scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (13)第三楽章 -1-

さて、お忘れかもしれませんがチャプター2 東京編はまだ終わっていません。もうすぐですが。つまり、このチャプターの最後の章なのです。ここで再びこの小説の真の主役の再登場です。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番。ちょっと長いのと、意味合いが二つあるので、大体真ん中で切りました。残りは来週です。

「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物



樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(13)第三楽章 -1-


 そして、N交響楽団との共演の日がやってきた。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を拓人が練習していたのはこの日のためだった。プログラムの最初がこの曲だった。瑠水はこの日が来るのが怖かった。真樹の部屋を飛び出して以来、まだこの曲をきちんと聴いたことがなかった。その整理されていない心のまま、拓人との関係ものっぴきならない所に来てしまっていた。このままではいけないと思いながらも、どうしていいかわからない。

 真耶は拓人にはっきりと言った。
「このまま、いつまでも瑠水さんを舞台袖に隠しておくわけにいかないでしょう。今日だって、あなたは大舞台に集中できないじゃない」

「でも、会場で彼女を一人にするのは……」
「じゃあ、私が一緒にいる。私がいれば親衛隊だって簡単には近寄れないはずだもの」
「わかった。頼む」

 あたりを払う堂々とした姿の真耶と一緒に、瑠水は会場に入っていった。取り巻きの女性たちのざわめきに心が揺らいだが、もし拓人と一緒に居続けるならばこれに慣れなくてはならないのだと思った。

 隣にいる真耶を見た。この人はここに属している人だ。結城さんと同じ世界に、この大ホールに。だが瑠水はそうでなかった。

 演奏前の拓人は基本的には誰にも会わない。主催者か、マネジメント会社の人間か、そして家族だけが楽屋に行くことができる。親衛隊はそれを知っていたので、誰一人楽屋には向かわなかった。

 真耶は常に唯一の例外だった。そして、今日、真耶は当然のように楽屋に瑠水を連れて行った。親衛隊の目が背中に突き刺さったが、真耶の堂々とした動きが誰にも何も言わせなかった。

 楽屋のある階につくと真耶は言った。
「あそこの突き当たりよ。私はここにいるから」

「真耶さん」
「今、拓人にはあなたが必要なの。行ってきて」

 瑠水は黙って頷くと、廊下を進み、拓人の楽屋のドアをノックした。出て来た拓人は、瑠水を中に入れると何も言わずに彼女をきつく抱きしめた。瑠水には拓人が大舞台の前でいつもよりもずっと大きな不安を持っているのがわかった。

 拓人は瑠水に会うまでずっとある種のスランプに陥っていた。彼のキャリアは常に上向きだった。中学生の頃の華々しいデビュー以来、テクニックは常に研ぎすまされ、多くのファンに恵まれてすっかり有名になっていた。全てが順風満帆だと世間では思われていた。しかし、拓人も真耶も知っていた。拓人は単なる技術屋になりかけている。芸術家としてのもう一つの階段がどうしても昇れない。真耶が出すような、魂を揺さぶる音が出せない。それはどれほど練習を重ねても得られないものだった。拓人の人生は安易すぎた。血のにじむような努力はしたが、それさえすればいくらでも手に入る立場と環境にいた。簡単に言えば苦悩を知らなかった。

 この半年で拓人の人生は大きく変わった。はじめて簡単に手に入らない女に出会った。瑠水を愛するようになって、しかも瑠水の心を得られないことで、男としての自信がぐらついた。それがピアノにも影響するようになった。ピアノに向かう時に、どんな音を出せばいいのか突然わからなくなった。

 ラフマニノフは瑠水が初めて現れた時の思い出の音楽だった。この大舞台で、自分がきちんと弾けるのか、拓人は本番直前になって突然不安に襲われた。そこに、瑠水が一人でやってきた。いつもの澄んだ瞳で。泣きそうに見える表情で。拓人は瑠水を何も言わずにしばらく抱いていた。瑠水も何も言わなかった。そのぬくもりが、次第に拓人の心を落ち着かせていった。
「もう大丈夫だ。ありがとう」

 瑠水は頷くと、そのまま無言で外に出た。涙が出そうになったが、こらえて真耶の元に戻った。真耶は黙って、エレベーターのボタンを押して、客席へと向かった。

 客席に座ると、真耶は静かに言った。
「ねえ、瑠水さん。私は拓人があなたに会えて、本当によかったと思っているのよ」
「真耶さん」

「悪く思わないでね。拓人と私は双子のように本当に何でも分かち合うの。だから、あなたのことも拓人からたくさん聞いているのよ。拓人はあなたに好きな人がいることも知っている。それでも拓人はあなたと人生を共にしたいのよ。でも、瑠水さん。自己犠牲で結論を出さないで」
「……」

「あなたとのことは拓人には、どうしても必要だったの。つまり拓人の音楽にはね。だから引け目を感じたりしないで。もし、時間をかけても拓人を本当に愛せるようになると自信があるなら、拓人と結婚するといいわ。彼は日常生活では軽薄だけれど、素晴らしい魂を持っている。あなたと彼はきっと幸せになるわ」

「真耶さん。私が結城さんに釣り合わないとはお思いにならないんですか」
「馬鹿なことをいうのね。あなたはすてきよ。でも、私は拓人が言っていたように『音楽の鬼』なの。彼にも『鬼』でいてほしいの。だから、私にはあなたが彼の音楽に与える恐ろしいほどの影響力の方がずっと大事で、もっと評価しちゃうのよ。私はそういう風にしか生きられないの。でも、あなたは私たちの音楽に奉仕する必要はないわ。あなたの人生をあなたらしく生きればいいの。わかる?」
「真耶さん」

 ベルが鳴り、会場が暗くなる。オーケストラが入ってくる。指揮者が、拍手の中入ってくる。真耶は真っ直ぐ前を見据えた。瑠水も口を閉ざした。

 やがて更に大きな拍手に迎えられて拓人が入ってきた。軽く頭を下げた後、拓人は燕尾を翻して、椅子に腰掛けた。落ち着いた顔をしていた。瑠水は真っ直ぐに座り直した。

 指揮者と目を合わせると、拓人の手がゆっくりと挙がり、最初の和音を響かせる。ゆっくりとクレッシェンドしてゆき、オーケストラが加わり華麗な主題を奏でだす。ゆったりとした、あるいは華やかなオーケストラの響きとみごとに調和しつつも拓人は激しい動きで装飾音型を奏で続けている。CDで聴いていた時にはまるで氣がつかなかった華麗なテクニック。だが、それは単なる技量に終わらず、オーケストラの美しい旋律からも遊離せず、曲全体として聴き手の心をつかむ。

 第二楽章になり、瑠水の体は緊張で固まった。拓人は完全に曲を自分のものにしていた。木管楽器とやさしく絡みながら、甘い旋律を紡ぎだしていく。その音色には甘いだけでなく、どこか苦さが感じられた。ピアノから聴こえてくる音は、鍛錬によって培われた類い稀な技術から出てくるのではなかった。音と音との間に含まれる微妙な沈黙が、これまでの拓人の音色になかったなんとも言われぬ深みを出していた。

 真耶は目を輝かせて聴き入った。お互いに文字を覚えるよりも先に厳しくしつけられたレッスンの日々。真耶は拓人がどれほどの情熱を賭けて技を磨いてきたか誰よりもわかっていた。だが、それだけではどうしても出せなかったこの深みを、どうしても伝えられなくてどれほど悔しい思いをしたことか。だが、拓人はようやくジュニアのピアニストでも、著名なアイドルピアニストでもなく、真の芸術家への道を踏み出したのだ。真耶が共に目指したいと思っている高みを目指せる同志になったのだ。

 瑠水は、身じろぎもせずに拓人を見ていた。はじめて拓人のピアノを聴いた時とは違っていた。あれから半年も経っていないのに、拓人はまったく違う音色を奏でていた。そして瑠水にとっても、いま目の前でピアノを弾いているのはどこかの知らないピアニストではなくなっていた。どれほどの努力と想いがこの三十分の協奏曲に込められているのだろう。どれほどの情熱が彼の中で燃えているのだろう。尊敬の念でいっぱいになった。

 けれど、第二楽章の最後の部分が再び訪れたとき、その楽音に込められた拓人の深い感情をも突き破り、瑠水は出雲のあの小さな部屋へ戻っていた。あの口づけだけが瑠水を支配していた。溢れて止まらない真樹への想い。どうしても忘れられない樋水での幸福な三年間。笑顔と、思いやりと、信頼と。そのすべてが東京ではどこにもみつからない樋水の光とともに瑠水の心に溢れた。どうしようもなかった。

 シンに会いたい。もう遅くても、叶わなくてもいい。

 流れる涙を止めることも出来なかった。その瑠水に、優しく語りかけるように、第二楽章は終わった。

追記

前回と同じ動画ですが再び貼付けておきます。



Rachmaninoff plays Piano Concerto 2
関連記事 (Category: 小説・Dum Spiro Spero)
  0 trackback
Category : 小説・Dum Spiro Spero
Tag : 小説 連載小説

Comment

says...
まだ仕事をしていますが、休憩しようと思ってお邪魔したら、すっかり心を奪われてしまいました。
読みながら、拓人、なんか妙に可愛いやん!と、ミーハーになっていたことも白状します(*^_^*)
そして、真耶がやっぱりかっこいい! 蝶子とはまた違った強さのある人、というよりも、全く違うんだな。
蝶子は、なんだかんだと言っても女を感じるのですが、真耶は男らしいんですよね……
こんな表現は間違っているとは思うのですけれど、これしか言いようがなくて。
それに、ラフマニノフの二番の描写。曲が聞こえてくるようでした。
30分の曲の中で、心が動いていくのがたまりません。
かっこいい! 今度は真耶じゃなくて、お話全体のことです。
こんな風に、短い時間の中で動く心が本当にうまくあらわされていて、こういうシーン、大好きです。

ところで、瑠水が摩利子様の娘というのが、まだまだ不思議なままだったけど、考えてみたら一の娘でもあったんだわ。でもこれから、彼女がどう動いていくのか、真耶の言葉で動かされた気持ちがどうなっていくのか、結論を知っているのに、その過程が本当に楽しみです。
2013.10.08 10:20 | URL | #nLQskDKw [edit]
says...
こんばんは、TOM-Fです。

更新、おつかれさまでした。
うわぁ、力作ですね。ラフマニノフのコンチェルトを通して、瑠水、拓人、真耶、そして真樹と樋水がここに集結しましたね。音楽って、すごい……。
真耶は、「恋愛も芸の肥やし」という芸術至上主義者かと思いましたが、女性としても瑠水にはいい先達だったようですね。
やっと、自分自身と向き合うことができるようになった瑠水、なにがほんとうに大切なのか、自分で結論を出せそうですね……ってそう簡単にはいかないのかな?
今回の「一人負け」は、間違いなく拓人ですね。なんたって、やっと得られた「魂の演奏」で、瑠水の心を樋水と真樹に向わせてしまったわけですからね。ちょっと、かわいそうになっちゃいました。

次回、後半を楽しみにしています。
2013.10.08 12:26 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

うう。お仕事中に、ありがとうございます。
拓人ね。いろいろ初体験中でございます。こういうしょーもないやつが狼狽えると、ちょっと可愛いですよね。

うん。真耶は男前なので、男が出来ないんでしょう。拓人にも「恐っ」と思われているし。でも、この人、上から目線ですからね〜。結局蝶子しか友達いない? ゆりしかまともな女友達のいなかった摩利子にちょっと似ているかも。でも、女友達、いらないわって感じですよね。

ラフマニノフの第二番は、思い入れがあるのですよ。生涯を通してこんなに好きな曲ってないかも。だから、ずっと使っていなかったのですが、ようやく使ったので、こうして褒めていただけると嬉しいですね。

瑠水は、うん、遺伝子はもらっているけれど、性格はもらっていないから(笑)
来週、ちゃんと結論出しますので、ご安心くださいませ。
(真耶がいないとでなかった所がヘタレだけれど)

コメントありがとうございました。
2013.10.08 22:11 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんばんは。

うん。そうですね。全然書いていないけれど、あれですね。パスタやほうれん草茹でている誰かさんの意志が、そろそろ動き出している感じですかね。

神社とか、超能力とか、媛巫女さまとか、そういう所ではなくて、全く別レベルで、この人は自分がヘタレである事に向き合って、前に踏み出さなくちゃいけなくて、それがいよいよ佳境に、というところでしょうか。
大丈夫、来週ちゃんと結論でます。

真耶は、え〜と、かなり「芸の肥やしよ」ですが、まあ、この人もこの人なりに恋愛経験はあるのでヘタレの瑠水程度なら……。それにしても上から目線だよなあ……。

拓人は、うん、頑張って泣いてもらいましょう。第二部が終わったら、慰めのお酒に誘ってやってくださいませ。

コメントありがとうございました。
2013.10.08 22:18 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんばんは。

ようやく、と言ったところでしょうか。
瑠水にとっても、拓人にとっても。
瑠水は自分の意思や思いを抱き、または思いだし、拓人は至れなかった高みに至るための階段に足を掛けたのですね。

しかし、瑠水がその感情を抱いたとしたのなら、拓人にとっては一種望まない結末なのでしょうけれど、それもまた経験でしょうかね?

これからが楽しみになるそれぞれの心の動きでした。
2013.10.09 14:13 | URL | #T7ibFu9o [edit]
says...
こんばんは。

そろそろこの話も終わりが近づいてきているので(笑)

真耶も拓人もきちんと自分の意志を持って(しょーのないことであっても)やってきたので、瑠水みたいに流されまくりの人間は「?」だと思うんですよね。

で、瑠水の方もその二人から何かを学んで、本当にようやく自分の意志で踏み出す時に来たという事でしょう。

拓人は、いい面の皮ですよ。でも、それなりに何かを得たというのでプラスマイナスゼロかな。

来週もどうぞよろしくお願いします。

コメントありがとうございました。
2013.10.09 19:27 | URL | #9yMhI49k [edit]

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://yaotomeyu.blog.fc2.com/tb.php/703-06b33328