fc2ブログ

scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


ようこそ。このブログでは、オリジナルの小説と、スイスにいる異邦人の日常を綴っています。
【お報せ】 今日のひと言 (from PIYO)

scriviamo! 2022 受け付け終了しました。皆様のご参加ありがとうございました。

【小説まとめ読み】 - 目的別のおすすめ小説をリンクした記事
『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』を読む 『森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架』を読む 短編小説集『12か月の楽器』を読む エッセイ集『心の黎明をめぐるあれこれ』を読む

Posted by 八少女 夕

野菜作りの実験結果

素人家庭菜園の話の続きです。

小さな収穫

スイスは夏の後に、ほぼ秋抜きで初冬が来てしまったような日々です。日中でも10℃とか、普通に寒いですけれど、もう10月だからしかたないですよね。

今年、いつものトマトだけでなくいろいろな野菜を試しに植えて、私が作れる野菜とそうでない野菜を知ろうとしました。で、結果としてトマトの楽さ、安定ぶりを改めて感じたんですけれど、苦労しつつも他の野菜も「意外とできたじゃん」と感じることもありました。

日本にいたときは東京に住んでいて、普通に明るいうちには帰れない生活が普通だったので、いわゆる家庭菜園的なものとは無塩でした。ハーブくらいは栽培しましたけれど。

スイスの田舎暮らしというのは、そういう日本の都会暮らしとは全く違うリズムの中で生きるので、家庭祭する時間と余裕というものは十分にあります。会社から帰宅する途中につい吸い込まれてしまう本屋や、休日に行きたくなってしまう文化催事などもありません。仕事が終わって20分後には自宅に戻り、それから夏だと2時間くらいは明るいのです。そして、夏は爽やかで外にいるのも苦になりません。

種から芽が出るのを待った野菜と、苗を買ってきた野菜とがありましたが、もちろん苗からの方が楽でした。

トマトの半分は、去年のトマトから自然に出てきてしまったもの(3本)でした。日本の品種です。残りの3本は園芸店から狩ってきた「シベリア種」「ブラッククリム」「ベルナーローゼン」という種類でしたが、大きくておいしかったのは、日本のトマトの子孫、それから「ベルナーローゼン」でした。来年は、この2種にプチトマトを1つ植えてみようと思います。

今ごろになってようやくピーマンが実をつけだしています。赤パプリカになる予定なんですけれど、まだまだピーマンなんですよね。

人参は、写真のようにまあまあの出來のものになりましたが、時間がかかるのと苗1つから1本しかできないのでトマトなどと比べると若干効率が悪いなと思いました。同様にキャベツやコールラビも、虫との戦いの果てにできあがりは少ないなと感じました。ブロッコリーも同様ですね。

さて、芽の出てしまった野菜を植え付けてみたのが、ジャガイモとネギの類いです。家庭菜園の先輩が次々とチェックに来て「これは無理だよ」と言いました。ジャガイモはポットではできないというのです。そういうものなのかと思ったのですけれど、とりあえず枯れるまで放置しておきました。

実際に枯れた苗を引っ張ってみたら何もついてこなかったので「本当にダメだった」と肩を落としていたんですけれど、そのポットに他のものを植えようかと土をひっくり返したら、「あれれ?」新じゃががいっぱいでてきました。

大量のジャガイモではないですけれど、もともと芽の出たジャガイモは1つだったので、それがこれだけ増えたのは私にとっては大成功でした。この程度で良ければ、ポットでもジャガイモはできるのですね。

玉ねぎも芽の出てしまったものを捨てるくらいなら、ポットにつっこんでおけばしばらくするとちゃんとした野菜になって戻ってきます。

本当の自給自足をするには、絶対量が少ないのですけれど、私のような素人でもそこそこ野菜は育てられるのだとわかったのはよかったです。

これからは寒さに強い野菜と、室内でスプラウト系を作って冬の野菜不足に備えるつもりです。
関連記事 (Category: 生活のあれこれ)
  0 trackback
Category : 生活のあれこれ

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(10)傭兵団 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』の第10回後編をお届けします。

フルーヴルーウー辺境伯に会わせろとノーアポでやって来た傭兵団たち。騎士ゴッドリーや護衛の兵たちとの間に緊張が走りますが、例の女傭兵の冷静な機転で雰囲氣が変わりました。この傭兵団たちの出番は、今回はここまでです。また後ほど登場します。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(10)傭兵団 -2-


 マックスは、女兵士をじっと見た。紺に近い青のブレーズボンに黄土色の羊毛リブレー上着を着込んでいるので若干膨らんで見えるが、太っているのではなくむしろしっかりと筋肉がついているからのようだった。灰色の帽子からは白っぽい金髪が見えている。他の男たちと同様に、顔は薄汚れている。

 その兵士は、武器を構えることもなくわずかに前に踏み出した。いつゴッドリーや兵士に斬りかかられてもおかしくないのに、すぐに応戦できる自信があるのか、まったく怯えた様子はない。むしろその眼光と氣迫に、門兵たちが飲まれている感があった。

「ほら。こいつらに武器をしまわせろよ」
ゴッドリーと門兵たちから目を離さずに、女兵士が言うと、団長ははっとして「おろせ」と男たちに命じた。

 門兵たちの緊張が緩むのを見てから、女兵士がつついてブルーノをゴッドリーの横に来たマックスの前まで連れて行った。
「ほら。挨拶しろよ」
「わかったよ」

 団長は、フードを脱ぐと粗雑な態度でマックスにお辞儀らしき動きをした。
「南シルヴァ傭兵団の首領ブルーノでやす。新しく伯爵様がおいでになると聞いて、挨拶にきやした。お見知りおきを」

 ゴッドリーは、ホッとしている思いを見透かされないように、無理して偉そうに答えた。
「伯爵様と、こちらの兵の方々に武器を向けて、挨拶もへったくれもないであろう。今後は、このような失礼は許さんからな」

「へえ。それで……。おい、この後、なんて言うんだ?」
ブルーノが訊くと、女兵士が「しょうがないな」という顔をして前に進み出、片膝をついた。

「我らは、傭兵であり、平時には、主にフルーヴルーウー、サレア河流域をはじめとする南シルヴァで、商隊の護衛などをして生計を立てています」
「そうか。それで伯爵様をお呼び立てしてどういうつもりだ」

「フルーヴルーウー峠に正規軍を配置するという噂を聞きました」
「商人たちの荷を狙う追い剥ぎたちが後を絶たないからな。通行料を若干上げる代わりに、峠の安全を確保することを考えているのは確かだ」
「我々に皆が護衛を依頼してくれれば、そんな必要はないんですがね」
「なんだと」

 やり取りを聞いていたマックスは、笑い出した。
「なるほど。君たちは失業の危機に瀕しているわけか。だが、フルーヴルーウー峠だけで仕事をしているわけではないんだろう?」

 女はニヤリと笑った。
「いいえ。実のところ、ここ数年はずっとヴァリエラや、時にはセンヴリのヴォワーズ大司教領までも行って仕事をしておりました」
「なぜだ?」

「代官であられたゴーシュ様に我慢がならなかったからです」
「なるほど」
「あの方は、ご自身の宝物箱に入れる金勘定のことしか頭にないお方でしたからね。でも、そのゴーシュ様はいなくなり、新しく伯爵様が来られた。岩塩鉱の安全対策を変えたという噂を聞いて、この方なら我々の訴えでも聞いてもらえるかもしれないと、お待ちしていたというわけです」

 マックスは、少し考えてから言った。
「実のところ、予算はあっても実際に配置する兵士そのものの数が足りているわけではないんだ。だから、すぐにその策が実現するとは限らない。君たちのような傭兵に委託する案についても検討中だ」

「本当ですか。でしたら、我々を雇っていただけないでしょうか」
「約束はできないが、少なくとも君たちの実力を見せてもらって考慮に入れることは可能だ。でも、君たちは、この金山で雇われているんだろう?」

「はい。ただ、契約が今月末までなのです。それで、こんな近くにおりながら、仕事の間はフルーヴルーウー城下町に売り込みにも行けません。その間に、正規軍配置の話を決められてしまうのではないかと、少々焦っているところに、急に陛下と伯爵様がお見えになりましたので、何がどうあってもお話しさせていただきたかったのです」

 マウロは、馬小屋から感心しながら見ていた。マックスの話し方に相手をリラックスさせる氣さくな調子があることも大いに関係しているのかもしれぬが、女の身で伯爵相手に堂々と話す様子は、粗野な傭兵団の中でこの女ひとりに見られるものだった。

「なるほどね。言いたいことはわかった。ここで契約した仕事を無事に終えたら、城下町に来て、腕試しをしてもらおう。このゴッドリーが認めるだけの腕があれば、君たちの雇用を考慮することにしよう。ただし雇用開始はどんなに早くとも秋以降だ。それでいいかい?」
「おおいに結構です」

 ゴッドリーとマックスは少し話し合い、空き家になっているゴーシュ邸の中庭で、翌々週の火曜日に彼らの腕試しを行うことになった。

「ところで、あのように汚いままでよろしいのですか」
ゴッドリーは眉をひそめる。かなりの悪臭もしている。

「そうだな。腕試しの前に公衆浴場に行ってもらおうか」
マックスが言う。

「我々が行けるのは早くても第一土曜日だし、そのつぎの金曜日までは、公衆浴場は無理だ。こっちは周辺民扱いなんでね」
ブルーノが憮然として言った。傭兵は、娼婦、逃亡者、旅芸人、乞食などと同様に周辺民と呼ばれ、社会的に差別排斥されている。公衆浴場は、一般民と周辺民の入れる日が分かれていた。

 だが、金曜日まで待つのは都合が悪い。フルーヴルーウーではその週末に『男姫ヴィラーゴ祭』があり準備で忙しい。それくらいならば、汚いままの方がマシだなとマックスもゴッドリーも思っていた。内部が汚れて臭くなっても怒るゴーシュ子爵はもういないことであるし。

「公衆浴場まで行かずとも、城壁ぎわの熱泉で充分だ。お前らもそれでいいだろう」
女兵士が言うと、一団は「おお」と言った。

「じゃあ決まりだ。来月第一月曜日の午後に、武具を持って旧ゴーシュ邸に来てくれ」
マックスの言葉に、一同は頷き、安心してその場を去って行った。安心したのは、騎士ゴッドリーや、マウロも同様だった。
関連記事 (Category: 小説・トリネアの真珠)
  0 trackback
Category : 小説・トリネアの真珠
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

ポルトガルののど飴

今日はちょっと特殊なポルトガルの飴の話です。

Rebucados Peitorais

実は、今週はぶっ倒れていました。月曜日に発熱。夕方には子供の時以来なったことのない39℃を記録、ビビりました。その日は何も考えられなくてほぼ24時間ずっとベッドでグースカ寝ていました。

翌日にはずいぶんと下がって朝は38.7℃あったものの、夜には36.6℃とほぼ平熱近くまで降りてきました。それど同時に全身の痛みも消えてくれて助かりました。

そこまで下がると脳も働くようになり、これはアレかな、と調べてみたら本当かどうかはともかく簡易抗原テスト(去年タダでもらったものの残り)ではくっきり陽性。あちゃーと木曜日の日本語教師の仕事のキャンセルなどに追われました。

異論があることは百も承知ですが、私は病の時は自分の自然治癒力を最大限発揮できるようにする主義です。発熱しても(42℃を越えたりしたらそれはもうしかたないかもしれませんが)39℃では解熱剤は使いません。免疫戦士たちが頑張っているのを邪魔してどうする、というスタンスです。もう20年近く西洋の薬は服用していません。今回も2日目にホメオパシーのベラドンナ・レメディを摂り、あとは生姜紅茶をがぶ飲みして、食事も取らず爆睡だけしていました。そして、自分の免疫を下げるような注射もしていません。

水曜日からは、自宅からのオンラインで仕事に復帰しました。熱は下がり仕事をするのには全く問題ないのですけれど、もちろん5日間は職場には顔を出せません。そして、それだけでなく、私の場合どんな風邪でも同じなのですけれど、治りかけの数日間のひどい咳き込みが同僚を怯えさせるレベルなのです。

そんな時に引っ張り出してくるのが、ポルトガルで買ったのど飴です。Dr Bayard社の『Rebucados Peitorais』なるのど飴ですが、なかなかの優れもので、かつてポルトに通っていた時期はいつも自分用に買い込んでいました。パッケージや包装は、全然可愛くありません。でも、ポルトガル語がひと言もわからなくても、なんのための飴かひと目でわかります。

そして、スイスのポルトガル専門店でも置いてあることが多いように、どうやらこの飴は現地人にも有名な優秀な飴みたいです。そして、別にまずくもないし、格別効きそうな味でもないのに、舐めている間は咳の発作が起きないのですよ。

問題は、さすがに24時間舐め続けるわけにもいかないこと。なので、いまはどうしても咳の発作を起こしたくないというここぞというときにだけ舐めています。

ポルトガル、行きたいなあ。州都のポルトガル専門店が潰れてしまったのを横で眺めながら、ぼんやりと思っています。
関連記事 (Category: 美味しい話)
  0 trackback
Category : 美味しい話

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(10)傭兵団 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』の第10回前編をお届けします。

さて、直轄金山を視察に来た国王レオポルドとお付きのフルーヴルーウー辺境伯マックスは、管理者と周辺村落の接待を受けています。その間、馬丁マウロは外で仕事をしていたのですが……。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(10)傭兵団 -1-


 金山の精錬所管理者ゴムザーと周辺村落の代表者たちによる歓迎会が行われている最中、マウロは外で馬の世話をしていた。

 大勢の歩く音と、武具のあたる金属音が聞こえたので振り向くと、先ほどの傭兵たちがこちらに向かって歩いてきた。

「なんだ。いま、管理人殿も他の方たちもお忙しいのだから、話は後にしてくれ」
精錬所の官吏たちは傭兵団を追い返そうとしている。

「いや、後にしたら国王陛下たちは帰ってしまうじゃないか。俺たちは、フルーヴルーウー伯爵のご一行に話があるんだ」
「無茶を言うな。俺が、そんな取り次ぎができるとでも思っているのか」
「そこをなんとか。お付きに来ていたお城の騎士ゴッドリー様かなんかに取り次いでくれよ」

 押し問答が続き、やがて門を守っていた騎士のひとりが、中にいるゴッドリーを呼び出してみると言って中に入っていった。

 マウロは、興味深くその様相を眺めていた。

 よく見ると、この傭兵団には体格のいい男たちが揃っていた。中心に立っている団長と思われる男は平織りのフード付きフークを着て、布袋の他にクロスボー、大ぶりの剣、さらに鉄製の手首用盾を軽々と抱えている。多くの男たちの背丈はマウロよりも7、8インチは高い上、恰幅もいいので、本氣で向かってきたら護衛の兵士たちも無傷では済まないだろうなと思った。

 しばらくすると、中から騎士ゴッドリーが出てきた。ゴッドリーは、フルーヴルーウー城にやって来た時に、マウロが最初に引き合わされたその人でもある。家令であるモラの信頼も厚いし、今回の伯爵夫妻の里帰りに際しても城内外の案内役の代表となっている。無骨だが、忠誠心に篤く熱心に勤めるので、マックスの信頼も勝ち得ていた。

「何の用か」
ゴッドリーは、武装した一団に臆することもなく訊いた。

「先ほど、国王陛下に命じられた整理整頓やっていたおかげで、ご同行の伯爵さまと話ができなかったんでね。終わったもんだから、こうしてやって来たってわけでさあ」
団長とおぼしき男が、太い声で横柄に言った。

「なぜ伯爵様が、お前と話をしなくてはならぬのだ」
「しちゃいけないのかよ」
「伯爵領に関することなら、いま、私がここにいるので、耳を傾けてやらないでもない。だが、正式な手続きも踏まず現れて、いますぐ伯爵様を呼び出せなんて無礼なことは許せん」

「なんだとぉ!」
団長は簡単に頭に血が上るらしく、もう大ぶりの剣の柄に手が行った。騎士ゴッドリーも、門番たちも即座に反応して身を硬くした。遠くから眺めているだけとはいえ、マウロもドキドキした。馬たちの手綱を引き、これからどうしようかと左右を見回した。

「慌てなくて大丈夫だ」
耳元で声がしたのでぎよっとして飛び上がり振り向くと、いつの間にかそこにマックスが立っていた。

「マックスの旦那! ……じゃなくて伯爵様。こんなとこで、なにをやっていらっしゃるんで」
マウロは声をひそめた。

「いや、子供たちの歌というのがひどく音痴でね。うんざりしていたところ、ゴッドリーだけが何か面白そうなことで呼び出されていたので、ちょっと裏から見に来たってわけさ。でも、あれはよくない雰囲氣だなあ」

 なにをのんきなことを……。マウロは思ったが、とりあえず口に出すのはやめておいた。チャンバラ沙汰にならないといいけれどなあ。

「待ちな」
そのとき、一団の中から、落ち着いたよく通る声が聞こえた。後ろから男たちを搔き分けてブルーノの横に出てきたその兵士はあまり背が高くなかった。あの女兵士だ。

「何だよ」
団長は、わずかにトーンを落として訊いた。

「我らはフルーヴルーウー伯爵に話をするためにここまで来たんじゃないか! ここで騒ぎを起こしてどうすんだよ」
そういうと、団長は「あ」といって失敗したという表情を見せた。

 女兵士は、マウロとマックスのいる馬小屋の方に顔を向けて、堂々とした声で言った。
「幸い、あそこにいらっしゃるお方が、伯爵様なんじゃないのか?」

 ゴッドリーは驚いて、マックスに何をしていらっしゃるのですかと言いたげな表情を見せた。かつては平民として育てられたとはいえ、今のところ王位継承権第1位にあるような人物が、護衛もつけずに馬丁と一緒にコソコソしているというのは、非常によろしくない光景だ。

 マックスは、肩をすくめてそちらに歩いていった。
「どうも、騒ぎが起こっているみたいだったのでね」
関連記事 (Category: 小説・トリネアの真珠)
  0 trackback
Category : 小説・トリネアの真珠
Tag : 連載小説

Posted by 八少女 夕

テニス帝王の引退

今日は、珍しくミーハーな話題を。ロジャー・フェデラーが引退表明をしましたね。

ロジャー・フェデラー(wikimedia.org)
Roger Federer, Winner, Centre Court, Wimbledon 2012 by wikimedia

スイスの人たちというのは、あまりミーハーではない国民性を持っていると、私は感じています。そこらへんでどこかの国王がスキーをしていても、往年の銀幕スターが村を歩いていても、大騒ぎしてサインをもらおうというような行動はほとんどしません。

ちょっと有名なタレントが国会議員に立候補しても、まともな政策も言えなければ相手にもしないくらい、冷静な物の見方をする人が普通ですし、冬季オリンピックでも、サッカーのワールドカップでもヨーロッパの他の国にに比べたら、興味のない人は誰がどこと対戦しているのかわからないくらい、人びともマスコミも抑えた盛り上がりをすると思います。

でも、私の印象では、たったひとり例外があって、それがロジャー・フェデラーです。少なくとも私がこの国に住み始めて20年間、ずっとそうでした。この人のことになるとマスコミも人びとも急に大騒ぎをして、少しでも批判しようものならムキになった反論が10倍くらい返ってくる、そんな印象です。

そう言えば、いつだったか世界中がサッカーのワールドカップで大騒ぎしていた最中に、スイスのスポーツ新聞だけフェデラーのニュースを優先していたことがありました。さすがだなあと思ったのを思い出します。

15日に彼が現役引退を表明したときも、帝王らしい大騒ぎになりました。スポーツ新聞だけでなく各紙こぞって1面トップですよ。普段お堅いことしか書かない新聞が何ページも特集。いや、昨日まで大騒ぎしていたエネルギー危機は、戦争はどこいったと、ツッコみたくなる騒ぎようです。

とはいえ、私も実はロジャー・フェデラーは好きです。強いだけでなく、性格もいいみたいです。実は、スーパーで会ったことあるんですよ。威張った感じもないし、有名選手ですという近寄りがたさもない、普通にいい方。どんな御殿に住んでいても、広告でどれほど稼いでいようと、反感を全く持たせないあの佇まいはたぶん天性のもので、皆に愛されるのも納得しています。

実績だけでいったら、彼よりもすごい現役選手は他にもいます。フェデラーの実績として語られるグランドスラム通算20勝という記録に対してナダルは22勝、ジョコビッチは21勝しています。最近の彼は故障に悩まされてコートの上よりも広告で見かけることの方が多かったのも事実です。

でも、そんなこと関係ないのです。彼こそが「テニスの帝王」で、好きなスポーツ選手と訊かれれば真っ先に思い浮かぶ、20年近くそういう存在であり続けたことは驚くべきことだと改めて思うのです。
関連記事 (Category: 思うこと)
  0 trackback
Category : 思うこと

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(9)馬丁と女傭兵

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』の第9回をお届けします。

新キャラである傭兵団の1人である女兵士と馬丁マウロは顔見知りでした。今回は、その出会いについてマウロがマックスに説明します。

今回はかなり短いのですが、次の話と一緒にするとおかしな長さになるので、これだけです。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(9)馬丁と女傭兵


 精錬所に戻る道すがら、マックスはマウロにあの傭兵団とどこで知り合ったのかと訊いた。

「傭兵団ではなくて、あの女兵士と面識があるだけでございますよ」
マウロは言った。

「精錬所の管理の話では、《シルヴァ》南部を渡り歩いているわりと実力のある傭兵団だそうだね。フルーヴルーウーにやってくるのも不思議はないな」
そう言ってからレオポルドがマウロに先を促した。

「あれは、先月のことでございましたよ」
マウロは、正確に話そうと、考え考え言った。
「城壁の近くでの話です。荷をたくさん背負った馬を急かしている男がおりました」

 マウロが世話をしているような大きく立派な乗用馬ではなく、小さく痩せて農耕にも大して役に立たないだろうと思われる栗毛の荷馬だった。背中の上にも、腹の左右にも多くの木材を括り付けられて、馬はゆっくりと進んでいた。

 持ち主は「何をしているんだ。さっさと歩け」と、急かしている。マウロは、馬が持ち主から顔を背け、苛立ちを見せていることに氣がついた。懸命に荷を運んでいるのに、繰り返し急かされることに苛立っているのだ。

「この馬の後ろから、いたずら盛りの子供がひとり忍び寄ってきましたんで」
マウロは、説明した。

 その子供は、馬の後ろからこっそり近づいてきて、左右に揺れている尾を面白がって掴もうとした。

「ご存じの通り、馬は背後から襲われることを何よりも嫌います。本能的に蹴って難を逃れようとします」
幸い、重荷が馬の機敏さを邪魔していたので、子供が蹴り殺されることはなかった。だが子供の叫び、持ち主の怒号などが、怯えた馬をさらに興奮させた。暴れた馬は城壁に荷の木材があたった反動で倒れ、持ち主が巻き添えになりともに倒れた。

「その男の足が、馬の荷である木材の下に嵌まりました。私は、すぐに助けに走りました。馬は、持ち主を傷つけるつもりはなくとも、立ち上がれないのと、興奮で暴れます。このままでは、持ち主の足が折れてしまう。私ひとりではどうにもなりません。その時にすぐに駆け寄ってくれたのが、あの女傭兵だったのです」

 その女は、まったく怖れた様子もなく駆け寄ると、剣を木材の下に刺し、全身の力を込めて押し上げて、男の足にかかる重圧を軽減した。

 マウロは、まず馬を落ち着かせるのが最優先だと、馬の耳に口を寄せて、グルグルと音を立てて囁いた。それは、母馬が仔馬を氣遣うときに出す嘶きに近い音で、馬は暴れるのをやめた。馬が落ち着いたので、マウロも女傭兵を手伝い、わずかな隙間を感じた持ち主が馬の下から抜け出した。

 それから女傭兵や他の通行人の助けを得て、馬を立て起こすことができた。持ち主は、先ほどまでの傲慢さはどこへやら、すっかり恐縮してマウロと女傭兵に礼を言った。

「私は、その男に肩を貸して、家まで馬の手綱を引いて行き、その家でご馳走になったのですが、彼女は大したことはしていないと、その場で別れたので礼も受け取っていません。でも、彼女のとっさの助けがなかったら、あの男の足はとっくに折れていたでしょう。いくら傭兵といっても、女の身であの力を出すのは、本当に大変だったと思います」

「見ず知らずの男を助ける、君もとてつもなく親切な男だと思うよ、マウロ」
マックスは言った。
関連記事 (Category: 小説・トリネアの真珠)
  0 trackback
Category : 小説・トリネアの真珠
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

餌の話

今日はシロート猫飼いの奮闘記です。

ちょーだい

我が家は猫を飼おうとして飼ったわけではなく、向こうから選ばれて住みつかれてしまったので、猫飼いとしての心構えなどが何もなく、問題に直面してから付け焼き刃でネット検索をする、あまり好ましくないスタイルです。

与える餌にしても、はっきりとした哲学などなくて、「なんか買ってこなきゃ、スーパーいってキャットフード探してこよう」という感じで始めました。愛猫家の中には「手作りが一番。添加物はよくないし」とおっしゃる方がいることも知っていて、ちゃんとわかって作るならそれが一番だということもわかっています。

今のところ、私たちはスーパーで買ってきたキャットフードに加熱した肉を混ぜることもある、という感じで用意しています。猫にとって絶対に必要な栄養素や、人間にはよくても猫には毒になる食品もありますし、知らずにあれこれやって健康を損なうことは避けたいと思うからです。

ただ、同じキャットフードも、最初は「まあ安いのでいいかな、我が家は低所得層だし」と思っていたのですが、最近は内容を確認してちょっと高めのものもセールを活用して買うようにしています。

実は、連れ合いが「いつも同じで可哀想だな」とかいって無計画にお高いキャットフードを与えたら、選り好みするようになってしまったという事情もあります。煮干しの粉をかけたり、人間用の肉を取り分けて味をつけないで加熱したものを混ぜたりして食べさせているのです。

現在は2番目くらいに安い餌と、肉の割合の高い少しだけいい餌を混ぜるのを基本にしています。チキンスープを混ぜてもよく食べてくれます。さらにひと口の食べ残しがあるときは、うちの猫も目の色の変わるチューブ状のクリームをかけてスプーンで与えると嘘のようによく食べます。

また、サラミ風のおやつもときどき与えます。上の写真は、サラミを催促中。

ひと冬、寝るところもなくガリガリに痩せて彷徨っていたことを知ったので、「催促したらそこそこおいしいものが食べられる」くらいの生活は許してあげたいですよね。

最近は、スーパーの広告で一番にチェックするのが猫の餌のお買い得情報です。先日もわりといい餌が50%オフだったので、なくなる前にとあわてて、急いで買いに行きました。

大型犬などに比べたら食べる量も少ないですし、家計を圧迫するほどの値段ではありません。それに油断して、猫エンゲル係数はだんだん上がっていっています。
関連記事 (Category: 猫)
  0 trackback
Category :

Posted by 八少女 夕

【小説】水上名月

今日の小説は『12か月の楽器』の9月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の選んだのは、月琴です。9月といったら月見の宴かなと思って。とはいえ、平安時代と中国の仙人のコラボ作品なので、若干イレギュラーな感じかも。現在の中国楽器としては月琴Yueqin中阮Zhongruanとは別の楽器として存在しているのですけれど、この時代には現在の中阮に似た阮咸という楽器が別名で月琴と呼ばれていたようです。

とくに読む必要はありませんが、今回の話に出てきた翠玉真人という(ワイヤーで空を飛ぶイメージの)仙人は、以前『秋深邂逅』という作品で書いた人です。


短編小説集『12か月の楽器』をまとめて読む 短編小説集『12か月の楽器』をまとめて読む



水上名月

 弾きはじめに、ためらうごとくに長い間をとった指は、ひとたび弦をかき鳴らすと、えもいわれぬ速さで走る。姉や妹が嗜みとして弾いていた箏や琴の音色は、退屈とは言わぬまでも生氣なく空に消え入るようであったが、今宵の客人の奏でる異国の旋律は、湖水に波をおこし月影を激しく揺らす。

 今宵、父の館では南の池に龍頭鷁首の舟を浮かべ月を愛でているはずだ。藤原中納言といえば、政の中心にいるとは言いがたいが、右大臣にも左大臣にも与することのない局外中立の風流人として争いに巻き込まれることを好まぬ小心の殿上人たちに慕われている。

 三郞良泰は、方違いでひとり山科の館に来ることになったが、父に請われてここに滞在する客人をもてなすことになった。父藤原中納言が、この客人を都の屋敷にではなく山科の別邸に招き入れたのには理由がある。

 この客人は青丹養者なる陰陽家であり、唐人である。陰陽家とは、官吏である陰陽師ではなく、私的需要を満たす技能者である。三郞は、父中納言より客人が異国の陰陽家と耳にして、言葉の通じぬ得体の知れぬ術士の相手などは難しいと慌てたが、実際に逢ってみて杞憂とわかった。言われなければ唐人であるとはわからぬほどこちらの言葉を話し、しかも三郞とさして代わらぬほど若い男であった。

 父中納言が、なにゆえこの男を秘密裏に厚遇して迎え入れているかを、三郞は知らなかった。だが、兄太郎良兼が左大臣の三の姫と右大臣の四の姫と同時に艶事を起こし苦境に立たされた折、奇妙なほど穏当な措置を得たのはこの男の力によるものではないかといわれていることだけは知っていた。

 今宵、客人は珍しく唐風の装いだ。幞頭ぼくとう なる被り物に、雲取文様を織り込んだ錆浅葱の盤領袍を身につけている。つま弾いているのは阮咸とも月琴ともいわれる丸い胴をもつ弦楽器だ。同じように丸い月がそろそろと天空を動き、湖上に冷たい光を投げかけている。

「青丹どの。貴殿がこのように風流なお手前をお持ちとは存じませんでした。これはなんという曲なのでしょうか」
「張九齢の『望月懐遠』につけられた曲のひとつだ。作曲者は知られていないが」
「それはどのような詩でございましょうか」

 客人は、幼子を眺めるような微笑み方をしてから、月を振り仰ぎよく通る声で吟じた。

海上生明月 天涯共此時
情人怨遙夜 竟夕起相思
滅燭憐光満 披衣覚露滋
不堪盈手贈 還寝夢佳期

張九齢『望月懐遠』

(意訳:
煌々と輝く月が海面より昇り、遠く離れた者が同じ月を共に仰ぎ見る
長き夜を恨めしく過ごし、ついには起きて互いに想う
灯を消してわずかな月光を愛でるが、着た衣は夜露に濡れている
月光を盃に満たし贈ることはできない、逢える日を夢見てまた寝よう)



 三郞は、直垂の胸のあたりを握り、水上の月が歪むのを見つめていた。その様子を見て取ると、客人は切れ長の眼をさらに細め、怜悧な表情には似合わぬほどの情感を込めて弦をかき鳴らした。三郎の心は、その音色に誘われ嵯峨の小さな寺に泳いでいた。

 黒方香で板間より天井までもが焚きしめられた小さな仏間。置かれた几帳の隙間より菊花の薫き物が漏れ出して、かの女の衣擦れが三郎を吸い寄せていた。到着するまではあれほど心急かされていたのに、その瞬、この禁を破れば取り返しのつかぬ事になるという予感におののいた。

 だが、几帳の奥にいたその女を引き寄せ、黒く底の見えぬ瞳をのぞき込んだときに、三郎の逡巡は吹き飛び、そのまま朝まで寝乱れてしまった。

 嵯峨の姫が、入内を控える身ということはわかっていた。だがあのたおやかな筆蹟と、心絞られる歌で誘われて三郎の分別は闇夜に紛れてしまった。

 まだ、事は世間には広く知られていない。だが、政争に巻き込まれることを何よりも嫌う父中納言は、今宵三郎を方違いとして寂しき山科の館に押し込めた。

 だが、父の裁決はまことに事を鎮めるのか。むしろ三郎の心に投げやりな思いと、執着の火を解き放っただけではないのか。

 胸元に忍ばせた香袋には、紙に包まれた長い髪が入っている。あの夜に二たびの逢瀬が許されないのならばとお互いに交わしたものだ。

「青丹どの」
三郞は、客人に呼びかけた。
「何か、三郎どの」

「貴殿は、ただの陰陽家ではないと聞いています。私と変わらぬほど若く見えるが、そもそも奈良の都の古より年もとらずにおられるとも。貴殿が玄宗皇帝の頃に我が国に来られたというのはまことですか」

 客人は、是とも否とも言わず、おかしそうに含み笑いをすると月琴を置いて二人の盃を満たした。
「それが貴殿の欲念と何か関わりがありましょうか」

「貴殿は、本当は青丹なる名ではないのでしょう? 唐からいらした異国びとであられることは間違いないのでしょう?」
三郎がなおも食い下がると、客人は口先だけで笑いながら盃を口に運んだ。

「さよう。本来の名は丁少秋と申します。が、かの地でもその名を知るものは少なく、往々にして翠玉と呼ばれました。その意味を知る、この地の誰かが青丹と呼び始めました。そして、晁衡大人に誘われ道を極める乾道として船に乗りこの地に降り立ったことはまことです」

 三郎は、息を呑んだ。晁衡という名が阿倍仲麻呂に唐で与えられた名だということぐらいは、かろうじて知っている。だがそれがまことだとしたら、目の前にいるこの男は少なくとも齢二百五十を越えている。もちろん奈良の都などという馬鹿げた噂に乗じて、陰陽家の経歴に箔をつけんとしているのかもしれぬ。あるいは、くだらぬ問いに益体もない答えで返しただけやもしれぬ。だが……。

「では、貴殿は仙丹を手に入れたのですか、翠玉どの」
身を乗りだして訊く三郎に翠玉は皮肉な笑みを消した。

 そして、再び盃を口に運ぶと静かに答えた。
「ひと粒、服用すれば、不老不死を得て天に昇る丸薬。それを手に入れて手早く仙境に達しようとは、秦の始皇帝以来、多くの権力者の願うところ。それがいまだに達せられておらぬのは、何故とお思いか」

「仙丹など存在しないということですか。それとも、かつての皇帝は不死には値しないということでしょうか」
三郎が問い返すと、翠玉は再び口元をほころばせた。

「さよう。丸薬ひとつでたどり着くような道ではござらぬ。また、権力を握ったままでその境地に達することはできませぬ。道は、手放すことによってのみ見つけられるのですから」

 月は、高く昇っていた。三郎は、池の上に揺らぐ月影をじっと睨んでいたが、やがて翠玉に向き直り口を開いた。
「私には、惜しい物など何もありませぬ。藤原の家は兄上が継ぐでしょうし、私には大した官位も未来の展望もありませぬ。これまで学問も武芸も一心不乱に精進して参りましたが、それが報われることもなさそうです。それどころか、父上らの足を引っ張る厄介者として、月夜の宴にも招かれぬさま。できることなら浮世を離れ、不老不死の仙境にいたりたいものです」

 翠玉は、目を細めて三郎を見た。
「道の道は、世の者がゆく道とは異なる。貴殿が期待するような好ましい状態とは限らぬぞ」

「そのようなことをおっしゃらないでください。この中秋の宵に、貴殿とこうして月を眺めながら酒を酌み交わしていることは、ただの偶然には思えません。不二の身となる機が己の生に再びあるとも思えませぬ。どうか、この私を貴殿の弟子とし、その道をお示しください」

 翠玉は、手を不思議な具合に動かし、そのまま三郎の目のあたりで動かした。

 それと同時に、空は雲で覆われ、池の上の月影は消えて暗闇が広がった。ちゃぽんと魚が飛び跳ねる音がしたと思うと、すぐ目の前を青銀色の鱗が通り過ぎた。なんだこれは。三郎が目をこすると、目の前は水の中にいるようにゆがみ、大きな銀の鯉の背に翠玉がまたがってこちらに手を差し伸べているのが見えた。

 三郎は、これは翠玉の術なのだと理解して、迷わずその手を取り、巨大な鯉の背に、つまり翠玉の後ろにまたがった。

 鯉はぐんぐんと上昇していく。上の方には明るい光が差し込んでおり、ますます上がっていくとそれは大きな丸い月であることがわかった。不思議なことには、水の中にいるというのに、全く息苦しいことはなく、その澄んだ水は遠くまでが見渡せた。下方には京の街並みが広がり、御所や止ん事無き方々の屋敷、尊い寺社や鎮守の森や川がよく見えた。

「おっ母! 見て。竜が飛んでる!」
下方からの声に三郎は驚いた。しがみついている銀の鱗の持ち主を改めて見ると、鯉にしては胴がずっと長くなっており、いつの間にか魚の顔つきが角を持つ竜に変わっている。

「違うでしょう。月にかかる雲がそう見えるのよ」
「じゃあ、あの音は何?」
「さあ。お館で月見の宴をなさっているのでしょう」

 翠玉の奏でる『望月懐遠』の音色は、冷たい銀色の鱗のように京の町に降り注いでいる。青白い竜は、まっすぐに昇り、やがて子供と母親だけでなく、御所も寺社もまとめて小さな黒い塊になり山の合間に縮こまっていった。

「翠玉どの、どちらへ行かれるのですか」
「貴殿が、道を正しく見る事のできる高みに」

 煌々と照らす月光と『望月懐遠』。遠き山の漆黒を見るだに、嵯峨の姫の黒髪を思い起こされ、胸が締め付けられる。胸元をかきむしると、香袋の氣配はしっかりと感じられた。

 竜が近づいていくと、大きく輝かしい月は、大きな山の開口部であることがわかった。黄金のどろどろとした液体がぐつぐつと沸き返っていて煙が上がっている。これまで上に登っていると思っていたのが、山の火口に降りてきていたのだ。

 見れば、その液体の際に浮かび酒盛りをしている人びとが見える。黄丹や深紫の直衣を纏った殿上人のようだ。あり得ぬほどにひどく酔い、盃を投げ合って笑い転げていた。そして、その弾みでひとりの着た深蘇芳の裾が灼熱火に触れた。

 火はあっという間に燃え上がり、叫び声を上げる男を包んだまま灼熱火の中に引きずり込んだ。酒盛りをしている仲間らは、それを見てさもおかしそうに笑いながらさらに酒を注ぎ合った。
「これはよい。残った酒と肴は我らのもの。さあ、もっと飲もうぞ」

「なんてことだ。あれほどの尊き方々が、あのように浅ましい為業を」
三郎は、震えながら言った。翠玉は笑った。

 竜は、さらに火口に近づき、あまりの熱さと明るさで三郎は思わず目を伏せて翠玉にしがみついた。
「おやめください。このままでは、私どももあの火に飲まれまする」

 だが、翠玉は動じず、竜も速度を緩めなかった。地獄の灼熱火に包まれたと思った途端、ぐつぐつと煮えかえる音も、殿上人たちの笑い声も消え去り、静かな涼しい風が三郎に触れた。

 恐る恐る顔を上げると、竜は海の上を滑っていた。真下には煌々と輝く月が映し出されている。

「ここは何処なのですか。先ほどまでいた京の都は、そして、あの火の山は……」
三郎が問うと、翠玉は答えた。
「貴殿は今ここにいる。先ほどまでどこにいたのかなどと思い悩む必要はない」

 海原は恐ろしいほどに広く、月影以外はどこまでも続く凪いだ水面だけだった。見慣れた双岡や船岡山が、御所や護国寺の堂々たる緑釉瓦を抱いた屋根が、都のざわめきが、牛車のきしみが、扇を閉じる微かな音が、焚きしめた香の薫りが、全くどこにもなかった。

 唐の盤領袍を着て、聴き慣れぬ旋律にて月琴を奏で、青白い竜にまたがる異邦人以外に頼みになる者がいないことに、三郎は戦慄した。

「道の道は、己を極めるのみ。己以外を頼みにしてはならぬ。長く生きれば、父母や友はもとより、我が子やその子すらも年老いて先に鬼籍に入ろう。身につけし衣冠は擦りきれ、屋敷田畑は狐狸の住処となる。それを怖れるならば、この道を求めることは叶わぬ」

 三郎は、おのれの直衣を見た。色褪せすり切れて朽ちかけていた。震える手で香袋を取りだし、愛しき嵯峨の姫の髪を見て心を落ち着けようとした。だが、やはりすり切れた香袋の中から現れたのは長い白髪だった。

 悲鳴を上げて香袋を取り落とした。白髪とともに破れた香袋は海へと落ちていった。振り返った道士はわずかに笑った。

 竜は首を下げて海へと突き進んだ。風に飛ばされそうになった三郎は、瞼を固く閉じて翠玉の盤領袍にしがみついた。助けてくれ。どこでもいい、いつものどこかに帰りたい。屋敷でも、詰所でも、牛車の中でも、どこでもいい。

 風がおさまったように感じたので、三郎は恐る恐る瞼を開けた。目の前に、翠玉が向かい合って座っている。彼と三郎は、龍頭鷁首の舟に乗っていた。見回すと、そこは山科の屋敷の池だった。先ほどまで座っていたはずの釣殿には、高坏と蔀が見え、灯明や肴もそのままになっている。

 翠玉は何事もなかったのごとく『望月懐遠』を奏でている。三郎は、懐に手を当てた。香袋はそこにあった。直衣も香袋もすり切れてはおらず、すべてが三郎の慣れたこの世のものであった。

「私は……」
「道の道は、貴殿の考えているようなものではなかったであろう」

 三郎は大きくため息をついた。
「不老不死の道を究めれば、殿上人も私を尊び、父も私を認め、そして姫との縁も道が開けると思っておりました」

 翠玉は、それ以上何も言わなかった。だが、三郎には彼の言いたいことがわかった。この世の栄華を求めている者の進む道ではないのだと。

 舟は静かに釣殿へと向かった。満ちた月は池の上を青白く照らしていた。

(初出:2022年9月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more


曲そのものは、作品と関係ないのですが、月琴の形と唐の装束がわかる動画があったので貼り付けておきます。

【古琴Guqin笛阮鼓】《天龙八部》印象曲·段誉篇| Chinese music‘Adventure of Dali Prince’〖琴笛阮鼓〗宋代装束复原Dress in Song Dynasty
関連記事 (Category: 短編小説集・12か月の楽器)
  0 trackback
Category : 短編小説集・12か月の楽器
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

それは簡単にはわからない

今日の話題は、難しい性自認の話。身近な例も含めて、近頃よく考えることです。

大きな虹 by マレーナさん

わりと最近、有名なモデルのカップルの離婚が話題になりました。よくあるような「不倫が原因」というのではなく、公表したコメントから類推するにどうも1人の性自認が原因だったようです。

これって、どんな他のカップルの破局とも同様に、本人たちの問題で外からどうこう言うことではないと思いますし、ましてや当の配偶者が納得しているのなら、それ以上話題にする必要もないと思います。

私がこの話題を取りあげようと思ったのは、実際に知っている人が似たようなことの当事者になっているからです。そのモデル・カップルのケースと同じかどうかは、もちろん私からは判断できませんが、今回は私の知りあいの女性(元男性)Aさんのことを中心に書こうと思います。

Aさんとは別に、私にとってはとても大切な日本の友人の中に、2人いわゆるLGBTQにカテゴライズされる存在の人たちがいます。Bさん、Cさんとしておきましょう。この2人はどちらも生まれたままの性を手術や役所の手続きによって変更することはしていません。

ただし、私は、2人ともに「あなたのジェンダー自認は具体的にはなんなのか」という質問をしたことはありません。恋愛対象が同性なのは知っていますが、自分の内面を生まれ持った性と違うと認識しているかどうかは、また別の問題です。私や他の親しい仲間たちの間でのカミングアウトはとても早くてもう何十年来それが普通だと受け入れていますが、日本という国では「誰かと同じ」であることに価値を見いだす人がまだ多いので、学校卒業後の人生で囲まれている人たちに100%公表するというのもしんどいのではないだろうかと考えています。

私がBさん、Cさんにもっと詳しいことを訊かないのは、それが私の好奇心を満足させる以外、なんの役にも立たないことだからです。その質問に傷つき敏感になっているかもしれないのに、訊いたらまずいだろうなと慎重になっている間に、私と2人の距離は1万メートル離れてしまいました。そして、この手の話は、メールでするようなものではないのです。(実は、チャンスがあったのに、私は戸惑いから無難な対応をしてしまいました。まだそのときのことは少し悔やんでいます)

さて。話はAさんに戻ります。Aさんはトランスジェンダーで、書類上も変更し、現在もホルモン療法を続けています。私がスイスで知り会ったときには既に女性でした。

Aさんは常にファッショナブルです。そして、それが彼女の人生における苦悩の始まりだったそうです。彼女は、インタビュー形式のドキュメンタリー本で、彼女の体験を明らかにしていてその本を貸してもらったので、普段なら到底訊けなかったような詳細まで、私が知ることができたのです。

子供の頃から、女装に興味があり、隠れて母親の服を着てみた、というのが彼女の男性としての違和感の始まりだったようです。そして、Aさんはそれを「罪」と捉えていたようです。その罪の意識から解放されるには、「自分は男性ではなくて、女性なのだ」という方向に進まなくてはならなかった。私はそう分析しています。

私は、「HENTAI大国」日本に慣れすぎているのかもしれません。「女装したければ、(そういう界隈で)すればよかったのに」とどこかで考えてしまうのです。

また、私が女性だからよけいそう感じるのかもしれません。私は男装をすることに罪の意識などカケラも持ちませんし、世間が後ろ指を指すこともないでしょう。反対には、もっといろいろな抵抗があることもわかっています。でも、男性ジェンダーの象徴であるあの器官をカットするほどの罪とはとても思えないのです。それに、女性であることで、男性よりも不利益を被ることもありますし、反対に女性に生まれたから得られるアドバンテージ(若くてきれいだとちやほやされるとか)を、現在のAさんがたやすく得られるとは思いません。

「罪の意識を感じずに、後ろ指も指されずに、女性の装いができること」。それはAさんにとっては夢にまで見た大切なアイデンティティーだと思うのですが、私がそれに全く価値を見いだしていないのは、私がおしゃれに全く興味が無いタイプだからだと思います。「女装/男装が好き/嫌い」という以前に、そもそも興味が無いんです。

清潔だけには氣をつけていますが、服装を考えるのが面倒なので特別なTPOがないときはほぼ常に同じ格好をしています。Tシャツとパンツかジーンズに、シャツかカーディガンかジャケット。Tシャツは選ぶのが面倒なので色違いを用意して順番に着ているだけです。石は好きなのでときどきアクセサリーはつけますが、おしゃれでつけているわけではありません。髪も時間がかからない楽なカットをずっと替えませんし、ほぼノーメークで、ネイルはしたこともありません。スイスという国にはノーメークやストッキングをはかない女に、あれこれ言うような人などいないのです。

でも、私はそのことで性自認に悩んだことはありません。恋情を感じる相手は常に男性でしたが、それで「性自認や恋愛指向がノーマル」だと思ったこともありません。たまたまその人たち以外に興味をもたなかっただけです。生まれ持ったジェンダーがアイデンティティー・プロブレムの要因になったこともないのです。女性差別に憤ることはあり、日本の女性の扱いにイラッとしたことはありますけれど。

だから、思うのです。女性らしいといわれる装いと、女性であることは同じではないのだと。もっといえば、「自分であること」とその服装は、あまり関係ないのだと。ファッションに何よりも興味がある人にとっては、「自分であること」イコール「自分らしい装い」でしょうが、それは万人に言えることではないのだと思います。

Aさんは、いつも素敵な服を着ています。会う度にきっちりメークをしていますし、2週間に1度はネイルサロンにも通っています。きっと彼女は、その度に幸せを感じていると思います。私はそのことを祝福しますし、よかったなとも思います。でも、彼女が常に戦い続けているパニック症候群や、ホルモン療法の副作用と思われるさまざまな不調、そして、人生でこれ以上はないというほどの愛だった元奥さんとの破局を思うと、複雑な思いに囚われるのです。Aさんが女性となってからも数年間は一緒にいてくれた元奥さんは、結局は別れを決意しました。

Bさん、Cさんの場合も、恋愛対象が同性だと自認・カミングアウトしても、その後望んだ恋愛相手と出会うことは容易ではなかったようです。少なくともCさんには家計を共にするパートナーはいません。探す界隈が変わればチャンスは増えますが同性ならば誰でもいいわけではない。これは異性同士にも言えることです。私の世代は、経済的に自立している女性が多いせいか、独身を選んでいる人が多いので、Cさんたちのケースが特殊だといいたいわけではありません。つまり、女性だから好きな男性すべてに愛されるわけでもないし、レズビアン女性だから好きな女性につねに愛されるわけでもないということなのでしょう。男性も然り。

そういえば、私が書く小説の中にはゲイのカップル(既にハッピーな状態)はいますが、同性同士の恋愛模様はほぼ書きません。自分の周りの当事者の繊細な苦しみを考えてしまうので、なかなか手を出せないのです。なぜなら、今回私が考察しているように、その苦しみを私自身が理解しているとはお世辞にも言えない状態だからです。男女間の普通の「ぐるぐる」は、自分なりに咀嚼しているものなので見てきたように書いていますが。

Aさんの場合は、少なくとも男性であった頃の恋愛対象は女性で、愛する人と結婚することもできました。彼女を失うことを怖れて、カミングアウトがとても遅くなったとインタビュー本には書かれていました。Aさんは元奥さんだけでなく、ご両親やお兄さん、そして職場の同僚の理解も得て、女性として受け入れてもらいました。誰もがとても驚いたことと思いますが、それでも精一杯の誠実さと優しさで決断を認めてくれたことはAさんにとっては大きな支えだったと思います。

現在のAさんは、奥さんのいなくなった家にひとり住み、女性としての人生を歩んでいます。大きな苦しみと決断との後に、彼女が得たものと失ったものは大きく、そして、それはもう元に戻せるものではありません。堂々と女性として装い、女性として生きることを選んだ決断について、彼女がどう感じているのかわたしにはわかりません。彼女自身にそれがわかっているのかも、わからないのです。
関連記事 (Category: 思うこと)
  0 trackback
Category : 思うこと

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(8)金山 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』の第8回後編をお届けします。

王国直轄である金山の視察にきたレオポルドと、お付きでついてきたマックスら一行。視察用に万端に準備された鉱内や精錬所だけでなく、周辺の村落などを抜き打ちで見るようです。ここで、後々に絡んでくる新メンバーたちが登場します。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(8)金山 -2-


「私の方は、特に多くの変更をしたわけじゃありませんよ。3人1組の決まりを導入したぐらいですし」
マックスは肩をすくめた。

 以前は、坑夫たちは2人ずつ組んで作業することになっていたが、鉱山内部で不慮の事態や傷病が起こった場合に、対応が遅れることがあった。マックスは、安全確保のために3人1組の方式に変更した。

 実のところ、領主としては別の利点も見逃せなかった。鉱産物の隠匿に対する告発や坑夫同士の争いがあった場合、ほかに証言する者のいない2人の食い違った申し立てを裁くのは困難だった。3人1組にした方が不正は抑制され、騒乱件数の減少も見込めるのだ。

「そのお話は、トリネアにも伝わっていたようですよ」
話がそれに及ぶと、馬を引いていたマウロが言った。

「トリネア? ああ、君は聖キアーラ修道院長の推薦でここに勤めることになったのだったね」
マックスの言葉に、マウロは頷いた。

「はい。伯爵様が、岩塩坑で働く者の安全のために決まりを新たに作られたって、マーテルがおっしゃっていました。神の意にかなうお心を持ったお方に違いないと……」

「なんだ。そなたはトリネアにもいたのか」
レオポルドは興味を示した。

「はい。マツァリーノ枢機卿さまに名馬ニクサルバを贈呈するときに、お供を申しつかりました」
「そこで、僕たちの件について口封じされそうになり修道院長に逃がしていただいたんだよな」
マックスが補足し、マウロは頷いた。

「なんと。兄妹揃って受難だったな」
レオポルドはねぎらった。マウロがルーヴ王城で危難に遭ったマックスを救ったことや、ラウラの侍女アニーの兄であることは知っていたが、その件で命を狙われていたことは初耳だった。

「ところで、マーテル・アニェーゼというのはどんな尼僧だ? 以前に候女との縁談を持ち込んだのはその女なんだが、枢機卿や侯爵家とも深い繋がりがありそうか?」
レオポルドが訊く。

 マウロは言葉を選びつつ答えた。
「個人的な恩があるから申し上げるわけじゃありませんが、立派なお心をお持ちの方のようにお見受けしました。修道院長としてはお若い方ですが、堂々としているし、薬草の造詣も深くて、その知識を民衆のためにもお使いのようです。それはそうと、候女様とは個人的にお親しいご様子でした」

「なんと。そうか」
レオポルドは、何かを考えているようだった。

 マウロは、噂の候女にあったことがあるのだが、それを言うべきかどうか迷っていた。レオポルドにさらに訊かれたらいおうと思っていたところ、一行は周囲の異変に氣がついて騒然となった。

 木が乱伐されていた。それまでは、日中でも暗くなるほど針葉樹が茂っていたのだが、その辺りには、切り株が乱立し、陽が射して明るくなっている。切り倒された木々のうち、そのまま放置された幹も多い。混沌とした光景に一同は眉をひそめた。

「なんだここは。森林管理官と樵職による伐採とは違うようだが」
レオポルドが言うと、マックスも「そうですね」と同意する。

「ああ、ここについてはモラ様がお話になっていたことがあります」
マウロは小さな声でマックスに言った。

 野鳥と野ウサギ捕獲の自由が認められてから、次第に無許可の乱伐が始まり、いつのまにかこのような穴あき空間ができるようになったという。無計画な乱伐のため、数か月前には地滑りが起こった。

 案内をしている管理人ゴムザーは、その辺りを報告していなかったので口ごもり汗を吹いている。

 そこに、目に入ってきたのは野営をして焚き火を起こしている一団だ。武装をしているので坑夫ではないようだ。

 一行が近づくと、その一団はこちらをチラリと見た。何人かの女たちがいて、煮炊きをしたり、洗濯物を干したりしている。武具の手入れをしている者もいる。焚き火にはスープの入った鍋と、何匹かのウサギの丸焼きが見える。どうやらまとめて一緒に食事を作っているらしい。

 ゴムザーが文句を言う。
「おい。お前らはここで何をしているんだ」

「何って、仕事の合間に飯を食うんだよ」
「だが、こんなところで狩りをしたり、煮炊きをしてもいいという許可は出していないぞ」

「野鳥と野ウサギ捕獲の自由があるじゃないか」
「そもそもお前たちは、坑夫じゃないじゃないか。あの許可は坑夫に向けてだ」

「でも、こっちだって精錬所と坑夫たちの安全のためにここにいるんだ。あんたが俺たちを用心棒に雇ったんだろう? 飯を食わずに仕事をしろって言うのか」
「飢えろと言っているわけじゃない。持参するか、もしくは精錬所で購入して食べろといっただろう」
「あんな高いもの、腹一杯になるまで食ったら、稼いだ金がすべて飛んじまう」

 一行は、傭兵団とゴムザーの言い争いを見ていたが、マウロが傭兵団の中にいる女兵士に氣づいて「あ」と声を上げた。女も、マウロに氣がついて「やあ」と手を挙げた。

「なんだ、知りあいか?」
レオポルドがマウロに訊いた。

「はい。素性を知っていたわけではありませんが、お城の側で、親切を受けたことがあります」
「ふむ。そうか」

 レオポルドは、ゴムザーに声をかけ、これまで明確なルールがなかったのだから現在の野営については不問に処し、後でルールの設置するように告げた。また、傭兵団にこう告げた。
「不問に処す代わりに、この一帯を少しきれいに整頓するように」

 傭兵団も、ゴムザーも、それぞれの面子を保ち、この話は一度おさまることになった。
関連記事 (Category: 小説・トリネアの真珠)
  0 trackback
Category : 小説・トリネアの真珠

Posted by 八少女 夕

休暇でした

今日で2週間の休暇もおしまいです。

アルブラ峠

あまり意識していなかったのですが、今の会社では、6週間の休暇があります。正確には5週間の休暇と1週間の年末休業(残業時間消化)です。

で、8月後半に2週間の休暇を取り、3月、6月、10月に1週間、そしてクリスマスから年末までも休みます。3月と6月の休暇の間だけが少し空くのですが、イースターやキリスト昇天の祝日などで4連休や3連休が続く時期なのです。

というわけで、日本に比べると祝日は少ないのですけれど、それでもだいたい2か月に1度は休暇か、ちょっと長いお休みがあることになります。そのくらいのペースで働けるのはとてもありがたい。もちろん子供たちのように長期休暇があればもっといいけれど、まあ、無い物ねだりはやめましょう。

以前は、年に1度は海外旅行をしていましたが、コロナ禍以降、まだ泊まりの旅行には行っていません。もちろん「感染を怖れての自粛」じゃありませんよ。去年は、あちこちで面倒な制限があったので出かけにくかったのですが、この夏のヨーロッパにはその手の制限は何もないですし、COVID-19を怖れている人はもうまったくみかけません。

泊まりがけで出かけるとなると、猫の世話を誰かに頼まなくてはならないのですけれど、我が家の猫は放置に慣れていないのです。というわけで今回の休暇も泊まりには行きませんでした。

でも、けっこうドライブには行ったのですよ。

後半に天候に恵まれたので、アルプス以南に日帰りで何度も行きました。

カランカ谷

これはメゾッコ谷の側谷であるカランカ谷に行ったときの写真です。私の住むグラウビュンデン州には150以上の谷があるといわれています。カランカ谷は、サン・ベルナルディーノからメゾッコ谷を走ると、ティツィーノ州に入る少し手前にあります。

主要道路のある本谷と違って、側谷は行き止まりであることが多いので、その谷に用事のある人しか入っていきません。そして、特に何かがあるというわけでもなく、小さな村がいくつかある素朴な山谷なのです。

暑すぎず、肌寒くもない絶好のドライブ日和、小さな滝の麓のアルベルゴ・リストランテでアイスクリームを堪能しました。

また別の日は、同じメゾッコ谷の馴染みの店でお昼ごはんを食べた後、ティツィーノ州まで行ってルクマニア峠経由ディセンティスというルートで帰ってきました。ディセンティスはビュンドナー高地にある修道院で有名な町です。いつもは通らない大回りのドライブは、嬉しかったですね。

ブレガリア谷

そして、もう1日はスプリューゲン峠からイタリアに入り、イタリアでお昼ごはんを食べました。やはりスイスに比べるとレストランもリーズナブルでおいしい! スイスではなかなか食べられないビーフステーキを堪能してきました。

そして、数十分ほど走るとまたスイスです。ブレガリア谷はセガンティーニが愛したことで有名なイタリア語圏の渓谷です。プロモントーニョで一服した後、友人の家を訪ね、それから今度はエンガディンを通りアルブラ峠を越えて帰ってきました。

お泊まりは1日もしていないけれど、これだけあちこちを回ったので、かなり満足な休暇になりました。
関連記事 (Category: 旅の話 / スイス・ヨーロッパ案内)
  0 trackback
Category : 旅の話 / スイス・ヨーロッパ案内

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(8)金山 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』の第8回前編をお届けします。

遊びに来たかっただけだろうと、読者の皆様からツッコミを入れられている国王レオポルド。とはいえ、いちおう表向きの理由である金山の視察は熱心にやっているようです。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(8)金山 -1-


 従来、鉱山採掘は有力な鉱山労働者に一任するのが一般的であった。採掘に従事する者たちは鉱産物に対する1/10税を納める以上の義務はなく、移動の自由も認められていた。すなわち、鉱山の枯渇の前兆があれば有能な坑夫たちが一斉に他の地域に移動してしまう傾向が見られる。それを食い止めるために、領主たちはかつては大きな譲歩を試みてきた。

 たとえばルーヴラン王国に属するサン=モーリス銀山には放牧地や屠殺・パン焼きの機能を備え、小さい市場のようなものまで有する集落が併設している。鉱山労働者とは関係のない職業に属する者までが、こうした集落で租税を免除される特権を活用していることは、周辺の村落では不公平と不評だった。それが原因で私闘フェーデが起こることすらあった。

 グランドロン王室がフルーヴルーウー金山の直轄領化をしたのは、こうした採掘者たちに金山が半私有化されるのを避けるためであり、慣例にはない管理体制を敷いていた。すなわち、精錬所や鉱山集落そのものを国有化してしまい、設備投資や鉱山の維持費を負担する代わりに、下請けや孫請けの坑夫たちを雇って中間搾取する「働かない鉱山労働者たち」を排除し、黄金や収益の流出を防ぐようにしたのである。

 一方で、麓の村落と同様に、パン焼きや商業などについては支払い義務は一切免除せず、治外法権なども許可していない。このことについては、他国からやって来た坑夫たちには不評だった。

「彼らの要求に応えるために、例外的に背後の森林における野鳥と野ウサギ捕獲の自由を認めてきたのですよね」
マウロは、マックスに訊いた。

 馬丁マウロは、グランドロン国王レオポルド2世の金山視察にフルーヴルーウー伯であるマックスとともに同行していた。さすがに国王に面と向かって質問する勇氣はないので、かつてルーヴで遍歴教師として親しく話したことのあるマックスにこっそりと訊いたのである。

 だが、それを聞きつけたレオポルドが、直接答えた。
「その通りだ。締め付けるだけでは反発を生むからな。それに、質のいい労働者を確保するためには、若干の譲歩はやむを得ないだろう。この視察では、坑道や管理事務所などだけでなく、市場や周辺の村落も見ておきたいのだ。今後のさじ加減を知るためにな」

 なるほど、それでか。マックスは心の中で頷いた。金山に到着し、予定通り精錬所や坑道の視察をした。管理人ゴムザーは、自分の落ち度を見つけられないよう、念入りに準備を重ねたらしく、どこも必要以上に整っていた。それはレオポルドも感じたのであろう、金の採掘の実際などを見た後は、あまり長居はしなかった。

 ゴムザーは、ひと通りの案内が済むと精錬所の奥の応接間にレオポルドを案内しようとした。だが、国王は「飲み食いの前に、周辺の村落も見たい」と言って足を運ぼうとしなかった。

 ゴムザーは、「お疲れでしょうから」とか「それはまた次の機会に」とか、明らかに狼狽えた様相を見せた。

「なにか困ることでもあるのか」
レオポルドが訊くと、彼は慌てて首を振った。
「いえ。その……子供たちが陛下を歓迎する歌を歌うために応接間に待機しておりまして……」

「なんだ。それならもうしばらくその辺で遊んでいろと、伝えればいいではないか」
そう言って、かなり強引に村落の方に足を向けたのだ。

 準備の済んでいないところを視察する方が、より大きな発見がある。それはマックスも常々思っていることであった。ゴムザーの慌てぶりからすると、何か見られたくないものがあるのかもしれぬ。

 マックスは、教師時代には金山の鉱山集落に足を踏み入れていなかった。直轄領ということもあり、面白そうだからといって立ち入ると、余計な詮索をされて足止めを喰らうからだ。

 一方で、フルーヴルーウー辺境伯領に属する岩塩鉱山には教師時代にも立ち寄っていた。その時に見た、坑夫たちの労働環境がずっと氣になっていたので、領主となってから直に新しい決まりを導入したのだった。

「そなたはいいよなあ。前にはロクでもない代官だったから、ちょっと改善すれば喜ばれるだろう。余なんて、あちらを立てれば、こちらが反発し……」
ぼやくレオポルドに、一行は忍び笑いをした。
関連記事 (Category: 小説・トリネアの真珠)
  0 trackback
Category : 小説・トリネアの真珠
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

夏が過ぎていく

現在休暇中なので、のんびりと爽やかな夏を満喫しています。

氷河

漏れ聞く日本は相変わらずの猛暑らしいですが、こちらは申し訳ないほどの爽やかな8月です。一時期ヨーロッパが猛暑というニュースが日本にも伝わったので、多くの方に心配していただいたのですが、いかに猛暑でも日本の夏に比べたら全く大したことがありません。

小学生だった○十年前、東京も今ほどは暑くなくて家庭にエアコンがなくても普通に暮らせた時代、「朝の涼しいうちに宿題を済ませましょう」と口を揃えていわれました。そして、本当に朝はとても涼しかったのですよ。

今年の「猛暑」のスイスでは、たった1日「夜でもけっこう氣温あるかも」と思った日がありました。そして、その翌朝、窓を全開しても「あれ?そんなに涼しい風じゃない」と思ったんですが、たぶんその「暑すぎる朝」が、記憶にある小学生だった真夏の朝と同じぐらいでした。それ以外の日は、「猛暑」といっても夜に窓を開ければ快適な涼しい風を楽しめるし、36℃くらいある日中も北側の日の当たらない部屋にいれば25度くらいの快適な温度でした。もちろんエアコンなしで。

一方、水不足の夏でもあるので、あちこちで「山火事注意」の警報は出ています。上流のスイスはめったに水には困らないのですが、下流の国々では水不足が深刻になってきているようです。

去年は、COVID-19、COVID-19と大騒ぎをしていました。大きなイベントは中止になるし、海外旅行も高額な検査があったり飛行機のキャンセルが相次いだりしてバカンスにもなかなか行けない雰囲氣でした。さまざまな行動制限に加えて、心理的圧迫のせいで夏も楽しめませんでした。

今年は、その去年が嘘みたいで「コロナ禍なんかなかったことになっている」ように思います。2月に屋内での法的マスク強制が解除されてから一瞬で町ではマスクを見なくなりました。私も手作りしたたくさんの布マスクを掃除布にしておさらばしました。一時は毎日のように騒いでいたウクライナ問題についても、ニュースで耳にすることは稀になりました。

一方で、ガソリンの値段は上がったままですし、隣国ではエネルギー問題が人びとを不安にさせており、真冬に17度までしか暖房を入れられないとか、薪の購入での詐欺が横行したり、決して2019年までの「なんの心配もない夏」が戻ってきたわけではありません。

スイスは、どういうわけか食糧危機の兆しも感じられないし、マスク着用や望まぬ注射を強制されることもありません。なので、もっと晴れ晴れとした想いを持ってもいいと思うのですが、そうではない日々を送っています。

2019年までの日々には、もう戻れないのだと思います。疑問を持つこともなく、調べることもしなかったあの頃、世界は基本的に法と正義と善良さを中心に回っていて、平和でちょっぴり退屈ですらありました。真面目に働いていれば、少なくとも日々の生活は保障されて、老後も慎ましく暮らせば困らない場所のはずでした。

個人的には、あれから失業して、スイスの失業保険受給も体験しました。それから再び幸運に恵まれ、新しい職種と前の職種の両方の仕事ができるようになりました。各国の感染対策上も、私のお財布の中身も、理論的には以前と同じように年に3回国外旅行をしても問題はないようになりました。

でも、コロナ以降、私と連れ合いは全く海外旅行には行っていません。その間に猫が生活の中に入ってきてしまったということもあるのですけれど、それは本質的な問題ではなくて、たぶん世界が私の考えていたものと全く違ったので浮かれて楽しめなくなってしまったというのが一番の理由だと思います。

空を見ても、山を見ても、新聞やネットからあふれてくる文字を見ても、もう以前と同じようなまっすぐな受け止め方はできなくなってしまいました。私は「自由でもっとも恵まれた時代に生まれてきた、歴史上もっともたくさんの知識を得た霊長」の1人ではなくて、おそらくそれとは真逆の『青い錠剤』で宥められただけの愚かな羊だったんだなと。

それを受け止めるのは、とても困難でつらかったのですけれど、1度消化したらあとは生き延びるために、動き始めることもできるようになりました。

それに、これまでは教え込まれたことを考えもせずに受け入れていたのですが、ごく当たり前の自然現象や古い建築など、いつも身近にあった多くのことについて自分で観察し考えるようにもなりました。まだ世界の真実がわかったとは言えない、思考の入り口付近にいるのですけれど、多くの小さな物事について自分の仮説を立てたり、ネットで仮説に対する裏付けとなる知識を探したりしながら、思考を繰り返しています。

そんなわけで、旅行と創作のネタ探しばかりをしていた頃とは、ずいぶんと違う時間の使い方をするようになりました。

世界の不安は、終わったわけではなく、ますます不穏な方向に向かっています。次に何が来るのか、私にはわかりませんけれど、少なくとも警鐘がならされたものについては自分なりの準備はしています。それが充分かどうか、もしくは単なる杞憂なのかは、実際に問題が起こらないとわかりませんし、何が起ころうとまた起こらないままだろうと、それに順応して生き抜くべく歩き続けるしかありません。

この夏休みも、そんなあれこれを考えながら、たまに近場にツーリングと食事に行く程度の日々を過ごしています。あと1週間、のんびりと、少しは執筆も進めながら過ごすつもりです。

季節は緩やかに移ろい、既に朝晩は秋を感じるようになっています。足下にも枯れ葉が舞ってくるようになり、植えた野菜のほとんどは収穫時期を迎えています。

関連記事 (Category: 思うこと)
  0 trackback
Category : 思うこと

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(7)国王の到着

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』の第7回をお届けします。

もうお忘れかと思いますが、今回の作品の主人公はいちおう、国王レオポルドということになっています。主人公不在のままずっと話が続いていましたが、ようやく主人公が到着しました。ヒロインは、ええと、当分出てきません、悪しからず。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(7)国王の到着


 領主夫妻の到着から遅れること1週間。慌ただしく準備に明け暮れたフルーヴルーウー辺境伯爵領に、いよいよ国王レオポルドⅡ世が到着する日となった。

 家令パスカル・モラをはじめとして、城の使用人たちが玉顔を拝するのはもちろん初めてである。幸いなことに領主夫妻と王都から連れてきた使用人たちは全員国王と面識があり、「国王陛下は氣さくで、もてなしにあれこれ文句をつけたりはしないであろう」と力づけてくれた。

 とはいえ、もちろん立派な王家の馬車でたくさんの護衛と共にやってくると思っていたので、先触れと思われる簡素な馬車がやって来た時に、まさか中から国王その人が出てくるとは、フルーヴルーウー辺境伯自身も予想していなかった。

 幸い、兄であるマウロと話をするために外に出ていたアニーが、レオポルドとフリッツ・ヘルマン大尉の顔を見て思わず声を上げたので、モラはすぐに正しい挨拶をすることができ、主人を呼んでくることができた。

「いったいどういうことですか」
マックスは呆れて、従兄弟である国王に問いただした。

「ヘルマン家の馬車で来たのだ。うるさい奴らはみなヴェルドンに置いてきたので、普段泊まれない類いの宿にも滞在できたしな。なかなか面白い旅であったぞ」
「まさか、この人数でお越しなのですか?」

 一行は、馬車1台。それに護衛の騎馬の騎士たちが4人ほどしかいない。ヘルマン派として知られている、家柄はあまり良くないが武術に秀でた若い騎士たちだ。そして、カンタリア派と呼ばれる母后の息のかかった者が1人もいないことにマックスは氣がついた。

「無名の大尉の馬車に物々しい護衛がついていたらおかしいだろう」
「危険にも程があります。お立場をわかっていらっしゃるのですか? お帰りの際は、私どもの騎士も護衛としてお連れください」
「ふむ。お前たちと一緒に帰ればいいではないか」

 そんなに長くご滞在なさるおつもりですか。モラはもう少しのところで、その言葉を飲み込んだ。

「余が視察に行くとわかっていたら、金山の管理人も都合の悪いことを隠すかもしれぬではないか。下々の役人あたりが視察に来たとでも思わせるのが一番だ。ともあれ、そなたたちには世話になる」

* * *


「そんなに長くお城を空けて大丈夫なんですか?」
フリッツ・ヘルマン大尉の客室に水差しを運んできたアニーは、小さく囁いた。

 そもそも、これはラウラ付きの侍女であるアニーの役目ではないのだが、事情を知りたい多くの者たちの利害が一致して、ヘルマン大尉にあけすけにものを訊けるアニーが派遣されたのだ。

「まったく大丈夫ではないが、トリネアに行く予定もあるので、金山だけを見てさっさと帰ると二度手間になるのだ」
フリッツは憮然として答えた。

「ああ、《ケールム・アルバ》の向こうの。トリネアって、センヴリ王国ですよね? こんな少人数で何しにいらっしゃるんですか?」
「表向きは別件だが、実質的には縁談のための訪問だ。おそらく、その時はフルーヴルーウー辺境伯の騎士や馬車をお借りすることになると思う」

 アニーは、納得した。そういえば、マリア=ファリシア姫との縁談のときもレオポルドは使者と偽って突然公式訪問をし、どんな王女か確認しようとしたものだ。残念ながらその時は替え玉となったラウラを王太女殿下と勘違いして縁談を進め、もう少しで敵国に踏み込まれるところであった。

 毎回つきあわされる部下は大変だなと思いながら、アニーはフリッツを見た。

 フリッツ・ヘルマンを初めて見たのも、その国王のルーヴ訪問の時だった。それから偽物の王女としてヴェルドンに向かったラウラについてアニーもグランドロンに来たときに、この護衛隊長が位は高くないものの国王の幼なじみとして非常に信頼されていることを知った。さらに、ラウラが処刑されたと思い込んで復讐のためにレオポルド襲撃を企んだアニーは捕らえられたが、罪に問われることはなく秘密裏にラウラのもとに連れてこられてフルーヴルーウー伯爵夫人付き侍女として勤める温情を受けた。そのときにも、この無骨な大尉が大きな役目を果たしていた。

 そんな事情で、国王の護衛隊長という立場のかなり年上の人にもかかわらず、アニーは氣易く口をきくようになってしまっていた。彼はそれを無礼と怒るでもなく、普通に対応している。

 変わった主従なのだ。国王のレオポルドからして、幼少の頃に身分を隠して農村に出入りしては友だちを作っていたような人だ。フリッツは、さほど位の高くない貴族階級の出身だが、レオポルドの乳母の親族だったために、幼少期のレオポルドと一緒に遊んだ仲だそうで、臣下の中でもレオポルドにはっきり意見を言えるようだ。

 アニーは、ルーヴの王城でさまざまなタイプの家臣を見てきた。国王の信頼が篤くなると、やがて私腹を肥やしたり、自分自身が権力者自身であるかのように振る舞う者も珍しくなかった。だから、ずっと国王レオポルドの信頼篤いフリッツが、自らの分をわきまえて役目を果たすことに揺るがないさまを当たり前のこととは思っていなかった。

 フリッツ・ヘルマン大尉は、懐柔の難しい人物として知られている。国王の近くに勤める立場を利用しようと近づいてくる存在は、貴賤男女を問わず後を絶たないのだが、鼻薬を効かせることもできないし、美女の誘惑も役に立たない。弱みとなるような道楽も一切せず、休みの日も自宅で鍛錬をするような面白みのない人物と陰口をたかれても氣にする素振りすらない。

 また、袖にされた女性たちは「妻からも逃げられたつまらない無骨者」と吹聴する。これはほぼ事実なのだが、国王や部下からの信頼は篤いために、一般にはむしろ振られた女性たちの負け惜しみであると、好意的に取られているのだとアニーは分析していた。

 とはいえ、こうした性格ゆえ、国王に直接訊きただすには差し障りがあるような情報を、正確に手っ取り早く手にするにはフリッツに訊くのが一番早いというのが関係者の一致した見解になっているのだった。
関連記事 (Category: 小説・トリネアの真珠)
  0 trackback
Category : 小説・トリネアの真珠
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

新しい冷凍庫が来た

冷凍庫を買い換えて、さらに整理方法を見直した話です。

新しい冷凍庫

先月、前触れもなく冷凍庫が故障しました。普通の冷蔵庫についている冷凍庫が壊れても困るのに、もっと大きい専用冷凍庫が壊れたので焦りましたよ。

あ、なんでそんなもんがあるのと、驚かれる方もあるかもしれませんね。日本の一般家庭と比較すると、スイスの冷凍庫保持率はけっこう高いと思います。いわゆるレンチンするタイプの冷凍食品はさほど充実していないスイスなので、入っているのはそうしたものではありません。

私の場合は、まとめて作った食品や1度では食べきれない野菜などを冷凍しています。例えば、ひき肉が40パーセント引きのお買い得になっているときなどに、喜んで購入するんですけれど、連れ合いと2人だけなのに1㎏は多いんですよ。で、すぐに食べない分は、ハンバーグにしたり、野菜入りひき肉炒めなどにして冷凍しておき、時間のない日にさっと温めたり追加で調味して出すというような使い方をしています。それに例えば人参も1袋1㎏入りを買ってきて、乱切りにしたものを冷凍しておき、こうしたいくつかの冷凍野菜をストウブ鍋に突っ込んで無水調理したりもしています。

家庭菜園をする家庭では、夏の間に収穫したものを下ゆでして冷凍保存することも多いですし、狩りや釣りの趣味を持つ人はシーズンに冷凍庫がパンパンになるのが普通です。我が家も秋に友人からゲームミートを1頭分買うことがあります。

そんなこんなで、冷蔵庫とは別に、100リットルくらいの容量のある冷凍庫を使っています。

先月、壊れた機械は、サーモスタットが故障したと思われます。結局修理するよりは新しいのを買うことにしました。よく行くスーパーの電化製品部門で購入したので、ポイントを使ってやたらと安く買えてしまいました。

容量は前のとほぼ同じで、ただ、前回のとは引き出しの数がひとつ少ないです。いずれにしても、以前の時から入っているものを探すのがちょっと困難なカオス状態だったので、買い換えを機にすこし整理方法を変えました。

冷凍庫の整理

ちにみに、こちらは冷蔵庫についている冷凍庫での整理方法です。この容器、 A5サイズの書類入れなんです。字が汚くてなんですけれど、白いマスキングテープに何が入っているのかを書いて入れています。

例えば一番手前にあるのは飴色玉ねぎが入っています。私はタマネギの食感が苦手なのでどんな料理に使うときも細かくして30分以上は炒めたものを入れます。毎回なんてやっていられないので、3か月に1度くらいの頻度で大量の玉ねぎを1度に調理して薄く冷凍しておき、割って使っています。

冷凍庫の整理

今回買った冷凍庫も、本当は同じファイルを買って整理するつもりでしたが、どういうわけか前回買ったファイルは手に入らなくなっていました。その代わりに購入したのが、やはりA5サイズの書類袋のセットです。あまり厚みはないので、背表紙にラベルを貼ることはできませんが、色で目星をつけることができるようにしました。そして、あえて口を開けてひと目で中身がわかるようにしました。

こうしたファイルに入れることの利点は、出してからまたしまうときに、隙間に押し込みやすいんです。そして、平らに積み重ねるのと違って、欲しいものが下に隠れることがないので、早く探し出せるんです。

写真でお見せするほどの見栄えではないんですが、口で説明するよりは早いですよね。

隙間家具

ついでに買ったのが、こちらの隙間家具。幅16センチしかない壁と冷蔵庫の隙間にギリギリ入るものを買いました。

実は、ここに置いているもの(ニンニクやエシャロット、それにジャガイモのポットなど)は、以前は冷凍庫の上にあったのです。でも、ここがいつもゴチャゴチャしていたので、今回掃除しやすさも兼ねて、キャスター付きの隙間ラックに大半を置くようにしました。

一番下の棚には床置きが氣になっていた延長コードと、あまりおいしくないから料理用にしてと連れ合いから押しつけられた赤ワインなどの瓶を載せることができました。

いくつかのゴチャゴチャが解消して、台所でのイライラがまた1つなくなって嬉しいです。
関連記事 (Category: 生活のあれこれ)
  0 trackback
Category : 生活のあれこれ

Posted by 八少女 夕

【小説】山の高みより

今日の小説は『12か月の楽器』の8月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の選んだのは、ティバです。ご存じないですよね。少し前まで私も知りませんでしたから。ティバというのはアルプホルンの原型になったといわれる楽器の1つで、スイスで中世から牧畜のために使われていた管楽器です。現在のアルプホルンは、2m以上もあるので、とてもヤギを追いながら高山に持って行って吹くことなどできませんが、ティバはずっと実用的な楽器だったようです。

ちなみに、この楽器を8月に持ってきたのは、スイスの建国記念日(8月1日)の影響で、私にとってのアルプホルン系の音は8月と結びついているからなのです。


短編小説集『12か月の楽器』をまとめて読む 短編小説集『12か月の楽器』をまとめて読む



山の高みより

 遠くに灰色の塊がわずかに見えてから15分も経っていなかった。雷雲は恐るべき速度で遠くの山嶺に襲いかかっている。白いヴェールが瞬く間に山肌を覆う。早苗は「これは来るかな」と小さくつぶやいた。

 先ほどすれ違ったハイカーたちは、花を摘みながらのんきに下っていったが、もしかするとずぶ濡れになるかもしれない。こちらも人ごとではない。だが、あと5分も歩けば山小屋に着くだろう。そうすれば、少なくとも雨宿りはできるだろう。運がよければ。これは、雨雲との競争だ。

 轟きはティンパニーを思い起こさせる。ああ、これだったんだろうかと早苗は思った。ヨハネス・ブラームスの交響曲第1番の第4楽章の始まり。きっとあのティンパニーはいま耳にしているのと同じ雷鳴だ。

 ブラームスがアルプに親しみを持つ日々を過ごしていたか早苗は知らない。ウィーンの社交界の中で作曲を続ける偉大な芸術家は、行ったとしても旅行者としてだろう。ハンネスはそうじゃなかった。彼は、この山を日々見上げて育った。この山にもよく登り、祖父や父親から引き継がれた、いま早苗が持っているティバを吹いていた。

 早苗は、ハンネスの願いを叶えるために、ひとりでこの山に登っている。この山の頂からティバを吹き鳴らすこと。次のティバの祭典『ティバダ』には加わることができないであろう彼と、もうじき博物館入りするかもしれない楽器に最後の栄誉を与えるために。吹くメロディは決めている。ブラームスが交響曲に書き込んだ旋律だ。

「山の高みより、谷の深きより、君に何千回も挨拶を送ろう
(Hoch auf’m Berg, tief im Tal, grüss ich dich viel tausendmal!)」

 ティバは、アルプホルンの原型と言われる楽器の1つだ。スイス、グラウビュンデン州に伝わっていて、かつては放牧中の家畜を鼓舞したり、麓の村人や他の嶺にいる仲間と意思疎通を図るために使った道具であった。

 携帯電話を誰もが持ち、麓へも車で楽に往復できるこの時代には、かつての用途で用いられることはもうない。

 現代では、アルプホルンは観光産業を象徴する国民的楽器となった。3.5メートルもある巨大な角笛ゆえ演奏することも持ち運ぶこともなかなか難しい特殊な存在になっている。一方で、その原型であったティバや、中央スイスのビューヘルなどは、存在すらも知られぬマイナーな楽器としてその地域で細々と生きながらえている。

 ティバは「牧夫の角笛ヒルテンホルン」とも呼ばれる、木や金属でできた古い管楽器で、アルプホルンとは異なり、短く、たいていまっすぐな形をしている。かつては高山の牧草地で牧夫たちが使用していた。1メートルから1.7メートルまでさまざまな長さのものがあり、地面に置いて吹くアルプホルンと違いトランペットのように持ち上げて吹く。

 かつて牧夫たちが使っていたティバは木製だったが、現在では錫製のものがほとんどで、早苗も錫製の1.2メートルの楽器を愛用している。今日持ってきたのは、さらに短い1メートルのものだ。ハンネスから預かってきた。

 ティバの音色は、外国人にとってはスイスらしさの象徴であるアルプホルンと同じに聞こえるらしいが、都会から来た同国人は「郵便バスかよ」という。郵便配達を兼ねてスイス中に路線が張り巡らされている黄色いバスでは、見通しの悪い山道などでホルンに近い4音によるクラクションを鳴らす。これは、かつてヨーロッパ中で郵便配達が角笛を使って到着を知らせていた時代の名残だ。

 山からこの楽器を吹き鳴らすと、谷では、音色がどこから聞こえてくるのかはっきりしない。が、演奏技術や事前に合意した音の並び方から、演奏者を推測することが可能だ。かつてはそうやって谷を越えた別の村に危機などを速やかに知らせることができた。

 現在では、個人の楽しみで吹くのがメインだ。もっとも10年ほど前からいくつかの村をシグナルのリレーでつなぐティバの祭典『ティバダ』が開催されており、それが愛好家たちのモチベーションの維持に繋がっている。

 かつてはその存在さえ知らなかった楽器だが、早苗は同僚だったハンネスに誘われて『ティバダ』を見にいってから、ティバをよく練習するようになった。日本では、中学も高校でも吹奏楽部に所属していたので、音を出すまでにさほど苦労はしなかった。

 ハンネス。もうずいぶん長い付き合いになるよね。ずっとただの同僚だったのが、ティバをきっかけに仕事以外でもよく会うようになって。いろいろな話も聞いてもらった。この国に来て、友達も少なかったし、本当に嬉しかったんだよ。あなたのことを話してくれるようになったのは最近だけれど。

 本名がヨハネスだということを知ったのも最近だ。ハンネスという今どき珍しい古風な通り名は、消えかけている伝統の継承をするのだという彼の意思表示なのかもしれない。そういえば、彼は恋に関しても今どきの若者にはあり得ないほど古風だ。早苗は初めて聞いたときに耳を疑った。ティーンエイジャーになれば親が避妊の心配をするようなこの国で、秘めた想いを伝えもせず10年以上も隠し通しているなんて。私も人のことは言えないけれど。

 下草を踏み分け、曲がりくねった根でできた天然の階段をいくつか登り鬱蒼とした老木の間を通ると、急に視界が開けた。すぐそこに山小屋が見えている。助かった。雨雲はもう早苗に追いついていて、ポツリ、またポツリと頭や上着を雨粒が規則正しく打ち始めた。

 走ってなんとか山小屋に駆け込む。小屋内部の屋根を打つ雨音の激しさにかえって驚く。もうこんなに降っていたのかと。

「まあ、最後の瞬間に駆け込めて幸運だったわね!」
黒いエプロンを着けた女性が言った。早苗は、頭を下げた。この山小屋で常時働いているのは夫婦と外国人スタッフだけと聞いていた。方言のなまり方からこの人はスイス人だ。つまり、この人がコリーナさんなんだろう。

「ステッターさんですか。私……」
そう言うと、彼女はみなまで言わせなかった。
「あら。あなたがサナエね。ハンネスから聞いているわ。私がコリーナよ。よく来てくれたわね。いま、ブルーノも呼んでくるわ」

 奥から現れた男性は、熊のように大きく、口の周りにしっかりと髭を蓄えていた。農家によく見るチェックのリンネルシャツを着ている。夫婦共にハンネスよりもひとまわりは上そうだ。

「ようこそ。なんでもこの山でティバを吹くんだって?」
「はい。本当はハンネス自身が来たかったと思うんですけれど」

 そういうと夫婦も沈んだ表情になった。
「病院に入っているんだって?」
「はい。今年の『ティバダ』の参加は取り下げたんです。先週、お見舞いに行ったときにそう言っていました。ものすごく残念がっていて、それで成り行きで頼まれて、ここに来ました」

 2人は頷いた。そして、早苗にテーブル席に座るように促し、何が飲みたいかと訊いた。ハンネスからの依頼でご馳走することになっていると。早苗は感謝してコーヒーを頼んだ。

 外はひどい雷雨になっていた。閉じた雨戸の隙間からも稲光のフラッシュが山小屋に入ってくる。屋根を川のように水が流れ落ちていくのを感じる。突如、激しい音が加わる。屋根を打ち付ける小石のような音。雹だ。
「おやおや。これは外にいたら大変だったな」

 雷雨に離れているのか、夫婦はさほど慌てていない。コーヒーを運ぶと、ブルーノは自分用にはビールの小瓶を持って早苗の前の席に座った。

「ハンネスはさ、小さな子供の頃から親父さんに連れられてここに来ていたよ。ティーンになってからはひとりでもよく来たなあ」

 ブルーノは、感慨深げに言った。コリーナも頷いた。
「そうね。短いティバを持ってね」

「これですか?」
早苗はリュックの後ろに下げていたティバを見せた。

「そうね、そんな色とサイズだったのは間違いないわ。もっとも私たち、違うのを見せられても、わからないけれど」

 早苗は頷いた。そうか、コリーナさんたちは、ティバには疎いんだ。それに、ハンネスの秘めた願いにもきっと氣がつくことはないのかもしれない。

 見舞いに行ったとき、ハンネスは、唐突にこう言った。
「君は、クラシック音楽を聴くんだったね。ブラームスも?」

「そうね。シンフォニー1番は大好きよ」
そういうと、彼は、ぐっと身を乗りだしてきた。

「あの曲について、言われていることも、知っている?」

 早苗は、一般的な知識を答えた。第4楽章の主題がアルプホルン由来であることや、有名なメロディーが敬愛するクララ・シューマンへの想いを込めたものと言われていることなどだ。

「山の高みより、谷の深きより、君に何千回も挨拶を送ろう」
 クララ・シューマンの誕生日に、ブラームスはそう歌詞をつけてこの主題を贈った。

 ハンネスは、考え込むように頷き、それから意を決して、早苗にこう言った。
「僕も、クララ・シューマンに挨拶したいんだ。山の高みから」

 ここまで歩いてくる道すがら、早苗は以前にハンネスが打ち明けてくれた秘密の恋について考えていた。ずっと若い時から続いている想いがあると。その女性はとっくに結婚していて、自分の願いが叶う見込みはまったくないと。

 わざわざブラームスと、クララ・シューマンに言及したのは、そういうことではないだろうか。14歳上のクララに対して、ブラームスが恋愛感情を抱いていたのではないかという話は有名だ。だが、彼はロベルト・シューマンに対しても深い尊敬を抱いており、ロベルトの死後も節度を守り続けたとされている。

「お。おさまったみたいだな」
ブルーノが言う。コリーナは立ち上がって、雨戸を開けた。強い日の光が差し込んできた。いつの間にか外は、快晴になっていた。

 山の上に清冽な風が吹いている。雨雫を受けた針葉樹が太陽の光を受けて輝いている。早苗はティバを持ち、小屋の外に出た。山小屋の建つ草原の先は崖のように切り立った急斜面で、谷底までが一望の下だ。ハンネスの入院する病院はたぶんあのあたり。早苗は地形を見ながら考えた。

 山の上からは、アルプス連峰が見渡せた。2000メートルを越すあたりから、山には樹木が生えなくなる。草原と灰色の岩石、夏でもわずかに残る雪とが稜線をくっきりと際立たせる。宇宙へと続く深い青空に大きな羊雲が悠々と渡っていく。

 鋭い鳴き声をあげながら、鷹が旋回していく。高く登っていくその姿はまるで点のように小さい。見えている町の家々も、それなりの川幅だったはずのライン河も、大きく立派な大聖堂も、この山々や大空に比べれば、とても小さい。

 ブラームスの交響曲第1番の第4楽章が、脳裏に蘇る。早苗はティバを構えて吹いた。澄み渡った空氣の中、音は谷に響き渡る。何百年もまえの牧夫たちがそうしたのと同じように、身体から漲る力が、音符やルールといった細かい決まり事から解放されて羽ばたいていく。

 ハンネスは、ここに再び登り、彼を縛り付けるすべてから解放するこの響きを吹き鳴らしたいと願っているのかもしれない。

 ブラームスがアルプホルンから着想して表現しようとしたものも、もしかするとこの開放感、この世界への讃美なのかもしれない。

 実際のブラームスとクララの関係も、それどころかヨハネス・ブラームスがクララを本当に愛していたのかも、本当のところは、誰にもわかりはしない。それを興味本位で暴くことが必要だとは思わない。そして、ハンネスの願いの本質について、あれこれ詮索することも。

 日本で交響曲を聴いていたとき、早苗はあれを楽器が作り出す芸術作品として捉えていた。それは東京で普段見かける日常生活の光景とはあまりにもかけ離れていて、コンサートホールまたはスピーカーの置かれた部屋の中で完結している抽象的な存在だった。

 でも、今、早苗が目にしている世界は、ブラームスがオーケストラに表現させ、それを耳にする者の心に沸き起こる感情と一致する。彼は、この場にいたのだ。正確にこの地点という意味ではなく、アルプスのどこかで世界を見渡し、その崇高さに頭を下げたのだ。そして、この清冽な風の中で、敬愛する人に心の中で語りかけずにはいられなかったのだ。

「山の高みより、谷の深きより、君に何千回も挨拶を送ろう」

 私たちの命は儚い。私たちの存在はとても小さい。それは、世の中の不公平な格差すら豆粒のように小さく遠いものにする。忙しい生活も、果たせぬ野望も、うまくいかぬ人間関係も、この壮大さ、崇高さの中では、取るにとりないことだと笑うことを可能にする。

 ハンネス。私は、あなたのためにここにいるよ。

 早苗は、この山から麓の病院にいる彼に聞こえることを願いながら彼女なりにティバを吹く。彼が、再び自らの足でここまで来ることができる力になることを祈りながら、彼女なりのシグナルを吹き鳴らす。

 先ほどまでの雨雲はもうどこにもなく、天の青き深みと雨雫の輝く山肌に、ティバの奏でる挨拶が風に乗って羽ばたいていくのがわかった。

(初出:2022年8月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more


というわけで、ブラームスの交響曲1番、第4楽章から再生するように貼り付けてみました。書きながら聞いていたのはフルトヴェングラー指揮だったけれど、こちらはカラヤン。これもいいなあ。



Brahms - Symphony No.1 - Karajan BPO, Live Tokyo 1988 - Remastered by Fafner
関連記事 (Category: 短編小説集・12か月の楽器)
  0 trackback
Category : 短編小説集・12か月の楽器
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

建国記念日と終わりゆく夏の日々

8月になりましたね。暑かったり涼しかったり、忙しいスイスの田舎暮らしです。

8月1日

8月1日はスイスの建国記念日です。1291年8月1日に初期3州がリュトリで同盟の誓いを立てたのが、現在のスイス連邦の始まりです。そしてこの日は、普通は花火や焚き火、それに子供たちの提灯行列などで祝うのが普通ですが、今年は静かでした。猛暑と極度の乾燥から、全国に山火事警報が発令中で、花火も焚き火も厳禁だったからです。

それでも、あちこちで国旗が掲げられ、夏らしい晴れた1日を各所で楽しんでいました。コロナ禍で大騒ぎしていた頃は出来なかった、人びととふれあい楽しく食事をすることが、再びできるようになり、人びとは笑顔で日常を楽しむことを大切にしているように思います。

私たち夫婦は、バイクでアルブラ峠を越えて、ポスキアボに行ってきました。もちろん日帰りの半日の旅でしたが、暑すぎず寒くもない爽やかな1日で、バイク旅行には最適の日でした。

Miralago

それから1週間。8月に入ると明らかに日の入りも早くなってきます。まだ日差しは強いですが、雨のあとには冷え込むことも。平日の誕生日だった4日に、ニュースではロカルノ映画祭が始まったといっていました。

毎年、この映画祭が終わると、毎年秋が訪れます。

でも、私のお楽しみは、もう少し続きます。8月の半ばから2週間の休暇なのです。どこにも行かないでしょうが、それでも休暇には心躍りますよね。

関連記事 (Category: 美しいスイス)
  0 trackback
Category : 美しいスイス

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(6)市場 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』の第6回後編をお届けします。

騎士ゴッドリーの案内で市場の視察をしているマックスとラウラ。奥で露店の売り子と僧服の男が争っている場面に遭遇しました。場所代が突然2倍になったというのが大司教の右腕の僧の言い分の模様。マックスは、口を出すことに決めました。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(6)市場 -2-


「これはゴッドリー様。ご機嫌よろしゅう」
ボーナムは頭を下げた。マックスとは面識がないので、ゴッドリーの案内している貴人が誰なのかうかがっている様子だ。

「いま、聞き捨てならぬ話が聞こえてきたが、場所代が2倍になったという公告が出たというのは本当か」
ボーナムは、わずかに顔をゆがめた。勝手に決めた上でわかりにくいところに公告し、領主に知られずに取り分を増やそうとしていたのだろう。

「私は署名した憶えがないが」
マックスが歩み出て言った。

「こちらはフルーヴルーウー伯爵様だ」
ゴッドリーが告げると、ボーナムも露店の男も青くなって頭を下げた。

 ボーナムはしどろもどろになって言った。
「大司教さまは、さきの代官ゴーシュ様からこの件に関する裁量権を頂いております。近年の物価上昇などを鑑みまして、やむなく場所代を変更しました。伯爵様には、近日中にご報告に伺う予定でございました」

 マックスは、憮然として答えた。
「ゴーシュの失脚に伴い、すべての裁量権は私に戻っている。それを知らなかったとはいわせない。今回の出店費用に関しては、前回と同じにせよ。今後の金額については詳細な提案書とともにフルーヴルーウー城に問い合わせよ」

 周りでハラハラしながら見守っていた出店者たちが思わず歓声を上げた。ボーナムは、怒りで震えていたが、どうすることもできなかった。

 足早に大司教館の方へと去って行ったボーナムの後ろ姿を見ながら、マックスはため息をついた。
「余計な敵を作ってしまったかもしれないな」

 ゴッドリーは肩をすくめた。
「私どもとしては、ようやくという心持ちでございます」

「というのは?」
「市場の場所代は、そもそもお城の歳入となるはずですが、実質すべてがゴーシュ様の私財になっていました。聖遺物への巡礼の道を整えた時に私財を立て替えたので返却させているという建前でしたが、建て替え分などとっくに終わってもお構いなしでした。大司教様はゴーシュ様ととても仲がよく、同じように詭弁を用いては何かと領民から巻き上げようとばかりなさると、みな苦々しく思っておりました」

 ラウラは、つい先ほど大聖堂で挨拶してきたベッケム大司教のことを考えた。立派な法衣を身につけ、非常によく肥えた小柄な男で、ルーヴランの言葉を思わせるアクセントで話をした。《聖バルバラの枝》を納めた黄金の聖遺物箱の前でやたらと長い時間をかけて蕩々と説明を続けていた。

「聖女バルバラ様が地下牢で水をやり、殉教の日に冬だというのに花開いた桜の枝でございます。3世紀にニコメディアにございましたこちらの聖遺物が、いくつもの鉱山を抱く《ケールム・アルバ》を守るために、フルーヴルーウー大聖堂に運ばれましたことは、まさに神のご威光でございましょう」

 聖バルバラは鉱山の守護聖人である。聖遺物が大聖堂に置かれ、巡礼路が整備されてから、近隣の鉱山で働く坑夫たちがフルーヴルーウー城下町にわざわざ逗留することが増え、それがフルーヴルーウー辺境伯をさらに富ませることになっているのは間違いない。

「ベッケム家はルーヴラン寄りだと、老師が警戒されていたな。まさか自分の領地で当主不在を利用して私腹を肥やしていたとは……」
マックスは、頭を振った。

 ラウラは、領主の不在がもたらす害悪について納得した。もちろん、ほとんどの主だった貴族たちはここと同じように代官を置き、王都で生活している。王城にて役職に就いていればなおさらのことだ。しかし、フルーヴルーウー辺境伯領のように、領主が20年以上も行方不明のままであることはほとんどない。

 たまたま前領主夫人が先王の王妹殿下であったため、たとえ伯爵自身が行方不明でもその機に乗じて領地を簒奪したり、反対に王国直轄領に組み入れられたりすることもなく、2代にわたる国王がその領地の保護に心を砕いてきた。それでも、代官ゴーシュ子爵や、ベッケム大司教は問題にならないように充分に心を配りながらも彼らの都合のいいように動いてきたのだろう。簡単には噂も届かぬほど王都から遠いことも、彼らには幸いしたに違いない。

「下手に強く出ても、教会を敵に回すだけだしな。これはうまく立ち回らないと危険だな」
マックスは珍しく額に皺を寄せてつぶやいていた。 
関連記事 (Category: 小説・トリネアの真珠)
  0 trackback
Category : 小説・トリネアの真珠
Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

収穫する日々

家庭菜園もどきに挑戦している話をしましたよね。今日は、ついに収穫が始まり、マイ野菜を食べている、という話。

最初の収穫

7月も今日で終わり。代わり映えのしない生活を送る私ですが、春から面倒を見続けている野菜づくり、まだやっています。そして、あんなに小さな種だったり、苗だったりしたのが、今やどれもかなり大きくなって、ここのところ毎週自分の作った野菜が食卓に上っています。

最初に収穫できたのは、このブロッコリーとシベリア種のトマトが1つでした。そして、ズッキーニも1つ1つ大きくなってくるので、最近はそれをメインに食べています。

ハツカダイコン

最初にできるはずと思っていたハツカダイコンは、ペットボトル栽培のためか時間がかかり、ようやく収穫できるようになってきました。

枝豆

そして、本当にちょっぴりですが、生まれて初めて自分で作った枝豆。これは作り方を工夫して、もう少し収穫できるといいなあ。けっこうおいしかったので。

永久に大きくならないように思えたキャベツも結球を始めていますし、トマトはまだ青いながら、かなりたくさんなっています。そして、そろそろジャガイモの第1弾が収穫できるかも。

小さな家庭菜園ですが、食卓に上る分の有機野菜作り、私でも出来るんだなと驚きました。来年以降も、少し続けてみたいです。
関連記事 (Category: 美味しい話)
  0 trackback
Category : 美味しい話

Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(6)市場 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』の第6回をお届けします。また、中途半端な長さなので2回に切ってあります。

初めて領地にやって来た領主として、マックスとラウラは城下町を視察しています。いろいろ新しい名前が出てきていますが、覚える必要はありません。念のため。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(6)市場 -1-


 フルーヴルーウー辺境伯領は、グランドロン王国の中でも特に広い面積を占める。だが、その領地の大半が《ケールム・アルバ》の山塊に抱かれているため、大きな町、村落などはあまりなく、領民も他の地域と比較すると少ない。最も大きいフルーヴルーウー城下町ですら、日の出から日の入りまで歩き回れば、端から端まで見ることができる広さだ。

 その代わりに、他の領国と比較すると、格段に多くの城塞を持っている。1つ1つは大きめの塔というような規模なのだが、それが入り組んだ谷の峠ごとに置かれ、異国からの往来を監視していた。同時にこれらの街道はフルーヴルーウー領とグランドロン王国の大きな収入源ともなっている。異国人がこれらの城塞の麓を通る度に、通行料が徴収された。通行者たちは、他の地域よりも頻繁に通行料を払うことになるが、大きな不平は出ない。

 例えば、もっと西のルーヴラン王国に属するアセスタ峠を通るルートは、整備されていない道も多く、二輪馬車すらも通行できない上、秋には徒歩ですら超えることが難しくなる。さらに、物見塔が少ないことが、土砂崩れなどで道が塞がれても連絡が行き届かず、盗賊が跋扈する原因にもなっていた。

 グランドロン王国は、王城などの絢爛さではルーヴラン王国にははるかに劣るが、代々の王が軍事に力を入れただけあり、街道の整備や治水・橋の建設などでは大きく先んじている。王都ヴェルドンからの立派な街道は《シルヴァ》を横切り《ケールム・アルバ》の250あると言われる谷に広がっていく。

 フルーヴルーウー城は、そうした《ケールム・アルバ》の多くの谷を集めた扇子の要のような位置にあり、センヴリ王国とグランドロン王国間を旅する者は必ず通る要所に位置している。

 案内されて城下町を巡るときにも、ラウラはそれを強く感じた。市場には珍しい野菜や布などが置かれ、街には活氣がある。多くの外国人が滞在するのだろう、いくつもの言語が飛び交っていた。

「言葉が……」
辺りを見回すラウラの様子に、マックスは笑って答えた。
「面白いだろう? ルーヴラン語とセンヴリ語、それにグランドロンの言葉が混じったような話し方が聞こえて」

「この話し方は、フルーヴルーウーの方言なのですか?」
「センヴリ語のまじったようなグランドロン語はそうだね。それから、センヴリのアクセントでルーヴラン語を話しているみたいに聞こえるのが、トリネアの人たちだと思うよ」

 王城では、このような話し方をする人びとには会ったことがなかった。異なる言語はこのように移り変わっていくものなのだとわかり、ラウラは夢中になって耳を傾けた。

「待ってくれ。そんなにそちらに行かない方がいい」
ラウラは、マックスに引き留められた。市場の奥で誰かが言い争いをしているようだ。

「突然2倍などと言われましても、困ります」
見ると、僧服を着た男に、露店の男が抗議をしているようだ。
「困るというなら、今すぐ店をたたんで立ち去るがいい。この場所を借りたい者は、ほかにもいるだろうから」

「それは、ワシら全員におっしゃっているんで?」
「ああ、そうだ。大司教様からのお達しを読まなかったのか。昨日、公告したであろう」
「まさか!」

「伯爵様、いかがいたしましょうか」
ヴェルドンから着いてきた護衛の兵士がマックスに囁く。

 マックスは案内役である騎士ゴッドリーを見た。ゴッドリーは慎重に観察していたが静かに言った。
「あの男は、ベッケム大司教の右腕のボーナムです。教会前市場の場所代を取り仕切っています。ゴーシュ様が代官をなさっていた頃から、売り子たちとの直接の取引は大司教側が行っているのですが、2倍にしたなんて話は、私も初めて耳にしました」

 到着してから、ありとあらゆる書類に目を通し、裁量してきたマックスも、そんな話は聞いていない。

「行ってみよう。奥方に氣をつけてくれ」
マックスは、ヴェルドンからついてきた護衛の騎士たちにラウラに害が及ばぬように配慮しろと言った。

「何か争いごとか」
ゴッドリーが近づいて話しかけると、ボーナムと露店の男は近づいてきた一行にようやく氣がついた。
関連記事 (Category: 小説・トリネアの真珠)
  0 trackback
Category : 小説・トリネアの真珠
Tag : 小説 連載小説