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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


ようこそ。このブログでは、オリジナルの小説と、スイスにいる異邦人の日常を綴っています。
【お報せ】 今日のひと言 (from PIYO)

scriviamo! 2021 受付は終了しました。ありがとうございました。

【小説まとめ読み】 - 目的別のおすすめ小説をリンクした記事
『Filigrana 金細工の心』を読む 『Usurpador 簒奪者』を読む 「Infante 323 黄金の枷」を読む 短編小説集『12か月の店』を読む

Posted by 八少女 夕

【オリキャラ飲み会】こんなの飲んでる バッカスからの招待状 編

このしょーもない企画、キャラクター紹介になってちょうどいいのですけれど、キリもないので、これでおしまいにします。「飲む」といったらこのブログで真っ先に思い浮かぶのはこの店でしょう。なのに今回の面々ときたら……。

オリキャラの飲み会

「オリキャラの飲み会」はオンライン上でそれぞれのキャラクターが勝手に飲んでいる記事です。期限はとくにありませんし、これといったルールもありません。

小説とか、詩作とか、マンガとか、わざわざ作品を用意する必要はありません。単に、うちの子が何を飲んでいる、というのをアップしてくださればそれでOK。写真や説明文も必須ではありません。ついでに、作品カテゴリーへのリンクや紹介を書きたい方はそれもご自由に。上のバナーは、よければご自由にお持ちください。もちろんバナーを使わなくても、この企画についての説明をしなくても問題なし。ゆるーく、飲みましょう、というだけの話です。もちろん誰でも参加OKです。



オリキャラの飲み会 こんなの飲んでるよ
バッカスからの招待状 編


大手町にあるバー『Bacchus』は、今日も常連と主要登場人物たちで賑わっています。でも、なんだかアルコールはあまり消費されていない模様……。

夏木敏也
Cocktail
1滴のアルコールも飲めない夏木は、『Bacchus』でノンアルコールカクテルを知り、常連になりました。名前にちなんで最初に作ってもらった「サマー・デライト」が1番のお気に入り。

久保すみれ
Cocktail
あまり強くないのに頑張って飲んでいたブラッディ・メアリーのノンアルコール版「バージン・メアリー」があると知り、夏木と一緒にアルコール抜きで楽しむことにしました。

近藤
Cocktail
かつては強い「サラトガ」を無理して飲んでいた見栄っ張りさんですが、どうやっても飲めないので最近は同じサラトガでもノンアルコールドリンクの「サラトガ・クーラー」ばかりを頼んでいる模様。

吉崎護
Einspaenner
『Bacchus』の客としても登場しましたが、静岡県にある喫茶『ウィーンの森』の店主。なので、「フィアカー・コーヒー」を飲んでいます。「アインシュペナー」(泡立てた生クリームつきダブルエスプレッソ)にキルシュワッサーが入ったもの。

伊藤涼子
Cocktail
『Bacchus』の店主である田中と因縁のある涼子は、神田にある『でおにゅそす』のママ。勤務前に酔っ払うわけにはいかないので、ノンアルコール・シャンディーガフを頼みました。ノンアルコールビールをジンジャーエールで割ったものですね。

田中佑二
Sparkling water
マスターでありテンダーでもある田中は、勤務中につきスパークリング・ウォーターを飲んでいます。やっぱりノンアルコール。


【参考】
「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」
「いつかは寄ってね」をはじめから読む「いつかは寄ってね」

「ウィーンの森」
関連記事 (Category: 構想・テーマ・キャラクター)
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Category : 構想・テーマ・キャラクター
Tag : オリキャラの飲み会 キャラクター紹介

Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(13)婚儀

『Filigrana 金細工の心』の13回目「婚儀」です。

といっても、めでたい描写はほぼゼロです。ドラガォンの当主の婚儀って、カルルシュとマヌエラ以来ですが、前回も今回もどこかに「まったくめでたくない」人がいて、それでも婚儀を急いで行うのは、そうすることで相手の女性を居住区監禁から解放するためだったりします。今回、婚儀に参列してはいるものの、むしろ墓参のような面持ちで座っているクリスティーナに関しては、ずいぶん前に外伝を書きました。あれは、このシーンを受けての話でした。

さて、そのあれこれからも蚊帳の外にいるのがインファンテたち。それでも列席は強制されています。今回は、いつもの更新字数よりも長いのですが、2回にわけるほどではなかったのでそのままアップしました。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(13)婚儀

 サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会は、決して小さな教会ではないが、目を引くほど大きな教会でもない。おそらくこの街を観光目的で訪れる多くの外国人は、その名前すらも知らないだろう。ましてや、平日に多くの参列者もなく行われている結婚式に興味を示す人もない。

 非常に『ドラガォンの館』に近く、司教をはじめほとんどの関係者が《監視人たち》の家系で占められているとはいえ、当主の結婚式をこの教会で行った前例は過去に2件ほどしかない。だが、当主夫人となるドンナ・マイアの義父とその娘たちは、《星のある子供たち》ではない。彼らを招待するとなれば、『ドラガォンの館』の礼拝堂での挙式は不可能だった。

 家族にしてみれば、彼女が半年ほど音信不通になっていたこともあり、さまざまな不安を持っていた。知らせもしないで結婚したといわれれば、不審に思い不要な騒ぎを起こす心配もある。それで挙式には養父一家を招待し、ドンナ・マイアに本当に結婚の意思があることを見せる方がいいだろうというのが中枢組織幹部の判断だった。もちろん、当分家族には会えないことを知っている花嫁もひと目ぐらいは会いたいだろう。

 教会の内部は、白壁と灰色の柱を基調とした質素な作りで、金箔で飾った聖壇以外には目立つ装飾もない。ましてや、足下の大理石が一部新しくなり、そこにラテン語の碑文が彫られていることに目を留める者はほとんどない。だが、今日の結婚式に関わる一族にとって、その四角い大理石は非常に大きな意味を持っていた。《Et in Arcadia ego》。碑文にはそれだけ掘られている。

 本日、結婚式を挙げるのは、ドラガォンの当主だ。当主がどのような容姿を持つ者なのかを知る者はほとんどいない。ましてや、その住まいである『ドラガォンの館』に誰が住んでいるのかを正確に知る者も限られている。中には、生まれてきたことも、亡くなったことも、全く記録に残らぬまま、この世から姿を消す者もいる。

 彼は、アントニアに聞いていたその四角い石の置かれた位置を遠目に眺めた。すぐ横に座っているのが、クリスティーナ・アルヴェスなる女性なのだろう。まもなく腕輪を外されて自由になるという彼女が、再び訪れることができるように、アルフォンソはこの教会に埋められた。

 アルフォンソを最後に見たのも、やはりこの教会だった。彼の父親ドン・カルルシュの葬儀だ。今日と同じように2階のギャラリーに案内された彼は、今日のマヌエラやアントニアが占める、1階の最前列に座るアルフォンソを遠く眺めただけだった。内外からの有力者が参列していたが、だの葬儀ミサが行われただけで、故人との別れや親族のあいさつもなかった。参列者もみなそれを理解しており、ミサが終わった後は黙って立ち去った。

 彼もまた、閉じられた棺と、ヴェールで顔の隠れているマヌエラやアントニア、そしてあまり具合のよくなさそうなアルフォンソに近寄ることもないまま、また車に乗せられて『ボアヴィスタ通りの館』に戻った。

 これが最後かもしれないとは、特に思っていなかったが、再び会うことがあるとも期待していなかった。『ボアヴィスタ通りの館』に遷ってから、カルルシュの家族はそれほどに遠い存在になっていた。アントニアひとりを除いて。

 あの葬儀で2階のギャラリーに座らされたインファンテは3人だった。そのうちの1人は、今日は当主として1階で祭壇の前にいる。もう1人の、『ドラガォンの館』の居住区に残されているのは、いま彼の隣に座っている24だけだ。

 その24が、ペドロ・ソアレスに伴われてギャラリーに上がってきた時、彼はわずかに緊張した思いで見やった。5年前の葬儀の時には、決して感じなかった緊張感。それまでは、奇妙なほど彼自身に似ているとはいえ、全く思い入れのない誰かでしかなかった。かつて存在してもしなくても変わらなかったこの青年は、今は彼がよく知るライサを傷つけた加害者なのだ。

 彼は、不快感が表情に現れないように、骨を折った。その彼の努力に氣付いた様子もなく、24は階下の結婚式を食い入るように見つめていた。

 2階のギャラリーからは、そもそも花婿と花嫁の顔は見えない。彼にとってそれは大して重要なことではない。以前、見ることになったカルルシュとマヌエラの結婚式のように、激情を呼び起こす要素も、関心や好奇心すら彼は抱いていなかった。

 彼は隣に座る従甥が、まるでかつての自分のように憎しみを込めた表情で身を乗りだすのを訝りながら見つめた。マイアという娘に入れあげていたのは23だけで、24の方は未だにライサに執着しているというのが、アントニアから聞いた話だったが、だとしたらなぜ24がこの挙式にこんな表情をするのだろう。

 24は、彼の視線に氣がつき、ゆっくりと彼の方を見た。わずかに間を置いてから、囁くように言った。
「パパ。僕とあなたが、こうしてあいつに正統なる権利を奪われているのを見るのは悔しくないの」

 彼は、その言葉の意味を理解するのに苦労した。
「何の話だ」

 24は、確信に満ちた様子で、顔を寄せさらに声をひそめて続けた。
「あなたは、ママに僕を孕ませた。鉄格子の中に、ママを呼び寄せて。ママは、あなたに抱かれてどんな歓びの声を上げたの。あなたは、何度ママを突いて、僕をママの子宮に送り込んだの」

 彼は、衝撃を受けたが、すぐに従甥の想像の根拠を理解した。それほどに、2人の容姿は似通っていたからだ。彼は、ため息をつくと、囁き返した。
「大した想像力だ。立派な作家になれるぞ。私とマヌエラが逢い引きをできるほど、ドラガォンの《監視人たち》はぼんくらではない。お前と私が似ているのはただの隔世遺伝のいたずらだ」

「恥ずかしがる事も、隠す事もないよ、パパ。ママは、本当はあなたのものだもの。正統なドラガォンの世継ぎであるあなたの。あそこにいるあいつがママを犯して、奪ったんだ。そして、あいつは、僕から、正統なプリンシペから当主の座と自由とライサをかすめとった。花嫁だって。またしてもママを犯すんだ。そして、あいつの汚い精液をママの中に……」

 突如として22が立ち上がったので、控えていた8人の黒服《監視人たち》が身構えた。だが彼は、ベドロ・ソアレスに合図をすると、自分と24の間に座るように言った。もうたくさんだった。

 なぜこれほど壊れるまで、誰も氣がつかなかったんだ。24の精神は、父親と23、それに母親とライサを区別できなくなるほどに歪んでいる。ライサは、この狂った男と何ヶ月も監獄に閉じこめられ、傷めつけられたのか。彼の心は痛んだ。
関連記事 (Category: 小説・Filigrana 金細工の心)
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Category : 小説・Filigrana 金細工の心
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【オリキャラ飲み会】こんなの飲んでる 黄金の枷 編

先週、唐突に立ち上げたしょーもない企画に、ご参加くださったみなさま、ありがとうございます。せっかくなので、うちからは、もうひとグループ参加させておきます。

オリキャラの飲み会

「オリキャラの飲み会」はオンライン上でそれぞれのキャラクターが勝手に飲んでいる記事です。期限はとくにありませんし、これといったルールもありません。

小説とか、詩作とか、マンガとか、わざわざ作品を用意する必要はありません。単に、うちの子が何を飲んでいる、というのをアップしてくださればそれでOK。写真や説明文も必須ではありません。ついでに、作品カテゴリーへのリンクや紹介を書きたい方はそれもご自由に。上のバナーは、よければご自由にお持ちください。もちろんバナーを使わなくても、この企画についての説明をしなくても問題なし。ゆるーく、飲みましょう、というだけの話です。もちろん誰でも参加OKです。



オリキャラの飲み会 こんなの飲んでるよ
黄金の枷 編


このシリーズもやたら多くの登場人物がいるんですけれど、とりあえず三部作の生存しているメインキャラと、外伝の便利なキャラたちに「オリキャラの飲み会」用の飲み物を選んでもらいました。

マイア
Vinho_Verde
あまりお酒には強くないけれど、楽しむのが好きなマイアはヴィーニョ・ヴェルデを選びました。少し炭酸のような泡のある若い白ワインです。小皿タパスと一緒に。

インファンテ323 = 新ドン・アルフォンソ (23、トレース)
Dão
23は、ポルトガルの赤ワインを好みます。ドウロやアレンテージョも好きですが、今回選んだのはダォン。すっきりとした赤で食事に合います。

インファンテ322 (22、ドイス)
Aguardente
この人が飲んでいる「アグアルデンテ(Aguardente)」というのは、イベリア半島とイベリア系アメリカで生産される29%から60%のアルコール飲料の総称。要するにグラッパや焼酎みたいなものです。今回この方が飲んでいるのは葡萄のアグアルデンテ。超絶甘いものが好きな22ですが、辛いお酒も嗜むのです。ええ、めっちゃ強いです。この方。

アントニア
Madeira wine
アントニアが飲んでいるのは、マデイラワインです。ポートワインと同じく、世界3大酒精強化ワインの1つで、マデイラ島で作られています。アントニアは、22ほど甘党ではありませんが、ポートワインやマデイラワインは好き。ただし、一緒にお菓子は一緒に食べません。この方は、スタイルを保つためにめっちゃ努力をしている模様。

マヌエラ
Douro
23やアントニアの母親であるマヌエラが選んだのはドウロの赤。こちらはボディーのしっかりした重めの赤で、色はかなり暗いもの。飲んだ後に喉に訪れる余韻は華やかなものがお好み。

アントニオ・メネゼス
cimbalino
《監視人たち》中枢組織の最高幹部で《鍵を持つ者》であるこの人はどんなときも寛がないので、1人だけノンアルコール。Pの街で「シンバリーノ」と呼ばれるこちらは、要するにエスプレッソです。

ジョゼ
Port wine飲み比べ
ジョゼは、小学校の頃から時おりやっていたポートワインの試飲の趣味が高じて、ポートワインの飲み比べをしている模様。これは飲みやすいけれど危険です。ガーンと来ますよ。

マヌエル・ロドリゲス
Chianti Classico
坊主になるつもりは皆無なのに神父見習いを続けるマヌエルは、イタリアでの勤務を思い出しながらトスカーナワインのキャンティ・クラシコを飲んでいます。ひと瓶は飲めないので、大好きなクリスティーナに「一緒に飲もうよ」と誘ってみましたが、振られてしまった模様。

チコ
Super bock
まだ外伝にしか登場していないチコことフランシスコは、世界各国を周る客船の楽団に勤務しています。こうした機会に飲むのはポルトガルのビール「スーパー・ボック」。わりと飲みやすい味で、小瓶なので氣軽に飲めるようです。ライサは、一緒に飲んでくれるかどうか、ちょっと微妙。






【参考】
「Infante 323 黄金の枷」『Infante 323 黄金の枷 』をはじめから読む
あらすじと登場人物
『Usurpador 簒奪者』を読む『Usurpador 簒奪者』をはじめから読む
あらすじと登場人物
『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物
『黄金の枷』外伝
関連記事 (Category: 構想・テーマ・キャラクター)
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Category : 構想・テーマ・キャラクター
Tag : オリキャラの飲み会 キャラたちの食卓

Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(12)『プレリュード』 -2-

『Filigrana 金細工の心』の12回目「『プレリュード』」の後編です。

シロティの『プレリュード』は、1度外伝『プレリュードでご紹介したことがあります。この外伝、今回のエピソード(回想部分)を受ける形で書いたものです。

後半がようやく物語上の『今』に戻ってきたところです。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(12)『プレリュード』 -2-

 あれから、どれほどの時間を鍵盤の前で過ごしたことだろう。歴史が繰り返すように、再び宣告が起こったことを耳にして、彼の心は再び血を流している。だが、当事者だった30年前の激痛とは違い、乾き空になったはずの感情の樽から無理に絞り出されてくる類いのわずかな滲み方だ。そして、マヌエラの代わりに脇に立っているのは、アントニアだ。あの2人の娘であり、かつては歓迎せず、罵倒してでも遠ざけようとした少女。それが、今はこうして傍らに立つことが誰よりも自然な存在になっている。

 彼の人生は、30年前には終わっていなかった。彼の心は、死にはしなかった。憎しみと怒りは彼を縛り続けることはなかった。彼は、生き、夢見、そして、新しく人を愛することすらした。彼は、静かに『前奏曲』を弾き終えると、感銘を受けてこの曲を習いたいと願うアントニアに「いいだろう」と答えた。

 その翌日、日曜日の礼拝を口実にアントニアは『ドラガォンの館』へと出かけていった。宣告がどのような事態を引き起こしているのか、知らずにいるのはたまらなかったのだろう。そして、帰ってくるなり外套も脱がずにサロンへ入ってきて、彼にふくれっ面を見せた。

「なんだ」
「心配して損したわ」
アントニアは、腹を立てているように見えた。

「23の件か?」
「そうよ。馬鹿馬鹿しいったら、ありゃしないわ」

 彼は、従姪が外套を脱ぎ、それを使用人たちに渡してひと息つくのを待った。目の前にコーヒーが置かれると、彼女は再び話しだした。
「あの子ったら、トレースにぴったりくっついて、何をするのも小さな声で質問しているのよ」

「それのどこがいけないんだ。召使いだった子が、いきなりあのような場に座らされたら、戸惑うだろう」
「それは、もちろん、その通りだわ。でも、トレースにナイフの置き方や、ワイングラスの持ち方なんかを指摘されているだけなのに、いちいち嬉しそうにされると目のやり場に困るじゃない」

 彼は、笑った。
「23もうれしそうだったか?」
「彼はあまり表には出していないけれどね。嬉しいに決まっているわよ。なんせこっちは、何ヶ月もずっとあの子のことばかり聴かされてきたんだから」
「そうか。それはよかった」

 形は宣告でも、2人が幸せな形で一緒になれたのならば、言う事はない。彼は、窓辺に立って外を見た。

 まだ子供だった23と、1度だけ近くで話をした事がある。カルルシュの子供時代にあまりにもよく似ていたので、マヌエラの子供たちの中で最も嫌悪感を持っていた。だが、あの子が、おそらく一番自分に近い魂を持っているのだと思った。人の暖かさに飢えながら、それを表に出すことのできなかった少年。彼が奏でた曲に涙を浮かべていた。この子は既にインファンテとしての苦悩を知っていると感じた。

 愛すべき素質をもっと多く兼ね備え、両親や使用人たちに愛される術を熟知していた24は、それが兄と境遇の差を生まなかったことに絶望したのだろうか。いつから彼の心があそこまで歪んだのか、誰も知らなかった。誰もが心を病んでいるのは23の方だと信じていた。だが、不思議なことに23は、今やドラガォンの唯一の救いとなった。

 マイアという娘が『ドラガォンの館』に勤めだしてから状況が一変したのは、アントニアからの報告を聞くだけの彼にもわかった。アルフォンソは病がちで若くとも当主としての風格を備えていた。23はその兄に代わるだけの素質は到底ないし、きちんとした人間関係も築けないと心配されていた。だが、その娘が現れてから彼は目覚ましく変わり、館の使用人たちと話せるようになり、無関心だった外界に興味を持つようになった。アントニアとも音楽のことだけでなく、《星のある子供たち》や《監視人たち》中枢部に関わる話題をも積極的にするようになった。

 アルフォンソが長く生きられないことを、ドラガォンは怖れていた。その後に来る破局を避けようともがいていた。状況は僅か数ヶ月で一変したのだ。何もできない、特別な所は何もないひとりの娘が現れただけで。

 23が道を見つけたことを、彼は心から祝福した。彼が真の幸福を手にしたことも。その一方で、誰にも見せない心の地下水の最も奥に、冷ややかな想いが流れる。僅かな妬み、苦しみ、彼が決して手にすることのできなかったものを、彼の魂の友である従甥がつかんだことを。彼は、マヌエラを得ることはできなかった。彼は、名前を持つことはない。彼は、何かを決定することのできる地位に就くこともない。

* * *


「叔父さま。そろそろ支度をなさったほうがいいわ」
彼はアントニアが側に立っていることに氣がついた。ずいぶんと長い間、想いに浸っていたらしい。彼女は胸に赤い薔薇のコサージュをつけた黒い絹のドレスを着ていた。

「あの日も雪が降っていたなと思ったのだよ」
「あの日って?」
「23が宣告をしたと聞いた日だ」

 アントニアは、少し驚いて彼を見つめた。
「さっき、私もそう思ったわ。あの時は、まだアルフォンソも……」
彼女は、涙をハンカチで押さえた。

「泣くな、アントニア。今日はお前にとっても大切な祝い事のある日なのだから」
彼は、優しく従姪の肩に手を置いた。それから礼服に着替えるためにサロンから出て行った。

 彼は、この館に住むことになってから、2度目に外出することになっていた。サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われる、ドラガォンの当主ドン・アルフォンソとドンナ・マイアとの結婚式に招待されているのだ。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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Emil Gilels plays the Prelude in B minor (Bach / Siloti)
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Posted by 八少女 夕

【オリキャラ飲み会】こんなの飲んでる Artistas callejeros編

またまたしょうもない妄想企画を立ち上げてみました。世間はすっかり自粛ムード、心ゆくまで飲んで騒ぐことなんて、小説の設定ですら悩み出す始末。リアルのオフ会も夢のまた夢です。なので、時流に合わせてオンライン飲み会を開催しようかなと。といっても、ここは小説ブログですし、どっちかというとキャラに飲ませた方が面白いかなと。

オリキャラの飲み会

というわけで、「オリキャラの飲み会」をオンラインにて開催します。(期限はとくにありません)

小説とか、詩作とか、マンガとか、わざわざ作品を用意する必要はありません。単に、うちの子が何を飲んでいる、というのをアップしてくださればそれでOK。写真や説明文も必須ではありません。ついでに、作品カテゴリーへのリンクや紹介を書きたい方はそれもご自由に。上のバナーは、よければご自由にお持ちください。もちろんバナーを使わなくても、この企画についての説明をしなくても問題なし。ゆるーく、飲みましょう、というだけの話です。もちろん誰でも参加OKです。あ〜、普段交流のあまりない方は、この記事のコメ欄にひと言いただければ、拝見しに伺いますので!

とりあえず、うちのウルトラ呑んべえ集団に飲みたいお酒を選んでもらうことにしました。ブログのお友達が参加してくださろうと、くださるまいと、もう勝手に飲み始めているそうです。誰も参加してくれなかったら、うちの他の作品群から勝手に追加で人員を送り込みますので、お氣になさらず。



オリキャラの飲み会 こんなの飲んでるよ
大道芸人たち Artistas callejeros編


蝶子は、イタリア産のモスカテルから飲み始めています。極甘口のデザートワインです。この人、自分の好きなものしか飲みません。「とりあえずビール」とか、一切やらない人。あとで、ワインやその他のもっと強いお酒に流れます。
モスカテル

稔は、日本酒をチョイス。普段ヨーロッパでは、その地方の名産を飲みますが、ここは何でもありなので。今の時期なのでぬるめの燗で。
日本酒

レネは、南仏で好まれるアニスのお酒パスティスを飲んでいます。(実家のワイン飲めよという話はさておき)
お酒自体は透明なのですが、水で割るとこうしたクリーム色になるのが特徴です。
パスティス

ヴィルは、1杯目はビールにした模様。ドイツ人ですからねぇ。2杯目からはワインに行くみたいですけれど。
ピルスナー

【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物


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Tag : オリキャラの飲み会 キャラたちの食卓

Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(12)『プレリュード』 -1-

『Filigrana 金細工の心』の12回目「『プレリュード』」です。

今回も冒頭と終わり以外は回想なのですが、わりと最近の話です。第1作『Infante 323 黄金の枷 』をお読みくださった方は、どこの話をしているのかすぐにおわかりになると思います。あの時、外野はこんな風にヤキモキしていた……という話でもあります。

この話も少し長いので2回にわけます。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(12)『プレリュード』 -1-

 季節外れの雪が窓の外を覆った。陽が差してきている。春の雪は儚い。午後には全て消えてしまうだろう。そう思いながら、彼は、冬のはじめの雪の朝のことを思い出していた。

* * *


 その朝、彼がシロティの『前奏曲』を弾いている所に、電話を終えたアントニアが黙って入ってきた。彼は、いつものように曲が終わるまでは振り向かなかった。弾き終えた後も、完全な沈黙が支配していたので、ようやくおかしいと思って彼は振り向いたのだった。
「どうした、アントニア。ドラガォンへ行くのか」

 彼女は、何とも言えない顔をしていた。嬉しそうでもなければ、悲劇的でもなかった。
「行くべきかどうか、わからないわ」

「なぜ」
彼が訊くと、彼女は戸惑いながらソファに腰掛けて、上目遣いに彼を見た。それを彼に告げるのが賢いことなのか訝るように。彼は、特に答えを急がせなかった。だが、新たに曲を弾こうとしなかったので、アントニアは観念して口を開いた。

「トレースが、宣告をしたんですって」

 彼は、黙って姪の顔を見た。不意に、彼の人生を変えてしまった恐ろしい瞬間の記憶が、彼の体の中を通り過ぎた。けれど、それは一瞬のことで、彼自身がショックを受けたと悟られることはなかったはずだ。それから、冷静になって考えた。あの23が、宣告だって? なぜそんなことを。

 アントニアは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「昨夜の晩餐で、クワトロがトレースに口論を仕掛けたんですって。あの子が、トレースと一番仲良くしている例のマイアって子に宣告するとほのめかしたので、その場でトレースが……」

 そういうわけか。彼は、頷いた。

「それで」
「1晩経って、どうなったのか、まだわかっていないみたいで」
「正餐の時間になればわかるだろう。それとも、好奇心丸出しでお前が乗り込んでいくつもりか」
「そんなことできるわけないでしょう。あの子に拒絶されたら、トレースはどうなっちゃうのかしら。前よりもひどく引きこもってしまうかも」

「何がどうなろうと、娘は1年間は23の所にいるんだろう。一緒に暮らしているうちに、情も移るだろう。24みたいなことをしなければ」
「トレースがそんなことをするわけはないわ」
「なぜわかる。24があんなことをしたも、お前は最初は信じなかったじゃないか」

 アントニアは、黙ってうつむいた。叔父の言葉は正しかった。

 24は、ライサやその前に一緒になった女性を居住区内の1室に閉じ込め、他の誰かと会話をしないようにしていた。居住区の中は広く、出入り以外の多くのことについてインファンテ自身の裁量が優先されている。入室が禁じられた空間に押し込められ薬物も用いられれば、娘が被害に遭っていることを察知して助け出すことは容易ではなかった。

 ライサのSOSを察知したのは、反対側の居住区にいた23だった。24が窓を閉め忘れ、偶然に彼女の意識が戻った時に、助けを求める声を23が耳にしたことが発端だった。彼は唯一親しく話のできるアントニアに相談したが、はじめは彼女もそれを何かの間違いだろうと決めつけた。多少芝居がかったところはあるが、明るく愛らしい弟がそんなことをするとはとても信じられなかったのだ。

 24に怖ろしい2つ目の顔があることがわかるまでには、さらにひと月以上かかった。ライサが流産をし、処置が必要になったのだ。24はインファンテの存在を世間から隠すことを示唆して、巧みに居住区内での看護を主張したが、23の話を思い出したアントニアからの進言を受けたアルフォンソは、彼女を入院させた。数ヶ月もの間、精神を病むほどの虐待が見過ごされていたことが明らかになり、ドラガォンの中枢部はおののいた。

 ライサは、『ボアヴィスタの館』預かりとなり、1年以上の療養を経てから、腕輪を外されて実家に戻った。こんなことは2度とあってはならないことだが、絶対になくなるとは誰にも言えない。狡猾に歪んでしまった24もまた、非情なシステムの被害者なのだから。

 同じように意思に反して閉じ込められた23が、やはり精神をゆがめられていることも、多いにあり得ることだ。が、ライサの件にいち早く氣づき、彼女に助力を求めたその本人が、同じようなことをするとは思えなかった。それに、アントニアは『ドラガォンの館』でマイアに逢っていた。彼女の勘が正しければ、あれは弟の片想いではなかったはずだ。アントニアは、それ以上語らなかったが、表情はそう主張していた。

 彼は、訝りながら再び『前奏曲』を弾き始めた。アントニアが、傍らに立ち彼の指使いを眺めている。彼は、先ほどと同じように弾こうと意識しながら、そうではないことを感じている。ロシアの作曲家アレクサンドル・シロティがバッハの平均律から前奏曲をアレンジしたロ短調の作品で、原曲よりも憂いを感じる曲ながら、彼は淡々と弾くスタイルを好んでいた。だが、先ほどのニュースが彼の胸の中に、大きな石をそっと置いたようだ。

 ピアノの傍らに立つアントニア。憂いが表現上のものでしかなかった頃、同じ位置に立っていたのはマヌエラだった。30年前の宣告が、彼の人生を変えた。彼の人生は、あの日に終わったのだと思っていた。それ以後は、意義もなく、ただ生きながらえているだけだと。彼女が、別の人生を目指し強い意志と活力で歩み去った後、彼は彼女への想いを音にすまいと心を砕いた。それに成功したかどうか、彼にはわからない。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

パンが余るので

すみません。最近、食べる話ばかりですよね。でも、実際、他にほとんど記事にするようなことがなかったりして。

基本的には、食材はある物を把握して買い足すべきなのです。が、パンだけは連れ合いが職場で勝手に買うことが多くて、しかも、かなり固くなってから持ってきたりするのです。で、そのままではなかなか終わらない固いパンに悩まされることがけっこうあります。

スイスは基本的に乾燥しているので、パンはカビることはあまりありません。(ビニール袋に入れておかない限り)

でも、石みたいに固くなってしまうのです。すぐに固くならない茶色っぽいパンをメインで買いますが、それでも1週間もすればカチカチです。そうなってからも、1度水にくぐらせてからオーブンで加熱すると焼きたてのようになりますが、食べきれずに冷えると再びカチカチになります。

なので、「これは食べきれないわ」と思ったときは、たくさん消費するメニューを優先させることになります。

ごく普通にフレンチトースト(スペイン風に甘くないパン・コン・アホにすることも)にしたり、ガーリックトースト、エスカルゴバター・トーストにすることもあるのですけれど、それでも終わりそうにない時は、まだナイフで切れるときにカットして、パン粉にしたり角切りにして冷凍します。

冷凍した角切りパンの使い道は、エスカルゴ・バターと一緒に炒めてクルトンのようにしてサラダと一緒に食べたり、スペイン料理のミガスにしたり。

ミガス

ミガスは、辛いチョリソというソーセージと、にんにく、オリーブオイルと共に野菜とパン屑を炒め合わせトマトの水分を吸わせて作ります。私は、軽く炒めた後に溶き卵と一緒にオーブンに入れて作ります。写真はチョリソがなかったので、フランス語圏スイスの特製ソーセージを別に茹でて、添えています。

ココアワッフル from パン屑

パン粉は、カツレツなど普通にパン粉として使うことが大半ですが、実はこんな使い方もできます。小麦粉ではなくてパン粉を使った生地でワッフル。先日ご紹介したワッフルメーカーで作りました。たぶんケーキっぽいものもできると思いますが、ワッフルの方がパン粉の粗さが目立たないのではと。色も目立たなくするためにあえてココアも混ぜて作りました。

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【小説】花のお江戸、ギヤマンに咲く徒桜

今日の小説は『12か月の店』の4月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『お食事処たかはし』です。といっても、『樋水龍神縁起』や『大道芸人たち Artistas callejeros』で登場した樋水村にある店ではなく、江戸にある同名の店という設定です。はい。今回は以前にリクエストにお応えして書いた冗談小説のチーム、隠密同心たちを登場させました。

この作品は、『大道芸人たち Artistas callejeros』の主要キャラたちが、隠密同心(のバイト?)をしているという設定で、篠笛のお蝶、三味線屋ヤス、手妻師麗音レネ 、異人役者稲架村はざむら 貴輝の4人を書いて遊んだのですが、今回は加えて「たかはし」の親子3人や、旗本嫡男の結城拓人、浪人の生馬真樹まで登場。ふざけた話になっています。

本編(『大道芸人たち Artistas callejeros』や『樋水龍神縁起』、『樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero』)とは、全く関係ありませんので、未読でも問題ないはずです。


短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
半にゃライダー 危機一髪! 「ゲルマニクスの黄金」を追え



花のお江戸、ギヤマンに咲く徒桜

 障子の向こうにひと片、またひと片と散りゆく花が透けて見えた。もう春かと彼は傘張りの手を休めた。生類憐れみの令に対して疑念を抱いた藩主の酒の席でのひと言が、幕府の耳に入り改易蟄居を申しつけられた。家臣は職を失った。そのひとりであった生馬真樹はそのまま江戸に留まったが、再仕官は未だかなわず傘張りで日銭を稼ぐ日々だ。

「ちょいと、生馬さま。聞いておくれよ」
ガラリと引き戸を開けて入ってきたのは、「お食事処たかはし」の女将であるお摩利。

「どうなさいましたか。女将さん」
「どうしたも、こうしたも、うちの人がさ。岡っ引きにしょっ引かれてしまったのよ」
「なんと。ご亭主が? 一体どうしたんですか」

 お摩利は、あたりを見回してから土間の引き戸を閉め、それから袖口からそっと何か小さな桐箱を取りだした。
「どうやらこれのせいらしいんだけれど、私にもわけがわからないのさ」

 真樹は、それを受け取って開けた。絹の布団に薄紙に包まれた何かが載っている。注意深く薄紙を開くと、彼は息を飲み、まじまじと眺めた。

 それは小さな盃だった。よくある陶器や磁器などではなく、透明な硝子に桜の花が彫ってある。藩で進物授受の目録管理に関わったこともある彼は、それが時おり見るびいどろではないことをひと目で見て取った。

「これはどこで手に入れたものですか」
「あの人が、客から預かった物よ。一応、そんな物は預かっていないって言い張っているはずだけれど、拷問される前になんとか助け出したいのよ。ところで、これ、すごいお宝なの?」
「はい。おそらく長崎出島から持ち込まれた御禁制のギヤマンかと」
「ええっ。ただの珍しい盃じゃないの?」

 真樹は首を振った。
「ここを見てください。びいどろのような泡や濁りは全く混じっていない。透かせば女将さんのお顔がそのまま見えます。こんな薄い硝子は、長崎でも作れないはずです。それに、この桜です」

 白くこすったように桜の文様が掘られている。
「この桜がどうしたの?」
「まるで細筆で描いたかのように細かく表現されていますよね。金剛石のようにとても硬い物で根気よくこすってつけた文様でしょう」

 大名の宝蔵どころか、御上に献上されてもおかしくない一品だ。江戸下町の食事処の亭主が持っていたら、よからぬことをしたと疑われても無理はない。
「やだわ、どうしよう。あの人ったら、面倒な物を受け取ってしまったのね」
「一体だれが……」

「娘にご執心の結城様が持ってきたのよ」
お摩利は、真樹をちらりと眺めていった。真樹は、はっとして、お摩利の顔を見つめた。

 かつて江戸詰の頃は「お食事処たかはし」に足繁く通い、看板娘のお瑠水と親しくしていたのだが、浪人となって以来手元不如意でなかなか店に足を運ぶことができない。その間に、お瑠水に近づいていたのが旗本嫡男で評判の遊び人である結城拓人だった。

「うちの人や、娘を苦境から救ってくれるのは生馬様しかいないと思って来たのよ。後生だから、助けてくれないかしら」
摩利子は、真樹を見上げるようにして訊いた。

 真樹は、厳しい顔をして考えた。
「もちろん、お助けしたいのは、山々ですが、拙者ひとりでは……そうだ。もしかしたら彼らなら……」

「誰? アテがあるの?」
「ええ。とある四人組に伝手があります。異人役者の稲架村はざむら 貴輝はご存じですか」

「ええ。名前ぐらいなら。異人なのに達者に江戸言葉を話すって評判よね」
「拙者、彼にちょっとした貸しがあるんです。彼にはもう1つの稼業があって、岡っ引きの方にも顔が利くかもしれません。早速ご亭主のことを頼んでみます。ついでに、結城様や、このギヤマンのことについても訊いてみます。女将さんは、お店に戻ってください。お瑠水さんに何かあったら大変ですし」

「まあ。それは助かるわ。じゃあ、お願いね」
お摩利は、持っていれば獄門に連れて行かれるやもしれないギヤマンの盃を、体よく真樹に押しつけると急いで店に戻っていった。

* * *


 下町人情あふれる一角に「お食事処たかはし」はある。活きのいい魚と女将お摩利の話術に誘われて多くの常連で賑わう店だ。

 お蝶は、芸者のなりをして店に入ってきた。彼女は稲架村はざむら 貴輝と同じく隠密同心で、生馬真樹から話を聞き、「お食事処たかはし」の警護と情報収集のため派遣されてきたのだ。

「いらっしゃい」
「まだ早いけど、座ってもいいかしら」
「どうぞ」

 暖簾をくぐると、店には武士がひとりいる。その顔を見て、お蝶は呆れて思わず言った。
「ちょいと、結城の旦那! 何故ここにいるのよ。一体だれのせいで……」

「あれ! 篠笛のお蝶じゃないか。まずいな、もう話はそちらに上がってしまったのかい」
「当たり前よ。異人同心たちも呆れていたわよ。結城の旦那が、とんでもないことをしてくれたって」

「面目ない。まさかご亭主があれをこの辺に置いておくなんて夢にも思わなかったんだよ」
「町民にあれがどんなものかわかるわけないでしょう」

 結城は肩をすくめた。
「で。ご亭主は? それに、あのギヤマンはお蝶、君が持っているのかい? 頼むから返してくれよ」

「ご亭主は、いま内藤様預かりになったわ。あの御品は、ひとまず岡っ引きなんかじゃ手の出せないところに預けてきたし」

「内藤様というのは……」
心配そうなお摩利に、結城は片目を瞑って言った。
「隠密支配の内藤勘解由様だ。拙者の友人でもある。ご亭主が彼のところに居るなら、もう心配は要らないよ」

 お摩利は、ホッとした顔をした。そして、結城は、改めてお蝶に向き直った。
「で、あれを返してくれないと困るな。明後日には、あれをもって登城する予定で……」

 お蝶は、憤懣やる形無しというていで、どかっとその場に座った。
「旦那が、あれがなんなのか、そして、そもそもどういうことか説明してくれたらね」

「いや、うちのお殿様から、御上への献上品なんだけれど、あまりに珍しくてきれいだったので、ちょっとお瑠水ちゃんに見せてあげたかっただけなんだ。こんなにきれいな物を見せてくださるなんて、結城様、素敵! と靡いてくれるかもしれないし」

 お蝶とお摩利は、同時に大きくため息をついた。結城拓人は女誑しで名が通っている。普段は、玄人筋から秋波を送られて、次から次へと戯れの恋模様を繰り広げているのだが、靡かないと燃える質なのかこの店の看板娘であるお瑠水にしつこく言い寄っていた。

 根は悪くないらしく、身分の差をいいことに無理に召し上げるようなことをしないのはいいのだが、女子おなご の氣を引くために、献上品を持ち出して見せびらかすなど、浅薄にも程がある。

 お蝶は、呆れかえって首を振った。
「あいかわらず懲りないお方ですこと。では、あの盃をどこに預けたか教えてあげましょ。先ほど園城様のお屋敷まで出向いて、お殿様に事情を話して頭を下げてきたんですよ。未来の婿殿のお役罷免を避けるために、渋々御協力くださることになって。で、いまは真耶姫様の化粧箱の中。返してほしければ、姫に頭を下げるんですね」
「な、なんと!」

 拓人は青くなった。寺社奉行を務める園城聡道は、幕府の御奏者番でもある。つまり、将軍に謁見するとき、その取次を行ない、献上物を披露する役割を担う。さらにまずいことに、娘の真耶姫は当の結城拓人の許嫁。つまり、町娘の氣を引くために献上品を持ち出したことは、御奏者番の殿にも許嫁の姫にも露見した。

 おもしろそうに二人のやり取りを聞いていた女将お摩利は、お蝶のために徳利と盃を出した。
「お姉さん。うちの人を助けてくだすったお礼に、一献飲んでいってくださいな。もしかして、お姉さんが、生馬様のおっしゃっていた異人同心さまたちのお仲間では」

 お蝶はにっこり笑って、頭を抱える結城拓人の隣に腰掛けた。
「そうです。せっかくだから、ご馳走になりますね。まあ、このお酒とてもおいしい。結城様ったら、どうしてこのお店を私たちに教えてくださらなかったのよ」

「そんなことをしたら真耶どのに筒抜けではないか」
結城拓人は、がっくりと肩を落として、それでもしっかりお蝶の酌を受けて飲んでいる。

「おいお蝶、一向に帰ってこないかと思ったら、何を勝手にはじめているんだよ」
入り口からの声に一同が振り向くと、魚売りの扮装をした男と、もじゃもじゃ頭の異人がのぞき込んでいる。

「あら。ヤスったら、なんなの、そのなりは」
隠密同心である三味線屋のヤスが、魚屋の変装するのは珍しい。
「聞き込みの帰りだよ。ついでに行方をくらましている結城様を捜しに……って、なんだ、ここにいるのかよ」

「やあ。三味線屋と手妻師くんか。よかったら、憐れなことになった拙者を一緒に慰めてくれないか」
結城拓人は、憐れな声を出した。

「どうなさったんですか、結城様」
手妻師麗音と呼ばれる仏蘭西人も、気の毒そうに入ってきた。

「どうもこうも、拙者の失態をよりによって園城様と真耶どのに知られてしまったらしくってね。これから畳に頭をこすりつけて、お灸を据えられに行くことになったんだよ」

「そのぐらい、どうしたっていうのよ。あなた様の軽率な行為のせいで、こちらのご亭主がもう少しで拷問にかけられるところだったのよ」
お蝶は、冷たく言い放つ。

「へえ。じゃあ、俺たちの働きに感謝して、ご馳走してもらってもいいよな」
ヤスは、さっさと結城拓人の反対側に陣取った。お蝶に促されて麗音もおずおずと座る。
稲架村はざむらさん抜きで呑んじゃっていいんですか。後で怨まれますよ」

「へっちゃらさ。もうじき内藤様のところからこちらのご亭主をお連れする手はずになっているから」
ヤスがいうと、結城拓人は目をむいた。
「ということは、拙者が異人役者の分も酒代を出すってことか」
お蝶は、その通りと微笑んで頷いた。

「そうと決まったら、少し祝い肴を用意するわね」
お摩利は、たすき掛けをして、自慢の肴をいろいろと用意し始める。

 ほどなく、稲架村はざむらが、亭主をつれて店にやって来た。喜ぶお摩利はもちろん独逸人にも呑んでいくように奨める。

「ところで、肝心なお瑠水ちゃんは、どうして帰ってこないんだ?」
酒豪の四人組にたかられることを覚悟した結城拓人は、せめてひと目可愛い看板娘を見て目の保養をしたいと思った。

 お摩利は、その拓人に追い打ちをかけるように言った。
「今ごろ、生馬様のお宅に行っているでしょ。なんせ父親を窮状から救い出してくださった大恩人ですもの。それにあの子、前々から生馬様に夢中みたいだし」

 笑いでわく「お食事処たかはし」にも、風で運ばれた白い花片がふわりと舞い込んでいた。江戸には間違いなく春が訪れていた。
 
(初出:2021年4月 書き下ろし)

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まったくの蛇足ですが、作品に使ったガラス盃は、当時の日本では作っていなかったGlasritzen(グラスリッツェン)という、ヨーロッパ伝統の手彫りガラス工芸を想定しています。ダイヤモンド・ポイント彫りともいい、先端にダイヤモンドの付いた専用のペンで、ガラスの表面に細かい線や点などを彫刻する技法です。

当時の言葉でガラス製品を表したものには「ギヤマン」と「びいどろ」がありますが、日本で作られていたのは吹きガラスである「びいどろ」(硝子を意味するポルトガル語由来の言葉)でした。長崎出島を通して入ってくるヨーロッパ製のガラスはグラスリッツェンを施したものもあり、ダイヤモンドを意味するポルトガル語がなまって「ギヤマン」と呼ばれたそうです。
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Posted by 八少女 夕

【行ったつもり】(エアー)旅行 旅の思い出チャレンジ

行ったつもりのエアー旅行。4回目まではやったと思うのですが、今日はちょっと趣向を変えて。

本名でやっているSNSで、旅の写真チャレンジが回ってきました。一切の説明はなしで、写真だけアップするというチャレンジですね。本来は、タグをつけてほかの人にやってもらうのですけれど、ネズミ講っぽいじゃないですか、それ。で、タグ付けと指名なしで10日間旅の写真だけをアップしたのです。

それが、意外と好評だったので、せっかくだからその写真をここでも開示してみようと思いました。

記事上では説明はしませんけれど、秘密でもなんでもないので、氣になった写真があればコメント欄で訊いてくださいね。

旅の思い出 ポルト
旅の思い出 厳島神社
旅の思い出 カルモナ
旅の思い出 ルガーノ
旅の思い出 満月列車
旅の思い出 コウノトリ
旅の思い出 コルシカ島の栗
旅の思い出 南チロル
9_PA310216.jpg
旅の思い出 ストーンヘンジ

で、もしよろしかったら、他の方も旅の写真を見せてくださいね〜、という話でした。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -2-

『Filigrana 金細工の心』の11回目「『Canto de Amor』」の後半をお送りします。

アントニアが17歳(つまり23は16歳ですね)の頃の回想の続きですね。23のギターラ、『愛の歌』という有名な曲を聴いて、「恋をしたこと、ある?」と訊いたのが前回の更新でした。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -2-

 アントニアの問いに、弟は黙り込んだ。彼女ははっとして、瞼を上げた。自分のことにばかり意識がいっていたが、いつもひとりでいる23には、酷な質問をしてしまったのかと思ったのだ。

 だが、弟は、彼女をしばらく見つめた後で、意外な返事を返してきた。

「恋なのか、わからない」
「わからないって、どういうこと?」
「友だちのことを、とても大切に想っているだけなのかもしれない。よく夢にも出てくる」

「夢? 普段見かけるんじゃなくて?」
「この屋敷の中にはいない」
「いない? 想像の女の子? それとも雑誌や映像で見ただれか?」
「そんなんじゃない。それに、どうでもいいだろう? 俺は、ドラガォンが命じたままにここにいるし、何もしていない。そんなことを聞き出すために、わざわざ入ってきたのか?」

「そうじゃないわ。でも、ギターラの響きが、とても優しいだけでなくとても悲しく響いたから。私の心を代弁してくれるみたいで、もっと聴きたくて」
「……。恋に悩んでいるのは、お前なのか?」

 23にストレートに訊かれて、アントニアは戸惑った。ほとんど口もきいたことのない弟と、こんな話をするとは思ってもいなかったから。けれど、今、抱えきれないほどにまで膨れ上がっている彼女の重荷を分かち合ってもらえるのは、この弟しかいないとどこかで直感が告げていた。それで、ため息をつくと頷いた。

「あなたと違って、私はもっと自由なのに、どうしてこんなことになってしまったのかしら……」
「こんなこと? 《星のある子供たち》じゃない男?」
23が訊いた。アントニアは、彼が何を言っているのか一瞬わからなかった。けれど、すぐに彼の推測が至極まともだと氣がついた。

「だったら、まだよかったんだけれど」
「なぜ? 《星のある子供たち》なら、ドラガォンがいくらでも後押ししてくれるだろう? お前は、この館でも外でも好きな所に行けるんだし。それとも父上や母上が反対するような男なのか?」

 アントニアは、顔を手で覆い、震えだした。反対どころの次元ではない。彼は、近親者であるだけではない。母親のかつての恋人であり、憎みながらも今でも一途に想っている男なのだ。両親どころか、誰に打ち明ける事もできない。誰かに助力を求める事もできない。

「すまなかった。立ち入りすぎた」
23の謝罪を聞いて、彼女ははっと顔を上げた。弟は、恥じ入るように顔を背けていた。

 アントニアは、彼を混乱させてしまったのだと思った。こんな所に入り込んできて恋の話などをすれば、彼は話を聴いてもらいたいのかと思った事だろう。それなのに、何も言おうとしなくて、かえって彼に罪悪感を植え付けてしまったと。彼は、家族に頼られて、打ち明け話をされた事などなかっただろうから。

「そうじゃないの。ごめんなさい。私にもわからない。でも、わかってもらえるのはあなただけだと思ったの」
「24ではなくて? あんなに仲がいいのに」

 アントニアは、首を振った。
「あの子は、とても明るくていい子だけれど……」
「?」
「時々思うの。あの子は、私の事には興味がないんじゃないかって」
「なぜ?」

「あの子自身の幸福と楽しみに直結していない事には、すぐ興味を失ってしまうのね。話していても、急に話がそれてしまったり、そんなことよりって言われてしまったりするの。だから、深い事、哲学的な事、どうしようもない事などは、あの子に話しても、何の答えも返ってこないの」

 23は、肯定も否定もしなかったが、そのことで彼もそう思っているのだとわかった。
「アルフォンソは?」
「彼はダメよ。いつどんな形で、お母様やお父様、それにメネゼスたちに伝わってしまうかわからないし。それに、彼には話を聴く時間なんてないもの」

 彼は、自嘲するように笑った。確かに23は、いつも1人だから秘密が漏れる心配もないし、時間もたくさんあった。

「でも、だからここに来たわけじゃないわ。同じ音だと思ったから」
「何と?」
「叔父さまの出す音と」

 23は、瞳を閉じた。そして、記憶をたどっていた。
「よく階段に隠れて聴いた。すごい音だった。胸がかきむしられるみたいだった。近くに寄って、もっと聴かせてほしかった」
「そうなの?」

 アントニアを上目遣いに見ながら、彼は言った。
「お前が羨ましかった。彼にピアノを教えてもらっていたことが」

「どうして自分にも教えてほしいって言わなかったの?」
「もっと聴かせてほしいと言って断られた。だから、それ以上近づけなかった」

「私も、ものすごく邪険にされて、断られたわよ。でも、めげずにしつこく押し掛けたの。彼は根負けしたんだと思うわ」
「そうか。俺もそういう図々しさを持てばよかったんだな。もう、遅いけれど」

 23の言っている意味が、アントニアにはわかった。彼女は、『ボアヴィスタ通りの館』に押し掛けて行って、またピアノを習う事ができる。けれど、23はここからは出られないのだ。新しい世代のインファンテが同じように閉じこめられる日まで。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -1-

『Filigrana 金細工の心』の11回目「『Canto de Amor』」をお送りします。

自分でも反省しているんですが、この作品、時系列が前後に動きすぎ。起点は1つなんですけれど、多くのエピソードが過去の回想でなり立っているせいで、読者の方を振り回すことになってしまいました。で、今回発表する部分もそうで、アントニアがまだ少女だった頃の話です。彼女が頑固にピアノを弾き続けて泣いたエピソードと、成人となりちゃっかり22との同居を決定した時期の間の話です。

長めなので2回に切りました。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -1-

 11年前のことだった。24が閉じ込められた年の初め。彼女は、その時17歳だった。まだ『ドラガォンの館』に住んでいた若きアントニアは、ギターラの響きに誘われて、しばらく23の居住区の前に立っていた。

 彼が、かつての叔父のように、格子の向こうに閉じこめられてから2年近くが経っていた。もともと家族にも使用人にも打ち解けなかった23は、閉じこめられその抵抗を封じられた事でさらに自分の殻に閉じこもるようになっていた。アントニアは、出してほしいと必死に訴えていた彼への助けになろうとしなかった事への後ろめたさもあって、晩餐で見かける時もほとんど目を合わさないようにしていた。

 ただ、愛すべき弟24が彼を茶化した発言をした時だけは、隣で静かに嗜めた。24は、天使のように笑って「ごめん、もうしないよ」と言うので、彼女はその愛らしさにすぐに許してしまった。それに彼女は、24も第2次性徴期がきたら23と同じ運命になる事を知っていたので秘かに心を痛めていたのだ。

 23が家族の中で1人だけ隔離されている事への心の痛みは、その時には緩和されるだろうと考えていた。けれどその数年間が、心を開く相手もいない23にとってどれほど過酷な地獄だったのか思い至るには、当時のアントニアはまだ若すぎた。23が表現しているのは、彼女が心惹かれていた叔父の言葉にしない叫びと同じものだという事にようやく氣がついたばかり、そんな時期だったのだ。

 家族の中で、22に近づけるのは、アントニア1人だった。それも、彼が望んだからではなく、彼女の強引な好意の押し付けに屈する形で、彼女が側にいる事を許可した、それだけだった。叔父が館にいた時に無理にピアノのレッスンを受けさせた延長線で、アントニアは週に2度か3度、『ボアヴィスタ通りの館』へ通っていた。

 『ドラガォンの館』から出たにも関わらず、彼女から解放されなかった事を彼が嘆息したのか、それとも使用人以外の家族との縁が切れなかった事にホッとしたのか、叔父の乏しい表情から読みとる事はできなかった。だが、アントニアが2つの館を行き来して、その消息を伝える事は、叔父に会う事を拒否されている両親たちを安堵させた。22のわずかな変化、健康状態、それにどのような暮らしをしているのか、彼らは《監視人たち》や召使いからの報告以外でも知る事ができたから。

 だが、アントニアは、自分の行動があやふやであった己の心を、引き返せないところまで押し進めてしまった事を感じていた。ある種の同情、弟を救えなかった事に対する贖罪、両親と叔父との確執への好奇心、それら全てを超越する感情に彼女が堕ちていったのは、正にこの時期だったのだ。

 思えば、子供の頃から惹き付けられていたのはやはり、格子の向こうから響いてくる楽の音だった。いま、弟が響かせている、強く心に訴える叫びのような音色だった。この子はいつからこれほどの音を出すようになったのだろう。アントニアは訝った。ギターラを習いはじめてまだ1年と少ししか経っていないはずだ。

「ドンナ・アントニア?」
振り向くと、そこに立っていたのはジョアナだった。
「お入りになりますか?」

 彼女は、1度首を振った。けれど、思い返したように、ジョアナを見つめて言った。
「ええ。お願いするわ」
ジョアナは、黙って鍵を取りに行くと解錠してアントニアを入れた。それから再び鍵を閉めて頷いた。彼女は小さく礼をすると、階下へと降りて行った。

 ギターラの響きは、近づくことでずっと大きく華やかになった。けれど、そのどこかに隠しようのない痛みが溢れている。インファンテだから。もちろん、それだけではないだろう。だが、特殊な境遇は彼の想いを研ぎすました。1人で世界と折り合いを付けることを、彼に強要した。それがこの響きをもたらすのだと感じた。

 彼女は、まるで初めて見た知らない人のような心持ちで弟を見た。子供の頃は、それでも一緒に遊んだことがあったように思う。ただ、彼女はいつも愛らしく甘えてくる24と一緒に居て、ほとんど会話もしようとしないもう1人の弟のことは、考えることすらまれだった。

 音が止まった。23はアントニアを見ていた。訝っているのだろう。彼女自身にもよくわからなかった。どうしてここに来ようと思ったのか。
「続けて……」

 彼は黙って続きを弾きだした。それは、シューベルトの『エレンの歌第三番』、『シューベルトのアヴェ・マリア』として知られる曲だった。叔父のヴァイオリンと合わせるために、アントニアが『ボアヴィスタ通りの館』でのレッスンに通いだして直に習った曲だ。難しくない伴奏にも関わらず、叔父は簡単には満足してくれず、彼女は悔しさに何度も泣いた。だが、最終的にお互いに満足のいく演奏をした時、彼が初めてアントニアに笑いかけてくれた思い出の曲でもあった。口元をほころばす程度と言った方が正しいわずかなものであったけれど。

 弾き終わっても、彼女がものも言わずに瞳を閉じていたので、しばらく間をあけてから彼は最近よく練習していた『Canto de Amor(愛の歌)』を弾きはじめた。アントニアが自分に用があるのではないらしいと判断したのだ。

 けれど、短いその曲が終わると彼女は、目を瞑ったまま言った。
「恋をしたこと、ある?」

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23が弾いていた曲はこちら。

Carlos Paredes - Canto de Amor

こちらは、ギターラバージョンが見つからなかったのでクラッシックギターバージョンで。

Ave Maria - Schubert (Michael Lucarelli, Classical guitar)
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Posted by 八少女 夕

日本語と文化を教えるクラス

こちらは2021年のエイプリルフール記事です。

さて。今日は、私のリアルライフについての小さな記事をお送りします。

既にこのブログでもカミングアウトしましたが、去年からパートタイム的にですけれど、日本語教師の仕事も始めています。語学をメインにしたクラスがほとんどなのですけれど、ひとつだけ日本文化をメインにした個人教授をして欲しいというリクエストがあり、月に1度だけ受け持っています。

じぶんが比較文化について深い興味があるので、喜んで引き受けましたし、実際に準備は大変でもこの個人レッスンはとてもやり甲斐があります。

私は語学メインのクラスでも、課の終わりにちょっとした振り返りテストをして、どのくらい理解しているのかを確認しているのですけれど、日本文化に関する個人レッスンの方でも、少し振り返りテストをしてみたくなりました。

というわけで、ここしばらく日本文化の方の修了テストを作っていました。せっかく作ったので、ここに晒しておきますね。

わりと簡単なテストなので、もしお時間があったら、ぜひ皆様も暇つぶしにやってみてくださいね。

1ページ目
Japanese1

2ページ目
Japanese2





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もちろん、こんなふざけたテストを仕事でしているわけではありません。これは、このブログ専用のテストです。
今日はエイプリルフールですからね。
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Posted by 八少女 夕

聖週間によせて

今週は、少しイレギュラーな更新になります。小説の更新は金曜日になりますので、ご了承ください。

easter

現在、キリスト教世界では「聖週間」つまりキリストの復活を待つ準備の1週間となっています。キリスト教国にとって復活祭(イースター)は、クリスマスとならびとても大切なお祭りで、日本でいうとどちらがお盆でどちらがお正月か、ちょっと断定できないほど。(実際に、この時期に人々は日本の年の暮れのように大掃除をします)

敬虔なキリスト教徒ならば、灰の水曜日から40日間の潔斎期間(肉などを食べずにキリストの苦難を思う)はずなのですが、少なくとも私の周りにはそこまで敬虔なキリスト教徒はいないみたいです。それでも例えばカトリックの多いポルトガルなどでは、この時期はバカリャウ(ポルトガル人の大好きな干し鱈)がたくさん食卓に上ると聞いたことがあります。

そして、いよいよ復活祭の近づいてきた聖週間には、敬虔に過ごす、または、少しギョッとするような外見の行列の祭儀を執り行ったりする地域があるようです。ちなみに、我が家の近くには、なにもありません。

今年は、どのキリスト教国も、カトリックもプロテスタントも、復活祭を大きく祝うことはできません。平素はガラ空きの教会もクリスマスと復活祭には満杯になるのが普通だったのですが、それも禁じられて異様な祭日になっています。

去年の復活祭は、ロックダウンで誰もいないミラノの街をドローンで撮影したアンドレア・ボチェッリの「Music For Hope」が話題になりました。

今年もまた、ヴァチカンのミサは縮小して行われるそうですし、こちらの地域の教会もみな集まらないように、歌わないように、抱き合ったり握手をしたりしないようにと、異様な状態で迎えます。

 昨年「たった1年のことだ、いま耐えればきっとすぐに元通りになる」と、口々に言っていた人たちが、いま長引く厄災に疲弊しながらこの1年のことを考えています。

そういえば、イエス・キリストが磔刑にされたのはユダヤ教の大切な祭り「過越祭」の時でした。神に与えられた疫病が世間を覆い尽くす間、それが通り過ぎるのをひたすら待ち生きながらえさせてもらったことへの感謝の祭りです。ですから、現在でもユダヤ教信者は、キリスト教の復活祭と同じ時季(春分後最初の満月の後の祝日)に過越祭を祝います。

いまは、全世界のあらゆる人々が、禍が通り過ぎるのを待っています。それがいつになるのか、どんな形で終わるのか、私にはわかりませんが、少しでも早い事を祈る復活祭になりそうです。

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Posted by 八少女 夕

ホットサンドが好き

今日の記事の前にちょっとお知らせ。つぶあんさん(たらこさん)が「scriviamo! 2021」のプランB(まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法)のお返し作品を書いてくださいました。そして、素敵なイラストも描いてくださいました! 詳しくはこちらへ。

さて、本日の話題は、相変わらずの食いしん坊系です。


ホットサンド

ホットサンド、私は大好きで15年以上前から無名メーカーの電気式ホットサンドメーカーを使っていたのですが、ちょっとした不満がありました。そのマシンがどうというのではなく、単純に私はプレスしてパンがぺっちゃんこになるのがあまり好きではなかったのです。

そして、最近の日本のネット界では、「ホットサンドメーカー活用」「ワッフルメーカー活用」が話題になっていて、単にパンやワッフルを作るだけでなくいろいろな料理をつくるのに使っているようなので、私もいろいろと試してみたくなったのです。そして、以前から狙っていたTefalのSnack Collectionシリーズに心がどんどん動いて買ってしまいました。

これ、残念ながら日本のT-falでは販売していないみたいなのですけれど、似たような製品が日本にもあるみたいですね。要するに鉄板の部分をさまざまなパーツに変えて、ホットサンド、ワッフル、ドーナツ、パンケーキなど12種類のメニューを作れる機械です。実際に買ったのはSnack Collectionの安価互換モデルであるTefalのSnack Timeです。で、はじめからついていたパーツは、普通の三角のホットサンドメーカー用とワッフル用でした。

ホットサンドメーカー

なのですが、考えるところがあり、すぐにフレンチトースト用のパーツも買い足しました。理由の1つが上記のパンを押しつぶして食べるのが、あまり好みでないということでした。加えて、たとえば揚げないコロッケなどをつくるときに、少し空間が足りなくてぺちゃんこになってしまうという理由もありました。フレンチトースト用のパーツは、空間がとても広いのです。

Snack Collection フレンチトーストパーツ

結果は大成功で、現在一番多く使っているのがこのパーツです。普通のホットサンドはもちろん、揚げないコロッケ類や、スイス名物ロシュティなどもこれでつくっていますよ。(こうした本来的でない活用法については、またいつか別の記事で触れますね)

潰さないホットサンドを作るときの注意点は1つだけ。パンをカットするのは加熱する前に。加熱後に切るとカット面の見た目が悪くなることもそうですけれど、それ以上に先に切る方が力を入れるときにずっと楽なのです。

すっかり氣をよくして、現在パニーニ用のパーツも注文中。こちらも楽しみです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(10)迷宮

昨年末に一時休止した『Filigrana 金細工の心』の連載再開、10回目「迷宮」をお送りします。

はじめにお断りしておきますが、今回の更新、おそらく読んでくださる方にはドン引きされると思います。だから、開示をダラダラ引き延ばしていたわけではないんですけれど……。第1作のヒロイン、マイアはお子様だったのでこういう展開は全くなかったんですけれどねぇ。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(10)迷宮

 わずかな軋みが、彼の前頭葉に刻み付けられている。それは過去に確かに耳にしたものであるが、記憶の音なのかそれとも現在響いているものなのか、彼は確認したくなかった。

 あの時、アントニアは19歳だった。彼女がいつからその悪夢に迷い込んでしまったのか、彼は知らない。ただ、その夜、彼はその軋みで目を覚ました。好奇心など起こすべきではなかった。使用人たちが全て去り、誰もいないこの館の夜の時間、それから3千以上の夜を、いや、これからどれほどになるかわからぬ夜を、許されぬ幻影に苦しめられると知っていたら、彼は何も聞かなかったことにしてそのまま眠りについただろう。

 どこからか聴こえてくるのかを想像することは容易かった。若い娘にも生命の営みに関する衝動があることくらい知っていたし、そのままにしておけばよかったのだ。けれど、彼は足音を忍ばせて、彼女の部屋の前まで行ってしまった。そして、漏れてくる彼女の悩ましい声を耳にしてしまったのだ。アントニアは、彼を呼んでいた。

 その衝撃に、彼はしばし立ちすくんだ。それから、黙って踵を返した。だが、アントニアの部屋から漏れてくる声は突然止んだ。

 その夜のことを彼は口にしなかった。アントニアも話題にしなかった。けれど、それを秘め事にしてしまって以来、2人の間には従叔父と従姪の関係だけではなく、後ろめたく苦しい感情が常に流れることになった。彼は、アントニアが彼に対して何を願っているのかを知ってしまった。そしてアントニアは、それが一時の夢物語であるとも、新たに愛する男が出来たとも語る事はなかった。それどころか、次から次へと《監視人たち》が持ってくる、青い星を持つ貴公子たちとの出会いを片っ端から断った。

 彼の夢を支配していたのは、それまでマヌエラ1人だった。人生の中で唯一手が届きそうだった女神。彼女を腕の中に抱き、その柔らかい唇を夢中で吸った記憶、肌に触れることもなく、欲望を受け入れてもらうこともなかった彼女との愛の営みの続きを、彼は夢の中で幾度も続けた。

 格子の向こうから横目で眺めた彼女の腹が、少しずつ膨らんでいった時、彼は憎しみと嫉妬に苦しみながらも、夢で続けている彼の愛の衝動が彼女を孕ませているという想いからも自由になれなかった。アントニアは、そうして生まれてきたマヌエラの娘だった。現実には、憎み続けたカルルシュの血を引いた女であり、その一方で、彼の幻影の中での彼自身の娘でもあった。

 だが、その夜から、彼の夢は乱れた。彼の女神は、彼の愛し続けたマヌエラは、その柔らかい金髪と灰色の瞳で優しく彼を愛撫していたはずなのに、時には黒髪で彼を締め付け、挑むようにその水色の瞳で覗き込む。それがマヌエラではないと意識にのぼっても、彼はその夢から離れることができなかった。

 目が覚め、汗を拭き、シャワーで穢らわしい夢を洗い流す。普通に立って生活している時には、彼の夢はこのようにおぞましい罠は仕掛けてこなかった。目の前にいる美しい娘は常に彼の従姪であり、愛する女の娘だった。たとえ、彼を見つめるアントニアの水色の瞳に、叔父に対する愛をはるかに超えた強い想いを感じても、彼の心は動かなかった。

 それは、アントニアが若いからではなかった。その事を今の彼は、痛いほどわかっている。マヌエラ1人を憎みつつも変わらずに愛しているからでもない。ひとつの愛を信じる事のできた数ヶ月前に彼は戻りたかった。

 カルルシュがこの世を去った後も、彼がマヌエラを愛しその手を求める事は許されなかった。黄金の腕輪を嵌めていない男であれば、彼女の2人目の夫となる事が許されるが、彼はインファンテだった。そして、マヌエラだけでなく、どの黄金の腕輪を付けた女も、たった1人の《星のある子供たち》である男としか関係を持つ事を許されない。それが宣告1つで子供を産む事を強制され続ける悲劇から《星のある子供たち》である女を守るドラガォンの掟だった。

 彼が望めば、おそらくドラガォンはありとあらゆる彼の好みそうな《星のある子供たち》である女たちを彼に引き合わせただろう。そして、彼は、カルルシュの実の父親がそうしたように、次々と無垢な娘を楽しんでは放り出す事も許されたはずだ。だが、彼はそれを望まなかった。マヌエラにこだわったまま、1人でこの歳まで過ごした。血脈をつなぐ事を拒み、ただの1人の女にも触れようとしなかった。

 それなのに、マヌエラを失って以来はじめて興味を持ち、心と体の両方を得たいと願った娘もまた、1度《星のある子供たち》に選ばれた、彼が触れてはならない女だった。しかも、我が子であってもおかしくないアントニアよりもさらに若かった。

 ライサ・モタに惹かれている事に氣づいた時、彼はひどく混乱した。それが単なる欲情の対象ではなく、恋をしているのだと認めざるを得なくなったので、身勝手で残酷な己れに身震いした。彼のアントニアの想いに応えるつもりのないことに使ってきた理由は、全く意味をなさなかった。
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Posted by 八少女 夕

2021年空見の日

2021空見の日の空

今日3月20日は、春分の日です。そして、同時に「2021年の空見の日」です。これはブログのお友達もぐらさんが毎年主催されているイベントです。

「お花見」 があるんだから 「空見」 があってもいいんじゃないかと。

「空見」 の日を決めて、何時でもいいので 空を見上げる。そして 深呼吸する。
そのとき 見上げた空の写真を撮って 自分のブログに載せてもらう。
そうすればその日は 参加してくださったみなさんと同じ空を見上げた 「空見の日」。

ブログ「土竜の只今 準備中」の記事から引用



いろいろな意味で、自信をなくしたり不安に思ったりすることの多い日々。今日から休暇として行くはずだったポルト行きも、今年もキャンセル。しかたありません。しかも、暦の上ではとっくに春なのに、ここしばらくやたらと寒い。そんな中、Apple Watchの運動リングを閉じるために30分以上の散歩を続けています。

私や人類がイマイチな日々を過ごそうと、空は変わらずに広がっていて、世界は変わらずに美しい。ちっぽけな存在であることは、間違いないけれど、それは別に悲しむことでもなくて。とにかく今日も美しい世界にいることを感謝して、てくてく歩いて行こうと思います。
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Posted by 八少女 夕

【小説】皇帝のガラクタと姫

今日の小説は『12か月の店』の3月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『ウィーンの森』です。静岡県の小さな街にあるウィーン風のこだわりカフェ、ということになっている店です。この話、もともとはシリーズ化する予定は皆無だったのですけれど、猫又がやって来たあたりからなんとなく使い勝手がよくなって時おり登場していますね。


短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
「ウィーンの森」シリーズ



皇帝のガラクタと姫

 ひらひらと白い花片が舞っていくのを、真美は目で追った。あれはなんだろう。桜にしては早いから、桃かしら。

 子供の時に住んでいたこの地域は温暖で光に満ちている。以前から抱いていた真美の印象は、久しぶりにこの街で暮らしてさらに強くなった。東京も思っているほど寒くなかったのかもしれない。こまかく氣温を記録していたわけではない。けれど、真美が通っていたオフィスはビル風が強いと有名なところで冬の厳しさは格別だったし、春の訪れも花見の頃まではあまり感じなかった。

 結婚し住むことになった駅前のカフェの周りには高いビルはない。周りに柑橘類を植えている邸宅が多く、柔らかい陽光と実の暖色が近所一帯を視覚的に温めてくれている。カフェの裏手には白樺の林があり、その四季折々の表情も見飽きない。

 土曜日。いつもより少し寝坊をしてしまったので、わずかに後ろめたく思いつつ、布団を干した。護は、もちろんとっくに起きて、開店準備をしているはずだ。真美が昨夜遅くまで月曜日のプレゼン資料を作成していたのを知っているので、起こさずにそっと店にいったのだろう。

 つきあうことになってから、お互いに結婚の意思があることまではわりと早く明確になったのだが、それから具体的な話を決めるときに若干もたついた。護はこの店『ウィーンの森』の店長としての仕事をほぼ生きがいのように感じていたが、真美が東京の商社で任されていた仕事にやり甲斐を感じていることもよく理解していてくれた。

 実際に、真美は長距離通勤や単身赴任なども考えたが、最終的には退職して近くで再就職をする道を選んだ。『ウィーンの森』のスタッフとして働くという考えもあったのだが、護は反対した。それはいつでもできることだし、365日24時間ずっと一緒に居るよりも、お互いに自分の空間と時間、そして知りあいを持つほうがいいと。

 真美はなるほどと思った。この土地と店をずっと続けている護はともかく、17歳で東京に移住した真美にこの街の人々との付き合いはほとんどない。自分の世界を持ち、見聞を広めるのは大切なことだ。

 そんなわけで、真美は県内の少し大きな街の不動産会社に勤めている。土日は護の店を手伝うことも多いが、「休みの日はゆっくりしろ」と言ってくれるので、こちらは重役出勤になってしまうことが多い。

 洗濯や部屋の掃除をひと通り済ませてから階下に降りていった。コーヒーだけでなく、甘いケーキを焼くような香りがしている。店内を見回すと、いつも入り浸る近所のご老人たちの他、買い物帰りのようなご婦人方が楽しく話していた。

 そして、窓際に1人、非常に目立つ服装の女性が座っている。薄紫色のワンピースを白いレースとリボンが覆いつくしている。髪はきれいにセットされた縦ロールでヘアーバンドのように濃淡さまざまの紫の造花と白いレースが彩っている。あれは確か「姫ロリィタ」というジャンルの服装じゃないかしら。真美は思った。

 東京の原宿あたりにいれば、さほど珍しい服装ではないが、このあたりで電車に乗ればかなり注目の的になるだろう。だが、ウィーンのカフェをコンセプトにしたこの店ではそれなりに絵になる。

 白樺の木立に面した広い窓から入ってくる柔らかい陽光が彼女のワンピースや艶やかな髪に注がれ、おそらく化繊であろう衣服の人工的な輝きをもっと柔らかな印象に変えている。カフェのインテリア、柱や床も家具も濃い茶色だ。護は、エスプレッソメーカーからから食器に至るまで本場で使われているのと遜色のないこだわりの店作りをしていた。おそらくそれが彼女がここにやって来た理由でもあるのだろう。

 でも、1人なんだろうか。こういう人たちって、集まってお茶会をしたりするんだと思っていた。真美は、護がその女性のところに何かを運んでいくのを眺めた。

「お待たせいたしました。メランジェとカイザーシュマーレンです」
女性は、目の前に置かれた皿を見て硬直した。それから震える手で置かれたフォークとナイフに手を伸ばし掛けたので、護は軽く頭を下げて「どうぞごゆっくり」と言った。

 カウンターに戻って来ようとする護は、真美に氣がついて軽く笑った。真美も小さく「遅くなってごめん」と言った。ところがその言葉を遮るように、窓際の女性が「待ってください」と声をかけた。

 護は、戻って「いかがなさいましたか」と訊いた。

「あの、これ、どうしてこんなに崩れているんですか」
女性は、わずかに批難するようなトーンで言った。真美は遠くからだがその皿を見て、彼女の苦情ももっともだと思った。皿の上には、パンケーキをぐちゃぐちゃに潰したような欠片がたくさん置かれ、それに粉砂糖がかけられている。その横にガラスの器に入った赤い実のソースが添えられていた。

 護は、慌てた様子もなく答えた。
「カイザーシュマーレンをご注文なさるのは初めてですか?」
「はい」
「そうですか。シュマーレンというのは、ガラクタ、めちゃくちゃなものといった意味で、焼いたパンケーキを、あえてスプーンで崩して作るお菓子なのです」

 それを聞くと、女性ははっとして、恥じるように下を向いた。
「そうだったんですか。ごめんなさい、失礼なことを言って……」

 護は首を振った。
「見た目が特殊で、お客様のようなお申し出が多いので、あえてメニューには載せず、口頭でご注文いただいたお客様だけにお出ししているのです。どちらでこのメニューのことを耳になさいましたか」

 女性は、しばらく下を向いていたが、やがて顔を上げてから少し悲しそうに答えた。
「友だち……いいえ、知りあいに言われたんです。私にふさわしいお菓子があるからって」

 店内はシーンとしていた。おしゃべりに明け暮れていたご婦人方も、興味津々で成り行きを伺っている。

「私、ずっと友だちがいなくて。同級生たちと話も合わなくて。こういう服が好きって言ったら、みんな遠巻きにするようになってしまって。だから、普段は、この趣味のことは言わずに、ネットで同じ趣味の仲間を探したんです。でも、みんな都会にいて。行けない私はお茶会の話題にもついていけないんです。今日は、みんなウィーン風のカフェでお茶会をするっていうので、せめてここで同じように過ごそうと思って、どんなお菓子がいいかって訊いたら、これをすすめられて……」

 ウィーンのカフェっぽいお菓子といえば有名なザッハートルテやシフォンケーキ、若干マニアックだけれどピンクのプチケーキ・プンシュクラプフェンなどを思い浮かべるけれど、カイザーシュマーレンなどというデザートは初耳だった。真美は、そのネット上の「姫ロリィタ」仲間たちの意図がわからず戸惑った。

「遠くても、ようやく趣味の合う友だちができたと思っていました。年齢も離れているみたいだけれど、それでも受け入れてもらっているのかと。でも、私、歓迎されていなかったみたい」
それだけ言うと、彼女は悲しそうにカイザーシュマーレンを見つめた。

 護は、小さく首を振って答えた。
「そういうおつもりで薦めてくださったのではないかもしれませんよ」

 女性は不思議そうに護を見た。彼は、続けた。
「カイザーシュマーレンのカイザーとは、皇帝という意味なんです。このデザートの由来にはいくつか説があるのですが、一番有名なのは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が氣に入ったからというものなんです。あの、シシィの愛称で知られるエリーザベトを皇后にした皇帝です。オーストリアでは、同様にしてつくられるシュマーレンの中でももっとも洗練されたデザートとして愛されています」

 彼女は、皿の中をじっと見つめた。明るいパステルイエローが粉砂糖の中から顔を見せ、甘い香りが漂ってきている。遠くで眺めながら真美はあれを食べてみたいと思った。

「ひと口だけでも召し上がってみてください。ウィーンでは何軒ものカフェでそれぞれのカイザーシュマーレンを食べましたが、こちらはそのどこにも負けない味だと自負している自信作です。日本の方の舌に合うように生地の甘さを控えめにして、ソースの方で甘さを調節できるようにしてあります」

 護の言葉に小さく頷くと、彼女はそっとフォークとナイフを手に取った。
「あ……」
小さい欠片はナイフを使うまでもなかった。それぞれは切るほど大きくないし、見た目は脆そうでもカラメリゼがきいているのでフォークからこぼれ落ちることもない。

 ひと口食べてみた彼女は少し顔を赤らめた。
「おいしい……」

 それから護を見て頭を下げた。
「食べもしないで、文句を言ってごめんなさい。とても美味しいし、それに、他のお菓子のように、食べるときに服を汚さないか、きれいに食べられるか心配しなくていいデザートなんですね」

 護は頷いた。
「お氣に召して嬉しいです。どうぞごゆっくり」

 カウンターに戻ってくる護を、ご婦人方が止めた。
「ねえ。私たちもあれを食べてみたいんだけれど」

 カウンターに戻ってきた護は真美に卵を出してくれと頼んだ。真美は、テキパキと冷蔵庫から卵を取りだした。

「そういえば、ザッハートルテ、大好きだけれど、フォークだけで切るのはけっこう難儀よね、かなり固いし」
真美が言うと、護は頷いた。
「君は、苦労していたよな、たしか」

 そういえば初めて食べたのはここ、高校生の時のことだ。ナイフを使わない横着をしてケーキの小片を飛ばしてしまった。そして、ジーンズにアプリコットジャムがベッタリとついた。真美は当時も今も、この店ではラフな格好しかしないので特に問題はなかったが、あんな素敵な格好をしていたら、そんな失敗は怖いだろうと思った。

 女性の着ている紫のワンピースもそうだが、「姫ロリィタ」のワンピースにはボリュームパニエが必須で、座るとスカートが机の真下まで広がることになる。加えてたくさんのレースやリボンがついているので、その分普通の服装よりもスカートを汚すことも多いのだろう。その点、カイザーシュマーレンならずっと食べやすいだろう。

「真美、これを頼む」
護は、できあがったカイザーシュマーレンを2つカウンターに置いた。それから自分も2皿持ち、ご婦人方のところに持って行く。真美はその皿を一緒に運びながら厨房奥に小さな皿が残っているのを見た。ひと言も口にしなかったのに味見用を用意してくれたのだろう。そんなに物欲しげな顔をしていたかしら。 

 はじめて食べたカイザーシュマーレン。中はふんわり外はカリッとして美味しい。真美はフレンチトーストなどを茶色く色づかせるのが好きだがいつも焦がして苦くしてしまう。こんな風にカリッとするまで焼くのは、単にレシピを見て作るだけでなく、かなり研究を重ねて作り込んだはずだと思った。

「真美。そんなに喜んでくれるのは嬉しいけれど、顔が緩みすぎだぞ」
厨房で堪能していると、そういいながら護は、コーヒーを淹れてくれた。

 食べ終わってから店内を見ると、ご婦人方が窓際の女性に話しかけていた。
「あなたのその服、とても綺麗ね。手作りなの?」
「えっと……。買ったものに少し自分で手を加えています。レースやリボンなどを……」
「まあ、そうなの。とても素敵よ」
「へえ。自分でなんて偉いわね。うちの娘は家庭科の宿題すら全部わたし任せなのよ。材料は、手芸用品のお店で買うのかしら」

 女性は、困ったように言った。
「私、この前引っ越してきたばかりで、この辺りのお店は知らないんです。前いたところは、大きい手芸屋さんも知っていたんですけれど……」
「あら。隣の駅だけれど、とても充実していて安いお店を知っているわよ。ちょっとまって、地図を書いてあげる」

 ほんの30分前までは完全に浮いていた「姫ロリィタ」ルックの女性は、すっかりご婦人方に可愛がられている。そして、彼女自身も打ち解けて自然な笑顔を見せるようになった。ご婦人方だけでなく、別の席のご老人グループも、見てはいけないものを怖々みるような態度はなくなり、遠くから見守っていた。

「このお店、そういうお衣装にはぴったりよね」
「はい。こういう素敵なカフェ、東京みたいな大都会じゃないとないんだと思っていました」
「うふふ。インテリアも、メニューも、店長がこだわっているからねぇ。本場ウィーンにいるみたいでしょう?」
「せっかくだから、写真を撮ってあげるわよ。同じ趣味のお友達に自慢するといいわ」

 真美はカウンターの後ろで護と顔を見合わせて笑った。この店は、彼の思い入れと研究の成果であると同時に、こうしてお客さんたちが支えてくれるので続けられているのだと思う。都会にあればもっとたくさんの人が足を運んでくれるかもしれないが、こんな風に客同士が楽しく触れ合うこともそうそうないだろう。

 ご老人方やご婦人方に続き、きっとこの「姫ロリィタ」ルックの女性も常連になってくれるだろう。もしかしたら、彼女が同じ趣味の人たちを連れてくるかもしれない。真美は、カイザーシュマーレンを正式にメニューに入れることを、護に提案しようと思った。

(初出:2021年3月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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カイザーシュマーレン、もっとぐちゃぐちゃのも散見しますが、だいたいこんな感じのお菓子です。
Kaiserschmarrn groß
Kobako, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons
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【小説】皇帝のガラクタと姫

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日の小説は『12か月の店』の3月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『ウィーンの森』です。静岡県の小さな街にあるウィーン風のこだわりカフェ、ということになっている店です。この話、もともとはシリーズ化する予定は皆無だったのですけれど、猫又がやって来たあたりからなんとなく使い勝手がよくなって時おり登場していますね。


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【参考】
「ウィーンの森」シリーズ



皇帝のガラクタと姫

 ひらひらと白い花片が舞っていくのを、真美は目で追った。あれはなんだろう。桜にしては早いから、桃かしら。

 子供の時に住んでいたこの地域は温暖で光に満ちている。以前から抱いていた真美の印象は、久しぶりにこの街で暮らしてさらに強くなった。東京も思っているほど寒くなかったのかもしれない。こまかく氣温を記録していたわけではない。けれど、真美が通っていたオフィスはビル風が強いと有名なところで冬の厳しさは格別だったし、春の訪れも花見の頃まではあまり感じなかった。

 結婚し住むことになった駅前のカフェの周りには高いビルはない。周りに柑橘類を植えている邸宅が多く、柔らかい陽光と実の暖色が近所一帯を視覚的に温めてくれている。カフェの裏手には白樺の林があり、その四季折々の表情も見飽きない。

 土曜日。いつもより少し寝坊をしてしまったので、わずかに後ろめたく思いつつ、布団を干した。護は、もちろんとっくに起きて、開店準備をしているはずだ。真美が昨夜遅くまで月曜日のプレゼン資料を作成していたのを知っているので、起こさずにそっと店にいったのだろう。

 つきあうことになってから、お互いに結婚の意思があることまではわりと早く明確になったのだが、それから具体的な話を決めるときに若干もたついた。護はこの店『ウィーンの森』の店長としての仕事をほぼ生きがいのように感じていたが、真美が東京の商社で任されていた仕事にやり甲斐を感じていることもよく理解していてくれた。

 実際に、真美は長距離通勤や単身赴任なども考えたが、最終的には退職して近くで再就職をする道を選んだ。『ウィーンの森』のスタッフとして働くという考えもあったのだが、護は反対した。それはいつでもできることだし、365日24時間ずっと一緒に居るよりも、お互いに自分の空間と時間、そして知りあいを持つほうがいいと。

 真美はなるほどと思った。この土地と店をずっと続けている護はともかく、17歳で東京に移住した真美にこの街の人々との付き合いはほとんどない。自分の世界を持ち、見聞を広めるのは大切なことだ。

 そんなわけで、真美は県内の少し大きな街の不動産会社に勤めている。土日は護の店を手伝うことも多いが、「休みの日はゆっくりしろ」と言ってくれるので、こちらは重役出勤になってしまうことが多い。

 洗濯や部屋の掃除をひと通り済ませてから階下に降りていった。コーヒーだけでなく、甘いケーキを焼くような香りがしている。店内を見回すと、いつも入り浸る近所のご老人たちの他、買い物帰りのようなご婦人方が楽しく話していた。

 そして、窓際に1人、非常に目立つ服装の女性が座っている。薄紫色のワンピースを白いレースとリボンが覆いつくしている。髪はきれいにセットされた縦ロールでヘアーバンドのように濃淡さまざまの紫の造花と白いレースが彩っている。あれは確か「姫ロリィタ」というジャンルの服装じゃないかしら。真美は思った。

 東京の原宿あたりにいれば、さほど珍しい服装ではないが、このあたりで電車に乗ればかなり注目の的になるだろう。だが、ウィーンのカフェをコンセプトにしたこの店ではそれなりに絵になる。

 白樺の木立に面した広い窓から入ってくる柔らかい陽光が彼女のワンピースや艶やかな髪に注がれ、おそらく化繊であろう衣服の人工的な輝きをもっと柔らかな印象に変えている。カフェのインテリア、柱や床も家具も濃い茶色だ。護は、エスプレッソメーカーからから食器に至るまで本場で使われているのと遜色のないこだわりの店作りをしていた。おそらくそれが彼女がここにやって来た理由でもあるのだろう。

 でも、1人なんだろうか。こういう人たちって、集まってお茶会をしたりするんだと思っていた。真美は、護がその女性のところに何かを運んでいくのを眺めた。

「お待たせいたしました。メランジェとカイザーシュマーレンです」
女性は、目の前に置かれた皿を見て硬直した。それから震える手で置かれたフォークとナイフに手を伸ばし掛けたので、護は軽く頭を下げて「どうぞごゆっくり」と言った。

 カウンターに戻って来ようとする護は、真美に氣がついて軽く笑った。真美も小さく「遅くなってごめん」と言った。ところがその言葉を遮るように、窓際の女性が「待ってください」と声をかけた。

 護は、戻って「いかがなさいましたか」と訊いた。

「あの、これ、どうしてこんなに崩れているんですか」
女性は、わずかに批難するようなトーンで言った。真美は遠くからだがその皿を見て、彼女の苦情ももっともだと思った。皿の上には、パンケーキをぐちゃぐちゃに潰したような欠片がたくさん置かれ、それに粉砂糖がかけられている。その横にガラスの器に入った赤い実のソースが添えられていた。

 護は、慌てた様子もなく答えた。
「カイザーシュマーレンをご注文なさるのは初めてですか?」
「はい」
「そうですか。シュマーレンというのは、ガラクタ、めちゃくちゃなものといった意味で、焼いたパンケーキを、あえてスプーンで崩して作るお菓子なのです」

 それを聞くと、女性ははっとして、恥じるように下を向いた。
「そうだったんですか。ごめんなさい、失礼なことを言って……」

 護は首を振った。
「見た目が特殊で、お客様のようなお申し出が多いので、あえてメニューには載せず、口頭でご注文いただいたお客様だけにお出ししているのです。どちらでこのメニューのことを耳になさいましたか」

 女性は、しばらく下を向いていたが、やがて顔を上げてから少し悲しそうに答えた。
「友だち……いいえ、知りあいに言われたんです。私にふさわしいお菓子があるからって」

 店内はシーンとしていた。おしゃべりに明け暮れていたご婦人方も、興味津々で成り行きを伺っている。

「私、ずっと友だちがいなくて。同級生たちと話も合わなくて。こういう服が好きって言ったら、みんな遠巻きにするようになってしまって。だから、普段は、この趣味のことは言わずに、ネットで同じ趣味の仲間を探したんです。でも、みんな都会にいて。行けない私はお茶会の話題にもついていけないんです。今日は、みんなウィーン風のカフェでお茶会をするっていうので、せめてここで同じように過ごそうと思って、どんなお菓子がいいかって訊いたら、これをすすめられて……」

 ウィーンのカフェっぽいお菓子といえば有名なザッハートルテやシフォンケーキ、若干マニアックだけれどピンクのプチケーキ・プンシュクラプフェンなどを思い浮かべるけれど、カイザーシュマーレンなどというデザートは初耳だった。真美は、そのネット上の「姫ロリィタ」仲間たちの意図がわからず戸惑った。

「遠くても、ようやく趣味の合う友だちができたと思っていました。年齢も離れているみたいだけれど、それでも受け入れてもらっているのかと。でも、私、歓迎されていなかったみたい」
それだけ言うと、彼女は悲しそうにカイザーシュマーレンを見つめた。

 護は、小さく首を振って答えた。
「そういうおつもりで薦めてくださったのではないかもしれませんよ」

 女性は不思議そうに護を見た。彼は、続けた。
「カイザーシュマーレンのカイザーとは、皇帝という意味なんです。このデザートの由来にはいくつか説があるのですが、一番有名なのは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が氣に入ったからというものなんです。あの、シシィの愛称で知られるエリーザベトを皇后にした皇帝です。オーストリアでは、同様にしてつくられるシュマーレンの中でももっとも洗練されたデザートとして愛されています」

 彼女は、皿の中をじっと見つめた。明るいパステルイエローが粉砂糖の中から顔を見せ、甘い香りが漂ってきている。遠くで眺めながら真美はあれを食べてみたいと思った。

「ひと口だけでも召し上がってみてください。ウィーンでは何軒ものカフェでそれぞれのカイザーシュマーレンを食べましたが、こちらはそのどこにも負けない味だと自負している自信作です。日本の方の舌に合うように生地の甘さを控えめにして、ソースの方で甘さを調節できるようにしてあります」

 護の言葉に小さく頷くと、彼女はそっとフォークとナイフを手に取った。
「あ……」
小さい欠片はナイフを使うまでもなかった。それぞれは切るほど大きくないし、見た目は脆そうでもカラメリゼがきいているのでフォークからこぼれ落ちることもない。

 ひと口食べてみた彼女は少し顔を赤らめた。
「おいしい……」

 それから護を見て頭を下げた。
「食べもしないで、文句を言ってごめんなさい。とても美味しいし、それに、他のお菓子のように、食べるときに服を汚さないか、きれいに食べられるか心配しなくていいデザートなんですね」

 護は頷いた。
「お氣に召して嬉しいです。どうぞごゆっくり」

 カウンターに戻ってくる護を、ご婦人方が止めた。
「ねえ。私たちもあれを食べてみたいんだけれど」

 カウンターに戻ってきた護は真美に卵を出してくれと頼んだ。真美は、テキパキと冷蔵庫から卵を取りだした。

「そういえば、ザッハートルテ、大好きだけれど、フォークだけで切るのはけっこう難儀よね、かなり固いし」
真美が言うと、護は頷いた。
「君は、苦労していたよな、たしか」

 そういえば初めて食べたのはここ、高校生の時のことだ。ナイフを使わない横着をしてケーキの小片を飛ばしてしまった。そして、ジーンズにアプリコットジャムがベッタリとついた。真美は当時も今も、この店ではラフな格好しかしないので特に問題はなかったが、あんな素敵な格好をしていたら、そんな失敗は怖いだろうと思った。

 女性の着ている紫のワンピースもそうだが、「姫ロリィタ」のワンピースにはボリュームパニエが必須で、座るとスカートが机の真下まで広がることになる。加えてたくさんのレースやリボンがついているので、その分普通の服装よりもスカートを汚すことも多いのだろう。その点、カイザーシュマーレンならずっと食べやすいだろう。

「真美、これを頼む」
護は、できあがったカイザーシュマーレンを2つカウンターに置いた。それから自分も2皿持ち、ご婦人方のところに持って行く。真美はその皿を一緒に運びながら厨房奥に小さな皿が残っているのを見た。ひと言も口にしなかったのに味見用を用意してくれたのだろう。そんなに物欲しげな顔をしていたかしら。 

 はじめて食べたカイザーシュマーレン。中はふんわり外はカリッとして美味しい。真美はフレンチトーストなどを茶色く色づかせるのが好きだがいつも焦がして苦くしてしまう。こんな風にカリッとするまで焼くのは、単にレシピを見て作るだけでなく、かなり研究を重ねて作り込んだはずだと思った。

「真美。そんなに喜んでくれるのは嬉しいけれど、顔が緩みすぎだぞ」
厨房で堪能していると、そういいながら護は、コーヒーを淹れてくれた。

 食べ終わってから店内を見ると、ご婦人方が窓際の女性に話しかけていた。
「あなたのその服、とても綺麗ね。手作りなの?」
「えっと……。買ったものに少し自分で手を加えています。レースやリボンなどを……」
「まあ、そうなの。とても素敵よ」
「へえ。自分でなんて偉いわね。うちの娘は家庭科の宿題すら全部わたし任せなのよ。材料は、手芸用品のお店で買うのかしら」

 女性は、困ったように言った。
「私、この前引っ越してきたばかりで、この辺りのお店は知らないんです。前いたところは、大きい手芸屋さんも知っていたんですけれど……」
「あら。隣の駅だけれど、とても充実していて安いお店を知っているわよ。ちょっとまって、地図を書いてあげる」

 ほんの30分前までは完全に浮いていた「姫ロリィタ」ルックの女性は、すっかりご婦人方に可愛がられている。そして、彼女自身も打ち解けて自然な笑顔を見せるようになった。ご婦人方だけでなく、別の席のご老人グループも、見てはいけないものを怖々みるような態度はなくなり、遠くから見守っていた。

「このお店、そういうお衣装にはぴったりよね」
「はい。こういう素敵なカフェ、東京みたいな大都会じゃないとないんだと思っていました」
「うふふ。インテリアも、メニューも、店長がこだわっているからねぇ。本場ウィーンにいるみたいでしょう?」
「せっかくだから、写真を撮ってあげるわよ。同じ趣味のお友達に自慢するといいわ」

 真美はカウンターの後ろで護と顔を見合わせて笑った。この店は、彼の思い入れと研究の成果であると同時に、こうしてお客さんたちが支えてくれるので続けられているのだと思う。都会にあればもっとたくさんの人が足を運んでくれるかもしれないが、こんな風に客同士が楽しく触れ合うこともそうそうないだろう。

 ご老人方やご婦人方に続き、きっとこの「姫ロリィタ」ルックの女性も常連になってくれるだろう。もしかしたら、彼女が同じ趣味の人たちを連れてくるかもしれない。真美は、カイザーシュマーレンを正式にメニューに入れることを、護に提案しようと思った。

(初出:2021年3月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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カイザーシュマーレン、もっとぐちゃぐちゃのも散見しますが、だいたいこんな感じのお菓子です。
Kaiserschmarrn groß
Kobako, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons
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Posted by 八少女 夕

チェリー入りのデザート

あまり得意でもないのですけれど、お菓子作りの話題を。

チェリー入りガトーショコラ

いつだったかも記事にしたと思いますが、去年の夏、大量のサクランボを収穫し食べきれなかった分を冷凍して少しずつ使っているのです。まだ終わっていません(笑)

1.5キロずつ冷凍してあるので、それをコンポートにしたりケーキに混ぜたりして使います。で、定番はクラフティーなどの黄色いクリームでつくるお菓子なのですが、1度冷凍したせいなのか、赤い色が黄色いクリームにマーブル状に混ざることが多くて、見た目がいまいちなのですよね。

それで、色が氣にならないお菓子を探していて、チョコレートケーキに混ぜるレシピを見つけました。いわゆるガトーショコラに埋め込むわけです。ただ、そのガトーショコラのレシピは卵黄だけを使うものだったので、全卵で代用できるレシピを探してつくりました。

結果としては正解で、色の問題だけでなく、チェリーの味のなじみ方も一番好みのデザートになりました。合わせたクリームは砂糖を入れずに泡立て、ガトーショコラの甘さを抑えるようにし、ついでにチェリーのコンポートを添えることで色を少し華やかに。

連れ合いも氣に入ったのでこれはまたリピートしようと思います。


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Posted by 八少女 夕

【小説】冬のパラダイス

今日の小説は『12か月の店』の2月分です。もう3月ですけれど。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『ニューヨークの異邦人たち』シリーズのたまり場《Sunrise Diner》です。もちろん働いているのはおなじみキャシー。そして、出てくるコンビはケニアで新婚生活をはじめたあの人たちです。


短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

霧の彼方から「霧の彼方から」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」外伝集「ニューヨークの異邦人たち」




冬のパラダイス

 寒波のひどい朝は、出勤がとても憂鬱になるものだが、来てよかったとキャシーは思った。懐かしい友人が朝から訪ねてきてくれたのだ。
「びっくり。いつ着いたの? しばらく滞在?」

 ドアを開けてジョルジアを通してから入るグレッグの姿を見て、ずいぶんと夫らしくなったなとキャシーは思った。以前は、何をするのにもジョルジアの機嫌を損なわないかおどおどしているようなところがあったのだが、半年の新婚生活でジョルジアが自分の妻であることに慣れたのだろう。

 ジョルジアは、手慣れた様子でコートをハンガーに掛けながら答えた。
「6時に着いたのよ。荷物だけ置いて、まっすぐここに来たの」

 ニューヨーク、ロングアイランドのクイーンズとの境界のすぐ側の海岸を臨んで、大衆食堂《Sunrise Diner》がある。キャシーが新装開店のスタッフとしてこの店に勤めだして、3年半が経った。開店してすぐに朝食を食べる常連になってくれたジョルジアは、当時は近所に住んでいた。

 感じはいいのに、めったに口もきかず、いつもカウンターに1人で座っていた彼女が、他の常連たちと打ち解けだして、自然と輪の中に入っていけるようになるまで、しばらく時間が必要だった。それが、どうしたことだろう、1年後の秋に「アフリカで知り合った友人」を突然連れてきたかと思ったら、その1年後には、彼と結婚して、ケニアに移住すると言い出した。

 常連たちは、そのニュースを聞いてもひどくは驚かなかった。もちろん、キャシーも。むしろ、なぜあれから1年も「ただの友人」だと言い張っていたのか、みな理解できなかったのだ。

 4月の結婚式は、彼女の家族のたっての希望でニューヨークで行われたが、大きなホテルを貸し切りたいという兄の意向に断固反対して彼女たちがパーティー会場に選んだのが《Sunrise Diner》だった。家族の他、常連や、ジョルジアが専属フォトグラファーとして働く《アルファ・フォト・プレス》の社員たちが集まり、盛大かつアットホームなパーティーだった。

 キャシーはもちろん、夫のボブも招待された。アメリカ有数の富豪であるマッテオ・ダンジェロと、もとスーパーモデルのアレッサンドラ・ダンジェロのデュエットに合わせて、ダンスを踊るなどという経験は、そうそうできるものではない。もっとも、主役の2人は盛り上がりすぎに居心地が悪かったのか、パーティーの後半からは会場の隅に大人しく座っていたので、後から常連たちの語り草になった。

 その後、すぐに2人はケニアで新生活をはじめたのだが、ジョルジアはニューヨークでの住まいを完全には引き払わなかった。《アルファ・フォト・プレス》との契約で年に数ヶ月はニューヨーク暮らしをする必要があるので、同じフラットの、少し小さな部屋に引っ越して、渡米中の住まいを確保したのだ。

 また、グレッグも援助をしてもらっているプロジェクトの報告のため、年に1度ニューヨークに報告に行く契約を結んでいる。つまりこの夫婦は少なくとも年に1度ニューヨークに揃ってやってくるのだ。

 今どき報告なんてEメールで何でも済ませられるのだから、その契約は、引っ込み思案な2人をニューヨークまで引っ張り出したいマッテオ・ダンジェロの策略なのだろうとキャシーは思っている。そして、その第1回目が今回の渡米なのだろう。
 
「あら。手編み?」
キャシーは、グレッグがカウンターに置いた手袋に目を留めた。それは、グレーの毛糸をベースに、黄色や赤や緑の文様が編み込まれた、ゴム編みの大きなものだ。機械編みかもしれないと思うくらいに目はきちんと揃っているが、最近ではめったに見ない田舎っぽいデザインだ。彼のオーソドックスでシックなコートとマッチしていないし、ジョルジアやその家族が、こんな野暮ったい物を贈ることはないだろう。

 実際に、ジョルジアが外した手袋は、茶色いヌメ革に黒い革のラインが走っているもので、ダンジェロ兄妹の家族らしい洒落たチョイスだ。

 グレッグは「ああ」とだけ答えた。
「お母様の手編みなのよね」
ジョルジアが言い添えたので、キャシーはなるほどと思った。

「学生の頃にもらったんだ。アフリカに引っ越してから、1度もこの手の手袋を使う必要がなかったから、ここに虫食いの穴があった」
彼は右手袋の内側を見せた。確かに、繕った跡が見える。手袋のいらない生活ね。数年に1度、1週間ほどニューヨークに来るためだけならば、確かに新しいのを買う必要もないだろう。

「冬のニューヨークは初めてなの?」
キャシーが訊くと、グレッグは頷いた。
「ジョルジアから聞いていたから覚悟していたけれど、とても寒いね」

「僕が初めてここに来たときも、やっぱり冬だったけれど、あまりの寒さに仰天したものですよ」
いつもの窓際の席ではなく、やはりカウンターに座ったクライヴが言った。彼のイギリス的な美意識、つまりカウンターなどではなく、テーブル席で優雅に紅茶を飲む習慣も、今日のウインドー越しに襲ってくる冷氣には勝てなかったらしい。

 キャシーは黙って、ヴィクトリア朝のブルーウィロー・ティーポットに、安物のティーバッグをポンと入れた。このポットは、クライヴが店長を務めている骨董店から持ち込んで預けているのだ。彼のためにいちいち茶葉を用意してやることはないが、少なくともポットを熱湯で温めたり、沸騰させたお湯を入れてやるくらいのことはしている。そして、他の客とは違い、同柄のカップとソーサーに淹れて悦に入っているクライヴの伝票に「紅茶1」とかき込むのだ。

「で、新婚さんたちのご注文は?」
キャシーは、ジョルジアたちに顔を向けた。ジョルジアは、もう心に決めていたようで即答した。
「ホットチョコレート。『キャシー・スペシャル』で。こんなに寒いんですもの」

「それは、どんな飲み物?」
グレッグは、用心深く訊いた。かつて、キャシーに奨められて、とんでもない大きさのチョコレートサンデーが運ばれてきた衝撃を忘れていないのだろう。

「チリペッパーが入っているの。辛いのが苦手じゃなければ、いけると思う」
キャシーはウインクした。ジョルジアが続けた。
「とっても体が温まるのよ」

「じゃあ、僕にもそれをおねがいします」
グレッグが言った。

「はーい」
キャシーは、テキパキとチョコレートを用意した。

 オープンした当時、この《Sunrise Diner》で出すホットチョコレートは、粉末ココアに熱湯を入れる薄めのものだった。だが、常連にどういうわけだかヨーロッパからの移民の割合が多く、しかも、ホットチョコレートに関してはひと言もふた言もある輩が多かったおかげで、もう1つのホットチョコレートがメニューに登場することになった。ダーク系の固形チョコレートを刻んだものに熱いお湯と加熱したミルクを混ぜて作る、フランスやイタリアタイプだ。

 さらに、常連たちがあれこれと改良に腐心した結果、チリペッパー入りの《Sunrise Diner》特製ホットチョコレートが誕生したというわけだ。いまでも粉末ココア式のホットチョコレートもメニューにあるのだが、注文が入るのは圧倒的に『特製』だった。そして、常連はたいてい『キャシー・スペシャル』とそれを呼ぶのだ。

 グレッグは、厚手のカップが目の前に置かれるのをじっと眺めた。彼の知っている粉末ココア製の飲み物と違い、それは真っ黒なクリームのように見えた。キャシーはスチーマーで加熱したミルクをその上からかけてドリンクを完成した。隣でジョルジアがミルクとチョコレートをかき混ぜて飲みやすい粘度にしているのをまねてから、湯氣の上がるカップをそっと口元に運んだ。

 もっと辛いのかと思ったが、チョコレートの甘い味だけを感じた。だが飲んでいるうちに、だんだん喉元にヒリヒリとした刺激が訪れてくる。それに氣がつく頃には、体がもうぽかぽかしている。
「なるほど。確かに、暖まるね」

「初めて来たときには、ぞっとしましたよ。なんだってこんな寒いところが大都会になったんだろうって」
クライヴは、紅茶を優雅に飲みながら言った。ケニアで育ったグレッグにしてみたら、ロンドンだって、十分に寒かったのだが、クライヴにとっては、大きな違いがあるらしい。

「早く春になって欲しい?」
ジョルジアが問いかけると、クライヴは大きく頷いた。

「ちょっと待ってよ。それは困るわ。冬を待ちかねていた人だって、ここにちゃんといるんですから」
キャシーが口を尖らせた。

 首を傾げるグレッグに、ジョルジアがそっと解説をした。
「キャシーは、アイススケートが好きなの。フィギュアの選手も顔負けってくらい、とても上手いのよ」

 キャシーは、肩をすくめた。
「ま、いまだにウォールマン・リンクで滑りながら、スカウトが来るのを待っている身だけどね」

 それは冗談なんだろうか、それとも本当に? グレッグは、どう反応していいのかわからなかったので、チョコレートのカップを口元に持っていき、チリペッパーの刺激を待つことにした。

「アリシア=ミホにも教えているの?」
ジョルジアが訊いた。キャシーの娘アリシア=ミホは、そろそろ5歳になる。彼女は母親の顔になり、重々しく頷いた。
「うん。ようやく1人で滑れるようになったの。滑るのが楽しくなってきた頃かな。もっとも動物園の方が好きみたいだけど」

「きみの子供時代とは違ってかい?」
クライヴが訊くと、キャシーは「そうねぇ」と考えた。

「私が子供の時は、動物園どころかウォールマン・リンクにも入れなかったもの。ママはシングルマザーで時間もお金もなかったしね。で、私は凍った家の近くの池で1人で滑っていたなあ。動物園とか、暖かい家でするゲームとか、そういう別の選択肢はなかったのよね。ま、おかげでスケートに夢中になれたんだから、それはそれでよかったのかも」

「こんなに寒いのに、そんなにしてまでよく滑ったねぇ」
クライヴは、ぞっとするという顔をして、紅茶を飲み干した。

「滑っていると、ワクワクしてくるの。スピンしているうちに、嫌なことも忘れちゃう。新しい技に成功したときは、天に昇る心地よ。こればっかりは子供の頃から変わらないなあ。それにね、スケートリンクと違って、ただの池はめちゃくちゃ寒くないと危険で滑れないの。だから、毎年もっともっと寒くしてって神様におねがいしたなあ」

「なんてお願いをするんですか! だから、こんなに寒いんじゃないでしょうね!」
クライヴの抗議に、その場の皆が楽しく笑った。

「寒くなると、嬉しくて、踊り出しちゃうけどなあ。冬のニューヨークは、パラダイスだよ」
キャシーは、譲らなかった。

「キャシーが、あんなに冬が好きなんて、意外だったな」
外に出てから、グレッグはつぶやいた。アフリカから来た彼には、この寒さはこたえるだろうなとジョルジアは思った。

 ジョルジア自身は、さほど冬は好きではない。スケートはもちろん、スキーにもほとんど行ったことがないから、長すぎる秋や、早すぎる春に文句を言いたくなったことなど1度もない。とはいえ、例えばクリスマスに30℃近くあるというのも、落ち着かない。また『キャシー・スペシャル』は、やはりとびきり寒い日に飲むほうがしっくりくる。

 海を見たいと言ったのはジョルジアだった。まだ低く弱い日差しが作り出す光を見たかったのだ。

 そして、彼女は、街路樹の枝に育った氷の結晶が煌めくのをそのままにはできなかった。しばらく時間を忘れてシャッターを切った。グレッグは、大人しく彼女が満足するまで待った。

「もういいのかい?」
振り向いて申し訳なさそうに見つめた彼女に、彼は微笑みながら問いかけた。

「ごめんなさい。つい夢中になってしまって」
「いいんだよ。ほんの5分くらいじゃないか。僕が君を忘れてしまった時間に比べたら……」
「あの時は、こんなに寒くなかったわ」

 暖かいフラットに戻ろうと歩き出したとき、ジョルジアは困ったように辺りを見回した。
「どうしたんだい?」
グレッグも、止まった。

「手袋。どこに落としたのかしら」
右手の手袋が見つからない。

「最後に見たのはどこかい?」
「《Sunrise Diner》で2つ揃っていたのは憶えているんだけれど」
「じゃあ、通った道を戻ろう。落ちているかもしれないし」
「そうね」
「せっかくだし『キャシー・スペシャル』をもう1杯飲もうよ」

 シャッターを押しているときには感じなかった冷たさが急に指を襲ってきた。ポケットがないデザインのコートは大失敗だったわ。彼女は所在なさげにストールに手を絡めた。

 グレッグは、近づいてくるとそっと彼女の凍えた手を握った。ウールの手袋が暖かく指先を包んだが、それがそのまま彼のコートのポケットにするりと収まった。ジョルジアは、必然的にとても近くなった彼の顔を見上げた。はにかんだ彼の瞳が、こんなことをしてもいいのかと確認するようにこちらを見ている。彼女は、微笑んだ。

 キャシー、あなたのいう通りね。冬のニューヨークは、パラダイスだわ。

(初出:2021年3月 書き下ろし)
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