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Posted by 八少女 夕

郷愁の丘 あらすじと登場人物

この作品は、ニューヨークを舞台に、ひとりの写真家の人生の一部を切り取った中編小説「ファインダーの向こうに」の続編です。舞台は主にアフリカのケニア中部となっています。ブログのお友だち、TOM-Fさんのご了承を得て、あちらの作品に影響のない形でキャラクターをお借りしています。

【あらすじ】
アフリカに旅行に来たジョルジアは、二年前に出会ったスコット博士と再会し、マリンディの別荘に誘われる。短い海岸リゾート滞在のはずが、成り行きで野生動物の生きるサバンナに向かい忘れられない体験をすることになる。

【登場人物】

◆ジョルジア・カペッリ(Giorgia Capelli)33歳
 ニューヨーク在住の写真家。イタリア系移民の子。人付き合いは苦手だが、最近作風を変えて人物写真に挑戦している。

◆ヘンリー・グレゴリー(グレッグ)・スコット(Dr. Henry Gregory Scott)38歳
 ケニア在住の動物学者。専門はシマウマの研究。2年前に「太陽の子供たち」の撮影でケニアに来たジョルジアと出会った。休暇でアフリカに来たジョルジアと再会し、マリンディに誘う。

◆レイチェル・ムーア(Dr. Rachell Moore)
 ツァボ国立公園内のマニャニに住む動物学者で象の権威。

◆マデリン(マディ)・ブラス(Madelyn Brass-Moore) 28歳
 レイチェルの娘。夫はイタリア人のアウレリオ・ブラスで五歳になる娘メグがいる。妊娠七ヶ月。

◆ジェームス・スコット(Dr. James Bryan Scott)
 グレッグとマディの父親。世界的に有名な動物学者で、ライオンの権威。

◆ルーシー
 グレッグの愛犬(ローデシアン・リッジバック)

◆キャシー
 ジョルジアがよくいく《Sunrise Diner》のウェイトレス。親しい友人でもある。

◆マッテオ・ダンジェロ
 本名 マッテオ・カペッリ。ジョルジアの兄。健康食品の販売で成功した実業家。

◆リチャード・アシュレイ
 ナイロビの旅行エージェント。アウレリオ・ブラスの親友。

◆ベンジャミン(ベン)・ハドソン 
 《アルファ・フォト・プレス》の敏腕編集者。陰に日向にジョルジアを助ける。

◆ジョセフ・クロンカイト
 CNNの解説委員でもある有名ジャーナリスト。ジャーナリズム・スクールの講師でもある。TOM-Fさんの『天文部シリーズ』のキャラクター。
 

【用語解説】
◆《アルファ・フォト・プレス》
 ジョルジアが専属写真家として働くニューヨーク、ロングアイランドにある規模の小さい出版社。

◆《郷愁の丘》
 ケニア、ツァボ国立公園の近く、グレッグの住んでいる地域の名称。


この作品はフィクションです。アメリカ合衆国、ケニア、実在の人物、団体や歴史などとは関係ありません。

【プロモーション動画】


【関連作品】

「ファインダーの向こうに」を読む「ファインダーの向こうに」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」

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Category : 小説・郷愁の丘

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(1)サバンナの朝

今日発表する小説は、最近お友だちになった夢月亭清修さんの企画に参加するために書き下ろしました。

夢月亭清修さんの ≪企画小説≫like a Sound Novel 『陽炎レールウェイ/百景』

「楽曲(インストゥルメンタル)」と「その楽曲のタイトル」を御題にします。
曲を聴きながら読んで、その雰囲気にハマるような掌編小説を書いてみようじゃないかという塩梅です。


お題となった『陽炎レールウェイ』、インストゥルメンタルではあるのですが、ものすごい難問でした。クセのない曲なのでいくらでも書けるだろうとお思いになるかもしれませんが、実際に挑戦してみるとわかります。二度くらい投げ出そうとしました(笑)

最初は日本の話を書くつもりだったのですが、起承転結どころかきっかけすらつかめない体たらく。結局、「少なくとも題名にだけはわずかにかすっているぞ」という言い訳のみを残し、マイ・フィールドに持ってくることにしました。そして、始めから断っておきますが、オチも全くありません。

この話にでてくる女性は去年まで連載していた「ファインダーの向こうに」のヒロインです。ですから、あの作品をお読みになった方には入りやすいと思いますが、直接の関係は何もありませんので読まないと通じないというほどのことはありません。単なる読み切りとしても読めるようになっています。

しかし、なんだな~。この世界、キャラが増える一方だ。しかも、既にアメリカですらないし。

◆参考までに
「ニューヨークの異邦人たち」シリーズ
「ファインダーの向こうに」
「ファインダーの向こうに」を読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ




郷愁の丘(1)サバンナの朝
——Inspired from “陽炎レールウェイ” by 百景


 きしむ金具をどうにかなだめて、彼女は外が曇って見えるほどに汚れたガラス窓を開けた。車輪の刻む規則的な音ともに、生温い風がコンパートメントに吹き込んでくる。どこまでも続く乾いたサバンナ。ジョルジアは、カメラを構える代わりに赤茶けた大地とオリーブ色の灌木を瞳に焼き付けようとした。

「一度アフリカに来たものは、いつの日か再びアフリカに帰る」
そう彼女に伝えたのは、リチャード・アシュレイだったか、それとも、ヘンリー・スコット博士だったか。

 ニューヨーク在住の写真家であるジョルジア・カペッリが初めてアフリカ大陸に足を踏み入れたのは、2年前だ。屈託のない笑顔を見せる子供たちをテーマに、世界の各国を訪ね歩き、写真集『太陽の子供たち』にまとめた。

 今回は休暇であって取材ではない。とはいえ、彼女は休暇のときもカメラなしでは心が休まらないので、モノクロフィルムを入れたライカと、それにフィルムが入手できなくなった時を想定してコンパクト・デジタルカメラもバッグに忍ばせいてる。どうしても我慢できなくなったときしか撮らないようにしているつもりだが、4日目にしてフィルムをもう2本も使ってしまった。

 ナイロビからモンバサへと向かう鉄道。モンバサにどうしても行きたいと思っていたわけではないが、明日、アメリカ大使館で開催されるパーティに一緒に行こうとリチャードにしつこく誘われて、逃げだしてきたのだ。

 世界のどこに行っても、どこかで同国人コミュニティと関わることになる。特に彼女のように仕事がらみで異国へ行くことの多い者にとっては、そのコミュニティに知り合いのいることはとても重要だ。特に、アフリカのような所では、素人にも可能な公式手続きと、幾多の苦悩の体験した地元民による手続きでは、結果が出るまでに数ヶ月の違い出来ることもある。

 リチャード・アシュレイは、もう15年もナイロビに住んでいる。もともとは透けるように白かったのであろう肌は、強いアフリカの陽射しに焼かれて、荒れてそばかすだらけになっている。赤毛に近いブロンドをいつもきちんと撫で付けている。人間は誰であってもフレンドリーに楽しく会話をすることを望んでいるという信念または信仰に則って行動するタイプだ。ジョルジアは、人付き合いが苦手なのでその過剰なコミュニケーションが煩わしく、仕事以外では可能な限り彼に会わないようにしたいと思っていた。昨日は前回のアテンドに対する礼と写真集を届けるためにアシュレイの事務所に立ち寄った。

 もちろんリチャードが、前回の撮影で世界中の誰にも負けないほど熱心に撮影準備に協力してくれたことは間違いない。マサイの村で撮った3歳の少女のはち切れんばかりの笑顔は、何度か一般誌でピックアップされて、それが『太陽の子供たち』の売上を大いに押し上げ『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の6位入賞という輝かしい結果に繋がったのだ。撮影許可に袖の下を欲しがる地方役人たちや、車の手配を渋るエージェント、それに時間を過ぎてからオーバーブッキングで来られないと言い出すドライバーなど、次々と襲いかかる難問をリチャードが次々と解決し、最後は彼自身が仕事を休んで運転してくれたからこそあの写真が撮れたのだ。

 だが、それと彼女がパーティドレスを着て彼のやたらと多い友人たちに紹介され回る苦痛に耐え忍ぶというのは話が別だった。彼女が、ほとんど口からでまかせのように「鉄道でモンバサヘ行く」と告げた時、リチャードは大袈裟に落胆してみせたが、懲りずに「では、次のパーティには」と言った。

「モンバサに行くのなら、ぜひマリンディの私の別荘にいらっしゃい。この週末は私と家族も行きますから」
その場にいてそう言ってくれたのは、やはり2年前の撮影で協力してくれた動物学者のヘンリー・スコット博士だ。シマウマの研究者で普段はツァボ国立公園をフィールドにしている。サバンナで育ったせいか都市には可能な限り寄り付かず、人間の知り合いよりも動物の知り合いの方がずっと多いであろうと言われていた。昨日は、マサイ・マラにいるシマウマのDNAを採取するための手続きでアシュレイの事務所を訪れていた。そして、ジョルジアとの偶然にして2年ぶりの再会をはにかみながら喜んだ。

 ジョルジアは、スコット博士に丁寧に礼を言い、モンバサから電話を入れることを約束した。
「マリンディには、美味しいイタリアレストランがたくさんありますよ」
リチャードは、にっこりと笑いながら、ジョルジアがイタリア系であることを2年経っても忘れていないことをアピールしつつ口を挟んだ。

 モンバサ行きの夜行列車は19時、アフリカには珍しくたった5分程度の遅れで出発した。直に夕食に呼ばれて彼女は食堂車に行った。そのメニューは、まずいというのではなかったが、博士がおいしいイタリアンレストランに連れて行ってくれるのが以前よりも楽しみになる味だった。

 相席したのは、アイルランドから来た騒がしい男と刺々しい彼の妻、それに英語を話そうとしているのだがほとんど表現できていないアジアの若者だった。ジョルジアは最後まで彼がどの国から来たのか理解できなかった。

 コーヒーもそこそこに席を立つと、彼女は既にベッドの用意されていた自分のコンパートメントに戻り、寝間着に着替えると窓辺に踞り月に照らされたもモノトーンのサバンナを眺めた。

 朝、窓の陽射しに起こされて外を見やると、どこまでも広がる赤茶けた大地の中を軋みながら列車が通過していった。藁葺きの民家から子供たちが楽しそうに覗いている。そして大人たちは彼らの生活と生涯交わることのない観光客を乗せて朝夕に一度ずつ通る列車を億劫な様子で見やっていた。土ぼこりと強い陽射しに焼かれて、彼らの着ている古いシャツは全て色褪せている。

 そしてまたサバンナが続く。乾いた大地に昇った太陽は少しずつその暴君としての本性を現しはじめる。窓を開けて入ってきた風が、今日はひどく暑くなるのだと彼女に告げた。

 ここは、ニューヨークとどれほど違っていることだろう。かのビッグ・アップルには、ここにあるものがなく、ここにないものがあった。人の海、コンクリートのジャングル、数分ごとにめまぐるしく変わる信号機、車のクラクション。ベルトコンベアーに載せられた缶詰のように規則正しく生きる人びとの間で、それぞれのドラマが展開されていた。

 ジョルジアは、もう1年以上も彼女の心を占めている行き場のない感情について考えた。大都会の中で、偶然が用意したわずかな邂逅を彼女はただ黙って見過ごした。おそらく二度と交わることのない人生の行方を見知らぬ人間として他の誰かと歩いていく男のことを、彼女は考えた。そうした時に起こる痛みに、彼女はとっくに慣れてしまっていた。痛くとも消すことが出来ないのならば、そのままにしておく他はない。

 少なくともここに彼はいなかった。著名なニュースキャスターである彼の姿を一方的に見せつけて、彼女に忘れさせまいとするテレビジョンという残酷な箱も、この無限に広がるサバンナでは何も出来ない。ただ心の中に、彼女がフィルムに収めた真摯な横顔が、消えかけた蜃氣楼のように揺らぐだけだ。

 それでも、私は生きていく。ジョルジアは、曲がりくねり疲弊した線路を軋みながらひたすら走るこの鉄道は自分の人生に似ていると感じた。この旅が終わったら、編集会議がある。撮り貯めた膨大な人物写真から新しい写真集に使うものを選定する。私はそうやって一歩ずつ自分の人生を進めていく。これまで通りに。

 サバンナはまるで水の幕が降りたようになっていた。アカシアの樹々が頼りなげに歪む。熱に浮かされた大地の間を、埃にまみれた古い列車がひたすら走っていく。陽炎の向こうに、一向に姿を現さないモンバサと、まだ見ぬマリンディの街があるのだと彼女は思った。

 (初出:2016年4月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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これが課題曲の『陽炎レールウェイ』です。
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(2)海の街 - 1 -

本日からまた小説の連載を始めます。外伝が既に二本も先に出てしまっていて、いろいろとネタバレをしている状態ではありますが、私が書いているのは推理小説ではないので、いいということにしましょう。「郷愁の丘」です。以前に読み切りとして発表した「サバンナの朝」がその本編の第一回で、今日は第二回に当たる「海の街」です。少し長いので来週との二回に分けます。

「郷愁の丘」はかつてこのブログで連載した「ファインダーの向こうに」の続編という位置づけで、ヒロインをはじめとしておなじみのキャラクターがたくさん出てきますが、おそらく前の作品を読んでいなくても話は通じるはずです。今回の話は、舞台のほとんどがニューヨークではなくてケニアに移っています。

ちなみに、ケニアだ、赤道直下だというと、どこに行っても暑くて死にそうのように思われるかもしれませんが、実は多くの場所は高山で過ごしやすいのです。でも、日本の夏にも負けずに暑いところがあります。それがモンバサやマリンディなどの海岸沿いの地域です。マラリア蚊がいるのもこのあたりです。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(2)海の街 - 1 -

 深い青を瞳に焼き付けたくて、彼女は助手席の窓を開けようとした。

「暑いんですか?」
穏やかな低い声がすぐ横からした。ジョルジアは、運転している彼の方を見た。その横顔からは、窓を開けることへの非難は読みとれなかったが、もしかしたらマラリア蚊が入るから、開けない方がいいのかもしれないと思った。

「海の色をもっと良く見たいと思ったんです」
そうジョルジアが言うと、顔をこちらに向けた。淡い茶色の瞳は優しい光を宿していた。短くきれいに手入れされた口髭の間から見えている口元は、暖かく口角をあげていた。

「すぐに見晴らしのいい海岸に出ます。良かったらそこで車を停めましょう」
その親切な提案に、彼女は「ありがとうございます」と答えた。

 彼はジョルジアの日常から考えると、常軌を逸して親切だった。ナイロビで偶然再会した時に、マリンディの別荘へと招待してくれたこともそうだった。それだけではなく、モンバサから電話を入れて、マリンディまでバスで行くので待ち合わせ場所を教えてほしいと訊くと、彼自身がモンバサまで迎えにくると申し出てくれたのだ。

 普段の彼女はよく知らない人とは距離を置いていた。別荘への招待も断っただろうし、ましてや片道二時間もかかるモンバサとの往復をしてもらうことに警戒心を持って断るのがあたり前だった。そもそも、モンバサに来たのも、パーティにしつこく誘ってくるリチャード・アシュレイの申し出から逃げるための口実だった。

 けれど、今、隣にいるヘンリー・スコット博士には、どういうわけなのか、彼女はまったく警戒心を持たなかった。招待に対しても「喜んで」と即座に返答してしまったぐらいなのだ。

 彼は二年前の写真集の撮影旅行のときに知り合い、世話になった動物学者で、ツァボ国立公園の近くに住んでいる。穏やかで誠実な上、口数が少なく、さらに必要以上に人とつき合おうとしない男だった。年齢はまだ四十には届かないようだが、あご髭のためにずっと年長者の印象を与える。

 初めて会った時から、ジョルジアは「彼は無害だ」という印象を持っていた。それは、アメリカ、とりわけニューヨークのような大都市では、決して褒め言葉ではない。むしろ口に出せば嘲笑と受け取られる心配すらある言葉だったが、彼女にとっては大いなる褒め言葉だった。

 彼は沈黙がもたらす平安を知っていた。あの時、車を運転していたリチャードは、沈黙を怖れて必死に何かを話し続け、ジョルジアは疲れて意識を遠くに飛ばした。そして、ふと意識が戻ったとき、バックミラーに映ったスコット博士も同じように違う世界で心を休ませているのに氣がついた。ジョルジアは、思わず後ろを振り返った。ゆっくりと視線を合わせたスコット博士は、ほんのわずかに口元を緩めた。

 リチャードが、郵便局へ寄るために席を外し、二人だけになったときにも、静かにいくつか言葉を交わしたが、そこには「間を持たせるための氣まずい会話」や「退屈な天候の話」などは何もなく、かといって有用な情報がたいていそうであるように脳内に緊張が満ちることもなかった。

 今よりも男性不信の傾向が強かったジョルジアは、仕事でつき合わざるを得なかったほぼ全ての男性と、八割以上の女性との会話に強い緊張を感じていたのだが、彼との会話だけは、まるで家族や親しい同僚としているかのごとくリラックスしたものであることにひどく驚いた。

 その印象が強かったので、彼のことはよく憶えていたのだが、偶然再会した後にもその印象はますます強くなっていた。

 彼女はそれと正反対の感情を知っている。もうやめたいと思っても未だに逃れられない片想いの相手を、テレビのニュースや雑誌の表紙で見かける時のことだ。その著名なニュースキャスターからは自分が見えるはずもなく、それどころかその存在すらも知られていないとわかっていても、動揺し、怯え、熱いとも冷たいともわからぬ何かが血管を駆け巡り、心は締め付けられる。それなのにスコット博士が自分とわずか二十センチも離れていない距離で、車という密室の中に座って微笑んでも、ジョルジアは完全にリラックスしているのだった。

 クーン、と小さい鳴き声がしたので、ジョルジアは思い出して後ろを振り返った。ランドクルーザーの最後部座席に、焦茶色のローデシアン・リッジバックが横たわっている。主人に劣らずもの静かな犬で、ライオン狩りにも使われる勇猛な性格は、ジョルジアの前ではまだ披露していなかった。元来大人しい性格の犬なのかと思ったが、スコット博士はモンバサでジョルジアと初対面をした時の愛犬の様子に驚きを示した。

 そこだけ黒い鼻先をジョルジアの太もものあたりにこすりつけて、彼女を見上げた。その赤茶色の透明な瞳に彼女は、すっかり魅せられてしまった。しゃがんで、そっと頭に触れると、頬にキスをしてきて、ちぎれんばかりに尻尾を振った。
「ルーシーが初対面の人にここまで懐いたのを始めてみました。たいていひどく吠えるんですが」

 ルーシーは、二時間のドライブの間、ほとんど身動きもせずに、座っていた。その存在を忘れてしまうほど静かなのだが、時折あくびをしたり体を伸ばす時の音でジョルジアが振り返ると、こちらを見つめて尻尾を振った。

「ルーシーに、水をあげた方がいいんじゃないでしょうか」
ジョルジアが訊くと、スコット博士はジョルジアの方を見て優しく微笑んだ。
「あなたも喉が乾いたでしょう。すぐそこの角で停まりましょう」

 それから本当に500メートルもいかない角を曲がったときに、ジョルジアは思わず息を飲んだ。そこは波止場になっていて、遮るもののない濃紺のインド洋が広がっていた。地平線はほんのわずかに球面を描き、ここは水の惑星なのだとジョルジアに告げた。

 しばらくサバンナの乾いて赤茶けた世界、埃がアカシアの灌木を覆うアフリカらしい光景ばかりを見ていたせいで、この鮮やかな海の煌めきがよけい眩しく感じられた。ジョルジアは、車の外に出ると、目は海に釘付けになったまま無意識にカメラを探した。

 そして思い出した。休暇で、ほとんどの装備はニューヨークに置いてきたのだ。持っているのはモノクロームのフィルムを装填したライカと、片手に収まるサイズのコンパクトデジタルカメラだけ。もし、この色を撮りたければデジタルカメラを使うしかない。

 立て続けにシャッターを切っているジョルジアを眺めながら、彼は後部のドアを開けてルーシーを出した。犬はすぐにジョルジアの側にやってきてその足元に座った。彼は、ステンレスのボウルをその前に置いてやり、冷えたペットボトルの水を半分ほど入れてやると、残りを持ってジョルジアを待った。
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Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(2)海の街 - 2 -

先週から連載を再開した「郷愁の丘」今回は「海の街」の後編です。モンバサに来たのは、特に理由があったわけではなく、パーティの誘いから逃げたかっただけなのですが、実はジョルジアはほとんどケニアの海岸の観光をしないまままたサバンナに向かう事になります。

とくにスコット家所有の別荘内には、足も踏み入れていないという事態に。ブログのお友だちの彩洋さんのところのキャラは宿泊もしているのに(笑)でも、この別荘の事は、いずれ別の作品(外伝かな?)でちゃんと描写しようと思います。いろいろと設定はあるんですよ。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(2)海の街 - 2 -

 ひと通り写真を撮り終えて振り向くと、彼は新しいよく冷えたペットボトルの口を緩めてから手渡した。ジョルジアが礼を言って受け取り飲むのを待ってから、彼は愛犬にやった残りのペットボトルから飲んだ。この人は、どこまでも紳士だと彼女は思った。一連の動きには全くわざとらしい所がなく、評価してもらおうと意識しての行動でもないことが感じられた。

「なんて美しい海かしら。私の育ったところも海辺だったけれど、こんなに鮮烈な青じゃなかったわ。素晴らしい所に別荘をお持ちなんですね」
ジョルジアは感心して言った。彼は笑った。

「別荘を持っているのは父です。でも、彼はほとんど来ません。マディに薦められて投機の代わりに買ったようです。使うのはマディばかり。僕はよく運転手兼、鍵の管理人として駆り出されるのです」

 奥様の名前はマディとおっしゃるのですか、そうジョルジアが訊こうとしたときに、携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。ポケットから取り出してちらりと見てから「マディだ、失礼」と言って彼は電話を受けた。

 すぐに緊迫した様相になった。
「なんだって。わかった、大丈夫だ。あと五分もかからない、すぐに行く。メグは? わかった。玄関にいてくれ」

「どうなさったんですか」
ジョルジアは、ペットボトルの蓋を閉めると、ルーシーの水のボールを空にして車に戻った。ルーシーはついて来て、開けられたドアにさっと飛び乗った。エンジンをかけながらスコット博士は説明した。
「マディは、いま妊娠七ヶ月なんですが、急な腹痛に襲われたんだそうです。切迫流産の怖れがあるので、すぐに病院に運ばなくてはならないらしいんです」

 ジョルジアはぎょっとした。
「奥様がそんな大変なときに、迎えにきていただいたりして、済みませんでした」

 すると、スコット博士は首を振った。
「マディは、僕の妻ではありません。それに、夫のアウレリオも今朝はマリンディにいたんですよ。もっとも彼は肝心なときにどこかに行ってしまう才能があって、それをわかっているマディが、最近はマリンディに来る度に僕を呼びつけているんです」

「ご家族っておっしゃっていたので、奥様やお子さんといらしているんだと思っていました」
ジョルジアが言うと、彼はジョルジアの方を見て微笑んだ。

「僕は独身で、マディは妹です。正確に言うと、腹違いの妹ハーフ・シスター です。夫は、ミラノの実業家でアウレリオ・ブラス。娘のメグは五歳になります」

 そう話している間に、車は白い壁と藁葺きの屋根の大きい家の門に入っていった。玄関の所にぐったりと女性が座っていて、その足元に金髪をポニーテールにした少女がいた。

 スコット博士は急いで車から降りると、彼女の方に駆け寄った。ジョルジアも降りると、椅子の脇にあった荷物を持って、車に運び込んだ。荷物と反対側に少女が来て、ジョルジアの手を握った。ジョルジアがその目の高さに屈むとぎゅっと抱きついてきた。母親の危機を感じてよほど怖かったのだろう。

 博士が妹を運転席のすぐ後に座らせ、それからジョルジアからメグを受け取って母親の隣に座らせた。ジョルジアから離されるときに少女は少し抵抗した。

「メグ」
スコット博士が咎めると、彼女は泣きそうな顔をした。ジョルジアは荷物を最後部座席、ルーシーの腰に当たらないようにそっと置いた。そっと撫でると、不安そうな犬はクーンと鳴いた。

 車が出ると、マディは苦しそうに言った。
「はじめまして、ミズ・カペッリ……ごめんなさいね」
「こちらこそ……ミセス・ブラス」

 病院はさほど遠くなく、彼女は玄関で待っていた担架に乗せられて診察室に入った。廊下で抱きついて離れないメグと一緒に待っていると、車を駐車してきたスコット博士が、紐に繋いだルーシーと一緒に入ってきて、謝った。
「ミズ・カペッリ。本当に申し訳ない。せっかくの休暇なのに……」
「そんなことをおっしゃらないでください。先生が中でお待ちです」

 スコット博士は、ノックをして診察室に入っていった。ルーシーはジョルジアの足元に踞った。彼女は、うとうとしだしたメグをさすりながら廊下のベンチでしばらく待っていた。

 やがて、携帯電話で話しながらスコット博士が診察室から出てきた。
「そうですね。それが一番だと僕も思います。アウレリオは、明日直接ここに来るそうです。はい。このままそちらに向かえば夕方にはそちらにつきます。そうするしかないと思います」

 彼は電話を切ると、苦悩に満ちた顔で切り出した。
「ミズ・カペッリ。何とお詫びをしていいのかわからない。僕は、これからメグをここから四時間かかるマディの母親の所に届けなくてはいけないんです。彼女はアンボセリから急いで戻ってきますが、ここに彼女を引き取りにくるには遠すぎるのです。あなたをこれ以上引きずり回すわけにはいかないし、一人で放っておく訳にもいかない。どこかホテルへとご案内しようと思いますが……」

 ジョルジアは、自分でなんとかするので氣にしないで欲しいと言おうとしたが、その前にメグが泣き出した。
「いや! ヘンリーと二人でなんか行かない! ジョルジアと一緒にここにいる! ママはすぐに元氣になるもん」

「メグ! マディはしばらく入院しなくちゃいけないんだ。病院はホテルじゃないし、ミズ・カペッリにお前の世話をさせるわけにはいかないだろう」
「いや!」

 必死になって抱きついてくるメグと、困り果てているスコット博士を見ていたジョルジアは口を開いた。
「私も一緒に行きましょうか。特に予定はないですし、道中の子守りくらいのお役には立てると思います」

 スコット博士と、メグが同時にジョルジアを見た。ルーシーも、黒い鼻を持ち上げて、騒ぎの収まったらしい人間たちを見あげた。

 前よりもさらに強くジョルジアに抱きついている少女を見て、彼はため息をついた。しばらく、言葉を探していたが、やがて済まなそうに頭をさげた。
「そうしていただけたら、助かります」
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(3)動物学者 - 1 -

タイトルにもなっている《郷愁の丘》という地名は、イタリアのポップグループ、マティア・バザールの歌「Amami」の邦題からイメージして命名しました。かなり年長の方でないとご存知ではないと思いますが、ずっと昔に三菱ギャランという車のCMにこの曲が使われていて、日本で発売された時の邦題は「郷愁の星」というものだったのです。イタリア語の歌詞そのものには、一度も「郷愁の星」という言葉は出て来ないのですが。この歌のイタリア語の歌詞からイメージしたモチーフは、この作品のあちこちに散りばめられています。

という話はさておき、第三回目「動物学者」です。長いので三回に分けます。こうやって分けていると、全然終わらないような氣がしてきたけれど、しばらくこれで行こうと思います。もしかしたら途中から巻くかもしれませんが……。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(3)動物学者 - 1 -

「お疲れじゃないですか」
ジョルジアは、訊いた。彼はモンバサにジョルジアを迎えに来てマリンディから往復しているので、既に四時間も運転しっぱなしだった。これから四時間再び運転して、こんどはツァボ国立公園内のマニャニまで行かなくてはならない。

 彼は穏やかに微笑んだ。
「慣れていますから。この辺りで運転するとなると、たいていこんな距離になるんですよ」

 スコット博士と二人では絶対に行かないと泣き叫んだメグは、結局、二十分も立たないうちに彼の愛犬ルーシーにもたれかかって寝てしまったので、ジョルジアは再び助手席に座って彼と静かに話をすることになった。

 道は舗装されているものの、状態はよくなかった。アメリカの都市部であればおそらく三十分もあればついたのではないかと思われる距離を、ランドクルーザーは二時間近く使って走っていた。海岸部を離れ、森林部を抜けた頃になって、ようやく空氣が乾いてきた。モンバサやマリンディは興味深いところだったので、ほとんど何も見ないまま去ったのはある意味残念だったが、あの猛烈な湿氣と暑さから解放されたことに、ジョルジアはほっとしていた。マラリアの恐怖も去ったのだろう。

 広大な赤茶けたサバンナの間に時おり現れて、休憩と給油を繰り返す小さな街をジョルジアは見回した。カラフルな建物と看板。アルファベットで書かれているが、スワヒリ語の固有名詞で占められている。そして、半分はアラビア文字だ。特に東部はイスラム教徒が多いので、街ごとにモスクが目立つ。異国にいるのだと強く印象づけられる景観だ。

 癖の強い英語を話す黒人たちは、白人が乗っている車に給油する時に必ず法外な値段をふっかけてくる。スコット博士は穏やかに彼らと交渉して相場の値段を払っていた。これはこの人たちの日常なのだとジョルジアは思った。

 人種のるつぼであるニューヨークの、比較的有色人種が多い地域に住むジョルジアは、親しい友達であるキャシーをはじめとして多くの黒人たちを知っていたが、白人たちと比較してつきあうのにエネルギーを消耗すると思った事はなかった。だが、ここでは全てがニューヨークとは違う。人種差別や人類愛とは関係ないのだ。

 スコット博士が、彼らに対して怒ったり悪態をついたりしない事に、ジョルジアは強い印象を受けた。二年前にジョルジアたちを連れて回ったリチャード・アシュレイは五分に一度は悪態をつくか、冗談を交えながらも不平を漏らしていた。今も状況がわかる度にジョルジアはまたかとため息をつきたくなるのだが、対応している彼自身は繰り返されるジョルジアにとっては試練とも言える状況を黙々と受け入れていた。

 このように、氣候も人びとも文化風俗も違う国で、先祖はヨーロッパから来たという人びとは一種独特のテリトリーの中に生きていた。植民地時代には宗主国から来た彼らは特権階級でアフリカ大陸を根に持つ人びとを奴隷や家畜のように見下して快適な暮らしをしてきた。国が独立し政権が黒人たちの手に渡ると、あからさまな支配は終わったものの私有地の権利やその他の経済的優位性が残ったために、あいかわらずプール付きの豪邸に住む白人と貧しい黒人という構図は消えていない。

 現地で生まれた二世三世以降の白いアフリカ人たちは、今も独特のコミュニティを形成している。そこにあたらしく移住してきた白人たちも加わる事が多い。中には、そういった白人ムラを嫌い、現地の黒人たちの中に一人飛び込む人もいるが、そのまま上手く受け入れてもらえる、もしくは本人が欧米社会とはかけ離れた観念を持つ部族の生活に順応する事はまれで、大抵は失意のうちに欧米に戻る事になる。

 ヘンリー・スコット博士は十九世紀に移住したイギリス人の血を引いているが、自己紹介をする時には「ケニア人です」と言った。ジョルジアが彼と知り合ったのは二年前で、マサイマラ国立公園の近くで撮影をした時に、オーガナイズしたリチャード・アシュレイが連れてきた。

「彼はヘンリー・スコット博士といって、大学で講師もしている動物学者です。サバンナの事をよく知っていてマサイ族との交渉も慣れているんで来てもらいました。普通の観光なら僕一人でも問題ないけれど、子供たちを撮影するなら、マサイ族の長老と交渉しなくちゃいけないんです。で、こればっかりは彼がやった方が成功率が高いんですよ」

 口から生まれてきたようなリチャードよりも交渉のうまい人とはどんな人かと思ったが、スコット博士はまったく弁が立つ人間ではなかった。そうではなくて、長年の付き合いから、彼はマサイの長老たちに信頼されていたのだ。

「彼の本来のフィールドはツァボ国立公園のあたりなんですが、マサイマラでも、アンボセリでもマサイ族の連中と知り合いになっているらしいんです。白人たちの共同体では名前を知らない人もいるくらいに目立たない存在だというのに。パーティにも全然顔を出さないし」

 リチャードがそう話を振ると、当時彼は言葉少なく答えた。
「マサイ族の長老と酒を飲んでゴシップの交換するためににいっているわけじゃない。研究のことで話さなくてはいけないことがあるから。彼らは僕らの知らない事をたくさん知っているんだ」

 ジョルジアが、この人は私の同類だと初めて思ったのは、二年前に出会ったこの時だった。
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Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(3)動物学者 - 2 -

第三回目「動物学者」、長いので三回に分けると前回書いて、三分の一に切ったんですが、この後に二つほど別の小説が入って間が空くので、この話はさっさとここで発表する事にします。ああ、行き当たりばったりだとこういう事に。いつもより長いですが、五千字程度なので、お許しください。すみません。

今回は、いろいろな設定上の情報がたくさん出てきます。(あ、無理に憶えなくても、必要になったら「あらすじと登場人物」を読めばいいのでご安心ください)それに、ようやく主人公の二人が「スコット博士」「ミズ・カペッリ」と呼び合うのを脱出します。やれやれ。でもまだ先は長い……。


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あらすじと登場人物




郷愁の丘(3)動物学者 - 2 -

 給油を済ませ、小さな村が遠ざかっていくのを振り返り、後方座席のメグとルーシーがともに寝いっているのを目にして彼女は微笑んだ。

「マニャニというのは大きい街ですか?」
ジョルジアが訊くと、彼は笑った。

「ニューヨークと比較したら村以前で集落と言った方がいいでしょうね。それにレイチェルは、少し街から離れた所に住んでいるんです。彼女は、ゾウの研究をしていて、裏庭にゾウが登場するような所に家を買ったんです」

 ジョルジアは、ふと思いついたように言った。
「じゃあ、ミセス・ブラスのお母様はもしかして……」

「ご存知かもしれませんね。レイチェル・ムーア博士です」
アフリカの動物研究者として、彼女は有名人だった。まだ五十代だが、ゾウの権威として認められる研究成果も知られていた。『夕陽の沈むさきに』と題した本人の半伝記映画に出演していたので、さほど動物学にも詳しくないジョルジアでもその名前を知っていた。

「あなたの義理のお母様でもあるんですよね」
ジョルジアが確認すると、彼はわずかに戸惑いを見せた。

「これから引き合わせるから、説明しておいた方がいいでしょうね。父の家はナイロビ郊外にあって、レイチェルの住む家とは別です。父ジェームス・スコットとレイチェルは、表向きはただの親しい友人ということになっています。もちろん同業者やこの辺りの人びとは、誰がマディの父親か知っていますし、二人はお互いの家を行き来しているのですが」

「ジェームス・スコット博士……あの映画にも出ていらっしゃいましたよね。確か、ライオンの権威で、大学の名誉学長をなさっていらっしゃる……。あの方があなたのお父様だったんですか」
「はい。でも、この世界でも僕と彼が親子であることを知らない人の方が多いでしょうね」

「どうして? ご自宅で他の研究者の方と顔を合わせたりはなさらないのですか?」
「僕は、八歳の時から彼とは別に暮らしているんです。今でも彼と会うのは年に一、二度、それも学会で遭う方がずっと多いんです」

 ジョルジアは、もしかしたら悪いことを訊いたのかと不安になって彼を見つめた。彼は顔を向けてまた微笑んだ。
「氣にしないでください。父と喧嘩しているわけではないのです。ただ、あまりにも僕の人付き合いが悪くて、家族ともまともにつき合えないし、父も自分から息子に歩み寄ろうというタイプではないんです。それで氣をもんだマディとレイチェルの方が、機会を作っては僕を家族の会と学会を含めた社会に引っ張りだしてくれているくらいなのです。あの二人には、感謝しています」

 ジョルジアは、また同じことを感じた。この人は、なんて私によく似ているんだろう。家族が嫌いなわけではないし、社会を憎んでいるわけでもないけれど、氣がつくと一人こもってしまう感覚は、彼女にはとても馴染みがあった。

「あなたが住んでいる所は、安心できる居場所なんですね?」
ジョルジアが訊ねると、彼は少し驚いたように彼女の顔を見た。揶揄でもなく、疑惑でもない、真摯な表情を見て、彼は少し間を置いてから力づよく答えた。
「ええ。あそこで僕は初めて安らぐことを知りました。《郷愁の丘》は、僕にとっての約束の地なんです」

「《郷愁の丘》ですって? なんて素敵な名前なの」
ジョルジアが言うと、彼は笑った。
「誰がその名前を付けたのかわかりません。前の持ち主はそんな三流ドラマみたいな名称は恥ずかしいから変えてもいいと言っていましたが、僕はそのままにしたかったんです」

「シマウマがたくさんいるんですか?」
ジョルジアは、訊いた。象の権威のムーア博士は、ゾウの生息地の近くに家を買ったというのだから、彼の自宅の側にも研究対象がいるのかと思ったのだ。

「ええ。シマウマも、ガゼルも、ヌーも。でも、彼らは留まりません、タンザニアヘ行き、それからまた次の年になると帰ってきます。研究には向いています。それに哲学者になるにもいい所かもしれません。あなたも、きっと数日間でしたらお氣に召すでしょう。写真に撮りたい景色がたくさんあるはずですから」

「どうして数日間なんですか?」
「ニューヨークと較べるまでもなく、とても退屈な所と思われるでしょうから。一番近い街まで一時間近くかかるんです。テレビやラジオの電波もよく途切れてしまうし、電氣や水道のといった公的ライフラインも通っていないんです。幸い、敷地内に泉があるので、ガスボンベと発電用のオイルを買うだけでなんとか生活はできますが」

「行ってみたいわ」
「本当ですか?」
「ええ。マリンディよりも、ずっと」

「じゃあ、お連れしましょう。今夜は、レイチェルの所に泊って、明日にでもあなたをムティト・アンディの駅にお連れしようと思っていました。でも、本当は、あなたにお見せしたいと思っていたんです。忘れられない風景や、心をつかむ瞬間を切り取る特別な目をお持ちのあなたなら、なぜあそこが《郷愁の丘》と名付けられたのか、きっとわかるでしょう」

 ジョルジアは遠くを見ている彼の横顔を見つめた。不思議だった。全幅の信頼としか言いようのない心の凪が、朝の砂漠のように鮮烈な陰影を持って横たわっていた。それは論理的ではなく、おかしな安心感だった。これまで独身男性の自宅に行こうとしたことは一度もなかった。ましてや街まで車で一時間も離れている陸の孤島に行くなど、考えたこともなかった。

 もちろんジョルジアは、彼もまた男性であることを忘れるほどナイーヴではなかった。けれど、彼女には失うものもなかった。片想いの相手には存在すらも知られておらず、かつてつき合った相手には女性としての存在を否定された。守る価値のないもののために、疑心暗鬼になる必要などないのだ。

 反対に、スコット博士のことは、もっと良く知りたかった。お互いのことをまだよく知りもしないのに、それでもこれほど近く感じる相手だ。一緒にいると心が安らぐだけではなく、話にも興味が尽きなかった。

 モンバサからマリンディへと向かう二時間、ジョルジアは彼といろいろな話をした。シマウマの縞の現れ方の話から、写真の印画と人間の虹彩に関する話題まで、お互いの専門を交えながら語り合った。

 彼の家族の話は、その二時間にはほとんど出てこなかった。その時は家庭があると思っていたので不思議だったけれど、今は納得していた。彼が独身だと知っていたら、マリンディの別荘への招待にどう答えただろうと彼女は考えた。異母妹マデリンの家族が常に一緒にいるとしても、おそらく彼女はイエスと言わなかったに違いない。

 でも、今、彼と同じ狭い空間を共有しても、彼女は彼に対して他の男性、例えばリチャード・アシュレイに対するような煩わしさや警戒心をまったく抱かなかった。モンバサからマリンディへと向かった二時間の後、彼はジョルジアにとってよく知らない男性ではなくて、ニューヨークで十年来の公私ともに強い信頼関係で結ばれている同僚のベンジャミン・ハドソンと同じような存在に変わっていた。

 マデリンの入院騒ぎを挟んで、再び彼の車で今度はマニャニへと向かうことになった時も、彼女は彼ともっと長い時間を過ごすことになることに躊躇いを感じなかった。彼の家である《郷愁の丘》へ行くことは、それとは少し意味合いが違うが、ジョルジアはこの成り行きに不安は全く感じなかった。彼はマリンディの別荘に誘っただけで、それ以降の行き先の変更は全てジョルジア自身が望んだことだ。

 彼は真面目で紳士的だった。そしてどういうわけだか、彼女が心地よいと感じる距離を知っていた。

 これ以上一センチでも近づけば、彼女が不安に感じる心理的な、もしくは物理的なテリトリーを、多くの人は無自覚に侵す。同僚であるベンジャミン・ハドソンのように長年知っている人や、《Sunrise Diner》のキャシーのように親しくしている人ですら、ジョルジアは時おりそれを感じて身を強張らせた。それが不必要な怯えだと思考ではよくわかっていても、反射的にびくついてしまうのだ。

 その一方で、彼女にはどうやっても近づけない類いの人たちがいる。ジョルジアの方から関心を持ちもう少し親しくなりたいと感じる時に、徹底的な無関心を示して近寄らせない人たちだ。自分からその距離を縮めなければ、親しくはなれないとわかっていても、その見えない壁や遠さを感じてわずかな一歩を踏み出すことが出来ないことが多くあった。

 彼がジョルジアとの間に置く距離は、その二つの距離の間にあった。どんな時でも。ジョルジアは、だから、自分が望む時に少しずつ彼に近づいていくことが出来た。いくつもの窓からそっと覗いてみると、心地よくて興味深い世界が存在している。そして、その世界は決して素っ氣なく扉を閉めて拒否したりはしない。どんな風に覗き込んでも優しく穏やかに歓迎してくれるのだ。

 そして、ジョルジアは新しく知り合う人から逃げるばかりだったこれまでと対照的に、むしろその場に留まり、彼の話をもっと聴き、自分のことを知ってもらいたいと思うようになっていた。

 それまで撮り続けていた子供たちの笑顔の写真を撮るのをやめて、モノクロームの人物写真を撮るようになったきっかけも、ニューヨークの知り合いにはほとんど話せなかったのに、彼には正直に話していた。

 秋の柔らかい陽が射し込む墓地で、彼女は一人の男の姿を偶然撮った。その横顔に浮かび上がった陰影は、自分の心を見つめ直すきっかけとなり、世間の喜ぶ子供の明るい笑顔ばかりを撮り続けていた彼女にとって、作品の方向転換のきっかけとなった。そして、彼女は有名キャスターであったその男に恋をした。

「一度も知り合っていない人にそんな感情を持つなんておかしいと、自分でもわかっているんです。でも、私の作品を創り上げるためには、その感情を無視することは出来ませんでした。自分と向き合わない限りはそれまでの殻を打ち破ることはできなかったんです」

 彼は、彼女の片想いについて、肯定してくれた。
「あなたはちっともおかしくなんかありません。あなたはそのニュースキャスターに迷惑をかけたわけではないんですから、そのことを恥じる必要はありませんよ。それに、恋とは論理ではないでしょう。いつの間にか身動きが取れないほど好きになってしまっている。僕にも似た経験があります」

「知り合ってもいない人に恋をしたことがあるんですか?」
「いや、知り合ってはいます。でも、二度と逢う機会もない程度の知り合いだったから、あなたのケースとほとんど変わりありませんよ」

「その女性への想いは、自然消滅したんですか?」
ジョルジアは訊いた。叶わない想いがいつかは解消された事例があれば、彼女自身が今の虚しい渇望に耐えることも楽になるかもしれないと思ったのだ。

 彼は、しばらく答えるのをためらっていたが、やがて首を振った。
「いいえ、まだ。いつか消えてくれればいいと思っています」

 ジョルジアは、彼が見せた表情の翳りに、悲しさをおぼえた。手の届かないものを想い続けることは苦しい。けれど、それを手放し失うことも、決して心躍ることではないのだ。それは人生に新たに刻まれる静かな敗北だった。それも、とても惨めな。自らを嘲笑して吹き飛ばそうとすれば、もっと激しい痛みとして心の奥に疼きだす、やっかいな感情の嵐。彼女のよく知っている世界だ。

「ミズ・カペッリ。まもなくマリアカニに着きます。給油を兼ねてまた少し休憩しますが、どのくらいお腹が空いていますか」
彼がそう言うと、ジョルジアは笑った。

「メグはとっくに名前で呼んでくれているのに、いつまで礼儀正しくミズ・カペッリなんですか」

 それを聞くと、彼は困ったように口ごもった。
「それは……親しくもない僕に馴れ馴れしくされたら、あなたは嫌だろうと……」

「でも、この数時間で、ずいぶん親しくなったと思うし、私はジョルジアと呼んでいただけたら嬉しいわ。私もスコット博士ではなくて、ヘンリーと呼んで構わないのかしら。そして、堅苦しい話し方をお互いにしないようにしません?」

 彼は、例のはにかんだような笑顔を見せた。ジョルジアはまた一歩彼に近づけたように感じて嬉しかった。彼は、少しの間黙っていたがためらいがちに口を開いた。
「その……もし嫌でなかったら、グレッグと呼んでくれないか」

「グレッグ?」
「ミドルネームがグレゴリーなんだ。とても小さかったとき、可愛がってくれた祖父にそう呼ばれていて……。もちろん、違和感があるならみんながそう呼ぶヘンリーでもいいんだが……」

 ジョルジアは微笑んだ。
「喜んで、グレッグ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(4)アカシアの道 - 1 -

二週ほど別の小説が入りましたが、本年のメイン小説「郷愁の丘」再開です。五歳児メグを届ける目的で、祖母であるレイチェル・ムーア博士の家にやってきたジョルジアたち。ここでジョルジアは意外な事を知る事に……。

ところで、アフリカの白人のお家は平屋でやたらと広いものが多いのです。おそらく土地はいっぱいあるからなのでしょうね。以前ヨハネスブルグ郊外で滞在したお家は、とても広くて、トイレに行く時にギリギリまで我慢するとピンチになるくらいでした。ナイロビで滞在したお家、モンバサで滞在したお家も広かったなあ。

今回も二回に分けています。「よりによって、そこで切るか」と言われても、半分くらいがここだったんだもの……。


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あらすじと登場人物




郷愁の丘(4)アカシアの道 - 1 -

 四時間のドライブのあと、一行は赤茶けたサバンナの舗装されていない道をゆっくりと進み、たくさんのアカシアの樹が生えている一画に建つ家に入っていった。それはアフリカには多い大きな平屋建てで、二匹のドーベルマンが前庭を駆け回っていた。

 彼が降りて呼び鈴を押すと、電動で門が開き、彼は車を玄関先まで進めて停めると、メグを起こしてジョルジアと自分の荷物を玄関に運んだ。玄関が開いて映画でその姿に見覚えのある動物学者レイチェル・ムーア博士が出てきた。

 メグは祖母の姿を見ると、それまで必死で抱きついていたジョルジアからぱっと離れて、その腕の中に飛び込んだ。
「ナナー!」

 映画で見たときより少し歳とったとはいえ、レイチェル・ムーア博士は誰かの祖母という言葉がピンと来ないほど若々しくて生氣に溢れた女性だった。少し濃いめの金髪はボブカットに揃えられ、半袖のサファリシャツと太ももまでの丈のショートパンツから見えている手足は瑞々しかった。

 ああ、この人は光だ。ジョルジアは感じた。それは彼女が兄である実業家マッテオ・ダンジェロや、世界でもっとも成功したモデルの一人である妹アレッサンドラに対して感じる、抗えない強いパワーと同じエネルギーだった。

「なんてお礼を言ったらいいのかしら、ミズ・カペッリ。この子はどうしてもヘンリーのことが怖いらしいの。あの髭と生真面目さのせいだと思うんだけれど」

「レイチェル。僕は車を駐車場に入れてきます」
「あ、ヘンリー。申し訳ないんだけれど客用の駐車場に、アウレリオが買った鉢植えを八本も置いたまま行ってしまったの。適当にどけてくれる?」

 グレッグは頷いた。
「本来はどこに置くべき鉢なんですか」
「スイミングプールよ。置くスペースは作ったんだけれど、今日、雑用で来てくれているジェイコブが来なかったから移動できなかったの」
「わかりました。じゃあ、プールに運んでおきます」

「私も手伝うわ」
ジョルジアが言うと、グレッグは首を振った。
「君は、ゆっくりしててくれ。ようやく客らしい立場になれたんだし」

「そうよ。まず客間に案内するわね。その後すぐお茶を淹れるわ」
ジョルジアは少し慌てた。
「私の事はおかまいなく。ミセス・ブラスが大変な時で、それどころではないでしょう」

 レイチェルは笑顔で首を振った。
「最初の連絡では私も慌てたけれど、さっき本人から電話があってね。全く問題がないんですって。少しおかしいなと思った時に誰もいなかったのでパニックに陥ってしまったらしいの。ヘンリーがすぐに病院に運んでくれて、しかもあなたたちがメグを無事にここに届けてくれるとわかったら、安心したみたい。あっちは蒸し暑いでしょう。それで調子を崩したのね。明日、退院してアウレリオと一緒にこっちに戻ってくるわ。だから、マリンディではできなかった分、あなたをおもてなししたいの。よかったらこちらにお好きなだけ逗留していってくださいな」

 ムーア博士が彼女を二階に案内した。メグも嬉しそうについてきたが、客間の前でシャム猫をみかけると声を立てて駆け出し、猫と一緒にまた一階へ行ってしまった。

 ムーア博士は客間の扉を開けると言った。
「ねえ、どうか私をレイチェルと呼んでちょうだい。メグの友達になってくれたんですもの、私の友達にもなってほしいわ」
「光栄です。ジョルジアといいます」

 そう答えるとレイチェルはウィンクして答えた。
「知っているわ。あなたの名前も、それから、お仕事も。あなたとやっとお知り合いになれてとても嬉しいのよ。彼の幸せは私たちの重要な関心ごとなの。彼はどう思っているかわからないけれど、私もマディも、ヘンリーの家族のつもりだから」

 ジョルジアは、彼女が何を言っているのかよくわからなかった。どこから訊き直すべきか考えている間に、レイチェルは本棚から抜き出した写真集を見せて笑いかけた。それはジョルジアの『太陽の子供たち』だった。まさかケニア中部の初めてあった人の家でこれを目にするとは思わなかったので、彼女はさらに驚いた。

「これはヘンリーのところにあったのよ。この前のクリスマスに彼の家に行った時にマディが見つけてクリスマスプレゼント代わりにって強引にもらってきてしまったの。以前アテンドした写真家で、アメリカの有名な賞で入賞したって、アシュレイから訊いてから欲しがっていたのに、売り切れで手に入らなかったから」

 グレッグが『太陽の子供たち』を持っていた? まさか。

 今回の旅で、彼女は前回のアテンドのお礼として、リチャード・アシュレイとグレッグ用にそれぞれサイン入りの写真集を持ってきた。リチャードは「欲しかったのに手に入らなかったんですよ!」と大喜びしたが、グレッグははにかみながら礼を言って受け取っただけだった。関心があったとは思いもしなかったのでもう持っているかどうかは訊かなかったのだ。

「マリンディに出かける前に、マディがね。ヘンリーが招待した女性、どこかで聞いた名前だと思ったらこれだったんだわって、持ってきたのよ。私もね、彼が子供の写真集ばかり持っている理由がわかってホッとしたの。私たちがよく話すようになってからこのかたガールフレンドがいた形跡がないし、ペドフィリアの傾向があったら由々しき問題でしょう? でも、おつき合いしている女性の作品だったから集めていたんだとわかったから、本当に安堵したのよ」

「これ以外にも、私の写真集を?」
「ええ。七、八冊くらいあったかしら」

 それは、つまり、出版されている私の写真集をほとんど全て持っているってこと? 言葉がでてこなかった。

 彼が子供好きでないのは、メグの扱いを見てもわかる。それに七、八冊あるという事は、その前に撮っていた風景の写真集もあるはずだ。彼が写真集を買った理由は題材にあるわけではなく、写真家に興味があるとしか考えられなかった。けれど、彼はこれだけたくさんの事を話したのに一度もその事に触れなかった。それは……。

 彼との会話が甦る。
「知り合ってもいない人に恋をしたことがあるんですか?」
「いや、知り合ってはいます。でも、二度と逢う機会もない程度の知り合いだったから、あなたのケースとほとんど変わりありませんよ」

 彼女は、手にした自分の写真集を見つめた。あの言葉を聞いたとき、自分と結びつけて考えることはなかった。だが、そうではないと断言する理由などどこにもないのだ。

 レイチェルが誤解するのも無理はない。彼が、マリンディの別荘に誘った時に、ジョルジアは彼を既婚者だと思っていたのでそんなつもりはなく招待に応じたが、レイチェルやマディの立場で考えれば、彼が女性を連れてくると言ったら恋人だと思うだろう。

 彼が階段を上がってきたのが目に入った。ジョルジアが手にしている『太陽の子供たち』を見て、彼はレイチェルが何を話していたのか悟ったようだった。

「まさか……知らなかったの?」
レイチェルは、口元に手を当てて、痛恨のミスをどう取り戻そうかと考えているようだった。だが、ジョルジア自身は驚きと混乱で、氣の利いた言葉を返すことが出来なかった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(4)アカシアの道 - 2 -

「郷愁の丘(4)アカシアの道」の続きです。レイチェルのうっかり発言により、グレッグの片想いの相手は自分だとジョルジアは氣づいてしまいました。モテモテのひとは、こういう場合の上手なあしらい方というのをわかっているのでしょうが、彼女はそうでなく……。

人生には、時々こういう瞬間があると思います。これまでの経験がほとんど役に立たず、とっさに何かをしなくてはならない時。このとっさの行動が、実は人生のターニングポイントだったという事は、もちろんその時にはわかりません。


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あらすじと登場人物




郷愁の丘(4)アカシアの道 - 2 -

 苦痛に満ちた顔で、階段を降りていってしまった彼を見て、レイチェルは彼女に言った。
「ごめんなさい、私、ヘンリーに謝ってこないと」

 彼女が出て行き、閉まったドアをジョルジアは眺めていた。あまりの不意打ちで、彼女の思考は止まっていた。

 ジョルジアは、恋愛模様の当事者になった事はほとんどなかった。ティーンエイジャーの頃から人びとの関心は、美しく装った妹に集中し、彼女はそれを客観的に眺めるばかりだった。

 男性とデートするようになったのは通常よりずっと遅く、同僚のベンジャミンに紹介されてからだ。その相手であるジョンにひどく傷つけられて去られてから、彼女は人との交流そのものもまともに出来なくなり、社会からも背を向けた。

 一年ほど前から、意に反して恋に落ちてしまったが、その相手は知り合いでもなく実際に逢う事もないので、恋愛の当事者として当意即妙の反応を返す必要は全くなかった。

 突然、こんな形で男性を意識する事になり、彼女はどうしていいのかわからなかった。荷物の前に座り込み、何をするでもなくそれを見つめた。

 どれだけそうしていたかわからない。彼女は階段を上がってくる音を聞いた。短いノックが聞こえた。
「ジョルジア」
グレッグだ。

 彼女は立ち上がり、混乱して戸惑いながらドアに向かった。どんな顔をすればいいんだろう。

「開けなくていい、ただ聴いてほしい」
ジョルジアは、ドアノブに手をかけたまま立ちすくんだ。

「レイチェルが言ったことは、どれも本当だ。それに、あのとき君に話した、好きになってしまった女性というのは、君のことだ。でも、君をマリンディに招待したのも、こんな所まで連れてくることになってしまったのも、邪なことを企んでいたわけじゃない。ただ、リチャードの事務所で君に再会したときに思ったんだ。こんな奇跡は二度と起こらない。だから一分でも長く君と時間を過ごしたいと」

 彼女は、混乱していた。彼に対して一度も感じたことのなかった動悸にも戸惑っていた。それでいて、片想いをしている男に感じる強い痛みと熱情が欠けていることも冷静に感じていた。どうしていいのかわからなかった。ジョルジアは、望まぬ相手に愛の告白をされたことなどこれまでたったの一度もなかった。ましてや、その相手がこれまで一度も感じたことがないほど自分に近く感じる特別の相手なのだ。

「君がショックを受けて、僕に不信感を持つのは当然だ。距離を置かれたくなかったからだが、故意に隠していたのは事実だし、自業自得だと思う。君をちゃんとナイロビ行きの停まるヴォイかムティト・アンディまで送り届けてくれるようにレイチェルに頼んだ。せっかくの休暇に不快な思いをさせてしまって、本当にすまなかった」

 ジョルジアは、何か言わなくてはならないと思った。だが、何が言えるだろう。近いと思える存在を失いたくないから「無害な」友達でいてほしいと? そんな都合のいいことを言う権利があるとでも?

 しばらくしてから、彼が返事を待たずに去っていく足音が聞こえた。ジョルジアはドアを開けてその落胆した後姿が階段を降りて見えなくなるのを黙って見つめた。彼は振り返らなかった。

 何かを言わなくてはならない。もしくは、敵意のない態度を見せなくてはならない、例えば食事のときに、いや、リビングに行ってレイチェルに話しかけながらでも。

 彼が謝らなくてはならないことなどなにひとつなかった。もし、それが罪なら、ジョルジアが、自分を知りもしない相手のことをいつも考えてしまうのも大罪だった。彼女はグレッグと一緒にいた時間を不快に思ったことは一度もなかった。何と答えていいかもわからないほど混乱させられている彼の告白ですら不快ではなかった。

 ジョルジアが、それを告げようと決心して階下に降りようとした時、表からエンジン音がした。そしてルーシーの吠え声がドアの締まる音とともに消えたのも。

 彼女は、我に返って階段を走り下りた。玄関にはレイチェルがいて、ジョルジアを見て頷いた。

「彼は?」
「このまま、帰るそうよ。あなたをよろしくって、頼んでいったわ」

 ジョルジアは、そのまま彼女の横を通り抜けて表に出た。黒いランドクルーザーは、もう門を出て走り去っていた。ジョルジアは走って公道に出た。並木の間を赤茶けた道がずっと続いている。土ぼこりが舞い上がって、去っていく車が霞んでいく。彼女は、間に合わないと思いながらもただ走った。けれど、ぬかるみの中に隠れていた石につまづいて転んでしまった。

 膝と、それから手のひらに激痛が走った。こんなのは嫌。世界は突如として以前通り素っけなく親しみのないものに変わってしまった。アフリカも厳しく痛い存在になってしまった。どうして。

 こみ上げてくる苦しさを押し込もうとしたその時に、彼女は近づいてくる犬の吠え声を聞いた。顔を上げると、焦げ茶のローデシアン・リッジバックが走り寄って来ていた。
「ルーシー……」

 大きい犬は、尻尾を振ってジョルジアに駆け寄ると、振り向いて主人を呼んだ。グレッグが遅れて走って来ていた。彼は、駆け寄ると屈んで「大丈夫か」と訊いた。

「痛いわ」
彼女は、手のひらを見せた。赤茶けた泥まじりの土の下から血がにじみだしている。

「この辺りはアカシアの木ばかりだから、トゲがたくさん落ちているんだ」
彼はとても優しく手のひらの泥を拭って、棘がいくつも刺さっているのを見た。
「すぐに手当をしないと。立てるか」

 ジョルジアは、完全に安堵している自分に驚いていた。泥だらけの惨めな姿で、手のひらと膝は痛くても、心の方の痛みが消えていた。

「ルーシーが吠えて報せてくれなかったら、君が追って来ていたことも、こうして怪我をしたことも知らずにそのまま走り去ってしまう所だった」

「どうしてさよならも言わずに行ってしまうの? 約束したのに」
「約束?」
「約束したでしょう。私を《郷愁の丘》へ連れて行ってくれるって」

 彼は驚きに満ちた目で、彼女を見つめた。
「……。君は、二度と僕と二人きりにはなりたくないんだと思っていた」

「私はムーア博士に逢いにここに来たわけじゃないわ。マリンディに行こうと思ったのも、イタリア人街を見たかったからじゃない。あなたは、他のどんな人とも違う。あなたは私にとても似ていて、きっと誰よりもわかってくれる人だと感じたからよ。あなたと友達になりたかったの。それが迷惑だと言うなら諦める。でも、こんな風に黙って去っていったりしないで」

 グレッグは、ジョルジアを支えてゆっくりと立たせた。
「《郷愁の丘》までは日帰りできる距離じゃないんだ。それでも来るかい?」

 彼女は頷いた。
「荷物を取ってくるわ」

 グレッグは、少し間を置いてから言った。
「まず、この傷の手当をしてからだ。車をとってくるから、ルーシーとここで待っていてくれ」

 彼は、かなり先に乗り捨てたランドクルーザーの方に歩いて戻っていった。ジョルジアは、ルーシーの優しい鳴き声を聞きながら、その背中を見ていた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 1 -

「郷愁の丘(5)朝焼けの家」の第一回目です。ジョルジアは、グレッグの住む《郷愁の丘》に来ています。ここは九千字を超えているので分けています。綺麗に三回や四回に分けられればよかったんですが、そうはいかず、とりあえず三回に分けていますが三回目だけがすこし長くなります、すみません。新聞の連載小説を書いているプロの小説家って、本当にすごいなあ。

ともあれ、今回発表する部分は、本当に何度も何度も書き直しました。しかも、この作品の一番最初に着手した部分でもあります。本当はこの章のサブタイトルを「郷愁の丘」にしようかと思っていたんですが、本タイトルにしてしまったのでここは「朝焼けの家」にしました。


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郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 1 -

 ここはどこだろう。目の醒めたジョルジアは、はじめニューヨークのソーホーにある地下レストランのことを考えた。それは狭くて騒がしい赤い照明が特徴の店で、壁に飾った七十年代風のオブジェも全て赤く染まってしまい、非現実的で落ち着かなかった。

 あの店にいるはずはない。ニューヨークのレストランに枕や布団があるはずはない。彼女は枕に手を触れて、ゆっくりと起き上がった。騒がしい音楽も、狭くて人いきれがして領域を侵害される感覚もなかった。

 ここは、《郷愁の丘》だ。昨夜到着したグレッグの家、彼に案内された客間。昨夜電灯をつけた時には普通の部屋だったのに、どうしてここはこんなに赤いのだろう。

 そして彼女はすぐに納得した。その赤い光は、東に面した大きいガラス窓から入ってきているのだ。《郷愁の丘》の敷地は七十メートルほどの崖の際にあった。客間の外は広々としたテラスとほぼ自然のままの庭が崖まで続き、その先にはサバンナが地平線まで広がっていた。そして、これまで見たことのないような鮮烈な朝焼けは、そのどこまでも続く広い大地を舞台に繰り広げられていた。

 火事のように燃える朝焼け。どこかで聞いたことのある言葉。それは、そんな簡単な表現や、テレビや映画の映像では決して再現することの出来ない強烈な光景だった。

 ジョルジアは、立ち上がり、ガウンを羽織るとテラスに通じるガラス窓に歩み寄った。

 自分の力で歩いているのか確かではなかった。息をしているのかも自信がなかった。これまでいたのと同じ惑星ではないように感じる。世界が燃え立っている。地平から上が、暖かい赤から黄色に近いオレンジへのグラデーションで彩られていた。遮るものは何もない。あったとしても、小さく意味もなかった。視界の全てはその色だけ占められた。ジョルジアの全感覚を支配したままゆっくりと変化する色の競演。陽炎のごとく揺らめいて広がっている。

 いいしれぬ感情は、光を捉える虹彩で感じているのではなかった。それはもっと深く強い激流として彼女の足元から、腹部から、螺旋を描きながら狂わんばかりの激しさで湧き出ている。立っていられることが奇跡のようだった。

 彼女は、あまりの強烈な色の輝きに写真を撮ることも忘れてただ眺めていた。

「一度アフリカに来たものは、いつの日か再びアフリカに帰る」
その言葉は、これまで知識や概念として彼女の中にあったが、今、彼女の中で叫んでいるのはもっと別の強い感情だった。

「いつの日か、私はここに帰る」

 彼女が再びケニアを訪れたのは、一度見た光景を忘れられなかったからではなかった。なぜここに来ようと思ったのか、彼女には説明できなかったし、意味など何もないと思っていた。そうではなかったのだ。彼女は、どうしても来なくてはならなかった。まだ一度も見たことのないこの世界を自らの目で見るために。

 それはナイロビでも、モンバサでも、マリンディでもなかった。雑多で混沌とした都会や、藁葺き屋根がリゾートの雰囲氣を盛り上げる海辺の別荘では決して見ることの出来ないものだった。笑い声が絶えなく快適なレイチェル・ムーア博士の家ででもなかった。文明から遠く離れ、サバンナに孤高に建つ、この《郷愁の丘》にたどり着いた者だけが見ることを許される光景だった。

 少し離れた敷地内を動く二つの影があった。愛犬と朝の散歩をするグレッグ。朝焼けをみつめる彼のシルエットを彼女は見つめていた。

 この人は、ずっとここに一人で立ち続けて来たのだ。億千もの朝の、グレートリフトバレーで生まれた遠い祖先の記憶を保ちながら、たった一人で。国籍や両親の居住地、受け入れてくれる社会、そんな概念では語れない強い郷愁が、彼をここに引き寄せた。

 そして、彼は私にそのかけがえのない秘密を見せてくれたのだ。想いに応えることも出来ず、約束も出来ず、ただ自分の寂しさを埋める優しさにもたれかかろうとした残酷な私に、何の見返りも求めずに。

 握りしめている手のひらに、昨日作った擦り傷が痛みとも熱ともつかぬ熱い感覚で脈打っていた。彼がレイチェルの家で、この傷の手当をしてくれた時の優しい感触が甦った。彼が彼女に触れたのは、本当にその時だけだった。紳士的でとても優しい態度の内側に、隠していた心を暴露された居たたまれなさと、愛する人の心を得る事のできない絶望が押し込められている。そんな立場に彼を追いやってしまったのが、自分なのだと思うと苦しくて悲しかった。

* * *


 彼とルーシーの姿がゆっくりと視界から消えてもしばらくジョルジアはその窓辺に立っていた。やがて朝焼けはごく普通の朝の空に変わり、昨日のように何でもない日常が戻ってきた。彼女は我に返ってガウンに手をかけると、部屋に隣接している浴室に行き、シャワーを浴びてから着替えた。

 客間を出て廊下を歩いた。玄関の近くにある居間兼ダイニングルームを覗くと、ルーシーは、尻尾を振って寄ってきた。グレッグが氣づいて笑いかけた。

「おはよう。よく眠れたかい」
「ええ。ぐっすりと」

 昨日あった事も、先ほどのジョルジアの人生を変えるほどの光景も、まるで何もなかったかのような穏やかな朝の挨拶だった。

 ジョルジアが思いもしなかった、彼の想いについて知った午後、転んで怪我をしたジョルジアを連れてグレッグが戻ると、レイチェルは困惑した顔をして二人を見ていた。彼がアカシアのトゲをひとつ一つ丁寧に抜いてくれ、それから消毒をしてくれている間、ジョルジアは《郷愁の丘》にある彼の家の事を質問した。どんな建物か、屋根の形や近くにどんな動物が来るのか、井戸から水を汲んでいるのか、など。

 その会話から、レイチェルもこれからジョルジアが彼の家に行こうとしている事を知り、納得して嬉しそうに送り出した。おそらく彼女はまた誤解したのだろう。彼女は知らないのだ。ジョルジアはニューヨークに住む著名ニュースキャスターに恋をしているとグレッグに告白してしまった。そして、その事実は簡単には動かせない。

 それでも、彼女はここに来た。何かが起こる事よりも、このままグレッグという彼女にとって特別な人間との交流が断ち切られる事がつらかった。だから、彼が求めてきたら拒否するような事はしまいと思っていた。

 けれども、昨夜は何も起こらなかった。彼は、男性の同僚や親族を家に泊めるのと変わらないように家の中を案内し、パンとチーズとワインだけの簡素な夕食を普通にした後、「今日は疲れただろう。また明日」と礼儀正しく挨拶をして寝室に向かった。

 ドアの閉まった客間の中から、彼女は彼の去っていく足音を聞いた。彼は、ルーシーに話しかけていた。
「そこにいろ。そして彼女を守るんだ」

 ジョルジアは、彼の事を考えながら穏やかに眠りについた。今、目の前にいるのは、その彼女が眠る前に思い浮かべたのよりはわずかに明るい笑顔を浮かべているグレッグだった。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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この作品にはいろいろな曲がインスピレーションをもたらしてくれていますが、このシーンを構想しているときはずっとこの曲を聴いていました。Eraはフランスのエリック・レヴィを中心とした音楽プロジェクトで、中世のラテン語風の歌詞で一世風靡した「Ameno」などで知られています。中世ヨーロッパ風の小説のBGMにいいかなと思っていましたが、どういうわけかこの「郷愁の丘」BGM用プレイリストに入ってしまいました。なぜかアフリカにも合うんですよ。


Era - I Believe
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 2 -

「郷愁の丘(5)朝焼けの家」の第二回目です。

今回はじめてアマンダという女の子が登場します。要するにお手伝いさん的な仕事をしている女性ですが、こうした使用人を雇うのはわりと普通の事です。スイス辺りだと時給が高いので、大学講師で糊口を凌いでいる貧乏な研究者が使用人を雇うなんて不可能なのですが、それが出来てしまうのがアフリカなのかもしれません。

もっとも、グレッグは掃除くらいはできますが料理はさっぱりなので、こうした使用人もなしに一人で地の果てに暮らしているという設定は、ちょっと無理があるかもと思いました。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 2 -

 彼は朝食を用意していた。
「スクランブルエッグは、そこそこ普通に作れるんだ。目玉焼きだとあまり自信がないけれど……。どっちが好みかな?」
「お得意なスクランブルエッグをお願いするわ。それに、必要なら何かお手伝いするわよ」

 そして、二人で作った朝食をキッチンから運ぶと、ダイニングテーブルに向かい合って座り、朝食をとった。

 ジョルジアは、窓から見た朝焼けの魅力について話した。彼は、彼女の熱意に嬉しそうに耳を傾け、それから言った。
「ここは、マサイの言葉では《Ol-dóínyó olíyio》と呼ばれているんだ」
「どういう意味なの」

「隔離されて寂しい丘。世界に自分一人しかいないような心持ちになるからだろうね」
「《郷愁の丘》はロマンティックに響くけれど、マサイの呼び名にも一理あるわ」
「彼らは、僕らのような甘い言葉は使わないのかもしれない。もしくはもっと感受性が研ぎすまされていて、言葉による遊びはしたくないのかもしれない」

「あなたはマサイの言葉もわかるのね」
「いや、わかるというほどではない。簡単な挨拶は出来るけれど、彼らの言葉は難しいんだ」
「文法が?」
「それもあるけれど、僕たちの言語では全く違う概念に同じ単語をあてはめたりするので、何の話をしているのか理解するのが難しい。だから、結局は英語で話してもらうことになる」

「昨日のあの女の子もマサイ族なの?」
ジョルジアは、昨日ここに着いた時に、門の前で待っていた若い女性のことを考えた。ずっと大人しかったルーシーが、ものすごい勢いで吠えて、それは彼女が仕事を終えて去るまで続いた。その娘は忌々しそうにルーシーに舌打をして、それから、ジョルジアの事も睨みつけたようだった。

「いや、アマンダはキクユ族だ。ここから十キロくらいのところにキクユ族の集落があって、そこから通ってくる」
「十キロも歩いて?」
「ああ」
「大変なのね」

「実は、来てもらいたくて頼んだわけじゃないんだ。アマンダの家族が仕事を欲しいと言って来てね。断ってもいいんだけれど、よけいなトラブルを避けるために、来てもらっている。まあ、僕も家事が得意って訳ではないし」

 ジョルジアは、アマンダの緩慢な仕事ぶりを思い出した。拭き掃除も目についた所を少し触れるだけ、シンクに置かれていた食器類はずいぶんとたくさんの洗剤を使っていたわりに汚れが落ちきっておらず、ジョルジアは彼女が帰った後、食事を用意する時にそっと洗い直した。

 朝食の後、グレッグは戸惑いながらジョルジアに言った。
「申し訳ないが、できるだけ早くレイチェルに返さなくてはならない資料があるんだ。今日中に論文のその部分を確認したいんだけれど、しばらく君をひとり放置しても構わないだろうか」

「もちろんよ。私のことは氣にしないで。もし差し支えなかったら、勝手にお昼ご飯の用意をしていてもいい?」
「え。それは、申し訳ないな。でも、僕が用意しても大して美味しいものが作れるわけじゃないからお願いするかな……ここにある物は何でも自由に使っていい。わからなかったら訊いてくれれば……」
「火事にでもならない限り、ひとりでなんとかするわ。邪魔しないから安心して」

 一番近い街イクサまでは車で一時間近くかかる。ニューヨークでは、身近なもので足りないものがあれば徒歩で、大きい買い出しには車で十五分もあれば何でも揃う大型ショッピングセンターに行くことが出来る。だから、サバンナの真ん中に住むというのはちょっとしたサバイバル生活のように思える。彼はガスボンベや発電用のオイル、それに日常品の買い出しは大学に講義に行く時や用事があって街に出かける時にしていると言った。昨日も帰りがけにイクサの食料品店に寄って、何種類かの肉や卵を買った。スーパーマーケットと呼ぶにはずいぶんと小さな店だった。

 ジョルジアは、ひとまず冷蔵庫と貯蔵庫を調べた。思ったよりも充実している。野菜は、アマンダが届けてくれると言っていたが、こんなにたくさん持って十キロも歩くのは大変だろうなと思った。

 瓶詰めのスパイスの類いもいくつか発見した。これらは使った形跡もないが、古くても未開封なら問題はない。彼女の一番好きなパスタソースを作るのに足りないものはなかった。アフリカの強烈な日光を浴びて、トマトは十分に甘く熟している。

 それから三十分後には、ジョルジアは鍋の中でソースを煮込み始め、使った他の調理器具を洗い始めた。手際よくすべてを洗うと布巾で乾かして定位置に納め、台所の椅子に座って小説を読み始めた。

 そのすぐ後に、庭先でルーシーがものすごい勢いで吠えだした。どうしたんだろうとジョルジアは椅子から立ち上がって首を伸ばしたが、見えなかった。ガタッという音がしたので扉を見ると憮然とした顔でアマンダが立っていた。

「何をしているのよ」
彼女はツカツカと鍋に歩み寄ると、勝手にふたを開けた。
「何これ」
「パスタソースよ。イタリア料理なの」

 アマンダは、ジョルジアの答えに満足した様子はなく、乱暴に蓋を閉めると、シンク周りを見回した。全てが片付けられてやることはなくなっていた。

 それから裏から箒を持ってくると、乱暴に床を掃き始めた。ジョルジアの座っている下を掃く時に彼女の足にゴミがかかるような動きをしたが、彼女はさっと立ち上がって難を逃れた。
「お邪魔だったのね。終わるまで外で待ちましょうか」

「あんた、いつまでこの家にいるつもり?」
アマンダのトゲのあるいい方にジョルジアは戸惑った。
「数日はいると思うけれど」

 アマンダはもともと出ている唇を大きく突き出して、敵意を込めて睨むと雑巾をシンクに叩き付けて出て行った。ジョルジアは、もしかして、この娘はグレッグと雇用主と使用人以上の関係なのではないかと思った。

 その途端、胃のあたりがちくりとしたように感じた。彼女はグレッグのいる部屋の扉を見た。これは何なのだろう。それから彼女がずっと片想いをしているはずの男と彼が婚約するだろうと噂されていた美しい女性のことを思った。どちらも同じようにジョルジア自身の人生とは直接関わらないはずの関係。

 ジョルジアが、かつてそのジャーナリストと知り合う可能性があったパーティで、その日本人女性と一緒にいる姿を見かけたとき、彼女は苦しくて悲しかった。けれど、あの時、私は不快に思っただろうかと彼女は訝った。否、決して不快には思わなかった。ただ、自分が惨めで辛かっただけだ。

 一方、今の感情は何なのだろう。グレッグの想いに応えられないのならば、たとえどんな形にせよ彼に誰かがいることを喜ぶべきだろうに、どうして私はそれを嫌だと感じたのだろう。これは嫉妬なのかしら。だったらなぜ? 私は彼に惹かれ始めているんだろうか? ジョルジアは混乱したまま、しばらく廊下の奥を眺めていた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 3 -

「郷愁の丘(5)朝焼けの家」、三回に切った最終部分です。少し長くなってしまいましたが、四回に分けるほどの量ではなかったので、このまま行きます。

今回書いたうち写真集に関する部分は、前作を読まれた方には重複になるかと思いますが、前作を読んでいな方へのダイジェストとして書き加えました。

また、後半部分では、グレッグがモテない理由がいくつかでてきます。生真面目で堅いだけが理由ではないんですね。とくに七時間の件は、やったら大抵の女の子は怒って去りますって。悪氣は全くないんですけれど。ジョルジアは、ぜんぜんへっちゃらでしたが。


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あらすじと登場人物




郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 3 -

 明らかにきちんと仕事をしていないにもかかわらず、アマンダが帰ってしまったので、ジョルジアは余計なこととは思ったが、彼女の感覚での「ちゃんとした掃除」をしてから道具をしまい、また読書に戻った。

 グレッグは、その間一度も出てこなかった。それどころか昼の時間を過ぎて、ジョルジアが愛犬ルーシーとひとしきり遊んだ後になっても。

 裏庭には建物のすぐ近くに二本の大きなガーデニアの樹があって、優しい木陰を作っていた。その間にはキャンバス地のハンモックが吊るされていて、グレッグは時おりそこで昼寝をするのだと言っていた。何時でも自由に使ってくれと言われたのを思い出したジョルジアは、その上で読書の続きをしたり、しばらくうとうとしたりしなから、時おり鍋の様子を見てのんびりと時間を過ごした。

 その間、たくさんの野鳥たちがテラスを訪れた。黄色、赤、青、目の周りに模様のある鳥や、尾の長い鳥もいた。さらには宝石のように金属的な照りのある青い鳥がやってきて、ジョルジアは一人歓声を上げた。ルーシーは嬉しそうに尻尾を振った。

 インターネットはなかった。電話もなかった。今どき見かけないような古風なテレビやラジオもあったが、その日は電波が弱いらしくて使い物にならなかった。台所の窓のあたりにくるとiPhoneでメールチェックをする事は可能だったが、インターネットを快適に見られるほどではなかった。昨夜ジョルジアがしたメールチェックをグレッグが意外そうに見ていたのがおかしかった。

「そうか。この位置ならデータ通信が出来るのか。僕は携帯電話しか使わないし、そちらはほとんど問題ないのだけれど、前にマディがここはメールチェックも出来ないと憤慨していたんだ」

「Eメールがないと困らない?」
ジョルジアは訊いた。

「週に一度は講義で大学に行くので、その時に通信しているよ。僕がその頻度でしかメールチェックをしないので、急ぎの人は携帯電話かSMSで連絡してくる。でも、ここでもメールチェックが出来るなら、いずれはスマートフォンに変えた方がいいかな」
グレッグは肩をすくめた。

「どうかしら。メールに追われずに済むのって、現代社会では特権みたいなものだから、このままでもいいのかもしれないわよ」
その自分の言葉を思い出したジョルジアは、笑ってエアプレーンモードに切り替えた。

 こんなに「何もせずに過ごした」のは何年ぶりだろう。ジョルジアは、そのつもりがなくても自分はニューヨーク式の秒刻みの生活に慣れすぎていたのだと思った。いろいろな写真のアイデアが頭の中を通り過ぎていく。必要だったのは、別の物を見ることではなかった。外部からの刺激を減らしてアイデアが自由に行き交うスペースを確保することだったのだ。

 彼女は、最終段階にきている新しい写真集の事を考えた。

 一年半前の十一月、ニューヨークのウッドローン墓地で起こった事が始まりだった。それはとある追悼詩に使う墓石の写真を撮る仕事で、普段は使っていなかったILFORD PAN Fのモノクロフィルムを入れたライカを構えていた。その時に偶然視界に入ってきた男の佇まいに、彼女は衝撃を受けた。そして、氣がついたら夢中でシャッターを切っていた。彼女は、それをきっかけにモノクロームで人物像を撮りはじめた。

 彼女がそのまま恋に落ちてしまった知り合ってもいない男、彼女を愛し導いてくれる兄や妹、よく行くダイナーのウェイトレスで今や最良の友になったキャシー、誰よりも親しい同僚であるベンジャミン、そして、その他に少しずつ勇氣を出して向き合い撮らせてもらった幾人かの知り合いたち。どの写真にも映っていたのは、人生の陰影だった。モデルとなった人びとの陰影であると同時に、それはジョルジア自身の心の襞でもあった。彼女が選び取った瞬間、彼女が見つけた光と影。

 この旅が終わった後に編集会議があり、これまで撮った中から新しい写真集で使う写真を選ぶことになっている。彼女が考えているどの写真にも自負があり、意味がある。けれども、何かが足りなかった。彼女の中で、誰かが訴えかけている。一番大切な私をお前は忘れている。もしくは、蓋をしてみなかった事にしようとしていると。ニューヨークでは、それが何だか彼女には皆目分からなかった。ここ《郷愁の丘》でもまだわからない。だが、声はずっと大きく、もしくは近くで囁くように聞こえた。

* * *


 ばたんと扉が開いた音がして、まるで転がるように彼はキッチンに入ってきた。あまりの勢いだったのでジョルジアは何かあったのかと心配した。
「どうしたの?」

「え。いや、その……君を放置したまま、半日以上も……」
「ああ、そんなこと。論文は進んだ?」

 ジョルジアは、鍋の蓋を取って中を覗き込んだ。スプーンですくって味を見ると満足して火を止めた。彼は、テーブルの前に立ちすくんだ。
「その香りで、我に返ったんだ。なんて美味しそうな匂いなんだろう、お腹が空いたなって。それで、時計を見たら……」

 キッチンの隅々に夕陽の赤い光線が柔らかく入り込んでいた。ジョルジアが湧かしたお湯にスパゲティを投入するのをじっと見つめながら、彼は項垂れた。
「本当に申し訳ない。こんなに時間が経っていたなんて」

 ルーシーが、その側にやってきて慰めるようにその手を舐めた。ジョルジアは、テーブルの上にサラダボウルと取り皿を並べた。
「飲み物は、どうしたらいいかしら?」

 グレッグは、あわてて戸棚から赤ワインを取り出した。彼が栓を開け、ジョルジアは、食器棚からグラスを二つ出した。それから、二人でテーブルに向かい合った。

「夢中になって時間を忘れてしまうこと、私にもよくあるの。アリゾナで脱水症状を起こしかけたこともあったわ。ほんの半時間くらいのつもりだったのに、四時間も撮っていたの」
「それは大変だったね。でも、今回はもっとひどいよ。こんな何もない所に君を七時間も放置したなんて」

 ジョルジアは、微笑んだ。
「ルーシーと遊んだし、あのハンモックの上で持ってきた小説を読み終えたのよ。それに我慢ができなくて、少し写真も撮ってしまったの。初めて来た所なのに、こんなにリラックスして楽しんだことないわ。おかげで新しい仕事のアイデアがたくさん浮かんできたのよ。それに、これも作れたし」

 ジョルジアは、アルデンテに茹で上がったスパゲティとボローニャ風ソースをスープ皿に形よく盛りつけた。渡そうとした時に、彼が黙ってこちらを見ているのに氣がついた。朝食の後、何も食べていなかったようだし空腹だろうとは思ったが、グレッグの瞳が潤んで見えるのを大丈夫かと訝った。
「具合が悪いの?」

 彼は、はっとして、それから首を振った。それからいつものようなはにかんだ表情をしてから小さな声で言った。
「君にこんな家庭的な一面があるなんて、考えたこともなかった」

 ジョルジアは、彼の前に皿を置いて答えた。
「それは食べてから判断した方がいいんじゃない? どうぞ召しあがれ」

 彼は、スパゲティを絡めたフォークを口に運ぶと、目を閉じてしばらく何も言わなかった。ジョルジアがしびれを切らして「どう?」と言いかけた時に、瞳を見せてため息をもらすように「美味しい」と言った。兄マッテオがこのパスタソースについて毎回並べる何百もの讃辞に較べると、拍子抜けするほどあっさりとした意見だったが、その口調は兄の賞賛に負けないほど深いものだったので、ジョルジアは満足した。

「どんな魔法を使ったのかい?」
彼は台所を見回した。料理は得意ではないから、最低限の調味料しか持っていない。アマンダが届けてくれた野菜も、昨日肉屋で一緒に買ったひき肉も、普段と全く同じで、特別なものは何ひとつない。訝るのも当然だった。ジョルジアは肩をすくめた。

「特になにも。ちょっと時間がかかるだけで普通のボローニャ風ソースと一緒よ。祖母に習ったの」
「イタリア系のアメリカ人は、みなこういうパスタソースを食べるのかい?」
「いいえ、そうでもないわ。みな忙しいもの。スーパーマーケットの出来合いのソースで食べる方が多いんじゃないかしら」

「君も?」
「そりゃよそで出てきたら食べるけれど、自分で作るならこうやって作るわ。家にいる日ってあるでしょう? 他のことをしながら作ればいいのよ。たくさん作って、余ったら冷凍して置くの。もっとも、兄にこれを作ったのがわかると、たいていすぐにやってきて食べちゃうんだけれど」

「お兄さんがいるのかい?」
「ええ、マンハッタンに住んでいるの。妹もいるわ。彼女はロサンゼルスに住んでいるの」
「そうか」

 彼はわずかに遠くを見るような目つきをした。ジョルジアは、彼が自分の家族のことを考えているのだと思った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(6)シマウマたち - 1 -

少し間が空きましたが「郷愁の丘」です。ここは12000字を超えているので4回に分けます。

日本やスイスは、住むのに比較的安全な国です。そういうところから、そうではない国を訪問すると、安全であることに対して考えさせられることがあります。今回の部分は、そういった体験をもとにした記述が少し入っています。

それに、季節のあり方が日本とは少し違うので、そのことにも触れてあります(ここだけでなく、小説全体のあちこちに埋め込んであります)が、あまりうるさくならない程度の記述に抑えてあります。この辺は難しくて、伝わらないと困るのですが、一方で「説明しています」という感じになるのは嫌なので、毎回「どうしようかな」と悩むところです。

タイトルのシマウマは……。すみません、まだ出てきていません。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(6)シマウマたち - 1 -

 翌朝、彼はサバンナの調査にジョルジアを同行しようと言った。ルーシーにそれを告げると尻尾を振って、外へ飛び出そうとした。彼は、それを厳しく止めた。

 ジョルジアは、彼がルーシーを連れいてかないつもりなのかと思った。けれど彼は外の様子を示していった。
「あそこで跳ね回られると、車の中が大変なことになるからね」

 前庭は茶色い泥沼のような様相をしていた。ジョルジアは、昨夜の食事中に突然降り出した激しい雷雨の事を思い出した。

「雨季だから」
彼はその時、なんということはないという様子で言った。恐ろしい雷鳴や、屋根が抜けるのではないかと思うような大雨だったが、彼が落ち着いていたので、ジョルジアは思ったほど恐ろしさを感じなかった。ニューヨークで時々経験するハリケーンのような横殴りの風はなく、ひたすら大量の雨が降っただけで夜半までは続かなかった。だから、ジョルジアも安心して眠りにつく事が出来たのだ。

 彼はリードをつけてルーシーに水たまりを避けさせ、指定席である最後部座席に載せた。

 ジョルジアは、レイチェルの家で二匹のドーベルマンを見た時から疑問に思っていた事を訊いた。
「ルーシーをどこにでも連れて行くのね。家の番はいいの?」

 彼は笑った。
「犬を泥棒よけとして飼う人の方が多いけれど、うちにその心配はないよ。盗まれて困るものはほとんどないし、それでもうちから何か盗みたい人はルーシーぐらいなら簡単に殺してしまうさ。僕やここに滞在している人に、誰か不審者が来た事を報せてくれるという意味では、ルーシーは番犬だ。でも、それ以外ではどちらかというと僕の唯一の家族みたいなもので、泊りの時や調査ですぐには戻れないかもしれないところに行く時にはいつも連れて行く」

 それから、申しわけ程度の柵しかない表側の庭をジョルジアに見せて言った。
「この家には、野生動物よけの弱い電流を流す柵だけで、人間が侵入するのを防ぐ仕掛けは何もない」

 確かにそうだった。《郷愁の丘》の門には何のロックもない。サバンナの景観を遮るような境界も全くない。崖に面した東側には柵すらない。だからこそ、ジョルジアは生涯忘れる事はないだろうあの朝焼けを寝室で見る事が出来たのだ。

 レイチェルの家の塀には電氣ショックを与える柵があって、周囲からはあまり中が見えないように背の高い植木があった。その内側には鋭い針のあるアガベの仲間が隙間なく植えてあり、入り込んできた輩は怪我をするようになっていた。二匹のドーベルマンの他に、ガチョウを何匹も飼っているのは侵入者が入り込むと大きな鳴き声で騒ぐからだと説明してくれた。ゲートも電動だったし、さらに家のどの窓やドアにも鉄格子の侵入よけがあった。

「どうして? 何か他の仕掛けがあるの? それとも、性善説を信じているの?」
ジョルジアが訊くと、彼は笑って首を振った。

「ここがあまりにも人里から離れているから、何も必要ないんだ。この近くにいる人間はマサイのある部族だけだ。彼らは盗んだりはしない。牛以外はね」
「牛?」

 グレッグは頷いた。
「彼らの信仰では、神は世界の全ての牛をマサイのものと定めたんだそうだ。だから、他の部族やその他のよそ者が牛を飼ったりすると、彼らは『正統な持ち物を取り返しに』行くんだ。でも、それ以外の金目のものや電氣製品などを盗るために家に入り込んだりするような人たちではない」


「それで、他の家のようにドアに鉄格子がついていないのね?」
「泥棒たちは、何もないとわかっているのに、こんな遠くまでやってくるような無駄な事はしないからね。引越したての頃、二回か三回ほど留守に入られた事がある。でも、あまりに何もないので呆れたんだろうね」

 彼は居間を見回した。ジョルジアは改めて置いてある家具に目を留めた。ジョルジアの感覚では、そこにある家具の全てはアンティークと言ってよかった。

 彼女がニューヨークでよく行くダイナー《Sunrise Diner》で友人となったイギリス人クライヴとクレアの働いている骨董店《ウェリントン商会》には、ここにあるような家具がびっくりするような値段で売られている。モダンで快適な家具に飽きた酔狂な金持ちか、古き良き時代に憧れる人たちが「ようやく見つけた」と喜んで買っていく。それほど、今やどこにも見かけなくなったような古くて使い込まれた家具だった。

 ただし、この家具が作られた時代から高級品とは言いがたいクオリティで作られたもので、それが時代を経て使い込まれ、上塗りもあちこち剥げて色褪せたせいで、どことなく物悲しさが漂っていた。そして、その家具の中も上も、シンブルに徹した簡素さで、言われてみると金目のものなどどこにもなさそうだった。食器やカトラリーですら、特に高級なものは何もなかった。

 この家までわざわざやってきて何かを盗んでいこう、それを更に売り払おう考えた泥棒が、運搬の手間すら惜しんでやめたことは十分に想像できた。

「僕は、せっかく書いた論文や資料を心配して青くなったけれど、興味も持たなかったらしくて、何もかも残っていてホッとしたんだよ。それから十年近く一度も泥棒には入られていない。時々、スプーンや砂糖などはなくなるけれど」

 二年前にリチャード・アシュレイが黒人の使用人の事を罵っていたのを思い出した。カトラリーや食糧の備蓄がなくなるのは、こちらでは日常茶飯事なのだと。ジョルジアは、ここでもそれが起こっているのかと思った。つまり、想定される犯人は、あのアマンダだということになる。でも、グレッグの方はとくに彼女に腹を立てているように思えなかった。そういうものなのだと、受け入れてしまっているようだ。

 出かける用意を済ませ車で待っていると、彼も戸締まりをして出てきた。ライフルを持っていたので、彼女はぎょっとした。彼は、笑ってそれを後の座席に置くと言った。
「まず使わないよ。でも、どうしても使わなくてはいけない時もあるから、ここに住むようになってから訓練した。人間の愚かさのため、使わざるを得ないときが一番辛い」

「使う羽目になった事があるの?」
「幸い、威嚇だけで済んだけれどね。キクユ族の男がハイエナに襲われたのを救った事がある。それに、僕はあまり観光客には関わらないようにしているんだけれど、レイチェルが案内したベルギーの金持ちは勝手に車から降りて、ライオンに襲われそうになったんだ。その時は同行していたレンジャーがそのライオンを射って怪我をさせたんだ。それが原因でしばらくして死んだ。彼女はその観光客の勝手な行動を止められなかったとずいぶんと自分を責めていたよ。」

「調査のためにも、氣を遣うのね」
「そうだね。撃つなんて事は論外だけれど、動物たちのストレスにならないようにしたいんだ。彼らの警戒心を起こさせるような行動は極力避ける」

「どういうふうに?」
「例えば距離だよ。ほんのわずかな違いなんだけれど、たった半メートル近すぎるだけで、動物たちは落ち着いて草を食めなくなるんだ。見えないテリトリーだね。長年の経験で、どこまでは近づいていいかはたいていわかるんだ。こちらが我慢して動物たちの安心できる位置に留まっていると、信頼してくれた動物の方から近づいてきてくれる事もある」

 ジョルジアは、納得して彼の言葉を聞いていた。
「向こうから興味を持ってくれる事もあるのね?」
「馴染みの深い動物たちは、興味津々で観察してきたりするよ。何ヶ月か観察していると、お互いに知り合いみたいになるんだ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(6)シマウマたち - 2 -

「郷愁の丘」です。四回に分けた「シマウマたち」の二回目です。

グレッグの研究対象であるシマウマの観察に連れて行ってもらうジョルジア。いわゆる「サファリ」ですね。草食動物は群れになっていることが多く、一度にたくさん眺めることができます。あまりたくさんいるので、そのうちに、人々は草食動物を見るのに飽きてしまいます。

私はシマウマが大好きだったので、シマウマに対しては飽きませんでしたが、そういえば滞在の終わりにはトピやガゼルを見ても「ふ~ん」くらいにしか思わなくなっていたかも。でも、どの動物も、動物園の動物とはまったく違う佇まいで、ちょっと神々しいほどでしたよ。というような話は、今回のストーリーとは関係ないですが。

今回発表する分もそうですが、この小説は主人公たちが二人でいることがとても多くて、会話の具体的内容にとても苦労しました。とにかく、この二人、ずっと恋愛とは無縁のことを話しまくっているんです。一緒にいる時間が長いのでそのボリュームも半端なく、しかも私は写真家でも動物学者でもないので、何を話すんだろうかというところから始めて、悩みまくりでした。しかもストーリーに絡まってないといけないし。自然に表現できていたらいいんですけれど。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(6)シマウマたち - 2 -

 その話をしている間、ランドクルーザーはゆっくりと進み、道の悪い長い坂をいくつか下っていった。しばらくすると切り立った崖を背にしてどこまでも広がる広大なサバンナを走っていた。そこは《郷愁の丘》のテラスから眺めているあの土地だった。やがて、彼の目指す水場が近づいてきた。昨夜の雨で広がった大きな水源で、今朝テラスからそれを見て見当をつけていたのだ。彼は、離れた木陰で車を停めた。

 トムソンガゼルやインパラやヌーの大群が、ゆっくりと草を食んでいる。キリンの姿も見えたし、もちろん彼の観察対象であるシマウマもたくさんいた。陽炎の先に彼らが立ちすくむ。何頭かが、こちらを観察している。それ以上近づいて来ないかどうかを慎重に。安心したように頭を下げて食べだすものがいる。

 それは子供の頃の絵本で見たエデンの園のようだった。ジョルジアは、無意識に装備を手にしようとした。そして、休暇中だった事と、今回の旅に望遠レンズを全く持ってこなかった事を思い出した。

 彼は、固まっているシマウマたちを指差しながら、説明をした。
「あそこの二頭は姉妹だ。手前の子供は一週間ほど前に生まれた。かなり近くにハイエナがいたから随分ひやひやしたよ」
「まあ。ねえ、もしかして、シマウマを個別にわかっているの?」
「ここの調査は頻繁にしているから、特徴のある個体はわかるよ」
遠いせいでもあるが、ジョルジアには小さい仔シマウマ以外はどれも同じに見える。それを告げると彼は笑った。

 しばらくすると、動かないランドクルーザーに興味を持ったのか、それとも安心したのか、もっとずっと近くに動物たちが近寄ってきた。もちろん、すぐ側というほどではないが、それでも背の高いキリンなどが通り過ぎると、その姿に圧倒される。ジョルジアはコンパクトカメラを構えて、何回かシャッターを切った。彼は、何かを手元のノートに書いていた。小さい几帳面な筆蹟だ。

 氣がつくと昼どきになっていた。彼は、ルーシーに水と乾いた餌を少しやった。ジョルジアは、紅茶の入ったポットから二つのカップに紅茶を注ぎ、朝用意したランチボックスを開けた。

 長時間の戸外で悪くならないように、ジャムだけが挟まったあっさりとしたサンドイッチと塩だけしかつけないゆで卵。ジョルジアが見慣れている物に較べて黄身が白い。それにいくつかのオレンジ。彼はポケットナイフを駆使してあっという間に皮を剥いてくれる。

 ランチはあっさりしているが、目の前にたくさんの野生動物がいて、一緒に食事をしているのは愉快だった。食事の後も、観察と会話は続いた。

「先日した話の続きだけれど。人間の目は、シマウマの縞部分の写真を見てモノクロームとカラーを見分けられるものなのか?」
「ええ。見分けられるわ。もしそれがイラストで、全くただの二色だったらダメだけれど。もしわずかでもグラデーションがあれば、カラー写真にはいろいろな色が写っているの。もちろん、個人差もあるし、遠くから眺めたら、それだけで判断するのは難しいわね。でも、シマウマ自身はどうなのかしら?」

「彼らがモノクロームとカラーの違いにこだわるとは思えないな。少なくとも彼らと僕たちとは違う見え方をしていることはわかっている。ほ乳類のうち三色型色覚を持つのは霊長類だけでシマウマは二色型色覚だ。青と赤の違いは識別できないだろうね。黄色や緑は識別できるから新鮮な草とそうでないものは見てわかるのかもしれないね」
「色の違いを認識する必要はないってことね」

「そうだね。彼らにとってもっと大切なのは、周囲の動きを認識する事だからね」
「つまり?」

「目のついている位置を観察してごらん。横についているだろう? あの配置のおかげで視野がほぼ三百五十度あるんだ。背後で何かが動けばすぐに氣づく。肉食獣から逃げるために必要なんだね。ただし、両方の目で同時に見る両目視野はとても狭くて距離を測るのは得意ではない」

 ジョルジアは、なるほどと思いながらシマウマを見た。確かに彼らは振り向かずに後も見ているようだ。
「ライオンやチーターは?」

「追う方の肉食獣は、距離の測定がとても大切なので、立体的に見える両目視野が百二十度あるかわりに後方に全く見えない領域が八十度ある」
「よく出来ているのね」
「そうだな。非常によく適応している事はわかっても、どうしてそうなったのかはわからないんだ。さっき話にでた、二色型と三色型の色覚も、魚類では三色型や四色型色覚を持っていたのにほ乳類は一度色覚を失って二色型になり、その後に霊長類が再び三色型を獲得している」

 ジョルジアにとっては、色の違いはとても重要な関心事であると同時に、あたり前の事でもあった。色の違いによって表現するカラー写真と、陰影で表現するモノクロームの世界。それは人類がその違いを認識できるからこそ存在する表現方法だ。

 そのシステムを考える事は、作品の根源を見極める事でもある。そして、写真家のジョルジアにとってだけでなく、この会話は動物学者であるグレッグにとってもなんらかのインスピレーションになっていればいいと思った。

「シマウマって、本当に斬新なデザインの毛皮を着ているわよね。あたり前みたいに思っていたけれど。よく考えるとどうしてあんな風に進化したのかしら」
「それはいい質問だね。実は未だにはっきりとはわかっていないんだ。わりと最近までは、あの模様が集団でいると個体の区別がつきにくくなり襲われにくくなるからと信じられていたんだが、群れから離れると反対に目立ちやすくなるだろう」

「最近は別の学説もあるの?」
「ああ。体温調節のためとも言われていたけれど、最近一番有力だとされているのは、ツエツエバエを除けるのに有効だという説だ」
「ツエツエバエ?」

「吸血蠅でね。睡眠病を引き起こすトリパノソーマの感染の原因になるんだ。研究ではツエツエバエから検出される血液の中から、シマウマのものは極端に少ない事がわかっているし、ウマ科の他の動物に比較するとシマウマが睡眠病にかかりにくいこともわかっている。そして、吸血虫は色が均一でない所には着地しづらいという研究があるんだ。つまり縞があると刺されにくくなるといってもいいね」

「それは人間でも有効なの?」
「そうだ。ツエツエバエに刺されると人間も睡眠病になる。だから、まだらな服を着ている方がいいってことになるね」

「自然の叡智ってすごいのね。縞のある方がいいとシマウマの遺伝子にプログラムが書き込まれるまで、随分とたくさんの試行錯誤をしたんでしょうね。私たちがあっさり『進化論』と呼んでいるものだって、細胞が知っているわけじゃないんですものね」

 彼女の言葉に、グレッグは頷いた。
「進化論というのは、結果的に生き残ったものがどうして生き残ったかの理由付けとしてわかりやすいけれど、本当はそれだけでは片付けられない多様性もある。何千万年経っても、いまだに弱くて生存に向かない個体も普通に生み出され続けていることの説明はつかない」

「そうね。言われてみるとそうだわ。でも、絶対的な勝者じゃなくても、何とか生き延びる事が出来たなら、それはそれで生き残った事にならない?」

 彼は、ジョルジアを見て驚いたような顔をした。それから答えた。
「その通りだね。生き残るというのは正にそういう事だ。そして、そうやってなんとか生き延びた弱い生命の中から、次の環境変化に適応できたものが、思いもしなかった繁栄に預かることもある。そう思うと、僕もなんとか生きていくことに希望が持てるな」

「私もよ」
ジョルジアがそう答えると、彼は笑った。それは「君は弱者ではないだろうに」という否定の笑い方だった。ジョルジアは、少しだけ不満に思った。彼女はいつも自身を光に満ちた人びとの蔭に埋没した取るに足らない存在だと認識し続けてきたから。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(6)シマウマたち - 3 -

「郷愁の丘」です。四回に分けた「シマウマたち」の三回目です。

今回「たてがみの極端に短い雄ライオン」がでてきます。これはこの個体の話ではなく、マサイライオンという種類のライオンの特徴です。ツァボ国立公園にはこのマサイライオンがいるのです。ご存知の方もあるかと思いますが「ツァボの人食いライオン」で有名になったのもこのマサイライオンの二頭です。今回は人は食われませんでしたが。

また、後半でウルトラ・ロマンティックな舞台をガン無視して、相変わらず色っぽさゼロの会話をしている二人がいます。ここで迫らなかったら、いつ迫るんだ、まったく。あ、グレッグの絵を描く能力に関しては、次回までお預けです。すみません。


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郷愁の丘(6)シマウマたち - 3 -

 その話をしている間に、穏やかだったサバンナに異変が起きた。一番奥の方から、急激に頭を上げたトムソンガゼルに続き、シマウマたちがざわつきだした。その動揺は、緩やかな波のように群れ全体に伝わっていった。緊張が走り、やがて土ぼこりと共にまずグラントガゼルたちが、つづいて全ての草食動物たちが一斉にジョルジアたちから向かって左側へと走り出した。

「来た」
グレッグは、右のずっと遠方を指差した。
「何が?」
ジョルジアには、草とアカシアの樹々しか見えない。

「ライオンが、一、二、……五匹だ。ほら、もう君にも見えるんじゃないか」
その通りだった。土ぼこりを立てながら、駆けて来るライオンたちが見えた。

 草食動物の群れは訓練されたように美しい隊列を組んで走っていく。土煙が、何千もの脚が、草が大きく動き、静かだった世界が、躍動に満ちたスペクタクルに変わる。けれどこれは舞台ではなく、生死を分ける真剣勝負だ。ジョルジアの心臓は激しく鼓動を打った。

 生まれたばかりのまだ弱いヌーの仔が遅れて、やがて一番最後に取り残される。ライオンたちは、集中してその仔を追いはじめる。

「だめ!」
ジョルジアは、思わず叫んだ。一番先頭のライオンが追いついてその尻に飛びついた。たてがみが異様に短いが、それは雄ライオンだった。仔ヌーが倒れると、他の若い雌ライオンたちも飛びかかった。ジョルジアは顔を手で覆った。

 十分に離れたところで、草食動物たちは停まり、世界は再び静かになった。狩りが終わった事を知ったハゲタカたちが空から舞い降りて来る。ジョルジアは瞼を開き、草食動物たちがゆっくりと去っていくのを確認してから、グレッグの方を見た。

 彼は、彼女の方を見て頷いた。ほとんど無表情に近かった。けれど、その瞳には摘み取られてしまった小さな命に対する悲しみをたたえ、それでもそうして生きていくライオンたちの生命に対する尊重も感じられた。

「ここは、動物園じゃないものね」
ジョルジアが呟くと、彼は黙って頷いた。あの仔ヌーがかわいそう。そんな言葉はこのサバンナでは空虚な偽善でしかなかった。

 二人は夕暮れ時に家に戻った。サバンナの夕焼けも美しかった。ヌーの事を考えてジョルジアは言葉少なめだった。彼は彼女の思考を遮らず黙って運転した。それに、ぬかるんだ道を崖の上を目指して走る事は慣れたグレッグにも困難で、彼は集中して慎重に運転せざるを得なかったのだ。

 夕食の後、彼はテラスでワインを飲まないかと言った。ガラス製風よけのついたキャンドルに灯をともし、ガーデニアの樹の横に置かれたテーブルに置いた。少し厚めで頑丈なワイングラスに彼はワインを注いだ。

「まあ」
ジョルジアはいつの間にか広がっていた満天の星空に驚嘆の声を上げた。

 地平線の上は巨大なプラネタリウムと化していた。天の川がくっきりと見える。星は瞬いていた。しばらく星を眺めているうちに、彼女の沈んだ心は慰められていった。

「サバンナに長く居ればあの光景に慣れざるを得なくなるけれど、はじめて見るとショックだろうね」
「テレビでは見た事はあるし、動物園のライオンだって、ベジタリアンではない事くらい知っているのにね。それに、実は、私もステーキが好きなのよ」
「僕もだ」
「私たちは普段そういう事から無意識に目を逸らしているのね」

「草食動物は、食糧でしかないみたいに言われる存在だし、サファリでは草食動物なんか見ても面白くないという人たちもいる。保護の観点でも、絶対数が多いせいかかなり後回しになる」
「あなたはどうしてシマウマの研究をしようと思ったの?」

 彼は、少しの間言葉を切った。キャンドルの光に照らされたその口角は、優しく上がっていた。
「子供の頃に、シマウマの絵を描いて祖父に褒められたんだ。それでシマウマを描くのが好きになった。直接のきっかけはそれかな。でも、もう少しちゃんとした理由もあるよ」

 ジョルジアはクスッと笑った。
「そちらの理由もきかせて」

「僕の曾祖父、トマス・スコットもまた動物学者だったんだ。彼は、現在の父のように権威ある職に就いたりしたわけではないんだが、やはりこのツァボ国立公園でフィールドワークをしていてね。当時のこの地域の実態を事細かに報告した日誌を残したんだ」

「日誌?」
「ああ、とても細かい人だったんだね。サバンナでは、年によって水場があちこちに移動したりするんだけれど、その位置や水場を訪れていた動物の種類や数なども詳細に報告している。また当時はこの地域に自生していた植物などもスケッチに残していて、植物の生態系の変化なども今と比較するいい研究材料になるんだ」

「その日誌はどこにあるの?」
「父が持っているよ。もっとも、現在一番活用しているのはレイチェルじゃないかな。曾祖父はゾウのこともよく調べていたからね」
「そう」

「ヒョウやサイなどの個体数がとても少ない野生動物は、追跡も楽だし緊急性があるから研究費も集めやすい。数の多い草食動物の研究はどうしても後回しになりがちだ。ましてや、単調で束縛される事の多い長期間の調査は皆やりたがらないんだ。僕は、父やレイチェルのような斬新な仮説や際立った研究をするほど頭がいい訳ではないんだけれど、でも、コツコツとフィールドワークをして現状に関する調査をする事は出来る。それも子供の頃から一番好きだったシマウマの研究でね。さほど目立った成果は出なくても、その調査を何十年も続ければ、曾祖父の日誌のように、後世の偉大な学者たちの役に立つものを残せるかもしれない。それが僕がここで研究をしようと思ったきっかけなんだ」
「素晴らしいと思うわ。地味だし、とても忍耐のいる仕事よね」

「僕のように、どこにも出かける予定のない人間に向いているんだ。仕事と趣味が一致しているようなものだし、ここに住むのは好きだ。パーティにもいかなくて済むし」
それを聞いてジョルジアは吹き出した。

「あなたは、曾お祖父さまの研究との比較をしているの?」
「いや、まだそこまではいっていない。いずれは現在の調査結果と曾祖父のフィールドワークを比較するアプローチをしたいと思っている」

「あなたの曾お祖父さまの遺産ですもの、いつかきっとあなたのものになるわよ」
「そうだね。そう願っている」
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(6)シマウマたち - 4 -

「郷愁の丘」です。四回に分けた「シマウマたち」の四回目、ラスト部分です。

主人公グレッグはカメラを持っていません。彼は視覚的な記録をすべてスケッチで残しています。これはこの人の特殊能力とも関連あるのですが、お金もあまりなくてインフラも整っていないサバンナの生活では、このウルトラアナログな方法が一番面倒がないという事情もあります。

かつてフィルムのカメラが主流だった頃は、旅から帰国すると現像して写真を整理してという面倒がありました。現在はデジカメになりましたが、今度は旅先で「あ、コンセントの形状が!」とか「iPhoneもカメラも充電しないと」というような面倒が増えました。記録を鉛筆一本と紙一枚さえあれば自由に残せる、グレッグのような能力があればいいなと、時々思います。


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郷愁の丘(6)シマウマたち - 4 -

 それから、不意に思い出した。
「でも、グレッグ。あなたは今日、ノートに文字だけを書いていたわよね。スケッチをする事もあるの? もしかして、私が横でいろいろと訊いていたから落ち着いてスケッチできなかったの?」

 彼は首を振った。
「そうじゃないよ。スケッチは、いつも後でするんだ」
「後で? 写真にも撮らなかったのに、どうやって?」

 彼は、一度室内に入ると、スケッチブックを持って出てきた。そして、座ると何も描いていない白いページを開けると、尖った鉛筆を一番左端の下方に持っていった。鼻先から始まってすぐにシマウマとわかる顔が現れた。耳とたてがみ、背中、尻尾。脚が四本揃うまで、鉛筆はただの一度も間違った所を通らなかった。次に縞が描かれていく。その斜め後に二頭目が現れはじめた。ジョルジアは自分の目が信じられなかった。

「あの群れが、どこに、どんな風にいたのか憶えているの?」
「うん。これを描こうと意識すると、その詳細を憶える事が出来るんだ。もちろんはじめから集団全体を憶えられたわけじゃないよ。いつもこればかりやっていたからね。子供の頃から動物の絵を描くのはわりと得意だったんだ。その代わり、そっちに夢中になりすぎて、約束したのにクラスメイトと遊ぶのを忘れてしまったり、宿題をやらなかったりで、親や先生を困らせたんだ」

 ジョルジアは、彼が論文を確認するのに熱中して七時間も部屋にこもっていた事を思い出した。「あまり友達もいない、かなり変わったヤツなんですけれど」そうリチャード・アシュレイが彼について評していた事も。彼の集中力と才能は、おそらく多くの人間関係の犠牲を強いてしまったのだろう。

 どんどんシマウマは増えていった。あっという間に、草食動物の群れがスケッチプックを埋め尽くしていく。サバンナの下草も、アカシアの樹も、側にいたインパラやヌーもまるで写真を「鉛筆スケッチ」というフィルターをかけて加工したかのように正確に描き込まれていく。

 彼女は、黙ってスケッチを完成させていく彼を見つめた。彼は、彼自身の宇宙に籠っていた。ジョルジアの存在はたぶん完全に消え去っているのだろう。

 それが無礼だと、多くの人が彼を責めたのかもしれない。もしくは自分が大切な存在と認められていないと判断して腹を立てたのかもしれない。けれども、そういう事ではないのだと、ジョルジアは思った。

 先ほどサバンナで見かけたシマウマたちは、絶対に安全だと判断するまではこちらを観察するのをやめなかった。観察している人間が無害だと確信しなければ安心して草を食むことはないのだ。彼もまた、誰の前でもこれほど無防備な姿を晒せるわけではないだろう。

 彼女は、彼女がシャッターを切る瞬間と同じ、ある種の真空を感じた。絶対に邪魔をしてはならない時間。完成するまで、黙って待つ事は彼女には困難ではなかった。

「す、すまない」
我に返った彼が動転して発した言葉が予想とぴったりだったので、彼女は声を立てて笑った。彼は、彼女の朗らかな様子にホッとして笑顔を見せた。それから、はにかんで出来た絵を彼女に見せた。

 彼女はそれをしみじみと眺めた。先ほどのサバンナで、確かに彼女もこの景色を見た。デジタルカメラを再生するまでもなく、彼の描いたどこも間違っていない事を確信する事が出来た。
「素晴らしい才能だわ。信じられないくらいよ。画家になればよかったのに」

 彼は首を振った。
「僕が描いているのは観察記録だよ。芸術とは違う。例えば、これをリビングに飾りたいかい?」

 そう言われて、ジョルジアは首を傾げた。確かにリビングに飾る絵とは違う。
「う~ん。そうね。ちょっとバランスが。……このシマウマをここに移動することは無理かしら」

「移動?」
「そうよ。構図なんだけれど、ここにみんな固まっているでしょう。実際にそこにいたからなんだろうけれど。でも、この繁みと重なっていてシマウマの柄が上手く出ないから、こちらの何もないところだとすっきりすると思うの。空の割合とのバランスもよくなるし」

「構図?」
「三分割構図や黄金分割なんていろいろなメソッドがあるけれど、でも、印象的であればそれにこだわらなくてもいいのよ」

 彼はページをめくると、面白そうに手の位置を動かした。
「ここかい?」
「ええ。それも少し手前に大きく」

 彼女が想像した通りのシマウマが現れる。そして、アカシアの樹、遠くに見える《郷愁の丘》、遠くで眺める仲間のシマウマたちも。不思議な事に、それは彼女にとっても現実のサバンナとは違うファンタジーに見えた。

 彼は楽しそうに笑った。
「本当だ。絵画らしくなってきたね」

「そうね……。でも、こうして見るとわかるわ。これは印象的だけれど、明らかに本物じゃないわね。それに、あなたの研究の資料としては間違いになってしまうわ」

 彼はそれを聞いて、彼女の方を見た。ロウソクの暖かい灯り越しに、研究の価値を尊重してもらったことの喜びが伝わってきた。

 彼はスケッチブックからその絵を切り取ると、彼女に渡した。ジョルジアはそれを両手で受け取った。
「皺にならないように持って帰らなくちゃ。宝物にするわ」
「そんなの、大袈裟だよ」
「いいえ。額に入れて飾るの」
そう言って彼女は、シマウマの背の部分をそっと指でなぞった。

 彼女は、一日どこかに引っかかっていた何かにようやく答えが見つかったような氣がした。

「ねえ、グレッグ。私、今朝は望遠レンズと、リバーサルフィルム用のNIKONを持ってこなかった事を後悔していたんだけれど……」
「けれど?」
「わかったの。今回の私に、それらは必要なかったんだわ」

 グレッグは首を傾げた。
「いまは景色や動物たちは撮らなくていいってことかい?」

 彼女は首を振った。
「私がいま撮らなくてはならないのは、違うものなの。あの朝焼けの色でも、サバンナの雄大なドラマでも、そしてこの星空の輝きでもない。次の写真集に欠けている最後のピースなの」

 新しいモノクロームの人物像だけで構成する写真集。彼女が撮ってきた写真に映っている陰影は、全て彼女の心の光と影だ。それでいて、モデルとなった人たちは、全て彼女からほど遠い人たちだった。彼女はかけ離れた位置に立ち、自らが立ち直れないほどに傷つくことはない光と影を映し出した。

 けれど心の奥に、傷つきのたうち回っている弱い自分が待っている。正視する事の出来ない痣を持つ鏡の向こうの醜い化け物。理解してもらう事を求めながら、逃げ回る事しか出来ない臆病な生き物。それでいながら、わずかな居場所から生きる証を発信したいという願い。

 ジョルジアは、どうしてもその陰影をも映し出さねばならなかった。

 それと向き合えなかったのは、確信が持てなかったからだ。確信を持てなかったのは、自分が進んでいる道が正しいのか、報せてくれる道標を見かけなかったからだ。けれども、彼女は、自分の直感が導いたこの地で、十分すぎるほどの啓示を受け取ったと感じた。《郷愁の丘》と、グレッグという人間と。

 これまで彼女が手探りで求めてきたものを、全く違う場所で、かけ離れたメソッドで、同じように探している「私に似ている誰か」。人間社会の決めた「呼び名」のどれに当てはまるのか、決める事は出来なくても、これだけはわかる。この人は私の人生にとって絶対的に必要な人なのだと。

 彼は不思議そうに彼女を見ていた。ジョルジアは、身体の向きを変えて彼を正面から見据えて言った。
「あなたを撮らせてほしいの」
「僕を?」
「ええ。ここで、シマウマたちと対峙しているあなたを撮りたいの」

 世界に作品を受け入れてもらえるかどうかはわからない。けれど、彼女が世界にさらけ出すのは魂の風景でなくてはならなかった。そして、今の彼女には、魂の心象とは彼を撮る事に他ならなかった。

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