scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 第二部 あらすじと登場人物

「大道芸人たち Artistas callejeros 第二部」は、2012年にこのブログでメインとして連載した長編小説「大道芸人たち Artistas callejeros」(第一部)の続編です。第一部の背景の説明やネタバレへの配慮は全くしていません。氣になる方は第一部からお読みください。


【第一部はこちら】
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部

【あらすじ】
偶然の出会いからヨーロッパを旅して周ることになった蝶子、稔、レネ、そしてヴィル。チーム名「Artistas callejeros」はまた四人揃い、一緒に大道芸をしながら旅をすることになった。

【登場人物】
◆四条蝶子(お蝶、パピヨン、マリポーサ、シュメッタリング)
 日本人、フルート奏者。ミュンヘンに留学していたが、エッシェンドルフ教授から逃げ出してきた。

◆安田稔 (ヤス)
 日本人、三味線およびギター奏者。数年前より失踪したままヨーロッパで大道芸人をしている。

◆レネ・ロウレンヴィル(ブラン・ベック)
 フランス人、手品師。パリで失業と失恋をし、傷心の旅に出た。聖歌隊にいたことがあり、テノールのいい声をしている。南仏のワイン農家の一人息子。

◆アーデルベルト・W・フォン・エッシェンドルフ(ヴィル、テデスコ)
 ドイツ人、演劇青年で、もとフルート奏者。父親の支配を嫌って失踪した。偶然逢った蝶子に1年以上自分の正体を知らせずに同行していた。紆余曲折を経て蝶子と結ばれる。


◆カルロス・マリア・ガブリエル・コルタド(カルちゃん、ギョロ目、イダルゴ)
 裕福なスペイン人の実業家。蝶子に惚れ込んで四人を援助している。

◆ハインリヒ・R・フォン・エッシェンドルフ男爵(エッシェンドルフ教授、カイザー髭)
 ドイツ人、蝶子の恩師で元婚約者。アーデルベルトの父親。

◆ヤスミン・レーマン
 ドイツ人。ヴィルがかつて所属していた劇団『カーター・マレーシュ』で広報をつとめている。

◆マリサ・リモンテ
 スペイン人。コルタドの館で家政を取り仕切るイネスの一人娘。

◆ヨーゼフ・マイヤーホフ
 エッシェンドルフ教授の秘書。

◆エスメラルダ
 カルロスの前妻であるスペイン人。絶世の美女。

◆安田陽子(旧姓・遠藤)
 かつての稔の婚約者。現在は稔の弟である優の妻。

◆ヘイノ・ビョルクスタム
 ノルウェー人のコントラバス奏者。

◆パオラ
 チンクェ・テッレ、リオマッジョーレに住む少女。母親に育児放棄されている。

参考:イラストを描いてくださる方用 オリジナル小説のキャラ設定 「大道芸人たち」編
この小説のイラストを描いてくださる奇特な方が参考にするためのキャラクター設定をまとめたものです。第一部本編を読まなくても描けるように若干のネタバレが含まれています。

【予告動画】

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Category : 小説・大道芸人たち 2

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (1)バルセロナ、祝い酒 -1-

あまりにも長くお待たせしすぎて、既に忘れられているかもしれませんが、ようやく「大道芸人たち」第二部の連載開始です。あれから数年経っているように思われるかもしれませんが、本日のシーンは第一部の最終シーンの翌日です(笑)

長い話は、適当に切って公開していきます。今回も二つに分けました。




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(1)バルセロナ、祝い酒 -1-


 食堂での四時のコーヒーはコルタドの館のいつもの習慣だが、この日はイネスにとって特に感慨深かった。ずっと空だった席に当然のようにヴィルが座っている。蝶子を氣遣ってヴィルの話を避けていた稔やレネの腫れ物に触るような態度もすっかり消えていた。それどころか、帰って来たばかりのヴィルを三人はぞんざいに扱っていた。が、本人が氣に病んでいる様子もなかった。イネスはミュンヘンでのヴィルの大芝居の話を聞いていなかったので、全く訳がわからなかった。

 四人は、今後の予定の話をしていた。稔は既に予約の入っている仕事のことを筋立てて説明し、まじめに聴くレネと、ちゃかして冗談ばかり言って話を進ませない蝶子の舵取りに苦労していた。

 例のごとくほとんど口をきいていないヴィルが、突然言った。
「ところで、日本人が国際結婚する時の書類手続きは、みんなバルセロナでできるんだろうか」

 稔とレネはびっくりして蝶子を見た。

 蝶子はにこりともせずに言い返した。
「できるんじゃないの? いくつかの書類は日本から送ってもらう必要があるだろうけれど、ヨーロッパ式の婚姻が成立してからは、領事館への届けで済むんじゃないかしら。詳しくは知らないけれど。なんで?」
「手続きが済むまでは、小さい都市に移動するのを待ってもらいたいからだ」

 稔とレネは半ば立ち上がって笑いながら二人の顔を見比べた。しかし、蝶子の顔はむしろ険しくなった。
「誰と、誰が、婚姻の手続きをするのよ」

 ヴィルはむすっとしたまま答えた。
「ここに日本人は二人しかいないし、俺がヤスの婚姻手続きのことに首を突っ込むわけがないだろう」

「ってことは、あなたはもう一人の日本人である私の結婚の手続きのことを言っているわけ? でも、私、まだここにいる誰からもプロポーズされていないわよ」
「だから、今、その話をしているんだろう」

 稔とレネは椅子に座った。稔はこりゃ面白くなって来たぞと傍観を決め込んだ。

 レネはおずおずと口を挟んだ。
「テデスコ、パピヨンが言っているのは、役所の手続きのことじゃなくて、その、結婚の申し込みのことじゃ……」
蝶子は大きく頷いた。

 ヴィルは馬鹿にしたような顔でレネを一瞥すると蝶子の目をじっと見据えて言った。
「あんたは、俺がバラの花束を抱えながら跪いて訊かないと返事ができないのか。つべこべ言わずに答えろ。するのか、しないのかヤー・オーダー・ナイン

 蝶子は怒りに震えながら、何か言おうとしたが、ヴィルの青いまっすぐな目を見て考えを変えたらしく、口に出すのはやめてむすっと横を向いた。それから小さな声で、さもイヤそうに答えた。
するわよヤー

「ひゃっほうっ!」
「ブラボーっ!」

 稔とレネが同時に飛び上がり、一緒に腕を組みながらドタドタと踊りだした。

 その騒ぎを聞きつけて奥からイネスが飛び出て来た。
「どうしたんですか」

「乾杯だ! たった今、テデスコがプロポーズに成功したんだ」

 稔の言葉を聞くなり、イネスはやはり大声で叫びながら蝶子とヴィルの二人にキスをした。それからカルロスを呼んでくると言って出て行こうとした。

「カルちゃんはサンチェスさんと会議中でしょう」
蝶子があわてて止めるとイネスは断固として言った。
「これより大切なことなんてありませんよ。だいたいあの二人がコーヒーに遅れているのが悪いんです」

「よっしゃ、俺は酒を買いにいく!」
稔が立ち上がるとヴィルはそれを止めた。
「俺の話はまだ終わっていないんだが」

「そうよ。こっちの話も終わっていないわ。あなた、まさか書類の提出だけで終わらせようってんじゃないでしょうね」
蝶子が自分のペースを取り戻して詰め寄った。

「それが一番簡単じゃないか」
「簡単かどうかなんて、この際関係ないの。あなたが何を言おうと、結婚式は私のいいようにさせてもらいますから」

 ヴィルはむっとして、腕を組んだ。
「希望を言ってみろ」

 蝶子は勝利を確信してにんまりと笑った。
「証人はヤスとブラン・ベックよ」
「当然だな」
ヴィルもまだ余裕だった。

 稔とレネは嬉しそうに顔を見合わせて、再び椅子に座った。

「ちゃんと教会で結婚式をして、ウェディングドレスを着るわ」
ヴィルはうんざりして頭を振ったが、援護射撃は期待できなかったので、反論しなかった。

 蝶子はさらに続けた。
「父親役は、カルちゃんにしてもらうから」

 ヴィルが賛成とも反対とも言わないうちにドタドタと入って来たカルロスが叫んだ。
「もちろんですとも! 大聖堂の予約をしなくては。可能なら大司教に来てもらいましょう」

 今度は四人が慌てる番だった。
「待ってくれ。大聖堂が埋まるようなゲストは全く期待できないんだ。とくに、俺の親族に出席を期待されては困る」
ヴィルが迷惑そうに言うと、蝶子もうろたえて言った。
「私の方も誰も来ないわ」

「大丈夫ですよ。野外パーティ目当てに領民が山ほど来ますから入りきれなくなるはずです」

 蝶子は大聖堂でなくてもいっこうに構わなかったが、教会での結婚式が現実のものとなりつつあるのが嬉しかった。

「私、真耶を招待したいわ」
蝶子が夢見るように言った。

 ヴィルはいいとも悪いとも言わなかったが、しばらくしてこう続けた。
「じゃあ、俺は拓人を招待する」

 それを聞いて蝶子は勢いづいた。
「レネのご両親も招びましょうよ」

「アウグスブルグの連中にも声かけようぜ」
稔が笑いながら言うと、カルロスも続けた。
「私はカデラス氏やモンテス氏にも招待状を送りましょう」

「じゃあ、トネッリ氏やロッコ氏には僕から連絡を入れますね」
レネも笑った。

「とにかく一番に真耶と結城さんのスケジュールを訊かなくちゃ。あの超多忙な二人が、一緒に少なくとも四日も休むなんて可能かしら?」

 大騒ぎになって眉をひそめていたヴィルは蝶子の腕をとって座らせ、冷静に言った。

「いいか。こっちのばか騒ぎはいつでもいいが、書類の方は即刻始めるんだ。できれば今週中に手続きに入りたい」

 水をかけられたように、全員が騒ぐのをやめてヴィルの顔を見た。
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Category : 小説・大道芸人たち 2
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (1)バルセロナ、祝い酒 -2-

かなりのブランクがあったにもかかわらず、「第二部」を開始してすぐに再びみなさんに受け入れてもらったのを感じ、とても嬉しく思っています。

さて、今回は二つに切った「バルセロナ、祝い酒」の二回目です。ロマンティックのカケラもないプロポーズにもかかわらず、結婚式のことで盛り上がっていた仲間たちにヴィルは水を差します。「ばか騒ぎはどうでもいいが、手続きはすぐに始めたい」と。


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あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(1)バルセロナ、祝い酒 -2-


「なぜそんなに急ぐのよ」
蝶子には訳が分からなかった。

「親父はまだあんたに未練があるんだ。あれだけの人前で釘を刺されたから、そんなに簡単には行動を起こさないはずだが、いつ氣が変わって訴訟準備を再開するとも限らない。その前にこっちの法的手続きを成立させてしまうんだ」

「訴訟って何の?」
「婚約不履行のだよ。幸いあんたは金目のものは何も持ち出してこなかったらしいから、金品では争えないだろうが、五年間の滞在費やレッスン代で争われる可能性もある。あれだけ法曹界に知り合いがいて財界にも影響力がある親父だ。訴訟に持ち込まれたらあんたに勝ち目はない。あいつはたぶん和解と婚約履行を狙っているんだろうから、出鼻をくじく方がいい。息子と結婚した女とはどうやっても結婚できないし、その女相手に訴訟を起こすのは世間の笑い者だからな」

「それで、結婚するっていいだしたの?」
蝶子は少しだけがっかりしたようだった。確かに重要な理由ではあったし、急ぐのも無理はないが、あまりロマンティックではない。

 その蝶子の反応を見て、ヴィルはやむを得ず、言いたくなかったことを口にした。
「それだけじゃない。もし、また何かあった時に、結婚していれば離れずに済むだろう」

 それを聞いて蝶子は嬉しそうにヴィルに抱きついた。照れているヴィルを見るのはかなり稀だった。稔とレネ、カルロスとイネスもまた笑って祝いの準備を始めた。

 酒を買いにいくと言って席を立った稔とレネに、蝶子は言った。
「ねえ。結婚式の後のパーティって、みんなダンス踊るのよ。だから、二人とも意中の女性にパートナーになってくださいってお願いを早めにしておいてよ」

 レネと稔は顔を見合わせた。
「ヤスミン、頼んだら、パートナーになってくれるかなあ」
レネはもじもじと下を見た。

 稔は笑った。
「大丈夫だろ。イヤだといっても、あっちから押し掛けてくるって」

「ヤスもよ。もうパートナーは心に決めているんでしょう」
蝶子が畳み掛けた。

 それで蝶子の策略にようやく氣がついた稔は、腹を立ててふくれっ面をした。
「おい、ギョロ目。イネスさんに特別ボーナス出してくれよ。マリサのパーティ用のドレス新調しなくちゃいけないだろうから」

 イネスは大喜びで稔にキスをして、カルロスも嬉しそうに頷きながら稔の頭を小突いた。

* * *


「蝶子なの? 久しぶりね。どうしたの。電話なんて珍しい」
懐かしい真耶の声がする。

「ごめんね。真耶。急いで訊きたいことがあるのよ。あなたと結城さんが少なくとも四日間まとめて休める一番早いスケジュールを教えてほしいの」

「どうして?」
「バルセロナまで呼びつけるからよ」

「何のために?」
「私の結婚式」
「ええ~っ? 本当に? おめでとう。で、お相手は?」

「それがね。私、結局、フォン・エッシェンドルフって人と結婚することになっちゃった」
「え……」
「大丈夫。真耶が心配するような相手じゃないから。いま、代わるわ」

 頭の中が疑問符でいっぱいになっている真耶の耳に、聞き慣れた声が飛び込んで来た。
「ハロー、真耶。元氣か」

「ヴィルさん? あなたなの? まあ、よかったわ。おめでとう。でも、どういうこと? フォン・エッシェンドルフって……」

「そのことについては、拓人に訊いてくれ。それより、スケジュールのことだが、できるだけ早く確認してほしい。外野が話をどんどん大きくするんでね。さっさと済ませないととてつもない大事になってしまう」
そう言うと、ヴィルは受話器を蝶子に戻した。

「そういうわけで、真耶、わかり次第報せてね。挙式の日取りはそれに合わせるから。それと、申し訳ないんだけれど、また私の戸籍謄本をはじめとする書類がいるみたいなの。明日にはエクスプレスで委任状を送るから、そっちもお願いしていいかしら」

「もちろんよ。まあ、蝶子ったら、本当に心臓に悪いことばかりする人ね。でも、おめでとう。楽しみにしているわね」

 電話を切ってから、蝶子はヴィルに詰め寄った。
「どういうこと? 結城さんに訊いてくれってのは」

「あいつ、俺のことを知っていたんだ。でも、本当に真耶にまで黙っていてくれたみたいだな」
「なんですって?」

「いつまでも隠しておくなと忠告された。俺はあいつに恩を感じているんだ。そうでなかったら未だに黙ったままでいたかもしれない」
「呆れた。結城さんたら、どうして私に言ってくれなかったのかしら」
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Category : 小説・大道芸人たち 2

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (2)フュッセン、白鳥の城の下で -1-

さて、今日のくだりは、ちょっと説明が必要かもしれません。日本では、打ち掛けやウェデスングドレスを着て誰かの前で今後のことを誓うのは結婚式でやることで、役所で籍を入れるときにはそういうことはしないのが普通です。

ところが、こちらでは「教会で神の前で愛を誓う」のとは別に、役所でサインするときにも式があるのですよ。役人が神父の立ち位置で、「夫婦とは」などとあれこれ話したあと、二人の証人の前で「結婚しますか」「はい」というのをそれぞれ言わないと結婚が成立しないのです。つまり、日本のような本人たちが揃わない状態で役所に行き籍を入れるなんて事はありえないのですね。今回は、その「役所での婚式」です。フュッセンの話は、次回。また2つに切りました。


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あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(2)フュッセン、白鳥の城の下で -1-


「ヤスミンからメールが届いていますよ」
レネが図書室から呼んだ。三人は、図書室のコンピュータの前に集まった。

 ヴィルはメールを読んでいたが、蝶子の方に振り向いて言った。
「来週の金曜日に、フュッセンの戸籍役場で婚式を執り行ってくれるそうだ。思ったよりも早く決着がつきそうだ」

「来週? 真耶に頼んだ書類、昨日届いたばかりでまだここにあるじゃない。どうやったらそんなに早く出来るの?」
蝶子はびっくりした。

 書類はバルセロナのドイツ大使館に提出すると聞いていた。それがミュンヘンに送られて審査が行われるので、婚式は早くても一ヶ月後だと思っていたのだ。

「昨日、ヤスミンにFAXしたんだ。劇団の同僚のベルンの叔父がフュッセンの戸籍役場に勤めていて、審査をすべて飛ばしてくれたんだ。バロセロナでやると、問い合わせがミュンヘンに行くから、親父の息のかかった連中に捕まる可能性もある。ドイツに行かなくてはいけないが、フュッセンの方が安全だと思う」

「フュッセンは、ノイシュヴァンシュタイン城のあるところね」
蝶子はにっこりと笑った。

「俺、そこには一度行ってみたかった」
「僕もまだ行ったことがないんです」
稔とレネもすっかり乗り氣になった。

* * *


「ハロー、ヴィル。久しぶりね」
ヤスミンがヴィルに抱きついて、頬にキスをした。

「ブラン・ベックのメイクは見事だったよ。手品が始まるまで、まったく氣がつかなかった」
ヴィルは言った。

 ヤスミンは意地の悪い目をして言った。
「そっちも負けない大芝居をしたみたいじゃない。全員騙されたのよ」

「あんたは俺の演技を知っているだろう」
ヴィルはむすっと言った。あの大芝居以来、三人に散々な扱いを受けてうんざりしているのだ。

「私はその場にいなかったけれど、居たってどうせ見破れなかったでしょうよ。あなたの悪役ぶりは本当に板についているから」

 それからヤスミンは蝶子にも抱きついてキスをした。
「おめでとう、シュメッタリング。私、あなたたちの結婚式に立ち会えて本当に嬉しいの」

「どうもありがとう。ごめんなさいね。急にこんなことをお願いしてしまって」
「カイザー髭の目をくらますために急いでいるんでしょう。私、手伝うなと言われても勝手に協力しちゃうくらいよ」

 それからヤスミンは稔とレネにウィンクをした。
「急ぎましょう。あと三十分後に婚式が始まるのよ。戸籍役場は、ここから歩いて十五分ぐらいだから。ベルンもあそこで待っているはずよ」

 戸籍役場と聞いたので、つまらない四角い役所を予想していたのに、それは小さいながらもヨーロッパらしい美しい装飾のされた部屋だった。十八世紀くらいの建物だろうか。細やかな彫刻の施された木製の天井、細かな浮き彫りのある白い漆喰で囲まれたワインカラーの壁、時間の熟成を思わせる木の床。稔は「ほう」といって見回した。

 熊のように大きい青年ベルンはヴィルとしっかりと抱き合い、それから蝶子の手に恭しくキスをしてから、ヤスミンに頼まれて用意してあった花嫁用の花束を渡した。

 ベルンの叔父のスッター氏は、書類を抱えて嬉しそうに待っていた。
「さてと、始めましょうか。ええと、結婚指輪の交換しますか?」

 そんなことは、何も考えていなかった二人だったが、笑ってそれぞれずっとしていた銀の指輪を外して、スッター氏に渡した。

 婚式が始まった。スッター氏は二人に対するはなむけの言葉と、結婚生活のこつについて話した。それは二十分近く続き、稔やヤスミンがあくびを噛み締めるようになってから、ようやく一番メインの儀式に入った。
「アーデルベルト・ヴィルフリード・フォン・エッシェンドルフさん、あなたは四条蝶子さんの夫になりますか」

 ヴィルは「はい」とはっきり答えた。あまりにも迷いがなかったので、蝶子は意外に思ったほどだった。あのパーティでのヴィルの言葉は今でも蝶子の心にくすぶっていて、もしかしたら最後の最後に否定されるのではないかと思っていたのだ。

 蝶子は、ヴィルが自分を見ているのを感じた。同じ返事をしてくれるのを祈るように願っている青い瞳を。

「四条蝶子さん、あなたはアーデルベルト・ヴィルフリード・フォン・エッシェンドルフさんの妻になりますか」

 蝶子は「はい」と答えてからヴィルを見て微笑んだ。

 スッター氏は二人が夫婦になったことを宣言し、蝶子とヴィルに結婚証書にサインするように促した。続いて稔とレネも証人として同じ書類にサインした。蝶子とヴィルはお互いの左の薬指に銀の指輪をはめ、それから短いキスをした。

 後ろでベルンとヤスミンが用意してきたシャンペンを抜いて、グラスに注いだ。それからその場の全員で乾杯をした。
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Category : 小説・大道芸人たち 2
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (2)フュッセン、白鳥の城の下で -2-

しばらく間が空きましたが、「大道芸人たち」の続きです。婚式は無事に終了して、ちゃっかり観光客になっている四人。まあ、ここまで来たらあのお城は入っておきたいですよね。

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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(2)フュッセン、白鳥の城の下で -2-


「で、これが最初のハネムーンってわけか」
稔が笑いながら、ノイシュヴァンシュタイン城を見上げて言った。

「私たちいつも動き回っているんだもの。ハネムーンに行きたいって思い入れはゼロだわ」
蝶子が笑って言った。

「こう、どこかまったく行ったことのないところに旅したいって希望はないんですか?」
レネが訊いた。蝶子とヴィルは顔を見合わせた。

「南米はどうだ?」
「南太平洋の島もいいわよね?」

 それから蝶子はレネと稔の腕を取って言った。
「でも、私たちのハネムーンは特殊なのよ。証人がどこまでもついてこなくちゃいけないから」

「そういうのお邪魔虫って言うんじゃないのか?」
稔が後ろのヴィルを振り返ると、大して迷惑そうにも思っていない顔でヴィルは首を振った。
「特殊といえば、この場合のハネムーナーと証人は、現地で稼がなくちゃいけないんだ。邪魔する時間もされている時間もないよ」

 四人は一斉に笑った。

 ノイシュヴァンシュタイン城に入るためには、やはり予約した時間を待たなくてはならなかった。城前の広場には多くの人々が暇を持て余してたむろしていた。

「ちくしょう。三味線を持ってくればよかったぜ」
稔が言うと、レネはにやりと笑って、ポケットからカードを取り出した。そして、入場時間まで出来た人だかりの前で楽しく稼いだ。

「なんか氣前のいい客が多かったな」
入場がはじまって、城の中に入ると稔がレネにうらやましそうに言った。レネは笑った。
「そうですね。あとでこの儲けで祝い酒を飲みましょう」

「こういうの、どこかで見たような氣がするわ」
蝶子が城の中を見回して訝しげにつぶやいた。

「シェーンブルン宮殿やベルサイユ宮殿ですか?」
レネが訊いた。もちろんどちらもレネは行ったことがなかった。

「違うの。そういう本物のお城じゃなくて…」
「ああ、わかったぞ。東京ディズニーランドだろう」
稔が叫んだ。蝶子も突然納得がいった。

「そうそう。ちょうどそんな感じ。変ね。正真正銘、本物のお城なのに」
「外がディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったって言うけれど……」
ディズニーランドになぞもちろん行ったことのないレネはピンとこずに首を傾げた。

「この金ぴかの装飾がかえって作り物っぽく見えるんだろう」
ヴィルが言った。

 豪華な王座の間の派手な黄金の装飾、ワーグナーの楽劇を再現したという城の中にある洞窟など、通常の城にはなかなかない空間が稔と蝶子にはどうしてもテーマパークの作り物の城に見えてしまうのだった。

「カイザー髭の屋敷の方が、もっと格式あるように見えるよな」
パーティ客でごったがえす広間を見ただけだったが、エッシェンドルフの館の豪華さにはコルタドの館で豪奢になれていたはずなのに度肝を抜かれた。それを思い出して、もっと桁違いのお金がかかっているはずのこの城と比較して稔は首を傾げた。

「ああ、あそこはお金のかかっているものを、効果的に見せるように置いてあるしね」
蝶子も同意した。

「お前、あんなところで生まれ育ったくせに、よく大道芸人になれたな」
稔は感心してヴィルを見た。ヴィルは肩をすくめた。
「俺があそこで暮らした期間は蝶子よりずっと短いんだ」

「ええっ。そうなんですか?」
レネが驚いて訊き返した。

「ずっとアウグスブルグだったって家政婦のマリアンが言っていたわ」
蝶子が言った。

「レッスンの度に電車に乗ってミュンヘンまで行かされた。電車は好きだったな」
「ミュンヘンにそのまま住みたいと思わなかったのか? お前の親父だって知っていたんだろ?」
稔が、それまで訊かなかった分を取り戻すかのように踏み込んだ。ヴィルは特に迷惑している風でもなく答えた。
「いくら父親だと言われても、俺には厳しい教師にしか思えなかったんだ。周りの子供たちの父親というのはもっと別の存在だったからな。たとえばピエールみたいな」

 レネがいくらか氣の毒そうに頷いた。稔はどんなに大金持ちでも、あのカイザー髭と暮らすよりは浅草の家族の方がずっといいと思った。
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Category : 小説・大道芸人たち 2
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (3)バルセロナ、前夜祭

さて、バルセロナに戻っています。まもなく教会での結婚式と、パーティ。準備がたくさんあるのですね。

ちなみに、結婚パーティで新郎新婦がダンスをするのは、わりと普通です。もっとも証人や参列者までもが踊るのは少し珍しいかも。上流社会では多いようですが。いまの若者は、ボールルームダンスよりもっと今どきのダンスが好きなようです。

今回は三千字弱だったので、全部まとめて発表することにしました。来週はお休みして、外伝(記念掌編)を発表することになると思います。


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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(3)バルセロナ、前夜祭


「いたっ、また踏んだわね!」
蝶子が呆れた声を出した。稔も叫んだ。
「悪いっ」

「どうしてこんな簡単なステップが覚えられないのよ」
「パピヨン。最初は無理ですよ」
レネが、稔に加勢した。ヴィルは黙ってワルツを弾き続けていた。

「もう一度、最初から。ねえ、そんなに腰が引けてちゃ、パートナーにステップがわかんないでしょ。ちゃんと足を踏み込んでよ」

「けど、そんなことしたら……」
稔は、蝶子の腰や足に密着してしまうのでうろたえていた。

「何照れてんのよ。ボールルームダンスってのは、そうやって踊るものなの。へなへなしている方がずっとイヤらしいのよ。ちゃんと踏み込まないと、マリサが困るでしょ!」

 トカゲ女ならまだしも、マリサにそんなことをするなんて。そう思っただけで稔は真っ赤になった。

「もうっ。ちょっと横で見ながらステップを覚えなさい。ブラン・ベック、お手本!」

 レネが上手にリードしながら蝶子と踊りだすと、稔は感心して頷いた。そうか。こうやって堂々としていると、傍目にはイヤらしくないんだな。でも、俺にあと三日でここまで踊れるようになれって? 絶対無理だよ。

「明日からは、マリサに来てもらうから。とにかく彼女の足を踏まないようにステップだけでも完璧に覚えなさい!」
蝶子は難題をふっかけた。稔は頭を抱えた。

「おい、テデスコ。なんでヨーロッパ人は結婚パーティでダンスなんか踊るんだよ」
「マリサと手もつないだことないんだろう? 一氣にステップアップできるじゃないか」

 ちくしょう。テデスコとお蝶がワルツを踊っているのを見たことはないが、上手いに決まっている。なんせ、あのアルゼンチン・タンゴを踊れる二人だもんな。ブラン・ベックも余裕の上手さだし、俺だけジャンル違いじゃないか。

「ところで、ヤスミンはいつ到着するの?」
蝶子は、レネに問いかけた。
「今晩、来るって言っていました。イダルゴ、怒っていないかなあ。すっかり無料宿泊所にしちゃって」

「だったら、ブラン・ベックの部屋に泊めれば?」
「とんでもないっ。だったら、僕が廊下で寝ます」
「ふ~ん? 前、私が使わせてもらっていた部屋が空いているもの、あそこに入れさせてもらえばいいわよ。私の洋服とか動かしておこうかな」

「真耶と拓人が着いたら、もう二つ部屋が必要ですよね。そろそろイダルゴに交渉しておきましょうか?」
「あら、それはもう確保済みよ。二階にねえ、アラベスク模様の壁紙の素敵な一対の客室があるのよ。あそこを使わせてくれるんですって。そのかわり、二人はカルちゃんのために二重奏を演奏しなくちゃいけなくなったけどね」

 ヴィルはレネと蝶子が楽しそうに踊っていても、平然とピアノを弾き続けていた。

「なんか、前とえらい違いだよな」
稔がじろりと見た。

「何がだ?」
「ギョロ目とトカゲ女がタンゴを踊っていた時と較べてだよっ」
「そうだな」
ヴィルは余裕だった。

「ヤス! 何さぼっているのよ。さっさとステップを覚えなさい!」
蝶子に叱り飛ばされて、稔はあわててフロアに戻った。

* * *


「ハロー、みなさん。ここ素敵ねぇ、いつもこんなところに居候しているんだ。うらやましいわ」
到着したヤスミンは、物珍しそうにコルタドの館を見回した。レネは嬉しそうに、案内して回った。 

「以前、パピヨンが使っていた部屋を空けてもらったんです。案内しますね」
レネがそういうと、ヤスミンはびっくりしたように言った。
「なんで今さら? もちろん私、レネと同じ部屋に泊まるわよ」
「……」

 真っ赤になっているレネを見て蝶子と稔はくっくと笑った。

「ねえ。これ見て。シュメッタリングに初めて会った時に見て以来、一度この色着てみたかったの」
そういってヤスミンが取り出したのは、朱色の炎が白地の裾に向かってゆくドレスだった。前の方が短くて足が見えるようになっている。

「まあ、すてきねぇ」
蝶子が嬉しそうに近寄った。

「もちろん、シュメッタリングは、今度はこの色じゃないんでしょう? もしそうなら他のドレスを用意しなくちゃいけなくなっちゃう」
「大丈夫よ。私のは別の色だから」

「パーティのドレスは俺とブラン・ベックがプレゼントしたんだぜ」
稔がウィンクした。

「そうなの。カルちゃんがプレゼントしてくれたウェディングドレスも、パーティのドレスもまだヴィルには見せていないのよ」

 蝶子は嬉しそうに、ヤスミンとドレス談義に入った。ヴィルは頭を振って稔やレネとワインを飲みに行ってしまった。

 次の日の午後のダンス練習会には、ヤスミンとマリサも参加した。稔は緊張でカチコチになっていた。救いを求めるように蝶子の方を見た。また、怖い顔をしているのかと思いきや、蝶子は微笑んで親指を上に向けた。それから、フルートをもってピアノの前に座るヴィルの横に立った。

「なんだよ、お蝶。指導しないのかよ」
「もう十分したでしょ。あとは音楽に乗って、マリサを幸せなダンスの世界に連れて行ってあげなさい」

 そういうと、ヴィルに頷いた。ヴィルは蝶子のリクエストに応えて、伴奏を弾きだした。

 あ、『美女と野獣』だ。稔は忘れていなかった。ヴェローナのトネッリ氏のバーで、はじめて二人が共演した曲だ。あの時、いつもケンカばかりしている二人が、まるで恋でもしているみたいに演奏したんでびっくりしたんだったよな。稔は嬉しくなって、緊張を忘れてしまった。マリサに手を伸ばすと、はにかんで嬉しそうに手を伸ばしてきた。特訓のように、精一杯背筋を伸ばしてマリサと正しいポジションを組み、おそるおそる足を踏み出した。

 ぎこちないながらも、稔は少なくともステップを覚えていた。隣でレネがヤスミンと嬉しそうに踊っている。ダンスは、義務ではなくて、パートナーと楽しむためのものだと稔はようやく実感できた。ちょうど蝶子とヴィルが競演を楽しんでいるように。

* * *


「蝶子!」
真耶が抱きついた。挙式前日の午後だった。蝶子はヴィルと一緒に空港に迎えに行った。真耶はヴィオラ以外の荷物を取り落として走ってきた。

「真耶、遠いところをありがとう、疲れたでしょう?」
「全然。興奮して、疲れるどころじゃないわ。招んでくれて本当に嬉しいわ」

「結城さんも、ほんとうにありがとう」
真耶が取り落とした荷物を拾って後ろから来た拓人に蝶子が微笑みかけた。ヴィルは、拓人に握手すると真耶の荷物を受け取って持った。

「おめでとう。こうなるとは予想していなかったな」
拓人が言うとヴィルは珍しく笑った。
「あんたのおかげだ」

「そのわりにはずいぶんかかったじゃないか。あれから一年以上経っているぞ」
「あれから、いろいろあったんだ」

 拓人はヴィルからそのいろいろを聞き出すのは困難だと知っていたので、あとで稔に洗いざらい話させようと思った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (4)バルセロナ、宴 -1-

またしてもしばらく間が空きましたが、「大道芸人たち」の続きです。この「バルセロナ、宴」で浮かれまくっている「ケッコン祭」はひとまず終わります。と言っても長いので3回に分けています。ブツブツと連載が途切れると、読みにくいと思いますので、77777Hit記念掌編の続きはこの3回(とStella用の作品)が終わってからになります。どうぞご了承ください。

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あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(4)バルセロナ、宴 -1-


 カルロスの言葉は嘘ではなかった。稔はコルタドの大聖堂が本当に満杯になっているのをみてのけぞった。前から四列だけはカルロスがリボンを引いて座れないようにしてあったので、招待客がやっと座れるという状態だった。

 領民たちはみな、日曜日用の背広やワンピースを着て、がやがやと座っていた。外には大きなテントがいくつも張られていて、結婚式の後の大宴会用の準備が忙しく行われていた。

 稔とレネは一張羅を堅苦しく着て、通路を一番前に向かった。真耶と拓人がもう座っていて、ここだと手招きした。証人の二人は通路に一番近い最前列に座るのだ。真耶たちの向こう側にはピエールとシュザンヌが晴れ晴れしい笑顔で座っていた。後ろはアウグスブルグの連中で、もうほろ酔い加減なのかと思うほど大声で騒いでいて、時折スペイン人に「しっ」と怒られていた。

 通路を隔てて反対側には、イネスやサンチェスをはじめとする主だったカルロスの使用人たち、それにスペインとイタリアの雇用主たちがすまして座っている。稔とレネは軽く頭を下げて挨拶した。その他の招待客は、クリスマスパーティでなじみになった、カルロスの友人たちだった。

 ヤスミンとマリサの姿は見えない。二人はブライズメイドをつとめるので蝶子と一緒に入ってくるのだ。カルロスの分も含めて三人分の席が、レネたちの反対側に確保してある。

 稔とレネに少し遅れて入ってきたのは、今日の花婿である。モーニングを着ていてもまったく衣装負けしていないのはいいが、フュッセンの時と違って、あまりの大騒ぎに勘弁してくれという顔をしている。もちろん、それを読み取れるのは証人の二人だけである。

 稔とレネは立ち上がって、ヴィルに「がんばれ」と目でサインを送った。ヴィルは淡々と、招待客たちに礼を言ってまわった。アウグスブルグの連中は嬉しそうに固い握手をし、女性陣はその頬にキスをして祝福した。真耶もその一人だった。拓人はがっしりと握手をしてからウィンクした。

 やがて、荘厳なオルガンの音がして、人々の目は一番後ろの大聖堂の入り口に集中した。ここにいる人間の九割がたの領主様であるカルロスが誇らしげに花嫁に腕を貸して入ってくる。美しい花嫁の父親役が出来る役得を大いに楽しんでいた。

 すっきりとしたマーメイドラインは蝶子の完璧なスタイルを強調している。ラインはシンプルだが、表面をぎっしりと覆い、腰から後ろにも広がっている長くて美しいレースが清楚でありながらスペインらしい豪華さだ。顔を隠している長いヴェールにも同じ贅沢な手刺繍がふんだんに使われている。真耶は思わずため息をもらした。

 稔とレネはヴィルの表情が変わったのをみて顔を見合わせて笑った。ほらみろ、テデスコ。教会での結婚式も悪いもんじゃないだろ。さすが、トカゲ女だ。こんな完璧な花嫁はなかなか観られるもんじゃないぜ。それからレネと稔は、マリサとヤスミンに笑顔を向けた。

 一ヶ月前のフュッセンでの婚式でもう正式な夫婦として認められていたので、ヴィルはこの教会の挙式を単なる義務か罰ゲーム程度にしか考えていなかったのだが、それは自分の考え違いだったと認めざるを得なかった。カルロスから蝶子の手を渡された時に、ようやく本当に蝶子と一緒になれたのだと感じた。

 それは美しい花嫁だった。ヴェールの下から見つめる瞳が、強い光を灯している。赤い唇の微笑みはついにヴィルの無表情に打ち勝った。ヴィルは稔とレネが驚くぐらいにはっきりと微笑んだ。

 フュッセンで行った婚式と違うのは、カトリックの結婚式でオルガン演奏と大コーラス付きの聖歌や祈りや、司教による説教などが入っているところだったが、基本的には同じ誓いを繰り返して、二人は宗教上も認められる夫婦となった。

 ヴィルは蝶子のヴェールを引き上げて優しくキスをした。大聖堂は歓声に満ち、二人が大聖堂から出てくると盛大なライスシャワー攻めにあった。そしてテントでは、さっそく領民たちが大騒ぎして飲み始めた。飲めれば何でもいいのは僕たちと同じだな、レネは密かに思った。

 真耶は蝶子に抱きついて祝福をした。
「おめでとう、蝶子!あなたは今までに私の見た一番きれいな花嫁よ」

「ありがとう、真耶。あなたにだけはどうしても来てほしかったの。はい」
そういって、蝶子は白い蘭のブーケを真耶に渡してしまった。

「おい、そのブーケを狙っているヤツはまだこっちにもたくさんいるんだぞ」
稔がヤスミンやその他の女性軍を目で示した。実は、マリサも密かにブーケを狙っていた。

「だめよ。もうもらっちゃったもの。私もここで結婚したいわ」
真耶は微笑んで大聖堂を見上げた。

 拓人が肩をすくめた。
「お前の結婚式がここなら、僕はまたお前と共通した四日連続の休みを見つけなくちゃいけないじゃないか」

「それって、親戚として? それとも音楽のパートナーとして? どういう立場で参列したいわけ?」
真耶は冷たく言い放った。

「もちろん花婿としてですよね」
レネが優しく突っ込んだ。拓人は大聖堂を見上げてうそぶいた。
「ここで挙式するのは、確かに悪くない。カルロスに予約しておこうかな。相手が誰かは別として」

 大聖堂前でいつまでものんびりしているわけにはいかなかった。この後、コルタドの館ではパーティがある。女性陣は着替えなくてはならないし、カルロスや使用人チーム、それに稔やレネ、花婿のヴィルですらやる事がたくさんあった。領民やアウグスブルグチームのように酔っぱらっている場合ではなかった。

「あまりここで飲み過ぎるな。パーティの始まる前に泥酔されると困る」
ヴィルが言ったが、ドイツ人たちはグラスを高く掲げてセルベッサを一息で流し込んでいるだけだった。

「ヤスミン! お前もここに来て飲めよ」
ベルンが誘ったが、ヤスミンは首を振った。
「冗談! ビール臭い息でダンスを踊れっていうの? ドレスだってせっかく新調したのよ」

「だから、女ってヤツは……」
団長がまわらぬ舌で文句を言ったが、ヤスミンはもうその場を去っていた。
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【小説】大道芸人たち 2 (4)バルセロナ、宴 -2-

「大道芸人たち 第二部」「バルセロナ、宴」の続き、3つに分けた2つ目です。

館の中でコース料理の晩餐に招待された人たち、表のテントで振る舞われているビールやタパスで大騒ぎしている人たち、それぞれが楽しんでいます。もちろんごく普通の結婚式ではここまで大掛かりではないですけれど、一応カルロスはこの地域の大領主なので、大判振舞いをしているのですね。領民たちは大喜びで飲みまくっているというわけです。


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あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(4)バルセロナ、宴 -2-


「シュメッタリング! どうしてあなたっていつもそんなにきれいなのよ」
ヤスミンは頭を振った。

「どう、このドレス? ブラン・ベックとヤスの見立てなの。あの二人のセンスって見事じゃない?」

 蝶子は白いリラの花の模様があしらわれた濃い紫のシルクサテンのドレスの裾を広げて見せた。完全に肩を出したデザインは、豪華な中にも清楚だったウェディングドレスと対照的に、蝶子の妖艶な一面を強調している。そこに、アレキサンドライトのきらめくネックレス、イヤリングが星のような高雅さを添えていた。耳の近くにはたくさんの小さい白い蘭が飾られていて、漆黒の髪がより美しく見えた。

「う~ん、これじゃヴィルはイチコロね。さすがシュメッタリングだわ」
「ありがとう。ヤスミンも素敵よ。真夏の太陽みたい。レネはさぞ得意になるでしょうね。こんな素敵なパートナーと踊れるんですもの」

 ヤスミンは嬉しそうに鏡を見た。蝶子の姿をはじめて見た二年前以来、脳裏を離れなかった朱色のワンピース。それをイメージして作ったドレスだ。朱色の炎の形をしたラメ入りの布が腰までたくさん重なっている。広がる白いスカートは後ろは足首まで覆っているが、前は膝の辺りから段階的にフリルで伸びていて、ヤスミンのきれいな足首と朱色のハイヒールがのぞいている。

「自分でも、悪くないと思っていたけれど、ねえ。本当にレネも喜ぶと思う?」
「もちろんよ。きっと見とれてぼーっとしていると思うから、足を踏まれないように氣をつけてね」
蝶子は笑った。

 ドアの外からノックが聞こえた。
「皆さん、揃っています。そろそろお願いします」
サンチェスの声だった。

* * *


「ヤスミン。遅いから心配していたよ。ああ、なんてきれいなんだ。本当に僕と踊ってくれるの?」
ヤスミンはレネの頬にキスをして言った。

「いまからもっと驚くわよ。シュメッタリングったら、本当に最高の花嫁だわ」
「そうかなあ。僕、ずっとヤスミンばかり見ているような氣がするよ」

 レネは、みながざわめき、拍手をして主役の入場を迎えている時も、ずっとヤスミンを見ていた。それでヤスミンはすっかり嬉しくなってレネの腕にもたれかかった。

 稔の方は、腕を組んでしっかりと二人の入場を見ていた。うむ。ちと高かったが、その甲斐はあったな。思った通り、この色はトカゲ女にはぴったりだ。見ろよ、テデスコのヤツ。無表情は返上かよ。淡いピンクの清楚なドレスを着たマリサも夢見るように花嫁と花婿の入場を見ていた。カルロスはニコニコ笑って二人を迎え、蝶子の頬にキスをした。

「いつでもあなたの美しさを賞賛してきましたが、マリポーサ。今日のあなたには讃えるためのたとえすらも浮かびません。本当におめでとう」
「カルちゃん。私こそ、お礼の言葉が浮かばないわ。こんなすばらしい結婚式を本当にありがとう」

 カルロスとヴィルはしっかりと握手を交わした。それから二人は稔とマリサ、レネとヤスミンの四人と抱き合い、キスを交わした。

「本当にありがとう。これからもよろしくね」
「おう。今日は主役を楽しめよ」
「パピヨン。あなたには笑顔が一番です。本当におめでとう」

 それから真耶と拓人だった。
「真耶。あなたをここに招待できるほど親しくなれて、本当に嬉しいの。大学の時には、想像もできなかった事だもの」
「私にとっては、あなたはいつでも特別な存在だったわ、蝶子。あなたが幸せになって、どれほど嬉しいかわかる?」

 拓人はヴィルに言った。
「大変だぞ、これから。なんせ蝶子だからな。頑張れ」
「わかっている」
ヴィルはおどけて言った。

 二人は招待客に次々と挨拶をして、乾杯のグラスを重ねていった。会場は招待客でいっぱいだった。主役の二人はもちろん、稔やレネ、カルロスやサンチェスも忙しくて氣がつかなかったが、アウグスブルグ軍団はその場にいなかった。ヤスミンは首を傾げた。

「団長たち、どうしちゃったのかしら? もしかしてまだテントで飲んだくれているのかな?」

 けれど、カルロスがワインや前菜を勧めるので、劇団の仲間の事はしばらく忘れてしまった。

「あれ。イネスさん!」
レネは大きな声を出した。イネスは緑色のラメのたくさん入ったくるぶしまであるワンピースを着て、きれいに化粧をしてワインを飲んでいたのだ。

「ふふふ。今日は私はお休みなんですよ。ドン・カルロスがダンスに誘ってくださったんです。料理の総指揮はどうするんだって訊いたら、カデラスさんやモンテスさんのところのシェフが来てくださって、私は何もしなくっていいんですって」

「そうか。イダルゴが父親代わりなら、イネスさんはパピヨンの母親代わりですよね」
レネはカルロスがイネスをダンスに誘った事を嬉しく思った。やはりイネスさんはただの使用人以上だよなあ。


「ヤスミン、ヤスミン」
戸口の側で、呼ぶ声がしたのでふとそちらを見ると、真っ赤になってふらふらしているベルンだった。

「ちょっと何してたのよ。団長やみんなはどこ? もう乾杯、終わっちゃったわよ」
「いいんだ。俺たちはテントのおっさんたちと意氣投合したから。ところで、新郎新婦の部屋を教えてくれよ」

「待ってよ。なんか企んでいるんでしょ」
「もちろん。初夜を忘れられないものにする演出の手伝いだよ。いつだってやるだろ?」
「いいけど、高価なものを壊さないようにしてよ。あなたたち、やけに酔っぱらっているみたいだから」

 そういってヤスミンは二人の使っている寝室を教えた。そのすぐあとに晩餐のために食堂に移動するからとレネに呼ばれた。本当は連中が何をやるか見届けるべきだったのだが、その夜のヤスミンにはやることがたっぷりあって、劇団仲間の企みのことはすっかり忘れてしまったのだ。

『カーター・マレーシュ』のメンバーたちはおびただしい量の風船を持ってきていた。外のテントで領民の男たちの前で、つぎつぎとそれを膨らましていたら、何をするつもりだと訊かれた。

 訊かれたのだと思う。領民たちはカタロニア方言でしか話さなかったし、アウグスブルグチームはバイエルン方言で応答した。しかし、彼らはプロの俳優の集団だった。言葉なんか通じなくとも、パントマイムと紙に絵を描く事で、これから何をしようとしているか、簡単にオヤジたちに理解させた。そして、オヤジたちは、そのアイデアが非常に氣にいったらしく、協力すると言ってきかなかった。

 大量のセルベッサですっかり酔っぱらったバイエルン人とカタロニア人は、氣が大きくなって、当初のもくろみを大きく超えて新郎新婦を驚かせようとしていた。彼らはセルベッサを飲んでは、風船を膨らませ、かわりばんこに館に入り込み、招待客たちが粛々と晩餐を堪能している間にどんどん準備を進めた。

 田舎のカタロニア人は、こういう場合のやっていい事の限界というものを知らなかったし、酔っぱらった若きバイエルン人はやっていい事といけない事の限界が曖昧になるのが世の常だった。

 食堂では、晩餐がたけなわだった。普段は大きな部屋の中央に置かれた巨大なテーブルの端でこじんまりと食事をしているのだが、大きなテーブルをさらに三つ入れて、そこに八十人近くの人間がぎっしりと座っているさまは壮観だった。カタロニアの素朴な香りも取り入れながらも、洗練された料理は、モンテス氏の自慢のシェフ、ホセ・ハビエルが指揮していた。カルロスの選んだ極上のシェリー、ワインも招待客たちを感心させた。

「ヤスミン。団長たちを見なかったか?」
ヴィルが一度心配して訊いた。ヤスミンは言った。
「それが、テントでおじさんたちと意氣投合して泥酔しちゃったみたいで、こっちには来れないみたい……」

「そうか。やっぱり」
ヴィルがため息をつくと、稔やレネはクックと笑った。
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【小説】大道芸人たち 2 (4)バルセロナ、宴 -3-

「大道芸人たち 第二部」「バルセロナ、宴」の続き、3つに分けたラストです。これでひとまず蝶子とヴィルの浮かれた結婚式の騒動はおしまいです。

このストーリーには、「現在この異国に住んでいるからこそ書ける小さな知識を散りばめよう」という仕組みがあるんですけれど、この結婚式にも日本の結婚とは少し違う面が所々顔を見せています。「新郎新婦の友人が、二人を驚かせる」というのもその一つなんですが、これも国によって違いがあるようです。ドイツ語圏ではわりとやるみたい。必ずと言うわけではないですけれど。もちろんここに書いたのは小説ですから「やりすぎ」です。よい子は真似をしないように。

ウィーン旅行のあと、来週から、Stella用作品や、77777Hit記念掌編を少しはさむのでこの作品の続きは少しお預けです。


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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(4)バルセロナ、宴 -3-


 晩餐が終わると、再び広間に移り、舞踏会が始まった。最初はもちろん新婚カップルによるダンスである。

 茶色の絹に金色のオーガンジーで覆われたシンプルで優雅なドレスをまとった真耶が、拓人に付き添われて、バンド・オーケストラの前に立った。グランドピアノに座った拓人の合図で、二人は静かにタレガの『グラン・ヴァルス』を奏でだした。

 その音に合わせて、人々の前に進み出た蝶子とヴィルはゆっくりとワルツを踊りだした。リラックスして踊っているようでいて、プロ顔負けのステップが続く。

 稔は腕を組んでうなった。う~む。お前ら、かっこ良すぎるぞ。まずいな。このあとはブラン・ベックたちと俺たちが加わんなくちゃいけないんだけどなあ。

 真耶と拓人の演奏に、オーケストラが重なりだした。稔は覚悟を決めて、マリサの手を取ってフロアに進み出た。レネとヤスミンはすでに二人の世界に入っている。まだ、人々の目が蝶子とヴィルに釘付けになっているのをいい事に、稔は思ったよりもずっとリラックスしてマリサと踊る事が出来た。

 そして、カルロスとイネス、サンチェス夫妻、ピエールとシュザンヌも次々と踊りの輪に加わり、招待客がみな踊りだしたので、フロアはあっという間にいっぱいになった。次の曲からは拓人と真耶も踊る方に参加した。

 オーケストラは、ワルツだけでなく、スローフォックストロット、タンゴ、クイックステップ、マンボ、チャチャチャを演奏した。レネは疲れない程度に、まんべんなく踊っていた。稔はワルツとタンゴしか踊れないので、それ以外では休んでいた。そのうちにマンボやチャチャチャの時はギターでオーケストラに参加しだした。

 真耶や拓人もおもしろがってそれに加わり、ヴィオラの響くタンゴや、ピアノの率いるクイックステップなどが華やかに場を彩った。いつの間にかフルートの音まで聞こえだした。

「何やってんだよ、お前」
稔がヴィルに訊くと、ヴィルはフルートでカルロスと踊る蝶子を示した。

「なんだよ、花嫁とられたのかよ」
稔は呆れたがヴィルは氣にも留めていないようだった。

 そのしばらく後では、蝶子と拓人が演奏していて、ヴィルは真耶と踊っていたし、しばらくするとヴィルはイネスと踊っていた。稔はヤスミンにダンスの稚拙さについてさんざん言われながらも一緒に一曲踊ったし、マリサはヴィルやレネやカルロスとも楽しく踊っていた。

 舞踏会は二時まで続いた。ようやく客たちが帰り始め、氣がつくと外のテントの方も静かになっていた。稔はマリサを送っていくという口実を使ってとっくに消え、レネはお開きになった途端にヤスミンにとっとと部屋に連行された。

 他の泊まっていく客たちも広間を去り、カルロスが最後の客を玄関へ送っていったあと、使用人たちやサンチェスやイネスをねぎらった。三時を過ぎていた。

 自分もそろそろ寝室にと思って新婚カップルの姿を探すと、バルコニーの方からフルートの二重奏が聞こえてきた。ドップラーの『アンダンテとロンド』を吹く二人の姿は幸せそのものだった。それで、カルロスは何も言わずに二人をそのままにしておいた。

 幸福に酔いながら、部屋についた二人は、寝室のドアを開けた途端に笑顔を凍り付かせた。

 一番最初に目についたのは自転車だった。

 その奥にはなぜか巨大なハモン・セラーノ、つまりまだ切り出してもいない生ハム。部屋から溢れ出してくるほどうずたかく積まれたカラフルな風船、館の外に置いてあったはずの大きな竜舌蘭の鉢が部屋のあちこちで風船の間から顔を出していた。それにハンググライダー、バケツ、トウモロコシ、切り株、セルベッサの樽、生のタコの泳ぐ水槽、闘牛の頭の剥製、その他、寝室にあってしかるべきでないありとあらゆるものが詰め込まれていた。ベッドに辿り着くどころか、入り口から五歩ですら入れそうになかった。

「『カーター・マレーシュ』の連中だ…」
ヴィルは呆然としていった。蝶子は爆笑したが、すぐに途方に暮れた。この状態では、ベッドにたどり着くためには相当の時間をかけて片付けなくてはならない。助けを呼びたくても、三時半では良い返事は期待できない。

 ヴィルは黙って蝶子の手を取って、広間に戻りだした。
「あそこに大きなソファがあったものね」

 蝶子はけらけら笑った。眠るのにベッドは必要なかった。立ってでも寝られるほど蝶子はくたくただった。

「すごい一日だったわね」
そういって、蝶子はヴィルの腕にしがみついたままソファに倒れ込んだ。

「そうだな」
ヴィルが答えた時には、蝶子はすでに寝息を立てていた。

 ヴィルは蝶子の露出している肌を見た。このままでは風邪を引く。どこかから毛布でも調達してこなくては。そう思ってソファから立ち上がろうとした時に、蝶子が寝ぼけてドイツ語で言った。
「いっちゃダメ」

 ヴィルは、自分の胸に顔を埋めて幸せそうに眠る蝶子をしばらく見つめていたが、あきらめてゆっくり上着を脱ぐと蝶子の上に掛けた。それから、漆黒の闇がわずかに紫色に変化していく東雲どきの空を朧げに感じながら、蝶子の平和な寝息に耳を傾けていた。


 朝になって、昨夜のベルンの言葉を思い出したヤスミンは、あわててレネと一緒に二人の寝室を見に行き、開け放されたドアからその惨状を見た。くらくらしながら見つからない二人を探しに階下に降りていくと、広間の入り口にいた稔が人差し指を口に当てた。そっとのぞくと、ソファの上でヴィルと蝶子が寄り添いながらこれ以上ないほど幸せな様子でぐっすりと眠っていた。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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二人が吹いていた二重奏、ドップラーの『アンダンテとロンド』はこの曲です。もともと私が聴いていたランパルの動画があった! といっても本当に音だけです。


Andante and rondo, op. 25 - Franz Doppler
Performed by Jean Pierre Rampal and Claudi Arimany with John Steele Ritter


あ、拓人と真耶が弾いたタレガの『グラン・ヴァルス』というのは、「ノキア・トーン」として有名なノキア社の携帯電話のデフォルト着信音の元になった曲です。つまりヨーロッパでは知らない人はいないメロディ(笑)


Francisco Tàrrega - Gran Vals (Versiòn orquesta)
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【小説】大道芸人たち 2 (5)ミュンヘン、弔いの鐘 -1-

しばらく記念掌編や企画ものを続けて発表していたので、「大道芸人たち 第二部」ずいぶん空いてしまっています。チャプター1はまだ終わっていません。「教授は第二部もでてくるんですか」という質問にうやむやな回答を続けていましたが、ここでようやくはっきりしましたね。

今回も、長いので、3つに分けています。


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あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(5)ミュンヘン、弔いの鐘 -1-


 サンチェスの持ってきた電報をじっと見ていたヴィルに、蝶子が心配そうに声をかけた。
「どうしたの?」

 ヴィルは黙って、電報を蝶子に渡した。差出人はエッシェンドルフ教授の秘書のマイヤーホフだった。蝶子の電報を持つ手が震えた。
「チチウエ シス シキュウ レンラクサレタシ」

 ヴィルはカルロスに電話の使用許可を求めた。そして、マイヤーホフにではなく、ミュンヘンのシュタウディンガー博士という医者の診療所に電話をかけた。またしても父親の策略ではないかと思ったからだ。

「アーデルベルト・フォン・エッシェンドルフです。シュタウディンガー先生とお話ができませんか」

 博士は不在だったが、診療所の指示で博士の携帯電話にかけ直した。
「アーデルベルト君か。よく電話してくれた。いま、私はちょうど君のお父さんの館にいるんだ。そうだ。本当にお父さんは亡くなった。心臓発作だ。マイヤーホフ君がどうしても君と連絡を取りたがっている。ここにいるから話してくれないか」
「替わってください」

 ヴィルはしばらくマイヤーホフと話していたが、電話を切ってから蝶子に言った。
「ミュンヘンに行かなくてはならない」

「わかったわ」
「向こうに着いたら、すぐ連絡する。あんたはここにいるんだ」

「連絡がこなかったらまた迎えに行くから」
ヴィルは蝶子の頬に手をやって頷いた。

「で、行っちゃったのかよ?」
マリサとのデートから帰ってきた稔は驚いて言った。

「そうなんです。ミュンヘン行きの飛行機をサンチェスさんがすぐ手配してくれたんで」
レネがイネスの作ったチュロスを食べながら言った。

「大丈夫なのか? またしてもカイザー髭がなんか企んでいるんじゃないのか?」
稔はとことんエッシェンドルフ教授を信用していない。蝶子はそれももっともだと思った。

「信頼できるお医者さんが、本当に亡くなったっておっしゃったみたいなの。でも、連絡がこなかったら、迎えにいかなくちゃいけないでしょうね」
「おいおい。二ヶ月に三回もバイエルンとバルセロナ往復かよ」
「ごめんなさいね。私たちのことで振り回して」

「いいけどさ。だけど、テデスコは複雑な心境だろうな。いくら逃げ出したとは言え父親だからな」
「パピヨンも、大丈夫ですか?」
レネが蝶子を心配した。
「ショックなのは確かだけれど、でも、ヴィルの方が心配だわ」

* * *


「まあ、アーデルベルト様」
家政婦のマリアンが半ば泣いているように迎えでた。

「マイヤーホフはここにいるのか」
「はい。先ほどから応接室で顧問弁護士のロッティガー先生と一緒にお待ちです」
「そうか」

 ヴィルは応接室に向かった。
「お待たせしました」

「ああ、アーデルベルト様、お待ちしていました」
マイヤーホフは心底ほっとしたようだった。
「二度と戻ってくるつもりはなかったんだが」

 ロッティガー弁護士とマイヤーホフのお悔やみの言葉を、ヴィルは軽くいなして、先を続けさせた。
「先日、フロイライン・四条あてに招待状を送ったときの指示メモが残っていたのが幸いでした。アーデルベルト様がみつからなかったら、葬儀も今後の使用人の身の振り方もお手上げなんですよ。他に取り仕切る権限のある方がまったくいませんからね」

「あんたがすればいいじゃないか」
「私は単なる使用人です。法的にも全く何の権限もないんです。たとえば、もう銀行預金が凍結されているので葬儀の準備も私どもでは手配できません。かといって先生ほどの方の葬儀をしないわけにもいきません。また、月末までこういう状態だと、全使用人が給料をもらえませんしね」

 マイヤーホフの言葉に頷いてロッティガー弁護士は続けた。
「アーデルベルト君。君は、お父様の死で自動的にこのエッシェンドルフの領主になったんですよ。わかりますか」
「俺は、親父が遺言状をとっくに書き換えたと思っていましたよ」

 弁護士は首を振った。
「エッシェンドルフ教授があなたが十四歳の時に作成した遺言状は一度も変更されていません。つまり、あなたを跡継ぎとしたその遺言が有効なのです。もちろん、あなたには相続を辞退する権利もありますが、少なくとも葬儀並びにすべての手続きが終わり、彼ら使用人の身の振り方が決まるまでは、煩雑な義務の山からは逃れられないんですよ、残念ながら」

「もちろん、このまま我々が新しい職場を探さずに済むなら、それに超したことはないのですが……」
マイヤーホフが小さく付け加えた。ヴィルはため息をついた。
「わかりました。とにかくすべきことをしましょう」

「なぜこんな急に親父は死んだんだ? 心臓が悪かったのか」
弁護士が帰ると、ヴィルはマイヤーホフに訊いた。

「いいえ。時々不整脈がある程度でしたが、もともと大きな発作があったわけではないのです。それが……」

 マイヤーホフは言いにくそうにしていたが、意を決したように顔を上げた。
「申し上げておいた方がいいでしょうね。どうぞこちらへ」
そういって教授の書斎にヴィルを案内した。そして、デスクの上にあった一枚の書類を見せていった。

「実は、遺言状のことをもう一度きちんと検討したいとおっしゃって、私にいくつかの書類を用意するようにお申し付けになったのです。それで、言われたように準備してお渡ししたところ、これをご覧になって非常にショックを受けられ、それで発作を……」

 それはヴィルの、つまりアーデルベルトの家族証明書だった。結婚したばかりの妻、蝶子の名前が記載されていた。ヴィルは黙ってそれを見ていた。つまり、これが原因で命を落としてしまったというわけか。

「じゃあ、親父は遺言状を変えるつもりだったんだな」
「検討したいとおっしゃっただけです。どうなさるおつもりだったかはロッティガー先生も私も伺っていません」

「だが、あんたたちは、俺が相続するのは腹立たしいだろう。そんな事情では」
「どういたしまして。代わりに私を相続人に指定すると言われていたなら悔しいでしょうが、そんなことはあり得ませんからね。私としては、見知らぬ方に放り出されるよりは、これまでのことを知っているあなたに公正な処遇をしていただくのを期待したいわけでして」

「とにかく、葬儀を進めよう。相続については、いますぐは決められない。もちろん、あんたたちの給料が出ないままなんかにはしておかないから安心してくれ」
「それを聞いて安心しました」
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (5)ミュンヘン、弔いの鐘 -2-

3つに分けた「ミュンヘン、弔いの鐘」の第2回です。この4人、いろいろなことを
多数決で即決していくのに慣れていて、今回も大切なことをあっさりと決めています。人生には、時おりこういうことがあります。本当はもっとじっくり考えて決めたいけれど、そういう大問題ほど急いで決めなくてはならないのですよね。そして、後で「あの時がターニングポイントだったんだな」と思ったりするのかもしれません。


「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(5)ミュンヘン、弔いの鐘 -2-


「ヴィル? ああ、よかった。連絡がこないので心配していたのよ」
「蝶子。あんたと早急に話をしなくてはならない。だが電話で話せるようなことじゃない。葬儀まではやることがありすぎて、俺はスペインには戻れない。たぶん、あんたはここには来たくないだろうが、ミュンヘンか、それとも少なくともゲルテンドルフあたりにでも来てくれないか」

「いいわよ。明日、そっちに行くわ。平氣よ。迎えなんかいらないわ。道はわかっているもの」
そう答える蝶子を横目で見て、稔とレネは顔を見合わせた。

「行くのかよ」
電話を切った蝶子に稔が問いかけた。

「なにかとても大切な話があるんですって」
「なんだよ、それ。大丈夫なのか?」
「危険があるようには聞こえなかったけれど」

 蝶子の答えに、レネは心配そうに眉をひそめた。稔はじっと考えていたが、やがて言った。
「俺たちも行こう。もしかしたら助けが必要かもしれないし。もし、俺たちに用がなければ、俺たちはミュンヘンで稼げばいいじゃないか」

 レネも力強く頷いた。蝶子はほっとして笑った。
「またサンチェスさんに予約をお願いしてくるわね。すぐ出られるようにしてね」

「今度は、三味線持っていくぞ」
「ミュンヘンに行くって、ヤスミンに電話してこようっと」
三人はばたばたと行動に移った。

* * *


 翌日の午前の便が取れたので、二時にはもう三人はエッシェンドルフの館の前にいた。

 館に行くこと自体は怖くなかった。教授がもういないなら恐れるものはなかった。けれど、使用人たちの前にどんな顔をして入っていっていいのか、蝶子にはわからなかった。

「いいか。俺たちは外で待機している。三十分経ってもお前が戻ってこなかったら、突入するから」
蝶子の緊張の面持ちを見て、稔は言った。蝶子は笑った。
「心強いわ。行ってくるわね」

 以前と同じように手入れの行き届いた石畳の小道を通って、蝶子は玄関に向かった。意を決して呼び鈴を鳴らす。出てきたのは喪服を着たマリアンだった。

「まあ、蝶子様。ようこそ。アーデルベルト様がお待ちですわ」
「ありがとう、マリアン」

「あの、こんなときですけれど……」
「え?」
「ご結婚、おめでとうございます」

 蝶子は困ったように笑った。マリアンは皮肉ではなくて本心から言っているようであった。
「ありがとう」

 そうやって話している時に、階段の上からヴィルが降りてきた。やはり喪服を着ていた。
「蝶子。悪かったな。呼び出したりして」

 蝶子はヴィルに耳打ちした。
「あのね。ヤスとブラン・ベックも来ているの。私が三十分以内に安全に姿を現さない場合、強行突入するって手はずになっているの」

 ヴィルは少しおかしそうに顔を歪めて、そのまま玄関に向かい、外の二人を呼び寄せた。
「大丈夫だ。何の危険もない。今回は丁重に扱ってもらえるぞ。俺たちの待遇は改善されたんだ」

 二人は肩をすくめて、中に入ってきた。
「俺たち、心配だったから一応ついてきたけれど、なんでもないなら英国庭園あたりで稼いでいるぜ」

 稔の言葉にレネも頷いた。だがヴィルは頭を振った。
「いや、あんたたちにも一緒に聞いてもらいたい話なんだ。とにかく俺たちの今後のことに大きく関わってくる話だから」

 そういうと、ヴィルは三人を連れて応接室に向かった。途中で、マリアンに声をかけた。
「この二人のために、寝室を二つ用意しておいてくれないか」

「わかりました。二階の東の二部屋の準備をしておきます」
「ありがとう」

 応接室は広く、優雅な調度が置かれていた。がっしりとした座り心地のいいルイ十六世様式の椅子や重厚な飾り棚が、いかにもドイツという感じで、同じ裕福な館でも華やかで異国的な要素の強いバルセロナのコルタドの館とは好対照だった。

 ヴィルは重い扉を閉じると、棚からアクアヴィットの瓶と小さいグラスを四つ取り出してきた。
「一ダースも注文したのに、あの晩俺が一口飲んだだけで誰も手をつけていないんだ」

 レネがにっこりと笑った。
「まだ、飲んだことないんですよ」

「販売しているのにか?」
「あれが最初で最後の販売だったんで」

 四人はグラスを合わせて、その透明の酒を飲んだ。
「うげ。強い」
稔は目を白黒させた。レネは咳き込んだ。

「これ、12本もあるわけ?」
蝶子も氣が遠くなる思いがした。ヴィルだけが平然と飲んでいたが、一杯でやめて、代わりに白ワインを持ってきた。

「それで?」
蝶子がヴィルの顔を見た。

「俺は今、選択を迫られている。つまり、相続するか放棄するか」
「お蝶はともかく、俺とブラン・ベックに相談する必要はないだろう?」
稔はあっさりと言った。

「そういうわけにはいかない。Artistas callejerosの今後にも関係がある」
ヴィルは答えた。

「それはつまり、相続したら、お蝶とテデスコが抜けるってことか?」
稔の言葉に蝶子はびっくりしてヴィルの顔を見た。

 ヴィルは即座に首を振った。
「抜けるわけはないだろう。だが、活動には影響が出る。もらうのは単なる銀行預金ではないので、受け取るだけ受け取って、年中ほっつき歩いているわけにはいかなくなる」

「というと?」
「コモやバロセロナ、それにマラガの仕事をするぐらいは問題ない。また、秋にピエールを手伝うのも問題なくできる。だが、それ以外は半分くらいになるだろうな。月に一度、数日間はここに戻らなくてはならないだろうし、お偉方とつきあわなくてはならないことも増えると思う」

 蝶子はほっとした。思ったほど悪くないじゃない。
「相続したほうがいいと思う理由もあるんでしょう?」

 蝶子の言葉にヴィルは頷いた。
「以前、大道芸人は若くて健康でなければできないという話をしただろう。今は自由で氣ままな旅さえできればそれでいいが、そのうちに体が利かなくなる。その時に四人とも安心していられる」

「カルちゃんにたかってばかりいる状況も改善できるわね」
「そうだ、それが二つ目だ。彼の事業に協力することも可能になる」

 蝶子はそんなことは考えたこともなかったが、確かにそうかもしれないと思った。

「それから、三つ目だ。俺はあんたたちの才能を街角の小銭集めだけで終わらせるのは残念だと常々思っていた。俺が相続すれば、俺たちの活動の可能性がもっと広がる」

 ヴィルは稔、レネ、それから蝶子の顔を順番に見た。
「だったら、どうして相談する必要があるんだ?」
稔が訊いた。

「これは俺の考えで、あんた達がどう考えるかはわからないからだ。もしこの相続で、Artistas callejerosが壊れるなら、俺は相続を辞退するつもりだ。それほどの価値はないからね」

「いまのところ、壊れるようなことは考えられないよな。先のことはわかんないけれど、俺たちの氣持ち次第で続きもするし、壊れもするんじゃないかな。とくにマイナス要因はないよ。相続すればいいんじゃないか?」
稔が言った。レネも手を挙げて賛成の意を表した。

 ヴィルは蝶子の方を見た。
「あんたには、反対する他の理由があるだろう。ここに関わるのはイヤなんじゃないか?」

 蝶子は少し間を置いてから首を振った。
「日本の諺に『毒を食わらば皿まで』っていうのがあるのよ。こうなったらどんな恥を上塗りしても同じだわ。利点の方が大きいもの、私は意義なしよ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (5)ミュンヘン、弔いの鐘 -3-

3つに分けた「ミュンヘン、弔いの鐘」の最後です。日本でもクラスというのはあるんですが、ヨーロッパだとそれがもっとはっきりしているような思います。お金があるとか、大学に行ったとか、そういう違いの他に、もうひとつ目に見えない壁があるように思います。

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(5)ミュンヘン、弔いの鐘 -3-


 ヴィルは大きく頷いた。

「俺の住所はここに移さなくてはならなくなる。必然的に蝶子もそうなるだろう。よかったら、あんた達二人も、一緒にしておかないか」

「僕に異議はありません。ドイツでもスペインでも」
「あんたがヴィザを用意してくれるなら、俺にも異存はないぜ」

「すぐにスペイン人と結婚するんじゃないの?」
蝶子がちゃかした。

「ヴィザやパスポートのために色仕掛けはしないって言っただろう」
稔が混ぜっ返した。

「パスポートといえば、俺とあんたのは書き換えになる」
ヴィルが蝶子に言った。

「なんで、またパスポートを書き換えるの? 先々週、書き換えたばっかりじゃない」
蝶子は訊いた。

「名前に称号が加わるんだ」
「は?」
「相続するとなると、領土やこの館だけでなくて、爵位もまとめてなんだ」

「え? ただのお金持ちじゃなくて、本当に貴族だったの?」
蝶子は驚いて言った。

「大した称号じゃない。イダルゴのと変わりない。ただ、パスポートにはそう書かれるんだ」
「なんて?」
「あんたは蝶子・フライフラウ・フォン・エッシェンドルフになる」
「あら。教授についてたフライヘルってのは三つ目の名前じゃなかったのね」

「フライヘルってなんだ?」
稔が訊いた。

「英語でいうとバロン、男爵だ」
「へえ、男爵に男爵夫人かよ。すげえ」

「だから、フランス警察が慌てたんですね」
レネも感心していった。

「そういう称号を持った人間が大道芸人なんてしていいわけ?」
蝶子が疑わしそうに訊いた。

「ダメだという法律はないと思うが、ミュンヘンではおおっぴらに公道には立たない方がいいだろうな」
「やっぱり」

「そうだよな。俺たちはこれからでもいつでも英国庭園で稼げるけれど、お前はもう絶対に無理だよな」
「そうね。ちょっと残念。そうと知っていたら例のパーティの前にでもやっておいたのに」

「そんなにあそこで稼ぎたければ、そのうちに『銀の時計仕掛け人形』をやればいい」
ヴィルはすましてワインを飲んだ。

 三人はにやりと笑った。広大な領地を相続しようが、男爵様になろうがヴィルは変わる氣はまったくなさそうだった。

「さてと。今朝の新聞に死亡広告が出たからそろそろ弔問客がぞろぞろやってくる。あんたと俺は、好奇の目にさらされるだろう。覚悟しておいてくれ」

「わかっているわ。こうなったら隠れているわけにいかないもの。私も喪服に着替えてこなくちゃ。まだあるといいけれど」
蝶子は、逃げる時に置いて行った喪服のことを考えた。

「あんたのものはみんな残っている。例の真珠は金庫の中だ。今すぐいるか?」
「まさか。あんなすごい真珠は、葬儀の日だけで十分よ」
結局、教授にもらったプレゼントを再び使うことになっちゃうわね、蝶子は複雑な心境だった。

「俺たちは、どうしている方がいい? さっさとスペインに帰った方がいいか、葬儀までここにいてなんか手伝いをするか」
「ここにいるといい。あんたたちがいるほうが、蝶子も氣が楽だろうから」
ヴィルはそういって出て行った。マイヤーホフが指示を待っているので、のんびりとはしていられなかった。

「大変だなあ。ただの葬式だって、てんてこまいなのに、男爵様の葬式だもんな」
「しかも、失踪していたのに突然呼び出されてですからねぇ。こんな複雑な事情のお葬式、滅多にないかもしれませんね」
稔とレネはひそひそと話した。

 あのヴィルがワインを空にしないで行ってしまった。もったいないから、飲んでしまおう。稔とレネは勝手に解釈して、応接室に残って飲んでいた。

 ヴィルはすぐにミュラーに頼んで仕立て屋を呼んでもらった。仕立て屋は、目を丸くしている稔とレネの寸法をさっさと測り、翌日には二人分の喪服が届けられた。

* * *


 弔問客の中には、市長夫妻をはじめ、あのパーティに招待されていた人々がいた。再び失踪したという噂のアーデルベルトが館に帰っている事には驚かなかった。上流社会ではそういう話は珍しくない。しかし、そのアーデルベルトが、「あの女」と結婚していたという事実には驚愕した。それだけでなく、あの時にアーデルベルトに殴り掛かりそうになっていた、「あの女」の連れの日本人が、喪服を着て葬儀の手伝いをしている。市長夫人は、しばらく瞬きも忘れ、用意してきたお悔やみの美辞麗句を思い出す事も出来なかった。

「わざわざお越しいただきましてありがとうございます、市長夫人。こちらは妻の蝶子です」
アーデルベルト・フォン・エッシェンドルフは、まったくの無表情で妻を紹介した。蝶子は悪びれた様子もなく「はじめまして」と手を出した。それで、市長夫人は、我に返って態度を取り繕った。

「それから、こちらは私どもの親しい友人で、安田氏とロウレンヴィル氏です」
「はじめまして」

 稔とレネも英語で澄まして挨拶した。パーティにいた客たちの呆け面が、判を押したようだったので、彼らが帰る度に稔は別の部屋に隠れて身をよじって笑った。

 ヴィルは、葬儀の厳粛で沈痛な雰囲氣のうちに、蝶子を出来るだけ多くの人間に紹介してしまうつもりだった。ただの社交の中では意地悪い扱いをしようとする人たちも、弔問中には攻撃の手を緩めざるを得ない。この場で優しく「よろしく」と言わせてしまえば、あとはこっちのものだ。

 ヴィルは社交界に積極的に進出するつもりはなかったが、まったく関わらないままでいる事も出来ないのをよくわかっていた。稔とレネも、この際に社交デビューさせてしまえば、あとで彼らが常に側にいる事を、使用人たちを含め、誰にも文句を言わせずに済む。それがヴィルの狙いだった。

 市長夫人はゴシップ女だったらしく、翌日からどう考えても教授と親交があったとは思えないご婦人方が興味津々の心持ちを喪服に包んで、弔問に押し掛けた。教授の音楽の知り合い、弟子たちも次々とやってきた。中には教授に婚約者として蝶子を紹介された事のある人たちもいた。蝶子もヴィルも平然と好奇の目に耐えた。

「僕にはとても我慢できないでしょうね」
レネはヤスミンに打ち明けた。

「そうね。きっとある事ない事言われるんでしょうね。頑張っているわ、二人とも」
ヤスミンは喪服を持参して手伝いにきていた。

「でも、これをやっちゃった方がいいっていうテデスコの判断は間違っていないよな」
稔はようやく慣れてきたアクアヴィットをちびちびとなめながら言った。

 受け取るのは銀行預金だけじゃない。あのときのヴィルの言葉は、こういう事も含んでいたのだ。稔やレネにとってはなんのデメリットもないヴィルの相続だった。だが、こうなってみてはじめて、稔は蝶子とヴィルが戦わざるを得ない事を知った。二人ともそれに耐えうる強靭な神経を持ち、自分たちの人生を切り開けることも。

「フロイライン・四条」
マイヤーホフが、つい以前呼んでいたままの呼び名で蝶子を呼んだとき、ヴィルははっきりと訂正した。
「フラウ・フォン・エッシェンドルフだ」

 その調子が珍しく厳しく、それを感じたマイヤーホフは、平謝りして氣の毒なほどだったので、蝶子は言った。
「蝶子と呼んでくださっていいのよ」

 マイヤーホフはヴィルに対してはファーストネームで呼んでいるのを知っていたからだ。けれど、マイヤーホフは蝶子に親しみを示そうとしなかった。蝶子はそれでマイヤーホフにわだかまりがあるのを知った。ミュラーもそうだった。

 マリアンは蝶子に同情を示していた。いずれにしてもマリアンはエッシェンドルフ教授よりもヴィルの方がずっと蝶子にお似合いだと昔から思っていたのだ。二人が出会うずっと前から。

 いつの間にか、マイヤーホフとミュラーは蝶子を「フラウ・シュメッタリング」と呼ぶようになった。ヴィルは二人の前ではいつも蝶子と呼んでいたので、彼らにしてみれば教授の呼び方を踏襲した嫌みな呼び方のつもりだったのかもしれないが、かつてはヴィルが、今はヤスミンが「シュメッタリング」の呼び方を使っていたので、蝶子にはなんともなかった。

 葬儀には、たくさんの弔問客が来た。二人を力づけようと、ヤスミンはアウグスブルグ軍団に連絡を取り、劇団員が山のようにやってきた。カルロスとサンチェス、それにイネスとマリサ、カデラス氏やモンテス氏もやってきた。稔とレネももちろん二人の近くにいた。

 マイヤーホフや教授と親しかった人たちは、エッシェンドルフが変わり、これまでとは違っていることをはっきりと知った。アーデルベルト様は亡くなられた旦那様のコピーでいるつもりはまったくないのだ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (6)ミュンヘン、鍵盤 -1-

「大道芸人たち Artistas callejeros 第2部」のチャプター1だけを先行公開することにしましたが、これがその最後の部分になります。残りの部分については、おそらく来年以降の公開になります。ひとまず落ち着くところに落ち着いて、四人は新たな環境の中で彼ららしさを模索して行くことになります。

今回も二つに分けました。今回はヴィルの子供時代のことですね。


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あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(6)ミュンヘン、鍵盤 -1-


 グランド・ピアノのふたを開けて、ヴィルは軽く鍵盤に触れた。いまやそれは彼のピアノだった。はじめてこのピアノに触れた時の事をヴィルは憶えていた。まだ十歳になっていなかった。

 母親の小さなアパートメントにまったく不似合いないかめしい髭の男がやってきたのは、その一週間前の事だった。

 男がやってきた時に、母親はヴィルにフルートを吹かせ、それから居間の小さなアップライト・ピアノで数曲弾かせた。それまですぐにでも立ち去りそうにしていた男は、演奏を聴くと態度を改めた。

「フルートを吹くのは好きか」
男は、威厳ある様子で訊いた。ヴィルは小さく頷いた。
「はい」
「毎日どのくらい練習しているのか」

「二時間ずつ、レッスンさせていますが、それ以外にも暇さえあれば、自分で勝手に練習していますわ」
母親が横から口を出した。髭の男は母親を冷たく一瞥したが、特に何も言わずに、再びヴィルに話しかけた。
「ピアノを弾くのも好きか」

「はい。ピアノでいろいろな音が出せるのが面白いです」
ヴィルは素直に言った。

 髭の男はじろりと見たが口元の厳しさはなくなっていた。子供っぽい甘えた様子をまったく見せないヴィルを教授は好ましく思ったようだった。
「来週から、土曜日には私の館でレッスンをさせよう。朝の九時にトーマスに車で迎えに来させる」

 母親は勝ち誇ったような顔になり、頬を紅潮させた。
「私も一緒に……」

 髭の男はじろりと母親を見て冷たく答えた。
「トーマスは信頼できる運転手だ。お前がついてくる必要はない」

 その夜、母親はシュナップスで酔いながら言った。
「あれが、お前のお父さんよ。十年も会っていないのよ。少しは私を見てくれてもいいのに」

 ヴィルはあれが父親だと言われてもぴんとこなかった。マルクスのお父さんはいつも楽しそうに笑っている。グイドーはお父さんと毎週山歩きに出かける。あんな立派な洋服は着ていないけれど、ずっと親しみがある。

 お母さんは音楽のことと、どれだけお父さんが立派ですごい人だったかしか話さない。学校の皆のいくサッカークラブにも参加させてくれないし、だから友達もなかなか出来ない。暇さえあれば勝手にフルートを練習しているというけれど、他に何をすればいいんだ。学校の勉強?

 土曜日に立派な黒塗りの車が貧相なアパートメントの入り口に横付けされた。マルクスやグイドーが遠巻きに見ている中、ヴィルはスーツを着た運転手のトーマスに連れられて、車でミュンヘンに向かった。連れて行かれたのはおとぎ話のお城かと思うような大きな家で、貧しいアパートメントでは見た事もない豪華な調度と広い空間に半ば怯えながら、迎えでた召使いのミュラーに連れられてサロンへと向かった。そこでヴィルは新しいピカピカのフルートをもらい、それから大きなベーゼンドルファーのグランド・ピアノにはじめて触れたのだ。

 普段弾いている家のピアノはもちろん、母親に連れて行かれるピアノ教室のグランド・ピアノともまったく違う音がした。深くて複雑な響きだった。父親と言われた髭の男にはまったく会いたくなかったが、このピアノを毎週弾けるのは嬉しかった。

 もらったフルートも、それまでのフルートとはまったく違った。髭の男の指導は厳しかったが、言う通りに吹くように努力すると、楽器はいままでヴィルの出せた音とはまったく違う音を約束してくれた。

 父親が二時間のレッスンし、それから大きな食堂でヴィルがいままでほとんど食べた事のないおいしい食事を食べた。父親は眉をしかめてヴィルのテーブルマナーをたしなめた。ヴィルの喜びは半減した。

 午後は、フロリナ先生がサロンにやってきてピアノを二時間指導した。いままでの先生よりも厳しかったが、明らかに上手で指導もわかりやすかった。一週間分のフルートとピアノの課題をもらうと、ひとりで二時間ほどサロンで練習し、それからトーマスに連れられてアウグスブルグに戻った。

 トーマスの送迎はそれから三年ほど続いた。その後は、自分で電車に乗ってミュンヘンに通った。黒塗りの車の運転手や、取り澄ましたテーブルマナー、父親の用意したまともな洋服などが、ヴィルの無口な様子と相まってお高くとまっている嫌な子供とやっかまれ、大人たちがヴィルを避けるようになった。

 それに影響されて、マルクスやグイドーもほとんど口もきかなくなった。学校でも行事を欠席させられる事が多かったため、孤立していった。大人とも子供とも話す事がなくなり、家でも音楽のことしか話せなくなり、さらにミュンヘンから渡される膨大な課題に取り組むために、ヴィルはひたすら音楽に没頭するしかなくなっていった。

 フルートを奏でるとき、ミュンヘンのベーゼンドルファーの音色を生み出すとき、ヴィルは数少ない歓びを感じた。それは孤独の中の慰めだった。それが孤独である事にもその時のヴィルは氣づいていなかった。

 はじめてピアノに触れる時に、ヴィルはいつも息をのむ。期待と恐れの混じった感情。それは、大人になってからも同じだった。大学のレッスン室で、生活のために働きだしたアウグスブルグの小さなバーで、稔の聴くに堪えない演奏に代わって弾くことになったヴェローナのバーで、コモのロッコ氏のレストランで、コルタドの館で、真耶の家で、奥出雲の神社の中で、ヴィルははじめて女の子の手を握るティーンエイジャーのように、ためらいながらはじめての音を出した。レネの両親の調律のよく出来ていないアップライト・ピアノに触れた時もそうだった。

 初めの音が出ると、ようやく口をきいた女のように、そのピアノの性格がわかる。強引に弾くべきピアノか、繊細に歌わせるべきピアノか、どう扱っても大差ない粗野なピアノかがわかる。

 それでも、このエッシェンドルフの館のベーゼンドルファーは、初恋の女のようにヴィルを惹き付けた。このピアノは、いま彼のものだった。ヴィルは椅子に腰掛けると、ゆっくりとツェルニーの練習曲を弾きだした。

「懐かしいものを弾くのね」
いつの間にか入ってきていた蝶子が静かに言った。

「あんたもこれで練習したのか」
弾きながらヴィルは蝶子に話しかけた。

「こんなすごいピアノじゃなかったけれどね」
「俺も最初はしょうもないアップライトだった」

「ピエールの所みたいな?」
「あれよりはマシだったな。出雲くらいのだった」

「ああ、瑠水さんのピアノね。私のもあのぐらいだったわ。もっともピアノの違いなんか、あの頃は知らなかった。あの時は親も反対していなかったし、ただ弾けるのが嬉しくてしかたなかったわ」

「これで弾くか?」
「私は、フルートを合わせるわ。そのまま弾いていて」

 蝶子は即興で優しいメロディをつけた。

 稔とレネもサロンに入ってきた。
「へえ。ツェルニーでこんな変奏曲ができるとはね」

 邦楽の稔にとっては、ツェルニーの練習曲は音大受験のためのつらい義務のはじまりだった。ヴィルと蝶子が自由に奏でている変奏曲はそんな思い出を吹き飛ばすような楽しげな演奏だった。

 ヴィルにとっても、この部屋はもはや窮屈で冷たい父親のレッスン室ではなく、四人で楽しげに話しながら音楽を奏でられる場になっていたのだった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (6)ミュンヘン、鍵盤 -2-

「大道芸人たち Artistas callejeros 第2部」のチャプター1の最終回です。これから、またしばらく間が空きますが、Artistas callejerosの現状はこんな感じです。これまで、色々な外伝で登場させた(日本へ行ったりしている)彼らは、ただの大道芸人ではなくなっていました。

さて、チャプター1のラストシーンです。プロモーション動画で使った言葉の一つがここで使われています。


「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(6)ミュンヘン、鍵盤 -2-


 ミラノで会った時、蝶子たちはすでにArtistas callejerosとして一つの集団になっていた。にも関わらず、ヴィルはいつもの疎外感を感じなかった。

 学校で、エッシェンドルフの館で、劇団『カーター・マレーシュ』で、はじめて何かの集団に入っていく時、ヴィルはいつも複数の人間による関係性の出来上がった集団とそれに対峙する一人の自分という立ち位置を意識させられた。

 だが、Artistas callejerosはまだ出来上がっていなかった。しかも性格のまったく違う日本人二人とフランス人という妙な構成員で、やっていることもバラバラだった。彼らはヴィルに対して集団としてではなく、ただの個人として対峙した。そして、集団として語る時には、はじめからヴィルも含めていた。

 一枚の絵はがきが回ってきて、それぞれが何かを書いていた。自分がそれに加わるとは夢にも思っていなかったのに、蝶子は当然のようにそれをヴィルにも書かせた。

「いつもみんなで書いているんだもの」
コーヒースプーンを振り回しながらそう言った蝶子の姿をヴィルは今でもはっきりと思い出す事が出来る。

 自分が誰かを隠したまま、蝶子に冷たくつっかかっていた自分を、彼女はすでに仲間だと認めていてくれた。稔やレネもそうだった。これほど居心地のいい場所はなかった。すきま風の吹くドミトリーに泊まろうと、真夏の蒸し暑い日にドウランや化繊の衣装がどれだけ不快であろうと、ミュンヘンやアウグスブルグに戻りたいと考えた事はなかった。

 お互いの事が少しずつわかるにつれ、ヴィルはなぜ三人がこれほど心地いい仲間でいるのか理解できた。彼らは誰もが属していた社会から逃げ出してきたアウトローだった。心の痛みをよく知っていた。人の痛みに敏感だった。

 父親の死によって自分の境遇が大きく変わった時に、人々の態度は大きく変わった。とるに足らない私生児と見下してきた上流社会の人々も、父親への忠誠から距離を持っていた使用人たちも、口もきいてくれようとしなかった学校の同級生たちも、ヴィルに対して好意的な態度に変わった。劇団の仲間たちは、少しだけ距離を置いた物言いになった。

 けれど、三人だけはまったく変わらなかった。エッシェンドルフ教授の息子だとわかった時にも、三人はまったく態度を変えなかった。だから、これからも変わらないだろう。ヴィルは三人と一緒に幸せになりたかった。降ってわいた幸運を等しく分かち合いたかった。

 稔とレネは時間があると英国庭園に行って稼いでいた。そして帰りに大量のビールやワインを買ってきた。

 エッシェンドルフの領主として、ヴィルは三人に二度と大道芸をしなくてもいいと言う事も出来た。だが、稔やレネだけでなく蝶子もまた、エッシェンドルフの居候として怠惰な生活を送りたいという氣持ちはなかった。ヴィルは彼らの意思を尊重したかった。

 それに、ゆっくりはしていられない。そろそろアヴィニヨンに手伝いにいかなくてはならない。それが終わればコモの仕事もある。ヴィルはロッティガー弁護士と秘書のマイヤーホフと連日のように打ち合わせをし、領地の管理や相続の手続きを進め、自分が不在になる間の準備を進めた。蝶子は、葬儀の片付けや残った礼状の発送をし、ミュラーやマリアンとも話し合って家内の今後の事について取り決めをした。

* * *

 長い事離れていたとはいえヴィルはコンクールで優勝するほどのフルートの腕前であり、さらに男爵家を相続した名士でもある。相続の話を聞きつけた教授の年若い弟子からは、教授の代わりにレッスンを見てくれないかという話が次々と持ち込まれた。ヴィルは丁寧に断ったが、マイヤーホフは不満だった。

「アーデルベルト様、大道芸の方はおやめになって、ここで落ち着かれるおつもりはありませんか」
マイヤーホフはためらいがちに訊いた。あの変な日本人やフランス人と手を切ればいいのに、という期待も混じった質問であった。

「あんたは職を失わなければ、それでよかったんじゃないのか?」
「私のためではなくて、あなたの事を言っているのです。ふさわしい暮らしに戻られる頃ではありませんか」

「俺はもともとあんたよりずっと下の出自なんだ。ヤスやブラン・ベックと一緒に大道芸をしている方がずっとふさわしく感じるよ」
「あなたは、彼らとは一緒ではありません。ご自分が一番よくご存知のはずです」

 ヴィルは首を振った。
「あんたが言っているのは、社交マナーや立ち居振る舞いの事だろう。俺が親父にいろいろ叩き込まれたから。俺が言っているのは外側の事じゃないんだ」

 マイヤーホフはそれ以上の事を言わなかった。

 アーデルベルトに関しては、今は亡きエッシェンドルフ教授とマイヤーホフの意見は完全に一致していた。あの怪我の後、アーデルベルトが大人しく館に戻ったことは誠に好ましかった。教授の跡継ぎとして腹を決め、上流階級の娘と結婚してこのエッシェンドルフを引き継いでいく事こそ、完璧な外見と立ち居振る舞い、そして豊かな芸術性を持つこの青年にふさわしい事と思っていた。

 しかし、彼は父親と使用人たちを見事に欺き、再び逃げ出しただけでなく、マイヤーホフがどうしても教授の執心を快く思えなかったあの東洋の魔性の女と結婚してしまった。

 今、アーデルベルトが新しい領主としてこの館に君臨する事は大歓迎だったが、彼の妻も、残りの変な大道芸人もできればいなくなってほしいというのがマイヤーホフの密かな願いだった。

* * *

「ヴィル」
蝶子が呼んだ。その呼び名は、長いこと彼のものではなく、子供の頃にもそう呼ばれた記憶もなかった。にもかかわらず、現在の彼には最も自分に近かった。

 彼が生まれた時、父親はその存在を無視した。それで彼はヴィルフリード・シュトルツとして洗礼を受けた。しかし、マルガレーテ・シュトルツは諦めなかった。DNA鑑定の末、真の息子だという事実を突きつけられたハインリヒ・フォン・エッシェンドルフ男爵は、彼の名前を訂正させ、もう少しまともなファーストネームを登録させた。それ以来、誰もが彼をアーデルベルト・フォン・エッシェンドルフと呼んできた。名前を与えた母親までもがセカンドネームに成り下がったヴィルフリードの名を忘却の彼方に押しやった。

 彼がはじめてヴィルフリード・シュトルツと名乗ったのは、劇団『カーター・マレーシュ』に入団する時だった。本名があまりにも大仰すぎて、出自がすぐにわかってしまうからだった。劇団員たちがいつの間にか使いだしたヴィルという愛称は、当時の彼にはずっと馴染みがなかったが、アーデルベルトではないという事実だけが彼には好ましかった。

 ミラノで蝶子たちに会った時に、迷わずこの仮の名前を使ったのは、もちろん蝶子に自分がアーデルベルトである事を悟らせないためであった。だが、旅の間に各地で名乗る度に、蝶子が親しみを込めて呼ぶ度に、この名前はより自分に近くなった。アーデルベルトはほとんど消えかけていた。

 ミュンヘンに戻った事で、アーデルベルトとしての社会性が再び現実のものになった。けれど、この二つはもはや相反するものでもなければ、どちらかだけが現実であるわけでもなかった。アーデルベルトという立派な背広を身に着けた、裸の魂がヴィルだった。

「マリアンとの打ち合わせは、終わったか」
ヴィルは蝶子に話しかけた。

「ええ、いつでも出かけられるわ」
アヴィニヨンに旅立つために今夜は荷造りが必要だったが、旅慣れた四人には大した時間は必要なかった。蝶子は、窓辺に立つヴィルのもとに歩み寄り、一緒に窓からミュンヘンの街並を眺めた。

「この風景を、あなたと眺めるなんてね」
蝶子の髪が風で踊っている。

 ヴィルは不意にロンダの橋の上で、蝶子の横顔を見つめたときの事を思い出した。彼女が父親とミュンヘンの事を思い出しているのではないかと心を痛めたときの事を。

「不思議だな。運命ってやつは」

 蝶子は、ヴィルの肩に頭を載せた。言葉による答えは必要なかった。孤独の中で同じ光景を眺めた二人は、いま家族としてここに立っている。ここは恐れるべき場所でもなく、戻ってくるべき家になった。旅立つ目的は逃走ではなくなった。

 明日からのしばらくの不在の前に、もう一度あのピアノを弾いていこう。ヴィルは蝶子と一緒にサロンへと向かった。
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Category : 小説・大道芸人たち 2
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