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【小説】バッカスからの招待状 -1- ブラッディ・マリー

Posted by 八少女 夕

ええ、書きましたとも。たまたま昨日の午後が空いたので、これはいま書けって天が言っているかなと思って。そう、自分でもぜんぜんやる氣なしで放置していた、例の「神話系お題シリーズ」です。で、勝手にオムニバスにしようかなと思って、導入編にしてみました。

で、この「神話系お題シリーズ」でみんなで書こうよ的な話がございまして、よかったらみなさんも勝手に書いてくださいね〜。



バッカスからの招待状 -1- 
ブラッディ・マリー


「いらっしゃい」
いつもの彼の声がする。落ち着いているけれど、冷たくはない。かといって、親しいという印象は与えない。そう、空氣のような存在だ。そのバーは大手町の近くにあった。昼はビジネスマンで忙しいけれど、飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく書かれている。『Bacchus』と。

 奥に時おり見る男性客が一人。まだ時間が早いから空いている。すみれはほっとして、一番のお氣に入りの席に座った。カウンターの真ん中から二つほど入り口より。バーテンダーで店主の田中の横顔が自然に眺められる位置だ。

 といっても、田中に恋をしているのでその横顔を眺めたいというような理由ではない。正面切って座るとずっと話をし続けなくてはならないとストレスになるし、離れすぎると構ってもらえない、その中間の一番心地いい感覚を得られるのが、この席なのだった。田中の年齢は40を少し過ぎたところだろうか。きれいにオールバックに撫で付けた髪、線が細い体つきに合わない濃い眉、いつも微笑んでいるような口元。いつもと変わらない事がすみれの精神安定剤になるような風貌だ。

 すみれは元来ひとりでバーに来るような女ではない。それどころか、一人でレストランに行くことが出来るようになったのも最近だった。それをするようになったのは、彼女への対抗心からだった。

 広瀬摩利子。元同僚だ。すみれにこのバーを教えてくれたのも実は摩利子だった。

「久保さん、今日はお早いですね」
田中が程よい具合に温かいおしぼりを渡してくれた。この瞬間がとても好きだ。馴染みのバーでバーテンに名前を呼んでもらう私。まるで出来るキャリアウーマンになったみたい。本当はお茶くみコピー取りに毛が生えた程度なんだけれど。

「そうね。残業がなかったから」
以前は、残業なぞほとんどなかったので、恥ずかしくてファーストフードで一時間くらい潰してから来たものだが、最近は本当に残業が増えてきたので、こういうセリフも板についてきたように思える。といっても、そんな事を思っている時点で本当のキャリアウーマンじゃないんだろうけれど。

 摩利子はそんな事を氣にしたりはしなかった。彼女は、人からどう思われるかびくびくしたりする事がなかった。とても綺麗で人目をひいた。会社で身に付けている制服でも、どこがどうというのかわからないけれど他の女の子たちよりあか抜けて見えたし、私服に至っては追随を許さなかった。日本人がそんな色遣いをするのはどうかというような派手な服をよく着ていたが、それがまたよく似合った。


 三ヶ月ほど前のあの日もそうだった。蘭の地紋の入った黒いシルクのタイトなワンピースに若草色のボレロ、マラカイトの大振りな珠を贅沢に使ったネックレスをしていた。ハイヒールは濃い緑の7センチ。たまたまこの界隈を歩いていて遇っただけなのだが、50メートル先からすぐにわかった。

 すみれは摩利子と同期だったがさほど親しいわけではなかった。そもそも摩利子と親しい女なんかいるんだろうか。もしくは彼女が親しくしたがる女なんかいないかもしれない、そう思っていた。皆と会話しなくてはいけない時には、自然とグループの中にいたし話題の中心にいる事も多かった。でも、グループが男女混合になっている時には99%の確率で男性としか会話していなかった。「男狂い」「尻軽女」「カマキリ」いろいろな陰口をいう人たちがいた。もう少しソフトに言うと「恋多き女」ってところ。

 すみれは入社後すぐの同期会のカラオケで摩利子と隣になり、「東大君」とあだ名されていた銀縁眼鏡の同期との会話から、彼女の意外と理知的な手法を観察して感心した。「東大君」の右側には彼を狙う別の同期の女が張り付いていたのだが、よせばいいのに「東大君」に大学での専門の事を訊いたりして、素粒子の最新研究について語られて目を泳がせていた。この「東大君」は場の空氣を読んで適当に会話を打ち切るという事が出来ないタチらしく、他の人たちが無視して別の話をしている間も誰にも全く理解の出来ない用語を飛ばしていた。その収拾のつかなくなった会話を摩利子が引き受けたのだ。

「ってことは、たとえばそのヒッグス粒子ってのは、アイドルにまとわりつくファンみたいなものってこと?」
「え。そうだな。有名になるとますますファンがまとわりついて身動きが取れなくなる。そうするとさらにファンが寄ってくる。そういえば似てるかも」
「ふふん。じゃあ『東大君』に群がる女も似たようなものかもね。どんどん寄ってきて、身動きが取れなくなってるでしょ」

 自分がモテる対象だと自尊心をくすぐってもらって、「東大君」はちょっと嬉しそうになった。同期でも一番の綺麗どころである摩利子が隣に座っているし、しかも自分を狙うヒッグス粒子の一人だと告白したみたいなものだ、と思ったらしい。実際のヒッグス粒子は反対側に座っていたのだが、摩利子は場をしらけさせる素粒子論をやめさせる事が出来たので満足していたようだった。実際に、摩利子はその晩「東大君」をお持ち帰りしたらしいのだが、夢中になった「東大君」の方が簡単に振られてしまったらしい。

 入社当時の話はどうでもいい。三ヶ月前に、この大手町で摩利子にバッタリと出会った話に戻らなきゃ。すみれは記憶を揺り戻した。

「あら、久保さんじゃない。こんな所で会うなんて」
広瀬摩利子に名前を憶えてもらっていたということに少し驚いた。
「こんばんは。外出して直帰なんだけれど、大手町まで歩けば定期が使えるから。広瀬さんは?」
「ここで、彼と待ち合わせしているの」
 ああ、そうか。当然って感じよね。でも、こんな、何もなさそうなところで……。その思いが顔に出たのか、摩利子はクスッと笑った。

「ここは彼の職場に近いのよ。それに……」
少し言いよどんでから、ニッコリと笑って続けた。
「久保さんになら、教えてあげてもいいかな。ここにね。滅多な人には教えたくない隠れ家みたいなバーがあるのよ」

 言葉の魔法の使える女だった。「久保さんになら」と言われただけで、自分がほかの同僚たちとは違うと言ってもらえているみたいに。すみれのように大衆に埋没しがちな女にとって、この手の言葉は麻薬みたいなものだった。

 その店がこの『Bacchus』だった。
「彼が教えてくれたの。もともとは彼も尊敬する会社の先輩に連れてきてもらったらしいんだけれどね。ほら、いかにもただの会社って表構のビルの地下に、こんなバーがあるようには思えないでしょ? でも、知る人ぞ知る名店なのよ」

「ああ、広瀬さん、いらっしゃい」
入っていった時に、バーテンの田中が親しげに声を掛けたその様子に、軽く嫉妬した。馴染みのバーのある自立した美女。同じ年に入社したのに、どうしてここまで違っちゃうんだろう。すみれは小さくため息をついた。

「一は?」
摩利子が訊くと田中は笑って答えた。
「いまお電話がありましたよ。高橋さん、少し遅くなるそうです」
「そう、ちょうどいいわ」
そう言って、摩利子はカウンターの田中の前に座ると横の席をすみれにすすめて言った。
「偶然の出会いに乾杯しましょうよ」

 二人が座ると、田中はアボガドとエビのカクテルソース和えの小皿をすっと出した。カクテルの事など詳しくなくてメニューを見ながら慌てるすみれを見てクスッと笑った摩利子は、田中にマティーニを注文した。
「ジンを少し多めに。でも、ドライ・マティーニにならないくらいで」
かなり無理な注文だが、田中は口先だけで笑いながら摩利子が満足する完璧な「ややドライ・マティーニ」を出してやった。

 すみれにはその注文がとても素敵に聞こえたので小さな声で続けた。
「じゃあ、私も。でも、ジンを少なめに……」
田中と摩利子が同時に吹き出した。

 それから三十分ほどして、摩利子の彼が姿を見せた。とても意外だった。摩利子は羽振りのいい男や見かけの突出していい男ばかりをあさっていると評判だったのに、その男ときたら背が低くて、なんだか四角い感じのごく普通の青年だったのだ。摩利子の彼とは信じられないほどに洋服のセンスも変で、しかも安物のように見えた。けれど、どういうわけだか初対面だというのに心が和んでくる不思議な魅力を持っていた。そして、その青年と話す摩利子は、未だかつて見た事がないほど生き生きとして幸せそうに見えたのだ。へえ。まるで別の人みたい。摩利子という人物は、すみれが思っているよりかなり奥が深そうだった。デートの邪魔をしたくはなかったので、すみれは早々に別れを告げて帰る事にした。

 この秘密の店を知って、摩利子とも少し親しくなれるかも、そんな思いを持って帰ったすみれに、次の衝撃が待っていた。摩利子が寿退社をして東京から離れる事になったのだ。あの四角い青年と結婚するんだあ。広瀬さん、なかなかやるじゃない。でも、もう会えなくなっちゃうのは残念だなあ。

 それから、すみれは時々一人で『Bacchus』を訪れるようになった。同じカウンター席に座り、カクテルを一杯注文する。小さいつまみも出してもらう。隣の青年が田中に今日あった事を話すときにそっと耳を傾ける。いい事があった時には、自分の話も田中に聴いてもらう。

 かつては、勤務中も、それからフリーの時間も、誰か親しい友達と一緒でないとならないかのような焦りを持っていた。実際には、あまり友達もいなくて一人でいる事が多かったのだが、それを楽しむまでには至らなかった。それが、このバーに来るようになってから、すみれは一人を楽しめるようになってきた。摩利子のように「恋多き女」になりたいわけではないが、すみれはどこかで摩利子の超然とした生き方に憧れているところがあった。そして、それは彼女の彼女の体型や装いではなくて態度から生まれてくるのだという事を少しずつ理解していたのだった。

 今日も、お氣に入りの席にすっと座ると、もう逢えなくなってしまったかつての同僚に敬意を込めて「忌々しい摩利子」と脳内翻訳している赤いカクテルを颯爽と注文した。

「ブラッディ・マリーをお願い。ウォッカを少し……」
強くと言ってみたいけれどどうしようと口ごもっていると、田中が優しく微笑んで言葉を継いだ。
「はい。少し、弱くしましょうね」
う〜ん、ちょっと悔しい、でも心地いい店なのよね、ここ。

ブラッディ・マリー (Bloody Mary)
標準的なレシピ
ウォッカ - 45 ml
カット・レモン - 1/6個
トマト・ジュース - 適量
作成方法: ビルド



(初出:2013年5月 書き下ろし)
.24 2013 小説・バッカスからの招待状 trackback0

【小説】バッカスからの招待状 -2- ゴールデン・ドリーム

Posted by 八少女 夕

この小説、オムニバス小説集「バッカスからの招待状」なんですが、「またもや『樋水龍神縁起』ものかよ!」と思われるかもしれませんね。実は、40,000Hit記念にTOM-Fさんからいただいたリクエストにお答えしての小説なのです。いただいたお題は「トロイメライ」、キャラのご指定は高橋瑠水でした。そういうわけで、「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」を読んでいらっしゃらない方はいまいち「?」かもしれません。でも、読んでいなくても話は通じると思います。


バッカスからの招待状 -2- 
ゴールデン・ドリーム


 開店直後のバーに入るのは本番前の舞台を覗くような、少しだけ優越感に浸れる瞬間だ。
「いらっしゃい」
ドアを開けた時に響いてきた変わらぬ声。懐かしさが込みあげた。

「これは、これは。高橋さんじゃないですか」
バーテンダーは声を弾ませた。高橋一は嬉しそうに頷いた。
「四半世紀ぶりだね。田中さん」
「お元氣そうで」
「田中さんも。この店が続いていて嬉しいよ」

 かつてはジャズがかかっている事が多かった店だが、今日は静かなピアノ曲がかかっていて、柔らかい間接照明がメロディに合わせて揺れているように感じた。一は磨き込まれたカウンターのマホガニーを愛おしむように撫でてから、かつて自分の席と決めていた位置に座った。
「広瀬さん、いえ、奥さまはお元氣でいらっしゃいますか」
「ああ、今晩ここに来ると言ったら、悔しがっていたよ。田中さんに是非よろしくって」
「ありがとうございます。次回はぜひご一緒に。本日は、何になさいますか」

 一は嬉しそうに下を向いて笑ってから言った。
「やっぱり、山崎だよね、ここに来たら。十二年を頼む。あと、つまみは連れが来てからで」
「お連れさまですか」
「デートなんだ」

 田中はびっくりした。高橋一はかつての客で、広瀬摩利子と結婚して島根県に移住するまでここでよく待ち合わせていた。その時の二人の様子からは、一が摩利子以外の女性とデートをするなんてありえないように思えたのだが。

「妻公認でデートできる二人のうちの一人だよ」
一はウィンクした。

 ドアが開いて、ぱたぱたと誰かが入ってきた。
「わ、遅れちゃった、お父さん、ごめんなさい!」
それを聞いて田中は納得して微笑んだ。一はさっと手を上げて合図した。

「田中さん、これ、俺の娘です。瑠水っていいます。この店にはまだヒヨッコすぎて似合わないけれど、どうぞよろしくお願いします」
父親に紹介されて、瑠水は田中に向かってぺこっと頭を下げた。
「はじめまして」

 それから瑠水は父親の横、かつては摩利子がよく腰掛けていた椅子に座った。
「ここ、落ち着く素敵なお店ね。もっと前に教えてくれたら、よかったのに」
そういって、店内を見回した。一は「そうだな」と相槌を打ったあと、田中に肩をすくめて説明した。
「こいつ、つい最近まで東京にいたんだけれど、残念ながらまた島根にもどってくることになっちゃったんですよ」

 田中は微笑んで、ささみをトマテ・セッキのオリーブオイル漬けなどで和えたものをそっと二人の前に出した。
「何をお飲みになりますか」

 瑠水は、首を傾げてからカウンターにあったメニューを開いた。カクテルはあまり詳しくない。そういうものが出てくる店ではいつも連れて行ってくれた結城拓人が提案してくれたものを飲んだ。

「あ。この曲……」
瑠水はメニューから目を上げて、流れてくるピアノ曲に耳を傾けた。

「ああ、シューマンのトロイメライですね」
田中はグラスをピカピカに磨き上げながら言った。瑠水は口を一文字に結んで頷いた。結城さん、これも弾いてくれたっけ。もう過去の事になってしまった。夢のように遠い。

「あの……何か夢に関するカクテルって、ありますか?」
瑠水が訊くと、田中と一は目を見合わせて微笑んだ。
「そうですね。例えばゴールデン・ドリームはいかがでしょうか。リキュールベースで柑橘系と生クリームがデザートのようなカクテルで、お好きな女性が多いですよ」
「あ、では、それをお願いします」

 瑠水は結城拓人の事を考えていた。とても優しい人だった。拓人に出会った時、瑠水は出雲にいる真樹に報われない片想いをしていると思っていた。拓人は遊びの恋しかしないと聞いていたので大切にしてくれるなんて思いもしなかった。瑠水は拓人のピアノを聴きたかった。あの優しい音色に包まれて、真樹を想う痛みを和らげてほしかった。

 あれは、拓人のマンションに二度目に行ったときの事だ。彼は瑠水が一番喜ぶ事を知っていた。東京の夜景が拓人の背後の全面ガラスに見えた。それは潤んで泣いているようだった。彼の音はその悲しむ世界を落ち着かせるように柔らかく響いた。

「この曲は?」
瑠水が訊くと、拓人は弾き続けながらそっと言った。
「ロベルト・シューマンの『トロイメライ』、聴いた事はあるだろう?」
「ええ。優しい、心の落ち着く旋律ですね」
「ああ。ドイツ語で夢想とか白昼夢って意味だけれど、僕には他のイメージが浮かぶんだ」

「それは?」
「ドイツ語で肉屋の事をメツゲライ、乳製品屋をモルケライっていうんだ、その連想で僕にはトロイメライと言われるとなんとなく夢を売っている店ってイメージが広がってしまうんだ」
拓人はその羽毛のような髪を少し揺すらせていたずらっ子のように笑った。

 どんな店なんだろうと瑠水も思った。でも、いま思えば、拓人自身が瑠水に夢をくれたのだった。彼が教えてくれたのだ。真樹が扉を叩いてくれるのを半ばあきらめつつ待つのではなくて、強く確信を持って愛し続ける事を。瑠水の立ち止まったままだった背中を、彼とその音楽がそっと優しく押してくれたのだ。それから一度に開かれた扉。瑠水は願い続けていた真樹のいる人生を手にする事ができた。そして、大切な自然と世界のために働く一歩も踏み出す事ができた。

「それで。みなさんへのご挨拶は終わったのか」
一が訊いた。
「ええ。急だったから、異動までに逢えなかった人も多かったし。でも、ちゃんと言ってきた。お父さんも、ごめんね。無理に引っ越しの手伝いに来させちゃって」
「俺はいいよ。それより、相談もなく決めたと早百合が激怒していたぞ」
「わかってる。でも、お姉ちゃんに相談すると反対されるから……」

 瑠水は下を向いた。一が瑠水の頭を撫でた。それだけで、瑠水は父親が自分の紆余曲折を否定せずに見守り、決定を後押ししてくれている事を感じた。母親の摩利子も暖かく迎えてくれた。樋水村の人びとも、樋水川も、龍王神社も、全てがあるがままの自分を受け入れてくれている事を感じた。そして、真樹も。

 東京で何があったを真樹は訊かなかった。ただ変わらずに愛してくれた。瑠水は自分の行動が、受身な態度が、多くの人たちを傷つけた事を少しずつ理解していた。だから、その分も自分がつかんだ幸せをずっと大切にしようと思った。

「お父さん、ありがとう」
「ん? なんだいきなり」
「シンと結婚するなんていきなり言って、びっくりしたでしょう?」
「う~ん、どうだろう。俺は、お前がシン君と逢った頃から、きっとこうなるんじゃないかと思っていたからなあ」

 田中が納得した顔で、瑠水の前にカクテルグラスをそっと置いた。淡いクリーム色、細かい泡が聞こえないほどの小さな音を出していた。ひと口含むと、柔らかい甘さが舌に広がった。爽やかな香りとともに飲み込むと、わずかにガリアーノリキュールの苦さが引き締めた。泣いていた東京の夜景、瑠水を許して受け入れてくれたピアノを弾く人の嘆き。

「お父さん。心配かけた分、これから一生懸命、親孝行するね」
瑠水が言うと、一はもう一度、娘の頭を撫でた。

「俺やお母さんの事はいいんだよ。シン君を大事にして、幸せになれ。お前たちが島根で所帯を持ってくれて、俺は嬉しいよ。住むのはシン君の工場のある出雲にするのか、それともお前の勤める松江?」
「えっと、間をとって宍道あたりにしようかと思っているんだけれど。明後日お社に結婚式の相談に行くんだけどね、シンが今日電話したら武内先生が住む所の事でも話があるっておっしゃっていたんだって。もしかしたら別の所を紹介してくれるのかもしれない」

 一は「えっ」と言う顔をした。妻の摩利子なら「あのタヌキ宮司、何を企んでいるのかしら」とでも、いうところだ。

 でもなあ、シン君と結局は一緒になったし、俺たちがヤキモキした所でどうしようもないよなあ。

 瑠水は神妙な顔をしてクリーム色のカクテルを飲んでいた。優しい色をした酒は、親子のつかの間の時間を優しく包んでいる。一が東京で飲むならぜひここに行きたいと言ったわけがわかったような氣がした。拓人が弾いてくれた『トロイメライ』のように、心を落ち着かせてくれる柔らかさがある。ああ、「夢を売ってくれる店」って、こういう所なのかもしれないな。


ゴールデン・ドリーム(Golden dream)
標準的なレシピ
ガリアーノ - 20ml
コアントロー - 20ml
オレンジ・ジュース - 20ml
生クリーム - 10ml
作成方法: シェイク



(初出:2014年4月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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わざわざ動画を貼付けるほどもないくらい有名な曲ですが、一応。

"Träumerei" aus Kinderszenen von Robert Schumann - Yuli Lavrenov (Klavier)
.07 2014 小説・バッカスからの招待状 trackback0

【小説】バッカスからの招待状 -3- ベリーニ

Posted by 八少女 夕

66666Hit記念小説の第三弾です。不定期連載というか、読み切りみたいな感じで時々書いているオムニバス小説集で「バッカスからの招待状」というのがありまして、それの三つ目という位置づけです。大手町のバー『Bacchus』とその店主であるバーテンダー田中佑二のもとを訪れる客たちの人生を切り取っています。今回訪れたのは、若い女性客で、カクテルは桃を使ったベリーニです。

この66666Hit企画は、六名の方から出していただいた名詞をそれぞれ一つ以上使うというルールがあります。今回、使った名詞は順不同で「バンコク」「桃の缶詰」「名探偵」「エリカ」「進化論」「にんじん」「WEB」の七つです。使うのに四苦八苦している様子もお楽しみください(笑)


参考:
バッカスからの招待状
いつかは寄ってね
君の話をきかせてほしい




バッカスからの招待状 -3- ベリーニ

 大手町は、典型的なビル街なので、秋も深まると風が冷たく身にしみる。加奈子は意地を張らずに冬物を出してくるべきだったと後悔しながら、東京駅を目指して歩いていた。ふと、横を見ると、見覚えのある看板がある。『Bacchus』。隆に連れてきてもらったことのあるバーだ。あいつには珍しく、センスのある店のチョイスだったわよね。重いショルダーバッグの紐が肩に食い込んでいる。あいつのせいだ。加奈子は、駅に直行するのは止めて、その店に入るためにビルの中に入っていった。

「いらっしゃい」
時間が早かったらしく、まだそんなに混んでいなかった。バーテンダーの田中が、加奈子の顔を見て少し笑顔になる。憶えていてくれたのかしら。

「こんばんは、鈴木さん。木村さんとお待ち合わせですか」
あら、本当にあいつと来たことを憶えていたんだわ。しかも私の苗字まで。

「いいえ。一人よ。隆とは、いま別れてきたところ。彼、明日バンコクに行くの。朝早いから帰るって」
「出張ですか?」
「ううん、転勤だって。私もつい一昨日聞いたのよ。ヒドいと思わない?」

 木村隆とは、つき合っているのかいないのか、微妙な関係だった。加奈子の感覚では、一ヶ月に一度くらい連絡が来て、ご飯を食べたりする程度の仲をつき合っているとは言わない。告白されたこともないし、加奈子も隆のことは嫌いではないが、自分から告白をして白黒をはっきりさせるほど夢中になっている訳ではないので、そのままだ。

 突然電話がかかってきて「これから逢おうよ」などと言われる。例えば、夜の九時半に。はじめはそれなりにお洒落をして待ち合わせ場所に向かったりしたが、家の近くのファミリーレストランや赤提灯にばかり連れて行くので、そのうちに普段着で赴くようになった。一応、簡単なメイクだけはしている。これまでしなくなったら、女として終わりだと思うので。

 そんな彼が、連れて来た中では、洒落ていると思えた唯一の場所が、ここ『Bacchus』だった。
「なんで、あなたがこんな素敵な店を知っているの?」
「え? いつもと違う?」
「全然違うわよ」
「そうかな。僕は、流行やインテリアの善し悪しなんかはあまりわからなくて、お店の人が感じのいいところに何度も行くんだよ。ここは、会社の先輩に一度連れてきてもらったことがあるんだけれど、田中さん、すごくいい人だろう?」

 そう、それは彼の言う通りだった。彼の連れて行く全ての店は、必ず感じがいい店員か、面白いタイプの店主がいて、彼は必ず彼らと楽しくコミュニケーションをとるのだった。そして、加奈子は、彼や彼の連れて行く店で出会う人びとと、楽しい時間を過ごすのが好きだった。

 だから、本当につき合っているのかどうか、彼が加奈子のことを好きなのかどうかにはあまりこだわらずに、彼の誘いは出来る限り断らないようにしてきた。洒落た店や、高価なプレゼント、それにロマンティックなシチュエーションなども、彼とは無縁だと納得してきた。それに、加奈子自身も、さほどファッショナブルではないし、目立つ美人という訳でもない。そういうフィールドで勝負しなくていいのは氣持ちが楽だと思っていた。

「でも、今回はあんまりだと思う。見てよ、これ」
そういうと、大きなショルダーバッグのジッパーを開けて、田中に大手町界隈を歩く時には通常持ち運ぶことはない品物を示した。

 にんじん、芽の出掛かっているジャガイモ、中身が出てこないようにビニール袋で巻いてある使いかけのオリーブ油、やはり開封済みの角砂糖、そして何故か五つほどの桃の缶詰。

「これは?」
田中が訊く。
「バンコクに送る荷物には入れられなかったけれど、もったいないから使ってほしいって。そのために呼び出したのよ! 転勤も引越も教えなかったクセに」

 彼はいつでもそうだ。加奈子は、「普通ならこう」ということに出来るだけこだわらないようにしているつもりだが、彼の言動は彼女の予想をはるかに越えている。

「前に、誕生日を祝ってくれると言うから、プレゼントはなくてもいいけれど、せめて花でも持ってこいと言ったら、何を持ってきたと思う? エリカの鉢植えよ、エリカ! 薔薇を持ってこいとは言わないけれど、あんな荒野に咲く地味な花を持ってこなくたって」

 田中は、笑い出さないように堪えた。
「確かに珍しい選択ですが、何か理由がおありになったのではありませんか」

「訊いたわよ。そしたらなんて答えたと思う? 『手間がかからないだろう』ですって。蘭みたいな花を贈ってもどうせ私は枯らすだろうと思ってんのよ、あの男は!」

 それだけではなくて、別に誕生日プレゼントももらった。『名探偵登場』というパロディ映画のDVD。全然ロマンティックじゃないし、唐突だ。でも、面白かった。実は、昔テレビ放映された時に観たことがあって、結構好きだった。

 世間の常識からはずれているけれど、私との波長はそんなにズレていない。そう思っていた。加奈子は、そんな自分の直感を大事にしているつもりだった。でも、それが間違っていたのかとがっかりしてしまう。

 こんなにたくさんの桃の缶詰、いったいどうしろって言うのよ。桃なんてそんなにたくさん食べるものじゃないし、これを見る度に、私はあいつに振り回された訳のわからない日々を思い出すことになるじゃないのよ!

 でも、あいつはよく知っているのだ。あいつと同じく、私も食べ物を無駄に出来ない。邪魔だから捨てるなんて論外だ。あいつが私にこれを託したのは、私が全部食べるとわかっているから。もう!

「ねえ。これで、ベリーニを作って」
彼女はカウンターに黄桃の缶詰を一つ置いた。

 田中は、加奈子の瞳と、缶詰を交互に見ていたが、やがて静かに言った。
「困りましたね」
「どうして? 缶詰なんかじゃカクテルは作れないってこと?」

「もちろんカクテルは作れます。ただ、ベリーニは、黄桃ではなくて白桃で作らなくてはならないんですよ」
「どうして?」
「イタリアの画家ジョヴァンニ・ベリーニの描くピンクにインスパイアされて作られたカクテルなんです。黄桃ではピンクにはなりませんからね。少しお待ちください」

 そう言うと、彼はバックヤードへ行き、二分ほどで小さなボールを手に戻ってきた。薄桃色のシャーベットのように見える。

「何それ?」
「白桃のピューレです。夏場は、新鮮な白桃でお作りしていますが、冬でもベリーニをお飲みになりたいという方は意外と多いので、冷凍したものを常備しているのですよ」

 田中は、グレナディンシロップを使わなかった。その赤の力を借りれば、もっとはっきりした可愛らしいピンクに染まるのだが、それでは白桃の味と香りが台無しになってしまう。規定よりも少ないガムシロップをほんの少しだけ加えてグラスに注いだ後、しっかりと冷やされていたイタリア・ヴェネト州産の辛口プロセッコを注いで出した。

「うわ……」
加奈子は、ひと口飲んだ後、そう言ってしばらく黙り込んだ。

 桃の優しい香りがまず広がった。それから、華やかで爽やかな甘さが続いた。それを包む、プロセッコのくすぐるような泡と大人のほろ苦さ。その組み合わせは絶妙だった。本家ヴェネチアのベリーニとは違うのかもしれないが、特別な白桃の味と香りがこのカクテルを唯一無二の味にしていた。想像していたよりもずっと美味しくて、そのことに衝撃を受けて口もきけなくなってしまった。それから、もう二口ほど飲んで、ベリーニを堪能した。

「田中さん、ごめんね」
「何がですか?」
「缶詰でベリーニを作れなんて言って。とても較べようがないものになっちゃうところだったわ。これ、ただの桃じゃないんでしょう?」

 彼は、控えめに笑った。
「山梨のとあるご夫婦が作っていらっしゃる桃です。格別甘くて香り高いんです。たくさんは作れないので、大きいスーパーなどでは買えないんですが、あるお客様のご紹介で、入手できるようになったんです。お氣に召されましたか?」
「もちろん。ますます缶詰の桃が邪魔に思えてきちゃった」
「そんなことはありませんよ。少々、お待ちください」

 田中は、加奈子の黄桃の缶詰を開けると、桃を取り出してシロップを切った。ひと口サイズに切り、モツァレラチーズ、プチトマトも一口大にカットして、生ハム、塩こしょうとオリーブオイルで軽く和えた。白いお皿に形よく盛り、パセリを添えて彼女の前に出した。

「ええっ。こんな短時間で、こんなお洒落なおつまみが?」
「この色ですからベリーニにはなりませんが、缶詰の黄桃も捨てたものじゃないでしょう?」
「そうね……」

 加奈子は、生ハムの塩けと抜群に合う黄桃を口に運んだ。隆と一緒に食べたたくさんの食事を思い出しながら。結構楽しかったんだよなあ、あいつとの時間。

「私、振られたのかなあ」
加奈子は、ぽつりと言った。

「え?」
田中は、グラスを磨く手を止めて、加奈子を凝視した。

「いや、そもそも彼は、私とつき合っているつもりは全然なかったってことなのかしら。転勤になったことも、引越すことも何も言ってくれなくて、持っていけない食糧の処理係として、ようやく思い出す程度の存在だったのかな」

 田中は、口元を緩めて言った。
「木村さんのコミュニケーションの方法は、確かに独特ですけれど……」
「慰めてくれなくてもいいのよ、田中さん。私……」

 田中は、首を振った。
「ようやく出会えたんだって、おっしゃっていましたよ」
「?」

「はじめてご一緒にいらした翌日に、またいらっしゃいましてね。『昨日連れてきた子、いい子だろう』って。木村さんがこの店に女性をお連れになったことは一度もなかったので、それを申し上げました。そうしたら『ここに連れてこられるほど長くつき合えた子は、これまで一人もいなかったんだ』と」

 加奈子は、フォークを皿の端に置いた。
「それで?」

「『どんな話をしても、ちゃんと聞いてくれる。バンバン反論もするけれど、聞いてくれなきゃ意見なんかでないだろ』って。それに、『どんなあか抜けない店に行っても、僕が美味いと思う料理は、必ずとても幸せそうに食べてくれるんだ。マメに連絡できなくても怒らないし、服装がどうの、流行がどうのってことも言わない。だから、とてもリラックスしてつき合えるんだ』と、おっしゃってました」

 加奈子は、ベリーニのグラスの滴を手で拭った。そうか。けっこう評価していてくれたんだ。それに、あれでつき合っているつもりだったんだ。

「しょうがないわね。あれじゃ、そんな風に思っているなんて伝わらないじゃない。明日にでも、メールを送って説教しなくっちゃ」

「木村さんの言動は、聞いただけだと、なかなか理解されないでしょうけれど、鈴木さん、あなたを含めて彼の周りにいる方は、みな彼のことをとても大切に思っている。素敵な彼の価値のわかる方が集まってくるのでしょうね。チャールズ・ダーウィンがこんな事を言っていますよ。『人間関係は、人の価値を測る最も適切な物差しである(注1)』って」

「へえ。それって、あの『進化論』のダーウィン?」
「ええ。そうです」

「田中さん、すごい。教養があるのね」
「とんでもない。格言集は、面白いのでよく読むんですよ。元々は、お客さんにいろいろと教えていただいたんですけれどね。あ、今は、WEBでいくらでも調べられますよ」
「へぇ~。家に帰ったら調べてみようかな」

「ダーウィンは他にも、私たちのような職業の者には言わないでほしかった名言を残していますよ」
「なんて?」
「『酔っ払ってしまったサルは、もう二度とブランデーに手をつけようとしない。人間よりずっと賢い(注2)』んだそうです」

 加奈子は、楽しそうに笑った。そうかもね。でも今夜はそれでも、あの訳のわからない男のことを思い出しながら、この優しいベリーニに酔いたいな。

ベリーニ(BELLINI)
レシピの一例
プロセッコ  12cl
白桃のピュレ  4cl
ガムシロップまたはグレナディンシロップ  小さじ1杯
作成方法: グラスに白桃のピュレとシロップを入れ、よく冷えたプロセッコを注ぐ


(注1)A man's friendships are one of the best measures of his worth. - Charles Darwin
(注2)An American monkey, after getting drunk on brandy, would never touch it again, and thus is much wiser than most men. - Charles Darwin

(初出:2015年11月 書き下ろし)
.07 2015 小説・バッカスからの招待状 trackback0

【小説】バッカスからの招待状 -4- オールド・ファッションド

Posted by 八少女 夕

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


scriviamo!の第七弾です。もぐらさんは、 雫石鉄也さんという方のお作りになった作品の朗読という形で参加してくださいました。

もぐらさんの朗読してくださった『ボトルキープ』

原作 雫石鉄也さんの「ボトルキープ」

もぐらさんは、創作ブロガーの作品を朗読をなさっているブロガーさんです。昨年の終わりぐらいにリンクを辿っていらしてくださってから、長編を含む作品を読んでくださっているありがたい読者様でもあるのですが、うちの作品の中で一番最初に読むことにしてくださったのが、この「バッカスからの招待状」シリーズです。

珍しいものから読んでくださるなと思っていたのですが、実は雫石さんのお書きになるバー『海神』を扱ったシリーズの大ファンでいらっしゃることから、この作品に興味をおぼえてくださったということなのです。

今回朗読してくださったのは、その『海神』とマスターの鏑木氏が初登場した作品だそうで、ご縁のある作品のチョイスに感激しています。

ですから、お返しにはやはり『Bacchus』の田中を登場させるしかないでしょう。参加作品「ボトルキープ」にトリビュートしたストーリーになっています。もぐらさん、雫石さん、そして鏑木さま。本当にありがとうございました。


参考:
バッカスからの招待状
いつかは寄ってね
君の話をきかせてほしい

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バッカスからの招待状 -4- 
オールド・ファッションド
——Special thanks to Mogura san & Shizukuishi san


 そのバーは大手町にあった。昼はビジネスマンで忙しいけれど、飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく書かれている。『Bacchus』と。

 店主であるバーテンダーの田中佑二は、今夜も開店準備に余念がない。バブルの頃は、何人かのバーテンダーを雇わないと回らないほど忙しかったこともあるが、今は繁忙期以外は一人でやっている。大手町だから家賃も相当かかるが、幸いそこそこの固定客がいるのでなんとか続けていられる。

「いらっしゃい」
今日最初の客だと顔を向けた。意外な人物が立っていたので戸惑った。

「これは……。庄治さんの奥様。こんばんは」
健康そうではあるが、既に七十歳にはなっているだろう。厳格な表情をして地味な服装なので同年代の女性よりさらに老けて見える。

 彼女は、『Bacchus』の客ではなかった。どちらかというとこの店の売上にブレーキをかける役目を果たしていた。つまり、彼女の夫がここで飲むのを嫌がり、必至で阻止していたのだ。しかし、それもずいぶん昔のことだ。庄治が顔を見せなくなってから三年は経つだろうか。

「こんばんは。まだ開店していないなら、外で待ちますけれど」
「いいえ。どうぞお好きな席へ」

 老婦人は、キョロキョロと見回してから、一度奥の席に行きかけたが、戻ってきてカウンターの田中の前に座った。

「ご主人様とお待ち合わせですか?」
彼が訊くと、笑って首を振った。
「それは無理よ。先月、四十九日の法要を済ませたのよ」

 田中は驚いた。
「それは存じ上げませんでした。ご愁傷様です」
「ありがとう。もちろん知らなくて当然よね。私が知らせなかったんですもの。あの人、ドクターストップがかかって飲みには行けなくなった後、他のお店には行きたいとは言わなかったのに、ここにだけはまた行きたがっていたの」

 それから、田中の差し出したおしぼりを受け取って、上品に手を拭くと、メニューを怖々開いた。しばらく眺めていたが、閉じて言った。
「ごめんなさいね。私、こういうお店で飲んだことがなくて、わからないの。あの人はどんなものを頼んでいたのかしら」

「ご主人様は、いつもバーボンでした。フォア・ローゼスがお氣に入りでボトルをキープなさっていらっしゃいました」
そういうと、後に並んだ棚から、三分の二ほど入っているボトルを一つ取って、彼女に見せた。

 ここでは、キープのボトルには、本人にタグの名前を書いてもらう。亡くなった夫の筆跡を見て、彼女の眉が歪んだ。

「私のこと、嫌な女だと思っていらしたでしょう。いつも早く帰って来いと電話で大騒ぎして。それにここまで来て連れ帰ったこともありましたよね」
「庄治さんのご健康をお考えになってのことだったのでしょう」

「ええ。そうね。でも、こんなに早くいなくなってしまうのなら、あの人が幸せと思うことを自由にさせてあげればよかったって思うの。今日ね、たまたまギリシャ神話の本を目にしてね、あの人が、もう一度『Bacchus』に行きたいなと言った言葉を思い出して。供養代わりに来てみようかなと思ったのよ。歓迎されないかもしれないけれど」

「とんでもない。おいでいただけて嬉しいです」
田中は、心から言った。

 彼女は、ふっと笑うと、ボトルを指して訊いた。
「このお酒、飲んでみてもいいかしら。これって確かとても強いのよね。ほんの少ししか飲めないと思うけれど」

 田中は少し困った。バーボンには明示された賞味期限はないが、開封後はやはり一年くらいで飲みきった方が美味しい。かといって、キープされたボトルを勝手に捨てるわけにはいかないので、全く訪れなくなった客のボトルはそのまま置いてある。

 田中はそのことを告げてから、別のフォアローゼスの瓶を取り出した。
「ですから、お飲みになるのは新しい方にしてください。もちろん、別にお代は頂戴しませんので」

 庄治夫人は、首を振った。
「まずくなっていてもいいから、あの人のボトルのお酒を飲みたいわ。私でも飲めるように少し軽くなるようなアレンジをしてくれませんか」

 田中は頷いた。
「わかりました」

 ボトルを開けて、香りをかいだ。幸い品質はほとんど低下していないようだ。これならと思い、オールド・ファッションド・グラスに手を伸ばした。
「オールド・ファッションドというカクテルがございます。砂糖やオレンジなどを使っていて、それと混ぜながらご自分でお好きな加減の味に変えて飲みます。いかかですか」

 老婦人はじっと田中を見つめた。
「お酒はそんなに飲みなれていないので、全部飲めないかもしれないけれど」

「強すぎて無理だと思ったら遠慮なく残してください。ノンアルコールのカクテルもお作りできますから」
田中の言葉に安心したように彼女は頷いた。

 田中はグラスに角砂糖を入れた。カランと音がする。アロマチック・ビターズを数滴しみ込ませてからたくさん氷を入れた。それからフォアローゼスを規定よりもかなり少なめに入れて、スライスオレンジとマラスキーノ・チェリーを飾った。レシピにはないが、絞りたてのオレンジジュースを小さいピッチャーに入れて横に添えた。

 庄治夫人は、怖々とマドラーでかき混ぜながらそのカクテルを飲んでみたが、首を傾げてから添えてあるオレンジジュースを全て注ぎ込み、それから安心して少しずつ飲みだした。
「これ、あなたの受け売りだったのかしら」

 田中は、彼女の言う意味が分からずに首を傾げた。老婦人は笑いながら続けた。
「いつだったかしら、いつもお酒ばかり外で飲んでと文句を言ったら、美味しいんだぞ飲んでみろと頂き物のウィスキーを私に飲ませようとした事があるの。それが水を入れても、強いだけで全く美味しくなくて。そうしたらこれならどうだって、オレンジジュースを加えてくれたのよ。そうしたら結構美味しかったの。悔しいかったから、美味しいなんて言ってあげなかったけれど」

 彼女は、目の前のフォアローゼスの瓶のタグに愛おしげに触れた。
「美味しいわねって、ひと言を言ってあげれば、私が大騒ぎしなくても帰って来たのかもしれないわね。それに、一緒にここに来ようと言ってくれたのかもしれないわ。もう遅いけれど」

 それからタグを持ち上げて田中に訊いた。
「もし、これを捨てるなら、私が持ちかえってもいいかしら」
「もちろんです。庄治さん、大変お喜びになると思います」

 長居をせずに彼女が帰った後、田中は庄治の残していったボトルを眺めた。キープしたまま二度とこなくなった客のボトルを置いておくのは場所塞ぎだ。だが、客との大切な約束のように思って彼はなんとか場所を作ってきた。

 タグを未亡人に返して、このボトルをキーブしておく意味はなくなった。彼は寂しさと、約束を果たせたというホッとした想いを同時に噛み締めていた。庄治夫人から聞いた墓は、彼の自宅からさほど遠くなかった。今度の休みには、このボトルをもって墓参りに行こうと思った。


オールド・ファッションド(Old Fashioned)

標準的なレシピ
バーボン・ウイスキー 45ml
アロマチック・ビターズ 2dashes
角砂糖 1個
スライス・オレンジ 
マラスキーノ・チェリー

作成方法: オールド・ファッションド・グラスに角砂糖を入れ、アロマチック・ビターズを振りかけて滲みこませる。氷を入れ、ウイスキーを注ぎ、スライス・オレンジ、マラスキーノ・チェリーを飾る。



(初出:2016年1月 書き下ろし)

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この作品をもぐらさんが朗読してくださいました。

第303回 バッカスからの招待状 オールド・ファッションド
.20 2016 小説・バッカスからの招待状 trackback0

【小説】バッカスからの招待状 -5- サマー・デライト

Posted by 八少女 夕

WEB月刊誌「Stella」用に連載してきた「Infante 323 黄金の枷は完結しましたので、新しいものをと思ったのですが、しばらくはこのシリーズを書いていこうと思います。「バッカスからの招待状」ですね。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしようと思います。
月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


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バッカスからの招待状 -5- 
サマー・デライト


 ドアを開けると、時間は遅くなかったのにもうカウンター席はほとんど埋まっていた。一番奥の席が二つ空いていたので、彼はホッとした顔をした。

「夏木さん、いらっしゃいませ」
バーテンダーの田中はいつものように穏やかに言った。

「あそこの席、座ってもいいかい?」
夏木敏也はほとんど聴き取れない小さい声で訊いた。「どうぞ」と薦められると、ほっとしたように奥の席に腰掛けた。

 大手町のビル街の地下にあるバー『Bacchus』は、氣をつけていないと見過ごしてしまう。だが、居心地がよく、肴も美味しいので、常連たちが心地いいと思う程度にいつも賑わっていた。

「今日は何になさいますか」
田中が熱いおしぼりを手渡しながら訊いた。

「この間のをまた飲みたいな」
夏木は、言ってしまってから、しまったと思った。昨日の今日じゃあるまいし、「この間の」などと言ってわかるはずはない。だが、彼はそのカクテルの名前を憶えていなかった。
「あ~、僕の名前と関係のあるカクテルだったと思うんだけれど」

「サマー・デライトですね」
田中は困った様子もなく言った。

 田中は、常連客の嗜好や一人一人の語った内容を驚くほどよく憶えている。だが、夏木の場合は記憶するのも簡単だろう。彼はバーの常連客としては珍しいタイプだった。一滴のアルコールも飲めないのだ。

 彼は少し俯いて、それから口角をあげた。彼は、ここに受け入れられてもらっていると感じた。

 酒を飲めないのは体質でどうしようもない。だが、世の中には訓練や根性でその体質を変えられると信じている輩も多い。「付き合い悪いな」「つまらないヤツだ」「契約が取れないのは飲みニケーションが足りないからだ」そんな言葉を発したものに悪氣はなくても、それは少しずつ飲めない者の心を蝕んでいく。肩身が狭く、飲み会や宴会という言葉が嫌になる。

 そして、どれほど憧れていても、「馴染みのバー」などを持つことは出来ない、ずっと夏木はそう思っていた。ある上司にここに連れて来てもらうまでは。
「お前が飲めないのはわかっているよ。でも、あそこは肴も上手いし、田中さんならウーロン茶だけでも嫌な顔はしないさ」

 そして、『Bacchus』の落ち着いた佇まいがすっかり氣に入ってしまった夏木は、それから一人でも来るようになったのだ。はじめはウーロン茶などをオーダーしていたが、隣に座った女性がオーダーしていたのを聞いて、ノン・アルコールカクテルがあることを知った。

「田中さん、僕にも何か作ってくださいよ」
その言葉に、田中の顔が輝いたのがわかった。居酒屋や宴会では絶対に飲めない、それぞれの好みに合わせたカクテル。それは客の憧れであると同時に、バーを切り盛りするバーテンダーの誇りでもあるのだ。

 どの店に行っても肩身が狭くて、本来この場所にいるべきではないと感じていた夏木は、ようやく「この店から歓迎される客になれる」と秘かに喜んだ。

 カランと音がして、セミロングの髪の毛をポニーテールにした若い女性が入って来た。
「ああ、久保さん、いらっしゃいませ」
田中の挨拶で、常連なのだなとわかった。彼女は、カウンターを見回して、夏木の隣の席が空いているのを目に留めた。

「夏木さん、お隣、いいですか?」
田中に訊かれて、彼は「もちろん」と頷き、アタッシュケースを隣の椅子からどけて自分の背中の位置に置いた。

 久保すみれは、会釈しながらやってきて、慣れた様子で田中からおしぼりを受け取った。
「この時間なのに、満席なのね。座れてよかった」
「ほんの三十分前までは、ガラガラだったんですよ。何になさいますか」

 すみれは、メニューを受け取ると検討しだしたが、目移りしてなかなか決まらないようだった。

「お待たせしました」
田中は、夏木の前にタンブラーを置いた。淡いオレンジ色が爽やかな印象だ。彼は、田中に会釈をして、一口飲んだ。

 ライムの香りに続いて、炭酸の泡が喉をくすぐる。それからゆっくりと微かにグレナディンシロップの甘さが訪れる。

 そう、これこれ。甘さをライムジュースと炭酸で抑えてあって、とても爽やかだ。本当に「夏の歓び」だな。

 オレンジスライスが飾ってあると、いかにも女性用カクテルのように甘ったるく見えてしまうが、グリーンライムである所が心にくい。グラスの形もシンプルなタンブラーなのがいい。幸せだなあ。

 それから、隣からの視線に氣が付き、少し顔を赤らめた。別にノン・アルコールだと大きく書いてあるわけではないけれど。

「それ、美味しいですか?」
「え。はい、とても」
「私、お酒強くないんだけれど、飲めると思います?」

 夏木は大きく頷いて、それから田中を見た。田中は、メニューの一部を示して優しく言った。
「久保さん、大丈夫です。このカクテルは、サマー・デライトです」

 すみれは、その説明を見て、ノン・アルコールの記述に氣がついた。にっこり笑って「それを私にもお願いします」と言った。

 夏木は嬉しくなった。酒が飲めないことは、悪いことだとは思っていないが、多くの人の前で「こいつ飲めないんだ」と言われるのは好きではなかった。田中は、始めに来たとき以外、そのことに言及しない。だから、カウンターの他の客たちは、夏木が飲めないことにも氣がついていないだろう。そもそも、彼らは誰かが飲めないことになど興味はないのだ。

 田中も、酒に強くないこの女性も、飲めない者の居心地の悪さを知っていて、それに氣を遣ってくれる。この店が心地いいのは、そういうほんの少しの優しさを備えた人が集まっているからなのだろう。

「わぁ、本当に美味しい。いいカクテルを知っちゃった」
すみれは嬉しそうに飲んだ。

「せっかくのご縁ですから、このカクテルは僕にごちそうさせてください」
夏木は言った。すみれは驚いた。
「そんな、悪いです」

「いや、本当に一杯だけ。僕、これまでカクテルをごちそうするなんて洒落たシチュエーションになったことがないんですよ。一度、やってみたかったんです」
ノン・アルコールだから、酔わせてどうとやらは100%無理だけれど。心の中で笑いながら続けた。

 すみれは笑った。
「まあ、じゃあ、喜んで。ちなみに、私もバーで男性におごってもらうのは、生まれて初めてです。こういうのって楽しいですね」

サマー・デライト (Summer Delight)

標準的なレシピ
 ライム・ジュース = 30ml
 グレナデン・シロップ = 15ml
 シュガー・シロップ = 2tsp
 炭酸水 = 適量
作り方
炭酸水以外の材料をシェークし、氷を入れたタンブラーに注ぎ、炭酸水で満たす。



(初出:2016年8月 書き下ろし)
.03 2016 小説・バッカスからの招待状 trackback0

【小説】バッカスからの招待状 -6- ナイト・スカイ・フィズ

Posted by 八少女 夕

WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

そして、前の記事でもお伝えしたように、今回は記念すべき「Stella」の創刊5周年記念号です。主催者のスカイさんは、このお祝いにみんなで同じテーマで書く企画を用意してくださいました。お題は「夜空」です。というわけで、急遽「夜空」をイメージした話を書いてみました。


月刊・Stella ステルラ 10、11月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


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バッカスからの招待状 -6- 
ナイト・スカイ・フィズ


「こんばんは、夏木さん」
今日は少し早いな、そう思いながら田中は微笑んだ。

 夏木敏也は片手をあげて、最近いつも座るカウンターの一番奥に座った。

 大手町にあるバー『Bacchus』は、氣をつけていないと見過ごしてしまうような小さな看板しかだしていない。来る客の多くは常連で、しかも一人で来る客が多い。夏木もその一人だ。全くアルコールの飲めない彼は、バーに来る必要などないのだが、この店の居心地はよくて、バーテンダーで店主の田中佑二にノンアルコールのカクテルをあれこれ作ってもらっている。

 彼は最近、火曜日に来ることが多い。理由は、その隣の席にあるのだろう。田中は思ったが余計なことはいわなかった。

 夏木は空いている隣の席に鞄を置いた。
「今日は、久保さん、来ないんだものね」

 火曜日には、たいてい久保すみれがこの店にやってくる。先日サマー・デライトをごちそうして以来、すみれは夏木を見かけると隣にやってきて、一緒にノンアルコールか、アルコール度数の低いカクテルを一杯だけ楽しんで、少し喋って帰っていく。特に約束をしているわけではないし、色っぽい展開にもなりそうもないが、夏木は火曜日を楽しみにしていた。

「お友だちと一緒に『シャトー・マルゴー』のスカイラウンジでのディナーに行くっておっしゃっていましたね」
田中は、夏木の前にハムとリコッタチーズのペーストを載せたクラッカーを出しながら言った。

「誕生日の前祝いだったっけ。最近の女の子たちは、羽振りがいいよね。『シャトー・マルゴー』のフランス料理なんて、僕は一生縁がないんじゃないかな」
夏木はメニューのノンアルコールカクテルを検討しながら言った。

「お友だちが抽選で当てたとおっしゃっていましたよ」
「そうか。だから、あの店で食事ができるのはきっと最初で最後のチャンスだって喜んでいたんだな。まあ、そうだろうな。あんなに高い店なのに、予約が一年後までいっぱいだなんて、不況なんて嘘だ」

 カランと音がして、扉が開いた。田中と夏木は同時に驚いた顔をした。
「久保さん!」

 すみれは、少し下唇を突き出しながら、肩をすくめて入ってきた。
「聞いてよ。本当にひどいんだから」

「『シャトー・マルゴー』は今夜じゃなかったっけ?」
夏木は、鞄をどかしてすみれの席を作った。彼女は、まっすぐにそこに向かって座り、田中からおしぼりを受け取った。

「間違いなく今夜だったわよ。それが、今日になって急に残業だからいけなくなった、ごめんなさいって言われたの」
「それは氣の毒だったな。でも、一人でフランス料理はキツいだろう?」

「本当に残業だったら別に怒らないわ。でも、さっきたまたま彼女がずっと憧れていた外商の彼とその同僚が話しているのを聞いてしまったの。彼女ったら、一緒に予約していた子が残業でいけなくなったから一緒に『シャトー・マルゴー』のディナーに行ってほしいって頼んだらしいの。私は、ダシに使われただけでなく、嘘で約束を反古にされたのよ。もう、女の友情は本当にハムより薄いんだから!」

 田中と夏木は思わず顔を見合わせた。すみれは半分泣きそうな顔をして田中に言った。
「これは飲まずにいられないわ。そうでしょう?」

「お誕生日の前祝いなんですよね。お氣の毒に」
田中が言うと、すみれは大きく頷いた。

「そうなの。あの満天の星空みたいな素敵な部屋で、ディナーができると思ったのに。この歳だし誕生日を祝ってもらわないと嫌だってわけじゃないけれど、ここまで期待した後だと、本当にがっかり」

 夏木は肩を落とすすみれを見て言った。
「そんなに氣落ちするなって。代わりに今日は僕がおごるから、田中さんに美味しいお酒と肴でお腹いっぱいにしてもらえよ」

 すみれは心底驚いて夏木を見た。
「そんなつもりで騒いだんじゃないのよ!」
「でも、誕生日の前祝いだろう? 『シャトー・マルゴー』でごちそうするのは僕には無理だけれど、ここならたぶん大丈夫だよ。田中さん、そうだよね」

 懇願するような顔をしたのがおかしくて、田中とすみれは同時に笑い出した。

「じゃあ、夏木さんのお誕生日には私が同じようにご馳走するって条件で、遠慮なく。田中さん、いいですか?」

「わかりました。では、可能な限り久保さんと夏木さんのお氣に召しそうなものをご用意しましょう。まずはお飲物をお作りしましょう。これは私にごちそうさせてください。何がよろしいですか。本当に強いお酒ですか?」

 すみれは笑って首を振った。
「本当に? 嬉しい。ううん、強いのはダメ。酔っぱらったら、せっかくのコースの味がわからなくなってしまうもの。私でも大丈夫ぐらいので、何か特別なカクテルはあるかしら」

「そうですね。では、せっかくですから夜空をイメージしたカクテルをお作りしましょう。ヴァイオレット・フィズはご存知ですか?」

 すみれは首を振った。田中は、一本の瓶を二人の前に置いた。
「これは柑橘系の果実で作り、ニオイスミレの花などで香りを付けたリキュールでパルフェ・タムールと言います。フランス語で完全なる愛という意味があるんですよ。ヴァイオレット・フィズはこのボルス・パルフェ・タムールにレモンジュースと炭酸水などを合わせたカクテルです。スミレを思わせる紫色のカクテルなんです」

 すみれの名前にかけての選択か。なるほどなと夏木は感心した。けれど、田中はその瓶を棚に戻し、別の瓶を取り出した。
「でも、今日はちょっと趣向を変えてみましょう」

「それを使わないの?」
「こちらもパルフェ・タムールです。でも、先ほどのボルス・パルフェ・タムールと違って、このマリー・ブリザール・パルフェ・タムールは色が青いのです」

 青いリキュールにシロップとレモンジュースをシェイクしてよく冷えたグラスに注いだ。そして、炭酸水を静かに注ぐと、その泡が青い液体の中でまるで星空のように煌めきだした。
「久保さんのための満天の星空をイメージして作りました。夜空をグラスの中に。ナイト・スカイ・フィズをどうぞ」

「そして、これもパルフェ・タムールだからスミレの香りなのね! 田中さん、ありがとう。それに、夏木さんも!」
すみれは嬉しそうにナイト・スカイ・フィズを覗き込んだ。

 夏木はその美しい夜空を模したカクテルを羨ましそうに眺めた。自分も一緒に飲めたらどんなにいいだろう。でも、リキュールが入っているなら無理だよな。

 そう思っていると、そっくりの飲み物が彼の目の前に置かれた。
「あれ?」

 田中は笑って言った。
「こちらはパルフェ・タムールの代わりにブルーキュラソー・シロップと巨峰ジュースで作りました。スミレの香りはしませんが、やはり柑橘系のカクテルです。いかがですか」

 完璧な愛パルフェ・タムール ではないけれど、それに、有名レストランのスカイラウンジでもないけれど、満天の星空は一緒。そしてずっと居心地がいい。二人は大手町のお酒の神様の祝福する夜空のカクテルで楽しく乾杯をした。

 田中はそんな二人を微笑ましく眺めながら、コースに匹敵するどんな肴を組み合わせようかと頭の中をフル回転させた。

ヴァイオレット・フィズ(Violet Fizz)

パルフェ・タムール - 45ml
シロップ - 1tsp
レモンジュース 20ml
炭酸水

作成方法: 炭酸水以外をシェイクしてグラスに注ぎ、炭酸水で満たす。



(初出:2016年10月 書き下ろし)
.12 2016 小説・バッカスからの招待状 trackback0

【小説】バッカスからの招待状 -7- アイリッシュ・アフタヌーン

Posted by 八少女 夕

WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

今回は、それと同時にもぐらさんの主催する「クリスマス・パーティ」に参加しようと思い、クリスマスバージョンで短めのものを書いてみました。(でも、あそこ用には長すぎるかなあ……うるうる)

スペシャルなので、主要人物がみな出てきて、さらに田中本人に関係のある話になっています。次回から、また彼はオブザーバーに戻ります。(たぶん)


月刊・Stella ステルラ 12、1月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む
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バッカスからの招待状 -7- 
アイリッシュ・アフタヌーン


「こんばんは、田中さん、それに夏木さん」
大手町のとあるビルの地下にある小さなバー『Bacchus』のドアを開けて、久保すみれはいつも自分が座るカウンターの席が空いていることを確認してにっこりした。

「久保さん、いらっしゃいませ」
虹のような光沢のある小さな赤い球で飾られたクリスマスツリーの向こうから、田中の落ち着いた声がいつものようにすみれを迎えてくれる。

 店主でバーテンダーでもある彼が歓迎してくれるのは客商売だから普通だろうが、それであっても嬉しかった。ここはすみれにとって最初で唯一の「馴染みのバー」なのだ。

 カウンターの奥にいつも座っている客、夏木敏也のことは、この店から遠くないビルに勤めていること以外は何も知らない。すみれが『Bacchus』に来る日と決めている火曜日には、かなりの確率で来ているので、たいてい隣に座ってなんということはない話をする『Bacchus仲間』になっていた。そして彼は、すみれが来るまで鞄を隣の席に置いて、他の人にとられてしまわないようにしてくれているようだ。

 彼女は、バッグから小さな包みを2つ取り出した。
「来週は、もうクリスマスなんて信じられる? わたし、今年何をしたのかなあ。ともあれ、ここに一年間通えたのは、居心地をよくしてくれたお二人のおかげなので、これ、どうぞ」

「私にですか。ありがとうございます」
「僕にもかい?」
田中に続き、夏木は嬉しそうに包みを開けた。

 それはとあるブランドのハンカチーフで表裏の柄が違うのが特徴だった。それだけでなく形態安定でアイロンがけも楽だ。すみれは、この二人のどちらも独身であることを耳にしていたからこれを選んだ。

「へえ。こんな洒落て便利なハンカチがあるんだ。嬉しいなあ」
紺地に赤と白い細い縞が入り、裏は赤と白の縞が入っている。夏木はそれをヒラヒラさせながら喜んだ。

 田中も浅葱色に白と紫の縞の入っているハンカチを有難く押し頂いた。大切に仕舞っているところに、ドアが開いたので、三人はそちらを向いた。薔薇のような紅いコートを着た、すみれがこれまで一度も見たことのない女性が立っていた。

「涼ちゃん!」
田中は、もう少しでハンカチの入った箱を落とすところだった。

 田中が客に対して、さん付け以外で呼びかけたのを聞いたことのなかったすみれはとても驚いた。女性がにっこりと笑って「久しぶりね、佑二さん」と言ったので、思わず夏木と顔を見合わせた。

「どうしたんだ、お店は?」
田中は、すみれの横の席を女性に薦めた。彼女は颯爽とコートを脱いで入口のハンガーにかけてから、その席にやってきた。

「表の道で水道管の工事中に何か予想外のことが起こってしまったんですって。それで今夜は水道が使えなくなってしまって臨時休業。こんな稼ぎ時に、困っちゃう。でも、せっかく夜がフリーになったから、お邪魔しようと思ったのよ。何年ぶりかしら」

 それから夏木とすみれに、微笑んで会釈をした。

 田中は、女性におしぼりを渡しながら二人に言った。
「こちらは伊藤涼子さん。昔からの知り合いで、今は神田にお店を出す同業者なんです。涼ちゃん、こちらは夏木さんと久保さん、よくいらしてくださるお客様」

 『知り合い』にしては親しそうだなと思ったけれど、そんなことを詮索するのは失礼だろうと思って、すみれは別のことを訊いた。
「神田のお店ですか?」

「はい。同業者といっても、こちらのような立派なお店ではなくて、二坪ほどの小さな和風の飲み屋なんです。『でおにゅそす』と言います。お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りくださいね」

 すみれはこの『Bacchus』に来るまでバーに足を踏み入れたこともなかったが、和風の飲み屋はさらに遠い世界だった。大人の世界に足を踏み入れられるかと思うと、嬉しくて大きく頷いた。夏木も嬉しそうに頷いた。

* * *


 彼らの様子を微笑ましく見てから、田中は涼子に訊いた。
「何を飲みたい? あの頃と同じ、ウイスキー・ソーダ?」

 涼子は懐かしそうに微笑みながら答えた。
「それも悪くないけれど、外がとても寒かったから、よけい冷えそう。よかったら、ウイスキーを使って、何か冬らしい体の温まる飲み物を作ってくださらない?」

 ほんの少し考えてから、田中は何かを思いついたように微笑んだ。
「アイリッシュ・アフタヌーンにしようか。暖かい紅茶をつかった飲み物だよ」

 涼子だけでなく、すみれと夏木も興味深そうに田中を見た。彼はカウンターに緑色のラベルのタラモアデュー・ウイスキーを置いた。

「ウイスキーの中では、市場に出回っている量は少ないんだが、このアイリッシュ・ウイスキーは飲みやすいんだ。憶えているかわからないけれど、君にあのとき出したウイスキー・ソーダは、これで作ったんだ」

 彼は紅茶を作ると、ウイスキーとアマレット、そしてグレナデンリキュールをグラスに入れてから香りが飛ばないようにそっと注ぎ、シナモンスティックを添えて涼子に出した。

「へえ。これがアイリッシュ・アフタヌーンっていうカクテルなの?」
すみれは身を乗り出して訊いた。

 田中は笑って言った。
「便宜上、アイリッシュ・アフタヌーン、もしくはアイリッシュ・アフタヌーンティーと呼んでいますが、アイルランドでは特別な名前もないくらいありふれたの飲み物のようですよ」

「焼酎のお湯割みたいなものかな」
夏木もすみれごしに香り高い紅茶を覗き込んだ。

「お二人もこれになさいますか? 久保さんにはすこし薄くして」
田中が訊くと、二人は大きく頷いた。

 田中は、すみれ用にはアルコールをずっと減らしたものを、アルコールを受け付けない体質の夏木にはグレナデンシロップを入れたものを出した。夏木の前に出てきたのは甘い紅茶でしかないのだが、女性二人のところから漂う香りで一緒に飲んでいる氣分が味わえる。

 三人が湯氣を立てるグラスを持ち上げて乾杯をするのを眺めながら、田中は若かった頃のことを思い出していた。

 いま夏木が座っている位置に、涼子の姉、田中の婚約者だった紀代子がいた。開店準備をしていた午後に三人でなんということもない話をしていた。涼子はウイスキー・ソーダを傾けながらよく笑った。

 紀代子が黙って彼の元を去って、姿を消してしまってから、氣がつくと二十年以上が経っている。あの幸せだった時間も、それに続いた虚しく苦しかった日々も、ガラス瓶の中に封じ込められたかのように止まって、彼の心の奥にずっと眠っていた。彼は仕事に打ち込むことで、その思い出に背を向けてきた。

 久しぶりに紀代子のことを考えても、以前のような突き刺すような痛みもやりきれない悲しみも、もう襲っては来なかった。

 そういえば、涼子の姿を見たのもあの歳の暮れ以来だ。そんなに歳をとったようには見えないけれど、彼女も尖った感じがなくなり、柔らかく深みのある大人の女性になった。

 彼は、タラモアデュー・ウイスキーの瓶をきゅっと閉めてから、棚に戻した。他の瓶の間に何げなく納まったその瓶は、照明の光を受けて煌めいた。毎年この季節になると飾るクリスマスツリーの赤い球にも、照明は同じ光を投げかけている。彼の城であるこの店は、平和なクリスマスと年末を迎えようとしていた。温かいカクテルから漂うまろやかな香りの中で。

 彼は、ひとつ小さく息を吸い込んだ。いつもの接客する店主の心持ちに戻ると、彼の大切な客たちをもてなすために振り向いた。

アイリッシュ・アフタヌーン(Irish Afternoon)

アマレット:20ml
グレナデンリキュール:10ml
アイリッシュ・ウイスキー:20ml
シナモンスティック:1本
暖かい紅茶:適量

作成方法: アイリッシュ・ウイスキーとグレナデンリキュールとアマレットをグラスに入れた後、香りが飛ばないようにゆっくりと暖かい紅茶を入れて混ぜ合わせる。



(初出:2016年11月 書き下ろし)
.30 2016 小説・バッカスからの招待状 trackback0

【小説】バッカスからの招待状 -8- テキーラ・サンライズ

Posted by 八少女 夕

「scriviamo! 2017」の最中ですが、今日発表するのは、WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

しばらくスペシャルバージョンが続きましたが、また田中はいつものオブザーバーに戻りました。今回の話は、ちょっと古い歌をモチーフにしたストーリーです。あの曲、ある年齢以上の皆さんは、きっとご存知ですよね(笑)


月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む
「いつかは寄ってね」をはじめから読む「いつかは寄ってね」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -8- 
テキーラ・サンライズ


 その二人が入って来た時に、田中に長年酒場で働いている者の勘が働いた。険悪な顔はしていないし、会話がないわけでもなかった。だが、二人の間には不自然な空間があった。まるでお互いの間にアクリルの壁を置いているように。

 大手町のビル街にひっそりと隠れるように営業している『Bacchus』には、一見の客よりも常連の方が多い。だが、この二人に見覚えはなかった。おそらく予定していた店が満席で闇雲に歩き回って見つけたのだろう。

 店などはどうでもいいのだ。未来に大切にしたくなる思い出を作るつもりはないのだろうから。どうやって嫌な想いをせずに、不愉快な話題を終わらせることができるか、それだけに意識を集中しているのだろう。

 二人は、奥のテーブル席に座った。田中は、話が進まないうちに急いで注文を取りに行った。彼らも話を聞かれたくはないだろうから。

「カリブ海っぽい、強いカクテルありますか」
女が田中に訊くと、男は眉をひそめたが何も言わなかった。
「そうですね。テキーラ・サンライズはいかがでしょうか。赤とオレンジの日の出のように見えるカクテルです」
「それにして。氣分は日の入りだけれど……」

「僕はオールドの水割りをお願いします」
男は女のコメントへの感想も、田中との会話をも拒否するような強い調子で注文した。田中は頷いて引き下がり、注文の品とポテトチップスを入れたボウルをできるだけ急いで持っていくとその場を離れた。

* * *


 亜佐美はオレンジジュースの底に沈んでいる赤いグレナディンシロップを覗き込んだ。ゴブレットはわずかに汗をかき始めている。かき混ぜてそのきれいな層を壊すのを惜しむように、彼女はそっとストローを持ち上げてオレンジジュースだけをわずかに飲んだ。
「こうやってあなたと飲むのも今日でおしまいだね」

 和彦は、先ほど田中に見せたのと同じような不愉快な表情を一瞬見せてから、自分の苛立ちを押さえ込むようにして答えた。
「あの財務省男との結婚を決めたのは、お前だろう」

「……ごめんね。私、もう疲れちゃったんだ」
「何に?」
「あなたを信じて待ち続けることに」

 和彦は、握りこぶしに力を込めた。だが、その行為は何の解決にも結びつかなかった。
「僕が夢をあきらめても、財務省に今から入れるわけじゃない。お前に広尾の奥様ライフを約束するなんて無理だ。それどころか結婚する余裕すらない」

「私が楽な人生を選んだなんて思わないで。急に小学生の継母になるんだよ。あの子は全然懐きそうにないし、お姑さんもプライド高そうだから、大変そう」
「なぜそこまでして結婚したがるんだよ」

 亜佐美は黙り込んだ。必要とされたということが嬉しかったのかもしれない。それとも、プロポーズの件を言えば、和彦が引き止めてくれると思いたかったのかもしれない。彼は不快そうにはしたけれど引き止めなかった。

「カリブ海、行きたかったな」
「なぜ過去形にするんだ。これからだって行けるだろう」

 彼女は、瞼を閉じた。あなたと行きたかったんだよ。それに、もう憶えていないかな。まだ高校生だった頃ユーミンの『真夏の夜の夢』が大ヒットして、一緒に話したじゃない。こんな芝居がかった別れ話するわけないよねって。なのに私は、こんなに長く夢見続けたあなたとの関係にピリオドを打って、まるであの歌詞と同じような最後のデートをしているんだね。

 サンライズじゃない。サンセット。私の人生の、真夏の夜の夢はおしまい。

 二人は長くは留まらなかった。亜佐美がテキーラ・サンライズを飲み終わった頃には、水割りのグラスも空になった。そして、支払いを済ませると二人は田中の店から消えていった。

* * *


 おや。田中は意外な思いで入ってきた二人を見つめた。常連たちのように細かいことを憶えていたわけではないが、不快な様子で出て行く客はあまりいないので、印象に残っていた。おそらく二度と来ないであろうと予想していたのだが、いい意味で裏切られた。

「間違いない。この店だよな」
「そうね。6年経ってもまったく変わっていないわね」

 二人の表情はずっと穏やかになっていた。男の方には白髪が増え、カジュアルなジャケットの色合いも落ち着いていたが、以前よりも自信に満ちた様子が見て取れた。

 女の方は、6年前とは違って全身黒衣だった。落ち着いて人妻らしい振舞いになっていた。

「カウンターいいですか」
男が訊いたので田中は「どこでもお好きな席にどうぞ」と答えた。

「どうぞ」
おしぼりとメニューを渡すと、女はおしぼりだけを受け取った。

「またテキーラ・サンライズをいただくわ」
それで田中は、この二人が別れ話をしていたカップルだったと思い出した。
「僕も同じ物を」
彼もまたメニューを受け取らなかった。

「それで、いつ発つの?」 
「来週。落ち着いたら連絡先を報せるよ。メールでいいかい?」
「ええ。ドミニカ共和国かぁ。本当に和彦がカリブ海に行く夢を叶えるなんてね。医療機器会社に就職したって年賀状もらった時には諦めたんだと思っていたわ」

「理想と現実は違ってね。ODAって、場所やプロジェクトにもよりけりだけれど、政治家やゼネコンが癒着して、あっちのためになるどころか害にしかならない援助もあってさ。それで発想を変えて本音と建前が一致する民間企業の側から関わることにしたんだ」
「夢を諦めなかったあなたの粘り勝ちね。おめでとう」

「お前に振られてから、背水の陣みたいなつもりになっていたからな。それにしても驚いたな。お前の旦那が亡くなっていたなんて」

 田中はその言葉を耳にして一瞬手を止めたが、動揺を顔に出すようなことはしなかった。亜佐美は下を向いて目を伏せたが、すぐに顔を上げた。

「そろそろ半年になるの。冷たいと思うかもしれないけれど、泣いているヒマなんかなかったから、かなり早く立ち直ったわ」
「まだ若いのに、何があったんだ?」

 亜佐美は、田中がタンブラーを2つ置く間は黙っていたが、特に声のトーンを落とさずに言った。
「急性アルコール中毒。いろいろ重なったのよね。部下の女の子と遊んだつもりでいたら、リストカットされちゃってそれが表沙汰になったの。上層部はさわぐし、お姑さんともぶつかったの。それで、彼女が田舎に帰ってしまってからすこし心を病んでしまったのね」
「マジかよ」

「受験も大学も、財務省に入ってからもずっとトントン拍子で来た人でしょう。挫折したことがなかったから、ストレスに耐えられなかったみたい。和彦みたいに紆余曲折を経てきたほうが、しなやかで強くなるんじゃないかな」

「それは褒めてないぞ。ともかく、お前も大変だったんじゃないか?」
「そうでもないわ。事情が事情だけに、みな同情的でね。お姑さんもすっかり丸くなってしまったし、奈那子も……」
「それは?」
「ああ、彼の娘。もうすぐ大学に入学するのよ。早いわね」

「えっと、亜佐美が続けて面倒見るのか?」
「面倒見るっていうか、これまで家族だったし、これまで通りよ」

「その子の母親もいるんだろう?」
「母親が引き取らなかったから、慌てて再婚したんじゃない。今さら引き取るわけないでしょ。最初はぎこちなかったけれど、わりと上手くいっているのよ、私たち。継母と継子って言うより戦友みたいな感じかな。思春期でしょ、父親が若い女にうつつを抜かしていたのも許せなかったみたい」

「お前は?」
「う~ん。傷つかなかったといえば嘘になるけれど、でもねぇ」

 亜佐美はタンブラーの中の朝焼け色をじっと眺めた。
「あの人、あんな風に人を好きになったの、初めてだったみたい。ずっと親に言われた通りの優等生レールを進んできて、初めてわけもわからずに感情に振り回されてしまったの。それをみていたら、かわいそうだなと思ったの。別れてくれと言われたら、出て行ってもいいとまで思っていたんだけどね」

 和彦は呆れたように亜佐美を眺めた。
「おまえ、それは妻としては変だぞ」
「わかっているわよ。奈那子にもそう言われたわ。でも、今日私があなたと会っているのも、あの子にとっては不潔なんだろうな」

「いや、今日の俺たちは、ただ飲んでいるだけじゃないか」
「それでもよ。でも、いいの。奈那子に嫌われても、未亡人らしくないって世間の非難を受けても、あなたが日本を離れる前にどうしてももう一度逢いたかった。逢って、おめでとうって言いたかったの」

「これからどうするんだ?」
和彦はためらいがちに訊いた。

 亜佐美は、ようやくストローに口を付けた。それから、笑顔を見せた。
「奈那子が下宿先に引越したら、あの家を売却して身の丈にあった部屋に遷ろうと思うの。奈那子の将来にいる分はちゃんと貯金してね。それから、仕事を見つけなきゃ。何もしないでいるには、いくらなんでもまだ若すぎるしね」

 和彦は、決心したように言った。
「ドミニカ共和国に来るって選択肢も考慮に入れられる?」

 亜佐美は驚いて彼を見た。
「本氣?」

 彼は肩をすくめた。
「たった今の思いつきだけど、問題あるか? 奈那子ちゃんに嫌われるかな」

 亜佐美は、タンブラーをじっと見つめた。あまり長いこと何も言わなかったので、和彦だけでなく、成り行きかから全てを聞く事になってしまった田中まではらはらした。

「新しい陽はまた昇るんだね」
彼女はそういうと、瞳を閉じてカクテルを飲んだ。

「今さら焦る必要もないでしょう? 一度、ドミニカ共和国に遊びにいくわね。カリブ海を眺めながら、またこのカクテルを飲みましょう。その時にまだ氣が変わっていなかったら、また提案して」
亜佐美の言葉に、和彦は明るい笑顔を見せた。

 田中は、安心してグレナディン・シロップの瓶を棚に戻した。


テキーラ・サンライズ (Tequila Sunrise)
標準的なレシピ
テキーラ - 45ml
オレンジ・ジュース - 適量
グレナディン・シロップ - 2tsp

作成方法: テキーラ、オレンジ・ジュースをゴブレットに注ぎ、軽くステアする。
ゴブレットの縁から静かにグレナディン・シロップを注ぎ、底に沈める。



(初出:2017年2月 書き下ろし)
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