scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】彼女のためにできること

scriviamo!


「scriviamo! 2014」の第十弾です。中島狐燈さんは、二年前に発表した私の短編「桜のための鎮魂歌(レクイエム)」の続編を書いてくださいました。ありがとうございました。本来ならば狐燈さんのブログにリンクを貼るべきなのですが、鍵つきでここを訪れてくださる方のほとんどが読めないと思われるため、狐燈さんの許可を得てこの下に転載しました。

中島狐燈さんの書いてくださった掌編 【scriviamo!参加作品】臨床日誌(或る花冷えの日)

こちらからお読みください

【scriviamo!参加作品】臨床日誌(或る花冷えの日)

 予約を受けた時、久々に緊張するお客様だな、と分かったのは、自分と同世代位な声の感じの女性、標準語できちっとした電話応対だったせいだ。都会で仕事をしている人ならごく普通の事だが、このあたりでこういう人は少ない。都会から、この街に来る人たちの多くは観光なのだが、こういう予約電話の方の場合、仕事や何らかの用事があっていらっしゃる人だ。そして、そういう都会の女性たちはたいていバリバリに肩が凝っている。その手のお客様だろう、と予測しておいた。
 
 予約時間の5分前に扉を開けて入ってきた彼女を見た瞬間、ああこれは想像より深刻な用事だったか、と悟った。だがこういう深刻な方の場合の予約は、ほとんどが鍼のコースなのだが、マッサージコースの予約だったので予測が甘くなってしまったのだ。内心、困ったなぁと思いつつ、とりあえず何食わぬ顔で招き入れて、凝りの気になる部分などを聞きながらマッサージを開始した。それ以上の事を話しかけるかどうするか悩んでいると、彼女の方から話し始めた。

「こちらは南の方なのに、意外と寒いんですね」
「皆さん結構驚かれて、そうおっしゃるんですよ。沖縄に行くのと同じくらいの感覚でいらっしゃるみたいで。想定外なので多分余計に寒く感じるんですよねー。私も数年前までは東京だったので、最初来たときはいきなり風邪ひいちゃいましたよー」

 せっかく会話が始まったので、できるだけ明るい雰囲気に持っていきたい。でも自分の発した言葉のトーンは、明らかにいつもに比べてうわずっているし、身体は少し触っただけでやっぱり深刻な感じの硬さがあるので、色々な意味で自分の作り笑顔が引き攣っている。顔を見られない状態の位置関係でよかった。

「東京にいらしたんですか。どうしてこちらに?」

 もう何度聞かれたか覚えていないくらいの質問。答えはいくつかのパターンがあって、たいていは差障りのない無難な回答をする。でも、自分でも意外な事に真実に近い方の回答を勝手に口走り始めた。

「いやー話せば長い話なんですが、ウチの親父っていうのがロクでもない親父でしてね、まあいろいろあって東京にいられなくなっちゃったんですよー」

 自虐的な笑い話を始めたつもりだったのだが、彼女の身体が一瞬こわばったのがわかった。

「でね、一家でこっちに移住してきちゃったんですけど、そのダメ親父がまたサッサと死んじゃいましてね。親父のせいで東京を捨てたっていうのに、今更戻れもしないし全くいい迷惑でしたねぇ。でもまあ住めば都って言いますけど、そんな感じで、のんびり仕事させてもらってます」
「…お父様、ご病気だったんですか?」

 ああこれは話の流れがマズい方向に行っているのではなかろうか。でも仕方がない。

「そうなんです。気づいた時はちょっともう手遅れで。私も何しろ親父が大嫌いだったもんですから、よくよく体調の変化にも気づいてやれなかったんですよね。なるべく顔も見ないようにしてたんで」
「そんなにお嫌いだったのに、お父様を見捨てないで一緒に来たんですね」
「母のほうがね、親父をなかなか見捨てないもんですから、仕方なく、ですね。私は母を見捨てるつもりはなかったもんですから」
「なんだか、ウチとちょっと似てます。違うのは母が父を見捨てたところくらい」
「ホントですかぁ?いやでもきっとウチの親父よりは、ずっとマシなお父さんのはずですよ。ああそういえば、もうすぐ命日だなぁ。桜が散る丁度いい時期に死んだんですよね」

 彼女からの返事はない。しまった。陰気な話になり過ぎた。しかも死んだ事を連呼している。深刻な体調の人に向かって、私は何をしている?

「…私ね、実は今年の桜はもう見られないかもと思っていたんです。でもとりあえずまだ大丈夫だったみたい」
「…あー。。。そうでしたか。。。でも、そこまでおっしゃるほどにはヤバくなさそうですよ?」
「え?」
「正直言うと結構お身体キツそうなのはわかりました。でもね、近日中にどうこうって感じではないですし、免疫上げていけば、まだまだ普通に回復する範疇だと思いますよ」
「・・・」
「実はね、ウチの親父なんか、もっともっと酷い状態だったんですけど、免疫上げるためにいろんな事試して医者も驚くくらい相当改善してたんです。なのにヤツは馬鹿なんで、良い検査結果を聞いた直後に事故って即死でした。貴女はまだまだ大丈夫。たぶん十年後の桜も見れますよ」

 別に慰めを言うつもりではなく本当に正直な私見を述べたつもりだったが、彼女には気休めにしか聞こえないかもしれない、とも思った。その後は二人とも黙ったままで施術は終了した。彼女の去り際に、もう一言だけ声をかけた。

「今日は花冷えが強いですし、お気をつけて。またお待ちしてます」
「ありがとう…。……」

 ありがとうの次の言葉が聞き取れないままだった。旅人がこの地を訪れるのは観光や慰安のためだ。療養や湯治の方は治療のためだ。彼女はそのどちらとも言い難い雰囲気だったし、私のところに来たのも何故だったのか結局聞きそびれてしまった。全体的にあまり良い施術ができたようにも思えなかったし申し訳なかった。もう会うこともないかもしれないが、どこかで十年後の満開の桜を見て欲しい。そう思った。


上の作品の著作権は中島狐燈さんにあります。中島狐燈さんの許可のない利用は固くお断りします。


狐燈さんは私の高校の時の同級生で、現在に至るまで親しい関係を続けている数少ない友人の一人です。私と違ってちゃんと文芸のことを学んだ経歴もあり、93年に発表した「La Valse」を掲載した同人誌「夜間飛行」への参加を薦めてくれたのもこの方です。現在は二人とも東京から離れているために連絡はネット上に限られていますが、まじめで人に優しい人柄は高校の頃から全く変わりません。

これだけある私の作品の中から「桜のための鎮魂歌」を選んでくれたのは、現実の当時の私の感情と重なるものをみて氣になったのだろうと思います。「桜のための鎮魂歌」の設定はフィクションですが、根底に流れる複雑な感情がこの作品をちょっと異色の重いものにしていると思います。

返掌編については少し悩みました。同じテーマについて書くことはただの繰り返しになりますので、視点を変えました。主人公の救いのなさについて別の人物がアプローチをしています。「桜のための鎮魂歌」を読まなくても話は通じるかと思いますが、読めばこの女性がなぜ心に鎧を着ているのかを理解しやすいかもしれません。



「scriviamo! 2014」について
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彼女のためにできること
続・桜のための鎮魂歌(レクイエム)
——Special thanks to Koto-san


 千秋が部長の席の前に立っていた。休暇の申請をしていた。彼女がプロジェクトを外れたという噂を聞いていたので氣になっていた。

 千秋はいつも鎧をつけているようだった。付き合いも悪くないし、下ネタにもイヤな顔はしないから、楽しくつき合えるヤツだと、もしくはいい感じになれるのかと近づこうとすると、その鎧に打ち当たる。何度か二人で飲みに行ったことがある。もちろん下心ありで。たくさん飲んで、こちらは正体がなくなるほど酔ってしまったが、トイレに立つ時も、会計をする時も彼女の足取りはしっかりしていて、何よりも目が酔っていなかった。

 俺は千秋を口説くのをやめて、もっとかわいげがあって隙のある子たちとつき合ってから、六年前に麻奈と結婚した。理想通りとは言いがたいけれど、俺にはちょうどいいヤツで、感謝もしている。浮氣心がなくなったとは言わないが、俺にとって一番の女性は、結局妻だと思う。

 それでも、俺は千秋を氣にかけている。あいつ以外の同期の女の子たちは、結婚や出産を機に辞めたり最前線ではない部署に異動したりした。かつてのような殺人的な忙しさではなくなったとはいえ、未だに深夜までの残業や土日の出勤も珍しくないから、パートナーのいる女性には難しい職場だ。千秋はずっと変わらない働き方をしていた。これまでには何度か彼がいたこともあったらしいが、最近では誰も現状について触れられない。

 だが、俺が氣になっているのは、その件じゃない。むしろここ一年ほどの彼女の変化だ。どこがどうと指摘はしにくいが、身体が本格的におかしいのではないかと心配だ。ものすごく痩せたというのではない、だが顔を見ると以前の健康そうだった彼女とは明らかに違う。体調を崩して休んだ、精密検査に行ったという話も聞いた。

「なんだよ、松野、お前、北原千秋に惚れたのか」
声にはっとした。庄治がニヤニヤと笑っていた。
「そんなんじゃないよ」
そう言いながら、俺は食うことも忘れて手にしていた茶碗に意識を戻した。

 社食はそこそこ混んでいて、俺と庄治は運良く席を見つけて食事を終えようとしていた。後から入ってきた千秋が携帯で話しながら席を探しているのをいつの間にか目が追っていたのだ。うるさい社食の常で千秋はかなり大きな声で話していた。
「ええ、そうです。二泊でお願いします。そちらは別府駅から歩ける距離ですか?」
休暇で別府に行くのか、そう思った。

 俺は飯を食い終えて、冷えた煎茶を飲みながら庄治に訊いた。
「なあ、知っているか、千秋のやつ、プロジェクトから自分で降りたらしい。一体どうしたんだと思う?」
「あん? お前知らないのか? 入院するんだってさ」
「入院って、なんの?」
「病名までは知らないよ。去年の今ごろから通院はしていたらしいけれどな。もしかしたら同期最後の総合職女子も退職することになるのかもな」

 退職とか一般職になるとかの話ならまだいい。庄治も縁起でもないので口にはしなかったが、俺と同じ別のことを考えているんじゃないかと感じた。俺はそれからしばらく上の空だった。終業後の酒の誘いも断って家に帰り、あまりに早かったので却って麻奈に心配される始末だった。

 そうか、あの不自然に黄色い顔だ、千秋に対するどうしようもない不安のもとは。俺は妻の顔をじっとみつめた。ファンデーションの美白効果もあるかもしれないが、うっすらと白い肌に頬がピンクに染まっている。結婚した途端に自分のことにかまわなくなってしまう女がいるとよく聞く中で、麻奈は勤めていることもあるが、結婚前と見かけがほとんど変わっていない。残業の多い俺の仕事のことも理解してくれて、家庭のことはほとんどやってくれるしあまり不満も口にしない、俺にはでき過ぎたほどの嫁だ。とはいえ、俺もここで千秋の名前を出すほどの軽率なことはしない。たとえ千秋に対して現在とくに恋愛感情を持っていないと言っても、麻奈は信じないだろうから。

「なあ、顔が黄色になる、重大な疾患ってなんだ?」
俺の言葉に麻奈はきょとんとした。
「何よ、薮から棒に。あなたの顔は全然黄色くないわよ」
「俺じゃないよ。同期でさ、入院することになったらしいって噂のヤツがいてさ」
「あら、そうなの。ええと、黄色いってことは肝障害かなんかじゃないの。私はそういうのあまり詳しくないからわからないけれど」
「そうか……」

 千秋と七、八年前に飲みに行った時のことを思い出した。あのとき俺はまだ、あわよくばあいつを口説こうとしていた。
「ここのところ、ふさぎ込んでいるみたいじゃないか。どうしたんだ?」

 千秋はいつものように醒めた目つきをしてから、下を向いて少し笑った。
「ばれちゃった、か……。まあね。これでもそんなに鋼鉄の神経じゃないってことかしら」
「何があった?」
「ああ、何でもないの。ちょっと、親が死んでね」

「おい。どこが何でもないんだよ」
俺は慌てて言った。千秋は忌引休暇をとらなかったし、誰もその話を聞いていなかったはずだ。

「ずっと縁を切っていたのよ。うちね、両親が熟年離婚したの。で、私はそれ以来あの人を父親とも思っていなかったし、その前からあの人のことを大嫌いだった」
「でも……」
「その、でも、なのよ。数ヶ月前に連絡してきてね。病室で謝られちゃって。それで、死なれちゃって……」

 俺はあのとき、本氣で千秋の力になりたいと思った。俺がずっと側にいてやるから安心しろと言ってやりたかった。実際に、それに近いことを言った。でも、千秋はあの醒めた目で、俺をじっと見つめた。
「そういうことを、何人もの女性に言うもんじゃないわ。私を男性不信にしたのは、父親だけだと思っている?」

 そう、俺はすでに麻奈とつき合いだしていた。千秋はそれを知っていた。結局俺はかわいげのある麻奈とゴールインして別の人生を歩みだした。俺の人生のためにはそれが一番だと思った。

「黄色くて縮んでしまった顔の父を見た時にね。わからなくなったの。ずっとあの人を憎んでいた。あの人は母に対して許せないことをしてきた。姑息で誠意の欠片もないひどいことを。けれど、愛人にも元妻にも娘にも拒まれたままで、ひとりぼっちで死んでいくあの人を許さない自分はどれだけ立派なんだろうって思ったわ。何もかもが虚しくなってしまった」
あのとき千秋はいつものように全く酔ったそぶりを見せずにグラスを傾けていた。俺は自分の方が酔ってしまって朦朧とした頭で、その言葉をぼんやりと聞いていた。

 その千秋が今、黄色い顔をして入院しようとしている。

「その方、親しいお友だちなの?」
麻奈の声にはっとした。俺は頭を振った。
「ものすごく親しいってわけじゃない。入院のことも他のヤツから聞いたくらいだし」
「そう。大した病状じゃないといいんだけれど。ご飯にする? それとも先にお風呂に入る?」

 俺はそのまま麻奈との普通の日常に戻った。実際の所、俺にできることはその晩は何もなかったから。こんな俺が、それでも千秋のことを氣にするのは間違っているんだろうか。

 それから一週間が経った。その間に桜前線はどんどん上昇して、昨日はついに東京でも咲き出した。俺は新人に花見の席とりの心得について廊下で説教をたれている時に、向こうを千秋が歩いていくのを見た。「もういい」と言って新人を帰し、急いで彼女の後を追った。

「千秋!」
エレベータの手前で紺のスーツ姿がぴたりと止まった。ゆっくりと振り向いた時に、俺はあれ、と思った。以前と何かが変わったわけではなかったが、とにかく何かが違うように感じた。

「何、松野君」
俺は突然、何を話していいのかわからなくなった。「精密検査で悪い病氣だったんだって」とは訊けないし、「休暇でどこに行っていた」と訊ねるのも筋が違うように思える。それでこう言った。
「今日、久しぶりに飲みにいかないか?」

 千秋はしばらく例の醒めた目つきでじっと見ていたが、やがて言った。
「いいわよ。夜桜の見えるところに連れて行って」

 結婚して以来、ずっと距離を置かれていたので、この提案には正直びっくりしたが、それを見越したように彼女が続けた。
「わたし、今、ドクターストップでアルコールは飲めないから、酔わせてどうこうは無理よ」

 高輪にあるとあるホテルのラウンジからは見事な夜桜が楽しめる。俺はクライアントにも麻奈の知り合いにも出くわさないことを祈りながらも、青白く輝く桜の照り返しを受けた千秋の横顔に少しだけときめいていた。俺は千秋を見ていたが、彼女は桜をみつめていた。

「噂を聞いたんだ」
「何の?」
「お前の。T社はお前のアイデアだからこそGOを出したんだろ。そのプロジェクトを降りるなんてよほどのことだと思ってさ」
「病院から会議には参加できないもの」
「じゃあ、本当に……。手術でもするのか」
「いいえ。できないの。だから、長くかかるみたい」

 人ごとみたいだった。俺はなんといっていいのかわからなかった。
「そんな顔をしないで。心配してくれたんでしょう、ありがとう」
「千秋……。俺は……」

「私ね、今年の桜はもうだめだと思っていたの。でも、二度も観る事になったわ」
「二度?」
「別府で観たし、それからここでも。不思議ね、桜って。梅や紫陽花では、来年もまた観られるだろうかなんて考えないのに、桜だけはそう思わせるのよね」

「なあ、千秋。また、ここで桜を観ような。五年後も、十年後も……」
彼女は、桜から目を離して、まともに俺の方を見た。いつもの醒めた目で少し揶揄するように笑った。
「そんな約束をしちゃダメよ。そういうのは、奥さまやお子さんとするものよ。それに私、十年後の桜は先約があるの」
「は?」

「別府でね、十年後のことを保証してくれた人がいるの。あの人と別府の桜を観に行くのよ」
そう言って千秋はペリエを飲んだ。ああ、それでか。俺は思った。彼女が少し変わって見えたのは。別府の誰かは彼女に希望を与えたに違いない。

「そうか……。支えてくれる人がいるんだな。俺は、千秋のために何かできないかって、考えていた。でも、結局は空回りだったみたいだな」
そういうと千秋は笑って首を振った。
「誤解しないで。別府にはただの旅行で行ったのよ。それに、その人は個人的な知り合いじゃなくて、むこうの治療院でマッサージをしてくれた針灸師の方よ」

 千秋は自分の掌を広げて見つめた。それから二つの掌をそっとすり合わせた。
「こうやってゆっくりとね、首の方から背中へと緩やかに円を描いていくの。強くもなく、弱くもなく。その度に、乾いていた土に水が沁みていくように、何か足りないものが細胞の一つひとつに満ちていくようだったの。最初は、それも上手くいかなくてね。たぶん、私があまりにも長くそういう接触を拒否していたからだと思うの。その方はそれを感じて、二度同じことをしてくださったの。マッサージはその方にとってお仕事だったんだけれど、私にとっては単なる身体の癒し以上の何かだったのよね」

「それは……」
「私、ずっと一人だったでしょう。誰かに助けてもらいたくなんかない、一人で生きていけるって思っていた。お金を稼いで、マンションという自分の城を持って、家事も一人でして、それで大丈夫だと思っていたの。完璧な人格者で私のためだけに存在してくれるような誰かでなければ、パートナーなんかいらないと思っていたし、そんな人は存在するわけはないとも思っていた。でも、そんな極端なことじゃなかったのよ。たった40分間、その方は単純にご自分の仕事をなさっただけなんだけれど、その掌は私のために、私の必要としていた何かを与えてくれたの」

 今度は俺が夜桜を観ていた。千秋のまっすぐな視線を見る勇氣がなかった。千秋が語っているのは肝臓の病の話ではなかった。本当は、たぶん俺がもしかしたらずっと前に与えてやれたかもしれない何か、けれど、俺が自分の快適さと幸せのために見なかったことにしてゴミ箱に捨ててしまったものだった。たぶん麻奈が俺に与えてくれているから、こうして健康でいられる何か。俺が千秋に与えようとすれば、麻奈と千秋の両方を苦しめるだけでしかない何か。

 千秋はその俺の心を読んだのかもしれない。笑ってこう続けた。
「ねえ。松野君。袖振りあうも多生の縁っていうわよね。わたしは、ずっと誰も信じない、一人でもかまわないって思ってきたけれど、誰かのほんの少しの言葉や氣遣いに生かされているって、ようやく思えるようになってきたの。松野君がこうやって氣にかけてくれるのも、そのひとつね。今の私にはそれで十分なの。私が言いたいのは、そういうことよ」

 千秋はペリエを飲み干すとすっと立った。
「今日はありがとう。私、桜の下を歩いてから帰るわね」

「千秋、頑張れよ」
そう言うのが精一杯だった。彼女は笑って去っていった。会計をしようとしたら、「もうお連れさまが済まされました」と言われてしまった。

 俺は少し前に千秋が眺めたであろう夜桜を見上げながら歩いた。夜風はまだ冷たかった。花の下でビールを傾けている客たちが寒さに文句を言っている。毎年の光景だった。でも、俺は二度とこんな風に花見の馬鹿騒ぎに加われないだろう。

 五年後、十年後、千秋がまだ桜を観られることを願っている。もっとも俺自身が健康に花見を続けている保証もない。だから、今年の桜をよく見ておこう。千秋と一緒に観たこの花を脳裏にしっかりと焼き付けておこう。

(初出:2014年2月 書き下ろし)
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Category : scriviamo! 2014
Tag : 小説 読み切り小説

Comment

says...
更新、お疲れ様です。

桜は、ほんとうに不思議な花ですね。楽しみ、苦しみ、喜び、悲しみ、そういった感情や出来事のすべてに寄り添ってしまえる稀有な花だと、つくづく思います。
どの花よりも傲慢に咲き、どの花よりも潔く散る。そんな花だからこそ、また来年も見たい、と思わせるのでしょうか。
別府の鍼灸師さん、いいお仕事をなさいましたね。身体の不調を治すことに、心の不調も治す効果があるとはいえ、そこに心がこもっていなければ、こうはいかないでしょう。
千秋と彼女の父親の人生を悲しいと言うことも、千秋の母親や松野氏の人生を良しとすることも、できそうにありません。
ただ、一年でも多く、桜を見上げられたらいいなぁと、そう思います。
2014.02.19 16:51 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

不思議なことに、日本人であれば、桜に対するどんな話でもすっと受け入れてしまうんですよね。この共通認識があるからこそ、桜は十二単の小さい人の時代から、未来に至るまでのたくさんの文学の題材に使われるんだろうなあと思ったりします。

鍼灸師や東洋医学などは西洋医学と違って対症療法ではなくて、体全体ひいては心も診ていきますよね。「頭痛なら、アスコルビン酸で欠陥を拡げておけ」ではなくて「何を食べているのか」「どんな姿勢なのか」「どんな悩みがあるのか」まで全てが関わってくるという哲学に基づいているものだと思うのですよ。

千秋には重大な疾患があって、結局は西洋の療法にもお世話になるわけですが、それだけでどうしても癒せないものがある、それがこの話のテーマとも重なっています。給料がよくて、都内のマンションがあって、一人でも大丈夫、そう思っていたのが、そんな簡単な話じゃないってことですよね。

この話の登場人物たち、父親はともかく、母親も松野も千秋自身も糾弾されるべきほど悪いことはしていないのですが、それでも、なぜか罪悪感を持ってしまうというのが、この話の痛い所でもあります。「十二ヶ月の……」シリーズは短いのをいいことに、かなり痛い話を書き散らしていますが、それを拾っていただき、「こんどはあまり痛くなくしよう」と続けても、結局痛くなっていることに氣がつきました。やれやれです。

コメントありがとうございました。
2014.02.19 21:27 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
千秋さんをあのまま逝かせるのはモッタイナイなぁと
おせっかいを焼きたくなって久々に書いた拙い物語でした。
正しい(?)レスをありがとうございます(^^)
松野君の気持ちもわかる気がしますw
短いですが取り急ぎ御礼まで。。。
2014.02.20 11:01 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

狐燈さんのおせっかいならぬご配慮はいつも暖かいですからね〜。
本人も忘れかけていたお話を掘り起こしていただき、痛いなりにも、ちょっとは救いがあるような方向に持っていくことができました。ありがとうございました。

松野くんね。彼は中途半端に手を出しては、結局楽なに流れるタイプですからね〜。でも、彼は彼で正しい選択をしているんでしょうね。

ご参加ありがとうございました。また、コラボしましょうね〜。
2014.02.20 20:53 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
高校時代からの文芸仲間ってすてきですね

こういう家庭はあまり想像できないのだけど
こういう方が普通なのかな?
私のところは母の方が稼ぎも地位も上だったりするので…
どちらかと言うと千秋さんが家庭を持ったって方が近いです

松野君や麻奈さんみたいだと自然と
ほどほどの幸せを得られるのかなあなんて思ったりしました
2014.02.21 10:35 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

実は文芸仲間ではなくて、普通の親友だったんだけれど、ふたを開けてみたら二人とも創作をしていたってバージョンでした。

こういう家庭は、全く普通じゃないですが、でも、ものすごく特別でもないみたいです。
「身につまされる」的な感想をいくつかいただいていますし。

ダメ子さんのお母さん、そうなんですか? それは意外!
っていうか、ダメ家、お父さまがいないのかと思っていました! でも、訊いちゃいけない話題だと……。

そうですね。自分の持っているものを大切にして、踏み外さないほうが、幸せが続くと思います。
それがわかるまでにかなり時間がかかったりするんですけれどね〜。

コメントありがとうございました。
2014.02.21 21:38 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
桜と死というイメージの余韻を残しながらも、どちらかというと暗い方へ行きがちな物語のイメージを、こうして3作繋がっていく中で昇華していくような、そんな気がしました。
マッサージ、鍼……私もしばしば利用します(^^)
時間がなかなか取れないのが問題ですが、身体が疲れている時にはやっぱり人の手の暖かさが一番なのですよね。
自分の中にある力を引き出すのが東洋医学を始めとする民間医療のいいところですが、その根本にあるのは人間同士の手と手の医療、自然への畏敬だと思います。
西洋医学の技術に走りすぎると大事なことを忘れてしまう危険もあるし、一方で、逆に現在は民間医療を闇雲に信じて極端に走る傾向もあったりで、何でも極端だなぁと思います。本当はこれらは二律背反なのではなく、共存していくべきなんですよね。西洋医学の技術のおかげで20年前には失われていた命が助かるようになったのは事実で、でも病気って治るというより付き合っていくもの、という気がするし、その戦いをどうやって続けて行くかというのは、支えてくれる人の手、ですよね(^^)
それがこの3作の流れの中で、桜をモチーフにしながら語られているのかなぁと思いました。
素敵な連作、しみじみと楽しませていただきました。
2014.02.22 02:12 | URL | #nLQskDKw [edit]
says...
こんにちは。
お忙しい中、読んでくださってありがとうございます。ご無理なさらないでくださいね。

「桜のための鎮魂歌」を書いたときのテーマのようなものは、「罪と罰」や「人が人を罰せるのか」だったのですが、実生活においても癒しの現場にいる狐燈さんは、むしろ鎧を着ている主人公を見て氣になったのでしょうね。

変な話ですが、どうやっても自分では手の届かない所ってあるじゃないですか。手が届くにしても、自分でマッサージするのと、人にしてもらうのでは違うようにも思います。物理的には「孫の手」でなんとかなるものでも、やはり本当に一人で肩に力を入れているのと、誰かがそっと寄り添ってくれているのでは違うんだろうなと、今回はそっちに重点を置くようにしました。

彩洋さんがおっしゃるように、東洋医学だけではどうしようもないこともあります。どうしようもないわけではないけれど、時間がかかり過ぎて間に合わないこともある。例えばペニシリンのような薬一つがなくては命が助からないこともありますし。そうやって取り留めた命をどう明日につなげていくかは、免疫の問題でもあるし、生きていく活力の問題、心の問題である場合もあります。前作でどちらかというと「どう死んでいくか」を語った話が「生きている時間をどう過ごすか」にシフトしたのは、狐燈さんの作品の影響が強いでしょうね。桜がそのテーマのどれにもぴったりと寄り添うのは、まさに桜ならではと言えるかもしれません。

私は医学は素人なので、具体的なことは何も言えないのですが、生きていた中で日々感じ取っていることをこうして少しずつ作品にしていくのが、私の執筆スタイルの一部かなと思いました。

狐燈さんの分も含めて、三作全部読んでいただき、ありがとうございました。
2014.02.22 16:24 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
夕さん、あのね…
このお話を読んで眠った夜。
夢に夕さんが出てきたの^^
会った事がないからか
お顔は出てこなかったのだけど(残念><)
夕さんが我が家に遊びに来てくれて
ワイワイといろんなお話したんだぁ^^

桜のための鎮魂歌は
私自身、凄く考えさせられたお話だったから
とても心に残っています。
人って、たった一つの言葉で
支えられたり、励まされたり、穏やかになれたり、前向きになれたりしますよね。

夕さんの数々の小説の中から
この作品を選ばれたお友達の
夕さんに寄り添うような想いが感じられて
とっても素敵でした。
2014.02.22 17:30 | URL | #- [edit]
says...
どうしても伝えたかったことを書き忘れてしまいました><

「俺は少し前に千秋が眺めたであろう夜桜を見上げながら歩いた。」

この一行、とても好きです。
2014.02.22 17:39 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

akoさんのお家に登場できて、よかった!
夢の中なのに「寝ちゃダメ!」といいながら、たくさんお喋りしそうです。

「桜のための鎮魂歌」では、akoさんのくださったコメント、とても印象に残っていて、小説を書く事、それを発表する事について深く考えさせられたのを思い出します。

この歳になると、少しずつ悲しいニュースの方が増えてきて、病や死に向き合う事も人ごとではなくなりますよね。でも、「桜のための鎮魂歌」で書いた孤独に較べて、今回書いた続編の方の主題が、寄り添いあう人と人との関係にシフトしているのは、たぶん、ずっと一人で書いていた時期とちがって、こうして読んでくださる方、創作という形で表現なさる方との交流を通して、人と人とのつながりのバワーを日々感じているからだろうなと思うのです。

松野が、直接は何もできなくても、同じ桜を見つめる事で心で寄り添うように、また、皆さんが私にしてくださっているように、私もakoさんやブログのお友だちのつらさに寄り添える事ができたらいいなと思っています。

コメントありがとうございました。
2014.02.23 00:12 | URL | #9yMhI49k [edit]

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