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【小説】雪降る谷の三十分

Posted by 八少女 夕

しばらく間が空きましたが、リクエスト掌編、当ブログの77777Hit記念、77777Hit記念掌編の7つ目。リクエストはポール・ブリッツさんにいただきました。ポールさん、大変お待たせしました。

ご希望の選択はこちらでした。

*古代ヨーロッパ
*植物その他(苔類・菌類・海藻など)
*アペリティフまたは前菜
*乗用家畜
*ひどい悪天候
*カンポ・ルドゥンツ村在住キャラ
*コラボ (範子と文子の驚異の高校生活 より 宇奈月範子)


今回のリクエスト、どの方も全く容赦のない難しい選択でいただきましたが、ポールさんも例に漏れず。これだけ長く空いてしまったのも、書かせていただくからには原作を読まなくてはいけないと思ったからですが、「範子と文子の驚異の高校生活」さりげなくものすごい量があるんですよ。

誠に申し訳ないのですが、一つひとつが読み切りになっているのをいいことに、半分くらいまで読ませていただいた上で今回の作品を書かせいていただきました。ポールさん、もし「なんだよ、原作と違うこと書くなよ」ということがありましたらご指摘いただけるとありがたいです。

今回のストーリーは、その中でこの二本を元ネタに書かせていただきました。(と言っても、大して絡んではいませんが)

範子と文子の三十分一本勝負:FIGHT・6
範子と文子の三十分一本勝負:FIGHT・92

今回もまた、盛り上がりもなければオチもない妙な作品になっていますが、カンポ・ルドゥンツ村って、そうそうめくるめく話のあるような場所じゃないんですよ。大昔も今も(笑)

なお、77777Hitの記念掌編はこれでお終いですが、「タッチの差残念賞+お嬢様のご結婚祝い」のかじぺたさんと「80000Hitぴったり踏んだで賞」の彩洋さんのリクエスト、これも近いうちに発表させていただきます。




雪降る谷の三十分
- Featuring 「範子と文子の驚異の高校生活」


 その谷は豊かな森林に覆われて、射し込む陽の光は神々しいほどだった。澄んだ空氣はぴんと張りつめて、「祝福された聖なる土地」に降り立ったのではないかと、二人はほんの一瞬思った。そして、こういう光景はテレビや映画で映像としてみる方がずっと好ましいと同時に結論づけた。

「ここ、寒いわね、範ちゃん」
「文子。そういう事実は、わざわざ口にしなくてもいいのよ」
「でも、私たち、冬用の衣装着ていないよ」

 レザーアーマーにショートソードという格好の範子は、なぜかショートパンツ姿で太ももが露出している。本来は戦闘するなら全身を覆うべきで、そんな妙なところの装備を弱くするはずはないのだが、この衣装は日本国のゲーマーたちの目を楽しませるためのデザインなので、実用とは関係ないし、ましてや防寒は考慮されていない。

 ローブに杖という格好の文子の方は、少しはマシだったが、このローブはコスプレ用に売られているチープな作りで、残念ながらやはり防寒を目的として制作されたものではないようだった。

 宇奈月財閥の後継者であるお嬢様範子と、その友人である下川文子は、私立の紅恵高校および作者の都合でどこかの謎の学校または学校ですらない場所に神出鬼没に登場する女子学生である。氣の毒なことに、二人は予告なしで、台本すら渡されずに、どこかに放り出されるだけでなく、その事態に30分でオチをつけることを要求されていた。

 だが、その小説『範子と文子の驚異の高校生活』は、既に完結した。ようやく安穏の生活を手に入れたはずの二人は、またしてもこんな出立ちで、高校生活とはあきらかに縁のなさそうな森林に出没したことに、明らかに不満を持っているようだった。

「まず状況を把握しなくちゃいけないわ。この植生から推測すると、かなり北の方だと思う」
「それはこの寒さからも予想がつくわよ、範ちゃん」

 文子の指摘を無視して、範子はショートソードで当たりの草を掻き分けた。そして、どうやら丘の上のようなところにいることと、とてもそうは見えないけれど、そこが道であることを確認した。
「う~ん。まずいわね」

「なにがまずいの。範ちゃん」
「みてご覧なさいよ、文子。あの先にある集落」
「あれは、なんだったけ、えっと」

「竪穴式住居。今どき北半球にあんな文明未発達の集落があるわけないし、これって……」
「タイムスリップ?」

「もしくはパラレルワールドよね。そのこと自体はどうでもいいけれど、あんな家にセントラルヒーティングがあると思う?」
「……。ないと思う」

 とはいえ、寒空に立っていれば自動的に暖かくなるわけでもない上、どうも雲行きが怪しくてこのままでは更に震える羽目に陥りそうだったので、二人はその道を下り始めた。

「範ちゃん、待ってよ」
「今度は何?」
「このローブがあちこちの枝に引っかかってそんなに早く歩けないのよ。なんなの、ここは」
「しょうがないわね」

 範子は、ショートソードを振って、枝や草を切りひらきながら歩き始めた。そうやっているとわずかでも暖かくなるように思った。

「○×△※◆」
野太い男の声がしたので、二人は動きを止めた。後にいつの間にかロバを連れた男が立っていた。何種類かの獣の皮を繋ぎ合わせたような外套を身につけていて、濃いヒゲのある浅黒い男だった。

「範ちゃん! ガイジンさんだよ。なんか言ってる」
「文子。その情報は、わたしには必要ないわ。この場にいるんだから」
「でも、範ちゃんならなんて言っているかわかるんじゃないかなって」

「全然わかんないわよ。英語でも、イタリア語でも、フランス語でも、スペイン語でもないし、ラテン語ですらないわ。一応、ラテン語で訊いてみようかな - 《ラテン語、話せます?》」

 男は、厳しい顔をして答えた。
「《なんだ、お前ら、ローマ市民か!》

「つ、通じた……。でも」
「でも、何、範ちゃん?」
「どうやら怒っているみたい。ラテン語は使わない方がよかったのかしら」
「え。でも、その人も使っているんでしょう」

「言われてみれば、そうよね。ローマ市民がどうのこうのってことは、ここはローマ帝国時代なのかしら。その前提で話を進めてみようかしら」

 範子は日本人特有の意味のない微笑を浮かべながら、まったく好意を感じられないヒゲ男に語りかけた。

「《ローマ市民じゃないわ。あなたの言葉がわからないから、これなら通じるんじゃないかと思っただけ。私は範子、こちらは文子。旅の間に迷子になったみたいなの。あそこの集落はあなたの村なのかしら》」
「《その通りだ。俺はジヴァン。そのルドゥンツに住んでいる行商人だ》」
「行商人? 狩人かと思った。《何を商っているの?》」
「《いろいろ扱うが、メインは火打石や金属、それに塩だな。お前の持っている剣はなんだ?》」

「剣のこと訊かれちゃった。これってコスプレ用だからずいぶん軽いけれどプラスチック?」
「範ちゃん、この時代にプラスチックとか言わない方がいいんじゃないの?」
「言わないわよ。《よくわからないの。どっちにしても戦いには向かないチャチな剣よ》」

 ジヴァンは、ますます難しい顔をして、二人を眺めた。見れば見るほど、話せば話すほど怪しくなるのだろう。でも、高校の制服で登場しなかっただけでもマシな方だ。
「《本当にローマからの回し者じゃないんだろうな。俺たちは、コソコソ嗅ぎ回られるような悪いことはやっていないぞ。それに何度言われてもびた一文払わんからな》」

「《あ~、政治状況がわからないんだけれど、ここはローマの属州なのかしら》」
ジヴァンは、ムッとして手に持っている棒で殴ろうとしたが、範子がそれをショートソードで防ごうともせずに、単に逃げ腰になったので拍子抜けしたらしかった。

「《本当に何もわかっていないようだな。ここはラエティアだ。ローマの奴らはどんどん自分たちの陣地を増やして、ラエティア州などと自分たちのものにしたつもりかもしれんが、寒いのが苦手らしく、このあたりにはまだ来ないのさ。俺たちの先祖であるティレニア海の輝ける民はもともとローマの奴らに追い出されてここに来たんだ。ようやく見つけた安住の地をまた奪われてなるものか》」

 文子は範子をつついた。通訳しろという意味だ。
「おそらくここはドイツ南部からスイス東部のどこかね。この地形だとアルプスの麓、グラウビュンデン州あたりじゃないかしら。ローマ人に追い出されたエトルリア人かなんかの子孫の集落なんじゃないかな。ルドゥンツ村の行商人ジヴァンさんだって」

「ふ~ん。セントラル・ヒーティングの件は、やっぱり無理そうよね」
「無理無理。火打石とか言っているし。《すみませんが、すぐに嵐が来そうな感じだし、更にいわせてもらうと、とっても寒いんだけど》」
「《今日は、この季節にしたら暖かいじゃないか。見ろよ、これから雪がくるんだぞ》」
「《雪が降るのに何で暖かいのよ》」
「《わからないヤツだな。晴れていたらもっとずっと寒いだろ。そもそも、お前がそんな恰好をしているから寒いんだろう》」

 現代のスイスでも、真冬の晴天には-10℃を下回ることが多く、雪が降りそうな天候では摂氏0℃くらいまで氣温が上昇するのだが、日本の首都圏に住んでいる範子たちにとっては「雪=とっても寒い」なのだった。

 男が指摘した通り、範子は地球温暖化が進む前の、いや小氷河期と言っても構わない古代アルプス地方にふさわしい服装をしていない。が、ゲーマー好みのコスプレなどと言っても理解は得られないので、こほんと咳をして誤摩化すと畳み掛けた。
「《とにかく、あなたの村で暖をとらせてくれないかしら。お礼に、これをあげるから》」

 そういって、文子のマントを留めているプラスチック製のブローチを示した。ちょっと見には宝石のように見えなくもないし、そもそもプラスチック製のブローチが宝石よりも価値がないことはバレっこない。

 ジヴァンはちらっとブローチを眺めて、素早く何かを計算したようだった。そして、ついて来いと顔で示して、ルドゥンツの集落に入っていった。

 一番手前の家に入ると、ロバを杭に繋ぎながら大きな声を出した。
「○×△※◆」
おそらく、今戻ったぞとか、客を連れてきたなどと言ったのであろう。竪穴式住居の中からすぐに女性が顔を出して、何かを言った。

「《これが妻のミーナだ。ようこそと言っている。悪いが、その物騒な武器はこの入口に立てかけて中に入ってくれ》」

 範子にとっては、このショートソードは杖以上の役割は果たせないので、大人しく言う通りにして中に入った。中は、思っていたよりもずっと暖かくて、二人はホッとした。建物の真ん中に炉があって火が赤々と燃えている。火には串刺しになった肉類がくべられていて、バーベキューのようないい香りがしている。そして、その側にある平らな石にはピタパンかナンのようなパンが並べられていた。

「ラッキー! 暖かいだけじゃなくて、なにか美味しいものも食べられるみたい」
文子は嬉しそうに炉の前にぺたっと座った。ミーナはニッコリと笑って、まずはその謎のパンを手渡してくれた。

「熱っ。いただきま~す」
暖かさに幸せになりながら、ぱくついた二人は、すぐに目を白黒させた。

「何これ。苦い……」
文子は少し涙目だ。範子はジヴァンに訊いた。
「《これ、何ですか》」

「《これを挽いて作ったパンだよ》」
彼が指差した先には、淡い栗色の海藻みたいな外見の苔が山積みになっていた。

「何これ」
「えっと。地衣類みたいね。なんだっけ、Cetraria islandica。アイスランドゴケともいうエイランタイが日本での名称だと思うわ。解熱や腹痛のときに使う民間薬としても有名なのよ」

「ええっ。そんなの食べてお腹大丈夫?」
「大丈夫じゃないかも。まあ、北ヨーロッパでは現代でもパンにしたりするって聞いたことがあるから、こうやって食べるのは問題ないとしても、こんなに苦いのにたくさん食べるのはちょっとね。でも、お肉もそろそろ焼けるみたいだし……」

 そう言った途端、轟音とともに突風が吹いて、木のドアがばたんと開いた。雪のつむじ風が渦巻き、二人の高校生を巻き込むと、その場から連れ去った。

「ええ~、範ちゃん、お肉まだ食べていないよ~。あのまずい前菜だけで終わりなんてひどすぎる」
「しかたないわよ、文子。もう30分経ってしまったんだもの。どうしてこのシリーズって30分限定なのかしら!」

 約束のブローチを渡すこともなく、大事なパンをただ食いしたあげくに、礼も言わずに消えてしまった二人の女に、ジヴァンは腹を立てた。が、よそ者を安易に家に連れてくるからだと妻に怒られて終わった。ブツブツ言いながら戸締まりをした時に、雪にまみれてプラスチック製の子供騙しなショートソードが残っているのを発見した。

 見かけはなかなか派手だが戦いには全く役に立たないこのコスプレ用の剣が、当時のヨーロッパ中をババ抜きのババように売り渡されて、最終的にイギリスのストーンヘンジのあたりで埋められたあげくに後日発掘され、謎のオーパーツとして大英博物館に所蔵されることになるのは、もう少し後の話である。


(初出:2016年10月 書き下ろし)
.05 2016 読み切り小説 trackback0

【小説】二人きりのクリスマス

Posted by 八少女 夕

さて、今日の小説はクリスマス企画でございます。しかも、大海彩洋さんの企画にようやく乗れる小説のアイデアがうかんだので、そのお披露目。

彩洋さんの企画: 【物語を遊ぼう】16.名作を書き換えよう

ここで言う書き換えは、登場人物の名前や設定を借りて自由な物語を展開するというタイプの二次創作とは違って、基本的にストーリーの途中まではもとのままで、途中~ラストを変えてしまうというものです。
一応ルールがあって、基本的には物語の途中までは原文のままで設定は変えない(自由枠アリ)、物語の流れに違和感がないようにする(原文の部分~改変部分の継ぎ目に違和感がないように)、などなど、いくつか決まりがありました。
だから自由度は思ったより低かったんですけれど。

でも、ここでは遊びですから、自分が気になっている「あの有名な」物語をいじくってみるのが一番いいですね。
悲劇が気に入らなければハッピーエンドに変えちゃう。

【物語を遊ぼう】16.名作を書き換えよう より


で、正確にはあまり条件を満たしていません。今回下敷きにしたのは、文学作品ではなくてバレエ(の脚本?)です。クリスマスのバレエと言えばあれです。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」。E.T.A.ホフマンの童話 『くるみ割り人形とねずみの王様』 を原作にマリウス・プティパがバレエ用の脚本を起こしました。

私の小説は一幕のほとんど終わりから始まります。つまり主人公クララがくるみ割り人形をもらうクリスマスパーティのシーンは省いてあります。それまで書くとあまりに長くなるので、回想的に途中にぶち込みました。納得のいかなかった所、書き換えた所については、追記をご覧ください。




二人きりのクリスマス

 クララは息を飲んだ。ぐんぐんと伸びるクリスマスツリー。ツリーを覆っている白いロウソクの焔は全て吹き消したはずなのに、とても強い光を放っている。人形の家に飾られたティーセットが揺れてカタカタと鳴った。

 時計が12回鐘打った後に、ひたひたと音をさせてドブネズミの集団が集まってきた。四匹の兵卒に肩車をされて剣を振り回している王冠をかぶった黒いネズミの目はオレンジ色に光っていた。クララは悲鳴を上げたが声が出なかった。

 ドブネズミの王がクララの顔を見てベッドを目指して動き始めると同時に、扉が開いてフリッツのコレクションである兵隊人形たちが入ってきた。そして、ベッドの横に寝かせたくるみ割り人形もサーベルを振り上げて、クララを守ろうとした。彼は足を引きずっていた。怪我が痛むのだろう。

 兵隊人形たちと一緒にくるみ割り人形は勇敢に戦ったけれど、ドブネズミの軍団も強くて、闘いは膠着状態だった。くるみ割り人形が果敢に振り上げたサーベルを避けようとしてドブネズミ王は肩車から落ちた。それからドブネズミ王とくるみ割り人形の一騎打ちが始まった。

 くるみ割り人形。今夜のクリスマスパーティで、名付け親であるドロッセルマイヤーさんがクララにくれたプレゼントだった。彼女の兄のフリッツは兵隊人形を貰って、クララのくるみ割り人形が醜いと嘲笑った。そしてフリッツの友達たちも一緒になって醜い人形のことを囃し立てた。「そんなことないわよね」と訊かれたクララの女友達も肩をすくめて無言で少年たちの意見を後押しした。クララは悲しくなって孤立無援のくるみ割り人形を抱きしめた。

 ドロッセルマイヤー氏がクララにどうやってくるみを割るか実演してみた。それを見たフリッツは自分のプレゼントにはない実用的な一面に心惹かれて、クララからくるみ割り人形を奪い取ろうとした。二人の取り合いの最中に大事な人形の片足がもげてしまった。父親の雷が落ちてフリッツと少年たちは退散し、泣きじゃくるクララを母親や友達が慰めた。ドロッセルマイヤー氏がもげた足をなんとか繋げてくれた。くるみ割り人形が足を引きずっているのはそのせいなのだろう。

 真夜中、ドブネズミの軍団と人形の軍隊が激しく戦っている。足を引きずりながらもくるみ割り人形はどちらかと言うと優勢だった。けれど、卑怯なネズミの手下たちはくるみ割り人形の後ろに回って弱点である足にかじりつこうとした。

「危ない!」
クララは夢中でスリッパを投げつけた。どういうわけかスリッパはずっと大きくなってまともにあたったネズミたちはびっくり仰天、そのまま尻尾を巻いて逃げだした。手下がいなくなったのでドブネズミ王も王冠を取り落としてあわてて逃げだした。

 残ったのは巨大なスリッパと、やはりそれに当たって倒れていたくるみ割り人形だけだった。
「大丈夫? 私のお人形さん!」
クララが駆け寄ると、スリッパが小さくなって横に落ち、倒れていた人がゆっくりと起き上がった。それはもう醜いくるみ割り人形ではなくて、おとぎ話の絵本で見る王子様のような凛々しく背の高い美青年だった。

「ありがとう。クララ。あなたが私を救ってくれたのです」
クララは言葉を発することもできず、その輝くような姿を見つめていた。
「あなたを私の王国にご招待しましょう」
「あなたは王子様なの?」

「ええ。私はお菓子の国の王子なのです。けれど誕生パーティでネズミの女王を踏み殺してしまったので呪いを掛けられてくるみ割り人形にされていたのです。あなたが助けてくださったので、ドブネズミ王を打ち負かすことができ、私の呪いは解けました。私の王国での祝宴への招待を受けてくださいますね」

 クララは熱にうなされたように、じっとくるみ割王子の緑の瞳を見つめながら頷いた。

 なんという美しい旅だったことだろう。雪の舞い落ちるどこまでも続く松林を王子と二人で進んだ。雪の精たちが周りを二人を祝福するように踊る。時に優しく、時に狂ったように。冷たい風もなんともなかった。王子が優しく微笑み、そのマントの中にクララを包み込んでくれた。クララの心にはロウソクの燈のようなオレンジ色の焔が燃え盛っていた。私の大好きな王子様! この時間が永遠に続きますように。

 お菓子の国は明るくて華やかだった。全ての壁は生クリームやメレンゲ、それにクッキーで埋め尽くされ、色つきチョコレートの屋根、マーブルチョコレートの床やパーヴェ・ド・ショコラの石畳、カラメル細工の窓枠で覆われていた。赤、ピンク、黄色、緑、青、そして金や銀で彩られ、歩いているだけで心が躍った。

「私の王国はお氣に召しましたか」
くるみ割王子は優しく微笑み、クララは大きく頷いた。なんて素敵な所だろう。

「王子様、お帰りなさいませ!」
「王子様、幸福をお祈りします」

 沿道からの全身お菓子を飾った人びとに手を振ってこたえながら、王子はクララを大きなお城へと誘った。広間には色とりどりのドレスを纏った人びとが王子の帰還を祝うために集まっていた。
「クララ、紹介しよう。こちらはコーヒーの精、チョコレートの精、それにお茶の精……」

 クララはにこやかにアラビア風の衣装を身に着けた男女、スペイン風の衣装をまとった二人、そして小さい中国人たちに挨拶した。彼らは王子を助けてくれたことへの礼を言うと、それぞれが素晴らしい踊りを見せてくれた。ロシアの踊りや牧人たちも踊ったあと、ピンク色の砂糖菓子の妖精たちが花ひらくような心躍るワルツを魅せてくれた。

 クララは幸福に浸っていた。こんなに幸せなことがあるだろうか。お菓子に囲まれて夢にまで見た凛々しい王子様と二人で素晴らしい踊りを眺めている。クララはそれを伝えようと背の高い王子を見上げた。王子はにっこりと微笑むと言った。

「命の恩人であるあなたに、ぜひ紹介したい人がいます。私の最愛の女性、許嫁である金平糖の精です」

 クララは王子が何を言っているのかわからなかった。戸惑っているクララの前に白と黄金の衣装を身に着けた輝くように美しい女性が表れて、頭を下げた。王子は金平糖の精の手を取り、その手の甲に愛しげに口づけをすると幸せに満ちたパ・ド・ドゥを踊りだした。

(どうして?)
クララは泣きそうになり顔を背けて横を見た。そこには大きな鏡があって、小さな少女であるクララが映っていた。寝間着を着て、裸足で、たった十歳の何もできない少女の姿だった。涙で目の前が曇ってきた。

「そろそろお別れの時間です」
お菓子の国の妖精たちが、くるみ割王子と金平糖の精が、名残惜しそうに手を振っている。帰らなくてはいけないのだとクララは悟った。私はあそこで王子様と暮らすことはできないのだと……。
「さようなら、さようなら……」

* * *


 ノックの音がうるさい。クララは目をこすった。彼女は自分のベッドにいた。もう朝だった。はっと横を見るとくるみ割り人形は、昨夜横たえたのと同じ位置に横たわっていた。

 ノックが続いている。
「クララ? まだ寝ている?」
フリッツの声だ。妙に猫なで声だけれどどうしたんだろう。クララはそっと起き上がると、昨日ネズミたちに投げたはずなのに、ちゃんと行儀よくならんでいるスリッパに足をつっこみ、そっと部屋のドアを開けた。フリッツが頭をかいていた。

「おはよう。その……昨夜のこと、まだ怒っている? その、パパとママがクララと仲直りするまではクリスマスプレゼントを開けちゃいけないって……」
フリッツの意図がわかったクララは皆までいわせなかった。すぐにデスクの所に行くと、銀色のボンボニエールを手にして戻ってきた。中にはたっぷりと金平糖が入っている。

「フリッツ、あたしも悪かったわ。これ、お詫びのしるし。クリスマス、おめでとう!」
そう言って意外な成り行きに呆然とするフリッツの手の中にボンボニエールを押し付けた。

「そ、それはどうも。あ、でも、僕、どっちかというと、金平糖よりチョコレートの方が……」
そういうフリッツの鼻先でクララはばたんと扉を閉めた。

 それから彼女は、ベッドに横たわるくるみ割り人形の所に戻った。昨日と同じように醜くかったが、朝日の中でその顔は笑っているようにも見えた。
「これでいいの。やっと二人きりになれたわね」

 平和で素敵なクリスマスの朝だった。他のプレゼントなんて何もいらない。クララはくるみ割り人形をぎゅっと抱きしめた。

(初出:2014年12月 書き下ろし)

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さて、どこが変わっているかというと、最後の朝のシーンです。クララが金平糖をフリッツに押し付けて……みたいなブラックなくだりはバレエにはありません。

でも、子供の頃にくるみ割王子と金平糖の精のパ・ド・ドゥを観て、裏切られたような氣持ちになったのですよ。「ええっ、この期に及んでなぜ他の女と踊るわけ?」って。

バレエを全く観ない方には事情がわからないでしょうから、ちょっと解説します。このバレエの主人公クララを演じるのは、そのバレエ団のプリマの場合と、バレエ学校などに在籍中の少女の場合と2パターンあるのです。クララは子供の設定ですが、プリマがとても背が高いと子供に見えないのですよね。で、クララを大人が演じる場合は、金平糖の踊りを含むパ・ド・ドゥはいつの間にか着替えたクララ役のプリマが踊るのでそれでいいのですが、子供が演じている場合は、さすがにパ・ド・ドゥのような難易度の高いものは踊れないわけです。それで、「金平糖の精」という他の女が唐突に登場し、目の前でくるみ割王子と踊るわけです。

要するに子供が主役のストーリーでも見せ所のパ・ド・ドゥは外せないというバレエ団側の大人の事情があるわけですが、子供だった私にはそんなことはわかりません。まるで目の前で他の女に王子様がかっさらわれたように見えたわけです。舞台の演出では、クララ役の少女はそんなどす黒い様子は見せずに憧れの視線で二人を見つめ、お別れも無邪氣に幸せそうにやっていましたが。

そういうわけで、今回の作品では、「くるみ割り人形から金平糖を遠ざける」という嫉妬に駆られたクララを加えてみました。しょーもないですね。

あ、どうでもいいことですが、「金平糖」は日本で上演されるときの慣例でそうしましたが、原作では「ドラジェの精」です。銀のボンボニエールに入れられて結婚式の引き出物として配られたりする、あれですね。
.14 2014 読み切り小説 trackback0

【小説】半にゃライダー 危機一髪! 「ゲルマニクスの黄金」を追え

Posted by 八少女 夕

本日は、44444Hit記念の第二弾です。リクエストは大海彩洋さんからいただきました。「半にゃライダー in スイス」です。彩洋さん、ありがとうございます!

ええと、「半にゃライダーって何?」という方、いらっしゃいますよね。もともとはlimeさんのイラストに彩洋さんがつけたお話にちらりとのせた番組名に、私が食いついて8888Hitの記念作品を書いていただき、それがいつの間にか、「スイスを舞台にした新シリーズ、半にゃライダー2」が始まるってことになっていて……。詳しくは彩洋さんのこの作品とその解説をお読みくださいませ(説明放棄の丸投げですみません)

そしてですね。リクエストのお答えしてのこの作品ですが、スイスを舞台にした「半にゃライダー2」という番組という設定の掌編です。100%内輪受けの冗談作品になっています。「半にゃライダー」「大道芸人たち Artistas callejeros」「日本の時代劇」のうち、少なくとも二つはご存じないと意味不明だと思います。また、おちゃらけた冗談作品、内容のない小説は苦手という方もお氣をつけ下さい。




半にゃライダー 危機一髪!
「ゲルマニクスの黄金」を追え


 ニゲラの花のように青くて雲ひとつない晴天。子供たちの歓声を受けながら一人の仏蘭西人が手品を披露していた。

「子供たちと親しくなり、情報を得よ」
お上からの命を受け、彼はアルプを見上げる平和な村ドルフリの噴水広場にやってきた。

 彼の本当の名前はレネ・ロウレンヴィルというのだが、移住した極東の国の風習に倣い今では楠麗音と名乗ることになった。手妻師は世を忍ぶ仮の姿、彼の正体は隠密同心である。永らく足を踏み入れていなかった欧羅巴に渡ることになったのも隠密支配、内藤勘解由の命によってであった。

 同じ頃、ライン河を越えた保養地バート・ラガッツの高級ホテルの温泉浴場では二人の日本人がやはり隠密捜査をしていた。この保養地には、欧羅巴中から多くの富豪が治療のために訪れる。たとえばつい先日も、フランクフルトに住むとある裕福な商人の娘が訪れ、歩けるようになって帰ったという。

「で、なぜ、いきなりこんな際どい入浴シーンがあるわけ?」
黒髪を頭の上にまとめあげ、通常のものよりも布の面積が少ないように思われるビキニを着用して胸の谷間が見える絶妙の位置にまで湯に浸からされ、ぶつぶつ文句を言っているのは篠笛のお蝶と呼ばれる隠密同心。

「あん? 予算がなくて三十分番組なんだってさ。だから、お約束のシーンは出し惜しみしないでガンガンいくんだそうだ」
同僚である三味線屋のヤスは、ニヤニヤと笑いながら役得を楽しんでいる。

「そういうわけで、時間がないので話を進めるぞ。内藤様が事前にキャッチした情報によると、問題が起こっているのはあのアルプだそうだ」
「あの山の上? 山羊や牛が食べる草原以外は何もないところじゃない」
「そう見えるだろ。それなのに干し草づくりをしていた牧人や、チーズ職人たち、それに貧しい山羊飼いたちが、次々と強制退去させられ、断った者たちは事故にあった」
「きな臭いわね」

「そうだろう。で、怪しいとされているのが、あの男だ、ロマーノ・ペトルッチ」
ヤスがそっと示した先には、確かに異様に怪しい男がいた。赤と青の目立つ縦縞の上着を羽織り山高帽をかぶった男だ。プールサイドだというのに。くるんとした髭が自慢らしくしきりにひねり、いくつものプールが見渡せるバーに座っていた。

「何者なの?」
「ドルフリの会計係だ。だが、稲架村はざむらの得た情報によると、ドルフリの村長の座を狙っているらしい」
稲架村はざむら貴輝と呼ばれる隠密同心もまた調査に加わっている。この男はもともとこの地域の出身で、本名をアーデルベルト・フォン・エッシェンドルフという。金髪碧眼の異人だが江戸では歌舞伎役者として知られていた。

「じゃ、ちょっとその会計係を揺さぶってみましょ」
お蝶は勢いよくプールから上がると、係員にバスローブを着せてもらい、さりげなくロマーノの隣に座ってテキーラ・サンライズを注文した。ロマーノは「ほう」という顔をして神秘的なアジアの女を頭から足先まで眺めた。

「泳がないんですか?」
お蝶は魅惑的に微笑みながら訊いた。
「私は眺める専用でして。例えばあなたのように美しい方を」
「まあ、お世辞が上手ですこと」
「お世辞ではありません。実をいうと、私がここにいるのはスカウトのためなのですよ」
「なんのスカウトですか?」
「修道女です」

 お蝶は目を丸くした。何もプールでそんなスカウトをしなくても。ロマーノはくるんと髭をしごきながら笑った。
「ご心配には及びません。修道女というのはあくまで形式でして、実をいうと大司教様のお世話をする美しい女性が必要なのです。その、おわかりですね、特別なお世話です」
「まあ、そういうお世話ですか。そういうお仕事なら興味がないわけではありませんわ」
お蝶は納得したという風情で艶やかに微笑んだ。ロマーノは彼女の手をしっかりと握り、「それでは」と言った。

「ところで、どちらの大司教様?」
「クール大司教、ハインリヒ・フォン・エッシェンドルフ様ですよ」
へ~え。それが黒幕ってことかしら……。

「パピヨンは、あんなところで何をしているんですか?」
やってきた麗音がそっとヤスに話しかけた。

「色仕掛けだよ。ところで子供たちの方はどうだった?」
「はい。どうやらあの村の伝説によると、あの山のてっぺんにはラエティア族からローマの将軍ゲルマニクスが奪ったとされる『ゲルマニクスの黄金』が埋まっているみたいです。たぶん、それを狙っているんでしょう」
「なるほど。だから、あんな何もないところを。それで立ち退きはほとんど終わっているのか?」
「いいえ。どうやら偏屈者のアルムオイヒという爺さんとその孫娘がどうしてもどかないらしいです。こちらに情報を提供してくれたヨーゼフという山羊飼いは、どうやらその孫娘のボーイフレンドのようです」

「で、立ち退きを進めさせているのは?」
「村の会計係ペトルッチです。どうやらクール大司教の後ろ盾があるらしく、抵抗した者の娘たちはみな修道女にされてどこかに連行されたとか」

 その時、どこからともなくヨーデルが響いてきた。遥か先、川向こうのドルフリからのようである。その響きは何か訴えかけるような痛々しいものだった。
「あれは、なんだ?」
隠密同心たちは、急いで更衣室に向かう。水着では駆けつけられないので。

 同じ頃、件のアルプにいたヨーゼフもまたそのヨーデルを耳にした。彼はその意味をはっきりとわかっていた。SOSだ。そして、そのそれを発している女性は、アルムオイヒの孫娘であり、村長の娘でもあるマルガレーテであった。度重なる修道女スカウトをにべもなく断っていたのだが、好色な大司教が実力行使に出たに違いない。いますぐ助けにいかなくては。三十分番組は展開が早すぎる。

 しかし、アルプに散らばった山羊をそのままにはしていけない。狼に食べられてしまう。ヨーゼフは必死で口笛を吹き山羊たちを集める。そのヨーゼフを見て助けに立ち上がったものがいた。ずっと登場していなかったが、この番組のヒーローである飼い猫ペーターだ。彼は半にゃライダーの伝統にふさわしい茶色い虎柄の仔猫で、普段はカラスが来ても逃げる。けれども、伝家の宝刀である般若面を被るとちょびっと強くなるのだった。一割増程度。

「変っ身!」
時間が押しているのでサクサクと変身すると、一頭の山羊にまたがり、ドルフリに向かって駆けていった。ヨーゼフは祈るようにその後ろ姿を目で追う。
「頼むぞ、半にゃライダー! 僕もすぐに追いかける!」

 ヨーゼフと隠密同心の四人がドルフリに駆けつけた時、半にゃライダーの姿はなかった。そして、村の老人たちが号泣していた。
「マルガレーテと、全ての若い娘たちは修道院に連行されてしまった。それに、あの変な猫も捕まって、クールに連れて行かれてしまい……」

「遅かったか!」
「許せん!」

 いつの間にか正装に着替えた四人とヨーゼフは、横に一列に並び、ついでに山羊の群れも道路を占領しつつ片道四時間およそ五里(19km)を徒歩でクールに向かった。

「隠密同心 心得の条 我が命我が物と思わず 武門の儀、あくまで陰にて 己の器量伏し、ご下命いかにても果すべし なお 死して屍拾う者なし 死して屍拾う者なし 死して屍拾う者なし」
「めええ」

 クールの大司教館ホーフでは、マルガレーテが民族衣装ドリンデルを脱がせようとするハインリヒ大司教に抵抗していた。
「やめてください! あなたは聖職者ではないですか」

「よいではないか、よいではないか(注)。抵抗しても無駄というもの。お前も、お前の爺さんの小屋の下に眠る黄金もワシのもの。あのお宝さえあれば、枢機卿の座はもちろん、賄賂次第では次の教皇となることも……」
「ふふふ。大司教様も悪ですなあ」
「そういうペトルッチ、お前もな……」

「話は聞いた!」
「だ、誰だっ」

「めええ」
隠密同心たちと山羊の群れは豪華な広間になだれ込む。山羊の匂いにハインリヒは顔を歪める。だがペトルッチは少し安心した顔になった。
「なんだ、さっきの尻軽女たちか。お前も大司教様の愛人にしてやるから、さっさとこちらに来い」

 だが、ハインリヒの目は稲架村はざむらに釘付けになっていた。
「そこにいるのは……数年前に家出をしたわが息子、アーデルベルト……なぜお前がサムライの格好をしているのだ」
「げっ。大司教さま! カトリック聖職者のあなた様が隠し子がいることをここで認めちゃ、まずいんじゃ……」
ロマーノが小声で囁く。

「その通り! この俺がお前の悪行の動かぬ証拠だ!」
「徳と祈りによってではなく『ゲルマニクスの黄金』で、枢機卿の座を買おうとする腐りきった性根、言い逃れはできませんよ!」
「さらに、罪のない娘たちを修道女に仕立てて愛人化したことも教会に背く大罪よ」
「それだけではない。村長の座を狙うペトルッチの言葉に載せられてドルフリ村長一家を陥れんとし、あまつさえ一人娘を誘拐したこと、許しがたい! 教皇猊下にありのまま報告する故おとなしくご沙汰を待つがよい」

二人は青くなる。
「な、なんだと? 貴様ら一体何者だ!」

「ローマ教皇猊下の密命を受け、わざわざスイスまでまかり越した。我は隠密同心、稲架村はざむら貴輝!」
「同じく、手妻師 楠麗音!」
「同じく、篠笛のお蝶!」
「同じく、三味線屋ヤス!」

「そして、この私、山羊飼いのヨーゼフこそ、隠密支配・内藤勘解由!」

「隠密同心に異人が三人もいるのって、どうよ……」
ヤスが小さい声でお蝶に囁く。お蝶は肩をすくめる。
「最近は助っ人異人なしではどの業界も成り立たないって話よ。とくにうちは労働条件が劣悪だからなかなかなり手がねぇ」
「まあな。葬儀代くらい支給してくれないとなあ」

「ううむ。もはやこれまで。こうなったら貴様らもろとも、死んでもらうだけだ。ものども、出あえ、出あえ~!」
後ろの扉をばたんと開くと、その場に全くそぐわない、チープな黒タイツに白い骨のような柄のついた集団が大量に躍り出た。
「イー」

「ちょっと、何なの? あのへんな集団は」
「ショッカーだよ! この番組、半にゃライダーだから」
ヤスが三味線から取り出した仕込み刀を手にショッカーたちに飛びかかっていく。忍者風の衣装なので身軽だ。

「え? 大江戸捜査網じゃないの?」
お蝶は呆然とした。主演ではなく別番組ということは、その他大勢とやり合わなくてはならないというわけだ。不満を表明しても聞いてくれる人がいるわけでなし、諦めてやはり笛の形をした仕込み短刀を取り出してショッカー退治に取りかかった。芸者の衣装は動きにくいことこの上ない。

「この変な集団と殺陣をやるために、俺はこのアバンギャルドな髪型にされたのか……」
稲架村はざむらは一人五つ紋付の衣装のため、金髪で髷を結い月代に剃った髪型に変わっていた。日本刀でショッカーたちを次々と峰打にしていく。
「イー」
抵抗することもなく、バタバタと倒れていくショッカーたちに呆れている。

 黒地のサテンの衣装に赤い帯を絞めた麗音は、懐からしゅるしゅると取り出した赤い長い絹を投げかける。ショッカーたちはくるくると巻かれて意識を失っていく。
「いいですね~。僕、正義の味方役、好きになりそうです」

「ところで、主役はいつ出てくるんだよ。あと残り8分だぜ?」
ヤスが叫ぶ。すると大司教ハインリヒが「ふっふっふっ」と笑い出した。

「何がおかしい!」
「世を忍ぶ仮の姿なのはお前たちだけではない。我こそ、仮面ライダーの本番組でも活躍した、ハインリッヒ博士よ! 変っ身!」

ハインリヒが自分の大司教の衣装の胸の辺りをつかんで引っ張ると、それは簡単に剥がれて、いつの間にか白衣を来た似ても似つかぬオヤジが立っていた。その手にはケーキが四つ入る程度の四角い箱を持っている。

「ふふふ。ライダーが密室ではエネルギーを作り出せない弱点はこのわしが発見したのだ」
箱の中からはみーみーいう猫の鳴き声が弱々しく響いている。見ないと思ったら、ペーターはそこに捕まっていたらしい。

「なら、箱を開ければいいんでしょ!」
お蝶が肩をすくめた。
「その通り!」
ヤスが三味線のバチをハインリッヒ博士に向けて投げた。それは箱の蓋に引っかかり、バチに括り付けられた三味線の弦をヤスが引っ張ると、簡単に博士の手から離れて空を飛んだ。

「えいっ!」
麗音が懐から取り出したハトが空を飛んで、箱をキャッチし、五人のもとに運んできた。稲架村が箱を開けると、中から般若面を付けたペーターが顔を出した。
「にゃー」

「おい。残りあと五分だから、さっさと決め技を出せ」
ヤスが話しかけるとペーターは「にゃ?」と首を傾げたが、はっと思い出したかのように語りだす。
「ひとちゅ、ヒトのよにょ、いきちをすすり……」

「すみません。もう押しているんで、セリフはカットってことで」
ディレクターの指示が聞こえたので、四人は一斉に駆け出すとハインリヒとロマーノをボコボコにして簀巻きにした。ペーターはまだ続けてセリフを言っていたが、大音響でかかっていた「大江戸捜査網のテーマ」にかき消されてしまった。

 五里の道のりを再び徒歩で山羊を連れて帰る集団は、明らかに周囲から浮いていた。服装も変だったが、周りの迷惑も省みずに横に広がって歩くので、後ろには大変な渋滞が連なっていた。

「海外ロケ、面白かったよな。来週もスイスなんだっけ?」
三味線屋のヤスが訊いた。

「残念ながら、これで最終回みたいです」
手妻師 麗音が申しわけなさそうに答えた。

「ええっ、なんで?」
篠笛のお蝶には寝耳に水だったらしい。

「半にゃライダーが目立たなすぎるんで、怒りの投書が殺到しているらしい。日本からだけでなく、ヨーロッパからも前の番組の復帰を願う電話が鳴り止まないんだそうだ。それにロケと役者の飲食代に金がかかり過ぎだそうで」
歌舞伎役者 稲架村はざむらが肩をすくめた。

 隠密同心たちは肩を落として、帰国の準備をした。まだチーズフォンデュを食べていないのだ。もっともペーターは半にゃライダーとしての重荷から開放され、ごく普通の飼い猫に戻ることを喜んだ。彼は、「半にゃライダー3」の放映を誰よりも楽しみにしているらしかった。

(初出:2014年6月 書き下ろし)

(注)山西サキさんのご指摘により、このセリフも入れてみました。サキさん、ありがとうございました。
.20 2014 読み切り小説 trackback0

【小説】昨日の花は今日の夢

Posted by 八少女 夕

limeさんからの宿題(?)第二弾です。素敵なイラストをアップなさっていてですね、どうぞご自由にお使いくださいと。

(イラスト)妄想らくがき・サクラ幻想

limeさんの「サクラ幻想」
このイラストの著作権はlimeさんにあります。使用に関してはlimさんの許可を取ってください。

しかしですね。これは難しいんですよ。少年、学ラン、そして般若面。どうしろって言うのよ〜。と、悶絶したあげく。いや、スルーするって手もあったんですけれど。しかも、しばらく休もうと思っていたぐらいですし。それに、ユズキさんのドーナツとパンジーもまだ終わっていないのに。でも、なんとなく、作っちゃったんですよ。それも、「なんなんだ、これは」という話になってしまいました。ごめんなさい。limeさん。枯れ木も山の賑わいってことでお許しください。そして、きっと、そうへいさんからの鋭いツッコミが入るような……。こっちもあやまっておこう、ごめんなさい。やっぱり、伝統芸能は私には鬼門だなあ……。(題名、途中の引用、出てくるモチーフの一部は、謡曲「葵上」からいただいています)



昨日の花は今日の夢

 ぎしっとゴンドラが撓む。縞模様のTシャツに、赤いネッカチーフ、白い帽子をかぶった陽氣なイタリア人船頭がどこからか来た恋人とおぼしき二人のためにカンツォーネを歌おうとしている。だが、その二人は押し黙ったまま、潟の水音と緩やかな波にだけ興味を見せた。カーニヴァルの時期には酔狂な観光客が多く、彼らのように仮面をつけているカップルは珍しくない。見えている口から下と、発音から東洋人だろうと思ったが、船頭にわかるのはそれだけだった。

 女はそっと男の胸にもたれかかった。
「ずいぶん大胆なんですね、今日は」
男がその細い肩に手を回して言った。

「だって。ここでなら、この仮面をしていれば、誰にもわからないでしょう」
「何が」
「あなたは売り出し中の能楽師。顔もよく知られている。確実にスキャンダルになるから、東京で私たちが一緒に出歩く事はできない」
「それは、相手があなただからでしょう……義姉さん」

「やめて! お願い。そんな風に呼ばないで。せめて、今は……」
日本を離れ、ヴェネツィアのカーニヴァルの喧噪に混じり、仮面で顔を隠してようやく手にした逢瀬。どれほど恋いこがれても、普段は近づく事のできない愛しい男。亜夜子は男の胸に顔を埋めた。

「せめて、あなたの家族のままでいられたら、同じ屋根の下で寝食を共にする事ができたのに。恋をする事も許されず、逢う事もできない。あれから、十年も経っているのに。」

 だが、怜はその懇願にも、切ない想いにも心を動かされた様子はなく、ただ、揺蕩う波紋に仮面を向けていた。

「あれから、十年……」
雪のように桜が舞い降る宵だった。広い屋敷の敷地には、街の明かりは届かない。十三夜の月だけが満開の花を照らし出していた。怜は十七歳、まだ学生服を着ている少年だった。

六趣四生を出でやらず
人間の不定芭蕉泡沫の世の習
昨日の花は今日の夢と
驚かぬこそ愚なれ


 亜夜子の夫である峻が、蔵の中で若い愛人とともに命を落としたのは、まさにその宵であった。内側からかんぬきが掛けられた密室状態だったので、最終的には二人が心中したと結論づけられた。次世代を担う正しき血筋の能楽師が妻も暮らす自宅の蔵で亡くなったのは大きなスキャンダルであったが、今は峻の事や、いたたまれず家を出た亜夜子のことが 口の端に上ることは珍しくなった。だが、いまや当時の峻に劣らぬ実力と人氣の能楽師である怜が、かつての義姉と逢瀬を重ねている事が世間に知れたら、それは怜の芸能生命に関わる一大事となるはずだった。

唯いつとなき我が心
もの憂き野辺の早蕨の萌え出でそめし思の露


「お願い。もう耐えられないわ。どうか、何もかも捨てて私と逃げて。私はあなたさえいれば、あとはもう何もいらないの」

「失うものもないくせに……」
怜は小さくつぶやいた。

「私を愛していないの? あなたの周りにいくらでも寄ってくる、あの女の子たちと一緒なの?」
亜夜子は、船頭が日本語をまったく解していないのをいい事に詰め寄った。船頭は「こりゃ、まずいことになってきたようだ」と二人の雰囲氣から察して、黙ってゴンドラを漕いでいた。この黒い舟は、棺桶の中にいるようだと怜は思った。

夢にだにかへらぬものをわが契
昔語になりぬれば
なほも思は真澄鏡


「なぜ愛の事など語る。あなたは愛など葬ったはずでしょう、あの宵に」

 亜夜子は怜の胸から顔を離して、マスクの奥から彼の言葉の意味を推し量ろうとした。怜は再び波紋に目を向けた。煌めく光があの宵の狂ったように舞い落ちる葩に見えた。

 叫び声を聞いたように思い、母屋を出た。桜が青白く光っていた。風が微かな助けを求める声を運んできたように思った。桜が叫んでいる? 少年だった怜が、桜を見上げていると、後ろを誰かが走った。振り向くと動転して走っていく亜夜子だった。蔵の方から?

 その古い蔵は、かつて峻と怜がよく遊んだ秘密基地であった。隅々まで探検し尽くしたので、何がどこにあり、誰にも知られないように扉を使わずに出入りする方法なども二人で編み出していた。大きくなってからも、母屋ではできない後ろめたい事に使っていた。そう、例えば峻は女をあそこへ連れ込んでいた。

 蔵の扉は大きく開いていた。いつものわずかなカビの臭いに混じって、事切れた者たちの紅い血の匂いが静かに広がっていた。怜は、兄とその愛人が折り重なるようにして倒れているのに近づき、そっと命の徴を探った。もうだめだとすぐにわかった。いつかこうなるかもしれない、怜はそう思っていた。峻と亜夜子の愛憎。妻の心を踏みにじる、歪んだ兄の愛の発露は、いつか亜夜子を壊すであろうと、怜はずっと前に感じ取っていた。

 兄は、最期の力を振り絞って、桐の箱へと辿りついて事切れていた。彼が手にしていたのは白般若。「葵上」を誰もが連想するだろう。わかりやすいダイイング・メッセージだ。もっとも、これがなくても、誰でも亜夜子を疑うと思うが。

 怜は面を兄の手から離した。そして、蔵を内側から閉めてかんぬきを掛けると、彼と兄しか知らなかった秘密の出入り口から出た。葩が舞う。舞う。風に舞う。

身の憂きに人の恨のなほ添ひて
忘れもやらぬ我が思い


 亜夜子を救いたかった。純粋に、人を殺めるほどに恨み高まった、彼女の愛を救いたかった。吹雪のように舞い落ちる幽玄たる桜。彼自身が愛のための鬼になったはずだった。

 だが、それは幻想に過ぎなかった。亜夜子の身を焦がした瞋恚の焔は、たった十年であっさりと消え去り、彼女は亡き夫の弟との愛欲に溺れて、メロドラマのような逃避行を夢みる愚かな女と変貌していた。一生消えない血のシミを心に付けてまで守ろうとした怜の女への激情も、急速に冷えていった。

「仮面をつけて、ヴェネツィアのゴンドラに乗りたい」
そう亜夜子にねだられた時に、怜は戦慄した。亜夜子とは昨年ぐらいから時おり逢うようになっていたが、二人で旅をした事は一度もなかった。昨夜、ヴェネツィアのホテルで落ち合い、狂ったように抱いた怜の不安を亜夜子は完全に誤解したらしい。女は単純に愛の勝利を確信したのだろう。だが、彼が予感していたのは、愛の崩壊だった。

「あの夜、兄さんは般若面をつかんで亡くなったのですよ。あなたを守ろうとした私は愚かだった。あなたは光の君と破車に乗り、黄泉の国まで行くことでしかあの愛を成就できなかったのです。わたしはそれを邪魔し、あなたをこんな惨めな鬼に変えてしまった」

「怜……」
「今さらあなたを売るような事はしません。けれど、私はあなたには二度と逢わないでしょう。さようなら、義姉さん」

 リアルト橋につくと、怜は仮面を外して、料金をその中に入れて船頭に渡した。呆然とする亜夜子を後ろに残して、彼はヴェネツィアの雑踏の中に消えていった。
 
(初出:2014年4月 書き下ろし)
.11 2014 読み切り小説 trackback0

【小説】暗闇の決断

Posted by 八少女 夕

本日発表するのは私にはちょっと珍しい魔法もの(?)でしょうか。慣れないものを書いているのでちょっと不安ですが、感じが出ていると嬉しいなと思います。


暗闇の決断

 その部屋には窓がなかった。幾重にも垂れ込めた暗い臙脂の天鵞絨カーテンが、外界のわずかな光をも遮断していた。四人はそれぞれが真剣な面持ちで目の前の分厚い革表紙の書物を繰っていた。羊皮紙のように思われる古いマーブルがかった紙の上には整然と古き時代の筆記体が浮かびあがっていた。

 テーブルの上には、銀の燭台がおかれ、長い白いロウソクがジジジと音を立てて四人を照らし出していた。

「Guiso de trigueros con morcilla, miel, hierbabuena y chipirón de anzuelo…」
四人のうちの一人、巨大な目をぎらつかせたスペイン人が苦しい運命に立ち向かっているにもかかわらず穏やかに口を開いた。四人は一瞬瞳を見合わせたが、やがて誰からともなく静かに首を振り失望が暗い部屋に広がった。スペイン人は思い詰めた様子で言った。
「君はこの状況を打破することができるのか」

 黒いマントを着た男がそれに答えて厳かに口を開いた。いにしえの古き呪文を唱える、あのゆっくりとしたリズムで。
「Esparguete bolonhesa com queijo e pão de alho…」

「やめておけ。そんなことをすると、お嬢ちゃんのピラピラしたお衣装が紅く染まるぜ」
正面に座っていたくるんとした髭の男が言った。それは奇妙なイタリア人で、赤と青の縦縞のとても目立つ上着を着て、やたらと高いシルクハットに白い手袋を付けていた。

 若い娘が顔を上げた。真珠色に輝く髪をした美しい女だった。年齢に合わない鋭い目つきで円卓を囲む三人の男をじろっと見回した。サファイアのような碧い瞳とルビーのような紅い瞳を同時に持つ印象的なその娘は、四人の中では一番年若かったが、氣魄ある態度では全く引けを取っていなかった。

「まったくファッションショーじゃあるまいし、毎回毎回可愛いお洋服でやってくることだ」
イタリア人は、娘のフリルと襞のたっぷりついたクリーム色のスカートを見やって言った。

「あなたこそ、毎回全く同じ上着で、代りばえのしない事」
ツンと答える娘。ファッションには人一倍氣を遣っている目の大きいスペイン人は、まあまあと言う顔をしてなだめようとしたが、娘とイタリア人の間に流れている不和の空氣を変える事は容易ではなかった。

「あなたのその傲慢な口を血で真っ赤に染めてあげてもいいのよ」
娘が紅い瞳を光らせ、そっと右手を空中に掲げた。
「ま、まさか、ここであの『ローエングリン』の呪法を発動するつもりか……!」
スペイン人が青くなって椅子から立ち上がった。

 イタリア人は鼻で笑った。
「やらせとけよ。どうせあれは『ニーベルングの指輪』がなけりゃ発動できないんだよ」

 娘は冷たく微笑んだ。
「どこからそんなガセネタを仕入れてきたのかしら。指輪なんて必要ないわ。Befehl: Aktivieren psychologisch Vermeidung Barrier. Starten alle Schild-Generatorenlink…」

 黒マントの男が娘の右手をそっと降ろさせた。
「やめておけ」
「あなたも、私にはできないっていうつもり?」

「そうは言っていない。だが、我々に残された時間はわずかだ。争っている場合ではないのだ。そう思わぬか」
黒マントの男は冷静に諭した。三人ははっと我に返った。

「その通りでございます」
声にぎょっとして振り返ると、幾重にも重なったカーテンの陰に一人の男が辛抱強く立っていた。きっちりとしたスーツに身を固め、首に黒い蝶ネクタイをしていた。しかし、その男には大きな瞳が一つしかついていなかった。四人ははっとして身構えた。

「そろそろラストオーダーの時間でございます」

「なんだよっ。またラストオーダーか!」
イタリア人が叫んだ。

「決まらないんですよね。ああ、どうしたらいいんでしょう」
スペイン人もオロオロした。

「何か、我々にふさわしい提案はあるかね」
黒マントの男は一つ目の男に問いかけた。

「そうですね。たとえば本日のメニューなどはいかがでしょうか。ハンバーグ、チキン入りケチャップライス、海老フライ、目玉焼き、スパゲティナポリタン、それにカラフルなゼリーが一皿に乗ったお得なセットです。男性の方は車の形の器、女性の方には花の形をした器で提供させていただいています」

「女だからって、量が少ないんじゃないでしょうね」
娘はきつく問いただした。
「そのような事はございません。量は全く同じでございます」

「うむ。悪くないな。ケチャップライスの上には?」
スペイン人が期待を込めて問うと、一つ目の男は厳かに答えた。
「みなさまのそれぞれのお国の国旗を掲げさせていただいております」

「じゃあそれだ」
縞の上着のイタリア人はパタンと革表紙のメニューを閉じてウェイターに渡した。他の三人もそれに続いた。一つ目の男は深々とお辞儀をすると、静かに個室を後にすると、騒がしい食堂ホールを抜けて四カ国語で記載されたメニューを棚に放り込むとキッチンに向かって叫んだ。

「お子様ランチを四人前! いつもの四カ国の旗を用意するように!」

 それから小さくつぶやいた。
「まったく、毎日毎日、同じものしか頼まないんだから、メニューを検討なんかしなきゃいいのに」

(初出:2014年4月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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上の作品は、去年味をしめたエイプリルフール企画でございます。はい、魔法ものではなくて、ただのレストランでのオーダーのお話でした。

まずお詫びを!
三名のブログのお友達のところの人氣キャラに無断で演技をさせてしまいました。はじめに許可を取ろうかと思ったのですが、そうすると三名様にネタがバレてしまうので……。ごめんなさい、ごめんなさい。

配役は以下の通りです

黒マントの男
ウゾさんの「ワタリガラスの男シリーズ」よりワタリガラスの男さま(強制友情出演)

真珠色の髪とオッドアイを持つ娘
TOM-Fさんの「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」よりエミリーさま(強制友情出演)

一つ目のウェイター
栗栖紗那さんの「まおー」よりユーニスさま(強制友情出演)

目の大きなスペイン人
大道芸人たち Artistas callejeros」よりカルロス

縞の上着のイタリア人
夜のサーカス」より団長ロマーノ



横文字の解説です。
「Guiso de trigueros con morcilla, miel, hierbabuena y chipirón de anzuelo…」はスペイン語で「ソーセージ、蜂蜜、ミント、アンズエロ風イカの入ったアスパラのシチュー」という何がなんだかわからない料理で、他の三人に即座に却下された模様です。
「Esparguete bolonhesa com queijo e pão de alho…」はポルトガル語で、「スパゲッティミートソースのチーズとガーリックブレッド添え」無難な提案でしたが、団長ロマーノの指摘通り、トマトソースがつくとエミリーちゃんの綺麗なドレスが汚れちゃいますからね。
「Befehl: Aktivieren psychologisch Vermeidung Barrier. Starten alle Schild-Generatorenlink」はTOM-Fさんの小説に実際に出てくる呪文(?)の一つです。

エイプリルフール企画、けっこう楽しくてクセになります。来年は何にしようかな。
.01 2014 読み切り小説 trackback0

【小説】第二ボタンにさくら咲く

Posted by 八少女 夕

本日発表する小説は、40,000Hit記念の第一弾で、栗栖紗那さんさからいただいたリクエストにお答えしています。いただいたお題は「卒業」でした。「卒業」って、かなり難しい。感動もかなり昔の事だし、ハートフルな話もみなさん書いていらっしゃるから今さらって思ってしまうし。というわけで、かなり微妙な感じの卒業ストーリーにしてみました。モチーフも定番で。紗那さん、リクエストありがとうございました。

そして、テーマが合うので、先日「自由に使っていいですよ」とおっしゃっていただいたユズキさんの桜の絵で華やかにさせていただこうと思います。ユズキさん、どうもありがとうございます。



第二ボタンにさくら咲く
— Thanks for Shana-San


桜 by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。使用に関してはユズキさんの許可を取ってください。

 桜が咲いてしまった。入学式ではなくて、卒業式に。今年は、例年になく早い。だが、それ以外は毎年と変わらない。三年間、この高校で学んだ子たちが、巣立って行く。嬉しいような、寂しいような。

「あおげば尊しわが師の恩、か」
歌いながら涙ぐんでいるあの子たちは、友達との別れは悲しんでいるようだが、歌詞に歌われている「師の恩」そのものはどうでもいいようだ。世話になりまくった担任はともかく、一介の国語教師の僕に何の感慨もないのは、まあ、しかたない。

 僕は特に出番もなくてヒマだったので、講堂にずらっと並んだ卒業生を一人一人眺めていた。生徒会長を務めた沢田は答辞を読むので最前列にいる。妥当だな。お、やんちゃで有名だった川田の髪が黒く染まっている。就職したっていうのは本当だったらしい。その後ろには、ああ、モテ男の荘司だ。このあとの第二ボタン争奪戦が見物だろうな。

 その斜め後ろには、後藤加代が座っていた。彼女も卒業だったかと思うと、少し胸が痛んだ。いや、もちろん教師の僕が高校生の彼女に邪な感情を持っているわけじゃない。だけどなあ。

 本人に告白された事はないが、なぜか複数の人から加代が僕のファンだというようなことを聞かされていた。自慢じゃないが、六年の教師生活で僕が女生徒に憧れられた事はこれまで皆無だったし、これからもないだろう。体操で国体に出場経験がある体育教師の吉川や、憂いを含んだ横顔が腐女子に受けている数学の新城は、バレンタインデーでいつも大量のチョコをもらい、僕ら全くもらえない奴らにお裾分けをする余裕もある。だが、僕は背も高くないし、顔は十人なみ、教えているのも生徒の嫌がる古文と、モテる要素は皆無だ。

 後藤加代は大人しいがしっかりとした印象の子で、成績もそこそこ優秀、クラスに上手く馴染めないでいた同級生を誘ってやるなど、クラス運営に頭を悩ませていた担任からも頼りにされている子だった。

 変な噂は、加代が毎回古文だけ百点を取り続けたところからはじまった。古文の眉村に熱を上げているからだって。それから、「源氏物語」の現代語訳を買うとしたらどれがいいかと質問にやってきたり、クラスメイトの田中真知子の赤点の補習につき合って放課後残ったりしたもので、ますます噂が広まった。でも、バレンタインデーにチョコレートくれなかったし、ただの噂だろう。それでも、卒業してしまうのは残念だな。わりと可愛いし。いや、なんて事を考えているんだ。いかんいかん。

 在校生の歌は悪くなかったし、沢田の答辞もなかなか立派だった。女の子たちは例によってすすり泣き、感動的に卒業式が締めくくられた後、講堂は空になった。

 校庭は春のうららかな光に満ちていて、風で桜の花びらが黒い学ランや、ブレザーの上に散っていく。僕は校舎に戻る前に花見を兼ねて桜の並木を歩いた。そこから見える校庭の一部では、予想通り学年一のモテ男、テニス部の荘司が後輩たちに囲まれていた。プレゼント攻勢にあっているらしい。羨ましい事だ。

 と、目の前の桜の陰に後藤加代がいた。何、こいつも荘司狙いだったか!

「卒業おめでとう。後藤、こんな所で何しているんだ?」
「あ、眉村先生。ありがとうございます。でも、大きな声立てないでくださいよ」
「いや、悪い。なんだ、荘司に用があるんじゃないのか」

 そういうと加代は悪びれもせず肩をすくめて言った。
「ええ、第二ボタン、狙っている所です。ううむ、ちょっと形勢不利な感じ」

 僕は著しくガッカリした。いや、加代とどうこうなりたいとかそういう事ではなくて、ブルータス、お前もかって心境だ。ま、冴えない国語教師に憧れてくれる女生徒なんているわけないよな。だが、そう思えば思うほど、ここでいい所を見せてやりたくなった。

「よし、先生に任せとけ」
「え?」

 桜の陰に加代を残したまま、僕は果敢に荘司と女の子たちのもとに歩いていった。
「こらこら。君たち、何をしているんだね」

「あ、眉村センセー。やばっ」
女の子たちが慌てる。先日の職員会議で決定した卒業式のプレゼント禁止の現場を押さえられた後ろめたさがある。もちろん、この決定は年々華美になる卒業生へのプレゼントを抑止するためにしただけで、誰も本当に禁止しようなんて思ってもいない。だが、今回は、これを利用させてもらおう。

「はい。全部没収。荘司、お前は生徒指導室で説教つき」
「ええ〜!」
女の子たちの非難の声と荘司の不満そうな顔。そりゃそうだろう。

 大人しくついてきつつも、荘司は僕に話しかける。
「眉村センセー、きついっすよ。ほら、あの子たちだって悪氣はないと思うし。それに、俺がなんで怒られるの?」
「うるさい。みせしめだ。それとも取引するか?」
「取引って、なんの?」
「無罪放免+このプレゼントも持ち帰ってもいい。その代わり、お前の第二ボタンをよこせ」

 荘司はぎょっとしたように立ちすくんだ。
「センセー、ロリコンじゃなくて、もしかして、そっちのケがあるわけ?」
「バカっ! ロリコンでもなければ、男にも興味はないっ! 事情があって、お前の第二ボタンをとある女性のために狩る事になっただけだ!」

 荘司は「はあ」と氣のない顔をしたが、無罪放免に加えて大量のプレゼントも戻って来ると知り、悪い取引ではないと思ったらしい。大人しく第二ボタンをブチッと引きちぎると僕のスーツのポケットにつっこみ、プレゼントの入った紙袋を奪うようにして走っていった。

 呆然としたが、氣を取り直してポケットを探ると、ちゃんと糸のついたままの第二ボタンが入っていた。金色の安っぽいボタン。こんなもの、なんで女は欲しがるかなあ。

 振り向くと桜の下で後藤加代が待っていた。花びらがひらひらと舞って、柔らかい黒髪が風に揺れていた。僕はゆっくりと歩み寄って、彼女のふっくらとした綺麗な手のひらに、戦利品のボタンをぽんと置いた。ありがとう、三年間だけでも、モテる教師になったような幻想を抱かせてくれて。これが僕にできる精一杯のお礼だ。

「ありがとう、先生! きっと、真知子、大喜びするわ。絶対無理だって泣いていたから、奪ってきてあげるって、約束しちゃったの」
そういうと、加代は手を振りながら走り去っていった。それだけの事で、僕は再び浮上した。我ながらしょうもないと思った。

 いい人生送れよ。それに荘司みたいなチャラチャラしたのじゃなくて、いい男をみつけろよ! 桜は僕の心にも春を持ってきた。

(初出:2014年3月 書き下ろし)
.23 2014 読み切り小説 trackback0

【小説】銀の舟に乗って - Homage to『名月』

Posted by 八少女 夕

TOM-Fさんのキリ番でツイッター小説を書いてくださるというのでリクエストをしてみたのですよ。そうしたらですね。わざわざ私(と某作品)のイメージで書いてくださったのです。なんか恥ずかしいやら嬉しいやら。いや、嬉しいのです。そして、その作品がまた、二次創作ゴコロを刺激する作品でして。

ぜひ、まずは、こちらでご一読くださいませ!

TOM-Fさんの10000Hit記念掌編その2 『名月』

行けなかった方はこちら

『名月』

 故郷を離れ、幾万里
 この地で見上げる
 あの日と同じ、秋の名月

 虫の声も、薄の穂もないけれど
 遠く離れているからこそ、近くに感じるものもある

 話す言葉や肌の色は違っても、同じ志の人とともにある悦びを胸に
 私は智恵を求め、彼岸を目指して、人生(たび)を往く

 だから、心配しないで
 私は元気です


上の作品の著作権はTOM-Fさんにあります。TOM-Fさんの許可のない利用は固くお断りします。

そしてですね。刺激されると書いちゃうのが、私の悪いクセ。はい、やっちゃいました。アンサー掌編です。え? もちろんフィクションですよ。TOM-Fさんの作品を読んでいて浮かんできた近未来ものでございます。


銀の舟に乗って - Homage to『名月』
Special thanks to TOM-F SAN

Moon


 くっきりとした大きな月が川面に浮かんでいた。私は手を休めて空を見上げる。ああ、同じウサギがいるんだなと思う。

 一昨日は久しぶりにネットカフェなどというもののある町にいたので、日本のニュースを見た。だから今宵が中秋の名月である事を知っている。そう、彼と約束した宵だ。
「次の満月の中秋の名月は八年後ですって」
「ああ、その時も一緒にこうして見上げような」

 見上げているかな。いや、見上げているわけないよね。もう日本は丑三つ時なんだから。私だって、あのニュースを読まなければ、すっかり忘れていた。もう終わった事、離れてしまった私たち。

 私はここにいる。この河は何千年か前に王女さまがモーゼを救い上げた、いや、もしかするとワニなんかも引き上げちゃったりした、ナイル河。そして、そよいでいるのは、ススキではなくてパピルス。カイロからも遠く離れた田舎の村。私は岩の上で生地をこねている。

 ファラオの時代からとは言わないけれどかなり年季の入った石窯に、イブラヒームが火を入れてくれている。私がこねているのは種無しパン。たぶんファラオの時代からほとんど変わっていない原始的なレシピに基づくのだろう。なぜ旅人である私がこねいてるのかというと、他に手伝う事がないから。レンズ豆のおいしいスープをミミが作っている間、私は生地をこねる。

 この岩は、足の位置から20センチも離れていない。大学時代の私だったら地面だと判断するはずだ。学食で、転げて椅子に落ちた葡萄を捨てようとしたら、彼はそれをさっと奪った。
「五秒ルール。まだ食べられるよ」

 捨てずに済んだから良かったとは思ったけれど、私には無理って思った。それがどうだろう。こんな所で種無しパンの生地をこねている。これはやっぱり石や埃や炭や灰がたっぷりの、あの石窯に入れられて焼かれ、そして今夜の主食になるのだ。

 いろいろな事を「無理」だと思った。大好きだけれど、越えられないと思った。こうして言葉も文化も生き方も、全く違う所に流れてみれば、越えられないものなど何ひとつなかった。ここにはJ-POPもない、欠かさず買っていた作品の新刊情報も届かない。それどころかアメリカのヒットパレードやコカコーラすら存在しない、世界に忘れ去られたような土地。私もその一人だ。日本から離れ、世界にも文明にも忘れられた存在になった。

 私が旅に出たから彼を失ったのか、彼を失ったから旅に出たのか、もう思い出す事が出来ない。明るい夜。こんなに月が大きくても、少し顔を暗闇へと移せば星がたくさん見える。ナイルの静かな水音。パピルスを渡る風。私は種無しパンをこねる。月見団子の代わりに。

「あら。なぜウサギの模様を入れたの?」
私が持ってきたパン生地を見て、ミミは面白そうに笑った。
「えっと……今夜は日本のお月さまの祭りだから……」

 それを聞いてイブラヒームとミミは顔を見合わせてから笑った。
「今月はジェフティ月だ、エジプトでもお月さまを祝う月なんだよ」
イブラヒームは笑って巨大な木しゃもじでウサギつき種無しパンを窯の奥へと大事に置いた。
「お月さまは、銀の舟に乗って、天の川を渡っていくのよ」

 銀の舟に乗ってか……。今夜は、水位が高い。満月だからあたりまえよね。大潮のように想いが満ちる。忘れたと思っていたのに。

 イブラヒームが夕食の後に焚火を囲みながら演奏する素朴で単純な笛の音は、どこか篳篥に似ていて、あるはずもない郷愁を呼び起こす。音色は私の心を遠い島国へ、彼のもとへと連れて行く。

 それは心だけだ。そして今宵だけ。エントロピーは増えるだけで減る事はない。川は上流から海へと流れる。時間も過去から未来へと移動していく。私が旅人となり、日本から文明から彼から離れて行くのも一方向のみで、逆流する事はない。私は旅を続ける。目的を果たすためではなく、ただ離れていくために。

 彼の側には、きっともう他の人がいて、ちゃんとした月見団子を供えて一緒に見上げていた事だろう。何時間も前に。八年前に。

 人生を教えてくれてありがとう。同じ時間を過ごしてくれてありがとう。もう逢えないけれど大丈夫、心配しないで。私はひとり小さな舟に乗って、少しずつ櫂の使い方もうまくなって、時間の川を渡っていきます。


(初出:2013年10月 書き下ろし)

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で、BGMもTOM-Fさんとおそろいで東儀秀樹で選んでみました。


東儀秀樹 I Am With You
.04 2013 読み切り小説 trackback0

【小説】北斗七星に願いをこめて - Homage to『星恋詩』

Posted by 八少女 夕

30000Hit記念リクエスト第一弾でございます。リクエストはスカイさんからいただきました。

糸と針で一つ。
あー、でも以前星恋詩を書いて下さった時のが凄く楽しかったので、あちらでもいいなあーーーー。


というわけで、お題の「糸と針」を、スカイさんの代表作『星恋詩』に絡めて書いてみました。前回のときのように二次創作ではなくて、オマージュして組み込んでみました。字数でいうと短いんですけれど、これ、氣にいっていただけるといいなあ。


北斗七星に願いをこめて - Homage to『星恋詩』

北斗七星のすぐ側の、さらさら天の川の音がさやかに聞こえる天のお宮に、三人のかわいいお姫さまが忙しく働いていました。天帝さまのお命じになった星の曼荼羅を秋の星祭りの宵までに美しくし上げるためでした。

一番年上のお姉様は、星の光をその糸紡ぎ機に織り込んで、銀色にキラキラと光る細い糸を作り出していました。真ん中のお姉様はその糸を張った織り機で、七色に光る曼荼羅をせっせと織っていました。そして妹姫はその曼荼羅を天の川のせせらぎに晒していました。すると、曼荼羅の地色が水のように透き通ってキラキラと輝くのでした。

「う~ん、そのおとぎ話はステキだけれど」
澄ちゃんは、なんともいえない声を出した。

 澄ちゃんはそつのない子だ。学内テストの度に上から八位とか十一位とか絶妙の成績を残している。これが二位や三位だと先生に「クラス委員になれ」とか「○○さんの面倒を見てやってほしい」というように頼られたりするし、私の数学や家庭科みたいに下から数えた方が早いと、親が呼び出されたりしていろいろと面倒なのだ。

「ねえ。本当に、まっすぐ横に縫うだけでいいんだよ、麻衣ちゃん」
澄ちゃんの指摘通り、私の手元にある濃紺の布の縁取りは激しく曲がっている。自分でもわからない。どうしてこんなに不器用なんだろう。私の手元を見ながらてきぱきと縫っている澄ちゃんの手元の布の方は、家庭科の実習として提出したらさぞいい成績がもらえるだろう、ぴっちりとしたかがり縫いになっていた。

「いたっ」
私は、これで三度めに自分の指を針山にしてしまった衝撃に呻く。
「ちょっと、大丈夫、麻衣ちゃんったら」

 全部澄ちゃんが縫ってくれたら、売っても大丈夫なくらい素敵な作品になる事は間違いない。でも、家庭科の作品ならまだしも(いや、それもダメだけど)、これだけは私は見ているだけってわけにはいかない。だって、私から星野君へのプレゼントなんだもの。

「アイデアは悪くないけれど、まさか麻衣ちゃんがここまで縫い物が苦手だとは夢にも思わなかったよ」
私が得意な、少なくとも澄ちゃんが感心してくれる程度には得意なイラストで、私は濃紺の絹の上に三人のお姫様とそれを見つめる星売りの姿を描いた。星売りは、とある(スカイさんっていう方だけれど)ブログで発表されている『星恋詩』という作品の主人公。星野君が教えてくれて以来、私も大ファンになってしまった作品だ。

 今日は星野君のお誕生日。そして、秋の星祭り。だから、私はどうしても特別に心のこもった贈り物をしたかったのだ。無事に絵は描けたのだけれど、クッションにするためには縫わなくてはならない事に氣がついたのは昨日だった。頼れるのは澄ちゃんしかいなかった。放課後の教室で半泣きになりながら、慣れない針仕事をちくちくとする。澄ちゃんの名誉のために言っておくと、私の縫った分の五倍ちかくをプロのような美しさで仕上げてくれているのは澄ちゃんなのだ。

「絹ってね。昔、お侍さんが矢をよけるために使ったくらい丈夫な布なのよ。麻衣ちゃんが縫うにはちょっとハードルが高かったね」
澄ちゃん。正論だけれど、もうどうしようもないよぅ。

 澄ちゃんは優しい。星野君も優しい。この二人がいなかったら、たぶん私の高校生活はかなり惨めになった事だろう。私は、いつも物語や絵の事を考えていてぼーっとしている。クラスには「どんくさい子」といって邪険にする人たちがいる。先生が「班を作ってください」というときも、「入れてください」といえなくてもじもじしてしまう。でも、澄ちゃんや星野君が氣付いてくれて呼んでくれる。女の子の澄ちゃんはともかく、星野君は男の子なので、私なんかに声をかけると他の子たちに「ひゅーひゅー」と言われてしまう。そのことで私がオロオロしていると、まったく歯牙にもかけずに「がはは」と笑った。

「星野君は競争率高いけど、麻衣ちゃんみたいにとことん頼りない子なら、かえってチャンスがあると思うよ」
澄ちゃんのいい方は身もふたもない。

 べつに星野君の彼女にしてもらおうなんて大それた野望を持っているわけじゃない。ただ、伝えたいだけ。『星恋詩』いいよねって。いつもありがとうって。そして、お誕生日、おめでとうって。

 クッションを入れて澄ちゃんがほぼ仕上げてくれた分と合わせて、閉じていく。
「いたっ」
「ちょっと、麻衣ちゃん、大丈夫?」
「うん、ごめんね、澄ちゃん。澄ちゃんも早く星祭りに行きたいよね」

 澄ちゃんは首を振った。
「行くわけないでしょ。今夜はバルス祭りだからテレビの前で待機」
それからウィンクして声を顰めた。
「ほら、さっきからドアの陰で星野君が心配そうに見ているよ。さっさと糸止めして持っていきなよ」

 ええっ。嘘っ。
「な、なんで星野君がここに?」
「麻衣ちゃんが私に頼んだときの声がでかすぎたのよ。星野君、耳ダンボだったもの。大体、待ち合わせもしないで、どうやって星祭りで渡すつもりだったのよ」
う……。確かに。

 澄ちゃんは「じゃーね」と言って星野君の肩を叩いて出て行く。私は困って終わっていない運針を見た。こんなに曲がっているからやり直そうと思っていたんだけれど。あれ。北斗七星の形になってる。悪くないか。縫うの下手くそなのが私なんだから、これで許してもらおう。

「星野君。これ、お誕生日おめでとう」
クッションを手渡した。たぶん『星恋詩』の星売り以外は何がなんだかさっぱりわからないだろうな。星野君はちょっと笑った。
「ありがとう。糸と針がまだ刺さってる。これ、巨大な針山?」

 私は真っ赤になって、糸を始末してはさみで切った。星野君は「おっ。星売りだあ」と嬉しそうに笑った。すぐにわかってくれたんだ。

 それから、私たちは星祭りに行った。この世を彷徨っている星売りも、もしかしたら来ているかもしれないよ、そう星野君が言った。天のお宮の三人のお姫様が笑っている声が聞こえたような氣がした。


(初出:2013年9月 書き下ろし)
.15 2013 読み切り小説 trackback0

【小説】ヴァルキュリアの恋人たち

Posted by 八少女 夕

「神話系お題シリーズ」の二つ目を書いてみました。といっても、完成した話ではなくて、続きがあるわけでもなければ、深い設定があるわけでもない。単純に題からのイメージ掌編です。まるで先があるみたいに書いてありますけれど、ないです。


ヴァルキュリアの恋人たち

 弓形にカーブを描く大理石の階段を降りて、燕尾服の紳士はバーへと入っていった。シャンデリアの輝くホールとはうってかわり、柔らかい間接照明は臙脂色の絨毯をわずかに照らしていた。彼はほっと息をつくとバーテンダーにダブルのウィスキーを頼んだ。

 氷に揺らめく虹を揺らしながら、彼は女の事を考えていた。まだ若く血氣盛んだった頃、パリの高級クラブで知り合った。ファナ・デ・クェスタ。黒髪につややかな虹がでていた。紺碧の瞳で彼の心臓を突き刺した。長い指先が彼のグラスを奪い、それを脇に追いやると、ゆっくりと濃い紅の唇を近づけてきた。結婚し、子供に恵まれ、平穏な日々を過ごしている子爵を時おり熱病のように苦しめる灼熱の幻影。あの女のためだけに駆け上った階段だった。事業も、社交界での地位も、慈善も、立ち居振る舞いでさえも。

「ほ。これはド・ロシュフール子爵殿。こんなところでお会いするとはね」
その声に横を向くとマイケル・ハーストがスツールに身を半分持たせかけてコーラを飲んでいた。あいかわらず時と場所をわきまえない野蛮人だ。とっくりのセーターを来たアメリカ人に子爵は眉をしかめた。

「君は幸いにも大西洋の向こうに帰ったのだと思っていたが」
「ちょっと違うな。あんたのご先祖の国の外人部隊にしばらく世話になっていたんだよ。砂漠でひと暴れさせてもらったよ」
子爵は露骨に眉をしかめると、このような男と知り合いと思われるのは恥だと言わんばかりにグラスを傾けた。グラスの中の氷山にウィスキーが再び虹を作る。

 アメリカ人は子爵の迷惑な様子を氣に留めた様子もなくさらに話しかけた。
「あんたも、呼び出されたのか」

 子爵ははっとしてハーストを見た。では、この男も? あの女の名が刻まれた招待状を手にしてから半月、何も手につかなかった。マラリアに罹ったかのようにあの頃の事を思い出していた。そして、これは自分だけに送られたのだと、あの女が自分だけと再び逢いたがっているのだと浮かれていたのだ。

 アメリカ人もじっと白い招待状を見つめていた。忘れもしない女の筆跡。出会った夜の事は生涯忘れないだろう。ブロンクスには全く似つかわしくない女だったので、あのバーに入ってきた瞬間、全員が眼をむいた。黒のストライプがシャープに入った白いスーツに身を固め、まっすぐにハーストの方に歩いてきた。豊かな赤毛が肩に流れ、緑色の瞳がきらりと輝いた。

「あなたがマイク・ハーストね。噂に違わずいい男じゃない」
「あんたは誰だ。なぜ俺の名前を知っている」
「私はファナ・デ・クェスタ。私のために闘ってくれる強い男を探しているの」
それ以来、ハーストはアメリカに帰っていない。

「ワーグナーの『ヴァルキューレ』か。かつての男どもを集合させるには、いかにもアイツらしい場を選んだじゃないか」
そういうと、ハーストはバーに入ってきた黒い三つ揃いを着た二人の男たちを目で示した。

「イザーク・ベルンシュタイン。それに、戸田雪彦。とんでもないメンバーが揃ったな」
世界的富豪と、ハリウッドで活躍する日本人俳優。この四人に共通する項目はただ一つだった。かつてファナ・デ・クェスタの恋人であった事。

「やっぱり、あなたたちも招ばれましたか」
戸田の流暢な英語がバーに響く。ハーストの発音とは対照的なイギリス英語だ。ファナ・デ・クェスタの姿がタブロイド紙に載ったのは、この日本人がアカデミー賞の授賞式にパートナーとして連れて行ったからだった。その時にはブロンズ色の髪で、瞳の色は暗かった。それでも、男たちにはすぐにファナだとわかった。決して忘れられないエキゾティックな美貌。

 戸田雪彦もファナに取り憑かれて人生が変わった一人だった。役によって自在に英語の発音を変え、楽器の演奏もアクションも官能も全て完璧にこなす東洋の俳優として役の依頼が次々と舞い込むようになったその時期に、いつも側にいたのはあの女だった。

 だが、彼のアカデミー賞の受賞を機にファナはアメリカを去り、次に目撃されたのはドイツでだった。大富豪イザーク・ベルンシュタインの新しいパートナーとして。誰もが今度は彼女が金に群がったのかと思った。だが、そうではなかった。彼はファナとともにいた三年で、もとの資産を三十倍にした。それは、世界中のかなりの国の国家資産を超える額だった。

 ファナが去る時に恋人たちに求めるのは、栄光でも金でもなかった。
「あなたは私を自由にしなくてはならないわ」
いくら年を経ても、全く変わらぬ美しい笑みを残し、ある日彼女は去って行く。懇願し、脅迫しても彼女はとどまらない。止める事は出来ず、行き先を突き止める事も出来なかった。彼女自身の意志で表の社会に再び現われてくるまでは。

 ベルンシュタインは、白い厚紙の招待状を落ち着きなくひっくり返す。子爵はこの男も再び熱病に苦しめられているのだなと思う。アメリカ人や日本人も同じだろう。

「おかしいと思わないか。ファナは八年前に、あの女に殺されたはずでは……」
ベルンシュタインが声を潜める。

「あの女というのは、私の事かしら」
そこに立っていたのは、深紅の輝くスパンコールで覆われたドレスを着て、漆黒の髪を高く結い上げた女、エトヴェシュ・アレクサンドラだった。そう、この中ではファナの最後の恋人。ハンガリーの裕福な商人の妻だが、当時から夫と共に住む事もなく世界中を旅していた。

「期待を裏切って悪いけれど、私は人を殺した事もないし、最後に逢った時ファナは生きていたわ」
「では今どこに」
四人の男が同時に発言した。

 アレクサンドラは真っ赤な口元を妖艶に歪め、頭を振った。
「知らないわ。でも、今宵わかる事でしょう。私たちにこのオペラの招待状を送りつけてきたんだから」

 ファナ・デ・クェスタ。いくつもの顔を持つ謎の女だった。本当の髪と瞳の色を知るものもいなかった。完璧なプロポーションが天からの贈り物なのか医学の粋を極めたものなのかも。誰もそんな事は氣に留めていなかった。ただ彼女がいるだけで世界が変わった。男を、そして女をも、成功と野心へと駆り立てる、魔のヴァルキュリア。その栄光を極めているときに必ず姿を消してしまう不思議な女だった。姿は消えても、一度彼女を知ったものは、生涯その毒牙から自由になる事は出来ない。

 ベルンシュタインがシャンパンをオーダーした。
「クリスタルでしょうか?」
バーテンダーが訊いた。
「ブリュット・プルミエにしてくれ。グラスは五つだ」

 ルイ・ロデレールの最高級シャンパンなど飲んだ事のないハーストは下品にも口笛を吹いて子爵に睨まれた。

「我らが女神に」
クリスタルグラスが尖った音を響かせる。五人はお互いに瞳を見つめあいながら、かの女のために乾杯した。黄金の泡が踊る。甘美なキュヴェが過ぎ去りし時のようにほんのひととき喉を酔わせる。ワーグナーの無限旋律のごとく終わりのない心の迷宮の中の一服。

 開演を知らせる鐘の重い響きがする。五人はゆっくりと顔を見合わせる。どんな芝居が始まるのか誰にもわからない。だが、彼らは『ヴァルキューレ』の招待を拒む事は出来ない。シャンデリアの煌めく巨大なホールを抜け、螺旋状にカーブした大理石の階段を昇り、オーケストラの調音が響く大ホールへと向かって行った。

(初出:2013年6月 書き下ろし)
.09 2013 読み切り小説 trackback0

【小説】祝いの栗

Posted by 八少女 夕

ブログのお友だち、栗栖紗那さんが10000Hitです。おめでとうございます! で、お祝いに掌編を贈らせていただくことになりました。紗那さんからのリクエストは

あ、でも、せっかくだからリクエストさせていただきます。
そうですね……『栗』もしくは『食欲の秋』のどちらか書きやすい方でお願いします。


で、『栗』+『10000のお祝い』で作ってみました。女主人公の名字を紗那さんからいただきました。構想20分、執筆一時間半、たった今、できたてのほやほやでございます。誤字脱字があったら、お許しくださいませ。


祝いの栗
ー 10000Hitのお祝いに栗栖紗那さんに捧ぐ ー


ピコンと鳴ったので、再びスマホに目をやる。今度は、中学校の同級生からのお祝いだ。うふ、ありがと。

「そのピコンピコン、止められないわけ?」
京子はイチゴショートケーキにぐさっとフォークを突き刺した。ここの一ピースはかなり大きいというのに、三分の一を一口で食べる勢いだ。歯に衣着せぬ批判は、幼なじみならではの特権だけれど、今日くらい勘弁してほしい。

「いいでしょ。一万顧客獲得なんて、そんなにある事じゃないんだし。みんなが祝ってくれるんだもの」
「あんたがfacebookで自慢したからでしょ」
「身もふたもない事いわないでよ。メールでも次々とお祝いが届いているのよ。やっぱり、つながっているって、いいわよねぇ」

ウエイトレスがようやく私の注文品を持ってきた。
「お待たせしました。モンブランとクリームソーダでございます」

京子はあからさまに眉をひそめた。
「いったいどういう組み合わせなのよ。氣でも違ったの?」
「う、うるさいわね。これは私のハレの日の組み合わせなの」

支店を任されて一年目、ようやく一万顧客を達成した。私にとっては過去最高の勝利だからといって、無理矢理京子を自由が丘の洋菓子店「モンブラン」に呼びつけたのだ。なんで居酒屋じゃないのかと訝られたが軽く無視した。

ここには最初のデートで征士が連れてきてくれたのだ。そもそも、このひどい組み合わせを注文したのは彼だった。
「子供の頃さ。祖父ちゃんが自由が丘に住んでいてさ。俺がちょっといい成績とったり、書道で賞穫ったりすると、ここに連れてきてくれたんだ。で、祖父ちゃんはモンブラン、俺がクリームソーダ頼んでさ。だから、俺は何か祝いたい時にはここにくるんだ」
「今日は、なんのお祝いなの?」
「もちろん、栗栖とつき合えた事だよ!」

大学の研究室で知り合った征士とは、卒業後もずっとつき合った。どちらかにいい事があった時は、必ずこの「モンブラン」に来て、モンブランとクリーム・ソーダで祝った。みんな、あのままゴールインするんだと思ってた。私も何となくそう思っていた。8年もつき合ったんだし。だけど、あいつは行ってしまった。


京子はちゃっちゃとショートケーキを片付けると、ブラックコーヒーを飲み干し、カチャンとソーサーに置いて畳み掛けてきた。
「で。あんた、顧客獲得一万はいいけど、その後、どうしてるのよ。新しい彼、みつけたの?」
ほら、きた。

「え。この一年は忙しくて……」
「そんなこと言っている場合? あんたね。もう三十なんだから、プロジェクトとか、顧客とか、そういう男をドン引きさせるうわごとばっかり言っていないで、ちゃんと彼を探しなよ」
「征士は、プロジェクトの事話しても、いつも応援してくれたよ」
「ふん。で? 今日のお祝いの嵐の中に、彼のメッセージはあるわけ?」

あるわけない。征士は私が支店を任された事も、顧客獲得にやっきになったことも知らないのだ。facebookの友だちですらない。だって……。

「どういうこと、それ?」
一年前、私はこの「モンブラン」のあの角の席で、征士をにらみつけた。
「だから、来月からシエラ・レオネに赴任するんだ」
「シエラ……? どこそれ」
「アフリカだよ」
「いきなり? 私に相談もなく決めちゃうわけ? ここに呼び出して別れ話ってこと?」
「誰が別れ話だって言ったよ。一緒に行かないかって、話だろ」
「ア・フ・リ・カ・に? 冗談でしょ? ロンドンやニューヨークならまだしも。それに、もしOKだとしても、来月って私のプロジェクトはどうなるわけ?」
「いや、だから、来月一緒に赴任しなくてもいいけどさ。でも、ほら、キリのいいところで……」
「キリのいいところで何よ。私がいつ結婚したら仕事を辞めたいって言った? ふざけないでよ」

私は、そのまま席を立ち、彼からのメールや電話を無視して、しばらく着信拒否にした。本当に怒っている事を理解させたかったから。けれど、彼はそのまま本当に行ってしまったのだ。

「あんたさ。終わった事は諦めて、さっさと次を探さなきゃ。花の命は短いんだし」
京子のいう事はまっとうだ。征士と仕事と天秤にかけて、私は速攻で仕事を選んでしまった。いや、本当はむかっ腹を立てていただけかもしれない。征士はずっと私の仕事を応援してくれていたはずなのに、いざとなったら「辞めて来い」みたいなことを言ったから。私にとって、仕事での成果はとっても大事だったのに。ああ、もう。今日は顧客一万のお祝いにここに来たのに。どうしてこんな事を考えてるのよ。

征士の向かった先、シエラ・レオネにだってE-Mailもfacebookもあるだろう。でも、彼が働いている場所は電氣が通っていない未開の地。携帯の電波だって入らないだろう。着任してすぐに彼からエアメールが届いて、その手の事が書いてあった。私はまだ怒っていたので、返事も書かなかった。それっきりだ。一年はあっという間だ。その間、彼がどう過ごしたのか知る由もない。私は誰ともつき合ったりしなかった。いい事があったら、いつもここに来たよ。

勝利の激甘モンブランとクリーム・ソーダが、なぜか苦く感じられた。続けて居酒屋に行こうと誘う京子に謝って別れ、私はマンションへと向かった。

仕方ないじゃない。ここには電車もあるし、コンビニもある。変な病氣になる心配もないし、それに卒業以来ずっと打ち込んできた仕事もある。仕事で成功したら、facebookの80人の友だちや、メル友たちがリアルタイムで祝ってくれる。ピコン。ほら、また。

マンションの郵便受けを覗く。あれ? このシンプルで薄い青い封筒……。エアメール? 裏返して、へたくそな字を見ただけで、心臓がドキドキしてくる。エレベーターを待つのももどかしく、私はすぐに封筒をこじ開けだす。なんで、こんなにがっちり糊付するのよ。

お〜い。どうしてる?
今日は、栗栖の誕生日だよな。おめでとう。
こっちは、秋なんて到底思えない暑さだけど、ドイツ人の同僚がいいもん見せてくれたんで、写真に撮ったよ。トチの実だ。ドイツにいる息子が拾ってパパにってプレゼントだってさ。「栗にそっくりじゃないか?」そう言ったらドイツ野郎は「当然だよ。ドイツ語では馬の栗っていうんだ」なんていいやがった。お前の誕生日に栗みたいなのが出てきたの、何かの縁かと思ってさ。仕事、頑張れよ。


トチの実



何よ。誕生日なんて一ヶ月以上前の事じゃない。どこがエアメールなのよ。それに、偽物の栗の写真を送るなんて、どういう神経しているの。私は征士の手紙を抱きしめた。

スマホがピコン、ピコンと鳴っている。涙を拭って、エアプレーン・モードにした。机に向かうと、便せんを探す。手紙なんか、ずっと書いていないから、なかなか見つからない。

(初出:2012年10月 書き下ろし)
.05 2012 読み切り小説 trackback1

【小説】風紋 

Posted by 八少女 夕

moz84さんのお題をもとに書かれたMamuさんの作品にインスパイアされた短編です(彼女の素晴らしい作品は、この記事の下に記載しました)。「愚問」に出した私の愚答は「女だったから」。なぜか。お読みください。


風紋

夜の帳が静かに降りてくる。渇きが癒されぬまま、女はかすんだ目で砂の上を見ていた。ゆっくりとにじり寄ってくる、黒く艶やかな蠍が目に入る。その虫はやがて女の肌をよじ上り、頬へと向かう。汗すらも乾ききった女の体で唯一潤う場所、涙を目指して。女を黒い瞳が見つめている。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。
女は答えない。

*    *    *

問いかけたのは、私です。あなたはとても正直だった。だから、一度も答えてくれませんでした。

空氣が重くだるい夏の午後、あなたはサルマーと碁盤をはさんで語り合っていました。ジャスミンの香りが馥郁たる春の夕べに、あなたはサミーンと宴の席を囲んでいました。肌でお互いを暖めあう冬の朝は、愛らしいアイーシャと過ごしていました。月の消えて星の冷える秋の夜、あなたは私の作った詩に耳を傾けました。語るのはいつも私でした。あなたは、とても正直だった。あなたの黒い瞳が、私の問いに答えていた。けれど、私は他の答えを待っていたのです。

若い頃から辛苦をともにしたサルマーではなく、あなたに必要な財力を与えてくれたサミーンでもなく、若く妬ましくなるほど美しいアイーシャでもなく、大切なのは私だけだと言ってほしかった。

「教えて。一番、愛しいのはだれ?」
あなたは答えてくれませんでした。あなたの黒い瞳は静かに私を見つめていました。それは、こう言っていました。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。

アイーシャがキラキラと輝くエメラルドの首飾りを誇るように身につけていた時に、私は何も言いませんでした。でも、『カリーラとディムナ』の装飾本を見せて来た時には、黙っている事が出来ませんでした。

「なぜ、あの子に私にもくださらなかった高価な本を与えるのですか。あの子は本なんか読まない。宝石や花だけではあの子の氣を引くのに十分ではないとお思いですか。この事がどれほど私を傷つけるのかおわかりではないのですか」
あなたは答えてくれませんでした。あなたの黒い瞳は静かに私を見つめていました。それは、こう言っていました。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。

「私は自分がここにいる意味が見いだせません。何のために生きているのか、わからないのです」
あなたは答えてくれませんでした。あなたの黒い瞳は静かに私を見つめていました。それは、こう言っていました。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。

泣いて、泣いて、泣いて。その度にあなたの言葉は少なくなっていき、戸口にあなたが現われない日が何日も続き、私は自分からあなたに面会を申し込まねばなりませんでした。

「寂しいのです」
「人はみな孤独だ」
「これではたまりません。ほんのわずかでも、国に帰らせてください」
「もう、戻ってこないつもりか」
ずっとあなたの隣にいたかったのに、私は正直に答える事が出来ませんでした。
「わかりません」
輿入れ以来、一度も出た事のなかった門を出る時、私は何度も何度も振り返りました。あなたが走り出て来て、抱きしめ、「どこにも行かせない。愛しているのはお前だけだ」と言ってくれるのを期待して。

*    *    *

銀の鞍の駱駝に女を載せて召使いのハーシムは砂漠を行った。隊商の影も、街の香りもどこにもなくなった頃、奥方さま、奥方さまと面倒を見てくれた彼は態度を豹変させた。

「風が強いから休めだと。だったらそれをよこすんだな」
女は金貨がたくさん入ったゴブラン織りの財布をハーシムに渡さねばならなかった。

星が降りそそぐ夜は、凍える寒さに震えた。
「火をおこしてほしいだと。だったらそれをよこすんだな」
女はルビーとエメラルドの輝く腕輪を渡さねばならなかった。

砂嵐が起こり、駱駝は一歩も歩こうとしなかった。
「砂よけのテントを建ててほしいだと。だったらそれをよこすんだな」
ハーシムは女の着ていた極東の美しい絹の衣服をはぎ取った。

「俺は、これ以上お前に仕えたりはしない。一生遊んで暮らせるお宝を手に入れたからな」
ハーシムはそう宣言すると、女を突き倒した。
「どうか、置き去りにしないでください」
頼みが聞き入れられぬと悟った女はせめて水を残していってほしいと懇願した。
「だったら、これはいただくぜ」
銀の鞍をつけた駱駝に跨がると、ハーシムは陽炎の先に見えているオアシスに向けて駆けていった。女を砂漠の中に一人残して。

女はとぼとぼと歩いた。灼熱の太陽がじりじりと焼き付ける。オアシスは近づいているようでいつも遠ざかった。ファタ・モルガーナ。歩いても歩いても、何も変わらなかった。ハーレムの中庭の噴水の音が聴こえる。尽きせぬ豊かな泉。望めばいつでも逢えた愛しいひと。黒い瞳が問いかける。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。

わずかな水はすぐになくなった。足が砂の中をまともに踏み出せなくなり、倒れては立ち上がり、倒れては立ち上がり、やがて、そのまま横たわった。遠くを隊商が過ぎていく。手を降り助けを求める力は残っていなかった。

あなた。私はまだ待っています。あなたが駆けて来て、「どこにも行かせない」と抱きしめてくれるのを。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。


夜の帳が静かに降りてくる。渇きが癒されぬまま、女はかすんだ目で砂の上を見ていた。ゆっくりとにじり寄ってくる、黒く艶やかな蠍が目に入る。その虫はやがて女の肌をよじ上り、頬へと向かう。汗すらも乾ききった女の体で唯一潤う場所、涙を目指して。女を黒い瞳が見つめている。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。
女は答えない。死の帳が静かに降りてくる。

第三夫人が供の者と失踪した後、アフマド・ビン・ムクタディル・ビン・ハマド・アル=ジャーミウは再び妻を娶った。不意にできた空白は、新たな婚姻で埋められ、ハーレムには平和が戻った。

どこまでも続く赤茶色の光景は、陽炎に揺らぎ地平線が見えない。わずかに盛り上がっていた丘の周りに風がサラサラと執拗に砂を運び込み、やがて周りとの段差はなくなった。その平かさに安心したかのように、風はいつもの仕事に専念しだした。どこまでも続く赤茶色の大地に戯れの幾何文様を描いていく。乾いた世界は、今日も何事もなく暮れていった。

(初出:2012年8月 書き下ろし)


愚問


日の傾きかけた砂漠を隊商が行く
その駱駝と人の群れを砂の丘に昇って
東洋人の髪のように黒いサソリが眺めている

傍に横たわる骸の女に見向きもせずに
サソリは群れが行き過ぎるのをただ眺めていた

暗澹たる闇が降りてもサソリは動こうとはしない
己が何者かも知らぬ曖昧さで其処に佇んでいるのだ


─ 幾ばくの時が過ぎただろうか
月の焔が 骸の女を恍惚と浮かび上がらせた

サソリは女に眼を遣り愚問する
「何故美しいのか」と

─ 女は答えない

凝固する血の涙にサソリは更に愚問する
「何故泣くのか」と

─ 女は答えない

苦悶の形相におぞましい逸楽を感じながら
サソリの愚問は続く 
「何故死ぬのか」と

─ 女は答えない

そして 四度の愚問を遮るように月は雲に呑まれ
闇が全てを覆い尽くした

答えぬ女の顔を黒いサソリは無造作に這ってゆく
女とサソリの間にはもはや何も無い
其処にはただ生と死が転がっていた



愚問 (特別編) - Poem Spice-久遠の詩-

.12 2012 読み切り小説 trackback0

【小説】梨に関する他愛もない小譚

Posted by 八少女 夕

「大道芸人たち」は一時置いておいて、昔書いた小説を、また載せてみようと思います。デモテープが「カセット」だったというのが、時代を感じさせますね。でも、そのままアップしました。




梨に関する他愛もない小譚

 私は、今日、この地を去ろうと思う。梨の花が満開の今日こそが、それにふさわしいと思うから。彼はこの街だけでなく、全世界で新しい伝説のひとつになったけれど、私は直に忘れられるだろう。この美しい、懐しい、そして、はじまりから終わりまでの全て舞台となったこの地から離れさえすれば。

 それは、ただの幻想だった。多くの人々の好奇心をいたずらにかきたて、スキャンダラスに語られた夢物語。私と彼の間には、本当に何もなかったのだ。梨の花に関する小さな感情をのぞけば。

*          *       *


 何おかしい、そう気づいたのは、たぶん五年くらい前の今ごろだった思う。店に、今までとは違う客層の、つまり、落ち着かない様子の、若い、どちらかといえばクラッシック音楽なんか一度も聴いたことのないと思われる女性達が、胡乱な目つきで入ってくるようになった。叔父さんは、どの客とも区別したりせずに、気持ち良く迎えていたが、彼女達は常連になることはなかった。

「あの人たち、コーヒーにもクラッシック音楽にも興味がなさそうなのに、どうしてこの喫茶店をわざわざ訪ねてくるんだと思う?」
私はコーヒーマシンをいつものようにきれいにしながら、叔父さんに話しかけた。 

「さあ、どうしてだろうねぇ」
叔父さんはカウンター越しに一人の常連に笑いかけた。すると、その常連は驚いたように言った。
「なんだ、マスターたち、知らないの?」

 そして、私を見ながら言ったのだ。
「君を見に来ているんだよ。ロックスターの片想いの相手ってんでね。この街で知らない人はいないぐらい有名な話だよ」

 彼が冗談を言っているのかと思ったが、彼は大まじめだった。ロックスターに知り合いはいなかったし、思い当たる人などいなかった。「ノヴァ」と言えば、いまや世界中で知らない人などいないバンドになったが、その頃はまだ知る人ぞ知る、というか、私や叔父さんのように、ロックになど興味のない人間は知らなくても不思議はなかったのだ。もちろん、五年前にはもう、「ノヴァ」はこの国のロックシーンでは、かなり知られた存在になっていた。

 その後、何人かの常連を通して知った情報では、彼、すなわちあのロックスターが、デビュー前後に作った曲「スタッカート」に、時々通う喫茶店で働く女性に恋して打ち明けられないという苦悩を歌っているそうで、彼の故郷であるこの街には「スタッカート」という名のクラッシックばかりかける喫茶店は、叔父さんの経営するここしかなかったため、彼のファンの間で有名になってしまったのだそうだ。そして叔父さんは、私以外の従業員を置いたことがないので、だから、いつの間にか私がロックファンの女性達にいわれのない嫉妬の目を向けられることになってしまったのだ。


「ああ、思い出した。あの学生さんか!」
叔父さんは、そのロックスターのまだデビュー前のことを憶えていたらしい。その時からさらに三年くらい前によく通っていた青年のことらしかった。

「よくお前に話しかけたそうにしていたっけ」
そんなことを今さら言われても、その時に言ってくれなければ、気づきようもないではないか。そういうと叔父さんはちょっと非難がましく私を見た。

「そんなことをいうけれど、お前はそういうことに対して、ことさら鈍感な性質だと思うよ。普通は、何度もここに通って、いつもお前の前のカウンターに座って、何かいいたそうにしているのを、気づかなかった、なんことはないはずだよ。こっちは、嫌だからことさら気づかないふりをしていると思うじゃないか。それを教えてくれればなんとかしたなんて、今さら言われてもねぇ」

 そういわれて、私もふいに思いだした。彼の目を。

 私は、気づかなかったのではない。うとましくて気づかないふりをしていたのだ。そのことすら、その時まで記憶の底に沈めていたのだった。彼は目を惹くほどの美形でもなく、かといって醜かったわけでもなかった。といっても、その時思い出したのは彼の黒髪と、あの印象的な目だけだった。黒目がちで、もの言いたげにみつめる。その目にからめ捕られるような感覚が、私にはうとましかった。そういえば音楽をやっていると言っていたような気がする。売れないバンドのボーカルかと思っていたのに、なんと数年経ったら有名なスターになっていたとは驚きだった。

 ああ、そういえば、時折送られてくる、ロックコンサートのチケットの差出人は、彼の名前ではなかったか? 興味がなかったのと、喫茶店の趣旨を誤解した誰かからのものだと思っていたために、私は一度も気をつけて見たりしないで捨ててしまっていた。それに思い当たったのも、彼の名前からではなく、「ノヴァ」という名前をどこかで聞いたような気がすると思っていたからだった。「ノヴァ」のコンサートの招待券を捨てていたなんて、ロックの好きな人がきいたらさぞ驚くことだろうが、そもそもその時まで、そのコンサートにそんなに行きたがっている人がいることすらも、私は知らなかったのだ。彼が、店に来ていた学生で、デビューして、だからコンサートに来てほしいと、ひと言でも書き添えてくれたなら、私でももう少し気をつけていたのに。いや、もしかすると彼は、デビューしたらチケットを送ると私に言ったのかもしれない。それを私が忘れてしまっていたのかもしれないのだ。ああ、そうだ。彼は確かにそんなことを言っていた。

「はじめて、コンサートを開くことになったんだけれど、一度聴きに来てくれないか」
彼にしては珍しくはっきりとした口調で言ったのだ。それを私は
「クラッシックのコンサートならいくけど……」
と、気のない返事をして断わった気になっていたんだっけ。

 彼は、それでもチケットを送り続けたのだ。デビューして、どんどん有名になっていっても、変わらずに。


 私が彼の事を意識しだしたその頃から、彼の存在はこの街に大きな経済的効果をもたらすようになっていった。過疎気味のこの街に活気が戻り、一度も訪れたことのない若者たちも、聖地巡礼のようにこの街に足を運ぶようになったのだ。

「特徴的なのは、いつも一人の女性を真摯に愛するという、今どきのロックには珍しい純情ぶりなんだよ。今の若者の心は渇いているのかと思ったけれど、いや、渇いているからこそ、『ノヴァ』のメッセージが受け入れられて、熱狂的に支持されるのかも知れないね」
彼のことを教えてくれた常連はこんな風に言っていた。問題は、その愛されている女性というのが、世間一般的には私だと思われていることだった。

「大して綺麗でもないわよね」
「なんか期待していてがっかりじゃない?」

 そんなささやき声が聞こえてくると、私はたまらなく気が滅入ってしまうのだった。余計なお世話だと思った。自分でも夢物語の主人公になるほど美人だと思ったことはない。けれど、どうして好奇と悪意の目にさらされて、小馬鹿にしたような批評を受けなければならないんだろう。私は、そのロックスターのことを、ことさらうとましく思った。

 一度、カミソリ入りの封筒を送られてケガをしたことがある。さすがにその時は腹を立てて、「ノヴァ」の所属する事務所に抗議の電話をした。それは「月明かり」という曲がヒットしていたときだ。ようやく思いを遂げた夜に、月明かりに照らされた愛しい女性の寝顔をいつまでも見つめているという歌詞だった。

「けれど、それがあなたのことだと、どこかに書いてあるわけじゃありませんからね」
のらりくらりと事務所の男はそういった。そうだ。彼はただ、曲を作り、歌っているだけだ。それがフィクションである可能性、というか、フィクションに決まっているのに、勝手に怒ってカミソリを送り付けてきた人が悪いのだ。わかっていても、あのスーパースターに対する怒りはおさまらなかった。

「だけどねぇ。あれは名曲だよ」
例の常連客は、叔父さんに言った。ちらっと私を見ながら。私が彼の話を聞くたびに、嫌な顔をするのを知っていたからだ。

「ロックだけどさ。それでも、心に響くハーモニーを持っているし、それにあの歌詞もとても繊細でさ。僕ぁ、彼は天才だと思うな。三十年に一度の逸材だよ」
それが、なんだっていうのよ。むかっ腹を立てた私は不機嫌にカップを洗っていた。

 電話が鳴った。叔父さんは、電話をとると、びっくりしたように私を見た。そして指で合図をした。私は洗い物を中断して、エプロンで手を拭くと、叔父さんから受話器を受け取った。

 その電話の主は、彼だった。間違いなく、彼の声だった。一日に何度もラジオでかかる「月明かり」で聞きなれた、低く甘い声。彼の声は、特別のちからを持っていた。多分、法律文を朗読していても、愛を語っているように響くだろう。ケガをした私を心配し、謝っていることに、私はしばらく気がつかなかった。ただ、呆然として、その声を聞いていたのだ。ラジオのように。

「会ってくれないか」
彼は言った。私は慄然として、現実に戻った。うとましい、関わりあいたくないという思いが、体中を巡った。

「そんな時間はありませんし、そんなつもりもありません。それに、そんなことをしたら、今度はどんな目に合わされるか、わかったもんじゃありませんから」

 私はものすごく腹をたてていた。迷惑をかけられるということよりも、一瞬でも彼の声に陶然としてしまった自分自身が悔しくて、電話機を投げつけたいほどのイライラ感に襲われた。電話を切ると、ものすごい顔をしていたらしい私を見て、叔父さんは散歩に行くようにいいつけた。私もそうするべきだと思った。とてもそのまま働き続ける気にはならなかったのだ。

 それは春だった。この街の名産である梨の花が、一斉に咲き誇る特別の季節だった。匂やかに清冽で、優しく華やかな梨の花。私は、梨園の中を一人歩いていた。やわらかな暖かい風が、私に触れ、そして梨に触れていく。

 咲き誇る花の下で、私はいつも泣きたい気持ちになる。一人である寂しさと、春の喜びを寿ぐ気持ちがないまぜになり、このまま、白い嵐の中に消えていってしまいたいと思うのだ。しかし、毎年、梨は私を連れていってはくれない。私は一人残され、それから次の年に梨が咲くまで、散文的に、コーヒーマシンを手入れする日々が続く。

 誰かを好きになったりすることがないわけではなかった。少女だった頃は、同じ学校の上級生に夢中になって、手紙を書いたりもした。その時に、手紙を笑いものにされて、それ以来、人にあまり心を開かなくなったけれど、それでもこれまでにひとつ二つの恋愛はした。最後につきあった人はこういった。
「君は悪い人じゃないけれど、誰か人といるというより、モノの横にいるみたいに感じるんだ」

 叔父さんは、やはり独り者で、人あたりはいいのに、誰かと濃厚な関係を築くことのできない人だった。「スタッカート」は静かなクラッシック音楽を聞かせ、叔父さんのブレンドするコーヒーも癖がなく、とても飲み心地が良かった。叔父さんと私は、現実的なドロドロした生活から、ほんの少しだけ非現実に浸りたい人たちに、休息をもたらすコーヒーマシンのようなものだった。

 私は、そういう生活に満足していたけれど、時折、たとえば、梨の花の嵐の中で、そうではない自分と対峙するのだった。寂しいというのとも違う、わかってほしいというのとも違う、しかし、そのどちらにもとてもよく似た、狂気に近い哀しみを、私は心の奥底に潜ませていた。

 この街の人は、梨のことを話すときに、コーヒーマシンや、電気掃除機と変わらないような調子で話した。私が感じるような特別な思いを口にした人には会ったことがなかった。たぶん彼らの心の奥には、不安も狂気も潜んでいないのだろう。そのことが、春に私を一層孤独にした。あのスーパースターに対して、怒り狂っていた時は、その哀しみを忘れていられた。それはむしろ幸せなことだったのだ。


 あの小包みが送られてきたとき、もう少しで私はそのままごみ箱に放り込んでしまうところだった。彼の文字は汚かった。でも、彼なりに丁寧に書いてきたことが、宛名で読めたので、私は開けてみることにした。電話の彼の声が耳に甦って、私は戸惑った。こんなにうとましくて、仕方のない人なのに、どうして陶然とするんだろう。あれからラジオで彼の声を聞くたびに、平静でいられなくなる自分を感じていた。街で見かけるポスターの、アップになった彼の顔を正面から見つめられない自分に腹が立った。それなのに、また、こんなものを送ってきて!

 それはカセットテープだった。十分くらいの短いテープ。新曲のデモテープだった。関係者以外でこの曲を聴くのは私がはじめてであろうことは、いくら私でもわかったので、それをかけるときは、すこし震えた。それは、あの曲、後に彼を世界的に有名にしたヒット曲「君は風に揺れる梨の花」にふさわしい震えだった。涙が止まらなかった。なんという暖かい声。心を震わすメロディ。そして、この歌が梨の花を歌っていることに、私は激しく動揺した。誰にも見せたことのなかった私の心の秘密の花園を、彼は知っていたのだ。それとも、これは彼の秘密の花園なのだろうか。

 彼は間違いなく天才だった。「ノヴァ」はアップテンポのロックが多いバンドだったけれど、このスローバラードは、彼らの代表曲になった。

 私は、もう彼の音楽を軽蔑したりはしていなかった。あいかわらず送られてくるコンサートのチケット、特別席のプラチナチケットをごみ箱に捨てることはなくなった。でも、一度も行かなかった。怖かった。彼をうとましく思い、軽蔑し、思い切りよく捨てられた頃に戻りたかった。コンサートの日まで、何度もチケットをとりだしては、どうしようかと迷い、行ったらどうなるかを想像し、そして、平和な日々を固持したほうがいいのだと、目を伏せた。

 そのうちに、チケットがくる間隔は、どんどん開いていった。「ノヴァ」はもはや、ただのロックバンドではなかった。彼らは活動拠点をロンドンに移した。この街には全然帰ってこなかったし、世界ツアーが大成功しているせいで、この国でコンサートを開くとしても、年に一〜二回になっていた。

 時折、後悔することがあった。もし、あの時の電話で、もっと普通の対応をしていれば。もし、あのテープを受取ったときにせめてお礼をいっていれば。もし、一度でも彼のコンサートに出かけていれば。彼がこんなに有名になってしまい、ますます私は彼に対してひけめを感じるようになっていた。

 もはや、私のことを嫉妬する女性ファンはいなかった。マスコミは、ハリウッドの有名女優と彼の熱愛を報道していたし、私は世界のスーパースターの相手としては、あまりに貧相で、彼が私を愛していると信じるものは、もう一人もいなかったから。彼は実はホモセクシュアルであるという噂もまことしやかに流れていたので、ことさら私のことは取りざたされなかった。私はうとましさから解放されて、嬉しいはずなのに晴れやかにはなれなかった。


 彼からの最後のコンタクトは、いつもよりも重い封筒だった。ニューヨーク行きのファーストクラスのチケットと、カーネギーホールで開かれるガラコンサートの招待券が入っていた。私と叔父が大好きな世界的に著名なソプラノ歌手と競演することになったと手紙が入っていた。
「これは、まちがいなくクラッシックのコンサートだ。今度こそ、君が来てくれると信じている」 

 彼の字は、あいかわらず汚かったが、丁寧で真摯だった。その時に、私は彼のことを愛しているということをはっきりと知った。会ったことも話したこともほとんどなく、うとましくて苛立たしくてどうしようもなかった男なのに、どうしようもなく彼に魅かれていることを認めざるを得なかった。そして、彼はどうして私にこのチケットを送ってくれるのだろうと思った。彼の曲で言い続けているように、本当に私を愛してくれているのだろうか。そうだとしたらいったい何故? 才能があり、成功して、なんでも手に入る彼が、この田舎の喫茶店で働くぱっとしない女を愛し続けるなんて事が本当にできるのだろうか。単に習慣となってしまったから、送り続けてくれているのかも知れない。ただ、意地になっているだけかも知れない。それとも、いつも空いている特別席が、既に定番になってしまっているので、それを続けているのかも知れない。

 彼とハリウッド女優は、婚約間近だと報道されていた。公の場に2人で登場したその姿は華やかで、私をうちのめした。「梨の花のようにあでやかな婚約者と」そのタイトルは、私には堪え難かった。彼がそういったとはどこにも書いていない。でも、私は大切な思い出を踏みにじられたような気がしたのだ。だから私は飛行機に乗らなかった。


 彼の死は新聞の一面に大々的に報じられた。我が国の生んだ世界のスーパースターの突然の死に、人々はショックを隠しきれなかった。表向きは心臓発作ということになっているけれども、実は麻薬の使いすぎだったとか、急性アルコール中毒だったとか、複雑な情事がからんだ未の自殺だという報道もあった。中には、私に振られて、という話もないわけではなかったが、その説は大方のマスコミには無視された。しかし、この街と私の周りは、しばらくは騒がしかった。彼の追悼特集で、彼のデビュー当時のことを振り返るときには、私のことは無視できないエピソードだったから。

 私は多くを語らなかった。あのカセットテープのことも、カーネギーホールのことも、自分の口からは語らなかった。もちろん彼を愛していたことも。

*          *       *


 わずかな荷物を小さな鞄に詰め、どこへというあてもなく、私は旅立つ。叔父さんは私のわがままを許してくれた。

 最後に一度だけ、梨の花の間を歩いてみる。

 生暖かい風が吹き、梨の花びらが舞った。嵐が吹きおこる。私を巻き込み、どこまでも深い青空へと連れていく。目の前が曇り、歩くことができない。愛していると言わなかったがために罰せられる自分のためにではなく、愛されていることを知らずに逝った彼のためでもなく、たぶん、ここでつながった、ここでだけひとつの心になった、私たちの、何もなかった物語のために、私は日が暮れるまでそこで泣き続けていたのだった。

(初出 : 二〇〇三年九月 書き下ろし)
.11 2012 読み切り小説 trackback0

【小説】夜のエッダ

Posted by 八少女 夕

実は、私は古代神話の類いがとても好きです。このお話の元になったのは「バルドルの死」という北欧神話です。もともとの神話とはかなりバルドルの印象が変えてしまってあります。私はみんなに愛される王子様のようなうさんくさいキャラに多少の反感があるのです。



ヴァルハラは光に覆われ、若草の匂いがあたりを満たしていた。いつもは宴にわく宮も今日はひっそりと静まり返っている。時折、フリッグ女神のすすり泣きやオーディン主神の漏らす溜め息、そして多くの神々や戦士が声をひそめて悲しげに語り合うのが聞こえた。ナンナはヴァドゲルミル河の岸辺に座り込み河の流れをうつろに眺めていた。光輝く神バルドルが死んでから一日が経った。バルドルはもう眼を開けない。ヤドリ木の小さな枝に貫かれて、珠の肌から真紅の血筋を滴らせ…。

ナンナは、バルドルの妃のナンナ女神は悲しみと、そして渦巻くほかの複雑な思いの中でヴァドゲルミルの流れに視線を任せていた。つと、魚の影が黒く走った。ナンナは怯えた。そして若草が力強く萌える岸辺の上に倒れ伏した。




オーディンの最愛の息子は光輝く清浄の神バルドルであり、彼はいつもヴァルハラにいて平和で満ち足りた日々を過ごしていたものだったが、最愛の娘はヴァドゲルミルの下流、人間界との接点、つまり戦場に身をおいていた。その名をブリュンヒルドといい、彼女がヴァルハラへ行くのは戦死した勇者をその宮へ送る時、つまりヴァルキューレとしてのつとめを果たす時だけであった。

ヴァルキューレたちはブリュンヒルドを女王と戴き、そして戦場に座る一人の神のもとに集まっていた。その神はオーディンとフリッグの間よりバルドルの双子の片割れとして生まれ出た。名をホズという。世界樹ユグドラシルが根付いてより倒れるまでこれほど似ぬ双子はなかったし、ないであろう。バルドルは光輝く金髪を柔らかに靡かせ、大空のような明るいブルーの瞳と薔薇色の唇を持ち、若い娘たちは彼の永遠の若さと美しさを讚え、恋し止まなかった。

一方、ホズは漆黒のまっすぐで細い髪を持ち、痩せて背は高く、瞼は開じられていた。ホズは生れながらにして物を見る能力を奪われた存在であった。彼は眼で物を見ることがない。だからこそ、運命を司る彼の役目は全うされていた。彼は常に戦場に座り、ヴァルキューレたちを遣わしては、死を迎えた勇士たちを舟に乗せヴァルハラへ送り込ませていた。彼自身は決して自らヴァルハラへ赴くことはなかった。彼はある意味で招かれざる客であったからだ。

ホズは口数の少ない内省的な性格だった。ヴァルキューレ達はほとんど彼と言葉を交わしたことがなかった。が、ブリュンヒルドだけは別だった。この勝ち気で美しいヴァルキューレの女王は沢山いる兄弟の中でもっともこの孤独な兄に親しみをもっていた。生まれたばかりの時からブリュンヒルドはこの兄の側にいたがった。ヴァルハラの神々に敬遠されてここで育つホズのもとに連れられて来た日、彼女はヴァルハラに帰るのを拒否し、それ以来二人でここで成長したのだった。これが、ブリュンヒルドがヴァルキューレとなったきっかけである。

ここには沢山のヴァルキューレ達がいたが、ヴァルキューレとなったきっかけは様々だった。女だてらに武装し戦って死んだためになった者、軍神の娘として生まれた者、それからナンナのように戦場に捨てられていたのを拾われてなった者もいた。ナンナを拾ったのは、ほかならぬブリュンヒルドだった。ナンナにとってブリュンヒルドは文字通り母親がわりだった。そのせいかナンナは他のヴァルキューレ達にくらべてホズのことも親しみをもっていた。

「まあ、雲雀が飛んでいきますわ」
ナンナは無邪気にホズの足許に座り込んで大空を見上げた。一年の半分以上が夜のこの国でやっと訪れる遅い春がナンナの最も好きな季節だった。ホズはかすかに微笑んで耳を澄ました。戦の合間のわずかなひとときだった。

「眩しいわ。フィヨルドに春の陽がキラキラ反射して…。何もかも新しくなる感じですわ」
「冬の間のおまえとは別人のようだな、ナンナ」
「ええ、だってあたし、冬は嫌いですの。寒くて、暗いんですもの」
ホズは雲雀の飛び去った方向へ顔を向けた。ナンナの明るい笑い声が空気に満ち、あたりが柔らかい光に埋まり、ホズの表情も和らいだ。

ブリュンヒルドはそんな二人を見て微笑んだ。ナンナは日に日に美しくなっていった。盲いたホズには、そのことはわからなかったが、ブリュンヒルドはいつの頃からか孤独なホズを慰められる唯一の希望としてナンナを見るようになっていった。

ブリュンヒルドがナンナにそうした期待を持つようになったのにはひとつの理由があった。ブリュンヒルドはヴァルキューレの女王にもはや自らがふさわしくないこと、近くここを追われて去るだろうことを予感していたのだった。

すべてはこのあいだの戦の時に変わってしまったのだった。あの時に会った一人の勇者とブリュンヒルドは一目で恋に落ちた。ブリュンヒルドは初めてホズの紡いだ運命に逆らった。ホズは勇者シグルドをオーディンのもとへ送るつもりだったのだ。だが、ブリュンヒルドはこの美しく逞しく勇敢な青年をすぐに死なせてしまうことが出来なかった。今まで一度だってそんなことはなかったのに。ヴァドゲルミルの舟に乗せる時にすばやくシグルドを列からはずし助けてしまったことは、どう考えてもヴァルキューレの女王の行為としてはふさわしくなかった。たとえまだ誰も気付いていないにしても。

「ナンナ」
ひとり舟に乗り、ブリュンヒルドはナンナを呼んだ。ナンナは無邪気に育て親の言葉に耳を傾けた。ブリュンヒルドは意を決して一気に話した。

「私はこれからヴァルハラヘ行きます。もう帰ってこれないと思うからあなたにお願いするわ。ホズのことを。あの人は私がいなくなったらあなたしか心を開ける人がいないの。私はそのことだけが心残りなの」

ナンナはあまりの驚きに一瞬言葉を失ったが、すぐに我にかえると説明を求めた。
「何故もう帰れないんですか。何があったのですか。ホズ様は知ってるんですか」
「誰もまだ知らないわ。何があったかはすぐにわかるわ。私はもうここにはいられないの。だから、お願いよ、ホズのこと。あなたにしか頼めないんだから」

その間に舟は静かにヴァドゲルミル河を滑りだす。ナンナは必死で追い掛けたが、それがブリュンヒルドの姿を見た最後になってしまった。


オーディンは最愛の娘の行状を烈火の如く怒った。フリッグ女神をはじめ皆が慌ててその怒りを沈めようとしたが、すべて徒労に終わった。オーディンはブリュンヒルドをスカティの森の城に閉じ込めて眠らせた。周りに火を廻らせ本当の勇者でなければそこへ辿り着けないようにしてしまった。

オーディンは、しかし、その勇者こそシグルドであることを知っていた。そのため、シグルドは名馬のグラニや名刀のグラムを手に入れることが出来たのだった。そのままうまくいけぱ、ブリュンヒルドは限りある命の間ではあるが、人間の娘としてあれほど望んだシグルドの妻となることが出来るはずだったのだ。


ヴァルハラでオーディンの意志にすら反して起こる不吉な運命にはいつも一人の神が関係していた。戯れから産まれし者…。巨人と神の血をひく大いなるはみ出し者と人は言う。なぜ神々を憎み禍いを呼ぶのかわからない。だが彼が来ると小さなヴァルハラの住人たちは蜘蛛の子のように散って行く。
「ロキが来た…!」

ロキは不可解だ。神々に禍をなすかと思えば、巨人達に立ち向かう神々の大いなる助け手となる。奸計に長け腰軽く、柔軟にして反逆者。醜い言葉はその口から泉のように湧き出る。

「ロキが来た…!」
バルドルは少し身を固くしながらこの招かれざる客を見た。ロキはバルドルを見ると、その整ってはいるが狡猾そうな顔を歪めて近付いて来た。
「これはこれは美しくも幸運に満ちたバルドル殿!今日は更にご機嫌麗しく!」

バルドルはこの厄介者の傍を早く離れたほうが得策だと知りつつも、尻尾をまいて逃げ出したなどと後で吹聴されるのだけはご免だと考えていた。

「君も元気みたいだね」
「こりや驚いた。世界の中心にいるバルドル殿がこのロキの健康を気遣うとはね。明日はこのヴァルハラに槍の雨が降りまさあ」

「相変らず口が悪いね。少しまともに人づきあいが出来ないのかな」
「人づきあいをおまえさんに指導されたくないね。なんせおまえさんは、あの誰とでも寝る売女のフレイヤに付き纏っていい返事を貰えないそうじやないか」
「驚いたな。何故おまえがそんなことを知っている。それにフレイヤを売女よぱわりするのは聞き捨てならないな。おまえと同じ巨人族出身じゃないか。もっとも比べ物にならないぐらい美しいがな。あれだけの女が人妻なのは惜しいものだ」

「人妻だろうと今までバルドル殿が気にしたことがありましたかね。バルドルに愛されれば女は尻尾を振る。フリッグのお気に入りの息子の行状に口を挟む命知らずはいない。バルドル殿はやりたい放題。まあ、あの唐変木の巨人にはそこらへんの予備知識はないから決闘ぐらいは覚悟するんですな。トールあたりに大袈裟な武器でも借りとくといいんじゃないですかね」
「物騒なことを言うなよ。そんなことを勧めるぐらいなら、もう少しましな提案をしてみろ。うまくあの別嬪との逢引を取りもってくれよ」

「さあねえ。夫もスカタンなら妻の方も顔ほど洗練されてないからね。それよりももっと耳寄りな情報があるんだがね。おまえさんが飛びつきそうなね」
「フレイヤより耳寄りな話があるもんか」

ロキは含み笑いをした。バルドルは背中に魚が走ったようにゾッとした。誰もがこんなロキの顔を見たことがある訳ではなかった。その時バルドルは、ロキの奸計にのせられて自滅した多くのヴァルハラの住人のことを思い出した。だが、バルドルは自分は他の誰とも違うと思い直した。天下のバルドルともあろう者が、チャンスを前にロキ如きを恐れて思うがままにならないなんて、どうして我慢ができよう!

「聞こうじやないか。それでおまえの条件は何なんだ」
「そうして俺の条件を訊いてしまったからには、もう後戻りはできないんだよ、バルドル」
「ああ、いいとも。何でも言ってみろ。そのかわりフレイヤとの逢引よりもつまらないことだったらおまえの首をへし折ってやる」

ロキはゆっくりと息を吸ってから左手をさしだした。バルドルは不審げに覗き込みおもわず息を飲んだ。ロキの左手の中には割れた鏡の破片があり、そこにはフレイヤに瓜二つの美女がほほえんでいた。バルドルにもそれがフレイヤではないことはすぐにわかった。フレイヤならば、そんなはにかんだ微笑みを見せるはずはなかったからだ。

「これは誰だ…」
「お気に召したかね」
「誰かと聞いてるんだ」
「これこそ真の美の女神、フレイヤ、あの売女のいかにも無垢な双子の妹だ」
「まさか。フレイヤに双子の妹が?」

「双子は不吉。その昔このロキ様に双子の片割れを戦場に捨ててくるように命じた神がいた。歴史は廻るもの、再び同じことを命じたのは今度はこのロキ様の親族の巨人様だった。だからこのロキ様はただ捨てるのではなく、不幸の種になるように同じ場所に捨ててきたのさ。そして乙女は知られる事なく美しく育ち、時は満ちた。さてロキがこんな情報を流すのを、まさか好意だとは思うまいね」
「もちろんだとも。何が目的だ」

「ひとつは、これからもちだす交換条件。もうひとつはあの売女が地団駄ふむ顔が見たいから」
「いいだろう。条件を言え。女の居所を教えてくれたら適えてやる」
「おまえの捕われの妹のブリュンヒルドをある王子が欲しがっている。運命をまげてその望みを適えてやるのだ」
「なっ…!」

バルドルの想像していた条件よりはるかに重大な交換条件だった。確かにオーディンの怒りを受けてヴァルハラからの永久追放を受けるこんな裏切りをやり果せるのは溺愛されているバルドルをおいて他にはいなかった。それを思った時、バルドルは優位に立ったと感じ、ロキヘの警戒をといた。このロキにだってバルドル様のご機嫌を取りながらお願いしなくてはいけないことがあるのか!

「ふん。なんとかしてやろう。じやあ女の居所を教えてもらおうか」
「名前はナンナ。おまえが大っ嫌いな兄の所にいるよ」

ロキは残念ながら、バルドルが思っているよりもすっと邪悪な計画を練っていたのだった。だが、幸運といえるのか、バルドルは最後までそのことに気付くことはなかった。ただ、ロキが思いも寄らず彼の兄ホズのことを口にした時、ふと、恐怖が彼の心に溢れた。バルドルはそれを幼少時の恐ろしい体験、思い出したくもない悪夢のせいだと思った。

たった一回、バルドルはホズに会った事がある。母の反対を恐れこっそりと戦場に来てみた幼い神はそこではじめて皆に打ち捨てられた兄に会った。双子だということが信じられない程自分とは異なった外見をしていたが、ブリュンヒルドが傍に座っていたためにすぐにわかった。ブリュンヒルドが惹かれた訳も同時にわかった。孤独な少年神は、バルドルがまだ子供時代の幸せを満喫していたのと同じ年月しか生きていなかったにも関らず、既に老人の心をもっていた。しかも、それでいながら体のまわりにみなぎる緊張とエネルギー、深い思慮、諦めとそれに対抗する竜のような黒い想いを絡ませ、それを沈黙というもっとも難しい表現方法で表すことのできる不思議な子供だった。

バルドルは子供らしい残酷さで彼に近付き、しなくてもいい事をいくつも彼の兄にした。ホズよりもブリュンヒルドがバルドルにくってかかり、ホズはむしろ憤る小さな妹を止めるのに必死にならなくてはならなかった。バルドルはついに真剣に腹をたて言ってはならない兄の肉体的欠陥に触れた。
「おまえのその見えない目が腐っているか見てやらあ。澄ました瞼を開けてみろ!」

そして、その日以来、バルドルは少しは用心深くなり、その証拠に念願の乙女の居場所を聞いて身震いした。七十匹の龍に守られた城に居ると言われてもこれほどの警戒はしなかったであろう。だが、結局はバルドルは生来の無鉄砲さを矯正する事などできない性質だった。そしてそれが愛すべきバルドルの魅力を更に増していたこともまた事実だった!


スカティの城で炎の林の中に眠っているブリュンヒルドは夢を見ていた。ブリュンヒルドは暗闇の中を走っていた。松明を掲げまっすぐに。だれも走り続けるブリュンヒルドを止めることができない。愛しいシグルドの手が触れ、見知らぬ男の手も触れたが、彼女は止まらなかった。それからニヤニヤと笑うロキの前を通り過ぎ、父のオーディンの見つめる前も彼女は行き過ぎた。そして静かなさざ波の音が聞こえてきた時、ふいにブリュンヒルドはこれが夢で、かつて自分が実際に見た事の再現だと気がついた。
(いったいどこで…?)

だが、それはちょうど目が覚める一時の鮮明な夢の記憶。ブリュンヒルドは、急に展開していく「人間の姫」としての短くも忙しい人生の幕開けに忙殺され、記憶を辿る暇をもたなかった。

開いた瞼の向こうにいたのは、誰でもないシグルドだった。シグルドの頬は紅潮し、ブリュンヒルドをみつめる眸には熱い想いがたぎっていた。それは燃えさかるまわりの炎だけのせいではなかった。ブリュンヒルドは、自分の恋の勝利に酔いしれた。自分もまた同じ眸を恋人に向けて。

ブリュンヒルドは熱いシグルドの腕にしっかりと包まれて城を出た。微かな記憶の中で知っている美しい馬が、城の外で待っていた。シグルドは、この天からの授かりもののグラニが自分以外の人間にこんなに親しげに近付くのを初めて見たので、驚くと同時に、自分が得た姫の尊さを更に強く実感した。それゆえ、名刀のグラムや名馬グラニと同じぐらい神聖で大切なこの姫を、その場で抱き締めて壊してしまいそうなほどの激情で想っていながらも、正式な婚礼を前に自分のものにすることを戒めた。

シグルドの国に着くまでには半月以上の旅が必要だった。毎晩、同じ天幕の同じ褥に横たわるブリュンヒルドの臈長けてしなやかな姿に、そしてシグルドを想うブリュンビルドの激しく本能的な苦しみに、シグルドは気も狂わんばかりの誘惑を感じたが、辛うじて、鞘から抜いて眩いばかりの光を放つグラムを二人の間に置くことによって耐え続けた。


「あれを見るがよい。あれがシグルドだ。ブリュンヒルドと生きるためには命すら惜しまぬ勇士。我々が手を貸そうとしているグンナルなど足許にも及ばぬ。さて、バルドル殿はどうやってあの二人を引き離し、約束を果たしてくれるのかな」

ロキは冷たく笑った。バルドルは、ただグンナルを美しく見せるといった簡単なことで事が運ぶはずもないのを見て取った。まもなく二人はグンナルの城へ到達する。なんとしてもここで二人を別れさせ、グンナルに約束の妻を与えねばならなかった。
「シグルドを殺してしまったらどうだろう」

バルドルの提案をロキははなから馬鹿にした。
「おまえさんは妹が人間になったからといって性格が変わるとでも言うのかね。厄介なのはあの女の誇り高くも強い性格なんだという事がどうして分からないのかねえ。ブリュンヒルドはシグルドが死んだらただ自害するだけさ」
「おまえの言う通りだな。さて、どうするか」

「もっと残酷な手を考えないとだめだ。ブリュンヒルドがグンナルと結婚するとしたら、彼女の強い意志で、そうさな、復響に燃えてでもしてもらうのだな」
「なんだって」
「シグルドヘの復讐ならぱするだろう?」
「シグルドの裏切りか。おまえらしい卑怯な手口だな、ロキ」
「手を下すのはおまえさんだよ、バルドル殿」

「いいだろう。シグルドが妹を裏切るようにしてみよう。どちらにしても今のあの男はブリュンヒルドを裏切るぐらいならオーディンにすら立ち向かいそうなほどに妹にいかれている。ちょうど私がナンナに夢中なように(だから、このバルドルの想いの方を私が優先しても悪いことはあるまい)。てっとり早いのは、妹の存在を一瞬でもこの男が忘れてしまえばいいのだ。そして、その前に美しい姫を差し出す。シグルドは、その姫と結婚してしまう」
「おあつらえ向きにだね、バルドル殿。ちょうどいい姫がいる。グンナルの妹で噂に高く誇り高い美女だ。名前は、グドルーン」
「では、この作戦はきっとうまくいく。なんせ忘却はこの私の得意技だ」


シグルドはグンナルの城につき、城主に一夜の宿を求めた。グンナルは、夢にまで見た美女がシグルドの後ろから顔を出したのを見て、何が何でも策略を成功させたいと願った。いささか身分にふさわしくない陰謀ではあったがそんな事はもはや少しも気にならなかった。シグルドとブリュンヒルドは何も知らすに運命の城に入った。
ロキはグンナルの母親に姿を変えて、バルドルの作った忘却の薬のたっぷり入った酒を寛ぐシグルドのもとに運んでいった。

「わざわざ恐れ入ります」
「お疲れが十分に癒えるよう、薬草を処方しております。どうぞ苦くとも一気にお飲み干しくださいませ」
そして、ロキはシグルドが薬を飲みほすのを確認すると満足して出て行った。

それから不思議なことがおこった。どういう訳かシグルドはブリュンヒルドに恋したこと、彼女を手に入れ自らの妻にしようとしたことをすっかりと忘れてしまった。シグルドはグンナルのためにかわりにブリュンヒルドを火の中から救い出し、そしてグンナルに渡したと思うようになってしまったのであった。そして、グドルーンと恋に落ち、あっという間に婚約をしてしまった。

ブリュンヒルドの方はなぜこの城に来てから、シグルドが一度も自分に会いに来てくれないのか、そして一夜の宿のはずがいつまでここに足止めされるのだろうと訝っていた。すると信じられないことにグンナルの妹グドルーンとシグルドが婚礼をあげるという話が聞こえてきた。

「そんな馬鹿なことがあるものか。あの人が一生を誓ったのはこの私。私は信じないわ。これは何かの誑かしに違いないもの」
ブリュンヒルドは部屋の扉を閉ざし、毎日求婚に来るグンナルに会おうともしなかった。

そうこうするうちに、シグルドとグドルーンの婚礼の夜になった。ブリュンヒルドは客人として上座に座らされ、朝からの盛大な祝いを青ざめて見ていた。花婿と何度か顔をあわせたが、あれほど自分を愛しているという確信のあった以前のシグルドとはうってかわり、ブリュンヒルドに対して挨拶する彼の表情からは、敬意以上の何かを感じることはできなかった。
(そんなはずはないわ。これは何かの間違いよ)

婚礼の宴がお開きになり、花嫁と花婿が新床をともにする時間になっても、ブリュンヒルドはひとりつぶやき統けた。涙を飲み込みながら、自室の冷たい褥で幾度も寝返りをうつうちに、ふいに部屋の外に誰かいることに気付いた。ブリュンヒルドはシグルドだと思った。あの婚礼はまやかしだったのだ。そして、彼はやはり私のものだったのだと。扉を開けるとそこには、シグルドの姿をした者が立っていた。ブリュンビルドはすぐに彼を部屋へ招き入れ、一夜を共にした。


朝になれば、術が解けてグンナルは元の姿に戻るだろう。すべてが首尾よくいったのを見届けて、バルドルは安心してナンナを口説くため戦場へ行った。灰色の戦場が薔薇色になるとはこの事だ。

はじめてナンナを見た時のバルドルもそうだったが、ナンナも、バルドルの様に美しい姿を見た事がなく、しかも、その神々しい人が自分に微笑みながら話しかけてきたので驚きたじろいで、どうしていいのかわからず、それでも今までの世界とすべてが変わってしまった。
(あんな方がこの世界にいらしたなんて…!)

バルドルの名を開いた時、ナンナは更に驚いた。
(あの方がバルドルさま!ヴァルハラで一番尊くて皆に愛されているという、あのバルドルさま。ああそうよ。どうしてすぐにわからなかったのかしら。私がこんなにもあの方の事ばかり考えるようになってしまう前にどうして身分違いを諦められる様に、バルドルさまと気付けなかったのかしら)

「ナンナ。このごろ何かを想い悩んでいるね」
はっとして意識を戻すと、ナンナはいつものようにホズの足許に座っていたのだった。ホズの言葉は優しく暖かかったが、いくら無邪気なナンナでもこれぱかりはホズに相談するという訳にはいかなかった。

バルドルは何度もナンナの元にやって来た。そのたびにナンナはこの戦場に春が訪れ始めるあの心地良さを味わった。バルドルなしで今まで生きてこられたことが不思議でならなかった。そして、その想いが強ければ強いほど、ホズに対する後ろめたさも色濃くなっていくのであった。

「僕には妃がいない。今までそんな事を考えたこともなかった」
バルドルはナンナに話しかけた。ナンナは不安げにバルドルをみつめた。なんて美しいのだろう。なんとしてでも妻として貰いたい。

「君しか考えられないんだ。ヴァルハラに来て僕と暮らしてほしい」
ナンナの頬は紅潮し、幸せとそれからその後に押し寄せてきた複雑な想いが交錯し、しばらくは何も言えなかった。半時ほど経ってやっと言った。

「わたし、あなた様の妻になれるほどの者でもないし、それにここを離れるわけにも…」
「何を言っているんだ、僕と結婚するのがいやなのか?」
ナンナは激しく頭を振った。大粒の涙が白い頬を伝わった。

「ヴァルキューレの代わりなんていくらでもいる。僕の妻になってほしいのは君だけだ。問題があるなら教えてくれ。僕がなんとかする」
「ブリュンヒルド様に頼まれたんです。ホズ様の傍にいるようにって」
「ブリュンヒルド…!ホズ!」

バルドルは慄然とした。バルドルはホズを恐れていた。徹底的にホズの側に立つブリュンヒルドに忌々しさを感じていた。だからといって仮にも妹をあんな風に苦しめていいはずがないことも心の隅で知っていた。いま図らずもナンナの口から出た二人の名前にバルドルは逆上した。

「ホズの傍になんかいてはいけない!あいつの恐ろしさを君は知らないんだ!」
「恐ろしくなんかないですわ。人づきあいは苦手ですけれど、優しくていい方ですわ」
「君はわかっていない。どうしてもわかりたければ教えてやる。あいつに頼んでみろ。目を見せてくれってね。そうすれば君は二度とあいつのもとで暮らす気になんかならないだろうから」
ナンナはバルドルが何を言っているのかわからなかった。


「いやああああ!!!!」
錯乱したナンナをホズはなんとか宥めようとした。

ホズは瞼を開けて目を見せてくれと言うナンナの申し出に乗り気でなかった。子供の頃バルドルを激しく恐れさせた何かをナンナもまた見るのではないかと思ったからだった。

ホズにはわからなかった。母親に自分を捨てさせ、皆に疎まれる何が自分の目にあるのか。だが、ナンナはきかなかった。ナンナがここのところ変わってしまった事をホズは寂しく感じていた。だが、ナンナは生き生きとし、幸せそうで、ホズはナンナの願いを適えてやりたかった。できる事なら何であれ。

しかし、ナンナもまた、バルドルと同じ反応を見せ、ふらつき、怯え、激しく身を捩るとホズの腕から逃げ出した。

「いやああああ。助けて!いや!近よらないで!」
ホズはもうナンナに触れる事ができなかった。こんな風に拒絶されて、他に何ができるだろうか。ナンナは駆け出し、その先に待つバルドルの胸に駆け込んだ。


ヴァルハラで空前の婚礼の宴が催されている間、ヴァドゲルミルの下流に一人座っているホズの前を小さな舟が通った。その舟にのっていたのは、死出の装束に胸を血に染めたブリュンヒルドだった。

「ホズ…。黄泉へ行く前に一度あなたに会いたかった」
「何故おまえが死出の旅に…?」
「私は、裏切られ謀られたの。愛する人の腕で死んでもいいとまで思ったのに、目が覚めた時にいたのはあの人ではなかった。わたしはグンナルの妻にならなくてはならなかった。それでも心の隅にシグルドを持つ事に苦しんでいたある日、グドルーンからグンナルとシグルドの二人にだまされていたことを知らされた。だから私は復響のために夫を峻してシグルドを殺させたけれど、私にも恥はあるし、シグルドのいない世界に生き延びるほど未練もない。自ら命を断ちました。

でも死んでから私が誰だったのか思い出したの。わたしはオーディンの娘、あなたの妹ブリュンヒルド。それで気がついたの。父は私を罰するためにこんな苛酷な運命を用意するような人ではないわ。何かの悪意を持つ誰かが運命をねじ曲げたのよ。

私はあなたが心配だった。無事なあなたを見る事が出来てうれしいけれど、あなたは寂しそうだわ。ヴァルハラは随分と騒がしいみたいだし、何かあったの?」

ホズはブリュンヒルドのいない間に起こった事を簡単に話した。
「ナンナは、それきり戻らなかった。ナンナに何かをして欲しかったわけではない。ただ、傍にいてくれる事が慰めだった。息づかいを感じ、あの笑い声を聞き、静かに話をして一日が過ぎていく、当り前の日々がただ続いて欲しかっただけだ。ナンナは一体何を見たのだろう。あんなに頑固なまでに望んだ私の瞼の奥に何を見て恐れたのだろうか」

ホズはブリュンヒルドに向けて瞼を開いた。彼の妹がその深淵を見たのは二度目だった。ブリュンヒルドは、はじめから恐れたりはしなかった。ホズは他の人々のように瞼の向こうに眼を持っていなかった。ただ、深く深い暗闇が、永遠ともいえる深淵がその窓の向こうに続いているのだった。

「あの子には耐えられなかったのよ。この深い闇の中で孤独に向き合う事に。バルドルもそうだった。誰ひとりこの世でこの闇から逃れることはできないのに」

「おまえには何が見える、ブリュンヒルド」
「わたしは私自身を見たわ」

スカティの森の城で見た最後の夢を思い出しながらブリュンヒルドは言った。
「暗闇の中を自分の松明だけを掲げて一人で走っていく自分の姿を見たわ。シグルドもグンナルも父もロキでさえも影響することはできても私を止めることはできなかった。私自身を動かしていたのは私ひとりだった。そして、これから私は黄泉の国でシグルドをつかまえる。もう二度と離れないつもり。それでよかったのだと思っているわ。あなたの事は心残りだけれど、でも、あなたがいなくなったら、運命がきちんと紡ぎだされなくなってしまうもの。あなたを連れては行けないわ」

「自分自身を知ることもできない私の紡きだす運命など、むしろなくなっていってしまえばいい。規則や決まり事に縛られることなく、大きな混沌の中の複雑な絡み合いの中で導き出される自然の成り行きこそが、本当の運命というものなのではないのか」

「それでも、混沌があなたを飲み込むまでは、あなたは仕事を続けなくてはならないのだわ。私はシグルドを救うことで運命の流れを変えたつもりだったけれど、結局シグルドをこの手に掛けた。これもすべて紡がれた運命の流れに沿った事なのかもしれないわ」

ゆっくりとブリュンヒルドの舟は岸を離れていった。声は小さくなり、さざ波の音だけしか聞えなくなり、ホズはまた自分の持つ暗闇と同じ孤独の中に一人残された。誰もいなかった。


バルドルは幸せになったつもりでも、そうではなかった。ナンナはいつも怯えていた。ブリュンヒルドの死が伝えられた。ロキは姿を見せなかった。これほどまでにヴァルハラは平和で皆がバルドルとナンナの結婚を祝ったが、バルドルの気分は沈んでいた。母のフリッグ女神が、沈んでいるバルドルの様子を見兼ねて訊いても、バルドルは本当の悩みを口にすることはできなかった。

(俺には妹を永遠の黄泉の国に送り込む気持ちなんか、本当にこれっぽっちもなかったのに!)
「どう考えてもおかしいですよ。バルドル。悩みがあるならば、どうかこの母に教えておくれ」
「それは…」

バルドルは、嫌々ながら作り話をした。自分が殺されて死んでしまう夢を見て心が晴れないのだと。夢なんか気にするなどいう軽い返事を期待して。しかし、フリッグはこの夢を重大な示唆だと考えて早速このことはヴァルハラ中の一大事件となってしまった。

「全ての火、水、鉄及びあらゆる金属、石、大地、樹、病気、獣、鳥、毒、蛇にバルドルには指一本触れない事を誓わせよう」

フリッグの言葉の通り、万物は誓い、バルドルに対し決して害を加える事ができなくなった。それでもまだ沈んでいるバルドルを慰めるため、ヴァルハラの住人は誰からともなく、何にも傷付かないバルドルに対して切りつけたり、射かけたり、石を投げたりする遊びが行なわれた。バルドルは怪我ひとつ負うことはなかった。

「ほら、ご覧。推もおまえを殺したりはできないんだよ。みんなから誓いを取り付けたんだからね」
フリッグがさも嬉しそうに言った時、それを間いていた見慣れぬ女がそっと言った。

「本当に全てのものから誓いを取り付ける事なんてできたのですか」
「ああ、そうだよ。そういえば、ヴァルハラの西に生えてたヤドリ木だけはあまりに若くてその必要もなかったから誓いはとってないけどね」

そういってフリッグもまたバルドルの的あてゲームに興じだした。女は、素早くその場を離れるとロキの姿に戻り、早速そのヤドリ木を引っこ抜きに行った。それからその若木を丁寧に削って小さな小さな矢を作った。


「何故おまえさんは、ヴァルハラの楽しい遊びに加わらないのかい」
ロキはヴァドゲルミルの岸辺にひとり座るホズに近付いた。ホズはロキの方に顔を向けたが、黙っていた。
「ヴァルハラでは、バルドル殿の不死を祝って大騒ぎだ。誰もその妹が人間として不運の死を遂げたことに気もとめずにね」

「バルドルがブリュンヒルドの死に関ったわけではあるまい」
「おやおや。運命を司るホズ殿のご意見とも思えないね。バルドル殿は関係してるとも。花嫁を手に入れる為に妹をグンナル如きに売ってしまったんだから。だけど、そんな事はもはや何の助けにもなるまいね。万物はバルドルを傷付けない。もうあの神を裁く事はできないんだから」

「おまえの言う通りだ、ロキ。バルドルは幸せに生きていけぱいい」
「だからおまえさんもこんなところで想いにふけっていないで、遊びに加わったらどうかね」
「私は、ヴァルハラでは歓迎されないし、投げるものも何もない。第一、何かを投げようにもバルドルが見えないよ」

「このロキですら加われる遊びなのに、兄のおまえが加わらないなんて!バルドルへの敬意を示したまえよ、ホズ。投げるものなんか何でもいいんだ」

ロキはホズをヴァルハラへ案内すると、先程の矢を持たせて言った。
「いいか、こっちの方向だ。そうそう、いいぞ」

ヴァルハラは神々の笑い声に満ちていた。冗談を言いつつ遊びを楽しむバルドルの若く張りのある声。フリッグの弾んだ喜びの声。ホズは、ブリュンヒルドの事を思った。ナンナの笑い声の事を思い出した。そして、一瞬だけ、はじめてバルドルの事を憎いと思った。そして、小さなヤドリ木の矢がバルドルの心臓めがけてホズの手を離れた時、暗闇の中を混沌が自分めがけて覆いかぶさって来るのを感じた。




ナンナはヴァドゲルミル河の岸辺に座り込み、河の流れをうつろに眺めていた。バルドルがホズの投げた矢に一瞬にして命を奪われ、ロキが高笑いして逃げ去り、そしてホズも又、バルドル殺しの犯人として生を奪われてしまった今、ナンナの世界は何ひとつなくなってしまった。つと、魚の影が黒く走った。ナンナはその黒さにホズの目の奥にあった独りぼっちの自分を思い出した。あの時、崩れそうな自分を抱き締めて支えてくれたバルドルは、もはやいなかった。ブリュンヒルドもホズも。そして自分で産み出してしまった孤独に耐えられずに、ナンナは倒れ伏して二度と起きる事はなかった。ナンナもまた混沌に食われてしまったのだった。

(初出 :1996年8月 書き下ろし)
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【小説】ラ・ヴァルス

Posted by 八少女 夕

最初にオープンにするのは、1994年に同人誌で発表した短編です。一人で誰にも知られずに書いていた私が、覚悟を持って人目にさらした記念すべき作品なので、ここでも一本目として公開する事にします。




渦巻く雲の切れ目から、
ヴァルスを踊る人々の何組かがきらめいて見える。
雲は少しずつ散ってゆく。
旋回する人びとと群衆にみちた広大なホールが見える。
場面は次第に明るくなる。
シャンデリアの光は力強くさんさんときらめく。
一八五五年ごろの宮廷である。
         モーリス・ラヴェル「ラ・ヴァルス」


白いサテンのシューズを荷物に詰める時、雪羽はしばらく動けなかった。つやつやと光るその靴を彼女はもう四年も触っていなかった。汚れ防止のために貼ってあったセロテープをはがし、ヒールカバーをとると、それはまるで新品の様にきれいになった。雪羽は、だが、その霧の様に美しい靴を見ても幸せな気分になることはなかった。むしろ、想い出ゆえにこれからの幸せな旅行に不安を抱いた。雪羽は大学時代の競技ダンス部での辛い訓練とそれに伴わなかった成果の事を故意に記憶の底に沈めていた。ダンスなんか嫌いだと、口にこそ出しはしなかったが、人が
「大学でなんのクラブにいたの」
とか、
「昨日、テレビでダンス選手権やっていたね」
とか言ってくれる度に、口ごもり、力なく微笑んだ。それ以外にどうすることが出来るだろう。

雪羽は、決して一人では踊ることの出来ないスポーツの世界で相手を持たなかった。それはコンプレックスになり、もともとそう積極的でなかった彼女をより一層蝕んだ。単にダンスをやりたがる女性の人口が男性よりも多いというだけで、相手がいないということ自体が悪い事だったわけではない。ただ雪羽はほかの同じ境遇の多くの女性のようにすぐにやめていくチャンスに恵まれなかった。たまたま短大生のように二年で卒業する訳でもなく、また、大会運営に関る仕事を引き受けていたということもあって、自分が参加することもできない競技会での成績だけを皆が追及するクラブにずっと居続けたのだった。

雪羽はそのクラブに居ることが精神衛生上よくないことだと、その時すでに認識していたものの、何かを変えていこうだとか、それかできなけれぱせめて自分が変わっていこうといった強さを持たない人間だった。
大学を卒業してからも、雪羽はその想い出から逃げ、ダンスを踊れるというひとつの特技までも否定していた。だから彼女は、最後に買ったダンスシューズすら、戸棚の奥に今までしまいっぱなしだった。

(これをまた履く日が来るなんて、あの頃は思いもしなかった)
雪羽はゆっくりとそのすべすべとしたカーブをなぞった。今度は、相手がいる。この世で一番尊敬し、誰よりも側にいたいと思う人と、仕事とはいえ一緒にウィーンに行き、舞踏会にも出席するのだ。それなのにこの不安な気持ちはいったいどうしたことだろう。雪羽はいぶかった。もはや、幸せを幸せと受けとめられないほど、トラウマが闇に変わり、心に巣喰っているのだろうか。雪羽は突然に降ってわいたような幸運に影を感じるのだった。カタストロフィの法則にのっとり、幸運が訪れるのが急であればあるほど、想いの進むのが速ければ速いほど大きな落差でもって崩れて行きそうな気がするからであった。

そう信じていたからこそ、雪羽は心と裏腹に、東城に出来るだけ事務的に接するようにしていた。
恋をしても、その事を口にしたり、態度にあらわさなければ、それが実を結ぶことがないのは、雪羽もよくわかっていた。だが雪羽は気持ちを示すことで、いま現在よりも距離を置かれるようになる可能性の方を恐れた。
ダンスシューズを強く鞄に押し込み、雪羽はきっぱりとジッパーを閉じてしまった。


東城但は日本人に珍しいスマートな雰囲気を身につけた青年だった。燕尾服の似合うタイプだ。姿形もそうだが、何よりも顔を見ただけで分かる教養と、嫌味のないストレートな人柄が誰からも好かれた。したがって、多くの女性にとっては高嶺の花であり、しかもそうと知っても憧れずにいられないのだった。雪羽は自分もそんな女性の一人だと思っていた。仕事の関係で職場では一番彼に近いとはいえ、彼が見せようとはしない、私生活の中まで入り込めるとは到底思えなかったし、そうしたいとも思わなかった。

ただ、飛行機の隣の座席で眼を瞑り、静かな寝息をたてている東城を見ながら、この瞬間において、誰にも邪魔をされずに時間と空間を共有できることを感謝した。

雪羽はなかなか寝付かれなかった。星空の中を東城を見ながら飛んでいるという状況が、雪羽の体中に呪文を掛け、睡眠を拒否した。雪羽はイヤホンをつけ、ミュージックサービスのつまみを回した。クラッシック音楽のチャンネルでは、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」がゆっくりと始まったところだった。蠢くオーケストラのかなたから、ゆっくりとワルツのリズムが浮きあがってくる。はじめはそよ風のようにゆっくりと、次第に有無をいわせぬ強引さで、リズムは聴衆を別世界へと誘う。

閉じた眸の奥底で雪羽自身がワルツを踊っていた。イマジネーションの彼方で踊るワルツは妙に現実味を帯びていた。滑るようになめらかに旋回していくその感覚は雪羽にとって決して想像ではなかった。

雪羽は憶えていた。かつて練習会で踊ったステップ。スタジオに個人的に習いに行って、おどおどしながらならったルーティンをつづけて素晴らしく踊れた時のこと、どこから何処までが自分で、何処からが相手なのかわからなくなる程の不思議な一体感、そしてこれを恍惚というのだと悟った時の感覚。たった一瞬だけ許された雪羽へのダンスの世界への招待。けれど、雪羽はそれ以上ダンスの魅力を知ろうとはしなかった。ダンス部が実際にそうした以上に雪羽のほうがダンスを拒否し、スタジオへ習いに行くことも直にやめてしまった。

だが、あのワルツの感覚だけは雪羽の中に確かに息づいていた。「ラ・ヴァルス」の激しいオーケストラが絢爛なる舞踊を描き出す中を彼女は踊っている。廻っている。ステップを踏みしめている。狂喜とも思えるクライマックスの後、突然打ち切られたこの曲の世界から雪羽が戻って来るまでにしばらくかかった。それから、ふと横を見ると、先程と少しも変わらない静かな寝息をたてて、東城が眠っていた。そうか、と雪羽は急に気持ちの高波がおさまるのを感じた。哀しい愛しさだった。この人はここにいる。そしてここにわたしもいる。雪羽は自分の中で今まで暴れていたワルプギスの夜のよう感情と、今ここにある静かな愛情が同居する事に驚異を感じていた。星空は光の海を抱えて緩やかに広がっていった。小さな、本当に小さな存在に過ぎぬ飛行機は、永遠の静寂の中を幽かな跡を残しながらゆっくりと異国へ進んでいた。


「どこで舞踏会が開かれるか知ってるかい?」
東城は雪羽の顔を覗き込んだ。タクシーは初めて来たウィーンの街をまるでいつもの事のように通り過ぎ、雪羽たちをホテルまで連れてきてしまった。仕事で来ているからだろうか。それとも、東城が少しも不安がる必要のないほど自然に慣れた足取りでここまで連れて来てくれたからだろうか。

「さあ。大体、どうして舞踏会に出席するのかも知らないんだけど」
雪羽は出発まで忙しくて口に出来なかった問いかけがやっと出来る事にほっとしていた。雪羽たちの仕事は本来会社がこれから事業所を開設するウィーンの視察と契約、新しく仕入れる商品のメーカーとの打ち合わせをすることだった。出発の十日前になって、東城から
「確か、珠洲くんはダンスを踊れたよね?」
と訊かれて、滞在の最後の晩に私用で出席するというパーティの相手役を引き受けたものの、詳しい内容を今までききそびれていた。

「東城さんて、舞踏会に出席するようなつながりが海外にあるんですか?」
「ウィーンにだけだよ」
東城はほんの少し遠い眼をした様に見えた。
「昔住んでたからね」

初耳だった。雪羽は黙って東城の顔を見つめた。そして、まるで自分が大学のクラブの事を言われた時のような空気を感じ取り、それ以上訊くことが出来なかった。誰にも話そうとはしない過去を自分だけではなく、幸運の女神に溺愛されているような東城すらも持っているのかという事が雪羽には意外だった。雪羽は話題を舞踏会の開かれる場所についてへと戻した。

「シェーンブルン宮。十八世紀に建てられたハプスブルグ朝の夏の離宮だよ。六歳のモーツァルトがマリー・アントワネットの前で演奏した舞台だ」
「そんなすごいところで舞踏会を開くのは誰なんですか」
「市長だ。ただし、舞踏会は王宮でも頻繁に開かれるからね。そんなにすごい舞踏会じゃないんだ。市長の一家がある程度個人的な知合いを中心に呼んでるみたいだよ。僕はこっちにいた時に市長の息子のヨーゼフと親しくしてたんだ。それで、出張するって連絡したらどうしても来いって」
「私、東城さんがここに住んでたなんて知りませんでした。もし知っていたら、のこのこ一緒に舞踏会に行くなんて言わなかったわ」
「どうして」
「こちらにいくらだって、パートナーになってくれる女性がいるでしょうに。私がダンスが踊れるというのは、日本人の平均的な感覚で言っただけで、ウィーンの社交界でのレベルじゃ話が違うわ。東城さんに恥をかかせすに済むかなあ」
「大丈夫だよ。普通のパーティと一緒だよ。困らないように横にいてあげるし、話題が分からなかったら、ちゃんと解説してあげるから」
東城は笑った。

東城のドイツ語は思った通り見事なものだった。雪羽自身ある程度ドイツ語がわかるから今の部署にいるだけあって、ビジネスでは困らなかったものの、東城がメーカーの担当者相手にしていた雑談は向こうの学んだカント哲学の最近の学説についてだったので、雪羽にはちんぷんかんぷんだった。東城は食事の前に本屋へ行き、勧めてくれたという新刊を買っていた。

「仕事が忙しくて、しかも、その仕事が会社の歯車にしか感じられないような内容の時には、どんなに疲れていても、自分の時間を持って、足を地に付けられる本を読むことにしているんだ。バランスをとりたいからね」

雪羽には、彼の言っている意味がとてもよくわかった。バランス。自分という人間と、一社会人である事のバランス。頭と体の両方の疲れのバランス。どちらかに強く傾いている時に、もう片方を何も出来ない状態にしておくと、そのバランスはどんどん崩れ、やがて修復不可能なまでにどちらかだけの人間になってしまう。雪羽自身もずっとこう考えていたのだ。雪羽が彼に惹かれて止まないのは、容姿や有能さを差し引いても余りあまる、こうした考え方の近さだった。同時に、こうした時に、雪羽はひとつの希望を持つ。だが、その希望は確信へと変化することもなく、雪羽自身の手でいつも摘み取られた。五十センチ先を歩くコート姿の東城を見ながら、雪羽はその暖かい腕に顔を埋められたらどんなにいいだろうと思う。それを押しとどめるのもやはり雪羽なのだ。

舞踏会にでかける前、東城はドレス姿の雪羽にコートを着せてくれながら
「珠洲くんがこんなに綺麗だとは思わなかった」
と言った。そのいい方は、丁度会社の同僚が言う口調そのもので、内容からすれば有頂天になっても良いはずなのに、ここの数日いつも一緒でまるで特別な立場のような気のしていた雪羽は、自分が会社の同僚に過ぎない事を改めて認識して、少し哀しくなった。

(期待したり、諦めたり、こんな事はもうご免といつも思うのに、どうしてやめられないんだろう。ひとと関ることを嫌い、自分の中にこもることを納得したのならぱ、どうして一人で居ることに寂しさをおぼえるのだろう。ひとつひとつの出来ごとを当り前のように流していく事が出来れば少しは楽に生きられるのだろうか)

雪羽は燕尾服の上に颯爽とコートをはおっている東城の超然とした立姿をそっと見ながら、いや、そうではない、誰でも自分の中でそれぞれに想いを抱えて、でも人ともうまくやっていっているのだと思い直した。

(私は知らない事だけど、このひとにも過去の思い出と、現在に繋がるいろいろな蓄積と、そして、今だけの生活がある。一緒に居ればいるほどお互いの事を知ることは出来るけれど、それで距離が縮まるとは限らない)

ひとつだけ確かなことがあった。今晩、彼とワルツを踊ること。四年前の封印から解けたばかりの白いサテンのダンスシューズ。飛行機の中で感じた「ラ・ヴァルス」の絢爛な世界。ワルツ!薄い朱鷺色のドレス、白いサテンの手袋。確かにいつもより綺麗なはずなのに、雪羽の哀しさは消えなかった。カタストロフィがすぐそこまで来ている予感がした。あまりにも状況が完璧すぎたのだ。その思いはシェーンブルン宮殿に着いた時にもっと強くなった。ラヴェルの描写した「一八五五年ごろの宮廷」がそこに再現されていた。次々と集まってくる紳士淑女たち、ホールの彼方から高らかに響いて来るワルツのリズム。コートを預けたときに、雪羽は自分を守ってくれる世界そのものまでも渡してしまった様に心細く感じた。

東城はどうやら市長の息子のちょっとした知合いというだけではなかったようだ。広間に入った途端、東城と雪羽は大勢の若いカップルたちに取り囲まれたのだ。

「タダシ!いつウィーンヘ?」
「何でこっちに来たことを知らせてくれなかったんだ?」
「こちらのステキなお嬢さんは?」

雪羽は東城がこちらでこうした舞踏会に何度も出席するような社交生活をしてきたことを知った。しかも、会社で、日本でそうである以上に東城は皆に認められ、仲間として愛されていた。東城のとってくれたシャンパンをのみ、ほとんど意味のない微笑を振りまきながら、ドイツ語の会話を音楽のように聴き流し、雪羽は自分のことを訊くときの皆の態度が少し変だと感じていた。「マリエ」という単語が時折彼等の口から漏れた。やはり黒髪がいいのかという市長の息子ヨーゼフの言葉にも含みを感じた。

「どういう意味だか訊いてもいいですか」
「え」
東城は困ったように口ごもった。それで、雪羽は彼が知って欲しくないと思っている事について彼等が口にしたのだと気づいた。

雪羽はそれ以上訊こうとせずに話題を変えた。彼等も雪羽がドイツ語を理解して話せることにやっと気付いたらしく、それ以上意味深長なことは言わなかった。

それからたいした時間も経たずに彼等は東城と雪羽をダンスへと誘い、雪羽は東城の手に導かれてまばゆい光と熱気の中に進み出た。大きなダンスのうねりが二人とその友人のカップルを取り込み、悠々と流れていった。
東城は雪羽の踊ったことのある誰よりも上手にリードすることが出来た。雪羽の稚拙な技能を補って余り有るほどワルツに長けていた。だから、この東洋人のカップルはワルツの流れの中でひときわ目立ち、多くの人々の感嘆のため息と、羨望に満ちた女性達の青い視線を一身に受けて旋回していった。

雪羽にもワルツを楽しむ余裕ができて、他の女性たちのように右手でドレスの裾を持ち、そのシフォンが緩やかに舞うのを視線の隅に置きながらステップを踏んだ。それからふと、シャンデリアの眩しい光だけでない何かを感じ、東城を仰いだ。東城は、雪羽が驚いたことには、微笑みながら雪羽の顔を見ていて、眼が合っても視線をそらそうとはしなかった。

「上手いじゃないか」
雪羽は「ラ・ヴァルス」の恍惚に酔い、相手と自分の不思議な一体感に身を任せていた。東城の言葉が、ただのお世辞だとしても、今の雪羽には何のためらいもなく、笑顔で受けることができた。朱鷺色のドレスと白いサテンの靴が魔法を掛けてくれたかの様に、いつもの自分にはない自信がどこからともなく溢れてくるのだった。皆を追い越し、ヨーゼフ達仲間を従えて、広間の中央に来た時、高らかなクライマックスを迎えてワルツが終わった。
ワルツを一曲踊る間に、東城は完全に昔の仲間に戻り、雪羽も彼等の仲間に受け入れられ、自分自身も打解けていた。丁度あと一言何かを和やかに話せば、その輪が完成するといった雰囲気になったが、それは、雪羽本人も予期しなかった一瞬に打ち切られた。

ヨーゼフのパートナー、ヒルデガルトが
「あ」
といい、皆が彼女の視線を追った。広大な会場が一瞬全体で蠢いたように感じられた。ざわめきを超越し、全てを制するような厳かさで、品格と威厳の有る紳士にエスコートされた、素晴らしく目立つ女性が広間へと入って来た。シャンデリアの光を一身に受けてきらめく深紅と黒のドレス。高く結い上げた髪に輝くダイヤモンドのティアラ。その女性が真っ直ぐに自分たちの方へ歩いて来るのを見て、雪羽は驚いた。おもわず東城を見上げた雪羽は、彼の表情を見て取るやいなや、彼女こそ「マリエ」という名の人だと即座に理解した。

「男爵夫人、ようこそ」
ヨーゼフが恭しく彼女の両手にくちづけをした。居並ぶ若者はそれにならい、バートナーの女性らも尊敬をこめて彼女にお辞儀をしていった。そして、ついに東城が彼女の前に立った時、そして、東城と男爵夫人の視線がぶつかり、やがて、夫人の方から、
「タダシ…」
と、情感をこめた声で呼びかけたときに、雪羽はただ立ち竦むほかはなかった。

「あなたにもう一度会えるなんて思ってもいなかった」
「幸せそうだね」
東城は市長に挨拶をしている男爵の方を見て言った。
「ええ」
夫人は東城から視線を外さず言った。それから、ゆっくりと雪羽の方を向いた。雪羽は夫人の怜悧な美貌に射すくめられたように硬直してお辞儀をした。夫人は雪羽を見据えたままボーイの持ってきたベルベットのように紅いワインを受けとると一口飲み、それからゆっくりと東城に言った。
「あなたの今晩のパートナーなの?」
「ああ、珠洲雪羽嬢だ」
「そう」
マリエ男爵夫人はハンガリーの血筋を感じさせる気高い顔立ちだった。アラバスタのように白い肌に刻まれた灰色の眸は貴石を想わせ、深紅の唇はつややかで、やがて、その眸と唇がゆっくりと再び東城に向いて行き、
「あなたのパートナーが私以外の人間になるなんて想いもしなかったわ」
と、ため息を漏らした。雪羽はすぐにこの場から逃げ出してしまいたいと思ったが、それは出来なかった。

ワルツが始まろうとしていた。雪羽も他の誰もが、次のワルツの主役のカップルを知っていた。
誰かが雪羽にもダンスを申し込んだが、雪羽は疲れていると言って断わった。自分もワルツを楽しめぱいいのだと、心の何処かでもうひとり雪羽が鼓舞したが、そしてワルツを申し込んでくれた人にも悪いと思ったか、雪羽の心はもはや氷点にまで冷え込み、微笑んでステップを踏み出す力を残していなかった。

雪羽はうつむき、自分の足下に気付いた。右足のサテンがベルベットのように紅く染まっていた。弾かれるように夫人を見ようとすると、もはやワイングラスも持ってはいない夫人をエスコートして、東城がワルツの輪の中に溶けていく所だった。

雪羽はその場を離れた。紅く染まり、もう決して白くは戻らない靴。打ち砕かれた自信。たとえ、次の曲から東城がずっと踊ってくれようとも、二度とワルツを心から楽しむことはできないだろう。

広間の隅に立ち、心を沈めようとした。この感情には憶えがあった。クラブの最後の練習会で、
(もうこれからはこうして人が踊るのを惨めな気持ちで見なくてもいいんだ)
と、思った事。舞台は大学の教室からウィーンの宮殿に変わったものの、不思議な相似性をみせた。十八世紀の宮殿。一八五五年頃の宮廷。

リズムが揺れるたびに、視界はぼやけ、シャンデリアの光は輝きを増した。そして、マリエ男爵夫人も東城も、ヨーゼフ他のだれもかれも、ひとときの恍惚に自分の生活や、ままに為らぬ人生を忘れ、ひとつのヴァルスという生き物の一部になり、ホール自体が同調し、やがて踊りに加わっていない雪羽自身もその恍惚に飲み込まれていった。

(考えるのはよそう)
雪羽は宴の終わりを感じながらヴァルス輝きの美しさだけに酔おうとしていた。


(初出 : 1994年7月 同人誌「夜間飛行」第二号)
.03 2012 読み切り小説 trackback0
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