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【小説】夜のサーカスと小麦色のグラス

Posted by 八少女 夕

う〜む。ここしばらくずっと二日に一度の小説更新になってる。scriviamo!の締切間近って、去年もこんなでしたっけね。scriviamo!は、お題をいただいてから二日が勝負です。これ以上ぐずぐずしていると、次のお題が上がってきてしまって、脳内がごった煮になってしまう。現在、いただいた分のラストの執筆中。既に手を上げてくださった方はいつまでもお待ちしますが、まだ手を挙げていない方、締切は本日でございます。

で、本日は月末の定番「夜のサーカス」です。ステラと上手くいっていたはずのヨナタン。また面倒なことになってしまいました。いよいよこのストーリーも終わりに近づいています。今回ようやくドイツの政治家シュタインマイヤー氏が登場です。アントネッラとシュタインマイヤー氏のやっている謎解きに挑戦なさりたい方は、どうぞご一緒に。(謎ときってほどのことは、何もないんですけれどね〜)


月刊・Stella ステルラ 3月号参加 掌編小説 シリーズ連載 月刊・Stella ステルラ


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物





夜のサーカスと小麦色のグラス

夜のサーカスと小麦色のグラス


「なんだって……」
チルクス・ノッテの団員たちは、団長ロマーノがぽかんと口を開けているのをはじめて見た。春の興行の方向性を話し合う会議で、ついでに今年の休暇のプランを知りたいと言うと、今まで休暇を申請したことのないブルーノがマッダレーナと立ち上がって宣言したのだ。
「夏に二人で一週間くらい休みたい」

「なぜ二人でなんだ。演目が限られて困るんだが」
ロマーノは多少苛ついた様相で難色を示した。するとマッダレーナは腕を組んで挑発的に微笑んだ。
「挙式とハネムーンってのは一人では出来ないのよね」

「ええ~!」
共同キャラバンの中は蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、ロマーノはショックを隠しきれずに棒立ちしていた。が、ジュリアがすばやく二人の元に来て、それぞれの頬にキスして祝福し、他の団員たちも大喜びでそれに連なった。

「やったな、やったな、ブルーノ!」
「おめでとう。本当によかったな」

 普段はめったに笑顔を見せないブルーノが嬉しそうにはにかみ、マッダレーナはそのブルーノの逞しい腕にぶら下がるように腕を組み、皆の祝福を楽しんでいた。

「本当によかった! ね、ヨナタン」
会議が終わり、それぞれのキャラバンの方へと歩いている時に、ステラは道化師に話しかけた。ヨナタンは静かに微笑んで頷いた。

「ブルーノとマッダレーナ、カプリ島に行くんですって。青の洞窟でハネムーンなんて、ロマンティックでいいなあ。マッダレーナの花嫁姿、綺麗でしょうねぇ」

 バージンロードをゆっくりと歩む美しい花嫁姿を想像しているうちに、ステラの想像の中ではいつの間にか花嫁がマッダレーナから自分の姿へと変わっていた。その白昼夢の続きで、ふと彼女は隣を歩いている大好きな青年の横顔を眺めた。そうよ、夢も未来も、こんなふうに……。
「ねぇ、ヨナタン。私もいつか、あんな風に幸せな発表してお嫁さんになりたいなあ」

 ヨナタンはステラの方に顔を向けた。期待いっぱいに目を輝かせる少女と目が合った。彼は少し震えたように見えた。柔和で優しい表情が強ばって、微笑みが消えた。ステラは戸惑った。え? どうして?

 短い沈黙の後、彼の唇がそっと動き、一度きつく一文字に結ばれた後、もう一度開いた。かすれた声がステラの耳に入ってきた。
「存在していない人間とは結婚できないよ……」

 ステラはぞっとした。すっかり忘れていた。ヨナタンにはパスポートがなかった。どこから来たかや誰なのかも秘密だった。もちろん役所で結婚はできないだろう。でも、彼女にとってはそんなことはどうでもよかった。だから、考えもしなかったのだ。それで、慌てて言った。
「あ、ごめんなさい。そういうことじゃなくて……」

 けれど、ヨナタンにとっては、それは別のことでもなければ、どうでもいいことでもなかった。
――僕が幸せになりたくて真実をねじ曲げようとしたから、彼らは犠牲になった……。また同じ事をするつもりか。全て諦めて死んだ人間になるつもりじゃなかったのか。何も知らない、疑う事を知らない、穢れないステラをどうするつもりだったんだ。

「僕が間違っていた。君のためにも、もう、僕には関わらない方がいい」
そういうと、すっと離れると自分のキャラバンカーに入って鍵をかけてしまった。

「ヨナタン、ヨナタン、どうしたの? そんなことで怒らないで! いやなら、もう、言わないから」
ステラが何を言おうと、彼は答えなかった。

 それから、ヨナタンはステラに関わろうとしなくなってしまった。他の団員たちとはいつも通り多少距離のある普通の関係を保っていた。ステラにだけ親しくて微笑み、泣いていればそっと力づけていた優しい対応だけが完全に消えてしまった。演技上必要な時以外は口もきかず、視線を合わせることもしなくなってしまった。諦めの悪いステラが何度懇願しても同じだった。

「どうしよう。どうして? お嫁さんになんかなれなくてもいい、こんなのいや」
泣きじゃくるステラの様子がたまらなかったらしく、ダリオやルイージがそっとヨナタンに話をしようと試みたが、ヨナタンは首を振るだけだった。
「しばらくすれば、彼女も諦めて他の幸せを探すでしょう。そのほうがいいんです」

* * *


「なあ、ステラ。お前のしつこさは重々わかっているけどさ。あれから二週間も経っているじゃないか」
その晩、マッテオは食事当番だった。舞台点検が長引いて食事の遅れているヨナタンを待っているステラにいいチャンスだと話しかけた。彼は最近よく飲んでいるベルギービールの缶を傾けてとくとくとグラスに注いだ。小麦色の液体は綺麗な泡をつくってグラスを満たした。ステラはそのグラスを睨みつけた。

「うるさい。マッテオには関係ないでしょ」
「関係なくないよ。僕は、お前のことを子供の頃からよく知っている。疑うことを知らない純真なお前のことは氣にいっているけどさ。でも、時には眼を逸らさずに現実を見つめられるよう、手助けをしてやるのが本当の友情で愛情だと思うぜ」

「現実って何よ」
ステラはマッテオがいつもヨナタンに批判的なので、警戒しながら唇を尖らせた。

「パスポートがなかったのは、ブルーノも同じだろう。事情があって、正規の名前が名乗れないこと自体は、僕だってそんなに悪いことだと思わないさ。だけどさ、本当に大切な人には、その事情を話せないなんてことはないよ。あいつがそれをお前に話さないのは、一、お前を大して大切に思っていないか、二、どんな大切な人にも話せないとんでもない悪いことをしてきたか、そのどっちかしかないだろう。どっちにしてもあんなヤツやめた方がいいってことさ」

 ステラは拳を振り上げてマッテオに挑みかかった。マッテオは、ビールがこぼれないようにグラスをそっとテーブルの上に置いて、それから余裕の表情でステラを見た。
「ほら、涙ぐんでいる。いくら怒っても、お前だって僕の話が正論だって分かっているんじゃないか」

「正論なんかじゃない! マッテオにだってわかっているはずよ。ヨナタンがどんなに優しい人か。悪いことなんかしてきたはずがないでしょう」
「どうかねぇ。お城の坊ちゃんで、何不自由なく暮らせる大金持ちが、こそこそ道化師のフリをして隠れているとしたら、何か犯罪が絡んでいると思っても……」

 ステラはきょとんとした。
「お城の坊ちゃん……?」

 マッテオはほんの少しだけしまったという表情をしたが、ちろっと舌を見せるとむしろ得意そうになって上を見上げた。

「マッテオ。ちゃんと言いなさいよ。何を隠しているの。この間からコソコソしていたでしょう」
ステラの追求に、マッテオは声を顰めた。
「まあな。実は、まだ決定的な証拠はないんだけどさ、かなりの確率で正しそうな推論を持っているのさ」

「どういうこと」
「あいつが誰かを偶然知った人がいるんだ。ほら、《イル・ロスポ》に教えてもらったコモ湖の小説を書くおばさんだけどさ。僕は、あの人の推論は間違いないと思うぜ」

「どんな推論よ」
「はっきりするまで内緒。でも全部説明がつくんだ。あいつが何者で、なぜ濡れて行き倒れかけていたかが。明日、また行くんだ。もしかしたら写真が手に入るかもしれないって言っていたからな。写真があればもう間違いないだろう?」

 ステラはすくっと立ち上がって宣言した。
「私も行く」

「なんだよ。おまえ、いきなりあいつは悪者だって現実に直面するつもりになったのか? いいことだけどな」
「違うわよ。ヨナタンがああやって隠れていなくちゃいけないのには、何かちゃんとした理由があるのよ。それがはっきりしたら、助けて上げられることだってあるはずでしょう? ヨナタンにパスポートを取り戻してあげることだってできるかもしれない」

「なんだよ。まあいいや、とにかくお前がつらい現実を直視しなくちゃいけない瞬間には、この僕がちゃんと支えてやるからさ、安心しろよ。じゃ、明日、八時のバスに乗るからちゃんと用意しとけよ」

* * *


 シュタインマイヤー氏はベルリン警察の資料室にいた。すでに警察を退職した彼にはこの部屋に入る権利はなかったのだが、現在の警察署長は在職中の彼の同僚だった男で、ミハエル・ツィンマーマンの尻尾をつかむチャンスがあるかもしれないと言われれば、多少の規則違反には目をつぶってくれた。

 ツィンマーマンはアデレールブルグ財団の理事長だ。未解決のボーデン湖事件をはじめ、いくつものきな臭い件に関わっているとされ、バイエルンの闇社会の中心と目されている人物だが、故伯爵の母アデレールブルグ夫人の実兄であり社交界と実業界に大きな影響力を持っていて、確証なしには手が出せない。

 シュタインマイヤー氏はローヴェンブロイの満たされたグラスをそっと持ち上げて口に運んだが、目はずっと報告書に釘付けになっていた。

 彼が読んでいるのは、かつて自分が作成した報告書だった。ボーデン湖事件に関してアデレールブルグ城で家政取締を勤めていたマグダ夫人の証言。アントネッラからボーデン湖で自殺したとされている少年とおぼしき青年がいると連絡を受けて、彼はもう一度あの事件の要点を整理してみようと思ったのだ。あの時の自分の一番の疑問は、あそこで飛び込んだ少年は本当にイェルク・ミュラーだったのかということだった。

「はい。私は伯爵さまがなくなるまで三年ほどお屋敷でお世話になりました。はい、存じ上げております。私どもは伯爵さまを若様とおよび申し上げ、もう一人の少年を小さい若様とお呼びしていました。お二人はとても仲がよく、奥さまもお二人を同じように愛しておられましたので、私ども使用人は当時お二人は実のご兄弟だと信じておりました」

――イェルク・ミュラー少年、歳の若い方の少年が両親を殺害してボーデン湖に身を投げた件だが、実の両親を突然刺殺するような衝動的な所のある少年だったのかね。
「とんでもございません。あの小さい若様に限って、そんなことが出来るはずがございません。本当に天使のようなお方で。もちろん、その、言葉は悪いですが、知能という面で多少の問題がおありの方でしたので、刃物で刺されるとどうなるかわからなかったという可能性はないとはいいきれませんが……」

――しかし、そこまで知能の低い少年が自力で六十キロ離れた自宅に戻るという事が可能かね。
「それは不可能だと思います。小さい若様は、私の知るかぎり、お城から一歩も出たことはありませんし、電車の運賃のシステムなどもご存じなく、地図もお読みになれなかったと……」

――別の質問をしよう。伯爵は健康に問題があったのかね。
「いいえ、とても健康で、発育もおよろしく、しかも摂生にも努められておられました」

――その伯爵が突然亡くなられたと。彼が急死した時、あなたはどこにいたのか。
「私はミュンヘン市内の実家におりました。小さい若様が最初にご病氣になられたのです。若様と奥さまはとても心配なさって看病をなさっていらっしゃいました。お医者さまが伝染病の可能性があるとおっしゃって、私ども使用人のほとんどがお屋敷を離れたのです。残ったのは、ああ、かわいそうなアニタとミリアム……」

――伯爵葬儀の直後に亡くなったケラー嬢とマウエル嬢だね。
「ええ、お二人の看病をしているうちに伝染ったのだと聞きました」

――そして、無事に元氣になったミュラー少年が、自分を看病してくれた伯爵や使用人が病で倒れている隙に、城を勝手に出て、自分の両親を殺害して自殺したと……。
「私にはそのお話はとても信じられません。今でも何かの間違いだと信じております」

――最後に一つ。伝染病の疑いで城を出てから、最後にアデレールブルグ城を訪れたのは、伯爵の葬儀のときだったのか。
「いいえ。私どもはお葬式には参列していません。自宅で待機するようにと言われ、ニュースでご葬儀が行われたと知ってびっくりしたのです。でも、奥さまは自宅待機の分も含めて半年分のお給料を払ってくださった上、全ての使用人の次の勤め先を決めてくださいました。文句を言うつもりは毛頭ございません」

(初出:2014年2月 書き下ろし)
.28 2014 小説・夜のサーカス trackback0

【小説】歩道橋に佇んで — Featuring 『この星空の向こうに』

Posted by 八少女 夕

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。
scriviamo!

月刊・Stella ステルラ 3月号参加 掌編小説 月刊・Stella ステルラ


scriviamo!の第十三弾です。(ついでに、TOM-Fさんの分と一緒にStellaにも出しちゃいます)
TOM-Fさんは、 Stellaで大好評のうちに完結した「あの日、星空の下で」とのコラボの掌編を書いてくださいました。本当にありがとうございます。


TOM-Fさんの書いてくださった掌編 『この星空の向こうに』-Featuring『マンハッタンの日本人』

TOM-Fさんは、小説書きのブロガーさんです。代表作の『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』、天平時代と平安時代の四つの物語を見事に融合させた『妹背の桜』など、守備範囲が広いのがとても羨ましい方です。こだわった詳細の書き込みと、テンポのあるアクションと、緩急のつけ方は勉強になるなと思いつつ、真似できないので眺めているだけの私です。

「あの日、星空の下で」は、TOM-Fさんの「天文オタク」(褒め言葉ですよ!)の一面が遺憾なく発揮された作品で、さらに主人公のあまりにも羨ましい境遇に、読者からよくツッコミが入っていた名作です。お相手に選んでいただいたのが、何故か今年引っ張りだこの「マンハッタンの日本人」谷口美穂。TOM-Fさんの所の綾乃ちゃんと較べると、もう比較するのも悲しい境遇ですが書いていただいたからには、無理矢理形にいたしました。今年も同時発表になりますが、できれば先にTOM-Fさんの方からお読みくださいませ。


とくに読む必要はありませんが、「マンハッタンの日本人」を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
 「マンハッタンの日本人」
 「それでもまだここで 続・マンハッタンの日本人」
 「花見をしたら 続々・マンハッタンの日本人」



「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



歩道橋に佇んで 〜 続々々・マンハッタンの日本人
— Featuring 『この星空の向こうに』

——Special thanks to Tom-F-SAN

 風が通る。ビルの間を突風となって通り過ぎる。美穂はクリーム色の歩道橋の上で忙しく行き来する車や人のざわめきをぼんやりと聞いていた。

「あ……」
髪を縛っていた青いリボンが、一瞬だけ美穂の前を漂ってから飛ばされていった。手を伸ばしたが届かなかった。艶やかなサテンは光を反射しながらゆっくりと街路樹の陰に消えていった。

「お氣にいりだったんだけれどな……」
留学時代や銀行に勤めていた頃に手に入れたものは、少しずつ美穂の前から姿を消していた。仕事や銀行預金だけではなくて、もう着ることのなくなったスーツ、高級さが売り物の文房具、デパートでしか買えない食材は今の美穂とは縁のないものだった。

 美穂の勤めている《Star's Diner》に、突然現れたあの少女のことが頭によぎった。春日綾乃。かちっとした紺のブレザー、ハキハキとした態度。希望と野心に満ちた美少女。コロンビア大学の天体物理学に在学中で、ジャーナリズム・スクールにも所属しているとは、とんでもなく優秀な子だ。はち切れんばかりのエネルギーが伝わってきた。私も、かつてはあんなだったんだろうか。ううん、そんなことはない。私はいつでも中途半端だった。学年一の成績なんてとった事がない。そこそこの短大に進み、地元のそこそこの信用金庫に就職して、これではダメだと自分を奮い立ててようやくした留学だって、ただの語学留学だった。そして、ニューヨーク五番街にオフィスを構える銀行の事務職に紛れ込めただけで、天下を取ったつもりになっていた。それだって、もはや過去の栄光だ。

 昨日も彼女は、自転車に乗って颯爽とやってきた。レポートを完成するために取材をするんだそうだ。何度書いても突き返されると彼女はふくれていた。課題は「マンハッタンの外国人」で、ありとあらゆるデータを集めて、貧困と失業と犯罪に満ちた社会を形成する外国人像を描き出したらしい。
「でも、受け取ってくれないの。間違いを指摘してくださいと言っても、首を横に振って。私は答えが欲しいのに、あの講師ったらわけのわからないことを言ってはぐらかすだけなんですよ。せっかく早々と入学が認められて、留学の最短期間で効率よくジャーナリストのノウハウを学べると思ったのに、外れクジを引いちゃったのかな」

「効率よく、か……」
「ええ。私にはぐずぐずしている時間なんてないんです。一日でも早くジャーナリストになるためにわざわざニューヨークまで来たんだから、必要な事だけを学んだら、どんどん次のステップに進まなくちゃ」

 美穂は自分の人生について考えてみた。効率よく物事を進めた事など一度もなかったように思う。綾乃のように明確な目標と期限を設定して、自分の人生をスケジュール化した事もなかった。 

 綾乃にレポートのやり直しを求める講師が何を求めているのか、美穂にはわからない。けれど、綾乃のレポートの内容には悲しみを覚える。それは完膚なきまでに正論だった。正しいからこそ、美穂の心を鋭くえぐるのだ。美穂自身も貧困と失業と犯罪に満ちた社会を形成するこの街のロクでもない外国人の一人だ。もっと過激な人間の言葉を借りれば排除すべき社会のウジ虫ってとこだろう。なぜそれでもここにいるのかと問われれば、返すべきまっとうな答えなどない。けれど、自分がこの世界に存在する意義を声高に主張できる存在なんて、どれほどいるのだろうか。

 最低限のことだけをして効率よく泥沼から抜け出す事ができれば、だれも悩まないだろう。それはマンハッタンに限った事ではない。

 《Star's Diner》で要求される事はさほど多くはなかった。正確に注文をとり、すみやかに出す事。会計を済まさずに出て行く客がいないか目を配る事。汚れたテーブルを拭き取り、紙ナフキンや塩胡椒、ケチャップとマスタードが切れていたらきちんと補充する事。可能なら追加注文をしてもらえるように提案をする事。美穂にとって難しい事はなかった。かなり寂れて客も少ない安食堂で、固定客が増えてチップをたくさんもらえる事が、生活と将来の給料に直接影響するので、美穂は愛想よく人びとの喜ぶサービスを工夫するようになった。

 おしぼりサービスもその一つだ。大量のミニタオルを買ってきて、用意した。一日の終わりにはふきん類を塩素消毒するのだから一緒に漂白消毒して、アパートに持ち帰ってまとめて洗う。自分の洗濯をするのと手間はほとんど変わらない。勤務中のヒマな時間にはダイナーの隅々まで掃除をする。害虫が出たり、汚れがついて客がイヤな思いをしないように。

 そうした契約にない美穂の働きに、同僚はイヤな顔はしなかったがあまり協力的ではなかった。それに賛同してくれたのは、新しく入ったポール一人だった。先日、失業していると言っていたのでこのダイナーがスタッフを募集している事を教えてあげたあの客だ。彼はもともとウォール街で働いていたぐらいだから、向上心が強い。言われた事を嫌々やるタイプではないので、美穂が何かを改善していこうとする姿勢については肯定的だった。ただ、彼自身はこのダイナーの経営にはもっと根本的な解決策が必要だと思っているようだった。美穂にはそこまで大きなビジョンはない。小人物なんだなと自分で思った。

 はじめは無駄のように思われた美穂の小さな努力だったが、少しずつ実を結び、必ずチップを置いていってくれる馴染みの客が何人もできた。ウォール街で誰かが動かしているようなものすごい金額の話でもなければ、成功と言えるような変化でもない。けれど、そうやって努力が実を結んでいく事は、美穂の生活にわずかな歓びとやり甲斐をもたらした。

 でも、綾乃のレポートの中では、美穂もポールも地下鉄の浮浪者も「低賃金」「貧困」を示すグラフの中に押し込められている。マンハッタンの煌めく夜景の中では、存在するに値しない負の部分でしかない。「いらないわ」綾乃の言葉が耳に残る。もちろん、彼女は「マンハッタンに外国人なんかいらない」と言ったわけではない。「アンダンテ・マエストーソ、あの部分はいらない」そう言ったのだ。綾乃との昨日の会話だった。

「ジョセフにヘリに乗せてもらって、マンハッタンの夜景を見せてもらった時に、ホルストの『木星』のメロディを思い浮かべたんですよ。知っています、あの曲?」
「ええ。『惑星』はクラッシックの中ではかなり好きだから。綾乃ちゃんは天文学を学ぶだけあって、あの曲はやっぱりはずせないってところかしら」
「ええ、そうなんです。でも、『木星』はちょっといただけないな」
「そう? どうして?」
「ほら、あのいきなり民族音楽みたいなメロディになっちゃうあそこ、それまでとてもダイナミックだった雰囲氣がぶち壊しだと思うんですよ。ロックコンサート中に無理矢理聴かされた演歌みたい。アンダンテ・マエストーソ、あの部分はいらないわ」

 美穂は小さく笑った。確かにSF映画に出てくる惑星ジュピターをイメージしていたら、違和感があるかもしれない。合わないからいらない、その言葉はちくりと心を刺した。

「演歌ね、言い得て妙だわ。ホルストもそう意図して作ったんじゃないかな」
「えっ?」

「あの曲、『惑星』という標題があるために『ジュピター』は木星の事だと思うじゃない? でもホルストが作曲したのはローマ神話のジュピターの方みたいよ」

 綾乃のコーラを飲む手が止まった。
「天体の音楽じゃないんですか?」
「そう。もともとは『七つの管弦楽曲』だったんですって。第一次世界大戦の時代の空氣をあらわした一曲目がローマの戦争の神になり、他の曲もそれぞれローマの神々と結びつけられて、それからその当時発見されていた惑星と結びつけられて『惑星』となったってことよ。本当かどうかは知らないけれど、私はそう聞いたわ」

 美穂は、忙しくなる前に各テーブルにあるケチャップとマスタードを満タンに詰め直しながら続けた。
「あの『the Bringer of Jollity』って副題、快楽をもたらすものと日本語に訳される事が多いけれど、実際には陽氣で愉快な心持ちを運ぶものってことじゃない? 人びとの楽しみや歓びって、祭典なんかで昂揚するでしょう。とてもイギリス的なあのメロディは、それを表しているんだと思うの。それってつまり、日本でいうと民謡や演歌みたいなものでしょう?」
「そうなんですか……」

 美穂は日本にいた頃は『木星』を好んで聴いていた。冒頭部分はファンファーレのように心を躍らせた。その想いは輝かしい前途が待ち受けているように思われた人生への期待と重なっていた。でも、あれから、たくさんのことが起こった。自分を覆っていたたくさんの金メッキが剥がれ落ちた。人生や幸福に対する期待や価値観も変わっていった。テレビドラマのような人生ではなくて、みじめで辛くとも自分の人生を歩まなくてはいけない事を知った。綾乃とは何もかも正反対だ。最短距離でも効率的でもなく、迷い、失敗して、無駄に思える事を繰り返しつつ、行く先すらも見えない。

 今の美穂の耳に響いているのは同じホルストの『惑星』の中でも『木星』ではなくて『土星』だった。『Saturn, the Bringer of Old Age』。コントラバスとバス・フルートが暗い和音をひとり言のように繰り返す。長い、長い繰り返し。やがて途中から金管とオルガンが新たなテーマを加えていく。それは、次第に激しく歌うようになり、怒りとも叫びともつかぬ強い感情を引き起こす。けれど最後には鐘の音とともに想いの全てが昇華されるように虚空へと去っていく。

 美穂は老年というような年齢ではない。それでも、今の彼女には希望に満ちて昂揚する前向きなサウンドよりも、葛藤を繰り返しつつ諦念の中にも光を求める響きの方が必要だった。

 綾乃の明確な言葉、若く美しくそして鋼のように強い精神はとても眩しかった。そして、それはとても残酷だった。この世の底辺に蠢く惨めな存在、這い上がる氣力すら持たぬ敗者たちには、反論すらも許されないその正しさが残酷だった。階段を一つひとつ着実に駆け上がっていくのではなく、青いリボンが風に消えていくのを虚しく眺めているだけの弱い存在である自分が悲しかった。

 自分もまた、あんな風に残酷だった事があるかもしれない。美穂は思った。挫折と痛みを経験したことで、私は変わった。失業を繰り返していたポール、桜を観る事を薦めてくれた鳥打ち帽のお爺さん、よけいな事をやりたがらない同僚たち、地下鉄で横たわる浮浪者たち。このマンハッタンにいくらでもいるダメ人間たちの痛みとアメリカンドリームを目指せない弱さがわかるようになった。

 綾乃に話しても、きっとわからないだろうと思った。頭のいい子だから、文脈の理解はすぐにできるだろう。レポートを上手に書きかえる事もできるだろう。でも、本当に彼女が感じられるようになるためには、彼女が彼女の人生を生きなくてはならないのだと思った。美穂は綾乃には何も言わない事にした。そのかわりに五番街で買った青いリボンの代りに、今の自分にふさわしいリボンを買おうと思った。簡単にほどけないもっと頑丈なものを。

(初出:2014年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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作中に出てくるホルストの『惑星』です。高校生くらいのとき、LP(というものがあった時代です)で、聴きまくりましたね〜。「土星」だけの動画もあったのですが、ホルスト自身がバラバラにするのを好まなかったというので、全曲のものを貼付けておきます。


G. Holst - The planets Op. 32 - Berliner Philharmoniker - H. von Karajan
00:00 I.Mars, the Bringer of War
07:21 II.Venus, the Bringer of Peace
15:58 III.Mercury, the Winged Messenger
20:14 IV.Jupiter, the Bringer of Jollity
27:50 V.Saturn, the Bringer of Old Age
37:12 VI.Uranus, the Magician
43:15 VII.Neptune, the Mystic
.26 2014 小説・マンハッタンの日本人 trackback0

【小説】歩道橋に佇んで — Featuring 『この星空の向こうに』

Posted by 八少女 夕

scriviamo!

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scriviamo!の第十三弾です。(ついでに、TOM-Fさんの分と一緒にStellaにも出しちゃいます)
TOM-Fさんは、 Stellaで大好評のうちに完結した「あの日、星空の下で」とのコラボの掌編を書いてくださいました。本当にありがとうございます。


TOM-Fさんの書いてくださった掌編 『この星空の向こうに』-Featuring『マンハッタンの日本人』

TOM-Fさんは、小説書きのブロガーさんです。代表作の『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』、天平時代と平安時代の四つの物語を見事に融合させた『妹背の桜』など、守備範囲が広いのがとても羨ましい方です。こだわった詳細の書き込みと、テンポのあるアクションと、緩急のつけ方は勉強になるなと思いつつ、真似できないので眺めているだけの私です。

「あの日、星空の下で」は、TOM-Fさんの「天文オタク」(褒め言葉ですよ!)の一面が遺憾なく発揮された作品で、さらに主人公のあまりにも羨ましい境遇に、読者からよくツッコミが入っていた名作です。お相手に選んでいただいたのが、何故か今年引っ張りだこの「マンハッタンの日本人」谷口美穂。TOM-Fさんの所の綾乃ちゃんと較べると、もう比較するのも悲しい境遇ですが書いていただいたからには、無理矢理形にいたしました。今年も同時発表になりますが、できれば先にTOM-Fさんの方からお読みくださいませ。


とくに読む必要はありませんが、「マンハッタンの日本人」を知らない方でお読みになりたい方のためにリンクを貼っておきます。
 「マンハッタンの日本人」
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 「花見をしたら 続々・マンハッタンの日本人」



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歩道橋に佇んで 〜 続々々・マンハッタンの日本人
— Featuring 『この星空の向こうに』

——Special thanks to Tom-F-SAN

 風が通る。ビルの間を突風となって通り過ぎる。美穂はクリーム色の歩道橋の上で忙しく行き来する車や人のざわめきをぼんやりと聞いていた。

「あ……」
髪を縛っていた青いリボンが、一瞬だけ美穂の前を漂ってから飛ばされていった。手を伸ばしたが届かなかった。艶やかなサテンは光を反射しながらゆっくりと街路樹の陰に消えていった。

「お氣にいりだったんだけれどな……」
留学時代や銀行に勤めていた頃に手に入れたものは、少しずつ美穂の前から姿を消していた。仕事や銀行預金だけではなくて、もう着ることのなくなったスーツ、高級さが売り物の文房具、デパートでしか買えない食材は今の美穂とは縁のないものだった。

 美穂の勤めている《Star's Diner》に、突然現れたあの少女のことが頭によぎった。春日綾乃。かちっとした紺のブレザー、ハキハキとした態度。希望と野心に満ちた美少女。コロンビア大学の天体物理学に在学中で、ジャーナリズム・スクールにも所属しているとは、とんでもなく優秀な子だ。はち切れんばかりのエネルギーが伝わってきた。私も、かつてはあんなだったんだろうか。ううん、そんなことはない。私はいつでも中途半端だった。学年一の成績なんてとった事がない。そこそこの短大に進み、地元のそこそこの信用金庫に就職して、これではダメだと自分を奮い立ててようやくした留学だって、ただの語学留学だった。そして、ニューヨーク五番街にオフィスを構える銀行の事務職に紛れ込めただけで、天下を取ったつもりになっていた。それだって、もはや過去の栄光だ。

 昨日も彼女は、自転車に乗って颯爽とやってきた。レポートを完成するために取材をするんだそうだ。何度書いても突き返されると彼女はふくれていた。課題は「マンハッタンの外国人」で、ありとあらゆるデータを集めて、貧困と失業と犯罪に満ちた社会を形成する外国人像を描き出したらしい。
「でも、受け取ってくれないの。間違いを指摘してくださいと言っても、首を横に振って。私は答えが欲しいのに、あの講師ったらわけのわからないことを言ってはぐらかすだけなんですよ。せっかく早々と入学が認められて、留学の最短期間で効率よくジャーナリストのノウハウを学べると思ったのに、外れクジを引いちゃったのかな」

「効率よく、か……」
「ええ。私にはぐずぐずしている時間なんてないんです。一日でも早くジャーナリストになるためにわざわざニューヨークまで来たんだから、必要な事だけを学んだら、どんどん次のステップに進まなくちゃ」

 美穂は自分の人生について考えてみた。効率よく物事を進めた事など一度もなかったように思う。綾乃のように明確な目標と期限を設定して、自分の人生をスケジュール化した事もなかった。 

 綾乃にレポートのやり直しを求める講師が何を求めているのか、美穂にはわからない。けれど、綾乃のレポートの内容には悲しみを覚える。それは完膚なきまでに正論だった。正しいからこそ、美穂の心を鋭くえぐるのだ。美穂自身も貧困と失業と犯罪に満ちた社会を形成するこの街のロクでもない外国人の一人だ。もっと過激な人間の言葉を借りれば排除すべき社会のウジ虫ってとこだろう。なぜそれでもここにいるのかと問われれば、返すべきまっとうな答えなどない。けれど、自分がこの世界に存在する意義を声高に主張できる存在なんて、どれほどいるのだろうか。

 最低限のことだけをして効率よく泥沼から抜け出す事ができれば、だれも悩まないだろう。それはマンハッタンに限った事ではない。

 《Star's Diner》で要求される事はさほど多くはなかった。正確に注文をとり、すみやかに出す事。会計を済まさずに出て行く客がいないか目を配る事。汚れたテーブルを拭き取り、紙ナフキンや塩胡椒、ケチャップとマスタードが切れていたらきちんと補充する事。可能なら追加注文をしてもらえるように提案をする事。美穂にとって難しい事はなかった。かなり寂れて客も少ない安食堂で、固定客が増えてチップをたくさんもらえる事が、生活と将来の給料に直接影響するので、美穂は愛想よく人びとの喜ぶサービスを工夫するようになった。

 おしぼりサービスもその一つだ。大量のミニタオルを買ってきて、用意した。一日の終わりにはふきん類を塩素消毒するのだから一緒に漂白消毒して、アパートに持ち帰ってまとめて洗う。自分の洗濯をするのと手間はほとんど変わらない。勤務中のヒマな時間にはダイナーの隅々まで掃除をする。害虫が出たり、汚れがついて客がイヤな思いをしないように。

 そうした契約にない美穂の働きに、同僚はイヤな顔はしなかったがあまり協力的ではなかった。それに賛同してくれたのは、新しく入ったポール一人だった。先日、失業していると言っていたのでこのダイナーがスタッフを募集している事を教えてあげたあの客だ。彼はもともとウォール街で働いていたぐらいだから、向上心が強い。言われた事を嫌々やるタイプではないので、美穂が何かを改善していこうとする姿勢については肯定的だった。ただ、彼自身はこのダイナーの経営にはもっと根本的な解決策が必要だと思っているようだった。美穂にはそこまで大きなビジョンはない。小人物なんだなと自分で思った。

 はじめは無駄のように思われた美穂の小さな努力だったが、少しずつ実を結び、必ずチップを置いていってくれる馴染みの客が何人もできた。ウォール街で誰かが動かしているようなものすごい金額の話でもなければ、成功と言えるような変化でもない。けれど、そうやって努力が実を結んでいく事は、美穂の生活にわずかな歓びとやり甲斐をもたらした。

 でも、綾乃のレポートの中では、美穂もポールも地下鉄の浮浪者も「低賃金」「貧困」を示すグラフの中に押し込められている。マンハッタンの煌めく夜景の中では、存在するに値しない負の部分でしかない。「いらないわ」綾乃の言葉が耳に残る。もちろん、彼女は「マンハッタンに外国人なんかいらない」と言ったわけではない。「アンダンテ・マエストーソ、あの部分はいらない」そう言ったのだ。綾乃との昨日の会話だった。

「ジョセフにヘリに乗せてもらって、マンハッタンの夜景を見せてもらった時に、ホルストの『木星』のメロディを思い浮かべたんですよ。知っています、あの曲?」
「ええ。『惑星』はクラッシックの中ではかなり好きだから。綾乃ちゃんは天文学を学ぶだけあって、あの曲はやっぱりはずせないってところかしら」
「ええ、そうなんです。でも、『木星』はちょっといただけないな」
「そう? どうして?」
「ほら、あのいきなり民族音楽みたいなメロディになっちゃうあそこ、それまでとてもダイナミックだった雰囲氣がぶち壊しだと思うんですよ。ロックコンサート中に無理矢理聴かされた演歌みたい。アンダンテ・マエストーソ、あの部分はいらないわ」

 美穂は小さく笑った。確かにSF映画に出てくる惑星ジュピターをイメージしていたら、違和感があるかもしれない。合わないからいらない、その言葉はちくりと心を刺した。

「演歌ね、言い得て妙だわ。ホルストもそう意図して作ったんじゃないかな」
「えっ?」

「あの曲、『惑星』という標題があるために『ジュピター』は木星の事だと思うじゃない? でもホルストが作曲したのはローマ神話のジュピターの方みたいよ」

 綾乃のコーラを飲む手が止まった。
「天体の音楽じゃないんですか?」
「そう。もともとは『七つの管弦楽曲』だったんですって。第一次世界大戦の時代の空氣をあらわした一曲目がローマの戦争の神になり、他の曲もそれぞれローマの神々と結びつけられて、それからその当時発見されていた惑星と結びつけられて『惑星』となったってことよ。本当かどうかは知らないけれど、私はそう聞いたわ」

 美穂は、忙しくなる前に各テーブルにあるケチャップとマスタードを満タンに詰め直しながら続けた。
「あの『the Bringer of Jollity』って副題、快楽をもたらすものと日本語に訳される事が多いけれど、実際には陽氣で愉快な心持ちを運ぶものってことじゃない? 人びとの楽しみや歓びって、祭典なんかで昂揚するでしょう。とてもイギリス的なあのメロディは、それを表しているんだと思うの。それってつまり、日本でいうと民謡や演歌みたいなものでしょう?」
「そうなんですか……」

 美穂は日本にいた頃は『木星』を好んで聴いていた。冒頭部分はファンファーレのように心を躍らせた。その想いは輝かしい前途が待ち受けているように思われた人生への期待と重なっていた。でも、あれから、たくさんのことが起こった。自分を覆っていたたくさんの金メッキが剥がれ落ちた。人生や幸福に対する期待や価値観も変わっていった。テレビドラマのような人生ではなくて、みじめで辛くとも自分の人生を歩まなくてはいけない事を知った。綾乃とは何もかも正反対だ。最短距離でも効率的でもなく、迷い、失敗して、無駄に思える事を繰り返しつつ、行く先すらも見えない。

 今の美穂の耳に響いているのは同じホルストの『惑星』の中でも『木星』ではなくて『土星』だった。『Saturn, the Bringer of Old Age』。コントラバスとバス・フルートが暗い和音をひとり言のように繰り返す。長い、長い繰り返し。やがて途中から金管とオルガンが新たなテーマを加えていく。それは、次第に激しく歌うようになり、怒りとも叫びともつかぬ強い感情を引き起こす。けれど最後には鐘の音とともに想いの全てが昇華されるように虚空へと去っていく。

 美穂は老年というような年齢ではない。それでも、今の彼女には希望に満ちて昂揚する前向きなサウンドよりも、葛藤を繰り返しつつ諦念の中にも光を求める響きの方が必要だった。

 綾乃の明確な言葉、若く美しくそして鋼のように強い精神はとても眩しかった。そして、それはとても残酷だった。この世の底辺に蠢く惨めな存在、這い上がる氣力すら持たぬ敗者たちには、反論すらも許されないその正しさが残酷だった。階段を一つひとつ着実に駆け上がっていくのではなく、青いリボンが風に消えていくのを虚しく眺めているだけの弱い存在である自分が悲しかった。

 自分もまた、あんな風に残酷だった事があるかもしれない。美穂は思った。挫折と痛みを経験したことで、私は変わった。失業を繰り返していたポール、桜を観る事を薦めてくれた鳥打ち帽のお爺さん、よけいな事をやりたがらない同僚たち、地下鉄で横たわる浮浪者たち。このマンハッタンにいくらでもいるダメ人間たちの痛みとアメリカンドリームを目指せない弱さがわかるようになった。

 綾乃に話しても、きっとわからないだろうと思った。頭のいい子だから、文脈の理解はすぐにできるだろう。レポートを上手に書きかえる事もできるだろう。でも、本当に彼女が感じられるようになるためには、彼女が彼女の人生を生きなくてはならないのだと思った。美穂は綾乃には何も言わない事にした。そのかわりに五番街で買った青いリボンの代りに、今の自分にふさわしいリボンを買おうと思った。簡単にほどけないもっと頑丈なものを。

(初出:2014年2月 書き下ろし)

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作中に出てくるホルストの『惑星』です。高校生くらいのとき、LP(というものがあった時代です)で、聴きまくりましたね〜。「土星」だけの動画もあったのですが、ホルスト自身がバラバラにするのを好まなかったというので、全曲のものを貼付けておきます。


G. Holst - The planets Op. 32 - Berliner Philharmoniker - H. von Karajan
00:00 I.Mars, the Bringer of War
07:21 II.Venus, the Bringer of Peace
15:58 III.Mercury, the Winged Messenger
20:14 IV.Jupiter, the Bringer of Jollity
27:50 V.Saturn, the Bringer of Old Age
37:12 VI.Uranus, the Magician
43:15 VII.Neptune, the Mystic
.26 2014 scriviamo! 2014 trackback0

【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 森の詩 Cantum silvae

Posted by 八少女 夕

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。
scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第十二弾です。ユズキさんは、「大道芸人たち Artistas callejeros」の四人を描いてくださいました。ありがとうございます。

「大道芸人たち」 by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。

ユズキさんの描いてくださったイラスト scriviamo! 2014参加作品

ユズキさんは、素晴らしいイラストと、ワクワクする小説を書かれるブロガーさんです。私はユズキさんの書かれるキャラのたった女性や、トップ絵に描かれるクールな女性が大好きなのですが、版権ブログの方でお見かけする突き抜けたおじさんキャラやデフォルメした動物キャラも素晴らしくて、自由自在な筆のタッチにいつも感心しているのです。すごいですよ、本当に。

そして、そのユズキさんが、どういうわけだかうちの「大道芸人たち」と氣にいってくださいましてファンアートをどんどん描いてくださるのです。もう、これはモノを書いている人ならきっとわかってくださるかと思いますが、夢のまた夢ですよ。ああ、生きていてよかった。恥を忍んで公開して本当によかったと思います。

そのユズキさんが今回のために描いてくださったのは、なんと森の中で演奏する四人。この深い森のタッチをどうぞご覧ください。ええ、これは私、はまりました。ユズキさんはご存じなかったのですが、「scriviamo! 2014」が終わり次第連載をはじめようとしている新作「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」にどっぷりはまっている私には、これはその新作の森《シルヴァ》にしか思えなくなってしまい……。そして、新作宣伝モードに……。ユズキさん、わけがわからないことになりましたが、どうぞお許しください。


【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ

「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む このブログで読む
縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く 縦書きPDFで読む(別館に置いてあります)
あらすじと登場人物

「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



大道芸人たち 番外編
森の詩 Cantum silvae
——Special thanks to Yuzuki-san


「何それ」
蝶子はレネが持っているというよりは、バラバラにならないように支えている、古い革表紙の小さな手帳のように見えるものを指した。

「昨日、街の古い書店で見つけたんです。ずいぶん長い時間を生き延びてきたんだなと思ったら、素通りできなくて。嘘みたいに安かったんですよ」

「お前、それ読めるのか? ずいぶん古めかしい字体だし、何語なんだろう」
稔が覗き込んだ。

「大体の意味はわかりますよ。ここは、ラテン語です」
「ラ、ラテン語?」
レネがドイツ語やイタリア語、はてはスペイン語の詩も読んで頭に入れているのは知っていたが、会話の方は大したことがなかったので、まさかラテン語ができるほど学があるとは夢にも思っていなかった稔は心底驚いた。

「いや、フランス語はラテン語から進化したので、ヤスが思うほど難しくないんですよ。それに、この本の中でラテン語なのは詩だけで、残りの部分は古いフランス語なんです。しかも僕はこの詩を前から知っているんですよ」

 そういうと、すうっと息を吸ってから朗々と歌いだした。

O, Musa magnam, concinite cantum silvae.
Ut Sibylla propheta, a hic vita expandam.
Rubrum phoenix fert lucem solis omnes supra.
Album unicornis tradere silentio ad terram.
Cum virgines data somnia in silvam,
pacatumque reget patriis virtutibus orbem.



「ああ、それか」という顔をして、ヴィルがハミングで下のパートに加わった。蝶子と稔は顔を見合わせた。全然聴いたことがなかったからだ。それはサラバンドに近い古いメロディだった。

「あなたも知っているの?」
蝶子はヴィルの顔を覗き込んだ。
「ああ、今から十五年くらい前かな。とある修道院から、四線譜に書かれたこの歌の羊皮紙が発見されて、ヨーロッパ中でセンセーショナルに取り上げられたんだ」

「なんでセンセーショナル?」
稔が首を傾げると、レネが説明をしてくれた。
「だれもが知っている古いおとぎ話に関連するものだったからですよ。『Cantum Silvae - 森の詩』というサーガで、ヨーロッパの中央にあった、おそらくは黒い森を中心とした荒唐無稽な数世代にわたるストーリーなんです」

 ヴィルが続ける。
「その話は、口承の形では断片的に残っていて、15世紀の文献にも言及があったんだが、それまでは17世紀以降の伝聞による作品しか現存していなかったんだ。で、南フランスの修道院で出てきた羊皮紙はもっとも古い、オリジナルに近い文献だということで大騒ぎになったんだ」

「僕たちは子供の頃から親しんでいた物語だから、興奮しましたよね」
「ああ、で、学校の催し物でも生徒にこの曲を歌わせるのが流行ったな」

 蝶子と稔は再び顔を見合わせた。
「有名なのね。いったいどんな話なの?」

「馬丁から出世したフルーヴルーウー辺境伯の冒険……」
「麗しきブランシュルーヴ王女と虹色に輝く極楽鳥の扇……」
男姫ヴィラーゴジュリアがジプシーたちに加わり森を彷徨い……」
「ああ、一角獣に乗った黄金の姫の話もありましたよね!」
ヴィルとレネが懐かしそうに次々と語るその話は、日本人の二人には初耳だった。

「う~ん、ありえない度で言うと、古事記みたいなもんか?」
「そうね。聞いた事もない国の名前に、変わった姫君たち。ファンタジーかしらね」

 ヴィルがレネの古本を覗き込んだ。
「で、古フランス語の本文は何が書いてあるんだ?」

 レネは嬉しそうにめくりながら語った。
「《一の巻 姫君遁走》か。ああ、これは男姫ヴィラーゴジュリアの話ですよ。ちょっと訳してみましょうかね」

 ジュリアは行く手の樹木の間から煙を見た。ジプシー。聖アグネスの祭りだ。彼らは侯爵夫人の喪になんか服さないだろう。

 森の空き地に数台の幌馬車が停まり、炎の周りでジプシーたちは踊っていた。ジュリアには誰も氣に留めずに、めいめいで歌ったり踊ったりしているので、少しずつ中に入っていった。やがて一人の老女がじっと見つめているのに氣がついた。

「バギュ・グリの姫さんが何の用かね?」
老女は言った。

「あたし、お前に会ったことないけれど」
「私らは何でも知っているよ」
「嘘ばっかり。私がなぜここに来たかわからないくせに」
「知っているともさ。お前は別れに来たんだよ」

「誰とさ」
「全てとね。まず、その男物の服をなんとかしよう。それでは踊っても楽しくないだろう」
「そうね。でも、こうしていないと男どもが寄ってくるのよ」
「悪いことじゃあるまい。寄ってくる男どもをあしらうのは、女の楽しい仕事さ。それともダンスもできない方がいいのかね」
「わかったわ。この服とはお別れしよう。私を変身させて」

 老婆はジュリアを幌馬車に連れて行った。再びジュリアが出て来た時ジプシーたちはもはや彼女に無関心ではいられなかった。薄物を纏い、しなやかに歩み出る彼女は深夜の月のようだった。彼女は踊り始めた。その悩ましさは例えようもない。ジュリアにとってもこの夜は麻薬だった。踊りの恍惚。自分が誰かも忘れ、夢の中にいるように狂った。

 深夜に老婆は緑色に透き通る液体を差し出した。
「これをお飲み。聖アグネス祭の今宵、お前さんは愛する男を夢に見るだろう」

 ジュリアは口の端をゆがめて言った。
「あたしは誰も愛していないわよ。嫌いな男ばっかり」
「だからこそ、この薬が必要なんじゃ」

 ジュリアは受け取って一息で飲んだ。強い酒だった。



「へえ。こういう話なんだ」
「そう。この後、ジュリアは世にも美しい馬丁と結ばれるんですが、そのままジプシーに加わっていなくなってしまうんです。姫と別れた馬丁のハンス=レギナルドは、森を彷徨ってからグランドロン王国にたどり着き、そこでレオポルド一世に仕えることになるんですよ」
「何世代か後に、レオポルド二世とルーヴラン王女の婚姻話が持ち上がるんだったな」
「そうです。《学友》ラウラがその王女に仕えていて……」

「わかった、わかった。思い出話が長くなりそうだ。それってこういう森を舞台に話が進むんだ?」
四人は、森の中をゆっくりと進んでいた。黒い森ではなくて、アルザスにほど近い村はずれの森で『森の詩』に謳われている《シルヴァ》に較べると林に近いものだったが、浅草出身の稔にとっては十分に深い森だった。

 木漏れ陽がキラキラと揺れている。四人が下草を踏みしめながら進んでいくと、よそ者の訪問に驚いたリスや小鳥が、大急ぎで移動していくのがわかる。時おり、松やにのような香りが、時には甘い花の芳香も漂ってくる。

「そうですね。《二の巻》の主人公、マックスは森を旅していましたよね」
「人里にいる時の方が多かったぞ」
「ああ、それにラウラはお城で育っていましたよね」

「でも、『森の詩』なの?」
「そうなんです。森は話の中心ではないけれど、いつもそこにあって、人びとの生活と心の中に大事な位置を占めているってことだと思うんですよね」
「当時は、今ほど文明が自然と切り離されていなかったってことなんだろう」
ヴィルが言うと、レネは深く頷いた。
「この歌そのものが『Cantum Silvae - 森の詩』といって、グランドロン王国で祝い事がある時には、必ず歌って踊ったと伝えられている寿ぎの曲なんです」

「じゃ、せっかくだからそのメロディを演奏してみましょうよ。そんなに難しくなさそうだし」
蝶子が鞄を開けて青い天鵞絨の箱からフルートを取り出した。ヴィルも自分のフルートを組立てる。
「サラバンド風か。ちょっと風変わりに、三味線で行くか」
稔がいうと、レネは嬉しそうに頷いて、本をそっと太陽に向けて掲げ、伴奏に合わせて歌いだした。それはこんな意味の歌だった。
 

おお、偉大なるミューズよ、森の詩を歌おう。
シヴィラの預言のごとく、ここに生命は広がる。
赤き不死鳥が陽の光を隅々まで届け、
白き一角獣は沈黙を大地に広げる。
乙女たちが森にて夢を紡ぐ時
平和が王国を支配する。



(初出:2014年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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誤解なさる方がいらっしゃると困るので、解説しておきます。レネとヴィルが話している「森の詩 Cantum silvae」の話は、ヨーロッパのよく知られたメルヒェンなどではございません。私のオリジナル小説です。「森の詩 Cantum silvae」は私が高校生の頃から勝手に妄想していた三部作で、「第一部 姫君遁走」「第三部 一角獣奇譚」はお蔵入りになり、「第二部 貴婦人の十字架」のみをこの三月から連載予定です。今日の話に出てきたジュリアとハンス=レギナルドやレオポルド一世とブランシュルーヴ王女はお蔵入りの第一部の登場人物です。

なお、本文中に登場させたラテン語による「森の詩 Cantum silvae」は私が作ったもので、文法が間違っている可能性がとても高いです。詳しい方で直してくださるというか方がいらっしゃいましたらどうぞよろしくお願いします。
.24 2014 小説・大道芸人たち 外伝 trackback0

【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 森の詩 Cantum silvae

Posted by 八少女 夕

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第十二弾です。ユズキさんは、「大道芸人たち Artistas callejeros」の四人を描いてくださいました。ありがとうございます。

「大道芸人たち」 by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。

ユズキさんの描いてくださったイラスト scriviamo! 2014参加作品

ユズキさんは、素晴らしいイラストと、ワクワクする小説を書かれるブロガーさんです。私はユズキさんの書かれるキャラのたった女性や、トップ絵に描かれるクールな女性が大好きなのですが、版権ブログの方でお見かけする突き抜けたおじさんキャラやデフォルメした動物キャラも素晴らしくて、自由自在な筆のタッチにいつも感心しているのです。すごいですよ、本当に。

そして、そのユズキさんが、どういうわけだかうちの「大道芸人たち」と氣にいってくださいましてファンアートをどんどん描いてくださるのです。もう、これはモノを書いている人ならきっとわかってくださるかと思いますが、夢のまた夢ですよ。ああ、生きていてよかった。恥を忍んで公開して本当によかったと思います。

そのユズキさんが今回のために描いてくださったのは、なんと森の中で演奏する四人。この深い森のタッチをどうぞご覧ください。ええ、これは私、はまりました。ユズキさんはご存じなかったのですが、「scriviamo! 2014」が終わり次第連載をはじめようとしている新作「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」にどっぷりはまっている私には、これはその新作の森《シルヴァ》にしか思えなくなってしまい……。そして、新作宣伝モードに……。ユズキさん、わけがわからないことになりましたが、どうぞお許しください。


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大道芸人たち 番外編
森の詩 Cantum silvae
——Special thanks to Yuzuki-san


「何それ」
蝶子はレネが持っているというよりは、バラバラにならないように支えている、古い革表紙の小さな手帳のように見えるものを指した。

「昨日、街の古い書店で見つけたんです。ずいぶん長い時間を生き延びてきたんだなと思ったら、素通りできなくて。嘘みたいに安かったんですよ」

「お前、それ読めるのか? ずいぶん古めかしい字体だし、何語なんだろう」
稔が覗き込んだ。

「大体の意味はわかりますよ。ここは、ラテン語です」
「ラ、ラテン語?」
レネがドイツ語やイタリア語、はてはスペイン語の詩も読んで頭に入れているのは知っていたが、会話の方は大したことがなかったので、まさかラテン語ができるほど学があるとは夢にも思っていなかった稔は心底驚いた。

「いや、フランス語はラテン語から進化したので、ヤスが思うほど難しくないんですよ。それに、この本の中でラテン語なのは詩だけで、残りの部分は古いフランス語なんです。しかも僕はこの詩を前から知っているんですよ」

 そういうと、すうっと息を吸ってから朗々と歌いだした。

O, Musa magnam, concinite cantum silvae.
Ut Sibylla propheta, a hic vita expandam.
Rubrum phoenix fert lucem solis omnes supra.
Album unicornis tradere silentio ad terram.
Cum virgines data somnia in silvam,
pacatumque reget patriis virtutibus orbem.



「ああ、それか」という顔をして、ヴィルがハミングで下のパートに加わった。蝶子と稔は顔を見合わせた。全然聴いたことがなかったからだ。それはサラバンドに近い古いメロディだった。

「あなたも知っているの?」
蝶子はヴィルの顔を覗き込んだ。
「ああ、今から十五年くらい前かな。とある修道院から、四線譜に書かれたこの歌の羊皮紙が発見されて、ヨーロッパ中でセンセーショナルに取り上げられたんだ」

「なんでセンセーショナル?」
稔が首を傾げると、レネが説明をしてくれた。
「だれもが知っている古いおとぎ話に関連するものだったからですよ。『Cantum Silvae - 森の詩』というサーガで、ヨーロッパの中央にあった、おそらくは黒い森を中心とした荒唐無稽な数世代にわたるストーリーなんです」

 ヴィルが続ける。
「その話は、口承の形では断片的に残っていて、15世紀の文献にも言及があったんだが、それまでは17世紀以降の伝聞による作品しか現存していなかったんだ。で、南フランスの修道院で出てきた羊皮紙はもっとも古い、オリジナルに近い文献だということで大騒ぎになったんだ」

「僕たちは子供の頃から親しんでいた物語だから、興奮しましたよね」
「ああ、で、学校の催し物でも生徒にこの曲を歌わせるのが流行ったな」

 蝶子と稔は再び顔を見合わせた。
「有名なのね。いったいどんな話なの?」

「馬丁から出世したフルーヴルーウー辺境伯の冒険……」
「麗しきブランシュルーヴ王女と虹色に輝く極楽鳥の扇……」
男姫ヴィラーゴジュリアがジプシーたちに加わり森を彷徨い……」
「ああ、一角獣に乗った黄金の姫の話もありましたよね!」
ヴィルとレネが懐かしそうに次々と語るその話は、日本人の二人には初耳だった。

「う~ん、ありえない度で言うと、古事記みたいなもんか?」
「そうね。聞いた事もない国の名前に、変わった姫君たち。ファンタジーかしらね」

 ヴィルがレネの古本を覗き込んだ。
「で、古フランス語の本文は何が書いてあるんだ?」

 レネは嬉しそうにめくりながら語った。
「《一の巻 姫君遁走》か。ああ、これは男姫ヴィラーゴジュリアの話ですよ。ちょっと訳してみましょうかね」

 ジュリアは行く手の樹木の間から煙を見た。ジプシー。聖アグネスの祭りだ。彼らは侯爵夫人の喪になんか服さないだろう。

 森の空き地に数台の幌馬車が停まり、炎の周りでジプシーたちは踊っていた。ジュリアには誰も氣に留めずに、めいめいで歌ったり踊ったりしているので、少しずつ中に入っていった。やがて一人の老女がじっと見つめているのに氣がついた。

「バギュ・グリの姫さんが何の用かね?」
老女は言った。

「あたし、お前に会ったことないけれど」
「私らは何でも知っているよ」
「嘘ばっかり。私がなぜここに来たかわからないくせに」
「知っているともさ。お前は別れに来たんだよ」

「誰とさ」
「全てとね。まず、その男物の服をなんとかしよう。それでは踊っても楽しくないだろう」
「そうね。でも、こうしていないと男どもが寄ってくるのよ」
「悪いことじゃあるまい。寄ってくる男どもをあしらうのは、女の楽しい仕事さ。それともダンスもできない方がいいのかね」
「わかったわ。この服とはお別れしよう。私を変身させて」

 老婆はジュリアを幌馬車に連れて行った。再びジュリアが出て来た時ジプシーたちはもはや彼女に無関心ではいられなかった。薄物を纏い、しなやかに歩み出る彼女は深夜の月のようだった。彼女は踊り始めた。その悩ましさは例えようもない。ジュリアにとってもこの夜は麻薬だった。踊りの恍惚。自分が誰かも忘れ、夢の中にいるように狂った。

 深夜に老婆は緑色に透き通る液体を差し出した。
「これをお飲み。聖アグネス祭の今宵、お前さんは愛する男を夢に見るだろう」

 ジュリアは口の端をゆがめて言った。
「あたしは誰も愛していないわよ。嫌いな男ばっかり」
「だからこそ、この薬が必要なんじゃ」

 ジュリアは受け取って一息で飲んだ。強い酒だった。



「へえ。こういう話なんだ」
「そう。この後、ジュリアは世にも美しい馬丁と結ばれるんですが、そのままジプシーに加わっていなくなってしまうんです。姫と別れた馬丁のハンス=レギナルドは、森を彷徨ってからグランドロン王国にたどり着き、そこでレオポルド一世に仕えることになるんですよ」
「何世代か後に、レオポルド二世とルーヴラン王女の婚姻話が持ち上がるんだったな」
「そうです。《学友》ラウラがその王女に仕えていて……」

「わかった、わかった。思い出話が長くなりそうだ。それってこういう森を舞台に話が進むんだ?」
四人は、森の中をゆっくりと進んでいた。黒い森ではなくて、アルザスにほど近い村はずれの森で『森の詩』に謳われている《シルヴァ》に較べると林に近いものだったが、浅草出身の稔にとっては十分に深い森だった。

 木漏れ陽がキラキラと揺れている。四人が下草を踏みしめながら進んでいくと、よそ者の訪問に驚いたリスや小鳥が、大急ぎで移動していくのがわかる。時おり、松やにのような香りが、時には甘い花の芳香も漂ってくる。

「そうですね。《二の巻》の主人公、マックスは森を旅していましたよね」
「人里にいる時の方が多かったぞ」
「ああ、それにラウラはお城で育っていましたよね」

「でも、『森の詩』なの?」
「そうなんです。森は話の中心ではないけれど、いつもそこにあって、人びとの生活と心の中に大事な位置を占めているってことだと思うんですよね」
「当時は、今ほど文明が自然と切り離されていなかったってことなんだろう」
ヴィルが言うと、レネは深く頷いた。
「この歌そのものが『Cantum Silvae - 森の詩』といって、グランドロン王国で祝い事がある時には、必ず歌って踊ったと伝えられている寿ぎの曲なんです」

「じゃ、せっかくだからそのメロディを演奏してみましょうよ。そんなに難しくなさそうだし」
蝶子が鞄を開けて青い天鵞絨の箱からフルートを取り出した。ヴィルも自分のフルートを組立てる。
「サラバンド風か。ちょっと風変わりに、三味線で行くか」
稔がいうと、レネは嬉しそうに頷いて、本をそっと太陽に向けて掲げ、伴奏に合わせて歌いだした。それはこんな意味の歌だった。
 

おお、偉大なるミューズよ、森の詩を歌おう。
シヴィラの預言のごとく、ここに生命は広がる。
赤き不死鳥が陽の光を隅々まで届け、
白き一角獣は沈黙を大地に広げる。
乙女たちが森にて夢を紡ぐ時
平和が王国を支配する。



(初出:2014年2月 書き下ろし)

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誤解なさる方がいらっしゃると困るので、解説しておきます。レネとヴィルが話している「森の詩 Cantum silvae」の話は、ヨーロッパのよく知られたメルヒェンなどではございません。私のオリジナル小説です。「森の詩 Cantum silvae」は私が高校生の頃から勝手に妄想していた三部作で、「第一部 姫君遁走」「第三部 一角獣奇譚」はお蔵入りになり、「第二部 貴婦人の十字架」のみをこの三月から連載予定です。今日の話に出てきたジュリアとハンス=レギナルドやレオポルド一世とブランシュルーヴ王女はお蔵入りの第一部の登場人物です。

なお、本文中に登場させたラテン語による「森の詩 Cantum silvae」は私が作ったもので、文法が間違っている可能性がとても高いです。詳しい方で直してくださるというか方がいらっしゃいましたらどうぞよろしくお願いします。
.24 2014 scriviamo! 2014 trackback0

【小説】大道芸人たち 番外編 〜 黄昏のトレモロ - Featuring「Love Flavor」

Posted by 八少女 夕

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。
scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第十一弾です。栗栖紗那さんは、純愛ラノベ「Love Flavor」本編の最新作でご参加くださいました。ありがとうございます。

栗栖紗那さんの書いてくださった作品 Love Flavor 007 : "感情?"

栗栖紗那さんは生粋のラノベ作家ブロガーさんです。この方もブログでの小説交流をはじめたもっとも古いお友だちの一人で、書いているもののジャンルが全く違うにもかかわらず、積極的に絡んでくださる嬉しいお方です。紗那さんらしい人氣作品では「グランベル魔法街へようこそ」や「まおー」などが有名なのですが、私としては、この学園青春ラノベだけれど、ちょっと深刻なものも含まれる「Love Flavor」を一押しさせていただきます。この作品に絡んで去年のscriviamo!で東野恒樹というオリキャラを誕生させて書きましたし、その後も「リナ姉ちゃん」シリーズと共演していただくなど、うちの作品とはとても縁が深いのです。

さて、今回は「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」に絡んで、うちのオリキャラ結城拓人をなんと本編の中に出していただきました。お返しをどうしようかなと思ったのですが、さすがに拓人と蓮さまや紗夜ちゃんがバッタリ出会うというのは難しいので、紗那さんの作品の中に出てきた一セリフに飛びついて、全然違う話を作らせていただきました。実は、拓人が失恋した時期と、うちのとあるキャラが失踪した時期、ほぼぴったりなのですよ。そういう訳で、「大道芸人たち」外伝、お借りしたのは今年も再び白鷺刹那さまです。


【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ

「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む このブログで読む
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あらすじと登場人物

「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



大道芸人たち 番外編
黄昏のトレモロ - Featuring「Love Flavor」
——Special thanks to Kuris Shana-san


「ち。上手くいかない」
普段、表ではまず口にしない乱暴な舌打がでてしまった。もし、彼女を知っている人がそれを見たらぎょっとしたことだろう。たとえば、数年前にティーンエイジャー向けのファッション雑誌の愛読者だったなら彼女を知らないということはありえない。そうでなくても蜂蜜色の髪と日本人離れしたスタイルは容易にかつて出演していた広告を思い出させるので、名前は知らなくてもあの人だとすぐに氣付かれる。だからモデルとしての活動をやめても、白鷺刹那は表ではかつてのように女らしく麗しく振る舞うのを常としていた。

 しかし、今日はすっかりそれを忘れていた。ここは町内の小さな公園、午前中には若い母親たちが我が子を連れて社交に精を出すが、この夕暮れには誰も見向きもせず、刹那がギターの練習をするには格好の場だった。

 刹那はギターをはじめてまだ二ヶ月だ。最初はいくつかコードを弾けるようになってそれで満足していた。同時にベースもやっていたのでそちらにまずは夢中になった。だが、どうもギターの他の奏法が氣になってきて、ここのところはクラッシックギターを練習している。アルペジオ奏法はそんなに難しくなかった。セーハが上手くいかなかったので、途中のレッスンを飛ばして「アルハンブラ宮殿の思い出」を弾こうとした。だがこちらもそう簡単にはいかなくて苛立っていた。

「何やってんだ?」
刹那が顔を上げると、そこに男が立っていた。黒髪がツンと立った男で、歳の頃は二十代の終わり頃だろうか。刹那をというよりは、刹那の右手を見ていた。

「上手く弾けないのよ、やになっちゃう」
刹那は乱暴な言葉遣いを聴かれたと思ったので、やけっぱちになって半ばふてくされるように答えた。

「ギターはじめてどのくらいだ?」
「二ヶ月。独学なの」

 男は呆れたというように空を見上げた。
「そんな早くトレモロは弾けないだろう」
「なんで」
「訓練しないと全部の指に均等に力が入らないんだ。毎日やっていればそのうちにできるようになるよ」

 刹那はすっと立つと男にギターを差し出した。
「そういうからには、あなたは弾けるんでしょう。やってみてよ」

 男は素直に受け取ると、刹那の立ったベンチに座るとギターを構えて静かに弾きだした。はじめの音からすぐに脱帽ものだとわかった。刹那が上手く動かせない右の指は軽やかにけれど均等に弦を弾いて、アルハンブラ宮殿の陽光に煌めく噴水を表現しはじめた。トレモロの部分だけでなく、その下を支えるメロディもしっかりと歌っている。

 刹那は、その演奏を黙って聴いていた。まだ肌寒い公園には、樹々も葉を落とし眠っているが、刹那と男の周りだけは夏のアンダルシアの幻想が広がっていた。しかも、それはそれだけではなかった。遠い憧れや、哀しみや、それにそれだけでない何かも表現されていた。今までに何度も聴いた「アルハンブラ宮殿の思い出」の演奏とは違う、特別な演奏だった。強い感情が感じられた。上手い人間が単純にギターを弾いているのとは違った。

 演奏が終わると、五秒ほど放心したようにギターの弦を見ていたが、男はゆっくりと立ち上がってギターを刹那に返した。
「こういうわけだ。長く続けていけばそのうちに弾けるようになるよ。もっとも、あんた忙しくて練習する時間ないかもしれないけれど」

 それを聞いて刹那は首を傾げた。
「ボクを知っている?」
「あん? まあな。モデルの白鷺刹那さん。知らないヤツの方が珍しいだろ。あ、俺はただの一般人で、安田稔っていうんだけどさ」

 刹那はため息をついた。
「もうモデルやっていないんだけれどね」
「ああ、最近、あまり見ないと思ったら、そうだったんだ」

「ねえ、安田さん、あの、唐突に失礼だけど……」
「なんだ」
「う〜ん、やっぱやめる」
「なんだよ、言えよ」

「わかった。演奏で思ったんだけれど、あなた、何か悩んでいるんじゃない?」
刹那がそういうと、稔はぎょっとした顔をして、それから再び青空を眺めた。
「そんな音していたか」

「音、かな……。それとも表現……ううん、顔の表情で思ったのかも。とにかく、単に公園でギターを爪弾くっていうのとは全然違っていた。すごく上手だったけれど、演奏って言うのを通り越して、まるで迷って苦しんでいるみたいだった」

稔は刹那のギターをじっとみつめたまま言った。
「わかるもんだな……。俺さ、ギターで身を立てたいってずっと思っていたんだけれど、その夢におさらばしたばっかりなんだ」
「どうして? そんなに上手いんだから、あきらめることないのに」
刹那の強い言葉に、稔は口を歪めた。
「ありがとう。でも、どうしようもないんだ」

「もし、ギターが本職じゃないなら、ふだんは何をしているの? サラリーマン?」
「いや、津軽三味線弾き」
刹那は目を丸くした。

「両方弾けるってすごくない?」
「ギターの方は趣味だったんだ。君と同じで独学。でも、三味線は家業だから、流派のことや後継者のことが絡んでいる。俺一人の問題ではなくなっている。ギターで食っていきたいと言っても、そう簡単にはいかないんだ。それに……」

 刹那が首を傾げて続きを促すと、稔は横を向いた。
「たとえば、モデルみたいな世界だったら三百万円なんてはした金かもしれないけどさ。俺にはどうしても必要だったから、その金額で自分の未来を売っちゃったんだ」

 刹那は口を尖らせた。
「モデルだって、三百万円をはした金なんて言える人はそんなにいないよ。未来を売っちゃったって、お金を受け取るかわりに、ギターをやめたってこと? どうしてもしたいことをそんなに簡単にあきらめていいの? 他に試せることはないの?」

 稔は考え込んでいるようだった。刹那は続けていいの募った。
「安田さんは、ボクにトレモロは毎日少しずつ練習しなくちゃ弾けるようにならないって言ったけどさ。そのどうしても必要な三百万円だって、少しずつの積み重ねで何とかなるんじゃないの? 自分にとって大切なことをお金と引き換えなんかにしちゃダメだよ」

 稔は刹那を見た。彼女は本氣で訴えかけていた。たまたま公園で知り合った通りすがりの人間にずいぶんと熱心だな、彼は少し驚いた。刹那は自分の剣幕を恥じたのか、下を向いてつぶやいた。
「どうやっても取り返しがつかなくなることもあるんだ。そうなってから後悔しても遅いんだから……」

「ありがとう。そんなに真剣に言ってくれて。本当は、その金だけの問題じゃないし、いろいろなことに外堀を埋められているのが現状だけれど……。そうだな。俺、明日から旅にでるんだ。そこでよく考えてくるよ」
「旅?」
「うん。最後のわがままって言って、ヨーロッパへの貧乏旅行に行くことを許してもらったんだ」

「ふ〜ん。アルハンブラにも行く?」
「ん? 行くかもしれないな」
「もし行ったら、そこでもう一度ボクの言ったことを考えてみて。後悔しないように。ボクは、安田さんと次に遭う時までにトレモロを練習しておくから」

 稔は何かが吹っ切れたように笑った。
「わかった。じゃあ、次に遭った時は、二人で何か二重奏しようか」

 公園は夕陽で真っ赤に染まった。しっかりとした足取りで去っていくその背中を眺めながら、刹那は稔の旅の安全を祈った。

(初出:2014年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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この後、稔はヨーロッパで失踪してしまいます。四年後にArtistas callejerosを結成した後、稔ははじめてグラナダを訪れ、蝶子の求めに応じてこの曲を演奏しています。その時にはきっと刹那さんのことを思い出しながら弾いていたことでしょうね。

この曲は、動画を貼付ける必要がないくらいに有名だと思いますが、一応。


Kaori Muraji Recuerdos De La Alhambra Francisco Tarrega アルハンブラの想い出
.22 2014 小説・大道芸人たち 外伝 trackback0

【小説】大道芸人たち 番外編 〜 黄昏のトレモロ - Featuring「Love Flavor」

Posted by 八少女 夕

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第十一弾です。栗栖紗那さんは、純愛ラノベ「Love Flavor」本編の最新作でご参加くださいました。ありがとうございます。

栗栖紗那さんの書いてくださった作品 Love Flavor 007 : "感情?"

栗栖紗那さんは生粋のラノベ作家ブロガーさんです。この方もブログでの小説交流をはじめたもっとも古いお友だちの一人で、書いているもののジャンルが全く違うにもかかわらず、積極的に絡んでくださる嬉しいお方です。紗那さんらしい人氣作品では「グランベル魔法街へようこそ」や「まおー」などが有名なのですが、私としては、この学園青春ラノベだけれど、ちょっと深刻なものも含まれる「Love Flavor」を一押しさせていただきます。この作品に絡んで去年のscriviamo!で東野恒樹というオリキャラを誕生させて書きましたし、その後も「リナ姉ちゃん」シリーズと共演していただくなど、うちの作品とはとても縁が深いのです。

さて、今回は「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」に絡んで、うちのオリキャラ結城拓人をなんと本編の中に出していただきました。お返しをどうしようかなと思ったのですが、さすがに拓人と蓮さまや紗夜ちゃんがバッタリ出会うというのは難しいので、紗那さんの作品の中に出てきた一セリフに飛びついて、全然違う話を作らせていただきました。実は、拓人が失恋した時期と、うちのとあるキャラが失踪した時期、ほぼぴったりなのですよ。そういう訳で、「大道芸人たち」外伝、お借りしたのは今年も再び白鷺刹那さまです。


【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ

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あらすじと登場人物

「scriviamo! 2014」について
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大道芸人たち 番外編
黄昏のトレモロ - Featuring「Love Flavor」
——Special thanks to Kuris Shana-san


「ち。上手くいかない」
普段、表ではまず口にしない乱暴な舌打がでてしまった。もし、彼女を知っている人がそれを見たらぎょっとしたことだろう。たとえば、数年前にティーンエイジャー向けのファッション雑誌の愛読者だったなら彼女を知らないということはありえない。そうでなくても蜂蜜色の髪と日本人離れしたスタイルは容易にかつて出演していた広告を思い出させるので、名前は知らなくてもあの人だとすぐに氣付かれる。だからモデルとしての活動をやめても、白鷺刹那は表ではかつてのように女らしく麗しく振る舞うのを常としていた。

 しかし、今日はすっかりそれを忘れていた。ここは町内の小さな公園、午前中には若い母親たちが我が子を連れて社交に精を出すが、この夕暮れには誰も見向きもせず、刹那がギターの練習をするには格好の場だった。

 刹那はギターをはじめてまだ二ヶ月だ。最初はいくつかコードを弾けるようになってそれで満足していた。同時にベースもやっていたのでそちらにまずは夢中になった。だが、どうもギターの他の奏法が氣になってきて、ここのところはクラッシックギターを練習している。アルペジオ奏法はそんなに難しくなかった。セーハが上手くいかなかったので、途中のレッスンを飛ばして「アルハンブラ宮殿の思い出」を弾こうとした。だがこちらもそう簡単にはいかなくて苛立っていた。

「何やってんだ?」
刹那が顔を上げると、そこに男が立っていた。黒髪がツンと立った男で、歳の頃は二十代の終わり頃だろうか。刹那をというよりは、刹那の右手を見ていた。

「上手く弾けないのよ、やになっちゃう」
刹那は乱暴な言葉遣いを聴かれたと思ったので、やけっぱちになって半ばふてくされるように答えた。

「ギターはじめてどのくらいだ?」
「二ヶ月。独学なの」

 男は呆れたというように空を見上げた。
「そんな早くトレモロは弾けないだろう」
「なんで」
「訓練しないと全部の指に均等に力が入らないんだ。毎日やっていればそのうちにできるようになるよ」

 刹那はすっと立つと男にギターを差し出した。
「そういうからには、あなたは弾けるんでしょう。やってみてよ」

 男は素直に受け取ると、刹那の立ったベンチに座るとギターを構えて静かに弾きだした。はじめの音からすぐに脱帽ものだとわかった。刹那が上手く動かせない右の指は軽やかにけれど均等に弦を弾いて、アルハンブラ宮殿の陽光に煌めく噴水を表現しはじめた。トレモロの部分だけでなく、その下を支えるメロディもしっかりと歌っている。

 刹那は、その演奏を黙って聴いていた。まだ肌寒い公園には、樹々も葉を落とし眠っているが、刹那と男の周りだけは夏のアンダルシアの幻想が広がっていた。しかも、それはそれだけではなかった。遠い憧れや、哀しみや、それにそれだけでない何かも表現されていた。今までに何度も聴いた「アルハンブラ宮殿の思い出」の演奏とは違う、特別な演奏だった。強い感情が感じられた。上手い人間が単純にギターを弾いているのとは違った。

 演奏が終わると、五秒ほど放心したようにギターの弦を見ていたが、男はゆっくりと立ち上がってギターを刹那に返した。
「こういうわけだ。長く続けていけばそのうちに弾けるようになるよ。もっとも、あんた忙しくて練習する時間ないかもしれないけれど」

 それを聞いて刹那は首を傾げた。
「ボクを知っている?」
「あん? まあな。モデルの白鷺刹那さん。知らないヤツの方が珍しいだろ。あ、俺はただの一般人で、安田稔っていうんだけどさ」

 刹那はため息をついた。
「もうモデルやっていないんだけれどね」
「ああ、最近、あまり見ないと思ったら、そうだったんだ」

「ねえ、安田さん、あの、唐突に失礼だけど……」
「なんだ」
「う〜ん、やっぱやめる」
「なんだよ、言えよ」

「わかった。演奏で思ったんだけれど、あなた、何か悩んでいるんじゃない?」
刹那がそういうと、稔はぎょっとした顔をして、それから再び青空を眺めた。
「そんな音していたか」

「音、かな……。それとも表現……ううん、顔の表情で思ったのかも。とにかく、単に公園でギターを爪弾くっていうのとは全然違っていた。すごく上手だったけれど、演奏って言うのを通り越して、まるで迷って苦しんでいるみたいだった」

稔は刹那のギターをじっとみつめたまま言った。
「わかるもんだな……。俺さ、ギターで身を立てたいってずっと思っていたんだけれど、その夢におさらばしたばっかりなんだ」
「どうして? そんなに上手いんだから、あきらめることないのに」
刹那の強い言葉に、稔は口を歪めた。
「ありがとう。でも、どうしようもないんだ」

「もし、ギターが本職じゃないなら、ふだんは何をしているの? サラリーマン?」
「いや、津軽三味線弾き」
刹那は目を丸くした。

「両方弾けるってすごくない?」
「ギターの方は趣味だったんだ。君と同じで独学。でも、三味線は家業だから、流派のことや後継者のことが絡んでいる。俺一人の問題ではなくなっている。ギターで食っていきたいと言っても、そう簡単にはいかないんだ。それに……」

 刹那が首を傾げて続きを促すと、稔は横を向いた。
「たとえば、モデルみたいな世界だったら三百万円なんてはした金かもしれないけどさ。俺にはどうしても必要だったから、その金額で自分の未来を売っちゃったんだ」

 刹那は口を尖らせた。
「モデルだって、三百万円をはした金なんて言える人はそんなにいないよ。未来を売っちゃったって、お金を受け取るかわりに、ギターをやめたってこと? どうしてもしたいことをそんなに簡単にあきらめていいの? 他に試せることはないの?」

 稔は考え込んでいるようだった。刹那は続けていいの募った。
「安田さんは、ボクにトレモロは毎日少しずつ練習しなくちゃ弾けるようにならないって言ったけどさ。そのどうしても必要な三百万円だって、少しずつの積み重ねで何とかなるんじゃないの? 自分にとって大切なことをお金と引き換えなんかにしちゃダメだよ」

 稔は刹那を見た。彼女は本氣で訴えかけていた。たまたま公園で知り合った通りすがりの人間にずいぶんと熱心だな、彼は少し驚いた。刹那は自分の剣幕を恥じたのか、下を向いてつぶやいた。
「どうやっても取り返しがつかなくなることもあるんだ。そうなってから後悔しても遅いんだから……」

「ありがとう。そんなに真剣に言ってくれて。本当は、その金だけの問題じゃないし、いろいろなことに外堀を埋められているのが現状だけれど……。そうだな。俺、明日から旅にでるんだ。そこでよく考えてくるよ」
「旅?」
「うん。最後のわがままって言って、ヨーロッパへの貧乏旅行に行くことを許してもらったんだ」

「ふ〜ん。アルハンブラにも行く?」
「ん? 行くかもしれないな」
「もし行ったら、そこでもう一度ボクの言ったことを考えてみて。後悔しないように。ボクは、安田さんと次に遭う時までにトレモロを練習しておくから」

 稔は何かが吹っ切れたように笑った。
「わかった。じゃあ、次に遭った時は、二人で何か二重奏しようか」

 公園は夕陽で真っ赤に染まった。しっかりとした足取りで去っていくその背中を眺めながら、刹那は稔の旅の安全を祈った。

(初出:2014年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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この後、稔はヨーロッパで失踪してしまいます。四年後にArtistas callejerosを結成した後、稔ははじめてグラナダを訪れ、蝶子の求めに応じてこの曲を演奏しています。その時にはきっと刹那さんのことを思い出しながら弾いていたことでしょうね。

この曲は、動画を貼付ける必要がないくらいに有名だと思いますが、一応。


Kaori Muraji Recuerdos De La Alhambra Francisco Tarrega アルハンブラの想い出
.22 2014 scriviamo! 2014 trackback0

【小説】彼女のためにできること

Posted by 八少女 夕

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第十弾です。中島狐燈さんは、二年前に発表した私の短編「桜のための鎮魂歌(レクイエム)」の続編を書いてくださいました。ありがとうございました。本来ならば狐燈さんのブログにリンクを貼るべきなのですが、鍵つきでここを訪れてくださる方のほとんどが読めないと思われるため、狐燈さんの許可を得てこの下に転載しました。

中島狐燈さんの書いてくださった掌編 【scriviamo!参加作品】臨床日誌(或る花冷えの日)

こちらからお読みください

【scriviamo!参加作品】臨床日誌(或る花冷えの日)

 予約を受けた時、久々に緊張するお客様だな、と分かったのは、自分と同世代位な声の感じの女性、標準語できちっとした電話応対だったせいだ。都会で仕事をしている人ならごく普通の事だが、このあたりでこういう人は少ない。都会から、この街に来る人たちの多くは観光なのだが、こういう予約電話の方の場合、仕事や何らかの用事があっていらっしゃる人だ。そして、そういう都会の女性たちはたいていバリバリに肩が凝っている。その手のお客様だろう、と予測しておいた。
 
 予約時間の5分前に扉を開けて入ってきた彼女を見た瞬間、ああこれは想像より深刻な用事だったか、と悟った。だがこういう深刻な方の場合の予約は、ほとんどが鍼のコースなのだが、マッサージコースの予約だったので予測が甘くなってしまったのだ。内心、困ったなぁと思いつつ、とりあえず何食わぬ顔で招き入れて、凝りの気になる部分などを聞きながらマッサージを開始した。それ以上の事を話しかけるかどうするか悩んでいると、彼女の方から話し始めた。

「こちらは南の方なのに、意外と寒いんですね」
「皆さん結構驚かれて、そうおっしゃるんですよ。沖縄に行くのと同じくらいの感覚でいらっしゃるみたいで。想定外なので多分余計に寒く感じるんですよねー。私も数年前までは東京だったので、最初来たときはいきなり風邪ひいちゃいましたよー」

 せっかく会話が始まったので、できるだけ明るい雰囲気に持っていきたい。でも自分の発した言葉のトーンは、明らかにいつもに比べてうわずっているし、身体は少し触っただけでやっぱり深刻な感じの硬さがあるので、色々な意味で自分の作り笑顔が引き攣っている。顔を見られない状態の位置関係でよかった。

「東京にいらしたんですか。どうしてこちらに?」

 もう何度聞かれたか覚えていないくらいの質問。答えはいくつかのパターンがあって、たいていは差障りのない無難な回答をする。でも、自分でも意外な事に真実に近い方の回答を勝手に口走り始めた。

「いやー話せば長い話なんですが、ウチの親父っていうのがロクでもない親父でしてね、まあいろいろあって東京にいられなくなっちゃったんですよー」

 自虐的な笑い話を始めたつもりだったのだが、彼女の身体が一瞬こわばったのがわかった。

「でね、一家でこっちに移住してきちゃったんですけど、そのダメ親父がまたサッサと死んじゃいましてね。親父のせいで東京を捨てたっていうのに、今更戻れもしないし全くいい迷惑でしたねぇ。でもまあ住めば都って言いますけど、そんな感じで、のんびり仕事させてもらってます」
「…お父様、ご病気だったんですか?」

 ああこれは話の流れがマズい方向に行っているのではなかろうか。でも仕方がない。

「そうなんです。気づいた時はちょっともう手遅れで。私も何しろ親父が大嫌いだったもんですから、よくよく体調の変化にも気づいてやれなかったんですよね。なるべく顔も見ないようにしてたんで」
「そんなにお嫌いだったのに、お父様を見捨てないで一緒に来たんですね」
「母のほうがね、親父をなかなか見捨てないもんですから、仕方なく、ですね。私は母を見捨てるつもりはなかったもんですから」
「なんだか、ウチとちょっと似てます。違うのは母が父を見捨てたところくらい」
「ホントですかぁ?いやでもきっとウチの親父よりは、ずっとマシなお父さんのはずですよ。ああそういえば、もうすぐ命日だなぁ。桜が散る丁度いい時期に死んだんですよね」

 彼女からの返事はない。しまった。陰気な話になり過ぎた。しかも死んだ事を連呼している。深刻な体調の人に向かって、私は何をしている?

「…私ね、実は今年の桜はもう見られないかもと思っていたんです。でもとりあえずまだ大丈夫だったみたい」
「…あー。。。そうでしたか。。。でも、そこまでおっしゃるほどにはヤバくなさそうですよ?」
「え?」
「正直言うと結構お身体キツそうなのはわかりました。でもね、近日中にどうこうって感じではないですし、免疫上げていけば、まだまだ普通に回復する範疇だと思いますよ」
「・・・」
「実はね、ウチの親父なんか、もっともっと酷い状態だったんですけど、免疫上げるためにいろんな事試して医者も驚くくらい相当改善してたんです。なのにヤツは馬鹿なんで、良い検査結果を聞いた直後に事故って即死でした。貴女はまだまだ大丈夫。たぶん十年後の桜も見れますよ」

 別に慰めを言うつもりではなく本当に正直な私見を述べたつもりだったが、彼女には気休めにしか聞こえないかもしれない、とも思った。その後は二人とも黙ったままで施術は終了した。彼女の去り際に、もう一言だけ声をかけた。

「今日は花冷えが強いですし、お気をつけて。またお待ちしてます」
「ありがとう…。……」

 ありがとうの次の言葉が聞き取れないままだった。旅人がこの地を訪れるのは観光や慰安のためだ。療養や湯治の方は治療のためだ。彼女はそのどちらとも言い難い雰囲気だったし、私のところに来たのも何故だったのか結局聞きそびれてしまった。全体的にあまり良い施術ができたようにも思えなかったし申し訳なかった。もう会うこともないかもしれないが、どこかで十年後の満開の桜を見て欲しい。そう思った。


上の作品の著作権は中島狐燈さんにあります。中島狐燈さんの許可のない利用は固くお断りします。


狐燈さんは私の高校の時の同級生で、現在に至るまで親しい関係を続けている数少ない友人の一人です。私と違ってちゃんと文芸のことを学んだ経歴もあり、93年に発表した「La Valse」を掲載した同人誌「夜間飛行」への参加を薦めてくれたのもこの方です。現在は二人とも東京から離れているために連絡はネット上に限られていますが、まじめで人に優しい人柄は高校の頃から全く変わりません。

これだけある私の作品の中から「桜のための鎮魂歌」を選んでくれたのは、現実の当時の私の感情と重なるものをみて氣になったのだろうと思います。「桜のための鎮魂歌」の設定はフィクションですが、根底に流れる複雑な感情がこの作品をちょっと異色の重いものにしていると思います。

返掌編については少し悩みました。同じテーマについて書くことはただの繰り返しになりますので、視点を変えました。主人公の救いのなさについて別の人物がアプローチをしています。「桜のための鎮魂歌」を読まなくても話は通じるかと思いますが、読めばこの女性がなぜ心に鎧を着ているのかを理解しやすいかもしれません。



「scriviamo! 2014」について
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彼女のためにできること
続・桜のための鎮魂歌(レクイエム)
——Special thanks to Koto-san


 千秋が部長の席の前に立っていた。休暇の申請をしていた。彼女がプロジェクトを外れたという噂を聞いていたので氣になっていた。

 千秋はいつも鎧をつけているようだった。付き合いも悪くないし、下ネタにもイヤな顔はしないから、楽しくつき合えるヤツだと、もしくはいい感じになれるのかと近づこうとすると、その鎧に打ち当たる。何度か二人で飲みに行ったことがある。もちろん下心ありで。たくさん飲んで、こちらは正体がなくなるほど酔ってしまったが、トイレに立つ時も、会計をする時も彼女の足取りはしっかりしていて、何よりも目が酔っていなかった。

 俺は千秋を口説くのをやめて、もっとかわいげがあって隙のある子たちとつき合ってから、六年前に麻奈と結婚した。理想通りとは言いがたいけれど、俺にはちょうどいいヤツで、感謝もしている。浮氣心がなくなったとは言わないが、俺にとって一番の女性は、結局妻だと思う。

 それでも、俺は千秋を氣にかけている。あいつ以外の同期の女の子たちは、結婚や出産を機に辞めたり最前線ではない部署に異動したりした。かつてのような殺人的な忙しさではなくなったとはいえ、未だに深夜までの残業や土日の出勤も珍しくないから、パートナーのいる女性には難しい職場だ。千秋はずっと変わらない働き方をしていた。これまでには何度か彼がいたこともあったらしいが、最近では誰も現状について触れられない。

 だが、俺が氣になっているのは、その件じゃない。むしろここ一年ほどの彼女の変化だ。どこがどうと指摘はしにくいが、身体が本格的におかしいのではないかと心配だ。ものすごく痩せたというのではない、だが顔を見ると以前の健康そうだった彼女とは明らかに違う。体調を崩して休んだ、精密検査に行ったという話も聞いた。

「なんだよ、松野、お前、北原千秋に惚れたのか」
声にはっとした。庄治がニヤニヤと笑っていた。
「そんなんじゃないよ」
そう言いながら、俺は食うことも忘れて手にしていた茶碗に意識を戻した。

 社食はそこそこ混んでいて、俺と庄治は運良く席を見つけて食事を終えようとしていた。後から入ってきた千秋が携帯で話しながら席を探しているのをいつの間にか目が追っていたのだ。うるさい社食の常で千秋はかなり大きな声で話していた。
「ええ、そうです。二泊でお願いします。そちらは別府駅から歩ける距離ですか?」
休暇で別府に行くのか、そう思った。

 俺は飯を食い終えて、冷えた煎茶を飲みながら庄治に訊いた。
「なあ、知っているか、千秋のやつ、プロジェクトから自分で降りたらしい。一体どうしたんだと思う?」
「あん? お前知らないのか? 入院するんだってさ」
「入院って、なんの?」
「病名までは知らないよ。去年の今ごろから通院はしていたらしいけれどな。もしかしたら同期最後の総合職女子も退職することになるのかもな」

 退職とか一般職になるとかの話ならまだいい。庄治も縁起でもないので口にはしなかったが、俺と同じ別のことを考えているんじゃないかと感じた。俺はそれからしばらく上の空だった。終業後の酒の誘いも断って家に帰り、あまりに早かったので却って麻奈に心配される始末だった。

 そうか、あの不自然に黄色い顔だ、千秋に対するどうしようもない不安のもとは。俺は妻の顔をじっとみつめた。ファンデーションの美白効果もあるかもしれないが、うっすらと白い肌に頬がピンクに染まっている。結婚した途端に自分のことにかまわなくなってしまう女がいるとよく聞く中で、麻奈は勤めていることもあるが、結婚前と見かけがほとんど変わっていない。残業の多い俺の仕事のことも理解してくれて、家庭のことはほとんどやってくれるしあまり不満も口にしない、俺にはでき過ぎたほどの嫁だ。とはいえ、俺もここで千秋の名前を出すほどの軽率なことはしない。たとえ千秋に対して現在とくに恋愛感情を持っていないと言っても、麻奈は信じないだろうから。

「なあ、顔が黄色になる、重大な疾患ってなんだ?」
俺の言葉に麻奈はきょとんとした。
「何よ、薮から棒に。あなたの顔は全然黄色くないわよ」
「俺じゃないよ。同期でさ、入院することになったらしいって噂のヤツがいてさ」
「あら、そうなの。ええと、黄色いってことは肝障害かなんかじゃないの。私はそういうのあまり詳しくないからわからないけれど」
「そうか……」

 千秋と七、八年前に飲みに行った時のことを思い出した。あのとき俺はまだ、あわよくばあいつを口説こうとしていた。
「ここのところ、ふさぎ込んでいるみたいじゃないか。どうしたんだ?」

 千秋はいつものように醒めた目つきをしてから、下を向いて少し笑った。
「ばれちゃった、か……。まあね。これでもそんなに鋼鉄の神経じゃないってことかしら」
「何があった?」
「ああ、何でもないの。ちょっと、親が死んでね」

「おい。どこが何でもないんだよ」
俺は慌てて言った。千秋は忌引休暇をとらなかったし、誰もその話を聞いていなかったはずだ。

「ずっと縁を切っていたのよ。うちね、両親が熟年離婚したの。で、私はそれ以来あの人を父親とも思っていなかったし、その前からあの人のことを大嫌いだった」
「でも……」
「その、でも、なのよ。数ヶ月前に連絡してきてね。病室で謝られちゃって。それで、死なれちゃって……」

 俺はあのとき、本氣で千秋の力になりたいと思った。俺がずっと側にいてやるから安心しろと言ってやりたかった。実際に、それに近いことを言った。でも、千秋はあの醒めた目で、俺をじっと見つめた。
「そういうことを、何人もの女性に言うもんじゃないわ。私を男性不信にしたのは、父親だけだと思っている?」

 そう、俺はすでに麻奈とつき合いだしていた。千秋はそれを知っていた。結局俺はかわいげのある麻奈とゴールインして別の人生を歩みだした。俺の人生のためにはそれが一番だと思った。

「黄色くて縮んでしまった顔の父を見た時にね。わからなくなったの。ずっとあの人を憎んでいた。あの人は母に対して許せないことをしてきた。姑息で誠意の欠片もないひどいことを。けれど、愛人にも元妻にも娘にも拒まれたままで、ひとりぼっちで死んでいくあの人を許さない自分はどれだけ立派なんだろうって思ったわ。何もかもが虚しくなってしまった」
あのとき千秋はいつものように全く酔ったそぶりを見せずにグラスを傾けていた。俺は自分の方が酔ってしまって朦朧とした頭で、その言葉をぼんやりと聞いていた。

 その千秋が今、黄色い顔をして入院しようとしている。

「その方、親しいお友だちなの?」
麻奈の声にはっとした。俺は頭を振った。
「ものすごく親しいってわけじゃない。入院のことも他のヤツから聞いたくらいだし」
「そう。大した病状じゃないといいんだけれど。ご飯にする? それとも先にお風呂に入る?」

 俺はそのまま麻奈との普通の日常に戻った。実際の所、俺にできることはその晩は何もなかったから。こんな俺が、それでも千秋のことを氣にするのは間違っているんだろうか。

 それから一週間が経った。その間に桜前線はどんどん上昇して、昨日はついに東京でも咲き出した。俺は新人に花見の席とりの心得について廊下で説教をたれている時に、向こうを千秋が歩いていくのを見た。「もういい」と言って新人を帰し、急いで彼女の後を追った。

「千秋!」
エレベータの手前で紺のスーツ姿がぴたりと止まった。ゆっくりと振り向いた時に、俺はあれ、と思った。以前と何かが変わったわけではなかったが、とにかく何かが違うように感じた。

「何、松野君」
俺は突然、何を話していいのかわからなくなった。「精密検査で悪い病氣だったんだって」とは訊けないし、「休暇でどこに行っていた」と訊ねるのも筋が違うように思える。それでこう言った。
「今日、久しぶりに飲みにいかないか?」

 千秋はしばらく例の醒めた目つきでじっと見ていたが、やがて言った。
「いいわよ。夜桜の見えるところに連れて行って」

 結婚して以来、ずっと距離を置かれていたので、この提案には正直びっくりしたが、それを見越したように彼女が続けた。
「わたし、今、ドクターストップでアルコールは飲めないから、酔わせてどうこうは無理よ」

 高輪にあるとあるホテルのラウンジからは見事な夜桜が楽しめる。俺はクライアントにも麻奈の知り合いにも出くわさないことを祈りながらも、青白く輝く桜の照り返しを受けた千秋の横顔に少しだけときめいていた。俺は千秋を見ていたが、彼女は桜をみつめていた。

「噂を聞いたんだ」
「何の?」
「お前の。T社はお前のアイデアだからこそGOを出したんだろ。そのプロジェクトを降りるなんてよほどのことだと思ってさ」
「病院から会議には参加できないもの」
「じゃあ、本当に……。手術でもするのか」
「いいえ。できないの。だから、長くかかるみたい」

 人ごとみたいだった。俺はなんといっていいのかわからなかった。
「そんな顔をしないで。心配してくれたんでしょう、ありがとう」
「千秋……。俺は……」

「私ね、今年の桜はもうだめだと思っていたの。でも、二度も観る事になったわ」
「二度?」
「別府で観たし、それからここでも。不思議ね、桜って。梅や紫陽花では、来年もまた観られるだろうかなんて考えないのに、桜だけはそう思わせるのよね」

「なあ、千秋。また、ここで桜を観ような。五年後も、十年後も……」
彼女は、桜から目を離して、まともに俺の方を見た。いつもの醒めた目で少し揶揄するように笑った。
「そんな約束をしちゃダメよ。そういうのは、奥さまやお子さんとするものよ。それに私、十年後の桜は先約があるの」
「は?」

「別府でね、十年後のことを保証してくれた人がいるの。あの人と別府の桜を観に行くのよ」
そう言って千秋はペリエを飲んだ。ああ、それでか。俺は思った。彼女が少し変わって見えたのは。別府の誰かは彼女に希望を与えたに違いない。

「そうか……。支えてくれる人がいるんだな。俺は、千秋のために何かできないかって、考えていた。でも、結局は空回りだったみたいだな」
そういうと千秋は笑って首を振った。
「誤解しないで。別府にはただの旅行で行ったのよ。それに、その人は個人的な知り合いじゃなくて、むこうの治療院でマッサージをしてくれた針灸師の方よ」

 千秋は自分の掌を広げて見つめた。それから二つの掌をそっとすり合わせた。
「こうやってゆっくりとね、首の方から背中へと緩やかに円を描いていくの。強くもなく、弱くもなく。その度に、乾いていた土に水が沁みていくように、何か足りないものが細胞の一つひとつに満ちていくようだったの。最初は、それも上手くいかなくてね。たぶん、私があまりにも長くそういう接触を拒否していたからだと思うの。その方はそれを感じて、二度同じことをしてくださったの。マッサージはその方にとってお仕事だったんだけれど、私にとっては単なる身体の癒し以上の何かだったのよね」

「それは……」
「私、ずっと一人だったでしょう。誰かに助けてもらいたくなんかない、一人で生きていけるって思っていた。お金を稼いで、マンションという自分の城を持って、家事も一人でして、それで大丈夫だと思っていたの。完璧な人格者で私のためだけに存在してくれるような誰かでなければ、パートナーなんかいらないと思っていたし、そんな人は存在するわけはないとも思っていた。でも、そんな極端なことじゃなかったのよ。たった40分間、その方は単純にご自分の仕事をなさっただけなんだけれど、その掌は私のために、私の必要としていた何かを与えてくれたの」

 今度は俺が夜桜を観ていた。千秋のまっすぐな視線を見る勇氣がなかった。千秋が語っているのは肝臓の病の話ではなかった。本当は、たぶん俺がもしかしたらずっと前に与えてやれたかもしれない何か、けれど、俺が自分の快適さと幸せのために見なかったことにしてゴミ箱に捨ててしまったものだった。たぶん麻奈が俺に与えてくれているから、こうして健康でいられる何か。俺が千秋に与えようとすれば、麻奈と千秋の両方を苦しめるだけでしかない何か。

 千秋はその俺の心を読んだのかもしれない。笑ってこう続けた。
「ねえ。松野君。袖振りあうも多生の縁っていうわよね。わたしは、ずっと誰も信じない、一人でもかまわないって思ってきたけれど、誰かのほんの少しの言葉や氣遣いに生かされているって、ようやく思えるようになってきたの。松野君がこうやって氣にかけてくれるのも、そのひとつね。今の私にはそれで十分なの。私が言いたいのは、そういうことよ」

 千秋はペリエを飲み干すとすっと立った。
「今日はありがとう。私、桜の下を歩いてから帰るわね」

「千秋、頑張れよ」
そう言うのが精一杯だった。彼女は笑って去っていった。会計をしようとしたら、「もうお連れさまが済まされました」と言われてしまった。

 俺は少し前に千秋が眺めたであろう夜桜を見上げながら歩いた。夜風はまだ冷たかった。花の下でビールを傾けている客たちが寒さに文句を言っている。毎年の光景だった。でも、俺は二度とこんな風に花見の馬鹿騒ぎに加われないだろう。

 五年後、十年後、千秋がまだ桜を観られることを願っている。もっとも俺自身が健康に花見を続けている保証もない。だから、今年の桜をよく見ておこう。千秋と一緒に観たこの花を脳裏にしっかりと焼き付けておこう。

(初出:2014年2月 書き下ろし)
.19 2014 scriviamo! 2014 trackback0

【小説】追跡 — 『絵夢の素敵な日常』二次創作

Posted by 八少女 夕

scriviamo!


月刊・Stella ステルラ 3月号参加 掌編小説 二次創作 月刊・Stella ステルラ


「scriviamo! 2014」の第九弾です。山西左紀さんの今年二つ目のご参加は、大好きな『空気の読めない(読まないかな?)お嬢様』絵夢の活躍する「絵夢の素敵な日常」シリーズの最新作です。私の大好きな街ポルトを題材にした作品、私の写真も共演させていただいています。ありがとうございます。

山西左紀さんの書いてくださった掌編 絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso

山西左紀さんは、ブログでの小説交流をはじめたもっとも古いお友だちの一人で、私の作品にコメントをくださるだけではなくて、実にいろいろな形で共演してくださっています。先日発表した「夜のサーカス」のアントネッラと「もの書きエスの気まぐれプロット」のエスの交流や、「254」シリーズのコトリたちとうちの「リナ姉ちゃん」シリーズだけでなく、そしてこの「絵夢」シリーズでもArtistas callejerosと共演してもらったり、リクエストをして脇キャラストーリーをたくさん作っていただいたり、毎回無茶をお願いしてもちっとも嫌がらずに、ほとんどオーダーメードのように作品を書いてくださるのです。

今回の話は私の休暇の話からイメージをふくらませて書いてくださった、ポルトが舞台のお話。とてもよく調べてあって「本当に行ったことがないの?」とびっくりするくらい細かい所をご存知でした。で、せっかくなのでポルトの話を続けます。個人的にツボだったサキさんの作品の最後の一文からふくらませたしょうもないトーリーです。短いんですが、これ以上引き延ばすほどの内容でもないので(笑)左紀さん、キャラ四人まとめて貸していただきました。ありがとうございました。



「scriviamo! 2014」について
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追跡  〜 『絵夢の素敵な日常』二次創作
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 最高の秋晴れだ。幸先がいい。

 アパートを出て、最初に寄ったのはセウタ通りの菓子屋。何種類もの菓子パンやミニタルト。ばあちゃんに頼まれたものだけれど、アリアドスにつくまでに二つ胃袋に消えた。ここの坂は勾配がきつくて転げ落ちるみたいに小走りになる。たくさんの車が市役所前広場を通って、サン・ベント駅の方へと曲がっていく。僕も同じ方向へと行く。徒歩だから橋まではちょっとあるけれど、それでも渋滞中の車よりも早く着くだろう。

 リベルダーデ広場にはいくつものカフェの椅子とテーブルがでていて、観光客たちが眩しい陽光を楽しんでいる。通りの向こうには、赤や黄色の観光客用の二階建てバスが出発時間になるのを待っていた。真っ青な空、白い市庁舎、ドン・ペドロ四世の銅像。僕が生まれ育ったこの美しい街の誇りだ。

 経済の悪化とともにリスボンの治安はとても悪くなったが、ポルトガル第二の都市ポルトは危険なこともほとんどなく観光客の受けもすこぶるいい。だから、いつもたくさんの外国人が来て、旅を楽しんでいる。真夏はさすがにとても暑いけれど、さすがに過ごしやすくなってきた。

Porto


 今日は休みなので、僕は橋を渡ってワイン会社が軒を重ねる対岸へ行く。観光客のためにポートワインの試飲をやっているので、適当に混じるのだ。たぶん、もう僕が観光客じゃないのはバレていると思うけれど。でも、僕はちょっとだけ東洋人みたいな顔をしているので、彼らについていく。最近は中国人観光客の方が多いのだけれど、彼らは独特の騒ぎ方をして、僕は上手く溶け込めないので、日本人をさがす。あ、いた! あの三人は日本人っぽいぞ。

 一人は年配の女性、それから髪をツインテールにしたティーンエイジャー、そして髪が長くて綺麗な女性だ。妙なことに三人は英語で話している。年配の女性が二人をワイナリーに案内するらしい。しめしめ。上手く警戒されないくらいに近くに行って、試飲のご相伴に……。

 そこで僕は妙なことに氣がついた。僕よりも三人に近い位置に、妙な黒服の男がいる。やはり東洋人だ。三人の連れではないようなのだが、男はじっと例の若い女性の方を見ている。年配の女性が何かを説明するために立ち止まったら、そいつもぴたりと止まった。なんだあいつ、あの三人、いや、あの女性を付けているのか?

 三人の誰もあいつには話しかけないから、知り合いじゃないだろう。大体、コソコソ付けているなんて普通じゃない。あの服装は、いかにもマフィアらしい! 東洋人なのは変だけれど、日本にもマフィアはきっといるんだろう。僕はどうしたらいいんだろう。このままにしておいたら、近いうちにあの女性は誘拐されるかもしれない。そうだ、ワインでほろ酔いになるのを待っているんでは。このままにしておいたら彼女が危ない!

 僕は男が女性に意識を集中しているのをいいことにそっと近づいた。そして一氣に足にタックルして男を突き倒した。そして反撃されないよう、全力でふくらはぎに抱きついた。

「うわっ!」
男は情けない声を出した。それを聞いて、周りの観光客と一緒に例の三人組もこちらを振り向いた。すぐに行動を起こして駆け出したのは例の女性だった。
「山本!」

「何、何が起こったの?」
年配の女性が叫んだ。あれ、ポルトガル語だ。この人、もしかして日本人じゃないの?

 日本語で何かわめく男と、びっくりして助けに来る女性、それに年配の女性の言葉で、僕はわけがわからなくなってきた。

「あんた、いったい、何やっているのよ」
腰に手を当てて、両足を肩の広さに広げてツインテールの女の子が言ったので、僕はしぶしぶ彼のふくらはぎから手を離した。

「こいつが、その人を尾行していたみたいだったから」
「尾行じゃないわよ、警護でしょ! だいたい、あんた、どこの子なのよ」
「え……」

 どうやらこの男はこの人たちの知り合いみたい。じゃ、マフィアが誘拐しようとしているってのは、僕の勘違い?
「その人の誘拐を企むマフィアだと思ったんだ」

 僕の説明を年配の女性が訳してくれて、一同はどっと笑った。きれいな女性は僕の頭を撫でて
「助けてくれようとしたのね、ありがとう」
と言った。

「私は絵夢。はじめまして。こちらは、メイコにミクに山本。あなたは?」
女性が順番に紹介してから、僕に手を差し出した。僕は助けてもらって立った。そしたら彼女の胸までにも届かない背しかなかった。

「僕、ジョゼです。この近くの小学校に通っています」
「地元の小学生が、こんな所で何してんの?」
ミクが痛い所を突っ込んでくる。ポートワインの試飲の話をしたら、四人は目を丸くした。
「一緒について来てもいいと言いたい所だけれど、ワインはダメよ」

 それでも、四人は僕を川岸の眺めのいいレストランに連れて行ってくれた。大人三人はポートワインで、そしてミクと僕は絞りたての葡萄ジュースで乾杯した。こうして僕には、新しい友だちができたんだ。

(初出:2014年2月 書き下ろし)
.17 2014 scriviamo! 2014 trackback0

【小説】花見をしたら

Posted by 八少女 夕

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。
scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第八弾です。ウゾさんが、もともとこの企画のために書いてくださったという掌編にお返しを書いてみました。ウゾさん、ありがとうございます!

ウゾさんの書いてくださった掌編『其のシチューは 殊更に甘かった 』

ウゾさんはその年齢とは思えないものを書くことで定評のある中学生ブロガーさんです。書いてくださった作品も隅の老人視点ですよ。そして書いてくださったのは何故か今年やたらと注目を浴びている「マンハッタンの日本人」の美穂の話。はい、続きを書きました。あまり進んでいませんが。

特に読まなくても話は通じるかとは思いますが、このシリーズへのリンクです。(そろそろ新カテゴリーにしようかな)
 マンハッタンの日本人
 それでもまだここで - 続・マンハッタンの日本人

ええと、今年の参加一度目の方が全部終わってからにしようと思ったのですが、二度目参加の方がお二人になりましたので、来た順でガンガン発表しちゃうことにしました。はい、そうです。scriviamo! 2014は何度も参加してもかまいません。あ、締切は変わりませんので、二度目にトライしたい方はお急ぎくださいませ。


「scriviamo! 2014」について
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花見をしたら 
 〜 続々・マンハッタンの日本人
——Special thanks to Uzo-san


 最悪。美穂は口を尖らせながら歩いた。五番街を通ったら、トレイシーとすれ違っちゃった。正真正銘のキャリアウーマンで、八ヶ月前まで同じオフィスで仕事をしていた。美穂は彼女に憧れて、いつもにこやかに挨拶をしていたのだが、ある時彼女が仏頂面で言ったのだ。
「用もないのにヘラヘラしないで」

 ムシの居所が悪かったのかもしれないし、失恋でもしていたのかもしれない。でも、そのいい方に美穂はひどく傷ついたし、それからしばらくして銀行をクビになり、五番街のオフィスから追い出されてしまってからはより一層逢いたくない女になった。トレイシーはそんな美穂の想いを全く無視して「ハロー!」と笑いかけてきた。

「久しぶりね。今、どこでどうしているの?」
「仕事を見つけて働いています。小さなダイナーですが」
「この辺りなの? 私の知っているお店かしら」
「いいえ、普段勤めているのはユニオン・スクエアのあたりです。それに、あなたが行くような洒落たお店じゃないんです」

 トレイシーは、あら、と氣まずそうな顔をしたが、すぐに何ともないように言った。
「今日はオフなの? 買い物かしら」

 安食堂に勤めている私が五番街でショッピングをするわけないじゃない、そう思ったが怒ってもしかたない。そうだった、トレイシーってこういう無神経なことをいう人だったわね。
「いえ、今日も仕事です。ときどき、オーナーが経営しているもう一つの店にヘルプで行かされるんです。メトロポリタン美術館の近くにあります。こっちのほうが少しはマシだけれど、それでもあなたの行くような洒落たお店じゃないですね。《Cherry & Cherry》っていいます」

 あまり来たくもなさそうなのに愛想笑いをするトレイシーとハグをかわして、美穂は先を急いだ。好きでもないのにハグしたり、キスしたり、愛想笑いよりずっと偽善的じゃない。数年前はこんなことは考えなかった。アメリカは全てにおいて日本より優れていると思っていたし、日本にいるのは井の中の蛙で偏狭な人たちだと思っていた。

 でも今はそんな風には考えていない。日本の方がいいとは思っていないけれど、アメリカの方が優れている、マンハッタンにいる自分が素晴らしいとも、全く思えない。どちらの国にもいろいろな人がいる。いろいろなことがある。その中で、精一杯生きていく、それだけだ。

 ダウンタウンにある《Star's Diner》に勤めるようになったのは、もとはといえばアパートから遠くなかったからだが、もとの勤務先のある五番街や華やかな地域から離れられてほっとしていた。クビを言い渡した上司や、未だに肩で風を切って通勤している同僚たちに遭うのはつらかったし、今まで親しかった街に拒否されているようで悲しく思っただろうから。だから、二ヶ月ほど前にオーナーから《Cherry & Cherry》のヘルプに行ってくれと言われた時にはどきっとした。

 《Cherry & Cherry》と目と鼻の先にあるメトロポリタン美術館は、五番街に勤めている時の美穂のお氣にいりスポットだった。100ドルの年間パスを購入して、何度も訪れたものだ。今はとても払えないので、年間パスは買わないし、行くとしても美術館側の一回入場の希望額25ドルも高すぎる。でも、たとえば5ドルで入ることにも抵抗がある。だから、行かない。五番街を通って、メトロポリタン美術館を目にするようなところで働くのが不安だった。古傷をえぐられるみたいで。

 でも、ズキッとしたのは最初の日だけで、後はごく普通の日常になった。五番街は違って見えた。最初に海外旅行で来た時の憧れ、働くようになって「これが私の住む街なの」と誇りに思っていたこと、そのどちらの五番街とも違って見えた。それはアスファルトと石畳に覆われた道だった。憧れや誇りではなくて、通過する場所だった。トレイシーだって、他のもと同僚たちだって、きっと何ともなくなっていくに違いない。

 迷いもせずに《Cherry & Cherry》に辿りつき、ドアをあけようとした時、風に飛ばされてきた白い花びらが手の甲に載った。あ、桜! そうか、もう四月も終わりだものね。故郷の吉田町では一ヶ月も前に終わったであろう桜。ふいに子供の頃の春の光景が浮かんできて、美穂はぐっと涙を飲み込んだ。泣いている場合じゃないし。仕事、仕事。

 ドアを開けた。品の悪いフューシャ・ピンクのソファーが目に入る。ウェイトレスのキャシーが露骨に嬉しそうな顔をした。遅番である美穂が来たら帰ってもいいことになっているのだ。相変わらずぽつりぽつりとしか客がいない。後から他のウェイトレスたちも来るだろうし、18時にもなれば息をつく間もなくなるのだろうが、しばらくはのんびりできるだろう。エプロンをしてカウンターに立った。

 カウンターの一番奥に、茶色い鳥打ち帽を被った老人が座っていた。美穂は帰ろうとするキャシーをつかまえて訊いた。
「あの人の注文は?」
「ああ、まだよ。さっき入ってきたとき、息があがっていたので、あとでまた注文に来ますって言ったんだ」
手をヒラヒラさせながら、キャシーは出て行った。

「こんにちは。ご注文を伺います」
美穂は老人の前に立った。

 老人は、ゆっくりと視線を上げた。
「見ない子だね。新入りかい?」
「ええ、まあ。普段はユニオン・スクエアの店にいるんです」
「外国人だね」
「はい。日本人ですよ」

 なるほどとつぶやいたようだった。なにがなるほどなのだかわからないけれど。

「桜は見たかね。今日は満開だったよ」
「いいえ、今年はまだ。さっき花びら一枚だけ見ました。普段は思いだしもしないのに、軽いホームシックにかかりましたよ」
「ああ、日本の桜は有名だからね。華やかで綺麗な花だな」

「華やか……ですか。まあ、そうですね。私たちはそんな風に表現しないかな」
「では、なんと」

 美穂は言葉に詰まった。言われてみれば満開の桜は間違いなく華やかだった。だが、桜にはそれとは別のファクターが常に付いて回っている。儚い、幽玄な、それとも潔い……う~ん、なんだろう。ぴったりくる言葉がみつからない。というよりも、それを言葉で説明しようとしたことがなかった。

「ごめんなさい。ぴったりくる表現がみつからないわ」
「英語にはない概念かい?」
「そうじゃないの。私が感じているものを理論的に言葉にして考えたことがないのを、今ようやくわかったの」
老人はびっくりしたようだった。
「感じているのに考えたことがないって?」

 美穂は肩をすくめた。不意に自分は完膚なきまでに日本人なのだと思った。

 老人はそれ以上追求してこなかった。メニューを見もせずにスペシャル、つまり格安の定食を頼んだ。昨日残った肉や野菜を詰め込んで煮たシチュー。少し固くなったパン。アメリカらしく半リットルもある飲み物だけは太っ腹だが、それ以外はケチなメニューだ。だが、老人はスペシャル以外は頼まないと心に決めているようだった。

「アメリカに来てどのくらいだね」
他に客もいなくて、手持ち無沙汰の美穂は素直に老人の話し相手になることにした。どうせよく聞かれる質問だ。

「五年ちょっとです」
「ニューヨークにずっと?」
「ええ。最初は留学、それから五番街の銀行で一年半。失業三ヶ月、それから今の仕事です」
「日本に帰りたくないのかね?」

「ふるさとは遠きにありておもふもの」
美穂は思わずつぶやいた。

「なんだって?」
日本語を知らない老人には呪文のように聞こえたことだろう。美穂は英語に切り替えて言った。
「室生犀星という日本の詩人による詩の一節です。故郷というものは遠く離れた所で懐かしがっているのが一番いい。帰ったから天国ってわけじゃないんです」

「この世に天国はないからね」
やはり天国には住んでいない老人はそうつぶやくと具の少ないシチューを口に運んだ。

「桜を見に行ってきなさい。日本のと同じかどうかは知らないが、あんな綺麗なものを見過ごすのはよくないよ。あれは金持ちも貧乏人も関係なく平等に得られる幸福の一つだ」
「そうね、そして時が過ぎると、金持ちも貧乏人も関係なく見られなくなってしまうものだものね」

 ふさぎ込んでいても、傷ついていても、人生は前には進んでいかない。どこにも天国がないのはわかっている。だったら、それなりに楽しくやっていかなくちゃ。

 そう考えたら銀行をクビになって以来感じなかったほどにすっきりとした心持ちになってきた。そうだ、花見に行こう。日本とかニューヨークとか、こだわるのではなくて、ただ花を楽しもう。美穂は笑って老人の皿にお替わりのシチューを入れてやった。

(初出:2014年2月 書き下ろし)

.14 2014 小説・マンハッタンの日本人 trackback0

【小説】花見をしたら

Posted by 八少女 夕

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第八弾です。ウゾさんが、もともとこの企画のために書いてくださったという掌編にお返しを書いてみました。ウゾさん、ありがとうございます!

ウゾさんの書いてくださった掌編『其のシチューは 殊更に甘かった 』

ウゾさんはその年齢とは思えないものを書くことで定評のある中学生ブロガーさんです。書いてくださった作品も隅の老人視点ですよ。そして書いてくださったのは何故か今年やたらと注目を浴びている「マンハッタンの日本人」の美穂の話。はい、続きを書きました。あまり進んでいませんが。

特に読まなくても話は通じるかとは思いますが、このシリーズへのリンクです。(そろそろ新カテゴリーにしようかな)
 マンハッタンの日本人
 それでもまだここで - 続・マンハッタンの日本人

ええと、今年の参加一度目の方が全部終わってからにしようと思ったのですが、二度目参加の方がお二人になりましたので、来た順でガンガン発表しちゃうことにしました。はい、そうです。scriviamo! 2014は何度も参加してもかまいません。あ、締切は変わりませんので、二度目にトライしたい方はお急ぎくださいませ。


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花見をしたら 
 〜 続々・マンハッタンの日本人
——Special thanks to Uzo-san


 最悪。美穂は口を尖らせながら歩いた。五番街を通ったら、トレイシーとすれ違っちゃった。正真正銘のキャリアウーマンで、八ヶ月前まで同じオフィスで仕事をしていた。美穂は彼女に憧れて、いつもにこやかに挨拶をしていたのだが、ある時彼女が仏頂面で言ったのだ。
「用もないのにヘラヘラしないで」

 ムシの居所が悪かったのかもしれないし、失恋でもしていたのかもしれない。でも、そのいい方に美穂はひどく傷ついたし、それからしばらくして銀行をクビになり、五番街のオフィスから追い出されてしまってからはより一層逢いたくない女になった。トレイシーはそんな美穂の想いを全く無視して「ハロー!」と笑いかけてきた。

「久しぶりね。今、どこでどうしているの?」
「仕事を見つけて働いています。小さなダイナーですが」
「この辺りなの? 私の知っているお店かしら」
「いいえ、普段勤めているのはユニオン・スクエアのあたりです。それに、あなたが行くような洒落たお店じゃないんです」

 トレイシーは、あら、と氣まずそうな顔をしたが、すぐに何ともないように言った。
「今日はオフなの? 買い物かしら」

 安食堂に勤めている私が五番街でショッピングをするわけないじゃない、そう思ったが怒ってもしかたない。そうだった、トレイシーってこういう無神経なことをいう人だったわね。
「いえ、今日も仕事です。ときどき、オーナーが経営しているもう一つの店にヘルプで行かされるんです。メトロポリタン美術館の近くにあります。こっちのほうが少しはマシだけれど、それでもあなたの行くような洒落たお店じゃないですね。《Cherry & Cherry》っていいます」

 あまり来たくもなさそうなのに愛想笑いをするトレイシーとハグをかわして、美穂は先を急いだ。好きでもないのにハグしたり、キスしたり、愛想笑いよりずっと偽善的じゃない。数年前はこんなことは考えなかった。アメリカは全てにおいて日本より優れていると思っていたし、日本にいるのは井の中の蛙で偏狭な人たちだと思っていた。

 でも今はそんな風には考えていない。日本の方がいいとは思っていないけれど、アメリカの方が優れている、マンハッタンにいる自分が素晴らしいとも、全く思えない。どちらの国にもいろいろな人がいる。いろいろなことがある。その中で、精一杯生きていく、それだけだ。

 ダウンタウンにある《Star's Diner》に勤めるようになったのは、もとはといえばアパートから遠くなかったからだが、もとの勤務先のある五番街や華やかな地域から離れられてほっとしていた。クビを言い渡した上司や、未だに肩で風を切って通勤している同僚たちに遭うのはつらかったし、今まで親しかった街に拒否されているようで悲しく思っただろうから。だから、二ヶ月ほど前にオーナーから《Cherry & Cherry》のヘルプに行ってくれと言われた時にはどきっとした。

 《Cherry & Cherry》と目と鼻の先にあるメトロポリタン美術館は、五番街に勤めている時の美穂のお氣にいりスポットだった。100ドルの年間パスを購入して、何度も訪れたものだ。今はとても払えないので、年間パスは買わないし、行くとしても美術館側の一回入場の希望額25ドルも高すぎる。でも、たとえば5ドルで入ることにも抵抗がある。だから、行かない。五番街を通って、メトロポリタン美術館を目にするようなところで働くのが不安だった。古傷をえぐられるみたいで。

 でも、ズキッとしたのは最初の日だけで、後はごく普通の日常になった。五番街は違って見えた。最初に海外旅行で来た時の憧れ、働くようになって「これが私の住む街なの」と誇りに思っていたこと、そのどちらの五番街とも違って見えた。それはアスファルトと石畳に覆われた道だった。憧れや誇りではなくて、通過する場所だった。トレイシーだって、他のもと同僚たちだって、きっと何ともなくなっていくに違いない。

 迷いもせずに《Cherry & Cherry》に辿りつき、ドアをあけようとした時、風に飛ばされてきた白い花びらが手の甲に載った。あ、桜! そうか、もう四月も終わりだものね。故郷の吉田町では一ヶ月も前に終わったであろう桜。ふいに子供の頃の春の光景が浮かんできて、美穂はぐっと涙を飲み込んだ。泣いている場合じゃないし。仕事、仕事。

 ドアを開けた。品の悪いフューシャ・ピンクのソファーが目に入る。ウェイトレスのキャシーが露骨に嬉しそうな顔をした。遅番である美穂が来たら帰ってもいいことになっているのだ。相変わらずぽつりぽつりとしか客がいない。後から他のウェイトレスたちも来るだろうし、18時にもなれば息をつく間もなくなるのだろうが、しばらくはのんびりできるだろう。エプロンをしてカウンターに立った。

 カウンターの一番奥に、茶色い鳥打ち帽を被った老人が座っていた。美穂は帰ろうとするキャシーをつかまえて訊いた。
「あの人の注文は?」
「ああ、まだよ。さっき入ってきたとき、息があがっていたので、あとでまた注文に来ますって言ったんだ」
手をヒラヒラさせながら、キャシーは出て行った。

「こんにちは。ご注文を伺います」
美穂は老人の前に立った。

 老人は、ゆっくりと視線を上げた。
「見ない子だね。新入りかい?」
「ええ、まあ。普段はユニオン・スクエアの店にいるんです」
「外国人だね」
「はい。日本人ですよ」

 なるほどとつぶやいたようだった。なにがなるほどなのだかわからないけれど。

「桜は見たかね。今日は満開だったよ」
「いいえ、今年はまだ。さっき花びら一枚だけ見ました。普段は思いだしもしないのに、軽いホームシックにかかりましたよ」
「ああ、日本の桜は有名だからね。華やかで綺麗な花だな」

「華やか……ですか。まあ、そうですね。私たちはそんな風に表現しないかな」
「では、なんと」

 美穂は言葉に詰まった。言われてみれば満開の桜は間違いなく華やかだった。だが、桜にはそれとは別のファクターが常に付いて回っている。儚い、幽玄な、それとも潔い……う~ん、なんだろう。ぴったりくる言葉がみつからない。というよりも、それを言葉で説明しようとしたことがなかった。

「ごめんなさい。ぴったりくる表現がみつからないわ」
「英語にはない概念かい?」
「そうじゃないの。私が感じているものを理論的に言葉にして考えたことがないのを、今ようやくわかったの」
老人はびっくりしたようだった。
「感じているのに考えたことがないって?」

 美穂は肩をすくめた。不意に自分は完膚なきまでに日本人なのだと思った。

 老人はそれ以上追求してこなかった。メニューを見もせずにスペシャル、つまり格安の定食を頼んだ。昨日残った肉や野菜を詰め込んで煮たシチュー。少し固くなったパン。アメリカらしく半リットルもある飲み物だけは太っ腹だが、それ以外はケチなメニューだ。だが、老人はスペシャル以外は頼まないと心に決めているようだった。

「アメリカに来てどのくらいだね」
他に客もいなくて、手持ち無沙汰の美穂は素直に老人の話し相手になることにした。どうせよく聞かれる質問だ。

「五年ちょっとです」
「ニューヨークにずっと?」
「ええ。最初は留学、それから五番街の銀行で一年半。失業三ヶ月、それから今の仕事です」
「日本に帰りたくないのかね?」

「ふるさとは遠きにありておもふもの」
美穂は思わずつぶやいた。

「なんだって?」
日本語を知らない老人には呪文のように聞こえたことだろう。美穂は英語に切り替えて言った。
「室生犀星という日本の詩人による詩の一節です。故郷というものは遠く離れた所で懐かしがっているのが一番いい。帰ったから天国ってわけじゃないんです」

「この世に天国はないからね」
やはり天国には住んでいない老人はそうつぶやくと具の少ないシチューを口に運んだ。

「桜を見に行ってきなさい。日本のと同じかどうかは知らないが、あんな綺麗なものを見過ごすのはよくないよ。あれは金持ちも貧乏人も関係なく平等に得られる幸福の一つだ」
「そうね、そして時が過ぎると、金持ちも貧乏人も関係なく見られなくなってしまうものだものね」

 ふさぎ込んでいても、傷ついていても、人生は前には進んでいかない。どこにも天国がないのはわかっている。だったら、それなりに楽しくやっていかなくちゃ。

 そう考えたら銀行をクビになって以来感じなかったほどにすっきりとした心持ちになってきた。そうだ、花見に行こう。日本とかニューヨークとか、こだわるのではなくて、ただ花を楽しもう。美穂は笑って老人の皿にお替わりのシチューを入れてやった。

(初出:2014年2月 書き下ろし)
.14 2014 scriviamo! 2014 trackback0

お菓子を独り占め!

Posted by 八少女 夕

夢の箱

つい先日、大人になったけれど……という記事を書いたばかりですが、大人になってよかったと思うこともいろいろあります。たとえば、子供の頃に買いたくても買えなかったお菓子は買い放題です。さすがに一万円分のカールは買いませんけれど。

ええ、普通の大人はこんなことはしませんよ。自分へのご褒美を買うにしても高級ワインや、一粒で500円もするチョコや、プチジュエリーや、欲しかったブランドの服などに手が伸びるものです。子供用のお菓子などはいつでも買えますからね。

でも、私はいつでも買えるわけではないので、日本に帰った時に子供の頃に欲しかったお菓子などをどっさり買って持ち帰ったりするわけです。つい先日、日本から送った船便が届きましてね、ええ、こういう状態になったわけです。(もちろんお菓子だけを送ったわけじゃないですよ!)

子供の頃、遠足には300円ぶんだけお菓子を持っていっていいということになっていました。遠足の前日になると親がお小遣いとは別に300円をくれるわけです。ひと月分のお小遣いに匹敵する額を、一日でしかもお菓子だけに使っていいというのは、子供の頃の私には夢のようなことでした。遠足そのものは嫌いだったのですが、このお菓子を買えるということだけに大喜びしていました。でも、300円なので、どんなに頑張っても大量には買えないのです。大好きなお菓子をどう買うか、必死に頭を悩ませました。単価の安い駄菓子を混ぜて量を増やそうかとか、一度は250円もするあのお菓子を買ってみたいとか。あの頃こどもだった皆さんは、きっと同じような思い出をお持ちではないでしょうか。今はどうなんでしょうね。

その思い出が強烈なため、日本製ウスターソースや仁多米などの「日本でしか買えない食材」とは別に、お菓子を買って帰りたくなってしまうのです。大人になったし、日本には数年に一度しか来ないのでと理由をつけて、日本では必ず一度はスーパーに行ってこの手のお菓子を買います。あ、マスカットキャラメルだけは岡山で買ったものですけれど。これは連れ合いに狙われて全部なくなってしまいました。残りは私が一人で食べています。疲れたな〜という時の、ちょっとした特効薬になってくれていますよ。

この記事は、自分へのHappy St. Valentine Day! ですよ。友チョコがあるなら、自分に贈ってもいいでしょうってことで。
.13 2014 美味しい話 trackback0

【小説】マメな食卓を

Posted by 八少女 夕

月に一度発表する読み切り短編集「十二ヶ月の……」シリーズ、「十二ヶ月の野菜」の一月分です。今年のテーマは「野菜」です。といっても、正確には「食卓に上がる植物」ですかね。一月のテーマは「豆」です。本当は新年早々にアップする予定だったのですが、「scriviamo! 2014」の方を優先しましたので、今の発表になりました。(「scriviamo! 2014」はまだ募集中です!)

久々の登場ですが、絵梨とリュシアン。この二人が出てきたということは、あれです。私小説です。といっても、たいした内容ではありません。この二人が初登場したのは「十二ヶ月の組曲」の十月「落葉松の交響曲(シンフォニー)」でしたっけ。スイスに正式移住してそろそろ13年。こんな風に暮らしています。


短編小説集「十二ヶ月の野菜」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の野菜」をまとめて読む



マメな食卓を

 圧力鍋を運ぶときは、いつも盛大な音がする。ガチャガチャと。絵梨は自分が格別に粗野な人間になった氣がする。冷蔵庫からタッパウェアをそっと取り出す。昨夜から水につけておいたひよこ豆。あまり揺らすと水がこぼれてしまう。圧力鍋の所まで持ってくると、漬け水ごと開ける。

 圧力鍋のふたをすると、コンロに火を入れる。鍋に圧力がかかり、ぴーと音を立てだしてからは五分加圧するだけ、サルでも出来る簡単な作業だ。

 豆を煮るという作業は、自分には絶対に出来ないと思っていた。実際にお正月の黒豆の煮方など全くわからないし、試してみようとも思わない。ここは日本ではなくてスイスだし、絵梨の料理を主に食べる夫リュシアンはおせち料理に興味もなく、何かの機会に黒豆の煮物を食べたときは「もう、いらない」と言ったから。

 絵梨はリュシアンに言わせると料理上手だが、実際の所の料理の腕は大したことがないと自覚している。とくに和食の腕は初心者以下なので、スイスで知り合った他の「大和撫子と結婚したスイス男」のように夫が和食好きでいないでくれて大変嬉しいと感じている。

 そもそもリュシアンのような男と暮らしていると、和食を日常的に用意するのは不可能だ。彼は氣ままだ。仕事が波に乗れば九時頃まで連絡もなく帰ってこないし、そのあげく「ごめん。お菓子食べちゃったから、いらないや」と言われることもある。その一方、七時頃に玄関を開けた途端「友達連れてきちゃった」と見知らぬ人間をあげた上、食事を期待することもある。

 リュシアンが絵梨のことを「料理上手」と評するのは、こういうノーアポイントメントの人間が突然登場しても、なんとか前菜とメイン、それに簡単なデザートぐらいの料理を二十分から三十分程度で用意してしまう器用さにあるようだった。

 絵梨の持っている料理本には共通項がある。「簡単にできる」「最小限の努力で」「パパッと素敵に見えるおもてなし料理」といった、時間や特殊な手間をかけずにできるコツが書かれているものが多いのだ。

 日本料理のように、一つひとつに大変な手間がかかり、品数がたくさんある料理、さらに素材のよさとそれを生かす技術が料理の出来を左右するような難易度の高いことは絵梨には出来ない。だが、スイスではそういう料理を期待する人が少ないらしく、リュシアンだけでなく多くの彼の友人らは絵梨が料理上手だと誤解している。

 絵梨は子供の頃から自分の育った環境が典型的な日本人の家庭とは違うことを意識していた。ありていにいうと、欧米のそれに近かった。両親はクラッシック音楽に関わる職業で、家族はキリスト教の洗礼を受けていた。父親の曾祖母がドイツ人だったため、彼は戦前から洋食に近いものを食べて育った。絵梨の母親は、あまり料理が得意ではなかったので、手間のかかる和食よりも洋食に近いものを料理することが多かった。それが普通だったので、絵梨自身も「和食がなくてもなんともない」少々変わった日本人になった。

 食の問題は、結婚生活においては重要なファクターだ。恋愛にどっぷりと浸かっている時は、甘い言葉や相手の容姿、場合によっては相手の年収やら職業が氣にいればそれでいいと思いがちだが、実際に一緒に生活をする段階になってみると、みそ汁の味が濃い薄い、ヨーロッパで言うとジャガイモの茹で方が親と違うなどということの方が、よほど大きな問題になってくる。絵梨の知っている日本人女性は熱烈な恋愛の末、結婚してスイスの田舎に移住してきたが、和食の食材があまり手に入らないことからホームシックになって日本に帰ってしまった。そして、それが原因で離婚した。

 絵梨は圧力の下がった鍋の蓋を開けた。茹でたてのヒヨコ豆の香りがふわっと広がった。ブレンダーに豆の半量に茹で汁を少し、ニンニクとタヒンという練り胡麻のペースト、レモン汁、塩を入れて、スイッチを入れる。あっという間にペーストが出来る。中近東風のディップ、フムスが出来上がる。

 煮豆は黒く艶やかでありつつ、皺が寄っていなくてはならないと聞いた。煮くずれたり、皮が破れてしまったりしたらその時点でアウトだ。加えて言うなら味が均等にしみていなくてはならず、しかも甘過ぎても塩辛すぎてもいけない。そんな高度な料理が出来るようになるまでには、どれだけひどい豆を食べなくちゃいけないんだろう。絵梨は考える。こうして滑らかなディップにしてしまえば、失敗のしようもない。志が低いと言えばそれまでだけれど、専業主婦でもないのに完璧な家事を目指さなくてもいいと思う。

 フムスはパンに付けたり、クラッカーに載せたりして食べる。リュシアンは関節炎の氣がある。尿酸値が高すぎるのは、肉やチーズやワインなど中心の、あまり野菜を食べない生活を長いことしてきたかららしい。それで、「肉は週一日くらいにしろ」と医者に言われたのだ。絵梨は、ベジタリアンやマクロビオティックの料理本を買って、肉を食べない日用のレパートリーを少しずつ増やしてきた。肉を食べない人はタンパク質を他からとる必要があるので、豆や豆製品をもっとよく食べるようにすべきということも学んだ。日本と違って豆腐の仲間にさほどバリエーションがないので、自分で豆を煮るという、日本にいたら絶対にやらなかったことに挑戦する事になったのだが、やはり最低限の手間でできるものが続いている。

 いんげん豆を煮る、グリーンピースのポタージュを作る、大豆やレンズ豆のペーストでメンチカツのようなものを作る。絵梨の食卓には豆料理が増えていっている。巨大な平たい鞘に入ったモロッコインゲンのバター炒めや、ソーセージと白インゲンで作るカスレはリュシアンがお氣にいりのメニューだ。それに彼は羊羹が好きだ。

 ヨーロッパの人間、特に女性にはじめて羊羹や餡の菓子を出す時には、原材料を先に言うべきではない。それは日本人女性がサツマイモを提供されたかのごとき反応を呼び起こすのだ。
「豆のお菓子なんか食べたくないわ。ガスが出るもの」
「え? お芋じゃなくて?」
「芋でガスは出ないわよ」

 どちらが正しいかなんて論じても無駄だ。そう思っている人たちは、それだけで羊羹に嫌なイメージを持ってしまうのだから。何も言わずに食べさせると、大抵の人は「おいしい」と言う。それに、和菓子の繊細で美しい色彩は、大体において好評だ。リュシアンも第一印象がよかったので、和菓子が好きだ。そして、原材料を秘密にして、周りの人間に布教している。

 フムスをパンに塗っている時に、突然リュシアンが言った。
「俺さ、ずっと豆が大嫌いだったんだよ」
絵梨はびっくりした。
「何故言わなかったの?」

「お前が作ったものを食べたら、味付けが違って、そんなにまずくなかったからさ。それに、豆の味が嫌だったわけじゃないんだ。子供の頃の思い出」
絵梨が首を傾げると、リュシアンは説明してくれた。 

「子供の頃、父さんの給料は手渡しだったんだ。それでさ、一度給料をまるまる落としちゃったことがあったんだ」
リュシアンは三人兄弟の末っ子だ。育ち盛りの少年が三人もいる五人家族が一ヶ月給料なしで過ごすのは相当きつかっただろう。
「それで、母さんは毎日庭で取れる豆しか出してくれなくてさ。豆は二度とみたくないと思ったわけさ」

 その義母は、そんなつらいことがあった割には、現在に至るまで毎年欠かさずに豆を植えている。そして、大量に収穫したいんげん豆を絵梨にくれる。だから、下ごしらえをして固めに茹でたものを冷凍しておき、急いでいるときの副菜としてよく利用している。

 リュシアンはどんなものでも好き嫌いなく食べるし、よほどのことがないかぎりお皿の上のものは全て食べる。作ってくれた人への敬意を示すべきだし、世界には飢えている人がたくさんいるのに食べ物を捨てるのは許せないという理由からだ。その立派な心がけとレストランの大きすぎるポーションが、彼の腹回りを年々麗しくない状態へと変化させているのだが、それでも絵梨は彼は正しいと思うし、自分も可能なかぎり食べ物を残さないようにしたいと思っている。

 一緒に暮らしているのだから、彼は年間を通して絵梨の料理を食べさせられている。「これはおいしい」と思うこともあるけれど、明らかに失敗したと思うときもある。客と違って、新しい試みの実験台にもされるので、必ずしもまともなものだけを食べられるわけではない。それに日本人の作るものを食べるのだから、まずくはなくとも馴染みのないものが食卓にのぼる事もある。でも、彼は一応全部食べてくれる。表立っては「まずい」とは言わない。でも、絵梨にはリュシアンがどう感じているのかがかなり正確に分かる。美味しい時には、積極的にお替わりをして絵梨がもうちょっと食べたいなと思っても残らないくらいのスピードで食べてしまうし、氣にいらないとお替わりはしないし「また作れよ」とは言わないから。

 彼のあまり好きでない食材で、何度もお替わりをさせる一皿を出せたときは、ガッツポーズをしたくなる。豆が苦手だったという告白を聞いたときも、少しそんな心持ちだった。彼の母親の味に勝とうなどと言う野望は持っていない。子供の頃から馴染んだ懐かしい味が一番なのは当然のことだろう。でも、たくさんある料理の中には、「ママが作るといまいちだけれど絵梨に作らせると食べられる」なんて味があってもいいかなと思う。料理というのはこういう小さな喜びの積み重ねで上手くなっていくんじゃないかと思うのだ。

 絵梨は実家のおせち料理のことを考えた。伊達巻や田作、それに黒豆などは出来合いのものだったけれど、お煮しめは母親が毎年作っていた。それに、鶏肉とほうれん草の入ったおすましの雑煮も懐かしい味だ。スイスのお正月には、おせち料理もなければお雑煮もない。それどころか二日から出勤でお正月ののんびりした氣分とも無縁かもしれない。元旦とはクリスマスの残り火みたいなものだ。全く違う風習の中で、全く違うものを作って食べている。「郷に入ったら郷に従え」って言うわよね。絵梨は自分に都合のいい格言を引っ張りだしてきて、自分らしい生活を楽しもうと思っている。それなりにマメに、でも、嫌にならない程度にずぼらで。リュシアンがそれでいいと思ってくれるのはありがたいことだと思う。破れ鍋に綴じ蓋って、こういうことよね。

 鼻歌を歌いながら、残ったヒヨコ豆はどんな風に調理しようかなと、絵梨は簡単料理本のページをめくるのだった。

(初出:2014年1月 書き下ろし)
.10 2014 短編小説集・十二ヶ月の野菜 trackback0

【定型詩】愛の終わり

Posted by 八少女 夕

ブログのお友だちのlimeさんがとても素敵なイラストを描かれていらっしゃいまして、イメージが湧いたら題名をつけたり掌編を書いてもいいと許可してくださったのですよ。

limeさんの記事 (イラスト)妄想らくがき・一コマに戯れる

で、掌編を書くと思ったでしょう? 
書きませんでした。私にとってはもっと難しいソネットにしてみました。ソネットとは脚韻を踏んだ十四行定型詩のことです。(くわしくはこの辺このあたりをどうぞ)たった十四行ですが、小説の二倍のエネルギーが必要なんです。私が詩を書く時はいつもソネットです。散文詩ってどう書いていいのかわからないので……。今回の韻はabc-abc-defg-defgで踏んでいます。って、日本語だからわかりますよね。

きっと他の皆さんが作られる作品とは逆ベクトルになっているかと思います。救いのない作品になってしまいましたが、一番最初にイメージした世界で作ってみました。しかも、「イラストとソネット」だけの世界と、「題名とソネット」だけの世界では、語っているものが全く別になるように作りました。limeさん、お氣に障ったらごめんなさい!




愛の終わり 
- Inspired from the illustration by lime-san

(イラスト)妄想らくがき・一コマに戯れる by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。

星のかわりに雪が降る
もう動きはしないあなたの上に
悲しみ歌う詩人のように

二度とは明けない夜がくる
約束違えたわたしのために
天が冷たく裁いた通り

虚空の風がわたしを襲う
宙の彼方に記憶は消えた
かつての二人が夢みた未来
手を伸ばしもせずにあきらめた

夜の帳が世界を覆う
伝える言葉は心に埋めた
闇に消えゆく最後の願い
ぬくもり残るあなたに触れた

(2014年2月 書き下ろし)
.08 2014 ソネット trackback0

大人になったら

Posted by 八少女 夕

久しぶりにつれづれと思ったことなどを。

七草リゾットの素材

子供の頃、毎日があまり楽しくありませんでした。端的に言うと、勉強はそこそこ以下、運動の方は音痴どころではなくいちいち級友に迷惑をかけるレベル。そして、面白いことも言えないので人望もなくて、なにをやっても空回り。そして、家庭でもさほど居心地がよくありませんでした。つまり朝起きてから夜寝るまで、ずっとイヤなことばかりで、唯一の楽しみは空想世界で遊ぶことだけでした。それすらも「氣味の悪い子」と言われるのが怖くてずっとひた隠しにしていました。

そんな子供の頃の私の夢は「大人になって自分の好きなことだけして暮らすこと」でした。当時の私には大人というのは学校にも行かなくてもいいし、誰かと球技やグループ活動を強制されることもなく、自分で何でも決められて、「カール チーズ味」や「いちごミルク」を好きなだけ買える幸せな人種に見えていたのですね。

当時の私には、貧困の連鎖に苦しむ人びとや、本人の努力とは関係なくされる差別、わずかな賃金を稼ぐために必要な労働、それから生活に付いて回る家事全般など、全く見えていませんでした。

たぶん、人生の半分以上を生きたと思われる今振り返ってみれば、多くの面で私の人生は恵まれていました。子供の頃のように、「自分でない自分になりたい」という願いは持っていませんし、「まだ会っていない(私を救い上げてくれる)誰かにめぐりあいたい」とも思っていません。

とはいえ、今の私にも「好きなことだけをして生きる」自由はありません。私の望む好きなことが、かなり単純であっさり適いそうに見えるにも関わらずです。「のんびり小説を書いて暮らしたい」「ギターでも弾いてゆっくりしたい」「自然の中でくつろぎたい」そのくらいです。「世界を旅して周りたい」というのもありますが、まあ、無理ならいいや程度です。

実際の私は月曜日から金曜日までは仕事に行かなくてはなりません。贅沢はしなくとも生活はいろいろと物入りです。それから、家に戻ってきたら家事があります。料理をして、洗濯をして、掃除をして、足りないものがあれば買い物をして、不要なものは廃棄する手続きもあって。それに、一緒に暮らしている人がいれば、話をしたり、一緒に出かけたり、頼まれたことを手伝ったりします。

家事というのは、手を抜こうとすればいくらでも抜けるのです。でも、それをやるといろいろとひずみが出てきます。出来合いの食品を温めるだけだと、身体が「これはおかしい」と反応します。掃除の行き届かない住まいはイライラが積もります。時間を短縮するための工夫は有効ですが、それでもある程度は心を入れて丁寧に向かわないと健康な家庭でいられないのです。心身ともに。そして、それは連れ合いと向き合う時間に関しても同じです。理論的なものだけでは上手くいきません。心がちゃんと向いていないと人間関係はひずむのです。だから、自分だけのことは優先順位を下げなくてはいけないことが多いのです。

そうやっていると、自分のための時間はあまりたくさん残りません。

ギターの練習に少し時間をとり、それから小説を書いたり、リアルの友達やブログの友達と交流する時間は本当に限られています。実際には子供の頃に持っていた自由な時間よりずっと少ないのです。

「二十歳になったら好きなことだけして生きられる」と思っていたのは幻想でした。そして、いま秘かに思っている「定年退職したら」も、きっと同じ幻想なんだろうなと思います。

十歳だった私が二十歳になるまでは永遠と思われるほどの長い時間でした。でも、いまの私にとっては十年が当時の一年くらいあっという間に過ぎてしまう。この感覚はもっと加速していくのだと思います。そして、誰かより秀でるのでもなく、誰かに認められるためでもなく、単純に「人生が終わってしまう時に後悔しないように」、いまの私は、自分に残されたわずかな自由時間をフルに使って、いま書けるものを書き、いま練習できるだけギターを爪弾いておこうと思っています。

そんなことを考えている2014年の始まり……のはずだったのが、もう二月でしたね。
.07 2014 思うこと trackback0

【小説】樋水龍神縁起 外伝 — 麒麟珠奇譚 — 競艶「奇跡を売る店」

Posted by 八少女 夕

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第七弾です。大海彩洋さんは、人氣作品「奇跡を売る店」にうちの作品「樋水龍神縁起」のモチーフを埋め込んだ作品を書いてくださいました。ありがとうございます!

彩洋さんの描いてくださったイラストと小説『【scriviamo!参加作品】 【奇跡を売る店】 龍王の翡翠』

「龍王の翡翠」 by 大海彩洋さん
このイラストの著作権は大海彩洋さんにあります。彩洋さんの許可のない二次利用は固くお断りします。

彩洋さんは、主に小説を書かれるブロガーさんです。主にと申し上げたのは、発表しているのが主に小説だからで、今回いただいたイラストもそうですが美術にも造詣が深く、さらに三味線もなさる多才なお方。どうもお仕事もとてもお忙しいようなのですが、その間にとても重厚かつ深いお話を綴られています。「奇跡を売る店」は「巨石紀行」シリーズの記事にも見られる天然石への造詣の深さを上手に使われたシリーズ。彩洋さんの代表作である「真と竹流」大河小説(こういうまとめかたはまずいのかしら。詳しくは彩洋さんのブログで!)の並行世界のような別の世界です。

今回彩洋さんが取り上げてくださった「樋水龍神縁起」は、「大道芸人たち」と並ぶ代表作的位置づけの長編なのですがブログではなく別館での発表となっているために、ご存じない方も多いかと思います。昨年連載していた長編「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」とも共通の世界観となっています。この掌編だけ読んでも話は通じるかと思いますが、若干特殊な世界ですのでもう少し知りたいと思われる方もおられると思います。さすがにこの企画のために全部を読めというわけにも行きませんので、この下に「これだけ読んでおけばだいたいわかる」リンクを並べました。(ただし、『龍の媾合』については、本編と切り離した単純な説明はできませんので、興味のある方は本編をお読みくださいませ)


この小説に関連する断片小説「樋水龍神縁起 第一部 夏、朱雀」より「樋水の媛巫女」」
この小説に関連する記事「愛の話」

「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」 あらすじと登場人物

お返しをどうしようか、ちょっと悩みましたが、ごくストレートに「(『奇跡を売る店』の)お二人がここのものだと思われる石を持ってきた」で進めることにしました。もっともその前に登場するエピソードは平安時代のものです。はい、今回のためにまた創りました。彩洋さんが拾ってくださった「龍の媾合」の話は、ここでは思いっきりスルーしています。五千字前後でコラボ入れて、あの話まで突っ込み、かつ読んでいない方にまで納得させる話は無理。そのかわりに「龍の媾合」現象も含めた「樋水龍神縁起」でメインとなっている世界観について詰め込みました。

お時間があって読みたいと思ってくださった方はこちらへ
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。続編「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」のPDFもあります。
縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く 縦書きPDFで読む(scribo ergo sum: anex)

【長編】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero は、このブログでも読めます。

「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



樋水龍神縁起 外伝 — 麒麟珠奇譚 — 競艶「奇跡を売る店」
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 深い森だった。男は鬱蒼とした下草を掻き分けるようにして進んでいた。逃げるあてはない。ここ数日、ほとんど眠っていない。検非違使からも追捕からも逃げ果せる自信があった。世話になった宮司からも。だが、彼女からは逃れられないのだ。逃亡の旅で疲れ果てた身体を横たえて目を瞑り眠りに落ちようとすると、すぐに現れる。
「牛丸。麒麟の勾玉を戻しなさい。そなたは自分が何をしたのかわかっていないのです。あれは単なる社宝ではありませぬ。神宝なのです」

「お許しくださいませ、媛巫女さま!」
牛丸は身を起こすとさめざめと泣いた。誠にあれはただの勾玉ではなかった。あの方もただの巫女ではなかった。次郎は正しかったのだ。

「よう次郎。俺もついに郎党になった。しかも、そなたのなりたがっていた宮司さま付きだ。これでようくわかったであろう。俺はそなたに劣る者ではない」
「牛丸。俺はそなたを劣っているなどと言ったことはないぞ」
「口に出さずとも、そなたも、母者も、いつも俺を見下している。本来仕えるべき神社の方々に逆らっている」
「逆らってなどいない。俺を媛巫女さま付き郎党にしたのも、そなたの母上を媛巫女さまのお世話をするように決めたのも、宮司さまだ。我々は、仕えるべき方にお仕えする本分をわきまえているだけだ」
「媛巫女さま、媛巫女さまって、まだ十二になったばかりの小娘ではないか。神のようにあがめおって」
「媛巫女さまはただの娘とは違う。言葉を慎め」

 母も、次郎も同じ事を言った。彼は神に選ばれた巫女なんて信じなかった。幼なじみの次郎が多くの雑役を免除されて媛巫女の用事しかしないのも、母がめったに帰って来ないのもあの女がまやかしをするせいだと、忌々しく思うだけだった。宮司つきの郎党になっても、自らの扱いはさほど変わらず、美味い物も食えなければ、面白おかしいこともなかった。このままこの神社に縛られてこき使われるだけかと思うとぞっとした。

 俺らの生まれた身分では神職にはなれぬ。いずれは村の娘と結婚し、父者や母者のようにお社にこき使われ、さらに同じ定めの子孫をつくるだけだ。心を尽くして勤めても未来永劫報われることなどない。だから、彼奴らの言った通りにお宝を持っていった。先日の祭礼で宝物殿を開ける所に立ち会った俺は、奴らにとっては願ってもいない内通者だった。あの勾玉一つで一生遊んで暮らせる金をくれると約束してくれた。

 勾玉はあいつらに渡してしまった。受け取った金で楽しく遊んで暮らせたのは半月ほどだった。賭場で多くを失った。金を狙う奴らに襲われ、お社に捕まるのを怖れて村にも戻れず、いつ追っ手が来るかもわからず怯え、そして夜は媛巫女が悲しそうにじっと見つめて話しかけてくる。次郎は正しかった。宮司さまは俺が逃げだそうが盗もうが何もできない。だが、媛巫女さま、あの方は何もかもご存知なのだ。勾玉が宝物殿からなくなっていることも、他ならぬこの俺が盗ったことも。

 牛丸はよろめきながら、暗い森の中を彷徨い歩いた。ガサガサっという音にぎょっとして振り返ると、暗闇に二つの目が浮かび上がった。狼だ! 怯えて逃げようと思ったが、下草に足を取られて倒れた。

* * *


 几帳の向こうで微かな叫び声がした。次郎は瑠璃媛が起き上がるのを感じた。
「いかがなさいましたか、媛巫女さま」
瑠璃媛は声を震わせて答えた。
「次郎……。もうどうすることもできません」
「いったい何が……」
「牛丸はもうこの世におりません」
「なっ……!」

「媛巫女さま。こうなったら宮司さまにお知らせした方が……」
「それはなりませぬ。もし牛丸が単に失踪しただけでなく、あれを持ち去ったことがわかったらツタに類が及びます。それどころか、息子があんなことをしでかしたとわかったらツタは命を持って償おうとするでしょう」
「しかし、いつまでも麒麟の勾玉がなくなっていることを隠してははおけませぬ」
「次にあの勾玉が祭司に必要になるのは四十六年後。それまでは誰もあの桐箱を開けないでしょう。それまで隠し通せば、あれが牛丸の仕業とは知れないでしょう」
「しかし、勾玉が盗まれたままでいいのですか」

 瑠璃媛は立ち上がると几帳の陰より出てきて、龍王の池に面して座った。爪のような有明の月が東の空に上りはじめていた。空はゆっくりと白みはじめている。
「龍王様におまかせしましょう」
「媛巫女さま! 龍王様がお怒りになるのではありませぬか」

 瑠璃は宝物殿の奥に納めてある桐の箱の中に想いを馳せた。奴奈川比売が出雲に持ってきたとされる神宝、本来ならば五つの翡翠勾玉が絹に包まれて収まっているはずだった。だが、今は玄武、朱雀、白虎の三つしか入っていない。青龍の勾玉は遥か上代に朝廷に献上された。そして、麒麟の勾玉は牛丸に盗み出されて失われてしまった。

「ツタを守るための隠匿を龍王様がお怒りならば、その責めは私が受けましょう。よいか。宮司さまをはじめ、誰にも口外してはならぬ」

* * *


「お待ち申し上げておりました。私は当神社の宮司、武内信二と申します。この者は禰宜の関大樹、当社の社宝や故事に詳しいので連れて参りました。同席をお許しくださいませ」

 二人の訪問者は軽く頭を下げた。ひとりは外国人で、もう一人は日本人青年だった。彼らは今朝、新幹線で京都を発ち、岡山発の特急やくも号に乗ってやってきた。松江からさらにバスで一時間ほど、ここが樋水村だった。過疎の寒村なのに、妙に立派な神社があった。それが彼らの目的、樋水龍王神社だった。本殿の奥に見事な瀧のある大きな池があり、その脇に小さな庵があった。 

 金髪に青灰色の瞳をした背の高い男は大和凌雲という名で、その見かけによらず流暢な日本語を話し、しかも黒い法衣に黄土の折五条を着けていた。京都の大原に庵を結ぶ仏師で仏像の修復師だと言う。同行者は友人の釈迦堂蓮だと紹介した。

「突拍子もない話にお時間を割いていただき、感謝しています。これが、お電話でお話しいたしました石なのですが……」
凌雲は桐の小さい箱をそっと開けた。中から黄の強いひわ色をした透明な勾玉が姿を現した。武内宮司と関禰宜は思わず息を飲んだ。他の者に見えぬものを見る事の出来る二人は、その勾玉が並ならぬ氣を纏って輝いているのを見ることができた。

「次郎。宝物殿に行って、あの箱を持ってきなさい」
関禰宜は黙って頷き、静かに退出した。

「あの方は……」
蓮が首を傾げた。宮司は笑った。
「氣がつかれましたか。そうです。我々は彼を本名ではなくて、別の名前で呼んでおります。彼のたっての希望なのです」

 蓮は落ち着かなかった。ここはどこか恐ろしい。空氣は澄み、池の水面は鏡のようなのに、心が騒ぐ。鳥居でも感じたが、奥に行けば行くほど落ち着かなくなる。この宮司もどこか妙だ。こちらを見透かすような目つきをしている。そして、変な名前で呼ばれたがる禰宜の様子はもっと変だ。勾玉を見た時の動揺はただ事ではなかった。

 関禰宜は無言で再び入ってきた。少し大きい桐箱を捧げ持っている。浅葱色の袴をさっとはらって座ると、ゆっくりと桐箱を開けた。今度は蓮と凌雲が息を飲んだ。

 中には白い絹に抱かれて四つの勾玉があった。
「これは……」

 宮司は低い声で言った。
「奴奈川比売が大国主命に輿入れをした時に糸魚川より出雲に贈られたと伝えられている神宝でございます。もともとは大社に納められていたのではないかと思われますが、すでに平安時代には当社に納められるようになっておりました。このうち三珠は、記録されているかぎり、少なくとも千百年はこの村の外に出たことはございません。こちらの玄武の勾玉は黒翡翠、白虎の勾玉は白翡翠、朱雀の勾玉はかなり赤みが強いラベンダー翡翠です」

「こちらは青翡翠ですか」
蓮が訊いた。彼は貴石を扱う店と縁が深く、天然石の知識がある。糸魚川で青翡翠が産出するのは知っていたが、これほど透明でひびもシミもないものは見た事がなかった。

「ええ。この青龍の勾玉は、上代にその貴重さから一度朝廷に献上されたのです。今から千年ほど前に、現在当社でお祀り申し上げている御覡の瑠璃媛が親王の命をお救い申し上げた功で下賜されました。瑠璃媛の死後、もう一柱お祀り申し上げている背の君、安達春昌の手に渡り、以来、千年以上この神社を離れていましたが、四年前、千年祭の歳にこの神社に戻って参りました。四神相応の勾玉が揃ったのは実に千年ぶり、私どもの歓びはお察しいただけるでしょう。

「じゃあ、今日持ってきたこっちの翡翠は……」
蓮が凌雲を見た。仏師は宮司の方に向き直った。
「この翡翠はある木彫り像の中から発見された物です。言い伝えや資料によると、こちらの神社と縁があるということだったのですが」

「そう、当社にも、もう一つの翡翠の言い伝えがございます。四神は東西南北に対応いたしますが、その中心に麒麟を配した五神は陰陽五行と繋がります。当社にあったとされているもう一つの翡翠は麒麟の勾玉と申します。千年近く行方がわからず、青龍の勾玉と違ってなくなった経緯も不明でございまして、存在そのものが疑問視されておりました。黄色い翡翠ではないかと先代の宮司は申しておりましたが、なるほど、色・形・透明度どれ一つをとっても、四神相応の勾玉に引けを取りませぬな。失礼して……」

 宮司は凌雲の持ってきたひわ色の勾玉を大きな桐箱の中央、四つの勾玉に囲まれた場所にそっと置いた。それと同時に宮司と次郎は、これまでの五つの勾玉から発せられていた氣が激しく増幅されて室内に虹色に輝く光が満ちたのを見た。

「えっ」
蓮は急に熱風のようなものに襲われた氣がして、思わず後ろに下がった。宮司と次郎はその蓮を見て頷いた。

「釈迦堂さんとおっしゃいましたね。あなたは怖れていらっしゃる、そうではありませんか」
濃い紫の袴をつと進めて言った宮司の言葉に蓮ははっと息を飲んだ。それから、凌雲の興味深そうな目を避けるようにしてそっぽを向いたが、やがて小さく頷いた。

「どういうわけかわかりませんが、この神社、そしてその勾玉、この勾玉の入っていた像の側で見た夢、すべてが心を乱し落ち着かなくするのです。厳しいこと、正しいことが待っているようでもありますが、正しくないこと、後ろめたいことが増幅される氣もします。神宝と言われるもの、格式の高い神社に対して失礼だとはわかっていますが」
「蓮……」

 凌雲が何かを言おうとするのを押しとどめて宮司は言った。
「いいのです。この方がおっしゃっていることは、この神社の本質を指しています。あなたは正しくないこと、後ろめたいこととおっしゃったが、正しいことと正しくないこととを分けたのは神ではなくて人です。龍王神を奉じる我が社では、全てが同じだと説きます。あなたが怖れるのはそれがよくないものだと断じているからです。けれどそれは良いのでもなく悪いのでもない。生と死も、生命と物質も、男と女も、そして善と悪も、概念によって分けられていますがそれは人が理解するため、社会のために便宜上分けたものです。この神域ではその境目がなくなります。あなたは感受性が鋭く、それを感じ取られて不安に思われるのでしょう」

「是諸法空相不生不滅不垢不淨不増不減……」
凌雲が般若心経に通ずるものを感じて口にした。
「そう。その先には『心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃』とありますな。真に理とは、仏法も神道もなく、どの形をとりましてもひとつでございます。あなたが日本においでになり、不思議なめぐり合わせでこの翡翠をこちらにお運びくださったのも、実に尊いご縁です。次郎。どうだ、この勾玉は本物であると思わぬか」

 次郎は両手で顔をおおい震えて頷いた。
「間違いございません……。媛巫女さま……」

 千年前、老女ツタがもはやこの世にはいなくなっていた息子に再び会えるのを切望しつつ世を去ったとき、次郎は瑠璃媛に手をついて伺ったのだ。
「媛巫女さま。麒麟の勾玉が失われていること、今こそ宮司さまに打ち明けた方がよろしいのではないですか。時が経てば経つほど取り戻すのが困難になるかと思われますが」

 瑠璃媛は忠実な郎党次郎をじっと見て低い声で答えた。
「そなたは私の言葉を忘れたのですか。私は龍王様におまかせすると言ったではありませんか」
「もちろん覚えております。でも、あれから五年も経っております。龍王様がそのおつもりなら翌日にでも戻ってくると思っておりましたが……」

 媛巫女はそれを遮った。
「いつ取り戻してくださるかはそなたや私の知ったことではない。明日でも、千年後でも。龍王様におまかせするといったらおまかせするのです。人の時の流れを基にしたこらえ性でものを申してはなりませぬ」

 あれから次郎の時もめぐった。彼自身の放った矢が、誰よりも大切だった媛巫女の命を奪い、青龍の勾玉と春昌も彼の前から姿を消した。再びこの世に生まれ、安達春昌と瑠璃媛の再来と同じ時を過ごした。だが、次郎には理解できなかったことに、大切な媛巫女の生まれ変わりも苦しみぬいて姿を消した。次郎は幾度も逡巡した。龍王様はなぜ媛巫女さまを幸せにしてくださらなかった。

 だが、いま次郎の前には答えが、麒麟の勾玉があった。悠久の時を経て、何事もなかったかのように五珠の勾玉が虹色の氣を発している。千年前に目にした神宝だ。媛巫女さまはついに一度も五珠揃ったのをご覧にならなかったのに、この私が見届けることになるとは……。

「龍王様におまかせするのです」
「神域には善も悪もありません」

 おっしゃる通りです。媛巫女さま。私はいまだに何もわかっていない卑しい郎党でした。お約束したように、私は牛丸のことを、この翡翠が失われた経緯を、誰にも語らずに墓場まで持って参ります。人ごときの短絡的な考えで、あなたを幸せにしてくれなかったことを恨むのではなく、あなたがそうなさったように龍王様に仕えて参ります。媛巫女さま、媛巫女さま、媛巫女さま……。

 次郎が勾玉を前に哭き続ける姿を、三人の男たちは無言で眺めていた。


(初出:2014年2月 書き下ろし)

.04 2014 小説・樋水龍神縁起 外伝 trackback0

【小説】樋水龍神縁起 外伝 — 麒麟珠奇譚 — 競艶「奇跡を売る店」

Posted by 八少女 夕

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第七弾です。大海彩洋さんは、人氣作品「奇跡を売る店」にうちの作品「樋水龍神縁起」のモチーフを埋め込んだ作品を書いてくださいました。ありがとうございます!

彩洋さんの描いてくださったイラストと小説『【scriviamo!参加作品】 【奇跡を売る店】 龍王の翡翠』

「龍王の翡翠」 by 大海彩洋さん
このイラストの著作権は大海彩洋さんにあります。彩洋さんの許可のない二次利用は固くお断りします。

彩洋さんは、主に小説を書かれるブロガーさんです。主にと申し上げたのは、発表しているのが主に小説だからで、今回いただいたイラストもそうですが美術にも造詣が深く、さらに三味線もなさる多才なお方。どうもお仕事もとてもお忙しいようなのですが、その間にとても重厚かつ深いお話を綴られています。「奇跡を売る店」は「巨石紀行」シリーズの記事にも見られる天然石への造詣の深さを上手に使われたシリーズ。彩洋さんの代表作である「真と竹流」大河小説(こういうまとめかたはまずいのかしら。詳しくは彩洋さんのブログで!)の並行世界のような別の世界です。

今回彩洋さんが取り上げてくださった「樋水龍神縁起」は、「大道芸人たち」と並ぶ代表作的位置づけの長編なのですがブログではなく別館での発表となっているために、ご存じない方も多いかと思います。昨年連載していた長編「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」とも共通の世界観となっています。この掌編だけ読んでも話は通じるかと思いますが、若干特殊な世界ですのでもう少し知りたいと思われる方もおられると思います。さすがにこの企画のために全部を読めというわけにも行きませんので、この下に「これだけ読んでおけばだいたいわかる」リンクを並べました。(ただし、『龍の媾合』については、本編と切り離した単純な説明はできませんので、興味のある方は本編をお読みくださいませ)


この小説に関連する断片小説「樋水龍神縁起 第一部 夏、朱雀」より「樋水の媛巫女」」
この小説に関連する記事「愛の話」

「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」 あらすじと登場人物

お返しをどうしようか、ちょっと悩みましたが、ごくストレートに「(『奇跡を売る店』の)お二人がここのものだと思われる石を持ってきた」で進めることにしました。もっともその前に登場するエピソードは平安時代のものです。はい、今回のためにまた創りました。彩洋さんが拾ってくださった「龍の媾合」の話は、ここでは思いっきりスルーしています。五千字前後でコラボ入れて、あの話まで突っ込み、かつ読んでいない方にまで納得させる話は無理。そのかわりに「龍の媾合」現象も含めた「樋水龍神縁起」でメインとなっている世界観について詰め込みました。

お時間があって読みたいと思ってくださった方はこちらへ
官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。続編「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」のPDFもあります。
縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く 縦書きPDFで読む(scribo ergo sum: anex)

【長編】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero は、このブログでも読めます。

「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
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樋水龍神縁起 外伝 — 麒麟珠奇譚 — 競艶「奇跡を売る店」
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 深い森だった。男は鬱蒼とした下草を掻き分けるようにして進んでいた。逃げるあてはない。ここ数日、ほとんど眠っていない。検非違使からも追捕からも逃げ果せる自信があった。世話になった宮司からも。だが、彼女からは逃れられないのだ。逃亡の旅で疲れ果てた身体を横たえて目を瞑り眠りに落ちようとすると、すぐに現れる。
「牛丸。麒麟の勾玉を戻しなさい。そなたは自分が何をしたのかわかっていないのです。あれは単なる社宝ではありませぬ。神宝なのです」

「お許しくださいませ、媛巫女さま!」
牛丸は身を起こすとさめざめと泣いた。誠にあれはただの勾玉ではなかった。あの方もただの巫女ではなかった。次郎は正しかったのだ。

「よう次郎。俺もついに郎党になった。しかも、そなたのなりたがっていた宮司さま付きだ。これでようくわかったであろう。俺はそなたに劣る者ではない」
「牛丸。俺はそなたを劣っているなどと言ったことはないぞ」
「口に出さずとも、そなたも、母者も、いつも俺を見下している。本来仕えるべき神社の方々に逆らっている」
「逆らってなどいない。俺を媛巫女さま付き郎党にしたのも、そなたの母上を媛巫女さまのお世話をするように決めたのも、宮司さまだ。我々は、仕えるべき方にお仕えする本分をわきまえているだけだ」
「媛巫女さま、媛巫女さまって、まだ十二になったばかりの小娘ではないか。神のようにあがめおって」
「媛巫女さまはただの娘とは違う。言葉を慎め」

 母も、次郎も同じ事を言った。彼は神に選ばれた巫女なんて信じなかった。幼なじみの次郎が多くの雑役を免除されて媛巫女の用事しかしないのも、母がめったに帰って来ないのもあの女がまやかしをするせいだと、忌々しく思うだけだった。宮司つきの郎党になっても、自らの扱いはさほど変わらず、美味い物も食えなければ、面白おかしいこともなかった。このままこの神社に縛られてこき使われるだけかと思うとぞっとした。

 俺らの生まれた身分では神職にはなれぬ。いずれは村の娘と結婚し、父者や母者のようにお社にこき使われ、さらに同じ定めの子孫をつくるだけだ。心を尽くして勤めても未来永劫報われることなどない。だから、彼奴らの言った通りにお宝を持っていった。先日の祭礼で宝物殿を開ける所に立ち会った俺は、奴らにとっては願ってもいない内通者だった。あの勾玉一つで一生遊んで暮らせる金をくれると約束してくれた。

 勾玉はあいつらに渡してしまった。受け取った金で楽しく遊んで暮らせたのは半月ほどだった。賭場で多くを失った。金を狙う奴らに襲われ、お社に捕まるのを怖れて村にも戻れず、いつ追っ手が来るかもわからず怯え、そして夜は媛巫女が悲しそうにじっと見つめて話しかけてくる。次郎は正しかった。宮司さまは俺が逃げだそうが盗もうが何もできない。だが、媛巫女さま、あの方は何もかもご存知なのだ。勾玉が宝物殿からなくなっていることも、他ならぬこの俺が盗ったことも。

 牛丸はよろめきながら、暗い森の中を彷徨い歩いた。ガサガサっという音にぎょっとして振り返ると、暗闇に二つの目が浮かび上がった。狼だ! 怯えて逃げようと思ったが、下草に足を取られて倒れた。

* * *


 几帳の向こうで微かな叫び声がした。次郎は瑠璃媛が起き上がるのを感じた。
「いかがなさいましたか、媛巫女さま」
瑠璃媛は声を震わせて答えた。
「次郎……。もうどうすることもできません」
「いったい何が……」
「牛丸はもうこの世におりません」
「なっ……!」

「媛巫女さま。こうなったら宮司さまにお知らせした方が……」
「それはなりませぬ。もし牛丸が単に失踪しただけでなく、あれを持ち去ったことがわかったらツタに類が及びます。それどころか、息子があんなことをしでかしたとわかったらツタは命を持って償おうとするでしょう」
「しかし、いつまでも麒麟の勾玉がなくなっていることを隠してははおけませぬ」
「次にあの勾玉が祭司に必要になるのは四十六年後。それまでは誰もあの桐箱を開けないでしょう。それまで隠し通せば、あれが牛丸の仕業とは知れないでしょう」
「しかし、勾玉が盗まれたままでいいのですか」

 瑠璃媛は立ち上がると几帳の陰より出てきて、龍王の池に面して座った。爪のような有明の月が東の空に上りはじめていた。空はゆっくりと白みはじめている。
「龍王様におまかせしましょう」
「媛巫女さま! 龍王様がお怒りになるのではありませぬか」

 瑠璃は宝物殿の奥に納めてある桐の箱の中に想いを馳せた。奴奈川比売が出雲に持ってきたとされる神宝、本来ならば五つの翡翠勾玉が絹に包まれて収まっているはずだった。だが、今は玄武、朱雀、白虎の三つしか入っていない。青龍の勾玉は遥か上代に朝廷に献上された。そして、麒麟の勾玉は牛丸に盗み出されて失われてしまった。

「ツタを守るための隠匿を龍王様がお怒りならば、その責めは私が受けましょう。よいか。宮司さまをはじめ、誰にも口外してはならぬ」

* * *


「お待ち申し上げておりました。私は当神社の宮司、武内信二と申します。この者は禰宜の関大樹、当社の社宝や故事に詳しいので連れて参りました。同席をお許しくださいませ」

 二人の訪問者は軽く頭を下げた。ひとりは外国人で、もう一人は日本人青年だった。彼らは今朝、新幹線で京都を発ち、岡山発の特急やくも号に乗ってやってきた。松江からさらにバスで一時間ほど、ここが樋水村だった。過疎の寒村なのに、妙に立派な神社があった。それが彼らの目的、樋水龍王神社だった。本殿の奥に見事な瀧のある大きな池があり、その脇に小さな庵があった。 

 金髪に青灰色の瞳をした背の高い男は大和凌雲という名で、その見かけによらず流暢な日本語を話し、しかも黒い法衣に黄土の折五条を着けていた。京都の大原に庵を結ぶ仏師で仏像の修復師だと言う。同行者は友人の釈迦堂蓮だと紹介した。

「突拍子もない話にお時間を割いていただき、感謝しています。これが、お電話でお話しいたしました石なのですが……」
凌雲は桐の小さい箱をそっと開けた。中から黄の強いひわ色をした透明な勾玉が姿を現した。武内宮司と関禰宜は思わず息を飲んだ。他の者に見えぬものを見る事の出来る二人は、その勾玉が並ならぬ氣を纏って輝いているのを見ることができた。

「次郎。宝物殿に行って、あの箱を持ってきなさい」
関禰宜は黙って頷き、静かに退出した。

「あの方は……」
蓮が首を傾げた。宮司は笑った。
「氣がつかれましたか。そうです。我々は彼を本名ではなくて、別の名前で呼んでおります。彼のたっての希望なのです」

 蓮は落ち着かなかった。ここはどこか恐ろしい。空氣は澄み、池の水面は鏡のようなのに、心が騒ぐ。鳥居でも感じたが、奥に行けば行くほど落ち着かなくなる。この宮司もどこか妙だ。こちらを見透かすような目つきをしている。そして、変な名前で呼ばれたがる禰宜の様子はもっと変だ。勾玉を見た時の動揺はただ事ではなかった。

 関禰宜は無言で再び入ってきた。少し大きい桐箱を捧げ持っている。浅葱色の袴をさっとはらって座ると、ゆっくりと桐箱を開けた。今度は蓮と凌雲が息を飲んだ。

 中には白い絹に抱かれて四つの勾玉があった。
「これは……」

 宮司は低い声で言った。
「奴奈川比売が大国主命に輿入れをした時に糸魚川より出雲に贈られたと伝えられている神宝でございます。もともとは大社に納められていたのではないかと思われますが、すでに平安時代には当社に納められるようになっておりました。このうち三珠は、記録されているかぎり、少なくとも千百年はこの村の外に出たことはございません。こちらの玄武の勾玉は黒翡翠、白虎の勾玉は白翡翠、朱雀の勾玉はかなり赤みが強いラベンダー翡翠です」

「こちらは青翡翠ですか」
蓮が訊いた。彼は貴石を扱う店と縁が深く、天然石の知識がある。糸魚川で青翡翠が産出するのは知っていたが、これほど透明でひびもシミもないものは見た事がなかった。

「ええ。この青龍の勾玉は、上代にその貴重さから一度朝廷に献上されたのです。今から千年ほど前に、現在当社でお祀り申し上げている御覡の瑠璃媛が親王の命をお救い申し上げた功で下賜されました。瑠璃媛の死後、もう一柱お祀り申し上げている背の君、安達春昌の手に渡り、以来、千年以上この神社を離れていましたが、四年前、千年祭の歳にこの神社に戻って参りました。四神相応の勾玉が揃ったのは実に千年ぶり、私どもの歓びはお察しいただけるでしょう。

「じゃあ、今日持ってきたこっちの翡翠は……」
蓮が凌雲を見た。仏師は宮司の方に向き直った。
「この翡翠はある木彫り像の中から発見された物です。言い伝えや資料によると、こちらの神社と縁があるということだったのですが」

「そう、当社にも、もう一つの翡翠の言い伝えがございます。四神は東西南北に対応いたしますが、その中心に麒麟を配した五神は陰陽五行と繋がります。当社にあったとされているもう一つの翡翠は麒麟の勾玉と申します。千年近く行方がわからず、青龍の勾玉と違ってなくなった経緯も不明でございまして、存在そのものが疑問視されておりました。黄色い翡翠ではないかと先代の宮司は申しておりましたが、なるほど、色・形・透明度どれ一つをとっても、四神相応の勾玉に引けを取りませぬな。失礼して……」

 宮司は凌雲の持ってきたひわ色の勾玉を大きな桐箱の中央、四つの勾玉に囲まれた場所にそっと置いた。それと同時に宮司と次郎は、これまでの五つの勾玉から発せられていた氣が激しく増幅されて室内に虹色に輝く光が満ちたのを見た。

「えっ」
蓮は急に熱風のようなものに襲われた氣がして、思わず後ろに下がった。宮司と次郎はその蓮を見て頷いた。

「釈迦堂さんとおっしゃいましたね。あなたは怖れていらっしゃる、そうではありませんか」
濃い紫の袴をつと進めて言った宮司の言葉に蓮ははっと息を飲んだ。それから、凌雲の興味深そうな目を避けるようにしてそっぽを向いたが、やがて小さく頷いた。

「どういうわけかわかりませんが、この神社、そしてその勾玉、この勾玉の入っていた像の側で見た夢、すべてが心を乱し落ち着かなくするのです。厳しいこと、正しいことが待っているようでもありますが、正しくないこと、後ろめたいことが増幅される氣もします。神宝と言われるもの、格式の高い神社に対して失礼だとはわかっていますが」
「蓮……」

 凌雲が何かを言おうとするのを押しとどめて宮司は言った。
「いいのです。この方がおっしゃっていることは、この神社の本質を指しています。あなたは正しくないこと、後ろめたいこととおっしゃったが、正しいことと正しくないこととを分けたのは神ではなくて人です。龍王神を奉じる我が社では、全てが同じだと説きます。あなたが怖れるのはそれがよくないものだと断じているからです。けれどそれは良いのでもなく悪いのでもない。生と死も、生命と物質も、男と女も、そして善と悪も、概念によって分けられていますがそれは人が理解するため、社会のために便宜上分けたものです。この神域ではその境目がなくなります。あなたは感受性が鋭く、それを感じ取られて不安に思われるのでしょう」

「是諸法空相不生不滅不垢不淨不増不減……」
凌雲が般若心経に通ずるものを感じて口にした。
「そう。その先には『心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃』とありますな。真に理とは、仏法も神道もなく、どの形をとりましてもひとつでございます。あなたが日本においでになり、不思議なめぐり合わせでこの翡翠をこちらにお運びくださったのも、実に尊いご縁です。次郎。どうだ、この勾玉は本物であると思わぬか」

 次郎は両手で顔をおおい震えて頷いた。
「間違いございません……。媛巫女さま……」

 千年前、老女ツタがもはやこの世にはいなくなっていた息子に再び会えるのを切望しつつ世を去ったとき、次郎は瑠璃媛に手をついて伺ったのだ。
「媛巫女さま。麒麟の勾玉が失われていること、今こそ宮司さまに打ち明けた方がよろしいのではないですか。時が経てば経つほど取り戻すのが困難になるかと思われますが」

 瑠璃媛は忠実な郎党次郎をじっと見て低い声で答えた。
「そなたは私の言葉を忘れたのですか。私は龍王様におまかせすると言ったではありませんか」
「もちろん覚えております。でも、あれから五年も経っております。龍王様がそのおつもりなら翌日にでも戻ってくると思っておりましたが……」

 媛巫女はそれを遮った。
「いつ取り戻してくださるかはそなたや私の知ったことではない。明日でも、千年後でも。龍王様におまかせするといったらおまかせするのです。人の時の流れを基にしたこらえ性でものを申してはなりませぬ」

 あれから次郎の時もめぐった。彼自身の放った矢が、誰よりも大切だった媛巫女の命を奪い、青龍の勾玉と春昌も彼の前から姿を消した。再びこの世に生まれ、安達春昌と瑠璃媛の再来と同じ時を過ごした。だが、次郎には理解できなかったことに、大切な媛巫女の生まれ変わりも苦しみぬいて姿を消した。次郎は幾度も逡巡した。龍王様はなぜ媛巫女さまを幸せにしてくださらなかった。

 だが、いま次郎の前には答えが、麒麟の勾玉があった。悠久の時を経て、何事もなかったかのように五珠の勾玉が虹色の氣を発している。千年前に目にした神宝だ。媛巫女さまはついに一度も五珠揃ったのをご覧にならなかったのに、この私が見届けることになるとは……。

「龍王様におまかせするのです」
「神域には善も悪もありません」

 おっしゃる通りです。媛巫女さま。私はいまだに何もわかっていない卑しい郎党でした。お約束したように、私は牛丸のことを、この翡翠が失われた経緯を、誰にも語らずに墓場まで持って参ります。人ごときの短絡的な考えで、あなたを幸せにしてくれなかったことを恨むのではなく、あなたがそうなさったように龍王様に仕えて参ります。媛巫女さま、媛巫女さま、媛巫女さま……。

 次郎が勾玉を前に哭き続ける姿を、三人の男たちは無言で眺めていた。


(初出:2014年2月 書き下ろし)
.04 2014 scriviamo! 2014 trackback0

Artistas callejeros、描いていただきました

Posted by 八少女 夕

ユズキさんに「大道芸人たち Artistas callejeros」のイラストを描いていただきましたのでご紹介したいと思います。

ユズキさんは、比較的最近お友だちになっていただいたイラストを描かれるブロガーさんです。二つブログをお持ちになっていて、版権(ONE PIECE & NARUTOメイン)扱っている『ぽてぽてぽとふ』と、オリジナル作品を発表なさっている『夢の時間(とき)』。どちらのクオリティもすばらしいのですが、どういうわけか「大道芸人たち Artistas callejeros」を氣にいってくださって、素敵なイラストを描いてくださったのです。

蝶子 by ユズキさん 『大道芸人たち Artistas callejeros』の感想っぽいもの
で描いていただいた蝶子
 
稔&ヴィル by ユズキさん イラスト:稔とヴィル

この二枚のイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない二次利用は固くお断りします。

書いてくださった感想もとてもありがたいですし、インスパイアされて描いてくださったイラスト、嬉しくて泣きそうです。ブログの世界にはたくさんの素晴らしい小説があって、その中で最後まで読んでいただけた、氣にいっていただけたということだけでも嬉しくてしょうがないんですが、こうして何度もイラストを描いてくださるほど好きになっていただけたなんて夢みたいです。

ユズキさん、本当にありがとうございました。外伝や第二部も頑張って書きますので、今後ともどうぞよろしくお願いします。
.03 2014 いただきもの trackback0

何を読んでいいのかわからない方のために

Posted by 八少女 夕

このブログは主に小説を発表しています。最近の傾向として、ブログのお友だち(ブロともさんとリンク先さんの総称です)との交流をするコラボ小説を発表したり、何本も並行して連載小説を発表したりしていまして、他の方からの紹介やリンクをたどってはじめていらっしゃった方が「なんだこりゃ」と困惑されることが増えてきているように思います。

そこで、とにかく何かをひとつ読んでみたいんだけれどという方のために、ここで簡単な(ダイジェスト版の)ご案内をすることにしました。どんなものを読みたいかという目的別です。

私自身についてやこのブログについてのご案内はここでしています。ブログまたは別館で発表した全作品の「作品一覧」の記事には、ここにはない小説も短いあらすじ付きで記載しています。





まずは読み切り短編のご紹介から。
爽やかな、もしくは甘めの恋の話が読みたい


少し早い春の湘南を Inspired from “ラブストーリーは突然に” by 小田和正
春の湘南。透は翔子と一緒にバイクのツーリングに向かう。
北斗七星に願いをこめて - Homage to『星恋詩』
スカイさんからのリクエスト。お題は「糸と針」。『星恋詩』ファン星野君の誕生日プレゼントにクッションを贈りたい。でも、ウルトラ不器用な麻衣は苦戦する。
雪山に月が昇るとき
ホームステイ先の長男マリオに恋をしかけている沙耶。満月の晩にスイスの雪山を走る「満月列車」に乗って……


甘いのは嫌い。シリアスな、もしくは痛い話が読みたい。


蝉時雨の奇想曲
蝉時雨の中、志乃は恋人の葬儀に向かう。すれ違った子供たちの前途ある姿を見ながら自分の人生の秋を思う。
樹氷に鳴り響く聖譚曲
学会でサン・モリッツへ行った慎一は、トリノに住んでいる高校時代の同級生沙羅に連絡を取って逢った。
桜のための鎮魂歌
桜の季節に父親をなくした女が、自分も同じ病に冒されていることを知る。来年の桜は見ることができないかもしれないと思いつつも、不思議な安らぎを感じている。
なんて忌々しい春 Inspired from 'Maledetta Primavera' by Loretta Goggi
北イタリア、パーティの花形であるシルヴィアは予期せずかつて愛したジャンカルロと再会する。
ラ・ヴァルス
モーリス・ラヴェルの「ラ・ヴァルス」にインスパイアされて書いた小説。雪羽はウィーンの舞踏会でワルツを踊ることになる。

ちょっと妖しい、大人っぽい話は


彼岸の月影 Inspired from 『慟哭』
帰郷した晃太郎の心によぎるのは一年前の地獄池での一夜だった。
ヴァルキュリアの恋人たち
神話系お題シリーズ。オペラ「ヴァルキューレ」の招待状を送って来たのは、忘れようと思っても忘れられなかったあの女だった。


さまざまな人生の一コマ


川のほとりの間奏曲
友達に裏切られて故郷に戻ってきた宏生。川のほとりで再会したのは幼なじみの妙子だった。
おまえの存在 Inspired from “Glück” by Herbert Grönemeyer
喬司の生活は突然変わった。娘の麻由と二人で生活していくことになったのだ。
赴任前日のこと Inspired from “The Day Before You Came ” by ABBA
歩美は誰にも求められることがない。平凡な一日の記録。
いつかは寄ってね Inspired from “ウイスキーがお好きでしょ” by 石川さゆり
神田の小さなバー。和服の似合う涼子は一人で店を切り盛りしている。
終焉の予感 Inspired from 'Skyfall' by Adele
世界の終焉が近づく中、古代の遺産を求めて私と男は密林を行く。今夜限りかもしれない。私は思う。


歳を重ねた夫婦の話


狩人たちの田園曲
《そり祭り》が縁で結婚したアントニオとフレーニー。キノコ狩りに行った秋の日、60年の夫婦生活についてアントニオは振り返る
南風の幻想曲
妻との生活に飽きていた男がギリシャでの休暇で若いウェイトレスとアバンチュールを楽しもうとする。


ふざけた話


タンスの上の俺様 - 「カボチャオトコのニチジョウ」シリーズ 二次創作
タンスの上に鎮座しているのは上から目線だけれど本当は何もできない猫の置物
教授の羨む優雅な午後 — 『ニボシは空をとぶ』二次創作
威厳たっぷりのスイス人教授と小説を書く日本人秘書が日本にやってきた……
ヨコハマの奇妙な午後
33333Hit記念掌編。三名の方からのリクエストにお応えして。横浜に偶然集結していた三組の別作品のオリキャラが迷い混んでしまったのは……
暗闇の決断
2014年エイプリルフール企画。
半にゃライダー 危機一髪! 「ゲルマニクスの黄金」を追え
44444Hit記念掌編。スイスを舞台にした時代劇(?)「半にゃライダー」のはずなのに、隠密同心として変な傍役たちが活躍する。


この先は中編です。
テーマのはっきりした話


「ファインダーの向こうに」を読む
ファインダーの向こうに
テーマは「自己承認欲求」。コンプレックスと折り合えないまま、ニューヨークで仕事に生きる一人の女性が、偶然撮った写真をきっかけに少しずつ変わっていく


「夜想曲(ノクターン)」を読む 縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く
夜想曲
テーマは「アイデンティティ・プロブレム」。東洋人の顔を持つスイス人マヤは、16歳の夏ペルー人のエステバンと恋に落ちた。鏡の中に閉じ込められた二つの魂の物語


大切なひとを見つけるまでの物語


夢から醒めるための子守唄
ハンガリー人レーナは、スイスの田舎の村でよりよい生活と幸福を探している。


スイスと日本の異文化交流の話


リナ姉ちゃんのいた頃
我が家に突然ホームステイする事になったスイス人の女の子、リナ姉ちゃんと僕たちの一年間が始まる。


そして長編です。
一番人気のある自他ともに認めるこのブログの代表作


「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む 縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く
大道芸人たち Artistas callejeros
蝶子、稔、レネは偶然コルシカフェリーで乗り合わせた。ミラノで出会ったヴィルも一緒に四人で大道芸をしながら旅をする事に。
あらすじと登場人物

大道芸人たち Artistas callejeros 外伝
本編がお氣に召したら、ぜひ外伝もお読みください。


渾身の力作、超自然的テーマがお嫌でない方に


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樋水龍神縁起 (FC2小説と別館のみでの公開)
 第一部 夏、朱雀
物心ついた時から、ゆりは夢に悩まされていた。平安装束をした自分が「夢の人」とともにいる。矢で射られる。人には言えない能力と夢を抱えたまま、婚約者と結婚しようとしていたが……。
 第二部 冬、玄武
新堂朗は京都で神職としての人生をスタートする。千年にわたる因縁を経て朗とゆりは幸せな結婚生活を始めたはずだったが……。
 第三部 秋、白虎
新堂朗とゆりは因縁の深い奥出雲、樋水龍王神社にて奉職することとなった。高橋一と摩利子もまた樋水村に越してくる。やがて龍王の降臨する千年祭が近づき……。
 第四部 春、青龍
ゆりが身籠っていたのは人間ではなかった。『龍の媾合』の神事で起こった事は何か、前世や人の世の悲喜こもごもを超越する境地には何があるのだろうか。
官能小説ではありませんが、中に性的な記述が含まれています。未成年の方、苦手な方はお氣をつけ下さい。また、この小説は四部構成で、第四部までで完結となります。単品でもお読みいただけますが、続きがある事をご了承ください。
あらすじと登場人物

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樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
「樋水龍神縁起」の続編。世界観と舞台は同じですが、独立した話になっています。奥出雲の樋水龍王神社のお膝元、樋水村で育った少女瑠水は、クラッシック音楽とバイクを愛する青年真樹と出会う。真樹に乗せてもらったバイクの風に、子供の頃から感じていた樋水の「皇子様とお媛様」の世界に通じるものを感じた瑠水は、歳が離れている真樹に心を開くようになる。
あらすじと登場人物


中世ヨーロッパをモデルにした架空世界で展開される人間模様


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む 縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く
森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
教師として宮廷を渡り歩くマックスは、ルーヴランの都ルーヴを目指す。ルーヴランの宮廷では王女の《学友》ラウラが自由に憧れながら過ごしていた。
あらすじと登場人物


月間Stellaで連載。サーカスの人間模様


「夜のサーカス Circus Notte」を読む
夜のサーカス Circus notte 
六歳の頃にもらった紅い薔薇に運命を感じて少女はサーカスのブランコ乗りになる事を決意する……
あらすじと登場人物


月間Stellaで連載。特殊な血筋をめぐる謎のシステムとそこで展開される人間模様


「Infante 323 黄金の枷」
Infante 323 黄金の枷 
黄金の腕輪をはめた娘マイアは召使いとして「ドラガォンの館(Palácio do dragão)」に勤めることになる
あらすじと登場人物


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