scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】落葉松の交響曲(シンフォニー)

読み切り小説です。「十二ヶ月の組曲」の11月分。この小説は、ブログのお友だちである十二月一日晩冬さんに捧げちゃいます。何度もリクエストをいただいていた「○小説」の一部なので。晩冬さんが一日もはやくお元氣になられますように。「私○説」といっても、かなり色々と変更してあります。固有名詞、住んでいる所、二人の職業、出会った場所など。

で、来週から、再び「大道芸人たち」の連載を再開します。もうお忘れかと思いますが、まだ完結していませんので。




落葉松の交響曲(シンフォニー)
〜十二月一日晩冬さんに捧ぐ〜

 もう、ただのジーンズだけでは寒すぎる。タイツを履いて、ジーンズの上からは風を通さないバイク用のパンツを履く。ブーツもきちんと履かないと足首から冷えるだろう。ジャケットにもライナーを付け、もちろん厚手の下着としっかりとしたセーターを着込む。

 十一月の初め。年によってはもうバイクでの峠越えは不可能だ。雪が降ってしまったら峠は通行止めになる。エンガディンが小春日和に和んでいても、チャンスはなくなる。

 今年はラッキーだった。九月に一度は雪が降ったものの、その後は記録的な好天に恵まれた。そして、この週末は、スイス中で雨が降っているというのに、グラウビュンデンだけは紺碧の空が広がり格好のバイク日和になった。たぶん、今年最後の。

「ねえ。早く行かないと、夜になっちゃうんじゃないの?」
絵梨はしびれを切らして声を掛けた。リュシアンはどうでもいいことにやたらと時間がかかる。普通は出かける前に時間がかかるのは女と相場が決まっている。でも、この二人の場合は逆だった。絵梨はそのつもりになれば、五分で出かける用意ができる。化粧だの香水だのといった面倒は普段から省略していた。リュシアンは、もちろん化粧などはしない。しかし、どのサングラスを持っていくかとか、靴がもう一足必要だとか、出かけると決定してから実際にバイクに跨がるまでには常に一時間近くかかるのだ。

 絵梨がそれまで知り合った男たちにリュシアンのようなタイプはいなかった。車の免許を持っていないのはいいとして、自宅も普通のフラットとは違う。昔は納屋だった建物を改造した、誰かの趣味の小屋だった所を借りて改装して住んでいるのだ。職場もそこだ。農作業用の各種の車両、もしくは家庭用の芝刈り機などを修理して、場合によっては転売する。もちろんネクタイもジャケットも持っていない。客はリュシアンの礼儀や見かけにはまったく興味を示さなかった。人好きのするおしゃべりな態度と確かな技術、重要なのはそれだけだった。芝刈り機の修理などでまともな収入があるのかと絵梨は訝った。何の秘密もなかった。リュシアンの生活はかつかつだった。銀行預金が100スイスフランに達しない成人が存在するなんて絵梨には信じられなかった。

 絵梨がリュシアンに出会ったのは、ケニアのマサイマラ国立公園だった。会社を辞めてやって来たアフリカ旅行。サファリツアーがバンガローについてすぐ、他の客たちは最初のサファリに行きたがった。けれど絵梨は到着までのひどい道のりですっかり車酔いしてしまい、一人バンガローに残ったのだ。少し氣分がよくなった絵梨はメインバンガロー向かった。そこ世界中からの観光客たちが優雅に座っていた。日本人は絵梨一人だった。ほとんどは連れがいて絵梨はそっとバーの一番端に佇んでトマトジュースを注文した。その姿を見て話しかけてきたのが、一人でバイクで旅行をしているというリュシアンだった。スイス人という自己紹介を聞いて、絵梨はほとんど興味をそそられなかった。そんな寒い国に用はないと思ったのだ。それが、何故か絵梨はいまスイスに住んでいるのだ。しかも、納屋なんかに住んでいる男と。

「いますぐ、行けるよ。そんなに急いだって、アルブラ峠は午前中は寒いんだから」
リュシアンはようやくヘルメットを被り、ジャケットの中にマフラーを突っ込みながら出てきた。二時間。せっかくの土曜日、もっと寝ていればよかった。絵梨はほんの少し天を見上げただけで何も言わなかった。いちいち怒っても仕方ないのだ。十年も一緒にいれば、寛容の範囲はお互いに広がっていく。

 たぶん日本にいる友だちにはわかってもらえない、この奇妙な男との結婚生活について、彼女は失敗したと思ってはいなかった。絵梨は上手い具合に仕事を見つけた。スーパーマーケットの店員だが、ひと月に3300フランの給料をもらっている。ごく普通に生活していれば困ることはない。リュシアンの納屋改造住居の家賃はたったの850フランだが、夏は快適で、冬も暖かい。リュシアンはあいかわらず宵越しの金を持たなかったが、借金をしてくるわけではないのでそれでいいと思うようになった。日本の両親にはとても実情は口には出来ないが。

 絵梨はたくさんの選択の余地がある中からリュシアンを選んだわけではなかった。有り体にいえば、彼女に明白なプロポーズをしたのは、世界広しとはいえ、彼一人だった。だが、だから結婚したわけでもない。リュシアンは当たり前のように言った。
「僕たち、生涯一緒にいるよね?」

 そんな事を言われても、私、移住してこなくちゃいけないし、そんなに簡単じゃないんじゃ? 絵梨は人ごとのように考えた。だが、家族とも滅多に会えない異国に来ることになっても、この人となら人生を分かち合える確信があった。随分と変わった人生になりそうだけれども。

「お前の嫁、まだ、出て行っていないのか?!」
時々、口の悪い知人が数年ぶりにリュシアンを訪れてきては、まだ絵梨がいることに驚愕して言う。するとリュシアンは胸を張る。
「ふふん。日本人妻ってのは、スイス女とは違うんだよっ」

 それ、日本人だからじゃありませんから。絵梨は思う。普通の日本人の女の子は、納屋に住んでいる時点でアウト・オブ・クエスチョンだから。

 リュシアンはYAMAHAのXT 600 Ténéréのエンジンを吹かした。1987年モデルで鮮やかな青地に黄色いラインが走っている。絵梨は「いくね」と言って後ろに座った。真っ青な空には雲一つない。スイスの他の地域、たとえばチューリヒやルツェルンが、この時期にはスープのような霧に覆われて、骨がきしむような憂鬱な日々に苦しみだすというのに、グラウビュンデン州はヨーロッパ中が羨むような好天に恵まれるのだ。リュシアンと絵梨が向かうのは、エンガディン地方だった。鏡のように澄み切った青い湖、それに負けない紺碧の空。四千メートルアルプスの山々は新雪で輝き、もっと低い場所は落葉松の黄色に覆われる。鮮やかな色のシンフォニーだ。そこにリュシアンと絵梨は加わるのだ。青と黄色のTénéréに乗って。

 落葉松の葉が一斉に落ちる日があるという。それは《黄金の雨》と呼ばれているのだそうだ。風に吹かれて全ての針葉が一度に空中に舞う。風に旋回しながら、太陽の光に輝いて大地を次々と黄金色に染めていく。冬になる前の選ばれたたった一日にだけおこる、色の響宴だ。絵梨はいつかその現象をこの目で見たいと願い続けてきた。東京に住んでいるなら仕方ない。落葉松林に行くチャンスなんて、それこそ生涯に数回だから。でも、グラウビュンデンに住んでいるのだ。エンガディンには毎年行く。もちろん山が黄色に燃え立っている時だけではないのだけれど。

 絵梨は冷たい風と柔らかい陽の光を顔に浴びて、移ろいゆく景色を眺めていた。峠に至る道はアルブラ川沿いに蛇行してゆく。ゴツゴツとした岩場の両脇には豊かな森林が広がる。琥珀色、橙色、緋色、鬱金色。ありとあらゆる色が重なりあい、風に揺れ、射し込む陽の光に輝く。冬が来る、その前に生命の勝利を宣言している。そして、その美しい世界には、エンジン音を響かせて走るTénéréと、それを操り彼女を風の中へと連れて行くリュシアンだけが存在する。黒いジャケットの背中は、絵梨にとって唯一の確かな存在だった。

 ある夕暮れ、仕事から帰ってきた絵梨をリュシアンは急いで呼んだ。
「エリ、すぐに来て!」

 何事かと思って、声のする方に急ぐと、彼は空を指差した。薄葡萄色に暮れ泥んだ大空にぽっかりと三日月が浮かんでいた。見たことのないほど完璧な形だった。絵梨は泣きたくなった。東京で、こういう景色を見つけた時、彼女はいつも一人だった。誰も足を止めない。心に押し寄せるなんとも言い表せない想いは、誰にも打ち明けられなかった。誰にもそんなことを聴く時間と心の余裕もなかったのだ。誰かにわかってもらえると期待したこともなかった。でも、もう彼女は一人ではなかった。

 風の中で、彼の背中を見つめる度に、絵梨の心にはあの時と同じ想いが浮かんでくる。世界がその美しさをこれでもかと見せつける時に、彼と同じ光景を目にしていることが彼女の心を躍らせる。それは恋情とは違う種類の想いだった。もっと深い所にある歓びだった。ビッグバンが起きて一つの原子が宇宙へと広がった時に離ればなれになってしまった片割れと再会した、そのくらい深い歓びだった。他には何もいらない、この人と出会えて本当によかった、魂が大声で叫ぶのだ。納屋に住んでいることや、食費を出すことも出来ないほど財布が軽いこと、それでいて勝手に友だちを連れてきては食事を作るように突然頼んだり、連絡もしないでいきなりドライブに行ってしまうことなど、日々の生活の中では文句を言うことは山ほどある。それでも絵梨は日本に帰ろうと思うことはなかった。私はこの人と一緒にいるのだ。やっと出会えたのだもの。

 月面のような殺風景のアルブラ峠は肌を刺す冷たい風に凍えそうだった。その風の大半はリュシアンが受けている。首をすくめて彼の背中の影に隠れれば、耐えられないほどの寒さではない。空の色は更に青く透き通った。カーブを曲がり、ゆっくりと降りて行くと、目の前に明るい黄色い世界が広がる。当たり年だわ。絵梨は微笑んだ。世界に名だたるエンガディンの秋だ。降りて行くほどに、寒さは和らぎ、代わりに陽の光の優しさが増してくる。こんなに清冽な風景があるだろうか。Ténéréはサン・モリッツを通り過ぎ、青く輝くシルヴァプラーナとシルスの湖に沿ってオーバー・エンガディンを走っていく。落葉松の黄色は暖かい。

「ああ、素晴らしい……」
リュシアンがぽつりとつぶやいた。そうよね。今年も来れて本当によかったわよね。答える代わりに絵梨は夫の体に手を回してぎゅっと抱きしめた。彼は振り向いて笑った。ちょ、ちょっと。いいから、前向いて運転して!

 風は吹かなかった。そんなに都合いいものではなかった。太陽が柔らかく暖かく降り注ぐエンガディンの大氣はぴたりと静まり返り、落葉松林は絵画のように微動だにしなかった。こんなに晴れているのに雨は降らない。たとえ黄金の雨であっても。

「あちゃ~、今年もダメみたいだね」
リュシアンが言う。絵梨が《黄金の雨》を見たがっていることは重々承知しているが、ダメなものはダメだ。そう思っているような氣のない言い方だった。そう、待っていてもどうしようもないのだ。絵梨は微笑んだ。
「じゃあ、来年もトライしようね」

 リュシアンは笑って、絵梨の髪をくしゃりと乱した。

 来年も一緒に来る。再来年も、十年後も。リュシアンか、絵梨か、それともバイクがダメになるまで。遠く離れた所で産まれた二人が地球の果てで出会い、そして一緒にいる。その奇跡の確率は《黄金の雨》の場面に出くわすよりも低い。Ténéréの起こす風を受け止めながら、絵梨はリュシアンに抱きついた。

(初出:2012年11月)
関連記事 (Category: 短編小説集・十二ヶ月の組曲)
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の組曲
Tag : 小説 読み切り小説

Comment

says...
 こんにちは。
とても 静かで 自然な作品ですね。
奇跡的な出会いを描きながら とても自然な描写に 尖った表現を排除した
大人の深さを纏っています。
僕には 書けない 恋愛モノです。

ところで 最近 僕のブログの検索で 何故か 「scribo ergo sum の意味」 での
訪問される方 ちらほらと…
なぜに?????
2012.11.07 10:01 | URL | #- [edit]
says...
捧げられました(笑)
遂に、キター(・∀・)という心境です。
そして……
何だ、このスタイリッシュな冒頭は――アフリカ旅行。ハードボイルドな展開かと思いきや濃厚な情景描写、ふんだんに盛り込まれた惚気ww
バイクのエンジン音がどこからか聞こえてきました。お世辞抜きで。
堪能させて戴きましたよ。
2012.11.07 11:25 | URL | #- [edit]
says...
いいなぁ。こういう旅行にとても憧れます。
素晴らしい出会いですね。こんなことって実際にあるんですね。
山西にとって、夢で見ることが出来るだけの出来事のように思います。
そう、まるで物語の中のようです。あ、一応物語でしたね。
リュシアン、なんだか惹かれますね。
バイクに乗っているから、だけじゃなくですよ。

大半の風を受けて失踪するリュシアン、背中にしがみつく絵梨。
黄金の雨、テネレ砂漠。
そしてため息。
2012.11.07 12:47 | URL | #0t8Ai07g [edit]
says...
こんばんは。

恋愛も出会いから十年以上経つと、こう、漬け物みたいに地味〜になって来るみたいですねぇ。「十二ヶ月の組曲」の中では、これは掛け値なしのハッピーエンド作品なのですが、それでも浮つきすぎないようにってのはありましたので、評価していただけて嬉しいです。

そして。なぜにその検索ワードでそちらにだけヒットするかな? しかも、慣用句でもない言葉なのに、ちゃんと綴りまで書けている、どこで知ったんですか、そのラテン語! っていいたくなりますよね(笑)

コメントありがとうございました。
2012.11.07 17:51 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんばんは。
ほっ。「いりません」とか言われたらどうしようかと思いました。

くふふ。この絵梨の出てくるアフリカもので、まだ数本は書けそうですね。あれはいい経験でした。
私小○と公言して発表したのって、はじめてなので、照れました。
面白かったので、そのうちにいずれまた。

お大事にしてくださいね!

コメント、それから、受け取っていただき、ありがとうございました。
2012.11.07 17:57 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんばんは。

ちょっと間違うと、ひかれること間違いなしですが、そうなったら「これは物語だから!」と逃げられる(笑)
出会ったのはですね、ヴィクトリア大瀑布です。いやはや、こんな事が、現実に。あれ以来、どんな突拍子のない設定の小説も照れずに書けるようになりました。それまでは「いや、こんなことはふつう起きないし、リアリティないよなあ」と悩む事も多かったのですが。

リュシアン(仮名)は、腹の出た親父になってしまいましたが、いつまでも一緒にドライブできるといいですねぇ。

黄金の雨の目撃は、まだです。日本はこれからなのかなあ。憧れですね。いつかは!

コメントありがとうございました。
2012.11.07 18:05 | URL | #9yMhI49k [edit]

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