scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

樋水龍神縁起 東国放浪記 あらすじと登場人物

この作品は、このブログでは連載していない小説、「樋水龍神縁起」の前日譚(千年前のストーリー)です。が、独立した作品となっているので、単独でお読みいただくことができます。この小説には、未成年の閲覧にふさわしくない表現はでてきません。「樋水龍神縁起」本編は官能小説ではありませんが、官能的表現がでてくるので、fc2小説並びに別館のみで公開しています。

【あらすじ】
時は平安時代。陰陽師安達春昌は、その地位を捨てて従者である次郎とともにあてのない放浪の旅をしている。彼らは、半ば物乞い、半ば呪医として、滞在先となる地位の低い人たちの生活を覆う影と向き合うのだった。

【登場人物】

◆安達春昌
 本作の主人公。賤しい生まれながらも類い稀な才を認められて若くして陰陽寮で頭角を現した陰陽師であった。だが、傲慢さと思い上がりから、恋に落ちた聖なる媛巫女を盗み出して死なせてしまった。その贖罪のために、全てを捨てて放浪の旅をしている。鬼神の類をはっきりと見る能力に加え、天文学、薬草学の知識が豊富。滞在先では一夜の宿と食事の礼に、病人の治療をすることも多い。「樋水龍神縁起」本編の主人公の前世。

◆次郎
 もとは樋水龍王神社の媛巫女つきの郎党だったが、媛巫女を盗み出した逆賊として春昌を討伐するために追っている時に誤って媛巫女を射殺してしまった。瀕死の瑠璃媛の遺言に従い、春昌を守るため従者として旅に付き従っている。生まれながらにして普通の人の目には見えないものをぼんやりと見る能力を授かっている。

◆媛巫女瑠璃
 樋水龍王神の御巫であった。その類まれな神通力は都にも知られており、親王の病を癒した礼として神宝「青龍の勾玉」を下賜されたほどであった。安達春昌と恋に落ちて、自らを盗み出した彼の命を救うために身代わりとなって死ぬ。忠実な郎党の次郎に背の君である春昌を守るように遺言した。


【特殊な用語】
◆樋水村(ひすいむら)
 島根県奥出雲にある架空の村
◆樋水の龍王
 樋水龍王神社の主神。樋水川(モデルは斐伊川)の神格化。樋水龍王神社にある龍王の池の深い瀧壺の底にとぐろを巻いているといわれている。また時おり姿を現すのを村の住人にはよく目撃されている。
◆青龍の勾玉
 奴奈川比売が大国主命に輿入れをした時に糸魚川より出雲に贈られたと伝えられている神宝のうちの一つ。上代にその貴重さから一度朝廷に献上されたが、瑠璃媛が親王の命救った功で下賜された。今際の際の瑠璃媛に託されて春昌が肌身離さず持ち歩いている。


この作品はフィクションです。実在する地名、団体とは関係ありません。



【参考となる作品群】
樋水龍神縁起・外伝
(官能的表現はありません)

「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物

官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。
縦書きPDF置き場「scribe ergo sum anex」へ行く 縦書きPDFで読む(scribo ergo sum: anex)

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Category : 小説・東国放浪記

Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 - 秘め蓮

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

月に一度発表する読み切り短編集「十二ヶ月の野菜」の八月分です。このシリーズは、野菜(食卓に上る植物)をモチーフに、いろいろな人生を切り取る読み切り短編集です。八月のテーマは「蓮根」です。というのは、ちょっとこじつけ。じつは「ユズキさんのイラストにストーリーつけてみよう」企画の方がメインです。今回お借りしたのは、美しい蓮の花。

ユズキさんの記事 「蓮の花絵フリー配布

六月に拝見したときから、ぜひ使わせていただきたいと思っていたんですが、蓮は難しいですね。「桜」と「三色すみれ」のときのように氣軽には使えず、悩みに悩んでこの話を創り出しました。この作品は、「樋水龍神縁起」のスピンオフです。平安時代編。男の二人旅の話。行き詰まっていた時に、助け舟を出してくださったのは、ウゾさん。「大和高田市奥田の蓮取り」という素晴らしいヒントをくださいました。本当にありがとうございました。

【関連する断片小説】樋水の媛巫女
【関連する小説】「樋水龍神縁起」 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」
【関連する小説】樋水龍神縁起 外伝 — 麒麟珠奇譚 — 競艶「奇跡を売る店」

短編小説集「十二ヶ月の野菜」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の野菜」をまとめて読む



樋水龍神縁起 東国放浪記
秘め蓮


 蓮の葉が広がる池だった。風が細かい水紋を起こした。次郎は故郷を思い出した。遠く離れ、戻るあてもない。深い森の奥に俗世界から守られるようにして記憶の中の池はあった。正面に瀧があり、常に清浄な氣に溢れていた。彼はそこに住む神聖なるものを見ることができた。それは、常にそこにいた。彼が生まれる前から。

 神社付きの郎党であった次郎は生まれてからずっと出雲国から出たことがなかった。今、彼が仕えている主人が彼の住んでいた神域にやってくるまで。次郎は馬の手綱を握り直して、馬上の主人を見上げた。主人は何も言わずに目の前の池に目をやっていた。彼もまた思い出しているに違いない。樋水の龍王の池と、その池のほとりに住んでいた御覡を。彼のせいで命を落とした媛巫女を。

「春昌様。あちらに小さい庵がございます。そろそろ今宵の宿を探した方がようございます」
次郎が話しかけると、安達春昌は黙って頷いた。

 池のほとりにある庵は村から離れて寂しく建っていた。よそ者を快く泊めてくれるかどうかはわからぬが、そろそろ陽は傾きだしている。次郎は庵の戸を叩いた。
「もうし」

 誰かが出てくる氣配はなかった。中から苦しそうな咳が聞こえる。次郎はどうしようかと迷い、馬上の春昌を見上げた。主人が次郎に何かを言おうとしたとき、馬の後ろから声がした。

「何かご用でございますか」
二人が振り向くと、泥だらけの誰かがそこに立っていた。声から推測すれば娘のようだが、そのなりからは容貌もほとんどわからなかった。

「旅の者でございます。一夜の宿をお借りできないかとお願いに参りました」
次郎が丁寧に申し出ると、娘はそっと馬上の春昌を見上げた。

 安達春昌の服装は、大して立派とは言えなかった。かつて次郎がはじめて春昌に逢った時は、右大臣の伴をして奥出雲にやってきただけあり、濃紺の立派な狩衣を身につけた堂々たる都人であった。が、道を踏み外し流浪の民となってから数ヶ月、狩衣の色は褪せ、袴もくたびれていた。もっとも、都を遠く離れたこのような村では狩衣を身に着け郎党を従えた男というだけで、十分に尊い貴人であった。そして、娘が驚いたのはまだ年若いと思われるその男の何もかも見透かすような鋭い目つきであった。

 娘は慌てて春昌から眼を逸らすと、頭を下げて「ばば様に訊いてまいります」と中に入っていった。娘の抱えている緑色の束から、微かに爽やかな香りがした。

 ほんのわずかの刻を立ち尽くしただけで、二人は再び娘が玄関に戻ってくる音を聞いた。娘は狭い土間にうずくまり頭を下げた。
「病に臥せっている者がおり、狭く、おもてなしが十分にできませぬが、それでよろしければどうぞお上がりくださいませ」

「お心遣い、感謝いたします」
春昌が言うと、次郎も深々と頭を下げた。

 次郎が馬をつなぎ、荷を下ろしてから家の中に入ると、春昌は案内された小部屋ではなく、隣の媼が伏せている部屋にいた。

「春昌様」
次郎が声を掛けると春昌は振り返った。
「次郎、頼まれてくれぬか」
「なんでございましょう」
「林の出口付近に翁草が生えていた。あれを三株ほど採ってきてほしい。汁でかぶれるので直接手を触れぬようにいたせ」
「はい。しばしお待ちくださいませ」

 娘は、目鼻がわかる申しわけ程度に顔と手を洗って媼の横たわる部屋にやってきたが、先ほどまで苦しそうにしていた老女のひどい咳が治まっているのに驚いた。客は媼の手を取り瞳を閉じて何かの念を送っているように見えた。

 半時ほどすると、馬の蹄が聞こえて、次郎が戻ってきたのがわかった。郎党は足早に上がってきて、部屋の入口に座り懐から紙に包まれた翁草を取り出して主人に手渡した。春昌は立ち上がって娘に言った。

「これを煎じたい」
「でも、それは……」
娘は困ったように春昌を見つめた。
「わかっている。この草には毒がある。毒を薬にする特別な煎じ方があるのだ」

 娘は頭を下げると春昌を竃の側に案内した。娘は春昌が慣れた手つきで翁草をさばき、花や根を切り捨てるのを見た。それから何かをつぶやきながら、今まで見たこともない方法で葉と茎を煎じるのを不思議そうに見た。彼はそれから煎じ液の大半を捨て、水を加えて再び煮立てた。それを何度か繰り返し、見た目には白湯と変わらぬ煎じ薬を茶碗に入れると、再び媼のもとに戻った。

「さあ、これをお飲みなさい。今宵は咳に悩まされずに眠れるでしょう」
媼は黙って薬を飲んだ。娘は再び驚いた。翁草には毒があるので触ったり食べたりしてはいけないと教えたのは他ならぬ老女自身だったから。普段一切よそ者を信用しないのに、今日に限り従順になったのはなぜだろうと訝った。老女は春昌に耳を近づけてようやく聴き取れるほどの声で礼を述べると横になり、次の瞬間にはもう眠りについていた。春昌は何もなかったかのように立ち上がり、自分たちにあてがわれた小さな部屋に戻った。

 娘は若い蓮の実とできはじめたばかりの蓮根を洗って調理を始めた。そしてわずかに残っていた粟とともに粥にした。それから二人のもとに運んで言った。
「こんなものしかございませんが、どうぞ」

 春昌は手を付けずにその粥をじっと見ていた。
「いかがなさいましたか」
「この蓮は目の前の池のものですか」
「はい」

「春昌様?」
次郎が不思議そうに見た。主人は不安がる郎党を見て少し笑った。
「素晴らしい蓮だ。次郎、心して食しなさい」

 それから娘を見て言った。
「明朝、この蓮を穫った場所へご案内いただけますか」
娘は「はい」と答えて粥をかき込んだ。春昌が椀に手を付けたので、次郎もほっとして箸に手を伸ばした。娘は客人を待たずに食べだしたことにようやく氣がつき赤くなった。次郎は貧しく泥まみれの娘を半ば氣の毒そうに、しかし半ば軽んじて見やった。

* * *


 明け方に次郎は隣の間から聞こえてくるバタバタした音で目を覚ました。身を起こすと、春昌はすでに起きて身支度をし夜が明け白んでくる蓮池を見やっていた。

「もうしわけございません」
慌てて次郎が起き上がると春昌は振り返った。
「よい。あの蓮が効き、よく休めたのであろう」

 急いで身支度をしながら次郎は主人に訊いた。
「あの蓮は何か特別なのでしょうか」

 陰陽師である主人はわずかに微笑みながら答えた。
「そなたもあの波動は感じたであろう。五色の氣は見えなかったか」
「五色? いいえ。普通の蓮よりも強い氣を発しているのは感じましたが。穫れたて故、あれほど美味なのかと思っておりました」

 次郎が袴の紐を絞ると同時に、部屋の外から娘の声がした。
「お目覚めでしょうか」

 次郎が破れかかった障子をそっと開けると、昨日の汚れが乾いたままの様相をして、娘は頭を下げた。
「お早うございます。よくお休みになれたでしょうか」
「ああ。礼を申す」
そういって春昌は娘が横に置いた籠に目をやった。
「池にいくのか」
「はい。もし、よろしければどうぞご一緒に」
「ぜひ見せていただこう」
立ち上がった春昌の後を、次郎は慌てて追った。

 ようやく昇りかけている朝日を浴びて、蓮池は霧を少しずつ晴らしている所であった。樋水の龍王の池にも劣らぬ清浄な氣を感じて、次郎は身震いをした。昨夕は全く感じなかったのに一体どうしたことであろう。

 娘が庵と反対側にある非常に多くの蓮の葉が集中している所に来て、そっと薄鴇色の花を指差した。

蓮の花 by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。

 それは明らかにただの蓮の花ではなかった。二輪の花が並んで咲いている。その花の周りに次郎にもはっきりとわかる強い氣の光輪が広がっていた。赤、青、黄、紫、そして白。よく見るとその二輪の花は一つの茎からわかれ出ていた。次郎は思わず息を飲んだ。春昌は何かを小さくつぶやいていた。

「奥田の香華……」
「春昌様?」
「わが師は賀茂氏であった。大和国葛城に戻られる時にはよくお伴をしたものだ。一度、奥田の捨篠池に私を伴われたことがあった。その時に、かの役行者と縁深き一茎二花の蓮花は、失われたのではなくいずこかに今でもあるはずだとお話しくださったことがあったのだよ」
「役行者の蓮でございますか?」

「かつて尊き五色の霧をともなった神の蓮がかの池を覆っていたというのだ。言い伝えでは役行者の母君が金の蛙に篠萱を投げつけて、その目を一つ射抜いてしまい、それ以来、一茎二花の蓮も普通の蓮になってしまったということになっている。わが師は、珍しくて尊い花ゆえ人びとが競って朝廷へ献じたために、失われてしまったのであろうとおっしゃっていた」

「いま見ているこの蓮が、その尊き花なのですね」
「そうだ。最後の花の種はどこか、都人の口の端に上らぬ所に隠されたとおっしゃっていた。あれはここのことだったのだ。見よ、何と美しいことか」
「朝廷に奏上した方がいいのでしょうか」
次郎がいうと、娘は怯えたように二人を見た。

 春昌は首を振った。
「同じ間違いを犯してはならぬ。私は師の期待を裏切り、慢心し、決して失われるべきではない尊い神の宝を死なせてしまった。神がここに咲かせた花は、ここで咲かせるべきだ。そうではないか」

 娘は泥池の中に入り、蓮根と、花の終わった青い花托をいくらか収穫してきた。泥に汚れ、またしても男だか女だかわからなくなってしまった娘を、次郎は少し呆れた様子で眺めていた。だが、特別な蓮の花托を抱えているせいなのか、次郎にもわずかに見えている娘の氣は、朝の光の中でやはり五色にうっすらと輝いて見えた。次郎は思わず目をこすった。春昌は口先でわずかに笑った。

 庵に戻り、出立の支度をしていると、再び娘がやってきた。
「ばば様が目を覚まし、旦那様にお礼を申し上げたいそうです。お邪魔してもよろしいでしょうか」
「まだ起きるのはつらいであろう。私がそちらへ行こう」

 隣の間で布団の上に起き上がっていた媼が、春昌の姿を見てひれ伏した。
「何とお礼をもうしていいやら。息をするのも苦しく、幾晩も眠ることもできませんでしたのに、嘘のように咳も苦しさも治まりました」

「呪禁存思にてそなたの体内に流れていた風を遮った。翁草は滅多にしない荒療治であったが効いたようで何よりだ。そなたたちが同じことをすると危険ゆえ、代わりに大葉子を煎じて一日に三回飲むようにするとよいだろう」
「あなた様は、いったい……」

「道を踏み外し、名を捨てた者だ。だが、心配はいらぬ。わが呪法は京の陰陽寮で用いられているものと同じ。暖かきもてなしと、神の蓮に逢わせていただいた礼だ」

 それを聞いて媼はびくっとした。春昌は媼をまっすぐに見据えて続けた。
「尊き蓮を守られるご使命をお持ちですね」
「はい。私は、かの蓮をさるやんごとなきお方よりお預かりし、時が来るまでここで泥の中に隠すように申しつかっております」

「賀茂氏のご縁のお方か」
「はい」
「では、蓮を受け取りにこられる時に、安達春昌より心からの恭敬と陳謝の意を伝えていただきたい」
「承知いたしました。必ず」

* * *


 媼と娘に別れを告げて、二人は森を通りさらに東に向かった。
「春昌様。お伺いしてもいいでしょうか」
次郎は馬上の主人を見上げた。

「なんだ」
「いずれはあの蓮の花を、陰陽寮の方がお引き取りにお見えになるということなのですか?」
次郎は、媼と春昌の会話の意味が半分も分かっていなかった。

「蓮の花ではない」
「え?」

 春昌は次郎を見て笑った。
「そなたも氣がついたと思ったのだが」
「え? 何をでございますか」

 春昌は前を向いた。
「あの娘だ。あれは特別な女。おそらく三輪の神にお仕えする斎の媛にするつもりなのであろう。師も苦労の絶えぬことだ。蓮のように泥の中に隠さねばならぬとは」
「泥の中に隠す?」

「あの娘を湯浴みさせ、髪を梳き、それなりの館にて育てたら、その美しさにたちまち噂が広がり、やれ我が妻に、やれ皇子様の后にと大騒ぎになるはずだ。あれは蓮女パドミニ だからな」
「ぱどみに? それは何でございますか」
「天竺では女を四つに格付けしているのだ。下から象女ハスティニ貝女シャンキニ伎女チトリニ 、そして滅多にいない至高の存在が蓮女パドミニだ。清浄で見目麗しく香わしいだけでなく、褥の中で男を天上に連れゆく性をも生まれながらに持っている」

 次郎は目をしばたたかせた。なぜそれを昨夜教えてくれなかったかと、つい言いそうになったが寸での所で留まった。

 次郎も、もう一人の至高の女を知っていた。やはり神に捧げられた尊い媛だった。ひと言も口にせずとも、主人が何を想っているかがわかる。春昌にとって生きることと旅をすることは、償いであり神罰でもあった。彼はいくあてもなく彷徨うしかない存在だった。

「ゆくぞ」
木漏れ日の中を馬上にて背筋を伸ばし進んでいく主人の色褪せた狩衣を追い、次郎は再び歩き出した。

(2014年8月書き下ろし)

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Category : 小説・東国放浪記
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記  葩ちる道

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scriviamo!


scriviamo!の第十一弾です。

TOM-Fさんは、大好評連載中の『花心一会』の最新作で参加してくださいました。ありがとうございます!


TOM-Fさんの書いてくださった小説『花心一会 第十三会 「その、花の香りに包まれて」』

TOM-Fさんは、時代物からローファンタジーまで様々なジャンルの小説を自在に書き分けられる創作ブロガーさんです。素人にもわかりやすく書いてくださいる天文の専門用語、専門家なのではないかと思うほど詳細なマシンの記述や、女の私が恥ずかしくなって逃げだすほどのファッション知識などにもいつも唸らせていただいていますが、何よりも敵わないなと思うのは完璧な女の子の描写でしょうか。あんな風に書いてもらったら、キャラの女の子たちは本望でしょう(ごめんよ、うちの子たち!)

さて、今回書いていただいたお話も、そういう素敵なヒロインのひとり、華道花心流の若き家元である彩花里が活躍するシリーズの最新作。いつもは他の相手の人生を静かに手助けしているヒロインもオブザーバーにならないでいる珍しい回ですが、うん、TOM-Fさんの書くストーリーのうち、「静の美しさ」が色濃く出ている素敵なストーリーでした。

って、のんきに感心している場合でなく、これに何を返せと……。今回のscriviamo! みなさん本当に容赦がないんですが、こちらも難問中の難問でした。

で、こうしました。TOM-Fさんが「梅」と「紀友則の和歌」書かれましたので、私は「桜」と「詠み人しらず」で。同時にTOM-Fさんのお話の中で使われていた花びら餅が「葩餅」と書かれるのに掛けて、さらに人間関係の設定を踏襲させていただきました。

そして、舞台は平安時代。この「安達春昌と桜」という組み合わせは、実は最初のscriviamo!でTOM-Fさんと競作させていただいた作品を意識して書いています。

しかし。同じモチーフでもTOM-Fさんの作品は、あんなにハートフルで暖かいのに、私が書くとオカルトみたいになってしまうのはなぜ?


【参考】
【断片小説】樋水の媛巫女
【掌編小説】樋水龍神縁起 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」
【掌編小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 - 秘め蓮

「scriviamo! 2016」について
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



樋水龍神縁起 東国放浪記 
はなちる道
——Special thanks to TOM-F san


 春は近いとは言えまだ肌寒く、風が通り過ぎる度に、次郎は身を震わせた。振り返り馬上の主人を見やると、風に心を乱された様子もなく前方を見つめていた。

「春昌様、いいがなされましたか」
次郎は、主人の眉がわずかに顰められたのを見て訊いた。

「この時期に花が?」
春昌は、ようやく見えてきた里の方を見ているようだった。もう少し進むと歩いている次郎にも、その里の様子が見えてきた。確かにその里は、白い花が満開に咲いているように見えた。だが、今朝後にした里ではようやく梅がほころびはじめた寒さなのだ。

「山間の谷にありますから、霜の華でございましょうか。それにしては華やかに見えますが」

 次郎は、時期外れに花が咲いていようと、実のところ構わなかった。かつて住んでいた出雲の国では、仕えていた御覡である瑠璃媛の類いまれな霊力により、禍々しいものなどは近くに寄ることもできなかったし、故あって現在仕えている安達春昌もかつては右大臣の覚えもめでたかった陰陽師で、旅の間に現れた奇妙な邪神はことごとく跳ね返していた。

 侍者としての次郎の心配の種は、もっと他のところにあった。今夜の宿は確保できるのか、食べるものを得ることはできるのか。心細い旅だった。

 安達春昌は、慢心から樋水の媛巫女を盗み出して死なせた。その贖罪のために、陰陽頭の後継者とも囁かれた未来を捨てて、東国を彷徨っていた。媛巫女の遺言により、次郎はその春昌に付き添い、一度も出たことのない出雲の国を離れて、寂れた山道を共に歩いているのだった。

 里へ降りて近づいてみたところ、二人とも見えていた満開の花が、現実うつつのものではないことを知った。道の両脇に二十本ほどの桜の樹が立ち並んでいるのだが、その枝には固く閉じた花芽があるばかりで、春はまだ遠いと訴えかけているようだった。

 だが、その枝の至る所から、満開に咲き誇る桜の氣が満ちあふれ、存在していない白いはなびら の吹雪が終わることもなく降り注いでいる。尽きることなく降り注ぐその氣で、道は馬の足の半ばが埋まるほどに霞んでいた。

 次郎には生まれながらにして巷の人びとには見えないものを見る力があった。とはいえ、主ほどはっきりと見る能力がある訳ではない。さらに、その見えているものが何であるかを知るための知識も欠いていた。

「春昌様。これはどういうことなのでございましょう」
「わからぬ。だが、おそらくは……」

 馬上の主が答えかけたその時、後からやってきた馬の足踏みと、男の声が聞こえて二人は振り返った。

「なんということだ。黒や、なぜ進まぬ」
立派な狩衣を身に着けたその男を乗せた馬は、桜の並木の異様な様子に怯えてか、どうしてもその道を進もうとはしない。それどころか暴れるので、男は馬から落ちないように必至につかまらなくてはならなかった。

「あ、危のうございます」
次郎が脇にどいている間に、春昌は手印を組み、ほとんど聞こえないほどの小ささで何かを呟いた。公達の馬は、耳をぴくりと振るわせると暴れるのをやめて、春昌の馬の近くに寄って来た。

 春昌は、馬から下りて頭を下げた。頭上の男は、訝しげに二人を見て、それから口を開いた。
「もしや、お助けくださったのでしょうか。ここは何事もない普通の道に思えますが、何か禍々しきものがいるのでしょうか」

 春昌は頭を上げて、しっかりと男を見据えると口を開いた。
「禍々しいという訳ではございませぬ。けれども、馬の目にはまっすぐ歩けるようには見えぬのでございましょう。この道をお通りにならねばならぬ訳がおありでしょうか」

 男は、しばし口をつぐんだが、やがて頷いた。
「古き約束を果たしに参ったのです。危険があるとお考えですか。見れば、陰陽の心得があるようにお見受けいたす。それに賎しからぬご身分のようですが……」
春昌の色褪せてくたびれた狩衣に、首を傾げた。それから顔を見て何かを考えていたがはっとした。

「あなた様は、たしか陰陽寮にいらした……」
その言葉に、次郎は驚いて春昌の顔を見た。主人は特に慌てた様子でもなければ、懐かしそうな様子も見せなかった。

「ご明察の通り、陰陽寮におりました安達春昌でございます。二年前は兵衛少志でいらっしゃったお方ですね」
「やはりそうであられたか。私は土岐頼義と申し、今は兵衛尉従七位となりました。しばらくお見かけしないと思っておりましたが、いかがなさいましたか」

「二年前にお役目を辞し、このように彷徨の身と相成りました。訳はお尋ねくださいますな」
頼義は仔細が氣になってしかたないようだったが、春昌は口を閉ざすとしきりにもと来た道を振り返る公達の黒駒に手をやって落ち着かせた。

「春昌殿。あなたもこの馬と同じように、この先に進まぬ方がいいとお考えですか。ここは、父が郡司を務めている村、特に鬼神が出るとの話も聞きませぬし、かつて来た時には何の問題もなかったのですが」

 春昌は、じっと頼義の足元を見ていた。次郎ははっとした。桜の並木道から溢れ出てきている幻のはなびら が少しずつ頼義の黒駒の足元に集まりだしている。自分や春昌のところにはほとんど何も起こっていない。

 春昌は、頼義に言った。
「然り。この桜の怪異は、あなた様とご縁のあることのようですな。私がお守りしつつ、この道をご同行いたしましょう。もしお差し支えなければ、あなた様のおっしゃったお約束についてお話しいただけませんか」

「それはありがたい。ぜひお願いいたします。仔細は、喜んでお話ししましょう」
頼義が頷くと、春昌は道に向けて手印を組んだ。次郎には道にうずたかく積んでいた幻のはなびらが風に吹かれるように左右にわかれ、細い道ができたのが見えた。そのまま進む春昌に続き、左右に二頭の馬の手綱を持ち、次郎も続いた。

 並木道が終わって里に入る時に、次郎は後ろを振り返ったが、道は再びはなびらでおおわれ、さらに激しく花吹雪が舞っているのだった。彼は、この里から出ることはできるのだろうかと訝った。

 里の中は、特に変わったこともなく、幾人かの人びとが貴人である一行に軽く挨拶をした。頼義は、二人が今夜の宿を探していると聞き、「では、私がこれから行こうとしている家ヘ行きましょう」と誘った。それは里の一番奥にあり、他の民家からは少し離れていた。

「私がまだ元服したての頃でございます。この辺りに鷹狩りに参りまして、突然の嵐に襲われ里長の家で雨宿りをしたことがあるのです。年頃の娘が食事を運んできてくれたのですが、髪は長く色は白い、賎しい者の娘とはとうてい思えぬ美しさで、私はひと目で氣にいってしまったのですよ。衣を乾かしているうちに夜も更けたので泊る事になり、どうしてもその娘が思い出されてしかたないので呼び、秋の夜長に契りを結び交わしたのです」

 春昌は、ちらりと頼義を見た。都ですでに兵衛尉従七位となった前途ある若者が、若き頃に契った里の娘を今さら訪ねるのは少し珍しかった。

「見目麗しいだけではなく、優しき心映えの娘で、それから足繁く通うこととなりました。後のちまでもと誓い、いずれは屋敷に迎えようと思っていたのです。私は嫡子ですし、小さな里長の家に婿に入るという訳にはいきませんからね」
そういうと、頼義は少しだけ言葉を切った。春昌は黙って頷き、先を促した。

「けれど、まだその話がきちんとする前に、私は二十一歳になって、兵衛として京に上ることになったのです。今から六年ほど前のことです。いずれは父の後をついで大領になる身としては、断ることのできない大切なお役目でした。それを娘に告げたところ、一度も何かを願ったことのなかった娘が行かないでくれと泣いたのです。そこで私は、戻ってきたら必ず迎えにくるからと固く約束をしたのです。賎しい身分の娘とのことを反対していた父は、引き離せば忘れると思っていたようですが、京でも、思い出すのはあの娘のことばかり、想いの消えることはありませんでした。そして、私は都で思わぬ出世をしました。おそらく郡司の大領は弟が継ぐことになり、私は宮仕えを続けることになる。ですから、京の屋敷に愛しい娘を迎えようと思ってこうして訪ねてきたという訳です」

 目の前に少し大きい館が見えてきた。里長の家とはこれのことであろう。だが、次郎は眉をひそめた。屋根は破れ、草木が茂り、狐狸の住処のように荒れ果てた風情だったからだ。

「はて、どうしたことだろう」
そう言って奥に進もうとする頼義を、春昌は止めた。
「お待ちください」

 次郎は主人の視線の先を見た。そこには完全に立ち枯れた桜の老木があった。だが、その枝からは白く透き通った存在しないはなびら がわき出して、狂ったように舞い落ちているのだった。

 その葩の嵐は、一行を目指しものすごい勢いで舞い襲ってきた。春昌が次郎に「馬を!」と叫んだ。次郎は必死に手綱を握り、馬が怖がって逃げだしたり頼義を振り落とそうとするのを防いだ。

 春昌は、手印を組むと梵文で何かを呟いた。途端に、花吹雪は勢いを止め、それから緩やかに一行の上に降り注いだ。次郎は、女のすすり泣きが聞こえたように思った。

 春昌は一人で人けのない家の中に入っていった。次郎は不安に思いながら、何も見えていないらしい頼義に、彼らの見ている事情を説明しながら待っていた。しばらくすると、狂ったように降っていた花吹雪が止んだ。ほとんど同時に出てきた春昌が二人の元に来た時には、次郎にもあれほどあった白いはなびらが見えなくなっていた。

 春昌は家の中から扇を持ち出してきた。それを渡された頼義が訝りながら広げると、中にはきれいな筆蹟で和歌がしたためてあった。

「しひて行く人をとどめむ桜花……」
その先を声に出して読むことができずに頼義は泣き出した。

 一行は里に戻り、一番大きい家で里長の消息を訊いた。新しい里長であるその家の持ち主が語った事によると、五年前に里長一家は遠くへ行き、その行方は彼らにはわからないということだった。

「娘は、若様が京に行かれてから一年もせずにあの家で亡くなりました。産後の肥立ちが悪かったそうでございます」
「産後? 子どもが生まれたのか?」
「はい。珠のような女の子でございました。今どちらにいらっしゃるかは、手前どもはぞんじあげません」

 頼義は、思いもよらぬ成り行きにさめざめと泣いた。娘の形見であろう扇は、先ほどのはなびらのようにぼんやりと白く輝いていた。春昌は頼義に言った。

「あの家の中で、あなた様の想われるお方の残思とお話をいたしました。あなた様が忘れずに戻って来てくれたことを知り、ことのほかお喜びでした。その扇は肌身離さずお持ちくださいませ。忘れ形見の姫君へと導いてくださることでしょう」

 頼義は、泣きながら何度も頷いた。

 次郎は、ほとんど表情を見せずに語る主が右手を胸元に置いているのを見た。色褪せてくたびれた狩衣の内側に、濃い瑠璃色の勾玉がかかっていることを次郎は知っていた。許されることもなく、希望もなく、彷徨い歩く己の運命を思っているに違いなかった。

 頼義は、これから向かう父親の屋敷に逗留するように奨めたが、春昌は断った。頼義は里長に二人の数日の宿と世話を頼んだ。久方ぶりの心づくしのもてなしと、頼義から届けられた新しい狩衣や馬などに心から感謝して、二人は、かつて春昌も夢みた出世の道を進む頼義と反対の東へと旅立った。

 かつての里長の家に立っていた、枯れた桜の大木は、それからほどなくして倒れてしまったと言うことだ。

しひて行く人をとどめむ桜花いづれを道とまどふまで散れ

(古今403 詠み人しらず)


意訳:無理をおして出発する人を留めましょう。桜の花よ、どこが道かと迷うほど激しく散っておくれ



(2016年2月書き下ろし)

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Category : 小説・東国放浪記
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記  鬼の栖

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十六弾、最後の作品です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!

もぐらさんの朗読してくださった作品『だまされた貧乏神』

もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。朗読というジャンルは、あちこちにあるようで、自作の詩を朗読なさっていらっしゃるブロガーさんの存在はずっと前より知っていたのですが、小説なども朗読なさるジャンルがあることを、私は去年の今ごろ、もぐらさんによって教えていただきました。

去年は他の方の作品をご朗読くださったのですが、今年はもぐらさんのオリジナル作品でのご参加でした。日本の民話を題材にした作品で、もぐらさんらしい、声の使い分けが素晴らしい、ニヤニヤして、最後はほうっとなる素敵な作品です。

さて、お返しですけれど、どうしようかなと悩みました。もぐらさんの作品に近い、ほっこり民話系の話が書けないかなと弄くり回してみたり、それとももぐらさんがお好きな「バッカスからの招待状」の系統はどうかなと思ったり。

でも、最後は、もともとのもぐらさんのお話をアレンジした、私らしい作品を書こうと決めました。これをやっちゃうと、どうやってもまたもぐらさんに朗読していただけなくなるんですが(長いし、朗読向けではなくなってしまうので)、今回は参加作品が朗読だったから、これでいいことにしようと思います。

それと。実は、このシリーズの話、今年書いてなかったから、どうしても書きたくなっちゃったんです。あ、シリーズへのリンクはつけておきますが、作品中に事情は全部書いてありますので、もぐらさんをはじめ、この作品群をご存じない方もあえて読む必要はありません。自らの慢心が引き起こしたカタストロフィのために都を離れ放浪している平安時代の陰陽師の話で毎回の読み切りになっています。

まったくの蛇足ですが、「貧乏神」は平安時代の言葉で「窮鬼」といいます。そして「福の神」のことはこの作品では「恵比寿神」と言い換えてあります。


【参考】
樋水龍神縁起 東国放浪記
樋水の媛巫女

「scriviamo! 2017」について
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



樋水龍神縁起 東国放浪記
鬼の栖
——Special thanks to Mogura-san


 ぽつりぽつりと雨が漏り、建て付けの悪い戸から隙間風が常に入り込む部屋で、次郎は三回目の朝を迎えた。その家は、里からわずかに離れており、馬がようやく濡れずに済むかどうかの廂があるだけの小屋で、次郎はこの家に宿を取らせてほしいと願うか、それとも更に五里ほど歩いてもう少しまともな家を探した方がいいか悩んだ。

 野分(台風)が近づいてきており、一刻も早く主人を屋根の下に案内したかったので、彼はこの里で唯一、見ず知らずの旅人を泊めてもいいと言ったこの家に決めたのだが、その判断を幾度も後悔していた。野分のせいで翌朝すぐに出立することが叶わなかったからだ。

 次郎は、出雲國、深い森に守られた神域である樋水龍王神社の膝元で生まれ育った。神社に仕える両親と同じように若くしてその郎党となった。そして、宮司から数えで五つにしかならぬ幼女である瑠璃媛に仕えるように命じられた。

 瑠璃媛はただの女童ではなく、千年に一度とも言える恐るべき霊力に長けた御巫みかんなぎ で、次郎はそれから十五年以上も敬愛する媛巫女を神のように崇めて仕えてきた。

 けれども、媛巫女瑠璃は、ある日京都からやってきた若き陰陽師と恋に落ちた。そして、その安達春昌は媛巫女を神社より盗み出して逃走した。神社の命を受けて盗人を討伐し、媛巫女を取り戻さんとした次郎は、春昌を守らんとした媛巫女を矢で射抜くことになってしまった。

 そして、媛巫女の最後の命令に従い、贖罪のために放浪する安達春昌に付き従い、帰るあてのない旅をしている。主人はいく先々で一夜の宿を乞い、求めに応じて人びとを苦しめる怪異を鎮めたり、その呪法と知識を用いて薬師を呼べぬ貧しき人びとを癒した。物乞いとさして変わらぬ心細い旅に終わりはなかった。

 時には、今回のごとく心沈む滞在をも忍ばなくてはならない。

 次郎は訝しく思った。この家は確かに貧しいが、これまで一夜の宿を乞うた家でもっとも悲惨な状態にあるわけではなかった。ほとんど水に近い粥しか食べられなかった家もあれば、火がおこせない家や、ひどい皮膚の病で直視できない者たちのところに滞在したこともあった。だが、この家にいた三日ほど一刻も早く出立したいと思ったことはなかった。

 この家には年老いて痩せ細った父親と、年頃のぎすぎすとした娘が二人で住んでいた。父親は、近くの庄屋の家の下男として朝から晩まで懸命に働いていたが、生活は苦しく疲れて悲しげであった。

 娘は、口をへの字にむすび、眉間に皺を寄せて、その庄屋がいかに強欲で情けがない者であるかと罵り、貧しいためにろくなものも食べられないとことあるごとに不満を口にしていた。

「私だって、もっといい食事をお出ししたいんですよ。でも、そんなことどうやってもできません。魚を穫りに行きたくても、こんなひどい野分では到底無理です。それに、ずっとまともなものも食べていないから、こんなに痩せて力もありません。こんな姿では婿に来てくださる方だってありはしません。世には大きいお屋敷に住み、美味しいものを食べて、綺麗に着飾る姫君もいるというのに、本当に不公平だわ」

 そういいながら、すばやく春昌と次郎の持ち物を見回し、この滞在のあとに何を置いていってもらえるか値踏みした。ろくなものを持っていないとわかると、たちまちぞんざいな態度になったが、春昌に陰陽の心得があるとわかると再び猫なで声を出し、また少し丁寧な態度になって下がった。

 そんな娘の態度に次郎は落ち着かなかったが、春昌は特に何も言わずに野分が去るのを待っていた。

 三日目の朝に、ようやく嵐は過ぎ去り、外は再び紺碧の空の広がる美しい秋の景色が広がった。空氣はひんやりとし、野分の残した水滴が、樹々に反射してきらきらと輝いていた。いつの間にか、あちこちの葉が黄色くなりかけている。何と美しい朝であることか。くすんで暗く落ち着かないこの家にやっと暇を乞えると思うと、次郎の心も晴れ晴れとした。

 馬の世話を済ませ、男に暇乞いを願い出ると、旦那様に願いたいことがあると言った。それで次郎は主人にそれを取り次いだ。滞在した部屋で支度を済ませていた春昌のもとにやってきた男はひれ伏して、娘から聞いたことがあり、お力を添えていただけないかと恐る恐る頼んだ。

「飢え死にしそうな貧しさなのに、三日間もお泊めしたんですから、私どものために一肌脱いでいただきたいわ」
おそらく娘はそう言ったのであろう。次郎はその様相を想像しながら控えていた。

「旦那様は陰陽師であられると伺いました。私どものような貧しいものが、都の陰陽師の方とお近づきになっていただくことは本来ならありえませぬし、このように貧しいのでお支払いも出来ませぬが、どうやったら私どもがこの貧しさから抜け出して幸せになれるのか、わずかでもお知恵を拝借できませぬでしょうか」

「そなたの娘は、この貧しさを何のせいだと思っているのか?」
春昌は静かに訊いた。

「はい。娘は、この家には、富の袋に穴を空け、どれほど働いても人を幸せにしないようにする鬼が棲んでいると申すのです。私は誰かそのような者が部屋にいたのを見たことはございませぬが、娘は、鬼とはあたり前の人間のように目に見えるのではなく、陰陽師のような特別な人にしか見えないのだと申します。ですから、私は是非お伺いしてみたかったのでございます」

 春昌は、ため息をつくと言った。
「それは、窮鬼と呼ばれる存在のことです。古文書には、すだれ眉毛に金壷眼を持った痩せて青ざめた姿で、破れた渋団扇を手にしている老いた男の姿で現れたとあります」
「さようでございますか。娘が申すようにそのような鬼が私どもの暮らしに穴をあけるのでございましょうか」

 男の問いに、春昌はすぐに答えなかった。次郎は主人の瞳に、わずかの間、憐れみとも悲しみともつかぬ色が浮かぶのを見た。彼はだが再び口を開いた。

「ここに、窮鬼がいるのはまことです。窮鬼を完全に駆逐するのは容易いことではありません。私がお手伝いすれば家から出すことは出来ますが、二度と戻らぬようにすることはことはできませぬ」

 次郎は驚いた。傲慢と慢心を罰せられてこのような心もとない旅に出る宿命を背負ったとしても、春昌の陰陽師としての力が並ならぬことは、疑う余地もなかった。初めて樋水龍王神社にやってきた時は、右大臣に伴われ「いずれは陰陽頭になるかもしれぬお人だ」と聞かされていたし、神に選ばれた希有な力を持つ媛巫女も彼の才識に感服していた。それだけでなく、この旅の間に遭遇したあまたの怪異を、次郎の目の前で春昌は常にいとも容易く鎮めてきた。それなのにこの度のこの歯切れの悪さはいったいどうしたことであろうか。

 瑠璃媛や春昌のように、邪鬼を祓ったり穢れを清めたりすることはできなかったが、次郎もまたこの世ならぬものをぼんやりと見る事の出来る力を授かって生まれてきた。この家は風が吹きすさび、いかにも貧しく心沈むが、禍々しき物の怪が潜んでいる時のあの底知れぬ恐ろしさを感じることはなかった。類いまれなき陰陽師である主人が、どうしてそのような弱き鬼を退治することが出来ぬのであろうか。

「わずかでもお力をお借りすることが出来ましたら、私めは幸せなのです。娘も旦那様の呪術をその眼で見れば、これこれのことをしていただいたと、納得すると思います」
男はひれ伏した。

 次郎にもこの男の事情が飲み込めた。このまま二人を何もせずにこの家から出せば、あの娘は不甲斐ない父親をいつまでも責め立てるに違いない。

 春昌は「やってみましょう」と言い、娘の待つ竃のところへ行き、味噌があれば用意するように言った。

「味噌でございますか? ありますけれど、大切にしているのでございますが。でも、どうしても必要と言うのでしたら……」
娘は眉間の皺を更に深くして味噌の壷を渋々取り出した。それは大きな壺だった。貧しくて何もないからと味もついていない粥を出したくせに、こんなに味噌を隠していたのかと次郎は呆れた。

 春昌はわずかに味噌を紙にとり包むと、父親と娘についてくるように言った。そして、竃のある土間、父親と娘が寝ていた部屋、春昌たちが滞在した部屋を順に回ると、何かを梵語で呟きながら不思議な手つきで味噌を挟んだ紙を動かしつつ、天井、壁、床の近くを動かした。それから、その味噌を挟んだ紙を持ったまま、次郎に竃から松明に火をともして持つように命じ、全員で家の外に出て、近くの川まで歩いていった。

 野分が去った後のひんやりとした風がここちよく、あちこちの樹々に残った水滴が艶やかに煌めいていた。狂ったように打ちつけた雨風で家や馬が吹き飛ぶのではないかと一晩中惧れた後に、この世が持ちこたえていて、いま何事もなく外を歩けることに次郎の心は躍ったが、足元が悪くなっていることに不服をいう娘の横で、その喜びは半減した。

 歩きながら春昌は、父と娘にこんな話をした。
「聞くところによると、かつて摂津のとある峠で老夫婦が茶屋を営んでおりました。が、どれほど懸命に働いても店は繁盛しませんでした。調べてみると窮鬼がいることわかったそうです」

「ほらご覧なさい。やはり窮鬼がいると、貧乏になるんだわ。追い出したらきっと幸せになってお金もたまるようになるわよ」
娘は勝ち誇ったように言った。

「その夫婦は、窮鬼に聞こえるようにわざと『店が流行らないので時間があって心が豊かになりますね』と言って笑い合ったそうです。それを聞いて、心を豊かにされてたまるかと、窮鬼は店にたくさんの客を送り込みました。二人はこれ幸いと懸命に働き、ますます楽しそうにしていたため、窮鬼は更に勘違いして、もっと店を忙しくしました。そのために窮鬼はいつの間にか恵比寿神となってしまい、その店を豊かにし、幸せになった夫婦は、恵比寿神を大切に祀ったそうです」

 男は驚いて言った。
「窮鬼が恵比寿神に変わることもあるのですか。それに、窮鬼が家にいるままでも裕福になれるのですか」

 春昌は、川のほとりに立つと次郎から松明を受け取り、先ほどの味噌の挟まった紙に火をつけた。味噌の焦げる香ばしい匂いが立ちこめた。彼はそれを川に流してから三人を振り返り言った。

「窮鬼は古来、焼き味噌を好むと言われています。ですから、このように味噌の香りと呪禁にて連れ出し送り火とともに川に流すのです。けれど、連れ出すことの出来るものは、また入ってくることも出来ます。おそらく焼き味噌の匂いに釣られて、近いうちに」

 あれほど大きな壺に味噌を仕込むこの娘の普段の台所は窮鬼がさぞや好むに違いないと次郎は考えた。

「窮鬼を追い出すのではなく、ともに生きることも容易いことではありませんが、天に感謝し、他人を責めずに、常に朗らかでいることで、件の茶屋のように恵比寿神に変わっていただくこともできるでしょう」

 深く思うことがある様相の父親は、それを聞くと何度もお辞儀をして礼を言い、出立する二人を見送った。娘の方は、少し納得のいかない顔をしていたが、何も言わなかった。

 里が遠ざかり、見えなくなると、次郎は馬上の主人に話しかけた。
「春昌様、お伺いしてもいいでしょうか」

「なんだ、次郎」
春昌は、次郎が質問してくるのをわかっていたという顔つきで答えた。

「なぜあの大きな壺ごと味噌を家から出さなかったのでございますか? あれでは窮鬼を呼んでいるようなものではありませぬか」

 それを聞くと春昌は笑った。
「味噌が家にあろうとなかろうと、大した違いはない」

「え?」
合点のいかない次郎に春昌は問うた。

「そなた、あの家の窮鬼を見なかったのか?」
「すだれ眉毛に金壷眼の鬼でございますか。ただの一度も……私めには物の怪の姿はいつもぼんやりとしか見えませぬので不思議はありませんが」

「次郎。それは古書に載っている窮鬼の姿だ。窮鬼はそのような成りではないし、そもそも家に棲むものでもない」
「では、どこに?」

 春昌は、指で胸を指した。
「ここだ。あの手の鬼は人の心に棲む。そして、あの家では、あの娘の中に棲んでいるのだ。父親がどれほど懸命に働こうとも、つねに不平を言い、庄屋や他の人を責め、何かをする時には見返りを求め、持てるものに決して満足しない。あのような性根の者と共にいると、疲れ苦しくなり、生きる喜びは消え失せ、貧しさから抜け出せなくなる」

 次郎は「あ」と言って主人の顔を見た。春昌は頷いた。

「味噌を川に流すことは容易く出来よう。だが、父親が我が子を切って捨てることは出来ぬ。だから、窮鬼を退治するのは容易ではないと申したのだ。あの娘が、少しでも変わってくれればあの善良な男も少しは楽になるであろう。だが……」

 彼は、少し間を置いた。次郎は不安になって、主人の顔を見上げた。春昌は、野分で多くの葉が落ちてしまった秋の山道を進みながら、紺碧の空を見つめていた。彼の瞳は、その空ではなくどこか遠くを眺めていた。

「人の心に棲む鬼は、容易く追い出すことは出来ぬ。たとえ、わかっていても、切り落としてしまいたくとも、墓場まで抱えていかねばならぬこともあるのだ」

 次郎は、主人の憂いがあの娘ではなく、彼自身に向いているのだと思った。野分の過ぎた秋の美しい日にも、彼の心は晴れ渡ることを許されなかった。

(2017年3月書き下ろし)

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Category : 小説・東国放浪記

Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記  母の櫛

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」七月分を発表します。七月のテーマは「櫛」です。

櫛はジャパニーズなものを書きたいと思っていたので、また例の放浪者に登場してもらうことにしました。「樋水龍神縁起 東国放浪記」の続きです。江戸時代の話にすれば完璧にアクセサリーになったんですが、平安時代ですからまたしても「これ、アクセサリーじゃないじゃん」になってしまいました。ま、いいや。「十二ヶ月の野菜」の時もかなり苦しい題材を使いまくりましたから、いまさら……。

今回の話、実は義理の妹姫も出そうと練っていたんですが、意味もなく長くなるので断念しました。本当は五千字で収めたかったのですが、止むを得ず少し長めです。すみません。


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樋水龍神縁起 東国放浪記
母の櫛


 それは、屋敷の庭では滅多に見ない大木であった。大人が抱えるほどの幹周りがあり、奥出雲の山深き神域で育った次郎ですらも見たことがないほど背の高い柘植は、おそらく樹齢何百年にもなろうかと思われた。屋敷を建てる遥か昔からここに立っていたのであろう。根元から複数の枝が絡み合うように育ち、一部は苔むしている。

 安達春昌と付き従う次郎は、丹後国を通り過ぎようとしていたところだった。一夜の宿を願ったのは村の外れの小さな家で、人好きのする若き主は弥栄丸といった。

「すると、あなた様は陰陽師でいらっしゃるんで?」
彼は昨夜、春昌に陰陽の心得があることに大きな関心を示した。

「かつては陰陽寮におりましたが、現在はお役目を辞し、この通りあてもなく旅をする身でございます」
春昌は、この旅で幾度となく繰り返した答えを口にした。弥栄丸は春昌が役目を辞した事情よりも氣にかかっていることがあったので、詳しい詮索をしなかった。

「実は、私めがお仕えしているお屋敷で、なんとも不思議なことが起きまして、困っているのでございます。先日、この辺りでは名の通った法師さまに見ていただいたのですが、どうも怪異は収まらず、殿様は、もっと神通力のあるお方に見ていただきたいと思っていらっしゃるのです。と申しましても、このような田舎ではなかなかそのような折もございませんで。ですから、都の陰陽師の方がここにおいでになったとわかったら、殿様は何をおいてでもお越しいただきたいと願うはずです」
「あなたがお仕えしていらっしゃるのは」

「はい。この郡の大領を務める渡辺様でございます。私めは従人として、お屋敷の中で姫君がお住いの西の対のお世話を申しつかっているのです。その寝殿の庭の柘植の古木に人型のようなものが浮かび上がってまいりまして、女房どもがひどく怖がっております。そして、お元氣だった姫君が病に臥すようになられたのです。もしや何者かが調伏でもしているのではと、お殿様は心配なされていらっしゃいます」

「姫君? お一人別棟にお住まいなのですか」
「はい。実は、この姫様は、北の方のお生みになった方ではなく、殿様のもとで湯女をしていた方がお生みになったのです。殿様は、北の方に隠れて長いことこの女を大切にしていたのですが、何年か前に流行り病で亡くなってしまわれました。姫君はそれから観音寺に預けられておりました。ところが、位の低い女の娘とは思えぬほど美しくお育ちになり、殿様がこの娘をこちらを狩場となさっておられる丹後守藤原様のご子息に差し上げたいとお思いになり、一年ほど前にお引取りになったのです」

「姫君のお身体に差し障りが起きたのは、それ以来なのですか」
「いいえ。床に臥すようになられたのは、ここ半年ほどです。殿様も北の方もご心配になられてお見舞いにいらしたり、心づくしのものをお届けになったり、なさっていらっしゃるのですが」

「そうですか」
春昌は頷いた。

「姫様をお助けいただければ、私めもありがたく思います。ほんにお優しい姫君でして。私のことも心安く弥栄丸と呼んで頼みにしてくださっているのです」

 そして、二人は翌日の昼過ぎにこの弥栄丸に連れられて、渡辺のお屋敷へと向かったのだった。
「お殿様から、ぜひお力添えをいただきたいとのことでございます。御礼はできる限りのことをさせていただきたいと仰せでした」
「何かお手伝いができるかわかりませぬが、まずはその柘植の木を拝見させていただきましょう」

 弥栄丸は春昌と次郎を屋敷へと案内した。西門から入ると件の大木はすぐに目に付いた。その根が庭の半分以上を占めていて、しかもよく見る柘植の木のように行儀良く育たず、太い幹が伏してから斜めに育っていた。大きく枝を広げておりそのためにその木の下は森の始まりのような暗さだった。西の対の寝殿に面した側面に、言われてみると確かに人型に見える文様が浮き出ていた。

「弥栄丸。都の陰陽師さまとは、そちらのお方か」
寝殿の縁側からの明るい声に振り向くと、菜種色の表地に萌黄の裏が美しい菖蒲襲を身につけた女性が御簾から出てきたところだった。

「これ。姫様! なりませぬ」
慌てて、侍女と思われる歳上の女が追いすがるが、姫君は草履を履くとさっさと春昌のところまで進んできた。さほど位の高くない大領の娘とはいえ、とんでもない行為だ。次郎はあっけにとられた。

「安達春昌にございます」
春昌は深く礼をし、次郎もそれにならった。こんなはしたない姫君に国司のご子息を婿に迎えようというのは、無謀にもほどがあると次郎は心の内で思ったが、確かになかなかに美しい姫君で、しとやかに振る舞えば評判にもなろうと思った。

「あたくしは夏といいます。安達様。これは誠に禍々しいものですの? あたくしには、ちっとも恐いものには思えませんの。それにあたくしの病、いつもひどいわけではないのよ。例えば、今日はとてもいいの。あたくしなんかを呪詛しても、誰も得をしませんし、とてもそんな風には思えないのだけれど」
 
 夏姫は人懐こい笑顔を見せた。次郎は、確かにこのように朗らかで、誰にも分け隔てなく接する姫は、皆に好かれるであろうと思った。

「今から、調べてみようと存じます」
春昌も、珍しく柔らかい表情をして姫君に答えた。

 姫はにこにこと笑った。
「あたくしも見ていていいでしょう。ああ、今日はとても暑いわね。生絹すずしぎぬで、出てこれたらいいんだけれど、それだけはサトも許してくれないから、我慢しなくちゃ」

 それを聞いて次郎は真っ赤になった。生絹は袴の上に肌が透けて見える着物だけを身につける装束だ。彼がかつてお仕えしていた奥出雲樋水の媛巫女はもちろんそのようなだらしない姿をすることは決してなかったが、やんごとない女性は御簾のうちでそのような形をしていると、郎党仲間に教えてもらったことがあった。

「でも、これくらいはいいわよね」
そういうと、姫は懐から美しく彩色された櫛を取り出して長い髪をまとめ出した。そして、櫛を口に咥えるとまとめた髪をあっという間に紐で縛った。

「姫様!」
サトと呼ばれた侍女が姫君らしくない振る舞いをたしなめるが、夏姫は肩をすくめただけだった。

 その様を横目で捉えた春昌は、柘植の木を見るのをやめて、寝殿の縁側に控えているサトに訊いた。
「姫君の御患いはいかなるものなのですか」

 サトは、突然話しかけられて少し驚いたが、丁寧に答えた。
霍乱かくらんのように、悪しくなられます。また高い熱がでて、ひどい眠たさに襲われることもございます。他の皆様と同じものを召し上がられておりますが、姫君だけがお苦しみになり、暑さ寒さに拘らず悪しくなられます」

「左様でございますか。姫、大変失礼ですが、そちらを拝見してもよろしいでしょうか」

 姫は、何を言われたのか一瞬分からなかったようだったが、春昌が自分の櫛を見ているのがわかると笑った。
「これですか? きれいでしょう。 このお屋敷に来て、北の対の母上様と初お目見えした時に頂戴したあたくしの宝物なのです。悪しきものから身を守る尊い香木で作った珍しい櫛なのですって。確かに観音寺で焚いていたお香と同じ香りですわ。とても高価だとわかっているのですが、毎日使ってしまうのです」

 姫はその櫛を愛おしげに撫でてから春昌に渡した。彼は、その美しき櫛の背の部分の色が褪せているのを見た。
「恐れながら、あなた様はいつも先ほどのように髪をお結いになっておられるのではないですか」
「ええ、そうよ。わかっているわ。やんごとない姫君は自分で髪を結ったりしないって。でも、とても暑いのですもの。どなたもお見えにならない時には、つい昔のように装ってしまうの。たくさんの美しい装束をご用意くださった父上さまや母上さまに申し訳ないとは思っているのよ。でも、どうしてわかるの」

 春昌はやさしく微笑んだ。片時もじっとしていられそうもない、この愛すべき姫君を、はしたないと思いつつも周りが甘やかしてしまう様子が手に取るようにわかった。弥栄丸は傍で笑いをこらえている。

「髪を結うのは侍女の方にお任せいただけないのですね」
「それは無理よ。そんなことをしているのがわかったら、サトが叱られてしまうもの。私がいつの間にか勝手にこんな形をしているってことにしなくちゃいけないの」
「左様でございますか」

「安達様?」
弥栄丸は、春昌が姫と禍々しきものとは全く関係のない話をいつまでもしているように思われたので、不思議に思って口を挟んだ。春昌は、微笑んで櫛を姫君に返すと、弥栄丸と姫君に庭の柘植の木を示した。

「こちらに現れていますのは、姫君の御生母様の御魂でございます。お屋敷に上がられ、これまでとは全く違うお暮らしをなさっている姫様のことを心配なされているのでしょう。私に、姫様に形見の御品を身近にお使いいただきたいと訴えかけておられます。たとえば、お母様のお形見に柘植の櫛はございませんでしたか」

 姫は「あ」と言って、奥で控えている下女のサトを見た。
「この櫛をいただくまで使っていた、母上の櫛はどこにあったかしら」

「こちらの小箱にございます。ほら、このように」
サトは、道具箱から飾りの全くない柘植の櫛を取り出すと、一行のもとに持ってきた。春昌はそれを受け取ると、柘植の古木に近寄り、件の人型にあてて小さな声で呪禁を呟いてから、それを姫君に渡した。

「こちらの櫛を肌身離さずお使いくだいませ。そして、その美しき櫛は、特別の祭祀の折にサト殿に梳いていただくときだけお使いくださいませ。亡くなられたお母様の願いが叶い、その憂いが収まれば、姫様の病も治ることでしょう」

 それから、春昌は柘植の古木に近寄り、人型に両手を当てて呪禁を呟いた。次郎には、主人が木に何らかの氣を送り込んでいるのがわかった。春昌がその手を離すと、明らかに人型のようなものがあった木の幹には、よく見なければわからないような瘤があるだけになっていた。

「なんと! 法師様がどうすることもできなかった、あの人型が……」
「母上様のお心は、この屋敷を動けぬこの木を離れ、新たにそちらの櫛の方に宿っておられます。どうか、私の申し上げたことをお忘れになりませぬよう」

 夏姫は深く頷き、弥栄丸とサトは春昌の神通力に感銘を受けてひれ伏した。

* * *


 夏姫の父である渡辺の殿様から、新しく拝領した馬は痩せていたこれまでの痩せ馬よりもしっかりと歩んだ。いただいた礼金の重みは久しくなかったほどで、次郎を憂いから解き放った。しばらくの間は宿を取るにも物乞いのような惨めな思いをせずに済む。

 その領地を出てしばらく森を歩き、ひどく歪んだ古木を見て、次郎はあの古い柘植の木のことを思い出した。

「春昌様。お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ、次郎」

「どうして柘植の櫛のことがおわかりになったのですか。あの老木に、私は何も見えなかったのでございますが」

 春昌は口元をわずかに歪めた。
「次郎。あれはただの木瘤だ。幹に流れる氣の流れを変えて、乾いた樹皮を落としたのだ。あそこに母君の御魂が現れたり消えたりしたわけではない」

「なんと。では、母君の御魂が柘植の櫛を使うようにとおっしゃられたというのは……」
「あれが柘植の木だったので、思いついたまでのこと。弥栄丸殿の話では、御生母は湯女だったとのこと。あまり位の高くない女ならば高価な香木などではなく柘植の櫛を使うのが常であろう。その読みがあたったまでだ。私はあの姫があの香木の櫛以外の物を使ってくれればなんでもよかったのだ」

「なぜでございますか?」
「あの姫君が件の櫛を日々咥えているのを知ったからだ」
「え」

 まったく合点がいっていない次郎を、春昌は優しく見下ろした。次郎は、他の者には見えぬものを朧げに見る能力はあったが、陰陽道はもちろん本草の知識にも欠けており、春昌がどちらの知識を用いて人々の苦しみを取り除いているのか分からないことを知っていたからだ。

「あの櫛は、しきみの木から作られている。香りが良く珍重される木だが、口に含むと毒になる。熱が出て、眠たくなり、腹を下し反吐を吐く霍乱かくらんのごとき病となる。ちょうどあの姫君が苦しんでいたのと同じだ」

「なんですって。では、まさか北の方が、継子である姫君を亡き者にしようとしてあの櫛を贈ったということなのですか」

「それはわからぬ。北の方が、草木の知識に長けているとは思わぬ。そもそも姫君が口に櫛を咥えるとは、北の方のように位の高いお方は夢にも思わぬであろう。それを知っていた誰かの入れ知恵かもしれぬが、長く逗留せねばそれはわからぬ。余計なことを申せば、あの家に大きな諍いの種を蒔くことになる。私にわかっているのは、ひとつだ。樒の櫛を口に咥えるようなことは、すべきでない。あの姫が再び丈夫になれば、それでよいのだ。身寄りのなかった娘が、ようやく手にしたと喜んでいる家族との仲を不用意に裂く必要はあるまい」

 次郎は、主人の顔を改めて見上げた。聡く天賦の才に恵まれた方だと畏怖の心は持っていたが、どちらかというと冷たい心を持つ人なのだと思っていた。彼が神にも等しくあがめ敬愛してやまなかった亡き媛巫女が、なぜこの陰陽師を愛し背の君として付き従ったか長いこと理解できないでいた。

 媛巫女さまは、私めなどよりもずっと多くのことを瞬く間にご覧になったのだ。彼は心の中で呟いた。

 もっと効果的に毒の櫛のことを大領に話せば、ずっと多くの謝礼を手にすることもできたのに、春昌はそれを望まなかった。それよりも、一つの家族の和を壊さずに、問題のみを解決して姿を消すことを選んだ。

 彼は、この旅がどれほど辛く心細くとも、この主人に付き従っていくことを誇らしく思った。


(初出:2017年8月 書き下ろし)

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Category : 小説・東国放浪記