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【小説】教授の羨む優雅な午後

Posted by 八少女 夕

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!

月刊・Stella ステルラ 4月号参加 掌編小説 読み切り月刊・Stella ステルラ


「scriviamo!」の第十七弾です。高橋月子さんは、『ニボシは空をとぶ』 シリーズの世界に、なんと私を登場させてくださいました。ありがとうございます! 

高橋月子さんの書いてくださった小説『桜坂大学医学部付属薬学総合研究所 桜井研究室のある一日』

月子さんは、オリジナル小説をメインに、イラストや活動日記などを載せていらっしゃる星と猫とお花の大好きなブロガーさんです。月刊・Stellaでもおなじみの『ニボシは空をとぶ』 シリーズでは有能で個性的な研究者と優しい事務の女性が活躍するとても楽しくて素敵な小説です。

お返しの掌編小説は、月子さんの小説の設定そのまま、翌日の設定で作らせていただきました。せっかく小説家「ヤオトメユウ」(何故かプロの小説家になっていて、拙作「夜のサーカス」が書店で平積みになっているらしいです!)を登場させてくださったのに、結局こうなってしまうのは、私のお茶やお菓子に対する煩悩が……。

※まさか、本氣になさる方はいらっしゃらないとは思いますが、この話はフィクションです。私は小説家デビューはしていませんし、「夜のサーカス」が出版されている事実もありません。念のため。


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教授の羨む優雅な午後 — 『ニボシは空をとぶ』二次創作
——Special thanks to TSUKIKO-SAN



「ところで、フラウ・ヤオトメ」
クリストフ・ヒルシュベルガー教授は、歩みを緩めて厳かに口を開いた。

「なんでしょうか、教授」
花が咲き乱れ彩りに満ちた桜坂大学の広い構内を、シンポジウムの会場間の移動中であった。開始時間が氣になっていた彼女は、片眉をちらりとあげて、教授の真剣な面持ちを見た。教授はツィードの仕立てのいい背広の襟をきちっと合わせ直し、まともに彼女を見据えて問いただした。
「あなたは、私に隠していることがあったのだね」

「おっしゃる意味が分かりませんが」
う~、今はやめてほしいな、と心の中で舌打をしながら、夕は教授の厳しい追及を逃れられないことを感じていた。

「まず第一に、『チルクス・ノッテ』とは、何かね?」
「なぜ、その単語を?」
夕は、訝しく思った。教授が日本語をひと言も解せないのは間違いない。昨日、桜井准教授の研究室で何名かが話題にしていた彼女の小説『夜のサーカス』のことがわかるはずはないのだ。

 夕は国際結婚をしてスイスに住んで十三年になる。ようやく長年の夢が叶って日本で小説が出版されたが、それだけで食べていくことは到底無理で、秘書業務をしていた。ヒルシュベルガー教授の研究室に秘書として雇われ、週に四日は研究室に通っている。三日前より日本での国際医学シンポジウムに出席する教授の通訳を兼ねて、久しぶりに日本に帰って来ていた。本来ならば、勤めて半年で海外シンポジウムに同行することなどありえないのだが、行き先が日本だったことと、扱いの難しい教授の世話が上手だという評判で、大学側も喜んで旅費を計上してくれたのだった。

 せっかく日本に帰って来たので、わずかな自由時間に書店に出向いた。わずかの間とはいえ、自分の本が書店に並んでいるのは嬉しくて思わず顔が弛む。ましてや、目の前で自分の本を買ってくれる人を見るなど、夢にも思っていなかった僥倖だった。それをしてくれたのが、偶然にも、昨日桜井研究室で紹介された今井桃主任だった。聡明で自信に満ちた優秀な研究者が、小説を褒めてくれたのだ。でも、日本語のわからないヒルシュベルガー教授がどうやってその話題に感づいたのだろう。

「フラウ・イマイと、フラウ・イヌイの手にしていた、同じ本の表紙に、その単語が書かれていた。あなたはあの本について、とても詳しそうに話していたね」
ちっ。確かに、装丁にはアルファベットで「Circus Notte」と書かれている。それを見られてしまったのか。夕は天を見上げた。面倒くさいことになってきたな。

「実は、あれは、私の書いた小説です。でも、日本でしか売られていない本ですし、教授があのような本に興味があるとは夢にも思いませんでしたので、申し上げなかっただけですわ」
「興味があるかどうかは、私が自分で判断する。あなたは、私の秘書なのだから、公式な活動のすべてをきちんと報告する義務があることを忘れないように。次回からは、本が出版されたら必ず報告しなさい。それから、帰りの飛行機の中で、その本を朗読してもらおうか」
「え。朗読しても、教授には日本語がおわかりにならないではないですか」
「もちろん、ドイツ語に翻訳しての朗読だ」

 夕は、頭を抱えた。この教授付きの秘書になってまだ半年だが、彼女はここ数年で勤務暦が一番長い女性だと、周りから驚愕されていた。彼がことごとく型破りな要求をするので、なかなか秘書が居着かないのである。

「それだけではない」
続けて教授は畳み掛けた。
「なんでしょう」

「昨夜、テッパンヤキの店に行くことを断った、納得のいく理由をまだ聞いていない」
夕は毅然とした態度で言った。
「昨夜は歓迎パーティに出席なさると、二ヶ月も前からお返事なさっていたではないですか。パーティのお料理がそんなにお氣に召さなかったのですか」

「ふむ。あれは前菜みたいなもので、適当にぬけ出して、マツザカ・ビーフを食べようと来る前から思っていたのだ。それを、あっさりと却下したね。だいたい、あなたはパーティでもほとんど料理に手をつけていなかった。何か理由があるのではないか」

 ううう。なんて鋭いのよ。夕はたじたじとなった。これだけは知られないようにしようと思っていたのに、仕方ない。
「すみません、パーティの前にちょっと食べ過ぎてしまいまして、ほとんど食欲がなかったのです」

「パーティの前とは、私が、あのつまらない学長にミュンヘンの思い出を語られていたときだね。グリーン・ティしか出てこなくて、私がひもじい思いをしていた時に、あなたがいったい何を食べていたのか、報告してもらおうか」
「はあ、実は、桜井先生の研究室で、美味しいお茶を……」
「お茶だけかね」
「いえ、その、三色さくらプリンや……」

「三色さくらプリンだと!」
はじまった……。夕は絶望的な心地がした。どうしてこの人は、こんなに甘いものに固執するんだか。
「あの学長と私が薄い茶を啜っている時に、あなたはフラウ・イマイやフラウ・イヌイと三色さくらプリンを食していたというのか? 断じて許せる行為ではない!」
「わかりました。この後、再びフラウ・イマイに連絡して、どこで入手できるか確認して調達しますので、とにかく今はシンポジウムの会場に行ってください。本当に、もう」

 シンポジウムがはじまると、夕はそっと会場をぬけ出して、昨日楽しい時間を過ごした研究棟に向かい、入り口から今井桃主任に電話を入れた。

「主任~、入り口からお電話です」
今井桃は銀縁眼鏡の長身の青年から怪訝な顔で受話器を受け取る。
「誰かね」
「それが、昨日の、あのヤオトメユウさんですよ」
「なんだって」

 研究室の桜井チームの面々は、電話で話す今井桃の様子を興味津々で伺っていた。最初は怪訝そうだった桃は、次第に笑顔になり、それから大声で笑ってから言った。
「心配ありません。今からうちの高木研究員をデパートに走らせます。ええ、シンポジウムが終わりましたら、どうぞ教授とご一緒にお越し下さい。昨日のミーティングの続きですな」

「デパート?」
高木研究員は、自分の名前が出たので首を傾げながら、受話器を置いた桃に訊いた。彼女は愉快そうに笑いながら言った。
「昨日の三色さくらプリンを、あるだけ買い占めてきておくれ。それと、君の偉大なセンスで、日本国最高のスイーツを厳選したまえ。どうやらヒルシュベルガー教授は我々の同志らしい。このあと、教授と桜井准教、それから夕さんもまぜて盛大なミーティングだ」

 その午後に桜井研究室では再びミーティングという名のお茶会が催された。テーブルの上には、桜のフレーバーティに、イチゴのタルト、チョコレートブラウニーに、クリーム入りどら焼き、さくっと軽いパイ菓子、種類の豊富なクッキー、オレンジ・ティラミス、そして、もちろん三色さくらプリンが、所狭しと並べられていた。そのほぼ全種類に舌鼓を打ったヒルシュベルガー教授は、すっかり今井桃主任と意氣投合し、来年のチューリヒでのシンポジウムに桜井准教授と必ず一緒に来るように約束させた。

「我が家で、チョコレート・フォンデュを一緒にしましょう。日程の調節はまかせたよ、フラウ・ヤオトメ」

 イチゴのタルトに夢中になっていた夕は、我に返ると急いで口元を拭いた。桜フレーバーティを飲んでから、取り繕ってにっこりした。

 桜井研究室は今日も春らしい和やかな笑いに満ちていた。

(初出:2013年3月 書き下ろし)

.17 2013 小説・教授の羨む優雅な午後 trackback0

【小説】ヨコハマの奇妙な午後

Posted by 八少女 夕

33333Hit記念小説です。旅行中でたくさんの時間がかけられないという理由で、今回は三名の方のリクエストをまとめて一つの小説にするというブログのお友だち栗栖紗那さん形式で作品を作ってみました。

リクエストはこの三点でした。


さてさて、こんな難しいお題をどう調理するか、けっこう悩みましたが、結局こんな風になりました。それぞれの作品から、もう一人ずつ助っ人に来てもらっています。


ヨコハマの奇妙な午後

「君に言いたいことがあるんだが、フラウ・ヤオトメ」
クリストフ・ヒルシュベルガー教授は自慢の口髭をもったいぶった様子で捻りながら、よく通るバリトンの声で宣言した。

 夕はこういう教授に慣れていたので、彼の芝居がかった様式美を100%無視してアスファルトの道を前を向いて進んだ。

「私が事前に知った情報によると、君の国の女性は男性の後ろ三歩半を静々と歩み、その影を踏まないようにするのではないかね」

 ヒルシュベルガー教授は歩き疲れていたし、夕の無関心な様相にも断固として異議を唱えるのが筋だと感じていた。

「お言葉ですが、先生」
夕はくるりと振り返ると両脚を肩幅に開き、腰に手をおいて胸を張った。
「確かに私はあなたの秘書ですが、現在は休暇中で、私費で日本に帰っているんです。偶然あなたが私の後ろを歩いているからって、知ったことじゃないでしょう⁈」

 ヒルシュベルガー教授は夕が日本へ帰国することを聞きつけると、自分も休暇を取って、同じ飛行機に乗りこみ、澄まして同じホテルにチェックインした。前回松坂牛の鉄板焼きに連れて行かなかったことを未だに根に持っているらしい。

「そうはいっても既知の二人が異国を歩くんだ。それらしい優雅な会話を拒否するのはどういう了見かね」
「拒否じゃありません! 考え事で頭いっぱいなんです」

「また例のくだらない趣味かね?」
「くだらないですって? 小説は私のライフワークなんです。放っておいてください。それに今度のお題は本当に難しくて大変なんです。サイエンスフィクションが私に書けると思います?」

「知らんね。無理じゃないか? ところでここはどこかね?」
彼は夕のプライドを瞬時に粉々にすると、周囲を見回して訊いた。
「横浜です。港町として栄えたところです。1868年の開国の際……」
夕が説明している横を男女が英語で話しながらすれ違った。

「おかしいわね。地図によるとこの辺なんだけど」
「もう、いいですよ。パピヨン。僕がケーキの食べ放題なんて行きたがったのが間違いでした。もうホテルに帰りましょう」

「ケーキの食べ放題!」
ヒルシュベルガー教授が叫び、夕は頭を抱えた。よしてよ、このスイーツ狂が……。

「不躾に申し訳ないが、スイーツの食べ放題とおっしゃいませんでしたか?」
教授がにこやかに格調高く質問すると、切れ長の目の東洋女性はにこやかに紙を見せた。
「ええ。ホテルで見たこのチラシによると、この辺りの洋館で食べられるはずなんです。それで、来てみたんですが」

「そうですか。では私の秘書にもぜひ食べさせたいので、ご一緒させてください」
ちょっと! 私をだしにしないでよ! 夕は心の中で叫んだ。けれど、ここでスイーツの食べ放題に行かなかったら、スイスに帰国後、職場でどれだけネチネチ言われるかわからないので、大人しくついて行くことにした。

 氣がつくと教授は勝手に自己紹介をしている。
「私はクリストフ・ヒルシュベルガーと言います。チューリヒで教鞭をとっている者で、こちらは秘書のヤオトメ・ユウです」
「はじめまして。私たちはヨーロッパの各地を大道芸をして回っているんです。私は日本人で四条蝶子、こちらはレネ・ロウレンヴィル、フランス人です」

 夕は二人を観察した。大道芸人かあ。面白そうな人たち。小説のネタになるかも。でも、今はSFのネタの方が切実に必要なんだけど。

「おや、これじゃないのかね。いい感じに寂れた洋館があるぞ」
教授とレネが嬉々としてスタスタ近づいて入って行ったが、蝶子と夕は顔を見合わせて眉を顰めた。それは洋館には違いなかったが、少々、いやひどく傷んでいて使われているようには見えなかったのだ。

「先生、待ってください。ちょっと違うんじゃ……」
「ブラン・ベック、ちょっと! そんなに慌てて行かないでよ」

 スイーツ狂の二人が勇み足で中の重い木の扉を開けるとそこは大広間で、長いテーブルと臙脂の天鵞絨の椅子がたくさん見えた。そして眩しいシャンデリアの光の下に二人の人間が居た。二人は向き合って話をしていたが、闖入者の氣配にグレーのマーメイドスカートのワンピースを着た女が振り向いた。

 レネは言葉を失った。片方にまとめられた黒髪が光を反射していた。細くカーブする眉の下に黒曜石のような瞳。赤い唇も形のいい鼻も、全てが鋭利な印象だ。それはレネにスイーツ食べ放題を忘れさせる充分な効果があったが、一方ヒルシュベルガー教授には全く何の作用も引き起こさなかった。東欧の女か、そう思っただけである。

「あんた達が俺たちを呼び出したのか?」
アメリカ訛りの英語を口にしたのは、女といた屈強な男だ。緊迫している口調からすると、スイーツの食べ放題とは縁がなさそうである。あら、いい男ねえ。蝶子はニンマリと笑った。

「すみません。私たち間違って入ってきたみたいで、すぐに出て行きますから……」
夕が慌てて言ったが、扉を開けようとした蝶子が囁いた。
「ヤオトメさん、扉、開かない……」

「俺たちがどうやっても開けられなかったのに、簡単に入ってきたから驚いたが、やっぱり外からしか開けられないらしい」

「パピヨン、僕たち……」
「とじこめられたみたいね」

 ヒルシュベルガー教授は憮然として訊いた。
「スイーツの食べ放題は?」
「ここじゃないみたいです」
「では、何が食べられるのかね?」

「さあな。爺さん、あんたいい肝っ玉しているな。氣に入ったぜ」
アメリカ人が言った。
「それは何より。私は君の態度を全く氣に入っていないが」

 東欧風の美女が笑った。
「この人は礼儀も知らない山猿なの。おわかりでしょうけれど」
「それはそれは。私はスイス人でプロフェッサー・ドクター・クリストフ・ヒルシュベルガーと申します。お名前を伺っても差し支えないでしょうか、マダム?」

「はじめまして。エトヴェシュ・アレクサンドラ、ハンガリー人よ。こっちはブロンクスの類人猿マイケル・ハースト」

 教授は礼儀正しく差し出されたアレクサンドラの手にキスをしてから夕と二人の大道芸人を紹介した。

「さて、これから何が起こるのか。俺たちを呼び出したのは誰で、脱出できるのか」
マイケルはポケットから手榴弾を取り出した。夕たちがギョッとしているのを見て、アレクサンドラがたしなめた。

「およしなさい。東京で戦争ごっこなんかやると、後始末が面倒になるわ」
「だけどさ、アレックス」
「その下品な呼び方、やめてって言ってるでしょ! 大体なんで私が東京なんかに来なきゃいけないのよ。日本人のユキヒコが来ればいいのに」
「そりゃ無理だろ。あいつ日本じゃ顔を知らない奴いないくらい有名だからさ。そこら中にあいつが携帯持って笑ってる広告が貼ってあるじゃないか。隠密になんて動けやしないだろ」

「あの、あなた達はいったい……」
レネが勇氣を振り絞りアレクサンドラに話しかけようとした時だった。全員が入ってきたのとは反対側の扉がバンッと開いて冷たい風が入ってきた。そして、奥には真っ赤でとても強い光が放たれ、六人は思わず眼を手や腕で庇いながらそちらを見た。

 光を遮るように何人もの人影がこちらへ向かって来ていた。そして食べ物のとてもいい香りがしてくる。

 マイケルがゆっくりと手をジャケットのポケットに忍ばせる。銃の安全装置を外すカチという音がする。だが、ヒルシュベルガー教授の顔は先ほどより朗らかになっている。

「どうやら事態は好転したようだね。フラウ・ヤオトメ」
どこが! 夕は思う。
「ほら、君の待ち望んでいたSF式の事態になり、私はあの鶏の丸焼きを食べられるってわけだ」

 確かにSF調ではある。執事の制服を着たリトル・グレイに給仕してもらうのは生まれて始めての体験だ。でもこんなストーリーじゃシュール過ぎて編集に却下されるに決まっている。全然参考にならないよ!

 リトル・グレイ給仕達は手際良くテーブルを整えていく。食器はどうやらマイセンのものらしい。カトラリーはピカピカ光る銀だ。グラスはバカラ。

 ヒルシュベルガー教授だけでなく六人全員がもう少しここにいてもいいかなと思い出したのは、グラスに1970年代のドゥロの赤が注がれた時だった。

 ふと目を上げると、いつの間にか向かいの席に誰かが座っていた。

 それは明らかに生きた人間ではなかった。いや、生きてはいるようだが、ヒューマン・ビーイングとは違う種属に見えた。リトル・グレイのお仲間にも見えなかった。男か女かもわからない。ただ人型のようで、ほとんど透けているので、椅子の臙脂色が見えていた。

 その誰かは、声帯を使わず六人の脳に直接話しかけてきた。
「ようこそ、横浜ゴーストホテルへ! 大変お待たせしましたが、歓迎の準備が調いました。今夜は皆様を愛と恐怖のめくるめくホーンテッドワールドへと誘わせていただきます」

 六人は顔を見合わせた。ホテル? 泊まることになっている?

 透けている謎の人物は続けた。
「ちょっと形式的な手続きで興醒めですが、ここで会員証をご提示いただきたいのですが」

「会員証?」
六人の声が同時に響いた。
「ほら、あれです。アルデバランの当クラブの本部で入会手続きをしてくださった時にお渡しした、ヒヒイロカネ製の小さなカードです」

「アルデバラン?」
「行きましたよね?」
六人とも首を振った。

「なんですって?」
透けた人物は立ち上がった。

 入り口の扉がバーンと開いて横浜の町が見えた。
「それでは、大変恐縮ですが、今晩の御予約は取消させていただきます。ここは会員制なんですよ。まずはアルデバランに行っていただかないと」

※ ※ ※


「あーあ。ひと口だけでも飲んでおけばよかったな」
蝶子が後ろを振り向きながら言った。
「パピヨン。今晩帰れなかったら、テデスコとヤスが心配しますよ」
「そうね。でも、それもスリルがあっていいじゃない」

「それで私たちは何が食べられるんだね。フラウ・ヤオトメ」
「ちょっと待って下さい。あれ、その角に洋館がある。もしかしたら」

「ああ! パピヨン、ありましたよ! ケーキ食べ放題が」
四人が向かうのを見ていたアレクサンドラとマイケルは顔を見合わせた。

「寄って行く?」
「いいけれど、そもそも情報の受け渡しは?」
「食ってから考えようぜ、アレックス」
「だから、その呼び方やめてよ!」

 六人が隣の洋館に消えたのを確認してから、執事の服を着たリトル・グレイたちはオドオドとハイパースペースへの通路を閉じ、会員証の確認をせずに部外者を入れたことへの小言をきくために上司の部屋へと向かった。

(初出:2013年11月 書き下ろし)
.24 2013 小説・教授の羨む優雅な午後 trackback0

【小説】パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして

Posted by 八少女 夕

50000Hit記念リクエスト掌編の第五弾です。ポール・ブリッツさんからいただいたお題は「パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして」でした。そして本当にこういうタイトルの作品も書いていただきました。ありがとうございます。

 ポールさんが書いてくださった作品: パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして

最初にタイトルを見たときは目を疑いました。「そ、そんなリクエスト、するか?」と。この地名は、常連の方はおわかりでしょうが、これまでにこの企画でいただいた地名を全部つっこんだものです。こういうタイトルで小説を書けと。しかも、ご本人がもう書いていらっしゃるから「じゃあ、自分で書いてみなよ」とは言えない(笑)もっとも、これは暴球攻撃というよりは、書けると思っているからしてくださったリクエストでしょうから、そのありがたいご評価に感謝するとともに「こんなお題も受付るらしいよ、だから戸惑っている人もどんどんリクエストしようね」という、援護射撃なのだと理解しております。

で、このお題ですので、質よりも返球の速さで行くことにしました。内容はどうしようもないので、一企画に一回しか使えない禁じ手を使ってあります。ですから、よい子のみなさんは、同じようなリクエストをしないでくださいますよう、お願いいたします。

なお、出てくるキャラは、以下の小説からの流用です。読まなくても意味は通じますが、読みたい方はのためにリンクをつけておきます。(ちなみに、ここのヤオトメ・ユウはフィクションのキャラです)


 教授の羨む優雅な午後
 ヨコハマの奇妙な午後

 50000Hit記念リクエストのご案内
 50000Hit記念リクエスト作品を全て読む



パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして

 チューリヒには霧が重く垂れ込めていたが、グラウビュンデン州にさしかかったあたりから真っ青な空が広がった。夏時間が終わったばかりだが、すでに初雪が降ったライン河沿いの高速道路を、華麗な運転テクニックを駆使しながら黒いアウディが南に向かって走っていた。この場合の華麗なテクニックというのは、どんなカーブや上り坂でも法定許容限度分きっちり超過したスピードで走るということだ。クリストフ・ヒルシュベルガー教授ほどの人物ともなると、スピード違反の証拠写真を撮られるなどというヘマはしない。

 ヒルシュベルガー教授は、チューリヒの大学で生理学の教鞭をとる重鎮で、今年55歳になる。若いころはさぞ美青年であったであろうと思える端正な横顔だが、太い眉に銀のラウンド髭を蓄えた姿は厳格そのもので取っ付きにくい。物言いも手厳しいため、大学では近寄りがたい人物として通っている。実際には、どちらかというと変わり者であり、型破りな言動に面食らうことはあるが、さほど怖い人物ではない。

「そうやって、横でぶつぶつ言うのはやめてくれないか」
助手席に座って窓の外を見ていた秘書であるヤオトメ・ユウは教授の批難でようやく自分が日本語のひとり言を音に出していたことに氣づいた。
「申しわけありません」

「また例のくだらない趣味かね」
「先生。くだらないとおっしゃるならば、一々私の作品をドイツ語に訳させて聞きたがるのをやめていただけませんか」
「私はあなたの雇い主として、あなたの公私にわたる思想活動を把握しておく必要があるのだ。それに、その趣味を通してあなたが社会や人生についてどのような考え方を持っているのかわかり、大変興味深い」

 ユウはため息をもらした。彼女は結婚してスイスに移住し、二年ほど前からヒルシュベルガー教授の個人秘書を勤めているのだが、日本にいた頃から休まずに小説を書き続けていた。現在の主な活動はブログを通してで、自分の自由時間を使っての執筆なので、教授にあれこれ言われる筋合いは全くないのだが、日本出張で彼に小説執筆のことが知れてしまって以来、作品を発表する度に彼のチェックが入り、辟易していた。

「前任のマリア・シュタイナーさんは青十字の広報誌でコラムを書いていらっしゃいますが、送ってこられる広報誌に目を通されることはないじゃありませんか」
ユウが反論すると、教授はユウの方を見てニッコリと笑った。
「禁酒団体にこの私が興味を持つと思うかね」
「そりゃ、思いませんけれど……」

 クリストフ・ヒルシュベルガー教授の行動規範が、見かけや態度とは大きく異なり、彼の個人的興味に大きく左右されていることは、彼と近しく接したことのある者ならば誰でも知っていた。とはいえ、彼がユウに対して女性としての強い興味を抱いているわけではないことははっきりしていた。彼女が日本人であることや日本文化に対してでもない。彼が固執しているのは、日本の食文化であった。

 今日、二人が向かっている先は、生理学の研究とは何の関係もなかった。アルプスを越えたイタリア側に新しいレストランができて、そこでコウベ・ビーフを食べさせてくれるという情報をキャッチした教授が、全ての予定をキャンセルして向かっているのだ。

「それで、今度は何を書くのに手間取っているのかね」
くだらないという割に、教授は出来上がった作品だけでなく、ユウの構想段階の作品に対するチェックも怠らない。彼女は厳しいコメントに滅入るのであまり話したくないのだが、時おり鋭いヒントをくれることもあるので、訊かれた時には正直に話すことにしていた。

「地名が入ったタイトルの作品を募集したんです。色々な方からリクエストを一時にいただいたんですが、どれをどんな作品にするか決めなくちゃいけなくて」
「どの地名なのか」

「ウィーン、パリ ― イス、北海道、それにニライカナイの四つです」
「北海道は日本の北にある島だったな。最後のはなんだね」
「あ、沖縄の伝承にある異世界の名前です」

「ふむ。ウィーンと言えばトルテにコーヒー、それから『フィグルミュラー』のカツレツ、パリはいわゆるフランス料理もいいが、焼き栗が美味しい季節だな。北海道と言ったら、確か海の幸が……」
「先生。私はグルメ記事を書くわけではないんですが」
「まあ、いいではないか。ちなみに沖縄では何が食べられるのかね」

 この人はいつもこうなんだよなあ。ユウは胸の内でつぶやいた。
「なんでしょう。亜熱帯性の食材を利用した琉球料理ですね。すぐに思い浮かぶのは、豚肉を使ったソーキそばや、ちょっと苦い野菜を使ったゴーヤチャンプルーでしょうか。健康にいいらしくて沖縄では長寿の方も多いんですよ」

 教授は苦いと聞いて眉をひそめた。
「健康にいい料理か。私はどちらかというと……」
「わかっています。でも、美味しいと思いますよ。それに米軍基地が多い関係で、ステーキを食べさせるレストランが多いように思います」

「甘いものは」
「パッと思いだすのは、サーターアンダーギーというドーナツみたいなお菓子やちんすこうというクッキーのような味でしょうか。パイナップルも穫れるので、それをドライフルーツに加工したものも美味しいですね」

「ふむ。では、一度沖縄に出張するのも悪くないな」
そういう話だったかしら。ユウは首を傾げた。

「で、どんな話にするつもりかね」
教授が90度のカーブなのに全くスピードを落とさずにに華麗にターンしながら訊いた。あら、本題を憶えていたんだわ、とユウは思った。

「ええ、ウィーンの話は、レハールの『金と銀』とこの季節の色彩を絡めた話にしようと思っているんです」
「ふむ。グルメはどうするんだ」
「え? 入れなきゃダメですか」
「入れないのか?」

 そういわれると入れないわけにはいかないような……。
「では、カフェでケーキセットでも食べさせますか」
「舞台をカフェにしたらどうかね」
「はあ」

 教授はユウの冷たい視線にまったく構わずに続けた。
「イスは、ブルターニュ伝承の沈んだ街だな。あの辺りにはそば粉のクレープとシードルが……」
「先生。それはモン・サン・ミッシェルを舞台にした小説の時にもう書きました」
「ふむ。そうだったな。では、舞台はパリにするのが一番か」

 この人、意外と協力的だな、ユウは感心した。本当は、小説自分が書きたいんじゃないの? ユウの想いには構わず教授は続けた。

「北海道は、絶対にグルメを入れなさい」
「はあ。海鮮丼でも入れますか。海の親子丼といって、鮭といくらがたっぷり載っているご飯もあるんですよね。新鮮だから美味しいだろうなあ」
「取材旅行に行きたいんじゃないかね。なんなら、同行しようか」
「先生、つい先日、休暇で横浜に行ったばかりじゃないですか」

 教授は反省した様子もなく肩をすくめた。絶対この人、北海道でのシンポジウムはないかと騒ぎだすに違いない。ユウは思ったが、大学がまたしても旅費を出してくれるというならば、同行するのにやぶさかではなかった。

「ニライカナイはどうしましょうか」
自分の食欲を満たしてくれる可能性のない場所には全く興味のない教授はにべもなく言った。
「しらんね。架空の土地の話なら、SFでも書くがいい」
あ、そうか。それは考えてもいなかった。この調子なら、それぞれ何か書けそう。

「ところで、その地名のリクエストは、もう締め切ったのかね」
「いえ、まだですが何故でしょう」

「なに、私も一つリクエストしてみようかと思って」
「先生。くだらない趣味とおっしゃったのをお忘れですか」
「いや、忘れてはいないし、くだらないと思うが、いい氣分転換になるのでね」
そうですか。ひどい言われようだけれど、ここまで協力してもらっては断りにくいじゃない。ユウはぶつぶつと文句を言った。

「そして、どこの地名にしようかね。ものすごく書きにくい難しい地名がいいのだが……」
「そういう嫌がらせはやめてください」
「何故だ。こういう企画は、難しいものをこなしてこそ腕が上がるんだ。つべこべ言うのはやめなさい」
「う……。おっしゃる通りです。それで、どの地名になさるのですか」

「それは、コウベ・ビーフを堪能しながら考えよう。ほら、もうそろそろ到着だ。すっかりお腹がすいてしまったよ。朝一の講義も休講にすべきだったかね」
平然と言い放つヒルシュベルガー教授にうんざりしながら、ユウは窓の外を見やった。その途端に、お腹がキュルルと鳴った。

(初出:2014年10月 書き下ろし)
.28 2014 小説・教授の羨む優雅な午後 trackback0

【小説】君を知ろう、日本を知ろう

Posted by 八少女 夕

60,000Hit記念掌編の第三弾です。六人の方からいただいたリクエストをシャッフルして、三つの掌編にしたのですが、最後の今回は、けいさん、山西左紀さんからのリクエストにお応えします。

お題:「『八少女 夕』に密着取材!」
キャラ:複数ブログからの複数キャラ
(けいさん)


さて60000HIT企画のお題ですが、気遣い無用とのことですので「そばめし」でどうでしょうか?
そしてキャラはサキの作品から夕さんの気になる人物をお貸しします。
誰でもいいですよ(複数可)。
(サキさん)


けいさんのお題にお応えするために、こちらのキャラはヤオトメ・ユウ&クリストフ・ヒルシュベルガー教授です。正確にはヤオトメ・ユウと私はイコールではないのですが、違っているところには注釈をつけました。

密着取材ということ、それに複数のブログから複数のキャラというご指定なので、TOM-Fさんちのジャーナリスト、それから、けいさんもよくご存知の大海彩洋さんにもご協力をいただき、それにサキさんのキャラにも絡んでいただいてコラボにしました。

けいさんの「夢叶」からロジャー、TOM-Fさんの「天文部」シリーズからジョセフ(名前のみのご登場)、彩洋さんの「真シリーズ」から龍泉寺の住職。そして左紀さんの「絵夢の素敵な日常 」から榛名(すべて敬意を持って敬称略)をお借りしています。けいさんが「ロジャーの苗字、つけてもいいよ」おっしゃってくださったので、遠慮なくつけちゃいました。けいさん、お氣に召さなかったらおっしゃってくださいね。

ウルトラ長くなってしまったので、前後編にわけるつもりでしたが、「オリキャラのオフ会」作品もどんどん伸びて、このままでは新連載が始められないので、この作品は14500字相当、まとめてアップする事になりました。はじめにお詫びしておきます。


【参考】
教授の羨む優雅な午後
ヨコハマの奇妙な午後
パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして





君を知ろう、日本を知ろう

 ううむ。これは、よくない事の前触れじゃないかしら。ユウは、嫌な予感に身を震わせた。バーゼルでの学会が滞りなく終了したら、久しぶりの休暇。その足で日本へと旅立つつもりだった。もちろん、一人で。日本に全く興味がない夫は既に南アフリカへと旅立っていたので、これからの三週間は誰にも邪魔されずに、ホームランド・ジャパンを満喫するはずだった……。

「それは、実に面白い偶然だね。フラウ・ヤオトメ」
立派な口髭をほころばせて、威厳たっぷりに微笑むのは、他でもないユウの上司、クリストフ・ヒルシュベルガー教授だ。上質のツイード・ジャケットをきちんと着て、完璧な振舞いと威厳ある態度を示すので、はじめて逢う人間は厳格な紳士だという印象を持つ。第一印象がいつも正しいとは限らない。

「私の休暇の行き先も、やはり日本でね。君の通訳やオーガナイズは、決して満点をあげられるものではないが、少なくとも私の好みをよくわかった上で手配を任せられるという意味では、これ以上のガイドはいないからね」
「お言葉ですが、先生。いったい私がいつ、休暇を先生のガイドとしてのボランティアに使うと申し上げたんでしょうか」

「まあまあ、いいではないか。前回のように、君一人ではとても泊れないホテルへのアップグレードや、日本ならではの最高級料理店に、私の財布であちこち行けるのは、悪い話ではないだろう」
「う……」

 そう言われてしまうと、ぐうの音もでない。それに、断ってもどうせ引っ付いて来るのだ。こちらにも大した用事はないので、つきあって日本のグルメと、こぎれいなビジネスホテルのシングルルームを堪能できる方がいい。

 その誘惑にうっかり負けてしまったので、ユウはヒルシュベルガー教授と並んでチューリヒ経由日本行きの飛行機に乗る事になった。

「この機内食には、まったくもって我慢がならん」
ヒルシュベルガー教授は、そういいながらもワインを二杯お替わりし、ソースのあまりかかっていないチキンだけでなくカラカラに乾いた米まで平らげた。

「なぜパンを食べないんだね」
「前に一度、申し上げたでしょう。私は主食の炭水化物を二つ重ねて食べるのはあまり好きではないんです。私だけでなく、多くの日本人がそうだと思うんですけれど。お米がついているのにパンは不要でしょう」

「だったら、私が」
そういうと教授は、ユウの返事も聞かずに彼女のトレーからパンとバターを取って食べはじめた。

 ユウを挟んで教授と反対側、つまり窓側に座っていた青年が、身を乗り出してきた。
「失礼ですが、あなたは日本人で、しかもドイツ語がお話になれるのですね」

 ユウは「はい」と答えて、その青年を見つめた。スイス方言のドイツ語を話した青年は、人懐こい微笑みを見せた。茶色い髪がドライヤーをあてているかのように綺麗になびき、ヘーゼルナッツ色の瞳が輝いていた。

「僕はバーゼルの新聞社に勤めているもので、ロジャー・カパウル(Roger Capaul)と言います。実は、ニューヨークのとある有名なジャーナリズムスクールの夏期講習に参加して、インタビューの具体的手法の実習中なんですよ。それでその講師が僕に課したレポートのテーマが『日本人への密着取材を通して日本という国を知る』なんです。たまたまこれから東京へ仕事で行き、その後に自分の休暇を利用して旅行をするつもりなので、向こうに行ってからどなたかに頼もうかと思っていたんです。が、つい先ほど待合室で会った人に、現地の日本人はあまり外国語を話したがらないと言われまして」

 ユウは頷いた。外国語を話したがる日本人はいないわけではないだろうが、知らない外国人に「密着取材をさせてくれ」と言われて快諾する人はあまりいないだろう。いたとしても若干厄介なタイプである可能性が高い。

「あまり賢いメソッドとは言えませんね。バーゼルでお知り合いをつてに探して頼む方が早いと思いますけれど」
「僕もそう思いましたが、実は時間切れ間近でして。それで、もしご迷惑でなければ、このフライトの間だけでも、ご協力をいただけたらと……」

 ユウは戸惑って、ヒルシュベルガー教授を見た。彼は、しっかり話は聴いていたが、まだ口を挟むときではない思っているらしく知らんぷりをしていた。

 その時に、近くをフライトアテンダントが通りかかり「お飲物はいかがですか」とにこやかに聞いた。ロジャーは素早く言った。
「有料でも構わないのですが、普通よりもいい赤ワインなどはありますか?」
「ございます。2005年のボルドーで、先ほどファーストクラスのお客様のためにあけた特別なものがまだ半分ほど……」
「では、それをこちらのお二人分も含めて、三人分お願いします。クレジットカードは使えますよね」

 その言葉を耳にした途端、ヒルシュベルガー教授は厳かにユウに宣言した。
「フラウ・ヤオトメ。先日、君はたしか日本では袖がこすれるとどうこうと、私に言っていたように思うが」

 ユウは、ヒルシュベルガー教授がロジャーの懐柔作戦にあっさりと乗った事を感じて、軽蔑の眼を向けながら答えた。
「『袖触れあうも他生の縁』です。わかりました。協力すればいいんでしょう。ったく」

 ロジャーは、作戦の成功が嬉しかったのか、にっこりとした。

 ユウはロジャーの方に向かって口を開いた。
「まずは自己紹介しますね。私は、ヤオトメ・ユウと言います。東京出身の日本人で、14年前から夫の住むカンポ・ルドゥンツ村(注1)に住んでいます。職業は、ここにいるクリストフ・ヒルシュベルガー教授の秘書(注2)、それからサイドワークとして小説を書いています(注3)
「ほう。小説ですか。ドイツ語で、それとも日本語で?」
「日本語のみです。半分趣味みたいなものですが、私のライフワークです」

「今回の日本行きもお仕事ですか?」
「いいえ、ただの休暇です。ボスがついてきてしまったのは予想外だったのですが」
ユウの嫌味など、全く意に介さない様子で、滅多に飲めないヴィンテージのボルドーをグラスで堪能しながら教授は威厳ある態度で頷いた。

 ロジャーは、手元のタブレットに繋げたBluetoothキーボードを華麗に叩いて内容を打ち込んでいく。
「そうですか。では、東京以外にもいらっしゃるのですか?」
「京都と神戸に行くのだ」
教授が即答したので、そんな予定のなかったユウはムッとして雇い主、もとい『休暇の予備のお財布』を睨んだ。

「あの、それでしたら、その時の往復の電車だけでも同行させていただけませんか。道中に目にするものと、あなたのご意見を通して、日本を知る事が出来そうに思うんですが」
ユウは、ひっついてくる輩は一人でも二人でもさほど変わらないと思った。教授がまた口を開いた。
「道中一緒なら、どうせなら向こうでも一緒に廻ったらどうかね。私は構わんが」

 ユウは、いったい誰の休暇で、誰の旅行なんだと思いつつ、諦めて同意した。絶対にどちらかに神戸牛をおごらせてやる。それに、大吟醸酒も飲むからね。

 それから、不意に氣になり、ロジャーに訊いた。
「ところで、あなたにその課題を出した、ジャーナリズムスクールの講師、なぜ日本のことを?」

 ロジャーは、肩をすくめた。
「何故かは、僕にもわかりません。彼には教え子の日本人がいて、よく彼女をジュネーヴに派遣したりしているんですよ。その関係でスイス人の僕には、日本の事でもと思ったのかな。もっとも、彼女に密着取材するなんて手っ取り早い方法はダメだって、最初に釘を刺されましたけれどね」

 ユウは、どぎまぎした。どう考えても、その講師というのは……。
「う……。もしかして、その方、ニューヨーク在住で、お名前はクロンカイト氏……なんてことは……」
「ご存知なんですか? それは奇遇だ。こんど彼がスイスに来る時には、ぜひご一緒に……」
「い、いや。その、知り合いってわけではなくて。その、いろいろとあって、彼には大変申し訳のない事をした事があって……その禊がまだ済んでいないのよね……」

 教授は口髭をゆがめて笑った。
「悪い事は出来ないね、フラウ・ヤオトメ」

 だが、ロジャーは、別のことに食いついてきた。
「ミソギって、なんですか?」

 ユウはぎょっとした。
「え? ああ、これも日本独特の思想と観念に基づいた言葉よね。もともとはね、日本固有の宗教である神道で、宗教行事の前に清らかな水で体を洗って綺麗にすることを禊っていうの。でも、それから転じて、一度罪を犯したり、失敗をしたり、醜態を晒しても、それを自ら認めてお詫びや償いをすることで『水に流して』もらって、再びまっさらな罪悪感のない状態で社会や被害を受けた人の前に出られるようになることを『禊を済ませる』って、言うのよね」

「シントー……なるほど」
彼のタブレットには、また大量の文字が打ち込まれていった。ユウはその手元の向こう、窓の外に広がっている、何時間も続くロシアの大地を眺めつつ、どんな旅になるのだろうかと考えた。

* * *


 新幹線の中で、ロジャーが歓声を上げたのは、やはり向かい合わせになる三人掛け椅子だった。もちろんその前には、二列になって礼儀正しく待つ乗客たちの正に真ん前でドアを開き、秒単位の正確さで次々と出発する、スーパーエクスプレス新幹線に大袈裟な感嘆の声を上げた。

「いま君は、典型的な『はじめて日本に来た観光客』になっているぞ」
ヒルシュベルガー教授が、三度目の来日らしい余裕で笑ったが、ロジャーの興奮はまだおさまっていなかった。やたらと写真は撮っているが、どうやら被写体として魅力的なのは密着取材相手よりも日本の驚異の方らしく、はじめの頃に較べるとユウと教授の映っている写真はめっきりと減っているのだった。

「それで、お仕事の方は無事に終わったの?」
成田で一度別れてから、三日後の今朝、JR品川駅の新幹線改札口で再びロジャーと合流したのだ。

「ええ、おかげさまで。とある国際会議の取材だったんですが、昨夜、会社に原稿と写真を送りました。ほら、これですよ」
そう言って、タブレットでインターネット版の記事を見せてくれた。へえ、もう記事になっているんだ。あ、本当だ、名前が一番下に書いてある。へえ~、かっこいい。

「ですから、今日からは、楽しい休暇です。まあ、密着取材はしますけれど、せっかくだから日本を楽しみたいなって」
「そう。じゃあ、ここでは、何から話せばいい……」
「ああ~!」

 突然、ロジャーが大声を上げたので、ユウと教授は面食らった。が、すぐに理由がわかった。日本晴れの真っ青な空の下、車窓に富士山が見えていたのだ。

 ロジャーだけでなく、同じ車内にいた外国人たちは揃って、富士山の見える窓の方に駆け寄り、カメラを向けた。それを見て、日本人乗客たちは微笑みつつ、それぞれがスマートフォンを取り出してやはり写真を撮っていた。もちろんユウも一枚撮った。
「なんて雄大で素晴らしい姿なんだろう! それも、こうやって新幹線の中から簡単に見られるなんて!」

 チューリヒからジュネーヴへ向かう特急からマッターホルンやユングフラウヨッホがついでのように見える事はない。ロジャーが旅をしたオーストラリアでも、エアーズロックことウルルに一番近い主要都市アリススプリングスまでは500キロあった。とても旅の途中に見る事の出来るものではなかった。

「冬の晴天だと、場所によっては東京からでも見えるのよ」
「ええっ。そうなんですか」

 ロジャーが富士山の勇姿に興奮しているのとは対照的に、教授の方は、品川駅で一つに絞りきれずに三つ購入した駅弁の内、シュウマイ弁当にとりかかっていた。

「ところで、君のお父さんはグラウビュンデンの出身でフランス語圏で暮らしているのか? 珍しいな」
箸を休めることのないまま、教授はロジャーに話しかけた。

「ええ、その通りです。さすがですね」
ロジャーがそう答えたので、ユウは驚いて教授に訊いた。
「どうしてわかったんですか?」

「カパウルは典型的なロマンシュ語の苗字だからね。それなのにドイツ語の発音はロマンシュ語よりもフランス語訛りの方が強い。つまり、彼はフランス語圏で育ったと簡単に推測できるんだ」

 ユウは感心した。スイスの言語事情というのは、なかなか複雑だ。公用語が四つあるが、誰もがすべてを理解できるわけではない。バーゼルはドイツ語圏だが、フランスとも国境を接している。英語、ドイツ語、フランス語を流暢に扱い、さらにはネイティヴでない限りは話せないロマンシュ語まで話せるスイス人というのは滅多にいないので、新聞社に勤めるにあたってロジャーは実に有利だろうと思った。

 それに、この人なつこい笑顔もまた大きな武器になるだろう。ユウも、彼の与えられた課題にそこまで協力する必要はないだろうと思いつつ、この笑顔で質問されると、ついつい何でも答えたくなってしまう。

 今日も既に、いろいろと聞き出されていた。
「そもそも、どうしてスイスに来ることになったんですか? スイスがお好きだったんですか?」

「いいえ、全然。スイスは、東京よりも寒そうだったから、全く興味がなかったのよね」
「じゃあ、どうして?」
「あ~、私、一人でアフリカ旅行をしたことがあるの。その時にたまたまスイス人の夫と知り合って。彼は日本には全く興味のないタイプでね。そういう人が日本に住むのは大変だし、仕事もないでしょ。だから、私がスイスに来るしかなかったわけ」

「アフリカ一人旅ですか。それまた思い切ったことをなさいましたね」
「まあね。大学で東洋史の専攻でエジプトやセネガルの民間伝承をちょっと齧ったりしたんで、その延長で」

「日本が恋しくなりませんか」
「う~ん。あまりならないですね」
「それはどうして? スイスの生活の方が合っているんですか」
「そうね。スイスの生活は嫌ではないわ。私、人に合わせるのがちょっと苦手なの。日本って国では、周りと合わせることはとても大切なのよね。もっとも、それが日本が恋しくならない理由ではないけれど」

「では、どんな理由があるのですか」
「日本のもの、情報が簡単に手に入るし、帰国するのもそんなに難しくないからかしら。私の曾々祖母は、ドイツ人で明治の初期に日本にお嫁に行ったのだけれど、生涯祖国に帰れなかったし、インターネットもテレビもなかったのよね。彼女に較べると、私はずっとお手軽な時代に異国に嫁いだと思うの」
「なるほどね」

 そうやって、ロジャーの質問に答えている間に、教授は「幕の内弁当東海道」と「ヒレカツ弁当」も綺麗に平らげて、きちんと身支度を済ませてから、スイス製高級腕時計を眺めて厳かに宣言した。
「そろそろ京都につく頃だな」

 既に、新幹線には二度乗っている教授は、新幹線の発着がスイス時計と同じくらい正確であることをさりげなくロジャーに示したのだ。
「え。もう? 500キロの距離をこの短時間で?」
「それが新幹線なのよ」
ユウは少しだけ自慢したくなった。

 京都駅に着くと、教授は「約束の時間には、十分間に合いそうだ」と言った。
「約束の時間って、なんの?」
ロジャーが訊く。
「お昼ご飯っていう意味よ」
ユウが囁く。駅弁を三つ食べたあとなのに? ロジャーの顔に表れた疑問は、二人には黙殺された。

 連れて行かれた先は、龍泉寺。お寺だ。レストランに行くんじゃないのか? ロジャーは首を傾げた。

 入口で作務衣を来た若者に、ユウが約束があることを告げると、「伺っております」と言って奥へと消えた。そして、すぐに小柄な老僧侶が出てきた。黒い着物に紫の袈裟を身につけている。白い眉毛が長く、目が細いので、ロジャーは昔みた香港映画の仙人を思い出した。もちろん仙人と違って、その老人はワイヤーワークでいきなり空を飛んだりはしないようだったが。

「ようこそおいでくださった。おひさしぶりでございますな、ヒルシュベルガー先生。それに八少女さんも」

 深々とお辞儀をすると、ユウは教授に住職の言葉を訳した。教授は、礼儀正しく彼に手を差し伸べた。
「ご無沙汰いたしております。チューリヒでのワークショップで素晴らしい講演をしていただいて以来ですね。またお目にかかれてこれほど嬉しいことはありません。いつかこちらへお邪魔させていただくという約束をようやく果たせました」

 ユウは、教授の言葉を訳した後に、続けてロジャーを示して言った。
「ご紹介させてください。こちらは、バーゼルで新聞記者をなさっているロジャー・カパウルさんです。休暇を利用して、私に密着取材をしながら、日本という国を知ろうとなさっているのです。私のような日本にも外国にも属さないコウモリのような日本人を取材しているだけでは、日本の本質からはほど遠いので、ぜひ和尚さまから禅を通して日本のことをお教え頂けないかと思い連れてまいりました」

 ユウの言葉に、和尚は細い目をさらに細めて笑った。
「ほ、ほ、ほ。仏の道には日本も外国もございません。禅の教えは誰もが知っている至極簡単なものでございます。己の内と向き合い、まっさらな心で、穏やかに生きる。たとえば、そろそろお昼で、お腹がすきましたでしょう。どうぞお上がりください」

 ユウに訳されて、ヒルシュベルガー教授は、至極もっともだと言わんばかりに頷いた。ロジャーは、老僧の言葉に既に深い感銘を憶えたようで、目が輝いていた。

「はい。お邪魔いたします」
住職に案内されて三人は、奥の広間に向かった。そこは天井に見事な龍が描かれいる書院造の間で、四人分の膳が用意されていた。ロジャーは、キョロキョロと珍しそうに見回していたが、教授はわずかに咳払いをしてさっさと座るように促した。

 始終にこやかな住職は、言った。
「難しいことはございません。一度の食事をすることでも、禅と日本に受け継がれてきた心のあり方を知ることが出来ましょう。本日は、私どもが通常食べる、飯、汁、香菜、平、膳皿、坪の一汁三菜に加えて、もてなしの心を込めて、猪口、中皿、箸洗代わり、麺を加えた二汁五菜の献立を用意させていただきました」

 既にユウは全てを訳すことが出来なくなって適度に端折っているが、訳せたとしてもロジャーには全て憶えられたとは思えないのでいいことにした。

「これは美味しい。ベジタリアン料理というのがこれほど美味しいものだとは思いませんでした」
教授は感嘆した。

「そう。精進料理は、誤解されています。修行のために、美味しいものを諦めて不味さを我慢する食事というように。しかし、その考え方は禅の教えとはかけ離れています。いま目の前にある食材に手間をかけ、その持ち味を活かすように心を込めて調理する。そして、一度しかないこの食事に感謝しながらいただく。不味くなどなるはずがないのです」

「この胡麻和えも美味しいですね。胡桃に、胡瓜、椎茸、さくらんぼ、それにキウイも入っているんですね」
ユウの言葉に住職は頷く。

和敬清寂わけいせいじゃく という言葉がございます。和え物とは二つ以上の素材を合わせて作る調理法ですが、それぞれの個性を生かしつつ互いの味を引き立て合うことが最も大切なのです。日本でとても大切とされる『和』というのは、お互いを敬い引き立て合うことです。それは、誰かが他の誰か一人のために我慢することではなく、それぞれが敬い合い、お互いのよさを引き立て合うことです。古来日本にはなかった食材も、その性格を活かして和えることで他の食材の新しい美味しさを生むことが出来るのです。私どもの寺の典座てんぞ は、なかなかに冒険が好きでしての、こうして驚くような組み合わせで新しい味を作ってくれるのですよ」

「これは……プリンみたいですね」
でも、甘くない? ロジャーが首を傾げる。

「これは胡麻豆腐です。炒り胡麻、水、片栗粉で作ります。材料はこれだけですが、胡麻をここまで滑らかにするまでに半刻ほどかかります。雑念を捨て、一心に胡麻をすりあげる調理方法が禅の考えそのものと通じるので『精進料理の華』と呼ばれています。だし醤油、木の芽、わさびと味付けもシンプルですが、その僅かな香りと辛みが持ち味を活かしておりますでしょう」

 香りの高い枝豆入り梅おこわ、夏野菜の天麩羅、ご汁風けんちん、メカブの酢の物、手打ちの蕎麦など、どれも美味しくて飽きがこなかった。肉が大好きな教授も、ジャパンな舞台に圧倒されているロジャーもその食事に夢中になった。

威儀即仏法いぎそくぶっぽう  作法是宗旨さほうこれしゅうし ともうしましての。料理をすること、食事をすること、起きて身支度をしてから、夜に就寝をするまでの全ての身支度や立ち居振る舞いそのものが、仏様の教えを広めることにほかならないという意味でございます。仕事が忙しいから、他にやることがあるからと、生活を乱すようなことはせずに、きちんと生きることがとても大切だということです」

「そう。食事を大切にすることは、禅の心に適っているということだな」
厳かにヒルシュベルガー教授が宣言する。ユウは、まあ、そういわれればそうだけれど、あなたの場合は少し極端では……と思ったが、この素晴らしい精進料理と住職の禅の手ほどきを受けて感動の渦の中にいるロジャーのためにも、この場では黙っておこうと思った。

 素晴らしいもてなしと、禅の心に感動し、すっかりお腹もいっぱいになったので、礼を言って退出しようとしたが、三人とも足がしびれて立てなくなるというみっともない経験をすることになった。給仕をしてくれた、あの作務衣の修行僧が、必死で笑いを堪えていた。

* * *


 神戸で、三人を待っていてくれるのは、黒磯榛名という青年らしかった。

「どうやって、そうやって次から次へと日本在住の日本人と知り合いになるんですか?」
ユウが訊くと、ヒルシュベルガー教授は澄まして答えた。
「昔、香港で仲良くなった友人の子息だよ。友人はヴィンデミアトリックス家の執事をしていてね。今日は残念ながら時間が取れないので、かわりにハルナ君が迎えにきてくれて案内もしてくれるというんだ。悪い話じゃないだろう?」

「え? ヴィンデミアトリックス家って、あの有名な?」
ロジャーがぎょっとした。

「知っているの?」
ユウが訊くと、ロジャーはもちろんと言わんばかりに頷いた。

「というわけで、明日はおそらくヴィンデミアトリックス家も認める最高の味のレストランで神戸ビーフを食べることになるから、今日は対極な庶民の味に案内してもらうことになっているのだ」
教授が真面目な顔で言う。

 また食べ物の話か。ユウは思ったが聞き流した。ここ数日の間で、彼の行動パターンを理解したロジャーもあっさりと受け流した。

 京都での二泊旅行を堪能した後、三人は再び新幹線に乗って新神戸へと向かった。京都駅からわずか30分、京都駅に較べると簡素な印象の駅だが、新幹線の発着のためだけの駅なのでホームも上りと下りの二つだけであっさりしているのも当然だった。駅に直結しているホテルに泊る事になっているので、荷物を持たずに神戸の街に行けるのもありがたかった。

 無事にチェックインをしてひと息ついた後に、ユウの部屋にフロントから電話があり、黒磯青年がやってきたことがわかった。ユウは、教授とロジャーの部屋に電話をして、エレベータの前で待ち合わせをし、一緒にフロントへと降りて行った。

 フロントで待っていたのは、手足が長くすらっとした細身の青年だった。少し長めの黒髪、とても白い肌、そして大きな瞳が印象的だ。
「はじめまして。ようこそ、神戸へ。黒磯榛名です」

「お忙しいのに、ありがとうございます。八少女 夕です。こちらが、クリストフ・ヒルシュベルガー教授。そして、バーゼル在住の新聞記者で、ロジャー・カパウルさんです。今日は、どうぞよろしくお願いします。榛名さんは、ネイティヴではない外国人の話す英語はわかりますか?」
「簡単な英語でしたら。難しくなったら通訳をお願いできますか」
「わかりました。というわけで、これからはドイツ語じゃなくて、英語でよろしくお願いします」
ユウは二人のスイス人に宣言した。

 二人のドイツ語を日本語に訳しつつ、日本語をドイツ語に訳すのは大変なのだ。日本人は、スイス人の話すぐらいの英語は大抵聴き取れるので、スイス人に英語で話してもらえれば、日本人が上手く表現できない言葉を英語やドイツ語に訳すだけで済み、ずっと楽になる。

「庶民的な神戸の味にご案内するようにと父から言われているのですが、地下鉄に乗って移動するのは問題ないですか?」
「もちろん」
「そうですか。では西神・山手線に乗って新長田駅までいって、そこから少し歩きます」

 地下鉄に乗っている時から、ロジャーは少し不思議な顔をしていたが、新長田駅について歩き出してから、榛名に質問をした。
「京都で見た街並と比較すると、何もかもが新しいように見えますが、ここは新開発地域なのですか?」

 榛名は、街並を見回して答えた。
「1995年に、とても大きい地震があって、この地域はとても大きい被害を受けたのです。この駅は全壊して、あの辺りは震災の後に起きた火災で一面の焼け野原になってしまったのです。いまご覧になっている新しい建物はそれ以降に再建されたものなのです」

「つい最近のことのように感じるが、あの大地震から二十年経っているのだな」
ヒルシュベルガー教授も周りを見回した。

 阪神大震災のニュースのことを記憶している教授はもちろん、若いロジャーもコウベの地震については、知っていた。彼の住むバーゼルは地震がそれほど多くないスイスの中で、巨大地震によって街が全壊したという希有な歴史を持っている。1356年に起きたこの地震では、近隣30キロメートル以内の教会や城も倒壊するほどで、マグニチュード6.5であったといわれているが、7以上だったという研究すらある。

 とはいえ、知っていて関心があるというのと、経験するのとでは大きな違いがあった。一行は、日本に到着してから、すでに二度は体感する大きさの地震にあっていたが、ロジャーは、ユウをはじめとして日本人たちがほとんど騒がないことにも強い印象を受けた。彼自身は地震や火山などの被害が考えにくい国に住んでいることをとても嬉しいと感じたからだ。

「もちろん、日本人だって、地震や、火山や、台風や、その他の自然災害にあわないことを願っているのよ。でも、いつ何か大きな自然災害が起こっても不思議はない、そういう感覚は誰もが持っていると思う。スイスにいるよりもずっと自然の驚異というものを身近に感じて暮らしているって氣がする」
ユウは、ロジャーに言った。榛名は、それに同意して頷いた。


「すっかりきれいになったのですね」
ユウは、榛名に言った。彼女は震災の数ヶ月後に、仕事のためにこの地域を訪れたことがある。震災直後ひどい状態ではなかったとはいえ、瓦礫が片付けられて何もなくなった街には、全てを失った虚しさが漂っていた。いま見る新長田は、その状態が嘘のように、きちんとした街になっていた。

「建物の再建や、地下鉄の再開などは、震災後に比較的早くに再開発が進んだらしいです。ですから、東日本大震災に較べると、街が綺麗になったのはとても早かったんですが、その後にテナントがなかなか決まらなかったり、人通りが震災前のレベルにはなかなか戻らないなど、未だに問題はたくさん残っているんです」

「そうなんですか。大変なんだな」
ロジャーは、言った。

 榛名は、紺の暖簾に「お好み焼き」と白く染め抜かれた小さな店を指差しながら答えた。
「ええ、ですから僕は、三宮の繁華街にある店ではなくて、少し離れていてもこの店に来ようと思ったんです。こうやって、客を連れて来ることも、この地域の復興に少しでも役に立つかなと思って」

「お好み焼きとたこ焼きのお店ですか? 神戸なのに?」
ユウは不思議そうに榛名を見た。お好み焼きとたこ焼きと言うと、大阪名物という印象がある。榛名は笑った。
「この辺りは、日本でも有数のお好み焼きの激戦区です。だから美味いですよ。それに、この地域が発祥と言われる庶民の味があるんですよ」

 あまり大きくない店内は茶色い木の壁、木の椅子に紺地の座布団とユウのイメージするお好み焼きやそのままのインテリアで、肉や醤油、ソースの焼ける香ばしい匂いに満ちていた。まだ昼前だが、座席はそこそこ埋まっていて、人氣店だというのがよくわかった。

「お、榛名君、いらっしゃい」
「こんにちは。今日は外国からのお客さん連れてきたんだ」
「それはそれは。その奥でいいかい?」

「黒磯さん、常連なんですね。予約はなさらなかったんですか?」
ユウが訊くと「ここは予約は受け付けない店なんですよ」と笑った。

 彼は、生ビールを人数分頼んで、それから三人の全権を受けて食べ物を注文した。牛すじ肉とコンニャクを煮たぼっかけ入りのにくてん焼き、すじ焼き、貝焼き、だし汁に浸けて食べる明石焼、を注文してから「それにそばめしも」と言った。

「そばめし?」
一度も聞いたことのない名称に、ユウは訊き返した。

「ええ。そばめしです。これが長田発祥の庶民の味なんですよ」
「そばなんですか? それともご飯?」
「両方です。焼きそばとご飯を一緒に焼き付けたものです」
「ええっ?」

 説明を訊いたヒルシュベルガー教授は、ユウにちくりと言った。
「君は、日本人は炭水化物を二つ一緒に食べるのは好きではないと言っていたね」

「う。それって嘘じゃないですよ。そんな組み合わせ、はじめて聞きました」
ユウが言うと、榛名は笑った。
「関東の方は、そばめしをご存じなくて、最初はそういう反応を示される方が多いですよ。騙されたと思って食べてみてください」

 ロジャーはもちろん、ヒルシュベルガー教授もお好み焼きを食べるのは生まれてはじめてだった。
「これは?」
「スイスで言うオムレツみたいなもの」
ユウは答えた。

 ドイツ語圏のスイスでは、オムレツというのは日本でいうオムレツとは違って、どちらかというとパンケーキに近く、ハムやチーズと一緒に食べる。卵と小麦粉の生地を円形に焼くというところは、似ている。

 ユウは東京ではわざと、お好み焼きやもんじゃ焼きの店に教授を連れて行かなかった。もんじゃ焼きのどろっとした感じには、西洋人は抵抗があるだろうし、関西と違って店によって味のレベルに当たり外れがありすぎるからだ。

 出てきたにくてん焼きをひと口食べて、その判断は正解だったと思った。これだけの味を東京で探すのはかなり難しかっただろう。すじ肉の味がじわっと来る。スイスのぼんやりとした肉の味とは大違いだ。はじめて見る不思議な食べ物に戸惑っていた二人のスイス人も、ひと口食べて以降の箸を動かすスピードが倍増した。
「うっわ~、おいしいですね」

 そして、そばめしが出てきた。ご飯と細切れになった焼きそばが一緒くたになっている。こんな料理あり? 目を丸くするユウだったが、榛名の微笑みに促されてひと口食べてびっくりした。焼きそばと、焼き飯のおいしいところを一つにした料理と言うが、二つ合わさると倍ではなくもっと美味しくなるらしい。それに、ぎっしりと入ったすじ肉、それにお焦げの風味が絶妙だ。

「ここのそばめしは、油を一切使わないで、強火で仕上げるんです。自宅でやりたくてもちょっと出来ない味なんですよ。どうですか」
「……美味しい」

「炭水化物、二つだがね」
勝ち誇ったように教授は言い、彼女の目の前のそばめしを一瞬で全てかすめ取った。
「ちょっと、先生! 大人げないですよ」

 二人の子供っぽい争いを見て、ロジャーと榛名は大笑いした。

* * *


「それで、日本のことはわかった?」
神戸に三日滞在した後、ユウは、帰りの新幹線の中でタブレットに忙しく何かを打ち込んでいるロジャーに訊いた。

 彼は、しばらく考えていたが、やがて言った。
「まだ、まとまりませんね。歴史を感じる伝統の様式美、あちこちで見かけるキッチュな風物、この新幹線のような完璧なテクノロジーや、行き届いたサービスのこと、経済の仕組みのこと、震災のこと、それにあの和尚さんやハルナ、クロイソ氏、それにヴィンデミアトリックスの皆さんのホスピタリティなど、取り上げるテーマが多岐にわたっていて、印象もまちまちなんです。そもそもユウ、あなたのことも知れば知るほどわからなくなります」
「どうして?」

「日本と同じですよ。シンプルのようでいて、奥深い。私たちと似ているようで、想像を絶する違いもある。いろいろなものを受けとめる柔軟な成熟さがあるかと思えば、信じられないほど子供っぽい。これをレポートにしてクロンカイト氏に提出したら、結局何が言いたいんだと怒られそうです」

 ユウは肩をすくめてから教授に訊いた。
「日本って、そんなにわかりにくいですか、先生?」

 ヒルシュベルガー教授は、「神戸牛すきやき弁当」とおにぎりや沢山のおかずを楽しめる「六甲山縦走弁当」を食べ終え、壺に入った「ひっぱりだこ飯」に取りかかっているところだった。
「そんなことはない、大変わかりやすいよ。庶民的な味も、身代が傾くような高級料理店の味も、それぞれ違っていても、実に美味い。日本とは、そういう国だ」

「……。もう少し格調高くまとめられないんですか」
「そんな必要がどこにあるかね。どんなものでも、心を込めて大事に調理し、それを一人一人が美味しく食べる。それこそが禅の真髄だと、龍泉寺の和尚も言っていたではないか」

 あれってそういう意味だったっけ、と首を傾げるユウとは対照的に、教授の言葉に深く感銘を受けたロジャーは、タブレットを鞄にしまい、側を通った車内販売の係員からビールと駅弁を買って食べだした。

 ユウは、クロンカイト氏が読まされるレポートの内容を想像して、「氣の毒に」と小さくため息をついた。

(初出:2015年7月 書き下ろし)

注釈

  1. カンポ・ルドゥンツ村は、グラウビュンデン州にあるということになっている架空の村。リアル八少女 夕在住の村がモデルで、ここを舞台にした小説がたくさんある。

  2. この秘書というのは高橋月子さんが書いてくださった掌編の設定で、チューリヒ在住の生理学の権威クリストフ・ヒルシュベルガー教授はもちろんフィクション。リアル八少女 夕の職業はプログラマー。

  3. 高橋月子さんの書いてくれた小説の設定では、作家ヤオトメ・ユウの小説「夜のサーカス」は出版されていることになっているが、リアル八少女 夕の本は出版されていない。あたり前。

.22 2015 小説・教授の羨む優雅な午後 trackback0

【小説】グラスを傾けながら 〜 彼と彼女の幸福論

Posted by 八少女 夕

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


scriviamo!の第十二弾です。

大海彩洋さんは、『奇跡を売る店』シリーズの番外編で参加してくださいました。ありがとうございます!


大海彩洋さんの書いてくださった小説『しあわせについて~懺悔の値打ちもない~』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。私と同年代(プラスマイナス一歳ぐらいらしいですね)かつ、ずっと昔から書いていた、途中ブランクがあったというところまでとても似ているんですが、書く内容は「どうしてここまで違う」というものに。たぶん人生の重みと真剣さの違いが作品に出るんでしょうね。こればかりは一朝一夕では追いつけませんし、そんな野望も持っていません。無理無理。

『奇跡を売る店』は「真シリーズ」の別バージョンかつエッセイ「巨石紀行」でもおなじみの天然石の知識を存分に生かされた作品群です。今回は、主人公が勤めている京都のオカマショウパブ『ヴィーナスの溜息』を舞台に、あちらでのおなじみのキャラのみなさんが庚申講にひっかけた懺悔大会(?)と『幸福学』シンポジウムについて語っているのですが、そこにある男性の人生が語られ、うちの毎度食べて飲んでいるだけの二人も登場させていただきました。

この盛りだくさんな作品に、さらにうちの66666Hit記念の企画、お題の単語6個以上を使うという課題にまで挑戦してくださっていて、なんと35ワードコンプリートです。すごっ。本当にありがとうございます。

で、感心している場合ではなく。いやあ、もう慣れましたけれど、今年のscriviamo!のお約束のごとく涙目級超難解課題。ええ、こちらも本当に難しい。

今回は、うちの「生理学教授クリストフ・ヒルシュベルガー&その秘書ヤオトメ・ユウ」を京都にご招待くださりたくさんご馳走してくださったので、もう、そのままこの二人を出すことにしました。そして、彩洋さんの物語の中で語られた「しあわせについて」&「人生の選択」などで真面目にリターン(したつもり)。そして、二つの一見全く関係のない話を、接点もほとんどなく重ねてみました。同じテーマでも今度もやっぱり「私が書くとなぜこうなる」。ううう、彩洋さん、ごめんなさい。今ひとつハートフルラストに落とせないのは、もしかして私の人生観って……。


【参考】この二人のでてくる作品群です。あ、ヤオトメ・ユウは私とは別人キャラです、念のため。
教授の羨む優雅な午後
ヨコハマの奇妙な午後
パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして
君を知ろう、日本を知ろう


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グラスを傾けながら 〜 彼と彼女の幸福論 
——Special thanks to Oomi Sayo san



 いつも後にきっちりと結わえている髪を下ろした彼女の姿は柔らかで、研究室で見るよりずっと年若く見せた。黒い髪に、夜空を思わせる黒い瞳。アルミネは、話す時に少し斜め前を見るように伏し目になり、悲しそうに微笑んだ。

 彼は研究室では一番早く出勤するので、彼女が泣きながらファンデーションを塗っているのを見てしまった。目の周りの青あざ。研究室のすぐ側にある薬局ではそれを隠せるほどの濃いファンデーションを売っている。誰にも言わずに堪えている彼女が心配だった。

 アルミネは、主任教授の秘書だった。若い研究員である彼は、雑用を彼女と一緒にする機会が多く、彼女がアルメニア人であることを知っていた。といっても彼女自身がアルメニアから来たわけでなく、全アルメニア人の六割を占めると言われている「ディアスポラ」つまり迫害を避けて逃げだしてきた国外アルメニア人の出身だった。

 生まれた時からスイスに住んでいるので完璧なスイスドイツ語を話すが、美人が多く天才も多いと言うアルメニア評にふさわしく、美しく賢い、そして優しく穏やかな性格で、彼は好意を持っていた。と言っても、彼女にはパートナーがいることを知っていたので、口説くことはなかったが。

 その日は主任教授に頼まれた資料作成に手間取り、研究室を出るのは二人が最後だったので、彼は断られると予想しながらもアルミネを食事に誘った。けれど彼女は言った。
「ご一緒しようかしら。まっすぐ帰っても、今日は誰もいないし」

 食事をしながら、彼は朝はからずも見てしまった光景について謝った。すると彼女は、伏し目で笑いながら、夫に殴られたことを白状した。

「君が助けを必要とするなら、いつでも役に立ちたい」
彼の言葉に、彼女は首を振った。
「ありがとうございます。でも、いいんです。彼は、手が早いだけ。怒りが収まったら、きっとまた普通の日常に戻れると思います」

 他の友人や家族のバックアップがあるのかと訊くと、彼女は首を振った。彼女が恋に落ちたのはトルコ人だった。不倶戴天の敵といっていい民族の男との恋が、祝福されるはずはなかった。
「友人も家族も失って、彼といるしかいないんです」

「わからないな。君たちの聖なるアララト山を国境の向こうへと持っていったのは彼ではないし、例の大虐殺も彼がしたことではない。でも、痣がつくほど君を殴ったのは彼だろう? 君は、そんな男と幸せになれるのかい。家族にアルメニア共同体に戻れと言うんじゃない。ただ、君自身を大切にしてほしいんだ」

 アルミネは、優しい黒い瞳を少し潤ませて見つめた。
「アルメニアびとは悲しい民族なんです。たぶん、私もその運命から逃れられないんだと思います。そう思いませんか?」

「民族の問題と君の幸せは関係ないだろう? 君は、スイスで育った。スイスの教育を受けて、スイスのものの考え方を常としているはずだ」

「ええ。わかっています。頭では。両親が正しかったとは思いません。私は敵と恋に落ちたのではなく、ひとりの人間と恋愛をしたのだと今でも思っています。でも、私は、アルメニア人なの。頭では理路整然と問題に立ち向かうべきと思うのに、感情が我々は虐げられることに慣れているとため息をついているの。彼と一緒になって、家族と切り離されてから、それをずっと強く感じるようになったんです」


 食事の後に一緒に入った店では、ピアノ弾きが物悲しい曲を静かに弾いていた。それを耳にして彼女は、ひとすじ涙をこぼした。
「どうしたんだ?」
「この曲……アルメニア人の作曲家によるものなんです」
「……なんて言うんだい?」
「アルノ・ババジャニアンの『エレジー』です。ね、やっぱりそうでしょう? 私たちは悲しい民族なんです」

 彼は彼女をフロアに誘い、静かに踊った。僕が君を守ってあげたい、その言葉を言うべきか戸惑っていた。すぐにナイフを持ち出すような、導火線の短い異国の男と争ってでも、この女性の人生を受け止めるべきだろうかと。研究者としての未来に影を落とすことになるかもしれないとも思った。

 もし、この夜が最後になるとわかっていたら、彼はそんな風に躊躇しなかっただろう。彼女は二度と研究室に来ることはなかった。プレパラートに落とす一滴の薬が、細胞を一瞬で無に帰してしまうように、その夜ひとりの女性がいとも簡単に二度と目覚めぬ眠りについた。

 前の日に受けた暴力の影響が、翌晩にあらわれたのか。それとも、トルコ人は二晩続けて彼女を虐げたのか。他の男と食事に行ったことが、彼女に災いしたのか。それとも、彼が希望を与えなかったから、彼女の心が民族共通の悲しみに堪えられなかったのだろうか。

 彼は警察に呼ばれ、彼女から聞いた話を供述した。その間にトルコ人は逃げて、主任教授と彼女の両親が彼女の弔いと、その後の後始末を済ませた。それだけだった。新しい秘書が来て、日常が再開された。トルコ人が捕まったかどうかは、彼には知らされないままだった。

 アルミネの憂いに満ちた美しい幻影は、しばらく彼を苦しめた。だが、それもずいぶん昔のことになった。
 
* * *


「君がこんな洒落た店を知っているとは驚いたね」
クリストフ・ヒルシュベルガー教授は、落ち着いた店内を見回した。

「お褒めいただきありがとうございます。東京には昔住んでいましたからね。洒落たバーのひとつや二つ……って言いたいところですが、実は、適当に入っただけで前から知っていたわけではないんです」

 黒曜石で出来た壁には、星に見えるようにたくさんの小さな電球が埋め込まれていた。カウンターは、客たちの静かな語らいを邪魔しないように低い位置から電灯が照らしていた。

「そうか。たまたまでも、これだけ美味しいつまみの出てくるバーにあたるというのは、君がよほどラッキーなのか、それとも日本のグルメのレベルが高いからなのか」
「おそらく後者でしょう。でも、先生。京都であれだけ食べて、さらに新幹線でも駅弁三つの食べ競べをしたのに、まだそんなにおつまみ頼むんですか。よくお腹壊しませんね」

 ユウはつくづく呆れて、「トロトロ煮込んだビーフシチュー」を嬉々としてつつく教授に白い視線を浴びせたが、彼は全く意に介さなかった。

「ところで、先生。京都の出雲先生とのお話でおっしゃっていた『蚤の市で買った偽物を掘り出し物と信じていること』の件ですけれど、それって本当に幸福なんですか?」
「死ぬまで氣がつかなければね。たいていの人間は、薄々それがまがい物だと氣がついてしまう。それでも払った大金のことを考えると手放せないものなのだよ」

 ユウがそうかなと思って考えていると、教授はバーテンダーに合図して響17年をお替わりした。
「ひとつ例を挙げよう。往きの飛行機で一緒になってしまった、あのアメリカ人のご婦人はどうだね」

 ユウは、腹立たしい記憶を呼び起こされて、教授をひと睨みした。

 三人がけの一番奥に座っていたのは、同じシンポジウムに参加するためにサンフランシスコから来たという女性で、経済学を教える夫は大統領の顧問、本人は料理番組を持つ傍ら生活提案の著作に励み、下の女の子はこども美人コンテストの入賞者、上の子どもはスイスの寄宿学校に入っているという経歴をまくしたてた。

「日本に行く前に、息子に逢ってきたんですの。せっかくなので、半日でしたけれどサン・モリッツでスキーもしてきましたのよ」

 もしかして、これは世間話ではなくて自慢かとユウが訝りはじめた時には、教授は勝手に会話を中断して寝てしまったので、ユウはその女性の話をひとりでひたすら聴く羽目になったのだ。

 そのくせ食事のサービスが始まったらすぐに起きて。ユウがそれを思い出してムッとしていることに全くひるんだ氣配もなく教授は言った。
「フラウ・ヤオトメ。私は君の返事を待っているのだが」
なんなのよ、この人は。

「はあ。アメリカの典型的な勝ち組ですかね。シンポジウムでは『勝ち取る幸せ』ってテーマで最新の著作のアピールしていましたっけ」
「周りの失笑にも臆しないところは、大したものだったがね」

 忙しい日常の合間に、華やかなパーティに顔をだし、ジムに行って汗を流し、精神分析にも通う。新しいスポーツに挑戦するのも好きで、休暇の度にカヤックやロッククライミング、クロスカントリーなどを楽しむと語っていた。彼女は自分は「幸福の塊」であるとユウに断言した。

「そうですか。ご本人は幸せだとおっしゃっていましたから、それがまがい物だとは思っていないんじゃないですか?」
「そうかね。夫は三人目の愛人とのスキャンダルで裁判沙汰になっているし、本人の若いツバメは彼女の会社の経理を誤摩化して高飛び。息子をスイスの寄宿学校に送り込んだのは、少年刑務所送りになるのを避けるための苦肉の策らしいがね。その愛息が寄宿舎の裏庭に大麻を植えて騒ぎになったことも付け加えておこうかね」

「先生、どこからそんな下世話なゴシップを仕入れているんですか」
「言いたくてしかたのない人間というのは、どこにでもいるものだ。幸福に見えるものを他人が持っているのを許せずに、メッキを剥がしたがる輩もね。動じずに、己が幸福を信じ続けるのもかなり精神力が必要だな」

 ユウはちらりと教授を見た。
「先生は、動じないんですね」
「この私がないものをあると思い込むとでも?」

 ないと断言されちゃ……。
「じゃあ、先生は幸福でグリュックリッヒ はないのですか?」
グリュック で人生を計ってどうする。私は『幸福であるグリュックリッヒ 』ではなく『満足しているツーフリーデン 』という言葉を遣うのだよ」

 なるほどね。言葉遊びみたいだけれど、いかにもこの人らしい。

「私の意見では、手に入れられないものを追い続けることは幸せとも充足とも相反している。ところで、君はアンニをどう思うかね」

 アンニというのは、ヒルシュベルガー教授の姉だ。教授と同じ屋根の下の別住宅に住んでいて、ユウがチューリヒに泊らざるを得なくなる時は、いつもアンニの客間に泊めてもらっている。物怖じしない豪快な性格で、泣く子も黙る教授を洟垂れ小僧扱いする人間は、ユウの知る限りこの人ひとりだ。

 教授よりもひと回り以上歳上で、若くして両親をなくした教授の親代わりだったらしい。生涯独身になったのは本人の主義やめぐり合わせもあるかもしれないが、両親も財産もない弟が研究者として独り立ちするまで身を粉にして働き支えていたのも大きいように思えた。そのことが引け目となって、弟もまた独身を貫いているのかは、ユウには判断しかねたが。

「そうですね。彼女は、無駄に何かを追い求めたりしているようには見えません」
「私もそう思うよ。彼女は、例のアメリカ女性がまくしたてていたものは何一つ持っていない。だが、実に満ち足りているのだ。彼女にも悔いや手に入れたくても入れられなかったものはあるだろう。だが、それを思って眉間に皺を寄せるよりは、現在持っているものを実に愉快に楽しむことが出来る。彼女のあり方は、私には理想的に思えるね」

幸福グリュック より充足ツーフリーデンハイト ですか。なるほどねぇ」

あれ? ということは……。
「でも、先生、『幸福学シンポジウム』に出られるからには、このテーマに強い関心がおありだったのでは?」

 ユウの言葉に教授は首を振った。
「特にないが」
「え? だったらどうして……」

「日本とキョウトにはまた来たかったんでね。ウキョウとも久しぶりに逢えたし」
「逢えたしって、メインの目的は、ま、まさか、グルメと和菓子の食べ競べ……」
「何がいけないのかね。私は自分のしたいことは、はっきりわかっているのだよ。すくなくとも今ではね」

 そうやって話しているうちに、学生崩れと思われる青年が入ってきてグランドピアノの前に座り、憂いに満ちたワルツを弾きだした。

「おや、懐かしい曲を……まさか日本で聴く事になろうとは」
教授は、グラスを揺らしながら言った。

「はじめて聴きました。誰のなんて曲ですか?」
ユウが問うと「もの知らずな君らしいね」と口には出さないけれど明らかに語っている目つきで教授はちらっとユウを見た。

「アルメニアの作曲家ババジャニアンの『エレジー』というのだよ」
知る訳ないでしょう、そんなマニアックな。ユウは口の中でもぐもぐと弁解した。

「アルメニア……ですか。旧ソ連の国でしたっけ」
「ノアの方舟が辿りついたと言われるアララト山や、世界で最初にキリスト教を国教にしたことを誇りにしている古い伝統のある民族だが、迫害の歴史があってね。コーカサスには常に紛争があったから。今でも民族の六割は国外に避難したままだ。ソ連から独立した後も戦争に対する制裁がつづいたままで経済的に先行きが見えないので帰国が進まない悲劇の民族なんだよ」

 へえ。コーカサスか。ケフィアの故郷ってことぐらいしか知らないなあ。迫害されていた民族だなんて知らなかったな。
「じゃあ、スイスにもたくさんいるんですか?」
「ロシアやアメリカに較べたら、大した数はいないよ。スイスにいる日本人の10分の1ぐらいだろう。もっともスイス国籍を取得したアルメニア人を入れるともっと多いだろうがね」

「勉強になります。そういう民族だから、こういう悲しいトーンになるんでしょうかね。でも、美しい曲ですね。スイスにいるアルメニア人ですか。創作のネタになりそう。少し調べてみようかなあ」

 教授は「くだらない」と言いたげに、いつもの皮肉に満ちた目つきでユウを一瞥すると、黙ってウィスキーグラスを傾けた。


(初出:2016年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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作中に出てきたババジャニアンの「エレジー」はこんな曲です。


"ELEGY" - ARNO BABADJANIAN - A. NERSISSIAN /1995)
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