scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】夜想曲 - 1 - 瀧の慟哭

当「scribo ergo sum」は、一応小説のブログです。少なくとも毎週水曜日に、小説を発表するようにしています。今週から、六回にわたって中編小説を連載します。実をいうと、これはもともとは短編でした。今日アップする「瀧の慟哭」の章だけを、「十二ヶ月の組曲」の十月分として書いたのです。三月分だった「夢から醒めるための子守唄」と同様に、この話はこれだけで収まってくれず、勝手に続きが生まれてきてしまったので、中編にまとめました。この作品のテーマは「アイデンティティ・プロブレム」です



夜想曲(ノクターン) 
- 1 - 瀧の慟哭


 バスがカーブを曲がった時に、瀧が目に入った。凍り付く前に最後の激しさで勢いよくほとばしる水の流れ。悲鳴を上げているようだった。突然マヤは心が同じように叫んでいるのを感じた。黒い瞳を思い出す。蓋をしていた想いが、瀧の流れと同じように溢れ出す。チェロの響きのように泣いている。私は彼の心を殺した。勇氣を持たなかったがために。


 バスはサン・ベルナルディーノ峠を越えて、南へと走っていた。秋のグラウビュンデンは透明な青い空と柔らかい樹木の黄色に彩られる。日は短くなっているので、ベリンツォーナに着く頃にはもうあたりは暗くなり始めるだろう。電車に乗り換えてルガーノに着けば街灯が坂の多い街を照らしているだろう。

 マヤがクールでバスに乗り込む時に、運転手はつたない英語で乗り換えのことを説明しようとした。マヤはスイス方言でそれを制して、自分はこの地で育ったということを報せなくてはならなかった。日本人観光客に間違えられるのは慣れていた。東洋人の顔をしているのだからしかたない。

 マヤは赤ん坊の時に養子としてスイス人の両親に引き取られた。二人の兄も学校の友人も東洋人の顔をしていなかったので、子供の頃は鏡を見る度にドキッとした。いてはならない異形のものに遭遇したようだった。その奇妙な姿が映し出される度に、スイス方言を話しても、友達と同じような服装をして、同じような文房具で学校の授業を受けても、どこか自分は皆と違う、そんな違和感を抱えた。

 クラスにはコソボ出身の子がいた。タミールの子もいた。自分だけが異形なのではない、自分にそう言い聞かせた。だが、彼らはマヤのように一人ではなかった。家族、一族郎党が集まり住んでいる。自分たちの言語・風習を家で踏襲しつつ、学校ではスイスの社会に馴染んでいる。マヤはそうではなかった。スイスの普通の家庭のことしか知らない。生まれ故郷で話されていた言葉は挨拶すらも知らない。なぜ自分が養子に出されたのかも養父母は教えようとしなかった。スイス人ではない、けれどそれ以外のどの国の人間でもない、マヤは孤独を抱えて生きてきた。

「それはちょっとしたアイデンティティ・プロブレムさ。よくある事だ。君は頭がよくって、綺麗で、健康なんだ。意志と努力で簡単に克服できるよ」
オリバーは言った。バイタリティ溢れた有能な婚約者。ルガーノで医院を開業した彼は、早い結婚を望んでいる。マヤに早く退職してルガーノに遷ってくれるように頼んでいる。この週末は二人で家具を見る予定だ。結婚式はブリザゴ島のレストランでしよう、花の溢れた初夏に、クジャクの歩く庭でシャンパンを開けよう。どんどんと決められていく未来に、マヤは不安になった。そんな晴れがましい花嫁が自分と重ならない。かつて鏡を見る度におののいた、あの違和感が戻ってくる。


 たった一度だけ、もう、怯える必要はないのだと思った事があった。心から安らげる場所を見つけたと。

 十六歳の夏、マヤは家族とブレガリア谷の近くにキャンプに行った。自転車に乗ったり、川辺でソーセージを焼いたりするいつもの夏の過ごし方。どんなことでマヤが兄とケンカをはじめたのか、もう誰も憶えていない。どちらの兄だったかも。もう一人の兄とも口論になり、マヤは激しく泣き、父親も母親もその時は兄たちの方が正しいと言った。マヤはそれは自分が実の子供でないからだと言って、さらに両親を怒らせた。頭を冷やせとキャンピングカーに閉じ込められたマヤは、家族が車で買い物に行っている間に、窓から家族を罵って泣き叫んだ。その日は他に誰もいないはずだったから、両親は娘が泣き叫んでいても氣にしなかった。

「どうしたの」
声がした方へ首を伸ばすと、下の兄くらいの歳の青年が立っていた。マヤは驚いて、泣くのをやめた。東洋人に見えた。ただ、肌の色はずいぶん濃い。黒い髪、黒い瞳。たぶん、その容貌のせいでマヤは即座にその青年を信頼した。

「閉じ込められたの。誰も私をわかってくれないの。私はひとりぼっちなの」

 青年はキャンピングカーの扉にまわると、つっかえ棒を外してマヤを外に出してくれた。青年はエステバンというペルー人だった。東洋人に見えたが、南米の原住民の出身だったのだ。両親についてスイスに来たが、彼らはもうペルーに帰り一人でここで配水管工として働いている、仕事を終えて帰る所だと説明した。

「なぜドイツ語がしゃべれるの?」
マヤは訊いた。ブレガリア谷はイタリア語圏だ。エステバンの話しているドイツ語は東スイスの方言でこの辺りで身につけられるものではなかった。

「ずっとメルスに住んでいたんだ」
「どうして、ここに越してきたの?」
「ドイツ系より、イタリア語圏の方が肌に合うんだよ」

 理路整然として、人との関係に間を置くドイツ系スイス人の社会に馴染めなかったのだ。黒い眉毛を少ししかめて話すエステバンは、どこか悲しそうに見えた。マヤは鏡の向こうにいる人だと思った。彼女自身の閉じ込められている鏡。

 二人は小さなカフェに行って話をした。エステバンが引越す前に行ったことがある場所は、マヤの行動圏と重なっていた。共通の知合いもいた。今までお互いに知り合っていなかったのは不思議だった。話題は多岐に亘った。お互いの家族のこと、学校のこと、スイスのこと。二人が普段感じていることには、驚くほどの共通点があった。

 マヤの孤独をエステバンはすぐに理解する事ができた。彼もまた、理路整然とした社会の中で、不自然な感情を持て余して生きてきたからだ。違和感に怯えて傷つくのは自分一人だけで、だれもそんなことは意に留めないと苦しんできたのだ。

 自然の中にいると慰められるとマヤがいうと、エステバンは笑って彼女を連れ出した。彼が一人になりたい時にいつも行く小さな瀧。緑したたるブレガリアの秘密に満ちた聖所だった。

 足を冷たい水に浸して、風の流れを肌に感じた。二人は先程の饒舌が嘘のように黙って瀧音に耳を傾けて座った。瀧が叫んでいる。マヤは感じた。それは悲鳴のようだった。

「私たちの代わりに泣き叫んでくれているみたい」
マヤは長い沈黙のあとに、ぽつりと言った。

 エステバンはためらいがちに前髪を介してマヤの額に口づけをした。マヤはそれに応えて、彼の首筋に顔を埋めた。それを合図に彼は少女を強く抱きしめた。

 それはマヤの友達がニヤニヤと語っていたような淫靡な行為ではなかった。プロテスタントの養父母の説くような崇高な目的のための正しさを伴う行為とも違っていた。愛という言葉で括れば甘すぎて納得できない。血を流し続ける二つの心が、お互いを癒したくて触れ合うことは、やはり愛なのだろうか?

 肉体は傷つきやすい魂を入れた箱だった。二つの魂は互いに慰め合いたくて近寄ろうとする。実際には魂同士は触れあうことができない。だから入れ物の一番感じやすい部分を近づけている。エステバンの呼吸がわずかに響く。マヤの中には瀧の流れのような悲鳴が続いている。チェロの旋律のように泣いている。どこかの極東から来た魂と、南の果てから流れてきた魂が奏でる夜の嘆きだ。

「二人で、一緒に遠くへ行こう」
エステバンの言葉は、マヤにはごく自然に響いた。そうするのが当然だと感じた。

 二人は何も考えていなかった。数時間の間に小さなブレガリアの谷でどれほど大きな騒ぎが起こっているかを。二人の言葉や概念を越えた結びつきを、社会がまったく理解しないことも。

 マヤは家族に別れを告げる目的で、エステバンとともにキャンプ場に向かった。両親は泣いてマヤを迎えた。警察が今、お前を捜している。無事だったと連絡しなくては。その言葉を聞いてマヤは戦慄した。エステバンから引きはがされ、罵ろうとする家族を慌てて止めたマヤは、それでも、これから二人で生きていくので放してほしいとは言えなかった。

 それは突然に夢の世界から現実に戻ってきたかのようだった。マヤは高校に通う少女で、数時間前に出会ったばかりの見知らぬ青年と誰にも邪魔されない所に行くなどということは、自分でも正氣の沙汰とは思えなかった。家族に別れを告げないマヤの態度を見たエステバンは、家族の非難を黙って聴いていたが、彼らに情けをかけてやるからとっとと消えるようにと言われると、一層悲しそうな瞳でじっとマヤを見つめてから、黙って去っていった。


 それからエステバンに起こったことを長いことマヤは知らなかった。マヤは婦人科に連れて行かれ、診察を受けさせられた。エステバンは未成年の少女を誘拐監禁して辱めたと一方的に決めつけられ、職を失った。結局、スイスを去り、ペルーに帰ったと何年も経ってからクールの共通の知人から聞いた。

 マヤは夏休みが終わったあと、学校に戻った。以前のように、整然とした暮らしを続け、秘書の学校に通い、就職した。両親に抵抗することはほとんどなくなった。だが、心を開くこともなくなった。肉体と精神は、そのままドイツ系スイスの理路整然とした人生を歩み続けた。仕事をする。友人と会う。買い物をする。男性と出会う。感情の赴くままではなく、理性的に行動する。昨年オリバーと出会い交際を始めた。結婚を申し込まれ、それを受けた。鏡の向こうの二つの分ちがたい魂は、忘れ去られたままだった。それはあれ以来、存在しないことになっていた。


 バスがカーブを曲がった時に、瀧が目に入った。勢いよくほとばしる水の流れが悲鳴を上げている。黒い瞳が心を射る。その光はチェロの響きのように泣いている。私は彼の心を殺した。彼を弁護しなかったからではなく、あの時に二人が共有した想いを、ただの幻影として切り捨ててしまったから。私は二人の魂が閉じ込められたままの鏡を壊してしまったのだ。マヤの瞳からは涙が溢れ出した。蓋をしていた想いだった。それは止まらない。存在しなかったはずの魂は、まだそこにあったのだ。

 ルガーノ駅前に白いポルシェが停まっていた。オリバーは暗闇の中でもマヤの様子が違うのにすぐに氣がついた。
「どうしたんだ。具合が悪いのか?」

 マヤは、下を向いて、しばらく言葉を探した。それから、顔を上げて、はっきりと言った。
「ごめんね。オリバー。私、間違ったの」
「何を?」
「あなたの前にいるのは、間違った存在なの。全然違う所にいるはずの人間なの。私は間違いを訂正しなくちゃいけないの」

「何を言っているのか、わからないな。荷物を渡しなさい、うちで話を聴こう」
「ごめんなさい。行けないわ。私は戻らなくてはいけないの」
「どこに?」
「十六歳の夏に。あそこで間違えてレンガを積んだの。その上に、どんどんと積み重ねてしまって、まったく違う所にきてしまったの。だから、もう一度レンガを全部取り払って、あそこからやり直さなくてはいけないの」

「もう少し、具体的に言ってくれないか?」
「あなたと結婚することができないの。ごめんなさい」
それはとても具体的だったので、オリバーにもはっきりと伝わった。オリバーはショックを受けていたが、それでもマヤのためにホテルを手配してくれた。

 湖面に美しい街の灯が反射している。肌寒い十月の夜、恋人たちが寄り添いながら散歩する、葉を落とし始めたプラタナスの並木道をマヤは一人で歩いた。明日、飛行機を予約するために旅行会社に行こう。オリバーと別れ、仕事を辞め、スイスの家族とぎくしゃくしてまで、エステバンに逢いにいくなんて、誰もが狂っていると思うだろう。エステバンが既に別の人生のレンガを積んでいることもわかっていた。今さら十六歳の夏には戻れはしない。それでもマヤは、行こうと思っていた。あの時の事を謝り、彼の大切にしていたのと同じものを大切にしてこれから生きていく事を伝えたい。それだけでいい。何も変わらずとも、人生が崩壊してしまっても、かまわない。

 鏡の向こう側にも居場所がなくなってしまっていたならば、戻ってきて、もう一度ブレガリアの、あの秘密の瀧に行けばいい。冬になり氷の奥に閉じ込められた水流が、行き場のない魂の代わりに泣いてくれるに違いない。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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この作品のBGMにしていたC. Bollingの「Suite for Cello & Jazz Piano Trio」から「Romantique」。チェロは、ヨーヨー・マです。
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Category : 小説・夜想曲
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】夜想曲 - 2- 同じ名の男

かなり昔に「楽しんで書いたサブキャラ」の紹介記事を書きました。本日登場するのが、あの時にご紹介したエステバン君です。同じファーストネームが重なるので便宜上《黒髪のエステバン》と《ふざけたエステバン》とヒロインと同じあだ名で語りますが、今日登場するのは《ふざけたエステバン》です。いずれにしても「ペルー→エステバン」と昔のアニメを観ていた人ならぴんとくる名付け方をしています。「黄金のコンドルよ、飛べ!」って、あれです。もちろんストーリーはあのアニメとは全く関係のないものです。

はじめからまとめて読む



夜想曲(ノクターン) 
- 2 - 同じ名の男


「おっ。お隣は君か!」
アトランタでリマ行きに乗り継いで、シートベルトを締めて一息ついていたら、隣の席にやって来た男が英語で嬉しそうに言った。誰よ、この人。マヤは首を傾げた。

「ほら。チューリヒから乗ってただろ。日本人がチューリヒからアトランタに行くなんて珍しいなと思って目についたんだ」
「日本人じゃないわ。スイス人なの。パスポート上は」

「ふうん? 遺伝子上は?」
「たぶん日本人」
「たぶん?」
「生まれたばかりの時に養女になったから、知らないの」

 その男は、背が高くて明るい茶色の髪をしている、白人だったが、ゲルマン系の彫刻のような端正な顔ではなくて、あちこちの民族が交配を重ねてごっちゃになってしまったような顔つきだった。灰色がかった瞳をくるくると動かして愉快そうに話す。

「あなたは、どこの国の人?」
「俺? 半分ペルーで、半分アメリカ人」
なるほど。いろいろミックスされているわけね。

「スイスには旅行に行ったの?」
「いや、俺、半年前からグラウビュンデンに住んでいるんだ」
「ええ? 私もクールに住んでいるのよ」
「そりゃ、奇遇だ。俺の職場はクールだよ」

「休暇で里帰りなのね」
「まあね。そう言えない事もない」
歯切れの悪い返事だった。

「君は、休暇でペルー観光かい?」
今度は、マヤが口ごもる番だった。

「ええと、仕事は辞めたばかりだから、休暇じゃないわ。観光目的でもないわね」
「じゃ、何?」
詮索好きな男ね。
「……人探し」

 男はぎょっとしたようにマヤを見た。
「嘘だろ? 俺も人探しに行くんだぜ?」
「誰を?」
「同僚の弟。インターネットで知り合った女と暮らすとかいって家出しちまったんだ。その女がペルー人。ちょうど休暇でリマに行くと決まっていたんで、探し出して、同僚に連絡するんだ。君は誰を捜すの?」

「……。昔、会った事のある人。スイスで育ったんだけど、今はペルーに帰っているの」
「ペルーのどこ?」
「五年前はリマにいたらしいって所までわかっているの」
「リマのどこ?」

 マヤは知人がペルーのエステバンからもらったというクリスマスカードの封筒を取り出した。
「この住所、わかる?」
「どれどれ、サン・ボルハ……。ああ、大体わかるよ…。あれっ?」
「どうしたの?」

「エステバンっていうのかよ、そいつ」
「そうよ」
「奇遇だなあ。俺もエステバンなんだよ。エステバン・ペドロ・モントーヤ。ラッキーじゃん。君、もうペルー人のエステバンを見つけたんだよ!」

 何ふざけた事言ってんのよ。マヤが白けた顔で睨みつけたのでエステバンは肩をすくめて続けた。
「冗談はさておきさ。ちょうどいいから、俺たち互いに協力しない?」
「どういうこと?」
「君は、リマの事に詳しくない。スペイン語も話せないみたいだし、このエステバン君を探すのも一苦労だろう?」

 マヤはその通りだと頷いた。
「俺は地の利はあるし、ネイティヴだからそっちは問題ないが、ろくにドイツ語はしゃべれない。ところが家出した坊やはスペイン語はおろか英語もしゃべれないらしい。坊やを見つけて説得するのに、スイス人の通訳は願ってもないんだ。そこで、俺たちが協力し合えばいいんじゃないかな」

 それは悪くない申し出だった。マヤは手を差し出した。
「よろしく。私はマヤ・カヴィエツェル」
エステバンはしっかりとその手を握りしめた。

 エステバン・モントーヤは愉快でおしゃべりだった。半年前までイギリスで働いていたが、その時の同僚に引き抜かれてスイスにやって来たのだそうだ。

「何の仕事?」
「WEB制作さ。俺、こうみえてもデザイナーなんだ」

 ラフなジーンズ姿はそれらしいが、デザイナーという感じではなかった。でも、わざわざ引き抜かれるくらいだから有能なんだろうなとマヤは思った。

「普段は英語だけで仕事をしているの?」
「わかった? そうなんだ。いい加減にドイツ語を覚えないとまずいんだけど、人前に出る事はほとんどないから英語だけで済んじゃってさ。ま、買い物くらいはできるようになったけど」

 食事が運ばれてきた。飲み物を訊かれたのでマヤは赤ワインを頼んだ。エステバンはスチュワーデスと軽口で会話をしていたかと思うと、ちゃっかりワインを三本せしめた。マヤが目を丸くしていると彼はウィンクして一本をマヤのトレーにぽんと置いた。
「ほら、これはお前のお替わり用さ」

 同じエステバンでも、なんという異なった個性だろう。マヤは十六歳の夏に数時間だけ共にいた青年の事に思いを馳せた。誠実で優しい南米先住民族で、遠くを見るような瞳をしていた。どこか世界に受け入れられるのを諦めたような哀しみを漂わせ、同じように孤独を持て余していたマヤには唯一の理解者のように思われた。彼はきっとワインを二本頼むなんて事は考えもしないであろう。

 食事をしながら、マヤとエステバンは少しずつお互いの境遇の事を話した。彼は父親の故郷のアメリカで生まれたが、現在、両親はリマに住んでいる。中流家庭だと彼は言った。つまり、富裕層でもなければ、貧困層でもないという事だと補足した。マヤにはピンとこなかった。なぜわざわざそんなことを言うのだろう。
「実際に目にすればわかるよ」

 エステバンは両親の家に泊まると言った。それはマヤのホテルの近くだった。
「なんなら、お前もうちに泊まれば?そもそもどのくらい滞在する予定なんだ?」
「二週間よ。ホテルは三日分だけ予約してあるの。エステバンがリマで見つからなかったら、たくさん予約してあっても無駄だろうと思って」
「OK。三日で見つからなくて、さらにリマにいるんだったら、うちに来い。ま、場合によっては他の都市に行かなくちゃいけないかもしれないよな、どっちのケースも」


 リマは晴天だった。心地よい風を感じた。エステバンは笑った。
「いちおう、夏の始まり」

 そう、ここは南半休だ。マヤは初めてそれを実感した。《黒髪のエステバン》の住む国に立っているのだ。

 エステバンは、二人分の荷物をカートに載せて、ミラフローレス行きのバス乗り場へとさっさと向かった。マヤはこれだけでもこの人と協力して人探しをする事にしてよかったと思った。自分一人では、こう簡単には市内に辿り着けないであろう。

「とりあえず、ホテルにチェックインしてさ、それから徒歩で俺の生家に行こうぜ。母さんがなんか美味いものを用意してくれているはずなんだ」
「そんな、突然お邪魔するなんて」
「平氣だって。別に珍しい事でもないし」

 人懐っこい笑顔を見ていて、マヤはおかしくなった。今まで何人の女の子をナンパして家に連れて行ったんだろう。次々違う女の子を連れてくるのをお母さんは呆れているんでしょうね。

 エステバンの母親はスペイン人の面差しの優しい女性だった。マヤの突然の訪問にも嫌な顔一つせずたくさんの料理を並べてくれた。後から帰ってきた父親は荒っぽい動きの大男で、聴き取りにくいアメリカ英語をしゃべったが、やはりマヤを歓迎して、大声でアメリカ民謡を歌ってくれた。エステバンは頭を抱えていたが、マヤはなんて温かい家庭だろうと微笑んだ。

「じゃ、明日から早速、行動を開始しようぜ。まずはそっちの住所から当たってみよう。すぐに《黒髪のエステバン》と会えれば、あとはこっちの方を助けてもらえばいいし」

「同僚の弟さんの足取りはつかめているの?」
「いや、わかっているのは女のサイト上のプロフィールと、ネットでのやりとりだけ。待ち合わせはリマの空港だったから、いまどこにいるかはわからない」

「連絡を断ってからどのくらいなんだ?」
父親が訊くと、エステバンは荷物からプリントアウトの紙を取り出して眺めた。

「一週間だな。家出した翌日に、俺たちと同じルートでリマまで来た事はわかっている。その後すぐに携帯がつながらなくなった。父親はクレジットカードの家族カードをすぐに停止したけど、すでにけっこう大きな金額のものを購入されていて、それはリマでらしい」
「明日見つからなかったら、警察に連絡した方がいいな」
父親の言葉に、エステバンは頷いた。

 食事の後、エステバンはマヤをホテルまで送っていき、ホテルのバーで一緒に飲んだ。
「お前さ。《黒髪のエステバン》に会ってどうするつもりなんだ?」

 マヤは、少し考え込んだ。
「……あの時の事を謝りたいと思っている。でも、その後の事はわからないわ。だって、彼が私の事をどう思っているかも知らないんですもの」

「向こうが怒っていなかったら?」
「怒っていなくても、あれから十年も経ってしまっているのよ。彼の人生はその間も続いている……」

「じゃあ、ヤツに拒否されたらどうするつもり? お前の顔なんか見たくないとか、もう結婚していたとかさ。この旅行の後、どうしたい?」

 マヤは、グラスをじっと見ていた。エステバンは答えを急がせなかった。マヤはやがてゆっくりと答えた。
「スイスに戻って、考えるわ」

 エステバンは酒を一口飲むと言った。
「そしたら、俺とつき合えよ」

 マヤは目を瞠った。
「どうして、そうなるのよ」

「どうせ、これが上手くいかなかったら死んじまおうとか、考えてんだろ」
「考えていないわよ! ……そりゃ、どうやって生きていっていいか、わからないとは思ったけど」

「だからさ。それを俺と一緒考えていけばいいじゃん。お前、婚約者と別れたって言ったし、俺もいまフリーだし、クールにいるんだし、悪くない話だろ? そんなに難しい事じゃないさ」

「悪いけれど、今はそんなこと考えられないわ」
「わかっているって。ま、今は、お互いに人探しを済ませないとな」

 《黒髪のエステバン》は、簡単には見つからなかった。家出したスイスの少年も。サン・ボルハの小さなアパートメントの大家は、エステバンはかなり前に引っ越したと言った。《ふざけたエステバン》は、大家に食い下がって、当時の勤め先の住所を聞き出す事に成功した。それはさほど遠くない一角にあったが、エステバンは引っ越すと同時にそこを辞めていた。わりと親しかったという同僚なら、もしかしたら連絡先を知っているかもしれないが、いまはここにいないと言われた。エステバンは自分の携帯番号を教えて、連絡を待つ事にした。

 午後に二人はネットに記載されていたペルー女の住んでいるはずの場所に行ってみたが、名前も住所もまったくの架空のものだった。

「つまり、坊やは騙されたって事だ。これはまずい事になってきたな」
「すぐに警察に行きましょう。スイス大使館にも連絡を取りましょう」
「そうだな」

 警察の対応はあまり芳しくなかった。つまり、今の所スイス人の遺体はみつかっていないと言うだけだった。それが見つかっていて身元が割れていたら、今まで家族に連絡がないわけはないと言ったが、とりあえず家族による捜索願を出してほしいというだけだった。女と逃走するなんて話は日常茶飯事でしてね、そう言うのだった。

「身元のわからないその年頃の死体の照合は?」
そういって、エステバンは持ってきた写真を一枚と何枚かの紙幣を、担当の警官に押し付けた。

「係に回してみますけどね。この写真、もう一枚ありますか? 死体の担当と、被害者がまだ生きている犯罪の担当が別れているんでね」
エステバンは素直にもう一枚渡し、再び「手数料」を添えた。警官はいたく満足したようだった。

 後でマヤは憤慨して文句を言ったが、エステバンは肩をすくめた。
「他の案件より優先してやってもらわないと困るだろ。ここはスイスじゃないんだ」
「手数料」を払わなかったら、チャンスはないということだ。

「初日には見つからないと思っていたよ。せめて、二人とも五体満足で生きて見つかってくれるといいんだが」

 エステバンの言葉にマヤは身震いした。ペルーで生きていくのは大変なのだ。安全で大抵の事がきちんと機能するスイスで自分の道が見つからないと悩んでいたなんて、甘えもいいところだった。この旅に出るまでは、あそこに馴染めない自分を持て余していたのに、一歩外に出た途端に怯えている。そう、ここはスイスではない。
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Category : 小説・夜想曲
Tag : 連載小説 小説

Posted by 八少女 夕

【小説】夜想曲 - 3- 再会

子供の頃、姉がインカ帝国に入れあげた影響で、私もかなりインカのことが好きでした。それで、マテ茶を買って飲んだりもしたのですが、じつをいうとそんなに美味しいものとは思えませんでした。けれど、南アフリカに行って以来、ルイボスティーが大好きになったように、現地に行って馴染めば、マテ茶も好きになるに違いないと踏んでいるのです。実は、ペルー人の友人がいまして、いつか一緒にペルーに行こうと約束しているのです。

さて、今回は、サクサクと話が進みます。六回連載ですからね。


はじめからまとめて読む



夜想曲(ノクターン) 
- 3 - 再会


 マヤは右手にメモを握りしめて、ほこりっぽい小路を覗き込んだ。これで三回目だった。《黒髪のエステバン》の足取りを追って、教えられた住所を訪ねる。すると、確かに以前は彼はここにいたが、今はもういないと言われる。だが、その追跡は一人でやらなければいけなかった場合ほど困難ではなかった。《ふざけたエステバン》が話をしてくれ、時には改めて連絡してもらったりした。空港や観光案内は別として、リマでは英語だけで話を進めるのは難しかった。彼がいなかったら、ここまでは来れなかったはずだ。

 教えられた住所は確かにこの通りのはずだ。カラフルな家々がぎっしりと寄り添う山間に張り付いた街。少なくとも、前回訪れた貧民街に比較すれば、ここはずっとましだ。あそこにいないでいてくれた事を、マヤは心から嬉しく思った。

「プエブロ・ホベンっていうんだよ。スイスなんかから来るとショックだろう」
《ふざけたエステバン》は言った。その貧民街にあったのは、家というよりは掘建小屋だった。スイスの中流家庭の庭の道具入れの方がまだまともだと思えるような造りだ。リマの中心部にある美しいコロニアル風の建物や、プール付きの豪邸に住む裕福な家庭が光だとしたら、貧民街は紛れもない影の部分だった。わずかの間でも、エステバンがこのような場所に住んでいたという事に、マヤは痛みを感じた。私との事がなくて、未だにスイスにいたならば、彼はあんな所に住む事はなかっただろう。

 この日《ふざけたエステバン》の運転でやって来たのは、その貧民街から見上げることのできた郊外の山腹に張り付いた街だった。カラフルで美しいために、観光客も訪れるらしい。バスから降りて写真を撮る観光客たちが歓声を上げている。

 こんなに小さな狭い通りに、配水管工事を請け負う店があるようには見えない。マヤは不安な面持ちで横を歩くエステバンを見上げた。彼はのんきに口笛を吹いている。

「お、あれじゃないか?」
指差す先に、小さな看板と排水トラップ管などの飾られた小さなショーウィンドウが見えた。マヤは身震いした。もう一週間だ。このまま永遠にエステバンに会えないのではないかと悲しく思うと同時に、会う事が怖くもあった。

 十六歳の夏、わずか数時間で、マヤはエステバンと恋に落ちた。自分をわかってくれるたった一人の人間だと確信し、一度は二人で一緒に遠くへ行こうと約束したのだ。けれど、養父母の前でマヤはそれを決行する事ができなかった。まだ高校に通っている十六歳の小娘が、彼と二人で生きていく事など到底できないと思った。それ以来、マヤはエステバンに会っていない。彼が未成年のマヤを監禁した上に辱めたと冤罪をかけられた事も、それが遠因でスイスを去った事も彼女は長い事知らなかった。マヤはただ、自分の孤独に封印をして、他の人と同じように生きようと自分を偽ってきた。ようやくそれが間違いだと悟った。そんなことはできない。エステバンに会って、あの時の事を謝りたい。そして、自分が未だに想い続けている事を知ってもらいたい。

 仕事を辞め、婚約破棄をして、マヤはペルーへと飛んだ。何もかもリセットして生きるつもりだった。だが、エステバン探しはそう簡単には運ばなかった。飛行機の中で知り合った《ふざけたエステバン》がこんなによく協力していてくれても。

 戸惑っているマヤをちらっと見て、エステバンはその店に入って行った。何度も繰り返されたスペイン語のやり取りが聞こえる。店の戸口で振り向いて彼はマヤを呼んだ。
「いたぞ。本当にこいつならな」

 マヤは戦慄した。《ふざけたエステバン》が、一歩引いて外に立つと、中から頭一つぶん背の低い男がゆっくりと出てきた。黒髪を後ろに束ねている。薄汚れた木綿のズボンに色あせた深緑のシャツを着ていた。忘れもしない、東洋人のような悲しげな顔。エステバンだった。

「マヤ……」
《黒髪のエステバン》は、突然の事に、それ以上の言葉を見つけられなかった。

「俺、あの観光バスの停まっていた前のコーヒー店にいるから」
そういうと、《ふざけたエステバン》は坂を登っていった。

 それを見送った後で、エステバンはマヤに中に入るように言った。
「驚いたよ。よく来れたね」
「サン・ボルハの住所から始めて、一週間かかったわ。もう会えないんじゃないかって諦めかけていた…」
「大人になったな。マテ茶しかないけど、飲むか」
「ええ、いただくわ。エステバン、私……あの、あの時の事を……」

 エステバンは目を細めてマヤを見た。
「何も言わなくていい。会いにきてくれて嬉しいよ」

「でも……」
「僕が愚かだった。ああなるのは当然だった、そうだろう。君に何ができる。何度も後悔して、あの時に戻ってやり直したいと思った。でも、諦めていたんだ。だから、君の勇氣と行動力に驚嘆している」

 そう言って、マテ茶をテーブルの上に置いた。小さくてシンプルな台所。使い込まれた古いテーブル。ほこりっぽい家には、貧しい暮らしがにじみ出ていた。私がぬくぬくと過ごしていたこの十年間、どんな思いで過ごしてきたのだろう。マヤはたまらなくなって涙を一つこぼした。それを見たエステバンは、隣の椅子に座ると、浅黒い手をゆっくりと伸ばし、マヤの頬の涙をそっと拭った。ブレガリアの秘密の瀧のあの瞬間が戻ってきたかのようだった。彼の顔が静かに近づいてくる。マヤは瞳を閉じた。

「ふ~ん」
《ふざけたエステバン》は、コーヒー店で三杯目の冷たくなったコーヒーを飲み干すと、戸口に佇むマヤたちを見て立ち上がった。
「つまり、今夜は帰らないってことだろ? 明日は、警察に九時に行く予定だけど、その前に迎えにこなくちゃダメか?」

「僕が送っていく。八時半には必ず送り届ける」
「OK。じゃ、そういうことで」

 この日、《ふざけたエステバン》のもとには、朗報が届いていた。十日ほど前に、大けがをして病院に搬送された若い青年が、警察に渡した写真に酷似しているというのだ。明日の朝、例の警官と一緒に病院に行くことにしてあった。少年と話をするためには、マヤがいてくれないと困る。スペイン語はおろか英語も話せないくせに、ペルーに来んなよ。《ふざけたエステバン》は舌打ちした。


 翌朝、二人は約束の五分前に《ふざけたエステバン》の家の前にいた。
「さっすが、スイス育ち! ありえないよな、五分前って」
ペルー育ちの方は口笛を吹いた。

「警察に行くのに遅れたら迷惑がかかるじゃない」
マヤが言うと、エステバンはウィンクをした。
「警察だって定刻じゃないからへっちゃらさ」

 黒髪の青年は伏し目がちに言った。
「よかったら、僕にも協力させてくれないか。君たちが帰国した後もその少年にはスイスドイツ語の通訳がいるんだろうし、警官と行くならスイスドイツ語からスペイン語に通訳する必要があるだろう?」
「そりゃ、願ったりだな。ま、これから会いにいくのが本人だった場合だけどね」

 マヤは、昨夜のエステバンとの会話を思い出していた。《黒髪のエステバン》は、遠くを見るような悲しい黒い瞳で、マヤに問いかけたのだ。
「マヤ」
「なあに?」

「さっきの青年は、君の恋人なのか?」
なんて事をいうのかしら。マヤは激しく頭を振った。

「違うわ。スイスからたまたま同じ飛行機に乗ってきた人よ。彼も人探しをしているの。私はリマは始めてでスペイン語も話せないでしょう。彼の探している男の子はどうやらスイスドイツ語しかまともに話せないみたいなの。それで、お互いに協力する事にしたの。彼がいなかったら、私はあなたを見つけられなかったわ」
「そうだったんだ。じゃあ、僕も協力しよう」

 実際に、病院にいたのは探していた家出少年だった。警官によると、空港の近くの路上で全裸で見つかった被害者だった。全身にたくさんの打撲と骨折をしていて、身元を確認するものは何もなかった。偶然夜中に近隣の人が通りかかったために病院に搬送されて一命を取り留めたらしいが、上手く言葉が通じないために調書などは後回しになっていたらしい。警察は、他にやる事がたくさんあるのだ。病院の方は、上手くいけば治療費の請求ができると、大変協力的だった。

 警官と一緒に病室に入り、《ふざけたエステバン》は助かったと思った。包帯で覆われて、まったく動けない状態でベッドに横たわっていたが、確かに写真の少年で、同僚ともよく似ていた。マヤは、彼と顔を見合わせると、ゆっくりと話しかけた。
「シモン・マネッティ君ね」

少年は驚いてマヤを見た。スイスドイツ語を話す集団には見えなかったからだ。
「そうです。あなたは……」
「ここにいる、モントーヤさんはあなたのお兄さんの同僚で、私たち協力してあなたを捜していたの。何があったの?」

《黒髪のエステバン》は小声で二人の会話を警官に通訳していた。
「ぼ、僕、空港に来た迎えの車に乗ったんです。車の中で突然殴られて意識を失って、目が覚めたらここにいたんです。話しかける人たちに僕はスイス人で、家族に連絡してほしいっていったんだけど、言葉が通じないし、きっとパスポートとか見たらわかってその内に誰かが助けてくれるかなと思っていました」
甘い見解は自分と変わらないなとマヤは思った。

「あなたの所持品は全部なくなっているのよ。でも、命が助かって本当によかった。やっとご家族にいい報告ができるわ」
「マリアが心配しているかな。僕が来ないと泣いているんじゃないかな」
シモンは悲しそうに言った。それを聴いた《ふざけたエステバン》は天井を見あげた。
「心配していないよ。っていうか、あんたを呼び出したマリア・カサレスって女も住所もみんな架空だったよ。あんたはマフィアか詐欺集団に騙されて身ぐるみ剥がされたんだ。オヤジさんのクレジットカード、結構な金額を使われていたらしいぜ」

 少年はようやく自分の愚かさを悟って泣き出した。
「それでも好運だったんだよ。命は助かったし、スイスドイツ語のしゃべれる通訳が助けにきたんだからな。これがエステバン・リベルタ君だ」
そういって《黒髪のエステバン》を紹介した。

 手数料の好きな警官は、《黒髪のエステバン》の協力を得て、その場で調書を取った。マヤと《ふざけたエステバン》は、今後のことについて話し合った。
「まず、ご家族に連絡して、それからスイス大使館ね。パスポートを再発行してもらわないと」
「そうだな。これからマネッティに電話してくるよ」


 マヤは再びチェロ・サン・クリストバルの《黒髪のエステバン》の小さな家にいた。マネッティ少年の両親との連絡や大使館での事務の代行、こちらに向かっているマネッティ氏のためにホテルを手配したり、少年のための買い物をしたりして、残りの一週間はあっという間に過ぎた。明日はもうスイスに帰国するのだ。

 エステバンはワインのボトルを買って、マヤのために料理をした。

 彼女は、小さな台所で、その背中をじっと見つめていた。再会した、それだけだった。そして明日にはまた遠く離れてしまう。会って強く感じたのは、やはり、この人は誰よりも自分に近いという事だった。そう思っているのは、私だけなんだろうか、マヤは言葉を見つけられないでいた。
「エステバン……」
「なんだい?」

「シモンの事、私、馬鹿にできないわ」
「どうして?」
「私も、スイスを発つ時には、ペルーで暮らすって選択肢もあるって思っていたの」

 エステバンは、料理の手を止めて、マヤの方を向いた。マヤは震えた。
「この国は、君には厳しすぎるよ。スイスにいる方がいい」

 これが答えなのだ。マヤは下を向いた。涙ぐんでいる姿を見られたくなかった。

 エステバンは、テーブルをまわってきて、マヤの隣に座った。
「ペルーに引越す必要なんかない。僕の方がまたヨーロッパに行く」

 マヤは弾かれたようにエステバンを見た。彼は優しい黒い瞳で微笑んでいた。ロウソクの光がゆらめく。エステバンは頷くと、再び料理を続けるために立った。生活は続いていく。マヤも微笑んでその背中を見た。
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Posted by 八少女 夕

【小説】夜想曲 - 4- 楽園

今回出てくる人びとは、このブログを公開した当初(まだ小説を公開しても読んでくださる方のほとんどいなかった頃)に発表した「夢から醒めるための子守唄」の登場人物です。「八少女 夕ワールド」の中には、いくつかの並行する世界がありまして、現在の所「大道芸人たちワールド」「樋水龍神縁起ワールド」「夜のサーカスワールド」とならんで大きな位置を占めているのが「カンポ・ルドゥンツ村ワールド」です。「夜想曲」も「夢から醒めるための子守唄」も、それから私小説である「絵梨とリュシアンの出てくる話」もみなここに属しています。基本は、私の実際に住んでいる村とその周辺がモデルなので。「どっかで聞いたような名前」がガンガン出てきても、「ああ、ご近所だからいるかもね」程度に流していただいて結構です。(笑)

はじめからまとめて読む



夜想曲(ノクターン) 
- 4 - 楽園


「今晩、ヒマか?」
《ふざけたエステバン》からの電話だった。

「そうね、何も用事はないわよ。なんで?」
「俺の馴染みのバーにさ、ジャズカルテットが来て生演奏してくれるんだ。モントルーのジャズ・フェスティバルにも出演した事のある本格的なやつだよ。滅多にない機会だから、どうかと思ってさ」

 ジャズは嫌いでなかったし、このあたりでは素晴らしい生演奏を聴く機会はなかなかない。
「へえ。いいわね。クールなの?」
「違うよ。カンポ・ルドゥンツ村」

 マヤはびっくりした。
「あんな小さな村に有名なジャズカルテットが来るの?」

「それが、くるんだな。そのバーはさ、オーナーがジャズ好きで有名なんだぞ。俺、五時半にはクールを出られるけど、お前は?」
「その時間なら私も大丈夫。楽しみにしているわね」

 年が明けてから、マヤは再びクールで秘書の仕事を見つけた。ペルーから戻ってきてから、家族との間でおこった一悶着もなんとか収まった。オリバーとの婚約を破棄した事や、ペルーに《黒髪のエステバン》を探しにいったことを、狂ったのかとなじられたが、マヤはもう動じなかった。結局の所、マヤはもう成人だった。辛抱強く自分にとって一番大切な事をしているのだと説明した。彼らは納得したわけではなかったが、今回はマヤが引かなかったので話は平行線のまま続き、ついに彼らの方が諦めた。つまり、もう何も言ってこなくなった。

 人生は続いていく。それは素敵な事だった。ペルーに行く前は、道が見えなかった。自分の職業も生活態度も全てが間違っていたかのように感じていた。でも、ペルーでエステバンに再会し、また情交が結ばれると人生はまったく違って見えてきた。共に時間を重ねていくためには、生活手段がいる。仕事と住処は必要不可欠だった。秘書の仕事をすることで得る給料が、ペルーにいるエステバンとの電話代になる。直にまたヨーロッパに帰ってくるエステバンと定期的に会うための交通費にもなる。そう思うと、マヤは一生懸命働こうと思った。自分の小さな城であるフラットを快適に保ち、健康になるための食事をしよう。掃除や炊事もまったく別の意味を持つようになった。ようやく魂と生活が同じ方を向くようになったのだ。

 ペルーからの帰国の飛行も、《ふざけたエステバン》と一緒だった。彼はマヤの帰国に合わせて予約を変更したのだ。一緒にチェックインしたので、席も一緒だった。あいかわらず軽口を叩いているエステバンとの時間は楽しかった。《黒髪のエステバン》と上手くいったことを知っていたから、迫ってくる事もなく、マヤには心地よかった。

 あれっきりになると思っていたのに、彼はそのつもりではないらしい。《黒髪のエステバン》が、近いうちにスイスに戻ってくる事も言ったから、わかっていると思っていた。曖昧な態度は示したくない。でも、あれだけはっきり言ったから、大丈夫よね。

「カンポ・ルドゥンツにジャズ・バーがあるなんて知らなかったわ。新しいの?」
「いや、もう五年くらいになるよ。オーナーはカップルなんだけどさ、二人とも男なんだ」
「えっ?」
「そう。ゲイなんだ。強烈だけど、いいヤツらなんだぜ、二人とも。だから、谷中のアウトローが慕って集まってくるんだ。もう一人働いている女の子はハンガリー人で、可愛いいい子だけど、世間知らずで抜けている。その子の年上の彼氏も常連で、そっちはアンドラ人。俺、彼とはスペイン語でいろいろ話せるんで、それでよく行くようになったんだ」

 マヤは、高速道路をぶっ飛ばすエステバンが熱弁を振るうのを、微笑んで聴いていた。
「そんな個性的なバーが、あの小さな村にあるなんて、全然知らなかったわ」
「だろ? お前を一度連れて行きたかったんだ」
「どうして?」
「お前のアイデンティティ・プロブレムには、ああいう所が必要だと思ってさ。お前は、自分の問題に蓋をしてなかったことにしたり、反対にすべてを壊す破滅的な行動に出たり、やることが極端だ。ちょっとわかってくれると思っただけで、《黒髪のエステバン》に全て与えちゃったりさ」

 マヤは抗議をしようとしたが、彼はそれを制して続けた。
「そのバーのオーナー二人も、それからアンドラの男も、お前とは別の意味で、スイス社会からはみ出している。あのバーは、経営側も客も、はみ出し者の集まりだ。もちろん俺もそうだけどさ。そういう奴らとつき合ってみると世界が広がるぜ」

 マヤは肩をすくめて小さく笑った。
「そうね。確かに《黒髪のエステバン》以外、私の全部の知り合いは、養父母のお眼鏡にかなうような《まっとうな》人たちばかりだったの。自分からアイデンティティ・プロブレムを持った人たちと知り合おうともしなかったし」


「『dangerous liaison』ですって?」
マヤは店の名前を見て笑った。「危険な関係」だなんて。外から見ると、その目立たない看板以外は特にコンサバな田舎の村から遊離している所はなかったが、中に入るとイメージは一転した。青空を思わせる鮮やかな青い壁。極楽鳥花やプルメリアが咲き乱れ、ヤシの間を鮮やかなオウムが飛んでいる壁画になっている。店内には、その極楽鳥花と同じオレンジがインテリアのアクセントになっていた。カウンターもテーブルも戸棚の類いも全て磨き込まれた古い木でできていて、シンプルで怜悧なインテリアが流行っているスイスでは、初めて見るようなバーだった。マヤはこの店がもう好きになっていた。

「あら、エステバン、いらっしゃい。早く来れたのね」
店の奥から、派手なシャツを着た小綺麗な男が声を掛けた。

「ほい、トミー」
エステバンは慣れた様子で、そこそこ混んだ店の中をすいすいと進んでカウンターにマヤを連れて行った。

「まあ、かわいいお嬢さんを連れてきたじゃない。あんたにはもったいないわね」
トミーが言うと、エステバンは口を尖らせた。
「ちぇ。実際に俺の彼女じゃないんだよ。猛烈アタックしてんだけど、こいつ、別の暗っちいペルー人のほうがいいんだとさ。紹介するよ、この人がトミー、あっちで黙っているのがステッフィだ。こちらはマヤ。例の人探しのペルー旅行で知り合ったんだ」

「こんばんは。こんな素敵なお店がこの村にあるなんてまったく知りませんでした」
マヤはにっこりと笑いかけた。
「あら、ありがとう。このインテリアが氣にいったなら、デザイナーにそういってあげて。レーナ、ちょっと来て」
トミーは、奥で給仕をする女性に声を掛けた。

「あれが、ほら、さっき話したハンガリー人の子」
エステバンが説明しながらレーナに手を挙げた。

 ハンガリー人はたくさんのグラスをお盆に載せてにこやかに近づいてきた。トミーはマヤにレーナを紹介した。
「このバーのリニューアルのデザインはね、この娘がしたのよ。ハンガリーでインテリアデザインを学んだ経験を生かしてもらったの。こちらはエステバンのお友達のマヤさんよ。ここが氣にいったんですって」

「はじめまして。褒めてくださってありがとう。このバーは、私の楽園だって事を表現してみたの。トミーとステッフィが好きにやらせてくれたので、とても楽しかったわ」
そういって、愛おしそうに木のカウンターをなでた。

「家具類は、みんなホルヘが担当したんだ?」
エステバンはそういって、マヤにレーナの恋人が古木専門の指物師だと説明した。

「リニューアルが好評で、ますます繁盛しているの。私たちの楽園だっていうのは、間違っていないわよね」
トミーが言うと、ステッフィが黙って頷いた。あら、動いた。マヤは思った。あまりに寡黙なので、会話が聞こえていないのかと思っていたのだ。

 バーはますます混み出していた。レーナは飛ぶように動き回り、注文を取ってはドリンクやつまみを運んでいた。ステッフィは黙々と注文のつまみを作り続け、トミーは客と楽しく会話をしながら、注文のドリンクをテキバキと用意した。

「ホルヘ。ここ空けておいたぜ」
エステバンは、入ってきたアンドラ人に自分の隣のカウンター席を示した。
「なんだ、今日は、一人じゃないのか」
「うん。友達だよ。スペイン語はできない。こう見えてもスイス人なんだ、この子」


 しばらくすると、店の奥に設けられたステージに、ジャズカルテットが上がってきて、拍手が起こったので、トミーは舞台をのぞいて照明を暗くした。

 マヤでもよく知っているスタンダード・ナンバーが次々とかかった。無表情だったステッフィが、体を動かしてのっているので、マヤは微笑んだ。この店、本当に好きだわ。


 マヤはエステバンに頼んで、改めて次の週にまたこのバーを訪れた。
「あら、エステバン、よかったじゃない。マヤちゃんと仲良くできて」

「俺とデートしたいんじゃなくて、あんたたちに会いたいんだぜ、こいつ。本当に傷つくよなあ」
そういいつつ、エステバンは上機嫌だった。

「ステッフィさんはいないんですか?」
「うちは、普段は二人体制なのよ。ローテーション組んでるの。今夜は、あたしとレーナなの。ステッフィがいなくてがっかりした?」

「三人ともお会いしたかったの。この間は忙しそうだったから。ステッフィさんとはひと言もお話しできなかったし」
「そんなの普通だよ。すごいヒマな時でも、俺、ステッフィと合計で十分以上話をした事ないぞ」
エステバンが肩をすくめた。

「それはあんたがつねにしゃべってるからでしょ」
トミーは笑いながら混ぜっ返した。レーナはできたばかりのアボガドのデップと焼いたピッツァの皮を二人の前に置いた。

「レーナさんはどうしてこの村に来たんですか?」
マヤは不思議そうに訊いた。レーナはウィンクして答えた。
「だってハンガリーから一番近いスイスの州はグラウビュンデンよ。クールで仕事を探すつもりだったけれど、あそこに住むのは高すぎるわ」

「仕事ってインテリアの?」
「来てみたら、無理だってわかったの。まだ言葉も話せなかったし、ハンガリーのディプロマじゃ誰も雇ってくれなかったし。食べていくためには、仕事を選んでいられなかったわ。ずっと掃除婦をして、何件もの家庭を行ったり来たりしていたのよ」

 トミーが頬杖をついて口を挟んだ。
「今なら、話せるじゃない。ホルヘと一緒に住んでんだから、明日飢餓状態で死ぬわけでもないし」

 レーナはトミーに向かって片眉を上げた。
「ここをクビになったら、考えます」

 それからマヤの方を見て、満面の笑顔で言った。
「私ね。今の生活が一番だと思っているの。前はね、立派なエリートと出会って、結婚して、インテリアデザインの仕事するのが幸せだと思い込んでいたのよ。でも、私の幸せはそんな所にはなかったの。デザインの勉強をした事が、無駄じゃないかと思ったこともあったけれど、ほら、こんな風に役に立ったし」

 そういって、店を誇らしげに見回すレーナをマヤは素敵だと思った。こんな風にきっぱりと、自分が幸せだと言い切れる人がどのくらいいるだろうか。マヤの学生時代からの友人たちは、いつも何かに対して愚痴をいい、不満を口にしていた。オリバーと結婚しようとしていた半年前のマヤも同じような態度でいたような氣がする。もっと待遇のいい仕事があるはずだ。オリバーと感性が一致しない所があるけど、彼に合わせなくてはいけないんだろうか。そんな風に、日常の小さな不満や不安を重ねて、自分がどのような環境にいるのか考えた事がなかった。

 ハンガリーでは、リマの貧民街で見たような悲惨な生活を強いられているわけではないだろう。それでも、スイス人が誰もやりたがらないような仕事を請け負ってでもスイスで暮らしていこうと思うだけの、恵まれた生活がここにはある。《ふざけたエステバン》も、アンドラ人のホルヘも、それからかつては《黒髪のエステバン》の家族も、皆その格差からよりよい生活を求めてこの国にやって来たのだ。清潔で安全、機能的で経済的に豊かなスイスは、そこで生まれた国民以上に、よそから評価されている国だった。

 マヤは、《黒髪のエステバン》と暮らす日々を思い浮かべた。ここにいる皆の前でにこやかに笑い合う姿を。幸福はそんなに遠くにはない。鏡の中にこもっている必要はない、そう思った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】夜想曲 - 5- 太陽の乙女

ここ数日、文学系のブログの方ではじめていらっしゃる方が、ガンガン増えています。一年近くブログやっていますが、こんなことはじめて。いったいどうしたんだろう? ちょっと前まで、文学系の方の方がずっと少なかったのですが。はじめての皆様、はじめまして。毎日更新していますが、小説以外の記事の方が多いです。今日は、メインの小説の日です。さて、以下から、いつもの記事です。


「太陽の処女たち」という曲をご存知でしょうか。もともとはペルーの民謡のようです。ペルーと言えば「コンドルは飛んでいく」が有名ですが、その手の音楽です。大学時代に友人がカセットテープに録音してくれた曲が大好きで、私にとってのペルーのイメージはこの曲が元になっています。(追記に動画、くっつけておきました)
おなじ「おとめ」でも、今回の題名は「乙女」にしておきました。だって、ねぇ……。


はじめからまとめて読む



夜想曲(ノクターン) 
- 5 - 太陽の乙女


 エステバン・ホセ・リベルタは溢れ出す水流と戦っていた。顧客の二階に住む住人はひどい状態の部屋に住んでいた。ゴミの山をかき分けるようにして、水道管の詰まった洗面所を探さねばならなかった。下の住人は二日間も水漏れに苦しめられている。上の住人が我関せずなので、しかたなく自分のコストで配水管工を呼ぶ事になり、大変機嫌が悪かった。

 エステバンの腕には定評があった。この職業訓練はスイスで受けたのだ。緻密で正確な仕事の後は、問題がぴたっと収まるので、最近はリマの中心部にある豪邸からも仕事を頼まれる事があった。大きな建設会社の後ろ盾のある、エル・アグスティノのリョサ氏は最初エステバンに彼の店で働いてほしいと言った。郊外のチェロ・サン・クリストバルに一人で小さな店を構えている若者だが、既に脅威になりかけていたからだった。エステバンはためらいがちに断った。ヴィザがとれ次第、生まれ育ったスイスに戻ろうとしている事を打ち明けて。リョサ氏は大いに満足した。もし、君が残していく顧客がいたら、私たちに回してくれ、そう言って。

 しかし、今日のような仕事は、リョサ氏の店では死んでも請け負わない、踏んだり蹴ったりの仕事だった。ひどい悪臭の漂う不衛生な部屋で、まずは水浸しになったゴミの山をどけて場所を作らなくてはいけなかった。それから詰まっている配管を取り除くために、一度水栓を閉めなくてはいけないのに、錆びて老朽化した管は栓を閉めたと同時に穴が開き、そこからも水が漏れ始めた。ちくしょう。

 スイスにはこんなひどい仕事はまずない。ちょっと水が漏れただけで、この世の終わりのように大騒ぎするヒステリックな客はいるが、それでもバケツ二杯程度の水漏れだ。こっちは滝みたいに流れ、終わりもない。


 インカ帝国を築いたほこり高き民族の末裔たるエステバンはスイスで育ち、その冷たい社会に馴染めなかった。それでも、親兄弟がペルーに帰国した後も一人残り、スイスで生きていこうとした。十九歳の夏、ブレガリアの谷であの少女に会うまでは。

 マヤ・カヴィエツェルは、東洋人の顔をしていた。赤子の時に養女に出されスイスで育った十六歳の多感な少女は、驚くほどエステバンに似ていた。鏡を見る度に違和感を覚えると少女は言った。周り中は東洋人である事を期待するのに、その部分は何もない。けれど、二人の兄たちとはあまりにも違っていて、スイス人としてもしっくりとこない。自分自身でも得体が知れず、持て余しているのに友達と深くつき合う事などできない。だから、マヤは表面だけ友人たちに合わせる、間違った仮面を被ってしまった。

 マヤとエステバンは、すぐに恋に落ちた。二人とも似た顔つきをしていた。同じ言葉で話し、同じ痛みを抱えていた。鏡の中に閉じ込められた魂。

 だが、二人は先を急ぎすぎた。マヤはまだ高校生で、エステバンはマヤの養父母に責め立てられた。彼らの圧力でエステバンは職を失った。マヤと逢う事は望むべくもなかった。絶望して彼はペルーに帰ってきた。

 今度は、祖国で同じ戸惑いを味わう事になった。エステバンはペルーの社会にも馴染めなかった。激しい貧富の差、不正やごまかしの横行、時間は不正確で物事は半分機能しなかった。スイスにはなかった良さもたくさんある。鏡を見てどきりとする事はなくなった。人々の仲は親密で、食事や文化も求めていたものに近かった。けれど、やはり自分はここにも本当には属していない。マヤが「自分には属する所がどこにもない」と言った時に、彼は彼女を哀れに思った。何故なら、彼は祖国にそれがあると信じていたから。ペルーで、彼ははじめてマヤの心持ちを完全に理解した。祖国とは、パスポートに記載された国という意味ではなかった。遺伝子を伝えた祖先の多くが住んでいた土地でもなかった。エステバンにも祖国はなかったのだ。マヤに逢いたいと思った。だが、それは無理な話だった。


 先にペルーに戻っていた家族は故郷に馴染んでいた。もともとペルーで生まれ育った両親はもとより、十歳と、八歳でペルーに帰った弟と妹も、スイスの事はほとんど憶えていなかった。それどころか二人は長年会っていなかった兄に対して違和感を覚えていた。我が家で受ける疎外感はエステバンを苦しめた。自然と彼は家族と疎遠になった。両親の生まれ故郷イーカにいる意味はなくなり、彼はペルーに戻って数ヶ月で首都のリマに遷った。


 水との闘いは終わった。洗面所の床はだらしなく湿っていたが、掃除は彼の仕事ではない。そこだけ新しくて妙に浮いている配水管をもう一瞥すると、下の住人に報告して料金の請求に行った。その後しばらく、払いを渋る客と話を付けなくてはならなかった。濡れた服がまとわりつき不快だった。

 こういう時には、再びヨーロッパに行く決意をしたのは間違っていないと思う。


 六月のペルーは、冬のさなかだ。日照時間の最も短くなる冬至、つまり太陽神の生まれ変わりを記念して、毎年六月二十四日にはクスコでインティライミ祭が開催される。ほぼ丸々一ヶ月が祭り一色になるクスコとは違うが、リマでも人々は浮き足立っている。普段はスペイン語を話し、ヨーロッパの植民地時代の建物でビジネスマンとして働く人々も、この時期だけは先住民族の誇りをあらわにする。それはエステバンがスイスで夢見ていたような、過去に対する熱い熱情に似通うものがあった。

 工具箱を持って、足取り重く歩いていくと、横を民族衣装に身を包んだ少女たちが笑いながら通り過ぎていく。インティライミが近づくと、観光客が急激に増える。彼らはクスコに向かう前に必ずリマに滞在する。そして食事の時にはフォルクローレの流れるショーを観るのだ。今のは舞台に出演する踊り子たちに違いない。彼はふと「太陽の乙女」に思いを馳せた。

 インカ帝国には、太陽神に捧げられた選ばれし処女たちがいて、神殿の奥で機を織り、神に捧げる酒を作っていたという。絶対的な権力を持つ皇帝ですら顔を見る事すらかなわない、隔離された生活を送っていた誇り高き少女たちは、民謡「太陽の乙女たち」が伝える遠い伝説だ。彼が朧げに存在を求めていた乙女たちは、祖国では発見できなかった。観光名所と化したインカ帝国の跡地、観光の目玉としての祭り、俳優が演じる皇帝や神官や乙女。それらは祖国の偽りの姿ではないかもしれない。だが、過去の文明の深い底や、そこから湧き出る歓びを自分と人々の中に期待していた彼には失望が待っていた。


 自分を見失い、もがくエステバンの前に、突然現われたのは、忘れる事のできなかったかつての少女だった。去年の十月、夏の始まりだった。マヤが側にいた一週間、彼は全てがいつもと違っているのに氣がついた。朝起きるのも、夜夢見るために眠るのも幸福に満ちていた。工具を手に持ち水道管と果てしない闘いをするのも苦にならなかった。買い物に行き食材を選ぶのも、小さな台所で簡単な食事を作るのも満ち足りていた。それは、まるで夜と昼の明るさの違いのようだった。ああ、太陽の乙女だ、彼は思った。マヤは太陽の昇る国で生まれた女だった。彼女だったんだ。どれほど長く間違った場所を探していたのだろう。

 だが、十年経って突然現われたマヤは、二十六歳の自立した女性になっていた。焦茶色の丸い瞳は、同じ光を放っていたが、寄る辺なさや絶望感は以前ほど感じられなかった。全精神で彼に寄りかからってきた魂の飢餓状態は、もうどこにも感じられなかった。養父母による支配は終わっていた。行こうと思えば、地の果てにでも一人で行ける。そして側には親切な男が立っていた。

 エステバンは、完全に思い違いをしていた事を知った。あの魂の交わりを必要としていたのは彼の方だった。それを知って以来、彼にはペルーに残る選択肢はなくなった。どうしても見つけられないと思っていた、彼の心の太陽は、ペルーにではなく、スイスにあったのだから。

 店に戻り、郵便受けを覗いた。待ち望んでいた封筒がそこにあった。海を渡ってきた書類。かつて彼を雇ってくれていた、メルスに店を持つ親方が、彼のために労働許可を申請してくれて、ついに許可が出たという返事だった。ドイツやイタリアにも申請を出していた。どこからもまだ芳しい返事は来ていなかった。何度諦めようと思った事か。ようやくやり直す事ができる。それも思った以上にマヤの近くで。


 店に入ると、電話に不在の着信があった事を示すランプが点滅していた。番号を確認するとマヤからだった。二人の通話は、たいていがマヤの方からかかってくるものだった。ギリギリの生活をしているエステバンにはとてもスイスに長時間の国際電話をする余裕はなかった。だが、その経済的格差は彼女の成長と同じように、彼の心を苦しめた。電話一つするのすら不自由している事実は彼の自尊心をも傷つけた。移住にも金がかかる。スイスからペルーに移住するのはとても簡単だった。だが反対はそうではない。だが、それをマヤには言いたくなかった。マヤの側にいた、もう一人のエステバンは、WEBデザイナーだといっていたな。花形の仕事だ。さぞかしいい給料をもらっている事だろう。

 エステバンは、頭を振って、迷いながらマヤに電話した。
「エステバン? ごめんね、忙しいの? そうじゃなかったら、私からかけ直すわよ」
「いや、いいんだ。知らせたい事があるんだ。二ヶ月したら、またメルスで働ける。今日、親方の手紙が届いたんだ」

「本当に? 嬉しい。夢みたい……」
彼女の声は涙をこらえているようだった。

「僕も嬉しい。しばらく電話も難しくなるけれど、その分そっちに着いたらたくさん逢おう」
それを聞いて、マヤは少し黙り、それから戸惑いながら訊いた。
「エステバン、あの、住む所はどうするつもりなの?」

 まだ何も考えていなかったエステバンは答えに詰まった。
「それは、親方に安い部屋でも紹介してもらうか……」

「メルスだったら、クールから通えるわ。あの、もし、よかったら、私のところに……」
エステバンはしばらく黙った。

「君のご両親に殺されるんじゃないか…」
「私、あなたに逢いにいった事も話したの。あまり好意的には受け止められなかった。でも、私はもう子供じゃないから、誰と住もうと両親の許可はいらないの。ただ、あなたが、私と住むのは嫌だと言うなら、無理強いはしないけれど……」
「嫌なわけはないだろう。ありがとう、マヤ。僕はただ君の邪魔にはなりたくないんだ」

「私が嫌になったら、いつ出て行ってもいいわ。でも、スイスでの生活が軌道に乗るまでは、私にあなたの手助けをさせて。私は、あなたと少しでも一緒にいたいし……」

 マヤとの電話を切って、エステバンはふと前を見た。鏡に彼自身が映っていた。優しい、愛しいマヤ。彼女の深い愛を感じる通話を終えたばかりだというのに、鏡に映った男は疲れて苦しそうな顔をしていた。彼は「太陽の乙女」をみつけた。しかし、彼自身はインカの皇帝ではなかった。


 暗い小さな台所で、マテ茶を作る。戸棚から、小さな缶を取り出して、壊れかけた小さなテーブルの前に腰掛ける。缶の中に入っているのはコカの葉を乾燥させたもので、コカ茶用にペルー中のどこでも買う事ができる。コカインの原料である事は間違いないが、コカ茶を飲むだけで酩酊する事はない。マテ茶よりも美味いと思う。だが、エステバンはこの茶を飲む事はほとんどなかった。

 彼の心はこの十年間ずっとペルーとヨーロッパの間を彷徨っていた。この地に足をつけて生きていく決意がないのに、この国から持ち出せない植物に依存した状態にはなりたくなかった。実際、二ヶ月後には彼はスイスに旅立つ。この葉ともお別れだ。彼は葉を一つ取り出して、噛んだ。体は軽くなり、不安はわずかに消えたように思われる。だが、中毒になるような変化ではない。マヤがこの台所にいた瞬間と、えらい違いだ。そう、これっぽっちの効果のものでも禁止するというならば、世界中の女をも撲滅しなくてはならないだろう。彼はゆっくりとマテ茶を飲むと立ち上がって、缶の中のコカの葉をゴミ箱に放り込んだ。

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友人が録音してくれたのと、全く同じ演奏家による動画発見。 貼っておきます。

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Posted by 八少女 夕

【小説】夜想曲 - 6- 夜の瀧

ブログのおともだちと、「めでたしめでたしの恋愛成就のその先について」みたいな話題をしたのですが、今回はちょっとそれにかすっているかなと思います。どんなに熱烈な恋愛をしていてもやっぱりケンカやすれ違いはあります。関係が長く続くには、そうした不協和音をどう通常モードに復帰させられるか、その辺が大事なんではないかと……。

そして、これが六回にわたって連載してきた「夜想曲(ノクターン)」の最終回です。お読みいただきまして、ありがとうございました。


「夜想曲(ノクターン)」を読む はじめからまとめて読む



夜想曲(ノクターン) 
- 6 - 夜の瀧



 その瀧は、ブレガリアの谷のずっと奥にあった。

 しんとした栗の林の間をひたすら車を走らせてゆき、途中からは徒歩で向かう。頼りになるのはどこからともなく聞こえてくるせせらぎで、それすらも風の向きでは今はあちら、今度はそちらと惑わす。

 エステバンは、ブレガリアに住んでいた頃、何度もその瀧に行った事があるので、もう暗くなり始めているとはいえ、迷う事はなかった。

 迷っているのは道順ではない、断じて。


 マヤとつまらない喧嘩をした。言うべきではない事を言った。彼女は自分のために骨を折ってくれたのに、それを受け入れられない。自分が悪いのはわかりきっている。だがどうしても我慢がならなかった。

 心地よいフラット。愛する女との生活。ものわかりのいい雇い主。困難の少ない仕事。いらだつ必要はどこにもないはずだった。

 だが、スイスに戻ってきて以来、エステバンは再び強い疎外感に悩まされていた。それは前よりも深い絶望だった。求め続けていた女の側で、もう一つの国にも自分の居場所はないとはっきり悟った後で、新しく始めた生活にこんな強い疎外感を感じるとは。

 たぶん、それを自覚するようになったのは、マヤに連れられてあのバーに行ってからだ。

《ふざけたエステバン》がいた。経営者であるゲイのカップルがいた。ハンガリー人とアンドラ人のカップルもいた。スイスドイツ語と英語とスペイン語が飛び交い、和やかに、けれど、お互いを干渉しない心地よい関係が見て取れた。

 どこかに傷を抱えているのは彼だけではなかった。マヤが彼を連れて行ったのも理解できた。だが、傷を克服している彼らを見ていると、自分だけが努力が足りないと言われているようで、苦しくなった。


 喧嘩の原因は、フラットの賃料の事だった。もう給料をもらっているのだから、半分負担したいとエステバンが言うと、マヤは彼にはまだスイスに戻ってくるために借金が残っている。それが終わってからの方がいいと反対した。そんな事を君に心配されたくないと憤った。変なプライドを持たないでと彼女が言った事で、彼はへそを曲げた。余計なお世話だというような事を言ったかもしれない。後はただの売り言葉に買い言葉だった。

 出て行く時に、泣きそうな声でマヤは訊いた。
「どこへいくつもり?」
「君の知った事じゃない」

 実を言うと、彼自身にもわかっていなかった。自分を受け入れてくれる唯一の場所、マヤのもとを飛び出すのだから。

 何も考えずに、まずは駅に向かった。自然とサン・モリッツへと向かう列車に乗っていた。行きたかったわけではなかったが、少なくともクールから遠かった。


 八月のサン・モリッツは夏休みを楽しむ人々で賑わっている。裕福で洗練された服装の人々がそこここを行き来する。冷たく取り澄ました風情に映る。クールにいるよりもずっと、痛みを突かれる。そこには長くいられなかった。再び駅に行くと、彼には行き先がわかった。ブレガリア。かつて彼が住んでいた谷。ドイツ語圏に我慢ができずに遷ったイタリア語圏の小さな村に行こう。


 バスに乗ってプロモントーニョへと向かう。彼は車窓を眺めていた。どこもかしこも清潔で、きちんとしている。バスの中にも、落書きや板が剥がれた壁などありはしない。差し込まれた時刻表も、まるで今設置されたかのようにきちんとしている。窓の外に広がる風景にもリマの貧民街のような悲惨で美しくないものは何もない。遠くの雪をいただく山は白く穢れない。彼は、イタリア語圏に行こうとスイスはスイスだと思った。

 自分が悪かったのは、わかっていた。あんな事でマヤに当たる必要はなかった。もしかしたら、これで彼女を失うかもしれない、そう思った途端、息ができなくなるほどの強い痛みを感じた。そう感じているのは自分だけではないかと思った。彼は、地元民たちがゆったりと乗り降りするのを眺めていた。

 もう一つ、バスを乗り継ぐ。終点の手前で降りると、バスの運転手は妙な顔をした。こんな何もない所で、外国人がどうするのだろう。
「注意しないと、帰りのバスがなくなるよ」
「わかっている。ありがとう」
イタリア語で答えると、運転手は納得して去っていった。

 そこは、かつて彼があの瀧に行く時に車を停めた駐車場のすぐ側だった。今から瀧に行ったら、もうサン・モリッツに向かうバスに間に合わないのはわかっていた。プロモントーニョに泊まればいいのだが、そういう周到さが氣にいらなかった。今後どこにも行くあてがないのに、ホテルだって。彼は頭を振った。

 あたりが暗くなった頃、例の駐車場にさしかかった。たった一台車が停まっていた。誰かがここに来るなんて珍しい。マヤの車に似ている。そう思って目を凝らしてナンバーを見た。マヤの車だった。

 エステバンは、足を速めた。マヤが来ている。僕を追ってきたはずはない。ここに来るなんて自分でも思ってもいなかったから。

 彼は、空港で待っていたマヤの事を思い出した。

 アトランタから到着した飛行機にはかなりの数の南米人が乗っていた。エステバンを含めて彼らは徹底的な荷物検査を受けた。横を白人がどんどん通されていく。荷物を全て広げる係員を見ながら、麻薬なんてどこにも入っていない、コカの葉一枚だってと、心の中でつぶやいたつもりだったが、それは声に出ていたらしい。係員は驚いた顔をした。
「東スイスの出身なのか?」

 エステバンはスイス方言でつぶやいていたのだ。
「はい。メルスで育ちました。メルスに戻るところです」
そういって、労働許可証を見せると、係員は早く言ってくれという顔をして、全ての荷物をまとめて、行っていいという仕草をした。

 ついた途端、麻薬売人扱いされたも同然だったので、少し落ち込んで出口へと向かった。それと同時に、マヤが抱きついてきた。
「エステバン! ようこそ、スイスへ。嬉しい。本当に来てくれたのね」

 彼はマヤを強く抱きしめた。世界中の他の奴らに不当な扱いをされたって構わない。彼女と一緒にいられるなら。


 車。空港を出て、颯爽と運転する姿を見て、エステバンは再び彼女がかつての高校生ではないのを認識した。マヤは自家用車を維持し、運転する事ができる自立した大人だった。フラットも広くて快適だった。彼がそれまで住んでいた祖国の小さな家がかわいそうになるほどに。これだけの暮らしを一人で維持し、彼の助けはいらない。むしろ、彼が彼女に援助してもらっている状態だった。それが、プライドを傷つけ、彼は拗ねていたのだ。

 どう考えても彼女は悪くない。彼ははじめてマヤの心について考えた。精一杯の善意と愛情を拒否されて、どれほど傷ついたことだろう。なぜ彼女はこの瀧に来たのだろう。まさか、何かよからぬ事を考えているのでは……。

 瀧の音が大きくなり、足下の自分の駆ける音さえも聞こえなくなってきた。懐かしい激しい音。かつてと同じように嘆きを感じた。

「私たちの代わりに泣き叫んでくれているみたい」
十年前の彼女の言葉が蘇る。

「マヤ、マヤ?!」
暗闇の中、樹々をかき分けながら、彼は叫んだ。

「エステバン……」
月の光が差し込む岩場に、マヤは座っていた。十年前に、二人が座って足を水に浸した場所だった。エステバンは走りよるとマヤを抱きしめた。

「ごめん……」
「私も、ごめんね」

「どうして、ここに?」
「ここしか思い浮かばなかったの。もし、ここにいなかったら、一人で泣けばいいんだって、ペルーに行く前に、そう思ったの。もし、あなたに許してもらえなかったら、一人でここに来ようって……」

 大人になり、自立していても、彼女は変わっていなかった。彼はそれを知った。二人の間の絆は失われていなかった。あの頃と同じ、壊れやすい魂をその体の中に抱えていた。

「一人で来たのか」
「あなたがいないのに、他に誰と来る事ができるの?」
彼の胸の中で、くぐもった声で答えるマヤは、すっかり冷えていた。

「僕もだ。君の所以外、帰る所はどこにもないのに、何を探していたんだろう」

 マヤが顔を上げた。月の光の中で浮かび上がるその顔をエステバンは美しいと思った。

「君は、とっくに鏡を出て現実の世界に行ってしまい、中に取り残されているのは僕一人だと思っていた」
「違うわ。私も、あなたも、鏡の外にいるの。でも、二つの魂はずっとあの中にいるんだと思うわ」

 彼は、彼女の意見に賛成だった。たぶん、この瀧の勢いに乗って押さえつけていた想いは、外に出てくる事ができるのだろう。瀧は、二人にとって鏡と現実の世界を結ぶ魔法の通過点だった。

「こんなに冷えて。行こう。風邪をひく」
マヤは、黙って頷いた。

 エステバンは、マヤの手を取って歩いた。暗闇の中、確かなものはその手に伝わるぬくもりだけだった。

「あなたを失うのかと思った……どうしていいのか、わからなかった」
彼女が小さくつぶやくと、彼は手のひらに力を込めた。
「君を失いたくないと思った。考えただけで、苦しくてどうにかなりそうだった」

 マヤが手を握り返す。
「私たち、会ったばかりなのにね……」

 この三週間、ペルーでの一週間、そして十年前の半日。そんなに短い間しか同じ時を過ごしていない。
「そうだね。でも、もう何万年も前から君に焦がれていたような氣がするよ」


 車を走らせるマヤに、しばらくするとエステバンは訊いた。
「なぜそんなにゆっくり走る?」

「だって、暗いし、道がよくわからないから……」
「停めて。僕が運転しよう」

 マヤはほっとしたように頷いて、運転席を空けた。不意に彼は悟った。マヤの力になるのは、こんな簡単な事なのだ。

 クールまでは二時間かからなかった。往きに四時間以上かかったのだから、後から出たマヤに追い越されてしまったのは当然だった。

「どのくらいあそこにいた?」
「一時間くらい。いろいろ考えていたの。私じゃ、だめなのかなとか。あなたを失ったらどうやって生きていけばいいんだろうとか」

「同じ事を考えても、僕の方が快適な場所にいたな」
「どうやって来たの?」
「サン・モリッツからバスに乗って」

「今夜はどうするつもりだったの?」
「どうでもよかった。そんな事を考えるの自体が嫌だった」
「……帰りたくないの?」

 その問いを聞いて、彼はマヤの方を見た。少し長過ぎるぐらいだったので、見つめられて、また、事故を起こすのではないかと心配して彼女はどぎまぎした。

「この車を見て、君がいる事を知った時に、僕はもう帰っていた。帰るのはフラットにじゃない。君の所になんだ」
マヤは、嬉しくて涙ぐんだ。

「次に喧嘩する時のために、もっと近い瀧を見つけておいた方がいいな。毎回こんな遠くまで来る必要はないよ」
それを聞いて彼女も笑った。
「サン・ベルナルディーノ峠の近くに一つあるわ。私ね。あそこを通って、あなたにどうしても会わなくちゃいけないと思った。ペルーに行こうって決めたの」


 フラットに戻ると、マヤは湯を沸かしてマテ茶の缶を取り出した。
「病み付きになっちゃったわ」

 コカ茶でなくてよかったなとエステバンは思った。
「僕が淹れよう」
彼女は微笑んで缶とポットを渡した。

「シモンが送還された後、何をしたか知ってる?」
「マネッティ坊やか? 何をやらかしたんだ?」

「向こうで氣にいったからって、インターネットで注文してスイスに大量のコカ茶を送りつけようとしたんですって。もちろん大騒ぎよ。ろくな事をしないからって、ついにご両親にネットの使用を禁止されてしまったそうよ」
彼は高らかに笑った。マヤはその笑顔を見て心から嬉しくなった。二人で過ごす、ごく普通の日常はこんなに楽しい。

「マヤ。僕にできることからさせてくれ。まずは食費を払う。借金が片付いたら家賃も負担する。遠出するときは運転もするし、買い物も手伝う。いいだろう?」
彼女は頷いた。

 二人は湯氣を挟んでお互いを見つめていた。

 傷つきやすい二つの孤独な魂は、帰る場所を知っている。どこから来たのでもいい。どこへ行くのも恐れない。二人の耳には、瀧の音が聞こえている。鏡から飛び出し自由に世界を泳いでも、その音を頼りにお互いのもとに戻る事ができる。魂はもう、どこにも閉じ込められていない。

(初出:2012年3月 書き下ろし)
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Category : 小説・夜想曲
Tag : 小説 連載小説