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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


ようこそ。このブログでは、オリジナルの小説と、スイスにいる異邦人の日常を綴っています。
【お報せ】 今日のひと言 (from PIYO)

scriviamo! 2023 無事に終了しました。今年もたくさんのご参加、ありがとうございました。

【小説まとめ読み】 - 目的別のおすすめ小説をリンクした記事
『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』を読む 『森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架』を読む 短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む エッセイ集『心の黎明をめぐるあれこれ』を読む

Posted by 八少女 夕

大雪降った

さて、早くも師走。スイスももちろんバッチリ冬が来ています。

大雪の朝

日本にもあると思うんですが、ここスイスにも農民の歳時記というのか、言い伝えカレンダーみたいなものがあります。おそらく地域ごとに少しずつ違うんだと思います。私がいま書いているのは、この地域の言い伝えです。そのうちの1つに「聖マルティヌスの日までにラインの川底に雪が届いたら、その冬は半分終わったも同然」というのがあります。

聖マルティヌスの祝日は11月11日。この日から歳時記的には冬で農民は仕事じまいをするとか、その年の債務をすべて払う日とか、いろいろと重要視されている日なのです。そして、これより早くライン川の流れているあたり(標高700メートル前後)に雪が降ったら、その年は暖冬になるということらしいです。私にそれを教えてくれた方は、101歳で亡くなりましたが、ご自分でもそのルールを毎年チェックして98%くらいの確立で正しかったと言っていました。

それで、私は毎年11月11日までに雪が降るとけっこう喜んでいるのです。残念ながら今年はまったく降らず、「普通の冬かあ」と思っていました。10月はスイスでの天候観測開始後もっとも暖かかった10月だそうですが、11月からは急に寒くなり氷点下の日々もなんとも思わなくなっていました。

それでも、庭にはまだほうれん草、のら坊菜、そしてかなり大きくなってきていた白菜が残っていて、不織布でカバーはしていますが、これでも育つんならもう少し残しておこうと思っていたのです。

そしたら、突然大雪がやって来ました。雪が降ることに文句は言ません。12月ですもの。降ったら雪に決まっているんですよ。でも、そんなに降らなくてもいいんだけどな。金曜日の午後から降り始めて雪かきをしてもしてもどんどん降り続け、翌朝には太ももが埋まるほどの高さに積もってしまいました。

雪に埋もれた家庭菜園

土曜日の朝としては早起きして、白菜を救おうと家庭菜園の方に向かったのですが……。ご覧の通り完璧に埋もれていて、そもそもたどり着けない状態でした。白菜をピンポイントで探そうにも、どこにあるのかもよくわかりません。

そして、雪はまだ降り止まず……。ああ、もうダメか。諦めて戻ってきてしまいました。やはり東京などの家庭菜園とは違い、冬には何もできないんだなと学びました。

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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(26)《トリネアの黒真珠》 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第26回『《トリネアの黒真珠》』をお届けします。今回も3回に分けています。

ようやく話はメインキャラたちのいる離宮へと戻ってきました。フリッツとフィリパが戻ってきました。ラウラもアニーの無事がわかりひと安心です。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(26)《トリネアの黒真珠》 -1-


「そう。無事なのね」
ラウラは、涙を浮かべて微笑んだ。アニーが川に流されて以来、水すら飲まずに祈り続けてきたが、フリッツとフィリパが朗報を持ってきてようやく顔に精氣が戻った。

「それで、なぜまた修道院に?」
マックスは、フリッツとフィリパだけが帰ってきたことに戸惑っていた一同の思いを代弁した。

「それが、やっかいなお方がアニーの側におりまして」
「それは?」
「ルーヴランの紋章伝令副長官ギース殿です」

「「なんだって?」」
レオポルドとマックスが同時に叫んだ。

 エマニュエル・ギースは、ルーヴの宮廷でマックスやラウラと親しく言葉を交わしたこともある。そして、それだけでなく、ノードランドの停戦交渉の場にもいたので、レオポルドの顔をもよく知っている。さすがにフリッツの素性まではわからないだろうが、顔を見知っている可能性はある。

 アニーの兄マウロの命を救い、フルーヴルーウー辺境伯領へと送る手助けをしてくれたのも当のエマニュエル・ギースだが、それはつまり、彼がラウラとマックスが現在はフルーヴルーウー辺境伯夫妻となっている裏事情をよく知っていることを意味する。それだけにいかにも軍人然としたフリッツが現れてアニーを引き取ったりしたら、すぐに何かがおかしいことに氣づくだろう。

「それでアニーは同行者などいないというフリをしたんだろう。溺れかけたそのあとでよく機転を利かせてくれたというほかはないが……困りましたね」
マックスは、どうしたらいいだろうかというようにレオポルドを見た。

「それで、マーテル・アニェーゼはなんと?」
レオポルドはフィリパに訊いた。

「あの尼さんも大したタヌキですね。アニー殿のこと、まるで初めて見た知らない娘みたいに振る舞っていましたよ。そのギースとかいうルーヴラン人の方は、アニー殿が心配で氣も狂わんばかりで、とにかく快復するまで滞在するって言い張っていました。で、マーテルがあたしを横に連れて行き、このお方が出立したら連絡をするのでそれまで待つようにと言い、この書状を姫さんに渡せって」

 レオポルドは、安堵して笑顔になった。
「なるほど。それが今のところ我々にとっても最善だな。ああ、フィリパ、悪いが、もう1つ頼みたいことがある」

「なんですかい?」
「もう1度修道院に行き、アニーに会い、我々から連絡があるまでそこで待てと伝えてほしい」
「そりゃあ、構いませんが、なんか忘れてませんか」

「なんだ。砂金なら先ほど渡したではないか」
「ヘルマン殿の代わりに尼さんところで黙って伝言係をやるなんてのも、予め言われた話にもなかったけれどやってきたんでね。そろそろ追加料をもらわないと」

 レオポルドは上を見てため息をつくと、マックスに目配せをした。マックスは笑いながら財布から再び砂金をとりだして与えた。

「こりゃ、どうも。ヘルマン殿との密偵ごっこの方もこっちに入れておきますね。あれはなかなか面白い体験だった。我々は、しばらく修道院脇で野営をしているから、またなんかあったらいつでもどうぞ」
そういうとフィリパは、悠々と出て行った。

 レオポルドは、フリッツの方に向いて訊いた。
「それで、密偵ごっこというのは、お前が報告したいと言っていた件か?」
「はい」
「よし話せ」

 フリッツからの報告を聞くと、レオポルドとマックスは、これはエレオノーラの耳にも入れる方がいい案件だと一致した。それで、全員ですぐにエレオノーラのいる東翼に向かった。

 マーテル・アニェーゼからの手紙を渡しがてら、レオポルドは「お耳に入れたいことが」といい、暗に使用人たちの人払いを頼んだ。エレオノーラは、頷くと場所を変え、書斎にレオポルド一行と隠り、手紙を開封した。

「あそこに運び込まれたなら、なぜフリッツ殿が行って直接アニー殿を連れ出さなかったんだ?」
マーテル・アニェーゼからの手紙には、アニーはしばらく修道院で静養させ、快復したら連絡すると書いてあった。

「修道院に連れて行った貴人が、もしかするとあなた様をご存じだといけないと思い、アニーは自分には連れはいなくて1人だと説明したようなのです。確かに、あの修道院にトゥリオ殿が匿われている事情や、あなた様が病に伏せっておられるのではないことが、その貴人を通じてほかの方々にわかると面倒ですし」
レオポルドは、予め考えてあった通りに話した。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

納豆作った

「なければ作れの海外生活」の1つ、手作り納豆の話です。大豆さえあれば作れるんですよ。

自作納豆

日本にいたらまず自分で作らないものはいろいろあります。梅干し、味噌、蕎麦つゆなど、どこでも簡単に手に入りますものね。スイスの田舎では、まず手に入らないし、入ってもめちゃくちゃ高いので私は自作するようになりました。

スイス人の連れ合いが日本食に興味が無いうえ、もともと日本の実家がわりと洋風の食事が多かったこともあり、移住してから和食はほとんど作っていなかったのですが、健康のために和食の食材を探し始めて上に書いたあれこれを自作することになったわけですが、同じことをしている海外在住者はいるもので、いまはなんでもネットで作り方を調べることができます。

そして、納豆ですよ。これは調べもせずに無理だと思っていました。麦わらに特別な秘密の菌を入れて作るものだと思っていたので。ところが、調べてみたらその菌はまったく特別でもなんでもなく、世界中のそこらへんにあるというのです。草を枯れさせる枯草菌というのが納豆の元だというのです。

ヨーグルトメーカーを使うと確実らしいですが、我が家にはないので「シャトルシェフ」を使うやり方を試してみました。

作り方は簡単で、まず大豆カップ1くらいを指で潰せるくらいに茹でます。まだ熱いうちに、小さいタッパの底にそこら辺の草(ハーブなど食べられるものがいい)を敷き、茹で大豆の半分、また草を敷き、さらに残りの大豆、また草という感じで重ねます。私は増えて困っているセージや、パセリ、西洋ヨモギなどを利用して作っています。

軽く蓋をした状態で、シャトルシェフの内側の調理鍋に熱湯400mlと水200ml(つまり65℃〜70℃くらい)を入れてから、そっとタッパーを浮かします。外側の保温容器に入れて24時間保温します。だいたい12時間くらい経つと温度が下がっていると思うので、私は1度お湯を作り直しますね。温度が低すぎると失敗します。

これだけ。24時間経つと上の写真のようにバッチリ納豆化しているんですよ。ちなみに草だとできるか不安とか、面倒とか、イヤだという方は、粉納豆を使っても同じようにできます。海外だと入手が大変かもしれませんが。

さて、ここからが悩みどころでした。せっかくの糸引きが、翌日にはなくなっちゃうんですよ。味は納豆のままですからネバネバが嫌いな方はそれでいいかもしれませんが、健康のために作っているこちらとしては、ネバネバを維持したいじゃないですか。

調べてみたところ、お湯から出して冷蔵後も納豆菌はそのまま仕事を続行しているらしいのです。でも、食べるものがなくなっちゃうので、自分で作りだしたネバネバ成分を食べちゃうらしいのですね。それで、そのプロセスを止めるのが鍵だなと考えました。試しにひと晩冷凍してみたところ、ビンゴでした。解凍したあとは数日間経ってもネバネバは残っていました。賞味期限は1週間くらいだと思います。
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Posted by 八少女 夕

【小説】北の大天蓋の下で

今日の小説は『12か月の建築』11月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、北極圏に住むサーミ人の木造住宅ゴアティです。

子供の頃、『星のひとみ』という本を読んだ記憶があります。当時は「ラップランド」「ラップ人」という名称で紹介されていた北極圏に住む遊牧民族の民話を元にしたストーリーだったと思います。実は詳細はあまりよく憶えていないのですが、本来ならば死んでしまうような厳寒の中、放置された赤ん坊が数奇な運命に導かれて救われた所から始まる話でした。とはいえ、どう考えてもハッピーエンドではなくて、児童文学としては異色な作品だったので強く印象に残っています。

その印象が強かったので、今回のシリーズでもサーミ人のことを題材にすることを決めて調べはじめました。子供の頃に理解できなかったあの圧倒的に悲しい美しさについて、少しだけ理解が深まったような氣がします。


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北の大天蓋の下で

 シューラは、霜で覆われかかった下草を踏みしめた。彼女にとって幸いなことに、まだ雪が地域を覆い尽くす前で、数週間前に降ったのであろう雪の名残は、全く日の当たらない場所にのみ残っているだけだった。それは、ここが森の中であるからだった。平原は雪に覆われている。1日に数時間しか太陽の出ない11月の北極圏で、当てもなく歩き回るわけにはいかない。夕闇と共に氣温は急降下し、彼女の中で危険信号が点滅した。

 モスクワ発ムルマンスク行きのキエフ鉄道に乗ったのは3日前だ。いつも通りにスケジュールを優先するのであれば、空港に向かうべきだったし、たとえ自分の休暇を使うとしても本来ならばもう自宅に戻っていても、おかしくない時間だった。

 モスクワで大学を卒業し、順調にキャリアを重ねたアレクサンドラ・ダニーロヴナ・プーシキナは、ニッケルの買い付けで優位な条件を手にするためにミハエル・アルバキン氏と交渉を重ねた。ミーシャ、シューラと呼び合う信頼関係を手にしてようやくムルマンスクで会うことになったが、彼女は虫の知らせのように、どこかでアルバキン氏とは会えない予感がしていた。

 ムルマンスクは、ノルウェーとの国境に近い北極圏、コラ半島にある。シューラにとっては、母親から何度も聴かされた地名であったが、異国のロンドンやニューヨーク以上に遠い土地だった。祖父の生まれ故郷であるコラ半島に、1度も行ったことがなかったのは、考えれば奇妙なことだった。

 アルバキン氏が扱うニッケルは、ひどい環境災害を引き起こしたことで悪名高いノリリスク・ニッケルから調達しているという黒い噂があった。それでも他のどの会社よりも都合のいい見積もりは、シューラにとっては競合他社や社内のライバルたちとの戦いに勝つために魅力的だった。

 だが、もうアルバキン氏との交渉を考える必要も、環境問題に対して良心の呵責に堪えることもない。それ以前に明日の朝、シューラが生きている保証すらないのだ。

 モスクワの冬に慣れていたので、たまたま自分が乗るときに列車に何かが起こるなどと想像したこともなかった。突然の停車と、説明もない2時間の待機にシューラは苛立った。ブレーキの近くで凍結した氷柱が割れ、エンジンを傷つけたという情報はまわってきたものの、いつ回復するのかという説明はなかった。

 別の機関車が到着して、ようやく動き出した列車は次の駅で乗客を降ろしたものの、代替交通機関などの用意は無かった。白タクシーを手配して、先の駅まで行こうと交渉した。足下を見られないように、わざと高慢に振る舞ったのがよくなかったのかもしれない。

 途中で喫煙をしたいから、コーヒーでも飲める所で停めろと言ったら、運転手は何もない平原で急停車した。
「何よ。危ないじゃない」
「コーヒーの飲める所なんてねえよ。勝手に吸え」

 シューラは、煙草をくわえて火をつけようとしたら彼は怒り出した。
「ふざけんな。外で吸えよ」

 しかたなく、彼女は降りた。コートを着て、外に降り、寒いだろうとドアを閉めたところ、運転手は、急にアクセルを踏んで発進した。

 彼女は、あわてて罵声を飛ばしながら、そして、次に懇願しながら追いかけたが、車は戻ってこなかった。シューラの荷物をトランクに入れたまま、男は走り去ってしまった。

 はじめからシューラの荷物や金を狙っていたのかもしれない。身体に危害を加えられなかったのは幸いといえるのかもしれない。貴重品を入れたハンドバッグを持って車を降りたことも幸運だと思った。救援を呼ぼうとまずは警察に電話を試みたが、なんと圏外だった。

 しばらく歩けば駅や警察のある町にたどり着くだろうと甘い見通しでいたのも間違いだった。歩き出してからようやく、明るくなった広大な平原に1人でいることがわかった。2時間ほどでその日がもう傾きだしたが、その間、他の車どころか動物すらも側を通らなかった。

 あの男が警察に通報される心配もしなかったのはそのせいだった。町まで生きてたどり着くことはないと思ったのだろう。実際にそうなる可能性の方が高そうだ。

 このまま、何もない平原を歩くか、それとも暖を取るために森林へ進むかしばらく考えてから、シューラは森林を選んだ。ほんのわずかだが、女の歌声のようなものが聞こえていたからだ。

 深い緑の中を、こわごわ進むと、その歌声は少し大きくなった。言葉は全くわからないが、おそらくこのあたりに住むサーミ人のヨイク歌ではないかと思った。もし、ロシア語か英語が通じれば、近隣の村に連絡してもらい、助かるかもしれないと。

 シューラは、暗い木々の間を進み、突如として見えた光景に愕然とした。

 子供の頃、悪いことをすると母親はいつも脅した。
「ババ・ヤーガが迎えに来てあんたをバリバリ頭から食ってしまうよ!」

 その伝承の鬼婆は、鶏の足の上に載った木の小屋に住んでいると教えられた。今シューラが目にしているのは、まさにそんな小屋だった。4本の生えた木を柱として、その上に高床式の木の小屋が支えられている。柱となっている木の根が、まるで鶏の足そっくりだ。

 シューラが硬直しながら立っていると、その小屋の中から、誰かが出てきた。それは、ハバ・ヤーガのイメージの老婆ではなく、子供とはいえないが、大人ともいいがたい年齢の若い女性だった。

 黙って凝視しているシューラを見て、彼女も驚いたような表情を見せた。そして、何かわからない言葉を発した。

 これがさっき歌っていた人だと、シューラは思った。シューラに言葉がわかっていないのを見て取ると、彼女はノルウェー語で何かを言った。それも通じていないとわかると片言のロシア語で訊いた。
「あなたは誰? どうしてここにいるの?」

 シューラはホッとして、言った。
「わたしは、シューラ。犯罪にあって、放り出されたの。町へ行きたいの」

 少女は、少し考えてから首を振った。
「少なくとも、今夜は無理ね。ここには私しかいないし、この寒さであと30㎞は歩けないでしょう?」

「どこかに救援は呼べない?」
シューラがスマートフォンを取り出すと、少女は笑った。
「それ、まだ動くの?」

 そう言われて見ると、スマートフォンの電源は切れていた。氷点下の寒さと、圏外で見つからぬ電波を探す動作が電池を消耗させたのだろう。電池切れになっていたことに氣がついていなかった。

 シューラはそれでも食い下がった。
「あなたは携帯電話は持っていないの?」

 少女は首を振った。
「ここでは電化製品は役に立たないの」

 それから、手に持っていた革鞄を斜めがけにしてから高床式の家の扉を閉めると、梯子を伝わりながら降りてきた。そして、シューラの傍らに立った。
「今夜、町に行くのは無理よ。わたしはマリよ。ついていらっしゃい」

 シューラは、彼女の家には入れてくれないのかと思って落胆した。寒さに手足は強ばり、もうたくさんは歩けるとは思えなかった。マリは、ああという顔をしてから言った。
「心配しないで。すぐそこだから」

「ここは、あなたが寝泊まりする家じゃないの?」
「違うわ。これは倉庫なの。寝泊まりするのはゴアティよ」

 ゴアティが何を意味するのかはわからなかった。いつだったかテレビで見た、サーミ人が寝泊まりする布テントを想像した。その映像では、トナカイがソリを牽き、人びとは氷の上で焚き火をしていた記憶がある。ソリがあれば町まで連れて行ってもらえるかもしれない。

 木々の合間を少し歩くと、高さ4メートルほどの木の小屋が現れた。たくさんの丸太を円錐形に束ねてある。そして、隙間から緑色の苔や植物が顔を出していた。布テントでもなければ、人びともトナカイもいなかった。
「これが、ゴアティよ」

 マリは、丸太でできた扉を開けて、シューラに「どうぞ」と言った。

 近くで見ると丸太の骨組を土や木が覆っている。土にびっしりと苔が生えており、また覆った外側の木々から新芽が生えている。根のついた自然の木々や苔が絡み合い、補強と断熱効果があるようだ。

「ここで靴を脱いでちょうだい」
そう言うと、マリは毛皮でできたブーツを脱いだ。彼女は小さなフェルトの中履きを履いていて、シューラの薄いストッキング姿を見ると、奥から同じようなフェルトの履き物を持ってきて渡してくれた。

 中は15平方メートルくらいだろうか。中央に石の囲炉裏があり、炭が赤く熾っていた。奥の一部分にだけ、毛皮が敷かれているが、それ以外は非常に細い枝が敷き詰められていた。

 少女は、革鞄から薪を取り出すとそれを囲炉裏にくべて火を熾した。シューラは、待ち焦がれた火の暖かさに安堵の声を漏らした。

「座って」
マリは、囲炉裏の近くの場所を示した。シューラはコートのボタンを外し、肩から羽織るようにして火に当たった。それから、小屋の中を見回した。

 外側は生きている植物で覆われていたが、内側は滑らかに処理された丸太で組まれている。湾曲した大きな柱が2本、それをつなぐ太い丸太が全体を支える骨組みとなり、その骨組みに立てかけるように丸太が並べられている。丸太にはいくつかの枝が残されていて、それを骨組みに引っかけて全体がバラバラにならないようにしている。だから、縄や釘のようなものは一切見えないのに、しっかりと固定されている。

 不思議な小屋だ。中心に平たい石で組まれた炉と、鍋のようなものがあるだけで、棚やテーブル、椅子などの家具はない。かといって布テントほど簡易な作りではなく、外にあのように植物が育つのならば、新しい建物ではないだろう。
「古い建物なの?」

「そうね。たぶん200年くらいじゃないかしら。正確には知らないけれど」
「あなたはここに住んでいるの?」

「いいえ。でも、ここに来るときには使うわ。一族みんなのゴアティなの」
そういいながら、炉に鍋を掛けて湯を沸かした。

「サーミの人たちって、たくさんのトナカイを放牧したり、観光客たちに犬ぞりを見せて暮らしているんじゃないの?」

 無知な質問には、慣れているのだろう。苦笑しながら答えてくれた。
「たくさんトナカイを飼って放牧する人たちは山岳サーミっていうの。私たちはトナカイは飼うけれど小規模で主に森に住むので森林サーミって呼ばれている。ほかに湖や海岸に住む人たちもいて、彼らは漁業を営むのでトナカイは飼わないのよ。それに、今では都会に行って伝統とは関係のない仕事をしている人もたくさんいるわ」

 その話をしているうちに湯が沸いた。マリは手際よく、コーヒーを淹れ、パンを温め、それからトナカイの燻製肉を切り分けて渡してくれた。古い折りたたみナイフや食糧は、みな彼女の持ち歩いていた革鞄から出てくる。火の熾し方、トナカイの毛皮を敷き詰めて座り心地のよい場所も作る手際もいい。

「マリ、あなたはいくつなの?」
シューラはずっと疑問に思っていたことを訊いた。

「16歳よ」
印象は間違っていなかった。しかし、彼女の行動は、とても16歳のようには見えなかった。森の奥に1人で寝泊まりし、火を熾し、食べ物を用意し、寒さも孤独も怖れる様子がない。

「あなたたちの民族は、16歳でもこんな風に何でもできるの?」
シューラが訊くと、マリは不思議そうに見つめた。

「何でもできるわけじゃないわ。ひと晩くらい、問題なく過ごせるだけよ。子供の頃から、家族に習ってきたの。あなただって、あなたの家なら暖のとり方や、コーヒーの淹れ方に困ることはないでしょう?」
それはそうだ。

「こんなに人里離れたところに、1人でいるのって大変じゃない?」
そう訊くと、マリは少し笑った。
「1人になりたいから森にいるのよ。ずっと学校に通わなくてはいけなかった。ようやく1人で森に来られるようになったのよ」

 シューラは、心底驚いた。
「じゃあ、あなたはずっと1人でここにいるの?」

 マリは首を振った。
「残念ながらそうじゃないわ。普段は村で働いているの。2週間の休みで、森に来ているだけ。明日はもう少し南のゴアティに移る予定よ」

 つまり、マリは徒歩だけでこの森に来ているのだ。シューラは、彼女に出会えたことがとんでもない幸運だったことに今さらながら氣がついた。

「ずっと森にいられたらいいけれど、私たちの祖先のような暮らしは、難しいの。義務教育だの、税金だの、逃れられないことがたくさんあるから。納得がいかないことにも従わざるを得ないから」

「税金や社会保障費は、しかたないんじゃない? 安全を守るためであったり、病や老後に困らないためにひつようなことでしょう?」

 マリは、シューラをじっと見つめた。
「あなたは、ここで安全? 困っていない? 税金や社会保障費が、今あなたを助けてくれている? その仕組みここでは無効だけれど、私たちは、税金や社会保障費なんかなかった頃と同じことをして生きているわ。あなたたちの『保障』や『安全』が、ここには届かないのに、なぜそのための掛け金を払わなくちゃいけないの?」

 シューラは戸惑いながら言いつのった。
「でも、都会では、社会は全く違って機能しているのよ。警察は電話1つできてくれるし、病院にも近いの。暖かい家に住んで、珍しい美味しいものを食べられる。キャリアを重ねてお金を稼げば、最新流行のファッションに身を包んだり、海外旅行に行ったり……」

 マリは、首を振った。
「そうしたい人は、すればいいわ」

 それから、マリは焰を見ながら、ヨルクを歌い始めた。先ほど聴いたのと同じだ。意味はわからないが、何か特別な想いが込められているかのようだった。

 焰が揺らめき、火の粉と共に煙が上がっていく。小さな穴から煙は夜空に上っていく。冷たい北極圏の空がその煙を引き受けている。漆黒だと思ったのに、その穴からは緑色の光が揺らめいた。
「え?」

 マリは、立ち上がると身振りでシューラを外に誘った。コートを着て、ブーツを履いて急いで外に立つと、木々の切れ目に広がる空は、緑色のカーテンに覆われていた。オーロラだ。

 マリのヨルクに合わせるかのように、オーロラは波打ち煌めいた。風と、遠くを動く動物が揺らす木々の音が、ヨルクに絡みつきながら張り詰めた冷たさの中シューラの耳に届く。

 シューラは、震えた。真っ黒にそびえる森の木々と、風と、ゴアティから立ち上る煙は、マリのヨルクと同調して、北の大きな天蓋を讃美していた。横たわる世界は完璧で冷たく、シューラはどうしようもなく小さかった。

 順調に駆け上ったキャリアも、クリスマスシーズンの豪華な晩餐も、何もかもが儚く脆く虚飾に満ちていた。矮小で役に立たないのは、動かないスマートフォンや、駆けつけてくれない警察と同様、見下されないための傲慢な態度や、ニッケル調達をめぐる黒い噂に目を瞑る欺瞞を当然のことと思っていた自分自身だ。

 ゴアティの中に戻ってから、シューラはもう先ほどのように雄弁に都会生活の優位を主張できなかった。マリもまた、多くは語らなかった。

 用意してもらったトナカイの毛皮を敷き詰めた寝床に横たわりながら、暖かく燃える焚き火を見つめた。

 ババ・ヤーガの小屋のような倉庫にしまわれた薪や食糧、トナカイの皮や森の木々から作られた慎ましい調度、電氣も漆喰もないのに、まだ生きている植物に守られた暖かい夜。マリやその仲間たちが大切に思い、残したいと思っている暮らしのことを考えた。

 凍死する心配はなかったけれど、慣れないトナカイの毛皮の寝床では深くは眠れなかった。ずいぶんと時間が経ったように思ったが、北極圏の夜は長かった。すべての電子機器が動かないシューラには時刻を確かめる術はなかった。

 暗い中、マリが淹れてくれたコーヒーとともに朝食をとった。ボタン1つで出てくるカプセル式のコーヒーと違い、コーヒー豆を入れた小さな鍋が焚き火の上でコトコトと音を立てるのを待つ時間はとても長い。1週間前のシューラだったら、この時間は人生の無駄遣いに思えたことだろう。

 でも、今の彼女にはこの長い時間が必要だった。意味のわからないマリのヨルクも、トナカイに関する思い出話も、彼女の旅の拠点であるゴアティのある聞き慣れぬ地名の数々も、今のシューラには聴く時間がたっぷりあった。

「このカップ、素敵ね」
コーヒーの注がれた木製カップは手に馴染む形と、温かみのある木目がいい。

「ククサって言うの。白樺の木にできたコブで作るのよ。この大きさのコブができるまでには30年くらいかかるので、大量生産はできないの。だから、手に入ったら大切に使うのよ。たいていは贈り物ね」
マリは微笑んだ。シューラは「そう」と、改めて珍しそうに眺めた。

 マリによると、上手に移動していけば、3日後には町につけ、警察や電話といった彼女の必要な助けが得られるという。彼女は、それまで一緒にいて助けてくれると言ってくれた。シューラは、それで十分だと思っていた。アルバキン氏からのニッケルの買い付けは、もう望みがないだろうが、それがどうだというのだろう。社内での出世競争に遅れをとったことも、もう氣にならなかった。

 北極圏に広がるサーミたちが暮らす自然に支配された世界の大きさ、マリの助けを借りて生きて帰ることの奇跡を経験している意味の方がずっと重要だと感じる。

 天蓋に散らばる満天の星は、北極星の周りをゆっくりと動いていく。シューラはククサを両手で抱えて、コーヒーの香りを吸い込んだ。

(初出:2023年11月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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ストーリーに出てきたサーミの伝統歌謡ヨイクは、単なる歌ではなく自然と交流する儀式の一部でもあるようです。今回のストーリーはロシアのコタ半島を舞台にしましたが、サーミ人を国境で○○人と区分することはナンセンスなのかも。

Mari Boine - Gula Gula (Hear the voices of the foremothers) by Jan Helmer Olsen

【追記2】ゴアティの情報が見つかりにくいみたいなので、私が参考にした動画を貼り付けておきます。

Arctic ancestral survivalism: on extreme weather Sami wisdom
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

150,000Hit……過ぎてた

最近、桁が大きくなってあまり踏まないのですっかり見過ごしていました。

キリ番過ぎた

1000Hit、5000Hit、10000Hitなどは楽しく騒いでいたのですが、3年前の123456Hit以来ちょうどいいキリ番があまりに来ないので、カウンターを見るのをすっかり忘れておりました。

月曜日の深夜か火曜日の朝に、なんと150000Hitになっていたようです。「あれ」と思ったときは、すでに85も過ぎておりました。こんな辺境小説ブログに、懲りずに訪れてくださるみなさまに、改めて御礼申し上げます。

最近、このブログも比較的静かですし、あまり記念イベントというほどのことでもないのですが、せっかくですので、もし掌編小説のリクエストがありましたら承ります。来年になると、また「scriviamo!」が始まりますので、このリクエストは年内かな。

リクエスト内容(フリー)
  テーマ
  私のオリキャラ、もしくは作品世界の指定
  コラボ希望キャラクター(ご自分の、又は作者の了解をもらえる場合のみ)
  時代
  使わなくてはならないキーワード、小物など
  その他 ご自由に



ご遠慮なく、どうぞ〜。
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Tag : 150000Hit

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(25)密会 -3-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第25回『密会』3回に分けたラストをお届けします。

さて、フィリパが修道院にアニーの様子を見にいってくれている間、目立たぬように近くの屋敷の影に潜んでいたフリッツ。ちょうどその屋敷の使用人と、向こうからやって来た人物が密会をはじめたようです。フリッツは、それを盗み聞きすることになってしまいました。

まだ名前は出てきていませんが、この男が、おそらくこの作品群の最後に登場した主要サブキャラです。すでに外伝では登場させていますが、そっちは読まなくても大丈夫です。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(25)密会 -3-


 歩いてきた方はユダヤ人の服装をし肌色が非常に濃い男だ。屋敷から出てきた男は、その屋敷の召使いと思われる服装だ。だが、このような屋敷の使用人とユダヤ人が密会しているのはいかにも不自然だ。

 召使いの方は、聴き取りにくい小さな声で何かを囁いていた。それに対して、ユダヤ人の服装の男がカンタリア語で話しだした。
「では、例の男の口はまだ塞がれていないということか」

 フリッツの母親がレオポルドの乳母だったので、親子は子供の頃からレオポルドならびにカンタリア出身の母后の近くに侍ることが多く、グランドロン人としては珍しくカンタリア語を幼少期からたたき込まれている。

「はい。人狼であるという噂が立っているのをいいことに、うまく片付けるように仕向けておりましたが、邪魔が入りました」
屋敷の召使いの方は、カンタリア語は得意でないらしく、センヴリ語訛りで答えているが、カンタリア語とセンヴリ語はかなり近いので十分に会話が成立していた。フリッツにも何を言っているのかがよくわかった。

「邪魔? つまり、だれかがあの男を助けたと?」
「はい」
「あの男に味方がいるというのはよくない兆しだな。そちらも消さねばならぬとは思わぬのか?」

 フリッツは、話の内容に眉をひそめた。人狼というからには、例のトゥリオに違いない。カンタリアの人間が候女に近いトリネア人の殺害を示唆している。

「それが、どうも姫君の息のかかった者のようで」
「姫君? ああ、あの欠陥候女か」
「はい」

 浅黒い男は、わずかに考えていたが、ふっと笑った。
「そうか。それなら、むしろ好都合かもしれぬな」
「と、おっしゃいますと?」

「あの女は、孤立している。侯爵夫妻からも期待されておらず、どの有力貴族たちからもあざ笑われ、城内で頼る者もない。犯罪人を匿ったのが明るみに出れば廃嫡もあり得る大失態だ。そういって脅すことで、こちらに都合よく動く傀儡にすることも可能だ」
「なるほど、確かに」

「ともかくあの従僕の居場所を一刻も早く探って、あの女による隠匿である証拠を掴んでから消せ。あの候女が頼り匿っている者がいるなら、そちらも潰すいい機会だ」

「わかりました。それに、幸いトゥリオ自身がそう信じているように、姫君にも、ペネロペ殿はオルダーニ家に殺されたと思って動いていただければむしろ好都合です。万が一にも、こちらが計画したことと氣づかれれば、せっかく進んでいるそちらの殿下とのご縁談にも差し支えましょう」
「ふん。わが主にはまだ細かい事情を知らせるつもりはない。あの男は候女の前で馬鹿正直に思ったことを口にして、何もかも台無しにするだけだ」

 フリッツは仰天した。不穏な話題もだが、この男はカンタリア王子エルナンドの家来らしい。ということは、ユダヤ人などではなく変装だろう。この浅黒い顔はモロと通称されるタイファ諸国の褐色人のようにも見える。そのような男を王子が家来にしているのは奇妙だが、この件を主人レオポルドに報告すれば、いずれ候女エレオノーラ経由で何者なのかわかることだろう。

「まて。誰か来るぞ」
ユダヤ人の服装の男が声をひそめた。

 フリッツは自分の存在に氣づかれたかと思ったが、そうではなかった。かなり向こうからだが、この屋敷の方へ近づいてくる金属音がしている。フィリパに違いない。先ほども腰につけていたダガ剣とベルトが歩く度に音を立てていた。

「では、私はこれにて」
屋敷の召使いは、慌てて裏木戸を押した。彼が向きを変えたときに、その頬髭がつる性植物に引っかかりわずかに引っ張られた。それで、フリッツにその男の左頬の下にそれまで氣がつかなかった大きな黒子があるのが見えた。

「わかった。引き続きそちらからの情報を待つことにしよう」
浅黒い顔の男はあたりを見回してから、急ぎその場を離れ、召使い男はそそくさと屋敷に入った。

 見ていると、かなり先でその男とフィリパがすれ違い、彼女が胡散臭げに振り返っていた。モロである男は、目もくれずにすれ違ったが、しばらくしてふり返りフィリパと、そしておそらくこの屋敷を何か言いたげに見つめているのがわかった。

 フリッツは、もしかして忍んで話を聞いていたのを感づかれたのかと訝った。だが、男は、身を翻すと城下町の方へと去って行った。
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Posted by 八少女 夕

あわてて収穫

家庭菜園の話題、まだ続きます。

霜が降りた

10月は例年よりもずっと暖かかったのですが、11月は普通に寒くなりました。私の家庭菜園は、日本語の情報を参考にすることが多いのですが、動画にしろWEB上の記事にしろ、関東や関西あたりのお話だと、12月くらいまで畑が普通に稼働している感じなのですが、やはりその辺はスイスには当てはめられないようです。

今年は7月におかしな寒さが続いたせいか、時期を守って植えた一部の野菜はまだ思ったようには育たず、たとえばキャベツはまだまだ小ぶりです。とはいえもうこれ以上は大きくならないでしょうし、収穫する時期を考えています、霜が降りていますけれど。

ニンジン、ロマネスコ

そんなこんなで、畑にはまだまだいろいろな野菜が残っているのですが、諦めて収穫したものもあります。ロマネスコ3株と、ニンジンが大小合わせて10本ほど。

ニンジンはまだ放っておいてもいいかなとも思ったのですが、地面が凍ったら掘り出すのも大変になるだろうし判断して、引っこ抜きました。思ったよりもちゃんとできていて感激。そして、めちゃくちゃ味が濃くて美味しいです。見かけはいまいちですけれど、それは問題なし。葉ももったいないので、ふりかけにして食べましたよ。

ロマネスコを植えたのは生まれて初めてですが、ちゃんとフラクタルな形に出来上がっていて嬉しかったです。1度にこんなには食べられないので、固ゆでして冷凍しました。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(25)密会 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第25回『密会』3回に分けた2回目をお届けします。

さて、フィリパが修道院にアニーの様子を見にいってくれている間、目立たぬように近くの屋敷の影に潜んでいるフリッツ。やることもないのでグルグルどうでもいいことを考えています。フリッツって、本当に結婚やら男女交際に向いていない人なんだろうな。何が悪かったのか、本氣でわかっていませんね。こりゃ。

そして、最後の方にだけ、ちょっと本題が……。


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【参考】
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(25)密会 -2-


 インゲの方も、夫にスダリウム布の1つすら贈ろうとしなかった。レオポルドに従いノードランド戦に出征したときにすらだ。それについてフリッツは不満に思ったことはない。既に夫婦なのだからそんな甘ったるいことは不要だと考えていたからだ。

 それを知ったとき、副官のブロイアー中尉は驚愕し、周りにはそのことが一両日中に知れ渡った。レオポルドまでが呆れていた。
「そなた、インゲをそうとう怒らせているのではないか?」

「なぜですか」
「なぜって……。本物の戦に旅立つ夫にスダリウムを贈らない妻なんぞ、聞いたこともないぞ。それはつまり、『安全に帰ってこなくてもよい』という意思表示ではないか」
「まさか。そう思うのなら、はっきり口でそう言うでしょう」

 もちろんインゲはそうは言わなかったが、もしかしたら本当にそう思っていたのかもしれない。何も言わないから、生活に満足しているとは限らないのだとフリッツが学んだのは、インゲがドライス伯爵のもとに走ってからだった。

 表向きは、インゲはまだヘルマン大尉夫人だった。彼女は離縁を求めてこなかったし、フリッツもそうする必要は特に感じなかった。ほかにつきあいたい女性がいたわけでもなければ、そもそも誰かと知り合う機会も時間もなかった。まだ結婚している身であるという自覚と節操を持ち続けることが自分に合っているとも思っていた。

 エマニュエル・ギースとアニーの様子は、もうほとんど思い出さなくなっていた不快な感情を再び喚起した。去ったインゲが恋しいと思ったことはない。寂しさも感じなかった。それは失敗からくる苦さであり、何が間違っていたのかわからない事に対する苛立ちに近かった。

 そして、いま見た2人の様子に対する戸惑いは、宮廷でドライス伯爵とインゲを見かける時の感情とは少し違っていた。そもそもフリッツはレオポルドやフルーヴルーウー辺境伯夫妻ほどルーヴラン語に堪能ではないので、2人の会話の詳細まで理解したわけではない。だが、ギースがさまざまな言葉を尽くしてアニーの身を案じ、再会の喜びを表現していることはよくわかった。

 もし、あの男が現れず、フリッツが溺れかけたアニーと再会していたとしたら、彼はどんな態度を取っただろうかと考えた。

 川に落ち、溺れそうになった彼女を見て、役目もすべて忘れ飛び込み助けたいと思ったことを、彼は伝えただろうか。伝えないだろう。

 宝物を抱えるようにリネンに包みその胸に愛しげにかき抱いて馬を走らせたりするだろうか。しないだろう。もちろん風邪をひかないように布を用意してやることくらいはしたに違いない。そうして、いつものように一緒に馬に乗り、お互いの主の待つ場所へ戻る、それだけだ。

 あの娘はこの旅での『設定』とは異なり、彼の妻ではない。節度ない振る舞いをすれば彼女は拒み、いつものように生意氣な態度で抗議してくるに違いない。

 だが、あの男は、アニーにとってあのような振る舞いを許す存在のようだ。それが、フリッツをひどく苛つかせていた。様子を見にいかせたフィリパはいったいどうしたのだろう。あれからしばらく経つのに。

 辻の方を見ながら思いをめぐらせていると、反対側から誰かが近づいてくる音が聞こえた。フリッツは、人狼騒動のおりに近隣の村の者たちの恨みを買ったことを思いだした。何かあってもあの程度の男たちに負けるような腕前ではないが、エマニュエル・ギースがすぐ近くの修道院にいるのに、ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。見つからないように身を潜めた。

 すぐに、つる性植物の下でギィと音がして、そこが屋敷の裏木戸であることがわかった。中から男が顔を出し、やって来た男と顔を見合わせて頷いた。あたりの様子を慎重に確認している。どうやら見られたくないと思っているのはこちらだけではなさそうだ。
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Posted by 八少女 夕

リボベジ

「植物の生命力はすごい」という話。

サラダ菜

家庭菜園というと、種や苗を買ってきて植えるもの、きちんと時期を守って種まきや育苗をしなくてはならないと思ってしまいがちです。もちろん、そうしたプロセスやノウハウは大切なんですけれど、たまにそれから外れた、ちょっとズルにあたるやり方でもうまくいってしまうことがあります。

その1つがリボベジ、野菜のヘタや根っこ部分を使っての再生栽培です。捨ててしまう部分ではなく、保管している間に芽が出てしまってスカスカになってしまった玉ねぎ、芽の出てきたジャガイモ、サツマイモの端っこから作ったツルなど、今年のガーデニングに使って成功したリサイクル野菜もその1つだと思っています。

上の写真のサラダ菜は「トリオ・サラダ」として根がついたまま販売されていたものを一部の葉を残してプランターに植えたものです。春にサラダ菜の種を植えすぎて、一斉にサラダ菜ばかりという地獄を味わったのですが、新たな株を種から大きくするには時間がかかります。それで、特別安かった週に、野菜売り場にあった根付きのサラダを買ってきて栽培期間を短縮したのです。苗より安かったですし、このくらい育っている株は、どんどん新芽を出してくれて長期間楽しめることを、学習したので。普通は1週間ぐらいで食べきってしまうサラダが、こうすることで必要なときに収穫できるようになります。まだ窓の外にありますが、霜が降りるようになったら、中に入れてキッチンに置くつもりです。

リボベジ キャベツ

キャベツの芯も再生栽培できることで有名ですよね。苗を買って植えたキャベツもあるんですが、せっかくなのでリボベジもしてみました。結球するほど立派に育たなくても、サンドイッチの付け合わせになるくらいちょっとだけキャベツがほしい時に、キッチンで簡単に折り取れたら便利ですよね。冬の畑には野菜がない時期でも、こうした小さな野菜がキッチンにあったら便利だと思うのですよ。

ショウガ

こちらははじめて挑戦してみたショウガ。ショウガは普通に購入できるんですが、新生姜が手に入らないんですよね。以前、とても高いものを偶然購入できたことはあるんですが、最近は見かけません。買ってきたショウガに、芽みたいなのが顔を出しているのを見たら植えてみたくなってしまったのです。ほんの一かけに切って土に植えてみたら、バッチリ芽が出てきました。そろそろプランターに植え替える予定です。

時期は植え付けのセオリーに合っていませんが、どちらにしてもこちらの冬の寒さでは、屋外で育てるのは無理だと思うので、プランター栽培でまずは屋内で育てます。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(25)密会 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第25回『密会』をお届けします。今回、本当は3回にわけるような長さじゃないのですが、2回だと切るところがおかしくなり、1つが長すぎることになります。で、3回にわけています。決して続きが遅れているから引き延ばしているわけでは……ないことはないか……。

さて、フィリパが修道院にアニーの様子を見にいってくれている間、役に立たない状態のフリッツは、近くの屋敷の近くに身を潜めて待っています。サブタイトル「密会」に関係してくるのは、分けた3回目だけなのですが、今回と次回は、わたしの小説によくあるキャラのグルグル思考をお楽しみください。このキャラのグルグルなんて、誰も待っていないとは思いますが。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(25)密会 -1-


 アニーと連絡をとるために修道院へ行ってくれたフィリパを待つ間、フリッツは辻の近くの屋敷の影に身を潜めていた。修道院ほどではないが、かなり立派な屋敷だ。

 建物の上部前面が柱で支えられた回廊様ポルティコになっており、その列柱の古代風装飾が優美で美しい。下部は塀に遮られて見えないが、門柱飾りは立派な松の実の装飾で、グランドロンでは見かけない香り高い白い花をつけたつる性植物がその塀を覆っていた。

 フリッツは、センブリ王国の建築様式などに関する知識はほとんどないが、少なくともかなり裕福な人物の持ち物であることは推測できた。おそらく名のある貴族の別宅だろう。

 もっとも、塀を覆う植物は少々生い茂りすぎている。修道院の塀にも蔦が這っていたが、下男たちが乱れぬ程度に剪定していた。この屋敷には、人手が足りないのか、もしくは長いあいだ主の目が届かぬ状態になっているのかもしれぬと考えていた。

 そのようなことを考えるのは、今のフリッツは為す術もなくここで女傭兵を待たなくてはならないからだった。普段の彼は、つねにレオポルドの行動に反応して、その安全に身を配っているので、このように何もせずにただ待つというようなことは記憶にあるかぎりしたことがなかった。

 今日は、何もかもが予想外のことばかりだった。アニーが川に投げ出され、すぐに助けに行きたいという思いと身に染みついた国王の警護優先に引き裂かれた。彼女の無事が確かめられたかと思えば、一行の正体を知る人物がその場にいた。

 そして、そのエマニュエル・ギースの態度振る舞いすら、彼の想定をはるかに超えていた。ルーヴラン人に多い、女にベタベタするタイプなのか、アニーに対しての距離感がおかしい。まるで熱愛する貴婦人に跪く騎士のような振る舞いだ。いったい何なんだ、あの優男は。

 フリッツは、小夜曲を奏でながら跪いて求愛するタイプの男が何よりも嫌いだ。皮肉なことに、彼の妻インゲがなびいて公然の愛人となってしまったのは、まさにそのタイプの男ドライス伯爵だった。

 インゲに夫ある身でほかの男と出歩くようなふしだらな振る舞いを慎むようにと言い渡したときに、彼の妻は慌てるどころか、フリッツをはなから馬鹿にした様子で言い放ったものだ。
「そんな態度で女を引き留めることができるなんて思わないことね」

「私があの方と出歩くだけだと思っているなら、おめでたいことだわ」
そう言って屋敷を後にしてから、インゲはもう戻らなかった。今ではヴェルドン宮廷の誰もが知っている。彼女はドライス伯爵の屋敷の1つに住み、舞踏会など社交の場にも堂々と伯爵とともに出てくるのだ。

 インゲとは、もともと恋愛感情があって結婚したわけではない。お互いに恥ずかしくない程度の家柄ということで、仲介者を通して知り合った。口数は少なく、家政をしっかりと切り盛りできるしっかり者だと判断したので結婚を申し込んだ。

 実際にインゲはきれい好きで整理整頓も得意だった。下男や下働きの娘の扱いだけでなく、自身もたまにする料理も下手ではないのだが、調理場を汚すような料理は作らない主義で、あっさりとしたあまり腹にはたまらない料理ばかりを作った。しかし、フリッツはそれに対して文句を言ったことはなかった。

 お互いに腹を割って話し合うようなことはしたことがない。もちろんドライス伯爵がお得意の、花を抱えて甘ったるい讃美の言葉を囁いたり、リュートで小夜曲を奏でたりするようなことは一切しなかった。
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晩秋のガーデニング

初心者家庭菜園の話。

自家製ミックスベジタブル

盛夏には、食べても食べても減らないくらい同じ作物が採れていたのが、この寒さでそういうことはほとんどなくなりました。

とはいえ、遅れてきたロマネスコ、ニンジン、とても小さいピーマン、3つくらいしか成っていないしょぼい枝豆、などなど小さな成果をかき集めるだけで1食分のミックスベジタブルが出来上がります。これはこれで善きかな。

サラダ菜

冬に向けて、家庭菜園での野菜があまりなくなることを見越していろいろと実験も重ねています。たとえば、サラダ菜の一部は窓際のプランターに植えましたが、これは寒くなったら部屋の中に入れる予定です。その他に、冬にはスプラウトをたくさん育てます。

大量の冷凍、または乾燥野菜もあるので、おそらく冬もほとんど野菜を買わなくて済みそうです。

濡れ落ち葉集め

そして、今年初めて挑戦しているのが、来年に向けた土作りです。というか、先日大量の濡れ落ち葉を見て、これを捨てるのはもったいないと思ったからなのです。

ちょうど、トマトを引き抜いて大量に余ったプランター土があったので、落ち葉と重ねて腐葉土を作ってみることにしました。

ネットの情報も参考にしましたが、先日日本から取り寄せた「もっと上手に小さい畑: 15m2で45品目をつくりこなす」という著作です。著者の斎藤進氏は、わたしが借りている畑とほぼ同じくらいのやはり借りている畑で、試行錯誤を重ねながら大量の収穫に成功なさっている方で、今年うまく行かなかったことに対するヒントがたくさんある本でした。

経験だけでなく、土地も天候も畑の条件も違うので、急にここまではいかないでしょうが、来年は参考にしたいと思っています。

そして、実は「これはやらないか」と諦めていたのが、自分でする土作りです。が、放置されていた濡れ落ち葉と、連作障害間違いなしのトマトの残り土を見ていたら「こんなにあるんだからやってみよう」と思ったのです。

腐葉土作り

やっていることは簡単で、土と鶏糞的肥料(亡き義母からのもらい物)と濡れ落ち葉を交互に重ねていくだけ。これを3週間ごとに入れ替えて春まで熟成させるのです。

うまく行くかわかりませんが、たいして手間はないのでやってみようと思います。新しくプランター用の土を買ってくるのも重いので、少しでもその量を減らせたらラッキーですものね。
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Posted by 八少女 夕

【小説】完璧な美の中に

今日の小説は『12か月の建築』10月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、インドのタージ・マハルです。わたしはまだインドに行ったことがなく、この有名な霊廟も行ったことはないのです。なので、イメージはすべて動画を観ながら育てました。

ムガール帝国も、同じ「12か月の建築」で紹介したカンボジアのクメール王朝と同様、凄まじい権力争いで皇帝位を維持してきたらしいのですが、クメール王朝よりもっとすごいのは、実の兄弟を毎回皆殺しにして帝位に就いているってことなんですよね。そうした壮絶な背景のもと続いた王朝の最盛期とも言われる親子姉弟の愛憎をイメージしながら作られた物語です。

ちなみに両腕を切り取られた工匠の伝説は、おそらく史実ではないとされています。とはいえ、これまた興味深い人間関係を想像させたので、登場させてみました。


短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む 短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む



完璧な美の中に

 赤砂石でできた正門建築の中に入るとアーチの向こうに白い大理石に覆われた「貴婦人の廟園」が浮かび上がる。ムガール帝国第6代皇帝アウラングゼーブは、ふと視線を隣の輿に乗る姉に向けた。

 長い確執の果て、再びその名誉を回復して帝国第一の貴婦人として遇することにした皇女ジャハーナーラー・ベーグムは、かつてと変わらぬ美しさと威厳を保っていた。

 幽閉されたまま失意のうちにこの世を去った父、第5代皇帝シャー・ジャハーンの最後の栄誉の完成を見るために、アウラングゼーブとジャハーナーラーは、この白亜の霊廟を訪れた。先帝の遺体は、伝統に従いアグラ城の壁を破り、ヤムナー川を渡る船に乗り、幽閉中に眺め続けたこの霊廟の地下玄室、誰よりも愛した妻の隣に葬られた。

 ここは、シャー・ジャハーンの妃アルジュマンド・バーヌー・ベーグムのために建立した墓廟である。「愛でられし王宮の光彩」を意味するムムターズ・マハルの称号を持つ彼女は、ヒジュラ歴1040年ズルカイダの月に、皇帝に伴われてデカンに遠征中に第14子である皇女ガウハーラーラー・ベーグムを産んだ後に産褥死した。

 彼女を深く愛した皇帝は、その遺言の1つに従い、「後世に残る墓廟」の建設を決めた。そして、霊廟、付随する4本の尖塔、向かい合うモスクと集会場、そして大楼門が完成するまでに17年、縁者の墓などの周囲付帯施設の完成まで含めれば22年という月日と、莫大な費用をかけて完成させた。

 母親が亡くなったとき、アウラングゼーブはまだ13歳だった。彼自身には母親との思い出はほとんどない。父親がフッラム皇子と呼ばれていた頃、祖父である皇帝ジャハーンギールに反乱を起こし敗北したために、2歳のアウラングゼーブは兄とともに人質としてジャハーンギールのもとに送られた。父が他の兄弟たちを殺害し皇帝となったために9歳の時に解放されたが、諸地方へ遠征する父皇帝に常に同行する母親と過ごす時間はほとんどなかった。

 姉と並んでここを訪れたのは初めてだ。50歳を超えても、10年近い幽閉を経ても変わらぬ美貌を保つジャハーナーラーの横顔には、ほとんど何の表情も浮かんでいない。

「姉上。父上の平和な崩御へのご尽力に感謝申し上げます」
そうアウラングゼーブが低い声で言うと、彼女ははじめて謎めいた微笑を見せた。

 病床の父を説得し、皇位を簒奪したアウラングゼーブを許すという文書に署名をさせることができたのは、彼女だけだった。

 誰よりも愛した長男ダラー・シコーの首を送りつけられ、その長兄を偏愛したことへの不平の手紙ばかりを送られ、個人の財産も取りあげられて上履きすら新調できぬ苦境に立たされた廃帝が、心の底から3男アウラングゼーブを許したかどうか、今となっては知る術もない。だが、アウラングゼーブにとっては、謀反を企てる臣下への牽制として、書面への署名こそが重要だった。

 彼自身も憎み続けた父が、自分を許すかどうかということは、大して重要ではなかった。横に並ぶ姉が、自分に対して昔と変わらぬ愛情を持ち続けているかも知りたくはなかった。父を愛し、ダラー・シコーをも愛した姉が、自分を完全に愛せるはずがない。

 それでも、スーフィズムに傾倒する姉は、家族の他の誰よりも彼の理想とするイスラム法による帝国支配の理解者だった。博学で有能、比類無き美貌、そして、親子兄弟姉妹間で幾たびも起こった裏切りと策略の合間を泳ぎ、誰の権能の下でもその地位を守り抜くしたたかさを持っている。ムガール帝国の皇女である彼女が、現在まで生き続けていることこそが、油断ならぬ女性である何よりもの証拠だ。

 正門から出ると、アーチからは見えなかった4本の尖塔を従えた堂々とした霊廟と庭園が全貌を現す。強い陽光が、白亜の大理石に反射して見る者の眼を射る。そして、庭園のかなりの距離を進み、人の3倍近い高さの基壇の上に霊廟がそびえている。

 方形の四隅を切った八角形の建物は、どこから見ても同じように見える対称に作られている。

 さらに近寄れば、工匠たちが技術と芸術の粋を尽くした偉大なる細部が見えてくる。

 その廟は、単なる権力者の愛する妻の墓というだけでなく、「夫への愛を貫き、多くの子をなす偉業を成し遂げ、男性の聖戦と同義と見做される産褥によって命を失った」という理由で殉教した聖者として巡礼されるべき宗教施設としての性格も兼ね備えていた。

 建物はラージャスターン地方の白い大理石、ファテープル・シークリーの赤砂石で覆われ、ブンデールカンドのダイヤモンド、パンジャーブのジャスパー、スリランカのサファイア、中国の翡翠、エジプトのベリドット、ペルシャのアメシスト、アフガニスタンの瑠璃、アラビアの真珠と珊瑚など、既知の世界すべてから集められた宝石・宝玉がはめ込まれた。

 大理石に彫り込まれた唐草模様。貴石を使った象眼細工。シリアやペルシャの書家が刻んだクルアーンの聖句。トルコの設計師が指導した堂々たる丸屋根。

 入り口は、むしろ小さく見える。中に入れば、扉の蜂の巣構造から差し込む光が象眼細工を美しく照らす。輿から降りて、姉と共に霊廟に入ったアウラングゼーブは、内部をぐるりと見回した。

 母ムムターズ・マハルを讃える慰霊碑が完璧な八角形の2階建てドーム型の部屋の中央にある。そして、その脇に、シャー・ジャハーンの慰霊碑がひとまわり大きく作られた。

 ジャハーナーラーは、思わず息を飲んだ。

 アウラングゼーブはその姉の様子を見て、わずかに口髭の下で唇を歪ませた。
「誰よりも愛された母上の隣に眠られたこと、父上はさぞお喜びでしょう」

 その心にもない詭弁に、姉は反応しなかった。父はイスラムの伝統に従い、この霊廟に完全な対称性を持たせることを望んでいた。東西だけでなく南北にも対象にするために、ヤムナー川の対岸に黒いもう1つの霊廟を建てて、死後はそこに眠ることを切望していた。

 それに対し、アウラングゼーブは、黒い霊廟を建てることを拒否しただけでなく、母親の霊廟の心臓にあたる慰霊碑の空間に、父親の慰霊碑を無様な位置に割り込ませることで、その対称性を壊したのだ。

「そこにいるはウマーか」
アウラングゼーブの言葉に、ジャハーナーラーは足下に畏まる1人の工匠の姿を目に留めた。

「はい」
「ご苦労であった。いい仕事をした。父上の慰霊碑の象嵌は、母上のそれと見分けがつかぬほどの出来だ」

 ジャハーナーラーは工匠の顔をじっと見た。よく似た顔をどこかで見た記憶があった。

「この植物の象嵌をしてくれる腕のいい工匠がなかなかみつからなくてな」
弟帝の言葉に、皇女は眉をひそめた。

 この霊廟の建設は、多くの工匠たちを富ませた。厳格なスンニ派で、自身のためは決してこのような豪奢な墓を建てさせることはないであろう新帝が、今後はないであろう高額な工賃を払うとわかっているのに、この仕事を工匠たちが好まないとは考えにくい。

 姉が理由を理解していないことを見て取って、アウラングゼーブは付け加えた。
「忘れたか。父上が象嵌を施した工匠の両腕を切り取ったことを」

 ジャハーナーラーは、息を飲んだ。そうだ、あれはここの象嵌を担当した男だった。完璧な仕上がりに満足した父帝が、褒美を授けるために王宮に呼び出した日のことを彼女はまだ覚えていた。

 ペルシャの血の入ったその男は、母ムムターズ・マハルの祖父イティマード・ウッダウラが、ムガール帝国に移住する際に連れてきた職人らの出身だった。

「慰霊碑は、そなたが担当したと聞いた。見事な細工だった。どのような褒美を望むのか」
シャー・ジャハーンは問うた。ジャハーナーラーは、その時に既に父の言葉に潜む棘に氣がついていた。

「なにも。亡き王妃様は、まだお嬢様であられた頃、わたくしの細工を愛で褒めてくださいました。あの方のための慰霊碑を完成できただけで、わたくしは満足でございます」
男はまっすぐに皇帝を見つめ帰した。

 妻を悼むため、白い服しか身につけなくなった父と、やはり全身を白で包む工匠の目が合い、ジャハーナーラーは、2人のあいだに物言わぬ戦いがあることを感じた。皇帝は、彼が出会う前の妻を知る男に対して激しい怒りを感じ、そして、工匠は14人もの子を産ませ、戦地にも連れ回したがために産褥死させることになった皇帝の后への独占欲に無言の抗議をしていた。

 いや、それは、ジャハーナーラーの思い込みかもしれない。何があったか、今となっては誰にもわからない。

 覚えているのは、父帝が立ち上がって言ったことだ。
「では、余からの褒美を与えよう。両手を前に出せ」

 工匠の白い服は父が切り落とした両腕の鮮血に染まり、ジャハーナーラーはショックで氣を失った。

 彼女は、兄に話しかけられて畏まる工匠ウマーをもう1度見つめた。誰かに似ていると思ったのは、あの両腕を失った工匠だ。瞳に宿る強い光も、あの男のものそのままだった。

 あれから、20年近く経っている。ここにいる男は、もしかしたらあの男の身内なのかもしれない。弟アウラングゼーブは、あの事件の時には王宮にはいなかったから、あの男の顔を知らないのだろう。

「誰もが嫌がる仕事に完璧に応えてくれたことに礼を言う。褒美は望むままに取らせよう。もちろん腕を切り取ったりはせぬぞ」
アウラングゼーブは笑って言った。

 男は、深く頭を下げた。
「わたくしめも、『何も望まぬ』などとは申しませぬ。妻と子が路頭に迷わぬよう、わたくしめの働きに応じた褒賞をいただければ幸いです」
 
 男が退出した姿を見送り、アウラングゼーブは姉を振り返った。ジャハーナーラーは、憂いの混じった顔つきで、並ぶ父母の慰霊碑を見つめていた。

「姉上。私をひどい男とお思いか」
その声に振り向き、弟がこちらを見ていることに氣がついた。

「何に対して? すべての潜在的な父上の後継者たちを倒さねばならなかったことですか? それとも、父上に許すことを強要しても、あなた自身が父上を許さなかったことですか?」
「そのどちらも」

 彼女は首を振った。
「兄弟を皆殺しにして即位したのは、父上も同じ。家族でありながら、完全に愛することができないのも、あなただけではありません。このように大きく壮麗な霊廟を作って、なんになるのでしょう。父上と母上がこの世にもたらしたのは、争いと死ばかりではありませんか」

 アウラングゼーブは、わずかにホッとした表情を見せた。
「姉上。わたしは偽善者にはなりたくなかった。悼んでもいない父上のために似たような黒い霊廟を建て、財政を悪化させ民を疲弊させることよりも、神の意にかなうイスラム法シャリーアによる政治に力を入れたい。それをあなたにだけは伝えたかった」

 ジャハーナーラーは、弟帝が「托鉢僧ダルヴィーシュ 」「祈りを捧げる人ナマーズィー」とあだ名をつけられていることを思いだした。実際に彼は、曾祖父アクバル大帝以来の宗教融和政策をイスラム法シャリーアで統治するよう大きく転換したのだ。それを彼女もまた評価していた。

 皇女は、弟と別れ、霊廟から出て輿に乗った。振り向くと庭園の向こうに完璧な対称性を維持した白亜の霊廟が見える。帝国の権威を世に示し、イスラムの楽園をこの世に実現した完全な調和が広がって見える。

 その中心に、当の両親の眠る場所だけが、どうしても流しきれないわだかまりと同じように、深い沈黙の中、完全性からとり残されている。それは、彼女の弟に対する愛憎と同じであり、完全なイスラム精神に至れない自分自身の鏡でもある。

* * *


 ウマーは、黄金の入った袋を抱えて、帰路を急いだ。思っていたよりもずっと重かった。つらく苦しかった日々がようやく報われた。

 褒美をもらう代わりに両腕を失うことになった父親が、王宮で何をしでかしたのか知らない。家に運び込まれたとき、血を失いすぎて、父親はもう何かを語ることはできなかった。

 霊廟の象嵌が完成するまでの長い時間、彼の母親と子供たちがどれだけの者を犠牲にしてきたのか、父親は考えたのだろうかと、幾度も思った。働き盛りだった父親を失い、その後ウマーの一家は辛酸をなめた。

 彼は亡くなった父を悼む代わりに、その軽率さを憎み、やがて父が得るべきだった褒美を自分が代わりに得ることだけを励みにこれまで生きてきた。

 シャー・ジャハンの慰霊碑に彼は持てるすべての技術と知識を詰め込んだ。父親に報酬を与える代わりに、命を取った冷徹な皇帝は、我が子に幽閉され惨めな最後を遂げた。そして、彼に莫大な報酬を払ったのは、その簒奪者アウラングゼーブ帝だ。

 彼は、振り向き白亜の霊廟を見つめた。完璧な美が夕陽に浮かび上がる。その中心に、多くの聖句に囲まれて、2つの慰霊碑と2つの棺が眠っている。怒りと、無念と、許せぬ想いと、そして虚しさが、外からは誰にもわからぬような静けさのまま、ただ据わっている。
 
(初出:2023年10月 書き下ろし)

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India's Taj Mahal Is an Enduring Monument to Love | National Geographic
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Posted by 八少女 夕

スイス連邦議会総選挙

政治の話……というほどの大袈裟なことでもありませんが。

スイス国会

今週末は、スイス連邦議会総選挙です。

スイスという国は、日本と比較すると国民の政治に対する関心が平均的に強いと思います。これは直接民主制で、重要課題に自分で1票を投じることができることも大きいですし、普段のものの考え方に「みんなと同じ」「上のいうことにしたがっておけばいい」という他人任せが少ないこともあるかなと思っています。

さて、そんなわけで、政策などに関する投票の前には、それぞれの利点欠点や争点を書いたチラシが入ったり、スーパーや新聞でその話題が書かれて真剣に考える題材がたくさんあるのですけれど、国会議員にあたる連邦議会の議員選挙に関しては、ちょっとわかりにくいのです。

国民議会(下院)の方は、政党の主張を元に判断すればいいのでまだいいんですけれど、全州議会(上院)の方は支持する政党から出ていないどころか、候補者の一覧も手元になかったりして、どうすればいいのか途方に暮れる感じです。

ネットで調べてみたら、候補者とそれぞれの主要な政策に関する主張などがまとめてあったので、これを見ればいいのかと理解しましたが、これってよほど政治に興味がないとたどり着けないよな……と思ってしまいました。

ちなみに候補者の顔写真のポスターはあちこちにありますし、ド田舎のこのあたりだと、候補者の何人かが顔見知りだったりするので、コミュニケーションがしっかりとしている人たちは、候補者たちそれぞれの主張などをわかっているのかもしれません。

日本と違って街宣の車が候補者の名前を連呼するというような選挙活動はありません。集会で主張を説明する会などはあるようですが、ぼーっと歩いていてそうした演説を聴く機会はなさそうです。これって、自分で関心を持って考えるのが当然って事なのかなと考えてしまいます。

ちなみに、どの党が数の上で第一党となっても、その党が政治を自由にできるということはありません。閣僚は主要な党からバランスよく選ばれますし、大事なことは国民投票になります。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(24)予期せぬ再会 -3-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第24回『予期せぬ再会』3回にわけたラストをお届けします。

敬愛するラウラとその一行の嘘を護るため、嘘に嘘を塗り重ね泥沼に嵌まりつつあるアニー。幸い、ギースに対して嘘をつかなくてならないのは一行だけでなかったので、首の皮一枚で繋がった模様。これで、しばらくアニーは一行から離れて静養することになってしまいます。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(24)予期せぬ再会 -3-


 なんとか行かずに済む方法がないか考えたが、彼女が遠慮していると思い込んでいるエマニュエルは、性急に立ち上がり、彼女を抱き上げると馬に乗せてサンタ・キアーラ修道院へと急いだ。

 旅籠の陰からそれを見ていたフリッツとフィリパは、急いで馬をつないである木の所まで戻った。

「なんだい、ヘルマンの旦那。ずいぶんとご機嫌斜めだね」
フィリパに茶化すように言われて初めて、ようやくフリッツはひどく苛ついていたことに氣がついた。なんだ、あの氣障な伊達男は。虫唾が走る。

「別に、機嫌が悪いわけではない」
「そうかい。あの貴人はヘルマンの旦那の『奥様』とずいぶんと親しそうだったけどねぇ」

「それは私の知ったことではない」
「おお、こわっ」

「くだらないことを言うな。それよりも、厄介なことになってきたな。あの男の前に顔を出すわけにはいかないが、なんとかアニーと連絡をとらねば……」

 フィリパは、訊いた。
「あの男、知っているヤツか?」

「ルーヴランの紋章伝令副長官エマニュエル・ギース殿だ。ノードランドの戦いの停戦交渉の場にいた。私の顔までは覚えていないかもしれないが、陛下のことはすぐにわかるだろう。それに、ルーヴ城にいた伯爵ご夫妻のことはもっとよく知っているはずだ。……だからアニーも同行者とははぐれたなどと嘘を言ったんだろう」

 フィリパは頷いた。ギースとアニーの向かった修道院に向かっていたが、辻で立ち止まると、フリッツに提案した。
「そうか。ならば旦那はいま出ていかない方がいいな。あたしは身分を偽っているわけじゃないし、ちょっと寄って様子を見てこよう。旦那は、その辺で待っていてくれ」

「そうだな。頼む。私はあそこの屋敷の陰で待っていよう」

* * *


 ギースが修道会に着くと、修道院の下男らは「これはギース様、お久しぶりでございます」と頭を下げた。

 アニーは下男たちに顔が見えないように、リネン布を少し引いた。この感じだと、ギース様とマーテルはお互いにとてもよくご存じの仲なんだわ。どうしよう。

「今そこで、溺れかけた娘を庇護したのだ。申し訳ないが、マーテルに手当をお願いしてくれ」

 ギースはすぐに中に通され、建物の中で診療に使われている小さな部屋に案内された。アニーは、ギースに抱きかかえられたまま、どうやってあれこれ露見するのを防ごうか頭を悩ませていた。

 すぐにマーテルがやって来た。
「ごきげんよう、エマニュエル。久しぶりにいらっしゃったと思えば、何があったのです?」

「久しぶりだね、アニェーゼ。トリネアに来たので、いつものようにあなたに挨拶するつもりでこちらに来たんだ。そうしたら、そこで溺れかけたルーヴラン人がいると通訳を頼まれてね。行ってみたら、なんと知っている娘だったんだ。しかも、数日来、同行者とはぐれて行き場もない状態らしいんだ。水を飲んでしまっているみたいで、手当をお願いしたい。費用はいくらかかっても払うので請求してほしい」

 マーテルは濡れたリネンに包まれた娘の姿を見ると、すぐに他の尼僧に着替えや乾いた布を取りに行かせた。
「わかったわ。この方の着替えをさせて手当をするので、あなたは呼ぶまで隣の部屋に行っていてちょうだい」
「わかった。じゃ、アニー、また後で」

 アニーと呼ばれたのを聞いて、マーテルはリネンを深く被っている娘の顔をのぞき込んだ。それからはっとしたが、エマニュエルの前で声を出すようなことはしなかった。

 彼が部屋から出ると、扉をしっかりと閉めてから戻ってきて小さな声で言った。
「いったい何があったのですか」

 アニーも同じように囁いた。
「『死者の板橋』が流されてしまって、私だけ川に落ちてしまったのです」
「他の方は?」

「無事だと思います。主人たちが姫様のいる離宮に向かっていることは他言しない方がいいかと思い、1人だったと言ったのですが……」

「そうですか。賢明なご判断に感謝します。エマニュエルはキリスト教徒としては素晴らしい魂を持つ人ですが、ルーヴラン王宮に勤める身、離宮にいるエレオノーラ様が病気ではないことや、今ここでトゥリオ殿を匿っていることは、悟らせたくないので……あなたのことを私は知らないことにしてもいいかしら」

 アニーは、大きく頷いた。マーテルが、そういう理由で陛下のご一行のことをギース様に黙っていてくださるのなら、ひと安心だわ。

 受け取ったさっぱりした服に着替え、マーテルの診察を受けてから暖かい寝具に横たえられてひと心地着いたころ、エマニュエルが呼ばれて入ってきた。

「大丈夫か、アニー」
「はい。よくしていただきました。ありがとうございます」
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Posted by 八少女 夕

ザワークラウト作った

「自分で作ってみたら簡単だった」食品の話です。

畑のキャベツ

家庭菜園のキャベツは、6つほど植えているのですがそのうちの3つくらいが結球を始めています。もうちょっと大きくならないかなと様子を見ているところで、まだしばらく自分で育てたキャベツはお預け状態です。

で、つい先日、スーパーでめちゃくちゃ安くなっている大きなキャベツを見かけてしまったのです。今年は家庭菜園で採れる野菜がたくさんあるのでほとんどスーパーでは買っていないのですが、「どうしょうかなあ。こんなに安いし、うちのキャベツはまだしばらく食べられないし……」とグズグズ悩んだあげく、買っちゃいました。

ところが持ち帰ってみたら冷凍庫もいっぱい。そこで、1週間ぐらいで食べきれる分(コールスローと塩キャベツ)として1/3くらいを残して、残りでザワークラウト作りに初挑戦してみました。

ザワークラウトって、日本に住んでいたら、日常的には食べることのない食品の1つだと思います。ドイツ語の「酸っぱい(Sauer)キャベツ(kraut)」が意味するように酸味のある発酵食品なのですが、「酢キャベツ」と違って加工過程にお酢は使わないのです。何を使うかというと、塩をして常温で乳酸発酵させているだけなのですね。実際に、酢キャベツほどは酸っぱくありません。

で、ドイツのレシピは知りませんが、このあたりだと分厚いハム、かなり大きいソーセージ、塊のベーコンやジャガイモなどと一緒に蒸し焼き状態にして食べます。あまり暑い時期には食べないのですが、スイスだと10か月くらいは「暑い時期」ではないので、我が家ではわりとよく作る昼食かもしれません。

そして、これまではもちろん市販のザワークラウトを買ってきて作っていたのですね。で、せっかくだから自分で作ってみようと思ったわけです。

ザワークラウトの仕込み

瓶で作るのが一般的ですが、初めてだし失敗したくなかったので、より失敗が少ないと言われるファスナー付き保存袋で作ってみることにしました。

必要なのは、塩だけですが、加えて香り付けにハーブを加えるのもアリだそうで、私が加えたのは月桂樹、キャラウェイシードと、ザワークラウトにはつきもののジュニパーベリーです。

袋を閉じて、重し(ペットボトルでいいそうですが、私はビニールで保護した辞典で)をしてキャベツから出てくる水に浸して数日発酵させます。

ザワークラウト

だいたい4〜5日したら、色が黄色っぽく変わり、ザワークラウトのいい香りがするようになりました。これを袋に詰めて、結局冷凍しました(笑) 最初の頃と比べるとずっと量も減っていますし、またすぐに食べてしまうでしょう。

これ、見た目はお漬物だなあ。お漬物も発酵食品だから、見かけが似ていて当然かもしれませんね。

ザワークラウト、とても簡単だったので、またキャベツが激安だったら作ってみようと思います。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(24)予期せぬ再会 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第24回『予期せぬ再会』3回にわけた2回目をお届けします。

川に流されてしまったアニーは無事だったものの、ここで会うべきではない人物に遭ってしまいます。レオポルドやマックス、ラウラの顔をよく知っているエマニュエル・ギースです。しかも、兄の命の恩人でした。敬愛するラウラたちをピンチに陥れないよう、必死に頑張るアニーですが……。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(24)予期せぬ再会 -2-


 とはいえ、アニーにはもう1つの秘密がある。他ならぬレオポルドの一行が、トリネア候国の人びとに正体を隠し、『商人デュラン一行』として離宮に向かっていることだ。

 これだけは、絶対に隠さなくてはならない。……今、ギース様とラウラ様たちが顔を合わすようなことになったら、エレオノーラ様にすべてがわかってしまうわ。アニーは、必死に頭を働かせた。

「いいえ。王城に忍び込むようなことはできなくて、でも、侯爵様のご一行はもう帰国してしまわれたので帰ることもかなわず、そのままヴェルドンにおりました」
「ヴェルドンに? 右も左もわからぬ異国で行くところもなく、さぞ苦労したのだろう」
「いえ。幸い、親切な商家に拾っていただきまして……」

「なぜトリネアに?」
当然の質問をしてきたギースに、アニーは慎重に応えねばと思った。

「ご主人さまの買い付けの旅に同行していました」
商人デュランの買い付けの旅という設定はずっとしてきたので、話が続けやすい。

「では、これまで誰かと一緒だったのか? 他にも流された者がいると?」
エマニュエルは、訊いた。

 アニーは、これはまずいと思った。誰か一行がアニーを探しに来てこの紋章伝令副長官と鉢合わせしたら、グランドロン国王とフルーヴルーウー辺境伯夫妻がトリネアにいることがわかってしまう。

「いえ。今日、私はひとりでした。実は、数日前に旦那様たちとはぐれてしまって、トリネア城下町に行けば再会できるのではないかと急いでいたのです」

 ちょうどその時、旅籠の外まで来ていたフリッツとフィリパは、窓から聞こえるアニーの説明を耳にした。2人は、顔を見合わせて、室内の会話をさらに聞くことにした。

 レオポルドの護衛を南シルヴァ傭兵団に頼み、馬で急ぎ下流に向かったフリッツは、下流の村で村人たちが騒いでいるのを見た。先ほど渡った川の向こう側の村だったので、再び渡るためにさらに下流に走り橋を見つけた。渡ってから急ぎ馬を走らせ戻ってきたところ、こちら岸を走ってきた女傭兵フィリパと合流した。

 村人たちは、まだそこにいて噂話に話を咲かせていた。

「ここで何があったんだい?」
「川に落ちて溺れかけたルーヴランの娘がいるんだってよ」
「大丈夫かしら」
「あそこの旅籠に連れて行ったってよ。ルーヴランの言葉を話す旦那様がいるんで通訳をお願いするってね」

 それを聞いたフリッツとフィリパは頷き、馬を木につないでから旅籠に急いだ。

 窓からそっと覗き、アニーを認めて声を出そうとしたフィリパをフリッツは急いで止め、身を窓の外に潜めて中から見えないようにした。アニーに話しかける男の顔をよく知っていたからだ。どこで見たんだ、あの男は……。

 その男は、もってこさせた大きなリネンで全身ずぶ濡れのアニーの身体を優しく包み込んだ。
「では、そなたは異国にたった1人で? しかもこんな恐ろしい目にあって……。アニー、そなたは幾たび私の心を張り裂けさせれば氣が済むのだ」
なんだ、この男は。アニーのことをよく知っているのか? フリッツは首を傾げた。

「ギース様、ご心配をおかけして申し訳ありません」
アニーの声で、フリッツははっとした。そうか。ノードランドの停戦交渉の時にいたルーヴランの紋章伝令副長官エマニュエル・ギースだ。ということは、陛下の顔だけでなく、ルーヴ王城時代のフルーヴルーウー伯爵夫妻のこともよく知っているはずだ。これはまずい。

 アニーは続けた。
「私はたぶん大丈夫です。服さえ乾けば……」
そう言った途端、彼女は咳き込んだ。水が、喉に詰まったらしい。

「なんてことだ。すぐに服を着替え、手当をして、身体を休ませねば。この界隈には医師などはいなだろうから……。そうだ、私がこれから訪れる予定の修道院に一緒に行こう。院長は私の知り合いだ」

 アニーは、慌てた。マーテル・アニェーゼの所に行ったら、先ほどまで「ご主人さまたち」がいたことがわかってしまう。どうしよう。
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Posted by 八少女 夕

ポルチーニ茸もらった

秋の味覚のお話。

ポルチーニ茸

私の住む地域は、田舎です。なので、例えば東京のように週末ごとに違う場所に買い物に行ったり、グルメ、文化催事、劇場、映画館など、人工的な楽しみで時間を紛らわすことはできないのです。それで、人びとが何をするかというと、屋外活動なのですね。

夏はハイキングやサイクリング、冬はスキーやクロスカントリーをする人の割合がとても多いですが、秋には狩りを趣味としている人が比較的多いです。そして、茸狩りをする人も多いと思います。

もちろん素人が採ると危険もあるので、よくわかっている人が同行することが多いようです。私は、自分の知識に自信がないので行こうと思ったことはありません。

で、どういうわけか、みなさん、分けてくださるんですよ。

茸って、急いで食べなくても乾燥させたり、冷凍させたりして食べられるのに。

周りを観察していると、こうした茸を受け取ることを嫌がる人も多いみたいです。1つには食中毒を怖れる場合もありますが、おそらく、処理が面倒くさいんじゃないかと思っています。

でも、お店で買うととっても高いポルチーニ茸をたっぷりタダでもらえるんですよ。私は、処理くらい、なんてことないです。まあ、土や虫が苦手な人は難しいかもしれませんが。

茸マリネ

新鮮なものは、クリームパスタやこの写真のようにマリネにして使います。また、乾燥させたり、冷凍させたものはリゾットなど、戻してだしがわりにするような料理に。

秋の楽しみの1つです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(24)予期せぬ再会 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第24回『予期せぬ再会』をお届けします。今回、切るところで迷ったあげく3回にしました。

川に流されてしまったアニーは無事でした。とはいえ、別の意味での意外な展開に。「乙女ゲームじゃあるまいし、こんな偶然ありか」などという抗議は受け付けません。中世の伝説的逸話って、なぜかおかしな再会がつきものなのですから。ただし、私のストーリーでは、主役ではなくて脇役にその役目が回ってきます。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(24)予期せぬ再会 -1-


 濁流にのまれて流されたものの、アニーは意識を失わなかった。うまく泳げなかったが、つかまりやすい板きれが、おそらく壊れてしまった橋の一部が、共に流れてきたので、必死にそれにつかまった。

 やがて、川が湾曲し、かなり広くなった所で流れが少しゆっくりとなった。うまく岸に近づいてきたのでバタバタと身を動かしていると、ちょうど岸にいた男たちが氣づいて引き上げてくれた。

 そこは小さな集落で、騒ぎを聞きつけて何人もの男女が出てきた。
「どうしたんだ」
「大丈夫か。どこから来たんだ」

「すこし上流の、『死者の板橋』が壊れて……」
アニーは説明した。彼女はセンヴリ語はできないのだが、幸いここトリネア候国の方言は、かなりルーヴラン語に近いので、人びとはアニーの言葉をだいたい理解した。

「ルーヴランの娘だ」
「誰か、言葉のわかる者は……」
「ああ、あの旅籠で食事をしていたお方は、確かルーヴからいらしているとか。あそこに連れて行け」

 人びとは身振り手振りで説明しながら、何とか歩けるアニーを伴って近くの旅籠へと伴った。「そこにルーヴラン語をよくわかる人がいる」と言っていることはわかったので、アニーはついていった。言葉がわかる人がいれば、はぐれてしまった一行を探す手だてもあるかもしれないし、少なくとも離宮への道のりは教えてもらえるだろう。

「おお、旦那様、まだいらっしゃいましたか! よかった。溺れかけた娘がいまして、ルーヴラン語を話すんです。ちょいと、通訳をしていただけませんか」
旅籠の入り口で、ひとりの男が奥にいる貴人に話しかけていた。

 人びとと離れて奥の席で食事をしていたその貴人は、「わかった」と言って出てきた。

 村人たちに伴われて旅籠にアニーが入るのと、その貴人が奥の部屋から出てきたのはほぼ同時だった。もっとも彼女は、完全に濡れて重くなった衣類に氣を取られて、ほとんど前を見ていなかった。

「アニー!」
その声を聞いて、アニーは驚いて彼女を呼んだ男の顔を見た。

「ギース様!」
アニーは、あまりの驚きに、その次の言葉が続かなかった。

 通訳をしてくれるという貴人を、アニーはよく知っていたのだ。それは、故郷が同じということでルーヴ王城でアニーとマウロの兄妹によくしてくれた紋章伝令副長官エマニュエル・ギースだった。

 どうしてここにギース様が?!

「アニー! そなた、生きていたのか!」
彼は駆け寄ってきて、アニーをきつく抱きしめた。

「ギ、ギース様! お召し物が汚れます」
アニーは動転して言った。

「かまうものか。そなたが、ヴェルドンで行方不明になったと聞いて、どれほど心を痛めたことか。侯爵に付き添っていった者らが、そなたはグランドロンの警備の者に屠られたと……」

 それを聞きながら、アニーはようやく自分が二重の意味で秘密を守らなくてはいけない立場にあることに思い至った。

 偽王女としてヴェルドンに行ったラウラと、彼女を助けようとしたマックスだが、国王レオポルドはさまざまな事情から秘密裏に2人を救った。偽王女は表向きは処刑されたことになり、マックスとラウラは見つかったフルーヴルーウー辺境伯夫妻として新たな人生を送ることになった。

 一方、それを知らなかったアニーはラウラの敵を討とうと王城に忍び込むことを画策し、あっさりと捕らえられた。けれど、レオポルドの温情で彼女もまた救われフルーヴルーウー伯爵夫人付きの侍女として生きることになった。

 その事情は、もちろん多くのルーヴラン王国の人びとは知らない。もしかするとラウラがフルーヴルーウー辺境伯夫人となったことは、エマニュエル・ギースは知っていた可能性はある。

 兄マウロが、名馬の世話のためにこのトリネア候国に連れてこられて、そのまま口封じで殺されそうになった時に、機転を利かせて逃しフルーヴルーウー城へと行くようにと手配してくれたのも、このギースだったからだ。
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Posted by 八少女 夕

中秋の名月 2023

過ぎたばかりの中秋の名月のお話。

中秋の名月のお供え

今年もスイスでお月見をしました。日本にいたときは、日々の忙しさに紛れていたのか、それとも世間が盛り上げてくれていたので、それでよしとしていたのか、自宅でお供えして盛り上げるようなことは全くしていなかったのですが、スイスに来てからは、わりとコンスタントにお月見をしています。あ、インスタ映えのためではありませんよ。この程度の写真ではね……。

これって「海外在住あるある」だと思うのですが、七夕やお月見、お正月迎えなどを「なんちゃって」でもそれっぽくしないと、なぜか落ち着かないんですよ。そして、頑張ってお萩やお月見団子を作るなんてこともひと通りやったのですが、最近のお月見では無理せずにホワイトチョコのボールでお供えをしています。

そして、今年は自分で育てた野菜類もお供えしました。本当は、立派に育ったサツマイモをお供えしたかったのですが、まだできていなかったので、ミニのジャガイモやプチトマトがメインに(笑)

中秋の名月

そして、この夜はしっかりと晴れたので、このようにきれいな満月が空に輝いていました。OLYMPUSのコンデジですが、きれいに撮れたので満足です。

そういえば、中秋の名月って必ずしも満月ではないのですよね。10年も前にこんな小説を発表しました。そこに「次の満月の中秋の名月は……」って記述を入れたことを思い出しました。当時は、その次もまだブログをやっているかなと考えながらこの記述を書いたんですが、余裕でやっていましたね(笑)
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(23)川の氾濫

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第23回『川の氾濫』をお届けします。今回は短いので切らずにいきます。

身分を隠したまま、候女エレオノーラの再教育係になった一行は、トリネア侯爵家の離宮に遷ることになりました。他の人びとに見られずに、トリネア候国の内情について知ることのできる絶好の機会ですが、もちろん身バレの危険性とも隣り合わせですね。さて、今回は、その教育が始まる前に起こってしまった、とあるハプニングの回です。

そういえば、この川流れのシーン、どこが元ネタだっけとずっと考えていたのですが、ようやく思い出しました。「信じられぬ旅」(ディズニー映画『三匹荒野を行く』の原作ですね)で、シャム猫が流されたシーンでした(笑)


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(23)川の氾濫


 翌朝エレオノーラは使用人たちに滞在の準備をさせるからといって、一足先に去って行った。

 午後に、5人は支度を済ませて離宮に向けて出発した。昨夜に激しい雨が降ったため、修道院周りの道はひどくぬかるんでいた。

 川に向かって進んでいると、見慣れた一団が野営していた。
「やあやあ、みなさん。こんな所でお目にかかるとは奇遇ですな」

 もみ手で近づいてくる南シルヴァ傭兵団の副団長レンゾの姿を認め、マックスとレオポルドは急いで視線を交わした。

「てっきり城下町の高級旅籠にでも泊まっておられるかと思いきや、あの修道院にいらっしゃったんで? 物騒じゃありませんかい? 護衛が必要なら、いくらでもお力になりますぜ」
大声で騒ぐので、他の団員たちも一行に氣がついて近づいてきた。

「いらん」
憮然としてレオポルドがいうと、レンゾは「おお、こわい」と言って、一歩下がった。本当に怖がっているようには全く見えず、むしろ面白がっている。

「で、どちらに向かわれるんで? 城下町への道は、あっちですぜ」
レンゾの問いに、一行はうんざりした。

「どこであろうと、お前の知ったことではない。いいか、我々は貴族ではないことになっているんだ。まとわりつくな」

 それでも付いてこようとするレンゾたちを振り切ろうと、一行は馬の歩みを早めた。

「おい。待て、そんなに急ぐな」
少し遠くで見ていた、例の女傭兵フィリパが何かを告げようとしているのがわかった。だが、ガヤガヤさわぐ近くの男たちと馬の蹄の音、それからぬかるんで歩きにくい道にもっと氣を取られた。

 渡ろうとしている川はさほど大きくはない。ただし、昨夜の雨のせいか、かなりの濁流が大きな音を立てている。ずいぶんと増水しているようだ。

 目指している渡り場所は、なんと『死者の板橋』であった。

 グランドロンでもかなり細い小川などによく架かっているのだが、葬儀の時に死者を載せて運んだ板に、その死者の名前を刻み小川に架けることがある。人びとがその橋を通る度に、死者の魂のために祈る習わしがあり、そうすることで死者は早く煉獄から脱出することができる。つまり、ある程度の財力のある死者の親族がこのような『死者の板橋』を架けさせるのだが、このように流れの速い時にはもう少ししっかりとした橋の方が安全だ。

 マックスは、一瞬どうすべきか迷った。流れが穏やかになるのを待つ方がいいのだが、そうすればうるさい傭兵団に囲まれてしまう。

「行こう。あの候女だって、さっさと渡ったんだろうから」
レオポルドが言った。

 マックスは頷いた。まず渡るのは自分だ。橋に何かあっても、レオポルドの安全は確保できる。同じ馬に乗るラウラに囁いた。
「降りて渡る方がいい」

 ラウラは頷き、2人は馬から降りた。橋板に申しわけ程度につけられた欄干に、ラウラは両手で、マックスは馬の手綱を握っていない片手で掴まりながら、慎重に歩いた。轟音を立てる濁流と、頼りない板橋のきしみが恐ろしかったが、なんとか渡りきった。

 それを確認した後でレオポルドが渡った。フリッツは「馬は私が」と言ったが、レオポルドは「急げ」と言って断り、マックスと同じように渡った。レオポルドが渡るときに、橋板はひどくたわみ、不快な音を立てた。

 渡りきった、レオポルドは振り向いてフリッツに叫んだ。
「氣をつけろ。この橋は……」

「やめろ! その橋は!」
後ろから馳けてきたフィリパが叫んでいるが、その時にはフリッツとアニーは既に橋を渡りだしていた。

 フリッツと馬が向こう岸に着くのと同時に、メリッという音がして、橋が折れた。まだ渡りきっていなかったアニーは投げ出され、フリッツは手を伸ばしたが馬を抑えていたために届かなかった。

 濁流はものすごい勢いでアニーを押し流し、あっという間にその姿を見えなくした。

「アニー!」
ラウラは取り乱し、すぐに川に入ろうとしたが、マックスが必死で止めた。
「だめだ、君も流される!」

 動転してもがきながら泣くラウラをマックスが止めている間に、レオポルドはフリッツに命じた。
「すぐに探しに行け」

 すぐに下流に身体が向いたものの、フリッツは立ち止まって言った。
「私はお側を離れるわけには……」

「自分の面倒はみる」
「しかし……」
「いいから行け!」
 
 本人も氣が急いているが、染みついた義務感の方にも絡め取られているフリッツは、すぐに対岸の傭兵たちを見て頭を下げた。
「どうかしばしこのお方をお守りください」

 対岸にたどり着いた傭兵たちは、橋の崩壊を見て蜂の巣をつついたように騒いでいたが、フリッツ・ヘルマンが頭を下げると一様にこちらを見た。

 先ほど冷たくあしらわれたレンゾは白い目をしていた。
「なんだよ、これまで散々邪険にしておきながら、ずいぶんとご都合のいいことで。さっき『まとわりつくな』って言いやがったのは、どこのどちらさんでしたっけ」

 フリッツの窮状に助け船を出したのはフィリパだった。
「いいのか。流されたあの娘は、あたし達が仕事を得られるように口添えしてくれたあの馬丁マウロの妹だぞ」

 後からやって来た首領のブルーノは、それを聞くと大きな声で言った。
「なんだって。……そうか、そういうことなら話は別だ。俺たちは恩知らずじゃねぇ。ヘルマンの旦那、行きな。『旦那様』の護衛は俺たちに任せろ」

 フリッツは、頭を下げて馬にまたがると、急いで下流に向かって馳けて行った。

 ブルーノたちは、長い縄の一方の端をレオボルドのいる方の岸に投げてよこした。マックスと協力してそれを木にくくり付けさせると、『死者の板橋』が渡してあったいくつかの大岩を足場にしつつ縄で伝いながら5人ほどが、こちらに渡ってきた。

「さて。じゃあ、行き先まで護衛して行きやしょう。あ~、ちなみに俺たちは先払いでお願いしてるんですがね」
レンゾは、悪びれもせずに要求してきた。

 レオポルドが指示するまでもなく、マックスは財布を開けて砂金を渡した。レンゾは愛想よく受け取った。
「へへへ。こりゃあ、どうも」

 レオポルドはフィリパに向かって言った。
「すまないが、フリッツ1人では困ることがあるやもしれぬので、様子を見にいって必要なら手助けをしてもらいたい」

「わかった」
フィリパは、マックスから別の砂金を受け取ると、下流に向かって走っていった。
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