scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】沈丁花への詠唱(アリア)

これは今年書いたもの。毎月、一本ずつ書いている小説「十二ヶ月の組曲」のうちの一つです。




真由美は足を止めて振り返った。微かに風に乗って漂う香りは沈丁花に違いない。けれどその香りは記憶にあるものよりもずっと弱かった。
「どうしたの?」
ジャニーンが訊いた。真由美は上の空で答えた。
「この香り…。どこからするのかしら。ダフネの花だと思うけれど」

真由美は湖畔の遊歩道のたくさんの木立を見回して香りの源を探した。それはじきに見つかった。小さな木だった。日本の沈丁花よりもずっと小振りな薄桃色の四弁花がヒヤシンスのように縦に連なっていて、葉がほとんどついていない。香りもずっと弱い。しかし、真由美は目を細めてその木の前で立ちすくんだ。
「この花が好きなの?」
ジャニーンが訊いた。真由美は黙って頷いた。

北イタリアのマッジョーレ湖に面するリゾート地ストレーザは、スイスよりも早く春の兆しが訪れる。毎年椿の花の展覧会が開かれ、湖畔にはたくさんのヤシの木が立っている。そんな気候なので真由美の暮らすアルプス以北には見られない多くの南の植物がある。秋にきた時にギンモクセイが存在する事を知って幸せになったのもここだった。


真由美がザンクト・ガレンに住むようになって八年が経っていた。海外に住むこと自体は真由美には何の問題もなかった。日本の文化や食事にもさほど未練がなく、ホームシックにかかる事は全くなかった。けれど、この香りは奇襲だった。記憶や理性などよりもずっと下層の原始的な郷愁を直撃した。沈丁花は、真由美の子供時代と強く結びついている花だった。

子供の頃、時間の経つのは恐ろしくゆっくりだった。真由美は内氣で、彼女の属する世界、つまり小学校のクラスに上手く馴染めなかった。慎重に物事を進めればグズとなじられ、明るく振る舞おうと虚勢を張れば失敗して嗤われた。近所の中で私立の小学校に通っていたのは彼女一人だったので、帰宅後に遊べるような友人もいなかった。両親の仲が良くなくて、家の中は荒んでいたので、学校で起きた事を家庭で打ち明ける事もできなかった。夏はまだよかった。学校の帰りに近くの公園で時間をつぶす事ができた。だが、凍える冬には学校と家の往復だけをするしかなかった。ランドセルを背負って寄り道をできるような場所はなかったから。加えて真由美の手足は血の巡りが悪く、毎年しもやけで手足がパンパンに脹れた。一週間は長かった。一ヶ月は永遠のようだった。最も冬が厳しい二月に、突然漂ってくる香りが真由美には暗黒の世界の中での一筋の光のように感じられた。どれほど冬が長くつらくても、確実に春はやって来る。その吉報をもたらすもの、それが沈丁花だった。

「この花の仲間が日本にもあるの。春を告げる花なの」
真由美は、小さな声で言った。ジャニーンはさほど興味がなさそうに答えた。
「そう。いい香りだけれど、この花、毒があるのよね。子供のいる家庭は庭に植えないようにってよく言われているわ」
「スイスでも咲くの?寒すぎるんじゃなくて?」
「咲くわよ。ただし、一ヶ月半は後じゃないかしら。園芸の通販カタログに載っているわよ」
そういうと、コートの衿を重ねて、さっさと歩き始めた。ザンクト・ガレンより遥かに暖かいとはいえ、まだ二月なのだ。湖から風が吹いて来るとかなり寒い。ジャニーンは花をいつまでも見つめているよりは、地元の客で賑わうピッツァの店『パパゲッロ』のテーブルを確保する方がいいと思っているのだ。週末はいつも混むから。

ジャニーンは、かつて真由美と同じ職場にいた。スイスに来たばかりでドイツ語で上手く話せず、スイスの習慣を知らない真由美に英語で通訳をし、細やかに世話を焼いてくれた。当時はニュージーランドで知り合い結婚したダニエル以外の友人がいなかったので、ジャニーンのはきはきとした俊敏な態度は、異文化の中で子供時代に戻ったかのように引っ込み思案になった真由美の救いになった。三年後に、ジャニーンはもっといい条件の仕事を見つけて転職したが、それからも二人の友情は続いた。

「それで、この間話してくれた大人の彼とはどうなの?」
真由美は、自分の小学生時代の思い出から戻ってくるため、ジャニーンに話を振った。その途端にジャニーンの目には大粒の涙が溢れ出した。
「また、ダメになっちゃったの!」
う。またか。真由美はたじたじとなった。急に誘ってくれたので、何かニュースがあるとは思っていたけれど、こっちだったのね。この八年間、ダニエルとよく言えば平穏な日々を過ごしている真由美と対照的に、ジャニーンは半年に一人の割合で出会いと別れを繰り返していた。それも常にイタリア人かイタリア語圏出身の男で、たいていは男の心変わりで破局するのだ。真由美にはよくわからなかった。ジャニーンは魅力的だったし、親切で明るかった。イタリア語を話す男たちにはそれだけでは足りないのだろうか。どうして決まって他の女性に心を移してしまうのだろう。それとも、ダニエルも私が知らないだけで、心移りをしているのかなあ、知らぬが仏って言葉もあるわよねぇ。真由美は人ごとのように考えた。

ダニエルと結婚してスイスに移ってきてからの生活は、順風満帆と表現するのはどうかと思うが、それまでの人生と比較すると、文句を言う事は何もなかった。真由美は職場に向かうのも、家に帰るのも嫌ではなかった。さぞ寒くて大変だろうと思っていたスイスの冬は、東京にいるよりも過ごしやすかった。フラットも会社も壁が厚くセントラルヒーティング完備だった。どんなに寒い日でも暖かい室内では、ガウンひとつで歩き回る事ができた。成人してからは東京でも両手足にしもやけができる事は稀になっていたが、スイスでは全くならなかった。きちんとした手袋をはめ、滑らないように底のしっかりした冬用のブーツを履くために、手足の指が凍える事もなかったからだ。時間はあっという間に過ぎ去り、週末を待つ必要すらなくなった。だから冬の間に春を待ちわびることもほとんどなくなっていた。

『パパゲッロ』の馴染みのウェイターがピッツァを運んでくるのを待ち間に、真由美はジャニーンの嘆きに相づちを打ちながらも、いつの間にかドイツ語の会話から意識をそらし再び沈丁花の思い出に浸っていた。


あれはやはり小学生の時だった。六年生の卒業間近の頃だったかもしれない。理科の授業で先生は課題を出した。顕微鏡で氣孔を観察するので、それにちょうどいい葉を探してくるようにというものだった。顕微鏡で観るためにプレパラートを用意する。そのままでは光が通らないので、葉を引き裂き薄く透き通った部分を使うのだ。できるだけきれいにたくさん膜が剥がれるものがいい。今から校庭に行って探してきなさい、そう先生は言ったのだ。
生徒たちは、数人ずつ束になって校庭に出て行った。緑豊かな学校でたくさんの庭木が植えてあった。皆に馴染めていなかった真由美は、一人でクラスメイトが行こうとしない裏庭へと歩いていった。

沈丁花が香ってきた。真由美は、まっすぐにその茂みの方に行った。一人でも構わない、そう思って大好きな花の前でため息をついた。そして、とりあえず、先生に言われた事を忘れてはいないというしるしに、沈丁花の葉を一枚手に取った。そしてすぐに氣がついた。この葉が、まさに先生の求めていたプレパラートに最適な葉である事を。真由美はその葉を数枚ちぎって、すぐに理科教室に戻った。直に級友たちが戻ってきたが、彼らの持っていたのはアオキや椿などで、膜はあまり上手く剥がれなかった。真由美が作ったプレパラートが最高だと先生は褒めた。級友たちが驚いたように真由美を見て、ほんの少しだけ敬意が起こった。六年間も惨めだった小学校生活で、唯一持てた誇らしい瞬間だった。

真由美は、それから少しずつ変わった。明るいひょうきん者になる事ができなくても、他の者がしないことをして、地道な努力をする事でまわりの敬意を得る事はできるようになる。そんな風に言葉で理解していたわけではないが、肌で理解し、得意な学科でいい成績を取るようになった。人当たりよく他人と接する事ができるようになり、人とのつき合い方も少しずつ覚えた。小学生の時にいつも一人だったので一人になるのも問題なかった。そのどこか孤高な佇まいが、他の少女たちには好意的に見られるようになり、おかげで真由美の社会生活はどんどん改善したのだ。

真由美は沈丁花の花に、恩を感じていた。あの時、あの花が私を助けてくれたのだ、馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、真由美はそういう想いをずっと抱えていた。ここ、ストレーザで再会した花は、その想いを鮮やかによみがえらせてくれた。

そういえばダニエルは「最初はミステリアスなところに惹かれた」と打ち明けた。本当はちっともミステリアスではなかったのだが、真由美は口数が少なく、友人と騒いで楽しむような事が苦手だったので、そう見えたのかもしれない。故郷から離れたヨーロッパに移住する事も大して苦にならなかった。かえって実家にしょっちゅう帰らずに住む事がありがたいほどだった。

この八年間に、ドイツ語環境に馴染み、仕事をまじめにこなす事で、真由美の社会生活は再び心地よいものになった。ダニエルともケンカぐらいはするが、もともとの常識の前提が違う事をお互いに意識しているので、誤解が起きないようにきちんと話し合う習慣ができて、いい関係が築けている。
真由美は若い頃に、子供時代には戻りたくない。これからこの地で生きる時間がどれほど早く過ぎ去り、あっという間に老齢期や死に近づいてしまうとしても、過去には戻りたくなかった。けれど、沈丁花の思い出には、ほんの少しのノスタルジーを感じた。

沈丁花。重宝された沈香のような香りと丁字のような花の形を持つからついた名前。花ことばは「栄光」「不滅」。真由美は、ダフネを自宅でも香らせる事ができるように、あとでジャニーンに園芸カタログを借りようと思った。でも、今はだめ。まじめに彼女の告白に耳を傾けなきゃ。
ジャニーンは涙をナフキンで拭い、左手のワイングラスから赤を飲み、右手に持ったグリッシーニをばりばりと食べている。ウェイターが二つのピッツァを持って近づいてきた。きっとこのピッツァが終わる頃には、彼女はすっきりとして次の恋を探すつもりになっていることだろう。

(初出 2012年1月 書き下ろし)
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の組曲
Tag : 読み切り小説 小説

Posted by 八少女 夕

【小説】桜のための鎮魂歌(レクイエム)

これも今年書いたもの。毎月、一本ずつ書いている小説「十二ヶ月の組曲」のうちの四月分です。




引きずっていたのは罪悪感だったのかもしれない。満開の桜はこれほど華やかなのに、咲く度に私は痛みを感じてきた。

この季節の東京はいつも意地の悪い風や雨が起こり、花冷えにもやきもきさせられる。近くの公園では、花見の席とりをしている幼さの抜けない青年が、ひとりスマートフォンを弄っていた。夜には、「早く終わらないかな」とぼんやりした表情のまま、ビールを傾けるのだろう。桜をまともに眺めたりなぞしないのだ、きっと。それでいい、桜に意味なんか持たせない方がいい。だらだらした青年が義務にかられてしかたなく座ったその桜は、見事なソメイヨシノの巨木だったが、その幹の下で誰かが和歌を詠もうが、ゲームに興じようが意に介していないようだった。

私にとって桜はもっと重い存在だ。父が亡くなってから、桜を見ることは常に追悼を意味した。それはずっと続くのだ。私が桜のない国に行くまで。


「ここしばらく、会っていないだろう。帰ってこないか」
父からの最後の電話は、こんな風だったと思う。私は、条件反射のごとく不快になった。

私は、両親は無条件に愛せるものだというナイーヴな同級生と一線を画していた。家庭を顧みなかった父、いつも家にいないのは仕事のためと言いながら、何度も不義を働き母親に憎まれていた男。自分にこの男の遺伝子が半分も含まれているのは許しがたい暴挙のように思われた。不潔で、小心な、やっかいもの。定年間近になって窓際に左遷され、最後の愛人に捨てられた。定年退職とともに母は離婚を申し出た。

「私がどんなに我慢していたか、あなたに思い知らせてやりたかった」
私は、そういった母親の味方をした。小さな背中を丸めて、アパートに引っ越した父親の後ろ姿を、あてつけがましい態度と軽蔑した。財産分与で買ったマンションに遷る母の引っ越しの手伝いをしながら、せいせいしたと言い放った。

「あら、ここから多摩川堤の桜並木が見えるのね」
母は、引っ越しの手を休めて言った。私はベランダに出て、春のそよ風を感じた。

「いいところねぇ。春にはお花見に来ようかな」
「桜ねぇ。お父さんが好きで、結婚前には季節になると花見デートしたのよね。結婚してからは一度もつれていってくれなかったけれど」
「へえ?桜の季節はいつも会社のお花見でお腹いっぱいって感じだったけどね」
「違うわよ。愛人を連れて行ってたのよ」
「あ~、やだ。だから、私は結婚したくないのよねぇ」

そう言ったけれど、愛人だけではないことを、私は知っていた。私には父親との花見の記憶が一度だけあったのだ。

まだ、私が小学生低学年の頃だった。どういう経緯で父と二人で散歩することになったのか憶えていいないが、私たちは当時住んでいた町の駅の裏の遊歩道を歩いていた。桜が満開の晴れた午後だった。

「見て、お父さん、すごい」
「ああ、綺麗だな。見てご覧、真っ青な空と桜だ。こんなに綺麗な景色は滅多にないよな」
「どうして、みんなは桜が咲くとお花見をするの?他の花の時にはしないのに」
「何故だろうな。桜は、こんなに綺麗だけれど、すぐに散ってしまうんだよ。いつなくなってしまうかわからないから、あるうちに眺めておきたいと思うんじゃないかな。父さんはそう思うよ」

しみじみと語った父親の手のひらは暖かかった。そうなんだと素直に思った幼い私は、まだ諸行無常の意味も盛者必衰の理もわかっていなかった。当時は素直に尊敬していた父親を数年も立たないうちに憎く、疎ましく思うようになることも知らなかった。


私は大学を出てから、広告代理店の総合職に就き、東京に引っ越し、休みもほとんどない忙しさの中で自己を確立していった。母のように我慢するだけの人生は送りたくない。だから、自分の食い扶持は稼いでみせる。結婚したくないわけではないが、どうしてもしたいわけではない、そう思って生きてきた。

二十代の頃は目が回るような忙しさだったが、ここ十年ほどは不況のせいもあり、また、マネージャ職に就いたこともあって、プライヴェートの時間も持てる程度には落ち着いてきた。対外的にはそれなりに成功し、都心に新築マンションを購入し、文化的にも経済的にも満足した生活をすることができるようになった。

ふとまわりを見回してみれば、友人はみな結婚して子供を持っていた。つき合った男たち、中には結婚を申し込んでくれた男もいたが、誰もがもう家庭を持っていた。最近は、既婚者にたまにちょっかいを出されるくらいしか浮いた話はないが、結局のところ私は結婚には向いていないのだと思う。母の苦労を見てきたせいだけではない。たぶん、私の中にある冷徹さが、家庭を持つには向かないのだと思った。


「忙しいのよ。磯子は遠いし、週末にしか行けないわ。何か用事があるの?」
電話をかけてきた父親に、私は冷たく答えた。

「いや、特に用事ってわけではないんだ。だが、母さんと別れて以来、お前とは十年近く会っていないし…」
「会って、どうしたいわけ?酒を酌み交わして、わかりあおうってわけじゃないでしょ?」

父親は多くは語らなかった。
「時間のある時に、会いにきておくれ。不意に来てもいいんだ。いつ来てもいいように、でかける時には、大家さんに伝言しておくからな」

声が前よりも弱々しく響いた。同情を買おうって戦略ね。何なのよ。私はイライラして電話を切った。もちろん行くつもりなど欠片もなかった。

それから、三ヶ月ほど経って、また桜の時期がめぐってきた。私は不意に父親の電話を思い出して、落ち着かなくなった。なぜ私が後ろめたさを感じなくちゃいけないわけ?寂しいなら今までの愛人たちに電話をして慰めてもらえばいいじゃない。そう思えば思うほど、いてもたってもいられなくなり、観念した私は、その土曜日に磯子行きの列車に乗った。

アパートに父親はいなかった。大家を探して訊いたら、中央病院に入院しているという。

「もう、あんまりよくないらしいんですよ。お嬢さんがいらしたんですね、よかった。何かあったらどなたにご連絡すればいいのかと、思案中でした」

私は驚いて病院に向かい、すっかり縮んでしまったような、顔の黄色い父親の姿に呆然とした。

「来てくれたのかい」
父親は、目を潤ませて言った。
「立派になったね…」

「いつから具合が悪かったの。言ってくれればよかったのに」
「忙しいって言っていたから…。三月は決算とかあるんだろう」

そんなに悪くなるのは、ひと月とかそう言う問題じゃないでしょう。私は言いかけたが、思い至った。そうだ、お父さんは会いにきてくれと言っていたじゃない。私が聴く耳を持たなかっただけだ。

「お前に謝りたかった。父親らしいことを、まったくしてやれなかった。結婚に対する夢も、父さんが壊してしまったんだろう?」

いまさら、そんなこと言わないでよ。急にそんないい父親面しないでよ。私は喉につっかえている物を必死で飲み込み、目をそらした。窓の下から桜の大樹が目に飛び込んできた。

「桜…」
「なんだ?」
「桜並木のことを思い出したの。それで、どうしているかなと思って」
私は、そっぽを向いたまま言った。父親の声が涙ぐんで聞こえた。
「憶えていたのか。まだ、小さい頃だったな。あの桜は、綺麗だったな…」

私は、また来ると言って、病室から早々に逃げ出した。

その年の桜は、当たり年だった。花がぎっしりと寄り添い、それぞれが生きる喜びを力の限りに謳った。一つひとつは白いのに、遠くから眺めるとうっすらとした桃色で、絹でできた輝く雲のようだった。そして桜を賛美するかのごとく、盛りの日々を紺碧の空が彩った。彼方に哀しみが透き通っていくような清浄な空だった。私は、病院に植えられた大樹の影から、父の病室を見上げてやり場のない感情をもてあました。私はお父さんを憎んでいたはずだ。ならば、この感情は何なのだろう。

彼はそれから半月も経たずに、この世を去った。私の中に大きな後悔だけを残して。それから、桜の季節がめぐってくる度に、私はあの時と同じ何かが喉にこみ上げてくるのを感じる。妻と愛人たちに見捨てられた、姑息でずるい小男。たった一人の実の娘に憎まれていた人生。けれど、彼を蔑むことができるほど、私は立派なのだろうか。一人で生きていけるようになること、都心のマンションに暮らすこと、男なんかに頼らない生き方。築き上げてきた全てが虚しく感じられる。


母は違った。失った二十五年を取り戻そうとするかのようにはじめた社交ダンスのサークルで、友人と、そして新しい伴侶まで見つけた。まじめで優しい人だそうだ。恥ずかしいから表立ったことはあまりしたくないけれど、親しい人を招待する披露の食事会には来てほしいと電話をしてきた。

「あなたも、いい加減にいい人探しなさいよ。仕事もいいけれどねぇ」
「私が一度も結婚していないのに、なんでお母さんは二度もするのよ」
私は呆れて、電話を切った。お祝い事の報告だったから、私の方の話はできなかった。

母が落ち着いてから、ゆっくりすればいいのだ。そのくらいの時間は残っているだろう。

私は、鏡を見る。黄色い顔。八年前に病院で見た父の病んだ顔とそっくりだ。三月は決算で忙しかったから、鏡をゆっくりと見ることもなかった。今日、ようやく予約が取れたので行ったというのに、医者はなぜもっと早く来なかったのかとなじった。

同じ病だった。医者は必ずしも死ぬわけではないということを回りくどく説明した。つまりチャンスがないわけではない、ということだ。若い分だけ進行が速いので予断は許さないとも言った。こんな時だけ若いと言われても嬉しくも何ともない。

これは罰なのだろうか。実の父親を憎み続けたことへの。願いを冷たくはねつけたことの。同じように孤独の中で、この世を去っていくことを、私は天の正義のように感じる。私に伴侶も子供もいないことや、母に新しい伴侶ができたことは、天からの配慮なのかもしれない。いや、もしかすると、これは父からの生前にできなかった娘への贈り物、つまり警告だったのかもしれない。同じ黄色い顔がなければ、私はずっと病院には行かなかっただろうから。

青く青い空にソメイヨシノが映えて、泣きたくなるほど美しい。こんなに華やかで、かつ、はかなげな花はない。今ある生を謳歌している。たとえ、心なき風にすぐに散らされてしまう身だとしても。

「きれいねぇ」
「今年も立派に咲いたよなあ」
人々のため息が耳に入る。

今年の桜を、私は安らかな氣持ちで眺めることができる。来年の桜を、もしかしたらあの時の父のように、私は見ることができないのかもしれない。それはあの医者にだってわからないだろう。けれど、私はだからこそ短い桜の季節を大切にすることができる。父が教えてくれたように。私は、ここで最後の追悼の花見をしよう。父と、いつ逝くかはわからないけれど、必ずいつかはこの世を去る私のための。

(初出 2012年3月 書き下ろし)
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の組曲
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】冬木立の前奏曲(プレリュード)

「大道芸人たち」がチャプター3の日本編に行くまでのインターバルとして、短編小説をアップします。これは、毎月一つずつ書いている「十二ヶ月の組曲」の一月分。




冬木立の前奏曲(プレリュード)

 プラタナスの木は葉を全て落とすと、まるで地面に逆さまに突き刺さっているかのように見える。晴れた空はみごとなセルリアン・ブルーで、目に痛いほどだ。ライナーは湖畔に並ぶ色とりどりの家の一つであるレストランのテラスに座って、マッジョーレ湖に反射する陽光のきらめきに目を移した。

 一月だというのに、この暖かさはどういうことなのだろう。日光の燦々と降り注ぐこのテラスでは、氣温は二十度を超えて、コートを脱がなくては暑いほどだ。

 スイスでもっとも海抜の低い所にある街、アスコナはイタリアとの国境に近く、南国の陽氣さとスイスの清潔と機能を併せ持った、ドイツ系スイス人にとっては理想的なリゾート地で、「マッジョーレ湖の真珠」と呼ばれている。人々は定年退職後はこの地に移住してのんびりと暮らしたいと願っている。そのために口の悪い人々はこの街を「ドイツ系スイス人の老人ホーム」と呼ぶのだった。

 ライナーはアルプスを越えた北側の街クールに住む紛れもないドイツ系スイス人ではあったが、引退するにはまだ若すぎる。実を言うと、まだ結婚もしていないし、仕事も極めたとは言い兼ねる青二才に属する年齢だった。今日この場所にいるのは、単なる週末の遠出だった。

 この前ここに来た時には、ダニエラと一緒だったが、再び彼女と来ることはないだろう。ダニエラとの関係を解消するには多くのエネルギーが費やされ精神的疲労を伴ったが、結局はそれが二人にとってよいことだったと思っている。少なくとも二人とも健康で、その後の人生を楽しむことができている。ダニエラには既に新しいボーイフレンドができたと仲間から聞いたが、ライナーはそのニュースにいささかの痛みも感じなかった。結局は、そういうことなのだ。彼女は過ぎ去っていく女だったのだろう。

 今ライナーがここアスコナで思い出し、そこはかとない痛みを感じるのは、かつてつき合ったことのあるどのガールフレンドたちとの思い出でもなかった。それは、ライナーのもと同僚だった今は亡きステファン・ツィンマーマンの自信にあふれた表情と、エーファ・バルツァーの悲しげな顔だった。

 会社のクリスマス会食ではじめてエーファに逢った時、ライナーは少し残念に思った。エーファはステファンのパートナーとして一緒に暮らしており、ライナーはダニエラと一緒に会食に参加していた。そうでなければ、ライナーは彼女に「もっとお互いのことを話しませんか」と言っただろう。エーファはライナーの理想とも言える資質を持っていた。彼女のどちらかというと地味な風貌ではない。たくさん話した訳ではないので話題でもない。波長とでも言うのだろうか、彼女を包む形容しがたいヴェールのようなもの、言葉の運び方、立ち居振る舞いなどがとても心地よかったのだ。それが第一印象だった。エーファのような女性を選んだことが、ステファンに対する評価をも変えた。それからライナーは以前よりもステファンと親しくするようになり、休日にも時折四人でドライブに行ったりしたのだ。

 コーヒーの代金を払うと、ライナーはレストランを離れ、湖に沿ってプラタナスの並木道を歩いた。一人は冷たい墓の中にいて、もう一人はアスコナの陽光の中を後ろめたさを抱えて歩いている。

 ここのところいつも頭痛がするんだと、イライラする口ぶりで言ったステファンをライナーも、ダニエラも、そしてエーファですらも相手にしなかった。けれど、あの時にはもう、ステファンの病はかなり進んでいたのだ。最初の入院は、それから三週間も経っていなかったが、半年の間に三回も入院し、一ヶ月前の手術を生き延びなかった。ステファン。まだ三十二歳じゃないか。アドミニストレータの資格取得のために学校に行きはじめたばかり、結婚とか子供を作ったりするのはまだ早いと笑っていたじゃないか。

 ステファンが最初に入院した時、彼の分も仕事をこなさなくてはならなかったライナーは不服を言った。そのことが今となっては悔やまれる。葬儀の時のエーファの疲れた顔にも、同じ後ろめたさが感じられた。

「もっと優しくしてあげるべきだったのよね」
力なく笑ったエーファの肩は、以前見たよりもずっと細くか弱く見えた。

「君は、誰よりもステファンを力づけてあげたじゃないか」

 彼女はわずかに微笑んでライナーの頬に小さいキスをし「さようなら」と去っていった。


 ライナーはエーファのことを考えた。ダニエラと別れてシングルである自分は、やはりシングルであるエーファに興味を持っている。もし、彼女がステファンとけんか別れしたならば、それは恥ずべき感情ではなかった。だが、病でパートナーを失ったばかりのエーファにこれ幸いと近づくようなことは不可能であるように思えた。とはいえ、それだけで諦めてしまう氣にもなれなかった。

 ライナーは、携帯を取り出して、電話番号を探した。ステファン・ツィンマーマンのまま登録されている番号。彼女はまだ同じ場所にいるのだろうか、それとも引っ越してしまったのだろうか。しばらく逡巡してから彼は送信ボタンを押した。何回かの呼び出し音が聞こえ、迷ったまま切ろうとした時に通話状態になった。
「バルツァーですが……」

 ライナーは、何を話そうか、何も考えていなかったことに思い当たった。
「僕、ライナーです。どうしているか、氣になって」

 エーファの声が心なしか和らいだ。
「まあ、ありがとう。なんとかやっているわ。こういう寒い日には、つい家に籠ってしまって、考え込んでしまうのだけれど……」

「そうか。じゃあ、誘えばよかったかな。僕は今、アスコナにいるんだ。春みたいに暖かいよ」
「まあ、素敵ね。こっちは、また雪が降りそうだわ。ダニエラも一緒なの?」

 そこで、ライナーは躊躇した。
「いや、その、実はダニエラとは二ヶ月くらい前に別れたんだ」

 エーファは少し黙った。それからためらいながら言葉を続けた。
「まあ、そうなの。それは、残念ね……」

 少し警戒しているように響いた。ライナーは慌てて言った。
「ここに来たら、四人でロカルノに来た日のことを思い出したんだ。あまり落ち込んでいないといいと思って。元氣だせよ」

「電話をありがとう、ライナー」
エーファは小さく言った。ライナーが電話を切ろうとすると、エーファは小さく続けた。
「あの……」

「なんだい?」
「氣にかけてくれて、ありがとう」

 エーファの静かな声は、ライナーの心に染み渡った。


 ライナーは色とりどりの家の向こうに見えている、灰色の教会に向かって歩き出した。聖ペテロと聖パウロ教会だった。地味な石造りの外観に相反して、白い漆喰のアーチとたくさんの壁画に彩られた明るく美しい内装の教会を、ライナーは既に訪れたことがあった。だが、それは真夏の日差しを一瞬避けるために訪れただけで、ゆっくりとその中を見たかったわけではなかった。そもそも、ライナーは成人と同時に教会からでてしまって、誰かの結婚式か葬式の時以外には教会に行くこともほとんどなかった。

 教会の重い扉を開けると、鳴り響くオルガンの音に驚かされた。ミサの最中ではなかったし、聴衆がいるわけではなかった。つまり、オルガニストが練習しているのだろうとライナーは思った。

 それはバッハだった。何番かと言うことはできないが、『プレリュード』であることは間違いなかった。これの入っているCDを持っている。静かだが動き続ける長調の旋律は、ちょうど今見ていたばかりのマッジョーレ湖に反射する陽光のきらめきを思い起こさせた。その曲が再び四人でマッジョーレ湖に来た思い出にライナーを引き込んだ。


 ロカルノを訪れたのは去年の七月だった。空氣の重い暑い日で、ダニエラが疲れたと文句を言ったので四人でカフェに入った。

「そんなにあちこち歩き回る必要なんてないのよ。どうせ湖と教会の他はショッピングをさせようって店とカジノしかないんだから」
ダニエラがいつもの無関心な様子で言うと、ステファンはウィンクをして言った。

「八月は、映画祭があるから、話が違うけどな」
「私、一度もロカルノ映画祭に来たことがないのよ。ライナーって段取りを上手くやってホテルを確保するとかできないの」

「そんなに行きたければ、自分でホテルの予約をしろよ」
ライナーが言うとダニエラはムキになって反論した。
「つまんないバッハのCDを聴く暇があったらやってくれてもいいでしょ。信じられない。バッハだなんてまともな男の聴くもんじゃないわ」

 ステファンが混ぜっ返した。
「確かに、勘弁してほしい選曲だよな。もしかして日曜毎にミサに通っているとか?」

 ライナーは教会に対して敬虔で厳かな氣持ちを持つことをずっと否定し続けてきた。教会で毎週行われているミサや、ごてごてした教会の飾りを馬鹿げた茶番と軽蔑してきた。好んでいるバッハのCDはジャズ・ピアニストによるアレンジものだったし、教会の偽善と一緒にするなと反論することもできた。にもかかわらず、彼はステファンとダニエラの偏狭な物言いの方に腹を立てて言った。

「テクノだけが音楽じゃないよ。いいものはいいんだ。教会にだって必要なら行くさ。お前らだって結婚式や洗礼式には行くじゃないか」

 エーファは少し氣の毒そうに言った。
「私も時々バッハやヴィヴァルディを聴くわよ。特別なクラシック音楽ファンって訳じゃないけれど」

「あ~ら。ライナー。あなたには他の理解者がいるじゃない」
感じの悪いダニエラにいい加減にしろとライナーが言いかけたその時に、ステファンは注文と違うアイスクリームを持ってきたとウェイトレスにつっかかった。その言い方をたしなめるエーファとステファンは口論になり、ライナーは自分の怒りをすっかり忘れて二人を仲裁し、ダニエラは白けてタバコを吸いだした。あれは、ここからたった二キロしか離れいてない場所で起こったことだったのだ。


 荘厳に響くオルガン曲を聴きながら、空間としての教会がどこよりもバッハのこの曲に合うことをライナーは認めた。それは純粋な芸術であると同時に、宗教的な崇高さを備え持っていた。信仰というほかはない精神なしには意味をなさない音楽だった。ライナーはあの時の自分の怒りの意味をようやく理解した。二人が、そして自分も軽蔑していた教会という空間と敬虔な精神の脇には、自分たちが目をそらしていた世界があった。

 メメント・モリ。死を想え。死は、どこにでも潜むものなのだ。若かろうと、科学技術が発達した二十一世紀だろうと避けられない。自分とは無縁だと思っていたその厳しい現実が、友人の死で浮き彫りになった。その恐怖や悲しみをなだめることができるのは、酒やばか騒ぎなどではなく、今まで避け馬鹿にしてきた真摯で厳かな精神であろう。それが信仰というものの本質なのかもしれないと。

 ライナーはオルガンの響きを追いながら、いまおこったこの感覚についてエーファと語り合ってみたいと思った。彼女には、ライナーの感じたことがわかるだろう。それこそが、彼がエーファに興味を持ち、彼女のことを今ここで想う理由なのだ。そして、彼女にもステファンへの愛だけでは埋められない心の隙間があったに違いない。そのことに思い至ってはじめて、ライナーの中で今までの後ろめたさがなくなった。


 愛するパートナーをこういう形で失った彼女が、すぐに氣持ちを切り替えることは難しいだろう。ライナーもそれを望んではなかった。このわずかな時間、わずかなアプローチで、自分が彼女の心の中の地位を向上することを期待している訳でもなかった。ただ、今日、このアスコナででライナーの中のエーファは完全に特別なポジションに収まった。いつか『プレリュード』を聴きながら、彼女と今日のことを話すことができれば。その期待に満ちて、ライナーの心も冬の中の小春日和のように暖まっていた。

(2011年12月 書き下ろし)
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の組曲

Posted by 八少女 夕

【小説】蝉時雨の奇想曲(カプリス)

先日から時おり言及していた読み切り小説、「十二月の組曲」の八月分です。あえて言うまでもないと思いますが、私の書く小説は全てフィクションです。それは「十二月の組曲」に属する短編についても同じです。たとえ、明白なモデルがあっても、私小説に近いものでも、全てフィクションとしての設定を組み直しています。というわけで、この話の設定の半分はフィクションですので(しつこい)




蝉時雨の奇想曲(カプリス)

 虫取り網を持った子供たちとすれ違った。夏休みの開放感にはしゃぎながら、キャッキャと騒いでいる。ねっとりと肌にまとわりつく重い空氣など全く感じないかのように朗らかに。


 都会とは思えないほどの自然に囲まれたこの寺の境内で、たくさんの蝉が一斉に叫んでいる。本堂の手前では忙しく社葬の準備をする業者たちの声が聞こえた。志乃は礼装用ハンドバッグからハンカチを取り出して汗を拭いた。

「池田くん、こっちだ」
香川部長がテントの中から呼んでいる。志乃は黙って一礼するとテントに入っていった。
「遅かったじゃないか。どうしたんだ?」
「すみません。人事部長に呼ばれていました」

 志乃がそういった途端、香川部長の顔は、氣まずそうに歪んだ。知っているんだ、この人も。志乃はつま先を見つめて唇を噛んだ。

「とにかく、今日はここで君に仕切ってもらうから。お香典の管理の責任者として頼むよ。記帳が始まったら絶対にこの場を離れないように」

 志乃は顔を上げた。
「では、いまのうちにご焼香させていただきます」

 香川部長の顔はさっと曇った。
「いや、それは遠慮してほしいんだ。その、奥様がな……」

 再び志乃はつま先を見つめて、短く頷いた。


「えっ。ちょっと、あのテントにいるの、池田課長じゃない?」
「そうよ。香川部長が呼んでいたもの」
「ええ~っ? でも、何で課長ここに来れるの? 噂じゃ日高専務、腹上……」
「しっ!」
「ああ、ごめん。不謹慎だったわね。でも、そうなんでしょ。池田課長と……」
「違うのよ。亡くなった時の相手は受付の新井ちゃんだって」
「げっ。そうなの? 新しいブランドものばかり持ってたからなんか怪しいと思ってたけど」

「彼女、警察で事情を訊かれた後、ビビって寝込んじゃっているらしいよ」
「本命の彼氏には振られちゃうかもね」
「ま~ね。でも、新井ちゃんはいいんじゃないの? 退職してどっかでやり直せば。まだ二十歳そこそこだし、かわいいしさ」
「そうよねぇ。それにひきかえ……」

 喪服を着た三人の女たちの視線は、池田志乃に向けられた。

「池田さんさ、これらしいよ」
そういうと、一番事情通らしい女が首のあたりに手をやった。
「ええッ? もう?」
「うん。さっき、部長に呼び出されてたの人事の本田っちが見たんだって。自主退職勧告ってやつ?」
「ああ、日高専務って婿養子でさ、奥様は大株主の一人娘だったんでしょ。今はその株、全部奥様が相続してるし、亡くなった専務の分と合わせると筆頭株主なんじゃないかな。奥様が眉を上げたら社長だって走るよ」
「日高専務が社長になったら、池田さんがはじめての女性役員になるとまで言われていたのにね。諸行無常だ……」


 声が大きすぎる。全部聴こえているわよ。二人の関係は会社中が知っていた。志乃は知られても構わないと思ってきた。世間がなんと言おうとこれが自分の幸せの形なのだからと。

「池田課長は私たちの憧れなんですよ~」
つい先日まで、彼女たちは言っていた。志乃はそれを鵜呑みにしていたわけではなかったが、少なくとも自分の地位は自分で獲得してきた自負があった。支店に十年もいたので、昇進は随分と遅れてしまった。だが、その間もふてくされずに仕事に励んだ。

 ずっと本社の中枢にいて営業で目覚ましい成績を残した日高が最年少で経営陣に加わったことと、志乃がようやく本社に戻れたことを二人でひっそりと祝ったのは二年前だった。それから志乃は念願の本社営業で社運をかけたプロジェクトに抜擢された。日高の元部下だった香川部長はこのプロジェクトには押しが弱いので、志乃が部長になって引き継ぐのは時間の問題と言われていた。ようやく長年の努力が認められた。

 女性社員たちの羨望は陽のあたる場所にいること、都心のマンションで暮らし、流行のスーツに身を包む華やかな自分に向けられたものだろうが、その裏には今までの苦労があるのだ。志乃はそれが誇らしかった。

 しかし、その苦節も仕事ぶりも、大株主のご機嫌ひとつで吹き飛ぶ程度のものでしかなかった。


 先程の女たちは、焼香から戻ってきて、また話しだした。
「奥様と池田課長って同い年なんだって。そうは見えないよね」
「池田さんって、異様に若いよね。リフティングしてるのかな」
「さあね。子供産んでいないからかもよ。それとも、服装が違うから? もう五十近いのに派手だよね。ま、女が出世するには、仕事よりもそっちだよね」
「バブルの申し子か。その頃から日高専務の愛人だったのかな」
「さあ。もしかして新井ちゃんが生まれる前からとか? ひえ~」

 葬儀の間中、志乃は人々の好奇の目にひたすら耐えていた。聞こえないふりをして震える手で香典の金額を書きとめ続けた。


 葬儀が終わったらしい。出棺の前に、未亡人にマイクが渡された。少し遠いが志乃もその声を所どころ聴き取ることが出来た。
「本日は……きっと亡くなった主人も……突然のことで……主人は私たち家族を大切に……ちょっとした出来心で過ちを犯したこともありましたが……」
出来心の過ち。志乃はその言葉を心の中で繰り返した。剛さん。私はあなたの言葉を信じてきた。
「愛しているのは君だけだ。でも子供がかわいそうだから、今、妻と別れることはできない」

 奥様が大株主の娘であることは知っていた。だから離婚したら彼が地位を失うこともわかっていた。
「俺はどうしても社長まで登り詰めたいんだ。この会社を本当にまともにできるのは俺しかいない。志乃もそう思うだろう? 俺たち二人で、この会社を業界一位に押し上げよう」
二人で。そう、二人で。志乃は結婚などという形にはとらわれない愛を示したかった。


 奥様には理解できないあの人を、私だけがわかっている。はじめてのデートで聴いたフォーレの『ヴァルス・カプリス』。荒削りに見える人が、こんな繊細な音楽を愛するなんてとても意外だった。暗闇の中で、握られた彼の手の暖かさにときめいた。彼がピアノを聴きながら食事をするのが好きだというので、当時買ったばかりのマンションには、質のいいオーディオを揃えた。フォーレ、ショパン、リスト。知らなかった曲を沢山用意して、彼を待った。いま聞こえている蝉時雨が、フォーレの踊り回る音色と重なる。『ヴァルス・カプリス』。私たちだけの愛の世界。


「退職したら、俺は家を出て、志乃と暮らすつもりだよ。その頃には子供たちも成人しているしさ」
子供たち。先程、テントにやって来た二人の少女たちの視線が心に突き刺さる。セーラー服に喪章をつけた少女たち。一人は十八歳で、もう一人は十五歳のはずだ。


 二人目が出来たという話を日高剛に聞かされた時、志乃は怒った。長女が成人するまで離婚は出来ないが、妻との関係は崩壊しているとずっと言っていたのに。だが日高は酔った末の過ちだと言った。

 三年後にまた子供が出来たと聞いた時、志乃はもう何も言わなかった。「私もあなたと結婚して子供が欲しいのに」その言葉を飲み込んでしまった。

 蝉時雨が、突き刺さるように降り掛かる。二人の少女の視線のようだ。
「見て。あの女がクリスマスとバレンタインデーの……」

 日高剛の自慢は、家族と愛人の両方を満足させてやっていることだった。
「家族とは夏休みと正月を一緒に過ごして、家族サービスをたっぷりしてやっているんだ。その分、クリスマスとバレンタインデーは、お前とゆっくり過ごすって妻に宣言してあるのさ」
「そんなこと言って、大丈夫なの?」
「ふん。あの女は、働けもしないからな。だから、お前の存在をはっきりと言っても、何もしないんじゃないか」

 私は奥様とは違う。自分の城と仕事を持つ自立した女として彼と対等に生きているんだ。打算の何もない純粋な愛を彼に捧げている。


「いい歳して、愛だの恋だの言っているんじゃないわよ」
数年前に、不倫を知った妹が吐き捨てるように言った。
「そんな事を言うなら、どうして斉藤さんと結婚しなかったのよ」

 斉藤健司。悪くない人だった。日高剛のような野心やロマンティックなデートの演出は望むべくもなかったが、優しくて表裏のない人だった。健司は子供がいつも笑っていられる温かい家庭にしたいと言った。志乃も子供は好きだった。いつかは結婚して自分の子供を産みたいとも思っていた。けれど、その時の志乃には「よき母よき妻」でありながら、仕事を続けるのは無理だった。

 あの時、志乃にはプロジェクトの方が大切だった。総合職として採用されて六年、男性社員に負けないように頑張ってきた。仕事の企画・提案は誰よりも早く、なおかつ高クオリティのものを提出してきたと自負していたし、ゴルフやアルコールによる接待も嫌がらずにしてきた。それなのに平凡な男性社員よりも昇進が遅い。そのことが悔しかった。

 志乃は中学校や高校でいつも優秀な成績を残し、有名私立大学に現役で合格した。就職のときも総合職以外は考えられなかった。


「死んだ子の歳を数えるな」という。数えてどうなるというのだろう。けれど、志乃は蝉が激しく鳴くと、生きていれば直に成人式を迎える子供のことを思う。

 健司は産めと言った。結婚して、一緒に子供を育てようと。志乃にはその妊娠は迷惑以外の何ものでもなかった。やっと手がけさせてもらえたプロジェクト。今、離れたら、あのぼんくらな同期たちに手柄をとられてしまう。結婚や子供はもっと後でいい。

 手術の後、自分は何をしたのだろう思いながら歩いた道。あの時も蝉時雨が狂ったように響いていた。相談もせずに中絶をしたことをなじる健司の声が遠く感じられた。その夏、二人の仲は終わった。


 恋人と別れ、中絶の罪悪感に悩み、そしてプロジェクトから外された喪失感で自暴自棄になっていた志乃に近づいてきたのが同期の日高剛だった。
「結婚するなんてもったいないよ。仕事をしている池田さんは誰よりも輝いているんだから」

 ようやく私のことを本当にわかり認めてくれる人と出会えた。日高の左手の薬指に光る指輪を残念に思いながら、志乃は思ったものだ。


 日高とつき合いだしてしばらくして、二人でいる所を社内の人間に見られた。それからしばらくして、支店に異動になった。それから、本社にいる同期とはどんどん出世に差がつくようになった。

 結婚と出産をする限界は三十五歳だと思っていたので、日高に別れを切り出したこともあった。
「何を言おうと、俺は別れるつもりはないから。俺たちはこうなる運命にあったんだよ」
それ以上、どんな言葉が必要だっただろうか。結婚という形にこだわるならば、健司さんと結婚すればよかったんだ。そうしなかったのは、私と剛さんの間に運命の絆があったからなんだ。志乃はやがて思うようになった。結婚して子供を産む代わりに、私は素晴らしい人生を手に入れたのだと。「運命の愛」と「充実した仕事」と「自立」と。


 その日高はもういない。最後に側にいることも、焼香することも、別れを告げることも出来なかった。二人で退職金をもらい、クラッシック音楽を聴きながら優雅に老後を過ごす夢は潰えた。結婚と出産を犠牲にして励んできた仕事も失った。五十を前にして次の職を探すのは難しいだろう。


 『ヴァルス・カプリス』に聴こえる蝉時雨。誰にも相手にされず、一人で寺を後にするその横を、子供たちが無邪氣に走っていく。虫かごの中の蝉は大音響で空氣を震わせる。屈託のない笑顔。前途に満ちたその姿。何にでもなれる。どんな未来も自分の手で勝ち取っていくことが出来る。蝉を一つひとつ捕らえるように。

 自分はもうあの中の一人ではないのだ。熱くつっかえるものがこみ上げてくる。剛さん。私たちの愛は、どこにいったの? 本当に存在したの? どこで人生は狂ったのだろう。私はいつでも努力を惜しまずに、真剣に生きてきたのに。

 湿氣と汗で肌にまとわりつく化繊の喪服。蝉時雨。子供たちは、人々は、夏を謳歌している。

 けれど、志乃の人生はもう秋だった。たった一人の、実りのない秋だった。

(初出:2012年6月 書き下ろし)
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の組曲
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】歓喜の円舞曲(ロンド)

「大道芸人たち」のチャプター3を開始する前に、もう一編だけ読み切り小説の公開です。「十二月の組曲」の五月分です。これは「Seasons plus 2012 春号」で公開した作品です。夏号が出ましたので、そろそろ解禁することにしました。私の住む村をモデルにしたカンポ・ルドゥンツ村の世界をお楽しみください。




歓喜の円舞曲(ロンド)

 アンリはアナリースがいないことに氣がついて青くなった。アナリースは脱走癖のあるヤギだ。いや、最近は自主的に帰ってくるので散歩癖と言うべきかもしれない。だが、帰っていくのはカンポ・ルドゥンツ村にあるヤギ小屋にであって、今秋まではアルプにあるマイエンセスに泊まるということを把握している訳ではないはずだ。


 アンリは二年ほど前にニヨンからカンポ・ルドゥンツ村に移って来た。ニヨンはフランス語圏だったので、ドイツ語が苦手だった。両親ともドイツ系スイス人だったので、家庭ではドイツ語が話されていた。だが、アンリにとっては、フランス語で考え話すのが自然だった。言葉だけの問題ではない。文化も食べ物も違う。さらにドイツ系とフランス系のスイス人はまったく氣質が異なる。

 アンリにとって一番つらかったのは、笑いのツボがまったく合わないことだった。アンリが同世代の友人たちに「これは最高」と思ったジョークを言うと、彼らは一様に妙な顔をした。そして彼らが馬鹿笑いをしている冗談のどこがおかしいのか、アンリにはまったくわからなかった。

 二年経って、高等学校を卒業した後、アンリは生涯分の徴兵義務をまとめて終わらせることにした。そして、入隊するまでの三ヶ月間に少し小遣いを稼ぐことにしたのだった。雇ってくれたのは酪農家のハインリヒだった。与えられた仕事は、高地にあるマイエンセスに寝泊まりしながら、牛とヤギの世話をし、草を刈り、チーズとバターを作ることだった。幸い動物には馴れていたし、牛やヤギはドイツ語を話さないので喜んでこの仕事を引き受けた。


 カンポ・ルドゥンツ村に春は突然やってくる。その手始めが梨の開花だ。冬の間にずっと地面にへばりついていたためにくたびれた色をした残り雪が、たった一日のフェーン現象に除けられると、それを合図に花開くのだ。水仙とクロッカスがその根元で同時に花開き、チューリップは急いでふくらむ。それから、レンギョウやタンポポのような息の長い花たちも咲き出す。人間が、イースターだ、掃除だと騒いでいる間は、桜やコデマリ、ハニーサックルなどが、のどかに春を謳歌する。そして、一番のクライマックスは四月の終わりから五月の頭にやってくる。華やかな樹木の花が一斉に美しく咲き乱れる。それが終わると、もうスイスは盛夏になっている。

 だから、梨の花が咲き出したら、酪農家たちはうかうかしていられない。驚くほど短い夏は、あっという間にやって来てすぐに去ってしまうのだ。家畜はアルプで夏を過ごす。下の牧草地は穀物畑になる。


「よう、ハイディ。そっちに行くなよ。みんなお前に付いていくじゃないか」
もう三日も人間とは話をしていなかった。毎晩ニヨンの友達に電話して、いかに帰りたいか訴える日課も途絶えていた。携帯の電波は入るのだが、電源がない。緊急時のためにバッテリーをセーブしたくて、ずっと電源を切っていた。雇い主ハインリヒとの連絡は、三日に一度上がってくる息子のマリオがしてくれる。緊急の場合は、すぐ下のラシェンナ村から誰かが走ってくるだろう。

 遠くにラシェンナ村に属する礼拝堂が見えている。村とマイエンセスのちょうど半分ぐらいだろうか。昔は、谷の全ての洗礼や葬式をあそこでやったと聞いた。あんなに高い所まで谷の住民がいちいち来なくちゃいけなかったとは、なんて不便だったんだろう。田舎は嫌だとアンリはぼんやりと思った。

 ハイディにも注意しなきゃな、ふらふらして、アナリースみたいだ。そう思った時、ようやくアンリはアナリースがいないことに氣がついたのだ。
「ちくしょう、あの馬鹿ヤギ。アナリース、アナリース!」

 アンリは犬のティナに他の家畜の面倒を見るように言って(命令を守ってくれるか自信はなかったが)、ラシェンナ村の方向へと少し降りていった。生暖かい風に乗って、若草のいい香りが漂ってくる。足下には、タンポポやクローバーに混じって、目を凝らさないと見逃すほど小さいクロッカスがたくさん咲いている。ニヨンにはなかった春の光景だ。だが、彼にはその自然を愛でる余裕はなかった。

「メェェ、メェェ」
上の方でヤギの鳴き声がする。
「メェェ、メェェェ」
今度は下の方からだ。アナリースか? アンリは転がるように急斜面を駆け下りていった。


「きゃっ」
ぶつかりそうになって叫びをあげたのは、白い帽子を被って、白いボレロを羽織った女性だった。彼女は、そこで絵を描いていたのだ。アンリはまさかそんなところに人がいるとは夢にも思わなかったので、スピードを緩めずに走って来て、丘からの加速で停まらなくなってしまったのだ。

「し、失礼!」
アンリは平謝りした。女性は落ちたカンバスを拾ってすこしはたくと
「大丈夫よ」
と、微笑んだ。

 アンリは頭を下げると再びヤギの鳴き声を聞いて振り向いた。そこには確かに逃亡者がいた。

「アナリース! 何やってんだよ。探したんだぞ!」
ヤギはのんびりとこちらに向かってくる。いつもと様子の違う場所で、さすがの冒険家も不安になったらしい。
「いくぞ。他の奴らが真似をしたらお手上げだから、すぐに戻らなくちゃ」

 アンリは女性にぺこりと頭を下げると、アナリースを追い立てて丘の上に戻っていった。振り向いて、彼女が描いている水彩画が目に入った。ラシェンナ村の礼拝堂だった。彼女は去っていくアンリをずっと目で追っていた。アンリより少し年上かもしれない、とても綺麗なブルネットで、緑の目をした女性だった。


 アンリは家畜たちを小屋に連れて行くと、椅子に座って牛の乳を絞った。この仕事もずいぶんと上達した。絞った量をノートに記録し、撹拌器に乳を流し入れる。回すうちに牛乳は分離してバターができる。これは今日やってくるマリオに預けるのだ。チーズの方は大きな鍋に入れて火にかけ、32℃まで暖める。乳酸菌を加え凝乳酵素を加えれば30分後には牛乳は固まり始め、水分が出てくる。凝固物を再び混ぜ合わせて50℃に温める。明日には型に入れて絞ることになるだろう。

 これを三日ほど続けてやってみせてくれた後、ハインリヒはマイエンセスをアンリに任せて村に降りる直前に言った。
「ちゃんとやれよ。まともなチーズになっていなかったら、損失分は給料から引くからな」

 そういうわけで、アンリは毎回祈るような氣持ちで牛乳をかき回しているのだった。


 なぜ、こんなことをしているのだろう。ニヨンにいたら、週末はみんなと酒場にいたに違いない。彼女もできて、大学や軍隊に行く前に海外旅行でもしようと計画を立てていただろう。それがこんな田舎で犬やヤギとばかり会話をしながら、魔女が使うような大鍋でチーズを作っている。二十一世紀だっていうのに。フランス語で会話のできる友達もいない。

 そこまで考えてはたと思い至った。さっきの女性の返事はフランス語だった! それも、この土地の人間が使うたどたどしいフランス語じゃなくて、ネイティヴの自然な発音だった。なんてこった。

 それからアンリは女性の姿を思い出そうと努めた。広がった柔らかいスカートを着ていた。明るい茶色だったかな。緑色の瞳は冷静そうだったけれど、おかしさをこらえているように煌めいていた。広い額とユーモアのありそうな少し厚めの唇。ラシェンナに住んでいる女なんだろうか。


「よう。アンリ。バターの用意はできているかい?」
マリオが入って来た。アンリより五つほど歳上のこの青年は、普段はラシェンナの郵便局に勤めている。だから、三日に一度、マイエンセスに上がって来て、バターを受け取り、チーズの出来や動物の状態を軽くチェックするのはわけなかった。

「はい。どうぞ。チーズはまだ鍋の中ですが、見ます?」
「いいよ。この間、ちゃんとできていたからさ」

 ドイツ系の人たちは一般に厳しいが、一度認めたら後は信頼してくれる。それはいい所だとアンリも認めた。マリオはバターを用意して来た缶に入れてしまった。

「動物たちはどうかい?」
「みな小屋にいますよ。さっき、アナリースが逃げ出したのでひやっとしたけれど、幸いそんな遠くには行っていなかったので」
「へえ。またか。どこで見つけた?」
「少し下の方です。女性が絵を描いていました」
「ああ、マリー・シャネーのいた所、あそこか」

 アンリは意氣込んで訊いた。
「あの女、ラシェンナの方なんですか? フランス語を話していたみたいだったけれど」

 マリオはにやりと笑った。
「ははあ。もう目をつけたのか。さすがフランス系は違うな」

 アンリは傷ついてもじもじした。マリオは朗らかに笑って言った。
「そうさ。ラシェンナに住んでいるよ。両親がフランス系だからフランス語も達者だけど、生粋のラシェンナ育ちさ。お前みたいなひょろひょろした青二才に興味を持つかどうかは疑問だけど、ま、頑張んな」
そういってバターを抱えて行ってしまった。

 アンリはなんだか悲しくなった。ここの人なのか。彼はドイツ語圏に来てから女友達をまったく作れないでいた。くすくす笑い、近寄るとつんと澄ますドイツ系の女の子たちはアンリにはハードルが高すぎたのだ。がっかりしたまま、マリオの置いていった包みの中からパンやサラミや野菜を取り出して、食事の用意をした。


 翌日は、少し風が冷たかった。小さなクロッカスはみな花を閉じてしまっている。空には灰色の雲がたくさん広がり、太陽の光が燦々と降り注いだかと思えば、急激に陰となって肌寒くなった。牛やヤギたちも、落ち込んでいるかのようにのったりと動いて草を食んでいた。アンリは望まぬ動物たちを無理に追い立て、いつもより下の方へ行き、礼拝堂の方向を見ながら草を刈った。アナリースが再び前と同じ場所に行くことを期待したが、今日はどういうわけか模範的な態度だった。

 遠くから昨日マリーのいた場所を眺めた。彼女は今日も居た。アンリの存在などまったく意に留めずに黙々と筆を動かしている。彼は哀しくなった。

 午後になった。アンリはすっかり意氣消沈して、動物たちを連れて小屋に戻り、乳を搾りチーズを作った。

 きっと、三ヶ月はあっという間に過ぎてしまうだろう。牛の乳搾りができて、チーズを作れるようになるだけで、他には何の進展もなく終わるのだろう。いつまでもここに馴染めない。でも、もうニヨンにも帰れない。電話をしなくなってから、友達との会話を冷静に反芻するようになった。二年経って、みんな変わってきている。僕の居場所は、あそこにはもうない。どこでどうやって生きていけばいいのか、わからない。世界は僕に冷たい。


 けれど、翌朝、世界はすっかり変わっていた。急に氣温が上がったのだ。優しい風は暖かかった。セルリアン・ブルーの空は宇宙につながって透き通っていた。全ての若緑色が輝かしくその空に向かって萌えたっていた。淡い紫で潔いリラの花、淡いピンクに頬を染めたかのような白いリンゴの花、濃い桃色の八重桜、そして純白の花嫁のようなニワトコの花が、一斉に咲き始めた。

 世界が謳っている。幸福だ、幸福だ、とっても幸福だと。

 動物たちは、狂ったように喜ぶ犬のティナに続いて、晴れやかに牧草地へと向かう。王家のパーティに招待された人たちのごとく誇らしげに。後ろを付いていくアンリも思わず微笑む。

 十九年の人生の中で最も美しい日は今日だ。フランス語や都会の面白さの詰まったニヨンじゃない、この何もない谷で迎えたんだ。彼はここに越して来てよかったと初めて思った。除隊したら、本当に酪農家になろうかな。

 丘の上からラシェンナの礼拝堂を望むと、マリー・シャネーの後ろ姿が見えた。白い帽子、白いカーディガン。青いフレアスカートがそよ風に揺れている。彼女の場所は、一昨日よりも、昨日よりもアンリの居る丘に近かった。

 アナリースが勝手に丘を下っていく。ハイディが従順に後を追う。アンリは威厳を持ってティナに言った。
「ここで、他のやつらを見張っていろ。僕はアナリースたちを連れ戻さなきゃ」

 丘を下りながら彼は想う。僕はニヨンじゃなくてここで生きていくんだ。過去じゃなくて、現在を。世界で一番美しい風景の中を。今日こそマリーに話しかけよう。

(初出:2012年5月 Seasons plus 2012 春号)
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の組曲

Posted by 八少女 夕

【小説】南風の幻想曲(ファンタジア)

読み切り小説です。「十二ヶ月の組曲」の六月分。このシリーズにはいろいろな年齢の人々が出てきますが、このカップルは比較的私の実年齢に近い設定です。

ギリシャに行ったのは、以前ちょっと書いた55日間のヨーロッパ貧乏旅行の時でした。食事がおいしかったですね。二月だというのに太陽がいっぱいでした。




南風の幻想曲(ファンタジア)

 一人で来たら、もっと楽しかっただろうな。荷物を置いたら、シャワーを浴びてアテネの街にくり出す。バーかクラブで若い女と知り合い、短いアバンチュールでも…。彼はちらりと観光案内を眺めている妻の方を見た。こいつがいたらそんなこともできないか。今年も「一人で行きたい」と言えなかった。

 妻が嫌いな訳ではない。問題は起こさないし、子供たちの面倒もよく見てくれた。彼らはそれなりに大きくなり、家族の休暇よりは友達とキャンプで過ごす方がいいというようになった。久しぶりに二人だけで夏の休暇に行くことになったのは昨年からで、妻はそれを楽しみにしているようだ。だが、彼は妻と二人だけの時間を持て余していた。静かで穏やかな彼女は空氣のようだった。

 十八年前、官能的だがエキセントリックなミランダとの関係にほとほと疲れた彼は、ふとした拍子で学生時代の友人の妹と知り合い、よく考えずにプロポーズした。考えなしだった割に、この関係は上手くいった。もちろん、日常の小さな諍いはある。だが、周りで半分以上のカップルが破局しても、二人と子供たちは幸福な生活を送ることができた。

 単に、彼は退屈していた。家庭の平和をありがたいと思うと同時に、彼は単調な生活がモノトーンに思われてしかたなかったのだ。興奮と冒険に満ちていたような二十五歳までの人生を、彼は懐かしく思うようになっていた。それを打破したくて、心躍る南国にせっかく来たというのに、きちんと整理された家の中にいるのとほとんど変わらない。


 バスはアテネ市内のホテルに向かって走っている。湿った生暖かい風を吸い込んで、窓の外を見た。
「お、テレース、見てみろよ。あれがパルテノン神殿じゃないか?」
「きっとそうね、明日にでも行ってみる?」

 彼は頷いたが、本当は若き日のミランダとあの上に行ったらどうだろうと考えていたのだ。

「パトリック、あなたお腹空いている?」
妻が案内書のレストランのページを繰りながら訊いた。

「少しな。立派なレストランでなくていいから、地中海らしいものを食べたいな」
「じゃあ、ここはどう?ホテルからもそんなに遠くないし、美味しいと地元民も通うんですって」

 それは海の幸をメインとした料理店だった。
「だけど、お前、魚介類は食べられるのか?」
パトリックは少し驚いた。テレースは普段ほとんど魚介類を口にしなかった。

「もちろん食べられるわよ。スイスでは新鮮でおいしい魚介は高くてとても手が出ないから料理もしないし、レストランでも頼まないけれど。昔、シチリアに旅行に行った時に食べて大ファンになったの」
「そうか。じゃあ、そこにしよう」


 そのレストランは、半地下の細長い作りで、洞窟の中にいるような心地がした。観光客だけでなく地元の人間も押し掛けて大変な熱氣だった。太った年配のウェイトレスがやってくると、パトリックは言った。
「ドイツ語か、英語のメニューをくれないか」

 女は頷くと、別のウェイトレスに声を掛けた。その若いウェイトレスがメニューを持って二人のテーブルにやって来た。

 ミランダ! 一瞬、彼は疑った。もちろん、それはミランダのはずはなかった。顔も似ているのは目と鼻ぐらいで、歳もまだ若い。美しい長い黒髪を後ろで無造作に束ね、きりりとした眉を片方上げて英語で注文を取った。

 テレースは、慣れない英語を読んでいる。
「フライの盛り合わせ、タコとフェタチーズのサラダ……」

 が、パトリックの方はウェイトレスを見ながら、上の空になっていた。ベルギーナ・ビールを飲みながら忙しく働く若い女の様子を目で追う。女はそのパトリックに氣がついて、時折ウィンクを返した。

「美味しいわね」
テレースが焼きエビと格闘しながら言った。しまった、この女がここに居たんだった。彼は慌てて妻の方に意識を戻した。テレースは茶色い瞳を柔らかく輝かせていた。

「私、ずっとギリシャに来てみたかったの。エーゲ海のクルーズに参加したり、エキゾチックな音楽を聴きながらこうやって魚介類を食べたり」
「ずいぶんプロトタイプな夢だな。ツアー会社の宣伝みたいだよ」
パトリックは意外に思って言った。テレースはそんな事を言ったことはほとんどなかったのだ。

「だからよ。ずっと子供たちのためにキャンプに行ったり、湖の周りを自転車でまわったり、健康的で家庭的な休暇ばかり過ごしてきたでしょう。たまには、旅行会社のパンフレットみたいなロマンティックで足が地に着いていない時間を過ごしてみたいの」

 僕も家庭的でない情熱的な休暇を過ごしてみたいよ。彼は言葉を飲み込んだ。袖無しのカットソーにカーディガンを羽織り、いつものシニヨンの髪を肩まで垂らしたテレースは、ロウソクの灯に照らされて、普段の賢く大人しい妻というよりは若い娘のようにはにかんで見えた。もしかしたら、テレースも良妻賢母の生活に飽きているのかもしれないなと思った。

 食事が終わると、テレースは化粧室に行った。それを待っていたかのようにミランダに似たウェイトレスはパトリックに近づいてきた。

「勘定を頼む」
彼が言うと、女は勘定書を置くと、英語で言った。
「ねえ。私、今日は十時までの勤務なの。あなた、私に興味があるなら、忘れ物をしたと言って戻って来るといいわ。ホテルはどこなの?」

 パトリックはドギマキしてアフロディテ・ホテルと答えた。
「あそこね。じゃあ、部屋に行けるように、奥さんにはバーに行っててもらわなきゃね。まずバーに連れて行ってから、忘れ物をしたと言ってちょうだい」

 その女にとっては、妻のある男との逢い引きは日常茶飯事らしかった。やけに段取りが手慣れている。パトリックは少し興ざめした。しかし、テレースが戻って来ると何事もなかったのように勘定を済ませ、店を出る時に再び振り返って女を見た。女は魅力的な微笑みを見せた。

 パトリックは、ホテルに着くと妻にバーで少し飲まないかと訊いた。
「いいわね。ぜひ行きましょう」
テレースは心なしか浮き浮きして言った。パトリックはこれから起こる事を考えて後ろめたさを感じたが、滅多にない冒険に対する期待が勝っていた。

 テレースがロングドリンクを頼んだ途端、パトリックは言った。
「あ、手帳がない。あのレストランで取り出したんだけどな」
そして、テレースにここで待っているようにと言うと、そそくさとレストランに向かって走り出した。


「来たわね」
ミランダに似た女は下唇をなめた。
「さあ、あなたのホテルに行きましょう」
「あの……本当にあのホテルでするつもりか? もし、妻が偶然僕たちを見かけたら?」
「心配ないわ。ペリスが奥さんを連れ出してくれる算段なの。奥さんが帰っていたら探していたとかいいながらバーに戻ればいいのよ」

「なんだって?」
「いいじゃない。まさか、あなただけ浮氣をして奥さんには許さない、なんて言うんじゃないでしょうね。大丈夫よ、ペリスは手慣れているもの。ヘマはしないわ。もちろん、奥さんからも手数料をいただくけど」

 パトリックは躊躇した。テレースに浮氣がばれない事よりも、ギリシャ人と共謀して自分の妻を騙すのが引っかかった。それに、そのペリスとやらは彼女に何をするつもりなんだ。

 テレースは従順でしっかりした女だった。簡単にギリシャ人と浮氣をしようとしたりはしないだろう。でも、ロマンティックな事に憧れるなんて女学生みたいな事を言っていたから、絶対に大丈夫とは言えない。ハイエナみたいな連中に彼女が騙されるのをみすみす許してしまっていいものか。

 パトリックはきっぱりと言った。
「悪いが、僕は帰る。なかったことにしてくれたまえ」

 女は肩をすくめた。何なのよ、馬鹿みたい。目がそう言っていた。


 アフロディテ・ホテルのバーに着くと、テレースを探した。彼女は同じ所にいた。黒髪のギリシャ人が必死で話しかけている。彼女は迷惑そうに断っていた。

「ですから、私は夫をここで待っているんです。すぐに帰ってきますので……」
「あなたは、私の運命の女性なんです。十七歳で死んだ最初の恋人に、本当に生き写しで。ご主人が帰ってくるまででいいから、私と一緒にいて話を聴いてほしいんです」

 よく言うよ、この嘘つきギリシャ人め。パトリックは妻とギリシャ男の間に割って入った。
「悪いが、その夫はもう帰ってきたんだ。死んだ恋人の思い出は、どっかでよそで暖めてくれたまえ」

 ギリシャ人はびっくりしていたが、肩をすくめると素直に去っていった。今日のカモは上手く引っかからなかったらしい。


「ああ、パトリック、よかったわ。あの人、急に話しかけてきて困っていたの」
「何が死んだ恋人だ。典型的なギリシャ人の詐欺師だよ」
「うふふ。わかっているわ。あの人、あのレストランにいたもの」

「なんだって?」
「キッチンの外でエビを焼いていたじゃない、あなた、見なかった?」
いや、全然。ウェイトレスしか見ていなかったからな。

「そう、私はどこかの歌手に似ているなと思って見ていたのよ。あの時には何も言ってこなかったのに、急に運命の人とか言って近づいてきたから、変だと思ったわ」
パトリックは笑った。妻は思ったよりも世間知らずではないらしい。

「手帳はみつかったの?」
「ああ。レストランにじゃなくて、ポケットに入っていたんだ。またあそこに行く必要なんかなかったんだ」
「そう」
テレースは控えめに微笑んだ。

「あなた、何を飲む?」
「そうだな。カクテルもいいけれど、まだレチーナワインを飲んでいなかったな」
「じゃあ、私もそうしたいわ」
妻とバーで傾けるレチーナワインの味はそんなに悪くなかった。


 翌朝、パトリックはゆっくりと朝寝をしていた。部屋のテラスにはテレースが座って、パルテノン神殿を眺めていた。海からの風がアテネを通って内陸へと渡っていく。テーブルに置かれた旅行案内書に目を走らせる。ピレウス港から、明日はエーゲ海のクルーズへと行けたらいいと思う。

 パトリックが昨夜、とても優しかったことを彼女は悲しく思っていた。レストランで彼がウェイトレスばかり見ていた事も、その女が例の色男にこちらのテーブルを見ながら何かをささやいていたのも全て目にしていた。化粧室から戻ってきた時に、パトリックの態度がぎこちない事にも氣がついていた。忘れ物をしたと言った彼の口調も、子供が小学校の文化祭で演じた子供劇の台詞みたいだった。

 だが、パトリックは十分もかからずに戻ってきた。それからの彼の態度はもっと自然だった。不穏な企みは終わったのだ。パトリックがそれに関わっていた、もしくは関わろうとしていた事が悲しかったが、テレースは何も言うまいと思っていた。少なくとも彼は翻意したのだろうから。

 彼女が十代の時には、毎年海外旅行に行くことなど考えられなかった。パトリックと結婚して子供ができてからは、子供たちが中心の生活をしてきた。だから、子供たちが手を離れたいまこそ、ロマンティックな夫と二人の旅をしたいと心ときめかせていた。けれど、それにはもう遅すぎるのかもしれない。彼女はもう若くはなかった。

 テレースは頭を振った。他の道などなかった。諦める事もない。まだ旅は始まったばかりだ。明日は絶対に船旅に連れて行ってもらおう。青い海。白い壁。咲き乱れる花。たくさんの写真を一緒に撮ろう。そうそう。それにふさわしい夏の装いも手に入れなくちゃ。今日は、アテネ市内で前から欲しかった黄色いワンピースと白い帽子を買ってもらおう。昨夜のあの調子なら、いつものようにブティックに行くのを渋ったりはしないだろう。テレースは、夫を優しく起こすために部屋の中にそっと入っていった。

(初出:2012年6月 書き下ろし)
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の組曲
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】川のほとりの間奏曲(インテルメッツォ)

読み切り小説です。「十二ヶ月の組曲」の七月分。Seasonsの夏号で発表したものです。季節外れなのは、Seasons秋号が出るのを待っていたからです。



川のほとりの間奏曲(インテルメッツォ)

「おじちゃん、何してんの?」
幼い声がして、宏生は不審げに振り返った。川のほとりに小学校低学年くらいの少年が立っている。ちょうど宏生と猛がこの川の秘密の祠に例のボトルを隠したのと同じ年頃だった。

「なんだよ」
宏生は照れ隠しに少し威厳を持って立ち上がった。

「そこで何してんの?」
少年は首を傾げて繰り返した。それは奇妙だろう。川というには多少ささやかすぎるせせらぎに膝まで浸かって対岸の岩の間を探っている大人がいるのだ。

「ちょっとな、探し物をしているんだ。昔の宝物がまだあるか確かめたくてね」

 そうだ。この木だ。だいぶ大きくなっていたのでわからなかったが、この二つの幹が絡み合ったのを見て猛と友情の誓いを立てたのだった。その下には二人できちっと蓋をした岩のピラミッドはなかった。宏生は奥を覗き込んだ。祠と二人が呼んだ小さな洞穴は確かにそこにあり、その奥に手を突っ込んでみれば、そこには確かにガラスの瓶とおぼしき手触りがあった。

 宏生はそれを引っ張り出してみた。封印は切られていた。蓋は簡単に開き、逆さまにすると中から二つ三つのキャンディーの包み紙がひらりと落ちた。メンコ、プラモデル、ガラス玉、サッカー選手のカードは全てなくなっていた。キャンディーが食えたということは、ずっと昔に封印は破られていたってことだよな…。

 瓶の封印の近くに古く硬くなったガムがこびりついていた。子供の頃の猛の癖のまま。あの時にもう裏切られていたとは。昔の誓いを思い出して、当時の彼のよさを思い出そうとして来たのに。宏生は情けなさに泣きたくなった。

 実際に少年が見ていなかったら、声を上げて泣いたに違いなかった。七月は山奥とはいえやはり蒸し暑い。じっとりとにじむ汗がこめかみを伝わる。生暖かい風が渡っていく。蝉時雨にあわせて宏生は音を出さないように、しかし口を大きく開き全身で叫んだ。憤りの向かう先は風の中にしかなかった。

 幼なじみの猛と前後して東京に出て来た宏生は、疎遠になりつつもできるだけ猛とコンタクトを持ち続けようとした。向こうから連絡が来るときは、頼み事があるときか借金の申し込みばかりなのは残念だったが、宏生は子供の頃の誓いを守り通したつもりだった。

 あこがれの沙耶香とつき合うことができるようになった時も、最初に紹介した友達は猛だった。三年の交際を経てようやく給料三ヶ月分のプレゼントをするめどがつき、結婚を申し込んだ時に沙耶香は言った。
「ごめん。私、他に好きな人がいるの。その人と結婚するんだ」

 沙耶香が二年以上も猛と宏生の二人に二股をかけていたことを、宏生はそれまで知らなかった。


「おじちゃん。どうしたの?」
少年は、顔の向きによって猛に似ている所があったので、もう少しで宏生は怒りに任せて怒鳴りつけてしまいそうになったが、すぐに自制心を取り戻して、できるだけ平静に答えた。

「大切にしていたものを、信頼していた友達に取られるのって悔しくないか?」
「それは悔しいよ。誰かそんなことをしたの? そこにおじちゃんの宝物があったんだね?」
「そうさ。まあ、今となっては、それほど大切なものじゃないけれど、あの時は手放すのがとてもつらかった一番の宝物さ。二人の友情がいつまでも続くように、お互い一番の宝物を祠の神に捧げようって約束したんだ。だけど、あいつはそう言って僕を騙して、僕の宝物を手に入れたんだ」

「そんなひどいやつ、殴ってやりなよ。絶対に許しちゃダメだ」
少年は真剣に憤っていた。猛に似た顔でそんな事を言われるのは滑稽ですらあった。

「ありがとうよ。君がそう言ってくれて、ちょっと氣持ちが収まったよ」
そういって、ボトルを祠の中に放り込むと、せせらぎを渡って少年の側に行った。

「君、なんて名前? あ、僕は宏生っていんうだけどさ」
「僕は吉男だよ。宏生おじちゃん、どこから来たの?」
「東京さ。もっとも十年前はここに住んでいたんだけどな」
「ふ~ん。じゃあ、母ちゃんはおじちゃんを知っているかもね」

 君の母ちゃんって誰なんだ、と訊こうとした時、二人は遠くから吉男を呼ぶ女の声を聞いて黙った。声は近づいて来て、茂みの中から女が姿を現した。

「あ、母ちゃん!」
少年は女の腕に飛び込んだ。

「妙子……」
宏生は確かにその母親を知っていた。幼なじみの『みそっかすの妙子』だった。

「……。宏生君? まあ、びっくりしたわ。いつ帰って来たの?」
「たんなる週末の遠出さ。それより、妙子、結婚したんだ。おめでとう。知らなかった」

「していないわ」
妙子は少し悲しそうな笑顔を見せた。宏生はうろたえた。シングルマザーかよ、あの妙子が。


 妙子と吉男はその川の近くにある村はずれの小さな家に人目を避けるように住んでいた。吉男は妙子に叱られて、泥を落とすために風呂に入った。妙子は宏生に手ぬぐいを出してやり、彼が足を拭くのをじっと眺めていた。

「かわいいいい子じゃないか、吉男君」
「そうね。素直ないい子に育ってくれて、ありがたいって思っているわ」

「その、さっきはごめん。知らなかったから……」
 妙子は、お湯の沸いたやかんの火を止め、ほうじ茶を淹れて宏生に出すとまた食卓に座った。
「いいのよ。普通はそう思うでしょうから。陰口を叩かれることもあるけれど、私は吉男を産んで本当によかったと思っているわ」

「吉男君があの年齢ってことは、僕やほかのヤツらがここを離れる前後だろう?」
「……わかっているのでしょう? 似ているから」
妙子が目をそらしたので、宏生はようやく理解した。

「まさか猛の?」
そんなことがあるだろうか?

 妙子は三月生まれだったのでクラスで一番背が低かった。発達が遅かったためにクラスでの成績も芳しくなく、体育でも皆の遅れをとっていた。ドッジボールのような競技では、みな妙子と同じチームになるのを嫌がった。

 猛は『みそっかすの妙子』を一番いじめていた。宏生は妙子のことを時々氣の毒だと思うことがあっても、親友の猛に対する裏切りは許されないと思っていたので、手を差し伸べたりはしなかったのだ。そして、そのことに良心の呵責があった。

 まさかその猛と妙子がそんな仲だったとは夢にも思っていなかった。ここ一週間で宏生の世界は天地がひっくり返ったようだった。

「いじめられていたのは、好意の裏返しだったのかって、勝手に解釈して嬉しかったのよ。でも、猛君はただ女の体ってものに興味があっただけみたい」
妙子はいたって冷静に言った。

「あいつを好きだったのか?」
「あんまり優しくされたことがなかったから。でも、妊娠したとわかった途端に態度が変わったの。私がどうしても産みたいって言ったら、東京に逃げちゃった。でも、それでよかったのよ。あのままここにいられたら、絶対に堕ろさせられていたから」

妙子は猛がどうしているかを訊かなかった。宏生が猛の消息を知っているのはわかっているだろうに。

「今日は、ご両親の所に泊まっていくの?」
妙子は訊いた。

「いや、姉夫婦のアパートに泊まるんだ。ちょうど旅行中でいないから。自由にしていいけど素泊まりだからね、なんていわれちまったよ。氣楽でかえっていいけどね」
「じゃあ、うちでご飯食べていけば? 吉男が宏生君に東京のことをいろいろ訊きたいみたいだし」
妙子は言った。

 それはありがたい申し出だった。このあたりにはコンビニもなければ、
ファーストフードはおろか手軽なそば屋もない。両親には沙耶香のことを訊かれるのが嫌で帰郷を連絡していなかった。
「迷惑でないなら。実を言うとどうしようかと思っていたんだ」

「東京のレストランみたいな食事は期待しないでね」
そういうと妙子は手早く食事を作り始めた。手慣れていて綺麗な料理姿だった。『みそっかすの妙子』をきれいと思うなんて、自分がどうかしているのかと思った。けれど、沙耶香のような外見の華やかさと違って、妙子の生活に根ざした姿勢と動きは、もっと普遍的な美しさを持っていた。自分の母親も持っているような、優しく暖かい、ほっとする姿だ。

 妙子は、風呂から出て来た吉男が宏生のもとにお氣に入りの本を持って来て話しかけるのを見て微笑んだ。トントンという包丁の音、湯を沸かす音にリラックスした宏生は醤油のいい香りが漂ってくる台所で吉男と遊んだ。

「食事の前に、ちょっとこれを届けてくるから、吉男と待っていてくれる?」
妙子は、紙袋と小さな風呂敷を手に抱えて出て行った。

「どこに行ったんだろう?」
宏生が訊くと、吉男は答えた。
「田中のおじいちゃんだよ。いつも食事を届けに行くんだ」

 宏生は仰天した。田中のおじいちゃんというのは猛の祖父だった。宏生が子供の頃からこの川の近くに住んでいた。だからこそ幼い頃の猛と宏生は二人でここに秘密の遊び場を作ったのだ。だが、妙子が猛の祖父の面倒を看ている?

 じきに帰って来た妙子は、食べ終わった昨日の食器と洗濯物の入った紙袋を両手に抱えていた。

「田中のじいさんの面倒を看ているのか?」
「お家の方はみな村にはいないから。吉男もかわいがってもらっているし、どっちにしても料理も洗濯もするんだもの、二人分も三人分も変わらないでしょう?」

 吉男の前だから言わなかったが、田中のじいさんは吉男の曾祖父だった。自分をもてあそんで捨てた男の祖父の面倒を黙々と看る妙子の姿に、宏生は悲劇の主人公になったようなつもりでいた自分が恥ずかしくなった。

 三人で宏生がここ数年食べたこともなかった家庭的な和食を食べ、しばらく人生ゲームをした。それから、吉男は寝床に連れて行かれた。

「おじちゃん、明日も来てくれるよね? 約束してよ。じゃなきゃ、僕、寝られないよ」
妙子はたしなめたが、宏生は笑って約束してやった。

 吉男の寝室から戻ってくると、妙子はビールの缶を開けてグラスに注ぐと宏生に差し出した。
「ごめんなさいね。子守りをしに帰って来た訳じゃないのに。無理しなくていいのよ」
「いいんだ。いい思い出を探しに来て、残念なことを発見しちゃったばかりでくさっていたんだ。吉男君はすごくいい子だな。妙子も立派なお母さんになっていてびっくりしたよ」

 妙子は、はにかんで笑った。
「あの子、父親を知らないでしょう。学校のみんながお父さんに遊んでもらうのが羨ましくてしかたないのね。でも、私に言うと悪いって、子供心に我慢しているみたいなの。不憫だわ」
「猛に未練はないんだろう? 別の人と結婚しようとか、思わないのか?」

 妙子は呆れたように宏生を見つめた。
「宏生君ったら、ここは東京とは違うのよ。父なし子を産んだ女なんか、ほんとうの『みそっかす』だわ。後妻にももらってくれる人はいないわよ」

「生活はどうしているんだ」
「スーパーに務めているわ。大丈夫よ。何とかなっている。吉男が大きくなって、大学にでも行きたいなんて言われたら困るだろうけれど、今からそんな心配しても、しかたないじゃない?」
飲み慣れていないと思われるビールで少し赤くなった妙子は、笑った。

 蝉の声が激しく鳴り響く朝、川沿いのほこりっぽい道を、宏生は村はずれの小さな家に向かって歩いていた。子供の頃に猛と駆けっこをしながら来た道は、今でも変わらずに自然に溢れている。この道の行き着く先には秘密の祠がある。猛と一緒に隠した宝の山。宏生が大事にしていたものはことごとく猛に持っていかれてしまったが、この場所には猛が省みなくなった一人の老人と優しい親子が住んでいる。

 宏生は今度こそ妙子に優しくしてやりたいと思っていた。やりたかったけれどできなかったあの頃とは違う。猛も、他のはやし立てる同級生も、もうどこにもいない。来月にでも、また休みを取って、ここに帰ってこよう。吉男は夏休みだから、一緒に釣りにでも行こう。木漏れ日の眩しい道を彼は足早に歩いていった。

(初出:2012年7月 Seasons夏号)
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の組曲
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】落葉松の交響曲(シンフォニー)

読み切り小説です。「十二ヶ月の組曲」の11月分。この小説は、ブログのお友だちである十二月一日晩冬さんに捧げちゃいます。何度もリクエストをいただいていた「○小説」の一部なので。晩冬さんが一日もはやくお元氣になられますように。「私○説」といっても、かなり色々と変更してあります。固有名詞、住んでいる所、二人の職業、出会った場所など。

で、来週から、再び「大道芸人たち」の連載を再開します。もうお忘れかと思いますが、まだ完結していませんので。




落葉松の交響曲(シンフォニー)
〜十二月一日晩冬さんに捧ぐ〜

 もう、ただのジーンズだけでは寒すぎる。タイツを履いて、ジーンズの上からは風を通さないバイク用のパンツを履く。ブーツもきちんと履かないと足首から冷えるだろう。ジャケットにもライナーを付け、もちろん厚手の下着としっかりとしたセーターを着込む。

 十一月の初め。年によってはもうバイクでの峠越えは不可能だ。雪が降ってしまったら峠は通行止めになる。エンガディンが小春日和に和んでいても、チャンスはなくなる。

 今年はラッキーだった。九月に一度は雪が降ったものの、その後は記録的な好天に恵まれた。そして、この週末は、スイス中で雨が降っているというのに、グラウビュンデンだけは紺碧の空が広がり格好のバイク日和になった。たぶん、今年最後の。

「ねえ。早く行かないと、夜になっちゃうんじゃないの?」
絵梨はしびれを切らして声を掛けた。リュシアンはどうでもいいことにやたらと時間がかかる。普通は出かける前に時間がかかるのは女と相場が決まっている。でも、この二人の場合は逆だった。絵梨はそのつもりになれば、五分で出かける用意ができる。化粧だの香水だのといった面倒は普段から省略していた。リュシアンは、もちろん化粧などはしない。しかし、どのサングラスを持っていくかとか、靴がもう一足必要だとか、出かけると決定してから実際にバイクに跨がるまでには常に一時間近くかかるのだ。

 絵梨がそれまで知り合った男たちにリュシアンのようなタイプはいなかった。車の免許を持っていないのはいいとして、自宅も普通のフラットとは違う。昔は納屋だった建物を改造した、誰かの趣味の小屋だった所を借りて改装して住んでいるのだ。職場もそこだ。農作業用の各種の車両、もしくは家庭用の芝刈り機などを修理して、場合によっては転売する。もちろんネクタイもジャケットも持っていない。客はリュシアンの礼儀や見かけにはまったく興味を示さなかった。人好きのするおしゃべりな態度と確かな技術、重要なのはそれだけだった。芝刈り機の修理などでまともな収入があるのかと絵梨は訝った。何の秘密もなかった。リュシアンの生活はかつかつだった。銀行預金が100スイスフランに達しない成人が存在するなんて絵梨には信じられなかった。

 絵梨がリュシアンに出会ったのは、ケニアのマサイマラ国立公園だった。会社を辞めてやって来たアフリカ旅行。サファリツアーがバンガローについてすぐ、他の客たちは最初のサファリに行きたがった。けれど絵梨は到着までのひどい道のりですっかり車酔いしてしまい、一人バンガローに残ったのだ。少し氣分がよくなった絵梨はメインバンガロー向かった。そこ世界中からの観光客たちが優雅に座っていた。日本人は絵梨一人だった。ほとんどは連れがいて絵梨はそっとバーの一番端に佇んでトマトジュースを注文した。その姿を見て話しかけてきたのが、一人でバイクで旅行をしているというリュシアンだった。スイス人という自己紹介を聞いて、絵梨はほとんど興味をそそられなかった。そんな寒い国に用はないと思ったのだ。それが、何故か絵梨はいまスイスに住んでいるのだ。しかも、納屋なんかに住んでいる男と。

「いますぐ、行けるよ。そんなに急いだって、アルブラ峠は午前中は寒いんだから」
リュシアンはようやくヘルメットを被り、ジャケットの中にマフラーを突っ込みながら出てきた。二時間。せっかくの土曜日、もっと寝ていればよかった。絵梨はほんの少し天を見上げただけで何も言わなかった。いちいち怒っても仕方ないのだ。十年も一緒にいれば、寛容の範囲はお互いに広がっていく。

 たぶん日本にいる友だちにはわかってもらえない、この奇妙な男との結婚生活について、彼女は失敗したと思ってはいなかった。絵梨は上手い具合に仕事を見つけた。スーパーマーケットの店員だが、ひと月に3300フランの給料をもらっている。ごく普通に生活していれば困ることはない。リュシアンの納屋改造住居の家賃はたったの850フランだが、夏は快適で、冬も暖かい。リュシアンはあいかわらず宵越しの金を持たなかったが、借金をしてくるわけではないのでそれでいいと思うようになった。日本の両親にはとても実情は口には出来ないが。

 絵梨はたくさんの選択の余地がある中からリュシアンを選んだわけではなかった。有り体にいえば、彼女に明白なプロポーズをしたのは、世界広しとはいえ、彼一人だった。だが、だから結婚したわけでもない。リュシアンは当たり前のように言った。
「僕たち、生涯一緒にいるよね?」

 そんな事を言われても、私、移住してこなくちゃいけないし、そんなに簡単じゃないんじゃ? 絵梨は人ごとのように考えた。だが、家族とも滅多に会えない異国に来ることになっても、この人となら人生を分かち合える確信があった。随分と変わった人生になりそうだけれども。

「お前の嫁、まだ、出て行っていないのか?!」
時々、口の悪い知人が数年ぶりにリュシアンを訪れてきては、まだ絵梨がいることに驚愕して言う。するとリュシアンは胸を張る。
「ふふん。日本人妻ってのは、スイス女とは違うんだよっ」

 それ、日本人だからじゃありませんから。絵梨は思う。普通の日本人の女の子は、納屋に住んでいる時点でアウト・オブ・クエスチョンだから。

 リュシアンはYAMAHAのXT 600 Ténéréのエンジンを吹かした。1987年モデルで鮮やかな青地に黄色いラインが走っている。絵梨は「いくね」と言って後ろに座った。真っ青な空には雲一つない。スイスの他の地域、たとえばチューリヒやルツェルンが、この時期にはスープのような霧に覆われて、骨がきしむような憂鬱な日々に苦しみだすというのに、グラウビュンデン州はヨーロッパ中が羨むような好天に恵まれるのだ。リュシアンと絵梨が向かうのは、エンガディン地方だった。鏡のように澄み切った青い湖、それに負けない紺碧の空。四千メートルアルプスの山々は新雪で輝き、もっと低い場所は落葉松の黄色に覆われる。鮮やかな色のシンフォニーだ。そこにリュシアンと絵梨は加わるのだ。青と黄色のTénéréに乗って。

 落葉松の葉が一斉に落ちる日があるという。それは《黄金の雨》と呼ばれているのだそうだ。風に吹かれて全ての針葉が一度に空中に舞う。風に旋回しながら、太陽の光に輝いて大地を次々と黄金色に染めていく。冬になる前の選ばれたたった一日にだけおこる、色の響宴だ。絵梨はいつかその現象をこの目で見たいと願い続けてきた。東京に住んでいるなら仕方ない。落葉松林に行くチャンスなんて、それこそ生涯に数回だから。でも、グラウビュンデンに住んでいるのだ。エンガディンには毎年行く。もちろん山が黄色に燃え立っている時だけではないのだけれど。

 絵梨は冷たい風と柔らかい陽の光を顔に浴びて、移ろいゆく景色を眺めていた。峠に至る道はアルブラ川沿いに蛇行してゆく。ゴツゴツとした岩場の両脇には豊かな森林が広がる。琥珀色、橙色、緋色、鬱金色。ありとあらゆる色が重なりあい、風に揺れ、射し込む陽の光に輝く。冬が来る、その前に生命の勝利を宣言している。そして、その美しい世界には、エンジン音を響かせて走るTénéréと、それを操り彼女を風の中へと連れて行くリュシアンだけが存在する。黒いジャケットの背中は、絵梨にとって唯一の確かな存在だった。

 ある夕暮れ、仕事から帰ってきた絵梨をリュシアンは急いで呼んだ。
「エリ、すぐに来て!」

 何事かと思って、声のする方に急ぐと、彼は空を指差した。薄葡萄色に暮れ泥んだ大空にぽっかりと三日月が浮かんでいた。見たことのないほど完璧な形だった。絵梨は泣きたくなった。東京で、こういう景色を見つけた時、彼女はいつも一人だった。誰も足を止めない。心に押し寄せるなんとも言い表せない想いは、誰にも打ち明けられなかった。誰にもそんなことを聴く時間と心の余裕もなかったのだ。誰かにわかってもらえると期待したこともなかった。でも、もう彼女は一人ではなかった。

 風の中で、彼の背中を見つめる度に、絵梨の心にはあの時と同じ想いが浮かんでくる。世界がその美しさをこれでもかと見せつける時に、彼と同じ光景を目にしていることが彼女の心を躍らせる。それは恋情とは違う種類の想いだった。もっと深い所にある歓びだった。ビッグバンが起きて一つの原子が宇宙へと広がった時に離ればなれになってしまった片割れと再会した、そのくらい深い歓びだった。他には何もいらない、この人と出会えて本当によかった、魂が大声で叫ぶのだ。納屋に住んでいることや、食費を出すことも出来ないほど財布が軽いこと、それでいて勝手に友だちを連れてきては食事を作るように突然頼んだり、連絡もしないでいきなりドライブに行ってしまうことなど、日々の生活の中では文句を言うことは山ほどある。それでも絵梨は日本に帰ろうと思うことはなかった。私はこの人と一緒にいるのだ。やっと出会えたのだもの。

 月面のような殺風景のアルブラ峠は肌を刺す冷たい風に凍えそうだった。その風の大半はリュシアンが受けている。首をすくめて彼の背中の影に隠れれば、耐えられないほどの寒さではない。空の色は更に青く透き通った。カーブを曲がり、ゆっくりと降りて行くと、目の前に明るい黄色い世界が広がる。当たり年だわ。絵梨は微笑んだ。世界に名だたるエンガディンの秋だ。降りて行くほどに、寒さは和らぎ、代わりに陽の光の優しさが増してくる。こんなに清冽な風景があるだろうか。Ténéréはサン・モリッツを通り過ぎ、青く輝くシルヴァプラーナとシルスの湖に沿ってオーバー・エンガディンを走っていく。落葉松の黄色は暖かい。

「ああ、素晴らしい……」
リュシアンがぽつりとつぶやいた。そうよね。今年も来れて本当によかったわよね。答える代わりに絵梨は夫の体に手を回してぎゅっと抱きしめた。彼は振り向いて笑った。ちょ、ちょっと。いいから、前向いて運転して!

 風は吹かなかった。そんなに都合いいものではなかった。太陽が柔らかく暖かく降り注ぐエンガディンの大氣はぴたりと静まり返り、落葉松林は絵画のように微動だにしなかった。こんなに晴れているのに雨は降らない。たとえ黄金の雨であっても。

「あちゃ~、今年もダメみたいだね」
リュシアンが言う。絵梨が《黄金の雨》を見たがっていることは重々承知しているが、ダメなものはダメだ。そう思っているような氣のない言い方だった。そう、待っていてもどうしようもないのだ。絵梨は微笑んだ。
「じゃあ、来年もトライしようね」

 リュシアンは笑って、絵梨の髪をくしゃりと乱した。

 来年も一緒に来る。再来年も、十年後も。リュシアンか、絵梨か、それともバイクがダメになるまで。遠く離れた所で産まれた二人が地球の果てで出会い、そして一緒にいる。その奇跡の確率は《黄金の雨》の場面に出くわすよりも低い。Ténéréの起こす風を受け止めながら、絵梨はリュシアンに抱きついた。

(初出:2012年11月)
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の組曲
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】狩人たちの田園曲(パストラル)

読み切り小説です。去年書いていた「十二ヶ月の組曲」の9月分。この小説は、Seasonsの秋号に発表したもので、友人のうたかたまほろさんがとても素敵な挿絵をつけてくれました。



狩人たちの田園曲(パストラル)

狩人たちの田園曲 -1-


「ほら、みなさいよ。私の言った通りでしょ」
フレーニーはいつものごとく不満をぶちまけた。
「茸なんか、全然残ってやしないわ。あの忌々しいイタリア人どもが、ハイエナみたいに持っていくんだから。五時前に起きて、朝一番で来ないからよ。何よ、ゆっくりコーヒーを飲んでからだなんて」

 アントニオは口答えをしなかった。ブレガリア谷の九月は眩しいほどの光に満ちている。枯れ葉の覆った山道をサクサクと音を立てながら登る、うららかな秋の昼前は、もっと穏やかであってもいいはずだった。

 イタリア語圏の暖かい谷に茸狩りに行きたいと言い出したのは、アントニオだったが、どうしても茸がたくさん欲しかったわけではない。ただ、秋の山に行ってみたかっただけだ。茸なら買ってもいいじゃないか。


 フレーニーと結婚したいと思った事はなかった。そんな事を言ったら大変なことになるから一度も口にした事はない。六十年も一緒にいれば、もうどうでもいい事だ。

 あれは単なる成り行きだった。アントニオは十七歳の時、若者同盟に加入した。といっても当時はソリスブリュッケの男が義務教育を終えて職業訓練に入ると全員そうしたものだ。若者同盟は結婚して一人前になるまでの数年の通過儀礼のようなものだった。

 もっとも重要だったのは二月に行われる《そり祭り》だった。当時は冬には道の雪は取り退かれず、車の代わりに馬に引かせるそりが村の交通を担うものだった。ソリスブリュッケの若者同盟の《そり祭り》は長い伝統があった。若者同盟の全メンバーが一斉にそりで行進する。村をパレードした後に谷を走り、ホーヘンテオドールで大昼食会を催す。

 行列の先頭は、婚約したカップルたち、そして後ろに年齢、誕生日順にメンバーが続く。各自は、馬とそり、そしてエスコートする女の子を用意しなくてはならない。つき合っている娘がいる若者はいい。だが、当時のアントニオのように娘と話した事もないような奥手の青年には大きな問題だった。

《そり祭り》が近づき、アントニオは焦った。ハンスもゲオルクもいつのまにか村の娘を誘っていた。この子なら断らないかもと期待していたマリアは、突然ゲルトとの婚約を発表した。彼女は行列の三番目の晴れの位置を獲得したのだ。

 フレーニーは論外だった。口やかましく、ずけずけものを言う、痩せぎすの娘を、村の若者はみな苦手に思っていた。あの娘とそりに乗るなんて、末代までの恥になる。みんながそう言っているのをアントニオは知っていた。だったら、ホテル・アデレールのウェイトレス、クラウディアを誘いたい。彼は思った。
「なんだって? あれはドイツ人じゃないか。しかも、カトリックだぞ」

 アントニオの叔父は大反対した。それを聞きつけてきた隣人たちも、この世の終わりのように騒いだ。村の娘がもういないならまだしも、ドイツ人ウェイトレスとそりに乗るなんて許されない、そういうのだった。話は次第に大事になった。みな、アントニオに村の娘とそりに乗る事を期待した。だが、それはフレーニーと、という事ではないか。

 フレーニーは誰にも誘われていない事に、面目を失いかけていた。もし、アントニオが彼女を誘わなかったら、彼女は世をはかなんで死んでしまうかもしれない。そういう輩まで現われた。

「来年は、もっと早くから探して、かわいい子を誘おう」
アントニオは、そう決心して、死刑に赴くような心持ちでフレーニーの家に行ったのだ。

「お二人のなれそめは?」
金婚式のパーティで、司会者が訊いた時に、フレーニーはペラペラとしゃべった。
「あれは、最後の《そり祭り》だったわね。ほら、道の雪を次の年から取り除くようになって、馬に引かせるそりってものがなくなっちゃったじゃない。最後の祭りの年にね、この人、若者同盟に加入してね。女性にまともに口もきけない引っ込み思案だったのに、同乗するパートナーが必要になったのよ。それで、私の家にきて、どうか僕と一緒にそりに乗ってください、祭りに一緒に参加してください、ってねぇ」

 まあ、嘘ではないな、と思いながら、アントニオは黙ってワインを口に運んだものだ。その金婚式からも、もう十年が経った。


 ソリスブリュッケで家庭を持って四十年。アントニオは村の公証事務を勤めあげた。三人の子供、八人の孫、そして四人のひ孫が産まれた。フレーニーは初めから変わらなかった。口やかましく、痩せぎすで、ありとあらゆる事に文句ばかり言った。大抵の事は、彼女に分があった。子供が言う事をきかない時に叱り飛ばし、村のどこかで不条理な事が起こった時に憤慨するフレーニーは、どこも悪くなかった。単に極端に口数が多いというだけだった。自分に矛先が向かっているときでさえ、半分は彼女の言う事に一理あるとアントニオは思った。それに、フレーニーは邪悪な女ではなかった。

 ハンスは村一番の器量よしのマルグリットと結婚したが、二人目の子供が産まれる頃にはかつての美女は河馬と見分けがつかないほどにふくよかになってしまった。医者の娘、リゼロッテと結婚したアロイースは、妻の浪費と浮氣に怒って殴打し、義父に訴えられた。家事のできないマリアに愛想を尽かしたゲルトはウェイトレスのクラウディアと駆け落ちをして再婚したが、結局離婚した。

 アントニオとフレーニーはソリスブリュッケで金婚式を迎えた数少ない夫婦だった。途中で死んだもの、別れたもの、理由は様々だったが、健康に夫婦で五十年を過ごすという事は、それほどに稀な事なのだ。

 まさかこの女と六十年も添い遂げる事になるとはなあ。結婚式で「健やかなときも、病めるときも」と神に誓ったにしては、心もとない見通しで始まった関係をアントニオは思い返している。彼は彼女の口やかましさにうんざりしていたが、別れようと能動的に思う事はなかった。


 祭りのそりの上で、アントニオを見ないまま、フレーニーは言った。
「誘ってくれて、ありがとう」

 アントニオは、彼女からそんな素直な言葉が出てくるとは思わなかったので、びっくりした。頑固で思っていない事は口に出せない性格のために無口なアントニオは、なんと答えていいのかわからなかった。

「他の人には誘ってもらっても嬉しくないけれど、あなたに誘ってもらうのは特別よね」
彼は自分が村の娘には大して評価が高くないのを知っていたから、彼女がそんな事を言うのが意外だった。

「どうして?」
「だって、あなたは頑固で正直だもの。誘いたくない女の子を誘うくらいなら一人でそりに乗るでしょう。でも、誘ってくれた。私、お情けや間に合わせで祭りに参加するくらいなら、一人で家に居ようって思っていたの」

 アントニオはその時に、フレーニーにも心があるのだという事にはじめて氣がついた。彼はフレーニーが言うほど正直だとは言いがたかった。クラウディアを誘えなかった事情も打ち明けられなかった。だが、言わない方がいい事もある。彼女は彼を誤解する事で、絶望を免れたのだ。

「昼食会の後、ソリスブリュッケに戻ってから、みなはダンスに行くんだそうだ。僕はあまりダンスが上手くない……」
「無理して行く事はないわ。私とダンスを踊ったりしたら、みんなにからかわれるでしょう」
「そんなこと、氣にしない」
「いいの、代わりにソリス峠までドライブしてよ。冬には一度も行ったことがないんですもの」

 それは悪くない提案だった。

 人の滅多に行かない冬のソリス峠への道は、育った樹氷がお化けのように迎える凍えた世界だった。馬が鼻息荒く通り過ぎると、振り落とされた粗目雪が二人に降り掛かった。静かな白い世界を着飾った若い二人は進んでいく。フレーニーがずっとしゃべり続け、アントニオは黙々と馬を走らせた。知らない間に村中のどの青年よりもフレーニーの事に詳しくなってしまっていた。祭りさえ終われば、再びよく知らない二人に戻るつもりだった彼は、それが不可能である事を悟った。
狩人たちの田園曲 -2-


「ほら、ご覧なさい。ここに落ちているのはレモン・ソーダの缶よ。こんなものを落としていくのはイタリア人に決まっています」

 杖代わりにしているスキーのストックで、フレーニーは枯れ葉の間を探って、だらしなく液体が出ている缶を示した。どっこいしょとその缶を拾った彼女は本来は茸を入れようとしていた袋に放り込んだ。すでにいくつもの空き缶、イタリア語の書かれた菓子パンの袋、キャンディの包み紙などがその中にたまっていた。アントニオは黙ってその袋を引き取って持った。

 空は濃い青で、黄色やオレンジの葉の間から、柔らかい光を差し込んでいる。足下はサクサクと音を立てる。急勾配の道は、まもなく八十になるアントニオには少々きつく、曲がり角に設置されたベンチに腰掛けて息を整えなくてはならなかった。

 彼女は拾ってきたゴミを備え付けのくずかごに捨て、リュックサックからてきぱきとポットを取り出して、カップに熱いお茶を注いで彼に渡した。

「今朝は、ちゃんとお薬を飲んだんでしょうね」
「たぶんね」
「たぶん? たぶんってどういうことです?」
「忘れていなければってことだ」

 彼女は大きくため息をつくと、なぜいつも言う通りにチェック表に書き込まないのだと小言を言った。書き込んだかどうかを覚えていないのだからしようがないだろうと心の中で思ったが、アントニオは大して氣に留めなかった。一日薬を飲まなかったからって、何が違うというのだ。明日はまたフレーニーがチェック表を手にもって、飲んだか飲まないか大騒ぎするに決まっているのだ。

「おや、そこにあるのは、茸じゃないか?」
アントニオは低い位置から見ないと死角になっている岩陰に、少し大きなポルチーニ茸のように見えるものを見つけて話しかけた。

「……。そうね。そうみえるけれど」
どっこいしょと立ち上がって、フレーニーはその岩陰を覗いた。

「あらまあ、どういう事かしら。これは生えている茸じゃないわよ」
それを聞いて、アントニオも様子を見にいった。それは隠してある籠入りの茸だった。全てポルチーニ茸だ。十五キロはあるだろう。一人の人間が持ち出せる最大の茸は一日あたり二キロと制限されている。国境では厳重な検査がされているので、たぶんイタリア人が仲間を連れて再び持ち帰るために隠したに違いない。

「これ、どうしましょう」
「持っていって、村役場に届けるしかないだろう。このまま黙って密猟者にくれてやる事はないよ」
「でも、重いじゃありませんか」

 アントニオは黙って、自分のリュックサックに茸を詰めた。持ってきた手提げ袋にも入る限りの茸を詰め込んだ。フレーニーはそれを見て、残りを自分のリュックサックに入れ、二人の老人は重さによろめきながら麓の村役場まで向かった。


 二人の老人の無謀な運搬と正義感に満ちた行動は、称賛を浴びた。村役場はお礼とともに二人に四キロ分の茸を郵送すると約束した。残りの茸は調理して地元の老人ホームで提供するという事だった。

「私たちが自分で探したらとても四キロなんて見つからないし、持って帰るのも不可能でしたからね」
フレーニーは嬉しそうに帰りのバスの中で言った。

 アントニオは無謀な運搬のせいで腰が痛くてたまらなかったのだが、その事は話題にしたくなかった。それで思いつきを口にした。
「前に作ったミラノ風のリゾットを作ってくれんかね? あれはお迎えが来る前にもう一度食べてみたくてね」
「まあ。それで茸狩りに行きたいなんて言い出したんですの?」

 彼女は料理の腕を褒められたと思って嬉しそうだった。皺のよったフレーニーの顔を見ながらアントニオはふと考えた。この女を《そり祭り》に誘わなかったら、どんな六十年間だったことだろう。それはとても考えられない状況だった。

 彼女は美しくなかった。口やかましく、小言が多かった。だが、春も、夏も、秋も、冬も常にこうして共にいた。アントニオが座れば、横からすっとポットのお茶が出てくる。薬を忘れれば、チェック表を見て追いかけてくる。きちんと掃除されて片付いた住居と、手作りのパンやジャム、口にあった食事の数々。そんなに悪い人生ではなかったな、彼は窓の外の暖かい秋の夕陽を眺めながら一人ごとを言った。

狩人たちの田園曲 -3-

(初出:2012年10月 Seasons 2012年秋号)
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の組曲
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】樹氷に鳴り響く聖譚曲(オラトリオ)

読み切り小説です。去年書いていた「十二ヶ月の組曲」の12月分。この小説は、Seasonsの冬号に発表したもので、友人のうたかたまほろさんがとても素敵な挿絵をつけてくれました。

ブログのお友だちの間で、クリスマス掌編を書くのが流行っています。これも無理矢理入れられない事もないのですが、あまり「めでたく」ない話でして……。ただ、クリスマスを強く意識して書いた話です。途中ででてくる現象は、私が実際に目にしたもので、この世でもっとも美しいと思ったものの一つです。




樹氷に鳴り響く聖譚曲(オラトリオ)

 目に痛いほどの青空が広がっていた。昨日の雪雲はどこに消えたのだろう。慎一は訝しんだ。沙羅は少し離れて歩いている。昨日、この通りを歩いた時よりは近いが、昨夜ほどは近くない。彼女はウィンドウを眺めてふと足を止めた。観光客向けのどこにでもあるような土産物屋だ。ヨーロッパに住む彼女が欲しがるものがあるとは思えない。

「どうした?」
慎一は訊いた。

「姫とお嬢さんにお土産を買わなくていいの?」
冷静な提案の奥に、痛みがこもっている。高校生の時は、この痛みを聴き取れなかった。

 卒業寸前の三月、最後の委員会が終わり、帰ろうとする沙羅を慎一は呼び止めた。
「沙羅、話があるんだ」

 沙羅はいつものしっかりとした目つきで慎一を見据えて言った。
「別の機会にしない? さっきから姫が委員長のことを待っているわよ」

 別の機会などないことを沙羅は知っていた。慎一が近づこうとする度に沙羅はいつも麻紀の存在に触れた。ちょうど今のように。慎一はそう言われるまで麻紀のことも彩花のことも完全に忘れていた。

「空港で何か買うよ」
「そう」

 昨夜、降っていることすらも感じさせないほどの粉雪が、次第に慎一のコートの千鳥格子を消していくのを見ながら沙羅は言った。
「こんな風に、なにもかも消えてしまえばいいのに」

 慎一がヴェローナに住む沙羅に連絡したのは一週間前だった。沙羅が美術の修復家としてイタリアで活躍していることをインターネットのニュースで偶然発見したのは麻紀だった。二年ほど前のことだ。大して興味のないふりをしていても慎一の心は穏やかではなかった。だが、どうすればいいというのだろう。いずれにしても二十年も経ってしまっているのだ。高校時代からずっとつき合い結婚した麻紀との間に生まれた彩花は小学校に入ったばかりだった。

 だが、サン・モリッツで開かれる学会に一人で出席することが決まり、地図を見ていた慎一はふいにどうしても沙羅に逢わなくてはならないと思った。インターネットで検索し、再び彼女を見つけ、メールを送り、そして、学会の後にサン・モリッツ駅で待ち合わせたのだ。

「委員長って、全然変わっていないのね」
久しぶりに会った沙羅は開口一番に言った。沙羅もまったく変わっていなかった。お互いに歳を取り、服装も変わったが、あの頃に時間が戻ったようだった。

「びっくりしたわ。まさか各務くんが私を憶えているとは思わなかったから」
「忘れる訳はないだろう」
慎一は少し傷ついて答えた。沙羅と自分には誰にもわからない絆がある、そう思っていたから。実際には何もなかった二人なのに。

 高校一年の頃から常に選ばれていた学級委員。一年の頃には麻紀も委員会にいた。それから懐かしい他のメンバーも。三年になるまで一緒だったのは、副委員長を務めた沙羅だけだった。まじめで統率力のある慎一と冷静で穏やかな沙羅のコンビは教師達の信頼が厚く、学級委員会は例年よりも多くの自治を獲得することとなった。常に共にいることが自然だった二人はお互いに淡い恋心を抱えていた。が、沙羅は、明るく奔放で皆から姫と呼ばれていた麻紀に慎一への恋の相談をされ、橋渡し役を務めることになった。二年生の夏だった。沙羅にそのことを告げられて、彼女が自分を何とも思っていないと失望した慎一は、麻紀とつき合うことを承知した。沙羅は落胆して心を閉ざしてしまった。あの時、慎一が断っていたなら、もしくは自分の氣持ちを沙羅に打ち明けていたら、二人の人生はまったく違ったものになっていたかもしれない。

 卒業間近に慎一ははっきりと自覚した。沙羅と進路が別れていく。このままにしたくない。慎一は想いを伝えようとした。沙羅はそれを許さなかった。それでいてずっと慎一への想いに苦しんでいた。それを彼がようやく知ったのは昨夜のことだった。

 二十年ぶりの再会。慎一は大学で経済学を教え、専業主婦となった麻紀と家庭を持っていた。沙羅は大学卒業後に美術館に勤めた後に、修復の勉強のためにフィレンツェに渡り、バリオーニという画家と出会い、一緒に暮らすためにヴェローナに移った。

 二人でピッツァを食べながら、時を忘れたように話をした。あの頃と同じだった。話題はぴったりと合い、興味深く、感性も一致していた。離れていた二十年にできた距離は急速に埋まっていった。赤ワインがグラスに注がれる度に、ずっと蓋をしていたために無駄に育ってしまった想いが、慎一の中に浮かび上がってきた。二本目の瓶が空く頃、彼は高校の時に言い出せなかった言葉を口にした。沙羅はうなだれてしばらく何も言わなかった。やがて、窓の外の雪を眺めたままぽつりと答えた。
「ずっと私だけの夢物語にしておきたかったのに……」

 冷静で穏やかな瞳の奥の願い。慎一はすでに二十年前に知っていた。二人ともお互いの心を知っていた。それをひたすら「そんなはずはない」と打ち消して来ただけだった。ワインと雪のせいにして、二人は慎一のホテルに向かった。慎一は二度とこの女を離すまいと思った。この二十年間の後悔を繰り返すまいと。

 だが、朝になった。二人の酔いは醒めた。服を着てレストランに座り朝食を摂ると、昨夜の一体感は現実に吹き飛ばされた。彩花は中学受験の準備のために塾に通い始めたばかりだった。沙羅は美術界に影響力を持つバリオーニの後押しを受けて、カラバッジオの修復に関わらせてもらえるかどうかの瀬戸際にいた。二人とももう委員長と副委員長だけの存在ではなかった。

樹氷に鳴り響く聖譚曲(オラトリオ)

 それがわかっているから、未来はないのだと思うからこそ、今は離れがたかった。二人であてもなくサン・モリッツの街を歩いた。氷点下が身にしみるのでセガンティーニ美術館へ行き、カフェに座り、夕暮れまで過ごした。
やがて沙羅が静かに言った。
「ありがとう。一生忘れないわ」

 黒めがちの瞳でしっかりと慎一を見据えて。その声に強い痛みが隠れている。
「また逢おう」
たまらずに慎一は言ったが、沙羅は小さく首を振った。
「姫とお嬢さんに捨てられたら、その時は連絡してちょうだい」

 沙羅はいつもこうだった。強い自制心。現実的な選択。二人でサン・モリッツ駅に向かい、そこで別れるつもりなのだ。もう雪は降らない。麻紀の選んだ千鳥格子のコートはくっきりとした文様を再び現わしていた。

駅につき、沙羅は窓口で切符を買おうとした。流暢な英語を話す沙羅に圧倒されて慎一は黙った。
「一つは、クール経由でチューリヒ空港まで、もう一つは……」
沙羅はそこで言いよどんだ。

 係員は助けようとして、発音から推定したのかイタリア語に切り替えて質問して来た。それでも沙羅はしばらく答えなかった。慎一は行き先を言えないはずのない彼女の様子に戸惑った。
「沙羅?」

 やがて沙羅は頭をまっすぐにもたげ、はっきりとした口調の英語で続けた。
「トゥージス経由でヴェローナ行きにしてください」

 駅員は首を傾げた。トゥージスからイタリアに向かうにはベリンツォーナまでのバスを使うしかない。ヴェローナならベルニナ線に乗りティラノ経由にする方が近いし簡単だと、わかりきった説明をした。が、沙羅はきかなかった。

「もう少しだけ、今夜一晩だけ、一緒にいてもいいでしょう?」
そう慎一に問いかけた。慎一は黙って頷いた。

 赤いレーティッシュ鉄道はホームで待っていた。一番前に、たった一つだけ濃紺の車両があり、中は柔らかなランプが灯っていた。レトロなインテリアの食堂車だ。

「あそこに座ってワインを飲みましょう」
沙羅は微笑んだ。二十年間の夢をたたき壊したばかりだというのに、まだ笑うことができる自分がおかしかった。こんなものわかりのよさじゃ、姫に勝てるはずがなかったわね。

 麻紀は、沙羅が慎一に対して持っている恋心を知っていた。知っていて、一番のライバルだとわかっていたからこそ、相談という形で先制攻撃をかけて来た。沙羅はそれに対抗する強さを持たなかった。麻紀が悪かったのではない。すべて自分のせいだった。これほど長く引きずるのならば、自分から何か行動を起こすべきだった。何もしなかったのに、突然のメールに心を躍らせてここに来たりするべきでもなかったのだ。本当は少しだけ期待していた。彼がもう自由な存在だと言ってくれることを。

「こんな感じのいい食堂車があるんだ」
慎一は木の天井や壁で覆われた、オリエント急行の映画に出て来るような車両を珍しそうに見回した。テーブルはきちんとテーブルクロスで覆われ、クリスマス前なので置かれた飾りは松かさや色とりどりの球に人工雪がかかったもので、ロウソクの灯と白熱灯のレトロなランプの光で暖かく瞬いた。おどけたポルトガル人のウェイターは白ワインをきちんとしたグラスに注いでくれた。列車が動き出した。二人はグラスを重ねた。

 列車は雪に覆われたエンガディン谷を走ってゆく。日暮れとともに氣温は更に下がっていた。二人は窓の外の光景が普通でないのに氣がついた。青緑色に光っているのだ。それは電線に霜がつき、列車が通るときの通電でスパークする、氷点下を走る列車の最前車両で観られる特別な現象だった。列車は花火のような激しい光を放ちながら、一面の銀世界を通り抜けていく。スパークのもたらすジジジという音と車輪の音が神聖なる静寂を切り裂いていく。

 そして、次に二人の目に入って来たのは、凍える樹氷の林だった。大きく育った氷の結晶は、スパークの光に照らされて一斉に、何万個のダイヤモンドのように輝いた。閃光を放ち、夜空を映し、暗闇の雪原はしばし地上の宝物殿になった。世界中のどの都市のクリスマスツリーも、これほどの輝きを持つことはなかった。冷たく静かに心を射る神秘の結晶。このような山の中に、誰にも知られずにひっそりと、自然はこれほどの財宝を用意していたのだ。

樹氷に鳴り響く聖譚曲(オラトリオ)

 それはほんの数秒の光景だった。その後しばらく二人は口をきかなかった。話す必要もなかった。

 今夜を境にまた二人はお互いの社会的・物質的な生活に戻っていく。教授会や娘の教育やカラバッジオの修復などに心を煩わせるあたりまえの日々。麻紀や彩花やグイドー・バリオーニとの日常生活が待っている。二人の愚かな未練の存在する余地は、この地上のどこにもない。

 奇跡など信じてはいない。高校時代の思い出が現実の生活より大切なわけでもない。二人の行為は永く想っていたからといって許されることはない、ただの不義密通でしかなかった。こうなったのは、自分たち以外の誰かが悪い訳ではない。全てはそうなるべくしてなったのかもしれない。列車は日々、様々な乗客を運んでいく。二人のように事情を抱えたカップルは他にもいるだろう。何一つとして特別なことはなかった。時刻表通りの運行。

 世界は、自然はそんな人間社会とは関係なく、ひたすら美しいもので満ちている。認められようとも、知られようともせず、ただそのままで、輝かしく神々しい。姑息な計略も、認められたいと思う野心も、マーケティングのための街の装飾も、不義に被せた愛という名の仮面も、はるかに及ばぬ純然たる崇高美だった。

「み使いのほめ歌う 天の讃歌は
荒野に響き 山々にこだまする
その妙なる調べを 繰り返す
天のいと高き所には 神に栄光
地の上には 御心にかなう人々に平和あれ」
(Gloria 栄光頌)

 トゥージスは小さな駅だった。列車から降りた住人達は慌ただしく姿を消した。静まり返り道往く人影もない通りを歩き、小さな宿をみつけた。清潔で簡素な部屋は、言葉少ない二人に似ていた。すぐ近くの教会からミサを報せる鐘が鳴る。この世に降誕する救い主を祝う準備の儀式。荘厳なる音色を聴きながら二人は身を寄せ合った。鐘が鳴り終わったその余韻の後に、最終列車が暗闇に消えていく音がした。

樹氷に鳴り響く聖譚曲(オラトリオ)


(初出:2012年12月 Seasons 冬号)
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