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【小説】夢から醒めるための子守唄 (1)

Posted by 八少女 夕

「短編集」の一つとして書き出したストーリーが、勝手にふくらんで形になった中編小説で、全部で五回の連載になります。カンポ・ルドゥンツ村は架空の地名ですが、私の住んでいる場所がモデルになっています。




夢から醒めるための子守唄(ララバイ) - 1. 春の始まり

レンギョウの花がほころび始めた。去年と同じ。その間に花が散って、葉が茂り、葉が落ちてから、雪の下で凍えた、つまり丸まる一年を経て、再び春がめぐってきたということだ。それなのに、私のやっていることは同じ。一年前と全く変わっていない。どうして私を探している白馬の王子様に巡り会えないんだろう。

もちろん同じ事を繰り返している訳じゃない。サイトも変えたし、プロフィール写真だって変えた。プロフェッサーやドクターだけじゃなくて、企業のマネジャーをしているって男にだって会ってみた。金髪に染めてみたら、アクセスは増えたけれど、だからって結果が変わる訳じゃなかった。どうしてなの?

レーナは腹立たしげにレンギョウの木立を睨みつけると、いつものカフェに入っていった。そこはカフェというよりは、高速道路のサービスエリアの一角なのだが、大きな駐車場のある幹線道路側の騒音が嘘のように、とても静かな村の散歩道に面したテラスがあり、レーナのお氣に入りの一角になっていた。道路が騒がしいという理由で、村人たちはほとんどやってこないのも彼女がよく利用する理由の一つだった。村人たちが嫌いなわけではない。でも、おしゃべり好きの彼らに好奇心一杯の目で見られるのは好きではない。見るなら、彼女が理想の姿になってから、つまり、理想の王子様の横にいる所を見てもらいたいのだ。だから、それまでは、この外国人ウェイトレスがひっきりなしに雇われるサービスエリアのカフェで誰にも知られないただの客としてくつろぎたかった。

レーナは草原が見渡せるテラスの席に座った。そして座った途端に、斜め前の席の男に氣がついた。やだわ、またあいつがいるじゃない。室内の席にすればよかった。それは、前にここで数回会ったことのある、たぶんポルトガルかスペイン出身の眉毛が濃く浅黒い男だった。皮肉めいた口元のゆがめては、本当に皮肉ばかりを言う。

「なんだ。また一人なのか」
次回来る時には食品コンツェルンのマネジャーと一緒だと、レーナが捨て台詞を吐いたのを忘れていないのだ。その「自称」マネジャーとレーナは二度会って、いい所までいったのだが、将来は立派な人と結婚したいという夢を口にした途端よそよそしくなり、連絡が来なくなった。レーナはロザンヌまで行って、会社で彼を探して話をしようとしたのだが、どういうわけだがその部署にはハインツ・ミュラーというマネジャーはいないと言われたのだ。どういう手違いなのだろう。レーナが登録しているインターネットサイトでは、経歴詐称はできないシステムのはずなのに。しかし、そういうわけでレーナは新しい白馬の王子様を求めて、再びプロフィールを公開しなくてはならなくなった所だったのだ。

「大きなお世話よ。あなただって、一人じゃない」
レーナはつんとして答えた。
「俺は次回は女連れだと言った憶えはないよ」
ニヤニヤした顔を見て、レーナは本当に腹が立った。

「あなたみたいな嫌味な男とつき合いたいって女なんかいないでしょうからね」
「女を釣る時だけ甘い言葉を遣う男に、馬鹿な女は寄っていくからな」
レーナは二週間前にこのカフェで、ハインツ・ミュラーがどれほど熱烈に自分を賛美したか、そらで憶えていた口説き文句を披露したのだ。その時この男はその文面に爆笑していたが、レーナはなんて失礼なと怒ったのだ。しかし、今になってみればこの男の言い分は、間違っていないようだった。悔しいが、少なくともハインツ・ミュラーに関しては正しいようだった。

「何故、髪の色を変えた」
男は席を立って、レーナの席にやってきて言った。
「だって、ブロンドの方がアクセスがいいんだもの」
「頭の悪い女だな。性的魅力をブロンドに感じる男は多くても、結婚相手を髪の色で決める訳はないだろう」
「あのね。結婚したいかどうかを考える以前に、会ってもらわなきゃしようがないでしょう?どっちの頭が悪いのよ」

赤毛のウェイトレスがやってきて、こほんと咳をした。レーナはカプチーノを頼んだ。ウェイトレスは黙って、男の伝票にカプチーノを書き足した。文句を言うかと思ったが、男は何も言わなかった。ウェイトレスが去った後、レーナはちらっと男を見て言った。
「私の分は払いますから」
男は払えとも、自分が払うとも言わなかった。

「そもそも何故インターネットで男を探しているんだ」
「そうでもしなきゃ、理想の男に会えないからよ」
「理想の男ね。医者か教授か経営者か。要するに金さえあればいいってことだな」
皮肉っぽい笑いにレーナは激昂した。
「それだけじゃないわ。この辺で私が知り合える男は、みんなレベルが低いんだもの。会話をしてもセックスかサッカーの話しかできないし」
「あんたは、そんなにレベルが高いのか?だったら大学の同窓生にでも紹介してもらえばいいだろう」
レーナは唇をかんだ。
「私だって労働者階級だって言いたいんでしょ。確かに、この国では掃除婦よ。でも、故郷ではインテリア・デザインを学んだんだから」

男はちらりとレーナを値踏みするように見た。
「東欧、ポーランドかルーマニアってところだな」
「ハンガリーです」
「どっちにしても、国で就職すれば掃除婦をしながらインターネットで男を探すこともないだろう」
「国にいても、まともな就職先なんかみつからないもの。あなただって、だから、スイスに来たんでしょう」
「俺は、ただの出稼ぎだ」
「ポルトガル、それともスペインかしら」
「アンドラだよ」
レーナは少しびっくりして男を見た。そんな国がどこかにあったわね。
「こんな小さな村にどうして来たの?」
「別れた妻がこの谷の出身だったんだ」
「あ~ら。奥さんに愛想つかされたのね」

男はじろりとレーナを見て、口をへの字に曲げて黙り込んだ。彼女は話題を変えることにした。
「何の仕事をしているの?」
「古木の加工だ。昔の梁だったような大きな木材を、家具に変えたりするんだ。故郷で木こりをしていたから、木に関わる仕事は馴染みがあったからな」
「面白いの?」
「ああ、時を経た巨木は、強い個性があって、二つと同じものはない。大量生産の家具を作るのとは違う。半分は芸術品をつくるようなものだ。しかし、芸術と違うのは、実際に日常で使える物をつくっていることだ。役に立たない装飾品ではない」

レーナは頬杖をついて、語る男の顔を見た。彼女の法則では、知的な仕事は興味深く、労働者階級のする仕事には面白いものなどは何もないはずだった。実際には、ノイバウアー教授やライマン先生が仕事のことについて語っていた時、正直、何を言っているのかよく理解できなかった。ハインツ・ミュラーはテトラ・パックにクリームを詰める技術について何かごちゃごちゃ言っていたが、どうでもよく響いた。でも、この人の話は、よくわかるし興味深い。どうもおかしい。よく知らない国、アンドラでは人々はどんな暮らしをしているのだろうか、どんな経緯でこの谷出身の女性と知り合ったんだろう。なんだか、訊いてみたいことがいっぱい出てきちゃったわ。


「あ、『バードランドの子守唄』」
レーナはラジオから流れて来る、サラ・ボーンの歌声に耳を傾けた。男は笑った。
「ジョージ・シアリングのスタンダードナンバーだな」
「そうなの?それ作曲者?詳しいのね。ジャズが好きなの?」
「嫌いじゃないが、詳しいわけでもない。たまたまこの名前は知っているのさ。俺も英語読みにしたらジョージだからな」
「じゃあ、ジョージじゃないのね。なんて言うの?」
「ホルヘ」
「ふ~ん。私はレーナよ」
「よろしく」
ホルヘは小さく笑った。

前よりも親しみがわいてきたので、レーナは勢いづいて語りかけた。
「私は、ニューヨークに行くのが夢なのよ。理想の恋人が見つかったら、一緒にこの歌の舞台になった『バードランド』ってジャズ・クラブに行くの」
ホルヘは呆れた顔をした。
「陳腐な夢ばかり見るんだな。ネットに、そんな馬鹿げたことを書いて男を誘っているんじゃないだろうな」
「どこがいけないのよ。共感してくれる素敵な男性がいるかもしれないじゃない」

ホルヘはレーナの無邪氣すぎる見解に心底イライラしているようだった。
「こいつは夢ばかり見ている間抜けな女だ、騙すのも簡単だと教えているようなもんじゃないか。いいか、冷静に考えろ。見かけがよくて、社会的地位があり、金もある独身の男が、インターネットで結婚相手を探すか。そういう男には、放っておいても女が群がっているんだよ」

レーナは唇をかんで、黙った。ホルヘの言っていることは理にかなっている。でも、まだ認める氣にはなれなかった。一度しかない人生を、よりよいものにするために努力をしているだけなのに、どうしてそんなことを言うのだろう。
「お前の探しているものは、ただの名刺に刷られた肩書きだ。肩書きと結婚したって人間は幸福にはなれない。金やステイタスで満足できる時間はほんの一瞬なんだ」

ホルヘはレーナの目を見て真剣に語りかけた。嫌味ばかり言う腹の立つ男だと思っていたのに、彼の瞳の中には繊細で暖かい思いやりが揺らめいている。
「髪の色を元に戻せ。金髪でなくちゃダメなんて言う男は、お前の心を理解することなんかできやしない」

レーナは、もしかしたらその通りかもしれないと答えようとした。しかし、その時ホルヘの後ろのかなり先の方に、いるはずのない人間の姿を目に留めて、何もかも忘れて立ち上がった。それはロザンヌにいるはずの、ハインツ・ミュラーだった。カジュアルな服は着ないんだとか言っていたくせに、革のジャケットを着て膝に穴の開いたジーンズを履いている。走って来るレーナを見て心底驚いたようだった。

「ミュラーさん、ドバイの会議から帰ったら連絡をくださるって言ったきりですよね」
「いや、その、ずっと仕事が詰まっていて、家にも帰るヒマがなくて…」
「どの仕事ですか。私、ロザンヌまで行って探したんですよ」

男が回答しようとしている時に、トイレから出てきた女が声を掛けてきた。
「お待たせ、マルクス。あら、お知り合い?」
マルクス。レーナは、大嘘つきの男を睨みつけると女性ににっこりと笑いかけて言った。
「いいえ。こんな人と知り合いじゃなくて、よかったわ」

怒りに燃えたレーナは、踵を返すと元のテーブルへと戻っていった。ホルヘには馬鹿にされるかもしれないが、話を聴いてもらうつもりだった。けれど、テーブルには誰もいなかった。伝票もなくなっていた。ホルヘはいなくなってしまったのだ。

レーナは黙って考えた。私は彼の話の最中に失礼とも言わずに席を立ったのだ。彼は真剣に私のことを心配して話していてくれたのに、全く省みもしなかった。レーナの態度に腹を立てて去ったのかもしれない。けれどレーナにはホルヘが傷ついたように感じられた。あの黒い瞳には、傷ついた過去を反映する臆病な光もきらめいていた。それとも、これも私のロマンチックな夢物語なのかしら。しばらく躊躇していたが、レーナは鞄をとって走り出した。なんでも構わない。少なくとも彼は、私がこの国で出会った、はじめて心からの友達になれそうな人だ。そのことを伝えなきゃ。


ホルヘのやってきた方向はレーナのフラットへの道とは反対側だった。レーナはホルヘを探して、今まで一度も行ったことのない、村の散歩道を駆けていった。道の両側の木々の若緑の葉が光に揺れて輝いていた。風は優しくレーナの髪をなびかせる。足下のタンポポの花が、風に踊るユキヤナギの小さな花びらが、春の喜びを謳歌していた。懐かしく嬉しいのに、一度も見たことのない風景だった。この村はこんなに美しかったのかしら。走っているせいか、心臓が高鳴る。

視線の先に、遠く一人で歩く黒髪の男の姿が見える。秘密めいた、残り雪のある森へと向かおうとしている。シジュウカラのさえずりがそこここに響く。ここだって、バードランドじゃない。レンギョウの花の茂みの横を走り過ぎながら、レーナは『バードランドの子守唄』を脳裏に浮かべる。世界が全く違って見える。春が始まったのだ。今までとは全く違う光り輝く季節が。
.11 2012 小説・夢から醒めるための子守唄 trackback0

【小説】夢から醒めるための子守唄 (2)

Posted by 八少女 夕

五回連載の二回目です。第一回と二日連続で恐縮ですが、アップしてしまおうと思います。中編小説では、回ごとにある程度の完結、つまり前後を読まなくてもなんとかついていけるように書こうとしますが、それでも限度がありますね。できれば第一回からお読みください。
カンポ・ルドゥンツ村シリーズの登場人物は個性強烈ですが、実はみなモデルがいます。小説を書くのにこれ以上の環境はないかも、時々そう思います。





夢から醒めるための子守唄(ララバイ) - 2. 『dangerous liaison』

こんなに暑い夜は、年に数度しかない。日中は三十五度にもなった。夜九時の今でも二十七度くらいあるに違いない。クラッカーに添えるディップを用意しながら、レーナはタンクトップの胸の辺りを引っ張って風を入れた。カウンターの端にはステッフィがいつもと全く変わらない様相で立っている。

カンポ・ルドゥンツ村にあるバー、『dangerous liaison』にレーナが勤めだして三週間が経っていた。そもそも、最初は併設されている有機食品店で雇われたのだ。二つの店は一組のカップルによって経営されていた。ステッフィとトミー、この小さな村でゲイのカップルがカミングアウトするのは珍しい。彼らは堂々としていた。インテリアもかかる音楽もアメリカのジャズをメインにしているのは、ハードボイルドの匂いのあるステッフィの趣味だが、皮肉に満ちた店の名前はトミーによる命名に違いなかった。

レーナがこの店で雇ってもらえたのは、このバーの常連であるホルヘの紹介があったからだ。急に辞めた店番の代りを探しているという話を聞き、「掃除婦よりは安定した仕事がある、年金も半分負担してくれる雇い主だ」と、いつも会うサービスエリアのカフェで提案してくれたのだ。

レーナは大喜びで飛びついた。店番は週一日半の仕事だったが、それでもそれまで六件の家庭から請け負っていた掃除の半分を辞めることができた。やがてレーナの回転の速い頭と信頼できる人柄を見込んだトミーが、時間が夜にもなるが、バーの方の手伝いもしてくれれば週四日の仕事になると言ってくれたので、レーナは残りの全ての掃除の仕事も辞めた。雇い主が一カ所ならば、時間のやりくりはもっと簡単になる。掃除の仕事は孤独で単調だったが、食料品店やバーでは二人の雇い主や客たちと会話ができて満足だった。

ステッフィは口数が極端に少なく、常にかけているサングラスの向こうの表情はほとんど読み取れないが的確なことを言う。トミーの方はあけすけによくしゃべるが心根が優しい。二人の人柄に惹かれて、谷中の、時には峠も越えてアウトローが集まり店は繁盛していた。

レーナは壁の時計を見た。今夜はホルヘは来ないのかもしれない。なんだかがっかり。レーナはポニーテールにしたブルネットの髪の束をぎゅっと二つにして引っ張った。ここで働き始めてから、ホルヘとはよく顔を合わせることになった。彼はいつも八時頃にやってきて、十時頃までゆっくりと飲んでいく。


「いらっしゃい」
ステッフィが、これ以上簡潔にできない口調で入口に向かって言った。
「ホルヘ!今夜はもう来ないのかと思っちゃった」
レーナは、ばたばたとカウンターを動き回り、グラスや小皿を用意した。
「急ぎの注文があったんだ」
「え?こんな時間まで働いていたの?」
レーナは言ったが、ステッフィはそんなことは珍しくないのにと思いつつホルヘの方を見た。残業代が出るわけではないが、彼は自分の仕事を納得がいくまでじっくりとやるのが好きだった。また、キリの悪い所でおしまいにするのも性に合っていなかった。夏場には夜九時まで明るいので、仕事を続けるのは何の苦にもならなかった。しかし、そういえば、ここしばらくホルヘはあまり残業をしていないようだった。

「はい。冷めちゃったから暖め直したわよ」
レーナは、ホルヘ用に作っておいた夕食を差し出した。本来その食事は、トミーやステッフィとレーナが食べるまかない用だった。「三人分も四人分も同じよ」とのトミーの言葉をいいことに、レーナはいつもホルヘの分も作り、あたりまえのように出してやった。無口なステッフィはもちろん小言の多いトミーも特に文句は言わなかった。ホルヘはこのバーの古い馴染み客というだけでなく、必要があれば店の棚を修理したりもしていたからだ。
「ありがとう」
いつものように淡々と礼を言ってホルヘはスパゲティを食べ始めた。

ドアが開いて、別の客が入ってきた。
「いらっしゃい。リタ」
ステッフィの声には驚きがこもっていた。レーナは思わず戸口を見た。あら。カトリーヌ・ドヌーヴ。四十代の頃の。それは田舎の村には珍しい洗練された女性だった。シニヨンにまとめた金髪はどちらかというと暖かい色で、アプリコット色の麻のスーツにぴったりだ。

「お久しぶり、ステッフィ。あら、珍しい人もいるじゃない」
リタとよばれた女性は、ホルヘに目を留めた。

「帰る」
ホルヘは、八割がた残っている皿をカウンター越しにステッフィに渡し、酒代を置いて立ち上がった。

「あら。追い出したみたいじゃない。私、三十分もいないから、後でまた来れば?」
リタは余裕たっぷりの笑顔で、足早に出て行くホルヘの後ろ姿に声を掛けた。実際に、彼女は二十分後に現われた立派な紳士と一緒に去ったが、ホルヘはその夜はもうやってこなかった。


「ねえ、ステッフィ、あの女性、誰?」
レーナが切り出すと、ステッフィは「そらきた」と言いたげにわずかに微笑みながら、角刈りの金髪を掻いた。
「さっき来た、ハイディガー医師の奥さんだよ。ラシェンナに住んでいる」
それ以上は、何を訊いても答えてくれそうにもなかったので、レーナは翌日に有機食品店の方でトミーに訊き直さなくてはならなかった。

トミーは爆笑した。
「絶対に訊くと思っていたわ。昨夜ステッフィがリタが来たって言っていたから」
「誰なんですか、あの人」
「ステッフィはなんて答えたのよ」
「ラシェンナ村のハイディガー先生の奥さん」
「その通りよ」
レーナは激昂した。
「絶対にそれだけじゃないでしょう。隠さなくてもいいじゃない」

トミーは爪の手入れをやめて、ちらっとレーナを眺めた。
「教えてあげてもいいけど、先に個人的なこと訊いていい?」
「何を?」
「あんたとホルヘってどういう関係?」

たじろぎ口をパクパクさせた後に、仕方なくレーナは答えた。
「と、友達…」
「それだけ?」
「私は、それ以上になりたくて、ホルヘはそれを知っていると思うけど、相手にされていないのよね…」

トミーは、はは~んという顔をして、うなだれるレーナを上から下まで見た。彼女はこざっぱりとした服装をし、清潔感はあるが、どうひいき目に見ても農家出身のあか抜けない学生のようにしか見えなかった。あえて女らしさを拒否しているとも思えないのだが、彼女にはほとんど色氣というものがなかった。リタの匂い立つような、年齢を重ねるごとに凄みを増していく艶やかさはおろか、トミーの持つ女らしさにも遠く及ばなかった。

「あたしがこれから言うことをね、誤解しないでほしいの。あたしは、ホルヘが大好き。ステッフィがいなかったら惚れちゃいそうなほどに。そして、あんたのことも、女の中ではかなり悪くないと思っているのよ。だからいうんだけど」

レーナはちらりとトミーを見た。鮮やかなアロハ風のシャツを着て、完璧に手入れされた爪の光る指先を優雅に振っているトミーは、いつもよりも真剣な顔をしていた。彼女は黙って次の言葉を待った。

「おもしろ半分や、軽い恋愛ごっこのつもりなら、ホルヘはおやめなさい」
「どうして」
「昨日、来たリタは、離婚前はフエンテス夫人だったの」
やっぱり。あの人がホルヘの別れた奥さんだったんだ。レーナは息を飲んだ。トミーはレーナが言葉を探している間に、さっさと続けた。

「彼女が、ホルヘのもとを去ろうとした時に、ちょっとした騒ぎになってね。刃傷沙汰になったんで、ホルヘは二週間ばかり刑務所に入らなくちゃならなかったのよ」

レーナは林檎の入っていた箱を取り落とした。トミーは肩をすくめて、林檎を拾い始めた。
「それ以来、彼にはステディな恋人はいないの。ま、氣持ちはわかるわ。できれば、それに懲りてこっちの世界に来てくれればいいんだけど、こればっかりはね」


その日は火曜日で午後は仕事がなかったので、普段ならば部屋の掃除をしてから買い物に行くのだが、レーナはそのつもりになれなかった。村のはずれの土手をサイクリングしていく。この土手の散歩道の先に、ホルヘと出会ったサービスエリアがある。たくさんの白樺が自生していて夏の強い日差しを上手に防いでくれるのだ。この夏は、いつも以上に美しかった。夜中になるとひとしきり雨が降り、その雨露が樹々をつやつやと輝かせる。真っ青な空が晴れ上がりわずかに雪の残った山の嶺を引き立たせる。鳥や蝶が自転車に向かっては追い越し、風とともに舞う。レーナは口を一文字に結んで、ひたすらペダルを漕いだ。溢れてくる言葉はとりとめもなかった。心の整理が上手くできなかった。自分が何にショックを受けているのかもはっきりしなかった。

夏の日差しは強かった。露出した肩がひりひりするほどに。やがてまわりはジャガイモの畑になった。その次は小麦畑だった。遠くに小さい教会が見える。高速道路に走る自動車の騒音が時折聞こえるが、暑いからか交通はまばらだった。牧草地に放し飼いにされた牛たちは、日差しを避けるように背の高い木の下に集まり、ゆったりと座っている。やがて、レーナはペダルを踏むのを止めた。風がわずかに触れて去っていく。しばらく、そうやって止まっていたが、ひとつ深呼吸をすると、彼女はいま来た道を引き返していった。カンポ・ルドゥンツ村に向かって。

長いサイクリングの後で、喉が渇いて疲れていたので、レーナはほとんど何も考えずにいつものようにサービスエリアのカフェに入っていった。そして、いつもの席にホルヘがいるのを見た。
「あ」

ホルヘは戸惑ったレーナの顔を見て、いつものように皮肉に満ちて口元をゆがめた。
「お前は、本当に考えていることが全部顔に出るんだな」

レーナは、半ば慌ててホルヘの前に座った。
「どういう意味よ」
「トミーに問いただしたんだろう。心配するな。いくら俺でも、誰かれ構わず刺してまわっているわけじゃないんだ。そんなに怯えなくてもいい」
「そんな心配なんかしていないわよ」

ホルヘはレーナの言葉をまったく信用していないというようにもっと口元をゆがめてコーヒーを飲んだ。それでレーナは言いつのった。
「違うわ。私がショックだったのは、その件じゃない」
「じゃあ、なんだ」

レーナは、ようやく言葉を見つけた。振り向いてくれないのは、あの人を忘れられないからでしょう。そりゃ、どうやっても敵いっこない人だものね。けれど、そんなことは言えなかった。それでとっさに別の言葉を口にしていた。
「私が金髪にしたら馬鹿にしたのに、ホルヘだって結局は金髪の人がいいんじゃない」
自分でも呆れるほど馬鹿馬鹿しく響いたが、もはや出てしまった言葉は取り戻せなかった。

ホルヘは一瞬、口をぽかんと開けていたが、次の瞬間に破顔して笑いだした。あまり笑いすぎて腹をよじることになった。そこまで笑われると、レーナは居心地が悪かった。やがて目尻から涙を拭って彼は言った。
「お前は、信じられん馬鹿だな。想像を絶するよ」
「悪かったわね」

散々な言われようだったが、それほど悪くはなかった。口の悪さも、カップを支えているごつごつした職人らしい手も、皮肉を言う時の歪んだ口元も、笑っている時の目元の皺も、数ヶ月前のレーナならば「やっぱり他の人にしよう」と思うための恰好の理由になっていたはずだった。それが、どうだろう。今では一つひとつが、もっと好きになる理由になっている。振り向いてくれなくたって、ただの友達だっていいじゃない。私は、この人といるとこんなに幸せなんだもの。

「急ぎの仕事は、終わったの?」
「まだだ。このコーヒーが終わったら、また工房に戻るよ」
「そんなに忙しくない時でいいから、ホルヘの仕事している所、見てみたいなあ」
レーナは煙に巻かれると覚悟して言ってみた。ホルヘは上機嫌で言った。
「邪魔をしないなら、いつ来ても構わないさ。なんなら、これから一緒に行くか?」
レーナは大喜びで立ち上がった。

二人はとりとめのない話をしながら、土手の道をホルヘの働いている工房に向かって歩いていった。もうじき五時だというのに、日はまだ高かった。白樺の木漏れ陽が揺らめく村の夏の日はまだまだ終わりそうになかった。
.11 2012 小説・夢から醒めるための子守唄 trackback0

【小説】夢から醒めるための子守唄 (3)

Posted by 八少女 夕

五回連載の三回目です。スイスに来てから、実生活でよく、「この人どうしてこの生活をしていて幸せじゃないんだろう」と考える事があります。「夢から醒めるための子守唄」を書く動機になったのは、その疑問なのですが、書いてもまだ答えは出ません。




夢から醒めるための子守唄(ララバイ) - 
3. 葡萄棚のある風景


初雪に覆われた山肌が夕日に照らされてオレンジ色に輝いている。葡萄棚の葉はそろそろ枯れてえも言われぬグラデーションを見せ、色濃い実はたわわに垂れ下がっているが、いずれにしても食べられない。私はその代わりに、届いたばかりのマイエンフェルダーの赤をバカラのグラスに注ぎ、少し肌寒いこのテラスの夕暮れを楽しんでいる。

これが私の欲しかった生活だ。今日の午後はナディアとグローブス百貨店で買い物をした後に、ジムで少し汗を流した。明日のマッサージの後には、ネイルサロンの予約を入れてある。ナディアは少し羨ましそうに言った。
「私も、まったく働かない暮らしをしたいわ。明日は事務室に行かなくちゃ」
といっても、ナディアは週に一度、夫のヨナスの経営する会社の事務室で、多少の書類に目を通した後は秘書とコーヒーを飲むぐらいのことを仕事と呼んでいるのだ。私だってそのくらいなら退屈しのぎにいいと思う。そういったらナディアは同意した。

八年前はまったく違った。私がナディアの境遇を羨んでいたのだ。自分で選んだ道だったが、私は後悔していた。働いても無駄だった。あの程度の収入ではグローブスでの毎週の買い物なんて論外だった。新車も買えない。サン・ローランの新作を買うどころか、月末に請求書を払い終えると手元にはいくらも残らなかった。この私が週に四日も働いていたのに。

ホルヘが仕事をしなかったわけではない。彼はよく働いていた。残業代も休日出勤代も請求しないことには腹が立ったけれども、それでも彼は勤勉だった。職人があんなに貧乏だなんて考えたこともなかった。

大学を卒業した私は、たちの悪い仲間たちとヨーロッパの旅をして周った。カンヌで知り合ったプレイボーイたちも悪くなかったけれど、恋の遊び以上の対象にはなり得なかった。それに彼らは私たちをスイスの田舎者だと馬鹿にしていた。どんなに流行のファッションを身につけていても所詮は牛の匂いが消せない野暮な女たちだと。私たちはそんなふうに見下されるのはたまらなかった。

ホルヘは彼らとは何もかも正反対だった。誰があんなつまらない国に行こうと言い出したのか思い出せないけれど、私たちはスペインに向かう途中でアンドラに立ち寄ったのだ。何もない小さな国。おしゃれなものも、美味しいものも、まったく無縁だった。かといってミステリアスなわけでもない。そんな所で生まれ育ったホルヘには、私たちスイスのお転婆な女たちはまぶしく映ったに違いない。

彼の瞳はいつも強い光を宿していた。初めて会った日から。ナディアは言った。
「うさんくさそうな男ね。リタ、氣をつけなさい。あなたばかり見ているもの」

私はうさんくさいとは思わなかった。そう、いとも簡単に恋に落ちてしまった。私の周りにはまったくいなかったタイプの男だった。静かで鋼のように頑丈で、それでいて炎のように熱かった。仲間の全員が反対したけれど、私たちは聴く耳を持たなかった。アンドラの彼の家族もみな頭を振っていた。だから、彼はアンドラを離れてスイスにやってきた。私たちはお互いの恋のことしか見えていなかった。

結婚生活は幸福に始まった。私が何かと両親に援助を頼むことをホルヘは快く思っていなかったけれど、夫婦間の問題はそれだけだった。父の事業が失敗し、会社をたたんで両親がタイに移住するまでは。それから私の苦悩が始まった。自分たちの収入だけで生きていくことの厳しさを知ったのだ。

それからの十年の生活は私にとっては地獄だった。私は自分が怠惰だったとは思っていない。後にも先にもあんなに勤勉に、真面目に働いたことなんかない。ホルヘは彼なりに家事も手伝ってくれたし、私だけが苦労していたとはいわない。でも、一つだけ確かなことがある。彼はあれを貧乏だとは思っていなかった。私には耐えられなかったのに。

あれはナディアの新居に行った時のことだった。彼女はヨナスと一緒に最新式のキッチンやクールなバスルームを見せてまわった。私が羨ましさに涙をこらえるのに必死だった時、ヨナスの幼なじみだというラルフ・ハイディガーが隣で言ったのだ。

「素敵なインテリアだけれど、僕にはちょっと冷たすぎるな。そう思いませんか、リタさん」
私は、負け惜しみもあって、ラルフに同意した。

「どんなインテリアがお好みなんですか、ハイディガー先生」
ラルフは傷ついたように下を向き、それからためらいながら言った。
「ラルフと呼んでくださいませんか?」
その様子に、私は自分が既婚者であることも忘れて、頬を赤らめた。

それからラルフは、彼が建設中であるラシェンナ村の家について話し出した。彼は直線的なのっぺらぼうのインテリアは好みではないと言った。部屋のあちこちに曲線を持たせ、古木の梁や昔風の暖炉などを配置して暖かい家にしたいのだと言った。私はホルヘからの受け売りで古木についての知識は他の女よりはあったので、二人で時を忘れて理想のインテリアについて話し合った。私たちの趣味は完全に一致していた。美しくノスタルジックでありながら、完全に機能的でなくてはならない。

「素敵な計画ですわね。奥様が羨ましいわ」
「僕は、シングルなんです」
「まあ。信じられないわ」
「だから、よかったら、今度、業者とシステムキッチンの話をする時に、一緒に話を聴いて意見を言ってくれませんか。僕は、料理の方はあまりよくわからないし」

それが、この家に足を踏み入れる最初のきっかけになった。彼が、ここに葡萄棚を作るつもりだと言った時に、私はこの家に夢中になった。谷底のカンポ・ルドゥンツ村と違ってラシェンナは日がよく当たる。だからチューリヒやミュンヘンの裕福な人たちが別荘を持つのもこの谷では決まってこの村だ。私は、ホルヘと暮らす狭いフラットを抜け出して、この家で昔の仲間たちとパーティをしたり葡萄棚の下でワインを傾ける、その生活を夢想するようになった。


ベッドの中では、暗闇の中では、狭いフラットも日当りのいい豪邸もあまり関係がない。不思議なことに、ラルフとしゃれたインテリアの高価なベッドで、サテンの肌触りのいい布地の間でする行為は、みっともないほどに世俗的で陳腐だ。ホルヘが私に触れる時、それは神聖な儀式を思い起こさせた。彼の手がゆっくりと私の肌に触れていく。それは私の性的欲求を呼び起こすための技術ではなく、彼の欲望を満たすための行為でもなかった。彼は静かに私に触れる。女にではなく何か特別な、神秘的な宝物に触れているように。彼の手のひらが、指先が私の肌に触れる。それは、しかし、ゆっくりと私の内側から炎を呼び起こしていく。やがて私はホルヘに焼かれてしまう。どうしようもないほどの甘美な時間。この世に愛が存在すると確信できる瞬間。この人がいなくては生きていけないと思った。

ラルフとの行為でそんな風になったことは一度もない。本当にたったの一度も。


けれど、私は我慢ができなかった。仕事と請求書に追われる日々。月曜日の憂鬱。ナディアや他の友達に会う度に起こる羨望。私はこの葡萄棚のある家で、ゆったりと暮らしたかった。それが私だった。ラルフは私がいなくては生きていけないと言った。私も、惨めな生活は私らしくないと思った。だから、私はラルフを選んだ。ホルヘを傷つけることはわかっていた。でも、私はどこかで、彼が私を許してくれると思っていた。私はホルヘを愛していたし、彼も私を深く愛していることを知っていたから。そう、私はラルフの妻として、裕福で余裕のあるハイディガー夫人として愛人であるホルヘに愛されたかったのだ。



リタは、ゆっくりと目を閉じて、暖かい秋の夕日を浴びていた。肌に触れているのは谷を通り過ぎる風だけではなかった。忘れたはずの男の手のひらの感触が、よみがえっていた。「行くな」と言った低く絶望に満ちた声がリタを支配していた。激しい口論のあと、激情に駆られた男が持ち出したナイフを振りかざしたとき、リタはこれで死ぬのだと観念した。彼の愛のために死ぬのだと思った。心が震えた。オーガスムにも似ていた。死ぬほど愛される歓び。狂った忌々しい愛。永遠の狂おしい思慕。リタは目を閉じたまま自分の左腕をぎゅっとつかんだ。袖で覆われたそこには生涯消えない傷痕がある。それは愛の刻印なのだ。


葡萄の葉がひらりと落ちる。澄み切った谷の風が、ゆっくりと秋の輝きをカンポ・ルドゥンツ村へと届けていく。茜色にそまった雪山とフェーン雲。この風が終わったら、久しぶりに雨が降るかもしれない。葡萄はおしまいだ。狩りのシーズンが終わったので鹿料理も来年まではお預け。そろそろクリスマスの招待があちこちから届くようになるだろう。

「リタ。来週のパーティのワインを注文するんだが、希望はあるかい」
ラルフの声がした。リタは、現実に引き戻されて、居間へと入っていく。これが私の望んだ生活なのだからと。



「ねえ。それ、なんていう木?」
工房で、仕事に打ち込むホルヘの横で、じっと見つめていたレーナは訊いた。暖かい色合いの大きな木材はとても硬いらしく、わずかずつしか姿を変えていかない。確かめるように少しずつ木肌を撫でるホルヘのがっしりとした手をレーナはうっとりと眺めていた。邪魔をしないように、息を殺して。けれど、ホルヘが木肌を確かめるように撫でるその手つきがとても官能的で、そのまま黙っていることができなくなってしまったのだ。

「樫だよ」
そういって、彼は再び木肌をゆっくりと撫でた。この樫のねじれには、別の記憶と似通うものがあった。リタの暖かい柔らかい肌のことが脳裏によみがえった。弾力のある肌は手のひらに吸い付いた。背中から腋にかけてのくぼみはとりわけ繊細だった。彼は戸惑いながらため息をついた。もう長いことこの感覚は起こらなかったのに。それから、熱っぽく見つめているレーナの顔を見て、不意に、この女はベッドの中ではどんな風に変わるのだろうかと考えた。

何を考えているんだ。自分を戒める言葉を心の中でつぶやくと、ホルヘは水を飲むために立ち上がった。そろそろ商売女の所にでも行くべきだな。心のいらない欲望の処理のわずかな時間に、思い浮かべるのはどちらの女なのだろう。ホルヘは水を飲みながら、秋の谷風に耳を傾けていた。
.12 2012 小説・夢から醒めるための子守唄 trackback0

【小説】夢から醒めるための子守唄 (4)

Posted by 八少女 夕

五回連載の四回目です。本文とは何の関係もありませんが、ハンガリーの姓名は私たちと同じ順番なんですよね。この物語の登場人物はみなドイツ語で会話している設定なので、そこまでこだわる事はなかったんですが、人物の性格から考えると、正しい順番で呼ぶだろうなと思ったのです。




夢から醒めるための子守唄(ララバイ) - 
4. 彩りの秋、ターニングポイント


レーナはいつものように頬杖をついて黙って仕事をするホルヘを眺めていた。火曜日の午後に、ホルヘの工房で彼の仕事を見守るのは、レーナにとって日曜日の教会のミサのように当たり前の習慣になっていた。といっても、レーナが教会に行くのは年に数回でしかないのだが。

白樺を使った椅子とホルヘは格闘していた。見かけは優雅で柔らかなフォルムだが、実際にはとても硬い木材なのだ。レーナは自分がここにいることも忘れられていると思っていたがそうではなかったらしい。

「悪いが、その引き出しに入っている錐を取ってくれないか」
ホルヘは椅子の足から目を離さずに言った。レーナは引き出しを開けてみたが錐はなかった。
「ないんだけど」
ホルヘは乗り出して引き出しを見た。他の引き出しや棚の上も見たが、錐はなかった。

「また、あいつだ」
そういうとホルヘは大股に工房から歩み出て、大きな音のしている隣の工場にむかって怒鳴りつけた。
「ジォン!俺の錐をどこにやった!必ず返せと何度言ったらわかるんだ」

隣から聞こえていた大きな騒音がぴたっと止んだかと思うと、ばたばたと走り込んで来る音がした。
「ごめんよ、フエンテス」

その男はやたらと背が高かった。タンクトップから露出した肩には日焼けした筋肉が盛り上がり、汗の匂いがした。セクシーな若いお兄さんだこと。しかし慌てて錐を引き出しに返す姿は、多少情けない。レーナはこれが話にきいていた鍛冶屋のジォンかと眺めた。

「あれ、可愛い子ちゃんがいるぞ。フエンテス、隅に置けないな」
ジォンは奥に座っているレーナに目を止めて口笛を吹いた。ホルヘはムッとした顔で答えた。
「下らないことを言うな。見学をしているただの友人だ」
「ふ~ん?じゃあ、今度俺がデートに誘っても怒らない?」
「勝手にしろ」

ジォンが出て行くと、レーナは目を潤ませてホルヘを睨んだ。ホルヘはそのレーナを見て言った。
「なんだ」
「どうしてあんな事を言うのよ。私の氣持ちを知っているくせに」

ホルヘは困ったようにため息をついた。
「まだそんな事を言っているのか」

「インターネットサイトの肩書きだけで男を探すなって言ったのはホルヘじゃない」
「だからって、なんで俺に惚れるんだ。俺は小児性愛嗜好者じゃないんだ。俺はお前の父親と変わらないだろう」
「ホルヘ、何歳なのよ」
「もうじき四十六になる」

それを聞いてレーナは勝ち誇ったように言った。
「じゃあ、私のお父さんは十三歳で私のお母さんを妊娠させた計算になるわよ。私たち、歳はそんなに離れていないんだわ」

ホルヘは目を剥いた。
「お前、三十歳を超しているのか?俺はまた、二十代初め、もしかしたら十代かもと…。そんな世間知らずの三十代があるか!」
「しかたないでしょう。そりゃ、私がちょっと頼りないのは確かだけど。とにかく私は子供じゃないのよ。だから、好きでいてもいいでしょう」

ホルヘはきっぱりと首を振った。
「いい加減にしろ。俺はお前の理想の恋人と正反対じゃないか。それに、俺なんかに関わると後悔することになるぞ」

「もういい」
レーナは鞄を取って工房から走り出た。前にもこういうことがあったが、やはり同じだった。ホルヘは追ってきてはくれない。だが、その後に冷たくなるわけではなかった。レーナの勤める『dangerous liaison』に来てはいつもと同じように話し、レーナの子供っぽい意見を皮肉に満ちた口元でたしなめた。火曜日に工房に遊びにいくことも特には禁じない。だからレーナは諦めきれなかった。

ホルヘとサービスエリアのカフェで知り合ったのは去年の秋だった。あの頃、インターネットの出会いサイトで理想の恋人を探していたレーナは、手厳しい意見をしたホルヘのことを忌々しく思っていた。けれど、彼を少しずつ知るようになり春には彼に好意を持ち始めた。皮肉っぽい所はあっても優しく、仕事の心配もしてくれたホルヘに、レーナはどんどん惹かれていった。そして、今や、もともとの理想はどこかに吹き飛んでしまった。私が探していた理想の相手って、あのラルフ・ハイディガー先生みたいなつまらない男じゃない。ホルヘのもと奥さん、えせカトリーヌ・ドヌーヴはどうしてホルヘを捨ててあんな男のもとに走ったのかなあ。私にはちっとも理解できない。レーナは首を傾げた。

去年の秋とは何もかも違って見える。今年の秋は当たり年だ。蓼の葉はこれ以上ないというほど赤く燃え立ち、菩提樹の黄色はいつにもまして濃かった。柔らかい日差しはヘーゼルナッツや白樺の暖かい色合いの葉に降り注ぎ、それらの色の競演がフェーンで異様に深まった紺碧の空に映えた。恋に悩むレーナの傷ついた心は、実に効果的に高揚した。


「あれ。あの女」
マルクスは並木道をぼんやりと歩くレーナの姿に目を留めた。

一緒に歩いていた学生時代の友人のジォンは驚いたようにマルクスを見た。
「あれ、『dangerous liaison』のレーナをお前も知ってんのか」
「へぇ、あそこに勤めてんのか。前にちょっとな」

ジォンはマルクスが出会いサイトでレーナを騙したことや、それがバレたために自分が妻に吊るし上げられて離婚寸前に追い込まれて、レーナを逆恨みしていることも知らなかった。それで悪友がレーナに別の興味を持っているのだと思って言った。

「可愛いけど、狙ってもダメだぜ。あの子、指物師のフエンテスに夢中で、俺も振られたんだ」
「へえ。あのフエンテスに?できてんのか?」
「いや。フエンテスは変な所は頑固なヤツだからな。いくら惚れられているからって無責任に食ったりはしないのさ。そういうところは憧れるよな。俺なら即いただいちゃうと思うけど」

それを聞いて、マルクスはにやりと笑った。あの女を痛い目に会わせてやるいいチャンスじゃないか。夜まで飲んでからジォンと別れた後、マルクスは自分の携帯の番号通知を使用不可にして、出会いサイト経由で会った時に知ったレーナの携帯電話にメッセージを送った。


「あら、ホルヘ、どうしたの?」
その夜『dangerous liaison』にやってきたホルヘに店番をしていたカウンターにいたトミーが声を掛けた。

「お前こそ、どうしたんだ。今日はレーナの日じゃなかったのか」
「何を言っているのよ。レーナはあんたにデートに誘ってもらったからって、あたしに交代を頼んできたのよ」
「俺とデート?何の冗談だ?」
「さっき、メッセージを見せてくれたわよ。ジャズのコンサートのチケットが手に入ったから、いつものサービスエリアのカフェに九時半に来いって。他には『バードランドの子守唄』がどうのこうのって書いてあったかな。Jって頭文字だけだったけど、あたしでもあんたからだと思ったわ。違うの?」
「違う。俺はそんなメッセージは送っていない。あいつは俺の携帯の番号を知っているのに…」
ホルヘは携帯を取り出すために上着を探った。

掛けようとした時にレーナからメッセージが入った。
「五分ほど遅れるけれど、すぐ行くから待っていて」

氣を利かせて、トミーはレーナに電話をかけてホルヘに渡した。一瞬、電話は呼びだし状態になったが、すぐにレーナが電話を切ってしまった。ホルヘがレーナにかけ直した時には電話は留守番状態になっていた。

「ちくしょう」
ホルヘは上着を取って立ち上がった。トミーは肩をすくめた。
「自分で電話を切ったのよ。五分後に向こうについたら自分が勘違いしていたことがわかるんじゃないの?Jがだれかはわかんないけれど」
「あいつに何かあったらどうするんだ。明らかに俺を装ってあいつをおびき出しているんだぞ」
「何かあったら?あんたの知ったことじゃないでしょう?どうせあんたは、あの子のあんたへの恋心には興味ないんだし。放っておきなさいよ」
「放っておけないんだ!」
そういって出て行ったホルヘを、トミーは片眉をあげて見送った。あらそう。そういうことなのね。


サービスエリアの光が見える森の出口で、走ってきたレーナは急に襲われた。あまりに突然のことで、しかも暗闇の中だったので、自分を襲っている男が自分を騙したハインツ・ミュラーを名乗っていた男だということに氣づくまでしばらくかかった。

「まんまと騙されたな。俺をひどい目に遭わせた報いを受けさせてやる」
「いや。離して!どうして?」
レーナは恐怖に駆られて、逃れようとした。けれどロープを用意して待っていたマルクスは、簡単にレーナの自由を奪い、森の中に連れ去ろうとした。レーナはまだサービスエリアにホルヘがいると思っていたので、ここからでは届かないとは思っていたが必死に助けを求めて叫んだ。

「静かにしろ、このクソ女」
怒りに駆られたマルクスはレーナの口を塞いだ。誰かがやってくる音がしたのだ。レーナもそれを感じたので、必死でマルクスの手に噛み付き、ひるんだ男の隙をついて助けを求めて再び叫んだ。

駆けてきた足音は、まっすぐ二人の方にやってきて、問答無用でマルクスに殴り掛かった。ホルヘだった。マルクスは応戦しようとしたが、普段スーパーの事務業務をしているマルクスが腕っ節でホルヘに敵うはずはなかった、しばらく殴り合った後、マルクスは簡単に伸びてしまった。

「ホルヘ…」
ショックで震えて泣いているレーナをホルヘは抱きしめた。
「マーレルネー・エレーナ。お前はどこまで馬鹿なんだ。なぜ、携帯の電源を切った」

暖かくて木の香りがした。安堵が躯の隅々にまで満ちて来る。レーナは泣きながら答えた。
「トミーが電話してきたの。せっかくのデートを邪魔されたくなかったの」

「なぜメッセージの差出人を確認しない。俺の携帯の番号は登録してあるはずだろう」
「だって、だって…。ホルヘが誘ってくれたと思ったんだもの。そうだったらいいって、振り向いてほしいっていつも思っていたから、違うなんて思いたくなかったんだもの」

「そんなだから、こんな下衆野郎に騙されるんだ。お前はナイーヴすぎる。本当に危なっかしい」
「やめてよ。わかっていても、こうやって優しくされたら、また期待しちゃうじゃない。もしかしたらいつかは振り向いてくれるかもって夢見ちゃうじゃない。もう、私のことは放っておいてよ」

泣きじゃくるレーナをホルヘはもっと強く抱きしめて、先程トミーに言った言葉を繰り返した。
「放っておけない。何をするかわからないから、目が離せない」
その言葉が嬉しくて、レーナはもっと激しく泣き出した。

ホルヘはレーナを立たせて、自分の上着を掛けてやった。それから伸びているマルクスを一瞥してから、レーナの肩を抱いて村の方へ戻りだした。

「フラットまで送るから」
「いやっ」
レーナは激しく頭を振った。
「何が嫌なんだ」
「怖いもの、一人にしないで」

ホルヘは冷えた秋の夜風に顔を向けて、大きくため息をついた。
「じゃあ、俺の所に来い。後悔しても知らないぞ」

レーナはますます泣きながら、ホルヘの腕にしがみついた。ホルヘは何でもないように静かに続けた。
「言っておくが、掃除なんかしていないからな」
.13 2012 小説・夢から醒めるための子守唄 trackback0

【小説】夢から醒めるための子守唄 (5)

Posted by 八少女 夕

連載の最終回です。五日間おつき合いくださいまして、ありがとうございました。カンポ・ルドゥンツ村の話は、今後もちょくちょく載せる予定です。また読みにきてください。




夢から醒めるための子守唄(ララバイ) - 5. 樹氷の朝

「あ~あ。せっかく急いで帰ってきたのに」
レーナはため息をついた。トミーは有機食料品店をレーナに任せて帰ろうとしていたが、荷物を詰める手を止めてこちらを向いた。
「何よ。あたし達はさっさと帰ってこいとも、すぐに出勤しろとも言わなかったでしょ」

「そういう意味じゃないわ。ホルヘよ」
トミーはにやりとして憂鬱そうなレーナの横に腰掛けた。
「何が問題なのよ」
「会いたかったとか、寂しかったとか、全然ないんだもの」

レーナはクリスマス・イヴの午後から車でハンガリーの母親の元に出かけた。例年はレーナは正月まで母親の元に滞在するのだが、ホルヘがアンドラには戻らずクリスマスの時期を一人で過ごすと知って、いても立ってもいられなかったのだ。ハンガリーに行かないことも考えたが、母親が一人で待っていることを思うと、とにかく行く他はなかった。それで、二十六日にはもう戻ってきたのだ。

「そんなに心配することはなかったのよ。うちのバーはね。訳あってクリスマスを一人で過ごす連中が谷中から集まってくるのよ。ホルヘだって毎年ここで楽しんでいるんだから」
トミーは楽しそうにレーナを挑発した。レーナはことさら肩を落とした。
「私は、たった二日離れていただけでも、死ぬほど寂しかったのになあ。やっぱり、私の片想いなのかなあ」
「何を言ってんのよ。もう同棲してひと月になるってのに」
「一緒に住んでいるカップルっていうより、ただの共同生活みたいなのよねぇ」

トミーは驚いて目を見開いた。
「まさか、あんたたち、浄い関係っていうの?」
「そういうわけではないけれど…」
「じゃあ、何が問題なのよ」
「愛しているとか、私がいなくちゃ生きていけないとか、そういう情熱が皆無なの。私、同情されているんじゃないかなあ。振り向いてくれないって、泣いちゃったし」

トミーは、悲しそうにけれども手は休めずに棚の整理をしていくレーナを頼もしそうに眺めた。
「あんたって、ホルヘの言っていた通りのお馬鹿さんね。陳腐な期待ばっかりして」
「トミーもそう思う?だからホルヘも呆れちゃうのかなあ」
「ラテンの男だからって、常に愛していると連呼するってもんじゃないのよ。あんたは面白くていい子だからいいことを教えてあげるわ」

レーナは振り向いて戸口に立つトミーの優しい笑顔を見た。
「ホルヘね。あんたがハンガリーに向かった夜、ずっとうわの空で五分おきに携帯を見ていたのよ。あんたが無事についたってメッセージを送ってくるまでね。あんたはもう少し男を観察する訓練が必要ね」
トミーが手を振って出て行った後、レーナは飛び上がって店中を駆け回った。もう少しで入ってきた老婦人とぶつかる所だった。


レーナは秋以来、ホルヘの所に泊まる頻度が増えたので引っ越しを考えていると伝えた。二人のフラットはカンポ・ルドゥンツ村でも反対側の端に在り二キロは離れていた。レーナの方が村の中心地に近かったが日当りは悪かった。ホルヘのフラットは村はずれに在ったが工房や『dangerous liaison』、そして二人が出会ったサービスエリアに近く、冬でも必ず日が当たった。

「何も他にフラットを借り直すことはないだろう。ここに住めばいい」
ホルヘの言葉にレーナは大喜びした。前のフラットの契約解除は三ヶ月後だったので、レーナは一度には引っ越さずに、徐々に荷物を運び込んでいた。そもそもホルヘのフラットはまったく整理がされておらず、二人で休みの日に片付けをしては場所を作らないとレーナの荷物を入れる場所がなかったのだ。

先週の日曜日は寝室の引き出しを一緒に整理した。
「これは?」
大量の女物のストッキングと洋服の共布だった。リタの物に違いない。ホルヘは捨てろと言った。いいのかなと思いつつ、まとめてゴミ袋につっこんでいると引き出しの一番後ろからビロード張の細長い箱が出てきた。開けてみると見事な真珠のちりばめられた腕時計だった。
「これは、捨てられないわ。ハイディガー夫人に私が返して来る?」
レーナはホルヘに腕時計を見せた。ホルヘは黙って受け取り、それを自分の靴下の入っている引き出しに無造作に突っ込んだ。

ここ数ヶ月でホルヘとリタの関係に変化が起きているのをレーナは感じ取っていた。リタは頻繁に『dangerous liaison』に来るようになった。そして鉢合わせしてもホルヘは逃げ出さなくなっていた。リタは艶やかで美しかった。リタが現われると店の男性客達は一斉に振り向き、物欲しそうな顔になった。リタはホルヘにことさら好意的な笑顔を見せた。二人の目が合うと見えない火花が散っているようにレーナには感じられた。その時には自分の存在は完全にホルヘの中から消えていると思った。リタは長くはいなかった。いつも迎えに来るラルフ・ハイディガーと一緒に去っていく。最後に必ず振り向きホルヘの目を見る。ホルヘは出て行く二人から目をそらし、必ず強い酒を注文した。


金曜日、レーナが出勤前にシャワーを遣おうとした時、工房に行く支度をしているホルヘは短く言った。
「今日は遅くなるから、食事はいらない。待たずに寝ていろ」

レーナは誰かと友人と会うのだろうと思って頷いた。シャワーから出て髪を拭いている時に、ドアの外でホルヘが電話で話しているのが聞こえた。
「それと、真珠の腕時計が出てきたんだが。…わかった、持っていく」
リタだ。ホルヘはリタに会うんだ。レーナは、ホルヘが出て行くまで洗面所のドアの向こうに隠れていた。その後、電話の通話番号履歴を電話帳と照らし合わせてハイディガー医師の自宅であることを確認して、ショックで泣いた。


きしみながら樹氷の育つ寒い夜、ホルヘは一人で『dangerous liaison』に向かった。店にはステッフィ一人しかいなかったので忙しそうだった。

「レーナはどうしたんだ?」
「具合が悪そうだったから帰した」
トミーならばもう少し詳しい情報が得られるのだが、ステッフィ相手ではそうはいかない。朝はそんな様子ではなかったのに、どうしたんだろう。

「正確に言うと、体の具合じゃなくて、悩みがあるみたいだった」
ステッフィが付け加えてレーナが食べるはずだったサンドイッチをポンとホルヘの前に出した。
「持って帰っていいか」
ホルヘはそういって立ち上がった。


フラットに戻ると、部屋は暗くレーナはもうベッドに入っていた。いくら何でもまだ早すぎる。ホルヘはサンドイッチを食卓に放り出すと寝室に入っていった。

「具合が悪いのか」
ホルヘが訊くとレーナは首を振った。

「あっちのフラットの契約解除するのやめようかな」
「なぜ」
「…。好きだから押し掛けたけど、ホルヘには迷惑だったんだよね」

ホルヘは女の勘の鋭さを見直した。レーナは具体的なことは何も言わなかった。ホルヘは彼女が知っていることを感じた。今日リタに会ったことも、リタに対するこの八年間の未練も。

「迷惑なんかじゃない」
ホルヘは服を脱ぐとベッドに入った。いつもの体臭と木の香りの他にほのかに香水が薫る。レーナは何も言わずに涙を流した。熱くなっていく躯と逆に心の奥に冷たい氷柱が育っていく。冬の冷氣はマイナス十℃を下回るともはや冷たいとは感じなくなる。それは痛みになる。そういう冷たさだった。今の二人は布一つにすら隔てられていないが、それは何の救いにもならない。

どうしようもなくリタに惹かれるホルヘを責めることはできない。それは自分自身を否定することになる。人を愛することは意見や理論では止められない。ホルヘが破滅へと向かうほどに愛した女なのだ。どうやって止められるというのだろう。

情熱の嵐は過ぎ去り、レーナの涙も乾いた。静かにベッドに横たわり、ホルヘはそっと言った。
「エレーナ。お前が出て行きたいなら俺には止めることはできない。だが、もう少し後にしてくれないか」

レーナは不思議そうにサイドランプに浮かび上がるホルヘの顔を見た。
「永遠にとは言わない。ほんの少しでいいんだ。俺が何かを変えれば、お前は残ってくれるのか」

レーナの思ってもいなかった言葉だった。歓びが溢れて来る。彼女はホルヘの胸に顔を埋めて言った。
「何も変えなくていい。そのままのあなたが好きだから」

彼はレーナの髪をゆっくりと梳きながら言った。
「俺は夢を見続けてきた。眠り、目が覚めると、今日も大切な女が側にいるという夢だ。一つの夢は醒めた。ようやくもう一つの夢を見ることができるようになったから。まだひと月じゃないか。まだ醒めるには早すぎる」
「じゃあ、よく眠れるように、私が子守唄を歌ってあげる」

レーナは、夏のサービスエリアのカフェでした『バードランドの子守唄』の話題を思い出していた。理想の恋人に出会えたら、二人でニューヨークに行ってジャズバー『バードランド』に行く。レーナの幼稚な夢ものがたり。季節はめぐり、ニューヨークはもう必要なくなった。


リタは寝室の大きな窓から冬の冷氣で瞬く谷の灯を眺めていた。カンポ・ルドゥンツ村のかつての我が家はあの光のどこかにある。ラシェンナ村でも有数の豪邸で高価な調度に囲まれシルクのガウンに包まれていても襲ってくる敗北感をどうすることもできなかった。ホルヘが再び自分を愛するためにここへ来てくれることを、どれほど待ち焦がれていたかリタははじめて知った。

ようやくやってきたホルヘが望んだのはリタ自身ではなく書類への署名だった。彼の望むサインを済ませた後、彼をこの寝室に誘うのは難しいことではなかった。リタはホルヘの好みを知り尽くしていたのであらかじめ身に付けたシルクの下着姿になり彼の理性を奪うとその服を一つずつ脱がせていった。彼はかつてのようにゆっくりとリタに触れた。八年ぶりの情熱が戻ってきたように二人は絡みあった。が、彼は突然彼女から離れると服を着た。

「どうしたの。ラルフは今日は帰ってこないわよ」
リタはホルヘの背中に絡み付いたが、彼は頭を振った。
「すまない。俺にはできない」
「なぜ」
「あいつが泣く姿が浮かぶんだ」
それだけ言って、ホルヘは出て行った。

リタはそのホルヘの背中を思い浮かべながら谷の灯を眺めていた。自分が信じていたものはどこにもなくなってしまった。リタは左腕の傷痕をゆっくりと撫でた。これが罰なのだとずっと信じていた。そうではなかった。もっと苦しい罰が待っていたのだ。私はホルヘの愛を失ってしまった。狂った永遠の愛。確実に手にしていた何よりも大切な歓びを、この豊かで満ち足りた物質的な暮らしと引き換えに捨ててしまったのだ。リタはむせび泣いた。


「あれ?買ったばかりの砂糖がない」
レーナは戸棚を覗き込んだ。

「すまない、工房に持っていったんだ」
ホルヘは皿をテーブルに揃えて答えた。土曜日の朝は二人ともゆっくりと朝食をとる。

「あら、そう。今日、ちょうど買い物に行くから大丈夫」
「サリスブリュッケに行くのか?」
「そうよ。何か用事がある?」
「これを書留で出してほしいんだ」
「わかったわ。カンポ・ルドゥンツの郵便局は土曜日は休みだものね。あれ、アンドラ?」
レーナはその表書きをひっくり返した。

「八年前に出すべきだった書類だ。離婚届だよ」
レーナは飛び上がった。ホルヘはコーヒーを二人のカップに注いだ。
「まだ成立していなかったの?」
「スイスで成立したさ。アンドラに届け出ていなかっただけだ。別に国に帰るわけでもなかったし、自分で望んだ離婚でもなかったから手続きする氣にならなかったんだ」

「急にその氣になったの?」
レーナは封筒を大切な宝物のように抱えた。
「これを出しておかないと再婚はできないんだ」
ホルヘがこともなげに答えた。また泣き出したぞ。彼は目の端でレーナの姿を捉えた。

サリスブリュッケへの道は冬は小一時間しか日が当たらない。きっとお化けのような樹氷が育っていることだろう。だが、今行けば冬至を境に再び育ち始めた太陽が、一筋の光を投げかけているはずだ。長くは残らない一瞬の輝きはダイヤモンドにも劣らない。

(初出 2012年1月 書き下ろし)
.14 2012 小説・夢から醒めるための子守唄 trackback0
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