずっとここに、あなたの側にいたい」

 23はようやくマイアの言っていることが理解できたようだった。震えながら両手をマイアの頬に当てた。

「俺でも、いいのか」
「『でもいい』じゃないよ。あなたがいいの。好きな人ってあなたのことだもの。他の人じゃだめなの」

 彼は泣きそうな顔のまま笑った。

「生まれてくる子供たちも孫たちもみな《星のある子供たち》になるぞ」
「星があっても、悪いことだけじゃなかったもの。腕輪をしていたから、私は23の側に来られたんだよ。生まれてきたから、私たち出会えたんだよ。そう思わない?」

 答える代りに23はマイアを強く抱きしめた。彼女はそのぬくもりに酔った。

* * *


 春が来た。風に散らされたアーモンドの花びらが緩やかに舞う河沿いを、古い自転車が走って行く。

 黒い巻き毛を後ろで束ねた少し猫背の青年が、風を起こしながらペダルを漕いでいる。

 その後ろに、茶色の髪をなびかせた若い娘が乗っている。青年の腰に腕をまわし、しっかりと抱きついて、D河の煌めく波紋を眺めている。

 カモメを追い越し、路面電車のベルと車輪のきしみを耳にして、自転車は大西洋をのぞむフォスへとさしかかる。

 波が岩場に打ちつけて、白いレースのように花ひらいて砕け散る。繰り返す波。海のそよ風。カモメの鳴き声。クリーム色のプロムナードに辿りつくと、青年は自転車を止めた。

 二人は自転車から降りて海を眺めた。どちらからともなく差し出した手を繋ぎ、波のシンフォニーに耳を傾けた。

 言葉はいらなかった。パスポートや船も必要なかった。お互いが切望していた約束の土地は重ねた手のひらの中にあった。枷だった金の腕輪は、いつの間にか絆の徴に変わっていた。

(初出:2016年5月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more



この小説を書くことになったシーンのイメージの元になったのはこのベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章です。あ、動画は第3楽章まで一緒になっていますけれど。


Excerpt from Piano Concerto No. 5 in E-flat Major, Op.73 ("Emperor Concerto")

【後書き】

「黄金の枷」三部作の第一作である「Infante 323 黄金の枷」、これで完結です。2年以上の永きにわたりご愛読いただいた皆様に心から御礼申し上げます。

この作品は、2014年の春のポルト旅行中に突然頭の中に浮かんできた、本来はどこにもない世界を舞台にしたストーリーです。おそらく読んでくださった方はあちこちで明らかになる妙な設定に言葉を失って、もしくは失笑したことと思います。

この作品は、私の小説には珍しく完全なるフィクションの上に成り立っています。《星のある子供たち》や《監視人たち》と呼ばれる特別な血筋の人たち、現代としてはありえない強烈な伝統、その無茶苦茶と現実のポルトという美しくも素晴らしい街の観光案内(サブテーマは「五感で恋するポルト」でした)をミックスしてしまう強引な構成。勢いで2ヶ月ほどで書き終えたものの「これ、発表して大丈夫か?」とギリギリまで迷っていました。

なぜこの作品がこういう設定になったのか、今から考えると、全ては、メインテーマ「運命との和解」を端的に表すたった一つのシーン「抵抗し続けた運命を受け入れて静かに鉄格子から外を眺めている主人公の姿」「その姿を眺めながら彼のために何かをしたいと願うヒロインの心」を効果的に描きたかったから、それに尽きるのです。

主人公が望んでも出て行くことのできないこの格子は、おそらく誰の人生にもある普遍的なものだと思っています。奇妙奇天烈な「ドラガォンの伝統」やヒロインたちのしている「黄金の腕輪」もまた、普段意識していないながら、例えば「国民性」「伝統」「常識」という別の形で、私たちを強く縛っているものと変わらないと思っています。

でも、そういう「誰でも同じだよね」という共感部分に、主人公とヒロインの魂の結びつきが薄められないようにしたいと思いました。ごくあたり前の設定のもとでは、私の描写力では、強調したかったことを表現できないと感じたのです。

「なぜ彼は鉄格子の中にいるのか」「ヒロインを自由にするとなぜ永遠の別れになるのか」その疑問に帳尻を合わせるために無理矢理作った設定がこの「黄金の枷」ワールドなのです。が、2年間もそれにつき合っていると、私の中ではその世界も、あって当然になってしまいました。

そして、その強烈な違和感を乗り越えて「あのブログにはああいう世界があるんだ」と、ともかく受け入れてくださった読者の皆様の心の広さと、拍手やコメントによる応援が連載の支えとなってきました。「ひとつくらい、こういう世界があってもいいよね」と最後まで公開しようと思えたのは、ひとえに最後まで読んでくださった皆様のお陰です。

最初は、この「Infante 323 黄金の枷」だけだったこの世界、あれからどんどん設定と物語が進み、現在残りの二つの作品を用意しています。

といっても、実際には重要なのは三作目の「Filigrana 金細工の心」で、二作目の「Usurpador 簒奪者」はその背景を説明するための外伝的位置づけになります。発表までまだしばらくかかりますが、忘れられてしまわないように出来るだけ早く執筆を終わらせたいと思っています。他の作品同様、今後とも「黄金の枷」の世界に親しんでいただけることを願って後書きに代えさせていただきます。
関連記事 (Category: 小説・Infante 323 黄金の枷)
  0 trackback
Category : 小説・Infante 323 黄金の枷
Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (2)フュッセン、白鳥の城の下で -1-

さて、今日のくだりは、ちょっと説明が必要かもしれません。日本では、打ち掛けやウェデスングドレスを着て誰かの前で今後のことを誓うのは結婚式でやることで、役所で籍を入れるときにはそういうことはしないのが普通です。

ところが、こちらでは「教会で神の前で愛を誓う」のとは別に、役所でサインするときにも式があるのですよ。役人が神父の立ち位置で、「夫婦とは」などとあれこれ話したあと、二人の証人の前で「結婚しますか」「はい」というのをそれぞれ言わないと結婚が成立しないのです。つまり、日本のような本人たちが揃わない状態で役所に行き籍を入れるなんて事はありえないのですね。今回は、その「役所での婚式」です。フュッセンの話は、次回。また2つに切りました。


「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(2)フュッセン、白鳥の城の下で -1-


「ヤスミンからメールが届いていますよ」
レネが図書室から呼んだ。三人は、図書室のコンピュータの前に集まった。

 ヴィルはメールを読んでいたが、蝶子の方に振り向いて言った。
「来週の金曜日に、フュッセンの戸籍役場で婚式を執り行ってくれるそうだ。思ったよりも早く決着がつきそうだ」

「来週? 真耶に頼んだ書類、昨日届いたばかりでまだここにあるじゃない。どうやったらそんなに早く出来るの?」
蝶子はびっくりした。

 書類はバルセロナのドイツ大使館に提出すると聞いていた。それがミュンヘンに送られて審査が行われるので、婚式は早くても一ヶ月後だと思っていたのだ。

「昨日、ヤスミンにFAXしたんだ。劇団の同僚のベルンの叔父がフュッセンの戸籍役場に勤めていて、審査をすべて飛ばしてくれたんだ。バロセロナでやると、問い合わせがミュンヘンに行くから、親父の息のかかった連中に捕まる可能性もある。ドイツに行かなくてはいけないが、フュッセンの方が安全だと思う」

「フュッセンは、ノイシュヴァンシュタイン城のあるところね」
蝶子はにっこりと笑った。

「俺、そこには一度行ってみたかった」
「僕もまだ行ったことがないんです」
稔とレネもすっかり乗り氣になった。

* * *


「ハロー、ヴィル。久しぶりね」
ヤスミンがヴィルに抱きついて、頬にキスをした。

「ブラン・ベックのメイクは見事だったよ。手品が始まるまで、まったく氣がつかなかった」
ヴィルは言った。

 ヤスミンは意地の悪い目をして言った。
「そっちも負けない大芝居をしたみたいじゃない。全員騙されたのよ」

「あんたは俺の演技を知っているだろう」
ヴィルはむすっと言った。あの大芝居以来、三人に散々な扱いを受けてうんざりしているのだ。

「私はその場にいなかったけれど、居たってどうせ見破れなかったでしょうよ。あなたの悪役ぶりは本当に板についているから」

 それからヤスミンは蝶子にも抱きついてキスをした。
「おめでとう、シュメッタリング。私、あなたたちの結婚式に立ち会えて本当に嬉しいの」

「どうもありがとう。ごめんなさいね。急にこんなことをお願いしてしまって」
「カイザー髭の目をくらますために急いでいるんでしょう。私、手伝うなと言われても勝手に協力しちゃうくらいよ」

 それからヤスミンは稔とレネにウィンクをした。
「急ぎましょう。あと三十分後に婚式が始まるのよ。戸籍役場は、ここから歩いて十五分ぐらいだから。ベルンもあそこで待っているはずよ」

 戸籍役場と聞いたので、つまらない四角い役所を予想していたのに、それは小さいながらもヨーロッパらしい美しい装飾のされた部屋だった。十八世紀くらいの建物だろうか。細やかな彫刻の施された木製の天井、細かな浮き彫りのある白い漆喰で囲まれたワインカラーの壁、時間の熟成を思わせる木の床。稔は「ほう」といって見回した。

 熊のように大きい青年ベルンはヴィルとしっかりと抱き合い、それから蝶子の手に恭しくキスをしてから、ヤスミンに頼まれて用意してあった花嫁用の花束を渡した。

 ベルンの叔父のスッター氏は、書類を抱えて嬉しそうに待っていた。
「さてと、始めましょうか。ええと、結婚指輪の交換しますか?」

 そんなことは、何も考えていなかった二人だったが、笑ってそれぞれずっとしていた銀の指輪を外して、スッター氏に渡した。

 婚式が始まった。スッター氏は二人に対するはなむけの言葉と、結婚生活のこつについて話した。それは二十分近く続き、稔やヤスミンがあくびを噛み締めるようになってから、ようやく一番メインの儀式に入った。
「アーデルベルト・ヴィルフリード・フォン・エッシェンドルフさん、あなたは四条蝶子さんの夫になりますか」

 ヴィルは「はい」とはっきり答えた。あまりにも迷いがなかったので、蝶子は意外に思ったほどだった。あのパーティでのヴィルの言葉は今でも蝶子の心にくすぶっていて、もしかしたら最後の最後に否定されるのではないかと思っていたのだ。

 蝶子は、ヴィルが自分を見ているのを感じた。同じ返事をしてくれるのを祈るように願っている青い瞳を。

「四条蝶子さん、あなたはアーデルベルト・ヴィルフリード・フォン・エッシェンドルフさんの妻になりますか」

 蝶子は「はい」と答えてからヴィルを見て微笑んだ。

 スッター氏は二人が夫婦になったことを宣言し、蝶子とヴィルに結婚証書にサインするように促した。続いて稔とレネも証人として同じ書類にサインした。蝶子とヴィルはお互いの左の薬指に銀の指輪をはめ、それから短いキスをした。

 後ろでベルンとヤスミンが用意してきたシャンペンを抜いて、グラスに注いだ。それからその場の全員で乾杯をした。
関連記事 (Category: 小説・大道芸人たち 2)
  0 trackback
Category : 小説・大道芸人たち 2
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (1)バルセロナ、祝い酒 -1-

あまりにも長くお待たせしすぎて、既に忘れられているかもしれませんが、ようやく「大道芸人たち」第二部の連載開始です。あれから数年経っているように思われるかもしれませんが、本日のシーンは第一部の最終シーンの翌日です(笑)

長い話は、適当に切って公開していきます。今回も二つに分けました。




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(1)バルセロナ、祝い酒 -1-


 食堂での四時のコーヒーはコルタドの館のいつもの習慣だが、この日はイネスにとって特に感慨深かった。ずっと空だった席に当然のようにヴィルが座っている。蝶子を氣遣ってヴィルの話を避けていた稔やレネの腫れ物に触るような態度もすっかり消えていた。それどころか、帰って来たばかりのヴィルを三人はぞんざいに扱っていた。が、本人が氣に病んでいる様子もなかった。イネスはミュンヘンでのヴィルの大芝居の話を聞いていなかったので、全く訳がわからなかった。

 四人は、今後の予定の話をしていた。稔は既に予約の入っている仕事のことを筋立てて説明し、まじめに聴くレネと、ちゃかして冗談ばかり言って話を進ませない蝶子の舵取りに苦労していた。

 例のごとくほとんど口をきいていないヴィルが、突然言った。
「ところで、日本人が国際結婚する時の書類手続きは、みんなバルセロナでできるんだろうか」

 稔とレネはびっくりして蝶子を見た。

 蝶子はにこりともせずに言い返した。
「できるんじゃないの? いくつかの書類は日本から送ってもらう必要があるだろうけれど、ヨーロッパ式の婚姻が成立してからは、領事館への届けで済むんじゃないかしら。詳しくは知らないけれど。なんで?」
「手続きが済むまでは、小さい都市に移動するのを待ってもらいたいからだ」

 稔とレネは半ば立ち上がって笑いながら二人の顔を見比べた。しかし、蝶子の顔はむしろ険しくなった。
「誰と、誰が、婚姻の手続きをするのよ」

 ヴィルはむすっとしたまま答えた。
「ここに日本人は二人しかいないし、俺がヤスの婚姻手続きのことに首を突っ込むわけがないだろう」

「ってことは、あなたはもう一人の日本人である私の結婚の手続きのことを言っているわけ? でも、私、まだここにいる誰からもプロポーズされていないわよ」
「だから、今、その話をしているんだろう」

 稔とレネは椅子に座った。稔はこりゃ面白くなって来たぞと傍観を決め込んだ。

 レネはおずおずと口を挟んだ。
「テデスコ、パピヨンが言っているのは、役所の手続きのことじゃなくて、その、結婚の申し込みのことじゃ……」
蝶子は大きく頷いた。

 ヴィルは馬鹿にしたような顔でレネを一瞥すると蝶子の目をじっと見据えて言った。
「あんたは、俺がバラの花束を抱えながら跪いて訊かないと返事ができないのか。つべこべ言わずに答えろ。するのか、しないのかヤー・オーダー・ナイン

 蝶子は怒りに震えながら、何か言おうとしたが、ヴィルの青いまっすぐな目を見て考えを変えたらしく、口に出すのはやめてむすっと横を向いた。それから小さな声で、さもイヤそうに答えた。
するわよヤー

「ひゃっほうっ!」
「ブラボーっ!」

 稔とレネが同時に飛び上がり、一緒に腕を組みながらドタドタと踊りだした。

 その騒ぎを聞きつけて奥からイネスが飛び出て来た。
「どうしたんですか」

「乾杯だ! たった今、テデスコがプロポーズに成功したんだ」

 稔の言葉を聞くなり、イネスはやはり大声で叫びながら蝶子とヴィルの二人にキスをした。それからカルロスを呼んでくると言って出て行こうとした。

「カルちゃんはサンチェスさんと会議中でしょう」
蝶子があわてて止めるとイネスは断固として言った。
「これより大切なことなんてありませんよ。だいたいあの二人がコーヒーに遅れているのが悪いんです」

「よっしゃ、俺は酒を買いにいく!」
稔が立ち上がるとヴィルはそれを止めた。
「俺の話はまだ終わっていないんだが」

「そうよ。こっちの話も終わっていないわ。あなた、まさか書類の提出だけで終わらせようってんじゃないでしょうね」
蝶子が自分のペースを取り戻して詰め寄った。

「それが一番簡単じゃないか」
「簡単かどうかなんて、この際関係ないの。あなたが何を言おうと、結婚式は私のいいようにさせてもらいますから」

 ヴィルはむっとして、腕を組んだ。
「希望を言ってみろ」

 蝶子は勝利を確信してにんまりと笑った。
「証人はヤスとブラン・ベックよ」
「当然だな」
ヴィルもまだ余裕だった。

 稔とレネは嬉しそうに顔を見合わせて、再び椅子に座った。

「ちゃんと教会で結婚式をして、ウェディングドレスを着るわ」
ヴィルはうんざりして頭を振ったが、援護射撃は期待できなかったので、反論しなかった。

 蝶子はさらに続けた。
「父親役は、カルちゃんにしてもらうから」

 ヴィルが賛成とも反対とも言わないうちにドタドタと入って来たカルロスが叫んだ。
「もちろんですとも! 大聖堂の予約をしなくては。可能なら大司教に来てもらいましょう」

 今度は四人が慌てる番だった。
「待ってくれ。大聖堂が埋まるようなゲストは全く期待できないんだ。とくに、俺の親族に出席を期待されては困る」
ヴィルが迷惑そうに言うと、蝶子もうろたえて言った。
「私の方も誰も来ないわ」

「大丈夫ですよ。野外パーティ目当てに領民が山ほど来ますから入りきれなくなるはずです」

 蝶子は大聖堂でなくてもいっこうに構わなかったが、教会での結婚式が現実のものとなりつつあるのが嬉しかった。

「私、真耶を招待したいわ」
蝶子が夢見るように言った。

 ヴィルはいいとも悪いとも言わなかったが、しばらくしてこう続けた。
「じゃあ、俺は拓人を招待する」

 それを聞いて蝶子は勢いづいた。
「レネのご両親も招びましょうよ」

「アウグスブルグの連中にも声かけようぜ」
稔が笑いながら言うと、カルロスも続けた。
「私はカデラス氏やモンテス氏にも招待状を送りましょう」

「じゃあ、トネッリ氏やロッコ氏には僕から連絡を入れますね」
レネも笑った。

「とにかく一番に真耶と結城さんのスケジュールを訊かなくちゃ。あの超多忙な二人が、一緒に少なくとも四日も休むなんて可能かしら?」

 大騒ぎになって眉をひそめていたヴィルは蝶子の腕をとって座らせ、冷静に言った。

「いいか。こっちのばか騒ぎはいつでもいいが、書類の方は即刻始めるんだ。できれば今週中に手続きに入りたい」

 水をかけられたように、全員が騒ぐのをやめてヴィルの顔を見た。
関連記事 (Category: 小説・大道芸人たち 2)
  0 trackback
Category : 小説・大道芸人たち 2
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(24)宣告

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。

いつまでも完結しないと思っていたこの小説、今回と次回の2回で完結です。つまり、今回はストーリーとして(ようやく)クライマックス。もしかしたらドン引きする展開かもしれませんが、まあ、もともと、そういう話だし……。(開き直り)

もちろんマイアは、今回こうなってもまだよくわかっていません(笑)お花畑脳は強い。ま、23も五十歩百歩ですが。


月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(24)宣告

 その晩は、アマリアとマイア、それから三か月の監視期間を終えて復帰したばかりのミゲルが給仕に当たっていた。いつもの晩餐だったが、前菜とスープが終わり、アマリアとマイアがメインコースを取りに行っている時にそれは起こった。二人がキッチンから戻ってきた時に、テーブルでガチャンという音がした。

 二人が戸口から中を見ると、24が水の入ったグラスを手ではねつけたらしい。水を注いでいたミゲルはショックを隠せないでいた。座っていた他の三人も驚きの表情を見せた。24はミゲルを睨みつけた。
「お前には給仕されたくない。薄汚い策略家め」

 マティルダの件だと、マイアは氣がついた。先を越して、自分に挨拶もなく結婚したことが許せなかったのだろう。メネゼスがそっとミゲルの袖を引き、他の三人に水を入れるように目で指示すると、24の前のグラスを黙って片付けてから別のグラスを差し出した。メネゼスは皿を持っている二人にも、お出ししろと目で合図した。アマリアがドンナ・マヌエラと23の皿を持っていて、マイアはドン・アルフォンソと24の皿だった。

「何がハネムーンだ」
まだ腹の虫のおさまりかねる様子で24が続けた。

「よせ。ミゲルに当たるな」
23が嗜めた。すると24は今度は23を攻撃しだした。
「お前がまた裏で糸を引いたんだろう」

「なんだと」
「僕の子供が出来ないように、念の入った邪魔をしやがって。自分が檻から出られるチャンスをつぶされたくないんだろう」

「いいがかりだ」
「お前がアントニアを焚き付けて、ライサをここから強引に連れ出したのを僕が知らないとでも思っているのか。僕の子供を殺した上、ライサを精神異常にしたてやがって」

 ドン・アルフォンソが黙っていなかった。
「24。ライサの診断は二人の精神科医が行った。それにあれは自然流産だった。どちらも23が関われるはずがなかったことだ。言っていいことと悪いことがあるぞ」

「どうだか。そいつは昔からずっと陰険だった。みっともない姿で誰からも相手にされないからって、僕を逆恨みして邪魔ばかりする。僕と女の仲を裂く暇があったら、一人でもいいから女を口説けばいいんだ」

 マイアは怒りに震えつつも、黙ってドン・アルフォンソの前に皿を置き、それから、皿を頭から叩き付けたい衝動を堪えつつ24の前にも皿を置いた。その表情を24は横から見て、にやっと笑い、再び23に絡んだ。

「女の口説き方や連れ込み方も知らないんだろう。どうやるか実践で教えてやろうか。例えば、お前のお氣にいりのこの女なんかどう?」
そういって、離れようとしていたマイアの右手首をつかんだ。彼女ははっとして身を引こうとしたが、24はいつもの調子では考えられないほどの力で引っ張り、立ち上がると反対の腕でマイアを抱きかかえるようにした。

 ドンナ・マヌエラが眉をひそめた。
「メウ・クワトロ、いい加減になさい」

「なぜです、母上。僕には赤い星を持つどんな娘でも自由にする先祖伝来の権利があるはずですよ。ほら、例の宣告をすればいいんでしょう。《碧い星を》ってやつ。やってみようかな」

 あざ笑うような24の挑発に唇を噛んで黙っていた23は、突然席を立ち口を開いた。その口から聞こえてきたのは、普段使うものとは似ても似つかぬ古い時代の言葉だった。

「《碧い星を四つ持つ竜の直系たる者が命ずる。紅い星一つを持つ娘、マイア・フェレイラよ、余のもとに来たりて竜の血脈を繋げ》」

 沈黙が食堂を覆った。24は顔色を変え、マイアの手首をつかんだまま自分の席に座り込んだ。マイアは何が起こったのかわからず23と24、それから呆然とする人びとの顔を見た。

 ドン・アルフォンソが最初に反応した。23が使ったのと同じ、古い時代の言葉だった。

「《碧い星を五つ持つ竜の直系たる余は、碧い星を四つ持つインファンテ323、そなたの命令を承認する。竜の一族の義務を遂行せよ。紅い星一つを持つ娘、マイア・フェレイラよ、インファンテ323に従え。そなたには一年の猶予が与えられた》」

 それから24の方を向き普段の調子に戻って言った。
「24、その手を離せ。今後その娘に触れることは許されない」

 24は忌々しそうに、つかんでいたマイアの手首を離した。それと同時に彫像のように固まっていた召使いたちもほうっと息をついて動き出した。ドンナ・マヌエラがメネゼスの方を見て頷いた。

 メネゼスは、アマリアとミゲルに向かって言った。
「アマリア、マイアの荷物をまとめるのを手伝ってくれ。準備ができたらミゲル、お前が運ぶのだ。その前にジョアナの所に行き、ほかの者を給仕によこすように伝えてほしい」

 23が黙って自分の居住区に帰ってしまい、食事も給仕も中断して皆が急に動き出したので、何が起こったのかわからないマイアは慌てた。
「あの……いったい、何が……。私の荷物をまとめろってどういうことですか?」

 アマリアがマイアの腕をつかんで強引に食堂から連れ出した。
「何、どうなったの?」
「しっ。これからあなたは23の所にいくのよ」

「何のために?」
「子供を作るためよ」
「えええっ?」

「23がしたのは、正式の宣告よ。私も生まれてはじめて聞いたわ。とにかくあれをされたら、星を持つ女に拒否権はないの。詳しくは本人に話してもらいなさい」

 マイアはミゲルに連れられて23の居住区に入った。

 23は三階の寝室の外れにあるライティングデスクの前に腰掛けて両手で顔を覆っていた。彼女の荷物を寝室に運び込むと、ちらっとマイアを眺めてからミゲルは出て行った。

 マイアは所在なく立ち尽くしていた。二階に降りて行ったミゲルが格子を閉じて鍵をかけた音がした。その金属質の音はこれまで感じたこともないほど大きく、外界から遮断されたことを思い知らされた。

「23……」
後悔しているんだ。マイアは23のうちひしがれた様子がつらかった。子供を作るためとアマリアに言われた時、希望を持った自分が情けなかった。そうだよね。そんなわけないって、知っていたはずなのに。23が好きなのは、ドンナ・アントニアだって……。

「ごめんね……」
ぽつりとマイアが言うと、彼はようやく顔を起こして彼女の方を見た。

「すまなかった。お前の意志を無視した」
それからマイアの荷物をちらっと見ると、ため息をついていった。
「明日にでもしまう場所を決めよう。足りないもの、必要なものは、言えば館が購入してくれる。今日は遅いからもう寝てくれ」

 寝ろって言われても、一つしかないから、ここのことだよね。何度もベッドメイキングをした大きなベッドを見て、マイアは躊躇した。これからずっとここで。でも、イヤなんだろうな、私とじゃ……。

 とはいえ、突っ立っているわけにもいかなかったので、マイアは黙って洗面所に行くと顔を洗って歯を磨き、寝間着に着替えてすごすごとベッドに向かい、端のできるだけ邪魔にならない所に紛れこんだ。暗い部屋の中に鉄格子の嵌まった窓から月明かりが射し込んでいた。その光はライティングデスクに肘を持たせかけてうつむいている23を照らし出していた。彼の背中はいつもよりもずっと丸く見えた。マイアは布団の中で声を殺して泣いた。

 いつの間にか寝てしまっていたらしい。ベッドが軋んだのでマイアは目を覚ました。大きなベッドの反対側に23がいた。月は大きく移動して、ベッドの上に光を投げかけていた。マイアが少し身を起こすと、23がこちらを向いた。
「起こしてしまったか」
「うん……。あの……そんな端じゃなくてもっと真ん中で眠れば?」

 23は笑って首を振った。
「お前こそ、落ちそうなくらい端にいるじゃないか」
「だって、悪いかなと思って」
「悪いもへったくれもない、俺がお前に強制したんだろう」
「ちがうよ。24から守ってくれたんだよね。ごめんね。ドンナ・アントニアに誤解されるよね」

 23は、わからないという風にマイアを見つめた。
「どうしてそこでアントニアが出てくるんだ」

「だって、私とじゃなくて、ドンナ・アントニアと一緒になりたかったでしょう?」
「お前、何を勘違いしているんだ。アントニアと俺がどうこうなるわけないだろう」
「愛し合っているんじゃないの?」

 23はゲラゲラ笑った。マイアには何がおかしいのかわからなかった。

「道理でアントニアが来る度にあわてて出て行ったわけだ。誰もお前に言わなかったのか?」
「何を?」
「アントニアは俺たちの姉だよ」
「!」

 それから困ったように言った。
「そんなに怯えるな。襲ったりしないから安心して寝ろ」
「怯えていないよ。それに、邪魔にならないようにするから、そんなに落ち込まないで」

 23は笑って手を伸ばしマイアの頭をそっと撫で「おやすみ」と言った。それから背を向けた。月の光に浮かぶ彼の丸い背中を見ながらマイアはまた悲しくなって布団をかぶった。
関連記事 (Category: 小説・Infante 323 黄金の枷)
  0 trackback
Category : 小説・Infante 323 黄金の枷
Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】リゼロッテと村の四季(3)教会学校へ

20世紀初頭のスイスの田舎カンポ・ルドゥンツ村を舞台にした不定期連載「リゼロッテと村の四季」をちょっと進めてみました。

今回は新しいキャラクターがわんさか出てきます。でも、びっくりしないでください。重要なキャラはそんなにいませんので。視点は初登場のドーラです。ジオンの姉ですね。牧師夫人であるアナリース・チャルナーとその甥でもあるハンス=ユルク・スピーザーも初のお目見え。

リゼロッテの村の生活はこの辺りから少しずつ変わっていきます。



「リゼロッテと村の四季」「リゼロッテと村の四季」をはじめから読む
あらすじと登場人物




リゼロッテと村の四季
(3)教会学校へ


 ドーラ・カドゥフは、丁寧に髪を編んでから、日曜日用の晴れ着を戸棚から取り出して、注意深く袖を通した。彼女の持つ唯一のスカーフを形よく胸元で結ぶと、窓から顔を出した。そして、まだ泥だらけの服装のままの弟を見つけるとため息をついた。

「ジオン! 今すぐ用意をしないと、間に合わないわよ」
鶏の卵を抱えた少年は、彼女に目を向けるといつもと同じように「わかっているよ。すぐに」と言った。

 彼らの家は、母屋の他に牛小屋と山羊小屋、そして鶏小屋がある。鶏に餌をやり卵を集めるのはかつてはドーラの仕事だったが、現在は弟のジオンが担当している。ドーラには、窯の火を絶やさないようにする役目と、泉から水を汲んでくる役目があった。それに彼女はジャガイモの皮を剥いて蒸かしたり、パンをこねるのも得意だ。もう12歳になるのだから、台所仕事の多くは母親の代わりに出来るようになっていた。

 ドーラは頭の回転がよくハキハキした子どもで、どんなことでも親の手をかけずに上手にやってのける。一年中休みなく働く両親の代わりに、3歳年下の弟の面倒を看ることも忘れない。親たちは10時のミサに行けばいいのだが、ドーラとジオンは8時半からの教会学校に行かなくてはならない。

 日曜日に仕事をすることは基本的に禁じられているので、牧畜農家を生業にしていない家の子どもたちはゆっくり起きだしてきてすぐに晴れ着を着て教会に向かうだけだ。一方、日曜日であっても動物の面倒を看ることと、牧草をひっくり返すことは例外的に許されているので、農家の子供たちには日曜日の朝もやることがあった。だが、子供のいる農家で教会から離れている所に住んでいるのはカドゥフ家だけなので、結局ドーラたちだけがいつも遅刻しそうになるのだった。私はいつもきちんと準備をしているのに、ジオンったらもう。

 あわてて入ってきたジオンは、かろうじて汚れていない日曜日用の半ズボンとシャツを着用していたが、髪は乱れていて、頬には泥がついていた。ドーラはたらいの側に彼を連れて行き、白い布をそっと水でぬらしてから彼の顔を拭いてやり、それから靴の汚れも取ってやると、その手を引いて急ぎ足で家を出た。

 カドゥフ家は、村の中心から少し離れたところにあった。小走りに牧草地を抜け、小径を途中まで歩いていると、横を馬車が通った。御しているのはロルフ・エグリだった。
「なんだ。お前たち、教会に行くところか?」

「ええ。もうどうやっても遅刻なの」
ドーラがいうと、ロルフは御者席を少し横にずれて「乗れ」という顔をした。
ジオンは首を伸ばして、馬車の中にリゼロッテが居るのをみつけると、「やあ」と言った。

「なんだ。お嬢さんを知っているのか」
ロルフが言うとジオンは大きく頷いた。

 リゼロッテは、ジオンと、それから初めて逢うドーラに嬉しそうに微笑んで会釈をした。ドーラも笑って「こんにちは」と言うと、二人の子どもは御者席に飛び乗った。

 リゼロッテが住んでいるのは、ジオンの家からさらに丘を登ったところにあるお屋敷だ。彼女は、これまで教会学校に来たことがなく、家庭教師のヘーファーマイアー嬢と一緒に朝早いミサに行くだけだった。家政を手伝っているカロリーネ・エグリと時々忍び込んで話をしているジオンから噂を聞くだけの村の子どもたちは、ドイツ人の令嬢がどんな子なのか興味津々だった。

 長い茶色の髪の毛を形よく結んで、白いレースの襟のついた品のよい焦げ茶の天鵞絨のワンピースを身に着けた少女の優しげな笑顔は、ドーラにはとても好ましく思えた。今日はどういうわけでヘーファーマイアー嬢抜きで教会に向かっているのかわからないが、ドーラにはいい風向きに思えた。

 ジオンの話では、お高くとまったところのないいい子で、村の子どもたちとも仲良くなりたがっているというのに、ヘーファーマイアー嬢が「まともなドイツ語も話せない野猿のような子どもたちと交際をするのは好ましくありません」と言っていたのだ。ドーラは、あの女のいない時に、さっさと自己紹介をしてあの子と仲良くなろうと思った。

 8月のカンポ・ルドゥンツ村は、穏やかで美しい。盛夏は過ぎて、わずかに秋の訪れが感じられる。背が高くなったトウモロコシの濃い緑の葉の先は乾き枯れてきており、小麦の穂がいつの間にか黄金に輝くようになっていた。

 それは、家族とともに牧草をひっくり返す作業をするときにいつも身に付けている赤い綿のスカーフが、いつの間にか色褪せていることに氣づいたことと似ていた。風は穏やかになり、日の長さも少しずつ短くなっていた。10月になれば学校が始まる。ドーラはまた一つ上の学年になることにときめいた。

 ロルフは馬車を教会の前にぴったりと着けた。ジオンがまず飛び降りて、ドーラも降りている間に、後に回ってドアを開けた。その手助けを受けてリゼロッテが降りたのを確認したロルフは、帽子を持ちあげて言った。
「では、お嬢さん、ミサの時にはまたあっしも参りますんで」

「ありがとう、エグリさん」
リゼロッテの声を、ドーラは鈴のようだと思った。

 馬車が言ってしまうと、リゼロッテはジオンとドーラの方を振り向いて、はにかんで笑った。ドーラはさっと手を出した。

「はじめまして。私、ドーラ・カドゥフよ」
「はじめまして。リゼロッテ・ハイトマンよ。お逢いできて嬉しいわ、ドーラ。ジオンのお姉さん、どんな女の子かいろいろと想像していたの」

「想像の女の子に、似ていた?」
「ええ、ほとんどそっくり。ジオンと似ているもの」

「あら。私は、この子みたいに、いつも泥だらけじゃないわよ」
ドーラが言うと、リゼロッテはクスッと笑った。
「ええ。そこだけ、想像と全く違ったわ」
それで、三人とも楽しく笑った。

「何をしているの、早くお入りなさい」
声に振り向くと、牧師夫人アナリース・チャルナーが牧師館の扉のところで呼んでいる。ドーラはリゼロッテに道を譲って言った。
「行かなきゃ。あ、それはそうと、プラリネのお礼を言っていなかったわね。どうもありがとう」

 リゼロッテは、ニッコリと笑った。数週間前に、彼女はジオンに初めてのプレゼントとして二粒のプラリネを手渡したのだ。彼は二つとも食べてしまわないで、一つをドーラにあげたいと言った。それで、リゼロッテは彼女の存在を知ったのだ。
「どういたしまして。少し溶けてしまっていたけれど、食べられた?」
「もちろんよ。あまり嬉しくて夢見心地だったわ」

 牧師館には既に村の子どもたちが揃っていた。一番前には8歳の泣き虫ルカ・ムッティを筆頭に6人の幼年組がいた。その次の列にはおしゃまなアネット・スピーザーやマルティン・ヘグナーなど10歳の子供たち、次の列にはアドリアン・ブッフリをはじめとする4人の11歳と12歳の子たちがいた。次の列はそれ以上の少し大きい子たちで最年長の14歳のマルグリット・カマティアスが奥に座っていた。一番後にアネットの兄であるハンス=ユルク・スピーザーが一人で座っていた。村の学齢に達した子どもたちは20人程度、決して教会に来ないモーザー家のマルクを除いて日曜日にはここに集まるのだった。

 1年前に、ドーラとジオンの兄クルディンと、アドリアンの姉コリーナが堅信式を迎えて、大人の仲間入りをした。それから、コリーナは長いスカートで装い、クルディンは長ズボンを履くようになった。そして、子どもの集まる場所には一切顔を出すことはなくなった。学校の先生からの伝達をする役目や、教会での行事の中心になるのは当時12歳のハンス=ユルクになった。

 他の同い年の子供もいたし、マルグリットは年長でもあったのだが、誰もそのことに異議を唱えるものはいなかった。

 ハンス=ユルクは、ドーラとひとつしか違わないが、ずっと落ち着いている。聡明で誰に対しても分け隔てなく対峙するので、カンポ・ルドゥンツ村だけでなく、同じ学校に通うラシェンナ村の子どもたちからも信頼されてている。

 チャルナー夫人に連れられて、ドーラたちと一緒にリゼロッテが入ってきたのを見て、子どもたちは騒ぎかけたが、ハンス=ユルクが「静かに」と言うと、すぐに大人しくなった。チャルナー夫人は満足げに頷いて、ドーラたちにハンス=ユルクの隣に座るように目で合図すると、リゼロッテを前に連れて行った。

「皆さんに紹介しましょうね。丘の上のハイトマンさんのお嬢さん、リゼロッテです。普段は家庭教師のヘーファーマイアーさんと早朝ミサにいらしていたのですが、彼女のお母さんが病に倒れたとの知らせで急遽ドイツにお帰りになったので、その間、皆さんと一緒にミサを受けることになりました。仲良くしてあげてくださいね」

 拍手と歓声が聞こえた。

「すげえ服着てんな」
ルイジは天鵞絨を見たのは初めてで、やわらかく艶やかな襞に感嘆して大きな声を出した。リゼロッテは、そんな事を言われたのは初めてだったので、少し赤くなった。チャルナー夫人が少し睨んでから、リゼロッテをドーラの隣に連れて行った。

「わからないことがあったら、このドーラとハンス=ユルクに訊いてね。二人ともお願いね」
チャルナー夫人にいわれて二人は頷いた。リゼロッテは、ハンス=ユルクに小さく会釈した。彼も礼儀正しく頭を下げた。
 
 チャルナー夫人は、一番前に戻っていき、「始めますよ」と言った。彼女は綺麗な正規ドイツ語を話した。単語によっては小さい子供たちも理解できるように方言による単語を交えて話したので、リゼロッテにとっては方言の単語を知るいい機会にもなった。

 マルグリットは、チャルナー夫人に名指しされて新約聖書のルカの第10章、「善きサマリア人のたとえ」の箇所を朗読した。

するとその人は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った。「わたしの隣り人とは誰の事ですか」

イエスが答えて言われた。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗たちが襲い、彼の衣をはぎ、殴りつけ、半殺しにして去って行った。

たまたまある祭司がその道を下って来た。彼を見ると,反対側を通って行ってしまった。

同じように一人のレビ人もその場所に来て、彼を見ると反対側を通って行ってしまった。

ところが、旅の途中のサマリア人が彼のところにやって来た。彼を見て氣の毒に思い、彼に近づいてその傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやった。彼を自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き介抱した。

次の日出発するとき、2デナリを取り出してそこの主人に渡して言った。『この人を見てやってください。費用が余計にかかったら、わたしが戻って来たときに払いますから』

さて、あなたは、この3人のうちのだれが、強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」

彼は言った。「その人にあわれみを示した者です」

するとイエスは彼に言った。「行って、同じようにしなさい」


 
 マルグリットがどうにか朗読を終えると、チャルナー夫人は子供たちの顔を見回した。多くの子供たちは、「よくわからない」という顔をしていた。かなり滞った朗読のせいでもあったのだが、その他に知らない単語もたくさんあったからだろう。「レビ人」「サマリア人」と言われても、幼い子供たちには何の事だかわからない。

「サマリア人というのは、主の時代のユダヤでは、異端の信仰を持ち、つき合ってはならない人たちとされていたのです。レビ人というのは、ユダヤ人の中で祭司に関わる特別な部族として敬われていた人たちで、祭司はもちろんユダヤの聖職者ですから、強盗に襲われた人にとっては同国人、サマリア人は付き合いのなかった外国人だったのです」

 チャルナー夫人が「外国人」と口にすると、多くの子供たちが振り返ってリゼロッテを見た。彼女は恥ずかしくなって下を向いた。

 ドーラはそのリゼロッテを横目で見た。「善きサマリア人のたとえ」はもう習った事があったから知っていた。でも、以前は外国人と言われても具体的によくわからなかった。ドーラの父親、マティアスが時々「《金持ちのシュヴァブ》はいい氣なもんだ。働きもしないで美味いもんばかり食いやがって」と言っていたので、「ガイコクジン」とは、なんだか自分勝手で傲慢な人たちだと思っていたのだ。けれど、こうして横に並んでみると親切そうでいい友達になれそうな普通の女の子だ。

 この子が強盗に襲われている図は、想像できないけれど、もしそうなっても私はもちろん助けて看病してあげる。ドーラは秘かに思った。私が強盗にあったら、この子は立ち止まって看病してくれるかな? 

 そう思って見つめていると、視線を感じたリゼロッテが振り向いた。それから、ドーラの方を見てニッコリと笑った。うん、きっと看病してくれる。ドーラは、嬉しくなった。

(初出:2016年4月 書き下ろし)
関連記事 (Category: 小説・リゼロッテと村の四季)
  0 trackback
Category : 小説・リゼロッテと村の四季
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(23)遺言

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。今回は、月末にポルト旅行なのでちょっと早いですが、今日の発表です。

前回、いきなり当主アルフォンソと《監視人たち》の代表である執事メネゼスに抜け出してしまっている事がバレてしまった23。もちろんそのことは23もマイアもまだ知りません。

今回は、「追憶のフーガ - ローマにて」という番外編を発表した時に「え? これは誰と誰の事?」とみなさんに訊かれた件が明らかになります。

本編は今回を含めてあと三回で完結です。いろいろとヤキモキさせていますが、まだ続きます(笑)


月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(23)遺言

 マイアはいつものように三階と二階の掃除を手早く済ませて靴工房に降りてきた。彼はエスプレッソマシンの前に立っていた。
「おはよう。23」
「おはよう。新しいブレンドが届いたんだ。飲んでみるか?」
「うん。ありがとう」

 その時、二階で鉄格子が解錠される音がした。二人で同時に見上げる。体重を億劫に左右に傾けるこの音は、ドン・アルフォンソの歩き方だとすぐにわかった。

「おはよう。アルフォンソ。珍しいな、どうしたんだ? 今、上がっていく」
23は階段の途中まで行った。彼の兄は、ここまで来るだけで既に息を切らしかけていた。

「いや、下に行く」
当主は手すりにつかまりながらゆっくりと降りてきた。マイアは掃除用具と掃除機をまとめて、急いで出て行こうとした。アルフォンソはそのマイアをちらりと見ると手を振った。

「マイア、わざわざ席を外す必要はない。そのまま仕事を続けていろ」
「え。あ、はい。メウ・セニョール」

 マイアは心配そうに23を見たが、23も兄の意図がわからずただ肩をすくめた。マイアは少し離れたところに行って掃除を始めた。

「今日の氣分はいいのか。こんなに歩いて大丈夫か」
23は椅子に腰を下ろして息を整えているアルフォンソに、水を持っていった。当主はコップを弱々しくつかみゆっくりと水を飲んだ。それから黒いベルベットの上着の胸ポケットから白いハンカチを取り出して、その紫色の顔を拭いた。

「ありがとう。今朝はいつもよりいいんだ。お前とこうして話をできるうちに来たかった」
「話をしたいなら、食事のときでもいいし、俺がお前の部屋まで行ってもよかったのに。メネゼスがついて来れば逃げる心配もないだろう」

 アルフォンソは弟の顔をじっと見つめてから言った。
「逃げる心配なんてしていない。俺は、お前に食事のときの軽い会話をしたかったわけじゃない。それに、できればメネゼスも、母上も、それから24もいない時に話したかったんだ」

 なのに私はいてもいいのかな。マイアは余計困った。聴かない方がいいように思うけれど、でも氣になってしまう。

「アルフォンソ。コーヒー飲むか」
「いや、いい。水をもう一杯くれ」

 23は水をくんで兄の前に置くと、その正面に椅子を置いて座った。アルフォンソはもう一度額を拭くと、椅子の背に凭せ掛けていた身を起こして、弟の顔をじっと見た。

「二つ、頼みがある。口がきけなくなってからでは遅いので、聴いてほしい」
「聴くよ」

「一つめは、クリスティーナのことだ。彼女とは先日話をした。俺がいなくなった後、どうしたいかと」
「彼女はなんと?」
「代わりの人間が見つかったら、出て行きたいと言っていた」
「そうか」
「腕輪を外し、ライサにしたように生活に困らないようにしてやってほしい。だれか別の人間を見つけて幸せに生き続ける努力をすると約束させた」

「アルフォンソ。クリスティーナと結婚しないのか」
23は言った。マイアははっとした。クリスティーナとドン・アルフォンソがそういう関係だとは夢にも思わなかった。アルフォンソは笑った。
「そんなことをしたら俺が死んだ後、彼女がお前の妻になるんだぞ。お前がアルフォンソになるのだから」

 マイアの手の動きは停まった。23は意に介した様子も見せなかった。
「心配するな。名前だけの夫だ。お前に選ばれた女には俺は手を出せない。監視もたっぷりつく。わかっているだろう」
「その心配をしているわけじゃない。それに名前だけの当主夫人の座など、クリスティーナは望んでいない。お前を俺たちの犠牲にすることも考えてはいない」

 アルフォンソは水を飲んだ。それからいっこうに掃除を進めていないマイアをちらりと見てから、再び23に視線を戻して笑った。
「23。お前とアントニアは変なところがそっくりだ。人のことばかり慮って、自分の幸福を簡単にゴミ箱に放り込もうとする」

 23は視線を落とした。
「こんな風に生まれてきた俺には、選択の余地がない。簡単にはいかないんだ。わかっているだろう」

 マイアはやっぱり席を外せばよかったと思った。聞きたくない。アルフォンソはマイアの動揺はもちろん、23の言葉にも動じた様子はなかった。

「お前がお前自身と過去のインファンテたち、もしくは《星のある子供たち》の受けた苦しみから、ドラガォンに対して肯定的な想いを抱けないことは理解できる。当然だ。俺も二人の大切な弟たちを苦しめ、救えなかった自分に満足しているわけではない。だが、遠からずお前は俺に代わってこの巨大なシステムを統べていかなくてはならなくなる。大きな権能がお前の手に握られることになる」
「アルフォンソ」

 アルフォンソは、しっかりとした目つきで弟を見つめた。
「とても大切なことを言っておく。ドラガォンは複雑なシステムで、厳しく、当主であっても基本事項の変更は一切許されないが、それを動かしているのは血肉の通った人間だ。過去に於いても、そして、今でもだ」

 23は冷笑した。アルフォンソはため息を一つついてから、懐を探って書類の束を取り出して23に渡した。
「これは?」
「読んでみろ。そうしたらわかる」

 なんだろう。マイアは覗いてみたい欲求に駆られたが、我慢して埃とりに専念した。

「ほう……。よく調べたな」
23は冷静に紙を繰っていた。アルフォンソは愉快そうに口の端をほころばせた。
「いい仕事をしているだろう? 間違いないか」
「ほぼ、全部……、いや、サン・ジョアンの前夜祭の報告はないな」

 アルフォンソは大きく笑った。
「そりゃあ、その日くらいは《監視人たち》も仕事を忘れて楽しみたいだろう」
マイアはぎょっとした。

「《監視人たち》を悪く思うな。彼らは忠実に仕事をこなしているだけだ」
「わかっている。彼らに恨みがあるわけじゃない。どうするつもりだ。マイアを罰するのはやめてくれないか。あいつは俺の望みを叶えてくれただけなんだ」

 そうじゃない。やめて、23を罰しないで。何も悪いことをしていないのに。マイアははたきを握りしめて二人の方を見ていた。当主は首を振った。

「もちろん、罰したりしないさ。お前もだ。お前が見つけた出入り口は、たぶんこれまでも何人ものインファンテたちが使って、わずかな自由を楽しんだんだろうよ。そして、《監視人たち》や歴代の当主も、外にいるはずのないインファンテを見かけても、あえて星の数は確認せずに、《星のある子供たち》の一人としてごく普通に監視報告してきたんだろう。システムと掟は厳しくても、人の心はどこかに暖かさがあり、呼吸する余地を残してくれる。だから、心を閉ざすな。ドラガォンは、運命は、お前やアントニアの敵じゃない」

 23は少し意外そうに兄の顔を見ていた。アルフォンソは弟の顔をしっかりと見返した。
「俺は当主であると同時にお前の兄だ。お前が新しい当主としての責任を果たしてくれることを期待すると同時に、お前の幸福を心から願っている。そして、それは両立できるだろう。運命に逆らって苦しむな。お前がこのシステムを嫌って、血脈を繋ぐのを拒否しても、システムを止めることはできない。今のドラガォンは狂っていると思うだろう。三人の若い娘が苦しんだ。一人は命を絶った。俺にはそれは止められなかった。だが、お前には止められる」

「アルフォンソ。24は俺にとっても弟なんだ」
「24を罰しろと言っているんじゃない。だが、お前が血脈を繋げば、この館に未婚の娘を雇う必要はなくなる、そうだろう?」
「……」

「システムに対する怒りにこだわるな。望む相手を娶り、愛し、子供を慈しみ、あたりまえの幸せな家族を作れ。それが、今の歪んだドラガォンとそのシステムを暖かい血の通った人びとの集まりに変えるんだ。俺が新しい当主としてお前に望む二つめはそれだ」

 アルフォンソは、23の返事を待たずにゆっくりと立ち上がった。
「もう、いく。少し休まなくては。たぶん、こんな風に話せるのは、もうそんなにはないと思う。聴いてくれてありがとう」

 23は唇を固く結んだまま、兄を見送っていたが、ふと氣がついて手元の書類を返そうとした。

「お前が持っていていい。どうせ、もうしばらくしたら、その手の書類を持ってメネゼスが日参するようになるぞ」
アルフォンソが笑った。

 それからマイアの方を見て言った。
「この街で23をつれて歩くのは構わないが、電車は少しやりすぎだったぞ。レベル3で黒服を出動させた娘はここ一年でお前だけだ」

 マイアは夏の休暇中のスペイン行きの電車のことだとすぐにわかって、頭を下げた。23は、その二人の様子を見て、もう一度書類を繰って、その報告書を見つけた。それを読んでいる彼の表情は暗かった。マイアはあんなことをしなければよかったと悲しくなった。
関連記事 (Category: 小説・Infante 323 黄金の枷)
  0 trackback
Category : 小説・Infante 323 黄金の枷
Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】カフェの午後 - 彼は耳を傾ける

scriviamo!


scriviamo!の第十四弾です。山西 左紀さんは今年二つ目の参加として、ローマ&ポルト&神戸陣営シリーズ(いつの間にか競作で話が進むことになったシリーズの1つ)の続きにあたるお話を書いてくださいました。ありがとうございます!

山西 左紀さんの書いてくださった『絵夢の素敵な日常(初めての音) Augsburgその後』
山西 左紀さんの関連する小説
絵夢の素敵な日常(10)Promenade
絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso
絵夢の素敵な日常(初めての音)Porto Expresso2
Promenade 2
初めての音 Porto Expresso3
絵夢の素敵な日常(初めての音)Augsburg


「ローマ&ポルト&神戸陣営」は今年はほとんど進まなかったのですが、サキさんは66666Hit作品に、この作品と頑張って二つも進めてくださっています。

全くこのシリーズをご存じない方のために少し解説すると、この「ローマ&ポルト&神戸陣営」にはうちの「黄金の枷」サキさんの「絵夢の素敵な日常」大海彩洋さんの「真シリーズ(いきなり最終章)」のメンバーたちがヨーロッパのあちこちに出没してコラボしています。「黄金の枷」の設定は複雑怪奇ですが無理して本編を読む必要はなく、氣になる方は「あらすじと登場人物」をご覧下さい。このコラボで重要になっているのは、本編ではほとんどチョイ役のジョゼという青年です。もともとサキさんのとコラボのために作ったキャラです。他に、マヌエル・ロドリゲスというお氣楽キャラが「ローマ&ポルト&神戸陣営」ではよく出てきますが、今回は「神父見習い」というひと言以外は全く出てきません。「ローマ&ポルト&神戸陣営」の掌編は「黄金の枷・外伝」カテゴリーで読む事が出来ます。ただ、今回の作品にはジョゼ関係の必要な情報が全部入っていますので、読まなくても大丈夫です。

さて、今回サキさんが書いてくださったのは、「大道芸人たち Artistas callejeros」のサブキャラ、ヤスミンで、彼女はアウグスブルグで絵夢に逢い、さらにはミクと演出家ハンス・ガイステルの会話にちゃっかり聞き耳を立てています。というわけでこちらは、ポルト(本編ではPの街と言っていますが、この「ローマ&ポルト&神戸陣営」ではポルトと言いきってしまっています)に舞台を移し、こちらでも誰かさんが聴き耳を立てています。話しているのは、「黄金の枷」重要キャラと、やはり「大道芸人たち Artistas callejeros」のサブキャラ。以前サキさんがヤスミンを出してくださったお話で、お返しはやっぱりこの人の登場にした事があるのですが、それを踏襲しています。

サキさんは、とっとと話を進めてほしかったようですが、まだまだ引っ張ります。っていうか、この続きは今月末にロケハンに行ってからの方がいいかな~と。ちなみに本編(続編)の誰かさんに関わる情報もちょいと書いています。


【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」Infante 323 黄金の枷


「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



黄金の枷・外伝
カフェの午後 - 彼は耳を傾ける
——Special thanks to Yamanishi Saki san


 白いぱりっとした上着をきちんとひっぱってから、ぴかぴかに磨かれたガラスケースを開けて、中からチョコレートケーキを取り出した。ジョゼはそれをタウニー・ポートワインの30年ものを飲んでいる紳士の座っている一番奥のテーブルに運んだ。
「大変お待たせいたしました」

「おお、これは美味しそうだ。どうもありがとう」
 発音からスペイン人だとわかるその紳士は、丁寧に礼を言った。ジョゼは、ずいぶん目の大きい人だなと思ったが、もちろんそんな様子は見せなかった。

 ジョゼは、Pの街で一番有名なカフェと言っていい「マジェスティック・カフェ」のウェイターとして働いている。1921年創業のこのカフェは、アール・ヌーボーの豪華絢爛な装飾で有名で、その美しさから世界中の観光客が押し寄せるので、母国語だけでなく外国語が出来なくては勤まらない。ジョゼは英語はもちろん、スペイン語も問題なく話せるだけでなく、子供の頃にスイスに住んでいたことがありドイツ語も自由に話せるので職場で重宝されていた。

マジェスティック・カフェ


「こちらでございます」
振り向くと、黒いスーツを着た彼の上司が女性客を案内してきた。このカフェの壁の色に近い落ち着いたすもも色ワンピースと揃いのボレロを着こなしていた。ペイズリー模様が織り込まれたそのスーツは、春らしい鮮やかさながらも決して軽すぎず、彼女の高貴な美しさによく似合っていた。ジョゼは、はっとした。彼女に見憶えがあったからだ。

 彼のテーブルに座っていた、目の大きいスペイン人はさっと立ち上がり、その女性の差し出した手の甲に口づけをした。
「ドンナ・アントニア。またあなたにお逢いできてこれほどうれしいことはありません」

 黒髪の麗人は、艶やかに微笑んで奥の席に座った。革のソファの落ち着いた黒に近い焦げ茶色が、彼女の背筋を伸ばした優美な佇まいを引き立てる。
「遠いところ、足をお運びいただいてありがとうございます、コルタドさん」

 上司に「頼むぞ」と目配せをされて、この二人がVIPであることのわかったジョゼは、完璧なサービスをしてみせると心に誓って身震いをしてから恭しく言った。
「いらっしゃいませ。ただ今、メニューをお持ちいたします」
二人の客は、頷いてから、会話を始めた。

「二年ぶりでしょうか。いつお逢いしても月下美人の花のごとく香わしくお美しい。仕事の旅がこれほど嬉しいことは稀なことです」
「まあ、相変わらずお上手ですこと。お元氣そうで何よりです。お噂は耳にしていますわ。事業の方も、芸術振興会の方も絶好調だそうですね」

「おかげさまで。いつまでも活躍していてほしかった偉大なる星が沈むこともありますが、新しく宵の明星のごとく輝く才能もあります。それを見出し支援することが出来るのは私の何よりの歓びです。そして、同じ志お持ちになられているあなたのように素晴らしい方と会い、若き芸術家たちとの橋渡しができることも」

 麗人は無言で微笑んだ。どう考えても、目の大きい紳士の方がはるかに歳上だと思われるのに全く物怖じしない態度で、ジョゼは感心しながら見とれていた。ドンナ・アントニアか。相当に金持ちのようだとは考えていたけれど、そうか、貴族かなにかなんだな。彼は心の中で呟いた。

 彼女は、チョコレートケーキを嬉々として食べているコルタド氏に微笑んだが、自身はコーヒーしか頼まなかった。それもエスプレッソをブラックで。

 彼女は、ずいぶん前に立て続けにこのカフェに来たことがあった。その理由は、なんとジョゼにある伝言をするためだった。彼女からチップとともにそっと手渡された封筒に、幼なじみマイア・フェレイラからの秘密の依頼が入っていたのだ。彼は、何が何だか全くわからぬままに頼まれたことをやり、そのお礼としてこれまで一度も履いたことがないほど素晴らしい靴を作ってもらった。いま履いている黒い靴だ。

「それで、お願いした件は……」
アントニアは、つややかな髪を結い上げた形のいい頭を少し傾げて訊いた。コルタド氏は、大きく頷くと鞄からCDを取り出した。
「こちらがバルセロナ管弦楽団のチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番で、こちらがスイスロマンド管弦楽団によるメンデルスゾーンのバイオリン・コンチェルトです」

「まあ、もう二つもご用意くださったのですね。素晴らしいわ。ありがとうございます。録音していただくの、大変だったでしょう?」
「そうですね。世界に名だたるオーケストラと指揮者にソリストなしのカラオケを録音していただくのですからね。なんに使うのか、皆知りたがります。でも、ご安心ください。あなたのお名前を悟られるようなヘマはいたしておりません」
「心から感謝いたします。かかった費用はすぐにお支払いします。それに、あなたが理事を務めていらっしゃる芸術振興会にいつもの倍の寄付をさせていただきたいと思います」
アントニアは、真剣な面持ちで礼を言うと、CDを大切にハンドバッグにしまった。

「私が全く興味を持たなかったかと言えば嘘になります」
コルタド氏は誰もが引き込まれてしまうような、人懐っこい笑顔を見せた。アントニアはわずかに笑った。
「もし可能ならば、生のオーケストラをバックに演奏したいと願い続けている人のため。それ以上は、私が言わずとももうご存知でしょう?」

 コルタド氏は、意味有りげな顔をした。
「表向きは何の情報もありませんが、私の懇意にしているセビーリャのジプシーたちはこの街に住む特別な一族のことを話してくれますので」

 アントニアは、全く何も言わなかった。肯定も否定もしなかった。それから突然話題を変えた。
「それで。新たに見つけた才能のことを話してください。場合によっては、寄付をまた増やしてもいいのですから」

「そうですね。例えば、私が大変懇意にしている四人組の大道芸人たちがいます。でも、彼らのことは、私が個人的に支援しているだけですがね。ああ、そうだ。この街出身の素晴らしい才能が国際デビューしたことはご存知ですか」
「どこで?」
「ドイツです。ミュンヘンの、例の演出家ハンス・ガイステルが見いだしたようで。彼女の名前が少し特殊だったので、もしかしたらあなたのご一族なのかと思ったのですが」
「なんと言う名前ですか」
「ミク・エストレーラ」

 ジョゼはぎょっとして、思わず二人をしっかりと見てしまった。幼なじみで且つ想い人であるミクの名前をここで聞くとは! ミクは、正確にはこの街の出身者ではない。日本で生まれ育った日本人だ。ティーンエイジャーだった頃、母親を失いこの街に住んでいた祖母のメイコ・エストレーラに引き取られて引越してきたのだ。ジョゼは、その頃からの友達だった。

 ミクはその透明な歌声を見出されて、ソプラノ歌手としてのキャリアを歩み始めていた。ドイツのアウグスブルグで『ヴォツェック』のヒロインであるマリー役で素晴らしい成功をおさめたことは聞いていた。もちろん彼がアウグスブルグに行ったわけではないけれど、彼女の歌声が素晴らしいのは子供の頃からずっと聴いているから知っている。

 大学に進み、この街を離れるまでは単純に歌うのが好きな綺麗な姉貴だった。(ミクは6歳も歳上なのだ!)大学在学中に、テクニックとか曲の解釈とか、ジョゼにはよくわからない内容に心を悩ませ、迷い、それに打ち勝って単純に美しいだけではない深みのある歌い方をするようになった。

 夢を追っているミクは輝いていたし、ジョゼも心から応援していたが、彼女の夢が1つずつ叶う度にこの街に帰ってくる間隔が長くなり、さらには手の届かない空の星のような存在に変わっていってしまうように感じられて心穏やかではなくなった。

 そうだ、エストレーラ 。彼女の苗字がなんだって? この女性の一族? まさか!

 アントニアは、クスッと笑った。それから首を振った。
「私たちの一族でエストレーラ という苗字を持つものはおりません」

 コルタド氏はアントニアが左の手首にしている金の腕輪を眺めて「そうですか」と納得していない様子で呟いた。彼女は、婉然と微笑んだ。

星を持つOs Portadores da Estrela のと、Estrela であるのは違うのですよ。私たちの家名はどこにでもいるような目立たないものに限られているのです。誰もがその存在に氣がつかないように」

 それから何かを考え込むように遠くを見てから、コルタド氏に視線を戻して優しく微笑んだ。

「才能があり功名心を持つ人は、星など持たぬ方がいいのです。世界へ飛び立ち、自由に名をなすことができるのですから。《星のある子供たち》Os Portadores da Estrela は、あなたもご存知のように、この街に埋没し、世間に知られずにひっそりと生き抜くべき存在なのです」

「あなたも……?」
コルタド氏は、これまでに見たことのあるどの女優にも負けぬほど美しく、どの王族にも引けを取らず品をもつ麗人を見つめた。彼女は顔色一つ変えずに「私も」と答えた。

 そして、二人を凝視しているジョゼに視線を移すと、謎めいた笑みを見せた。彼は客の会話に聞き耳を立てるどころか、完全に注目して聴いてしまっていたことに思い至り、真っ赤になって頭を下げた。

「それで、あなたはそのエストレーラ嬢の後ろ盾になるおつもりなのですか」
アントニアは、コルタド氏に視線を戻した。

「いいえ。そうしたいのは山々ですが、彼女にはもう立派な後ろ盾がいるのですよ。ヴィンデミアトリックス家をご存知ですか」
「ええ。もちろん」
「かのドンナ・エム・ヴィンデミアトリックスが、彼女を応援しているのですよ。それに、どうやらイタリアのヴォルテラ家も絡んでいるようです。あなたが絡んでいないとしたら、どうやってそんな大物とばかり知り合いになれるのか、私にはさっぱりわかりませんね」

 絵夢ヴィンデミアトリックス! またしても知っている名前が飛び出してきたので、ジョゼの心臓はドキドキと高鳴った。絵夢は日本の高名な財閥令嬢で、ミクと同じ日にジョゼが知り合った、長い付き合いの友達だ。

 ミクがポリープで歌手生命の存続を疑われた時に、イタリアの名医を紹介してくれたのも絵夢だった。ついでに、メイコのところに来ている神父見習いの紹介でヴァチカンとつながりのあるすごい家も助けてくれたって、言っていたよな。ともかく、彼らのバックアップの甲斐あって、手術は大成功、彼女はまた歌えることになったんだ。ジョゼはわずかに微笑んだ。

 僕はその事情を全部知っています。言いたくてしかたないのを必死で堪えつつ、ジョゼは綺麗に食べ終えたチョコレートケーキの皿をコルタド氏の前から下げた。

 その時に、アントニアの視線が彼の靴を追っていることに氣がついた。彼は、そっと足を前に踏み出し、彼の宝物である靴を彼女に見せてからもう一度頭を下げた。この靴のことも、それから彼女がマイアの件で彼に伝言を依頼したことも、彼女は知られたくないことを知っていたので、ジョゼはあくまで何も知らない振りをした。アントニアは満足したように頷いた。

 コルタド氏は二人の様子にはまったく目を留めずに、話を続けた。
「来月、またこの街に参ります。その時は、もうひとつのご依頼である『ます五重奏』の方も持ってこれるはずです」
「何とお礼を申し上げていいのかわかりませんわ」

「あなたにまたお逢いできるのですから、毎週でも来たいものです」
コルタド氏が言うと、アントニアは微笑んだ。
「私がいつまで、こうした役目を果たせるかわかりませんわ」

「なんですって。ドンナ・マヌエラからお役目を引き継がれてから、まださほど経っていないではないですか」
「ええ。でも、ようやく本来私のしている役目を果たすべき者が決まりましたの。まだこの仕事には慣れていませんので、しばらくは私が代わりを務めますが」

「それは、ご一族に大きな慶事があったということでしょうか」
「ええ。その通りです」
「なんと。心からお祝い申し上げます。ドン・アルフォンソにどうぞよろしくお伝えください」
「必ず。ご健康と、そしてあなたのご事業のますますのご発展を祈っていると、彼からの伝言を受けていますわ」

「これはもったいないお言葉です。私の方からも心からの尊敬をお伝えください」

 コルタド氏は立ち上がって、アントニアに手を差し出した。その手に美しい手のひらを預けて優雅に立ち上がると、彼女は水色の瞳を輝かせながら微笑んだ。
「バルセロナへお帰りですか?」

「いえ、せっかくここまで来ましたのでひとつ商談をするためコインブラへと参ります。そのためにレンタカーを借りました。そして可能でしたら、少し足を伸ばしてアヴェイロにも行くつもりです。《ポルトガルのヴェニス》と呼ばれているそうですね」
「そうですか。よいご滞在を。またお逢いするのを楽しみにしています」

 二人が去った後に、テーブルを片付けると、コルタド氏の座っていた席に、多過ぎるチップとともに料金が置いてあった。ジョゼは、ミクが帰って来たら「姉貴のことを噂していた人がいたよ」と話そうと思った。

 ミクがまた歌えるようになるまで三ヶ月かかるとメイコは言っていた。その静養期間に彼女はしばらくこの街に戻ってくるとも。

 彼は、つい先日格安で中古のTOYOTA AYGOを手に入れた。小さい車だが小回りがきき丈夫でよく走る。アヴェイロか。そんなに遠くないよな。

 彼女が帰って来たら、ドライブに誘おう。ここしばらく話せなかったいろいろな事を話そう。そして、出来たらもう小さな弟代わりではなくて、友達でもなくて、それよりもずっと大切に思っていると、今度こそ伝えたいと思った。

 街には春のそよ風が心地よく吹いていた。

(初出:2016年3月 書き下ろし)
関連記事 (Category: scriviamo! 2016)
  0 trackback
Category : scriviamo! 2016
Tag : 小説 連載小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(22)推定相続人

久しぶりの「Infante 323 黄金の枷」です。今回の話の予告、年末の押し迫っている時に置いたんで、誰からもツッコミは入りませんでしたが、以前から数名の方から言われていた《監視人たち》はちゃんと仕事しているのか、のお話です。

前回、いきなり当主の健康問題がクローズアップされましたけれど、こう繋がるために必要だったのでした。

今回は、主役の二人は出てきません。たまには、ぐるぐる抜きで。


月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(22)推定相続人

 ペドロ・ソアレスは緊張の面持ちでドラガォンの館の書斎に入った。迎え入れたアントニオ・メネゼスは彼の従兄弟で子供の頃から親しんでいた。《監視人たち》の家系の中でも、代々中枢組織に加わるメンバーを生み出している名門一族の出身者として、ペドロも若いころから黒服のメンバーに加わってきた。そのペドロですら、ドラガォンの館に来る時には少々緊張した。メネゼスは館の執事であるだけでなく、《監視人たち》の中枢組織の上に君臨するドラガォンの当主ドン・アルフォンソとの橋渡しをする特別な存在だった。

「それで、ペドロ?」
「ちょっと、氣になるケースがあるので耳に入れておいた方がいいと思って。これだ」

 ペドロはアタッシュケースから書類の束を取り出して従兄弟に手渡した。メネゼスは不審な顔で紙の束の上の縁を見た。一枚だけ「レベル3」を意味するオレンジに染まっているが後は全て白かった。ドラガォンの館への報告義務があるのは黄色い縁のレベル2からだ。

「この一枚を除いて全てレベル1の報告だな。これが?」
「すべて一人の娘の報告だが、氣になる点がいくつかあってな」
メネゼスは一番上の書類を見て、名前を確認し、片眉を上げた。マイア・フェレイラ。
「氣になる点とは?」

「まず、その娘はここで働いている。それにしては目撃される頻度が多いんだ」
「休暇の他に、奥様の用事等でしばしば外出させている。外で見かけても不思議はない」

「二点め。この娘は、ある男とよく会っている」
「なんだと?」

「三つめ。これが最後でもっとも奇妙な点だが、その男は何人かの《監視人たち》の報告でやはり《星のある子供たち》であることがわかっているが、該当する人物が我々のデータに登録されていないのだ」

 メネゼスは真剣な面持ちで書類を繰り、その人物の外見描写を見つけて自分の目を疑った。
「まさか! そんなはずは……」
「アントニオ?」

 吹き出す汗を懐から取り出したハンカチで拭くと、息を整えてからメネゼスは黒服の従兄弟に言った。
「報告をありがとう、ペドロ。私からドン・アルフォンソに話をしよう。こちらから連絡があるまで、これまで通り監視と報告を頼む」

 ペドロは訝しげに頷いて、それから頭を一つ下げて退出した。

 メネゼスは再び、書類を見た。疑う余地はない。この特徴のある風貌はセニョール323だ。だが、どうやって。メネゼスはドン・アルフォンソのショックを考えて、まずドンナ・マヌエラに話すことも考えたが、思い直して当主の部屋に向かった。

「どうした。変な顔をしているが」

 メネゼスがいつも感心することに、ドン・アルフォンソはひと目でこちらの心理状態を見抜いてしまう。メネゼスは執事として自分の表情や動揺を極力見せないように訓練し、多くの人間からは感情を持たない人間と評されていることを誇りにすら思っていたが、この当主だけには考えを隠すことができなかった。

「ご報告しなくてはならないことがあります。もしかするとあなたの心臓に負担を掛けてしまうようなことなのですが、メウ・セニョール」
「そうか。言ってみろ」

 メネゼスはさきほどペドロ・ソアレスに受けた報告をかいつまんで話した。
「外に出ていると? どうやって」
「わかりません。マイアと一緒に出ているわけでないのは間違いありません」

 メネゼスが驚いたことに、彼の主人は大してショックを受けた様子を見せなかった。
「この館には、そもそも秘密の脱出口がいくらでもあるからな。あいつの居住区にあってもおかしくない」
わずかにがっかりしているように見えた。

「マイアに外出する用事を言いつけられるのはたいてい奥様なのです。ご存知なのかもしれません。どういたしましょうか。表立って出入り口を塞ぐとなると、セニョール323のご機嫌を損ねて面倒なことになる可能性もありますが」

「あいつはマイアと一緒に何かを企んでいるのか? 例えば、誰かと接触して逃亡を画策しているような兆候があるのか」
紫がかった顔が、一層疲れて見えた。

「報告されている限り、彼らは特に誰とも接触をしていません。というよりも、観光客が行くような所に行って、街を見学しているようなのです」

 彼はそれを聞いて意外そうに眉を上げた。
「それから?」
「カフェに入ったり、安食堂で食事をしたり……」

「……それは、つまり、デートみたいなものか?」
「そう申し上げても構わないでしょう」

 メネゼスは報告書を当主に渡した。彼はしばらく読んでいたが、その内容に苦笑した。大聖堂、ドン・ルイス一世橋、カステル・デ・ケージョ、ボルサ宮殿、サン・フランシスコ教会、ワイン倉庫街、セラルヴェス現代美術庭園。観光案内書を読んでいるみたいだ。

「ほっておけ。母にも何も言わなくていい。いつも通り《監視人たち》が見ていればそれでいい」
「メウ・セニョール。いいのですか」

「なあ、メネゼス。23が外の世界に興味を持つのはいいことだ。いきなり外へ出るように強制されてからでは遅すぎる。そうだろう」

 執事は主人の顔をじっと見つめた。ドン・アルフォンソは覚悟しているのだと思った。心臓発作の間隔はどんどん狭まっている。そうでなくても彼の脆い心臓は彼に結婚をすることも世継ぎを作ることも許さないだろう。

 もしドン・アルフォンソが亡くなれば、自動的に23は新しいドン・アルフォンソとしてメネゼスの主人になる。そうでないのは、ドン・アルフォンソの存命中に23か24により男子が生まれ、ドン・アルフォンソの長男として届けられた場合だけだ。

 24はライサ・モタも含めてすでに三人の女を自由にしていた。妊娠の兆候があったのは二人だったがどちらの女も子供を産むことはなかった。ライサは流産だったが、もう一人の娘は子供を道連れに命を絶った。

 最初に彼が手を出した娘は食事の時に逃げだそうとし、面目を失った24が放り出したので数日で逃れられた。が、それに懲りた彼は次に恋愛関係となった娘を居住区に閉じこめて格子の外に出さなくなった。召使いたちが入ってくる時には常に側にいて、助けを求められないようにした。

 死を選んだ娘の時には原因がうやむやになったが、流産の処置時に心を病んでいることが明らかになったライサの証言で、24が娘たちを彼のひどいサディズムの餌食にしていたことが明らかになった。ライサは肉体的にはすぐに回復したが、心的障害と使われていた薬物の副作用が残った。日常生活が営めるようになるまで、長い期間の治療が必要だった。

 ライサの件は、事前に防げたはずだと、館にいる多くの人間が考えていた。その罪悪感は彼らに重くのしかかっていた。それでも、ドラガォンには世継ぎの誕生が優先課題であるため、痛ましい結果が繰り返されるのを止めることができない。館の若い娘は短い間隔で入れ替わり、新しく入る娘たちには過去に起こったことが伏せられている。

 事情を知っている誰もが23が状況を変えてくれることを待っていた。だが、23は黙々と靴を作るだけでドラガォンの意志には無関心だった。閉じこめられ、脊椎後湾に対する手術もしてもらえず、抵抗を押さえつけられた彼はドラガォンを憎んでいるのだとメネゼスは思っていた。アルフォンソの方はもう少し楽観的に考えていたが、それでも23に協力的になるよう強制することは難しかった。

「23はずっと内に籠っていただろう。太陽からも顔を背けて、誰とも関わろうとせずに。《監視人たち》も俺たちも外に出て行こうとする者を止めることはできても、籠城している者を引きずり出すことはできない。あいつが自分の意志で出てきたのはいいことだ。あの娘が来て以来、23は変わってきている。家族以外のものと会話もできなかったのに、他の使用人たちとも口をきけるようになり、信頼関係を築きはじめている。あいつだけでなくドラガォンにとっても必要な変化だと思わないか」
「おっしゃる通りです」

 アルフォンソは椅子にはまった体を大儀そうに動かして立ち上がった。ゆっくりと窓辺に向かいD河の上を渡ってゆくカモメを目で追った。

「俺はね、メネゼス、23が失敗を怖れて開きたくても開けなかった扉を、あの突拍子もない娘が片っ端から開けているんだと思っているよ。母もそれがわかっているから黙っているのだろう」
「承知いたしました。では、仰せのままに」
関連記事 (Category: 小説・Infante 323 黄金の枷)
  0 trackback
Category : 小説・Infante 323 黄金の枷
Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(21)発作

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。今年最後の小説更新なんですけれど、なんかちょっと切りが悪いかなあ。ま、これが年初に来るよりはいいか。

今回の話は、主人公二人のこととはあまり関係がないように思われると思います。ないと言ったらないんですけれどね。でも、入れるとしたらこの位置しかなかったのです。


月刊・Stella ステルラ 12、1月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(21)発作

「23、ねえ」
マイアは、階段を降りてくる23を見かけたので走り寄り、小さな声で鉄格子越しに呼んだ。
「なんだ」
「マリアからハガキが来たの。カサブランカですって!」

 23はマイアが渡したアラビアンナイトの舞台のような室内の写真の絵はがきを読んだ。
「ライサも旅を楽しんでいるようだな」

「ライサ、本当によくなって帰ることができたのね。豪華客船で世界一周かあ。高そう……」
「ドラガォンがスポンサーなら、心配することはないだろう」
「ふ~ん」

「お前も行きたいか?」
「そりゃね。でも、ライサはつらい目に遭ったから、なんでしょう? 私つらい目に遭っていないもの」

 23は笑って、ハガキを返した。船旅もいいけれど、23とこうして逢っている方がいいな。マイアは思った。

* * *


 工房に降りて行こうとする23に手を振って、仕事に戻るためにバックヤードへと向かった。正面玄関を横切ると、ちょうど入ってきた男が声を掛けた。
「マイア!」

 マイアは振り返った。
「サントス先生!」

 ホームドクターで、この館に勤める時にも世話になったサントス医師だった。

「すっかり、それらしくなったな。もう仕事には慣れたんだろう?」
「はい。その節は、紹介状をありがとうございました」
「自信を持って薦められる時に書く紹介状はなんでもないさ。君の事は子供の頃からよく知っているからね」

 サントス医師は、誰かを待っているようだった。
「今日はどうなさったんですか?」
「ドン・アルフォンソがまた発作を起こされたんでね。先ほどの検査の結果、入院する必要はないんだが、しばらくは医師がつめているほうがいいというので、今日から私がしばらく泊ることになったんだ」

 そう話している時に、マリオがスーツケースを持って玄関から入ってきた。
「お車は駐車場の方へと移動いたしました。鍵をお返しします」

 上の方から、ジョアナも降りてきた。
「先生。お部屋の準備もできました。マリオ、そのままご案内して。マイア、ちょうどいい所にいたわね。先生のお部屋にタオルを多めにお持ちして」
「はい」

 マイアは急いでバックヤードに戻った。今月は三度目だ。ドン・アルフォンソはここのところよく心臓発作を起こす。以前もそういう事があったけれど二ヶ月に一度ぐらいだった。朝食や昼食の時にわずかな階段を昇り降りするのも、以前よりもつらそうに見える。ドンナ・マヌエラがとても心配しているのが手に取るようにわかる。マイアも不安だった。

 タオルを抱えて、ドン・アルフォンソの部屋の斜め前にある客間に向かった。ノックをした時に、ドン・アルフォンソの部屋の方から当の医師の声が聞こえてきた。
「少しお休みになれましたか」

 しわがれた当主の声も聞こえた。
「ああ、先生、もうしわけない。わざわざ……」
とても弱々しい声だった。
「セニョール。起き上がってはいけません。脈を拝見いたしましょう」

 マイアは暗い顔で、医師の泊まる部屋に入り、バスルームにタオルを置いてから退出した。

 ドン・アルフォンソの部屋の掃除を担当することもなくあまり接点がなかったので、給仕の時に見かけるだけだったが、当主ははじめに思ったよりもずっと親切だと知っていた。太っていつも大儀そうな見かけとは違い、周りをよく観て心を配り、必要な時にはすぐに決断を下すことのできるドン・アルフォンソに敬意を持ちはじめていた所だった。だから、発作に襲われて苦しんでいると聞くとやはり心配になり氣の毒だと思った。

 バックヤードに戻るために二階を通った。ドンナ・マヌエラが23の鉄格子の鍵を開けているのが目に入り、マイアは黙って頭を下げた。

* * *


 女主人は会釈を返し、マイアが立ち去った後もしばらくその後ろ姿を眺めていたが、やがてドアを閉めると階段を降り、彼女の次男の姿を探した。

「母上?」
23は彼女の暗い顔を目にすると、ミシンを止めた。マヌエラは眉間に苦悩の深い皺をよせてしばらく目を瞑っていた。やがてその固く閉じられた瞼から、涙がこぼれだした。

「どうなさったのです」
「また発作で……」

「アルフォンソは、入院したのですか」
「いいえ。先ほど戻ってきました。サントス先生がしばらく詰めてくださるそうです。病院で検査の結果を言い渡されました。発作の波が治まれば、落ち着くでしょうといわれましたが……」
「が?」
「覚悟してほしいと……」

「そんなに悪いのですか」
「生まれた時に、二十歳まで生きられないだろうと言われました。ずっと覚悟はしていたつもりでした。でも……」

 彼女は本人や使用人の前では堪えていた涙を抑えられなくなり、23にすがって震えた。彼は目を閉じ、母親の背中をさすった。

「医者のいう事が必ずしも当たらないのは、それで証明されたではないですか。希望を捨てないでください」

「メウ・トレース。許してちょうだい。こんな時ばかり……」
「母上。お氣になさらないでください。俺はもう子供じゃない。あなたがどれほど多くのことに心を悩まされているかわかっています」
関連記事 (Category: 小説・Infante 323 黄金の枷)
  0 trackback
Category : 小説・Infante 323 黄金の枷
Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】ファインダーの向こうに(8)ポートレート -3-

中編小説「ファインダーの向こうに」の最終回です。

ようやく自分の本当に撮りたい写真のスタイルで撮影を始めたジョルジア。変わっていっているのは、それだけではありません。ハッピーエンドやバッドエンドというくくりの難しいラストですが、これで本当に終わりです。ご愛読いただきありがとうございました。追記に後書きを置きました。


「ファインダーの向こうに」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




ファインダーの向こうに
(8)ポートレート -3-


 ジョルジアは、《Sunrise Diner》やキャシーの家に通い、たくさん写真を撮った。笑っている顔、腹を立てている顔、拗ねている顔、皮肉を言う顔、美しい立ち姿、変な姿勢の時、赤ん坊を抱きしめる時、夫のボブと抱き合っている時、口論をしている姿。露出とシャッタースピード、それに焦点を変えて幾枚も撮り続けた。フィルムに美しい瞬間だけでなく、生きている彼らの人生が映し出されていく。

 ロサンゼルスに行き、ショーの準備をしているアレッサンドラの姿も撮った。スポットライトを浴びていない彼女の、仕事を離れた時には見せない尖った神経、わずかによぎる不安を映し出すことに成功した。そして、喝采を浴びる彼女の華やかな笑顔、娘といるときの母親としての愛情。

 どれだけ多くの事柄を、瞳のシャッターから追い出してきたのかと、ジョルジアは訝った。全てのモデルには、陰影があった。彼女が今まで好んで撮影し、評価を受けてきた「天使である子供たち」のような、明るく完璧な美は影を潜めた。必ずどこかに醜く悲しいものがある。それはジョルジアの中にだけあるのではなかった。そして、その影が被写体の光の部分をより美しくするように、それを撮っているジョルジア自身の影も、自らの光を感じるようになっていた。

 彼女は、醜い化け物であると同時に、どこにでもいる女という魅力ある生き物でもあった。哀しみに支配されていながら、歓びに胸を躍らせていた。彼女は撮影を楽しんでいた。毎日の新しい発見が嬉しくてたまらなかった。誰からも顧みられぬから、仕方なしに仕事をしているのではなく、努力を認めてほしいから何かを創り出すのでもなく、だだひたすら自分自身でいることを楽しんでいた。かつて、始めて父親のカメラを手にして、その小さな箱の中に映る無限の世界に惹き付けられた、あの頃と同じ情熱を取り戻し、好きなことを仕事にできた幸運を噛み締めていた。

 彼女は、自分が変わりつつあることを自覚していた。一方通行ではなく、喜びだけでもなく、被写体のプラスの感情とマイナスの感情、両方を受け止められるようになっていることを感じていた。作品への批判や否定を予想しても、人ではなく自分の感覚を優先できるようになっていた。それは、自分を信じ、尊重するということだった。

 小さいアパートメントの洗面所。彼女は、鏡の前に立ち、自分の顔を見た。青ざめた肌は変わっていなかったが、瞳に光が入っていた。それに、わずかに口角が上がっていた。ファインダー越しに見つけた、マッテオの口元との相似を見つけて、彼女は嬉しくなった。

 そこにいるのは、もうアレッサンドラ・ダンジェロの惨めな影ではなかった。アレッサンドラが愛して、幸せを願っている、彼女の大切な姉の姿だった。

「あなたを変えるのは、いつだってあなた自身よ」祝福の言葉が甦る。彼女は、妹のスタイリスト、ミッキーに貰ったクリームに、あの授賞式以来、洗面所に置きっぱなしになっていた小さな瓶に、そっと手を伸ばした。

* * *


「へえ。いいな」
久しぶりの打ち合わせで、彼女はずいぶんと厚くなったファイルを取り出して、作品をベンジャミンに見せた。様々な人物像が写っていた。キャシーとその家族、マッテオやアレッサンドラ、それからその撮影の時に撮ることを許してくれた、使用人のハリスやスタイリストのミッキー。姪のアンジェリカとその友達。街の清掃人、《Sunrise Diner》の客たち、公園や海岸で寛ぐ人びと。

 ジョルジアが、こんなに光の扱い方が上手いことを、担当編集者である彼も、氣がついていなかった。明るい色彩の中では、その光と影のコントラストは、主役である色相に紛れて強く主張していなかった。それが、モノクロームの写真の中では主役となり、人びとの心の陰影、そしてそれを見つめるジョルジア自身の心のひだをくっきりと映し出す。

 彼女自身が上手く撮れたと自負している写真になると、ベンジャミンの反応も大きかった。長く時間をかけて、満足げに眺めていた。その反応が、彼女に大きな自信を与えた。新しい写真集。これは大きな賭けだ。結果がどうなるかはわからない。でも、決して後悔しないだろうと思った。

「ねえ。ベン」
「なんだ?」
「今度時間があったら、あなたを撮らせてくれない?」
「……僕を?」
「あなたと、スーザンと、そしてジュリアンと、一緒にいる日常を撮ってみたいの」

 ベンジャミンは、手の間から砂がこぼれていく感覚を味わった。傷つき怯えて、飛ぶことのできなかった、彼が守り、触れずにいつまでも世話をしたいと思っていた鳥は、ゆっくりと翼をはためかせている。

 彼女のファインダーに映れないと残念に思っていたのは、昨日のことのようだった。だが、それは当然だったのだ。彼は十年間もカメラよりも手前にいたのだから。一人では立てない彼女を支えて。一番近くに。

「やっと……だな」
「何が?」
「君が僕をファインダーに入れてくれた」

 ジョルジアは、少し首を傾げてから笑った。その口元にうっすらとルージュが引かれていることに、ベンジャミンははじめて氣がついた。

* * *


 ジョルジアは、暗室の壁の前に立ち、手を伸ばした。触れることがためらわれて、いつも視線で追うだけだった写真。狂おしい想いが昇華されて、愛されないことの苦しみよりも、ただ愛することの歓びが胸にひろがっているのを感じた。

 この写真が全てのきっかけだった。再び生きることへの。人びとと向き合うための。自分自身を愛する道のりへの。

 彼女は、奇妙な形とはいえ、確かに彼女が愛している男に語りかけた。

 いつか、もう一度あなたを撮ってみたい。あなたが愛する人と一緒にいる所を。その眼鏡の奥であなたの瞳が愛情に煌めく瞬間を。あなたがあなたの子供と一緒にいる幸せをかみしめている光景を。あなたの曇りのない幸福を映し出すことができたら、きっと私は生涯に一度も得たことのない愛の昂揚を手にするだろう。私自身が愛されることは永久になくても。

 写真を壁からそっと外し、愛おしげに眺めてから、少しずつ集まりだしているモノクロームの人物像のファイルの一番上に置いて、ファイルを閉じ、大切に鞄の中にしまった。

 それから、暗室の電灯を完全に消し、いつもの通り戸締まりをしてから、我が家に帰るために黄昏の通りをひとり歩いていった。

(初出:2015年12月書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more



この小説は、もともと「マンハッタンの日本人」シリーズのおまけのような形で構想を始めた作品でした。ブログのお友だちとの競作の過程で、ヒロイン美穂(と私)が「利用しまくったあげくに袖にする」というとんでもない無礼を働くことになってしまったTOM-Fさんのオリキャラ、ジョセフ・クロンカイトと、TOM-Fさんご本人へのお詫び掌編という位置づけです。

でも、単純に若くて綺麗で性格のいい子にジョセフを想わせた所で、なんのお詫びにもなりません。冗談作品にはおちゃらけて返すのもありですが、この場合は論外です。真面目に考えれば考えるほどハマりました。そして、「その結果がなぜこうなる」という作品になってしまいました。

この作品は、「マンハッタンの日本人」の続編ではありません。が、実は、根底に同じテーマが流れています。そして、「マンハッタンの日本人」の中で、本来私が追求したくてうっすらと匂わせていた内容が、前回の謎の「モテモテ」状態でうやむやになってしまったので、こちらでは正面から見据えてきちんと書くことにしました。

大テーマは、私の全ての小説と一緒です。この大テーマについては、何度かこのブログで「ある」ことだけは開示していますが、読者の自由な読み方を制限したくないのであえて何であるかは公表していません。その「○○」が背骨として存在します。

その上で、今回、作品の個別テーマとして取り組んだのが「自己承認欲求」です。主人公ジョルジアの仕事とプライヴェートの両方において、承認欲求の呪縛と否定とのはざまで厄介なことになっているのですが、彼女が自分の内部を直視して、面倒な己の心と向き合い、僅かながらも変わっていく過程をストーリーの骨格に据えました。

彼女を写真家にしたのは、例えば小説家にするよりも「伝わりやすい」と思ったからです(TOM-Fさんをはじめとして、このブログにいらしてくださる方には、写真にも詳しい方が多いので、この設定はボロが出やすく危険だったのですが……)が、「自己承認欲求」の複雑なコンプレックスは、もちろん私自身の人生や仕事、それに小説を書くという行為の中から出てきたものです。「誰にも愛される鮮やかな子供の笑顔の写真」は、一般受けのする小説だと読み替えていただけるとわかりやすいかと思います。何をどんな風に表現するかと、それが受けるのかという問題は、何かを創作する人間にとっては常に悩みどころです。受ける作風を選ぶか、自分の表現したいものを貫くか、それが自分の人生にどのような影響を及ぼすのか、書いてみたかったのはその点でした。

ジョルジアは、これまで私の書いたヒロインの中では、不必要に恵まれた資質を持っています。彼女の妹アレッサンドラを書く時に想定していたのは、ブラジル出身のスーパーモデル、ジゼル・ブンチェンです。ジョルジアは「妹より僅かに劣るけれどほぼそっくり」という設定に照らし合わせると、すっぴんでも相当のルックスです。さらに兄と妹はとんでもない大金持ちなので、たかっていれば生活にも困らないはずです。好きな職業につき、社長や同僚は親切で、しかもその仕事もストーリーの頭では順調に見えています。これだけ「こんなヤツいるか!」な要素を抱えています。このあたりは、「優れた資質を持ちながらそれを活かせていない人間」や「幸せとは何か」を考察するためにあえて設定しました。

「マンハッタンの日本人」のヒロイン美穂は、もっと貧乏で、社会ヒエラルヒーの底辺を彷徨っていました。それにもかかわらず、私の中の「この子かわいそう度」は大して高くありませんでした。どうやら、特定の読者にとっては、相当かわいそうだったようですが、正直にいえば、なぜ美穂があそこまで同情を集めたのか、私は最後まで理解できませんでした。

ジョルジアは、さらに全然「かわいそう」ではありません。彼女が迷い、苦しんでいたのは、身体コンプレックスも含めた外的環境のためではなく、全て彼女の心のあり方に問題があったのです。今回のゴージャス設定は、それを明白にするためでした。

彼女のヒーローは、当初の予定通り、TOM-Fさんのところのジョセフ・クロンカイトです。この物語では、ヒロインは最後までヒーローと知り合うことがありません。一シーンで、手を伸ばせば届く程度までは近づきますが、彼にとってジョルジアは、所詮名前と顔が一致するかもかなり怪しいレベルに「全然知らない誰か」です。このことは、このストーリーの組み立てで、とても大事な約束事でした。

第一に、このストーリーによって、TOM-Fさんの「天文部シリーズ」のストーリーの邪魔をするようなことがあってはならない、というのがありました。唯一、掟破りをしてしまったとしたら、『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』という謎の賞レースで、彼が特別審査員を務めた、という下りです。そんな仕事するのか、とも思いますが、まあ、このくらいなら許してもらえるかなと勝手に書いてしまいました。発表後にTOM-Fさんから、ありがたくお許しもいただけてホッとしました。

第二に、このストーリーでは、「マンハッタンの日本人」の美穂とは違って、「誰かに救い上げてもらっての大団円」もしくは「振られることで大破局」という終わり方は絶対にしたくなかったからです。ジョルジアは、自分で己の承認欲求や愛情やトラウマと向き合って、自力で負のループから脱出すべきだったのです。

だからこそ、このストーリーには所謂ハッピーエンドもついていません。彼女の仕事とプライヴェートの状態は、ストーリーの始まりと終わりでほとんど同じです。彼女は愛する人から愛されないままで、さらに仕事はかなりのリスクを秘めたまま方向転換して終わっています。「頑張ろう」と思ったくらいで、成功できるほど現実は甘くないでしょう。それでも、ストーリーの終わりには、ジョルジアをより幸福な状態に持ってこれたと思っています。

全ての鍵は、彼女の妹アレッサンドラの口癖「あなたを変えるのは、いつだってあなた自身よ」にあります。ジョルジアは、自分の周りの状況を変えることはできませんが、自らの心を変えることはできたのです。その意味では、このストーリーはハッピーエンドと言えるでしょう。

数ヶ月に渡って連載をしてきましたが、このストーリーとジョルジアを応援してくださった読者の皆様に心からの御礼を申し上げます。そして、何よりも、懲りずにこの作品にも大切なキャラクターを貸してくださったTOM-Fさんの広いお心に感謝いたします。


この作品を通して親しんできたニューヨークの世界と別れるのはちょっと寂しいですが、皆さんに知られてきた多くの脇キャラとともに、またいつの日か、この世界観で作品を書くことを楽しみにしています。長い間ご愛読いただきまして、ありがとうございました。



Babyface - You Are So Beautiful To Me
この作品の裏テーマ曲です。
関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ファインダーの向こうに(8)ポートレート -2-

中編小説「ファインダーの向こうに」の最終話、三回に分けた分の二つ目です。

ジョルジアは、マッテオを撮った『クオリティ』誌の反響に驚きました。そして、ストーリーの最初に出てきたあの人にまた逢います。勇氣を出して、十年間してこなかった彼女の新しい一歩を踏み出します。


「ファインダーの向こうに」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




ファインダーの向こうに
(8)ポートレート -2-


 会社を出たジョルジアは、空を見上げた。太陽が高い。眩しい光に目を細めた。

 これで方向転換が正しいと立証されたなんて思っていない。彼女の作品が前よりも認められたわけでもない。雑誌の中の数ページと、写真集では全く意味が違う。

 今までの見開きごとにアピールした原色の色彩がすべてモノトーンに変わる時、それを買うことを人びとに決意させる力は明らかに弱まる。『太陽の子供たち』の売上を超えることは、今から不可能だとわかっている。そして、売上が低迷した時にその原因が路線の変更にあると叩かれることも。

 それでも、今やらなくてはいけないのだ。今までと同じ路線で、自分に嘘をつきながら撮ったとしてもやはり売上は落ちるだろう。そうなった時に路線を変更させてほしいと頼んでも会社はいい返事をしないだろうから。

 最初で最後になっても構わない。自分らしい写真集を出したい。

 ジョルジアは、《Sunrise Diner》に入って行った。もうモーニングセットの時間は過ぎてしまった。神経が昂っているので、食欲もあまりない。コーヒーを飲んでドーナツでも食べよう。

「あら、いらっしゃい」
キャシーが笑いかけた。それから、カウンターの中から『クォリティ』誌を取り出した。

 ジョルジアは、肩をすくめて何も言わなかったが、キャシーはさっと例のページを開けて言った。

「これ撮ったの、あなたでしょう、ジョルジア。すごいじゃない。本物のマッテオ・ダンジェロを撮影したなんて一言も言わないんだもの。びっくりして騒いじゃったわ。そしたら、他のお客さんが、あなたはこのあいだすごい賞を受賞したばかりだって話していたわよ。どうして教えてくれなかったの?」

「全然すごくないわ。大賞じゃないのよ。一般投票で六位だったの」
「でも、有名写真家になったから、マッテオ・ダンジェロの撮影もできたんでしょう? ああいうセレブと知り合えるなんていいわねぇ。ねぇ、あの人独身だし、もしかしたらチャンスがあるかもしれないわよ」

 興奮して騒ぐキャシーに、ジョルジアは困ったように笑いかけた。

「残念ながら、マッテオのお嫁さんにはどうやってもなれないわ。いずれにしても、私には誰かと結婚するチャンスなんてないの。だから、一人で生きていけるように、仕事を頑張らないとね」

「仕事は、なんにせよ、頑張るものよ。でも、チャンスがあるなら……。もう、いいわ。時々いるのよね、目の前にある幸運の塊をポイ捨てして、苦労の素みたいなモノに走っちゃう人。私には理解できない」
ブツブツ言うキャシーに、ジョルジアは笑った。

 不思議だった。前に同じ事を言われていたら、傷ついていたはずだ。自ら出会いからも、人付き合いからも遠ざかっていたはずなのに、自分には相手がいないという事がいつも彼女を苦しめていた。それでいて「誰もいないのは、努力しないからだ」と言われることにも同様に傷ついていた。

 でも、今のジョルジアは、そのことでは傷つかなかった。彼女には愛する人がいた。他の何十億もの男性に愛されないことは、今の彼女にはどうでもいいことだった。そして、たった一人の彼にもまた愛する別の女性がいる。そのことは彼女を苦しめはしたが、受け入れることはできた。そして、これからもずっと一人でいることは、紛れもない現実として彼女の中に座っていた。今、彼女はそのことに悩むよりも、新しいもう一つの希望、本当の自分の作品を生み出すことに興味があった。それもまた、同じ一人の男の存在に繋がる想いだった。

「ねえ、キャシー。この写真、見て」
彼女は、鞄からファイルを取り出した。先日撮ったキャシーの娘アリシア=ミホの写真だ。

「え。すごい! こんなに素敵に撮ってくれたの? ええ~?」
「そんなにお氣に召したなら、これは持って帰って。それに、さらにお願いがあるんだけれど」
「何? この写真貰えて、とても嬉しいから、どんなことでも言って」

「こんどはあなたの写真を撮ってみたいの。アリシア=ミホと一緒の写真や、ここで働いているいつもの姿、それにご主人と一緒の時も」
「いいけれど、どうして?」

「私、ずっと大人の写真を撮っていなかったの。でも、わかったのよ。私はずっと、人びとのありのままの人生を映し出したかったの。でも、モデルになる人に撮らせてほしいって言えなかったの。その人たちの人生の重さに対峙する勇氣もなかった。でも、直面することに決めたの。撮らせてくれる?」

「いいわよ。大歓迎。面白そうだし。私、ぐずぐずしていた人が、迷いを振り切って動き出すの、好きなの。応援したくなっちゃう」

「そして、撮った写真、新しい写真集に載せてもいい?」
キャシーは、明るく笑って頷いた。
「セレブの仲間みたいに? やった。その写真集もくれるならね。サイン入りでよ」
関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ファインダーの向こうに(8)ポートレート -1-

中編小説「ファインダーの向こうに」の最終話です。長いので三回に分けました。今回はその最初です。『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の授賞式から帰る時に、自分がこれではダメなのだと悟ったジョルジアは、迷いを振り切って動き出します。

今回は、兄マッテオを撮ったモノクロームの写真の載った雑誌が発売されてからはじめて会社に向かった日の事です。


「ファインダーの向こうに」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




ファインダーの向こうに
(8)ポートレート -1-


「見ろよ」
顔を見た途端に、ベンジャミン・ハドソンは箱を抱えてきてデスクの上にドサッと置いた。ジョルジアは、その中に入っている封書やハガキを見て、びくっと震えた。それから上目遣いになって、探るように彼の次の言葉を待った。

「これ、全部、『クォリティ』誌のセレブ特集に関する読者からの意見だ。約三割がマリアーノ・ゴンザレスの撮ったイザーク・ベルンシュタインの写真について。それから一割が例の日本人俳優トダ・ユキヒコ特集、一割がその他のセレブの写真について。残りは、先週発表したマッテオ・ダンジェロ特集、君の写真についてだ。全体のほぼ半分だぞ。こんなに反響が来たことってないだろう?」

 彼女は、怖々と箱の中を覗き込んだ。几帳面なベンジャミンらしく、分類した通りにゴムバンドで留めてあった。手を伸ばして一通でも読むつもりにはなれなかった。いずれにしてもベンジャミンがもう全て目を通したのだ。
「それで」

「中身は知りたくないのか?」
「非難囂々? もう役員たちにお小言もらった?」

 ベンジャミンは、不服の表情を浮かべ、人差し指を振った。
「そんなわけがあるか。この僕が、素晴らしいと言った写真だぞ。そりゃ、100%肯定する投書だけじゃなかったさ。そんなのは何をしても同じだ。だが、この投書の山を見せりゃ、新しい写真集の企画書は簡単に通るさ。ほら、読んでみろよ」

 ジョルジアは、恐る恐る一番上に乗っている束に手を出した。

「最初に、この素敵な男性と写真の美しさに惹かれました。それから、それがあのマッテオ・ダンジェロだとわかって驚きました」

「なんて印象的な光の使い方なんでしょう。夜かと思うほど深いグレーの効果で、海に反射する太陽がとても強く感じられます。彼ってこんな風に優しく笑う人だったんですね」

「この印象的なポートレートを撮った写真家は誰だろうと思って、この雑誌を購読して始めてクレジットを探しました。なぜこんなに小さく入れるんだろうと文句をいいながら。ジョルジア・カペッリって、あの子供専用写真家? こんな写真も撮るんですね。驚きました」

「ジョルジア・カペッリらしくない、暗い色調の写真ですね。本当に彼女が撮ったものなんですか。そうだとしたらガッカリです」

「ダンジェロ様らしくなくて嫌です。カラーにする印刷代をケチったんですか」

「いつもは、この特集のセレブと、インタビューの方に意識がいくのですが、今回は写真の方がずっと印象的でした。そういえば、『クォリティ』は写真誌でしたね。あの軽薄なお調子者マッテオ・ダンジェロらしくないですが、インタビューの方ではあまり浮かび上がってこない、彼の意外な一面が見えて興味深かったです」

 最初の束が終わると、ジョルジアはそれをまた丁寧にしまい、それから次の束を読んだ。ベンジャミンが言っていたことは嘘ではなかった。手厳しい批判もあったが、それ以上に思いもしなかった賞賛の言葉が並んでいた。とりわけ、「深くて印象ぶかい」「マッテオ・ダンジェロに始めて興味と好意を持った」といった意見は、想像もしていなかった。それに、ジョルジア・カペッリにも写真集『太陽の子供たち』にも全く興味がなかった読者から「この写真家は何者か」「彼女の作品は他にないのか」という問い合わせもあった。

「ダンジェロ氏自身からも電話があったよ。この特集を組んでくれてありがとうってね。でも、君だって彼とコンタクトしているんだろう?」
「ええ。怒られるのが嫌で逃げ回っていたけれど、ついに昨日つかまっちゃったの。兄さんがやけに上機嫌だったから、彼の知り合いからは好意的な感想を貰えたんだとホッとしていた所。でも、会社の方は、大変なことになっているんじゃないかと……」
「だから、全然つかまらなかったのか」
ベンジャミンは、手をピストルの形にし戯けて彼女を撃つ真似をした。

 ジョルジアは、投書の束を箱の中に戻した。
「全部読まないのか?」
ベンジャミンの言葉に、彼女は首を振った。

「あなたがもう報告書をまとめたんでしょう? 来週の会議でその資料を読むわ。それに……」
「それに?」
「写真を、ずっと撮っていなかった本当の私の写真を、一枚でも多く撮りたいの。でも、その前に、やらなくちゃいけない会社の仕事もあるでしょう? 今週のスケジュールを教えてちょうだい」

 ベンジャミンは、肩をすくめると、向こうのデスクに戻りプリントアウトされた撮影スケジュール表と打ち合わせ資料を持ってきた。
関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(20)船旅

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。(月初だけど)

ここで話はドラガォンの館を離れて、ずっとライサ・モタを心配して探していた妹のマリアに視点が移っています。マリアは、連絡のない姉のことを調べてくれるようにマイアに頼んだ後、そのマイアとも連絡がとれなくなりやきもきしていました。

ライサ・モタのことは、この小説ではもう出てきません。彼女の物語は、この小説の続編である「Filigrana 金細工の心」に譲ります。そして、そちらはまだ執筆中です。


月刊・Stella ステルラ 12、1月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(20)船旅

 潮風がここちよい。サングラスを額の上に持ち上げて、マリア・モタは遠ざかるPの街を振り返った。アラビダ橋は堂々とその姿を横たえ、離れていく船に別れを惜しんでいるように見えた。豪華客船の最上階デッキ、バルコニーつきの客室は広い上、ガヤガヤとした他の乗客たちにリクライニングシートをとられてしまう心配もなかった。

 マリアは、リクライニングシートに横たわっているライサを見た。身につけている華やかなサマーワンピースは、先ほど船内のブティックで入手したものだが、姉を本来の美貌にふさわしい艶やかな美女に変えていた。

「ブティックなんて、そんな贅沢は……」
尻込みをするライサの腕をマリアは強くつかんだ。

「贅沢も何も、この船にあるものは全て何もかも客室の値段に含まれているんですって。部屋の鍵カードを提示したらそう言われたの。服をもらってももらわなくても払ってくれた人には同じなんだって。だから、ねっ」

 いったい、どうしてこんな高価な船旅を、しかも二人分も用意してくれたんだろう。マリアは思ったが、疑問はとりあえず横に置いておくことにした。このチャンスを逃したらこんないい思いをするチャンスは生涯めぐって来ないだろう。とにかくこの100日間は旅を楽しむのに専念することにした。

 あれはほんの一週間前のことだった。マリアは、姉が突然帰って来たので驚いた。黒塗りの車が、家の玄関前に停まり、運転手が出てきて扉を開けた。ライサは小さなバックを一つ抱えていた。男が頷くと出てきて、小さく頭を下げた。

「ライサ!」
マリアは玄関から慌てて飛び出して、一年半以上も連絡の途絶えていた姉を抱きしめた。その間に車は静かに出発して角を曲がっていった。

 ライサはマリアが何を訊いても答えなかった。
「誓約があって話せないの」

 それはいつも通りのことだった。彼女がドラガォンの館で勤めだしてから、二ヶ月ごとに休暇で帰ってくる度にしつこいほど聞かされた言葉だった。けれど、こんなに長い間連絡もなく、また、再び勤めに戻るとも言わずに帰って来たというのにそんな話があるだろうか。

「館でマイア・フェレイラって子に逢わなかった? 姉さんを心配して、館に勤めだしたんだけれど」
ライサは、一瞬怯えたような顔をした。

「私、しばらくお館じゃなくて、ボアヴィスタ通りの別宅にいたの。だから、あなたの友達には会っていないわ」
「そこには誰が住んでいるの?」
 
 ライサは答えなかった。ただ遠い目をした。懐かしむような、愛おしむような表情だった。意外に思った。ドラガォンの館のことを聞いたときと、反応が全く違ったからだ。

「黄金の腕輪、どうしたの?」
「外してもらったの。もうしなくていいんですって」

 ライサはかつてそうであった以上に自信がなさそうに目を伏せてものを語った。マリアには理解できなかった。ライサの美しさは世界を恣にできるとは言わないが、少なくとも自分が彼女ほど美しかったら人生がもっと簡単になったと常々思っていた。それなのに、ライサときたら、それが罪であるかのようにびくびくと怯えて伏し目がちだった。

 二年半ほど前に知り合ったマイアも少し似た雰囲氣を持っていた。ライサほどではないが、人付き合いが下手で、上手くいかないことがあると簡単にあきらめてしまうようだった。二人に共通していたのは、ミステリアスな黄金の腕輪をしていることだった。

「この腕輪をしている限りどうにもならないの。子供の頃からずっとそうだった」
マイアは寂しそうに語った。マリアはライサの妹として、友人の無力感をもどかしくも理解することができた。

 そのマイアにマリアは姉の安否を確かめてほしいと頼んだ。けれど、マイアがドラガォンの館に勤めだして以来、彼女と話すことはできなくなった。休暇で帰って来ているなら連絡してくれると思っていたのだが、もしかしたらマイアも誓約に縛られてマリアに連絡できないでいるのかもしれない。

 マリアは七月にマイアからのメッセージをもらっていた。何の特徴もない白い紙が一枚入った封筒がマリア宛に送られてきた。その表書きはマイアの字とは似ても似つかない、おそらく男性が書いたものだった。差出人名はなくて、消印はPの街からだった。中にはマイアの字で書かれたメッセージが入っていた。とても慎重な内容で、マイアが誰かに知られるのを極度に怖れているのがわかった。

「親愛なるマリア。そう遠からずあなたは待ち人を迎えることでしょう。どうか、いまはこれ以上何もしないで待っていてください。私たちがこれ以上何もしないことが、一番の近道なのです。どうか私を信じてください。M.F」

 ライサがマイアに逢っていないのだったら、どうしてライサのことがマイアにわかったのだろう。それに、あの館では一体何が起こったのだろう。現在マイアはどうしているのだろう。マリアはマイアの妹に連絡を取ってみようかと思ったが、ライサと同様に誓約がどうのこうのと言われそうなので、電話はやめて、実家当てに簡単にはがきを書くことにした。

「親愛なるマイア。あなたと半年以上逢っていないわね。姉のライサも我が家に戻ってきたの。次の休暇で戻ってきたら、一緒にご飯でも食べない? これを読んだら連絡をちょうだいね。あなたのマリア」

 マリアは、ハガキを書き終えると、切手をとりに自分の部屋へと行き、一分もかからずにリビングに戻ってきた。そして、デスクに置いたはずのハガキを探した。
「ない……」

 窓際のソファに腰掛けて外を見ているライサに訊こうと目を移すと、彼女の手の中に切り裂かれて紙吹雪のようになったハガキが見えた。
「ライサ……?」
「ごめんなさいね、マリア。でも、私、ドラガォンの館に関わりのある人とは逢いたくないの。まったく関わりたくないの」

「何かつらいことがあったのね」
「訊かないで。思い出させたりしないで」
ライサは下を向いて涙をこぼした。それでマリアはそれ以上訊くことができなかった。

 それから奇妙なことが起こった。ライサは二人分の巨大客船での世界一周旅行のチケットを受け取った。それに、パスポートだけでなく、これまで一度も作ることのできなかったはずのクレジットカードも送られてきた。それは黒い特別なカードで、銀行に勤めているマリアも存在は知っていてもいままで一度も見たことのなかったプレミアムカードだった。そもそも自分で望んで発行してもらえるものではなく、さらにいうなら年会費だけでマリアの月収の三倍を軽く超える。

「どうしたの、これ?」
「わからないわ。もしパスポートがもらえたら海外旅行をしてみたいって言ったんだけれど……」

「このチケット、二人分あるわよ。誰と行くつもり?」
「誰って……。誰と行ったらいいのかしら。マリア、あなたと行けたら一番安心なんだけれど、仕事、休めないわよね……」

 マリアは丸一日考えて、旅の間に無給の休暇をもらえないかと上司に切り出した。彼はその場では非常に渋い顔をして、そうしたいのであれば、退職してもらうしかないし、引き継ぎのこともあるので一週間後に出発するのは不可能だと言った。マリアはかなり落胆して、仕事に戻った。

 夕方にマリアは再び上司に呼び出された。
「君の希望を全て叶えることに決定した。そのかわり今週末までに可能な限りの引き継ぎを終了してほしい。定常業務は全て他の人間に振り分けるので心配しないように」

「いったいどうなったんですか?」
「それはこっちが訊きたいよ。頭取からの直接の指示らしい」

 昨夜八時に銀行の従業員口から退出するまで、マリアはノンストップで働くことになった。食事時間も10分しかとらなかった。荷造りもまともにできなかった。実際の所、持ってきたのはパスポートとチケットと自分の財布、それに慌てて詰めた多少の着替えだけだった。カメラも双眼鏡も、それどころかサングラスすらも忘れてきたのだが、カメラを売っている売店で、「このチケットの場合は代金をお支払いいただく必要はございません」と言われたのだ。

 マリアはすぐに客室に戻り、ライサを連れてブティックに向かった。ライサを変身させて、自分もサングラスやほしかった白いジャケットを手に入れた。

 ライサが体験したことは何だったのだろう。それを贖うのにこれほどの贅沢を許すとは。知りたいと思う氣もちは変わらない。けれど、いま必要なのは、ライサにつらかったことを思い出させることではなく、忘れるさせるために一緒に楽しむことだろう。

 マリアはドラガォンの館にいる友のことを考えた。マイアの字はしっかりとしていた。ライサのように苦しんだりしていないでほしいと願った。
関連記事 (Category: 小説・Infante 323 黄金の枷)
  0 trackback
Category : 小説・Infante 323 黄金の枷
Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】ファインダーの向こうに(7)授賞式 -2-

中編小説「ファインダーの向こうに」の七回目の後編です。本来ならば今日は月末の水曜日なので「Infante 323 黄金の枷」を更新するんですけれど、こちらの切りが悪いので、先に。「出す出す詐欺」もたいがいにしないと。『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の授賞式に続くパーティを待っている間に、ジョルジアのすぐ近くにいた人が特別審査員ジョセフ・クロンカイトを呼び止めました。「あれ。ジョセフ! どこへ行くんだ? パーティにも出るんだよな」と。

今回、ジョセフだけでなく、もう一人TOM-Fさんのところからあの方にゲストにいらしていただいてます。セリフないんですけれど……。


「ファインダーの向こうに」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




ファインダーの向こうに
(7)授賞式 -2-


 驚いたことに、手を伸ばせば届くほどの距離にジョセフ・クロンカイトがいて、戸口の方に向かって歩いていこうとしている所だった。そして、彼が、ジョルジアのすぐ後ろにいた司会者、彼に話しかけた男に答えるために振り向いたので、彼女は彼の顔をまともに見ることになってしまった。心臓が高鳴っている。

「ああ。ミス・カスガも一緒にね。もう来ているはずだから、正面玄関に行って拾ってくる所だ」
「OK。乾杯までに戻ってくれれば、それでいい。ひと言話すつもりでいてくれよ」

「なんだって」
「長くなくていいんだ。そういうのは得意だろ、頼むよ」
彼は、眼鏡の奥から司会者を短く睨むと、肩をすくめて出て行った。

「やれやれ。乾杯の音頭はなんとか押し付けられたぞ」
そういう司会者に、その場にいた他の男が口を挟んだ。

「ミス・カスガってのは、いつもくっついている、あの助手みたいな日本人か?」
「そうだ。若くて可愛い顔をしているが、なかなかの切れ者でクロンカイトの手足になって走り回っているらしい」

 ジョルジアは、聴くべきではないと思いながらも、好奇心に負けて、背を向けたまま彼らの会話に耳を傾けていた。もう一人の男が会話に加わった。

「日本人の女の子? もしかして、僕は逢った事があるかもしれない。あいつの家で開催されたホームパーティでね。なんて名前だったかまでは忘れたけれど、かなり親しい関係みたいだったぞ。直に婚約でも発表されるのかと、みんなで言っていたんだから」
「そうなのか? その件は知らなかった」

 ジョルジアは、その場を離れ、ワイングラスをボーイに返した。溜息が漏れる。

――当然のことじゃない。あの人だって生きているのだから。毎日魅力的な人たちに逢って、幸せになる努力をしているのだから。

 何も期待していない。そう思っていた。でも、それは自分に対する嘘だった。ここに来たのも、ドレスも、真珠も、どこかに期待が隠っていた。知り合い何かが始まることを、心の奥で望んでいたのだ。だから、これほど惨めに感じるのだと。彼女は、ドレスの裾を握りしめていた拳の力を緩めた。

――私にとって、あの人は世界中でたった一人の特別な人だけれど、彼にとっての私はただの知らない人間でしかない。そして、私は彼に、見ず知らずの人間の人生を受け止めることを期待していたのだ。そんなことが可能なはずはないのに。

 ジョルジアは、クロークへ行き上着と鞄を受け取った。それからベンジャミン・ハドソン宛に具合が悪いので帰るという旨のメモを急いで書くと、ホールマネジャーにチップとともに渡した。

 玄関ホールへのエスカレータを降りる時に、ジョセフ・クロンカイトが日本人女性と会話を交わしながら昇っていくのとすれ違った。彼がこちらを向いたようにも感じたが、振り向かず、黙って玄関口へと向かった。
 
 タクシーの中で、彼女は運転手に感づかれないように、そっと涙を拭った。

――苦しくて悲しいのは、存在を認めて、肯定してほしかったからだ。それが「何も期待していない」という言葉の裏に隠された本当の願いだったのだ。馬鹿げて高望みの。

 ジョルジアは、ジョセフ・クロンカイトと一緒にいた女性の美しい笑顔を思い浮かべた。世間に恥じぬ努力を重ねている人間の内側から溢れる自信。マッテオやアレッサンドラの放つ恒星のようなエネルギーと同じものを感じた。彼が尊敬し、愛するのは、あの太陽のような女性なのだ。暗闇の中でいじけている女には、関心を持つことすらないだろう。

 誰からも愛してもらえなかったのは、痣のせいではない。ただ、自分自身が輝いていなかったからだ。ジョルジアは初めてそう感じた。トラウマや体の傷のことを努力をしない言い訳に使ってきた。人に拒否されるのが怖いから、「これなら愛されなくても当然」と思える鎧で身を固めてきたのだった。

 写真もそうだ。かつての情熱を失い、受け入れられるものにすり寄って、虚栄心のために自分らしくない作品を撮り続けてきた。

 『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』一般投票部門での受賞。それが標程内にあると知らされたのは、数年前だった。子供の写真を撮ると評判がよく、社内でもその路線を狙えと言われた。その頃から、彼女は、意図的に望まれる作品を撮ってきた。ポピュラーになればなるほど、実生活では誰にも顧みられぬ心の痛みを抑えることができた。それは麻薬のように彼女を甘く支配し、受け入れられる写真ばかりを撮らせてきた。

――この受賞は偽りの功績だし、まがい物の成功だ。そして、ドレスや真珠も、化け物と呼ばれた私を変えたりはしない。

――あの人は、真実を追い求める人。偽りのない、虚飾のない世界を。嘘の功績で飾り立て、醜い肉体を美しい布で覆うことで関心を持ってもらえても、知り合えばすぐに見抜かれてしまう。それを心の奥では知っていたから、知り合うことが怖かったんだ。

 そんなあたりまえのことを、こんな惨めな想いをするまでわからなかったのは、問題が自分にあることを認めたくなかったから。彼女はため息をついた。現実は甘い夢想を駆逐した。真実が綺麗ごとに覆われていた心の嘘を暴いた。彼女は、愛する人の前に立てるだけの誇らしい自分らしさを何も持っていなかった。

 窓の外に流れるマンハッタンの煌めく夜景を眺めた。認めてくれる誰か、愛してくれる誰かを期待して待つだけなんて無意味なことはもうやめよう。踞っているだけで無駄にしてしまった十年間の代わりに、虚栄心のために失ってしまった自分らしさを取り戻すために、言い訳はやめて道を探そう。一人で、弱く、誰からも顧みられない惨めな自分と折り合いながら。

「あなたを変えるのは、いつだってあなた自身よ」
アレッサンドラの口癖が、脳裏によぎる。たぶん初めて、本当にその通りだと認めることができる強さで。
関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ファインダーの向こうに(7)授賞式 -1-

中編小説「ファインダーの向こうに」の七回目の前編です。『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』という権威のある賞において、ジョルジアの写真集『太陽の子供たち』は、一般投票の六位という形で入賞しました。これまで人前にほとんど出てこなかった彼女も、いやいやながらも授賞式に出席することになります。そして、秘かに恋する相手も特別審査員としてその場に来ることになっていて、彼女は戸惑ったまま当日を迎えました。

あ〜、ジョセフをお待ちの皆さん、すみません。「出す出す詐欺」になっているかも。


「ファインダーの向こうに」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




ファインダーの向こうに
(7)授賞式 -1-


 ジョルジアが、妹アレッサンドラの専属スタイリスト、マイケル・ロシュフールのスタジオへ出向くと「待っていたわ」と笑顔で迎えられた。ミッキーの愛称を持つロシュフールは、少し長めの黒髪を後ろで縛った男だが、動きも話し方もジョルジアの五倍は女らしい。

 ドレスのことを相談した時に、アレッサンドラが絶対に彼にヘアスタイリングとメイクアップをしてもらうべきだと言って、その場で予約を入れられたのだ。彼は客の希望をきちんと聞き入れて、それ以上の効果を出す天才スタイリストだというのがアレッサンドラの意見だった。氣がついたら、ドレスもスタイリングも全てアレッサンドラが払ってくれていたので、ジョルジアは抗議したが「お祝いだもの」とひと言でいなされてしまった。

 ミッキーが「どんなスタイルがお好み?」と訊いた時にジョルジアはひと言だけ答えた。
「アレッサンドラ・ダンジェロにだけは絶対に見えないスタイルにしてください」

 彼は、したり顔で頷いたかと思うと、まず彼女のヘアスタイルを上手に整えていった。それから一度髪をケープで覆うと、彼女のメイクアップに取りかかった。
「ねえ。化粧をしたからといって、そのままアレッサンドラに近づくってわけじゃないのよ。それを証明してあげるわ」
ミッキーは、綺麗に手入れされた指先でジョルジアの顔の輪郭をなぞり、鏡越しに彼女の瞳を見つめた。

 彼は、大きな化粧箱から、いくつかの小瓶を取り出して、鏡の前に並べた。わずかに色合いの違う肌色の瓶が、綺麗なグラデーションとなって並んだ。彼は実際に、いくつかを彼女の肌に合わせて、一番近い色を選ぶと、パフにそのクリームをのせて彼女の顔を覆っていった。

「よく伸びるでしょう? これね。日焼け止め効果もあるの。乳液とファンデーションと日焼け止めが一つになったもので、化粧下地としてあたしは使うけれど、ナチュラルメイクならこれだけつけていればいいの。日焼け止めの代わりに使ってみたら?」

 ジョルジアは、何と答えていいかわからなかった。化粧をしないで、日焼け止めだけで外に出るのは、女として存在したくなかったからだ。けれど、敢えてそれを主張すべきことのようにも思えなかった。
「でも、今日は、フルにメイクアップしなくちゃね。スポットライトの下では、全然違って見えるものだから」

 彼女は、抵抗しても無駄だと思って、黙って彼に任せていた。
「さあ、できた。どう? 化粧しましたって顔じゃないでしょう?」

 鏡の中の自分を見て、ジョルジアも驚いた。あんなにいろいろと塗られたのに、パッと見は特に何かを塗ったようには見えなかった。ただ、肌がきめ細やかになり、眉がきりっとした印象になっていた。唇は色の違う二色のローズでグラデーションとなっていたが、それが瑞々しい立体感を作り出していた。構わない少年のようだったジョルジアは、透明で中性的な姿に変化していた。

「ほら。さっきの下地クリーム、新品があるからあげるわ。あたしからのお祝い」
そう言ってミッキーはウインクした。ジョルジアは素直に受け取り、お礼を言った。ドレスに着替えて再びミッキーにチェックしてもらうと、頬に幸運を願うキスをしてもらい、会場へ向かうタクシーへと乗った。

 会場の前には、ベンジャミン・ハドソンが落ち着かない様子で立っていた。タクシーの窓ごしに彼が氣づいて笑いかけたのを見たので、彼女はホッとした。タクシーを降りたジョルジアを見て、彼は一瞬息を飲んで何も言わなかった。

「派手すぎかしら」
ジョルジアは、彼の瞳に映った戸惑いを見て、ドレスに目を落とした。

「そんなことはないよ。ただ、びっくりしたんだ。とても綺麗だし、よく似合っている」

 彼女の身につけているドレスは、濃紺のサテンで胴の部分にはエンドウの花をヴィクトリア朝風に豪華にデザインした同色の贅沢なレースが覆っていた。タイトなスカートの脇に入ったスリットからいつもはジーンズの中に隠れている長く引き締まった足がちらついた。大きく開いた襟ぐりには、大粒本真珠の三連ネックレスが品のいい虹を映していた。そして、少し固めてラメがついた艶やかなショートカットの下から、ティアドロップ型の同じ色の真珠のイヤリングが見えた。

「すごい真珠だね」
「マッテオが、贈ってくれたの。日本産の天然物なんですって。今日つけていなかったら、殺されちゃう」

「間違いなく、君が今日一番の主役になるよ」
ベンジャミンは、目を細めた。

「主役じゃないわ。ただの六位ですもの。そりゃ、他の受賞者は男性だからドレスを着ているのは一人だけれど……」
ジョルジアは、自信なさそうに下を向いた。

「もっと堂々としろよ。ステージ上に行かなくちゃいけないんだぜ」
「ベン。あなたは一緒に行ってくれないの?」
彼女がそう言うと、彼は残念そうに笑った。
「エスコートしたいのは山々だけれど、それは社長がやるってさ」

 授賞式は、程なくして始まった。ジョルジアは、他の受賞者たちと並んで椅子に座っていた。彼女は、司会者の芝居がかった大袈裟な進行にも、バンドが奏でるうるさいくらいの効果音にも、ほとんど関心なく時間が経つのを待った。スポンサーに対する長い讃辞、『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の歴史、権威に対する自讃、それに一般投票への市民の関心の高さなどが統計を使って語られた。

 審査委員長が講評を話した時に、自分の写真のことに対する賞賛が、他の五人に対する評価の合間にわずかに語られた時にも、他人事のように感じていた。が、彼が特別審査員を紹介し、その場にいる十二人に順にスポットライトが当たったその瞬間だけ、ジョルジアは平静さを失っていることを感じながら、ただひとりの関心のある男を見た。

 そして、授賞へと式次第が進むと、一番低い六位だった彼女は最初に呼ばれた。派手なスポットライトと、浴びたこともないフラッシュに身がすくんだが、《アルファ・フォト・プレス》を代表して社長が彼女をステージまでエスコートしてくれたので、彼女はなんとか小さいトロフィーを受け取り、わずかに微笑みながら歩いて戻ってくることができた。

 その後のことは、ほとんど特筆すべきこともなかった。あるとすれば、全員へのトロフィー授与が終わった後で、ステージで集合写真を撮ったのだが、『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の大賞を受賞したマリアーノ・ゴンザレスが、彼女の隣を選んで馴れ馴れしく肩を組み、もう一枚写真を撮らせた上、「後で連絡先を教えて」と囁いてきたことぐらいだった。それで、彼女の助けを求める視線に氣がついたベンジャミン・ハドソンがさりげなく彼女をその場から移動させた。

 授賞式の後は、続けて会場を使ってパーティが行われる予定だった。会場をバンケットへと設営し直す間、隣の部屋で軽い飲み物を飲みながら人びとは待っていた。別の用事があって先に帰る社長を送ってベンジャミンが席を外している間、ジョルジアは、ゴンザレスの視界に入らないように入口の近くに立って、白ワインを飲んでいた。

「あれ。ジョセフ! どこへ行くんだ? パーティにも出るんだよな」
その声を聴いて、ジョルジアは思わず振り返った。

関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ファインダーの向こうに(6)受賞の報せ

中編小説「ファインダーの向こうに」の六回目です。

ジョルジアの最新の写真集『太陽の子供たち』は、弱小出版社である《アルファ・フォト・プレス》で発売されたものとしては、めざましい売上をあげていて、彼女も「明るい子供の写真を撮る女流写真家」として、少しずつ名が知られはじめています。もちろん、「知らない人は全然知らない」程度の知名度ですが。

あ、今回の設定、TOM-Fさんに無断で書いています。「そんな仕事するか!」と怒られるかもしれません。ごめんなさい、今から謝っておきます。


「ファインダーの向こうに」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




ファインダーの向こうに
(6)受賞の報せ


「ジョルジア! ジョルジア! 探したんだぞ。なんで電話に出ないんだよ!」
会社につくと、ものすごい勢いでベンジャミン・ハドソンが駆け寄ってきた。

「だって、この間の特集のことで、上とやり合ったって聞いたから。やっぱり撮り直し?」
「何言ってんだよ。それどころじゃないよ。君は、この会社の英雄になったんだよ!」

「何の話?」
「《アルファ・フォト・プレス》創設以来の悲願だ。『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』に入賞だ」

 ジョルジアは驚いて、彼を見つめた。写真集『太陽の子供たち』が『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の一般投票部門で六位になったという報せだった。もしかしたら狙えるかもしれないとは聞いていたが、ジョルジア本人はもちろん、会社の誰も本当だとは思っていなかった。

「授賞式の写真を月刊誌『アルファ』の表紙にするからな!」
そう息巻くベンジャミンに彼女は嫌な顔をした。

「人前には出たくないわ。社長やあなたがかわりに受け取るわけにはいかないの?」
「何ふざけたことを言っているんだ。君が行かなきゃダメに決まっているだろう。いつもとは違って、社運がかかっているんだ、今回だけは何が何でも出席してもらうよ」

 それから、斜めに彼女を見ながら意味有りげに告げた。
「それに、今年の『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の放映権はCNNにあるんだぜ。だから特別審査員にジョセフ・クロンカイトが含まれているんだ。彼も授賞式には来るぞ」

「……だから?」
ジョルジアは視線を逸らす。

「ちゃんとおしゃれしていけ。クロンカイトを一目惚れさせてやれ。やろうと思えばアレッサンドラ・ダンジェロ顔負けに装えるんだからさ」
「ベン。あなたは、私がこのあいだ言ったことを何も聞いていなかったのね」

「聴いていたさ。君が言いたかったのは、要するに拒否されるのが怖いってことだろう。そんなの、恋をしたら誰だって同じだ。ティーンエイジャーみたいなことばかり言っていないで、チャンスをつかめよ。君は、本来絶世の美女の仲間なんだぜ。世界中のどれだけの女が、アレッサンドラ・ダンジェロと同じ顔、同じスタイルを持てたらいいだろうと思っているのか知らないのか?」

「どんなに似ていても私は妹じゃないわ。好きな男すら逃げだした化け物よ」
「ジョルジア」

「ごめんなさい。もう言わないわ。でも、お願いだからそっとしておいて。私が仕事中心に生きているのは、あなたにとって、そんなに悪いことじゃないでしょう?」

* * *


 ずっと知らない人が怖かった。特に、アレッサンドラに似ているからと近づいてくる男たちが怖かった。完璧な女神を、朗らかで挑発的なファム・ファタールを求めてきた彼らはいつだって、そうではない自分を見つけて、嘲笑い軽蔑して去っていくのだと感じていた。

「君みたいな化け物をどうやって愛せるっていうんだ」
ジョンの捨て台詞が、耳から離れない。

 ベンジャミンが、いつも守ってくれていることはわかっている。十年前も、友達のジョンではなく、彼女の側に立って、壊れそうだった彼女を、仕事と、それからこの世界につなぎ止めてくれた。もう撮れない、人が怖いと怯えて、会社にも行けなくなった彼女を辛抱強く訪れて、彼女にも撮れる無機質なものの仕事を用意し続けてくれた。そのことで、彼の立場が悪くなったことも一度や二度ではなかったが、文句も言わず、ひたすら支えてくれた。

 マッテオやアレッサンドラが、何もしなくていい、自分たちの所でゆっくりするといいと言った時に、頑強に反対して仕事を続けさせてくれたのもベンジャミンと社長だった。仕事を続けることで、ジョルジアは家族だけでなく、社会とのつながりをゆっくりと取り戻し、人付き合いが下手とはいえ、自分の撮りたい物を追い、一人で取材旅行にも行けるまでに回復したのだ。

 このまま一人で生きていくのならば、彼と社長の好意にいつまでも甘えて、彼らの重荷で居続けるべきではなかった。授賞式に出席して、《アルファ・フォト・プレス》の名前を広めることを求められているならば、引っ込んでいるわけにはいかない。たとえ「彼」がその場に来てしまうとしても。

 愛した男に去られて十年経ち、はじめて新しい恋に落ちたが、彼女は一歩も動けなかった。そもそも知り合ってもいない人だ。望まれてもいないのに近づいて嫌われるだけなら、遠くから見ているだけの方がいい。ブラウン管の向こう、プリントの向こう。決して傷つけられることのない隔たりに安心しながら。
関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ファインダーの向こうに(5)撮影 -2-

中編小説「ファインダーの向こうに」の五回目の後編です。兄マッテオの撮影をするために、彼のペントハウスに来ていたジョルジアは、久しぶりに兄とまともに話をして、彼が思っていた以上に彼女の問題を的確に見極めていたことに驚きます。

「ファインダーの向こうに」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




ファインダーの向こうに
(5)撮影 -2-


 マッテオは立ち上がって、ジョルジアをそっと抱きしめると、その頬にキスをした。
「わかっている。アレッサンドラも、二度目の離婚についてアドバイスをした時に驚いていたよ。僕は、軽薄な兄を演じすぎたのかな。でも、そうでもしないと、お前たちへの想いを制御できなくなるんだ。本当は夢中すぎて、心が痛くなるくらいなんだ」
「私にも?」

「そうだとも。母さんに抱かれて眠っていたお前を初めて見たあの日から、僕はずっと夢中だ。こんなに愛しい存在があるのかって」
「マッテオ兄さんったら。そんなの大袈裟だわ」
「何を言っているんだ。本当なんだぞ。そりゃ、子供だったから、こういう言葉で思ったわけじゃないけれど」

 ジョルジアは、兄をみつめた。子供の頃、ジョルジアが転ぶといつも駆け寄ってきて、立たせてくれ、それから抱きしめてくれたマッテオ。算数ができなくて困っていると、辛抱強く助け舟を出してくれたこと。どれほど彼女が身を引いて疎遠にしても、繰り返し明るくコンタクトを続けてくれた兄。

 心の奥を覗き込むと、彼の言っていることの方が正しいことがわかった。彼女が、選ぶフィルムも、カメラも、現像する時のトーンも、自分の感性よりもどう望まれているかを優先してきた。何が望まれているかを判断するのはとても簡単だった。自分にはないもの。自分には許されていないもの。その写真の明るさで、彼女自身の暗闇から人びとの視線を引き離してしまう幸福な写真。もしくは徹底して感情を排した物の写真。そう撮っていれば安心だった。なぜならば、必ず満足してもらえるのだから。

 だが、それはジョルジアの心を映した作品ではない。彼女にとって、心を映し出したとはっきり言える写真は、暗室の奥に貼られているたった一枚のみだった。

 秋からずっと心惹かれ続けている、けれど、それが後ろめたいように感じて仕事に使えなかったモノクロームの世界。乾いて冷たい風の通り過ぎる空間。影が色濃く落ちる王国。明るく楽しく自分とは無縁の世界とは対極的な、暗く哀しみが蠢く親しみのある空間。

 では、幸運の女神の寵児であるマッテオと、その世界で対峙したらどうなるのだろう。

 古いライカを取り出した。彼は、不思議そうに彼女を見た。彼女は構図を変えて、何枚も撮った。

 ファインダーの向こうに、マッテオは同じように存在した。けれど、彼女は彼の別の姿を見た。軽薄で物質的で馴染めないと思っていた彼の、優しくて思いやりに満ちた瞳が、こちらを見ていた。プラスチックの塊のように感じていた彼の肌には、前よりも多くの皺が刻まれている。それは目尻であったり、頬に多かった。いつも笑顔でいる彼の一番良く動かす筋肉と肌は、そこなのだと感じた。

 私は、この人の何を見ていたのだろう。自分には手にすることのできない、光の部分にばかりに拘って、とても大切なものを見失っていたのかもしれない。

 アレッサンドラとは違うから愛されない、側にいられないというのは、被害妄想のひがみだったのかもしれない。両親も、兄も、ジョルジアを「黒い羊」扱いしたことは一度だってなかった。彼女は、色を廃して、ファインダー越しに覗くことで、初めてそれを感じたのだ。

「ねえ。兄さん」
「なんだ?」
「場所を変えてもいい?」
「え?」

「ここにいるあなたは、確かにとてもあなたらしいけれど、他の人にも撮れるような氣がするの。私しか撮れない所であなたを撮りたいと思って」
「どこで?」
「海で。それも、豪華客船やプライヴェートのヨットじゃなくて、私たちが育ったあの素朴な海辺で」

 マッテオは、頬が紅潮し、瞳の輝きだした妹をじっと見つめていたが、それから笑って彼女を抱きしめた。

 いつものスーツではなく、かなり砕けた麻のジャケットにラフなチノパン姿で、ビーチサンダルを履いてパナマ帽を被ったマッテオは、ユーモラスだった。海からの強い煌めきと、影になった彼の半身が、モノクロームの中で印象的に浮かび上がる。

 悔しくなるほどの成功をし、誰もが羨む暮らしをする、軽薄な女たらしウーマナイザー の印象が、憎めないやんちゃ男へと変わる。

* * *


 ベンジャミン・ハドソンは、その写真を見たとき、それがマッテオ・ダンジェロだとは信じられなかった。

「言ったでしょう。あなたが思うようなセレブには撮れないって。撮り直した方がいい?」
失望させたのかと、がっかりしながらジョルジアが言うと、彼は大きく首を振った。

「そうじゃないよ。信じられない。すごくいい。あんなに嫌がっていたから、これほどの写真を撮るなんて、思ってもいなかったんだ。これはどこだ?」
「ノースフォーク。私たちの両親が漁業をしていた頃、よく遊んだ所なの。何もない所なんだけれど、私たちには特別な場所なの。マッテオ・ダンジェロがまだ存在しなかった頃、マッテオ・カペッリが忙しい両親の代わりに妹たちを散歩させた所なの」

「だから、こんなに優しい表情なのか。それに、この濃淡がすごくいい。モノクロームに目覚めたのか?」
「ええ。非公式にだけれど、他の人も撮ってみようかと思っているの。撮らせてほしいと頼める人に限られるけれど……」

 ベンジャミンは頷いた。
「ある程度撮れたら、もう一度見せてくれ。社長に掛け合って、次の写真集の企画を提出するから。180度のイメージチェンジだから、上層部は反対するかもしれないけれど、絶対に通してみせる」

 ジョルジアは、彼の反応に驚いていた。心配されるのかと思っていた。少なくとも、こんな風に肯定してもらえるとは夢にも思っていなかったからだ。彼女は、笑顔を見せた。
「ありがとう、ベン」
関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(19)幸せなマティルダ

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。

マイアの休暇は終わり、またドラガォンの館での仕事の日々がはじまりました。彼女にとっては、仕事というより、誰かさんに逢えるルンルンな日々という方が近そうですが。前回、とても近くなった二人ですが、ここでもっと近くなるなんて親切な作者ではありません。ジェットコースターは、登ったらまた落ちる、これ鉄則ですものね。何の話だ。


月刊・Stella ステルラ 10、11月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(19)幸せなマティルダ

 一週間ぶりの制服とエプロンにマイアは身の引き締まる思いがした。昨夜戻ってくるとマティルダが満面の笑顔で迎えてくれた。自分のベッドとマグカップも「おかえり」と言ってくれているように感じた。厨房で朝番のメンバーと一緒にいつものコーヒーと菓子パンの朝食をとった。皆が口々に「おかえり」と言ってくれたのが嬉しかった。

 朝食の給仕の時に、ドン・アルフォンソが「お」という顔をしてくれたのも、ドンナ・マヌエラが微笑んでくれたのも、嬉しかったが、何よりも待ち望んでいたのは、掃除をするために23の居住区に入って行くことだった。といっても、彼に逢うのは丸一日と数時間ぶりだったが。

 23はマイアの顔を見るとなんでもないように「おはよう」と言って、エスプレッソマシーンに向かった。工房の奥にある木の丸テーブル。マイアはいつもの椅子に座った。何も言わないのに、マイア好みの砂糖とミルクが入った大きいカップがそっと前に置かれる。

「礼拝では怪しまれなかった?」
マイアが訊くと彼は微笑んで首を振った。

 サン・ジョアンの前夜祭での昂揚した想いが甦る。彼の腕の中にいたことや、頬にされた親愛のキス。まるで夢の中の事のようだけれど、あれは紛れもない事実だった。それに、こうして向かい合って座っている事も。

 彼は休暇前と全く変わらない。いや、違う。ひげを剃った。数日に一度彼が無精髭を剃ると、急に年相応の若さになる。数日経てばまたいつものようになる。剃っても剃らなくても、彼は彼だと思った。あ、23が一昨日言った事と同じ。髪を縛っていてもおろしていても、私は私。

 23は周りを見回してから、小さい声でライサの件について話しだした。
「まだしばらくかかるだろうけれど、心配せずに探さずに待っていてほしいというようなメッセージをライサの妹にうまく渡せないか」

 マイアは頷いて考えた。
「私がマリアと直接逢うのはダメよね」
「それはやめてくれ。監視しているやつらにすぐにわかってしまう」

「じゃあ、23がマリアに会うのは?」
「お前、頭がおかしくなったのか。マークされているマリアと逢ったりしたら、俺が外に出ていることがすぐにわかってしまうじゃないか」
当然だった。マイアは顔を赤くした。

「マリアがマークされているなら、ドンナ・アントニアが逢いに行くのも危険すぎるわよね」
23が頷いた。

「あ、こうしよう。ジョゼに頼むのよ」
「ジョゼ?」

「私の幼なじみ。マジェスティック・カフェでウェイターをしているの。私が行くと、話しかけてきちゃうから誰か他の人に言ってもらう必要があるけれど、誰かが客として彼にチップを渡す時にマリア宛の小さいメモを渡せば、きっと上手にマリアに届けてくれるわ。彼はモタ家とは接点がないし、監視されていないと思うの」

「そのジョゼは信用できるのか」
「もちろん」
「そうは見えなくても《監視人たち》に属しているかもしれない」
「そんなことないと思うな」
「なぜ」

「だって、《監視人たち》はこの街にいて《星のある子供たち》を監視していなくちゃいけないんでしょ。一家でスイスに出稼ぎに行ったりする?」
「しない。海外で暮らしていたと言うなら、《監視人たち》の一家ではないな」
「大丈夫よ。私の名前がなくても、字だけで私からだってわかるはずだし、頭の回転がいいから余計なことをしないでやってくれるわ」

「ずいぶん親しいんだな」
「えっ? だって、子供のときからの友達だから」

「そうか。だったら、そのジョゼに頼む手紙を書け。アントニアにマジェスティックに行ってくれるように頼むよ」

 23はそういうと、テーブルをすっと離れて作業机に向かうと、置いてあった靴を手に取った。それからマイアの方を見もせずに、靴の裏に釘を打ちはじめた。その激しい音にマイアはびくっとした。

 彼が不機嫌になったような氣がした。やきもちを焼いたみたいに。けれどマイアは、それは自分がそうあってほしいと願っているだけで、もう用が終わったので仕事に戻っただけかもしれないとも考え直した。ドンナ・アントニアの姿が浮かんで、彼女はまた悲しくなった。

* * *


 秋になった。ライサがどのくらいよくなったか、時々23が教えてくれていたが、マイアに最終的なことがわかったのは、ある日曜日の午餐の給仕をしている時だった。普段は明るく冗談ばかり言っている24が、笑顔も見せずにドン・アルフォンソに問いただしたのだ。

「ライサはいつ戻る」
「もう戻らない。腕輪を外された」
ドン・アルフォンソは今日のメニューを読み上げるのと変わらない口調で答えた。一緒に給仕していたホセ・ルイスとアマリアがはっとした様子を見せた。マイアは水を注いでまわっている時で、ちょうど座っている全員の顔が見回せる位置にいた。23は表情を変えなかった。ドンナ・マヌエラは視線を落とした。この二人は知っていたのだなと、マイアは思った。24は大きくショックを受けているようだった。明らかに知らされていなかったのだ。

「病が癒えたら戻るって言ったじゃないか。あれは嘘だったのか。僕とライサは合意の上で一緒になり、それで妊娠したんだぞ。腕輪を外される理由なんかないだろう」

 ドン・アルフォンソは右手を上げて、24の言葉を遮った。
「24。ライサの治療は完全には終わっていない。医者が長期にわたってお前との接触を禁止している以上、腕輪をしている意味はもうない。彼女は家に帰る」
「僕との接触を禁止? なぜ。流産は僕のせいじゃない」

 ドン・アルフォンソは黙って24を見た。普段、ものも言わずに食べてばかりいる当主の姿ばかり見ていたマイアは、彼がこれほど威厳のある強い目つきをできるとは思ってもいなかった。彼は何も言わなかった。マイアは23から聞いていたから知っていたけれど、24がライサに心的外傷を与えた忌むべき行為のことは、たぶん使用人たちには公にされていないのだろう。しかし、マイアはホセ・ルイスもアマリアもそれを知っているのだと感じた。

 24は多少変わった感覚はしているが、非常に無害な青年に見えた。容姿を誇り、ナルシストで自分のセリフに酔ったような言動をし、デザインや詩作にはその言動と合わない凡才ぶりを見せるので、どちらかというと愛すべき好青年の印象を与えるのだ。だが、いったん密室に籠ると医者が接触を禁止するほどの強いトラウマを与えるようなことをする。そしてそれを悪いとも思っていないような口ぶりだ。ドン・アルフォンソが黙って非難しているのはそれなのだと思った。24はこの日はそれ以上は言い募らなかった。

 けれどマイアには、それから24が変わったように思えた。掃除の時に居住区に入ると、今までのように朗らかに話しかけたりせずに、黙ってテレビゲームに興じていることが多くなった。それに、それまでは戸棚にしかなかったポルノ雑誌などが堂々と放り出されていることもあった。仕事部屋は何週間も入った形跡すらなく、同じデザイン画が放置されて埃をかぶりだしていた。

 氣のせいかもしれないが、マイアに対して距離をとっているように感じられることがあった。24の居住区の掃除は必ず二人一組なので、アマリアと行くか、マティルダと一緒なのだが、マイアにはほとんど話しかけない。私が警戒していること、顔に出ちゃっているのかな。それとも、私が23のところにばかり話しに行くので、ご機嫌が悪いのかな。その一方で、以前にも増して、マティルダに優しく話しかけることが多くなったように思われた。

「なんか変よね?」
掃除用具を持って、バックヤードに戻りながら、マティルダが首を傾げた。

 マイアは足を止めた。
「何が?」

「24よ。妙に猫なで声なんだけれど、なんでだろう。前はそんなことなかったのにな」
「あ、私もそう思った。氣のせいじゃなかったんだね」
「うん。23も親切になったし、変なことばっかりよね。ま、いいか」

 ライサに何があったかをマティルダに伝えて氣をつけるように言った方がいいのかと迷ったが、それを口にしたら自分がなぜ知っているかを話さなくてはならない。まわり回って23とドンナ・アントニアに迷惑をかけるように思った。23は、24とライサはもともとは恋仲だったと言った。つまり、ライサも24と一緒にいることを強要されたわけではないのだろう。マティルダがミゲルのことを好きな以上、そんなに危険はないように思う。それとも23にだけは言っておいた方がいいのかな。

「さっきから何を考え込んでいるんだ?」
想いに沈んでいたマイアははっとした。晩餐の給仕の最中だった。メインコースの皿を下げてデザートをとりに厨房へ向かう道すがら同じく当番にあたっていたミゲルが訊いたのだ。

「うわ。ごめん。また何か失敗した?」
マイアはドキドキしたがミゲルは笑って首を振った。
「それもわからないほど真剣に考え込んでいたのか。よく失敗しなかったな。大丈夫か」

 マイアはそうか、ミゲルに話せばいいのかと思った。
「うん、ちょっと氣になることがあるの」
「何? 僕は訊かない方がいいこと?」
「あら、そんなことないよ。実はね。ここしばらく24の様子が前と違って見えるのよね」

 ミゲルは意味ありげに笑って言った。
「それ、23の間違いじゃないのか」
そう言われてマイアは少し赤くなったが、ここで話をそらされている場合ではない。
「え。いや、それもそうかな。でも、いま氣になっているのは24」

「どう違っているんだ?」
「うん。なんかマティルダにご執心って感じなのよね……」

「なんだって」
ミゲルの声の調子ががらりと変わった。そうよ、そうこなくちゃ。マイアは心の中でつぶやいた。よく考えてみれば、ミゲルはライサが流産をしてから館を離れた時期にもこの館にいたのだ。たとえ詳細は知らされていないとしても、ライサが24に受けた仕打ちについては薄々わかっているはずだ。ミゲルとマティルダは仲がいいのだから、きっと彼から忠告をしてくれるはず。

 ミゲルはマイアのようにぐずぐず考えたりしていなかった。その日の仕事が終わるともう行動に移したらしかった。というのはシャワーを浴びてマイアが部屋に戻ってくると、マティルダが半ば踊りながらマイアに抱きついてきたのだ。
「マイア、マイア、ありがとう!」

 何がなんだかわからずマイアはマティルダの顔を見て、首を傾げた。
「なんのこと?」
「ミゲルがプロポーズしてくれたの!」
「えええっ! よかったじゃない! おめでとう」

「うん。突然だからびっくりしたの。だから、どうしてって訊いたら、マイアが24の事を話してくれて、氣が氣でなくなったって」
マティルダはライサの事を知らないからミゲルが何を心配しているのがわからず、単純に24に心移りするのではないかと思われたのだと信じていた。けれどマイアは何も言わないでおこうと思った。二人が結婚するなら、きっとミゲルがいずれは話すだろう。

「明日ね。二人でドン・アルフォンソのところに行くことにしたの」
「ドン・アルフォンソ?」
「そうよ。ほら、許可を得ないといけないでしょ」
「そうなんだ」

「そうよ。そうしたら、マイアとはしばらくお別れだな」
「え? どうして?」

 マティルダは笑って説明してくれた。
「《星のある子供たち》が一緒になるときは、一年間《監視人たち》の監視下で暮らさなくちゃいけないの。《監視人たち》と同じ屋根の下に住んで、外出時もずっとついてくるのよ。そうやって《星のある子供たち》以外の子供ができないようにするのね。もっともその間に妊娠したらまた普通の生活に戻れるんだって」

 あ。そういえば、ライサも24の所に閉じこめられたんだったっけ。そうか、本当に徹底して《星のある子供たち》だけの血脈を守ろうとしているのね。

「この部屋、マイアが独り占めできるよ」
マティルダは笑ったが、マイアは首を振った。
「独り占めなんてできなくていい。あなたがいなくなると寂しいよ」

 マティルダは、マイアをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう。でも、友達をやめるわけじゃないから。ねえ、マイア。結婚式の証人になってよ」

 マイアは心からびっくりした。
「私なんかがなっていいの?」
「私なんか、なんて自分を卑しめる事を言っちゃダメ。マイアは私の大好きな、とても大切な友達だよ」
そのマティルダの言葉を聞いて、マイアは涙をこぼした。


 ドン・アルフォンソは二人の結婚をすぐに承認した。本来ならば二人は未知の《監視人たち》の家庭に住むことになるのだが、ミゲルの養父母が《監視人たち》の一族のため、ミゲルの生家に住むことになった。三ヶ月間だけ完全監視下におかれるが、その後はまずはミゲルだけ通いで仕事に復帰する事になった。遅くとも一年の監視期間が終わればマティルダもまた戻ってくると聞いてマイアは嬉しくなった。

 マイアは早速23に報告に行った。結婚式の証人を務めるなんて生まれてはじめてだ。
「自分のことみたいに嬉しい」
「ん?」
「彼女、夢みていたんだもの。仕方なしに腕輪のあるもの同士で子供を作るんじゃなくて、本当に好きな人と結ばれるのが一番だって。マティルダ、ずっとミゲルのことを想っていたの。私、心から応援していたの。片想いのつらさ、よくわかるから」

「お前も、片想いしたことがあるのか」
「……」
本人に言われても困る……。マイアは黙ってうつむいた。

「すまない。訊くべきじゃなかった」
「ううん、いいの。その人ね、私にはどうやっても手の届かない人で、お似合いの恋人もいるの。だから、もうずいぶん前に諦めたんだ」

 23のは口を一文字に結んでマイアを見た。いつか海を見ながら話したときのように、言葉を探しているようだった。無理して慰めてくれなくてもいい。こんなことであなたを困らせたくないよ。
「大丈夫だよ、心配しないで。私ね、一人でも大丈夫だと思う。そういうタイプなんだよ、きっと」

「伝えなくていいのか」
やっと言葉を見つけたように、彼は言った。マイアは首を振った。
「好きになってもらえないのに、そんなことを言ったら距離を置かれちゃうでしょう。数少ない大事な友達の一人だから、そんなことをして失いたくないの」

 23はカップをもって立ち上がった。エスプレッソマシーンの前でしばらく佇んでいた。マイアには彼の表情が見えなかった。少し間を置いて低く小さいつぶやきが聞こえた。
「その感情は、よくわかるよ」
関連記事 (Category: 小説・Infante 323 黄金の枷)
  0 trackback
Category : 小説・Infante 323 黄金の枷
Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】ファインダーの向こうに(5)撮影 -1-

中編小説「ファインダーの向こうに」の五回目の前編です。視点はジョルジアに戻ってきています。兄であるマッテオの写真を撮影する為に超高級マンションのペントハウスにやってきました。

「ファインダーの向こうに」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




ファインダーの向こうに
(5)撮影 -1-


「さあ、準備はできた。どんな風にでも撮ってくれ」
白いバスローブを着たマッテオは、おどけてジョルジアの前に立ちふさがった。胸元に黄金の鎖が光っている。白く光の溢れたキッチン。まるで安っぽい映画の一シーンだ。

 彼の後ろには、新しいおもちゃだと思われるマシンがあった。カリフォルニアオレンジがコロコロと転がって、カットされ、ジューサーを通って、香り高いジュースとなって注がれた。彼はできたてのジュースをジョルジアに手渡し、もう一杯作るとウィンクして飲み干した。

 彼のペントハウスの玄関より奥に入るのは何ヶ月ぶりだろう。ここに来るといつも氣後れする。イギリス人の貴族に仕えていたことがあるのかと思うくらい、顔の表情を変えない使用人のハリスに「ようこそ」と言われるのも苦手だったし、次々と変わるガールフレンドたちの名前を憶えられなくて睨まれるのも好きではなかった。

 彼女たちは、ニューヨークで最も成功した独身の一人であるマッテオ・ダンジェロに年貢を納めさせようと必死だったし、未来の義妹と険悪にはなるまいとは思っているのだろうが、もう一人の妹アレッサンドラ・ダンジェロと較べるといかにも見劣りのするジョルジアのことを「取るに足らない女」と思っているのが顔に出てしまっていた。

 幸い、今朝は女は一人もいなかった。兄のところには寄りつかず、しょっちゅうかかってくる電話も可能な限り短く切ってしまうジョルジアは、最近の彼のプライヴェート事情をゴシップ誌並にも知らない。余計なコメントは避けようと思い、黙ってジュースを飲んだ。

「ジョルジア。少し痩せたんじゃないか」
マッテオは、彼女の頬から顎にかけてそっとなぞった。こうやって女の子たちを簡単にポケットに入れちゃうのかしら。考えながらジョルジアは兄の瞳を見つめ返した。彼は子供の頃から全く変わらない。これは女をたらし込む詐欺師的演技ではなくて、彼の素の振舞いなのだ。

 彼は、優しくて、明るくて、そしてセクシーだ。その笑顔に夢中になったのは女たちだけではない。小さな健康食品会社を若くして買い取った彼が、多くのビジネスパートナーを得て、ベストセラーのダイエット商品を立て続けに発売し、アメリカ全土に店舗をチェーン展開するほどに成功をした。それは、彼が多くの幸運と、機を読む賢さと、積極的なビジネスマインドを備えていたからだけでなく、この魅力的な性格で多くの味方を作ったからだ。

「心配いらないわ、兄さん。ここの所、少し忙しかっただけ。『太陽の子供たち』のプロモーションもあったし、あの写真集の撮影の間できなかった会社の仕事を、集中的にこなしたから」
「そうなのか。大事な妹をあんまりこき使わないでくれと、社長に電話しておかなくちゃな」
「そんなことをしたら絶交よ」

 彼は切なそうに笑うと、「おいで」と彼女を自分の寝室に連れて行った。そこはスイートになっていて、更に奥にはウォークインクローゼットがあった。
「何を着てほしい? スーツ? それとも、スポーツウェア? もちろん、このガウンのままでもいいけれど。その場合は、ベッドの上に寝そべってとか?」

 ジョルジアは、「ゴシップ誌の仕事じゃないんだから」と笑って、カジュアルウェアを着てくれるように頼んだ。掃除の行き届いたリビングで、リラックスしてオレンジジュースでも飲んでいる姿を撮ってみよう。そんな風に考えながら。

 NIKONのファインダー越しに覗いたその姿は、見慣れたいつものマッテオ・ダンジェロだった。前にどこかの雑誌で見たのと同じポーズのように思った。会話は、親しい兄と妹の会話なのに、兄は写っていない、そう感じた。疑問を感じながら、ジョルジアはシャッターを切った。

「ジョルジア。アレッサンドラのお前に対する印象は正しいんじゃないかと、僕も思うよ」
ソファの上でポーズをしながら、マッテオは突然言った。

「何のこと?」
「お前は疲れているのか。それとも、何かの壁にぶつかっているのか?」

 ジョルジアは、カメラをテーブルに置いて、兄の顔を見た。

「兄さんまで、手術をしろって言うんじゃないでしょうね。そして、どこかのセレブと結婚でもしなくちゃ、ダンジェロ兄妹の顔に泥を塗ると思っている?」
「まさか。僕もアレッサンドラも、お前の幸せにしか関心がないことくらいわかっているだろう」

「ねえ。私は、今のままで十分幸せだわ。仕事も、私生活も」
「ジョルジア。僕がどれだけ長い間、お前を見つめてきたと思っている? お前が心から幸せだと思っているときの顔を知らないとでも?」

 ジョルジアは、言葉に詰まった。

「結婚が幸せの最終形だなんて、僕だって思っていないさ。それに、お前の作品が世に認められだしていて、それが一般で言う成功の一歩だっていうのも正しい。でも、今、僕を撮っているお前の姿は、したくてたまらない事をしていようには見えない。お前はひたすら仕事をこなしている、そうなんじゃないか?」
「兄さん……」

「お前の作品は素晴らしい。技術的にも、心を打つモチーフも、全く大したものだ。だが、お前がはじめて、父さんのカメラを持たせてもらった時の、それで僕とアレッサンドラを撮りまくった時の、あの情熱を持ってカメラを構えているようには見えない」

 ジョルジアは、兄の指摘に愕然となった。

「あの男のせいで、お前の心が壊れてしまったんじゃないかと、ずっと思っていた。だが、そうだったら、あんな写真は撮れないだろう。お前は心を込めて、選んで写真を撮っている。だが、お前が撮っているのは、お前自身が撮りたいものなのか? それとも、会社や世界がお前に撮るようにと求めているものなのか? なぜ、あんなに明るい色で、楽しそうな子供ばかり撮るんだ。そんなに青ざめて、苦悩を刻んだ顔をして」

「兄さん……。私、あなたがそんなに私のことをよく見ているなんて、知らなかった……」
関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ファインダーの向こうに(4)陰影

中編小説「ファインダーの向こうに」の四回目です。実は、この小説を発表するにあたって、一回分の大体の文字数を決めているのですが、それに照らし合わせると今回発表分は二倍の長さです。でも、切るのにちょうどいいところがないので、今回だけは一度に発表しています。

ヒロインの仕事仲間であり、最も親しい友人でもあるベンジャミン・ハドソンがメインの回です。おそらくある読み手の方にとっては「やっぱり」で、他の方にとっては「それはないよ」な事情かもしれません。


「ファインダーの向こうに」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




ファインダーの向こうに
(4)陰影


 ベンジャミン・ハドソンは、彼の家の門についた。ライトが自動的につく。眩しくて眉をしかめる。金属製のフェンスを白く塗らせたのは妻のスーザンの趣味だ。汚れやすくなるからしばらくしたらまた塗り直さなくてはならないと言ったが、彼女は聞かなかった。窓辺にペチュニアを飾ることや、安っぽい黄色い滑り台を設置することも。仕事で飛び回る彼の代わりに、家の用事と息子の面倒を一手に引き受ける妻と小さな諍いを積み上げることを彼は好まなかった。

「ただいま」と言って、玄関を開ける。以前のようにスーザンが駆け寄ってきて、キスをすることはない。だが、彼はそれに不満を持っているわけではない。焔はいつまでも激しく燃え上がらない。それよりもじっくりと炭が熾り続ける時間の方が長いのだ。結婚や人生とはそういうものだ。

 居間には、スーザンとジュリアンがいた。彼女は息子をパジャマに着替えさせている所だった。
「おかえりなさい。早かったのね」
「ただいま。今夜は間に合ったな」
そう言うと、彼は六歳になる息子を抱き上げた。嬉しそうな笑い声が居間に響いた。

「お願いしていい?」
スーザンの言葉に頷くと、彼はそのまま息子をベッドへと連れていった。

 息子の部屋は、青に白い水玉の壁紙が貼ってある。ベッドに息子を降ろしてキスをすると、横に巨大な熊のぬいぐるみがあった。昨日まで抱えていた虎のぬいぐるみは、寵愛を失ったらしく床に横たわっていた。
「パパ、見て! ジョルジアから貰ったんだよ」
ジュリアンは熊のぬいぐるみを嬉しそうに抱きしめた。

「あのぬいぐるみ、どうしたんだ?」
居間に戻って訊くと、妻のスーザンは嬉しそうに笑った。
「さっき、届いたのよ。スキーウェアが欲しいと言ったこと、忘れないでくれたのね。それを着ているみたいな格好で、あの大きなぬいぐるみも一緒に入っていたの。二人で歓声を上げたんだから。次に逢ったらお礼を言っておいてね」

「さっき逢ってきたばっかりだけれど、これから彼女は撮影旅行だから、次に逢うのはおそらく来週の火曜日だよ。メールでも入れておくか」
「そうしてね。ねぇ、あたしの名付け親ってあんなに親切じゃなかったわ。写真もそうだけれど、彼女、本当に子供が好きなのね」

 ベンジャミンは、ちらりと妻を見たが、肯定も否定もしなかった。確かにジョルジアは、子供をモチーフにした写真で有名になった。《アルファ・フォト・プレス》がプロモーションを展開しているのもその路線だ。

 十年前、彼女の主なモチーフは花や水辺などの自然だった。透明で、光を感じる作風は、四ヶ月前に出版した写真集『太陽の子供たち』にも通じるものがあった。だが、あの頃の彼女の写真から、彼が今ほどの影を感じることはなかった。

 ジョルジアがここ数年撮り続け、彼女の名前を有名にしたのは、子供たちの笑顔の写真だった。鮮やかな色づかいの天然色、溢れる光の中で幸せに溢れる子供たち。草原の中で、アフリカの赤茶けた土の上で、一面の雪の前で、小さい子供たちが笑い転げる。

 優しい愛情に満ちた数々の写真は人氣を呼んで、『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の一般投票部門で入賞が狙えるほどの売り上げを記録した。もちろん弱小出版社である《アルファ・フォト・プレス》では、はじめての快挙だ。

 誰もが、ジョルジアのことを子供好きな幸せな女性だと思っている。子供は嫌いではないだろう。ジュリアンと話している時の微笑みや、敏感な息子が彼女にくっついて離れない様子、それにカメラを構える時の情熱を見ても、それを疑うような兆候はどこにもない。

 けれど、彼女の瞳には、いつもどこか諦めに似た哀しい光が宿っている。被写体の子供には微笑みかけても、両親には距離を持って立っている。幸せそうな恋人たちを見かける度に、判で押したように現れる固い微笑み。それは、自分には手に入れられないものに対する讃辞のように見える。

 一緒に仕事をしはじめた頃には、彼女のその憂いの意味が分からなかった。あの頃のジョルジアは、今よりももう少し髪が長く、有名になりはじめたアレッサンドラとの類似に氣がつく人も多かった。彼自身もそうだったが、彼女を通して美しい妹と知り合いになりたがる人は多かった。

 彼は、世界中の他の多くの男と同じく、手の届かない所にいるアレッサンドラに漠然と憧れていただけだったし、そのことでジョルジアを傷つけるつもりなど毛頭なかった。

 彼女は、ずっと静かに傷ついていた。子供から娘へと変わる過程で、妹との外見と内面の違いについて意識し、比較され、劣ると判断されることが繰り返された。そして服を着ている時には誰にも氣づかれない肉体のコンプレックスも彼女を僅かずつ蝕んだ。

 ベンジャミンが、友人だったジョンをジョルジアに紹介したのは、純粋に彼らが上手くいくと信じていたからだ。だが、彼は彼女を深く傷つけて去った。

「あんなおぞましいモノを見てまともにヤレる男なんていないさ」
ジョンの言葉は、未だにベンジャミンの耳に残っている。彼自身は、ジョルジアの脇腹にひろがる生まれつきの痣、そして、治療の失敗でもっとひどくなってしまった醜い肌を見たことはない。だから、愛が褪めてしまうほどひどいものなのか判断することはできない。

 ジョンはジョルジアにアレッサンドラを重ねあわせていただけだろう。そして、姉と妹が同一人物ではないことを確認しただけのつもりだったのかもしれない。だが、それで愛する男に捨てられたことは、彼女のトラウマになってしまった。

 それから彼女は、人づきあいが極端に悪くなった。仕事以外では外に出ない。パーティにも行かない。新しい友だちを作ろうともしない。有名な妹や、成功者である兄の棲む華やかな社交界から一切身を引き、マンハッタンを離れ、ロングビーチに引越した。

 二年ほど彼女は人物写真が撮れなかった。その後は決められた仕事では、割り切って人物を撮ることもできるようになった。が、写真集など彼女の作品としての被写体に大人を選ぶことはなく、動物や子供、もしくは自然や無機質なものにしかカメラを向けない。それも不必要に明るい色彩の晴れやかな写真ばかり。それがかえって彼の目には痛々しく映る。幸せに笑う、苦しみをまだ知らない子供たちとファインダーを隔てて対峙するジョルジア自身の心に落ちた影を感じる。光が強ければ強いほど、影も濃くなる。

 だから、あの写真を見たときは、本当に驚いた。

 暗室に貼られた、男の横顔。モノクロの柔らかい光の中に佇むその姿。他の人間が見たら、まったくジョルジアらしくないと思うだろう。だが、そうではないことを彼は感じた。それは、ベンジャミンが入っていくことのできない世界だった。音もなく、ただ陰影だけが存在していた。カメラを構えた者と、被写体との静かな時間。ジョルジアに何が起こったのかを、彼はその時にはもうわかっていたのだ。

 彼はネクタイを緩め、水を飲むためにキッチンへと向かった。いつものあたり前の夜だったが、我が家の光景はどこかが違って見えた。違っているのはキッチンではなくて、彼自身の心なのだと氣づく余裕はなかった。

 寝室へ行くと、スーザンはもうベッドにいた。アプリコット色のシルクのナイトドレスを身につけている。彼は、妻の月経周期のことを考えた。そうでなければ彼女が誘ってくることは全くなかったからだ。お互いに強い情熱がなくなった後も、求められた時には拒否をしないのが暗黙の了解のようになっていた。
「ねえ。どうかしら。私、ジュリアンを一人っ子にしたくないの」

 彼は、義務を果たすために、その氣になる努力をした。頭の中に、もう何年も前の男性写真誌の特集ページを飾った、アレッサンドラ・ダンジェロのなめらかな肌を思い浮かべた。シーツでわずかに前方を隠したその艶かしいポーズは、ベンジャミンだけでなくたくさんの男たちの想像をかき立てたことだろう。長い足、豊かな黄金の髪、形のいい唇を思い描いた。

 彼は、暗闇の中で、スーザンの声をしたアレッサンドラを堪能した。やがて、彼の女神は次第にメイクを落とし、小悪魔から憂いのある女へと変貌を遂げる。長く豊かな金髪は、ブルネットのショートヘアに変わっている。それが誰だか彼にはよくわかっている。彼は「彼のアレッサンドラ」と彼自身を絶頂に導いた。

 満足して、寝息を立てるスーザンの横で、彼は今日のジョルジアのことを考えていた。あの告白が、相当ショックだったんだな……。彼は、心の中でつぶやいた。会社のジョルジア専用となってしまっている暗室で、あの写真を発見した時に感じた落ち着かなさの意味が、今の彼にはよくわかっている。彼女の心を占めている他の誰かに対する、抑えられない怒りと妬み。

 君は、一度だって僕を撮りたいと言ってくれたことはないよな。僕は、いつだって君のファイダーの中には入れないんだ。

* * *


 ジョルジアは壁の前に立っていた。それは暗室を後にして帰る前の儀式となっていた。モノクロの写真が壁に貼ってある。佇む男の横顔。その瞳は、眼鏡を通してまっすぐに墓を見ている。振り向いて彼女を見てくれることはない。それでも、彼女は彼を見つめている。ゆっくりと視線で彼を覆う光と影をなぞっていく。その陰影は、彼女の心そのままだった。
関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ファインダーの向こうに(3)新企画 -2-

中編小説「ファインダーの向こうに」の三回目「新企画」の後半です。ジョルジアが、どうして知り合ってもいない人のことを想うようになってしまったのか、ベンジャミンに語ります。

実は、墓地のくだりは、TOM-Fさんの小説の一シーンから思いつきました。正にその時だったのか、他の墓参のときだったのかまではわかりませんけれど。ジョセフも、まさか激写されていたとは知らなかったであろう、ということにしてあります。これも一種のパパラッチ行為かしら?


「ファインダーの向こうに」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




ファインダーの向こうに
(3)新企画 -2-


 ジョルジアは、眉をしかめてソファに座り込んだ。それからぽつりと言った。
「笑いたければ、笑うといいわ。でも、言いふらさないでよね」
「そんなことするわけないだろう。でも、知り合ってもいないのに、どうやって?」

「最初は、ただの会心の出来の写真だったの。光の具合も、佇まいも完璧だった。誰だかも氣がついていなくて、夢中でシャッターを切ったわ。望遠で追っているうちに、彼が匿名の誰かではなくて、よく見知っている人だとわかったの。誰だかわかるまで時間がかかったけれど」

 それはウッドローン墓地だった。とある追悼詩に使う墓石の写真を撮る仕事だった。できるだけ色彩を排除して撮りたかったので、普段は一切使わないILFORD PAN Fのモノクロフィルムが入っているカメラを構えていた。

 そうやって、離れたところから墓地を撮っていたジョルジアは、偶然に墓参りをしている男の写真を撮ることになった。人物が映り込んでいたら仕事には使えないとわかっていながら、ファインダーの向こうの絵の魅力に捕らえられて、立て続けにシャッターを切った。

 秋の柔らかい陽射しが、彼の前方から射し込んでいた。トレンチコートに落ちた木立の影も完璧だった。彼は背筋を伸ばして墓の前で佇んでいた。誰だかはっきりわかったのは、しばらくしてCNNのニュースでその顔を見てからだ。

 それから再びウッドローン墓地へ行き、彼が見つめていた墓標を探した。ほとんど興味のなかったジャーナリストの経歴を調べて、彼がユーゴスラヴィアの内戦で家族を失っていることを知った。調べ、知ってしまったことで、特別な存在になった。

 彼が担当の日にCNNニュースを観るのが習慣になった。レポートを読むために雑誌も買った。冷静ながら弱者に対しての暖かい視線に共感した。

 ただのファンという意識に留まれなかったのは、あの写真のせいだった。馬鹿げたことだとわかっていながら、想いを持て余すことになった。

 仕事には使えなかったそのモノクロームのポートレートは、ずっと暗室に貼られたままだった。揺れる現像液の中から、ぼんやりと、やがてはっきりと浮かび上がってきた、横顔の明暗。誰にも知られずに、その佇まいを見ているだけ。それでよかったのに。

「だったら、なおさら、この仕事を受けろよ」
「無理よ! 冷静に撮れるわけないでしょう」

「冷静である必要なんかあるものか。君の人生の転機だろう」
「転機って何のことよ」

「僕は君にジョンを紹介したことを、後悔しているんだ」
突然ベンジャミンは話題を変えた。ジョルジアは、口を一文字に結んで彼を見た。

「あれから、もう十年だ。君は、このままでいいのか?」

 ジョルジアは、一度足元を見てから、顔を上げて仕事の大切なパートナーであると同時に、長い間支えてくれている大切な友でもある男に向かってはっきりと言った。

「私がこうなったのは、ジョンのせいじゃないわ。もちろん、あなたのせいでもない。世の中には、一人でいた方がいい人間もいるのよ。それだけのことだわ」

 ベンジャミンは、黙って彼女の顔を見つめた。青ざめた肌に黒い髪が影を落としている。人付き合いが悪くても、心を許した人間の前では、笑顔も見せるし冗談も言うようになった。意見もはっきりと言ってのける。だから、誰も彼女のことを前のようには心配していない。

 だが、彼は「これでいい」とはとても思えなかった。

 彼女は、すぐに心のブラインドを閉めてしまう。その先には誰も踏み込ませようとはしない。助けはいらないと頑張るのだ。彼には、それが虚勢だとわかっていても、それ以上踏み込むことはできない。それに、彼女の瞳にじっと見つめられると、その頼みを断ることもできないのだ。

 ジョルジアは、ジョセフ・クロンカイトの写真を撮るのは他の写真家に頼んでくれと懇願し、代わりにマッテオ・ダンジェロの写真を撮ることに渋々同意した。
「どんな写真になっても、文句は言わないでね」
関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(18)サン・ジョアンの前夜祭

月末の定番「Infante 323 黄金の枷」です。

マイアの休暇のお話のラストです。最終回を除くと、「ここを発表せずには死ねない」級に盛り上がっているのが今回だと思います。祭りに抜け出してくることを提案し、「来ない」と言っていた23に、諦められないマイアは、「それでも待っている」と伝えて、休暇に入りました。さて、その当日、マイアは、待ち合わせの場所で彼を待っています。

月刊・Stella ステルラ 10、11月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(18)サン・ジョアンの前夜祭

 6月23日、約束した夜九時の数分前に、マイアは例のコーヒー店へ行った。23は来ていなかった。冬でもないのにイタリア風ホットチョコレートを頼み、表が眺められる窓際の席に座った。通りはいつもよりずっと人通りが多かった。すでに酒を飲んで騒いでいる人たちも多く、陽氣な声と、人いきれでいつもの街が全く違って見える。

 マイアは去年の祭りのことを思い出した。幼なじみのジョゼが仕切って同世代の仲間たちがカフェ・グアラニの前で待ち合わせた。同年代の友達とあまり交流のないマイアは大抵の集まりで忘れられてしまうのだが、ジョゼは必ず声を掛けてくれた。

 そのジョゼも今年は祭りに参加できない。かきいれ時なので休みが取れないからだ。だから、マイアはこの日が休暇に当たることを誰にも言わなかった。それに、もしかしたら23が来てくれるかもしれないと望みを捨てきれなかった。

 祭りに行くために約束をしている人たちが、入ってきては次々と出て行った。マイアは次第に目の前が曇ってくるのを感じた。

 23が自分の想いを知っているのだと思った。そして、遠回しに拒否しているのだと。「インファンテだなんて、そんな高望みしていないわよ」と言ったマティルダの声が甦った。

 わかっている。でも、苦しいよ。

 カップは空になった。もう帰らなくちゃ。一人でサン・ジョアンの祭りにはいられない。そんな虚しいことをする者はいない。けれど、マイアは立ち上がれなかった。もう少し、真っ暗になってしまうまで。

 酔って半分できあがった集団がまた大量に入ってきた。中で待っていた女たちが大きくブーイングして、カフェはとてつもなくうるさくなった。ものすごく混んできたので、今度こそ立ち去ろうとカップに使い終わった紙ナフキンを丸めて突っ込んだ。すると人びとの間をすり抜けてきた誰かがストンと前の席に座った。

 顔を上げると、それは23だった。
「遅れてすまなかった」
「23……来てくれたの」

「お前が待っているのに来ないわけないだろう。こんなに混んでいると知っていたら、もっと早く出たんだが」

 6月23日に外に出たのははじめてで、この日の街の混み方を予想もしなかったのだろう。マイアは嬉しくて、しばらく何も言えなかったが、氣を取り直して訊いた。
「コーヒー? それとも?」
ここのコーヒーよりも、彼が工房で淹れてくれるコーヒーの方が美味しいんだけどね……。

「お前は何を飲んだんだ?」
23は空になったカップを覗き込んだ。

「夏に飲むものじゃないけど、イタリア風ホットチョコレート」
そう言って、壁の写真を指差した。生クリームがたっぷりと載っているカップの写真に23は肩をすくめた。
「甘そうだな。でも、一度は試してみてもいいかな」

 マイアは笑って、トレーを持ってカウンターに向かい、二人分オーダーして持ってきた。それを見て23は眉をひそめた。
「二杯も飲めるのか?」
「いいの。今日は特別」

 23は肩をすくめて何も言わなかった。生クリームを混ぜ込んでから甘くてトロリとしたチョコレートを飲む彼を、マイアは感無量で見つめた。

 たった6日間逢っていなかっただけだ。彼にとっては何でもなかったに違いない。口を開けば「逢いたくてしかたなかった」と言ってしまいそうだった。絶対に言っちゃダメ。
 
 しばらく黙って二人でホットチョコレートを飲んでいる間に、多くの人びとが出て行って、カフェは再び静かと言わないまでもお互いの声が聴き取れる程度にはなった。

 23はほっと息をついて、マイアの瞳をじっとみつめて口を開いた。
「今日、アントニアがライサの様子を知らせてくれた」
「え?」

 23は頷いた。
「ライサの状態はかなり良くなっているそうだ」
「本当に? よかった」
「誓約が守れる程度に回復したら、たぶん腕輪を外されて家族の元に戻れるだろう」

 マイアはそれを信じた。直接ライサに逢ったわけではないが、23はドンナ・アントニアを信じている。23が好きになるような人なのだ。嘘をついたりするはずはないとマイアは思った。

「お前が館に戻ったら、《監視人たち》にわからないようにライサの妹に連絡する方法を考えよう」
マイアはそれを聞いて笑顔になった。
「うん」

「みんな出て行ったな」
23はあたりを見回した。マイアは壁の時計を見た。

「ここはもうじき閉店かな。露店は一晩中開いているし、今晩はずっと開いているお店もあるんだけれど」
「じゃあ、俺たちも行くか」

 往来は人でごった返していた。アリアドス通りや、もっと小さい通り、至る所にパラソルが出ていて、スイートバジルが薫っている。人びとは道の脇で売っているイワシや肉のグリルを食べ、ビールやワインをあおっている。ダンサーたちを引き連れた山車が練り歩き、人びとは楽しそうに歌って騒いでいる。

「髪、下ろしているの初めてだな」
23が言った。マイアは頬を染めて頷いた。
「お休みだから。ねえ、縛っているのと、どっちがいい?」

 23は何でもないように言った。
「どっちでも、お前はお前だ」

 それって、どっちもいいってことかな。それともどうでもいいってことかな。マイアには追求することはできなかった。

 グリルの煙があたりを白くしていく。リベイラの近くでは、焔を中に閉じこめた紙風船を氣球のように飛ばしている。23が珍しそうに狂騒の街を眺めている。普段は真面目に働くPの街の人びとが、今宵だけは何もかも忘れて騒ぐのだ。明朝、サン・ジョアンの祭日が明けるまで。

「あれは何だ?」
多くの人びと、子供はほとんどが持っている、プラスチック製のハンマーを見て23が訊いた。

「ああ、あれ? 今日は無礼講でね、知らない人でも、あれで叩いていいの。でも、ハンマーを持っていない限り叩かれないから大丈夫だよ」

 本当はもっと説明をすべきだったのだが、マイアはお腹が空いていて心ここに在らずだった。
「ねぇ、ちょっと待ってて。イワシ買ってくるね」
そういって斜め前の売店に入っていった。

 その場に立って辺りを見回していた23は、石壁にもたれかかっている一人の老婆が球形の紫の花を売っているのを見た。彼女は23を手招きしたが、例によって現金を持っていない彼は首を振った。

「金はいらないよ。今夜を過ぎたらもう用無しになる花だ。あんたの彼女の分と二つ持ってお行き」
「これはなんだ?」
「知らないのかい? ニンニクの花さ」

 23は礼を言って二本の花を受け取った。

 熱々のイワシを持ってパラソルの下に場所を確保したマイアの所に戻り、23はマイアにニンニクの花を手渡そうとした。それを見てマイアはぎょっとした。
「えっ。それは、まずい!」

 周りのプラスチックのハンマーを持った集団が目を輝かせてこちらに向かってきた。それは襲撃と言ってもよかった。マイアはニンニクの花を仕舞わせようと彼のもとに飛んできた。その二人をめがけてハンマー軍団は大笑いしながら走ってくる。23はとっさにマイアを抱きしめた。

 ピコンピコンという音がして、大量のハンマーが23を叩いた。けれど、それは大して痛くなかったし、人びとも攻撃というよりは楽しみながら叩いていた。そして、大人も子供も笑いながら去って行く。

 23はマイアを離した。
「すまなかった」
何か勘違いしていたようだとひどく戸惑っている。

 マイアは、心臓が壊れてしまったのではないかと思った。大きく波打ち、その鼓動は彼に聞こえてしまったに違いないと思った。彼の腕が外されても、まだ呆然として彼のシャツのひだをつかんでいた。

 我に返って慌てて手を離すと、真っ赤になって下を向いた。
「ご、ごめんね。びっくりしちゃって……」

 その間も、後ろを通りかかる人がピコン、ピコンと23を叩いていく。振り返ると彼らは親指を立てて意味有りげに笑っている。23の戸惑っている様子にマイアはすまない氣持ちになった。もっとちゃんと説明しておけばよかった。

「ニンニクの花もハンマーと一緒なの……。もともとはこれで顔を撫でていたんだって。そうすることでお互いに息災でいられるようにって祈ったんだね」
「そうか。それで、あれを持った途端、皆が襲ってきたんだ」

 23はニンニクの花をテーブルの中央、パラソルの支柱の所に挟んだ。二つ並んだ丸くて藤色の花が仲良く寄り添っているように見えた。マイアはまだドキドキしていた。
「守ってくれて、どうもありがとう」

 彼は困った顔をした。
「この程度じゃ守った内には入らない。おもちゃのハンマーの集団だ」
「それでもすごく嬉しかったよ。今まで、誰にもこんな風に守ってもらった事なかったし」

 23は手を伸ばして、風で頬にかかったマイアの髪をそっと梳いて言った。
「お前が館にいる限り、俺に可能な限り守ってやる」
「……」

 泣きそうになった。彼はマイアが館に来てから本当にいつも守ってくれた。彼がいなかったら、仕事では無防備に失敗して回って他の人に怒られただろうし、ライサのことを訊き回ってすぐに追い出されただろう。それに何があったかを知らずに24に近づいて、ライサと同じような目に遭ったかもしれない。

 23と、彼の作る靴は似ている。シンプルで飾りは何もないけれど、ぴったりと寄り添い優しい。一度履いたらもう他の靴を履く事など考えられない。

 館にいる限り、そう彼は言った。いつまでいられるのだろう。いつまで彼は一人でいてくれるのだろう。私はいつまで想いの痛みに耐えられるのだろう。何度も諦めようとしたけれど、それは不可能で、それどころか毎日もっと惹かれていく。一日一日が新しい思い出になり、この街の風景の上に積もっていく。

 真夜中が近づくとマイアは23をドン・ルイス一世橋が見える所へ連れて行った。0時になると花火が上がるのだ。かなりの穴場だと思っていたが、かなりたくさんの人が来ていた。プラスチックのハンマーがピコピコいって、人びとは陽氣に笑っていたが、最初の大きな花火が上がると、歓声とともにみな花火を楽しんだ。

 腹の底まで響くような轟音とともに花火は炸裂し、夜空を彩ってからD河へと落ちて行く。赤、青、緑、そしてマグネシウムの強烈な白。一段、二段、三段と、大きくなる花の輪が、これでもかと咲き誇る。そして、消えたはずのその場所から、黄金の煌めきが舞う。

「きれい……」
「ああ、本当に綺麗だな。見られてよかった」
「この花火、はじめて?」
「ああ、俺の窓からは見えないんだ。いつも音と空の色が変わるのだけを見ていた。お前に誘ってもらわなかったら、きっと生涯見なかったかもしれないな」

 マイアは23を見た。嬉しそうに目を細めて空を見上げるその横顔を。ただの友達だと思われていてもいい。ドンナ・アントニアにはしてあげられないことを、こうして彼の喜ぶことを、どんなことでもしてあげたいと思った。23は、マイアの方を見て笑った。

 花火が終わったが、人びとが解散する氣配はない。
「彼らは帰らないのか?」
「え。今晩は、みんな夜通しよ。あのね。夜が明けて最初の朝露が降りるまで外にいると、それからの一年間、健康で幸せでいられるんだって。夜明けと同時にD河でラベロ舟のレガッタもやるんだよ。23、朝までいられる?」

 朝までと言ったとき、彼はマイアの顔をまともに見た。マイアはしまったと思った。来てくれたことで、それに先ほど守ってくれたことで舞い上がっていたのだ。

 彼は静かに首を振った。
「サン・ジョアンの祭日は夜明けとともに礼拝があるんだ。イワシ臭くなって徹夜明けの疲れた顔をしているわけにはいかない。母やアントニアに感づかれてしまう」

 彼の口からドンナ・アントニアの名が出て熱く脈打っていたマイアの心臓の鼓動は弱まっていった。
「お前も明後日の早朝から出勤だろう。今夜更かししない方がいい、そうだろう?」
「うん。そうだね……」

 シンデレラの魔法は解けちゃった。マイアは悲しくなった。やっぱり私はほんの少し友達に近いだけの使用人なんだな。

「今夜はありがとう。家はどこなんだ?」
「え、レプーブリカ通り」

「送るよ」
「いいよ。遠くないし、一人でも帰れる」
「だめだ。こんな深夜で、酔っている人もたくさんいる」

 マイアはつま先を見つめた。23の作ってくれた、マイアをいつも柔らかく包んでいる靴が目に入った。
「23、本当に紳士だね……。そんなに優しくされると、私、誤解しちゃうよ」
「何を」
「王子様に守ってもらってる、お姫様みたいなつもりになっちゃう」
「馬鹿なことを言うな」

 馬鹿なことか……。お姫様じゃなくて召使いだものね……。
「俺は王子様なんかじゃないって、言っただろう」

 逆方向へと向かっていく楽しそうな人たちとすれ違いながら、二人は言葉少なに歩いた。公園の角を曲がり、狭い小路に押し合いへし合いするように建つ古い家々の一つの前でマイアは立ち止まった。「ここ」と濃い緑のタイルの家を示した。23は街灯に照らされた錆びたバルコニーを見上げた。ドラガォンの館に住む彼にはどんなあばら屋に見えているのだろうと思った。

「おやすみ。また明後日、いや、もう、明日か」
「おやすみなさい。今晩はありがとう」

 彼は「礼を言うのはこっちだ」と言ってから、急に顔を寄せて、マイアの頬にそっとキスをした。唇よりも彼の髭の感触が肌に残った。彼の髪からはイワシと花火の火薬の匂いがした。

 振り返りもせずに去っていく背の丸い後ろ姿を、彼女は見えなくなるまで目で追っていた。
関連記事 (Category: 小説・Infante 323 黄金の枷)
  0 trackback
Category : 小説・Infante 323 黄金の枷
Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】ファインダーの向こうに(3)新企画 -1-

中編小説「ファインダーの向こうに」の三回目「新企画」の前半です。短い作品なので、もったいぶらずにどんどん出しているはずなんですが、ようやく「お相手は誰?」が出てきましたね。それに、副主役ポジションのベンジャミンも初登場。書いているのと、週一の連載で発表するのは、ちょっとスピード感覚が違いますね。

今回出てくる超ゴージャスペントハウス、実在する部屋をモデルに書きました。執筆中に、ちょうど住人募集中だったのですね。毎月、こんな家賃払って、ああいうところに住む人って、本当に存在するんだなあと、感心しながら書きました。


「ファインダーの向こうに」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




ファインダーの向こうに
(3)新企画 -1-


 ドアマンは、ジョルジアを認めると、はっとして頭を下げた。彼は、彼女を見るといつも後ろめたい顔をするのだ。彼が勤めはじめて二ヶ月目に彼女がこの高級アパートメントに来たとき、彼は「ミズ・カペッリ」が誰だか知らなかった。そして、彼女を足止めして、最上階ペントハウスに住むダンジェロ氏に大袈裟に文句を言われた。

 彼だって、アレッサンドラ・ダンジェロがダンジェロ氏の妹だということは知っていた。そして堂々とした態度で「ようこそ、ダンジェロ様」と言う事ができたのだ。だが、彼らの本名がカペッリということも、兄妹の間にもう一人カペッリ家の娘がいることも知らなかった。ニューヨークの高級アパートメントのドアマンとして、プロフェッショナルであることを自負している彼にはそれは大きな汚点になったらしい。

 ジョルジアは、会釈してペントハウス専用のエレベータへと向かった。最上階でドアが開くと、パーティは既に始まっているらしくとても騒々しかった。

 パークアベニューにある32階建ビルの最上階、570平方メートルの住居。ドアマンがいて10万ドルの家賃のペントハウスにジョルジアの兄、マッテオは住んでいる。健康食品を販売する事業で財を成し、アメリカンドリームを具現したプレイボーイにふさわしい住まいだ。5つあるベッドルームのうちの一つは、よく泊まりにくるロサンゼルス在住のアレッサンドラとその娘のアンジェリカのために空けてある。

 使用人のハリスが中へと案内しようとすると、ジョルジアは断った。
「遠慮するわ」

 自分がパーティにふさわしいとは思えない。もちろん普段の服装よりはずっとましだ。今日はナラ・カミーチェの白と銀のシャツに黒いパンツスーツを着ている。シーズンごとに100枚近いお下がりをくれようとするアレッサンドラに本当に貰った10着程度の服の一つだ。たぶん、サン=ローランのものだろう。

「ジョルジア! 僕の愛しいサバイオーネ! どうしてこんなに長く逢いにきてくれなかったんだい」

 大袈裟な挨拶とともに抱きしめられて、両方の頬にキスの雨が降った。後ろにいるはじめて見る美女が剣呑な目つきで眺めているので慌てて言った。
「本当に久しぶりね、マッテオ兄さん。今日は、お招きありがとう。でも、すぐに行かなくちゃいけないの」

「なんだって、まだ来て一分も経っていないだろう」
「ええ。今晩からしばらくいなくなるから顔を見たくて来たんだけれど、時間がないの」
「どこに行くんだ? まさか、またアフリカか?」
「いいえ。ニューオーリンズよ。ところで、パーティの時に悪いんだけれど、ビジネスの話していい?」

「なんだって?」
「直にうちの会社から依頼が来ると思うんだけれど、セレブを写真とインタビューで紹介する特集があるの。で、兄さんを私が撮ってもいい?」
「お前が、僕を? どうした風の吹き回しだろう。もちろんいいよ。ずっと、何ヶ月もここで撮り続けるといい。その間、僕はお前を独占できるんだろう?」

 ジョルジアは、後ろの女性たちの冷たい視線を避けるようにして、彼の頬にキスをした。
「兄さんったら。そんなことをしたら二日目くらいには、あなたのお友だちに殺されちゃうわ」

* * *


 その日の午後、担当編集者のベンジャミン・ハドソンが仕事を持ってきた。

「『クォリティ』誌の新企画が決まったんだ。マンハッタンのセレブを特集する続き物でね。専属・フリーを問わず新進のフォトグラファーに印象的な写真を撮ってもらうことにしているんだ。編集長は、もっとも印象を変えるのが難しいセレブを君に担当してもらいたいと言っている」

「誰を」
「マッテオ・ダンジェロ」
「絶対に嫌」

「そういうと思ったよ。で、僕から編集長には、もっと大物を提案しておいた」
「誰?」
「ジョセフ・クロンカイト」

 ジョルジアは、黙ってベンジャミンの顔を見た。

「暗室の写真を見たんだ」
彼はたたみかけた。

 彼女は、まだ黙って彼を見ていたが、三分ほど経ってから「嫌よ」と言った。

「なぜ。仕事として写真を撮らせてもらう。それだけだろ。天の邪鬼にも程があるぞ」
「天の邪鬼って、なんのことよ」

「違うっていうのか。じゃあ、訊くが、マッテオ・ダンジェロの時は即答したのに、クロンカイトの時は嫌だというのになぜそんなに時間をかけたんだよ。本当は知り合いたいんだろう? チャンスじゃないか」

 ジョルジアはまたベンジャミンを見て、しばらく何も言わなかった。が、ゆっくりと視線を落とすとカメラケースに触れた。

「私がマッテオを撮っても、意外に素敵なセレブになんてなりっこないわ。いつもと同じか、よくて私の兄が写るだけよ」

「クロンカイトは君の家族じゃないだろう。君が憧れているセレブが写るなら、うちの社の方針としても願ったり……」
「嫌だって言っているでしょう!」

「何がそんなに嫌なんだよ! あっちは有名ジャーナリスト、知り合えば、今後の仕事に何かとプラスに……」

「知り合いたくない! 知り合わなければ、傷つくこともないもの」
そう言ってしまってから、彼女はしまったという顔で黙り込んだ。

 ベンジャミンは、信じられないという顔をして、ジョルジアをまじまじと見た。
「憧れじゃなくて……本氣なのか?」
関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ファインダーの向こうに(2)昼食 -1-

中編小説「ファインダーの向こうに」の二回目です。今回の話はちょっと長いので、今週と来週の二回に分けます。さて、アレッサンドラ・ダンジェロの登場です。っていっても誰も知る訳ありませんね。一度、バトンの回答で「こういう外見になりたいキャラ」で名前を挙げた事があるのです。絶対無理っていう意味で。

このアレッサンドラの芸名のダンジェロは、カペッリ同様ごく普通のイタリア系の苗字ですが、じつは駄洒落で付けました。「capelli d'angelo カペッリ・ダンジェロ(天使の髪の毛)」というのは、直径1ミリ以下の極細パスタの事なんです。


「ファインダーの向こうに」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




ファインダーの向こうに
(2)昼食 -1-


 アレッサンドラ・ダンジェロはどこにいてもすぐにわかる。人びとが頷きあいながら、「ねぇ、本物よね」と囁きあっている。オレンジのカトレアのプリントされた白いワンピースは大きく胸元が開いている。目立つとわかっているのに、休みの日でもゴージャスな服装でしか表に出ない彼女は、かなり挑発的な性格だと言っていい。よく雑誌で書かれている「世界一の美女」というキャッチフレーズは眉唾だし、本当はブルネットなので「今もっとも美しいブロンドの女神」の称号は虚偽ですらあるが、「世界でもっとも稼ぐスーパーモデル五人のうちの一人」は事実だ。豊かな金髪とほんのりよく焼けた肌、すらりとした長い手足。目立たないわけはない。

 ジョルジアが大股で入ってきて、彼女の前に座った。
「ハイ、アレッサンドラ」
「遅かったじゃない。かなり飲んじゃったわよ」
テーブルの上に、シャンパングラスが二つとワインクーラーのボトルが見えた。グラン・キュヴェ……。ハーフでも私の普段のランチの四倍はするはず。昼間っから、とんでもないものを頼むんだから。

 他の客たちは首を傾げていることだろう。アレッサンドラ・ダンジェロの連れにしては、目立たない女でいったい何者なのだろうと。ジョルジアのノーメイクで構わない出立ちは、五番街の高級店向きではない。だが、「ダイニング・ルーム」ではなくてカジュアルな「バー・ルーム」にしてもらったのでかろうじて場違いのそしりは逃れていた。

 もし、周りの観客たちが第一印象による先入観を取り除いて二人をよく見たら、実はこの二人がとてもよく似ていることに氣づくだろう。実際、アレッサンドラがメイクを落として、眉を生まれた時の形に書き直し、髪を本当の色に戻して並べたら、二人は双子のようによく似ていた。実際には双子ではなくて、ジョルジアの方が二歳年上だが、姉妹であることには違いはなかった。

 ジョルジアの方が背が八センチほど低い上、ハイヒールを履かないのでもっと低く見える。手足もアレッサンドラの方が長く、日々のトレーニングとケアで完璧な状態に保っているし、動きももちろん優雅で美しい。だが、この完璧な妹と較べすらしなければ、ジョルジアは本来、さほど悪い資質を持っているわけではない。だが、街でジョルジアとすれ違って振り向く人はほとんどいなかった。おそらく、それはジョルジア自身の望みに適っていた。

「アンジェリカはどうしたの?」
ジョルジアは訊いた。八歳になる姪とは、一年近く逢っていなかった。
「ペントハウスにいるわ。マッテオと使用人たちにちやほやされるのが嬉しくてしかたないみたい」

 ロサンゼルスに住むアレッサンドラが、ニューヨークへ来る時は、必ず兄のマッテオのペントハウスに滞在する。成功者である二人の生活レベルは近くて、同じように有名人なので、ダンジェロ兄妹のことを知らない人は少ない。だが、彼らの本当の苗字がカペッリで、その間にもう一人写真家である家族がいることは、ほとんど知られていない。

「ねえ。あんな小さな会社の専属でいるよりも、フリーになったら? 写真集だって、あれだけ売れているんだから、もっと派手なプロモーションをしてくれる大手ならすぐに有名になれるわよ。そうしたら、住む所もロングアイランドのイタリア移民街なんかじゃなくて、またマンハッタンに戻って来れるし。なんなら、あたしが……」

「そんなことしなくていいわ。会社にはとても世話になっているし」
「会社っていうより、ベンジャミン・ハドソンにでしょう? あの人も敏腕編集者のくせに野心がないのかしら。彼ごとヘッドハンティングさせるならいい?」

 ジョルジアは、首を振った。
「ベンを引き抜くのは不可能よ。両親を亡くして苦労している所を、社長が親代わりになって育ててくれたって、恩義を感じているんだもの。社長には、会社経営に興味のないお嬢さんしかいないし、いつかは彼があの会社を引き継ぐんじゃないかしら」

 そして、彼女自身も今でこそ写真集が会社の利益に大きく貢献するようになってきているが、好きなものを撮っているだけでは食べられなかった駆け出しの頃は、《アルファ・フォト・プレス》で撮影の仕事をもらったからこそ生活することができたのだ。

 ベンジャミン・ハドソンには、公私ともに助けてもらった。十年前にプライヴェートでの破局を体験してから、ジョルジアはしばらく人物撮影ができなくなってしまったのだが、その時に社内での批判に立ち向かって風景撮影や商品撮影を優先して回してくれた。

「あなたがそれでいいと言うなら、私がとやかく言うべきことじゃないとは思うけれど。でも、仕事って、少しでも効率的にこなして、人生を楽しめる時間をもっと捻出すべきじゃないかしら。私、一刻も早く引退して、リラックスした生活をすべきだと、つくづく思うわ。アンジェリカとの時間ももっと作りたいし、それに、人生のパートナーともね」

「あら。あなたは、もう男にはこりごりなんだと思っていたわ」
ジョルジアはスパークリングのミネラルウォーターを飲みながら、あまり関心がないように言った。

「そりゃね。二度も失敗したんですもの。でも、今度の相手はちょっと違うの。ほら、私、今までは自分の力で私よりも優位に立とうと思っている男性とつき合っていたでしょう? それが敗因だったのよ。だって、そういう男の人は私の方が有名でお金持ちなことに我慢できなくなってしまうんだもの。でも、ルイス=ヴィルヘルムは、生まれ育ちそのものが私よりずっと上でそれは逆転しようがないの。男女が上手くいくためには、結局そういう確固たる差が必要なのよ。それにね。スイスって騒音が少ないのよ。物理的にだけじゃなくて、余計なことを言う隣人が少ないって意味よ」

 ということは、その貴公子はスイス人なわけね。ジョルジアはポークのテンダーロインを味わいながら考えた。
「スイスにも貴族がいたの? 知らなかったわ」
「やだ、何を言っているのよ。スイスには税金対策で住んでいるだけ。ドイツの貴族だって言ったの、聴いていなかったのね。系図を辿るといつだっかの神聖ローマ皇帝にまで行き着くんですって」
「それで? あなたも貴族になろうっていうの?」
「さあ。どうかしら。悪くないアイデアだと思わない? 三回目だから、慎重に決めたいとは思っているんだけれどね」

 そこまで言ってから、アレッサンドラはジューシーなローストチキンの最後の一切れを口に運んで、それからナフキンで口元を拭いてワインを飲み干した。それから、目を大きく見開いて、姉を見据えた。

「私のことはいいけれど、あなたはどうなの、ジョルジア」
関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ファインダーの向こうに(1)ロングビーチの写真家

中編小説「ファインダーの向こうに」の連載開始です。3月から存在をちらつかせていたのですが、予定が大きく狂ってお目見えが9月になってしまいました。びっくり。

そう、これは例の「マンハッタンの日本人」シリーズと同じニューヨークが舞台の話です。でも、「マンハッタンの日本人」のストーリーとは、全く関係ありません。あちらを読んだ事のない方、読む必要はありません。読んだ事のある方は、別の楽しみ方ができるかも。今回、あっちでおなじみのあの人が登場します。


「ファインダーの向こうに」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




ファインダーの向こうに
(1)ロングビーチの写真家


 ジョルジア・カペッリは《アルファ・フォト・プレス》に使わせてもらっている暗室で、作業をしていた。自宅に完全暗室を用意するとなると、スペースでも設備面でも限界がある。会社の専属フォトグラファーとして、ここを自由に使わせるにあたって社長がジョルジアに出した条件はたったひとつだった。ここを使う時には、できる限り会社にも顔を出すこと。

 彼女は、人付き合いが苦手で、黙っていると二ヶ月も会社に来ない。この暗室を使いはじめてからは、渋々だが三回に一度は編集室にやってきて、担当編集者であるベンジャミン・ハドソンとわずかに言葉を交わしてから帰っていく。彼女は、打ち合わせよりも、写真を撮り、納得がいくまで時間をかけて現像することを好んだ。

 以前は、彼女を特別扱いしていると批判的な編集者や他の専属写真家もいたが、決められた撮影には期待以上の成果を出す上、四ヶ月ほど前に出版した最新の写真集『太陽の子供たち』の売り上げが伸びているので、彼女は雑音に悩まされることがなくなっている。

 現像液のバットに慣れた手つきで落とした印画紙を、トングで持ち上げ表を上に向けた。バットの縁を揺らして穏やかに波だたせ、液が緩やかに循環するのを見つめる。次第に赤ん坊の笑顔が浮かび上がる。ほっとした。あの輝きを撮れていたんだ。

 ロングアイランドのナッソー郡にあるとはいえ、クイーンズとの境界のすぐ側の海岸を臨む好立地に、大衆食堂《Sunrise Diner》はある。新鮮なシーフードが美味しいので、ジョルジアが好んで行く店だ。二ヶ月ほど前に撮影旅行から戻ったら、しばらく改装のため休業していたのが新装開店していた。

 驚いたことに、以前よりも掃除が行き届き、明るくて居心地のいい店になっていた。そして、新しいスタッフがいた。
「キャシーっていいます。ここの新しいオーナーが持っていた別の店で働いていたことがあるんです。それで、ここの新装オープンから勤めることになりました」
彼女はハキハキとして氣が利いたので、ジョルジアはこの店にもっと足繁く通うことになった。最近、朝食はほとんどこの店でとっている。それから、もう一区画先にある《アルファ・フォト・プレス》に顔を出す。

 この日、《Sunrise Diner》に、いつものように朝食に行くと、キャシーが赤ん坊をあやしていた。
「あなたの赤ちゃんなの?」
「ええ。普段は仕事の間は義父母が看ていてくれるんですが、旅行に行っちゃったんです」

「女の子? 6ヶ月くらいかしら」
「ええ。よくわかりますね。アリシア=ミホっていうんです」
「ミホ?」
聞いたことのない名前だったので訊き返した。二人の肌の色から、アフリカかどこかの名前なのかと思った。

「友達の名前なんです。日本人なんですよ」

 赤ん坊は、ジョルジアを見てキャッキャと笑った。可愛くて、夢中でシャッターを切った。彼女がメインで使っているNIKONだ。

 キャシーは、我が子に対する愛情には溢れているものの、忙しい仕事の合間にあやすことがたびたびになると、時おり苛ついた様相も見せた。ジョルジアは、キャシーのいつもとは違う顔を観察した。

 そして、思いついたように、もう一つのカメラも向けた。ILFORD PAN Fのモノクロフィルムが入っている。そう、彼女の心をとらえているある写真を撮って以来、必ず携帯するようになったライカだ。

 会社には顔を出さずにすぐに暗室に向かった。カラーのフィルムよりも、モノクロームの出来が氣になった。ジョルジアが仕事で使うのはいつもカラーフィルムだった。写真集でもできるだけ明るく華やかな色で子供の笑顔の明るさを表現し続けてきた。だが、モノクロームの明暗の中に現れる世界は全く違う。光と影のコントラストが、そしてその中間の微妙な陰影が、これまで彼女が表現してこなかったものを映し出している。それは、客観的な子供の明るさではなく、それを観ているジョルジア自身の視線だ。

 顔を上げて光のささない壁を見た。普段からほとんど電灯をつけず、彼女以外が入ることもほとんどないこの部屋の一番奥に、一枚のモノクローム写真が貼ってある。秋の柔らかい光の中に佇む男性の横顔。

 ジョルジアは、意識を手元の作業に戻すと、後片付けを始めた。アリシア=ミホの写真のできばえには満足だった。ふと、何か大切な事を忘れていたように感じた。そして、11時30分を過ぎていることを知り慌てた。マンハッタンへ行かなくてはならないのだ。

 ニューヨークへ出てきているアレッサンドラとの昼食。近代美術館MoMAのエントランスの横にある「ザ・モダン」の「バー・ルーム」で12時に待ち合わせをした。完全に遅刻だ。
関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

ファインダーの向こうに あらすじと登場人物

この作品(2015年9月2日より連載を開始します)は、ニューヨークを舞台に、ひとりの写真家の人生の一部を切り取った中編小説です。既に完結した「マンハッタンの日本人」シリーズと、一部キャラクターなどが被っていますが、関連性はほとんどなく独立した作品です。なお、ブログのお友だち、TOM-Fさんのご了承を得て、あちらの作品に影響のない形でキャラクターをお二人お借りしています。

【あらすじ】
コンプレックスと折り合えないまま、ニューヨークで仕事に生きる一人の女性が、偶然撮った写真をきっかけに少しずつ変わっていく。

【登場人物】

◆ジョルジア・カペッリ 
 ニューヨーク在住の写真家で《アルファ・フォト・プレス》の専属。子供の笑顔をモチーフにした写真は、近年かなりの好評価を得ている。絶世の美女と世間では認識されている妹と瓜二つだが、ブルネットのショートヘア、ノーメイクにジーンズとTシャツという構わないいでたちでいるので、著名なダンジェロ兄妹の家族である事実はほとんど知られていない。大きな身体的コンプレックスがあるために屈折している。

◆ベンジャミン(ベン)・ハドソン 
 《アルファ・フォト・プレス》の敏腕編集者。新人の頃にはじめて担当になって以来付き合いが長いので、人付き合いの苦手なジョルジアの代わりに折衝関係を一手に引き受けている。

◆ジョセフ・クロンカイト
 CNNの解説委員でもある有名ジャーナリスト。ジャーナリズム・スクールの講師でもある。TOM-Fさんの『天文部シリーズ』のキャラクター。

◆アレッサンドラ・ダンジェロ 
 本名 アレッサンドラ・カペッリ。ジョルジアの妹。欠点のない美貌と長い手足が武器のトップモデル。艶やかでゴージャス、豊かな金髪が印象的なため「今もっとも美しいブロンドの女神」と言われているが本当はブルネット。二度の離婚の後、現在はヨーロッパのとある貴公子とつき合っている。

◆マッテオ・ダンジェロ
 本名 マッテオ・カペッリ。ジョルジアとアレッサンドラの兄。健康食品の販売で成功した実業家。アレッサンドラの兄であることから、芸能・セレブ関係のゴシップ誌の常連。甘いマスクとセクシーな声をビジネスにも恋愛にもフル活用する。
 
◆キャシー
 もと《Cherry & Cherry》のウェイトレス。有色系。結婚・出産後、ロングビーチの《Sunrise Diner》で働いている。娘の名前はアリシア=ミホ。

◆春日綾乃
 ジョセフ・クロンカイトの教え子である日本人の美少女。TOM-Fさんの『天文部シリーズ』のヒロイン

【用語解説】
◆《アルファ・フォト・プレス》
 ニューヨーク、ロングアイランドにある規模の小さい出版社

◆《Sunrise Diner》
 ニューヨーク、ロングビーチにある大衆食堂。


この作品はフィクションです。実在の人物、建物、団体などとは関係ありません。

【関連作品】
「マンハッタンの日本人」シリーズ

パリでお前と

【予告動画】
関連記事 (Category: 小説・ファインダーの向こうに)
  0 trackback
Category : 小説・ファインダーの向こうに
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】リゼロッテと村の四季(2)山羊を連れた少年

20世紀初頭のスイスの田舎カンポ・ルドゥンツ村を舞台にした不定期連載「リゼロッテと村の四季」を戯れに書いてみました。まだ特に話は大きく動いていませんけれど、ジオンの家のことや当時の村での学校制度の事などが少しずつ明らかにされています。

今回もlimeさんの素敵なイラストを使わせていただいています。
(イラスト)妄想らくがき・雨なら飴の方が・・・
limeさん、どうもありがとうございます。



「リゼロッテと村の四季」「リゼロッテと村の四季」をはじめから読む
あらすじと登場人物




リゼロッテと村の四季
(2)山羊を連れた少年


 メエエ、メエエと鳴き声がした。リゼロッテは、窓に駆け寄って大きく開け放った。庭の向こうの小径を二十頭くらいの山羊が歩いているのが見えた。

 ヘーファーマイアー嬢は、この村を歩き回る山羊が大嫌いだ。
「山羊のチーズほど臭いものはないと思っていましたが、もっと臭いものがあったのね。雄山羊が通ると、ずっと先でもわかる。おお、いやだ」

 リゼロッテも、山羊のチーズは苦手だ。一度出てきて、ひと口食べて、残りには手を付けなかった。
「チーズを食べないと、健康にはなれませんよ、嬢ちゃま」
家事の一切を引き受けているカロリーネ・エグリは言ったが、ヘーファーマイアー嬢が「食べる必要はない」と言って皿を下げさせた。

 それから山羊のチーズが出てくる事はなくなったのだが、そのチーズの源である山羊の行列にリゼロッテが興味を持つのには理由があった。

 行列の一番前には、長ズボンを履いた若い青年が行く。カロリーネによると、この館に一番近い酪農家カドゥフ家の17歳になる次男でクルディンというらしい。行列の前になったり、後になったりして動き回る、落ち着きのない白い犬がチーロ、そして一番後からついていく半ズボンの少年がジオンだ。

 先月、館の生け垣に頭をつっこんで、リゼロッテと話した、あの硬い髪の少年だ。紫陽花の精オルタンスやガラス玉おはじきの中に住む小さなグラッシィのような、本当にいるのかもはっきりしない友達しかいなかったリゼロッテの、たぶん最初の友達になってくれそうな少年だ。彼女は、通りを行くジオンに大きく手を振った。少年もそれに手を振って応える。

 それが終わると、リゼロッテは、階下に降りて行った。応接間に置かれた大きないかめしい机の前に座って、ヘーファーマイアー嬢のいう通りに書き取りをしたり、計算をしたり、それから本を朗読したりしなくてはならない。

 ジオンは、山羊とどこかへ行く。本も持っていないから、学校に行くようにも見えない。私も外に行きたいな、こんなにきもちよく晴れているのだもの。でも、ヘーファーマイアー嬢に言うと叱られる事がわかっているので、リゼロッテは大人しく勉強した。

 昼食後、一時間ほどの自由時間がある。リゼロッテは、そっと台所に向かった。カロリーネが、せっせと床を磨いていた。
「あれ、どうしましたかね、嬢ちゃま。何かお探し物でも」

 カロリーネのはとても聴き取りにくい発音で話す。はじめは、ヘーファーマイアー嬢の言いつけを破って、方言でリゼロッテに話しかけているのかと思っていたが、夫であるロルフ・エグリが樋の修理にやってきた時に二人で話していた言葉を聴いたら、まったく何を言っているのかわからなかった。それで、リゼロッテは、これまでのカロリーネが遣っていた言葉は、訛は強いけれど正規ドイツ語だったのだとようやくわかった。

「いいえ。探し物ではないの。訊きたい事があって」
「なんでしょう。訊いてくださいな」

「あのね。どうしてジオンは学校に行かないの? 私みたいに家庭教師に習っているの?」
リゼロッテの質問の意味を理解しようと、しばらく口をあんぐりと開けていたカロリーネは、それからあははと笑った。

「ジオンに家庭教師ですって? それは傑作な冗談だこと。いえいえ、嬢ちゃま、ジオンは学校に行きますよ。でも、それは冬の間だけですよ」
「え?」

「学校は、十月に始まって、復活祭でおしまいになるんですよ。そうじゃなかったら、夏の間、働けませんからね」
「働く?」
「もちろんですよ。ここでは、夏の間、みんな働くんですよ」

 カロリーネは、ジオンは9歳だと言った。リゼロッテよりも二つ歳下だ。でも、リゼロッテは働いた事などない。そう言ったらカロリーネは大きく笑った。
「嬢ちゃまは生涯働く必要なんかないですよ。どこかのお金持ちの奥様になるんでしょうから」

 でも、リゼロッテの母親は、医者だった。ドイツで医者の資格を取った女性はまだ五人くらいしかいない。母親は、その事を誇りに思うと言っていた。
「女でも、努力すればやりたい事を職業にできるのよ。医者だって、飛行機のパイロットだって」

 でも、私はどんな職業に就きたいのかわからない。お父さんもヘーファーマイアーさんも、それにカロリーネも、私はお嫁さんになればいいって言うけれど、それでいいのかな。ジオンだって働いているのに。

 リゼロッテは、考えながら自分の部屋に戻った。早く夕方にならないかな。ジオンがまたあの道を帰ってくるだろうから、また手を振ってみよう。

 それから、不意に、先日もらったアルペンローゼのお礼をしようと思い立った。何かないかしら、ジオンにあげられるもの。リボン、お人形、だめだめ、そんなのいるはずはないわ……。

 リゼロッテは、自分の宝箱をそっと開けた。中には色とりどりの丸いガラス玉が入っている。いつだったかお母さんがヴェネチアに行って買ってきてくれたムラノ島の手作りおはじきだ。

「こんにちは。リゼロッテ。今日は、もう遊べるの?」
明るい声がしたように思った。あ、グラッシィ! リゼロッテは、箱の中を覗き込んだ。

 リゼロッテにしか見えない、それも、いつも見えるわけではない小さい友達。リゼロッテは、彼女をグラッシィと呼んでいる。おしゃまで、ケラケラと笑う、楽しい少女だ。

「雨なら飴の方が」 by limeさん
この画像の著作権はlimeさんにあります。二次使用についてはlimeさんの許可を取ってください。

「ううん、グラッシィ。まだ遊べないわ。すぐに、午後の授業が始まっちゃうもの。ねぇ、それより、あなたのガラス玉、少しもらってもいい?」

 リゼロッテは、小さい友達に話しかけた。グラッシィは、首を傾げた。
「どうするつもり?」
「友達にわけてあげようと思うの」
「女の子?」
「ううん、男の子よ」

 グラッシィは、つんとして首を振った。
「だめよ。男の子は、おはじき遊びなんかしないわよ。カエルやヘビにしか興味がないのよ。あたし、そんなところにはいかない」

 リゼロッテは、項垂れた。ダメなの……。じゃあ、何をあげたらいいんだろう。わたしにはカエルやヘビは用意できないもの。

* * *


 午後の授業は、なくなった。カールスルーエのカイルベルト氏とその夫人が、イタリア旅行の途上で訪ねてくることになったのだ。リゼロッテの父親はしばらくここに来ないのだから、わざわざ訪ねてこなくても良さそうなものだが、「そういうものではない」らしい。

 リゼロッテは、父親の名代として応接室に座っていなくてはならないが、もちろん11歳で大人の応対などできるわけはないので、実際の会話はヘーファーマイアー嬢がする。かといって、あくびをしているわけにもいかない。

「いずれは立派な奥様になるために、こういう応対に慣れておくのはいいことです」
ヘーファーマイアー嬢は断言した。

 カイルベルト氏は、リゼロッテの父親の遠縁に当たる裕福な商人で、柔らかい視線をした丁寧な紳士だが、華やかで美しいカイルベルト夫人は、とても口数が多い上、身振り手振りも口調も大袈裟だった。

「まあ、リゼロッテも本当に大きくなって。すっかり健康そうになりましたね。三年前に会った時は本当に痩せていて、顔色も悪かったから、とても心配したんですよ。でも、お医者様のお母さんがついているのに、いろいろと言うのもねぇ……あっ」

 どうやら、ヘーファーマイアー嬢の表情から、リゼロッテに母親の話をするのはタブーだと氣がついたのだろう、それからよけいに内容のない言葉をたくさん使って騒いだが、リゼロッテは黙って下を向いていた。

「お前、リゼロッテにお土産を持ってきたのだろう」
カイルベルト氏が、助け舟を出した。それで夫人は、再びはしゃいで、荷物からとても綺麗な花柄の箱に入ったプラリネを取り出した。

「チューリヒのシュプリュングリィのものなんですのよ。私たちが帰る時にももう一度行って買って帰るつもりなんです。やはりプラリネはここでなくっちゃ」

 箱の中に24個の一つひとつ形の違うプラリネが綺麗に並んでいる。カロリーネの持ってきたコーヒーを飲みながら、カイルベルト夫人は物欲しそうな目をした。ヘーファーマイアー嬢はリゼロッテに、箱をテーブルに置くように言い、それはお客様にも召し上がっていただけと言う意味だったので、リゼロッテはヘーファーマイアー嬢に箱を渡した。

「今は二つだけですよ」
ヘーファーマイアー嬢に言われたリゼロッテは、ピスタチオが載ったものと、クルミの載ったものを一つずつお皿にとり、残りのプラリネが自分から遠ざけられて、カイルベルト夫妻にどんどん食べられてしまうのを残念に思いながら見つめた。

 プラリネを食べようと思ったその時に、不意にこれをジオンにあげようと思い立った。それで、大人たちに見られないように、そっとポケットにしまい、大人しく自分用に用意されたミルクを飲んで、それからしばらく退屈な会話に耳を傾けた。

* * *


 夏の日暮れは遅く、八時半頃だ。「メエエ、メエエ」という鳴き声がしたので、リゼロッテは、また窓の方へと行ってみた。歩いてきたジオンが、何か合図をしている。リゼロッテは頷くと、そっと庭の生け垣の方へと向かった。

 以前、彼が頭をつっこんだオルタンスの紫陽花の影になった繁みから、ジオンは再び顔を現わした。
「よう。いいもの見つけたから、持ってきたんだぜ」

 リゼロッテは、またカエルなのかと身構えた。
「違うよ。カエルやヘビは嫌なんだろ。こっちさ」

 そう言って彼が取り出したのは、エンツィアン(注1)だった。
「まあ、なんて綺麗な青なの!」
とても深い宝石のように濃いブルー。

「山の上じゃないと咲いていないんだぜ。すぐにしおれちゃうから、いますぐ水に漬けろよ、リロ」
少年は、大きな目を片方つむった。

「リロ?」
リゼロッテは、自分を指した。
「うん。だってリゼロッテって長いだろ。嫌か?」

「ううん、嫌じゃないけれど、変な感じ」
「すぐに慣れるさ」
ジオンは、もう勝手にそう呼ぶと決めているようだった。

「じゃ、またな」
そう言って、躙り出ようとする少年を、リゼロッテはあわてて止めた。
「待って。これ、渡そうと思ってたの。この間のアルペンローゼのお礼よ」

 そういって先ほどのプラリネを出そうとポケットを探る。取り出してみると、それは少し溶け変形していて、あまり美味しそうには見えなかった。
「潰れちゃった……。ごめんね。また今度もっとちゃんとした形のを……」

 再びポケットにしまおうとするリゼロッテの手から、ジオンは素早く一つ奪った。
「形なんて、どうでもいいよ! これ、食べていい?」
「ええ。もちろん。こんな潰れていてもいいなら、こっちも……」

 言い終わる前に、一つのプラリネは、もうジオンの口の中に消えていた。目をキョロキョロさせた後、しばらく瞑って、溶けていくチョコレートのハーモニーを楽しんだ。
「ああ、うめぇ。プラリネを食べたのは、まだこれで二度目なんだぜ」

「もう一つは、食べないの?」
リゼロッテが残りのプラリネを差し出しながら訊くと、彼はしばらく至福をもたらすに違いない誘惑と戦っていたが、やがてそれをとってポケットにしまった。

「ドーラにやる」
「ドーラ?」
「俺の姉ちゃん。あいつも、プラリネ大好きだもの。俺だけ食べるのは不公平だ。じゃあな、ありがとう、リロ!」

 リゼロッテは、にじりながら生け垣から消えていくジオンの姿をじっと見ていた。両親や、兄弟姉妹と楽しく食卓を囲む少年の姿を思い浮かべた。それからプラリネをとても喜ぶであろう、まだ見ぬドーラという女の子の姿を思い浮かべた。もしかしたら、彼女の秘密の友達、おしゃまなグラッシィと似ているのかなと思った。


(初出:2015年8月 書き下ろし)



(注1)エンツィアンは濃い青色をしたリンドウ科の草花でアルプスの高地に咲く。エーデルワイス、アルペンローゼとともに「アルプス三大名花」と呼ばれている。
関連記事 (Category: 小説・リゼロッテと村の四季)
  0 trackback
Category : 小説・リゼロッテと村の四季
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(17)遠出

月末の定番のはずが、三週間も押し出されて、もうそろそろ次の月末の「Infante 323 黄金の枷」です。

マイアの休暇のお話の二つ目です。二ヶ月ごとに一週間の休暇をもらえるドラガォンの館の従業員たち。でも、その間も「館で見聞きした事は部外者には話してはいけない」という誓約に縛られています。そして、恋するマイアには、23に逢えない事もまた苦痛である模様。どうやら少し迷走しているようです。

月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(17)遠出

 マイアはとほとぼと街を彷徨い、観光客が楽しく談笑するリベイラに辿りついた。ベンチに足を投げ出して座る。ドラガォンの館に勤めだす正にその日に期待に満ちて河を眺めた同じベンチだった。

 何もかもが二ヶ月前とは違っていた。マイアの心のほとんどを占めているのは23だった。掃除も洗濯も給仕も、それから自由時間にする靴のスケッチも、窓から眺めるD河の夕景もすべてが23と繋がっていた。リベイラの眺め、フォスの海岸、大聖堂へ至る坂道、Gの街へと渡る橋、ワイン倉庫街。生まれてからずっと愛し続けてきた街の思い出は、いつの間にか何もかも彼との思い出に変わっていた。

 けれど、その思い出にはどんな未来も約束もなかった。どこかで自分が抱き続けている脆く儚い幻想を見せつけられたようだった。二ヶ月前までずっと一人で見続けてきた街だ。そして、未来も一人で見続けることになるのだと感じた。

 彼があの美しい人と真に結ばれるとき、もう私と一緒に街を眺めることはなくなるだろう。マイアは心の中で呟いた。

 上手く人とつきあえなかったこれまでの自分のことを思い出した。これまで23以外に、こんなに早く親しく話せるようになった人はいなかった。こんなに長く特別に思ってきた存在もなかった。これから、彼を忘れられるほど心に寄り添える人と出会えるとは想像もできない。

 私はきっと生涯一人ぼっちだ。友達としか思ってくれない人を黙って想い続けていくしかないんだ。マイアはD河の上を渡っていくカモメの鳴き声を聞きながら両手で目を覆った。今、彼とのつながりは心地よく彼女を包み続けていてくれる靴だけだった。

 時間はたっぷりあった。自宅にいる時間が長いと、家族や同じ通りの隣人たちに「勤めはどうだ」「どんなところだ」と質問攻めにあう。街へと逃げだすしかなかった。

 ずっとやってみたかったことがあった。アリアドス通りのカフェ・グアラニの外に座って、道ゆく人びとを眺めること。ソフトクリーム屋に勤めていた時には、注文することは到底無理だった、レアチーズケーキとポートワインのセットを頼むこと。

 マイアの銀行預金はこれまで一度もなかったような残高になっていた。「ドラガォンの館」に住み込みで働いているので、それまで使っていた食事や衣装代にあたる金額が丸々残っていたし、外と連絡を取ることが禁止されているので携帯電話やネットの接続も解約していた。社会保障と保険は全て「ドラガォンの館」が払っていてくれて、毎月の給料がほぼそのままそっくりと残っていた。

 この二ヶ月でマイアが遣ったお金は、外出のついでに23と街で逢った時に払ったコーヒー代と貸自転車代が全てだった。

 レアチーズケーキとポートワインは確かに美味しかった。繊細な甘さと、バターのしみ込んだ台のさくっとした歯ごたえ。喉を通っていくポートワインの濃い甘さ。ウェイターたちの氣さくな笑顔、道往く人々の姿、全てが想像していた以上に素晴らしかった。けれどマイアは一人だった。本当は23とここに座りたかった。彼に逢いたかった。

 でも……。彼はこんなところでのんきにケーキを食べるよりも、きっとボアヴィスタ通りに行くことを夢みているのだろう。《監視人たち》がいっぱいで行くわけにはいかない、ドンナ・アントニアの住む場所。わかっている。私、何をやっているんだろう。マイアは手の甲で涙を拭った。いつまでもテラスに座っているわけにはいかず、マイアは会計をして立ち上がった。

 貸自転車屋に向かい、あの黒い自転車を借りた。マイアは前回よりもずっと軽いペダルを狂ったように漕いで、あっという間にフォスに来てしまった。止まらずに、赤い巨大な網のオブジェのあるラウンドアバウトを通り抜け、隣の市であるMに入った。マイアは今まで一度もMまで来たことがなかった。Pの対岸であるGに入ることは禁止されていなかった。だからPと地続きのMに入ることは大きい問題になるとは思えなかった。

 けれど、父親は家族で出かける時に、絶対にPの街から出ようとしなかった。Mはもともと漁師の街で、美味しい魚を食べさせるレストランが軒を並べている。妹たちは一度ならずともMへと行きたがった。父親は車を持っていたし、そんなに大変な遠出でもなかった。けれど、彼はいつもこんな風に言った。
「ブラガ通りに新しいレストランが出来たんだそうだ。そっちに行ってみないか」

 休暇で戻ってきたマイアを妹たちは明るく迎えてくれた。彼女たちにとってマイアは何も変わらぬ姉のままだった。けれど、二人がMのレストランに行ったと話していた時、夏の休暇でスウェーデンに行くと語ってくれた時、マイアは黄金の腕輪をした姉が家からいなくなったことは、二人にとってきっと幸せなことだったのだろうと感じた。彼女たちも、父親も、さぞ迷惑していただろう。マイアがこの街に閉じこめられて出て行けないのは、彼らには何の関係もないことだ。それなのにマイアの手前、彼女たちもまた多くのことを諦めてきたのだ。

 Mの街はこれからもどうしても行きたくてしかたないというところではなかった。魚の匂いはしたが、ケーキを食べたばかりのマイアは一人でレストランに入るつもりになれなかった。マイアは自転車にまたがって、Pの街に戻った。Mに行ったけれど、何も起こらなかった。マイアはふと考えた。だったら、電車に乗って、一瞬だけスペインに行ってくるのはどうだろう。

 D河を遡る船旅は始めからパスポート提示を求められるので、マイアには不可能だ。でも、サン・ベント駅から電車に乗るだけなら、切符を自動販売機で購入すればパスポートのことは誰も訊かないだろう。スペインまで行って、何をするというわけではなく、ただ、足を踏み入れてそのまま戻ってくる。やってみよう。

 翌朝、マイアはジーンズにTシャツ、それにハンドバックという軽装で、サン・ベント駅に向かった。旅立つためではなく、旅立つ人を眺め、それから装飾の美しさを眺めるためにこれまで何度も訪れていた美しい駅。二万枚のアズレージョでぎっしりと覆われた構内の連廊ををマイアは見上げた。セウタ攻略時のエンリケ航海王子は雄々しく軍隊に指令を出している。マイアも武者震いをして冒険に向かった。

 切符は問題なく買えたし、電車に乗り込み窓際に陣取っても何も起こらず電車は静かに出発した。マイアは嬉しくなってD河の流れに目をやった。子供の時にどれほど望んでも行けなかった遠足のルート。船ではなくて電車だが、見えている光景にきっと大きな違いはない。

 渓谷の両側は緑色の葡萄畑に彩られていた。濃い緑は艶のある葉で、淡い緑は実りはじめたまだ小さな実。わずかに赤っぽい地面の上に、印象的な縞模様が描かれている。風に揺られてそよぐと葡萄の葉が一斉に踊っているように見えた。空は青く、D河の緑の水が反射して煌めいた。

 この葡萄が、ワインになる。世界中へ送られて食卓を賑わす。そして、その同じワインは「ドラガォンの館」にも運び込まれ、マイアたちが給仕している食卓のクリスタルグラスに注がれる。ドンナ・マヌエラが、ドン・アルフォンソが、24が、そして23が楽しみながら飲むのだ。彼の庭で一緒に食事をした時に、お互いに微笑みながら乾杯したのもここで穫れた葡萄で出来たワインだった。

 ああ、まただ。何もかも、想いのすべてが彼へと戻っていってしまう。

 マイアはふと視線を感じたように思った。窓から目を離して通路側を見ると、男が一人座っていた。作業着風のジャケットと白いTシャツに灰色のパンツ姿で、帽子をかぶっている。特に目立つ特徴のない男性だった。彼はマイアを見ている様子でもなかったので、マイアは再び窓に目を戻した。

 いくつか駅を過ぎた。しばらく忘れていたが、マイアは再び視線を感じたように思い、もう一度斜め前の席に目を移した。その男はまだそこにいた。《監視人たち》の一人ではないかと思った。それとも、それを氣にしすぎて視線を感じるように思うんだろうか。マイアは意を決して、別車両に移った。もし男が《監視人たち》の一人なら、ついてくるだろうと思ったのだ。男はついて来なかった。けれど、マイアの斜め前に、別の男が座った。やはり全く目立たない服装の男だった。

 マイアは不安になった。ちょうど電車は県境へとさしかかっていた。国を離れたこともないが、県の外に出たことも一度もなかった。もし、《監視人たち》が私を追っているとしたらどうなるんだろう。ううん。ミゲルは《監視人たち》は絶対に危害を加えたりはしない、ただ見ているだけだって言ってた。だから、そんなに心配しなくても……。

 次の駅に着いてドアが開くと、斜め前にいた男は降りて行った。そして入れ違いに黒いスーツを着た男が二人が入ってきた。そして、やはり斜め前の席に黙って座った。マイアは震えた。母親が亡くなった時に腕輪を回収しにきた男たち、マイアの腕輪がきつくなった時に取り替えにきた男たちと同じ服装だった。これは偶然でも思い過ごしでもない。観察していた人たちから連絡を受けて、本部から呼ばれてきたんだろうか。

 マイアは、国外逃亡と見なされて黒服の男たちに止められたらどうなるのだろうかと思った。連行されて、どこかに閉じこめられるのだろうか。そうなったらその後はどうなるんだろう。「ドラガォンの館」に戻れなくなるのかもしれない。そうでなくてもこの休暇中の自由は制限されるかもしれない。サン・ジョアンの前夜祭にもし、23が来てくれる氣になって、私が行けなかったら……。それはダメ! アナウンスが次の駅に着くことを報せた。マイアは急いで立ち上がった。

 ドアが開くと、マイアはホームに降りた。黒服の男たちも一緒に降りた。彼らはマイアにはひと言も語りかけなかったが、マイアが階段を降りて反対側のホームへと向かうと、隠れる様子もなくついてきた。寂れた駅で、ホームにはマイアと黒服の男たちしかいなかった。次の上りの電車が来るまでには30分近くあった。マイアは落ち着きなく、ワインや葡萄の焼き菓子やキーホールダーなどが並ぶ売店をぶらぶらして時を過ごした。

 電車が来た。マイアが乗り込むと、男たちも後ろから乗ってきて、マイアが腰掛けた席の斜め前に座った。二人は話もしなければ、何かをしている様子もなかった。マイアは窓の外を眺めた。どうしてもスペインに行きたかったわけではない。《監視人たち》の存在が、夢物語ではなかったこと、本当に自分が監視されているのだということがはっきりしても、それほどつらくはなかった。

 23に自分が言った言葉を思い出した。
「叶わない夢なんて見てもしかたない」
あの時は、ほんの少しやせ我慢して口にした言葉だった。けれど、実際に県外に出てスペインを目指し、それを中断した今、それは違う意味を持ってマイアの中に響いた。遠くへ行く夢を諦めたのではない。スペインに足を踏み入れるよりもずっと大切なことができたのだ。23とサン・ジョアンの前夜祭にいくこと。また「ドラガォンの館」に戻り、23と逢うこと。想いが通じるかや、どんな未来が待っているかは関係なかった。

 電車はいくつかの駅を通り過ぎた。窓から目を離し、斜め前の席を見た。いつのまにか黒服の二人はいなくなっており、先ほどの下り電車から降りた目立たない服装の男が座って新聞を読んでいた。
関連記事 (Category: 小説・Infante 323 黄金の枷)
  0 trackback
Category : 小説・Infante 323 黄金の枷
Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】君との約束 — あの湖の青さのように(3)

大海彩洋さん(のところの猫マコト)主催の「オリキャラのオフ会 in 北海道」第三弾、完結編です。本当は「Infante 323 黄金の枷」を先に発表する予定だったのですが(前回も同じ事言ったぞ)、こちらの展開が明後日の方向に行ってしまった関係で、他の方の書かれるご予定を狂わせるに間違いないという事で、少しでも早く発表する事にしました。
オリキャラのオフ会

浦河に到着するところなどは全てすっ飛ばして、盆踊り大会の日から始まっています。若干の回想は入っていますが。うちの二組のキャラのストーリーを畳む事だけに専念していますし、さらにお許しもなく勝手にコラボっています。該当キャラの持ち主の皆さん、すみません。ありがとうございました。

オリキャラのオフ会 in 北海道の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
私のところのチームの詳細設定など



君との約束 — あの湖の青さのように(3)
- Featuring「森の詩 Cantum Silvae」


 正志は焦っていた。浦河の相川牧場に来て二日が経っていた。到着した十日の夜のウェルカムパーティでもずいぶん飲んだが、その前夜の屈斜路湖から、もうペースが崩れていた。昨晩も働いた後にソーラン節の練習をしてから宴会で、思っていた以上に酔ってしまった。そして、今晩は盆踊り大会。ソーラン節を踊りつつ、北海道の海の幸を堪能する結構な待遇だが、これまた飲みまくる事になるだろう。

 自分で酒はそこそこ強いと思い込んでいた。営業という仕事柄、接待で飲み慣れている。だが、この場にいるメンバーの飲み方は、その彼の「そこそこ」をはるかに凌駕していた。

 全員が飲んでいるわけではない。高校生トリオや、中学生の双子、それに見事な太鼓のバチさばきを見せてくれる成太郎は19歳なので、当然一滴も飲まない。二十歳だから飲んでも構わない綾乃も敢えて飲もうとしなかった。牧場の女性陣、それに手伝いにきているかじぺたさんと呼ばれている女性は、お酌をする事はあっても自分たちが飲みまくる事はない。むしろ忙しく台所と宴会場を行き来をしていた。

 異国風の三人のうち、詩人と呼ばれている部屋の中でも全身を覆う見るからに暑い服を纏った不思議な人物は、カニをつつきながら合うとは思えない甘いジュースを飲んでいた。一方、その連れであるオッドアイの青年レイモンドと、大柄な女性リーザは、どれほど飲ませてもまるで水を飲んでいるかのように、全く変わらない。

 それは、コトリも同じだった。屈斜路湖でもそうだったが、もの静かな彼女は飲んでも口数が多くなる事はない。いつもと同じように落ち着いているが、氣がつくと盃が空になっている。ダンゴの方は、賑やかに飲む。量は多くないが、楽しい酒のみだ。そして、屈斜路湖から親しんでいるマックスたちと楽しく話している事が多かった。

 ホストファミリーの相川家は遺伝なのか、誰もがとんでもないうわばみだ。とくに家長の長一郎は、その歳でそんなに飲んで大丈夫なのかと、余計な心配をするほどだが、京都から来た旧知の友、鏡一太郎の方も同じペースで飲み、しかも赤くなって声は大きくなっても、酔って乱れた様子は全く見せない。

 結局、飲んでいるメンバーの中で、一番酒に飲まれかけているのは、悔しい事だが正志なのだった。そして、部屋に行くとふらついたまますぐに寝てしまうので、千絵とまともに話すらできないのだった。

 こんなはずじゃなかった。

 この旅行を計画した時、彼は千絵と、もう少し別の形の旅行をするつもりでいた。屈斜路湖での混浴の露天にゆったりと浸かり、アイヌの文化に触れた後で、二人でじっくりと語り合う。そして、力を合わせて働いた後、部屋で今後の事も話そうなどと、勝手に思っていたのだ。

 今後の事。二人の未来の事。そう、もう少し具体的にいえば、次に旅行するときは新婚旅行だね、という話に持っていければ上等だと思っていた。花火大会もあるから、ムードは満点だと。

 屈斜路湖から見ず知らずのメンバーたちと意氣投合して、毎晩宴会になる事は考えてもいなかった。豪華で美味しい朝食にも舌鼓を打ち、仲間たちと朝から笑い合った。それは嬉しい誤算でとても楽しい事だったが、千絵にプロポーズをする段取りからはどんどん離れていくようだった。

 宴会で千絵と並んで飲みながら話そうと思っても、忙しく働き回る牧場の女性陣を見ると、いつもの放っておけない性格がうずくのか、立ち上がって手伝いに行ってしまう。彼も立って一緒に台所に行こうとすると、他のメンバーが正志を呼び止め、盃に酒をついで話しかけてきた。

 それに、昨日のソーラン節練習直後、宴会の始まりに起こった件があった。

 ソーラン節の振り付けと、厳しい指導、それにめげないメンバーたちのふざけた楽しい騒ぎ。そういうムードが苦手な人もいる。どうやらコトリはそのタイプだったようで、そっと席を外した。たまたま入口の側にいてそれを見ていた正志は、宴会時間になっても帰ってこないので、どうしたのかとトイレに行くついでに建物から出て周りを見回したのだ。

 コトリは愛車DUCATI696のところにいて、オイルをチェックしていた。一日で300キロ近くを走ったのだ。ベストなコンディションにするために、少し整備をしていたのだろう。

「思いっきり飛ばせた?」
正志が訊くと、少し驚いたようだったが、微笑んで頷いた。
「神戸では、ほとんど信号のない直線コースなんてないから」

 それから、しばらくモーターサイクル談義に花が咲いた。正志は、Kawasaki Ninja 650Rに乗っていた時に、逆輸入車だったので、合うキャリア&トップケースを見つけるのに苦労し、バイクを処分したときもそのケースだけは手元に置いてしまったと話した。

「マンションを買うと決めた時に、バイクに乗る事自体をもうやめようと思ったくせにね。まだ未練があるんだろうな」
「ER-6fはまだ市場にでているから、そのうちにまた買えばいいでしょう」
「そのうちにか……」

 その時に、コトリが建物の入口の方を見たので、正志もその視線を追った。そこにはゴミ袋を持っている千絵がいて、DUCATIの前で話し込んでいる二人を見ていた。二人の視線に氣づくと、彼女は小さく手を振って、ゴミ置き場の方へ急いで行ってしまった。

「あ……」
どことなくこれはマズい状況ではないかと思った。後ろめたい事をしていたわけではないし、千絵は、いままでやきもちを焼いたりすることはなかったので、わざわざ追って行って何かをいうのも、よけいに事をこじらせるように思い、しばらく立ちすくんでいた。

「行ってあげたら」
コトリがぽつりと言った。
「え?」

「ダンゴが言ってくれなかったら、私もわからなかったけれど、車種や整備の話、走りの話題についていけない女の子たちは、置いてきぼりになったようでずいぶんと寂しい思いをするみたい。それはそれ、これはこれでどちらも大切なんだって、安心させてあげた方がいいと思う」

 正志は、コトリをじっと見つめた。よくみている人だなと思った。ぶっきらぼうに感じることもあるけれど、とても心の温かい人なのだとも感じた。
「ありがとう。いってくる」

* * *


 ゴミ袋を持って小走りにゴミ捨て場に向かっていた千絵は、悲しいきもちを振り払おうと頭を振った。その時にちゃんと前を向いていなかったので、角を曲がって走ってきた小さなものに氣がつかなかった。

 足元に暖かいものがポンと当たった。それは茶虎柄の小さい猫だった。
「みゃ~!」

「あ。マコト! ごめんなさい!」
千絵は、あわてて屈んでその仔猫を抱き上げた。左右で色の違うきれいな瞳が、千絵を見ていた。いきなりぶつかったにもかかわらず、マコトは嫌がる事もなく、千絵の顔を覗き込んでかわいらしく鳴いた。千絵は、その頭を撫でてやりながら、そっと立ちすくんで、大きなため息を一つ漏らした。

「ずいぶんと大きいため息だな」
その声にはっとして振り向くと、建物の影にいた赤毛の大柄な女性が、千絵の方を見ていた。泉の縁に腰掛けて、何か貴金属のようなものを洗っているところのようだった。

「リーザさん」
「いつも男どもが食い散らかしたものの後始末に走り回っているようだが、それに疲れたんじゃないのか」

 千絵は驚いた。褒めてもらいたかったわけではないし、自分も他の参加者たちのように普通に座って食べているだけでもいいのに勝手に手伝っている事もわかっていたけれど、それでも誰かがそれをしっかり見ていてくれる事が、嬉しかったから。

「いいえ。そうじゃないんです。動き回るのは、私のクセみたいなものですし、嫌じゃないんです。そうじゃなくて……。たぶん、自分の中にはないと思っていたつまらない感情があったので、がっかりしてしまったんだと思います」
「ふ~ん? そういうこともあるさ。それが人間ってもんだろう?」

 千絵は、マコトの毛並みを優しく梳きながら、リーザの方に近づいて行った。見ると彼女が泉の水で洗っているのは小さな真鍮の指輪だった。
「それは?」

「これか? わたしが子供の時に、恩人がくれた指輪さ。ウニがついてしまったんで、洗いにきたんだ」
「とても綺麗。水を反射して光っていますね」

 リーザは、笑って指輪についた水分を丁寧に拭きながら言った。
「高価な宝石付きと違って、どこにでもある類いの指輪かもしれない。だが、わたしにとっては剣とともに一番大切な持ち物だ。モノってのは、どのような形で自分のものとなったか、もしくは失ってしまったか、その歴史で価値が決まるんだと思う。そうやって特別になったものは、他のヤツらがなんと言おうと関係なく大切な存在になるんだ」

 千絵は、リーザが愛おしそうに指輪を嵌めるのを見ながら考えた。私の知らない、バイクに乗っていた頃の正志君。バイクショップの店長であるコトリさんとその話をしている彼がとても生き生きとしていたのは、当時の彼がそのバイクで走る時間を大切にしていたからなのよね。入っていけない世界を感じて悲しくなってしまったけれど、そんな姿を見せたりしちゃダメなのかもしれない。

 マコトが、千絵の腕からぱっと離れて、リーザの膝の上にすとんと遷った。リーザは、千絵の後を見て笑った。
「ああ、邪魔者は消えた方がいいな」

 千絵が振り向くと、そこには戸惑った顔をした正志が立っていた。リーザはマコトを抱いたまま、「がんばんな」とでも言うように正志の肩をポンと叩くと、また続きの酒を飲むために宴会場に戻っていった。それが昨日の事だ。
 
* * *


 盆踊り大会が始まっていた。正志は、「踊っている場合じゃないんだけれどな」と、半ば涙目になりながらソーラン節を踊っていた。昨日の件の誤解はなんとか解けたようだし、千絵は怒ってはいなかったのだが、その後もポイントを稼ぐチャンスがあまりなく、プロポーズどころではなかった。

 踊りながら千絵を探すと、つまだけになった刺身の盛り皿を抱えて台所へと向かっているところだった。

 櫓の上は、盛り上がっていた。レオポルドは、特別に用意してもらった金色の浴衣を身に着けて、ソーラン節を踊った。せっかく用意してくれたお揃いの浴衣もあったのだが、目立たないものは嫌だとゴネたのだ。縫わされる女性陣はムッとしていたようだが、彼らがアイヌの衣装を着、アイヌのハチマキをお土産に持ってきた事を喜んだ弘志夫人が大人の対応で用意してくれた。

「陛下。もうそのぐらいにしておいていただけないでしょうか」
妙に冷静な男の声に振り向くと、見慣れぬ外国人が二人立っていた。一人は、くすんだ赤の袖の膨らんだ上着に灰色の胸当てをし、この暑いのにマントまで身につけた男で、もう一人は大きくデコルテは開いているが、裾までしっかりと覆われたアプリコット色のドレスを着た妙に色っぽい女性だった。

「なんだフリッツか。よくここがわかったな」
レオポルドは、悪びれずに言った。

「あれは誰ですか」
長一郎が、小さい声でマックスに訊ねた。彼はにニコニコ笑って答えた。
「陛下の護衛の責任者を務めているフリッツ・ヘルマン大尉と、高級娼館の女主人マダム・ベフロアです。我々と別れて札幌の歓楽街へ行っていたのです」

「この世界の出口でお待ちしていましたが、いっこうにお見えにならないので、お迎えに参りました」
「もう少しいいではないか。そなたもここに来て飲め。伏見の酒はまだ飲んだ事がないのだろう? それにソーラン節を踊るのも滅多にない経験だぞ」

「陛下。いい加減にしてください。向こうでどれだけの政務がたまっているとお思いなんですか。臣下の皆様のお小言をいただくのは、この私なのですよ」
「じゃあ、お前だけ先に帰って、じじいどもに『よきにはからえ』と伝えろ。余とマックスは、疲れを癒すためにもう一ヶ月ほど滞在する」
レオポルドは、抵抗を試みた。

 ヘルマン大尉は、腕を組み軽蔑した目つきで、女性陣に囲まれて楽しそうなレオポルドとマックスを眺めた。
「では、お二人のご様子を、宮廷奥取締業務の引き継ぎで休む暇もないフルーヴルーウー伯爵夫人に詳細にお伝えする事にします」

 レオポルドとマックスは、ぎょっとして慌てて櫓から降りてきた。
「ちょっと、待ってください、ヘルマン大尉。私はすぐに帰りますので……」
「フリッツ、余が悪かった。明日、花火とやらを見たらすぐに帰るので、ラウラに告げ口するのだけは勘弁してくれ」

「フルーヴルーウー伯爵夫人?」
「ええっ。マックスったら、結婚していたってこと?!」
女性陣から、次々と批判的な声が上がる。特に、馴れ馴れしくされていたダンゴはおかんむりだ。

「ええ。陛下のおぼえもめでたいバギュ・グリ侯爵令嬢で、大恋愛の末の新婚なのよ」
ヴェロニカが、とどめを刺す。皆の冷たい視線に耐えかねて、マックスは、無理やり話題を変えた。

「ところで、ヘルマン大尉。お預けしたお金は全て遣い切ったでしょうか」
現地通貨を持ち帰ってはいけないことになっているので、彼らに渡した三百万円のことを訊ねているのだ。

 ヘルマン大尉の顔は曇った。
「そ、それが……」

 大尉の視線を追うと、二人の後には大量のジェラルミンケースが置かれている。
「私は、歓楽街であるススキノでなんとか遣い切ろうと努力したのですが」

「どうやって遣ったのだ、フリッツ」
「はあ、『そーぷらんど』というご婦人と一緒に入る公共浴場のようなところへ行きまして、値段が張るところでしたので、かなり減らす事には貢献できたと思うのですが……」
「なんだ。そんな大金は払わずとも、女と風呂に入りたいなら、ここの岩風呂を使えばいいのに。いい湯だぞ」

「えっ」
ヘルマン大尉は真っ赤になって、女性陣を見回した。正志は、それは違う! と、心の中でつっこんだが、レオポルドたちに余計な知識は付けない方がいいだろうと思い、そのまま黙っている事にした。

「ソープ……ランドって、何?」
後方で、高校生トリオの一人である萌衣が大きな声で享志に訊いている。正志は、なんて質問をするんだと苦笑いし、享志がどう答えるのかにも興味津々となった。

「聞いたことないな。真、知ってる?」
「いや。知らない。お風呂だって言っていたから、そうなんじゃないのか」

 なんだ、なんだ? どこのお坊ちゃま、お嬢様なんだ、この三人? まあ、こちらに振られるよりは、これで納得してくれれば、その方がいいけれど。なんせ今、千絵の前で、その手の店の詳細を知っているようなそぶりは見せたくないから。

「でも、この人がチンタラ楽しんでいる間に、私がそれ以上に稼いでしまったみたいなのよね」
ヴェロニカが、妖艶な口元をほころばせて言った。

「何をやったのだ」
「ススキノの研修先の高級クラブで、お客さんに氣にいられて。一緒に仕手株というのをやったら、なんだか増えに増えてしまって、このケースの中、全部一万円札がぎっしりなの。どうしたらいいかしら、陛下」

「それでは、それを遣い切るまでは帰れないではないか。なんとか明晩までに使わねばならぬな」
レオポルドは、真剣な面持ちをしたが、金色の浴衣を着ているとどうやっても真面目に考えているようには見えなかった。

 翌朝、襟裳岬経由で花火大会に行く前に、レオポルドとマックスは、ヘルマン大尉によって強制的に着替えさせられた。きちんとした中世の服装をすると、二人ともこれまでのおちゃらけようが嘘のようにサマになった。これまで、彼らの事を少しねじの外れたただの外国人なのではないかと思いかけていた一同も、やはり彼らは異世界から来た王侯貴族なのだと納得した。

* * *


 帯広の夜空を、大きな花が彩った。東京よりも広がっている空がずっと広い。そこを腹の底に響く轟音とともに、赤や緑や金色の色鮮やかな花火が次々と花ひらいた。

 この数日間をともに過ごしたメンバーが座って同じ花火を眺めている。いつも飲んでいたメンバーも、忙しく働いていた女性陣も、バチを話さなかった成太郎も、熊の置物の謎に挑んでいた高校生たちも、宴会を抜け出してバイクの整備をしていたコトリも、今は、全て同じ方向を見て、花火を楽しんでいる。

 隣に座る千絵の白い横顔が、花火の光に彩られている。正志は、今なら話ができると思い当たった。

「千絵」
「なあに、正志君?」

「俺……本当は、もっとお前に休んでもらうつもりで来たんだけれど……いろいろと氣が回らなくて、一人で飲んでいるばっかりで、ごめんな」

 千絵は、微笑んで首を振った。
「そんなことない、正志君。私の事を氣にして、何度も声を掛けようとしていてくれたわよね。それがわかっただけで、十分だったの。あのね、私、この旅、とても楽しかったの。来れてよかったって何度も思ったわ。本当よ」

 千絵は、嫌味でも、諦めでもなく、本当にそう思っているようだった。この旅に来る前と変わらずに、曇りのない澄んだ瞳で正志の事を見つめていた。ちょうど屈斜路湖や美瑛の青い池の水のように。正志の怖れは、すっとほどけていった。

「陛下の提案じゃないけれど……」
「?」
「また、一緒にここ北海道に来ような」

 その言葉を聞くと、千絵は正志を見て、とても嬉しそうに笑った。
「ええ。そうしましょう」

「すぐに来ような。それも……」
「それも?」
「その、できたら……新婚旅行で」

 千絵が、驚いた様子で正志を見た。彼は、意を決して、千絵の方に向き直り、はっきりと言いかけた。
「つまり、その、俺と結婚してくださ……」

 その時、正志は視線に氣がついた。

 中世組四人が遠慮なく注視していた。それに、双子と高校生三人も、生まれてはじめて目にするライブのプロポーズを見逃すまいと、しっかりと目をこちらに向けている。異国風の三人組も会話をやめて止まっていた。そしてそれ以外の若者や大人たちも、あえて見ないようにしながら、全員が固唾をのんで成り行きに注目していた。

 千絵も、その異様な注目に氣がついて赤くなった。正志は、くらくらした。轟音と花火の華麗さを隠れ蓑にして、こっそりプロポーズのはずだったのに、こんな見せ物みたいな状態になってしまった。控えめな千絵が、こんな状態でうんと言ってくれるはずは……ないよな。怒っても、当然だ。ちくしょう、失敗した……。

 がっくりと肩を落として下を見る正志を見て、千絵には、彼の心の内がわかったらしい。皆の視線をものともせずにその手を取ってから、はっきりした声で答えた。
「ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いします」

 正四尺の特大花火が、帯広の空に炸裂した。その一つひとつの光は流星のように尾を引いて、仲間たちの上で輝いた。だが、彼らはその花火を見ていなかった。たった今婚約した二人の周りに集まって、思い思いの歓声を上げた。正志は、ガッツポーズをして、飛び上がった。

「なんとめでたいことだ。余からも祝わせてもらおう」
レオポルドが言った。

「いや、陛下からはすでにいろいろと……」
「それはそれ、これはこれだ。結婚祝いだからな。ふさわしい贈り物をせねば。そうだな、馬百頭を贈ろう」

「えっ?」
正志と千絵は、固まった。

「い、いや、陛下。うちはしがないマンション暮らしで、馬百頭もらっても……」
第一、馬の値段をわかっていないような氣がする。それに馬の維持費も……。

「余が贈ると言ったら、贈るのだ。足りないと言うなら羊も……」
「いや、そうじゃなくて!」

 その時、コトリがすっと立って、こちらにやってきた。
「デュラン、ちょっといいかしら」

 正志が何か言おうとすると、コトリは「私にまかせて」という顔をした。正志は、千絵と顔を見合わせてから、コトリに頷いた。彼女は続けた。
「この世界では、馬をたくさん贈るのは、あなたの世界ほど現実的ではないの。だから、代わりにたくさんの馬に匹敵する機械馬をプレゼントしてあげるといいわ。たとえば、私のDUCATIは馬80頭に匹敵するの。正志君は、数年前に、Kawasaki Ninja 650Rという機械馬を手放さざるを得なくて、とても残念がっていたの。だからそれをプレゼントしてあげて」

「おお、それはいい案だ。そうしよう」
正志は、その展開に小躍りして、もう一度ガッツポーズをした。やった! またNinja 650Rに乗れるんだ! 今度は、千絵とタンデムするぞ。

「ところで、そのNinjaとやらは馬100頭分か?」
レオポルドはコトリに訊いた。
「いいえ。72頭よ」
「では28頭分は、どうするのだ」

 100頭にこだわるな。誰もが苦笑いした。真が立ち上がって言った。
「では、こうしたらどうでしょうか。残りの28頭は、この牧場から買って、そのままここに預けるというのは」

「そうね。維持費の代わりに、ここで観光用に使ってもらえばいいと思うわ」
綾乃もにこやかに提案した。

 相川長一郎と弘志は、突然28頭も馬が売れる事になって驚いたが、やがて頷き合って笑い、それから言った。
「名前はどうしましょうか」

「ここに集まった仲間全員と同じ名前を付けたらどうですか」
成太郎が提案した。皆がそれに同意したので、相川牧場では、このワーキングホリデーに参加した仲間全員の名前をそれぞれに持つ馬が飼われる事になった。

 一つだけ問題があって、マコト号がダブるので、一頭をアイカワマコト号、もう一頭をチャトラマコト号と名付けることで決着した。当然ながらエドワード1世号、アーサー号、ポチ号もいるし、ハゾルカドス号やコクイノオンナ号もいる。

 相川牧場に積まれたジェラルミンケースの中の一万円札の内、一部はコトリの店に送られ、Ninja 650RことKawasaki ER-6fを仕入れてきちんと整備してから正志たちに送る手はずとなった。そして、残りは相川牧場にて28頭の馬の代金と維持費に充てられる事になった。

 正志たちが、もう一度礼を言おうとレオポルドの方を振り返ると、中世の服装をした奇妙な四人はもうそこにはいなかった。始めからいなかったかのように、消え去っていた。だが、マックスとレオポルドの持ってきた土産や、ずっと着ていたアイヌの衣装は相川牧場に残されていたし、ジェラルミンケースの山もちゃんとそこにあった。

「なんとなく、これからもずっと一緒にいるんだと思っていたわ」
千絵がぽつりと言った。正志も、同じ事を思っていた事に氣がついて驚いた。

「いつかまた逢えるよな。ここ北海道で」
「そうね。ここに集まったみんなとも、またいつか逢えるわよね」

 一つの約束が、次の約束に繋がっていく。北海道で始まった絆が深まると、次の縁を呼び寄せる。正志と千絵は、とても幸福になって、青く深い北の大空を見上げた。

(初出:2015年8月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more



というわけで、駆け足でしたけれど、今回はこれで完結です。上手く絡めなかった方、ごめんなさい! とくに幹事の彩洋さんのところのメンバーと、もっと絡みたかったけれど、長くなる一方でどうにもできず。課題の角ドンと、それから「とにかく相川牧場で馬を買う」という目標に向けてのみ邁進した結果です。

いろいろと、空白時間がありますので、お好きなようにうちのキャラを使って書いてくださって構いませんので……。どうぞよろしくお願いします。

今回も、皆さんにたくさん遊んでいただいて、嬉しいオフ会になりました。みなさん、本当にありがとうございました。そして、幹事の彩洋さんとマコト、本当にお疲れさまです!
関連記事 (Category: 小説・あの湖の青さのように)
  0 trackback
Category : 小説・あの湖の青さのように
Tag : 小説 連載小説 コラボ オリキャラのオフ会

Posted by 八少女 夕

【小説】君との約束 — あの湖の青さのように(2)

大海彩洋さん(のところの猫マコト)主催の「オリキャラのオフ会 in 北海道」第二弾です。本当は「Infante 323 黄金の枷」を先に発表する予定だったのですが、他の方が書かれるご予定もあるだろうという事で、こちらを先に発表する事にしました。
オリキャラのオフ会

サキさんのところのコトリ&ダンゴとしばしの別れを告げて、四人はミニバンで富良野へと向かいます。北見でlimeさんのところの双子を、美瑛にてTOM-Fさんのところの綾乃を拾ってまいります。

なお、この後の話は、欠片も書いていません。皆さんの出方を見ながらのんびり一本だけ書こうと思っています。


オリキャラのオフ会 in 北海道の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
私のところのチームの詳細設定など



君との約束 — あの湖の青さのように(2)
- Featuring「森の詩 Cantum Silvae」


「あの先に、二人少年がいるだろう」
後の席に座っているレオポルドが、運転席の正志に話しかけた。

 言われてみると、一キロほど先の反対車線の道路脇に、小さな影が二つ見えた。なんで少年ってわかるんだ?
「少年?」

「ああ、少年二人。一人は親指を上に向けている」
「親指?」
「そうだ。そして、もう一人の少年が、昨夜、そなたたちが見せた例の牧場の紙を見ているぞ」

「ええっ?!」
正志と千絵はぎょっとした。正志と千絵、それに昨日知り合って一緒に浦河の牧場でのワーキングホリデーに同行することになった謎の外国人、レオポルドとマックスは、レンタカーの七人乗りのミニバンで北上していた。本来だったら、昨日行くはずだった富良野へ寄る用事があったからだ。

 朝食後、やはり浦河へと行くことになっているバイクでの女性旅行者たち、コトリとダンゴに夜までの別れを告げて屈斜路湖畔を北上し、北見までやってきたところだった。

 普段なら、反対車線のヒッチハイカーになど氣を留めたりしないのだが、そんな手前から予言のようなことを言われたので、スピードを緩めつつ近づくと、本当に二人の少年で、背の低くてフワフワとした髪の少年が「浦河」と書かれた紙を掲げ親指を突き出していて、もう一人がオロオロと見ている紙は、紛れもなくあの浦河の牧場のチラシだった。

 正志が車を停めて窓を開けた。
「本当だ。あのチラシを持っている。お~い、君たち、ここで何をしているんだ?」

「ヒッチハイクです。残念ながら、みなさんは、反対方向みたいですね」
きれいな顔をした少年だった。凊やかな表情でキッパリと答えた。

 背の高い方の少年が、後から小さな声で言った。
「なあ、ナギ、やっぱりヒッチハイクは無謀だよ。なんかあったらどうするんだよ。電車やバスを使った方がいいって」

 千絵は、鞄から例のチラシを取り出して二人に見せた。
「ねえ、あなたたちもここヘ行こうとしているの?」

 二人は、驚いたようだった。それから頷いて、こちらの車線へと移動してきた。
「嘘みたいだ。さっきから二十台くらい、車が通ったんですが、みんな無視するか、全然違うところにしか行かないみたいで」

「そりゃ、そうだよ」
正志は頷いた。電車を乗り継ぐより、相当効率悪いだろう。

「俺たちは、今日、富良野経由で浦河へ行く。レンタカーにスペースはたっぷりある。君たちが、北海道を半周する遠回りが嫌じゃなかったら、乗ってもいいぞ。そこの二人も乗りかかった船で道連れになったんだ」

 二人の少年は、顔を見合わせた。
「遠回りかもしれないけれど、座っているだけで目的地に確実に辿りつける。こんな偶然は二度と起こらないよね、ミツル」
「そうだな、ナギ。この人もこのチラシを持っているからには、人さらいってこともなさそうだし」
二人は小さく話し合い、それから、こくんと頷いた。

「お願いします。ガソリン代とか、必要だったら言ってください。僕たち、お小遣いも持ってきていますから」
ナギの言葉に、正志は笑って手を振った。

「君たちのお小遣いをぶんどるほど悪どくないよ。それに、レンタカー代とガソリン代だけでなく、昨日の宿泊費用まで全部そっちの二人が払ってくれちゃったんだ。国王さまと伯爵殿らしいから、失礼がないように頼むよ」

 その言葉を聞いて、二人の少年は揃って目を見開いた。国王と伯爵? そのアイヌのコスプレをしたウルトラ奇妙な二人が?

* * *


 釧路から屈斜路湖までずっと平坦な道だったので、層雲峡を通るコースは変化が出るだろうと思っていた。確かに少しは変化があったが、それでも単調な道という印象は拭えない。東京の信号機だらけでイライラする道と較べれば天国のようなのだが、こうも直線コースだけだと少し眠たくなってくる。昨夜は楽しくて騒ぎすぎたし。

 その正志の疲れを察知したのか、層雲峡の手前で、千絵が運転を代わると言ってくれた。レオポルドも運転したがったが、無免許に決まっているので、もちろん断った。千絵の運転は、多少もたつくがひたすら直線コースでは特に問題はなかったし、第一ブレーキなどが丁寧で、ナギとミツルはむしろこっちの運転の方が嬉しいようだった。

 助手席に座った正志は、振り返ってレオポルドに話しかけた。
「ところで、陛下。さっき、ミツル君があのチラシを持っているって、なんでわかったんですか?」

「なんだって。そなたには見えていなかったのか?」
「えっ。あの距離で見えるわけないでしょう」
「そんな視力では、狩りの時に獲物が見えないではないか」
「か、狩り?」

 マックスが、にこやかに言った。
「あまり遠くを見ない生活をしている者たちは、視力が落ちるものなのですよ。例えば街の職人たちは、とても細かい作業は得意ですが、100フィート先の麦の数を正確に数えられなかったりします」
「そういうものなのか」

 正志は、マックスの方を向いて訊いた。
「ってことは、あなたもあの距離のチラシが見えたんですか?」
「ええ、もちろんです。私は、遍歴の教師でしたから、遠くを見る事が多かったのです。なるほど、ここの皆さんたちの視力は、街の職人たちのようなものなのですね」

「あの、お二人はどこから来たんですか?」
ミツルがおずおずと訊いた。
「先ほど、我々はグランドロン王国から来たと言わなかったか」

「ええと、聞きましたけれど……それ、どこですか?」
「知らぬのか。《シルヴア》の森に面している国だが」
「ごめんなさい。僕たち、世界地理はまだ中国までしか終わっていないんだ。二学期になったらヨーロッパの地理もやると思うけれど」

 正志は、俺はヨーロッパの地理も歴史もやったけれど、そんな国の事は憶えていないぞと心の中でつっこんだ。

 ミツルが、大人たちの会話に加わっている間、ナギの方は、少し熱っぽい様子で、会話には加わらずにじっとレオポルドの事を見つめていた。

「おお。千絵殿も『本氣』を出されたか」
突然、レオポルドが楽しそうに言った。

「なんですって?」
千絵と正志は、意味が分からずに同時に訊き返した。

「余は昨日、無理を言ってコトリの機械馬に乗せてもらったのだが、彼女が『本氣だしますよ』と加速した時にな、兜が浮いたような感じになったのだ。今は、全身がわずかに……」

「冗談はやめてください。私は法定速度を遵守しています」
千絵が困ったように言う。正志は、F1じゃないんだから、体が浮くほどスピードを日本国内で出せるかと頭を振った。

「ナギ!」
ミツルが咎めるような声を出したので、運転している千絵以外はナギを見た。彼は、はっとして、それから窓の外を眺めた。大人たちは、それからミツルの方を見たが、こちらは曖昧に笑って誤摩化した。わけがわからなかったが、正志は宣言した。
「とにかく、少なくともみんなちゃんとシートベルトを締めてくれ」

 そういっている間に、車は層雲峡を過ぎ、大雪高原へと入っていった。今朝ダメもとで電話してみたら運良く予約が取れたガーデンレストラン「フラテッロ・ディ・ミクニ」に到着したのだ。「大雪高原旭が丘」の施設の一つで、隣には大きなガーデンがいくつもあるが、今日は食事だけなので入園はしない。

 といっても、目の前に雄大な大雪山を眺める広く開放的なレストランでのランチコース。三方向に大きな窓があり、オープンキッチンで料理される宝石のように美しい料理の数々が運ばれてくる。北海道出身のオーナーシェフ三國氏が監修した、産地最高の食材を使った本格イタリアンだ。

 甘エビのカルパッチョにはグレープフルーツのピュレと、食べられる色鮮やかな花が踊るように添えられている。パスタは、黄色トマト、モツァレラチーズ、そして薫り高いバジル使ったオレキエッテ。メインの肉料理は道産牛のフィレンツェ風ステーキ。そしてドルチェがマンゴーソルベとアマレット酒のパンナコッタで甘いザバイオーネソースがかかっている黄金のような一品。

「どの料理も本当に美味しいですね。しかも色鮮やかで美しいときている」
マックスが幸せな笑顔を見せる。

「そなたたちは、毎日このように美味い物を食べているのか。不公平だ」
レオポルドがブツブツ言っているので、千絵と少年たちはくすくすと笑った。

「いや、毎日ここまで美味い物を食べているわけじゃありませんよ。東京じゃこうは行きません。北海道は海の幸も山の幸も新鮮で美味しい場所として有名なんです。ま、北海道以外にもそういうところはありますけれど」
正志がそういうと、マックスはため息をもらした。
「私たちのいるところは、どこへ行っても、それに最高の食材を集めても、ここまで美味しいものは食べられません。皆さんが羨ましい」

 食事が終わり、エスプレッソを飲んだ後、先を急ぐためにレストランを出る事になった。会計の時に、マックスが全て払おうとしたので千絵が抗議した。
「そんなに何もかも払っていただくわけにはいきません」

「いいではないか。この金は、我々の世界にはもって帰れないのだから、運転してくれているそなたたちのために遣って何が悪い」
レオポルドが言った。

 千絵は、少し躊躇したが、また口を開いた。
「正志君に、ここ北海道で食事をごちそうする一年前からの約束があるんです。一年前に、私の無理をきいて助けてくれたお礼なんです。ここで払わなかったら、また約束が果たせないわ」

 正志は、一年前の約束をすっかり忘れていたので驚いた。彼らが札幌の空港で出会い、なりゆきで富良野まで一緒にレンタカーで行くことになったあの二日間のあと、「北海道に再び行って海鮮丼をおごる事」を約束させたのだ。また逢ってもらう口実のつもりだった。

「あの約束は……」
千絵に言おうとした時に、レオポルドがそれを制した。

「では、なおさら、ここは余が払おう。二人でもう一度ここへ来る約束をするがいい。いや、何度でもここに来て、正志殿が助けてくれた事を想うがいい。正志殿も、その方が金を払ってもらうよりずっと嬉しいだろう」

 千絵は目を見開いた。その彼女に、ニコニコ笑ってマックスは、伝票を係員に渡した。彼女は、それから、ゆっくりと正志の方を振り返った。正志は、何も言わずに大きく頷いた。千絵も無言で微笑んだ。

「想い合うというのは、いいものだな、マックス」
レオポルドが話しかけると、マックスは「本当に」と答えた。

「なぜ余だけいつもチャンスがないのだ。昨日、コトリにほのめかした時にも、結婚したばかりだとあっさり袖にされた」
レオポルドが呟くと、マックスが大袈裟に振り向いた。
「陛下! ご結婚相手はきちんと選んでくださらないと困ります。貴賤結婚だけはやめてください」

「マックスさん、それは時代遅れだわ。コトリさんがとても素敵な方だってあなたも知っているじゃない。貴賤結婚だなんて」
千絵が憤慨した。正志は、憤慨まではしないが、マックスがそういう事を言うタイプだとは思わなかったので、少し驚いた。

 マックスは、少し慌てて弁明するように言った。
「千絵さん、違うのです。私は、世界のあらゆる人たちが、身分の差のある人と愛し合っても構わないし、心から応援するのです。ただお一人、この方を除いて。この方にそれをやられると、私に実害が及ぶんです」

「どういうことですか?」
千絵が少し表情を緩めて訊くと、レオポルドが笑いながら代わりに答えた。
「我々の慣例では、貴賤結婚をすると位の高いものはその地位を失うのだ。そして、余が国王でいられなくなると、現在のところ次期国王にされるのは、わが従弟であるこのフルーヴルーウー伯なのだ」

「伯爵になるのだって、不自由で嫌だったのに、国王なんてまっぴらですよ。絶対にやめてください」
マックスが真剣に抗議しているのがおかしくて、正志たちも双子の少年たちもくすくす笑った。

* * *


 コバルトブルーの水が、鏡のように静まり返っていた。美瑛の青い池。去年、富良野に行った時には存在を知らなかった。千絵がiPhoneの待ち受け画面として使っている画像が、この池の写真だと教えてくれたのは正志だった。

「じゃあ、次に北海道に行く時にはここに行ってみたいわ」
そんな風に話したのは、去年のクリスマスの少し前の事だっただろうか。

 今回の旅行を計画した時、正志に富良野の上田久美子に何かプレゼントを持っていきたいと提案したのは千絵だった。二人がつき合うきっかけになったのは、千絵が亡くなった患者から受け取った指輪のプレゼントを久美子に届けることがきっかけだった。けれど、そのついでに美瑛の青い池にも行きたいとは、千絵には言えなかった。

 札幌から、屈斜路湖へ行く。そして、ずっと南の浦河へも行く。楽しそうに計画を進めている正志に、寄り道をして富良野へ行ってもらう事だけでも、大きすぎる頼み事のように感じていた。

 ましてや、自分の遅刻が原因で、屈斜路湖から富良野経由で浦河へ行くなどという殺人的スケジュールになってしまった後は、「青い池」なんて口にするのも憚られた。けれども正志は、何も言わずに車を白金温泉の方へと向け、青い池の駐車場で停まった。

「わざわざ、ここに来てくれたのね」
「そりゃそうだよ。ほとんど通り道じゃないか。行きたいって言っていただろう?」
「ありがとう、正志君。なんてきれいな色なのかしら。信じられないわ」

 しばらく雨も降っていない晴天の夏の日。青い池を訪れるには最高のコンディションだった。次回また北海道に来るとしても、この素晴らしいブルーが見られるとは限らない。どれほど疲れていても、まるで何でもないかのように笑顔で、この瞬間をプレゼントしてくれた正志の優しさを、千絵は瞳に焼き付けようと思った。

「そなたは何をしているのだ」
正志と千絵は、レオポルドの声のする方を見た。そこには黒い服を着た若い女性がいて、かなり本格的な一眼レフカメラを構えて池を撮っていた。邪魔をされて振り向いた女性の顔に一瞬驚きが表れた。それはそうだろう。アイヌの民族衣装を身に着けた外国人が二人立っていたのだから。

「あらら。ちょっと助けにいってくるか……」
正志は苦笑いして、そちらへと向かった。千絵は、双子はどこにいるのかと周りを見回した。少し離れたところでやはり写真を撮っていたので、安心して正志の後を追った。

 女性は、想像した年齢よりもずっと若そうだった。遠目では、黒いスキニージーンズに、黒いカーディガン、そしてショートカットがボーイッシュなイメージを作っているのだが、大きな瞳とふっくらとした柔らかそうな頬はずっと少女のような可愛らしい印象を作る。大人の女性というよりは、滅多にいない美少女という感じが強い。だが、その唇から出た言葉は、正志たちをさらに驚かせた。
「May I help you?」

 かなりネイティヴに近いアメリカ英語の発音だった。外国人相手だと思ったので、わざわざ英語にしたのだろう。だが、レオポルドたちはお互いの顔を見た。

「どこの言葉だ?」
「アルビオン(ブリテン島の古名)から来た遍歴職人たちの言葉に似ていますね。若干、訛っているようですが」

 以前は、二人で話す時には彼らの言葉だったのに、日本語に慣れすぎたのか、いまでは二人の間の雑談まで日本語だ。
「我々に話しかけるのに、そんな辺境の言葉を遣うのか? ラテン語かギリシア語で返してみるか」
「どうでしょうか。遍歴職人たちはそのような言語は話せませんでしたが……」
「では、面倒を省くには、この酒を飲ませるのが一番早いかもしれんな」

 それを訊いて、正志は吹き出した。
「いや、たぶんその方は、お酒を飲まなくても日本語が話せると思いますよ、ちがいますか?」

 女性は、頷くと改めて言った。
「ええ。日本人ですから。でも、あの……日本語がわかるのに、英語、ご存じないんですか?」

 千絵は、にっこりと笑って言った。
「ちょっと特殊なところからいらしたお二人なんです。それで、現代文明のことなどはあまりご存じないみたいで。カメラも初めて見たんだと思います」

 思えば、いつの間にかこの妙な二人の事をいて当然みたいに受け入れてしまったけれど、よく考えたらありえないよなあ。正志は、考えた。でも、間違いなく昨日からずっと一緒にいるし、酒飲んで騒いだし、それにいっぱいおごってもらったもんな。こうやって、二人にはじめて出会う人が驚く度に、正志は自分がいかにこの二人に馴染んでしまっているかを思い知らされるのだった。おそらく千絵もそうなんだろう。

「これは、カメラと言って、いま観ている景色を記録する機械です。絵を描くのと違って、一瞬でできるんです。見てみますか?」
女性は、レオポルドとマックスの写真を一枚撮ると、ディスプレイを切り替えていま撮った画像を二人に見せた。

「なんと! これはすごい。今の一瞬で、この絵を?」
「なるほど、あちらこちらに置かれている絵が妙に写実的だと思っていたのですが、この機械で作成したのですね」

「あたし、春日綾乃って言います。アメリカのニューヨークに住んでいて、いま一時帰国中なんです。あなた方はどちらからいらしたのですか?」

「俺は、山口正志、こちらは白石千絵。東京から来ました。この二人とは屈斜路湖で知り合ったんですが……」
「我々はグランドロン王国から来たのだ。余は国王のレオポルド、こちらは従弟のフルーヴルーウー伯マクシミリアンだ」

 綾乃は、それはどこと言いたげに正志たちを見たが、カップルの肩のすくめ方と曖昧な笑顔を見て何かを理解したのか「そうですか」とだけ言った。

「綾乃さんはもしかして写真家? なんだかすごい機材を持っているわね」
千絵が訊く。綾乃はニッコリと笑った。
「カメラは趣味です。いずれ職業にする可能性もありますけれど。あたし、学生なんです。専攻は天体物理学で、ジャーナリズム・スクールにも通っています」

「て、天体物理学? アメリカで? す、すげっ」
正志が狼狽える。少女みたいだなんてとんでもない……。

「天体物理学とはなんだ」
レオポルドが正志の方を見て訊いた。

「あ~、星を見て研究する学問で……」
「ああ、占星術の事か。なかなか優秀なようだな」
絶対に占星術じゃない! 正志はそう思ったが、自分で説明するのは難しそうだったので、本人が訂正するのを待つ事にした。

「写真撮影が趣味なら、今日ここに来たのはラッキーだったわね」
千絵が言った。綾乃は、大きく頷いた。
「そうなんです。本当は、できるだけ早く札幌へ行って、夜行バスに乗らなくちゃいけないんですけれど、ここ数日のこの池の状態が最高のコンディションだって聴いたら、浦河に行くのが一日遅れてもしかたないって思えてしまって」

「浦河?!」
正志と千絵は同時に叫んだ。
「ええ、浦河です。ある牧場で働く事になっているんです。どうして?」

 千絵は、バックから例のチラシを取り出した。
「これのことじゃない? 私たち、実は、これから浦河へ行くの。あそこにいる二人の中学生も、今朝、やっぱり牧場に行くってわかって、一緒に連れて行くところなのよ」

 綾乃は、千絵の指す方向を見た。二人の少年が、こちらへと歩いてきていた。
「それは……すごい偶然ですね。みなさんは、どうやっていらっしゃるんですか?」
「俺たちは、レンタカーだ。でも、ミニバンだから、もう一人ならまだ乗れるよ。富良野で、一か所だけ寄るところはあるけれど、その後は浦河に直行する。札幌から夜行バスに乗るよりずっと楽だと思うけれど、よかったら、一緒に行くかい?」

 綾乃は、すぐに決断したようだった。
「ええ、ぜひお願いします!」

 正志は、レオポルドとマックスが嬉しそうな顔をするのを、目の端でとらえた。一方、千絵は、正志とミツル少年も嬉しそうな顔をしたのを見逃さなかった。おかしくてクスクス笑った。

 綾乃がレンタルスクーターを美瑛で返却するのを待ってから、満席になった七人乗りのミニバンは、目的地へ向かって出発した。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more


出てきた場所の情報です。

フラテッロ・ディ・ミクニ
大雪高原旭が丘
白金青い池

次は浦河到着後から書こうと思っています。ちなみにマックスにラウラという妻がいる事は、二人とも決して言いません。ナンパの旅ですからね(笑)話の最後に、ヘルマン大尉とヴェロニカも浦河へやってきますが、この二人の登場はおまけなので、どうぞお氣になさらずに。それより正志と千絵の話のオチはどうしよう。このままではヤマなしオチなしだ……。
関連記事 (Category: 小説・あの湖の青さのように)
  0 trackback
Category : 小説・あの湖の青さのように
Tag : 小説 連載小説 コラボ オリキャラのオフ会

Posted by 八少女 夕

【小説】君との約束 — あの湖の青さのように(1)

大海彩洋さん(のところの猫マコト)主催の「オリキャラのオフ会 in 北海道」第一弾です。
オリキャラのオフ会

今回のオフ会では、基本的に正志視点で事が進みます。というわけで、正志が目撃していないサキさんの書いてくださったお話の続き部分は、後日に(どんな形かはまだ考え中)発表する事になります。

前回のオフ会(in 松江)での、素晴らしい設定に敬意を表して、例の日本酒が再登場します。cambrouseさん、勝手に設定を増やしました。お許しください。


オリキャラのオフ会 in 北海道の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
私のところのチームの詳細設定など



君との約束 — あの湖の青さのように(1)
- Featuring「森の詩 Cantum Silvae」


「あれ。間違えたかな。こんな簡単な道なのに」
正志は首を傾げた。もう屈斜路湖が見えてきていいはずなのに、その氣配がない。ナビゲーターが引き返すように騒ぎだした。

「曲がり角、見落としちゃったのかしら。そろそろ暗くなってきたから。本当にごめんね。正志くん」
「だから、謝らなくていいってば。もともとの到着時間と大して変わっていないって」

 昼前には札幌千歳空港に着く便を予約していたので、ゆっくりと観光をしながら六時間以上かけて屈斜路湖までドライブするつもりだった。千絵が夜勤明けとは聞いていた。そんな疲れることをして大丈夫かと言ったら「飛行機で少し眠れば大丈夫」というので、そのスケジュールにしたのだ。ところが、急患でバタバタして、羽田発札幌行の搭乗時間に間に合わなくなってしまった。それで搭乗便を変更してもらい、夕方の釧路行になんとか乗り込むことが出来た。

 釧路からのドライブ時間はたったの一時間半ほど、途中で曲がるところはたったの二カ所。ナビケーターもついているのに道を間違うなんてみっともないな。正志は思ったが、千絵は飛行機に乗り遅れたせいだと謝ってばかりだ。
「でも……千歳空港に行けていたら慣れているセダンだったのに、釧路には七人乗りのミニバンしか残っていなかったし……もし、午前の飛行機に間に合っていれば……」

「だから、もう氣にするなよ。そもそも、後輩のパニックを放っておけなかったなんて、本当にお前らしい理由での遅刻じゃないか。疲れているはずなのに、ドライブ中も全然寝ないで、ずっと謝っているしさ」
「羽田の待合室で少し寝させてもらったたじゃない。せっかくの旅行のスタートがこんななのに、運転してくれる正志君の横で私がぐうぐう寝るなんて悪いわ」

「だからさ。そうやっていつも人のことばかり……うわぁっっ!」
正志は、ブレーキを強く踏み、車は急停車した。目の前を黄色っぽい塊が横切ったのだ。それは、慌てて道際の木立へと消えていった。

「い、今の……き、キツネだったよな?」
「……尻尾、ふわふわだったわね」
「う、ビビった~。轢かなくてよかったよ」
「本当にいるのね、キタキツネ。初日に見られるなんて思わなかったわ」
「おう。こういうラッキーもあるってことさ」

 二人は笑って、それから五月蝿いナビゲーターの言う事をきいて、もと来た道を戻りだした。それから、今度は間違えずに52号線に入り、屈斜路湖を目指した。

 二人が出会った北海道へもう一度一緒に行こう、その約束を果たしに来た。一年ぶりの北海道。二人がつき合って一年が経ったということになる。看護師である千絵の休みは不規則だから、週末ごとに逢えるわけではない。都内で清涼飲料水の営業をしている正志は残業や接待が多くて平日の夜に逢えることもあまりない。それでも、二人とも可能な限り機会を作り、逢える時間を大切にしてきた。

 人のことを氣遣うあまり、いつも自分のことを二の次にしている千絵のことを、正志は時々じれったく思い、もっと自分を優先しろと言うけれど、実のところ彼が千絵のことで一番氣にいっているのは、そういう多少過ぎたお人好しな部分だ。それと同時に、時おり心配になる部分でもある。看護師は彼女の天職であると同時に、患者も同僚もそのつもりはなくてもそんな彼女を消耗させてしまうだろうから。

 だから、「長い休みを取ると周りに迷惑をかける」という彼女を説得して、北海道旅行を企画したのだ。「約束だから」と強引に。ついでに、たまたま見つけた数日間牧場に滞在して働き、その仲間たちと帯広の花火大会を観に行くという企画にも申し込んだ。単純に観光して飲み食いしているだけより、二人で同じところで寝食を共にして働いたら、もっとお互いのことがわかるいいチャンスだと思ったから。千絵もそのアイデアを面白がってくれた。

 札幌から牧場のある浦河まで直行してもよかったのだが、せっかく休みを取ったので、一度行ってみたかった屈斜路湖で屈斜路コタンの文化に触れることにした。本当は、札幌からのドライブの途中に去年の旅の目的だった、富良野在住の女性を訪ねてお土産を渡すつもりだったのだが、ルートを変更したので、明日、一日で北海道を半周する500km近いドライブになるが、美瑛、富良野を通って浦河まで行くことにしている。

 半日遅れの北海道到着だったが、正志は半日無駄にしたとは思っていなかった。千絵が羽田に着いたらすぐに飛び立てるような都合のいい便には空きはなかったけれど、夕方のフライトを待つまでの間、二人でゆっくり食事をして、たくさん話もできた。待合室で椅子にもたれていたのが、いつの間にか彼の腕に額をもたれかけさせてきた千絵の寝顔を眺めたりしたのも、くすぐったいような嬉しい時間だった。そして、釧路からの一時間半のドライブも、青い空と目に鮮やかな沿道の緑、そして、どこまでも続く道を行くワクワクした心地が久しぶりでとても楽しかったのだ。

「お。あったぞ。あれが今晩の宿だ」
屈斜路湖畔に建てられた本物のアイヌ文化を楽しめるとうたっているプチホテルだ。アイヌ文様をインテリアに多用した客室や、アイヌの伝統に根ざす創作料理を出してくれたるだけでなく、ホテルのスタッフがアイヌ詞曲舞踊団に早変わりしてライブをしてくれることもあるらしい。

 車を停めた時に、正志は、横に停めてあった赤いDUCATI696をちらりと見た。イタリア車か。へえ。綺麗に乗っているな。持ち主はどんな人だろう。そんな事を考えつつ、荷物を持ってホテルへと入っていった。

 アイヌの民族衣装を身に着けた、笑顔の女性が迎え入れてくれた。チェックインがすむとやはりホッとする。なんだかんだいって長い一日だったからな。食事の前に風呂に入って、ゆっくりするか。

「屈斜路湖に面した混浴の露天風呂があるって聞いたんですけれど」
「コタンの湯ですね。ここからすぐのところです。もっとも今、やはりここにお泊りの外国の男性お二人が入っていますよ」
「あ~、俺たちは一緒に入ろうと思って水着を用意してきましたが、その二人は?」
「褌してますよ。外国の方は大抵そうなんですけれど、全裸は抵抗があるとおっしゃったので。さっき宿主が締めてあげました」
「そうですか」

 正志は千絵の方をちらっと見たが、クスッと笑っていたので大丈夫だろうと思った。よく考えたら、若い女性であっても、千絵は看護師で男性患者の世話などもするのだから、褌を締めた男を見るのくらいどうということはないのであろう。それよりも、外国人か。言葉は通じるのかな。正志は戸惑った。

「ところでどこの国の方なんでしょうか。英語ですか?」
「さあ。それが、妙に流暢に日本語を話されるんですよ。ですから、会話には困らないと思います。もっとも、少し変わったところのあるお二人ですけれどね」

「そうなんですか?」
「ええ。どうも、大変コンサバティヴな伝統のある国からいらしたみたいで、テレビやエアコンのことなどをご存じないようなんです。でも、いい方々だと思いますよ。それと、アイヌのモシリライブをどうしても観たいとおっしゃるので、八時半から開催するんですよ。追加料金はお二人が払ってくださいましたので、必要ございません。よかったらそのお時間にシアターにお越し下さいね」

 正志たちは部屋に荷物を置くと、宿の裏手の露天温泉風呂に向かった。

 脱衣室は男女に分かれている。風呂の半分までは大きな岩で区切られているが、その先は混浴だ。
 
 正志が入っていくと、確かに二人の先客がいた。一人は黒い長い髪をオールバックにしたがっちりとした男で、もう一人はもう少し背が低くて茶色くウェーブした肩までの髪の男だった。屈斜路湖の先に夕陽は沈んでしまったばかりのようで、わずかに残った薄紫の光が遠く対岸の稜線を浮かび上がらせていた。二人は、そちらを見ながら静かに外国語で話していた。

「おじゃまします」
正志が声を掛けると、二人は振り向いた。
「おお。遠慮はいらぬぞ。素晴らしい眺めが堪能できるいい湯だ」
髪の長い男が言った。妙に流暢だが、確かに変わった言葉遣いだ。正志は思った。

 茶色い髪の男の目が、岩の向こうから表れた千絵に釘付けになった。彼女の水着は水色花柄のホルターネックタイプで、ブラの部分の下に大きいフリルがあるし、ボトムスも花柄のフリルがミニスカートのように覆っているので、ごく普通のビキニと比較すると大した露出ではないのだが、二人が顔を見合わせてやたらと嬉しそうな顔をしたので、正志はムッとする以前に先ほどの宿の女性の言っていた「コンサバティヴな伝統の国から来た」という言葉を思い出しておかしくなった。当の千絵の方は、そんな風に見られて居心地が悪かったのか、すぐに湯の中に入ってしまった。

「同じ宿に泊まっていると聞きました。俺は山口正志。彼女は白石千絵といいます。東京から来ました。日本語がとてもお上手ですが、日本にお住まいなんですか」
正志が言うと、二人とも首を振った。

「我々はグランドロン王国から来たのだ。余は国王のレオポルド、こちらはフルーヴルーウー伯爵マクシミリアンだ」
「こ、国王と伯爵?」
そんな国あったっけ、そう思いながら正志は二人の顔を見たが冗談を言っているようにも見えなかった。

「そ、そうなんですか。日本語はどちらで習われたんですか」
「習ったわけじゃないんです。これのおかげで聴き取ったり話したりが出来るというだけで」
マックスが手元の瓢箪を持ち上げてみせた。

「なんですか、それは」
「日本酒だ。知らないのか。出入り口で売っているが」
レオポルドが上機嫌で言った。

「出入り口って?」
「時代や空間を超えて旅をする時に通る道の出入り口だ。《シルヴァ》という大きい森と繋がっているのだ。この世界の入り口ではこの酒を買うように奨められているぞ」

「なんて銘柄の日本酒ですか?」
正志の勤める会社は酒類も扱っているが、そんな日本酒があることは知らなかった。聞き捨てならない。

「cambrouse酒造の『年代記』だ。『るじつきー』『ぴるに』『じーくふりーと』と三種類あって、我々は一番値の張る『るじつきー』を買って飲んでいるので、このように話が出来るのだ」

「他の二つだと、どうなるんですか?」
千絵も興味を持ったようで訊いてきた。

 マックスがにこやかに答えた。
「相手の言っていることは、三つとも同じようにわかるのです。ただ、こちらの話す能力に差が出るらしいのです。『ぴるに』だと、どのようなことを話そうとしても、相手にはイーとしか聴こえないそうです」
なんだそりゃ。ショッカー仕様なのか? 正志は首を傾げた。

「もうひとつの『じーくふりーと』だと?」
「相手が返答に困るような爆弾発言を繰り返すそうだ」
レオポルドが答えた。正志と千絵は、顔を見合わせた。それは、まずい。

「それで、お二人は一番高いのを、お買いになったわけですね」
「そうだ。だが、『るじつきー』には現地の滞在費を十分まかなえる金額の小切手が一枚ついて来るのだ。だから結局はさほど高くないのさ」
「お国の通貨でお支払いになったんで?」

「通貨ではなくて、これで払いました」
マックスが、風呂の脇の岩の上に置いてある袋を開けてみせた。中には、大小様々の金塊が入っていた。

「! こ、これ、本物の金ですか?」
「ええ。かなり重いんですよ。あの小切手でもらえる紙幣が、あれほど軽くて価値があると知っていたら、こんなに持ってこなかったんですが」

「一体いくらの小切手だったんですか?」
「五百万円。適当な大きさの金塊がなかったので大きめので払ったら、おつり分も小切手に入れてくれたらしい。札幌に行った連れたちは歓楽街へ行くというので、三百万ほど渡して、残りを我々が持っているのだが、想定したよりも物価がずっと安くて、まだ全然使えていないのだ」

 風呂から出て、食事の時に二人と再会することを約束して部屋に向かう途中、正志たちは二人連れの女性とすれ違った。一人は、黒い髪をきれいにボブカットに切り揃えているボーイッシュなイメージでおそらく千絵と同年代、もう一人はもう少し若そうで、艶やかな長い髪をポニーテールにして赤いリボンをつけているミニスカートの可愛い女性だった。

 二人とも感じよく会釈をして、通り過ぎた。そして、向こうから歩いてくるレオポルドたちのことを見つけると、ポニーテールの女性が大きく手を振ってにこやかに訊いた。
「あ、デュランにマックス! お風呂はどうでしたか?」

 マックスは妙に嬉しそうに答えた。
「ええ。とてもいいお湯でしたよ。こちらの奥方も一緒に入ったのですよ。お二人もお入りになればよかったのに」

 ボブカットの女性は、素っけなく答えた。
「わたしたちは、宿の風呂に入りました。水着も持ってきていないし」

「そなたたちもフンドシを締めてもらえばいいではないか」
レオポルドが言うと、ポニーテールの女性だけでなく、会話を耳にしてしまった正志たちも吹き出した。

「そういうわけにはいきません。それにもうすぐに食事でしょう。ところで、その服、いつも着ているんですか?」
ボブカットの女性が指摘しているのは、レオポルドとマックスの着ている白い服のことだ。木綿でできたアイヌの民族衣装でカパラミプというのだと、当の二人に露天風呂を上がった後に更衣室で教えてもらった。切伏文様を施し刺繍もされている手のかかった服で、かなり高価だと思うが、なぜこの外国人二人が常に着ているのかわからない。

「我々の服装は目立つのでな。滞在国の民族衣装を着ていた方が少しは目立たぬであろう」
「いや、反対に、ものすごく目立ちますけれど」
正志が指摘したが、どうもこの二人は「目立つ」と言われると少し嬉しそうだった。結局、目立ちたいのか。

 こうやって、正志たちも二人の女性と和やかに話をすることができたので、食事は宿のスタッフに頼んで六人一つのテーブルにしてもらった。

「自己紹介がまだでしたね。俺は、山口正志、東京で営業職に就いています。こちらは白石千絵、看護師です」
正志が改めて挨拶をすると、女性二人も笑顔で握手をした。

「はじめまして。私は三厩彩香みんやま さやか です。でも、普段はコトリで通っています。神戸の『コンステレーション』というショップで店長をしています。こちらは友人で運送会社に勤めている佐々葉月さっさ はづき 、通称ダンゴです」

「ダンゴ? こんなにかわいいのに?」
千絵が驚くと、ダンゴはほんの少し顔を赤らめた。
「笹団子からの連想ですって。友達がつけてくれたんです」

 そのいい方とはにかみ方がとても可愛らしかったので、正志と千絵は「なるほど」と、思った。ただの「友達」ではないらしい。

「ダンゴってなんですか?」
マックスが、ニコニコと訊いた。コトリは、わずかに微笑んで、目の前のきびで作られた「シト」という団子を指差した。
「これよ。こういう丸くて素朴なお菓子のこと」

「ほう。ということは、これもダンゴみたいなものだな。見かけは素朴だが、なかなか美味いもので、病みつきになってしまったのだ」
その言葉に横を見ると、レオポルドが部屋にあったジャガイモを発酵させたポッチェを持ち込んで食べていた。これから食事なのに、なぜそれをいま食べる……。正志は苦笑した。

「ところで、ダンゴさんたちは、なぜこの人の事をデュランって呼ぶんですか?」
正志はレオポルドを指差した。
「え? だって、そう自己紹介されましたよ。違うんですか?」

「違わないぞ。どちらも余の本当の名前だ。正式に全部名乗ると長いが、聴きたいか?」
「陛下、やめてください。聞き終わるまでに夜が明けます」
マックスがやんわりと制し、それからにこやかに続けた。

「城下に忍びで出かける時に、レオポルドと名乗られるとすぐに陛下だとわかっちゃうんですよ。それで、子供の頃から忍びのときはデュランと名乗られるのを常にしておられるのです。ちなみに、私はマックスという名前だと思って育ちましたので、親しい者の間では普段からマックスです」
「じゃあ、何故、我々には忍びのお名前をつかわなかったんですか?」

「先ほどまでデュランとマックスで通していたんだが、だんだんと民のフリをするのも面倒になってきてな。どっちにしても我々の事を知っている人間はここには居ない事がわかったしな」
「私も、陛下に対して敬語を使わず話すのに疲れてしまったんで、もう忍びはやめようかと、さっきお風呂の中で二人で話し合ったのですよ」

「ええ~。じゃ、私たちも陛下と伯爵って呼ばなくちゃダメ?」
ダンゴが可愛らしく口を尖らせる。
「そんな必要はありません。さっきまでと同じようにマックスと呼んでください」
「余の事もデュランでいいぞ」

「じゃ、そう呼びますね。コトリもそうするでしょ?」
「今さら変えるのも変だしね」
そのコトリの言葉を聞くと、レオポルドは若干嬉しそうだった。

 料理が次々と運ばれてきた。エゾウグイ、アイヌ語名「パリモモ(口笛を吹く魚)」の活造りは、淡白だが甘味があり口の中でとろけるよう。それに凍らせた刺身「ルイペ(溶けた食べ物)」、ヒメマスの塩焼きなど屈斜路湖の幸が続く。行者ニンニクと豚を濃い味のたれでからめて作った「コタン丼」、おそらく肉と野菜のたっぷり入った味噌汁「カムオハウ」も美味しかった。菱の実「ペカンペ」を利用した和え物、味が濃くて美味しい舞茸、オオウバユリ「トゥレプ」を用いた粥「サヨ」など、日本人である正志たちもはじめてのアイヌ料理の美味さに六人ともしばし無言となった。

「ところで、お忍び旅の目的は?」
千絵が、酒をつぎながらマックスに訊いた。

「休暇です。しばらくきつい仕事をしていまして、それが無事に完了したので、打ち上げみたいなものでしょうか。みなさんは?」
マックスが訊き返すと、千絵はバックから一枚のチラシを取り出した。

「私たちはね、明日からここで働くのよ。たった数日間だけれど、自然と触れあいつつ、美味しいものを食べて、最後に花火を見せてくれるっていう、面白いツアーを見つけたの」

「オリキャラのオフ会 in 北海道」ちらし by 彩洋さん

 すると、コトリとダンゴがびっくりして立ち上がった。
「ええっ。千絵さんたちも? 私たちも、その牧場に行く予定になっているの」

「なんだって。そりゃ、面白い偶然だな。じゃあ、明日からもしばらく一緒だな」
正志が言い、四人はしばらく盛り上がった。

 レオポルドはマックスと、しばらく何か異国の言葉で話していたが、やがて言った。
「面白そうなので、我々も同行してもいいだろうか」

「え? いらっしゃいます? だったら、申し込まないと。今、電話して訊いてみますね」
千絵が、電話するその横で、正志はコトリたちと明日のルートについて話していた。

「うん、わかっている。無謀なんだけれど、今日寄れなかった富良野に行かなくちゃいけないんで、朝一で国道39号線を通って一日ドライブすることになっているんだ」
「それは、ちょっと大変ですね。私たちは、バイクですし、そんな無理は利かないので、直行します。向こうでお逢いしましょう」

「あ。表のDUCATI、君のなんだ! すごいな。その華奢な体で、あれに乗っちゃうんだ」
「あ、でも車体は161キロで軽い方なんですよ。燃料やオイルを入れても200Kgいかないはずです。アルミフレームも使っていますしね。かなり扱いやすいです」
「へえ。たしか80馬力くらいあったよね」
「ええ。加速は胸がすくようですよ。正志さんもバイクに乗るんですか?」
「昔ね。最後のはKawasaki Ninja 650R。マンション買うときに手放した。でも、いずれまた乗るかもね」

 千絵は電話を切ると、にっこりと笑った。
「アイヌ文化に興味のある外国のゲストって言ったら、大歓迎ですって。明日、一緒に行きましょうね」

 六人は、明日以降も続く親交と共同作業を喜んで、再び乾杯をした。食事の後には、スタッフたちがエンターテーナーに早変わりして、モシリ・ライブを開催してくれた。心の触れあう、縄文の精神をテーマにしたアイヌの舞台は圧倒的だった。

 その興奮が醒めやらぬまま、六人はレオポルドたちの泊っている豪華な特別室「アイヌルーム」へ移動し、夜更けまで楽しく飲んで親交を深めた。

(続く)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more

関連記事 (Category: 小説・あの湖の青さのように)
  0 trackback
Category : 小説・あの湖の青さのように
Tag : 小説 連載小説 コラボ オリキャラのオフ会

Posted by 八少女 夕

【小説】リゼロッテと村の四季(1)紫陽花いろの雨

limeさんが、とても素敵なイラストを自由に使っていいとおっしゃってくださっていて、しばらく考えていたのですよ。

(イラスト)雨の精はきっとロマンチスト★

本当は、limeさんのイラストにつけるとっても小さい話のはずだったんですが。なぜかどんどん設定が進んでいってしまい、現在登場人物リストに20人以上いる、長い話になってしまいそうな予感。もちろん、いますぐ連載をはじめたりはしません。本当のさわりだけです。「リナ姉ちゃんのいた頃」と同じように、不定期に時々書いていこうかなと思っています。どっちもスイスのカンポ・ルドゥンツ村の話ですが、あちらは現代の話、こちらは20世紀初頭、第一次世界大戦くらいまでの時期をイメージして書いています。

それに、これ子供の話なんですが。来月のアルファポリスの大賞に出す予定はありません。たぶん、最終的には全く児童文学とは関係のない話になりそうなんで。




リゼロッテと村の四季
(1)紫陽花いろの雨

 涙雨のようだった。リゼロッテは、項垂れて庭の片隅へと向かった。彼女の細くて長い焦げ茶色の髪も、それを飾っている明るい茶色のサテンリボンも、しっとりと雨に濡れていた。ヘーファーマイアー嬢がオルタンスやグラッシィの話を好きでないのは知っていた。でも……。

「ええ。ハイトマンさん。こんなことを言うのは氣が引けるんですけれど、お嬢さんの体だけではなくて、一度、脳の方もお医者さんに診ていただいた方が……」
「なぜそんな事を言うのかね。あの子は、引っ込み思案ではあるが、至極まともに話をするではないか」
「ええ。でも、ご存知ではないでしょう。お嬢さんは、ガラス玉の妖精や、花の上の小さい娘さんと話ができるなんていうんですよ。もう二十世紀になったというのに!」

 書斎で話をする父と、リゼロッテの教育を任されている家庭教師の会話を耳に挟んでしまったのは偶然だった。

「なに、あの子はふざけているだけだろう。でも、くだらないことは言わないように、言っておかねばならないな。人に信用されなくなるような言動は慎まないと。そういえば、あの子の母親も虚言癖があった」
父親は忌々しげに呟いた。

「そうでなくても、この辺りは無知蒙昧な野生の山羊と変わらない人たちが住んでいるんですもの。ほっておいたら、どんな迷信を吹き込まれるかわかりませんわ。つい先日まで、魔女狩りをしていたって話、聞きましたか? お嬢さんのお体が十分によくなられたら、一日も早くデュッセルドルフに戻るべきですわ」
「そうかもしれないな」

 虚言……。花の上に妖精が住んでいると絵本を読みながら語ってくれたのは、リゼロッテの母親だった。国でまだ数人目の女医として、とても忙しく働いていたけれど、一日の終わりには、リゼロッテのベッドに来て抱きしめてくれた。

「あいつは、お前を捨てて、男とともにアメリカに行ってしまったのだ。もうお母さんのことは忘れなさい」
ある日、父親に突然言われた。それからリゼロッテには、絵本を読んでくれる人はいなくなった。

 ある時、突然このスイスのカンポ・ルドゥンツ村に連れてこられた。リゼロッテの虚弱体質を改善するためだと言って。デュッセルドルフの屋敷よりも部屋数は少ないけれど、庭が広くて太陽の燦々と降り注ぐ、美しい家だ。

 庭の一番奥に、紫陽花が植えてあって、夏のはじめになると、リゼロッテの顔ほどもある青い花を咲かせる。彼女は、その花に、美しい花の妖精がいるのではないかと思った。母親が読み聞かせてくれた絵本の中に沢山飛んでいたように。

 そんなリゼロッテに、そっと話しかけてくれたのが、オルタンスだった。

雨の精はきっとロマンチスト by limeさん
この画像の著作権はlimeさんにあります。二次使用についてはlimeさんの許可を取ってください。


 艶やかな青い髪を持った、優しい妖精。リゼロッテは、いつだったか確かに彼女の声を聴いたと思った。姿もわずかな時間だけは見かけたように思う。
「なんて心地いい雨なんでしょう。リゼロッテ、あなたも一緒に水浴びしましょうよ」

 でも、お母さんは、私に嘘を言っていたの? そして、私が、オルタンスと友達なのは、嘘つきの子供だからなの? オルタンス、あなたは本当にいるの? 答えてよ。

「オルタンスって誰だよ?」
突然生け垣から声がしたので、リゼロッテは飛び上がった。

 声のした方を見ると、生け垣から、薄汚れた服を着た少年が顔を出していた。ごわごわの短い髪が乱れている。太い眉と、大きめの目が印象的な子だ。
「あなた、誰?」

「俺? ジオンって言うんだ。あっちの先の酪農場に住んでいる。あんたは?」
「私は、リゼロッテ。リゼロッテ・ハイトマンよ」
「ああ、《金持ちのシュヴァブ》のお嬢様ってのは、あんたか。確かにいい服着てるよな」

 リゼロッテは、そんな不躾な事を言われたのははじめてだったので、面食らった。そもそも、彼女は子供と話をしたことがほとんどなかった。兄妹がいない上に、体が弱くて学校に行ったことがないので、子供と知り合う機会がほとんどなかったのだ。

 とくに、この村に来てからは、子供と知り合う機会がなかった。ヨハンナ・ヘーファーマイアーは、この地方の方言を毛嫌いしており、お嬢様にそんなクセがついたら大変だと思っていたからだ。リゼロッテが館の外に出るのは、日曜日の礼拝のときだけで、しかもわざと、村の人びとのほとんどやってこない早朝にだった。

「それで、なんで泣いているんだ? オルタンスって誰?」
ジオンは、大きな瞳を見開いて訊いた。聴き取りにくい方言だけれど、その様子には、馬鹿にしたり、意地悪を言っている様子はなかったし、ヘーファーマイアー嬢のように眉をしかめてもいなかったので、リゼロッテは躊躇しながら答えた。
「……友達。紫陽花に住んでいる水色の女の子。でも、本当はそんな子、いないのかもしれないって思ったら悲しくなってしまって……」

 ジオンは、首を傾げた。
「今は、いないだけかもしれないだろ? そういうヤツらは、いろいろと忙しいんだぜ」
「そうなの?」
「そうさ。クリスマスに、赤ちゃんキリストが来る(注1)って言うじゃないか。でも、全部の家に行くんだから忙しくて、だから、一度だって出くわしたことないだろう?」
「あ」

 そういえば、「赤ちゃんのキリストがクリスマスに来る」というのは、母親だけでなく、父親もヘーファーマイアー嬢も口にしていた。だったら、オルタンスだって、やっぱりいるのかもしれない。

 リゼロッテは泣くのをやめた。けれど、やはりどこか寂しそうな微笑みを見せた。紫陽花いろの雨がしっとりと二人に降り注ぐ。ジオンは、少し考えてからポケットに手をやった。
「そのオルタンスがいないと、寂しくて泣いちゃうなら、代わりにすごくいいものを置いていってやるよ。さっき見つけたんだ。雨じゃないと出てこないんだ。俺だって滅多に見たことのない、宝石みたいに綺麗な上物だぜ」

 宝石みたい? リゼロッテは、薄汚れた少年から、そんな言葉が出てくるとは思わなかったので、目をみはった。彼は、ポケットから小さなブリキの缶を出した。そして、そっと蓋に手をやると言った。
「よし、手を出せ。氣をつけろよ。すぐ行っちまうから」

 なにが? そう訝りながらも素直に出したリゼロッテの手のひらの上に、彼はそっと缶を逆さにした。冷たい感触がぴくっと触れた。鮮やかな、つややかな緑色。

 それから、リゼロッテはびっくりして叫んだ。
「きゃーーーっ!」

 その声に驚愕して、逃げ去ったのは、手のひらの上に置かれた小さなあまがえるだけではなくて、繁みから顔を出していたジオンもだった。

* * *


 大騒ぎが起こって、すぐに探しにきたヘーファーマイアー嬢に館に連れて行かれたリゼロッテは、雨に濡れて風邪を引いたらどうするんだとか、粗野な村のこどもと話したりするからだとか、散々注意された。

 父親は、あまりきつくは叱らなかったが、「妖精がいるというようなくだらないことを言ってはいけないよ」と諭した。

 リゼロッテは、先ほどよりも、ずっと悲しい心持ちになっていた。

 とても驚いて、叫んでしまったけれど、あのあまがえるは、そんなにきもちが悪かったわけではなかった。あのジオンという少年も、意地悪で蛙をくれたのではなくて、きっと本当にリゼロッテを慰めてくれるために自分の宝物を渡してくれたのだろう。それなのに、自分はすべてをめちゃくちゃにしてしまった。あの子には、嫌われてしまっただろう。

 彼女は、部屋に戻ると、自分の宝箱の中を覗き込んだ。一度はいたと思った、もう一人の友達、ガラス玉おはじきの中に住む小さな女の子グラッシィもやはり姿を見せなかった。リゼロッテは、肩をふるわせて机に突っ伏した。

* * *


 翌朝は、晴れ渡っていた。書き取りと、かけ算の課題が終わった後に、リゼロッテは庭にでることを許された。一番奥の紫陽花は、とても綺麗な青色で咲いていた。ジオンが首を突っ込んだために、その横の生け垣の下部がスカスカになっている。もう、来ないよね、きっと。リゼロッテは、悲しくその穴を眺めた。

 ふと、濃いピンクの何かが目に留まった。屈んでみると、小さく束ねてあるアルペンローゼ(注2)だった。小さな紙がついていて、汚い字で「ごめん」とだけ書かれていた。しかも、綴りが間違っている。

 リゼロッテは、ジオンからの贈り物を抱きしめた。紫陽花の青い花が風に揺れて話しかけた。
「よかったね! リゼロッテ!」

 彼女は、今日は見えていない優しいオルタンスに微笑んで、アルペンローゼを抱きしめたまま、館へと戻っていった。

(初出:2015年7月 書き下ろし)



(注1)ドイツ語圏ヨーロッパでは、クリスマスにサンタクロース(サン・ニクラウス、来るのは12月6日)は来ない。25日の朝にやって来るのは生まれたばかりのキリスト。ただし、20世紀初頭のグラウビュンデン州では現在のようにクリスマスの朝、樅の木の下にプレゼントが用意されているという習慣は浸透していなかった。
(注2)アルペンローゼ(アルプスの薔薇という意味)はツツジ科の灌木でアルプスの高地に咲く。エーデルワイス、エンツィアンとともに「アルプス三大名花」と呼ばれている。
関連記事 (Category: 小説・リゼロッテと村の四季)
  0 trackback
Category : 小説・リゼロッテと村の四季
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(16)休暇

月末の定番(といいつつ月初になってしまった)「Infante 323 黄金の枷」です。

長時間で土日の勤務もあり、さらに普段は許可なしでは館の外へも出られない生活をしているドラガォンの館の召使いたちには、二ヶ月に一度、一週間の休暇が与えられます。勤めだして二ヶ月。マイアもはじめての休暇をもらいます。このマイアの休暇の話は、今回を含めて三回にわけてお届けします。

月刊・Stella ステルラ 6.7月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(16)休暇

「マイア、木曜日から一週間の休暇です。25日の朝からまた仕事なので、24日の夕方には戻ってきてください」
ジョアナに言われてマイアはびっくりした。
「休暇? でも、あれは二ヶ月経たないといただけないのでは?」

 ジョアナは笑った。
「ええ、そうですよ。忘れたみたいですが、あなたは昨日で二ヶ月ちょうど働いたのですよ。慣れないことばかりだったでしょうが、よく頑張りました」

 マイアはジョアナにほめてもらって嬉しくなった。もう二ヶ月経ったなんて、思いもしなかった。
「マイア、しつこいようだけれど、誓約を忘れないようにお願いしますね」
「はい」

 洗濯物を取りにいくついでに、23に休暇のことを報告した。
「ずいぶん急だな。ああ、そうか。もう二ヶ月経ったんだな」
「うん。私も、びっくりしているよ」

「家族に会うのも久しぶりだろう。よかったな」
「うん。休暇の間、何をしようかなあ、考えてもいなかった」

 23は笑った。マイアはふと思いついて意氣込んでいった。
「ねえ。23、休暇だったら、館に帰る時間を氣にしないでいいから、いつもより遠い所にも行けるよ。どこかに行かない?」

 23は、マイアを見たが、すぐに首を振った。
「休暇中はたぶんお前の家の近くの《監視人たち》が観察をするだろう。怪しまれるような行動は避けた方がいい」

 言われてみればその通りだった。マイアはひどくガッカリした。23は失望しているようには見えなかった。それまで作っていた靴を脇にどけると、作業台の引き出しから型紙を探し出した。忙しそうだなとマイアは思った。洗濯物の籠を持って退散することになった。落ち込んだように去っていくマイアの後ろ姿を、23はじっと見つめていた。

 休暇の前日、掃除当番だったので三階と二階を急いで終わらせて工房に降りて行くと、23はいつものように作業をしていた。私が明日からいなくても、なんでもないんだろうな。埃をはたきながら、マイアは靴を仕上げている23の横顔を眺めた。

 掃除機かけが終わり、コードをしまいながら、これが終わったらさようならを言わなきゃと思っていた。たった一週間なのに、私も大袈裟だな。

「できた」
その声でマイアは、顔を上げた。23はマイアに焦げ茶色のバルモラルタイプのウォーキングシューズを見せた。
「お前のだ」
「え?」

「休暇中は、街をたくさん歩くだろう。パンプスよりもこっちの方がいい」
「……。わざわざ、作ってくれたの?」
「パンプスを大切にしてくれているから。ほら、履いてみろ」

 マイアは嬉しくて涙をこぼす寸前だった。膝まづいて調整をしてくれている、23の丸い背中をじっと見ていた。

「なあ、マイア」
23は革ひもを縛りながら言った。

「何?」
「俺は、俺のことを信じて今はマリアに何も言わないと約束してくれたお前のことを信じている」

 ライサのことだ。メネゼスさんやジョアナが心配しているのも、そのことだ。
「23。わたし、約束を一度も破ったことがないほどいい子じゃないけれど、あなたとの約束だけは死んでも守るよ。マリアには休暇のことは言わないし、逢いにも行かない。だから、心配しないで」

 23はマイアを見上げて微笑んだ。
「ありがとう。お前にだけは言っておく。ライサはボアヴィスタ通りにいる。アントニアの家だ」
「23……」
「あそこには《監視人たち》がうじゃうじゃいるはずだ」
「大丈夫だよ。わたし、あんな高級住宅街にいく用事は何もないもの。ウロウロしたりしない。教えてくれてありがとう」

 立ち上がった23は、マイアの頭をぽんと叩いた。
「せっかくの休みだ。仕事のことは忘れて楽しんで来い」
忘れられるわけないじゃない。マイアは23を見つめた。

「6月24日、サン・ジョアンの日までか。いい時期に休みをもらったな。天候に恵まれるといいな」
マイアは飛び上がった。すっかり忘れていた。そうだ、サン・ジョアンの日!
「ねえ、23、前夜祭、行った事ないんでしょう? この街に住んでいてあれを見ないのはもったいないよ。それだけは一緒に行こうよ」

 23は、しばらく答えなかった。即答しない所を見ると、心を動かされているのだろう。毎年のあの騒ぎは、鉄格子の窓の向こうから聞こえていて、行きたいと思っているに決まっている。一年に一度しかないのだ。一緒に行こうよ、行くって言って。

 彼の瞳に諦めの色が灯った。それから静かに首を振った。マイアはその感情をよく知っていた。左手に金の腕輪をしている者が親しんでいる想い。「試しもしないで諦めるな」という人たちはわからないのだ。小さい子供の頃から、どれほど抵抗し、それが無駄だったと思い知らされ、多くのことを諦めさせられてきたかを。マイアはうつむいた。それでも諦めきれなかった。
「最初に待ち合わせたあのカフェに、夜の九時に行くから。もし、氣が変わったら来て、ね」

 23は微笑んだ。
「いい休暇を」

 朝早く、マティルダに短い別れを告げて、ドラガォンの館を出た。坂を上って、父親と妹たちの暮らす懐かしい我が家に戻った。

 レプーブリカ通りは間口の狭い家がぎっしりと並ぶ区画で、マイアの父親と二人の妹とが三階のアパートメントに暮らしている。書店に勤める父親の給料は決して高くない。妹のセレーノは菓子屋に勤め、エレクトラはお茶の専門店で働いている。どちらもあまり給料は高くなく、独立してアパートメントに住むのは難しい。ギリギリ四部屋あるこの小さい空間で肩を寄せあって暮らすのが当然のように思っていた。

 ドラガォンの館でマイアに割り当てられた部屋は、個室ですらなかったが、高い天井、広い室内、シンプルだけれどどっしりとした家具、そして窓から見渡せるD河の眺めがあり、マイアにはとても心地が良かった。それに召使いたちが仕事や休憩をするバックヤード、料理人たちの手伝いをする時におしゃべりもする厨房といる場所があちこちにあった。さらにマイアはこの家で三家族が暮らしているのよりもずっと広い空間に一人で住んでいる23の居住区に入り浸っていた。それに慣れた二ヶ月の後に我が家に戻ってみると、全てが狭苦しく、何よりも自分の存在がその空間をさらに圧迫しているように感じるのだった。

 誓約はマイアを苦しめた。これまで父親と妹たちに隠しごとをしたことはなかった。する必要もなかった。《星のある子供たち》であることで、この家庭に負担をかけていると感じていたマイアは、いつも彼らに誠実であろうと努めてきた。それなのに今回だけは何も言うことができない。彼らがどんな仕事をしているのか、どんな所かと訊くのはとても自然なことなのに。
「何も話してはいけないの」
そう答えることで自分がとても冷たくて嫌な人間になったように感じる。これまでよりもずっと、腕輪が自分と家族の間の壁を作っているように感じた。

 それだけではなかった。心の大部分を占めている悩みをマイアは妹たちに話して軽くすることができなかった。23その人が誓約で話すことを禁じられている事項の中に含まれるだけではなく、見込みがなくてもどうすることもできない今の状態を明るく前向きな妹たちに話すことができないのだ。進めと言われても、退けと言われても、自分が壊れてしまいそうだった。

 妹たちと父親は優しいのに居場所がない。マイアは少し前に23と行った河向こうのワイン倉庫街を思い出していた。

 河に面してたくさんの倉庫兼試飲所があった。たくさんの観光客が行き来して、にぎやかな一画だ。パラソルの下では人びとがポートワインとタパスを楽しんでいた。次々と到着するバスから降りてきた人びとは、試飲と購入のために大きなワイナリーへと吸い込まれていく。マイアには見慣れたGの街の観光街だった。けれど23にはそうではなかった。小さな鱈のコロッケが三つ載った小さな皿とSuper Bockビール。屋敷でクラウディオたちが作る洗練された料理とは正反対の庶民の楽しみが23には珍しそうだった。鋭く突き刺すような強い陽射しの中、23の笑顔も白くかすんでいるように思えた。

 どうしてそちらに行ったのか憶えていないが、その後二人は一つ山側の通りを歩いた。そこは河沿いの賑やかな通りと正反対で、ほとんど誰も歩いていなかった。白い壁が強い陽射しを反射していた。前を歩く23の白いシャツ。丸い背中。マイアの心は急に締め付けられた。彼は壁に溶け込んでいなくなってしまいそうだった。
「待って。ねぇ、待って」

 23は振り向いた。
「どうした?」
いつもの彼だった。ちゃんとした存在感があった。マイアは大きく息をした。
「なんでもない」
「何でもないようには見えないが」

 マイアは肩を落とした。
「……消えちゃうかと思ったの」
それを聞いて23は笑った。
「消えたりしないさ」

 消えそうだったのは、自分の方なのかもしれないとマイアは思った。あの午後に二人は一緒にいた。マイアとあそこにいた23はインファンテではなかったし、ドンナ・アントニアの恋人でもなかった。今、彼は元の居場所に戻り、物理的にも心も遠く離れていた。マイアはもとの世界にいる。ずっと当然だったレプーブリカ通りの小さなアパート暮らし。マイアにふさわしい狭い空間。それでいて拭うことのできない《星のある子供たち》であることの違和感。私はこの世界に一人ぼっち。マイアは言葉にして思った。マイアが浮かれていた23との時間は、叶わない夢、実体のない蜃気楼なのだと思った。
関連記事 (Category: 小説・Infante 323 黄金の枷)
  0 trackback
Category : 小説・Infante 323 黄金の枷
Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(32)フルーヴルーウー伯爵の帰還 -2-

昨年から連載してきたこの「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」、ついに今日で最終回です。自分こそフルーヴルーウー伯爵位の正統な継承者だと言ってルーヴランから乗り込んできたのは、残酷な王女の犠牲となる《学友》にするためラウラを養女にしたバギュ・グリ侯爵です。マックスは、無事に伯爵位を守り通すことが出来るでしょうか。

「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(32)フルーヴルーウー伯爵の帰還 -2-


 マックスとラウラは表で待っていた馬車に乗って王宮に向かった。ルーヴランからフルーヴルーウー伯爵の発見の報に異議を唱え、相続権を主張してバギュ・グリ侯爵が乗り込んできているとの報せを受けたのだ。

 王宮の応接室では、国王レオポルド二世が最高級のワインを共に飲みながらバギュ・グリ候の相手をしていた。非常に礼儀正しく話をしているが、その話題は挑発ぎりぎりといってよかった。
「時に、あれ以来噂を聞かぬのだが《氷の宰相》ザッカ殿はいかがなされておられるのか」

 バギュ・グリ候は、ぎょっとした顔をし、そっと汗を拭きながら答えた。
「わが国王陛下と王太女殿下を欺き、偽の王女をこちらへ送り出した罪により、役を解かれ全財産を没収の上、投獄されました。新しき宰相が任命されるまでの間、国王陛下の親政が敷かれております」
「そうか。陛下にもご心労が多い事とご推察つかまつる」

 ヘルマン大尉が入ってきて、フルーヴルーウー伯爵夫妻が登城したと耳打ちすると、「ここに連れてくるように」と指示をして、侯爵にしっかりと向き直った。

「侯爵殿。一つお訊きしたい」
「なんでしょうか、陛下」

「初代フルーヴルーウー伯爵位はグランドロンが授けたものであり、バギュ・グリ家の血を引くのは伯爵その人ではなく伯爵夫人ユリアであった。この事を正しいと認識されておられるか」
「然り」

「では、正統なフルーヴルーウー伯が、バギュ・グリ侯爵令嬢と再び婚姻を通して縁を深めることに異存はありますまい」

 侯爵は眉を一つ上げて言った。
「正統な、と。二十四年も姿を消していて、突然正統なと言われましてもな。それにわが娘は二人ともわが領地におります。どこかの馬の骨と結婚してフルーヴルーウー伯爵夫人を騙ったりすることなどありえませぬ。それこそが其奴らが偽物の証拠。私がそれを証明してみましょう」

 レオポルドは口元を歪めて笑った。
「ではどうぞ、ご随意に」

 王が目配せをすると、ヘルマン大尉が隣の部屋に通じる扉を開け、二人が入ってきた。
「なっ! 先生、ラウラ!」

「父上様、お久しゅうございます」
「侯爵殿、その節は素晴らしいお飲物をありがとうございました」

 ラウラとマックスは臆する事もなく、侯爵がした仕打ちに怒っている様子もなく、近づいてきた。その冷静な佇まいが却って侯爵を慌てさせ、彼はレオポルド二世の前で取り繕う事も出来なくなってしまった。

 王は侯爵の前に進み出た。今までのような儀礼的な歩み寄り方ではなく、威嚇するように大股で。
「紹介の必要もありませんでしたな。親しく名前を呼ばれたのをしかと耳にしましたぞ」
「う……」

「王女の婚姻と同時にあなたの領地に帰ったはずのご令嬢が、わが領地にいるのは何故でしょうね。フルーヴルーウー伯に嫁がせたからでしょう? それとも何か他の邪な理由でわが国に送り込まれたのですか?」

「それは、その……」
「いろいろと、根も葉もない噂をするものもおりましてな。例の偽王女がバギュ・グリ候と関係があるのではないかとか、それを知った娘婿フルーヴルーウー伯に毒を盛って殺そうとしたとか……。もしその噂が本当だとなるとわが国が宣戦布告をするのは、侯爵殿、あなただということになりますが」

「いや、偽王女の件は、私とは……」
侯爵は真っ赤になり、西の塔でマックスに対して示した態度を恥じながら、視線を避けた。

 レオポルドは畳み掛けた。
「では、フルーヴルーウー伯爵にあなたがご令嬢を嫁がせたと余が聞いている話は、確かに真実なのですな」

 バギュ・グリ候は項垂れて肯定した。それより他に方法はなかった。ザッカと同じような目に遭うのは嫌だった。

 レオポルド二世が頷くと、ヘルマン大尉が側にいた衛兵たちに指令を出した。衛兵たちは剣を構えると一斉に胸の位置に捧げ持ち右足を左足のもとにそろい踏みして叫んだ。
「フルーヴルーウー伯、万歳!」
「グランドロン王、万歳!」

 祝砲が撃たれた。フルーヴルーウー伯爵領の人びとは歓びの声を上げて若き領主の帰還を祝った。王侯貴族も、町の商人たちも、それから農民たちも仕事をやめて祭りとなった。

 祝いの酒や食事の種類はそれぞれに違ったが、一つだけ共通しているものがあった。それは人びとが歌っているメロディ「森の詩」。いにしえより受け継がれた寿ぎがグランドロンの青く高い空に響き渡った。

O, Musa magnam, concinite cantum silvae.
Ut Sibylla propheta, a hic vita expandam.
Rubrum phoenix fert lucem solis omnes supra.
Album unicornis tradere silentio ad terram.
Cum virgines data somnia in silvam,
pacatumque reget patriis virtutibus orbem.

おお、偉大なるミューズよ、森の詩を歌おう。
シヴィラの預言のごとく、ここに生命は広がる。
赤き不死鳥が陽の光を隅々まで届け、
白き一角獣は沈黙を大地に広げる。
乙女たちが森にて夢を紡ぐ時
平和が王国を支配する



(初出:2015年6月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more



ここから先は、後書きです。

2014年3月から連載したこの小説もついに完結しました。ご愛読くださった皆様に篤く御礼申し上げます。

この小説は、いくつかの意味で私の書く小説の中では特殊で、読んでいて戸惑われた方もいらっしゃるかもしれません。

中世ヨーロッパをモデルにしていますが、実在の国家ではなく架空の王国を舞台にしましたので、慣れない固有名詞に混乱された方も多かったと思います。また、チャプター1では、なんと主人公とヒロインが出会わないままでした。庶民の間を旅する主人公、城で貴族に囲まれた生活をするヒロインと一緒に、実際の中世にあった様々な風俗や習慣をかいま見る、ごく普通の小説では使わない手法で、中世ヨーロッパの限界の中で生きる主人公たちに慣れていただきました。

架空の世界なので、もっと魔法やら冒険があるかとおもいきや、まったくそういうものはない、さらには、あまり主人公たちが活躍しない小説でした。

この小説で、私が描き出したかったのは、正にそういうものでした。全ての人は、それぞれの人生の主人公ですが、決して全員がスーパーマンではありません。高校生の時に何も考えずに書いていた「スーパー単純お伽噺」を下敷きにしつつも、それぞれの持つ限界の中で、必死に生きる、そんな主人公たちの姿を書いてみたかったのです。

連載中にとても嬉しかったことがいくつかありました。悪役的立場に居た人物、もしくは主人公たちを手助けした人物に、単純な敵役・味方役としての評価だけでなく、それぞれの立場と思想と信念に従っての行動を読みとってくださった方がたくさんいたことです。

書き方が特殊だった分、どれだけの方が読むのが嫌になってしまうのだろうと、心配しながらの連載開始でしたが、皆様のコメントや拍手に支えられて、完結することが出来ました。支えてくださった皆様、何度も校正役をさせてしまったTOM-Fさん、そして、なんといっても、もったいないほどの素晴らしいイラストで、この世界に花を添えてくださったユズキさんに心から御礼申し上げます。

国王レオポルドの幸せの行方、もしくはルーヴランの『氷の宰相』ザッカや、ちょっとすごいお姫様マリア=フェリシアのその後などを知りたいと言うお声をいくつか頂戴しています。ちょうど私の頭の中で走り出している妄想に重なりますので、もし筆が進めば、いずれはこの世界の続きの話を書くことがあるかもしれません。

その時には、また読んでいただけたら、これほど嬉しいことはありません。

長いこと、このストーリーをご愛読いただき、本当にありがとうございました。
関連記事 (Category: 小説・貴婦人の十字架)
  0 trackback
Category : 小説・貴婦人の十字架
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(32)フルーヴルーウー伯爵の帰還 -1-

昨年から連載してきたこの「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」もついに最終話となりました。二回に分けましたので、今回と来週で完結となります。ルーヴランで王女の《学友》として貴婦人に育った孤児のラウラ、老師の弟子として育てられたフルーヴルーウー伯爵マックス。数奇な運命の果てに辿りついたグランドロンで、二人の新しい人生が始まろうとしています。

最終回の前に、今回はとある登場人物が再びグランドロン王国へとやってきます。ある目的を持って……。


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(32)フルーヴルーウー伯爵の帰還 -1-


 ヘルマン大尉は馬車を門番に託すと挨拶もそこそこに館の中に入っていった。娼館《青き鱗粉》は《シルヴァ》の森を見渡す小高い丘の上にある。黒とオレンジを基調とした洒落たインテリアの待合室でマダム・ベフロアことヴェロニカを待ちながら大尉は苛ついた表情を見せた。昼間から高級娼館に出入りしているなどと噂を立てられるのは本意ではなかった。彼女からの伝言を受けて、急いでやってきたのは、もちろん国王レオポルド二世の命によってだった。

「ただいま、マダムがお見えになります」
老召使いがもったいぶって姿を消した。どうでもいいから早くしろ。ヘルマン大尉は扉を睨みつけた。

 やがて小走りの音がして、扉がわずかに開くとヴェロニカがそっと入ってきた。
「ああ、大尉。お待ちしてましたわ。こちらにいらして」

 ヴェロニカは天鵞絨のカーテンが幾重にも重なる、暗い部屋へと彼を誘った。途中にいくつもの扉があって、女たちのきつい香水とクスクスと笑う囁きが聴こえた。彼女たちは昼間から娼館を訪れた酔狂な客だと思っているのだ。「こっちにいらっしゃいよ」白い手がいくつも出てきたが、大尉は迷惑そうにそれを振りほどいてヴェロニカの後を追った。娼館の女主人であるマダム・ベフロアは笑いながら更に奥へと進み、一番奥で鍵を取りだして解錠した。

 暗い部屋の中に、幾重にも縛られて猿ぐつわを嵌められた娘がいた。扉が開いたのを見ると二人を睨んで猛烈に暴れた。暗闇に目が慣れた大尉は娘をよく観察した。娼婦のよく着るようなヒラヒラしてだらしない服を身につけ、猿ぐつわに真っ赤な口紅が移っていた。だが、その娼婦のなりが全く似合っていない。この子供みたいな顔は、どこで見たのだったか……。
「あの召使いか!」

 ヴェロニカが耳元で囁いた。
「そうよ。あの偽王女の侍女。どうやら侯爵にくっついてルーヴランにやってきたみたい。娼婦たちに混じって後宮に入り込もうとしたので、うちの子たちが捕まえたの。警備をかいくぐって陛下に近づこうって魂胆だと思うけれど」

 ヘルマン大尉はヴェロニカに口止め料を渡すと礼を言って、アニーを引っ立てると用意してきた馬車に押し込んだ。

 あまりに娘が暴れるので、彼はサーベルを鞘から抜くとアニーの首筋にあてて「怪我をしたくなかったら大人しくしろ」と脅した。

 国王レオポルドからはこの件に関しての全権を委任されていた。フリッツ・ヘルマンはしばし考えた。このまま国王の前に連れて行き大騒ぎになると、事情を知らない人間に余計な事を知られる可能性がある。彼は御者に言った。
「フルーヴルーウー伯爵のお屋敷に行ってくれ」

 伯爵邸につき召使いに案内されて中に入ると、外出の用意をしたマックスが階段を下りてきた。
「これは、ヘルマン大尉。あなたがわざわざお迎えにいらしたのですか」
「いいえ、伯爵。本日、王宮に向かわれる前に、このままにできない厄介ごとを処理していただきたいのです」
「厄介ごと?」

 フリッツは馬車から御者が引っ立ててきたアニーを縛っている縄を引っ張った。
「この娘がどうやら後宮に入り込んでよからぬことを企んでいたようで」

 マックスは娼婦のような服を着て立っている娘を見てぎょっとした。
「アニーじゃないか!」

 アニーはすっかり貴公子然として、ヘルマン大尉と親しく話しているマックスを見て、怒りの涙を浮かべながら猿ぐつわの向こうから何かを叫んだ。先生が伯爵ですって。ラウラ様と将来を約束したと言っていたのに、その仇によくも心を売ったわね! 言いたいのはそんな所だろうかと、フリッツもマックスも考えた。

「それは、大変ご迷惑をおかけした。この娘はもちろんこちらで引き取ろう」
そういうと召使いの方を向いた。
「すぐに伯爵夫人をここへ呼んでくれ」

 召使いは、かしこまって奥へ入っていった。アニーは伯爵夫人という言葉を聞いてさらに怒り狂って暴れだした。ラウラ様が亡くなってまだ一ヶ月も経たないのに、もう別の誰かと結婚したなんて!

「アニー!」
暴れていた娘は動きを止めた。聴こえるはずのない人の声だった。

 振り向くと、その時には水色のドレスを着た女性に抱きしめられていた。生きているはずのない女主人ラウラの突然の登場に呆然としていると、フリッツ・ヘルマン大尉はサーベルで彼女を縛っていた縄を断ち切った。それとほぼ同時にマックスが猿ぐつわを外してやった。

 アニーは泣きながらつぶやいた。
「ラウラ様……ご無事だったのですね……」

「そういうわけだ。陛下に何をするつもりだったのか知らんが、今回だけは何もなかった事にしてやろう。少し行儀作法を仕込んでやってくれ」
そういってヘルマン大尉が去ると、マックスとラウラは揃って頭を下げた。

 マックスは召使い頭に命じた。
「悪いが、僕たちが帰ってくるまでに、この娘にまともな召使いの服装を用意してやってくれ。今日からこの子には伯爵夫人の世話をしてもらう事にするから」

 ラウラはそれをルーヴランの言葉に訳して囁いた。アニーがびっくりして顔を上げると、優しく頷いた。
「すぐに帰ってくるから、それまでこの人たちの言う事をきいて待っていてね」

関連記事 (Category: 小説・貴婦人の十字架)
  0 trackback
Category : 小説・貴婦人の十字架
Tag : 小説 連載小説