scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】マンハッタンの日本人

今年最初にアップするのは、読み切り小説です。三が日にアップするにしては、あまり明るくないのですが。昨年から自分に課している義務として、「毎月最低一本は短編を書く」というものがあります。実際には、これに「Stella」に提出する「夜のサーカス」や「貴婦人の十字架」または「大道芸人たち 第二部」の執筆などが加わるので、最低一本どころではないのですが、それでも義務は義務として、十二ヶ月で一つのまとまった作品になるような12本の短編集を設定しています。去年は「十二ヶ月の組曲」でしたが今年は「十二ヶ月の歌」です。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いていきます。最初はこれ、一月分としてNe-Yoの“One In A Million”を基にした作品です。追記にYoutubeでPVを貼付けてあります。




マンハッタンの日本人
Inspired from “One In A Million” by Ne-Yo

 ブーツのかかとががアスファルトを叩くときの冷たい響きが好きだ。こうして歩くと、いかにも闊歩という表現がふさわしく思える。なんと言っても、ここは故郷の吉田町なんかではない、東京でもない、そう、ニューヨークの五番街なのだ。
 
 自分を追い越した、背の高いビジネスマンはいかにも格好が良かった。黒いスーツにトレンチコートを着て、大股で歩いていく。すれ違ったのは赤いスーツとハイヒールに白いボアのついたショートコートを着た女性で、鞄からはニューヨークタイムズがのぞいていた。

 白人、黒人、ヒスパニックにアジア人。誰もが忙しそうに歩いているけれど、それぞれが生き生きとして見える。昨夜、深夜までネオンに輝く街でグラスを傾けていた人も、こうして朝には忙しくオフィスに向かう。眠らないエキサイティングな街、ニューヨーク。私もこのビッグアップルの一員なのだ。美穂は背筋を伸ばして歩いた。

 アパートを出て、地下鉄に乗る前に新しく開店した評判のデリに立ち寄ってきたので、ショルダーバッグの他に小粋なショッピングバックが肘にかかっている。17階のオフィスに着いたら、摩天楼を眺めながら朝食にするのだ。

 美穂は歩いたまま、分厚い封筒をバッグから取り出すと中を覗き込んだ。今朝日本から届いたばかりだった。中には十枚ほどの年賀状と、数枚の写真、そして青いしゃれた便箋に書き綴られたメッセージが入っていた。また新しい便箋を買ったのね、お母さん。

「明けましておめでとう。我が家に届いたあなた宛の年賀状を同封します。それと、正美のところで新年会をしたときの写真も。彩ちゃんと友喜くん、大きくなったでしょう。あなたに会いたがっていたわよ」

 美穂は立ち止まって、写真の方に目を移した。頬が弛んだ。確かに成長している。ふふん、サイズもぴったりだったわね。ブルーミングデールズで買ったカーディガンとトレーナー。姪と甥には甘いと自分でも思う。そうでなければ、この年齢の子供たちの写真なんか本当はどうでもいい。そう、この後に待っている年賀状の写真はそんなのばかりだろう。

「美穂、どうしてる? 日本に帰ってきたら、連絡してね」
そう手書きで綴られた葉書には友人の面影がほとんど見られない子供がピースをして写っている。しかもピンぼけだ。本職のモデルではないのだから、文句を言うこともないだろう。でも、私はこの子よりもあなたの今の写真が見たいんだけれどな。次。

「結婚式には美穂っちを招待したかったな。ようやく結婚生活にも慣れてきたところ。でも、すぐに母になります」
ウェディングドレス姿の友人がケーキカットをしながら微笑んでいる。ご主人の顔に光がちゃんと当たっていないので、どんな人だかわからない。これ、ご主人の会社にも送っているのかしら。余計な心配をしてしまう。ま、いっか。次。

「美穂ちゃん、また一年経ったね。世界を舞台に活躍する美穂ちゃんって、本当にすごいと思う。私は、何も出来ないから、専業主婦で、ママ友とのパーティに頭を悩ませるぐらいしかできないんだよね。日本に戻ってきたら、いろんな話を聞かせてね」

 美穂はため息をついた。母がこの年賀状の束を送りつけてきたのを裏読みすべきではないのかもしれない。でも、揃いも揃ってこうだと、いつもの小言を思い浮かべてしまう。いったい、いつになったら安心させてくれるの——。

 五年勤めた銀行をやめて留学すると言った時に母親はひどく反対した。そんな事をして何になるのかというのだ。留学をいい成績で終え、こちらで就職を決めたと言った時にはもっとずけずけと言った。
「いい加減にしなさい。あなたはもう28歳なのよ。ニューヨークで一人暮らしをしているなんて、生意氣で浮ついた女だと思われて良縁が遠のくわよ」

 お母さんの考えは古臭い。家庭を守って、三つ指ついて待っている女なんて、今どき流行んないわよ。友達はみな羨ましいって言ってくれたわ。

 職場の休憩ゾーンは、全面ガラスで、ニューヨークの摩天楼が一望の元だ。この景色が全部私のもの。アメリカで自立して生きているんだから、大したものだっていって欲しい。そう、そりゃあ、私はディーラーではない。世界を動かしているわけではない。……ただの事務員だけれど。家族や友達に嘘をついているわけではない。本当に、ニューヨークの銀行で働いているんだもの。

デリで買った南瓜のサラダをつつきながら美穂は遠くの海を見つめた。あのあたりに自由の女神が立っているはずだけれど、よく見えた試しはない。ワールドトレードセンターは、私が来た時にはもうグラウンドゼロに変わっていたし、そういえばまだエンパイア・ステートビルディングにも昇ったことはない。

クリスマスに、あのビルに昇りたいのと言ったら、マイクは鼻で笑った。
「クリスマスの夜は、僕はオハイオだよ」
「ええ〜。一緒に過ごしてくれないの? ひとりぼっちのクリスマスなんて寂しいなあ」
そう甘えた声を出したら、彼は軽蔑するように答えた。
「何か勘違いしていないか? 僕たち別につき合っている訳でもないだろう」

 何度も一緒の夜を過ごしているのって、つきあっているうちに入らないの? 美穂が下を向いて言葉を探していると、マイクはさっさと服を着て、いそいそと出て行った。
「面倒がない子だと思っていたんだけどな」

 面倒がないって、何? イエロー・キャブ。マイクははっきりとは口にしなかったけれど、美穂はニューヨークに来てから何度もその言葉を耳にしていた。日本人って簡単なんだぜ。こっちが白人だと、簡単にOKしてくれるんだ。そういう女の子が多いのは知っている。でも、私は白人なら誰でもよかった訳じゃない。でも、マイクにとって私はそういう存在だったんだね。

 マイクから連絡が来なくなってもう三週間だ。思い出すと仕事中でも悲しくて目の前がかすんでくる。それから頭を振って、書類を揃え、面倒な計算を続ける。たぶん教えてもらえば誰にでもできる仕事だ。給料だってそんなにいいわけではない。決まりきったルーティンワークに、きっちり五時で終わる仕事。美穂はハイヒールに履き替えると、再び五番街に出て歩いていく。

 歩いていると、どこからかラジオの音楽が流れてくる。Ne-Yoの“One In A Million”だ。
それを耳にして、目の前のカップルの男が口パクで歌いながら彼女の周りを歩きだした。彼女の方は嬉しそうに笑いながらその様子を見ている。

 周りを見回すと、五番街にはカップルがたくさんいた。冷たい冬を身を寄せあって共に歩く人たち。ベビーカーを押して歩いていく恰幅のいい男性と早口でまくしたてるその妻。たぶん旅行者だろう、ガイドブックを見ながらキョロキョロとしている若い日本人たち。

 ラジオからの歌は、サビを繰り返す。たくさんの女の子たちとつき合ったあとで、運命の女性にあったと熱烈に歌いかけてくる。

 美穂はため息をついた。
「ベイビー、君は百万人の中でたったひとり、か……」

 美穂は日本での生活を思い出した。熱烈だったとは言えないけれど、関心を示してくれた男性がいなかったわけではない。ごく普通の、何もできない女性にはもったいないような好青年だったのに、「こんな風に小さくまとまるのは嫌」と思っていた。「これは本当の私じゃない。私はもっとすごいはずだもの、相手だって、吉田町の信用金庫に勤める人じゃね」

 ——世界を舞台に活躍する美穂ちゃんって、本当にすごい。友達がなんといってくれても、私はひとりで、中途半端だ。ニューヨークにいたって、吉田町にいたって同じだ。誰も世界でたった一人の大切な存在だとは言ってくれない。できることだって、全然大したことはない。ニューヨークの五番街を闊歩。馬鹿みたい。

 お金なんかいらない。有名になりたいのでもない。でも、特別になりたかった。世界中の人に愛されたいなんて願っていない。だけど、だけどせめて一人くらいは言ってほしい。
「ベイビー、僕には君しかいない」

 美穂は鞄の中から、再び母親からの封筒を取り出した。どの手紙にも、どこにも書いていない「いったい何をしているの」という問いかけ。でも、美穂は自分の中の卑屈さがどんどん育つのを感じていた。どうしてこんなところに来てしまったんだろう。このハガキを書いてきた人たちの誰よりも努力したとは言わない。でも、私はいつも自分なりに頑張ってきたのに。

 美穂は五番街の真ん中で突然悟った。吉田町にいても、ニューヨークにいても、私は結局私なのだ。英語が話せて、物理的に遠いアメリカに住んでいる。違いはそれだけだ。「もっとすごい本当の私」なんてどこにもいなかった。ニューヨークにいけばスーパービジネスマンのすてきな王子様がみつかるわけでもなかった。

 仕方ないよね。友達の幸せそうな写真に焦る必要なんてない。これからのことはまだわからない。だから、諦めずに、毎日また頑張っていくしかないよね。今いるここで。そう、たまたまマンハッタンで。

 封筒を鞄に戻すと今度は携帯電話を取り出した。しばらく連絡帳をいじっていたが、やっとマイクの連絡先を消した。未練はおしまい。さあ、未来に向けて歩かなくちゃ。この週末は、ひとりでエンパイア・ステートビルディングに行こう。

(初出:2013年1月 書き下ろし)

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この作品の中に出てくるのはNe-Yoによるヒット曲 “One In A Million” です。私は自分からアメリカンPOPを聴くことはあまりないのですが、ラジオから流れてきたこの曲は印象が強かったですね。東日本大震災のチャリティで売り出されたので購入した「Songs for Japan」にも収録されていました。
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の歌
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】弁解はいらないから

「十二ヶ月の歌」の二月分です。本当は先週のアップを予定していたのですが、あまりにも小説爆弾連続投下が続いたので、三月になりましたが本日の発表になりました。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。二月はNo Doubtの“Don’t Speak”を基にした作品です。追記にYoutubeでPVを貼付けてあります。

長編小説「大道芸人たち Artistas callejeros」をお読みになった方は「あれ?」と思われるかもしれません。スピンオフになっています。そもそも、同じような話を別のキャラで書こうと思ったのですが、どう考えてもキャラと設定が被るので、完全にその世界で書く事にしました。とはいえ、完全に独立していますので、あえて「大道芸人たち」を読む必要はありません。また第二部のためにこのエピソードを読んでおく事が必要というわけでもありません。でも、個人的には、重要かな……。


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弁解はいらないから
Inspired from “Don’t Speak” by No Doubt

 稽古場はひんやりとして冷たかった。人々の好奇の目と口うるさい両親から逃れるために、陽子は安田家の稽古場を借りて、朝から一人で稽古をしていた。噂が耳に届かないように、激しくバチを動かした。家元の苦しそうな謝罪の目を見ないで済むように目を閉じた。聞きたくない。謝らないで。終わったことにしないで。

 陽子の婚約者、家元の長男である稔は先週の土曜日に二週間のヨーロッパ旅行から帰ってくるはずだった。彼がその日戻ってこなかったので、家族が何かがあったのではないかと心配して航空会社に問い合わせた。そして、彼がチェックインしていなかったことを知った。イギリスかフランスで何か事故にあったのかと皆が心配した。

 稔は誰かに心配をかけるような行動をしたことはなかった。明るく責任感があり誰からも好かれていた。安田流の若衆たちは、稔が次期家元だと噂されていることを抜きにしても、常に尊敬と友情を持って彼の周りに集っていた。

 陽子は稔の一番の親友を自認していて最初のファンだった。そして一番のライバルでもあった。彼の三味線と常に競い合い、発表会のトリを争った。創立者である先代家元安田勇一に心酔していた陽子の父親、遠藤恒彦は安田流の陰の実力者であり、家元の座を狙っていたが果たせなかった。勇一の長男、安田隆は凡才で家元の器ではなかった。だからこそ自分に一番のチャンスがあると身も心も捧げてきたのに、勇一は息子と結婚した周子を家元にした。周子はたしかに優れた三味線奏者ではあったが、恒彦は納得できなかった。だからこそ、自分の才能を色濃く受け継いだ陽子を厳しく教育してきたのだ。お前が家元になれと。

 陽子はいつも稔と競いながら育った。負けるのは我慢ならなかったし、誰よりも努力した。けれど、時おり家元争いとは全く別の次元で、稔が眩しくてしかたなく思うことがあった。陽子はいつも稔を見ていた。けれど稔は陽子だけを見ていたわけではなかった。陽子は三味線にのめり込んだ。稔は時おり静かにギターを爪弾いていることがあった。陽子は父親の期待と、稔へのライバル心、そして三味線を極めたい、稔と一緒に芸術の世界で生きたい想いにがんじがらめになっていた。稔は真剣でありながらも体の一部が常に風通しのいい方に向いていた。

「また同じタイプの役立たずちゃんとつきあっているわけ?」
まだ高校に通っていた頃、陽子はいらだちを隠しもせずに問いただしたものだ。

「お前の知ったことじゃないだろ。美知子ちゃんはさ、俺のギターを聴きながらうっとりと、こう、見つめてさ」
「ばっかじゃないの? ギターなんか弾いている暇があったら、『じょんがら節』を練習しなさいよ。発表会のトリはまたあなたなんだから」
「ちゃんと練習はしているよ。大体さ、そうやってぽんぽんいうなよ。下のクラスの子たちはお前のことを怖がっているぜ」

 陽子はキッと稔を睨みつけた。
「口だけじゃないわ。私はあのぼんくらたちの十倍は練習しているのよ」

「わかっているさ」
稔はあっさりと言った。その言葉だけで、陽子は他のこと、同門の他の子たちに煙たがられていることや、大人にも生意氣と陰口を叩かれることがどうでもよく思えてくるのだった。今は、つまらない女の子ばかり追いかけているけれど、いつかは私と一緒に芸を極める人生を一緒に歩いてくれるよね、稔。

 それから、幾度も季節がめぐった。稔のつき合っていた少女たち、吉田美知子、沢口美代、それから名前を覚えるのも諦めてしまった何人かの子たちは、まったく違う世界に消えてしまった。彼女たちはみんな同じタイプだった。優しくて、もの静かで、勉強はそこそこ。どちらかというと平凡な普通の女の子たち。そう、陽子とは正反対のタイプだった。

 もうじきバレンタイン・デーがやってくる。もともとお菓子づくりになど全く興味のなかった陽子が、セミプロ並みの腕前になってしまったのは、この忌々しい風習のせいだった。かわいくラッピングされたチョコや、つき合っている女の子たちの作ってくる見かけも味もいまいちなクッキーを、稔がさも嬉しそうに食べているのが悔しくてしかたなかった。最初につくったのは、パーヴェ・ド・ショコラ、その次の年はチョコレート・ブラウニー、それからマーブル・ケーキ……。

「う、美味いな……」
稔は困ったように言った。たとえ、陽子に対して全く恋愛感情が持てず、それどころか、想いを寄せられるのを迷惑に思っていたとしても、稔はいつも正直だった。陽子のつくる聖バレンタインの菓子が、誰のつくったものよりも美味しいと認めてくれた。

 けれど、今年のバレンタイン・デーは、何もつくらないわ。陽子は三味線のバチを激しく動かして思った。

 私と生きると言ってくれたのに。ついに言ってくれたのに。

 何をしてもだめだった。三味線弾きとしても、女性としても、陽子にできる努力は全てした。それが全て徒労に終わっても、諦めるつもりにはなれなかった。だから、稔の父親、隆が事業に失敗して、緊急に三百万円を都合しなくてならなくなった時、陽子はそのチャンスにとびついた。

「これね。OLの乏しい稼ぎの中から、結婚資金のために五年かけて貯めたお金。だから、これがなくなるとお嫁に行けなくなっちゃうの。でも、稔は責任とってくれるわよね」
稔は、悩んでいたけれど、結局その金を受け取ったのだ。

 首の皮一枚でつながった隆には、その金を耳を揃えて返しにくることはできなかった。稔も数十万円の貯金しかなかった。ギターで身を立てたいと言った稔に、安田流中が反対した。そして、こんどはずっと嫌がっていた幼なじみと結婚することになった。稔は「最後に好きなことをさせてほしい」といって、ヨーロッパへのバックパックの旅行に旅立った。陽子は余裕な態度で送り出した。

 でも、稔は帰ってこなかった。

 みんなが大騒ぎをした。何かがあったのかと。連絡もせずに稔が帰国予定を変えるはずがないと。けれど、今朝、陽子のもとに一枚のはがきが届いた。銀行から。パリから稔が十一万六千円を送ってきたのだ。日付は、乗るはずだった便の翌日だった。

 陽子の父親は狂ったように怒って、家元のもとに事実の解明を要求した。安田流は大騒ぎになった。

 一人稽古場で、『じょんがら節』を弾きながら、陽子は眼を閉じて稔に話しかけていた。稔、私にはあなたがどう感じたのかよくわかる。あなたが風通しのいい方に軀を向けていた理由がよくわかる。ギターで身を立てたいと言っていたのも理解できる。家元になる重圧から逃れて、大好きな役立たずちゃんにキラキラする瞳で見つめられながら、ただ好きに弦を爪弾く人生に憧れていたのがよくわかる。憧れたのは、あなたが逃れられないことを知っていたから。あなたが安田流や三味線の芸術と真剣に向き合う真面目な性格だったから。そして、私の想いからも逃れられないことを知っていたから。

 私はあなたに結婚を迫ったりするべきじゃなかった。あなたに息苦しくないだけの空間を残してあげるべきだった。これ以上いい募らなくても、あなたは私の想いを痛いほど知っていたのだから。それでいて、あなたはカワイ子ちゃんしか、愛せないのだから。

 私はあなたを誰よりも知っている。あなたに、私が必要なことも。腕を磨きあうライバルとして、いずれ私たちの代になってもり立てていかなければならない安田流の優秀な奏者として、あなたの失恋譚を聴いて一緒に盃を交わす同志として。

 父親は稔が謝罪と釈明の手紙を書くべきだと、娘に対して誠実でないと家元夫妻にまくしたてた。家元は、涙ながらに陽子に頭を下げた。

 そうじゃない、どうか、そんな風に話を終わらせてしまわないで。私は、まだ待っていたい。稔がふらっと帰ってくるのを。「ごめん、ちょっと長くふらふらしていて遅くなった」といって戻ってくるのを。

 弁解はいらない。私に必要なのは、稔、あなたが帰ってくることだけなの。陽子は、眼を閉じて弦を響かせ続けた。

(初出:2013年3月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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No Doubtの“Don’t Speak”は、スイスでは今でも数日に一度はラジオで聴きます。恋人の心が離れていくのを感じて、彼が口を開けば説明や別れを切り出しそうなので、「お願い何も言わないで」と切なく歌います。
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の歌
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】少し早い春の湘南を

「十二ヶ月の歌」の三月分です。つい先日二月分をアップしたばかりですが、まもなく新連載がはじまるので、ここで三月分も公開しちゃうことにしました。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。三月は小田和正の“ラブストーリーは突然に”を基にした作品です。YoutubeでPVを探したのですが、公式に使えるものはないようですね。ま、皆さんご存知でしょう。(古すぎて若い方は知らないかなあ)

ここで、ひと言、お礼をさせてください。私の妄想につき合って、ヤキダマのお名前を貸してくださった山西左紀さんに、心からの感謝を。


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少し早い春の湘南を
Inspired from “ラブストーリーは突然に” by 小田和正

「YAMAHA DS250。お前が今さら。何で?」
ヤマグチが首を傾げた。
「いいだろう。たまには小回りのきく軽いのに乗ったってさ」
「そんな事、一度も言った事ないじゃないか」

 十年間もツーリングを共にしてきたヤマグチが訝るも無理はない。でも、氣がついたら買っていたんだ。ヤマグチと違って、理由はわかっている。SUZUKI vanvan200のせいだ。我ながら頭痛がしてくる。

「来週、仲間で房総に行く予定だけれど、よかったら来る?」
そう訊いたら彼女は首を振った。
「私、三浦半島に行くの。それに、わたし集団で走るの苦手なの」
「どうして?」
「付いていかなくちゃと焦るから、景色を楽しめないんだもの。私が遅いから」
だから、初めて会ったときも一人で走っていたのだと透は思い出した。

 はじめての海外ツーリング。レンタルしたSUZUKI GSX-R750で、ずっと憧れていたアルプスを見ながら走った。フルカ峠、オーバーアルプ峠、ハスリ谷や陽光の煌めくトゥーン湖の周りを。仕事を十日も放り出すのは心配だったけれど、その不安が吹き飛ぶほどの最高の走りだった。それから、グリムゼル峠へ。聞きしに勝る湖の美しい峠だったけれど、駐車しているバイクの数のあまりの多さに、力なく笑ってしまった。

 そこに、例のすごい音を響かせて、ハーレーに乗った集団が到着したのだ。ハーレーの集団は珍しいとは言えなかったが、どうやらそれがすべて女性らしいので、透は思わず彼女たちを凝視した。鋲の打ってある黒い革ジャン、ヘルメットを脱ぐと鼻ピアスに赤い髪、首筋のタトゥー。完璧なハーレー装束だな。透は感心した。そこに、のろのろと遅れてもう一台バイクがやって来た。

 vanvan125じゃないか。服装も普通の灰色のジャケットだ。何だ、ブラックシープか? 透が見ていると、彼女はヘルメットを脱いだ。日本人だ。それが翔子だった。

「君、あのハーレー軍団と走っているの?」
思わず訊いた透にきょとんとして彼女は笑った。
「まさか」
そして、その時も言っていた。彼女は集団で走るのが嫌いなのだ。

 その日の残りを一緒に走って、透は翔子が横浜に住んでいる事を知った。透の住む武蔵小杉から20分も離れていない。だから、日本に帰ってからも時おり連絡して週末のツーリングに出かけるようになったのだ。

 DS250を買ってしまった時には、自分で頭を抱えた。「待たせるのがいやなの」と言う彼女の言葉に反応してしまったって事だ。これを見たら警戒するかな。

「あら? そのバイク……」
翔子は透の姿を見るなり言った。透は空を見ながら、言った。
「手放さなくちゃいけないって、友達が言ったから、格安で譲り受けたんだ。たまにはもこういうのもいいかなと思って」
翔子は、菜の花を思わせる笑顔を見せた。透はほっとして言った。
「湘南は久しぶりなんだ。さあ、行こうか」

 155cmの小柄な翔子は、vanvan200の上にまっすぐに座る。ヘルメットから垂れ下がっている少し茶色がかった三つ編みには乱れひとつない。灰色のジャケットと黒いモーターサイクルパンツ、黒い革の靴、すべてがきっちりとして隙がないのだが、柔らかくて悪戯っぽく煌めく瞳といつも口角の上がっている唇が優しくて、見ているととても心地よかった。透はずっと「女にはツーリングのよさはわからない」というヤマグチの意見に賛成だったのだが、翔子とアルプスを走って以来、どうやら密かに違う意見を持ってしまったようだった。

 高速を飛ばすのが面白かった。目の前の車の走りにイライラして、危険な追い越しを繰り返した事もあった。ヤマグチや他の仲間との馬鹿げたツーリングが嫌になったわけでもなかった。だが、房総に行く仲間たちに不義を謝って横浜に向かう時、透は浮き浮きしてくるのを押さえられなかった。春がやってくる。風の中に樹々の目覚めの香りがする。菜の花のような笑顔が待っている。

「晴れてよかったよな」
透がヘルメットのバイザーを上げてそう言うと、翔子は眼を細めてにっこりと笑った。
「グリムゼル峠も、こんな晴天だったわよね」

 同じ思い出を持っているということが嬉しかった。たとえ、彼女の心の中には他の男が住んでいることを知っていても。

 翔子が行こうとしているのは、その男が行ったと彼女に語った湘南なのだ。
「そいつと一緒に行ったのか?」
透が訊くと、翔子は小さく首を振った。
「三厩さんとは大学でときどき話をするだけだもの」

 自分は透君で、あっちは三厩さん。こっちは二人っきりでツーリングにも行けていて、あっちは話をするだけ。明らかに形勢はいいはずなのに、なぜか彼女の恋話の聴き役になってしまっている。ま、そのうちに、見ていろ。透は空を見上げて会ったこともない大学院生に宣戦布告した。

「三浦海岸に、見渡すかぎりの大根畑があるんですって。そこを、お友だちと走ったって……」
しおれた青菜みたいな顔をするところを見ると、そのお友だちとは件の大学院野郎のガールフレンドなのだろう。翔子はどうやら失恋ツーリングをするつもりだったらしい。だったらなおさら一人でなんか行かせられるか。絶壁から飛び込まれたりしたら困るし。

「よし、じゃあ、その大根畑を走ったら、海岸線をドライブして、美味い海の幸を堪能しようぜ」
そういって、ヘルメットのバイザーを下げた。翔子はこくんと頷いてヘルメットを被り、きっちりとベルトを締めて、手袋をはめてから、vanvanのスタンドを起こした。

 第三京浜、横浜新道と走りながら、透は不思議な氣もちになっている。いつもなら周りの車にイライラして、どうしたら一刻も早く追い抜けるか、そんなことばかり考えていた。DS250は小回りが利く。だから追い越しもそんなに難しくはない。だが、今の透はそんな走り方はしない。ミラーで後ろのvanvanを確認し氣にしながら、教習所の教育用ビデオのような優等生の走りをしている。普段なら無視する休憩所にも寄って、二人でオイルやチェーンの状態をチェックしながら、缶コーヒーを飲んだ。

「いい陽氣とはいえ、走るとまだ肌寒いな。大丈夫か?」
「もちろん。透君、もっと速く走りたいんじゃないの? 私に合わせてくれているのよね」

 透は笑って言った。
「速く走るのは、いくらでもやってきたし、いつでもできるんだ。こうやって走ると、今まで見ていなかったものや、感じていなかったものがどれだけ多いかってわかるよ。こいつで走るの、氣にいったよ」
翔子も嬉しそうに笑った。

 横浜横須賀道路で三浦に向かう。大学院生野郎の目は確かだった。国道からそれて、丘陵地帯の小さな道を進んでいくと、大根やきゃべつの畑が一面に広がり冬の間には忘れていた緑が目に鮮やかだ。麦わら帽子を被った農夫たちが大根を引き抜いている牧歌的な風景。この温暖な三浦半島は、東京や横浜よりもさらに暖かく、さわさわと大根の葉を揺らす風すらも穏やかだ。

「こいつはいいや」
透はつぶやきながらゆっくりと走る。時おり翔子を先に走らせ、時には先を行き、のんびりと丘の上を堪能する。遠くに海が見えるポイントで、エンジンを止めると、翔子も停まって、ヘルメットを脱いだ。翔子は乱れが氣になったのか、三つ編みの髪を一度ほどいた。そよ風の中で、細くて柔らかい髪が大根の葉の海と同じようにそよいだ。潮風がここちいい。

「透君、ありがとう。一人で来たら、こんなには楽しめなかったと思うの」
「俺も楽しんでいるよ。つらいことを無理して忘れる必要はないさ。でも、軽くすることができるなら、その方がいいって」
「ええ、本当にそうね。私、前に踏み出せそう」

 三浦海岸の鮮やかな青が目に眩しい。
「ああ、もっと海の近くに行きましょうよ」
透は頷いた。彼も青い海の輝きに近づきたかった。グリムゼル峠のきっちりとして冷たい輝き、透き通った空と湖、万年雪をいただくアルプス。隙がなく凍てついた世界は美しかった。けれど、ここはそれとは少し違う。雪が溶けて、春が近づいている。ざらつく潮風、風に揺らぐ野菜畑、そして、干した大根や干物にする魚が並ぶ、生活臭に満ちた空間。その春めいた光景の中を、走る。翔子の心の中が少しずつ動いている。

「漁師さんのところで、海の幸が食べれるのね」
大浦海岸の近くまで走り、素朴な漁師の宿が昼食の看板を出しているのを見て翔子が言った。
「ああ、新鮮だから美味いだろうな。おっ、キンメのしゃぶしゃぶだってさ。寄ってみるか?」
翔子が頷いた。

 温泉の看板があちこちに立っている。ここは湯どころでもあるんだよなあ。次回来る時には、温泉宿にでも泊れる仲になっているといいんだけれどなあ。不謹慎なことをちらりと考えつつ、透はvanvanの隣にDSを並べた。これからの透のツーリングは、これにばかり乗ることになりそうだった。

(初出:2013年3月 書き下ろし) 
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の歌
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】なんて忌々しい春

「十二ヶ月の歌」の四月分です。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。四月はロレッタ・ゴッジの“Maledetta Primavera”を基にした作品です。日本だとあまり有名ではないのですが、イタリアの懐メロとしてはかなりの知名度がある曲です。スイスでもかなり流行ったらしく、ある程度の年齢の方はみな知っています。

日本の方には馴染みのない曲ですし、ネットではなかなか全文の和訳が見つからないので、私の訳で申しわけありませんが追記にくっつけておきます。言っておきますが、私はイタリア語は素人ですので、大体こんな意味程度に思ってくださいね。Youtube動画と一緒にどうぞ。


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なんて忌々しい春
Inspired from “Maledetta Primavera” by Loretta Goggi

 丘の上から一陣の風が吹くと、湖の果てまで突然色が変わる。それはまるで、モノクロだった映像が突如として総天然色のフィルムに置きかえられたかのよう。草原の緑は茶色めいていたはずなのに青みが増して瑞々しくなる。タンポポやスミレ、咲き乱れる桜。湖をわたる白い船。春の訪れだ。

 大臣の母親であるダゴスティーノ夫人が主催する湖畔のヴィラのパーティは、この魔法のような日からいつも一週間以内に開催されるので、みな不思議に思っていた。招待状が来るのは二ヶ月も前なのだから。

 シルヴィアはコーラルピンク色のシフォンに、白と黄緑の造花風レースで縁取りをした華やかなワンピースドレスを小粋に着こなして、薔薇の香りに満ちた庭に華やかさを添えていた。彼女の周りには、いつも人びとが集い、笑い、スプマンテのグラスを重ねる音が響いた。

「あいかわらず、美しいね、シルヴィア。モレーノは本当に幸せ者だな」
「ありがとう、アンドレア。あいかわらずお世辞が上手なのね」
「お世辞じゃないよ。君がモレーノと結婚するって聞いた時に、そこのオルタ湖に飛び込もうって本当に思ったんだぜ」

 笑い声を聞きつけて、ダゴスティーノ夫人がこちらに向かってきた。
エメラルドグリーンの袖無しのロングドレスに、白いボレロを羽織った夫人は、もう八十近いというのに腰も曲がらず、矍鑠とあたりをはらう足取りで、周りの人間は自然と道をつくった。

「ようこそ、シルヴィア。クリスマス以来だわね」
「ますます綺麗になられて、大叔母さま」
「ほほほ。女盛りは五十からですからね。あなたもようやく本当の色氣が出てきたわね」

 北イタリアの社交の中心である二人は、いつもこのパーティの花形だった。そう、夫人の息子であるダゴスティーノ大臣やその年若き妻のクレアがいつもかすんでしまうように。北イタリアの、ということはつまり、イタリアの経済界で活躍するものならば、だれもがダゴスティーノ夫人の春のパーティに招待されることを夢みていた。このパーティに顔を出しているということは、とりもなおさず重要人物になったということだった。ここでスプマンテやワインで乾杯し、グリッシーニやポモドーロ・セッキの載ったクラッカーを口にし、キスを交わし、たわいもない社交話に興じる。重要人物の妻と知り合ってビジネスが波に乗る実業家も、首相と握手をして貿易上の便宜を手に入れた外国人もいた。

 主催者でいながら夫人が全く知らない有名人も多かった。だが、誰もそんなことは氣にも留めていなかった。ふさわしくないものは、招待状を手にすることはできないのだから。

 シルヴィアは、もちろん毎年このパーティに参加していた。モレーノ・フォルトゥナートと結婚してから十四年間、夫が政治の世界に進んでからは、このパーティでの役割も大きく変わった。頭は切れるが社交的な才能は今ひとつの夫をサポートするのに、シルヴィア以上の適任者はどこにもいなかっただろう。彼女は、笑顔を振りまきながら、広い庭園を歩き回った。

「シルヴィア。紹介したい人がいるんだ。先日、ミラノの会議で知りあった富豪なんだけれど」
モレーノの弟ルチアーノが人びとをかき分けて誰かを連れてきた。
「ヴィーコ夫妻だ」
シルヴィアの笑顔は固まった。

 彼はまったく変わっていなかった。精悍な鼻梁。濃い眉。鋭い眼光。ティーンエイジャーだったシルヴィアが、ひと目で恋に落ちたあの頃と。そう、服装が全く違っているだけで、あの時のままだった。
「シルヴィア、久しぶりだね」
ルチアーノが眼を丸くしているのを無視して、ジャンカルロはシルヴィアの頬にそっとキスをした。昔の親しい友達のように。そうじゃないでしょう。あなたは、そんな生温いキスをしたことはなかったじゃない。あなたはいつも私の唇を激しく奪ったのに。

「紹介するよ。妻のクラウディアだ」
シルヴィアは、ジャンカルロが微笑みながら紹介した女性にはじめて意識を向ける。群青色のシンプルなワンピースに身を包んだブルネットの女性。なんて言ったの? 妻って言った?

 むさぼるようなキス。力強い抱擁。世界が終わっても一緒にいたいと思った。一緒に笑いこけ、ワインを飲み、ロウソクの焔をはさんで見つめあった。他には何もいらないはずだった。それなのに、シルヴィアは、家族に反対された時に、家を出てまで愛を貫くことができなかった。

「ダゴスティーノの娘が、貧乏学生と結婚するなんて、到底無理よ」
母親と、大叔母に断言されて、親友に心配されて、あんな貧乏な暮らしに堪えられるはずがないと諭されて、結婚するなら一切の縁を切ると父親に怒鳴られて、彼女は彼の手を離してしまった。

「君しかいらない。だから、僕を選んでくれ」
ジャンカルロの目を避けるように、指輪を置いて走り去った雨の夜。シルヴィアは心の芯まで濡れた。

 その女は誰なの。どうして当然のようにあなたの隣にいるの? なぜスプマンテのグラスを重ねてあなたとキスをしているの。

「シルヴィア。どうした?」
はっと意識を戻すと、となりには夫がいた。モレーノは丸眼鏡のふちをちょっと持ち上げながら、赤ワインを飲んでいる。

「なんでもないわ」

 自分の人生のことを思い出した。政治家の妻としての、華やかで忙しい日々。ワインと、花束と、買い物と、それからあまり好きではないけれど教会の集いや学校や老人ホームの訪問。この十五年は慌ただしく過ぎ去った。その間、何度もこれでよかったのだ、私にはこの暮らし以外は無理だったと思ったのだから。あの狭いアパートで、トマトしか入っていないフェッチトーネだけを食べて暮らすことなんかできやしないって。

 けれど先ほど見かけた、あのクラウディアって女は、そんな暮らしはしていなさそうだった。ワンピースの生地の質は悪くなかったし、帽子も今年の流行のものだった。ジャンカルロ、あなたの趣味は悪くないわね。とてもきれいな人。ファッションも振舞いも合格よ。もちろん、私の方がずっと綺麗だけれど。

 ルチアーノは彼のことを富豪だって言っていた。だとしたら、私は何のために泣いたのだろう。もし、あの夜にあのアパートを飛び出していなかったら……。

 シルヴィアは、パーティの終わる前に洗面室に行くふりをして、取り巻きの連中から離れ、庭の間を歩いた。黒髪の巻き毛、精悍な瞳の男の面影を探して。あなたが富豪になったのは、私と同じレベルに上がってきたかったから? そうではなくて? あの言葉を忘れたの?

「君しかいらない」

 湖には光が煌めき反射して、眩しかった。つる薔薇のアーチの向こう、人びとから少し離れた所に、シルヴィアは白いトーク帽と群青色のワンピースを見つけた。その隣には忘れもしない後ろ姿の男がいて、妻の腰に手を回し、湖を見つめている。彼女は、幸せそうに頭を彼の肩にもたせかけた。彼はゆっくりと妻の額にキスをした。

 シルヴィアは黙ってその場に立ちすくんだ。あなたはその女性を愛しているのね。何かと引き換えに仕方なしに結婚したのではなくて。しばらくそうしていたが、やがて背中を向けると、取り巻きたちの待つバルコニーへ、夫や大叔母のいる社交の中心へと戻るべく、引き返していった。

 ふと振り向いたジャンカルロは、邸宅の方へと歩いていくコーラルピンクのドレスの後ろ姿に目を留めた。シルヴィア。愛と憎しみで昼も夜も、何年も想い続けた女。そのエネルギーが彼をただの貧乏学生から、ミラノの成功者に押し上げた。だが、そのエネルギーは使い果たしてしまったのだろう。再び彼女の姿を目にしても、喜びも、怒りも、何も浮かんでは来なかった。この日を怖れつつも期待して待っていたはずだったのだが……。

「フォルトゥナート夫人と知り合いだったなんて、知らなかったわ」
クラウディアがぽつりと言った。
「君に訊かれなかったからね」
ジャンカルロは短く答え、付け加えた。
「それに十五年も、一度も会っていなかったんだ」

 忌々しいほどに華やかで美しい春だった。そこにはフォルトゥナート夫妻の歴史や、ヴィーコ夫妻の物語しか存在していなかった。過去にシルヴィアとジャンカルロが夢みた永遠の愛は、ただの愚かな幻想に変わり果てていた。

 あれは春だった。狂おしい、大切な時間だった。もうどこにも存在しないとしても、歌って、トマトだけのフェッチトーネを作って、そして力のかぎり抱きしめあったその二人の、遠い遠い笑い声だけが春風に乗ってこの丘を通り過ぎていく。

 あれは忌々しい春だった。シルヴィアとジャンカルロがもう一度戻りたくても戻れない、たった一つの春だった。

 (初出:2013年4月 書き下ろし) 

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“Maledetta Primavera” の動画と歌詞、そして、その和訳です。かなり意訳してある所もありますので、ご承知おきくださいね。(イタリア語は素人につき、間違っていても責任は取れませんのであしからず……)



“Maledetta Primavera”   Loretta Goggi

Voglia di stringersi e poi
vino bianco, fiori e vecchie canzoni
e si rideva di noi
che imbroglio era
maledetta primavera.
Che resta di un sogno erotico se
al mattino è diventato un poeta
se a mani vuote di te
non so più fare
come se non fosse amore
se per errore
chiudo gli occhi e penso a te.
Se
per innamorarmi ancora
tornerai
maledetta primavera
che imbroglio se
per innamorarmi basta un'ora
che fretta c'era
maledetta primavera
che fretta c'era
se fa male solo a me.
Che resta dentro di me
di carezze che non toccano il cuore
stelle una sola ce n'è
che mi può dare
la misura di un amore
se per errore
chiudi gli occhi e pensi a me.
Se
per innamorarmi ancora
tornerai
maledetta primavera
che importa se
per innamorarsi basta un'ora
che fretta c'era
maledetta primavera
che fretta c'era
maledetta come me.
Lasciami fare
come se non fosse amore
ma per errore
chiudi gli occhi e pensa a me.
Che importa se
per innamorarsi basta un'ora
che fretta c'era
maledetta primavera
che fretta c'era
lo sappiamo io e te
Na, na, na, na , na , na,
na, na, na, na, na, na,
maledetta primavera
na, na, na, na, na, na...

「忌々しい春」

あなたを抱きしめたい。
それから、白ワイン、花束、そして古い歌を。
みんな私たちのことを嗤っていたでしょうね。
なんてメチャクチャな時代だったのかしら。
忌々しい春。

淫らな夢にはどんな意味があるの?
朝にはそれは詩に変わってしまった。
あなたの腕は本物ではないから
私のことを愛してくれはしない。
うっかり瞼を閉じれば、
私はあなたのことを想ってしまう。

もし……
私をまた恋に落ちさせたいのなら
忌々しい春に戻ってきて。
ひどいわね。
恋に落ちるには一時間もあれば十分なんて。
なんて大急ぎでやってくるの、
忌々しい春。
なぜそんなに急ぐの、
ただ私を困らせるためだけに。

心の奥に届きもしない胸騒ぎが
いったい何だっていうの?
星たちに教わったのはたった一つ。
あれは愛だったのね。

もしうっかり瞼を閉じてしまったら
私のことを想って。
私をまた恋に落ちさせたいのなら
忌々しい春に戻ってきて。

恋に落ちるのには
たった一時間しかかからない。
誰も氣にもとめないわ。
なぜこんなに急いでやってくるの、
忌々しい春。
なぜこんなに急ぐのよ、
忌々しいわ、私みたいに。

愛していないっていうならば
私を放っておいて。
でも、うっかり瞼を閉じてしまったら
私のことを想って。
何をかまうっていうのよ。
恋に落ちるのには一時間しかかからない。

なぜこんなに急いでやってくるの
忌々しい春。
なぜこんなに急ぐのよ、
私はあなたと私を知っているのよ。




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Category : 短編小説集・十二ヶ月の歌
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】さよならなんて言えない

「十二ヶ月の歌」の五月分です。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。五月はtrainの“50 ways to say goodbye”を基にした作品です。この曲、日本でも流行ったのでしょうか。メキシコのマリアッチ風の演奏がとても印象的で、スイスでは一時期毎日かかっていました。

「なんで俺をふって、いっちまうんだよ。ちくしょう、だったらみんなにこう言ってやる」と負け惜しみ的に騒ぐ歌。今回は、おなじみのキャラを使って、イメージを表現してみました。歌のYoutube動画と一緒にどうぞ。


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さよならなんて言えない
Inspired from “50 ways to say goodbye” by train

 冗談じゃない、聞いていない。信じられないよ。ドミニクはスクーターを思いっきり吹かしてカンポ・ルドゥンツ村へと向かった。スイスの春、かつ夏ははじまったばかりで、全ての樹々は若葉に覆われているけれど、若くて柔らかい若緑はあっさりと風になびく。強い陽射しに、香り高くライラックが揺れている。こんないい日に聞かされるべきじゃないニュースだ。彼はぶつくさつぶやいた。しかも、チャルナー家のおしゃべりババア、俺が知らないと知ったら、さも面白そうに笑いやがった。

 リナ。なんで、この俺に内緒にしたんだよっ。

 カンポ・ルドゥンツ村の大通り(といっても普通乗用車がようやくすれ違える広さしかないけれど)を猛スピードで北に向かうと、ラシェンナ村へ続く小道へと曲がる。このあたりは日当りがよく村の金持ちが住んでいる。グレーディク家は中でも丘の礼拝堂に一番近い広い敷地に立っている。ドミニクは、その敷地内に入るとエンジンを切った。

 窓がぱーんと開いて、リナが顔をのぞかせた。
「ドミニク、どうしたの?」
初夏の陽射しを受けて、そのヘーゼルナッツブラウンの髪が硬質に煌めいた。ドミニクの、(彼の意見によると)彼女である美少女は、ヘルメットを投げ捨てた少年の剣幕に驚いている様子だった。

「どうしたも、へったくれもあるか。リナ、留学するってのは本当か?」

 リナは肩をすくめてあっさりと答えた。
「ええ、本当よ。八月からね」

 ドミニクは叫んだ。
「なんで、俺に隠すんだよっ」

 リナは、大きな口を開けて、にかっと笑ってから言った。
「下に降りるから待っていて」
それから、顔を引っ込めた。彼女の消えた窓には白いレースのカーテンがそよ風に揺れている。爽やかな午後だ。

 玄関がぱたんと音を立てて、リナが出てきた。家でもこんな派手なかっこをしているのかよっ。ドミニクは眼を剥いた。シマウマ柄のカットソーに赤い革のミニスカート。長い足がにょきっと出ている。ドミニクが夢中になっている十六歳の超絶美少女だ。

「ドミニクったら、知らなかったのね。私、言わなかった? 一年間の交換留学制度に応募したこと」
「どこに行くんだよ」
「東京。日本よ」

「な、なんだって~? なぜ、あんな極東の島国に行かなくちゃいけないんだ」
「なぜダメなのよ。面白そうだったし、応募者が少なかったからチャンスが増えるでしょ」

「だいたい、なぜ留学しなくちゃいけないんだ。俺たち、再来年には卒業試験を受けて、一緒に大学に行こうって話していたじゃないか」
「まあね。一年くらい遅れても、別にいいかなって思うけれど。日本で一年過ごすなんて、めったにない経験じゃない?」

「いつ決めたんだよ」
「願書を出したのは二月ね。決定したって言われたのは四月よ。ほら、ロンドン旅行に行ったりしてバタバタしていたでしょう。まだ、みんなにもちゃんと話していないのよね」

 だけど、俺たちの仲なのに。ドミニクは心の中で叫んだ。実をいうと、二人の仲はまだ完全なステディとは言いがたかった。二回くらい一緒に映画に行って、バーでワインを奢ったりはしたけれど、まだ手を握る所までは行っていないのだ。リナのことを狙っている同級生はいくらでもいるけれど、二人きりのデートに成功したのは自分だけだと自負していた。今週末こそ、なんとか自分の部屋に連れて行き、次のステップに進む予定にしていたのだ。

 それだというのに、チャルナー婆さんに指摘されるまで、彼女の留学のことすら知らなかったなんて。

「日本なんか行くとゲイシャとして金持ちに売られちまうぜ。どうせ、一人のサムライに十人くらい妻がかしずかなくちゃいけない、ひどい風習の国だろ」

 リナは呆れた様子で答えた。
「ドミニク。あなた中東あたりのハーレムのある国と、日本とをごっちゃにしていない? ゲイシャとサムライって、いつの時代の話よ。今の日本は、ハイテクとカルチャーの国よ」
「ハイテクとカルチャーだって? そんな世界の果てに、スイス以上のハイテクがあるかよ。それに文化だって、ヨーロッパの方が……」
「バッカねえ。あなたのパパの車だって、あなたのスマホの部品だって、心臓部はみんな日本製じゃない。それに、家に帰ったら、「日本のアニメ」や「日本のゲーム」で少し検索してみなさいよ。びっくりするわよ」

「バッカねぇはないだろ。なんだよ。向こうでひどい目に遭って、ごめんねドミニク、私が悪かったわ、迎えにきてほしいのと、泣いて頼むことになるんだぜ」
「はいはい。何とでも言いなさいよ。とにかく、私は行くんだから。楽しいだろうなあ」

 怒りにまかせてスクーターにまたがったドミニクは、またしてもスピード違反をして通りをぶっ飛ばした。けれど、家に帰ると少しだけ冷静になった。

 日本だって。知ってるさ。ポケモンと、ニンテンドーとユードー(柔道)の国だろ。そんな所に行ったって、一年の無駄じゃないか。ニーハオとか言うんだっけ。それは中国だっけ? ドミニクはそもそも日本人と中国人の違いがよくわからなかった。片っぽが大陸の大きな国土を持った国で、もう一つが島国だという事ぐらいは知っていたが、そのぐらいだった。それでPCの電源を入れると、リナに言われたように、少し日本や東京のことを調べようと検索をはじめた。

 ふむ。国土。人口。えっ。6800以上の島ってマジかよ。スイスより大きな島もあるのか? ええっ。東京だけで全スイスの人口より多いじゃんか。しかもこの本州って島、スイスの五倍以上の面積で人口が一億人以上いるって? どこが島なんだよっ。

 プレートテクトニクス? ええっ。火山が、こんなにあるのかよっ。大丈夫か、リナっ。あ、まあ、一億人以上が生きてんだから、そこまでサバイバルじゃないかもな。

 ふう。落ち着いて写真でも見るか……。げっ。なんなんだ、こりゃ。すっげえ人間の数だ。し、渋谷ね。女の子のスカートがやけに短いぞ。

 ドミニクは、次々と日本と東京に関する情報を検索していった。「日本のアニメ」って言っていたよな。ふむふむ。ええ~っ。「アルプスの少女ハイジ」も「みつばちマーヤ」も日本のアニメだったのかよっ。知らなかったぜ。それに、あれ、なんだこりゃ、なんか色っぽい?

 それは主題歌の入ったロールプレイングゲームのプロモーション動画だった。詳細に描き込まれた背景や人物の衣装、そして切ないが意味のさっぱり分からない歌が三分ほど続いた。ドミニクは半ば放心して、関連動画をクリックした。今度は東洋風の衣装に身を包んだ男女が剣で闘っている。打ち合う剣からは閃光がほとばしり、雷鳴が轟く。異様な怪物が現われてスタイル抜群で美しい女をさらっていく。次の動画では、ロボットのようなものに乗った男女がすごいスピードで戦闘を繰り広げていた。何がなんだかわからなかったが、とにかくその映像美はただ事ではなかった。

 なんだこりゃ~。

 翌朝、学校でリナを見かけた。寝不足のドミニクの顔を見ると彼女はほらねとでも言いたげに大きく口を開けてにやりと笑った。ドミニクは明け方の三時まで、ヨーロッパのジャパン・オタクたちの投稿したありとあらゆる日本アニメやゲームに関する動画をみていた。ついでにアイドルの妙な歌と踊りや、クロサワアキラや、日本料理やキョウトや、シャラクやホクサイの絵まで検索で知ってしまった。全く知らない世界だった。この世に、おもちゃ箱みたいなすごい国があるらしい、日本……。

「どう? これでも、私が日本に行くの、時間の無駄だって思う?」
リナは勝ち誇ったように言った。ドミニクは上目遣いで小さな声で言った。
「なんで黙っていたんだよ」
「え。まだこだわっているの? わざとじゃなくって、本当に言うのを忘れていたんだってば」
リナは困惑していった。

「留学のことじゃねぇよ。日本があんなに面白い国だって、なんで俺に隠していたんだよ!」
それを聞くと、リナは大きな口を開けてニカッと笑った。
「だって、それを先に言ったら、あなたが留学したがったでしょ。ライバルは一人でも少ない方がいいもの」

 ちくしょう。こうなったら学校の休みにでも押し掛けてやる。憶えていろよ! リナと日本。

(初出:2013年6月 書き下ろし) 

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Category : 短編小説集・十二ヶ月の歌
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】世界が僕たちに不都合ならば

「十二ヶ月の歌」の六月分です。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。六月はアンドレア・ボチェッリの“LA LUNA CHE NON C’E” を基にした作品です。「存在しない月」という意味の題名です。この小説がかなりおとぎ話みたいになっているのは、この歌のせいですね。

「君は夕闇に明るく輝くそこには存在していない月になるだろう」と朗々と歌い上げるロマンティックな曲。イタリア語なので、例によって私が訳しました。出回っている訳だと、ちょっとわかりにくいので、あえて一から訳し直して、さらに一部意訳してあります。よかったら歌のYoutube動画と一緒にどうぞ。


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世界が僕たちに不都合ならば
Inspired from “LA LUNA CHE NON C’E” by ANDREA BOCELLI


 乾いた空調と震える翼の叫びのようなスクリュー音が、耳の奥に響く。今はどこだろう。間違いなくロシアの上空だろうけれど、どの辺りなのかはわからない。珠理はもう数えられないくらい繰り返したため息をまたしてもつくと、そっと窓のブラインドを上げてみた。漆黒の闇だった空は、日の出の赤いオーロラに彩られ、星が消えゆく前のわずかな抵抗を見せる上空も柔らかい紺紫色になっていた。

 色の組み合わせを眼に焼き付けようとするのは珠理の職業病のようなものだった。いくらクリエィティヴな組み合わせを試そうとも彼女の仕事は自然には到底叶わないと、いつものごとく思うのだった。

 普段ならば、それは単なる自然への強い讃歌に過ぎないのだが、今の珠理には強い敗北感を伴った痛みとなった。オットーの言った事は正しかったのかもしれない。
「君は、確かにエキゾティックだけれど、まあ、それ以上じゃないさ。そんなに肩肘張って頑張るのは、どうせ僕への当てつけなんだろう」

 三年一緒に暮らしたオットーとの破局のきっかけは、彼の不実さ、つまり二人の住むフラットに女性を連れ込むという行為だったのだけれど、ドイツを去ってミラノへと遷ることにしたのは、珠理の仕事に対する彼をはじめとするドイツの同僚たちの本音に傷ついたからだった。直線的で冷たいとすら言えるオットーの照明デザインは、ドイツでは高い評価を得ていた。珠理は、自分の表現したい光とクライアントの求めるデザインとの差異に苦しんでいた。

 一緒に住んでいるパートナーとしても、オットーの態度には苦しめられた。甘い言葉は使っても、サッカーの試合が始まればすぐに背を向けてしまう。家財の購入するときにも自分の趣味を言えば笑って却下されてしまう。極東の田舎から来た女に家具の事がわかるのかという態度。不実に抗議すれば多くの言葉で謝罪を述べるが、眼にはうんざりした想いが現われている。

 ちょうどミラノのロッコ・ソヴィーノに彼の照明事務所で働いてくれないかと誘われていた。イタリア語がほとんど出来ないから断ろうと思っていた。でも、自宅の扉を開けて、パートナーとその親友の妻がソファで不適切な行為に及んでいるのを目にしたときに決意したのだ。オットーから離れてやり直すのだと。

 国が変わり、ボスが変わったからといって、魔法のようにすべてが解決したわけではなかった。それでも、少なくとも彼女がデザインする明かりは彼女にとって親しみやすい暖色が中心となった。というよりは、ソヴィーノはそれを容認してくれたのだ。大げさな言葉と暖かい笑顔。イタリアの暮らしは、珠理には向いているように思えた。まだ、言葉がきちんと話せなくとも。

 事務所のすぐ側にオレンジ色の壁のバルがある。珠理は始業の一時間前にそのバルの一番奥の席に座り、カプチーノとクロワッサンを食べる。ほかのバルのクロワッサンには甘すぎるこってりとしたアプリコットジャムが入っていて珠理には到底我慢がならないのだが、ここには何も入っていないクロワッサンがあるのだ。

 二十分くらい本を読んでいると、ロメオが入ってくる。事務所の同僚だ。といってもデザイナーではなくて事務一般と経理を担当している。本当にイタリア人かと念を押さなくてはならないほど無口で、同僚たちが休憩時間にうるさく騒いでいる時にもひと言以上口を挟む事がない。ましてやイタリア語の話せない珠理と話す事もなく、八ヶ月のミラノ生活で会話らしい会話が出来るようになったの五ヶ月を過ぎた頃だった。

 珠理はオットーとの関係に傷ついていたので、恋愛には慎重だった。多くのイタリア男性は挨拶代わりに口説く。はじめは真剣に誠実に断っていた珠理でも、彼らがまるでこたえずに全くタイプの違う女性を平然と口説くのを知ってから、これはイタリア式の挨拶なのだと思う事にした。少し煩わしいけれど、さばいていくのもここでは必要な事なのだと。

 だから、無口で余計な事を言わないロメオと毎朝遇うのは、そんなに悪くなかった。五ヶ月も経てば、珠理にもそつのない会話をはじめられる程度のイタリア語が身に付いてくる。英語がわからないわけでもなさそうだが、いかんせん返事があまりにも短くてどのくらい理解できているのかがわからない。それで、珠理が片言のイタリア語で挨拶をし、ロメオが短く答える、そんな朝が習慣化したのだ。

「ロメオとジュリエッタだ」
と、はじめは同僚たちが囃し立てたが、激しい恋に命を落とした伝説の若いカップルと珠理たちとは馬鹿馬鹿しくなるほど異なっていたので、誰も二人をそんな眼では見なくなった。ただ、珠理の事を同僚たちが「ジュリエッタ」と呼ぶ習慣だけが残った。

 ミラノの朝八時の喧噪。既にはじまっている強い太陽光線の照り返し。珠理は光のダンスを眼に焼き付ける。
「君は、いつも光を追っているんだね」
ある朝、ふいにロメオが口にした。彼はまっすぐに珠理の事を見ていた。その時に彼女はロメオの瞳をちゃんと見た事がなかった事に氣がついた。彼はちゃんと瞳を見ていたのに。

「ごめんなさい。つい」
ロメオが目の前にいる事も忘れて、光の事を考えていたことを珠理は恥じた。オットーがサッカーの試合を放映するテレビに釘付けになった時に、珠理はひどく傷ついた。でも、私だって、それと同じ事を……。

「そういう意味じゃない。その、とても真面目なんだって思ったから……」
言葉をそこで止めて、ロメオは冷たくなったエスプレッソを口に運んだ。彼は、何か言いたそうにするがいつも言葉を飲み込んでしまう。絶対に必要な事以外はその口からは出てこない。だから、次の言葉を珠理が探して勝手に継ぐのだった。

「やりたいことを職業にできる幸運が、誰にでもあるわけじゃない事はわかっているの。私はとても強運なんだと思っている。でも、そうだとしても葛藤はあるの。コンペの攻略法や、顧客の希望……」

 ロメオは黙って頷いた。ロメオとの朝の時間は、時に禅問答のようだった。彼自身は多くを語っていないのだが、珠理はいつも自分の中にある解答をみつけた。コンペで入賞するために少しエキゾティックな光を強調するか、それとも自分の好きな光にこだわるか。それはイタリアで、一人で生き続けていくために必要な賭けのようなものだった。そして、自分の中のテーマである日本の伝統色、襲の色目で勝負しようと決意したのだ。

 珠理は、ロシアの広い平原ともうずいぶんと明けてオレンジから薄紫へとグラデーションを見せる空を眺めていた。

「おしぼりでございます」
声に振り向くと、湯氣を立てるタオルをプラスチックのピンセットでつかんでいるスチュワーデスが、少し氣まずそうな表情を浮かべた。それで珠理は自分が涙を流している事を悟った。小さく頭を下げて受け取ると、珠理はタオルを瞼に押し付けた。暖かさがゆっくりと瞼の奥へと伝わっていく。

 上手くいかなかった。コンペでは、オットーがデザインしそうな蛍光色のアバンギャルドなデザインが大賞をとった。ソヴィーノも同僚も慰めてくれたが失望の色は隠せなかった。光が柔らかすぎたと、女のお遊びだと審査員に評されて、珠理は築いてきたすべてを否定されたと思った。オットーの言う通りだったのかもしれない。

 マルペンサ空港で搭乗ゲートを確認するために電光掲示板を見上げていると、聞き慣れた声がした。
「ジュリエッタ……」
振り向くと肩で息をしているロメオが立っていた。

「見送りに来てくれたの?」
「本当なのか、日本に帰るって……」
「ええ」

「でも、コンペの結果だけが全てじゃないだろう。君のデザインを氣にいってくれている顧客だっている。ロッコも、みんなも、それに僕だって……」
珠理は頭を振ってロメオの言葉を遮った。

「それだけじゃないの。親から呼び出されているの。父親の仕事を手伝ってほしいって前から言われていたの。世界は、私の思うようには動かなかった。だから、どこかに受け入れてくれるところがあるのならば、それに合わせていくべきなんだって、わかったの。この仕事を続けたかったからずっと断っていたんだけれど、潮時かなと思って」

「そんなに、イタリアが、事務所が、僕たちといるのが苦痛だったのかい」
珠理は少し間を置いてから答えた。
「苦痛というのとは違うわ。でも、疲れてしまったの。海外で、一人で、自分の好きな事をするって、もっと強い人にしか向いていないんだと思う」

 ロメオは下を向いて、拳を握りしめていた。また、何か言葉を飲み込んでいる。それを珠理は、悲しく見た。この人は、私の痛みをわかってくれる人だと思った。たぶん、襲の色目に込めた幾層にも別れた喜びと悲しみと優しさとひらめきとを、虹彩という器官を通してではなく、心を通して感じてくれる人なのだと。たぶんそれ以上ではないだろう。でも、きっと、オットーとではなくてこの人と暮らしを共にしていたら、私はこれほどまでにヨーロッパに、いや世界に否定されたとは感じなかったかもしれない。でも、これでおしまいだ。珠理はショルダーバックを肩にかけ直して、ことさら明るく笑おうとした。こわばってしまったけれど。

「よくしてくれて、ありがとう。ロメオともう朝ご飯を食べられなくなるのは残念ね」
珠理はロメオの頬に、小さくキスをして搭乗口に向かった。

 フランクフルトで乗り継ぎの飛行機を待っている時に、周りにドイツ語の響きがあふれて、珠理は突然わかった。同じ海外の国でも、ドイツとイタリアは全く違った。いや、そうではない。ドイツの同僚たちとイタリアの事務所の仲間たちが違った。オットーとロメオも全く違った。一緒にいた時間ではない。どのような関係であったかでもない。言葉の数でもなかった。

 飛行機の外、空の色がやがてごく普通の淡い水色に変わっていくのを珠理は黙って眺めていた。スチュワーデスが、朝食を機械的に配っていく。明けていく夜を眺めながら感じた絶望と、その中に浮かぶもう一つの全く違う想いは、こうした機械的な生活の動きの中で薄められていく。いや、薄められたのは絶望の方で、もう一つの想いは、ただ軽く周りに浮かび、消えてはいかない。

 いなくなると知って、走ってきてくれた。ロメオの乱れた息から途切れ途切れに出てくる言葉を一つずつ思い出す。あの朝の時間を大切に思っていたのは、私だけじゃなかったのね。それだけだって、そんなに悪い事ではないわよね。

 珠理は「ロメオとジュリエッタ」の縁を信じているわけではなかった。彼が、自分の事を女性として、恋愛対象として追いかけてきてくれたとも思っていなかった。それでも、彼女はロメオが誰よりも大切な存在になっていた事を認めた。

「あと一時間ほどで、成田新東京国際空港に到着します。現地の天候は晴れ、摂氏17℃と連絡が入っています」
機内アナウンスを訊きながら、珠理は決心した。日本に着いたら、ロメオに電話しよう。日本とイタリア、物理的に離れていても、一緒にいた時に築いてこなかった関係を築くために。このままさよならにしてしまいたくないと思っている事を伝えよう。きっと、返事は二言三言しか帰ってこないと思うけれど。

 それから、思い出した。ダメ。時差がある。成田から電話したら、真夜中で寝ている彼を起こしちゃう。もどかしいけれど、七、八時間は待たないと。

 珠理は落ち着いて、着陸を待った。着陸はスムーズに行われ、周りの乗客が我先にと出口に向かうのも目で見送り、ゆったりと準備をして出口に向かった。日本語のあふれる空港、清潔な通路、レーンから流れてくる荷物をピックアップして、たくさんの観光客やビジネス客にまぎれて出口へと向かう。今まで孤独な異国人だったのが、日本のなんてことのない一国民となって大衆にまぎれていく不思議な感覚。照明デザインも、イタリアも、意外とすぐに遠い映画のように消えて生活に流されていくのかもしれないな、珠理がそう思いながら出口を出た時だった。

 私、どうかしたのかしら。いるはずのない人が目の前にいる。何かの間違いよね。だって、あのときミラノで別れたんだし。ロメオそっくりの外国人は、別れた時と同じ服装をして立っていた。そして、珠理を見つけると笑いかけた。
「ジュリエッタ!」

「え? 本当にロメオなの? どうしてここにいるの?」
ロメオは、間違いなくロメオだったそのイタリア人は少し誇らしげに胸を張った。
「あの後、すぐにアリタリア航空のカウンターに行って、日本直行便のチケットを買ったんだ」

「うそ……。でも、どうして?」
「無口でいるのはやめることにしたんだ。どうしても、これで終わりにしたくなかったから。でも、ジュリエッタの連絡先も知らない。いま追いかけなかったら、もうチャンスはないと思ったんだ」

 あと八時間もしたら、私が連絡するはずだなんて、知らなかったものね。珠理は涙で前が見えなくなったまま、ロメオに抱きついた。
「ロメオ、やっぱりイタリア人だね。無口だから、違うと思っていたんだけど……」

「うん。ジュリエッタ。もし、世界が君一人で思うように動かないなら、僕にも動かす手伝いをさせてくれないか。二人なら、きっとなんとかなる。だから、ずっと一緒に朝ご飯を食べようよ」

 珠理は彼の腕の中で泣きながら、何度も頷いた。そうだね、ロメオ。あなたと一緒なら、きっとなんとかやっていけるよね。やっていこうね。

(初出:2013年6月 書き下ろし) 

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“LA LUNA CHE NON C’E” の動画と歌詞、そして、その和訳です。意訳してある所もありますので、ご承知おきください。(イタリア語は素人につき、間違っていても責任は取れませんのであしからず……)



“LA LUNA CHE NON C’E”   ANDREA BOCELLI

Conosco te la nostalgia
che ti sorprende all’improvviso,
rallenta un po’la corsa che
ti ha tolto il fiato e ti ha deluso.

Se il mondo intorno a noi
non ci assomiglia mai,
dividilo con me;
io lo prenderò e lo scaglierò lontano.

E chiara nella sera
tu sarai la luna che non c’è.
Nell’aria più leggera
la tua mano calda su di me.
E forse non ti immagini nemmeno
quant’è grande questo cielo,
quanto spazio c’è qui dentro me
e ci sarà adesso che
mi vuoi così anche tu.

Ritroverai la tua magia
piccola stella innamorata,
per quanta notte ancora c’è
in questa notte appena nata.

Il buio porterà
con sé i fantasmi suoi,
e se non dormirai
io ti ascolterò e ti stringerò più forte.

E chiara nella sera
tu sarai la luna che non c’è.
Con quanta tenerezza
ti avvicini e ti confondi in me.
E forse non immagini nemmeno
quant’è grande questo cielo,
quanto spazio c’è qui dentro me
e ci sarà adesso che
mi vuoi così anche tu.

Con quanta tenerezza
ti avvicini e ti confondi in me.
E forse non immagini nemmeno
quanto è grande questo cielo,
quanto spazio c’è qui dentro me
e ci sarà adesso che
mi vuoi così anche tu,
adesso che mi vuoi così
anche tu.

そこにはない月

君には突然襲ってくる郷愁があるんだね。
それは君の歩みを遅らせ
氣力を奪い、失望させる。

もし僕たちの周りにある世界が
僕たちに合わないならば
僕とそれを分けあわないか。
僕はそれを受け取って
遠くに投げ捨てるから。

そして君は夕闇に明るく輝く
そこには存在していない月になるだろう。
もっと穏やかな空氣の中で
君の暖かい手を僕の上に置くだろう。
そして、たぶん君には想像もできないだろうね。
どれほど大きな空が、
どれほどの広がりが僕の中に存在することになるのか。
そして、今そうなるんだ。
君も僕と同じように望んでいるのなら。

君は再び魔法を見つけるだろう。
全ての暗い夜にも
小さな愛の星がまだ存在している。
その夜の中でまさに生まれたばかりなんだ。

暗闇はその幽霊と一緒に取り除かれる。
そして、もし君が眠れないならば
僕は君の話に耳を傾け
君をきつく抱きしめる。

そして君は夕闇に明るく輝く
そこには存在していない月になるだろう。
どれほどの優しさで
君は僕に近づいてきて
僕の中に溶け込んでいくんだろう。
そして、たぶん君には想像もできないだろうね。
どれほど大きな空が、
どれほどの広がりが僕の中に存在することになるのか。
そして、今そうなるんだ。
君も僕と同じように望んでいるのなら。

どれほどの優しさで
君は僕に近づいてきて
僕の中に溶け込んでいくんだろう。
そして、たぶん君には想像もできないだろうね。
どれほど大きな空が、
どれほどの広がりが僕の中に存在することになるのか。
そして、今そうなるんだ。
君も僕と同じように望んでいるのなら。



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Category : 短編小説集・十二ヶ月の歌
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】おまえの存在

「十二ヶ月の歌」の七月分です。「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」のチャプター2は来週からです。で、先週に続き月一のこっちを発表しちゃう事にしました。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。七月はドイツのヘルベルト・グリューネマイヤーの“Glück”を基にした作品です。「幸福」という意味の題名です。「あなたが存在する事自体が幸福で、出会えてよかった」という内容を歌っています。恋人のことだと思いますが、この小説では対象がちょっと違います。実は来月分とリンクする作品になっています。

ちなみに“Glück”日本では全く知られていない曲だと思います。もちろん日本語の和訳もネットでは見つかりませんでしたので、頑張って訳しました。微妙に難しかったです。とてもいい曲ですので、よかったら歌のYoutube動画と一緒にどうぞ。


短編小説集「十二ヶ月の歌」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌」をまとめて読む



おまえの存在
Inspired from “Glück” by Herbert Grönemeyer

 スーパーの自動ドアが開く時に、麻由が飛び込まないように手を握った。小さい、小さい掌だ。潰さないようにそっと力を込めると、ぎゅっと握り返してきた。

 何もかも慣れない事ばかりだった。かつては仕事を終わらせなければならない時間など氣にした事もなかった。氣にするのは終電の時間だった。だが、保育園に七時半には絶対に行かなくてはならない、電話をしてもどうにもならない事を知って、喬司は上司に職務替えを頼まなくてはならなかった。

「君のご両親に頼むというわけにはいかないのかね」
部長が最初に行った言葉には、喬司の母親がもう他界している事や年老いた父親が東北に住んでいる事を忘れている節があった。

「奥さんのご実家は」
次の発言は、事情を全く理解してもらっていない事を露呈した。喬司の妻であり彼らの娘である美樹が昏睡状態にあるというのに病院にすら一度も現われようとしない二人に、五歳の孫娘の世話を頼めるはずはない。

 喬司を失いたくないという部長の意図が、卓越した営業成績だけにあるとは思いたくなかった。喬司もここまで築き上げてきたキャリアを失うのは悔しかった。だが、彼には他の選択肢がなかった。

 美樹が大量の睡眠薬を飲んだとき、喬司はまたかと思った。ヒステリーにも飽き飽きしていたし、家事はともかく育児も放棄して遊び歩く事に対する終わりのない口論にもうんざりしていた。その度に彼女は死を選ぶとわめきちらし、実際にいくつかの方法を試した。けれど、結局は同じようなループが戻ってくる。喬司も考えていなかったが、彼女自身も予想しなかったのではないだろうか。すべてが終わりになるのでもなく、以前のように簡単にもとの生活に戻るのでもなく、ただ、肉体だけ異常なく機能する状態で意識が戻ってこなくなる事など。

 その状態は喬司にとって失うよりもやっかいだった。ものを食べ排泄に向かう事の出来ない妻を生存させ続けるために、喬司は多額の出費を覚悟しなければならない。つまり娘の世話を誰かに頼む金銭的余裕はなくなった。

 ようやくオンライン受付業務の課長としての異動辞令が降りる事になった。来月から、本社で勤務になる一方、手取り給料は減る事になるが、少なくとも今日のように保育園の閉まるギリギリに飛び込むような事態はなくなるだろう。異動の話をしたところ、厳しかった園長の顔が少し柔和になった。ともかく今月だけ我慢すればそれでいいのだと表情が語っていた。

「パパ、おにくは、かわないの?」
麻由が小さな声で言った。喬司ははっとして、娘の方に意識を戻した。
「ああ、地下に行かなくちゃな」
「まゆ、そーせーじ、たべたいな」

 ようやく希望を言えるようになってきたか。喬司は心の中でつぶやいた。育児を放棄しがちとはいえ、美樹は少なくとも麻由の面倒をみてきた。全くノータッチだった喬司とは違う。はじめは保育園の先生よりも距離を置かれていた。休みの日に遊んだ事があるとはいえ、麻由との関わりはほぼそれだけだった。朝早く家を出て、夜遅く帰宅する父親の存在など、娘はほとんど意識していなかっただろう。娘がかわいくなかったわけではない。ただ、接点を持たずにやってこれた、それだけだった。そして、それを当然の事だと思っていた。自分は働いている、娘の面倒を見るのは家庭にいる妻の役目だと。

「あなたは会社を出れば仕事が終わるけれど、私は二四時間休めないのよっ」
「それが、夜遊びのいいわけか! 幼児を一人家に残して。こっちだって深夜まで働いているんだ、文句を言うな」
美樹との口論には妥協点がなかった。

 喬司には好きあって美樹と結婚したという想いがなかった。体だけが目的でつき合っていたとは思わないが、知り合って間もなく肉体関係を持ち、この女と愛情を育む事が出来るのだろうかと訝っているうちに、子供が出来たと告げられた。だまされたと感じた。「避妊薬を飲んでいるから大丈夫」という言葉を鵜呑みにして罠にはまったのだと。

 それから美樹の家庭の事情や、彼女自身の子供を持つには未熟すぎる精神のことを知る事になったが、それでも喬司は子供を堕してすべてをなかった事にしようとは言えなかった。

 夜泣きはうるさかったが、やがて麻由は空氣のような存在になった。喬司が関わるのは休日だけだったが、娘は静かに一人遊びをしている事が多かった。歌って踊ったりするような事もなければ、一緒に遊んでほしいとねだってくる事もなかった。美樹は勝手に自分の観たいテレビ番組にチャンネルをあわせ、麻由は母親に食事をしろ、風呂に入れと命じられた時に大人しく従うのみだった。喬司は手のかからない娘でラッキーだと思っていたが、娘の子供らしさが失われているのは母親の折檻と自分の無関心が原因だったなどとは思ってもみなかった。

 妻の昏睡状態がどうにもならないとわかり、娘と二人の生活をなんとかやっていかねばならないと自覚してから、ようやく喬司は娘と向き合う事になった。何時間も一緒に過ごす事になってはじめて麻由が怯えている事に氣がついた。はじめて娘を風呂にいれ、体に無数の傷がある事も知った。何かを訊くと、答えて怒られないか顔を伺う。子供の虐待などとは無縁な家庭だと思っていた。しかし、それは彼の無関心でしかなかった。

 まともに料理などした事がなかった。学生時代におぼえた目玉焼きや野菜炒めくらいはできる。米を研ぎ炊飯器にセットするのも、その頃以来ずっとやっていなかった。最近の炊飯器には、なんだかわからないボタンがやたらとあるな。全く電源の入らない状態に首を傾げていると、小さな手が、くいっとズボンをつかんだ。眼を向けると、麻由が抜けているコンセントを指差していた。

 一汁三菜にはほど遠い料理は問題だった。子供の栄養の事も考えなくてはならないなと、書店に行って初心者向けの料理本を買ってきた。遠くから眺めていた麻由は、そんな喬司の姿を見て、少しずつ近くに寄ってきた。

「今日は何が食べたい?」
料理本の写真を見せて訊くと、少しびっくりしたようにこちらを見た。希望を訊いてもらった事などないのだろう。それからためらいがちに、一緒に写真を見て、牛肉のキャベツ炒めをそっと指差した。そんなに難しそうでなかったのでほっとした。それでも焦げてしまって、写真の出来とはだいぶ違ってしまった。首を傾げながらも麻由は全部食べてくれた。

 スーパーで、ソーセージと焼き肉用に味付けされた肉を買った。一階では人参やピーマン、レタス、きゅうりなどを籠に入れる。栄養のバランスや旬の事などもようやく最近考えるようになった。閉店間際にお買い得になる商品がどこに置かれるかもわかってきた。

「パパ。プリンは?」
ひかえめに麻由がねだる。喬司は笑ってプリンを二つ籠に入れた。飲み屋でのビール一杯にもならない贅沢に娘は満面の笑顔を見せる。

 マンションに着いた。4LDKのしゃれた部屋とはまもなくお別れだ。ここの家賃は、今の喬司には少々高すぎる。美樹の入院がいつまでになるかわからず、将来は麻由のためにパートタイムの手伝いを頼まなくてはならない事もありうる。彼は休日を使って、不要な家財を出来るかぎり処分していた。美樹が買い込んだものがたくさんあった。喬司自身が買って忘れていたものも多かった。とっくに着れなくなった麻由の衣類も。麻由はその手伝いもしてくれた。大きなゴミ袋の口を広げたり、ちりとりを持ってくれたり。そうやって共に時間を過ごす事で、ようやく麻由は笑って甘えてくれるようになってきたのだ。

 一緒に風呂に入って、傷のなくなって来たやわらかい肌を丁寧に洗ってやる。細くて艶のある髪を洗ってやる。シャンプーが目に入らないように硬く目を閉じている様子に思わず微笑む。タオルで丁寧に拭いてやると、くすぐったいと言って笑う。洗い立ての、アイロンのかかっていないパジャマを着せて、走り回りたがるのをつかまえてベッドに連れて行く。

「ねえ、パパ」
「なんだい」
「ずっといっしょにいてくれる?」

 何かが喉にこみ上げてきた。美樹と結婚した事を、争いの絶えない家庭にいる事を、いつも不幸だと思ってきた。自分は恵まれていないのだと。妻が昏睡状態になり、小さい娘を一人で抱える事になった事も不運だと思っていた。キャリアも、女も、他の多くの男が得ていく幸せをすべてあきらめなくてはならないのかと。

 だが、母親に邪険にされ、父親に省みられない人生を送り続けてきたこの幼い少女に較べて、どこが不幸だったというのだろう。

「いるよ。これからはパパが麻由を守る。だから安心してお休み」

 子供が欲しかったわけではないと、いつも心のどこかで思っていたような氣がする。そしてどこかで、本当に自分の子供なのかと思った事も。だが、小さな掌が自分の中に滑り込んできた瞬間、それまでの麻由に対する疑念がすべて消え去った。小さな愛おしくて弱い存在。ようやく家族を信頼し笑顔を見せる事が出来るようになった小さな娘を、施設なんかには入れたくない。もう二度と、あんな怯えた目をさせたくない。他の誰が敵対しても、僕だけはおまえの味方でいてやるから。それを安心して信じられるようになるまで、ずっと側にいてやるから。

 静かな麻由の寝息を聴きながら、喬司はゆっくりと立ち上がって部屋の灯りを消した。窓の外に東京の夜景が浮かび上がっている。彼は持ち帰ってきた仕事を仕上げるために、台所へと向かった。

(初出:2013年7月 書き下ろし)

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“Glück” の動画と歌詞、そして、その和訳です。意訳してある所もありますので、ご承知おきください。(イタリア語よりはましとはいえ、このドイツ語、ちょっと難しかったです。間違っていても責任は取れませんのであしからず……)



“Glück” Herbert Grönemeyer

Was immer du denkst, wohin ich führe,
wohin es führt, vielleicht nur hinters Licht.
Du bist ein Geschenk, seit ich dich kenne,
seit ich dich kenne, trage ich Glück im Blick.

Ich kläre den Nebel, änder so schnell ich kann
und was sich nicht ändert, an dem bin ich noch dran.
Kleb an den Sternen, bis einer dann fällt,
der mir die Brust aufreißt.
Ich zöger nicht lang, ich setzte die Segel,
pack den Mond für dich ein, zerschneide die Kabel,
will allein mit dir sein.
Und wenn du nichts für mich tust, dann tust du es gut.

Was immer du denkst, wohin ich führe,
wohin es führt, vielleicht nur hinters Licht.
Du bist ein Geschenk, seit ich dich kenne,
seit ich dich kenne, trage ich Glück im Blick.

Du hast mich verwickelt in ein seidenes Netz,
das Leben ist gerissen, aber nicht jetzt,
es kriegt endlich Flügel, fliegt auf und davon,
das sind deine Augen - so blau und so fromm.
Und du lachst und du strahlst,
setzt den Schalk ins Genick,
schenkst mir Freudentränen und nimmst keine zurück
und du tust mir nichts und das tust du gut.

Was immer du denkst, wohin ich führe,
wohin es führt, vielleicht nur hinters Licht.
Du bist das Geschenk, aller Geschenke,
aller Geschenke, ich trage Glück im Blick.

Und wird dein Kopf dir irgendwann zu eng und trübe
Und du weißt, dass der Regen sich verdrängt,
färbe ich sie ein, deine schrägen Schübe,
du bist alles in allem, das bist du nicht.

( was immer du denkst )
Du lachst und du strahlst,
setzt den Schalk ins Genick,
(wohin ich führe )
schenkst mir Freudentränen nimmst keine zurück
(wohin ich führe)
und du tust mir nichts und das tust du gut.
Und ist dein Kopf dir irgendwann zu eng und trübe
Versuche ich, dass der Regen sich verdrängt,

Du bist das Geschenk, aller Geschenke,
seit ich dich kenne, trage ich Glück im Blick
Oh, du bist das Geschenk, aller Geschenke,
seit ich dich kenne, kenne, trage ich Glück im Blick

君はいつも考えているんだろう、
どこへ僕が君を連れて行こうとしているか。
もしかしたら惑わすだけなのかもしれないね。
君は天の贈り物だ。
君を知って以来、
君を知って以来、僕のまなざしの中に幸せがある。

僕は霧を晴らそうとしている。
出来るだけ早く変えようとしている。
そしてまだ変えられないものは、
試みている途中なんだ。
星を空に貼付けようとしている。
そのうちの一つが落っこちてくるまで。
そうなったら僕の胸を引き裂くだろう。

僕は長いこと躊躇したりしない。
帆を立てて、月を君のために包む。
太い綱も断ち切る。
君と二人だけでいたいから。
そして君が僕のために何もしなくっても
それでいいんだ。

君はいつも考えているんだろう、
どこへ僕が君を連れて行こうとしているか。
もしかしたら惑わすだけなのかもしれないね。
君は天の贈り物だ。
君を知って以来、
君を知って以来、僕のまなざしの中に幸せがある。

君は絹の網で僕を絡めとっている。
人生はぷっつり終わってしまうけれど、それはまだ今ではない。
いつかは翼を手にして飛んでいく。

君の瞳はとても青くて敬虔だ。
そして君は笑って輝いている。
ユーモアのセンスがあって
僕に喜びの涙を与えて、見返りには何も求めないんだ。
だから、君が僕のために何もしなくても
それでいいんだ。

君はいつも考えているんだろう、
どこへ僕が君を連れて行こうとしているか。
もしかしたら惑わすだけなのかもしれないね。
まったく天の贈り物、
僕のまなざしの中に幸せがある。

そしていつの日か君の頭がいろいろな事でいっぱいになって
かき曇って暗くなってくることもあるだろう。
そしたら、君が雨は過ぎ去るものだとわかるだろう。
僕は君のおかしな考えの上を絵の具で塗り立てよう。
要するに、そんなのは君じゃないんだから。

そして君は笑って輝いている。
ユーモアのセンスがあって
僕に喜びの涙を与えて、見返りには何も求めないんだ。

君はいつも考えているんだろう、
どこへ僕が君を連れて行こうとしているか。
もしかしたら惑わすだけなのかもしれないね。
君は天の贈り物だ。
君を知って以来、
君を知って以来、僕のまなざしの中に幸せがある。

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Category : 短編小説集・十二ヶ月の歌
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】赴任前日のこと

「十二ヶ月の歌」の八月分です。「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」は来週戻ってきます。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。八月はABBAの“The Day Before You Came”を基にした作品です。「あなたがやってきた前の日」。歌われている内容も、出会いの前の日を時系列で淡々と語る手法も、まるまる使わせていただきました。シチュエーションを読んで「あれ、どっかで読んだような」と、思われる方もあるかもしれません。先月分とリンクする作品になっています。

フラグを立てまくって続きを書かない手法をとっています。私の中ではこの先があるのですが、書かなくても十分に予想できると思います。


短編小説集「十二ヶ月の歌」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌」をまとめて読む



赴任前日のこと
Inspired from “The Day Before You Came” by ABBA

 六時四十五分。静かに環境音楽が流れはじめる。セットしてある有線放送だ。木曜日。雨が降りそう。蝉の鳴き声に混じって、わずかに漂ってくる香り。いつもより涼しいのならありがたい。歩美は起き上がると、ベッドの端に布団を寄せた。サイドテーブルに置かれた白い本に目を留めて、ちょっと微笑んだ。昨夜、無事に読み終えたロマンス。いつも通りに大仰で陳腐なラブストーリー。今日は新刊を買ってこなくちゃ。

 七時二十分。フルーツヨーグルトとトーストに自分で作ったマーマレード。自分の誕生日を祝うために買ったオレンジ色のマグカップでコーヒーを一杯飲む。慌ただしく後片付けを済ませ、冷蔵庫から用意しておいた弁当を取り出すと、スーツの上着は手に持ったままでアパートを出る。狭いし、オートロックなどの近代的な設備は何もないが、駅から徒歩八分なのが取り柄だ。「不用心だからおやめなさい。嫁入り前なんだし」と母親には言われたが、危険な目にはまだ遭った事がない。それにもう嫁入り前と威張って言えるような歳でもない。

 七時三十分。ホームに到着。キヨスクの右端をざっと見る。あ、新刊が出ている。「カリブ、情熱の嵐」か。どこかで聞いたような題。手を伸ばしかけてやめる。もし、なにかの偶然で同僚に鞄の中を見られると……。買うのは帰りにしよう。到着した電車に乗り込む。

 八時二十六分。オフィスに到着。今日も一番だった。吹き出していた汗を押さえて、髪を結わえ直してから、部屋を見回す。課長の席に置きっぱなしになっていた湯のみをもって給湯室に行く。今週の当番は佐竹美香だった。シンクに昨日の客が飲んだままの汚れたコーヒーカップがある。歩美はそれらを洗って棚にしまった。

 八時五十五分。ほぼ全員の席が埋まる。二十代の華やかな同僚たちが、おしゃべりに興じている。話題は昨晩のドラマのことと、週末の予定。佐竹美香が「あ」と言って一度給湯室に行ったが、舌を出して帰って来た。「また忘れちゃったみたい」

 九時十分。課長が立ち上がる。
「さて、朝礼をはじめるぞ。僕の最後の」
明日新しい課長が来ることは、半月ほど前から聞かされていた。その課長が、いま目の前で定年退職の挨拶している原田課長をはじめとする、このオンライン管理課の歴代の課長とはまったく違うタイプであることも、噂で耳にしていた。

「三十代の課長が、ここに? うそっ。何、何、左遷?」
半月前に若手女性たちが給湯室で騒いでいた。
「いや、違うらしいよ。横浜支社を成約率トップに押し上げた営業のエースだったんだって」
「えっ。それって、もしかして藤堂喬司さんじゃないの? 社内表彰常連の」
「なによ、美香ったら知っているわけ?」
「うん。横浜支社のさっちんが入社してすぐのころ狙っていた人だよ。社外の女とデキ婚しちゃったけど。切れ者だけど、性格も悪くない上物だったのにってものすごい悔しがっていたっけ」
「そんな若手のエースがなんでここに?」
「あ~、あれらしいよ。どうも奥さんが植物状態になっちゃって……」
「ええーっ。うそっ。もっとくわしく!」

 歩美はそれ以上のことは耳にしなかった。仕事がたくさんあったし、いつまでも給湯室でうわさ話に耳を傾けているわけにはいかない。そもそも、同僚たちは歩美に話しかけているわけではなかった。

「明日、藤堂課長が着任したら、これまでの業務の説明は新田君がするから。今日中に資料をまとめておくように」
そういって課長は部下たちを見回した。余計な仕事をしたくないという顔つきで目を逸らす若手たちをひと通り見た後、彼はため息をついて歩美を見た。
「通常業務だけで、手一杯だと思うが、なんとかしてくれないか、早川君」
歩美は小さく頷いた。

 十一時二十分。昨日新田に頼まれた会議資料を仕上げて、パワーポイント上の効果の説明をすませる。続けて、月末の定例業務に入る。女の子たちがまたしても給湯室に行って話しているのが聞こえる。
「月末って忙しくって、本当に嫌い」

 十二時。原田課長から課内へ差し入れの手配を頼まれ、隣のデパートの地下で菓子類を購入し、ついでに簡単な買い物を済ませる。一階でランチの行列にならんでいる課の若い女の子たちを見る。

 十二時二十八分。休憩室で窓の外を眺めながら弁当を食べる。その後、新聞に眼を通す。かつては同期の女性たちと一緒に弁当を食べていたが、同期は一人減り、二人減り、入社して八年めには誰もいなくなった。歩美が一人で昼食を食べるようになってすでに三年が経過していた。

 二時十五分。システム障害についての苦情が入り、課長からの指示で歩美は出先の担当者に連絡を入れる。メールを転送し、関連資料をPDF化して添付する。対応を済ませてから、定例業務に戻る。

 三時。課長からの差し入れで課内でお茶をする。華やかな女性社員たちが場を盛り上げて、勇退する原田課長は嬉しそうだ。佐竹美香は、以前から狙っている新田にかいがいしくお茶やお菓子を渡して楽しそうに話している。休憩時間が終わると、社員はみな自分のデスクに戻り業務を再開する。湯のみは給湯室に置かれているが、若い子たちは洗おうとはしていない。歩美はそれをちらっと見てから開けっ放しになって放置されていたお菓子の箱やゴミを片付けてから業務に戻る。

 四時三十分。この時間になると、課の女の子たちの態度が変わる。電話を極力取らなくなる。歩美は、ようやく朝に頼まれた引き継ぎ資料の作成に入ったところだが、電話の対応までしなくてはならなくなる。新田が何かを女の子たちに頼もうとしてきっぱり断られている。
「今日、私たち女子会ですから。残業はできません」

 五時。原田課長と女性社員が退社する。新田をはじめとする男性社員とたちと歩美は引き続き終わっていない仕事を片付けるためにデスクに戻る。

 六時三分。オンライン管理課の若手女性社員たちは、渋谷にある「多国籍料理・バー タマリンド」の入り口を騒がしくくぐる。
「予約しておいた佐竹です」
「六名様ですね。お待ちしていました」

「あ。お茶碗洗ってくるの、また忘れちゃった」
「美香ったら、今日二回目じゃない」
「ちょっとアンラッキーだったよ。普段はあんなに洗いものないけど、たまたま課長のラストデーと当番が重なったんだもん」
「アンラッキーって、結局、あんた一度も洗っていないじゃん。早川さん残っていたから、どうせ洗ってくれるでしょ」
「朝も早川さんが洗ってくれたんじゃないの?」

 佐竹はつんとして答えた。
「嫌ならやらなければいいのよ。どうせデートの相手もいなくて時間はたっぷりあるんでしょ、あの人」
「でもさ、一応、先輩社員なんだしさ。お局って言ってもいい立場の人なんだからさ」
「お局ってほど、威厳もないけどね。三十二歳にもなって、彼氏もいなくて、会社で上司と私たちみたいな若手社員にいいように使われて、何が楽しくて生きているのかなあ」
「ちょっと、それは余計なお世話じゃん? 彼氏がいないってどうしてわかるの」
「だって、急な残業断ったことないし。地味な服ばかり着ているし」
「ああ、いやだ。ああはなりたくない。せっかくの人生、もっと楽しみたいもん」

 その時、店員が近づいてきて、個室に案内した。大きな声で話していた六人が入ってドアが閉められると店内は再び静かな音楽が聞こえるようになった。店の奥のカウンター席に座っていた原田元課長ともう一人の男性が顔を見合わせた。
「あの子たち、明日からの君の部下だから」

 藤堂喬司は小さく肩をすくめてあたりさわりのない感想をもらした。
「華やかな課のようですね」

 それから、小さく頭を下げた。
「すみません。わざわざ渋谷まで来ていただいて。しかも、お越しいただいたのに、急いで失礼しなくてはいけなくて」
「わかっているよ。保育園の閉まる時間があるんだろう。安心するといい。うちの課は残業がないわけではないが、遅くとも七時にはみな出られるから」
「はい。女性社員もみな定時退社のようですね」
喬司は、六人が入っていった個室の方をちらりと見て言った。

「あの子たちは、全く残業をしたがらないね。男性は四人だが、彼らはまあ、普通に働いてくれるよ。特に主任の新田君は頼れる部下だ。それから、女性では先ほど話題に出ていた早川歩美君」

 原田は声を顰めた。
「あの若い子たちは悪くない。開けっぴろげだが、そんなに悪い子たちでもない。眼の保養にもなる。だが、いざという時に、本当に頼りにするなら、早川君だ。どんな資料作成も、社内連絡も丁寧にやってくれる。たぶん、今も残って資料を作っていてくれるんだと思う」
「そうですか」
喬司は小さくつぶやいた。

 七時四十分。資料を仕上げると、歩美は課の戸締まりをして電灯を消した。少し前に新田が帰ったので、歩美が最後になった。いつもは帰宅時にする買い物も昼に済ませているので、そんなに遅くならずに帰れるはずだった。

 八時十分。渋谷での乗り換えの前に、キヨスクで「カリブ、情熱の嵐」を購入する。もちろん、まわりに知り合いがいないか事前に確認してから。

 八時二十分。駅を出ると雨が降り出していた。だいぶ涼しくなる。歩美はため息をもらす。何も不満はない。住むところがあり、仕事がある。同僚ともつかず離れずの関係を持ち、これまでどの上司ともそこそこ上手くやってきた。この歳になると、友人たちはみな家庭をもち、定期的に逢えるような友は多くはなかったが、それを寂しいと思ったこともない。

 八時三十分。自宅に到着。玄関に傘を広げ、着替えて濡れた靴の手入れをする。洗濯機を回して、風呂にお湯を張る。食事の準備をする。ごはんに、豆腐とわかめのみそ汁。ほうれん草のおひたしに、筑前煮。有線放送でジャズを探す。お茶を淹れ、ランチョンマットと箸置きもセットして、食事をする。一人の食卓だからこそないがしろにならないようにしたいと常々思っている。誰かが見ているかどうかは関係ない。自分のやるべきことを黙々と続ける、それが人生なのだと思うから。

 九時半。洗濯物を干し、後片付けと翌日の弁当の用意を済ませてから、風呂に入る。一日の疲れが全て流れ出るように、丁寧に体と髪を洗う。

 九時五十分。ベッドに「カリブ、情熱の嵐」を持っていく。ゆっくりと一ページ目を開く。ロマンス小説を読むときだけ、歩美は全く違うように生きることができる。女主人公がエキゾティックな場所で、運命の出会いをする。その相手は精悍な顔つきでセクシーな声をもち、引き締まったからだをしている。歩美は出会いのシーンでヒロインと一緒にときめく。その男性は、彼女に興味を持ち、じっとみつめてくる。

 こんなことは日常では起らない。少なくとも歩美の人生では起らない。高校生の頃、友達が一人一人と恋をして、告白されたりつき合いだしたりした頃から、歩美はいつも取り残されてきた。特別醜いわけでもなく、どこかに大きな欠陥があるとも思えないのに、歩美はいつも男性の恋愛対象から外されてきた。誰かを好きになり、少し親しくなると、実は相手は歩美の友人のことが好きで恋の橋渡しを頼まれるようなこともあった。

 二十代のはじめに、歩美は既にあきらめてしまっていた。恋だけでなく、仕事でも、生活でも、歩美は問題を起こさないが、誰からも熱烈には求められない存在であることを受け入れてしまった。一人で暮らし、近所にも無害な隣人となった。

 毎日が、判で押したようなルーティンとして過ぎていく。そして、一日の終わりに、誰にも知られないように、全く違う世界を生きるロマンス小説を読む。そして、そのときめきだけで平凡な日常を色づかせている。

 十一時十分。雨が激しく窓に打ち付けていた。明日は、今日よりも少し過ごしやすいかもしれない。新しく藤堂課長が赴任してくる。原田課長は一年だった。前の課長は二年。新しい課長はどのくらいいるのだろうか。歩美はこの先も何一つ変わらないルーティン人生が再び続くのだろうとぼんやりと思いながら、ベッドサイドの灯りを消した。

(初出:2013年7月 書き下ろし)

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ABBAのヒット曲なので、私が解説するまでもないかと思いますが、一応動画を貼付けておきます。淡々とした歌詞につけられた憂いのあるメロディ。意味するところを考えさせられる曲ですね。


ABBA - The Day Before You Came
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の歌
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】いつかは寄ってね

「十二ヶ月の歌」の九月分です。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。九月は石川さゆりの「ウイスキーがお好きでしょ」を基にした作品です。えっと、私と同世代以上の日本人なら絶対に知っているはずですが、若い方は知らないのかな? いや、ずいぶん後までコマーシャルやっていましたよね。

とはいえ、サビの部分しかご存じない方も多いかと思います。ま、さほど意味のある歌でもなく、コマーシャルの世界にインスパイアされて書いたので、歌詞を追わなくてもいいかと(笑)

お酒のお店がこれで私の小説世界では五件目になってしまいました。(他の四つは『dangerous liaison』、『Bacchus』、『お食事処 たかはし』、マリア=ニエヴェスのタブラオ『el sonido』)本人はそんなに飲ん兵衛じゃないのになあ……。

涼子のイメージは、ずばり石川さゆり。「夜のサーカス」が完結したら、「バッカスからの招待状」をStella連載用にしようと目論んでいるので、その布石のキャラ配置でございます(笑)


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いつかは寄ってね
Inspired from “ウイスキーがお好きでしょ” by 石川さゆり

「いらっしゃい」
涼子は引き戸の方に明るい声をかけた。

「おっ。ハッシー」
カウンターの西城がろれつのまわらぬ口調で叫ぶ。入ってきたばかりの橋本はほんの少し失望したような顔をした。

「こんばんは。涼子ママ。なんだよ、もう西城さんが出来上がっているんじゃないか」
「へへっ。今日は直帰だったんでね。一番乗り」
西城は涼子にでれでれと笑いかけた。

『でおにゅそす』は、東京は神田の目立たない路地にひっそりと立つ飲み屋で、ママと呼ばれている涼子一人で切り盛りをしている。店の広さときたら二坪程度でカウンター席しかない。五年ほど前に開店した時には、誰もが長く続かないだろうと思ったが、意外にも固定客がついている。この世知辛いご時世だから安泰とは言えないが、この業界の中では悪くはない経営状況だった。

 西城や橋本をはじめとする足繁く通う常連は、みな誰よりも涼子と親しくなろうと競い合っていた。そのほぼ八割方は既婚者だし、涼子もにっこり笑って相手をしているが特に誰とも深い仲になることもなかった。

「涼ちゃんだけだよ。どんな話でもニコニコと聴いてくれるのはさ。うちの嫁なんか、そういうグチグチしたことは聴きたくない、あんたは給料だけしっかり運んで来ればいいんだって……」
「うふふ。お子さんのお世話でイライラしていたんでしょうね。奥さま、本当は西城さんのことを大切に思っているわ。でも、吐き出してしまいたいことがあったら、いつでもここに来て言ってくれていいのよ」
涼子が微笑んでそういうと、西城はにやけて熱燗をもう一本注文した。負けてはならぬと、橋本も急いで飲みだす。

「単衣の季節かあ。まだ暑いだろう?」
橋本はおしぼりで汗を拭きながら、涼子の白地に赤やオレンジの楓を散らした小紋にちらりと目をやる。

「そうねぇ。でも、単衣を着られる時期って少ないから、着ないと損したみたいだし」
涼子は小紋の袖をそっと引いて、つきだしを橋本の前に出した。その動きは柔らかくて控えめだ。和服の似合う静かな美人だし、小さいとはいえ店を経営するんだから、誰かの後ろ盾があるに違いないと人は噂したが、この五年間にそれらしき男の影はどこにも見られなかった。

「なあ、ハッシー、知っているか。板前の源さん、入院したんだってさ」
西城が、赤い顔で話しかけた。源さんというのは、やはり『でおにゅそす』でよく会うメンバーの一人で、橋本とも旧知の仲だった。もともとはただの客なのだが、付けを払う代わりにカウンターの中に入り、つまみを用意することが多いので『でおにゅそす』の半従業員のようになっていた。

「え。どこが悪いのかい?」
「胆石ですって。先ほど、勤め先のお店の方がわざわざお見えになってね。しばらく来れないけれど、そういう事情だからって」
「へえ~。そうか。じゃあ、そんなに深刻な病状ではないんだね」
「ええ、不幸中の幸いね」

「でも、ってことは、涼子ママは困っているんじゃないの?」
「くすっ。そうね。源さんが作るほど美味しくないけれど、しばらくは私が作るので我慢してね」
そっと出てきたあさりの酒蒸しは優しいだしの香りがした。

「美味しいよ。でも、ママが困っているなら、何でも言ってくれよな。力になるからさ」
そういう橋本に西城も負けずと叫ぶ。
「俺っちだって、何でもするよ」

 涼子はにっこりと微笑んだ。

 自分で店をはじめていなければわからなかった人情というものがある。かつて一部上場の商社でOLをしていた頃、同僚が病欠をしたりすると「ち。この忙しいのに」という声が聞こえた。休んだ方はどちらにしても使いきれはしない有給休暇を使われてしまうことに納得のいかない顔をしたものだ。実際には涼子たちの仕事は他の誰かが代わりにできることで、それにどうしてもその日のうちに終わらせなくてはならないことでもなかった。仕事を休んでも月末には同じように給料が入ってきた。

 けれど、この店をはじめてから涼子には有休など寝言も同然の言葉になった。一日休めばそれだけ収入が減る。たまたまその日に来てくれたお客さんが二度と来なくなってしまう心配すらあった。自分一人では解決できないことを、義務ではなくて親切心から手を差し出してくれる人たちのことを知った。顔や身長や肩書きや年収ではなくて、氣っ風とハートと実用性こそが涼子を本当に助けてくれるのだった。

 思えば、考えてもいなかった世界に流れてきたと思う。あの商社に勤めていた頃は、この歳まで一人でいる可能性など露ほども考えていなかった。当時つき合っていたのは大手銀行に勤めるエリートで、他の多くの同僚たちのように結婚と同時に退職して家庭に入り、時々主婦同士で昼食会に行ったり買い物をしたりの浮ついた未来が用意されていると信じていた。実際に、彼はそんな未来を涼子に用意しようと考えていたのだ。

「ねえ。涼子ママはこんなにきれいなのに、どうして一人なの?」
橋本がほんのり赤くなりながら訊いてくる。

「おい、ハッシー、野暮なことを訊くなよ。誰かいい人が居るに決まってんじゃん」
西城が口を尖らせる。

 涼子はそっと笑った。
「あのね。昔ね、運命の人に出会ってしまったの。どうしても結ばれることのできない人で、だからあきらめるしかなかったの」

 涼子がそういうと、二人とも肩をすくめた。全く信じていないのがわかった。涼子がそんな風にはぐらかしたのははじめてではなくて、パトロンの存在を匂わせると固定客が減るからだろうと勝手に解釈していた。

 本当のことなのにね。

 姉の紀代子が連れてきた男の職業に、父親は激怒した。母親も眉をひそめて涼子に囁いた。
「何も水商売の男性を選ばなくてもねぇ」
「カタギじゃないの?」
涼子が仕事から帰って来た時には、挨拶に来たその青年はもう帰っていて、どんな職業か興味津々だった。

「バーテンですって」
「へえ」
「挨拶だけして、これから開店だからってさっさと帰っちゃったのよ」
「お姉ちゃんは?」
「彼を手伝うって大手町に行っちゃった」

 涼子は優等生だった姉が、両親の許しが得られないまま彼と暮らしはじめたことに驚いた。そして、「関わるな」と言われたにも拘らず好奇心でいっぱいになって、会社帰りに大手町にあるというそのバーに足を運んだ。

 『Bacchus』は小さいながらも味のあるしゃれたバーで、姉の選んだ男性はそのバーを一人で切り盛りしていた。繁華街から離れたオフィスビルの地下にあり隠れ家のような静かな店で、センスのいいジャズががかかっていた。涼子がぎこちなく店を見回していると微かに笑って「何が飲みたい?」と訊いた。

 子供だと思っているんだ、そう思った涼子はちょっとムッとした。
「ウィスキーください」
飲めもしないのに、どうしようかなあと思っていると、すっとロングドリンクが出てきた。時間と秘密を溶かし込んだような深いウィスキーの味わいはそのままに、夢みがちな少女時代の憧れにも似た軽い炭酸水をそっと加えたウィスキーソーダだった。添えられたミントの葉が妙にピンと立って見えた。背伸びをしている未来の義理の妹への最初の挨拶だった。

 紀代子は後からやってきた。涼子は邪魔をしないようにそっとカウンターの端に座って眺めた。時おりそっと二人で微笑みあっていた。とてもお似合いだった。その晩に涼子は田中佑二のことをすっかり氣にいってしまったのだ。

 両親に認めてもらえなかった分、涼子が味方をしてくれたのが嬉しかったのだろう、二人は涼子をよく『Bacchus』に呼び、三人でいろいろな話をすることが多くなった。カウンターの端からゆっくりと眺めていると、佑二はそっと客たちに話しかけていた。社交辞令や上っ面の挨拶ではなく、一人一人に違った言葉で話しかけていた。哀しく酔っている客もいたし、楽しそうに報告をする客もいた。答えを探し自分の心の奥を探っている男。仕事の失敗を嘆く青年。逢えなくなった孫たちのことを想う老婦人。恋人に去られた娘。それぞれの人生に短い言葉や優しい相槌で答えながら、キラキラと氷が光を反射するグラスをそっと差し出す姿。涼子は姉の男性を見る目に感心した。

 そして、涼子のつき合っていた「大手銀行くん」がクリスマスイヴにシティホテルを予約して、薔薇の花束とカルチェの指輪でプロポーズをしてきた。つい先日発売された雑誌の「クリスマスデート特集」の表紙から数えて3ページ目「ケース1」と、ホテルの選択からプレゼントまで全て一致していた。彼は涼子が知らないと思っていたのかもしれないが。急に醒めていくのがわかった。彼は仕事でどれだけの金額の取引に関わったか、ハネムーンはハワイに行ってできれば最新のロレックスを買いたいというような話題を、涼子の反応もまったく意に介せずに話し続けていた。

 当時はバブルがはじけて間もない頃だった。彼の勤めていた銀行が統合されてなくなってしまうなんて事は誰も考えていなかった。とても浮わついていた時代でもあったのだ。涼子はよく考えてからプレゼントを返し、進もうとしていた道から引き返した。

 でも、涼子にとって悲劇だったのは、「大手銀行くん」以外のプロポーズしてくれる男と出会えなかったことではない。涼子にはわかっていたのだ。一緒に人生を過ごしたい男性は、姉と人生をともにしようとしていることを。
 
 あれからいろいろなことがあった。紀代子と佑二の間に何があったか涼子は知らされていなかった。両親に祝福されない関係、昼と夜の逆転した生活に疲れていたのは知っていた。でも、少なくとも最後にあった時に、姉は恋人のもとを去ろうとしているような氣配は全く見せなかった。ましてや、失踪したまま仲の良かった妹にも居所を知らせないままになるなんてことを予想することはできなかった。佑二が紀代子を心配して必死で探していたことは間違いない。もちろん両親や涼子も。一度だけカリフォルニアからハガキが来た。消印は姉が居なくなってから二週間ほど後で、姉の筆跡でわがままを許してほしい、探さないでほしいということが書かれていた。両親にも佑二にも謝罪の言葉はなかった。

 それから二十年近くが経った。佑二はいまだに大手町の『Bacchus』で同じように働いている。彼の受けた傷と、涼子の両親との間に起った不愉快ないざこざのあと、涼子は『Bacchus』に以前のように行くことができなくなってしまった。

 『でおにゅそす』を開店する時に、涼子は知人一同に挨拶状を送った。よりにもよって水商売をはじめたと激怒した両親はもちろん、商社時代の知人たちからもことごとく無視されたが、開店の日に佑二は見事なフラワーアレンジメントを贈ってくれた。深いワインカラーの薔薇をメインにした秋の饗宴だった。

 『Bacchus』にちなんで『でおにゅそす』と名付けたことも、姉のことがあってもまだ好意を持ち続けていることも、きっと伝わったのだと思った。それでいいわよね、今は。

「涼子ママの好きな人さ。この店に来るのかな」
橋本は、誰が恋人もしくはパトロンなんだろうと、頭を働かせているようだった。

 そりゃあ、来ないでしょうね。私が店を開けている時には、あの人も開店中。でも、いつかはこのカウンターに座ってくれないかな。そうしたら、私が作れるようになったことを教えてあげるから。佑二さんが私のために出してくれたあの絶妙のウィスキーソーダを。

(初出:2013年9月 書き下ろし)

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で、一応動画を貼付けてみました。この曲です。
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の歌
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】二十世紀の想い出

「十二ヶ月の歌」の十月分です。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十月はtrfの「BOY MEETS GIRL」を基にした作品です。まさに二十世紀の思い出になってしまった曲で、若い方は知らない事でしょう、うん。いいんですよ。

この作品に出てきた真由美というキャラクターは、このブログで二回目の登場です。「沈丁花への詠唱(アリア)」で初登場でした。(続編ではなくて完全に独立しています)実は、立場が非常に似ているキャラクターに絵梨というのがいます。どちらもスイス人と結婚した日本人女性です。本人としてはこの二人をこういう風に書き分けています。完全なフィクションが真由美、ほぼ私小説が絵梨です。つまり、今回は完全なフィクションです。


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二十世紀の想い出
Inspired from “BOY MEETS GIRL” by trf

「飲み物。なに頼む?」
「う~ん、カルピスサワー」
真由美は室内を見回した。ホテルのカラオケルームかあ。カラオケにもいろいろとバラエティができたのね。

 久しぶりの帰国。以前来た時には、普通の料理屋だったのだけれど、今回は幹事山本の趣味なのだ。実をいうと、昭和アニメソングを熱唱する山本と田中の他は、誰も真面目に歌っていない。けれど、定期的にコード表とリモコンは回ってくる。適当な曲をセットして、再び食べて飲んで、それからおしゃべりに戻る。曲が流れて、知っている歌は適当にみんなで口ずさむが、マイクはたいていは置きっぱなし。

 高校時代は遠い昔だった。卒業直後は頻繁に集まっていた仲間たちも、最近は真由美が帰国する時についでのように集まるだけになっている。それでも、最近はSNSで緩くつながっているので、子供の顔だの、先月どの展覧会に行ったかなど、以前よりもお互いのことを知っているのかもしれない。妙な時代になったものだ。

「ねえ、この揚げたこ焼きが呼んでいるんだけど~」
「わかったよ、勝手に注文しな」
「あ、飲み物来た」

「ほら、真由美。カルピスサワー」
「あ、ありがと」
真由美は、はっと顔を上げた。選曲に没頭していたのだ。

「えっ。まだ悩んでいたの?」
そういわれても、知らない曲がいっぱいで、どうしたらいいか。

 真由美は、昔からさほどカラオケが得意ではなかった。歌える曲がほとんどなくて、ウケのいい曲をそつなく選ぶ才覚も備わっていない。十年以上日本を離れていると、最近の流行の曲調のようなものがわからず、何を選んでも場違いのように感じてしまう。でも、一人一つずつ入れていくのが決まりなので、入れないかぎりコード表を隣にまわせない。

「適当な曲を入れとけばいいのよ。どうせみんな懐メロなんだし」
そう言われて、たまたま目に入った中で知っている曲があったので、コードを入力した。

 ミックスピザ、鶏の唐揚げ。ポテトフライ。この辺のメニューは時間が経っても変わらないものだわね。真由美は皿と箸を置いて、サワーを飲みながら仲間を見回した。全く変わっていないようにも見えるけれど、よく見ると時間の経過が感じられる。男性陣には髪の毛の後退したメンバーがちらほらいるし、細くて有名だった女の子はそこそこの体型になっている。話し方や性格はあの時のままだけれど、仕事に家庭にそれぞれが責任ある立場になっている。

 高校時代は楽しかった。あの頃は本当に箸が転がってもおかしかった。放課後に残って文化祭の準備のためにわいわい騒いだ。模擬店の内装や、メニュー決定や、限られた予算の中でのやりくりや、担当の分担を、時間も忘れて語り合った。缶ジュースを飲むだけで何時間も教室で過ごした。

 いまは、それぞれに仕事があり、家庭がある。帰っていくべきベースの場所と人たちがいる。こうして何年に一度数時間会うだけの仲間は、笑ってそれから別れていく。真由美はちらっと向こうのテーブルに座っている吉川を見た。やっぱり変わらない。あの頃と。

 三年生の頃、吉川と噂になっていることを真由美は知っていた。委員会が同じで一緒にいることが多かったから、それでだった。真由美は吉川に一学年下の彼女がいることを知っていたし、それを残念に思っていたわけでもなかった。吉川は、大切な友達だった。その頃から、少しずつ難しくなりだした、性別を越えた友情だった。

「げっ。これを入れたの誰?」
小夜子の声で真由美ははっとした。trfの『BOY MEETS GIRL』のイントロがはじまっていた。
「あ。あたし」

「コムロか。久しぶりだわ、確かに」
「うん、キャンディーズやピンクレディの方が、カラオケじゃお馴染みになっているもんね、わたしら」
「それと、アニソン!」
きゃあきゃあ騒ぎつつも、仲間たちはみな曲を口ずさんでいた。

「……20世紀で最高の出来事……かあ」
「あのとき、20世紀だったんだよね~」
「そうそう。それにその前は昭和だった」

 ゲラゲラと笑う仲間たちに、曖昧な微笑を見せていた真由美は、ふと吉川と目が合った。彼は黙ってグラスを持ち上げた。ああ、いつも通りビールを飲んでいるんだなと真由美はぼんやりと思った。彼は忘れていなかった。

 真由美が五年勤めた会社を辞めて、ニュージーランドに留学することを決めた時、この歌はまだ懐メロにはなっていなかった。あれは転勤者や退職者をまとめて送別する会だった。別の大学に進んだもの、偶然同じ会社の同じ課に勤めることになった吉川もまた、あの晩、私がこの歌を歌った時にその場にいたのだ。

 真由美が退職するのは、吉川が結婚を決めたからではないかと噂になっていた。またかと思った。高校の時も吉川に片想いをしていることになっていたっけ。

 どうして人は、男と女が一定時間いつも一緒にいるとくっつけたがるのだろう。

 真由美は、吉川のことが好きだった。恋をしているというのではなく、親しい友人として大好きだった。信頼できる仲間で、尊敬できる同僚だった。一番近い言葉を探すならば「戦友」がぴったりきた。

「でもさ。美恵ちゃんはそう思えないみたいだよ」
当時、やはり同じ課にいた荘司が言ってきた。この男は、課内の情報通で通っている。仕事の情報よりはゴシップの方に力を入れた情報収集みたいだったが。朝から晩まで一緒にいて、時には二人で十時近くまで残業しているのだから、何かがあってもおかしくないと思うのは当然だったかもしれない。でも、本当に仕事だけをしていたのだ。

 あの頃、社内広報の仕事とは体力でするものだった。無駄に多い作業、やけに非効率な手順、二人でこんなの無駄だと上司に代わる代わる直訴したが「そういうものなんだよ」といわれて終わった。ギリギリに大量に送られてくる原稿、DTPマシンののメモリ不足、やたらと細かく決められた定型の言い回し。直して、読み合わせて、印刷して、また修正して。あっという間に九時や十時になった。恋愛をしている暇などなかった。

 橋本美恵が特別に嫉妬深い子だったとは思わない。高校のときにちらっと見かけただけだが、礼儀正しくてかわいい子だった。ふ~ん、こういうのが趣味なんだ。そう思ったっけ。

「ねえ、修羅場になっているって本当?」
保存コマンドを送った後、カーソルがふざけたコーヒーマークになって、ユーザーの神経を逆撫でする異様に長い保存時間をやり過ごそうと、真由美は吉川に話しかけた。

「誰がそんな事を」
「荘司くん」
「ったく。別に修羅場にはなっていないよ」
「でも、ご機嫌は悪いのは本当?」
「まあね」
吉川はため息をついた。

「後、やっておくから、帰ってもいいわよ」
真由美がいうと、吉川はちょっと怒ったように言った。
「それは、普通男の俺がいうセリフだろ」
「どっちだって一緒じゃない。関係修復する方が大事なんじゃないの?」
「一日早く帰れてもなあ。これからデートしよって訳にもいかないし。それに……」

「それに、なによ」
「平行線だからさ。俺は仕事のやり方を変えられないし、あいつも『女と二人で遅くまで働くのはいや』と思うのを変えられない」

 真由美は肩をすくめた。
「そこにビデオでも設置しておいて、報告したら?」
吉川は呆れた顔をした。
「いや、もっとまずいよ」
「どうして?」
「自分以上に何でも話せる仲の人間がいるってことを、許しがたいって思ってるからさ」

 真由美はため息をついた。
「高校時代から十年以上つき合っているんでしょ? 橋本さん、もっと自信を持てばいいのに。私が男だったら良かったね。そうしたら、男には男同士の付き合いってものがあるって言い張れたのに」

 吉川が橋本美恵と結婚すると決めたのと、真由美が会社を辞めてニュージーランド留学を決めたのがほぼ同時だったので、荘司たちは余計に噂を立てた。できれば吉川がそれを信じないでくれればいいと思った。そんな風に思われたくなかった。そんな薄っぺらな関係ではないと、そんなものでは「戦友」という言葉にはふさわしくないと、勝手に思っていたから。

「ねえ、真由美。ご主人は来なかったの?」
小夜子の声にはっとした。ああ、そうだったね。高校の同窓会でした。
「ダニエルは今週は会議があるから、来週くるの。関空で待ち合わせて京都奈良に行くんだ」
「そっか。逢えなくて残念」
「ね~。逢いたかったな~。真由美が国際結婚するなんて夢にも思わなかったもんね」
「っていうか、結婚するとも思わなかったよ」

 真由美は笑った。自分でも思わなかった。合う男性、そして人生を共にしたいと思ってくれる人がいるとは思わなかったし、それがスイス人だとも思わなかった。ニュージーランドから帰ったら再び日本で働くと思っていたのに、トントン拍子にスイスに住むことになってしまったのも、狐につままれたようだった。

 けれど、今の真由美にはザンクト・ガレンでのダニエルとの生活が現実で、時おり帰国して見る故郷の様子の方が夢のように思われた。東京の移り変わりは早い。一年もいなければ行きつけの店の半分がなくなるといっても大袈裟ではない。ましてや真由美は世紀の変わり目の頃にスイスに移住してしまったので、二十一世紀の東京はたまの訪問で旅行者として通り過ぎるだけだ。

 いま目の前にいるかつての仲間たちとは、二十世紀を一緒に過ごしたのだった。それは想い出の世界に属していた。笑い転げた友達と、これほど近い存在はないと思った吉川と、そのすべてが夢のように遠ざかっている。

 真由美はカルピスサワーをこくっと飲みながら、もう一度『BOY MEETS GIRL』の歌詞の事を考えた。うん。やっぱりこの歌、好きだな。たとえ今は流行らない二十世紀の遺物でも。

Boy Meets Girl それぞれの あふれる想いにきらめきと
瞬間を見つけてる 星降る夜の出会いがあるよに…
Boy Meets Girl あの頃は いくつものドアをノックした
あざやかに描かれた 虹のドアをきっとみつけて
心をときめかせている

Boy Meets Girl 出会いこそ 人生の宝探しだね
少年はいつの日か少女の夢 必ず見つめる
Boy Meets Girl 輝いた リズム達が踊り出してる
朝も昼も夜も風が南へと 心をときめかせている

「BOY MEETS GIRL」より TETSUYA KOMURO作詩



(初出:2013年9月 書き下ろし)

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とくにオチのない話ですみません。

で、この曲を「全然、知らない」という方のために、動画をくっつけましたので、よければどうぞ〜。



trf 「BOY MEETS GIRL」
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の歌
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】終焉の予感

「十二ヶ月の歌」の十一月分です。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十一月はAdeleの「Skyfall」を基にした作品です。これはご存知ですよね? 同名の007映画の主題歌だった、あの曲です。

ボンド・ガールって、使い捨てですよね。この作品の出発点は、もちろんこの曲の歌詞なのですが、それに加えて「一作限りで使い捨ての存在の心はどんなものだろう」でした。一緒にいるヒーローは、ショーン・コネリーでも、ハリソン・フォードでも、お好きなイメージでどうぞ。


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終焉の予感
Inspired from Inspired from “Skyfall” by Adele

「見ろよ。あれだ」
夕闇の中、彼は森に囲まれた廃墟に見える建物を指差した。猛烈な湿度のジャングル、体中から吹き出した汗が不快だった。どんな動きをするのも億劫になるが、眼の前の男はそんなそぶりは全く見せず機敏に動き、そのがっしりした背中に疲れの片鱗すら見せなかった。彼の差し出した双眼鏡を覗くと、蔓植物にぎっしりと覆われた今にも崩れそうな石造りが目に入る。ゆっくりと動かしていくと、ここに辿りつくまでに何度か目にした特徴のある文様が塔に浮かび上がっていた。間違えようがなかった。あれがゴールだ。私は大きくため息をついた。

 時間は迫っていた。地球に逆さに置かれた砂時計にはもうわずかの砂しか残っていない。この密林に多くのチームを送り込んだ組織にとって、私は最後の希望だった。そして、隣に確かな存在感を持って立っているこの男もまた、彼の組織、いえ、彼の生まれた大陸にとっての唯一の希望だった。

 私たちほど強い信頼と絆で結ばれたチームはなかった。お互いにはっきりとわかっている。どちらが欠けても目的に達することはできない。多くの優れた仲間たちが失敗したのはそのためだったのだから。彼はこのジャングルのことを知り尽くしていた。現地の人間を自由に利用し、類いまれな知恵と体力で、私に不足しているそれを補うことができた。あの夜も、100%の湿度と猛獣の徘徊するあの危険地帯を全く意識のない私を背負って通り抜けたのだ。彼にはどうしても私が必要だったから。

 ここに来るまで何度もぶつかった古代遺跡での暗号解読、それを即座に誰との通信もせずに、コンピュータすら使わずにできるのは世界中で私だけだった。

 私は子供の頃から落ち着きのないダメな人間だと皆に蔑まれていた。普通の学校に行くのも無理だろうと言われていた。両親は私を施設に入れようと考えていた。でも、難易度の高いクイズを容易に解く姿に教師が目を止め、政府の役人がテストにやってきてからすべてが変わった。暗算が正確でコンピュータよりも速いことがわかり、暗号解読のエキスパートとして秘密の訓練を施された。

 政府はたぶんあの当時から私をここへ送り込むことを想定していたのだろう。この星の汚染が進み人類が住めなくなると想定される期限は当時は200年後だった。あの隕石さえ落ちてこなければ。あれですべてが変わってしまった。人類には突如として時間がなくなった。世界の各国と連携協力して全人類を救済する余裕もなくなった。現代科学が用意した最高の浄化システムは、全ての大陸を覆えるほど大きい範囲に届かない。そして、そのシステムを動かすことのできる唯一の知られた永久エネルギー源は、このジャングルに眠る太古の遺産たった一つだけだった。

 《聖杯》と呼ばれるそれは、もちろんキリストの血を受けた盃などではない。それはただのコードネームにすぎない。奇妙なことに、多くの機関が「それ」に同じコードネームをつけた。だから、この男もそれを《聖杯》と呼ぶ。

 私には多くの仲間がいた。そしてそれよりもずっと多くの敵がいた。この男もその敵の一人だった。お互いを出し抜くために、戦いながらこの地を目指した。そして、私の仲間は全て力つきてしまった。私には助けが必要だった。暗号解読には長けていても、体力と戦闘能力の訓練が不十分なまま時間切れで出発を余儀なくされた。この私の体力と知識だけではどうしてもここへは辿りつけないことはわかりきっていた。だから、私は彼の提案に乗った。二人の目的は一つ、ここに来ること。その同じ目的のために彼のことを100%信頼することができた。まだもう少しは信じていられる。

「明日、夜明け前に出発すれば午前中には着くな。いよいよだ」
彼はこちらを見ると笑った。

 明日。では、今夜は私の最後の夜になるのかもしれない。

 いつも通りに野宿の準備をする男の背を私の目は追った。野生動物に対するカムフラージュ。もっと恐ろしいのは同じ目的を持ってやってくる人間。そちらの方はもうほとんど残っていないけれど。水を浄化し、火をおこす。食べられる果物や草を集め、捕まえた小動物とともに調理する。鼠の仲間だけれど、初めての時に感じた嫌悪感は全くなくなっている。慣れてしまえば肉は肉だ。仕事の分担に言葉はいらない。そう、長年のパートナーのごとく。食事が済んだあとは星を眺め、お互いの国での言い伝えを語りあう。

 最後に宿屋で寝たのは一週間前だった。そこに辿りつくまで、お互いの素性を偽り旅行中の夫婦を装った。私たちはいくつものパスポートを用意していたので、トランプをするように役割を決めた。スペイン語訛りで夫婦喧嘩をしている演技をしたり、オーストラリアからの能天氣なハネムーン客の振りをしたり、ずいぶんと楽しんだ。彼は夫婦としてダブルベッドで眠る時に本能に逆らったりはしなかった。お互いに無防備に体をさらけ出したとしても寝首をかかれることなどはないのだ。《聖杯》を手にするまでは。

 野宿の時には体を重ねるようなことはしない。欲望に流されてしまい危険に対する瞬発力がなくなるようなことは命取りだからだ。それでも、今夜だけは抱いてくれたらどんなにいいだろうと思う。たとえ彼にとっては欲望の処理でしかないとしても、私にとっては人生の最後の喜びになるのだろうから。

 ここに辿りつきたくはなかった。《聖杯》を永久に探していたかった。同じ目的のために協力しあい、同じ道をゆき、そして共に眠った。居心地がよく心から安心することができた。彼は強く、ウィットに富み、臨機応変で、優しかった。右側のこめかみ近くの髪が出会った頃よりもはるかに白くなってきている。左手の薬指に着いていた指輪の痕は強い陽射しに焼かれて見えなくなっていた。私だけが知っている男の人生のひと時。明日の夜には、誰も知らなくなること。

 《聖杯》は一つだ。どちらかの大陸に行く。もう一つの大陸は次の正月を迎えることもなく死に絶えるだろう。《聖杯》を持ち帰れなかったものは絶望と怒りにさらされて終末の日を待たずに抹殺されるだろう。だから、彼が私の予想していることを実行してもしなくても同じなのだ。

 明日、《聖杯》を手にしてあの砦を出た瞬間から、私は彼にとってただの足手まといとなる。放っておけば寝首を掻くかもしれないもっとも危険な存在になる。だから、最初にやるべきことは私を殺すことだろう。彼の大陸の数十億の人間を救うために、完全に正当化される罪だ。私も彼から《聖杯》を奪わなくてはならない。けれど、私にはできない。そもそも彼がいなければこのジャングルから出られないけれど、それは本質的な問題ではない。家族や同僚、何十億の人びと、その全ての命がかかっていても私はこの男に刃を向けることはできない。私の故郷と組織はもうとっくに負けているのだ。

 私が暗号を解かなければ、《聖杯》は永久に太古の知恵に守られ続けるだろう。そうなれば、彼の故郷も彼自身も死に向かうだろう。私は人類にとっての希望でもある。

 私は《聖杯》を守っている最後の暗号を解き、彼の手にそれを渡すだろう。それが私の死刑宣告になる。その瞬間が近づいてきている。だから、今夜、もう一度抱きしめてほしいと思う。周りを欺き夫婦のふりをするためではなく、責任の重圧から逃れるためでもなく、ただ、生まれてきてよかったと思えるように。

「すごい星だな」
天の川を見上げて彼は言った。私はそっと彼の横に座り、同じ角度で空を見上げた。
「世界が終わりかけているなんて、信じられないわね」
そういうと、彼はそっと肩を抱いてくれた。

 流れ星がいくつも通り過ぎる。この人が無事に帰れますように。声に出したつもりはなかったが、肩にかけられた腕に力が込められた。
「大丈夫、帰れるさ。俺たちが出会ったあのバーで、もう一度テキーラで乾杯しよう」

 私は少し驚いて彼の横顔を見つめた。それから黙って彼の肩に頭を載せた。嘘でも構わない。まだ夢を見続けることができる。今は少なくともこの男の恋人でいられる。星は次から次へと流れていった。私は夜が明けないことを願った。

(初出:2013年10月 書き下ろし)

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で、動画を貼付けておきますね。


ADELE - Skyfall
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の歌
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】希望のありか

「十二ヶ月の歌」の十二月分です。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十二月はA. ヴィヴァルディの「Nulla in Mundo Pax Sincera」を基にした作品です。これは映画『シャイン』のエンディングに使われていた曲で、といっても私は観ていなくて、サントラだけを持っているのです。

この話は、少し肩すかしを食わせるかもしれません。先月分のような劇的なドラマは何もありません。「十二ヶ月の歌」では、いろいろな歌の歌詞からイメージする人生のいろいろな局面を掌編にしてきましたが、十二月、小さな灯とともにキリスト聖誕祭を待ち、除夜の鐘とともに静かな年の暮れを待つ今月は、人と信仰のあり方について小さな考察をしてみることにしました。

なお、この作品に出てくる日本人ですが、もしかしたらデジャヴを感じられる方がいらっしゃるかもしれません。はい、そうです。「樋水龍神縁起」の本編の一キャラです。もちろん、本編を読んでも読まなくても、このストーリーには全く関係ありませんのでご安心を。


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希望のありか
Inspired from “Nulla in Mundo Pax Sincera” by Antonio Vivaldi

 白くうずたかい雪が、教会の屋根を15%太らせている。その先は丸くなって、空の深い青に引き立てられて美しい。

 ジャン=ノエルは、緑と赤の瓦で菱の模様が浮き出ているはずのこの屋根は、雪に濡れて濃い色になっているのだろうかと、奇妙な事を考えた。考えなくてはならない事は他にたくさんあったが、今は考えたくないのかもしれなかった。

 はじめて故郷から遠い地に赴任した若き神父であるジャン=ノエルは、神学校で学んだはずの理論と、人びとの生活に触れる現実との違いを痛感し、自分の無知と無力に歯嚙みしていた。

 サミュエルは真面目に働いて妻と子供を養ってきた。ところが妻がアメリカ人と逃げだした上、長男が窃盗団に加わったと逮捕された。リリーは78年間に渡り爪に灯をともすように慎ましく暮らしてきた。けれど、わずかな貯金を預けていた銀行が倒産した。フランソワは酒も煙草も不摂生もした事がなく、真面目に教会に通っていたが不治の病にかかった。

 ジャン=ノエルは彼らが受けなくてはならない試練が、彼らの生まれ持った罪によるものだとは思えなかった。「悔い改めなさい」と説教を口にする時にも、何にに対してと考え込んでしまうようになった。

 神の平和と正しい裁きは、この世ではなく天国にて得られると口にする事も出来た。だが、一方で特に信心深くもなければ人格者でもない村人たちが現世を面白おかしくとまではいかずともそこそこ満足して暮らしているのを見ると、自分の言葉が虚しく響いてくるのだった。

 この村の四季は美しかった。春には桜やリンゴが咲き乱れ、夏には川で子供たちが戯れた。秋は葡萄の複雑な紅葉に優しく彩られ、冬は静謐で空が高かった。人びとは素朴で、聴き取りにくいドイツ語に近いフランス語を話し、パリからやってきたジャン=ノエルに対して距離感を持って接するものの、攻撃性は少なく扱いやすい信徒たちだった。

 ニューヨークのブロンクス辺りや戦火の国で、命の危険を感じながら使命を果たしている仲間たちもいる。自分の悩みなど小さなものだと思った。だが、それでもジャン=ノエルはサミュエルやリリー、フランソワたちに会って話をしなくてはならないのが苦になっていた。

「○×☽☉∆∞」
全く意味の分からない言葉が耳に入ったので振り返ると、そこにはいつの間にか東洋人が立ってやはり屋根を見上げていた。
「何とおっしゃいましたか」
ジャン=ノエルは、念のために英語で語りかけてみた。

「お。英語がおわかりになるのですね。これはありがたい」
男は奇妙な発音だが、きちんとした言葉遣いの英語で話しかけてきた。
「あそこの雪の形、丸く大きく盛り上がっているんですが、バランスとして変だなあと思ったのですよ。あれはなんでしょう」

 ジャン=ノエルは微笑んだ。
「コウノトリの巣ですよ。今はアフリカに渡っているので空ですが」
「ああ、そうなんですか。見てみたいものですね。春にまた来たら見られますかね」
「四月には。その頃まだヨーロッパにいらっしゃいますか」

「はい。一年ほど教会建築を見ながらヨーロッパの各地をまわる予定でしてね。では、春にまたこの地方に来る事にしましょう。雪が溶けたら全く違う光景が待っていそうだ」
「では、次回いらしたときは、また、私をお訪ねください。このあたりの興味深い建築へとご案内しましょう。春は格別に美しいのですよ」

 男は山高帽をちょっと上げて微笑んだ。
「それはご親切に。私は峯岸裕次と申します。日本人です」
「どうぞよろしく。ジャン=ノエル・ブノワです。暖房は効いていないのですが、よろしかったらこの教会の内部をお見せしましょう」

 ジャン=ノエルは峯岸と一緒に教会の戸口に向かった。きちんとした厚手のコート、山高帽など昨今なかなか見かけないきちんとした服装で、しかも戸口をまたぐ時に帽子を脱ぎ何か小さくつぶやいて礼をしたのでおやと思った。十字を切ったわけではないのでカトリックではなさそうだが、深い敬意の見せ方が特別な教育を受けた人間に思えた。

「この辺りではかなり古い教会でしてね。最初の礎石は九世紀と言われています。この柱のあたりが当時からのものです。アーチがここだけロマネスクなんですよね」
「ああ、これが見たかったのです。大雪に悩まされましたが来てよかった」

「ロマネスク建築に興味がおありなのですか」
「ええ。実は私は日本で他の宗教の神職にあたっているものなのですが、昔からヨーロッパのロマネスク建築が好きでして」
「ああ、やっぱり」

「やっぱりとは?」
「いえ、教会への敬意のあり方から、宗教関係の方ではないかと思っていたものですから」
ジャン=ノエルがはにかみながらそう言うと、峯岸はじっと神父を見つめて言った。
「よく観察なさっておられますね。それに感受性のお強いお方だ」
 ジャン=ノエルは訝しげに峯岸を見た。彼はただ微笑んでいた。

「あなたの信じている教えの話を伺ってもいいですか。カトリックとは相いれない信仰をお持ちなのでしょう?」
ためらいがちにジャン=ノエルは口を開いた。何も聖堂で訊くべき事ではないかもしれないが、他では神に対しての裏切りのように思え、堂々と神の家の中で話すべき事のように感じられたのだ。それに、今なら信徒の誰にも聞かれていないと確信が持てた。

「相容れないというわけでもないのですよ。もっともあなた方からすると、受け入れがたい信仰かもしれません。私たちにとっては、全てが神なのです。太陽や大岩、それから何百年も生きつづける古木、河川、山、先祖の霊。それぞれが一番に信仰する神がいる。もしくは漠然と願いを託す存在がいる。だから、隣人が仏教徒やキリスト教徒であっても、ああ、あなたが一番身近に祈っているのはその神なのですねと受け入れるわけです。一神教の方々からすると間違っているということになるのでしょうが」

「あなた方がそれぞれにちょうどいい神を選ぶという事なのですか?」
ジャン=ノエルが困惑した様相で訊いた。峯岸は笑った。
「そう言う面もあります。学業に関する願い事をするならこの神、恋愛成就はこの神という具合に。まあ、ギリシャやローマの信仰に似ていない事もありません。でも、それは一時的なものです。多くの方は普段からある特定の存在に多くの祈りを捧げますね。土地の守り神や、先祖代々信仰している神、もしくは本人が名前すら意識していない何かである事もあります」

「現世利益を願うのですか」
「あなた方と同じですよ。現世利益を願う方のために祈り、お守りを授与する代わりにお金をいただく事もあります。有り体にいえば商売です。けれどそれは信仰の本質ではありません」

 ジャン=ノエルは口ごもってから真剣なまなざしで峯岸を見た。自分の嵌まった信仰の袋小路についてこの男がどう考えるか質問したくなったのだ。
「あの……。もしお差し支えなかったら、私の直面している問題の事を聞いてはいただけませんか」

 峯岸は、青年神父の告白とも悩みともつかぬ話をじっと聴いていた。若くまじめで正義感に満ちている。使命感が強く、はじめての大きな壁に戸惑っている。彼自身の若かった頃を思い出した。

「私はいったいどうしたらいいのでしょう。私の信仰は間違っているのでしょうか。どのようにあの人たちに接していいのかどうしてもわからないのです。そして氣がつくと遭わないように居室に籠ってしまいたくなるのです」
ジャン=ノエルはそういって話を終えた。

 峯岸は小さく首を振った。
「それはいけません。逃げだしても何の解決にもなりません。その信徒たちの問題ではなく、あなたの問題の話ですよ」
「私の?」

「私にあなたがどうすべきかを具体的にいう事は出来ません。あなたの信仰が正しいか正しくないかも、あなたの心が告げるべき事です」

 ジャン=ノエルは小さくため息をついた。
「私の心は、ずっと大声で叫んでいました。この信仰は正しいのだと。この教えを広める事こそ私の使命だと。それなのに、今は蚊の鳴くような声になっているんです。ずっと心から信じていました。どんな事も祈れば叶うのだと。でも、今はそうではないと思いだしているのです」

 峯岸は小さく笑った。
「祈りと魔法の呪文は同じではありません。叶えられる事の保証と引き換えに唱えるものではない。あなたもそれは知っているでしょう」

 ジャン=ノエルは峯岸をじっと見て答えた。
「おっしゃる通りです。私は信仰というものについて考え違いをしていたのかもしれません」

 峯岸は柔らかな光を運んでくる、ロマネスク式アーチにはめられたごくシンプルなステンドグラスをそっと見上げた。彼の神社で大楠の木陰から漏れてくる差し陽といかに似通っている事だろう。
「答えはあるのかもしれませんし、ないのかもしれません。だが、我々が理不尽と感じるとしても、『世界が間違っている』ということにはならない、そうではありませんか。世界には、正しいも間違いもないのです。存在するのは間違っていると感じる『私』だけです」

 若き神父は東洋人の佇まいをみて身震いした。この礼儀正しい人物は、小さく何でもないように見えたのに、突如として至高の存在から送られてきた使者のように感じられたからだった。
 
 男は静かに続けた。
「宗教は完全無欠ではありません。祈れば不老不死となり裕福になれるような宗教を探しても見つからない事ぐらいはおわかりでしょう。私たちにはどうしようもないことも存在するのです。けれど、あなたが職業宗教家として出来る範囲で、その人たちにしてあげられる事は何もないのでしょうか」

 ジャン=ノエルは黙って峯岸を見つめた。それから、ゆっくりと聖堂の奥、十字架にかかった基督像を見上げた。彼は少し前へと歩み寄ってから聖壇の前に膝まづき、一心に祈った。単純な淡い色のステンドグラスから差してきた光が青年神父を照らし出し、その光の中で埃が踊る様子をしばらく見つめていた峯岸は、彼をそのままにして黙って小さな聖堂を後にした。

 春になったら、またここを訪れてみよう。雪に埋もれていたコウノトリの巣がにぎやかになり、花が咲き乱れ、そしてあの青年の心に光が戻っているといいのだが。

 それからジャン=ノエルは不幸な信徒たちを避けるのをやめた。

 大司教に掛け合って、新たに出来た貧民救済施設の簡単な仕事をリリーに紹介した。そこは住み込むことが出来たので、彼女は衣食住の問題を解決できて大喜びだった。サミュエルの息子の裁判に関しては熱心な嘆願の手紙を書いたので執行猶予つきの刑が確定した。やがて逃げた妻が男に捨てられてすごすごと帰って来た事もあり、夫妻は熱心に教会に通ってくるようになった。

 フランソワに対しては、多くの事は出来なかった。ただ、病室に足繁く通ってその手を握り、望まれるままに聖書の朗読をした。
「『旧約聖書』の方にしてくだせえ。どうも『新訳』は説教臭くていけねえ。『旧約』はなんだかんだ言って、好き勝手やってますからね。聞いていてワクワクしてきまさあ」
それで、ジャン=ノエルは、『旧約聖書』の中でも、とくに荒唐無稽な話を選んで朗読してやった。

「ありがてえ。こうして何度も来てくださって」
最後に聞いた言葉は、こんなだった。春になる前にフランソワは旅立った。

 ジャン=ノエルは、教会に戻ってくると屋根を見上げた。青い空はいつもと変わりなかったが、いつの間にか雪が消えて屋根瓦とコウノトリの巣が姿を現していた。溶けた雪で湿った濃い色が、乾いて本当の鮮やかな色に戻るまでにはまたしばらくかかるだろう。彼はコウノトリがいつ帰ってきてもいいように、信仰に恥じない毎日を送ろうと思った。

(初出:2013年12月 書き下ろし)

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この曲の歌詞はラテン語です。下に歌詞と、私の拙い訳を載せました。ご参考までにどうぞ。


Vivaldi - Nulla in Mundo Pax Sincera (RV 630)
Geoffrey Lancaster, Gerald Keuneman, Jane Edwards, Ricky Edwards interpretan a Antonio Lucio Vivaldi

Nulla in mundo pax sincera
sine felle; pura et vera,
dulcis Jesu, est in te.
Inter poenas et tormenta
vivit anima contenta,
casti amoris sola spe.

まことのやすらぎは この世では 
苦悩なしには得られない
穢れなき真の平和は 
優しいイエズスよ あなたのうちにある 

辛苦と苦悩のただなかでこそ 
魂は 満ち足りて
まことの愛への 希望のうちに生きる

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Category : 短編小説集・十二ヶ月の歌
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