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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (26)バルセロナ、 チェス

今回からチャプター4です。前回よりもインターバルが短いのですが、実は、とある企画の前に、チャプター4を終わらせる必要があるのです。

チャプター3の日本編では、皆さんの反応がとてもよくっていい意味で驚きました。ヨーロッパに四人が戻ってからも、関心を持っていただけると嬉しいなあと思ったりしています。チャプター4は「序破急」でいうと「破」にあたります。いまごろかよ、と思われそうですが、「急」にあたるチャプター5まで、変わらずにおつき合いいただければ幸いです。


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大道芸人たち Artistas callejeros
(26)バルセロナ、 チェス


 思い思いに過ごす定休日に、ヴィルはボーランの『フルートとジャズ・ピアノ・トリオのための組曲』を練習していた。レパートリーにボーランのジャズを取り入れたいと言い出したのは稔だった。『ギターとジャズ・ピアノ・トリオのための協奏曲』を演奏してみたかったのだ。『ヒスパニックダンス』『ボルサリーノのテーマ』などボーランつながりで弾ける曲はいろいろあるし、レストランやバーにも合う。フルートのための曲も多く、『ピクニック組曲』はピアノとギターとフルートの三重奏ができる。手品にもテンポが合う。それで、三人は順次レパートリーを増やしていた。

 稔がバロセロナの街から戻ると、食堂でレネが頭を抱えてイネスとひそひそと話していた。

「何があったんだ?」
稔が訊くと、レネは上の部屋を目で示した。

「またかよ」
稔はため息をついた。蝶子がカルロスの部屋に消えたのだ。二人はしばらく出てこない。そうするとヴィルはたいていピアノを弾く。耳聡い稔だけでなくレネまでが怯えるような音を出す。ショパンやリストやスクリャービンを弾いている時もある。今日はボーランだった。

 日本で二人の関係が少し改善されたかと思っていたのに、バルセロナに戻ってきたら元の木阿弥だった。というよりは、ひどくなっていた。蝶子はカルロスにべったりだった。ヴィルはそれを仕方ないことと流すこともできなければ、以前のように無表情に逃げ込むこともできなくなっていた。確かに顔には大して表れていないのだが、広間に置かれたピアノにその矛先が向いてしまっていた。

 二階から蝶子が降りてきた。手にはフルートを持っている。何もなかったかのように平然と歩く蝶子が広間に行く前に、稔はその手首を強引に引っ張って、食堂に連れ込んだ。

「何よ」
「お前さ。少しは考えろよ」

 蝶子は切れ長の目をさらに細めて、じろりと稔を見た。
「何を」
「重要書類でデータの上書きはしないのがお前の主義だったんじゃないのか?」

 蝶子は馬鹿にしたように言った。
「データの上書きなんか、とっくの昔に終わっているのよ」

「じゃ、お前が今やっているのはなんなんだよ」
蝶子は鼻で笑った。
「今やっていること? ビショップにとられないように、クイーンはキングの側に駒を戻したのよ」

 また新しいたとえ話かよ。稔はむすっとして乗らなかった。稔がかなり腹を立てているようなので、蝶子ははぐらかすのをやめた。
「私、ティーンエイジャーじゃないの。自分のやっていることぐらいちゃんとわかっているわよ」

 稔は腰に手を当てて仁王立ちになって言った。
「わかっているって? あの音が聴こえないのか?」

蝶子は勝ち誇ったように言い放った。
「聴こえてるわよ。私、耳は悪くないの」

 そういって、稔を押しのけて広間へと入って行くと、頼まれもしないのに勝手に『Veloce』にフルートを合わせだした。ヴィルはテンポをあげた。蝶子はついていった。凄みのある演奏だった。文句のつけようがなかった。二人は止まっては意見を交わし合いながら曲を仕上げていった。稔もレネも、後から降りてきたカルロスも全く入り込む余地がなかった。


 私の耳は悪くない。蝶子は心の中で繰り返した。わかっている。こんな音を出されたら誰だって氣づく。もしかしたら真耶のことを好きになったんじゃないかって思っていたけれど、そうじゃない。

 蝶子は、想いを寄せられることには慣れていた。学生時代から、そんなことはいくらでもあった。中学生の頃、上級生につきあってほしいと懇願され、三ヶ月近く毎日帰宅路で待ち伏せをされたことがある。大学時代にも結城拓人だけでなく多くの男に言い寄られた。ミュンヘンでもエッシェンドルフ教授と一緒に住んでいるにもかかわらず、熱烈に言い寄ってくる男達が何人もいた。蝶子にとってその男達は、迷惑であったり、誇らしい勲章であったりはしたが、それ以上の存在ではなかった。

 コルシカフェリー以来、数週間にわたってレネに熱っぽい目で見られた時にも、蝶子はおもしろがる以上の感情を持てなかった。そのかわり、レネがその後、他の女性にぼうっとなっていても、残念だとは思わなかった。大切な仲間、親友としてのレネは蝶子からは失われなかったからだ。それはカルロスに対しても同じだった。

 けれど、ヴィルだけは別だった。シベリアの吹雪のような冷たくシニカルな言葉を遣う無表情な青年が、ヴェローナのバーで突然奏でだした音色が既に大きな奇襲だった。稔と一緒に奏でる音楽は愉快で楽しかった。けれど、ヴィルとの競演はそれ以上だった。それは響き合う魂の調べだった。蝶子が一度も出会ったことのない芸術の恍惚そのものだった。真耶にとっての結城拓人のような存在を蝶子はそれまで持たなかった。フルートと音楽への愛は常に孤独の中にあった。

「彼とともに奏でる音楽は私の聖域なの」
真耶が拓人についていった言葉は、そのまま蝶子にとってのヴィルの存在そのものだった。たった一人で音楽のために戦ってきた蝶子の底なしの孤独から、自分を憎んでいるような言葉遣いをする冷たい男が軽々と救い出した。その音色が、いつの間にか変わっていった。誰でも氣づくほどの強い想いがその音色にあふれるようになり、それは当の蝶子を誰よりも強く揺らした。

 けれど、ヴィルはそれ以上の領域侵犯を長いことしなかった。親しい仲間として以上の関係を求めてくることはなかった。蝶子が示唆するまでもなく、ルールをストイックに守り続けた。

 それが浅草で破れた。蝶子の最大のウィークポイントをヴィルは理解していた。たぶん、稔やレネには生涯理解してもらえないであろう孤独を、ヴィルはたぶん本能でもしくは経験で知っている。何でも話し相談するカルロスに、何万の言葉を遣ってでもわかってもらえない暗闇を、ヴィルだけは何一つ語る必要なく包み込むことができる。そして蝶子はそれを必要としていた自分自身に驚いていた。それは由々しき事態だった。

 蝶子はヴィルが稔やレネ以上の存在になってしまっていることを認めつつも、必死で抵抗していた。Artistas callejerosは、蝶子にとって最初にして唯一の居場所だった。そして、Artistas callejerosは蝶子だけではなくて、稔やレネやヴィル本人にとっても大切な場所だった。壊すわけにはいかない。彼が領域侵犯を試みるなら、自分が領域を変えなくてはならない。それがいつまで可能なのか、蝶子にはわからなかった。
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Comment

says...
この展開は……フラグが立ったってことでしょうか。
クイーンに括目すべし!ですねww
2012.09.12 09:16 | URL | #- [edit]
says...
 こんばんは。
いいですね… 聖域かぁ
何時か 言ってみたいなぁ そんな言葉。
そんな 言葉を吐き出せるのは 幸せなのだろが 失くした時の 苦悩も 孤独も深そうだなぁ。 
2012.09.12 10:02 | URL | #- [edit]
says...
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2012.09.12 14:18 | | # [edit]
says...
こんばんは。
知らずにデスフラグ立てちゃいました? なんて話じゃないですね。
くすくす。
ご注目ください。

コメントありがとうございました。
2012.09.12 17:36 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんばんは。

私も言ってみたいです〜。自分じゃ出来ない事を登場人物にやらせるのって、それはそれで快感。
多少は苦悩してもらう予定もありです。

コメント、ありがとうございました。
2012.09.12 17:39 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんばんは。

「居場所」って、多分私にとってのかなり重要なテーマなんだと思います。
たぶん、自分にそのコンプレックスがあるので、ついついそういう追求をしてしまうというか。「コウモリ」もそこに根があるんだと思います。きっとそちらの作品でも、近いテーマがあるんだろうなと、勝手に想像しています。

それと、大切な人、たとえば家族の中や、学校の生徒など、表向きは差を付けるべきではない集団の中で、一人だけを特別に想いはじめてしまうというのも、もうひとつのテーマなのかもしれませんね。この人は特別なのだわかっていても「いや、公平に」って自分を納得させようとする。もう、そうなった時点では、どうしようもない訳ですが。

来週は、いよいよのシーン(何がいよいよなんだかはまだ内緒。っていうか、ほぼおわかりかと思いますが)がやってきます。行く場所はバレンシアです。どうぞお楽しみに。

コメントありがとうございました。
2012.09.12 17:58 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんにちは、TOM-Fです。

いろんな意味で、お帰りなさい、ですね。
チェスのルールは詳しくないですが、上手いたとえですね。
稔は、理解できていても納得はできなかった、というところでしょうか。

四人の調和が崩れ始めたここが「破」とは、さすがですね。

音楽の最高のパートナーが、プライベートでもパートナーである必要はないのでしょうけど、
この四人の場合、芸術と生活(プライベート)が一体ですから、厄介ですね。

蝶子とヴィルの行く先、めちゃくちゃ気になります。
ヤキモキしながら、次話をお待ちしています。
2012.09.13 05:48 | URL | #- [edit]
says...
ただいま〜。

って、私ではなくて四人ですね(笑)
どんだけ長い「序」なんだという突っ込み覚悟ですが、そういう事になっています。

蝶子と拓人ってとても似ていまして、二人ともあっちの経験はたっぷりあるのに、本氣で誰かに夢中になった事はほとんどない、しょうもない奴らです。まあ、拓人の場合は、それでも日常生活にも芸術にも差し支えていないのですが、蝶子はね(笑)
氣になっていただけて、嬉しいです。ぜひ、ヤキモキしながらおつき合いください。

コメントありがとうございました。
2012.09.13 14:54 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
切ない…です。
蝶子、ヴィル。
二人の心の内を思うと
胸の奥がギュッてなります。

夕さん、実は私…

ヴィルがとっても好きです。(笑)
2013.03.07 01:20 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

akoさん、速っ。もうこんなところまで。

ヴィルを好きとおっしゃってくださる方、思ったよりも多いんですよね。この手のタイプがウケるとは思わなかったので、意外でした(笑)

コメントありがとうございました。
2013.03.07 19:09 | URL | #9yMhI49k [edit]

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