scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】異教の影

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十五弾です。TOM-Fさんは、代表作『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』とうちの「森の詩 Cantum Silvae」のコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった小説『ヴェーザーマルシュの好日』

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広く書かれるブログのお友だちです。音楽や趣味などで興味対象がいくつか重なっていて、それぞれの知識の豊富さに日頃から感心しまくっているのです。で、私は較べちゃうとあれこれとても浅くて恐縮なんですが、フィールドが近いとコラボがしやすく、これまでにたくさん遊んでいただいています。

今回コラボで書いていただいたのは、現実の某ドイツの都市の歴史と、某古代伝説、そしてTOM-Fさんのところの『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』の登場人物の出てくるお話の舞台に、当方の『森の詩 Cantum Silvae』の外伝エピソード(『王と白狼 Rex et Lupus albis』)を絡めたウルトラC小説でした。

いやあ、すごいんですよ。よく全部違和感なくまとめたなと感心してしまうんですけれど、それもすごくいい話になって完結しているんです。素晴らしいです。

でも、毎年のことながら「こ、これにどうお返ししろと……」とバッタリ倒れておりました。なんか、あちらの姫君が「森の詩 Cantum Silvae」の世界を旅していらっしゃるらしいので、なんとなく全然違う話は禁じられたみたいだし……。七転八倒。

で、すみません。天の邪鬼な作品になっちゃいました。TOM-Fさんのストーリーが愛と自由と正義の讃歌のような「いいお話」で、しかも綺麗にまとまっているのに、全部反対にしちゃいました。愛と正義を否定する、言っていることは意味不明、ゲストにとんでもない態度。なんというか全くもってアレです。

まあ、「森の詩 Cantum Silvae」らしいと言っちゃえば、らしいです。この世界の人たちは、その時代の枠を越えることはできないので。(象徴的に言えば、トマトどころか、フォークすらありません! 手づかみでお食事です)

TOM-Fさんの作品と揃えたのは、「ある実在する都市の観光案内」が入っていることです。この都市のモデルを知りたい方は「ムデハル様式 世界遺産」または「スペインのロメオとジュリエット」で検索してください。

そして、すみません。あちらの登場人物の従兄ということでご指名いただいた某兄ちゃんは完璧に役不足なので無視しました。せっかくなので、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の続編で登場する最重要新キャラをデビューさせていただきます。登場人物を知らないと思われた方、ご安心ください。知っている人はいません(笑)

で、TOM-Fさんのところの姫君(エミリーじゃなくてセシル系? このバージョンもそういう仕様なのかしら?)も、グランドロン王国ではなくずっと南までご足労願っています。舞台は、中世スペインをモデルにした架空の国、カンタリア王国です。


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2017」について
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森の詩 Cantum Silvae 外伝
異教の影 - Featuring「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」
——Special thanks to TOM-F-san


 その高級旅籠は、三階建でムデハル様式の豪奢な装飾が印象的だった。もし異国からこのカンタリアの地に足を踏み入れたばかりの者ならば、ここはいったいキリスト教の国なのか、それともサラセン人に支配されたタイファ諸国に紛れ込んでしまったのかと訝るところだ。

 これはサラセン人たちの技術を取り入れたカンタリア独特の建築様式で、その担い手の名を冠してムデハル様式と呼ばれていた。ムデハルとは、国土回復レコンキスタ が進むにつれて後退していくタイファ諸国に住んでいたムスリムたちのうち、技術の高さから残留を許された者のことである。レンガやタイル、寄せ木細工などを用いて幾何学模様を施したサラセン風の装飾が、異国にいるような錯覚を呼び起こす。

 今でこそ国土回復レコンキスタ は絶対的正義の大義名分を得、「憎きサラセン人どもを神の名において駆逐する」と言う者もいるが、そもそもこのカンタリア半島では異教徒とキリスト教徒たちは永らく共存し、交流をする普通の隣国同士であった。文化的にも技術的にも優れていたのはタイファ側であったので、キリスト教諸国の商人たちはタイファ諸国の地ヴァンダリスへとこぞって買い付けにいったものだ。

 その旅籠に本日逗到着した一行は、ムデハル様式の建築が盛んなこの街サン・ペドロ・エル・トリーコに初めて逗留したので、豪奢に隙間なく飾られた壁や柱を珍しそうに見回した。その旅籠は、彼らの暮らす王宮よりも美しく彩られているようにさえ見えた。
「なんというところだ」

 ぽかんと口を開けて、周りを見回す太った青年とは対照的に、影のように控えている男は顔色一つ変えなかった。そして低い声で言った。
「殿下。お部屋の用意が済んだようでございます。どうぞあちらへ」
「ヴィダル。お前には、この光景は珍しくも何ともないのであろうが……」

 ヴィダルと呼ばれた黒髪で浅黒い顔の男は、嫌な顔をした。彼もこの街に来るのは初めてなのだ。「異教徒だ」「モロ(黒人)だ」と陰口を叩かれるのを毛嫌いしている彼は、母親の出身を示唆する王子の言葉に苛立ちを感じた。

 その様子を離れたところから眺めていた客が「くすっ」と笑った。ヴィダルは、そちらを鋭く一瞥した。宿屋の中だというのに灰色の外套を身につけたままで、そのフードを目深に被っている。声から女だと知ったが、それ以上のことはわからなかった。

 王子の安全を氣するヴィダルに宿屋の主人は「ヴェーザーマルシュのヘルマン商会の方です。正式な書き付けをお持ちですから物騒なお方ではないと思います」と耳打ちした。

 カンタリアの第二王子エルナンドとその一行は、旅をしていた。表向きは物見遊山ということになっていたが、彼らには別の目的があった。そのために、センヴリ王国に属するトリネア侯国、偉大なる山脈《ケールム・アルバ》を越えた北にあるグランドロン王国の王都ヴェルドン、そしてその西にあるルーヴラン王国の王都ルーヴにそれぞれ嫁いだカンタリア王家出身の女性たちを訪れるつもりであった。

 王都アルカンタラを出て以来、グアルディア、タラコンなど縁者の城に逗留してきたのだが、この一帯には逗留できる城はなく、山がちながらも比較的安全で王子の逗留にふさわしい旅籠のあるこの街に立ち寄ったのだ。

 この旅籠は決して小さくはないのだが、王家の紋章の入った華やかな鞍や馬鎧を施された馬に乗ったエルナンド王子、やはりそれぞれの紋章で馬や武具を飾り立てて付き従う十数名の騎士たち、そして護衛の従卒や小姓たちが入るとそれなりにいっぱいになったので、先客たちは早めに旅籠についておいてよかったと安堵した。

 食事は二階の大食堂で行われた。従卒や小姓などの身分の低い者は別だが、エルナンド王子と騎士たちは食堂の中心にある大きいテーブルに座った。物事を一人で決めるのが不得意な王子に常に付き従う《黒騎士》ヴィダルはいつものように、宿屋の者とすぐに話が出来るように一番端に座った。

 彼の斜め前には、先ほどの外套を着たままの商人が一人で座り、食事をしていた。ナイフを扱ったりフィンガーボールで洗う時に見える白く美しい手から、ヴィダルはこの女は意外と位の高い貴族なのではないだろうかと思った。

 だが、到着してからすでに浴びるほどの酒を飲み続けていた騎士たちは、その外套姿の方にしか目がいかなかったらしい。
「変わった女だ。なぜいつまでもその外套をとらぬのだ」
騎士の一人が言うと、その女は短く答えた。
「あまり人に見せたくない容姿だから。それに女の一人旅は、用心に越したことがないでしょう」

「女というのは氣の毒な生き物だな。己の醜さに囚われて旅籠ですら寛げぬとは」
「そんなに醜いなら、一人旅でもとくに問題はないであろう」
既に酔い始めた騎士たちは、口々に女を馬鹿にする言葉を吐き、ひどく笑い始めた。

 そして、ある者は、ヴィダルの方をちらりと見ながら言った。
「醜いというのならまだましさ。この世には恐ろしい魔女もいる。その美しさで男を籠絡し理性を奪う。外見が変わることもなく、この世の者ならぬ力でいつまでも男を支配し続ける悪魔がな」

 それまで騎士たちの嘲りに反応を見せなかった女が、低い声で呟きながら立ち上がった。
「黙って聴いておれば、このわたしを悪魔扱いして愚弄するつもりか。ずいぶんと勇氣のあることだな」

 ヴィダルは、女の口調にぎょっとして、その動きを遮るように立ち上がった。
「あの男が言っているのは、この私の母のことだ」
「お前の?」

 その時飲み過ぎた別の騎士が椅子から落ちて、地面に倒れ込んだ。騎士たちがどっと笑い、小姓たちが駆け寄って介抱する間、食堂にいた者たちの目はそちらに集中した。だが、ヴィダルは未だに自分を見ているらしい女に目を戻した。

「そうだ。カンタリア国王の愛妾だ。もちろん魔女でも悪魔でもなく普通に歳もとっている。だが、愚か者は自分と見かけの違う者を極端に怖れ、冷静に観察することも出来ぬのだ」
彼の苛立ちを隠さぬ口調に、女は興味を持ったようだった。

「なるほど。お前のその肌の色は母親譲りというわけか。そうか。港街で商人たちがお前の噂をしていたぞ。カンタリアの王子に付き添うサラセンの《黒騎士》がいるとな」
「サラセンでもモロでもない。かといって、正式に呼ばれる名前にも意味はない」

「意味がないのか」
「私がもらった名前は、私の欲しかったものではない。だが、構うものか。名前は自ら獲得してみせるのだから」

 女が顔をもっと上げ、ヴィダルをしっかりと見つめた。そのためにヴィダルの方からも初めてその女のフードに隠れていた顔が見えてぎょっとした。その手と同じように白い肌に、先ほど醜いとあざけった騎士ならば腰を抜かさんばかりの美貌を持った女だった。が、それよりもわずかに見えている髪が白銀であることと、赤と青の色の違う瞳の方に驚かされた。なるほど、この容姿ならば人に無防備に見せたくはないだろう。

 女はわずかに笑うと、座ってまたもとのように食事を取り出した。おそらくこの女の顔を見たのは彼一人だったのだろう。周りは彼らの会話に氣をとめていなかった。女はヴィダルの方を見もせずに低い声で続けた。
「その氣にいらぬ名前を名乗ってみろ」

 ヴィダルはわずかに苛つき答えた。
「それを知りたければ自分から名乗れ」

「ツヴァイ」
「それは人の子の名か。その立ち居振る舞いに言葉遣い、商人などではないな」

「名前に意味はないと自分で言わなかったか。が、知りたければ聴かせてやろう。セシル・ディ・エーデルワイス・エリザベート=ツヴァイ・ブリュンヒルデ・フォン・フランク。これで満足か。名乗れ」

「ヴィダル・デ・アルボケルケ・セニョーリオ・デ・ゴディア」
ヴィダルは苦虫を噛み潰したように言った。
「インファンテ・デ・カンタリアと名乗りたいということか」
 
 嫡出子ではないヴィダルは国王の血を受け継いでいてもカンタリア王家の一員として名乗ることは許されない。愛妾ムニラを溺愛するギジェルモ一世が、せめて貴族となれるようにアルボケルケ伯の養子にしてゴディア領主としたが、彼はその名に満足してはいなかった。だが、彼は女の問いに答えなかった。ひどく酔っぱらって狂騒のなかにいるとはいえ、その場にはあまりに多くの騎士たちがいたから。

「言いたくはないか。ところで、お前は、これも食べられるのか」
女が示しているのは、この地方の名産山の塩漬け肉ハモン・セラーノ だ。その横には、豚の血で作ったチョリソなどもあり、どちらもムスリムやユダヤ人などの異教徒は口にすることが出来ない禁忌品だ。

「もちろん、食べるさ。禁忌などに縛られるのはごめんだ」
彼はそう言ったが、宿の主人は彼の前に無難な川魚料理を出した。彼は塩漬け豚を彼にも出すように改めて頼まなくてはならなかった。女がクスリと笑う声を耳にして、彼は忌々しそうに見た。

「キリスト教徒に見えぬお前はこの地では生きにくいだろうが、異教徒の心は持たぬのだから、かの地に行ってもやはり生きにくいのかもしれんな」
「生きにくい? この世に生きやすいところなどあるものか。そういうお前はどうなのだ。商人のフリをしているのは、何かから逃げているのか」

 すると女は鈴のような笑い声を響かせた。
「わたしか。逃げる必要などない。ただ自由でいたいだけだ。この旅も大いに楽しんでいる。カンタリアの酒と食事は美味い」

 強い太陽の光を浴びた葡萄から作られたワインは、グランドロンやルーヴランで出来るものよりもずっと美味で、香辛料漬けにする必要がなかった。オリーブから絞られた油は、玉ねぎやニンニクを用いた料理の味を引き立てていた。山がちのこの地域は、清流で穫れる川魚、山岳地方の厳しい冬と涼しい夏が生み出す鮮やかな桃色の塩漬け豚も有名だった。さらに、残留者ムデハルが多いため、《ケールム・アルバ》以北ではほとんど食べられていない米、ヒヨコ豆やレンズ豆、アーモンド、ナツメヤシ、シナモンなど、特にアラブ由来の食材をたくさん使う料理が発達した。それらの珍しい食材が古来の食材と融合して、独特の食文化を築き上げていた。

* * *

 
 翌朝、王子たちの朝食は遅かった。深夜まで酒を飲んでいた騎士たちと王子がなかなか起きなかったからだ。ヴィダルはまた端の席に座って静かに朝食をとった。昨夜見た女は、とっくに朝食をとったのだろう、その場にはいなかった。

「ヴィダル。今日は一日この街でゆっくりするのだから、街の名所を案内してくれるよう、宿の主人に頼んでくれぬか」
王子の言葉に頷き、彼は宿の主人に街を見せてくれる人間を推薦してほしいと頼んだ。主人は二つ返事で、彼の舅が案内をすると言った。

 それはかなり歳のいった老人だったが、貴人たちに街を案内するのは慣れているらしく、よどみのない話し方で街の名所を手際よく説明してくれた。ムデハル様式の築物は街の至る所にあり、中でもサンタ・マリア大聖堂の塔、サン・マルティン教会とその塔の美しい装飾を技法の説明も交えて要領よく説明していった。そして、彼は次にサン・ペドロ教会に一行を案内した。

「この教会もムデハル様式の装飾で有名ですが、もっと有名なのは、ここに埋葬されているある恋人たちの悲しい物語なのです」
彼がもったいぶって説明すると、王子と騎士たちは一様に深い興味を示した。彼は一行を教会内部の二つの墓標が並んでいる一画へと案内した。

「いまから百年ほど前のことでした。この街に住んでいたイザベルという貴族の娘と、アラブの血を引く貧しいファンが恋仲になったのです。イザベルの父は二人の結婚を認めず、目障りなファンを厄介払いするために、法外な結納金を設定し五年以内にそれを用意できれば娘と結婚させると約束しました。ファンは唯一のチャンスにかけて、聖地奪回の戦いに身を投じ、五年後に莫大な戦利品を得て凱旋することが出来たました。ところが、イザベルは父親にファンが戦死したと言われたのを信じて既に他の男に嫁いでしまっていました。やっとの思いでイザベルのもとに忍び込んだファンのことを彼女は結婚した身だからと拒絶せざるを得なかったのです。彼は絶望によりその場で亡くなってしまいました。そして、彼を愛し続けていたイザベルもまた埋葬を待つ彼の遺体に口づけしたまま悲しみのあまり死んでしまったのです。その姿を発見した父親と街の人びとは、深く後悔して二人を哀れみ、この教会に共に埋葬しました」

 王子エルナンドは、懐から白いスダリウムを取り出し涙を拭いた。
「なんという悲しくも美しい話であろうか」

 騎士たちもまた、それぞれが想い人たちから贈られた愛の徴であるスダリウムを手にし、悲しい死んだ恋人たちのために涙を流した。だが、ヴィダルだけは醒めた目つきで墓標を見ているだけで何の感情も見せなかった。エルナンドは、ヴィダルのその様子をみると言った。
「お前はこの話に心動かされぬのか」

「心を動かされる? なぜ、私が」
「お前と同じ、サラセン人の血を引く男が、愛する女と引き裂かれたのだ。あの娘のことを思い出しただろう」
そう王子が言うと、《黒騎士》は笑った。

「あの娘とは、どの娘のことです。私は、女のために命を投げ出し、戦い、せっかく得た名声もそのままに悲しみ死んでしまうような愚かな男ではありません」

 エルナンドは首を振った。
「すくなくとも、何といったか……あのルシタニア出身の娘のことだけは愛していたのだと思っていたのだが。他の者のようにお前が悪魔のごとく血も涙もないモロだとは思わんが、時々疑問に思うぞ。神はそもそも、お前に魂を授けたのか?」

 ヴィダルは「さあ。私もそれを疑問に思っております」と答えて、教会の内部装飾の説明をする老人とそれに続く騎士たちの側を離れた。

 老人は、奥の聖壇の豪奢な装飾について滔々と説明をしていた。
「ご覧ください。神の意に適う者たちが命の危険を省みずに聖地を奪回するために戦った勇氣、次々とヴァンダルシアを我々キリスト教徒の手に取り戻したその偉業、神の意思が実現された歓びをこの聖壇の美しさは表現しているのです」

 彼は、幾何学文様と草花のモチーフの繰り返された鮮やかな壁面装飾を見上げた。明り取りの窓から入った光は、その見事な装飾にくっきりと陰影を作っていた。

「神の意ときたか」
女の声にぎょっとして横を見ると、いつの間にか昨夜の謎の女ツヴァイが立っていた。

「お前もここにいたのか」
「この街は面白い。神の栄光を賛美するのに、敵の様式をわざわざ用いるのだから」
女はおかしそうに笑う。

 ヴィダルは首を振った。
「大昔は知らんが、今のこの国で奴らが口にする、残忍な異教徒の追放だの、神の意だの、聖地奪回だのは、本音を覆い隠す言い訳だ。実際は領土拡大と経済的な動機で戦争をしているだけだ。そこでありがたがられている死んだ男も、そうやって手っ取り早く名声を得、大金を稼いだのだ。それなのに女に拒否されたくらいで死ぬとは何と愚かな」

 女は声を立てて笑った。
「それには違いない。だが、たった一人の相手ためにすべてを投げ打つほどの想いの強さがあったのだ。真の愛が人びとの心を打つからみな涙してここに集まるのだろう」

「他人の涙を絞るだけで本人には破滅でしかない愛など何になる。欲しいものを手にすることが出来ないならば、氣高い心や善良な魂なども無用の長物だ」
ヴィダルは拳を握りしめた。女は朗らかにいった。
「では、わたしは、お前がその手で何を掴むのか楽しみにしていよう、《黒騎士》よ」

 ヴィダルはその言葉に眉をひそめて、灰色の外套を纏った女の見えていない瞳を探した。
「ツヴァイ。お前は、一体何者なのだ」

 女は笑った。
「わたしが誰であれ、お前にとって意味はない、そうだろう?」

 それを聞くと、ヴィダルはやはり声を上げて笑った。
「その通りだ。たとえお前が商人であれ、高位の貴族であれ変わりはない。神の使いや、悪魔の化身であっても、同じことだ。この出会いで、私は己のしようとすることを変えたりはせぬ」

 彼は、射し込んだ光に照らされた祭壇の輝きを見ながら頷いた。

(初出:2017年3月 書き下ろし)

ヴィダル by うたかたまほろさん
このイラストの著作権はうたかたまほろさんにあります。無断使用は固くお断りします。



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Tag : 小説 読み切り小説 いただきもの コラボ

Posted by 八少女 夕

五周年です

本日2017年3月2日に、当ブログは無事に満五年を迎えました。毎年恒例の記念企画「scriviamo!」も五回目となり、今年も常連の方、新規参入の方、それぞれに素晴らしい作品で華を添えていただきました。また、この2月末にカウンターも末広がりな88888を記録しました。足繁く通い、応援してくださるみなさまに御礼申し上げます。本当にありがとうございます!

思えば2012年3月にこのブログを開設した時は、「交流しよう」という考えはまるでありませんでした。そもそも私は実生活でも全く社交的ではなくて、「人としてこれは問題があるだろう」と思うとしかたなく重い腰を上げて全く十分でない社交を嫌々するタイプです。

「じゃあ、なんで交流ツールであるブログを立ち上げたのさ」と言われても当然ですが、当初は「Seasons」という紙媒体で小説を発表するときの連絡先として何もないとまずいということで始めたのですよね。

で、初めてブログの世界に足を踏み入れて、この世には小説を書いて発表している人がこんなにいるんだとびっくりし、次にみな楽しそうに交流していると驚き、うちは閑古鳥だわと嘆き、恐る恐る他の方と交流をはじめてお友だちになっていただき、それからいろいろと紆余曲折を経て、五年経ったわけです。

この五年間に、私自身は大きく変わったと思います。いつの間にか企画屋みたいになっちゃっているし、才能のある創作者のみなさまと「お友だち」状態でヘラヘラしているし、それに、これまでの創作ライフでこんなに書いたことはないと断言できるほどコンスタントにたくさんの作品を書き発表しています。

(同時に風呂敷を広げすぎて、にっちもさっちもいかなくなった作品がこんなにたまったこともないんですけれど)

学生さんやお若い方と違って、生活パターンはそんなに激しくは変わらないので、おそらくこれからも同じように活動していくと思いますが、いい加減新しいシリーズの風呂敷を広げるのはやめて、すでに四シリーズくらいある「書くと言ったのに書かないじゃん」を五年くらい掛けて完結していきたいと思っています。もし、その前に力尽きてしまったら、え〜と、みなさまに諦めていただくことになるわけですが、私個人としては「発表する」と予告したものはなんとか完結させたいです。

そして、自分の作品を読んでいただく喜び、優しいコメントも、厳しいご意見もいただけるありがたさ、読ませていただいて楽しみつつ勉強をする時間に心から感謝しています。お互いに刺激を受けつつ一緒に創作していく真の仲間といえるブログのお友だちに出会えた事こそ、この五年間にこのブログという場で私が見つけた宝、いや、ザックザク入った宝箱なのだと思っています。

六年目に入りますが、慢心しないように精進していきたいと思っています。なかなか上達しない作品に対するみなさまの変わらぬご指導と、いまいちヘタクソな私のコミュニケーションに対するヘルプと寛容さをお願いしたいと思います。

「scriviamo! 2017」の受付は終了しましたが、あと2作品、お返しが残っています。そちらも合わせて読んでいただけると嬉しいです。

これからも「scrivo ergo sum」をどうぞよろしくお願いします。
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Posted by 八少女 夕

【小説】ありがとうのかわりに

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十四弾です。けいさんは、毎年恒例の目撃シリーズで書いてくださいました。この作品は、当scriviamo! 2017の下のようにプランB(まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法)への返掌編にもなっています。ありがとうございました。

プランBで、拍手絡みの物語を、うちの「シェアハウス物語」とコラボでお願いしても良いですかね。それを受けて、私も掌編を描く。それのお返事掌編をまたいただく…B→B(A)→A混合サンドイッチ、みたいなの。


この二つ書けとおっしゃるうち、ひとつはちょうどブログトップのFC2拍手を1000カウント目にしてくださった記念掌編です。

けいさんの書いてくださった『とある飲み屋での一コマ(scriviamo! 2017)』

けいさん、実はどうも今、公私ともにscriviamo!どころではない状況みたいで、いま発表するのはどうかなと思ったんですが、こちらの事情(後が詰まっていて)で、空氣を全く読まない発表になってしまいました。ごめんなさい!

今回の掌編は、けいさんの掌編を受けて、前回私が書いた作品(『頑張っている人へ』)の続きということになっています。そっちをお読みになっていらっしゃらない方は、え〜と、たぶん話があまり通じないかもしれません。

今回は「シェアハウス物語」のオーナーにご登場いただいていますが、それと同時にけいさんの代表作とも言えるあの作品にもちょっと関連させていただきました。

で、けいさん……。大変みたいだけれど、頑張ってくださいね。応援しています。


「いつかは寄ってね」をはじめから読むいつかは寄ってね


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ありがとうのかわりに - Featuring「シェアハウス物語」
——Special thanks to Kei-san


 東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。ママと呼ばれる涼子が一人で切り盛りをするこの飲み屋は、二坪程度でカウンター席しかないが、そのアットホームさを好む常連客で毎夜そこそこ賑わっていた。

「いらっしゃいませ。あら、葦埜御堂あしのみどうさん。今夜はお一人?」
涼子は現に微笑んだ。

「残念ながらね。でも、みんなここがとても氣にいったようで、近いうちにまた来たいらしいよ。その時には、またよろしく頼むよ」
シェアハウスのオーナーである現は、先日シェアハウスに住む国際色豊かな四人をこの店に連れてきたのだ。

 今日は、会社が終わると一目散にやってきて現が来る頃には大抵でき上がっている西城と、少しは紳士的なのに西城にはハッシーと呼ばれてしまっている橋本が仲良く並んで座っていた。そして、カウンターの中には、涼子ママと、常連だがツケを払う代わりに料理を手伝う板前の源蔵がいた。

「よっ。現さん、この間は驚いたよ。あのガイジンさんたち、すごかったよねぇ」
西城は、あいかわらずろれつが回っていない。

「何がすごかったんですかい?」
あの時、一人だけ店にいなかった源蔵が訊いた。橋本が答えた。
「現さんのつれていらした人たち四人のうち三人が外国の人たちだったんですが、みなさん、日本語ぺらっぺらで、しかも鶴まで折っちゃって。日本人の僕たちよりも上手いのなんの……」

「それに、あのアジアのおねーちゃん! あの人形の折り紙はすごかったよなあ。アレを折り紙で折るなんて、目の前で見ていなければ信じられなかったよ」

 涼子はもう少し説明を加えた。
「源さんも知っているでしょう、時々やってくる、小林千沙さん、あの方の従兄の方が闘病しているって話になって、だったらみんなで応援しようってことになって、あの夜、ここでみんなで鶴を折ったのよ」

 現はその間にメニューをざっと検討して、まずヱビスビールを頼み、肴は適当に見つくろってほしいと頼んだ。源蔵がいる時は、料亭でしか食べられないような美しくも味わい深い、しかもメニューには載っていない一皿にめぐりあえることがあるからだ。

 源蔵はそれを聞くと嬉しそうに、準備に取りかかった。現は、突き出しとして出された枝豆の小鉢に手を伸ばしながら訊いた。
「その後、どうなったんでしょうね」

 涼子は微笑むと、カウンターから白い紙袋を取り出した。
葦埜御堂あしのみどうさんがお見えになるのを待っていたのよ。実はね、四日くらい前だったかしら、小林さんがいらっしゃってね。これを、皆さんにって」

 現は「へえ」と言いながら紙袋の中を覗き込んだ。中には、赤と青のリボンで二重に蝶結びにして止めた、白い袋が五つ入っていた。そして、それぞれに付箋がついていた。

「ゲンさんへ、か。これが僕のだ」
彼は、一つを取り出した。残りの四つには「ワンさんへ」「ニコールさんへ」「ムーカイさんへ」「ソラさんへ」と書いてある。あの時、耳にしただけで漢字がわからなかったので全てカタカナなのだろう。ワンちゃんだけ「ちゃん」付けするのはまずいと悩んだんだろうな。うんうん。彼は笑った。

「西城さんたちももらったんですか?」
現が訊くと、二人は大きく頷いた。

「もちろんさ。俺っちたちは、千沙ちゃんが来た時にここにいたからさ、直接いただいちゃったって訳。開けてごらんよ」

 中には透明のビニール袋に入ったカラフルなアイシングクッキーと、CDが入っていた。彼は取り出して眺めた。

 ピンクや黄色や緑のきれいなアイシングのかかったクッキーは、全て紅葉の形をしていた。それはちょうどあの日ワンちゃんが折った拍手に見立てたたくさんの紅葉に因んだものなのだろう。

「小林さんの手作りですって。いただいたけれど、とっても美味しかったわ」
涼子が微笑んだ。

「それは嬉しいね。少し早いホワイトデーみたいなものかな。で、こちらは?」
彼はCDをひっくり返した。それはデータのディスクか何かを録音したもののようだった。

「それさ。例の闘病中の従兄が演奏したんだってよ」
西城が言った。

 現は驚いて顔を上げた。橋本が頷いた。
「そうなんだってさ。先日、無事に放射線療法がひと息ついて、退院して自宅療養になったんだって」

 涼子がその後を継いだ。
「あの皆さんからの折り紙がとても嬉しかったんですって。絶対に諦めない、頑張るって改めて思われたそうよ。それで退院してから小林さんと相談して、みなさんに何かお礼の氣持ちを伝えたいって思われたみたい。それで、ギターで大ファンであるスクランプシャスっていうバンドの曲を演奏して録音したんですって」

「歌は入っていなくてインストだけれど、すごいんだよ。俺たちもらったCD全部違う曲が入っていたんだ。だから現さんたちのとこのもたぶん全部違う曲だと思うぜ」
橋本は興奮気味だ。

「そうですか。僕のはなんだろう。あ、裏に書いてあるぞ『悠久の時』と『Eternity Blue』か。デビュー・アルバムからだね」
「あら、葦埜御堂あしのみどうさん、お詳しいのね」

「もちろんだよ。僕は自慢じゃないけれど、スクランプシャスのアルバムは全部持ってんだから」
現が言うと、皆は「へえ~」と顔を見合わせて頷いた。

「だれが『夢叶』をもらったのかな」
現が皆の顔を見回して訊くと、涼子は笑った。
「私たちじゃないわ。たぶんワンさんじゃないかしら。あの時、いつか折り紙作家になりたいっておっしゃっていたから」

「俺っちもそれに賭ける」
西城が真っ赤になりながら猪口を持ち上げた。

「宇宙かもしれないぞ。あいつもこれから叶える夢があるからな」
その現の言葉に、皆も笑って頷いた。

 涼子が現のグラスにヱビスビールを注ぎ、源蔵が鯛の刺身を梅干しと紫蘇で和えた小鉢を置いた。

 現はプレゼントを紙袋に戻すと、嬉しそうに泡が盛り上がったグラスを持ち上げた。

(初出:2017年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】紅い羽根を持つ青い鳥

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十三弾です。

たおるさんは、素敵なイラストで参加してくださいました。ありがとうございます!


たおるさんの描いてくださったイラストと記事 『(scriviamo!参加作品)赤い鳥』

「赤い鳥」by たおるさん
このイラストの著作権はたおるさんにあります。無断使用は固くお断りします。

たおるさんは、小説とイラスト・マンガのどれも自在にこなしてしまう創作ブロガーさん。切ない系や、ちょっぴりピリッとした掌編のイメージが強いのですが、胸キュン系の人物模様が面白い「ポーカーフェイスな日常」シリーズもここのところ読み始めさせていただいていて、このシリーズもかなり好きです。

さて、scriviamo!に初参加してくださった今回は、とあるアニメの主人公のイラストを描いてくださったのだそうです。きっと日本の方は「ああ、あの作品の彼ね!」っておわかりになるんだと思うのですが、私はもともとアニメをほとんど観ない上に二十年来の浦島太郎で「こ、これはどんな作品のどなたかな」と全くわからない状態でした。

それで構わないということなので、単純にこのイラストからイメージしたストーリーを書かせていただきました。ですから、元のアニメとは全く関係ないと思います。もしくはどこか被っているかもしれませんが、それは単なる偶然です(笑)

今回の話の中に名前だけ出てくる私の創作世界の既出キャラたち(大富豪イザーク・ベルンシュタイン、アメリカ人傭兵マイケル・ハースト、ハンガリー人エトヴェシュ・アレクサンドラ)は、単に匿名よりはいいかと思って出してみただけで、特に意味はありません(笑)出てくる作品を探す必要は皆無です。


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紅い羽根を持つ青い鳥
——Special thanks to Taoru san


「それで、調査結果はどうだったんだ。早く言ってくれ」

 びくついているキースに、《赤ネクタイのジョー》は鼻で笑って答えた。
「先に調査費用を半分渡してくれ。そうしたら八割を話してやる。あんたがそれに満足したら、残りの半分と引き換えに決定的な資料を渡すよ」

 《赤ネクタイのジョー》は、『調べ屋』だ。金さえ積めばどんなことでも調べてくれる。たとえ地球の裏側の政治情勢でも、その辺のマフィアが囲っている女のスカートの中のことでも、徹底的に調べ上げる。だが、その対価は大抵の依頼主にひどい頭痛を起こさせる程度に高かった。

 舌打するとキースはコートの内ポケットから封筒を取り出して、《赤ネクタイのジョー》に渡した。彼は咥えた火のついていない煙草でその蓋を開けると、十分な厚みがあることを確認して自分のコートの内ポケットにしまおうとした。が、すっと一枚を取りだしてキースに返した。

「やれやれ。これはあんたが持ちかえるんだな。発信器つきの紙幣はいらないよ」
「くっ。もう見破るとは、さすがだな」
「あんたのボスはせこいからな。俺からよろしくと言っておけば、それを仕込み損ねたことを叱ったりなんかしないさ」

 キースの属している組織では、直属の上司以外の顔を知る者はいない。どれだけ大きな組織なのか、そもそも何のための組織なのかもキース自身は把握していない。《赤ネクタイのジョー》は、ずいぶん昔に彼の上司のもとで働いていたことがあるらしいが、今はフリーだ。組織を抜けてやっていけるということが彼の能力を示している。少なくとも彼は十年以上も消されていなかった。

「ちなみに、あんたたちの邪魔をした奴らはあんたたちのような組織ではない。これが調査結果だ」
「なんだって? うちのビルにあんな大掛かりな妨害電波を仕掛け、しかもマカオのカジノの帰りではとんでもないカーチェイスを繰り広げたんだぜ。個人とその使用人だけであれだけの動きは無理だろう」

「何万人いてもクズばかり働いていることもあれば、たった数人でマフィアの向こうを張って利益をかっさらうことも出来るさ。ましてや、相手の財力はそこそこの国のGDP並だ」
「いったい誰なんだ」

「イザーク・ベルンシュタイン。名前くらいは知っているだろう、桁違いの大富豪さ。もっともあいつが担当しているのは金の捻出だけだ。実際に動いているのは傭兵でならしたアメリカ人と、美貌のハンガリー女だな。もっとも元締めが誰かは、俺の知ったことではない」

「やつらの狙いはなんだ」
「さあな。だが当面のターゲットは、あんた達と同じ幻の緑柱石ベリル 鉱だろう」

 ベリルから産出される元素ベリリウムは、アルミニウムの三分の二の重さしかない軽い元素だが、硬く強く融点も高い。原子炉の中で中性子の流れを制御する減速材として重要な役目を担うと同時に、少量で莫大なエネルギーに変換するのでロケットの燃料としても期待されている。

 キースが上司から受けた使命は、ある死んだ男が発見した、未だ知られていない巨大なベリル鉱山の位置を発見することだ。

「俺が思うに、奴らの方が核心に迫っているな」
「なぜ」
「あんた達がこの日本で、いまだに中国人たちと交渉しているからさ。やつらは、もうアジアからは手を引いているぞ」

 そういうと、《赤ネクタイのジョー》は胸ポケットから一枚の絵の映った写真を取り出した。それはおそらく十二世紀頃に描かれたと思われる絵で、想像上の鳥の姿だった。

「なんだ。あの死んだ男の持っていた絵じゃないか。これなら、俺たちはもうとっくに調べたぞ」
「ふん。じゃあ、知っているんだな、これが何か」

 キースは馬鹿にして鼻を鳴らした。
「これは中国の想像上の生き物で鳳凰だろう。ヤツの使っていたコードネームが《フェニックス》だったので混乱したが、俺たちだって、いつまでもフェニックスにこだわって中東を探しているわけじゃないんだ 」

「そう。あんた達は鳳凰を捜している。在日中国人に頼んで中国でな。だが、知っているか。これは正確には鳳凰じゃない。らん だ」

 キースは首を傾げた。鳳凰じゃない?
「そうだ。これは、違う種類の鳥だ。いずれにしても想像上の動物だがな。なぜ想像上の動物かというと、どっちにしてもそれは中国にはいなかったからなのさ」

「じゃあ、あの死んだ男が見つけたって言うベリル鉱は、アジアにはないと?」
「ない。その証拠に、あのアメリカ人たちは、もうここを発った」

「じゃあ、どこに?」
「そのヒントはこの鳥にある。憶えているか、あの男のダイイング・メッセージ『紅い羽根を持つ青い鳥』そして、この幻獣、鸞。これと同じ特徴を持つ鳥が実際に存在するんだ。それも、神として崇められている国がある」

「なんだって? それはどこに?」
キースが身を乗り出した。《赤ネクタイのジョー》はにやりと笑って、煙草に火をつけた。深く吸い込み、それからふーっと吐き出した。

「残りの金を渡せ」
「なんだと! 情報が先だ」

 せせら笑った《赤ネクタイのジョー》は懐から一枚の写真をとりだしたがキースには見せなかった。
「金を渡さないと、こうするぜ」
ゆっくりと写真を煙草に近づけていく、紅い火がゆっくりと写真の角に近づいていく。

「待て! わかったよ。ほら!」
キースは、もう一つの封筒を渡すと同時に、《赤ネクタイのジョー》の持つ写真をひったくった。

「こ、これは?」
それは輝く長い飾り尾を持つ青緑の鳥だった。胸の部分が真っ赤だ。

「その鳥は、ケツァールという。グアテマラの国鳥だ。35センチほどの鳥だが、尾を含めると1.2mにもなる。古代アステカでは農耕神ケツアルコアトルの使いとして珍重された。そして、決定的なことがある。アステカではエメラルドはケツァーリチリと呼ばれてケツアルコアトルと関連づけられていたんだ。もちろん知っていると思うがエメラルドは、ベリルの一種なのさ。ヤツが示唆していたのは、中国なんかじゃない。中米さ」

「くそっ。そうか! で、あんたはその鉱山の位置を突き止めたのか」

 《赤ネクタイのジョー》は、笑って小さな封筒を渡した。
「急いだ方がいいぞ。アメリカ人とハンガリー人は、すでに48時間前に現地に入っている。じゃあな」

 封筒をひったくるようにして、キースは車に飛びのって去っていった。

「ふん」
《赤ネクタイのジョー》は、踵を返し、反対方向の駅へと歩いていった。

 彼は懐から再び煙草とライターを取り出した。ライターについている探知機が再び小さいシグナルを瞬かせた。

「しつこいヤツだ、まったく」
彼は、二度目にもらった封筒を開けると、発信装置の組み込まれた100ドル紙幣を取り出した。

「赤い羽の共同募金にご協力お願いしまあす」
駅前ではユニフォームを身につけた女子学生たちが一列に並んで叫んでいた。《赤ネクタイのジョー》は、彼女たちの差し出した募金箱に100ドル紙幣を入れた。

 ぎょっとした顔をする少女に彼はニコリともせずに言った。
「あいにく日本円の持ち合わせはないんでね。銀行で両替してくれ」

「ありがとうございまぁす!」
最敬礼する女子学生たちからもらった赤い羽根を襟元に差して彼は立ち去りながら呟いた。
「紅い羽根を持つ青い鳥か。寄付なんぞ俺のガラじゃないが、たまにはいいだろう」                                                                      
(初出:2017年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】黒色同盟、ついに立ち上がる

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十二弾です。

かじぺたさんは、写真と文章を使った記事で参加してくださいました。ありがとうございます!


かじぺたさんの書いてくださった記事 『雅たちの宴(scriviamo! 2017に参加させて頂きますm(_ _)m)』

かじぺたさんは、旅のこと、日々のご飯のこと、ご家族のことなどを、楽しいエピソードを綴るブロガーさんで、その好奇心のおう盛な上、そして何事にも全力投球で望まれる方です。もっとも印象的だったのは、お正月の準備で徹夜をなさった件。今はもちろんのこと、日本にいたときもお正月の準備が紅白に間に合わなかったら、「ま、いっか」と一年延長していた私とは正反対だわ〜と感心しておりました。

さて、二回目の参加となった今回は、創作によるご参加ではなく、おそらく実際に起こったことを綴られている記事です。そうなんですよ、scriviamo!は創作でなくてもOKなんです。非創作カテゴリーのブロガー様たち、よかったら遠慮せずにご参加くださいませ。

で、お返しは、記事ではなくて掌編小説、さらにこの記事に関連したことがいいんだろうなあと思ったのです。こんな感じの若干ファンタジーな話になりました。

なお、今回のストーリーは、先にかじぺたさんの記事を読まれることを推奨いたします。そうしないと意味不明かも……。


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黒色同盟、ついに立ち上がる
——Special thanks to Kajipeta san


 その家を窓から覗き込みながら、タンゴは「ちっ」と舌打した。また新しい案件だ。今日の会議で話し合わなくちゃ。

 タンゴは誇り高き野良猫だ。真っ黒のつややかな毛並みが自慢。もちろん前足や後足などに白足袋を履いているような中途半端な黒さではなく、中世のヨーロッパにでもいたら真っ先に魔女裁判で薪の上に置かれたような完全な黒猫だ。

 もちろん今は黒いからといって焼き殺されることはないが、普通に歩いているだけで
「いやだ、もう! 朝から黒猫が横切るなんて、縁起が悪い」
などど恨みがましく叫ばれることはよくある。自分を何様だと思っているんだ。お前の方が縁起が悪いぞ。

「よう、タンゴ。なにをそんなに急いでいるんだ?」
声を掛けてきたのは、カラスヘビだ。シマヘビなのだが、全身が黒くなるメラニスティックとして生まれてきたので、虹彩に至るまで黒い。タンゴと同様に黒色同盟の理事を務めている。

「会議の議題を一つ追加しなくちゃいけないんだ」
「なんだって? 今になって?」
「そうさ。捨て置けない案件を、たったいま目撃してしまったんだ」
「そうかい。もう広場にみんな集まっていると思うぜ」

 太陽が黒松のてっぺんにさしかかった頃、黒色同盟の今年三回目の会議が開催される。議長は、持ち回りで今日は黒山羊のバアルだ。

「皆さん、ご静粛に。これより今年三回目の黒色同盟定例会議をはじめます。まずは出欠者の確認です。黒い皆さんはみんないらしていますか。白ヤギやシマリスなどの関係のない皆さんは、しばらく退席してください」

 ガヤガヤとその場で移動する音がして、黒松広場には文字通り黒い生き物だけが残った。黒山羊バアル、黒猫タンゴやカラスヘビ以外にも、黒鳥のオディール、蜘蛛のブラック・ウィドー、カラスたちの代表ダミアン、黒い蛙のブフォ、その他たくさんの黒い動物たちが参加していた。議題は主に「黒いからといって排除されたり嫌われたりする理不尽について」である。

「静粛に。今週の理不尽事例の発表は……。ああ、まずオディールから」
バアルは黒い髭をゆらゆらと揺らして、優雅に座る黒鳥を指名した。

 黒鳥はカモ科ハクチョウ属に分類されるオーストラリア固有種である。探しても無駄なことのたとえとして「黒い白鳥を探すようなもの」と慣用句で使われていたが、17世紀にオーストラリアで発見されてしまい、それ以来ことわざの意味が「常識を疑え」という意味に変わってしまったことでも有名だ。

「本日、私が申し上げたいのは、あのバカ王子の件です」
オディールはぷんすか怒って、黒松の下に据え付けられたステージによじ上ると、黒いチュチュをバタバタさせた。ああ、バレエ『白鳥の湖』の件ね。多くの参加者が「その話は知っているよ」という顔をした。

「いいですか。白鳥オデットに甘い言葉を囁いていたのに、後から私に結婚を申し込んだのは、私がオデットに化けて騙したからだっていうんですよ。自分が浮氣しただけなのに、ふざけやがって。私はちゃんと自分の黒い衣装で出かけていったのに。そして、私が悪魔の娘だっていうんです。ホント失礼しちゃう!」

 すると、カラスヘビが木の上から吊り下がって来た。
「悪魔と言えば、俺もムカつく件があるよ。アダムとイブを騙したのは俺っちだって濡れ衣さ。ヘビは狡猾でした、とか書きやがったヤツがいて、その挿絵にはいつも俺っちみたいな黒ヘビが描き込まれる。それなのに、あの人間どもときたら白ヘビは神様の使いとか言っちゃって、抜け殻を財布に入れたりするんだぜ」

 黒蜘蛛のブラック・ウィドーも糸を伝わってするするとステージに降りてきた。
「私は確かに交尾が終わるとオスを食べちゃいますけれど、それはオスも合意の上ですし、そもそも一度だって相手に保険をかけたことはないんですよ。それなのにあのがめつい人間の女たちと一緒にするなんてひどいと思います」

 黒山羊のバアルは、角でガンガンとステージを叩き、議長を無視して勝手に発言する輩を牽制した。

「静粛に。ここにいるほとんどの同盟者諸君は、みな人間の『黒い生き物は縁起や心がけが悪い』という偏見による被害を受けているのだ。過去の事例はいいから、現在進行中で抗議変更すべき事例はないのかね!」

 黒猫のタンゴは「はいはいっ!」と前足の肉球を高く持ち上げて発言許可を待った。

「なんだね。タンゴ。君が横切ると人間が不吉だと騒ぐ話は、わかっているから言わなくていいよ」
「違います。その話じゃありません。現在進行中の案件です」

 その場に集まった真っ黒の集団は、一様にざわめいた。
「なんだって! 現在進行中?」

「たった今、あの角を曲がったところにある家で、由々しき事態を目撃したのであります」
「なんと。いったい何を見たというのかね」

「はい。僕はこの会議に遅刻しないように、近道をしてその家の窓の外を通っていました。リビングで一人の女が大量の折り鶴を前に何かを騒いでいました。よく聴くと『こんなに黒い折り鶴が!』って、いうんです。どうやら何かのお祝い事で手分けして折り鶴を作らせて取りまとめている時に、黒い紙で折ったものを発見、それが縁起が良くないので取り除いていた模様であります!」

「なんだって。それは、我々が迫害されている動かぬ証拠ではないか」
黒山羊バアルは立ち上がり、興奮して黒松の上によじ上った。

「ようやく動かぬ証拠の現場に立ち会えるというわけだな。しかも、すぐそこというのが素晴らしい。早速抗議に行こう」

「そうだそうだ! 不当差別反対!」
「黒を葬式に使うのを阻止せよ!」
「黒はハードロックとパンクの色!」
「イカスミスパゲティにもっと愛を!」

 口々に叫ぶうちに、どうもおかしなスローガンに変わりつつあったが、みな興奮しているのでそれに氣づいていない者も多かった。

 会議場に招集された黒色同盟日本支部会員資格を持つ58万6742匹の動物たちは、足並みを揃えて黒猫タンゴが目撃した折り鶴を選り分けていた女性の住む家へと向かった。あまりにたくさんの黒い動物が移動したので、あたりは真っ暗になって、近隣の人びとは何事が起こったのかとドキドキした。

「あそこです! あの家です。そしてあの窓から見てください!」
タンゴがぴょんと窓枠に飛びのると、先ほどまで折り鶴を選り分けていた女性は奥に引っ込んでしまっていて見当たらなかった。そして、五百羽以上はあった色とりどりの他の折り鶴がなくなった机の上に、小さくてかわいらしい黒い折り鶴が六、七匹、ちょこんと残っていた。

「ほ、ほらっ。あんな風に迫害されて! 他の折り鶴はなくなってしまいましたが、あんなところに黒いのだけが放置されています!」
「どれどれ。たしかに黒いのだけ残っているな……。では早速抗議行動を……」

 その時、奥の部屋から女性の明るい声が聞こえてきた。
「ねえねえ、ちょっとこっちに来て見てみない? お祝いの折り鶴の山からしかたなく取り除いた黒い子たちだけれど……」

「なんだ? 黒い折り鶴がどうしたって?」
もっと奥から、優しそうな男性の声がした。

 明るい女性の声は続けた。
「うん。それがね。とってもかわいいから、このまま我が家に飾っておこうかなって思うの。こういう風に並べると、素敵だね」

 怒りの拳をあげていた黒色同盟の会員たちは、「あれ」と顔を見合わせた。

「迫害されていないじゃないか」
黒山羊バアルがいうと、タンゴはオロオロしながら頷いた。

「それどころか、他の折り鶴はまとめて持ち去られましたが、黒い折り鶴は永久保存してもらえるようですよ」
カラスヘビがとぐろを巻きながら言った。

「な~んだ。たまには僕たちも優遇されることがあるんだね」
「そうか~。そりゃ、よかったよかった」

 すっかり氣をよくした黒い動物たちは、ウキウキした心持ちでその場から解散した。帰り道にもみな上機嫌で、普段は喧嘩を引っ掛ける相手である白いチンチラ猫や白馬などにも朗らかに挨拶する者まで現れた。

 この一件があってから、しばらく黒色同盟の会議は開催されなかった。黒松広場は空いていることが多かったので、かわりに「灰色の動物たちをグレーゾーンから保護する会」の第一回総会が開催されるなど、近年にない様相を見せた。

 黒猫のタンゴと言えば、例の家の窓を訪ねては大事にされている黒い折り鶴たちを眺めて喜んでいる日々を送っていたが、あまりにもしょっちゅう来るのでその家の二匹のコーギー犬にすっかり憶えられてしまい、時々ドッグフードを恵んでもらう仲になったらしい。

 猫がドッグフードを食べるとどうなるのかについてはまだ黒色同盟では明らかにされていない。おそらく次の定例会では、例の黒い折り鶴たちの現状とともに、その件についても報告があると予想されている。


(初出:2017年2月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

わが魂のために

おやつBox

なんだかいかにも中二病的なタイトルですが。

二年くらい前に一時期、体重の増加が見過ごせないレベルになってきまして、ダイエットをした事がありました。

私は全人生を「痩せ形」で通してきたんですけれど、さすがにこの歳になるとお腹がぽっこりなってくるものなんですよ

で、「美魔女」として生きたいなどという野望はみじんも持っていないんですが、服全部を買替えなくちゃいけないというのは嫌だという身もふたもない理由で、とりあえずダイエットに励み、まずは体重が落ち、それから一年くらいかけて、お腹ぽっこりも解消してきて、真っ平らとはとても言えませんがなんとか三年前の水準に戻ったわけです。

それから、一応、毎日体重計に載り、さらには深夜のおやつを制限するなど、大したことのない努力だけは続けているわけなのです。

でも、時々は自分を甘やかすのです。

私はファッションモデルでもないし、そもそもファッションに興味もほとんどない、連れ合いも私の外見にははじめからほとんど期待しておらず、要するに健康で持っている服を引き続き着用できればいいわけで、そのために苦行をしたくはないわけです。

だからあまり厳しいダイエットルールを自らに課して、不満だらけの人生を過ごしたくないんです。

で、自分への言い訳代わりによく遣う言葉が「Für meine Seele」という言葉なんですね。直訳すると「わが魂のために」となります。「この深夜のチョコをひと口はルールを破っているんじゃないの。私の魂が欲しているの」みたいな感じで使っております。あ、これはドイツ語の慣用句とかではなくて、私が個人的に、ですよ。もちろん私だって、真面目にこんないい方をしているわけではなくて、「(苦笑)」がくっついたみたいな感じで口にするわけです。

上は、そんなひと口の「魂のお薬」の入った缶でございます。いちごみるくとか明治やグリコのチョコレートなどが入っています。

スイスチョコの最高峰!

こちらは最高に美味しいスイスチョコLäderachのチョコ。友人へのプレゼントを買ったついでに自分用に購入したものです。これでしばらく幸せに頑張れそう。

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Posted by 八少女 夕

【小説】絶滅危惧種

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十一弾です。

大海彩洋さんは、『ピアニスト慎一』シリーズの番外編で参加してくださいました。ありがとうございます!


彩洋さんの書いてくださった短編 『サバンナのバラード』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。年代が近い、物語を書いてきた長さが近い、ブランクがあったことも似ているなどなど「またシンクロしている!」と驚かされることの多い一方で、えらい違いもあり「ううむ、ちゃんと精進するとこれほどすごいものが書けるようになるのか」と唸らされてしまうことがとても多いのです。

今回書いていただいた作品とその本編に当たる「死と乙女」でも、私のよく書く「好きなクラッシック音楽をモチーフに」に挑戦されていらっしゃるのですが、「なんちゃってクラッシック好き」の私とまさに「えらい違い」な「これぞクラッシック音楽をモチーフにした小説!」が展開されています。

で、今回書いてくださったのは、またまた「偶然」同じモチーフ「女流写真家アフリカヘ行く」が重なった記念(?)に、彩洋さんのところの女流写真家ご一行と、うちの「郷愁の丘」チームとのコラボです。というわけで、こちらはその続きを……。

しかし! 大人の事情で「ジョルジア in アフリカ with グレッグ」は出せませんでした。出すとしたら「郷愁の丘」が終わったタイミングしかなくて、それはあまりにもネタバレなので却下。そして、せっかくゲスト(奈海、ネイサン、ソマリア人看護師の三名)に来ていただいているというのに、某おっさんは、これまた大人の事情で取りつく島もない態度……orz。彩洋さん、ごめんなさい。ここで簡単にネイサンたちと仲良しになれるようなキャラに変更すると、本編のプロット大崩壊なんです。

ということで、おそらく彩洋さんの予想と大きく違い、別のもっとフレンドリーなホストで歓待させていただきました。こっちは、たぶん五分で意氣投合すると思います。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む(第1回のみ公開済み)
あらすじと登場人物


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郷愁の丘・外伝
絶滅危惧種 
——Special thanks to Oomi Sayo san


 普段はあまり意見を言わない看護師がぼそっと言った。
「どうしてわざわざシマウマを観に行くの」

 運転席で、それは当然な問いかけだなと彼は思った。アフリカのゲーム・サファリをする時に、シマウマを観るためだけに車を走らせたりする者はない。ライオンやチーターを探すついでに見たくなくても見えてしまうのが普通だからだ。

「見せてもらうのはただのシマウマじゃないんだよ。ね、スコット博士」
フランスから来た医師が彼に話しかけた。

「はい。これからお目にかけるのは、グレービー・シマウマです」
彼は後を振り返って答えた。彼の運転するランドクルーザーには、三人の客と一匹の犬が同乗している。助手席にはソマリア出身の看護師が座り、フランス人の医師と日本人の女性カメラマンは後部座席に座っている。そして、その後に踞るのは彼の愛犬であるローデシアン・リッジバック、ルーシーだ。

 ネイサン・マレ医師は、撮影をしたがるに違いない奈海が助手席に座った方がいいと主張したのだが、ルーシーがソマリア人を執拗に威嚇するので、距離を開けるためにしかたなくその配置にしたのだ。

「よくあることなんだよ」
スコット博士がソマリア人に謝っているとき、ネイサンは奈海に耳打ちした。

「なにが?」
「アフリカの番犬は、黒人にひどく吠えることが多いんだ。別にそういう教育をしているわけじゃなくても。そして、多くの黒人は番犬が苦手になる。そうすると、それを感じとる犬はもっと吠えるんだ」
「でも、ルーシー、最初は私やあなたにもずいぶん吠えていたわよ」
「まあね。番犬として優秀ってことかな」

 その説明を聞きながら彼は申しわけなさそうに言った。
「彼女は、ほぼ全ての初対面の人間にひどく吠えるんです」

「ってことは、例外的に吠えなかった人もいるってことかい?」
ネイサンが訊くと、彼は短く「ええ」とだけ答えた。

 彼自身の父親であるジェームス・スコット博士でも、その恋人であるレイチェル・ムーア博士でもなく、そして二人の娘のマディでもない。初対面の人間にひどく吠え立てるルーシーがはじめからひどく尻尾を振って懐いたのは、半年ほど前に滞在したアメリカ人女性だった。

 それは、やはり今日のようにマリンディの父親の別荘に滞在した時だった。彼の意思とは関係なく別荘に行くことになったのは今回と同じだったが、その女性は自分で招待したのだ。彼が誰かを招待したのはここ十年では彼女一人だけだった。そもそも、断られると思いながら誘ったのだが、彼女が意外にも簡単に招待に応じてくれたのだ。

 その時たまたまその場にいた旅行エージェントを営む友人リチャード・アシュレイは、彼のことを誤解したようだった。しばらく逢わないうちにすっかり社交的になったのだと。実際には、あいかわらず人間との交流を可能な限り避けている。リチャードは、半年前に彼の人生の沙漠に突然訪れた夢のような一週間のことは知らないだろう。それとも、不器用なために何の成果も手にしなかった話がすでに面白おかしく伝わっているのかもしれない。

 そもそもリチャードは、今回この三人の客を彼に紹介したわけではなかった。ホスピタリティにあふれ、時おりビジネスの範囲を大きく超えて客を歓待するリチャードは、彼に三人の客を見事に接待する能力があると思うほど楽天的ではなかった。

 そうではなくて、この別荘を実質的にいつも使っている人懐こい夫婦に、三人のもてなしを依頼したのだった。つまり、マディとその夫であるイタリア人アウレリオ・ブラスだ。

 アウレリオはオックスフォード時代から付き合いのあるリチャード・アシュレイの親友だ。彼が、リチャードを通じて性格の全く違う無口で人付き合いの下手なケニア出身の学生スコットに近づいたのは、大いなる下心があってのことだった。すなわち、一目惚れした彼の腹違いの妹と親しくなるための布石だ。

 その甲斐あって、マデリン・ムーアと首尾よく結婚したアウレリオは、今では彼の義理の弟となってケニアに移住している。そして、イタリア系住民のコミュニティのあるマリンディの別荘でバカンスを楽しむことも多かったし、親友リチャードの依頼を愛想良く受けてその友人を歓待することも好んだ。だが、愛すべきアウレリオには、大きな欠点があった。肝心な時に決してその場にいないのだ。

 今回もリチャードから紹介され、三人の客の受け入れを快諾したものの、ミラノでの商談の時間がずれ込み約束の日にケニアに戻って来ることが出来なかった。だが、別荘の本来の持ち主である義父ジェームス・スコット博士に代わりに接待をしろとは言えない。妻のマディは二人の子供を抱えていて簡単に250キロも移動できない。そこで急遽、鍵を持っているジェームスの息子であるヘンリーが呼びつけられたのだ。

「グレービー・シマウマって、普通のシマウマとどう違うの?」
日本人カメラマン奈海の声で彼は我に返った。シマウマの研究者である彼は、説明を始めた。

「グレービー・シマウマは、アフリカ全土でよく見られるサバンナシマウマ種よりも大型です。縞模様がよりはっきりしていますが、腹面には模様がありません。ケニア北部とエチオピア南部のみに生息しています」

「ずいぶん減っているんだろう?」
「はい。ワシントン条約のレッドデータでEN絶滅危惧種に指定されています。1970年代には15000頭ほどいたのですが、現在およそ2300頭ほどしか残っていません」

 奈海は驚いた声を出した。
「そんなに減ってしまったの? どうして?」
「縞模様が格別にきれいで、毛皮のために乱獲されたんです。そして、家畜と水飲み場が重なったためにたくさん殺されました」

「今は保護されているんだろう?」
「ええ、捕獲や殺戮は禁止されていますしワシントン条約で保護されたためにここ数年の生息数は安定しています。でも、エチオピアが建設を予定している大型ダムが完成するとトゥルカナ湖の水位が大きく下がると予想されています。それで再び危機的な状況になると今から危惧されています」

 ランドクルーザーは、アラワレ国立自然保護区に入ってから、ゆっくりと進んでいた。マリンディから130キロしか離れていないと聞いていたので、すぐに到着して簡単にシマウマが見られると思っていたが、すでに三時間が経っていて、いまだにヌーやトムソン・ガゼルなどしか目にしていなかった。

「ほら、いました」
彼は、言った。
「あ、本当ね」
ソマリア人が答えた。

「え? どこに?」
奈海は後部座席から目を凝らした。彼女にはシマウマの姿は見えていない。ネイサンが笑った。
「都会の人間には、まだ見えないよ」
「え?」
「サバンナに暮らす人間は視力が6.0なんてこともあるらしいよ。遠くを見慣れているからだろうな。十分くらいしたら君や僕にも見えてくるさ」

 本当に十分以上してから、奈海にもシマウマが見えてきた。彼は生態や特徴などについて丁寧に説明してくれるが、奈海が満足する写真を撮れるほどには近づいてくれない。窓を開けてカメラを構えるがこの距離では満足のいくアングルにならない。

「もう少し車を近づけていただけませんか」
「これが限界です。これ以上近づくことは許可されていません。向こうから近づいてくればいいのですが」

「でも、周りには誰もいないし、僕たちはシマウマにとって危険じゃないから、いいだろう」
ネイサンは、奈海のために頼んだ。
「車で近づくのがダメなら、私、降りて歩いてもいいわ」

「近づくのも降りるのも不可です。彼らをストレスに晒すことになりますから。この規則は、あなたたちに問題が降り掛かるのを避けるためでもありますが、それ以上に生態系を守るためにあるんです」

 警戒心の強いシマウマたちは、どれだけ待っていても近づいてこなかった。やがて彼は時計を見て言った。
「申しわけありませんが、時間切れです。もう帰らないと」

「まだ陽も高いし、少しスピードあげて戻ればいいんだし、あと一時間くらいはいいだろう? まだ彼女が撮りたいような写真は撮れていないんだ」
ネイサンがまた奈海のために頼んだが、彼は首を振った。

「この保護区内では時速40キロ以上を出すことは禁じられているんです。そして、夕方六時までに保護区の外に出ないと」

 これまでのサファリで、こんなに融通の利かない事を言われたことはなかったので、ネイサンと奈海は顔を見合わせた。頼んでも無理だということは彼の口調からわかったので、大人しく引き下がった。

 出かける前にパリに電話をかけていて出発が遅くなったことが悔やまれた。そう言ってくれれば、電話は帰ってからにしたのに。奈海は名残惜しい想いで遠ざかるグレービー・シマウマの群れを振り返った。

* * *


「ヘンリー!」
マリンディに戻ると、アウレリオと二人の子供たちと一緒に到着したマディが待ち構えていた。夫が三人の客たちに無礼を詫びつつ、リビングで賑やかに歓待している間、彼女は彼を台所に連れて行った。

「私たちの到着が遅くなって、三人の世話をあなたにさせたのは悪かったわ。でも、ヘンリー、あなた、まさかお客様にあれを食べさせたわけ?!」
彼女は、流しの側に置いてあるコンビーフの空き缶を指差した。

 彼は肩をすくめた。
「僕にフルコースが作れると思っていたのかい」
「思っていないけれど、いくらなんでも!」

 彼は首を振った。
「心配しなくても、焼きコンビーフを食べさせたわけじゃないよ。そうしようかと思っていたら、見かねたマレ先生があれとジャガイモでちゃんとした料理を作ってくれた」
「あきれた。マレ先生に料理させちゃったのね」

「だから、今夜は、まともに歓待してやってくれ。僕は、帰るから」
「食べていかないの?」
「今から帰れば、明日の朝の調査が出来る。それに、僕がここにいても場は盛り上がらないから」

 マディは、居間にいる四人と子供たちがすっかり打ち解けて楽しい笑い声を上げているのを耳にした。そして、打ち解けにくい腹違いの兄との時間で三人が居たたまれない思いをしたのではないかと考えた。ヘンリーは決して悪い人ではない。ないんだけど……。

「そんなことないわ。それにあの日本女性、写真家だし、弾む話もあるんじゃないの?」
マディは、含みのあるいい方をしたが、彼は乗ってこなかった。

 彼女は続けた。
「彼女と連絡取り続けているんでしょう? 行くって聞いたわよ、来月ニューヨークに」
「どういう意味だ」
「ママがあなたも行くって。あなたが海外の学会に行くなんて、珍しいことだもの。ミズ・カペッリに会うんでしょう?」

 彼は首を振った。
「ニューヨーク学会に行くのは、レイチェルがスポンサーに紹介してくれるからだ。もしかしたら援助してもらえるかもしれないから。ミズ・カペッリは忙しいだろうし、押し掛けたら迷惑だから連絡していない」

「どうして?! せっかく再会できるチャンスなのに、この間、ずいぶん仲良くなったじゃないの」
マディは、よけいなおせっかいとわかっていながら言い募った。

 彼は、答えずに彼女の瞳を見つめ返した。暗い後ろ向きな光だった。彼女は、よけいな事を言ったことを後悔した。上手くいっていたと思っていたのに……。

 彼は、「じゃあ、これで」と言うと表で待つルーシーを連れて車に乗り込み去っていった。

 人付き合いが下手な上、父親ともほとんど没交渉の彼のことを、マディと母親のレイチェルはいつも氣にかけていた。クリスマスや復活祭の食卓に招んだり、別荘での休暇に呼び出したり、学会でも声を掛けたり、彼が《郷愁の丘》に引きこもり続けないように心を砕いてきた。彼は、それを感謝し嫌がらずに出かけてくるが、自ら打ち解けることはまだ出来ない。

 逢ってまだ三十分も立っていないのに、もう昔からの親友のように楽しそうに語り合うアウレリオとマレ医師たちの声を聴きながら、彼女はこの世と上手くやっていけない腹違いの兄と比較してため息をついた。

 夫は彼女に近づくのに躊躇したり、迷惑だろうからと遠慮したりはしなかった。そして、それが彼女自身の幸せにつながった。だが、それをヘンリーに言っても助けにはならないだろう。彼はそういう人間ではないのだから。

 彼女は両親や兄のように動物学者ではないから、学術的なことはわからない。でも、進化論で「絶滅した種は環境に適応できなかったから」と言われているのくらいは知っている。他の生物と同じく環境に適応できないために種を保存できない人間もいるのかもしれない。

 彼女は頭を振ると、去っていった兄の愛するアメリカ人ではなく、パリから来た女流写真家と会話を楽しむべく居間へと向かった。

(初出:2017年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

ウルトラ乾燥に対抗して

ハンドクリーム

子供の頃、祖母の手がしわしわなのを見てかわいそうだなと思ったことを記憶しています。その手の甲には、シミもたくさんあって、爪も当時の私の桜色の爪と違って白っぽくってざらついていました。

それから○十年。自分の手がどちらかというと祖母のものに近づくとは。まあ、そういうものです。我が家は肝臓の弱い家系なのですが、そのせいなのか祖母は身体のあちこちにシミがあり、氣にしていました。私の年齢はまだ当時の祖母と比較するとひと回りは若いから比較は出来ないかもしれませんが、手のシミはまだ「よく見るとひとつ2つ」程度。顔にはもっとありますけれど。

もっとも、乾燥しているせいか、ザラザラしてきて「これはまずい!」と思ったので、ここしばらくちゃんとケアしています。そう、それまではほとんど何のケアもしないでいたんです。

食器は主に食洗機で洗うので、手で洗うのはそれほど多くありませんが、実は手袋をしていません。ドイツのFloschという環境に優しい洗剤を使っているのですけれど、それのおかげか洗いものではほとんど手荒れをしないんです。

でも、冬になると、やはりとんでもなく乾燥しているせいか、かなりザラザラ。それに踵の肌荒れもひどくて。

で、この冬はL'Occitaneのハンドクリームを買ってきて毎日擦り込んでいます。シアバター入りで、なかなかいい感じです。

買うときに、ミニサイズにするか、このお徳用の大きさにするか迷ったんです。かなりお高いじゃないですか。結局大きい方を買ったので、使わないままに放置せずに、毎日せっせと塗っています。使わなくなるとすぐにまた荒れてきますから、とにかくなくなるまでせっせと塗ろうと思っています。その代わり、次のはポルトに行く時に空港で小さいのがいくつか入っているお徳用セットを買うつもりでいます。

子供の頃の肌に戻るわけではないですが、「冬だ、まずい状態だ」の手が、握手しても恥ずかしくないぐらいにはなりましたよ。

それに、踵です。とんでもなく荒れていたのが、「人間の踵」になってきました。まだ「女の子の踵」って訳ではないですけれど(笑)
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Posted by 八少女 夕

【小説】その色鮮やかなひと口を -5 -

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十弾です。

嬉しいことに今年もココうささんが、俳句で参加してくださいました。冬と春の二句です。ありがとうございます!


ココうささんの書いてくださった俳句

冬木立手より重なる影ありぬ  あさこ
 
春の水分かれてもまた出会ひけり  あさこ


この二句の著作権はココうささん(あさこさん)にあります。無断転載ならびに転用は固くお断りします。


ココうささんは、以前素晴らしい詩や俳句、揮毫を発表なさっていらっしゃいましたが、現在はブログをお持ちではありません。でも、今でもこのブログを訪ねてくださり、時々、お話ししてくださるんです。実生活と違って、ブログ上でのお付き合いは連絡先を知らない限り簡単に途切れてしまいますが、こうして交流が続くこと、本当に嬉しく思います。

そして、毎年のお約束になっていますが、一年間放置した二人をココうささんの俳句で動かさせていただきました。島根県松江市で和菓子職人になったイタリア人ルドヴィコと店でバイトをしている大学生怜子のストーリーです。年に一度という寡作の割になぜか展開が早いのですが、もう五年もこのままですからね。


【参考】この話をご存じない方のために同シリーズへのリンクをつけておきます。
その色鮮やかなひと口を

「scriviamo! 2017」について
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



その色鮮やかなひと口を -5 - 
Inspired from 2 Haikus by Asako-San
——Special thanks to Kokousa san


 二月だというのに、道には雪はほとんどなかった。まだ肌寒いが、枝の蕾のふくらみや、穏やかな陽の光に歌う小鳥のさえずりが、春はそう遠くないことを報せてくれる。

 怜子は、運転席に座るルドヴィコに視線を移した。さほど空間の広くないレンタカーの中で、彼の頭と天井との空間はたくさんは残っていなかった。怜子は背の高い穏やかな青年の横顔に微笑みかけた。

「どうしましたか。怜子さん」
彼は、いつも通り流暢な日本語で語りかけた。怜子は「なんでもない」と言って窓の外に視線を戻した。

 注文品を届けることがあるので、彼は仕事で運転することはあるが、プライヴェートでは一畑電鉄のバスや電車にのんびりと乗るのを好んでいた。でも、今日は、山口県との県境まで行かなくてはならず、交通の便が今ひとつなので車を借りたのだ。怜子は、彼とドライブしたことは一度くらいしかないので、妙にワクワクしていた。もっとも、怜子の両親のところに行く用事の方にもっとドキドキすべきなのだが、そちらの方はいまいちピンと来ていなかった。

 そもそもの事の起こりは、二週間ほど前だった。怜子が将来のことでルドヴィコに相談を持ちかけたのだ。

「ゼミの指導をしてくれている助教授がね。恩師が教鞭をとっている京都の大学院を受けてみないかっておっしゃるの。どうしようかなあ」
「怜子さんは文学の研究を続けたいんですか?」

「う~ん。もっと研究したら面白いとは思うけれど、将来のこともあって考えちゃう。研究職に就きたいってことではないのよね。京都に行けば京阪神の大都会で仕事をする可能性が開けるとゼミ仲間は言うけれど、大学院卒ってよほど優秀じゃないと就職先ないし」

「怜子さん、都会で仕事したいんですか」
「私、島根県から出たことないもの。このままここで就職活動したら、井の中の蛙のままになるんじゃないかなあ。それでもいいれど、先生がせっかく奨めてくれるのは自分を試すチャンスかもしれないと思って。ルドヴィコはどう思う?」

「もし、こちらで就職活動をするとしたら、どんな所に勤めたいんですか?」
「とくに決めていないよ。私は特殊技能もないし、事務職かなあ。そもそも求人があるかしら」

「『石倉六角堂』にこのまま勤めるのは嫌なんですか?」
「いや、嫌じゃないけれど、私はバイトだもの。ルドヴィコみたいに和菓子職人としての技能があれば社長も正社員として採用してくれるけれど、バイトの正社員登用なんてないと思う」

 彼は腕を組んで納得のいかない顔をしていたが、どうやら社長に打診してくれたらしい、翌日怜子は石倉夫人と社長に呼ばれた。

「怜ちゃん、ルドちゃんから聞いたんだけれど、卒業後にここで働くつもりはないの?」
石倉夫人に訊かれて怜子は驚いた。
「え。考えたことなかったです。去年、千絵さんも就職活動の時期に辞められたのを見ていたから、はじめから無理だと思っていて……」

「うちはそんなにたくさん正社員を雇えないし、一度雇ったら誰かが辞めるまでは新しく募集できないさ」
社長がいった。怜子は、ほら、そうだよね、と思いながら頷いた。

「だからね。怜ちゃんが卒業するまでは、少しキツいけれどバイトのシフトだけでなんとか凌ごうって去年、アルバイトを増員したのよ」
石倉夫人は夫の言葉を継いだ。

「え?」
怜子は、目を瞬かせて二人の顔を見た。その反応に二人は顔を見合わせた。

「ルド公は、何にも言っていないのか?」
「なにをですか?」

「困ったヤツだな」
社長はため息をもらした。それから、ばっと事務所の扉を開けると、奥の厨房にいるルドヴィコに向かって叫んだ。
「おい。ルド公! 俺から言ってしまうからな!」

 奥から「どうぞ」という彼の声が聞こえると、社長は再びドアを閉めて、また怜子の前に座った。

「実はな。一年ぐらい前から具体的に話しているんだが、数年後にもう一軒支店を増やすつもりなんだ。新しい店は義家と真弓さんに任せるつもりでいる。そうなると、こっちでメインに作ってもらうのは佐藤とルド公になるだろ。で、真弓さんの代わりに昼夜関係なく働ける正社員がもう一人いるって話になったんだよ。そうしたらルド公が、自分の嫁じゃだめなのかといったんだよ」

「え?」
「その、ルドちゃんは、怜ちゃん、あなたが卒業したらお嫁さんになってもらって一緒にここでやっていくつもりだったの。もちろん私たちは大歓迎だけれど、彼ったら何も言っていなかったのね。まさか、こんな形で私たちから告げることになるとは夢にも思わなかったわ」

 あまりに驚いて何も言えない怜子に、社長は言った。
「あいつの嫁になるかどうかは別として、もしここを辞めて県外に行くなり、他の職種に就職したいって場合は、三月までに返事をくれないか? その頃には、正社員の募集をかけなくてはならないし」

 それで、その日の仕事から上がるとすぐにルドヴィコに詰め寄った。
「ルドヴィコ、わたし何も聞いていないよ!」

 彼は、肩をすくめて言った。
「だから、近いうちに怜子さんのご両親の住む街に行こうって言ったじゃないですか。怜子さんが試験が終わってからがいいと言ったんですよ」
「うちの両親なんて、これと関係ないでしょう。……って、あれ? まさか……」
「そうですよ。『お嬢さんをください』って、ご挨拶をしないと」

「ええっ? でも、ルドヴィコ、まだ私にプロポーズしていないよ?」
「しましたよ。怜子さんOKしたでしょう」
「いつ?」
「先週、城山稲荷神社で」
「え? あ……あれ?!」

 松江城の敷地内にある城山稲荷神社は千体もの石の狐がある不思議空間だ。店からもルドヴィコの住まいからもとても近いにも関わらず、この神社に一緒に行ったのはまだ三回目だった。石段を上るのが一苦労だからだ。

 でも、その日は二人で久しぶりにお稲荷さんにお詣りして、かつて小泉八雲が愛したと言う耳の欠けた狐や幸福を運ぶ珠を持った狐を二人で探した。

「小泉八雲は通勤中にここをよく訪れたそうですよ。日本らしい幽玄な光景、当時二千体もあったお稲荷さんを見て、そして、それが全て神として信仰されているのを知り、ここは故郷とどれほど違った国なのだろうと驚いたでしょうね」
「そうだよね。私たち日本人でも、これだけ揃っているとすごいなあって思うもの。八雲、よく日本に帰化する決心がついたよね」
 
 ルドヴィコは、怜子を見つめてにっこりと笑った。彼の後にある大きな樹から木漏れ日が射していた。
「彼は、日本とその文化を深く愛していたから、この国に居たいと思ったのでしょうね。でも、二度と故郷に戻らなくてもいい、ここにずっと居ようと決心させたのはセツの存在だと僕は信じます。この人が自分にとってのたった一人の人なのだと確信して、一緒に生涯を共にしようと思った。この松江で、僕もそういう人に逢えたことを神に感謝しています」

 そう言って、彼は怜子の手を取った。
「怜子さん。僕たちも、これからこの街の四季を眺めながら、ずっと長い人生を歩いていきましょう」

 葉を落とした大きな神樹の枝の影、背の高いルドヴィコの優しい影、そして繋がれた手のひらから伝わるぬくもりで、怜子の心は大きな安心感に満たされた。きっと小泉セツも、同じような確信を持って、異国の人と生涯を添い遂げようと思ったんだろうなと理解した。
「うん。ルドヴィコ。そうなるといいね」

 そのとき、怜子は、「いずれ彼と結婚することとなるに違いない」と確信したのだ。でも、まさかあれがプロポーズそのものだったなんて!

「あんな抽象的ないい方じゃ、プロポーズされているんだかどうだかわからないよ!」
「なんですって。じゃあ、僕がどんなプロポーズをすると思っていたんですか?」
「え。花もって、膝まづいて、結婚してくださいってヤツ?」

 ルドヴィコは「そんなベタなプロポーズは今どきイタリアでもしませんよ」と、大きなため息をついた。

 そして、ようやく怜子の試験が終わったので、レンタカーで両親のもとへ行くことにしたのだ。

 ナビゲーターに誘導されて、レンタカーは小さな谷間を走っていた。人通りの少ないのどかな田園風景がどこまでも続く。ルドヴィコは、車を停めて休憩をした。

「わあ。こんなところに、かわいい小川がある」
怜子は、道の脇から覗き込んだ。まだ残っている雪が溶けて、透明な滴をぽとり、ぽとりと川に注いでいた。

 休みの日に、こうやってルドヴィコと二人でのんびりと過ごせるのは、とても自然で嬉しいことだった。そして、それはこれからの人生ずっと続くことなのだ。あたり前のようでいて、とても不思議。怜子は考えた。

「あ。来週、先生に京都の件、断らなくちゃ」
怜子が言うと、ルドヴィコは「断っていいんですか」と訊いた。

「だって、大学院で研究しても、将来には結びつかないよ。京都や大阪で就職する必要もなくなったし」
「井の中の蛙は嫌なんじゃないんですか」
そう言われると、いいんだろうかと考えてしまう。

「ルドヴィコも、イタリアから外の世界に出てみたかったの?」
怜子が訊くと、彼は彼女の方を見て笑った。
「イタリアの外じゃなくて、日本に行きたかったんですよ。夢の国でしたから。今ほど簡単に情報が手に入らなかったので、混乱しましたけれど、その分、早く行ってみたいと想いを募らせていました」

「何があると思っていたの?」
「子供の頃は、ポケモンとニンジャですよ。少し大きくなってからは伊藤若冲とドナルド・キーン」
怜子はすこしずっこけた。子供の頃と少し大きくなってからが、全然つながっていない。

「日本に到着してからは、もっとたくさんの情報に振り回されましたが、松江にたどり着いてようやく落ち着きました。日本には本当に何でもありますが、自分にとって大切なものは、自ら削ぎ取らないと見失ってしまう。日本古来の美学は、それを知るいい指針となりました」

 怜子は、そうなのかなあと思いながら、田園風景を眺めた。確かにルドヴィコと私が両方とも大阪や東京にいたら絶対に出会えていなかっただろうし、お互いのよさに氣づく時間もなかっただろう。

「お茶室を初めて見たとき、ものすごく感動しました。家具と言えるものがほとんどなくて、畳の上に亭主と自分がいる。そして、お菓子とお茶がシンプルに出てきます。円形の窓から外の世界が見える。風の音、樹々のざわめき、鹿威しの音。わずかな音が静寂を際立たせる。僕に必要だったのはこの世界なんだと思いました。たくさん詰め込むのではなくて、不要なものを極限まで削ぎ取ったところに現れる世界。実際にはわずかな空間なのに無限の広がりを感じました。僕が日本に住もうと思った瞬間でした」

「だから、和菓子職人になろうと思ったの?」
「はい。小さな一つのお菓子の中に、季節ともてなしの心が詰まっている。伝統的であるのに、独創的で新しい。これこそ僕の探していたものだと思いました」

 探していたものかあ。私はなにか探したのかな。探す前に、いつも向こうからやってきているみたいだからなあ。怜子はまた考え込んだ。

「怜子さん。京都で研究したいなら、行ってください。結婚は大学卒業後すぐでなくても構いませんし、お店で働かなくてもいいのですから」
怜子は、はっとして彼を見た。

 ルドヴィコは、深い湖のような澄んだ瞳で見ていた。
「見てください。あそこで川の水は二手に分かれています。そして、少し離れてあそこでまた一つになっている。そしてどこを通ってもいつかは同じ海に流れていくんです。怜子さんがどちらに向かおうとも進む道に間違いはありません。したいと思うことを諦めずにしてください。僕はちゃんと待てますから」

 怜子は、その時にはっきりとわかった。自分がどうしたいのか。川の水もキラキラと光りながら迷わずに海へと向かっている。彼女はしっかりとルドヴィコを見つめ返していった。
「私、卒業したらすぐに『石倉六角堂』で働く。井の中の蛙でもいい。都会には行かないし、他のことも探さない。だって、私にとって大事なことは、ここにあるんだもの」

 彼はその言葉を聞くと笑顔になった。青いきれいな瞳が優しく煌めいていた。

 怜子は、続けた。
「その代わりに、私ね、イタリア語を始めようと思うの」
「え?」
「だって、ルドヴィコの家族とも親戚になるんでしょう? 挨拶も出来ないんじゃ、困るもの」

 彼は、目を見開いてから、嬉しそうに口を大きく開けて笑った。
「では、明日から特訓してあげましょう。鉄は熱いうちに打てって言いますからね。そして、遠からず行って僕の家族に引き合わせましょう」

(初出:2017年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

ミニカレーを食べた

カレー!

連れ合いがアフリカに行っているので、和食だの中華だの、好きなものを食べ放題の私です。

こういう時のためにあるのが、11月に日本から買ってきた「お宝」の数々。今回お見せするのはレトルトのカレーなんですが、ミニサイズ。お茶碗一杯にちょうどいいサイズということなんです。

カレーは好きだけれど、辛いのは苦手。でも、お子様カレーは嫌な私には、このサイズは実に都合よくて幸せなひと時でした。
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -8- テキーラ・サンライズ

「scriviamo! 2017」の最中ですが、今日発表するのは、WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

しばらくスペシャルバージョンが続きましたが、また田中はいつものオブザーバーに戻りました。今回の話は、ちょっと古い歌をモチーフにしたストーリーです。あの曲、ある年齢以上の皆さんは、きっとご存知ですよね(笑)


月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む
「いつかは寄ってね」をはじめから読む「いつかは寄ってね」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -8- 
テキーラ・サンライズ


 その二人が入って来た時に、田中に長年酒場で働いている者の勘が働いた。険悪な顔はしていないし、会話がないわけでもなかった。だが、二人の間には不自然な空間があった。まるでお互いの間にアクリルの壁を置いているように。

 大手町のビル街にひっそりと隠れるように営業している『Bacchus』には、一見の客よりも常連の方が多い。だが、この二人に見覚えはなかった。おそらく予定していた店が満席で闇雲に歩き回って見つけたのだろう。

 店などはどうでもいいのだ。未来に大切にしたくなる思い出を作るつもりはないのだろうから。どうやって嫌な想いをせずに、不愉快な話題を終わらせることができるか、それだけに意識を集中しているのだろう。

 二人は、奥のテーブル席に座った。田中は、話が進まないうちに急いで注文を取りに行った。彼らも話を聞かれたくはないだろうから。

「カリブ海っぽい、強いカクテルありますか」
女が田中に訊くと、男は眉をひそめたが何も言わなかった。
「そうですね。テキーラ・サンライズはいかがでしょうか。赤とオレンジの日の出のように見えるカクテルです」
「それにして。氣分は日の入りだけれど……」

「僕はオールドの水割りをお願いします」
男は女のコメントへの感想も、田中との会話をも拒否するような強い調子で注文した。田中は頷いて引き下がり、注文の品とポテトチップスを入れたボウルをできるだけ急いで持っていくとその場を離れた。

* * *


 亜佐美はオレンジジュースの底に沈んでいる赤いグレナディンシロップを覗き込んだ。ゴブレットはわずかに汗をかき始めている。かき混ぜてそのきれいな層を壊すのを惜しむように、彼女はそっとストローを持ち上げてオレンジジュースだけをわずかに飲んだ。
「こうやってあなたと飲むのも今日でおしまいだね」

 和彦は、先ほど田中に見せたのと同じような不愉快な表情を一瞬見せてから、自分の苛立ちを押さえ込むようにして答えた。
「あの財務省男との結婚を決めたのは、お前だろう」

「……ごめんね。私、もう疲れちゃったんだ」
「何に?」
「あなたを信じて待ち続けることに」

 和彦は、握りこぶしに力を込めた。だが、その行為は何の解決にも結びつかなかった。
「僕が夢をあきらめても、財務省に今から入れるわけじゃない。お前に広尾の奥様ライフを約束するなんて無理だ。それどころか結婚する余裕すらない」

「私が楽な人生を選んだなんて思わないで。急に小学生の継母になるんだよ。あの子は全然懐きそうにないし、お姑さんもプライド高そうだから、大変そう」
「なぜそこまでして結婚したがるんだよ」

 亜佐美は黙り込んだ。必要とされたということが嬉しかったのかもしれない。それとも、プロポーズの件を言えば、和彦が引き止めてくれると思いたかったのかもしれない。彼は不快そうにはしたけれど引き止めなかった。

「カリブ海、行きたかったな」
「なぜ過去形にするんだ。これからだって行けるだろう」

 彼女は、瞼を閉じた。あなたと行きたかったんだよ。それに、もう憶えていないかな。まだ高校生だった頃ユーミンの『真夏の夜の夢』が大ヒットして、一緒に話したじゃない。こんな芝居がかった別れ話するわけないよねって。なのに私は、こんなに長く夢見続けたあなたとの関係にピリオドを打って、まるであの歌詞と同じような最後のデートをしているんだね。

 サンライズじゃない。サンセット。私の人生の、真夏の夜の夢はおしまい。

 二人は長くは留まらなかった。亜佐美がテキーラ・サンライズを飲み終わった頃には、水割りのグラスも空になった。そして、支払いを済ませると二人は田中の店から消えていった。

* * *


 おや。田中は意外な思いで入ってきた二人を見つめた。常連たちのように細かいことを憶えていたわけではないが、不快な様子で出て行く客はあまりいないので、印象に残っていた。おそらく二度と来ないであろうと予想していたのだが、いい意味で裏切られた。

「間違いない。この店だよな」
「そうね。6年経ってもまったく変わっていないわね」

 二人の表情はずっと穏やかになっていた。男の方には白髪が増え、カジュアルなジャケットの色合いも落ち着いていたが、以前よりも自信に満ちた様子が見て取れた。

 女の方は、6年前とは違って全身黒衣だった。落ち着いて人妻らしい振舞いになっていた。

「カウンターいいですか」
男が訊いたので田中は「どこでもお好きな席にどうぞ」と答えた。

「どうぞ」
おしぼりとメニューを渡すと、女はおしぼりだけを受け取った。

「またテキーラ・サンライズをいただくわ」
それで田中は、この二人が別れ話をしていたカップルだったと思い出した。
「僕も同じ物を」
彼もまたメニューを受け取らなかった。

「それで、いつ発つの?」 
「来週。落ち着いたら連絡先を報せるよ。メールでいいかい?」
「ええ。ドミニカ共和国かぁ。本当に和彦がカリブ海に行く夢を叶えるなんてね。医療機器会社に就職したって年賀状もらった時には諦めたんだと思っていたわ」

「理想と現実は違ってね。ODAって、場所やプロジェクトにもよりけりだけれど、政治家やゼネコンが癒着して、あっちのためになるどころか害にしかならない援助もあってさ。それで発想を変えて本音と建前が一致する民間企業の側から関わることにしたんだ」
「夢を諦めなかったあなたの粘り勝ちね。おめでとう」

「お前に振られてから、背水の陣みたいなつもりになっていたからな。それにしても驚いたな。お前の旦那が亡くなっていたなんて」

 田中はその言葉を耳にして一瞬手を止めたが、動揺を顔に出すようなことはしなかった。亜佐美は下を向いて目を伏せたが、すぐに顔を上げた。

「そろそろ半年になるの。冷たいと思うかもしれないけれど、泣いているヒマなんかなかったから、かなり早く立ち直ったわ」
「まだ若いのに、何があったんだ?」

 亜佐美は、田中がタンブラーを2つ置く間は黙っていたが、特に声のトーンを落とさずに言った。
「急性アルコール中毒。いろいろ重なったのよね。部下の女の子と遊んだつもりでいたら、リストカットされちゃってそれが表沙汰になったの。上層部はさわぐし、お姑さんともぶつかったの。それで、彼女が田舎に帰ってしまってからすこし心を病んでしまったのね」
「マジかよ」

「受験も大学も、財務省に入ってからもずっとトントン拍子で来た人でしょう。挫折したことがなかったから、ストレスに耐えられなかったみたい。和彦みたいに紆余曲折を経てきたほうが、しなやかで強くなるんじゃないかな」

「それは褒めてないぞ。ともかく、お前も大変だったんじゃないか?」
「そうでもないわ。事情が事情だけに、みな同情的でね。お姑さんもすっかり丸くなってしまったし、奈那子も……」
「それは?」
「ああ、彼の娘。もうすぐ大学に入学するのよ。早いわね」

「えっと、亜佐美が続けて面倒見るのか?」
「面倒見るっていうか、これまで家族だったし、これまで通りよ」

「その子の母親もいるんだろう?」
「母親が引き取らなかったから、慌てて再婚したんじゃない。今さら引き取るわけないでしょ。最初はぎこちなかったけれど、わりと上手くいっているのよ、私たち。継母と継子って言うより戦友みたいな感じかな。思春期でしょ、父親が若い女にうつつを抜かしていたのも許せなかったみたい」

「お前は?」
「う~ん。傷つかなかったといえば嘘になるけれど、でもねぇ」

 亜佐美はタンブラーの中の朝焼け色をじっと眺めた。
「あの人、あんな風に人を好きになったの、初めてだったみたい。ずっと親に言われた通りの優等生レールを進んできて、初めてわけもわからずに感情に振り回されてしまったの。それをみていたら、かわいそうだなと思ったの。別れてくれと言われたら、出て行ってもいいとまで思っていたんだけどね」

 和彦は呆れたように亜佐美を眺めた。
「おまえ、それは妻としては変だぞ」
「わかっているわよ。奈那子にもそう言われたわ。でも、今日私があなたと会っているのも、あの子にとっては不潔なんだろうな」

「いや、今日の俺たちは、ただ飲んでいるだけじゃないか」
「それでもよ。でも、いいの。奈那子に嫌われても、未亡人らしくないって世間の非難を受けても、あなたが日本を離れる前にどうしてももう一度逢いたかった。逢って、おめでとうって言いたかったの」

「これからどうするんだ?」
和彦はためらいがちに訊いた。

 亜佐美は、ようやくストローに口を付けた。それから、笑顔を見せた。
「奈那子が下宿先に引越したら、あの家を売却して身の丈にあった部屋に遷ろうと思うの。奈那子の将来にいる分はちゃんと貯金してね。それから、仕事を見つけなきゃ。何もしないでいるには、いくらなんでもまだ若すぎるしね」

 和彦は、決心したように言った。
「ドミニカ共和国に来るって選択肢も考慮に入れられる?」

 亜佐美は驚いて彼を見た。
「本氣?」

 彼は肩をすくめた。
「たった今の思いつきだけど、問題あるか? 奈那子ちゃんに嫌われるかな」

 亜佐美は、タンブラーをじっと見つめた。あまり長いこと何も言わなかったので、和彦だけでなく、成り行きかから全てを聞く事になってしまった田中まではらはらした。

「新しい陽はまた昇るんだね」
彼女はそういうと、瞳を閉じてカクテルを飲んだ。

「今さら焦る必要もないでしょう? 一度、ドミニカ共和国に遊びにいくわね。カリブ海を眺めながら、またこのカクテルを飲みましょう。その時にまだ氣が変わっていなかったら、また提案して」
亜佐美の言葉に、和彦は明るい笑顔を見せた。

 田中は、安心してグレナディン・シロップの瓶を棚に戻した。


テキーラ・サンライズ (Tequila Sunrise)
標準的なレシピ
テキーラ - 45ml
オレンジ・ジュース - 適量
グレナディン・シロップ - 2tsp

作成方法: テキーラ、オレンジ・ジュースをゴブレットに注ぎ、軽くステアする。
ゴブレットの縁から静かにグレナディン・シロップを注ぎ、底に沈める。



(初出:2017年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】赤スグリの実るころ

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第九弾です。GTさんは、オリジナル小説で参加してくださいました。ありがとうございます!

GTさんの書いてくださった『クロスグリのパイ』

GTさんは、わりと最近知り合って、交流してくださるようになったブロガーさんです。熱烈な世界名作劇場のファンで、ファンサイトとしてレビューなどを書かれる傍ら、名作劇場作品の二次創作、それから同じテイストの一次創作も発表なさっています。

私のブログにいらしてくださったのは、おそらく「スイス」に反応してだと思われますが、正直言って「アルプスの少女ハイジ」ともかく、スイスを舞台にした他の名作劇場作品を全く知らなかった私ではお話にならなくて、おそらくこのブログから得る知識は0かと思いますが、にもかかわらず熱心に作品を読んでくださり感謝しています。

今回、はじめてのscriviamo!参加のために書きおろしてくださったのは、オリジナル作品で私の生半可な知識ではどこの国のお話か、どの時代なのかまではちょっとわからなかったのですが、名前などから類推するとアメリカかカナダなどの英語圏のような感じがします。おそらく架空の土地のお話ですね。

GTさんのおすきな世界名作劇場でよく題材にされるのは18から20世紀初頭のストーリー、主に児童文学を原作にしたものが多いと思うのですが、たまたま私が不定期に連載している「リゼロッテと村の四季」シリーズが、その頃の話ですので、この世界の話でお返しを書くことにしました。

ところがですね。これがまたかなり苦戦しました。その経緯は、長くなりますので別記事にしますが、時代背景ならびにいくつかのモチーフを重ならせて書いています。GTさんの作品と合わせてお読みになると、同じ時代背景、同じモチーフを使って書いても、私の作品が全く「かわいく」なくて、さらにいうと児童文学には全く不向きだということがよくわかります。でも、私らしい作品を全力で書くことがGTさんに対して敬意を表する一番の方法だと信じてアップさせていただきます。


「リゼロッテと村の四季」
「リゼロッテと村の四季」・外伝

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赤スグリの実るころ
——Special thanks to GT-san


 つるつるの赤い果実を房から外す作業に、アナリースはかなりの時間をかけた。赤スグリのルビーのような赤がとても好きだ。両親の家の垣根のそばにある数本の木は、夏になるとこの艶やかな実がたわわに実り、優しい緑の葉と相まって目を楽しませてくれる。

 そして、ヨーゼフ・チャルナーが、アナリースと新生活を始めるために買ったこの家にも、三本の赤スグリの木があって、彼女はやっと自由に出入りすることが出来るようになったので、熟れた実を集めていた。

 たくさん摘んで大きめのボールにたっぷり入れた果実は、まるで無人島の洞窟に隠された海賊の財宝箱の中身のごとく秘密めいた輝きを放った。ひとつ二つと口に含むことはあるが、酸っぱくてもっと食べたくなることはない。赤スグリはジェリーにすることでその価値をはるかに増す。

 日曜日の三つ編みパンに添えて、バターと一緒につけるのも美味しいが、ちょっとしたデザートに添えるのも色味ともにアクセントになっていい。それに、秋の狩猟シーズンには、洋梨のコンポートに赤スグリのジェリーを載せたものを付け合せに加える。

 だから、彼女は庭の赤スグリを一粒も無駄にしたくなかった。彼もきっと喜んでくれるはずだわ。

「ちょっと。アナリース! あなた、何をやっているのよ」
入ってきたのは幼なじみで今は兄嫁であるマリアだ。

「何って、赤スグリのジェリーを作っているのよ」
「それは見たらわかるけれど、私が聞きたいのは、どうしてよりにもよって今そんなことをするのってこと。ヨーゼフは今日帰ってくるんでしょう? おめかししなくちゃいけないんじゃないの?」

 アナリースは笑った。掛けてある黒いスタンドカラーの飾りの少ないブラウスに、縦縞のくるぶしまである広がりの少ないスカートを目で示すと、マリアはその質素で面白みのない服装にため息をもらした。

「なによこれ。ほとんど普段着と変わらないじゃない。ヨーゼフに会うのは何年ぶりだと思っているの? もっと美しく装わないと」
「どうして?」

「バーゼルは都会だからきれいな服を着た女性が多いに違いないわよ。そういう女性を見慣れているんだから、田舎娘は野暮ったいなって思われちゃうわ。流行っている膨らんだ袖のドレスは一枚もないの?」

 アナリースは首を振った。
「きれいなドレスに興味がないと言ったら嘘になるけれど、ああいう服装をするためには布地が二倍も必要になるもの。私はそれだったら図書館の入場料にして、一冊でもたくさん本を読みたいの。先週ついにコンラート・フェルディナント・マイヤーの『女裁判官』が入ったのよ」

「なんですって。あなた、そんな本を読むの? あれって、確かスキャンダルになったんじゃない」
「そうよ。いけない? あれはカール大帝時代を題材にした歴史小説じゃない」
「でも、ほら、兄と妹の恋の話と、実のお母さんへの愛憎がモデルになっているって……」

「だから?」
「ヨーゼフは牧師になるひとだし、あなたは……」
「代理教師だから、牧師の婚約者だから、女だから、コンラート・フェルディナント・マイヤーを読んじゃいけないなんてナンセンスだわ」
アナリースはわずかに強い語調で言った。

 マリアは、友の苛立ちを感じた。話題を変えた方がいいかもしれないと素早く考えた。
「それで、どうしてあなたは着替えもせずになぜジェリーなんて作っているのよ」

 アナリースは、マリアの戸惑いを感じたので、少し恥じて俯いた。彼女は薪オーブンの上に置いてあったやかんをどかすと、赤スグリと砂糖を入れた鍋を置いて焦げないようにかき混ぜた。スグリからは紅いジュースがしみ出してきてやがてそれは固形物から液体に変わる。

「彼と約束したんだもの」
「これを?」
返事をする代わりに、アナリースは微笑んだ。

* * *


 ヨーゼフと同じ教室で学んでいた頃、アナリースの成績はクラスで一番だった。彼女は知識欲と向学心に燃えて、大学に進み立派な教師になることを夢見ていた。彼女の成績がずば抜けてよかったにもかかわらず、彼女は大学に進むことも出来なかったし、中学校教師の資格をとるのがやっとだった。

 海外にでる覚悟があればもっと高等教育を受けることも可能だったかもしれない。そうであっても女性が大学に通うことは、まだ眉をひそめられることだった。ましてやこの国のこの州では、大学進学は不可能だった。女性は代理教員としてしか雇ってもらえないし、そういう将来しか望めない人間の学費を負担するのを村は拒否した。「学費の補助は、女性の趣味のためではなく、家計を支え国の将来を担う男性のために使われるべきだ」と。

 彼女が女に生まれた理不尽さに涙していても、村の少女たちは「アナリースったら、本氣でそんな事を言っているの? 困った人ね」と頭を振るだけで氣持ちをくんではくれなかった。彼女たちにしてみれば、学校は出来れば行きたくないおぞましいところだったし、そもそも教育が人生の役に立つのかピンと来ないぐらいで、アナリースのことも校長先生になりたがっている権威欲の強い娘だと感じていたからだ。

 唯一、彼女の悔しさを理解してくれたのが、ヨーゼフ・チャルナーだった。彼はもう幼いクラスメートではなく青年になりかけていたが、正直で真面目なところは子供の頃から変わらなかった。それに、彼は温かい心の持ち主で、アナリースも相応の敬意を持っていた。

「アナリース。君は、僕のことを怒っているんだろう?」

 それは、日が高くて、青々とした牧草地からたくさんの色とりどりの野の花が風に揺れる初夏の夕方だった。丘を越えて自宅へと戻ろうとせっせと歩く彼女を後から追いかけてきたヨーゼフは、しばらく口をきかずにいたが、丘のてっぺんまで来ると話しだした。彼は秋からラテン語学校への進学が決まっていた。

「私が? あなたに怒ってどうなるっていうのよ」
そういいつつも、自分の声音に刺々しいものがあると彼女は感じた。ヨーゼフのせいで彼女が進学できないわけではない。でも、自分が通いたかった大学への道を歩みだした彼が、これまで一度だって試験で自分を負かしたことがないのを思わずにはいられなかった。

 彼は、ラテン語とギリシャ語を習う。そして、ヘブライ語も。バーゼルヘ行き、神学科に籍を置くことになる。そして、やがて立派な牧師として尊敬を集めるようになるだろう。それにひきかえ、自分は、高等学校からチューリヒの教師養成セミナーに進むだろう。そして、病欠をしたり、兵役に行く教師の代わりに一日または数週間だけあちこちの教室に派遣されて、「女なら大人しく家で料理でもしていればいいものを」と陰口を叩かれる存在になるのだ。

「じゃあ、ちゃんと僕の目を見てくれよ」
ヨーゼフは真剣に言った。アナリースはため息をついた。
「ごめんなさい。あなたにむかっ腹を立てることじゃないのに。ねえ、イヴがアダムの脇腹の骨から作られた取るに足らない存在だってことは、どうやっても変えられないのかしら?」

 ヨーゼフは首を振った。
「聖書を振りかざしてそういう事を言う人がいるのはわかっているよ。僕はそんなことは思わない。アダムとイヴはしらないけれど、少なくともアナリースがヨーゼフより優秀なのくらいはちゃんとわかっている」

「私は、そんな事を言いたいわけじゃ……」
「でも、それが事実だよ。だけど、アナリース。女性がとるに足りないなんて僕は思わないけれど、男性と女性が全く同じだとも言えないとも思っているんだ」

「つまり?」
「子供を産むのは女性にしか出来ない。女が子供を産んで育てている間に、男が森や野原で獲物を捕まえてくると役割分担ができて、それが今の社会につながったんじゃないかと思うんだ。もちろん、獲物を捕まえるのが得意な女性や、むしろ家で料理を作る方が得意な男性の存在は無視されてしまっているけれど。僕たちは世界を一日で変える事はできない。無視されるわずかな例外はつらいけれど、どうにかして世界と折り合って行くしかないんじゃないか」

 彼女は瞳を閉じて、丘の上を渡る風を感じた。後にシニヨンにまとめた髪からこぼれた後れ毛が風にそよいだ。彼は、そんな彼女を黙って見つめていた。

「大丈夫よ。どんな形でも、理想的な教師になるように努力するもの。それに、学問や読書は、ずっと続けるつもりよ。大学に行って、校長先生の資格を取るだけが、教育に関わる唯一の道じゃないはずよね」
アナリースがそういうと、ヨーゼフは一歩前にでて大きく頷いた。

「僕もずっとそう思っていたんだ。ねえ、アナリース。君のその志、僕と一緒に完成させないかい?」
「あなたと? どうやって?」

 彼は、真剣なまなざしで彼女を見つめた。
「僕は、いつかこの村に戻ってくる。この村の牧師として、村人たち、次の世代を担う子供たちの精神的な支えになる、とても重い責任を背負うことになる。一度だって君よりもいい成績を取れなかった、この頼りない僕が。だから、僕には支えが必要なんだ。思慮ぶかくて、氣高い精神にあふれた君みたいな女性が。そして、君も、牧師の妻としてならただの代理教師としてよりもずっと尊敬を集めて、さらに幅広く子供たちの教育に中心的な役割を果たすことが出来る。違うかい?」

 彼女は、ぽかんとヨーゼフの顔を眺めていたが、氣を取り直すと言った。
「で、でも、牧師の妻って……その……結婚は好きな人とするものじゃないの?」

 彼は肩をすくめた。
「僕は、君のことをかなり好きだけれど、ダメかな?」

 アナリースは、真っ赤になって「そんなのはダメ」と言おうとしたけれど、どういうわけだか全くその言葉が出てこなかった。それで、ヨーゼフは勝手に納得して「そのつもりで大学に行くけれど、待っていてくれるね」と言った。

「そんなに待った後で、あなたに他に好きな人がいるから、結婚できないって言われたら、私もう結婚できなくなってしまうわ」
「わかっているよ。でも、僕は約束はちゃんと守る」

 ヨーゼフは彼女の手をとった。
「僕は必死で勉強する。そして、学問だけでなく、村の牧師として必要になりそうなあらゆることを身につける。だから、君も僕を待っている間に、村の大人たちや女性たちに受け入れてもらえる牧師夫人目指して苦手なことにも挑戦してほしい。そうしたら、後は、ずっと一緒に理想を目指して歩いていこう」

 彼の示唆していることは、なんとなくわかった。アナリースは、勉強は得意でも裁縫や料理はあまり得意ではなかったし、おしゃべりをする時間がもったいなくて村の娘たちとの付き合いに顔を出さないので浮いた存在になっていた。

「そうね。……何から始めようかしら」
彼は、優しく笑った。
「そうだな。たとえば、ほら、あそこにある赤スグリ。僕、あのジェリーがとても好きなんだ。子供の頃、三つ編みパンとあのジェリーを毎日食べられるように毎日日曜日にしてくださいってお祈りして父さんにこっぴどく怒られたことがあるんだよ」
「……。作り方、お母さんに習っておくわ」

* * *


 あれから何度も夏と冬が過ぎた。赤スグリも何度も実った。アナリースは、もうジェリーを何も見なくても作れるようになっていた。

 パン焼き日には、村のパン焼き釜にでかけ、娘たちと話をしながらパンの焼けるまでの時間を過ごした。村の泉で洗濯をする時も、年末に豚の腸詰めや燻製を作るときも村人たちと一緒に作業するようになった。

 くだらない噂話だと思っていた会話が、時に人生の悲哀がこもり、時に哲学的な示唆に満ちた時間だということも知った。本や大学の教授からだけではなく、けたたましく笑ったり泣き言を言う村人からも学ぶことがたくさんあるのだと知った。

 そして、アナリースは、家事が上手で人付き合いの上手い立派な娘だとの評判を勝ち得た。牧師となるチャルナーと婚約していることも、村人たちからの敬意を得る大きな要素になった。

 それは静かな宵に、誰にも邪魔されずに本を読むことを許され、教師としての勉強を続けても誰にも非難されることのない心地よい立場だった。

 赤スグリと砂糖を溶かした真っ赤な液体を、消毒したガラス瓶に詰めながら、首を傾げるマリアを前に、アナリースは微笑んだ。
「いいの。私がどんな装いをするよりも、あの人はこの瓶が並んでいるのを喜ぶのよ」

(初出:2017年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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このストーリーに登場するヨーゼフとアナリースは、「リゼロッテと村の四季」でカンポ・ルドゥンツの村人が通う教会の牧師夫妻です。

カンポ・ルドゥンツ村は、私の住む村をモデルとした、スイス・グラウビュンデン州にあるということになっている架空の村で、「リゼロッテと村の四季」は、19世紀末から20世紀初頭のこの地域の歴史と生き証人からの話の聞き取りを基にした小説です。
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Posted by 八少女 夕

「赤スグリの実るころ」に見る私の小説

さて、「赤スグリの実るころ」という小説を書くにあたって、考え込んだことについてここに書こうと思います。

赤スグリ

この小説はscriviamo!という私の主催している企画のなかの一篇です。この企画では、さまざまなブロガーの方が創作作品や記事で参加してくださったものに対して、私がお返事という形で主に掌編をお返しする企画なのですが、「赤スグリの実るころ」は、GTさんが書いてくださった作品へのお返しです。

この「赤スグリの実るころ」は、不定期で連載している「リゼロッテと村の四季」というシリーズの番外編で19世紀末から20世紀のスイス・グラウビュンデン州にある架空の村を舞台に話を展開させています。このカンポ・ルドゥンツ村は、私が現在住んでいる村がモデルです。そして、出てくるモチーフや風習などは、全て当時のものを調べたか人づてに聴き取ったことを反映させています。つまり、私の創作ではありますが、かなり実際の地理天候ならびに文化・歴史が反映された作品になると思います。

この作品を書くにあたって私が意図したのは、もちろん常に意識している私の創作テーマが根底に流れていますが、その上に現在96歳になるある歴史の生き証人から直接口頭で聴いたことを日本語の文章で残すことです。そして、その中にはおそらく日本人が日本で書こうとしても決して書けない内容がたくさん含まれています。私は日本人としては特別優秀な書き手ではありませんが、「日本語でこれを書けるのは世界に私一人だ」という題材を持っているラッキーな人間の一人だと思っています。

さて、話は元に戻ります。

「赤スグリの実るころ」を書いたのはGTさんへのお返しだと先ほど書きましたが、このGTさんは世界名作劇場の熱烈なファンでいらっしゃいます。そしてですね、私の周りにはこの世界名作劇場の熱烈なファン、またはそれに関わっていらっしゃる方がけっこういらっしゃるのです。どなたも並ならぬ情熱を傾けていらっしゃって、さらには児童文学にも強い関心をお持ちの方がいらっしゃいます。

なぜそういう方が私の周りに多いかというと、偏にマイエンフェルトのあるグラウビュンデン州に住んでいるから、必然と聖地巡礼をなさる方とのご縁ができるわけなんですね。

そして、私本人は、実はそのフィールドにとても弱い人間なんです。

もともとスイスに関する関心はゼロで、一生足を踏み入れなくても構わないと思っていました。「アルプスの少女ハイジ」のアニメも放映当時に見ただけですから詳細はほとんど憶えていません。その程度の関心しかなかったのです。その他のスイスを舞台にした名作劇場は存在すら知りませんでした。

実際に、名作劇場ファンの方、もしくは、関わっていらっしゃる方とお話しさせていただくと、その想いや情報の詳しさは驚くべきレベルです。一つの愛好ジャンルとして多くの人びとの中に完全に定着しているのですね。

愛されている作品群に共通するのは、もともと子供向けに作られたものであること、純粋で、努力を尊び、最終的に(大抵の場合は)優しくけなげな主人公たちが報われて、幸せな結末を迎える、そういう「いい作品」であることだと思います。また、子供には理解できないような複雑な人間関係や、どうすることも出来ない世の中の理不尽もほとんどでてきません。それはいい悪いではなく、そういうものです。

その世界は、実は、私の描き出すものとは少し、いいえ、まったく違う世界なのです。

なにが言いたいかというと、同じような舞台設定、同じような時代の小説を書いていても、表現する人間が意図するものによって全く違う中味になると言うあたり前のことなんですけれど、それが「スイスの田舎の子供たちの出てくる小説」とまとめてしまうと、どうもそれがなかなか見えにくいように思うのです。

スイスの児童文学っぽい小説には、ずっと手を出すつもりはなかったんですが、それをすることになったのは、上でも書いたように、ある方から口承で得たこの時代のこの世界の話を書き残すためにはこういう形が一番だと思ったからです。でも、やはりパッと見には同じタイプの小説に見えるかなと思ったんです。

それで、「赤スグリの実るころ」のあえてGTさんの書かれたモチーフを重ねてみました。重ねることでその違いが明らかになるようにです。うちのヒロイン・アナリースには、非常に可愛げのないところがあります。勉学のために旅立つ将来の夫となるヨーゼフの身を案じたり、「早く帰って来てね」と泣いたり、心をこめてて料理を振る舞うという女の子らしさ、GTさんの作品で見られたけなげなヒロインの姿はなく、むしろ正反対の女性像を持ってきました。

このエピソードは、既に私の頭の中にあったものですが、私は「これがアニメではなく実際のスイスの当時の女性だ」と言うために書いたわけではありません。作品に書かれた女性の権利についての記述はすべて当時のこの地域の常識だったことですが、「可愛い純粋なヒロイン」が存在しなかったということではないんです。

単純に、私の興味は、等身大の人間の心の動きに向いているということです。それもどちらかというとピュアで幸せな心の動きよりも、弱くてよどみ蠢く、けれど決して邪悪ではないごく普通の小市民の心の動きなのです。

「黄金の枷」シリーズの中でもテーマに据えていましたが、人間はその周りに据え付けられた社会慣例や因習、貧富の差や時代背景といった簡単に越えられない枠組みに捉えられています。物語を書く人の中には、魔法や持って生まれた才能、超人的努力、もしくはその枠組みそのものを見えなくすることで主人公が幸福を獲得していく、現実とは違うものを描き出したいと思われる方がいます。そして、そうした物語の需要の方が多いのもまた事実です。

私が書こうとする物語は、枠組みの中で苦悩する人間そのものなので、かならず枠組みがそのまま提示されます。平ったく言わせてもらうと、簡単に枠組みを克服されると、書くことがなくなってしまうんですよ。

ということを、なぜここで長々と語っているかと言いますと、世界名作劇場が好きでそのつながりでここにたどり着いた方は、「赤スグリの実るころ」を読んでおそらく戸惑われるだろうと思ったからです。

他の作品はともかく、「赤スグリの実るころ」ならびに「リゼロッテと村の四季」シリーズは、「きれいなスイスが好き」「世界名作劇場みたいな世界が好き」という方にはきっと肩すかしな小説になっているだろうなと、しみじみと感じたここ二週間でした。
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Posted by 八少女 夕

某キャラクターの風貌

すみません。はじめから謝っておきます。今日の記事は時間稼ぎです。しょーもないな。

つい先日、大海彩洋さんにscriviamo! 2017の参加作品を読ませていただいて、コメント欄でお話ししていて氣がついたんですけれど、「郷愁の丘」まだ主人公のひとりの風貌を描写していませんでしたね。っていうか、本編ではまだ登場していなくて、番外編「最後の晩餐」では本人目線だったので、描写するところがなかったんですけれど。

で、何もここで開示することもないとは思うんですけれど(小説を読んでもらえ、設定なんかいちいち語るなって、話もあって)、でも、隠すほどのことでもないし、しょっちゅう読んでくださる方に脳内イメージを植え付けてしまえ、ということで、私が頭に浮かべている風貌をここでお見せしちゃいます。

そう、「書きます」ではなくて、「見せます」なんですよ。下のYoutubeのジャケット絵、この方が私の中のヘンリー・G・スコット(グレッグ)のイメージなんです。表情も含めて。この方は、前にもご紹介しましたが、最近私が大好きなサン=プルーというフランスの作曲家です。


Le Départ
Album "Le Piano sous la Mer" (1972) by Christian Langlade a.k.a Saint-Preux.


Final
Album "La Passion" (1973) by Christian Langlade a.k.a Saint-Preux.

彩洋さんは、もっと若くてカッコいい男性をイメージされていたように思いますが、(あ、サン=プルーがカッコ良くないという意味ではなく!)身もふたもなく言うと「野暮ったくていまいち自信の無さそうなヒゲのおっさん」です。こういう人が、実は私の心の琴線に触れるんですよ。そういえば「黄金の枷」シリーズの23もヒゲ面だったな。べつに髭フェチでもないんですけれど、毎朝ブラウンの電動ひげ剃り機で完璧に剃っているようなエリートっぽい男性って、私の小説ではあまり表には出てこないようにも思います。そういえば、グレッグの対比として登場するためにまたしてもお借りしているTOM-Fさんのところの超有名ニュースキャスターは、きっと身だしなみを完璧に整えているエリートですよね。

上の二つは、単にサン=プルーの顔をお見せしたくて選んだ曲ですが、下は「郷愁の丘」のエンディングテーマとして、勝手にマイ・プレイリストに入れている曲です。


Saint-Preux: Le Piano d'Abigail 1ere partie
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Posted by 八少女 夕

【小説】翼があれば

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第八弾です。limeさんは、今年も素敵なイラストで参加してくださいました。

limeさんの描いてくださった『またもや天使』
『またもや天使』 by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。

limeさんは、登場人物たちの心の機微を繊細かつ鮮やかに描くミステリーで人氣のブロガーさんです。各種公募企画で大賞をはじめとする受賞常連のすごい方です。穏やかで優しいお人柄に加えて、さらにこんなに絵も上手い。羨ましすぎる!

今回、scriviamo!参加用に出してくださったのは、ちょっとだけ脱いでいる(?)天使と蝶のイラストです。去年も私一人で七転八倒していたわりにみなさんはスラスラと素敵な作品を書かれていましたが、今年もすでに何名の方々がインスピレーションを受けて素晴らしい作品を発表なさっています。

で、他の方は自由参加ですが、私は何かを書かなくてはならないので「う〜ん」と悩みました。

もちろんあちらのコメント欄で盛り上がっていたナース服天使、という路線では書けません。(書いてもいいけれど、limeさんに絶交されるかもしれないし・笑)去年はふざけたストーリーでなんとかなりました(なっていないともいう)が、今年の天使はどちらかというと清楚でシリアス系なのでふざけておかえしするのはなし。しかも清楚なのに脱いでいるし。ここにかなり長くつまづいていましたね。「天使でなければ」「脱いでいなければ」って。

かといって、単に真面目に取り組んでもピンと来るストーリーにならなかったんですよ。私の作品って、あまり目立った色がないので、ごく正面からこの正統派で美しい絵に取り組むと、そのよさが台無しになるぼやぼやした感じの作品になってしまうんです。

じゃ、どうしようか、と思ってこうなりました。天使であること、脱いでいること、蝶がいること、そして、背景がああなっていること、全てを使ってみました。limeさん、みなさんが呆れる顔が今から目に浮かびます。すみません。今から謝っておきます。(毎年、毎年……orz)


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翼があれば
——Special thanks to lime-san


 若草がゆっくりと大地を埋め尽くし、柔らかな風が心地よく渡りはじめると、フラクシヌスは大きく広げた枝を微かに揺らした。停まっていた鳥たちは、わずかな間だけさえずりを止めたが、すぐにおしゃべりを再開した。

「ねえねえ。あなた初めてアフリカに行って戻ってきたんでしょう? 旅はどうだった?」
「どうってことはない、って言いたいところだけれど、大変だったなあ。去年の秋、ここを発ったところまではよかったけれど、ミラノのあたりでもうカスミ網に捕まりそうになったんだ」
「ああ、噂に聞くヤツね。南イタリアじゃないんだ、へえ」

「それから後も、ハプニングだらけ。でも、初めて見るものばかりで心躍ったなあ。フランスから来たコウノトリと仲良くなったんだぜ。それに、赤い湖でフラミンゴにもあったなあ。ところで、お前さんは?」
「私は、いつも通りこっちで越冬したわよ。雪が少なかったから、けっこう過ごしやすい冬だったなあ。あの山を越えたところに、美味しい餌を用意してくれるニンゲンがいてね。少し太っちゃった」

 フラクシヌスは、小鳥たちのさえずりに耳を傾けて、コウノトリやフラミンゴとはどんな鳥なのだろうかと想像した。赤い湖や山の向こうのニンゲンがどれほどここと違っているのだろうかと考えた。

 街はずれの小高い丘の上にたどり着き、大地の上に伸びをして小さな芽を出したあの日から、フラクシヌスはいつもここにいた。柔らかな緑色の芽はまっすぐに伸びて、やがて滑らかで青みかがった灰色の幹に変わった。それが分厚いたくさんヒビの入ったどっしりした幹に変わった頃には、大きく伸ばしたたくさんの枝には、たくさんの小鳥たちや虫たち、リスやヤマネなどが動き回るようになった。

 フラクシヌスは、そうやっていつも誰かの訪問を受けていたので、決して寂しくはなかったが、彼らがする噂話から、ここではない世界への憧れを募らせていた。

 夏が来ると、梢の葉はしっかりとしたものに変わり、暑い日差しを避けて立ち寄る動物や散歩の途中の人間などが、彼の根元で休みつつ新しい話を聞かせてくれるようになった。

 近頃の一番の楽しみは、黄金の髪の毛を持った優しい少女で、まどろむ小動物たちをアルトの優しい響きで歌いながら眠らせるのだった。

「ああ、私、本当にここが好きだわ。なんて美しい木陰なんでしょう。仕事も何もかも忘れて安らげるのはここだけよ」

 彼女は、誰に話しかけるでもなくよく呟いた。彼女のひとり言を耳にするのもフラクシヌスには楽しいひとときだった。

「本当に、私もあの鳥たちのように空を飛べたらねぇ。わずかな賃金と引き換えに、朝から晩まで工場で糸を紡いだりしないで、どこまでも自由に旅して行くのにねぇ」

 ああ、この娘も、私の同じ憧れを持っているんだ。翼を羽ばたかせて、世界の果てまで自由に飛んで行きたい。氷に閉ざされた光のカーテンのある国や、火を吹く怒りの山や、七色の湖のある谷間を探して飛んで行くことを夢見ている。そして、その願いをずっとここで、この私と共有してくれるのだ。

「お嬢さん、あなたは何を呟いているの?」
そこに来ていたのは、この間まで緑色の芋虫だった紫色の蝶だ。フラクシヌスの葉をたくさん食べて大きくなり、しばらく繭にこもったかと思うと、秋までには羽を持つ美しい姿に生まれ変わる。そして、仲間と一緒に隊列を組んで遠くの暖かい国まで飛んで行く。

「あら、きれいな蝶さん。まだ旅立たないの? 昨日、あなたのお仲間が隊列を組んでいたわよ」
「私は今朝、ようやく蝶になれたのよ。もう少し仲間が集まったら、私も旅立つわ。ところで、あなたは、何をおかしなことを言っているの?」

 紫の蝶は、ひらひらと娘の周りを飛んで、くすくすと笑った。

「笑うなんてひどいわ。私だって翼があったら、あなたのように飛んで行きたいのよ。でも、それが出来ないから、ため息が出ちゃうんじゃないの」

 すると蝶は娘の正面に戻ってきて、その瞳を覗き込んで言った。
「だから、おかしいのよ。あなただって飛んで行くことが出来るのに、何も試さないで文句ばかり言っているんですもの」

「飛んで行くことができる? どうやって? 私は貧乏な労働者で飛行機のチケットすら買えないのよ」
「チケットなんて必要ないわ。あなたにも翼があるのよ。知らないの?」

「翼が?」
「そうよ、服を脱いで、背中を湖に映してご覧なさい。翼が生えているのが見えるはずよ」

 娘が薄紅色の薄いワンピースを少し脱いで湖を覗き込むと、本当に白い一対の翼が現れた。彼女はひどく驚いて、触ったりくるくると回って確認したりした後に、本当に翼が動いて自分も空を飛べるのだということを納得した。

「なんて素敵なんでしょう。ねえ、蝶さん。あなたが南へ旅立つときまで、私に空を飛ぶ特訓をしてちょうだい。そうしたら、私もあなたと一緒に旅立つから」
「いいわ。じゃあ、すぐに始めましょう」

 嬉しそうに笑いながら、娘が紫の蝶と一緒に去ってしまうと、フラクシヌスは大きいため息をついた。

 娘は、彼の仲間ではなかった。鳥や蝶たちと同じように、翼を持って自由に飛んで行くことができる天使だった。彼はまた丘の上に取り残されて、小鳥たちのさえずりに耳を傾けた。

 夏が終わると、彼の枝にはたくさんの楕円形の種が用意された。新しい命を宿した、大地の実り。やがて何百年も生きる可能性を秘めた小さな、小さな、ユグドラシルの子孫。彼は旅立つ子供たちに、彼の憧れの全てを託した。空を飛び、遠くへと飛んで行けと。

 フラクシヌスの子供たち、セイヨウトネリコの種は、小さなヘリコプターのようにくるくると回りながら、風に運ばれて丘から森へ、森から平地へと飛んで行った。ある者は馬車の後に落ちて、隣町へと旅立った。また、別の種は、木こりたちの束ねた薪の間に着地して、都会への長い旅をはじめた。

 そして、フラクシヌスは、また長い生命のうちにめぐり来る厳しく白い冬を迎えるために、丘の上で眠りの準備に入った。

(初出:2017年1月 書き下ろし)


註・Fraxinus excelsiorは和名セイヨウトネリコ、英語ではアッシュ、ドイツ語ではエッシェンと呼ばれる大木になる広葉樹。成長が早い上、曲げやすくて衝撃にも強いので加工用木材としてよく使われる。燃料としても古くから使われていた有用な植物で、北欧神話の世界樹ユグドラシルはセイヨウトネリコである。秋になると楕円形の種がタケコプターのように飛来して行くのがよく見られる。

Fraxinus excelsior 4560
Fraxinus_excelsior, seeds
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Posted by 八少女 夕

新しいオモチャ買った

事情があって、またしてもカメラを買いました。

最初は一眼レフかミラーレス一眼にしようかと思っていたんですが、何かを撮ろうとする度にレンズを取り替えなくてはならないのは煩雑すぎますし、そもそも私の腕でまともな写真が撮れるようになるには相当な時間がかかるので、あきらめました。

それに、シャッターチャンスがあったらすぐに撮れるように常に持ち歩いていないといけないので、カメラと複数のレンズを持ち歩くのはどう考えても実用的ではありません。

とはいえ、これまで愛用していたOLYMPUSのSZ-31MRは、遠くを撮る分にはさほど違いがでないのですが、近くを撮るとどうもいまいち。これはセンサーの違いでどうしようもないようです。SZ-31MRは光学24倍ズームが撮れるという売りがあるのですが、そうなると反対にセンサーはたくさん搭載できないんだそうです。

で、高級コンデジに限定して、いろいろと検討した結果、SONYのDSC-RX100M3というカメラを購入しました。このシリーズでは2017年1月現在、最新モデルM5がでているんですが、値段と良くなった点を比較した結果、私には最新である必要はないと判断して2モデル前のものを買いました。

で、現在は、まだ慣れていないながらいろいろと撮る練習中。

雪山

遠景は、普通に見えますね。「おおっ。このカメラすごい!」という感動はあまりないかも。

オーソブッコ

でも、近くを撮ると全然違う! 練習し甲斐があります。
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Posted by 八少女 夕

【小説】穫りたてイワシと塩の華

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第七弾です。夢月亭清修さんは、めちゃくちゃ美味しそうなお魚小説(?)で参加してくださいました。ありがとうございます!

夢月亭清修さんの掌編小説『フィッシュ&ソルト』

清修さんは、小説とバス釣りのことを綴られているブロガーさんです。サラリーマン家業の傍ら小説家としてブログの他に幻創文庫と幻創文芸文庫でも作品を発表なさっていて、とても広いジャンルを書いていらっしゃいます。そして、文筆に劣らぬ情熱を傾けているのがバス釣りで、ブログにはお魚の話題もたくさん載っています。

今回書いてくださった小説も釣り人としての知識と想いが詰め込まれた、短いながらも心と胃袋の両方をつかむ作品でした。

お返しは、悩んだ末、「お魚&塩」を踏襲しました。でも、日本の釣りや魚のことをよく知らない私が書いてもあまりにも見劣りがするので、舞台を去年行った場所に持ってきました。そして、一応、清修さんの作品のもう一つのモチーフにもかすってあります。でも、同じ登場人物なのかどうかは決めていません。たまたま似た状況の他人である可能性も含めて「この人かなあ」と読んでいただければありがたいです。


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穫りたてイワシと塩の華
——Special thanks to Mugetutei Seishu-san


 カモメか、それともウミネコか。飛んで行く白く大きい鳥を眺めて尚子は海の街から来た人を想った。

 もう何年経つんだろう。なぜ、あの時違う選択をしなかったんだろう。全ては遅すぎる意味のない問いかけだと知りつつ、彼女は波の音に耳を傾けた。

 ここは日本から遠く離れたポルトガル、海の街アヴェイロ。時間だけでなく距離もまた、彼からははるかに離れている。そして人生の道も。

 大企業をやめて、ポルトガル製品を扱う小さな店を開いた友人に協力すると決めた時、家族も含めて多くの人が反対した。必要だったのは「応援するよ」のひと言だけだったけれど、それはほとんど聞こえなかった。

 彼のプロポーズを断ったのは、会社を辞める前だったけれど、彼の妻になったら一生の夢が叶うチャンスを失うと思っていたことも理由のひとつだった。

 でも、今ならわかる。きっと彼は私の夢を応援してくれただろう。暖かい、人の心のわかる人だった。

 夢いっぱいではじめた店は、案の定、簡単には軌道に載らなかった。いや、思った以上に上手くいっていたのに、肝心の共同経営者である友人に裏切られてしまった。裏切ったというのは、よくないいい方なのかもしれない。彼女には、金銭的に他の選択肢がなかったのだろうから。

 開店から一年もしないうちに、尚子に何も言わずに、友人は夜逃げに近い形で姿を消した。連帯保証人となっていたが故の借金と商品の支払いが全て尚子にのしかかった。それでも必死で歯を食いしばって働き、ようやく返済を済ませ、よく儲かっているとは言えないまでもそこそこの利益を出せるようになってきた。

 もちろん完全な休暇の旅行をするような金銭的余裕はないが、買い付けと言う名目で、大好きなポルトガルに来れるようになったことはありがたい。

 このバタバタの間は、恋愛どころではなくて、彼のプロポーズを断って以来、異性とは何の縁もない。

 だから、想いはいつも簡単に、あの頃に帰って行く。元氣かな。あれから十年近く経ってしまったから、今でも一人でいるはずはないよね。あんなにいい人だったもの、もう結婚して子供もいるんだろうなあ。

「海がお氣に召しましたか?」
尚子は、その声にはっとして振り向いた。隣町にある陶器の工場の持ち主であるノゲイラ氏に案内してもらってここにいたのをすっかり忘れていた。

「すみません。海岸に来たの、久しぶりなんです。島国に住んでいるのにおかしいですね」
「いいえ。僕もこんなに近いのに、ここまで来たのは久しぶりですよ。せっかくですから、工場に行く前に、ここでご飯にしましょう。その前に、よかったら運河のモリセイロに乗りませんか?」

 モリセイロは、ポルトガルのヴェニスと呼ばれるこの街アヴェイロを縦横に走る運河に浮かぶ伝統的な小舟だ。このカラフルでフォトジェニックなボートは、かつては運搬用に使われていたが、現在は観光客用のアトラクションになっている。運河からアールヌーボー様式の美しいファサードを持つ街並を見て回るのだ。

 尚子は喜んでこの申し出を受けた。街並は確かに美しかったけれど、目をみはるほどではないなと思った。もちろんノゲイラ氏にはそんなことは言わなかったけれど。それにあっという間に折り返してきてしまい、もう終わりなのかとすこしあっけなく思った。

 だが小舟は船着き場を通り過ぎて、海の方へと進んで行った。船頭がポルトガル語に続き、英語で説明する。

「あの先を見てご覧なさい。あの白い小山は、塩です。この地域で伝統的に作られている天日の塩田です。引き込んだ海水を天日で蒸発させて塩をつくるんです。かつては250ほども塩田があったのですが、現在は少なくなってしまいました。量は少ないですが、かつてと同様にここで作られる上質な塩は、有名です。英国王室にも納品されたんですよ」

 へえ。天日の塩。アヴェイロの塩って、はじめて聞いたけれど、日本にお土産に買って行こうかしら尚子は塩の小山の写真を撮った。

 ノゲイラ氏はモリセイロを降りて、運河沿いのレストランに彼女を案内して説明した。

「天日の塩には、二種類あるんです。ごく普通のもの、そして、塩の華フィオール・ドゥ・サル という大粒のものです。これは海水を蒸発させる時にその表面に出来る結晶だけを集めたもので、とても美味しいのですが、たくさんのミネラルが含まれているので真っ白ではないんです。かつては、輸出用には普通の白い塩がたくさん取引されていて、塩の華はむしろ国内の上流家庭で消費していました。色はともかく格段に美味しいので。でも、フランス製の塩の華がグルメの間でブームになってから、ここの塩の華のよさも見なおされたんですよ。食べてみましょうか」

 出てきたのは、イワシのグリル。山のようなご飯、大雑把にカットされたレタスとトマトと玉ねぎだけの飾りっけのないサラダ。ポルトガルでよく見る実に素朴な料理だ。穫りたての焼いたイワシの香りが胃袋を直撃した。

 肉を焼く香りも美味しそうだと思うけれど、魚の脂が焦げる香りは、もしかしたら日本人のDNAのどこかを刺激するのではないかと思う。わずかな焦げも、パリパリになって波打っている皮と破れから覗く身の放つ湯氣も、「早く食べて!」と尚子を誘っていた。

 ポルトガルは、ヨーロッパの中でも特にたくさん魚料理を食べる国だ。さらにお米をたくさん食べるところも日本人には馴染みやすい。ヨーロッパの他の国を旅行しているとたまに和食とまではいかなくても中華料理でも食べようかなと思うことがあるのだが、ポルトガルでは一度もそう感じたことがない。どこかに懐かしさを感じる馴染みのある味によく出会う。

「さあ。食べてご覧なさい。これが塩の華。この良さを生かすために、他にはなにも味を付けないんです」

 大粒の塩の塊は、真っ白ではないと言われていて想像していたものとは違って、十分に白い。パラパラとかけてそっとナイフを入れてフォークで掬った。イワシの香りがさらにふわっと広がる。遅れて運ばれたフォークから熱々のイワシの身が舌の上に載った。

 尚子は思わず瞼を閉じた。魚の味、香り、そして塩の何とも言えぬ複雑な旨味が、口の中で極彩色になって飛び回りダンスを踊っているよう。ああ。なんて美味しいんだろう。

 こんなに美味しい魚を食べたのは、いつ以来なんだろう。東京でも魚は食べていたけれど、スーパーのパックの切り身や、定食屋のそこそこの焼き魚ばかりを食べていたように思う。

 不意に彼のことを思い出した。彼は、海辺の街の出身で、自身も熱心な釣り人だった。魚については強いこだわりがあって、デートの時にも店は汚くても格別美味しい魚を食べさせるところに連れて行ってくれた。

 そうか、彼のプロポーズを断って以来なのね。

 ノゲイラ氏に見せてもらったアヴェイロの街。街を彩るアズレージョにも通じるポルトガルの素朴な陶器づくり。好きだったポルトガル雑貨の販売で生計を立てられるようになったこと。今の穏やかで幸せと言えるようになった生活を得るために、失ってしまった時間と暖かくて穏やかな人のことを考えた。

 彼が、この十年近い時間を幸せに生きているといいと思った。そして、どこかで、ここで食べているような五臓六腑に染み渡るように美味しい魚を、誰かと笑い合いながら食べていてほしいと願った。

「ナオコ、どうしました? イワシ、熱すぎましたか?」
涙ぐんでいる彼女のことをノゲイラ氏は不思議そうに見た。

 尚子は笑って首を振り、極上のイワシの塩焼きを残さず味わうためにフォークとナイフを持ち直した。

(初出:2017年1月 書き下ろし)

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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】アプリコット色の猫

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第六弾です。たらこさんも、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

たらこさんは、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんです。「ひまわりシティーへようこそ!」の最終章を絶賛連載中です。

初参加の今回、いきなりのBプラン、なおかつご自分が描きやすくなるようなリクエストもなしという、前代未聞のチャレンジをなさっているので、全くフリーで書かせていただきました。しかも、普段ほとんど書かないファンタジー系。私が書きやすいファンタジーって、こういうのだなって改めて思いました。

せっかくたらこさんへのBプランなので、なんとなくキャバ嬢を絡めたくなってしまいました。いや、その、別にたらこさんがキャバクラ好きだと言いたいわけじゃありませんよ。ええ、そんなことは思っていませんとも。

で、書いていたらなぜか大幅に予定を越えて7000文字以上になってしまいました。これではいかんとどこかを削らねばと悩んだんですが、キャバクラ関連以外削るところがなかったので、削らずに長いままでいくことにしました。すみません。


【追記】
たらこさんが、素敵かつ笑える四コママンガでお返しを描いてくださいました!
たらこさんの描いてくださった 「アプリコット色の猫」



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アプリコット色の猫
——Special thanks to Tarako-san


 どこでおかしくなっちゃったのかなあ。姫子はバッグの奥をかき回しながら、考えた。

 今朝、ホテルでちゃんと持ちもの確認をしなかったから? あのホテルにエアコンがなくて、暑くて考えられなかったから? 安いホテルにしたのが悪かったの? そもそも夏のウィーンに来たのが悪いの? 

 いや、婚約破棄になって何もかも嫌になったせい? そもそも、キャバ嬢のバイトをしていたのが間違い? ううん、あの奨学金を返せるあてもないのに申し込んだのが悪かったの? っていうか、金持ちの娘に生まれてこなかったから?

 いや、落ち着こう。お財布は、どこかにあるはず。すられるほど人混みのところは歩いていないし、第一、こんなごちゃごちゃの鞄からお財布をするのはプロにも難しいはず。

「あ。あった」
キルティングのオレンジ色の財布は、お客さんにプレゼントしてもらったものの中で一番のお氣に入りで、これだけは転売しなかった。転売するような値段のものではなかったこともあるけれど、そういう問題ではない。大切な思い出が詰まっているのだ。

 姫子は、コーヒーの代金をつっけんどんな様子で待つ店員に払った。あ、これ最後の50ユーロ札だ。これからどうしようかなあ。

 姫子は勤めていた役所をクビになり、アパートも追い出されたので、荷物を処分して日本から逃げだしてきた。新婚旅行で行くはずだったウィーン。自暴自棄になって人生を諦める前に、ここだけは来てみたかった。でも、軍資金は底をついた。

 結婚したら、これまでの上手くいかない生活が全てリセットされて、白金や広尾で優雅にお茶の出来る日々が待っているんだと思っていた。ああいうちゃんとした人と結婚するなら、借金返済のためにキャバ嬢のバイトをしていたなんて言わない方がいいと思っていた。

「匿名で教えてくれた方がいましてね。興信所で調べてもらったんですよ」
あの人のお母さんが、とても冷たい目をして言った時、それでも一度でも結婚しようと思ったなら、少しはかばってくれるかと思ったんだけれど、避けるようにして帰っていったよね。

 公務員がバイトを、ましてや水商売の副業をしちゃダメなのはわかっていた。でも、あの給料で奨学金を返すのはどう考えても無理だった。

「ねえ、ちょっと」
日本語の声がしたので辺りを見回すと、誰もいない。つっけんどんな店員はもう別のテーブルに行っているし、隣のテーブルの熟年カップルは、熱々で二人の世界にどっぷり。こちらは存在していないかのような態度。ってことは、空耳かしら。

「ここだよ、ここ、ここ。下を見て」
また日本語なので、変だなと思って、足元を見た。

 猫がいた。つぶらな瞳をしたオレンジっぽい毛色の猫だ。何だっけなあ、この色。どっかで見た。ああ、今朝食べたアプリコットジャムの色だ。雑種かな。どこにでもいそうな普通の猫で、赤いコートを着ているわけでもないし、長靴も履いていない。それに見た感じでは人間の言葉は話してはいない。

「呼んだの、あなた?」
訊くと「みゃー」と短く鳴いた。

 馬鹿じゃないの、私。猫が日本語を話すわけないじゃない。空耳、空耳。姫子は、おつりを財布にしまうと、バッグにしまって出て行こうとした。するとまた声が聞こえた。
「ちょっと待ってよ。話は終わっていないんだから」

 姫子は、まじまじと猫を見た。
「今、呼んだの、本当にあなた? 本当なら、尻尾を三回振って」

 ゆらゆらゆら。尻尾が揺れた。へたりと椅子に座り直した姫子の膝に、その猫はストンと載って、ゆっくりと三回瞬きをした。それから頭の中にまた日本語が聞こえてきた。
「電車に乗ってフシュル湖へ行かないといけないんだ。協力してよ。お礼はちゃんとするからさ」

「フシュル湖? どこそれ? どうやって?」
幸い周りに日本語を解せる人がいないおかげで、変な目で見る人はいない。猫を可愛がっている無害な日本人観光客に見えるだろう。

「ザルツカンマーグートだよ。僕をペット用バスケットに入れてさ。バスケットはちゃんとあるんだ。上手くザルツブルグ行きの電車に乗せてくれたら、そこまででいい。お礼は最高のザルツブルグ観光を一日。どう?」
ザルツカンマーグートがどこにあるのかも知らない。でも、ザルツブルグは知っている。でも、今、観光させてもらって喜ぶような心境じゃないんだけれど。姫子は猫をじっと見つめた。

「一日観光はいいから、代わりに私の状況、少し変えてくれない? 私の人生詰んじゃっていて、いよいよ終わりにするかどうかってとこなのよ」

 猫は、一瞬だけ黙ってから、ヒゲを前足で弄びながら答えた。
「そんなの一介の猫には無理だよ」

 日本語テレパシーで喋っているくせに、都合が悪くなると「一介の猫」ですか。姫子はムッとした。そのまま彼女が立ち上がって払い落とされた猫は、慌てて言った。
「わかったよ。じゃあさ。あっちで僕としばらく一緒に暮らすといい。少なくとも人間の生活よりも面白おかしいぜ。会社に行ったりとか、税金の支払いとか、犬の散歩とか、そういう面倒なことは何もしなくていいんだ」

 姫子は、ちらっと考えた。心もとないけれど、どうせ路頭に迷うなら猫の世話になる方がいいかも。テレパシーが使えるなら魔法が使えるかもしれないし。

「そのザルツカンマーグートで、あなた、どんな所に住んでいるの?」
「小さめの城ってところかな。いくらでもいるヤマネを追いかけたり、鳥の羽根をむしったり、けっこういい暮らしをしていたんだぜ。でも、ここに連れてこられちゃってさ。早く帰りたいんだ」

 そのいい暮らしというのが、どうもネコ目線の意見で若干の不安はあるが、このままでは浮浪者となるのがほぼ確実なので、論議はしないことにした。

「でも、猫って、遠くに連れてこられても自力で歩いて帰るんじゃないの? 人間に頼んで連れて帰ってもらうなんてはじめて聞いたわ」
姫子は首を傾げた。猫は前足でヒゲをちょっと触ると上目遣いで言った。

「そりゃ時間がたっぷりあるならそうするさ。でも、僕は急いで帰らなくっちゃいけない事情があるんだ。協力するの、しないの? しないなら、他の人を……」

「え。するわよ。じゃ一緒に来て。荷物をホテルに取りに行くから。ところであなたのバスケットはどこにあるの?」
「そこの裏手さ、こっち」

 猫についていくと、カフェの裏手の暗い路地に、小さなプラスチックの猫移動用ケースが置いてあった。扉の部分が壊れている。
「これ、どうしたの」
「壊さないと出られなかったんだ。大丈夫だよ。電車の中ではペットらしくしているから」

 姫子はホテルに預けてあった全財産でもある小さな機内持ち込みサイズのスーツケースを受け取ると、猫についてウィーン中央駅に向かった。

「急いでよ。今日の電車がでちゃう」
電車の近くまで来ると、猫はちゃっかりとバスケットに収まって、飼い猫のフリをした。でも、姫子に指図する態度は一向に変わらない。

「あなた、なんで時刻表を知っているのよ」
「昨日と一昨日、上手く紛れ込めないかトライしたんだよ。でも、最近の電車は入口が電動で、高いところにあるボタンを押さなくちゃ開かないんだ」

 猫に案内されて、ザルツブルグに向かっている。細かいことは考えないに限る。ホテル暮らしをするお金はもうないんだし、猫でもなんでも頼らないと。

 電車が走り出すと、コンパートメントの扉を閉めてから、バスケットを椅子の上に置いた。猫は出てきて腰掛けると丁寧に顔を洗い始めた。

「ところで、ちゃんと説明してよ。なんでザルツカンマーグートからウィーンに来ることになったの? どうして急いで帰りたいの? どうして、私が助けてくれると思ったの?」
姫子は馬鹿馬鹿しいことを口にしているなあと思いながら立て続けに訊いた。

「僕は飼い主と賭けをしてね。彼の命が尽きるまでに僕が帰れることができれば僕はずっとあそこにいられる。それができなければウィーンの野良猫になるって。もうだめだと思ったけれど、君のアプリコット色のお財布を見て、ピンと来たんだ。この人が僕を連れ帰ってくれるってね。だから話しかけたんだよ」

 アプリコット色のお財布? ドキッとした。このお財布は、キャバクラであるお客さんが姫子にプレゼントしてくれたのだ。他の人がプレゼントしてくれたブランドものは、みなネットオークションで転売した。一円でも多く手にして返済に回したかったから。でも、そのお客さんは、姫子が奨学金の返済で困っているということを憶えていて、ブランド品の代わりにとても安いこのお財布の中にブランド品を買ってもおつりが来るだけのお金を入れてプレゼントしてくれたのだ。

「どうしてそんなによくしてくれるんですか?」
「全額返済してあげられるような甲斐性はないからね」

 そういって笑った彼は、キャバクラ通いをするお金が続かなかったらしく、やがて来なくなった。迷っていないでプライヴェートのメールを教えてあげればよかったなと思ったけれど、結局それっきりになってしまった。

 婚約した御曹司は、お金があって、私を救い上げてくれそうだった。でも、あのお客さんほどの真心も持っていなかったんだ。打算で結婚しようとした私もそれ以下の馬鹿だものね。姫子は考えた。

「でも、このお財布のことを知っているってことは、あなたのご主人は、あのお客さんなのかな?」
姫子がそう訊くと、猫は首を傾げた。
「なんのこと? 僕は仔猫の頃にその色をした古いお財布をオモチャにもらったんだ。僕と同じ色だからってね。それを思い出したんだよ」

 なんだ。そういうことか。

「飼い主は、年寄りで、病持ちで、もうそろそろアブナいんだって。だから、僕が死ぬまではつきあえないんだって。それで僕をウィーンに連れてきたんだ。帰りたいなら誰か信頼できる人に手伝ってもらえ、嫌ならウィーンの野良になれってね」

「猫のくせに、自由にしたくないの?」
「猫にだって、ホームが必要なんだよ。僕があそこに帰ったら、君だってあそこで自由にしていいんだ。時々、僕の世話はしなくちゃいけないけれど」

 それってねこまんまを作れってことかなあ。姫子は、窓の外の田園風景を眺めながら、それも悪くないかなと思った。

「ものすごくきれいなところなんだ。湖に光はキラキラしているし、大きな魚は撥ねているし、春にはレンゲや野菊やアプリコットの花が咲き乱れるんだ。ごちゃごちゃしたウィーンなんて目じゃないよ」

 へえ。ちょっとだけでもそういうところに暮らせたらいいなあ。姫子は思った。春までは無理としても、しばらく泊めてもらえないかな。飼い猫を届けるんだし。

 ザルツブルグでバスに乗り換えてフシュルまで行き、そこから歩いた。バスケットが邪魔なら捨てろと言われたけれど、ここまで持ってきたし、いつ必要になるかわからないし、軽いので持ち歩いた。

「急いでよ。早く!」
荷物がない身軽な猫にそう急かされて、姫子はふうふう言いながら上り坂を歩いた。途中から道は湖畔になり、輝く湖水が目を射た。

 ああ、本当だ。なんてきれいなところなんだろう。真っ青な湖、若緑の絨毯みたいな田園風景。揺れる木の葉に、落ち着いた緑の山並み。ウィーンも面白かったけれど、こんな静かで心洗われる風景ではなかった。それに蒸し暑かったウィーンと較べて、ずいぶんと爽やかだ。これならエアコンはいらないわよね。

 いつも東京の狭い六畳のワンルームアパートと、満員電車、灰色の役所、それにネオン街の往復しかしていなかったから、こんなに落ち着く光景に心うたれたのがいつ以来なのだかもう憶えていない。ここに来て、本当によかった。猫に急かされているとは言え。

 小走りで走っていた猫が、急にぴたっと止まった。それから、湖の方を眺めた。
「どうしたの?」
追いついた姫子が訊くと、項垂れて言った。
「もう急がなくていいよ。間に合わなかったんだ」

「ええっ。飼い主さんが死んじゃったの? なんでわかったの?」
猫は答えなかったが、再び歩き始めて、こんどはゆっくりと進んだ。それからひと言も話さなかったので、姫子は、さっきまで聴いていたのはもしかして自分の想像だったのかと思い始めた。

 やがて湖畔をそれてまた丘に登った猫は、果樹園のようなところを横切って、その中央にあるボロボロの小屋に向かって行った。え。ちょっと待って、さっき小さいお城って言わなかった? まさか猫のいうお城って、これ?

 小屋の前には、立派な車が三台ほど停まっていて、小屋の中からはドイツ語で話す声が聴こえていた。なんかお取り込み中みたいだな。私はどこかに隠れていた方がいいかも……。そう姫子が思った途端、開け放たれたドアの向こうにいた年配の女の人が大きな声を出して、姫子の方にやってきた。

 猫が姫子の足元にいて、姫子がバスケットを持っているので、猫を連れてきたのだと思ったのだろう。中にいた人たちも近寄ってきてみな口々に何かを言っている。ドイツ語なのでわからないけれど。

 小屋の中にはベッドがあって、亡くなったばかりと思われる老人が横たわっていた。猫は人間たちの足元を通り抜けて中に入り、そのベッドに飛び乗って、みゃーみゃーと鳴いた。それと入れ違いに出てきた眼鏡の男性が姫子に話しかけたが、言葉が通じないとわかると英語に切り替えて話しだした。

「あなたがあの猫を連れてきてくださったのですね」
「え。あ、はい。成り行きで……」

「そうですか。私は故人ケスラー氏の顧問弁護士トーマス・ウルリッヒです。こちらにいらっしゃるのは故人の息子のケスラー氏とその夫人です。奥にいて死亡診断書を書いているのがマイヤー医師です。あなたは?」
「あ~、日本人旅行者で永田姫子っていいます」

 名前を訊いたわりに、ケスラー夫妻とウルリッヒ弁護士の目は、なぜか姫子の持っている壊れたバスケットに釘付けになっていた。
「あなたは、この不明になっていた猫の事情をご存知ですか?」

 姫子は日本人らしく曖昧な笑顔を見せて肩をすくめた。猫から帰りたいと聞いたなんてことは言わない方がいいように思ったのだ。弁護士は深く頷くと話しだした。

「実は、故人には最近したためた遺言状がありましてね。古城を含めた全財産を慈善団体に譲るというものだったのです。もともとは、この果樹園小屋で暮らしたがる変わったご老人を息子さんたちが諌めたことが原因の諍いだったのですが、この遺言状が効力を持つと息子さんたちは全てを失うことになるんです」

「はあ」
それと猫がどう関係があるんだろう。

 弁護士は姫子の持っているバスケットに手を伸ばした。
「ちょっと見せていただきたいのですが、いいですか?」

 わからないまま頷くと、弁護士は壊れたバスケットの扉をどけて、中に手を伸ばした。床板をそっと動かすと、そこから立派な封筒が出てきた。
「あったぞ!」

 ケスラー夫妻が大喜びで、それを確認してから、姫子の手を握ってきた。
「ありがとう。あなたのおかげです」
姫子は、あいかわらず何がなんだかわからなかった。

 それから、古城に泊めてもらい、しばらく湖畔に滞在してわかったことには、バスケットに隠してあったあの封筒は全財産を慈善団体に寄付するとした遺言状よりも更に新しい、有効な遺言状だった。そして、遺産は元通りに息子夫婦が相続出来ることになった。

 ただし、あの果樹園と小屋だけは、バスケットを持って帰って来た人間に譲ると書いてあったので、なんと姫子がもらえることになった。さらに、息子夫婦は姫子が奨学金の残りを返済してもおつりが来るくらいのお礼をくれた。そして、姫子がこの村に住むことが出来るように面倒な手続きを全てしてくれた。

「あなたのおかげですもの」
「でも、どうしてあの方は果樹園小屋に住んでいたんですか?」
姫子は未だに納得がいかないままだった。

 ケスラー夫人は声を顰めた。
「それがね、お義父さまは、猫と意思疎通が出来るなんて言ったんです。主人はそれはナンセンスだと言って、売り言葉に買い言葉。それで、お義父様が家を出てしまわれて。帰って来いと主人が言っても猫と意思疎通が可能と認めなければ帰らないと言うし、主人も認めることは出来ないというし。そのうちに、あの猫と新しい遺言状を隠してきた、あの猫が誰かの助けを得て戻ってくるか、うちの主人が間違っていたと謝らない限りは、全財産は慈善団体に行くなんていいだして。しかも、どちらも折れないでいるうちに、お義父様があの日急逝なさってしまわれて、私たちは真っ青だったんですよ」

 姫子は、どうやって猫と一緒にここにたどり着いたかは言わなかった。ケスラー夫妻も追求してこなかった。ここはあやふやにしておくのが大人ってものだろう。

 こうして姫子は、猫と話せたおかげで新しい人生を始めることが出来た。かなりめちゃくちゃな結末だけれど、悪くない。

「とにかく、あなたのおかげで本当に私の人生、好転したのよ。どうもありがとう。果樹園の世話なんてどうやるのかわからないけれど、ケスラーさんたちが教えてくれるっていうから、きっとなんとかなるわよね」

 話しかけると、猫は大きく伸びをした。
「簡単だよ。水をやるのは、天の神様だし、授粉は蜂たちがやってくれるのさ。出来た木の実をもぐだけなんて、ネズミを狩ったりするほどの技術もいらないだろう」

 そういうものかな。なんか違うようにも思うけれど、これから家族になる猫だから、不要な喧嘩はしない方がいいだろう。そう思って、ふと思い出した。
「あなたの名前、訊いていなかったわね。なんていうの?」

 猫はきれいな瞳をくるくる回した。
「マリッレ。この木と同じだよ」

(初出:2017年1月 書き下ろし)

註・マリッレとはオーストリア方言でアプリコットのこと
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

救い出してみたら

scriviamo! 2017、ありがたいことに続々とご参加いただいています。頑張って書いてお返ししていますが、あまりに小説が続いているので、今日は別の話題を。時間稼ぎとも言う?

お茶セット

日本に一時帰国していた10月のこと。実家に滞在しておりました。

朝、母が「燃えないゴミがあったら今出して」というので、玄関の前に出しにいったら、可愛いボーダー柄の瀬戸物が2つありました。

母に訊いてみたら、プリンか何かが入っていて、食べ終わったあとも洗ってしばらく使っていたのだけれど、場所もないしもういいかと思って処分することにしたというのです。

私は「う〜ん」と悩んでしまいました。他に何も持っていくものがないならばともかく、ものすごい量の(くだらないものも含めて)荷物をスイスに持ちかえるので、よけいなものは増やしたくない。

でも、この形と大きさがちょっとツボにはまったのです。

蕎麦猪口サイズの食器も欲しいなと思っていたのですが、それにちょうどいいものはまだ買えていませんでしたし、日本茶だけでなく紅茶などを入れても良さそう。なかなか使いでがありそうです。それで、最終的に氣にいらなかったら小さい植物の鉢にすればいいやと思って、持ち帰りの荷物に入れたのです。

で、帰って来たら、なんと一番お氣に入りのティーカップになってしまいました。

基本は、これにほうじ茶を入れて飲んでいるのですが、紅茶を入れたり、ジャスミンティーを入れたり、ミニサラダやポタージュを入れたり、使い道がいろいろあるじゃないですか。重ねて収納できるのもいいところ。

なかなかいいものをゲットしてきたぞとホクホクしている私です。
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Posted by 八少女 夕

【小説】頑張っている人へ

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第五弾です。けいさんも、まずはプランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

プランBで、拍手絡みの物語を、うちの「シェアハウス物語」とコラボでお願いしても良いですかね。それを受けて、私も掌編を描く。それのお返事掌編をまたいただく…B→B(A)→A混合サンドイッチ、みたいなの。


この二つ書けとおっしゃるうち、ひとつはちょうどブログトップのFC2拍手を1000カウント目にしてくださった記念掌編です。

けいさんは、私と同じく海外在住ですが、お住まいは地球の反対側、スイスから一番遠いオーストラリアです。だから、お逢いするのは生涯無理だと思っていたのですが、なんとブログのお友だちの中で一番最初にお逢いした方になったんです。オーストラリアは、見知らぬ人にもフレンドリーな人が多い国ですが、その社会に馴染んでいらっしゃるけいさんも例外でなくとてもフレンドリーで暖かいハートをお持ちの方。それだけでなく生涯に何度もないウルトラ長期休暇に長編小説を毎日書いたという、とてつもない努力家でいらっしゃいます。爪の垢を煎じて送っていただきたい~。

今回コラボご希望になった「シェアハウス物語」は昨年発表なさった作品で、大学生宇宙そらくんが暮らすことになったシェアハウスでのハートフルな人間模様です。

拍手がらみの話ということですのでどうしようかなと悩みましたが、「応援の拍手」で書くことにして、まず今回は折り紙アーティストのワンちゃんをメインにお借りしました。けいさん、ありがとうございます!

そして、うちからは、あの店が再登場しています。


「いつかは寄ってね」をはじめから読むいつかは寄ってね


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頑張っている人へ - Featuring「シェアハウス物語」
——Special thanks to Kei-san


 山から下りてくる道は、双方向とも一車線しかない細い道で、切り立った崖のおかげで実際の日暮れよりも早く暗くなる。

 千沙は、ゆっくりと中央線にあわせてハンドルを切り、ブレーキを踏まずにきれいにカーブした。それからすぐにトンネルが来た。コンクリートの壁、独特のオレンジの電灯、千沙は不意に思い出して少しだけ悲しくなった。

 時夫君。私はトンネルを普通に通れるようになったよ。あなたも頑張れるよね。

 時夫は、千沙の父方の従兄だ。同じ街で育ち、それから大学に入った時に埼玉に引越した。千沙が二年遅れてやはり東京の大学に進んでから四年間、下宿が比較的近かったので時おり逢った。とくに千沙が運転免許を取りたての頃、彼に頼んで高速や山道の運転の特訓をしてもらった。

「おい。そんなにブレーキを踏むなよ」
「だって、怖いんだもん」
「そんなことやると、後から衝突されるよ。もっとスムースに走らせなくちゃダメだ」
「わかっているよ」

 そして、トンネルに入ると千沙は速く走れなかった。
「なんでだよ」
「だって、壁にぶつかりそうなんだもん」

 トンネルの壁が車の左側を擦りそうな感じがしたのだ。そして、中央線の反対側には強い光を放つ対向車が向かってくる。上手くすれ違えるか不安になる。

「ぶつかるかよ。これまで走っていた道と同じ幅じゃないか。まっすぐ道の真ん中を見て、同じスピードで走れ」
「う、うん」

 時夫は、口は悪くても千沙にとっていい教師だった。根氣よく、粘り強く指導してくれた。だから、大学を卒業して就職する頃には、千沙は、上手とまではいかなくとも、少なくとも他人に迷惑をかけない程度には運転できるようになっていた。

* * *


 ようやく帰り着いたが、千沙は、車を駐車したあとにまっすぐにマンションには入らなかった。トンネルを過ぎた一時間ほど前からの、もの悲しい想いを誰もいない自宅には持ちかえりたくなかったのだ。

 東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。ママと呼ばれる涼子が一人で切り盛りをするこの飲み屋は、二坪程度でカウンター席しかないが、開店してから五年ほどの間にそこそこの固定客が付き、暖かい家庭的な雰囲氣で満ちている。

「いらっしゃいませ。あら、小林さん。今日は少し遅かったかしら」
涼子は千沙に笑いかけた。

「秩父に出張だったの。この時間は、いっぱいね」
そう言って、カウンターを見回した。いつもの常連である西城や橋本の他に、始めて見る国際色豊かな客たちが四人ほど座っていて、その間の一席だけがかろうじて空いていた。

 その席の隣にいた黒髪の女性がにっこり笑って自分の椅子を動かした。どうぞ座ってくださいという意味だと思ったので、千沙は会釈してその席に向かった。

「ワンちゃん、もっとこっちに来ても大丈夫だよ」
肌の色が浅黒く、目の大きなアジア系の男が、意外に流暢な日本語で言った。ワンちゃんってことはこの人も日本人じゃないのかな、そう思いながら千沙は座った。

「今日はどうしますか?」
涼子が暖かいおしぼりを手渡してくれた。今日の装いは黒地に赤や黄土色の縦縞の入った縮緬の小紋だ。袖に手を添えて出す所作がきれいで、千沙はいつも感心する。こういう大人になるのが理想だけれど、いつになることやら。

「今日は、少し酔いたい氣分だから、最初っから熱燗にしてもいいですか」
千沙が言うと、涼子は目を丸くした。

「そうなの? 銘柄はどうしましょうか」
「う~ん、わからないけれど、飲みやすいのはどれかしら」
「そうねぇ。出羽桜の枯山水はどうかしら。三年醸造でわりとふっくらとした味わいだけれど」
千沙はこくりと頷いて、それを頼んだ。

 それまで賑やかに飲んでいた国際的なチームは、千沙に遠慮したのか、少し小声にして飲んでいた。

 一方、既に出来上がっている西城と橋本は、涼子が熱燗を用意しながら、カウンター越しに千沙への突き出しや小皿を置いている間に話しかけてきた。

「どうしたんだい、千沙ちゃん。酔いたい、だなんてさ」
「俺っちが、はっなしを聴いてあげよっか?」

「ちょっと、お二人とも、酔っぱらって小林さんに絡まないでくださいな」
涼子が嗜めると、二人とも赤い顔をして、滅相もないと慌てて手を振った。

 千沙は、笑って二人の方を見てから涼子に答えた。
「大丈夫ですよ。実はね、運転中に車の特訓をしてくれた従兄のことを思い出して、悲しくなっちゃったんです。その従兄ね、いまガンで闘病中なんです」

「まあ、そうなの? それは心配ね」
「仕事熱心のあまり、おかしいと氣づいてからもしばらく検査に行かなかったらしくて、ちょっと進んじゃっているみたいなんです。ほら、若いと早いって言うじゃないですか」

「そりゃあ、悲しくもなるよなあ」
「でもっ。希望っを、失っちゃ、ダメだよなっ。俺っちも、よくなるように、祈るからっさ」

 あらあら、ろれつが回っていない。この酔い方では、おそらく明日になったら何の話題をしていたかも憶えていないだろうなと思いつつも、千沙は微笑んだ。

「その従兄、私と違って優秀だったんです。子供の頃から努力家で、頑張りやで、私が何か出来ないと助けてくれたんですよ。車の運転もそうで、国から出てきた身内が他にいなかったこともあるんですけれど、下手な私にずいぶんとつきあってくれて。それを思い出したら、私は彼のために何も出来なあと、悲しくなっちゃって」

 千沙は、暖かい土色の猪口に浮かんだ枯山水の波紋を眺めながら言った。湯氣の暖かさ、涼子や常連たちの思いやりのある言葉にホッとする。

「そうね。きっとよくなるって信じて陰ながら応援することも、彼の力になるんじゃないかしら」
涼子がそういうと、西城と橋本も大きく頷いた。

「そうだよな。よしっ。俺っち、この箸袋で鶴を折るぞ。そうしたら、千羽鶴にしてさ……」
西城はそういいながら鶴を折りだしたが、手元が危うくて上手く折れていなかった。

「ええ。西城さん、それじゃ、やっこさんになっちゃいますよ」
「うるさいな、ハッシーは、黙って、一緒に折るんだよ。そのイトコを応援するんだってば」

 左側の二人の酔っぱらいに、千沙の意識はしばらく捉えられていたのだが、涼子の驚きの声で我に返った。
「まあ。なんて素敵なの!」

 千沙が、右側を向くと、隣に座ったワンちゃんと呼ばれた女性がどこからか取り出した小さい折り紙で、あっという間にいくつもの折り鶴を完成させていた。しかもそれだけでなく、赤、オレンジ、黄色などできれいな紅葉を折っていた。

「え。この短時間に?」
千沙は、その女性が取り組んでいる別の折り紙作品に目を奪われた。

 それは、追えないほどの速さで、しかも正確に織り込まれて、あっという間に人間のような形になっていった。その小さい人物は、腕を前に差し出して重ねている。

「拍手をしているみたい」
千沙は思わず呟いた。

 ワンちゃんはにっこりと頷いた。
「そうなの。これは拍手をしている人。応援の拍手。頑張っている人への」

 その人物像の周りで、紅葉もまるで小さな手のひらのよう。一緒に拍手をしているようだ。小さな折り鶴も羽ばたいて見える。

「さすがワンちゃん。すごいな。それ、今度のテツオリで、僕たちに教えて」
一番向こうにいた、日本人の若い青年が言った。

「テツオリ?」
千沙が訊くと、青年の隣に座っている青い目の女性がにっこり笑って答えた。
「私たちのシェアハウスで時々やる徹夜の折り紙教室のことなんです。こちらのワンちゃんにいろいろな折り紙を教えてもらうんです」

 ワンちゃんは、千沙に作品の数々を渡した。
「そちらの方の分と一緒に、これもその従兄さんに差し上げてください。ここにいるみんなで応援していますからって」

 千沙は、目頭が熱くなるのを感じながら頷いた。
「はい。彼はきっと喜ぶと思います。不屈の精神を持つ人だもの、きっと頑張ってくれると思います。私もめげずに応援します」

 どんなトンネルにも出口がある。どんな下手な運転も、練習すればそれなりになる。諦めて何もしない人が好くなることはないと教えてくれたのは、他ならぬ時夫だ。

 体調や病状は、努力とやる氣だけではどうにもならない部分もあるけれど、諦めたらお終いというのは同じ。好くなることを信じよう。応援することしか出来ないけれど、せめてそれだけは続けよう。

 週末は、ここにある全ての折り紙を持って彼を元氣づけるためにお見舞いにいこう。千沙は、熱燗を飲み干すと、自分も下手ながらも折り鶴を折るために、箸袋を広げた。

(初出:2017年1月 書き下ろし)
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