scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】希望のありか

「十二ヶ月の歌」の十二月分です。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十二月はA. ヴィヴァルディの「Nulla in Mundo Pax Sincera」を基にした作品です。これは映画『シャイン』のエンディングに使われていた曲で、といっても私は観ていなくて、サントラだけを持っているのです。

この話は、少し肩すかしを食わせるかもしれません。先月分のような劇的なドラマは何もありません。「十二ヶ月の歌」では、いろいろな歌の歌詞からイメージする人生のいろいろな局面を掌編にしてきましたが、十二月、小さな灯とともにキリスト聖誕祭を待ち、除夜の鐘とともに静かな年の暮れを待つ今月は、人と信仰のあり方について小さな考察をしてみることにしました。

なお、この作品に出てくる日本人ですが、もしかしたらデジャヴを感じられる方がいらっしゃるかもしれません。はい、そうです。「樋水龍神縁起」の本編の一キャラです。もちろん、本編を読んでも読まなくても、このストーリーには全く関係ありませんのでご安心を。


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希望のありか
Inspired from “Nulla in Mundo Pax Sincera” by Antonio Vivaldi

 白くうずたかい雪が、教会の屋根を15%太らせている。その先は丸くなって、空の深い青に引き立てられて美しい。

 ジャン=ノエルは、緑と赤の瓦で菱の模様が浮き出ているはずのこの屋根は、雪に濡れて濃い色になっているのだろうかと、奇妙な事を考えた。考えなくてはならない事は他にたくさんあったが、今は考えたくないのかもしれなかった。

 はじめて故郷から遠い地に赴任した若き神父であるジャン=ノエルは、神学校で学んだはずの理論と、人びとの生活に触れる現実との違いを痛感し、自分の無知と無力に歯嚙みしていた。

 サミュエルは真面目に働いて妻と子供を養ってきた。ところが妻がアメリカ人と逃げだした上、長男が窃盗団に加わったと逮捕された。リリーは78年間に渡り爪に灯をともすように慎ましく暮らしてきた。けれど、わずかな貯金を預けていた銀行が倒産した。フランソワは酒も煙草も不摂生もした事がなく、真面目に教会に通っていたが不治の病にかかった。

 ジャン=ノエルは彼らが受けなくてはならない試練が、彼らの生まれ持った罪によるものだとは思えなかった。「悔い改めなさい」と説教を口にする時にも、何にに対してと考え込んでしまうようになった。

 神の平和と正しい裁きは、この世ではなく天国にて得られると口にする事も出来た。だが、一方で特に信心深くもなければ人格者でもない村人たちが現世を面白おかしくとまではいかずともそこそこ満足して暮らしているのを見ると、自分の言葉が虚しく響いてくるのだった。

 この村の四季は美しかった。春には桜やリンゴが咲き乱れ、夏には川で子供たちが戯れた。秋は葡萄の複雑な紅葉に優しく彩られ、冬は静謐で空が高かった。人びとは素朴で、聴き取りにくいドイツ語に近いフランス語を話し、パリからやってきたジャン=ノエルに対して距離感を持って接するものの、攻撃性は少なく扱いやすい信徒たちだった。

 ニューヨークのブロンクス辺りや戦火の国で、命の危険を感じながら使命を果たしている仲間たちもいる。自分の悩みなど小さなものだと思った。だが、それでもジャン=ノエルはサミュエルやリリー、フランソワたちに会って話をしなくてはならないのが苦になっていた。

「○×☽☉∆∞」
全く意味の分からない言葉が耳に入ったので振り返ると、そこにはいつの間にか東洋人が立ってやはり屋根を見上げていた。
「何とおっしゃいましたか」
ジャン=ノエルは、念のために英語で語りかけてみた。

「お。英語がおわかりになるのですね。これはありがたい」
男は奇妙な発音だが、きちんとした言葉遣いの英語で話しかけてきた。
「あそこの雪の形、丸く大きく盛り上がっているんですが、バランスとして変だなあと思ったのですよ。あれはなんでしょう」

 ジャン=ノエルは微笑んだ。
「コウノトリの巣ですよ。今はアフリカに渡っているので空ですが」
「ああ、そうなんですか。見てみたいものですね。春にまた来たら見られますかね」
「四月には。その頃まだヨーロッパにいらっしゃいますか」

「はい。一年ほど教会建築を見ながらヨーロッパの各地をまわる予定でしてね。では、春にまたこの地方に来る事にしましょう。雪が溶けたら全く違う光景が待っていそうだ」
「では、次回いらしたときは、また、私をお訪ねください。このあたりの興味深い建築へとご案内しましょう。春は格別に美しいのですよ」

 男は山高帽をちょっと上げて微笑んだ。
「それはご親切に。私は峯岸裕次と申します。日本人です」
「どうぞよろしく。ジャン=ノエル・ブノワです。暖房は効いていないのですが、よろしかったらこの教会の内部をお見せしましょう」

 ジャン=ノエルは峯岸と一緒に教会の戸口に向かった。きちんとした厚手のコート、山高帽など昨今なかなか見かけないきちんとした服装で、しかも戸口をまたぐ時に帽子を脱ぎ何か小さくつぶやいて礼をしたのでおやと思った。十字を切ったわけではないのでカトリックではなさそうだが、深い敬意の見せ方が特別な教育を受けた人間に思えた。

「この辺りではかなり古い教会でしてね。最初の礎石は九世紀と言われています。この柱のあたりが当時からのものです。アーチがここだけロマネスクなんですよね」
「ああ、これが見たかったのです。大雪に悩まされましたが来てよかった」

「ロマネスク建築に興味がおありなのですか」
「ええ。実は私は日本で他の宗教の神職にあたっているものなのですが、昔からヨーロッパのロマネスク建築が好きでして」
「ああ、やっぱり」

「やっぱりとは?」
「いえ、教会への敬意のあり方から、宗教関係の方ではないかと思っていたものですから」
ジャン=ノエルがはにかみながらそう言うと、峯岸はじっと神父を見つめて言った。
「よく観察なさっておられますね。それに感受性のお強いお方だ」
 ジャン=ノエルは訝しげに峯岸を見た。彼はただ微笑んでいた。

「あなたの信じている教えの話を伺ってもいいですか。カトリックとは相いれない信仰をお持ちなのでしょう?」
ためらいがちにジャン=ノエルは口を開いた。何も聖堂で訊くべき事ではないかもしれないが、他では神に対しての裏切りのように思え、堂々と神の家の中で話すべき事のように感じられたのだ。それに、今なら信徒の誰にも聞かれていないと確信が持てた。

「相容れないというわけでもないのですよ。もっともあなた方からすると、受け入れがたい信仰かもしれません。私たちにとっては、全てが神なのです。太陽や大岩、それから何百年も生きつづける古木、河川、山、先祖の霊。それぞれが一番に信仰する神がいる。もしくは漠然と願いを託す存在がいる。だから、隣人が仏教徒やキリスト教徒であっても、ああ、あなたが一番身近に祈っているのはその神なのですねと受け入れるわけです。一神教の方々からすると間違っているということになるのでしょうが」

「あなた方がそれぞれにちょうどいい神を選ぶという事なのですか?」
ジャン=ノエルが困惑した様相で訊いた。峯岸は笑った。
「そう言う面もあります。学業に関する願い事をするならこの神、恋愛成就はこの神という具合に。まあ、ギリシャやローマの信仰に似ていない事もありません。でも、それは一時的なものです。多くの方は普段からある特定の存在に多くの祈りを捧げますね。土地の守り神や、先祖代々信仰している神、もしくは本人が名前すら意識していない何かである事もあります」

「現世利益を願うのですか」
「あなた方と同じですよ。現世利益を願う方のために祈り、お守りを授与する代わりにお金をいただく事もあります。有り体にいえば商売です。けれどそれは信仰の本質ではありません」

 ジャン=ノエルは口ごもってから真剣なまなざしで峯岸を見た。自分の嵌まった信仰の袋小路についてこの男がどう考えるか質問したくなったのだ。
「あの……。もしお差し支えなかったら、私の直面している問題の事を聞いてはいただけませんか」

 峯岸は、青年神父の告白とも悩みともつかぬ話をじっと聴いていた。若くまじめで正義感に満ちている。使命感が強く、はじめての大きな壁に戸惑っている。彼自身の若かった頃を思い出した。

「私はいったいどうしたらいいのでしょう。私の信仰は間違っているのでしょうか。どのようにあの人たちに接していいのかどうしてもわからないのです。そして氣がつくと遭わないように居室に籠ってしまいたくなるのです」
ジャン=ノエルはそういって話を終えた。

 峯岸は小さく首を振った。
「それはいけません。逃げだしても何の解決にもなりません。その信徒たちの問題ではなく、あなたの問題の話ですよ」
「私の?」

「私にあなたがどうすべきかを具体的にいう事は出来ません。あなたの信仰が正しいか正しくないかも、あなたの心が告げるべき事です」

 ジャン=ノエルは小さくため息をついた。
「私の心は、ずっと大声で叫んでいました。この信仰は正しいのだと。この教えを広める事こそ私の使命だと。それなのに、今は蚊の鳴くような声になっているんです。ずっと心から信じていました。どんな事も祈れば叶うのだと。でも、今はそうではないと思いだしているのです」

 峯岸は小さく笑った。
「祈りと魔法の呪文は同じではありません。叶えられる事の保証と引き換えに唱えるものではない。あなたもそれは知っているでしょう」

 ジャン=ノエルは峯岸をじっと見て答えた。
「おっしゃる通りです。私は信仰というものについて考え違いをしていたのかもしれません」

 峯岸は柔らかな光を運んでくる、ロマネスク式アーチにはめられたごくシンプルなステンドグラスをそっと見上げた。彼の神社で大楠の木陰から漏れてくる差し陽といかに似通っている事だろう。
「答えはあるのかもしれませんし、ないのかもしれません。だが、我々が理不尽と感じるとしても、『世界が間違っている』ということにはならない、そうではありませんか。世界には、正しいも間違いもないのです。存在するのは間違っていると感じる『私』だけです」

 若き神父は東洋人の佇まいをみて身震いした。この礼儀正しい人物は、小さく何でもないように見えたのに、突如として至高の存在から送られてきた使者のように感じられたからだった。
 
 男は静かに続けた。
「宗教は完全無欠ではありません。祈れば不老不死となり裕福になれるような宗教を探しても見つからない事ぐらいはおわかりでしょう。私たちにはどうしようもないことも存在するのです。けれど、あなたが職業宗教家として出来る範囲で、その人たちにしてあげられる事は何もないのでしょうか」

 ジャン=ノエルは黙って峯岸を見つめた。それから、ゆっくりと聖堂の奥、十字架にかかった基督像を見上げた。彼は少し前へと歩み寄ってから聖壇の前に膝まづき、一心に祈った。単純な淡い色のステンドグラスから差してきた光が青年神父を照らし出し、その光の中で埃が踊る様子をしばらく見つめていた峯岸は、彼をそのままにして黙って小さな聖堂を後にした。

 春になったら、またここを訪れてみよう。雪に埋もれていたコウノトリの巣がにぎやかになり、花が咲き乱れ、そしてあの青年の心に光が戻っているといいのだが。

 それからジャン=ノエルは不幸な信徒たちを避けるのをやめた。

 大司教に掛け合って、新たに出来た貧民救済施設の簡単な仕事をリリーに紹介した。そこは住み込むことが出来たので、彼女は衣食住の問題を解決できて大喜びだった。サミュエルの息子の裁判に関しては熱心な嘆願の手紙を書いたので執行猶予つきの刑が確定した。やがて逃げた妻が男に捨てられてすごすごと帰って来た事もあり、夫妻は熱心に教会に通ってくるようになった。

 フランソワに対しては、多くの事は出来なかった。ただ、病室に足繁く通ってその手を握り、望まれるままに聖書の朗読をした。
「『旧約聖書』の方にしてくだせえ。どうも『新訳』は説教臭くていけねえ。『旧約』はなんだかんだ言って、好き勝手やってますからね。聞いていてワクワクしてきまさあ」
それで、ジャン=ノエルは、『旧約聖書』の中でも、とくに荒唐無稽な話を選んで朗読してやった。

「ありがてえ。こうして何度も来てくださって」
最後に聞いた言葉は、こんなだった。春になる前にフランソワは旅立った。

 ジャン=ノエルは、教会に戻ってくると屋根を見上げた。青い空はいつもと変わりなかったが、いつの間にか雪が消えて屋根瓦とコウノトリの巣が姿を現していた。溶けた雪で湿った濃い色が、乾いて本当の鮮やかな色に戻るまでにはまたしばらくかかるだろう。彼はコウノトリがいつ帰ってきてもいいように、信仰に恥じない毎日を送ろうと思った。

(初出:2013年12月 書き下ろし)

追記

この曲の歌詞はラテン語です。下に歌詞と、私の拙い訳を載せました。ご参考までにどうぞ。


Vivaldi - Nulla in Mundo Pax Sincera (RV 630)
Geoffrey Lancaster, Gerald Keuneman, Jane Edwards, Ricky Edwards interpretan a Antonio Lucio Vivaldi

Nulla in mundo pax sincera
sine felle; pura et vera,
dulcis Jesu, est in te.
Inter poenas et tormenta
vivit anima contenta,
casti amoris sola spe.

まことのやすらぎは この世では 
苦悩なしには得られない
穢れなき真の平和は 
優しいイエズスよ あなたのうちにある 

辛苦と苦悩のただなかでこそ 
魂は 満ち足りて
まことの愛への 希望のうちに生きる

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Comment

says...
更新、お疲れ様でした。

珍しく誤字が少々。『ジャン=ノエルかはにかみながら』→『ジャン=ノエルが…』、『質問しくなった』→『質問したく……』、『ジャン=ノエルはは峯岸を』→『ジャン=ノエルは峯岸…』

こういうお話、大好きです。感動しました。とくに、ジャン=ノエルとフランソワとの件がじいんときました。
教条主義ではなく、世俗を生きる人間との生きた関係の中で自らの信仰を確立していこうという境地に達し、それを実践したジャン=ノエルが素敵ですね。そして、異教なのに先達として道を示した峯岸宮司(こんなところをウロついていらっしゃったんですね)の深い英知にも感心しました。職業としての宗教家に真摯に取り組んでいる二人が、とても眩しかったです。
八少女夕さんの書かれる恋愛モノは素晴らしいですが、こういう静謐な作品もまた読み応えがありますね。お見事です。
2013.12.18 10:11 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

うわあ、ありがとうございます。ずいぶんありましたね、お恥ずかしい。いやあ、熱のある時に校正をしてもダメなんですね。こんなに出るとは。早速直させていただきました。本当に助かります。

そうなんです。やっぱりTOM-Fさんはこのキャラがどこから来たのか、わかってくださいましたね。こんなところでウロウロしている間に、笠宮神社では大変なことに(笑)

このラテン語の歌詞を訳しだした時に、「この世に平和はない(Nulla in mundo pax sincera)」で始まるので目を疑ったのです。宗教歌なのにいきなりそれですかって。そこから「信じているのに、それですか」と涙目になっているヨーロッパ人のイメージが浮かび、そこから、なんというのか、盲目的な信仰でもなく、世俗主義でもなく、教条主義でもなく、無神論でもない、中庸なあり方を描けないかなと思ったのです。

神がいるかとか、いないとか、そういう話ではなくて、職業としての宗教家が、この世でプロとしてやるべきことをやる、それでいいんじゃないかなあと私は思っていて、そんな話ですよね。

まあ、そういうわけで、ほとんど落ちのない話になってしまいましたが、どこにでも転がっている人生論のうちの一つとして、このシリーズの最終話にしてみました。最初はスイスの話にしようと思ったんですが、フランソワみたいな多少ふざけた信徒は、フランスの方が合うかなと思い、アルザス地方をイメージして書くことにしました。お氣に召していただき嬉しいです。

ご指摘とコメント、本当にありがとうございました!
2013.12.18 19:32 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
ほんと、なんだろうって、いつも思います。
日本人には信仰心がないから……・などと言われることもあるけれど、そして宗教があれば病院とかホスピスとかボランティアとか、もっといい環境になるのに、とも思うけれど、実際には日本人は信心深いですよね。ちゃんとお正月には神社に行くし、現世利益を望むときだけとはいえ、それに適した場所に出かけていくし。
でも、きっとこれって、どんな宗派も同じ、どの宗教もきっと求める世界は同じなんだろうと。政治に利用されたり、国家や民族間の争いの理由になるのは残念だけれど、現世利益を願う人の、ちょっと可愛らしい望みを支えてくれる、そしてちょっと叶ったら嬉しい、気持ちが前向きになる、そんな世俗的な気持ちを支えてくれる、それが宗教なのかな。そして、それでいい、大きなことではなくて小さな世界が、人の身の丈にはちょうどいいのかもしれません。現世利益を願うのは人の常。この村人の気持ち、その世界観のイメージ、とても好きです。
峯岸宮司さん、ヨーロッパ旅行に云々、ってのがここに繋がっているんですね。この人は自由に生きていますよね。生活というのではなく、心が自由。だから世界のあらゆる事象の在り方を受け入れようとしているんですね。
(あ、そう言えば、日本では大変なことに……^^;)
何だか取り留めはないけれど、根源にある気持ちって、きっとみんな同じなんだろうな。宗教も、占いも、そしてカウンセラーの相談も、「寄り添う」ことで生まれる何かがあるのですね。
宗教に関わる人を登場させて教義とかその人の考えとかを書くのは、凡人にはなかなか大変と思いながら、私も『清明の雪』であまりにも自由な和尚さんを書いてしまいました。こうして考える宗教人(という言い方が正しいのか…)を書くというチャレンジを同じようにしている夕さんがいてくださって、よかったなぁと思ったりしています。
2013.12.21 00:54 | URL | #nLQskDKw [edit]
says...
ジャン=ノエルも、もちろん峯岸裕次も宗教家個人としてはとても立派な方で、人間的にも素晴らしい物を持っていると思うんですよ。
でもこういう人がたくさん集まって宗教界という形になると、おどろおどろしいその姿に、サキはなんだかとっても疑問を感じてしまうんですよ。
サキは宗教には詳しくはないので、意見をする事は出来ないと想うのですが、でもなんでそんなことになるんだろうって想います。
サキも死ぬのは恐いと思います。夜中にポッカリと空いた穴に驚いて目を覚したりもします。それへの対応のために宗教って存在すると思うのです。
でも、死んでしまえば無になってしまう、。何もかも無くなってしまうのに、そのことを心配するのは無意味だ……ってどなたかがおっしゃっていて、そうかなとも思います。
でも、それでは納得がいかないという気持ちもとても強いです。
そんな気持ちに対応するために宗教ってあるんでしょうね。
グルグル回ってエンドレスに考えてしまいます。
この物語を読んでいてそんな感想を抱いたんですが、書こうとして支離滅裂になってしまいました。結局よくわかりません。
お騒がせしました。
でもやっぱりサキは「主人公は天国で幸せに暮らしました」という結末の物語は書けないのです。
皆さんの避難を浴びるんですけど「フランダースの犬」は嫌いです。
では。




2013.12.21 15:08 | URL | #0t8Ai07g [edit]
says...
こんばんは。

私は宗教には、哲学的な「どう生きるべき」とか「生や死とは何か」とか考える部分と、法律に近い部分(「十戒」みたいな)、それに社会保障というのか現在が保険やら社会保障制度でカバーしているものを担っていた部分があると思っているのです。日本の信仰にももちろんその部分があって、それが日本の場合「上からの掟」みたいな強権を発動しなくても問題なく回ってしまう国民性ゆえに、宗教の質も欧米とは違うものになったと考えているのです。言ってみれば、ホスピスとか宗教の側が心配しなくても社会的になんとかなっていたってことなのかなあと。

「神なんかいないし、信仰なんか幻想に過ぎない、宗教はただの迷信だ」と強くいう友人がいるんですが、その割に節分には太巻きを正しい方位を向いて食べているらしいです。無神論者でも、遅刻しそうな時には電車の中で「神様お願い、この電車をもう少し速く走らせて」と口走ってしまったりすることもあるだろうし、神はなんという名前だとか、この人間は預言者だとか、そういうレベルとは別に、誰の中にでも何か超自然的な、自分には何ともしがたいものがある時に頼りたくなるような、そんな存在は実はあるんじゃないのかなと、それが日本人の信仰みたいなものではないかなと常々思っているのです。

日本の宗教観と違って、キリスト教圏の宗教観はもっと一か〇で、信じるならとことん信じるし、否定するなら本当にとことん否定するって面があるようで、その一か〇か悩む青年に、もっとグレーゾーンのある国から来て、さらに人生もプロの宗教家としてもキャリアの長い人間が、何かを示唆できるか、という試みの小説ですかね。キリスト教の神父は、基本的に「そっちの神もいいね」とは言えないのですが、神道的にはありなので、そういう意味でもこの峯岸宮司はちょっと自由なのだと思います。なんせこの人の親友は新堂和尚だし(笑)

そうですね。宗教も、占いも、カウンセラーも、さらに言うと、教師や医師も、紙の上にあることを一方的に伝える、上から目線のあり方もあるのですけれど、それ以外に、もっと人びとに「寄り添う」あり方ってすごく大切だと思っているのです。だから、ここで私が言いたいのは「神はいる」とかそういう話ではなくて、単純にその職業を持っている人間の姿勢みたいなもの、だから職業宗教家という書き方をしているのです。

宗教や哲学そのものを語るには、まだ人生経験が足りないかなとは思いますが、こんな日常レベルのことならばチャレンジもたまにはいいですよね。

コメントありがとうございました。
2013.12.21 17:50 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんばんは。

そうですね。
太古の時代からその問題って、人びとを悩ませてきたんだと思うのです。例えば、キンキラキンの衣装や、教義に従わない人への残酷な刑罰、それに人びとから巻き上げたお金で贅沢など、とても人びとの幸せのためにならないと思われるようなことも、宗教団体が存在すると発生してしまう傾向がありますよね。

私は、宗教団体に関わっているのが聖人ではなくて人間だから、そうなってしまうんじゃないかなと思います。宗教の指導者だけでなく、医者や教師も私たちは聖人君子を期待するのに、実はそうではない人たちがいて、それが話題になることもありますよね。

「よく生き、よく死ぬために」人びとは何か信じるものを求めるのでしょうね。もしくは、世の中の不公平をこらえ納得するために。「ひどいことばかりをしているのに、いい暮らしをしているあいつは、きっと地獄に堕ちる」とか、「あの人は来世では報われる」とか。私は霊感のようなものは全くないので、来世があるのかどうかはわかりません。でも、「絶対にないんだから好き勝手をしても構わない」とは思っていません。「わからないけれど、とりあえずあると仮定して、ちゃんとやっておこう」ぐらいに考えているのです。

そういえば「樋水龍神縁起」の中で「弔いとは死んだ当人のためではなく、残された人のためにするものだ」というような内容を書きました。死んだらもう何もなくなるのかもしれません。でも、残された者の悲しみは確かに存在しますよね。「何もなくなったんだから葬式なんかしてもしかたない」と思う方もあるでしょうし、「あの人は確かに天国に行っただろう」と思って慰められる方もあると思います。そういう意味で宗教とは生きている人間のためのものだと思っています。

もっとも、私が書いた今回の小説は、死んだらどうなるとか、神はいるのかとか、そういうレベルのことではなくて、もっと普通の人間レベルの話です。たまたま主人公は神父なので、いろいろと信仰に関して悩むのですが、実際にはただの隣人が主人公でもあまり変わらないのかなと思います。

「フランダースの犬」は私も苦手です。あの最終回には号泣しました。

コメントありがとうございました。
2013.12.21 19:26 | URL | #9yMhI49k [edit]

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