scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

夏の土曜日、やっていたことは

日本の皆様、大変暑いそうですね。こちらは、申し訳ないほど快適、といいたいところでしたが、ここ数日は涼しいというか、すでに寒いに近い領域。土曜日の午前十時に13℃って。八月ですよ、八月!

そんなこんなもあって、どこにも行かずに自宅にこもっていました。そして、ここ数日やっているのは、あいかわらずMacの番人なのですが、先週から少しいつもと違う事をしています。

以前もこのブログで少し書いたことがあると思うのですが、私の曾々祖母、つまり祖母の祖母は明治時代に日本に嫁いできたドイツ人なのです。で、しばらくはあったドイツの親戚との交流は、日本の敗戦、二度の世界大戦でドイツが負けて国の変わった地域のドイツ人が移住を余儀なくされたことで途絶え、現在どこにいるのかわからなくなっています。

私がスイスに来てから、せっかくドイツ語が話せるし、近くに住んでいるのだからと何度かこの失われた親戚を探せないかとトライしているのですが、いまだに果たせていません。

その捜索に、新しい展開が起きたのがこの月の初めです。

かつて電車で偶然知り合った方からの紹介で、ある親切な方の協力を得て、曾々祖母の両親のことがわかったのです。

もともとこの父親のことがわからなかったのは、出生時に両親が結婚していなかったせいで洗礼時の苗字が母親の旧姓だったから。そんなこと知るわけないし!

で、それがわかったのと、こういう事を調べるための特別なサイトの存在を知ったおかげで、芋づる式に曾々祖母の祖父母や姉妹のこともわかってきました。わかったはいいけれど、これまで聞いていたことと結構違っていて、わかればわかるほど検証が大変になりました。

なんで私、1850年代の、こういう手書きの読み難いアルファベットと夜な夜な格闘しているんだろう。

公文書

おかげで書かなくちゃいけない「十二ヶ月のアクセサリー」も「バッカスからの招待状」も全然手つかずのまま。これはまずいです。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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ちなみに先祖を調べるサイトというのはこれです。
基本的に細かい内容を見るためには、登録して会費を払わなくてはなりません。私はとりあえず一ヶ月分は払いました。継続するかは考え中。

ancestry.de
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Posted by 八少女 夕

葬儀の希望

今日は、三月頃に考えていたことを。なんかいろいろと記事がたて込んでいて、アップできなかったんですよね。

父が鬼籍に入ったのはもうじき二十年も前の事になります。「亡くなるには早すぎる」といわれる年齢でした。私はまだしばらくありますが、連れ合いはそろそろそんな年齢になる頃で、それだけ歳をとってくれば当時わからなかった事もわかってくるし、なるほどなあと思う事もあります。

父の葬儀の時に「昔、葬儀ではこれをかけてほしいと言っていました」と母が伝えて、出棺の前のお別れの時にモーツァルトの「フリーメイソンのための葬送音楽(Maurerische Trauermusik)」をループでかけてもらいました。

私の父は、プロテスタントの家庭で育ったのに、私が三歳の時にカトリックに改宗するという変わった事をした人(それを欧米の人に話すとみな驚愕します。改宗の方向が普通と反対なので)で、葬儀ももちろんカトリックの教会でしたが、これ仏教のお葬式だったりしたら「かけてくれと言われても」と困るんじゃないかなあと思います。それに父のチョイスは、さほど悪くはなかったと思いますが、たとえば「ヴェルディのレクイエム。怒りの日をループで」などと遺言されたら実行する方は困るだろうなあと、いろいろと想像してしまいます。

また、ある別の方の話ですが、とある共同体の中でいろいろとトラブルがあって「●●さんにだけは葬儀に来てほしくない」と言い残されたそうです。ところがお嬢さんがそれを共同体のトップの方に申し出てみたところ「そんなことは言うべきではありません」と拒否されてしまったそうで、結局「来ないでほしい」とは言えないままだったらしいのです。そのご本人は堂々といらして目立つところに座っておられたそうで、お嬢さんは悶々とされたとか。

またあるかなり名のある方が、お子さんのご負担を減らそうと「密葬で、四十九日が明けるまで誰にも知らせなくていい」と言い残されたらしいのですが、実際にそうしたところ、結局亡くなられた事が公にわかって、それから引っ切りなしの弔問が始まり大変なことになってしまったんだとか。お通夜やお葬式では、ご記帳やお香典の受け取りも含めてシステム化されていて、それに乗っていればお香典返しも含めてかなり楽にできるようになっているのですが、個別の弔問だけだとそうもいかず、ご家族は悲しむ暇もなくひたすら対応に追われる事になりました。

「結婚式を希望通りにしたくてあれこれ夢見る」というのは、本人がいることで、希望通りに行かなくても本人が納得すればそれで済みますが、お葬式は「そうはいっても」になってしまうこともあるし、しかも本人はもういないのですから、よほどの事でなければあまり希望は言わない方がいいのかもなあと思ってしまいました。

でも、なんか言っちゃうんですよね。「この曲いいなあ。私のお葬式で流して」とか「お葬式しなくていいから南太平洋かなんかで散骨してよ」とか。それを言い残された人があとで困るかどうかなんて全く考えずに。私何回そういうことを言ったかしら?
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Posted by 八少女 夕

Strohwitwe生活の終わり

タイトル、いきなり謎のドイツ語です。すみません。日本語にするとちょっとインパクトが強すぎるので、タイトルからは外しました。写真は本文とは全く関係ないですが、文章だけなのが殺風景なので貼付けました。我が家にも春が来たみたいで、去年の種からルッコラの芽が出てきました。奥は、また芽が出てしまった玉ねぎとわけぎ代わりに使っているチャイブ。

春が来た

Strohwitweを直訳すると「藁の未亡人」ですが、こう書いて意味のわかる方は皆無だと思います。ドイツ語がわかっても直訳だと意味不明。Wadoku.deでは「空閨を守る妻」と上手に訳されていました。要するに「家にいない夫を貞淑に待ち続ける妻」ということらしいですが、「Witwe」というのは未亡人ということで、「夫に出て行かれちまった妻」「夫は死んでいないけれどいないからフリーな妻」というニュアンスでも使うみたいです。軽く言うと「メリー・ウィドー」ならぬ「フリー・ウィドー」ってところでしょうか。なんだそりゃ。

ともあれ、私の連れ合いは七週間アフリカに遊びにいき、その間私はスイスで一人暮らし。これがまた自由でのんびりできて楽しいこと(笑)もちろん仕事に行っているので、その間遊びまくっているわけではありません。それに一ヶ月以上は「scriviamo!」の執筆期間だったので、自由時間のほとんどは書きまくっていました。

でも、二人でいると食事時間を氣にしなくてはいけませんし、土日は一緒に出かけたりするし、掃除をしたくても楽しそうにテレビを観ている人の横で掃除機をかけられないなんてこともあるし、まあ、いろいろと自分の都合だけで動けないじゃないですか。それが七週間、自分のやりたいことばかりしまくっていました。

昔のコマーシャルで「亭主元氣で留守がいい」と言っていたのを思い出しました。本当にそうだと笑ってしまいました。

その「藁の未亡人ライフ」もあと数日でお終い。また二人での生活が始まります。まあ、それはそれでいいんですけれどね(笑)
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Posted by 八少女 夕

過去のことではなくて

今日は別ののんきな記事を予約投稿しようとしていたのですが、よく考えたら3月11日であまりにもノーテンキかなと思いそちらの記事は別の日にアップすることにしました。

周りを見て、「不謹慎と言われるかもしれないから」という動機で記事を書くのは好きではないのですが、それでも、ここしばらく思っていることを書くのに、この日は最適です。

こちらのドキュメンタリーで、関東大震災の時に何が起こったかを見ました。地震による被害だけでなく、その後起こった火事、それから熱風の竜巻で多くの方が犠牲になったこと。あまりにも痛ましい再現ドラマでしたが、もし同じことが再び起こるならば、その場に残ってはいけないのだと強烈に印象づけてくれる番組でした。東日本大震災の再現ドラマも、いざという時に生死を分ける正しい判断をするために、つらくても放映し、情報を共有した方がいいのでしょうね。

日本に住む方にとっては地震・火山・津波・台風など大きな自然災害は、過去のことや他人事ではなく、明日自分の身に起こるかもしれないつらい現実です。

一昨日、スイスの中央部で地震がありました。私の住む東部では「あれ。脱水機動いていたっけ」と勘違いする程度のわずかな揺れで、おそらく日本なら毎週あるぐらい。アルプス山脈という大きな地殻変動があったところにしては、スイスは地震が少ないのです。歴史上の最大の地震カタストロフィはおそらく中世にあったバーゼルの大地震でしょうか。

少し南に行くと、イタリアでは何度も大きな地震災害が起きていますから、ヨーロッパにいれば安全というわけでもないのですが、四つのプレートの真上に住む日本の方々からしてみたら「安全なところから何か言っているヤツがいる」存在なのかなと思います。

海がないので、津波の被害にあうこともまず考えられません。それだったら、おそらく雪崩に巻き込まれるか、ダムが決壊して巻き込まれる可能性の方がずっと大きいかと思います。

東日本大震災の起こった日、私はスイスにいましたので、あの日がどんなだったかの実感はありません。テレビで観たこと、家族や友人から聞いたことから、頭で理解していただけです。世界が変わってしまったと国中で人びとが悲しみ怯えていたその氣持ちを本当の意味では共有していません。

「311が風化していっている」という話をあちこちで聞きます。まだ被災地は復興していないし、大きな問題が依然として残っているのに、まるで何事もないかのように扱われているという話も聞きますし、私自身が日本に帰国する度にそれを思います。

昨年の一時帰国の時に「シン・ゴジラ」を観に行ったのですが、あの作品を見ながら「その解決策、フクシマに使えたらいいのに」と思った観客はたぶん私だけではないと思います。

目に見えない健康被害を受けている方、行方不明の方を未だ探し続けていらっしゃるご家族、避難先でのいじめに耐える子供たち、風評被害と戦う農家の皆さん、その他、あの震災で人生の青写真が大きく変わってしまった人びとのことを考えると心は痛みます。それでいながら、あまりにも問題が大きすぎて、手を差し伸べることが不可能に思えてしまい、氣がつくと考えないようにしている自分がいます。

見えないように蓋をしても、それは解決にはつながらないことはわかっています。でも、ヨーロッパで暮らしていれば、テロやなだれ込む移民の問題のほうがずっと身近な脅威で、問題意識や何かをしなくてはという想いは、なかなか祖国に向いていきません。ましてや、帰国する度に「なんともない」顔を見せる東京の姿は、よけいに私の忘却に言い訳を与えてしまうのです。

そして、3月11日がめぐってくると、その日だけ殊勝な顔をする自分がいて、そのことに腹立ちを感じます。それは大きな偽善でしかないと思うから。

「○年前のこの日に、あんなことがあったんだよ」と、過去の話として語り継げる、それも、「私は何も出来ないのに、しかも忘れている」という後ろめたさを感じずに話せる日が来てほしいと切に願います。それと同時に、普段は忘れているとしても、何かこちらからでも出来ることがあったら、積極的にしたいなと……また、この日だけ思うしようもない自分なのでした。
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Posted by 八少女 夕

樅の木のゆくえ

今日はちょっと思ったことを。

樅の木

日本だと各家庭にあるクリスマスツリーは、プラスチックのことが多いですよね。スイスやドイツでは、本物の樅の木とロウソクを使うことの方が多いのです。日本だと火事が心配でそんなことはしない(もしかして許可制?)だと思うんですが。

その樅の木は根がついていないので、クリスマスが終わると枯れてしまいます。

ドイツ語圏の人たちというのは、何事にも「環境が」とか「使い捨てはよくない」とか言います。ところがその同じ人たちが、毎年ものすごい量の樅の木が使い捨てにされていることには全く別の人のような態度を示すのです。

「プラスチックの木と電球なんて、本当のクリスマスじゃない」「これは伝統なんだ」「森は木を間引かないと健全な状態にならない」って、それぞれ理由をつけて抵抗してくるのです。

自分たちのしたいことになると急に「伝統が」「文化が」と言い出すのは、何もドイツ語圏の人たちだけではありません。日本人も例えばマグロをもう食べるな、鰻が絶滅危惧種だと言っても、やはりいろいろと理由をつけて資源の大量消費からは目を背けようとしますよね。

日本人がマグロをこんなに食べるようになったのも、土用の丑の日に鰻を食べるようになったのも、実は古来の伝統ではないですよね。

それと同様に、スイスの各家庭にクリスマスツリーが飾られるようになったのは、伝統なんかではなくてまだ100年も経っていないことです。私の知り合いの95歳の方は、子供の頃はクリスマスツリーは教会か学校にしかなかったと語っていますから。この樹々は森の間伐材じゃないこともはっきりしています。クリスマスのために育てているんですよ。サイズも形もいらない木ではなくて、ツリー用にちゃんと用意している商品です。

なぜ鰻を食べなくてはならないのか、もしくは、なぜ大量に廃棄のでる恵方巻を流行らせるのか、他の文化の人たちになんと言われようとも、それを振り切ってでも突っ走る心理は、この樅の木の扱いにもよく表れていると思います。

美しいもの、楽しい思い出、美味しいものを特権階級ではない人たちでも楽しめる時代になったことは有難いことです。私もマグロも鰻も好きですし、樅の木の香りもロウソクのついた厳かな姿も好きです。

それでも、この歓びの裏には巨額のお金、マーケティングなどが蠢いていて、実際に使い捨てや大量廃棄を生み出している問題もあることを意識すべきだと思っています。流行、マーケティングなどに踊らされて、必要もないのに何かを大量消費し、結果的に環境や生物の生存を脅かす前に、少し立ち止まってこれは本当に必要なのかと一人一人が考えるようになるといいのになと毎年思う待降節です。

というわけで(?)我が家のクリスマスツリーは、もちろんプラスチック製です。
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Posted by 八少女 夕

人生のポイント獲得

あいかわらず、ポケモンGOをやっている私です。ネットニュースを読むと誰も彼もがやっているみたいですが、周りの感触だと実際はそうでもないですよね。とくに創作系ブログをお持ちの方は、けっこう関心が薄い。もちろん今日もポケモンGOの布教で書いている記事ではありません。単にちょっと絡めて考えたことを。

私のように普段まったくゲームをやらない人でもポケモンGOはやっているタイプは、確かにいるようで、「なぜその人たちはハマるのか」というような記事を読んだんですよ。うろ覚えですけれど、要は、「目の前に出現した何かを自分のものにできるチャンスを逃すのががまんならない人間の性質に上手く訴えたゲームだ」というような論調でした。

そうかもしれません。それに、つまらないスズメや芋虫みたいなポケモンでもコツコツと捕まえることで、経験値が上がっていき、レベルアップするってことも。それが普段の生活と直結しているというのも大きいかもしれません。けっこう忙しい生活の中で、ずっとゲーム機の前に座っているわけにはいきませんが、通勤はいずれにせよ毎日するわけでその時間内で楽しめるわけですから。

で、話はようやくこれから本題です。

ゲームにしろ、趣味にしろ、仕事にしろ、人間関係にしろ、「ポイントを獲得してステージが上がる」っていうのは、誰もが求めることなんじゃないかなと思ったんですよ。

ゲームは、簡単ではないかもしれませんが、リセットもできるし放り投げることもできます。趣味もまあ、そうですね。どちらもどのくらいの生き甲斐になっているかによって、その人生における重要性は変わってきますけれど。

職業や家族・人間関係などは、「選択を失敗した」「思ったようにはレベルアップ不可能」と思ってもそんな簡単には放り投げられなくて、ずっと深く悩んだりすることになります。

だからこそ、その代替としての別の「ポイント獲得&ステージ向上」をそれぞれに求めるのかもしれないなと思ったりします。

例えば、Twitterやインスタのフォロアー数、SNSの友達数や「いいね!」の獲得に夢中になってしまうことや、戻りますけれどポケモンの捕獲に目の色を変えてしまうこと、果てはおつき合いする異性の獲得数やステータスをその舞台に選ぶことも。もうひとつ例を挙げると、ブログで小説を発表して、「読んでもらえるか」「感想をいただけるか」「拍手をもらった!」と一喜一憂することもそういう行為なのかもしれません。

いや、反対に小説の方がメインの願いで、代替行為が仕事やら家事だったりする場合もあります。それのどれがよくてどれが悪いというわけではありません。基本的には。誰かに迷惑をかけていない限り、それはその人の人生ですから。

そして、どこかでポイントがたくさん獲得できて、さらにステージがどんどん上がると、他のことはどんどん念頭から追い出されていく、そんな風に感じます。婚外恋愛にうつつを抜かして、家族をないがしろにするなんとこともあるでしょうし、ポケモンGOに夢中になりすぎて仕事が疎かになることもあるでしょう。どこかでは小説がガンガン更新されるようになり、また別のどこかでは連載途中なのに広告が出っぱなしになる。

では、自分はどうなのかなと考えると、まだポケモンGOは仕事や家族や旅行や、そして何よりも小説ほどの価値は持っていないようです。SNSの「いいね!」がなくても焦ることもないですし、異性にモテるなんてことはハナから勝負しようと思ったことも無し。

結局のところ、私は実人生でやりたいことをやって、そこそこのポイントを獲得し、レベルアップしてきて、上にはずーっと上がいようとも氣にせずに暮らせる、かなり恵まれた幸せな状態にいるのかもしれないなと思いました。
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Posted by 八少女 夕

サルスベリのこと

サルスベリ Photo by phoenix727(pixabay)
これはpixabayで公開されているパブリックドメイン画像です。作者はphoenix727氏です。

日本では2回ほど引越をしたことがあるらしいが、記憶にある住居は2つ。そのうちのほとんどは東京都の目黒区の現在母が一人で住んでいる家です。この家の2階の南側に私がずっと使っていた部屋があって、庭のサルスベリの樹が見えていました。

私は8月生まれで、夏は私の季節と勝手に決めていました。暑かったり、やたらと蚊に愛される体質だったりで、なぜそんなに夏が好きだったのかわからないけれど、とにかく夏が一番だと思っていた私です。そして、サルスベリの濃いピンクの花は、そんな私に「夏が来た」と宣言してくれる大切な存在でした。

スイスに移住してから、サルスベリの花が咲いているのを一度もみていないなと、ふと思いました。なぜか、そりゃ夏に帰国しないからです。スイスの夏って本当に快適で、たまに「今日は暑くて大変だな」と思う時も木陰に入ってしまえば問題なしという程度なんですよ。イタリア側と違って蚊もほとんどいませんし。私には子供がいないので、学校の夏休みとは何の関係もありません。だから、暑くて湿度が高くてしかも飛行機のチケットが高い夏に一時帰国するメリットは何もないんです。

日本の夏に帰らないから、入道雲も、麦茶も、スイカも、蚊取り線香も、花火もないんです。あ、いま、心がキュウっと痛みました。なんなんだこのノスタルジーは。

そして、サルスベリですよ。こんなに長く花を見ていない……。今年が結婚15周年でしたから、15年も花を見ていないんですね。あの木、まだ大丈夫なのかな。動物と違って樹は、目に見えるように老いたりはしませんが、でも、永遠にあるわけでもないんですよね。

スイスではまったく見ない花だけに、もう二度とあの花を見ることはないのかなと思うと寂しく感じます。
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Posted by 八少女 夕

訳詞に思うこと

カテゴリーが「何だかなあ」な選択ですが、これ以上増やしてもねぇ。とりあえず、これで。

今日はミュージカルの話を書きます。といっても、私はそんなに詳しくないし、熱心なファンと言うわけでもないので、詳しい方や大ファンの方からすると「なんだこいつ」と思われるような内容かと思います。だからこそ、今まではあまりこの話題はしなかったんですけれど。


私はこれまでに四、五回ロンドンに行っています。あ、ニューヨークにも一度行きましたっけ。いずれにしても、90年代にロンドンに行った時には一回の滞在で三回くらい(ニューヨークは個人旅行ではなかったので一回のみ)ミュージカルに行きました。でも、観た演目ってけっこう少ないんです。

「Cats」「The Phantom of the Opera」「Starlight Express」「Miss Saigon」これだけです。つまり、同じ演目を繰り返し観ていたりするわけです。最初の二つですね。私は、のめり込むタチのようです。一度観て、記念にCD買ってというだけでは満足できなくて、何度も足を運んでしまうのですね。

でも、上の演目のどれひとつとして日本では観ていないんです。日本でもかなりロングランでしたからチャンスはいくらでもあったんですけれど。理由は、歌詞が日本語訳だからなんです。

私は、もともと日本語歌詞のためにつけられた歌曲は聴くのですが、訳詞の歌は基本的にあまり好きじゃないのです。なぜかと言うと、多くの場合は曲と歌詞の抑揚があまり合っていなくて氣になってしまうからなのですね。それに、ニュアンスが違っていたり、反対に意味は正しくても日本語にした途端ちょっと間抜けになる単語ってありますよね。そういうのが苦手なんですよ。のめり込めなくなってしまうので。

例外はもちろんあります。私がよくブログを訪問している歌手の別府葉子さんは、例えばシャンソンを日本語で歌っていらっしゃるのですが、この方の使う訳詞は本当に考え抜かれていて、メロディと歌詞に違和感がなく、日本語の歌として素晴らしい響きになっています。本当にどうやってこんな訳詞を、と思ったらご本人が一つひとつ丁寧に訳されていらっしゃるのですね。私はこの方の歌う日本語シャンソンの大ファンです。

というわけで、日本語訳だから聴きたくないというわけではないのですが、ことミュージカルに関して言うと、なんせ長丁場ですし、全部をそんな風に特別に訳す訳にもいきませんし、それをやると劇として情報が足りなくなったりもしますから、現在のように訳した詞で上演せざるを得ないというのはよくわかるんです。そして、それを演じる歌い手兼役者の方の実力と努力が並ならぬものであることも知っています。

でも、私はそれじゃイヤなんです。

似た話ですが、私はまだ「スターウォーズ フォースの覚醒」を観ていません。なぜって片道一時間以内に行けるところに、英語で上映する映画館がないからです。「誰がドイツ語で話すハン・ソロを聞きたいものか」と変なことにこだわってしまい、おそらく日本でDVDを買うと思います。日本語字幕付きだから。(我が家のDVDプレーヤーはNTSC方式も観られるのです)

ミュージカルの話に戻ります。

今はともかく、学生時代は、上演される英語がちゃんと理解できていたわけではありません。日本でたとえばCDを購入して、対訳を読んでようやく「あ、こういう意味だったんだ」とわかるのが普通でした。

当時とは較べ物にならないくらい外国語に耳慣れた今、はっきりわかります。これは日本語だから嫌だったわけではなく、他の言語でもやっぱり違和感があって嫌なのです。例えば、ドイツ語で「メモリー」を聴いたりすることが時々あるんですけれど「やっぱり英語がいい」と思います。その一方で、もともとドイツ語のために作られた曲が英訳されていたりすると、それも「う〜ん。原語でやってよ」と思います。フランス映画をドイツ語に訳して上演していたりするとそれまた「違う〜」と思ってしまいます。そういえば、先日「もののけ姫」をドイツ語で放映していましたが、違和感ありありでした。あたりまえですね(笑)
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Posted by 八少女 夕

敬称問題

どうでもいいことですが、ブログめぐりをしていて、繰り返し「う〜む」と思うことがあるので、ここで書いておこうかと思います。

それは敬称問題です。ブログの記事で現実に存在する人、もしくは作品のキャラクターについて書く時に敬称はつけるのか付けないのか、必ず一度はぶつかる問題だと思うのですよね。

他の方がどうしていようと、それは構わないのです。単に自分はどうしているか、それはなぜかということを書いておこうと思います。

基本的に私はいちいち敬称を付けないというスタンスをとっています。

つけてもつけなくてもいいんですけれど、統一したいのです。で、つけると奇妙なケースが出てくるので、だったらまとめてつけない方がいいのかなと。

たとえば、芸能人のことを書く時に「さんづけする」とルールを決めたとします。では「マドンナさん」「ハンフリー・ボガードさん」と書くのか。それは奇妙ですよね。だから日本の芸能人について書く時にも、失礼かもしれませんが敬称はつけないことにしているのです。

「あたりまえじゃない」と思われた方、「先生問題」はどうですか。

創作ブログでは、作家の名前に「先生」をつける方がとても多いのです。同じ小説(マンガでも詩作でもなんでもいいですが)を書く者として、偉大なるプロに対する敬意をこめての敬称だと思いますが、私はこれにひっかかるのです。だから、自分ではそれはやりません。

なぜか。やはり統一すると奇妙な事例が出てくるからです。「森鴎外先生」「葛飾北斎先生」「シェイクスピア先生」「紫式部先生」「アガサ・クリスティ先生」って変じゃありませんか。そして、現在ご存命だから先生をつけるというなら、これまで「水木しげる先生」と書いていた記事を、新しい記事からは「水木しげる」と書くようになるのでしょうか。それまた変だと思うのです。

だから、私はこうしています。

自分が実際に習った本当の意味での師に対して、または、その世界でひとかどの人物に対して「先生」と敬称を付けるのは、お目にかかっている時と、私信を送る時、それに共通の弟子仲間でその先生の話題をするときだけです。たとえば大学の恩師や、プロの演奏家などです。これはブログとは関係ないことです。

そういう個人的に面識のある方をブログで一般の人に紹介する時は「さん」をつけます。

個人的に面識のない方、一般的な有名人を一般論として語る時には呼び捨てにします。文章に敬意を込めていれば、それは失礼なことだとは思いません。私が心酔し誰よりも尊敬する作家ヘルマン・ヘッセであっても、私は「ヘッセは……」と呼び捨てています。であれば、たとえば「又吉先生」と書く必要はないですよね。読んだことがないから尊敬すべき作家かどうかもわかりませんし。

ブログのお友だちのオリジナルキャラクターの名前は、実は、難しい問題です。

ブログのお友だちご本人に対しては、コメントやメッセージで呼びかけることも多々ありますが、その時は本名でなくても「さん」づけです。ブログの記事で取り上げる時も、「さん」づけです。「様」を使うと、親しくなってからハマりますので、最初から馴れ馴れしく「さん」で統一させていただくことにしました。

オリジナルキャラクターは、その方にとってはお子さんと同じように大切な存在ですが、基本的には「敬意を持って呼び捨てにさせていただきます」と宣言して呼び捨てにします。(同様にプロの作品のキャラクター、たとえば「アシタカ」とか「ハン・ソロ」だって呼び捨てです)

でも、呼び捨てが難しい場合もあるんですよ。ご自分のキャラクターに対して敬称で呼んでいらっしゃる方もあって、そうなるとそのキャラクターを呼び捨てするのは氣が引ける。氣を悪くされるんじゃないかと思うからです。

で、ここで宣言させていただきます。うちのキャラクターは、誰であっても呼び捨てで構いません。初コメントだろうがなんだろうが関係ないです。まあ、うちは呼び捨てにしやすいと思います。基本的に外国人キャラが多いので。

自分でも氣をつけていることがあります。たまに忘れてしまうので統一されていないかもしれませんが、作品紹介記事(あらすじと登場人物紹介を除く)やコメント欄などでは、キャラクターに敬称をできる限り付けないようにしているのです。自キャラに対して「蝶子さん」などというのははじめからやっていないのですが、たとえば「ドンナ・アントニア」などという記述もしないようにしています。これは「アントニア」と書くべきだと思っているんです。「レオポルド国王陛下」などど作者が書くと、コメントする方も「ここは陛下ってつけなくちゃだめかも」と迷うじゃないですか。それでです。(あ、でも「瑠璃媛」はけっこうやっちゃっている。ダメじゃん)

あ、私は敬称をつけないようにしていると書いていますが、愛称やあだ名は別です。たとえば「カルちゃん」には「ちゃん」がついていますが、これは尊敬してついているのではなくて単なる親しみの現れです。みなさんには「カルロス」と呼び捨てにしていただいて構いませんし、「カルちゃん」でももちろん嬉しいです。他のキャラも冗談まじりで「閣下」でもいいですし、要するになんでもいいのです。単純に、私のところのキャラクターに対しては「失礼があってはならない」などとは一切お考えにならないように、という話でした。
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Posted by 八少女 夕

名づけは大切

今日は、ちょっと思ったことなどを。

日本のテレビなどは一切観ない環境にいるので、何があるのかはネットのニュースで知ることだけです。だから、私が感じることと、実際の日本にいる方が感じることに温度差があるのかなあとも思うんですけれど。


ネットで見聞きする限り、とあるタレントと某バンドボーカルの不倫を発端にした騒ぎ、ずいぶん大きく取り上げているなあと思います。正直言って、そりゃ、快く思わない視聴者もいるだろうけれど、そこまで騒ぐほど日本には他に大事なニュースがないのかと。

でも、今日書きたいのはその件じゃありません。

その某というボーカルの所属するバンドの名前です。初めて目にしたとき、信じられませんでした。なんて名前だと。とても売れているのですね。そして、「音楽さえ素晴らしければ、私生活やバンドの名前は関係ないでしょ」という意見もあって、それについて否定するつもりはありません。

むしろ、眼を惹くから、その方がいいんだという考えもあるかもしれません。

でも、私はそういう考え方はしない人間です。私は、そのバンドの音楽は聴いたことがありませんし、今後も聴く予定はありません。ましてや購入する予定はまったくありません。だからいい音楽なのかはここでは論じません。

単純に、「結婚したばかりなのに、他の女性と好ましくない関係になった」という人が、そういう名をもつバンドのボーカルだとニュースで読んで「名は体を表す、そのままじゃない」と思ったのです。

誘われることは1000%ないでしょうけれど、そのような名前のバンドの人に「つきあわない」的なことを言われたとして、ほいほいついて行くつもりには全くなれません。子どもの頃からよく知っていて、バンド名なんか関係なくよく知っているという場合は別ですけれど、全く初対面でよく知らない場合、名前やタイトルって、判断材料になると思うのです。つまり、自分がこれから活動していこうとする、顔になるバンド名に、そういう言葉を遣おうと思う人とは親しくなりたくないないと思ってしまうのです。

これは個人名にも言えます。というか、もともとの発想は個人名に関する、私の頑固ともいえるこだわりにあるんだと思います。

それは、おそらく子どもの頃に夢中になった、様々な国の神話や考え方に共通してある「名前がその人間の本質を表す」という考え方を、いまだにもち続けているからじゃないかなと思います。「真実の名前を知っている人間には従わなくてはいけない」とか「運命はつけられた名前に沿って進む」とかその手の考え方ですね。かっこいいとか響きがいいとかではなく、もちろんシャレなんて軽いものでもなく、もっとも大切な言霊として扱うべきだと思っているのです。

私が小説で名前を付ける時には、その響きや意味が、現在作ろうとしているキャラクターにふさわしいものを探します。これだけたくさん作り出していると、一つ一つに「言霊」とまで思ってつけてはいませんが、何でもいいと思ってつけることもありません。そのことによって、読む側も「たぶんこういうキャラ」と想像をつけやすくする意図があるからです。読者というものは、作者である自分ほどそのキャラクターを読み解くのに熱心ではありません。薔薇を背負いそうなキャラに「みよ」、地味で貧乏なキャラに「麗華」とつけてしまうと読者は意図したようには読んでくれなくなる可能性があります。そういう意味でも、名づけは、とても大切なのです。

そして、ブログ名も同じように大切だと思っています。このブログの名は「scribo ergo sum」にしました。わかりやすくはありませんが、「どういう意味だろう」ともう少し詳しく見て下さった方には、私がいいたいことが伝わるタイトルだと思っています。ちなみに「書くからこそ私は存在する」という意味です。

謙遜は日本人の美徳だといいますが、それが行き過ぎて、たとえば「読むに値しない駄文の置き場」といったブログ名をつけてしまうと、意図を誤解されて読んでもらう前に「それなら読む必要ないか」と回れ右されてしまうと思うのです。読んでほしいのに決まっているから公開しているのに、そんなブログ名にするのは天の邪鬼です。

とても親しくなって、ブログ名なんて関係ない、そこを訪問すると決めている時には、もうブログ名や見た目の印象については氣にしません。でも、偶然見つけたブログや足跡から辿ってみたようなブログでは、ぱっと見というのはとても大切だと思うのです。印象のとても悪いブログ名や、反対に極端に卑屈な印象のブログで、長い記事や小説を読もうかなと思うことはまずないのですよね。

それに、先ほどの言霊の話に戻りますが、自分のブログ名が、発表されていく作品とそこで紡がれる人びととの交流の運命を決めていくんじゃないのかなと、そんな風に日頃思っているのです。

あまりにもひどいと感じてしまうバンド名が話題になっているのを見て、こんなことを改めて考えたのでした。
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Posted by 八少女 夕

七十回目の終戦記念日

今日は8月15日ですから、考えている事を書いてみようと思います。

実は、二日前に突然なった全身じんましん、昨日の夕方も酷くぶり返してきて、この記事の予約投稿を一時見合わせました。コメントをいただいても、返事のできるような状態ではなかったので。昨夜の深夜がピークで、本当にどうなる事か、明日は真面目に病院行かなきゃ、とまで考えていたのが、そのちょっと後に急に収束に向かい、今は、ほぼ大丈夫になっています。というわけで、今日以外に発表するのもなんだなと思うこの記事を改めて公開することにしました。


私がいま住んでいるスイスは、永世中立国です。でも、「永世中立国=平和=戦わない」と思っていらっしゃる方がいたら、それは間違いです。

スイスには軍隊があり徴兵制があります。これは成人男子の義務です。現在は軍隊ではなくて民間防衛(Zivilschutz)という形で奉仕する事も許されているので、主義で軍隊に加わりたくない人はそちらを選ぶ事ができるようになっていますが、健康である限り、どちらかで奉仕しなくてはなりません。障害があったり健康問題があって奉仕のできない人は、代わりに高額の税を徴収されます。日本と違って直接民主制でありとあらゆる事が国民投票で決められていて、民意が政治に反映される度合いはピカイチの国ですが、徴兵制はなくなっていません。それは多くのスイス国民が軍隊を必要だと考えているからです。

ヨーロッパの歴史を紐解けば、「わが国は戦争を放棄します」と言うだけでは、別の国の侵略を防げない、そういう感覚があるのは事実です。だからスイスが軍隊を持っていて成人男子が機関銃を背負って訓練に行くのがごく普通の光景でも不思議はないと思います。

でも、今日私が主張したいのは「だから日本も現実的になれ」というような話ではありません。

防衛の現実を考えたら、「自衛隊は許容範囲かな」と思います。あくまで、これまでの自衛隊の活動のイメージで言っています。外国の侵略を受けた時に、おまわりさんの警棒とピストルだけで何とかなるとは思えませんので。それに、自衛隊が海外で道や井戸を作るといった援助活動をすることにも賛成です。

でも、現在政府がごり押ししようとしている「安保法案(安全保障関連法案)」には反対です。

違憲だから、という話ではありません。すでに自衛隊を持ってしまっている時点で「違憲」であるとも思うし、そこから論議をすると「では、国防はおまじないですればいいとでも?」という話になってしまい、先に進めません。「殺人はいけない」という大原則はあるけれど「正当防衛は認められる」という例外もあるように、お隣の国からミサイルが飛んでくるような時代にあって「自衛隊は違憲だから解散させろ」というのは、非現実的だと思っています。もっとも政府も憲法自体に問題があるというなら、それを変えるところからちゃんと手続きに則ってやるべきだと思いますけれど。

今回の安保法案で、よく賛成論者が口にする「日本人が海外で生命の危機に襲われても、他の国にお願いしないと助けにいけない状況はマズい」というのは、理解できます。それだけなら、私も反対はしないと思います。

でも、「集団的自衛権とは、日本が攻撃されていなくても自国と密接な関係にある国に対する武力攻撃を実力で阻止できる権利のこと」で、しかも「要件を満たせば、我が国を武力攻撃していない国や、我が国に対する攻撃の意思のない国に対しても我が国は武力行使することがあり得る」って、なんですか。「うまく口実を作れれば、こっちから攻撃するのもあり」ってことですよね。 

日本は、かつての戦勝国でありかつ同盟国であるアメリカの都合の良いように動かされてきました。アメリカをはじめとする世界の国が「正義のために」戦争をしているなんて信じている人は途方もなくおめでたいと思います。

彼らが戦争をするのは基本的には「金」のためです。軍事産業を養っていくには定期的に戦争をしなくてはいけない。そういう構造があるのです。「死の商人」を肥えさせるために、言いがかりをつけてでも戦争をしてきたのは、イラク戦争ではっきりしましたよね。安保法案が通った後であれば、イラク戦争の時と同じような、完全に言いがかりの侵略戦争であっても、自衛隊が相手の国を攻撃できるってことですよね。

現在する必要のない、その手の武力攻撃をわざわざできるようにする、そんな必要がどこにあるんでしょうか。しかも、国民の多くが納得していないのに、理解を得ようともせずに立法を急ぐ裏には、何があるのでしょうか。

世の中には、いろいろな立場があり、利害があります。綺麗ごとだけで済まないのも現実です。でも、戦争が幸せにする事ができるのは、一部の人間だけで、残りのほとんどの人間は苦しまなくてはなりません。徴兵されるのが嫌だとかそういう話ではなく、一部の人たちの利益を武力行使、つまり誰かの苦しめて得る「あやまちを繰り返し」てはならない、そういう問題だと思います。

七十回目の戦争記念日に、人びとが「あやまちをくりかえさない」ことを想うのは、大切な事だと思います。日本の犯した過ちだけでなく、歴史で繰り返されてきた全ての過ちです。その中にはイラク戦争も含まれています。

そして、今回の安保法案、論議が十分でないのに、また世論も無視して強硬採決を可能にしたのは、選挙で選ばれた国会議員です。近年の選挙の投票率の低さは、利権のない多くの人たちの無関心を表しています。選挙権のある人たち、一人一人がもっと真剣に考えて国会議員を選ぶべきというのは、今に始まった議論ではありませんが、その重要性は強まっていると思います。日本国民一人一人が、国政についての関心を持ち続け、次回の選挙では投票率が最低を更新などという事がないようにしてほしいと願っています。
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Posted by 八少女 夕

天下の回りもの

本文と写真があまり関係ないんだけれど、文字だけだと殺風景なんでなんとなく……。

とある朝食

このブログだと、しょっちゅう外食したり、週末旅行したり、海外旅行に行ったりしているみたいに見えますよね。実際、しょっちゅうやっているんですけれど。

そのかかっている金額をお知らせしたら、きっと皆さん驚かれるんじゃないかなと思います。スイスって、外食や宿泊、びっくりするほど高いんですよ。それだけでなく、私はあまり買わないから関係ないけれど、衣類やインテリアにしても日本の常識からは考えられないくらい何でも高いんです。

たとえば、お昼ご飯を二人で食べたら、一万円くらいなくなるのは普通です。外食ランチを1000円以下で済まそうと思ったらファーストフードくらいしか選択肢はありません。しかも、日本のファーストフードの値段を知っている方は「なんでこの値段!」といっそのこと一食抜きたくなるに違いありません。

というわけで、勤務先のランチを毎日外食なんて事はしません。働いている意味なくなっちゃうし。普段は自炊をきちんとして、それなりの食費内に納める努力もしています。

でも、外食や週末旅行にも行くんです。そして、そういう時は、「日本より高い!」ということをあまり考えないようにしています。

私たちには子供はいませんので、生活のランニングコストはそれほどかかりません。借家暮らしですが、ローンなどの借金もありません。衣類や化粧品には全然お金がかかっていない分、将来の事を考えて残している分を除いても、外食をするくらいの贅沢はそこそこできる余裕があります。まあ、別荘やヨットに回す余裕は全くありませんけれど。

そして、スイスの物価が高い理由がわかっているので、文句もあまり言わないようにしているのです。

スイスは、人件費が高いのです。つまり、働いている人たちの給料が高いという事です。日本のアルバイトの時給、私が日本にいた時よりは上がっていると思いますけれど、今でも一時間1000円以下というのもありえますよね。スイスで1000円以下というのは、通常だとありえません。あるとしたら不法移民が不法就労して搾取されているケースです。

スーパーのレジなどを担当している人であっても、100%(週42時間くらい)働くとおそらく3000フランくらいのお給料はもらえるはずです。30万円くらいと考えてください。もちろんボーナスに当たるものもないですし、法定の健康保険料が日本と較べ物にならないくらい高いとか、なんだかんだ言って引かれてしまう金額もありますが、それでも手取り2000フラン以下という事はないはずです。日本で大学を卒業したのにも関わらず、手取り十万円くらいしかない方たちの困窮ぶりをたまに読んだりしていますけれど、それと較べると雲泥の差なのがわかると思います。

その分、もちろん物価は高いのです。とくに外食や、嗜好品など生命維持に不可欠とは言えないものの値段は高いです。そしてですね。消費税も8%です。けれど、スイス人はそれを「高い、高い」と言わないんですよね。(外国人は言います、もちろん)

安いものもあるんですよ。国境を越えれば、ドイツのスーパーマーケットに置かれる商品などはぐっと安いです。スイス国内のものでも、国産品より輸入物は割安です。安かろう悪かろうの代表のような、アジアの某国からの製品もたくさんあります。

でも、私は安さだけを追求しないようにしています。その商品がどのような過程で作られて、どんな状態であるかが大切だと思うからです。生まれてから文字通りベルトコンベアに乗せられて生産ライン上で殺されてしまう某隣国の鶏肉は買いません。どんな危ない薬品がついているのかもわからない某アジア国製品も可能な限り避けています。

そして、人件費と丁寧な作業が、値段を押し上げてしまうスイスや近隣諸国の信用できる製品を選んで買う事が多くなりました。また見えない部分ですが、原子力発電ではなく水力発電だけを送電してもらう追加料金というのがあるんですけれど、それにしてもらったり、近くの有機農家で買い物をしたり、同じ商品でもフェアトレードの製品だけを扱う店から買ったりと、わずかずつですが高コストでも私の信じるよりよい世界のためにお金を遣うようにしています。

同じようにしたくても、育ち盛りのお子さんがいて、その養育費などでそんな贅沢はできないという方も多いと思うんです。旅行や外食も同じです。それができる状況にあるというのも、一種の社会的役割のように感じるのですよね。

そして、いつかよぼよぼになってしまっても、私には子供がいないので、まちがいなく社会のお世話になると思うのです。だから、その前に、楽しめる事はそこそこ楽しみ、社会に幾ばくかは還元しておきたいと思っているのです。
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Posted by 八少女 夕

国歌や国旗のこと

本日8月1日はスイスの建国記念日です。1291年にウリ、シュヴィーツ、ウンテルヴァルデンの三つの国(現在の州)が集まり、同盟契約を結んだ故事にちなんでいます。今日は、それにちなんで普段から思っている事などを。

Happy national day in Switzerland!

スイスの国歌って、ご存知でしょうか。よその国の国歌は、スポーツの時に耳にする機会が多いですよね。スイス国歌はサッカーなどで耳にする事はかなり稀(笑)その点、ロジャー・フェデラーやステファン・ランビエールのファンの方ならあるいはご存知かもしれません。こんなメロディーです。



少し前にスイスの言語事情をお話ししましたよね。四カ国語が公用語だと。そうです。上の動画はドイツ語のテキストしかありませんが、四カ国語バージョンがあります。全部歌える人はいるんでしょうかね。

たとえば私の連れ合いは、上のドイツ語の国歌、歌えません。彼が日本によくいらっしゃる「国歌は歌わねぇ!」的な思想の持ち主というわけではありません。別に、聴く度に喜んで起立するタイプでもないですけれど。

なぜ彼がこの国歌を歌えないのかというと、習わなかったからです。この国歌、比較的新しいんですね。彼が習ったのはこっちだったそうです。聴いてみてください。



「ごっと・せいぶ・ざ・くい〜ん、じゃん」そう思った方、大正解です。スイスが大英帝国の一部だったことは一度もありませんが、ずっと同じメロディを使っていたようです。

しかも、今またしても変えようとしているらしく、「六案あるから、これを聴いて投票してね」というのを五月あたりまでやっていたらしいです。メロディをがらりと変えるのから、歌詞だけ変えるのまでいろいろです。他の言語はどうするつもりなのか、いまいちわかりませんが、どっちにしても外国人の私は国民投票の蚊帳の外なのでまあ、いいでしょう。
http://www.srf.ch/news/schweiz/positiv-und-singbar-schweiz-sucht-neue-hymne

こういうのを見て思う事は、日本の国歌や国旗の扱いについてです。あまり政治的な事は書きたくないのですが、まあ、年に一度くらいは。

私は、国歌と国旗には敬意を持っています。もちろん日本のものだけでなく全ての国歌と国旗に対してです。中には「なんだかなあ」という行為を繰り返す困った国家もありますが、だからといってその国に住んでいる人たち全てがそういう方とは限りませんし、彼らを尊重する意味で敬意を持ちます。具体的に言えば、国歌が歌われれば立ちますし、国旗を焼いたり破いたりするような事はしません。

日本の国家と国旗に対してはなおさらです。私は日本人として生まれた事を誇りに思っていますし、日の丸を見たり、国歌を聴く機会があると嬉しくなるたちです。デザインも、歌詞も、どこが軍国主義的でよくないものなのか、さっぱりわかりません。シンプルでかつ平和に満ちたものだと思っています。スイスの国旗もシンプルでわかりやすいですが、日の丸のデザインは、右に出るものがないスーパーデザインだと思っています。

でも、それに反対し、「どんな事があっても歌いたくない」「敬意を持ちたくない」のご意見は尊重します。ただし、そうおっしゃるのなら、そうじゃないものを合法的に提案してほしいと思います。日本で「○○に反対」とおっしゃる方って、その多くが「ただ反対」なんですよね。だったらどうしたいのかヴィジョンが全く見えてこない事が多いと思います。だから、いつまで反対しても現実的な動きにならないんじゃないかなと思います。

もっとも、個人的な意見ですが、国家と国旗を変えようということになって、どんなデザイナーと作曲家・作詞家が用意しても、現在の国歌国旗を凌ぐものを作るのは困難だと思いますし、できれば変えてほしくはないと思っています。
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Posted by 八少女 夕

我関せず

今日は、ここのところ思っていることについて書いてみます。

ある六月の日曜日のこと、高速道路で同時に三つの交通事故が発生し、大変な渋滞になっていました。バイクにタンデムしていた我々を含めた少しでも道を知っている人たちは、高速道路から出て、一般道で少しでも早く行こうとしたのですが……。なんとちょうど家に帰る牛の群れがいました。

この国では、道を歩く家畜の群れがいたらとにかく大人しく待つしかないのです。

我関せず

その結果、こんな渋滞になっていました。小さくて見えにくいかもしれませんが、地平線までずっと車が並んでいるのです。文字通り「牛歩」のスピードで。

渋滞

すごいのは、この状態でも牧童が焦ることが全くなかったことです。確かに焦っても家畜に早く歩いてもらうことは出来ません。無理して騒いで暴走でもされたら困るでしょう。でも、日本人の私は、この状況なら一番前の車の人に謝るそぶりを見せるとか、後ろを氣にするとか、オロオロすると思うんですよね。

でも、思ったんですよ。少しこういう風になりたいなって。

私は神経が図太い方なんですが、それでもいろいろとクヨクヨすることがあるんです。一喜一憂とでもいうのでしょうか。ブログのことでも、小説を発表すればその反応が氣になるし、別のブログでコメントを書き込むとお返事をいただくまで怒らせていないか心配するし、アルファポリスの大賞ものにエントリーした先月は毎日ドキドキしっぱなしでした。

かといって、「振り回されるのが嫌だから、全部やめちゃえ」という方向にはいかないし、基本的には「のど元過ぎれば熱さを忘れる」タイプで、簡単に平静さを取り戻すんですけれど。

スイスに移住してきてよかったなと思うことの一つに、日本ほど「周りの人がどう思うか」を氣にしなくていいということがあります。そうなんです。私は若干(じゃないか、かなり)変わり者なので、「みんなと同じ」ということをするのが苦痛なんです。なのに、やはり日本人なのか、どこかで人の目というのを常に意識しているのですね。

例えば、郵便局で窓口に一人しか人がいなくて、列が出来ているとします。こちらの人は、そうであっても窓口の担当者と平然と延々と話しているんですよ。それも業務ではない世間話までしていたりします。私は、出来るだけ手っ取り早く手続きを済ませて、おつりを財布にしまうのも窓口から離れてからしてしまうのです。後ろの人が窓口に立てるのにたった数秒しか違わないとしても。

まあ、あまり迷惑をかけまくるのはよくないですけれど、不必要に人の顔色を見てびくびくするのはよくないなあと常々思っているのです。この牧童ほどでなくてもいいんですけれど、もう少し「我関せず」の境地に至れたら楽だろうなあと思ってしまうわけです。
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Posted by 八少女 夕

ある国の民であるということ

春らしくなって、暖かくなったなと思ったら、1200メートルでは雪ですって。1200メートルって、住んでいる所の標高が700メートルなんで私たちにはそんなに高い山ではないんです。その辺ですよ。

というのはさておき。今日は、ちょっと考えてしまったことを。


さくら咲く

このブログを読んでくださる方の99%は、考える必要の全くないことなんでしょう。私もこれまではあまり考えなかったことなんですが。ここの所考えるのです。私は将来的にどこの国に属するべきなのかなあと。具体的に言うと、国籍の問題なんですよ。

私は日本生まれの日本人で、日本の文化を愛し、他の国の人間になりたいと思って国際結婚したわけではありません。たまたま嫁に貰ってくれたのがスイス人で、その男が日本に住むなんてどう考えても無理なので、私がスイスに来たというだけです。日本のパスポートは、スイスのパスポートと同様にどこでも行けるし、外国人だからといってスイスでそんなに苦労したことはないので、これまではずっと日本国籍のままでもいいかなと思っていたのです。

でも、思うんですよ。日本という国にとって、私って歓迎される国民なのかなって。日本の国民年金保険料は払い続けています。義務でもないんですけれど。でも、もう日本の税金払っていないんですよね。考えると日本で働いていた時間よりスイスで働いていた時間が長くなりました。

今は、スイスで働いて、スイスの税金と社会保険料を払っています。で、このまま老年になってじゃあ日本に帰りますって帰って、日本の国民年金貰って……生活できませんよね。どう考えても。厚生年金に当たるものを払っていたのは五年ほどなので、それでも足りません。スイスの年金はもらうことになると思うんですが。

もちろん、全然税金払ってこなかった身で、楽して生活できるような年金を日本からもらえたらどこかおかしいわけです。スイスでは、国民投票もさせてもらえない身で、とにかくいっぱい払っているんで、くれると言うものは堂々と貰いたいんです。でも、日本に帰るとなると、そういうわけにもいかなくなるんですよね。スイス人じゃないんで。

国籍って、あたり前すぎてさほど氣にしないと思いますが、「もし何かがあった時に、どの国が責任もって面倒看てくれるか」ってことでもあるんですよ。たとえば、どこかで連れ合いと一緒に拉致されてしまったとして、スイスは連れ合いの救出には頑張ってくれるでしょうが、私は外国の馬の骨、なんですよね。扱いとしては。

そこまで行かなくても、私が老女になって、貧乏で行き倒れ寸前だとします。スイス国籍を持っていたら間違いなく本籍に当たる市町村が責任を持って面倒を看てくれるんですが、外国の馬の骨は看てくれないと思うのです。かといって、日本の本籍地も面倒看てくれるとは思えないんですよね。特に今の日本を見ていると、日本国内にいる人たちに社会福祉を行き渡らせるのも大変そうで、スイスの田舎の村にいる何十年もいなかった国民の面倒を見る余裕なんてなさそうじゃないですか。

で、一度も考えたことのない「ところでスイス国籍をとるには」っていうのを、ちょっと調べてみたんです。資格はあるのはわかっていたんですよ。最低五年以上スイス人と婚姻関係にあるし、その状態は維持しています。スイス人の話す言語のうち最低一つでの意思疎通も出来ます。住まない限り絶対に習得できないスイス方言が聴き取れるんですから。でも、歴史や政治のことにとても詳しいとは言いかねます。試験があって結構撥ねられるらしいんです。スイス国籍はポピュラーでみんなが欲しがる上に、「ガイジンが多すぎ!」ということで、審査がキツくなっているらしいんですよね。

申請すれば貰えるんじゃないのか……。そう思った途端、少し後ろ向きになっている私。いや、スイス国籍貰ったら日本国籍はなくなっちゃうんで、いますぐどうこうってわけではないんですが、でも、定年までには考えておかないとなと思うんですよ。子供がいないので、老後にボケちゃったときのことなんかも考えておかなくちゃいけないし。でも、自動車免許じゃないんだし、一度撥ねられたら、もうだめなんじゃないの? なんて事も考えて、グルグルしていたりする私なのでした。
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Posted by 八少女 夕

アプローチの話

「マンハッタンの日本人」を書いていて思い出したこと。

「人間には、一生に一度はモテ期がある」みたいな話をききますが、そういえば私の人生にも一度だけありました。二十代のほぼ終わりころ、二年くらいでしょうか。

「女子校だったから縁がなかったんです」とか「男性と知り合う機会が全くなくて」のような言い訳が全くできない状況だったにもかかわらず、私はそれまで全くモテませんでした。「○○ちゃんと●●くんつきあっているんだって」というような話題に「ええ〜」と驚き、男友達からも女友達からもその手の相談をされたりして、なのに本人は常に蚊帳の外。「お前は、男みたいなもんだし」とありがたくもない認定を受けたりしていました。

就職してから、男性対女性比が20:1なんて逆ハーレムな職場にいても、事態は全く変わりませんでしたので、いつのころからか「私はそういうのとは無縁なのだな〜」と思っていました。多くの日本の男性は歳下の美人で謙虚な女の子が好きです。さらに「出る所のでている体型ならなおよろし」でしょう。そういう意味では私が殿方の恋愛対象にならなかったのは当然です。

だから、自分がモテている時にもそれがわからなかったのです。その二年くらいの間、多くの同年代の男性と定期的に食事に行っていました。それが一人だったら「もしかしたら」って思ったかもしれません。でも、五、六人が入れ替わり立ち替わり誘ってくれていたのです。その当時の仕事が、夜の九時や十時に終わるので、同僚と「こんな時間だし、軽く飯でも食いにいくか」ってなったりするじゃないですか。ほぼその延長で、男でも女でも関係なく、ご飯を一対一で食べに行くことはあたり前だったのです。

誘ってくれた中には、大学の時の友達や、高校の時の同級生もいました。これがまた、三ヶ月に一度くらい電話がかかってきて「ご飯食べにいかない?」と。で、「マンハッタンの日本人」の美穂じゃないですが、ステディな男性がいるわけでなし、友達ですから、誘われれば用事がない限りは行くわけです。で、ご飯食べて、普通に話をして、帰るだけ。やっていることはジョセフと変わりません。まあ、一週間に一度だったら「あれ?」と思ったかもしれませんが、三ヶ月に一度なんて間隔のお誘いじゃ「そりゃないな」と思います。ましてや「僕の好みなのは、こういう(かわいい)子でさあ」みたいなことを言っていた人たちですから、明らかに私は好みじゃないはずです。まあ、アフリカに行くような変な女だから、話題に興味があるのかなと思っていました。

後で考えると、どうやら彼らは嫁を探していたようなのですね。それぞれにお好みの可愛い女の子たちとつき合ってみたけれど、若くて可愛い女の子のお相手というのはなかなかに骨が折れる、その点、こいつは面倒がないし、肝も据わっているようだし、無料飯炊き女としてはなんとかなりそうだし、「●●は三日で慣れる」じゃないけれど好みじゃないくらいいいや、という感じで。

問題は、無料飯炊き女候補の本人が、全くわかっていなかったことです。わかったのは、私が某スイス人とつき合いはじめたからです。その食事に行くだけだったほぼ全員に、そのつもりであったと言われてしまったのです。青天の霹靂。もっと前に言ってくれたら考えたのに。

私が鈍感すぎたのかもしれません。でもねぇ。別に薔薇の花束を持って告白してくれなくてもいいんですよ。でも、たまに食事して、世間話しているだけじゃ、わかりませんよ。そんなに言い出しにくいオーラを醸し出していたのかなあ。

某スイス人が、地理的にも、言語的にも、時間的にも、圧倒的に不利な状況にめげずに、無料飯炊き女(しかも共働き)をゲットできたのは、ひとえに意思表示が明白だったからです。意志を表示されれば、こちらも考えますし、関係は深まっていきます。かっこいい告白である必要はないし、始めから燃えるような激情がなくてもかまわないのです。

考えすぎて、先回りして「やっぱり言わないでおこう」と、友達に徹されてしまうと、まったくわかりません。まあ、わからなかった鈍感女が一番悪いのかもしれませんけれど。
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Posted by 八少女 夕

冬は冬らしく

土曜日(スイス時間で)に54321Hitに届きました。このブログを訪れてくださるみなさまのおかげです。ありがとうございました。現在「scriviamo! 2015」開催中につき、恒例のリクエストは今回は受け付けていませんが、感謝の氣持ちは一緒です。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

馬

寒いのが苦手な私ですが、ちゃんとした夏も来ず、まともな冬も来ないここ数年の天候には辟易しています。この週末にようやくちゃんとした雪が降り、今ごろ冬らしい景色となりました。でも、今週はまた暖かくなってしまうんですって。

どこまでも続く雪景色と宇宙に続いていくような深い青空、そして肌が痛いほどの冷氣、わたしにとってちゃんとした冬とはこういう光景です。マイナス10℃からマイナス15℃あたりになると、例えば郵便受けを覗きにいくだけでもきちんとしたコートの閉じて手袋をつけていかないと後悔することになります。

以前、まだ車を持っていなかった頃、一時間に一本のバスを逃したので、徒歩で30分の街まで徒歩で買い物に行こうとした事がありました。普段はどうってことはないのですが、この日はマイナス15℃でした。で、15分歩いた所で、音を上げました。そこは私の村の中心地で(といってもレストランが三軒あるだけ)、レストランに入って熱いお茶を飲みました。本当に遭難するかと思うくらい寒かったです。

今は車も持っているので街まで歩こうなどという事はしませんが、朝の通勤は真冬でも可能な限り自転車です。マイナス15℃くらいになる朝もありますが、自転車を漕いでいると体も温まるので20分くらいはなんとかなります。もっとも一度だけマイナス23℃という時がありまして、この時は会社に辿りつく前に倒れるかと思いました。これはちょっと危険でした。

でも、去年の冬と今年の冬はまだそこまで寒くなった事がありません。いってもマイナス5℃程度。こういうのは通勤は楽なのですが、氣持ちがすっきりしません。やはり冬は冬らしく、夏は夏らしくあってほしいと思うのです。
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Posted by 八少女 夕

コミュニケーションの力

今日は、ブログ活動に絡めて普段思っていることなどを。

あ、文ばっかりで殺風景なので写真入れましたが、本文とは無関係です。


秋の猫

ブログの活動をしていると、それを始める前には全く考えもしなかった世界が見えてきて、それがコミュニケーションというものを考えるきっかけになりました。

まず、この世界はとても狭いですよね。Aさんのブログのお友だちは、Bさんのお友だちでもある。Cさんのブログのコメント欄で数人で盛り上がるなんて事もあります。その交流を読んで、Bさんの別のお友だちがCさんのお友だちと仲良くなるなんてことも。

ごく普通の対面関係と同じで、誰とでも交流したくてそれが簡単にできる方もいれば、そうでない方もいる。交流の多さと本人のお城(人間性であったりブログの中身)に対する評価が必ず正比例するわけではありませんし、心から「交流はできることならばしたくない」と思っていらっしゃる方がいるのも事実です。だから、他の方がどのようにブログを運営しようと、それは自由だと思っています。

その一方で、交流にしろ、その裏にある本当の目的(例えば「私の小説を読んで」)にしろ、ある種の法則はあると思うのです。すなわち一方通行は難しいということです。

義務でない何かの社会的な発信、私の場合はブログやfacebookですが、そういうものをやっている人は強いにしろ弱いにしろ衝動や願いがあるはずです。「私のやっていることを知ってね」か「私のやっていることを評価してね」か、その両方か。

で、小説やオリジナルの文章がメインの場合、黙っていても人びとが殺到して大ファンになってくれるということはまずありません。絵と違って、文は一瞬で人の心をとらえられませんから。なんらかのアクションを起こすことによって「これを読んでみようかな」という氣にさせるしかないものです。で、そのアクションとは「なんとか大賞」への応募して受賞するような「作品勝負!」の方法と、友達を増やして読んでもらう「コミュニケーション利用」法がありますよね。私は前者は全くやっていないので、後者のみです。

よく意外だと言われますが、私は対人コミュニケーション力に欠けているタイプです。誰かと親しくなりたくてもなかなか話しかけられない、迷いに迷ってから「ま、いっか」と諦めて一人でいる方を選んでしまう、そういうところがあります。また、一人でいることにもあまり苦痛をおぼえないので余計その傾向が強まります。

またマメさに欠けるため「去る者は追わず」にもなりがちです。つまり、こちらからまんべんなく周りに目を配り、色々な方との関係を保つような社会性は持ち合わせていません。かといって、「連絡をくれない人は大切じゃない」と単純に思っているわけではありません。単純に、限られた時間で行うコミュニケーションはどうしても日々交流のある人が優先になってしまうということです。

私のブログは、現在小説の発表数が多すぎて、収拾がつかなくなってきています(だから来年の抱負は、それをどう収拾させるかという後ろ向きなものになってしまう)。それを律儀にほぼ全て読んでくださる方もいらして、大変恐縮しますがもちろんそういう方に対しては足を向けて寝られないと思うと同時に、たとえ寝る時間を削ってでもその方の書くものを読もうという氣になります。また、シリーズ物を続けて読んでくださる方に対しても、「えっ、この方読んでいてくださったんだ」という方に対しても、やはり、向かう姿勢が違ってきます。こういう心理的な部分に関しては「人類皆平等」は通用しません。

不思議なもので、最初は「作品を読んでくださって、コメントをくださったから」という理由で訪問して、作品を読みコメントをしていた方に対しても、そのままの義務・義理的な氣持ちのままでつき合い続けることはまずありません。同じ作品に対するコメントでも、それぞれの反応する場所や感じることが違うように、最終的にはそれぞれの方の作品を越えた人間としての部分に共感して、その方そのものを好きになり親しくなっていくように思うのです。

たとえば、日本のある地方で台風の大きい災害があったというニュースを目にすると、たとえネット上でしかお付き合いがない方だとしても、何年も交流のない学生時代の知人よりも日々交流しているブロガーさんの安否をまず氣遣うようになります。たぶん、いま私がどんな生活をしているかも、実際に面識のある人たちよりもブログのお友だちの方がずっと詳しいはずです。

そして書かれている作品についても、次第に義務や義理ではなくて本当に面白くて、世界観やキャラが好きになり、次が読みたくてしかたなくなってくる、そういうものだと思います。さらにいうと、商業出版されている書籍ならば絶対に買わないようなジャンルの作品でも、そういう形で親しくなった方の作品は好んで読むようになるのです。かといってそのジャンルに目覚めるというとのも違うように思います。相変わらずその手の本を買いたいとは思いませんので。

ブログに限らず日常生活のコミュニケーションについても同じことが言えます。

自分に問題があった時、話を聞いてほしいときにだけ連絡をしてくる人がいます。連絡してくるときは心に余裕などないときなので、私がいま何をしているかに対しても関心はありません。それでいて、大して親しいと思えない私に「誰も話をまともに聞いてくれない」と訴えるのです。

そういう方が、特別人間性に問題があるというわけではありません。ただ、そのコミュニケーションのし方が「私をみて」の一方に偏りすぎると、持ってもらえたかもしれない関心すらも失ってしまうのではないかと思うのです。

ということを含めて、コミュニケーションについてブログの交流を通して考察できたのは大きな収穫だったなと思いました。(とはいえ、私のコミュニケーション下手が改善されるわけでもないんですが)
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Posted by 八少女 夕

ギターの話

まずは連絡事項です。まもなく当ブログの50000Hitが来そうですが、今回の記念リクエストは早い者勝ちではなく、人数制限や期限もありません。過ぎてからリクエスト要項を改めて記事にさせていただこうと思っています。狙っていらっしゃる方は、恐縮ですがその記事をお待ちくださいませ(笑)

さて、今日は、去年の五月に始めたギターの話でもしてみましょうか。


楽器演奏やその他を趣味としてなさっているブログのお友だちの記事を読むと、みなさんとても本格的にやっていらっしゃるんですが、クラッシックギターをはじめた私はいつまで経っても超初心者のままです。一年以上経っているのに、まだ初心者用の教則本をちんたらと進めています。ちゃんと習いに行った方がいいと知りつつ、まだ自習中。

習いにいくためには、ドイツ語を習っている先生をやめなくてはいけないのだけれど、この方は95歳の、歴史の生き証人のような方で、その話を聞ける貴重なチャンスを自ら退けてはいけないと思うから。平日のそれ以外の時間は仕事をしていて、東京のように休日や夜間好きな時に習えるチャンスが転がっているわけでもありません。だから、しばらくは自己流だけれど一人で勉強しています。

で、いろいろな練習曲を経て、ようやく「禁じられた遊び」の前半がまあまあ弾けるようになってきた程度の体たらくです。一年半近く経っているのに。後半を弾くには右手がまだちゃんと開かないし、セーハもちゃんと音が出ていない。並行して簡単なブレシャッネッロの「バルティータ」も弾きはじめていますが、まともな曲になるのはもう少し先そう。でも、期限があるわけでなし、のんびり練習しています。

ご存知の方もいらっしゃいますが、私は両親ともクラッシックの音楽家の家庭で育ちました。当然ながら両親は私(と姉)に音楽をやらせようといろいろと骨を折り、高いレッスン代も払ってくれて先生の所に通わせてくれたのですが、結局初心者段階で抵抗してやめました。その私のやめたい理由を両親はどうしても理解できなかったようです。——音符が読めない。

大人になって自分の意志でギターをはじめて、あの頃の私の主張がただの怠け者のいいわけだったのか、自分でも関心があって、再び楽譜と真剣に向き合ったのです。でも当時とまったく、同じでした。私には大きなハンドキャップがある事がはっきりしたのです。楽譜が読めないんです。そりゃ、止まって下から線を数えて計算すればそれがどの音なのかわかりますよ。でも、それじゃ音はいつまで経っても出せないんです。

どうやら他の音楽をする人には、あの五線譜が「abcdef」と書いてあるかのようにパッと脳に伝達されるようなのですが、私にはベトナム文字やルーン文字のようにしか認識できないのです。一文字ずつ、どういう音を示す文字なのかを本で確認しているようではいつまで経っても音読できませんよね。私にとっての五線譜上の音符は、ああいう風にしか見えないのです。

どうやって弾いているかというと、昔と全く同じメソッド、完全に暗譜するのです。頭ではなくて手が憶えてしまうまで。子供の頃のピアノ教室で楽譜を見ながらのレッスンでは全然だめだったのに「じゃあ、ようやくできるようになったので暗譜でいってみましょう」といわれると、即座にできてしまい首を傾げられていたのを思いだしました。

そんなわけで、先生につくのも、別の意味で不安です。でも、これはプロになるためではなくて、定年後の趣味のためなので、自己流のままでいいかなとも思っています。

ところで、そんなわけで私はちゃんとした楽譜で弾くのを諦めてTAB譜を使っているのですが、これだと好きな曲の楽譜が簡単に手に入らないというハンディキャップがあります。わりと簡単そうに響くのでいつか弾きたいなと思っていた曲があって、そのTAB譜をネットで探しまくっていました。

それがついに見つかったのですよ。見つけるまでが大変でした。なぜならば、それはもともとギター曲ではなかったからです。ドメニコ・チマローザの鍵盤楽器用のソナタの中の一曲でした。だから「Domenico Cimarosa Guitar Sonata B Minor」と検索してもなかなか見つからなかったのですよ。でも、タダのTAB譜をなんとか見つけて無事ダウンロードできました。ちょっと嬉しかったです。

どんな曲かというと、こんな曲です。いつ弾けるようになるでしょうか。いや、この手の動きを見る限り、そんなに簡単ではなさそう(orz)

Larghetto Domenico Cimarosa, performed by Patricio Cadena Perez, guitarist and composer
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Posted by 八少女 夕

あわてて撮ってみた / 平和を想う

先日の満月。スーパームーンだと聞いていたから見たかったけれど雨だから無理かなと思っていました。

スーパーフルムーン

でも、寝る寸前に諦め悪く見上げたら、本当に一瞬だけ雲間に浮かび上がったのですよ。この写真を撮ったらもう次の瞬間にはまた曇ってしまいました。

なんだかラッキーだと思った一瞬。



さて。

昨日は終戦記念日で、多くの方が戦争と平和について言及していらっしゃいましたね。実をいうと、昨日のわたしは69年前のことよりも一日前に家から車で15分の所で起こった列車事故で頭がいっぱいだったのです。

それでも終戦記念日で追悼式典があったり、他の方の記事を読んでやっぱり思う事があります。

戦争はよくないこと。これは私の動かせない意見です。どの国にも国益があり言い分はあるでしょうが、それを武力で解決すると必ず誰かが傷つきます。それをどんな理由をつけても「必要」という考え方をすることはできません。でも、今日はそのことを書きたかったわけではありません。

69年間の戦争と無縁な時間を過ごしてきて、日本人があの頃とは変わってきているなと思うのです。日本人だけでなくてスイス人やドイツ人もですけれど、特に日本人は兵役もないので「関係ない」ことで、戦争や戦闘というのはファンタジーの一部みたいになっていますよね。

近年、戦艦を可愛い女の子で擬人化するゲームがありますよね。それに小説では戦闘ありきなバトルファンタジーがジャンルとして確立しています。それが悪いというのではありません。楽しんでいる人たちに「戦争で亡くなった方の身になれ」などというつもりもありません。そうではなくてつくづく平和なんだなあと思うのです。

一方、スイスやドイツでもティーンエイジャーが「子供の人権」を振りかざしてかなりモンスター化している話をよく聞きます。そんな時にナチスドイツの時代にSSの前で子供が口答えなんかしたら、その場で射殺されて文句も言えなかった、なんて話を聞くと、ヨーロッパも全く時代が変わって平和になったんだなあと思うのですよ。

69年前の方がよかったなんて事ではありません。でも、人びとはこの平和で自由な時代にいられる幸せをわかっているのかなあと思う事があります。「あたりまえ」なんかではありません。

のんきに月の写真を撮って「スーパームーンだ」なんて言っていられるのも、私みたいな一庶民が年に二回も海外に行ったりできるのも、小説を書いてアップしたりしているのも、すべて過去の誰かが苦しんで学んだ歴史の上に成り立つ裕福で平和な世界に暮らしているからなのだと思うのです。そして、それを「当然の権利」だなんて驕ってはならないと思うんですよね。

そんな事を考えた終戦記念日でした。
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Posted by 八少女 夕

海外旅行で病院に入ることになったら

久しぶりにリアルライフのことなども書いてみましょうか。

久しぶりになってしまうくらい、あまり代わり映えのない生活なのです。平日は会社に行って、プログラムして、ほぼ定時に帰るだけの生活。土日も、音楽会や展覧会といった面白そうな催しもほとんどない田舎暮らしなので、いつものレストランに行った、ドライブしたもくらいしかしていません。ブログに書くにしても一度記事にすれば十分、ですよね。だからリアルの話は、最近ほとんど書けなくて。

で、久々に起こった非日常。

8月1日金曜日はスイスの建国記念日で休みでした。でも、天候がいまいちなので三連休なのに家でぼーっとしていたらですね。電話が鳴ったのです。有名観光地で急病になった日本人観光客がいる、急遽通訳が必要になったので行ってくれないかって。

ちなみに私は通訳を生業としているわけではなく、さらにその手の緊急事態のための要員でもないただの住人です。ロンドンやパリなら、専門の人がたくさんいるかもしれませんが、私の周りで次に近くてこの仕事ができそうな人は数百キロ離れた人しかいないと言われて、とにかく行くことにしました。

電車を待っていたらいつ着くかわからないので、片道1.5時間の道のりを車で飛ばしました。向こうについたら患者さんは思っていたよりお元氣でした。でも、通訳がいないと検査もできないし、検査をしないと退院させてもらえないということになっていたようで、結局五時間くらい通訳して、無事退院手続きまでこぎつけ、無事にツアーの他の方と一緒にご帰国できた模様。そう、私の到着が半日遅れたら、帰国に間に合わなかったのです。

その方も簡単な英語などは問題なくお話になれるのですが、やっぱり病院や薬局での会話というのはそんなに簡単にはいかないようです。私も言葉はわかるけれど、保険会社、ツアー会社、ツアーコンダクターと入り乱れての連絡や、運転したり、トラブルに対処したりとかなりくたくたになりました。(結局移動含めて8時間くらい働き、お昼ご飯食べ損ねたし)

ケーキとコーヒーでひと休みようやくすべてが終わって、ホッとしてコーヒータイム

思ったのですが、これって日本語とドイツ語がわかるだけじゃダメなんですよね。その方のために何ができるか自分で判断して、最善のことをパキパキと進められないと。ご本人は右も左も分からないわけです。ツアー会社の人も側にはいないから、一々電話して判断を仰ぐわけにも行かない。マニュアルなんかありません。患者さんが自分の顧客ではないからといっても、関わっている人にとっては大切なお客様なので失礼もないようにしなくてはなりません。また、ただでさえ不安な方を無駄に怖がらせることも避けなくてはなりません。病院側、薬局も人間ですから、ムッとさせないようにして、機転も訊かせて話をスムースに動かす必要もあります。スイス人と日本人と両方の言っている事がわかるのは、その場では私一人だけ。誰にも頼れないのです。

私はみなさんご存知のようにけっこう歳を食っています。そして、日本でもこちらでも社会人として働き、それなりの即戦力があります。人生においてトラブルを乗り越えてきた回数も多いので、いざという時には柔軟性とスピードが何にも優先するのだということもわかっています。「つべこべ言う前に動け」これです。

それができるか、できないかは、もちろん人生経験も関わっていますが、性格の問題も大きいと思うのです。だから、これからもこういう話が来た時には、どうしてもできない時以外はやろうと思いました。だって、もともとそんなに日本人いませんから。このド田舎に。

さて、日本から海外へ行かれる方へのおすすめは、語学や健康管理も大切ですが、何よりも保険加入。どんなにピンピンな人でも、助けなんかなくても私は平氣って人でも、掛け捨ての保険をかけましょう。特にスイスに来られる方、保険なしで病院に入ることになったら、請求書でショック死します。ちなみに保険のかかっていない方は即金で払わされます。クレジットカードの限度額なんて瞬時に超えますよ。




余談ですが、このドタバタで連休中はブログどころではありませんでした。こういう時に限って、あちこちで面白い記事や小説が発表されているし、ずっと狙っていたキリ番企画は見逃すし。その後、乗り遅れた波に乗ることができず、反応が異様に遅くなってしまっています。その間にも新しい小説や面白い記事や新企画が目白押し。こうなると完全にデッドロック状態。コメントご無沙汰のみなさん、本当にごめんなさい。こんな状態です。
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Posted by 八少女 夕

準備が必要?

先日、とてもお世話になった方が亡くなり、お葬式に出席してきました。故人との別れが悲しかったのは当然ですが、その葬儀の途中にふと思ってしまったことが。

こちらのお葬式、基本はキリスト教式で、神に祈ったり讃美歌を歌ったりするんですが、その途中で「Lebenslauf」っていうのを読み上げる慣例があるのです。一種の経歴です。いつ生まれて、どんな業績を残したか、って公式なものに加えて、子供の頃から何が好きで、それが人生にどんな影響を及ぼしたか、何を趣味としていたか、パートナーとはどんな楽しみを持っていたかというような。

それを聴いているうちに、「あれ、もし私が死んだら、誰がこれを作文するんだろう」と思ったのですよ。そうしたらものすごく困るだろうなって。

私がスイスにくるまでのことって、連れ合いも含めてスイスの人はほとんど知らない。業績も全く知らないです。話してはいるけれど、日本の固有名詞(大学名や会社名、業務内容など)、彼らにとってはどうでもいいじゃないですか。だから憶えていないはずです。

それに、私が生涯を通して情熱を注いでいたものって、小説書きと旅行なんですが、旅行はともかく小説の方は誰も読んだことがないからきっと外されるでしょうね。

それを考えると、自分で用意しておいた方がいいのかなと思っちゃうのです。こういうの、終活っていうんですかね。
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Posted by 八少女 夕

のどかに見えますが

先週の土曜日に、連れ合いが大家のさくらんぼの木に登って大量に収穫しました。写真で見えている分量がちょうど10kgぐらいでして、これを処理するのが私のお仕事でした。

さくらんぼ狩りとピクニック

ついでに写真に映っているのは、せっかくだから木立の下でピクニックをした証拠写真。かなり暑い一日でした。自家製のホルンデルシロップとサンドイッチ、それにスティック野菜という簡単なメニューでしたが、緑豊かな庭で食べるとそれだけで五割増くらい美味しくなるようです。

ピクニックの後はさくらんぼとの戦いが待っていました。10kgぶんの種をとりのぞき、1.5kgをジャム、1kgをシロップ漬け、1.5kgをラム酒漬けにして、残りは冷凍です。

さて、今年のさくらんぼは去年のと違って、かなりの確率で中に白いなんかの幼虫がいたのですよ。洗っているうちにびっくりして自主的に出てくるのはいいとして、種をとっても残ってしまったヤツもいて、これが茹でたりお酒に漬けたりすると出てくるのですね。で、それを必死で取り除きます。濃い赤の中で白いヤツはすぐに目につきます。

日本の方、とくに女性で「虫が入っていたさくらんぼなんか捨てる」ってスタンスの方いらっしゃいますよね。そういう方は、田舎では暮らさない方がいいと思います。農薬を一切使わない有機栽培の植物で、虫が触っていないものはほとんどありません。虫や傷んだところを取り除き、加熱やアルコール消毒して食べるのが古来の人間のあり方ってものです。「ハエがとまった皿は下げてもらう」なんて潔癖性ではここでは暮らせません。(これでもアフリカよりずっと清潔です。そのアフリカでも私はお腹も壊しませんでした)

「スイスの田舎って、のどかで素敵なところよね。私もそっちで暮らしたい」と友人に言われる(これがまたよく言われるんだ……)と、心の中で思うことがあります。「いや、あなたには無理だよ」と。「アルプスの少女ハイジ」の干し草のベッドや美しいマッターホルンの写真に憧れている人には見えない部分です。放物線を描いてまき散らされる堆肥(つまりウン○)の横を平然と通り過ぎ、一度に数匹のハエを叩き潰せるようになり、雨後に大量のミミズとナメクジを避けながら道を歩く世界です。レストランにハエがいたと苦情を申し立て、つり革につかまったくらいで滅菌が必要と騒ぐ清潔好きな方々には想像もできない世界だと思います。

そういえば、もっと別の次元でも「それは無理」と思ったことがありました。昔の同僚が私がスイスに暮らしていると知ってメールを頻繁にくれたことがあるのです。その人は繊細なところがあって、職場の人間関係で悩みうつ病を発症してしまったということでした。そして、日本社会は暮らしにくいので夫婦でスイスに移住したいと相談してきたのです。二人ともスイスとは縁もゆかりもないドイツ語もできない日本人のカップルです。

できるだけ傷つけないように、けれども率直に話しましたが、日本人が日本社会の人間関係で生きにくいと思うなら、スイスで生きやすいということはまずありません。日本人のように相手のきもちを慮って言葉を選ぶような人びとではありません。ドイツ語系スイス人は、礼儀正しく距離を置いてくれるタイプの人が比較的多いですが、言いたいことはびしっと言います。その他に口よりも先に手が出る移民系の人びと、アジア人を見ると無条件で馬鹿にする子供たち、外国人にかなりつれないお役人など、日本に住む日本人が滅多に経験しないようなショックな対応にいろいろと晒されます。そういう時に「ま、いっか」と流せない繊細な神経をお持ちの方はひどく傷つくことになります。

スイスは外国の中ではいろいろな意味で過ごしやすいいい国だと思っていますが、ユートピアではありません。裸足で山羊を追い回しているのどかな世界ではないのです。
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Posted by 八少女 夕

大人になったら

久しぶりにつれづれと思ったことなどを。

七草リゾットの素材

子供の頃、毎日があまり楽しくありませんでした。端的に言うと、勉強はそこそこ以下、運動の方は音痴どころではなくいちいち級友に迷惑をかけるレベル。そして、面白いことも言えないので人望もなくて、なにをやっても空回り。そして、家庭でもさほど居心地がよくありませんでした。つまり朝起きてから夜寝るまで、ずっとイヤなことばかりで、唯一の楽しみは空想世界で遊ぶことだけでした。それすらも「氣味の悪い子」と言われるのが怖くてずっとひた隠しにしていました。

そんな子供の頃の私の夢は「大人になって自分の好きなことだけして暮らすこと」でした。当時の私には大人というのは学校にも行かなくてもいいし、誰かと球技やグループ活動を強制されることもなく、自分で何でも決められて、「カール チーズ味」や「いちごミルク」を好きなだけ買える幸せな人種に見えていたのですね。

当時の私には、貧困の連鎖に苦しむ人びとや、本人の努力とは関係なくされる差別、わずかな賃金を稼ぐために必要な労働、それから生活に付いて回る家事全般など、全く見えていませんでした。

たぶん、人生の半分以上を生きたと思われる今振り返ってみれば、多くの面で私の人生は恵まれていました。子供の頃のように、「自分でない自分になりたい」という願いは持っていませんし、「まだ会っていない(私を救い上げてくれる)誰かにめぐりあいたい」とも思っていません。

とはいえ、今の私にも「好きなことだけをして生きる」自由はありません。私の望む好きなことが、かなり単純であっさり適いそうに見えるにも関わらずです。「のんびり小説を書いて暮らしたい」「ギターでも弾いてゆっくりしたい」「自然の中でくつろぎたい」そのくらいです。「世界を旅して周りたい」というのもありますが、まあ、無理ならいいや程度です。

実際の私は月曜日から金曜日までは仕事に行かなくてはなりません。贅沢はしなくとも生活はいろいろと物入りです。それから、家に戻ってきたら家事があります。料理をして、洗濯をして、掃除をして、足りないものがあれば買い物をして、不要なものは廃棄する手続きもあって。それに、一緒に暮らしている人がいれば、話をしたり、一緒に出かけたり、頼まれたことを手伝ったりします。

家事というのは、手を抜こうとすればいくらでも抜けるのです。でも、それをやるといろいろとひずみが出てきます。出来合いの食品を温めるだけだと、身体が「これはおかしい」と反応します。掃除の行き届かない住まいはイライラが積もります。時間を短縮するための工夫は有効ですが、それでもある程度は心を入れて丁寧に向かわないと健康な家庭でいられないのです。心身ともに。そして、それは連れ合いと向き合う時間に関しても同じです。理論的なものだけでは上手くいきません。心がちゃんと向いていないと人間関係はひずむのです。だから、自分だけのことは優先順位を下げなくてはいけないことが多いのです。

そうやっていると、自分のための時間はあまりたくさん残りません。

ギターの練習に少し時間をとり、それから小説を書いたり、リアルの友達やブログの友達と交流する時間は本当に限られています。実際には子供の頃に持っていた自由な時間よりずっと少ないのです。

「二十歳になったら好きなことだけして生きられる」と思っていたのは幻想でした。そして、いま秘かに思っている「定年退職したら」も、きっと同じ幻想なんだろうなと思います。

十歳だった私が二十歳になるまでは永遠と思われるほどの長い時間でした。でも、いまの私にとっては十年が当時の一年くらいあっという間に過ぎてしまう。この感覚はもっと加速していくのだと思います。そして、誰かより秀でるのでもなく、誰かに認められるためでもなく、単純に「人生が終わってしまう時に後悔しないように」、いまの私は、自分に残されたわずかな自由時間をフルに使って、いま書けるものを書き、いま練習できるだけギターを爪弾いておこうと思っています。

そんなことを考えている2014年の始まり……のはずだったのが、もう二月でしたね。
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Posted by 八少女 夕

明けましておめでとうございます

謹賀新年2014

当ブログ scribo ergo sum 二回目のお正月を迎えました。スイスでも新年です。

今年も、小説をたくさん書いて、校正して、アップできたらいいと思います。そして訪問させていただく皆様のブログで小説、イラスト、記事その他を拝見させていただくのも楽しみにしています。旧年にも増して楽しい交流ができますように。

本年もscribo ergo sumをどうぞよろしくお願いします。
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Posted by 八少女 夕

暮れていきますね

さてさて、今年最後の更新となりました。「scribo ergo sum」の二度目の年越しが近づいています。

今年一年のご訪問、そして、小説を読んでくださり、本当にありがとうございました。

去年にならい、今年あったことを振り返ってみようと思います。

悪かったことは、忙しい十二月なのに体調を崩してしまったこと、久々の高熱に全身の痛み、医者の所ではおどされるし、心底ビビりましたが、おかげさまですっかり元氣に戻りました。普段、バカがつくほど丈夫なので具合の悪い方への配慮が足りない所があるのですが、今回は具合が悪いといかに何も出来ないかを思い知り、自分の傲慢さを思い知りました。いい経験だったと思います。もう一つよくなっかったのは、仕事でちょっと失敗をしたこと。まあ、くよくよしてもしかたないし前向いて行きましょう。反省終わり。

そして、よかったこと。

今年もかなりの数の小説を発表し、それにありがたいコメントをたくさんいただけたこと。
おつき合いいただけているお友だちのブログでたくさんの素敵な交流が出来て、それに創作系のところでは大好きな作品とキャラたちに出会えたこと。これって、普通の日本の方がドラマやアニメでお氣にいりの作品とキャラに出会うのと同じ感覚です。もっと近いけれど。(なんせうちのキャラたちと無理矢理共演してもらったりしているし)

それから、日本に行って美味しいものをたくさん食べて、温泉や大浴場を楽しみ、それにたくさんの人に逢えたこと。出雲大社と伊勢神宮のダブル参拝をさせていただいたこと。

愛車TOYOTA YARISでかなり遠くまで運転できたし、春のポルト旅行も楽しかったし、今年も恵まれた一年でした。

マイ・ギター


そして、これですよ。ギターをついに始めたこと。いや、半年経っても未だにろくでもないんですが、それでもちょっとはギターを弾いているって感じになってきたかな。可能なかぎり毎日練習しています。

来年は、「夜のサーカス」も完結するので、新作の連載が二つになります。また、去年に続き「scriviamo!」を懲りずに開催する予定で、また多くの皆様にご参加いただけることを願っています。いろいろと言葉が足りなかったり、配慮も足りず、年齢の割に困ったヤツなのですが、来る年も懲りずにおつき合いいただけるといいなと思っています。

では皆様、よいお年をお迎えください。
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Posted by 八少女 夕

憶えている? と言われても

国際結婚で、ううむと思う事と言えば。

うちは九つ離れているので、ジェネレーションギャップを感じないかと言えば嘘になるのですが、それ以前にベースとなる記憶が、なんか遠いんですよね。

子供の頃に、印象を受けたニュースとか、流行っていた音楽とか、「なんとなく」ではなくて「全く知らない」という事が多いのです。

今でもそうなんですけれど、日本で流行っている洋楽の大半はアメリカのものですよね? で、日本にJ-POPや演歌があるようにスイスにもスイスの歌手による音楽があると同時に、海外の曲も流行するのですが、ヨーロッパのヒットも多いのです。イタリアやフランスのものとかね。中近東のものも東欧のものもたまにあります。だから、「子供の頃これ流行らなかった?」といわれて「さあ?」ってことが多いのです。ABBAやビートルズはわかりますが。

ニュースもそうで、多分日本でも流されていたニュースだろうけれども、さほどセンセーショナルではなかったせいか、ほとんど憶えていない事件というのも多いのです。パレスチナのテロリストによるルフトハンザのハイジャック事件のことをドキュメンタリーで観たのですが「えっ、憶えていないの?」と驚愕されてしまいました。いや、子供だったし!

ヨーロッパにとっては、ヨーロッパや中近東やバルカンなどは近くて、アジアはかなり遠いので、うちの旦那が知らない事もかなりあります。最重要ニュースはスイスでも報道されますが、それ以外は彼は何も知りません。

言語は習得すれば、それなりに上達しますが、なんていうんでしょうかね、共通の記憶みたいなものは、あとからだと作れませんよね。変な話だけど、昔、こういうブームがあったよねとか、この曲聴くとあのコマーシャルが浮かぶよね、というような共通の記憶です。まあ、なくても夫婦生活には全く支障はありません。説明しても通じませんしね。
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Posted by 八少女 夕

ぷち報告

え〜と、多方向にご心配をおかけしています。私の体調不良の件、今日医者に行って検査を受けてきました。

昨日39℃あった熱が、本日は38℃以下になってきたので、若干はよくなっているのだと思いますが、あまりに色々な変調が続くので、お医者さんもかなり細かく調べてくれました。

血液検査の最初の簡単な結果ではかなり高い炎症を示す数値がでていることや、若干の血尿があるということで精密検査待ちになりました。レントゲンや超音波でも調べてもらったのですが、前回の激痛の場所の腎臓をはじめ今のところ目立った内蔵の変化はないそうなので、大人しく精密検査の結果を待つ事にします。

いや〜、めったに病院にも行かないウルトラ健康体でも、こういう事もあるのですよね。歳が歳だけに、これからはこういう事も増えていくんでしょうけれど。とにかくよく寝て早く熱を冷まします。

そういうわけで、ご報告まで。

(12/12 追記)
精密検査の結果「どうやら、何でもないようです」ということになりました。結果を待っている間に、お薬も何もいただいていないのに、熱は下がり、あちこちの痛みも止り、ようするに大騒ぎし過ぎただけか、ということになりました。ご心配をおかけした皆様にお詫び申し上げるとともに、ピンピンしてきました事をご報告申し上げます。皆様、ありがとうございました。
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Posted by 八少女 夕

いろいろありまして

(追記)すみません、まだ未返信のコメをいただいているのですが、どうやらインフルエンザだったらしく熱でやられております。明日医者に行って、報告いたしますのでそれまですみません。

今日は、報告やら今後の事やらいろいろと。

池は凍った

まずは、先日わりと暖かかったお昼時の「カモのお池」の様子などを。池の九割くらいが凍っちゃっています。現在は残った一割を泳いでいるのですが、これも塞がってしまうとカモたちは飛んでいってライン河やアルブラ川の中で冬の間を過ごすのです。でも、ちょっと不安なのが、以前この池の横に「地元の鴨肉をどうぞ」みたいな看板が立っていた事があって、もしかして一部はクリスマスのご馳走になっちゃうのか? とぎょっとした事。まさかね。

さて、ここ数日の事なんかを。

先週の日曜日にちょっと腰の辺り(正確には腰よりちょっと上の左側の背中)が筋肉痛っぽいかな、と思っていたのですがその夜はどういうわけだが眠れないほどの激痛に。といっても、三週間の帰国休暇のあとで仕事がすごい事になっていて、とても休める状態ではなかったので行きましたよ。車で。その日は激痛で泣きそうでした。原因もわからないし、もしかしたら大変な内臓疾患だったらどうしようと思ったり。それともぎっくり腰かなあと。

で、その日帰宅した後に連れ合いに泣きついたら「風呂に入って暖まれ。そのあとタイガーバームを塗ってやる」と力強く言われ「そんなんで大丈夫か」と半信半疑でいう通りにしました。タイガーバームで燃えるような背中のまま、前日よりは眠れたもののそれでも何度か起きたので、ダメかなあと思っていました。でも、翌朝起きたら確かによくなっていたのですよ。で、もう一晩同じ療法でほぼ完治。その間はもちろん自動車通勤。長く座っていられないのでほとんど小説も書かず、ギターも弾けず。

そんなわけで、家事などもかなり停滞してしまいました。で、現在はそのしわ寄せが来ていて、けっこう忙しいし、まだ時おり痛む腰をかばっているので、本調子ではないのです。

そして、今後のブログの予定など。

毎週水曜日の小説投稿は続きます。まず、明後日は投稿チャンスを逃して一年経ってしまった「十二ヶ月の組曲」の十二月分を発表します。その次の週は、今年のシリーズ「十二ヶ月の歌」の十二月分。(これ、まだ出来ていない! まずい……)そして、今年最後の小説はStella用に「夜のサーカス」となります。

日本旅行の報告や、TOM-Fさんにいただいたバトンなども順次載せていくつもりです。

来年の予定ですが、また「scriviamo!」をやろうかと思っています。今年の「scriviamo!」で一氣に皆様親しくなったし、新たに親しいお友だちもたくさん出来たんで、味をしめました。ほぼ去年と同じ要項でやりたいなと思っています。新年早々ぶち上げると思いますので、参加してもいいなあとお考えの方はどうぞよろしくお願いします。

いろいろあって執筆も一部停滞しているのですが、脳内では再び色々なものが動き出しています。来年のメイン連載は予定通り「貴婦人の十字架」で行こうと思っています。まだ完結していないので不安ですが。それから四月で「夜のサーカス」が完結するので、その後には「バッカスからの招待状」をオムニバスで連載しようかなと思っています。

まだ形になっていないけれど妄想が進んでいる小説は、「樋水龍神縁起」の外伝的位置づけで、安達春昌と次郎の二人旅の話。それから、断片的なストーリーとして「明日の故郷」「終焉の予感」「赴任前日の事」の続編、それに今年中に書くといって書けなかった「だだ生きよ」などがあります。

そんな感じで、つれづれの報告でございました。
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Posted by 八少女 夕

再びスイスです

日本国旗

三週間の休暇を終えて、スイスに戻ってきました。

いつも同じことを思うのですが、最初の一週間はゆったりと過ぎる休暇も二週間目くらいから駆け足になり、最後は「え?」と言っている間に終わってしまいます。

今回の帰国は私にとってはちょっといつもと違うものでした。

一つ目は、ブログのことを何となく氣にしながらの帰国だったこと。二年前の帰国のときには、ブログを始めていなかったので、メールで友人と連絡するために日本にあるMacを少しは使っていたのですが、今回は、ブログのコメント返しや訪問のためにもMacの存在がとても大切になっていたことです。とくに、休暇中とはいえ「あの人のブログでは今日が小説の更新日」とか「あそこでしたコメントにお返事来たかなあ」もしくは「あ。いま通ったここは、ブログのお友達の○○さんが近くにいるはずのところだ」なんて、かなりブログ中心の生活になっていることを実感させられました。まあ、加えて、休暇中なのに仕事のために会社と連絡を取ったりもしなくてはならず、さらに老いた母親がiPadを使える環境を整えるべく頑張ったりもしていたのです。

二つ目。これは後々、写真入りでご紹介するつもりなのですが、今回の日本国内旅行は出雲と伊勢の両方を参拝してきました。別に私はもともとそれほど神道に帰依している方ではなく、というか、じつはカトリックの幼児洗礼も受けている身だったりするのです。にもかかわらずこうなってしまったのは、やはり「樋水龍神縁起」という自作小説の影響が強いと思います。自分の小説に影響されてどうする。

三つ目。いや、これはとても個人的なことで読者のみなさまにはかなりどうでもいいことですが(というか、上の二つももちろんどうでもいいことなんでしょうけれど)、今回、衝撃の事実が判明し、かなり動揺しています。この二十年間の根底を揺るがすような話で、歴史に「IF」は存在しないとはいえ、二十年前にその事実を知っていたら、みなさまがここで読んでいるこのブログも、スイスに住んでいる私も、「大道芸人たち」もへったくれもなかったかもしれない、そんな事実。

とはいえ、「銀の舟に乗って」という小説でも書いたように、時間は一方向に流れ、人間は過去の「もしあの時」の時点には絶対に戻れないのが現実です。私は、スイスのリュシアン(仮名)の元に戻り、この二十年間築いてきた人生を全肯定しつつ次に進むことになるのでしょう。

ですから、親しいみなさまのブログ生活の中には、あいもかわらず「scribo ergo sum」が存在し続け、小説やら、旅行記やら、しょーもないグルメ日記などが何もなかったかのようにアップされ続けることになります。これからも当ブログをよろしくお願いいたします。
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Posted by 八少女 夕

呪縛の話

なんだかんだいっても、昨日生まれたわけでもないので、ぼけぼけしているだけではなくて、時には人生のことなども考えたりしているのですよ。といってもそんなに難しく考えているわけではないんですが。

最近思うこと。人はいくつになっても何かに縛られている生きものなのかなあと。

その人が何に縛られているかは、本当に様々です。本人が意識していない場合もあるし、それを望んでいる場合もある。たとえば親や配偶者に縛り付けられている人がいます。物理的にだけでなく精神的にも支配されている。夢に支配されている人もいます。仕事に支配されるのもよくあることです。どうにかしにくいことではありますが、子供や健康状態もそうですよね。言葉の遊びみたいになりますが「誰にも何にも縛られないこと」に固執することが呪縛になっている場合すらあります。誰であっても多かれ少なかれそうなんですが、何人かの人びとの自分のしたいことをその呪縛を基準にして全て消していっている姿を見ると、場合によっては、それってそんなにしてまで死守するほど大切なことなのかなあと思ったりもします。

こんなことを書いている私自身も完全に自由ではないんです。だから高みの見物的にこういうことを書いているわけではないんです。

人間のやりたいことは果てしなく、それに対して実際にできることには限界があります。だから、人生において人はいつも岐路に立っては選択することの繰り返しです。何かを選択する時に、自分を縛り付けるものを優先してあきらめ続け、後になってから「あれがなければ私の人生は違っていた」と言うのは、残念ながら間違いです。私のある親族は、生涯自分の親を恨んだまま人生を終えました。途中で何度も自分のしたいことを選べるチャンスがあったにも拘らずです。

私はそういう風には生きたくありません。呪縛が嫌ならば自分で断ち切る、そうしなかったならば後になって「あの時あれに縛られていたからできなかった」とは言わないようにしたいといつも思っています。選んでいるのは自分なのですから。
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Posted by 八少女 夕

疾風怒濤

突風が吹くと、木の葉がわーっと舞い散ってすごいことになります。この状態を疾風(Sturm)というのですが、そのままでは終わずに頭の中には「疾風怒濤(Sturm und Drang)」という言葉が渦巻いてしまいます。

疾風

Drangは別に「怒濤」でもなんでもなくて「衝動」で、木の葉ともまったく関係ないのですが、どうしようもないのです。ついでに頭の中にはマーラーの交響曲一番が流れてしまう。すごい連想ゲームです。

あ、落ちはありません。今日の記事はそれだけ。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more

ちなみに、なんでマーラーなのかというと
交響曲第一番『巨人』第4楽章 Stürmisch bewegt(嵐のごとく動いて)からの連想です。
しかも、この曲は『若きウェルテルの悩み』の影響を受けたともいわれていて、本当に文学運動である「Sturm und Drang」に関連があるのですよ。感情を激しく揺さぶる曲を聞いてみたい方はどうぞ。



Mahler: Symphony 1 "Titan" 4th movement
Daniel Nazareth, conductor
MDR Orchestra
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Posted by 八少女 夕

生きているものを手にしたら

謎の花

最近思うのですよ。ブログで訪れている方が捨てられた動物を保護した話、それに私の住んでいるところでは「え、そんな理由?」と耳を疑うような理由でペットが殺処分されてしまう話、それから鉢植えのラベンダーが育ちすぎたという理由で捨てられていたのを連れ合いが救い出して来て植えたら根付いた話など、人間のエゴでいろいろな生命が危険に脅かされているなと。

もちろん、私が食べているハーブだって生命を絶つことで味わっているわけだから、同罪と言っちゃえばそうなんですけれどね。

それでも、一つだけ声を大にして言いたいことがあります。自分の楽しみのために生命を手にしたら、本当にその生命が終わるまで面倒を見るつもりでいるべきだろうってことです。「かわいいから」「流行っているから」という理由で動物を飼うのも悪いことではありませんが、死ぬまで面倒を見る覚悟を持つべきだということです。植物もそうで、「流行のインテリアに」といって購入して来たなら、枯れるまで心を込めて世話をすべきだってことです。

この写真は、職場で私が十年にわたり面倒を看ている植物。一年に一度花を咲かせます。「君には緑の親指があるね」と言われますが、そういうレベルではありません。サボテンの世話と同じくらい簡単なことです。ところが、水をあげ時々肥料をやるくらいの簡単な世話をやりたがらない人が多いのです。そして、この間の引っ越しの時など「面倒だから捨てちゃったら」という意見すら聞きました。

「面倒だから捨てる」くらいなら鉢植えを買う資格はないと思います。私が面倒を見続けていた植物以外、会社の植物はほとんど枯れていたので処分されてしまいました。で、これも運ぶには大きすぎるし「会社が新しいオフィス用にあらためて観葉植物を注文したから」と、置いていくか、そうでなければ自分で運べということに。これは生命なんだけれどな、しかも私たちのために酸素を作り続けてくれる大事な地球の仲間なんだけれどな。でも、私一人では運べなくて困っていたところ、私の意見に賛同してくれた連れ合いが、別の友人と協力して新しいオフィスに運んでくれました。
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Posted by 八少女 夕

一年に一度やってくる日

紅い薔薇

去年、「アメリバッグを自分へのプレゼントに買いました〜」とここに書いてから一年が経ったのですね。早っ。

思えば、去年の今ごろは、もう既にたくさんのブログのお友だちに恵まれていましたね。去年の三月にブログをはじめた頃と違って、ブログが楽しくてしかたなくなっていました。一年前に仲良くしていた方の多くは今でもとてもお世話になっていますが、中にはブログをやめてしまわれた方や疎遠になってしまわれた方もいます。でも、その後に知り合って、とても仲良くしていただいている方もいらっしゃいますし、これからも新しい出会いがあるんだろうなと前向きな希望を持っています。

去年、連れ合いがどういう風の吹き回しか私の誕生日に買ってきた、小さい紅い薔薇の鉢植え。外に植えられて今年も勝手に花を咲かせました。私は、こういう図太い生命力が好きです。さ。この調子で、図太く一年を過ごすことにしましょう。みなさん、また一年、よろしくお願いしますね。
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Posted by 八少女 夕

名前の話

ウツボグサ

唐突ですが、役所に届けられた正式な名前っていくつ持っていますか?

「苗字と名前の組み合わせ一つに決まっているじゃないか」と思われるでしょう。そう、それが普通なんですが。実は私には正式な名前が二組あるのです。

私が結婚した時、それはスイスの役所に届けられました。私は連れ合いの苗字とその後ろに旧姓をくっつける形の苗字を選びました。話をわかりやすくするためにMeierという苗字の男と八少女 夕が結婚したと仮定すると、Yu Meier-Yaotome(正確にはYu Meier geb. Yaotome)という名前になったということです。(ちなみに、これはあくまで説明のための例です。連れ合いはMeier姓じゃありません)

で、その後、日本人の私は結婚したことを日本に届け出る義務があり、新しい戸籍を作ることになったのですが、その戸籍には私一人しかいないのですよ。たとえば山田一郎さんと結婚した八少女さんは、山田という戸籍か八少女という戸籍かどちらかを作って二人で戸籍に入るのですが、外国人は日本の戸籍には入れないんです。

で、どんな姓にするかと訊かれましてね。でも、二つの姓は登録できない、一つだけだと言われてしまったのです。そうしたら連れ合いの姓だけってのがひっかかりました。自分一人しかいないのに「マイヤー 夕」って感じの間抜けな表記になるのがとても嫌だったのです。縦書きのカタカナのスカスカな感じが。それで「八少女 夕」にあたる戸籍を作ったわけなのです。つまり旧姓のまんま。

だから私はスイスと日本とで正式な名前が違うのです。しかもパスポートはまた別の表記。外国人配偶者の姓を表記したいときは()で囲んで後ろにつけろと決まっているらしく、「Yu Yaotome (Meier)」みたいな書き方になってしまっている。

なぜ突然こんな話を書き出したかというと、実はとあるスイスに関連する本に協力者として名前を載せてもらうことになったのですが、どんな表記にしましょうかと訊かれてしまって悩んでしまったのです。

載せてもらった名前は「マイヤー八少女 夕」形式の名前でした。スイスでの正式名称をカタカナと漢字で表記したタイプ。なんだか中途半端だなあと思ってしまっている私です。

ちなみに上の写真は、その本に協力した「アルプスの花」に関連して選んでみました。
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Posted by 八少女 夕

戻ってくるために

一つの小説を丁寧に書いていらっしゃる方には起らないことだと思いますが、現在六つくらいの別の小説が私の頭の中で同時に騒いでいます。

中にはもう書いてしまって発表するだけのものもあるのですが、記事をアップする時に読み返したり、コメントへのお返事を書いたりする時にその世界に移ります。それから今月中に仕上げるべき作品と、まだまだ先だけれど進めている作品と、それはもうめまぐるしいことになっています。

で、ご存知の方も多いかと思いますが、私のブログ記事は一週間分まとめて予約投稿なので、みなさんの眼に留まる頃には一週間くらい前に書いたものになっていることもあります。で、精神状態がその日の記事と一致していないこともあるのです。

つまりですね。おちゃらけて記事を書いているときもあれば、小説にどっぷり浸って引きずられて暗くなっている時もあるんですね。それが原因で、その日の記事はルンルンなのに、お隣のブログに行ってコメントを残すのが不可能なほど憔悴しているなんて時もあるのです。そう、実は書いているものにかなり引きずられる人なのですよ。

昔は、引きずられるのがずいぶん長かったように思います。小説を同時にいくつも書くなんてこともしていませんでしたし(他のが面白くなったら、前のを放置していました)、自分から友人に頼まないかぎりコメントをいただくこともなかったので、その返事を書くという作業で切り替えになることもありませんでした。ある小説のラストに落ち込んだまま一ヶ月なんてこともあったのです。今は、長くても三日でしょうか。皆さんのコメントや拍手が嬉しくて戻ってくることも多いですし、発表時期が近づいている小説の方に頭を強制切り換えするので戻って来れていることもあります。

そんなこんなで、今は戻ってきています。(これは公開数時間前だからほぼリアルタイム)
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Posted by 八少女 夕

世界遺産の話

5 Terre

富士山や三保の松原も登録されたユネスコ世界遺産ですが、登録されると観光客が殺到してかえって保存に問題が出るという事が続出しているようですね。

登録されるとニュースになる。映像や写真が人びとの眼に触れる。今まで存在も知らなかったのに「いいじゃない」と思う人がたくさん出来る。観光客が殺到する。そう、私も例外ではありません。世界遺産に登録されるまで白川郷の名前も知りませんでした。そして、行けるものなら行ってみたいと秘かに思っていますもの。物理的に遠くて行きませんけれど。

この写真はイタリアのチンクェ・テッレ。やはり世界遺産です。よく考えたら、同じようにカラフルで美しいイタリアの村はいくらでもあるのに、行っちゃいましたものね。

実は、ここには二回行きました。最初に春に一人で行って、「よかったよ〜」という話をしたら、夏に日本から来た友達がどうしても行きたいと。「私はもう行ったから、あなたたちだけで勝手に行ってくれないかしら」と言ってみたら「案内人がいないと辿りつけない」と泣きつかれました。大して難しいところじゃないんですけれどね。

二回行った感想ですが、店も閉まっているところの多い春先の方が、のんびりしていてよかったですね。暇だと地元の人たちも親切になるようです。
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Posted by 八少女 夕

セールがきた

今年はまだ一週間くらいしか暑い日がなくて、冬の直後に一週間の夏、そして、もう晩秋という感じなのですが(六月の終わりに霜に降りられてもねぇ……)そんな天候とは全く無関係に今年もはじまりました。夏ものセール。

私は、服装に関してはかなり残念なタイプです。「もう少ししゃれたものを着てもいいと思うんだけれどねぇ。農家の嫁みたいだよ」と知人に言われた事もあるくらいどうでもいい服ばかり着ているのです。おしゃれする場所もないしねぇ。

でも、やっぱり時には新しい服が必要です。ほつれたり、色あせたりしてリサイクルに出した服の代わりになるものを用意しなくては。そういうわけで、セールになるといそいそと買いに行く私。

洋服を買うときに一番困るのはボトムスです。アジア人は足が短いのよね。いや、私がか。で、ここの店のこのサイズなら大丈夫というショート丈のシリーズがあって、それが安くなっていたら速攻でお買い上げです。幸い、今回は黒いジーンズを無事にゲットできました。
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Posted by 八少女 夕

タナカサン、ユージョー! の弊害

ニュースで読んだんですけれど。アメリカ人による「サイバーパンク・ニンジャ活劇小説」っていうのがあるんですって。「ニンジャスレイヤー」っていうんでしょうか。実際に読んだわけではなくて、その紹介のニュースを読んだのです。で、かなり曲解された、ありていにいうと間違った(もしかすると故意に間違えた)日本像、忍者の世界が書かれているってことなんですけれど、それを読んだ時にちょっと考えてしまったのです。

例えば、忍者の仲間同士がお互いにする挨拶が「○○さん、ユージョー!」だっていうんですよ。日本人なら「これ変だよ、ワハハ」で済むんですけれどね。問題は、これで忍者というものを学んでしまう外国人だっているわけですよ。

もちろん、「忍者赤影」や「ハットリくん」だって、歴史でいう忍者とは違います。週一ペースで徳川八代将軍吉宗が「成敗!」と叫び、お庭番が悪代官を斬ったというのもナンセンスです。とはいえ、「タナカサン、ユージョー!」が広まっていいのかなあ。

以前も書きましたが、日本人がヨーロッパの事を知っているほどには、欧米人は日本の事を知りません。ましてや日本の歴史の事などほぼ知識ゼロなんですよね。そこに忍者が一致団結して挑む悪の組織が「ソーカイヤ」だったりして、その後、それが一般知識のようになってしまって「江戸時代の悪の組織、総会屋っていうんだよね」って話になってしまうような。ま、「越後屋」だって別に悪の組織ではありませんでしたが。

とはいえ、一度耳にすると、このシュールなニンジャの世界、妙に頭に残ります。私の中でもニンジャが「ユージョー!」と叫びだしているから、ちょっと怖い。
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Posted by 八少女 夕

何と呼ぶか。

今日は、かなりどうでもいい話題です。でも、実はちょっと悩みどころ。

このブログの常連の方はご存知のように、私は結婚しています。配偶者はスイス人男性です。ま、それはどうでもいいことですが。で、彼の事をですね、不特定多数に、つまりブログやホームページやfacebookで語る時に、私は「連れ合い」という言葉を遣っているのですよ。

今日は、その言葉を遣うに至った若干の苦悩などを。

「まがりなりにももの書きたるもの、すべての言葉に選びに選んで使うべき」とおっしゃる方もいます。けれど私はそういう人間ではありません。彼の事を「主人」と呼ぼうが「旦那」と呼ぼうが「夫」と呼ぼうが「彼」と呼ぼうが「ヤツ」と呼ぼうが、はっきり言ってどうでもいいのです。

しかしですね。この配偶者の存在を表す言葉って、私ぐらいの年齢の人間、もしくはもう少し若い人にはとても繊細な問題なのですよ。世の中には、ご自分の意志でシングルでいる方もいれば、事情があってシングルではいたくないのにシングルである方もいます。後者の方は、かなりそのあたりのことに敏感です。

一方、フェミニズムの問題もありまして「旦那」とか「主人」とか、前時代的な概念だと憤られる方もあるのですよ。妻は夫の所有物や目下の存在ではないってね。

で、誰かと話をする時に私は、誰がどのような思想をもち、もしくはどんな状況でいるのかによって、配偶者の呼称をコロコロ変えているわけです。親戚のお年を召した方の前では「主人」と呼び、フェミニストの前では「彼」と呼び、ずっとシングルの同級生の前では名前で呼ぶというように。でも、ネットではそういう訳にもいかないじゃないですか。

ドイツ語はあっさりしたものです。「Mein Mann」と言えばそれで済むのです。「夫」という意味であり「同棲している彼」という意味でもありますが、要するに「あたしの男」です。直訳すると。それを歳とった親戚にも、友達にも、それから役人の前でも同じように使えるわけです。むこうも「Meine Frau」(俺の女)。

それで考え抜いたのですよ。一般的で、誰かの氣分を害さない、さりげない呼称はないかと。「配偶者」というといかにも固いし、「ねえねえ、あたしは結婚しているのよ」と言っているみたい。「夫」も同様です。こっちには紙切れのことはどうでもいいにも関わらず。「彼」だとただの三人称男性形と区別がつかない。「私の男」とドイツ語直訳を使うのも無理。「ヤツ」だと不必要に軽んじている感じがする。「パートナー」といういい方もあるのですが、これは日本にいるならいいのですが、海外に住んでいる人間が使うといかにも外国かぶれして響きます。結局残ったのは「連れ合い」だけだったというわけです。

というわけで、私の配偶者の事をコメントなどで触れる場合には、どうぞお好きな呼び方でどうぞ。私本人がこだわっているわけではなくて、そういう事情ですので。
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Posted by 八少女 夕

かたづける

本日6月6日、プロバイダが通信方式を変更するようです。昨日新しく届いたルータへの切り換えは済ませましたが、切り換えでしばらくつながらなくなる可能性もあります。訪問や返信等が途絶えても、そういう事情ですので、ご了承くださいませ。



山西左紀さんの小説「アスタリスク」の中に、几帳面な男性が出てきました。って、主人公ですけれど。

大ざっぱなヒロインが適当に散らかしたものを、黙ってもとの場所に収めていく。う〜む。こういうパートナー欲しい。

ご想像の通り、私はかなり大ざっぱな性格です。大雑把が服を着て歩いていると思っていただいて構いません。連れ合いは、私に輪をかけて「散らかす」タイプ。ホンの数日ですごい事になります。

結婚して所帯を持ってからは、私も一応女なので、最低限の事は何とかせねばと思って暮らしています。たとえば脱いだ服を床に放置しないとか、新聞などは読み終えたらすぐに所定の位置に集めるとか、台所だけは毎日ちゃんと片付けるとか、その程度の最低限ルールです。

で、週に一度だけ、きちんと片付けます。拭き掃除をして、掃いて、掃除機かけて……。部屋の中が「お客さんがきても大丈夫」ぐらいちゃんと片付いた瞬間はとても気持いいです。これをさぼると本格的にダメになっていくので、一生懸命死守しています。

片付けるのは、整理整頓と健康のためだけでなく、心にもいい効果があります。部屋が汚いとなんとなくイライラしがち。すっきりと片付いた部屋ではいろいろな事がクリアーに考えられるようになります。だったら毎日そうやって暮らせと言われそうですが、大雑把人間にはマメな事を求めないでください。
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Posted by 八少女 夕

ベートーヴェンが好き

そういえば25000Hitって、皆さんどうしています? なんかやるほどのキリ番でもないかな? 
さて、今日の話題はまたしても唐突です。以前ラファエロが好きって記事を書いたと思うのですが、今度はその音楽編。


この写真はウィーン旅行で「田園」を作曲したと言われる地域を訪れた時のものです。

ベートーヴェン像

もちろん、他にもたくさん好きな作曲家はいるのですが、ほとんどは好きなのは音楽だけで、作曲家本人の人生にまで深く共感してしまうのは、このお人だけです。ルードヴィヒ・ファン・ベートーヴェン。(日本語表記だと通常はヴァン・ベートーヴェンですが、ドイツ語でvはFの発音なので、ヴァンには聞こえないのです)

モーツァルトの肖像を見ていただければわかるように、この時代は人前に出る時などはみんな白いカツラを冠っていたわけですよ。それなのに、あの個性的な姿。音楽室に掲げられた肖像の、どういうわけだか一人だけ悪い目つき。(音楽室の怪談は、たいていベートーヴェンが動くだの、目がぎょろりとするだのでしたね)この個性派ぶりにまずはぐらっときます。浮浪者と間違えられて逮捕されたり、70回も引っ越ししたり、変人ですね。

それだというのに、意中の女性に熱烈な恋文を送ったりして、そのギャップにもしびれますし、作曲家としては最大の苦悩と言ってもいい聴力を失う悲劇。愛した甥には背かれ、なんだか、もう、いますぐタイムマシンで駆けつけていってぎゅっと抱きしめて上げたくなる人生ですよ。

そして、その中で生まれた、あの素晴らしい音楽の数々。

夕食のときに、我が家ではクラッシック音楽を流すラジオ局をつけているのですが、彼のピアノソナタや交響曲が流れる度に「すばらしいなあ」「すごいなあ」としみじみ聴き入るのです。
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Posted by 八少女 夕

たぶん、イメージが違う

先日の「神話系お題」、楽しく盛り上がっていて嬉しいんですけれどね。それに関連してふと思った事が。

ウゾさんのお題から連想して神話系お題をいくつか並べたんですが、その中に北欧神話のものがけっこう混じっていました。私の予想では、ギリシャ神話は一般常識でも北欧神話はそこまで知られていないだろう、つまり「ロキ? 何それ」「テュールって誰?」になるはずだったのです。

ところが皆さんの反応を読むかぎり、「ああ、ロキね」「テュール好きっ」という感じで「知らない」という方はいらっしゃらない。ああ、ゲームかアニメだなと納得しました。そして、画像検索を書けてみたら、出てくる、出てくる。はあ。

私が日本を中心に活動していた頃、つまり90年代の前半まではそこまで北欧神話はメジャーではありませんでした。ギリシャやローマ神話の例えばゼウスやヘラ、アフロディテやアテナという名前は、一般常識として口にする事が出来ましたが、ユグドラシルとかラグナロクといって通じると思うのは大きな間違いでした。

私は、97年に発表した「夜のエッダ」の構想を91年にはじめていたのですが、北欧神話の「バルドルの死」をモチーフとしているので大学の図書館で調べたのです。当時はインターネットなんてありませんでしたから。「バルドルの死」に関する、当時発見できた一番詳しい資料は「和歌山大学紀要」に載っていた論文でした。「世界の神話総解説」みたいな本にはちょっとは載っていましたけれどね。とにかく、そのくらいマイナーだったのです。

で、私の中での北欧神話のイメージは、まだそのままです。学術論文に記述されている感情を排した叙述。英雄や美男美女はいても、それはアニメ顔をしていません。たぶん、彼らが何をしたかも、日本の皆さんが思い浮かべる内容とはかなり違っているのではないかと思います。

何が言いたいかというと、私が北欧神話をモチーフに何かを書いても、たぶん皆さんが期待しているものは書けないだろうなということです。同じ名前、同じ性格、同じ世界観でもかなり違うイメージなんだろうなと思うのです。
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Posted by 八少女 夕

幸せになるために

お知らせでございます。先日、ウゾさんの記事を元ネタにお題だけガンガン出して、そのまま放置しようとした「神話系お題シリーズ」ですが、本当に書いてくださった方が続出。言い出しっぺも書けという流れになって参りましたので、近日中になんか書こうと思っています。ま、「バッカスからの招待状 -1- 」ってな感じかな~。「みんなで書いて、Stellaをこれで埋めよう」陰謀大作戦(by 紗那さん)も持ち上がっております。せっかくだから皆で遊びませう。参加者、募集中。連絡事項はここまで。



唐突な話題です。

子供の時はみな張りがあって綺麗な顔をしているので、さほど氣にならないかと思いますが、中年にさしかかってくるとその人の性格や普段思っていることが、顔に表れてくると思うのですよ。たとえば眉間に深いシワが刻まれている人は常に物事を思い悩んでいるからというような。

そして、子供の頃や若い時代に「幸せになるための条件」と一般に思われていたものや事を手に入れた方でも、意外と「幸せ」という顔でない場合が多いのですよね。

子供の夢物語でいうと「パイロットになる事」「優しい旦那さんのお嫁さん」というような夢を叶えること、若者の言う「一流企業のエリートになること」「白金の億ションにすむセレブライフ」などはすべて外的な条件なのですが、実は幸福は外側に存在するわけではないのです。

あ、外的なものがまったく関係がないという意味ではありませんよ。例えば戦争や大きな災害による影響で、幸福になる事が難しい状況に置かれてしまう事だってあります。私がここで問題にしているのは「幸せになるためにはこれとこれが必要」と条件を設定しても、それを全て満たしたから幸福になれるというわけではないという事です。

何故こんな事を書き出したかというと、最近二つの氣になる情報を目にしたのです。ひとつは、まあ冗談でしょうが「二次元と恋をすれば大抵天国に行けるけれど、三次元との恋はどこかで必ず生き地獄に」というチャートを目にした事。それから、「ある新入社員が自分が幸福になるにはこれだけの金額が必要で、この会社ではその金額をもらえないので辞めると言った」という話。

幸福は心で感じるものです。で、この世の中には、この幸福を感じるセンサーが簡単に「感じたぜ!」と触れるタイプの人と、全然動かないタイプの人がいるんですね。そして、センサーが動かないかぎり、どんな条件を満たしても幸せにはなれないというわけなのです。

衣食の心配のない有閑マダムの顔が幸せに輝いておらず、四畳一間で暮らす人の方が生き生きしている事があるのはこのような事情によるのです。

で、幸せセンサーを動かすためにとても大切なのは「ないものねだり」をしないことだと思っています。お金持ちの家に生まれてこなければ幸福は手に入らないと思い込んだり、理想の彼女は二次元で三次元ははじめから論外だと決めつけたり、幸福センサーを動かすための基準を、絶対に針が振れないところにセッティングしてしまうと、センサーは絶対に反応しません。

ご推察の通り、私のセンサーはかなり簡単に動きます。容姿にしろ、性格にしろ、資質にしろ、私には人に誇れるようなものはほとんどないのですが、この幸福センサーの性能の良さだけは、たぶん世界に誇ってもいい類いのものなのかもしれません。
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Posted by 八少女 夕

ひとり静

スイスに住んでいるというと「いいなあ」と言われます。ところが、その光景が実は日本の田舎の風景とあまり変わらないと指摘しても、東京に住んでいる友人で「田舎に移住したい」と口にする人はいません。テレビのチャンネルが少ない、面白い展覧会や映画やお店が少ない、終電が早い、など都会に住んでいる人にはどうしても手放せないものが多いようです。とくにエンターテーメントの面で。

五月一日、釣りの解禁


私は、東京からド田舎に移住することに全く抵抗がありませんでした。言葉が日本語でなくなり、ふらっと入れる日本の書店が一軒もなくなり、村に一軒の店も存在しなくなっても、何の抵抗もありませんでした。それは、私の適応力が並外れているせいではなく、私が脳内自己完結型の人間だからなのではないかと思います。

私はテレビや映画やラジオを必要としません。日本語の新刊が全く読めなくても、なんでもありません。それどころか日本語ないし他の言語で話せる友人も本質的にはいらないのです。「彼がいればそれでいいの」ですらありません。いなくても生きていけます、間違いなく。

スイスである必要もありません。まあ、今いる所は安全で快適で生活も楽なので、どこか他に行きたいかと訊かれると困るのですが、それでも取り上げられてしまうことを怖れているわけではありません。

電力供給のない、ネットに接続も出来ないところに行くとなると、このブログで何かを発信することや、皆さんと交流すること、それどころか考えたストーリーを電子データにしたり印刷したりすることも出来なくなるわけですが、そうなってもたぶんそれを受け入れてしまうような氣がしています。

究極的に私が必要なのは、自分の思考だけ。ひとり静かに話の続きを生み出しているかぎり、勝手に幸せでいられるんだろうなと、そんなことを思っているのです。
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Posted by 八少女 夕

こっそり、報告

もうそろそろ、カミングアウトしてもいいかな。

マイ・ギター

二週間前の土曜日に、ギターを買いまして、毎日少しずつ練習しています。といっても、本当の素人でまだまだ本当に続くのかわからない状態なのですが。

実は、「大道芸人たち Artistas callejeros」を書いている頃から、何か楽器がやりたいなあと思っていました。私は合唱以外は音楽をまともにやったことがなくて(両親が音楽家だったにもかかわらず)、楽譜もぱっと見ただけでは追えないのですが、でも、老後に何か音楽を奏でられるようになっていたいなあと。

まあ、稔ぐらいちゃんと弾けるようになる日は永久に来ないでしょうが、自分が楽しめる程度にはなりたいなと秘かに夢みていたりするのです。

そういうわけで、ここ二週間、ずっと左の指が痛いままの私なのでした。
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Posted by 八少女 夕

君の瞳は……

先日、トラックバックテーマの記事の時のコメント欄で、人の顔を憶えないって話で盛り上がりました。

で、その続きです。

連れ合いは当然ながらスイスのパスポートを持っているのです。で、今のパスポートにはなくなってしまったのですが、前のパスポートには「瞳の色」「髪の色」って欄があったんですよ。日本のパスポートでそんなことを記載したら全部同じになってしまう(笑)

で、瞳の色ですが、「(パスポートに書いてある)茶色じゃないじゃん」とツッコんでおりました。彼の瞳の色なんですが、茶色っぽく見えるけれどオリーブみたいな色なんですね。「そういう色で、世界は私と同じに見えているのか?」といつも思います。その部分で見ているわけではないんでしょうが、感覚的に。

彼は身近なので、瞳の色も知っているのですが、実は、他の人の色は全く憶えていません。たとえば義母の瞳ってどんな色だろう? 髪はたいていの知り合いについて憶えているのですが、瞳はちゃんと見ていないことが多いんですよね。

ブログの小説だと、オッドアイ(両目の色の違う人)キャラをよくみかけますが、本当の世界では、犬やネコはともかく人間にはそんなに頻出しないだろうと思って、しばらく周りを観察したことがありました。そしたら、身近にいたんですよ。事故で後天的になった同僚なんですが、私はその人の瞳の色が違っているのを五年ほど氣がついていなかった……。全く見ていないらしい。

日本の人の瞳の色はわかりますよ。全員茶色でしょう?
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Posted by 八少女 夕

この世は毒ばかり

企業のまわし者のような日本のテレビと違って、大胆なドキュメンタリーで消費者に情報を流すのがスイスやドイツ系のテレビ局です。日本だと、ネットで得るような情報でしょうか。

ベルトコンベアー式に「生産」されるひどい養鶏の話や、肉を新鮮に見せるためにガスを注入する大手スーパーの話、または大手通販のブラック企業ぶりなどをガンガン告発しちゃっているわけです。テストも「これはいい」「この部分はアウト」をはっきり言ってくれるので、値段との折り合いでどの商品を選ぶかは視聴者、消費者に任されるわけですが、このスタンスは日本のテレビよりもずっと信頼できるなと思うのです。

で、今日の本題。ビスフェノールAという物質をご存知でしょうか。食品の包装容器からレシートのインクにまで広く使われている物質です。神経異常を引き起こす可能性があり、特に胎児や乳幼児の影響が強いと言われています。日本語で、この物質のことを検索すると「有害とは認められない」という方向に近い書き方をされていますが、ヨーロッパではかなり黒に近いグレーで、妊娠中の人間はレシートに素手で触れるなという人もいます。

で、じゃあ、これを避けようかと思うとですね。本当に難しいのですよ。ペットボトル、旅行の必需品です。しかも、暖めると水中に溶けやすくなるってことは、ペットボトル入りのお茶暖めたのはアウトですよね。私が普段使っている計量カップ。プラスチックです。熱湯を計ってますね、アウト。缶詰のトマト。缶詰の錆び止めに使われているんだそうで酸味のあるトマトなどで溶け出すんだそうです。トマト缶、はい、大量に使っています。今月は仕事で、大量のレシートを印刷。料理の保存にポリ袋。もしくはタッパウェア。

たった一つの物質でこの騒ぎです。で、有害だといわれている物質は、これだけではないんですよ。さて、聞かなかったことにすればいいのか、それともできる範囲で生活を変えていけばいいのか。現代社会を生きるのは、いろいろと大変です。
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Posted by 八少女 夕

ポルトで思った

20000Hit、過ぎたんですが、踏まれた方からは特にリクエストないみたいです。というわけで、踏んでなくてもリクエストのある方、先着二名様で受け付けます。5000字以内の掌編か日本語又はドイツ語のソネット、もしくは写真付きエッセイのどれかで。掌編のリクにつきましては、お題、キャラ指定、コラボ、インスパイア型など何でも受け付けます。この記事のコメでお申し出くださいませ。


春の休暇で行ったポルトは二回目です。私たち夫婦は氣にいった場所にはしつこくリピートするので、今後も何度も行くことでしょう。

Portoの街並

ユーロ危機のど真ん中にいるポルトガル。街には覇氣がありません。かつての栄光を思わせる美しい建物がたくさん立ち並んでいるのですが、メンテナンスが足りなくて崩れかけている所も多いのです。

けれど、思うのです。この美しい街を破壊して直線だらけの現代建築にしてしまう意味なんてあるのでしょうか。スイスはポルトガルとは反対の立場にいます。ヨーロッパの中では経済的にはさほど低迷しておらず、世界中の富が集まってきます。多くの中央駅が建て直されて、機能的で便利な近代駅に生まれ変わりました。人びとはその駅を忙しく移動していきます。

大航海時代やその後のポルトの発展期の建物は豪奢でたくさん彫刻が施され、室内も美しいアーチや装飾で眼を楽しませてくれます。スイスで大流行りのモノトーンだけ、ステンレスだけ、鋭利な直線で切るような建築とは正反対です。メンテナンスが違うでしょう、建築家の現代的な創造性や作る方のコストの問題もあるでしょう。新たに建てるものは仕方ないと思いますが、いまある美しい建物をどんどん壊して効率的な建築を建てようとするスイスの動きにはうんざりしてしまうのです。

人びともそうです。忙しくて、お金があって、でも、冷たい感じで。なんていうのか、子供たちがニンテンドーかスマホしか見ていない。お父さんとお母さんがそっぽを向いている。物質的には何でも揃っているけれど、すれ違っていてギスギスしている。お金はなくても家族が笑って一緒にいるラテンの素朴な人びととあまりにも対照的な姿。幸せってなんだろうと考えてしまうのです。

ポルトの人びとは優しく親切です。彼らは、ゆったりと、静かに話します。攻撃的な所がほとんどなく、そのせいか、街自体も静かな印象です。潮風、豪華で美しい建物、透き通る青空、カモメの鳴き声、それにコーヒーをのんでゆったりと座る人たち。一ヶ月に200ユーロしかもらえない仕事で必死で生き抜いている人たちも多いとききます。1.2ユーロのコーヒーは彼らには高いことでしょう。でも、お金では語れない、特別な時間がそこには流れています。

経済危機のポルトガルに、スイスにはない豊かさを見るというのは、痛烈な皮肉だなと思いました。

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Posted by 八少女 夕

旅が好き

本日から春の休暇にでかけます。ブログへのコンタクトはiPhoneのみになり、さらに海外からのローミングですので、ブログ訪問やコメ返は一週間ほどできなくなります。どうぞご了承くださいませ。

旅行中も、しつこく毎日更新いたしますので、どうぞお見捨てなきよう。ブログをはじめたばかりの一年前と同じところに行くんですけれど……。



奥出雲トロッコ列車

子供の頃から、旅が好きでした。どこかへ行くのが好きでした。思うんですけれど、自宅の居心地がとてもよくて、すべてに満たされている人はそんなに旅好きにならないのではないかと。

「大道芸人たち」の登場人物たちが、ドミトリーに泊まり街角で小銭を稼ぎながらも、旅をする暮らしを選んだのは、私にはとても自然なことでした。私もまた「どこか遠くへ行きたい」「ここではないどこかに行ってみたい」という想いを長いこと抱えていたからです。

実をいうと現在は、「どこかに行きたい」は切望ではなくなりました。現在の暮らしと同居人から逃げたいという想いがないからでしょう。それでも旅は好きです。

電車、バス、飛行機などの乗り物の窓から外を眺めるのが好きです。スーツケースに必要な衣類を詰めて、バスポートの有効期限を確認するのも好きです。ふらっと思いついて近場に行くのも好きですけれど。
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