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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (29)ディーニュ・レ・バン、 別れ

ディーニュ・レ・バンとは「温泉地のディーニュ」という意味です。ヨーロッパでは温泉地はたいてい保養地になっています。たぶん、だからニースからこの小さな街にわざわざ鉄道が敷設されたのでしょう。プロヴァンスを行く小さな列車。電車が、どこかここではないところに連れて行ってくれるのではないかと期待していたかつての子供はここにも一人います。

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大道芸人たち Artistas callejeros
(29)ディーニュ・レ・バン、 別れ


 おもちゃのように小さな電車だった。ヴィルが子供の頃に憧れた、どこか知らない彼方へと連れて行ってくれる魔法の乗り物にしては、あまりに頼りなかった。父親と母親の呪縛を振り切ってから、いくらでもした電車の旅。ここではないどこかに行く事だけが心躍る歓びだった。あの頃は自由である事だけがヴィルの望むすべてだった。この街でヴィルがしようとしている事は、しかし、心躍る事でも望んでいる事でもなかった。

 小さな頼りない車体を眺めて、ヴィルは自分をあざ笑った。ここでないどこか。そんな所はどこにもない。チケットを買えば電車には乗れる。ただ、それだけのことだ。


 ニースから三時間以上、のんびりと走るローカル列車プロヴァンス鉄道の終点が、ローマ時代から続く温泉の街、ディーニュ・レ・バンだった。旧市街の中心にあるサン・ジェローム大聖堂は街と同じ赤みかがった石材で出来ている。鐘楼がプロヴァンスに特有の繊細な鉄細工で、遠くから見てもひときわ目立つ。曲がりくねった小さな道が商店街に続く、この大聖堂の前で四人はいつものように稼いだ。

 秋がはじまりまだ暖かくても日差しが弱くなっている。オリーブの葉は灰色がかった深緑に変わり、黄色く乾いた枯れ葉も時折強く吹く風に乗ってあたりに乾いた音を響かせた。

 食事の度におかれる透明なパスティス入りのグラス、カラフェから水を注ぐと途端に白く変わる魔法も、既に日常と化していた。アニスの香りも、夏のプロヴァンスのなくてはならない残り香だった。季節はゆっくりと変わっていく。

 稔が一人でバーに入ってゆき、パスティスを頼むと、カウンターの親父は小さいグラスをすっと差し出した。その後、レネが入ってきて、プロヴァンス方言で早口にパスティスを頼むと、もう少し大きいグラスに倍くらいの量が入って出てきた。

「なんで、こんなに違うんだよ」
納得のいかない稔がレネに訊くと、はじめてバーの親父は稔とレネが仲間だと氣づき、あわててレネに早口で弁解をした。

 レネは大笑いした。
「それ、外国人旅行者バージョンなんだそうです、今、僕と同じなのを用意してくれるそうです。今飲んでる分は、お詫びにサービスにしてくれますって、よかったですね」

 蝶子とヴィルが続いて後ろから入ってきて、その話を聞きつけた。蝶子が高笑いした。
「これで、ヤスもテデスコのお仲間じゃない」

 ミラノで出会った日に市場でヴィルがぼったくられていた時の話をしているのだ。稔はふくれた。レネも楽しそうに笑った。けれどヴィルは何も言わなかった。楽しそうにもしなかったし、腹を立てているようでもなかった。稔は「おや」と思った。ドイツ人の心はどこかここでない所を泳いでいるようだった。


 それから二日ほどして、再び稔はヴィルの様子に目を留めた。今度は仕事中だった。稔と蝶子が『日本メドレー』を演奏し終え、続いて蝶子がレネのリング演技の伴奏をはじめた時だった。水を飲みながらふと横目で見ると、ヴィルが目を閉じていた。蝶子のフルートに意識を集中しているようだった。それだけなら何とも思わなかっただろう。だが、その後ヴィルは目を開けて空を見上げた。そして、ずっと何かを考え込んでいた。仕事中にヴィルがそんなに長く上の空になった事はなかったので、いったいどうしたのだろうと稔は訝った。

 ヴィルは実行しようと考えていた。愛する女がおそらく望んでいる事を。それ以外、解釈のしようがなかった。浅草で心が通じたという確信を頼みに、彼女の行動を自分に都合良く解釈してみても、すぐに現実的な考えが彼の期待を打ち消した。あの時と違う。彼女はもうすべて知っているのだ。自分が誰であるかも、一年以上も信頼を裏切っていた事実も。バレンシアの月夜に、声を荒げる事すらせずに問いただした蝶子の冷たい表情。持て余している想いをどうする事も出来ない自分を責めるように繰り返される奇妙な挑発。彼女はもはや元の信頼のおける仲間に戻れない自分を、曖昧なまま側に置いておきたくないのだ。けれど、彼女はArtistas callejerosを尊重するが故に、こちらの自発的な決断を待っている。

 ヴィルは空を見上げて思った。どこに行くのでも構わない。ただ、Artistas callejerosの仲間たちと、ずっと旅を続けたかった。蝶子のフルートの音色と絡み合う音の世界を泳ぎ続けたかった。食べるのも、飲むのも、歩くのも、一人では味氣ない事だろう。

 一週間ほどのディーニュ滞在の後、ニースに戻る事になった。チケットを買おうとしていると、不意にヴィルが言った。
「俺はもう少しここにいる」

 三人は黙って、ドイツ人を見た。ヴィルはいつも通り無表情だった。だが稔はすぐに理解した。ヴィルにはもう限界だったのだ。正体を曝し、心も知れ渡っている。だが、彼には何も変えられない。日に日にひどくなる蝶子の挑発に堪え、このままArtistas callejerosに加わっているのは彼には残酷すぎる選択だった。

「でも、後から来るわよね」
蝶子は声を震わせた。

「俺の事は待たなくていい」
それは蝶子に対する決別の宣言だった。さすがナチスとSSを生んだ民族だ。こんな切ない話なのに、眉一つ動かしやしねえ。稔は感心した。ほらみろ、お蝶。お前はいじめすぎて猫を殺してしまったんだ。愚かな女め。

 翌日、三人はニース行きの電車に乗り込んでいた。重苦しい空氣が漂い、ほとんど誰も口を利かなかった。蝶子はことさら無表情だった。お、トカゲ女がテデスコ化してきたぞ。稔は腹の中でつぶやいた。

 車窓から何度もプラットフォームを覗いていたレネが叫んだ。
「あ、テデスコ!」

 稔と蝶子も窓から身を乗り出した。

「おい、乗れ!」
稔が叫んだ。だがヴィルは首を振った。見送りにきた、それだけのようだった。最後に一目だけ蝶子を見たかったに違いない。

 蝶子はそわそわとしていたが、ついに言った。
「私、降りる」

「えっ」
稔とレネが同時に絶句した。蝶子はハンドバックだけをつかむと、乗り込んでくる乗客をかきわけて必死で出口に向かった。

「おいっ。もう時間がないぞ!」
稔が叫んだが蝶子は降りる事しか考えていなかった。

 蝶子がプラットフォームに降りると同時に、ドアが閉まり施錠の音がした。ヴィルはさすがに驚いてこちらに走ってくる。

 稔は窓から蝶子に叫んだ。
「おい、お蝶、ニースで待っているからな!」
「ええ、待っていて。きっと二人で行くから!」

 電車は動き出した。ヴィルは蝶子の傍らに立った。そのヴィルを鬼のごとく睨みつけると騒音に負けないように蝶子は叫んだ。
「本氣の恋なんてまっぴらよ。それなのに、なんでよりにもよってあんたなのよ!」

 ヴィルは起こった奇跡を信じられないまま、列車が完全に過ぎ去るまで蝶子の泣きそうな美しい顔を見つめていた。それから、風に踊る蝶子の髪と頬の間にそっと手のひらを滑り込ませ、感無量の声にはまったくそぐわない、いつもの無表情で答えた。
「それはこっちの台詞だ」

 遠く車窓から覗く稔とレネには、二人が抱き合っている姿が小さく見えた。稔は顔をゆがめて窓の外を見ているレネの肩をポンと叩いて言った。
「泣くな、ブラン・ベック。今夜は俺がとことんつきあってやるからさ」
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Comment

says...
こんばんは、TOM-Fです。

別れのシーンに、鉄道の駅って、よく似合いますね。
手の届くところに相手がいるのに、どうしようもない離別が待っている。
列車で去る者と、駅に残る者。
この対比が、ひとつの結論として、あるいは、新たな始まりとして、とてもドラマチックでした。
失礼かもしれませんけど、古き良き時代の映画のワンシーンのように感じました。

って、よく考えたら、これってすごい展開ですよね。
もう、早く続きが読みたくてしょうがないです。
2012.10.04 16:46 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

映画っぽくしたかったので、嬉しいです。このシーンが書きたくて、長い事ヤキモキエピソードを書いてきたって感じでしょうか。実は、これが第一段階でのラストシーンでした。しかし、ここでラストにしちゃったら、いくらなんでも無責任なのでチャプター4の終わりまで、お話の収拾が続きます。

で、詳しくは言えませんが、チャプター5で、どかんと別の展開が。くすっ。

どうぞお楽しみに。

コメントありがとうございました。
2012.10.04 17:32 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
先日拝見してからすぐコメントが出来ないくらいドキドキして動揺が止まらなかったcanariaですっ!
前回までの延長線で展開を想像していたのですが、こ、これは・・・!!
と意外でもあり、でもヴィルさんの性格を追いつめたらこうなるしかなかったのだろう・・・と説得力がある展開でした・・・!

この回は、蝶子さんとヴィルさんがやっと向き会えた回でもあるんですけれど、改めて稔さんていい人だなあ・・・といろいろな所で思わされる回でもありました。
Artistas callejerosに欠かせない、リーダー的な存在、素敵です!
レネさんは、何て言うか、可愛らしくて、最後ホロってきました・・・
4人の個性が今回は様々な面で浮き彫りになっていると思いました。

本氣の恋なんてまっぴら・・・と、さりげなく蝶子さんの方から告白しているのにちょっとじーんときちゃいました。
次の展開が全く読めません・・・二人は、Artistas callejerosはどうなるのか・・・楽しみにお待ちしております^^
2012.10.05 12:45 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

よかった、よかった。氣にいっていただけたようで。
金髪の誰かさんは、まあ、完全に読みを間違っていたのですが、お陰でデッドロックが解除されたと。

ろくでもないセリフの応酬なんですが、個人的には今まで書いた愛の告白のシーンでは一番好きだったりします。

稔とレネは、ここんところしばらくと言うか、ずっと脇役扱いなんですが、Artistas callejerosの中では本当に一人欠けても困った事になる個性の持ち主で、書いているうちにどんどん好きになりましたね。(う。またこんなに自作キャラへの愛を語るのは痛すぎるかも!)

話は全くそれますが、先日の「孤児院日記」へのコメの中で出た件について。あまりにもセイレンちゃんたちの事と関係なかったので、再コメしなかったのですが……。
「樋水龍神縁起」には「支配と被虐」はあまり出てきません。だけど、「愛と憎しみ」「快楽と苦しみ」「生と死」が同じところに至るという話が出てきまして、それが最終的に「何でこの二人の話で龍神縁起なの?」の回答になるという構成になっているのです。はっきりいって、「夏、朱雀」はろくでもない話ですが、愛の四段階を踏んでいるので、あの「なんだかなあ」を書かねばならなかったという、ジレンマがあります。千年前の話は、「夏、朱雀」の中の一章だけで、あとは全部現代の話です。最終巻「春、青龍」は15日にアップする予定です。長いのでなかなか手が出ないかと思いますが、いつか、氣が向かれたらどうぞ。

コメントありがとうございました。
2012.10.05 17:34 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
夕さん・・
私、きっと毎朝乗る電車の中で不審人物になってる・・。

蝶子が電車から飛び降りた瞬間。
ぇ~、もぉ、どば~ぁぁぁっと泣きましたとも。o゚(p´□`q)゚o。
その先をしばらくは読めないほど。(笑)

本気の恋なんてまっぴらよ・・ って。
それはこっちの台詞だ・・ って。

先を読んだらまたどばどば~ぁぁぁって。

どんな状況でも(たとえば朝の通勤ラッシュの中とか・・爆)
涙がとめられないほどの・・
ん~、とめたくないほどの・・ かな。
そんなお話に出逢えた時って、凄く感謝の気持ちでいっぱいになります。
夕さん、このお話を書いてくれてありがとう^^

ホントはもっといろいろ伝えたいのに
いろんな感情をうまく伝えられなくてすいません(>_<)

帰りの電車が楽しみです♪
2013.03.07 02:48 | URL | #- [edit]
says...
……akoさん、通勤ラッシュの電車なんですか?
大丈夫ですか?

山のように出版されているプロの小説があって、それ以外にもたくさんのブログ小説がある中で、読んでいただけるだけでもありがたいのに、そんな風におっしゃっていただけるのは、作者冥利に尽きます。
この辺は、かなり自分でも感情を込めて書いた方なので、読者の方に入り込んでいただけると、とても嬉しいです。

前の方のコメにも書きましたが、本当にロクでもない告白のセリフなのですが、自分で書いた告白シーンとしてはもしかすると一番好きかもしれません。

感想、ありがとうございます。
2013.03.07 19:15 | URL | #9yMhI49k [edit]

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