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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架(11)城下 -2-

宰相イグナーツ・ザッカと城下にくり出したラウラ。今回はその後編です。もともとは庶民の出とはいえ、侯爵家に引き取られてから衣食住なんの不足もない城の暮らしをしてきたラウラ。その彼女がはじめて目にする、王都ルーヴの貧民街です。チャプター1でのラウラの登場はこれでおしまいです。

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あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架
(11)城下 -2-


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 彼女は、ザッカが躊躇せずに向かう方へと付いていった。ひどい匂いはもっとひどくなる。ハエがやたらと飛んでいる。ハンスと呼ばれた老人は足を引きずっている。よく見るとその裸足の右足のくるぶしの辺りがひどく化膿してウジが湧いているのがわかった。

 小路の向こうには、家はなかった。代わりにボロ板を寄せ集めたような醜い小屋が何十軒も押し合うように建っていた。本当は今にでも崩れてしまってもおかしくないほどに傷んでいるが、隣の同じような小屋の壁と支えあってようやく形状をとどめているのだった。ひどい匂いはますますひどくなったが、あまりにも長く嗅いでいたので彼女は既にほとんど辛さを感じなくなっていた。

 それよりも目にしているものの方がずっと辛かった。多くの人たちがうずくまってこちらをぼんやりと見上げていた。体中にハエがたかっているが、それを追いもしなかった。ハンスのようにあちこちに傷があってそこに蛆がたかっている。空腹に何も考えられなくなった諦めきった表情。

 ハンスとザッカは小路の奥の小屋の一つに入っていった。ラウラは思わず口元を手で塞いだ。それまでもひどい臭いだと思っていたが、これほどの強い悪臭ではなかった。深く息をしなければ倒れてしまいそうだったが、そうすればこの小屋に溢れる苦しさを体の中にいれる事になる。瞳を閉じて震えが止まるまでしばらくそうしていた。

 ゆっくりと瞳を開けると、暗闇に慣れた目に恐ろしい光景が浮かび上がった。骨が浮き上がった痩せた女の遺体が寝台に横たわっていた。大きく開いた口からは歯がにょきっとはみ出していた。いくつもの歯が抜けてしまっているので、残った歯は牙のように見えた。体が妙な具合にねじれて事切れている所を見ると、決して楽な最後ではなかったのだろう。ガリガリの腕や顔にただれた斑点がたくさんあった。誰か仲間が閉じてやったのだろう、少なくとも瞼だけは閉じられていた。

「この聖なる塗油により、慈しみ深い主キリストが、聖霊の恵みであなたを助け、罪から解放してあなたを救い、起き上がらせてくださいますように」
ザッカは全く平然としてミリアムの遺体に聖油を塗り、聖句を唱えた。だがその声の深い響きから、ラウラは彼が周りの人びとが言うようなただの冷たい人間ではない事を感じた。彼はこの事態に何も感じないのではない。彼はこれに慣れているのだ。黙って目を閉じて立ち会うハンスも、ここにいる全ての人びとが、この生活を毎日続けているのだ。彼女は、取り乱したりせずにこの状況を直視しようと思った。


「どうお思いになりましたか」
暗い通路の中で、ザッカの声が響いた。
「ひどい、あまりにもひどい。知りませんでした。あんな風に苦しむ人たちがいるなんて。私のお城からいただいているお手当で何かできないのでしょうか」

 カツンという靴の音がして彼が止まった。
「あなたのお手当で何かできる程度のことならば、私の報酬で事態を変えていますよ」

 ラウラはうつむいた。ザッカが再び歩き出したので、ラウラも後を追った。
「国王陛下はこの事をご存知なのですか」
「ええ。私がお伝えしましたから。しかし、陛下は自らの目でご覧になったわけではない。それに、ひどい状態なのはあそこだけではない。ルーヴランの全ての貧民街をなんとかすることは、いまの財政では無理なのです」
「でも、せめてお医者様だけでも」

 ザッカは足を止めた。そしてしばしの沈黙の後に答えた。
「彼らは貧民街になど絶対に足を踏み入れません。あそこに行くのは聖職者、しかも托鉢僧だけなのです」
ラウラは息を飲んだ。

 ザッカは低い声で言った。
「バギュ・グリ殿」
「はい」
「あなたには勇氣がある。先ほどのあなたのしっかりとした態度には感銘を受けました」
「宰相様……」

「あの困難に直面することのできる貴人は多くありません。この壁の向こうでふやけたパンのような生活をしている人間は目が曇っているのです。国力の衰えも民の疲弊も見えなくなるのです」
「私にお手伝いできることがありましたら、何でもいたします。どんなことでも」
「それは頼もしい」
暗闇で表情は見えないが、ラウラはザッカが笑ったように感じた。

 しばらく無言で歩いていたが、やがて彼は再び口を開いた。
「私がなぜ政治の世界に足を踏み入れたか、ご存知ですか」
「いいえ」
「神の家こそが、彼らを救うと信じて修道院に入りました。しかし、祈るだけでは何も変わらない。私は神が奇跡を起こすのを悠長に待つのはやめたのです」
「宰相様……」

「だが、この国を変えるためには決定的に金が足りないのです。王族のくだらない贅沢をやめさせて倹約しても、焼け石に水だ。この国は、もっとコンスタントに金を生み出す方法を考えねばならぬのです。グランドロンがあれほど大胆な改革ができるのは、国王の覇氣の問題だけではない。かの国はわが国よりもずっと富んでいる。それどころか、ルーヴランはここ百年の間に、金を生み出す土地をグランドロンに奪われた。マールも、ペイノードも! そして、それだけでは飽き足らずに我々の息の根を止めんと軍備を増強しているのです。そうなったら国中に先ほどあなたが見てきたような絶望の中で死んでいくものたちがあふれかえることになる」

 ラウラは震えながらザッカの言葉を聞いていた。
「マールやペイ・ノードを奪い返す必要があると、グランドロンと戦争をしなくてはならないとお考えですか」
「ええ。だが、我々の状況を変えるには、失われたルーヴラン領を取り戻すだけでは足りない」
ザッカは厳かに言った。思い詰めた表情だった。彼女はとても不安になった。

 そのまま僧衣を着た男は黙ってしばらく歩いた。ラウラが先ほどの話題は終わったのだと思い出した頃、突然彼は立ち止まって言った。窓から光が入ってきて、ザッカの表情が見えた。
「わがルーヴラン王国の宝の山がどこにあるかご存知ですか」
「宝の山?」
「十分な埋蔵量のある金山、豊富な鉄鉱石、そして、南へ向かう四輪車の通れる峠のある土地」

 知識を試されていると思った。彼女の知るかぎり、ルーヴランにはそのような土地はなかった。
「そのようなルーヴランの土地を私は知りません。でも、グランドロン王国に属する国なら……」
《氷の宰相》は口先だけで笑った。
「その土地は?」

「フルーヴルーウー伯爵領……」
彼女は不安な面持ちでザッカを見つめた。

「そうです。初代フルーヴルーウー伯爵夫人が誰かはご存知ですよね」
「はい」
ラウラは養女で実際に血のつながりはないが、フルーヴルーウー伯爵夫人となったジュリアはバギュ・グリ侯爵令嬢だった。そして、夫のフルーヴルーウー伯爵は、伯爵位をグランドロン王から授けられたが、もともとはジュリアの馬丁でありルーヴラン生まれであった。
 
「あなたのお父上バギュ・グリ候は《男姫》ジュリアの弟であるバギュ・グリ候マクシミリアン一世から数えて六代目。フルーヴルーウー伯爵領を継ぐ資格は十分にあります。そして、現在、伯爵位は空位だ」

 先代伯爵、フロリアン二世が不慮の死を遂げてから四半世紀が過ぎた。伯爵は毒殺されたのではないかと言われている。幼児であった伯爵の長男が伯爵位を継いだが、その新伯爵はそれから数日後に行方不明となった。

「表向きはどこかにいるはずの伯爵の代わりに前伯爵の叔母の婿ジロラモ・ゴーシュ子爵が代官として統治し、そして金山は王が直轄する形になっている」
ザッカは冷たい目をして髭をしごいた。

ラウラは青ざめた。
「どうなさるおつもりですか」
「奪回するのです。バギュ・グリのものはバギュ・グリに、ルーヴランのものはルーヴランにね」
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Tag : 小説 連載小説

Comment

says...
更新、お疲れ様でした。

重くて、読み応えのあるお話でした。面白かったです。
う~、思っていた以上の惨状でしたね。ザッカの言葉じゃないですが、これを直視できる人はなかなかいないでしょうね。特に貴人などと呼ばれる人々の中には。
ラウラの反応は個人としてはまともなものですが、為政者としてはそれではだめなんですね。
「神が奇跡を起こすのをのんびり待つのはやめた」と言い、目の前の状況だけに目を奪われないザッカは、為政者としてとても優れた人物だと思います。
学友としての知識を持ち、現実を知り、そしてザッカの政治手腕を目の当たりにしたらラウラが、これからどう動いていくのか楽しみです。

次話は、マックスの方のお話でしょうか。彼の動きも、気になりますね。
楽しみにお待ちしています。
2014.07.23 17:08 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

ありがとうございます。
ラウラは子供の頃は貧乏人でしたから若干の耐性があるとはいえ、かなりショックだったようです。
そして、おっしゃる通り、ラウラの反応は「オンナコドモ」の感想みたいなものです。
単に貴人の女としてはこれで十分なんですが、為政者はこれじゃダメですね。

高校生のときの最初のストーリーではザッカの役割は王様だったのですが、単なる悪役でした。
でも、プリンセス・ストーリーでない以上「なぜそうなるのか」をきちんと設定に入れる時に、ザッカという人物がどうしても必要になりました。その分王様は人のいい「ぼんくらさん」になりました(笑)

マックス、ついにルーヴに到着します。次の章で、チャプター1はおしまいです。もっとも、その前にもう一度「Infante 323 黄金の枷」の更新が来ます。なんだか、無理矢理読ませる量が多すぎて反省しています。この連載が終わったら、もう少し作品の発表を減らします。(たぶん)

コメントありがとうございました。
2014.07.23 19:53 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
ふうむ。
そういえば腐臭の感覚は仕事でもあまり感じないですからね。
昔、ユニセフの活動の一環でスラム街に行ったときの感覚でしたかね。
久々にそういうのも思い出しましたね。。。
それはそれで忘れてはいけない臭いか。
2014.07.24 00:33 | URL | #- [edit]
says...
夕さんの筆力が凄いので、匂いまでが伝わってきました。
やはり悲惨な状況でしたね。
ラウラの聡明で純粋で、芯の強い女性像がまたはっきりする回でもありました。
そしてザッカ。
きっとここの民がちゃんと幸せに生きていけるように画策しているのでしょうね。
したたかだけど憎めない。
ラウラをそのために利用しようとしているのだと思うのですが、方向が間違っていないので、安心して見ていられます。
続き、楽しみにしていますね。

2014.07.24 10:47 | URL | #GCA3nAmE [edit]
says...
こんばんは。

うわぁ、LandMさん、すごい体験をなさっていらっしゃいますね。
平均的日本人にとって、こういう世界って生涯縁がないのではないかと思うのですよ。
スイスもそうですけれど。

子供の頃に書いていた作品では中世ヨーロッパって、着せ替え人形のお城かディ○ニー映画のような美しい所でしたが、調べるとかなり不潔で臭い世界だったようですね。

綺麗な世界だけを書く作品もありますが、今回はできるだけ不完全で変えようのない世界を使ってみました。
これで少しでもストーリーに納得性が出るといいんだけれどなあ。

コメントありがとうございました。
2014.07.24 16:10 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんばんは。

筆力だなんて、いや、そんな、とんでもない……。
もっとも、ここは書く時にかなり逡巡した所なのですよ。
きれいな光景は、実際に目にしたものを思い出して書くことが多いのでそんなに時間がかからないのですが、今回の描写は全て想像して書いたものなので、書いては消しての繰り返しでした。

この小説の登場人物は、大体においてわかりやすいキャラが多いのですが、ザッカだけは特別ですね。ストーリー上では、どちらかというと悪役よりなのですが、その動機というか哲学というか、その辺が単純ではないというか。貧しい人たちのことを真剣に考えているけれど、全人類を思うほどの博愛主義者でもない。自分の保身のことはあまり考えない代わりに、聖人のような暖かさも持っていない。そこが《氷の宰相》といわれる所以なのですが。

ラウラを利用しようとしているのは大当たりです。でも、安心しないでください(笑)
読んでくださって嬉しいです。

コメントありがとうございました。
2014.07.24 16:23 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
今回はサキとしてはなるべくなら書きたくない描写が続きました。
この惨状がザッカの目にはどういうふうに写っているのか、あの表情に覆い隠されてうかがい知ることは難しいです。
「あなたのお手当で何かできる程度のことならば、私の報酬で事態を変えていますよ」と言った時に僅かに感情の揺れを感じた程度ですね。
しかし、総合的な視点から冷静に状況を把握しているザッカはどうするつもりなんでしょう?不吉な発言が続きますが、そんなことをラウラに話してラウラをどうするつもりなんでしょう?
ザッカの手の内でこの国がどのように変えられていくのか、楽しみにしながら読んでいきたいと思います。そしてザッカがどうなるのかも……。
2014.07.26 03:33 | URL | #0t8Ai07g [edit]
says...
こちらにも、ありがとうございます。

こういう描写、私も苦手です。でも書かないとラウラの行動の主体性がなくなってしまうので、仕方なしに書きました。

普通の現代の政治でも「人類みな兄弟」とか「豊かな老後を」とか、理想を求めるだけではだめなんですよね。もちろんその想いから出発するのが前提ですが、どうやって実現するかを考えるのが政治。ザッカはそういう意味で政治家です。そしてラウラを利用しようとしています。そのためにわざわざ連れてきたのですから。


> しかし、総合的な視点から冷静に状況を把握しているザッカはどうするつもりなんでしょう?不吉な発言が続きますが、そんなことをラウラに話してラウラをどうするつもりなんでしょう?
> ザッカの手の内でこの国がどのように変えられていくのか、楽しみにしながら読んでいきたいと思います。そしてザッカがどうなるのかも……。

そう、ザッカがどうなるのか。まだそこだけはちゃんと書いていないのです。早く書かないと〜。

読みにくい話ですが、読んでくださって嬉しいです。

コメントありがとうございました。
2014.07.26 21:08 | URL | #9yMhI49k [edit]

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