scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】夜想曲 - 3- 再会

子供の頃、姉がインカ帝国に入れあげた影響で、私もかなりインカのことが好きでした。それで、マテ茶を買って飲んだりもしたのですが、じつをいうとそんなに美味しいものとは思えませんでした。けれど、南アフリカに行って以来、ルイボスティーが大好きになったように、現地に行って馴染めば、マテ茶も好きになるに違いないと踏んでいるのです。実は、ペルー人の友人がいまして、いつか一緒にペルーに行こうと約束しているのです。

さて、今回は、サクサクと話が進みます。六回連載ですからね。


はじめからまとめて読む



夜想曲(ノクターン) 
- 3 - 再会


 マヤは右手にメモを握りしめて、ほこりっぽい小路を覗き込んだ。これで三回目だった。《黒髪のエステバン》の足取りを追って、教えられた住所を訪ねる。すると、確かに以前は彼はここにいたが、今はもういないと言われる。だが、その追跡は一人でやらなければいけなかった場合ほど困難ではなかった。《ふざけたエステバン》が話をしてくれ、時には改めて連絡してもらったりした。空港や観光案内は別として、リマでは英語だけで話を進めるのは難しかった。彼がいなかったら、ここまでは来れなかったはずだ。

 教えられた住所は確かにこの通りのはずだ。カラフルな家々がぎっしりと寄り添う山間に張り付いた街。少なくとも、前回訪れた貧民街に比較すれば、ここはずっとましだ。あそこにいないでいてくれた事を、マヤは心から嬉しく思った。

「プエブロ・ホベンっていうんだよ。スイスなんかから来るとショックだろう」
《ふざけたエステバン》は言った。その貧民街にあったのは、家というよりは掘建小屋だった。スイスの中流家庭の庭の道具入れの方がまだまともだと思えるような造りだ。リマの中心部にある美しいコロニアル風の建物や、プール付きの豪邸に住む裕福な家庭が光だとしたら、貧民街は紛れもない影の部分だった。わずかの間でも、エステバンがこのような場所に住んでいたという事に、マヤは痛みを感じた。私との事がなくて、未だにスイスにいたならば、彼はあんな所に住む事はなかっただろう。

 この日《ふざけたエステバン》の運転でやって来たのは、その貧民街から見上げることのできた郊外の山腹に張り付いた街だった。カラフルで美しいために、観光客も訪れるらしい。バスから降りて写真を撮る観光客たちが歓声を上げている。

 こんなに小さな狭い通りに、配水管工事を請け負う店があるようには見えない。マヤは不安な面持ちで横を歩くエステバンを見上げた。彼はのんきに口笛を吹いている。

「お、あれじゃないか?」
指差す先に、小さな看板と排水トラップ管などの飾られた小さなショーウィンドウが見えた。マヤは身震いした。もう一週間だ。このまま永遠にエステバンに会えないのではないかと悲しく思うと同時に、会う事が怖くもあった。

 十六歳の夏、わずか数時間で、マヤはエステバンと恋に落ちた。自分をわかってくれるたった一人の人間だと確信し、一度は二人で一緒に遠くへ行こうと約束したのだ。けれど、養父母の前でマヤはそれを決行する事ができなかった。まだ高校に通っている十六歳の小娘が、彼と二人で生きていく事など到底できないと思った。それ以来、マヤはエステバンに会っていない。彼が未成年のマヤを監禁した上に辱めたと冤罪をかけられた事も、それが遠因でスイスを去った事も彼女は長い事知らなかった。マヤはただ、自分の孤独に封印をして、他の人と同じように生きようと自分を偽ってきた。ようやくそれが間違いだと悟った。そんなことはできない。エステバンに会って、あの時の事を謝りたい。そして、自分が未だに想い続けている事を知ってもらいたい。

 仕事を辞め、婚約破棄をして、マヤはペルーへと飛んだ。何もかもリセットして生きるつもりだった。だが、エステバン探しはそう簡単には運ばなかった。飛行機の中で知り合った《ふざけたエステバン》がこんなによく協力していてくれても。

 戸惑っているマヤをちらっと見て、エステバンはその店に入って行った。何度も繰り返されたスペイン語のやり取りが聞こえる。店の戸口で振り向いて彼はマヤを呼んだ。
「いたぞ。本当にこいつならな」

 マヤは戦慄した。《ふざけたエステバン》が、一歩引いて外に立つと、中から頭一つぶん背の低い男がゆっくりと出てきた。黒髪を後ろに束ねている。薄汚れた木綿のズボンに色あせた深緑のシャツを着ていた。忘れもしない、東洋人のような悲しげな顔。エステバンだった。

「マヤ……」
《黒髪のエステバン》は、突然の事に、それ以上の言葉を見つけられなかった。

「俺、あの観光バスの停まっていた前のコーヒー店にいるから」
そういうと、《ふざけたエステバン》は坂を登っていった。

 それを見送った後で、エステバンはマヤに中に入るように言った。
「驚いたよ。よく来れたね」
「サン・ボルハの住所から始めて、一週間かかったわ。もう会えないんじゃないかって諦めかけていた…」
「大人になったな。マテ茶しかないけど、飲むか」
「ええ、いただくわ。エステバン、私……あの、あの時の事を……」

 エステバンは目を細めてマヤを見た。
「何も言わなくていい。会いにきてくれて嬉しいよ」

「でも……」
「僕が愚かだった。ああなるのは当然だった、そうだろう。君に何ができる。何度も後悔して、あの時に戻ってやり直したいと思った。でも、諦めていたんだ。だから、君の勇氣と行動力に驚嘆している」

 そう言って、マテ茶をテーブルの上に置いた。小さくてシンプルな台所。使い込まれた古いテーブル。ほこりっぽい家には、貧しい暮らしがにじみ出ていた。私がぬくぬくと過ごしていたこの十年間、どんな思いで過ごしてきたのだろう。マヤはたまらなくなって涙を一つこぼした。それを見たエステバンは、隣の椅子に座ると、浅黒い手をゆっくりと伸ばし、マヤの頬の涙をそっと拭った。ブレガリアの秘密の瀧のあの瞬間が戻ってきたかのようだった。彼の顔が静かに近づいてくる。マヤは瞳を閉じた。

「ふ~ん」
《ふざけたエステバン》は、コーヒー店で三杯目の冷たくなったコーヒーを飲み干すと、戸口に佇むマヤたちを見て立ち上がった。
「つまり、今夜は帰らないってことだろ? 明日は、警察に九時に行く予定だけど、その前に迎えにこなくちゃダメか?」

「僕が送っていく。八時半には必ず送り届ける」
「OK。じゃ、そういうことで」

 この日、《ふざけたエステバン》のもとには、朗報が届いていた。十日ほど前に、大けがをして病院に搬送された若い青年が、警察に渡した写真に酷似しているというのだ。明日の朝、例の警官と一緒に病院に行くことにしてあった。少年と話をするためには、マヤがいてくれないと困る。スペイン語はおろか英語も話せないくせに、ペルーに来んなよ。《ふざけたエステバン》は舌打ちした。


 翌朝、二人は約束の五分前に《ふざけたエステバン》の家の前にいた。
「さっすが、スイス育ち! ありえないよな、五分前って」
ペルー育ちの方は口笛を吹いた。

「警察に行くのに遅れたら迷惑がかかるじゃない」
マヤが言うと、エステバンはウィンクをした。
「警察だって定刻じゃないからへっちゃらさ」

 黒髪の青年は伏し目がちに言った。
「よかったら、僕にも協力させてくれないか。君たちが帰国した後もその少年にはスイスドイツ語の通訳がいるんだろうし、警官と行くならスイスドイツ語からスペイン語に通訳する必要があるだろう?」
「そりゃ、願ったりだな。ま、これから会いにいくのが本人だった場合だけどね」

 マヤは、昨夜のエステバンとの会話を思い出していた。《黒髪のエステバン》は、遠くを見るような悲しい黒い瞳で、マヤに問いかけたのだ。
「マヤ」
「なあに?」

「さっきの青年は、君の恋人なのか?」
なんて事をいうのかしら。マヤは激しく頭を振った。

「違うわ。スイスからたまたま同じ飛行機に乗ってきた人よ。彼も人探しをしているの。私はリマは始めてでスペイン語も話せないでしょう。彼の探している男の子はどうやらスイスドイツ語しかまともに話せないみたいなの。それで、お互いに協力する事にしたの。彼がいなかったら、私はあなたを見つけられなかったわ」
「そうだったんだ。じゃあ、僕も協力しよう」

 実際に、病院にいたのは探していた家出少年だった。警官によると、空港の近くの路上で全裸で見つかった被害者だった。全身にたくさんの打撲と骨折をしていて、身元を確認するものは何もなかった。偶然夜中に近隣の人が通りかかったために病院に搬送されて一命を取り留めたらしいが、上手く言葉が通じないために調書などは後回しになっていたらしい。警察は、他にやる事がたくさんあるのだ。病院の方は、上手くいけば治療費の請求ができると、大変協力的だった。

 警官と一緒に病室に入り、《ふざけたエステバン》は助かったと思った。包帯で覆われて、まったく動けない状態でベッドに横たわっていたが、確かに写真の少年で、同僚ともよく似ていた。マヤは、彼と顔を見合わせると、ゆっくりと話しかけた。
「シモン・マネッティ君ね」

少年は驚いてマヤを見た。スイスドイツ語を話す集団には見えなかったからだ。
「そうです。あなたは……」
「ここにいる、モントーヤさんはあなたのお兄さんの同僚で、私たち協力してあなたを捜していたの。何があったの?」

《黒髪のエステバン》は小声で二人の会話を警官に通訳していた。
「ぼ、僕、空港に来た迎えの車に乗ったんです。車の中で突然殴られて意識を失って、目が覚めたらここにいたんです。話しかける人たちに僕はスイス人で、家族に連絡してほしいっていったんだけど、言葉が通じないし、きっとパスポートとか見たらわかってその内に誰かが助けてくれるかなと思っていました」
甘い見解は自分と変わらないなとマヤは思った。

「あなたの所持品は全部なくなっているのよ。でも、命が助かって本当によかった。やっとご家族にいい報告ができるわ」
「マリアが心配しているかな。僕が来ないと泣いているんじゃないかな」
シモンは悲しそうに言った。それを聴いた《ふざけたエステバン》は天井を見あげた。
「心配していないよ。っていうか、あんたを呼び出したマリア・カサレスって女も住所もみんな架空だったよ。あんたはマフィアか詐欺集団に騙されて身ぐるみ剥がされたんだ。オヤジさんのクレジットカード、結構な金額を使われていたらしいぜ」

 少年はようやく自分の愚かさを悟って泣き出した。
「それでも好運だったんだよ。命は助かったし、スイスドイツ語のしゃべれる通訳が助けにきたんだからな。これがエステバン・リベルタ君だ」
そういって《黒髪のエステバン》を紹介した。

 手数料の好きな警官は、《黒髪のエステバン》の協力を得て、その場で調書を取った。マヤと《ふざけたエステバン》は、今後のことについて話し合った。
「まず、ご家族に連絡して、それからスイス大使館ね。パスポートを再発行してもらわないと」
「そうだな。これからマネッティに電話してくるよ」


 マヤは再びチェロ・サン・クリストバルの《黒髪のエステバン》の小さな家にいた。マネッティ少年の両親との連絡や大使館での事務の代行、こちらに向かっているマネッティ氏のためにホテルを手配したり、少年のための買い物をしたりして、残りの一週間はあっという間に過ぎた。明日はもうスイスに帰国するのだ。

 エステバンはワインのボトルを買って、マヤのために料理をした。

 彼女は、小さな台所で、その背中をじっと見つめていた。再会した、それだけだった。そして明日にはまた遠く離れてしまう。会って強く感じたのは、やはり、この人は誰よりも自分に近いという事だった。そう思っているのは、私だけなんだろうか、マヤは言葉を見つけられないでいた。
「エステバン……」
「なんだい?」

「シモンの事、私、馬鹿にできないわ」
「どうして?」
「私も、スイスを発つ時には、ペルーで暮らすって選択肢もあるって思っていたの」

 エステバンは、料理の手を止めて、マヤの方を向いた。マヤは震えた。
「この国は、君には厳しすぎるよ。スイスにいる方がいい」

 これが答えなのだ。マヤは下を向いた。涙ぐんでいる姿を見られたくなかった。

 エステバンは、テーブルをまわってきて、マヤの隣に座った。
「ペルーに引越す必要なんかない。僕の方がまたヨーロッパに行く」

 マヤは弾かれたようにエステバンを見た。彼は優しい黒い瞳で微笑んでいた。ロウソクの光がゆらめく。エステバンは頷くと、再び料理を続けるために立った。生活は続いていく。マヤも微笑んでその背中を見た。
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Comment

says...
こんばんは、TOM-Fです。

確かに、展開が早いですね。
リマが「デスティネーション」かと思っていたら、「トランジット」だったのかな?
このまま、すんなり終わるとは思えないし……次話は、スイス、それとも、ペルー?
う~ん、先が読めない。

それにしても、ペルーも穏やかじゃないですね。命があれば、ラッキーですか。
やはり日本は安全だけど、逆にぬるま湯に浸かっているだけなのかもしれませんね。

次話を、楽しみにしています。
2013.01.29 10:58 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

あはは、会えて「めでたしめでたし」っていうお話じゃないですね。
来週は、他の物語の登場人物がまとめて登場します。くすくす。
お楽しみに。

南米の中では、ペルーは比較的安全な方かとは思いますが、日本やスイスに較べて安全な国は、世界中のどこにもありませんからね。

このマネッティ少年のエピソードは、半分実話です。それも知り合いの子です。ボコボコにはならなかったのですが、ネットでの出会いは氣をつけようよ、って教訓をたれちゃいますかね。

コメントありがとうございました。

2013.01.29 18:46 | URL | #9yMhI49k [edit]

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