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Posted by 八少女 夕

【小説】ヴィラ・エミーリオの落日 -1-

今年ラストの小説は、一応読み切りなのですが、2万字もあったので3回に分けてご紹介しようと思います。

この小説は先日ご紹介した「羊のための鎮魂歌」と同じイギリス人ジョン・ヘンリー・オースティン氏と愛犬グルーバーの物語です。前作は1995年に書いたものですが、こちらはわりと新しいと思っていたら、なんと2007年に書いたものでした(笑)

このブログで私の小説をたくさん読んでくださっている方は「あれ?」と思われることが多いかと思います。もう使わないと思って設定をいろいろと使い回した、その原形が残っているんです。

ひっかかっても、全く別の小説ですので、お氣になさらずにお読みください。




ヴィラ・エミーリオの落日 -1-
〜 オースティン氏のイタリア紀行


 白木蓮の花は散りかけて茶変していた。まるで恋に破れて泣きはらした乙女のように、くたびれた様子で散りゆく時を推し量っているようだった。ジョン・ヘンリー・オースティン氏はここストレーザの暖かい春に潜む疲れ果てた空氣を感じていた。それは、ほかならぬオースティン氏自身がくたびれて途方に暮れていたからでもある。

 愛犬グルーバーは不平の鳴き声を漏らしたりはしない。このような場合、いつもグルーバーは賢く立ち回るのが常だった。つまり、ことさらつぶらな瞳でオースティン氏を見上げ、従順について行くのである。かくて誰もグルーバーのことを「静かにしろ!」とか「さっさと来い!」と怒鳴ってすっきりするなどということが出来ない算段なのである。

 オースティン氏は毎週家政婦としてフラットに来てくれるマッコリー夫人の言葉が正しかったことを認めないわけにはいかなかった。彼女は昨日もロンドンの動物園に近いフラットで荷物を詰めるオースティン氏にくどくどと話しかけたのである。
「なんといってもイタリア人がきちっと期日にことを運んだためしはないんですからね」

 オースティン氏は友人ゴルツィ氏はロンドンで長年商売をして成功をおさめているひとかどの人物だし、イタリア人といってもイギリス人に近いのだと説明したが夫人は納得しなかった。

「でも、見てご覧よ、この手紙を。これはシチリアから先月の終わりに出したものだけどね、四月の第一週にはストレーザに帰るから、それ以後はいつでも寄ってくれ、前もっての連絡はいらないって、ほらここに書いてあるだろう?」

 マッコリー夫人はふん、と鼻をならした。
「何が書いてあるかってことじゃあないんですよ、オースティンさん。私がいいたいのはね。イタリア人の約束なんて疑ってかかるに限るってことなんですよ。私なら、そのゴルツィさんだかなんだか存じませんけれど、電話が通じて、客間のベッドが空いているか、本当にストレーザにヴィラがあるのか、確認してからじゃないと、とても荷物なんて詰める氣にならないってことなんです」

 そういうと彼女はグルーバーの皿に自宅から持ってきた大きなハムの塊を入れてやり、大きく尻尾を振る彼女のお氣に入りを優しく撫でてやった。

 彼女の懐疑のうち、少なくとも一つは晴らしてやることができた、とオースティン氏はひとりごちた。ストレーザには間違いなくゴルツィ氏の所有のアルカディア荘が堂々たる門構えで建っていたのである。

 残念なことに、件の門はぴったりと閉ざされ、オースティン氏が呼び鈴を何度押そうと、門につかまって激しく揺らそうと、大声で旧友の名を叫ぼうと、決して開かれることはなかったのであった。午前中に軽い足取りでヒースロー空港にむかったオースティン氏は、既に暮れかかったストレーザで今夜の宿に困りつつ大きな荷物とグルーバーを抱えて途方に暮れているというわけだった。

「失礼ですが、シニョーレ」
ふいに女性の声がしたので、オースティン氏は醜態をさらしていたのではと後悔しつつ振り向いた。

 そこには二十代後半と思われる漆黒の髪をきっちりと結った使用人風の女性が立っていた。大変まじめそうな様子だったが、その緑色の瞳は少し楽しそうにきらめいているように見えた。

「奥様が窓からあなた様のご様子をご覧になり、何かお困りのようだから見て来るようにと私に申し付けました」

 話している途中から、オースティン氏には彼女がイタリア語ではなくて完璧なクイーンズ・イングリッシュで話してくれていることに氣づいた。だが、彼女はどこから見ても完全なイタリア美人だった。たとえ引っ詰め髪をしていても、である。

「ええ、じつは招待主である友人がいないようなんですよ」
かなり間抜けな説明をこのような美人相手にしなくてはならないことを情けなく思いつつも、オースティン氏は事情を説明した。

「それは、お氣の毒です。でも、ゴルツィ様はまだシチリアからお戻りではないんですよ。いずれにしても、奥様がどうぞエミーリオ荘でお休みください、とおっしゃっていますので、よろしければこちらへ」

 それで、はじめてその女性の指さす隣のヴィラに眼をむけた。そして、あやうく驚きの言葉を出しそうになったが、あわててひっこめた。

 アルカディア荘の三倍はありそうな広大な敷地にはかつては壮麗だったと思われるヴィラが立っていた。わざわざ過去形を使わなければならなかったのは、現在はちっとも壮麗ではなく、それどころか言われなければそこに人が住んでいるとは到底思えないほどの荒れ果てた外観だったからだ。

 かつてはクリーム色に塗られていたと思われる外壁はほとんど剥げ落ち、ローマ風の人物像の壁画はみじめに薄れていた。屋根瓦は崩れ落ちているし、第一、玄関の扉の木が半ば腐っている。庭の木々は美しいが、ちょうど白木蓮の散りかけた様子は、まさにそのヴィラと調和をなしていた。

 女性はオースティン氏の当惑に礼儀正しい無関心を装い、華麗な装飾はされているものの錆び付いた門をギギィと押した。オースティン氏は正直言って凄惨な荒れ方のヴィラに恐れをなしていたが、この一ヵ月のバカンス用の荷物や、これからの宿探し、ストレーザの坂の多い地形などを思い巡らし、また、この英語の堪能なイタリア美人のことも考慮に入れた。

 ふと氣づくと、グルーバーは大人しく女性についていくではないか。オースティン氏自身は決して認めなかったが、いつも愛犬のとっさの行動には無意識に絶大な信頼を置いていたので、グルーバーのしっかりとした足取りを見ただけで、いつの間にかこの屋敷に足を踏み入れてみてもいいかな、という氣になっていた。

 芝生のところどころに、彫刻が倒れている。小さな花瓶のような形の石も落ちていて、ふと見上げると、それは二階の装飾の一部が落ちてきたものだということがわかった。頭上注意だな、オースティン氏は首をすくめる。

 玄関の扉は重くどっしりとした木で、着色が剥げ、装飾が落ちてしまっているために、とりわけ荒んだ感じがしたが、よく手入れすれば見事なものだと思われた。その扉をすっと開けると女性は「どうぞ」と中に入るよう勧めた。

 オースティン氏が驚いたことには、外側の荒れ方から鑑みて、中の状態は思ったほど悪くなかった。確かに階段の手すり部分の装飾や天井画や赤い絨毯は少々年代が経ちすぎていたと見て、手入れが必要だと思われたが、それ以外のところは塵一つなくピカピカに磨かれていて、居心地が悪いとはいえない感じだった。

 女性が案内してくれたのは二階の東向きの部屋で、白磁の花瓶には桜の花が豪快に生けてあった。窓からは美しいマッジョーレ湖とボロメ諸島が一望の元に見渡せた。

「私はラウラ・ステリタと申します。このヴィラの使用人です。ご用の向きがございましたらいつでも遠慮なくお呼びください。ただいま犬用のバスケットと毛布、トレイなどをお持ちいたします」

 ラウラは簡潔に言ってその場を離れた。窓を開け放し、夕暮れに赤く染まるベラ島を見渡すと、涼しい風が部屋に入ってきた。荷物を簡単にクローゼットに納め、ピカピカに磨かれたバスルームで軽くシャワーを浴びる。タオルがふかふかだったことも、オースティン氏の印象をさらによくした。

 バスルームからでて、氣持ち良く真っ白に洗濯された枕カバーなどをちらっと見ながらオースティン氏はこの屋敷の持ち主のことを考えた。

「いったい、奥様ってのはどんな人なんだろう、グルーバー?」
グルーバーはすでに、心地よいクッションの入ったバスケットの中に丸まっていた。近くの椅子には毛布が、そしてその横にはグルーバーのトイレ用のトレイがおかれていた。

 しばらくするとラウラが食事の用意ができたと呼びに来た。グルーバーも一緒にと言う。オースティン氏はその心遣いに感謝するとともにほっとした。

 彼自身は認めなかったが、グルーバーがいないといつも何故か大変心細い思いをするのだ。

 一階の食堂はやはりかつては大変豪奢だったとおもわれる造りで、大きなシャンデリアが天井から外れて落ちてきませんように、とオースティン氏は秘かに祈った。二十人は座れるだろうと思われるテーブルにただ一人女性が座っている。

 オースティン氏は彼女の近くまで行って恭しく挨拶をした。その女性は重々しく言った。
「ようこそエミーリオ荘へ。私はここの女主人でアントネッラ・マンツォーニと申します」

「窮地をお救いくださいまして、心より感謝いたします。私は英国からきました、ゴルツィ氏の友人でジョン・ヘンリー・オースティンと申します。これは、私の連れのグルーバーですが、犬が同席してもよろしいのでしょうか」
「ちっとも構いませんことよ。お客様が犬を連れて滞在なさるのは普通のことですもの。特に狩のシーズンは、ですけれど」

 この家にお客様? とオースティン氏は少しだけ思ったが、もちろん口には出さなかった。

 マンツォーニ夫人は少々神経質な感じのする金髪美人だった。年のころは四十代後半から五十代、濃い化粧と強い香水の匂いがする。差し出された手にキスをする時、その指に三個も指輪が嵌めてあるのに氣づき、オースティン氏は驚いた。

 幸い、オースティン氏の席はマンツォーニ夫人の向かい、つまり二十人以上座れるテーブルの端と端だったので食事の間夫人の香水の匂いに悩まされることもなさそうだった。

 ラウラがスープを運んできて、給仕する。アスパラガスの薫りが食欲をそそる。オースティン氏はマンツォーニ夫人に訊かれるままに、自分がロンドンの小さな法律事務所に勤めていること、独身で家族はグルーバーだけであること、ゴルツィ氏とは仕事を通じて七年ほどのつきあいのある親しい友人であることなどを話した。

 ラウラがクリーム風味のニョッキを運んできた後、マンツォーニ夫人はこの屋敷は夫が三十年ほど前に購入したこと、その夫は現在はここにはいないことなどを氣取った言葉遣いで話した。

 ペンネ・アラビアータに続き、ウズラ肉と香味野菜ソテー、デザートにはパンナコッタのオレンジソースがけが運ばれてきた。どれもレストランに負けない味であるだけでなく美しい盛りつけである。選ばれたワインも全てがしっくり合い、普段は食に頓着しない彼でもこの屋敷の食事は並みならぬ水準であることに氣づいた。

「素晴らしい夕食でした。こちらでは特別なシェフを雇っていらっしゃるのですか?」
「いいえ、これはラウラが調理しているのです。お恥ずかしい限りですわ」

 オースティン氏はびっくりした。じゃあ、調理、盛りつけ、給仕を全部一人でやっていたのか? しかも完全なタイミングで出てきた。

 エスプレッソを飲みながら、先程からなんとなく変だと思っていたことが急にわかった。この屋敷にはこのマンツォーニ夫人という支配者とラウラという使用人の二人しかいないのだ。それなのに、使用人が五人も十人もいるような生活をしている。それが破綻せずにまわっているのが妙なのだ。

 隅々まで行き届いた掃除と心遣い、手の凝った料理と大仰な給仕、氣持ちのいいホスピタリティと貴族的な氣位。それは、居心地はいいもののどこか痛々しい感じがするのだった。それも痛々しいのは超人並に働いているラウラの方ではなく、むしろ年代物のカットグラスを物憂げに傾けるマンツォーニ夫人の方なのである。

「私の夫は貿易で財をなしましたの。ストレーザに住むのは子供の頃からの夢だったと申しましたわ。私は子供の頃からローマとコモを行き来する生活でしたから、夫がこの屋敷を買ったときも、特に感慨はなかったんですけれどね。不思議なことに私だけがこのストレーザに住むことになりましたわ」

「あの、失礼ですがご主人様はお亡くなりになったのでしょうか」
オースティン氏は恐る恐る訊いてみた。

「ラウラ、濃いエスプレッソをもう一杯持ってきて頂戴」
夫人は突然そう言い、それから永いこと黙っていたが、蝋燭の燃えるジジ……という音をきいて我に返ったように言った。
「実のところ、私は死んだと思っていますの。アフリカにはライオンとか、豹とかが沢山いますでしょう?」

 面食らったオースティン氏が答えを探して脳味噌をフル回転させているとラウラが銀のコーヒーポットを持ってテーブルに近づいて来た。

「今年で七年になるはずだわ。そうだったわね、ラウラ」
「左様でございます。奥様、私がこちらでお世話になる三年前のことでございますから」

 オースティン氏は助けを求めるようにラウラの顔を見た。ラウラは小さく頷きながら続けた。
「ご主人様は、ボツワナへおでかけになって以来、行方知れずになってしまわれたのです」

「余計なことは言わなくていいのよ」
マンツォーニ夫人の語氣の鋭さにオースティン氏はびっくりした。マンツォーニ夫人はコーヒーに手をつけないまま席を立った。

「いつまででも構いませんから、どうぞゆっくりご逗留なさってくださいね。外国のお客様を迎えるのは何よりも楽しいひとときですもの。たった一人で暮らしているのは、大層退屈なものですわ」

 夫人がいなくなるとオースティン氏はラウラに詫びた。夫人の叱責を浴びるようなことを言わせてしまったのはほかならぬ自分だとわかっていたからだ。ラウラは冷たくなったコーヒーを大して落胆した様子もなく片づけながら言った。

「お氣になさらないでください。奥様のお話の仕方には、びっくりなさったでしょう。でも、ご主人様のことは本当ですもの。他に申しようがありませんわ」
「それ以来、あの人はこういうふうに暮らしているのかい?」
「ええ」

 ラウラはイタリア人にしては言葉の少ない女性だった。英国の女性でも使用人というのはもう少し面白おかしく話すものだが、ラウラの返事からはあまり多くの情報は期待できない。

 だが、それでもオースティン氏はラウラに大変な好印象を持った。それは、これだけの有能で誠実な使用人に対してあのように冷淡に振る舞うマンツォーニ夫人への若干の反感も手伝ってのことだった。また、この使用人の話す英語が高等教育を受けたはずの夫人の英語よりもはるかに達者で正確だったことも、英国人オースティン氏の印象に大きく影響していることは間違いなかった。もちろん、イタリアに来て英語で通そうとしている自分のことは全く棚に上げて、である。

 それにしても、今日はなんという一日だっただろう。ピカデリーラインに乗り込んだときは、まさかこのような謎めいたヴィラで休暇が始まろうとは露ほども考えなかったものだ。この一件はなんとしてでもマッコリー夫人には内緒にしなくては。

 オースティン氏は洗濯のりの爽やかな薫りのする枕カバーに頭を埋め、バスケットにうずくまるグルーバーに「おやすみ」と声をかけた。グルーバーは満足そうに尻尾を振って見せた。

 まくら元のランプを消すと今晩は満月らしく、窓の外の白木蓮の大木がぼうっと浮かび上がって見えた。重く疲れ果てたように垂れ下がっている花びらの大軍。甘ったるくねっとりとした薫りが空氣を不透明にしているような氣がする。物憂げな空氣はストレーザの印象を大きく変えた。

* * *


 翌朝、少し肌寒い中オーステイン氏は自然と目が覚めた。体が重い。というよりは、頭の奥が鈍くうずいている感じで体があまり持ち上がらない。よく眠ったはずなのにどうしてだろう。

 彼は大変目覚めのいい性質だった。ロンドンではよほど早起きをしなくてはいけないとき以外は目覚まし時計を必要としない。よほど早いのかと思い時計をみると既に八時半をまわっている。慌てて起きて大急ぎで顔を洗い髭をあたる。

 ふと見るとグルーバーも大儀そうに毛繕いをしている。
「なんだ、お前も寝過ごしたのか。俺達、昨日の騒動でよっぽど疲れていたのかな」

 恨めしげに窓からゴルツィ氏の屋敷を眺めるが、やはり人のいる氣配は感じられない。いそいそと食堂に降りていくと階段を掃除しているラウラと遭った。

「お早うございます。オースティン様」
「お早う。シニョーラ・ステリタ。朝食に遅れてしまったようで大変申し訳ない」
「ラウラで結構ですわ。いいえ、ちっとも遅くございませんわ。奥様の朝食はいつも九時過ぎです」
と、微笑んだ。オースティン氏はその笑顔の爽やかさにどきりとした。

「朝食の準備は食堂に用意してございます。コーヒーになさいますか?紅茶やホットチョコレートなどもございますけれども」
「紅茶をもらおうかな。ミルクティを用意するのは大変かい?」
「とんでもございません。すぐにお持ちしますわ。卵料理なども召し上がりますか」

 オースティン氏は感激した。通常朝食では食べない卵料理を、英国人の自分のために用意しようかと訊いてくれている。
「いや、いいよ。君はただでさえ忙しいんだから」

グルーバーはまたはじまった、という顔をした。うちのご主人様はどうしてこう美人に弱いのだろう。

 そういうわけで、トーストではなく丸いパンとバター、ジャムとミルクティの朝食の間中、オースティン氏はせっせと働くラウラを見ながら、少々ぼうっとしていた。

* * *


「ロンドンにお住まいの前は、確かケンブリッジにいらしたっておっしゃいましたわよね、オースティンさん」

 愛想の良い笑顔を浮かべながらマンツォーニ夫人が近づいてきたのは、エミーリオ荘に滞在して五日目の午後も遅く、庭の樹木も少しくたびれた様相を見せはじめる時間であった。

 マッジョーレ湖を望む美しい庭園、どちらかというと手つかずの自然に近いものだったが、そこが英国人として氣に入ったオースティン氏は午後の散歩をしていたのだった。アントネッラは人目をはばかるように近づいてきたので、あきらかにラウラの眼をさけて彼と何かを話したかったのだろう。

「はい、書籍の販売に少し関っていた時代に、五年ほど住みましたが」
「ということは、今から十年ぐらい前は、ケンブリッジにいらしたの?」
「そういうことになりますね」

「じゃあ、その頃に留学していたイタリア人留学生と知合いになったりしたこともありますか」
「まあ、一人、二人、思い出す人もいますけれど……。どうしてですか?」

「探している子がいるのよ。今から十二年前から四年間、ケンブリッジのセント・アン・コレッジでアフリカ史を専攻していたソニア・マンツォーニという娘をね」
「マンツォーニ? ご親戚ではないんですか?」

「主人の娘です」
私の娘といわなかったからには、先妻か愛人の娘なのだろう。アントネッラの顔からは一瞬愛想笑いが消えて、眼に鋭い光が宿った。

「残念ながら、私の知っている人ではありませんね」

 オースティン氏の返事に、マンツォーニ夫人は少しだけ落胆したように見えたが、言葉を続けた。
「イギリスに帰ったら調べていただくことはできないかしら、大学にその当時の学生が卒業後どこに行ったかの記録がないかとか……」

「さあ、そういった情報があるかどうか別として、私のように縁もゆかりもないものが、そうした情報を入手できるかどうか……」
「必要ならば、私が委任状を書きます。でも、できるだけ内密にことを進めたいのよ」

 オースティン氏は、この女性がなぜ困っている見ず知らずの英国人に大層親切にしたのかわかった氣がした。窮地を救ってもらい、これだけのもてなしを受けたのだから、この役目は引き受けざるを得ないであろう。

 その日、オースティン氏はなぜ夫人がその娘を探しているのかあれこれ想像しながら一日を過ごした。
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Tag : 小説 読み切り小説

Comment

says...
執筆、お疲れ様でした。

ラウラにアントネッラに湖畔の廃れたお屋敷ですか。ふふ、なるほどねぇ(したり顔)
私もときどきやりますよ、これ。ただ、私の場合は、オリジナルの方が世に出ることはなかろうと思いますけど。

前作のことがあったので、グルーバーが大人しくついていくなんてアロイージア系?とか思いましたが、ハズレだったみたいですね(笑)
オースティン氏のシリーズ、探偵ものっぽい様相を呈してきましたね。
アントネッラの依頼自体は、まあ、たぶん、そうでしょ、と思いますが……。問題は、その先ですよね。
どんな事情があるのか、続編を楽しみにしています。
2016.12.14 11:12 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

くすくす。もうね。あちこちにあるんですよ、使い回しの元ネタが(笑)
この他にもいろいろとあるんですけれど、陽の目を見る元ネタ小説は、きっとこのシリーズだけでしょうね。

今回は、幽霊の疑惑の人は一人も出てきません。全部ふつーの人間のお話です。
それに大して謎解きもへったくれもないんです。
要するに、長かったから切っただけで、もともとはただの読み切りだったのです。

年内に全部終わらせますので、後二週ほどおつき合いくださいませ。

コメントありがとうございました。
2016.12.14 23:25 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
イタリア人ってかなりおおざっぱな人が多いんでしょうね。イギリス人から見たら眉をひそめる対照なんだろうなぁ。ドイツ人はどうなんだろう。あ、スペイン人はかなりおおざっぱ(いいかげん)という印象を持ちましたが・・・(でも何となく憎めない)。
さすがマッコリー夫人、鋭いです!
でもエミーリオ荘、謎だらけのお屋敷ですね。
オースティン氏とグルーバーには次々と不思議なものがかかわってくるんですね。あ、こうでないと物語が始まらないですか・・・。
お屋敷の設定にもこの世ならざるものを感じてしまうのはサキだけでしょうか?でもそういう設定ではないとの夕さんのコメント。じゃぁいったいどういう設定?
本当にスーパーメイドでないと無理そうですもの。有能で誠実なラウラに注目します。
そしてアントネッラの調査依頼、ラウラの目を避けて居るのはなぜ?
またまたややこしいことに巻き込まれそうな予感、そしてサキの勝手ですけれど素敵な結末の予感もすこしだけ・・・。

ラウラ?アントネッラと湖畔の廃れたお屋敷?メッチャ反応してしまいますね。
でもこういうことはしょうがない事かも・・・。
キャラの名前って同じ名前をもう一度使ってみたくなること、ありますもの。
サキの場合、そういう時は続編を書くことが多いですけれど・・・。
没になった作品のキャラに対して、日の目を見せてやりたくなったりすることもありますし・・・。
2016.12.15 11:59 | URL | #0t8Ai07g [edit]
says...
こんばんは。

ドイツ人は、ドイツ語圏スイス人ほどではありませんが時間にはうるさいです。

でも、同じスイス人でも、フランス語圏やイタリア語圏だとやはりすこしルーズになるんですよ。
ラテン系言語を話すとおおらかになってしまうのかな?

オースティン氏は、自分から不思議なものに首を突っ込むことはないみたいですから「巻き込まれ」タイプですね。
そうでないと彼の人生は傍目から見て退屈なもの何じゃないかしら。
グルーバーの散歩と、通勤と、煙草と、お茶?

この屋敷は、別に幽霊屋敷ではありません。
あっちのアントネッラのヴィラと同じで、まともに維持するお金がないだけですね(笑)
「夜のサーカス」の方は、もともとお金のない人なので謎もへったくれもないのですが、こちらの方はどうしてもともとはあったはずのお金が使えないのか、というお話なんですね。あ、でも、大した謎でもありませんから。単に長かったので切っただけなんです。

この湖畔のヴィラのモデルについては、そのうちに記事にしようと思いますが、名前の方はですね。私はもともと氣にいった名前をあちこちで使うんですよ。さすがに蝶子みたいな滅多にない名前は無理ですが、欧米系にはよくある名前が多いので、使う名前は頻出します。ラウラは子供の頃からよく使っていましたね。それに日本語名だと「タカシ」「アキラ」というような読みの男性名は小説ごとに1回くらい使っていました。

ラウラは英語にするとローラで、もともとは月桂樹を意味する名前で、香りは高いけれど派手ではないところが私の書こうとするタイプのヒロインにぴったりなんですよ。だからヒロインの名前としてはかなり頻出です。

今度、こっちの話も記事にしてみますね。

コメントありがとうございました。
2016.12.15 19:56 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
幽霊のお話ではなく地に足のついた人間のお話なのですね。
前回とはまた種類の違うミステリアスさを感じさせる展開、
はてさてこの先どうなるのか……
元はあったはずのお屋敷を維持するお金が現在はないということですが
夫または「主人の娘」の行方がどう関連してくるのか気になるところです。

そっか、イタリア人の約束は疑ってかかるに限る、のですか!
ラテンの血?
こう、イタリアってバチカンとかありますし宗教とか厳粛なイメージもある
一方で国民性は陽気?  というのが面白いなと思いました。
うう、すみません、知識が追いつかず的外れなことを申し上げているかもですが、夕さんが小説の中で描写される国民性の違いにはいつも興味を惹かれます。

それからラウラの名前の由来にうっとり。
夕さんは「名」や「言霊」というものをとても大切に取り扱って
おられますが、わたしも夕さんのお考えに大賛同です。
原型なんだけれど早くもその名に裏打ちされた慎ましやかな存在感を感じさせられました。
オースティン氏がちらちらっと気にかけるのも頷けます。
グルーバーは「美人に弱いご主人だなあ」と思いつつも、何だかんだで一緒にいてくれて心強いですね。
2016.12.17 02:26 | URL | #- [edit]
says...
こんにちは。

この話を書いたのは前作を書いてからかなり経ってスイス移住後なんです。で、「ケルト大好き、異世界との境界大好き」から今の「ふつーの現実にある日常の中のちょっとしたこと」を書く姿勢に変わっているのかなと自分で分析していたりします。

この話は、いずれ記事にすると思いますが、ストレーザ(今回の舞台のイタリアの保養地)にある実際の廃ヴィラからインスピレーションをもらったのです。(後に「夜のサーカス」で同じ題材を使って遊んでいます)維持にお金のかかるヴィラはその後も売れなかったりするとどんどん悲惨なことになっていくんですけれど、「どうしてこうなったんだろう」と想像したりしたのが出発点です。
ただ、ストーリーそのものは、ものすごく単純で謎解きもへったくれもないです(笑)

イタリア人って、もちろん個人差はありますが、けっこう適当なんですよ。
郵便も日本から出したものがスイスに着くのに4日しかかからないのに、イタリアからだと二週間かかったりしますし、なんか期待すると疲れてしまうところがあるんですね。そういうものだと思ってつき合うと、けっこういい人たちなんですけれど。

名前って大事だなと思うんですよ。そして、私の小説の主人公ってどうも「ローズ」とかそういう華やかな名前って似合わなそうだと思っちゃうんです。で、一度氣にいると、その名前がまた使いたくなってしまいます。そうは頻出できないので、時々、「ここぞ」という時にですけれど。

グルーバーは、この話では一番ちゃんとしているキャラかもしれませんね。
ただの犬ですけれど。
私も犬欲しいなあと思いつつ、きっと生涯ペットは飼わないでしょうね。
その分小説でたくさん飼っちゃいます。

canariaさん、お辛い時にわざわざいらしてくださり、本当にありがとうございます。
あとで、そちらのブログにコメに伺いますね。

コメントありがとうございました。
2016.12.17 14:57 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
使いまわしというのですかね。
夕さんらしい描写はやはり随所で見られると思います。
背景や臨場感。
そこにいると錯覚させるヨーロッパの造形。
そういったものは読んでいてともてよく感じます。

私も主人公の使いまわしが多いかなあ。。。
お互いに書けるものしか書けません。
気楽に長く・・・お互いにやっていきましょう~~。

ひょっとしたら、うちのブログでコメントしてくれている中では
夕さんが最古参かもしれないですね。
出来るだけ長くブログをやりたいものです。

2016.12.18 16:23 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

あ、それはそうですね。
なんといっても書き手が同じなので、昔に書いたとは言えやはり同じようなカラーのものになっていると思います。

このヴィラとストレーザは、実際のモデルがあるので描写も力がはいりましたよ。

そして、こちらもおっしゃる通りで、書けるものしか書けないんですよ。
でも、だからこそ自分が書く意味があるんですよね。
本当にお互いに長く続けていけるといいですよね。

そして、LandMさんのところにお邪魔する読者で、私が最古参になってしまったんですか?
ああ、ブログ界は、入れ替わりが早いんですね。
これからもどうぞよろしくお願いします。

コメントありがとうございました。
2016.12.19 22:54 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
このお話も、そんなに前の作品なのですね。
夕さんのファイルの中にはどれだけ未発表のものが眠っているのか。
ストックの余裕の無い私には、羨ましい限りです。

そして、不思議。
夕さんのお話はどれを読んでも(古いものは特に)翻訳物の洋書を読んでいるような感覚になります。
文体がそうなんだと思うけど、やはり思考の持って行き方というか、順序とか細かい部分がもうきっとヨーロッパの人の感覚なんだろうなあと感じます。
そう言う趣も、オースティン氏の物語にはぴったりですね。
今回も癖のある脇役たちがたくさんですね^^
名前は同じでもみんな別キャラ……なのですよね。
(私も、ボツになった作品のキャラ名を使いまわしすることがあるんですが、その場合、性格まで同じになってしまうので焦ります。名前にすっかり同期しちゃったのかなあw)
さて、厄介な頼みごとをされたオースティン氏。この後どうなっていくのか。たのしみにしています。
2016.12.21 00:43 | URL | #GCA3nAmE [edit]
says...
こんばんは。

いやいやいや。
もうそんなには眠っていません。
いないことはないんですが、残りはほとんどが黒歴史(笑)

翻訳調、この作品は意識的にそうやって書いたのですが、そういうつもりでないものもわりとそういう感じだと言われることがあって、なぜかなと思ったら、要するに私はあまり日本の作品を読んでいないのかも?
もともと読書のほとんどが、翻訳したものを読んでいたからかもしれません。

そして、最近は、ストーリーを考えている時に、その書いている人物の文化の中に浸って考えていたりするので、思考の順序、会話ででてくるコトパや概念もその国のものになっているのかもって思いました。でも、日本語で考えているんですけれどねぇ??

この話は、前にも書きましたけれど、英国の翻訳した物語にウルトラかぶれていた時に「それっぽいもの」を書きたくて書き出したシリーズなんで、他の小説よりも「イギリス的」を意識していますね。

ヨーロッパでは、同じ名前がやたらと多いので、同じ名前で別のキャラクターというのを持ってくるのは全く問題ないのです。
むしろ日本人キャラで、同じ名前を付ける時には少し混乱します。まあ、日本語の名前は、漢字も含めるとものすごいバリエーションがあるので本当に同じ名前になることは少ないかなあ。

この話は、ミステリーでも何でもない、つまりひねりのほとんどない話なのです。(ミステリー書けないし)
彼のイタリア休暇をちょっと垣間みる感覚でお楽しみいただければと思います。

コメントありがとうございました。
2016.12.21 22:38 | URL | #9yMhI49k [edit]

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