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Posted by 八少女 夕

郷愁の丘 あらすじと登場人物

この作品は、ニューヨークを舞台に、ひとりの写真家の人生の一部を切り取った中編小説「ファインダーの向こうに」の続編です。舞台は主にアフリカのケニア東部となっています。ブログのお友だち、TOM-Fさんのご了承を得て、あちらの作品に影響のない形でキャラクターをお借りしています。

【あらすじ】
アフリカに旅行に来たジョルジアは、二年前に出会ったスコット博士と再会し、マリンディの別荘に誘われる。短い海岸リゾート滞在のはずが、成り行きで野生動物の生きるサバンナに向かい忘れられない体験をすることになる。

【登場人物】

◆ジョルジア・カペッリ(Giorgia Capelli)33歳
 ニューヨーク在住の写真家。イタリア系移民の子。人付き合いは苦手だが、最近作風を変えて人物写真に挑戦している。

◆ヘンリー・グレゴリー(グレッグ)・スコット(Dr. Henry Gregory Scott)38歳
 ケニア在住の動物学者。専門はシマウマの研究。2年前に「太陽の子供たち」の撮影でケニアに来たジョルジアと出会った。休暇でアフリカに来たジョルジアと再会し、マリンディに誘う。

◆レイチェル・ムーア(Dr. Rachell Moore)
 トサボ国立公園内のマニャニに住む動物学者で象の権威。

◆マデリン(マディ)・ブラス(Madelyn Brass-Moore) 28歳
 レイチェルの娘。夫はイタリア人のアウレリオ・ブラスで五歳になる娘メグがいる。妊娠七ヶ月。

◆ジェームス・スコット(Dr. James Bryan Scott)
 グレッグとマディの父親。世界的に有名な動物学者で、ライオンの権威。

◆ルーシー
 ヘンリーの愛犬(ローデシアン・リッジバック)

◆キャシー
 ジョルジアがよくいく《Sunrise Diner》のウェイトレス。親しい友人でもある。

◆マッテオ・ダンジェロ
 本名 マッテオ・カペッリ。ジョルジアの兄。健康食品の販売で成功した実業家。

◆リチャード・アシュレイ
 ナイロビの旅行エージェント。アウレリオ・ブラスの親友。

◆ベンジャミン(ベン)・ハドソン 
 《アルファ・フォト・プレス》の敏腕編集者。陰に日向にジョルジアを助ける。

◆ジョセフ・クロンカイト
 CNNの解説委員でもある有名ジャーナリスト。ジャーナリズム・スクールの講師でもある。TOM-Fさんの『天文部シリーズ』のキャラクター。
 

【用語解説】
◆《アルファ・フォト・プレス》
 ジョルジアが専属写真家として働くニューヨーク、ロングアイランドにある規模の小さい出版社。

◆《郷愁の丘》
 ケニア、トサボ国立公園の近く、グレッグの住んでいる地域の名称。


この作品はフィクションです。アメリカ合衆国、ケニア、実在の人物、団体や歴史などとは関係ありません。

【プロモーション動画】


【関連作品】

「ファインダーの向こうに」を読む「ファインダーの向こうに」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」

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Category : 小説・郷愁の丘

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(1)サバンナの朝

今日発表する小説は、最近お友だちになった夢月亭清修さんの企画に参加するために書き下ろしました。

夢月亭清修さんの ≪企画小説≫like a Sound Novel 『陽炎レールウェイ/百景』

「楽曲(インストゥルメンタル)」と「その楽曲のタイトル」を御題にします。
曲を聴きながら読んで、その雰囲気にハマるような掌編小説を書いてみようじゃないかという塩梅です。


お題となった『陽炎レールウェイ』、インストゥルメンタルではあるのですが、ものすごい難問でした。クセのない曲なのでいくらでも書けるだろうとお思いになるかもしれませんが、実際に挑戦してみるとわかります。二度くらい投げ出そうとしました(笑)

最初は日本の話を書くつもりだったのですが、起承転結どころかきっかけすらつかめない体たらく。結局、「少なくとも題名にだけはわずかにかすっているぞ」という言い訳のみを残し、マイ・フィールドに持ってくることにしました。そして、始めから断っておきますが、オチも全くありません。

この話にでてくる女性は去年まで連載していた「ファインダーの向こうに」のヒロインです。ですから、あの作品をお読みになった方には入りやすいと思いますが、直接の関係は何もありませんので読まないと通じないというほどのことはありません。単なる読み切りとしても読めるようになっています。

しかし、なんだな~。この世界、キャラが増える一方だ。しかも、既にアメリカですらないし。

◆参考までに
「ニューヨークの異邦人たち」シリーズ
「ファインダーの向こうに」
「ファインダーの向こうに」を読む
「マンハッタンの日本人」シリーズ




郷愁の丘(1)サバンナの朝
——Inspired from “陽炎レールウェイ” by 百景


 きしむ金具をどうにかなだめて、彼女は外が曇って見えるほどに汚れたガラス窓を開けた。車輪の刻む規則的な音ともに、生温い風がコンパートメントに吹き込んでくる。どこまでも続く乾いたサバンナ。ジョルジアは、カメラを構える代わりに赤茶けた大地とオリーブ色の灌木を瞳に焼き付けようとした。

「一度アフリカに来たものは、いつの日か再びアフリカに帰る」
そう彼女に伝えたのは、リチャード・アシュレイだったか、それとも、ヘンリー・スコット博士だったか。

 ニューヨーク在住の写真家であるジョルジア・カペッリが初めてアフリカ大陸に足を踏み入れたのは、2年前だ。屈託のない笑顔を見せる子供たちをテーマに、世界の各国を訪ね歩き、写真集『太陽の子供たち』にまとめた。

 今回は休暇であって取材ではない。とはいえ、彼女は休暇のときもカメラなしでは心が休まらないので、モノクロフィルムを入れたライカと、それにフィルムが入手できなくなった時を想定してコンパクト・デジタルカメラもバッグに忍ばせいてる。どうしても我慢できなくなったときしか撮らないようにしているつもりだが、4日目にしてフィルムをもう2本も使ってしまった。

 ナイロビからモンバサへと向かう鉄道。モンバサにどうしても行きたいと思っていたわけではないが、明日、アメリカ大使館で開催されるパーティに一緒に行こうとリチャードにしつこく誘われて、逃げだしてきたのだ。

 世界のどこに行っても、どこかで同国人コミュニティと関わることになる。特に彼女のように仕事がらみで異国へ行くことの多い者にとっては、そのコミュニティに知り合いのいることはとても重要だ。特に、アフリカのような所では、素人にも可能な公式手続きと、幾多の苦悩の体験した地元民による手続きでは、結果が出るまでに数ヶ月の違い出来ることもある。

 リチャード・アシュレイは、もう15年もナイロビに住んでいる。もともとは透けるように白かったのであろう肌は、強いアフリカの陽射しに焼かれて、荒れてそばかすだらけになっている。赤毛に近いブロンドをいつもきちんと撫で付けている。人間は誰であってもフレンドリーに楽しく会話をすることを望んでいるという信念または信仰に則って行動するタイプだ。ジョルジアは、人付き合いが苦手なのでその過剰なコミュニケーションが煩わしく、仕事以外では可能な限り彼に会わないようにしたいと思っていた。昨日は前回のアテンドに対する礼と写真集を届けるためにアシュレイの事務所に立ち寄った。

 もちろんリチャードが、前回の撮影で世界中の誰にも負けないほど熱心に撮影準備に協力してくれたことは間違いない。マサイの村で撮った3歳の少女のはち切れんばかりの笑顔は、何度か一般誌でピックアップされて、それが『太陽の子供たち』の売上を大いに押し上げ『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の6位入賞という輝かしい結果に繋がったのだ。撮影許可に袖の下を欲しがる地方役人たちや、車の手配を渋るエージェント、それに時間を過ぎてからオーバーブッキングで来られないと言い出すドライバーなど、次々と襲いかかる難問をリチャードが次々と解決し、最後は彼自身が仕事を休んで運転してくれたからこそあの写真が撮れたのだ。

 だが、それと彼女がパーティドレスを着て彼のやたらと多い友人たちに紹介され回る苦痛に耐え忍ぶというのは話が別だった。彼女が、ほとんど口からでまかせのように「鉄道でモンバサヘ行く」と告げた時、リチャードは大袈裟に落胆してみせたが、懲りずに「では、次のパーティには」と言った。

「モンバサに行くのなら、ぜひマリンディの私の別荘にいらっしゃい。この週末は私と家族も行きますから」
その場にいてそう言ってくれたのは、やはり2年前の撮影で協力してくれた動物学者のヘンリー・スコット博士だ。シマウマの研究者で普段はトサボ国立公園をフィールドにしている。サバンナで育ったせいか都市には可能な限り寄り付かず、人間の知り合いよりも動物の知り合いの方がずっと多いであろうと言われていた。昨日は、マサイ・マラにいるシマウマのDNAを採取するための手続きでアシュレイの事務所を訪れていた。そして、ジョルジアとの偶然にして2年ぶりの再会をはにかみながら喜んだ。

 ジョルジアは、スコット博士に丁寧に礼を言い、モンバサから電話を入れることを約束した。
「マリンディには、美味しいイタリアレストランがたくさんありますよ」
リチャードは、にっこりと笑いながら、ジョルジアがイタリア系であることを2年経っても忘れていないことをアピールしつつ口を挟んだ。

 モンバサ行きの夜行列車は19時、アフリカには珍しくたった5分程度の遅れで出発した。直に夕食に呼ばれて彼女は食堂車に行った。そのメニューは、まずいというのではなかったが、博士がおいしいイタリアンレストランに連れて行ってくれるのが以前よりも楽しみになる味だった。

 相席したのは、アイルランドから来た騒がしい男と刺々しい彼の妻、それに英語を話そうとしているのだがほとんど表現できていないアジアの若者だった。ジョルジアは最後まで彼がどの国から来たのか理解できなかった。

 コーヒーもそこそこに席を立つと、彼女は既にベッドの用意されていた自分のコンパートメントに戻り、寝間着に着替えると窓辺に踞り月に照らされたもモノトーンのサバンナを眺めた。

 朝、窓の陽射しに起こされて外を見やると、どこまでも広がる赤茶けた大地の中を軋みながら列車が通過していった。藁葺きの民家から子供たちが楽しそうに覗いている。そして大人たちは彼らの生活と生涯交わることのない観光客を乗せて朝夕に一度ずつ通る列車を億劫な様子で見やっていた。土ぼこりと強い陽射しに焼かれて、彼らの着ている古いシャツは全て色褪せている。

 そしてまたサバンナが続く。乾いた大地に昇った太陽は少しずつその暴君としての本性を現しはじめる。窓を開けて入ってきた風が、今日はひどく暑くなるのだと彼女に告げた。

 ここは、ニューヨークとどれほど違っていることだろう。かのビッグ・アップルには、ここにあるものがなく、ここにないものがあった。人の海、コンクリートのジャングル、数分ごとにめまぐるしく変わる信号機、車のクラクション。ベルトコンベアーに載せられた缶詰のように規則正しく生きる人びとの間で、それぞれのドラマが展開されていた。

 ジョルジアは、もう1年以上も彼女の心を占めている行き場のない感情について考えた。大都会の中で、偶然が用意したわずかな邂逅を彼女はただ黙って見過ごした。おそらく二度と交わることのない人生の行方を見知らぬ人間として他の誰かと歩いていく男のことを、彼女は考えた。そうした時に起こる痛みに、彼女はとっくに慣れてしまっていた。痛くとも消すことが出来ないのならば、そのままにしておく他はない。

 少なくともここに彼はいなかった。著名なニュースキャスターである彼の姿を一方的に見せつけて、彼女に忘れさせまいとするテレビジョンという残酷な箱も、この無限に広がるサバンナでは何も出来ない。ただ心の中に、彼女がフィルムに収めた真摯な横顔が、消えかけた蜃氣楼のように揺らぐだけだ。

 それでも、私は生きていく。ジョルジアは、曲がりくねり疲弊した線路を軋みながらひたすら走るこの鉄道は自分の人生に似ていると感じた。この旅が終わったら、編集会議がある。撮り貯めた膨大な人物写真から新しい写真集に使うものを選定する。私はそうやって一歩ずつ自分の人生を進めていく。これまで通りに。

 サバンナはまるで水の幕が降りたようになっていた。アカシアの樹々が頼りなげに歪む。熱に浮かされた大地の間を、埃にまみれた古い列車がひたすら走っていく。陽炎の向こうに、一向に姿を現さないモンバサと、まだ見ぬマリンディの街があるのだと彼女は思った。

 (初出:2016年4月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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これが課題曲の『陽炎レールウェイ』です。
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(2)海の街 - 1 -

本日からまた小説の連載を始めます。外伝が既に二本も先に出てしまっていて、いろいろとネタバレをしている状態ではありますが、私が書いているのは推理小説ではないので、いいということにしましょう。「郷愁の丘」です。以前に読み切りとして発表した「サバンナの朝」がその本編の第一回で、今日は第二回に当たる「海の街」です。少し長いので来週との二回に分けます。

「郷愁の丘」はかつてこのブログで連載した「ファインダーの向こうに」の続編という位置づけで、ヒロインをはじめとしておなじみのキャラクターがたくさん出てきますが、おそらく前の作品を読んでいなくても話は通じるはずです。今回の話は、舞台のほとんどがニューヨークではなくてケニアに移っています。

ちなみに、ケニアだ、赤道直下だというと、どこに行っても暑くて死にそうのように思われるかもしれませんが、実は多くの場所は高山で過ごしやすいのです。でも、日本の夏にも負けずに暑いところがあります。それがモンバサやマリンディなどの海岸沿いの地域です。マラリア蚊がいるのもこのあたりです。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(2)海の街 - 1 -

 深い青を瞳に焼き付けたくて、彼女は助手席の窓を開けようとした。

「暑いんですか?」
穏やかな低い声がすぐ横からした。ジョルジアは、運転している彼の方を見た。その横顔からは、窓を開けることへの非難は読みとれなかったが、もしかしたらマラリア蚊が入るから、開けない方がいいのかもしれないと思った。

「海の色をもっと良く見たいと思ったんです」
そうジョルジアが言うと、顔をこちらに向けた。淡い茶色の瞳は優しい光を宿していた。短くきれいに手入れされた口髭の間から見えている口元は、暖かく口角をあげていた。

「すぐに見晴らしのいい海岸に出ます。良かったらそこで車を停めましょう」
その親切な提案に、彼女は「ありがとうございます」と答えた。

 彼はジョルジアの日常から考えると、常軌を逸して親切だった。ナイロビで偶然再会した時に、マリンディの別荘へと招待してくれたこともそうだった。それだけではなく、モンバサから電話を入れて、マリンディまでバスで行くので待ち合わせ場所を教えてほしいと訊くと、彼自身がモンバサまで迎えにくると申し出てくれたのだ。

 普段の彼女はよく知らない人とは距離を置いていた。別荘への招待も断っただろうし、ましてや片道二時間もかかるモンバサとの往復をしてもらうことに警戒心を持って断るのがあたり前だった。そもそも、モンバサに来たのも、パーティにしつこく誘ってくるリチャード・アシュレイの申し出から逃げるための口実だった。

 けれど、今、隣にいるヘンリー・スコット博士には、どういうわけなのか、彼女はまったく警戒心を持たなかった。招待に対しても「喜んで」と即座に返答してしまったぐらいなのだ。

 彼は二年前の写真集の撮影旅行のときに知り合い、世話になった動物学者で、トサボ国立公園の近くに住んでいる。穏やかで誠実な上、口数が少なく、さらに必要以上に人とつき合おうとしない男だった。年齢はまだ四十には届かないようだが、あご髭のためにずっと年長者の印象を与える。

 初めて会った時から、ジョルジアは「彼は無害だ」という印象を持っていた。それは、アメリカ、とりわけニューヨークのような大都市では、決して褒め言葉ではない。むしろ口に出せば嘲笑と受け取られる心配すらある言葉だったが、彼女にとっては大いなる褒め言葉だった。

 彼は沈黙がもたらす平安を知っていた。あの時、車を運転していたリチャードは、沈黙を怖れて必死に何かを話し続け、ジョルジアは疲れて意識を遠くに飛ばした。そして、ふと意識が戻ったとき、バックミラーに映ったスコット博士も同じように違う世界で心を休ませているのに氣がついた。ジョルジアは、思わず後ろを振り返った。ゆっくりと視線を合わせたスコット博士は、ほんのわずかに口元を緩めた。

 リチャードが、郵便局へ寄るために席を外し、二人だけになったときにも、静かにいくつか言葉を交わしたが、そこには「間を持たせるための氣まずい会話」や「退屈な天候の話」などは何もなく、かといって有用な情報がたいていそうであるように脳内に緊張が満ちることもなかった。

 今よりも男性不信の傾向が強かったジョルジアは、仕事でつき合わざるを得なかったほぼ全ての男性と、八割以上の女性との会話に強い緊張を感じていたのだが、彼との会話だけは、まるで家族や親しい同僚としているかのごとくリラックスしたものであることにひどく驚いた。

 その印象が強かったので、彼のことはよく憶えていたのだが、偶然再会した後にもその印象はますます強くなっていた。

 彼女はそれと正反対の感情を知っている。もうやめたいと思っても未だに逃れられない片想いの相手を、テレビのニュースや雑誌の表紙で見かける時のことだ。その著名なニュースキャスターからは自分が見えるはずもなく、それどころかその存在すらも知られていないとわかっていても、動揺し、怯え、熱いとも冷たいともわからぬ何かが血管を駆け巡り、心は締め付けられる。それなのにスコット博士が自分とわずか二十センチも離れていない距離で、車という密室の中に座って微笑んでも、ジョルジアは完全にリラックスしているのだった。

 クーン、と小さい鳴き声がしたので、ジョルジアは思い出して後ろを振り返った。ランドクルーザーの最後部座席に、焦茶色のローデシアン・リッジバックが横たわっている。主人に劣らずもの静かな犬で、ライオン狩りにも使われる勇猛な性格は、ジョルジアの前ではまだ披露していなかった。元来大人しい性格の犬なのかと思ったが、スコット博士はモンバサでジョルジアと初対面をした時の愛犬の様子に驚きを示した。

 そこだけ黒い鼻先をジョルジアの太もものあたりにこすりつけて、彼女を見上げた。その赤茶色の透明な瞳に彼女は、すっかり魅せられてしまった。しゃがんで、そっと頭に触れると、頬にキスをしてきて、ちぎれんばかりに尻尾を振った。
「ルーシーが初対面の人にここまで懐いたのを始めてみました。たいていひどく吠えるんですが」

 ルーシーは、二時間のドライブの間、ほとんど身動きもせずに、座っていた。その存在を忘れてしまうほど静かなのだが、時折あくびをしたり体を伸ばす時の音でジョルジアが振り返ると、こちらを見つめて尻尾を振った。

「ルーシーに、水をあげた方がいいんじゃないでしょうか」
ジョルジアが訊くと、スコット博士はジョルジアの方を見て優しく微笑んだ。
「あなたも喉が乾いたでしょう。すぐそこの角で停まりましょう」

 それから本当に500メートルもいかない角を曲がったときに、ジョルジアは思わず息を飲んだ。そこは波止場になっていて、遮るもののない濃紺のインド洋が広がっていた。地平線はほんのわずかに球面を描き、ここは水の惑星なのだとジョルジアに告げた。

 しばらくサバンナの乾いて赤茶けた世界、埃がアカシアの灌木を覆うアフリカらしい光景ばかりを見ていたせいで、この鮮やかな海の煌めきがよけい眩しく感じられた。ジョルジアは、車の外に出ると、目は海に釘付けになったまま無意識にカメラを探した。

 そして思い出した。休暇で、ほとんどの装備はニューヨークに置いてきたのだ。持っているのはモノクロームのフィルムを装填したライカと、片手に収まるサイズのコンパクトデジタルカメラだけ。もし、この色を撮りたければデジタルカメラを使うしかない。

 立て続けにシャッターを切っているジョルジアを眺めながら、彼は後部のドアを開けてルーシーを出した。犬はすぐにジョルジアの側にやってきてその足元に座った。彼は、ステンレスのボウルをその前に置いてやり、冷えたペットボトルの水を半分ほど入れてやると、残りを持ってジョルジアを待った。
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Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(2)海の街 - 2 -

先週から連載を再開した「郷愁の丘」今回は「海の街」の後編です。モンバサに来たのは、特に理由があったわけではなく、パーティの誘いから逃げたかっただけなのですが、実はジョルジアはほとんどケニアの海岸の観光をしないまままたサバンナに向かう事になります。

とくにスコット家所有の別荘内には、足も踏み入れていないという事態に。ブログのお友だちの彩洋さんのところのキャラは宿泊もしているのに(笑)でも、この別荘の事は、いずれ別の作品(外伝かな?)でちゃんと描写しようと思います。いろいろと設定はあるんですよ。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(2)海の街 - 2 -

 ひと通り写真を撮り終えて振り向くと、彼は新しいよく冷えたペットボトルの口を緩めてから手渡した。ジョルジアが礼を言って受け取り飲むのを待ってから、彼は愛犬にやった残りのペットボトルから飲んだ。この人は、どこまでも紳士だと彼女は思った。一連の動きには全くわざとらしい所がなく、評価してもらおうと意識しての行動でもないことが感じられた。

「なんて美しい海かしら。私の育ったところも海辺だったけれど、こんなに鮮烈な青じゃなかったわ。素晴らしい所に別荘をお持ちなんですね」
ジョルジアは感心して言った。彼は笑った。

「別荘を持っているのは父です。でも、彼はほとんど来ません。マディに薦められて投機の代わりに買ったようです。使うのはマディばかり。僕はよく運転手兼、鍵の管理人として駆り出されるのです」

 奥様の名前はマディとおっしゃるのですか、そうジョルジアが訊こうとしたときに、携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。ポケットから取り出してちらりと見てから「マディだ、失礼」と言って彼は電話を受けた。

 すぐに緊迫した様相になった。
「なんだって。わかった、大丈夫だ。あと五分もかからない、すぐに行く。メグは? わかった。玄関にいてくれ」

「どうなさったんですか」
ジョルジアは、ペットボトルの蓋を閉めると、ルーシーの水のボールを空にして車に戻った。ルーシーはついて来て、開けられたドアにさっと飛び乗った。エンジンをかけながらスコット博士は説明した。
「マディは、いま妊娠七ヶ月なんですが、急な腹痛に襲われたんだそうです。切迫流産の怖れがあるので、すぐに病院に運ばなくてはならないらしいんです」

 ジョルジアはぎょっとした。
「奥様がそんな大変なときに、迎えにきていただいたりして、済みませんでした」

 すると、スコット博士は首を振った。
「マディは、僕の妻ではありません。それに、夫のアウレリオも今朝はマリンディにいたんですよ。もっとも彼は肝心なときにどこかに行ってしまう才能があって、それをわかっているマディが、最近はマリンディに来る度に僕を呼びつけているんです」

「ご家族っておっしゃっていたので、奥様やお子さんといらしているんだと思っていました」
ジョルジアが言うと、彼はジョルジアの方を見て微笑んだ。

「僕は独身で、マディは妹です。正確に言うと、腹違いの妹ハーフ・シスター です。夫は、ミラノの実業家でアウレリオ・ブラス。娘のメグは五歳になります」

 そう話している間に、車は白い壁と藁葺きの屋根の大きい家の門に入っていった。玄関の所にぐったりと女性が座っていて、その足元に金髪をポニーテールにした少女がいた。

 スコット博士は急いで車から降りると、彼女の方に駆け寄った。ジョルジアも降りると、椅子の脇にあった荷物を持って、車に運び込んだ。荷物と反対側に少女が来て、ジョルジアの手を握った。ジョルジアがその目の高さに屈むとぎゅっと抱きついてきた。母親の危機を感じてよほど怖かったのだろう。

 博士が妹を運転席のすぐ後に座らせ、それからジョルジアからメグを受け取って母親の隣に座らせた。ジョルジアから離されるときに少女は少し抵抗した。

「メグ」
スコット博士が咎めると、彼女は泣きそうな顔をした。ジョルジアは荷物を最後部座席、ルーシーの腰に当たらないようにそっと置いた。そっと撫でると、不安そうな犬はクーンと鳴いた。

 車が出ると、マディは苦しそうに言った。
「はじめまして、ミズ・カペッリ……ごめんなさいね」
「こちらこそ……ミセス・ブラス」

 病院はさほど遠くなく、彼女は玄関で待っていた担架に乗せられて診察室に入った。廊下で抱きついて離れないメグと一緒に待っていると、車を駐車してきたスコット博士が、紐に繋いだルーシーと一緒に入ってきて、謝った。
「ミズ・カペッリ。本当に申し訳ない。せっかくの休暇なのに……」
「そんなことをおっしゃらないでください。先生が中でお待ちです」

 スコット博士は、ノックをして診察室に入っていった。ルーシーはジョルジアの足元に踞った。彼女は、うとうとしだしたメグをさすりながら廊下のベンチでしばらく待っていた。

 やがて、携帯電話で話しながらスコット博士が診察室から出てきた。
「そうですね。それが一番だと僕も思います。アウレリオは、明日直接ここに来るそうです。はい。このままそちらに向かえば夕方にはそちらにつきます。そうするしかないと思います」

 彼は電話を切ると、苦悩に満ちた顔で切り出した。
「ミズ・カペッリ。何とお詫びをしていいのかわからない。僕は、これからメグをここから四時間かかるマディの母親の所に届けなくてはいけないんです。彼女はアンボセリから急いで戻ってきますが、ここに彼女を引き取りにくるには遠すぎるのです。あなたをこれ以上引きずり回すわけにはいかないし、一人で放っておく訳にもいかない。どこかホテルへとご案内しようと思いますが……」

 ジョルジアは、自分でなんとかするので氣にしないで欲しいと言おうとしたが、その前にメグが泣き出した。
「いや! ヘンリーと二人でなんか行かない! ジョルジアと一緒にここにいる! ママはすぐに元氣になるもん」

「メグ! マディはしばらく入院しなくちゃいけないんだ。病院はホテルじゃないし、ミズ・カペッリにお前の世話をさせるわけにはいかないだろう」
「いや!」

 必死になって抱きついてくるメグと、困り果てているスコット博士を見ていたジョルジアは口を開いた。
「私も一緒に行きましょうか。特に予定はないですし、道中の子守りくらいのお役には立てると思います」

 スコット博士と、メグが同時にジョルジアを見た。ルーシーも、黒い鼻を持ち上げて、騒ぎの収まったらしい人間たちを見あげた。

 前よりもさらに強くジョルジアに抱きついている少女を見て、彼はため息をついた。しばらく、言葉を探していたが、やがて済まなそうに頭をさげた。
「そうしていただけたら、助かります」
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(3)動物学者 - 1 -

タイトルにもなっている《郷愁の丘》という地名は、イタリアのポップグループ、マティア・バザールの歌「Amami」の邦題からイメージして命名しました。かなり年長の方でないとご存知ではないと思いますが、ずっと昔に三菱ギャランという車のCMにこの曲が使われていて、日本で発売された時の邦題は「郷愁の星」というものだったのです。イタリア語の歌詞そのものには、一度も「郷愁の星」という言葉は出て来ないのですが。この歌のイタリア語の歌詞からイメージしたモチーフは、この作品のあちこちに散りばめられています。

という話はさておき、第三回目「動物学者」です。長いので三回に分けます。こうやって分けていると、全然終わらないような氣がしてきたけれど、しばらくこれで行こうと思います。もしかしたら途中から巻くかもしれませんが……。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(3)動物学者 - 1 -

「お疲れじゃないですか」
ジョルジアは、訊いた。彼はモンバサにジョルジアを迎えに来てマリンディから往復しているので、既に四時間も運転しっぱなしだった。これから四時間再び運転して、こんどはトサボ国立公園内のマニャニまで行かなくてはならない。

 彼は穏やかに微笑んだ。
「慣れていますから。この辺りで運転するとなると、たいていこんな距離になるんですよ」

 スコット博士と二人では絶対に行かないと泣き叫んだメグは、結局、二十分も立たないうちに彼の愛犬ルーシーにもたれかかって寝てしまったので、ジョルジアは再び助手席に座って彼と静かに話をすることになった。

 道は舗装されているものの、状態はよくなかった。アメリカの都市部であればおそらく三十分もあればついたのではないかと思われる距離を、ランドクルーザーは二時間近く使って走っていた。海岸部を離れ、森林部を抜けた頃になって、ようやく空氣が乾いてきた。モンバサやマリンディは興味深いところだったので、ほとんど何も見ないまま去ったのはある意味残念だったが、あの猛烈な湿氣と暑さから解放されたことに、ジョルジアはほっとしていた。マラリアの恐怖も去ったのだろう。

 広大な赤茶けたサバンナの間に時おり現れて、休憩と給油を繰り返す小さな街をジョルジアは見回した。カラフルな建物と看板。アルファベットで書かれているが、スワヒリ語の固有名詞で占められている。そして、半分はアラビア文字だ。特に東部はイスラム教徒が多いので、街ごとにモスクが目立つ。異国にいるのだと強く印象づけられる景観だ。

 癖の強い英語を話す黒人たちは、白人が乗っている車に給油する時に必ず法外な値段をふっかけてくる。スコット博士は穏やかに彼らと交渉して相場の値段を払っていた。これはこの人たちの日常なのだとジョルジアは思った。

 人種のるつぼであるニューヨークの、比較的有色人種が多い地域に住むジョルジアは、親しい友達であるキャシーをはじめとして多くの黒人たちを知っていたが、白人たちと比較してつきあうのにエネルギーを消耗すると思った事はなかった。だが、ここでは全てがニューヨークとは違う。人種差別や人類愛とは関係ないのだ。

 スコット博士が、彼らに対して怒ったり悪態をついたりしない事に、ジョルジアは強い印象を受けた。二年前にジョルジアたちを連れて回ったリチャード・アシュレイは五分に一度は悪態をつくか、冗談を交えながらも不平を漏らしていた。今も状況がわかる度にジョルジアはまたかとため息をつきたくなるのだが、対応している彼自身は繰り返されるジョルジアにとっては試練とも言える状況を黙々と受け入れていた。

 このように、氣候も人びとも文化風俗も違う国で、先祖はヨーロッパから来たという人びとは一種独特のテリトリーの中に生きていた。植民地時代には宗主国から来た彼らは特権階級でアフリカ大陸を根に持つ人びとを奴隷や家畜のように見下して快適な暮らしをしてきた。国が独立し政権が黒人たちの手に渡ると、あからさまな支配は終わったものの私有地の権利やその他の経済的優位性が残ったために、あいかわらずプール付きの豪邸に住む白人と貧しい黒人という構図は消えていない。

 現地で生まれた二世三世以降の白いアフリカ人たちは、今も独特のコミュニティを形成している。そこにあたらしく移住してきた白人たちも加わる事が多い。中には、そういった白人ムラを嫌い、現地の黒人たちの中に一人飛び込む人もいるが、そのまま上手く受け入れてもらえる、もしくは本人が欧米社会とはかけ離れた観念を持つ部族の生活に順応する事はまれで、大抵は失意のうちに欧米に戻る事になる。

 ヘンリー・スコット博士は十九世紀に移住したイギリス人の血を引いているが、自己紹介をする時には「ケニア人です」と言った。ジョルジアが彼と知り合ったのは二年前で、マサイマラ国立公園の近くで撮影をした時に、オーガナイズしたリチャード・アシュレイが連れてきた。

「彼はヘンリー・スコット博士といって、大学で講師もしている動物学者です。サバンナの事をよく知っていてマサイ族との交渉も慣れているんで来てもらいました。普通の観光なら僕一人でも問題ないけれど、子供たちを撮影するなら、マサイ族の長老と交渉しなくちゃいけないんです。で、こればっかりは彼がやった方が成功率が高いんですよ」

 口から生まれてきたようなリチャードよりも交渉のうまい人とはどんな人かと思ったが、スコット博士はまったく弁が立つ人間ではなかった。そうではなくて、長年の付き合いから、彼はマサイの長老たちに信頼されていたのだ。

「彼の本来のフィールドはトサボ国立公園のあたりなんですが、マサイマラでも、アンボセリでもマサイ族の連中と知り合いになっているらしいんです。白人たちの共同体では名前を知らない人もいるくらいに目立たない存在だというのに。パーティにも全然顔を出さないし」

 リチャードがそう話を振ると、当時彼は言葉少なく答えた。
「マサイ族の長老と酒を飲んでゴシップの交換するためににいっているわけじゃない。研究のことで話さなくてはいけないことがあるから。彼らは僕らの知らない事をたくさん知っているんだ」

 ジョルジアが、この人は私の同類だと初めて思ったのは、二年前に出会ったこの時だった。
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Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(3)動物学者 - 2 -

第三回目「動物学者」、長いので三回に分けると前回書いて、三分の一に切ったんですが、この後に二つほど別の小説が入って間が空くので、この話はさっさとここで発表する事にします。ああ、行き当たりばったりだとこういう事に。いつもより長いですが、五千字程度なので、お許しください。すみません。

今回は、いろいろな設定上の情報がたくさん出てきます。(あ、無理に憶えなくても、必要になったら「あらすじと登場人物」を読めばいいのでご安心ください)それに、ようやく主人公の二人が「スコット博士」「ミズ・カペッリ」と呼び合うのを脱出します。やれやれ。でもまだ先は長い……。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(3)動物学者 - 2 -

 給油を済ませ、小さな村が遠ざかっていくのを振り返り、後方座席のメグとルーシーがともに寝いっているのを目にして彼女は微笑んだ。

「マニャニというのは大きい街ですか?」
ジョルジアが訊くと、彼は笑った。

「ニューヨークと比較したら村以前で集落と言った方がいいでしょうね。それにレイチェルは、少し街から離れた所に住んでいるんです。彼女は、ゾウの研究をしていて、裏庭にゾウが登場するような所に家を買ったんです」

 ジョルジアは、ふと思いついたように言った。
「じゃあ、ミセス・ブラスのお母様はもしかして……」

「ご存知かもしれませんね。レイチェル・ムーア博士です」
アフリカの動物研究者として、彼女は有名人だった。まだ五十代だが、ゾウの権威として認められる研究成果も知られていた。『夕陽の沈むさきに』と題した本人の半伝記映画に出演していたので、さほど動物学にも詳しくないジョルジアでもその名前を知っていた。

「あなたの義理のお母様でもあるんですよね」
ジョルジアが確認すると、彼はわずかに戸惑いを見せた。

「これから引き合わせるから、説明しておいた方がいいでしょうね。父の家はナイロビ郊外にあって、レイチェルの住む家とは別です。父ジェームス・スコットとレイチェルは、表向きはただの親しい友人ということになっています。もちろん同業者やこの辺りの人びとは、誰がマディの父親か知っていますし、二人はお互いの家を行き来しているのですが」

「ジェームス・スコット博士……あの映画にも出ていらっしゃいましたよね。確か、ライオンの権威で、大学の名誉学長をなさっていらっしゃる……。あの方があなたのお父様だったんですか」
「はい。でも、この世界でも僕と彼が親子であることを知らない人の方が多いでしょうね」

「どうして? ご自宅で他の研究者の方と顔を合わせたりはなさらないのですか?」
「僕は、八歳の時から彼とは別に暮らしているんです。今でも彼と会うのは年に一、二度、それも学会で遭う方がずっと多いんです」

 ジョルジアは、もしかしたら悪いことを訊いたのかと不安になって彼を見つめた。彼は顔を向けてまた微笑んだ。
「氣にしないでください。父と喧嘩しているわけではないのです。ただ、あまりにも僕の人付き合いが悪くて、家族ともまともにつき合えないし、父も自分から息子に歩み寄ろうというタイプではないんです。それで氣をもんだマディとレイチェルの方が、機会を作っては僕を家族の会と学会を含めた社会に引っ張りだしてくれているくらいなのです。あの二人には、感謝しています」

 ジョルジアは、また同じことを感じた。この人は、なんて私によく似ているんだろう。家族が嫌いなわけではないし、社会を憎んでいるわけでもないけれど、氣がつくと一人こもってしまう感覚は、彼女にはとても馴染みがあった。

「あなたが住んでいる所は、安心できる居場所なんですね?」
ジョルジアが訊ねると、彼は少し驚いたように彼女の顔を見た。揶揄でもなく、疑惑でもない、真摯な表情を見て、彼は少し間を置いてから力づよく答えた。
「ええ。あそこで僕は初めて安らぐことを知りました。《郷愁の丘》は、僕にとっての約束の地なんです」

「《郷愁の丘》ですって? なんて素敵な名前なの」
ジョルジアが言うと、彼は笑った。
「誰がその名前を付けたのかわかりません。前の持ち主はそんな三流ドラマみたいな名称は恥ずかしいから変えてもいいと言っていましたが、僕はそのままにしたかったんです」

「シマウマがたくさんいるんですか?」
ジョルジアは、訊いた。象の権威のムーア博士は、ゾウの生息地の近くに家を買ったというのだから、彼の自宅の側にも研究対象がいるのかと思ったのだ。

「ええ。シマウマも、ガゼルも、ヌーも。でも、彼らは留まりません、タンザニアヘ行き、それからまた次の年になると帰ってきます。研究には向いています。それに哲学者になるにもいい所かもしれません。あなたも、きっと数日間でしたらお氣に召すでしょう。写真に撮りたい景色がたくさんあるはずですから」

「どうして数日間なんですか?」
「ニューヨークと較べるまでもなく、とても退屈な所と思われるでしょうから。一番近い街まで一時間近くかかるんです。テレビやラジオの電波もよく途切れてしまうし、電氣や水道のといった公的ライフラインも通っていないんです。幸い、敷地内に泉があるので、ガスボンベと発電用のオイルを買うだけでなんとか生活はできますが」

「行ってみたいわ」
「本当ですか?」
「ええ。マリンディよりも、ずっと」

「じゃあ、お連れしましょう。今夜は、レイチェルの所に泊って、明日にでもあなたをムティト・アンディの駅にお連れしようと思っていました。でも、本当は、あなたにお見せしたいと思っていたんです。忘れられない風景や、心をつかむ瞬間を切り取る特別な目をお持ちのあなたなら、なぜあそこが《郷愁の丘》と名付けられたのか、きっとわかるでしょう」

 ジョルジアは遠くを見ている彼の横顔を見つめた。不思議だった。全幅の信頼としか言いようのない心の凪が、朝の砂漠のように鮮烈な陰影を持って横たわっていた。それは論理的ではなく、おかしな安心感だった。これまで独身男性の自宅に行こうとしたことは一度もなかった。ましてや街まで車で一時間も離れている陸の孤島に行くなど、考えたこともなかった。

 もちろんジョルジアは、彼もまた男性であることを忘れるほどナイーヴではなかった。けれど、彼女には失うものもなかった。片想いの相手には存在すらも知られておらず、かつてつき合った相手には女性としての存在を否定された。守る価値のないもののために、疑心暗鬼になる必要などないのだ。

 反対に、スコット博士のことは、もっと良く知りたかった。お互いのことをまだよく知りもしないのに、それでもこれほど近く感じる相手だ。一緒にいると心が安らぐだけではなく、話にも興味が尽きなかった。

 モンバサからマリンディへと向かう二時間、ジョルジアは彼といろいろな話をした。シマウマの縞の現れ方の話から、写真の印画と人間の虹彩に関する話題まで、お互いの専門を交えながら語り合った。

 彼の家族の話は、その二時間にはほとんど出てこなかった。その時は家庭があると思っていたので不思議だったけれど、今は納得していた。彼が独身だと知っていたら、マリンディの別荘への招待にどう答えただろうと彼女は考えた。異母妹マデリンの家族が常に一緒にいるとしても、おそらく彼女はイエスと言わなかったに違いない。

 でも、今、彼と同じ狭い空間を共有しても、彼女は彼に対して他の男性、例えばリチャード・アシュレイに対するような煩わしさや警戒心をまったく抱かなかった。モンバサからマリンディへと向かった二時間の後、彼はジョルジアにとってよく知らない男性ではなくて、ニューヨークで十年来の公私ともに強い信頼関係で結ばれている同僚のベンジャミン・ハドソンと同じような存在に変わっていた。

 マデリンの入院騒ぎを挟んで、再び彼の車で今度はマニャニへと向かうことになった時も、彼女は彼ともっと長い時間を過ごすことになることに躊躇いを感じなかった。彼の家である《郷愁の丘》へ行くことは、それとは少し意味合いが違うが、ジョルジアはこの成り行きに不安は全く感じなかった。彼はマリンディの別荘に誘っただけで、それ以降の行き先の変更は全てジョルジア自身が望んだことだ。

 彼は真面目で紳士的だった。そしてどういうわけだか、彼女が心地よいと感じる距離を知っていた。

 これ以上一センチでも近づけば、彼女が不安に感じる心理的な、もしくは物理的なテリトリーを、多くの人は無自覚に侵す。同僚であるベンジャミン・ハドソンのように長年知っている人や、《Sunrise Diner》のキャシーのように親しくしている人ですら、ジョルジアは時おりそれを感じて身を強張らせた。それが不必要な怯えだと思考ではよくわかっていても、反射的にびくついてしまうのだ。

 その一方で、彼女にはどうやっても近づけない類いの人たちがいる。ジョルジアの方から関心を持ちもう少し親しくなりたいと感じる時に、徹底的な無関心を示して近寄らせない人たちだ。自分からその距離を縮めなければ、親しくはなれないとわかっていても、その見えない壁や遠さを感じてわずかな一歩を踏み出すことが出来ないことが多くあった。

 彼がジョルジアとの間に置く距離は、その二つの距離の間にあった。どんな時でも。ジョルジアは、だから、自分が望む時に少しずつ彼に近づいていくことが出来た。いくつもの窓からそっと覗いてみると、心地よくて興味深い世界が存在している。そして、その世界は決して素っ氣なく扉を閉めて拒否したりはしない。どんな風に覗き込んでも優しく穏やかに歓迎してくれるのだ。

 そして、ジョルジアは新しく知り合う人から逃げるばかりだったこれまでと対照的に、むしろその場に留まり、彼の話をもっと聴き、自分のことを知ってもらいたいと思うようになっていた。

 それまで撮り続けていた子供たちの笑顔の写真を撮るのをやめて、モノクロームの人物写真を撮るようになったきっかけも、ニューヨークの知り合いにはほとんど話せなかったのに、彼には正直に話していた。

 秋の柔らかい陽が射し込む墓地で、彼女は一人の男の姿を偶然撮った。その横顔に浮かび上がった陰影は、自分の心を見つめ直すきっかけとなり、世間の喜ぶ子供の明るい笑顔ばかりを撮り続けていた彼女にとって、作品の方向転換のきっかけとなった。そして、彼女は有名キャスターであったその男に恋をした。

「一度も知り合っていない人にそんな感情を持つなんておかしいと、自分でもわかっているんです。でも、私の作品を創り上げるためには、その感情を無視することは出来ませんでした。自分と向き合わない限りはそれまでの殻を打ち破ることはできなかったんです」

 彼は、彼女の片想いについて、肯定してくれた。
「あなたはちっともおかしくなんかありません。あなたはそのニュースキャスターに迷惑をかけたわけではないんですから、そのことを恥じる必要はありませんよ。それに、恋とは論理ではないでしょう。いつの間にか身動きが取れないほど好きになってしまっている。僕にも似た経験があります」

「知り合ってもいない人に恋をしたことがあるんですか?」
「いや、知り合ってはいます。でも、二度と逢う機会もない程度の知り合いだったから、あなたのケースとほとんど変わりありませんよ」

「その女性への想いは、自然消滅したんですか?」
ジョルジアは訊いた。叶わない想いがいつかは解消された事例があれば、彼女自身が今の虚しい渇望に耐えることも楽になるかもしれないと思ったのだ。

 彼は、しばらく答えるのをためらっていたが、やがて首を振った。
「いいえ、まだ。いつか消えてくれればいいと思っています」

 ジョルジアは、彼が見せた表情の翳りに、悲しさをおぼえた。手の届かないものを想い続けることは苦しい。けれど、それを手放し失うことも、決して心躍ることではないのだ。それは人生に新たに刻まれる静かな敗北だった。それも、とても惨めな。自らを嘲笑して吹き飛ばそうとすれば、もっと激しい痛みとして心の奥に疼きだす、やっかいな感情の嵐。彼女のよく知っている世界だ。

「ミズ・カペッリ。まもなくマリアカニに着きます。給油を兼ねてまた少し休憩しますが、どのくらいお腹が空いていますか」
彼がそう言うと、ジョルジアは笑った。

「メグはとっくに名前で呼んでくれているのに、いつまで礼儀正しくミズ・カペッリなんですか」

 それを聞くと、彼は困ったように口ごもった。
「それは……親しくもない僕に馴れ馴れしくされたら、あなたは嫌だろうと……」

「でも、この数時間で、ずいぶん親しくなったと思うし、私はジョルジアと呼んでいただけたら嬉しいわ。私もスコット博士ではなくて、ヘンリーと呼んで構わないのかしら。そして、堅苦しい話し方をお互いにしないようにしません?」

 彼は、例のはにかんだような笑顔を見せた。ジョルジアはまた一歩彼に近づけたように感じて嬉しかった。彼は、少しの間黙っていたがためらいがちに口を開いた。
「その……もし嫌でなかったら、グレッグと呼んでくれないか」

「グレッグ?」
「ミドルネームがグレゴリーなんだ。とても小さかったとき、可愛がってくれた祖父にそう呼ばれていて……。もちろん、違和感があるならみんながそう呼ぶヘンリーでもいいんだが……」

 ジョルジアは微笑んだ。
「喜んで、グレッグ」
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