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【小説】ウィーンの森 — 金と銀のワルツ

Posted by 八少女 夕

50000Hit記念リクエスト掌編の第一弾です。TOM-Fさんからいただいたお題は「ウィーンの森」でした。ありがとうございます。

うわぁ、どうしよう。大好きな街です。合計で三回行っています。この街を舞台に使っている作品群もあります。でも、なんかふさわしくないし、掌編にするのに面白くない。というわけで、新たな物語を作りました。あたり前ですが、ほぼフィクションです。でも、飛行機に置いていかれてウィーン半日観光が出来たのは、私の実体験をもとに書いています。そして、TOM-Fさんも好きだといいな、レハールの『金と銀』を使わせていただきました。


(追記)TOM-Fさんが作品を発表してくださいました。それも、この作品に対するアンサー小説になっています。

 TOM-Fさんの作品 「ウィーンの森」

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ウィーンの森 — 金と銀のワルツ

 森というよりは、山なんだ。半日で観ようっていうのは無謀だったわね。ベートーヴェンが住んで『田園交響曲』の着想を得たというハイリゲンシュタット、ルドルフ皇太子の心中したマイヤーリンク、温泉保養地バーデン。『ウィーンの森』という名のテーマパークのような観光名所があるわけではないので、どこに行っていいのかわからないし、たぶん時間もそんなにない。

 クロアチア出張の帰りだった。ドブロブニクの空港でエンジントラブルがあって二時間の遅延があった。ウィーンについた時には乗り継ぎ便はもう東京に向かって飛び立ってしまった後だった。いますぐインドのボンベイ経由で帰るのと、一泊して明日直行便で帰るのとどちらがいいかと訊かれて、真美は迷うことなく一泊二食付きのウィーン滞在を選んだ。

 ウィーンは乗り継ぎだけのつもりだったから、観光地などは全く調べてこなかった。半日の自由時間を効率よく過ごすための情報は限られていた。でも、そんなことは構わない。真美はタブレットをバッグにしまうと、バスの窓から外を眺めた。

 バスはちょうど街の中心へとさしかかっていた。18世紀を思わせる重厚な建築群が連なっていた。街路の栃の樹から枯葉が車道に降り注ぐ。そして、その上を黒い馬車がゆっくりと通り過ぎていった。その向こうに音楽の教科書の表紙になっていたモーツァルトの像が見えた。嘘みたい。私、本当のウィーンにいるんだ。

 真美に一番近いウィーンはずっと日本の田舎町にあった。そこには十年以上行っていない。真美が十七歳の時に父親が東京に栄転したから。でも、まだ喫茶店『ウィーンの森』は変わらずに存在していて、人びとの憩いの場所になっていると風の便りに聞いている。

 真美は近所の青年、吉崎護になついていた。彼は母親の親友の息子で、学生時代に『ウィーンの森』でバイトをしていたのだが、学校を卒業後オーナーに店を任された。真美は、高校の帰りによく店に行き、ミルクのたっぷり入ったコーヒーを飲みながら、他愛もない話をした。

 それは、ウィーンのカフェハウスを模して、メニューにもウインナ・コーヒーではなくてアイシュペンナーと載せるようなこだわりの店だった。県内で唯一のドイツ系コンディトライからケーキを取り寄せていて、クーゲルホフやアプフェルシュトゥルーデル、そしてショコラーデ・トルテが真美にとっての馴染み深い菓子だった。

 銀のお盆に載ったコーヒーには必ずグラスに入った水が添えられていて、それだけで特別な飲み物になった。ウィンナ・ワルツのかかっている店内は、ただの喫茶店とは格の違う空間だった。真美には護もまた特別な存在だった。白いシャツと黒いパンツに、ワインカラーのエプロンをして、客たちににこやかに話しかける彼のことが大好きだった。

 道に面したドアと反対側には大きい窓と勝手口があり、その向こうには白樺の林があった。晩秋にはその葉は鮮やかな黄色に染まり、陽射しを受けて輝きながら舞い落ちていった。それはちょうどワルツに合わせて踊っているように見えた。

「ほら、あんまり見とれていると、コーヒーが冷めるぞ」
護が真美の側にやってきて、一緒に白樺の落葉を楽しんだ。
「うん。きれいねえ。秋っていいわね」
「ああ、俺も、この時期のこの光景が一番好きだな」
真美はカップを両手で包み込むようにして、香り高いコーヒーの湯氣を吸い込んだ。幸福が押し寄せてきた。

「落ち葉も踊っているね。ねえ。これ、なんて曲?」
「フランツ・レハールの『金と銀』だよ。ウィンナ・ワルツの代表的作品だな」

 秋の柔らかい光。黄葉の煌めき。『金と銀』……。

「いい曲ねぇ。これでダンスをするのね。ねえねえ、あれだよね。白いドレス着て、ティアラつけて宮殿で踊るの、デビュタントだっけ?」

 護はちらりと真美を見て答えた。 
「ああ、正月のオーペルンバルでやっているな」
「ねえねえ。私もデビュタントしたいな。護兄さん、一緒に行こうよ」

 真美がそういうと彼は笑った。
「そういうのは彼氏と行くもんだろう」

 彼女はふくれ面で答えた。
「私はもうじき16歳だよ。あと数年で大人の仲間入りだもん。そしたら、護兄さんの彼女にしてくれる?」

 彼はそれを笑い飛ばした。ジョークだということにされてしまった。

 それから一年もしないうちに護が結婚すると聞いて、真美は号泣した。その事実を認めまいと頑になり、披露パーティへの出席どころか『ウィーンの森』にすら行かなくなった。結婚式から帰って来た母親は「きれいなお嫁さんで、素晴らしいお式だったわ」と、報告した。心の整理がつく前に、父親の転勤で東京に越してきてしまい、それ以来護とは会っていない。

 あの当時の彼の歳になった今なら真美にもわかる。仕事の責任があり、日々の生活を全て自らコントロールしている今だって、ちゃんとした大人とは言えない。何もできないのにロマンスだけは一人前にできるつもりでいたあの頃の自分を思うと確かに笑い飛ばしたくなる。それと同時に、あれは彼なりの優しさだったのだと思う。子供の憧れを利用したりせずに、その未来を大切にしてくれた、責任感のある大人、護兄さんはそういう人だった。真美はウィーンの街並を眺めながら思った。

 空港の目の前にあるビジネスホテルに泊めてもらったのは正解だった。飛行機のチェックインまでの間、荷物を預けておき、身軽にウィーンの観光をすることができる。といっても時間がないので、たぶん二カ所ぐらいしか行けないだろう。森を諦めるとしたら……。決めた。カフェでショコラーデ・トルテを頼み、それから、よく映画でダンスシーンを撮影するシェーンブルン宮殿へ行こう。

 アール・デコの美しいカフェに入り、真美は案内された席に座った。金髪のウェイトレスが明らかに日本人観光客である真美の顔を見て、英語で「英語のメニューですか?」と訊いてきた。真美は黙って頷いた。コーヒーにミルクの入ったものがブラウナーで、泡立てたホットミルクの入ったエスプレッソがメランジェ。ウィーンのカフェの専門用語は今でもスラスラ出てくる。それで注文には「メランジェ……ショコラーデ・トルテ」と中途半端にドイツ語で頼んでしまった。ウェイトレスは、「お願いします」もまともに言えないのに一人でカフェに入ってくる日本人観光客に慣れているらしく、頷くとさっとメニューを持って奥へ行ってしまった。

 銀のお盆に、メランジェとグラスに入った水が載って出てきた。チョコレートケーキも、使われている食器も、『ウィーンの森』で護が出してくれたものとよく似ていた。ウェイトレスがそっけなく伝票をテーブルに置かれた銀の筒に丸めて突っ込み、去っていったのだけが違った。

「お待たせ」
そう言って護兄さんはいつも笑顔でお盆を置いてくれたよね。

 トラムに乗ってシェーンブルン宮殿まで行った。駅から門まで、そして門から宮殿までもそれなりの距離があり、大きい宮殿、さらにその後ろの広大な庭園を眺めただけで、これはゆっくり見ている時間などないとわかった。

 次の見学ツアーの出発は一時間後だった。それからのんびり見学などしていたら、また飛行機に乗り損ねてしまう。真美は宮殿内の見学を諦めて、庭園を歩くことにした。

 宮殿正面のフランス式庭園は、写真で何度も見たことがあった。たくさんの観光客が記念写真を撮っていた。真美は先ほどから感じ続けている違和感について想いをめぐらせた。ウィーンに、そう本物のウィーンにいて、何もかも想像していた通りなのに何かが違う。その何かの正体がつかめない。

 私はウィーンに何を期待していたのだろう。ここに何があると思っていたんだろう。ここは普通の都会。オーストリアの首都で、私のトランジット先。それだけ。それ以上を期待するのが間違っている。ここはこんなに美しいじゃない。

 庭園の中程まで歩いて、ふと横を見ると、広葉樹の木立が黄色に染まっていた。真美は思わず走り寄って、声をあげた。
「わあ」
宮殿の壁の色よりもひと回り鮮やかで深い色。なんてきれいなんだろう。真美は魅せられてその木立でできたアーチの中へと吸い込まれていった。

 黄色い枯葉が陽の光を受けながら舞い落ちていく。葉の裏に秋の陽射しがオレンジに透けている。葉と葉の間を抜けて差してくる木漏れ陽の中で、細かい土ぼこりが銀色に反射しながら舞っている。それは寂しい秋の風景ではなくて、華やかで美しい色彩の舞踏会だった。

 突然、真美の心の中に、レハールの『金と銀』が響いてきた。金管、弦楽、流れるハープ、それから輝きながらゆっくりと旋回していく木の葉たち。穏やかに語り合いながら歩いていくカップル。犬を連れて散歩をする老婦人、どこまでも続く黄色い木立のトンネル。

 そうか。私が見たかったのは、聴きたかったのは、そして行きたかったのは、あそこだったんだ。『ウィーンの森』の光景。金と銀のワルツ。「いつかは行きたい憧れの街」と言いながら、一度も本当のウィーンを訪れようとしなかったのは、だからだったのね。

 真美は彼がどれほどしつこく自分の心の奥に居座っていたのかに初めて氣がついた。初めての失恋から立ち直って、忘れて、全く違う人生を謳歌してきたはずだった。他の恋も普通にして、別れてを何度か繰り返した。護と彼らを比較したこともないと思っていた。友達の結婚式に招待されるたびに親からちくりと言われる「あなたもね」に「まだまだ仕事が楽しいし」と笑い飛ばしていても、彼のことは関係ないと自分に言い聞かせてきた。

 護が離婚したと耳にした時、反応しないようにしたのも、その後にも故郷に行こうとしなかったのも、全て自分の信じていたことと正反対だったのだ。私は意固地になっていただけだ。認めたくなかったから。まだ同じ夢を追っていることを。

 護兄さんにふさわしいパートナーになりたかった。一緒にこのウィーンでダンスを踊りたかった。もう、デビュタントにはとても加われない歳になってしまったし、それ自体が意味を持たなくなってしまったけれど。『ウィーンの森』で、そして、ここ本当のウィーンのカフェで注文したかったのはメランジェでもトルテでもなくて、彼の笑顔だったんだね。

 真美は不意にあの時にどうやっても立てなかったスタートラインに立っていることに氣がついた。相手にしてもらえなかった子供ではなくなっている。ちゃんと自立して仕事もしている。ウィーンにも一人で来られて、世界と自分の過去を分析もできるようになっている。今なら、護兄さんにもちゃんと一人の人間として向き合えるかもしれない。

 今度の休みには、久しぶりにあの街を訪れて『ウィーンの森』に行ってみよう。ウィーンに行ってきたことを彼に話してみよう。何かが始まるのか、それとも何かが終わるのかわからない。けれど、とにかく行ってみよう。私にとってのウィーンへ。真美はもう一度木の葉のダンスを見上げると、踵を返して空港へと戻っていった。
 
 
(初出:2014年10月 書き下ろし)

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超有名曲である『金と銀』は色々な演奏の動画があるのですが、ウィンナ・ワルツが映っているので、ちょっとポップスですがアンドレ・リュウのもので。


Andre Rieu - Gold und Silber 2011
Waltz op. 79 Gold and Silver, a composition by Franz Lehar
live from Vienna
.18 2014 小説・ウィーンの森 trackback0

【小説】君の話をきかせてほしい

Posted by 八少女 夕

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

月に一度発表する読み切り短編集「十二ヶ月の野菜」の十二月分です。このシリーズは、野菜(食卓に上る植物)をモチーフに、いろいろな人生を切り取る読み切り短編集です。最終月に選んだテーマは「大根」です。冬の大事な食材。シンプルだけれど存在感のある野菜を最後に持ってきました。その分小説としての料理が大変でした。

去年初登場した『でおにゅそす』の涼子が登場しました。そして、客としてやってきた青年。読んでいくうちにデジャヴを感じるかもしれません。


とくに読む必要はありませんが、『Bacchus』の田中佑二と『でおにゅそす』の涼子を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
 「バッカスからの招待状」シリーズ
 「いつかは寄ってね」



短編小説集「十二ヶ月の野菜」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の野菜」をまとめて読む



君の話をきかせてほしい

 吐く息が白くなるこの時期は、年の瀬を感じて誰もが早足になる。華やかな街の喧噪にどこが浮き足立った人たちが忘年会やクリスマス会食をはしごする。カウンター席しかない二坪ほどの小さな『でおにゅそす』もこの時期はかきいれ時だ。会食で飲み足りない男たちが、ほろ酔い加減で立ち寄り、涼子の笑顔と数杯の日本酒に満足して家路につく。

 だが、その青年はそうしたほろ酔い加減はみじんも感じさせなかった。引き戸をためらいがちに開けて、小さな看板と手元のメモを見較べながら入ってきたので、誰かからの紹介なのだなと思った。実際、涼子の一度も見たことのない客だった。歳の頃は三十代半ばというところだろうか。

「いらっしゃいませ」
ちょうど多くの客が帰りほとんどの席が空いていたが、その青年の佇まいから彼女は騒ぐ常連たちから離れた入口に近い席を勧めた。青年は軽く会釈をしてトレンチコートを脱いだ。焦げ茶色のアラン編みのセーター。勤めの帰りではないらしい。

「何になさいますか」
おしぼりを手渡しながら涼子は訊いた。青年は戸惑いながら、カウンターに立っている小さなメニューを覗いた。
「では、日本酒を……どれがいいんだろう。詳しくないのでお任せします」

 常連の西城が赤い顔をしてよろめきながら近づいてきた。
「兄ちゃん、見慣れない顔だね。この店を見つけたのはらぁっきぃってやつさ。せっかくだから『仁多米』にしなさい。ありゃ、美味いよ」

 それから涼子に満面の笑顔を見せた。
「じゃあね、涼ちゃん。今日はかかあの誕生日だからさ、帰んなくっちゃいけないけど、また明日来るからさ」

 その後に青年に酒臭い息を吹きかけて言った。
「楽しんでいきなよ。でも、涼ちゃんを誘惑しちゃダメだよ。俺らみんなのアイドルなんだから……」
青年は滅相もないと言いたげに首を振った。

「もう、西城さんったら、失礼だわ。若い方がこんなおばさんに興味持つわけないでしょう」
「涼ちゃんは、歳なんか関係なく綺麗だからさ。今日のクリスマス小紋もイカすよ」
黒地に南天模様の小紋に柊をあしらった名古屋帯を合わせた涼子のセンスをを褒めてから西城は出て行き、店の中には西城の近くに座っていた半従業員のような板前の源蔵と、青年だけになった。

 涼子は少し困ったように笑った。
「ごめんなさいね。西城さん、いい方なんだけれど、ちょっと酔い過ぎているみたい」
「いいえ。とんでもない。あの方のおすすめのお酒をお願いします」
礼儀正しく青年は答えた。

 涼子は小さいワイングラスに常温の日本酒を注いだ。
「このお酒ね。奥出雲にいる知り合いの方が送ってくださったの。こうして飲んでみてって」

 青年は黙って頭を下げると、ワイングラスを持ち上げてそっと香りをかいだ。服装や佇まいには都会の匂いがないが、ワイングラスを傾ける姿は洗練されている。どの畑の人なのだろうといぶかった。そもそも誰がこの店に送り込んだのだろう。

 青年の携帯電話がなった。礼儀正しく「失礼」と言うと青年は電話を受けた。
「あ、うん。そうか。まだ当分かかるんだね。いや、氣にしないでくれ。今、神田にいるんだ。……ああ、終わりそうになったら、電話してくれれば、またさっきの『Bacchus』へ行くから……」

 涼子は目を丸くした。電話を切った青年をまじまじと見た。
「佑二さん、いえ、大手町『Bacchus』の田中さんが、ここを?」

 青年は黙って頷いた。それからコートの内ポケットから、名刺を取り出してしばらく迷いつつ手元で遊ばせていた。それから、ゆっくりと顔を上げると、決心したようにその名刺を涼子に手渡した。

 忘れもしない、佑二の筆跡が目に入った。
「涼ちゃん。身につまされる悩みを抱えたお客さんなんだ。よかったら女性の観点から君の意見を話してあげてくれないか。田中佑二」

 瞬きをしながら言葉を探している涼子に、青年はもう一度頭を下げてから急いで言った。
「すみません。実は先ほど、『Bacchus』でつき合っている女性と飲んでいたんですが、彼女が急遽仕事で呼び出されて。それで一人で田中さんと話しているうちに、人生相談みたいなことをしてしまって。心配した田中さんが、ここへ行って女性の考えを訊いてみろって。本当に相談するつもりで来たわけではないんですが、待ち時間がかなりあってずっとあそこにいたら、忙しい田中さんにも迷惑だろうし、東京には滅多に来ないので、店もほとんど知らなくて……」

 涼子は、ふっと笑った。
「ご飯は食べていらしたんですか?」

 青年ははっとしたように顔を上げた。
「あ、いや、まだ……」

 源蔵がすっと立って、涼子に話を聞いてやれと目配せをした。そして、カウンターに入って、簡単なつまみを用意しだした。涼子は小皿と割り箸を用意し、突き出しの蒟蒻と小松菜のごま油炒めを青年の前に置いてやった。青年は再び頭を下げた。

「それで。どちらからいらしたの?」
「静岡です。新幹線に乗るのも何年ぶりだろう。自分の街からほとんどでたことがなくて。東京がこんなに広くて華やかなのをすっかり忘れていました」
「いらしたのはその女性に逢うため?」

「はい。ずっと昔に東京に引越した女性で、数ヶ月前に再会してから、ほぼ毎週末に来てくれるんですが、たまには自分が逢いに来るべきだと思って」
「平日に?」

「僕も飲食店をやっていて、明日が定休日なんです。クリスマスはかきいれ時なんで、今日明日を逃したら当分は来られません。彼女は僕が来ると知って明日の有休を取ってくれたんですが、どうしても対処しなくてはいけないことができて、明日休むためにまた仕事に戻ることになって……」
涼子にも、青年の暗い顔の原因がこの女性に関することなのだろうと推測できた。でも、佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのは何かしら。

 青年はサーモンと白菜の和風ミルフィーユ仕立てをゆっくりと食べると、「仁多米」を味わうように飲み、目を閉じた。それからほうっと息をついた。
「美味しいですね。こういう味、本当に久しぶりだ。ほっとします」

 この青年は疲れているのだと思った。
「お店は、洋食関係なの?」
涼子が訊くと青年は頷いた。
「カフェなんです。うちのあたりには、料理もケーキも、それからコーヒーの淹れ方までもこだわった本格的な店はなくて、かなり自負を持っているんですが、東京だと珍しくもなんともないですね」

「おつき合いなさっている方がそうおっしゃったの?」
「いいえ。彼女は、僕のやっていることを尊重してくれています。だから、仕事が忙しくて疲れていても来てくれるし、僕の方でたくさん時間が取れなくても文句も言わずに手伝ってくれます」

「羨ましいくらいに、お幸せに聞こえるけれど……違うの?」
青年はため息をもらした。
「ええ、そうですね」

 涼子は源蔵と顔を見合わせた。青年はしばらく黙っていたが、グラスの透明な日本酒を揺らすのを止めて顔を上げた。
「東京は華やかですね。この時期に来るのは初めてなんですが、どこもイルミネーションが……」

「ああ、ここ数年、派手なイルミネーションが増えたねぇ。節電のなんとかっていう技術が発達してから、やけに増えたんじゃないか?」
「まあ源さんったら、LEDでしょう。そうね。そう言えば昔はこんなになかったわよね」

「華やかなライトに照らされたショーウィンドウに、高価で洒落た商品がたくさん並んでいて、彼女の着ているスーツも洗練されていて、なんだか自分だけ場違いな田舎者みたいだし、用意してきたプレゼントもつまらない子供騙しに思えてしまって……」
涼子ははっとした。源蔵もなるほどね、という顔をした。

「わかるな。俺もはじめて東京に来た時、氣後れしたしさ。だけどさ、悩むほどのことでもないと思うぜ?」
源蔵の言葉に青年は首を振った。
「そのことで悩んでいるわけじゃないんです」

「じゃあ、何を?」
涼子が訊くと青年は、困った顔をした。
「すみません、こんな湿っぽい話をして」
「氣にするなよ。王様の耳はロバの耳って言うじゃないか。田舎と違って、ここで話したことはどこにも伝わらないし、話せばすっきりするぞ」

 源蔵の言葉に涼子も微笑んで頷いた。青年は観念したように口を開いた。
「ここに、東京に来るまでは、たぶん単純に浮かれていたんでしょうね。新しい関係やぬくもりに。彼女は僕よりずっと若くて、きれいで、それなのに僕を慕ってくれて。夢みたいだと思ったんです。いつもの世界が華やかで明るくなり、心も身体も満足して。このまま関係を進めていけばお互いに幸福になれると」
「違うの?」
涼子は、そっと手を伸ばして空になった小鉢を引っ込めた。源蔵は黙ってゆずの皮を削った。

「僕は一度結婚に失敗しているんです。前の時のことを思いだしました。はじめは朗らかだった妻が、しだいに笑わなくなって……。一緒にいても苛立ちと不満のぶつけあいになっていきました。あの時、僕は彼女の変化の原因が分からなかった。ここにいたくない、大阪に戻りたいという妻の言葉をわがままとしかとらえられなかった。大して儲からない店に固執するのは馬鹿げているとも言われました。確かに楽な暮らしはできないのですが、店に対する熱意は僕の存在意義そのもので、それを否定されてまで一緒にいられなかった」

 涼子はじっと青年を見つめた。涼子の姉である紀代子が、田中佑二のもとを去って姿を消してしまった時、彼女も佑二も理解ができなかった。涼子はできることならば姉の立場になって『Bacchus』に全てを捧げる佑二を支えたかったから。佑二さんの「身につまされる悩み」っていうのはこれね……。

「今つき合っている女性は僕と店のことをよくわかっていて、きっとうまくやって行けるんじゃないかと思っていたんです。でも、この東京で颯爽と働く彼女の姿を見ていたら、これがこの女性の人生と生活なんだと、僕とはまるで違う世界に属している人なんだと感じました。僕が彼女に側にいてほしいと願い、あの小さなつまらない街に閉じこめたら、あの生き生きとした笑顔を奪うことになるのかもしれない。次第に不満だけがたまって、やがて別れた妻と同じように僕のことを嫌いになっていくのかもしれないと」

「私はそのお嬢さんと逢ったことがないからわからないけれど、仕事と東京での暮らしが人生を左右するほど大切だったら、週末ごとにあなたの所に通ったりしないと思うわ」
「でも……」

 涼子はにっこり笑って青年の言葉を制した。
「確かに女ってね、仕事は仕事、愛は愛って分けられないの。全て一緒くたになってしまうのよね。もちろん全ての女性がそうだというつもりはないけれど」
「だとしたら……」

「あなたは男性だから、お仕事に関することは妥協できないんでしょう。お店を閉めてまで、彼女のために東京で暮らそうとは思わない。だから彼女に仕事を諦めてあなたの側に来てほしいと願うことは信じがたい苦痛を強いるように感じるんじゃないかしら。でも、私、きっと彼女はもっと簡単に幸福への道を見つけると思うわ」

 涼子は大根の煮物を黙っている青年の前に置いた。
「ねえ、これを召し上がってご覧なさい。私ね、女って大根の煮物みたいなものだと思うの」

 彼は訝しげに涼子を見たが、箸を取りすっと切れる柔らかい大根を口に入れた。出汁と醤油の沁みたジューシーな大根が舌の上で溶けていった。
「色は完全に染まってしまっているし、細胞の隅々まで出汁に浸かっている。それでも、出汁でもないしお醤油でもない、お大根そのものの味でしょう?」

 青年は目を見開いた。それから、再び箸を動かして大根を口に入れた。涼子は続けた。
「お大根は淡白で、主張が少ないからどんな食材の邪魔もしないけれど、でも、あってもなくてもいいわけじゃないわ。たとえばおでんに入ってないなんて考えられないでしょう。ステーキやピッツァのような強い主張もないし、熱になるカロリーは少ない。その目的には向いていないわね。でも、食物繊維や消化酵素の働きで、消化を助けて胃もたれや胸焼けも解消してくれるとても優秀な野菜よ。どちらがいいというのではなくて役割が違うのね」

 涼子は微笑んで続けた。
「女は本来とても柔軟なの。愛する人間に寄り添えるように、どんな形にでも姿を変えて、道を見つけることができる。でもね、それがあまりに自然なので、時おり男性はそれをその女性の本来の姿だと思ってしまうのね。あたり前なのだと思って意識しなくなってしまうの。そうやって認められなくなると、女のエネルギーは枯渇してしまって、もう合わせられなくなってしまう。男は女が変わったと思い、女はわかってもらえないと悩む。その心のずれを修復できないと、二人はどんどん離れていってしまうんだと思うわ」

 青年はじっと涼子の顔を見た。彼女は安心させるように笑った。
「あなたはそのお嬢さんのことをちゃんと思いやっている。でも、言葉にするのをためらっていると、伝わらないわ。一生懸命やっていればわかるだろうなんて思わずに、あなたの想いを彼女に伝えてご覧なさい。どれだけ大切に思っているか、仕事のことも尊重したいと思っていること、側にいてくれたらいいと願っていることもね。彼女がどうしたいのかもちゃんと言葉にして訊いて、その上で、お互いに譲り合える所、妥協はできない点をすり合わせていけばいいのよ」

 青年は頷きながら大根を噛みしめていた。
「今は二十一世紀だもの、いろいろな関係があっていいと思うの。男性に単身赴任があるように、女性にあってもいいでしょう。毎日出勤しなくてもいい働き方もあるし、別の仕事を見つけることもあるかもしれない。でも、全ての工夫は何があっても関係を保ちたいとお互いが意志を持つことから始まるんじゃないかしら。私はそう思うわ」

 源蔵が笑った。
「涼ちゃん、いいこというねぇ。この人にここへ来いって言った、その『Bacchus』の田中さんとやら、よくわかっているんだねぇ」

 涼子は口を尖らせた。
「とんでもないわ。佑二さんはもう少し女心を研究すべきよ。あの唐変木……」
そう言いながら、用事だけしか書かれていない田中の名刺を大切に懐にしまった。
 
 源蔵は吹き出し、青年もようやく笑顔を見せた。折しも再び携帯電話が鳴り、彼は急いで「仁多米」を飲み干すと、アドバイスに心からの礼をいい、少し多めの代金を置いて立ち上がった。涼子は彼の迷いが晴れたことにほっとしながら訊いた。
「ところであなたのお店はどこにあるの。静岡に行くことがあったらぜひ寄りたいわ」

 青年は嬉しそうに懐からコートから名刺を二枚取り出した。
「名乗るのが遅れてすみません。僕は吉崎護といいます。店は『ウィーンの森』といって、この駅のすぐ側です」

 引き戸から立ち去る護の後ろ姿に、雪が舞いはじめた。少し早いクリスマス氣分。天も恋人たちのロマンスに加勢しているらしい。涼子と源蔵は嬉しそうに笑って、「仁多米」でもう一度乾杯をした。

(初出:2014年11月 書き下ろし)

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