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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 番外編 〜 郷愁 - Su patria que ya no existe — 競艶「じゃわめぐ」

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。
scriviamo!


scriviamo!の第十六弾です。

大海彩洋さんは、最愛のキャラ真とうちの稔が三味線で競演する作品を書いてくださいました。ありがとうございます!


彩洋さんの書いてくださった小説『【真シリーズ・掌編】じゃわめぐ/三味線バトル』

彩洋さんはいろいろな小説を書いていらっしゃいますが、自他ともに認める代表作はなんといっても「真シリーズ」でしょう。これは一つの作品の題名ではなくて、五世代にわたる壮大な大河小説群です。その発端の人物であり、ご本人も最愛と公言していらっしゃる真は、他のブログの錚々たる人氣キャラのみなさんと競演はしていらっしゃいますが、好敵手としてここまで持ち上げていただいたのは稔が始めてでしょう。他の方のキャラよりもうちの稔が魅力的だったからではなく、ひとえに稔が三味線弾きだったからです。ありがたや。

しかしですね。私は三味線を弾くどころか、実はどんな楽器かもよくわかっていない素人。そして、彩洋さんは……。言うまでもないですね。上記の作品を読んでいただければ、おわかりいただけると思います。このお返しに、三味線の話を私が書けると思いますか? いや、書けまい。(漢語翻訳調)ええ、敵前逃亡とでもなんとでもおっしゃってください。無理なものは無理ですから。

もともとは「scriviamo!」のつもりで書きはじめたけれど別のものを出したから、とおっしゃっていたので無理してお返しを書く事もないかと思ったのですが、でも、ここまで魂の入った作品を書いていただいたら、そのままにできないじゃないですか。かといって、まだ私には真や竹流を彩洋さんが納得できるように書ける氣は全然しないので、もう一人のキャラ美南をお借りしました。美南は谷口美穂のエイリアスのような裏話もいただきましたので、話はそっちに行っています。はい、私の土俵に引きずり込みました。なお、お返しは五千字以内とか宣言したような記憶もどこかにありますが、すみません、大幅に超えております。


【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ

「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む このブログで読む
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あらすじと登場人物

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大道芸人たち 番外編
郷愁 - Su patria que ya no existe — 競艶「じゃわめぐ」
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 昨夜はすこし飲み過ぎたようだ。田酒は久しぶりだったし、真鱈の昆布〆めやばっけみそが出てきたから、ついつい盃が進んでしまった。美南には普段一緒に飲みにいく友達はいなかったし、ましてや津軽ことばが飛び交うような店に行くことはなかった。あの響きだけで、これほど簡単に心のタガが外れちゃうんだ……。しゃんとしないと、課長に怒られちゃう。

「成田君」
始業三分前に飛び込むと、藤田課長は不思議そうな顔をした。そうだろう。美南はいつも課長よりずっと早く出勤していたから。
「今日に限って、遅かったね。悪いけれど、今すぐ一緒に外出しなくちゃいけないんだが、大丈夫か」
「外出ですか?」

 美南はあまり規模の大きくない清掃会社に勤めている。事務が半分、清掃の実動部隊としてが半分の仕事で、営業のような仕事はまだ任された事がない。営業に飛び回っている藤田課長と一緒に外出した事はなかった。ハンドバックを肩にかけて、急いで課長に従った。

「急で悪いんだけれどね。ちょっとイレギュラーな仕事が入りそうなんだ。それもちょっと変わっている件でね。一度きりの野外イベントの清掃プランなんだよ。僕が担当する事になりそうだが、手一杯なんでね、君にアシスタントを頼みたいんだ。君にもいい経験になるだろう」
藤田は電車の中で手早く説明した。
 
「どうして、イレギュラーなお仕事を無理していれる事にしたんですか?」
「話を持ってきたのがね、ちょっと有名な音楽マネージメント会社なんだ。君、園城真耶って知っている?」
「あ、はい。テレビによくでているヴィオラ奏者ですよね」
「うん。今回のイベントは彼女の紹介で、彼女のマネージメント会社が日本側の窓口なんだそうだ。それでさ、あれだけの大手だと、大きいコンサート会場やビルの定期清掃の受注に関連して来るんだよ。うちみたいな小さな会社には願ってもないコネだろう?」

「はあ。あの、今、日本側窓口っておっしゃいましたけれど……」
「うん。ヨーロッパに本部のある団体が、来年、大道芸人の祭典を東京で開催するらしいんだ。今日会うのは、その事務局」
ということは、会うのは外国人なんだろうか。美南は不安になった。課長が忙しいからって丸投げされて、外国人と自力でコンタクトしろと言われても困る。

 新宿の高層ビル街にあるホテルの三階の小さい会議室に通された時、美南は「最悪」と思った。ドアを開けたとき、窓の外を眺めていたのはグレーのスーツをきっちりと着込んだ金髪の青年一人だった。二人がホテルの従業員に案内されて入ってくると、こちらを振り向いた。儀礼的に微笑んでいたが、青い瞳は突き刺すようで、恐ろしかった。典型的外国人だった。金髪で目が青くて、氣味が悪いくらい整った顔立ちだ。しかもその服装ときたらミラノの新作コレクションの品評会で発表しそうな感じだ。新作コレクションを実際に観た事はないけれど。

 課長がしどろもどろの英語で挨拶をした。美南はぺこんと頭だけ下げた。外国人は流暢な英語で初対面の挨拶をした。はっきりとした発音だったので、美南にもその内容がわかった……ような氣がした。長い名前だ、アルティスタスなんとかの、なんとかドルフ。途中は聴きとりそびれた。誰かが遅れているって言ったかも?

「すみませんっ。遅れました!」
突然、日本語とバンっと言う音がして、扉から誰か飛び込んできた。藤田課長は心底ホッとした顔をした。その男はいちおうビジネスっぽい紺のスーツは着ているもの、金髪男と違ってどうも着慣れていないようで借りてきたみたいに見える。

「ああ、安田さまですね。昨日、電話でお話しいたしましたクリーン・グリーン株式会社の藤田です。それと、本日は部下を連れて参りました。成田美南です」
そういって、横を見た。当の美南は、入ってきた男をぽかんと口を開けて眺めていた。男も美南を見てびっくりしたようだった。

「あれっ。美南ちゃん……?」
それは、昨夜、津軽料理を出してくれる居酒屋で知り合った青年、安田稔だった。

「なんだ、ヤス。知っているのか」
金髪青年が訊くと、稔は頷いて英語で答えた。
「うん。昨夜、浅草で逢った子だ。いい声しているよ。フェスタに参加してもらいたいくらいだ」

「成田君? 知り合い?」
藤田課長が美南に囁いた。
「あ、たまたま昨夜知り合った方なんです」
「そりゃ、すごい偶然だ。これをご縁に、どうぞよろしくお願いします、安田さん、エッシェンドルフさん」

 それから安田稔の通訳を介してもう一度正式に紹介しあい、仕事の全容を話し合う事になった。ここにいる二人はヨーロッパで大道芸人をしていて、仲間やパトロンと主催した「大道芸人の祭典」を開催するようになって三年目だということ。その事務局長を担当しているのが安田稔で、主に対外交渉を担当しているのが隣にいるエッシェンドルフという苗字のドイツ人であること。

「名前長いんで、ヴィルって呼べばいいから」
稔がウィンクして言った。

「世界各国からかなりの数の大道芸人たちが集まります。例年だと見学する側も国籍がかなり混じります。日本人の常識的な清掃プランだと、上手く回らない可能性があるんで、どちらかというと融通と小回りの効く会社がいいと話していたわけです」

 稔とヴィルが会場プランを見せ、日程表とともに示した。稔さんが昨夜、野暮用で日本に来たって言っていたのは、これのためだったんだ。美南は納得した。

「美南ちゃん、せっかくだからまたプライヴェートで飲もうよ。こいつ、こんな怖そうな顔しているけれど、よく知り合えばいいヤツだからさ。特に酒が入ると」
打ち合わせが終わると、稔はヴィルを示して美南に提案した。

 美南はその日の仕事が終わってから、もう一度、新宿に向かった。稔とヴィルとスペイン料理のレストランで会う事になっていた。今日はあまり飲まないようにしなくちゃ、美南は思った。

 店の中を見回すと、二人はもう来ていて、こちらに向かって手を振った。それはレンガと石で装飾された半地下の店で、スペインのタブラオを模していた。奥には舞台があって、そこはアーチ上に装飾された柱で区切られていた。たぶんフラメンコを踊るのだろう、そこだけ木板が張られた床だった。いくつか椅子が置かれている。演奏者のものだろう。

「来てくれて、ありがとうな。美南ちゃん、日本酒はいける口だったけれど、ワインも好きかな? それともサングリアなんかのほうがいい?」
そういう稔はどうやら既にワインをヴィルと一緒に半分くらい空けていたようだった。

「あ、私もワインをいただきます。でも、昨日飲み過ぎちゃったみたいなので、今日は控えめに……」
そういうと、二人は目を見合わせた。

「そうだったな、いつもの俺たちのペースで飲ませたらまずいかもな。お蝶じゃないんだし」
稔はそういったが、彼らの飲むペースは、昨日の津軽料理の居酒屋とは違っていた。昨夜の居酒屋にいたメンバーは、大きな声を出して、赤くなりながらどんどんと盃を重ねていた。居酒屋で飲むというのはそういうことだ。そして、このスペイン料理屋でも隣の席にいる日本人たちはそれに近い状態で飲んでいる。けれど、稔とヴィルは飲んでいるのに酔っている様子がなかった。会話の声もあまり大きくならない。

 稔がTシャツとジーンズになっていただけでなく、ヴィルもラフなシャツ姿に変わっていた。たったそれだけで先ほどとはずいぶん印象が変わって見えた。美南はここに来るまでヴィルを怖いと思っていたのだが、服装が変わっただけでその恐ろしさも半減したように思われた。

 会議中と違って、稔はヴィルの言葉を日本語に訳さなかった。そして美南がわからないという顔をしないかぎり英語で話した。美南もはじめは日本語で稔に向かって話していたのだが、二人ともが自分に向かって英語で話すので、いつの間にか自分も英語を口にしはじめた。そんな事が可能だとは思ってもみなかった。通訳なしでも相手の言葉がわかるし、自分の話す英語も拙いながらもこの外国人に通じている。それは新鮮な驚きだった。私、英語、できるんだ。英語など絶対に話せないと思い込んでいたが、少なくとも六年は学校で学んだのだからこんな簡単な会話は理解できて当然なのだ。そうやって会話をしているうちに、ヴィルを怖いと思う氣持ちはどこにもなくなっていた。

 拍手の音に顔を上げると、フラメンコダンサーとミュージシャンたちが入ってきていた。客たちが「おおーっ」と喜び拍手をする。

「あ、ちょっと行ってくる」
そういうと稔は立ちあがり、舞台の方に歩いていった。拍手が大きくなり、マイクの前に立っていた男とその隣にいたやはりギターを持った男が稔に頭を下げた。

「え。稔さん、弾くんですか?」
「ああ、ここのオーナーとはバルセロナのフェスタで知り合ってね。日本に来たら絶対に一度は弾きにきてほしいと頼まれていたよ」
ヴィルが美南のグラスにそっとワインを注いだ。

 ダンサーたちは腰に手を当てて立っている。舞台にいた男がギターを奏でだすと、歌い手は手拍子を打ちはじめる。客の中にも手拍子をしている人たちがいる。このレストランのフラメンコショーは有名なのだろう。美南はフラメンコの舞台を生で観るのはははじめてだったので興味津々だ。

 稔が加わり、派手な掛け合いになる。不思議な手拍子で、美南には間を取る事ができない。ダンサーたちが舞台の上で踊りだした。靴についた釘がびっくりするほどの音を出す。旋回し、睨みつけ、激しく打ち付ける。挑みかけてくる。男と女は戦っているようだ。歌い手とギターの弾き手も戦っている。津軽三味線の競演とは全く違う。何が違うのかと言われても答えられない。

 はじめは楽しく活氣のある踊りだと思った。演奏もそうだった。だが、稔がソロを弾き、それに歌い手ともう一人のギタリストが覆い被さり、踊り手がもっと激しく踊りだすと、世界が少しずつ変わっていった。乾杯をして騒いでいた隣の席の客たちも押し黙った。

フラメンコ


 美南がギターの演奏を聴いたのは始めてではない。けれど彼女がこれまで知っていたギターの演奏は、もっと軽やかで心地いいものだった。その軽やかさに、津軽三味線の響きとは違う、土の香りのしない都会の音だとの印象を持っていた。けれど、稔が奏でているこの音は、都会の洒落た世界とは全くかけ離れていた。それは楽しい音楽と踊りではなかった。どちらかというと苦しい世界だった。踊り手と専属ギタリストが休み、稔がソロで曲を奏でだすと、その苦しさはもっと強くなった。

 奇妙な感覚だった。津軽の寒く凍える世界から生まれた響きは、腹の底から熱くなる。田酒が人びとを真っ赤に熾る炭のように酔わすのに似ている。けれど、アンダルシアの燃えるように熱い世界から生まれてきた音楽を奏でる稔の響きは、鉄の柱を抱くように黒く重くて冷たい。これはなんなのだろう。

「ドゥエンデだ」
戸惑っている美南を見透かしたように、ヴィルが言った。美南はわけがわからなくて、黙って青い目を見た。
「運命、神秘的で魅力的な何か。強い情念。英語にはきちんと訳せない。時には死に憧れるような暗さも伴うんだ」

 美南は不安になって、稔を見た。稔はギターの世界に入り込んでいた。打据えるようにギターと戦っていた。昨日、美南の唄を優しく支えてくれた朗らかな男は、いつの間にか彼の殻の中へと入り込んでいた。

「君は、彼の三味線も聴いたんだろう?」
ヴィルが訊いた。美南は黙って頷いた。
「この音との違い、どう思う?」

 この人も、違いを知っているんだ。美南は思った。
「明るくて、強くて、思いやりがあって、春の光が外に向かって放たれていくような音だったんです」

 ヴィルは頷いた。それからワイングラスを覗き込むようにして語りだした。
「彼の中、その奥深くにはもともとドゥエンデがあった。俺の中にもあるように。ヤスと俺たちが出会ったとき、彼は三味線を弾いていた。まさに君が言うような思いやりのある暖かい音を出していた。今でもそうだ。彼は俺たちのリーダーで、バランス感覚に富み、暖かい。日本にいた頃からクラッシックギターを弾く事もできた。三味線と同じように優しく暖かい、朗らかな音を出していた。だが、彼はセビリアでフラメンコギターに出会った。ヒターノ、本物のジプシーが彼を新しい音に導いた。彼のドゥエンデに火をつけたんだ」

「あの……」
美南は困って口ごもった。ヴィルはワインを飲むと、稔の方を見て、それから再び美南の方に向き直った。

「東京をどう思う?」
「え?」

「俺は、この街にくるのは三度目だ。いい街だと思う。便利で、楽しくて、上手い物が食える、最高の酒も飲める。だが、この街は何度来ても、来る度に知らない街になっている。決して懐かしいいつもの街にはならない」
ヴィルがなぜそんな事を言いだしたのか美南にはわからなかったが、それは美南が常々感じている事でもあった。何年住んでも、決して親しい自分の街にはならない。冷たくはない、何でもある、誰でも受け入れてくれる。でも、ここはいつもよその街だった。

「ヤスは浅草で生まれた。ここはあいつの正真正銘の故郷だ。あいつを大切に想うたくさんの人間がいて、ここで将来を嘱望されて育った。あの三味線の音色はそうやって培われた。だが、あいつは自分に正直でいるために、それを捨ててしまったんだ」
「そうなんですか?」

 「俺たちはみな、どこからか逃げだしてきたヤツの集まりなんだ」
ヴィルは始めて少し笑ったように見えた。

「仲間のもう一人の日本人は、これまで居心地のいい場所を知らなかった。彼女は、だからこそ居心地のいい場所を自ら作る事ができた。俺もそれに近いだろうな。もう一人は、もともと持っていた居心地のいい場所を決して手放さなかった」
 
 美南は昨夜知り合ったもう一人の三味線弾き真が形容してくれた、稔たち四人組の大道芸人のことを思い浮かべていた。稔の他に、フルートを吹く日本人女性、手品をするフランス人の青年、そしてパントマイムをするドイツ人、ヴィル……。羨ましいほどに仲のいい自由な仲間たち。

 ヴィルは全く表情を動かさずに淡々と続けた。
「ヤスは俺たちとは違う。自由への憧れと望郷に引き裂かれている。その裂け目からドゥエンデが顔を出すんだ。あいつは何も言わない。だが俺たちは音を聴きとる。肌で感じるんだ。可能ならば、あいつの故郷へと一緒に向かってやりたいとも思う。だがその故郷はもうないんだ」

「ないって、どういうことですか? ご家族がもういないんですか?」
「家族じゃない。居場所がないんだ。家族が、東京が、かつて彼がいたままの場所ではない。いない間に変貌してしまった」

 ヴィルはボトルを傾けて美南のグラスに注ごうとしたが、いっこうに減っていないのを見て、最後の一滴まで自分のグラスに空けた。厚い淡緑色のグラスは再びリオハのティントの暗い色で満ちた。
「どんな場所もいつかは変わっていく。だが東京ほどのスピードで変貌する場所はまずない。環境が変わると人はそれに順応していく。日本人の順応の速さは尋常ではない。それは東京のように秒速で変わっていく環境でも有効なんだ。だから、あいつのいた世界はほとんど残っていない。俺のような異邦人ですら感じるんだ。あいつの故郷はもう存在しないんだと」

 美南は昨日の三味線の競演と、稔の奏でていた自由で朗らかな音の事を考えた。それから青森の自分の家族の事を考えた。真っ白い雪を思い出した。雪に覆われて角のなくなった屋根や塀、囲炉裏で火が爆ぜる音、津軽言葉の柔らかい響き、待っていてくれる家族。
「みなみ、いづだかんだ帰って来いへ(いつでも帰っておいで)」

 ここではない、ここにはない暖かさ。深い深い安心感。それを永遠に失う事を考えた。涙が出てきた。

「もうどこにもない故郷は三味線の音の中だけに存在し続けている。だからあいつの三味線はあれほどに暖かい。だがひとたびフラメンコギターを奏でれば寄る辺なき自由を愛するヒターノの魂はドゥエンデに向かうんだ」

 大きな拍手の後に、再び手拍子が聞こえだした。歌い手はセビリジャーナスを朗々と歌い上げ、ダンサーたちは向かい合って旋回しだした。

「テデスコ、お前、美南ちゃんを泣かせたのか?」
顔を上げると、稔がテーブルの横に戻ってきていた。
「泣かせたのは俺じゃなくてあんただ」
ギターの音の事だと思ってホッとした様子の稔の前で、ヴィルは空になった瓶を振った。

「いない間に、酒は空けておいた」
「お、おいっ!」
「もう一本飲むか。あんたの好物のイベリコ豚もおごってやるよ。美南、君も好きなものを頼むといい」
ヴィルは、メニューを美南に渡した。

 美南は紙ナフキンでそっと涙を拭うと、タパスを選びだした。
「そのヒヨコ豆とほうれん草を煮たのは美味いぜ。チョリソーも外せないかな。あと、イカスミのパエリヤはどう?」
稔が先ほどまでと同じ朗らかな様子で話しかける。

 美南はメニューから目を離してためらいがちに口を開いた。
「稔さん。いま氣づいたんですけれど、浅草のご出身で、安田さんって、もしかして安田流の……?」
それを聞くと、稔もメニューから顔を上げて、不思議そうに美南を見た。それから屈託のない笑顔を見せて、きっぱりと首を振った。
「いや、俺は根なしの大道芸人さ」

(初出:2014年3月 書き下ろし)

追記

フラメンコのリズムはいろいろありますが、12拍の中に強弱をつけるタイプのものがもっとも多いようです。実際に一緒に手を叩いてみようとするとわかりますが、これが大変難しいのです。タブラオなどでは、下手に真似して叩いたりしない方が無難だと思いました。下手するとダンサーの方の邪魔になってしまいそうで。

下に書く時にBGMにした二つのフラメンコギター系の曲を貼付けておきます。一つは少しポップっぽいもので、もう一つが伝統的な感じです。

Tormenta De Fuego


Sabicas - Punta y Tacón
)
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