scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】沈丁花への詠唱(アリア)

これは今年書いたもの。毎月、一本ずつ書いている小説「十二ヶ月の組曲」のうちの一つです。




真由美は足を止めて振り返った。微かに風に乗って漂う香りは沈丁花に違いない。けれどその香りは記憶にあるものよりもずっと弱かった。
「どうしたの?」
ジャニーンが訊いた。真由美は上の空で答えた。
「この香り…。どこからするのかしら。ダフネの花だと思うけれど」

真由美は湖畔の遊歩道のたくさんの木立を見回して香りの源を探した。それはじきに見つかった。小さな木だった。日本の沈丁花よりもずっと小振りな薄桃色の四弁花がヒヤシンスのように縦に連なっていて、葉がほとんどついていない。香りもずっと弱い。しかし、真由美は目を細めてその木の前で立ちすくんだ。
「この花が好きなの?」
ジャニーンが訊いた。真由美は黙って頷いた。

北イタリアのマッジョーレ湖に面するリゾート地ストレーザは、スイスよりも早く春の兆しが訪れる。毎年椿の花の展覧会が開かれ、湖畔にはたくさんのヤシの木が立っている。そんな気候なので真由美の暮らすアルプス以北には見られない多くの南の植物がある。秋にきた時にギンモクセイが存在する事を知って幸せになったのもここだった。


真由美がザンクト・ガレンに住むようになって八年が経っていた。海外に住むこと自体は真由美には何の問題もなかった。日本の文化や食事にもさほど未練がなく、ホームシックにかかる事は全くなかった。けれど、この香りは奇襲だった。記憶や理性などよりもずっと下層の原始的な郷愁を直撃した。沈丁花は、真由美の子供時代と強く結びついている花だった。

子供の頃、時間の経つのは恐ろしくゆっくりだった。真由美は内氣で、彼女の属する世界、つまり小学校のクラスに上手く馴染めなかった。慎重に物事を進めればグズとなじられ、明るく振る舞おうと虚勢を張れば失敗して嗤われた。近所の中で私立の小学校に通っていたのは彼女一人だったので、帰宅後に遊べるような友人もいなかった。両親の仲が良くなくて、家の中は荒んでいたので、学校で起きた事を家庭で打ち明ける事もできなかった。夏はまだよかった。学校の帰りに近くの公園で時間をつぶす事ができた。だが、凍える冬には学校と家の往復だけをするしかなかった。ランドセルを背負って寄り道をできるような場所はなかったから。加えて真由美の手足は血の巡りが悪く、毎年しもやけで手足がパンパンに脹れた。一週間は長かった。一ヶ月は永遠のようだった。最も冬が厳しい二月に、突然漂ってくる香りが真由美には暗黒の世界の中での一筋の光のように感じられた。どれほど冬が長くつらくても、確実に春はやって来る。その吉報をもたらすもの、それが沈丁花だった。

「この花の仲間が日本にもあるの。春を告げる花なの」
真由美は、小さな声で言った。ジャニーンはさほど興味がなさそうに答えた。
「そう。いい香りだけれど、この花、毒があるのよね。子供のいる家庭は庭に植えないようにってよく言われているわ」
「スイスでも咲くの?寒すぎるんじゃなくて?」
「咲くわよ。ただし、一ヶ月半は後じゃないかしら。園芸の通販カタログに載っているわよ」
そういうと、コートの衿を重ねて、さっさと歩き始めた。ザンクト・ガレンより遥かに暖かいとはいえ、まだ二月なのだ。湖から風が吹いて来るとかなり寒い。ジャニーンは花をいつまでも見つめているよりは、地元の客で賑わうピッツァの店『パパゲッロ』のテーブルを確保する方がいいと思っているのだ。週末はいつも混むから。

ジャニーンは、かつて真由美と同じ職場にいた。スイスに来たばかりでドイツ語で上手く話せず、スイスの習慣を知らない真由美に英語で通訳をし、細やかに世話を焼いてくれた。当時はニュージーランドで知り合い結婚したダニエル以外の友人がいなかったので、ジャニーンのはきはきとした俊敏な態度は、異文化の中で子供時代に戻ったかのように引っ込み思案になった真由美の救いになった。三年後に、ジャニーンはもっといい条件の仕事を見つけて転職したが、それからも二人の友情は続いた。

「それで、この間話してくれた大人の彼とはどうなの?」
真由美は、自分の小学生時代の思い出から戻ってくるため、ジャニーンに話を振った。その途端にジャニーンの目には大粒の涙が溢れ出した。
「また、ダメになっちゃったの!」
う。またか。真由美はたじたじとなった。急に誘ってくれたので、何かニュースがあるとは思っていたけれど、こっちだったのね。この八年間、ダニエルとよく言えば平穏な日々を過ごしている真由美と対照的に、ジャニーンは半年に一人の割合で出会いと別れを繰り返していた。それも常にイタリア人かイタリア語圏出身の男で、たいていは男の心変わりで破局するのだ。真由美にはよくわからなかった。ジャニーンは魅力的だったし、親切で明るかった。イタリア語を話す男たちにはそれだけでは足りないのだろうか。どうして決まって他の女性に心を移してしまうのだろう。それとも、ダニエルも私が知らないだけで、心移りをしているのかなあ、知らぬが仏って言葉もあるわよねぇ。真由美は人ごとのように考えた。

ダニエルと結婚してスイスに移ってきてからの生活は、順風満帆と表現するのはどうかと思うが、それまでの人生と比較すると、文句を言う事は何もなかった。真由美は職場に向かうのも、家に帰るのも嫌ではなかった。さぞ寒くて大変だろうと思っていたスイスの冬は、東京にいるよりも過ごしやすかった。フラットも会社も壁が厚くセントラルヒーティング完備だった。どんなに寒い日でも暖かい室内では、ガウンひとつで歩き回る事ができた。成人してからは東京でも両手足にしもやけができる事は稀になっていたが、スイスでは全くならなかった。きちんとした手袋をはめ、滑らないように底のしっかりした冬用のブーツを履くために、手足の指が凍える事もなかったからだ。時間はあっという間に過ぎ去り、週末を待つ必要すらなくなった。だから冬の間に春を待ちわびることもほとんどなくなっていた。

『パパゲッロ』の馴染みのウェイターがピッツァを運んでくるのを待ち間に、真由美はジャニーンの嘆きに相づちを打ちながらも、いつの間にかドイツ語の会話から意識をそらし再び沈丁花の思い出に浸っていた。


あれはやはり小学生の時だった。六年生の卒業間近の頃だったかもしれない。理科の授業で先生は課題を出した。顕微鏡で氣孔を観察するので、それにちょうどいい葉を探してくるようにというものだった。顕微鏡で観るためにプレパラートを用意する。そのままでは光が通らないので、葉を引き裂き薄く透き通った部分を使うのだ。できるだけきれいにたくさん膜が剥がれるものがいい。今から校庭に行って探してきなさい、そう先生は言ったのだ。
生徒たちは、数人ずつ束になって校庭に出て行った。緑豊かな学校でたくさんの庭木が植えてあった。皆に馴染めていなかった真由美は、一人でクラスメイトが行こうとしない裏庭へと歩いていった。

沈丁花が香ってきた。真由美は、まっすぐにその茂みの方に行った。一人でも構わない、そう思って大好きな花の前でため息をついた。そして、とりあえず、先生に言われた事を忘れてはいないというしるしに、沈丁花の葉を一枚手に取った。そしてすぐに氣がついた。この葉が、まさに先生の求めていたプレパラートに最適な葉である事を。真由美はその葉を数枚ちぎって、すぐに理科教室に戻った。直に級友たちが戻ってきたが、彼らの持っていたのはアオキや椿などで、膜はあまり上手く剥がれなかった。真由美が作ったプレパラートが最高だと先生は褒めた。級友たちが驚いたように真由美を見て、ほんの少しだけ敬意が起こった。六年間も惨めだった小学校生活で、唯一持てた誇らしい瞬間だった。

真由美は、それから少しずつ変わった。明るいひょうきん者になる事ができなくても、他の者がしないことをして、地道な努力をする事でまわりの敬意を得る事はできるようになる。そんな風に言葉で理解していたわけではないが、肌で理解し、得意な学科でいい成績を取るようになった。人当たりよく他人と接する事ができるようになり、人とのつき合い方も少しずつ覚えた。小学生の時にいつも一人だったので一人になるのも問題なかった。そのどこか孤高な佇まいが、他の少女たちには好意的に見られるようになり、おかげで真由美の社会生活はどんどん改善したのだ。

真由美は沈丁花の花に、恩を感じていた。あの時、あの花が私を助けてくれたのだ、馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、真由美はそういう想いをずっと抱えていた。ここ、ストレーザで再会した花は、その想いを鮮やかによみがえらせてくれた。

そういえばダニエルは「最初はミステリアスなところに惹かれた」と打ち明けた。本当はちっともミステリアスではなかったのだが、真由美は口数が少なく、友人と騒いで楽しむような事が苦手だったので、そう見えたのかもしれない。故郷から離れたヨーロッパに移住する事も大して苦にならなかった。かえって実家にしょっちゅう帰らずに住む事がありがたいほどだった。

この八年間に、ドイツ語環境に馴染み、仕事をまじめにこなす事で、真由美の社会生活は再び心地よいものになった。ダニエルともケンカぐらいはするが、もともとの常識の前提が違う事をお互いに意識しているので、誤解が起きないようにきちんと話し合う習慣ができて、いい関係が築けている。
真由美は若い頃に、子供時代には戻りたくない。これからこの地で生きる時間がどれほど早く過ぎ去り、あっという間に老齢期や死に近づいてしまうとしても、過去には戻りたくなかった。けれど、沈丁花の思い出には、ほんの少しのノスタルジーを感じた。

沈丁花。重宝された沈香のような香りと丁字のような花の形を持つからついた名前。花ことばは「栄光」「不滅」。真由美は、ダフネを自宅でも香らせる事ができるように、あとでジャニーンに園芸カタログを借りようと思った。でも、今はだめ。まじめに彼女の告白に耳を傾けなきゃ。
ジャニーンは涙をナフキンで拭い、左手のワイングラスから赤を飲み、右手に持ったグリッシーニをばりばりと食べている。ウェイターが二つのピッツァを持って近づいてきた。きっとこのピッツァが終わる頃には、彼女はすっきりとして次の恋を探すつもりになっていることだろう。

(初出 2012年1月 書き下ろし)
関連記事 (Category: 短編小説集・十二ヶ月の組曲)
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の組曲
Tag : 読み切り小説 小説

Comment

says...
八少女夕さんこんばんは!
2回目のコメントをさせて頂きますcanariaと申します。
たくさんの小説の中で「沈丁花」という言葉に惹かれて一番目にこの小説を拝読しました!!
過去記事へのコメントになってしまうのですが、大丈夫だったでしょうか??
もし差し支えありましたらお教えて下さると助かります^^

小説をずっと書き続けられているとおっしゃられているのがひたと感じられる端正な文章だと思いました!
状況説明もすっと頭に入ってくる感じです。

>けれど、この香りは奇襲だった。

の箇所が特に秀逸だなあと思いました!^^!
匂いの記憶って、人間の脳の中で一番古い層と結びつき易い感覚だと聞いた事があります。
自分も実感としてそれがあります。
なので、沈丁花で過去へたゆたう真由美さんの気持ちが分かるような気がしました。

真由美さんは、沈丁花と共に、しなやかにここまで成長されてきた女性なのですね。
ジャニーンさんの新しい恋も「不滅」になるようにお祈りしております^^

素敵な作品をありがとうございました!
2012.06.09 14:21 | URL | #- [edit]
says...
こんにちは!

読んでいただき、コメントもいただけてとても嬉しいです。もちろん、過去の作品に関するコメントも大歓迎です!

この作品は毎月一つずつ書いている「12ヶ月の組曲」の二月分です。四月分の「桜のための鎮魂歌」も同シリーズになります。あと、伸びて中編になってしまいましたが「夢から醒めるための子守唄」も同じシリーズのものです。全て読み切りになっていますので、「大道芸人たち」のような恐ろしく長いものよりは敷居が低いらしく、何故かFC2小説でも一番閲覧数が多いのです。

五千字と決めて書いているシリーズなので、短くて場面を切り取ったようになり、反対にいうと、深くは書けないのですが、その中で「いいたいこと」を表現するのに四苦八苦しています。
こうした激励のコメントは、書き続けていく原動力になります。本当に嬉しいです。

実は、たった今canariaさんの所で「孤児院日誌」を通読していた所でした。近いうちにコメにうかがいますね。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
2012.06.09 14:48 | URL | #- [edit]
says...
こんにちは

はじめまして

すごい作品の量ですね、まずは短編から入門させていただきました(^^)

絵画のような情景と全体を貫く「香り」が見事です。

内容は私小説なのでしょうか。

唯一の誇らしげな思い出・・が印象的で心に残りました。

では、また。
2014.04.06 17:59 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

はじめまして。初コメ恐怖症で、黙って訪問し続けて失礼いたしました。

わあ、そうなんです。コンテンツが増え過ぎて、きっとはじめての方は戸惑うだろうなあと思っています。
もし迷われたら「目的別のおすすめ小説をリンクした記事」(http://yaotomeyu.blog.fc2.com/blog-entry-768.html)もご利用くださいませ。

この「沈丁花への詠唱(アリア) 」は二年以上前に発表した作品ですが、どういうわけか最初に読む作品として選んでくださる方が多いです。似たような二組の国際結婚カップルを時々登場させていまして、そのうち「絵梨とリュシアン」のシリーズは私小説として書いていまして、「真由美とダニエル」のシリーズは虚構入りと分けています。でも、スイスに住む日本人女性というところ、それから思い出の一部は私の体験も入っています。

書く作品の全てに共通している事ですが、憧れのスーパーマンよりも等身大の人間の人生、悲惨すぎるのでも楽すぎるのでもない、ごく普通の世界を書きたいと思っています。

これからもどうぞよろしくお願いします。そちらにもまたお伺いしますね。

コメントありがとうございました。
2014.04.06 19:35 | URL | #9yMhI49k [edit]

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