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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(14)期待と絶望

「郷愁の丘」の続きです。前回はイタリアに秋の休暇旅行に来ていたジョルジア視点でしたが、今回はケニアの《郷愁の丘》にいるグレッグ視点です。

そもそもこの小説を書いていた時点では、ここでようやくグレッグの考えていることがはっきりとわかるという仕組みになっていたのですが、なんだか外伝をガンガン発表しすぎて、それをお読みの読者には情報ただ漏れになってしまいました。ちょっと反省。

ジョルジアが《郷愁の丘》に滞在した時に、マサイの集落に行ったことを憶えていらっしゃいますでしょうか。長老がマサイ語で何か言った意味をジョルジアが質問しました。それに対して彼はわからなかったフリをしたのですが、もちろんバッチリわかっていました。今回はその言葉のことも出てきます。

今回のシーンは、いつもなら二回に切る長さなんですけれど、内容的におそらく読者の皆さんの眼が宙を泳ぐことと思いますので、一回でさっさと終わるように発表します。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(14)期待と絶望

 彼はスマートフォンを持って部屋から出てくると、キッチンの窓のところに差し出すようにしてメールをチェックした。今日の電波の状態は決して悪くはなく、さほど時間がかからずにメールチェックは終わった。新しいメールは一件もなかった。

 彼は、諦めきれずに再読み込みを試みたが、同じことだった。彼は画面をうつろに眺めた。最後のメールを送ってからもうじき二日だ。ケニアのサバンナとは違って、イタリアには二十四時間以上電波が上手くつながらないところなどないだろう。

 彼女が返信しなかっただけだ。メールではなくて、ニューヨークに戻ってからまた手紙を書いてくれるつもりなのかもしれない。イタリアの親戚と楽しい時間を過ごしていて、僕のメールをまだ開いていないのかもしれない。それとも、土壇場になって旅行をキャンセルしたくせに、いい氣になってつまらないことを書いた僕に対して苛ついたのかも。

 彼は返信済みアイコンのついているジョルジアからのメールの件名をそっと指でなぞった。たとえメールを読んだとしても、返信しなくてはならない義務はない。

 一年半続いている彼女との文通はいつも郵便だった。彼は、彼女の手紙が届くと急いで開封し、何度も読んでそれからその日のうちに返信を書いた。可能ならばすぐに、それが駄目でも翌日にはイクサまで行って投函した。彼女の返信が届くのを心待ちにして、一週間ほど経つと用がなくてもイクサヘ行き私書箱を覗いた。

 大学や役所からの郵便物を取り出しながら、ニューヨークからのエアメールが届かないことを恨みに思ったりはしなかった。それから何日もしてようやく彼女の筆蹟で宛名の書かれた封筒が見えると、あふれそうになる笑顔を抑え急いで車に戻った。十日以上待つことが出来たのだ。その前は、手紙どころかもう生涯関わることはないと思いながら彼女の写真集や雑誌に掲載された写真を眺めていただけの時期もあったのだ。

 ジョルジアに初めて逢ったのは、三年前の春だった。リチャード・アシュレイから「マサイマラでの仕事を手伝ってほしい」と、いつものようにこちらの都合もお構いなしに電話が来た。アメリカから来た写真家の撮影をオーガナイズする仕事だが、マサイ族の子供の写真を撮りたいので長老と話を付けてほしいというのだ。

「いつ頃?」
講義が始まる頃なら、それを理由に断る事が出来ると思った。だが、リチャードは笑って答えた。
「明日だよ。大学は春休みだから問題ないだろう?」

 彼は断る口実を見出せなかったので、仕方なく出かけた。リチャードは、マディの夫であるアウレリオの親友であるだけでなく、オックスフォード時代から付き合いのある数少ない知人の一人で、研究のためにナイロビの役所や企業と面倒な交渉をする時に力を貸してほしいと彼が頼める唯一の存在だったから。

 行ってみたら、その写真家が女性だったので驚いた。といっても、彼が苦手な女性らしさを前面に押し出したタイプではなくて、飾り氣がなくデニムの上下をあっさりと着ている静かな人だった。誰とでも五分もあれば親友のように話しかけるリチャードに戸惑っているようで、時おりその話を聴いていない素振りさえ見せた。彼のイメージしたアメリカ人とはずいぶんかけ離れていた。

 リチャードが郵便局に寄った時に、車の中で二人だけになった。口数は多くないけれど、話していて心地がよかった。多くの女性は面白みのない彼を敬遠するか、曖昧に言葉を切ってつまらなそうに顔を背けるが、彼女はずっと彼との会話に興味を持ち続けてくれた。写真を撮るときの情熱に満ちた集中力、アテンドに対する心をこめた感謝の言葉など、彼には爽やかで好ましい印象が残った。

 《郷愁の丘》に帰ってから、シマウマとガゼルのグループが川を渡るところをスケッチしていた時に、そのアメリカ人女性と調査について話した事を思い出した。それから、彼女の印象的な笑顔についても。彼は、いつもの通りに記憶に基づきそれをスケッチブックに描いた。

 スケッチブックに彼女の笑顔が再現されたのを眺めて、初めて思った。ずいぶんきれいな人だと。少年のように構わない服装と、押し付けがましさの全くない空氣のような印象だけに氣をとられていたが、その先入観を取り除いて思い出すと、柔らかい物腰と優美な立ち居振る舞いが浮き上がってくる。そして、短い会話の間に、彼は一度もストレスや怖れを感じなかったことも。

 こんな人がいるんだ。彼は、初めて彼女を女性として意識し、もう二度と逢う事のない彼女を理想の女神として空想する事で、一人きりの単調な生活を彩りあるものとするようになった。ティーンエイジャーが、アメリカンフットボールのスター選手に憧れるように、もしくは映画スターのファンになるように、彼はたった一度出会ったアメリカ人フォトグラファーとスケッチブックに彼が描いた笑顔をいつの間にか崇拝するようになった。

 彼女の所属するアメリカの出版社《アルファ・フォト・プレス》に手紙を書き、あの時撮っていた写真集『太陽の子供たち』を購入し送ってもらった。それから発売されている他の写真集も次々と取り寄せて眺めた。彼女がアメリカで『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』に入賞したことは、リチャード・アシュレイに知らされる前に、《アルファ・フォト・プレス》から定期的に送られてくる広告入りニュースで知った。彼は、雑誌《アルファ》の受賞特集号を取り寄せた。作品はたくさん持っていたけれど、彼女の映った写真を手にしたのはそれが初めてだった。

 去年の春に、調査の事で頼みがあってリチャードに連絡する必要があった。彼はもともとナイロビに出て行くつもりはなく、電話で話を終わらせたいと思っていた。けれども、二日後にまたジョルジア・カペッリが彼の事務所を訪問すると聞き、わざわざその時間帯に合わせてリチャードの事務所ヘ行った。もしかしたら、彼女の姿を一瞬だけでも見ることができるかもしれないと期待して。

 本当に彼女と再会できたときの喜び。マディに頼まれてマリンディへ行くことになっていた週末に、ジョルジアが電車でモンバサに行くと話しているのを聴いて躍った心。断られて当然だと思いながら、マリンディに誘ったら、すぐに同意してもらえた時は、あまりにも嬉しくて飛び上がりそうだった。

 それから、次から次へと夢のような事が起きて、映画スターのごとく非現実的な憧れの対象であったジョルジアに対して、もっと身近ではっきりとした強い感情を抱くようになった。手を伸ばせば届く距離に彼女がきてくれて、何度も親しみに満ちた笑顔を向けられた。暖かい家庭生活を思わせる手料理を振る舞われた。彼女が情熱を傾ける写真の被写体としてカメラを向けられ、魂の深淵すらも覗き込めそうな親密な私信を交わした。

 その度に、心は友情の枠にはどうやっても収まらない彼女への想いに締め付けられた。

 彼は、スマートフォンのライトを消すと、テーブルの上に突っ伏した。何度諦めようと自分に言い聞かせたことだろう。けれど、それは不可能だった。もう以前のような穏やかな日常を過ごす事もできなかった。

 講義のための準備をしながらスライドを選べば、彼女が質問してきた時のことが浮かんでくる。調査のためにスケッチをすれば、彼女がニューヨークで彼の絵のことを持ち上げてくれたことを思い出してしまう。論文を書いてもいつものように集中できないし、一人で食事をすることもあたり前と思えない。

 彼女が好きなのは、あのニュースキャスターだ。彼女が自分に求めているのは友情だけだ。どれほど言い聞かせても、心の奥底でもう一人の自分が頑に期待している。ここ《郷愁の丘》に来てくれたから。ニューヨークで一週間も時間を割いてくれたから。手紙を書いてくれたから。旅行に誘ってくれたから。

 愛する人に関して、ありとあらゆる奇跡が続けて起こったから、もしかしたら世界もそんなに冷たくはないのかもしれないと思うようになった。うまく話せなかった父親とも、勇氣を出して自分から話しに行けばわかり合えるのではないかと。自分から踏み出せば、これまで上手につきあえなかった世間とも渡り合えるようになるのではないかと。

 でも、何もかも僕の勝手な思い込みと期待が見せた幻だったんだ。父親に他人のように扱われ、心の奥でずっと願い続けてきたことが浮き彫りになった。僕は愛されたかったんだ。

 みずから一歩を踏み出すことで、拒否されたことのトラウマから抜け出せるのではないかと思っていた。誰からも愛されることはないといじけるのをやめたかった。けれど、怯えながらようやく踏み出した一歩を父親に明確に否定されて、彼はよりどころを失った。

 どうしていつもこうなんだろう。どうして僕は誰からも愛されないんだろう。そして、どうして諦めることも出来ないんだろう。両親のどちらにも家族として扱ってもらえないことに苦しみ、愛する女性からメール一つ返してもらえない存在であることに傷ついている。

 ジョルジアに友達ではなくて、もっと特別な存在と思ってもらいたい。ずっとそればかり望んでいる。それを表に出せば、彼女は煩わしく思って僕と距離を置くようになるだろう。だから、わかりのいいフリをして想いを押さえ付けている。でも、いつまでこうして友達の末席を温め続けなくてはいけないのだろうか。

 どうしても、他のことをする氣になれなかった。彼はその午後に人生に立ち向かう力を持たなかった。論文を書き続けることも、調査結果をまとめることも、自分の人生をこれまでのように一人で歩いていく、その道筋を整える思考を始めることも、今の彼には重すぎた。彼には夢しか残されていなかった。

 夢。マサイの長老が彼に告げた言葉を思い出した。ジョルジアを連れて、マサイの村に行ったときの事だ。二人の関係を誤解している長老に、彼女は恋人ではないと説明したが長老は首を振った。
「お前は夢の中ではすでに彼女を得ているはずだ。あとは、それを現実にするだけだ」

 だが、長老は知らないのだ。彼の夢が現実になった事はただの一度もない。彼は常に人生の敗者であり、夢は夢でしかなかった。子供の頃からずっと。

 仲のいい両親と手をつなぎ、笑い合う夢。初恋の女性にキスをする夢。論文と研究が世間に認められる夢。久しぶりに祖父と再会する夢。生まれた瞬間から見守り親しんだシマウマがライオンの爪を逃れて駆けていく夢。そして、この一年以上繰り返し見続けている、ジョルジアに愛される夢。

 彼は、テラスに出るとハンモックに載って瞳を閉じた。たった一つ、彼の望みを叶えてくれる本当ではない夢の中に逃げ込むために。
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Posted by 八少女 夕

フルコースと器の話

さて今日の話題は、料理と器の話です。といっても、今はやりのインスタ映えを目指した記事ではありません。

日本の都会では、特別な食事というのは、料理が得意でもてなし上手の方でなければ、外出がメインだと思うんですよ。安くておしゃれなレストランがいくらでもありますし。

でも、私の住んでいるところでは、そうもいっていられない事情があります。主に店と交通機関の問題です。美味しくてリーズナブルな店が徒歩圏にないんですよ。で、たとえば州都に行くとなると終電は夜の八時ですから。近くの割と大きな村でも徒歩で向かうと三十分ですし、真冬は酔い覚ましなどというレベルではなく、凍えます。

というわけで、日本にいたときはさほど家での客のもてなしをしなかった私も、何かともてなしの料理を作るようになりました。

さて、ノーアポの客はともかく、ちゃんと招待した客をもてなす場合は、一応のフルコースを作ります。と、いってもワンオペな上、客がいるときは料理ができない(テーブルについて会話をしているべき)なので、客がつく前にほぼすべての準備が終わる料理を用意します。いかに簡単で、さらにいうと労力に見合う賞賛が得られそうな味と見栄えになる、そんなテーブルを用意できるかがポイントになります。

フルコース 2018 春 前菜

今年のイースターに義母を招いて三人で食べた時は、こんな前菜で始まりました。下に引いている梅形のお盆はプラスチック製です。日本に帰る方にいただいたものだと思います。結婚当時に持ってきた七宝の皿に春の味覚アスパラガスの生ハム巻き、二年前に日本で買ってきたお猪口にプチカプレーゼ、奥にはタコとキュウリとパプリカのマリネをお吸い物の蓋に入れています。その隣は100均ショップで買った四角いプチ皿にチーズとソースで固めて焼いたエビスパゲティを入れてみました。

イースターなので、ニワトリのようにデコレートしたゆで卵をのぞかせたグリーンサラダを添えましたが、義母は高齢なのであまり量が多いと「メインが食べられない」ということになるので、ミニサイズです。

一つ一つはすべて一口サイズなのですが、器や作り方などの話でゆったりと食事が進むので、なんとなく豪華に食事が出てきたと思ってもらえるようです。それと、「これは食べられない」ということになった時に、たくさん種類があれば空腹のままメインを待つこともなくなりますし、残った皿を誰か(大抵連れ合い)が片づけてくれます。

フルコース 2018 春 メイン

さて、メインはシンプルな白いお皿で出します。というか、私はあまり食器をたくさん持たないようにしていて、どんな組み合わせでもちぐはぐにならないように、白かガラスしか買わないことに決めているのです。あ、小皿や盃の類いは色物を買います。

温かいままサーブしたい、でも、前菜を食べている間は料理に立てないということで、メインと付け合わせはオーブンに入れて保温できるものに限られます。

今回は、復活祭がテーマでしたから、仔羊にしました。ラムラックのパン粉焼きは何度も出しているので、今回はロースをバルサミコソースで出しました。そんなに手が込んでいるようには見えませんが、実は24時間ソミュール液に浸し、その後四時間オイルで低温調理をするコンフィにしたものに焼き色をつけてあるのです。(ソミュール液やコンフィって何? って話は今回は省きます。長くなりますから)

付け合わせの新じゃがは洗ってローズマリーと塩それにオリーブオイルをまぶしオーブンに突っ込んだだけのもの。にんじんはスープ、砂糖、バター、ワインで煮ました。ほうれん草は大好きなバター炒め。調理法は簡単でも三色くらいあると「まじめに付け合わせを作った」という感じになります。

フルコース 2018 春 デザート

で、デザートはアイスクリームだけ、という手もあるのですが、今回は「これでもか」という外見にしました。もっともちゃんと作ったのはパンナコッタだけ。かかっているのは自家製のラズベリーシロップです。イースター用に売られているウサギチョコレートと、小洒落たアソートチョコの間にオレンジを飾って色合いを整えました。ミントも買ったのですけれど、状態が悪かったのか当日はしおれた感じだったので却下しました。

使った器は、ちょうどパンナコッタを置いたあたりにカップを置く窪みがあるもので、お茶と一緒にクッキーなどを出す時に使うものみたいです。

フルコースを考える時は、どの皿をどんなときに使うのかを計画しないと、「あ。おのお皿は前菜で使っちゃった」ということになります。

私は食べることや料理自体は好きなんですけれど、人生の中で何に時間をかけたいかというメインに家事はないのですよ。だから、いかに効率的に、それらしくこなせるかを考えます。外国の方は料理に関して「器」というものをあまり考えないようなので、少しでも努力すると「おー、ジャパニーズはすごい!」的な賞賛を得られるので、励みになります。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(13)枯れた向日葵

「郷愁の丘」の続きです。前回は春の話でしたが、それから半年以上が過ぎて秋になっています。この間、二人は相変わらず文通をしているだけで何の進展もないので語ることもありません。

前回ジョルジアがベンジャミンに対して話した通り、彼女は秋の休暇のためにイタリアへと向かいました。その旅に、彼女はグレッグを誘っていたようです。この間の事情は本編では今回の更新分で説明するにとどめましたが、すでに発表してある外伝「最後の晩餐」で、その話が出てきています。氣になる方は是非そちらもどうぞ。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(13)枯れた向日葵

僕が君の故郷を一緒に見て回ることをどれほど心待ちにしていたか、君に伝えられたらいいと思う。こんな形で旅をキャンセルすることになって、すべては言い訳にしか響かないだろうけれど。


 ジョルジアは、ニューヨークで受け取ってから、すでに十度は読み直した手紙を再び開いた。予定では、今日はもうケニアからやってきたグレッグと合流しているはずだった。昨日、ミラノに着いたけれど、祖父母の故郷に立っている喜びは、どこか隙間風の吹く虚しさに支配されていた。

 もともと一人でする予定だった旅だ。この夏の終わりに、次の休暇は北イタリアに行き祖父母の故郷を見て回る事を考えているとグレッグに書いた時に、彼女の心は半分以上《郷愁の丘》へまた行きたいと叫んでいた。けれども、どこかそれを言いだせない空氣があった。

 あのアカシアの道で彼を追いかけた時から、ジョルジアの心は友情以上のものへと動いている。それは、彼がニューヨークに来た時にもっと決定的なものになった。

 グレッグとの文通は、彼がニューヨークにやってきた一週間を挟んで、一年半近く続いていた。その交流で心の温度が上昇しているのは、もしかして自分だけなのかもしれないと彼女は思った。

 彼の手紙は、友情に溢れていた。それ以上のことは全く何も読みとれなかった。彼がかつては自分に恋していた事があるにしても、こうして親しくなったことでその想いがただの友情に過ぎないものに昇華してしまったのではないかと、ジョルジアは訝った。

 彼が、北イタリアにはいつか自分も行ってみたいと思っていると返事をくれた時に、彼女は一緒に行こうと提案した。彼がすぐにそれに同意する返事をくれた事がとても嬉しかった。計画を練り、予約を入れ、彼女は幸福に満ちて準備を重ねた。

 彼は、ミラノで会うまでにメールで連絡が出来るように、携帯電話からスマートフォンに変えた。それで、ジョルジアはそれまで郵便だけだったグレッグとのコンタクトに時々メールやSMSも使うようになった。もっとも哲学的かつ神聖な心の機微を書き表すのに電子文書は冷たすぎるように思えた。だから、連絡事項や見た光景を写真としてすぐに伝えたいときを除き、二人の交流は今でも手紙が主だった。

 彼から、旅行をキャンセルしなくてはならないと連絡が来たのもメールではなくて手紙だった。彼の入院していた父親ジェームス・スコット博士が、来週退院して自宅に戻り、最期の時を家族と迎えようとしている。その時に話したい事があると言われたとグレッグは書いてきた。

君とお兄さんダンジェロ氏との関係を見て、僕はいずれ自分の両親との関係をなんとかしなくてはならないと思うようになっていた。僕は拒否されるのが怖くて、ちゃんと向き合った事がなかったんだ。父が、僕と話をしたいと言ってくれたのはこれが始めてだ。そして、彼ときちんと話をする事の出来るチャンスはもう後にはないだろうから、どんなことがあっても行くべきだと思った。でも、よりにもよって君との約束と同じ日になってしまった。本当に何とお詫びを言ったらいいのかわからない。


 ジョルジアは、憤慨したりはしなかった。事情から、彼のキャンセルは当然だと思い、メールですぐに彼の予約の取り消しは済ませたので心配する必要はない事、またあらためて手紙を書くと伝えた。

 ミラノについてから、レンタカーに乗って一人で予定していた土地を周りはじめて、彼女はどこか上の空である自分に氣がついていた。前回のアフリカ旅行で撮りたい光景を取り損ねた事に懲りたので、今回は休暇でも愛用のNIKONや最低限のレンズやフィルターも持ってきていた。それなのに彼女はほとんど写真を撮っていなかった。光景を視線で追いながら、黙って佇む事が多かった。

 彼女はバルに座って赤ワインを注文すると、iPhoneを取り出してグレッグへのメールを書いた。

グレッグ。手紙を送ると約束したけれど、あなたに私が見ているもののことを一刻も早く伝えたくて、このメールを書いているわ。ウンブリア平原、コルチャーノへ向かうなんて事はない田舎道。ゆっくりと今日という日が終わろうとしている疲れた陽射しの下に、どこまでも向日葵畑が続いているの。昼の強い陽射しに照らされて、すっかり乾き枯れていこうとしているその姿がとても印象的だわ。

お父様のお加減はいかが。お父様との限られた時間を大切にしたいと願ったあなたの決心を、私は心から支持しているのよ。私も永いこと家族と上手く話せなかったから、あなたの想いを自分のことのように理解できるの。

イタリアは、明るくて楽しい国だと想像してきたけれど、この夕暮れは静かでもの悲しいわ。たぶんあなたと《郷愁の丘》のことを考えているからね。またメールするわ。返事は無理しないで。ジョルジア



 ジョルジアは、そのメールを送ってからさらに心ここに在らずの状態になった。彼に定期的なメールチェックの習慣がない事はわかっていた。たとえチェックをしたとしても、《郷愁の丘》では、時には上手く受信できない。

 彼女は深いため息をついた。「返事は無理をしないで」なんて書かなければよかった。「あなたのメールを待っている」これが本音よね。

 iPhoneは、彼女が読みたいとは全く思っていないメールの受信音を何度か立てた後、翌日になってようやく待ちわびていたメールを受信した。彼女はその時、コルチャーノのサンタ・マリア教会の前を歩いていた。ホテルに戻るまでに待ちきれず、日陰に移動して読んだ。

ジョルジア。昨日はずっと電波が上手く入らなかったから、すぐに返事が出来なかったことを許してほしい。今、町に給油に来て君のメールを受信したよ。思い出してくれてありがとう。君の表現はとても写実的で、まるでその場にいるように光景が目に浮かぶ。君の隣でその光景を眺めていたはずの、みずから消してしまった選択のことを思っている。

昨日、父に会ってきた。具合がそんなによくないから、これまで話せなかったすべてを語り尽くすのは無理だとわかっていた。もっとも、彼が僕に逢いたがった理由は、僕が願っていたようなものではなかった。

僕は彼が息子に逢いたがっているのだと思っていた。でも、彼にとって僕は彼の家族の権利を脅かす邪魔な人間でしかなく、呼び出した理由は彼の死後に面倒を起こさぬように釘を刺すことだった。だから、安心するように言ってまた《郷愁の丘》に帰って来た。

彼の用事は終わったし、僕は彼との関係を修復することも出来なかった。

君の信頼を失ってまで、ここに残る必要なんてなかったんだ。僕は、人生の賭けに全て破れたのだと思った。家に戻って、論文の続きに取りかかっている。少なくとも、君のお兄さんに顔向けが出来る成果を出さなくてはと、それを支えにしている。

スマートフォンという発明に感謝している。おそらく僕は君の友情を全て台無しにしてしまったのだと、それも、その価値のないものと引き換えにしたのだと、落胆し続ける時間を何週間も短縮してくれたのだから。

君のルーツを辿る旅が、楽しく実りあるものになることを願っている。そして、いつの日か君が僕にその話をしてくれることも。君がまだ僕を友達だと思っていてくれるならばだけれど。よい旅を。グレッグ



 今日は曾祖父の墓参りをしてから、ペルージア在住のはとこたちを訪ねる計画があった。そこに二、三日逗留してから、祖父と祖母の出会ったアッシジに遷るつもりだった。

 はとこには、到着時間を知らせる電話をしなくてはならない。今晩は夜遅くまで食べて飲んで、たくさん話をさせられるだろう。メールに返信する時間はもうないかもしれない。

 ジョルジアは、もう一度グレッグのメールを開いて、返信を打とうとした。彼の文面を読みながら手が止まる。一文字も打てない。彼女には、彼の嘆きと痛みが自分のことのように感じられた。どんな思いでこのメールを打ったんだろう。私が向日葵の花を見てノスタルジーに浸っている間、彼はどんなにつらい思いであの家に籠っていたんだろう。そして、これからどのくらい。

 ピッツァをかじりながら、恋人たちが通りを歩いていた。楽しい笑い声が満ちた。クラクションの音、教会の鐘、そして、街のざわめき。その楽しく幸せな街に、彼女はいられなかった。

 彼女はメールを閉じると、すぐに車のところに戻った。エンジンをかけると、ミラノを目指して走り出した。

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Posted by 八少女 夕

トラブル転じて福となった話

昨夜、無事にスイスに帰ってきました。今回は、いつもより暖かくなったらと期待して四月に行ったのに雨だらけで、『四月にした意味ないぞ』ということになりましたが、七回目のポルトで「見たかったのに見られなかった」というものもそんなにあるわけではなく、雨の時はカフェでまったりとして、したければ買い物でもしてという楽しみ方をしていました。

そしてですね。近いうちにまた別記事で書くと思いますが、今年は途中でシントラへ泊まりに行き、またポルトに戻ってきていつもの「Hotel Infante Sagres」ホテルで豪華に三泊を予定していたんですけれど、とんでもないことが起こっていました。

なんと改装工事が私たちが泊まるまでに終わらなくなってしまったのです。さすがポルトガル(笑)

そこで路頭に迷ったら笑ってはいられませんでしたが、さすがにあそこまでのホテルともなるとそんなことはせず、同系列のホテルにそのまま泊まらせてくれてました。そのホテルというのが、私では到底泊まれっこない五つ星デラックスホテルだったのです。

The Yeatman

このホテルは、「The Yeatman」といって、ドウロ河を挟んだガイア側にありポルトを望むロケーションにあります。ワインツーリズムだのミシュランだのでたくさん「最高のホテル」評価や「ホテル・オブ・ザ・イヤー」などを受賞しまくっているだけのことはあって、綺麗なだけでなくサービスもいいし食事も美味しかったです。

で、「Hotel Infante Sagres」だけでも、私には少し背伸びをした金額なので、支払いまでドキドキしていたのですけれど、ちゃんと元の値段で泊まらせてくれました。「ごめんなさい」の意味もかねてなのか、部屋のアップグレードまでしてくれたんですけれど、それを普通に予約するとどのくらいかかるのか確認したら、三泊で1000ユーロ余計にかかる部屋でした……。

The Yeatman

「Hotel Infante Sagres」でも、毎年ウェルカムドリンクでポートワインはいただくんですけれど、こちらは部屋にボトル付き。ウェルカムドリンクは別にいただけるという徹底ぶりでした。ミネラルウォーターも毎日取り替えてくれるし、しかもこれは無料でした。

というわけで、天候の悪い時に美しいホテルの中でゴージャスな時間をのんびりと過ごすという、ものすごい贅沢をしてしまいました。

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Posted by 八少女 夕

【小説】復活祭は生まれた街で

今日は「十二ヶ月の情景」四月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。先月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。まだリクエスト枠が二つ残っていますので、まだの方でご希望があればこちらからぞうぞ。

月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、GTさんのリクエストにお応えして書きました。ご希望は『夜のサーカス』の関連作品です。

『夜のサーカス』は、当ブログで2012年より連載した作品です。イタリアの架空のサーカス「チルクス・ノッテ」を舞台に個性的なメンバーの人間模様を描いた小説で、2014年に好評のうちに完結しました。話の中心になったのはブランコ乗りの少女ステラと謎の道化師ヨナタンです。GTさんは、この作品をお氣に召して、今回のリクエストでも選んでくださいました。

あまり奇をてらわずに、GTさんのお氣に入りのヒロイン・ステラを前面に出したストーリーを考えました。四月のご希望でしたので、復活祭(パスクァ)を題材にしました。妙に食いしん坊小説になっていますが、これは、作者の脳内がこれで詰まっている、という証ですね。




短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



【参考】
小説・夜のサーカス 外伝

「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物




夜のサーカス・外伝
復活祭は生まれた街で


 ついこの間まで、季節外れの雪が降っていたというのに、今日は随分と暖かい。着てきたジャケットが暑くて、脱いで腕に持った。横を歩いている彼がふっと笑った。ヨナタンって、いつも涼しげよね。暑くないのかしら。ステラは首をかしげた。

 教会の鐘が鳴り響いている。久しぶりだけにその音は格別大きかった。一昨日の聖金曜日にステラはヨナタンと一緒に彼女の生まれた町にやってきた。普段は大きな連休の時には興行する団長だが、さすがに聖金曜日から復活祭パスクァ にかけて興行するのは氣が咎めるらしい。あれでも一応カトリック教徒なのだ。さらにいうと、無理に興行して事故でもあったら、縁起担ぎにうるさい団員たちが彼の言うことを聞かなくなる。だから、聖金曜日から復活祭までは、興行を休むのだった。そのかわり、明日の天使の月曜日パスケッタからは再び仕事だ。

 ステラは、例年ならば一人でこの町に帰ってくるのだが、今年はヨナタンを伴った。彼は天涯孤独なので、復活祭でも帰る生家はないのだ。「嫌じゃなかったら、うちに来て復活祭を楽しんで」と誘うと「迷惑でないならぜひ」と言ってくれた。ステラはとても嬉しかった。

 ヨナタンと二人で遠出することは滅多になかった。電車やバスを乗り継ぐ時間、ずっと彼と一緒だった。車窓から指さして懐かしい山や川の名前を教えるのも楽しかったし、乗り換えの話をするのですらわくわくした。

 北イタリアのアペニン山脈の中腹にあるステラの故郷は、年間を通じてとても静かだ。かつてこの地を治めていたあまり裕福でなかった領主が残した城は、小さく観光客も滅多に来ないし、復活祭でも中世を彷彿とさせるパレードなどの大きな祭事はない。ごく普通のミサがあり、その後に家族でご馳走を食べるのだ。

 伝統を守る人たちは、聖金曜日から肉を食べない。教会も鐘を鳴らさずに、イエス・キリストの死を悼み、救世主を死なせてしまった人間の罪の深さを思う。そして、日曜日に主の復活を祝って鐘がなると、ご馳走をたらふく食べて祝うのだ。

 待ちに待った復活祭。何よりも楽しみなのは、ミサの後の午餐だ。その美味しいご馳走を誰にも文句を言わせずに、心ゆくまだ食べるために、いや、良心がとがめるのが嫌なので、ステラは町の人々に交じって復活のミサに預かる。ヨナタンがカトリックかどうかは聞いたことがないけれど、それに、普段は日曜日に教会に行ったりはしないからあまり熱心な信者ではないみたいだが、彼も特に文句は言わずについてきてミサの席に座っていた。

 そして、無事にミサが終わったので、二人はステラの家へと再び向かっているのだ。少し前を母親のマリが歩いている。彼女の経営するバルの常連たちに囲まれ、楽しく話をしながら。
「あの小さかったステラが、サーカスの花型になって帰ってくるとはね」
「しかも、ボーイフレンドを連れてきたよ」

 そんな噂話も聞こえてきて、ステラとヨナタンは顔を見合わせて小さく笑った。ステラの父親は、ずっと昔にいなくなってしまって、ステラはマリが女手一つで育てた。子守もいなかったので、多くの時間をマリのバルで過ごした。だから、常連のおじさんたちはみな親戚のような存在だった。

 そして、このバルの片隅で食事をしていたヨナタンと、六歳だったステラは出会ったのだ。だから、ステラにとってこの町は生まれ故郷というだけでなく、愛する人との運命の出会いの舞台でもあるのだ。彼とまたここにこうして来られたのがとても嬉しい。ああ、なんて素敵な春なのかしら!

 バルでもある家に着くと、常連たちと別れを告げて、マリは急いで中に入った。食事の用意があるから。ステラとヨナタンも、人びとと別れを告げて家に入る。すぐにマリの弟夫妻がやってくるから、食卓をきちんとしておかなくてはならない。ヨナタンも進んで手伝ってくれるので二人でテーブルセッティングをした。

 ステラの生まれた地方は、生ハムの生産で世界的に有名だ。だから、お祝いの食事は前菜には、プロシュットが色づけされた卵と一緒に並ぶ。アーティチョーク、アスパラガスといった春の野菜、復活祭にいつも作るチーズのトルタと一緒に食べる。生ハムを薔薇のように巻いてお皿に飾りつけながら、ステラはヨナタンが子供の頃にくれた運命の赤い薔薇のことを思い出していた。

 賑やかな笑い声と共にジョバンニとその妻のルチアが花を持って登場した。ステラの母親マリとジョバンニは仲のいい姉弟だが、夫妻はローマに住んでいるので会えるのは年に一度かそれ以下だ。愉快なジョバンニは、尋常でなく口数が多い。そしてルチアはいつも笑っている。二人が来るとマリの家には十人客が増えたかのように賑やかになる。ヨナタンが静かすぎるということもあるのだけれど。

 マリは、ヨナタンが用意してきたワインを開けてデキャンタに注いだ。アマローネ・デッラ・ヴァルポリチェッラだ。アマローネは葡萄を半年近く陰干しする特別な製法によって作られ、濃厚な味わいが特徴だ。値段が高く贈答用などに珍重されている。ヨナタンがこのワインを選んだのは、もう一つ理由があった。復活祭に縁が深いワインだからだ。

「『最後の晩餐』でイエス・キリストが飲んでいたのは現代のアマローネみたいなワインだった」ということになっているのだ。

 イエス・キリストが亡くなる前の晩に弟子たちと過ごした『最後の晩餐』は、レオナルド・ダ・ビンチの絵画でも有名だ。

「みな、この杯から飲みなさい。 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」
『マタイ福音書』にそう書かれていることから、キリスト教信者にとって赤ワインは特別の意味を持っている。

 研究によると、当時ローマで飲まれていたワインには、腐敗を防ぎ風味をつけるために、樹木の樹脂や様々のスパイスを加えて作っていたようだ。エルサレムの街の近くで発見されたイエスの時代と近いワインの壺にはスモーク・ワインや非常に暗い色のワインとの記載があった。非常に濃厚で重いタイプのワインが好まれた可能性がある。

 実際に「アマローネ」の歴史は古く、古代ローマ時代に「レチョート・デッラ・ヴァルポリチェッラ」という甘口ワインを作る過程で偶然できた糖分の少ないワインだ。本当に最後の晩餐で飲まれたワインに近い味わいなのかもしれない。

 いずれにしても、普段自宅用にはなかなか手の届かない高級ワインなので、初めて恋人の家を訪れる時のプレゼントとしては悪くないだろう。

 マリの用意した食事は、そのワインに恥じない美味しいものだった。

 プリモ・ピアットはステラの好きなタリアテッレ・アル・ラグー(ミートソース)。パスタのゆで具合に少しうるさいステラ自身がアルデンテに茹であげた。ラグーの香りがほわんと台所に広がり、ステラはテーブルに着くまで食べるのを我慢するのに苦労した。ヨナタンに食い意地が張りすぎていると思われるのが恥ずかしかったので、なんとかつまみ食いはせずに耐えた。

 ジョバンニは、すべての料理について涙を流さんばかりに感動して食べた。ステラは普段、彼の食事を作っているルチアが氣分を害さないか心配になったけれど、彼女は夫が何を言っても、まるでワライダケでも食べさせられたかのように笑っているのだった。

 セコンド・ピアットは仔羊のローストのバルサミコソースがけ。仔羊肉は固くなってしまうと美味しくない。切ったら中身がピンクになっているべきだ。ステラは、まだ上手く仔羊を調理できない。いつか、自分が奥さんになる時までには、上手に焼けるようにしたいと思っていた。

「あーあ、作り方を見ておくの忘れちゃった」
ステラがため息をつくと、ジョバンニが姪の心がけが素晴らしいと褒め称え、どういうわけかルチアがけたたましく笑った。ステラがうつむいているので、ヨナタンがそっと言った。
「チルクス・ノッテに戻ったら、折を見て一緒にダリオに教えてもらおう」

 ダリオは、チルクス・ノッテ専属の料理人だ。毎日とても美味しい食事を作ってくれるだけでなく、団員たちの相談にものってくれる優しい人だ。料理を習うなんて考えたこともなかったけれど、ヨナタンが一緒に習おうと言ってくれたのがとても嬉しくて、ステラもまたルチアのように楽しい心持ちになった。

 デザートは、鳩の形を象ったフルーツの砂糖漬けやレーズンをたっぷりと混ぜ込んだブリオッシュ生地のお菓子コロンバと、チョコレートの卵。この卵は、本当は子供たちがもらうもので、中から小さなおもちゃが出てくる。ステラは、もうおもちゃをほしがる年頃ではないけれど、子供時代へのノスタルジーで、自分で買ってきた。

 アマローネの瓶は空になり、お皿の上も綺麗に何もなくなった。マリとジョバンニとルチアが楽しく笑いながらリビングで語らっている。ステラは申し出て、ヨナタンと一緒に皿を洗った。こうやって二人で何かを作業できるのが嬉しくてたまらない。

“Natale con i tuoi. Pasqua con chi vuoi.”(クリスマスは家族と、復活祭は好きな人と)

 イタリアでは、こんな風に言うけれど、家族も好きな人も全部一緒に楽しめるのって、本当に素敵! ステラは、人生の春を思い切り楽しんだ。

(初出:2018年4月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

ポルトにいます


例によって、春の旅先はポルトです。予報では雨でしたが、降る事もあれば、晴れもあって、楽しめています。
初日から買い物しまくりで、帰りの荷物が心配です。
七年も通っていると、変わる事も多くて、去年は少しガッカリもあったのですが、今年は嬉しい喜びが多いです。
その一つがカフェ・ブラジレイラが再び営業していたこと。綺麗なだけでなく、美味しかったです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(12)先は見えないけれど -2-

「郷愁の丘」、インターバルの後に再開しましたが、ストーリーは後半に入っています。進まなくてもどかしいとは思いますが、結論が出るまで、もうちょっとですので……。今日は、先週公開した「先は見えないけれど」の後編です。

前回ジョルジアは、よき友人である同僚のベンジャミンにグレッグと未だに単なる友人として文通していることを明かしました。「彼が私にとってどういう意味を持つ人なのか、自分でもわからないの」と。

ベンジャミンは、ジョルジアのトラウマの元になった事件のことも、華やかな兄や妹に挟まれた彼女のコンプレックスのことも、そして、職業人としてのジョルジアのこともよくわかっている、ジョルジアにとってはほぼ唯一無二の「友人」です。ジョルジアは、ベンジャミンとスーザンの一人息子ジュリアンの名付け親にもなっていて家族ぐるみで付き合っています。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(12)先は見えないけれど - 2 -

 ベンジャミンは首を傾げた。
「どういうことだ? 好きかどうかくらいわかるだろう?」

「それは間違いなく好きよ。つまり、友人としてとか恋人としてとか、区切らないでいいのならね。とても大切な存在なの。まるで家族や、空氣や太陽みたいに身近に感じられるの。存在を失うことは考えられないくらいに」
「男として愛しているって訳ではないのか?」

「それはわからないわ」
「わからないってことがあるかよ」
「だって、本当にわからないんだもの」

 それは、形容しがたい感情だった。《郷愁の丘》で彼と過ごした二週間は、ジョルジアが三十四年の人生で経験したすべてを凌駕する強烈な印象と結びついていた。

 灼熱の太陽、滝のようなスコール、満天の星空、大地を切れ目なく覆う何千もの草食動物。そして、その大群が一斉に逃走する地響き、そして、彼女を捉えて離さないあの朝焼け。

 彼との会話、興味深いトピック、好奇心をかき立てる多岐にわたる話題、寂しい子供時代に対する同情、世界との関わり方への共感、それらは単独でも十分に彼女の心を打っただろう。だが、全てが《郷愁の丘》という広大な舞台で繰り広げられ、より大きな感情の嵐を巻き起こした。

 彼の手紙をポストの中で見つける時、そんなはずはないのにサバンナの灌木の香りが漂う。開いた手紙に綴られた彼の几帳面な筆蹟を目にすると、彼がテラスのテーブルの上で綴っていた姿と重なる。短い文節の中に、ツァボの自然の移り変わりが描写されているのを読めば、心は既にあの地に飛んで、陽炎に揺れている遮るものない地平線まで続くサバンナを眺めている錯覚に陥る。

 強く激しい郷愁。それはあの土地に感じているのか、それとも、その土地の上に一人佇むグレッグその人に結びついた感情なのか、ジョルジアには判断できなかった。それほど、その二つは強く結びつき、疑うことすら許さぬほどの確かさで、彼女の魂をたぐり寄せていた。

「クロンカイトの時はあっさりと認めたじゃないか」
「だからよ。ミスター・クロンカイトに対しての想いは、はっきり恋だってわかったもの。ドキドキして、見ているだけでつらくなって、でも、テレビや写真で見かけるととても嬉しくなって。でも、グレッグに対してはそういう想いのアップダウンがほとんどないの」

「何も感じない?」
「そうじゃないわ。まるで熾っている炭火のように、ずっと暖かく続いているの。そうでなかったら凪いでいる海みたいに穏やかなの。そんな恋ってあると思う?」

 ベンジャミンは肩をすくめた。
「さあね。向こうはどうなんだ? なんといっても男なんだから、同性愛でもない限りは友情だけを求めているとは思えないが」

「そこは何とも言えないわ」
ジョルジアは、言いよどんだ。ベンジャミンには話していない複雑な事情もあった。

 ケニアでグレッグは好きになってしまった女性とはジョルジアのことだと言った。彼女がそれを知らずにクロンカイト氏への想いについて言及してしまったので、彼は答えを求める必要がなかった。そして、それ以来、彼はジョルジアに友人としての立場から一歩も踏み出そうとしなかった。

 彼が想いを振り切ってしまったのか、それとも未だに心の内で彼女を求めているのか彼女は知らなかった。むしろ、はっきりさせるのを怖れていた。なぜならば、そのことで今の非常に近しい関係が壊れてしまうかもしれないから。彼女には、グレッグにはまだ話していないコンプレックスがあった。

「あなたは知っているでしょう。私は恋愛関係を進めたりしないほうがいいって」
「ジョルジア」
「臆病だと笑ってもいいわ。でも、恋って一人ではできないもの。ジョンが言ったことは真実かもしれないのよ」

 十年以上前に、ジョルジアと恋愛関係になりかけていた男は、彼女の脇腹の広範囲に広がった痣を見て悲鳴を上げた。
「君みたいな化け物を愛せる男なんているものか」

 彼の捨て台詞は、永らくトラウマとしてジョルジアの心を刺し続けてきた。人間不信を少しずつ克服しつつある今でも、肌を誰かに見せるつもりにはまだなれない。ましてやそんな形で関係を断ち切られたくはなかった。

「あんないい方を誰もがするわけではないのは知っているわ。でも、生理的にダメだと思われているかどうかは、きっとわかるでしょう。それを思い知らされるのは辛いもの。だから、このまま友情だけの仲でいる方がいいんじゃないかと思ってしまうの」

 ベンジャミンは、ジョルジアの瞳を覗き込んだ。彼女がこんな話をする人間はそれほどいない。いつも通っている《Sunrise Diner》のキャシーや仲のいい常連客たちにもしないだろう。ジョンを紹介してしまった責任感に苛まれて、彼女が立ち直るまでずっと支えてきたベンジャミンは、今では同じ会社の同僚という枠を超えた友情を築いている。

 彼が、それを超えた感情を彼女に抱いていることを、彼女が知ることはないだろう。だが、その想いがあるからこそ、彼は彼女がグレッグと呼ぶヘンリー・スコットと彼女の間にあるお互いに対する強い関心が、ただの友情のままで終わるとは思えなかった。彼はジョルジアに、はっきりと噛み含めるように言った。

「いいか、ジョルジア。これは僕からの忠告だ。あのくそったれのセリフなんかに君の人生を支配されたままにするな。人生は短い。その中で幸運の女神が微笑んで扉を開いてくれるのは一瞬だ。その貴重な瞬間をくだらない逡巡で見過ごすんじゃない。わかるか」

 ジョルジアは、ベンジャミンの瞳を見返して、それから、ため息をついてテーブルにある小さなメニューを手にとった。そのまましばらく何も言わなかったが、やがて聞こえないほど微かな声で言った。

「そうね。あなたの意見は正しいと思うわ。今の私には、何も見えていないけれど……でも、もしそういう、はっきりとした瞬間が来たら、あなたの言葉を思い出すようにするわ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】Once Upon a Time ...

この作品は2018年のエイプリルフール企画です。念のため。

今日の小説は、西部劇ものです。先日テレビで「ウェスタン(原題:C'era una volta il West、英題:Once Upon a Time in the West)」を観まして、ちょっとああいうのを書いてみたいなあと思ってしまったわけです。といっても、知識が足りないので、それっぽく、短めに……。



Once Upon a Time ...

 乾ききった風が、赤茶けた粉塵を撒き散らしながら通っていった。回転草タンブルウィードが虚しく転がっていく。見渡す限りの荒野を、一頭の馬がけだるい足取りで進んできた。

 風は、いっそう無情に吹く。馬上の男は口許に咥えている小枝をぷっと吹き出した。それは土埃や他の小枝とともに、カラカラと音を立てて荒野へと消えて行った。

ウェスタン

 灼熱の日差しがようやく遮られた。ぽつんと立つ酒場だ。あるいはここなら……。男は、カウボーイハットの下から、そのハシバミ色の瞳を見せて看板を見上げた。そっと腰の辺りに手を伸ばす。彼の愛用のガンは、きちんとホルダーに収まっていて、早撃ちの瞬間を待っているようだった。

 外からでも中の騒がしさを聴き取ることができた。この辺りでは唯一の酒場だ。この様子では、荒くれ者も多いだろう。

酒場

「悪いが、少し待っていてくれ」
彼は愛馬に低い声で話しかけると、柵に繋いだ。そしてスイング・ドアを押して、暗い店内に入って行った。

 客たちの注目が一度に彼に集まった。よそ者を歓迎するつもりはないらしい。古い木の床はミシッと不必要に大きい音を立てた。男たちはざわつく。

 彼は、まっすぐにバーへと進んだ。小柄で険しい目つきの店主がじっと彼を見つめる。バーに立っているがたいの大きい男の前にグラスを置くと、ジロリと彼を眺めた。
「注文はなんだ」

酒場の男

 彼は臆せずにしっかりと店主を見つめて言った。
「ミルクをもらおうか」

 店内が騒ついた。
「聞いたか」
「なんて注文だ」

 隣に立っていた男が、あからさまに振り向く。男は、これからいつもの侮蔑が始まるのかと身構えて男を睨み返した。

酒場

「あんた、よそ者だな」
「そうだが。それが何か」

「この店ではそんな注文はご法度だ」

 彼はムッとした。
「ノンアルコールを飲んで何が悪い」

「そうじゃねえよ」
荒くれ者たちが近寄ってきた。酒場に緊張が走る。

「ちゃんと種類とフレーバーを言わないとさ」
「そうそう。ミルクだけじゃ、どの家畜の乳かわかんないでしょ」

「え?」
男は隣の男の手許にあるグラスに初めて眼を向けた。

「これは、北海道の三歳の雌から絞ったジャージー牛乳に、とよのか苺を混ぜたイチゴミルク」
「しぼりたてのヤギの乳のストレートも、けっこういけるよ」
「おやっさんも忙しいんだから、ちゃんと事前リサーチして、注文方法を覚えてくれないとさ」

 店の奥から、次々と新しい注文が聞こえた。
「おやっさん。『白雪姫と七人の小人のときめきハンバーグセット』をひとつ!」
「俺は『やさしい人魚姫に捧げるエビドリア』!」

 なんだよ、この奇妙な店は! 男は、後ずさりをしてスイング・ドアから転がり出ると、愛馬に跨って這々の体で逃げ出して行った。

「あれ、なんで行っちゃったんだろう。こんなに感じのいい店って、滅多にないのに。よそ者って店の選り好みがうるさすぎるよね」
「ま、いいじゃん。この先80マイルくらい行けば、しょっちゅう喧嘩している、荒れた酒場にたどり着くだろうし」

 立派な体格をした荒くれ者のような街の男たちは、おやっさんの作るファンシーな食事とこの辺りの酒場ではなかなか味わえない特製ドリンクを楽しみつつ、仲良く午後を過ごした。


(初出:2018年4月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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というわけで、今年のエイプリルフール用の掌編小説でした。毎年のことで、もうだまされる人もいないと思うので、だまそうというつもりも全くなく……。単純に、西部劇のお約束『ミルクをもらおうか』『ミルクだと、笑わせんじゃねぇ』で遊んでみたかったんです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(12)先は見えないけれど -1-

「scriviamo!」のために中断した「郷愁の丘」の連載を再開します。もう、忘れられてしまったかもしれませんが。

グレッグのニューヨーク滞在は晩秋で、十二月に発表した外伝「クリスマスの贈り物」はちょうどクリスマスの時期の話でしたが、あれから時が過ぎて、リアルで春になっているように、このストーリーもほぼ何も変らないまま春になっています。そうなんです、この二人それまでと同じ様に文通しているだけで、全然進んでいないんです。

一度に公開してしまっても良かったんですが、いちおう二つに切りました。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(12)先は見えないけれど - 1 -

「遅くなったわ、ごめんなさいね。ベン、ずいぶん待った?」
ジョルジアはクイーンズタウンのこじんまりとした店の地下に急いで入ってきた。

 赤みがかったグレーのショート丈のトレンチコートは、ベンジャミンが初めて見るものだった。もう春なのだ。いつの頃からか、ジョルジアはここ十年間で見なかったような服装をするようになった。デニムやTシャツなどの動きやすくカジュアルな服を身につけているのは以前と同じなのだが、その形や柄に違いが表れている。

 今日も、コートの下から現れたのは、以前は決して見なかった伸縮性のある厚手のTシャツで、春らしいスモモ色に抽象化された草花のイラストが描かれている。痩せてはいるが女性らしい彼女の身体のラインを目にして、ベンジャミンはドキリとした。

 言われないと氣がつかないほどの薄化粧をするようになったのは、今から一年ほど前、彼女が賞をとった頃だ。作風を変えはじめたのも同じ頃だが、彼女が知り合ったこともない男に恋をしたことが、彼女が変わろうとするきっかけになったのは間違いない。

 だが、その後もしばらく変わらなかった、まるで少年のようだった服装が変わりだしたのがいつだったか、ベンジャミンにはわからない。彼女の服装の多くは、トップモデルである妹のお下がりなので、無頓着の割には流行からは大きく外れない。その一方で、彼女は多くの候補の中でもらう服を自分で選んでいた。その選択に変化が現れたとしても、はじめは流行が変わっただけだと認識していたので、彼女自身の心境の変化から選択が変わっていることに思い至ったのはずっと後だったのだ。

 ベンジャミンは、昨秋に学会のためにニューヨークを訪れたケニアの学者のことを考えた。ジョルジアのファンかあまり親しくない知り合いのように控えめに登場したその男が、会社に来ていると知ると、ジョルジアは何もかも放り出して飛んできた。そして、彼の滞在中、時間の許す限り彼に付き添っていた。

 その半年前に行ったケニア旅行以来、彼女とその男が文通していたことを、そのときベンジャミンは初めて知ったのだ。そして、文通は今でも続いているらしい。その二人の関係が、彼女の服装や動作の変化に影響しているかどうか、彼にはわからなかった。いや、そうなのだろうと思い、それが彼女のためには好ましい変化であると理解しつつも、素直に喜べない自分を嫌悪していた。

 ここは、ベンジャミンが懇意にしている店で、コンクリートうちっぱなしの壁には白地に赤を基調とした現代アートが飾ってあり、そのモダンさと家庭的な懐かしい味の料理が対照的な店だった。

 ジョルジアとベンジャミンがオフィス以外で会うことはあまりなかったが、今日はマンハッタンで撮影が長引いたので、オフィスで予定していた打ち合わせができなかったので、明日からの撮影旅行で必要な書類を手渡すために、急遽ここで逢うことにしたのだった。

「そんなに待っていないよ。ビール一杯くらいだ」
「とても急いだんだけれど、地下鉄がしばらく停まっていたの。こんなことなら車で動けばよかったわ」

 ベンジャミンは笑った。
「この時間だったら間違いなく渋滞につかまっているよ。君が今日は車で行かないでいてくれて助かったってところかな」

「スーザンが待っているんでしょう」
「あまり早く帰ったら、彼女は反対に何があったのかと心配するさ。とにかく注文しろよ。どうせ撮影に夢中になってまともにランチもとっていないんだろう?」

 ジョルジアは肩をすくめて、赤ワインとチキンサラダや野菜の煮込みなどを注文した。それから、書類を受け取るとバッグに大切にしまい、今後の予定について少し打ち合わせをした。

「それと、この街路樹の素材写真だけれど、この日程だと時季が早くてあまりいい色が出ないわよ」
「そうだな。発売はまだ先だから、少し待つか。もう一度行ってもらうことになるけれど、いつがいいかな。そういえば秋に休暇が入っていたよな。海外に行くのか?」

「まだ決めていないけれど、イタリアにいこうかなと思っているの」
「イタリア?」
「ええ。祖父母の故郷。向こうの親戚を訪ねてみようかと思っているの。ウンブリア平原も撮ってみたかったし」

「そうか。じゃあ、その前に契約更新になるかな。実は、社長からそろそろ君に打診しておいてほしいって言われたんだけれど」
「何を? 何か変えたいって?」

「君はずいぶん有名になってきただろう。引き抜かれたら大変だと心配みたいでさ。いつもの一年契約じゃなくて、五年契約を結びたいみたいなんだ。ちょっと聞いたところ悪くない条件だと思ったよ。今やってもらっている素材事典や月刊誌の撮影はなくして、君の作品に集中できる体制を整える。報酬は今と同じだけれども、拘束時間がずっと減るから実質的にはかなりのアップになるし、これまで以上に外で撮影しても経費も問題なく請求できる。どうだ?」

「悪くないけれど、更新時期が迫っているわけでもないのになぜわざわざ予め打診するの?」
そうジョルジアが訊くと、彼はコホンとひとつ咳をした。
「引き抜き対策だから、契約解除がちょっと面倒なんだ。違約金が高く設定されていてね。君を引き抜こうとするヤツに『こんなに払えるか』と思わせるような額ってことだけれど。で、この契約が君の人生設計の邪魔になると悪いと思ってさ」

「どういう意味?」
「つまり、この契約のために人生プランを変更せざるを得なくなると困るだろう?」

 ジョルジアは、ワイングラスを置くと、両手を組んでじっとベンジャミンの瞳を見た。
「私が会社を辞めたがっているって、そう思っているの?」

「その、君がケニアに移住するんじゃないかと……」
「そんな予定はないわよ」
「そうか?」

 ベンジャミンが全く信じていないようだったので、ジョルジアは居心地が悪くなった。
「あなたは、何か誤解しているようだけれど……」
「誤解って? でも、スコット博士がいた一週間、ずっと一緒だっただろう? パーティにもパートナーとして出席していたみたいだし」
「あれは、マッテオと援助の件で話があったから……」

 そこまで言って、ジョルジアは古くからのよき友人であるベンジャミンには、隠しきれないと思ってため息をついた。

「本当はね。自分でもとても混乱しているの。今の私たちの関係は、間違いなくただの友人なんだけれど、彼が私にとってどういう意味を持つ人なのか、自分でもわからないの」
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Posted by 八少女 夕

ウィーン自然史博物館ふたたび

今日は、先日行ったウィーンの話です。今更ですけれど、やはり書いておきたいですし。初日にホテルに荷物を置いて速攻で行った「ウィーン自然史博物館」のことをご紹介します。

この博物館のことは、以前「ウィーン自然史博物館」という記事で書いたことがあるのですが、今回は連れ合いが「どうしても行きたい」はここだったので、初日からここへ行って来ました。じつは、ここから徒歩圏にわざわざ泊まったのですよ。

案の定、連れ合いは感動しまくり、興味持ちまくりで「いや、ここまだ第一室で、ここでそんなに停まっていたら夜中になっても二階に行けない……」というぐらいじっくりとみていました。

さて、二度目の私は「あれとあれはどうしてももう一度、それに……」といろいろと計画をたてながら回ったのですが、係員の人に教えてもらって探して行ったのが、前回うっかり見逃した「ヴィレンドルフのヴィーナス(Venus von Willendorf )」でした。

ヴィレンドルフのヴィーナス

オーストリアのヴィレンドルフで1908年に発見されたおよそ25,000年前の小像です。名前は知らなくとも、写真はどこかでみたことがあると思います。ヴィレンドルフがどこにあるかすら私は知らなかったのですが、実はウィーンから100kmくらいのドナウ川沿いの村でした。まあ、今回は行きませんでしたが。

この博物館、バージェス頁岩からドードーやステラー海牛の骨、それに天文学級のお値段と思われる宝石など、これでもかとあっさりと展示しているのですが、このヴィレンドルフのヴィーナスの扱いは別格で、これだけのために一室を用意してあるのです。11センチの石の像なんですけれど。このもったいぶりのおかげで、前回ついうっかり見逃してしまったのですが、もともと私は古代のロマンに夢中になるタイプで、「おお、これが!」と感動しつつゆっくりとみて来ました。そうなんです、他に誰も見ていなかったので、15分くらい独り占めしていました。

なんのための像なのかは、先史時代のもののためはっきりとはわからないらしいですが、豊饒と多産を祈るためのお守りではないかと考えられているそうです。そういわれるだけあって、出るところの出方がすごいですよね。しかも顔はこんなに幾何的にデフォルメして非写実的なのに、出産に関係のある器官は生々しく再現されています。似たような像が、他にも出土しているようですが、この「ヴィレンドルフのヴィーナス」の形やインパクトが一番大きいように思います。

シベリアの動物ミイラ

さて、今回は偶然ですが、ロシアから貸与されているシベリアで発見された動物のミイラの展示を見ることができました。赤ちゃんライオンのミイラが有名ですが、こちらに展示されていたのは2011年と2015年に発見されたオオカミ犬の仔のミイラだそうです。

この博物館には専門家が20人も常時働いていて、時には海外からの調査も請け負っているとのことです。そのお礼として、ロシアに返す前のわずかな期間だけ、現在行なっている「犬と猫展」で展示する許可をもらえたとの事。偶然この時期に行ってそれを見ることのできた私たちはラッキーでした。

ウィーン自然史博物館カフェ

この博物館の正面にある「ウィーン美術史美術館」のカフェはとても有名ですが、こちらにも美しいカフェがあります。あまり歩いて足が棒になったので、私たちは一階を見た後、二階を見た後と二度もカフェでまったりとくつろいでしまいました。

ケーキも美味しかったですよ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】春は出発のとき

今日は「十二ヶ月の情景」三月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。今月以降は、みなさまからのリクエストに基づき作品を書いていきます。まだリクエスト枠が二つ残っていますので、まだの方でご希望があればこちらからぞうぞ。

月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、山西左紀さんのリクエストにお応えして書きました。

コラボ希望のサキのところのキャラはミクとジョゼ。
テーマは「十二か月の情景」に相応しいものを設定して、
2人の結婚式の様子をストレートに書いてください。
次第はすべてはお任せします。



ジョゼというのは、もともと2014年の「scriviamo!」で書いた『追跡』という小説で初登場し、左紀さんの所の絵夢やミクと出会った小学生でした。後に、『黄金の枷』本編でヒロイン・マイアの幼馴染として使い、同時に左紀さんの所のミクとの共演を繰り返すうちにいつの間にかカップルになってしまいました。で、前回左紀さんはプロポーズの成功まで書いてくださったのです。結婚式を書くようにとの仰せに従って今回の作品を書きました。

ポルトガルの結婚式というのはこんな感じが多いようです。ブライズメイドたちがお米を投げたり、花嫁が教会の出口でスパークリングワインを飲む、というのは実際に目撃しました。その時の花嫁は、グラスを後ろ向きに投げて壊していました。

いちおう『黄金の枷』の外伝という位置づけにしてありますので、そっちを読んでいらっしゃらない方には「?」な記述もあるかもしれませんが、その場合はその記述をスルーして、結婚式をお楽しみください。ついでにいろいろとコラボの間にばら撒いたネタを回収しています。どうしても氣になるという方は、下のリンクやサキさんと大海彩洋さんの関連作品をお読みください(笑)

サキさんのお誕生日には、少し早いのですけれど、これからPやGの街へと旅立たれるということなので、前祝いとして今、発表させていただきます。サキさん、先さん、そしてママさん、良い旅を。


短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」Infante 323 黄金の枷




黄金の枷・外伝
春は出発のとき


 アーモンドの花が風に揺れている。エレクトラ・フェレイラは、Gの町のとある家への道を急いだ。若草色のドレスは新調したもの、七人の花嫁介添人マドリーニャスは、結婚式のテーマカラーであるグリーン系のドレスを着るのだ。一つ年上の姉セレーノは少し落ち着いた松葉色のドレスを選んだ。

 もう一人の姉のマイアは、花婿と子供の時に一緒に学んだ仲で、本来ならばもっとこの結婚式の花嫁介添人にふさわしかったのだろうが、残念ながら式に参列することができない。そもそも幼馴染のジョゼが結婚することを知らない可能性が高い。なんせエレクトラ自身が数カ月以上もマイアと連絡がとれないのだ。

 花嫁介添人の多くを花婿の知り合いがつとめるのは珍しいが、花嫁は外国人でこの国での友人や親戚がさほど多くない。一方、花婿の方は「俺を招ばなかったら許さない」と言い張る輩が百人以上いるような交友関係に、先祖代々この土地に根付いていたので親戚縁者がこれまたやたらと多い。花婿の友人パドリーニョスを務める男たちの数を考えると花嫁介添人マドリーニャスの水増しは必要だった。

 ジョゼを落とそうと頑張っていたことを考えると、この役目を受けるのはどうかと思ったが、もう氣にしていないことを示すにはいい機会だと思う。それに、この二日間、街中からジョゼの友人たちが入れ替わり立ち替わりやってくるのだ。どんないい出会いが待っているかわかったものじゃない。行かないなんてもったいない。

 ジョゼの結婚式は、マイアの結婚式とはだいぶ様相が違っていて、この国ではわりと普通の結婚式だ。つまりたくさんの招待客や親戚演者が集まり、二日間にわたってパーティをするのだ。

 マイアの結婚式には友人たちを集めてのアペリティフやパーティもなかったし、宴会場でのフルコースもなかった。花嫁介添人マドリーニャス花婿の友人パドリーニョスなどもいなかった。ただ、教会で厳かなミサが行われただけで、教会の出口でお米のシャワーで迎えることすらなかったのだ。父親とセレーノとエレクトラだけが招ばれ、ミサが終わると迎えに来たのと同じ車に乗せられた。宴会場にでも行くのかと思ったら、そのまま自宅に送り届けられてしまったので、驚いた。

 今回の結婚式は、そんな妙な式ではなかった。式はPの町にあるサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われる。ここは、マイアがあの謎のドラガォンの当主と結婚した教会で、それが偶然なのかどうかはわからなかった。

 でも、エレクトラは直接教会にはいかない。介添人は花嫁の自宅に集合するのだ。花嫁であるミク・エストレーラには両親がいなくて、ティーンの頃にGの町に住む祖母に引き取られたのだそうだ。現在、歌手である彼女は主にドイツで活躍しているので、この国に帰ってくるときは祖母の家に滞在している。集まるのはその祖母の家なのだ。

「遅かったわね! どうしたの」
セレーノとジョゼの二人の女友だちはもう着いていて、エレクトラに手を振った。花嫁の三人の女友達ともすっかり仲良くなって一緒にカクテルを飲んでいた。

「美容院で思ったよりも時間がかかっちゃったの。私が最後?」
皆が頷いた。落ち着いた赤紫のツインピースを着たアジアの顔をした婦人が笑顔で出迎えてくれた。この人がお祖母さんなの? お母さんでもおかしくないくらい若く見える!

「はじめまして、フェレイラさんね。今日はどうぞよろしく。軽くビュッフェを用意しているからぜひ召し上がってね」

 中に入ると真っ白な花嫁衣装に身を包んだ今日の主役が座っていた。長く裾の広がったプリンセスラインのドレスは、わりと小さめの家の中で動き回るとあちこちの物とぶつかる危険がある。それで、彼女は動かない様に厳命されていた。

 それでも、はにかみながら笑顔を見せて立ち上がると、自分のために来てくれたことへの礼を述べた。
「エレクトラ・フェレイラさんよね。初めまして。今日はどうぞよろしくお願いします」

 エレクトラは、にっこり笑って挨拶した。
「はじめまして。介添人に選んでくれて、どうもありがとう。まあ、なんて綺麗なのかしら。ジョゼはきっと惚れ直すと思うわ」

 ミクはぽっと頬を染めた。初々しいなあ。たしかジョゼよりもけっこう年上だって聞いていたけれど、そんな風に見えないし、お似合いだなあ。エレクトラは感心した。っていうか、こんなところで感心しているから、負けちゃうんだよね。

 遅くなったので、あまりたくさん食べている暇もなく教会に向かうことになったが、ミクの祖母の作ったタパスはどれもとても美味しかった。あとでたくさん食べることになるから、ここでお腹いっぱいになっちゃマズいし、遅れてきて正解だったかな。エレクトラは舌を出した。

 教会には、参列者がたくさん待っていた。それに白いスーツを着せられて所在なく待っているジョゼも。花婿の友人パドリーニョスを務める七人たちに囲まれてかなり緊張しているようだ。ミクのドレスを本番まで内緒にするために、今日はまだ花嫁に会っていない。でも、これからずっと一緒なんだからいいのかな? エレクトラは参列者の方に目を移した。

 代わる代わるジョゼと花婿の友人パドリーニョスのところに行って大げさに喜んでいる友達たちは、エレクトラたちのよく知っているメンバーだった。祭りの度に待ち合わせて大騒ぎしているし、子供の頃からいつも一緒にいるメンバーなのでほぼ全員の顔と名前が一致している。

 つまり、エレクトラのよく知らない顔は、花嫁の招待した人たちなのだろう。ドイツ語で話している数名の男女がいた。おそらくミクが出演しているオペラ関係の人たちだろう。それに、ミクの祖母が急いで挨拶に向かった先にいる日本人女性。綺麗な人だけれどだれかな。

「あ、あの人、知っている?」
セレーノが話しかけてきた。
「ううん。お姉ちゃん、あの人知っているの?」
「ええ。偶然ね。日本のヴィンデミアトリックスって大財閥のお嬢さんだよ。ジョゼとミクが知り合うきっかけになった人なんだって」

「へえ。すごい人と知り合いなんだね。あっちのドイツ人は、オペラの人でしょ」
「そうだよ。ミュンヘンの劇団の演出家だって、ガイテルさんって言ったっけ。憮然としているでしょ?」
「え。そうだね。なんかあまり嬉しそうでもないよね」
「そうだよ。あなたと同じ、失恋組だからね」
「セレーノ。私はもう……」
「まあまあ。強がらなくてもいいってば」

 ミクを乗せた車がやってきた。あれ。ジョゼが迎えに行っちゃった。教会の中で、お父さんが花嫁を連れてくるのを待つわけじゃないんだ。エレクトラの疑問を見透かしたようにセレーノが囁いた。
「ミクのお父さんは亡くなっているの。身内に父親役を頼めるような人は叔父さんしかいないらしいけれど、なんか事情があって頼みたくないみたいだよ。だから、二人で入口から一緒に祭壇まで歩いて行くんだって。あなた、遅刻したからそういう事情を聞きそびれたのよ」

 ジョゼは、ミクの花嫁姿に見とれているようだった。確かに綺麗な花嫁だよね。ドレスはとろんとしたシルクサテン、華やかな上に高級感もある。ジョゼと研修で訪れた日本で見たけれど、日本のシルクって長い伝統があるんだよね。大きく広がった裾、後ろが少し長くなっていて楕円形に広がるようになっている。

 ヴェールはそれほど長くなくて、あっさりしているから、ミクの笑顔がはっきりと見える。そして、百人以上集まっている参列者たちを見て目を丸くした。これからは、これだけのジョゼの友達たちと付き合っていくことになることを、実感しているってところかしら。

 さあ、私たちは花嫁介添人マドリーニャスのお仕事。二人に続いて教会に入り、それにミサが終わったら入口でライスシャワー。

 そして、これからのひたすら食べる宴会の戦略も立てなくちゃ。宴会場でアペリティフがあり、揚げ物やフルーツ、それにチーズやハムなどがでるけれど、そこでたくさん食べすぎるとフルコースが入らなくなってしまう。二時からの着席宴会は五時ぐらいまでだけれど、一度帰ってからまた集まって、ビュッフェ。ダンスをして真夜中にケーキカットをするまでずっと飲んで食べてが続くのだ。

 大人たちはそれで帰るけれど、私たち若者は朝まで騒ぐのが通例。

 しかも、明日もある。普通は二日目は親戚だけだけれど、ミクのところに親戚が少ないので私たちも招待されている。つまり明日もフルコース。たぶん、明後日からダイエットしないと大変なことになっちゃう。明日はGの町にある日本料理店でやるっていうから、とても楽しみ。

* * *


 サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会の向かいは緑滴る憩いの公園になっている。その前に一台の黒塗りの車が入ってきたが、道往く人々や参列者たちは、ちょうど花嫁と花婿が現れた教会のファサードに注目していて、その車がゆっくりと停車したことに氣付くものは少なかった。

 挙式で司祭の手伝いをしていた、神学生マヌエル・ロドリゲスは、目立たぬように通りを横切り、黒塗りの車のところへやってきた。待っていた運転手が扉を開けた。6ドアのグランド・リムジンには向かい合った四つの席があり、彼は素早く中に入り既に座っている二人の女性の向かいに座った。

「ご足労でした、マヌエル。式は無事に終わったようね」
向かって右側に座っていた黒髪の貴婦人がにっこりと微笑んだ。

「はい、ドンナ・アントニア、そして、ドンナ・マイア」
ドンナ・アントニアと呼ばれた黒髪の貴婦人の右隣に、少し背の低い女性が座っていた。そして、嬉しそうに窓から幸せそうなカップルの姿を眺めた。

「あの人が、ジョゼの言っていた人ね。うまくいって、本当によかった。ああ、セレーノとエレクトラもいるわ」
マイアは、妹たちが花嫁介添人マドリーニャスを務めることを知らなかった。

「ドンナ・アントニア、本当にありがとうございます。あなたが言ってくださらなかったら、こうして二人の結婚式を見ることはできなかったでしょうから」
マイアが言うと、アントニアは首を振った。

「アントニアでいいって、言ったでしょう。あなたはもう私の義妹なのよ。あなたの友達が結婚するたびに出てくるわけにはいかないけれど、今回はたまたまこんな近くで結婚したし、マヌエルが教えてくれたんですもの。あの青年にはライサの件で助けてもらったし、私もトレースももう一度お礼がしたかったの」

 マヌエルは、アントニアの視線の先に眼を移した。彼の座っている隣の席に大きな包みが二つ置いてある。
「では、こちらが……」

 その言葉に、二人の女性は頷いた。アントニアが続ける。
「これがマイアとトレースからのプレゼントで、こちらが私から。あの花嫁さんにトレースが作ったのは、とても上品な桜色のパンプスよ。妬ましくなるくらい素敵だったわよね、マイア」
「うふふ。あなたがそういえば、23は作ってくれると思いますけれど……」
「そんな時間は、全然ないじゃない。あの忙しい合間にあの青年の靴も作ったのよね」
「ジョゼは、23の靴の大ファンだから、きっと大事にすると思うわ」

 マヌエルは、なるほどと思った。この大きい箱には、靴が二足入っているのだ。知る人ぞ知る幻の靴職人の作った、究極のオーダーメード。まさか、ドラガォンの当主その人が作ったとは二人共思いもしないだろう。

「もう一つの箱にはボトルが入っているので、扱いに注意するように言って渡してくださいね」
アントニアは言った。

 マヌエルは「かしこまりました」と言った。運転手が再びドアを開けた。彼はプレゼントを大切に抱えてベントレーから降りた。

「なんのボトルにしたのですか」
「1960年のクラッシック・ヴィンテージのポートワインよ」

 そう聞こえた時に、ドアが閉まり二人の会話は聞こえなくなった。

 何と幸運な二人だ、今日華燭の宴を迎えたカップルは。マヌエルは密かに笑った。

 百人以上の友人たちの暖かい祝福、家族の愛情、仕事仲間も駆けつけ、イタリアのとある名家からも特別な祝いが届いている。それだけでなく、ドラガォンの当主たちからもこの祝福だ。こんな婚礼は、滅多にないな。

 二人は教会の入口で参列者たちの拍手と歓声の中、笑顔でスパークリングワインを飲み干していた。そして、これから続く幸せな日々、ひとまずは、これから二日間続く食べて飲んで踊ってのハードな披露宴に手を携えて立ち向かいはじめた。

(初出:2018年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

ホワイトデーに……

今日はいただきもののご紹介です。

プレゼント用に描いてくださったのではないのでしょうけれど、ダメ子さんが去年と今年の「scriviamo!」で書いた作品に関連するイラストを発表してくださいました。

その日はホワイトデーでしたし、この二つの作品はバレンタインデー関連でしたので、嬉しくなって「ください」とお願いしました。快く了承してくださったので、いただいてここでお披露目したいと思います。

アーちゃんとチャラ君 by ダメ子さんアーちゃんとチャラ君
つーちゃんとムツリ君 by ダメ子さんつーちゃんとムツリ君
この二枚のイラストの著作権はダメ子さんにあります。無断使用は固くお断りします。

どちらの女の子も、コラボ用のモブキャラにしては異様に可愛くなっているのは、ダメ子さんのからのサービスだと思いますけれど、書いた小説のキャラが、シチュエーションそのままで素敵なイラストになって登場するのはとても嬉しいです。

ダメ子さん、お持ち帰りを許していただき、本当にありがとうございました。

【参考】
私が書いた「今年こそは〜バレンタイン大作戦」
ダメ子さんのマンガ『チョコレート』
ダメ子さんのマンガ 『バレンタイン翌日』
私の書いたお返し『恋のゆくえは大混戦』
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Posted by 八少女 夕

【小説】未来の弾き手のために


scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十五弾、最後の作品です。大海彩洋さんは、『ピアニスト慎一』シリーズ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

彩洋さんの書いてくださった短編 『【ピアニスト・慎一シリーズ】 What a Wonderful World』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。とてもお忙しくて、特に今年は予期せぬ事態があったにもかかわらず、睡眠時間を削っても、妥協しないすばらしい作品を書いてくださいました。

ピアニスト相川慎一のでてくるお話は、彩洋さんの書いていらっしゃる壮大な大河ドラマの一つなのですけれど、ブログを通してのお付き合いで発表のきっかけというのか、そう言ったご縁が多いせいか、私が特に注目しているシリーズでもあるのです。クラッシック音楽の素人一ファンとして、このシリーズに書かれる音楽の話は本当に興味が尽きませんし、私にはこんなに書けないけれどその分音楽を読む楽しみをいつも与えてくれる物語です。

今回は、その慎一の人生のターニングポイントとも言える一シーンをバルセロナを舞台に書いてくださったのですが、その背景にうちのチャラチャラした面々がちゃっかりと注目を浴びていて、申し訳ないやら、何やってんだあんたたち、という状態でした。ま、みんな仕事しているからいいのか。

お返しは、舞台をウィーンに移して書いてみました。ほら、リアルの私が先週そこから帰って来たばかりだし、それにお借りするあるキャラクターの本拠地ですから。そして、ご指名なので、うちの六人全員を無理やり登場させました。今回は、仕事しているのは一人だけです。最もチャラい奴だけが働いているのって(笑)

今日どうしても発表したかったのは、本日が彩洋さんのお誕生日だから。Happy Birthday, 彩洋さん。創作にも、リアルライフにも実り多くて幸せな一年になりますように!


【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物


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大道芸人たち・外伝
未来の弾き手のために
——Special thanks to Oomi Sayo san


 あまり高い席は用意しないでくれと釘を刺されていたので、どんな服装でくるのかと思ったが、杞憂だったな。結城拓人はドイツ人のスーツ姿を見て思った。蝶ネクタイではないが、紺のスーツの生地は一目でわかる上質さで、仕立て具合を見れば明らかにオーダーメードだとわかる。

 拓人が招聘されてウィーンのコンツェルトハウスで演奏することになったのは、ヨーゼフ・マルクスの『ロマンティックピアノ協奏曲』だった。ウィーンで何世紀にも渡り内外の名だたる大作曲家たちが活躍したためか、祖国ですら存在をあまり知られなくなったオーストリアの作曲家の作品だ。客を集めにくい作曲家の作品であるだけではなく、ピアニストに驚異的なテクニックを要求するために、この作品が演奏されることは滅多にない。拓人にとっても初めての挑戦だった。

 かなり図太い神経を持つと自他共に認める彼ですら、この数カ月は胃が痛くなる様な思いをしたが、その甲斐あってまずまずと言っていい演奏をすることができた。普段、日本で当然のように受ける取り巻きたちからの熱烈な喝采と違い、下手な演奏には容赦ないウィーンっ子たちからアンコールを要求されたのだ。彼にとっては枕を高くして眠ることのできる成功だった。

 彼の親しい友人であるドイツ人、エッシェンドルフ男爵が今日この場に来て聴いてくれたのは、彼の精神状態を心配して力付けようとしたわけではない。そうしようとしてくれたのは、彼の再従妹はとこである園城真耶とドイツ人の三人の仲間たちで、彼らはもうホールを出て後で落ち合う予定のワインケラーへと向かっている。三人はドレスコードに悩まされるのが嫌なので、カテゴリー6の席を希望した。

 真耶と共にカテゴリー2の席に座り、さらにわざわざ終演後に拓人とともにロビーで待ち合わせたのはヴィルだけだったが、それはどうしても紹介して欲しい人がいたからだ。

「すまないな、拓人。無理を言って」
「別に無理でもないさ。僕にできるのは引き合わせることだけ。引き受けてもらえるかどうかはわからないんだから。でも、噂で聞いたほど難しい男ではないと思うけれどな。まあ、氣軽に頼めるとはいえないけれど。今回の調律をしてくれたのは、僕の音楽をお氣に召したわけではないと思うから」

「というと?」
「忘れられたオーストリアの作曲家の名作に再びスポットを当てる手伝いをしたいという男氣がひとつだろうな。そして、もう一つの幸運は僕が日本人ピアニストだったってことかな。彼はある日本人ピアニストの才能に惚れ込んでいて、その縁でハードルを一つ低くしてもらえたってわけだ。おかげで、こちらは『あのシュナイダー氏に調律してもらえる幸運』をお守りに本番に臨めたってわけだ」

「なんの慰めにもならないな。俺はドイツ人だ。しかもまともなピアニストですらない」
そうヴィルが言うと、拓人は魅力的に笑いながら言った。
「だが、お前には父上の遺言という切り札があるじゃないか。ダメ元で頼んでみろよ」

 そう話している間に、への字口をした老人が姿を見せた。かろうじて背広といってもいい上着を身に付けているが、シャンデリアの輝くホールでは多少場違いに見えた。だが、そんなことはおそらく誰も氣にしないだろう。その険しい顔を見ると、すれ違うものは自分が悪いことをしている心持ちになり、目をそらしてしまう。

 拓人はヴィルの腕を取り、急いで彼の方に歩いて行った。
「シュナイダーさん! 今日の演奏を素晴らしいものにしてくださった喜びは、言いつくせません。なんとお礼を言っていいのか」

 拓人の謝辞を遮るように老人は手を眼の前にあげた。「お世辞なぞたくさん、さっさと用を言え」とでもいいたげに。拓人は肩をすくめて、ヴィルを示した。
「ご紹介します。友人のアーデルベルト・フォン・エッシェンドルフ男爵です。先日亡くなったミュンヘンのエッシェンドルフ教授の子息です」

 老人はじっとヴィルを眺めた。ドイツ人は、愛想のいい拓人と違いほとんど無表情だった。まっすぐに老人を見て、敬意のこもった声で「はじめまして」と言った。シュナイダー老人は十分に観察をすると口を開いた。
「父上の若い頃に似ているな。ピアノを弾く息子のことは聴いていたよ。だが、音楽はやめたんだろう。もう俺の調律は必要なくなったと父上は連絡してきたが」

 それでは、父親があのベーゼンドルファーの調律をもうこの男には頼まなくなったのは、彼が音楽をやめてあの館に足を踏み入れなくなってからなのか。父親は、彼を抱きしめることもなく、共に夢を語ることもなかった。だが、彼のために可能な全ての手を尽くしてバックアップしようとしていたのだ。

 急死した父親に代り、先祖代々の領地と館と爵位を引き継いだヴィルは、かつて彼が知っていた音とは違う音を出すベーゼンドルファーを元の状態にしたかった。父親が秘書であるマイヤーホフに残していた指示の一つが、長らく連絡の取れない状態になっている著名な調律師を探し出すことだった。

 ウィーンのコンツェルトハウスで演奏することになった拓人と電話で話していた時に、無理だと諦めていた調律師が仕事を引き受けてくれたという話題になった。それが件のシュナイダー氏だと知ったヴィルはすぐにここにくることを決めていた。

「その通りです。私は父の元を離れて生きるつもりでした。そして実際に何年もあのピアノに触れませんでした。今、私が触れるあのピアノは、もはや私が何よりも愛したエッシェンドルフのピアノとは違う存在になってしまっている。亡くなる直前まで父もずっとあなたを探していた。あなたが今日の調律をすると聞き、飛んで来ました。もう一度あのピアノを蘇らせていただけないだろうか」

 老人は首を振った。
「諦めてくれ。こっちはこの歳だ。残された時間はさほどない。その時間の全てを捧げたいと思う弾き手のためにしか調律はしない。ましてや弾かないピアノのためにミュンヘンまで行くような時間はない」

 拓人は思わず口を挟んだ。
「シュナイダーさん、彼はピアノをやめてはいません。コンサートピアニストではありませんが……」

 ヴィルは、その拓人を制した。
「いや、拓人。シュナイダーさんは正しい。あのベーゼンドルファーは、ふさわしい弾き手を持っていない。かつてこの方に調律してもらっていたこと自体がおこがましかったんだ」

 老人は、拓人に訊いた。
「お前さんは、この男の腕をどう思う」
「彼は、僕の音楽の同志です。表現する世界と方法は違いますが、同じものを目指していると断言できる数少ない音楽家の一人だと思っています」
拓人は迷わずに答えた。ヴィルは少し驚いた。拓人がそこまで認めてくれているとは知らなかったから。

 老人は「ふん」と言った。それからもう一つの問いを発した。
「この男の耳はどうだ」

 拓人は怪訝な顔をした。
「耳ですか? 確かだと思っていますが、なぜですか」

 老人は、ヴィルをじっと見つめて口を開いた。
「この世には、最高の腕を持つ弾き手がいる。そして、最高傑作である楽器がある。残念ながらその二つが同時に存在することは稀だ。あのベーゼンドルファーは、金持のサロンの飾りであるべきではない。あんたは父上の跡を継いで、あの楽器と有り余る金を手にした。もし、あんたの手に余っているのなら、俺はあんたに聞いて欲しいことがある」

* * *
 

 拓人と真耶が滞在しているホテルから五十メートルほど先に、そのワインケラーはある。どっしりとした表構えの店は十七世紀の創業で、地下へ降りて行く階段の手すりなどにも時代を感じる。暖かい照明とガヤガヤとした混み方は、天井が高くて豪華絢爛なコンツェルトハウスの堅苦しい様式美とは打って変わり、落ち着き楽しい。

「ようやく来たのね。もう結構飲んじゃったわよ」
蝶子が、奥の席から手を振った。隣に座る真耶はあっさりとしたワンピースに着替えていた。そうすることでめずらしくブレザーと開襟のシャツを着ている稔やレネとほぼ同じレベルの服装になっていた。拓人はホテルで急いで着替えて来たので、やはり砕けている。ヴィルは上着を椅子にかけてネクタイを外した。

「まず乾杯しなくちゃ。大成功、おめでとう!」
拓人は、仲間と次々とグラスを重ね、ビールを一口飲むとようやく緊張が解けて笑顔になった。

「海外でのコンチェルト、初めてじゃないんだろう? いつもと違うのか?」
稔が不思議そうに訊いた。

「確かにすごい曲だけど、結城さんは普段リストもラフマニノフも楽々と弾いているから、そんなにピリピリすることがあるなんて意外よね。例の後援会のおばさま方が付いてくるのはいつものことだろうけれど、真耶まで応援に来るのって珍しくない?」
蝶子も続けた。

「だって、こんなに青くなって練習している拓人、もう何年も見たことなかったんだもの。マルクスのコンチェルトは日本ではまずやらないし、どうしても本番を聴きたくなって。どちらにしてもミュンヘンでの休暇は決まっていたし、ちょうどいいじゃない?」
真耶はニッコリと笑った。

「う。確かに余裕はなかったな。準備は十分にしてきたのに、先週の始めに通しで弾いた時に途中で真っ白になって、死ぬかと思った」
拓人は、ビールをぐいっと飲んだ。

「デートも全部断ったって、本当?」
蝶子が面白そうに訊いたので、拓人は真耶を睨んだ。

「本当のことでしょう」
「デートどころじゃなかったからね。あんなに大変な曲なのに、問題はそうは聴こえないってことなんだ」

 レネは不思議そうに言った。
「どうしてですか。僕はピアノのことは素人ですけれど、見ているだけでわかりましたよ。ものすごくテクニックを必要とされるんだろうなって。そう思わない人がいるんでしょうか」

 稔がハーブ塩のかかったフライドポテトをつつきながら言った。
「あの豪華絢爛なオーケストレーションがわかり易すぎるのかなあ」
「どういうこと?」

「ベートーヴェンやチャイコフスキーだといかにもクラッシックって感じがするけれど、今日のはなんだか映画音楽みたいに軽やかに思えるメロディでさ」
「ああ、そうか。たしかに聴いていて心地いいメロディが多かったですね」

「弾いている方は、難関の連続で、心地いいどころじゃないか」
ヴィルは二杯目のビールを飲んでいる。

 拓人は大きく頷いた。
「しかも、作曲家が知られていないとなると、演奏会をしても客が入るか心配だろう。ますます誰も弾きたがらなくなって、ほとんど演奏されることがいない。いい曲なのに残念だよな」

「じゃあ、敢えてそのとんでもない挑戦をした拓人に、もう一度乾杯!」
六人はグラスを合わせて笑いながら立ち上がった。
「『ロマンティックピアノ協奏曲』を世に広める、拓人と未来の弾き手たちのために!」

 座って飲みながら蝶子がヴィルに訊いた。
「そういえば、もう一つのトライはどうなったの?」

「断られたよ」
ヴィルは肩をすくめた。
「ダメだったんですか?」
レネが驚きの声を出した。

「完全に断られたわけじゃないだろう」
拓人が言った。
「どういうこと?」
四人は拓人とヴィルを代わる代わる見た。

「一度エッシェンドルフに来てくれるそうだ」
「じゃあ、断られていないんじゃない」
真耶は首をかしげる。

「彼の下で学んだことのある若い調律師を連れてくるそうだ。そして、俺が納得したら、今後彼に頼んで欲しいと言われた」
「本人じゃなくて?」

「一度だけの調律ではなくて、しょっちゅうすることになるだろうから。その調律師はバーゼルに住んでいるので、ウィーンよりは近い。シュナイダー氏のように有名ではないから定期的に来てもらうことができる」
「シュナイダーさんと正反対で、若くてチャラチャラした性格らしいけれど、腕は彼が保証するというくらいだから確かなんだろうと思うよ」

「でも、どうして定期的に調律が必要だなんていうの? そりゃ、一度っきりというわけにはいかないけれど……」
蝶子は首を傾げた。

 ヴィルと拓人は顔を見合わせて頷いた。それからヴィルが口を開いた。
「あのサロンとベーゼンドルファーを、才能があるけれど機会の少ない音楽家たちに解放していこうと思うんだ」

「へえ……」
四人は、グラスを置いて二人の顔を見た。拓人が肩をすくめた。

「シュナイダーさんは、ヴィルに弾き手としてだけでなく、後援者としての役割を期待していると言っていた。今は、以前ほどクラッシック音楽に理解のある後援者がたくさんいるわけではないし、各種奨学金制度もサロン的な役割まではしてくれないからな」

 拓人の言葉にヴィルは頷いた。

「俺が、エッシェンドルフを継ごうと思った理由の一つが、あんたたちの音楽を道端の小遣い稼ぎだけで終わらせたくないことだと言っただろう。あの館を中心にこれまでとは違う活動をするなら、少し範囲を広げていろいろな音楽家たちをバックアップすることも悪くないんじゃないかと思ったんだ。あんたたちはどう思う?」

「賛成よ。あのサロンなら、室内楽の演奏会も問題なくできるわ」
蝶子が言った。

「そういうのの手伝いをするっていうことなら、穀潰しの俺らも、あそこにいる間になんかの役に立つかもしれないよな」
稔の言葉にレネも大きく頷いた。

 真耶がすかさず続けた。
「機会があったら、私たちも混ぜてもらいましょうよ、拓人」
「そうだな。悪くない。休暇がてらに滞在して、何か一緒に弾いたりしてさ」

「休暇といえば、今回、結城さんもエッシェンドルフに来ればいいのに」
蝶子が言うと、拓人は残念そうに答えた。
「そうしたいのは山々だけれど、来週の頭から大阪公演なんだ。ちくしょう、いいなあ、真耶。マネージメントに文句いってやる。なんで僕だけこんなに働かされるんだ」

 一同は楽しく笑った。ウィーンの古いワインケラーで旧交を温める若い仲間たちは、自らとまだ見ぬ未来の若い音楽家のために、熱い夢を語りつつ何度もグラスを重ねた。

(初出:2018年3月 書き下ろし)

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拓人が弾いたという設定のマルクスのロマンティックピアノ協奏曲は、こんな曲です。
この曲を見つけた時には驚愕しました。華やかで、なんだか少し浮ついていて、さらに実は超難解だというあたり、こんなに結城拓人のイメージに近い曲が偶然見つかるなんて超ラッキー。そんな事を考えている私はそうとうイタい作者だという自覚くらいはありますよ。

Joseph Marx - Romantic Piano Concerto in E-major (1920)


そして、聴きまくるために私がiTunesストアにて購入したのはこちらです。マルカンドレ・アムランの名演ですよ。これが家にいて14フランで買える世の中っていいですねー。お店で探したらどんなに大変か……。本当はヨーゼフ・マルクスの『ロマンティックピアノ協奏曲』だけ買いたかったのですが、敵もさる者で、この三曲はアルバムごとじゃないと買えませんでした(笑)
Korngold & Marx: Piano Concertos
Korngold & Marx: Piano Concertos
Marc-André Hamelin, BBC Scottish Symphony Orchestra
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Posted by 八少女 夕

シュニッツェルはお好き?

今日は先週行ったウィーンの話。

ウィーン風仔牛カツレツ

ウィーンは、オーストリアの首都である都会、文化の街であると同時に、グルメの街でもあるのですよね。ウィーンのグルメで外せない話題はたくさんあるのですが、今日は一つだけ。

ウィーンに行ったら一度は食べたくなるのがウィーン風仔牛カツレツ(Wiener Schnitzel)です。別にウィーン風をつけなくても特にミラノ風などが出てくるはずはないのですけれど、メニューでもそう書いてあるところが多かったです。

ドイツ語圏でシュニッツェルっていうと、特に指定しない場合は豚肉なんですよ。それ以外の肉の場合は「鶏の」とか「牛肉の」と形容詞がついていることが多いです。最近はいろいろな宗教や信条の人が日常的にレストランを訪れるので、一種類ということは少ないですが、特に何もついていなかったら豚。ただ、Wiener ウィーン風とつけたら、仔牛肉がデフォルトです。だからお値段も少し高い。

以前はものすごく有名な「フィグルミュラー」というお店に行ったりもしましたが、最近はあんな大きいものは食べきれないことがわかっているので、特に専門店には行かず、見かけて美味しそうだったら注文します。今回はステファン大聖堂の近くのレストランで見かけて頼みました。

それでも結構大きいのですけれど、薄いので完食できました。それに、スイスだとシュニッツェルにはいつもポム・フリット(ファーストフードのポテトと同じようなもの)がついてくるのですが、ウィーン風はドイツでよく見るようなドレッシング漬けのポテトサラダで、量も少なめ。この配分が助かるのです。美味しかったですよ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】晩白柚のマーマレード

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十四弾です。かじぺたさんは、写真と文章を使った記事で参加してくださいました。ありがとうございます!

かじぺたさんの書いてくださった記事 『晩白柚のマーマレード!(scriviamo!2018参加作品)』

かじぺたさんは、旅のこと、日々のご飯のこと、ご家族のことなどを、楽しいエピソードを綴るブロガーさんで、その好奇心のおう盛な上、そして何事にも全力投球で望まれる方です。愛犬のエドくんが虹の橋を渡ってしまったばかりで、今年は「scriviamo!」どころじゃないだろうなあと思っていたのですが、その悲しみや、お孫さんやご主人のお誕生日などのたくさんの大事な行事の間にご参加くださいました。

さて、今年はグルメ系の記事でご参加くださいました。そうなんですよ、scriviamo!は創作でなくてもOKなんです。

晩白柚はザボンの仲間で大きな柑橘類です。九州の方はよくご存知ですが、東京などではご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんね。子供の頃に祖父母が好きで食べさせてくれたので、私にとってはとても懐かしい果物です。ああ、もう何十年食べていないかなあ。皮の部分でマーマレードができることは知りませんでした。勉強になりますね。

お返しは、今年も記事に関連した掌編小説にしました。先にかじぺたさんの記事を読まれることを推奨いたします。


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晩白柚のマーマレード
——Special thanks to Kajipeta san


 そうか。前にもらってから、もう一年経ったんだ。由夏はニコニコと笑う川元佐奈江の抱えている包みを見た。

 佐奈江の故郷である熊本県に、由夏は中学卒業まで住んでいた。佐奈江は実家から送られてくる名産品を毎年おすそ分けしてくれるのだ。
「いつもありがとう。重かったでしょう?」

「大丈夫よ。かさばるだけ。楽しんでね」
紙包みの中には直径25センチもある黄色い果物が入っている。世界最大の柑橘類である晩白柚だ。東京では、探せば大きな果物店にはあるだろうが、全ての街角にあるほどありふれた存在ではない。

 由夏は、包みを開けてそっと香りを吸い込んだ。ふんわりと漂う爽やかな甘さ。たぶん佐奈江にとってはひたすら懐かしくて嬉しい香りなんだろうなぁ。

 由夏にとっても、それは懐かしく嬉しい香りだ。けれど、そこにはいつも苦さが伴う。まっすぐな瞳をしていたスポーツ刈りの少年の、困ったような表情。彼氏というにはあっさりしすぎていた関係だったけれど、少なくとも由夏は当時、西尾亮汰と付き合っていたつもりだった。

 どうして、それを作ろうと思ったのか、由夏はもう憶えていない。彼の誕生日は三月の始めで、何かを普通に買って渡すほうが無難だったのに、彼女は晩白柚のマーマレードを手作りして彼に渡そうと思ったのだ。おそらくバレンタインのチョコレートを買ったばかりで、芸がないと考えたのだろう。

 晩白柚はとても大きな果物だが、皮の部分もとても多い。果肉はグレープフルーツくらいの大きさに収まり、残りのほとんどは白いワタの部分だ。とてもいい香りがするし、捨てるのは勿体無い。皮をお風呂に浮かべたり、砂糖漬けにしたり、再利用する。おそらく中学生だった由夏は、この再利用を考えていて亮汰にマーマレードをプレゼントしようと思い立ったのだろう。

 晩白柚のマーマレードは、普通に果肉も含めて作ることもできるが、由夏はネットで見つけた皮とオレンジジュースで作るレシピを選んだ。つまり、果肉は自分で美味しく食べて、残りで作ることにしたのだ。

「うーん。アク取りに二十四時間もかかるのか。そんなことしていたら誕生日に間に合わなくなっちゃうよ。ずっと台所を占領したらお母さんに怒られるし」
熱湯に晒して、絞ってを繰り返すことでアクが取れるのだが、要するに由夏はその作業が面倒臭かったのだ。一度だけ簡単に晒して絞って終わりにしてしまった。

 オレンジジュースと皮を煮て、ペクチンとレモンジュースも加えて綺麗な黄色のマーマレードが出来上がった。消毒した瓶に詰めて急いで蓋をして、出来上がり。可愛いチェック柄の布で蓋を覆ったら、いい感じになった。寝不足で遅刻しそうになったけれど、忘れずに持って行ったし、部活に行く直前の亮汰に急いで渡すこともできた。

 亮汰の誕生日は金曜日だったので、月曜日に学校で会った時に由夏は訊いた。
「美味しかった?」

 亮汰は、頭を掻きながら「うん。まあ」と言った。由夏は少しムッとした。もっとちゃんと褒めてよ。あんなに時間をかけて、せっかく作ってあげたのに。

「どうやって食べたの?」
「え。普通にトーストにつけて」
「そう。ヨーグルトに入れるのも美味しいらしいわよ」

「君も、そうやって食べたの?」
そう訊かれて、由夏は首を振った。瓶に入る分は熱いうちに密封してしまった。残ったら、それだけ食べようと思っていたのに残らなかったのだ。だから、試しにも食べなかった。蓋を閉めるまではとても熱かったし。

 彼の妙な表情の意味がわかったのは、由夏が東京に引っ越してきてからだった。

 亮汰には中学卒業の時に「さようなら」と言った。その後のことを約束するようなことがなかった。その時には、二人の関係はかなり微妙になっていて、どちらも引越しという形でフェイドアウトに持ち込めるのをほっとしていたようなところがあった。

 東京行きの荷物に、他の缶詰などと一緒に晩白柚のマーマレードの瓶も入れて封をした。引越しのコンテナはそれらすべてのダンボールを積み込んで、ガシャンと音を立てて閉まった。それはもう二度と戻れない世界との境界の扉に鍵をかけた音に聞こえた。

 東京での生活が始まり、慌ただしく過ぎて行った。母親は「そろそろ自分の朝食ぐらい自分で用意しなさい」と宣言したので、由夏はトーストとコーヒーを自分で用意して食べるようになった。いくつかのジャムが空になってから、晩白柚のマーマレードもあったことを思い出した。

 蓋を開けた時、晩白柚の爽やかな香りが漂った。「おお、おいしいそう!」

 でも、一口食べてみて、ぎょっとした。に、苦い。なんだこれ。

 ネットで再度調べてみたら、あく抜きを省略してはいけないと書いてあった。由夏が調べたレシピほどかからずにアク抜きする方法はあるらしい。でも、十分程度のアク抜きでなんとかなるようなものはなかった。できた時に食べてみなかったのが悔やまれた。一口でも舐めたならこの苦さがわかったのに。

 まだ、同じ学校に通っているなら、謝まって挽回することもできたかもしれない。でも、亮汰とはとっくにそれっきりになってしまっていた。

 十五年があっという間に過ぎ去った。

 由夏は、佐奈江にもらった晩白柚を切った。中身を取り出すと皮を切って、湯を沸騰させて酢を入れアク抜きを始める。一年に一度しか作らないけれど、毎年作るので何も見ずに作ることができる。丁寧に揉んで絞って、さらに時間をかけてアクを抜く。一夜明けてから、ジュースやペクチンとともに煮込んでマーマレードを完成させる。

 熱湯消毒した瓶に詰める。必ずひと匙食べて失敗していないかを確かめることも怠らない。今年も美味しくできた。固すぎるか、それともゆるすぎるかは、冷えないとわからないけれど、少なくとも食べられないということはない。

「あー、密かに期待していたのよ、由夏ちゃんのマーマレード! 今年ももらえて嬉しい。ありがとう」
翌日に会社で渡すと、佐奈江は嬉しそうに受け取った。

「どういたしまして。でも、お家からももらうんじゃない?」
「ううん。砂糖漬けはよく作ってくれるけれど、マーマレードは由夏ちゃんがくれたのを食べたのが初めてだったよ。これ、ヨーグルトによく合うのよね。大ファンになっちゃった」

 喜んでもらえるのは嬉しい。あの時の失敗を、やり直したくて毎年作るけれど、それが亮汰の口に入ることはない。彼は、由夏があのマーマレードを悔やんで、毎年作り続けていることを知ることはないだろう。もう由夏からではなくて、きっと他の素敵な人に誕生日を祝ってもらっているに違いない。

 彼をいまだに好きだというわけではない。彼にはもはや記憶の底に沈んでしまっているであろう存在であることを悲しく思うこともない。ただ、悔いだけが残っている。毎年作り、丁寧にラッピングする透明な瓶は、行き場がなくて半年もすると由夏自身が開封して食べることになる。

 そのマーマレードは苦かった。まずいと言わなかった優しい彼の、微妙な表情とともに、その苦い思い出だけが、いつまでも残っている。

(初出:2018年3月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

ウィーンに来ました

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二年ぶりにウィーンに来ました。
今、博物館にいます。
詳しくは後ほど。
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Posted by 八少女 夕

【小説】In Zeit und Ewigkeit!

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十三弾です。ユズキさんは、『大道芸人たち Artistas callejeros』のイラストで参加してくださいました。ありがとうございます!

蝶子&ヴィル by ユズキさん

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない二次使用は固くお断りします。


 ユズキさんのブログの記事『イラスト:scriviamo! 2018参加作 』

ユズキさんは、小説の一次創作や、オリジナルまたは二次創作としてのイラストも描かれるブロガーさんです。現在代表作であるファンタジー長編『ALCHERA-片翼の召喚士-』の、リライト版『片翼の召喚士-ReWork-』を集中連載中です。

そしてご自身の作品、その他の活動、そしてもちろんご自分の生活もあって大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストを描いてくださっています。中でも、『大道芸人たち Artistas callejeros』は主役四人を全員描いてくださり、さらには動画にもご協力いただいていて、本当に頭が上がりません。

今回描いてくださったのは、蝶子とヴィルの結婚記念のイラストです。ヴィルは、感情表現に大きな問題のあるやつで、プロポーズですら喧嘩ごしというしょーもない男ですが、ユズキさんはこんなに素敵な一シーンを作り出してくださいました。というわけで、今回は、このイラストにインスピレーションを受けた外伝を書かせていただきました。第二部の第一章、結婚祭りのドタバタの途中の一シーンです。


【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2018」について
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大道芸人たち・外伝
In Zeit und Ewigkeit!
——Special thanks to Yuzuki san


 いつの間にか、ここも秋らしくなったな。ヴィルは、バルセロナ近郊にあるコルタドの館で、アラベスク風の柵の使われたテラスから外を見やった。ドイツほどではないが、広葉樹の葉の色が変わりだしている。

 九月の終わりにエッシェンドルフの館を抜け出してから、慌ただしく時は過ぎた。主に、彼と蝶子の結婚の件で。先週、ドイツのアウグスブルグで役所での結婚式を済ませたので、社会的身分として彼はすでに蝶子の夫だった。が、彼にその実感はなかった。

 一年前に想いが通じた時、彼と蝶子との関係は大きく変わり、その絆は離れ離れになった七ヶ月を挟んでも変わらずに続いている。一方で、社会的な名称、ましてや結婚式などという儀式は、彼にとってはどうでもいいことだった。彼が急いで結婚を進めたのは、未だに彼女を諦めていない彼自身の父親の策略への対抗手段でしかなかった。

 しかし、当の蝶子と外野は、彼と同じ意見ではなく、終えたばかりの役所での結婚で済ませてはもらえない。今も、花婿が窓の外を眺めてやる氣なく参加しているのは、三週間後に予定されている大聖堂での結婚式とその後のパーティの準備に関するミーティングだった。

「おい、テデスコ。聞いてんのかよ」
見ると、稔とレネが若干非難めいた眼差しでこちらをみていた。招待客からの返事や、当日の席順、それにパーティに準備に関する希望など、ある程度の内容を固めてカルロスや秘書のサンチェスに依頼しなくてはならない。

 カルロスは大司教に面会に行ってしまったし、蝶子はドレスの仮縫いに行っている。この地域では滅多にない大掛かりな結婚式になりそうだというのに、まったくやる氣のみられない新郎に、証人の二人は呆れていた。

「すまない。もう一度言ってくれ」
それぞれのワイングラスにリオハのティントを注ぐと、ヴィルは自分のグラスにも注いで飲んだ。

「パーティの話だよ。トカゲ女やギョロ目の話を総合すると、着席の会食のあとに、真夜中までダンスパーティをすることになりそうなんだが……ケーキカットとか、手紙朗読とか、スライド上映とか、そういうのはないんだっけ?」
稔は、海外の結婚式には出席したことがないので、いまひとつ勝手がわからない。

「なんですか、手紙朗読って」
レネは首を傾げた。
「ああ、両親に読み聞かせるんだ。これまで育ててくれてありがとうとか。大抵、どっちかが泣くんだな」

 今度は稔が二人の白い眼を受ける事になった。そりゃそうだよな。あのカイザー髭の親父にテデスコがそんな手紙を読むわけないよな。

「日本って、結婚式も特殊そうですよね」
レネが言った。うん、まあ、そうかな。稔は少し悪ノリをした。
「うん、ほら白鳥に乗って登場ってのもあるぞ」

「なんですって?」
「え、新郎と新婦が、でっかい白鳥に乗ってさ、運河みたいな感じに仕立てた舞台の奥から入場するんだ」
「なんだそれは。ローエングリンか」
ヴィルは呆れて呟く。

「それはともかく、少し派手に登場するのは悪くないですよね。一生に一度のことですし。スポットライトを浴びて華やかに……ほら、パピヨンを抱き上げて登場するのはどうですか?」
「おお。そうだよな。金銀の花吹雪でも散らしながらってのはどう?」

「いい加減にしてくれ」
一言の元にヴィルは却下した。

 やっぱりダメか。そんな顔をしながら、稔とレネは顔を見合わせると、日本から来てくれる友人拓人と真耶とオーケストラとの練習準備について真面目に語り出した。

 その間にも、ヴィルの脳内には日本の結婚式に対する想像が展開されていた。紫色の明るいホールに金銀の紙吹雪が舞っている。輝く青い水が流れているその様は、生まれ育ったアウグスブルグの旧市街に縦横に張り巡らされた運河を思わせた。橋の上には白いスーツを身につけた彼がいて、美しいウェディングドレスを纏った蝶子を抱きかかえている。

 ……いや、いったい何を考えているんだ、俺は。

「おい。今度こそちゃんと聴いているんだろうな」
稔の声で我に返った。
「ああ、すまない」
ヴィルはワインを飲み干した。

「なんの話?」
戸口を見ると、蝶子が帰ってきていた。両手に何やら沢山の紙包みを抱えている。また何か買ってきたのか。

「今度は洋服や靴じゃないわよ、安心して。ほら、今夜も話し込むと思って、少しボトルを仕入れてきたの」
蝶子はウィンクした。レネはさっと立ち上がって荷物を受け取り、稔とヴィルもグラスや栓抜きを用意するために立った。

「話し合いは進んだ?」
蝶子が訊くと、稔は「まあね」といいながら肩をすくめた。相変わらずのヴィルの様子を想像できた彼女は笑った。

「とにかく、どうしても真耶たちに演奏して欲しい曲だけ、連絡すれば、あとはなんとかなるわよ。考えてみるとものすごく贅沢な演奏会とグルメ堪能会が同時に開催されるようなものじゃない? 結婚するのも悪くないわよね」

 稔とレネは大きく頷いた。ヴィルも僅かに口角をあげた。嫌々同意するとき彼はこういう表情をするのだ。蝶子は勝ち誇ったように彼のそばに来るとワイングラスを重ねた。

「ねえ。そういえば、結婚記念のプレゼント、まだもらっていないわよ」
「俺もあんたから、何ももらっていないぞ」

 憮然とするヴィルに怯むような蝶子ではない。
「あら。あなたは、生涯この私と一緒にいる権利を獲得したのよ。これ以上何が欲しいっていうの」

 ヴィルは、ちらりと蝶子を見た。稔とレネは、ここから舌戦が始まるのかと興味津々で二人を眺めた。ヴィルは、蝶子の言葉に何か言いたそうにしたが、言わなかった。その代わりに立ち上がると「じゃあ、記念に」と言ってピアノに向かった。稔はひどく拍子抜けした。

 ヴィルは、ゆっくりと構えるととても短い曲を弾いた。静かで、ちょうど秋がやってきている今のこの季節に合っていた。優しくて静かな曲だった。

 稔は、微笑んで満足そうに耳を傾けている蝶子を不思議そうに見た。それまでの挑発的な様相はすっかり引っ込んでしまった。なんだなんだ? そりゃ、いい曲だけれど、なんでこれだけでトカゲ女を大人しくさせることができたんだ?

 横を見ると、レネまでが眼を輝かせてうっとりと聴いている。稔は、そっと肘で小突いた。レネは小さくウィンクをして小声で囁いた。

「グリーグが自ら作曲した歌曲をピアノ用に書き直した作品の一つです。もともとの歌曲は童話で有名なアンデルセンの詩に曲をつけたんですよ。僕、歌ったことがあるんです。『四つのデンマーク語の歌 心のメロディ』の三曲目です。あとでネットで検索するといいですよ」

 なんだよ、そのもったいぶりは。稔は首を傾げた。氣になったので、夕食の前に言われた作品をネットで探した。すぐに出てきた。三曲目ってことは……これか。デンマーク語で「Jeg elsker dig」、ドイツ語では「Ich liebe dich」、日本語では「君を愛す」。

 E.グリーグが妻となったニーナと婚約した時に捧げた曲で、デンマーク語やドイツ語の歌詞もすぐに見つかった。テデスコはドイツ人だから、このドイツ語の歌詞を念頭に置いて弾いているのかな。どれどれ。

Du mein Gedanke, du mein Sein und Werden!
君は僕の心、僕の現在、僕の未来
Du meines Herzens erste Seligkeit!
僕の心のはじめての至福
Ich liebe dich wie nichts auf dieser Erden,
地上の何よりも君を愛す
Ich liebe dich in Zeit und Ewigkeit!
いま、そして永遠に君を愛す

Ich denke dein, kann stets nur deine denken,
君のことだけをひたすら想う
Nur deinem Glück ist dieses Herz geweiht,
君の幸福のみを祈り、心を捧げる
Wie Gott auch mag des Lebens Schicksal lenken,
どのように神が人生に試練を課そうとも
Ich liebe dich in Zeit und Ewigkeit!
いま、そして永遠に君を愛す


 ……ひえっ。なんだよ、このコテコテな歌詞は。これを知っていたら、そりゃあのトカゲ女も黙るはずだ。

 稔は、普段はぶっきらぼうなヴィルもやはりガイジンで、ヤマト民族である自分とは違う表現方法を使うことを理解して茫然とディスプレイを眺めた。


(初出:2018年2月 書き下ろし)


註・引用した歌詞は下記のドイツ語版、意訳は八少女 夕
Ich liebe dich (Jeg elsker dig)
Music by Edvard Grieg
Original Lyrics by Hans Christian Andersen
German lyrics by F. von Holstein

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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弾いていたのは、歌詞なしのピアノ曲バージョンという設定でした。これですね。


E. Grieg - Jeg elsker dig Op. 41 no. 3
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Tag : 小説 読み切り小説 いただきもの

Posted by 八少女 夕

ペンギンは好きだけれど……

Pinguin

私は、なぜか白黒の動物が好きです。パンダが好きで子供の頃はランランとカンカンに夢中になりました(いつの時代だ)し、「郷愁の丘」で重要な役割を与えたくらいシマウマが好きですし、そして、ペンギンはポスターや絵を飾っているくらい好きです。で、我が家は子供がいないのでおもちゃは何もないのですが、なぜかペンギンのぬいぐるみはいくつかあるのです。

ご存知の方はよくご存知ですけれど、ぬいぐるみやキャラクターグッズを愛でても微笑ましいというような歳ではないです。日本での感覚とはまた違って、大人がキャラクターグッズを使用するようなことはほとんどない国に住んでいるので、身の回りにはさほど「かわいい」グッズが溢れない様にしています。

ペンギンのぬいぐるみも、増えない様にしているんですけれど、やはり我が家にいらした方に「あそこの嫁はペンギンの好きな子供っぽい女だ」との印象が強いのか、なぜかペンギングッズをくださる方がいるのですよ。でも、ほんとうに申し訳ないのですが、全然可愛くない、自分なら絶対に買わない様なものをくださるのです。子供が工作の時間に作った粘土細工みたいなのも含めて。せっかく持って来てくださったのでお礼を言ってしばらく飾りますが、あまりグッズがあると埃になりますし、増えすぎるとやがて処分することになります。申し訳ないのですけれど、何もかも持ち続けるわけにはいきませんし。

なぜ、こんなことを突然書き出したかというと、ニュースを読んでいて思ったんですよ。某有名アスリートの方が、好きだというぬいぐるみをたくさんプレゼントしてもらったのだけれど、その量ときたらはんぱなくて、どうやっても全部持ち帰って大切にするなんて不可能だと、だれでもわかるほどです。しかも、ほとんど全部同じ……。

連盟や他の人に頼んでいろいろなところに送ってもらい思い出だけ持ち帰るということを「森に帰りました」と表現していたようですけれど、なるほどなあと思ったんです。

で、後に記者会見でもさらにくわしくその件について聞かれて、ご本人はそうしたプレゼントをファンにもらったことを「そうやってお金を使ってもらってありがたい」「経済が回ってるんだったら、それで十分です」というようなことをおっしゃっていましたけれど、立派だなあと思うと同時に、他に言いようもないよなあとちょっと思ったんです。だから「森に帰りました」といったら、それ以上はあまり追求しなけりゃいいのにって。

私も、どんなにペンギンが好きでも、部屋がペンギンで埋まったら困るんですよ。いただいたことには感謝しても、処分せざるを得ないこともあって、それはそれで心苦しいです。さすがに私の周りには「あの粘土細工のペンギンはどこ」という様な方はいませんが、いたら今度は「南極に帰りました」と言うことにしようかと思っています。

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Posted by 八少女 夕

またブログの誕生日です

さて、本日三月二日は当ブログ「scribo ergo sum」の誕生日です。2012年に開設してからはや六年が過ぎましたか。我ながらびっくり。

Birthday

いつも足繁く通ってくださる常連の皆様、小説を読んでくださったり記事に興味を持ってくださる方に、心からの御礼を申し上げます。

なぜ一日にブログを始めなかったのかと、自分で首をかしげているのですけれど、思い返して見たら当時私は「Seasons」というだれでも載せられる商業誌に作品を載せてもらうことになって、その作者紹介のところに載せるホームページやブログがないやと思って、その場でFC2に登録してブログを始めたという経緯があったのでした。

そして、せっかくブログを作ったのだからと、恐る恐る小説を公開しだしたのですけれど、六年経ったらなぜかこういうことになっていました(笑)

毎年、このブログの誕生日を祝う記念企画として開催してきた「scriviamo!」も今年で六回目になりました。今年の参加受付は既に終了しましたが、まだお返しすべき作品がいくつか残っていますので、引き続きお楽しみください。

この「scriviamo!」、すっかり新年の恒例行事になりました。皆さんが趣向を凝らしたレベルのとても高い作品や記事で参加してくださるので、毎年とても勉強になっています。みなさんそれぞれにご事情があったり、とてもお忙しい中、わざわざこの時期に合わせてご用意くださっていることを本当にありがたく思っています。

また、今年に入ってカウンターがついに100,000を回りました。有名人でもなく、受けるジャンルの小説を書いているわけでもなく、検索にもほとんど引っかからない辺境ブログにもかかわらず、この数字を達成したのは、ひとえにマメに通ってくださる優しい皆様のおかげです。ほんとうにありがとうございます。

毎月一つの掌編を、リクエストに合わせて書いていく記念企画を開催中ですが、まだ三つほど枠が残っておりますので、ご希望の方はこちらからお申し出ください。

「scriviamo!」の作品を全て発表するまでは少し不規則なままですが、これが終了したら通常モードにもどります。即ち、小説は週一回、そのほかの記事も一回ですね。メインの連載「郷愁の丘」は六月中に完結する予定です。その後は、その続編にするか、他の長編にするか、まだ迷っています。

そして、今年は少し「書く書く詐欺」になっている作品の完結に向けて少し集中していこうと思います。って、大きいものだけでも三作品あるので、一つでも今年中に書き終えるのが目下の目標です。

派手なウルトラCとは無縁な私ですが、地味にコツコツ書いて続けて行いくことはできるので(要するに暇なんですね)、また一年間ゆるーくお付き合いいただけると嬉しいです。

どうぞよろしくお願いします。
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Posted by 八少女 夕

【小説】あの時とおなじ美しい海

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十二弾です。TOM-Fさんは、『天文部シリーズ』とうちの「ニューヨークの異邦人たち」シリーズのコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった 『この星空の向こうに Sign05.ライラ・ハープスター』 

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』。ロー・ファンタジー大作『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』と、ハートフルな『この星空の向こうに』の両方の登場人物が集合し、物理学の世界でただならぬ何か(?)が起こるお話。スタートしたばかりですが、既に目の離せない展開で続きが待ち遠しいです。

今回コラボで書いていただいたのは、その『エヴェレットの世界』の主役の一人でもある綾乃が案内役となって『天文部シリーズ』のもう一人のヒロインである詩織とある絵のオリジンを探してニューヨークのロングアイランドを訪れるという美しくて哀しいお話。で、最後に絵を置いていってくださったのが、うちの「郷愁の丘」でヒロインジョルジアが入り浸っている《Sunrise Diner》という大衆食堂です。

さて、お返しですが、その絵と絵を描いたケン・リィアン氏をお借りしました。TOM-Fさんに設定を教えていただいたのですが、この方は日本人でTOM-Fさんの作品に既にでてきている辛い過去を持つ男性です。従って、絵に描かれている女性は、そのお話に出てくる亡くなった女性ではないかと思いつつ、この話を書かせていただきました。

こちらで登場するのは「郷愁の丘」の前作「ファインダーの向こうに」で初登場した、ヒロイン・ジョルジアの身内です。彼女の家族は、あの強烈な兄ちゃんだけではないのですよ(笑)


【参考】
「ファインダーの向こうに」を読む「ファインダーの向こうに」を読む
あらすじと登場人物

郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


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あの時とおなじ美しい海 - Featuring「この星空の向こうに」
——Special thanks to TOM-F-san


 キャデラックの運転手バートンがドアを開けてくれた。彼女は礼を言って降りてから、迎えにきてほしい時間を告げた。晴れ渡った空の明るい日差しが心地いい午後だった。大きな濃いサングラスを外して、彼女は《Sunrise Diner》という看板のかかったダイナーを仰いだ。

「まあ、ここだったんだわ」

 ロングビーチに来たのは本当に久しぶりだった。彼女自身がニューヨークに住んでいたのはもう十年以上前のことだったし、姉のジョルジアと会うのはいつもマンハッタンの洒落た店にしていた。

 姉の借りているアパートメントを訪れたのは、おそらく彼女がここに引っ越してからの数カ月だけだ。アレッサンドラは今とは別の意味で多忙を極めていたけれど、それでも足繁く様子を見に行かなくてはならないほど、姉のことが心配だった。当時ジョルジアは精神的に参っていて、世界からも背を向けようとしていた。それでも再び生きて行くために必死でもがいていて、アレッサンドラはそんな姉を助けたかった。

 その姉も十年以上の時を経て、ようやくトラウマとその後遺症であった世捨て人のような生活から抜け出しかけているらしい。兄からの報告ではボーイフレンドと言ってもいい人と出会ったようだ。アレッサンドラは、氣掛かりが少ないだけで、同じこのロングビーチの光景もここまで明るく見えるのかと驚いた。

 彼女は、一般にはアレッサンドラ・ダンジェロの名前で知られている。一年ほど前までは、「世界でもっとも稼ぐスーパーモデル五人のうちの一人」であったが、今年からはその称号は返上するだろう。彼女の人氣に陰りがでたからというわけではない。昨年末に三度目の結婚をした相手がドイツの名のある貴族であるためモデルとしての仕事の多くをセーブすることになったのだ。

 今の彼女は、ロサンゼルスの自宅と、ドイツにある夫の城、それにスイスのサンモリッツにある別荘の三箇所を往復する生活をしていた。その合間に慌ただしくマンハッタンに来る時はいつも兄マッテオのペントハウスに滞在する。可能な限り両親や姉のジョルジアと会う時間も作る。いつも遠く離れている彼女が、大切な家族との絆を保つために絶対に惜しまない手間だ。

 そして、愛する家族のためにはどんな小さな事でも迅速に行動に移す。それは尊敬してやまない兄から学んだことで、彼女の信念にもなっていた。そのために彼女は、見ず知らずの大衆食堂の存続の危機を回避するべくこうして出向いたのだ。

 ロングアイランドは、時々ひどいハリケーンに襲われる。そのため、州の条例でこの場所にある建物は建て替え時に、同時に地盤を高くする工事をしなくてはならない。そうすることにより最終的に、この地域全体を高台にあるような状況にするためだ。もちろん州からの助成金は出る。が、その支払いまでには長くて官僚的なやりとりと、役所との強力なコネクションが絶対的に必要だった。ハリケーンの被害者でも、復興プロジェクトでの申請のやりとりに嫌氣がさして、この地に住むのを諦めてしまった人がたくさんいた。

《Sunrise Diner》は、前回のハリケーン被害を受けたわけではなかったので、復興プロジェクトの方には申請できない。つまり緊急性の低い助成金申請だ。だが、オーナーが比較的リーズナブルな値段で購入したこのダイナーは、既にかなり老朽化が進み、手を入れないわけにはいかなくなっていた。

 地盤の工事まで含めると、彼が許容できる費用を32万ドルほど上回っているため、オーナーはむしろ店を閉めることを選びたいといいだしていた。その話を聞いて、従業員や常連たちは途方に暮れた。特に、ジョルジアが一番仲良くしているウェイトレスのキャシーは義父母の協力を得て子育てをしつつ勤めているので、マンハッタンの別の店に通うのは難しい。常連たちも仲のいいキャシーや溜まり場を失うのは嫌だった。

 アレッサンドラは、貧しい漁師の娘として生まれたので、多くの人にとって32万ドルという金額が意味するものが何かはよくわかっていた。今の彼女にとって、32万ドルは大した金額ではなかった。ずっと1000万ドルもの年収を稼ぎ続けてきたし、税金やその他の理由で簡単に出て行ってしまう金もあまりにも多かった。しかも、手許に残ったものもほとんど使い切れないほどなので、何か必要なことが身近にあれば喜んで使いたかった。

 彼女には去年まで三人の別の会社に所属する会計士が付いていた。そうしないと会計士自身による横領を防ぐことができないのだ。今回の結婚でまた一人会計士が増えることになった。ヨーロッパの財産の管理をしてもらう必要ができたからだ。彼女自身は、自分がどれだけの財産を持っているのか、一体何に投資しているのか、正確に把握することをすでに諦めていた。先日サインした新しい仕事の契約だけで、彼女と娘が贅沢しても十年くらいはなんともないくらいの金額が入ってくる。彼女の目下の悩みは、どんなに金があってもそれを使う時間がないことなのだ。

 人付き合いが苦手な姉が心地いいと感じられる数少ない場所の存続は、アレッサンドラにとっても重大な関心ごとで、解決に是非とも協力したかった。だから、さっそくオーナーに連絡を取り、面会の約束を取り付けたのだ。

 さて、そういうわけで住所を頼りにやってきた《Sunrise Diner》であるが、実際にたどり着いて彼女は驚いた。その店を知っていたからだ。正確にいうと、別の外装と他の名前だった頃このダイナーに入ったことがあった。寂れて大して魅力も特徴もない店だったが、テラス席の前に広がる光景が素晴らしくそれは今と同じだった。

 彼女の想いは十一年前に向かった。

* * *


 《Sunrise impression》って、ダイナーの名前っぽくないわね。そう思いながら、アレッサンドラは疲れて落ち込んでいることを悟られないように、ことさら背筋をのばし優雅な動作でその店の中に入った。

 海を臨む外のテラスには何組かのカップルが座っていたが、店の中には一人のアジア人の男がいるだけだった。何か食べようかと思ったけれど、この店はハズレだったのかしら。

 アレッサンドラは、この店から五分くらいのところに住む姉のジョルジアを訪ねた帰りだった。ジョルジアがロングビーチに引っ越すと聞いて、アレッサンドラはなぜそれを許したのかと兄マッテオに詰め寄った。人間不信と精神的なトラウマを引きずっている姉を一人暮らしさせるのは早すぎると思ったのだ。

 彼女は身体的特徴を原因に好きな男に拒否されてから、ショックで精神的安定を失った。対人不安と人間不信、そして、過呼吸の発作が何度か起きたため、兄マッテオが彼のペントハウスに連れて行き療養をさせていた。

「ジョルジアが自分でまた一人で暮らしたいと言ったんだ。尊重してやらないと」
「でも、また発作が起きたらどうするの」

「過呼吸の発作は、もう三ヶ月起きていないし、あのアパートメントの大家は僕の知り合いだから、何かあったらすぐに連絡してくれることになっている。彼女が心配でそばで見守りたいのは僕だって同じだけれど、例のベンジャミン・ハドソンの言うことにも一理あると思うぜ」

「ハドソンって、彼女の会社の編集者だったかしら」
「ああ、そうだ」

「あの人がなんて言ったの?」
「ジョルジアは、社会との繋がりを断つべきではないって。少しずつでもいいから、日常に戻って、世界がそれほどひどいところではないと、肌で感じない限り本当の意味では立ち直れないって」

 それはそうかもしれない。実際に、彼女は少しずつ日常に戻り、生活はできるようになっている。アレッサンドラが訪ねて行くと、得意のイタリア料理でもてなしてくれるし、ごく普通の話題にものってくる。《アルファ・フォト・プレス》に通って、素材辞典に使う静物の写真を撮っている。

 でも、彼女が元のようになることは、そんなに簡単ではないようだ。彼女は、マンハッタンの知り合いとの連絡を一切絶っていた。表情には精氣がなく、人生の楽しみや希望なども一切捨て去ってしまったようだった。泣いたり不平を言ったりしてくれれば、対処のし方もあるのだが、それすらもなかった。姉は、もう二度と傷つかなくて済むように、分厚い鎧を何重にも着込んで、世界からの刺激を遮断しているようだった。

 ジョルジアを訪ねた帰りは、とても疲弊した。彼女を救うことのできない自分が情けなかった。姉をここまで傷つけた男を憎いと思ったけれど、その男に報復をしても、たぶん何も変わらないのだ。

 それだけではない。姉を傷つけた原因は、アレッサンドラ自身にもあることを、自分で分かっていた。アレッサンドラにとってジョルジアは大好きな姉で大切な存在なのに、周りの人びとは常に二人を比較して、ジョルジアのことを「あのアレッサンドラ・ダンジェロに似ているけれど、同じではない存在」と扱った。あの男もそうだった。

 それでも、アレッサンドラもまた他の存在にはなれないのだ。彼女は、疲れていても悲しくても背筋をのばし、完璧な女神「アレッサンドラ・ダンジェロ」として前を向いて行くしかない。そう、たとえハズレのダイナーの片隅に座ることになっても。

「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
生活に疲れたような抑揚のない声でウェイトレスが言った。
「そうね。せっかくロングアイランドに来たんだし……ロングアイランド・アイスティーをいただけるかしら」

 手持ち無沙汰になった彼女は店を見回して、アジア人の男と目が合った。どちらかというと小柄なタイプで、 白のバンドカラーシャツとデニムを着崩していた。非常に痩せて肌色もあまり良くないが、元々そういう体質なのか、それとも健康を崩しているのかはよくわからなかった。柔和な顔つきではあるが、どこかジョルジアに似た雰囲氣を纏っていた。人生を、もしくは世界を諦めてしまったような目をしている。

 男の手許に目がいった。それは小さめのスケッチブックで、彼女が入ってくるまでそこに何かを描いていたようだった。

「絵を描くのね。見ても構わないかしら?」
アレッサンドラが訊くと、男は「どうぞ」と言った。だが、立ち上がって彼女に見せに来ようとはしなかった。それで彼女は立ち上がった。極彩色のフレアスカートが広がりハイヒールの立てる音が少し大きく響く。この寂れたダイナーでは、彼女の全てが場違いに思えた。

「ああ、ここの海を描いているのね」
アレッサンドラは、その絵に感嘆した。光り輝く海面、対岸を表した優しい緑の色使い。それになんともいえない懐かしい想い。彼は頷いた。

「とても素敵だけれど、このテーブルと椅子には誰も座っていないのね。あそこにはカップルが座っているのに」
彼女は、思ったままを口にしてからしまったと思った。男は、先程よりもずっと暗い顔をして俯いていた。ジョルジアが見せる表情と同じだ。彼女もまた人物を撮ることができないままだ。それはつまり、人と向き合うことがつらいということなのだろう。

「ごめんなさい。余計なことを言ったわ」
そういうと、そのアジア人は不思議そうに彼女を見た。それから表情を和らげて首を振った。
「いや、君は正しいし、とても鋭いね。俺は……人物を描く事ができないんだ」

 アレッサンドラはウェイトレスに目で合図をして、席をアジア人の男のななめ前に移ることを報せた。そのウェイトレスは、紅茶に見えるけれど本当はラムやジンやテキーラなどでできた非常に強いカクテルを彼女の前に置いた。

 男は驚いたように彼女を見た。
「強いんだね」

 アレッサンドラは笑った。
「そうよ。私はお酒に強いの。それだけでなく『図太いボールド』の。あなたは、姉と一緒ね。芸術家はみな『繊細フラジール』だわ」
「『勇敢なボールド』の対義語は『意氣地なしのミーク』だろう。そして、その形容は俺にはぴったりだ」

「私はそうは思わないわ。本当に『おとなしいミーク』な人は、そのことを氣に病んだりしないものよ。自嘲は、何かを変えたいと思う自分の中の抵抗だわ。私もよくするからわかるの」
「君が? どういう人か知らないけれど、自信に満ちていてなんでも持っているように見えるよ」

 アレッサンドラは面食らった。彼女はまだ二十一歳だったが、既に超有名人だった。自分のことを知らない若い男に会ったのは久しぶりだった。それにしても男の評価は確かだった。彼女は自信に満ちているし、結婚と子供を除けば、必要だと思うもののほぼ全てを手にしていた。

「そうね。でも、自嘲するだけでなく、実際に何かを変える努力をして来たのよ。これからもそうするつもりだわ」

 男はふっと笑った。
「そう言い切れる君がうらやましいな。だが、どんなに努力しても、決して変えることのできない事もあるんだ」

 アレッサンドラは、じっと男を見つめた。ジョルジアのことを考えた。彼女も努力を惜しんだわけではない。彼女にはどうする事もできない理由で、心に傷を受ける事になったのだ。

「わかるわ。でも、だからこそ、誰もが自分にできることで前に進んで行くしかないんじゃないかしら。そして、周りの人間は、本人がそうやって進んで行くのを見守るしかないんだわ」
 
* * *


 アレッサンドラは、十一年前と同じように背筋をのばし、ドアをあけて《Sunrise Diner》へと入って行った。

「いらっしゃいませ……。あ! あなたは、ミズ・ダンジェロ! はじめまして。ジョルジアとお待ち合わせですか」
「あなたがキャシー・ウィリアムズさんね。はじめまして、アレッサンドラと呼んでね。ジョルジアじゃなくて、この店のオーナーに連絡したの。少し早くついたみたいね。せっかくだからロングアイランド・アイスティーを再びいただこうかしら」

 キャシーは不思議そうに首を傾げた。
「私のいない時に、もうここにいらっしゃいました?」
「ええ。でも、ずっと昔のことよ。前のお店の時ね」

 キャシーは笑った。彼女がカクテルを用意している間に、アレッサンドラは店を見回した。ただ援助をすると言っても、オーナーも簡単に32万ドルは受け取れないだろう。だとしたら、ここにある何かを買い取る形にしたほうがいい。でも、大衆食堂って、そんなに価値のありそうなもの、何もないのよね。

 ふと、カウンターの奥にピンで一枚の絵が刺さっているのが目に留まった。
「あの絵……」

 キャシーは不思議そうに見た。
「この絵のこと?」

 それは、あの時にあのアジア人が描いていた絵に見えた。
「ええ。まあ、あの人完成させたのね。いいえ、違うわ、きっと描き直したのね。女の人が描いてあるから」
「この絵を描いた人、知っているんですか?!」
キャシーは、絵を外してカウンターに持ってきた。

「ええ。間違いないと思うわ。あの時に見た鮮烈な印象そのまま……いいえ、でも、全てのタッチが少し優しくなっているわね。この人のこと、とても大切に想いながら描いたのね」

「これ、あなたを描いたわけじゃないんですか?」
キャシーが訊くと、アレッサンドラは笑った。

「まさか。でも、このロングアイランド・アイスティーだけは、あの時私が飲んでいたもののことを思い出しながら描いたんじゃないかしら。この女の人は、きっとあの時に言っていた描くことのできなかった人よ。彼もまた、ジョルジアと同じように、ゆっくりと前に歩いたのね」

 アレッサンドラは、微笑みながら心に決めた。この絵を買うことにしよう。そして、こんなピンなんかじゃなくて、ちゃんとした額縁に収めて、このダイナーのもっと目立つところに飾ってもらおう。

 彼女は、自分の思いつきに満足して、オーナーの到着を待ちながらロングアイランド・アイスティーを飲んだ。


(初出:2018年2月 書き下ろし)
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