scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】「樋水龍神縁起」 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


月刊・Stella ステルラ 3月号参加 掌編小説 読み切り月刊・Stella ステルラ


「scriviamo!」の第十三弾です。TOM-Fさんの小説と一緒にStellaにもだしちゃいます。

TOM-Fさんは、「樋水龍神縁起」の媛巫女瑠璃を登場させて「妹背の桜」の外伝を書いてくださいました。ありがとうございます!


TOM-Fさんの書いてくださった小説『花守-平野妹背桜縁起-』「妹背の桜」外伝 競艶 「樋水龍神縁起」

現在TOM-Fさんが執筆連載中の「フェアリ ーテイルズ・オブ・エーデルワイス」は舞台がロンドンで、「大道芸人たち」のキャラが押し掛けて、当ブログ最初のコラボ作品を実現する事が出来ました。TOM-Fさんはとても氣さくで、「コラボしたい〜」という無茶なお願いを快く引き受けてくださったのです。ですから今回のコラボは二度目です。TOM-Fさんの「妹背の桜」は、私と交流をはじめる前に完結なさっていた小説です。もともとは天平時代の衣通姫伝説を下敷きにしているミステリー風味のある時代小説ですが、設定上は平安時代のお話になっています。そこで確かに「樋水龍神縁起」の二人と時代が重なるわけです。

お返しは、最初はストレートに瑠璃媛を出そうかと思ったのですが、この女性、この時点では出雲から一歩も出たことのない田舎者ですし、キャラ同士の話の接点が作れません。そこで思いついたのが、もう一人の主役、安達春昌。こっちはフットワークも軽いですしね。TOM-Fさんの「妹背の桜」からは橘花王女と桜を二本お借りしました。ありがとうございました! 『花守-平野妹背桜縁起-』を受けての桜の移植がメインの話になっています。

もっとも、「瑠璃媛」だの「安達春昌」だのいわれても、「誰それ?」な方が大半だと思います。「樋水龍神縁起」本編は、FC2小説と別館の方でだけ公開しているからです。だからといって、「scriviamo!」のためだけにこの四部作を今すぐ読めというのは酷なので(もし、これで興味を持ってくださいましたら、そのうちにお読みいただければ幸いです)、一部を先日断片小説として公開いたしました。この二人は基本的に本編にもここにしか登場しないので、手っ取り早くどんなキャラなのかがわかると思います。ご参考までに。


この小説に関連する断片小説「樋水龍神縁起 第一部 夏、朱雀」より「樋水の媛巫女」」


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官能的表現が一部含まれるため、成人の方に限られますが……「樋水龍神縁起」四部作(本編)は別館にPDFでご用意しています。
縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く 縦書きPDFで読む(scribo ergo sum: anex)




「樋水龍神縁起」 外伝 — 桜の方違え — 競艶「妹背の桜」
——Special thanks to TOM-F-SAN


 退出する時に、左近の桜をちらりと見た。花はとうに散り、若々しい緑が燃え立つが、特別な氣も何も感じない、若い桜だ。ただ、南殿にあるということだけが、この木に意味を持たせている。殿上人たちと変わりはない。今これから動かしにいく大津宮の桜も同じであろう。かつての帝が植えさせたというだけ。斎王を辞したばかりの内親王に下賜され、平野神社に遷されるのだそうだ。木の方違えとはいえ、師がご自分で行かないということは、やはり大した仕事ではないのであろう。

 安達春昌は二年ほど前に陰陽寮に召し抱えられたばかりの年若き少属である。彼は安倍氏の流れもくまず賀茂氏とも姻戚関係はなく、安達の家から御所への立ち入りを許された最初の者であった。従って、本来ならば殿上人にお目見えする機会などもないはずであったが、あらゆる方面にすぐれた知識を持つだけでなく、陰陽頭である賀茂保嵩がここぞという祓いにかならず同行するので、すでに右大臣にも顔と名を知られていた。とはいえ、彼はいまだに従七位上である陰陽師よりも遥かに下位の大初位上の身、昇殿などは望むべくもなかった。

 春昌は野心に満ちて驕慢な男であったが、陰陽頭に対しては従順であった。摂津にいた彼を見出し、その力を買って陰陽寮に属する見習い、得業生にしてくれたのは他でもない陰陽頭であった。それは彼の力が見えているということだった。実をいうと、陰陽寮には「見えるもの」は数名のみであった。見えていない者が判官となり助となっていることは春昌を驚かせたが、彼の力と野心をしても、いまだに陰陽師どころか大属への道も開けなかった。生まれ持った身分で人生が決定するこの世の常は、彼を苦しめた。はやく手柄を、明確な力を示す実績を。春昌は焦っていた。

 それだというのに、桜の方違えだ。御所の庭にも《妹背の桜》と言われる桜が植わっている。大津の同じ名で呼ばれる桜とともに平野神社へ遷されるという木で、もともとは二本揃って吉野に立っていたものだと聞かされた。春には滴るごとく花を咲かせ見事な木ではあるが、それだけのことで陰陽寮の者による方違えが必要とも思えぬ。同じような木であるならば、何ゆえ師は、この私に大津へ行けなどと申し付けられたのか。

「よいか。今、私と安倍博士は御所を離れられぬ。ここしばらく皇子様の瘧、甚だしく、しかも祓っても祓っても、よからぬものが戻ってくる。だが、あの桜の方違いに『見えぬ』陰陽師を遣わすわけにはいかぬ」
陰陽頭みずからにそういわれては、「私めも皇子様の祓いに加わらせてくださいませ」とは言えなかった。

「その桜には、何かが取り憑いているのですか。平野神社に遷す前にそれを祓えばいいのでしょうか」
春昌が、手をついて伺うと、陰陽頭は小さく首を振った。
「確かに特別な桜だが、何も祓う必要はない。祓うなどという事も不可能であろう。平野神社に着くまでに、怪異が起らぬように、そなたが監視すればそれでよい」

 なんだ、やはり大したことのない仕事か。その思いが顔に出たのであろう、陰陽頭はじっと春昌を見て、それから、つと膝を進めた。
「春昌、そなたに言っておくことがある」
そして、安倍天文博士に目配せをした。頷いた博士はその場にいたすべての者を連れて部屋を出て行った。

「春昌。そなた、ここに来て何年になる」
陰陽頭は、厳しい表情の中にも、暖かい声色をひそませて、この鋭敏な若者を見つめた。
「故郷でお声をかけていただいてから、八年に相成ります」

「その間、そなたは実に精励した。文字を読むのもおぼつかなかったのに、寝る間も惜しみ、五経を驚くべき速さで習い、天文の複雑な計算を覚え、医学や暦、宿曜道に通じた。他のものには見えぬ力も、強いだけで制御もままならなかったのに、たゆみなく訓練を続け、符呪をも自由に扱えるようにもなってきた」
思いもよらなかった褒め言葉に、春昌は儀礼的に頭をもっと下げた。

「だが、陰陽師になるには、それだけではだめなのだ」
春昌はその言葉を聞いて、弾かれたように師の顔を見た。陰陽頭の顔は曇り、目には哀れみの光がこもっていた。

「忘れてはならぬ。そなたの未来を阻んでいるのは、特定の人や、生まれついた身分などではない。その驕り高ぶった、そなたの不遜な態度なのだ」
「師。私は決して……」

「言わずともよい。そなたはまだ若く、私の言う事を腹の底から理解する事が出来ぬのはわかっている。だが、大津に行って、あの桜に対峙しなさい。あの痛みを感じるのだ。今のそなたに必要なのは、一度や二度の皇子様の祓いに参加する事などではない。よいか。大津に行かせるのは、そなたのためなのだ」

 近江は忘れられた京だった。造営の途中で戦乱となり、打ち捨てられたために、にぎわいを見せたこともなく、ただ大津宮が近淡海を見下ろすように立っている。摂津より京に上がった春昌は、近江には二度ほどしか来たことがなかった。一人でここまで来るのははじめてだった。

 伴としてついてきた下男に馬を任せ、春昌は大津宮にほど近い丘の上から近淡海を見渡した。なんという開放感。いつもの京の雑踏、光の足らぬ陰陽寮での息を殺した測量と卜占・術数が、どれほど氣をめいらせていたかがわかる。心を割って話せる友もなく、取るに足らぬ家に生まれたくせに生意氣な奴と蔑まれる日々に疲れていた事にもはじめて思い至った。

 師が言わんとした事は、わかったようで、はっきりしなかった。

 得業生となったのは私よりも後なのに、左大臣様の姻戚というだけで、あっという間に出世した判官どのや助どの。彼らに対して隠そうとも燃え立ってしまう妬みの氣を、師は見ていたのかもしれぬ。春昌はため息をついた。

 視線を背後の大津宮に移そうとして、ふと氣配を感じた。
「だれ……。あなた? あなたなの? ようやく、来てくださったの……」

 なんだ、この氣は? それは突然、風のように増幅して、丘の上を満たした。この季節に咲いているはずのない満開の桜の氣だった。これが師のおっしゃっていた桜なのか?

 春昌は、京で何度か陰陽頭とともに百鬼夜行をやりすごしたことがあり、禍々しいものを祓ったことも数多くあったので、怖れはしなかった。だが、それは悪意の漂う怨霊の氣配とはまったく異なるものだった。かといって、聖山に満ちる清浄な氣とも違っていた。

 ねっとりとまとわりつく、真夏の宵のような氣、カミに近い清らかさはあるものの、どこかで感じた、もっと身近なものに似通う重さもある。

 ああ、五条の芦原の女房だ。春昌は、愛想を尽かしてしまった品のない女のことを思い出す。
「お恨み申し上げます。私のことは、遊びだったのですね。これほどお慕い申し上げても、お返事もくださいませんのね」
涙で白粉がはがれ、それでもこちらの氣持ちが変わるのを期待するように、袖の間から覗く、どこかずる賢い女の視線。こびりつく妄執。離すまいと縋り付く、重い、重い、想い。

「おのれ。出たか」
春昌は、身構えた。だが、氣はそれ以上近寄ってこようとはしなかった、それどころか、急激に規模を小さくしている。

「なぜ……。私は、あなたを待っていただけなのに……」

 春昌は、ひと息つくと、身を正して大津宮の門へと歩を進めた。そして、怖々と、しかし、氣を引かんとするように、こちらの身に度々触れる例の氣を感じながら、礼を尽くして訪問の意を伝えた。

「お待ち申し上げておりました」
中からは、年を経た郎党が深々と頭を下げて迎え入れる。何人かの老女と、桜の移植のためにすでに控えている人足たちが土に手をついて都からの陰陽寮職員を迎えた。

「実は、平野神社には前斎王様がお忍びでお見えになっており、この桜の到着を待っているとの報せがございました。長旅でお疲れの所、誠に申しわけございませんが、すぐにはじめていただきたいのです」

 春昌は眉をひそめた。
「吉日である明日に事をはじめるよう、準備をして参りました。今すぐはじめるのであれば、再び方位を計算しなおさねばなりませぬ」

「それでも、是非」
「明日から始めたのでは、前斎王様の物忌みにさしつかえてしまうのです」

 春昌は大きくため息をついた。わがままな内親王め。こっちの迷惑も考えろ。だが顔に出すわけにはいかない。まじめに計算しなおしていたら、明日になってしまう。彼は、腹を決めて、桜の木の助けを求める事にした。こちらにはありとあらゆる星神の位置を鑑みて計算しなければわからない事でも、この桜にははっきりわかっているはずだ。本人にとって大切な事なのだから、文句は言わずに教えてくれてもいいだろう。

 彼は黙って、桜の前に座った。新緑の燃え立つ、葉桜だ。しかし、いまだに満開の花氣を発している。奇妙な木だ。師のおっしゃっていた意味が分からない。この木の痛みを感じる事がどうして私のためになるのか。

「私に何をしてほしいの?」

 春昌は、声に出さずに、木に語りかける。
「今すぐに、あなたを平野神社に遷さねばなりませぬ。予定してきた明日の方位は使えませぬ。あなたにとって一番の移動の方位をお示しください」

「なぜ、ここにいてはいけないの? 私は、待っているのです。ここにいないと、あの方は私に帰り着かないでしょう」
「平野神社にお連れするのは、主上さまの御意志です。あなたをもう一本の桜と一緒にするためだそうです」

「どの桜?」
「あなたと同じく《妹背の桜》と呼ばれる御所にある桜です。確か、吉野ではあなたと一緒に立っていて、みまかりし先の帝がここと御所とに……」
「ああ、ああ、ああ」
春昌が語り終えるのを待たずに、桜の氣は再び大きくなった。激しい歓びの氣だ。
「今すぐに平野神社に行けば、また私たちは一緒になれるのですね」

 急にハッキリとした意志を持ったかのように、桜は氣を尖らせてまっすぐに近淡海の南端を示した。その先には、石山寺がある。一夜を明かすのにふさわしい。そして、そこから再び折れてまっすぐに平野神社の方位を示した。春昌はかしこまり、その方位を懐紙にしたためた。

* * *


 平野神社に着いたのは二日後の夕暮れだった。ねっとりとした女の氣に辟易しながらも、それにも慣れてきた頃だった。何ゆえにこの桜は、いつまでも満開の氣をしているのだろう。なぜ、これまで誰も祓おうとしなかったのだろう。明らかに、ただの桜ではないのに。旅の途上で春昌が思う度に、桜は責めるように、けれど、どこか誘うように生温い氣を這わせてくるのだった。それで、春昌は一刻も早く、物好きな前斎王にこの木を引き渡したいと願った。

 平野神社には、驚いた事に、御所にあったもう一本の桜が既に届いていた。そちらは、当然のごとく花の氣ではなく、季節に応じた氣を漂わせていたが、御所で見た時のような凡庸なものではなく、内側から震えるように輝き、大津の《妹背の桜》を心待ちにしていた事がわかった。

「ようやく、ようやく、願いが叶った」
「ああ、やっと、ほんとうにお逢いできたのですね。あなた……」

 すべての儀式を終え、退出の準備をしている所に、位の高そうな女房が近づいてきた。
「もうし……」

 春昌が、かしこまると、前斎王様が直々にお逢いしたいと仰せだと春昌を本殿へと連れていった。春昌は言われた通りに、本殿の前に用意された桟敷の上に座り、頭を下げた。

 御簾の向こうから衣擦れの音がした。
「どうぞ、頭を上げてください」
暖かく、深い声が聞こえてきた。名に聞こえた伝説の斎王がその場にいる。春昌は武者震いを一つした。

「無理を言った事をお許しくださいね。どうしても、一刻も早く桜を見たかったのです。主上さまや陰陽頭には私から重ねて礼を伝えさせていただくわ」
やれやれ。そうこなくては。春昌はかえって都合が良くなってきたと腹の内で喜んだ。

「あなたは、とても早く新しい方位を割り出してくださったと、みなが驚いていました。どうやったのですか?」
長く斎王をつとめ、賀茂大御神に愛された偉大な巫女ともあろう方が、このような質問をするとは。
「《妹背の桜》ご自身にお伺いしたのです。急な変更で、計算する時間がございませんでしたので」

 前斎王は、はっと息を飲むと、衣擦れの音をさせた。御簾にもっと近づいたらしい。
「話をしたのですね。あなたは、桜と話せるのですね」

 なんと、このお方は「見えぬ者」なのか。わずかに呆れながらも春昌はかしこまった。
「教えてください。桜はなんと言っていましたか。私の決定は間違っていないと言っていましたか」

 春昌は、面を上げて、御簾の、前斎王がいると思われる場所をしっかりと見据えて答えた。
「ご安心くださいませ。かの桜の喜びようは、またとないほどでございました」
「桜が……喜んでいるのね」
「はい」

 御簾の向こうから嗚咽が聞こえた。どれほど長い事、こらえていたのだろうか。引き絞るような深い想いだった。春昌は、御簾の向こうの前斎王の強い氣を感じた。それは、一瞬にして甦った過ぎ去りし時の記憶だった。春昌のまったく知らない人びとの幻影が通り過ぎる。衣冠をつけた若く凛々しい青年、華やかで匂いたつような美しい女、帝の装束を身に着けた壮年の男、高貴で快活な青年……。二本の桜から立ち昇る歓びの氣と、前斎王の記憶に混じる楽しさの底に、同じ哀しみが流れている。春昌が、これまで愚か者の妄執と片付けていた、ひとの情念。生きていく事そのものの哀しみと痛み。

 ああ、師のおっしゃっていた、感じてくるべき痛みとはこの事なのだろうか。悼むというのは、この感情を持つ事なのだろうか。

 前斎王がこの桜にどのような縁があるのかはわからなかった。だが泣いているということは、相当深い縁なのであろう。三人の帝に、斎王として仕えた長い人生。我々が知る事も出来ないほどの過去に、何かがあったのであろう。春昌は退出すると、狂喜乱舞しながら哭く二つの桜の氣を背中に感じて、京への帰途に着いた。

 別れ際の前斎王の言葉が耳に残る。
「あなたのように、本当に能力のある人が、主上さまにお仕えしているのは、頼もしい事です」
「もったいなきお言葉です」

「つい先日、あなたのように素晴らしい能力を持った方にお会いしたわ。奥出雲で」
「樋水の媛巫女さまでございますか」
「ご存知なの?」
「滅相もございません。お名前を噂で漏れ聞くばかりでございます」

「そう。お美しい方でした。神に愛されるというのは、ああいう方の事をいうのね」
この私とは正反対だな。春昌は心の中で笑った。

「陰陽寮と奥出雲、場所も立場も違いますが、あなた方のような若い人たちに未来を託せるというのは嬉しい事です」

 前斎王の声には、疲れが響いていた。長い人生。見てきた事、見続けるだけで果たせなかった事。未来を夢みる事のなくなった響き。
「私は、ようやくこれで、安心して眼をつぶれます。大切な二本の桜が私を弔ってくれる事でしょう」

 帝の内親王として何不自由なく育った女の低いつぶやくようなささやきは、春昌の心にしみた。生まれの高いものを羨み、妬みや悔しさに身を焼く自分の苦しみは、この女にはなかったであろう。だが、そうではない痛みに長く貫かれてきたのだろうことは、彼にも想像できた。やんごとなき血に生まれようとも、何十年ものあいだ神聖なる社で過ごそうとも、人はやはり人なのだった。春昌もまた、陰陽寮にて市井では得られぬ知識を学び、他の者には見えぬものを見て祓うことができようとも、ひとの心の中にうごめく情念と哀しみは如何ともしがたかった。

 人はみな、苦しみや哀しみと無縁ではいられぬのであろうか。呪を操る世界に生きるという事は、このような哀しみと痛みを感じ続けるという事なのだろうか。師のおっしゃっていたのは、こういうことなのだろうか。

 彼は初夏の風を受けながら、魍魎のうごめく京へと戻っていった。大津の自由な風、歓びに震える桜の木の叫び、そして、哀しく終焉を待つ女の静かな祈りは春昌の中に残り、静かに沈んでいった。彼が陰陽頭である賀茂保嵩の推薦を受けてようやく陰陽師となったのは、それから二年後の事であった。

(初出:2013年2月 書き下ろし)

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