scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

大道芸人たちの見た風景 - 13 -

「大道芸人たちの見た風景」の日本編の最後は、やはりストーリーに合わせて浅草寺で。この一枚の写真を探し出すのに半日かかった私。ううう。

年の暮れの浅草寺

もともと、私がガイジンくんを連れて浅草に行ったのは、彼に浅草を見せてあげようという親切心からではありませんでした。私は合羽橋に行きたかったのです。この界隈は、家庭用品、特に調理用品のお店がずらっと並んでいて、一度行ってみたかったのです。近所のスーパーではどうしても手に入らないものってありますよね。ましてや日本にそんなにしょっちゅう帰国しない私としては、スイスで「う〜、日本ならこれがあるのに」の買い物リストをこなすには、専門街に行くのが手っ取り早かったりするのです。

ガイジンくんはすぐに人ごみと買い物に飽きて文句をたれるので、近くの浅草ビューホテルに放置、ケーキを食べてウェイトレスさんと楽しく語らっていてもらいました。そして私は買い物三昧!

で、戦利品を得て満足してヤツを迎えにいったついでに、浅草寺へと連れて行ったのです。

ついでなんて言っては申し訳ない佇まいでした。まだ年末年始の喧噪は始まっていなくて、冬なのでしんみりとして美しい光景でしたね。五年ほど勤めた百貨店は銀座線沿線だったので、訪れる機会は一度ならずとあったのですが、こんなにゆっくりしんみりと訪れた事はなくて、随分もったいない事をしていたなと思いました。ほんとうは美味しいお店もいろいろとリサーチしてあったのですが、とにかく連れ合いが「リサーチした店を探して入る、場合によっては行列する」というのが死ぬほど嫌いなので、だまって彼の好きな洋食チェーンに入りました。


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Posted by 八少女 夕

山から海へ



コルシカ島を横断して南部へ来ました。この島のいい所はカーブを曲がると全く違う景色が待っていること。
時折、野生化した豚や猪がひょっこり現れ、コルクの林が不思議な光景を作り出し、沙漠のような渓谷もあれば緑あふれる川辺もあって飽きることがありません。

これから少し遅いお昼ご飯です。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (25)東京、積乱雲

今回でチャプター3、日本編は終わりです。長いこの小説も、折り返し地点を過ぎました。また、ちょっとしたインターバルを設け、それからまたヨーロッパに話が戻るチャプター4を続ける予定です。どうぞまたおつき合いください。

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(25)東京、積乱雲


 帰る前に浅草が見たいと言い出したのはレネだった。
「ほら、あの、よく見る大きな提灯のかかったところ、あれって東京のどこかですよね」

 蝶子はぎくりとした。わざわざ浅草を避けていたのは、稔の生家があるからだ。もちろんレネはそんな地雷を踏んだなんてまったくわかっていない。ところが、当の稔があっさりと言った。
「OK。案内して進ぜよう」

「いいの?」
蝶子が訊くと稔は大きく頷いた。
「今日は三味線をもってくぞ。お蝶、お前はフルートを持って行け。出雲で神社に奉納したんだから、お寺の代表で浅草寺にも奉納しておこうぜ」

「いいわよ。千葉のおじいさんのお寺では弾かなかったの?」
「弾いたさ。空氣でできた三味線だったけどな」

 蝶子は笑って頷くと、フルートの入るバッグに取り替えた。


「こ、これです。本当に大きい!」
雷門で提灯を見上げてレネが感激した。稔はそうだろうと、満足して頷いた。浅草寺は浅草っ子の稔の誇りだった。

「いつ見に来たかしらねぇ。一度くらいしか来たことないのよ」
蝶子も感慨深げに見上げた。

「よし、お蝶。日本メドレーだ」

 日本メドレーは、二人がピサで演奏し始めたレパートリーだった。『ソーラン節』『早春賦』『花の街』『朧月夜』『赤とんぼ』そして『故郷』と続く。二人は、宝蔵門の脇で本堂に向かって演奏を始めた。道行く人たちは、怪訝な顔をした。しかし、二人の卓越した演奏はすぐに人々の強い関心を買い、あっという間に周りに人だかりができた。

 日本で、このメドレーを演奏するとは二人とも思っていなかった。コルシカフェリー以来の一年間が紡ぎだした二人の信頼関係、祖国にいるという思い、そしてヴィルとレネに日本を見せているんだという誇りが二人の氣持ちを盛り上げていた。

 演奏が終わると、二人は本堂に向かって深々とお辞儀をしたが、見物客達は喝采を送り、アンコールを要求した。そんなことは全く予想していなかったのだが、せっかくアンコールがかかっているのだからと、二人は『村祭り』を演奏した。

 それから、更なるアンコールを求める人々を置いて、四人で本堂に向かった。蝶子と稔はお水舎で手を洗い口を濯いだ。ヴィルとレネは、これなら知っていると多少得意げに続いた。それから稔と蝶子が本堂で鐘をつき合掌するのを見ていた。

 日本人二人は、階段を下りてきてガイジンたちに仏像の説明や、建物の特徴などを話していた。

 視線に最初に氣づいたのはヴィルだった。参道を隔てて反対側、ひっきりなしに通る参詣者たちと対照的に、全く動かないまま四人の方をみて、口元に手をあてて震えている女性がいたのだ。ヴィルの視線を追って、蝶子も女性を見た。急に二人が静かになったので、レネと稔もそちらを見た。稔が驚きの表情を見せた。その途端、女性はあわてて、身を翻して去ろうとした。稔が叫んだ。
「おふくろ!」

 稔は人並みをかき分けて、必死に母親を追った。そして、母親を捕まえて固く抱きしめた。

 周子は、一日に何度も浅草寺に稔の無事と幸せを祈りに来ていた。ここにいれば稔と会えると思っていたわけではない。もう、日本にはいないのかもしれないと思っていた。しかし、どこにいようと稔のことを守ってほしい、そう願って仏の前に手を合わせ続けてきた。今日もそのつもりだった。本堂の前に来た時に聴き慣れた三味線の音がした。稔の音だった。そんなはずはないと疑いながら、人波をかき分けて見ると、本当に稔だった。美しい女性が隣でフルートを奏でている。信じられなかった。

 やがて稔と女性、そして二人の外国人は敬虔な面持ちで仏の前に出た。息子が自分と同じように手を合わせている。今日、稔の姿を目にすることができたのはみ仏のご加護だ。そう思うとありがたさに周子は涙を抑えられなかった。一秒でも長く元氣で幸せそうな稔を見ていたい、周子は隠れることも忘れて稔を見つめていた。そして金髪の外国人に氣づかれてしまったのである。

 稔が、母親に追いつき、しっかりと抱きしめた時に、レネは既に号泣していた。眼鏡を外して涙を拭った。

 ヴィルはそれほど親子の対面に心を打たれなかったので、蝶子の方を見た。そして、蝶子の顔に浮かんでいる痛みに氣がついた。

 蝶子は無理して微笑もうとしているようだった。大切な稔のために。けれど、それよりも強い感情、自分には誰も待っていてくれる人がいないという悲しさ、同じ祖国にいても自分には居場所がどこにもないという寂しさが勝ってしまっていた。

 ヴィルは黙って蝶子の手を握った。蝶子の手は一瞬震えた。そして、ヴィルと反対側をぷいっと向いた。自分がどんな顔をしていたのか悟り、それをすぐにヴィルに読まれてしまったことを恥じていた。不意打ちの優しさにむかっ腹を立てた。ヴィルは蝶子が望まなかったのだと思って手を離そうとした。けれど、蝶子はヴィルの手を離さなかった。少し力を込めて握り返した。弱さを知られたのは腹立たしかったが、今はどうしてもこの優しさが必要だった。

 人ごみの中、誰も二人がそうしていることに氣づかなかった。蝶子は反対側を向いたままだった。やがて、稔が母親を連れて三人の元に戻ってくるのが見え、レネが眼鏡をとって目をこすりながら振り向いたので、二人は手を離した。

「紹介するよ。俺のおふくろだ」
稔は、三人に周子を紹介すると、号泣しているレネの頭をはたいた。

「おふくろ、これが俺の仲間だ。この泣いてんのがレネ、フランス人。その金髪のドイツ人がヴィル、そしてフルートを吹いていたのが蝶子だ。俺たち四人、最高のチームなんだ」

「稔が、お世話になっています」
周子は深々と頭を下げた。

 それから周子と四人はゆっくりと参道を歩いて、浅草寺を出た。それから、小さな甘味屋に入ってしばらく話をした。帰り際に稔はもう一度周子を固く抱きしめて言った。
「ごめんよ。おふくろ。俺、わがままを通して」
「安心したよ。稔。元氣でね。また戻ってくる時には必ず顔を見せてちょうだいね」


「見ろよ、あの入道雲。日本の夏ってこうでなくちゃな」
稔は晴れ晴れとした顔で遠くに立ち上る積乱雲を眺めた。三日後には再びバルセロナだ。だが、日本への名残惜しさはなくなっていた。

「そうね。夕立がくるわよ。急いで帰った方がいいわね」
蝶子は、稔の感慨には全くつきあう氣がないらしく、いつも以上に現実的な提案をした。

 真耶の家に戻る頃になって、稔とレネは蝶子とヴィルの様子がいつもと違うのに氣がついた。蝶子はヴィルに対して半端でなくきつい言葉を遣っていた。ここ半年ほど聞いたことがない激しさだった。ヴィルの方は傷つくどころか全く平然として、やはりきつい調子で応戦していた。イタリア時代に戻ったようだった。

 そんな二人を見たのは初めての真耶は怯えたように稔に訊いた。
「あの二人、何かあったの?」

「さあな。ずっと一緒にいたけど、氣づかなかったぞ。でも、あいつらって、もともとあんな感じだったんだぜ。半年くらい前までは」
「なんですって?」

 役割が反対になっちまったけどな。稔は腹の中でつぶやいた。前はテデスコが不要につっかかって、トカゲ女が平然と応戦していたんだ。

 出発が近づいているので、真耶とその家族に頼まれて、四人は園城家の居間で再び演奏をしてみせた。真耶は、蝶子とヴィルの二重奏があまりにもロマンティックで感情にあふれているので再び目を丸くした。先程までけんか腰で会話をしていた二人とは別人のようだった。な、わかるだろ、心配はいらないんだよ、と稔が目配せをした。
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Posted by 八少女 夕

バイクの旅



YAMAHAに乗って、当てもなく山の中を走り回る一日です。
空は真っ青で時折地中海が見えます。ああ、休暇って素晴らしい。
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コルシカ・フェリー



大道芸人たちにとって記念すべき出会いの場、コルシカ・フェリーです。前にきた時はまだ生まれていなかった、でも今は多くの方々の知っている物語の舞台に再びいるのが不思議な感じ。

リボルノから4時間でコルシカ島の中心バスティアにつきます。とてもいい天候、海は凪いでいます。
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Posted by 八少女 夕

彼のふるさと

お知らせです。たぶんもうwifi無くなるとおもうのでコメ返信は帰国後かも。でもコメいただくのはだいかんげいですので!

あなたのご両親が関西人だったとして、東京に一時住んだとします。あなたは東京で生まれて関西弁の環境で育ち、やがてご両親とともに東京を離れそれ以来大阪に住んでいるとしたら、あなたの故郷は東京でしょうか、それとも大阪でしょうか?

まあ、関西弁と東京言葉は違うと言っても同じ日本語ですが、これがドイツ語とフランス語だとしたら。

レマン湖の夕暮れ

我が連れ合いはレマン湖のほとりで生まれ育ちました。14歳の時に両親についてドイツ語圏に移り住みます。両親と子供たちの間ではドイツ人だって理解出来ない(はっきり言って別言語)のスイス方言が話されていました。でも、彼はフランス語圏で育つ中でフランス語で考えて話すようになっていました。いまでも兄弟との会話はフランス語です。

フランスっぽい社会、フランスっぽい食べ物、開放的で遮るもののない美しい光景。彼の子供時代の原風景はこのレマン湖のほとりの優美な土地にあるようです。今、彼はドイツ語圏の山間に住んでいて、妻である私はフランス語を話す事はなく、狭い谷間と山の中の厳格な距離を置いた人々の中に身を置いています。ビジネスを考えるとフランス語圏よりもドイツ語圏の方がいいので、引越す選択肢はなさそうです。簡単に引越されても困りますね。

でも、どうなんでしょうね。彼にとって、本当の故郷は彼に関わるすべてが存在するドイツ語圏なんでしょうか、それとも親戚など一人もいない遠いフランス語圏なんでしょうか。深層意識の底にうずくまる時、彼は何語でどこを夢を見るのでしょうか。
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Cadtell'Arquato



旅の途中です。美しいお城の街にいます。朝の光が優しいですが、これから暑くなります。今日はリボルノまで行くのです。
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カルアミルク



Castell'Arquatoという由緒ある街でちょっと高級ホテルに泊まる事に…。
で、バーで頼んだのはカルアミルク。「温かいミルク?冷たいの?」と聞かれてびっくりしたけれど、もちろん冷たいのにしてもらって飲みました。
ミルクとリキュールを半々にされて強かったけど、久しぶりで美味しかったです。
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Posted by 八少女 夕

大道芸人たちの見た風景 - 12 -

本日から二週間ほど旅行に行きます。夏期休暇です。

時々写真などをアップするつもりですが、海外ローミングでデータ通信容量が限られているため、訪問返しはできません。また、iPhoneで通信するので、コメント返信も最低限、または帰国後になるかと思います。

予約投稿の記事もアップするので、たぶん、これまで通り毎日何かは新しいものをお目にかけられると思います。どうかお見捨てなきよう、よろしくお願いします。

さて、「大道芸人たちの見た風景」カテゴリーで日本の写真をご紹介するのもあと二回になりました。そう、まもなく大道芸人たちはヨーロッパに帰るんです。


出雲大社にて

今回ご紹介する写真は、みなさまよくご存知の出雲大社です。関西の方には信じられない事でしょうが、関東に生まれ育つと自力で意志を持って行かない限り、島根県に足を踏み入れるチャンスはなかなかないのです。新幹線一本で行けるような立地にないせいかもしれません。

私が出雲に熱中しだしたのは「樋水龍神縁起」を書き出してからで、最初は出雲でも伊勢でも何でもよかったのです。大変失礼な話ではありますが。でも、書くにあたって調べているうちに、大社の神道界における特殊な立ち位置や歴史の事に興味がわき、すっかり出雲好きになってしまいました。

それから最初の里帰りとなった去年の帰国では、真ん中の一週間の日本旅行のメインに出雲を据えました。松江に行って、大社を参拝し、それから一人で奥出雲にも行ってきました。私が樋水川という名前で書いている架空の川は、八岐大蛇だといわれている斐伊川がモデルなので、斐伊川沿いにトロッコ電車で奥出雲まで行って来たのです。なんて事のない旅でしたが、小説の舞台に来たんだと一人で感激していました。

出雲大社は、さすがというか、風格のあるお社でした。鳥居をくぐった途端、霊感の欠片もない私にも何ともいえぬ清浄さが感じられて、とても敬虔な氣持ちになりました。出雲大社平成の大遷宮のまっただ中だったので、本殿は覆われていましたが、それでも行って本当によかったと思いました。次の機会があるかはわかりませんが、できれば再びお参りしたいと思っています。(誰がカトリック信者だって?)

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Posted by 八少女 夕

「銭湯へは行きますか?」

先日、仕事で必要なスイスの特別な山小屋についてググったら、一番上と二番目にこのブログで自分の書いた小説が出て来て心底ビビった私です。そんなことはどうでもよくて、今日はトラックバックテーマです。

今は、もちろん行きません。自宅から一万マイル以内に銭湯ないんで。でも、日本にいたら行くのに抵抗はありません。消極的ないい方なのは、子供の頃から自宅にお風呂あったので、日常生活の延長としていった事ないんですよ。旅先で「健康ランド」みたいなところに行ったり、友だちに「行きたいけれど一人で行くの嫌だから」と誘われたり、そういう形でしか行ったことがないのです。でも、お風呂は好きです。温泉でも、温泉でなくても。

スイスの温泉は生温いプールです。水着着用で、出てくるとバスローブつていう世界も悪くはないけれど、私は日本式の公衆浴場の方が好きです。


FC2トラックバックテーマ  第1488回「銭湯へは行きますか?」


こんにちは!トラックバックテーマ担当の加瀬です(^v^)/
今日のテーマは「銭湯へは行きますか?」です!

加瀬はお風呂に入る時は、自宅ではシャワーでパパッと済ませて
あまり湯船にはつかりません…。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (24)出雲、 エレジー - 2 -

縁あって、西洋音楽の曲名はいくらでも出てくるのですが、津軽三味線の方はかなり疎いのです。陰調の「あいや節」はYoutubeで見つけた曲目。いやあ、ネットって便利ですね。

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(24)出雲、 エレジー - 2 -



 やがて稔は静かにバチをとると力強く弾き始めた。誰も何という曲か知らなかったが、強く哀切のこもる曲で、ヨーロッパでは一度も聴いたことのない音色だった。それは陰調の『あいや節』だった。空氣が震えた。木々が稔のバチに合わせて身をしならせた。龍王の池の水面が狂おしいうねりを見せた。

 蝶子は身震いした。稔が三味線の名手であることはもちろん知っていた。しかし、彼はそれ以上だったのだ。天才という言葉がしっくりとくる。大道芸人をしているような人材ではないのだ。稔以外の三味線の音を聴いたことのないレネやヴィルにもそれはわかった。

 稔は『新堂のじいちゃん』とその息子夫婦のために弾いていた。そして、亡くなった父親と、それを悲しむ母親、弟、そして自分自身のために弾いていた。千年前の恋人たちと日本の心を象徴するようなこの神聖な社の龍のために弾いていた。神秘的な龍の心と三味線の音色が響き合い、出雲の、それから大和の魂となって山の中にこだまする。

 ここ日本は俺のルーツだ。この響きは俺の魂だ。そして、今ここにいる三人が俺にとっての現実だ。俺はこいつらと一緒にヨーロッパで生きていく。俺の魂の音を奏で続ける。それが俺の生きていく意味だ。

 瑠水は涙を流していた。東京のコンサート会場で拓人の演奏に涙して以来、人の演奏に涙を流したことはなかった。この人は、結城さんと真耶さんと同じ、音楽で奉職する人なのね。この場にいられるなんて、私はなんて幸せなのかしら。

 その曲が終わると、稔はやはりしばらく身じろぎもせずにいた。再び風と水と蝉の音だけが空間を支配した。誰も何も言わずにそれを聴いていた。

 やがて、稔は蝶子の方を見て微笑んだ。蝶子は頷いて、ゆっくりとフルートを組み立てて立った。透明な細い音が、空に響き渡った。ドボルザークの『我が母の教えたまいし歌』だった。稔の音と対照的な静かで平和な音だった。深い哀切が心に染み渡ってくる。心が痛くなる。失われてもう戻らない人を想う世界に共通した悼みを、切々とした音色が心の奥深くから揺り起こしていく。

 蝶子が自分と母親に対してどういう想いを持っていたのか、ヴィルは初めて知った。ヨーロッパの女なら、こんな風に自分を責めることはないだろう。ヴィルにしてみれば、母親が死んだのは父親のせいではあっても蝶子のせいではなかった。父親は四半世紀以上、母親に興味がなかったのだ。しかし、ヴィルはアーデルベルトとしてそれを蝶子に伝えることができなかった。

 レネはコルシカフェリーを思い出していた。あのとき自分は彼女を口説くことしか考えていなかった。でも、パピヨンはこんなに重い十字架を背負い、迷い苦しんで泣いていたのだ。あのとき自分が思ったような単純な失恋などではなかった。家族に理解されず、恩師との恋愛沙汰に巻き込まれ、誰かに死なれ、どれほど苦しかったことだろう。それでも蝶子はしなやかで強かった。フルートを吹き続け、人生という旅を休まずに続けている。

 蝶子がその曲を吹き終えると、とても短かったので、稔は手振りでもう一曲やれと指示した。肩をすくめると蝶子はヴィルに言った。
「プーランクの『フルートソナタ第二番』の二楽章、一緒に演奏してくれる?」

 ヴィルは黙って頷いて、瑠水のピアノの前に座った。前にコモで蝶子と演奏したことがあり、父親に頼まれて何度も伴奏したことがあるので暗譜で弾くのは難しくなかった。だが、穏やかならぬ心をコントロールするのは困難だった。ヴィルの心を乱しているのは亡くなった母親ではなく、いま、その母親のために繊細で類いまれな音色を生み出している蝶子だった。知れば知るほど愛は深まっていく。想えば想うほど、自分の始めてしまった愚かなゲームのために身動きが取れなくなっていく。そうだ、拓人。こんなことを続けるべきではない。早いうちになんとかしなくては。

 蝶子は無心に吹いた。アーデルベルトのために、マルガレーテ・シュトルツのために、それから稔とその父親とのために。失ってしまった祖国への哀歌でもあった。深い信頼と親愛の絆を感じつつも、いつまで一緒にいられるかわからない大切な三人との愛おしい日々に対するオマージュでもあった。

 蝶子が終わると、瑠水は次はヴィルだと期待を持った目で見つめた。それで、瑠水には無表情にしか見えないがかなり困っているヴィルに稔は頷いた。仕事で「お前の番だ」という時の頷き方だった。それでヴィルは肩をすくめてショパンのピアノソナタ第一番の第一楽章を弾いた。

 ヴィルは自分の母親のために弾いているわけではなかった。ヴィルは稔のために弾いていた。彼の父親のために。彼の親戚の老僧とその息子夫婦のために。レネとその亡くなった妹と暖かい両親のために。蝶子の痛み続ける心のために。Artistas callejerosに加わるようにしむけ、ここに自分を連れてきた不可解な運命のために。そして、成就することのないであろう愛のために。

 家の入り口には、仕事から帰ってきた瑠水の夫の真樹が黙って立っていた。三味線の音に驚いてやってきた宮司をはじめとする神職たちも、聴いたこともない見事な奉納演奏の連続に場を離れられずに立ちすくんでいた。

 ヴィルの演奏が終わると、三人は必然的にレネの顔を見た。
「な、なんですか。僕は音楽家じゃないんですよ!」
「でも、あんなにいい声なんだもの。何か歌ってよ。教会で歌っていたなら、ちょうどいい曲があるんじゃない?」

 レネはしばらく抵抗していたが、蝶子が一緒に歌うことを約束させてようやくヴィルにフランクの『Panis angelicus』の伴奏を頼んだ。蝶子は喜んで歌詞抜きでコーラスを歌った。


『たかはし』で、四人と瑠水と真樹、そして摩利子と一が山崎の十八年で乾杯していた。宿泊は好意に甘えるとしても、底なしに飲むから飲食代だけはちゃんととってほしいと頼み、新堂朗の好きだったというウィスキーで乾杯することにしたのだ。

「残念だわ。ものすごい演奏だったんですって。店を閉めて聴きにいけばよかった」
摩利子がため息をついた。

「プロの演奏と瑠水のが全く違うのはあのピアノのせいだとずっと思っていたんですが、ピアノに罪はなかったようですね」
ふくれっ面をする瑠水の頭をなでながら真樹が言った。

「私は始めたばかりだもの。この人たち、真耶さんや結城さんとお友達なんですって。そういうレベルなのよ。比較すること自体間違っているわ」
「宮司もうなっていましたよ。お社で奉納された演奏としてはこの半世紀で最高じゃないかって」
真樹が言うと一は嬉しそうに頷いた。
「和尚さまにさっそく連絡しなくちゃね」

 摩利子は車エビと帆立のマリネを出しながら言った。出た皿はどれも三十秒以内に空になった。
「ああ、美味しい。この村でこういうものが食べられるとは全く思っていなかったわ」
蝶子はにっこりと笑った。


 ヴィルは翌日に瑠水に頼まれてシューベルトの『即興曲』作品九十の第三曲を弾いた。瑠水はこの曲に特別な思い入れがあるようだった。

「いいよなあ。俺もピアノが弾ければ、瑠水さんにあんな風に尊敬してもらえるのに」
稔は悔しそうだった。

「でもそこまでじゃない?ピアノがどうとかいう問題よりも、瑠水さんと真樹さん、あんなに仲がいいんですもの。ああいうのを見ると結婚ってのもいいなあって思うわ」
「トカゲらしくないこと、いうなよ。不氣味だ」

 瑠水はヴィルの音色に、かつての拓人の音色と同じものを感じ取った。CDやコンサート会場で聴く知らないピアニストの演奏では感じたことのない、願いとも痛みともつかない感情がこもっていた。外国人は瑠水にとって異星人と変わらない存在だったが、そうではなかった。昨日はじめて会ったにもかかわらず、瑠水にとって四人はすでに拓人や真耶と変わらぬほどの大きな存在になっていた。音楽は絆として深い心の結びつきをつくることができる。ここが奥出雲で、四人が一ヶ月後には再びヨーロッパに去ってしまうとしても、それは変わらない。お互いに自分にできることを続け、この世界に自らの立ち位置を作り、ひたすら生き続けるのだ。


 出発の前に蝶子は龍王の池のほとりに立ってメンデルスゾーンの『歌の翼に』を吹いた。
「なぜかここに立つと、たまらなく吹きたくなるのよね。心の中に幸福な風が吹いてくるみたいなの」
稔にそういう蝶子を摩利子は嬉しそうに見つめた。
「そう、ここはそういう所なの。あなたたちに会えて嬉しかったわ。次に帰国する時も、またぜひ来てね」

 瑠水と高橋夫妻に別れを告げると、四人は真樹の運転する車で出雲まで行った。真樹が出雲大社に案内してくれた。真樹は二人の外国人が平然と手水を取っているのに驚いた。

「昨日、瑠水さんに習ったのよ。私たち四人とも」
蝶子がウィンクした。

「これが出雲大社かあ。俺、はじめてなんだよな」
稔が感激の面持ちで言った。
「私もよ。島根県も山陰もはじめて」

「俺は東京にも行ったことありませんよ」
真樹が笑った。

「あら。じゃあ東京に行っていたのは瑠水さんだけ?」
「ええ。だから俺は結城拓人さんのピアノも園城真耶さんのヴィオラもまだ生で聴いたことがないんです。誰かと指定さえしなければ生演奏のコンサートは松江や大阪まで出れば聴けますが、正直言って、CDで聴く演奏よりずっといいって思ったことはなかったんですよ。でも、昨日、ようやくわかりました。皆さんの演奏を間近で聴いて、すばらしい演奏を聴くならやはり生の方がずっと迫力があるんだって」

「お二人とも、本当に音楽がお好きなのね」
「ええ、俺たち、音楽を絆に結ばれたようなもんですから」

「ちくしょう、うらやましすぎる」
稔がぶつぶつ言った。蝶子が小声で通訳してレネと二人でくすくす笑った。

 出雲大社は圧巻だった。有名な神楽殿や拝殿の注連縄、深い緑に囲まれた、落ち着いた色彩の社の数々。スケールの大きさに息をのむ。四人の軽すぎる服装では正式参拝は不可能だったので、真樹はごく普通の略式参拝のために拝殿へ連れて行った。レネは大感激していた。なんて壮大でエキゾチックなんだ。

 一方、参拝する日本人三人を眺めながら、ヴィルは一つ疑問を持った。
「あんたたち、京都の寺でも参拝していなかったか?」

「うん。俺、仏教徒だ」
「ここはシントーのシュラインじゃないのか?」
「そうよ。私たち、どっちもありなの。つまりどっちも信じているってこと」

 ヴィルもレネもさっぱりわからなかった。
「日本には八百万の神様がいるって考え方があるんだ。だから、出雲の神様もゴータマシッタールダもそれから祈りたければバチカンでも普通に祈るんだよ。どれもありだし、どれも尊重して、どれも信じているんだ。それでいて信じている宗教はないっていうんだよな、みんな」

「そう。神社でお宮参りして、毎年お墓参りして、結婚式はキリスト教式にして、無神論を主張して、困ったら神様助けてって祈って、死んだら仏教でお葬式するのよ」

「なんですって?」
レネが絶句した。キリスト教徒にはあり得ない感覚だった。信仰心がなくて教会から出てしまったヴィルにも全く理解できなかった。シントーの聖職者である真樹までが平然と頷いている。変なやつらだ。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (24)出雲、 エレジー - 1 -

この章だけ、謎の変な奴らがいっぱい出てくると思われた方。その通りです。これはもう一つの小説、「樋水龍神縁起」の世界に「大道芸人たち」が紛れ込んだ状態です。ただ、「樋水龍神縁起」の方にでてくる超常能力や千年前の因縁の話は、この際全く関係ありません。これは「大道芸人たち」の目で見た樋水神社の話です。

例によって長いので二日にわたっての更新です。


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(24)出雲、 エレジー - 1 -


「ここ?」
バスを降りて蝶子はあたりを見回した。蝉時雨の音が激しい。これほど蒸し暑い氣候なのに不思議な清浄さを感じさせる。しかし、その第一印象とは対照的に、何もない退屈な村に見える。

「みたいだな」
稔は答えた。

「なんというか、その、ひなびた所ね」
蝶子は言葉を選びつつ言った。

 稔もべつにこの村に思い入れがあった訳ではない。ガイジン軍団に日本を見せるなら、京都、安芸の宮島、日光東照宮、それに出雲ぐらいは基本かと思ったのだ。

 新堂沢永和尚と名酒『不動』を酌み交わしている時にそんな話をしたら
「出雲に行くのか」
と、身を乗り出してきたのだ。

「出雲市からバスに乗って一時間もかからない、樋水村というところがある。樋水龍王神社という由緒ある神社があってな、そこに立ち寄ってくれんか」
「そこで誰かに逢えばいいのか?」
「いや、ご神体の瀧のある池で、三味線を弾いてほしいんだ」

「何のために?」
「その神社には千年前の悲恋の伝説があってな、その二人のためにってことにしておこうかな」
「じいちゃん。そんなこと本氣でいってんのか?」
「まあ、いいじゃないか。こっちは老い先短いんだ。多少のわがままはきいてくれないと」

「そりゃ、いいけどさ。本当にその千年前の恋人たちのためになんか弾けばそれでいいのか?」
「そうだ。向こうには連絡しておくから」
「なんだよ。じいちゃん、そこの人たち知っているのか?」

「行けばわかる。過疎の小さな村だ。外国人を二人も連れていれば、向こうがすぐに見つけてくれる。お前らは、そのくらいの寄り道をする時間の余裕はあるんだろう?」
「もちろんだよ。でも、その村に泊まるところとかあるのかな?」
「その心配はせんでいい。わしが頼んでおくから」


 バスが行ってしまったので、四人はバス降車場を離れて、参道を正面に見えている、村の規模に比べてやけに大きくて立派な神社に向けて歩いていった。

『大衆酒場 三ちゃんの店』というのがあった。なんだこりゃ。ド田舎の酒場だよ。食事をするにもこんなところしかないんじゃないか? ガイジンつれて騒いだら、そうとう浮くな。村人が買い物をするのであろう小さな用品店、流行のかけらも感じられない衣料店、それに観光客目当てと思われる土産物屋などが続く。ヴィルとレネは面白そうに見ていたが、蝶子と稔は困って目を見合わせた。

「あら? ここはちょっとまともそう……」
蝶子が足を止めたのは『お食事処 たかはし』という看板の出ている店だった。黒と木目を基調としたシックなインテリアにも好感が持てたし、表に出ている本日のメニューにも心惹かれた。

「車海老と帆立貝のマリネ、アーティチョークのサラダ? こんなところで?」
稔も首を傾げた。

 それを中から目を留めた女性が出てきた。
「いらっしゃい。あら? ガイジンさん二人……。ってことは、もしかしてあなたが新堂の和尚さまのご親戚の稔君?」

 稔はびっくりした。じいちゃんが連絡しておくって言ったのは、この人か?
「そうです。はじめまして」
「お待ちしていました。私は高橋摩利子。どうぞ、中に入って」

 都会的できれいな女性だった。蝶子や稔の両親くらいの年齢なのだろうが、日本人には珍しいくらい現役感を醸し出している女性だった。この村にはまったくそぐわない。関東の人だろう、言葉のイントネーションでわかる。

「田舎でびっくりしたでしょう? 私も初めてきた時には絶句したわ」
摩利子はにっこりと笑った。

「紹介します。俺の大道芸人の仲間で、こちらは蝶子、ドイツ人のヴィル、フランス人のレネ。お世話になります」
「よろしくね。今、買い物に行っているけれど、すぐに主人も帰ってくるから。二階に娘たちが以前使っていた部屋があるの。そこに泊まって。男三人だとちょっと狭いけれど……」

「私たちいつもドミトリーに泊まっているので、べつに二人ずつでもいいんですけれど」
蝶子が言った。摩利子は目を丸くしたが、高らかに笑った。
「好きにするといいわ」

 それで、稔と蝶子には摩利子が常識にとらわれない豪快な性格であることがわかった。

「ここ、旅館じゃないですよね。お礼はどうしたらいいでしょうか」
蝶子は単刀直入に切り出した。

「あら、水臭いこと言わなくていいのよ。和尚さまの御用でここにきたんでしょ? どんなことでも協力するわ。主人は連絡がきてから大興奮していたのよ、まだかまだかってうるさいぐらいにね」

 ということは、この人たちは『新堂のじいちゃん』とかなり親しいんだな。少し事情を訊いておこう、稔は思った。

「あの……。じいちゃんは行けばわかるとしか言わなかったんですが、この村とじいちゃんって何の関係があるんですか?」
「やだ、稔君知らないの?」
「何をですか? 神社の池で千年前の恋人たちのために三味線を弾けって、わけのわからないことをいわれただけで、さっぱり……」

摩利子は呆れた顔をした。
「和尚さまの息子の朗さんが、この神社の禰宜だったのよ。私と主人の一は、新堂さんと奥さんのゆりさんの親しい友達なの。二人とも四半世紀以上行方が知れないんだけれど。だから、和尚さまは二人のために三味線を弾いてほしいんだと思うわ」

『新堂のじいちゃん』に昔行方不明になった息子がいるという話は、子供の頃に聞いたことがあった。だけど、なんではっきり言ってくれないんだよ。

「ここで行方不明になったんですか?」
稔の言葉に摩利子は頷いた。

「龍王の池ってのは?」
「お社のご神体は樋水川そのものなのよ。で、瀧壺の底にはその化身である龍がもう一匹の蛟といっしょにとぐろを巻いているんですって。池のほとりの家に、私の娘夫婦が住んでいてね。その家には、かつて新堂さんたちも住んでいたの。だから、そこで三味線を弾いてあげて」
「わかりました」

 千年前の恋人とか、何でまどろっこしいことを言ったのかなあ? 失踪ってキーワードが俺にはNGだと思ったのかな?

「私もフルートを吹いていい?」
四人で、神社に向かっている途中で、蝶子が言った。

「もちろん。失踪者ってキーワードに共感したのか?」
「ううん。息子のためにってキーワード。私はアーデルベルトのためにフルートを吹きたいの」

「アーデルベルト? 誰だよそれ」
稔とレネは疑問符でいっぱいになった。ヴィルは不意打ちに衝撃を受けたが、幸い三人はそのとき彼の顔を見ていなかった。

 蝶子は地面を見ながら続けた。
「ヤスのおじいさんは、息子さん夫婦への想いをヤスに託した訳でしょう? たぶん、もう生きていない大切な人たちへの想いを。私は、不意に親を失ってしまった一人の息子のやりきれない想いのために、弔いの音を奏でたいの」

「その息子がアーデルベルトって名前なのか?」
「そうよ」
「ドイツでの友達か?」
「会ったことない人なの。向こうは私には会いたくないでしょうね。お母様が亡くなったのは私のせいだから」
稔とレネは固まった。蝶子はそれ以上を話そうとはしなかった。

「こんにちは。母から連絡を受けています。私は娘の瑠水です」
神社の境内に入ると、松葉色の袴を身に着けた小柄な女性が笑顔で挨拶した。うわ、かわいい。稔はどきどきした。への字型の眉毛のせいで、笑っているのに泣き出しそうな顔に見える女性で、それがとてもはかなげに見えたのだ。人妻かあ、惜しい。

「ヤス、手水の取り方知ってる?」
「う……。ちょっとあやしい、お前は? お蝶」
「だめよ、全然。その手の常識に欠けてて……」

 その会話を聞いて、瑠水は微笑むと、一緒に行って手水の取り方を実践してくれた。稔と蝶子が手水をとっているのを見て、ヴィルとレネは困ったように顔を見合わせた。

「ああ、ガイジンはやらなくてもいいんじゃないか?だめですか?瑠水さん」
稔は瑠水に問いかけた。

「宗教上の理由でなさらない方もいれば、単にご存じなくてなさらない方もいますわ。私は尊敬の氣持ちさえ持っていただければ、かまわないと思うんです。宮司には内緒ですけれど…」
瑠水の笑顔に稔は顔がにやけるのが止まらなかった。

「これが伝統なのか?」
ヴィルが訊いた。

「神聖な場所で何かをする前に、自分を清めるの。それが日本の考え方の根本でもあるのよ」
そういうことならと、ヴィルもレネも見よう見まねで手水をとった。

「拝殿でお参りした方がいいのかしら?」
蝶子が勝手が分からずに訊いた。瑠水は優しく言った。
「普通の神社や、一般の方の参詣はそうなんですけれど、これから皆さんはもっとご神体に近いところに行かれるわけですから。この神社は少し特殊なんですよ。普通の神社ではご神体は本殿の中にあるんですが、ここのご神体は建物に入りきらないので……」

「瑠水さんはいつ神主になられたの?」
蝶子の問いかけに瑠水はまた笑った。
「まだです。私と主人はまだ見習いの出仕という身分で神職ではないんです」

「それなのに、ご神体のそばにお住まいになっているの?」
「ええ。この神社だけに存在する、ちょっと特殊な役職があって、それで私たち夫婦はここに住むことになっているんです。でも、私たちはまだその役職になりたてで、資格も取っていないので、二人とも前の仕事も兼任しているんです」

「前の仕事って?」
稔が訊いた。

「私は地質の調査、主人は彫刻師です」
「神主さんって、兼業したりするの?」
蝶子は知らない世界のことに興味津々だった。

「事情はあちこちで違いますね。神社の台所事情から兼業せざるを得ない神職の方もいらっしゃいますし。私たちは、まだ神職の世界になれていないんで……」

「お寺の息子が、神主になるなんてこともあるんだね」
稔は訊いた。

「新堂先生とゆりさんは、特別な事情でこの神社にいらしたと伺っています。でも、私が生まれる前のことで、詳しくは存じ上げていないんです」

 蝶子と稔は交互にヴィルとレネに会話の内容を通訳した。瑠水は感心した様子でそれを見ていた。
「お二人とも、英語に堪能なんですね」

「まあ、毎日こいつらと一緒にいるから、それなりに上達するんだよ。俺は、学校で習っただけで、本来は英語なんてからきしだったんだけどさ。お蝶はもっと出来がいいぞ。ドイツ語もぺらぺらだし、イタリア語もできるんだ」
「まあすごい」

「八年も外国にいると、簡単に上達するのよ。日本のことは、手水の取り方もしらないんだけどね」
蝶子は自嘲的に言った。

 瑠水は海外に行ったことがなかったし、こんな近くで外国人を見たこともなかった。こういう組み合わせのグループがしょっちゅう訪ねてくるわけではないので、興味津々だった。

「蝶子さんがお持ちになっているのも、楽器ですよね」
「ええ、フルートよ。私もお許しがいただけたら吹かせていただこうと思って」
「まあ。主人が早く帰ってくればいいのに。私たち二人ともクラッシック音楽の大ファンなんです」
「そうなの? だったら、どこかにピアノがないかしら。この人はとてもピアノが上手なのよ」
そういってヴィルを示した。

「ピアノ、うちの居間にあります。たいしたことのないアップライトピアノですけれど、本当に弾いていただけますか?」
「弾いてくれるわよね? もっとも、ご神体の側でそんなにいろいろ演奏して宮司さんに怒られるかしら」
蝶子は周りを見回した。

「大丈夫です。習いたての私のひどい練習ですらも、奉納ですからのひとことで済ませていますもの。上手な方の演奏なら、龍王様もお喜びになるわ。たまにはまともな音楽が聴けるって」
蝶子も瑠水が大好きになった。

 瑠水は四人を家に案内した。居間から続く大きな広縁があり、そこから荘厳な池が見えた。緑豊かなすばらしい景色で、一番奥の正面に瀧が涼しやかな音を立てていた。その美しい光景に四人はため息をついた。

「真耶のところもいいけれど、こういうところに住むのも、本当に贅沢よねぇ」
「俺、結城拓人の億ションより、こっちの方が好みだあ」

 蝶子と稔の会話に、瑠水はびっくりして訊いた。
「え? 結城さんと真耶さんをご存知なんですか?」

「知っているも何も、私たち東京に来てからずっと真耶のところに居候していたのよ」
「瑠水さんこそ、あの二人を知っているのか?」
稔も驚いて訊き返した。

「ええ、東京にいた時に……。二人ともお元氣ですか」
「ああ、達者に大活躍しているよ。それにしても君があの二人を知っているなんて、偶然とはいえ、すごい縁だな。世間は狭い」
稔は三味線を取り出しながら言った。

 それを機に、Artistas callejerosの四人の表情ががらりと変わった。誰も何も言わずに、広縁から池の方をみつめた。瑠水も静粛な心持ちで、四人の後ろの畳に黙って座った。

 蝶子は広縁の上に正座し、外国人二人は腰掛けた。三人に囲まれる形で背筋を伸ばして正座した稔はしばらく全く音をさせずに座っていた。蝉の声と木々をわたる風の音、そして途切れなく響く瀧の水音だけがあたりを支配した。
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Posted by 八少女 夕

即興で書く

本文とは、全く関係ないんですが。昨日の記事では、お騒がせしました。たくさんの方にご心配いただき、とても嬉しかったです。さらによくなって来て無事通勤出来ています。
それと、ついに来ました。私の新しい車、TOYOTA Yaris。まだナンバーが戻って来ていないので車道は運転出来ないんですが、ガレージに入れる時に運転した感じでは、前の車よりずっと高機能っぽいです。大事に乗ろうっと。そして、永らくの愛車だったSUBARU Justyとはこれでお別れ。今までありがとう。どこか外国に行くみたいだけれど、幸せにね。


Yaris! さよなら Justy

そんなことはさておき、本文です。


ブログを始める前、いろいろ杞憂をしていました。訪問者がいなかったら云々の悩みの他に、小説のブログなんか作って、話が枯渇したら、その後どうするのよ、という悩みもありました。

で。ふたを開けてみたら、そんな心配いりませんでしたね。

いや、血のにじむような、魂を絞り出すような苦しみの果てに、一つひとつ名作を書いていらっしゃる方の存在は承知の上の暴言です。私の小説はそういう類いの小説ではありません。そうであっても、それは10年に一本程度しかかけません。でも、それ以外の小説は、勝手にどんどん出てくるんですよね。

こう思ったのは、三本の小説をブログで書いた、ほぼ同じ体験から。「明日の故郷」「風紋」「リナ姉ちゃんのいた頃」です。この三本に共通するのは、お題が人から与えられた、もしくは人の作品にインスピレーションを感じて創作したという事です。で、貰ってから、話を組み立てて書くまで、どれもとっても短いんですね。

現在、私の小説の戸棚には、未発表のアイデアが五本ほどたまっています。それ以外に、上記のようにお題が与えられると簡単に浮かんで来たものを小説にする事が出来ます。それが読むに値するかはどうかとして、少なくともブログを続けているうちにお話が枯渇してなくなってしまう事はないんだなと思えるようになりました。

来年、毎月一つずつ書くものをそろそろプランしていこうと思っています。主に季刊誌「Seasons」のためですが、これを続ける事もいいトレーニングになると思っています。
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Posted by 八少女 夕

短い夏

おはようございます。モペットを運転中に小石の多い下り坂で転倒し、大変な流血沙汰になった私でございます。幸い、右手の傷はなんとか塞がりました。痛いけれど、キーボードを打つぐらいは何とかなってきました。左の膝が曲がらない状態なので当分自転車通勤出来ないし、休暇はどうなる! なんですが、まあ、何とかなる事を祈りましょう。

日本では、あまりの猛暑に邪険にされがちな夏。アルプス以北のヨーロッパでは、夏には何のマイナス要件もないので誰もがひたすら楽しみます。夏が嫌いという人には会った事がありません。

夏のアルプス

日本では一月から順番に言うと「冬・冬・春・春・初夏・梅雨・夏・夏・秋・秋・秋・冬」とまんべんなく季節がありますよね。スイスではそうではないのです。「冬・冬・冬・冬・春・夏・夏・秋・秋・冬・冬・冬」こういう感じ。冬長すぎです。その分、夏に対する思い入れは強いのです。サマータイムと緯度の高さのおかげで、六月末には午前四時半から午後九時半まで日照時間があり、仕事の後にも人々は戸外で楽しみます。もちろん、残業なんか最小限にして。

夏を楽しむのは家畜たちも一緒、真っ青な空の下、彼らは新鮮な草をどっさりと食べます。冬の間は外にも出られす、干し草を食べるだけですからね。
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Posted by 八少女 夕

趣味で小説書いている人バトンってやってみた

ブログのお友だちの栗栖紗那さんのところで答えていらしたバトンが面白そうだったのでいただいてきました。

質問があまり多すぎず、答えやすかったです。


バトン

Q1 おもにどんなジャンルの作品を書いてますか?
A1 海外に住んでいるので、比較文化っぽいものを入れた現代物が多いかも。でも、雑食性。
Q2 書いた作品はどこで公開していますか?
A2 FC2ブログ、FC2小説、季刊誌Seasons plus
Q3 同人誌など書籍化したことはありますか?
A3 昔は同人誌に参加しました。今はSeasonsですね。
Q4 他のアマチュア作品を読みますか?
A4 読みます
Q5 読む(好きなジャンル)と書くジャンルは同じ?
A5 う~ん、私と同じようなもの書いているブログには出会っていないです
Q6 長編が多い? 短編が多い?
A6 メインは長編ですね。短編は5000字ものを毎月一つの割合で書いています。
Q7 執筆ペースは?
A7 一日200字から5000字。
Q8 ネット以外の知人にも読ませてますか?
A8 数名。どうしても見たいと言われれば。
Q9 今まで一番評判の良かった作品を教えてください
A9 中編「明日の故郷」かな?
Q10 なにか一言あれば
A10 小説を書くのは人生の一部になっています。
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Posted by 八少女 夕

大道芸人たちの見た風景 - 11 -

評判のいい海外の写真をエサに、読んでほしい小説「大道芸人たち」のアピールをしまおうという無茶な企画。でも、今は四人が日本にいるので、日本編。

合計で五回行っているとは言え、関西の方とは違ってどうしても京都の事はうろ覚えです。土地勘もあまりないし、歩いた記憶も子供の頃と今とでは違いますよね。

嵯峨野の竹林 嵯峨野の竹林です。

京都の魅力は色々ありますが、一度行った所も季節によって全く違う顔を見せてくれるのも素晴らしいですよね。実は、高桐院のシーンを書いた時には、まだ行ったことがなかったのです。でも、書いたあとでどうしても行きたくなって去年の帰国の際に行ってきました。そうしたら、本当に四人が経験したのと同じ、一瞬だけ誰もいない時に当たったのです。本当に幻想的で美しい時間でした。

その後で、嵯峨野の竹林も歩きました。紅葉のシーズンの前だった事もあって、京都にしては観光客が少なく、ここでも静かな竹林をわたる風の音を楽しむ事が出来ましたね。

やっぱり歳を取ってきたせいなのか、静けさに大きな価値を見いだしてしまうのです。誰かといても、つい黙りこくってしまう。一人になりたくなる。そういう時間を尊重してくれる人が旅の道連れだと、とても助かります。

この記事を読んで「大道芸人たち」を読みたくなった方は、こちらからどうぞ
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Posted by 八少女 夕

「枕は高い方が好きですか?」

低い方が好きですね。っていうか、高すぎる枕なら外して寝ちゃいます。理想は、大きくて柔らかい低めの枕。蕎の実くらいまではいいですが、硬いプラスチックの入っている通気性のいい枕だと、眠れませんね。

子供の頃愛用していたのは、小さくて楕円形で、ガーゼのついたウサギの枕です。あれ、今でも入手できるんだろうか。別になくてもいいんだけれど、ノスタルジーとして欲しいですね。

あと、炊き枕ってありますよね? あれってどうなんでしょう? 抱きつくと快眠できるのかしら?

こんにちは!トラックバックテーマ担当の新村です今日のテーマは「枕は高い方が好きですか?」です!最近気付いたことなのですが、新村はかなり枕の高さが高いようです。ちなみに固くて高さのある枕の上に腕をおいて寝ています高すぎると首が曲がって、肩こりがひどくなるようですね低い枕に変えてみたんですが、どうも寝れなくて、結局腕をおいて高くしています皆さんは枕は高い方が好きですか?トラックバックでぜひ好みの枕の高...
トラックバックテーマ 第1485回「枕は高い方が好きですか?」

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Posted by 八少女 夕

意見は一致しなくても

毎日、訪問返しをしたり、氣になる方のブログを訪問していると、いろいろな意見に遭遇します。私のブログにどうやってか辿り着いてくださった方、何故か毎日訪問してくださる方は、読んでいて氣分が悪くなるような感じの悪いものは一切ありません。もちろん興味対象は千差万別で、ひたすらゲームの事だけを書かれていらっしゃるような方のブログは、私はほとんどついていけないのですが、だからといって不愉快になったりする事は全くありません。

最初は「この人、絶対私になんか興味なさそうだし、きっと明日から二度と来ないだろうな」と思っていた方が、今では親しいブログのお友達になってしまっていたりするので、世の中って不思議だなあと思います。

で、毎日いろいろな記事を読んでいるのですが、中には私の主張している事と正反対の意見を書かれている記事に遭遇する事があります。私はそうは思えないから、当然その記事には拍手したりしないし、喧嘩をするつもりもないのでコメを入れたりもしません。でも、その一回だけでその管理人さんを嫌いになって二度と訪問しない、などということはしないようにしています。

そりゃ、読むもの読むものすべてがことごとく氣に障るようなら、二度と訪問しない方がお互いの精神衛生上いいと思いますよ。でも、そういうことは稀です。はっきりと意見を書かれる方は、論点がしっかりしていて、読み応えのある記事を書かれる事が多いのです。だから、次に訪問した時に、なるほどなあと思い記事があれば拍手したりコメントしたりしたいと思うのです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (23)京都、 翠嵐

日本に来たら、ここには行かないとね。すべてのガイジンが知っている古都です。もっとも、東京との地理関係はほとんど知られていませんが。旅行パンフにはたいていフジヤマを背景に舞妓さんが映っています。一緒には観られませんから(笑)

あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(23)京都、 翠嵐



「ヤス! 三味線!」
蝶子がそう叫ぶと、稔の肩から三味線の入った袋が奪い取られていた。そして何が起こったのか把握する前に上から水が降ってきた。

「うるせえ。この毛唐ども!」
上から、怒号が聞こえて、ぴしゃりと窓が閉められた。

 四人は京都の西陣の近くを歩いていた。『鰻の寝床』というにふさわしい京町家がたくさんあったので、物珍しさも手伝って冗談を交えながら楽しそうに話していた。ただ、そこは本来は観光客の見て回るようなところではなかったらしい。しかも、その家では夫婦喧嘩の真っ最中で、亭主の機嫌の悪さは並大抵でなかった。だいたい亭主は京都人ではなかった。氣の短い江戸っ子だろう。

 蝶子はかなり離れたところからひらりと戻ってきて、稔にまったく濡れていない三味線の袋を返した。それから突然の襲撃に呆然としている三人を見てけたけたと笑った。
「なによ、あなた達、水をかけられた事ないの?」

 みごとに蝶子はどこも濡れていなかった。水がかかる前に素早く安全な場所に逃げたのだ。
「お前はあるのかよ」
濡れた背中を氣にしながら、稔は言った。

「ありますとも。何度も。真冬にもね」
「なんですって。どうしてそんなことに?」
レネは自分が濡れて惨めな氣持ちでいる事もすっかり忘れて訊いた。

「私ね。家で練習するの、禁じられていたのよ。日本の家屋事情を考えたら、しかたないわよね。でも、練習しないとどうしようもないじゃない? だから、近くの原っぱに行ってそこで吹いていたのよ。その前にある家にしてみたら迷惑だったでしょうね。それで、よくうるさいって言って、こういうバケツの水が降ってきたものよ。一度なんか、バケツごと落ちてきたから、危うく怪我するところだったわ」

 蝶子は笑ってその話をしていたが、稔は、その時の蝶子の惨めさを思ってやるせなくなった。大学時代、蝶子は練習をしてこないクラスメイトにひどく辛辣だった。稔は邦楽科だったが、ギター好きが高じてアンサンブルの授業を受講し、そこで蝶子と一緒になった。一人や二人の練習不足のために授業が進まないと、みんなは迷惑そうに眉をひそめたが、本人に激しく抗議したのは蝶子一人だった。

「おお、怖い」
そういって、舌を出していたクラスメイトは、夏の間はハワイの別荘でサーフィンをして過ごすと自慢していた裕福な家の一人娘で、親にすべての授業料を出してもらい、卒業後は親の関係する学校で教職に就いた。

 いつもどこか構内でフルートを吹いていた蝶子に「あてつけみたいで、嫌みよね」と言ったあの女は、きっと知らなかったのだろう。稔も知らなかった。蝶子には心置きなくフルートを練習する場所が他のどこにもなかったのだ。練習できる場所があるから、どうしても大学に入りたかったのだ。

「さ。日光にあたって乾かしなさいよ。どこに行く? 京都御所? それとも北野天満宮?」
「そういう目的で行くところか?」
ヴィルが言った。

「なんで、お前、ほとんど濡れていないんだよ」
稔はヴィルに抗議した。

「一番、手前にいたからだ。運が良かったみたいだな」
一番運がなかったのはレネだったらしい。ほとんどびしょぬれだった。

「カードは大丈夫?」
蝶子は訊いた。確認したところ、全部プラスチックの箱の中に入っていたので、ほとんど被害はなかった。ただし、ハンカチ類や布でできた花などは全部濡れていた。
「これ、みんな干さなきゃダメですね」

 稔は蝶子が三味線を守ってくれたその判断に感謝した。
「金閣寺まで歩いていこうぜ。この暑さなら服は直に乾くだろ」
稔がそういうと、レネのハンカチを数枚荷物に掛けて干しながら歩き出した。ヴィルも黙ってやはりレネの手からハンカチ類を取ると、同じようにして歩き出した。蝶子は花を受け取って荷物に刺した。レネは嬉しくなってニコニコして後を追った。


「金ぴかだ……」
今まで見てきた日本の寺社とはひと味違う派手な建物に、レネは呆然とした。

「あれって削り取ったら、本物の金なんでしょうか」
「さあな。本物だったら、もうなくなっているんじゃないのか?」
稔が答えると蝶子が説明書きを読んで訂正した。
「本物だって。二十四金。ただし金箔だそうよ。つまり表面だけ」

「世界遺産だからな。削り取ったりしていると、フランスのニュースになるぞ」
稔がウィンクした。

「一度燃えたんだろう?」
ヴィルが訊いた。

「そうなの。放火よ」
蝶子は言った。

 学僧の放火の動機について、蝶子はどこかで読んだ事があった。自分へのコンプレックスと拝金主義に陥った寺への嫌悪感、母親の過大な期待に対するストレスに結核への恐怖と統合失調症……。犯行後わりと直に亡くなってしまったので、未だに確かな事はわからない。世界的に有名な寺が焼け落ちるのを見ながら、彼はどんな事を考えたのだろう。逮捕後ショックを受けた母親が事情聴取の帰りに投身自殺をしたと聞いた時、彼は何を思ったのだろう。

「池に映っているのを逆さ金閣って言うんじゃなかったっけ」
稔が覗き込んだ。
「そうそう。修学旅行で絵はがきと同じ写真を撮ろうとしたわ。人がいっぱいいるから、同じになんか撮れっこないんだけど」

 蝶子は、葉書を買った。後で真耶に送るのだ、いつものように。


 大徳寺の高桐院に行きたいと言い出したのは稔だった。
「何があるの?」

「庭の眺めがすばらしいんだ。離れていれば行かなくてもいいけれど、この距離なら行きたいよ」
「行くのは意義なしだけど、この暑さの中また歩くのは勘弁。バスを使いましょう」
蝶子はさっさとバス停に向かった。

 稔はレネにウィンクした。
「大徳寺の裏手に今宮神社ってのがあって、美味いあぶり餅が食べられるんだぜ」
「甘いんですか?」
「甘いよ。白みそのたれだ」


 高桐院に一歩足を踏み入れると、それは別世界だった。
「誰もいない」
レネがキョロキョロした。

 金閣寺にはあれほどいた観光客たち、キャーキャー騒ぐ女学生たち、ちらほら見た外国人たち、すべてが姿を消していた。大徳寺前のバスで降りた人はいたし、高桐院は有名なので誰もいないなどという事は想像もしていなかった蝶子と稔も訝しげに周りを見回した。

 緑色の静謐なる世界だった。先程と変わりないほど蒸して暑いはずなのに、風が竹林を吹き抜けてさらさらと音を立てると、蝉の声までもが遠くなり、まるで別の世界に来たようだった。石畳の参道の左右に広がる鮮やかな苔、竹で出来た欄干、人の手で作られたものなのに、この庭はどこか自然の支配する神聖な趣があった。

 拝観料を払う窓口に来ると、中には一人の老人がいた。目があるのかどうかわからないほど細い目をさらに細めているので、寝ているのではないか、もしかしたら石像なのではないかと錯覚するほどだったが、しっかりと四人分の拝観料を請求してチケットを切ったのでやはり人間だったのだと納得した。

 暗い院内から庭を眺めると風景を額縁に切り取ったようだ。蝉の声、風の音、畳の上で動く誰か、それ以外は何も存在しなかった。

 中庭に出て、歩いている時にレネが言った。
「モネや他の芸術家が日本に惹かれたのがようやくわかりましたよ。でも、彼らの作り出したものからは、この世界はとても想像できませんでしたね」

 茶室を見た後、もとの参道を通って高桐院を後にした。翠のうねりが風に揺らされて四人を異界へと誘い続けている。ここは、本当に現代の日本なのかと訝しく思う。出口で笑い転げる女学生たちとすれ違った。四人は顔を見合わせた。ようやくどこか幽玄な世界から戻ってきたのかと疑いながら。


「ほらこれがあぶり餅屋だ」
稔は、今宮神社の参道にある二軒の店を示した。

「どっちが?」
「あれ? こっちは元祖で、こっちは本家?」

 わからないので、二人ずつそれぞれの店で買ったが、本数も値段もまったく一緒だった。味も、四人に違いはわからなかった。一人分が小さな餅十五本なのだが、レネは大喜びで食べ、さらにヴィルと稔から十本ずつもらっていた。


「そういえば石で出来た波紋の庭のある寺は、この近くにあるのか?」
ヴィルが訊いた。以前に雑誌で見た事があり、日本にいるなら一度見てみたいと思っていたのだ。

 蝶子が大徳寺の観光マップを見て頷いた。
「さっきいた大徳寺の、まだ見ていない塔頭のうち、興臨院や瑞峯院には枯山水があるみたいね。私も見てみたいわ」

 四人は大徳寺の境内を通って歩いていった。瑞峯院の枯山水を眺めているうちに、稔が言った。
「ああ、三味線が弾きてえ」

「弾くのはだめなのか」
「一応、お寺だからな。許可なく弾くわけにはいかないよ。外ならいいかもしれないけれど」

「出雲で弾くんでしょ」
「そうだな。俺、やっぱり日本人なんだな。こういう光景を見ているとたまんなくなる」
「そうね。私たち、ようやく祖国に帰ってきたのかもしれないわね。もともと京都にはまったく縁がないとしても」
縁側に腰掛けてぽつりと語り合う二人をヴィルとレネは黙って見ていた。
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Posted by 八少女 夕

Yaris!

随分前に「買おうとしているもの」と言って以来、まったく音沙汰なしでしたが、実はいまだに車なしです。でも、ようやく少し進展して、先日、候補の車を連れ合いが見にいってきました。

結局Toyota Yarisにこだわっている私。彼が車の仕事をしていたという友人し観にいったのはボルドーレッドの子です。ワインカラーなんて、私向き〜。でも、もちろん運転するときは一滴も飲みませんよ。日本と違って、グラス一杯までは許されているんですけれどね。それでも、絶対に事故りたくないし、私は素面でも運転そんなに上手くないので、飲みません。

手付金も払ったし、ようやく確かに自分の車になりそうです。秋が来るまでに車ないと本当に困るんで。八月に何を言っているんだと思われるでしょうが、スイスでは八月というのはもう秋の始まりなんです。もうじき学校も始まりますしね。私は関係ないですが。

本日は、記事が二本あります。キリリクでいただいたテーマで小説書いてみました。この下です。


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Posted by 八少女 夕

【小説】リナ姉ちゃんのいた頃 -1-

10,000Hitのキリ番で、前後賞の9999を踏んだウゾさんからのリクエスト。ウゾさん、ありがとう!

ズバリ スイスの家庭料理に付いて 出来れば 日本で手に入る材料で出来るもので
レシピ付き。

ただの記事にしてもよかったんですが、ちょっと趣向を変えて、こんな連載風短編に仕立ててみました。主人公は日本の中学生の遊佐三貴くんとスイス人高校生リナ・グレーディクちゃん。日本とスイスの異文化交流ものとしてまたテーマをいただいたら追加していこうかなと思っています。って、一回で終わりになるかもしれないけれど。



リナ姉ちゃんのいた頃 -1-

リナ姉ちゃんが我が家にやって来た日の事は今でもよく憶えている。我が家がひっくり返したような大騒ぎになったのは、その一週間ほど前の事だった。

「えええ〜っ? なんで?」
僕と栄二兄ちゃんは、最初、父さんが冗談を言っているのかと思った。我が家に、交換留学生の女の子がやってくる、一年間ホームステイする、スイス人だって。母さんは、重大発表のあいだ黙ってご飯をよそいでいた。

「だから、急遽、そういうことになったんだよ」
父さんは頭をかいた。
「斉藤専務のお宅で預かる事になっていた子なんだけどさ。部長の奥様に悪性腫瘍が見つかって、それどころじゃなくなっちゃったんだそうだ。それで、代わりにって。ほら、うちは今年から一美が下宿をはじめて、部屋も一つ空いたしさ」

「いや、代わりにって言ったってさ。その子、日本語喋れないんでしょ? どうすんの?」
栄二兄ちゃんが訊くと、父さんはじっと僕の方を見た。
「そうなんだよ。三貴、お前は三年も英会話学校に通っているだろう。お前だけが頼りなんだ」

僕はのけぞった。いや、だって僕はまだ義務教育中の身だよ。確かに、英会話学校に通っているのは、この中では僕だけだけど、栄二兄ちゃんは高校三年だし、父さんも母さんも大学をでているじゃないか。英会話学校って言ったって、週に一度の習い事じゃ、まともな英語なんて話せない。現に、FENもCNNもさっぱりわからないんだよ?
でも、父さんの道端に捨てられた子猫みたいにすがる目を見たら、嫌とは言いがたい空氣が流れた。

「何で断らなかったのさ」
栄二兄ちゃんが、僕の氣持ちを代弁する。

「斉藤専務は、私たちの仲人だし、人事部長時代は母さんの直接の上司だったんだよ」
「逆らわない方がいいのよねぇ、あの人には」
母さんが間延びした声で言った。父さんは再びすがるように僕を見た。僕は仕方なく頷いた。


それから一週間して、僕は父さんと一緒に成田空港に行った。「ようこそ、日本へ。リナ・グレーディクさん」と英語で画用紙に書くのすら、僕の仕事になった。こんなに英語がダメで、ほんとうに大丈夫なんだろうか。今まで尊敬ひとすじだった父さんが、なんだか頼りなく見える。

スイス・インターナショナルエアラインが到着すると、緊張が最高潮に達した父さんはトイレに駆け込んでしまい、僕は一人でそのスイス人の女の子を待つ事になった。僕と父さんの想像した彼女の姿はクリーム色のTシャツに赤いジャンパースカートだった。それほど僕たちにとってスイスは馴染みのないメルヘンの国だった。

いろいろな人が出て来た。野暮ったい女の子が出てくる度に「この人かな」と思ったけれど、彼女たちは僕の掲げた画用紙をちらっと見ただけで通り過ぎてしまった。

それから、彼女がやって来た。艶やかな栗色のウェーブした髪。すらりとした華奢な足。ヒョウ柄のカットソーに黒い革のミニスカート、黒いブーツというハイジとはまったくかけ離れた美少女。彼女の輝く灰緑色の瞳は、僕の掲げた画用紙にピタッと停まって、まっすぐに僕の方に歩いて来た。ええ〜? 嘘だ。この人? 類いまれな美少女じゃないか。彼女は僕に笑いかけた。あれれ? 先程の完璧な美がそれで吹き飛んだ。口が大きいのか、なんだかわからない。だが、その笑顔は、「あれ」に酷似していた。「不思議の国のアリス」の挿絵にある、チェシャ猫のニヤニヤ笑い。それがリナ姉ちゃんだった。


それから、リナ姉ちゃんは驚くべき事実を知った。家族の中で、意思の疎通が可能なのは、この僕だけだってこと。でも、彼女は素早く順応した。僕も、家につくまでには、どうやってリナ姉ちゃんと必要な意思の伝達が出来るか、なんとかめどが立っていた。FENの英語と較べて、リナ姉ちゃんの英語はずっとゆっくりではっきりとしていた。もともとリナ姉ちゃんにとっても英語は外国語なのだ。そしてドイツ語が通じるはずがない事は百も承知だ。幸い、僕には多少の絵心があったので、語彙の貧弱さはそれで補う事が出来た。それに父さんは、僕にポケット英和和英辞典を買ってくれた。


家につくと、母さんが食事の用意をして待っていた。栄二兄ちゃんは、リナ姉ちゃんの姿を見て、真っ赤になり、それからなにかごにょごにょ言って、僕と役目を代わりたがっていたけれど、バイトに出かける時間だったので、泣く泣く出て行った。僕はリナ姉ちゃんに、玄関で靴を脱ぐ事を教え(姉ちゃんったら、靴のまま上がろうとしたんだ)、部屋に案内し、それから食堂に連れて行った。


母さんはちらし寿司を用意していた。日本と言ったらスシだけど、いきなり生の魚じゃきついかと思ったらしい。だからサーモンと海老のちらしだ。

「わぁ〜、すごくきれいね。ちょっと待って。写真撮るから」
リナ姉ちゃんははしゃいだ。奥ゆかしさってものが全然ない人だな。僕はお腹がすいていたので、ぼうっとしていた。

「ほら、ミツ。早く食べましょ」
どっちの家なんだか、わかりゃしない。それに、僕の名前は三貴だ。ミツなんていわれると猫になったみたいじゃないか。

食事の間、僕は忙しかった。父さんと母さんとリナ姉ちゃんの通訳をしていたからだ。
「へえ。これもスシなの。日本人は、毎日寿司を食べているの?」
「そんなわけないだろ。今日は特別」
「じゃあ、普段は何を食べているの?」
「ええと。白いご飯に、魚とか、肉とか、野菜をたっぷりつけて」
「スパゲッティなんかは食べないの?」
「食べるよ。洋食って言うんだ」

母さんがふと興味を持って訊いた。
「スイスではどんなものを食べるのかしら? スパゲッティ?」

僕が訊くとリナ姉ちゃんは頷いた。
「イタリア料理はよく食べるわね。お肉やチーズもたくさん食べるわ」

「こう、これこそ、スイスって料理は?」
父さんの質問にリナ姉ちゃんは肩をすくめた。
「チーズ・フォンデュとラクレットかな。どっちも溶かしたチーズの料理よ」

「他には?」
「私の住んでるグラウビュンデン州の郷土料理は大きな葉っぱでパスタとチーズを包んだカプンツとか、ネギとパスタをスープで煮込んでチーズをかけたピッツォケリとか」
「ここで作れる?」
「ええっ、それは無理よ。カプンツはマンゴルドの葉っぱがないと出来ないし、ピツォケリはそういう名前のパスタがないと出来ないもの」

僕は口を尖らせた。
「なんか、日本でも出来る料理はないの?」
「う〜ん、アルペン・マカロニは?」
「何それ?」
「小さくゆでたジャガイモとマカロニをチーズで和えるの」


アルペン・マカロニ 四人分(スイスのなので日本だと六人分かも……)

300g ジャガイモ
350グラム マカロニ
200グラム ナチュラル・チーズ (エメンタールなど)
(追記:本当は癖の強いチーズと弱いチーズを半々なのですが、癖の強いチーズは香りも強烈です。日本人には好き嫌いがあるかも。手にもなかなか入りませんし。それで、エメンタールなどのパンチの弱いチーズだけを使う場合は、出来てから味を見て、塩を追加してください)
1.5dl 生クリーム
カリカリに揚げたタマネギ、ベーコンなど、適宜

作り方
ジャガイモは1㎝角に切って、5分ほど塩ゆでしておく。
マカロニを表示時間通りゆでる。
オーブンは170℃に温める。
チーズを1㎝角に切る。
ジャガイモとマカロニとチーズを耐熱皿の中で混ぜて生クリームを注ぎ、25分焼く。
トッピングとしてカリカリタマネギやベーコンを散らす。


「ううむ。すごく美味しそうだけど、でも、今、真夏だよ」
「そうね。夏の食べ物じゃないわね。じゃあ、これは?」


ビルヒャー・ミューズリー 二人分

250cc ミューズリー・シリアル
2大さじ 干しぶどう
1大さじ クルミを砕いたもの
2大さじ アーモンドスライス
フルーツ(リンゴ、梨、苺、ブルーベリー、キウイ、バナナ、桃などなんでもいい)
1カップ ヨーグルト
砂糖、または果実のジャム
1/2カップ 牛乳

作り方
すべての材料を混ぜる。


「これ、料理か?」
「料理って言うには語弊があるけど、でも、れっきとしたレシピよ」
「わかった。じゃあ、ミューズリー買ってくるから、週末に作ろうよ」

こうして、僕たちとリナ姉ちゃんの一年間が始まったのだ。
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Posted by 八少女 夕

家を飾る

今回こそ、まともな「美しいスイス」。私の住むグラウビュンデン地方の紹介です。

スクラフィットの家

もう、このブログに足繁く通ってくださっているみなさんはお氣づきかと思いますが、スイスが「お金持ち」の国になったのはかなり近年の事です。もちろん国民全員が大金持ちなはずはなく、この国でも持てる物は一握りです。

しかし、それでも、かつての貧しかった時代に較べれば豊かになったと言えます。この国は、資源もなく国土も狭く、輸出できるのは人力(兵力)ばかりというくらい貧しかったのです。当然、建てた家も質実剛健、領主さまのお館も、ドイツやフランスの派手なお城に較べると悲しくなるくらいに質素でした。

いまや大金持ちのリゾート地として栄えるエンガディン地方も、寒くて貧しかったので、家の外壁に派手な装飾などは出来ませんでした。そこで発達したのがスクラフィットという技法でした。色の違う漆喰を塗り重ねて、上の方を削り取る事で模様を浮き上がらせ、まるで見事な彫刻を施したかのように錯覚させる装飾なのです。

このスクラフィットは、スイスの中でもエンガディン地方を中心とした我がグラウビュンデン州でしか見られません。もし、サン・モリッツ周辺にスキー休暇などでいらっしゃる時には、このあたりの殺人的物価に驚愕するだけでなく、スクラフィットも見学して貧しくても家を美しく飾ろうとしたスイス人の心意氣に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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Posted by 八少女 夕

ラインの滝にいます



シャフハウゼンに来ています。
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Posted by 八少女 夕

【小説】風紋 

moz84さんのお題をもとに書かれたMamuさんの作品にインスパイアされた短編です(彼女の素晴らしい作品は、この記事の下に記載しました)。「愚問」に出した私の愚答は「女だったから」。なぜか。お読みください。


風紋

夜の帳が静かに降りてくる。渇きが癒されぬまま、女はかすんだ目で砂の上を見ていた。ゆっくりとにじり寄ってくる、黒く艶やかな蠍が目に入る。その虫はやがて女の肌をよじ上り、頬へと向かう。汗すらも乾ききった女の体で唯一潤う場所、涙を目指して。女を黒い瞳が見つめている。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。
女は答えない。

*    *    *

問いかけたのは、私です。あなたはとても正直だった。だから、一度も答えてくれませんでした。

空氣が重くだるい夏の午後、あなたはサルマーと碁盤をはさんで語り合っていました。ジャスミンの香りが馥郁たる春の夕べに、あなたはサミーンと宴の席を囲んでいました。肌でお互いを暖めあう冬の朝は、愛らしいアイーシャと過ごしていました。月の消えて星の冷える秋の夜、あなたは私の作った詩に耳を傾けました。語るのはいつも私でした。あなたは、とても正直だった。あなたの黒い瞳が、私の問いに答えていた。けれど、私は他の答えを待っていたのです。

若い頃から辛苦をともにしたサルマーではなく、あなたに必要な財力を与えてくれたサミーンでもなく、若く妬ましくなるほど美しいアイーシャでもなく、大切なのは私だけだと言ってほしかった。

「教えて。一番、愛しいのはだれ?」
あなたは答えてくれませんでした。あなたの黒い瞳は静かに私を見つめていました。それは、こう言っていました。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。

アイーシャがキラキラと輝くエメラルドの首飾りを誇るように身につけていた時に、私は何も言いませんでした。でも、『カリーラとディムナ』の装飾本を見せて来た時には、黙っている事が出来ませんでした。

「なぜ、あの子に私にもくださらなかった高価な本を与えるのですか。あの子は本なんか読まない。宝石や花だけではあの子の氣を引くのに十分ではないとお思いですか。この事がどれほど私を傷つけるのかおわかりではないのですか」
あなたは答えてくれませんでした。あなたの黒い瞳は静かに私を見つめていました。それは、こう言っていました。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。

「私は自分がここにいる意味が見いだせません。何のために生きているのか、わからないのです」
あなたは答えてくれませんでした。あなたの黒い瞳は静かに私を見つめていました。それは、こう言っていました。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。

泣いて、泣いて、泣いて。その度にあなたの言葉は少なくなっていき、戸口にあなたが現われない日が何日も続き、私は自分からあなたに面会を申し込まねばなりませんでした。

「寂しいのです」
「人はみな孤独だ」
「これではたまりません。ほんのわずかでも、国に帰らせてください」
「もう、戻ってこないつもりか」
ずっとあなたの隣にいたかったのに、私は正直に答える事が出来ませんでした。
「わかりません」
輿入れ以来、一度も出た事のなかった門を出る時、私は何度も何度も振り返りました。あなたが走り出て来て、抱きしめ、「どこにも行かせない。愛しているのはお前だけだ」と言ってくれるのを期待して。

*    *    *

銀の鞍の駱駝に女を載せて召使いのハーシムは砂漠を行った。隊商の影も、街の香りもどこにもなくなった頃、奥方さま、奥方さまと面倒を見てくれた彼は態度を豹変させた。

「風が強いから休めだと。だったらそれをよこすんだな」
女は金貨がたくさん入ったゴブラン織りの財布をハーシムに渡さねばならなかった。

星が降りそそぐ夜は、凍える寒さに震えた。
「火をおこしてほしいだと。だったらそれをよこすんだな」
女はルビーとエメラルドの輝く腕輪を渡さねばならなかった。

砂嵐が起こり、駱駝は一歩も歩こうとしなかった。
「砂よけのテントを建ててほしいだと。だったらそれをよこすんだな」
ハーシムは女の着ていた極東の美しい絹の衣服をはぎ取った。

「俺は、これ以上お前に仕えたりはしない。一生遊んで暮らせるお宝を手に入れたからな」
ハーシムはそう宣言すると、女を突き倒した。
「どうか、置き去りにしないでください」
頼みが聞き入れられぬと悟った女はせめて水を残していってほしいと懇願した。
「だったら、これはいただくぜ」
銀の鞍をつけた駱駝に跨がると、ハーシムは陽炎の先に見えているオアシスに向けて駆けていった。女を砂漠の中に一人残して。

女はとぼとぼと歩いた。灼熱の太陽がじりじりと焼き付ける。オアシスは近づいているようでいつも遠ざかった。ファタ・モルガーナ。歩いても歩いても、何も変わらなかった。ハーレムの中庭の噴水の音が聴こえる。尽きせぬ豊かな泉。望めばいつでも逢えた愛しいひと。黒い瞳が問いかける。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。

わずかな水はすぐになくなった。足が砂の中をまともに踏み出せなくなり、倒れては立ち上がり、倒れては立ち上がり、やがて、そのまま横たわった。遠くを隊商が過ぎていく。手を降り助けを求める力は残っていなかった。

あなた。私はまだ待っています。あなたが駆けて来て、「どこにも行かせない」と抱きしめてくれるのを。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。


夜の帳が静かに降りてくる。渇きが癒されぬまま、女はかすんだ目で砂の上を見ていた。ゆっくりとにじり寄ってくる、黒く艶やかな蠍が目に入る。その虫はやがて女の肌をよじ上り、頬へと向かう。汗すらも乾ききった女の体で唯一潤う場所、涙を目指して。女を黒い瞳が見つめている。
――なぜ、お前はそれほど愚かなのだ。
女は答えない。死の帳が静かに降りてくる。

第三夫人が供の者と失踪した後、アフマド・ビン・ムクタディル・ビン・ハマド・アル=ジャーミウは再び妻を娶った。不意にできた空白は、新たな婚姻で埋められ、ハーレムには平和が戻った。

どこまでも続く赤茶色の光景は、陽炎に揺らぎ地平線が見えない。わずかに盛り上がっていた丘の周りに風がサラサラと執拗に砂を運び込み、やがて周りとの段差はなくなった。その平かさに安心したかのように、風はいつもの仕事に専念しだした。どこまでも続く赤茶色の大地に戯れの幾何文様を描いていく。乾いた世界は、今日も何事もなく暮れていった。

(初出:2012年8月 書き下ろし)


愚問


日の傾きかけた砂漠を隊商が行く
その駱駝と人の群れを砂の丘に昇って
東洋人の髪のように黒いサソリが眺めている

傍に横たわる骸の女に見向きもせずに
サソリは群れが行き過ぎるのをただ眺めていた

暗澹たる闇が降りてもサソリは動こうとはしない
己が何者かも知らぬ曖昧さで其処に佇んでいるのだ


─ 幾ばくの時が過ぎただろうか
月の焔が 骸の女を恍惚と浮かび上がらせた

サソリは女に眼を遣り愚問する
「何故美しいのか」と

─ 女は答えない

凝固する血の涙にサソリは更に愚問する
「何故泣くのか」と

─ 女は答えない

苦悶の形相におぞましい逸楽を感じながら
サソリの愚問は続く 
「何故死ぬのか」と

─ 女は答えない

そして 四度の愚問を遮るように月は雲に呑まれ
闇が全てを覆い尽くした

答えぬ女の顔を黒いサソリは無造作に這ってゆく
女とサソリの間にはもはや何も無い
其処にはただ生と死が転がっていた



愚問 (特別編) - Poem Spice-久遠の詩-

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Posted by 八少女 夕

大道芸人たちの見た風景 - 10 -

評判のいい海外の写真をエサに、読んでほしい小説「大道芸人たち」のアピールをしまおうという無茶な企画。でも、今は四人が日本にいるので、日本編。

安芸の宮島に行ったのは、去年ではなくてその前の帰国の時でした。以前、広島には行ったことがあるのですが、宮島ははじめてでした。やはり、一度は行ってみたい所ですよね。

奉納されたお酒 「大道芸人たち」にも出てきた奉納されたお酒の数々(笑)

旅館二泊で七回お風呂に入り、いったい何しにいったんだという状態でしたが、もちろん厳島神社の参拝はしましたよ。私は回廊が好きです。もともと回廊フリークは私の母なのですが、つき合って回廊っぽい所をよく回っているうちにうつってしまいました。厳島神社は、どんな回廊フリークでも満足するであろう、回廊のオンパレード。海に浮かんでいるように感じる建築の様式美も素晴らしい。大切にしたい日本の宝ですね。

この記事を読んで「大道芸人たち」を読みたくなった方は、こちらからどうぞ
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Posted by 八少女 夕

「お祭りに浴衣は着ていく?」

今は、着ませんけれどね。っていうか、お祭りないし。でも、何を隠そう、私は一人で着物を着られるのです。お嬢様だからとか、着付け教室に通ったとか、そういう事ではありません。実は短い間ですが、呉服の販売に関わった事があるのです。

当時は、夏の催事ではよく浴衣を着ました。お正月には小紋を着て仕事をしました。当時誂えた着物の一部や浴衣はスイスに持ってきていますが、ここぞという時に着物で出かけていくと「おおお」という注目の的になります。

他の事はともかく、海外で暮らすならナショナルコスチュームとして着物ぐらいは着られるようにしておいた方がいいと思います。大変なのは帯だけですが、つけ帯にしてもいいのです。そして、お茶。お手前が出来なくてもいいですが、出されたお茶をいただける程度のお作法は身につけた方がいいでしょうね。実は日本にいるときよりはそういう機会が増えるのです。

日本の文化を背負う必要はありませんが、少なくとも外国人に呆れられない程度には身につけておきたい。かじっておいて本当によかったと思っています。


こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当ほうじょうです。今日のテーマは「お祭りに浴衣は着ていく?」です。夏本番あちこちで花火大会やお祭りに行ってきた~という話を聞くようになりましたお祭りに浴衣は着ていきますか?女性が浴衣を着ていくことはよくありますが男性が浴衣を着ていても、女性の方は素敵と思っていたりしますよ!男性の皆さんもぜひ「浴衣は女の人だけ」と思わずにどんど...
トラックバックテーマ 第1479回「お祭りに浴衣は着ていく?」

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Posted by 八少女 夕

夏休みのあった頃

「あった頃」と過去形で書いていますが、あるんですよ、今でも。とはいえ、学生の頃のように長い休みがあるわけではありません。ブログのお友達(この言葉、ブロともさんとリンク先さんを総称してそう使わせてもらっています)のところで夏休み関係の記事が多いので、ああ、そういう時期なんだなあと羨ましく眺めています。

一年間に休みは四週間。お盆や年末年始の一斉休暇などというものはないので、有休を三つに分けて、夏に二週間、クリスマスに一週間、春先に一週間という具合にとっています。そして、仕事が追ってこないように、海外に逃げます(笑)

学生の頃は、思えばとても長いお休みがありました。まあ、ありがたみがわかっていなかったので、だらだらと過ごしましたよ。大学三年生の時には、55日間かけてエジプトからロンドンまでいく、ユーレイルパスを使ったヨーロッパ貧乏周遊旅行もしました。お金はなかったけれど、時間はたっぷりあって楽しかったですね。「大道芸人たち」の旅のイメージは、あの旅行から来ているのかもしれません。

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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (22)厳島、 海つ路

食べ物同様に私が煩悩しているのは、温泉です。これだけは日本じゃないとね〜。温泉そのものはヨーロッパにもあるんですが、水着を着て入ると感じがでないんですよね。

ようやく四人は観光らしい観光を始めました。富士山に次いで「日本と言えば」な風景。厳島です。


あらすじと登場人物
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大道芸人たち Artistas callejeros
(22)厳島、 海つ路



「あの島に渡るんじゃないのか?」
ヴィルが訊いた。四人は厳島を臨む宮島口に来ていた。ガイジン二人も知っている海の中の大鳥居が見えている。

「その通り。でも、ちょっと寄り道しようぜ。お蝶がこの店に煩悩しているんだとさ」
稔が、船着き場の近くにある穴子料理の有名店を指した。

「人が並んでいる」
レネは目を白黒させたが蝶子はひるまなかった。
「こんなに行列が少ないのは、お昼時じゃないからよ。ねえ、いいでしょう」

 運がよかったのか、五分も待たずに四人は座れた。ガイジン軍団が何かを言い出す前に、蝶子は素早く白焼きと一緒に日本酒を頼んだ。酒さえあればともかく二人は黙るのだ。

「穴子ってなんですか?」
「うなぎの仲間だよ」
「えっ」
レネは青くなった。レネにとって鰻とは、まずくてしかたない魚料理の代名詞だった。

「大丈夫よ。イギリス人と日本人は調理方法が違うの。そんなにまずくないから、たぶん……」
蝶子がウィンクした。

 他には何もないレストランなので、レネは覚悟を決めた。そして出てきた白焼きにおそるおそる手を出した。
「あ、美味しい」
レネは目を丸くした。

 香ばしい上に、わさびと塩というシンプルな味付けが素材を引き立てていた。ヴィルもついに完全に魚嫌いを克服したようだった。日本酒との組み合わせを堪能している。周りの客たちが、その四人を遠巻きに興味津々で見ていた。

 やがてあなご飯が運ばれてきた。稔は大喜びでかき込んだ。
「本当に美味いよな、これ。噂には聞いていたけれど」
「そうでしょう? ここに来るんなら食べないなんて考えられないわよね」
蝶子も大喜びだった。

 一方、ヴィルは首を傾げていた。レネも不思議そうな顔をして食べていた。
「美味しくない?」
蝶子が訊くとヴィルは答えた。
「美味いけれど、なぜ甘いんだ?」

 稔と蝶子は顔を見合わせてから吹き出した。
「そうか。ガイジンには新鮮だよな。日本料理にはこういう甘辛味のものがあるんだよ」
「そういえば、西洋料理にはこういうのなかったかしらね」


「あれは、どうして海の中に立っているんですか?」
船は厳島にぐんぐんと近づいていた。レネは大鳥居を指差して訊いた。

「あれはねぇ。神道のシュラインに入るための門なのよ。で、普通、シュラインは建物なんだけれど、ここは島そのものが信仰対象なの。だから島の手前に門があるってわけ」
「島そのもの? シントーは自然崇拝なんですか?」

「日本人の考え方では、何にでも神が宿るんだ。古木の生命力を信仰する事もあれば、コメ一粒の中にも神が宿るってね。だけど自然そのものでなくて名前のある人間みたいな神様もいっぱいいる。ギリシャ神話みたいにエピソードのいっぱいある神様もいるんだぜ」
稔が説明したが、レネはますます混乱するようだった。

「馬鹿みたいに思える?」
蝶子はヴィルに訊いた。理詰めのドイツ人にはついていけない感覚ではないかと思ったのだ。

「あんたたちは、その神様のエピソードが実際にあったと信じているのか?」
「まさか」
蝶子はびっくりして言った。ギリシャにだってゼウスだのアフロディテだのを信じている人なんかいないだろう。

「信じていないのに、祈るのか?」
「エピソードに祈るわけじゃないわ。でも、何百年も生きてきた大木や、千年以上前に名工が掘り出した仏像や、自分たちがどうにも出来ない運命を司るぼんやりとした存在に、尊敬の気持ちと願いを込めて手を合わせるの。その他にも、今日も無事に生きられてご飯が食べられます、おいしいお酒が飲めますって感謝したりね」
「なるほど」

 ヴィルはわかるとも下らないとも言わなかった。ヨーロッパで信じられている馬鹿馬鹿しい事、例えばイタリアの街に聖母マリアの家が空を飛んでやってきた、などという伝説には理路整然と反論する事が出来る。だが、今日、うまい酒が飲める事に感謝するのに反対する必要があるだろうか。

 蝶子は、海をわたる潮風を受けていた。コルシカフェリーの上でフルートを吹いていたとき、海は冷たかった。どこに行くのかわからず、何をしていいのかもわからなかった。広い世界にひとりぼっちだった。次に海を渡ったのは、アフリカ大陸への小旅行だった。あの時のメンバーが、いまここにいる。地中海が瀬戸内海に変わっても、いつも一緒にArtistas callejerosの仲間たちがいる。これほど感謝したくなる事があるだろうか。蝶子はフルートの入った鞄をぎゅっと抱きしめた。

 稔がインターネットカフェで予約したのは、本来ならばとても四人が泊まれるような旅館ではなかった。だが、インターネット限定プランが直前価格で激安になっていたために、一人頭で割ると朝食付きなのに素泊まりの安宿よりも安くなったので、迷いなくそこにしたのだ。それは、厳島の中にある評判のいい旅館で、頼んだのはベッドが二つと、布団を敷ける和室が一体になった広い部屋だった。

「旅館を体験できるいいチャンスだろ」
「ついでにお部屋での食事も頼んじゃえば? 滅多にできない体験づくしで」

「そうするか。部屋で飲みまくるのもいいよな。よし、ヘビ女に返してもらった金はここで遣おう」
「あら、私たちもちゃんと出すわよ。この旅行、思ったよりも全然お金遣っていないし」

「いいんだ。部屋代は割り勘にするけど、ここの酒と飯は俺におごらせてくれ。お前たちが来るって決めてくれなかったら、今でも俺はヨーロッパで家族の事を悩んでいただろうし」
そして、稔はその旅館に二泊する予約をしたのだ。

 船着き場から、島の中心の方に歩いていくと、鹿の集団が餌を求めてまとわりついてきた。ようやく梅雨が明けて、夏らしくなってきていた。したたる緑の彼方から蝉がうるさいほどに鳴いている。

「この暑さと湿氣! 忘れていたわ。これが日本の夏だったわね」
蝶子はうんざりして言った。

「この湿氣は雨が降っていたからじゃなかったんですね」
レネが汗を拭きながら言った。

「海のせいなのか?」
ヴィルの疑問には稔ははっきりとは答えられなかった。
「海辺じゃなくても湿氣はあるよな。冬は乾燥するし。わかんねえや」

「やっぱりヨーロッパの夏の方がずっと快適よね。それでも、ここは都会じゃない分、少しは涼しいはずなのよね」
蝶子がいうとレネが訊いた。
「どうしてですか?」

「都会だと、どの建物も冷房するから、そのぶん外が暑くなるんだ」
稔がそう答えた時に、蝶子が旅館の看板を見つけて歓声を上げた。

 一歩旅館の中に入ると、冷房が効いていた。入り口では従業員が深々とお辞儀をしたので、レネがびっくりして後ずさりをし、稔と蝶子はその様子を見て笑った。チェックインが済むと仲居に案内されて四人は部屋に向かった。荷物を持とうとした仲居に、レネとヴィルはびっくりして断った。従業員とはいえ若い女性に荷物を持たせるなどという事は、彼らにはあり得ない事だった。稔も笑って断ったが、仲居が本当に困っているので蝶子は自分の荷物を渡した。

 旅館の滞在は、ガイジン二人にはカルチャーショックの連続だった。お茶を淹れてくれ、館内の案内と浴衣や手ぬぐいなどの説明をにこやかにしてくれた仲居が、夕食の時も部屋にサービスに来ると聞いて耳を疑った。

 食事の前にひと風呂浴びようと、稔と蝶子は二人を連れて大浴場に向かった。

「女性とは、別れているものなんですか」
レネは入り口を見て、がっかりしたように言った。

「当たり前だろ。全裸で入るんだから、一緒に出来るか」
「ええっ。全裸? でも、知らない人もいるのに?」

「慣れれば何ともなくなるわよ、じゃあ、あとでね」
蝶子は嬉々として隣ののれんをくぐって消えた。

 露天風呂に入るのは十年ぶりぐらいだった。蝶子は蝉時雨に耳を傾けながら、思う存分手足をのばして、久しぶりの温泉を心ゆくまで堪能した。

 竹垣の向こうからは、英語で騒ぐ声が聞こえてくる。
「え。だって、外ですよ」
「そうだよ。さっさと入れよ。おっと、その手ぬぐいはお湯に入れちゃダメなんだ」
「はあ。えっ、熱いじゃないですか」

 蝶子は声を立てて笑った。さぞかし周りの日本人たちは奇異な目で見ている事だろう。

「おい、お蝶。何笑ってんだよ」
稔が竹垣越しに声をかけた。

「大変だろうなと思って。何もかもはじめてでしょう、その二人」
「ブラン・ベックがまだ入ろうとしなんないんだよ」
「テデスコは?」
「平然と入っているぜ」
「本当に熱いな、このお湯」
案の定、文句を言っている。蝶子は爆笑した。稔たちの周りの男性客だけでなく、いまや蝶子の周りの女性客も遠巻きに見ていた。

「真冬に、露天で雪見酒飲んだら美味しいでしょうね」
蝶子がいうと稔は叫び返した。
「よし、次回は冬に来ようぜ。それで、露天の部屋風呂のある宿にしよう。感じでないけど海水パンツ着てさ」

 蝶子は笑った。日本に再び来るかどうかわからないけれど、その時はまたこの四人だといい、そう願って。


 蝶子が部屋に戻ると、間を置かずに稔たちも帰ってきた。
「浴衣を着せるのもまた一苦労だったんだぜ」

 蝶子は感心して三人を見た。
「悪くないじゃない。似合っているわよ、二人とも」

 レネとヴィルは黙って顔を見合わせた。まんざらではない。

「でも、ヤスは本当に板についているわねぇ」
蝶子はため息をついた。単に日本人として浴衣が似合うというだけではなく、その着崩し方までが自然でいなせだった。蝶子は改めて稔が邦楽家であることとを思い出した。

「当たり前だ。俺はこういうのを着て育ったんだ。でも、お蝶も粋だぜ」
「そう? ありがとう。浴衣って、このくらい衣紋を抜いていいんだったかしら」
「ああ、だが、髪はアップにしろよ。そのほうが色っぽくなるからさ」
稔はウィンクした。あまり色っぽすぎても困るけどな、そう心の中でつぶやいた。


 仲居がどんどん食事を運んできた。
「お料理の説明をさせていただきます。季節の先付はサーモンとすり身の寄せものでございます。お造りは鮪とイカとカンパチになります。こちらは茶碗蒸しでございます。焼物は生帆立貝柱バター焼、揚物は鱧とお野菜の天麩羅でございます。こちらのお一人様用の鍋は和牛のミニステーキの野菜添えでございます。固形燃料の火が消えるまで、蓋を開けないようにお願いいたします。白飯と香の物、最後に水菓子となります」

 一氣に言われた説明を、蝶子と稔は放心して聞いていた。ヴィルとレネは通訳を待ったが、稔は簡単に言った。
「あ~、魚と野菜と肉だ。食う時に訊いてくれ。憶えている限り説明するから。とにかく乾杯するか」

 飲み放題コースを頼んでおいたので、四人はスペインでのペースで飲みだした。

「なんてきれいなんだろう。これ、食べるの、もったいないじゃないですか」
レネがいちいち感心していった。

「作るのは大変だけれど、食べるのは一口よねえ」
蝶子が先付けをつるりと食べていった。

「魚ばっかりだけど、大丈夫か?」
稔はヴィルに訊いた。

「生なのに、まったく生臭くないな。この変な草以外」
そういって海藻をよけた。

「これは確かにハードル高いわよねぇ」
蝶子は熱燗をヴィルの盃に満たして笑った。

「このキモノコスチュームを着ると二人とも急に変わるんですね」
レネが言った。

「どう変わった?」
自覚のない稔は蝶子と顔を見合わせた。

「動きが、柔らかくなっている。力も抜けているな」
ヴィルが言った。

 稔はどっしりと安定してリラックスし、蝶子は柔らかく色っぽくなっている。酒を注ぐときも片方の手が袖を押さえる。それがとても美しい。ヨーロッパではほとんど男性に酒を注がない蝶子は、ここ日本では率先してその役目をし、反対にヨーロッパではマメな稔はほとんど何もしなくなる。彼らは今、日本人の男女に戻っているのだ。


 朝、目を醒ますと蝶子と稔がいなくなっていたので、レネはキョロキョロと見回した。部屋の窓辺に座っていたヴィルが言った。
「温泉に行っているよ」

「またですか?」
「朝に入るのは格別なんだそうだ。俺はシャワーで十分だから遠慮したがな」

 ぼーっとしていると、昨日の仲居が入ってきた。
「おはようございます。お食事の用意ができています。食堂へどうぞ」

 もちろん二人は何を言っているのかわからない。片言の英語で意思の疎通をしようとする仲居の相手をしている所に、稔と蝶子が相次いで帰ってきた。仲居は心からほっとしたようだった。

 朝食の内容にガイジン軍団はまたしても目を白黒させた。
「魚? 朝から?」

 稔と蝶子はほらきたという顔をして笑った。
「今日と明日だけだから、日本の朝ご飯を堪能してよね」
「あとの宿は素泊まりにするから、喫茶店とかで洋風のものが食べられるしな」


 朝一番で、四人が行ったのは厳島神社だった。朱色の柱の鮮やかな回廊、海の上に張り出す舞台。そのエキゾチックさに感動していた上、歴史についての説明を聞くと、ますますレネは興奮した。ヴィルは台風で何度も壊れた神社がその度に再建されてきた事に興味を持ったようだった。

 それから四人は大層心惹かれるものを目にした。奉納された酒樽の山だった。
「昨日の酒は美味かったな。今夜もあれを頼めるのか?」
ヴィルの問いに稔は大きく頷いた。
「飲み放題にしおいて大正解だったな。旅館の方は迷惑かもしれないけれど、二晩だから、いいだろう」

「午後はどうするんですか?」
レネの問いに蝶子は地図を見ながら答えた。
「裏の方の山をハイキングできるみたいよ。暑いからイヤというなら、旅館にいてもいいけれど」

「冷房の中だけにいるのも体に悪そうだよな」
稔が言うとヴィルも頷いた。
「汗をかいたら、また例の風呂に入ればいいんだろう」

「温泉、好きになってきたの?」
蝶子はおもしろがって訊いた。
「あの熱い湯から出ると、暑さが氣にならなくなる」
稔と蝶子はゲラゲラ笑った。
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Posted by 八少女 夕

最初の青写真

自分の中では、すっかりお馴染みになり、好き勝手に動いてくれる「大道芸人たち」の主要キャラ四人。私の頭の中に最初に浮かんだ時には、実は四人ではありませんでした。

一番最初に出てきた主要人物は三人。現在の蝶子、フランス系スイス人(「歓喜のロンド」のアンリに近いキャラ)、そしてエッシェンドルフ教授でした。そもそも大道芸人としてヨーロッパをまわるストーリーではなく、ヴァイオリニストの女とスイスの男はコルシカで出会い、コルシカを一緒に旅した後で男がドイツに女を追っていく、という話でございました。だから現在の「大道芸人たち」もコルシカから始まるわけなのです。

しかしねぇ。このスイス男、どう考えても役不足。だめだこりゃ、だったんですね。レネが教授にはどうやっても太刀打ちできないのと大差なかったのです。二人はダメだ。でも、三人もダメ。ドリカム状態(最近の若い人には通じないかしら?)では、間違いなく怪しい展開になるぞってことで。それで四人に落ち着きました。

女二人、男二人みたいなのはややこしくなるし、これ以上主要人物を増やすと、複雑になりすぎる。ゴレンジャーには一人足りないけれど、まあ、男どもの中の紅一点というのもいいかなと思って、この話が始まったのでした。
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Posted by 八少女 夕

トマト・トマト・トマト!

「また、食べ物かよ」という突っ込みは覚悟の上。「美しいスイス」カテゴリーをすっ飛ばしてトマトへの愛を語らせていただきます。

トマト・トマト・トマト!これはイタリアの市場で見たトマト・オンパレード

「アルメリアのトマト」という言葉をご存知でしょうか。って、一般の日本の方はご存知な訳がないですね。アルメリアはスペインの地名で、ここにはオランダ資本の作った野菜の一大プランテーションがあるのです。野菜の工場みたいなものです。ヨーロッパのスーパーで売られている安いトマトは、オランダのハウスで作られたものか、アルメリア産。一年中手に入り、丸くて瑕はないけれど、ほとんど味もない水っぽいトマトなのです。

美味しいトマトは、一年中食べられるものではありません。それは、誰かの庭でなったり、地元の農家で一つひとつ大切に作られた太陽の恵みを蓄えた真夏の果実です。私がみつけたのは、ブルーベリーを摘みに行く有機農家でのトマト。甘くて美味しい! 

ドイツ系スイス人は、イタリア人やフランス人と較べて、あまりグルメではありません。彼らは美味しいものを食べるよりは、キッチンがピカピカなのを好むような人々。日本みたいに品種改良に必死にならないので、美味しいものばかりが市場をにぎわす国ではありません。だからこそ、美味しいものを見つけたときの喜びはひとしお。今週もヘーゼルナッツの木の下で、カプレーゼとバゲットとロゼを楽しむ事にしましょう。
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