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Posted by 八少女 夕

【小説】冬木立の前奏曲(プレリュード)

「大道芸人たち」がチャプター3の日本編に行くまでのインターバルとして、短編小説をアップします。これは、毎月一つずつ書いている「十二ヶ月の組曲」の一月分。




冬木立の前奏曲(プレリュード)

 プラタナスの木は葉を全て落とすと、まるで地面に逆さまに突き刺さっているかのように見える。晴れた空はみごとなセルリアン・ブルーで、目に痛いほどだ。ライナーは湖畔に並ぶ色とりどりの家の一つであるレストランのテラスに座って、マッジョーレ湖に反射する陽光のきらめきに目を移した。

 一月だというのに、この暖かさはどういうことなのだろう。日光の燦々と降り注ぐこのテラスでは、氣温は二十度を超えて、コートを脱がなくては暑いほどだ。

 スイスでもっとも海抜の低い所にある街、アスコナはイタリアとの国境に近く、南国の陽氣さとスイスの清潔と機能を併せ持った、ドイツ系スイス人にとっては理想的なリゾート地で、「マッジョーレ湖の真珠」と呼ばれている。人々は定年退職後はこの地に移住してのんびりと暮らしたいと願っている。そのために口の悪い人々はこの街を「ドイツ系スイス人の老人ホーム」と呼ぶのだった。

 ライナーはアルプスを越えた北側の街クールに住む紛れもないドイツ系スイス人ではあったが、引退するにはまだ若すぎる。実を言うと、まだ結婚もしていないし、仕事も極めたとは言い兼ねる青二才に属する年齢だった。今日この場所にいるのは、単なる週末の遠出だった。

 この前ここに来た時には、ダニエラと一緒だったが、再び彼女と来ることはないだろう。ダニエラとの関係を解消するには多くのエネルギーが費やされ精神的疲労を伴ったが、結局はそれが二人にとってよいことだったと思っている。少なくとも二人とも健康で、その後の人生を楽しむことができている。ダニエラには既に新しいボーイフレンドができたと仲間から聞いたが、ライナーはそのニュースにいささかの痛みも感じなかった。結局は、そういうことなのだ。彼女は過ぎ去っていく女だったのだろう。

 今ライナーがここアスコナで思い出し、そこはかとない痛みを感じるのは、かつてつき合ったことのあるどのガールフレンドたちとの思い出でもなかった。それは、ライナーのもと同僚だった今は亡きステファン・ツィンマーマンの自信にあふれた表情と、エーファ・バルツァーの悲しげな顔だった。

 会社のクリスマス会食ではじめてエーファに逢った時、ライナーは少し残念に思った。エーファはステファンのパートナーとして一緒に暮らしており、ライナーはダニエラと一緒に会食に参加していた。そうでなければ、ライナーは彼女に「もっとお互いのことを話しませんか」と言っただろう。エーファはライナーの理想とも言える資質を持っていた。彼女のどちらかというと地味な風貌ではない。たくさん話した訳ではないので話題でもない。波長とでも言うのだろうか、彼女を包む形容しがたいヴェールのようなもの、言葉の運び方、立ち居振る舞いなどがとても心地よかったのだ。それが第一印象だった。エーファのような女性を選んだことが、ステファンに対する評価をも変えた。それからライナーは以前よりもステファンと親しくするようになり、休日にも時折四人でドライブに行ったりしたのだ。

 コーヒーの代金を払うと、ライナーはレストランを離れ、湖に沿ってプラタナスの並木道を歩いた。一人は冷たい墓の中にいて、もう一人はアスコナの陽光の中を後ろめたさを抱えて歩いている。

 ここのところいつも頭痛がするんだと、イライラする口ぶりで言ったステファンをライナーも、ダニエラも、そしてエーファですらも相手にしなかった。けれど、あの時にはもう、ステファンの病はかなり進んでいたのだ。最初の入院は、それから三週間も経っていなかったが、半年の間に三回も入院し、一ヶ月前の手術を生き延びなかった。ステファン。まだ三十二歳じゃないか。アドミニストレータの資格取得のために学校に行きはじめたばかり、結婚とか子供を作ったりするのはまだ早いと笑っていたじゃないか。

 ステファンが最初に入院した時、彼の分も仕事をこなさなくてはならなかったライナーは不服を言った。そのことが今となっては悔やまれる。葬儀の時のエーファの疲れた顔にも、同じ後ろめたさが感じられた。

「もっと優しくしてあげるべきだったのよね」
力なく笑ったエーファの肩は、以前見たよりもずっと細くか弱く見えた。

「君は、誰よりもステファンを力づけてあげたじゃないか」

 彼女はわずかに微笑んでライナーの頬に小さいキスをし「さようなら」と去っていった。


 ライナーはエーファのことを考えた。ダニエラと別れてシングルである自分は、やはりシングルであるエーファに興味を持っている。もし、彼女がステファンとけんか別れしたならば、それは恥ずべき感情ではなかった。だが、病でパートナーを失ったばかりのエーファにこれ幸いと近づくようなことは不可能であるように思えた。とはいえ、それだけで諦めてしまう氣にもなれなかった。

 ライナーは、携帯を取り出して、電話番号を探した。ステファン・ツィンマーマンのまま登録されている番号。彼女はまだ同じ場所にいるのだろうか、それとも引っ越してしまったのだろうか。しばらく逡巡してから彼は送信ボタンを押した。何回かの呼び出し音が聞こえ、迷ったまま切ろうとした時に通話状態になった。
「バルツァーですが……」

 ライナーは、何を話そうか、何も考えていなかったことに思い当たった。
「僕、ライナーです。どうしているか、氣になって」

 エーファの声が心なしか和らいだ。
「まあ、ありがとう。なんとかやっているわ。こういう寒い日には、つい家に籠ってしまって、考え込んでしまうのだけれど……」

「そうか。じゃあ、誘えばよかったかな。僕は今、アスコナにいるんだ。春みたいに暖かいよ」
「まあ、素敵ね。こっちは、また雪が降りそうだわ。ダニエラも一緒なの?」

 そこで、ライナーは躊躇した。
「いや、その、実はダニエラとは二ヶ月くらい前に別れたんだ」

 エーファは少し黙った。それからためらいながら言葉を続けた。
「まあ、そうなの。それは、残念ね……」

 少し警戒しているように響いた。ライナーは慌てて言った。
「ここに来たら、四人でロカルノに来た日のことを思い出したんだ。あまり落ち込んでいないといいと思って。元氣だせよ」

「電話をありがとう、ライナー」
エーファは小さく言った。ライナーが電話を切ろうとすると、エーファは小さく続けた。
「あの……」

「なんだい?」
「氣にかけてくれて、ありがとう」

 エーファの静かな声は、ライナーの心に染み渡った。


 ライナーは色とりどりの家の向こうに見えている、灰色の教会に向かって歩き出した。聖ペテロと聖パウロ教会だった。地味な石造りの外観に相反して、白い漆喰のアーチとたくさんの壁画に彩られた明るく美しい内装の教会を、ライナーは既に訪れたことがあった。だが、それは真夏の日差しを一瞬避けるために訪れただけで、ゆっくりとその中を見たかったわけではなかった。そもそも、ライナーは成人と同時に教会からでてしまって、誰かの結婚式か葬式の時以外には教会に行くこともほとんどなかった。

 教会の重い扉を開けると、鳴り響くオルガンの音に驚かされた。ミサの最中ではなかったし、聴衆がいるわけではなかった。つまり、オルガニストが練習しているのだろうとライナーは思った。

 それはバッハだった。何番かと言うことはできないが、『プレリュード』であることは間違いなかった。これの入っているCDを持っている。静かだが動き続ける長調の旋律は、ちょうど今見ていたばかりのマッジョーレ湖に反射する陽光のきらめきを思い起こさせた。その曲が再び四人でマッジョーレ湖に来た思い出にライナーを引き込んだ。


 ロカルノを訪れたのは去年の七月だった。空氣の重い暑い日で、ダニエラが疲れたと文句を言ったので四人でカフェに入った。

「そんなにあちこち歩き回る必要なんてないのよ。どうせ湖と教会の他はショッピングをさせようって店とカジノしかないんだから」
ダニエラがいつもの無関心な様子で言うと、ステファンはウィンクをして言った。

「八月は、映画祭があるから、話が違うけどな」
「私、一度もロカルノ映画祭に来たことがないのよ。ライナーって段取りを上手くやってホテルを確保するとかできないの」

「そんなに行きたければ、自分でホテルの予約をしろよ」
ライナーが言うとダニエラはムキになって反論した。
「つまんないバッハのCDを聴く暇があったらやってくれてもいいでしょ。信じられない。バッハだなんてまともな男の聴くもんじゃないわ」

 ステファンが混ぜっ返した。
「確かに、勘弁してほしい選曲だよな。もしかして日曜毎にミサに通っているとか?」

 ライナーは教会に対して敬虔で厳かな氣持ちを持つことをずっと否定し続けてきた。教会で毎週行われているミサや、ごてごてした教会の飾りを馬鹿げた茶番と軽蔑してきた。好んでいるバッハのCDはジャズ・ピアニストによるアレンジものだったし、教会の偽善と一緒にするなと反論することもできた。にもかかわらず、彼はステファンとダニエラの偏狭な物言いの方に腹を立てて言った。

「テクノだけが音楽じゃないよ。いいものはいいんだ。教会にだって必要なら行くさ。お前らだって結婚式や洗礼式には行くじゃないか」

 エーファは少し氣の毒そうに言った。
「私も時々バッハやヴィヴァルディを聴くわよ。特別なクラシック音楽ファンって訳じゃないけれど」

「あ~ら。ライナー。あなたには他の理解者がいるじゃない」
感じの悪いダニエラにいい加減にしろとライナーが言いかけたその時に、ステファンは注文と違うアイスクリームを持ってきたとウェイトレスにつっかかった。その言い方をたしなめるエーファとステファンは口論になり、ライナーは自分の怒りをすっかり忘れて二人を仲裁し、ダニエラは白けてタバコを吸いだした。あれは、ここからたった二キロしか離れいてない場所で起こったことだったのだ。


 荘厳に響くオルガン曲を聴きながら、空間としての教会がどこよりもバッハのこの曲に合うことをライナーは認めた。それは純粋な芸術であると同時に、宗教的な崇高さを備え持っていた。信仰というほかはない精神なしには意味をなさない音楽だった。ライナーはあの時の自分の怒りの意味をようやく理解した。二人が、そして自分も軽蔑していた教会という空間と敬虔な精神の脇には、自分たちが目をそらしていた世界があった。

 メメント・モリ。死を想え。死は、どこにでも潜むものなのだ。若かろうと、科学技術が発達した二十一世紀だろうと避けられない。自分とは無縁だと思っていたその厳しい現実が、友人の死で浮き彫りになった。その恐怖や悲しみをなだめることができるのは、酒やばか騒ぎなどではなく、今まで避け馬鹿にしてきた真摯で厳かな精神であろう。それが信仰というものの本質なのかもしれないと。

 ライナーはオルガンの響きを追いながら、いまおこったこの感覚についてエーファと語り合ってみたいと思った。彼女には、ライナーの感じたことがわかるだろう。それこそが、彼がエーファに興味を持ち、彼女のことを今ここで想う理由なのだ。そして、彼女にもステファンへの愛だけでは埋められない心の隙間があったに違いない。そのことに思い至ってはじめて、ライナーの中で今までの後ろめたさがなくなった。


 愛するパートナーをこういう形で失った彼女が、すぐに氣持ちを切り替えることは難しいだろう。ライナーもそれを望んではなかった。このわずかな時間、わずかなアプローチで、自分が彼女の心の中の地位を向上することを期待している訳でもなかった。ただ、今日、このアスコナででライナーの中のエーファは完全に特別なポジションに収まった。いつか『プレリュード』を聴きながら、彼女と今日のことを話すことができれば。その期待に満ちて、ライナーの心も冬の中の小春日和のように暖まっていた。

(2011年12月 書き下ろし)
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Comment

says...
 運命の出会いってあるんでしょうね。
 一見で感じる相性とでも言うんでしょうか、そういうのあるんでしょうね。
 でも、普通はこれまでのしがらみに流されて流されて…そのままの流れで進んでいくことが多いんでしょうね。
 人間ってあっけないものです。それを経験し、何気ない発信をけっして見逃すまい。そう思ったのもつかの間、時がたてばやはり自分の忙しさにかまけて「なんでもないだろう」「一時的なものだ」と相手にしなくなるのです。
「もっと優しくしてあげるべきだったのよね」後悔し細くか弱くなり。
 そしてまた「見逃すまい」と思うのでしょう。
 山西はライナーとエーファの関係を見守りたいと思います。2人の心はまだまだ不安定で過去にひきづられどうなるかわかりません。
 しかし、2つの次善の組み合わせが運命に翻弄され崩壊し、その中に最善の組み合わせが薄っすらと姿を現しかかっています。
 ライナーはそれを意識している。
 多分エーファも意識し始めているんでしょう。
 ダニエラもそれ気付いていたのかもしれません。
「あの……」

「なんだい?」
「氣にかけてくれて、ありがとう」
 その声は山西の心にも染み渡って、ゆっくりと暖まったのでした。
2012.06.25 14:48 | URL | #0t8Ai07g [edit]
says...
左紀さん、丁寧なご感想、ありがとうございます!
こんな風に読んでいただけるのって、本当にありがたいです。

この話は読み切りの短編ですが、いくつかの友人の経験や自分の感情をもとにして作りました。その中には若くして突然友人をなくしてしまった人の嘆きや、運命の出会いがちょっとだけ遅すぎたという友だち以上恋人以下の微妙な関係があります。妙に暖かいアスコナの静かな冬を舞台に何を書こうかと考えた時に、この話がすっと浮かんできました。

「十二ヶ月の組曲」シリーズは、全て違う人物たちの、それぞれの人間関係と感情を別の角度から書き出す私のはじめての試みで、書き始めの一月分はあまり重くならないようにしました。

そんな作品ですが、ここまで深く読んでいただいて、本当に作者冥利に尽きます。中編に化けてしまった三月分(「夢から醒めるための子守唄」として公開済み)と十月分も含めて、いずれ全て公開する予定ですが、またお時間があったら他のものもお読みいただけると嬉しいです。

「シスカ」読み始めました。まだ10なので、感想はもう少しお待ちください。ゆっくりと、ちゃんと、感想を書きたいので。

ありがとうございました!
2012.06.25 20:34 | URL | #9yMhI49k [edit]

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