scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】ラ・ヴァルス

最初にオープンにするのは、1994年に同人誌で発表した短編です。一人で誰にも知られずに書いていた私が、覚悟を持って人目にさらした記念すべき作品なので、ここでも一本目として公開する事にします。




渦巻く雲の切れ目から、
ヴァルスを踊る人々の何組かがきらめいて見える。
雲は少しずつ散ってゆく。
旋回する人びとと群衆にみちた広大なホールが見える。
場面は次第に明るくなる。
シャンデリアの光は力強くさんさんときらめく。
一八五五年ごろの宮廷である。
         モーリス・ラヴェル「ラ・ヴァルス」


白いサテンのシューズを荷物に詰める時、雪羽はしばらく動けなかった。つやつやと光るその靴を彼女はもう四年も触っていなかった。汚れ防止のために貼ってあったセロテープをはがし、ヒールカバーをとると、それはまるで新品の様にきれいになった。雪羽は、だが、その霧の様に美しい靴を見ても幸せな気分になることはなかった。むしろ、想い出ゆえにこれからの幸せな旅行に不安を抱いた。雪羽は大学時代の競技ダンス部での辛い訓練とそれに伴わなかった成果の事を故意に記憶の底に沈めていた。ダンスなんか嫌いだと、口にこそ出しはしなかったが、人が
「大学でなんのクラブにいたの」
とか、
「昨日、テレビでダンス選手権やっていたね」
とか言ってくれる度に、口ごもり、力なく微笑んだ。それ以外にどうすることが出来るだろう。

雪羽は、決して一人では踊ることの出来ないスポーツの世界で相手を持たなかった。それはコンプレックスになり、もともとそう積極的でなかった彼女をより一層蝕んだ。単にダンスをやりたがる女性の人口が男性よりも多いというだけで、相手がいないということ自体が悪い事だったわけではない。ただ雪羽はほかの同じ境遇の多くの女性のようにすぐにやめていくチャンスに恵まれなかった。たまたま短大生のように二年で卒業する訳でもなく、また、大会運営に関る仕事を引き受けていたということもあって、自分が参加することもできない競技会での成績だけを皆が追及するクラブにずっと居続けたのだった。

雪羽はそのクラブに居ることが精神衛生上よくないことだと、その時すでに認識していたものの、何かを変えていこうだとか、それかできなけれぱせめて自分が変わっていこうといった強さを持たない人間だった。
大学を卒業してからも、雪羽はその想い出から逃げ、ダンスを踊れるというひとつの特技までも否定していた。だから彼女は、最後に買ったダンスシューズすら、戸棚の奥に今までしまいっぱなしだった。

(これをまた履く日が来るなんて、あの頃は思いもしなかった)
雪羽はゆっくりとそのすべすべとしたカーブをなぞった。今度は、相手がいる。この世で一番尊敬し、誰よりも側にいたいと思う人と、仕事とはいえ一緒にウィーンに行き、舞踏会にも出席するのだ。それなのにこの不安な気持ちはいったいどうしたことだろう。雪羽はいぶかった。もはや、幸せを幸せと受けとめられないほど、トラウマが闇に変わり、心に巣喰っているのだろうか。雪羽は突然に降ってわいたような幸運に影を感じるのだった。カタストロフィの法則にのっとり、幸運が訪れるのが急であればあるほど、想いの進むのが速ければ速いほど大きな落差でもって崩れて行きそうな気がするからであった。

そう信じていたからこそ、雪羽は心と裏腹に、東城に出来るだけ事務的に接するようにしていた。
恋をしても、その事を口にしたり、態度にあらわさなければ、それが実を結ぶことがないのは、雪羽もよくわかっていた。だが雪羽は気持ちを示すことで、いま現在よりも距離を置かれるようになる可能性の方を恐れた。
ダンスシューズを強く鞄に押し込み、雪羽はきっぱりとジッパーを閉じてしまった。


東城但は日本人に珍しいスマートな雰囲気を身につけた青年だった。燕尾服の似合うタイプだ。姿形もそうだが、何よりも顔を見ただけで分かる教養と、嫌味のないストレートな人柄が誰からも好かれた。したがって、多くの女性にとっては高嶺の花であり、しかもそうと知っても憧れずにいられないのだった。雪羽は自分もそんな女性の一人だと思っていた。仕事の関係で職場では一番彼に近いとはいえ、彼が見せようとはしない、私生活の中まで入り込めるとは到底思えなかったし、そうしたいとも思わなかった。

ただ、飛行機の隣の座席で眼を瞑り、静かな寝息をたてている東城を見ながら、この瞬間において、誰にも邪魔をされずに時間と空間を共有できることを感謝した。

雪羽はなかなか寝付かれなかった。星空の中を東城を見ながら飛んでいるという状況が、雪羽の体中に呪文を掛け、睡眠を拒否した。雪羽はイヤホンをつけ、ミュージックサービスのつまみを回した。クラッシック音楽のチャンネルでは、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」がゆっくりと始まったところだった。蠢くオーケストラのかなたから、ゆっくりとワルツのリズムが浮きあがってくる。はじめはそよ風のようにゆっくりと、次第に有無をいわせぬ強引さで、リズムは聴衆を別世界へと誘う。

閉じた眸の奥底で雪羽自身がワルツを踊っていた。イマジネーションの彼方で踊るワルツは妙に現実味を帯びていた。滑るようになめらかに旋回していくその感覚は雪羽にとって決して想像ではなかった。

雪羽は憶えていた。かつて練習会で踊ったステップ。スタジオに個人的に習いに行って、おどおどしながらならったルーティンをつづけて素晴らしく踊れた時のこと、どこから何処までが自分で、何処からが相手なのかわからなくなる程の不思議な一体感、そしてこれを恍惚というのだと悟った時の感覚。たった一瞬だけ許された雪羽へのダンスの世界への招待。けれど、雪羽はそれ以上ダンスの魅力を知ろうとはしなかった。ダンス部が実際にそうした以上に雪羽のほうがダンスを拒否し、スタジオへ習いに行くことも直にやめてしまった。

だが、あのワルツの感覚だけは雪羽の中に確かに息づいていた。「ラ・ヴァルス」の激しいオーケストラが絢爛なる舞踊を描き出す中を彼女は踊っている。廻っている。ステップを踏みしめている。狂喜とも思えるクライマックスの後、突然打ち切られたこの曲の世界から雪羽が戻って来るまでにしばらくかかった。それから、ふと横を見ると、先程と少しも変わらない静かな寝息をたてて、東城が眠っていた。そうか、と雪羽は急に気持ちの高波がおさまるのを感じた。哀しい愛しさだった。この人はここにいる。そしてここにわたしもいる。雪羽は自分の中で今まで暴れていたワルプギスの夜のよう感情と、今ここにある静かな愛情が同居する事に驚異を感じていた。星空は光の海を抱えて緩やかに広がっていった。小さな、本当に小さな存在に過ぎぬ飛行機は、永遠の静寂の中を幽かな跡を残しながらゆっくりと異国へ進んでいた。


「どこで舞踏会が開かれるか知ってるかい?」
東城は雪羽の顔を覗き込んだ。タクシーは初めて来たウィーンの街をまるでいつもの事のように通り過ぎ、雪羽たちをホテルまで連れてきてしまった。仕事で来ているからだろうか。それとも、東城が少しも不安がる必要のないほど自然に慣れた足取りでここまで連れて来てくれたからだろうか。

「さあ。大体、どうして舞踏会に出席するのかも知らないんだけど」
雪羽は出発まで忙しくて口に出来なかった問いかけがやっと出来る事にほっとしていた。雪羽たちの仕事は本来会社がこれから事業所を開設するウィーンの視察と契約、新しく仕入れる商品のメーカーとの打ち合わせをすることだった。出発の十日前になって、東城から
「確か、珠洲くんはダンスを踊れたよね?」
と訊かれて、滞在の最後の晩に私用で出席するというパーティの相手役を引き受けたものの、詳しい内容を今までききそびれていた。

「東城さんて、舞踏会に出席するようなつながりが海外にあるんですか?」
「ウィーンにだけだよ」
東城はほんの少し遠い眼をした様に見えた。
「昔住んでたからね」

初耳だった。雪羽は黙って東城の顔を見つめた。そして、まるで自分が大学のクラブの事を言われた時のような空気を感じ取り、それ以上訊くことが出来なかった。誰にも話そうとはしない過去を自分だけではなく、幸運の女神に溺愛されているような東城すらも持っているのかという事が雪羽には意外だった。雪羽は話題を舞踏会の開かれる場所についてへと戻した。

「シェーンブルン宮。十八世紀に建てられたハプスブルグ朝の夏の離宮だよ。六歳のモーツァルトがマリー・アントワネットの前で演奏した舞台だ」
「そんなすごいところで舞踏会を開くのは誰なんですか」
「市長だ。ただし、舞踏会は王宮でも頻繁に開かれるからね。そんなにすごい舞踏会じゃないんだ。市長の一家がある程度個人的な知合いを中心に呼んでるみたいだよ。僕はこっちにいた時に市長の息子のヨーゼフと親しくしてたんだ。それで、出張するって連絡したらどうしても来いって」
「私、東城さんがここに住んでたなんて知りませんでした。もし知っていたら、のこのこ一緒に舞踏会に行くなんて言わなかったわ」
「どうして」
「こちらにいくらだって、パートナーになってくれる女性がいるでしょうに。私がダンスが踊れるというのは、日本人の平均的な感覚で言っただけで、ウィーンの社交界でのレベルじゃ話が違うわ。東城さんに恥をかかせすに済むかなあ」
「大丈夫だよ。普通のパーティと一緒だよ。困らないように横にいてあげるし、話題が分からなかったら、ちゃんと解説してあげるから」
東城は笑った。

東城のドイツ語は思った通り見事なものだった。雪羽自身ある程度ドイツ語がわかるから今の部署にいるだけあって、ビジネスでは困らなかったものの、東城がメーカーの担当者相手にしていた雑談は向こうの学んだカント哲学の最近の学説についてだったので、雪羽にはちんぷんかんぷんだった。東城は食事の前に本屋へ行き、勧めてくれたという新刊を買っていた。

「仕事が忙しくて、しかも、その仕事が会社の歯車にしか感じられないような内容の時には、どんなに疲れていても、自分の時間を持って、足を地に付けられる本を読むことにしているんだ。バランスをとりたいからね」

雪羽には、彼の言っている意味がとてもよくわかった。バランス。自分という人間と、一社会人である事のバランス。頭と体の両方の疲れのバランス。どちらかに強く傾いている時に、もう片方を何も出来ない状態にしておくと、そのバランスはどんどん崩れ、やがて修復不可能なまでにどちらかだけの人間になってしまう。雪羽自身もずっとこう考えていたのだ。雪羽が彼に惹かれて止まないのは、容姿や有能さを差し引いても余りあまる、こうした考え方の近さだった。同時に、こうした時に、雪羽はひとつの希望を持つ。だが、その希望は確信へと変化することもなく、雪羽自身の手でいつも摘み取られた。五十センチ先を歩くコート姿の東城を見ながら、雪羽はその暖かい腕に顔を埋められたらどんなにいいだろうと思う。それを押しとどめるのもやはり雪羽なのだ。

舞踏会にでかける前、東城はドレス姿の雪羽にコートを着せてくれながら
「珠洲くんがこんなに綺麗だとは思わなかった」
と言った。そのいい方は、丁度会社の同僚が言う口調そのもので、内容からすれば有頂天になっても良いはずなのに、ここの数日いつも一緒でまるで特別な立場のような気のしていた雪羽は、自分が会社の同僚に過ぎない事を改めて認識して、少し哀しくなった。

(期待したり、諦めたり、こんな事はもうご免といつも思うのに、どうしてやめられないんだろう。ひとと関ることを嫌い、自分の中にこもることを納得したのならぱ、どうして一人で居ることに寂しさをおぼえるのだろう。ひとつひとつの出来ごとを当り前のように流していく事が出来れば少しは楽に生きられるのだろうか)

雪羽は燕尾服の上に颯爽とコートをはおっている東城の超然とした立姿をそっと見ながら、いや、そうではない、誰でも自分の中でそれぞれに想いを抱えて、でも人ともうまくやっていっているのだと思い直した。

(私は知らない事だけど、このひとにも過去の思い出と、現在に繋がるいろいろな蓄積と、そして、今だけの生活がある。一緒に居ればいるほどお互いの事を知ることは出来るけれど、それで距離が縮まるとは限らない)

ひとつだけ確かなことがあった。今晩、彼とワルツを踊ること。四年前の封印から解けたばかりの白いサテンのダンスシューズ。飛行機の中で感じた「ラ・ヴァルス」の絢爛な世界。ワルツ!薄い朱鷺色のドレス、白いサテンの手袋。確かにいつもより綺麗なはずなのに、雪羽の哀しさは消えなかった。カタストロフィがすぐそこまで来ている予感がした。あまりにも状況が完璧すぎたのだ。その思いはシェーンブルン宮殿に着いた時にもっと強くなった。ラヴェルの描写した「一八五五年ごろの宮廷」がそこに再現されていた。次々と集まってくる紳士淑女たち、ホールの彼方から高らかに響いて来るワルツのリズム。コートを預けたときに、雪羽は自分を守ってくれる世界そのものまでも渡してしまった様に心細く感じた。

東城はどうやら市長の息子のちょっとした知合いというだけではなかったようだ。広間に入った途端、東城と雪羽は大勢の若いカップルたちに取り囲まれたのだ。

「タダシ!いつウィーンヘ?」
「何でこっちに来たことを知らせてくれなかったんだ?」
「こちらのステキなお嬢さんは?」

雪羽は東城がこちらでこうした舞踏会に何度も出席するような社交生活をしてきたことを知った。しかも、会社で、日本でそうである以上に東城は皆に認められ、仲間として愛されていた。東城のとってくれたシャンパンをのみ、ほとんど意味のない微笑を振りまきながら、ドイツ語の会話を音楽のように聴き流し、雪羽は自分のことを訊くときの皆の態度が少し変だと感じていた。「マリエ」という単語が時折彼等の口から漏れた。やはり黒髪がいいのかという市長の息子ヨーゼフの言葉にも含みを感じた。

「どういう意味だか訊いてもいいですか」
「え」
東城は困ったように口ごもった。それで、雪羽は彼が知って欲しくないと思っている事について彼等が口にしたのだと気づいた。

雪羽はそれ以上訊こうとせずに話題を変えた。彼等も雪羽がドイツ語を理解して話せることにやっと気付いたらしく、それ以上意味深長なことは言わなかった。

それからたいした時間も経たずに彼等は東城と雪羽をダンスへと誘い、雪羽は東城の手に導かれてまばゆい光と熱気の中に進み出た。大きなダンスのうねりが二人とその友人のカップルを取り込み、悠々と流れていった。
東城は雪羽の踊ったことのある誰よりも上手にリードすることが出来た。雪羽の稚拙な技能を補って余り有るほどワルツに長けていた。だから、この東洋人のカップルはワルツの流れの中でひときわ目立ち、多くの人々の感嘆のため息と、羨望に満ちた女性達の青い視線を一身に受けて旋回していった。

雪羽にもワルツを楽しむ余裕ができて、他の女性たちのように右手でドレスの裾を持ち、そのシフォンが緩やかに舞うのを視線の隅に置きながらステップを踏んだ。それからふと、シャンデリアの眩しい光だけでない何かを感じ、東城を仰いだ。東城は、雪羽が驚いたことには、微笑みながら雪羽の顔を見ていて、眼が合っても視線をそらそうとはしなかった。

「上手いじゃないか」
雪羽は「ラ・ヴァルス」の恍惚に酔い、相手と自分の不思議な一体感に身を任せていた。東城の言葉が、ただのお世辞だとしても、今の雪羽には何のためらいもなく、笑顔で受けることができた。朱鷺色のドレスと白いサテンの靴が魔法を掛けてくれたかの様に、いつもの自分にはない自信がどこからともなく溢れてくるのだった。皆を追い越し、ヨーゼフ達仲間を従えて、広間の中央に来た時、高らかなクライマックスを迎えてワルツが終わった。
ワルツを一曲踊る間に、東城は完全に昔の仲間に戻り、雪羽も彼等の仲間に受け入れられ、自分自身も打解けていた。丁度あと一言何かを和やかに話せば、その輪が完成するといった雰囲気になったが、それは、雪羽本人も予期しなかった一瞬に打ち切られた。

ヨーゼフのパートナー、ヒルデガルトが
「あ」
といい、皆が彼女の視線を追った。広大な会場が一瞬全体で蠢いたように感じられた。ざわめきを超越し、全てを制するような厳かさで、品格と威厳の有る紳士にエスコートされた、素晴らしく目立つ女性が広間へと入って来た。シャンデリアの光を一身に受けてきらめく深紅と黒のドレス。高く結い上げた髪に輝くダイヤモンドのティアラ。その女性が真っ直ぐに自分たちの方へ歩いて来るのを見て、雪羽は驚いた。おもわず東城を見上げた雪羽は、彼の表情を見て取るやいなや、彼女こそ「マリエ」という名の人だと即座に理解した。

「男爵夫人、ようこそ」
ヨーゼフが恭しく彼女の両手にくちづけをした。居並ぶ若者はそれにならい、バートナーの女性らも尊敬をこめて彼女にお辞儀をしていった。そして、ついに東城が彼女の前に立った時、そして、東城と男爵夫人の視線がぶつかり、やがて、夫人の方から、
「タダシ…」
と、情感をこめた声で呼びかけたときに、雪羽はただ立ち竦むほかはなかった。

「あなたにもう一度会えるなんて思ってもいなかった」
「幸せそうだね」
東城は市長に挨拶をしている男爵の方を見て言った。
「ええ」
夫人は東城から視線を外さず言った。それから、ゆっくりと雪羽の方を向いた。雪羽は夫人の怜悧な美貌に射すくめられたように硬直してお辞儀をした。夫人は雪羽を見据えたままボーイの持ってきたベルベットのように紅いワインを受けとると一口飲み、それからゆっくりと東城に言った。
「あなたの今晩のパートナーなの?」
「ああ、珠洲雪羽嬢だ」
「そう」
マリエ男爵夫人はハンガリーの血筋を感じさせる気高い顔立ちだった。アラバスタのように白い肌に刻まれた灰色の眸は貴石を想わせ、深紅の唇はつややかで、やがて、その眸と唇がゆっくりと再び東城に向いて行き、
「あなたのパートナーが私以外の人間になるなんて想いもしなかったわ」
と、ため息を漏らした。雪羽はすぐにこの場から逃げ出してしまいたいと思ったが、それは出来なかった。

ワルツが始まろうとしていた。雪羽も他の誰もが、次のワルツの主役のカップルを知っていた。
誰かが雪羽にもダンスを申し込んだが、雪羽は疲れていると言って断わった。自分もワルツを楽しめぱいいのだと、心の何処かでもうひとり雪羽が鼓舞したが、そしてワルツを申し込んでくれた人にも悪いと思ったか、雪羽の心はもはや氷点にまで冷え込み、微笑んでステップを踏み出す力を残していなかった。

雪羽はうつむき、自分の足下に気付いた。右足のサテンがベルベットのように紅く染まっていた。弾かれるように夫人を見ようとすると、もはやワイングラスも持ってはいない夫人をエスコートして、東城がワルツの輪の中に溶けていく所だった。

雪羽はその場を離れた。紅く染まり、もう決して白くは戻らない靴。打ち砕かれた自信。たとえ、次の曲から東城がずっと踊ってくれようとも、二度とワルツを心から楽しむことはできないだろう。

広間の隅に立ち、心を沈めようとした。この感情には憶えがあった。クラブの最後の練習会で、
(もうこれからはこうして人が踊るのを惨めな気持ちで見なくてもいいんだ)
と、思った事。舞台は大学の教室からウィーンの宮殿に変わったものの、不思議な相似性をみせた。十八世紀の宮殿。一八五五年頃の宮廷。

リズムが揺れるたびに、視界はぼやけ、シャンデリアの光は輝きを増した。そして、マリエ男爵夫人も東城も、ヨーゼフ他のだれもかれも、ひとときの恍惚に自分の生活や、ままに為らぬ人生を忘れ、ひとつのヴァルスという生き物の一部になり、ホール自体が同調し、やがて踊りに加わっていない雪羽自身もその恍惚に飲み込まれていった。

(考えるのはよそう)
雪羽は宴の終わりを感じながらヴァルス輝きの美しさだけに酔おうとしていた。


(初出 : 1994年7月 同人誌「夜間飛行」第二号)
関連記事 (Category: 読み切り小説)
  0 trackback
Category : 読み切り小説
Tag : 読み切り小説 小説

Comment

says...
八少女さんはじめまして、作品を読ませていただきました。

刺激になりました。

ありがとうございました。
2012.06.14 14:13 | URL | #- [edit]
says...
はじめまして、ようこそ!

お読みいただきましてありがとうございました。
YSK さんが紹介なさっているような文豪の名文にはまだほど遠いですが、精進を続けますので今後ともどうぞよろしくご指導ください。
2012.06.14 15:57 | URL | #- [edit]
says...
コメントありがとうございました。ヒロハルです。

ようやくパートナーを見つけられたのかと思ったところで……東條さんにとってはやっぱりマリエさんがパートナーだったのでしょうか。
何とも切ないですね。ちょっと雪羽がかわいそう。
私なら来なければ良かった……そう思うでしょう。

随分と長い間、人目にさらさず書かれていたのだなあと思いました。
なぜなら文章がとても洗練されていてお上手だからです。
スイスにお住まいということで、やはりヨーロッパにはお詳しいのですね。

また寄らせてもらいますね。
ありがとうございました。
2013.12.27 15:31 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは、そして、ようこそ。こちらでは、はじめまして。
そうなんです、スイス在住で時差がありまして、コメントをいただく場合のお返事にちょっと時間がかかりますが、どうぞお許しくださいませ。

この作品、ブログをはじめてすぐに公開したので、ほとんど読んでくださった方がいない作品なのですが、読んでいただけて嬉しいです。実は、ちょうど来年の頭にこの話の続編を公開しようかと思っていた所でしたので……。

この手の救いのない話を、ときどき書きます。というか、以前はこういうのがデフォルトだったんですが、最近はちょっと変わってきているかもしれません。

この話はウィーンについて書いていますが、実は書いた時にはウィーンは見た事がありませんでしたし、将来この辺りに住むとは夢にも思っていませんでした。続編の方は、何度かウィーンに行って、ドイツ語も話せるようになってから書いていますが、あまり作品内に違いはないみたいですね。ただ、現在は日本のことを題材にするよりも、こちらの身近なことを題材にすることが多いので、ガイジンの出没率はかなり高く、比較文化のようなものが私の作品群の特徴になっています。

実は、けっこうな年増でしてお話にならないマンガ時代もいれると創作歴は30年を軽く超えます。ここに書いてあるように90年代に同人誌に書いた以外はずっと人に見せないでいました。世界に公開したのはこのブログの開始の2012年3月以降なのです。文章を褒めていただいてとても嬉しいですが、未だにてにをはを間違えたり、精進が足りないなと思うことが多々あります。ブログのお友だちにも助けていただいて書き続けています。

これからもどうぞよろしくお願いします。
コメントありがとうございました。
2013.12.27 19:58 | URL | #9yMhI49k [edit]

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://yaotomeyu.blog.fc2.com/tb.php/5-4b4300b4