scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


ようこそ。このブログでは、オリジナルの小説と、スイスにいる異邦人の日常を綴っています。
【お報せ】 今日のひと言 (from PIYO)

scriviamo! 2018 無事に終了しました。 作品はこちら
100,000Hit記念リクエストすべて決定しました。ありがとうございました。詳しくはこちら

月間ステルラ6,7月号 参加作品「キノコの問題」はこちら
月間ステルラ4,5月号 参加作品「復活祭は生まれた街で」はこちら
月間ステルラ4,5月号 参加作品「春は出発のとき」はこちら
【小説まとめ読み】 - 目的別のおすすめ小説をリンクした記事
「郷愁の丘」 「リゼロッテと村の四季」を読む 「大道芸人たち Artistas callejeros 第二部」を読む 「十二ヶ月の情景」を読む

Posted by 八少女 夕

【小説】夏至の夜

今日は「十二ヶ月の情景」六月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 6、7月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。いただいたテーマは「夏至」です。(明日が夏至ですから、なんとしてでも今日発表したかったのです)

そして、【奇跡を売る店】シリーズで素敵な短編小説を書いてくださいました。


彩洋さんの書いてくださった 「【奇跡を売る店・短編】あの夏至の日、君と

コラボは、ここに出てくる登場人物の誰か、でいいでしょうか。このシリーズ、元々がパロディなので、適当にキャラを崩壊させていただいても何の問題もありません。如何様にも料理してくださいませ。
そして、舞台は、私がまだ見ぬ巨石・ストーンヘンジがいいかなぁ。あるいは夜のない北欧の夏至でも。


というご要望だったのですが、この中の誰かって、皆さん日本にいるし、ヨーロッパの夏至にいた方たちのうちお一人は、もうコラボできないし、結構悩みました。

それで、コラボしているような、全くしていないようなそんな話になりました。さらにいうと、ストーンヘンジは絡んでいますがメインではありません。キャラクターも読み切り用でおそらくもう二度と出てこないはず。若干「痛たたたた」といういたたまれない状況に立っています。「そうは問屋が卸さない」って感じでしょうか。

ちなみにリトアニア辺りだと、夏至でもまだ夜はあるようです。私の辺りで日没は21時半ぐらいですが、リガだと22時半ぐらいのよう。その短い夜に一瞬だけ咲くと言われる、生物学的には存在しない花。これが今回の小道具です。


短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



夏至の夜

 風が牧場の草をかき分けて遠くへと渡っていった。川から続く広い通りは、聖なるサークルへの最後の導きだ。ここまで来るのに三年の月日が経っていた。これほどかかったのは誤算だったが、なによりも長くつらい旅を乗り越えられたことに感謝しなくてはならないだろう。

 彼は、遠く常に雪に覆われた険しい山脈の麓からやってきた。この地に伝わる「癒やす石」の力を譲り受け、同じ道を帰らねばならない。主は彼の帰りを待ちながら、苦しい日々を過ごしているはずだ。もちろん、まだ彼が生きていれば。それを知る術はない。

 なんと長い一日だ。彼の故郷でもこの時期の日は長い。だが、この北の土地ではゆっくりと眠る暇もないほどに、夜が短くなる。通りを歩く旅人の姿が多い。みなこの日にここへ来ようと、集まってくるのであろう。聖なるサークルへと向かい、夜を徹して祈り、不思議な力を持った朝の光がサークルを通して現れるのを待つのだ。夏至祭りだ。

 彼は、サークルへ向かう巡礼者たちの間に、奇妙な姿を見た。純白の布を被った小柄な女だ。どのような技法であの布をあれほどに白くしたのだろう。布はつややかで柔らかそうだった。風にはためき時折身につけている装身具が現れた。紫水晶のネックレスと黄金の耳飾り。

 視線を感じたのか、女は振り向き彼を見た。浅黒い肌に大きな黒い瞳、謎めいた笑みをこちらに向けた。

* * *


 奈津子は反応に困っていることを顔に出さないようにするのに苦労した。目の前にいるのが中学生だったなら、「これが中二病か」と納得して面白かったかもしれない。また、妙齢の大人だったら、一種の尊敬心すら湧いてきたかもしれない。もし、自分の身内だったら「何言っているの」と一蹴することもできた。

 けれど、目の前で憂鬱そうな様子で先史時代のストーンヘンジの話をしているのは、基本的には自分とは縁もゆかりもない、二十歳も年下の日本人男性だった。そして、非常にまずいことに、妙にいい男だった。

 奈津子がこの青年と二人で旅することになった原因を作ったのは甥だ。それも唯一氣が合い、コンタクトを持ち続けてくれる可愛い身内だ。そもそも奈津子は甥の順と一緒にこの旅行をするつもりで休暇を取った。計画の途中で、「友人を連れて行ってもいいか」と訊かれたので「もちろんいいわよ」と答えた。甥が出発前日に「会社存続を左右する顧客への対応で、どうしても休暇を返上しなくてはならなくなった」とキャンセルしてきたので、初対面の若い青年とこうして旅をしているというわけだ。

 甥がわざわざこの青年を旅に誘った理由は、間もなくわかった。

 スイスに住む奈津子は、宗教行事の影に隠れた民俗信仰を訪ねることをライフワークにしていて、これまでも色々な祭りを見てきた。スペイン・アンダルシアのセマナサンタ、ファリャの火祭り、フランスのサン・マリ・ド・ラ・メールの黒い聖女サラを巡るジプシーの祭り、ヨーロッパ各地の個性豊かなカーニバル、チューリヒのゼックス・ロイテン、エンガディン地方のカランダ・マルツ。

 豊穣の女神マイアの祭りに起源があると言われる五月祭とその前夜のヴァルプルギスの夜や、太陽信仰と深い関係のある夏至や六月二十四日の聖ヨハネの祝日は、ヨーロッパ各地で様々な祭りがあり、奈津子にとって休みを取ることの多い時期だ。有名なイギリスのストーンヘンジの夏至のイベントも若い頃に体験していて、そのことを甥に話したこともある。甥の順とは、去年一緒にノルウェーの夏至祭を回った。

 今年の順との旅では、リトアニアの夏至祭を訪ねることにしていた。

 この時期のリガのホテルはとても高いだけでなく、かなり前からでも予約が取れないため、奈津子は車で五十分ほど郊外にある小さな宿を予約してあった。今日の午後、早く着いた奈津子が既にホテルにチェックインを済ませた。それから空港に一人でやってきた古森達也を迎えに行った。別の部屋とは言え、見知らぬ年上の女と一週間も過ごすことになって、さぞかし逃げ出したい心地になっているだろうと思っていたのだが、達也は礼儀正しい好青年でそんな態度は全く見せなかった。

 レンタカーでホテルに向かい始めてから、助手席に座った達也はどうしてこの旅に同行したいと順に頼んだのかを語り始めた。長年彼を悩ませている夢。夏至を祝うためにストーンヘンジに向かい、謎の女に出会うという一連のストーリーの繰り返し。それも、おそらく先史時代のようだった。

 そんな話を真剣に語られて、奈津子は戸惑った。

 そもそもストーンヘンジには、痛々しい思い出があった。二十年以上前のことだ。まだ、大学に入って間もなく、また、自分自身でも何を探していたのかよくわからなかった頃、奈津子も熱に浮かされたようにパワースポットといわれる場所を巡っていた。そして、夏至のストーンヘンジへ行ったのだ。

 太陽と過去の叡智が引き起こす自然現象を待つ巨石遺構は、エンターテーメントを求める人々で興ざめするほどごった返していた。そもそも、こうした祭りには一人で参加するものではない。一人でいると周りの盛り上がりにはついて行けず、楽しみも半減していた。

 当時はまだ今ほど外国語でのコミュニケーションに慣れていなかったので、奈津子は一週間近くまともな会話をしていなかった。そんな時に、明らかに日本人とわかる二人の壮年男性らを見かけて、もしかしたら会話に混ぜてもらえないかと近くまで寄っていったのだ。ヒールストーンの彼方から太陽が昇ったその騒ぎに乗じて、その二人に話しかけるつもりだった。

 だが、それは非常にまずいタイミングだった。奈津子は、一人の男性がもう一人に対して愛の告白をするのを耳にしてしまったのだ。いくら人恋しいからといって、このなんとも氣まずい中を平然と話しかけられるほど奈津子は人生に慣れていなかった。今から思えば、そこでふざけて話しかければあの二人のギクシャクした空氣の流れを変えられたのかもしれないが。

 あの時と違って、奈津子はいい年をしたおばちゃんになった。スイスで十年間以上一人で暮らし、言葉や度胸でも当時とは比べものにならない。そして、可愛い美青年が、妙な告白をしても、なんとか戸惑いは表に出さずに、会話を続けることもできた。

「だとしたら……どうしてストーンヘンジに行かずにここへ来たの?」
奈津子は単刀直入に訊いた。

 達也は頭をかいてつぶやいた。
「いや、あれは、夢の話ですから。変な話をしてしまって、すいません」

「いいえ、してもいいのよ。でも、どう答えたらいいのか、わからないのよ。それはあなたの前世の記憶だって思ってるの?」
「いや、そんなことは……。あれです、どっかのアニメか映画で観たのかもしれないです」

 奈津子は首を傾げた。
「さあ、知らないわ。あったとしても、私は浦島太郎で、日本のアニメや映画などにはずっと触れていないのよ。もっとも私、夏至のストーンヘンジにはいったことがあるのよ」
「知っています。順がそう言っていました。だから奈津子さんに逢ってみろと」

 一度もストーンヘンジに行ったことがないにしては、達也の話すストーンヘンジの様子は妙に具体的だった。誰でも見たことのある二つの石の上に大きな石で蓋がしてあるような形のトリリトンの話なら、行ったことがない人でも記憶に留めているかもしれない。だが、達也はヒールストーンの向こうから昇る朝日のことを口にしていた。

 ヒールストーンは周壁への出入り口のすぐ外側のアヴェニューの内部に立つ形の整えられていない赤い砂岩でできた巨石だ。サークルの中心から見て北東にあり、夏至の日に太陽はヒールストーンのある方向から出て、最初の光線が遺跡の中央に直接当たり、ヒールストーンの影はサークルに至る。

 普段の観光ではあまり話題にならないが、夏至のストーンヘンジでは、主役といってもいい石なのだ。

 それに、最近の学説では、夏至のストーンヘンジの祭りは天文学的な意味合いだけではなく、民俗的な、ヨーロッパの他の夏至祭りとも関連のある意味合いを持つともいわれている。すなわち男女の仲を取り持つ祭りというわけだ。馬蹄形に並べられたトリリトンとその周辺にあるヘンジは女性器を表すと考えられ、もともとは脇に小ぶりな岩が二つ置かれていたと考えられるヒールストーンの影が夏至にその遺跡に届くことが、性的な象徴として祝われていたというものだ。

「ヨーロッパの各地の夏至祭りでは、いわゆるメイポールのような柱を立てて、その周りで踊ったり、たき火を飛び越えたりして祝う習慣があるのね。そして、この日に将来の結婚相手を占う、あまりキリスト教的ではない呪いが、主に北ヨーロッパで行われているの。多くが縁結び的な役割を担っているのよね」

「大昔のストーンヘンジでも、そういう役割を担っていたということなんですか」
達也は真面目に訊いた。奈津子は肩をすくめた。
「なんとも言えないわ。そうかもしれないし、違うかもしれない。ブルーストーンに癒やしの力があった信じられていたというのも、推測に過ぎないし、ヒールストーンの影に性的な意味合いがあるというのも、勘ぐりすぎなのかもしれないし。現在の各地の夏至祭に縁結び的な側面があるというのは事実だけれど」

 薬草を摘み、三つ叉になったポールを囲み祝う。朝露を浴びる。そうした呪いの後、夢の中に未来の夫が現れるといった縁結び的信仰が共通してみられるのだ。

 とはいえ、奈津子には夏至祭りに縁結びの力があるとは思えなかった。なんせ二十年以上、何かとこの祭りに行っているのに、一向に御利益がないからだ。たまにいい男と一緒かと思えば、ここまで年下だと、期待するのも馬鹿みたいだ。

「夢の中に……ですか」
「枕の下にセイヨウオトギリソウを置いて眠ると、未来の夫が夢に現れるというような信仰ね」
「なるほど」
「この辺りでは、シダに夏至の夜にしか咲かない赤い花が咲くので、それを見つけて持ち帰るといいという言い伝えもあるのよ」
生物学的にはナンセンスだと言われている。そもそ胞子で増えるシダに花は咲かないから。

「なんですって?」
達也が大きな声を出した。奈津子はぎょっとした。

「どうしたのよ」
「いや、シダの赤い花っておっしゃったから」
「言ったけれど?」
「さっき、日没の直後くらいに見たように思ったんです」

 奈津子は車を停めた。今夜は、夏至祭りではない。祭りは大抵どこも聖ヨハネ祭である二十四日かその前夜である二十三日に行われるからだ。つまり、二日ほどゆっくりと観光をしてから祭りに行く予定だった。が、よく考えれば今夜こそが本来の夏至だ。そこで赤いシダの花を見たなどと言われては聞き捨てならない。

「どこで?」
「さきほど通った林ですよ。ここは一本道だから。このまま戻ったら見られると思いますけれど」

 馬鹿馬鹿しいと、このまま走り抜けてもよかったのだが、好奇心が勝った。それに、夏至らしい思い出になるではないか。無駄足だとしても、少しくらい戻っても問題はないだろう。ホテルはすぐそこだ。奈津子は素直に車をUターンさせた。

 その林は、さほど時間もかからずに、たどり着くことができた。十一時を過ぎてすでに暮れていて、どこにシダが群生しているのか見つけるのにもう少しかかった。けれど、最終的に車のライトが茂みをはっきりと映し出した。

「ほら、あそこに」
それは、本当に花と言えるのか、それともまだ開いていない葉が赤く見えているのか、奈津子には判断できなかった。けれども、それが花に見えるというのは本当だった。

「本当だわ。まるで花みたいね」

 赤い花を咲かせるシダを見つけたら、深紅の絹でそっと包み、決して立ち止まらずに家まで持ち帰らなくてはならない。そして、道を尋ねる旅人に出会っても、決して答えてはいけない。それはただの旅人ではないのだ……。奈津子は、赤いシダ花の伝説を思い出して身震いした。

 達也は、車から降りると、黙ってシダに手を伸ばした。奈津子は、心臓の鼓動が彼に聞こえるのではないかと怖れた。奇妙な組み合わせとは言え、夏至の夜に未婚の男女が、存在しないはずの伝説の植物を手にしようとしている。それは、常識や社会通念というものを超えて、何かを動かす力を持つのかもしれない。ストーンヘンジで、道ならぬ恋心を打ち明けたあの男が、もしかしたらこのような夏至の魔法に促されたように。

 達也は、シダを手折ると、奈津子には目もくれずに林の奥へと歩き出した。人里離れた林の奥を目指しているようだ。声を出してはならない。そう思う氣持ちとは逆に、どこかで冷静で現実的なもう一人の奈津子が「戻さないとまずい」と訴えていた。

 と、視界の奥に、見るべきでないものが入ってきた。白いマントのようなもので全身を覆った人。小柄だからおそらく女だろう。二十一世紀には全くふさわしくないドルイド僧のようなその姿に、奈津子は焦った。彫りの深い顔立ち、黄金の耳飾りと、紫水晶のネックレス。つい先ほど彼が描写したままの謎の女の姿。

 あれこそ、決して答えてはならない危険な旅人ではないのだろうか。達也は、ずっとその人物と無言で見つめ合っていた。どれほどの時間が経ったのかわからない。しびれを切らした奈津子は禁忌を破り、声をかけた。
「達也君。そっちへ行ってはダメよ。さあ、ここから離れて、ホテルに行きましょう」

 達也は、ビクッとしてこちらを振り向いた。奈津子は、手にしていたシダを全て手放させると、袖を引っ張るようにして、彼を歩かせ車に乗せた。彼は何度か振り向きつつも、やはり理性の命じるままに助手席に乗った。そのままホテルにつくまで、奈津子が何を訊いても全く口をきかず、ずっと考え込んでいた。

 翌朝、約束の朝食の席に降りてきた奈津子は、達也が伝言メモを残して消えてしまったのを知った。

 慌てて日本の順にメールを送ると、彼にもメールが入っていたそうだ。急に予定を変えることになり、一足先に帰国することになった。お詫びを順からも伝えて欲しいと。ホテルのフロント係によると、朝一番でチェックアウトしたらしい。隣には、異国風の女性が一緒にいたということだった。

へい、奈津っち。

ぶったまげたよ。達也がまさかいきなり国際結婚するとか、ありえなくね? つーか、俺が何度訪ねていっても、奈津っち一度だって女の子紹介してくれたことないのに、なんで達也にはそんなサービスするんだよ。てか、人の世話していないで、自分の相手は?

それにしてもすげー美人を連れてきたって、仲間内でも大騒ぎだぜ。この間ダメになった休暇の代わりに改めて休みをもらったので、冬休みには、そっち行くから、その時に話そうな。 順


 別に私がくっつけたわけじゃないわよ。甥からのメールを見ながら、奈津子はひどい疲れを感じた。あちこちを蹴飛ばしたい氣分だった。心配して損した。前世がどうのこうの、ストーンヘンジがなんとかかんとかいうから、夏至の揺らぎが見せる魔界に取り込まれたんじゃないかって、どっちが中二病かわからない不安を持っちゃったじゃない。

 彼はきっと、あの女性がどうしているのか氣になって、またあの林に行ったのだろう。そして、そのまま意氣投合して二人で旅することにしたのだろう。

 男女の仲を取り持つと言われる不思議な夜。確かに、ある種の人々には効果絶大らしい。たまたま自分だけそうでないからと言って、迷信扱いするのは間違っているのかもしれない。いや、語り部というのは、その手の恩恵は手にすることができないということなのか。

 奈津子は大きなため息を一つつくと、この件はもう忘れようと思った。そして、「冬に来るならクリスマスマーケットに付き合え」という趣旨のメールを、唯一なついてくれる甥っ子に書いた。


(初出:2018年6月 書き下ろし)
関連記事 (Category: 短編小説集・十二ヶ月の情景)
  0 trackback
Category : 短編小説集・十二ヶ月の情景
Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

どれを完成させるべき?

本来は水曜日は小説公開の日でしたが、今週はお休みしてみました。「そんなつもりになれない」というような理由ではなくて、ちょっと準備不足でした。「郷愁の丘」の最終回、本文はもちろんとっくに書き終わっているんですが、後書きを書く時間がなかったんです。

で、代わりと言ってはなんですけれど、今日は「coming soon……詐欺」を少し進めてみました。(この記事も少し前にほとんど用意が終わっていたものです)


実はですね。現在、本来ならば完結させるべき「続編あれこれ」、どれも書き終わっていないんですよ。個人的には書き終えてから連載を開始したい性格なんですけれど、今から終わっている関係ない作品でお茶を濁すのもなんなので、この後は、「リゼロッテと村の四季」を一つと、「大道芸人たち Artistas callejeros」の次の章を公開しようかなと思っています。

で、その次に来るのは、ちゃんと完成してからにしたいんですけれど、次の三つの内のどれかにしたいと思っています。

そして、可能ならば、すでに既読の方からご意見を頂戴して、一番要望の多かったのから書こうかなと思っているんですけれど、そういうのはダメでしょうか……。この記事に全くコメがなければ、まあ、自分で決めますけれど。

(動画ですけれど、何度かスタートを押さないと動かないみたいです)

【候補その1】『霧の彼方から』
『ニューヨークの異邦人たち』シリーズですけれど、とどのつまり『郷愁の丘』の続編です。今回の作品でさらっと逃げたところを、掘り下げてあります。R18シーンがあるから逃げたんですけれど、実際に書いてみたら全然たいしたことのないシーンだったので、これなら公開してもいいかなと思っています。今のところ七割くらい書き終わっています。そんなに長くないので。



【候補その2】『Filigrana 金細工の心』
「黄金の枷」シリーズの三作目です。二作目の『Usurpador 簒奪者』がうまくまとまらないために、いつまでも公開できないんですけれど、はっきり言って『Usurpador 簒奪者』はなくても話は通じるので、外伝的に細切れに出して、ちゃんと連載するのは『Filigrana 金細工の心』にしようかと思っているんです。時系列で言うと、『Infante 323 黄金の枷』の直接の続編になります。これも七割くらいかなあ。



【候補その3】『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』
『森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架』の続編です。構想だけは、一番ちゃんと進んでいるのですけれど、やはり執筆に時間がかかるのが、このシリーズ。問題は記述の裏取りです。まあ、架空の国なんだからそこまでこだわらなくてもいいんですけれど。
そして、以前の動画でお知らせしたところは、どう考えても一つのストーリーで入りきらないことがわかったので、『トリネアの真珠』と『柘榴の影(仮題)』に分けて、『トリネアの真珠』だけに集中して完成させる予定です。これはまだ四割行っていないかな。かなり頑張らないと難しいかも。



自分でツッコみますが、「こんな動画作っている暇があったら、書けよ」……ですよね。
関連記事 (Category: 構想・テーマ・キャラクター)
  0 trackback
Category : 構想・テーマ・キャラクター

Posted by 八少女 夕

ホルンデルシロップを作りました

今日の記事は、ずいぶん前に書いてアップし損ねたものです。五月の二十日くらいのものかな。復帰第一弾として、こんな感じから始めようと思います。

ふと思ったんですけれど、いわゆる海外ブロガーさんとあまり交流ないなと。(あ、創作仲間のけいさんをのぞく)

海外在住とプロフィールに書いているから、たまーに海外ブロガーさんがいらっしゃるんですけれど、たいていもう二度といらっしゃらない。何でだろうなと思って、訪問したブログの後に自分のブログを見たら、理由がわかりました。海外在住の話、全然書いていないわ。自分の作品の話ばっかり。そりゃ、もういらっしゃいませんわね。

さて、だからというわけでもないんですけれど、今日はちょっと『海外ブロガー』っぽい話題を。といってもいつもの田舎暮らしの話ですけれど。

ホルンデルシロップ完成


通勤路でニワトコが満開になったので、慌てて有機レモンを買ってきました。年に一度のホルンデルシロップを仕込む季節なんです。ホルンデル(Holunder) とは西洋ニワトコのことで、白い花でシロップを作るほか、黒い実でもシロップやアルコール漬けなどを作ります。実を使った方は、風邪の予防になるなど自然療法でも重要視されていますが、やはりこの花のシロップが爽やかで美味しいのです。

スイスに移住してから、ずっと欠かさずに作っています。もっとも最近の若い人たちは、こういうのはお店でしか買わないみたいです。日本人なのに毎年手作りしているというと驚かれます。でも、ウルトラ簡単なんですよ。

ホルンデルシロップ作成中

花を30くらい摘んできます。もともと教えていただいたレシピによると10くらいでいいらしいんですが、そのレシピだと花を洗わずにそのまま使うんですよ。でも、かなりの確率で虫がいるので、私はちょっとだけ振り洗いするんです。

それを3個分のスライスレモンと一緒に3リットルの水につけておきます。今年は、ちょっとやり方を変えて、水は2リットルにして、後で少し加えることにしました。というのは、容れ物に水が入らなかったのですよ。いつもは大鍋を使うんですけれど、今年は大鍋を三日間占拠させることができなかったので。

ホルンデルシロップ作成中

これがしばらく経った状態。毎日かき回してじっくりと浸透させます。

三日経ったら、花とレモンは使わずに漉したエキスと3㎏の砂糖(三温糖と白砂糖を適度に混ぜる)と一緒に沸騰させます。十分間沸騰させたらもうできあがりです。熱湯消毒した密閉瓶に詰めておしまい。簡単でしょう? 

大人たちは昼間っからワインやパスティスを飲んだりする国ですけれど、子供たちや運転する人は、好んで甘いシロップを飲みます。市販の清涼飲料を用意するよりも、こうしたシロップがあるといつでも用意できて便利なのです。

以前もご紹介しましたが、ニワトコとはこういう花です。とてもいい香りがするのですよ。

ニワトコの花
関連記事 (Category: 美味しい話)
  0 trackback
Category : 美味しい話

Posted by 八少女 夕

スイスに戻っています

一週間の日本滞在を終えて、スイスに戻ってきました。

富士山が見えた


皆様の暖かいお言葉、心に染みました。

いつかはこういう形で駆けつけることになるだろうと、覚悟はしていたのです。でも、どこかでまだずっと先だと思っていました。

母は今あちらへいくつもりは全くなかったはずですが、私が訃報を受けてから、ここに戻ってくるまで、まるで母が全部お膳立てをしてくれているとしか思えないようなトントン拍子でした。

報せを受けた翌日の直行便に空席が残っていました。有休の残り日数や仕事のことを悩むまでもなく、もともとこの一週間は休暇でした。家を出る数分前まで降っていた大雨が止んで晴れたこと、帰りも梅雨に入っているのに晴天だったこと。珍しく左側の窓際に座ったのですけれど、富士山がよく見えました。さらに、私が本当は帰国用に取りたくて取れなかった一日後のフライトは、大雨(台風?)で悪天候でした。

葬儀の準備や当日も、過ごしやすい爽やかな天候で、日本の夏を知らない連れ合いは「日本の夏っていいねえ」と驚いていました。「これ、夏じゃないよ」と釘を刺しましたけれど。

悲しさがなくなったわけではないし、やることはまだ山のように残っているのですけれど、生活の方も待ったなしです。折り合いながら続けていくしかないと思いますし、そうすることで、みな立ち直っていくのだろうなと思っています。

来週辺りから、ブログも再開しようと思っています。どうぞよろしくお願いします。

関連記事 (Category: 思うこと)
  0 trackback
Category : 思うこと

Posted by 八少女 夕

日本に向かいます

これから、日本に向かいます。

昨日、母が急逝したためです。海外に生きるからには、死に目に間に合わないことは十分わかっていましたが、最後にそばにいてあげられなかったことが残念です。

本当に急で、姉と姪がギリギリで間に合い、看取りました。長く苦しまなかったことは、ありがたいことだと思いますし、メソメソしていると母が困るだろうと思うのですが、しばらくはハンカチが手放せないでしょう。

身内のことは謙遜するのが日本の美徳で、それに大いに反していますが、自慢の母でした。まっすぐで、明るくて、しなやかで強い人でした。私は、彼女の生き方から、実に多くのことを学びました。誰よりも幸福でいてほしい人でした。できれば、あちこちに楽しく歩き回る余生を、もっと満喫してほしかったです。

海外移住することで寂しい思いもさせましたし、この秋に逢うのをお互いに楽しみにしていました。先週の日曜日に電話し、それからその翌日にメールをしたのが最後になりました。もっと何度も電話をすればよかった、メールも書けたはずと後悔してはいますが、人生とは常にそういうものなのでしょうね。

ブログを始めてから、ここまで近い身内に不幸があったのは初めてです。いつきちんと再開できるかまだわかりませんが、一週間ほどでいったんまたスイスに戻りますので、その後に追々通常運転に戻していくつもりでいます。

この記事のコメント欄は開けておきますが、このような事情でしばらくお返事はできないと思います。どうぞご容赦ください。
関連記事 (Category: 思うこと)
  0 trackback
Category : 思うこと

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(16)父と子 -2-

「郷愁の丘」の続き、二回に分けた「父と子」の後編です。レイチェル・ムーア博士の視点で、ジェームスとヘンリーのスコット親子の関係について語られています。

レイチェルは、三十年来ジェームスと事実上の夫婦関係にありましたが、それを公にしたがらない彼の態度にある種の引け目を感じていました。遺言は、そのレイチェルとマディを明確に大切な家族と認めたもので、ここで彼女のわだかまりもようやく解消したことになります。同時に、この数日を通じて距離のあったヘンリー(グレッグ)との関係もようやく家族へと昇華したようです。

ちなみに、グレッグが遺産としてもらったのは、ジョルジアを招待したけれど結局滞在しなかったあのマリンディの別荘です。もらったはいいものの、きっとまたしてもマディたちが使うことになりそうです。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(16)父と子 -2-

 ヘンリーはオックスフォードで学位を取って大学院に進んだ後、祖父のグレゴリー・スコットの遺産相続手続きでケニアにやってきた。そして、十五年ぶりに逢った父親に研究をケニアで続けたいと相談した。ジェームスは反対はしなかったが、とくに大きな助力をしたわけでもなく、より親しい関係を築いたわけでもなかった。

 息子は、かつて祖父が住んでいた場所にほど近い《郷愁の丘》と呼ばれる土地の家を買い、そこでシマウマの調査をしつつ博士号をとった。マサイ族の居住地に隣接するサバンナは人里離れており、雨季にはレイチェルの住むマニャニから車で三時間以上かかる。とはいえ、親子が年に一度か二度しか逢わないというのはやはり異常だ。それがプライヴェートなものではなく、学会などでしかないということは、レイチェルには大きな問題に思えた。

 ジェームスは厳しい人間ではあるが、愛情ぶかい人間でもあるとレイチェルは思っていた。長年、恋人関係にある彼女に対してだけでなく、二人の娘であるマディに対して示す言葉や態度がそれを表している。それが、ヘンリーに対しては、全く表れてこなかった。それが、前妻レベッカに対する憎悪と不信に端を発するものなのか、それとも打ち解けることのないヘンリーの硬い態度が居心地が悪いかなのかはわからない。

 レイチェルにはそれがとてももどかしく、途中からあえて二人の間に入り込んで橋渡しをするようになった。クリスマスやイースターに一緒に食事をしたり、誕生日などの家族の行事にヘンリーを招んだし、彼の研究についても可能な限り彼女の方から協力を申し出るようにした。

 ヘンリーがそれを迷惑がらず、むしろ感謝して、腹違いの妹であるマディともうまくやっていることにレイチェルはほっとしていたが、肝腎な父子関係は、けっしてノーマルな状態にはならなかった。
 
* * *


 可能な治療は全て試して効果がないことがわかると、ジェームスは自宅で最期を迎えることを希望した。退院して自宅に戻ると、彼は入院中に申し入れたように息子を呼んだ。レイチェルは、ヘンリーに父親はおそらく数日しか持たないだろうから、泊まり込むように伝え、彼はその忠告通り泊まり込み用の荷物と愛犬を連れてやってきた。

 彼が到着すると、レイチェルは今は割合具合がよくて話ができるから寝室に行くように奨め、親子の対話を邪魔しないように自分は階下の台所に残った。

 しばらくすると、ヘンリーが階段を降りてきた。見るとまた荷物を持っていて、玄関に向かっている。

「どうしたの。二階の客間は用意してあるわよ」
彼女がが訊くと、彼は顔を上げて見た。彼の瞳が潤んでいるようだった。彼は「帰ります」と言った。

「なぜ? 何か急な用ができたの?」
そう訊くと、彼は眉を歪めた。
「そうじゃありません。もう彼の用は終わったんです。いつまでもここに残って、彼の『家族との大切な時間』を邪魔したりはしません」

 彼女は彼がそのまま去り、愛犬ルーシーがそれを追って車の中に消えて行くのを、当惑して見送った。

 それからジェームスの寝室に戻るとノックをした。

「ヘンリーは帰ってしまったわ」
窓の方を見ている彼に、彼女は言った。

「そうか……」
彼は、短く答えた。それから数分間、彼は何も言わなかったが、レイチェルも何も言わずにその傍らに座って、彼が話すのを待った。

「金庫の中に遺言状がある」
彼はぽつりと言った。彼とヘンリーとの親子関係のことを考えていたレイチェルはあまりにもかけ離れた話題に驚いた。彼は続けた。

「この家を含めて遺産の多くはお前とマディに残すと書いてある。そうしなければ、全てヘンリーに行くことになるから」
「マディはともかく、私には……」
そう言いかけたレイチェルを彼は遮った。

「お前は、私の人生の伴侶だ。結婚はしなかったが、それ以上のものを共に築いてきた。ずっと住んでいたここから追い出されるのも、ナイロビの家を使えなくなるのも、理不尽だろう。だからきちんとしておきたかった」
「ジェームス……」

 彼女は皺がよりやせ衰えた痛々しい手の甲に、彼女の手のひらをそっと重ねた。ジェームスは、彼女を覗き込んで言った。

「お前とマディが不憫で、その権利を守ってやらなくてはと思った。だからヘンリーにその事を言ったんだ。不服を申し立てたり、裁判を起こしたりしないで欲しいと」
「そんな……。彼が裁判なんてするわけ……」

 彼は、項垂れた。
「あいつにもそう言われたよ。欲しかったのは遺産なんかじゃなかったって。私は……あいつをひどく傷つけてしまったようだ。あんな目をしたあいつをこれまで見たことはなかった。まったく思いつきもしなかったんだ……あいつが、私に父親としての愛情を期待していたなんて」

「今から、呼び戻しましょう。そして、少しでも話をしたら、あなたも彼のことを心にかけていることが……」
「いや、いい……。わからなければ、それでいいんだ。疲れた。眠るよ。マディが来たら、教えてくれ……」

 それから、ジェームスの意識はずっと朦朧としていて、話ができる状態にはならなかった。マディと二人の孫たちが到着したときには、わずかに目を覚まして嬉しそうな顔はしたが、痛みで呻いているか、眠っているかの時間がほとんどだった。

 息子との最期の会話にこだわって苦しんでいるのか、時々うわごとを言った。
「祖父さんの日誌は……お前が欲しいなら……でも、あれは、レイチェルに必要だから……許してくれ……どうしてもっと話にこなかった……待ちなさい……お前を傷つけるつもりは……」

 三日目の朝に、レイチェルはどうしても我慢ができなくなり、ヘンリーに電話をかけた。かなり悪いことと、彼がうわごとで彼に謝っていること、もう一度逢いにきて彼の心の重しをとってほしいと懇願した。

 電話でのヘンリーは、いつもの躊躇や後ろ向きな姿勢が感じられなかった。前回のひどく傷ついて殻に籠ったような表情が目に焼き付いているだけに、レイチェルは意外に感じたが、彼が到着してその変化の理由がわかった。ヘンリーの傍らに彼の愛するアメリカ人女性ジョルジアが立っていたのだ。

 その前日にヘンリーのもとに飛んで来たというジョルジアは、レイチェルとジェームスの二人の子供が、最期の時間を過ごす間、幼いマディの子供たちの面倒を看、食事の用意などもしてくれた。

 ジェームスの意識が戻ることはなかった。彼はそれから二日後の朝に息を引き取った。

 葬儀が終わると、ヘンリーは自分から金庫の中の遺言に従って遺産相続の手続きを進めるようにレイチェルに言った。ジェームスから聞いていたように、遺産の多くがレイチェルとマディに分配されており、本来全てを相続すべきヘンリーに遺されていたのはマリンディの別荘とわずかな現金のみだった。

 ヘンリーは、その内容を耳にしても傷ついた様相は見せなかったし、何かを望む様子もみせなかった。それは、彼の横に寄り添う、ほっそりとしたブルネットの女性がもたらした変化だった。彼が必要とし続けた愛情、実の両親にすら向けてもらえなかった関心と理解を与えてくれる存在を、彼はようやく手にしたのだ。父親の死を悲しみ悼みつつも、ヘンリーの心が以前のように愛に餓え悶え苦しんではいないことを感じてレイチェルは嬉しく思った。

 彼がジョルジアとともに《郷愁の丘》ヘ戻る午後、レイチェルは彼を書斎に呼んだ。入ってきた彼が目にしたのは、レイチェルがジェームス愛用の机の上に積んだ、ジェームスの祖父トマス・スコット博士の研究日誌六十七冊だった。
「これも、今日からあなたのものよ」

「レイチェル? 父さんは、これはあなたに遺すと……」
ヘンリーは困惑して言った。

 彼女は首を振った。
「ジェームスは、あなたにそう言ったことを後悔していたわ。たとえそうでなくても、これはあなたの曾お祖父さんの書いたもの、私がもらうのは正義に反するわ。研究に必要なのは私もあなたも同じ。だから、私が必要な時に、あなたに貸してもらいたいとお願いするのが筋だと思うの」

 彼は、潤んだ瞳で彼女を見た。
「本当に、いいんですか?」

 レイチェルは「もちろん」と答えた。口にはしなかったが、彼に対する多くの負い目のうち、わずかでも返すうちに入ればいいと思っていた。遺産のことだけではなかった。ジェームスの家族としての時間、愛情もずっとレイチェルとマディにばかり向けられていた。彼はいつでも独りでその不条理に耐えてきた。

「ありがとう」
彼ははにかんだように笑うと、怯えるように父親の机に向かい、そっと古い日誌に手を伸ばした。それから、顔を上げると訊いた。
「現在取り急ぎ必要があるのはどれですか。それはしばらくここに置いて行きますから」

 レイチェルは微笑んで、再来週発表の資料に必要な数年分の日誌を手にとった。彼もまた微笑んだ。穏やかな彼らしい笑顔だった。
関連記事 (Category: 小説・郷愁の丘)
  0 trackback
Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

ジョルジア & グレッグ on シマウマ

canariaさんからとても素敵なプレゼントをいただきました。現在連載中の「郷愁の丘」の主人公二人のちびキャラ化したかわいいイラストです。

ジョルジア & グレッグ on シマウマ by canariaさん

白馬ならぬシマウマに乗った王子様と楽しくドライブするジョルジア。しっかりと写真を撮りまくっていますね(笑)

服装は、作品中の描写に合わせてくださったのですが、ジョルジアのアクセサリーは、まだ早いけれど結婚プレゼントとしていただきました! シマウマイヤリングなんですよ。

前作では、暗くまだ後ろ向きのまま終わったヒロインですが、彼女もようやく幸せをつかんだところです。そして、この作品の真の主人公であるグレッグも、「幸せだなあ」と呟けるようになりました。

あれやこれや、多くの読者を嘆息させた不甲斐ないグレッグですが、canariaさんの優しさのにじみ出たこのイラストでは、内氣な個性そのままに、ヒーロー然として登場しています。こうした小市民キャラクターに思い入れの強い作者としては、本当にありがたくて嬉しいです。

それに。アフリカで一番好きになった動物がシマウマだったので、その趣味全開でこの作品を書いたのですけれど、こうしてシマウマのイラストまでいただけるなんて、「書いてよかった!」と泣けてきます。


ジョルジア & グレッグ on シマウマ by canariaさん

背景なしバージョンもいただきました。わーい。大事にしますね。

canariaさん、本当にありがとうございました。



【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」
関連記事 (Category: いただきもの)
  0 trackback
Category : いただきもの

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(16)父と子 -1-

「郷愁の丘」の続きです。前回、ようやくお互いの想いを確かめ合ったジョルジアとグレッグ。本来ならこれで話を終えてしまってもいいのかもしれませんが、あと少しお付き合いください。

ジョルジアが再び《郷愁の丘》にたどり着いた日から、八日ほど経っています。この間に何があったか、そして、過去のことなども別の女性の視点でお送りします。

今回も少し長いので二回に分けます。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(16)父と子 -1-

 その朝、レイチェル・ムーアは久しぶりに慣れたサファリ・シャツに袖を通した。ジェームスが亡くなってから五日間、黒い服を着ていたが、これからずっとそれを着続けるようなことはしたくなかった。

 彼女と結婚しようとしないジェームス・スコットのことを悪し様に言って、離れるように忠告する人たちに、彼女は常々言った。
「これは彼だけの決定じゃないの。私たち、二人で決めたことなの」

 ともに過ごした三十年間、彼がプロポーズしないことに一度も傷つかなかったと言えば嘘になる。だからこそ、その話題には敏感だったし、指摘された時には必要以上に虚勢を張った。だが、今の彼女は本心から「そのことはどうでもいい」と断言することができた。紙切れによる契約はしなかったが、それでも最期に彼から必要としていた言葉をもらったのだ。

 表向きは、彼の未亡人ではないレイチェルは、社会的に喪服を着る必要はなかったし、それを着ることで愛する男の死を悼んでいることをアピールすることも嫌だった。

 喪失感は、彼女の中にある。その痛みと苦しみは、思っていたような激しいものではなく、痺れるような、もしくは包帯を通して血が滲み出るようなものだった。食事をする、窓辺に立ちカーテンを開ける、ベッドメーキングをする。そうした日常の動作の度に、視線の先に居るべき人がいない。空虚が彼女を襲い、動きが止まる。

 それでも、彼女の周りには、家族が居た。ジェームスが昏睡状態に陥ってから葬儀が終わるまでの間、娘と孫、それに義理の息子とその恋人が同じ屋根の下に泊まり込んでくれた。

 ジェームスの息子、表向きは彼の唯一の家族であるヘンリー・スコットは、悲しみに暮れるレイチェルたちの横で静かに葬儀の準備を進め、穏やかに且つ世間に恥じない形で父親を送り出した。体裁を非常に氣にしたジェームスも必ずや満足するだろうと思われる葬式だった。

 弔問客たちは、実の息子よりも長年の恋人とその娘の方を氣遣い、ヘンリーのことを葬儀の手伝いにやってきた無関係な男であるかのように扱っていた。が、当人は決して本意ではないだろう扱いに対して不平も言わなければ、苦悩も見せなかった。

 誰かがその姿を目に留めても、それは彼が父親に対して無関心だからだろうと思ったが、レイチェルはそうでないことを知っていた。この親子の少し常軌を逸した親子関係をずっと目の当りにしてきただけでなく、父親の亡くなる五日前に彼が強い苦渋の想いを垣間見せたのを知っていたから。

* * *


 初めてヘンリーと知り合ったのは、イギリスのオックスフォード大学のあるカレッジにサマースクールの講師として招聘された時だった。

 現在エージェントとしてありとあらゆる煩雑な手続きを代行してくれるリチャード・アシュレイも、当時は学生としてそのクラスを受講していた。

 リチャードは甚だ残念な成績を残し、結局卒業できずにケニアに帰ってくることになったのだが、その一方で当時から見事な話術と機転で多くの人脈を作り上げていた。憎めない性格と魅力的な人懐こい笑顔を持つ赤毛の青年で、レイチェルも受講している学生たちへの意思伝達のためにずいぶんと彼の世話になった。

 そのリチャードがある時目立たない一人の青年を指差したのだ。

「彼はベリオール・カレッジの学生で、僕と同じ学生寮に住んでいるんですが、我々と同じケニアの出身なんですよ。もっとも子供の頃に親が離婚してそれ以来バースに住んでいたらしいですが」

 それではじめてその学生の名前を確認した。ヘンリー・G・スコット。ジェームスの息子だとすぐに思い至った。

 レイチェルはそれまで一度もヘンリーの写真を見た事がなかった。ジェームスの持ち物には、彼がかつて息子とともに暮らしていたような形跡は何も残っていなかった。離婚したレベッカが全て持ち去ったのか、ジェームスが故意に処分したのか彼女は知らない。

 ジェームスは異常なほどにレベッカを嫌い、その激しい罵倒は恋敵の立場であったレイチェルですらあまり心地よく思えないほどだったので、もしかしたらその面影のある少年の写真を見たくないのかと思っていた。が、二十代に育ったその青年の顔を改めて見ると、なぜ今まで目に留めなかったのだろうと訝るくらいジェームスとよく似ていた。

 ただ、その周りに纏う雰囲氣が全く違った。自信に満ちて人を惹き付ける魅力にあふれたジェームス・スコットの遺伝子を半分引き継いでいるというのに、ヘンリーは地味で内向的だった。彼の書いた文字は小さくて線が細い。

 父親と同じ動物行動学の研究の道を目指しているとは知らなかったので、電話でケニアにいるジェームスに確認すると彼はあまり興味のない様子で答えた。
「動物行動学を学ぶとは聞いていたよ。お前のクラスを受講しているのか? 成績はどうだ」

 ヘンリーの成績は、悪くはなかった。少なくともリチャード・アシュレイのような困った成績ではなかった。けれども、彼の成績は上から一割と二割の間あたりに埋没していた。一位や二位、特別な奨学金を受けることができるような輝かしい突出した優秀さではなかった。ジェームスやレイチェルがそうだったように、教授がすぐに一目を置く好成績をとった人間と違って、学者として必ず成功するとは言いがたかった。

 講座の最終日に、レイチェルは思い切ってヘンリーに声を掛けてみた。彼自身はレイチェルの側に寄ってこようともしなかったし、話しかけられるのを待っている風情でもなかったが、少なくとも両親が離婚することになった原因のひとつを作ったレイチェルへの憎しみを持っているようにも見えなかった。

「あなたは、ジェームスの息子でしょう?」
当たり障りのない会話の後に、レイチェルは言ってみた。彼は、少し言葉に詰まった後で、申しわけなさそうに視線を落とし「そうです。すみませんでした」と言った。

「どうして謝るの?」
「黙って、受講しました。ご存知になったなら不快な思いをなさったでしょう」
「そんなことはないわ。あなたはここの学生として、受講する資格があるし、そもそも、あなたがここにいるからと言って不快だということはないわ」

「あなたの本や論文を読んで、ぜひ直接講義を聞きたかったんです。ツァボ国立公園の現状も知りたかったし」
「あなたはアフリカの動物行動学に興味があるの?」
「ええ。できることなら、ケニアで研究できたらいいと思っています」

「ジェームスには、言ったの? 論文は何で書くつもりでいるの?」
「父にはまだ言っていません。相談する以前に、まずは学位を取らないと……。現在はロバで論文を書くつもりでいます」

 その当時から、彼の心はサバンナでシマウマの研究をすることに向いていたのだ。

 彼の自信のない後ろ向きな態度は、レイチェルに強い印象を与えた。それはジェームズの持つ個性と正反対だったからだ。

 彼とその父がほとんど交流を持たないのは、ジェームスがよく口にするようにレベッカに父親に対する悪口を吹き込まれ、それによって父親とレイチェルたちに憎しみを募らせているからだと想像していた。ジェームズの強い個性を受け継いだ人物は、やはり彼のようにはっきりとした意思と行動力で人間関係を築くのだとどこかで思い込んでいた。

 だから、彼女は、ヘンリーの見せるへりくだってレイチェルを尊敬する目に驚くと同時に、彼が父親との関係だけでなく世界から逃げるように内側に籠っていることにひどく戸惑った。
関連記事 (Category: 小説・郷愁の丘)
  0 trackback
Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【キャラクター紹介】マッテオ・ダンジェロ

久しぶりのキャラクター紹介の記事です。発表済みの作品や、まだ発表していない作品のキャラクターをちょこちょこっと紹介して、作品に親しみを持ってもらおうかな、という姑息な企画ですね。

今回はそろそろ完結に向けてどんどん畳んでいる「郷愁の丘」などで、読者の皆さんを呆れさせているヒロインの兄、マッテオをご紹介します。


【基本情報】
 作品群: 「ニューヨークの異邦人たち」シリーズ
 通り名: マッテオ・ダンジェロ(Matteo d'Angelo)
 本 名: マッテオ・カペッリ(Matteo Capelli)
 居住地: アメリカ合衆国ニューヨーク
 年 齢: 「ファインダーの向こうに」では39歳。
 職 業: ヘルサンジェル社(HealthAngel, inc.) 最高経営責任者(CEO)

* * *


マッテオは、イタリア系移民である貧しい漁師の息子でしたが、大学在学中に買い取った小さな健康食品会社を一代でアメリカ有数の大企業にしたアメリカンドリームの具現者です。早くから妹であるスーパーモデルのアレッサンドラ・ダンジェロを広告塔に起用し、ダイエット食品の売り上げを飛躍的に伸ばしました。兄妹揃って公の場に登場することが多く、妹の芸名に合わせてダンジェロと名乗っていますが、本当の苗字はカペッリです。

なお、この二つの姓は、イタリアの細いパスタ「Capelli d'angelo」(天使の髪の毛という意味)をもじってつけました。

独身の億万長者なので、女性関係が派手です。女優、モデル、お金の有り余っているセレブのお嬢さんなどとしょっちゅう浮名を流しています。また、妹のアレッサンドラと社交の場に登場することも多いため、芸能人でもないのにゴシップ誌の常連です。また、イタリアの血が濃く出たのか、女性を口説く語彙が豊富です。よどみなくペラペラ口説きますが、本人はそれぞれ真剣に口説いているつもり。ただし、全く一途ではありません。

こういった性格なので、もちろん苦手とする人もいますし、お調子者と思われている事も多いですが、憎めない性格と、誠実な対応が評価され、経済界や政治家などに味方がとても多いです。またチャリティーにも熱心です。

私の脳内でのマッテオのテーマ曲は、こちらです。

Chris Botti feat. Michael Bublé - Let There Be Love ( lyrics )

この曲の歌詞、ずっと不思議だなと思っていたんですよ。「君らしくいたまえ。僕らしくいよう。そして牡蠣は海の底に……」って、唐突に牡蠣が出てくるんです。で、スラングを調べたら「オイスター」って無口な人って意味があるんですね。そっか、「無口な人はそのままでもいいよ」って意味なのかなと、勝手に納得。そうすると後半の「鳩」とか「カッコー」とか「ヒバリ」も「平和主義者」「まぬけ」「騒ぎ立てるヤツ」という具合になるのかなと……。

まあ、それはともかく、「でも、何よりもまず愛がなくっちゃね」と明るく歌い上げるところが、なんだかマッテオにぴったりだなーと思っているんですよ。

そして、マッテオといったら、身内の女の子に対する愛情の話を忘れてはいけませんね。イタリア人はそういう傾向が強いんですけれど、「うちのお姫様、最高!」とやたらと姉や妹などを熱愛するんですね。日本だと「シスコン、きもっ!」という捉え方をするかもしれませんが、イタリアだと割と普通。で、マッテオはアメリカ人ですけれど、イタリアの血がうずくのか、二人の妹(ジョルジアとアレッサンドラ)そして姪(アンジェリカ)に対する濃い愛情は、時々本人たちを辟易させてしまうほどです。


Michael Buble 07. You'll Never Find Another Love Like Mine

この曲は、私の脳内イメージでは、某初婚の妹の結婚披露パーティでマッテオが熱唱する歌。「僕ほど君のことを優しく愛する男はいないよ。君は僕の愛を恋しく思うだろうね」みたいな。そして、面白がってもう一人の妹がデュエットで参加しています。花嫁と花婿は、困ったように顔を見合わせて、自分たちの結婚式なのに目立たない端の方に行ってたりする、なんて想像して楽しんでいます。

こんな痛い想像をして遊ぶのは、オリジナル作品のキャラを持っている方なら「あるある」ですよね?

【参考】
「ファインダーの向こうに」を読む「ファインダーの向こうに」を読む
あらすじと登場人物

郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」
関連記事 (Category: 構想・テーマ・キャラクター)
  0 trackback
Category : 構想・テーマ・キャラクター
Tag : キャラクター紹介

Posted by 八少女 夕

【小説】キノコの問題

今日は「十二ヶ月の情景」五月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 6、7月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、canariaさんのリクエストにお応えして書きました。

テーマはずばり「マッテオ&セレスティンin千年森」です!

情景は森(千年森)で、ギリギリクリアかな?

キーワードと小物として
「セレスティンの金の腕時計」
「幻のキノコ」
「健康食品」
「アマゾンの奥地」
「猫パンチ」
希望です。

時代というか時系列は、マッテオ様たちの世界の現代軸でお願いしたいと思っています。
コラボキャラクターはクルルー&レフィナでお願いいたします。


「千年森」というのはcanariaさんの作品「千年相姦」に出てくる異世界の森、クルルーとレフィナはその主人公とヒロインです。

一方、マッテオ&セレスティンは、私の「ニューヨークの異邦人たち」シリーズ(現在連載中の「郷愁の丘」を含む)で出てくるサブキャラたちです。「郷愁の丘」の広いジョルジアの兄であるマッテオは、ウルトラ浮ついた女誑しセレブで、その秘書セレスティンはその上司には目もくれずいい男と付き合おうと頑張るけれど、かなりのダメンズ・ウォーカー。このドタバタコンビをcanariaさんの世界観に遊びに来させよという、かなり難しいご注文でした。

これだけ限定された内容なので、ものすごくひねった話は書けなかったのですけれど、まあ、そういうお遊びだと思ってお読みください。コラボって、楽しいなってことで。canariaさん、なんか、すみません……。



短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」





「ニューヨークの異邦人たち」・番外編
キノコの問題


 覆い被さり、囲い込み、食べ尽くして吸収してしまうかと思うほど、深く濃い緑が印象的な森だった。鳥の羽ばたきと、虫の鳴き声、そしてどこにあるのかわからないせせらぎの水音が騒がしく感じられる。道のようなものはあるはずもなかった。ありきたりの神経の持ち主ならば、己が『招かれざる客』であることを謙虚に受け止め、回れ右をして命のあるうちに大人しくもと来た道を戻るはずだ。だが、今その『千年森』を進んでいる二人は、ありきたりの神経を持ち合わせていなかった。

「それで、あとどのくらいこの道を進めばいいんでしょうか」
若干機嫌の悪そうな声は女のものだ。都会派を自認する彼女は、おろしたての濃紺スウェード地のハイヒールを履いていて、一歩一歩進むたびに苛ついていると明確に知らせるトーンを交えてきたが、彼女の前を進んでいるその上司は、全くダメージを受けていないようだった。

「なに、もうそんなに遠くないはずだ。こんなに森も深くなったことだし、【幻のキノコ】がじゃんじゃん生えていそうじゃないか」
そう言って彼は振り返り、有名な『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』を見せたが、『アメリカで最も商才のある十人の実業家』に何度も選出された男としては、かなり無駄な行為だった。エリート男と結婚したがっている何十万人もいるニューヨーク在住の独身女のうちで、セレスティン・ウェーリーほど『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』に動かされない女はいないからだ。

「それはつまり、あなたは根拠も何もなく、こんな未開の森を進んでいると理解してもいいんでしょうか」
「そうさ、シリウス星のごとく熱く冷たいセレ。まさか誰もまだ知らない【幻のキノコ】の生えている場所が、カラー写真と解説つきの地図として出版されていたり、GPS位置情報として公開されているなんて思っていないだろうね」

 ヘルサンジェル社は、CEOであるマッテオが一代で大きくした。主力商品は健康食品で、広告に起用されたマッテオの妹であるスーパーモデル、アレッサンドラ・ダンジェロの完璧な容姿の宣伝効果でダイエット食品の売り上げはアメリカ一を誇る。社のベストセラー商品はいくらでもあるが、新たな商品開発はこうした企業の宿命だ。とはいえ、あるかどうかもわからないキノコを社長みずからが探すというのは珍しい。

 セレスティンは深いため息をついた。
「もうひとつだけ質問してもいいでしょうか」
「いいとも、知りたがりの綺麗なお嬢さん」

「あなた自らが、その【幻のキノコ】を探索なさるのは勝手ですけれど、どうして社長秘書に過ぎない私までが同行しないといけないのでしょうか。この靴、おろしたてのセルジオ・ロッシなんですよ!」

「まあまあ。世界一有能な秘書殿のためなら、五番街のセルジオ・ロッシをまるごと買い占めるからさ。ところで、今日の取引先とのランチで君が自分で言った台詞を憶えているかい?」
「もちろんですわ。とても美味しい松坂和牛でしたけれど、あんなに食べたら二キロは太ってしまいます。週末はジムで運動しなくちゃいけない、そう申し上げました」

「ここを歩くとジムなんかで退屈な運動をするよりもずっとカロリーを消費するよ。湿度が高いってことはサウナ効果も期待できるしね。それに、【幻のキノコ】は、カロリーを消費中の女性のオーラに反応して色を変えるそうだ。つまりこの緑一色の中で見つけやすくなるってことだ。ウインウインだろう?」

 セレスティンは、カロリーを消費する運動やサウナでのウェルネスに、テーラードジャケットとタイトスカートが向いていないことを上司に思い出させようと骨を折った。が、マッテオはそうした細部については意に介さなかった。
『とにかく今日この森に来られたことだけでもとてつもなく幸運なんだ。そうじゃなかったらアマゾンの奥地まで行かなきゃいけないところだったんだぜ」

「なぜですの?」
「『千年森』に至るルートは、いくつか伝説があってね。一番確実なのがブラジルとボリビアの国境近くにある原生林らしいんだが、あそこには七メートルくらいある古代ナマケモノの仲間が生存しているという噂があってさ。追われたらハイヒールで逃げるのは大変だろう?」

「それはその通りですわ。でも、カナダとの国境近くの町外れの廃墟がボリビアと繋がっている森への入り口になるなんてあり得ませんわ」
「あり得ないもへったくれも、僕たちは今まさにそこにいるんだ。まあ、堅いことを言わずに、ちょっとしたデートのつもりで行こうよ、大海原色の瞳を持つお嬢さん」

「いつも申し上げている通り、まっぴらごめんです。そもそも、今日はちゃんとしたデートの予定があったのに……ハーバード大卒で銀行頭取の息子なんですよ。ああ、連絡したいのにここ圏外じゃないですか」
「まあ、なんと言っても『千年森』だからね。安心したまえ。今日のが不発に終わっても、今後ハーバード大卒で頭取の息子である独身者と知り合う確率は……チャートにして説明した方がいいかい?」
「けっこうです!」

 ブリオーニのビスポークスーツにゴールドがかった絹茶のネクタイを締めた男とマーガレット・ハウエルのテーラードジャケットを来た女が森の奥深く【幻のキノコ】を探しているだけでも妙だが、話題もどう考えてもその場にふさわしいとは思えなかった。

 その侵入者の会話に耳を傾けつつ、物陰から辛抱強く観察している影があった。それは黒髪を持った美貌の少年で、二人のうちのどちらが彼の存在に氣付いてくれて、悲鳴を上げた瞬間に颯爽と飛びかかろうとひたすら待っていた。

 だが、都会生活が長く野生の勘のすっかり退化してしまったニンゲンどもは、いつまで経っても彼に氣付かなかった。それどころか、めちゃくちゃに歩き回っているにもかかわらず、どうやら最短距離で彼の大切な養い親のいるエリアに到達してしまいそうだった。

「お。見てみろよ。あの木陰、なんだか激しく蠢いているぞ」
マッテオが示した先を、セレスティンは真面目に見ていなかった。大切なハイヒールのかかとが何かぬるっとしたものを踏んだようなのだ。

「マッテオ。この森はどこを見ても木陰だらけで、蠢いているなんて珍しくもなんともありませんわ、それよりも……」
「でも、ほら。女神フレイヤの金髪を持つお嬢さん、木陰は珍しくなくても、木々と一緒に女性が蠢いているのはちょっと珍しいよ」

「なんだって!」
背後から叫びながら突然黒い影が飛び出してきたので、今度こそセレスティンとマッテオは驚いた。

「本当だ! レフィーったら! 僕がちょっと目を離すとすぐこれだ。発情の相手なら、この僕がいるって言うのに!」

 マッテオは、セレスティンに向かって訊いた。
「あれは、誰かな。男の子のようにも見えたけれど、猫耳みたいなものと、尻尾が見えたような……」

 セレスティンは、目をぱちくりさせて言った。
「猫耳に尻尾ですって。マッテオ、あなた頭がどうかなさったんじゃないですか。それよりも、いつから私たちの後ろにいたのかしら。やはり危険いっぱいじゃないですか、この森。これ以上、こんなところに居て、私のおろしたてのハイヒールに何かあったら困るわ。何か変なものを踏んじゃったみたいだし……」

 ところが、そのハイヒールの惨状に98パーセント以上の責任があるはずの彼女の上司は、その訴えをまるで聴いていなかった。
「ひゅー。こいつは、滅多に見ない別嬪さんだ」

 返事が期待したものと全く違ったので、真意を確認したくて顔を上げると、マッテオが意味したことがわかった。先ほど森と一緒に蠢いているとマッテオが指摘した誰かが、黒髪の少年に木陰から引きずり出されていた。深い緑の襤褸がはだけていて、白い肌や白銀に輝く髪が露わになっていた。あら、確かに、珍しいほどの美女だわ。いつも綺麗どころ囲まれているマッテオでも驚くでしょうね。

 マッテオは、美女を見たら口説くのが義務だとでもいうように、ずんずんと二人の元に歩いて行って、アメリカ合衆国ではかなり価値があると一般に思われている『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』をフルスロットルで繰り出した。

「こんにちは、麗しい森の精霊さん。この深くて神秘的な森には、人知れず永劫の時間を紡ぐ至宝が隠されているはずだと私の魂は訴えていたのですよ。美こそが神の叡智であり、すべてに勝る善なのですから、私があなたを崇拝し、その美しさを褒め称えることを許してくださいますよね」

 何やら揉めていたようだった森色の襤褸を着た美女と黒髪の少年は、この場の空氣を全く読まない男の登場にあっけにとられて黙った。相手に困惑されたくらいで、大人しく引き下がるような精神構造を持たないマッテオは、構わずに続けた。

「怪しいものではありません。僕は、マッテオ・ダンジェロといいます。アメリカ人です。この森で国籍というものが何らかの意味を持つなら、ですけれど。少なくとも佳人に恋い焦がれる心に国境はありません。あなたも、この森のように幾重にも巡らされた天鵞絨の天幕の後ろに引きこもっていてはなりません。どのような深林も恋の情熱の前では無力なのですから。あなたの名前を教えてくださいませんか。私が心から捧げる詩を口ずさめるように」

「てめぇ、何を馴れ馴れしく!」
黒髪の少年が我に返って敵意を剥き出しにした。襤褸を着た美女は、その少年をたしなめた。

「クルルー。客人にそのような口をきいてはならぬ」
「でも、レフィー。聖域であるこの森で神聖なあなたを口説くのがどんなに罰当たりか思い知らせないと」

「さっき、発情の相手がどうのこうのって自分でも言っていたのに」
セレスティンが、小さくツッコんだ。
「なんだとぉ」

 少年は、セレスティンの元に飛んできた。おや、こちらも美形だったわ。セレスティンは驚いた。緑色の宝石のような切れ長の瞳に、漆黒ではなくて所々トラのような模様の入った不思議な髪。綺麗だけれど、危険な匂いがプンプンするタイプの美少年だ。ツンとしていれば、いくらでも女が寄ってきそうだが、どういうわけか今の少年は取り乱して怒っていた。

 手元を素早く前後に動かして、こちらを小突いてくる。この動作は、ええと、ほら、あれ……猫パンチ。うわー、ありえない。美少年がやっちゃダメな動作でしょう。
「ちょっと、やめてよ。何取り乱しているの」
「レフィーの前で余計なこと、言うなよ」
「あのね。そうやって取り乱すと、知られたくないことがバレバレになるのよ。わかってるの?」

 二人がこそこそと会話を交わしている間、マッテオはさらに美女に愛の言葉の攻勢をかけていた。
「あんた、あいつを止めなくていいのか。目の前で他の女を口説くなんて、とんでもない恋人だな」
少年が怒っている。

「おあいにく様。あの人は、私の上司で、恋人じゃないの。それよりも、目下の問題は、私のハイヒール……。何を踏んじゃったのかしら」

 セレスティンが、足下を見ると、どういうわけかそこには真っ赤なキノコがうじゃうじゃと生えていた。しかも、怪しい蛍光色の水玉が沢山ついていて、それが点滅しているのだ。
「やだっ、何これ!」

 美女にクルルーと呼ばれた美少年は肩をすくめた。
「ああ、そのキノコね。ニンゲンの女に先の尖った靴で踏まれると増殖を始めるんだよね。ああ、こんなに増えちゃって面倒なことに……。レフィー、ちょっと! お取り込み中のところ悪いけれど、緊急事態みたいだよ」

 マッテオの口説き文句を半ば呆れて、半ば楽しむように聴いていた美女はこちらを振り向いた。そして、セレスティンとクルルーの周りにどんどん増殖している赤いキノコを見て、慌ててこちらに走ってきた。
「なんだ。おい! 何をやっているんだ」

 マッテオは、そのキノコを見て大喜びだった。
「なんてことだ。これこそ僕たちの求めていた【幻のキノコ】だよ! セレ、でかした!」

 だが、襤褸を着た美女の方は厳しい顔をした。
「何が【幻のキノコ】だ。これを増やすことも、持ち出すことも許さんぞ。やっかいなことになるからな。クルルー、その二人を森の外へ連れて行け。私はそのキノコの増殖を止めねばならぬ」

 クルルーが、ものすごい力を発揮してキノコで真っ赤になったエリアからマッテオとセレスティンを引き離すと、美女はそこへ立ち、続けて森の緑が同調するようにその場所に覆い被さった。そこで、美女が何をやっているのかはわからなかった。クルルー少年に引きずられて二人は森の端まで連れて行かれたからだ。

「これだからニンゲンをこの森に入れるのは反対なんだ。カナダ側にも巨大ナマケモノを配置しないとダメなんだろうか」
そういうと、少年は二人をドンと突き飛ばした。

 一瞬、世界がぐらりと歪んだかと思うと、二人の目の前から美少年クルルーと『千年森』は消えていた。それどころか、彼らが通ってきたはずのカナダとの国境近くの町から400マイル近く離れているマンハッタンのカフェに座っていた。

「え?」
騒がしかった鳥のざわめきの代わりに、忙しく注文をとるウェイターと客たちのやり取りが聞こえ、心を洗うようなせせらぎの代わりに、趣味の悪い電飾で飾られた噴水の調子の悪い水音が響いた。

「なんてことだ。ここまで飛ばされてしまったか。やるな。さすがは『千年森の主』だ」
マッテオは、残念そうに辺りを見回した。セレスティンは、まず手始めに自分の服装がまともな状態に戻っているかを確認したが、残念ながら汗だくでボロボロの様相は、『千年森』にいたときと変わっていなかった。

 でも、ニューヨークに戻ってくるまでの時間を短縮できたんだから、急いで家にもどれはデートまでに着替える時間があるかも! 彼女はお氣に入りの金の腕時計を眺めた。ギリギリ! でも、今すぐ行けば間に合うはず。

「セレ。君のハイヒールに、例のキノコ、ついていないかい?」
諦めきれないマッテオが訊いた。彼女は、大事なハイヒールにキノコがついていたら大変と見たが、『千年森の主』が何らかの魔法で取り除いたのか、あの赤いキノコは綺麗さっぱり消え失せていた。

 それに、あのクルルー少年の言葉によると、ハイヒールに近づけると、あのキノコはとんでもなく増殖してしまうはず。ついていなくて本当によかったってところかしら。

「残念ながら、ついていないみたいですわ、マッテオ。申し訳ないんですけれど、もうアフターファイブですし、私、失礼します。今から急げば、デートに間に合いますので」
そう言いながら、颯爽と立ち上がった。

「OK。楽しんでおいで。今日の残業分、明日はゆっくり出社するといい。やれやれ、僕は氣分直しにジョルジアを訪ねてご飯を作ってもらおうかな」

 セレスティンは、にっこりと微笑みながら立ち去った。途中でもう一度時間を確認するために金時計を見た。

 あら。この時計の文字盤、ルビーなんてついていたのかしら。

 この時計は、なくして困り果てていたところ、マッテオが見つけてくれて、さらに素晴らしい高級時計に変身させてくれたものだ。だから、見慣れていた前の安っぽい時計だった時についていなかったものがあっても不思議ではない。でも、確か、今朝はついていなかったと思うんだけれど。

 立ち止まってもう一度サファイアガラスの中の文字盤をよく見た。ルビーがキラリと光った。蛍光色みたいな色で。しかも動いているような。

 これ、ルビーじゃないわ。さっきのキノコ。この中に入り込んでしまったのかしら。

 セレスティンは先ほどの趣味の悪い噴水前のカフェに戻ろうとした。マッテオに見せないと。だが、どうもカフェが見つからないし、マッテオもいない。ううん、今から電話して戻ってきてもらってこれを見せるとなると、時間を食っちゃう。せっかくの頭取の息子とのデートが……。

 彼女は、そのやっかいなキノコは金時計に閉じ込めたまま、明日まで何も言わないことにした。どう考えても、今夜この時計がハイヒールで踏まれるような事態は起こらないはずだし、明日の朝に氣がついたことにしても問題ないと思う。

 彼女は、キノコの問題はとりあえず忘れることにして、今夜ハーバード大卒の男を逃さないために、彼の前でいかに頭の足りない金髪女の演技をすべきか、綿密にプランを練りだした。

(初出:2018年5月 書き下ろし)
関連記事 (Category: 短編小説集・十二ヶ月の情景)
  0 trackback
Category : 短編小説集・十二ヶ月の情景
Tag : 小説 読み切り小説 100000Hit コラボ

Posted by 八少女 夕

マリッレ

たらこさん「アプリコット色の猫」のマリッレをアップしていらっしゃったので、お願いしていただいてきました。

マリッレ by たらこさん

「アプリコット色の猫」は去年の「scriviamo!」で発表した小説。マリッレはそこに出てくる猫なんです。人生踏んだり蹴ったりだった女性が、一匹の猫との出会いを機にオーストリアのザルツカンマーグートでちょっと幸せになるという、メルヒェンがかった話なんですけれど、どうやら姫子は恩人であるマリッレに猫まんまを作っていない模様。だめじゃん(笑)

たらこさんの描く、ほのぼのとした感じいいですねぇ。大好きです。

オーストリアのおみやげ

ちなみに、マリッレの名前はこのアプリコットジャムからきています。オーストリアではどういうわけかアプリコットのことをマリッレというのですね。かなり濃いオレンジ色のジャム。濃厚で美味しいんですよ。あ、手前はオレンジマーマレードですけれど。
関連記事 (Category: いただきもの)
  0 trackback
Category : いただきもの
Tag : いただきもの

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(15)あなたのもとへ -2-

「郷愁の丘」の続きです。さてさて。イタリア旅行中に涙目なグレッグのメールを読んで居ても立ってもいられなくなったジョルジアは、その場でミラノの空港に向かい、速攻でナイロビに飛びました。そこから「アフリカが本領発揮」してくれて、全力でジョルジアを困らせたわけですが、それにも負けずに《郷愁の丘》から500メートルのところまでたどり着いたのが前回のシーンでした。

計算していただくとおわかりかと思いますが、大体この頃、グレッグはメールが来ないとメソメソしながら、ハンモックでふて寝を始めてしまいました。そうです、何人かの皆さんがコメント欄でご心配なさったように、「この期に及んで留守」なんて事態は起こりません。ヤツはお昼寝中。

今回はおそらくこの作品で一番の盛り上がりシーンであると同時に、一番のドン引きシーンでしょうね。どこまでいっても、グレッグはグレッグです。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(15)あなたのもとへ -2-

 ようやくたどり着いた。驚かせたかったから黙って来たが、それを決意してから四十時間以上経っていた。

 ジョルジアは、門の前に立つと指先で額にかかった髪をそっと梳いた。汗と土とでザラザラしていた。それで自分の服装を見回した。細かい土だらけで色褪せたようになっている。ため息がでる。それをはたきながら、ちっともマシな状態にならないと思っているところに、ルーシーが駆けてきた。

 茶色い大きなローデシアン・リッジバックは、情けないジョルジアの姿には全く構わず、尻尾をちぎれんばかりに振って喜びを表した。彼女の憂鬱で不安な氣持ちは、少しだけ治まった。
「少なくともお前は私を歓迎してくれるのね」

 ジョルジアは、そっと門を引いて中に入った。ルーシーがここにいるという事は、彼は家にいる。それに、ルーシーが全く吠えていないということは、アマンダは今ここにいない。それも彼女を力づけた。

「グレッグはどこにいるの? 部屋かしら?」
そういうと、ルーシーは案内するように家の脇を周り、こちらだよといいたげに裏庭の方へとジョルジアを誘導した。

 そっと覗くと、ハンモックに彼が横たわっているのが見えた。ガーデニアの木は優しい木陰を作り、彼は穏やかに寝息を立てていた。久しぶりに見た彼の姿に、彼女はときめいた。

 彼が自然に目を覚ますのを待つ事は出来なかった。ハンモックをほんの少し揺らすと、彼はぼんやりと瞼を開けた。

 ジョルジアは、じっと見つめて微笑んだ。

 彼は手を伸ばして「ああ、来たんだね」と言った。彼女はがっかりした。もう少し驚くかと思ったのに。

 頬に触れた手は、何の躊躇もなくジョルジアを引き寄せた。驚いたのは彼女の方で、氣がついたらもう彼とキスをしていた。それも長年の恋人同士のような濃厚な口づけで、彼女は戸惑った。けれど、二秒もしないうちに、驚きは恋の歓びと独りよがりではなかったという安堵とに押しやられ、ジョルジアは体が熱くなるのを感じながら彼の情熱を受け入れていた。

 彼の動きが止まった。ジョルジアを引き寄せていた強い力が急に抜けた。ジョルジアは瞼を開いて彼を見た。

 彼は瞬きをしながら何かを考えていた。何かがおかしいと訝っている、そういう表情だった。

 それからがばっと身を翻し、ジョルジアから離れようとして、そのままバランスを崩しハンモックから落ちてしまった。

「きゃあ!」
叫んだのはジョルジアの方だった。

「いたた……」
「大丈夫?」

 助け起こそうとする彼女の腕に、彼は確かめるように触れて「本物? ジョルジアなのか?」と訊いた。
「もちろんよ。誰だと思ったの?」

「いつもの夢だと……あ、いや、その……本当に申し訳ない。なんて失礼を……」

 平謝りするグレッグの頬に手を添えて、彼女は自分から彼にもう一度口づけをした。驚きのあまり硬直した彼の唇は、やがて、状況を理解したのか先ほどと同じように情熱的に応えた。彼の腕が背中にまわされ抱きしめられると、彼女は力を抜いてもたれかかった。

 しばらくすると彼は息をついて彼女の唇を解放した。ジョルジアは、そのまま彼の首筋に顔を埋めて「私も謝らなくちゃだめ?」と囁いた。

「僕は夢を見すぎておかしくなってしまったんだろうか」
放心したように彼が呟く。
「驚かせてごめんなさい」

「どうしてここに?」
ジョルジアは、体を離すと正面から彼の瞳を覗き込んだ。
「あなたが泣いているような氣がしたの。そして、私を呼んでいると感じたの」

 グレッグは、青ざめた。それから下を向いて小さく「すまない」と言った。
「謝らないで」
「できるだけ、そんな感情が出ないように氣をつけたつもりだったんだ。せっかくの楽しい旅を……」

「違うわ」
ジョルジアは、叫ぶように彼の言葉を遮った。彼は驚いたように顔を上げた。

 稲妻に照らされて暗闇の中から浮かび上がった光景を見るように、突然自分の心がはっきりとわかった。彼女は、震えながら続けた。
「違うの。イタリアに行くのがあんなに楽しみだったのは……故郷を訪問できるからじゃなくて……あなたと一緒に観るつもりだったから。あなたが私を必要としていると、理由を作ったけれど……本当は、理由なんかない。ただ、あなたに逢いたかったの。だから、来たの」

「ジョルジア」
「怖かった。とても不安だった。あなたの心が今誰に向いているのかわからなかったから。もし、あなたに『もう必要じゃない』って言われてしまったら、『押し掛けられるのは迷惑だ』って思われたらどうしようって。だから、理由を作って……」

「僕は、本当に君を呼んでいた。君の存在が必要だった。でも、君を困らせたくなかったから、いや、疎ましく思われて嫌われたくなかったから、感情を隠し続けなくてはいけないと思ったんだ」

 彼は立ち上がって、彼女の手をとるとテラスの椅子に座らせた。それから、すぐ近くにもう一つの椅子を引き寄せて触れるくらい近くに座った。

 ジョルジアは、訊いた。
「お父様に何か辛い事を言われたの?」

 彼は視線を落とした。
「彼は、遺言を書いたと言った。『彼の家族』に可能な限り残したいから。それに対して、裁判を起こして争ったりしないでくれと。具体的にどんな内容かは知らないけれど、少なくとも僕は『彼の家族』には含まれていないような口ぶりだった」
「そんな……」

「もっと話したかった。共に過ごす時間がほしかった。そう言いたくても『家族との残されたわずかな時間を大切にしたい』と言われたから、それ以上留まれなかった。『遺産のことで騒いだりはしない、一銭ももらえなくても構わない、でも、曾祖父さんの研究日誌だけは引き継がせてほしい』、そう頼むのがやっとだった。でも、それすらも、レイチェルに必要だろうからと断られた」
「グレッグ……」

「ここに戻ってきてから、ずっと君のことを考えていた。僕には、悲しみを打ち明けられる友も、心の支えとなる存在も、君の他に誰もいないんだ。でも、旅をキャンセルして、せっかく示していてくれていた友情すらも無駄にして、愛想を尽かされたと思っていたから、あのメールをもらえただけでもよかったと思わなくてはと自分に言いきかせていた。どんなに逢いたくても、話がしたくても、言ったら迷惑になるのだと。君にこれ以上の事を期待するのは無理だと。でも……」
グレッグはそっとジョルジアの頬に手を添えた。

「でも……?」
「来てくれた。信じられない」

 しばらくそうしていたが、ふいに彼は彼女の頬が土ぼこりでざらざらしているのに氣がついた。訝りながら全身に視線を移し、汚れた服や土だらけの全身を眺めて訊いた。
「どうやってここまで来た?」

 それでジョルジアは、炎天下に乗り捨ててきた動かないレンタカーの事を思い出した。
「あのね。助けてもらわなくちゃいけないことがあるの」

 ジョルジアが、事情を話すと彼はぎょっとして、「よく無事で」といいながら強く抱きしめた。彼女は幸せに酔いながら、直感が正しかった事を喜んだ。
関連記事 (Category: 小説・郷愁の丘)
  0 trackback
Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

最近のプレイリスト

つくづく思うのですが、私は黙っていられない性質。あまりにも多い『書く書く詐欺』の残骸や、『郷愁の丘』の外伝でのネタバレで懲りたはずなのに、やはり今やっていることについて語りたくてうずうずしています。

でも、さすがにこの作品の詳細を語るのは止めようと思い、その代わりにiPhoneで聴いているプレイリストの話をしようと思います。

交流の長いブログのお友達の皆さんはよくご存じだと思いますが、私が作品を書く時は、同じプレイリストをしつこく聴き続けることで集中力がなくなるのを止めています。つまり、その作品の「My BGM」を聴き続けることでその作品脳のままにしておくのですね。

というわけで、このプレイリストの曲をまとめて流していれば、おそらく私がどんな作品を書いているかがわかってしまう……かな?

プレイリストの名前は伏せておきます。まんま作品のタイトルなんで(笑)
 
作曲者曲名演奏
Johann Sebastian BachBrandenburg Concerto No. 3 in G Major, BWV 1048: I. AllegroDavid Parry & London Philharmonic Orchestra
Dmitri ShostakovichSuite from "The Gadfly", Op. 97a: VIII. RomanceSofia Symphony Orchestra, Ivan Peev & Ivan Marinov
A. Galbiati; E. Ramazzotti Più che puoiEros Ramazzotti / Cher
Johann Sebastian BachDouble Concerto in D Minor for Two Violins, BWV 1043: VivaceLondon Philharmonic Orchestra, David Parry, Pieter Schoeman & Vesselin Gellev
Sergei RachmaninoffVocalise, Op. 34London Philharmonic Orchestra, David Parry & Pieter Schoeman
Johann Sebastian BachCantata, BWV 147 "Herz und Mund und Tat und Leben" X. Chorale: "Jesu bleibet meine Freude"Bach Collegium Japan & Masaaki Suzuki
Heitor Villa-LobosChôro No. 1 "Chôro típico"Dakko Petrinjak
Sergei RachmaninoffRhapsody on a Theme by Paganini, Op. 43Tamás Vásáry, London Symphony Orchestra, Yuri Ahronovitch
Arcangelo CorelliConcerto grosso No. 8 in G Minor, Op. 6 "Christmas Concerto": III. Vivace - Allegro - Pastorale ad libitum. LargoLondon Baroque & Charles Medlam


これだけで脳内に「ああ、こういう好みね」と浮かんだ方はかなりクラッシック音楽好き。三曲目だけはイタリアンポップスですが、残りは全部クラッシックですね。あ、二曲目は映画音楽で、七曲目は、稔でも弾きそうな感じのギター曲です。

バロックのやロマン派の音楽が多いので、格調の高い話かと思われそうですが、そうでもないです。まあ、いつもの私の話に近いですね。

ちなみに、これをひたすら聴き続けているので、先ほども書いたように私の脳内は、この世界につなぎ止められています。つまり『Artistas callejeros 大道芸人たち』や『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』などはまたしても放置です。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more

関連記事 (Category: BGM / 音楽の話)
  0 trackback
Category : BGM / 音楽の話

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(15)あなたのもとへ -1-

「郷愁の丘」の続きです。秋の休暇でイタリア来ていたジョルジアは、グレッグからのメールに居ても立ってもいられなくなり、ミラノへと向かいました。グレッグ視点の前回更新では、そのメールを送信してからジョルジアは四十時間も音信不通のようです。さて、彼女は、一体何をしているのでしょう。

東京のような便利な都市に慣れていると、なかなかわかりにくいと思いますが、世界にはまだそう簡単に「問屋が卸さない」所が存在しています。特に、今回の舞台であるケニアを初めとするアフリカは、一筋縄ではいきません。しかも今は雨季。道はとても悪いのです。都会っ子であるジョルジアが四苦八苦する様子をお楽しみください。

今回は、二回に分けました。一応、このストーリーのクライマックスに当たる部分ですからいいですよね。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(15)あなたのもとへ -1-

 彼女は落ち着くために一度エンジンを停止させた。悪い道を長距離走ることには、ニューヨーク在住の一般的な女性よりも慣れている。アリゾナやデスバレーで何日間も一人で撮影をしたこともあったから、四輪駆動車でなければダメだということは言われなくても知っていた。

 ミラノで飛行機に乗り込む前にレンタカーの予約もしておいたが、列車に乗り遅れたくなくて、早朝ナイロビ空港に到着してすぐに確認しなかったのが最初の躓きだった。ジョルジアは、その日の午後には《郷愁の丘》に着いているつもりだった。

 鉄道に乗り込んで、ムティト・アンデイまで二時間車窓を眺めた。この列車に乗って、モンバサへと向かったのは遥か昔のことのようだった。あれは一年と半年前の春の休暇だった。パーティにしつこく誘うリチャード・アシュレイへの言い訳のように、列車でモンバサへ向かうと口走った。そして、その言葉がきっかけで、グレッグは私をマリンディの別荘へと招待してくれたのだ。

 それが、この旅の始まりだった。《郷愁の丘》への。

 まだヘンリー・スコット博士と認識していたあの頃から、私は彼と親しくなりたかった。彼のことをもっと良く知りたかった。ずっと人との関わりを怖れて逃げ回っていた私が、三年前に知り合った時から、彼のことだけは安心できて友達になれると知っていた。直感で。

 ジョルジアは、逸る心を抑えながら窓の外のサバンナを見つめた。シマウマの姿が見えた時には思わず微笑んだ。彼のフィールドにいるのだと感じたから。

 彼女は、グレッグの元へ突発的に向かうのはこれで三度目だと思い当たった。レイチェルの家から、ニューヨークのパーティから、彼女を置いて黙って去っていこうとした彼を咄嗟に追った。そして今回、彼のメールに答える代わりにミラノの空港に急いだのも、心が答えを得ていたからだと思った。

 彼を失ってはならないのだと。同僚であり彼女の苦しかった時期に支え続けてくれた友人でもあるベンジャミンが言った「運命の女神が用意してくれた貴重な瞬間」、絶対に逃してはいけない一瞬を捕らえるためには、今走るしかないのだと。そして、この旅はもうすぐ終わる。あなたの元で。彼女は、彼女の来訪を喜ぶ彼の笑顔を思い描いた。

 だが、その甘い想いは、ムティト・アンディの駅で粉々になった。彼女の頼んでおいたレンタカーは用意されていなかった。そもそも窓口が閉まっていて、駅の係員に訊き、三度ほどたらい回しをされたあげくにようやくレンタカー会社の社員に電話をしてもらえた。一時間ほど待って現れたその係員はのらりくらりと応対しただけでなく、代車を用意するがセダンでいいかと言った。

「ダメです。四駆でないと」
「だったら、今日は無理です。明日の朝なら」

 予約したのに用意されていないことに対する謝罪もなければ、速やかに対応するつもりもない。ジョルジアは怒りを抑えた。ここはアメリカではないのだ。

 結局、ムティト・アンディで一泊して、今朝再び窓口に行って待った。あいかわらず時間通りにはやってこない。そして渡されたのは四駆ではあったが希望した車種ではなかった。だが、この車を借りなければ、今日中に《郷愁の丘》にたどり着けるかも怪しい。ジョルジアは諦めてキーを受け取った。

 契約書では、ガソリンを満タンにしてあるはずなのに、満タンに見えないので文句を言うと「計器が故障しているだけで、ガソリンは入っています」と言われた。だが、次の町に着く頃にはガス欠に近かった。

 そこでガス欠寸前にしたのがいけなかったのか、それとももともと壊れていたのか、車の調子は非常に悪かった。グレッグが彼の愛車にどれほどきちんとメンテナンスを施し、丁寧に乗っているのか、彼女は今さらながらに実感した。ここはとんでもない国だ。相手を信頼して任せていては何ひとつまともに機能しない。

 そして、道も悪かった。たとえひび割れていても舗装されていればまだマシだが、多くの道はぬかるんでいるか土ぼこりの舞う自然道で、起伏も激しかった。大してスピードも出せない。予定では一日以上前に彼に会っているはずだった。

 三度目にエンジンを切って、温度を下げ、彼女はハンドルの上に身を持たせかけた。私は何をしているんだろう。彼が呼んでいる、いますぐに逢いに行かなくてはならないと確信して飛んできたけれど、本当に彼は私を必要としているんだろうか。

 彼はイタリア旅行を楽しむようにと書いてくれただけだ。お父様に拒否されたことを慰めてほしいなどとひと言も書いていなかった。ジョルジアは、《郷愁の丘》に滞在した時の、キクユ族のアマンダの憎しみに満ちた瞳を思い出した。その時に、もしかしたらこの娘はグレッグと特別な関係なのではないかと思ったことを。

 彼は、ジョルジアに求愛したことは一度もなかった。初めて出会った時はもちろん、二年後に偶然再会したときも、彼はそんなそぶりを全く見せなかった。レイチェルが何も言わなければ、ジョルジアに恋心を伝えるつもりは全くなかったのだ。ジョルジアはクロンカイト氏を愛していると口にしてしまい、彼が何かを言う前にもう失恋させてしまった。しかも、それにも拘らず彼女が友達になりたいと願ったので、それを受け入れてくれた。それから一年半、主に手紙で交流しているが、彼が友情以上のことをほのめかしたことは一度もなかった。

 彼を恋愛対象ではなく友達の枠に押し込めたのはジョルジアだったにもかかわらず、彼女はもうその立場に満足できなくなっていた。残酷で身勝手な自分は、運命によって既に罰せられているのだと思った。

「君みたいな化け物を愛せる男なんかいるものか」
かつて投げつけられた言葉は、未だに彼女の行動に足枷をつけている。恋愛感情と友情の境目で、とりあえず進んでみようとする選択肢は、彼女にはなかった。一対一の、のっぴきならない関係に直面するのを避けて、一人で傷つけられない立場にいることを好んだ。グレッグとの関係は友情だと自分を誤摩化してきた。彼に「愛せない」と宣言されないように。

 けれど、もう安全地帯はない。ジョルジアはここまで来てしまった。このレンタカーのひどい状態と、慣れないケニアの道に、彼女は自分の力の限界を思い知らされた。軽やかに飛んでいき、好きな時に帰れる、そんな身勝手で楽な行程ではない。この車で今からムティト・アンディに引き返すことも、彼以外の誰かに助けを求めることも不可能だ。そして、彼への想いをなかったことにするのも、一人で問題がないと言い張ることも。そんなことは、ニューヨークにいる時に、そしてもっとずっと前に、自覚して処理しなくてはいけない問題だったのだ。

 地球を半周してこんな形で登場したら、私が友達ではなくて、それ以上の特別な関係になりたいと思っていることはすぐにわかるだろう。それを彼はどう受け止めるのだろう。もう私に友情以上のものを感じなくなってしまっているとしたら。もし、彼とあの娘が一緒にいたら……。

 イタリアに来なかったのも、もしかしたら遠回しの断りだったのかもしれない。もう、遅いのだと。

 エンジンを再びかける。弱々しくモーターが回りはじめる。あと数十キロメートル。たどり着けるだろうか。たどり着いて、私はどうなるんだろう。

 赤道直下の陽射しが彼女を焼いた。汗にまとわりつく土ぼこりが不快だ。どうしてこんなに遠いんだろう。こんなに上手くいかないのはどうしてなんだろう。私が間違った道を進んでいるからなんだろうか。

 また、傷ついて「二度と恋はしない」と思うことになるんだろうか。

 ジョルジアは、不穏な騒音や、心落ち着かない動きをする車を騙し騙し、ようやく見覚えのある辻にたどり着いた。ここから先には《郷愁の丘》しかない。ここをまっすぐ進めば少なくとも遭難はしないはずだ。その後に、人生の旅路で迷うことになっても。

 彼女は、「お願いだから、もう少しだけ走って」と車に呟いた。車はその願いをきき遂げたらしい。異音をさせつつ彼女にグレッグの家が見えるところまでは動いた。だが、あと五百メートルというところで、急に静かになるとあとはどんなにキーを回してもエンジンがかからなくなった。しばらく待っても同じだった。

 彼女は思いあまって、携帯電話を取り出してグレッグにかけようとした。圏外だった。車から降りると、赤い土の上に降り立ち、荷物は車の中に残したまま歩き出した。
関連記事 (Category: 小説・郷愁の丘)
  0 trackback
Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

ATOK買った

今日は、縁の下の力持ちだけれど、小説執筆にものすごく重要な日本語変換システムの話。

先日、「懐古主義にも程がある」タイプである連れ合いと話をしていたんです。「日本では昔のタイプライターは使わないのか」と訊かれて「使うわけないでしょう」と答えました。そもそもタイプライターではちゃんとした日本語は書けないという事実をよく理解していなかった模様。それで思ったんですが、外国語では変換システムって日本語ほど大事ではないんですよね。

私は狂信的なApple信者なんですが、百歩譲ってもMacの日本語変換システムは「いまいち」です。これはおそらく「アメリカ人には、日本語変換の機微はわかるめぇ」ってことなんだと思います。

不思議なことに、Macの日本語変換システムは、OSが変わるたびにものすごくよくなったり、それからいきなり陸でもなくなったりするんです。よくなったものを最悪にする意味がわからないんですが、それでもしばらく我慢していました。

具体的に言うと、OSがネコ科の動物の名前だった頃は、かなり使えたんです。でも、ネコ科じゃなくなってからどんどん使えなくなり、もう我慢できなくなりました。というのは、どんなに同じ文字を変換しても必ず変な変換が最初に来るようになってしまうんです。「学習しろ!」と何度叫んだことか。

私は、ものすごくたくさんの量を書いているので、そのわずかなイライラが我慢できない臨界点になってしまったんですね。なので、お金で解決することにしました。三月末にジャストシステムのATOKのMac用を購入したのです。あ、年度末で安くなっていましたし。

もう、エラい違いです。早く買っておけばよかった。学習能力が高いだけでなく、やはり日本人が作っただけあって、かゆいところに手が届く仕様で、候補の出方や、言い換え、仮名遣いの間違い指摘など、「こんな便利だったなんて!」と叫びたいです。

ちなみに、やたらと広告が届くのでちらっと見てみた「一太郎」にも心惹かれましたよ。残念ながらMac版はないので購入しませんでしたが、欲しい機能がてんこ盛りでした。scrivernerとAdobe inDesign、iBookの三つのアプリでなんとかやっている私の小説執筆環境ですけれど、Windowsだったら速攻で「一太郎」買ったただろうなあ。なんでMac版は作ってくれないんだろう。あったらMacで小説書く人はみな買うと思うんだけれど。
関連記事 (Category: もの書き全般)
  0 trackback
Category : もの書き全般

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(14)期待と絶望

「郷愁の丘」の続きです。前回はイタリアに秋の休暇旅行に来ていたジョルジア視点でしたが、今回はケニアの《郷愁の丘》にいるグレッグ視点です。

そもそもこの小説を書いていた時点では、ここでようやくグレッグの考えていることがはっきりとわかるという仕組みになっていたのですが、なんだか外伝をガンガン発表しすぎて、それをお読みの読者には情報ただ漏れになってしまいました。ちょっと反省。

ジョルジアが《郷愁の丘》に滞在した時に、マサイの集落に行ったことを憶えていらっしゃいますでしょうか。長老がマサイ語で何か言った意味をジョルジアが質問しました。それに対して彼はわからなかったフリをしたのですが、もちろんバッチリわかっていました。今回はその言葉のことも出てきます。

今回のシーンは、いつもなら二回に切る長さなんですけれど、内容的におそらく読者の皆さんの眼が宙を泳ぐことと思いますので、一回でさっさと終わるように発表します。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(14)期待と絶望

 彼はスマートフォンを持って部屋から出てくると、キッチンの窓のところに差し出すようにしてメールをチェックした。今日の電波状態は決して悪くはなく、さほど時間がかからずにメールチェックは終わった。新しいメールは一件もなかった。

 彼は、諦めきれずに再読み込みを試みたが、同じことだった。彼は画面をうつろに眺めた。最後のメールを送ってからもうじき二日だ。ケニアのサバンナとは違って、イタリアには二十四時間以上電波が上手くつながらないところなどないだろう。

 彼女が返信しなかっただけだ。メールではなくて、ニューヨークに戻ってからまた手紙を書いてくれるつもりなのかもしれない。イタリアの親戚と楽しい時間を過ごしていて、僕のメールをまだ開いていないのかもしれない。それとも、土壇場になって旅行をキャンセルしたくせに、いい氣になってつまらないことを書いた僕に対して苛ついたのかも。

 彼は返信済みアイコンのついているジョルジアからのメールの件名をそっと指でなぞった。たとえメールを読んだとしても、返信しなくてはならない義務はない。

 一年半続いている彼女との文通はいつも郵便だった。彼は、彼女の手紙が届くと急いで開封し、何度も読んでそれからその日のうちに返信を書いた。可能ならばすぐに、それが駄目でも翌日にはイクサまで行って投函した。彼女の返信が届くのを心待ちにして、一週間ほど経つと用がなくてもイクサヘ行き私書箱を覗いた。

 大学や役所からの郵便物を取り出しながら、ニューヨークからのエアメールが届かないことを恨みに思ったりはしなかった。それから何日もしてようやく彼女の筆蹟で宛名の書かれた封筒が見えると、あふれそうになる笑顔を抑え急いで車に戻った。十日以上待つことが出来たのだ。その前は、手紙どころかもう生涯関わることはないと思いながら彼女の写真集や雑誌に掲載された写真を眺めていただけの時期もあったのだ。

 ジョルジアに初めて逢ったのは、三年前の春だった。リチャード・アシュレイが「マサイマラでの仕事を手伝ってほしい」と、いつものようにこちらの都合もお構いなしに電話をして来た。アメリカから来た写真家の撮影をオーガナイズする仕事だが、マサイ族の子供の写真を撮りたいので長老と話を付けてほしいというのだ。

「いつ頃?」
講義が始まる頃なら、それを理由に断る事が出来ると思った。だが、リチャードは笑って答えた。
「明日だよ。大学は春休みだから問題ないだろう?」

 彼は断る口実を見出せなかったので、仕方なく出かけた。リチャードは、マディの夫であるアウレリオの親友であるだけでなく、オックスフォード時代から付き合いのある数少ない知人の一人で、研究のためにナイロビの役所や企業と面倒な交渉をする時に力を貸してほしいと彼が頼める唯一の存在だったから。

 行ってみたら、その写真家が女性だったので驚いた。といっても、彼が苦手な女性らしさを前面に押し出したタイプではなくて、飾り氣がなくデニムの上下をあっさりと着ている静かな人だった。誰とでも五分もあれば親友のように話しかけるリチャードに戸惑っているようで、時おりその話を聴いていない素振りさえ見せた。彼のイメージしたアメリカ人とはずいぶんかけ離れていた。

 リチャードが郵便局に寄った時に、車の中で二人だけになった。口数は多くないけれど、話していて心地がよかった。多くの女性は面白みのない彼を敬遠するか、曖昧に言葉を切ってつまらなそうに顔を背けるが、彼女はずっと彼との会話に興味を持ち続けてくれた。写真を撮るときの情熱に満ちた集中力、アテンドに対する心をこめた感謝の言葉など、彼には爽やかで好ましい印象が残った。

 《郷愁の丘》に帰ってから、シマウマとガゼルのグループが川を渡るところをスケッチしていた時に、そのアメリカ人女性と調査について話した事を思い出した。それから、彼女の印象的な笑顔についても。彼は、いつもの通りに記憶に基づきそれをスケッチブックに描いた。

 スケッチブックに彼女の笑顔が再現されたのを眺めて、初めて思った。ずいぶんきれいな人だと。少年のように構わない服装と、押し付けがましさの全くない空氣のような印象だけに氣をとられていたが、その先入観を取り除いて思い出すと、柔らかい物腰と優美な立ち居振る舞いが浮き上がってくる。そして、短い会話の間に、彼は一度もストレスや怖れを感じなかったことも。

 こんな人がいるんだ。彼は、初めて彼女を女性として意識し、もう二度と逢う事のない彼女を理想の女神として空想する事で、一人きりの単調な生活を彩りあるものとするようになった。ティーンエイジャーが、アメリカンフットボールのスター選手に憧れるように、もしくは映画スターのファンになるように、彼はたった一度出会ったアメリカ人フォトグラファーとスケッチブックに彼が描いた笑顔をいつの間にか崇拝するようになった。

 彼女の所属するアメリカの出版社《アルファ・フォト・プレス》に手紙を書き、あの時撮っていた写真集『太陽の子供たち』を購入し送ってもらった。それから発売されている他の写真集も次々と取り寄せて眺めた。彼女がアメリカで『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』に入賞したことは、リチャード・アシュレイに知らされる前に、《アルファ・フォト・プレス》から定期的に送られてくる広告入りニュースで知った。彼は、雑誌《アルファ》の受賞特集号を取り寄せた。作品はたくさん持っていたけれど、彼女の映った写真を手にしたのはそれが初めてだった。

 去年の春に、調査のことで頼みがあってリチャードに連絡する必要があった。彼はもともとナイロビに出て行くつもりはなく、電話で話を終わらせたいと思っていた。けれども、二日後にまたジョルジア・カペッリが彼の事務所を訪問すると聞き、わざわざその時間帯に合わせてリチャードの事務所ヘ行った。もしかしたら、彼女の姿を一瞬だけでも見ることができるかもしれないと期待して。

 本当に彼女と再会できたときの喜び。マディに頼まれてマリンディへ行くことになっていた週末に、ジョルジアが電車でモンバサに行くと話しているのを聴いて躍った心。断られて当然だと思いながら、マリンディに誘ったら、すぐに同意してもらえた時は、あまりにも嬉しくて飛び上がりそうだった。

 それから、次から次へと夢のような事が起きて、映画スターのごとく非現実的な憧れの対象であったジョルジアに対して、もっと身近ではっきりとした強い感情を抱くようになった。手を伸ばせば届く距離に彼女がきてくれて、何度も親しみに満ちた笑顔を向けられた。暖かい家庭生活を思わせる手料理を振る舞われた。彼女が情熱を傾ける写真の被写体としてカメラを向けられ、魂の深淵すらも覗き込めそうな親密な私信を交わした。

 その度に、心は友情の枠にはどうやっても収まらない彼女への想いに締め付けられた。

 彼は、スマートフォンのライトを消すと、テーブルの上に突っ伏した。何度諦めようと自分に言い聞かせたことだろう。けれど、それは不可能だった。もう以前のような穏やかな日常を過ごす事もできなかった。

 講義のための準備をしながらスライドを選べば、彼女が質問してきた時のことが浮かんでくる。調査のためにスケッチをすれば、彼女がニューヨークで彼の絵のことを持ち上げてくれたことを思い出してしまう。論文を書いてもいつものように集中できないし、一人で食事をすることもあたり前と思えない。

 彼女が好きなのは、あのニュースキャスターだ。彼女が自分に求めているのは友情だけだ。どれほど言い聞かせても、心の奥底でもう一人の自分が頑に期待している。ここ《郷愁の丘》に来てくれたから。ニューヨークで一週間も時間を割いてくれたから。手紙を書いてくれたから。旅行に誘ってくれたから。

 愛する人に関して、ありとあらゆる奇跡が続けて起こったから、もしかしたら世界もそんなに冷たくはないのかもしれないと思うようになった。うまく話せなかった父親とも、勇氣を出して自分から話しに行けばわかり合えるのではないかと。自分から踏み出せば、これまで上手につきあえなかった世間とも渡り合えるようになるのではないかと。

 でも、何もかも僕の勝手な思い込みと期待が見せた幻だったんだ。父親に他人のように扱われ、心の奥でずっと願い続けてきたことが浮き彫りになった。僕は愛されたかったんだ。

 みずから一歩を踏み出すことで、拒否されたことのトラウマから抜け出せるのではないかと思っていた。誰からも愛されることはないといじけるのをやめたかった。けれど、怯えながらようやく踏み出した一歩を父親に明確に否定されて、彼はよりどころを失った。

 どうしていつもこうなんだろう。どうして僕は誰からも愛されないんだろう。そして、どうして諦めることも出来ないんだろう。両親のどちらにも家族として扱ってもらえないことに苦しみ、愛する女性からメール一つ返してもらえない存在であることに傷ついている。

 ジョルジアに友達ではなくて、もっと特別な存在と思ってもらいたい。ずっとそればかり望んでいる。それを表に出せば、彼女は煩わしく思って僕と距離を置くようになるだろう。だから、わかりのいいフリをして想いを押さえ付けている。でも、いつまでこうして友達の末席を温め続けなくてはいけないのだろうか。

 どうしても、他のことをする氣になれなかった。彼はその午後に人生に立ち向かう力を持たなかった。論文を書き続けることも、調査結果をまとめることも、自分の人生をこれまでのように一人で歩いていく、その道筋を整える思考を始めることも、今の彼には重すぎた。彼には夢しか残されていなかった。

 夢。マサイの長老が彼に告げた言葉を思い出した。ジョルジアを連れて、マサイの村に行ったときの事だ。二人の関係を誤解している長老に、彼女は恋人ではないと説明したが長老は首を振った。
「お前は夢の中ではすでに彼女を得ているはずだ。あとは、それを現実にするだけだ」

 だが、長老は知らないのだ。彼の夢が現実になった事はただの一度もない。彼は常に人生の敗者であり、夢は夢でしかなかった。子供の頃からずっと。

 仲のいい両親と手をつなぎ、笑い合う夢。初恋の女性にキスをする夢。論文と研究が世間に認められる夢。久しぶりに祖父と再会する夢。生まれた瞬間から見守り親しんだシマウマがライオンの爪を逃れて駆けていく夢。そして、この一年以上繰り返し見続けている、ジョルジアに愛される夢。

 彼は、テラスに出るとハンモックに載って瞳を閉じた。たった一つ、彼の望みを叶えてくれる本当ではない夢の中に逃げ込むために。
関連記事 (Category: 小説・郷愁の丘)
  0 trackback
Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

フルコースと器の話

さて今日の話題は、料理と器の話です。といっても、今はやりのインスタ映えを目指した記事ではありません。

日本の都会では、特別な食事というのは、料理が得意でもてなし上手の方でなければ、外出がメインだと思うんですよ。安くておしゃれなレストランがいくらでもありますし。

でも、私の住んでいるところでは、そうもいっていられない事情があります。主に店と交通機関の問題です。美味しくてリーズナブルな店が徒歩圏にないんですよ。で、たとえば州都に行くとなると終電は夜の八時ですから。近くの割と大きな村でも徒歩で向かうと三十分ですし、真冬は酔い覚ましなどというレベルではなく、凍えます。

というわけで、日本にいたときはさほど家での客のもてなしをしなかった私も、何かともてなしの料理を作るようになりました。

さて、ノーアポの客はともかく、ちゃんと招待した客をもてなす場合は、一応のフルコースを作ります。と、いってもワンオペな上、客がいるときは料理ができない(テーブルについて会話をしているべき)なので、客がつく前にほぼすべての準備が終わる料理を用意します。いかに簡単で、さらにいうと労力に見合う賞賛が得られそうな味と見栄えになる、そんなテーブルを用意できるかがポイントになります。

フルコース 2018 春 前菜

今年のイースターに義母を招いて三人で食べた時は、こんな前菜で始まりました。下に引いている梅形のお盆はプラスチック製です。日本に帰る方にいただいたものだと思います。結婚当時に持ってきた七宝の皿に春の味覚アスパラガスの生ハム巻き、二年前に日本で買ってきたお猪口にプチカプレーゼ、奥にはタコとキュウリとパプリカのマリネをお吸い物の蓋に入れています。その隣は100均ショップで買った四角いプチ皿にチーズとソースで固めて焼いたエビスパゲティを入れてみました。

イースターなので、ニワトリのようにデコレートしたゆで卵をのぞかせたグリーンサラダを添えましたが、義母は高齢なのであまり量が多いと「メインが食べられない」ということになるので、ミニサイズです。

一つ一つはすべて一口サイズなのですが、器や作り方などの話でゆったりと食事が進むので、なんとなく豪華に食事が出てきたと思ってもらえるようです。それと、「これは食べられない」ということになった時に、たくさん種類があれば空腹のままメインを待つこともなくなりますし、残った皿を誰か(大抵連れ合い)が片づけてくれます。

フルコース 2018 春 メイン

さて、メインはシンプルな白いお皿で出します。というか、私はあまり食器をたくさん持たないようにしていて、どんな組み合わせでもちぐはぐにならないように、白かガラスしか買わないことに決めているのです。あ、小皿や盃の類いは色物を買います。

温かいままサーブしたい、でも、前菜を食べている間は料理に立てないということで、メインと付け合わせはオーブンに入れて保温できるものに限られます。

今回は、復活祭がテーマでしたから、仔羊にしました。ラムラックのパン粉焼きは何度も出しているので、今回はロースをバルサミコソースで出しました。そんなに手が込んでいるようには見えませんが、実は24時間ソミュール液に浸し、その後四時間オイルで低温調理をするコンフィにしたものに焼き色をつけてあるのです。(ソミュール液やコンフィって何? って話は今回は省きます。長くなりますから)

付け合わせの新じゃがは洗ってローズマリーと塩それにオリーブオイルをまぶしオーブンに突っ込んだだけのもの。にんじんはスープ、砂糖、バター、ワインで煮ました。ほうれん草は大好きなバター炒め。調理法は簡単でも三色くらいあると「まじめに付け合わせを作った」という感じになります。

フルコース 2018 春 デザート

で、デザートはアイスクリームだけ、という手もあるのですが、今回は「これでもか」という外見にしました。もっともちゃんと作ったのはパンナコッタだけ。かかっているのは自家製のラズベリーシロップです。イースター用に売られているウサギチョコレートと、小洒落たアソートチョコの間にオレンジを飾って色合いを整えました。ミントも買ったのですけれど、状態が悪かったのか当日はしおれた感じだったので却下しました。

使った器は、ちょうどパンナコッタを置いたあたりにカップを置く窪みがあるもので、お茶と一緒にクッキーなどを出す時に使うものみたいです。

フルコースを考える時は、どの皿をどんなときに使うのかを計画しないと、「あ。おのお皿は前菜で使っちゃった」ということになります。

私は食べることや料理自体は好きなんですけれど、人生の中で何に時間をかけたいかというメインに家事はないのですよ。だから、いかに効率的に、それらしくこなせるかを考えます。外国の方は料理に関して「器」というものをあまり考えないようなので、少しでも努力すると「おー、ジャパニーズはすごい!」的な賞賛を得られるので、励みになります。
関連記事 (Category: 美味しい話)
  0 trackback
Category : 美味しい話

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(13)枯れた向日葵

「郷愁の丘」の続きです。前回は春の話でしたが、それから半年以上が過ぎて秋になっています。この間、二人は相変わらず文通をしているだけで何の進展もないので語ることもありません。

前回ジョルジアがベンジャミンに対して話した通り、彼女は秋の休暇のためにイタリアへと向かいました。その旅に、彼女はグレッグを誘っていたようです。この間の事情は本編では今回の更新分で説明するにとどめましたが、すでに発表してある外伝「最後の晩餐」で、その話が出てきています。氣になる方は是非そちらもどうぞ。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(13)枯れた向日葵

僕が君の故郷を一緒に見て回ることをどれほど心待ちにしていたか、君に伝えられたらいいと思う。こんな形で旅をキャンセルすることになって、すべては言い訳にしか響かないだろうけれど。


 ジョルジアは、ニューヨークで受け取ってから、すでに十度は読み直した手紙を再び開いた。予定では、今日はもうケニアからやってきたグレッグと合流しているはずだった。昨日、ミラノに着いたけれど、祖父母の故郷に立っている喜びは、どこか隙間風の吹く虚しさに支配されていた。

 もともと一人でする予定だった旅だ。この夏の終わりに、次の休暇は北イタリアに行き祖父母の故郷を見て回る事を考えているとグレッグに書いた時に、彼女の心は半分以上《郷愁の丘》へまた行きたいと叫んでいた。けれども、どこかそれを言いだせない空氣があった。

 あのアカシアの道で彼を追いかけた時から、ジョルジアの心は友情以上のものへと動いている。それは、彼がニューヨークに来た時にもっと決定的なものになった。

 グレッグとの文通は、彼がニューヨークにやってきた一週間を挟んで、一年半近く続いていた。その交流で心の温度が上昇しているのは、もしかして自分だけなのかもしれないと彼女は思った。

 彼の手紙は、友情に溢れていた。それ以上のことは全く何も読みとれなかった。彼がかつては自分に恋していた事があるにしても、こうして親しくなったことでその想いがただの友情に過ぎないものに昇華してしまったのではないかと、ジョルジアは訝った。

 彼が、北イタリアにはいつか自分も行ってみたいと思っていると返事をくれた時に、彼女は一緒に行こうと提案した。彼がすぐにそれに同意する返事をくれた事がとても嬉しかった。計画を練り、予約を入れ、彼女は幸福に満ちて準備を重ねた。

 彼は、ミラノで会うまでにメールで連絡が出来るように、携帯電話からスマートフォンに変えた。それで、ジョルジアはそれまで郵便だけだったグレッグとのコンタクトに時々メールやSMSも使うようになった。もっとも哲学的かつ神聖な心の機微を書き表すのに電子文書は冷たすぎるように思えた。だから、連絡事項や見た光景を写真としてすぐに伝えたいときを除き、二人の交流は今でも手紙が主だった。

 彼から、旅行をキャンセルしなくてはならないと連絡が来たのもメールではなくて手紙だった。彼の入院していた父親ジェームス・スコット博士が、来週退院して自宅に戻り、最期の時を家族と迎えようとしている。その時に話したい事があると言われたとグレッグは書いてきた。

君とお兄さんダンジェロ氏との関係を見て、僕はいずれ自分の両親との関係をなんとかしなくてはならないと思うようになっていた。僕は拒否されるのが怖くて、ちゃんと向き合った事がなかったんだ。父が、僕と話をしたいと言ってくれたのはこれが始めてだ。そして、彼ときちんと話をする事の出来るチャンスはもう後にはないだろうから、どんなことがあっても行くべきだと思った。でも、よりにもよって君との約束と同じ日になってしまった。本当に何とお詫びを言ったらいいのかわからない。


 ジョルジアは、憤慨したりはしなかった。事情から、彼のキャンセルは当然だと思い、メールですぐに彼の予約の取り消しは済ませたので心配する必要はない事、またあらためて手紙を書くと伝えた。

 ミラノについてから、レンタカーに乗って一人で予定していた土地を周りはじめて、彼女はどこか上の空である自分に氣がついていた。前回のアフリカ旅行で撮りたい光景を取り損ねた事に懲りたので、今回は休暇でも愛用のNIKONや最低限のレンズやフィルターも持ってきていた。それなのに彼女はほとんど写真を撮っていなかった。光景を視線で追いながら、黙って佇む事が多かった。

 彼女はバルに座って赤ワインを注文すると、iPhoneを取り出してグレッグへのメールを書いた。

グレッグ。手紙を送ると約束したけれど、あなたに私が見ているもののことを一刻も早く伝えたくて、このメールを書いているわ。ウンブリア平原、コルチャーノへ向かうなんて事はない田舎道。ゆっくりと今日という日が終わろうとしている疲れた陽射しの下に、どこまでも向日葵畑が続いているの。昼の強い陽射しに照らされて、すっかり乾き枯れていこうとしているその姿がとても印象的だわ。

お父様のお加減はいかが。お父様との限られた時間を大切にしたいと願ったあなたの決心を、私は心から支持しているのよ。私も永いこと家族と上手く話せなかったから、あなたの想いを自分のことのように理解できるの。

イタリアは、明るくて楽しい国だと想像してきたけれど、この夕暮れは静かでもの悲しいわ。たぶんあなたと《郷愁の丘》のことを考えているからね。またメールするわ。返事は無理しないで。ジョルジア



 ジョルジアは、そのメールを送ってからさらに心ここに在らずの状態になった。彼に定期的なメールチェックの習慣がない事はわかっていた。たとえチェックをしたとしても、《郷愁の丘》では、時には上手く受信できない。

 彼女は深いため息をついた。「返事は無理をしないで」なんて書かなければよかった。「あなたのメールを待っている」これが本音よね。

 iPhoneは、彼女が読みたいとは全く思っていないメールの受信音を何度か立てた後、翌日になってようやく待ちわびていたメールを受信した。彼女はその時、コルチャーノのサンタ・マリア教会の前を歩いていた。ホテルに戻るまでに待ちきれず、日陰に移動して読んだ。

ジョルジア。昨日はずっと電波が上手く入らなかったから、すぐに返事が出来なかったことを許してほしい。今、町に給油に来て君のメールを受信したよ。思い出してくれてありがとう。君の表現はとても写実的で、まるでその場にいるように光景が目に浮かぶ。君の隣でその光景を眺めていたはずの、みずから消してしまった選択のことを思っている。

昨日、父に会ってきた。具合がそんなによくないから、これまで話せなかったすべてを語り尽くすのは無理だとわかっていた。もっとも、彼が僕に逢いたがった理由は、僕が願っていたようなものではなかった。

僕は彼が息子に逢いたがっているのだと思っていた。でも、彼にとって僕は彼の家族の権利を脅かす邪魔な人間でしかなく、呼び出した理由は彼の死後に面倒を起こさぬように釘を刺すことだった。だから、安心するように言ってまた《郷愁の丘》に帰って来た。

彼の用事は終わったし、僕は彼との関係を修復することも出来なかった。

君の信頼を失ってまで、ここに残る必要なんてなかったんだ。僕は、人生の賭けに全て破れたのだと思った。家に戻って、論文の続きに取りかかっている。少なくとも、君のお兄さんに顔向けが出来る成果を出さなくてはと、それを支えにしている。

スマートフォンという発明に感謝している。おそらく僕は君の友情を全て台無しにしてしまったのだと、それも、その価値のないものと引き換えにしたのだと、落胆し続ける時間を何週間も短縮してくれたのだから。

君のルーツを辿る旅が、楽しく実りあるものになることを願っている。そして、いつの日か君が僕にその話をしてくれることも。君がまだ僕を友達だと思っていてくれるならばだけれど。よい旅を。グレッグ



 今日は曾祖父の墓参りをしてから、ペルージア在住のはとこたちを訪ねる計画があった。そこに二、三日逗留してから、祖父と祖母の出会ったアッシジに遷るつもりだった。

 はとこには、到着時間を知らせる電話をしなくてはならない。今晩は夜遅くまで食べて飲んで、たくさん話をさせられるだろう。メールに返信する時間はもうないかもしれない。

 ジョルジアは、もう一度グレッグのメールを開いて、返信を打とうとした。彼の文面を読みながら手が止まる。一文字も打てない。彼女には、彼の嘆きと痛みが自分のことのように感じられた。どんな思いでこのメールを打ったんだろう。私が向日葵の花を見てノスタルジーに浸っている間、彼はどんなにつらい思いであの家に籠っていたんだろう。そして、これからどのくらい。

 ピッツァをかじりながら、恋人たちが通りを歩いていた。楽しい笑い声が満ちた。クラクションの音、教会の鐘、そして、街のざわめき。その楽しく幸せな街に、彼女はいられなかった。

 彼女はメールを閉じると、すぐに車のところに戻った。エンジンをかけると、ミラノを目指して走り出した。

関連記事 (Category: 小説・郷愁の丘)
  0 trackback
Category : 小説・郷愁の丘
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

トラブル転じて福となった話

昨夜、無事にスイスに帰ってきました。今回は、いつもより暖かくなったらと期待して四月に行ったのに雨だらけで、『四月にした意味ないぞ』ということになりましたが、七回目のポルトで「見たかったのに見られなかった」というものもそんなにあるわけではなく、雨の時はカフェでまったりとして、したければ買い物でもしてという楽しみ方をしていました。

そしてですね。近いうちにまた別記事で書くと思いますが、今年は途中でシントラへ泊まりに行き、またポルトに戻ってきていつもの「Hotel Infante Sagres」ホテルで豪華に三泊を予定していたんですけれど、とんでもないことが起こっていました。

なんと改装工事が私たちが泊まるまでに終わらなくなってしまったのです。さすがポルトガル(笑)

そこで路頭に迷ったら笑ってはいられませんでしたが、さすがにあそこまでのホテルともなるとそんなことはせず、同系列のホテルにそのまま泊まらせてくれてました。そのホテルというのが、私では到底泊まれっこない五つ星デラックスホテルだったのです。

The Yeatman

このホテルは、「The Yeatman」といって、ドウロ河を挟んだガイア側にありポルトを望むロケーションにあります。ワインツーリズムだのミシュランだのでたくさん「最高のホテル」評価や「ホテル・オブ・ザ・イヤー」などを受賞しまくっているだけのことはあって、綺麗なだけでなくサービスもいいし食事も美味しかったです。

で、「Hotel Infante Sagres」だけでも、私には少し背伸びをした金額なので、支払いまでドキドキしていたのですけれど、ちゃんと元の値段で泊まらせてくれました。「ごめんなさい」の意味もかねてなのか、部屋のアップグレードまでしてくれたんですけれど、それを普通に予約するとどのくらいかかるのか確認したら、三泊で1000ユーロ余計にかかる部屋でした……。

The Yeatman

「Hotel Infante Sagres」でも、毎年ウェルカムドリンクでポートワインはいただくんですけれど、こちらは部屋にボトル付き。ウェルカムドリンクは別にいただけるという徹底ぶりでした。ミネラルウォーターも毎日取り替えてくれるし、しかもこれは無料でした。

というわけで、天候の悪い時に美しいホテルの中でゴージャスな時間をのんびりと過ごすという、ものすごい贅沢をしてしまいました。

関連記事 (Category: 旅の話 / スイス・ヨーロッパ案内)
  0 trackback
Category : 旅の話 / スイス・ヨーロッパ案内

Posted by 八少女 夕

【小説】復活祭は生まれた街で

今日は「十二ヶ月の情景」四月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。先月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。まだリクエスト枠が二つ残っていますので、まだの方でご希望があればこちらからぞうぞ。

月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、GTさんのリクエストにお応えして書きました。ご希望は『夜のサーカス』の関連作品です。

『夜のサーカス』は、当ブログで2012年より連載した作品です。イタリアの架空のサーカス「チルクス・ノッテ」を舞台に個性的なメンバーの人間模様を描いた小説で、2014年に好評のうちに完結しました。話の中心になったのはブランコ乗りの少女ステラと謎の道化師ヨナタンです。GTさんは、この作品をお氣に召して、今回のリクエストでも選んでくださいました。

あまり奇をてらわずに、GTさんのお氣に入りのヒロイン・ステラを前面に出したストーリーを考えました。四月のご希望でしたので、復活祭(パスクァ)を題材にしました。妙に食いしん坊小説になっていますが、これは、作者の脳内がこれで詰まっている、という証ですね。




短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



【参考】
小説・夜のサーカス 外伝

「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物




夜のサーカス・外伝
復活祭は生まれた街で


 ついこの間まで、季節外れの雪が降っていたというのに、今日は随分と暖かい。着てきたジャケットが暑くて、脱いで腕に持った。横を歩いている彼がふっと笑った。ヨナタンって、いつも涼しげよね。暑くないのかしら。ステラは首をかしげた。

 教会の鐘が鳴り響いている。久しぶりだけにその音は格別大きかった。一昨日の聖金曜日にステラはヨナタンと一緒に彼女の生まれた町にやってきた。普段は大きな連休の時には興行する団長だが、さすがに聖金曜日から復活祭パスクァ にかけて興行するのは氣が咎めるらしい。あれでも一応カトリック教徒なのだ。さらにいうと、無理に興行して事故でもあったら、縁起担ぎにうるさい団員たちが彼の言うことを聞かなくなる。だから、聖金曜日から復活祭までは、興行を休むのだった。そのかわり、明日の天使の月曜日パスケッタからは再び仕事だ。

 ステラは、例年ならば一人でこの町に帰ってくるのだが、今年はヨナタンを伴った。彼は天涯孤独なので、復活祭でも帰る生家はないのだ。「嫌じゃなかったら、うちに来て復活祭を楽しんで」と誘うと「迷惑でないならぜひ」と言ってくれた。ステラはとても嬉しかった。

 ヨナタンと二人で遠出することは滅多になかった。電車やバスを乗り継ぐ時間、ずっと彼と一緒だった。車窓から指さして懐かしい山や川の名前を教えるのも楽しかったし、乗り換えの話をするのですらわくわくした。

 北イタリアのアペニン山脈の中腹にあるステラの故郷は、年間を通じてとても静かだ。かつてこの地を治めていたあまり裕福でなかった領主が残した城は、小さく観光客も滅多に来ないし、復活祭でも中世を彷彿とさせるパレードなどの大きな祭事はない。ごく普通のミサがあり、その後に家族でご馳走を食べるのだ。

 伝統を守る人たちは、聖金曜日から肉を食べない。教会も鐘を鳴らさずに、イエス・キリストの死を悼み、救世主を死なせてしまった人間の罪の深さを思う。そして、日曜日に主の復活を祝って鐘がなると、ご馳走をたらふく食べて祝うのだ。

 待ちに待った復活祭。何よりも楽しみなのは、ミサの後の午餐だ。その美味しいご馳走を誰にも文句を言わせずに、心ゆくまだ食べるために、いや、良心がとがめるのが嫌なので、ステラは町の人々に交じって復活のミサに預かる。ヨナタンがカトリックかどうかは聞いたことがないけれど、それに、普段は日曜日に教会に行ったりはしないからあまり熱心な信者ではないみたいだが、彼も特に文句は言わずについてきてミサの席に座っていた。

 そして、無事にミサが終わったので、二人はステラの家へと再び向かっているのだ。少し前を母親のマリが歩いている。彼女の経営するバルの常連たちに囲まれ、楽しく話をしながら。
「あの小さかったステラが、サーカスの花型になって帰ってくるとはね」
「しかも、ボーイフレンドを連れてきたよ」

 そんな噂話も聞こえてきて、ステラとヨナタンは顔を見合わせて小さく笑った。ステラの父親は、ずっと昔にいなくなってしまって、ステラはマリが女手一つで育てた。子守もいなかったので、多くの時間をマリのバルで過ごした。だから、常連のおじさんたちはみな親戚のような存在だった。

 そして、このバルの片隅で食事をしていたヨナタンと、六歳だったステラは出会ったのだ。だから、ステラにとってこの町は生まれ故郷というだけでなく、愛する人との運命の出会いの舞台でもあるのだ。彼とまたここにこうして来られたのがとても嬉しい。ああ、なんて素敵な春なのかしら!

 バルでもある家に着くと、常連たちと別れを告げて、マリは急いで中に入った。食事の用意があるから。ステラとヨナタンも、人びとと別れを告げて家に入る。すぐにマリの弟夫妻がやってくるから、食卓をきちんとしておかなくてはならない。ヨナタンも進んで手伝ってくれるので二人でテーブルセッティングをした。

 ステラの生まれた地方は、生ハムの生産で世界的に有名だ。だから、お祝いの食事は前菜には、プロシュットが色づけされた卵と一緒に並ぶ。アーティチョーク、アスパラガスといった春の野菜、復活祭にいつも作るチーズのトルタと一緒に食べる。生ハムを薔薇のように巻いてお皿に飾りつけながら、ステラはヨナタンが子供の頃にくれた運命の赤い薔薇のことを思い出していた。

 賑やかな笑い声と共にジョバンニとその妻のルチアが花を持って登場した。ステラの母親マリとジョバンニは仲のいい姉弟だが、夫妻はローマに住んでいるので会えるのは年に一度かそれ以下だ。愉快なジョバンニは、尋常でなく口数が多い。そしてルチアはいつも笑っている。二人が来るとマリの家には十人客が増えたかのように賑やかになる。ヨナタンが静かすぎるということもあるのだけれど。

 マリは、ヨナタンが用意してきたワインを開けてデキャンタに注いだ。アマローネ・デッラ・ヴァルポリチェッラだ。アマローネは葡萄を半年近く陰干しする特別な製法によって作られ、濃厚な味わいが特徴だ。値段が高く贈答用などに珍重されている。ヨナタンがこのワインを選んだのは、もう一つ理由があった。復活祭に縁が深いワインだからだ。

「『最後の晩餐』でイエス・キリストが飲んでいたのは現代のアマローネみたいなワインだった」ということになっているのだ。

 イエス・キリストが亡くなる前の晩に弟子たちと過ごした『最後の晩餐』は、レオナルド・ダ・ビンチの絵画でも有名だ。

「みな、この杯から飲みなさい。 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」
『マタイ福音書』にそう書かれていることから、キリスト教信者にとって赤ワインは特別の意味を持っている。

 研究によると、当時ローマで飲まれていたワインには、腐敗を防ぎ風味をつけるために、樹木の樹脂や様々のスパイスを加えて作っていたようだ。エルサレムの街の近くで発見されたイエスの時代と近いワインの壺にはスモーク・ワインや非常に暗い色のワインとの記載があった。非常に濃厚で重いタイプのワインが好まれた可能性がある。

 実際に「アマローネ」の歴史は古く、古代ローマ時代に「レチョート・デッラ・ヴァルポリチェッラ」という甘口ワインを作る過程で偶然できた糖分の少ないワインだ。本当に最後の晩餐で飲まれたワインに近い味わいなのかもしれない。

 いずれにしても、普段自宅用にはなかなか手の届かない高級ワインなので、初めて恋人の家を訪れる時のプレゼントとしては悪くないだろう。

 マリの用意した食事は、そのワインに恥じない美味しいものだった。

 プリモ・ピアットはステラの好きなタリアテッレ・アル・ラグー(ミートソース)。パスタのゆで具合に少しうるさいステラ自身がアルデンテに茹であげた。ラグーの香りがほわんと台所に広がり、ステラはテーブルに着くまで食べるのを我慢するのに苦労した。ヨナタンに食い意地が張りすぎていると思われるのが恥ずかしかったので、なんとかつまみ食いはせずに耐えた。

 ジョバンニは、すべての料理について涙を流さんばかりに感動して食べた。ステラは普段、彼の食事を作っているルチアが氣分を害さないか心配になったけれど、彼女は夫が何を言っても、まるでワライダケでも食べさせられたかのように笑っているのだった。

 セコンド・ピアットは仔羊のローストのバルサミコソースがけ。仔羊肉は固くなってしまうと美味しくない。切ったら中身がピンクになっているべきだ。ステラは、まだ上手く仔羊を調理できない。いつか、自分が奥さんになる時までには、上手に焼けるようにしたいと思っていた。

「あーあ、作り方を見ておくの忘れちゃった」
ステラがため息をつくと、ジョバンニが姪の心がけが素晴らしいと褒め称え、どういうわけかルチアがけたたましく笑った。ステラがうつむいているので、ヨナタンがそっと言った。
「チルクス・ノッテに戻ったら、折を見て一緒にダリオに教えてもらおう」

 ダリオは、チルクス・ノッテ専属の料理人だ。毎日とても美味しい食事を作ってくれるだけでなく、団員たちの相談にものってくれる優しい人だ。料理を習うなんて考えたこともなかったけれど、ヨナタンが一緒に習おうと言ってくれたのがとても嬉しくて、ステラもまたルチアのように楽しい心持ちになった。

 デザートは、鳩の形を象ったフルーツの砂糖漬けやレーズンをたっぷりと混ぜ込んだブリオッシュ生地のお菓子コロンバと、チョコレートの卵。この卵は、本当は子供たちがもらうもので、中から小さなおもちゃが出てくる。ステラは、もうおもちゃをほしがる年頃ではないけれど、子供時代へのノスタルジーで、自分で買ってきた。

 アマローネの瓶は空になり、お皿の上も綺麗に何もなくなった。マリとジョバンニとルチアが楽しく笑いながらリビングで語らっている。ステラは申し出て、ヨナタンと一緒に皿を洗った。こうやって二人で何かを作業できるのが嬉しくてたまらない。

“Natale con i tuoi. Pasqua con chi vuoi.”(クリスマスは家族と、復活祭は好きな人と)

 イタリアでは、こんな風に言うけれど、家族も好きな人も全部一緒に楽しめるのって、本当に素敵! ステラは、人生の春を思い切り楽しんだ。

(初出:2018年4月 書き下ろし)
関連記事 (Category: 短編小説集・十二ヶ月の情景)
  0 trackback
Category : 短編小説集・十二ヶ月の情景
Tag : 小説 読み切り小説 リクエスト キリ番リクエスト 100000Hit 月刊・Stella