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【小説】羊のための鎮魂歌

Posted by 八少女 夕

シリーズ物の中では、楽しんで書いている、イギリス人オースティン氏と愛犬グルーバーものの第一作です。湖水地方は、また行きたい所です。




ジョン・ヘンリー・オースティン氏はどちらかといえば変わった人物といってよろしかった。その風貌は別にどうということのない、かといって見過ごしていいほど平凡でもない、わりときちんとした紳士だった。ロンドン動物園の近くの小さなフラットに、こざっぱりしたインテリアの中で彼の犬と二人きりで住んでいた。彼はとりたてて散らかす性質でもなかったので、週に一度掃除や買物に来てくれるマッコリー夫人はオースティン氏や彼の愛犬のグルーバーの暮らしぶりにけちをつけたりはしなかった。

実際、グルーバーが来るまではオースティン氏は物静かな、つまり無害な紳士と思われていただけで、変わっていると言われたことはなかった。彼が「どちらかといえば変わった人物」という評価を受けるようになったいきさつはこうである。

彼の母親が(若くして)亡くなると、オースティン氏はすぐに犬を貰いに保健所へ行った。(彼の質素で控え目な性質は、彼にあえて血統書付きの犬を買う気をおこさせなかった)彼の母親は大の犬嫌いで、決して犬を飼う事に同意しなかったのだが、オースティン氏自身といえば物心も付かぬうちからどうしても犬を飼いたいという欲求にかられていたのだった。

彼は犬の血統や種類には一切こだわりを持たなかったが、たった一つだけ重要と思う点があった。彼は賢い犬と暮らしたかったのである。そこで、オースティン氏は自分を見た時の犬の反応で飼う犬を決定しようと、少々変わった格好で保健所に赴いたのだった。

他の犬たちがワンワンキャンキャンと騒ぐ中、一頭だけ誹しげにオースティン氏を眺めていた犬がグルーバーだった。オースティン氏はその茶色くて、耳の垂れた雑種の小さな犬を家へ連れ帰った。が、その姿を見た隣人たちはびっくりして、可哀想にオースティンさんは頭がいかれちまったらしいよ、と話し合った。というのも、オースティン氏がメキシコ風のケープを纏い、頭にはピンクのボンボンを付け、スコットランド風のタータンチェックのスカートにギリシャ風のサンダルをはいて、情ない顔をした仔犬を連れて歩いていたからである。が、翌日いつも通りこざっぱりとしたスーツで身を包んだ彼の礼儀正しい挨拶を受けてほっとした隣人たちは、オースティンさんは実は変わり者だったのだと結論した。もちろんほっとした中にグルーバーが入っていた事は言うまでもない。

グルーバーが来た事をマッコリー夫人は歓迎した。夫人が犬好きであった事も確かだが、実をいうと掃除も楽になったからだった。オースティン氏は、それがリバティの布地を張ったソファーだろうと、十九世紀風のサイドテーブルだろうとお構いなしに煙草の灰を轍き散らしていたのだが、グルーバーは彼がボーっと煙を吐いているのを、黙って放っておくような犬ではなかったのだ。オースティン氏は、誰がこの家の主人なのかをはっきりさせようと何度か試みたが、ついに煙草はベランダでしか吸えないようにされてしまった。オースティン氏がそのことについてマッコリー夫人に相談すると、夫人までが即座にグルーバーの側についた。そのうえ、彼女はオースティン氏のコレクションである数々の灰皿をグルーバーが丁寧にもベランダに並べてしまった事に対しても、部屋中に散乱していた頃と比べると格段に掃除がしやすいと言って絶賛した。勢いよく全ての灰皿を夫人が洗っている間、
「どうしても吸いたい訳じゃないんだけどね」
そういってオースティン氏がみじめっぼくグルーバーを眺めると、一枚上手の同居人は無邪気な表情で尻尾を振って見せるのだ。

と、いう訳でオースティン氏はグルーバーと暮らすこととなった訳だが、実の所彼の楽しみといえぱ、ベランダで吸う煙草の他は、角のパブで飲むジンと、グルーバーを連れての公園の散歩、土曜日にたまに行くコンサートや、シーズン中に一番安い席で観戦するクリケットと、非常に地味なものだった。彼は無口で礼儀正しい紳士だったが、取りたてて面白おかしくもなかったので、日々は彼の回りで平凡に過ぎ行くのだった。彼自身そのことを不満に思った事はなかったが、たまにどうしても気分転換が必要になると、行った事もない土地へとふらっと出掛けたくなるのだった。

その日も、ふとオースティン氏は思った。少し北の方へ行ってみてはどうだろうかと。幸い今年は例年よりも暖かい。夏には観光客で様がわりしてしまう湖水地方も、この初春にはきっとすてきだろう。グルーバーも喜ぶに違いない。そこまで考えて満足したオースティン氏は煙草をくわえてライターを探した。と、グルーバーはすぐにやって来て非難がましくオースティン氏を見上げた。オースティン氏は観念してベランダへ向かいながら言った。
「おまえが気に入ることを考えていたんだがね」


次の週末に、オースティン氏はグルーバーと共にユーストン駅からグラスゴー行きの列車に乗りこんだ。乗り換えのオクスンホルムまで約三時間。楽しい旅の始まりだ。グルーバーはひたすら尻尾を振って窓の外とオースティン氏を代わる代わる見ている。オースティン氏も、にこにこ笑ってそのグルーバーを見ていたのだったが、途中駅で乗りこんで来た女性が斜め前に腰掛けるやいなや、少々威厳ある態度をとるようになった。というのは、その女性が素晴らしく美しかったからだった。黄金の穂麦のような豊かな髪。二つの純度の高いエメラルドでできた眸、カーマインレッドに縁取られた瑞々しくそれでいて涼しやかな唇。オースティン氏は窓に反射する彼女の姿をくまなく観察した。もっとトンネルがあればいいのにと、いつもと反対の事を考えたりしていた。グルーバーはそんなオースティン氏の態度の変化に少々戸惑ったが、やはり英国に住む者としての冷静さを失ったりはしなかった。

「羊が…」
女性はふと、夜の音楽のような声でオースティン氏に話し掛けるともなく言った。

「羊が…?」
オースティン氏は女性から話し掛ける許可をもらったと受け取って間き返した。
(グルーバーはもう少し様子を見るつもりらしかった)

「羊が…随分とたくさんいますわね」
オースティン氏は頷きながら初めて窓の外の羊に目を止めた。

「美しいところですわね、ここは…」
女性は目を細めてため息をついた。完璧な(完璧すぎる)クイーンズ・イングリッシュにオースティン氏は何か寂しげなものを感じ取った。

「羊のために…」
女性はひとりで続けた。

「羊のためにこの国が救われたという話を聞いた事がありますか」
「産業革命の事でしょうか」
言ってからオースティン氏は後悔した。女性は明らかにオースティン氏のこの散文的な答えに非難の目を向けていた。

羊は草を喰んでいる。オースティン氏は弁解の言葉を探して脳の中を掻き回した。適当なものが見付かる前に女性は続けた。

「羊はああやって草を食べてますわよね。人間がいろいろな事をやって忙しく生きている間も。そして、どんなに人間が望んでも、画策しても、あれほど平和にはなれませんわ」
「羊は受容の生き物だと間きました」
オースティン氏はグルーバーの小馬鹿にした目を避けながら言った。
「あらゆる生き物の中で、刃に喉を刺されるということまで受け入れてしまうのは羊だけだそうです」
「まあ。どんな状況でも受け入れてしまいますの?」
「そうきいています」
「知りませんでしたわ」
得意そうなオースティン氏を見てグルーバーは尻尾をびくっと振って見せた。

「ご旅行でいらしたのですか」
女性はオースティン氏の方に向き直って言った。

「はい。この愛犬グルーバーと一緒にね」
それからチャンスだと思って
「あなたは、ええと…」
「ダナー・コールレーンですわ。ミスター」
「失礼いたしました。僕はジョン・ヘンリー・オースティンと申します。ミス・コールレーンはやはりご旅行で?」
「旅行と言えない事もありませんわね」
コールレーン嬢はエレガントに瞳を伏せた。ミセスと訂正もせず。

「オクスンホルムで降りられるのですか」
オースティン氏は予定変更も辞さない覚悟で訊いてみた。

「ええ、ケンダルヘ行くつもりですの」
…湖水地方だ、万歳。オースティン氏はすっかり浮かれている。グルーバーは注意深い様子でコールレーン嬢を観察していた。

オースティン氏はふと気がついた。これまでのグルーバーだったら、とっくに相手に対する態度を決めててもいい頃だった。尻尾を振っているか、吠え立てるか、あるいは全く無視するか。オースティン氏のこれまでの経験によると、グルーバーはどちらかというとヒト科の動物の外見上の形質の相違には無関心な方であった。美人だからどう対処していいか迷ってるということは考えにくかった。…じゃ、何だ?

「ちょっと失礼しますわ」
オースティン氏の思索を断ち切るようにコールレーン嬢は立ちあがり、車両のドアを出て行った。オースティン氏はもちろんのこと、グルーバーも又、英国に住む者として無関心を装うことを怠ったりはしなかった。

ところが、ダナー・コールレーン嬢は、それきり戻って来なかった。列車がオクスンホルムに着く頃になっても。
「どうしたんだろう。グルーバー」
「ヴァウ」
「ケンダルヘ行くと言っていたよな、確か」

列車はとうとうオクスンホルムの駅に静かに滑り込んだ。オースティン氏は意を決して自分のカバンとコートと帽子を取った。グルーバーも立ち上がった。オクスンホルムの駅は柔らかな光が差し込む、明るい駅だった。隣のホームには三面編成の古めかしい列車が慎ましやかに待っていた。湖水地方、ウィンダミアヘ向かう小さなその列車にオースティン氏はためらいながら乗った。あの目のさめるような黄金の髪をした女性の姿は見あたらなかった。

(彼女は、降りなかったんだろうか?)
オースティン氏はがっくりと肩を落として今にも壊れそうなビロード張りの席に腰を埋めた。グルーバーは何だかほっとした顔をしている。二十分ほど待ってから走り出したウィンダミア行の列車はじきにケンダルに到着した。湖水の見えるウィンダミアヘこのまま当初の目的通りに行こうかとも思ったが、列車はまるでオースティン氏とグルーバーが降りるのを待っているかのごとくなかなか発車しようとしない。

(…ええ、ケンダルヘ行くつもりですの…)
オースティン氏は立ち上がった。するとグルーバーはさっと列車の窓から降りてしまった。そこでオースティン氏も心を決めてドアを開けた。

ケンダルの小さな駅は、人影もまばらであった。無人の改札を抜け、行き交う人も少ない小さな町をオースティン氏とグルーバーはゆっくりと歩いた。町というにはあまりにも可愛らしく、すぐ近くは既に沢山の羊の姿があちらこちらに見える田園風景が広がっていた。オースティン氏はB&Bを探してゆっくりと歩いた。

犬と一緒でも構わないと言ってくれる宿はじきに見付かった。オースティン氏は宿の女主人に三日分の宿代を払い、簡単に荷物を整理すると、夕食には戻ると言ってグルーバーを連れて散歩に出掛けた。

陽射しは暖かく、緩やかに丘への道が続いていた。牧草地を区切る低い石垣。時折見かける家も、きらきら光る小川にかかる小さな橋も皆同じトーンの石で出来ていた。質素な造りの大地と対照的に瑠璃石で出来ているかのように深いブルーの空がダイナミックに広がっていた。

グルーバーは元気に駆け出した。いつもはよく出来た執事がふいに子供にかえったようだった。その姿を見て、オースティン氏はいつまでもコールレーン嬢の姿ばかり求めていては旅行が台無しになると思い直した。山も渓谷も、求めていた以上の美しさと静けさでオースティン氏を待っていたのだった。
(ロマンティックなことをむしよく考えていたのが間違いだったんだな)

しばらく行くとやはり石垣と同じ石で出来た大きな遺構に行き当たった。廃屋というには大きく、城跡というには小さすぎる。ただ、そこに有ることが妙にふさわしい不思議な存在感だった。

グルーバーはふと、先程コールレーン嬢に見せたのと同じような考え込む態度を見せた。オースティン氏がおやと思ったのもつかの間、グルーバーはさっさと丘を登って行ってしまった。丘の上は風が吹いていた。遥かにウィンダミア湖をのぞみ、平和の支配する穏やかな時間が眼下に広がっていた。羊の大軍はそれぞれに、けれど一定の軌跡に導かれるように緩やかな流れに添って移動して行く。

(…羊が随分と沢山いますわね…)
(…美しいところですわね、ここは…)
オースティン氏は列車の中ではぴんと来なかったコールレーン嬢の溜息のまじったような想いをはじめて実感した。同時に、この共感を味わえるあの女性に(ただの美女ではない、感性の研ぎ澄まされたコールレーン嬢に〉ぜひもう一度会いたくなった。

日が暮れてきたので宿に戻ると女主人のホークス夫人が温かいキドニーパイを出してくれた。
「随分歩いてらしったからおなかも空いたんじゃあ、ありません?」
「そういえばペコペコだ」
「湖水池方は初めての様ですね。いい所でしょう」
「ああ、本当に。でも、どうして初めてとわかったんですか?」
「なんとなくね。夕食の時間も忘れる程ここの風景が魅惑的だったんでしょう。初めての方は大抵そうなるからですよ」

オースティン氏は少し赤くなった。確かにダイニングに居るのはオースティン氏とグルーバーだけだった。そこでオースティン氏は名誉挽回に力をいれた。

「うん。このパイの味にもね。こんな美味いキドニーパイは初めてだ。ついに大英帝国もグルメヘの道を目指し始めたのかな」
「ここに泊ってくれるお客さんは皆そうおっしゃいますよ、ミスター。特に外国の人はね」
「へえ、外国のお客さんも多いんだ」
「多いとは言えませんがね。時折いらっしゃいますよ」

ホークス夫人は、オースティン氏がすっかり空にした皿と、同様なグルーバーの皿を片付けながら言った。マッコリー夫人同様ホークス夫人もまた、グルーバーの愛敬ある、しかし控え目で堅実な態度がおおいにお気に召したようだった。そして、その飼い主であるオースティン氏への評価も夕食に遅れるという行為の割には比較的高いものだったようだ。というのも、オースティン氏本人は伺い知れぬことながら、この日のホークス夫人の客の中でもっとも大きなデザートのプディングの一切れを食べた人類はオースティン氏だったからである。
(但し哺乳類の中では彼の友人が多少勝っていたが)


次の日も、オースティン氏は朝から昨日の丘に行って見ることにした。夕暮れの美しさもさることながら、こんな天気のいい朝の風景もぜひ見てみたいと思ったからだった。大英帝国の誇るブレックファーストもそこそこに(ただしこの朝食もまた絶品だった。自家製のブルーベリージャムも、程よい硬さのプレーンオムレツも、付け合わせの豆や塩辛すぎないベーコンも、そしてもちろん紅茶も)オースティン氏は宿を出た。

昨日と違って、わかった道のりは呆気ないほど短かった。随分と遠かったと思っていた例の遺構にもすぐに着いてしまった。オースティン氏は昨日よりも少し落ち着いてこの石づくりの廃墟を見てみることにした。

「昨日は気づかなかったけど随分激しく壊れてるなあ、グルーバー」
オースティン氏はほとんど土台しか残っていなかった裏側を見て言った。

「それに、これは煤だ。石造りの家なのに火災があったのかな」
だが、グルーバーはそれには応えず、急に別の部屋(のあった所)ヘと走って行ってしまった。
「グルーバー!」

グルーバーの吠え声を追ってオースティン氏が廊下を越えて一つの部屋に入った時、その部屋のもう一つの出口からスッと誰かが出て行った。
「あっ!」
オースティン氏は慌てて、その出口に走った。その外はまた廊下で、突き当たりには二階へは昇れない階段があるばかりだった。(いまや二階はなかったのだ)何処に行ったのか、オースティン氏の追った人物は影も形もなかった。
「そんなばかな…」
オースティン氏は、人物が消えた事よりも、一瞬だけ垣間見たその人物の後ろ姿にショックを受けていた。

「グルーバー、あれは…」
黄金の穂麦のような豊かな髪、上質のウールのフレアースカート、すらりとした背中。列車のドアへ消えていった後ろ姿。
「コールレーン嬢…」


「ああ、あそこにいったんですか」
昼に食事に戻ったオースティン氏は、矢も盾もたまらずホークス夫人に例の遺構について訊いた。ホークス夫人はしばらく黙っていたが、やがて、あたりを見回した。

「ここはね、オースティンさん。このケンダルには」
夫人の声はいつもからは考えられないほど小声になっていた。
「時おり密国者が来ていたんですよ」
「密国者?どこからの?」
「アイリッシュなまりのね」
「ああ、マン島経由の船が近くを通ってますよね」
「そうなんですよ。それがどうやらね、ヘイシャム行きの船に乗り込んだ物騒な方々がね、ウォルネイ島に一番近いところで海に飛び込んで、グランジ経由で英国に入っていたらしくて、このケンダルにもそうやって忍び込んだ密国者の根城あったんですよ」
「それがあの石造りの廃堀なのかい?」
「そうですよ。グラバー子爵の別荘だった事もある由緒あるお屋敷だったんですがね。子爵が破産して以来すっかり狐狸の住処みたいになってて都合がよかったんですかね」

「煤だらけで二階から上がなくなってた」
「それはもう、大変な騒ぎでしたよ。私ら田舎者はあんな大音響を産まれてからこのかた一回も聞いた事が無いでしょう。爆弾が一斉に爆発して二階から上は木端微塵ですよ。この世の終わりかと思って、慌ててお祈りを始めたのは多分あたしだけじゃありませんよ」

ホークス夫人の声は何時の間にかダイニング中に響きわたっていた。オースティン氏はひとりの客が、この話を熱心に聞いている事に気付いた。ホークス夫人は、オースティン氏の眼線でふと我にかえり、この話は少し尻切れとんぼで終わってしまった。

オースティン氏はさりげなく客の方を見た。ツイードのジャケットを堅苦しく着た中年の紳士だった。やはり、オースティン氏の事が気になるらしく、時折こちらを見ている。

午後になってオースティン氏は、もう一度グラバー子爵邸跡へ行ってみる事にした。あの場所に行けば、コールレーン嬢に会えるという不思議に強い確信があったのだ。先程はどこか近くにいて、ただオースティン氏がその存在を見過ごしたのだと。もう一度会ったら、ここがどんな事のあった所だか教えてあげよう。知らなかった事を教えてくれる旅の男に驚き、見直し、彼女は自分の事に関心をもってくれるだろう。

グルーバーは気が進まない様子だった。オースティン氏はグルーバーの事を大変気に入ってはいたが、グルーバーが時折毅然としてこうした分別ある態度を見せると、何が何でも自分に決定権があることをはっきりさせたいと感じるのだった。
「おまえにとってはコールレーン嬢も、スマトラの森の人もたいして違わないんだろうけど、それは絶対的に間違っているよ」

グルーバーは賢くも必要以上に逆らったりはしなかった。そういうわけで、オースティン氏は午後も午前中と同じ場所にいた。アイルランド紛争の拠点だと思うと、廃虚ながらもその場は重みをもって感じられた。

「オーステッドさんと言いましたっけ」
ふいに後ろから声がしてオースティン氏は振り返った。例の中年の男がいつの間にか立っていた。

「いえ、ジョン・ヘンリー・オースティンと申します。あなたは確か宿でお会いした…」
「はい、失礼致しました。私はジョセフ・マクホールと申します」
マクホール氏は控え目ながらも、しっかりとした意志を感じさせる紳士だった。眼鏡をかけ、白く整った歯並びが知的な印象だった。オースティン氏は気後れしまいと多少焦りながらマクホール氏をみつめた。

「後をつけるような真似をして申し訳ありません。ただ、あなたがここに興味をもっているようだったので」
「いけないことをしてしまったのでしょうか。私はただ、一介の旅人としてここに興味を持ったのですが」
「いえ、いけないなんて事は。私もそうですから」
「ここについて何かご存知なのですね。先ほどからそんな気がしていたのですが」
「お話ししてもいいが、私の知っている事にあなたの興味があるかどうか」
マクホール氏は眼鏡をずらして言った。少し遠い、悲しい眼をしながら。
「私のこれから話すことは政治の話というよりも、ひとりの人間の生き方の話なのです。そう思って聞いてくだされば、そして、この地を去る時に忘れていただけれぱ一番有り難い」
「忘れる?」
「そうです。何も話さずにここに近づかないでくれと言ってもあなたは納得しないでしょう。だから、一度話します。でも、あなたはお見受けしたところ紳士だ。私が忘れてほしいという意味がわかってくれると思う」

オースティン氏は妙な気持ちになった。マクホール氏はばつの悪そうなオースティン氏に構わずに話し出した。
「あなたはアルスターの事を何か知っていますか」
「アルスターというとUDA(アルスター防衛連盟)の?」
オースティン氏はホークス夫人の言葉を思い出しながら言った。
「至極もっともな反応だ!実に現代的だ!そして、核心をついている!」
マクホール氏は眼鏡を光らせた。

「そうですよ。オースティンさん。この場所と私の専門のケルト文明を結び付けるのは、散文的にも現在に至るアイルランド紛争なのですよ」
「専門というとあなたは学者なのですか」
オースティン氏はこれ以上この男にふさわしい職業はちょっと無いなと思いながら訊いた。
「ええ。でも、大学の教授のような立派な仕事をしているのではなくて、地方の小さな高校で教鞭を取る身です」
マクホール氏は少しはにかんだ。

「どうしてここが、ケルト文明やあなたと関係があるのですか」
「厳密に言うとアルスターの王の娘エーティーンの伝説を私は研究しているのです。アルスターというのはご存じかもしれませんが、北アイルランドにあった古代王国です。エーティーン伝説は簡単に言うと地母神の再生神話で、繰り返し生まれかわり人と女神の間を行き来するのです。多くの伝説でそうな様に大変な美女で、こんな風にたとえられています。

『彼女の髪は夏のあやめの花、あるいは磨いた純金の色だった。手は降ったばかりの雪の様に白く、頬は山ジギタリスのように赤かった。眉は甲虫のように黒く、歯は真珠の列、眼はヒヤシンスの青。エーティーンと比べるまでは誰でも美しく、エーティーンと比ベるまでは誰でも愛らしいブロンドだ』」
「見事なものだ。よくそらで言えますね」
オースティン氏は落ち着かない気分で言った。いま滔々と述べられた女神をまるで自分が知っているような気がして、伝説と現実の境めを見失った事を少し恥じながら。

「どういたしまして」
マクホール氏はさらりとオースティン氏の嫌みをかわして言った。
「古代のケルト人はもっと多くをそらで言えました。彼らは頭のなかに書庫を持っていたと言われていますからね」
「それで?ここが、その伝説の地なんですか」
「そうだとは言っていません。そうでないとも言えませんがね。だってストーンヘンジもランズエンドもケルト文明の残照だと世界中が認めているんですからね。ここだけケルト文明が及ばなかったとどうして断言できます?」
「…」

「いや、しかし、私がここにこだわるのはね、オースティンさん。私にとってのエーティーンが、ここで息たえたからですよ」
「エーティーンが?」
「ええ、ケルトの濃い血をひき、エーティーンの名にふさわしい美しさを持った少女でした。エーティーンとしてではなくむしろ、イケニのブーディカ、ローマ帝国に抵抗して戦ったあの女王のように死んだんですがね」
「戦って死んだ?」
「彼女は、IRA(アイルランド共和国軍)の工作員としてこのケンダルにやってきたんですよ」
「IRA!」
「本当のIRAだったかはともかく、この場所は密入国者たちの拠点でした。ここで仲間がおちあい、ロンドンに向かい市街で大掛かりなテロ活動を展開するばかりになっていたのです。彼女は、ただの工作員としてだけでなく、その生まれと美しさの両方を見込まれて、北アイルランド独立のシンボルとして、圧迫されたアイルランドの民の再生の象徴としてその後利用される事になっていたはずです」

「いつのことですか」
「もう十四年も前の事ですよ」
「あなたがその女性を知ったのは…」
「その時は気がつきませんでしたがね、彼女の人生の上では実に劇的な場面で出会ったのです。彼女が密入国してきたその夜、私は試験に失敗してやけっぱちになっていました。夜中に人目を避けて隠れ家を探す美女と死に場所を探していた青二才がこの丘でばったり会ったんですからね。彼女は妙にきちんとした英語を話したので、私にはすぐ外国人だとわかりました。それもものすごく訓練されたね。アイルランドから来たのだと分かったのは名前を聞いた時でした」
「名前…」
「本名かはわかりません。でも彼女はダナーと名乗ったのです」

「!ダナーですって?」
「そうです。ご存知ですか」
「いや、そんなはすは…」
「ダナーというのケルト神話の大地母神です。ケルトの神々はトゥアサー・デー・ダナン、つまりダナー女神の子供たちとされています。私はこの名前を聞いた瞬間に、試験の事を完全に忘れました。あの日彼女に会わなければ、死ぬことはとりやめていても、少なくとも研究はやめていたと思います。けれど目の前に、消え失せてしまったと信じていた生きた研究対象が出てきてしまえぱ、この研究を天職と信じてもおかしくはないでしょう」
「そうかもしれませんね」

「少し歩きましょうか」
マクホール氏はオースティン氏とグルーバーを連れて丘を登った。午後の穏やかな風が優しく頬を撫でる。オースティン氏は辛抱強くマクホール氏が続きを話し出すのを待った。

「彼女と会うことが出来たのはたった一週間だけでした。私が彼女の心を掴むことが可能かと思いはじめていた時に彼女は人生と使命の両方を終わらせてしまったのです。二人でこの丘に登り羊を見ました。彼女は泣いたのです。羊が故郷のと一緒だと言って。この国に、恨み続けてきたこの国に自分の愛した故郷と同じ羊がいるとは思ってもいなかったと言って」

「『人間が望んで、画策してもあんなに平和にはなれない』…」
「そう思ったのでしょうかね。彼女は悲しい目をするようになりました。時間がないと言って。そして、ついにあの前日に私に身の上を打明けたのです。古代アイルランドの血をひくものとして育てられた事、自由を抑圧された幼かった日々の事、差別を受け、仕事や土地を奪われ、尊厳までも踏みにじられ、イギリスを恨み、敵の首都をテロで破壊しクーデターを起こそうと言う人々の申し出に賛同したこと。そして二日後にはそれを実行する手筈になっていることも」
「でも、実行されなかった」
「そうです。彼女は実行させないために、隠れ家ごとふっ飛んでしまったのです。もしクーデターがおき、軍隊も出動するような事になれば、きっと被害を受けたであろうこの国と自分の国の両方の羊が、今までと同じように平和に生きていくために」

「それから、どうなったのですか」
「サッチャー政権がその年の七月に北アイルランド分権法案を発表して自治政府設置に向け動きだしました。少なくともそれを契機にここには再び武器が運び込まれることはなくなりました」
「あなたが忘れてほしいと言ったのは、この事件をなかったものとして彼女の名誉を守りたいという事なのですね」
「ええ、二国間のトップは当然知っていますし、その中でもう不問とされているこのテロ未遂事件が今さら公にされてしまうと、アイルランドにいるであろう彼女の家族や知人にも迷惑がかかると思います。私は彼女のためにそれを阻止したいのです。それに、彼女はIRAに所属していたと信じ、アイルランドの開放のためにここへ来ましたが、彼女を利用しようとしていた組織が実際何で、その本当の目的は何だったのかという事も私には分かりません」
「私は新聞記者ではありませんから安心してください」
「感謝します」
マクホール氏は小さく頭を下げた。

「私の時間はあの時に止まってしまいました。大字を卒業してすぐにここに移り住み、することといったら授業と、研究と、そしてこことの往復です。研究にはこの田舎では事欠きますし、村の中でも私は変わり者で通っています。ホークス夫人はよくしてくれますが知合いも少ないほうです。ただ、可笑しなことですが、ここにいればダナーの想いや悲しみを受けとめられ続ける様な気がしているのです」
「きっとそうだと思いますよ。私も彼女はここにすっと居ると思います。すぐ近くにね」

オースティン氏とマクホール氏はゆっくりと丘を降りた。途中でグルーバーがいないことに気づいたオーステイン氏はマクホール氏に先に帰ってもらうように頼んで愛犬を探しに行った。

「グルーバー!グルーバー!まったくどこにいっちゃったんだろう」
グラバー子爵邸跡を通り過ぎて、ふと気になって中を覗き込んだ時、ふいに聞えるはずのない声が聞こえて、ぎょっとしてオースティン氏は足を止めた。

「おまえは私の心持ちががわかる犬ね」
間違えるはすもない。コールレーン嬢はここにいるのだ。オースティン氏は震えた。
「あの列車でおまえが羊を見ていた眸に私は惹かれたの。人には決して感じられない自然との同一感に」
「ヴァウ」
「おまえの御主人は言っていたわ。羊はどんな状況でも受け入れるって。そうかもしれないわね。恐ろしいテロの結果起こる国の荒廃も自らの死も」
オースティン氏はゆっくりとその部屋に通じる戸口へと向かった。

「私は幼くて幸せだった頃、こことよく似た土地で過ごしたの。惨めだった都会での生活を忘れさせてくれたのがこの湖水地方だったわ。私は心から幸せになれたのよ。ここに来ただけで。そして、自分以外の人を大切に思うことも学んだわ。自分を幸せにしてくれる人や自分と利害の一致する人、そんな人だけが大切なのではないことを知ったのよ」

オースティン氏が部屋にゆっくりと入ると、グルーバーがそこに座っていた。そしてコールレーン嬢は微笑んでそこに立っていた。オースティン氏は震えている自分をなんとかしたかった。コールレーン嬢はどうみても生身の人間だった。竪琴も持っていなければ、翼も、頭の上の輪もなかった。

「私はここにいます。あなたや他の誰かがそれ望まなくても。オースティンさん。ここで、羊と一緒に生き続けたいのです」
「ミス・コールレーン、ああ、教えてください。あなたはいったい生きているのですか、それとも…」

しかし、コールレーン嬢は答えなかった。黙って微笑むとゆっくりと踵を返し、普通の人間と同じように戸口から出ていった。オースティン氏は追わなかった。彼女の正体を突き止めるような真似は、それこそマクホール氏の言っていた『紳士』としての行動にふさわしくないように思えたからだった。グルーバーも今度は吠え立てたりしなかった。

それきりオースティン氏とグルーバーは二度とコールレーン嬢に会うことはなかった。ホークス夫人の宿でマクホール氏に会ったときもオースティン氏は誰かに会ったとは言わなかった。三日間の休暇を何事もなく終えてオースティン氏とグルーバーは湖水地方を後にした。

帰りの列車の中からも羊たちが見えた。絨毯のように均一に広がる牧草地のなかを羊はのんびりと歩いていた。政治も、信条も、宗教さえ越えた平和のなかを。

オースティン氏は、もう一度コールレーン嬢の事を考えた。グルーバーは知っている様な気がした。マクホール氏は彼のダナーは死んだといった。言ったけれどそれは表向きなのかもしれない。あるいは、コールレーン嬢はマクホール氏のエーティーンとは別人なのかもしれない。それとも、オースティン氏の出会ったのはもう生きていない人だったのかもしれない。それとも幾度もうまれかわり、人と女神の間を行き来するエーティーンそのものだったのだろうか。その真相をヴェールの彼方に暈しておく事が、マクホール氏の、あの土地で年を重ねていく一人の純情な男のたったひとつの願いかもしれないと、オースティン氏は心の中で納得した。

「また、いつか来よう、グルーバー」
グルーバーは凛々しくすっと首をたてて、窓の外の羊たちを見守っていた。


(初出 :1995年3月 同人誌「夜間飛行」第3号)
.03 2012 小説・オースティン氏&グルーバー trackback0

【小説】ヴィラ・エミーリオの落日 -1-

Posted by 八少女 夕

今年ラストの小説は、一応読み切りなのですが、2万字もあったので3回に分けてご紹介しようと思います。

この小説は先日ご紹介した「羊のための鎮魂歌」と同じイギリス人ジョン・ヘンリー・オースティン氏と愛犬グルーバーの物語です。前作は1995年に書いたものですが、こちらはわりと新しいと思っていたら、なんと2007年に書いたものでした(笑)

このブログで私の小説をたくさん読んでくださっている方は「あれ?」と思われることが多いかと思います。もう使わないと思って設定をいろいろと使い回した、その原形が残っているんです。

ひっかかっても、全く別の小説ですので、お氣になさらずにお読みください。




ヴィラ・エミーリオの落日 -1-
〜 オースティン氏のイタリア紀行


 白木蓮の花は散りかけて茶変していた。まるで恋に破れて泣きはらした乙女のように、くたびれた様子で散りゆく時を推し量っているようだった。ジョン・ヘンリー・オースティン氏はここストレーザの暖かい春に潜む疲れ果てた空氣を感じていた。それは、ほかならぬオースティン氏自身がくたびれて途方に暮れていたからでもある。

 愛犬グルーバーは不平の鳴き声を漏らしたりはしない。このような場合、いつもグルーバーは賢く立ち回るのが常だった。つまり、ことさらつぶらな瞳でオースティン氏を見上げ、従順について行くのである。かくて誰もグルーバーのことを「静かにしろ!」とか「さっさと来い!」と怒鳴ってすっきりするなどということが出来ない算段なのである。

 オースティン氏は毎週家政婦としてフラットに来てくれるマッコリー夫人の言葉が正しかったことを認めないわけにはいかなかった。彼女は昨日もロンドンの動物園に近いフラットで荷物を詰めるオースティン氏にくどくどと話しかけたのである。
「なんといってもイタリア人がきちっと期日にことを運んだためしはないんですからね」

 オースティン氏は友人ゴルツィ氏はロンドンで長年商売をして成功をおさめているひとかどの人物だし、イタリア人といってもイギリス人に近いのだと説明したが夫人は納得しなかった。

「でも、見てご覧よ、この手紙を。これはシチリアから先月の終わりに出したものだけどね、四月の第一週にはストレーザに帰るから、それ以後はいつでも寄ってくれ、前もっての連絡はいらないって、ほらここに書いてあるだろう?」

 マッコリー夫人はふん、と鼻をならした。
「何が書いてあるかってことじゃあないんですよ、オースティンさん。私がいいたいのはね。イタリア人の約束なんて疑ってかかるに限るってことなんですよ。私なら、そのゴルツィさんだかなんだか存じませんけれど、電話が通じて、客間のベッドが空いているか、本当にストレーザにヴィラがあるのか、確認してからじゃないと、とても荷物なんて詰める氣にならないってことなんです」

 そういうと彼女はグルーバーの皿に自宅から持ってきた大きなハムの塊を入れてやり、大きく尻尾を振る彼女のお氣に入りを優しく撫でてやった。

 彼女の懐疑のうち、少なくとも一つは晴らしてやることができた、とオースティン氏はひとりごちた。ストレーザには間違いなくゴルツィ氏の所有のアルカディア荘が堂々たる門構えで建っていたのである。

 残念なことに、件の門はぴったりと閉ざされ、オースティン氏が呼び鈴を何度押そうと、門につかまって激しく揺らそうと、大声で旧友の名を叫ぼうと、決して開かれることはなかったのであった。午前中に軽い足取りでヒースロー空港にむかったオースティン氏は、既に暮れかかったストレーザで今夜の宿に困りつつ大きな荷物とグルーバーを抱えて途方に暮れているというわけだった。

「失礼ですが、シニョーレ」
ふいに女性の声がしたので、オースティン氏は醜態をさらしていたのではと後悔しつつ振り向いた。

 そこには二十代後半と思われる漆黒の髪をきっちりと結った使用人風の女性が立っていた。大変まじめそうな様子だったが、その緑色の瞳は少し楽しそうにきらめいているように見えた。

「奥様が窓からあなた様のご様子をご覧になり、何かお困りのようだから見て来るようにと私に申し付けました」

 話している途中から、オースティン氏には彼女がイタリア語ではなくて完璧なクイーンズ・イングリッシュで話してくれていることに氣づいた。だが、彼女はどこから見ても完全なイタリア美人だった。たとえ引っ詰め髪をしていても、である。

「ええ、じつは招待主である友人がいないようなんですよ」
かなり間抜けな説明をこのような美人相手にしなくてはならないことを情けなく思いつつも、オースティン氏は事情を説明した。

「それは、お氣の毒です。でも、ゴルツィ様はまだシチリアからお戻りではないんですよ。いずれにしても、奥様がどうぞエミーリオ荘でお休みください、とおっしゃっていますので、よろしければこちらへ」

 それで、はじめてその女性の指さす隣のヴィラに眼をむけた。そして、あやうく驚きの言葉を出しそうになったが、あわててひっこめた。

 アルカディア荘の三倍はありそうな広大な敷地にはかつては壮麗だったと思われるヴィラが立っていた。わざわざ過去形を使わなければならなかったのは、現在はちっとも壮麗ではなく、それどころか言われなければそこに人が住んでいるとは到底思えないほどの荒れ果てた外観だったからだ。

 かつてはクリーム色に塗られていたと思われる外壁はほとんど剥げ落ち、ローマ風の人物像の壁画はみじめに薄れていた。屋根瓦は崩れ落ちているし、第一、玄関の扉の木が半ば腐っている。庭の木々は美しいが、ちょうど白木蓮の散りかけた様子は、まさにそのヴィラと調和をなしていた。

 女性はオースティン氏の当惑に礼儀正しい無関心を装い、華麗な装飾はされているものの錆び付いた門をギギィと押した。オースティン氏は正直言って凄惨な荒れ方のヴィラに恐れをなしていたが、この一ヵ月のバカンス用の荷物や、これからの宿探し、ストレーザの坂の多い地形などを思い巡らし、また、この英語の堪能なイタリア美人のことも考慮に入れた。

 ふと氣づくと、グルーバーは大人しく女性についていくではないか。オースティン氏自身は決して認めなかったが、いつも愛犬のとっさの行動には無意識に絶大な信頼を置いていたので、グルーバーのしっかりとした足取りを見ただけで、いつの間にかこの屋敷に足を踏み入れてみてもいいかな、という氣になっていた。

 芝生のところどころに、彫刻が倒れている。小さな花瓶のような形の石も落ちていて、ふと見上げると、それは二階の装飾の一部が落ちてきたものだということがわかった。頭上注意だな、オースティン氏は首をすくめる。

 玄関の扉は重くどっしりとした木で、着色が剥げ、装飾が落ちてしまっているために、とりわけ荒んだ感じがしたが、よく手入れすれば見事なものだと思われた。その扉をすっと開けると女性は「どうぞ」と中に入るよう勧めた。

 オースティン氏が驚いたことには、外側の荒れ方から鑑みて、中の状態は思ったほど悪くなかった。確かに階段の手すり部分の装飾や天井画や赤い絨毯は少々年代が経ちすぎていたと見て、手入れが必要だと思われたが、それ以外のところは塵一つなくピカピカに磨かれていて、居心地が悪いとはいえない感じだった。

 女性が案内してくれたのは二階の東向きの部屋で、白磁の花瓶には桜の花が豪快に生けてあった。窓からは美しいマッジョーレ湖とボロメ諸島が一望の元に見渡せた。

「私はラウラ・ステリタと申します。このヴィラの使用人です。ご用の向きがございましたらいつでも遠慮なくお呼びください。ただいま犬用のバスケットと毛布、トレイなどをお持ちいたします」

 ラウラは簡潔に言ってその場を離れた。窓を開け放し、夕暮れに赤く染まるベラ島を見渡すと、涼しい風が部屋に入ってきた。荷物を簡単にクローゼットに納め、ピカピカに磨かれたバスルームで軽くシャワーを浴びる。タオルがふかふかだったことも、オースティン氏の印象をさらによくした。

 バスルームからでて、氣持ち良く真っ白に洗濯された枕カバーなどをちらっと見ながらオースティン氏はこの屋敷の持ち主のことを考えた。

「いったい、奥様ってのはどんな人なんだろう、グルーバー?」
グルーバーはすでに、心地よいクッションの入ったバスケットの中に丸まっていた。近くの椅子には毛布が、そしてその横にはグルーバーのトイレ用のトレイがおかれていた。

 しばらくするとラウラが食事の用意ができたと呼びに来た。グルーバーも一緒にと言う。オースティン氏はその心遣いに感謝するとともにほっとした。

 彼自身は認めなかったが、グルーバーがいないといつも何故か大変心細い思いをするのだ。

 一階の食堂はやはりかつては大変豪奢だったとおもわれる造りで、大きなシャンデリアが天井から外れて落ちてきませんように、とオースティン氏は秘かに祈った。二十人は座れるだろうと思われるテーブルにただ一人女性が座っている。

 オースティン氏は彼女の近くまで行って恭しく挨拶をした。その女性は重々しく言った。
「ようこそエミーリオ荘へ。私はここの女主人でアントネッラ・マンツォーニと申します」

「窮地をお救いくださいまして、心より感謝いたします。私は英国からきました、ゴルツィ氏の友人でジョン・ヘンリー・オースティンと申します。これは、私の連れのグルーバーですが、犬が同席してもよろしいのでしょうか」
「ちっとも構いませんことよ。お客様が犬を連れて滞在なさるのは普通のことですもの。特に狩のシーズンは、ですけれど」

 この家にお客様? とオースティン氏は少しだけ思ったが、もちろん口には出さなかった。

 マンツォーニ夫人は少々神経質な感じのする金髪美人だった。年のころは四十代後半から五十代、濃い化粧と強い香水の匂いがする。差し出された手にキスをする時、その指に三個も指輪が嵌めてあるのに氣づき、オースティン氏は驚いた。

 幸い、オースティン氏の席はマンツォーニ夫人の向かい、つまり二十人以上座れるテーブルの端と端だったので食事の間夫人の香水の匂いに悩まされることもなさそうだった。

 ラウラがスープを運んできて、給仕する。アスパラガスの薫りが食欲をそそる。オースティン氏はマンツォーニ夫人に訊かれるままに、自分がロンドンの小さな法律事務所に勤めていること、独身で家族はグルーバーだけであること、ゴルツィ氏とは仕事を通じて七年ほどのつきあいのある親しい友人であることなどを話した。

 ラウラがクリーム風味のニョッキを運んできた後、マンツォーニ夫人はこの屋敷は夫が三十年ほど前に購入したこと、その夫は現在はここにはいないことなどを氣取った言葉遣いで話した。

 ペンネ・アラビアータに続き、ウズラ肉と香味野菜ソテー、デザートにはパンナコッタのオレンジソースがけが運ばれてきた。どれもレストランに負けない味であるだけでなく美しい盛りつけである。選ばれたワインも全てがしっくり合い、普段は食に頓着しない彼でもこの屋敷の食事は並みならぬ水準であることに氣づいた。

「素晴らしい夕食でした。こちらでは特別なシェフを雇っていらっしゃるのですか?」
「いいえ、これはラウラが調理しているのです。お恥ずかしい限りですわ」

 オースティン氏はびっくりした。じゃあ、調理、盛りつけ、給仕を全部一人でやっていたのか? しかも完全なタイミングで出てきた。

 エスプレッソを飲みながら、先程からなんとなく変だと思っていたことが急にわかった。この屋敷にはこのマンツォーニ夫人という支配者とラウラという使用人の二人しかいないのだ。それなのに、使用人が五人も十人もいるような生活をしている。それが破綻せずにまわっているのが妙なのだ。

 隅々まで行き届いた掃除と心遣い、手の凝った料理と大仰な給仕、氣持ちのいいホスピタリティと貴族的な氣位。それは、居心地はいいもののどこか痛々しい感じがするのだった。それも痛々しいのは超人並に働いているラウラの方ではなく、むしろ年代物のカットグラスを物憂げに傾けるマンツォーニ夫人の方なのである。

「私の夫は貿易で財をなしましたの。ストレーザに住むのは子供の頃からの夢だったと申しましたわ。私は子供の頃からローマとコモを行き来する生活でしたから、夫がこの屋敷を買ったときも、特に感慨はなかったんですけれどね。不思議なことに私だけがこのストレーザに住むことになりましたわ」

「あの、失礼ですがご主人様はお亡くなりになったのでしょうか」
オースティン氏は恐る恐る訊いてみた。

「ラウラ、濃いエスプレッソをもう一杯持ってきて頂戴」
夫人は突然そう言い、それから永いこと黙っていたが、蝋燭の燃えるジジ……という音をきいて我に返ったように言った。
「実のところ、私は死んだと思っていますの。アフリカにはライオンとか、豹とかが沢山いますでしょう?」

 面食らったオースティン氏が答えを探して脳味噌をフル回転させているとラウラが銀のコーヒーポットを持ってテーブルに近づいて来た。

「今年で七年になるはずだわ。そうだったわね、ラウラ」
「左様でございます。奥様、私がこちらでお世話になる三年前のことでございますから」

 オースティン氏は助けを求めるようにラウラの顔を見た。ラウラは小さく頷きながら続けた。
「ご主人様は、ボツワナへおでかけになって以来、行方知れずになってしまわれたのです」

「余計なことは言わなくていいのよ」
マンツォーニ夫人の語氣の鋭さにオースティン氏はびっくりした。マンツォーニ夫人はコーヒーに手をつけないまま席を立った。

「いつまででも構いませんから、どうぞゆっくりご逗留なさってくださいね。外国のお客様を迎えるのは何よりも楽しいひとときですもの。たった一人で暮らしているのは、大層退屈なものですわ」

 夫人がいなくなるとオースティン氏はラウラに詫びた。夫人の叱責を浴びるようなことを言わせてしまったのはほかならぬ自分だとわかっていたからだ。ラウラは冷たくなったコーヒーを大して落胆した様子もなく片づけながら言った。

「お氣になさらないでください。奥様のお話の仕方には、びっくりなさったでしょう。でも、ご主人様のことは本当ですもの。他に申しようがありませんわ」
「それ以来、あの人はこういうふうに暮らしているのかい?」
「ええ」

 ラウラはイタリア人にしては言葉の少ない女性だった。英国の女性でも使用人というのはもう少し面白おかしく話すものだが、ラウラの返事からはあまり多くの情報は期待できない。

 だが、それでもオースティン氏はラウラに大変な好印象を持った。それは、これだけの有能で誠実な使用人に対してあのように冷淡に振る舞うマンツォーニ夫人への若干の反感も手伝ってのことだった。また、この使用人の話す英語が高等教育を受けたはずの夫人の英語よりもはるかに達者で正確だったことも、英国人オースティン氏の印象に大きく影響していることは間違いなかった。もちろん、イタリアに来て英語で通そうとしている自分のことは全く棚に上げて、である。

 それにしても、今日はなんという一日だっただろう。ピカデリーラインに乗り込んだときは、まさかこのような謎めいたヴィラで休暇が始まろうとは露ほども考えなかったものだ。この一件はなんとしてでもマッコリー夫人には内緒にしなくては。

 オースティン氏は洗濯のりの爽やかな薫りのする枕カバーに頭を埋め、バスケットにうずくまるグルーバーに「おやすみ」と声をかけた。グルーバーは満足そうに尻尾を振って見せた。

 まくら元のランプを消すと今晩は満月らしく、窓の外の白木蓮の大木がぼうっと浮かび上がって見えた。重く疲れ果てたように垂れ下がっている花びらの大軍。甘ったるくねっとりとした薫りが空氣を不透明にしているような氣がする。物憂げな空氣はストレーザの印象を大きく変えた。

* * *


 翌朝、少し肌寒い中オーステイン氏は自然と目が覚めた。体が重い。というよりは、頭の奥が鈍くうずいている感じで体があまり持ち上がらない。よく眠ったはずなのにどうしてだろう。

 彼は大変目覚めのいい性質だった。ロンドンではよほど早起きをしなくてはいけないとき以外は目覚まし時計を必要としない。よほど早いのかと思い時計をみると既に八時半をまわっている。慌てて起きて大急ぎで顔を洗い髭をあたる。

 ふと見るとグルーバーも大儀そうに毛繕いをしている。
「なんだ、お前も寝過ごしたのか。俺達、昨日の騒動でよっぽど疲れていたのかな」

 恨めしげに窓からゴルツィ氏の屋敷を眺めるが、やはり人のいる氣配は感じられない。いそいそと食堂に降りていくと階段を掃除しているラウラと遭った。

「お早うございます。オースティン様」
「お早う。シニョーラ・ステリタ。朝食に遅れてしまったようで大変申し訳ない」
「ラウラで結構ですわ。いいえ、ちっとも遅くございませんわ。奥様の朝食はいつも九時過ぎです」
と、微笑んだ。オースティン氏はその笑顔の爽やかさにどきりとした。

「朝食の準備は食堂に用意してございます。コーヒーになさいますか?紅茶やホットチョコレートなどもございますけれども」
「紅茶をもらおうかな。ミルクティを用意するのは大変かい?」
「とんでもございません。すぐにお持ちしますわ。卵料理なども召し上がりますか」

 オースティン氏は感激した。通常朝食では食べない卵料理を、英国人の自分のために用意しようかと訊いてくれている。
「いや、いいよ。君はただでさえ忙しいんだから」

グルーバーはまたはじまった、という顔をした。うちのご主人様はどうしてこう美人に弱いのだろう。

 そういうわけで、トーストではなく丸いパンとバター、ジャムとミルクティの朝食の間中、オースティン氏はせっせと働くラウラを見ながら、少々ぼうっとしていた。

* * *


「ロンドンにお住まいの前は、確かケンブリッジにいらしたっておっしゃいましたわよね、オースティンさん」

 愛想の良い笑顔を浮かべながらマンツォーニ夫人が近づいてきたのは、エミーリオ荘に滞在して五日目の午後も遅く、庭の樹木も少しくたびれた様相を見せはじめる時間であった。

 マッジョーレ湖を望む美しい庭園、どちらかというと手つかずの自然に近いものだったが、そこが英国人として氣に入ったオースティン氏は午後の散歩をしていたのだった。アントネッラは人目をはばかるように近づいてきたので、あきらかにラウラの眼をさけて彼と何かを話したかったのだろう。

「はい、書籍の販売に少し関っていた時代に、五年ほど住みましたが」
「ということは、今から十年ぐらい前は、ケンブリッジにいらしたの?」
「そういうことになりますね」

「じゃあ、その頃に留学していたイタリア人留学生と知合いになったりしたこともありますか」
「まあ、一人、二人、思い出す人もいますけれど……。どうしてですか?」

「探している子がいるのよ。今から十二年前から四年間、ケンブリッジのセント・アン・コレッジでアフリカ史を専攻していたソニア・マンツォーニという娘をね」
「マンツォーニ? ご親戚ではないんですか?」

「主人の娘です」
私の娘といわなかったからには、先妻か愛人の娘なのだろう。アントネッラの顔からは一瞬愛想笑いが消えて、眼に鋭い光が宿った。

「残念ながら、私の知っている人ではありませんね」

 オースティン氏の返事に、マンツォーニ夫人は少しだけ落胆したように見えたが、言葉を続けた。
「イギリスに帰ったら調べていただくことはできないかしら、大学にその当時の学生が卒業後どこに行ったかの記録がないかとか……」

「さあ、そういった情報があるかどうか別として、私のように縁もゆかりもないものが、そうした情報を入手できるかどうか……」
「必要ならば、私が委任状を書きます。でも、できるだけ内密にことを進めたいのよ」

 オースティン氏は、この女性がなぜ困っている見ず知らずの英国人に大層親切にしたのかわかった氣がした。窮地を救ってもらい、これだけのもてなしを受けたのだから、この役目は引き受けざるを得ないであろう。

 その日、オースティン氏はなぜ夫人がその娘を探しているのかあれこれ想像しながら一日を過ごした。
.14 2016 小説・オースティン氏&グルーバー trackback0

【小説】ヴィラ・エミーリオの落日 -2-

Posted by 八少女 夕

「ヴィラ・エミーリオの落日」の二回目です。

イタリアの保養地ストレーザを訪れたイギリス人オースティン氏と愛犬グルーバーは、招待主が戻ってくるまでの間、その隣のエミーリオ荘の世話になることになりました。そして、その屋敷の女主人アントネッラに内密で夫の娘を捜してほしいと依頼されました。

三つに切った二回目の今回は、エミーリオ荘の二人とは対照的にとても散文的な兄妹が登場します。

また話題に上がっている「ファボニオ(フェーン現象)」は、人びとの体調にも影響を及ぼす現象ですが、影響には個人差があり、全く感じないラッキーな人もいます。おそらくこの兄妹はほとんど何も感じないタイプ。




ヴィラ・エミーリオの落日 -2-
〜 オースティン氏のイタリア紀行


「君は、ご主人の娘さんのこと、なんか聞いているかい?」
思い余ったオースティン氏は、それから二日ほどしてから、こっそりラウラに聞いてみた。

 ラウラは一瞬なんのことかわからない、という顔をしたが、それから納得したように小さく頷いて言った。
「ご主人様は二十年近く奥様に内緒で別のご家庭もお持ちだったそうです。私がここに参ったときには、お嬢様のことをご存知の方は、この屋敷にはいませんでしたのよ。ご主人様が行方不明になられたので、全てが明るみに出たということですわ」

 それ以上のことをラウラに訊いても、到底答えてくれそうにもなかったので、オースティン氏は話題を変えてみた。

「君は、ずっとストレーザで生まれ育ったのかい?」
「いいえ。私は、アオスタの出なんです。スイスとの国境に近い山の町ですわ。」

「どうしてここに来ることになったの?」
「私の様な仕事を探すには、ここはいい町ですのよ」

 確かに、使用人としての仕事を探すにはいい町かもしれない。使用人を必要とする金持ちがいっぱい住んでいるんだから。

 だが、オースティン氏はさらに考えた。どうして使用人なんだ?そもそもラウラほどの才覚があれば、使用人以外の仕事だっていっぱい見つかるはずなのに。

 オースティン氏はラウラがこの家に関るほとんど全ての用事をひとりで切り盛りしていることについて、驚きと同時に違和感を隠せなかった。ラウラは掃除や料理の他に家計管理から格式ばった招待状の作成まで全てひとりでこなしていた。イタリア語と英語を流暢に操るだけでなく、彼女に相当の教養があることは、余計なことは一切言わなくてもわかる。

「どうしてもっといい仕事を探さないの」
数日前に会ったばかりの人に失礼とは知っていても訊かずにはいられなかった。使用人の職にしても、あのマンツォーニ夫人よりはいい雇い主はたくさんいるに違いない。

「ここが好きだからです。ファボニオは重くても」
「ファボニオ? 重い?」

「アルプスから吹いてくる風です。氣圧の関係で体が重くなり、何もかもがおっくうになるんですよ。頭痛や吐氣に悩まされる方もいます。私はそれほど感じる方ではないので幸いでしたけれど」

「今日も吹いている?」
「ひどいファボニオですわ」

 ラウラはそう笑って朝食を片づけた。だから、てきぱきと動けないんだな、とオースティン氏は納得した。

 空氣が重いのも、退廃した氣分になるのもそのせいなんだろうか。それとも、このマグノリアの香りのせいなんだろうか。

 庭の大きなマグノリアを見ようと首を伸ばした途端、アルカディア荘の門のところに車が停っているのに氣がついた。ゴルツィ氏が帰ってきたのだ!

* * *


「まったく申し訳なかったね」
悪びれる風もなくゴルツィ氏はいった。

 アルカディア荘はエミーリオ荘と何もかも対照的な場所であった。中途半端にお金のかかっているモダンなインテリアの中に座って、ゴルツィ氏の途切れることのないシチリア話を適当に聞き流しながら、一週間前にはエミーリオ荘の荒れ果てた外観や、氣位の高いマンツォーニ夫人の虚勢に氣後れしたのに、すでにエミーリオ荘の方に馴染みを感じている自分に首を傾げるオースティン氏だった。

 五十メートル離れていない場所に、あの時代に取り残されたような不思議な空間が存在している。そこにはもはや手に残っていない若さと権勢を未だに忘れられない一人の女と、何もかも手に入れられるはずなのにあの空間に全てを閉じ込めている美しい女がひっそりと住んでいる。

 それなのに、自分はここでアンディ・ウォーホールの絵を前に、いつ息継ぎをするかもわからぬほどひっきりなしにしゃべる散文的なイタリア人の話を黙って聴いているのだ。

「アントネッラ・マンツォーニが君を泊めたってのは驚きだったな」
ゴルツィ氏の言葉に我に返ったオースティン氏は、マンツォーニ夫婦のことについて、ラウラよりもずっとしゃべりたがっている男を止めたりはしなかった。実際のところ、オースティン氏もマンツォーニ家に何があったのか、興味津々だったのだ。

「エミーリオ・マンツォーニには、長いこと秘密のもうひとつの家庭があったのさ。たしか、ヴァレーゼの方だった思うがね。どっちしてもアントネッラはコモの社交界に未練があって、実家にいることの方が多かったし」

 ヴァレーゼに住んでいたあまり身分の高くない女とエミーリオの間には娘が一人生まれた。マンツォーニ夫人が探しているソニアという娘だ。エミーリオは、七年前にアフリカへ行き、消息を経った。マンツォーニ夫人が夫の失踪宣告を求めようと、裁判官と管財人に申し出てはじめてわかったのだが、もし、エミーリオが亡くなった場合には、財産の大半はアントネッラが存在すら知らなかったソニアが相続することになっていたのだった。

 つまり、エミーリオが亡くなったことにしなくては今後の生活に必要な財産を自由に処分することもできないのに、それをした途端に無一文になってしまう可能性があるのだった。そういわけで、現在住んでいるヴィラを修復することすらできない困窮状態に陥っているのだった。

「アントネッラはおそらくソニアを探しだして、わずかな金と引き換えに財産放棄のサインを迫るだろうな。貧しい連中というのは、裁判とか管財人とかそういう話を聞くと縮み上がってしまうからな」

「そんなバカな話ってないだろう。サインしなければもっとたくさんの金が手に入るのに」
「それが、ソニアの遺産相続の条件というのが、あのヴィラに住み維持をすることっていうんだ。貧乏人には無理だろう」

 そんな理不尽な話の片棒を担がされるのはいやだ、とオースティン氏は思った。ソニアを探しだしたとしても、あの夫人のいいなりにならないようにと忠告をしてやらなくては。

「そもそもソニアって娘のことはどのくらいわかっているんですか」
ゴルツィ氏は身を乗り出してきたオースティン氏を楽しげに眺めた。

「僕はほとんど知らないよ。でも、妹なら何か知っているかもな」
そういうと彼は立ち上がりドアのところまで行って上に向って怒鳴った。

「ルクレツィア。ちょっと来てくれないか?」
ゴルツィ氏に同居している妹がいるなんて知らなかった。ルクレツィアというからには金髪で薄幸な感じのイタリア美女であろうか。

 あらわれたのは、オースティン氏の予想を大きく裏切るタイプの女性だった。髪は赤いというよりは燃えるようなオレンジ色だった。金髪を染めたのではないかと思われる。さらいうと、その染色に失敗したのではないか、と疑うほどの妙ちきりんな色であった。

 その髪をきっちりと切り揃えた様子も、実に品のいい服を着ているところも、兄のように一目でブランド品とわかるようなものは一切身に付けていないところも、英国人たる自分の審美眼に叶っているはずであった。

 よくよくみると、顔立ちも品よく整い、動きも裕福な家庭にふさわしいものであった。それなのに、このゴルツィ嬢には、どこか「深窓のお嬢様」とは決して言えない独特の雰囲氣があった。すくなともルクレツィアという感じではなかった。

「マンツォーニ家について知りたいんですって?」
ルクレツィアはずけずけと訊いた。

 いたずらっ子のように灰色の眸をキラキラと輝やかせている。
「私はちょっと詳しいわよ。前の使用人やアントネッラからもずいぶんいろいろ訊きだしたしね」

 ルクレツィアはラウラの完璧に近い発音と対照的な、英語の単語と文法を着たイタリア語、というような話し方をした。たとえ英語でも、しゃべることに苦痛は露ほども感じないらしく、ゴルツィ氏の妹らしい冗舌で、エミーリオとヴァレーゼに住んでいた女のことを語りだした。

 ヴァレーゼに住んでいた女の名前などは不明だが、長年マンツォーニ家に使えていたエミーリオの乳母の身内だということであった。そもそもこの家に仕えた召使の半分はこの乳母と親戚筋に当たるそうで、ラウラもたぶんそのひとりなのではないかとルクレツィアは推測した。

「あの一家の紹介状があると、エミーリオは問答無用で雇ったし、エミーリオがいなくなって、さらに実家も時を同じくして破産して、他の使用人が雇えなくなったアントネッラも使用人を探すのなんてはじめてだったので、とっくに引退していたエミーリオの乳母に頼んで紹介してもらったそうなの。もちろん、その当時はこの乳母の身内とエミーリオができていたなんて知らなかったしね」

 とにかく、ヴァレーゼの女とエミリオはアントネッラに知られることなく、関係を続けていたのだが、この女はいまから八年ほど前に病でこの世を去ったのだった。既にソニアはケンブリッジに留学中で、独り立ちをしたも同然だったので、エミーリオは長年の夢だったアフリカ旅行にでかけたのだった。

「おまえ、エミーリオ・マンツォーニが失踪したときの新聞記事、どっかにもっていないか?」

 オースティン氏はちょっと驚いた。七年前の記事なんか誰が持っているというんだろう。

 もっと驚いたことにはルクレツィアはちょっと首を傾げた後
「たぶん、あるわ」
と、いって二人を二階の自分の部屋へと案内したのだった。

 この部屋がまた驚かせてくれた。尻尾を振って一緒にあがってきたグルーバーまでもがすこしたじろいだようだった。アルカディア荘は天井が高く、二階の個室でもそれぞれ四メートルほどあるのだが、ルクレツィアの部屋の壁の一方はその高い天井までのつくりつけの本棚になっていてそこにぎっしりと本や雑誌が詰められていた。

 十八世紀のアンティークのライティングデスクの脇に、ベコベコのベニヤ板でできた形も材質も違う箱形家具がいくつも無計画に置かれていて、その中も書類やら封筒やらでぎっしりであった。

 それだというのに収まりきれない本や雑誌や紙の類いがライティングデスクの上はもちろん、箱形家具の上にも、さらにわずかに歩いたり立ったりする場所を残して床にも積んであり、ルクレツィアは迷うことなくその山の一つに向かい、しばらくひっくり返していた後、一冊の雑誌に挟まっていた新聞記事をとりだした。

「あきれるだろ、この部屋。でも、こいつ、なんでもみつけるんだ。図書館で探し物をしてもこうはいかないぜ」

 ルクレツィアが見せてくれたちいさな囲み記事はイタリア語だったので、オースティン氏にはちんぷんかんぷんであったが、黄ばんだ写真にうつるエミーリオ荘はいまよりもずっとマシな状態であった。そのことをいうと、ゴルツィ氏は頷いた。

「エミーリオはあの屋敷を実に愛していたんだ。自分の名前と同じだったから買ったという経緯もあったみたいだけれど、女房より屋敷の方が大事に違いないと、みんなに陰口を叩かれていたものさ。湖に面しているいい立地だから、昔から売ってほしいというホテル経営者は絶たなかったが、一度たりとも首を縦に振らなかった。アントネッラはここをホテルに売ってまたコモやミラノで暮らしたいんじゃないかな。若いソニアがどうしたいかは、神のみぞ知るだけどね」

「ここが好きだからです。ファボニオは重くても」
あの女の言葉が、オースティン氏の心に甦った。

 その時にオースティン氏の心にひとつの疑いが芽生えた。

 ラウラこそソニア・マンツォーニその人なのではないかと。年齢も、見事な英語も、それからあんな屋敷と女主人のもとで黙って仕えているのも、彼女がエミーリオの娘であるからではないのか。

 そうだとしたら、彼女の狙いはなんなのだろうか。

 オースティン氏は、アントネッラ・マンツォーニに委任状を書いてもらうとケンブリッジ出身の友人を通して、セント・アン・コレッジの該当年の卒業生名簿を入手してゴルツィ氏あてに郵送してもらった。

 到着までには二週間ほどかかった。たぶんイギリスからイタリアまでが四日ほどで残りは怠慢なイタリア郵便局のせいに違いないと推察した。イタリアの郵便が想像を絶するほどのろいのはイギリスでも有名な話だった。

 その間、オースティン氏は、ゴルツィ兄妹と休暇を楽しんだ。マッジョーレ湖に浮かぶ三島を船でまわったり、モッタローネ山へハイキングにいったりして、イギリスよりひと足早い春を堪能したのだ。

 郵便が着いたときには、実はマンツォーニ家への好奇心はかなり薄れていた。いいかえれば、ファボニオによる体の重さに慣れてしまい、違和感を感じなくなったように、アルカディア荘の散文的なインテリアとひっきりなしにしゃべり続ける兄妹との暮らしに馴染み、エミーリオ荘にいたときの重苦しい詩的な寂寥感に心をしめつけられることがなくなってしまったのだった。

 しかし、ゴルツィ兄妹の好奇心の方はそう簡単に薄れることはなかったらしい。氣がつくと、すでに二人が名簿を検討していた。

「この年のアフリカ史専攻にマンツォーニという学生はいないな」
「ソニアってファーストネームもないわね」
ゴルツィ兄妹は首を傾げている。

 オースティン氏はひとつの名前をみていた。
アダンソニア・ステリタ。

 これだ。アントネッラをはじめとする皆が「ソニア・マンツォーニ」を探しても見つからないはずだ。ラウラ・ステリタはやはりソニアだったんだ。少なくとも、ソニアの身内だ。

 オースティン氏は自分の考えをゴルツィ兄妹に話すべきか迷った。二人は信頼できる人間だが、いかんせんしゃべりすぎる。ソニアが邸内にいることがアントネッラに伝わるのはもう少し後がいいような氣がした。少なくともラウラと直接話してからの方がいいだろう。
.21 2016 小説・オースティン氏&グルーバー trackback0

【小説】ヴィラ・エミーリオの落日 -3-

Posted by 八少女 夕

今年最後の小説更新、3つに切った短編「ヴィラ・エミーリオの落日」最終回です。

イタリアの保養地ストレーザを訪れたイギリス人オースティン氏と愛犬グルーバーは、謎めいたエミーリオ荘の女主人アントネッラに内密で夫の娘を捜してほしいと依頼されました。そして、屋敷で使用人として働くラウラこそがその娘であるのではないかと氣づきます。

今週は、公開がいつもより遅くなってしまいましたが、個人的にはスイス時間の水曜日中にアップできたので、セーフということにしておこう。(何が?)

今年一年、毎週のように読んでくださり、コメントを下さったみなさま、本当にありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。




ヴィラ・エミーリオの落日 -3-
〜 オースティン氏のイタリア紀行


 ファボニオが吹き荒れて、生ぬるい氣温のまま一晩を明した翌朝に、エミーリオ荘の白木蓮の大木は力尽きたように最後の数輪の花を落としていた。それはちょうど、門のところに朽ちて落ちている大理石の彫刻と同じ色をしていた。実際には残っているはずのない花の香りが灰色の雲にに閉ざされたストレーザに満ちているように感じられた。雨が近い。

 まだ、マンツォーニ夫人は眠っているのだろうか。ラウラが湖を見ながら庭に立っているのを見て、オースティン氏は急いでアルカディア荘の裏庭からエミーリオ荘の庭に侵入した。

 ゆっくりとした動作で、荒れ果てた庭の枯れ枝を集めるラウラの後ろからオースティン氏は声を掛けた。
「なぜそんなにひたすら働くのですか」

 少し驚いたように振り向いたラウラはオースティン氏の姿を認めると安心したように笑った。

 ラウラの笑顔はとてもあでやかだった。ルクレツィアの笑いは実に親しみ深いあけすけなものだったが、ラウラのそれはラ・ジョコンダのようにどこか秘密めいていてその分見えない壁を感じさせるのだった。

 よく考えると不思議だ。使用人の服を着て完璧な使用人として振る舞う女の笑顔が、最高品質のカシミヤのワンピースを着た裕福な令嬢の笑顔より遠いのだから。

「わたしの仕事ですもの」
「仕事への義務ですか。それともお父様の大切な屋敷へのオマージュですか」

 ラウラの顔から遠い笑顔が消えた。それから不思議なことに彼女は再び小さく微笑んだ。今度の笑顔は、もう少し距離が縮まったように感じられる疲れた笑いだった。

「どうしてたった一か月の滞在でわかったりするのかしら」
「あなたが、アダンソニア・マンツォーニなんですね」

 ラウラは再び枯れ枝を集めだした。
「父は生涯アフリカに憧れていました。だから他にもいくらでも植物の名前はあるでしょうに、よりにもよってアダンソニアなんて名前をつけたんです。母はごく普通にラウラとつけたかったのでそう呼んでいましたし、私はラウラ・ステリタといわれたほうがしっくりくるんです」

「でも、あなたがマンツォーニ夫人にアダンソニアと名乗らないのはそのせいだけじゃないでしょう」
オースティン氏はこの発言がラウラに非難めいて聞こえないことを祈った。

「一度でいいからここで暮らしたかったんです。マンツォーニ夫人がここを売りたがっていることは知っていましたから」

「あなたが望めば、このヴィラはあなたのものになるんじゃないですか」

 ラウラは訝しげにオースティン氏をみた。
「父の書いた遺言状がどんなものであれ、マンツォーニ夫人を無一文で追いだすなんてできませんわ。あの人は結局のところ父の妻なんですし、父は私のことだけではなくて、あの人の将来のことも考えて遺言状を書くべきだったんです。私はあの人には父の唯一のまともな財産であるこのヴィラを自由にする当然の権利があると思いますわ」

「だから、まもなく売られてしまうと思ったから、その前にここで暮らすために、使用人として潜りこんだんですね」

 ラウラは少し黙って、それからオースティン氏をまともに見た。
「もう少し待っていただけませんか? マンツォーニ夫人にいうのは」
「あなたが望むなら、生涯黙っていますとも」

 ラウラは笑った。
「いま、二人の人間がこのヴィラを買いたがっています。一人は修理してここに住むつもりのスウェーデン人だけれど、マンツォーニ夫人は高いお金を出すというホテルチェーンを経営するドイツ人の方にヴィラを売るつもりじゃないかと思うの。でも、ホテルが買ったらヴィラはすぐに取り壊されてしまうわ」

「少なくともあなたには、夫人にここをどういう形で処分するかいう権利があるんじゃないのか」
「母と私はマンツォーニ夫人に憎まれていますもの。何か指図がましいことをしたら、たぶん反対のことをされてしまうわ」

 ラウラは愛おしげにエミーリオ荘を仰いだ。
「みて。朽ちていくこの屋敷を。父が買い集めた大理石の彫刻も、自慢げに話してくれた外壁の装飾も、かつては三人の庭師が働いていたこの庭も、ゆっくりと雑草と錆びとひび割れた石の中に埋もれていってしまうのよ。父が精魂を傾けたすべては、太陽が沈んでいくようにいずれ消え去ってしまうのだわ」


 肩を落としてオースティン氏がアルカディア荘に戻ると、ルクレツィア・ゴルツィ嬢がグルーバーの毛繕いをしていた。オースティン氏の様子を見て、彼女は訳ありに頷いた。

「とくにこんな春の日には、このストレーザの空氣の重さは、人を絶望的にさせるのよね」
それからふいに眉を少しあげて小声で言った。
「あなたも私と同じ結論に達したようね」

 オースティン氏は反射的にルクレツィアの灰色の眸をみた。
「アダンソニア。アフリカ狂の付けそうな名前じゃない?」
「なぜ? あまり聞いたことのない名前だけど」

 ルクレツィアは大笑いをした。
「アダンソニアってのは巨木バオバブの学名よ。女の子の名前って感じではないわね。でも、ラウラにはあっているような氣がするわ。毅然としているところが」
そういうと、ルクレツィアはグルーバーのお腹をさすってやった。

「なんで、ラウラのことだってわかったんだ?」
「アダンソニアで氣付いた女学生の名字がステリタだったから。ラウラの名字だと思い当たるのにしばらくかかったけれどね。でも、あなたがラウラと話している様子を遠くから見て確信が持てたわ。あなた、ラウラがすきなんでしょ?」

 オースティン氏は口ごもった。イギリスではこんな身も蓋もない話し方をする令嬢はあまりいない。

「隠さなくてもいいじゃないの。ラウラは素敵で有能な女性だもの。ちょっとまじめすぎるから、私にはあまり面白くないけど、尊敬しているのよ。彼女、ヴィラや相続のこと、どうするつもりなの?」

「彼女は、諦めている。本当は取り壊さないでいてくれるスウェーデン人に売れればいいと思っているみたいだけれど、マンツォーニ夫人はドイツ人のホテルに売る氣なんじゃないかって」

「どうかしらね。アントネッラもそこまで夫の遺志を無下にできるかしら。まあ、夫を憎んでいても無理はないと思うけどね」

 オースティン氏も同感だった。エミーリオ荘をみるのはこの休暇が最後になるような氣がした。ふいに、会ったこともないエミーリオ・マンツォーニに軽い怒りを覚えた。

 自分の好きなことばかりやりやがって。経緯はどうあれ結婚した妻か、愛人とその娘か、ヴィラか、それともアフリカか、どれかひとつだけにして、それにきっちり責任をとればいいのに。欲張ってとっちらかしたままいなくなったせいで、結局残された女たちが意味のない争いや憎しみや哀しみに苦しむだけになったじゃないか。

 自分が何もできないまま、この地を去らなくてはならないことに、オースティン氏は果てしない無力感を感じた。ファボニオが重い……。

 黙っているオーステイン氏の横では、ファボニオなどかけらも感じないらしいゴルツィ嬢が、イタリア内閣の改造のことと、首相と秘書との情事とを、どういう筋道でかわからないがみごとに組みあわせて、とうとうと語っていた。どうやら秘書のファションもイタリアという国では政治の根幹を揺るがすらしい。

* * *


 ついにロンドンに帰る日がやってきた。ゴルツィ兄妹やエミーリオ荘の人びととイタリア式に別れを惜しみ、すっかり馴染んだストレーザの春やファボニオに別れを告げ、オースティン氏はグルーバーとミラノへ向った。

 ストレーザからミラノ、マルペンサ空港からからヒースロー空港へと、移動するたびにけだるさや哀しみは薄れ、帰ってからの仕事のことや、ロンドンの友人、マッコリー夫人や隣人や同僚のことなどが、幻から現実へと形を変えて心の中に浮かんでくるのだった。

 ロンドンについた後、オックスフォード・ストリートの絶え間ない交通と、忙しく歩き回る人びとを見て、オースティン氏は呆然とした。人間はこんなに颯爽と動き回れるんじゃないか。それは、あのゆるやかなストレーザの日々からは考えられないテンポであった。

 ゴルツィ兄妹のしゃべりがうるさいと思ったのが信じられないほどの喧騒に、彼はおののき、唯一のよりどころであるグルーバーの綱をしっかりと握った。グルーバーはしっかりとした足どりで前を進み、その細かい歩みを見ていると、オースティン氏も落ち着いてフラットに戻ることができたのだった。

 ロンドンの日々は、てきぱきと過ぎ去った。マッコリー夫人の用意してくれた心地の良い部屋も、彼の安心感を増した。いつも部屋着、いつものスリッパ、同じ生活の繰り返し、そういうものが彼の日々をあたりまえに支配するようになると、ストレーザの日々のほうが夢か幻のように遠ざかっていくのだった。

 そんなある日、ゴルツィ氏から連絡があり、ロンドンに滞在しているデュールソンというスウェーデンの夫婦が是非オースティン氏を訪ねたいといっているという連絡を受けた。そういう名前に全く心当たりはなかったのだが、向こうがどうしても会いたいというのに断わるまでもなかろうと思って、訪ねてきた二人をフラットに迎え入れようとドアを開けた。

「君は……」

 そこには背の高い北欧の青年と一緒にラウラが立っていた。あの時のような前時代的な使用人としての服装ではなく、ジーンズの上にアイボリーの上質なジャケットというラフだけれどもよく似合ったいでたちであった。ゆるやかに波打つつややかな黒髪が肩にかかり、あらためてどれほど美しい女性であるか思い知らされたオースティン氏は顔を赤らめた。精悍な整った顔立ちのデュールソン青年は悔しいほどラウラにお似合いだった。

「突然ごめんなさい。でも、どうしてもお礼をいいたくて。ロンドンに来る機会はそんなにしょっちゅうあるわけではないので」
オースティン氏は何にに対してお礼を言われているのかわからなかった。

「ルクレツィアが話してくれたの。あなたとルクレツィアがマンツォーニ夫人を説得してくれたって。主人のクリスチャンはドイツのホテルの十分の一の金額しか提示できなかったのに、それでもマンツォーニ夫人はその金額で主人にエミーリオ荘を売ってくれたの」

「じゃあ、ヴィラを買いたがっているスウェーデン人っていうのは、もしかして……」
「はじめまして。ラウラの夫のクリスチャン・デュールソンです」

 青年と握手して、彼らをフラットに招き入れながらも、オースティン氏はまだ事情が飲み込めなかった。

「ラウラが素性をかくしてマンツォーニ夫人のところで働くという決意を話してくれたとき、僕はなんとかヴィラを残せる方法はないだろうかと考えました。一番確実なのは自分が持ち主になることだけだった。でも、ラウラは相続を強行することだけはできないといった。そうしたら、馬鹿げた話ですが買うしかないじゃないですか。お陰で僕たちにはかなりの借金ができたので、当分しっかり働かなくてはいけないし、あそこも人に貸さないといけないけれど、少なくとも取り壊されるのだけは避けられた」

 デュールソン青年の言葉をひきとって、ラウラが続けた。
「マンツォーニ夫人はミラノの近くに遷りました。少なくともヴィラを売ったお金で生活はしていけるようになりましたし、その金額の一部を私に残してくれたので、改装費にかかると思っていた金額の方は借金をせずに済んだんです」

「でも、君がヴィラを相続すれば、借金はそもそもなかったんじゃないのかい?」

「お金は働いて取り戻すことができます。でも、誰かの人生をダメにしてしまったらそれは取り返しがつきませんもの。私は父を愛しています。でも、彼のしたエゴイズムを容認することはできませんわ。彼は自分の欲しいものを、何もかも手にしたがりました。そして、それによって何か他のものを失うつもりなく、あちこちに問題を作ってはそれをウソで塗り固めて誤魔化しました。アフリカから帰ってきたら、もう少しまともな状態にもっていくつもりだったのか、それとも実際に死ぬまで好き勝手をするつもりだったのかわかりませんけれど。マンツォーニ夫人は特別な人格者ってわけでもありませんけれども、少なくとも夫も財産も全て奪われて無一文で追いだされて然るべきってほど、悪いことをしたわけではありません。私もそのことで生涯恨まれるのもあまりいい氣持ちがしませんもの」

 ルクレツィアは上手に立ち回ったのだった。オースティン氏がみつけてくれたソニアが、ヴィラを取り壊さない人に売ってくれるならば財産放棄の書類にサインするといっていると話したのだ。さらにいくつかのドイツ人の建てたろくでもないホテルに案内して、マンツォーニ夫人にもヴィラを残したいという氣持ちにさせたのだ。

 マンツォーニ夫人はルクレツィアに言ったそうだ。
「私だって、この屋敷がずっと好きだったのよ。エミーリオとあの女に裏切られたと知って、何もかも失う前にここを売って新しい生活をはじめるつもりだったけれど、エミーリオの帰宅を待って一人でここで暮らした日々ですら、もはや忘れ難い大切な思い出になってしまっているのよ。ドイツ人のブルドーザーでここが踏み倒されるのが嬉しいわけはないわ。エミーリオとあの女のことは受け入れることができないし、あの女が生きていたとしても友達にはなれないけれど、娘のことまで理由もなく憎み続ける必要はないわ。そういうカップルの間に生まれてきたのは彼女が悪いわけではないもの。ソニアに逢って、私がそこまで性悪でないことを伝えたいわ」

 それで、ルクレツィアはラウラを呼んだのだ。

 アントネッラ・マンツォーニはショックを受けたが、それでも取り乱したりはしなかった。はじめからソニアだと知っていたら、決して抱かなかったであろう好意を有能な使用人に抱いていたことは確かであったし、ラウラが愛人の娘とわかったというだけでこの四年間自分と屋敷に対して示してくれた誠実と信愛に眼をつぶるほど偏狭な性格でもなかったからだ。アントネッラはきっぱりと言った。

「あなたの申し出を喜んで受け入れることにするけれど、あなたがエミーリオの娘であり、彼があなたの将来を何よりも大切にしていたことは確かなんだから、私は屋敷を売ったお金を独り占めしたりはしません。ちゃんとふたりでわけましょう」

 そして、それからアントネッラはスウェーデン人にエミーリオ荘を売却し、ミラノ郊外にフラットを買ったのだ。これまでのように常時使用人を置くことはできなくなったが、通いの使用人に給料を払うぐらいは十分に可能だった。それに、広大なエミーリオ荘と違って機能的なフラットは住み込みの使用人は必要なかった。

「私たちは借金を返すために、馬車馬のように働くことになりました」
そういってクリスチャンは快活に笑った。

 若い二人は希望に燃えているからそれもいいのだろう。裕福な実業家の父親と一緒にインテリア関係のビジネスをしているというクリスチャンと、ストックホルム大学でイタリア語とアフリカ史を教えているというラウラなら、さほど遠からず借金を返済してエミーリオ荘に自由に滞在できる日がくるのかも知れない。いずれにしてもイタリアのヴィラの購入などはなからお話にもならない経済状況のオースティン氏には遠い異星のできごとと変わりがなかった。

 二人が幸せそうに帰った後、オースティン氏は半ば落込んだ氣持ちで紅茶を淹れた。もらったスウェーデンの名産であるアクアビット酒の瓶を横目で眺めながらため息をついた。

 彼女は香り高いイタリアの薔薇だ。手の届かない高嶺の花。豪奢なヴィラだの、芳醇たるワインだの、北欧の銘酒だの、華々しいインテリアビジネスだのといった世界よりも、この動物園の近くのこじんまりとしたフラットが身近であり、紅茶を飲んでいると何よりも寛ぐ。

 あの若く美しいカップルと自分とは住む世界が違うのだとつくづく思った。けれど、足元にはグルーバーがやはりどこにいるよりも寛いで座っている。その他意のないつぶらな眸をのぞきこんで、やがてひとことつぶやいた。
「ま、いっか」

 明日は、またマッコリー夫人がやってくる。こんな平和な人生も悪くはない。グルーバーと暮らす、もと通りのロンドンのフラットでの日常。三十年以上変わらずに我が家で嗜む紅茶はおいしい。

 電話がけたたましくなった。まさかとおもって受話器をとってみると、予感通りゴルツィ嬢だった。

 オースティン氏が何も言えないうちに、ラウラのこと、ストレーザの近況、新たな隣人になりそうなドイツ系スイス人に対する軽蔑嘲笑、キリスト被昇天の休日の時にピクニックにでかけて悪夢の渋滞にあったこと、その他にオースティン氏が後でどうしても思い出せなかったありとあらゆる類いのゴシップなどを、あいかわらずのスピードでまくしたてる。

 少しだけ受話器を耳から離しながらグルーバーに向って小さく眉をあげてみせた。もう元通りの日常なんてないらしい。でも、ま、いっか。毎日顔を合わせるわけでないし、口から生まれてきたようなイタリアの奇妙な令嬢と適度な友情をはぐくむってのも、人生のスパイスだな。

 グルーバーはくわばら、という顔をしてベランダの方に向かっていった。彼はどれほどオースティン氏が骨を折ろうともこの電話が一時間よりも短くは済まないことを十分承知していたのである。

(初出:2007年4月 書き下ろし)
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