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「郷愁の丘」 「リゼロッテと村の四季」を読む 「バッカスからの招待状」を読む 「十二ヶ月のアクセサリー」を読む

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(10)一週間 - 3 -

「郷愁の丘」の続きです。三回に分けた「一週間」のラスト部分です。

さて、ジョルジアの故郷へ行っていた二人はお昼を食べ損ねました。これに続くシチュエーションは、実は別のキャラクターの別のストーリーのためにしばらく妄想していたものなんですが、構想そのものがボツったのでこのストーリーで使わせてもらうことにしました。

今回はジョルジアが借りている部屋の話が出てきます。《郷愁の丘》のグレッグの家もそうですが、こうしたストーリーを書くときには「このぐらいの広さで、間取りはこうで、外見はこんなかんじで」とかなり詳しく決めます。でも、実際に描写するのはほんのわずかなんですよね。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(10)一週間 - 3 -

 ロングビーチが近づく頃になると、さすがに二人ともかなり空腹だった。氣がつくと四時を回っている。

「この時間だと、ランチには遅いし、ディナーには早すぎるわね。《Sunrise Diner》なら、なにか食べられるとは思うけれど、ちょっと前に出てきたばかりだし。ねえ、もしよかったら、わが家に来る? 実は、昨日あのパスタソースを作ったばかりなの。スパケッティを茹でるだけですぐに食べられるわ」

 グレッグは耳を疑った。自宅に招いてくれている?
「本当に? もし迷惑でなかったら、もちろんもう一度食べたいよ」

 ジョルジアは、ウィンクをした。
「あなたの家みたいに広くないし、それに、特別なご馳走も出てこないわよ。でも、グレッグ。今日からニューヨークに来るって教えてくれなかったあなたが悪いのよ」

 彼女のフラットは、《Sunrise Diner》のある海岸沿いから三ブロックほど内陸に入ったところにある。彼女が借りているのは二階の半分だ。寝室にリビング、キッチンと浴室、それにほとんどが資料と写真で占められた部屋がある。オーナーもイタリア系アメリカ人で、家賃も手頃だ。何よりも会社まで歩いていける距離にあるし、家の前に駐車スペースがあるのも便利だった。

 もっと広い部屋を借りた方がいいと忠告する人もいたが、彼女はほとんど人付き合いをせず、泊りにくるどころか訪問する友人すらほとんどいなかった。両親と会う時には彼女がガーデンシティに出向き、ロサンジェルス在住の妹アレッサンドラはニューヨークでは兄マッテオのペントハウスに泊る。

 だから、兄マッテオ以外で、この五年間にこの部屋に足を踏み入れたのは、実はグレッグが初めてだった。ジョルジアは、だが、あえてその事に言及はしなかった。
「さあ、どうぞ。幸いそんなに散らかっていないと思うんだけれど」

 彼女は、小さなフラットの中を案内した。といっても、玄関からすぐに見渡せるリビングとカウンターで仕切られた小さいキッチン、それに玄関脇にあるシャワーつき洗面所のみで、あっという間に見せ終わった。

 《郷愁の丘》でグレッグに描いてもらったサバンナとシマウマの絵は、額に入れて寝室のベッドの向かいの壁に掛けてある。彼女が寝室の灯を消す前、彼女が目覚めて伸びをするとき、その絵を目にしてあの忘れられない地に想いを馳せている。そう、今朝もいつものようにそれを見つめて、グレッグがルーシーとあの朝焼けを眺めているのかと想像したばかりだったのだ。彼が、すぐ近くにいるとは夢にも思わずに。

 彼女は、その絵の掛かっている寝室を見せようかと思ったが、やめた。誘っていると誤解されても仕方ない行為だと思ったから。彼が、あの部屋は何かと訊いてきたら、そのときに見せようと思ったが、礼儀正しい彼が、そんなことを言うはずはなかった。

「あ。あのソースの香りがする」
グレッグはリビングを褒めるより前に、思わずそう言って、ジョルジアに笑われた。
「待ってて。すぐにスパゲティを茹でるから」

 キッチンには、彼女が一人でいるときは食事もする小さなテーブルがあった。ジョルジアは、彼をそこに座らせて買ってきたノースフォークのワインを開けてもらい、まずはそれで再会の乾杯をした。そして、スパゲティを茹ででいる間に、サラダ用のレタスを彼に渡してちぎってもらった。

 さまざまな会話をしながら、二人で食事の用意をする。《郷愁の丘》の二週間でいつの間にかできていた役割分担が戻ってきた。論文の話や、学会の話、それにサバンナの現状など、話は尽きなかった。

 リビングにある少し大きいテーブルに皿やカトラリーを用意して、食事をはじめてからも二人の楽しい会話は続いた。

「ところで、ルーシーはどうしているの?」
「レイチェルのところのドーベルマンと一緒に、マディが面倒をみてくれている。《郷愁の丘》に置いておくのはかわいそうだから」

 彼は具体的には言わなかったが、ルーシーの世話を頼むとしたらいつも通ってきているアマンダしかないだろう。ルーシーはいつもアマンダにひどく吠えるし、彼女もルーシーを毛嫌いしている。下手をすると水も替えてもらえないかもしれない。ジョルジアも、マディに頼んだのは賢明な選択だと思った。

 会話も弾んだが、食欲の方はそれにまったく邪魔されなかった。スパゲティとジョルジア自慢のボローニャ風ソースは全部きれいになくなった。彼女はそれに大層満足した。

 デザート代わりに、缶詰のフルーツサラダを食べていると、ジョルジアのiPhoneが振動した。

「あ、兄だわ」
そう言ってジョルジアは電話をとった。彼は、親しげに話すジョルジアの様子を目を細めてみていたが、彼女がこういうのを聞いて戸惑った。
「あ、ごめんなさい。パスタソースね、急なお客さんが来て、今食べちゃったの。……そんなにがっかりしないで。また作るから……」

 電話を切った後に、空になった鍋を見ながらグレッグは心配そうに訊いた。
「もしかしてお兄さんと食べるために作ったのかい?」

「あら、違うわ。思い立って、自分のために作ったのよ。兄は、昨日も電話をかけてきてね、何をしているのかって訊かれたから、作っていると言ったら、近いうちに食べにくるかもって言っていただけよ。別に約束したわけじゃないの」
彼女の言葉に、彼は少しだけホッとした様子を見せた。

 それに続く五日間、ジョルジアは、グレッグの学会の始まるのが遅ければ《Sunrise Diner》で一緒に朝食を摂り、そしてほとんど毎晩待ち合わせた。もう一度だけ彼女のフラットで料理をしたが、後は用意する時間がなかったので外食になった。

 彼のホテルは《アルファ・フォト・プレス》やジョルジアのフラットから近く、どこへ行くのもたいていは《Sunrise Diner》かクライヴの骨董店の前を通るので、手を振り、話しかけ、「じゃあ後でね」という話になった。

 《Sunrise Diner》に何度も通ったので、かしこまっていたグレッグは、キャシーや常連たちと普通に話せるようになり、リラックスしてその場にいられるようになった。

 そう言えばと思い出し、レイチェルはどうしているのかジョルジアが訊くと彼は肩をすくめた。
「偉い人たちと毎晩会食しているよ」
「え? あなたは行かなくても大丈夫だったの?」

「僕が来るとは誰も思っていないよ。それに、レイチェルに僕が君と一緒にいると言ったら、そっちに行った方が楽しいだろうって」
「そう。それを聞いて安心したわ」

 それからキャシーにも聞こえるように体の向きを変えて言った。
「明日の晩だけれど、あなたがニューヨークにいる最後の夜でしょう? 明後日の夜はフライトだから。《Sunrise Diner》で、いつもやってくるみんなとお別れ会をしようかって話していたの。空いている?」

 グレッグは、困った顔をした。
「せっかくだけれど、明日の夜はパーティに行かなくちゃいけないんだ」

「パーティ?」
「ああ。同伴者も参加できるパーティだから、ぜひ君も連れて来いってレイチェルは言っていたけれど……君は僕と同じでパーティが嫌いなんだよな」

「そうね。可能なら、パーティに行きたくないのは確かだけれど……学会のパーティなの?」
「そうだね。といっても、WWFがスポンサーになっているパーティで、学者以外に、会員に名を連ねている篤志家もたくさんくるんだ。それで、レイチェルが、ずっと彼女や父のスポンサーをしてくれている若い大富豪に、僕を紹介してくれるっていうんだ。だから、どんなにパーティが嫌いでも絶対に出ろと厳命されているんだ」

「その富豪に、あなたのスポンサーにもなってもらうってこと?」
「そうだといいね。レイチェルがしてもらっているみたいに定期的に援助してもらえたら最高だけれど、さすがにそれは無理だろうな。いま関わっているプロジェクトだけでもいいから、少しバックアップをしてもらえたらありがたいんだ。でも、どうかな。僕は、初対面の人に好印象を残せたことはないから、無駄足になるかもしれないと、今から氣が重いんだ」

「その大富豪って、氣難しい人なの?」
ジョルジアが訊くと、彼は首を振った。
「氣難しいどころか、誰にでも好かれる素敵な人らしいよ。マッテオ・ダンジェロ氏って言うんだ。かなりの有名人らしいね」

 ジョルジアは目を丸くした。
「マッテオ? 彼が、レイチェルたちを援助していたの?」
「知っているのかい?」

「ええ。とてもよくね。彼は……」
そこまで言ってから、彼女は少し言葉切ってから、楽しそうに笑った。カウンターにいたキャシーも笑いを堪えている。グレッグは不思議そうにジョルジアの言葉を待った。

「グレッグ。そのパーティ、私も行ってあげるわ。レイチェルだけでなく、私からもマッテオに頼んであげる」
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Posted by 八少女 夕

幸せな瞬間

今日は、トラックバックテーマをもとに書いてみましょう。テーマは「幸せを感じる瞬間はいつですか?」です。

年間を通して「超・幸せ」と感じるのは、土曜日の朝でしょうか。今朝は好きなだけ布団にくるまっていていいんだと認識する瞬間ですね。これって世話をしなくてはいけないお子さんやペットのいる方は残念ながら味わえない喜びではないかなあと思います。すみません、なんか。

そして、季節限定の幸せな瞬間がいくつかあります。

この時季は、カラカラに乾いた枯葉を踏むのが好きです。あのザクッとした音がたまりません。掃こうとしている横でやると連れ合いが嫌がりますが、それでもやってしまいます。

彩る絨毯


冬は新雪を踏むのが快感です。こちらは、田舎で人口が少ないので、場所に寄っては見渡す限り人類未踏の雪景色というのが時々ありまして、それをどんどん踏んでいくという子供っぽいことをしたりします。しばらく行くと、鹿の足跡があったりするんです。

春は八重桜や林檎の花が真っ青な空をバックに咲き誇っているのを見上げるのが大好きです。スイスの春の華やかさは本当にわくわくするんです。

林檎の花

そして夏というか初夏は、イタリア側の森林をドライブするときの森の香りを吸い込む瞬間が幸せです。

って、私は年間を通して幸せばっかりじゃないですか。やはり、そうとう恵まれているってことなんだろうなあ。ありがたいことです。

こんにちは!FC2トラックバックテーマ担当の梅宮です今日のテーマは「幸せを感じる瞬間はいつですか?」です普段から小さな事でも幸せを感じるのって大切ですよね例えば。。食べたものが美味しかったとか誰かに褒めてもらったとか。。梅宮はそんな一日を振り返りながら眠る瞬間に幸せを感じますみなさんが幸せを感じる瞬間はいつですかたくさんの回答、お待ちしておりますトラックバックテーマで使っている絵文字はFC2アイコ...
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(10)一週間 - 2 -

「郷愁の丘」の続きです。三回に分けた「一週間」の二回目。

グレッグが学会でニューヨークにやってきた初日の朝、彼と再会したジョルジアは、ダイナー《Sunrise Diner》に彼を連れて行きます。常連仲間の一人クライヴに、グレッグの観察能力がないと言われて納得のいかなかった彼女は、ほんの一瞬通り過ぎただけの猫を観察させて、まずクライヴに絵に描いてもらいました。そして、次にグレッグに紙とペンを渡します。

さて、今日更新する部分の後半には、ジョルジアの生まれた場所がでてきます。前作でも兄マッテオの撮影場所としてちらっと出しましたが、ニューヨークなのに漁村というような場所があるのですね。彼女がニューヨーク育ちなのに何もないケニアのサバンナでも簡単に適応できたのは、完全な都会育ちではないこともあるかもしれませんね。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(10)一週間 - 2 -

 彼は、ジョルジアの意図がわかって、ほんの少しだけ微笑むと、紙に向かった。ペンの先は紙の左上に停まり、そこに耳が現れた。ほとんど一筆書きだが、全くデッサンは崩れずに、歩いている猫の姿が紙の上に再現されていく。先端が少しねじれた長い尻尾は、ぴんと立っていた。

 ジョルジアは、《郷愁の丘》で彼女が受けたショックをキャシーとクライヴが受けるのを楽しんだ。クライヴの描いた絵と違い、それは細部に至るまで正確だった。

「ええっ。何これ? 写真みたい!」
「縞の模様や本数まで憶えているんですか?」
「この前足! ふわふわさがわかる。汚れの位置まであの短時間に?」

「ほらね。すごいでしょう?」
ジョルジアが言うと、彼はあわてて言った。
「すごくないよ。いつもやっている事だから、出来るだけで……」

「そんなことないわよ。自慢していいことよ」
キャシーが言った。クライヴも大きく頷く。
「本当だ。全くの脱帽ものですよ。先ほどの失礼をお許しください」

 そう言っていると、クライヴの電話が鳴った。
「まずい。クレアだ。しまった、もうこんな時間」
いつまでも店に帰ってこないので、クレアがしびれを切らしたらしい。

「本当にもうこんな時間なのね。ごめんね、キャシー」
ジョルジアが訊くとキャシーは肩をすくめた。
「私も楽しかったから。でも、そろそろ閉めないとね」
朝食とランチタイムの間、《Sunrise Diner》は二時間ほど閉まる。

「じゃあ、私たちは、すこしニューヨーク観光をしましょうか、グレッグ。明日からは学会で、あまり日中は出歩けないんでしょう?」
「でも、そんなに長い間、君の時間をとっていいのかい? さっきのハドソン氏との打ち合わせは?」
「ベンが、今日じゃなくていいって言っていたじゃない。今日は、私はオフにするって決めたの。どこに行きたい? 自由の女神像? セントラルパーク? それともブロードウェイ?」

 ジョルジアは満面の笑みを浮かべていた。グレッグはその彼女を眩しそうに見つめていたが、おずおずと切り出した。
「じゃあ、君の言っていた例の海岸に……」

 ジョルジアは目をみはった。それは、《郷愁の丘》で星をみながら話した事の一つだった。たくさん交わした手紙の中でも、彼女は何度かその海岸について触れていた。子供の時にジョルジアたちが住んでいたノースフォーク。大都会ニューヨークの一部とは思えない鄙びたところで、両親はそこで漁業を営んでいた。忙しくて娘たちの相手をする時間のない両親たちの代わりにジョルジアと妹は歳の離れた兄につれられていつも海岸を散歩した。

「わかったわ。ノスタルジック・ツアーね。行きましょう」

* * *


 ジョルジアは、一旦ホテルに戻ったグレッグをCR-Vで迎えに行った。
「車で行くのかい?」

 ジョルジアは笑った。
「せっかく自家用車を持っているんですもの。ケニアほどではないけれど、アメリカも車がないと少し不便なの。MTA公共交通機関 だとロングビーチからでも場合によっては四時間もかかってしまうんだけれど、車なら二時間かからないわ」

「そんな遠くだとは知らなかったんだ。いいのかい?」
「もちろんよ。私も久しぶりに行きたいもの。家族はもう誰も住んでいない事もあって、私も滅多に行かないの。最近では撮影で行っただけだから、オフの時にゆっくり行きたかったの」

 片道三車線の広く状態のいいハイウェイを、車はぐんぐんと走っていった。マンハッタンのような高層ビルはもうどこにも見られない。わずかに色づいた緑に囲まれた郊外の風景だ。空は青く心地よい風が吹いていた。

「ロングアイランドの東端はフォークのように二つに分かれていて、その北側の半島をノースフォークっていうの。天候も穏やかで土壌もいいので、葡萄の栽培にも適していて、ワイナリーがあるのよ。ニューヨークのワインって、飲んだ事ないんじゃない? ニューヨークのボルドーなんていう人もいるの」

「温暖なのか。僕は、ニューヨークは冬の寒さが厳しいという印象が強いんだ」
「そうね。冬の寒さはこたえるわ。大雪も降るし。だから、私の祖父母もイタリアからやってきてびっくりしたんじゃないかしら。それで、少しでも暖かい所に来たんだと思うわ」

 ジョルジアは、高速道路から離れるとしばらくほとんど家もない地域を走った。そして、ほとんど人通りのない、なんという事のない海岸に停まった。青と白の大きな平屋建ての大きな建物が一つ、かなり離れた所に海に面してテラスのある家がいくつか。

 彼女は青い建物の駐車場に停車したが、それとその隣の空き地にはほとんど差もなかった。

 マリンディで見た強烈な青さのインド洋と較べて、その海は少し暗い色をしている。浜にあるのは砂ではなくて小石で、浜辺の水の色は透明で優しい波が打ち寄せていた。ジョルジアは、子どもの頃にいつも兄に連れられて妹と一緒にここを散歩した。

「今は、建て替えられてしまったけれど、あの先に私たちの住んでいた家があったの。くすんだ緑の壁だったわ。両親はああいう船に乗って、魚を捕りに朝早くから海へ行っていた。家でもしょっちゅう網を直していたのを憶えている。暗いランプの光。波の音。海藻の匂い。湿氣て状態の良くなかった家。なのにとても懐かしくて泣きたい氣持ちになるの。もう存在しないからでしょうね」

「君は、きっとここで、家族と幸せな時間を過ごしたんだね」
「ええ。そうだと思うわ。いろいろな事があったけれど、私はとても幸せだったのね」

 ジョルジアは、彼の優しい笑顔を見つめた。兄と妹の社会的成功に伴い、貧しいイタリア系移民カペッリ家はもうどこにもいなくなってしまった。幸せなダンジェロ兄妹の家族が存在する以上、それはもちろん好ましい事なのだが、それでも波の音の中にノスタルジーを感じている自分は天の邪鬼なのではないかと感じていた。

 けれど、彼は、それすらもあたり前のように受け入れてくれている。彼が、ここに観に来たのは、ニューヨーク州の海ではないだろう。そうではなくて、彼はジョルジアという人間を理解するためにここに来てくれたのだ。彼女はそれを強く感じた。

「ここもすっかり様相が変わってしまって。このビーチだけはまだ変わらないわね。漁船はほとんど見られなくなってしまったけれど」

「ご両親は、もうここにはいないと言っていたね」
グレッグは訊いた。

「ええ。今はだいぶ改善したんだけれど、一時この海の汚染がひどくて漁獲量が激減したの。ちょうどその頃、兄の事業が軌道に乗って、両親はそちらを手伝う事にしたの。今は、二人とも完全に引退して人生を楽しんでいるわ。昔は日曜日も祭日もなく働いていたから、少し早く引退するくらいでちょうどよかったんじゃないかしら」

「ニューヨークで?」
「ええ。ロングアイランドよ。ロングビーチから三十分くらいのガーデンシティという所。でも、実はあまり頻繁には逢っていないの。兄妹の中では私が一番近くに住んでいるんだけれど」

 グレッグは、黙ってジョルジアを見た。彼女は肩をすくめた。
「心配しないで。喧嘩はしていないの。ただ、逢うといろいろと心配して訊いてくるので、つい」
「そうか」

「子どもの頃から、両親はいつも私の事を心配していたわ。三人兄妹の中で一番頼りなかったから仕方ないんだけれど。兄と妹は、とても努力家の上に才能に恵まれていて、私は自分ひとりが黒い羊だと思っていたの。家族全員が、そんな事は関係なく大切に扱ってくれたんだけれど、私はその差に耐えかねて、もがいていたんだと思うわ。そう思えるようになったのは、本当にここ最近なのよ」

「君の努力と才能も、ようやく実ったからね」
「あら。そんなんじゃないわ。今でも兄や妹とは天地の差があるの。でも、それと家族であるという事は関係ないのね。それに、私が私である事も」

 近くの青空市場でカボチャやワインが並んでいるのを見学した後、二人はシーフードでも食べようかとレストランを探した。だが、不況の煽りを受けたのか全て閉店していた。あまりお腹が空いていなかったので、二人はロングビーチに戻る事にした。

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Posted by 八少女 夕

スイスで運転 -2- 高速道路を行く

自動車の運転の話の続きです。今日は、スイスの高速走行の話です。

峠道

スイスには大きく分けて三種類の公道があります。高速道路と、自動車専用道路と、一般道です。このうち高速道路と自動車専用道路ははっきりと分かれていなくて、高速道路が区間によって自動車専用道路になったりします。違いは最高速度と走行の形態でしょうか。高速道路は最高時速が120㎞、少なくとも広い二車線があり、中央分離帯もありますが、狭い山間にはこういった道を建設できない場合もあるので、最高時速が制限されたり中央分離帯のない一車線ずつの道になることもあるというわけです。

一般道は街中は最高時速50㎞、それ以外は最高時速80㎞です。もちろん場所によって最高時速がもっと制限されることもあります。

ParkerとVignette

この写真、三年も前のものですが、たまたまあったので。

右側のフロントガラスに貼ってあるピンクのシールがありますよね。これはヴィニエッテといいます。真ん中の数字はいつの年のものなのか、これは2014年のものですね。このシールは40フラン(4600円程度)するのですが、スイスの高速道路を走行する時にはつける義務があります。一度のために買うのは高いですが、一年間有効なので毎年買います。

先年、このヴィニエッテを100フランに値上げするかどうかが国民投票にかけられました。(私にとって)幸いな事に、この案は否決されたので、ここしばらくはこの値段で毎年走れそうです。あ、私はスイス国籍を持っていないので、投票権はありません。

隣国のイタリアやフランスは、日本と同じで高速を通る度に料金を払うのですが、スイスはこの年に一度のヴィニエッテで乗り放題です。ですから、スイスの高速道路には料金所がありません。

スイスに住んでいて車を持っている人は当然ながら毎年購入しますが、旅行で例えばドイツからイタリアに行くような場合も、スイスを通る以上このヴィニエッテを購入しなくてはなりません。黙って貼らずに行ってしまう人もいるようですが、休暇の時期は警察がよく抜き打ち点検をしているので、捕まると100フランの罰金です。貼っておきましょう(笑)

スイスの人たちはかなりきちんと最高速度を守ります。かなりたくさんの取り締まりがある事も関係していると思うのですが、自主的にもちゃんと守って走る人の割合が日本よりも多いように思います。

私が日本の自動車免許をとったのは○十年昔なので今はわかりませんが、日本だと「最高速度を守るよりも流れを優先しろ」という事を言う方もいらっしゃいました。つまり「空いている高速道路で時速100キロで走るなんて」なんて方がけっこういたのです。

私の住んでいる地域では、面白いなと思うんですけれど、例えば最高が120㎞だと時速120㎞から125㎞の間で走る人が多いのです。時速125㎞は、取り締まりで違反切符を切られない最大許容範囲5パーセントを足した速さです。時計のように正確な国民性をここでも感じます。横をビューンと時速150㎞くらいで危険に追い越して行く車をみると、大抵ドイツかイタリアのナンバーなのも笑えます。あ、スイスの車でも、チューリヒナンバーの高級車も速いかも。

ただし、どんなに急いでも、そんなに早くは目的地に到達できないのが山です。追い越し車線がずっとなくて、一番前に巨大なトラックが時速70㎞でノロノロ走っているところで詰まっているうちに、さっき追い越されたこちらが追いついてしまうなんて事もしよっちゅうです。

東京で日常茶飯事だったようなひどい渋滞は、普段はありません。事故があったり、連休の前や子供の夏休みの始まった週などは、それなりの渋滞になりますが、私たちはそういうひどい渋滞があるとわかっているときはそもそも高速道路を使いませんね。休暇も、そういう混む時期は避けます。子供がいないので休みが他の人とずらせることがありがたいです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(10)一週間 - 1 -

一回あきましたが、「郷愁の丘」の続きです。この部分も長いので三回に分けています。

前回更新分はグレッグが学会で一週間の予定でニューヨークにやってきたところまででした。この学会、翌日から五日ほど続くのですが、ジョルジア視点なので、グレッグが学会で何をやっているかはまったく出てきません。というか、この章の大半はグレッグが到着した最初の一日の描写です。

今日更新する部分に登場するのは、前作「ファインダーの向こうに」や外伝などでおなじみの《Sunrise Diner》の店員キャシーや常連たち。クライヴとクレアは「ニューヨークの英国人」という作品で初登場しました。あ、別に読まなくても大丈夫です。今回出てくる分だけでも、クライヴが個性的であることはお分かりいただけるかと(笑)こういうキャラを書くのは楽しいです。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(10)一週間 - 1 -

「で。手配した雑誌は、どこに届けますか。ホテル?」
売店のジェシーが訊いた。財布を取り出して手続きをしようとするグレッグを、ジョルジアは止めた。

「ジェシー、ベンの所に全部預けておいて。届けるのは私が手配するから」
「あ、社員割引を適用しますか」

「ジョルジア。そんなことをしてもらうのは悪いよ」
グレッグが慌てて言うと、彼女はニッコリと笑った。
「氣にしないで。その代わり、今度の手紙には感想を書いてね。でも、ニューヨーク滞在中は、私の写真の事なんて忘れて。今日は時間があるの?」

 彼は頷いた。
「学会は、明日からなんだ」

「それはよかった。ホテルはどこ?」
ジョルジアの質問に、彼は少し赤くなって俯いた。
「その先の、パーク・アベニュー・インなんだ」

 ジョルジアは朗らかに笑った。そのホテルは、《アルファ・フォト・プレス》から三ブロック先の廉価なビジネス・ホテルだ。学会の開催されるマンハッタンへは地下鉄を使わなくてはならない。もちろん、会場となっているホテルや、徒歩圏にあるホテルの部屋は四倍くらいするだろう。そう言った事情があるにしても、他のマンハッタンから離れた地域ではなくこのホテルを選んだのは、《郷愁の丘》に滞在した時にこのあたりの事を話したからだろう。

「ベスト・チョイスね。訊かれたら私もそこを奨めたでしょうね。私のフラットからも、私が朝食をとるダイナーからも五分以内よ」

 朝食と聞き、グレッグははっとして言った。
「そういえば、君は、朝食の途中だったんじゃないのか?」

「そうなの。たぶんまだ片付けられていないと思うから、よかったら今から一緒に行かない? とても美味しいアメリカ式朝食が食べられるわよ」
ジョルジアは、彼を《Sunrise Diner》へ連れて行った。

 ガラスドアを開くと、カウンターにいたキャシーが正に片付けようとしていた彼女の皿を見せた。
「ジョルジア、何していたの? ブラウン・ポテトが冷たくなっちゃったからこれは片付けたわよ。今、熱々のをもう一度……って、あれ? その人は、誰?」

 ジョルジアは、いつものカウンター席にグレッグを連れて行った。
「紹介するわ。ケニアの動物学者ヘンリー・スコット博士よ。学会で一週間ニューヨークに滞在するの。グレッグ、こちらはキャシーよ。仲のいい友達なの」
「はじめまして。お逢いできて光栄です」

「ヘンリーって言わなかった? ま、いいか。ねぇ、スコット博士なんてまどろっこしいわ。私もグレッグって呼ぶわね」
キャシーの遠慮のない態度に、彼は戸惑った。

 ガラスドアが再び開き、グレーのスーツを着て山高帽を被った青年と、柔らかいシフォンのブラウスにフレアスカートを着た茶色い髪の女性が入ってきた。
「ああ、ジョルジアがこの時間にいるのは珍しいね」

「ハロー、クレアに、クライヴ。もうあなたたちの休憩時間なのね」
キャシーが手を振った。この二人は、近くの骨董店で働いているイギリス人で、《Sunrise Diner》の常連になっており、ジョルジアとも親しかった。

「おはよう。友達が来たから連れて来たの。紹介するわ。ヘンリー・スコット博士よ」
ジョルジアがそう言ったので、グレッグは慌てて回転椅子から立ち上がり、礼儀正しくまずクレアに手を差し出した。

「ケニアの動物学者で、ジョルジアと私はグレッグって呼んでるのよ。何でだかは知らないけど」
キャシーが補足したのでクレアはニッコリと笑って「よろしく、グレッグ。私はクレアよ」と言った。

「お逢いできて光栄です」
彼は礼儀正しくクレアに挨拶してから、クライヴの方に向き直った。

「僕は、クライヴ・マクミラン、英国人です。この一ブロック先にある骨董店《ウェリントン商会》を任されています。こちらのクレア・ダルトン嬢と同じく今年の一月に渡米しました。この店にはほぼ毎日来ているんですよ。どうぞよろしく」
「お近づきになれて嬉しいです」
「オックスフォードの出身でいらっしゃいますね。なつかしい英語を久しぶりに耳にしました」

 なにが懐かしい英語よ。いつまでも続く堅苦しい挨拶の応酬にキャシーがため息をつく。
「ケンジントン宮殿みたいなのが増えちゃったってことかしら」

 それから、クライヴがクレアとこの店で紅茶を飲む時用にとわざわざ持ち込んだボーンチャイナのティーセットを取り出して、ティーバッグをポットにぽんと投げ込んだ。この十ヶ月で、クライヴの方も、アッサムの茶葉とか、冷たいミルクを先に入れてからとか、そういう細かい事はこの際何も要求せずに、キャシーがティーセットで紅茶を提供してくれる事で妥協するようになっていた。

 それでもいつもならば、お湯は直前に沸騰させるべきだとか、ティーポットが冷たいままだったとか、いちいちうるさい事を言うのだが、今日はオックスフォード出身者同士の内輪の会話に氣をとられていたせいか、キャシーはクレアやジョルジアとの会話を楽しむ方に時間を使えた。

「じゃあ、私は先に店に戻るわね。クライヴ。十時にはスミスさんがお店にいらっしゃるの、忘れないでよ」
クレアは、紅茶を飲み終わると一同に手を振って出て行った。

「あれ。行ってしまった。彼女は、本当にイギリス的で素晴らしい、そう思いませんか」
クライヴはティーカップを傾けながら、グレッグの同意を求めた。

「イギリス的?」
「ええ。レディの資質を完璧に備えている。国外であのような人と出会うのはとても難しい事です」

「悪かったわね。私たちは粗野なアメリカ人で。失礼よね、ジョルジア」
キャシーが言うと、ジョルジアは吹き出した。
「仕方ないわよ。クレアが服装も立ち居振る舞いも、クライヴの好みにぴったり合ったイギリス女性なのは間違いないし、私たちはそうじゃないんですもの」

「服装?」
グレッグは、会話の流れから完全に取り残されていた。その場にいた三人の女性のどこにレディの資質に当たる部分を見出すのか、さっぱりわかっていない様子なので、ジョルジアとキャシーはくすくす笑った。

「まさか、クレアの服装を憶えていないなんていうんじゃありませんよね。ウェーヴのかかった艶やかな髪に似合うあの美しいシフォンジョーゼットのブラウスと、秋の庭のような素晴らしい色合いのスカートを」

 クライヴが言ったのをキャシーが引き取った。
「スカートが短すぎないのがレディのたしなみだって言うんでしょ」

 グレッグは困ったように言葉を濁した。スカートの長さなど、まったく氣にもしていなかったから。クライヴはおかしそうに笑った。
「やれやれ。野生動物を調査する仕事をしている言うから、もう少し観察能力があるのかと思いましたよ。おかげで、私はライバルが増えなくて助かりますが」

 それを聞いてキャシーは小さく呟いた。
「そもそもクレアの服装を憶えているわけないじゃない。全然そっちは見ていないんだから」

 ジョルジアは、グレッグの観察能力を見くびられたようで看過できなかった。素早く周りを見回してから言った。
「誰が一番観察能力があるか教えてあげるわ。ほら、みんな今あそこのウィンドウのところを歩いていく猫を観察して」

 猫は、《Sunrise Diner》の前面にあるウィンドウの前をそのまま横切ると視界から消えた。

 ジョルジアは、カウンターに置いてある注文用の紙とペンをクライヴに渡すと「さっきの猫を描いて」と言った。

 クライヴは、「描くんですか?」と笑いながら手を動かした。縞の数本ある、漫画のような猫が現れた。

「尻尾は?」
「ええっと。あったよな。こんなだったっけ」

「意外と上手いじゃない。もっとヘタクソに描くのかと思っていた」
キャシーは身も蓋もないことを言う。

「グレッグ。描いて」
ジョルジアはもう一枚新しい紙を取ってペンとともに渡した。
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Posted by 八少女 夕

スイスで運転 -1- 運転することになったわけ

今日は、自動車の運転の話をしてみようかなと思います。別にシリーズにしようと思っているわけではないですが、話題がとっ散らかりそうなので、少なくとも二つには分けようと思い「-1-」と書きました。

TOYOTA Yaris

日本では東京に住んでいたので下手くそな運転で車道に出ようとは思いませんでしたが、現在住んでいるところで自家用車なしで暮らすのはちょっと大変です。

普段の通勤は健康のために自転車で行くのですが、例えば真冬でマイナス十五度を下回ったり、大雪ともなると自転車で片道二十分の道のりは危険です。かといって、公共交通機関を利用して会社に遅刻しないためには、一時間に一本しかないバスを乗り継ぐために、いつもよりも一時間早く家を出て、出勤すべき時間の五十分前に到着するというまったく笑えないダイヤ。歩いても五十分あったら着きますけれど、真冬の早朝にそんなに長く歩いていたら凍えます(笑)

何をするにも一時間に一本のダイヤばかりを氣にしているというのはとてもストレスです。通勤の例外だけなら我慢しますけれど、週に一度の買い物に行くとか、家族を病院に届けるとか、友人と夕食するために州都まで出るなどの用事がいろいろとあるので、その度に困るのです。州都から戻る終電は夜の八時。スイスの人たちと付き合うと「そろそろ帰るわね」と言い出してから、本当に席を立つまで一時間くらいかかるのが普通なので、電車に乗るために速攻でさよならをするということができないのです。そんなあれこれを考えると、そもそも夕食する時間がありません(笑)

家庭に車が一台もないと、そうした用事があるたびに、誰かに友人に送迎を頼まなくてはなりません。タクシーも地域に数台しかいないので連絡してもこないこともあるし(運よく来ても初乗り二千円を超えてます)、この田舎では大変ストレスなのです。

私が運転することになったのは、連れ合いがバイクの免許しか持っておらず、今は亡き義父はパーキンソン病で運転を止めるように医者に言われ、義母は免許を持っていなかったので、たとえペーパードライバーでも私がやるのが一番早いと思ったから。今から十五年以上前の話です。

最初の車は、その義父からのお下がりでしたが、五年ほど前にオシャカになったので、生まれて初めて自分で車を買いました。あ、中古です。そのかわり、スイスではポピュラーではないオートマ車は、中古市場の中では比較的割高です。が、これは運転のストレス削減代と割り切ってオートマ車オンリーで探しました。上の写真がそれで、TOYOTA Yarisという車種です。日本だと、ヴィッツっていうんじゃなかったかな。

上にも書きましたが、私は自他共に認める運転下手です。日本では、車道に出るのも怖かったのですが、田舎なのでさほど交通量もなく、練習するにはいい環境でした。連れ合いの親切な友達が何度も隣に乗って教えてくれたのもラッキーでした。

交通の法律や標識自体は、日本とはほとんど違いませんし(ラウンドアバウト、三叉路、それに踏み切りの渡り方などが少し違いますが、慣れれば問題はありません)、一番問題だった駐車の仕方も、今ではとくに問題なくこなせるようになっています。それに、「ちょっとこの駐車スペースは苦手っぽいかも」と思ったら、別のところに停めればいいんです。東京と違って、一度空いているスペースを逃したら二度と見つからないというわけではないので。

スイスは、ヨーロッパ(大陸)の他の国と同様に右側通行です。これも慣れの問題です。今では間違えなくなりましたが、最初は二度ほど間違えました。交通量の多いところは、前の車がいるので間違えないのですが、誰もいないところで右折して氣がついたら左側に入っていたことがあったのです。右側通行の国をレンタカーで運転なさる予定のある方は、こういうシチュエーションが危険なのでお氣をつけください。

次回は、スイスの高速道路の走行について書きますね。
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Posted by 八少女 夕

【小説】いつもの腕時計

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」九月分を発表します。九月のテーマは「時計」です。

「郷愁の丘」がぶつぶつ切れるなあとお思いの方、すみません。でも、今回はあの世界の外伝になっています。主人公は初登場の人物なのですが、雇い主のほうがお馴染みの人物です。「郷愁の丘」のヒロインの兄ですね。もっとも、「郷愁の丘」をはじめとする「ニューヨークの異邦人たち」シリーズを全く知らない方も、問題なく読めるはずです。

ちなみに、同じ「十二ヶ月のアクセサリー」の六月分「それもまた奇跡」に出てきたブライアン・スミスも同じ会社の重役なので、名前だけ出してみました。


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いつもの腕時計

 彼は、入ってきた彼女の服装に対する賛辞を口にしたが、言おうとしたことの三分の一も言えないうちにもう遮られた。
「マッテオ、褒めてくださるのは大変嬉しいのですが、今朝は本当に時間がないんです」

 セレスティン・ウェーリーは、ヘルサンジェル社の社長秘書だ。それも、非常に有能な秘書だった。しかも、社長夫人に収まろうという野望を持たずに仕事に全力を傾けてくれるという意味で稀有な存在だ。

 会社の創立者であり最高経営責任者であるマッテオ・ダンジェロは有能かつ魅力的で氣さくな人物ではあるが、若き独身の億万長者であるため女性関係が派手で、その副作用として女性秘書が長く居着かないという悩みを抱えていた。

 が、セレスティンがこの職を得てから九年、へサンジェル社の最高総務責任者であるブライアン・スミスは、やたらと入れ替わりの激しい社長秘書の面接をせずに済むようになった。

 「天上の青」を意味するそのファーストネームは、極上のサファイアを思わせる濃いブルーの瞳から名付けられたと思われる。ダークブロンドの髪は垂らせばこれ以上ないほどに男性を魅了すると思われるが、いつもシニヨンにまとめていて、その隙のない様相と、シャープな服装、怜悧な視線でもって近づき難い印象を与えていた。

 今日は、月曜日。マッテオは自由の女神が見える開放的な社長室の革張りの椅子にリラックスした姿勢で座り、ここ二日の予定を淀みなく説明しているセレスティンをニコニコと笑いながら眺めていた。今日の彼女は、シャープな襟の白いシャツに瞳によく合うセルリアンブルーのタイトスカート、それに少し感じ悪く見えるくらい鋭利な伊達眼鏡をかけている。

「マッテオ。大変申し訳ないのですが、少し真剣に聴いていただけませんか。私には二度説明する時間はありませんから」
「わかっているよ。でも、大丈夫。今、聴いた件はちゃんと用意ができているし、あとは直前まで忘れても五分前に君が促してくれるだろう」

「そういう訳にはいきませんの。なにしろ……」
そういって彼女は自分の左手首をちらっと見た。

「おや、今日はあの腕時計を忘れたのかい、セレ」
マッテオは、さも珍しいという顔つきで訊いた。当然だった。シンプルとはいえ、常に流行を意識した服や靴やアクセサリーを組み合わせて、日々目の保養をさせてくれるセレスティンが、何があろうと決して変えずに身につけているのがその金の腕時計だった。

 彼女の持ち物にしては、少し安物に見える金メッキの外装、しかも今時ネジを毎日巻かなくてはならないアナログな時計だった。彼女は、この時計に大きな思い入れがあるらしかった。秘書となって一年経った時に、ふさわしい時計をプレゼントしようとマッテオが提案しても「これをつけていたいんです」とハッキリ断った。

 セレスティンはため息をついた。
「どこに置き忘れたのか、見つからないんです」

「おや。金曜日には付けていただろう」
「ええ。少なくともディナーに向かう時には付けていたはずなのに」
「そうか。あれは確かお祖母さんからのプレゼントだったよね」

 セレスティンはちらりと雇い主を見た。相変わらず細かいことを憶えているわね。
「ええ。小学校に上がった時にもらったんです。安物ですけれど、毎日ねじを巻いて時間を合わせればほとんど狂わずにこれまで動いてくれたのに。今日はスマートフォンで時間を管理していますが、慣れないのでいつものように細かくコントロールできないんです」

 マッテオは頷いた。少し、他のことを考えていたが、会議が迫っていたのでいつまでも腕時計の話をしているわけにはいかなかった。

 だが、彼はその時計を思わぬところで見ていたのだ。見覚えのある時計だと思っていたが、まさかセレスティン本人のものだとは思わなかったので素通りしてしまったが。

「思い出したぞ」
マッテオが呟いたのは、その日の夜、高級クラブ《赤い月》で席に着いたときだった。とある女優とディナーを楽しんだ後に立ち寄ったのだ。

「何を?」
女優は、綺麗にセットした赤毛の頭を、完璧な角度で傾げながら微笑んだ。

「何でもないんだ、マイ・スイートハート。おととい、ここで見たもののことを急に思い出したのさ。でも、大したことじゃない。それよりも、君の最新作での役作りについて聴かせてくれないか」

 マッテオは、にっこりと微笑んだ。女優は、仕方ない人ねという顔をしてから、彼にとってはどうでもいい話を延々と語り始めた。それで、彼は思考を自由に使うことができた。

 彼女が化粧室に消えたとき、彼は立ち上がり、バーのカウンターに向かった。

 一昨日、スーツを着た男がそこに座り、金色の女ものの時計を目の前にぶら下げるようにして眺めていた。それから「ちっ。安物か」といいながらすぐ横にあった大きな陶製の鉢の中に投げ込んだのだ。妙な行動だったので記憶に残っていた。

 そして、今から思うとあれはセレスティンの腕時計にそっくりだったような氣がしてならない。彼は、カウンターに立っている馴染みのバーテンダーに一言二言話しかけると、鉢の中を見てもらうことにした。

* * *


 翌朝、マッテオはセレスティンが入ってくるなり予定を話し出したのを手で制して、口を開いた。
「その前に、少し個人的なことを訊いてもいいかな」

 彼女は伊達メガネを冷たく光らせて答えた。
「いま必要なことでしょうか」
「忘れると困るから」
「では、どうぞ」

 マッテオは、セレスティンの積み上げた書類の山を無造作に横に退けて、マホガニーのデスクの上で両手を組み、彼女を正面から見据えた。

「君は、例のテイラー君と、もう付き合っていないんだろう」
「ええ。たしかに、ジェフとは別れました。でも、それは三ヶ月前のことで、その後に《赤い月》でお会いした時に、ミスター・フェリックス・パークにお引き合わせしたと思いますけれど」

「ああ、そうだったね。で、そのパーク氏とも別れたのかな」
「……。ええ、金曜日のディナーで、別れましたけれど、それが何か」

 マッテオは、極上の笑顔を見せながら言った。
「そうだと思ったよ」
「笑い話にしないでください。そもそも振られたのはあなたにも責任が有るんですから」

「ほう。それは驚いたね。なぜだい」
「あなたがお給料を上げてくださったので、彼の年収を超えてしまったんです。我慢がならないんですって。もちろん、それだけが理由ではないんでしょうけれど」
「そんなことを理由にするような男と付き合うのは時間の無駄だ。別れてよかったじゃないか」
「その通りだと思いますわ。でも、なぜそんなことをお訊きになるんですか」

「なに、いまフリーなら、僕と付き合わないか訊いて見ようと思ったのさ」
「セクシャルハラスメントで訴えられるのと、パワーハラスメントで訴えられるのだと、どちらがお好みですか」
「どうせなら両方だね。でも、君は、そんなことはしないさ、そうだろう?」

「あなたが、いつもの冗談の延長でおっしゃっているなら訴えたりしませんけれど。ともかく真平御免ですわ、マッテオ。あなたをめぐるあの華やかな女性陣との熾烈な争いに私が参戦するとでもお思いですか。そういうどうでもいいことをおっしゃる時間があったら、法務省への手紙に目を通していただきたいのですが」

「わかった、わかった。ちゃんと目を通すから、その前にもう一つだけ訊かせてくれ」
「どうぞ」
「君がなくしたという、あの腕時計だけれど、デザインが氣に入っていたのかい、それとも機能? 他の時計を買いに行く予定があるのかい?」

 セレスティンは、意外そうに彼を見た後、首を振った。
「いいえ。センチメンタル・バリューですわ。思い出がつまっているし、人生のほとんどをあの時計と過ごしてきたので、ほかの時計がしたいとは思えなくて。安物で、周りの金メッキが剥げてきただけでなく、留め金が外れかけていたのでとっくに買い換えるべきだったのでしょうけれど……。仕事に支障をきたしますから、諦めて何かを買おうとはしているんです」

 マッテオは頷くと言った。
「買う必要はないよ。仕事に必要なんだから、僕が用意してあげよう。それまでは、スマートフォンでやりくりしてくれ」

 セレスティンは、じっと彼を見つめた。また何かを企んでいるみたい。でも、用意してくれるというなら頼んでしまおう。自分では、あの時計でないものを買うつもりになれないから。マッテオのプレゼントなら、納得することができるかもしれない。

 マッテオが、誰かに何かをプレゼントする時は、必ず相手の好みを考え、ふさわしいものを贈っていた。成金と陰口を叩く人がいるのも知っていたが、単純に高価なもので人が喜ぶという傲慢な考え方をする人ではないのは、誰よりもセレスティンが知っていた。

「わかりました。お言葉に甘えさせていただきますわ。ところで、手紙に目を通していただけますでしょうか」

 マッテオは悪戯っ子のような魅惑的な笑みを見せてから、最上級の敬意に溢れ、法務省の担当官が必死に粗探しをしても何一つ見つけられないように書かれた、セレスティンの最高傑作である手紙に目を走らせた。

* * *


 それから五日後に、マッテオはいつもより少し遅れてオフィスに入った。ことさら丁寧に朝の挨拶をするセレスティンの様子を見て、内外からのたくさんの電話攻撃を雄々しくかわしてくれたのだろうと思った。嫌味の攻撃が始まる前に、これを渡してしまおう。

 ジャケットのポケットから、無造作に突っ込んであった濃紺の天鵞絨張りの箱を取り出して彼女に渡した。

「え?」
「約束の腕時計だよ。メッキ職人のところに受け取りに行ったんだけれど、十時まで開かなかったんだ」

 メッキ職人? セレスティンは、意味がわからずに戸惑いながら、箱をおそるおそる開けた。そして、自分の目を疑った。愛用していた祖母のプレゼントの時計と全く同じデザインの時計だった。けれど、五番街の高級店で売っているものと遜色がないほど上質のコーティングがされていた。

「どうして……全く同じデザインの時計が? どうやってこのデザインを?」
 マッテオは笑った。
「僕がそれを憶えていたと? まさか。種明かしをすると、これは例の君の時計さ。たまたま僕が見つけたというだけだ」

「見つけた? このオフィスにあったのですか?」
「いや、《赤い月》だよ。偶然、例のパーク氏がこれを捨てようとしたのを目にしてね。君が時計をなくしたと聞いてそれを思い出したんだ」

 セレスティンははっとした。そういえば、別れ話をする前には確かにその時計をしていた。留め金が壊れかけていて、修理しないと落とすかもしれないと思ったのだ。そのあとのデートの惨めな展開に心を乱されたので、時計のことはその晩はもう思い出さなかったのだが。フェリックスが私の去った後にあの時計が落ちていたのを見つけたというわけね。

 それでも、この時計の幸運なこと! 捨てられる現場に居合わせたのが、この時計の彼女にとっての価値を知っている数少ない人物だったというのだから。

「なんてお礼を言っていいのか、わかりませんわ、マッテオ。見つけた時計をそのまま渡していただけるだけでも飛び上がるほど喜んだでしょうに、なんだかものすごく素晴らしく変身していますわね」
「せっかくだから、ちょっと化粧直ししたんだ」

 コーティングし直すときに、純金を使う事も出来たけれど、耐久性を考えて18金のホワイトゴールドにした。怜悧なセレスティンの美しさにふさわしい。金属アレルギーなどが出ないようにもっとも高価なパラジウム系コーティングにしてもらったのだが、メッキが剥がれやすくなるので、通常より多く丁寧に塗り重ねてもらった。

「ちょっとどころではないことぐらいは、わかりますわ。それにネジの部分も変わっていますけれど?」

 前の時計と違っているのは外見だけではない。個人的に交流のある老いた時計師に頼み込み、重さを感じないマイクロローターを組み込んだ自動巻きに変えてもらったのだ。
「ああ、これからは毎朝自分で巻く必要はないよ。これは自動巻きだから」

 一週間近くかかった理由がわかった。それに、おそらくスイス製の高級時計を購入するよりもずっと多くの費用がかかっている。セレスティンは、戸惑いながら訊いた。
「どうしてこんなに良くしてくださったんですか?」

 マッテオは自信に満ちた太陽のような笑顔を見せた。
「君の大切にしている物を、二度と安物か、なんて言わせたくなかったんだ。さあ、セレ。これがあれば、またこれまでのように僕の時間管理を完璧にしてくれるんだろう?」

 セレスティンは、腕時計を左手首につけた。うまく回っていなかった世界の歯車が、カチッと音を立ててあるべきところに収まった。彼女の才能を遺憾無く発揮することのできる世界だ。  

 セレスティン・ウェーリーは、ヘルサンジェル社経営最高責任者マッテオ・ダンジェロの最も有能な秘書として、その日の遅れていてる予定をうまく調整するために、その冷静で切れる頭脳を有効に使いだした。

(初出:2017年9月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

パンのお供(4)トマトペースト

パンのお供シリーズの四回目ですね。今回ご紹介するのは、ものすごくシンプルなんだけれどやたらと美味しい、自家製ドライトマトを使ったトマトペーストです。



ドライトマトを手作りするというと、あまりこの言い方好きではないのですが「女子力が高い」みたいに思われるかもしれませんが、そんなことはありません。もともとは買いすぎたプチトマトがこのままでは腐ると思ったので、何とかしようと思って始めたものです。あ、今でも作るきっかけはそれかも。

それと、甘いかと思って買ってみたけれど、いまいちだったプチトマト、細かく切ってトマトソース代わりに料理に入れてもいいんですが、そもそもそういう時期は普通のトマトがあるので、やはり乾燥させてドライトマトにしてしまうのが一番です。

ドライトマトの作り方は天日干しとオーブンと二種類あるのですが、私は手っ取り早くオーブンで作る事の方が多いです。半分に切って天板に並べてオーブンに突っ込むのですね。あまり温度を高くすると焦げてしまうので注意が必要です。トマトは熱で糖度が増すらしく、半乾きの状態になった頃にはすでに美味しくなっています。

完全にドライトマトにして長期保存したい場合はちゃんと乾かさないとまずいのですが、私は全部トマトペーストにしてしまうので半乾きで十分です。あとは塩をしてオリーブオイルをひたひたに注ぎ、フードカッターなどで細かくするだけです。フードカッターがない場合はみじん切りかな……。私は面倒臭がり屋なので愛用のブラウン マルチクイックでガーっとやります。

ドライトマトなんか作るのは嫌だと思われる方も、市販のドライトマトを戻してでもいいから、是非一度試していただきたい味です。これがまた、美味しいんだ。私はバターに煩悩しているので、バターつけていますが、バターなしでも美味しいはずです。あと、フランスパンを薄くスライスしてガーリックをこすりつけてトーストした後にこれをのせたら、速攻でおしゃれなオードブルになります。騙されたと思って試してみてください。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(9)ニューヨークの風

今回も「郷愁の丘」の続きです。またさらに時間が経って、十月くらいのニューヨークです。

前回は時系列でいうと、去年の夏に発表した外伝「花火の宵」のシーンの直後(七月)にあたると書きましたが、今回の話は、「scriviamo! 2017」で外伝として発表した「絶滅危惧種」の翌月にあたります。あの小説で、グレッグは「ミズ・カペッリには連絡していない」と会う予定もないようなことを言っていましたが、それではストーリーが進まないので、ちゃんと逢わせます。

今回は、前作「ファインダーの向こうに」で重要な役割を果たしたジョルジアを陰に日向に助ける編集者ベンジャミンの視点になっています。前作をご存知の人なら、彼の複雑な心境が理解できると思いますが、わからない場合も無視してノープロブレムです。ちなみにベンは妻帯者です。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(9)ニューヨークの風

 《アルファ・フォト・プレス》の編集者であるベンジャミン・ハドソンは、クライアントを社の玄関まで送って、握手を交わした。彼が見えなくなると、仕事に戻ろうと身を翻し、受付横の売店で接客中の売り子ジェシーが手を振っているのに氣がついた。

「なんだ?」
「あー、うちの出版物のデータベースって、撮影者の名前で検索すると全部引っかかるんでしたっけ?」
「クレジットのある写真はひっかかるさ。誰の?」
「ミズ・カペッリです」

「ジョルジアなら、写真集を見つけるのは簡単だろ。雑誌の方は引っかかりすぎて反対に探しにくいぞ。『クオリティ』は特集で探せばいいが、『素材事典』は興味ないだろうし、『アルファ』もたった一枚入っていても引っかかっちゃうからなあ。彼女らしい作品を探しているなら、検索だけじゃなくて実際に中身を見てみないと」
「こちらのお客さんは、写真集はもう全てお持ちなんですよ。『クオリティ』の方はいま僕が手配したから……」

 ずいぶん熱心なファンだな。会社まで赴くとは……。そう思って、初めてその客を観察し、ベンジャミンははっとした。
「失礼ですが、あなたはヘンリー・スコット博士ではありませんか?」

 その男は、ぎょっとしたようにベンジャミンを見て、それから頷いた。
「そうですが、なぜ僕をご存知なんですか?」

「なぜって、あなたの写真がラストページにくる彼女の写真集の責了校正を昨夜遅くまでやっていたからですよ。この会社で編集長代理を務めているベンジャミン・ハドソンです。はじめまして」

 半年前、アフリカ旅行から戻ったジョルジアは、写真集の編集会議で一枚のプリントアウトを見せた。
「ラストは、これにしたいの」

 それは、他の写真と同じくライカで撮ったモノクロームだった。異質だったのは、写真の背景に暈けているが肉食獣に殺されたばかりとわかるシマウマの死体が映り込んでいたことだ。野生の世界の掟として受け入れつつも、親しんでいた若いシマウマの死に直面した男のやりきれなさを、その一枚の写真は見事に映し出していた。

 ベンジャミンは、戸惑った。いい写真だとは思う。だが。

 彼はずっと最終ページはジョセフ・クロンカイトを撮った例の墓地の写真にすべきだと強く主張していた。その写真を使わなければ、写真集は完全ではないとすら思っていた。

「撮影許可を得て撮った写真じゃないから使えるわけないでしょう」
彼女は、その写真が自分の作品と人生の中に占める位置を熟知した上でベンジャミンが提案しているのをわかっていても抵抗した。

 彼が場を設定するのでクロンカイトに頼みにいくべきだと言っても、ジョルジアは決して首を縦に振らなかった。なぜこの写真が重要なのかを本人に知られたくなかったのだ。
「マッテオの海辺の写真でいいんじゃないかしら。あれもこのスタイルで写真集を出すきっかけになった写真だし」

 彼女の心をとらえて人生を左右したニュースキャスターと、人生のほとんどを共に過ごした彼女の兄のどちらも、ベンジャミンにとっては納得のいく選択だった。ジョルジアの友人としてだけではなく、プロの編集者としても。どちらも有名人で、実に見栄えがする。だが、そのどちらかを置こうとしていた位置に突然見ず知らずの男の写真が飛び出した。しかも二人と比較して、その平凡な中年男はラストページにふさわしい華やかさに欠けていた。

「これは、誰?」
そう訊くと、ジョルジアは短く答えた。
「ヘンリー・スコット博士よ」

 ジョルジアは、わずかに微笑んでいた。その微笑みにベンジャミンの心は騒いだ。いや、それはありえないだろう。クロンカイトとは似ても似つかぬ地味な中年男じゃないか! ベンジャミンは、昨夜その写真を複雑な思いで十分ちかく眺めていた。

 その冴えない男が、なぜここにいるんだ? 
「アメリカにいらしていたとは知りませんでした。ここでジョルジアと会うお約束をしているんですか?」

 スコット博士は、なんとか狼狽えている様子を隠そうとしていた。
「いや、たまたま学会で……。お忙しいでしょうから、ミズ・カペッリにはお知らせしていません」

「ちょっと待ってください。今日は出勤してくるはずだけれど、時間は指定していなくて」
そういうと、ベンジャミンは携帯電話を取り出してジョルジアにかけた。スコット博士が慌てている様子を視界に入れて、こりゃ思っていたより全然親しくなさそうだと心の中で呟いた。

「あ。ジョルジア? 《Sunrise Diner》にいるのか。いや、僕の用事じゃなくてさ、今、社の売店にスコット博士が来ているんだけれど……え、そうだよ、ケニアの、うん……あれ?」
ベンジャミンは、困ったように電話を見た。なんだ? なんで慌てて切っちゃったんだ?

「す、すみません。いま彼女、ここから五分くらいのダイナーで朝食をとっていたみたいなんですが、待っててと言って電話切ってしまって……おい、ジェシー、とりあえずここ半年の『アルファ』を全部持ってきて、お見せして」

 ベンジャミンが、ジェシーに指示してから電話をかけ直そうと操作していると、メインエントランスでがたんという音がした。
三人が振り向くと、息を切らしているジョルジアがそこにいた。

「グレッグ……」
「ジョルジア」

 彼女は、《Sunrise Diner》を飛び出して、何も考えずに走って来たらしく、スコット博士を見つめたまま、次の言葉が浮かばないようだった。彼は、自分の方からジョルジアの方へと急ぎ足で歩み寄って「すまない」と言った。

「どうして……」
「その、君の邪魔をするつもりじゃなかったんだ。ただ、せっかくニューヨークまで来たから、まだ持っていない君の写真を……」
「そうじゃなくて、どうして来るって報せてくれなかったの?」

「……。君の迷惑になると思ったんだ」
「そんなわけないでしょう。いつ着いたの?」
「今朝」
「どのくらい居るの?」
「一週間」

 ベンジャミンは、二人の横を通って言った。
「ジョルジア、打ち合わせは今日でなくてもいいから。時間の空いた時に電話してくれ」

 それからスコット博士に「よいご滞在を」と言って、オフィスへと帰っていった。刺々しさが出ないように、自分を抑えなくてはならなかった。
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Posted by 八少女 夕

天邪鬼をすこし控えようと思うわけ

唐突な話題ですが、ここのところ時々考えることや、ブログのお友達とのコメント欄でのおしゃべりで思ったことなどをつらつらと。

私は人が群がっていることに「私も!」と駆けつけるのが好きではありません。混んでいるところを辛抱強く待って、譲り合いながら一瞬だけ楽しむというのが苦手なのです。たっぷりのんびりと楽しめないのだったら私の分は譲るから、と思ってしまうのです。

まだ知られていない素敵なスポット、まださほど売れていない劇団の公演、めちゃくちゃ対応が良くて美味しいのにガラガラのレストラン、お城なのに妙に安くてフレンドリーなホテルなど、素晴らしい事をほぼ独り占めが好きなのです。

といっても、趣向が特殊というわけではなく、一般受けするモノにけっこう胸キュンしたりしているので、単なる天邪鬼です。

この傾向は、芸術作品を観賞するチャンスにも影響しています。

例えば東京にいると、世界中のどこにいるよりも名画を見るチャンスが多かったりするじゃないですか。アルフォンス・ミュシャが来たり、フェルメールが世界中から集まってきたり。もちろん今はもう東京に住んでいないので観に行けないんですが、行けたとしても炎天下で何時間も行列をして観に行くことにうんざりしてしまうのです。

私はラファエロの絵画が大好きなので、ローマでも、フィレンツェでも、ウィーンでも、ドレスデンでも率先して観に行ってぼーっと何十分も絵の前に座っていたりします。でも、それが全部自分の住んでいる町に来たとしても、平日八時半の山手線の中みたいな混雑の中で、誰かの頭越しにまとめて観たくはないのです。別に絵画の方はどう観られても何も感じないに決っていますが、私はどうしても一対一で対峙したいと、くだらないこだわりに負けて、足を向けられないのですね。

さて、天邪鬼は音楽の好みでも影を投げかけているようです。

私が子供の頃、苦手なクラッシック音楽のラインアップはこんな感じでした。モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」「フィガロの結婚」、ベートーヴェンの「運命」「田園」「エリーゼのために」シューベルト「野ばら」「魔王」……。

どれも音楽の授業に出てくるウルトラ有名な曲ばかりです。そうやって聴かされすぎたイメージに辟易してしまっていたようなのですね。「運命」の最初のジャジャジャジーンが聞こえると、もうラジオのチャンネルを換えてしまう、そういうところがありました。

でも、よく考えると、私はその交響曲の全てを丁寧に聴き込んでいたわけではないのです。大人になってから改めて聴くと、ベートーヴェンの意図していた音の構成、完成度に改めて唸らされますから、単に有名だからと言って「けっ」と避けるのは馬鹿げているという事がわかります。

最初に書いた展覧会の話も、私のようにドレスデンだのウィーンだのに、国内旅行と同じような氣軽さで行ける場合はいいですが、これが生涯で最初で最後のチャンスだという場合は、たとえ山手線内のような混雑の中でも、印刷を見るよりは本物を見た方がいいのでしょうね。

「モナリザ」と「サモトラケのニケ」だけを駆け足で観るようなルーブル美術館の見方は嫌いだけれど、でも、「モナリザ」は絶対に観たくないというのは、天邪鬼を通り越して勿体ないと思います。正直言って「サモトラケのニケ」よりも「瀕死の奴隷」にグッと来た私ではありますが、名作と言われる芸術品には、なるほど素通りしない方がいい何かがあります。「有名だから観賞すべき」ではなくて「有名になるべくしてなった何か」を感じる事ができるから。だからこそ、押し合いへし合いの中では観賞したくないのですが。

たとえば、もともと私は現代芸術、現代建築というものは今ひとつわからない人で、ピカソでも「?」な作品が多いのですが、マドリッドで観た「ゲルニカ」には圧倒されました。あれほどの衝撃を感じた芸術作品は他にはあまりないので、ピカソがゲルニカへの攻撃について世の中に訴えかけようとした事を具現する能力の物凄さは、もはや天才という言葉しか浮かびません。

「有名だから嫌だ」「現代芸術だから嫌い」というのではなく、何を伝えようとしているのかを感じる事のできるモノ、そして、その訴えかけに共感できるモノは素直に素晴らしいと思うのです。

そんなこんなの考察を経て、今の私は、やはり天邪鬼のままではありますが、できる限り先入観による食わず嫌いに支配されないように心がけることにしています。それに、かつては「今見なくても(聴かなくても)そのうちに素晴らしいシチュエーションで経験できる機会が回ってくるかもしれないから、今はいいや」と思う事も多かったのですが、最近は「う〜ん、これを逃したらおそらく生涯なさそう」と感じる事が多くなってきていますので。

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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(8)往復書簡

2回ほど別の小説が入りましたが、「郷愁の丘」の続きです。ジョルジアは春のアフリカ旅行を終えてニューヨークに戻りいつも通り生活をしています。

そして今は夏。ムティト・アンディ駅で別れてから、現在に至るまでの二人の交流を、交わした手紙で表現しています。手紙によって取り巻く状況や時間の経過、それに心の動きを表現するという手法は、あまり得意ではないのですが、今回の二人は特殊な関係の上に思いっきり遠距離なので、うんうん唸りながら書きました。

いつもは四千字超えたら二つに切るんですが、今回は適度な長さに切れなかったので、まとめて掲載しています。

ところで、今回は時系列でいうと、去年の夏に発表した外伝「花火の宵」のシーンの直後にあたります。あちらを発表した時には、ジョルジアがどういう状態にあるのか知っているのは私一人だけだったのですが、本編を読んでからあちらを読むと、ちょっと「ふふふ。キャシー鋭い。なんか、あったのよ」「あ。兄ちゃん、いまひとつ分かっていないね」とニヤニヤできる、という趣向になっています。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(8)往復書簡

親愛なるジョルジア。

夏を楽しんでいるかい。君の手紙を読むとニューヨークの移り変わる季節を身近に感じるよ。独立記念日の花火は楽しそうだね。僕も花火は好きだ。野生動物たちにはストレスだから、本当は喜ぶべきじゃないんだけれど、どうしてもワクワクしてしまうんだ。

君の観察眼には驚いたよ。消印によく氣がついたね。そうだ。あの手紙を投函した日は、僕はヴォイにいたんだ。マディが産氣づいたんだけれど、例によってアウレリオがまた居なくなってしまい、レイチェルが駆けつけるまで病院で待機する事になったんだ。メグがぐずって大変だったよ。『ジョルジアはどこ』って言うんだ。参ったよ。

マディの第二子は男の子だったよ。エンリコって言うんだ。アウレリオはとても喜んで、サッカー選手にするって息巻いている。マディはとんでもないって言っているけれど。

いずれにしても乾季だったおかげで病院まで行くのも君が居た時ほどの時間がかからないので助かった。翌日は、講義があったから朝一で戻ったんだ。

先日の君の手紙を読んでから、研究とは全く別に「目が騙される事」についてしょっちゅう考えている。ここにいたとき、君は人間の目はわずかな色を感知してカラーとモノクロームの違いを見分けられると言っていたよね。そんなにわずかな差を見分けられる目でも、遠近法によって平面に描かれた絵は立体と感知してしまうってことだよね。色の違いには敏感でも、次元の違いには簡単に騙されるというのは興味深いな。

そう考えて、君の写真をもう一度眺めてみたら、本当にその通りだと思ったよ。でも、同じ写真でも、奥行きの感じ方は作品によって違うんだね。君の撮ったあのマサイの少女の写真は、笑顔に目がいって立体感そのものはあまり感じない。もちろん平面には見えないけれどね。でも、君が送ってくれたモノクロームで撮ったサバンナの写真、例の僕とガゼルが映っているものだけれど、あの写真にはものすごく距離を感じるんだ。近くに映っている僕と、それからサバンナとの。地平線が永遠の彼方にあるように感じる。光の加減なんだろうか、とても寂しい惑星にたった独りの人間として居るみたいだ。おかしいね。あの時、君が僕の隣に居たのに。

やはり、前に君が話していた、アリゾナの写真を見せてもらいたいな。大切な作品を覗き見るのは失礼かと思っていたけれど、君が沙漠で感じた事、サバンナと違いについても興味を惹かれるんだ。それとも、いつかその作品も《アルファ・フォト・プレス》から出版されるんだろうか。そうだとしたらもちろん購入するよ。それに、送ってくれるとしても本当に時間のある時でいいんだ。

とても忙しそうだけれど、身体を大切にしてくれ。そして、また氣が向いたら、新しいニュースを聞かせてほしい。別に今日何を食べたか、なんてことでもいいんだ。僕が君の手紙を読んでいると、ルーシーが喜んで寄ってくるよ。まるで君からだとわかっているみたいに。彼女に言葉が話せたらきっと「よろしく」って言うと思うから、ここに加えておくよ。じゃあ、また。

君の友、グレッグ



 彼からの手紙を読む時、ジョルジアは誰にも邪魔されない場所を探した。通信のほとんどを電子文書で送ることが可能になってから、彼女はほとんど手紙を書かないで過ごしていた。旅先で二言か三言挨拶を書いた葉書を書く事はあったが、それだけだった。だから、グレッグと文通をすることになるとは思ってもみなかった。

 春のアフリカ旅行から戻ってすぐに、彼女は撮った写真を現像した。グレッグの写真で写真集に入れる予定の作品はいくつかあったが、その他にも自分だけで持っているのはもったいないと思うものがあった。ランプに灯をともしている時の半分影になっている優しい微笑や、サバンナで仲間からはぐれたガゼルを見つけた時の印象的な横顔。それに、ルーシーと無邪氣に遊んでいる姿は最高の出来で、少し大きく引き延ばして歓待に対する感謝の手紙に添えて送った。

 十日ほどして彼から返事が届いた。彼の丁寧で小さい文字が便箋の上に行儀よく並んでいた。なんという事はない報告がいくつか書いてあったけれど、ちょうど《郷愁の丘》で飽きずに何時間も話した時のように興味深いトピックがあり、ジョルジアはすぐにまた返事を書いた。

 それから、手紙の往復が始まった。ジョルジアは、彼の手紙を読み、彼に返信する時間を大切に思うようになった。それは、それまでジョルジアの身近にはなかった知的興奮、生活の彩り、それに、どこかときめきに似た感情を伴っていた。

こんにちは、グレッグ。

そろそろニューヨークの夏は終わるようだわ。ショートパンツやノースリーブの人たちも少なくなってきたみたい。この間、ものすごいにわか雨が降ったの。《郷愁の丘》の雨を思い出したわ。でも、そちらは乾季なのね。動物たちには厳しい季節なんでしょうね。あなたの所は大丈夫なの? 地下水も乾季には減ってしまうんでしょう? 水道水があるのってとてもありがたい事なのね。蛇口をひねる度にそう思うようになったわ。

メグに弟が出来たのね。今度はイタリア風の名前ね。どうか心からの祝福を伝えてちょうだい。ミスター・ブラスって、本当にいつも肝心な時にいなくなってしまうのね。あなたが駆けつけてくれて、ミセス・ブラスはさぞ安心したことでしょう。でも、寝不足で運転するのは危険よ。氣をつけて。

あなたが指摘してくれた、作品の奥行きの事、驚いたわ。自分で撮った写真なのにそんな風に見た事がなかったの。あなたが感じている奥行きは、二次元と三次元の違いではなくて、もしかしたら心象の奥行きのことなんじゃない? そして、それは作品の中に映っている物体だけでなく感情が映し出されていると感じてくれたんでしょう? それは、私があなたの中に見たものなのかしら。それとも、私の心の中にそれがあるの? もしかしたら作品を見ているあなたの中にあるものなのかもしれない。いずれにしても私は今回の写真集に使う写真の中で、心象を映し出したかったの。だから、あなたの感想は、最大の讃辞だと受け取らせてもらうわ。ありがとう。

例のアリゾナの写真が掲載された『クオリティ』誌、同封するわね。私が紙焼きした一枚を挟んでおくから、雑誌との違いについての感想もお願いね。

ところで、私の方も、あなたとの会話のおかげで違う見方をするようになっているわ。視野の話だけれど、前方に見えている物の他に、左右に動く物が見えていることを意識するようになったの。ニューヨークの街を歩いている時にも、往来の右や左で起こっている事が確かに情報としていつの間にかインプットされているのがわかるの。ただし、確かに真後ろで起こっている事は、目が前方についている私たちには見えないのね。今まで意識していなかったけれど、時おり後ろを振り返って安全確認をしていることを改めて感じたわ。後から襲われる危険のある都会に何世代も住んでいると、私たちの子孫の目の位置もシマウマのように横に移動していくのかもしれないわね。

今日、私が何を食べたか興味ある? 魚よ。休みで時間があったから、新鮮なヒラメを焼いて、野菜と一緒にビネグレットに漬けてみたの。私の両親は昔、漁師をしていたって話したわよね。だから、私、普通のニューヨーカーよりもたくさん魚を食べるの。かつて住んでいたノースフォークで穫れた魚を入手できたのよ。そういうチャンスに恵まれると、なつかしさで不思議な氣持ちになるの。あの村の事は、また今度じっくりと説明するわね。じゃあ、また。

あなたの友達、ジョルジア



 ここにいたら、あなたにも食べさせてあげるのに。

 ジョルジアは、あまりにも自然にその考えが出てきた事に自分で驚いた。これまで彼女の生活に一緒に住む誰かの存在は全くなかった。両親や、兄もしくは妹は別として、誰かに手料理を振る舞う事もまずなかった。

 《郷愁の丘》に滞在した二週間、ジョルジアは彼と生活を共にしていた。調理をし、食事をし、皿洗いや片付けを共にして、テーブルを動かし、床を掃き、愛犬ルーシーの世話をした。普段は自分一人しかいない生活空間を、そもそも彼一人の物であるはずのあの家を、二人で共有して同じ時間を過ごした。たくさんの話をして、一度も退屈だったり、煩わしいと感じた事がなかった。

 おそらく二週間でなく、二ヶ月でも、二年でも、二十年でも、きっとこの人とは、一人でいるのと同じようにリラックスして、穏やかな時間を過ごせるのだろう。そして、一人でいるのよりもずっと楽しく興味深い日々を。

 それから、距離の事を考えた。アメリカとケニアの。ニューヨークと《郷愁の丘》の。ジョルジアとグレッグのいびつな関係の。

 二人の関係の危うさのことは、ジョルジア自身が誰よりもよくわかっていた。一緒に暮らすどころか、「再び逢いたい」という事すらも憚られる。そう言った途端に、恋愛関係を進めたいと思っているように響いてしまう。進めた方がいいのかもしれない。「友達」というレッテルはもはや彼女の中ではそぐわなくなっている。激しい恋のときめきはなくても、実の家族以上の近さを感じている人なのだ。それに、彼がレイチェルの家で告白した想いを引きずっているのならば、いつまでも友人関係に固執する事はひどく冷たく残酷な拒否になる。

 一方で、彼が自分に恋をしたのは、真実を知らないからなのだと思った。友人の枠から外れて進めば、精神的なものだけでなく肉体的な交わりも避けられなくなる。彼女は、「醜い化け物」と呼ばれた肉体を晒す瞬間を怖れている。それはこれまで築き上げてきた全てを覆してしまうかもしれない。そうなった時に何が残るのだろうか。二人の間に。ジョルジア自身の中に。

 極めて厄介な恋愛関係を介在させずに、ただ親しい人として、家族のように、彼に会う事ができたらいいのに。

 ケニアはあまりにも遠い。《郷愁の丘》は地の果てにひっそりと隠れるように存在している。彼は来る日もサバンナでシマウマたちを観察している。「偶然」再会することははない。

 ワイン片手に「近くまで来たから」と訪問し合うような距離にいたらどんなによかったことだろう。彼女は封筒に宛先を書きながら、ため息をついた。
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Posted by 八少女 夕

レマン湖へ

今年の夏休みは、一度六月にイタリアに行ったこともあり、初めからどこか遠くに行こうとの予定をしていませんでした。ここのところの天候が優れないことや、義母の体調が今ひとつ優れないこともあって、長期の旅行はせずに近場に数日行って終わりにすることにしました。

そして行ったのが、連れ合いの生まれ育ったフランス語圏の小さな村です。この村には、結婚してからしばらくはよく行ったのですが、私が働きだしてからは長期旅行は大抵海外なので、本当に久しぶりになりました。

ヌフェネン峠

私たちの住むグラウビュンデン州から、ジュネーヴ州やヴォー州に行く方法はいくつかあります。方向は西に一直線なんですけれど、アルプス山脈がそびえているので、北に遠回りをするか、もしくは幾つかの峠を越えていくか選ぶ必要があります。楽なのは北回りですが、バイク乗りは山道が好きですし、連れ合いは高速の渋滞が大嫌いなので、チューリヒ経由なんてことはありえません。

まっすぐ西に向かい、フルカ峠などを経由してウリ州からヴァリス州に入ることもできますが、今回は往きはヌフェネン峠から、復路はシンプロン峠経由で、つまりどちらもイタリア語圏を通ってきました。そのほうが暖かかったということもあります。

紺碧の空が美しいヌフェネン峠。とても綺麗でしたが、やはり風が冷たくて長居は無用。秋ですね。ここで、イタリア語から再びドイツ語に戻り、ヴァリス州の途中までドイツ語の標識が続きます。

葡萄畑が続く

スイスは、ご存知のように公用語が四つあり、私の住んでいる州はそのうちの三つまでが公用語になっていますが、フランス語はそのうちに入っていません。使う機会が少ないので、私もまじめに習う氣がありません。スイスの西側三分の一ほどは、フランス語が公用語で、途中から標識も広告もフランス語オンリーになります。

それと同時に、人々の振る舞い、ライフスタイルもドイツ語圏とは大きく異なってきます。

レマン湖に沿ってなだらかな丘陵を覆う葡萄畑。美味しい白ワインやロゼが作られています。こののどかで開放的な景色は人々の生活様式にも影響を及ぼすようで、彼らはのんびりとワインを傾けながら何て事のないおしゃべりを楽しむことがドイツ語圏の人たちよりも好きな模様。外で隣人に遭っても「こんにちは!」と立ち止まって長々とおしゃべりをすることが多いようです。ドイツ語圏でも立ち話はするのですが、いちいち頬にキスをして楽しそうに話すフランス語圏の人たちと、割と硬い感じで真面目に会話をするドイツ語圏の人たちでは、会話の内容も雰囲氣もぜんぜん違うし、さらにいうと長さも違うのです。

ドイツ語圏の人たちはもっと時間に厳格で、十二時十五分前に長話をしている人などほとんど見ません。が、フランス語圏では昼食が十二時に始まらなくても関係ないと言う感じで長々と会話をしています。よく知らない人と簡単に友達になるのも、フランス語圏の人のほうが得意な模様。連れ合いは、今回も新しい友達を作ったみたいです。

レマン湖でラクレット

で、私はフランス語の会話の大半はスルーしつつ、英語やドイツ語で話してくれる人とは会話を楽しみ、開放的な風景を楽しみ、のんびりと時間を過ごしました。夏は過ぎ去ってしまったようで、最高でも25度くらい。変な組み合わせですが、湖水浴場でラクレットを食べたりしましたよ。

本当は四泊するつもりで行ったのですが、土曜日から雨になるとの予報だったので一日早く帰宅しました。土曜日は本当に土砂降り。暖かい自宅でのんびりできてよかったです。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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コメントのご質問に関する追加写真です。

Celignyの湖畔カフェ

こちらがラクレットを食べたセリィニの湖畔のカフェ(売店)です。日本の海の売店に似ているでしょうか。ただし、貸切個室みたいな施設はありません。飲み物やアイスバーなどは、左にある売店で注文して料金を払い、自分でテーブルに持っていって飲食しますが、ラクレットはできたものを持ってきてくれました。写真の中心でくつろいで電話している人が、売子です。こういう勤務態度がフランス語圏だなあという所以(笑)

Celignyの湖畔カフェ

湖に向いたテラス席。泳がない人も普通にやってきて、ワインやコーヒーを飲みながら寛いでいました。湖水浴場が、普通の生活に当たり前のように息づいている感じです。

Nyonの湖畔カフェ

ちなみにこちらは隣街くらいのニヨンの湖水浴場のテラス。ずっと大きい街なので、湖水浴場の規模もカフェやそこで扱っているメニューも少し充実していました。もっともそのために少しプールの売店っぽい感じで、個人的には鄙びたセリィニの湖水浴場の方がいい感じだと思いました。
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -11- ラグリマ

WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

今回は、Stellaの主催者であるスカイさんから「モンスター」というお題もいただいていたので、ものすごく強引にですが、モンスターの話題も混ぜてみました。


月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


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バッカスからの招待状 -11- 
ラグリマ


「スクォンクって知っている?」
連れの女性が、独り言のようにつぶやいた。それは、ここに着いた時から泣いてばかりいるもう一人の女性に話しかけたかのようであり、その一方で、斜め前に立っている田中に話しかけたようでもあった。

 田中は泣いている女性の方を可能な限り見ないようにしていたので、この問いかけにどう反応しようか迷った。もちろん彼はスクォンクが何であるか、見当もつかなかった。スカンクの言い間違いとは思えなかったし、このいたたまれない状況にスカンクという単語は場違いでもあった。

 大手町のビル街の中にあるバー『Bacchus』は、週の初めはさほど混んでいない。まだ、時間も早い。店主でありバーテンダーでもある田中は、この小さな店をほとんど一人で切り盛りしている。彼は、常連の客の名前をほとんど憶えているが、この女性はかつてある男性客に連れられて一度来ただけの客で名前は知らなかった。泣いている方は、初めてだ。

「なに……それ」
頭を上げた女性の顔が見えた。意外な事に化粧はほとんど崩れていない。田中は、おや、本当に号泣していたわけではないのかと思った。

 連れの女性はそんな友人に慣れているのだろうか、特に表情も変えずに言った。
「架空のモンスター。イボや痣に覆われていて、いつも泣いているんだって」

 すると泣いていた女性は真っ赤になって怒り出した。
「私がこんなに悲しんでいるのに、イボと痣のあるモンスター呼ばわりするなんて、どういうこと? 本当に冷たいわね! もういい。私帰る!」

 バックと上着を掴むと、そんなハイヒールでどうやって飛ぶように歩けるのかわからないが、とにかくものすごいスピードでドアから出て行ってしまった。田中が呆然として見送ってから、もう一人の女性の方を見ると、彼女は小さく笑った。

「大丈夫よ。彼女の分もちゃんと払うから心配しないで」
「いえ、その心配をしているわけではありません。差し出がましいですが、追わなくてよろしいのですか」

 女性は、首を振った。それから手元のレモン入りペリエのグラスを傾けた。
「いつものことよ。二週間もしたら、また新しい恋の話を聴かされるに決まっているの。失恋の悲しみなんて彼女にとってはルーティンみたいなもので、次の『運命の相手』に出会ったら、すぐに消滅してしまうのよ」

 田中はその話題は避けたほうがいいと思ったので、グラスを片付けながら訊いた。
「先程のスクォンクという生き物について、もう少し教えていただけませんか」

「あら、興味がある? アメリカのどこかの森にいるんですって、異常なまでに内氣で常に涙を流しているんですって」
「ネッシーのように目撃譚があるのですか」

「さあ。でも、あるから、そういう具体的な話が伝わるんじゃないのかしら。学名までついているそうよ。Lacrimacorpus dissolvensって言って、涙に溶けてしまう体って意味なんですって。怖がらせたりすると大泣きしてその涙で体が溶けてしまうから」

「ラクリマコルプス……ですか」
「悲しいことがあった時に、その話を思い出すの。涙で体が溶けてしまったら、辛いことから解放されていいなあなんて。そう望む人間が作り出した話なのかもしれないわね」

 彼女は、伏し目がちにほとんど表情を変えずにペリエを飲んだ。先程の女性は、あまりにも大げさに泣き声をあげていたが、特に辛そうとは感じなかった。けれどこちらの女性は、どこか心配になるような心の重さが感じられた。

「涙にして流してしまうと楽になるのかもしれませんね。そうでなければ、話してしまえば忘れることができるのかもしれません。もしくは、ドリンクに溶かして飲み干してしまうのもいいかもしれませんよ」

 女性は口の端だけで笑うと、ペリエのグラスを飲み干した。
「商売上手ね。せっかくだからこの会話にぴったりのお酒をいただきたいわ。溶けてしまわないように、外で泣き出してしまわないように、想いを溶かして飲み干してしまえるようなお酒を」

 少し考えて、田中は緑色の瓶を取り出した。
「涙を意味するラクリマ、ラグリマという言葉を戴いたお酒は幾つかありますが、このポートワインはいかがでしょうか。白ワインよりもずっと甘いですが、デザートワインほどは甘くないので飲みやすいです」

 グラスにそっと注ぐと、琥珀に近い白い液体の中を、わずかにゆらぐ模様が見えた。彼女は、それをゆっくりと口にして、しばらく何も言わずに味わっていたが、ゆっくりと頷いた。

「美味しい。不思議ね。辛すぎるのも、甘すぎるのも苦手だって、一言も言わなかったのに、どうしてわかったのかしら」

 もちろん田中にそこまで見通す能力があるわけではない。ただこの女性の佇まいとこのラグリマの味のイメージが重なっただけだ。
「お氣に召して嬉しいです。どれほど素晴らしい評価の酒でも、お客様のお好みに合わなければ喜んではいただけませんから」

 彼女は、グラスの縁を指先でそっとなぞった。
「そうね。人一倍努力したからといって、必ず報われるわけではないのよね。相手の好み次第で結果なんて簡単に変わる……。あ、ごめんなさいね。私、今日、少し落ち込んでいたので」

「そうではないかと思っていました」
「このお仕事も、大変なんでしょうね。人々の愚痴や不満ばかり聞かされてうんざりなんじゃない?」

 田中は首を振った。
「積極的にお話しになる方もありますが、何もおっしゃらずに飲み込んでしまわれる方も多いのです。その分、グラスの中に溶かしてしまわれるのでしょうね」

 彼女は、顔を上げて田中を見た。
「そう。言いたくても言えない人もたくさんいるのね。さっきの子のこと、私はちょっと羨ましく思っているの。泣いて騒いで、翌日にはアルコールが抜けるみたいに、悲しみも問題も消えてしまっている。そんな風に発散できたら、素敵ね。私はいつも一人でメソメソするだけ。スクォンクみたいにね」

 それからしばらく黙っていたが思い切ったように訊いた。
「私をこの店に連れて来た人、憶えている?」

 田中は頷いた。
「はい。お名前は存じあげませんが」

「よくこのお店に来るの?」
「いえ。あの時で三回めでしたが、あれからお見えになっていらっしゃいません」

 彼女は、ほっと溜息をもらした。
「そう。だったら、安心してまたここに来られるわね」

 カランと音がして、入り口のドアが開いた。田中は挨拶をした。
「夏木さん、こんばんは。今日はお早いですね」

「こんばんは、田中さん。今日は一番乗りを目指してきたのに、先をこされていたみたいだね」
夏木は肩をすくめて、女性に会釈をすると、カウンターの奥の自分の席と決めている位置に座った。

「名前を憶えてもらっているって、羨ましいわ」
彼女はそう言うと、グラスを持ち上げて夏木に笑いかけた。

「田中さんは、こっちが名乗ったら忘れずに、そう呼んでくれるんですよ。僕も、こんな風に馴染んでいるお店はここしかないんです。あ、僕は夏木敏也といいます」

「はじめまして、夏木さん。私は柴田雅美です。田中さんもどうぞよろしく」
田中は雅美に会釈した。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします、柴田さん」

 やがて、すみれや近藤も来店して、いつものようにカウンターに座った。程よい距離感を保ちつつ集う常連たちと会話を交わしているうちに、雅美を覆っていた重い憂いのヴェールが少しだけとれたように田中は感じた。

 田中は『Bacchus』を、人々の心の交流の場にしたいと願ってきた。メニューに載っている飲食を提供するだけではなく、足を運ぶ人たちが悲しみを忘れ、喜びを増すような場にすることが理想だった。そのために知識を得、研鑽を重ねることで、素晴らしいバーテンダーになるのだと勢い込んでいたこともあった。

 だが、月日が経ち、人生経験を重ね経営を続けるうちに、どんな人をも笑顔にするような魔法はないことがわかってきた。その一方で、通ってくれる常連たちが、彼の代わりに魔法を使ってくれることも知った。だから、誠実に働くこと、大切な客の一人一人をもてなすこと、彼らの居心地のいい場を提供することこそが、この店を彼の理想に近づける近道だと思うようになった。

 柴田雅美も、この店の新しい仲間になるかもしれない。彼女がこの店に集う暖かい客たちに馴染むことで、件の怪物のように涙で溶けてしまう悲しみから解放されることを、田中は心から願った。

(初出:2017年9月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

マイリンゲン



イギリスから来ている叔母に会うためにマイリンゲンに来ました。

シャーロック・ホームズゆかりの街で、泊まったのもコナン・ドイルが滞在して構想を練ったところ。

今のように観光地化していなくて、雰囲氣があったのでしょうね。

雨のため電車で来たのでまったりとしていました。
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Posted by 八少女 夕

【小説】麦わら帽子の夏

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」八月分を発表します。八月のテーマは「帽子」です。

このキャラ、どこかで見たぞと氣になる方がいらっしゃるかもしれません。「十二ヶ月の野菜」の中にあった「あの子がくれた春の味」に出てきた林かのんが再登場しています。あの掌編のコメントで「どういうわけであの子がああいう所に嫁に行くことになったのか知りたい」というお声を幾つかいただきましたので、そのリクエストにお応えするつもりで書きました。


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麦わら帽子の夏

 大学の英語のクラスで初めて林かのんを見た時、あまりいい印象を持たなかった。

「おい。あの子、まるで人形みたいにかわいいぞ」
クラスメートの男どもの大半は、彼女のフリフリな洋服や、完璧に手入れされた長い髪、それに整った顔立ち、とくに形のいい唇に惹きつけられていた。

 だが、太一は大きな目をゆっくり伏せたり、妙に首を傾げたりする、思わせぶりな動作に演技臭いものを感じて「けっ」と思ったのだ。

 砂糖菓子かよ。何ひらひらしてんだよ。可愛ければ、いいってもんじゃない。

 太一が通うことになったのは、総合大学で様々な学部がある。一年生の間だけ共通の教養学を全ての学生が一緒に学ぶことになっている。例えば、英語の授業はいろいろな学部の学生がランダムにクラス分けされていた。

 太一の入った農学部には、女学生は少ない。ましてや林かのんのようなふわふわしたお嬢さんタイプは、まず見かけないだろう。千葉の農家で生まれ育った太一の周りには、これまでこんな風が吹いても泣きだしそうな女はいなかった。がっつり食べて、朝から晩まで畑で作業する母親に代表される骨太の女ばかりに囲まれていたのだ。

 それは、新学期が始まって一ヶ月ほど経ったてからだと思う。

「大崎くん。かのん、ここに座っても構わない?」
横をみると、林かのんが一人で立っていたので仰天した。隣の席は、確かに空いているが、なぜわざわざここに。振り向くと、トイレすらも集団で行く、ひっつき虫の女どもはまとめて後ろの席に座っていた。そして、その列にはもう空きはなかった。

 だが、林かのんと親しくなりたがっている野郎どもの隣はまだいくらでも空いているのに。それよりも、この女が、女の集団に尻尾を振らないで一人で行動したことのほうにもっと驚いた。

「いいけど、ここに座るとかなりの確率で当てられるぞ。教壇からちょうど目にはいる席だしさ」
「大丈夫。かのんね、ちゃんと予習しているもの」

 へえ。そりゃ、ご立派なことで。そもそも、なんだよ、その一人称。自分の名前を呼ぶの、痛々しいぞ。

「後ろの方、みんなおしゃべりしていてあまり授業に集中できないんだもの。先週、大崎くんは、ちゃんと聴いていたでしょう? だから、次はかのん、ここに座りたいなって思っていたの」

 それから、妙なことになった。彼女がひっついて来るようになったのだ。最初は、授業に集中できる席のために隣に座るのかと思っていた。変な女だとは思ったけれど、一理あると思ったので、それ以上のことは考えなかった。毎週のことだから、林かのんと付き合いたがっている男子学生たちからは妬まれたけれど、「知るか」と無視していたら、大したライバルではないとわかったのか相手にもされなくなった。

 太一は雑誌に出てくるみたいな格好をして、ナンパに血道をあげているような男たちとは、全く仲良くしたくなかったので、クラスの男にしろ女にしろ他の学生たちとつるまずに一人でいることにはまったく問題がなかった。ところが、別の授業に行こうと移動しようとすると、林かのんが一緒についてくることがあった。

「なんだよ」
「大崎くん、次の授業は西棟四階でしょう。かのん、三階で美学史だもの」
「あ、そうか」

 来るなというのも変なので、一緒に歩いたが、これでは周りにつきあっていると誤解されるじゃないかとちらっと思った。っていうか、誤解されてもいいのか、この女は。

「ねえ。大崎くん。農学部だから知っていると思うんだけれど」
「なんだ?」

「かのんね。夏休みに普段できないような仕事を体験するアルバイトをしようと思って、いろいろと探してみたの。そうしたら、地方の農家で住み込みで働くというのが結構あるんだけれど、まったく知らないところに行くのを親が心配して反対するの。大崎くん、知っているお家でそういうバイト探していないかしら」

 太一は、目を丸くした。こんなマシュマロ女が、農家でバイト? ありえん。
「いや、君さ。農家はきついぞ。そう簡単に……」

「かのんだって、それはちゃんとわかっているよ。ママもそう言って許してくれないけれど、そんな事言っていたら、いつまで経ってもやりたいことにチャレンジできないじゃない? 就職したら、きついなんて言っちゃいけなくなるのに」

 うん。まあ、正論だ。でもなあ、言いたくはないが、農業体験ができるという触れ込みで実は嫁探しをしていたなんて話も聞いたことがあるし、知らないところは奨められない。でも、知っている農家にこんな弱そうな女を紹介して、キツさに泣いて一日で辞められたりしたら、俺が叱られるじゃないか。

「あー、俺が紹介して、林が速攻で弱音を吐いても迷惑をかけずに済むところと言ったら、一つしか浮かばないな」
「どこ?」

「俺んち。オヤジの農園。千葉で野菜を作っているんだ。遠いけれど、絶対に日帰りできない距離じゃないし、泊まるならちゃんとうちの敷地に玄関も別の部屋がある。なんなら親父とお袋に訊いてみるけれど」

「本当? かのん、やってみたい。バイト代、安くても構わないから、是非お願い」
彼女は目を輝かせた。おいおい、いいのか、そんな安易に。いつもこの調子で色んな男のところにホイホイついて行っているんじゃないだろうな。太一は首を傾げた。

 そして夏休みになると、彼女は本当に大崎農園にやってきて、一ヶ月も住み込んだ。まさかフリフリのスカートでくるんじゃないだろうなと心配したが、一応、デニムでやってきたので安心した。もっとも、ベージュだの薄い水色だの、舐めているんじゃないかという色のジーンズで、Tシャツもやけに可愛いオシャレなヤツだった。もちろん、うちのような田舎では浮きまくっていた。

 どういうわけか、母親に妙に氣に入られ、作業中だけでなく、夜の食事の手伝いなどでもいつも一緒にいたし、初日からずっと近所で育ったみたいに馴染んでいた。そして、珍しい動物が来たみたいに、父親や近所のおじさんたち、それに他のバイト兄ちゃんたちからも可愛がられて、ものすごく重いものは持たされずに済んでいたようなので、可愛いというのは得だなと妙な感心をした太一だった。

 太一が驚いたことに、ふわふわしたイメージとは裏腹に、彼女は実によく働いた。ネギを引っこ抜く作業は見かけよりもきつい肉体労働だが彼女は「疲れた」などということは一言も言わなかった。それに綺麗にして並べて出荷用に箱詰めするときも、とても丁寧だけれど思いのほか機敏でバイトの中で一番早く父親を満足させる作業ができるようになった。

 UVケアに必死で日傘でもさすんじゃないかと思っていたが、日焼け止めは塗っているようだけれど、外での作業もまったく嫌がらずに、つばの大きい麦わら帽子を被って作業をしていた。

「林、大丈夫か。熱中症にならないように氣をつけろよ」
一緒の作業になった日に、太一は言った。

「かのんね。このくらい何ともないよ」
麦わら帽子の下で、いたずらっ子のように大きい瞳が輝いた。太一は、その笑顔にどきっとした。

 彼女がバイトを終える前の晩に、別れを惜しんだ両親や、近所のおじさんたち、それにバイトの若者達が集まって、大きな宴会をした。

 採れたての枝豆や、母親が得意な手作りこんにゃくのステーキなど、ビールによく合うつまみが多くて、ついみんなメーターが上がってしまう。林かのんの送別会のはずだが、ただの飲み会になって、当人が何度も台所と往復するようなことになっていた。

「本当によく頑張ってくれたな。よかったら、また来年も来てくれよな」
父親が、空になったビール瓶を片付けるために台所へ向かおうとする彼女を引き止めて隣に座らせ、酔いで真っ赤になりながら上機嫌で云っていた。太一が最初に電話で訊いたときは「女の子は即戦力にならないからなあ」なんて言っていたくせに。

「太一は、無愛想だけれど、よかったら引き続き仲良くしてやってくださいね」
母親が、なんだかドサクサに紛れてとんでもない事を頼んでいる。ところが林かのんはにこにこ笑って答えた。
「私の方こそ、ずっと仲良くしていただきたいです」

 なに言ってんだ? その言い方は、もっと誤解されるぞ! 太一は、ビールをどんどん注がれて酔っぱらい、ふらふらになった頭で林かのんに説教をした。
「そーいうふーにー、けいかいしんのー、ないげんどう、を、しているとー、あぶないから。なっ。わかってんのか」

 彼女がにこにこと笑っていたような氣がするが、なんと答えたのかの記憶は、ほとんどないまま翌日になってしまった。

 太一は、母親に厳命されて、近くの無人駅にかのんを見送りに行った。
「あー、一ヶ月ありがとう。林が思ったよりもずっとよく働いてくれて驚いたよ。親父達も感心していた。バイト代、少なくてごめんな。少し色をつけたみたいだけれど、それにしても少ないだろう」

「ううん。全然少なくないよ。それに、一ヶ月、大崎くんと一緒に過ごせて、とても楽しかったの。もし、嫌じゃなかったら、また来年も来たいな。それに、二学期もまた大学で仲良くしてくれると、かのん、とても嬉しい」

 彼女の言葉に、太一はまたしても目を丸くした。こいつ、こんなことを誰にでも言うとしたら天然すぎる。

 太一は、以前から一度訊いてみたかった事を口にした。
「なあ、林。君、なんで俺なんかについてくるんだ? もっと、ちやほやしてくれる男が、いくらでもアプローチしてきているだろ」

「う~ん。かのんね、たくさんプレゼントしてくれる人や、なんでもしてくれる人、ちょっと苦手なの。大崎くんは、かのんがいてもいなくてもどっちでもいいのに、話しかけるとちゃんと答えてくれるし、一緒にいて心地いいの。それにね……」
「それに?」

「ずっと仲の良かった友達がいたの。今は、離れてしまったんだけれど。いつも背筋をピンと伸ばしていて、他のみんなが一緒にサンドイッチを食べようと言っても、私は好きなカレーを食べるっていうような子だったの。そういうところが大好きだったの。大崎くん、彼女みたいなんだもの」

「ふ、ふーん。確かに俺もカレーは好きだけれど……」
太一は、そういう問題じゃないとわかっていつつも、ピントのずれた答えしか返せなかった。

「じゃあ、今度、かのんがとびっきり美味しいカレーを作るよ。大崎くん、うちに食べに来る?」

 麦わら帽子についているオーガンジーのオレンジのリボンが風に揺れた。帽子の下に、溢れている笑顔は、これまでに見たどんな女の子の笑顔よりも可愛らしかった。太一は、やられたと思った。

 夏が終わり新学期が始まるまで、麦わら帽子を見るたびに俺はこの笑顔を思い出して、おかしくなってしまいそうだ。太一は、昨日の酒がまだ抜けていないのかと、ぐるぐるする頭で考えつつ、黙って頷いた。

(初出:2017年8月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】いつもの腕時計

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」九月分を発表します。九月のテーマは「時計」です。

「郷愁の丘」がぶつぶつ切れるなあとお思いの方、すみません。でも、今回はあの世界の外伝になっています。主人公は初登場の人物なのですが、雇い主のほうがお馴染みの人物です。「郷愁の丘」のヒロインの兄ですね。もっとも、「郷愁の丘」をはじめとする「ニューヨークの異邦人たち」シリーズを全く知らない方も、問題なく読めるはずです。

ちなみに、同じ「十二ヶ月のアクセサリー」の六月分「それもまた奇跡」に出てきたブライアン・スミスも同じ会社の重役なので、名前だけ出してみました。


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いつもの腕時計

 彼は、入ってきた彼女の服装に対する賛辞を口にしたが、言おうとしたことの三分の一も言えないうちにもう遮られた。
「マッテオ、褒めてくださるのは大変嬉しいのですが、今朝は本当に時間がないんです」

 セレスティン・ウェーリーは、ヘルサンジェル社の社長秘書だ。それも、非常に有能な秘書だった。しかも、社長夫人に収まろうという野望を持たずに仕事に全力を傾けてくれるという意味で稀有な存在だ。

 会社の創立者であり最高経営責任者であるマッテオ・ダンジェロは有能かつ魅力的で氣さくな人物ではあるが、若き独身の億万長者であるため女性関係が派手で、その副作用として女性秘書が長く居着かないという悩みを抱えていた。

 が、セレスティンがこの職を得てから九年、へサンジェル社の最高総務責任者であるブライアン・スミスは、やたらと入れ替わりの激しい社長秘書の面接をせずに済むようになった。

 「天上の青」を意味するそのファーストネームは、極上のサファイアを思わせる濃いブルーの瞳から名付けられたと思われる。ダークブロンドの髪は垂らせばこれ以上ないほどに男性を魅了すると思われるが、いつもシニヨンにまとめていて、その隙のない様相と、シャープな服装、怜悧な視線でもって近づき難い印象を与えていた。

 今日は、月曜日。マッテオは自由の女神が見える開放的な社長室の革張りの椅子にリラックスした姿勢で座り、ここ二日の予定を淀みなく説明しているセレスティンをニコニコと笑いながら眺めていた。今日の彼女は、シャープな襟の白いシャツに瞳によく合うセルリアンブルーのタイトスカート、それに少し感じ悪く見えるくらい鋭利な伊達眼鏡をかけている。

「マッテオ。大変申し訳ないのですが、少し真剣に聴いていただけませんか。私には二度説明する時間はありませんから」
「わかっているよ。でも、大丈夫。今、聴いた件はちゃんと用意ができているし、あとは直前まで忘れても五分前に君が促してくれるだろう」

「そういう訳にはいきませんの。なにしろ……」
そういって彼女は自分の左手首をちらっと見た。

「おや、今日はあの腕時計を忘れたのかい、セレ」
マッテオは、さも珍しいという顔つきで訊いた。当然だった。シンプルとはいえ、常に流行を意識した服や靴やアクセサリーを組み合わせて、日々目の保養をさせてくれるセレスティンが、何があろうと決して変えずに身につけているのがその金の腕時計だった。

 彼女の持ち物にしては、少し安物に見える金メッキの外装、しかも今時ネジを毎日巻かなくてはならないアナログな時計だった。彼女は、この時計に大きな思い入れがあるらしかった。秘書となって一年経った時に、ふさわしい時計をプレゼントしようとマッテオが提案しても「これをつけていたいんです」とハッキリ断った。

 セレスティンはため息をついた。
「どこに置き忘れたのか、見つからないんです」

「おや。金曜日には付けていただろう」
「ええ。少なくともディナーに向かう時には付けていたはずなのに」
「そうか。あれは確かお祖母さんからのプレゼントだったよね」

 セレスティンはちらりと雇い主を見た。相変わらず細かいことを憶えているわね。
「ええ。小学校に上がった時にもらったんです。安物ですけれど、毎日ねじを巻いて時間を合わせればほとんど狂わずにこれまで動いてくれたのに。今日はスマートフォンで時間を管理していますが、慣れないのでいつものように細かくコントロールできないんです」

 マッテオは頷いた。少し、他のことを考えていたが、会議が迫っていたのでいつまでも腕時計の話をしているわけにはいかなかった。

 だが、彼はその時計を思わぬところで見ていたのだ。見覚えのある時計だと思っていたが、まさかセレスティン本人のものだとは思わなかったので素通りしてしまったが。

「思い出したぞ」
マッテオが呟いたのは、その日の夜、高級クラブ《赤い月》で席に着いたときだった。とある女優とディナーを楽しんだ後に立ち寄ったのだ。

「何を?」
女優は、綺麗にセットした赤毛の頭を、完璧な角度で傾げながら微笑んだ。

「何でもないんだ、マイ・スイートハート。おととい、ここで見たもののことを急に思い出したのさ。でも、大したことじゃない。それよりも、君の最新作での役作りについて聴かせてくれないか」

 マッテオは、にっこりと微笑んだ。女優は、仕方ない人ねという顔をしてから、彼にとってはどうでもいい話を延々と語り始めた。それで、彼は思考を自由に使うことができた。

 彼女が化粧室に消えたとき、彼は立ち上がり、バーのカウンターに向かった。

 一昨日、スーツを着た男がそこに座り、金色の女ものの時計を目の前にぶら下げるようにして眺めていた。それから「ちっ。安物か」といいながらすぐ横にあった大きな陶製の鉢の中に投げ込んだのだ。妙な行動だったので記憶に残っていた。

 そして、今から思うとあれはセレスティンの腕時計にそっくりだったような氣がしてならない。彼は、カウンターに立っている馴染みのバーテンダーに一言二言話しかけると、鉢の中を見てもらうことにした。

* * *


 翌朝、マッテオはセレスティンが入ってくるなり予定を話し出したのを手で制して、口を開いた。
「その前に、少し個人的なことを訊いてもいいかな」

 彼女は伊達メガネを冷たく光らせて答えた。
「いま必要なことでしょうか」
「忘れると困るから」
「では、どうぞ」

 マッテオは、セレスティンの積み上げた書類の山を無造作に横に退けて、マホガニーのデスクの上で両手を組み、彼女を正面から見据えた。

「君は、例のテイラー君と、もう付き合っていないんだろう」
「ええ。たしかに、ジェフとは別れました。でも、それは三ヶ月前のことで、その後に《赤い月》でお会いした時に、ミスター・フェリックス・パークにお引き合わせしたと思いますけれど」

「ああ、そうだったね。で、そのパーク氏とも別れたのかな」
「……。ええ、金曜日のディナーで、別れましたけれど、それが何か」

 マッテオは、極上の笑顔を見せながら言った。
「そうだと思ったよ」
「笑い話にしないでください。そもそも振られたのはあなたにも責任が有るんですから」

「ほう。それは驚いたね。なぜだい」
「あなたがお給料を上げてくださったので、彼の年収を超えてしまったんです。我慢がならないんですって。もちろん、それだけが理由ではないんでしょうけれど」
「そんなことを理由にするような男と付き合うのは時間の無駄だ。別れてよかったじゃないか」
「その通りだと思いますわ。でも、なぜそんなことをお訊きになるんですか」

「なに、いまフリーなら、僕と付き合わないか訊いて見ようと思ったのさ」
「セクシャルハラスメントで訴えられるのと、パワーハラスメントで訴えられるのだと、どちらがお好みですか」
「どうせなら両方だね。でも、君は、そんなことはしないさ、そうだろう?」

「あなたが、いつもの冗談の延長でおっしゃっているなら訴えたりしませんけれど。ともかく真平御免ですわ、マッテオ。あなたをめぐるあの華やかな女性陣との熾烈な争いに私が参戦するとでもお思いですか。そういうどうでもいいことをおっしゃる時間があったら、法務省への手紙に目を通していただきたいのですが」

「わかった、わかった。ちゃんと目を通すから、その前にもう一つだけ訊かせてくれ」
「どうぞ」
「君がなくしたという、あの腕時計だけれど、デザインが氣に入っていたのかい、それとも機能? 他の時計を買いに行く予定があるのかい?」

 セレスティンは、意外そうに彼を見た後、首を振った。
「いいえ。センチメンタル・バリューですわ。思い出がつまっているし、人生のほとんどをあの時計と過ごしてきたので、ほかの時計がしたいとは思えなくて。安物で、周りの金メッキが剥げてきただけでなく、留め金が外れかけていたのでとっくに買い換えるべきだったのでしょうけれど……。仕事に支障をきたしますから、諦めて何かを買おうとはしているんです」

 マッテオは頷くと言った。
「買う必要はないよ。仕事に必要なんだから、僕が用意してあげよう。それまでは、スマートフォンでやりくりしてくれ」

 セレスティンは、じっと彼を見つめた。また何かを企んでいるみたい。でも、用意してくれるというなら頼んでしまおう。自分では、あの時計でないものを買うつもりになれないから。マッテオのプレゼントなら、納得することができるかもしれない。

 マッテオが、誰かに何かをプレゼントする時は、必ず相手の好みを考え、ふさわしいものを贈っていた。成金と陰口を叩く人がいるのも知っていたが、単純に高価なもので人が喜ぶという傲慢な考え方をする人ではないのは、誰よりもセレスティンが知っていた。

「わかりました。お言葉に甘えさせていただきますわ。ところで、手紙に目を通していただけますでしょうか」

 マッテオは悪戯っ子のような魅惑的な笑みを見せてから、最上級の敬意に溢れ、法務省の担当官が必死に粗探しをしても何一つ見つけられないように書かれた、セレスティンの最高傑作である手紙に目を走らせた。

* * *


 それから五日後に、マッテオはいつもより少し遅れてオフィスに入った。ことさら丁寧に朝の挨拶をするセレスティンの様子を見て、内外からのたくさんの電話攻撃を雄々しく交わしてくれたのだろうと思った。嫌味の攻撃が始まる前に、これを渡してしまおう。

 ジャケットのポケットから、無造作に突っ込んであった濃紺の天鵞絨張りの箱を取り出して彼女に渡した。

「え?」
「約束の腕時計だよ。メッキ職人のところに受け取りに行ったんだけれど、十時まで開かなかったんだ」

 メッキ職人? セレスティンは、意味がわからずに戸惑いながら、箱をおそるおそる開けた。そして、自分の目を疑った。愛用していた祖母のプレゼントの時計と全く同じデザインの時計だった。けれど、五番街の高級店で売っているものと遜色がないほど上質のコーティングがされていた。

「どうして……全く同じデザインの時計が? どうやってこのデザインを?」
 マッテオは笑った。
「僕がそれを憶えていたと? まさか。種明かしをすると、これは例の君の時計さ。たまたま僕が見つけたというだけだ」

「見つけた? このオフィスにあったのですか?」
「いや、《赤い月》だよ。偶然、例のパーク氏がこれを捨てようとしたのを目にしてね。君が時計をなくしたと聞いてそれを思い出したんだ」

 セレスティンははっとした。そういえば、別れ話をする前には確かにその時計をしていた。留め金が壊れかけていて、修理しないと落とすかもしれないと思ったのだ。そのあとのデートの惨めな展開に心を乱されたので、時計のことはその晩はもう思い出さなかったのだが。フェリックスが私の去った後にあの時計が落ちていたのを見つけたというわけね。

 それでも、この時計の幸運なこと! 捨てられる現場に居合わせたのが、この時計の彼女にとっての価値を知っている数少ない人物だったというのだから。

「なんてお礼を言っていいのか、わかりませんわ、マッテオ。見つけた時計をそのまま渡していただけるだけでも飛び上がるほど喜んだでしょうに、なんだかものすごく素晴らしく変身していますわね」
「せっかくだから、ちょっと化粧直ししたんだ」

 コーティングし直すときに、純金を使う事も出来たけれど、耐久性を考えて18金のホワイトゴールドにした。怜悧なセレスティンの美しさにふさわしい。金属アレルギーなどが出ないようにもっとも高価なパラジウム系コーティングにしてもらったのだが、メッキが剥がれやすくなるので、通常より多く丁寧に塗り重ねてもらった。

「ちょっとどころではないことぐらいは、わかりますわ。それにネジの部分も変わっていますけれど?」

 前の時計と違っているのは外見だけではない。個人的に交流のある老いた時計師に頼み込み、重さを感じないマイクロローターを組み込んだ自動巻きに変えてもらったのだ。
「ああ、これからは毎朝自分で巻く必要はないよ。これは自動巻きだから」

 一週間近くかかった理由がわかった。それに、おそらくスイス製の高級時計を購入するよりもずっと多くの費用がかかっている。セレスティンは、戸惑いながら訊いた。
「どうしてこんなに良くしてくださったんですか?」

 マッテオは自信に満ちた太陽のような笑顔を見せた。
「君の大切にしている物を、二度と安物か、なんて言わせたくなかったんだ。さあ、セレ。これがあれば、またこれまでのように僕の時間管理を完璧にしてくれるんだろう?」

 セレスティンは、腕時計を左手首につけた。うまく回っていなかった世界の歯車が、カチッと音を立ててあるべきところに収まった。彼女の才能を遺憾無く発揮することのできる世界だ。  

 セレスティン・ウェーリーは、ヘルサンジェル社経営最高責任者マッテオ・ダンジェロの最も有能な秘書として、その日の遅れていてる予定をうまく調整するために、その冷静で切れる頭脳を有効に使いだした。

(初出:2017年9月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【キャラクター紹介】番外編・子ども&未成年

またしてもキャラクター紹介の記事です。発表済みの作品や、まだ発表していない作品のキャラクターをちょこちょこっと紹介して、作品に親しみを持ってもらおうかな、という姑息な企画ですね。

以前、人間以外をまとめてやった事があるのですが、今回は子ども&未成年を集めてみました。と言っても、私の小説、後から育っちゃったりたりするんで、子どもだけって少ないかなあ。一応、現在時点で子ども形態しか登場していないキャラに限定してあります。(というわけで、マイアとか、23とか、瑠水などはここからは除外しました)


【基本情報】
 作品: 「夜のサーカス」
 名前: ステラ
 国籍: イタリア人
 居住地: イタリア
 年齢: 本編の登場時は16歳

「夜のサーカス」のヒロイン。サーカス「チルクス・ノッテ」でブランコ乗りを勤める少女。六歳の時に出会って運命の人と思い込んだ道化師ヨナタンの側に居たいというだけの理由でブランコ乗りを目指した。後先考えない「火の玉少女」だけれど、努力は人一倍する。

* * *


【基本情報】
 作品: 「リゼロッテと村の四季」
 名前: ジオン・カドゥフ
 国籍: スイス人(ロマンシュ系)
 居住地: カンポ・ルドゥンツ村
 年齢: 本編の登場時は9歳

ヒロイン・リゼロッテのカンポ・ルドゥンツ村での最初の友人。農家の子どもで、幼いながらも学校のないときはちゃんと働く。粗野で物怖じしないが、心根は優しい。ロマンシュ語とスイスドイツ語のバイリンガル。

* * *


【基本情報】
 作品: 「大道芸人たち Artistas callejeros 第二部」
 名前: パオラ
 国籍: イタリア人
 居住地: チンクェ・テッレ、リオマッジョーレ
 年齢: 登場時は6歳くらい?

「大道芸人たち」蝶子 by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断利用は固くお断りします。

limeさんの描いてくださったイラストから生まれ、「アンダルーサ −祈り−」という外伝で登場した少女。第二部で重要な役目を負う事になった。母親に育児放棄されているが、周りの大人たちの親切で生き延びている。

* * *


【基本情報】
 作品: 「リナ姉ちゃんのいた頃」
 名前: 遊佐三貴
 国籍: 日本人
 居住地: 東京都目黒区
 年齢: 登場時は14歳だったかな?

ヒロイン・リナがホームステイする事になった家庭の次男。英会話教室に通っていて英語が少し話せるという理由で、ぶっとんだ彼女の面倒を看る羽目になる。常識人のため、よくオロオロする羽目になった。彼女のホームステイが終わった後も、交流を続けているらしい。

* * *


【基本情報】
 作品: 「パリでお前と」
 名前: アンジェリカ・ダ・シウバ=カペッリ
 国籍: アメリカ人
 居住地: ロサンジェルス
 年齢: 登場時は8歳

「ファインダーの向こうに」「郷愁の丘」のヒロイン、ジョルジアの姪。母親はスーパーモデルのアレッサンドラ・ダンジェロ、父親はプレミアリーグ所属のサッカー選手レアンドロ・ダ・シウバ。父親と母親が離婚後、母親と一緒に暮らしているが、複雑な家庭環境のため歳よりも大人びている。

理想の男性は、マッテオおじさん。ウルトラ甘やかされている。ジョルジアとも仲がいい。ジョルジアの買い物のアドバイスもしてあげる事がある。

* * *


【基本情報】
 作品: 「郷愁の丘」
 名前: マーガレット(メグ)&エンリコ・ブラス
 国籍: ケニア人
 居住地: ケニア中部ヴォイ
 年齢: 登場時は5歳と0歳

「郷愁の丘」の主人公、グレッグの姪と甥(正確には腹違いの妹の子ども)。母親は動物学者レイチェル・ムーア博士の娘マデリン(マディ)、父親はイタリア人実業家アウレリオ・ブラス。ストーリー中盤までエンリコは生まれていない。メグは、グレッグに懐いていないが、ジョルジアには即座に懐いた。そのおかげで後ろ向きな主人公たちが近づくきっかけができる。

エンリコの初登場は外伝「絶滅危惧種」ただし、この時は性別も名前も出てきていない。エンリコは男の子。アウレリオがイタリア系の名前を付けた。

ちなみにずっと後(とくに書く予定もないし)だが、上のアンジェリカと、メグ&エンリコは知り合うことになるはず。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(7)滞在と別れ - 3 -

「郷愁の丘」の続きです。「滞在と別れ」、三回に分けたラスト部分です。

実をいうと、ここまで書いてきた《郷愁の丘》での滞在時間よりも、今回発表する分での滞在時間のほうがずっと長いんですけれど、いつまでも細かく描写しても意味がないので具体的な描写はなく、すっ飛ばしています。

ジョルジアは、この旅行の大半を《郷愁の丘》で過ごしましたが、休暇が終わるのでニューヨークに帰らなくてはいけません。(当たり前ですね)

次回はニューヨークに帰ってからの続きですが、その前に「十二ヶ月のアクセサリー」と「バッカスからの招待状」が挟まりますので九月十三日の更新です。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(7)滞在と別れ - 3 -

《郷愁の丘》に滞在した二週間は、あまりにも早く過ぎ去った。

 ライカをいつも手元に置き、彼を撮り続けた。サバンナで、イクサの街で、一度は講師として働いている大学で講義している時も。それから、《郷愁の丘》で、柵を修理したり車の整備をしている姿も。厚い本を繰って何かを調べる真剣な表情。ワインのコルクを抜いている時のリラックスした笑顔。

 モノクロームのフィルムは全て使い切った。何度かここぞという瞬間に出会った。写真集に収める一枚という意味では、現像を待たずに手応えを感じていたが、あの墓地で感じた人生を変えるほどのシャッターチャンスとは思えなかった。少なくとも、彼女の魂の発露とは言いがたかった。

 グレッグは協力的で好意に満ちているのに、とても難しい被写体だった。何度か感じた「彼を捕らえた」勝利感は幻想だった。それは蜃気楼のように消えていく。シャッターを切った瞬間には間違いなくこれだと思うのに、指を離した時にはもう自信を失っていた。これほど自分に近いと感じるのに、それが何であるのかわからない。それは《郷愁の丘》も同じだった。

 朝は、世界が色の魔法で繰り返し魅了した。彼女は、早く起きてルーシーと散歩をするグレッグと合流するようになった。こちらを撮るためにはモノクロームではだめだとわかっていたが、頼りにならないコンパクトカメラは、部屋に置いたままだった。彼女の心をかき乱す色も、この丘に佇む一人の男のと忠実な犬の感情も、今の彼女とこのカメラでは映し出す事は出来ない。それだけはよくわかっていた。

 この《郷愁の丘》には、もっとずっと深く、慎重に探し当てねばならない啓示があった。深遠な秘密。「その名を助けを求めずお前だけの力で明らかにせよ。そうでなければ何ひとつ知る事は許されぬ」と明確に彼女に訴えかけてきた。

 それは、何でもない朝食の準備や、午後にハンモックの上でまどろむ穏やかな時間ですらも、常にジョルジアの中に点滅し、くすぶり続けた。

 魂の叫び。心の闕乏。それとも、ニューヨークではほとんど意識にも上らない、神という存在への讃美。力強くめぐる生命の神秘へ喝采。命あふれる惑星に佇むとても小さな間借り人である事の確認。《郷愁の丘》は、ジョルジアがこれまで経験した知覚をはるかに凌駕した特別な存在だった。頭脳で知り考えるのではなく、心と魂で感じる土地だった。

 自分がそうではない世界に属している事がぴんとこなかった。ナイロビで予定していた滞在を全てキャンセルし、帰る二日前まで二週間も《郷愁の丘》に滞在し続けたが、時は同じように機械的に進み、彼女は出発しなくてはならなかった。

 グレッグは、それまでと同じように淡々と、穏やかに最後の朝の散歩と朝食を共にした。特別な事は何も言わなかった。ジョルジアは、レイチェルの家で聴いた彼の告白が本当の事だったのか自信をなくしていた。

 いつものように礼儀正しく彼がランドクルーザーに彼女の荷物を運び込むと、ルーシーは嬉しそうに車に飛びのった。ジョルジアの心はそれほど弾んでいなかった。《郷愁の丘》に暇を告げることは、とても辛い事だった。明日、目が覚めても、朝焼けの中をグレッグやルーシーと散歩する事はないのだ。この二週間、ずっとあたり前のように続いた興味深い対話もこの午後からはひとり言になるのだ。

 駅に着くまで、彼の様子はずっと変わらなかった。穏やかで優しく心地いい態度。道の悪さからやたらと時間のかかるドライブも、今日ばかりはもっと長く続いてもいいのにと思えた。《郷愁の丘》へと続く寂しい自然道は終わり、舗装された道にたどり着いた時、駅を示す標識が表れた時、彼女は残念な氣持ちになった。

 そして、車は本当に駅についてしまった。
「なんとか間に合ったね。あと二十分ある」

 彼は、荷物を持ってホームまで来てくれた。
「ありがとう」
「途中で何か問題があったら、遠慮なく連絡してくれ」
「ええ。そうしたら、また《郷愁の丘》に泊めてくれる?」

 彼は、目を細めて「いつでも」と言った。

 電車が入ってくる。別れの時が迫っていた。ジョルジアはどんな風に彼と別れるのか戸惑った。

 彼女は親しくない人とハグをするのが苦手だった。ヨーロッパ式に頬にキスをされるのも、よほど親しい相手でないと緊張した。だから、普段仕事で会う人たちや単なる知人たちとは、握手をするのが一番ストレスなく感じるのだった。けれども、グレッグに対しては、ハグやキスも嫌だとは思わなかった。彼もそう望むのなら、それはとても自然なことだった。

 だが、彼は「じゃあ、さようなら」とだけ言った。握手すらしようとしなかった。レイチェルの家で怪我の手当をしてもらって以降、彼が一度も彼女に触れなかった事を、その時ジョルジアは始めて思い出した。

 彼とは対照的に、尻尾を振ったルーシーがしきりに彼女の手の甲を舐めて別れを告げた。
「さようなら、グレッグ。素晴らしい二週間だったわ。どうもありがとう」
車内に荷物を載せてくれて降りようとする彼に、ジョルジアは、万感の想いを込めて言った。

「僕こそ、礼を言うよ」
「何に対して?」
「僕のところに来てくれて。一緒に時を過ごしてくれて」
降りる後ろ姿だけで、表情は見えなかった。ジョルジアの心はまた締め付けられた。

「写真、現像したら送るわ。手紙も書くわね」
電車はゆっくりと走り始めた。彼女はホームのグレッグとルーシーに手を振った。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

Pfifferlinge(アンズタケ)もらった

今日はグルメ、それも「小さい秋みつけた」な話。(なんだそりゃ)

Pfifferlinge(アンズタケ)

先日、こんなキノコをいただきました。そろそろキノコ狩りのシーズンなんですね。スイスアルプスでは、秋になるとキノコを求めてハイカーたちのみならず、目の色を変えたイタリア人たちが押し寄せてきます。イタリア名物でもあるポルチーニ茸をスイスで狩りまくるというわけです。

キノコ狩りにはルールがあって、自治体によって違いますが一人あたり二キロまで、または三キロまでという制限がされています。それをこっそり二十キロくらい採ってしまって国境で見つかって没収なんてことも、毎年ニュースになります。

さて、頂いたのはPfifferlinge(アンズタケ)というキノコです。こちらもかなりお高いキノコで、私は店ではなかなか手がでません。今回はそれを500グラムも頂いてしまいました。

採りたてだったので、まだ土が付いていました。

お料理をする方はご存知だと思いますが、「キノコは水洗いをしちゃいけない」んですよ。美味しさが全て水に流れてしまい、更にとても水っぽくなるからです。栽培されたキノコならちょっと拭けばきれいになりますが、野生のキノコの場合は洗わずにきれいにするのは至難の技です。ブラシや紙ナフキンで一つ一つ丁寧に拭いていくのです。これが面倒臭い。

このキノコが我が家に回ってきたのも、おそらくこの面倒くささをしたくなかった人たちが、辞退したからだと思うのです。そうじゃなかったらこのキノコがたらい回しになんてなるはずないんです。

涙目になってきれいにしていたら、見かねた連れ合いがちょっとだけ手伝ってくれました。彼が受け取ってきた手前、私の逆鱗に触れるのが怖かったのかも?

Pfifferlinge(アンズタケ)のパスタ

で、私は日本人なので、アンズタケのレシピなんて頭に入っているわけはありません。でも、以前食べた記憶を元に力技で作ってみました。

アンズタケは食べやすく切り、エシャロットのみじん切りとニンニクをオレーブオイルで炒めて香りが立ったたフライパンに投入します。火が通ってきたら白ワインをかけ、塩胡椒それにチキンスープの素で味を整えて生クリームを投入。タイムを散らしてパスタソースの出来上がりです。

パスタは以前買った栗の粉を使ったブレがリアの名産パスタを使ってみました。秋の味っぽくするために。味見ではなんか物足りないような氣もしましたが、食卓でパダーノ・チーズを振りかけたら、ばっちり。

美味しかったです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(7)滞在と別れ - 2 -

「郷愁の丘」の続きです。「滞在と別れ」の二回目です。

まるで当たり前のように滞在していますが、ジョルジア、要するにほとんど知らなかった人の家にずっといるのです。彼女は年に一度、たいてい三週間から一ヶ月の休暇をまとめて取ります。今回の旅は三週間ほどという設定で、アメリカを出発してからここに来るまでが一週間ほどでした。

少し退屈かもしれませんが、今回のパートには、このストーリー上では大切な会話が入っています。ただし、既に外伝でいくつか開示した情報が混じっているので、たいして目新しくないかもしれません。グレッグが事情を自分で語るのは、多分ここが初めてじゃないかと思います。

ジョルジア、写真撮っていないじゃん、というツッコミが今回も入りそうですが、撮るところの前で切ってしまいました。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(7)滞在と別れ - 2 -

 翌日、彼はジョルジアを連れてマサイの村に寄った。茨で出来たボマといわれる大きな円形の柵の中に牛の糞で作った小屋が何軒も建っている。マサイの集落はハエが非常に多い。牛とその糞による湿氣がハエを呼ぶのだ。けれども牛の糞自体はさほど臭うものではない。糞だと思わなければさほど氣持ちの悪いものでもない。

 かつて撮影で連れて行ってもらったマサイマラの集落よりも小さい上、商売氣が少なかった。あの時は無秩序に人びとが集まってきた。頼みもしないのに色とりどりのビーズで作った首飾りをかけて売りつけようとしたり、自分の子どもの写真を撮らせてチップをもらおうと手を差し出しながら近寄ってくる者もいた。だが、今回は幾人かの男たちが興味を持って近づいては来るものの、グレッグが話そうとしている長老よりも前に出てこようとするのは子どもたちだけだった。女たちはそれぞれの家で仕事を続けていた。

 小さい子どもたちはジョルジアの周りに集まり、めずらしそうにあちこちに触れた。あまり日焼けのしていない肌や短いけれども縮れていない艶のある髪に興味を持ち、小さな手で触れてきた。

 グレッグは、短くマサイ語で挨拶した。長老はそれに答えて重々しく何かを語った。
「なんていったの?」
「彼は誤解しているんだ。僕が恋人を連れてきたと思って」

 彼は長老に英語ではっきりと言った。
「違うんだ。この人はお客さんで、僕の恋人ではない」
 長老は動じた様子もなく、さらにマサイ語で何かを重々しく告げた。

「なんですって?」
ジョルジアは、訊いた。グレッグは、少し悲しげな瞳をしていた。しばらく何も言わなかったが、それから口を開いた。
「僕にもなんと言っているのかわからない」

 ジョルジアは、きっと彼は長老の言葉の意味はわかったのだろうと思った。でも、通訳するつもりはないのだ。強いれば、もっと彼を悲しませる事になるような氣がした。

 彼は、サバンナの水場について長老と話をしていた。長老は聴き取りにくい英語で重々しく告げた。
「心配ない。ここしばらく雨が多いので、我々は牛を遠くに連れて行く必要もない。シマウマの群れは今年は《骨の谷》で渡るだろう。あの川は幅が狭く渡るには好都合だが、おそらくいつもより多くワニも待ち受けている事だろう。お前も氣をつけなさい」

 《郷愁の丘》に戻り、ジョルジアは昨夜作っておいたシチューを温めた。普段作るなんということのない料理も、添えるものがパンではなくウガリ(白いコーンミール)になっただけでアフリカの料理らしくなる。テーブルの用意をしているグレッグに彼女は訊いた。

「シマウマの通り道を教えてもらいにいったのね」
「そう。彼らは経験豊かで、伝承による叡智も受け継いでいるから、僕の予測よりもずっと正確なんだ」

「ワニが多いって言っていたけれど」
「そうだね。シマウマやヌーたちは、一斉に川を渡るんだ。ワニはそれを待ち構えている。ワニが一頭を襲い食べている間に、他のものは川を渡り切る」

「そんな危険があっても、川を渡るのね」
「そうしなければ、ここが乾季で干上がってしまうからね。彼らはどうしても南に行かなくてはならないんだ」

「そして、雨季になるとまた戻ってくるのね」
「そうだ。そして、次々と子どもが誕生するんだ」

 食後に二人はワイングラスを持ってテラスに移動した。涼しくなった風が心地よく渡っていく。

「あなたはそのシマウマの外見を憶えてしまうんでしょう?」
「ああ。生まれてから立ち上がるまで見守っていると、特徴が頭に入ってしまう。それから毎日みて、生き延びている事にほっとしたりする」

 ジョルジアは微笑んでから、赤ワインのグラスを持ち上げた。生き延びたシマウマに乾杯して二人はワインを飲んだ。
「名前を付けたりするの?」
「いや。サイやライオンやゾウのようにはいかないな。星の数ほど生まれて、そのうちの多くがあっという間に死んでいく。もっとも一度名付けた事がある。もう二度とするまいと思ったよ」

「どうして?」
「名前を付けるというのは特別な行為だと思い知った。つけた途端に大きな思い入れが発生する。ハイエナやライオンに追われるのを助けたくなってしまうんだ。もちろんそんな事は許されないからしなかったけれど」

 特別な行為と聞いて、彼女は氣になっていた事を訊いてみようと思った。どうしてみなが呼ぶヘンリーではなくて、グレッグと呼んでほしいと言ったのか。
「ねえ。グレッグという名前には特別な思い入れがあるの?」

 彼は、グラスを置いて彼女を見た。
「祖父から受け継いだ名前なんだ」
「お祖父様っ子だったの?」

 彼はしばらく黙っていた。ジョルジアが他の話題を持ち出すべきかと考えていると、彼は立って中に入り、書斎からセピア色の写真の入った額を持ってきた。彼とどことなく似ている老人と、並んで座っている五歳くらいの少年が映っていた。

「これはあなたなの?」
「ああ」

 彼は、ジョルジアの隣に座って話しだした。
「父と母ははじめからとても折り合いが悪かった。母は生まれた僕に自分が望む名前を付けたがった。だから父は、母が候補にした名前の中で、あえてスコット家に代々伝わる名前ではないヘンリーを選んだ」

 ジョルジアは、何と言っていいのかわからないまま彼の話を聴いた。
「父は僕の曾祖父、彼の祖父のトマス・スコットを尊敬していたが、アルコールに弱く学者にならなかった自分の父親グレゴリー・スコットのことは尊敬していなかった。だからヘンリーなどと付けずに、自分の名前を付けろと彼が言うと、アルコール中毒の義父を毛嫌いしている妻への嫌がらせでそれをミドルネームにしたんだ」

 悲しそうな顔をしているジョルジアに、彼はいつものように穏やかに微笑んで首を振った。
「僕は、祖父が好きだった。両親が留守がちで友達もいなかった僕は、一人でいる事が多かったけれど、そんな僕のために彼は時間をとってくれた。彼は僕のことを『小さいグレッグ』と愛情を込めて呼んでくれた。母が父と離婚してイギリスへ引越したのは僕が十歳のときで、直接逢ったのはそれが最後になった。もっともずっと手紙を書いていたから関係が途切れたわけじゃなかったけれどね」

「お祖父さまは……」
「十三年前に亡くなった。僕を氣にかけてくれて、わざわざ遺言で僕にいくばくかのものを残してくれたんだ。だから僕はこの《郷愁の丘》を買うことが出来たんだ」

「そうだったの」
「両親が離婚する時に、母は養育費を要求した。するとそれを拒みたかった父は僕にDNA検査をさせたんだ。それで僕は間違いなく父の子供だと証明されて、大学にまで進めたけれど、同時に父親に我が子ではないと疑われていたことも知ってしまった。離れていたこともあり、僕は父にはどうしても必要がある時以外は、自分から話も出来なくなってしまった。父もクリスマスにすら連絡をよこさなくてね。それで祖父は亡くなるまで僕たちの関係を心配してくれたんだと思う。相続する時に、ケニアに戻ってきて弁護士の所で十五年ぶりに父に会った。イギリスではなくてケニアで研究をしたいとようやくその時に言えた。彼は少なくとも反対はしなかった」

「お母様は?」
「バースにいる。こちらに戻ってから一度も逢っていない。クリスマスカードのやりとりはしているけれど」
「ケニアに戻って来たことがお氣に召さなかったの?」

「いや、僕が何をしようがさほど興味はないと思う。イギリスに戻ってしばらくは一緒に住んでいたけれど、僕が寄宿学校に入るとすぐに再婚して、新しい家庭を作った。あまり歓迎されないのがわかっていたので、休みの期間にもいつも寄宿舎に残っていたよ」

 胸が締め付けられるようだった。この人はなんて寂しい境遇で育ったんだろう。あまり裕福ではない漁師だったジョルジアの両親もほとんど家にいなかった。だが、彼女には歳の離れた兄マッテオと妹アレッサンドラがいた。妹二人を溺愛する兄の深い愛情、そして忙しくとも会える時には精一杯の愛情を注いでくれる両親の暖かさで、ジョルジアとアレッサンドラは常に幸福だった。

「父も母も、みなヘンリーと呼ぶ。でも、僕には祖父が呼んでくれた『小さいグレッグ』こそが本当の名前に思えるんだ」
「ええ。グレッグ。私もそう思うわ」
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