scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】カフェの午後 - 彼は耳を傾ける

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


scriviamo!の第十四弾です。山西 左紀さんは今年二つ目の参加として、ローマ&ポルト&神戸陣営シリーズ(いつの間にか競作で話が進むことになったシリーズの1つ)の続きにあたるお話を書いてくださいました。ありがとうございます!

山西 左紀さんの書いてくださった『絵夢の素敵な日常(初めての音) Augsburgその後』
山西 左紀さんの関連する小説
絵夢の素敵な日常(10)Promenade
絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso
絵夢の素敵な日常(初めての音)Porto Expresso2
Promenade 2
初めての音 Porto Expresso3
絵夢の素敵な日常(初めての音)Augsburg


「ローマ&ポルト&神戸陣営」は今年はほとんど進まなかったのですが、サキさんは66666Hit作品に、この作品と頑張って二つも進めてくださっています。

全くこのシリーズをご存じない方のために少し解説すると、この「ローマ&ポルト&神戸陣営」にはうちの「黄金の枷」サキさんの「絵夢の素敵な日常」大海彩洋さんの「真シリーズ(いきなり最終章)」のメンバーたちがヨーロッパのあちこちに出没してコラボしています。「黄金の枷」の設定は複雑怪奇ですが無理して本編を読む必要はなく、氣になる方は「あらすじと登場人物」をご覧下さい。このコラボで重要になっているのは、本編ではほとんどチョイ役のジョゼという青年です。もともとサキさんのとコラボのために作ったキャラです。他に、マヌエル・ロドリゲスというお氣楽キャラが「ローマ&ポルト&神戸陣営」ではよく出てきますが、今回は「神父見習い」というひと言以外は全く出てきません。「ローマ&ポルト&神戸陣営」の掌編は「黄金の枷・外伝」カテゴリーで読む事が出来ます。ただ、今回の作品にはジョゼ関係の必要な情報が全部入っていますので、読まなくても大丈夫です。

さて、今回サキさんが書いてくださったのは、「大道芸人たち Artistas callejeros」のサブキャラ、ヤスミンで、彼女はアウグスブルグで絵夢に逢い、さらにはミクと演出家ハンス・ガイステルの会話にちゃっかり聞き耳を立てています。というわけでこちらは、ポルト(本編ではPの街と言っていますが、この「ローマ&ポルト&神戸陣営」ではポルトと言いきってしまっています)に舞台を移し、こちらでも誰かさんが聴き耳を立てています。話しているのは、「黄金の枷」重要キャラと、やはり「大道芸人たち Artistas callejeros」のサブキャラ。以前サキさんがヤスミンを出してくださったお話で、お返しはやっぱりこの人の登場にした事があるのですが、それを踏襲しています。

サキさんは、とっとと話を進めてほしかったようですが、まだまだ引っ張ります。っていうか、この続きは今月末にロケハンに行ってからの方がいいかな~と。ちなみに本編(続編)の誰かさんに関わる情報もちょいと書いています。


【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」Infante 323 黄金の枷


「scriviamo! 2015」について
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



黄金の枷・外伝
カフェの午後 - 彼は耳を傾ける
——Special thanks to Yamanishi Saki san


 白いぱりっとした上着をきちんとひっぱってから、ぴかぴかに磨かれたガラスケースを開けて、中からチョコレートケーキを取り出した。ジョゼはそれをタウニー・ポートワインの30年ものを飲んでいる紳士の座っている一番奥のテーブルに運んだ。
「大変お待たせいたしました」

「おお、これは美味しそうだ。どうもありがとう」
 発音からスペイン人だとわかるその紳士は、丁寧に礼を言った。ジョゼは、ずいぶん目の大きい人だなと思ったが、もちろんそんな様子は見せなかった。

 ジョゼは、Pの街で一番有名なカフェと言っていい「マジェスティック・カフェ」のウェイターとして働いている。1921年創業のこのカフェは、アール・ヌーボーの豪華絢爛な装飾で有名で、その美しさから世界中の観光客が押し寄せるので、母国語だけでなく外国語が出来なくては勤まらない。ジョゼは英語はもちろん、スペイン語も問題なく話せるだけでなく、子供の頃にスイスに住んでいたことがありドイツ語も自由に話せるので職場で重宝されていた。

マジェスティック・カフェ


「こちらでございます」
振り向くと、黒いスーツを着た彼の上司が女性客を案内してきた。このカフェの壁の色に近い落ち着いたすもも色ワンピースと揃いのボレロを着こなしていた。ペイズリー模様が織り込まれたそのスーツは、春らしい鮮やかさながらも決して軽すぎず、彼女の高貴な美しさによく似合っていた。ジョゼは、はっとした。彼女に見憶えがあったからだ。

 彼のテーブルに座っていた、目の大きいスペイン人はさっと立ち上がり、その女性の差し出した手の甲に口づけをした。
「ドンナ・アントニア。またあなたにお逢いできてこれほどうれしいことはありません」

 黒髪の麗人は、艶やかに微笑んで奥の席に座った。革のソファの落ち着いた黒に近い焦げ茶色が、彼女の背筋を伸ばした優美な佇まいを引き立てる。
「遠いところ、足をお運びいただいてありがとうございます、コルタドさん」

 上司に「頼むぞ」と目配せをされて、この二人がVIPであることのわかったジョゼは、完璧なサービスをしてみせると心に誓って身震いをしてから恭しく言った。
「いらっしゃいませ。ただ今、メニューをお持ちいたします」
二人の客は、頷いてから、会話を始めた。

「二年ぶりでしょうか。いつお逢いしても月下美人の花のごとく香わしくお美しい。仕事の旅がこれほど嬉しいことは稀なことです」
「まあ、相変わらずお上手ですこと。お元氣そうで何よりです。お噂は耳にしていますわ。事業の方も、芸術振興会の方も絶好調だそうですね」

「おかげさまで。いつまでも活躍していてほしかった偉大なる星が沈むこともありますが、新しく宵の明星のごとく輝く才能もあります。それを見出し支援することが出来るのは私の何よりの歓びです。そして、同じ志お持ちになられているあなたのように素晴らしい方と会い、若き芸術家たちとの橋渡しができることも」

 麗人は無言で微笑んだ。どう考えても、目の大きい紳士の方がはるかに歳上だと思われるのに全く物怖じしない態度で、ジョゼは感心しながら見とれていた。ドンナ・アントニアか。相当に金持ちのようだとは考えていたけれど、そうか、貴族かなにかなんだな。彼は心の中で呟いた。

 彼女は、チョコレートケーキを嬉々として食べているコルタド氏に微笑んだが、自身はコーヒーしか頼まなかった。それもエスプレッソをブラックで。

 彼女は、ずいぶん前に立て続けにこのカフェに来たことがあった。その理由は、なんとジョゼにある伝言をするためだった。彼女からチップとともにそっと手渡された封筒に、幼なじみマイア・フェレイラからの秘密の依頼が入っていたのだ。彼は、何が何だか全くわからぬままに頼まれたことをやり、そのお礼としてこれまで一度も履いたことがないほど素晴らしい靴を作ってもらった。いま履いている黒い靴だ。

「それで、お願いした件は……」
アントニアは、つややかな髪を結い上げた形のいい頭を少し傾げて訊いた。コルタド氏は、大きく頷くと鞄からCDを取り出した。
「こちらがバルセロナ管弦楽団のチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番で、こちらがスイスロマンド管弦楽団によるメンデルスゾーンのバイオリン・コンチェルトです」

「まあ、もう二つもご用意くださったのですね。素晴らしいわ。ありがとうございます。録音していただくの、大変だったでしょう?」
「そうですね。世界に名だたるオーケストラと指揮者にソリストなしのカラオケを録音していただくのですからね。なんに使うのか、皆知りたがります。でも、ご安心ください。あなたのお名前を悟られるようなヘマはいたしておりません」
「心から感謝いたします。かかった費用はすぐにお支払いします。それに、あなたが理事を務めていらっしゃる芸術振興会にいつもの倍の寄付をさせていただきたいと思います」
アントニアは、真剣な面持ちで礼を言うと、CDを大切にハンドバッグにしまった。

「私が全く興味を持たなかったかと言えば嘘になります」
コルタド氏は誰もが引き込まれてしまうような、人懐っこい笑顔を見せた。アントニアはわずかに笑った。
「もし可能ならば、生のオーケストラをバックに演奏したいと願い続けている人のため。それ以上は、私が言わずとももうご存知でしょう?」

 コルタド氏は、意味有りげな顔をした。
「表向きは何の情報もありませんが、私の懇意にしているセビーリャのジプシーたちはこの街に住む特別な一族のことを話してくれますので」

 アントニアは、全く何も言わなかった。肯定も否定もしなかった。それから突然話題を変えた。
「それで。新たに見つけた才能のことを話してください。場合によっては、寄付をまた増やしてもいいのですから」

「そうですね。例えば、私が大変懇意にしている四人組の大道芸人たちがいます。でも、彼らのことは、私が個人的に支援しているだけですがね。ああ、そうだ。この街出身の素晴らしい才能が国際デビューしたことはご存知ですか」
「どこで?」
「ドイツです。ミュンヘンの、例の演出家ハンス・ガイステルが見いだしたようで。彼女の名前が少し特殊だったので、もしかしたらあなたのご一族なのかと思ったのですが」
「なんと言う名前ですか」
「ミク・エストレーラ」

 ジョゼはぎょっとして、思わず二人をしっかりと見てしまった。幼なじみで且つ想い人であるミクの名前をここで聞くとは! ミクは、正確にはこの街の出身者ではない。日本で生まれ育った日本人だ。ティーンエイジャーだった頃、母親を失いこの街に住んでいた祖母のメイコ・エストレーラに引き取られて引越してきたのだ。ジョゼは、その頃からの友達だった。

 ミクはその透明な歌声を見出されて、ソプラノ歌手としてのキャリアを歩み始めていた。ドイツのアウグスブルグで『ヴォツェック』のヒロインであるマリー役で素晴らしい成功をおさめたことは聞いていた。もちろん彼がアウグスブルグに行ったわけではないけれど、彼女の歌声が素晴らしいのは子供の頃からずっと聴いているから知っている。

 大学に進み、この街を離れるまでは単純に歌うのが好きな綺麗な姉貴だった。(ミクは6歳も歳上なのだ!)大学在学中に、テクニックとか曲の解釈とか、ジョゼにはよくわからない内容に心を悩ませ、迷い、それに打ち勝って単純に美しいだけではない深みのある歌い方をするようになった。

 夢を追っているミクは輝いていたし、ジョゼも心から応援していたが、彼女の夢が1つずつ叶う度にこの街に帰ってくる間隔が長くなり、さらには手の届かない空の星のような存在に変わっていってしまうように感じられて心穏やかではなくなった。

 そうだ、エストレーラ 。彼女の苗字がなんだって? この女性の一族? まさか!

 アントニアは、クスッと笑った。それから首を振った。
「私たちの一族でエストレーラ という苗字を持つものはおりません」

 コルタド氏はアントニアが左の手首にしている金の指輪を眺めて「そうですか」と納得していない様子で呟いた。彼女は、婉然と微笑んだ。

星を持つOs Portadores da Estrela のと、Estrela であるのは違うのですよ。私たちの家名はどこにでもいるような目立たないものに限られているのです。誰もがその存在に氣がつかないように」

 それから何かを考え込むように遠くを見てから、コルタド氏に視線を戻して優しく微笑んだ。

「才能があり功名心を持つ人は、星など持たぬ方がいいのです。世界へ飛び立ち、自由に名をなすことができるのですから。《星のある子供たち》Os Portadores da Estrela は、あなたもご存知のように、この街に埋没し、世間に知られずにひっそりと生き抜くべき存在なのです」

「あなたも……?」
コルタド氏は、これまでに見たことのあるどの女優にも負けぬほど美しく、どの王族にも引けを取らず品をもつ麗人を見つめた。彼女は顔色一つ変えずに「私も」と答えた。

 そして、二人を凝視しているジョゼに視線を移すと、謎めいた笑みを見せた。彼は客の会話に聞き耳を立てるどころか、完全に注目して聴いてしまっていたことに思い至り、真っ赤になって頭を下げた。

「それで、あなたはそのエストレーラ嬢の後ろ盾になるおつもりなのですか」
アントニアは、コルタド氏に視線を戻した。

「いいえ。そうしたいのは山々ですが、彼女にはもう立派な後ろ盾がいるのですよ。ヴィンデミアトリックス家をご存知ですか」
「ええ。もちろん」
「かのドンナ・エム・ヴィンデミアトリックスが、彼女を応援しているのですよ。それに、どうやらイタリアのヴォルテラ家も絡んでいるようです。あなたが絡んでいないとしたら、どうやってそんな大物とばかり知り合いになれるのか、私にはさっぱりわかりませんね」

 絵夢ヴィンデミアトリックス! またしても知っている名前が飛び出してきたので、ジョゼの心臓はドキドキと高鳴った。絵夢は日本の高名な財閥令嬢で、ミクと同じ日にジョゼが知り合った、長い付き合いの友達だ。

 ミクがポリープで歌手生命の存続を疑われた時に、イタリアの名医を紹介してくれたのも絵夢だった。ついでに、メイコのところに来ている神父見習いの紹介でヴァチカンとつながりのあるすごい家も助けてくれたって、言っていたよな。ともかく、彼らのバックアップの甲斐あって、手術は大成功、彼女はまた歌えることになったんだ。ジョゼはわずかに微笑んだ。

 僕はその事情を全部知っています。言いたくてしかたないのを必死で堪えつつ、ジョゼは綺麗に食べ終えたチョコレートケーキの皿をコルタド氏の前から下げた。

 その時に、アントニアの視線が彼の靴を追っていることに氣がついた。彼は、そっと足を前に踏み出し、彼の宝物である靴を彼女に見せてからもう一度頭を下げた。この靴のことも、それから彼女がマイアの件で彼に伝言を依頼したことも、彼女は知られたくないことを知っていたので、ジョゼはあくまで何も知らない振りをした。アントニアは満足したように頷いた。

 コルタド氏は二人の様子にはまったく目を留めずに、話を続けた。
「来月、またこの街に参ります。その時は、もうひとつのご依頼である『ます五重奏』の方も持ってこれるはずです」
「何とお礼を申し上げていいのかわかりませんわ」

「あなたにまたお逢いできるのですから、毎週でも来たいものです」
コルタド氏が言うと、アントニアは微笑んだ。
「私がいつまで、こうした役目を果たせるかわかりませんわ」

「なんですって。ドンナ・マヌエラからお役目を引き継がれてから、まださほど経っていないではないですか」
「ええ。でも、ようやく本来私のしている役目を果たすべき者が決まりましたの。まだこの仕事には慣れていませんので、しばらくは私が代わりを務めますが」

「それは、ご一族に大きな慶事があったということでしょうか」
「ええ。その通りです」
「なんと。心からお祝い申し上げます。ドン・アルフォンソにどうぞよろしくお伝えください」
「必ず。ご健康と、そしてあなたのご事業のますますのご発展を祈っていると、彼からの伝言を受けていますわ」

「これはもったいないお言葉です。私の方からも心からの尊敬をお伝えください」

 コルタド氏は立ち上がって、アントニアに手を差し出した。その手に美しい手のひらを預けて優雅に立ち上がると、彼女は水色の瞳を輝かせながら微笑んだ。
「バルセロナへお帰りですか?」

「いえ、せっかくここまで来ましたのでひとつ商談をするためコインブラへと参ります。そのためにレンタカーを借りました。そして可能でしたら、少し足を伸ばしてアヴェイロにも行くつもりです。《ポルトガルのヴェニス》と呼ばれているそうですね」
「そうですか。よいご滞在を。またお逢いするのを楽しみにしています」

 二人が去った後に、テーブルを片付けると、コルタド氏の座っていた席に、多過ぎるチップとともに料金が置いてあった。ジョゼは、ミクが帰って来たら「姉貴のことを噂していた人がいたよ」と話そうと思った。

 ミクがまた歌えるようになるまで三ヶ月かかるとメイコは言っていた。その静養期間に彼女はしばらくこの街に戻ってくるとも。

 彼は、つい先日格安で中古のTOYOTA AYGOを手に入れた。小さい車だが小回りがきき丈夫でよく走る。アヴェイロか。そんなに遠くないよな。

 彼女が帰って来たら、ドライブに誘おう。ここしばらく話せなかったいろいろな事を話そう。そして、出来たらもう小さな弟代わりではなくて、友達でもなくて、それよりもずっと大切に思っていると、今度こそ伝えたいと思った。

 街には春のそよ風が心地よく吹いていた。

(初出:2016年3月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

新年のお祭り

本日2月29日でもってscriviamo! 2016の新規受付を終了させていただきます。あっという間でしたね。いつもドッキドキの二ヶ月なんですが、今年は量は例年より少なかったんですけれど、本当に容赦のない難題揃いで、挑戦し甲斐がありました。渾身の作品でご参加くださった創作者の皆様、本当にありがとうございます。

そして、明日は3月1日。古代ローマのお正月です。

チャランダ・マルツ

子供の頃、月の名前の語源を知って「?」となったことを思い出します。例えば英語での10月。「オクトーバー(October)」 って、なんでオクト? 「オクトパス(Octopus)」は8本足のタコを意味するようにこの英語の元になったラテン語(綴りは同じ)は「第8の月」なんですが、「第10の月じゃないの?」って。

3月から始まるとすると、これも納得です。

そして、ローマ帝国の属州であったスイスも、かつては3月1日が新年だったのです。途中から、今と同じように1月1日が新年になったんですけれど、山の中にはかつての新年のお祭りが残って現在に至っています。それが、絵本「ウルスリのすず」で有名になったチャランダ・マルツ(Chalanda Marz)です。そもそもこの「チャランダ・マルツ」という言葉自体が「3月朔日」を意味するのです。私の住むグラウビュンデン州の主にエンガディン地方に残っている風習で、子供たちが赤い帽子と青い服を着て、カウベルを鳴らしながら意地悪な冬の精を蹴散らすというお祭りなのですね。

チャランダ・マルツ

なお、私の住む地域は、3月朔日には特に何もしないのですが、大晦日の早朝に子供たちが同じようにカウベルを鳴らしながら行進する風習があります。おそらく昔はこの風習、年末年始にいろいろなところでやっていたのでしょうね。キリスト教化が進むとクリスマスなどキリストや聖人に関する祭がメインになっていきますが、それ以前の祝祭がまだどこかに残っている。私はこういうものがとても好きなのです。

ともあれ、チャランダ・マルツが来ると春です。本当の春はまだ少し先ですが、その希望が見えてきます。日も高くなってきましたね。
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Posted by 八少女 夕

ヒマにも程がある?

今日は、本当にどうでもいい創作の与太話です。

村の朝焼け

つい先日、たまたま時間があって、「scriviamo!」のお返しも「Stella」ならびに「carat!」提出作品も全部書き終わっているので、延び延びになっていた懸念事項をひとつ片付けようかと。

といっても長編の「Filigrana 金細工の心」や「大道芸人たち Artistas callejeros」の続きでも書けばいいのに、そちらはそう簡単には書けないから止まっているわけで、別のことに現実逃避してみました。

上に上げた他にも、いま書いている作品群、というか風呂敷を広げてしまって収拾つかなくなっているお話、やたらとあるんですけれどそのうちのひとつで、これからも少し真面目に書こうかなと思っているひとつが不定期連載「リゼロッテと村の四季」です。

これ、私の作品には珍しく、しばらくは子供目線で話が進んでいくんですけれど、私が現在住んでいる地域の百年くらい前の話を想定しています。私は素人創作者ですし、歴史物を書くわけではないのですが、せっかく書くのだからある程度この時代のこの地域のことや考え方、それに民俗などが伝わるように書きたいなと思っています。もちろん私が見る事の出来る現代のものとは違うので、あくまで眉唾ものとして読んでいただこうと思いますけれど、個人的には明らかな嘘は書きたくないと、真面目にストーリーや背景を練っていたりするわけです。

で、舞台となっているカンポ・ルドゥンツ村のモデルとなっている私の住む村の20世紀初頭の人口なども調べたりしたんです。つまり、学校にどのくらい子供たちがいるかなというようなことを書くのに5人と書いたのに実際は300人というような大きな違いになるのはどうかなと思ったものですから。

で、案の定、私の予想よりかなり多かったんですが(ネットって、予備知識と語学がある程度出来るとこんなことまで調べられるんですね)、私自身が把握しながら書いていける村の人間関係相関図を考えて、大人も含めてとりあえず現実よりずっと少ない70人ということにしました。150人くらいはいるということにして、名前は出てこないでもいいんですけれど、私が役割を振り分ける名前のあるキャラクターとしてはMax70人。もちろんこの全員が出てくると決まったわけではありませんが、ちゃんとどこかに書いておく人たちです。

で、暇にまかせて何をやっていたかというと、当時の5歳ごとの人口分布を連邦の制作した統計資料から引っ張ってきて、その比率で70人を(0歳から4歳までは何人、5歳から9歳までは何人というぐあいに)分布させて、それからそれぞれに名前を付けるということをやっていたわけです。加えて年齢と職業、誰と誰が親子兄弟姉妹なのかというようなことも。(まだ全部は終わっていない)

きっと皆さんが名前を覚えてくれるだろうと予想されるキャラは、そのうちの10人くらいでしょうけれど。

そもそもなんでそんなことを始めたかというと、子供たちが集まるシーンがあるんですが、そこに「その部屋には子供たちが○人いた」という一文を書くためなんですよ。他のことは、あとから「こうだったということにする」という適当に設定もありですけれど、ヒロインが始めてみる「村の子供たちみんな」がどのくらいいるのかくらいはきちんと決まっていないとあとでブレブレになってしまうからです。

前にブログのお友だちのウゾさんがおっしゃっていた「年表」などもそうですけれど、ある程度の特別な世界観を持つ作品は、ストーリーを書く前に準備しないといけないものがけっこうあるように思います。(「黄金の枷」シリーズの拡張は、この初期設定にかなり助けられて統一性のある世界になっていたりします)

というわけで、小説をお書きにならない方、私たちが「書く書く詐欺」になってしまうのは、こんなふうにこだわったりすることがあるからだとご理解いただき、作品がいつまでも完成しないことをも生温い目で見守っていただけると嬉しいです。



この記事で読んでみたくなった方は……
【不定期連載】リゼロッテと村の四季
「リゼロッテと村の四季」
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Category : 構想・テーマ・キャラクター

Posted by 八少女 夕

【小説】グラスを傾けながら 〜 彼と彼女の幸福論

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


scriviamo!の第十二弾です。

大海彩洋さんは、『奇跡を売る店』シリーズの番外編で参加してくださいました。ありがとうございます!


大海彩洋さんの書いてくださった小説『しあわせについて~懺悔の値打ちもない~』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。私と同年代(プラスマイナス一歳ぐらいらしいですね)かつ、ずっと昔から書いていた、途中ブランクがあったというところまでとても似ているんですが、書く内容は「どうしてここまで違う」というものに。たぶん人生の重みと真剣さの違いが作品に出るんでしょうね。こればかりは一朝一夕では追いつけませんし、そんな野望も持っていません。無理無理。

『奇跡を売る店』は「真シリーズ」の別バージョンかつエッセイ「巨石紀行」でもおなじみの天然石の知識を存分に生かされた作品群です。今回は、主人公が勤めている京都のオカマショウパブ『ヴィーナスの溜息』を舞台に、あちらでのおなじみのキャラのみなさんが庚申講にひっかけた懺悔大会(?)と『幸福学』シンポジウムについて語っているのですが、そこにある男性の人生が語られ、うちの毎度食べて飲んでいるだけの二人も登場させていただきました。

この盛りだくさんな作品に、さらにうちの66666Hit記念の企画、お題の単語6個以上を使うという課題にまで挑戦してくださっていて、なんと35ワードコンプリートです。すごっ。本当にありがとうございます。

で、感心している場合ではなく。いやあ、もう慣れましたけれど、今年のscriviamo!のお約束のごとく涙目級超難解課題。ええ、こちらも本当に難しい。

今回は、うちの「生理学教授クリストフ・ヒルシュベルガー&その秘書ヤオトメ・ユウ」を京都にご招待くださりたくさんご馳走してくださったので、もう、そのままこの二人を出すことにしました。そして、彩洋さんの物語の中で語られた「しあわせについて」&「人生の選択」などで真面目にリターン(したつもり)。そして、二つの一見全く関係のない話を、接点もほとんどなく重ねてみました。同じテーマでも今度もやっぱり「私が書くとなぜこうなる」。ううう、彩洋さん、ごめんなさい。今ひとつハートフルラストに落とせないのは、もしかして私の人生観って……。


【参考】この二人のでてくる作品群です。あ、ヤオトメ・ユウは私とは別人キャラです、念のため。
教授の羨む優雅な午後
ヨコハマの奇妙な午後
パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして
君を知ろう、日本を知ろう


「scriviamo! 2016」について
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グラスを傾けながら 〜 彼と彼女の幸福論 
——Special thanks to Oomi Sayo san



 いつも後にきっちりと結わえている髪を下ろした彼女の姿は柔らかで、研究室で見るよりずっと年若く見せた。黒い髪に、夜空を思わせる黒い瞳。アルミネは、話す時に少し斜め前を見るように伏し目になり、悲しそうに微笑んだ。

 彼は研究室では一番早く出勤するので、彼女が泣きながらファンデーションを塗っているのを見てしまった。目の周りの青あざ。研究室のすぐ側にある薬局ではそれを隠せるほどの濃いファンデーションを売っている。誰にも言わずに堪えている彼女が心配だった。

 アルミネは、主任教授の秘書だった。若い研究員である彼は、雑用を彼女と一緒にする機会が多く、彼女がアルメニア人であることを知っていた。といっても彼女自身がアルメニアから来たわけでなく、全アルメニア人の六割を占めると言われている「ディアスポラ」つまり迫害を避けて逃げだしてきた国外アルメニア人の出身だった。

 生まれた時からスイスに住んでいるので完璧なスイスドイツ語を話すが、美人が多く天才も多いと言うアルメニア評にふさわしく、美しく賢い、そして優しく穏やかな性格で、彼は好意を持っていた。と言っても、彼女にはパートナーがいることを知っていたので、口説くことはなかったが。

 その日は主任教授に頼まれた資料作成に手間取り、研究室を出るのは二人が最後だったので、彼は断られると予想しながらもアルミネを食事に誘った。けれど彼女は言った。
「ご一緒しようかしら。まっすぐ帰っても、今日は誰もいないし」

 食事をしながら、彼は朝はからずも見てしまった光景について謝った。すると彼女は、伏し目で笑いながら、夫に殴られたことを白状した。

「君が助けを必要とするなら、いつでも役に立ちたい」
彼の言葉に、彼女は首を振った。
「ありがとうございます。でも、いいんです。彼は、手が早いだけ。怒りが収まったら、きっとまた普通の日常に戻れると思います」

 他の友人や家族のバックアップがあるのかと訊くと、彼女は首を振った。彼女が恋に落ちたのはトルコ人だった。不倶戴天の敵といっていい民族の男との恋が、祝福されるはずはなかった。
「友人も家族も失って、彼といるしかいないんです」

「わからないな。君たちの聖なるアララト山を国境の向こうへと持っていったのは彼ではないし、例の大虐殺も彼がしたことではない。でも、痣がつくほど君を殴ったのは彼だろう? 君は、そんな男と幸せになれるのかい。家族にアルメニア共同体に戻れと言うんじゃない。ただ、君自身を大切にしてほしいんだ」

 アルミネは、優しい黒い瞳を少し潤ませて見つめた。
「アルメニアびとは悲しい民族なんです。たぶん、私もその運命から逃れられないんだと思います。そう思いませんか?」

「民族の問題と君の幸せは関係ないだろう? 君は、スイスで育った。スイスの教育を受けて、スイスのものの考え方を常としているはずだ」

「ええ。わかっています。頭では。両親が正しかったとは思いません。私は敵と恋に落ちたのではなく、ひとりの人間と恋愛をしたのだと今でも思っています。でも、私は、アルメニア人なの。頭では理路整然と問題に立ち向かうべきと思うのに、感情が我々は虐げられることに慣れているとため息をついているの。彼と一緒になって、家族と切り離されてから、それをずっと強く感じるようになったんです」


 食事の後に一緒に入った店では、ピアノ弾きが物悲しい曲を静かに弾いていた。それを耳にして彼女は、ひとすじ涙をこぼした。
「どうしたんだ?」
「この曲……アルメニア人の作曲家によるものなんです」
「……なんて言うんだい?」
「アルノ・ババジャニアンの『エレジー』です。ね、やっぱりそうでしょう? 私たちは悲しい民族なんです」

 彼は彼女をフロアに誘い、静かに踊った。僕が君を守ってあげたい、その言葉を言うべきか戸惑っていた。すぐにナイフを持ち出すような、導火線の短い異国の男と争ってでも、この女性の人生を受け止めるべきだろうかと。研究者としての未来に影を落とすことになるかもしれないとも思った。

 もし、この夜が最後になるとわかっていたら、彼はそんな風に躊躇しなかっただろう。彼女は二度と研究室に来ることはなかった。プレパラートに落とす一滴の薬が、細胞を一瞬で無に帰してしまうように、その夜ひとりの女性がいとも簡単に二度と目覚めぬ眠りについた。

 前の日に受けた暴力の影響が、翌晩にあらわれたのか。それとも、トルコ人は二晩続けて彼女を虐げたのか。他の男と食事に行ったことが、彼女に災いしたのか。それとも、彼が希望を与えなかったから、彼女の心が民族共通の悲しみに堪えられなかったのだろうか。

 彼は警察に呼ばれ、彼女から聞いた話を供述した。その間にトルコ人は逃げて、主任教授と彼女の両親が彼女の弔いと、その後の後始末を済ませた。それだけだった。新しい秘書が来て、日常が再開された。トルコ人が捕まったかどうかは、彼には知らされないままだった。

 アルミネの憂いに満ちた美しい幻影は、しばらく彼を苦しめた。だが、それもずいぶん昔のことになった。
 
* * *


「君がこんな洒落た店を知っているとは驚いたね」
クリストフ・ヒルシュベルガー教授は、落ち着いた店内を見回した。

「お褒めいただきありがとうございます。東京には昔住んでいましたからね。洒落たバーのひとつや二つ……って言いたいところですが、実は、適当に入っただけで前から知っていたわけではないんです」

 黒曜石で出来た壁には、星に見えるようにたくさんの小さな電球が埋め込まれていた。カウンターは、客たちの静かな語らいを邪魔しないように低い位置から電灯が照らしていた。

「そうか。たまたまでも、これだけ美味しいつまみの出てくるバーにあたるというのは、君がよほどラッキーなのか、それとも日本のグルメのレベルが高いからなのか」
「おそらく後者でしょう。でも、先生。京都であれだけ食べて、さらに新幹線でも駅弁三つの食べ競べをしたのに、まだそんなにおつまみ頼むんですか。よくお腹壊しませんね」

 ユウはつくづく呆れて、「トロトロ煮込んだビーフシチュー」を嬉々としてつつく教授に白い視線を浴びせたが、彼は全く意に介さなかった。

「ところで、先生。京都の出雲先生とのお話でおっしゃっていた『蚤の市で買った偽物を掘り出し物と信じていること』の件ですけれど、それって本当に幸福なんですか?」
「死ぬまで氣がつかなければね。たいていの人間は、薄々それがまがい物だと氣がついてしまう。それでも払った大金のことを考えると手放せないものなのだよ」

 ユウがそうかなと思って考えていると、教授はバーテンダーに合図して響17年をお替わりした。
「ひとつ例を挙げよう。往きの飛行機で一緒になってしまった、あのアメリカ人のご婦人はどうだね」

 ユウは、腹立たしい記憶を呼び起こされて、教授をひと睨みした。

 三人がけの一番奥に座っていたのは、同じシンポジウムに参加するためにサンフランシスコから来たという女性で、経済学を教える夫は大統領の顧問、本人は料理番組を持つ傍ら生活提案の著作に励み、下の女の子はこども美人コンテストの入賞者、上の子どもはスイスの寄宿学校に入っているという経歴をまくしたてた。

「日本に行く前に、息子に逢ってきたんですの。せっかくなので、半日でしたけれどサン・モリッツでスキーもしてきましたのよ」

 もしかして、これは世間話ではなくて自慢かとユウが訝りはじめた時には、教授は勝手に会話を中断して寝てしまったので、ユウはその女性の話をひとりでひたすら聴く羽目になったのだ。

 そのくせ食事のサービスが始まったらすぐに起きて。ユウがそれを思い出してムッとしていることに全くひるんだ氣配もなく教授は言った。
「フラウ・ヤオトメ。私は君の返事を待っているのだが」
なんなのよ、この人は。

「はあ。アメリカの典型的な勝ち組ですかね。シンポジウムでは『勝ち取る幸せ』ってテーマで最新の著作のアピールしていましたっけ」
「周りの失笑にも臆しないところは、大したものだったがね」

 忙しい日常の合間に、華やかなパーティに顔をだし、ジムに行って汗を流し、精神分析にも通う。新しいスポーツに挑戦するのも好きで、休暇の度にカヤックやロッククライミング、クロスカントリーなどを楽しむと語っていた。彼女は自分は「幸福の塊」であるとユウに断言した。

「そうですか。ご本人は幸せだとおっしゃっていましたから、それがまがい物だとは思っていないんじゃないですか?」
「そうかね。夫は三人目の愛人とのスキャンダルで裁判沙汰になっているし、本人の若いツバメは彼女の会社の経理を誤摩化して高飛び。息子をスイスの寄宿学校に送り込んだのは、少年刑務所送りになるのを避けるための苦肉の策らしいがね。その愛息が寄宿舎の裏庭に大麻を植えて騒ぎになったことも付け加えておこうかね」

「先生、どこからそんな下世話なゴシップを仕入れているんですか」
「言いたくてしかたのない人間というのは、どこにでもいるものだ。幸福に見えるものを他人が持っているのを許せずに、メッキを剥がしたがる輩もね。動じずに、己が幸福を信じ続けるのもかなり精神力が必要だな」

 ユウはちらりと教授を見た。
「先生は、動じないんですね」
「この私がないものをあると思い込むとでも?」

 ないと断言されちゃ……。
「じゃあ、先生は幸福でグリュックリッヒ はないのですか?」
グリュック で人生を計ってどうする。私は『幸福であるグリュックリッヒ 』ではなく『満足しているツーフリーデン 』という言葉を遣うのだよ」

 なるほどね。言葉遊びみたいだけれど、いかにもこの人らしい。

「私の意見では、手に入れられないものを追い続けることは幸せとも充足とも相反している。ところで、君はアンニをどう思うかね」

 アンニというのは、ヒルシュベルガー教授の姉だ。教授と同じ屋根の下の別住宅に住んでいて、ユウがチューリヒに泊らざるを得なくなる時は、いつもアンニの客間に泊めてもらっている。物怖じしない豪快な性格で、泣く子も黙る教授を洟垂れ小僧扱いする人間は、ユウの知る限りこの人ひとりだ。

 教授よりもひと回り以上歳上で、若くして両親をなくした教授の親代わりだったらしい。生涯独身になったのは本人の主義やめぐり合わせもあるかもしれないが、両親も財産もない弟が研究者として独り立ちするまで身を粉にして働き支えていたのも大きいように思えた。そのことが引け目となって、弟もまた独身を貫いているのかは、ユウには判断しかねたが。

「そうですね。彼女は、無駄に何かを追い求めたりしているようには見えません」
「私もそう思うよ。彼女は、例のアメリカ女性がまくしたてていたものは何一つ持っていない。だが、実に満ち足りているのだ。彼女にも悔いや手に入れたくても入れられなかったものはあるだろう。だが、それを思って眉間に皺を寄せるよりは、現在持っているものを実に愉快に楽しむことが出来る。彼女のあり方は、私には理想的に思えるね」

幸福グリュック より充足ツーフリーデンハイト ですか。なるほどねぇ」

あれ? ということは……。
「でも、先生、『幸福学シンポジウム』に出られるからには、このテーマに強い関心がおありだったのでは?」

 ユウの言葉に教授は首を振った。
「特にないが」
「え? だったらどうして……」

「日本とキョウトにはまた来たかったんでね。ウキョウとも久しぶりに逢えたし」
「逢えたしって、メインの目的は、ま、まさか、グルメと和菓子の食べ競べ……」
「何がいけないのかね。私は自分のしたいことは、はっきりわかっているのだよ。すくなくとも今ではね」

 そうやって話しているうちに、学生崩れと思われる青年が入ってきてグランドピアノの前に座り、憂いに満ちたワルツを弾きだした。

「おや、懐かしい曲を……まさか日本で聴く事になろうとは」
教授は、グラスを揺らしながら言った。

「はじめて聴きました。誰のなんて曲ですか?」
ユウが問うと「もの知らずな君らしいね」と口には出さないけれど明らかに語っている目つきで教授はちらっとユウを見た。

「アルメニアの作曲家ババジャニアンの『エレジー』というのだよ」
知る訳ないでしょう、そんなマニアックな。ユウは口の中でもぐもぐと弁解した。

「アルメニア……ですか。旧ソ連の国でしたっけ」
「ノアの方舟が辿りついたと言われるアララト山や、世界で最初にキリスト教を国教にしたことを誇りにしている古い伝統のある民族だが、迫害の歴史があってね。コーカサスには常に紛争があったから。今でも民族の六割は国外に避難したままだ。ソ連から独立した後も戦争に対する制裁がつづいたままで経済的に先行きが見えないので帰国が進まない悲劇の民族なんだよ」

 へえ。コーカサスか。ケフィアの故郷ってことぐらいしか知らないなあ。迫害されていた民族だなんて知らなかったな。
「じゃあ、スイスにもたくさんいるんですか?」
「ロシアやアメリカに較べたら、大した数はいないよ。スイスにいる日本人の10分の1ぐらいだろう。もっともスイス国籍を取得したアルメニア人を入れるともっと多いだろうがね」

「勉強になります。そういう民族だから、こういう悲しいトーンになるんでしょうかね。でも、美しい曲ですね。スイスにいるアルメニア人ですか。創作のネタになりそう。少し調べてみようかなあ」

 教授は「くだらない」と言いたげに、いつもの皮肉に満ちた目つきでユウを一瞥すると、黙ってウィスキーグラスを傾けた。


(初出:2016年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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作中に出てきたババジャニアンの「エレジー」はこんな曲です。


"ELEGY" - ARNO BABADJANIAN - A. NERSISSIAN /1995)
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Posted by 八少女 夕

【小説】グラスを傾けながら 〜 彼と彼女の幸福論

scriviamo!


scriviamo!の第十二弾です。

大海彩洋さんは、『奇跡を売る店』シリーズの番外編で参加してくださいました。ありがとうございます!


大海彩洋さんの書いてくださった小説『しあわせについて~懺悔の値打ちもない~』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。私と同年代(プラスマイナス一歳ぐらいらしいですね)かつ、ずっと昔から書いていた、途中ブランクがあったというところまでとても似ているんですが、書く内容は「どうしてここまで違う」というものに。たぶん人生の重みと真剣さの違いが作品に出るんでしょうね。こればかりは一朝一夕では追いつけませんし、そんな野望も持っていません。無理無理。

『奇跡を売る店』は「真シリーズ」の別バージョンかつエッセイ「巨石紀行」でもおなじみの天然石の知識を存分に生かされた作品群です。今回は、主人公が勤めている京都のオカマショウパブ『ヴィーナスの溜息』を舞台に、あちらでのおなじみのキャラのみなさんが庚申講にひっかけた懺悔大会(?)と『幸福学』シンポジウムについて語っているのですが、そこにある男性の人生が語られ、うちの毎度食べて飲んでいるだけの二人も登場させていただきました。

この盛りだくさんな作品に、さらにうちの66666Hit記念の企画、お題の単語6個以上を使うという課題にまで挑戦してくださっていて、なんと35ワードコンプリートです。すごっ。本当にありがとうございます。

で、感心している場合ではなく。いやあ、もう慣れましたけれど、今年のscriviamo!のお約束のごとく涙目級超難解課題。ええ、こちらも本当に難しい。

今回は、うちの「生理学教授クリストフ・ヒルシュベルガー&その秘書ヤオトメ・ユウ」を京都にご招待くださりたくさんご馳走してくださったので、もう、そのままこの二人を出すことにしました。そして、彩洋さんの物語の中で語られた「しあわせについて」&「人生の選択」などで真面目にリターン(したつもり)。そして、二つの一見全く関係のない話を、接点もほとんどなく重ねてみました。同じテーマでも今度もやっぱり「私が書くとなぜこうなる」。ううう、彩洋さん、ごめんなさい。今ひとつハートフルラストに落とせないのは、もしかして私の人生観って……。


【参考】この二人のでてくる作品群です。あ、ヤオトメ・ユウは私とは別人キャラです、念のため。
教授の羨む優雅な午後
ヨコハマの奇妙な午後
パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして
君を知ろう、日本を知ろう


「scriviamo! 2016」について
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グラスを傾けながら 〜 彼と彼女の幸福論 
——Special thanks to Oomi Sayo san



 いつも後にきっちりと結わえている髪を下ろした彼女の姿は柔らかで、研究室で見るよりずっと年若く見せた。黒い髪に、夜空を思わせる黒い瞳。アルミネは、話す時に少し斜め前を見るように伏し目になり、悲しそうに微笑んだ。

 彼は研究室では一番早く出勤するので、彼女が泣きながらファンデーションを塗っているのを見てしまった。目の周りの青あざ。研究室のすぐ側にある薬局ではそれを隠せるほどの濃いファンデーションを売っている。誰にも言わずに堪えている彼女が心配だった。

 アルミネは、主任教授の秘書だった。若い研究員である彼は、雑用を彼女と一緒にする機会が多く、彼女がアルメニア人であることを知っていた。といっても彼女自身がアルメニアから来たわけでなく、全アルメニア人の六割を占めると言われている「ディアスポラ」つまり迫害を避けて逃げだしてきた国外アルメニア人の出身だった。

 生まれた時からスイスに住んでいるので完璧なスイスドイツ語を話すが、美人が多く天才も多いと言うアルメニア評にふさわしく、美しく賢い、そして優しく穏やかな性格で、彼は好意を持っていた。と言っても、彼女にはパートナーがいることを知っていたので、口説くことはなかったが。

 その日は主任教授に頼まれた資料作成に手間取り、研究室を出るのは二人が最後だったので、彼は断られると予想しながらもアルミネを食事に誘った。けれど彼女は言った。
「ご一緒しようかしら。まっすぐ帰っても、今日は誰もいないし」

 食事をしながら、彼は朝はからずも見てしまった光景について謝った。すると彼女は、伏し目で笑いながら、夫に殴られたことを白状した。

「君が助けを必要とするなら、いつでも役に立ちたい」
彼の言葉に、彼女は首を振った。
「ありがとうございます。でも、いいんです。彼は、手が早いだけ。怒りが収まったら、きっとまた普通の日常に戻れると思います」

 他の友人や家族のバックアップがあるのかと訊くと、彼女は首を振った。彼女が恋に落ちたのはトルコ人だった。不倶戴天の敵といっていい民族の男との恋が、祝福されるはずはなかった。
「友人も家族も失って、彼といるしかいないんです」

「わからないな。君たちの聖なるアララト山を国境の向こうへと持っていったのは彼ではないし、例の大虐殺も彼がしたことではない。でも、痣がつくほど君を殴ったのは彼だろう? 君は、そんな男と幸せになれるのかい。家族にアルメニア共同体に戻れと言うんじゃない。ただ、君自身を大切にしてほしいんだ」

 アルミネは、優しい黒い瞳を少し潤ませて見つめた。
「アルメニアびとは悲しい民族なんです。たぶん、私もその運命から逃れられないんだと思います。そう思いませんか?」

「民族の問題と君の幸せは関係ないだろう? 君は、スイスで育った。スイスの教育を受けて、スイスのものの考え方を常としているはずだ」

「ええ。わかっています。頭では。両親が正しかったとは思いません。私は敵と恋に落ちたのではなく、ひとりの人間と恋愛をしたのだと今でも思っています。でも、私は、アルメニア人なの。頭では理路整然と問題に立ち向かうべきと思うのに、感情が我々は虐げられることに慣れているとため息をついているの。彼と一緒になって、家族と切り離されてから、それをずっと強く感じるようになったんです」


 食事の後に一緒に入った店では、ピアノ弾きが物悲しい曲を静かに弾いていた。それを耳にして彼女は、ひとすじ涙をこぼした。
「どうしたんだ?」
「この曲……アルメニア人の作曲家によるものなんです」
「……なんて言うんだい?」
「アルノ・ババジャニアンの『エレジー』です。ね、やっぱりそうでしょう? 私たちは悲しい民族なんです」

 彼は彼女をフロアに誘い、静かに踊った。僕が君を守ってあげたい、その言葉を言うべきか戸惑っていた。すぐにナイフを持ち出すような、導火線の短い異国の男と争ってでも、この女性の人生を受け止めるべきだろうかと。研究者としての未来に影を落とすことになるかもしれないとも思った。

 もし、この夜が最後になるとわかっていたら、彼はそんな風に躊躇しなかっただろう。彼女は二度と研究室に来ることはなかった。プレパラートに落とす一滴の薬が、細胞を一瞬で無に帰してしまうように、その夜ひとりの女性がいとも簡単に二度と目覚めぬ眠りについた。

 前の日に受けた暴力の影響が、翌晩にあらわれたのか。それとも、トルコ人は二晩続けて彼女を虐げたのか。他の男と食事に行ったことが、彼女に災いしたのか。それとも、彼が希望を与えなかったから、彼女の心が民族共通の悲しみに堪えられなかったのだろうか。

 彼は警察に呼ばれ、彼女から聞いた話を供述した。その間にトルコ人は逃げて、主任教授と彼女の両親が彼女の弔いと、その後の後始末を済ませた。それだけだった。新しい秘書が来て、日常が再開された。トルコ人が捕まったかどうかは、彼には知らされないままだった。

 アルミネの憂いに満ちた美しい幻影は、しばらく彼を苦しめた。だが、それもずいぶん昔のことになった。
 
* * *


「君がこんな洒落た店を知っているとは驚いたね」
クリストフ・ヒルシュベルガー教授は、落ち着いた店内を見回した。

「お褒めいただきありがとうございます。東京には昔住んでいましたからね。洒落たバーのひとつや二つ……って言いたいところですが、実は、適当に入っただけで前から知っていたわけではないんです」

 黒曜石で出来た壁には、星に見えるようにたくさんの小さな電球が埋め込まれていた。カウンターは、客たちの静かな語らいを邪魔しないように低い位置から電灯が照らしていた。

「そうか。たまたまでも、これだけ美味しいつまみの出てくるバーにあたるというのは、君がよほどラッキーなのか、それとも日本のグルメのレベルが高いからなのか」
「おそらく後者でしょう。でも、先生。京都であれだけ食べて、さらに新幹線でも駅弁三つの食べ競べをしたのに、まだそんなにおつまみ頼むんですか。よくお腹壊しませんね」

 ユウはつくづく呆れて、「トロトロ煮込んだビーフシチュー」を嬉々としてつつく教授に白い視線を浴びせたが、彼は全く意に介さなかった。

「ところで、先生。京都の出雲先生とのお話でおっしゃっていた『蚤の市で買った偽物を掘り出し物と信じていること』の件ですけれど、それって本当に幸福なんですか?」
「死ぬまで氣がつかなければね。たいていの人間は、薄々それがまがい物だと氣がついてしまう。それでも払った大金のことを考えると手放せないものなのだよ」

 ユウがそうかなと思って考えていると、教授はバーテンダーに合図して響17年をお替わりした。
「ひとつ例を挙げよう。往きの飛行機で一緒になってしまった、あのアメリカ人のご婦人はどうだね」

 ユウは、腹立たしい記憶を呼び起こされて、教授をひと睨みした。

 三人がけの一番奥に座っていたのは、同じシンポジウムに参加するためにサンフランシスコから来たという女性で、経済学を教える夫は大統領の顧問、本人は料理番組を持つ傍ら生活提案の著作に励み、下の女の子はこども美人コンテストの入賞者、上の子どもはスイスの寄宿学校に入っているという経歴をまくしたてた。

「日本に行く前に、息子に逢ってきたんですの。せっかくなので、半日でしたけれどサン・モリッツでスキーもしてきましたのよ」

 もしかして、これは世間話ではなくて自慢かとユウが訝りはじめた時には、教授は勝手に会話を中断して寝てしまったので、ユウはその女性の話をひとりでひたすら聴く羽目になったのだ。

 そのくせ食事のサービスが始まったらすぐに起きて。ユウがそれを思い出してムッとしていることに全くひるんだ氣配もなく教授は言った。
「フラウ・ヤオトメ。私は君の返事を待っているのだが」
なんなのよ、この人は。

「はあ。アメリカの典型的な勝ち組ですかね。シンポジウムでは『勝ち取る幸せ』ってテーマで最新の著作のアピールしていましたっけ」
「周りの失笑にも臆しないところは、大したものだったがね」

 忙しい日常の合間に、華やかなパーティに顔をだし、ジムに行って汗を流し、精神分析にも通う。新しいスポーツに挑戦するのも好きで、休暇の度にカヤックやロッククライミング、クロスカントリーなどを楽しむと語っていた。彼女は自分は「幸福の塊」であるとユウに断言した。

「そうですか。ご本人は幸せだとおっしゃっていましたから、それがまがい物だとは思っていないんじゃないですか?」
「そうかね。夫は三人目の愛人とのスキャンダルで裁判沙汰になっているし、本人の若いツバメは彼女の会社の経理を誤摩化して高飛び。息子をスイスの寄宿学校に送り込んだのは、少年刑務所送りになるのを避けるための苦肉の策らしいがね。その愛息が寄宿舎の裏庭に大麻を植えて騒ぎになったことも付け加えておこうかね」

「先生、どこからそんな下世話なゴシップを仕入れているんですか」
「言いたくてしかたのない人間というのは、どこにでもいるものだ。幸福に見えるものを他人が持っているのを許せずに、メッキを剥がしたがる輩もね。動じずに、己が幸福を信じ続けるのもかなり精神力が必要だな」

 ユウはちらりと教授を見た。
「先生は、動じないんですね」
「この私がないものをあると思い込むとでも?」

 ないと断言されちゃ……。
「じゃあ、先生は幸福でグリュックリッヒ はないのですか?」
グリュック で人生を計ってどうする。私は『幸福であるグリュックリッヒ 』ではなく『満足しているツーフリーデン 』という言葉を遣うのだよ」

 なるほどね。言葉遊びみたいだけれど、いかにもこの人らしい。

「私の意見では、手に入れられないものを追い続けることは幸せとも充足とも相反している。ところで、君はアンニをどう思うかね」

 アンニというのは、ヒルシュベルガー教授の姉だ。教授と同じ屋根の下の別住宅に住んでいて、ユウがチューリヒに泊らざるを得なくなる時は、いつもアンニの客間に泊めてもらっている。物怖じしない豪快な性格で、泣く子も黙る教授を洟垂れ小僧扱いする人間は、ユウの知る限りこの人ひとりだ。

 教授よりもひと回り以上歳上で、若くして両親をなくした教授の親代わりだったらしい。生涯独身になったのは本人の主義やめぐり合わせもあるかもしれないが、両親も財産もない弟が研究者として独り立ちするまで身を粉にして働き支えていたのも大きいように思えた。そのことが引け目となって、弟もまた独身を貫いているのかは、ユウには判断しかねたが。

「そうですね。彼女は、無駄に何かを追い求めたりしているようには見えません」
「私もそう思うよ。彼女は、例のアメリカ女性がまくしたてていたものは何一つ持っていない。だが、実に満ち足りているのだ。彼女にも悔いや手に入れたくても入れられなかったものはあるだろう。だが、それを思って眉間に皺を寄せるよりは、現在持っているものを実に愉快に楽しむことが出来る。彼女のあり方は、私には理想的に思えるね」

幸福グリュック より充足ツーフリーデンハイト ですか。なるほどねぇ」

あれ? ということは……。
「でも、先生、『幸福学シンポジウム』に出られるからには、このテーマに強い関心がおありだったのでは?」

 ユウの言葉に教授は首を振った。
「特にないが」
「え? だったらどうして……」

「日本とキョウトにはまた来たかったんでね。ウキョウとも久しぶりに逢えたし」
「逢えたしって、メインの目的は、ま、まさか、グルメと和菓子の食べ競べ……」
「何がいけないのかね。私は自分のしたいことは、はっきりわかっているのだよ。すくなくとも今ではね」

 そうやって話しているうちに、学生崩れと思われる青年が入ってきてグランドピアノの前に座り、憂いに満ちたワルツを弾きだした。

「おや、懐かしい曲を……まさか日本で聴く事になろうとは」
教授は、グラスを揺らしながら言った。

「はじめて聴きました。誰のなんて曲ですか?」
ユウが問うと「もの知らずな君らしいね」と口には出さないけれど明らかに語っている目つきで教授はちらっとユウを見た。

「アルメニアの作曲家ババジャニアンの『エレジー』というのだよ」
知る訳ないでしょう、そんなマニアックな。ユウは口の中でもぐもぐと弁解した。

「アルメニア……ですか。旧ソ連の国でしたっけ」
「ノアの方舟が辿りついたと言われるアララト山や、世界で最初にキリスト教を国教にしたことを誇りにしている古い伝統のある民族だが、迫害の歴史があってね。コーカサスには常に紛争があったから。今でも民族の六割は国外に避難したままだ。ソ連から独立した後も戦争に対する制裁がつづいたままで経済的に先行きが見えないので帰国が進まない悲劇の民族なんだよ」

 へえ。コーカサスか。ケフィアの故郷ってことぐらいしか知らないなあ。迫害されていた民族だなんて知らなかったな。
「じゃあ、スイスにもたくさんいるんですか?」
「ロシアやアメリカに較べたら、大した数はいないよ。スイスにいる日本人の10分の1ぐらいだろう。もっともスイス国籍を取得したアルメニア人を入れるともっと多いだろうがね」

「勉強になります。そういう民族だから、こういう悲しいトーンになるんでしょうかね。でも、美しい曲ですね。スイスにいるアルメニア人ですか。創作のネタになりそう。少し調べてみようかなあ」

 教授は「くだらない」と言いたげに、いつもの皮肉に満ちた目つきでユウを一瞥すると、黙ってウィスキーグラスを傾けた。


(初出:2016年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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作中に出てきたババジャニアンの「エレジー」はこんな曲です。


"ELEGY" - ARNO BABADJANIAN - A. NERSISSIAN /1995)
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Posted by 八少女 夕

敬称問題

どうでもいいことですが、ブログめぐりをしていて、繰り返し「う〜む」と思うことがあるので、ここで書いておこうかと思います。

それは敬称問題です。ブログの記事で現実に存在する人、もしくは作品のキャラクターについて書く時に敬称はつけるのか付けないのか、必ず一度はぶつかる問題だと思うのですよね。

他の方がどうしていようと、それは構わないのです。単に自分はどうしているか、それはなぜかということを書いておこうと思います。

基本的に私はいちいち敬称を付けないというスタンスをとっています。

つけてもつけなくてもいいんですけれど、統一したいのです。で、つけると奇妙なケースが出てくるので、だったらまとめてつけない方がいいのかなと。

たとえば、芸能人のことを書く時に「さんづけする」とルールを決めたとします。では「マドンナさん」「ハンフリー・ボガードさん」と書くのか。それは奇妙ですよね。だから日本の芸能人について書く時にも、失礼かもしれませんが敬称はつけないことにしているのです。

「あたりまえじゃない」と思われた方、「先生問題」はどうですか。

創作ブログでは、作家の名前に「先生」をつける方がとても多いのです。同じ小説(マンガでも詩作でもなんでもいいですが)を書く者として、偉大なるプロに対する敬意をこめての敬称だと思いますが、私はこれにひっかかるのです。だから、自分ではそれはやりません。

なぜか。やはり統一すると奇妙な事例が出てくるからです。「森鴎外先生」「葛飾北斎先生」「シェイクスピア先生」「紫式部先生」「アガサ・クリスティ先生」って変じゃありませんか。そして、現在ご存命だから先生をつけるというなら、これまで「水木しげる先生」と書いていた記事を、新しい記事からは「水木しげる」と書くようになるのでしょうか。それまた変だと思うのです。

だから、私はこうしています。

自分が実際に習った本当の意味での師に対して、または、その世界でひとかどの人物に対して「先生」と敬称を付けるのは、お目にかかっている時と、私信を送る時、それに共通の弟子仲間でその先生の話題をするときだけです。たとえば大学の恩師や、プロの演奏家などです。これはブログとは関係ないことです。

そういう個人的に面識のある方をブログで一般の人に紹介する時は「さん」をつけます。

個人的に面識のない方、一般的な有名人を一般論として語る時には呼び捨てにします。文章に敬意を込めていれば、それは失礼なことだとは思いません。私が心酔し誰よりも尊敬する作家ヘルマン・ヘッセであっても、私は「ヘッセは……」と呼び捨てています。であれば、たとえば「又吉先生」と書く必要はないですよね。読んだことがないから尊敬すべき作家かどうかもわかりませんし。

ブログのお友だちのオリジナルキャラクターの名前は、実は、難しい問題です。

ブログのお友だちご本人に対しては、コメントやメッセージで呼びかけることも多々ありますが、その時は本名でなくても「さん」づけです。ブログの記事で取り上げる時も、「さん」づけです。「様」を使うと、親しくなってからハマりますので、最初から馴れ馴れしく「さん」で統一させていただくことにしました。

オリジナルキャラクターは、その方にとってはお子さんと同じように大切な存在ですが、基本的には「敬意を持って呼び捨てにさせていただきます」と宣言して呼び捨てにします。(同様にプロの作品のキャラクター、たとえば「アシタカ」とか「ハン・ソロ」だって呼び捨てです)

でも、呼び捨てが難しい場合もあるんですよ。ご自分のキャラクターに対して敬称で呼んでいらっしゃる方もあって、そうなるとそのキャラクターを呼び捨てするのは氣が引ける。氣を悪くされるんじゃないかと思うからです。

で、ここで宣言させていただきます。うちのキャラクターは、誰であっても呼び捨てで構いません。初コメントだろうがなんだろうが関係ないです。まあ、うちは呼び捨てにしやすいと思います。基本的に外国人キャラが多いので。

自分でも氣をつけていることがあります。たまに忘れてしまうので統一されていないかもしれませんが、作品紹介記事(あらすじと登場人物紹介を除く)やコメント欄などでは、キャラクターに敬称をできる限り付けないようにしているのです。自キャラに対して「蝶子さん」などというのははじめからやっていないのですが、たとえば「ドンナ・アントニア」などという記述もしないようにしています。これは「アントニア」と書くべきだと思っているんです。「レオポルド国王陛下」などど作者が書くと、コメントする方も「ここは陛下ってつけなくちゃだめかも」と迷うじゃないですか。それでです。(あ、でも「瑠璃媛」はけっこうやっちゃっている。ダメじゃん)

あ、私は敬称をつけないようにしていると書いていますが、愛称やあだ名は別です。たとえば「カルちゃん」には「ちゃん」がついていますが、これは尊敬してついているのではなくて単なる親しみの現れです。みなさんには「カルロス」と呼び捨てにしていただいて構いませんし、「カルちゃん」でももちろん嬉しいです。他のキャラも冗談まじりで「閣下」でもいいですし、要するになんでもいいのです。単純に、私のところのキャラクターに対しては「失礼があってはならない」などとは一切お考えにならないように、という話でした。
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Posted by 八少女 夕

美術と自然とを同時に楽しむ午後

「黄金の枷とポルトの世界」カテゴリーの記事です。オリジナル小説「Infante 323 黄金の枷」にはモデルとなったポルトの街が時々登場しますが、フィクションの部分と現実との混同を避けるためにあくまでも「Pの街」として書いています。そういうわけで、本文中には挿入できなかったポルトの写真をこのカテゴリーにてお見せしています。

本編はストーリーも終わりに近づいているので、楽しく観光しているシーンではなくなっていますが、今日は執事メネゼスと当主アルフォンソが読んでいた報告書にあった「セラルヴェス現代美術庭園」を少しだけ紹介しましょう。

セラルヴェス現代美術庭園 エントランス

ポルトに限らず、私たちがある程度有名な街を訪れるときは、乗降自由なタイプの二階建て観光バスで街をめぐります。以前はそういうのは恥ずかしいと勝手に思っていて、意地で公共バスや電車に乗り地図を片手にめぐっていたのですが、はっきりいってそれは無駄です。

ある程度大きい街になると観光名所はそれなりに分散していますし、探して歩くだけで疲れてしまい、さらに下調べをしなくてはいけない上、調べていない場所には行くチャンスすらなくなってしまいます。その点、乗降自由なタイプの二階建て観光バスには各国後の解説がついているので、まず乗って街を一巡りし、街の地理と歴史や見所について知ることができます。それから、降りて詳しく見たいところは二周目以降に訪れればいいのです。足を棒にする必要もなくとても効率よく街の果てまでいけるのです。

セラルヴェス現代美術庭園」は、そうやって行くことのできた場所のひとつで、旧市街からは少し離れています。それもそのはず、18ヘクタールもある広大な敷地に現代アートを展示する美術館と、広大な庭園の両方が解放されています。あ、入場料はかかりますが。

上の写真の大きなシャベルのオブジェが外からも見えていて、とても氣になるので行ってきました。

セラルヴェス現代美術庭園 美術館内

実をいうと、私も連れ合いも、あまり現代美術には強い関心がなくて「へえ〜」という感じで見るだけだったのですが、ものすごく広い空間にぽつんと置かれたオブジェの数々、きっと好きな人が見たらたまらないんじゃないかと思います。

明るい空間、窓の外に見える美しい自然の光景、喧噪を離れてアートに浸る静かな時間。あまり急いだ日程ではなくてのんびり滞在する方、もしくは何度目かのポルトで少し変わった時間話過ごしたい方におすすめなスポットです。

私たちは、実は来たる三月にまたポルトへ行く予定なのですが、またここヘ行って今度はランチでもしてこようかなと思っています。庭園を望むレストランでビュッフェが食べられるそうなんですよ。前回は庭園内のカフェでケーキを食べたんですけれど。

セラルヴェス現代美術庭園 庭園

さて、現代美術に全く興味のない方にもおすすめなのは、この庭園です。美術館とは別に庭園だけに入場することもできます。これが広くて素敵なのです。

三月でしたから薔薇園などは楽しめませんでしたが、森林のようなパートや、池の周り、藤や綺麗な草花が咲き乱れていて、スイスより一足早い春を十分に楽しめました。もっと暖かい季節にはさらに素敵だと思います。

私の妄想では、抜け出してきた23とマイアは例によって自転車の二人乗りでここまでやってきて、広々とした庭園を散歩していました。

この記事を読んで「Infante 323 黄金の枷」が読みたくなった方は……

「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物




【次回予告】「Infante 323 黄金の枷」 (23)遺言

「23。お前とアントニアは変なところがそっくりだ。人のことばかり慮って、自分の幸福を簡単にゴミ箱に放り込もうとする」

 23は視線を落とした。
「こんな風に生まれてきた俺には、選択の余地がない。簡単にはいかないんだ。わかっているだろう」

 マイアはやっぱり席を外せばよかったと思った。聞きたくない。ドン・アルフォンソはマイアの動揺はもちろん、23の言葉にも動じた様子はなかった。


マイアはいつものように掃除のついでに23にコーヒーを淹れてもらっていましたが、そこに当主アルフォンソが訪ねてきます。マイアは成り行きから二人の会話を聞くことになってしまいます。

来月末に発表予定です。お楽しみに!
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Posted by 八少女 夕

【小説】Infante 323 黄金の枷(22)推定相続人

久しぶりの「Infante 323 黄金の枷」です。今回の話の予告、年末の押し迫っている時に置いたんで、誰からもツッコミは入りませんでしたが、以前から数名の方から言われていた《監視人たち》はちゃんと仕事しているのか、のお話です。

前回、いきなり当主の健康問題がクローズアップされましたけれど、こう繋がるために必要だったのでした。

今回は、主役の二人は出てきません。たまには、ぐるぐる抜きで。


月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「Infante 323 黄金の枷」「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Infante 323 黄金の枷(22)推定相続人

 ペドロ・ソアレスは緊張の面持ちでドラガォンの館の書斎に入った。迎え入れたアントニオ・メネゼスは彼の従兄弟で子供の頃から親しんでいた。《監視人たち》の家系の中でも、代々中枢組織に加わるメンバーを生み出している名門一族の出身者として、ペドロも若いころから黒服のメンバーに加わってきた。そのペドロですら、ドラガォンの館に来る時には少々緊張した。メネゼスは館の執事であるだけでなく、《監視人たち》の中枢組織の上に君臨するドラガォンの当主ドン・アルフォンソとの橋渡しをする特別な存在だった。

「それで、ペドロ?」
「ちょっと、氣になるケースがあるので耳に入れておいた方がいいと思って。これだ」

 ペドロはアタッシュケースから書類の束を取り出して従兄弟に手渡した。メネゼスは不審な顔で紙の束の上の縁を見た。一枚だけ「レベル3」を意味するオレンジに染まっているが後は全て白かった。ドラガォンの館への報告義務があるのは黄色い縁のレベル2からだ。

「この一枚を除いて全てレベル1の報告だな。これが?」
「すべて一人の娘の報告だが、氣になる点がいくつかあってな」
メネゼスは一番上の書類を見て、名前を確認し、片眉を上げた。マイア・フェレイラ。
「氣になる点とは?」

「まず、その娘はここで働いている。それにしては目撃される頻度が多いんだ」
「休暇の他に、奥様の用事等でしばしば外出させている。外で見かけても不思議はない」

「二点め。この娘は、ある男とよく会っている」
「なんだと?」

「三つめ。これが最後でもっとも奇妙な点だが、その男は何人かの《監視人たち》の報告でやはり《星のある子供たち》であることがわかっているが、該当する人物が我々のデータに登録されていないのだ」

 メネゼスは真剣な面持ちで書類を繰り、その人物の外見描写を見つけて自分の目を疑った。
「まさか! そんなはずは……」
「アントニオ?」

 吹き出す汗を懐から取り出したハンカチで拭くと、息を整えてからメネゼスは黒服の従兄弟に言った。
「報告をありがとう、ペドロ。私からドン・アルフォンソに話をしよう。こちらから連絡があるまで、これまで通り監視と報告を頼む」

 ペドロは訝しげに頷いて、それから頭を一つ下げて退出した。

 メネゼスは再び、書類を見た。疑う余地はない。この特徴のある風貌はセニョール323だ。だが、どうやって。メネゼスはドン・アルフォンソのショックを考えて、まずドンナ・マヌエラに話すことも考えたが、思い直して当主の部屋に向かった。

「どうした。変な顔をしているが」

 メネゼスがいつも感心することに、ドン・アルフォンソはひと目でこちらの心理状態を見抜いてしまう。メネゼスは執事として自分の表情や動揺を極力見せないように訓練し、多くの人間からは感情を持たない人間と評されていることを誇りにすら思っていたが、この当主だけには考えを隠すことができなかった。

「ご報告しなくてはならないことがあります。もしかするとあなたの心臓に負担を掛けてしまうようなことなのですが、メウ・セニョール」
「そうか。言ってみろ」

 メネゼスはさきほどペドロ・ソアレスに受けた報告をかいつまんで話した。
「外に出ていると? どうやって」
「わかりません。マイアと一緒に出ているわけでないのは間違いありません」

 メネゼスが驚いたことに、彼の主人は大してショックを受けた様子を見せなかった。
「この館には、そもそも秘密の脱出口がいくらでもあるからな。あいつの居住区にあってもおかしくない」
わずかにがっかりしているように見えた。

「マイアに外出する用事を言いつけられるのはたいてい奥様なのです。ご存知なのかもしれません。どういたしましょうか。表立って出入り口を塞ぐとなると、セニョール323のご機嫌を損ねて面倒なことになる可能性もありますが」

「あいつはマイアと一緒に何かを企んでいるのか? 例えば、誰かと接触して逃亡を画策しているような兆候があるのか」
紫がかった顔が、一層疲れて見えた。

「報告されている限り、彼らは特に誰とも接触をしていません。というよりも、観光客が行くような所に行って、街を見学しているようなのです」

 彼はそれを聞いて意外そうに眉を上げた。
「それから?」
「カフェに入ったり、安食堂で食事をしたり……」

「……それは、つまり、デートみたいなものか?」
「そう申し上げても構わないでしょう」

 メネゼスは報告書を当主に渡した。彼はしばらく読んでいたが、その内容に苦笑した。大聖堂、ドン・ルイス一世橋、カステル・デ・ケージョ、ボルサ宮殿、サン・フランシスコ教会、ワイン倉庫街、セラルヴェス現代美術庭園。観光案内書を読んでいるみたいだ。

「ほっておけ。母にも何も言わなくていい。いつも通り《監視人たち》が見ていればそれでいい」
「メウ・セニョール。いいのですか」

「なあ、メネゼス。23が外の世界に興味を持つのはいいことだ。いきなり外へ出るように強制されてからでは遅すぎる。そうだろう」

 執事は主人の顔をじっと見つめた。ドン・アルフォンソは覚悟しているのだと思った。心臓発作の間隔はどんどん狭まっている。そうでなくても彼の脆い心臓は彼に結婚をすることも世継ぎを作ることも許さないだろう。

 もしドン・アルフォンソが亡くなれば、自動的に23は新しいドン・アルフォンソとしてメネゼスの主人になる。そうでないのは、ドン・アルフォンソの存命中に23か24により男子が生まれ、ドン・アルフォンソの長男として届けられた場合だけだ。

 24はライサ・モタも含めてすでに三人の女を自由にしていた。妊娠の兆候があったのは二人だったがどちらの女も子供を産むことはなかった。ライサは流産だったが、もう一人の娘は子供を道連れに命を絶った。

 最初に彼が手を出した娘は食事の時に逃げだそうとし、面目を失った24が放り出したので数日で逃れられた。が、それに懲りた彼は次に恋愛関係となった娘を居住区に閉じこめて格子の外に出さなくなった。召使いたちが入ってくる時には常に側にいて、助けを求められないようにした。

 死を選んだ娘の時には原因がうやむやになったが、流産の処置時に心を病んでいることが明らかになったライサの証言で、24が娘たちを彼のひどいサディズムの餌食にしていたことが明らかになった。ライサは肉体的にはすぐに回復したが、心的障害と使われていた薬物の副作用が残った。日常生活が営めるようになるまで、長い期間の治療が必要だった。

 ライサの件は、事前に防げたはずだと、館にいる多くの人間が考えていた。その罪悪感は彼らに重くのしかかっていた。それでも、ドラガォンには世継ぎの誕生が優先課題であるため、痛ましい結果が繰り返されるのを止めることができない。館の若い娘は短い間隔で入れ替わり、新しく入る娘たちには過去に起こったことが伏せられている。

 事情を知っている誰もが23が状況を変えてくれることを待っていた。だが、23は黙々と靴を作るだけでドラガォンの意志には無関心だった。閉じこめられ、脊椎後湾に対する手術もしてもらえず、抵抗を押さえつけられた彼はドラガォンを憎んでいるのだとメネゼスは思っていた。アルフォンソの方はもう少し楽観的に考えていたが、それでも23に協力的になるよう強制することは難しかった。

「23はずっと内に籠っていただろう。太陽からも顔を背けて、誰とも関わろうとせずに。《監視人たち》も俺たちも外に出て行こうとする者を止めることはできても、籠城している者を引きずり出すことはできない。あいつが自分の意志で出てきたのはいいことだ。あの娘が来て以来、23は変わってきている。家族以外のものと会話もできなかったのに、他の使用人たちとも口をきけるようになり、信頼関係を築きはじめている。あいつだけでなくドラガォンにとっても必要な変化だと思わないか」
「おっしゃる通りです」

 アルフォンソは椅子にはまった体を大儀そうに動かして立ち上がった。ゆっくりと窓辺に向かいD河の上を渡ってゆくカモメを目で追った。

「俺はね、メネゼス、23が失敗を怖れて開きたくても開けなかった扉を、あの突拍子もない娘が片っ端から開けているんだと思っているよ。母もそれがわかっているから黙っているのだろう」
「承知いたしました。では、仰せのままに」
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Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【キャラクター紹介】リナ・グレーディク

久しぶりのキャラクター紹介の記事です。発表済みの作品や、まだ発表していない作品のキャラクターをちょこちょこっと紹介して、作品に親しみを持ってもらおうかな、という姑息な企画の第三回目。

このシリーズでは最初の女性ですが、なぜこの娘からはじめる(笑)


【基本情報】
 作品群: 「リナ姉ちゃんのいた頃」シリーズ
 名前: リナ・グレーディク (Lina Gredig)
 居住地: スイス、カンポ・ルドゥンツ村 来日中は東京都目黒区にホームステイ
 年齢: 日本留学中は16から17歳、スイスに帰国後の話では今のところ19歳前後の設定

* * *


交換留学生として、一年間日本の高校に通ったスイス人。栗色のウェーブした髪。輝く灰緑色の瞳。すらりとした華奢な姿。黙っていればスタイル抜群の美少女。ただし、笑うと口が異様に大きくチェシャ猫のニヤニヤ笑いを彷彿とさせてしまいます。ド派手な洋服を好んで着用しています。

詳しくは明かされていませんが、どうやらかなりお金持ちのお嬢様の模様。名付け親がIMFの理事だという話がでてきたりしています。

また、強烈な性格且つ空氣は読まないマイペースで留学先の日本では行く先々で控えめな日本人たちをドン引きさせていました。

ホームステイ先で、もっぱら世話係にされていた中学生ミツこと遊佐三貴は、彼女と一年間暮らしたためにたいていのことでは驚かなくなりました。ロンドン在住の日本人東野恒樹もリナが遊びにくる度に振り回されています。

日本のスイーツが大好き。趣味は100円ショップめぐり。スイスに戻ってからは本格的なパン焼きなども習っています。ちなみにパンを焼く設定は、私八少女 夕がパンを焼きはじめるより前に設定していたので、リナの方が先輩。私よりもずっと上手ですね。

スイスと日本の異文化交流の架け橋になると勝手に使命感に燃えています。そして、山西左紀さんのところのコトリ&ヤキダマや、栗栖紗那さんのところの白鷺刹那というキャラとも勝手にお友だちのつもりでいます。(実際には刹那さんや蓮くんと紗那さん公認で友達なのは東野恒樹の方です。念のため)

ちなみに、私の中のこのリナのテーマはこの曲だったりします。ちょっと古いけれど、ラス・ケチャップスの「アセレへ」(笑)

Las Ketchup - The Ketchup Song (Asereje) (Spanglish Version) (Official Video)
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Tag : キャラクター紹介

Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記  葩ちる道

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


scriviamo!の第十一弾です。

TOM-Fさんは、大好評連載中の『花心一会』の最新作で参加してくださいました。ありがとうございます!


TOM-Fさんの書いてくださった小説『花心一会 第十三会 「その、花の香りに包まれて」』

TOM-Fさんは、時代物からローファンタジーまで様々なジャンルの小説を自在に書き分けられる創作ブロガーさんです。素人にもわかりやすく書いてくださいる天文の専門用語、専門家なのではないかと思うほど詳細なマシンの記述や、女の私が恥ずかしくなって逃げだすほどのファッション知識などにもいつも唸らせていただいていますが、何よりも敵わないなと思うのは完璧な女の子の描写でしょうか。あんな風に書いてもらったら、キャラの女の子たちは本望でしょう(ごめんよ、うちの子たち!)

さて、今回書いていただいたお話も、そういう素敵なヒロインのひとり、華道花心流の若き家元である彩花里が活躍するシリーズの最新作。いつもは他の相手の人生を静かに手助けしているヒロインもオブザーバーにならないでいる珍しい回ですが、うん、TOM-Fさんの書くストーリーのうち、「静の美しさ」が色濃く出ている素敵なストーリーでした。

って、のんきに感心している場合でなく、これに何を返せと……。今回のscriviamo! みなさん本当に容赦がないんですが、こちらも難問中の難問でした。

で、こうしました。TOM-Fさんが「梅」と「紀友則の和歌」書かれましたので、私は「桜」と「詠み人しらず」で。同時にTOM-Fさんのお話の中で使われていた花びら餅が「葩餅」と書かれるのに掛けて、さらに人間関係の設定を踏襲させていただきました。

そして、舞台は平安時代。この「安達春昌と桜」という組み合わせは、実は最初のscriviamo!でTOM-Fさんと競作させていただいた作品を意識して書いています。

しかし。同じモチーフでもTOM-Fさんの作品は、あんなにハートフルで暖かいのに、私が書くとオカルトみたいになってしまうのはなぜ?


【参考】
【断片小説】樋水の媛巫女
【掌編小説】樋水龍神縁起 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」
【掌編小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 - 秘め蓮

「scriviamo! 2016」について
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
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樋水龍神縁起 東国放浪記 
はなちる道
——Special thanks to TOM-F san


 春は近いとは言えまだ肌寒く、風が通り過ぎる度に、次郎は身を震わせた。振り返り馬上の主人を見やると、風に心を乱された様子もなく前方を見つめていた。

「春昌様、いいがなされましたか」
次郎は、主人の眉がわずかに顰められたのを見て訊いた。

「この時期に花が?」
春昌は、ようやく見えてきた里の方を見ているようだった。もう少し進むと歩いている次郎にも、その里の様子が見えてきた。確かにその里は、白い花が満開に咲いているように見えた。だが、今朝後にした里ではようやく梅がほころびはじめた寒さなのだ。

「山間の谷にありますから、霜の華でございましょうか。それにしては華やかに見えますが」

 次郎は、時期外れに花が咲いていようと、実のところ構わなかった。かつて住んでいた出雲の国では、仕えていた御覡である瑠璃媛の類いまれな霊力により、禍々しいものなどは近くに寄ることもできなかったし、故あって現在仕えている安達春昌もかつては右大臣の覚えもめでたかった陰陽師で、旅の間に現れた奇妙な邪神はことごとく跳ね返していた。

 侍者としての次郎の心配の種は、もっと他のところにあった。今夜の宿は確保できるのか、食べるものを得ることはできるのか。心細い旅だった。

 安達春昌は、慢心から樋水の媛巫女を盗み出して死なせた。その贖罪のために、陰陽頭の後継者とも囁かれた未来を捨てて、東国を彷徨っていた。媛巫女の遺言により、次郎はその春昌に付き添い、一度も出たことのない出雲の国を離れて、寂れた山道を共に歩いているのだった。

 里へ降りて近づいてみたところ、二人とも見えていた満開の花が、現実うつつのものではないことを知った。道の両脇に二十本ほどの桜の樹が立ち並んでいるのだが、その枝には固く閉じた花芽があるばかりで、春はまだ遠いと訴えかけているようだった。

 だが、その枝の至る所から、満開に咲き誇る桜の氣が満ちあふれ、存在していない白いはなびら の吹雪が終わることもなく降り注いでいる。尽きることなく降り注ぐその氣で、道は馬の足の半ばが埋まるほどに霞んでいた。

 次郎には生まれながらにして巷の人びとには見えないものを見る力があった。とはいえ、主ほどはっきりと見る能力がある訳ではない。さらに、その見えているものが何であるかを知るための知識も欠いていた。

「春昌様。これはどういうことなのでございましょう」
「わからぬ。だが、おそらくは……」

 馬上の主が答えかけたその時、後からやってきた馬の足踏みと、男の声が聞こえて二人は振り返った。

「なんということだ。黒や、なぜ進まぬ」
立派な狩衣を身に着けたその男を乗せた馬は、桜の並木の異様な様子に怯えてか、どうしてもその道を進もうとはしない。それどころか暴れるので、男は馬から落ちないように必至につかまらなくてはならなかった。

「あ、危のうございます」
次郎が脇にどいている間に、春昌は手印を組み、ほとんど聞こえないほどの小ささで何かを呟いた。公達の馬は、耳をぴくりと振るわせると暴れるのをやめて、春昌の馬の近くに寄って来た。

 春昌は、馬から下りて頭を下げた。頭上の男は、訝しげに二人を見て、それから口を開いた。
「もしや、お助けくださったのでしょうか。ここは何事もない普通の道に思えますが、何か禍々しきものがいるのでしょうか」

 春昌は頭を上げて、しっかりと男を見据えると口を開いた。
「禍々しいという訳ではございませぬ。けれども、馬の目にはまっすぐ歩けるようには見えぬのでございましょう。この道をお通りにならねばならぬ訳がおありでしょうか」

 男は、しばし口をつぐんだが、やがて頷いた。
「古き約束を果たしに参ったのです。危険があるとお考えですか。見れば、陰陽の心得があるようにお見受けいたす。それに賎しからぬご身分のようですが……」
春昌の色褪せてくたびれた狩衣に、首を傾げた。それから顔を見て何かを考えていたがはっとした。

「あなた様は、たしか陰陽寮にいらした……」
その言葉に、次郎は驚いて春昌の顔を見た。主人は特に慌てた様子でもなければ、懐かしそうな様子も見せなかった。

「ご明察の通り、陰陽寮におりました安達春昌でございます。二年前は兵衛少志でいらっしゃったお方ですね」
「やはりそうであられたか。私は土岐頼義と申し、今は兵衛尉従七位となりました。しばらくお見かけしないと思っておりましたが、いかがなさいましたか」

「二年前にお役目を辞し、このように彷徨の身と相成りました。訳はお尋ねくださいますな」
頼義は仔細が氣になってしかたないようだったが、春昌は口を閉ざすとしきりにもと来た道を振り返る公達の黒駒に手をやって落ち着かせた。

「春昌殿。あなたもこの馬と同じように、この先に進まぬ方がいいとお考えですか。ここは、父が郡司を務めている村、特に鬼神が出るとの話も聞きませぬし、かつて来た時には何の問題もなかったのですが」

 春昌は、じっと頼義の足元を見ていた。次郎ははっとした。桜の並木道から溢れ出てきている幻のはなびら が少しずつ頼義の黒駒の足元に集まりだしている。自分や春昌のところにはほとんど何も起こっていない。

 春昌は、頼義に言った。
「然り。この桜の怪異は、あなた様とご縁のあることのようですな。私がお守りしつつ、この道をご同行いたしましょう。もしお差し支えなければ、あなた様のおっしゃったお約束についてお話しいただけませんか」

「それはありがたい。ぜひお願いいたします。仔細は、喜んでお話ししましょう」
頼義が頷くと、春昌は道に向けて手印を組んだ。次郎には道にうずたかく積んでいた幻のはなびらが風に吹かれるように左右にわかれ、細い道ができたのが見えた。そのまま進む春昌に続き、左右に二頭の馬の手綱を持ち、次郎も続いた。

 並木道が終わって里に入る時に、次郎は後ろを振り返ったが、道は再びはなびらでおおわれ、さらに激しく花吹雪が舞っているのだった。彼は、この里から出ることはできるのだろうかと訝った。

 里の中は、特に変わったこともなく、幾人かの人びとが貴人である一行に軽く挨拶をした。頼義は、二人が今夜の宿を探していると聞き、「では、私がこれから行こうとしている家ヘ行きましょう」と誘った。それは里の一番奥にあり、他の民家からは少し離れていた。

「私がまだ元服したての頃でございます。この辺りに鷹狩りに参りまして、突然の嵐に襲われ里長の家で雨宿りをしたことがあるのです。年頃の娘が食事を運んできてくれたのですが、髪は長く色は白い、賎しい者の娘とはとうてい思えぬ美しさで、私はひと目で氣にいってしまったのですよ。衣を乾かしているうちに夜も更けたので泊る事になり、どうしてもその娘が思い出されてしかたないので呼び、秋の夜長に契りを結び交わしたのです」

 春昌は、ちらりと頼義を見た。都ですでに兵衛尉従七位となった前途ある若者が、若き頃に契った里の娘を今さら訪ねるのは少し珍しかった。

「見目麗しいだけではなく、優しき心映えの娘で、それから足繁く通うこととなりました。後のちまでもと誓い、いずれは屋敷に迎えようと思っていたのです。私は嫡子ですし、小さな里長の家に婿に入るという訳にはいきませんからね」
そういうと、頼義は少しだけ言葉を切った。春昌は黙って頷き、先を促した。

「けれど、まだその話がきちんとする前に、私は二十一歳になって、兵衛として京に上ることになったのです。今から六年ほど前のことです。いずれは父の後をついで大領になる身としては、断ることのできない大切なお役目でした。それを娘に告げたところ、一度も何かを願ったことのなかった娘が行かないでくれと泣いたのです。そこで私は、戻ってきたら必ず迎えにくるからと固く約束をしたのです。賎しい身分の娘とのことを反対していた父は、引き離せば忘れると思っていたようですが、京でも、思い出すのはあの娘のことばかり、想いの消えることはありませんでした。そして、私は都で思わぬ出世をしました。おそらく郡司の大領は弟が継ぐことになり、私は宮仕えを続けることになる。ですから、京の屋敷に愛しい娘を迎えようと思ってこうして訪ねてきたという訳です」

 目の前に少し大きい館が見えてきた。里長の家とはこれのことであろう。だが、次郎は眉をひそめた。屋根は破れ、草木が茂り、狐狸の住処のように荒れ果てた風情だったからだ。

「はて、どうしたことだろう」
そう言って奥に進もうとする頼義を、春昌は止めた。
「お待ちください」

 次郎は主人の視線の先を見た。そこには完全に立ち枯れた桜の老木があった。だが、その枝からは白く透き通った存在しないはなびら がわき出して、狂ったように舞い落ちているのだった。

 その葩の嵐は、一行を目指しものすごい勢いで舞い襲ってきた。春昌が次郎に「馬を!」と叫んだ。次郎は必死に手綱を握り、馬が怖がって逃げだしたり頼義を振り落とそうとするのを防いだ。

 春昌は、手印を組むと梵文で何かを呟いた。途端に、花吹雪は勢いを止め、それから緩やかに一行の上に降り注いだ。次郎は、女のすすり泣きが聞こえたように思った。

 春昌は一人で人けのない家の中に入っていった。次郎は不安に思いながら、何も見えていないらしい頼義に、彼らの見ている事情を説明しながら待っていた。しばらくすると、狂ったように降っていた花吹雪が止んだ。ほとんど同時に出てきた春昌が二人の元に来た時には、次郎にもあれほどあった白いはなびらが見えなくなっていた。

 春昌は家の中から扇を持ち出してきた。それを渡された頼義が訝りながら広げると、中にはきれいな筆蹟で和歌がしたためてあった。

「しひて行く人をとどめむ桜花……」
その先を声に出して読むことができずに頼義は泣き出した。

 一行は里に戻り、一番大きい家で里長の消息を訊いた。新しい里長であるその家の持ち主が語った事によると、五年前に里長一家は遠くへ行き、その行方は彼らにはわからないということだった。

「娘は、若様が京に行かれてから一年もせずにあの家で亡くなりました。産後の肥立ちが悪かったそうでございます」
「産後? 子どもが生まれたのか?」
「はい。珠のような女の子でございました。今どちらにいらっしゃるかは、手前どもはぞんじあげません」

 頼義は、思いもよらぬ成り行きにさめざめと泣いた。娘の形見であろう扇は、先ほどのはなびらのようにぼんやりと白く輝いていた。春昌は頼義に言った。

「あの家の中で、あなた様の想われるお方の残思とお話をいたしました。あなた様が忘れずに戻って来てくれたことを知り、ことのほかお喜びでした。その扇は肌身離さずお持ちくださいませ。忘れ形見の姫君へと導いてくださることでしょう」

 頼義は、泣きながら何度も頷いた。

 次郎は、ほとんど表情を見せずに語る主が右手を胸元に置いているのを見た。色褪せてくたびれた狩衣の内側に、濃い瑠璃色の勾玉がかかっていることを次郎は知っていた。許されることもなく、希望もなく、彷徨い歩く己の運命を思っているに違いなかった。

 頼義は、これから向かう父親の屋敷に逗留するように奨めたが、春昌は断った。頼義は里長に二人の数日の宿と世話を頼んだ。久方ぶりの心づくしのもてなしと、頼義から届けられた新しい狩衣や馬などに心から感謝して、二人は、かつて春昌も夢みた出世の道を進む頼義と反対の東へと旅立った。

 かつての里長の家に立っていた、枯れた桜の大木は、それからほどなくして倒れてしまったと言うことだ。

しひて行く人をとどめむ桜花いづれを道とまどふまで散れ

(古今403 詠み人しらず)


意訳:無理をおして出発する人を留めましょう。桜の花よ、どこが道かと迷うほど激しく散っておくれ



(2016年2月書き下ろし)

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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記  葩ちる道

scriviamo!


scriviamo!の第十一弾です。

TOM-Fさんは、大好評連載中の『花心一会』の最新作で参加してくださいました。ありがとうございます!


TOM-Fさんの書いてくださった小説『花心一会 第十三会 「その、花の香りに包まれて」』

TOM-Fさんは、時代物からローファンタジーまで様々なジャンルの小説を自在に書き分けられる創作ブロガーさんです。素人にもわかりやすく書いてくださいる天文の専門用語、専門家なのではないかと思うほど詳細なマシンの記述や、女の私が恥ずかしくなって逃げだすほどのファッション知識などにもいつも唸らせていただいていますが、何よりも敵わないなと思うのは完璧な女の子の描写でしょうか。あんな風に書いてもらったら、キャラの女の子たちは本望でしょう(ごめんよ、うちの子たち!)

さて、今回書いていただいたお話も、そういう素敵なヒロインのひとり、華道花心流の若き家元である彩花里が活躍するシリーズの最新作。いつもは他の相手の人生を静かに手助けしているヒロインもオブザーバーにならないでいる珍しい回ですが、うん、TOM-Fさんの書くストーリーのうち、「静の美しさ」が色濃く出ている素敵なストーリーでした。

って、のんきに感心している場合でなく、これに何を返せと……。今回のscriviamo! みなさん本当に容赦がないんですが、こちらも難問中の難問でした。

で、こうしました。TOM-Fさんが「梅」と「紀友則の和歌」書かれましたので、私は「桜」と「詠み人しらず」で。同時にTOM-Fさんのお話の中で使われていた花びら餅が「葩餅」と書かれるのに掛けて、さらに人間関係の設定を踏襲させていただきました。

そして、舞台は平安時代。この「安達春昌と桜」という組み合わせは、実は最初のscriviamo!でTOM-Fさんと競作させていただいた作品を意識して書いています。

しかし。同じモチーフでもTOM-Fさんの作品は、あんなにハートフルで暖かいのに、私が書くとオカルトみたいになってしまうのはなぜ?


【参考】
【断片小説】樋水の媛巫女
【掌編小説】樋水龍神縁起 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」
【掌編小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 - 秘め蓮

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樋水龍神縁起 東国放浪記 
はなちる道
——Special thanks to TOM-F san


 春は近いとは言えまだ肌寒く、風が通り過ぎる度に、次郎は身を震わせた。振り返り馬上の主人を見やると、風に心を乱された様子もなく前方を見つめていた。

「春昌様、いいがなされましたか」
次郎は、主人の眉がわずかに顰められたのを見て訊いた。

「この時期に花が?」
春昌は、ようやく見えてきた里の方を見ているようだった。もう少し進むと歩いている次郎にも、その里の様子が見えてきた。確かにその里は、白い花が満開に咲いているように見えた。だが、今朝後にした里ではようやく梅がほころびはじめた寒さなのだ。

「山間の谷にありますから、霜の華でございましょうか。それにしては華やかに見えますが」

 次郎は、時期外れに花が咲いていようと、実のところ構わなかった。かつて住んでいた出雲の国では、仕えていた御覡である瑠璃媛の類いまれな霊力により、禍々しいものなどは近くに寄ることもできなかったし、故あって現在仕えている安達春昌もかつては右大臣の覚えもめでたかった陰陽師で、旅の間に現れた奇妙な邪神はことごとく跳ね返していた。

 侍者としての次郎の心配の種は、もっと他のところにあった。今夜の宿は確保できるのか、食べるものを得ることはできるのか。心細い旅だった。

 安達春昌は、慢心から樋水の媛巫女を盗み出して死なせた。その贖罪のために、陰陽頭の後継者とも囁かれた未来を捨てて、東国を彷徨っていた。媛巫女の遺言により、次郎はその春昌に付き添い、一度も出たことのない出雲の国を離れて、寂れた山道を共に歩いているのだった。

 里へ降りて近づいてみたところ、二人とも見えていた満開の花が、現実うつつのものではないことを知った。道の両脇に二十本ほどの桜の樹が立ち並んでいるのだが、その枝には固く閉じた花芽があるばかりで、春はまだ遠いと訴えかけているようだった。

 だが、その枝の至る所から、満開に咲き誇る桜の氣が満ちあふれ、存在していない白いはなびら の吹雪が終わることもなく降り注いでいる。尽きることなく降り注ぐその氣で、道は馬の足の半ばが埋まるほどに霞んでいた。

 次郎には生まれながらにして巷の人びとには見えないものを見る力があった。とはいえ、主ほどはっきりと見る能力がある訳ではない。さらに、その見えているものが何であるかを知るための知識も欠いていた。

「春昌様。これはどういうことなのでございましょう」
「わからぬ。だが、おそらくは……」

 馬上の主が答えかけたその時、後からやってきた馬の足踏みと、男の声が聞こえて二人は振り返った。

「なんということだ。黒や、なぜ進まぬ」
立派な狩衣を身に着けたその男を乗せた馬は、桜の並木の異様な様子に怯えてか、どうしてもその道を進もうとはしない。それどころか暴れるので、男は馬から落ちないように必至につかまらなくてはならなかった。

「あ、危のうございます」
次郎が脇にどいている間に、春昌は手印を組み、ほとんど聞こえないほどの小ささで何かを呟いた。公達の馬は、耳をぴくりと振るわせると暴れるのをやめて、春昌の馬の近くに寄って来た。

 春昌は、馬から下りて頭を下げた。頭上の男は、訝しげに二人を見て、それから口を開いた。
「もしや、お助けくださったのでしょうか。ここは何事もない普通の道に思えますが、何か禍々しきものがいるのでしょうか」

 春昌は頭を上げて、しっかりと男を見据えると口を開いた。
「禍々しいという訳ではございませぬ。けれども、馬の目にはまっすぐ歩けるようには見えぬのでございましょう。この道をお通りにならねばならぬ訳がおありでしょうか」

 男は、しばし口をつぐんだが、やがて頷いた。
「古き約束を果たしに参ったのです。危険があるとお考えですか。見れば、陰陽の心得があるようにお見受けいたす。それに賎しからぬご身分のようですが……」
春昌の色褪せてくたびれた狩衣に、首を傾げた。それから顔を見て何かを考えていたがはっとした。

「あなた様は、たしか陰陽寮にいらした……」
その言葉に、次郎は驚いて春昌の顔を見た。主人は特に慌てた様子でもなければ、懐かしそうな様子も見せなかった。

「ご明察の通り、陰陽寮におりました安達春昌でございます。二年前は兵衛少志でいらっしゃったお方ですね」
「やはりそうであられたか。私は土岐頼義と申し、今は兵衛尉従七位となりました。しばらくお見かけしないと思っておりましたが、いかがなさいましたか」

「二年前にお役目を辞し、このように彷徨の身と相成りました。訳はお尋ねくださいますな」
頼義は仔細が氣になってしかたないようだったが、春昌は口を閉ざすとしきりにもと来た道を振り返る公達の黒駒に手をやって落ち着かせた。

「春昌殿。あなたもこの馬と同じように、この先に進まぬ方がいいとお考えですか。ここは、父が郡司を務めている村、特に鬼神が出るとの話も聞きませぬし、かつて来た時には何の問題もなかったのですが」

 春昌は、じっと頼義の足元を見ていた。次郎ははっとした。桜の並木道から溢れ出てきている幻のはなびら が少しずつ頼義の黒駒の足元に集まりだしている。自分や春昌のところにはほとんど何も起こっていない。

 春昌は、頼義に言った。
「然り。この桜の怪異は、あなた様とご縁のあることのようですな。私がお守りしつつ、この道をご同行いたしましょう。もしお差し支えなければ、あなた様のおっしゃったお約束についてお話しいただけませんか」

「それはありがたい。ぜひお願いいたします。仔細は、喜んでお話ししましょう」
頼義が頷くと、春昌は道に向けて手印を組んだ。次郎には道にうずたかく積んでいた幻のはなびらが風に吹かれるように左右にわかれ、細い道ができたのが見えた。そのまま進む春昌に続き、左右に二頭の馬の手綱を持ち、次郎も続いた。

 並木道が終わって里に入る時に、次郎は後ろを振り返ったが、道は再びはなびらでおおわれ、さらに激しく花吹雪が舞っているのだった。彼は、この里から出ることはできるのだろうかと訝った。

 里の中は、特に変わったこともなく、幾人かの人びとが貴人である一行に軽く挨拶をした。頼義は、二人が今夜の宿を探していると聞き、「では、私がこれから行こうとしている家ヘ行きましょう」と誘った。それは里の一番奥にあり、他の民家からは少し離れていた。

「私がまだ元服したての頃でございます。この辺りに鷹狩りに参りまして、突然の嵐に襲われ里長の家で雨宿りをしたことがあるのです。年頃の娘が食事を運んできてくれたのですが、髪は長く色は白い、賎しい者の娘とはとうてい思えぬ美しさで、私はひと目で氣にいってしまったのですよ。衣を乾かしているうちに夜も更けたので泊る事になり、どうしてもその娘が思い出されてしかたないので呼び、秋の夜長に契りを結び交わしたのです」

 春昌は、ちらりと頼義を見た。都ですでに兵衛尉従七位となった前途ある若者が、若き頃に契った里の娘を今さら訪ねるのは少し珍しかった。

「見目麗しいだけではなく、優しき心映えの娘で、それから足繁く通うこととなりました。後のちまでもと誓い、いずれは屋敷に迎えようと思っていたのです。私は嫡子ですし、小さな里長の家に婿に入るという訳にはいきませんからね」
そういうと、頼義は少しだけ言葉を切った。春昌は黙って頷き、先を促した。

「けれど、まだその話がきちんとする前に、私は二十一歳になって、兵衛として京に上ることになったのです。今から六年ほど前のことです。いずれは父の後をついで大領になる身としては、断ることのできない大切なお役目でした。それを娘に告げたところ、一度も何かを願ったことのなかった娘が行かないでくれと泣いたのです。そこで私は、戻ってきたら必ず迎えにくるからと固く約束をしたのです。賎しい身分の娘とのことを反対していた父は、引き離せば忘れると思っていたようですが、京でも、思い出すのはあの娘のことばかり、想いの消えることはありませんでした。そして、私は都で思わぬ出世をしました。おそらく郡司の大領は弟が継ぐことになり、私は宮仕えを続けることになる。ですから、京の屋敷に愛しい娘を迎えようと思ってこうして訪ねてきたという訳です」

 目の前に少し大きい館が見えてきた。里長の家とはこれのことであろう。だが、次郎は眉をひそめた。屋根は破れ、草木が茂り、狐狸の住処のように荒れ果てた風情だったからだ。

「はて、どうしたことだろう」
そう言って奥に進もうとする頼義を、春昌は止めた。
「お待ちください」

 次郎は主人の視線の先を見た。そこには完全に立ち枯れた桜の老木があった。だが、その枝からは白く透き通った存在しないはなびら がわき出して、狂ったように舞い落ちているのだった。

 その葩の嵐は、一行を目指しものすごい勢いで舞い襲ってきた。春昌が次郎に「馬を!」と叫んだ。次郎は必死に手綱を握り、馬が怖がって逃げだしたり頼義を振り落とそうとするのを防いだ。

 春昌は、手印を組むと梵文で何かを呟いた。途端に、花吹雪は勢いを止め、それから緩やかに一行の上に降り注いだ。次郎は、女のすすり泣きが聞こえたように思った。

 春昌は一人で人けのない家の中に入っていった。次郎は不安に思いながら、何も見えていないらしい頼義に、彼らの見ている事情を説明しながら待っていた。しばらくすると、狂ったように降っていた花吹雪が止んだ。ほとんど同時に出てきた春昌が二人の元に来た時には、次郎にもあれほどあった白いはなびらが見えなくなっていた。

 春昌は家の中から扇を持ち出してきた。それを渡された頼義が訝りながら広げると、中にはきれいな筆蹟で和歌がしたためてあった。

「しひて行く人をとどめむ桜花……」
その先を声に出して読むことができずに頼義は泣き出した。

 一行は里に戻り、一番大きい家で里長の消息を訊いた。新しい里長であるその家の持ち主が語った事によると、五年前に里長一家は遠くへ行き、その行方は彼らにはわからないということだった。

「娘は、若様が京に行かれてから一年もせずにあの家で亡くなりました。産後の肥立ちが悪かったそうでございます」
「産後? 子どもが生まれたのか?」
「はい。珠のような女の子でございました。今どちらにいらっしゃるかは、手前どもはぞんじあげません」

 頼義は、思いもよらぬ成り行きにさめざめと泣いた。娘の形見であろう扇は、先ほどのはなびらのようにぼんやりと白く輝いていた。春昌は頼義に言った。

「あの家の中で、あなた様の想われるお方の残思とお話をいたしました。あなた様が忘れずに戻って来てくれたことを知り、ことのほかお喜びでした。その扇は肌身離さずお持ちくださいませ。忘れ形見の姫君へと導いてくださることでしょう」

 頼義は、泣きながら何度も頷いた。

 次郎は、ほとんど表情を見せずに語る主が右手を胸元に置いているのを見た。色褪せてくたびれた狩衣の内側に、濃い瑠璃色の勾玉がかかっていることを次郎は知っていた。許されることもなく、希望もなく、彷徨い歩く己の運命を思っているに違いなかった。

 頼義は、これから向かう父親の屋敷に逗留するように奨めたが、春昌は断った。頼義は里長に二人の数日の宿と世話を頼んだ。久方ぶりの心づくしのもてなしと、頼義から届けられた新しい狩衣や馬などに心から感謝して、二人は、かつて春昌も夢みた出世の道を進む頼義と反対の東へと旅立った。

 かつての里長の家に立っていた、枯れた桜の大木は、それからほどなくして倒れてしまったと言うことだ。

しひて行く人をとどめむ桜花いづれを道とまどふまで散れ

(古今403 詠み人しらず)


意訳:無理をおして出発する人を留めましょう。桜の花よ、どこが道かと迷うほど激しく散っておくれ



(2016年2月書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

『うちの子たちのバレンタイン』企画に参加です

『scriviamo! 2016』期間中ですが、ちょっと骨休みに、ブログのお友だちの吉川蒼さんが企画している『うちの子たちのバレンタイン』にのってみることにしました。

蒼さんは、リクエストで小説を書いてくださるようで、私もちゃっかりリクエストしてきてしまいました。そして、よかったら皆様もやってくださいということですので、オリキャラをお持ちの方は、「ウチの子たちはどんなバレンタイン?」と妄想を公開してみてはいかがでしょうか。

で、うちですが。余裕があったら、掌編を書けばいいんですけれど、今回はちょっとへたれているので、さらっと記事だけです。

バレンタインにちなんだ小説は、今年は書いていませんが、実は既にいくつか公開しています。まだお読みになっていない方、もしくはもう一度読みたいという方は、よかったらこちらのリンクからどうぞ! 


『大道芸人たち Artistas callejeros』の四人組のバレンタインは、山西左紀さんのところの絵夢との共演で、神戸でしたね。
大道芸人たち 番外編 ~ 港の見える街 ~ Featuring「絵夢の素敵な日常」

そして、『夜のサーカス』では、本編の中にバレンタインの話があります。ヨナタンとステラのバレンタインではありますが、むしろブルーノとマッダレーナのお話でした。
夜のサーカスと赤銅色のヴァレンタイン

うちの子ジョゼと、山西左紀さんのところのミクをめぐるバレンタインの話もありましたね。
サン・ヴァレンティムの贈り物

それから、これは別館に隔離している小説ですが、こちらにバレンタインデーの話が出てきます。主人公朗とゆりのバレンタインデーですね。この部分には、官能表現はありませんのでどなたでも。
樋水龍神縁起 第二部 冬、玄武より 聖ヴァレンタインの夜




で、ここからが今日の記事のメイン。

それ以外のうちの子たちは、どんな風にバレンタインデーを過ごすかなと妄想してみました。

◆アンジェリカ(『パリでお前と』)とマッテオ・ダンジェロ(『ファインダーの向こうに』)
アンジェリカは8歳のおませ娘。年末に母親の結婚式のあったスイスで食べた《Läderach》のチョコレートが食べたいとマッテオ伯父さんにおねだり。マッテオは、もちろん二つ返事で空輸して、しかもニューヨークからロサンジェルスまで持っていったらしい。その後ニューヨークにとんぼ返りして「必要ないのに」と言う妹ジョルジア(当然今年もぼっちバレンタイン)と過ごしたらしい。マッテオの取り巻きの女たちからジョルジアは恨まれた模様。

◆マウリッツィオとアロイージア(『ピアチェンツァ、古城の幽霊』)
アロイージアはマウリッツィオが大好きな羽根のある少女の恰好をした幽霊。この日の古城はどこもかしこも真っ赤なハートの風船とクッションで埋まった。なおこの日、マウリッツィオの持つ不動産事務所にやってきた女性客が深く考えずにお礼のつもりでマウリッツィオに花を贈ってしまったので、アロイージアの怒りを買い、しばらくポルターガイストに悩まされることになる。

◆マイアと23(『Infante 323 黄金の枷』)
現在本編では、マイアは23のことを好きだが、彼にとって自分は親しい友達止まりで恋人にはなれないと諦めている。初めてのバレンタインは、友達のジョゼに紹介してもらった山西左紀さんのところのキャラ、メイコに教えてもらったアロース・ドース(ポルトガル風ミルクライス)を彼の工房のキッチンで作ってみた。メイコが作るような絶品ではないが、誰が作っても失敗することがない簡単なレシピなので、まあまあの出来。二人で完食。もっとも、23はどんな食事でも残したことはない。

まだまだキャラはうじゃうじゃいるのですが、今年はこんなところで。
皆さんのところではいかがでしょうか?

ともあれ、ハッピー・バレンタイン!
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Posted by 八少女 夕

【小説】世界の上に広がる翼

scriviamo!


scriviamo!の第十弾です。

けいさんは、当ブログの70000Hitのお祝いも兼ねて「Infante 323 黄金の枷」のあるシーンを別視点で目撃した作品を書いてくださいました。目撃シリーズ、私の作品では二度目ですね。ありがとうございます!


けいさんの書いてくださった小説『夕景色の出逢いの一コマ (scriviamo! 2016)』

オーストラリア在住のけいさんは、素敵なキャラクターが優しい青春小説をお得意となさっていらっしゃいます。読後感の爽やかさとハートフル度は、群を抜いていらっしゃいます。去年はお仕事が忙しくなっただけでなく、目の不調なども抱えられて、しばらく小説をお休みなさっていたのですが、年末から復帰なさり、ただいま新作を絶賛連載中。けいさん、ご無理はなさらず、お互いに、ゆっくりのんびり、長く続けていきましょうね。

さて、今年目撃されてしまったのは、「Infante 323 黄金の枷の」主人公たちです。これですね。今年は去年と違って、けいさんのところのキャラクターを目撃者に仕立て上げることができなかったので、純粋にこれまで書いていない外伝を書くことにしました。

目撃されたシーンは、本編の中では12年前の回想なのですが、これはその本編から見ると8年前、目撃シーンからすると4年後にあたります。出てくる人は、全員本編にも出てくる人ですが、その辺は知らなくても問題ありません。ただ、この話は設定が少し特殊なので、全く読んだ事のない方は「あらすじと登場人物」か、下にも貼っておいた動画で「こんな話か」とあたりをつけていただいたほうがいいかもしれません。

で、今年の目撃者の正体は……。あ〜、けいさん、ごめんなさい。なんか暗くなっちゃいました……。


【参考】
「Infante 323 黄金の枷」Infante 323 黄金の枷

小説・黄金の枷 外伝

「scriviamo! 2016」について
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



黄金の枷 外伝 
世界の上に広がる翼
——Special thanks to Kei san


 そのカモメは、建物のてっぺんの使われていない煙突の上で寛いだ。傾斜の多いこの街、時にGの街から、時には大西洋から、白い鳥はPの街を眺める。観光客のまき散らしたパン屑を食べることもあれば、きちんと漁をすることもある。ここ数ヶ月は暖かったので、越冬も楽だった。

 翼を広げ、ほんの少し斜めに滑空すると、カモメは普段はあまりいかない街の東側へと向かった。春めいてきた街には、マグノリアやアーモンドのといった街路樹が花を艶やかに咲かせていた。

「あ、カモメ!」
マイアは、指差した。
「いいなあ。海の方から来たんだよね。私も行きたいなあ」

 彼女は、公園に座っていた。彼女がナウ・ヴィトーリア通りに引越してから4年が経っていた。2年に一度、彼女には一人ぼっちの日がある。二人の妹を含む同じ学校に通う生徒たちが遠足に行く日、パスポートの申請が上手くいかなかったという理由で連れて行ってもらえない。もう4度目だし、14歳になっていたマイアには申請する前から今度も上手くいかないことがよくわかっていた。

 だから、今回ははじめから一人の休日に何をするかと色々と想いをめぐらせていた。本当は、D河岸へと行くつもりだった。4年前に初めて自分と同じく金の腕輪をしている少年と知り合ったのも、この遠足の前日だったし、遠足の日も会う約束だった。その少年は、「ドラガォンの館」と呼ばれている屋敷の敷地内の小さい小屋に閉じこめられているようだった。ずっと体を洗っていないようだったし、浮浪者の子どもではないかとマイアは思っていた。

 残念ながら、翌日に会いに行ってもその少年には逢えなかった。その代わりに黒い服の男の人に見つかってつまみ出されてしまった。不法侵入をしていたマイアが悪かったのだ。あの少年もまた、つまみ出されてしまったのかもしれない。Pの街に居るのなら、D河に沈む夕陽が美しいところに行けば逢えるように感じていた。同じ黄金の腕輪をしているだけでない。彼もまたあの夕陽の美しさをよく知っていた。きっとあの子とはいい友達になれる、マイアは思った。

 あの少年は今のマイアくらいの年齢に見えた。ということは、もう働かなくてはいけない年齢だろう。ふらふらと河岸にいたりはしないかな。でも、夕方なら……。

 マイアは、父親に「明日D河まで行きたい」と言った。けれど父親は反対した。
「どうして? 街の外には行かないよ。前に住んでいたところだし、行っちゃいけないなんてことはないでしょう?」

「マイア。あと4年経ったらお前は18歳になる。そうしたら大人として自分でしたいことをいくらでも試すがいい。でも、それまでは父さんのいう事をきいてくれ。正直言って、その腕輪のことも、パスポート申請が上手くいかない理由も、父さんにもよくわかっていない。でも、お前ももうわかるだろう? 闇雲に抵抗をすると、もっと望まないことを強制されるって。父さんは、お前のことが心配なんだ。明日父さんが働いている間に、一人で遠くまで行って冒険したりしないでくれ。お願いだ」

 そこまで言われたら行くつもりにはなれなかった。無理に行ってもあの少年と確実に会えるのでもなければ、腕輪をした他の子と友達になれるわけでもない。それに、マイアは再びあの少年に会うのも少し怖かった。腕輪をしている大切な友達。そんな風に思っているのは自分だけで、むこうはとっくに忘れているかもしれない。

 公園の隅で何かをついばんでいたカモメが、ゆっくりと羽ばたいて飛び上がった。マイアはその姿を目で追った。また、降りてきたのを見ると、四角い石のようなものが埋められているところだった。

「あんなところに石があったっけ」
マイアは立ち上がって、カモメの足元にある四角い石を見た。それはずいぶん古い大理石の板で、半分土に埋まっていた。

「なんだろ。《Et in Arcad..》あとは読めないや。こういうの、どこかで見たわよね……」
マイアは、土を手で退けた。ああ、あそこだ。「ドラガォンの館」の裏の、あの小屋の前にあった。マイアが忍び込んで夕陽を見つめる時に特等席だと決めていた石のすぐ側にあった。あそこのは、もうすこし読みやすかったように思う。でも、あの時のマイアは10歳の子どもで、ラテン語の碑文を読んで意味を考えようなんて思わなかった。

 もしあの子があの翌日もあそこにいたのなら、腕輪のことだけじゃなくて、あの石のことも訊けたかも。もっとたくさん話をしたかったな。

 カモメは、マイアに追い回されたと思ったのか、大きく羽ばたくと去っていってしまった。大きく旋回して、空高く昇っていく。

 私も、あんな風に飛びたいな。マイアは、ため息をついた。

 お父さんはああ言ったけれど、18歳になっても変わりっこない。お母さんは死ぬまで腕輪をしていた。きっと私は大きくなっても妹たちのように自由にはなれないんだろうな。それに、ずっとこんな風に一人ぼっちなんだろう。マイアは、項垂れて、家へと戻っていった。

* * *


「本当に、申しわけございませんでした」
そう言って、アマリアは頭を下げてから出て行った。

 通りかかったジョアナが「いったい何をしたの」と問いただしていた。彼女は、しどろもどろになって答えた。
「石鹸を捨てようとしてしまって……」

 アマリアはこの館に勤めて2年経つが、ご主人様の一人である18歳の青年が、大きな声を出したり取り乱したりしたのをこれまで見た事がなかった。同じように格子の中に閉じこめられている彼の二つ違いの弟は、冗談を言って話しかけてきたり、ありとあらゆるわがままを言いながらも魅力たっぷりの笑顔で怒る氣をなくさせてしまったりするのだが、彼はまったく手間をかけない代わりに挨拶以上に口をきいたことすらなかった。

 そのインファンテ323と呼ばれている青年が、三階から転がり落ちるように駆け下りてきて、掃除道具とゴミ袋を持って居住区から出て行こうとしている彼女を止めた。
「洗面台にあった紫の石鹸をしらないか?」
「あ、はい。ずいぶん小さくなっていたので、新しいものとお取り返しましたが」
「捨ててしまったのか? そこか?」

 彼は、返事も待たずにアマリアの持っているゴミ袋を手にとって開けると、ものすごい勢いで中を探った。その剣幕に驚いて、彼女は謝った。石鹸は直に見つかった。他のゴミに混じって、汚くなっていたが、彼は気に留める様子もなかった。

「申しわけありません」
その言葉を聞いて、彼はアマリアの様子にようやく目を留めた。それから、とてもばつの悪そうな顔をした。自分が騒いでしまったことを恥じて。

「すまない。お前が悪いんじゃないんだ。掃除に来るのをわかっていたのに、外に出しておいた俺のせいだ。氣にしないでくれ」
彼は、石鹸を持って3階へと行ってしまった。アマリアは、もう1度謝って頭を下げてから外へと出たのだ。

 彼は、バスルームに入ると、汚れた石鹸をきれいに洗った。ただでさえ小さくなっていた石鹸が溶け出していく。彼はそれを痛みのように感じた。

 アマリアがこれを捨てようとしたのも当然だ。もう香りもないし使うには小さすぎる。4年前にもらってからしばらくは毎日使った。スミレの華やかな香りのするとても大きな石鹸で、いつまででも使いつづけられるように思っていた。

「石鹸持ってきてあげるね」
あの屈託のない少女も、もう大きくなっただろう。もう忘れてしまっただろうか。それとも、D河に落ちる夕陽を見られなくした張本人として、俺のことを恨んでいるのだろうか。

 彼は石鹸をアラバスターの箱に収めると、また捨てられたりしないように洗面台の中の戸棚にしまった。扉を閉めると鏡に自分の姿が映った。縮れた髪に黒い瞳。眼を逸らすとバスルームから出て、また階段を降りていった。隣の居住区で弟の24が、ここのところ執心している娘とふざけ合っている声が聞こえた。彼は、だまって1階へと降りて行った。

 工房には、赤いハイヒールが置いてあった。アントニアにはじめて頼まれて意氣込んで完成させた。この午後にフィッティングに来ると聞いていたが、来る様子はなかった。仕事がたくさんあるのだろう。急いでいるとは言わなかったが、できるだけ急いで、でも、いつものように丁寧に作り上げた。石鹸のこともそうだが、自分は人が重要と思わないことを、大仰に考えてしまうようだとがっかりした。

 短い鳴き声が聞こえたので、窓を見た。鉄格子の嵌まった窓の向こうに、1羽のカモメがいた。少し羽を休めているようだ。

 彼は、工房の隅にもたせかけてあるギターラを取り上げた。カモメに聞かせてやるつもりで、ようやく弾けるようになった「Asas sobre o mundo(世界の上に広がる翼)」を爪弾きはじめた。

 世界を自由に飛び回れるならば、いつもカモメを見上げたりしないだろう。それに、来てくれるかわからない人間を、あてもなく待ったりもしない。小さくなり使い物にならなくなった希望を箱に閉じこめて、捨てなければならない時を引き延ばしたりもしないだろう。

 彼は、自分が存在しなかった者としてラテン語の碑文の彫られた四角い石の下に眠る日まで、ずっとこんな風に独りで生きていくのだと思った。

 カモメは、大きく羽ばたくと再び大西洋の方へ、ギターラの響きよりも興味深い、漁師からかすめ取る魚のことを思い描きながら飛んでいった。

(初出:2016年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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本文中に出てくる曲は、この動画のBGMになっています。手っ取り早く世界観を理解するのにも、この動画はいいかも。

この動画の説明などは、こちら
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【小説】世界の上に広がる翼

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。
scriviamo!


scriviamo!の第十弾です。

けいさんは、当ブログの70000Hitのお祝いも兼ねて「Infante 323 黄金の枷」のあるシーンを別視点で目撃した作品を書いてくださいました。目撃シリーズ、私の作品では二度目ですね。ありがとうございます!


けいさんの書いてくださった小説『夕景色の出逢いの一コマ (scriviamo! 2016)』

オーストラリア在住のけいさんは、素敵なキャラクターが優しい青春小説をお得意となさっていらっしゃいます。読後感の爽やかさとハートフル度は、群を抜いていらっしゃいます。去年はお仕事が忙しくなっただけでなく、目の不調なども抱えられて、しばらく小説をお休みなさっていたのですが、年末から復帰なさり、ただいま新作を絶賛連載中。けいさん、ご無理はなさらず、お互いに、ゆっくりのんびり、長く続けていきましょうね。

さて、今年目撃されてしまったのは、「Infante 323 黄金の枷の」主人公たちです。これですね。今年は去年と違って、けいさんのところのキャラクターを目撃者に仕立て上げることができなかったので、純粋にこれまで書いていない外伝を書くことにしました。

目撃されたシーンは、本編の中では12年前の回想なのですが、これはその本編から見ると8年前、目撃シーンからすると4年後にあたります。出てくる人は、全員本編にも出てくる人ですが、その辺は知らなくても問題ありません。ただ、この話は設定が少し特殊なので、全く読んだ事のない方は「あらすじと登場人物」か、下にも貼っておいた動画で「こんな話か」とあたりをつけていただいたほうがいいかもしれません。

で、今年の目撃者の正体は……。あ〜、けいさん、ごめんなさい。なんか暗くなっちゃいました……。


【参考】
「Infante 323 黄金の枷」Infante 323 黄金の枷

小説・黄金の枷 外伝

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黄金の枷 外伝 
世界の上に広がる翼
——Special thanks to Kei san


 そのカモメは、建物のてっぺんの使われていない煙突の上で寛いだ。傾斜の多いこの街、時にGの街から、時には大西洋から、白い鳥はPの街を眺める。観光客のまき散らしたパン屑を食べることもあれば、きちんと漁をすることもある。ここ数ヶ月は暖かったので、越冬も楽だった。

 翼を広げ、ほんの少し斜めに滑空すると、カモメは普段はあまりいかない街の東側へと向かった。春めいてきた街には、マグノリアやアーモンドのといった街路樹が花を艶やかに咲かせていた。

「あ、カモメ!」
マイアは、指差した。
「いいなあ。海の方から来たんだよね。私も行きたいなあ」

 彼女は、公園に座っていた。彼女がナウ・ヴィトーリア通りに引越してから4年が経っていた。2年に一度、彼女には一人ぼっちの日がある。二人の妹を含む同じ学校に通う生徒たちが遠足に行く日、パスポートの申請が上手くいかなかったという理由で連れて行ってもらえない。もう4度目だし、14歳になっていたマイアには申請する前から今度も上手くいかないことがよくわかっていた。

 だから、今回ははじめから一人の休日に何をするかと色々と想いをめぐらせていた。本当は、D河岸へと行くつもりだった。4年前に初めて自分と同じく金の腕輪をしている少年と知り合ったのも、この遠足の前日だったし、遠足の日も会う約束だった。その少年は、「ドラガォンの館」と呼ばれている屋敷の敷地内の小さい小屋に閉じこめられているようだった。ずっと体を洗っていないようだったし、浮浪者の子どもではないかとマイアは思っていた。

 残念ながら、翌日に会いに行ってもその少年には逢えなかった。その代わりに黒い服の男の人に見つかってつまみ出されてしまった。不法侵入をしていたマイアが悪かったのだ。あの少年もまた、つまみ出されてしまったのかもしれない。Pの街に居るのなら、D河に沈む夕陽が美しいところに行けば逢えるように感じていた。同じ黄金の腕輪をしているだけでない。彼もまたあの夕陽の美しさをよく知っていた。きっとあの子とはいい友達になれる、マイアは思った。

 あの少年は今のマイアくらいの年齢に見えた。ということは、もう働かなくてはいけない年齢だろう。ふらふらと河岸にいたりはしないかな。でも、夕方なら……。

 マイアは、父親に「明日D河まで行きたい」と言った。けれど父親は反対した。
「どうして? 街の外には行かないよ。前に住んでいたところだし、行っちゃいけないなんてことはないでしょう?」

「マイア。あと4年経ったらお前は18歳になる。そうしたら大人として自分でしたいことをいくらでも試すがいい。でも、それまでは父さんのいう事をきいてくれ。正直言って、その腕輪のことも、パスポート申請が上手くいかない理由も、父さんにもよくわかっていない。でも、お前ももうわかるだろう? 闇雲に抵抗をすると、もっと望まないことを強制されるって。父さんは、お前のことが心配なんだ。明日父さんが働いている間に、一人で遠くまで行って冒険したりしないでくれ。お願いだ」

 そこまで言われたら行くつもりにはなれなかった。無理に行ってもあの少年と確実に会えるのでもなければ、腕輪をした他の子と友達になれるわけでもない。それに、マイアは再びあの少年に会うのも少し怖かった。腕輪をしている大切な友達。そんな風に思っているのは自分だけで、むこうはとっくに忘れているかもしれない。

 公園の隅で何かをついばんでいたカモメが、ゆっくりと羽ばたいて飛び上がった。マイアはその姿を目で追った。また、降りてきたのを見ると、四角い石のようなものが埋められているところだった。

「あんなところに石があったっけ」
マイアは立ち上がって、カモメの足元にある四角い石を見た。それはずいぶん古い大理石の板で、半分土に埋まっていた。

「なんだろ。《Et in Arcad..》あとは読めないや。こういうの、どこかで見たわよね……」
マイアは、土を手で退けた。ああ、あそこだ。「ドラガォンの館」の裏の、あの小屋の前にあった。マイアが忍び込んで夕陽を見つめる時に特等席だと決めていた石のすぐ側にあった。あそこのは、もうすこし読みやすかったように思う。でも、あの時のマイアは10歳の子どもで、ラテン語の碑文を読んで意味を考えようなんて思わなかった。

 もしあの子があの翌日もあそこにいたのなら、腕輪のことだけじゃなくて、あの石のことも訊けたかも。もっとたくさん話をしたかったな。

 カモメは、マイアに追い回されたと思ったのか、大きく羽ばたくと去っていってしまった。大きく旋回して、空高く昇っていく。

 私も、あんな風に飛びたいな。マイアは、ため息をついた。

 お父さんはああ言ったけれど、18歳になっても変わりっこない。お母さんは死ぬまで腕輪をしていた。きっと私は大きくなっても妹たちのように自由にはなれないんだろうな。それに、ずっとこんな風に一人ぼっちなんだろう。マイアは、項垂れて、家へと戻っていった。

* * *


「本当に、申しわけございませんでした」
そう言って、アマリアは頭を下げてから出て行った。

 通りかかったジョアナが「いったい何をしたの」と問いただしていた。彼女は、しどろもどろになって答えた。
「石鹸を捨てようとしてしまって……」

 アマリアはこの館に勤めて2年経つが、ご主人様の一人である18歳の青年が、大きな声を出したり取り乱したりしたのをこれまで見た事がなかった。同じように格子の中に閉じこめられている彼の二つ違いの弟は、冗談を言って話しかけてきたり、ありとあらゆるわがままを言いながらも魅力たっぷりの笑顔で怒る氣をなくさせてしまったりするのだが、彼はまったく手間をかけない代わりに挨拶以上に口をきいたことすらなかった。

 そのインファンテ323と呼ばれている青年が、三階から転がり落ちるように駆け下りてきて、掃除道具とゴミ袋を持って居住区から出て行こうとしている彼女を止めた。
「洗面台にあった紫の石鹸をしらないか?」
「あ、はい。ずいぶん小さくなっていたので、新しいものとお取り返しましたが」
「捨ててしまったのか? そこか?」

 彼は、返事も待たずにアマリアの持っているゴミ袋を手にとって開けると、ものすごい勢いで中を探った。その剣幕に驚いて、彼女は謝った。石鹸は直に見つかった。他のゴミに混じって、汚くなっていたが、彼は気に留める様子もなかった。

「申しわけありません」
その言葉を聞いて、彼はアマリアの様子にようやく目を留めた。それから、とてもばつの悪そうな顔をした。自分が騒いでしまったことを恥じて。

「すまない。お前が悪いんじゃないんだ。掃除に来るのをわかっていたのに、外に出しておいた俺のせいだ。氣にしないでくれ」
彼は、石鹸を持って3階へと行ってしまった。アマリアは、もう1度謝って頭を下げてから外へと出たのだ。

 彼は、バスルームに入ると、汚れた石鹸をきれいに洗った。ただでさえ小さくなっていた石鹸が溶け出していく。彼はそれを痛みのように感じた。

 アマリアがこれを捨てようとしたのも当然だ。もう香りもないし使うには小さすぎる。4年前にもらってからしばらくは毎日使った。スミレの華やかな香りのするとても大きな石鹸で、いつまででも使いつづけられるように思っていた。

「石鹸持ってきてあげるね」
あの屈託のない少女も、もう大きくなっただろう。もう忘れてしまっただろうか。それとも、D河に落ちる夕陽を見られなくした張本人として、俺のことを恨んでいるのだろうか。

 彼は石鹸をアラバスターの箱に収めると、また捨てられたりしないように洗面台の中の戸棚にしまった。扉を閉めると鏡に自分の姿が映った。縮れた髪に黒い瞳。眼を逸らすとバスルームから出て、また階段を降りていった。隣の居住区で弟の24が、ここのところ執心している娘とふざけ合っている声が聞こえた。彼は、だまって1階へと降りて行った。

 工房には、赤いハイヒールが置いてあった。アントニアにはじめて頼まれて意氣込んで完成させた。この午後にフィッティングに来ると聞いていたが、来る様子はなかった。仕事がたくさんあるのだろう。急いでいるとは言わなかったが、できるだけ急いで、でも、いつものように丁寧に作り上げた。石鹸のこともそうだが、自分は人が重要と思わないことを、大仰に考えてしまうようだとがっかりした。

 短い鳴き声が聞こえたので、窓を見た。鉄格子の嵌まった窓の向こうに、1羽のカモメがいた。少し羽を休めているようだ。

 彼は、工房の隅にもたせかけてあるギターラを取り上げた。カモメに聞かせてやるつもりで、ようやく弾けるようになった「Asas sobre o mundo(世界の上に広がる翼)」を爪弾きはじめた。

 世界を自由に飛び回れるならば、いつもカモメを見上げたりしないだろう。それに、来てくれるかわからない人間を、あてもなく待ったりもしない。小さくなり使い物にならなくなった希望を箱に閉じこめて、捨てなければならない時を引き延ばしたりもしないだろう。

 彼は、自分が存在しなかった者としてラテン語の碑文の彫られた四角い石の下に眠る日まで、ずっとこんな風に独りで生きていくのだと思った。

 カモメは、大きく羽ばたくと再び大西洋の方へ、ギターラの響きよりも興味深い、漁師からかすめ取る魚のことを思い描きながら飛んでいった。

(初出:2016年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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本文中に出てくる曲は、この動画のBGMになっています。手っ取り早く世界観を理解するのにも、この動画はいいかも。

この動画の説明などは、こちら
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Category : 小説・黄金の枷 外伝

Posted by 八少女 夕

名づけは大切

今日は、ちょっと思ったことなどを。

日本のテレビなどは一切観ない環境にいるので、何があるのかはネットのニュースで知ることだけです。だから、私が感じることと、実際の日本にいる方が感じることに温度差があるのかなあとも思うんですけれど。


ネットで見聞きする限り、とあるタレントと某バンドボーカルの不倫を発端にした騒ぎ、ずいぶん大きく取り上げているなあと思います。正直言って、そりゃ、快く思わない視聴者もいるだろうけれど、そこまで騒ぐほど日本には他に大事なニュースがないのかと。

でも、今日書きたいのはその件じゃありません。

その某というボーカルの所属するバンドの名前です。初めて目にしたとき、信じられませんでした。なんて名前だと。とても売れているのですね。そして、「音楽さえ素晴らしければ、私生活やバンドの名前は関係ないでしょ」という意見もあって、それについて否定するつもりはありません。

むしろ、眼を惹くから、その方がいいんだという考えもあるかもしれません。

でも、私はそういう考え方はしない人間です。私は、そのバンドの音楽は聴いたことがありませんし、今後も聴く予定はありません。ましてや購入する予定はまったくありません。だからいい音楽なのかはここでは論じません。

単純に、「結婚したばかりなのに、他の女性と好ましくない関係になった」という人が、そういう名をもつバンドのボーカルだとニュースで読んで「名は体を表す、そのままじゃない」と思ったのです。

誘われることは1000%ないでしょうけれど、そのような名前のバンドの人に「つきあわない」的なことを言われたとして、ほいほいついて行くつもりには全くなれません。子どもの頃からよく知っていて、バンド名なんか関係なくよく知っているという場合は別ですけれど、全く初対面でよく知らない場合、名前やタイトルって、判断材料になると思うのです。つまり、自分がこれから活動していこうとする、顔になるバンド名に、そういう言葉を遣おうと思う人とは親しくなりたくないないと思ってしまうのです。

これは個人名にも言えます。というか、もともとの発想は個人名に関する、私の頑固ともいえるこだわりにあるんだと思います。

それは、おそらく子どもの頃に夢中になった、様々な国の神話や考え方に共通してある「名前がその人間の本質を表す」という考え方を、いまだにもち続けているからじゃないかなと思います。「真実の名前を知っている人間には従わなくてはいけない」とか「運命はつけられた名前に沿って進む」とかその手の考え方ですね。かっこいいとか響きがいいとかではなく、もちろんシャレなんて軽いものでもなく、もっとも大切な言霊として扱うべきだと思っているのです。

私が小説で名前を付ける時には、その響きや意味が、現在作ろうとしているキャラクターにふさわしいものを探します。これだけたくさん作り出していると、一つ一つに「言霊」とまで思ってつけてはいませんが、何でもいいと思ってつけることもありません。そのことによって、読む側も「たぶんこういうキャラ」と想像をつけやすくする意図があるからです。読者というものは、作者である自分ほどそのキャラクターを読み解くのに熱心ではありません。薔薇を背負いそうなキャラに「みよ」、地味で貧乏なキャラに「麗華」とつけてしまうと読者は意図したようには読んでくれなくなる可能性があります。そういう意味でも、名づけは、とても大切なのです。

そして、ブログ名も同じように大切だと思っています。このブログの名は「scribo ergo sum」にしました。わかりやすくはありませんが、「どういう意味だろう」ともう少し詳しく見て下さった方には、私がいいたいことが伝わるタイトルだと思っています。ちなみに「書くからこそ私は存在する」という意味です。

謙遜は日本人の美徳だといいますが、それが行き過ぎて、たとえば「読むに値しない駄文の置き場」といったブログ名をつけてしまうと、意図を誤解されて読んでもらう前に「それなら読む必要ないか」と回れ右されてしまうと思うのです。読んでほしいのに決まっているから公開しているのに、そんなブログ名にするのは天の邪鬼です。

とても親しくなって、ブログ名なんて関係ない、そこを訪問すると決めている時には、もうブログ名や見た目の印象については氣にしません。でも、偶然見つけたブログや足跡から辿ってみたようなブログでは、ぱっと見というのはとても大切だと思うのです。印象のとても悪いブログ名や、反対に極端に卑屈な印象のブログで、長い記事や小説を読もうかなと思うことはまずないのですよね。

それに、先ほどの言霊の話に戻りますが、自分のブログ名が、発表されていく作品とそこで紡がれる人びととの交流の運命を決めていくんじゃないのかなと、そんな風に日頃思っているのです。

あまりにもひどいと感じてしまうバンド名が話題になっているのを見て、こんなことを改めて考えたのでした。
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Posted by 八少女 夕

【小説】目が合ったそのときには - 2 -  俺ん家が温泉風呂になったわけ

scriviamo!


scriviamo!の第九弾です。かじぺたさんは、limeさんの「妄想らくがき『狐画』」につけたお話で参加してくださいました。

かじぺたさんの書いてくださった『狐画』によせて・・・【オレん家の風呂が温泉になった訳】scriviamo!2016参加作品

かじぺたさんは、好奇心旺盛なブロガーさんで、旅のこと、日々のご飯のこと、ご家族のことなどを、楽しいエピソードとともにたくさんご紹介してくださっています。それも、毎日更新! fc2のブログって、私にはいっぱい容量があって永久にいっぱいになんてならないと思っているのですが、かじぺたさんは熱心に更新なさっていらっしゃるので、ひとつのブログはもう一杯になってしまい、現在は二つ目のブログを中心に活躍なさっていらっしゃるのです。が、どうやら旧ブログもしっかりと更新していらっしゃるだけでなく、もう一つのブログもあるみたい。そのパワーはどこに? ただ更新しているだけでなく、ちゃんと中身が充実しているのがすごいです!

そして、それだけでなくて、皆さんのブログへのコメントがとても丁寧で、とっても暖かいのですよ。お人柄にじーんときます。私が仲良くしていただけるようになったのは、わりと最近なんですが(彩洋さんちのオフ会ぐらいがきっかけだったでしょうか)、小説もたくさん読んでいただけているだけでなく、その暖かさに感動している私なのです。

さて、scriviamo!参加用に出してくださったのは、あちこちのブログで競作が盛んなlimeさんの『狐画』につけたお話で、お風呂に入っている時に思いついたとのこと。可愛くて、ハートフルなお話し、温泉みたいにぽかぽか温まっちゃうし、可愛い女の子にきゅんきゅんしてしまいます。

で、お返しなんですが、かじぺたさんのお話は、きちんとまとまっているので、何かを書き加えるのは難しいし、この企画の常連さんはご存知のように、limeさんからの宿題でこのイラストに合わせた話はもう書いたのですよ。同じ絵で別の話は自分の中で上手くイメージできないので、前回「続きが氣になる」とおっしゃった方が何人かいらっしゃったのをいいことに、続編を書いてみました。

かじぺたさんのお話は「オレん家の風呂が温泉になった訳」ですが、沐浴小説ブログ(いつからそうなった?)の管理人としては、これはいただかないと(笑)こちらはそれをもじって「俺ん家が温泉風呂になったわけ」です。

え〜と、かじぺたさんだけでなく、皆さんに謝っておきます。この素敵なイラストでこんな話を書いているのは、私一人です。


参考 (読まなくても話は通じますが、読んだ方がわかりやすいかも)
目が合ったそのときには

「scriviamo! 2016」について
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
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目が合ったそのときには - 2 - 
俺ん家が温泉風呂になったわけ
——Special thanks to Kajipata san & lime san


『狐画』by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。


 絵に背を向けて、俺は颯爽と画廊を後にした。こんなに簡単にいくとは思わなかった。京極のヤツ、間が抜けすぎているんじゃないか? 俺と入れ替わっても騒ぎもしない。あまりのことに呆然としているんだろうか。

 でも、ヤツのことを凝視していると、また目が合ってしまうかもしれないので、さっさとトンズラすることにした。

 昨夜、俺は振った佳子に猫耳少女ならぬ狐ギャルに変身させられてしまった。現実の世界に戻る方法は、目の合った最初の人間と入れ替わることだけ。狂った設定だけれど、賢い俺はこのピンチをチャンスに変えて、超絶イケメン京極の体と一緒に金持ちライフを手に入れたってわけだ。

 商談を続けようとする画廊の親父を振り切って、俺は中央通りに出た。京極の野郎はここから徒歩で帰れるすごいお屋敷に住んでいるのだ。江戸時代から続く名家は、中央区に二百坪の屋敷を構えている。営業の途中に前を通って、「ちくしょう、いい星の下に産まれやがって」と思っていたが、今日からあそこが俺の家だ。

 コートのポケットにiPhoneが入っている。これももう俺のものだ。パスコードは知らないけれど、指紋認証は問題ないし、ヤツのメールも読み放題だ。

 まてよ。佳子が言っていたな。
「その狐は、四角い枠の中なら何処へでも行けるの。PCでも、テレビでも、スマホでも自由に。そして、目の合った最初の人と入れ替わることができる」

 もし、狐にされてしまった京極の野郎がスマホから戻ってこようとしたら……。ダメだ。スマホもPCも避けなくちゃ。ああ、今晩放映するアニメも観られないじゃないか。せっかく京極になったって言うのにいろいろと厄介だな。

 考えているうちに、もう京極の家に着いていた。あたり前だが、玄関の枠も四角かったのでビビったが、狐は出てこなかった。出てきたのは割烹着を着たおばさんだ。

「坊ちゃま。おかえりなさいませ」
う。誰だろう。使用人かな。

「どうかなさいましたか」
「い、いや。なんでもないんだ。実は、会社でちょっと頭を打ってね。記憶が曖昧なんだけれど、二三日で元に戻るだろうと医者にいわれたんだ、そのつもりでいてくれ」

 俺が口からでまかせを言うと、その女はちょっと変な顔をしたが「そうですか」と言った。なんとか誤摩化せたか。

「お食事にしますか。それとも、いつものようにお風呂に入られますか」
「ああ、風呂にするよ。いつものようにね」

「今夜は満月ですから、露天風呂にお入りになるんですよね。いつも通り熱燗をご用意しましょうね」
「え? 露天風呂?」
「ええ。お忘れですか。ご先祖様がわざわざお引きになった温泉のことも」
京極のヤツ、自宅で温泉なんかに入っていたのか。こりゃいいや。今日から、俺んちの風呂は温泉露天。サイコー!

 俺は嬉々として、その女の後について、でかい屋敷の中を進んだ。個人邸宅だというのに、そこら辺の旅館よりも立派な風呂で、楕円形の内風呂の他に、本当に立派な露天風呂があった。香り高い檜の枠で、湯の底に丸い天然石がきれいに敷き詰められているのが見えた。

 わずかに鉄のような匂いのするいい湯だ。女が徳利とお猪口の載ったお盆を持ってきた。もちろん全裸で入っていた俺は、一瞬慌てたが、女は京極の裸は見慣れているのか、「ごゆっくり」と言って出て行った。

 なぜお猪口が二つあるんだろう。俺は首を傾げた。まあ、いいか。

 水面に満月が揺れている。湯氣が立ちのぼる。いい湯だな。こういう風呂で猫耳のギャルにお酌してもらいたいなあ。彼女は言うんだ。「あたし、少し酔っちゃったみたい。肩に頭載せてもいい?」なんちゃって。

 と、思った途端、水面の月が揺れたかと思うと、その中から狐耳の美少女が浮かび上がってきた。え?

 月の光が眩しい黄金になって目がくらんだ。ええっ?

「体、返してもらったから」
あわてて目をこすって、瞼を開けると、目の前に京極がいて、手に持っていたお猪口を傾けて、熱燗を飲んだ。そして、俺は、また狐耳の美少女にされていた。

「坊ちゃま、お済みになりましたか?」
扉の向こうから、さっきの女の声がする。京極は答えた。
「ああ、無事に戻ったよ、サエさん。ありがとう」

 俺は、呆然として京極の顔を見ていたが、ようやく口をきいた。
「なんで……」

「もう五回目なんだよ。サエさんも慣れていてね。こういう時には、この露天風呂に誘導してくれるんだ。四角い枠だろう、この風呂も」
そういうと、日本酒をもう一つのお猪口に入れて奨めてくれた。なんだよ、こいつ、この余裕は。

「俺の目を見ろ!」
再トライしてみたが、京極は笑った。
「ダメなんだよ。前の人の時もそうだったけれど、同じ人とは一度しか入れ替われないらしいよ」

 俺は、がっくりしてしかたなくそのお猪口を受け取った。京極は、月見酒を飲みながら訊いた。
「ところで、君も、うちの会社の人?」

 俺は、もちろん黙秘だ。
「そんなこと、あんたには、関係ないだろう」
「まあね。でも、否定しないってことはそうなんだろうね」

「前にもうちの会社のヤツが、狐になったのか」
「少なくとも三人はね。人事と総務と経理」

 俺は、それで氣になっていたことを口にした。
「経理の関谷佳子、今日会社に来たか?」

 京極は、じっと俺を見つめてから答えた。
「いや、有休だそうだ。営業の山内拓也が今日、その届けと彼自身の退職届を持って来たよ」

 お猪口を持つ手が止まった。
「え? 退職?」
「ああ、そうだ。なんだっけ、外国に行くとか」

 俺は、ざばんと温泉から立ち上がった。
「なんで俺が、外国に行くんだ~!」

 京極の目が、不自然に逸らされたので、俺は美少女のあられもない姿をヤツにさらしてしまったことに氣がついて、慌てて湯の中に戻った。

「君、山内だったんだな」
不覚……。バレてしまった。

「そうだよ。悪かったな。でも、助けてくれよ。佳子のヤツ、あのままトンズラするつもりだ」
「関谷くんが、君の体を乗っ取っているのか?」
「うん。俺が振ったのを恨んでいるのかな。取り返されないように逃げるつもりだ。居場所がわからないと、追いかけられないよ。どうしよう」
「でも、変だな。石橋を叩いて渡る関谷くんにしては行動が早いな」

 言われてみればそうだった。佳子は、一昨日までは存在すらもわからないくらいだったのだ。いきなりの告白、振ったらその日のうちに復讐。

「告白をしてきた佳子、もしかして本人じゃなくて乗っ取られていたのかな」
「その可能性はあるな。そして、その誰かは一度、狐女になってから今度は君を乗っ取ったのかもしれないな」

 京極は、俺のお猪口にまた熱燗を注いでくれた。
「俺はどうすればいいんだろう。俺の体の中にいるヤツの裏をかいて、また入れ替われればいいんだけれど。絶対に返したくないって宣言されちゃったんだよ」

「関谷くんとコンタクトをとって、まず彼女が本人なのか確認した方がいいな。君の中にいるのが誰なのかも確認した方がいいし、それに、狐女になったことのあるうちの社員たちと話をして、もともとの狐がどこにいるのかも……」
「でも、それがわかるまで、俺はどうしたらいいんだよ。この恰好じゃどこにも行けないし、うっかり変な奴と目が合ったら、またおかしなことに」

 京極は、う~んと言って月を見上げた。
「じゃあ、しばらくここにいろよ。僕が明日会社に行って、関係者と話をして情報を集める。この露天風呂には、ほとんど誰も来ないし、誰か来たらお湯の中に消えればいい。サエさんには、食事を運んでくれるよう言っておくから」

 俺は、京極の顔をみた。体を乗っ取ろうとした奴に、なんとまあ親切なこった。
「お前、そんなに人がいいから五度も乗っ取られるんだぞ」
「そうかな。でも、君がその姿でここにいる限り、新たな混乱は起こらないだろう。その方がこっちにもいいんだよ」

「ふうん。じゃあ、お言葉に甘えるかな。でも、この風呂の中に一人でずっと居るのは退屈だな。マンガとかお前持っていなさそうだよな。日中、アニメとか観てもいいかな?」

 京極は呆れた顔をしたが、頷いた。
「しかたないな。後でテレビとリモコンをここに持ってくるよ。それと悪いが、裸でそこら辺をうろちょろしないでくれ」

「そんなこといわれても、服持っていないよ」
「晒し布かタオルを用意してもらうから、それでも巻いておけよ」

 それよりもスクール水着はって言おうとしてやめた。俺は、京極にこれ以上呆れられないように、大人しくお猪口を傾けた。まあいいや、しばらくはこの温泉風呂を根城に、ちょっとした休暇を楽しもうっと。アニメ三昧の。

(初出:2016年2月 書き下ろし)
関連記事 (Category: scriviamo! 2016)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】目が合ったそのときには - 2 -  俺ん家が温泉風呂になったわけ

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


scriviamo!の第九弾です。かじぺたさんは、limeさんの「妄想らくがき『狐画』」につけたお話で参加してくださいました。

かじぺたさんの書いてくださった『狐画』によせて・・・【オレん家の風呂が温泉になった訳】scriviamo!2016参加作品

かじぺたさんは、好奇心旺盛なブロガーさんで、旅のこと、日々のご飯のこと、ご家族のことなどを、楽しいエピソードとともにたくさんご紹介してくださっています。それも、毎日更新! fc2のブログって、私にはいっぱい容量があって永久にいっぱいになんてならないと思っているのですが、かじぺたさんは熱心に更新なさっていらっしゃるので、ひとつのブログはもう一杯になってしまい、現在は二つ目のブログを中心に活躍なさっていらっしゃるのです。が、どうやら旧ブログもしっかりと更新していらっしゃるだけでなく、もう一つのブログもあるみたい。そのパワーはどこに? ただ更新しているだけでなく、ちゃんと中身が充実しているのがすごいです!

そして、それだけでなくて、皆さんのブログへのコメントがとても丁寧で、とっても暖かいのですよ。お人柄にじーんときます。私が仲良くしていただけるようになったのは、わりと最近なんですが(彩洋さんちのオフ会ぐらいがきっかけだったでしょうか)、小説もたくさん読んでいただけているだけでなく、その暖かさに感動している私なのです。

さて、scriviamo!参加用に出してくださったのは、あちこちのブログで競作が盛んなlimeさんの『狐画』につけたお話で、お風呂に入っている時に思いついたとのこと。可愛くて、ハートフルなお話し、温泉みたいにぽかぽか温まっちゃうし、可愛い女の子にきゅんきゅんしてしまいます。

で、お返しなんですが、かじぺたさんのお話は、きちんとまとまっているので、何かを書き加えるのは難しいし、この企画の常連さんはご存知のように、limeさんからの宿題でこのイラストに合わせた話はもう書いたのですよ。同じ絵で別の話は自分の中で上手くイメージできないので、前回「続きが氣になる」とおっしゃった方が何人かいらっしゃったのをいいことに、続編を書いてみました。

かじぺたさんのお話は「オレん家の風呂が温泉になった訳」ですが、沐浴小説ブログ(いつからそうなった?)の管理人としては、これはいただかないと(笑)こちらはそれをもじって「俺ん家が温泉風呂になったわけ」です。

え〜と、かじぺたさんだけでなく、皆さんに謝っておきます。この素敵なイラストでこんな話を書いているのは、私一人です。


参考 (読まなくても話は通じますが、読んだ方がわかりやすいかも)
目が合ったそのときには

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俺ん家が温泉風呂になったわけ
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『狐画』by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。


 絵に背を向けて、俺は颯爽と画廊を後にした。こんなに簡単にいくとは思わなかった。京極のヤツ、間が抜けすぎているんじゃないか? 俺と入れ替わっても騒ぎもしない。あまりのことに呆然としているんだろうか。

 でも、ヤツのことを凝視していると、また目が合ってしまうかもしれないので、さっさとトンズラすることにした。

 昨夜、俺は振った佳子に猫耳少女ならぬ狐ギャルに変身させられてしまった。現実の世界に戻る方法は、目の合った最初の人間と入れ替わることだけ。狂った設定だけれど、賢い俺はこのピンチをチャンスに変えて、超絶イケメン京極の体と一緒に金持ちライフを手に入れたってわけだ。

 商談を続けようとする画廊の親父を振り切って、俺は中央通りに出た。京極の野郎はここから徒歩で帰れるすごいお屋敷に住んでいるのだ。江戸時代から続く名家は、中央区に二百坪の屋敷を構えている。営業の途中に前を通って、「ちくしょう、いい星の下に産まれやがって」と思っていたが、今日からあそこが俺の家だ。

 コートのポケットにiPhoneが入っている。これももう俺のものだ。パスコードは知らないけれど、指紋認証は問題ないし、ヤツのメールも読み放題だ。

 まてよ。佳子が言っていたな。
「その狐は、四角い枠の中なら何処へでも行けるの。PCでも、テレビでも、スマホでも自由に。そして、目の合った最初の人と入れ替わることができる」

 もし、狐にされてしまった京極の野郎がスマホから戻ってこようとしたら……。ダメだ。スマホもPCも避けなくちゃ。ああ、今晩放映するアニメも観られないじゃないか。せっかく京極になったって言うのにいろいろと厄介だな。

 考えているうちに、もう京極の家に着いていた。あたり前だが、玄関の枠も四角かったのでビビったが、狐は出てこなかった。出てきたのは割烹着を着たおばさんだ。

「坊ちゃま。おかえりなさいませ」
う。誰だろう。使用人かな。

「どうかなさいましたか」
「い、いや。なんでもないんだ。実は、会社でちょっと頭を打ってね。記憶が曖昧なんだけれど、二三日で元に戻るだろうと医者にいわれたんだ、そのつもりでいてくれ」

 俺が口からでまかせを言うと、その女はちょっと変な顔をしたが「そうですか」と言った。なんとか誤摩化せたか。

「お食事にしますか。それとも、いつものようにお風呂に入られますか」
「ああ、風呂にするよ。いつものようにね」

「今夜は満月ですから、露天風呂にお入りになるんですよね。いつも通り熱燗をご用意しましょうね」
「え? 露天風呂?」
「ええ。お忘れですか。ご先祖様がわざわざお引きになった温泉のことも」
京極のヤツ、自宅で温泉なんかに入っていたのか。こりゃいいや。今日から、俺んちの風呂は温泉露天。サイコー!

 俺は嬉々として、その女の後について、でかい屋敷の中を進んだ。個人邸宅だというのに、そこら辺の旅館よりも立派な風呂で、楕円形の内風呂の他に、本当に立派な露天風呂があった。香り高い檜の枠で、湯の底に丸い天然石がきれいに敷き詰められているのが見えた。

 わずかに鉄のような匂いのするいい湯だ。女が徳利とお猪口の載ったお盆を持ってきた。もちろん全裸で入っていた俺は、一瞬慌てたが、女は京極の裸は見慣れているのか、「ごゆっくり」と言って出て行った。

 なぜお猪口が二つあるんだろう。俺は首を傾げた。まあ、いいか。

 水面に満月が揺れている。湯氣が立ちのぼる。いい湯だな。こういう風呂で猫耳のギャルにお酌してもらいたいなあ。彼女は言うんだ。「あたし、少し酔っちゃったみたい。肩に頭載せてもいい?」なんちゃって。

 と、思った途端、水面の月が揺れたかと思うと、その中から狐耳の美少女が浮かび上がってきた。え?

 月の光が眩しい黄金になって目がくらんだ。ええっ?

「体、返してもらったから」
あわてて目をこすって、瞼を開けると、目の前に京極がいて、手に持っていたお猪口を傾けて、熱燗を飲んだ。そして、俺は、また狐耳の美少女にされていた。

「坊ちゃま、お済みになりましたか?」
扉の向こうから、さっきの女の声がする。京極は答えた。
「ああ、無事に戻ったよ、サエさん。ありがとう」

 俺は、呆然として京極の顔を見ていたが、ようやく口をきいた。
「なんで……」

「もう五回目なんだよ。サエさんも慣れていてね。こういう時には、この露天風呂に誘導してくれるんだ。四角い枠だろう、この風呂も」
そういうと、日本酒をもう一つのお猪口に入れて奨めてくれた。なんだよ、こいつ、この余裕は。

「俺の目を見ろ!」
再トライしてみたが、京極は笑った。
「ダメなんだよ。前の人の時もそうだったけれど、同じ人とは一度しか入れ替われないらしいよ」

 俺は、がっくりしてしかたなくそのお猪口を受け取った。京極は、月見酒を飲みながら訊いた。
「ところで、君も、うちの会社の人?」

 俺は、もちろん黙秘だ。
「そんなこと、あんたには、関係ないだろう」
「まあね。でも、否定しないってことはそうなんだろうね」

「前にもうちの会社のヤツが、狐になったのか」
「少なくとも三人はね。人事と総務と経理」

 俺は、それで氣になっていたことを口にした。
「経理の関谷佳子、今日会社に来たか?」

 京極は、じっと俺を見つめてから答えた。
「いや、有休だそうだ。営業の山内拓也が今日、その届けと彼自身の退職届を持って来たよ」

 お猪口を持つ手が止まった。
「え? 退職?」
「ああ、そうだ。なんだっけ、外国に行くとか」

 俺は、ざばんと温泉から立ち上がった。
「なんで俺が、外国に行くんだ~!」

 京極の目が、不自然に逸らされたので、俺は美少女のあられもない姿をヤツにさらしてしまったことに氣がついて、慌てて湯の中に戻った。

「君、山内だったんだな」
不覚……。バレてしまった。

「そうだよ。悪かったな。でも、助けてくれよ。佳子のヤツ、あのままトンズラするつもりだ」
「関谷くんが、君の体を乗っ取っているのか?」
「うん。俺が振ったのを恨んでいるのかな。取り返されないように逃げるつもりだ。居場所がわからないと、追いかけられないよ。どうしよう」
「でも、変だな。石橋を叩いて渡る関谷くんにしては行動が早いな」

 言われてみればそうだった。佳子は、一昨日までは存在すらもわからないくらいだったのだ。いきなりの告白、振ったらその日のうちに復讐。

「告白をしてきた佳子、もしかして本人じゃなくて乗っ取られていたのかな」
「その可能性はあるな。そして、その誰かは一度、狐女になってから今度は君を乗っ取ったのかもしれないな」

 京極は、俺のお猪口にまた熱燗を注いでくれた。
「俺はどうすればいいんだろう。俺の体の中にいるヤツの裏をかいて、また入れ替われればいいんだけれど。絶対に返したくないって宣言されちゃったんだよ」

「関谷くんとコンタクトをとって、まず彼女が本人なのか確認した方がいいな。君の中にいるのが誰なのかも確認した方がいいし、それに、狐女になったことのあるうちの社員たちと話をして、もともとの狐がどこにいるのかも……」
「でも、それがわかるまで、俺はどうしたらいいんだよ。この恰好じゃどこにも行けないし、うっかり変な奴と目が合ったら、またおかしなことに」

 京極は、う~んと言って月を見上げた。
「じゃあ、しばらくここにいろよ。僕が明日会社に行って、関係者と話をして情報を集める。この露天風呂には、ほとんど誰も来ないし、誰か来たらお湯の中に消えればいい。サエさんには、食事を運んでくれるよう言っておくから」

 俺は、京極の顔をみた。体を乗っ取ろうとした奴に、なんとまあ親切なこった。
「お前、そんなに人がいいから五度も乗っ取られるんだぞ」
「そうかな。でも、君がその姿でここにいる限り、新たな混乱は起こらないだろう。その方がこっちにもいいんだよ」

「ふうん。じゃあ、お言葉に甘えるかな。でも、この風呂の中に一人でずっと居るのは退屈だな。マンガとかお前持っていなさそうだよな。日中、アニメとか観てもいいかな?」

 京極は呆れた顔をしたが、頷いた。
「しかたないな。後でテレビとリモコンをここに持ってくるよ。それと悪いが、裸でそこら辺をうろちょろしないでくれ」

「そんなこといわれても、服持っていないよ」
「晒し布かタオルを用意してもらうから、それでも巻いておけよ」

 それよりもスクール水着はって言おうとしてやめた。俺は、京極にこれ以上呆れられないように、大人しくお猪口を傾けた。まあいいや、しばらくはこの温泉風呂を根城に、ちょっとした休暇を楽しもうっと。アニメ三昧の。

(初出:2016年2月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】命のパン

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


scriviamo!の第八弾です。canariaさんは、楽しい四コママンガで参加してくださいました。

canariaさんの『「scriviamo! 2016」参加作品 』

canariaさんは、Nympheさんというもう一つのお名前で独特の世界観と研ぎすまされた美意識の結晶を小説・イラスト・動画などで総合芸術を創作なさるブロガーさんです。以前、fc2でお持ちになっていたブログの頃からのお付き合いで、最初のscriviamo!でもご参加いただいたことがあります。お返ししたのはcanariaさんの「侵蝕恋愛」にトリビュートするソネットでしたが、scriviamo!のお返しで一番たくさん拍手をいただき、たぶん私の作る日本語ソネットでこれを超えるものはないだろうという作品。それだけcanariaさんの物語の世界観が高みにあるからだと思うのです。

今回の作品は、私の「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の登場人物とcanariaさんの手作りパンの共演なのですよ! 私も食べたことのない尊いパンを、なぜザッカがもらうと嫉妬剥き出しの私です(笑)

で、どうしようかな〜と悩んだ結果、このありがたいシチュエーションをそのまま外伝に書いてしまうことにしました。こういう機会でもないと、ザッカの話なんて書くことないし。ザッカのイメージは、動画記事で発表した公式(おっさん)のものでも、canariaさんの描いてくださった長髪美青年でもお好きな方で(笑)長髪美青年の方が萌える?


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2016」について
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森の詩 Cantum Silvae - 外伝
命のパン
——Special thanks to canaria san


 石壁に置かれた牛脂灯の焔が揺れた。わずかに黒い煙を吐き出して、焦げた臭いが漂った。イグナーツ・ザッカは、外で監視を命じられた兵士が交代の時に「ひどく冷えるな」と弱音を吐くのを耳にした。

 彼は笑みを漏らした。宰相としての役目を解かれ、全財産を没収され、罪人としてこの西の塔に幽閉されて半年近くなるが、その待遇は悪くはなかった。彼はこの塔から出ることはできないが、拷問をされることもなければ餓えることもなかった。この部屋は、王侯貴族からしてみれば酷い待遇の監獄なのかもしれないが、彼がかつて暮らしていた修道院の生活と大して違わなかったし、ましてや貧民街とは較べるまでもなかった。

 ルーヴラン王国が、グランドロン王国に対する奸計の咎を全て彼に負わせて事態を収束させたものの、そのまま彼を殺さなかった上に、そこそこの待遇を保っている理由は一つだった。彼らにはまだザッカが必要だったのだ。

 宰相時代の副官であったジュリアン・ブリエは、現在は親政をしている国王エクトール二世の名代として時おり慰問にやってくる。それはただの口実で、彼らはザッカの助言を必要としていた。ザッカの築き上げて来た政策の大半はまだそのまま残っていた。多くの貴族たちは財政緊縮のために廃止された特権を元に戻してもらうことを望んだが、グランドロンに賠償として差し出した直轄領からの収入が途絶えた今、国にそのような余裕はなかった。

 ザッカの宰相時代に恩恵を受けた親類縁者がいれば、そこから没収することも出来たかもしれない。だが、外国人であり、さらにどの貴族とも血縁関係のないザッカには資産はほとんどなかった。彼の得ていた少なからぬ報酬の多くは、治水事業と貧しい者への施しに使われていた。既に多くの国費も使われている治水事業を取りやめれば、国の未来に絶望が待っていることは凡庸な国王や欲の張った臣下たちにもわかっていたので、それも続行せざるを得なかった。

 ザッカは囚われの身のままで、王侯貴族たちのそしりを受けつつ、いまだにルーヴラン王国のために日々心を砕かざるを得なかった。

 何のために。彼は自問する。私の企ては失敗した。念入りに立てた計画の全てが無に帰したのだ。神になど頼らぬ、わが意志で世界を変えると決めた。そして、この国であれば、私の思う結果が出せると信じた。だが、神は思わぬ駒を進めた。役目を解かれた私が、今さら心を砕いて何になる。私はこの塔の外には出られぬ。私の施しを待ち、終油の秘蹟を求めるあの貧しい者たちのところへももう足を運ぶことは叶わない。何百人もの《マルコ》たち。私は負けたのだ。

 小さいノックが聞こえた。彼に食事を運ぶ召使いや、ブリエの先導をしてここに入ってくる兵士たちはノックなどしない。訝って扉ヘ行くと、外ら中をのぞくための小さい窓が開けられ、フードを目深に被った人物が立っているのが見えた。
「何者だ」

「名を申すことはできませぬが、お氣の毒に思う者でございます。秘密裡に参りました。このような囚われの御身、さぞおつらいこととお察し申し上げます」
「ご心配はありがたいが、危険を冒してお越しいただくほどの苦境にはござらぬ」

「少しでもお力になりたく、これを持参いたしました。お体を大切になさり、どうぞ好機をお待ちくださいませ。我々が必ずや……」
そう言うと、彼の手に何かの塊を押し付けて、返事も待たずに立ち去った。

 小窓がカタンと閉まり、揺れていた。彼は、それをしばらく見ていたが、やがて受け取った包みに目を落とした。草木で染められた布を開くと、焼いたばかりと思われるパンが現れた。丁寧に挽いた小麦粉から作られ、干しぶどうの入った高価なパンだった。彼は、しばし呆然とし、想いを少年時代に馳せた。

* * *


 少年イグナツィオは、ふらつく体を壁に押し付けて、修道院の廊下を進んだ。看病をしていた修道士パウロが、院長と話があると言って席を外したので、チャンスだと思った。

 彼が倒れてから一週間が経っていた。全身の痛みと一度も経験したことのない高熱で、他のことなど考えられなかったが、状態が良くなってきてから心配でたまらなくなった。一週間も「あそこ」に行っていなかった。彼の持っていく食糧だけしか食べるもののない小さな少年は、どのような思いで自分を待っているのだろう。イグナツィオは、食事の時に食べずにとっておいたパンを懐にしまうと、なんとか外套を身に着け裏庭へと向かった。不浄なもの用に設けられて普段は使われていない出口からそっと修道院の外に出た。

 修道院から子供の足でも半刻もあれば辿りつくほどの近さに、貧民街はあった。そこへ初めて行ったのは、パウロと一緒だった。院長に託された施しの食糧を抱えて行ったが、それは全く足りていなかった。子供たちは何人かいたが、走れて大人たちの隙をついて食糧に手を伸ばせたものだけが少しのパンや果物を手にすることができた。

 イグナツィオは、その時にマルコと知り合ったのだ。マルコは、イグナツィオと二つしか違わなかったが、痩せこけて小さく、まるで五つも歳下のように見えた。一番最初に近づいてきて手を伸ばしたけれど、食糧には届かず、大きな男に横取りされてしまった。イグナツィオが差し出したリンゴを手にしたのに、他の少年にもぎ取られてしまった。結局お腹をすかせたまま涙をにじませて、彼はイグナツィオの持っていた籠に顔を埋めた。パン屑を少しでも舐めようとして。

 イグナツィオは、その様子に心を痛め、次の日に自分の食事のパンを一つ残しておいた。修道院で用意される食事は決して多くなく、パンを一つ失うのはお腹がすいてつらかった。それでも、彼はパンを隠し持ち、こっそりと抜け出して、マルコにパンを持っていってやったのだ。

 それから、彼は矛盾に苦しむことになった。倒れるほどにお腹をすかしているのはマルコだけではなく、彼は時折マルコを失望させても他の弱い子供にパンをやらなくてはならなかった。マルコは、イグナツィオの行為に恨みがましいことは言わなかった。イグナツィオは、少なくともマルコを一番目にかけていたから。

 マルコは、だが、少しずつ弱っていった。パウロとともに正式の施しに食糧を持ってくる時に、走ってくることはできなくなった。イグナツィオは、走ることのできない人間たちが、餓えて病に陥り、やがて「終油の秘蹟」を必要とする段階へと進むことも理解した。パウロも、他の修道士たちも、神父たちも、多くのことはできなかった。

 イグナツィオは、まだ残る熱でふらつきながらも、貧民街へと走った。マルコは、もう一週間も何も食べていない。

 彼は、貧民街の入り口で既に嫌な臭いを嗅いだ。また死人が出たのだ。マルコの住む小屋の近くらしい。マルコがいつも踞っている小屋の裏手に回ると、ものすごい腐臭がして、黒く蠢く何かがあった。彼が入ってきた振動で、それはわっと動き、たかっていたハエの大群だったことがわかった。

 目にしたものにショックを受けて、イグナツィオは、すぐに来た道を戻った。

 わずかに見えた手はマルコのサイズだった。いつも身に付けていたボロ着もすぐにそれとわかった。何日あの状態だったかはわからない。だが、幼い少年は「終油の秘蹟」を受けることもなく、イグナツィオに別れを告げることもなく、この世から姿を消した。

 悔しさと悲しさに涙がにじむ。自分が無力な子供であることや、修道院で日々教えられている教えと現実との矛盾に怒りを感じた。だが、彼に神の慈悲と偉大さをを教える院長やパウロたちが善良で努力を惜しまない立派な大人であることも、彼の苦しみを増した。怒りの行き場がどこにもなかったから。
 
 部屋に戻る前に修道院長の部屋の前を通る。院長とパウロの声が聞こえて、彼は思わず動きを止めた。

「本当に医者を呼ぶ必要はないのかね」
「いいえ。ここでは院長様やそれに準じるような方が酷い病になった時以外、お医者様を呼ぶことなどないではないですか」
「だが、あの子は……」

「院長。あの子は、私がここへお世話になることになったたまたま同じ日にこの修道院の前に捨てられていた孤児。お忘れにならないでください」
「……。わかっている。だが、医者を呼ばなかったために、取り返しのつかないことになる可能性も……」

「院長。私にあの子を託した方は、『殺せ』とお命じになったのですよ」
「なんと!」
イグナツィオは、びくっと身を震わせた。それから戸口から漏れてくる弱い光をじっと見つめた。

「あの方は、ご自分の利益のためにそうおっしゃったのではありません。もしあの女性の産んだのが男児で、その子が生き延びていることが今わかれば、国は二つに分かれ恐るべき争いになるでしょう。すでに荒廃している土地がさらに戦火にさらされ、多くの民が今よりも酷い苦しみに晒されることとなる。あの子供は争いの種なのです。あの方はこうなることがわかっていたので私に命令を下されたのです」

「だが、パウロ。そなたは神に命を捧げた身ではないか」
「はい。ですから、私にはどうしてもあの方の命令を実行することができませんでした。いえ、幼子の無垢な寝顔を前にして、どうすることもできなかったのです」
「だから、ここへあの子を連れてきたのか。では、なおさら医者を」

「院長。私にはわからないのです。私のしたことは正しかったのか。あの子を生かそうとしたのは神の御心に適っていることだと思っていました。だが、あの子は年々あの方に似てきています。同年齢の子たちよりもずっと聡く、政や世の理不尽に対しての感受性も強い。このまま育てば、あるいはいずれあの方の心配なさった事態が起こるかもしれません。それを本当に神も望まれているのか」
「我々が神を御心を知ることはできないのだよ、パウロ」

「ええ。でも、私は神のご意志に従いたいと思います。もし、今あの子が病で命を落とすのならば、それが神のお答えだと納得することができます。そして、あの子が生き延びるのならば、これまでと同じようにあの子を、誰も頼る者のない孤児であるあの子の支えとなっていくつもりです」

 少年は、静かにその場を離れた。震えているのは、熱のせいだけではなかった。部屋に戻ると扉を閉じた。しばしその場に踞っていたが、やがて、のっそり立ち上がって外套を脱ぎ元のように鉤に掛けた。膨らんだポケットから固くなったパンを取り出した。

 なす術もなく死んでいったマルコの姿が浮かんだ。あれが神の意思だというのか。私も、あんな風に朽ちていくべきだというのか。嫌だ。そんな言葉で、納得するものか。

 吐きそうになるのを堪えて、彼はパンを食べた。パンの味が乾いた喉から空腹で疲れた胎内に沁みていく。食べてもう一度健康になる。医者を呼んでもらえなくても、マルコみたいに弱っていったりするものか。彼は、ひと口ごとにパンを噛み締めた。

* * *


 あれから四十年近くが経った。故郷を離れ、名前を変えて、神の家とも袂を分かった。だが、彼の前にはいつも無念さを表現することもできずに消えていった何百人もの《マルコ》たちがいた。彼は世界を変えるために政治家になった。彼の存在意義のためでもなく、豪奢な生活や王侯貴族の名誉のためでもなかった。そして、実現可能であるならば生まれ育ったセンヴリでも、ルーヴランでもかまわなかった。

 人生が終わりに近づいた今、ようやく目的に近づけるかと思ったが、叶わなかった。この石塀に囲まれた西の塔で彼を苦しめていたのは、寒さでも誇りの喪失でもなかった。まだ何も変えられていない焦燥と虚しさだった。世界は重く、日々は苦かった。

 彼は、渡されたパンの意味を考えた。

 柔らかい上等なパンを口に入れた。わずかな甘味が口の中に広がっていく。あの時と同じだ。餓えた魂に、力がみなぎっていく。

「諦めるなというのか……。私の道はまだ半ばなのだと」
彼は、笑うと次のひとかけらを手でちぎった。

(初出:2016年2月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】命のパン

scriviamo!


scriviamo!の第八弾です。canariaさんは、楽しい四コママンガで参加してくださいました。

canariaさんの『「scriviamo! 2016」参加作品 』

ザッカ・四コマ by canariaさん
この四コマ漫画の著作権はcanariaさんにあります。無断転用は固くお断りします。


canariaさんは、Nympheさんというもう一つのお名前で独特の世界観と研ぎすまされた美意識の結晶を小説・イラスト・動画などで総合芸術を創作なさるブロガーさんです。以前、fc2でお持ちになっていたブログの頃からのお付き合いで、最初のscriviamo!でもご参加いただいたことがあります。お返ししたのはcanariaさんの「侵蝕恋愛」にトリビュートするソネットでしたが、scriviamo!のお返しで一番たくさん拍手をいただき、たぶん私の作る日本語ソネットでこれを超えるものはないだろうという作品。それだけcanariaさんの物語の世界観が高みにあるからだと思うのです。

今回の作品は、私の「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の登場人物とcanariaさんの手作りパンの共演なのですよ! 私も食べたことのない尊いパンを、なぜザッカがもらうと嫉妬剥き出しの私です(笑)

で、どうしようかな〜と悩んだ結果、このありがたいシチュエーションをそのまま外伝に書いてしまうことにしました。こういう機会でもないと、ザッカの話なんて書くことないし。ザッカのイメージは、動画記事で発表した公式(おっさん)のものでも、canariaさんの描いてくださった長髪美青年でもお好きな方で(笑)長髪美青年の方が萌える?


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あらすじと登場人物


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森の詩 Cantum Silvae - 外伝
命のパン
——Special thanks to canaria san


 石壁に置かれた牛脂灯の焔が揺れた。わずかに黒い煙を吐き出して、焦げた臭いが漂った。イグナーツ・ザッカは、外で監視を命じられた兵士が交代の時に「ひどく冷えるな」と弱音を吐くのを耳にした。

 彼は笑みを漏らした。宰相としての役目を解かれ、全財産を没収され、罪人としてこの西の塔に幽閉されて半年近くなるが、その待遇は悪くはなかった。彼はこの塔から出ることはできないが、拷問をされることもなければ餓えることもなかった。この部屋は、王侯貴族からしてみれば酷い待遇の監獄なのかもしれないが、彼がかつて暮らしていた修道院の生活と大して違わなかったし、ましてや貧民街とは較べるまでもなかった。

 ルーヴラン王国が、グランドロン王国に対する奸計の咎を全て彼に負わせて事態を収束させたものの、そのまま彼を殺さなかった上に、そこそこの待遇を保っている理由は一つだった。彼らにはまだザッカが必要だったのだ。

 宰相時代の副官であったジュリアン・ブリエは、現在は親政をしている国王エクトール二世の名代として時おり慰問にやってくる。それはただの口実で、彼らはザッカの助言を必要としていた。ザッカの築き上げて来た政策の大半はまだそのまま残っていた。多くの貴族たちは財政緊縮のために廃止された特権を元に戻してもらうことを望んだが、グランドロンに賠償として差し出した直轄領からの収入が途絶えた今、国にそのような余裕はなかった。

 ザッカの宰相時代に恩恵を受けた親類縁者がいれば、そこから没収することも出来たかもしれない。だが、外国人であり、さらにどの貴族とも血縁関係のないザッカには資産はほとんどなかった。彼の得ていた少なからぬ報酬の多くは、治水事業と貧しい者への施しに使われていた。既に多くの国費も使われている治水事業を取りやめれば、国の未来に絶望が待っていることは凡庸な国王や欲の張った臣下たちにもわかっていたので、それも続行せざるを得なかった。

 ザッカは囚われの身のままで、王侯貴族たちのそしりを受けつつ、いまだにルーヴラン王国のために日々心を砕かざるを得なかった。

 何のために。彼は自問する。私の企ては失敗した。念入りに立てた計画の全てが無に帰したのだ。神になど頼らぬ、わが意志で世界を変えると決めた。そして、この国であれば、私の思う結果が出せると信じた。だが、神は思わぬ駒を進めた。役目を解かれた私が、今さら心を砕いて何になる。私はこの塔の外には出られぬ。私の施しを待ち、終油の秘蹟を求めるあの貧しい者たちのところへももう足を運ぶことは叶わない。何百人もの《マルコ》たち。私は負けたのだ。

 小さいノックが聞こえた。彼に食事を運ぶ召使いや、ブリエの先導をしてここに入ってくる兵士たちはノックなどしない。訝って扉ヘ行くと、外ら中をのぞくための小さい窓が開けられ、フードを目深に被った人物が立っているのが見えた。
「何者だ」

「名を申すことはできませぬが、お氣の毒に思う者でございます。秘密裡に参りました。このような囚われの御身、さぞおつらいこととお察し申し上げます」
「ご心配はありがたいが、危険を冒してお越しいただくほどの苦境にはござらぬ」

「少しでもお力になりたく、これを持参いたしました。お体を大切になさり、どうぞ好機をお待ちくださいませ。我々が必ずや……」
そう言うと、彼の手に何かの塊を押し付けて、返事も待たずに立ち去った。

 小窓がカタンと閉まり、揺れていた。彼は、それをしばらく見ていたが、やがて受け取った包みに目を落とした。草木で染められた布を開くと、焼いたばかりと思われるパンが現れた。丁寧に挽いた小麦粉から作られ、干しぶどうの入った高価なパンだった。彼は、しばし呆然とし、想いを少年時代に馳せた。

* * *


 少年イグナツィオは、ふらつく体を壁に押し付けて、修道院の廊下を進んだ。看病をしていた修道士パウロが、院長と話があると言って席を外したので、チャンスだと思った。

 彼が倒れてから一週間が経っていた。全身の痛みと一度も経験したことのない高熱で、他のことなど考えられなかったが、状態が良くなってきてから心配でたまらなくなった。一週間も「あそこ」に行っていなかった。彼の持っていく食糧だけしか食べるもののない小さな少年は、どのような思いで自分を待っているのだろう。イグナツィオは、食事の時に食べずにとっておいたパンを懐にしまうと、なんとか外套を身に着け裏庭へと向かった。不浄なもの用に設けられて普段は使われていない出口からそっと修道院の外に出た。

 修道院から子供の足でも半刻もあれば辿りつくほどの近さに、貧民街はあった。そこへ初めて行ったのは、パウロと一緒だった。院長に託された施しの食糧を抱えて行ったが、それは全く足りていなかった。子供たちは何人かいたが、走れて大人たちの隙をついて食糧に手を伸ばせたものだけが少しのパンや果物を手にすることができた。

 イグナツィオは、その時にマルコと知り合ったのだ。マルコは、イグナツィオと二つしか違わなかったが、痩せこけて小さく、まるで五つも歳下のように見えた。一番最初に近づいてきて手を伸ばしたけれど、食糧には届かず、大きな男に横取りされてしまった。イグナツィオが差し出したリンゴを手にしたのに、他の少年にもぎ取られてしまった。結局お腹をすかせたまま涙をにじませて、彼はイグナツィオの持っていた籠に顔を埋めた。パン屑を少しでも舐めようとして。

 イグナツィオは、その様子に心を痛め、次の日に自分の食事のパンを一つ残しておいた。修道院で用意される食事は決して多くなく、パンを一つ失うのはお腹がすいてつらかった。それでも、彼はパンを隠し持ち、こっそりと抜け出して、マルコにパンを持っていってやったのだ。

 それから、彼は矛盾に苦しむことになった。倒れるほどにお腹をすかしているのはマルコだけではなく、彼は時折マルコを失望させても他の弱い子供にパンをやらなくてはならなかった。マルコは、イグナツィオの行為に恨みがましいことは言わなかった。イグナツィオは、少なくともマルコを一番目にかけていたから。

 マルコは、だが、少しずつ弱っていった。パウロとともに正式の施しに食糧を持ってくる時に、走ってくることはできなくなった。イグナツィオは、走ることのできない人間たちが、餓えて病に陥り、やがて「終油の秘蹟」を必要とする段階へと進むことも理解した。パウロも、他の修道士たちも、神父たちも、多くのことはできなかった。

 イグナツィオは、まだ残る熱でふらつきながらも、貧民街へと走った。マルコは、もう一週間も何も食べていない。

 彼は、貧民街の入り口で既に嫌な臭いを嗅いだ。また死人が出たのだ。マルコの住む小屋の近くらしい。マルコがいつも踞っている小屋の裏手に回ると、ものすごい腐臭がして、黒く蠢く何かがあった。彼が入ってきた振動で、それはわっと動き、たかっていたハエの大群だったことがわかった。

 目にしたものにショックを受けて、イグナツィオは、すぐに来た道を戻った。

 わずかに見えた手はマルコのサイズだった。いつも身に付けていたボロ着もすぐにそれとわかった。何日あの状態だったかはわからない。だが、幼い少年は「終油の秘蹟」を受けることもなく、イグナツィオに別れを告げることもなく、この世から姿を消した。

 悔しさと悲しさに涙がにじむ。自分が無力な子供であることや、修道院で日々教えられている教えと現実との矛盾に怒りを感じた。だが、彼に神の慈悲と偉大さをを教える院長やパウロたちが善良で努力を惜しまない立派な大人であることも、彼の苦しみを増した。怒りの行き場がどこにもなかったから。
 
 部屋に戻る前に修道院長の部屋の前を通る。院長とパウロの声が聞こえて、彼は思わず動きを止めた。

「本当に医者を呼ぶ必要はないのかね」
「いいえ。ここでは院長様やそれに準じるような方が酷い病になった時以外、お医者様を呼ぶことなどないではないですか」
「だが、あの子は……」

「院長。あの子は、私がここへお世話になることになったたまたま同じ日にこの修道院の前に捨てられていた孤児。お忘れにならないでください」
「……。わかっている。だが、医者を呼ばなかったために、取り返しのつかないことになる可能性も……」

「院長。私にあの子を託した方は、『殺せ』とお命じになったのですよ」
「なんと!」
イグナツィオは、びくっと身を震わせた。それから戸口から漏れてくる弱い光をじっと見つめた。

「あの方は、ご自分の利益のためにそうおっしゃったのではありません。もしあの女性の産んだのが男児で、その子が生き延びていることが今わかれば、国は二つに分かれ恐るべき争いになるでしょう。すでに荒廃している土地がさらに戦火にさらされ、多くの民が今よりも酷い苦しみに晒されることとなる。あの子供は争いの種なのです。あの方はこうなることがわかっていたので私に命令を下されたのです」

「だが、パウロ。そなたは神に命を捧げた身ではないか」
「はい。ですから、私にはどうしてもあの方の命令を実行することができませんでした。いえ、幼子の無垢な寝顔を前にして、どうすることもできなかったのです」
「だから、ここへあの子を連れてきたのか。では、なおさら医者を」

「院長。私にはわからないのです。私のしたことは正しかったのか。あの子を生かそうとしたのは神の御心に適っていることだと思っていました。だが、あの子は年々あの方に似てきています。同年齢の子たちよりもずっと聡く、政や世の理不尽に対しての感受性も強い。このまま育てば、あるいはいずれあの方の心配なさった事態が起こるかもしれません。それを本当に神も望まれているのか」
「我々が神を御心を知ることはできないのだよ、パウロ」

「ええ。でも、私は神のご意志に従いたいと思います。もし、今あの子が病で命を落とすのならば、それが神のお答えだと納得することができます。そして、あの子が生き延びるのならば、これまでと同じようにあの子を、誰も頼る者のない孤児であるあの子の支えとなっていくつもりです」

 少年は、静かにその場を離れた。震えているのは、熱のせいだけではなかった。部屋に戻ると扉を閉じた。しばしその場に踞っていたが、やがて、のっそり立ち上がって外套を脱ぎ元のように鉤に掛けた。膨らんだポケットから固くなったパンを取り出した。

 なす術もなく死んでいったマルコの姿が浮かんだ。あれが神の意思だというのか。私も、あんな風に朽ちていくべきだというのか。嫌だ。そんな言葉で、納得するものか。

 吐きそうになるのを堪えて、彼はパンを食べた。パンの味が乾いた喉から空腹で疲れた胎内に沁みていく。食べてもう一度健康になる。医者を呼んでもらえなくても、マルコみたいに弱っていったりするものか。彼は、ひと口ごとにパンを噛み締めた。

* * *


 あれから四十年近くが経った。故郷を離れ、名前を変えて、神の家とも袂を分かった。だが、彼の前にはいつも無念さを表現することもできずに消えていった何百人もの《マルコ》たちがいた。彼は世界を変えるために政治家になった。彼の存在意義のためでもなく、豪奢な生活や王侯貴族の名誉のためでもなかった。そして、実現可能であるならば生まれ育ったセンヴリでも、ルーヴランでもかまわなかった。

 人生が終わりに近づいた今、ようやく目的に近づけるかと思ったが、叶わなかった。この石塀に囲まれた西の塔で彼を苦しめていたのは、寒さでも誇りの喪失でもなかった。まだ何も変えられていない焦燥と虚しさだった。世界は重く、日々は苦かった。

 彼は、渡されたパンの意味を考えた。

 柔らかい上等なパンを口に入れた。わずかな甘味が口の中に広がっていく。あの時と同じだ。餓えた魂に、力がみなぎっていく。

「諦めるなというのか……。私の道はまだ半ばなのだと」
彼は、笑うと次のひとかけらを手でちぎった。

(初出:2016年2月 書き下ろし)
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