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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


ようこそ。このブログでは、オリジナルの小説と、スイスにいる異邦人の日常を綴っています。
【お報せ】 今日のひと言 (from PIYO)

scriviamo! 2020の参加募集は終了しました。みなさま、ありがとうございました。
【小説まとめ読み】 - 目的別のおすすめ小説をリンクした記事
『Filigrana 金細工の心』を読む 『Usurpador 簒奪者』を読む 「Infante 323 黄金の枷」を読む 『心の黎明をめぐるあれこれ』を読む

Posted by 八少女 夕

醤油麹入りかえし

今週も食いしん坊の話です。

醤油麹とかえし、作成中

美味しい料理を作る秘訣って、腕ももちろん関係しているのですけれど、食材もとても大事な要素だと思うのですよ。でも、何をどう買うのかはポリシーやら、家計やらとの兼ね合で、いつでも最高のものが手に入るとは限りません。

たとえば私は、食肉、卵、乳性などは極力スイス産のものを買います。EU産の方が安いんですけれど、生産方法が若干動物虐待に近かったり、食の安全性が調べきれなかったりするので、とりあえずスイス産を大前提にしています。すると、とくに肉は、メチャクチャ高くなるんですよ。なので、ステーキやらフィレ肉などはめったに買えない……つまり調理方法での工夫が試されるというわけです。

もともと肉の(野菜もだけれど)味や食感は、日本の企業努力には遠く及ばないので、下処理に時間を掛けます。筋切りしたり、塩や白ワインを揉み込んで寝かせたり、というような一連の手順です。

そして、調味料の方にもけっこう手を掛けて、でも普段の調理には時間がかからないように工夫しているのです。

食材も大事だけれど、調味料の良し悪しって、料理のできにものすごく影響するので、ヨーロッパ産の調味料は可能な限りいいものを用意しています。もちろん、最高級オリーブオイルで揚げ物なんてできないので、使い分けますよ。でも、たとえばお酢などは通常は大量に使うものでもないので、汎用性がありさらにとても美味しくなるホワイトバルサミコ酢を普段使いにしています。

さて、アジア系の味付け(ヨーロッパ風の味付けの隠し味も)で不可欠なのがお醤油なのですけれど、これが問題です。ごま油は、機会があったら都会でお高いのを購入することもしますけれど、お醤油くらいよく使う調味料はそういうわけにはいきません。日本のようにワンランク上のお醤油でもそこら辺のスーパーで手に入る、もしくは通販で買えるならいいのですけれど、ここではそういうわけにはいかないのです。

で、私は、「醤油麹入りかえし」を作って対応しています。やっと本題にたどり着いた……。

「かえし」はご存じのように、「麺つゆのもと」みたいなものです。「かえし」1に対して出汁を3〜4入れると麺つゆになるそうで。で、かえしの原料となる醤油は、スイスのどこでも買えるキッコーマンのごく普通のお醤油でもいいのですけれど、私はもう少し旨味がほしいので醤油麹を混ぜているのです。

醤油麹ももちろん自分で作ります。乾燥麹を一時帰国の時に持ち帰ります。そして、1年に1度くらい仕込むのです。ひたひたになる状態で常温に置き、毎日かき混ぜながら1週間くらい経つと、とてもいい香りがしてきます。もろみのような状態になるのですが、それだと使いにくいので、私は最後にブレンダーで滑らかな半液体ペーストにして保存します。この醤油麹を、かえしづくりで利用するのですね。

かえしを作るには、本来は日本酒やみりんが必要なのですけれど、醤油、白ワイン、砂糖、メープルシロップを混ぜて作ることができます。醤油130cc、醤油麹70cc、白ワイン100cc、メープルシロップ大さじ2、砂糖(私はきび砂糖)大さじ1を中火くらいで熱し、沸騰寸前で止め、瓶に詰めます。上の写真のメープルシロップの空き瓶にちょうどおさまる量になります。埃や虫が入らないようにお茶パックなどでカバーして、1週間くらい寝かせます。それで出来上がり。その後は、普通に蓋をして冷蔵します。

かえしも、醤油麹も、日本だと作成中の腐敗に氣をつけなくてはならないので冷蔵庫で作るもののようですが、私はよくチェックをしながら涼しい時期に常温で作成します。

基本的にレシピに「醤油」だけがあるときも、「醤油とみりん」とあるときも、このかえしで代用します。その他、肉を焼いて、バターとかえしで味付けしても美味しいし、たとえばブラウンソースなどの旨味を増すのにも使います。醤油だけだと、少し塩けが尖っているのですけれど、このかえしだととてもまろやかな味わいになるのです。

写真は、同時に作っていますが、最後の醤油麹をかえし作成で使ったので、同時に醤油麹を仕込んでいる状態で、ふだんは醤油麹が切れたら、それだけ作るんです。
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Category : 美味しい話

Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』-1-

『Filigrana 金細工の心』の5回目です。

まだ「(2)悪夢」で始まったライサの回想シーン、まだ続いています。最初の構想では、このライサの回想は、もっと後に出すつもりだったのですが、むしろこの方が事情がはっきりするのと、前作とのつながりが強いのでこうなりました。長いので切ったんですけれど、サブタイトルの曲、モーツァルトの『グラン・パルティータ』は、まだ出てきませんね。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』 -1-

 1ヶ月ほどの間に、彼女は、ドアを離れて彼が奨めるソファに座ることができるようになった。食事の時にも、怯えてカトラリーを取り落とすこともなくなった。彼は彼女が1つひとつの段階を経ていくのに満足し、まずは皮肉に満ちた微笑を、それから少しずつ優しい笑顔を見せるようになった。その表情の変化は、ライサの彼に対する忠誠と思慕に拍車をかけた。

 逃げ惑いながら、ピアノの音を目指して走る目覚め以外に、まるで夢を見ていなかったかのように心地よく目覚めることもあった。そんな時でも、音色は常に彼女を光に導いてくれた。彼は、朝食前には練習中の曲ではなく完成し弾き慣れた曲だけを演奏する習慣があった。数日前に耳にして、彼女が特に好きだと口にした曲を、改めて弾いてくれることもあった。

 そんな時に、彼女は急いで起き上がり、シンチアたちの助けを借りずに洗面所へ向かい、急いで身支度をした。朝食の席に行き、彼とドンナ・アントニアのいる、明るい窓辺の席に座ることを思うと心が躍るのだ。

 まだ、うまく自分を表現することができず、俯きがちながらも、ライサの表情から怯えや恐怖が薄れ、信頼と安堵が戻ってきていることをアントニアは喜んだ。彼女は、ライサを刺激しないように、『ドラガォンの館』の話は一切しなかった。聞きたくない男のこと、思い出させるあの場所のことを、ライサは聞かずに済んだ。

 過去にあったすべてと、ライサは切り離されていた。それ以外の人生などなかったかのように、『ボアヴィスタ通りの館』の暮らしだけが、彼女を包んでいた。

 アントニアは、朝食が終わるとどこかに行くことが多かった。そんな時は、彼女は快活に言った。
「また後で会いましょう、ライサ」

 同じ言葉と笑顔が、彼女を安心させた。午前中は、シンチアやルシアの仕事を見ながら過ごしたり、アントニアが用意してくれた本などを読んで過ごすことが多かった。アントニアが戻らないときは、彼と2人で昼食を取る。彼は口数が少なく、アントニアのようにライサの答えやすい話題を振るような努力はしなかった。けれど、ワインの好みを訊いたり、アントニアの渡した本の内容に触れたり、ごく自然に会話をするようになった。

「メウ・セニョール。今朝の曲について教えてくださいませんか」
ライサの問いに、彼はわずかに笑って答えた。
「あれはモーツァルトだよ。ピアノソナタ ハ長調K545 だ。おそらくクラッシック音楽に全く興味がなくても1度はどこかできいたことがあるだろうな」

 その通りで、コンサートなどに行ったことがないライサでも、珍しくよく知っている曲だった。
「K545って、何を表す番号ですか?」

「ああ、ケッヘル番号といってね。モーツァルトの作品を、作曲された順に整理してつけた認識番号だ。19世紀のオーストリア生まれの音楽学者ケッヘルが作品の散逸を防ぐために整理したんだ。当時は、作曲者が自分で通し番号をつけるという概念そのものがなくてね。寡作な作曲者なら演奏記録などで後からでも調べられるだろうが、モーツァルトは多作だったから、後少しでも遅ければ、目録作りは不可能だったろうね」

「じゃあ、あの曲は545曲目なんですね」
「いや、そうではないだろうな。後の研究によってケッヘル番号は何度か改訂されていてね。たとえば最初のK1とした作品の前に後ほど4曲ほどみつかったので、K1a,、K1b、という具合に補助アルファベットをつけて表示することになった。それに、後から偽作だったことが分かった曲もみつかったので、ケッヘル番号だけで何曲目と判断することは難しいだろうな」

 それから、口の端だけで微かに笑うと言った。
「同じことを訊くんだな」

「え?」
ライサは、彼がどこか遠くを見るような目つきをしていることに氣がついた。だが、それは一瞬のことで、すぐに彼はそばに控えているモラエスに合図をした。

「はい。メウ・セニョール」
「今日のコーヒーは、サロンの方に運んでくれ」
「かしこまりました。デザートもそちらにお持ちしますか」
「いや。それはここでいい」

 モラエスは、ルシアに合図をし、彼女は2つのナタス・ド・セウを運んできた。
「ええと、確かこちらが……」
そういいながら、自信なさげにルシアは1つのグラスをライサの前に置いた。もう1つのグラスを前に、彼はルシアにいつものように礼を言った。同じデザートなのに、なぜルシアはあんなことを言ったのだろう。ライサは不思議に思った。

 ひと口スプーンを口に入れて、ライサは驚いた。この館で出されるデザートはいつもとても美味しいのだが、今日のデザートは衝撃的に甘かった。砂糖の量を間違えたのかと思うほどだ。思わず、彼の方を見ると、若干不思議そうにグラスを眺めていたが、何も言わずにそのままデザートを食べていた。

 ライサは、ルシアが置くべきデザートをとり違えたのだと思った。おそらく彼が食べるデザートだけが、通常のものより甘いのだ。彼女は、なんとか最後までそのデザートを食べ終えた。普段よりもずっとコーヒーが恋しかった。

「サロンに来なさい。コーヒーを飲みながら、モーツァルトを聴こう」
彼は立ち上がった。ライサは、コーヒーと聞いて迷わずそれに従った。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

Apple Watch6が発売された

記事の前に、お知らせです。『バッカスからの招待状 ナイト・スカイ・フィズ』を、『さとる文庫』のもぐらさんが朗読してくださいました。ありがとうございました!
もぐらさんのサイト 第546回 バッカスからの招待状 ナイト・スカイ・フィズ



どのくらい話題になっているのか今ひとつわからないのですけれど、今年の秋のAppleイベントが9月16日に開催されたようです。実は、全然チェックしていなかったのですけれど。で、メールで氣がついたのですが、Apple Watchが目玉だったようです。

Apple Watch
この写真はApple Watchシリーズ5です

去年はApple Watchを買うつもり満々で、古いシリーズを買うか新しいのを買うか、秋のイベントをみて決めるつもりだったのに対し、今年はもう日程すらも追っていなかったのですね。もう買っちゃったので。で、Appleからのメールで氣がつきました。

で、今年のイベントの動画も見てきました。ええ、ちょっとだけぐらっときましたよ、Apple Watchシリーズ6に。

私が去年の9月購入したのは、発表直後のApple Watchシリーズ5です。購入を決定した直接の動機は心拍数の測定です。両親とも心臓の病で突然死したこともあり、不規則な心拍の通知してくれる機能に興味を持ったのですね。それに生活習慣をこのデバイスで管理したいという思いもありました。現実に、今となってはこれなしでの生活が考えられないほど便利に日々使っています。アクティビティ管理やアラーム、メッセージ受信、運転中の電話受信、それに買い物リストなど、ものすごく便利なのですよ。

で、今年発表されたシリーズ6の目玉は「SpO2(血中酸素濃度)センサー搭載」なのですよ。確かにあったらいいなと思う機能ですが、個人的に絶対に必要だと思って買ったシリーズ5ほどの必要性はないかなと。もちろん出費と相談しての判断ですけれど。それに、来年の初夏に新しいiPhone SEを入手しようかなと思っていて(現在は初代のSEを使っている)、デバイス関係の出費はしばらくは抑えたいのです。こういうのって、お金がいくらあっても足りませんから。

シリーズ1をまだ現役で使っていらっしゃる人もいると聞いています。人によっては、それでも問題ないくらいさまざまな使い方のできるデバイスで、私は現在のシリーズ5には大満足しています。買い換えるとしたら、少なくともあと2年くらいは使ってからでしょうかね。

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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(4)時間

『Filigrana 金細工の心』の4回目です。

まだ「(2)悪夢」で始まったライサの回想シーンが続いています。前回の更新へいただいたコメントで氣がついたのですが、このストーリー時間軸がやたらと前後するので混乱しますよね。これは、前作『Infante 323 黄金の枷 』でマイアが《ドラガォンの館》にやってくるよりもわずかに前くらいの時点です。妹マリアは1年近く連絡の取れないライサを心配し、代わりにマイアが勤めて素人探偵をしようとしたのが、あの話の導入でした。こんなことになっていたというわけです。



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あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(4)時間

 理性と心は、同じ車につけられた両輪であったが、時にちぐはぐな動きをする。彼女を悪夢から救い出す、光であり命綱である響きを生み出す、彼女にとっては神からの使いにも等しい存在である人は、彼女の悪夢の源に似た姿形を持っていた。彼女は響きに近づきたかったが、全身がそれを拒んだ。すらりとした長身、明るい茶色の髪、森の奥の泉を思わせる青い瞳を、ライサは心底怖れた。

 彼は、容姿が似ているだけで、24とは明らかに違う人間だった。ずっと歳をとっていることだけではなかった。24のように自らの容姿のことに頓着しなかった。品のいいものを身につけていたが、最新流行の服を無制限に買わせることはなかったし、鏡の前で長時間過ごすこともなかった。芝居がかった動きも見せなかったし、何が言いたいのかさっぱりわからぬ詩を延々と朗読することもなかった。

 ムラのある性格の24と違って、几帳面で毎日のスケジュールは機械仕掛けのように正確だった。ライサは彼のピアノかヴァイオリンの響きで目を覚ました。朝食の後、彼は作業室と呼ばれる南の部屋で民芸品『バルセロスの雄鶏』に彩色する。昼食後は、音楽を聴くか、読書をするか、もしくはピアノかヴァイオリンを練習していた。

 24のように、甘い言葉で話しかけてくることもなかった。それどころか、ライサに近づこうともしなかった。初めて彼の姿を見た、あの深夜の翌朝、アントニアが彼女の手をとって、はじめて朝食の席に伴ったその時だけ、彼は大きな感情の変化を見せた。息を飲み、それからわずかに震えたように思った。けれど、それから彼は、大きく息をしてから何でもなかったかのように押し黙り、食事に集中した。

 近づこうとしたのは、ライサの方だった。アントニアが外出し、使用人たちも忙しく側にいない時、居間から聴こえてくるピアノの音色に惹かれて、何度も階段を降りた。それから、半分開かれているドアにもたれて、音色に耳を傾けた。音色は心に染み入ってきた。皮膚を通して、彼女の中へと入り込み、内側から光で満たした。彼女の中に巣食う穢れてただれた赤黒い細胞は、その光を注がれて透き通っていった。

 彼女は、ここにいて、この音に満たされていれば安心なのだと感じた。生まれたばかりの雛が、最初に目にした存在を親と信じて無条件についていくように、ライサの心は、光を求めて彼の奏でる音色を追った。その音に導かれてライサは目覚め、午後は希望に満ちて空を飛び、そして夕べの憩いを得た。

 それなのに、食事のたびに、彼の前に出ると身がすくむようだった。彼女を苦しめた男とは明らかに違う人なのに、その姿を見ると体中が凍り付く。青い瞳が向けられると、手が震えてカトラリーを何度も取り落とした。

「心配しないで。あなたは、こちらに戻ってきつつあるのよ」
アントニアが、そんなライサに優しく言った。

「あなたは、叔父さまのことを怖れないようになるわ。もう頭では理解しているでしょう、叔父さまは信用のできる素晴らしい人だと。あなたの意志とは無関係に反応してしまう体が、あなたのその考えに同意できるようになるまで、もう少しかかるかもしれない。でも、きっと時間の問題よ。あなたもそう思うでしょう?」

「ミニャ・セニョーラ。セニョールは、私の態度を不快に思っていらっしゃるんじゃないでしょうか。私、別室で食事しても……」
「だめよ。ライサ。これは、あなたの治療の一環なの。あなたを夢の世界に戻すわけには行かないの。わかるでしょう。叔父さまにはちゃんと伝えてあるから大丈夫よ」

 ライサは混乱していた。彼女にとって何よりも大切な存在、彼女の安全を約束してくれるその人には、どうしても嫌われたくなかった。不快にもさせたくなかった。尊敬し、感謝していることを伝えたかった。けれど、恐怖はいまだに彼女を支配していて、悪夢もまだ彼女を襲い続けていた。彼女が1度は愛し、共に幸せになれると信じた男が、豹変して彼女を襲った時の、それから、幾度となく恐怖に悶えて助けを求め続けた苦しみは彼女を縛り続けていた。

 彼女は、居間に続くドアにもたれかかり、ピアノの音色に耳を傾けながら、もっとこの音に近づきたいという強い願いと、恐ろしい悪魔の側からすぐにでも逃げだしたい衝動に引き裂かれながら震えていた。

 ゆっくりと両手を止めて、最後の和音の響きが消えるまでたっぷり5秒は使った後で、彼ははじめてライサに話しかけた。
「聴きたいのならば、入ってきなさい」

 その声は、不思議な力に満ちていた。美辞麗句を重ねに重ねた、24の空虚な言葉遣いと違い、装飾も何もないまっすぐな言葉だった。そして、それは命令形だった。ライサは『セニョール』の、彼女の主人であるインファンテの権能ある言葉に、逆らうことはできなかった。震えながらドアを押して中に入り、背を向けたドアにへばりつくように立って、彼を見た。

 青い瞳が、静かに怯えているライサを捉えた。彼はため息を1つつくと、鍵盤に目を戻し、ゆっくりとショパンを弾いた。

 それが、何度も繰り返されるうちに、彼女は、居間に入っていけるようになった。ライサの体を支配している頑固な恐怖もまた、この居間で音楽を奏でる男は、近づいても来なければ、彼女に危害を加えたりもしないことを渋々と認めて、彼女を自由にしだした。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

嫌われものの花


イヌサフラン

この花をご存じでしょうか。サフランやクロッカスに似ていますが、全く別の花で、和名をイヌサフランといいます。ドイツ語では、Herbstzeitlose(「秋に咲く季節はずれの花」という意味)というのです。クロッカスやサフランは春を告げる花なのに、こちらは秋に咲くからですね。

で、この花、2つの意味でめちゃくちゃ嫌われています。1つには猛毒の花なのです。なのですが、球根がニンニクやベオラウフという春の山菜に似ているので、たまに事故が起こるのです。また、家庭にうっかり植えたりすると、イヌが食べて死んでしまったりするそうです。そういえば、この草を題材に掌編を書きましたっけ。あ、その小説でも誰も殺していませんよ。

そして、もう1つの嫌われる理由、こちらの方が私たちには深刻なのですけれど、この花が咲いたら非可逆的に秋なのです。つまり、スイスの夏って、8月くらいに雪が降ったり、ちょっと涼しくても、またすぐに夏が戻ってきたりするのですが、この花が咲いてしまったら、いくらどんなに抵抗しても夏はおしまい、あとは長い冬に向かっていくだけ……という宣告みたいな花なのです。そりゃ嫌われるわ。

で、今年はもう3週間くらい前に咲き出してしまって、かなりがっかりです。まあ、もう9月なので文句言うほど早くはないのですが。
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Posted by 八少女 夕

とりあえず末代 2 馬とおじさん

今日は「123456Hit 記念掌編」の第4弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、limeさんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: ときめき
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: 誰か
   コラボ希望キャラクター: limeさんのオリキャラ
   時代: 現代
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 馬


limeさんのところには魅力的なオリキャラがたくさんいるのですけれど、迷ったあげくにこちらの作品から(よりにもよってその人を!)お借りすることにしました。この方、大好きなんですもの。
 『凍える星』おまけ漫画『NAGI』−『寒い夜だから』

で、私の方のキャラも、limeさんにご縁のある子たちを連れてきました。「scriviamo! 2018」で、limeさんのお題から生み出した「とりあえず末代」という作品から中学生悠斗と猫又の《雪のお方》です。



とりあえず末代 2 馬とおじさん

『リュックにゃんこ』 by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。


 この夏休み、僕の最大のイベントは、もちろんはじめての大阪ひとり旅だ。ひとり旅……のつもりだったけれど、例によってお目付役が同行している。静岡の従姉を訪ねるのと違って、頼れる人もいないところに行くのだから心配なのは分かるけれど、クラスメートたちの中には、ひとりで飛行機に乗った子だっているのにな。ともあれ、猫又は人じゃないし、ひとり旅だということにしておこう。

 僕は、伊藤悠斗。旧家というほどではないけれど、少なくとも元禄時代から続いている伊藤家の長男だ。家系図もないのになぜそんなことが分かるかというと、伊藤家の跡取りには猫又が取り憑いているからだ。

 一見、白い仔猫にみえる《雪のお方》は、元禄の初めにご先祖の伊勢屋で飼われていたそうだ。20歳まで生きて無事に猫又になったんだけれど、跡取り長吉に祝言をあげるという口約束を反故にされて、怒りのあまり「末代まで取り憑いてやる」って誓いを立てちゃったんだって。で、僕は当面、伊藤家の末代なので《雪のお方》にロックオンされているってわけ。

「妾はそろそろお役御免になりたいのじゃが、伊藤家断絶まではなんともならぬ」
そういいながら、僕たちが絶対に切らさないように用意させられているイタリア産の最高級エクストラ・ヴァージン・オリーブオイルをなめるのだ。

 僕が大阪に行くことになったきっかけはこうだ。夏休みの宿題の1つに「したことのない戸外活動」がある。アルバイトやボランティア、それに旅行などをして、その経験をリポートするのだ。「ひとり旅」そのものは、もうやってしまっていたので、何かいい夏休み限定の経験がないかなとインターネットで探していたら、目に入ってきたのが乗馬スクールを運営しているとある財団のサイトだった。体験乗馬プランというのがあって、覗いてみたら「1日1名さま限定、体験乗馬ご招待」と書いてある。当たると思わずに申し込んだのだけれど、まんまと当選してしまったというわけ。

 事後報告で父さんと母さんに、大阪行きを懇願したら、許可して旅費を出してくれる条件として、《雪のお方》に監督してもらうことと言い渡されてしまった。僕も《雪のお方》との旅行は好きだからいいけれど。

「そろそろ着くかな」
僕は、車窓を見た。東海道新幹線のぞみ号にひとりで乗っているのって、まるで夢みたいだ。残念なのは、あっという間だったこと。だって、《雪のお方》が周りの人の注目を集めすぎて、話しかけられてばかりいたんだもの。

 新横浜で新幹線に乗り込んで以来、《雪のお方》ったら、しょっちゅう駅弁の箱に前足をかけて、指示をする。

 自宅だったら「その唐揚げを妾が毒味して進ぜよう」とかはっきりと口にするんだけれど、今は仔猫のフリをしているので「みゃーみゃー」とかわいらしくいうだけだ。
「えっと、この佃煮? 卵焼き? それとも、唐揚げ?」
なんて質問を、僕が反応を確かめつつしていると、隣や前後の人が満面の笑みで話しかけてくる。
「まあ、かわいい猫ちゃんねえ」

 その人たちからちゃっかり魚やシウマイをせしめた上に、名古屋で入れ替わった隣の人からは、天むすと松阪牛まで手に入れた《雪のお方》の人誑しっぷりには感心する。おかげで、僕、越すに越されぬ大井川も、うなぎの浜名湖も、木曽義仲ゆかりの木曽川も、ついうっかり見そびれちゃったじゃないか。

 もうじき着くと分かったのはその2人目のお隣さんが慌ただしく支度をして降りていったからだ。
「おお、あっという間に着いたね。じゃあね、悠斗くんと雪ちゃん」

 人好きのするおじさんで、まん丸の顔にちょんとついた鼻がちょっぴり赤い。僕が、今回のひとり旅についてする説明をずっと優しく聞いてくれた。体験コースのパンフレットを見せたら、どうやって行けば新大阪駅から馬場に楽にたどり着けるかの説明までしてくれた。

 おじさんの去った駅の表示板を見ると、なんと京都だった。ええっ! 僕まだお弁当食べ終えていないのに。そのお弁当は、すっかりベジタリアンモードになっていた。《雪のお方》が動物系タンパク質をことごとく食べてしまったからだ。ねえ、猫又は何も食べなくてもいいって、普段は油しかなめないのに、なんで? 首を傾げながら、食べ終えると、降りるために荷物をまとめた。

 泊まるホテルは、新大阪駅のすぐそば。父さんがいうには、大阪の中心の梅田は迷路みたいになっていて絶対に迷うから、子供が荷物を持ってウロウロするのは無理らしい。それに、明日の体験乗馬をさせてくれる馬場は豊中市にあって、梅田とは反対側なんだって。僕は、わりとすぐにホテルにたどり着きチェックインをした。荷物を置いたらすぐに遊びに行きたい。

「明日の準備をしてから遊びに行く方がいいのではないか」
《雪のお方》は、荷物を置いてすぐに出ようとした僕に釘を刺した。
「大丈夫だよ。手袋はこのリュックに入っているし、後は何もいらないもの。それよりも早く行かないと暗くなっちゃうよ」
両親との約束で、出歩くのは日暮れまでと決まっているのだ。

 《雪のお方》は慣れたものでリュックの外側のポケットに自分からおさまった。僕はカードキーをポケットにしまい、颯爽と市内に向かう。大阪メトロ御堂筋線。大変って言うけれど、普通に乗れるじゃん。僕は余裕で新大阪駅を後にした。

 梅田には5分くらいでついた。道頓堀に行きたいのだからなんばに直接行けばいいのだけれど、スマホのケーブルを買いたくて家電量販店が駅前にあるという梅田で途中下車したのだ。持ってきたケーブルは、新幹線の中で《雪のお方》のお方がじゃれついて傷つけてしまった。

 どの改札から出ればいいのかわからなかったけれど、とにかく一番近いところを出たら、『ホワイティうめだ』というところに行き着いた。家電量販店の場所を訊いたら「ここからだと難しいねぇ。北出口から出ればよかったのに」と言われてしまった。いったん百貨店を経由手して大阪駅にでて、連絡橋口というのを目指すのがいいかもしれないとアドバイスを受けた。

 それにしても、商店街には美味しそうな店がたくさん並んでいる。駅弁を食べ終えたばかりだから我慢しようと思ったら、《雪のお方》が「みゃーみゃー」と騒ぎ出した。やっぱり食べたいのか。無視して百貨店の中に入った。

 なんだかメチャクチャいい匂いがしてきたと思ったら、あの『552』ってナンバーのついているお店だった。新幹線で持ち帰るのは難しそうだし、ホテルに持ち込むには勇気のいる匂いだし、食べたくてもずっと我慢していたのだ。ところが、そこは販売しているだけでなくイートインコーナーまである。そういうわけで、《雪のお方》だけでなく僕も我慢ができなくなってしまった。

 晩ご飯は、ここに決定だ。焼きそばに、豚まんとしゅうまいをつけて食べることにする。あれ、《雪のお方》は、昼もシウマイ食べたっけ、まあ、いいか。猫がカウンターでさらに手を伸ばしていたら、もちろん注目の的になる。

「おや、猫ちゃんかいな」
飲食店にペットを連れ込んじゃだめって怒られるかな。そう身構えたけれど、お店のお兄さんは、笑って言った。
「ほんまはアカンのやけど、カワイイ猫は正義っていうしな。見なかったことにするわ」
《雪のお方》は小さな声で「なかなか見どころのある若人じゃ」と呟いた。

 そんな風に寄り道をしていたので、家電量販店に行くべく連絡橋に出たら、なんともう暮れかかっていた。しまった。約束の夕暮れになってしまったので、道頓堀に行くのは無理だ。夕ご飯も食べちゃったから、いいけれど。結局、ケーブルだけを購入してすごすごとホテルに戻ることになった。

 そして、朝が来た。スマホに保存しておいた地図を頼りに、昨日乗った御堂筋線を反対方向にちゃんと乗り、僕は体験乗馬に間に合うように馬場にたどり着いた。

 入園の窓口で名前を言うと、お姉さんがこう言った。
「はい。では、お送りした確認書をお願いします」
ああ、そうだった。それは、チラシと一緒にリュックのこのポケットに入れたはず……あれ?

 昨日、新幹線の中でも見たし、絶対にあるはずなのに、どうしてないんだろう。まさか、ホテルに置いてきたってこと? でも、スーツケースに移したりしていないのに、どうして?

「明日の準備をした方がいいのではと、言ったであろう」
そう言いたげな目で、《雪のお方》はじっと見つめ、係員の女の人も怪訝な顔で見つめている。僕は真っ赤になって、リュックの中身を1つ1つ取り出しながら確認書を探した。

「ああ、いた、いた。伊藤悠斗くん!」
後ろから、声がして僕たちは全員そちらを見た。

 そこにいたのは、昨日、京都で降りていったまん丸顔のおじさんだ。あれ、なんでここに?

 おじさんは、白いハンカチで額をふくと、背広の内ポケットから、4つに折りたたんだ白い紙を取りだして、僕に渡した。
「これが、昨日持っていた紙袋に入っていたんだ。きっと、ここのチラシを見せてくれたときにでも落ちて紛れちゃったんじゃないかな」

 それは、いま必死で探していた『体験乗馬ご招待当選確認書』だった。そういえば、このおじさんと話したり、チラシを見せたり、《雪のお方》が唐揚げに手を出しているのを止めたり、あれこれ同時にやっていたような。
「ありがとうございます。届けに、わざわざここまで来てくれたんですか?!」

 おじさんは、にこにこ笑いながら頷いた。
「昨日のうちに届けに行けたらよかったんだけれど、京都から帰ったのが遅くてね。それも、ちょっと部長に誘われて飲んでから帰ったもんだから、入っていたこと知らないまま寝ちゃったらしい。母さん……いや、うちの奥さんが名古屋みやげの袋に入っていた、これ今日だけれど大丈夫なのかって、見せてくれたのでびっくりして持ってきたんだ。どっちにしても今日は午後からの出勤だし」

「わあ、ありがとうございます。僕、もうちょっとで体験乗馬できなくなるところでした」
「時間もあるし、せっかくだから、迷惑でなかったら、悠斗くんと雪ちゃんの乗馬、見ていこうかな」
おじさんは、にこにこして売り場でお財布を取り出した。やり取りを見ていた売り場のお姉さんは手を振った。
「あ、保護者等の方、1名までは見学無料なので、そのままどうぞ」

 おじさんと一緒に園内に入ると、早速貸してくれる装具を合わせるところに連れて行かれた。ヘルメット、ブーツ、それにエアバッグベストを身につけて、これから乗馬するんだって氣分が盛り上がってくる。僕のリュックと《雪のお方》は、おじさんが一緒にベンチで見ていてくれることに。そういえば、《雪のお方》をどうするか考えないでここまで来ちゃった。

 それから馬にご対面。
「今日、悠斗くんが乗るのは、アキノコスモス号です。あいさつしてください」

 茶色い馬はとても優しい目をしている。馬が突然お辞儀をしたので僕も深くお辞儀をした。そうしたら、歯を出してはっきりと笑った。それから鼻先を前方に出してきて、あっという間に僕の鼻にタッチしてしまった。
「あらあら、ご機嫌ね。いきなり首やお腹を触ったりすると、嫌がられるので、まずはゆっくり手の甲でさっき触れた鼻先を撫でてみて」
 
 僕は、しばらくアキノコスモス号を撫でて、それから助けてもらって背中に乗せてもらった。わ、高い! アキノコスモス号は急に頭を低く下げた。見ると目の前に《雪のお方》が来ている。
「え。来ちゃったの!」

 《雪のお方》はすまして、小さな声で「みゃー」と馬に話しかけた。馬はすっと頭をもっと低く下げ、その瞬間に《雪のお方》は馬の頭に飛び乗った。係員のお姉さんはびっくりして「まあ」と言った。そして、結局《雪のお方》ったら、僕の体験レッスンの間中、ずっとそこに居続けたんだ。

 レッスンは楽しくてあっという間だった。係員のお姉さんがついていてくれてだけれど、僕はアキノコスモス号と一緒に歩いたり、停まったりできるようになった。それどころか、ベンチのおじさんに手を振る余裕もできた。

 昼前にレッスンが終わり、降りておじさんのところに向かうと、おじさんはニコニコ笑って僕のスマートフォンで撮ってくれた写真をあれこれ見せた。
「この写真、おじさんももらってもいいかな。悠斗くんも、雪ちゃんも、馬さんもみなこっちを向いていてかわいいんだ。母さんに見せたいし」
「もちろん。おじさん、LINEかメール教えてくれる?」

 おじさんは、LINEのアドレス交換のやり方を知らなかったけれど、アプリは入っていた(奥さんからのメッセージだけがたくさん入っていた)ので、奥さん以外で初めてのLINE友達になり、写真を送った。ついでにおじさんが《雪のお方》を抱っこしているところの写真も撮って送ってみた。

「やあ、うれしいね。これね、おじさんの初めてのスマホなんだ。せっかくだから、いい写真でいっぱいにしたくてね。魂の非常食のつもりで」
「なんですか、それ?」

 おじさんは、はっとして、それから恥ずかしそうに頭をかいた。
「そうだよね、わけがわからないよね。請け売りなんだ。母さんは、よく宝塚歌劇団に行くんだけれど、『贔屓に逢うトキメキは、魂のご飯』っていって、贔屓の写真をたくさんスマホに保存しているんだ。で、魂の非常食っていって見せてくれるんだ」

 へ、へえ……。
「そういうものなのかなって思ってたけれど、昨日、悠斗くんに雪ちゃんと遊ばせてもらったら、そのことがようやくわかったよ。ちょっとの時間だったけれど、疲れも取れてすっかり癒やされてね」

 その後、おじさんと一緒にお昼ご飯を食べることになった。昨夜は何を食べたのかという話になったので、『552』のイートインコーナーの話をしたら、嬉しそうに目を細めた。
「それはいいところを見つけたね。その場で食べられる店はほとんどないんだ。おじさんは、いつも持ち帰りだな」

 翌日、僕はおじさんに教えてもらった『552』のチルドパックをお土産に買って、帰りの新幹線に乗り込んだ。

「それでは、帰路に食せないではないか」
《雪のお方》は少し不満げだけれど、おじさんが教えてくれたように、ホカホカのヤツを持ち込むと、車両いっぱいに匂いが広がってめっちゃ恥ずかしかったはず。それに、家に帰ったら冷め切っちゃうだろうし。

 僕は、車窓を流れて後ろに去って行く関西地方を見ながら、おじさんの言っていたことを考えた。『贔屓に逢うトキメキは、魂のご飯』かあ。アキノコスモス号の優しい茶色い目を思い出す。うん。あれもトキメキだな。学校や塾の勉強や、将来のこと、それに日々のあれこれを考えるとため息が出ちゃうこともあるけれど、あの茶色い瞳や背中で感じた爽やかな風を思い出すと、2年間くらい頑張れそうな氣がする。それに……どのクラスメートの家にだって、猫又が住んでいて話を聞いてくれるなんてことはないんだ。それを思うと、《雪のお方》がいてくれるのも、きっと僕には絶大な魂のご飯だよなあ。

「少しはわかったか」
《雪のお方》ったら、エスパーかよ!

「あのおじさんも、僕たちのレッスン見ていて癒やされたって言っていたよね。ストレスたまっているのかなあ」
「どうじゃろうな。贔屓にしょっちゅう逢っているのだから、魂は腹一杯なのではあるまいか」
僕は、《雪のお方》が何のことを言っているのかわからない。

「奥方のことを話すときに、もともと細い目がなくなるほどに目尻を下げていたではないか。あれは、昨日も『552』を手土産に買って帰ったに相違ない」

 そうか。そういうことか。僕も、いつか魂のご飯っていうくらい大事な奥さんに会えるのかなあ。そう考えていると、《雪のお方》は少しだけ嫌な顔をした。
「お前、またいずれ結婚をしようなどど考えておるな。腰を据えて伊藤家の末代になろうという考えはないのか、まったく」

(初出:2020年9月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

焼きそばを食べる

今日は(も)食いしん坊の話題です。

焼きそば

スイスでも日清の乾麺は普通に買えるのです。ただ、ソース類の味が日本のと違うんですよね。おそらくこちらの人の味覚に合わせてあるんでしょうけれど、私にとっては「コレジャナイ」味なのです。

それで、ソース類はいつも却下して、自分で味付けをします。オタフクの焼きそばソース、醤油麹、ときどきはオイスターソースも入れるかな。それに青のりを加えると、食べたかった味になります。

どちらにしても添付のソースは使わないので、焼きそば用とラーメン用で別の麺は買わないのですが、あれって何か違いがあるんでしょうか? 
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Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ(9)楔と鎧

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の9作目です。

第9曲は『Hayom Kadosh』使われている言語はヘブライ語です。


『心の黎明をめぐるあれこれ』を読む
『心の黎明をめぐるあれこれ』を始めから読む




心の黎明をめぐるあれこれ
(9)楔と鎧
 related to 'Hayom Kadosh'


 さて、第9曲は、ヘブライ語、つまりユダヤ民族の言葉で歌われる。

今日はあなたの神である主にとって聖なる日
嘆き悲しんだり泣いたりしてはならない。
静かにしなさい。この日は神聖だから、
憂えてはならない。


 歴史を振り返ると、ユダヤ人と迫害は、切っても切り離せない。第2次世界大戦時に、ナチス・ドイツの行った大虐殺は有名だが、その前にも多くの人々が犠牲になった。

 国土と民族がほぼ一致している日本人にはなかなかわかりにくいのだが、「ユダヤ人」というのは「とある言葉を話し、形質的な特徴を持つ人」や「イスラエルのパスポートを持っている人」のことではない。しかし、たとえば「仏教徒」でイメージされるような「特定の宗教を信じている人」のくくりでもない。つまり「イスラエルのパスポートも持っていなければ、ユダヤ教も(あまり)信じていないし、見かけもゲルマン系」というようなユダヤ人もいるのだ。

 その中に、国籍はどうあれ、きっちりと戒律を守り、全身黒い衣服と帽子、もみあげの所にカールした髪を垂らしている「正統派ユダヤ人」と呼ばれる人たちがいる。服装だけでなく、暮らし方、生き方のすべてにおいて律法にしたがって生きる人たちだ。

 世界中に散らばる、DNAも生き方も全く異なる人びとを「ユダヤ人」の4文字で片付けるのは難しい。そもそも私は、ユダヤ教のことを、よく理解できていないので、たくさん語れる立場にはない。だから、この文で語ることはすべて私見である。

 ヨーロッパにおいて、長い歴史の中で特定の文化背景を持つ人たちが嫌われて迫害を受けてきたことについては、決して許されることではないと、昔から思っていたし、今でもそれは変わらない。その一方で、なぜ彼らがその憂き目に遭ったのかについては、日本にいたときよりは理解できるようになった。

 もちろん「冷血漢の高利貸し、選民思想に凝り固まり、キリスト教徒に害をなす」ユダヤ人像は極端なレッテル貼りにすぎない。高利かどうかは別として、銀行業を営むユダヤ人がいたのは事実だ。中世ヨーロッパではキリスト教徒は利息をつけてお金を貸すことが禁じられていたのだが、銀行は必要だったので、キリスト教徒に対する銀行業を禁じられていなかったユダヤ人が従事したのだ。

 単純に、彼らは目立ったのだと思う。ヨーロッパでは何度も民族移動が起こり、民族は交雑していった。その中でユダヤ教を信じる人々は律法遵守の姿勢とその選民思想ゆえに、頑なに交雑を避けアイデンティティを守り続けた。だから、国土がなくても彼らは消えないまま残ったのだ。

 その中で、現代社会においても独特の行動をする人たちがいる。ある種の社会マナーを無視し、自分たちの中にある規範(もしくは思想)を優先して我を通すタイプの人たちだ。皆が辛抱強く並んでいる列に割り込む。ゴミを散らかす。札束をひけらかして多くの人が買いたいものを買い占める。弱い立場の人を怒鳴りつける。その国の法律で用意できない物を要求し断るとレイシストだと大騒ぎする。

 そうした人たちは、全体の(いや、正統派に限っても)ユダヤ人の中では多数派とは言えないのだが、それが目立つためにまた「ユダヤ人」が嫌われてしまう。さらにいえば、同じ国土の中にいる異教徒にかつて歴史で起きた迫害にも負けないような攻撃をしてしまうところも、「だからあいつらはロクでもないんだ」と、差別主義者に言わせる口実になってしまう。

 日本でも、ネトウヨといわれる人たちや、モンスタークレーマーといわれる困った存在がいる。私だってそういう人たちは好きではない。彼らのせいで「だから日本人は全滅させてもいい」と判断されて殺されることには納得がいかない。ユダヤ人差別も同じだと思う。

 さて、欧米では今でも独特の立場にいるユダヤ人だが、今回の歌詞で使われたのは旧約聖書のネヘミヤ記からの引用だ。紀元前586年に新バビロニアに破れ、ユダ王国のユダヤ人たちはバビロンに移される。その後紀元前539年、アケメネス朝ペルシャによって新バビロニアが滅ぼされ、捕囚民はエルサレムへの帰還が許される。しかし、独立国としてではなく属州の住民としてである。ネヘミヤ記には、総督として派遣されたユダヤ人であるネヘミヤが、神殿を修復すると同時に、宗教上や社会上の改革に努めたことが記されている。

 この時の改革で厳しく決められたことの中でとても重要なのが、安息日の厳格な決まりと異教徒との結婚の禁止だ。

 ネヘミヤ記では、今回の歌詞とされた言葉がほぼ同じ形で3回繰り返される。なぜ民が泣いているのかというと「すべての民が律法の言葉を聞いて泣いたからである(ネヘミヤ記8-9)」

 バビロンの捕囚をはじめとする民族の危機もつらかったが、課された律法もひどく重かったらしい。有名な「モーセの十戒」のようなものなら、泣くほどのこともないだろうと思っていたので調べてみた。ユダヤ教における律法というのは旧約聖書の最初の5書、つまり創世記から申命記までをいう。試しに読んでみたが、けれど、600にも及ぶという細かい規定を読んでいくと、確かにこれを守り抜くのはなかなか厳しい。

 安息日の厳守、10分の1税、各種の捧げ物、食べていいものといけないもの、恩赦、結婚・離婚、裁判、職業選択、それに奴隷の扱いなど、ありとあらゆることに決まりがある。

 現代でも厳格なユダヤ教の生活を守っている人たちは、たとえば安息日である土曜日には、労働にいってはいけないだけではない。自宅で棚を作ったり、お茶を淹れるためにやかんに火をつけることすら許されていないのだ。そして、結婚するのならば、相手はユダヤ教徒であるか少なくとも改宗しなくてはならない。

 氣になったことはいくつかある。たとえばレビ記にある「レプラ」と呼ばれる病にかかった者の扱いだ。当時の医学的な知識に基づいて定められたので、ハンセン病患者とそれ以外の重い皮膚病が一緒くたに記述されていることがわかっている。そして症状によって患者は「穢れた者」とされてしまう。

 治療法のなかった当時は、隔離することで病が他の人に広がることを防ぐ、必要な定めだったのだということはわかる。それは、人に感染しやすい寄生虫や細菌の温床となっている豚の食用を禁止した法にも言えることで、制定当時は合理的な理由があったのだ。

 しかし、もし、現在もまた、この旧約聖書の内容を忠実に実行することが正しいと信じる人々がいるのならば、治療すれば治る病にかかった人を「穢れた者」扱いし不当に差別することになってしまう。

 またモーセの十戒には、「人を殺してはならない」とあるが、その「人」の中に異邦人は入っていないらしい。別の箇所で、戦争で勝った場合、敵に対し「つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない(20-13)」とも書いてある。

 これに忠実であろうとするなら、他民族との平和な共存は無理だし、弱者も切り捨てられてしまうだろう。

 律法が非現実的であるという指摘は、この2500年のあいだ当のユダヤ民族の中から何度も上がった。もっとも有名なのがナザレのイエスだろう。彼が同胞のユダヤ人たちに憎まれて十字架刑にされたのは、主にそのせいだった。

 同じ神への信仰を持ちながら、律法に縛られないイエスの新しい教えとして始まったキリスト教だが、2000年たった今、当時のユダヤ人たちと同じように聖書の一字一句に固執するキリスト教徒もいて、歴史が繰り返しているのだなと思うこともある。イエスの死後500年以上経ってからあらわれた預言者ムハンマドの教えを信じるムスリムの人々も、信じている神は同じだ。その3つの宗教を信じる人々が、それぞれの聖典に書かれた文を拠り所に、互いに争い続けているという図式も、どうにかならないものかと思う。

 同じ聖典と神を旗印に、お互いに相手を嫌うことを正当化するレッテルを貼り合って、憎しみのボールを投げ合っている。これでは「嘆き悲しむ」要因はなくならないだろう。

 ネヘミヤ記、ひいてはこの歌詞で繰り返される「嘆いてはならない」という言葉からは、彼らは禁じられてもなお嘆きたくなる苦しみを受けたことが浮かび上がる。

 作曲者クリストファー・ティンは中国系アメリカ人だ。中国人、もしくは華僑と呼ばれる人たちも、ユダヤ人と同様に、異国であまりその国に馴染まずにもともとの生活様式を守って生きる傾向があるように思う。

 同化しないことで目だち、差別の対象ともなることを、彼が全く意識しないはずはない。だからこそ、彼はこの作品を多様な民族のバッチワークにして、注意深く言葉を選んだのだろう。

 日本にいて、多数派を占める民族の一員であった頃、差別による被害は私にとって他人ごとだった。それは許されないことだと知っていても、自分自身が痛みを覚えた事柄ではなかった。

 スイスに住むようになり、私はどちらかというと差別される方になった。もちろん、現代の成熟した社会では、あからさまな差別を受けることはめったにない。まともな教育を受けていれば、その加害者となることは恥ずべきことだと知っているからだ。

 それでも、人は時おり意識せずに差別的な言動をしてしまうことがある。私はそのことで深く傷ついたりすることはない。世の中にはもっとひどい屈辱に耐えている人がたくさんいるだろう。実害を受けいてる人もたくさんいるのだ。笑える程度の差別なんて大したことはない。

 優しくなるためには、想像力さえあれば十分だという人もあるかもしれない。それに、この世界のすべてを体験することなど実質的には不可能だ。体験だけが人の心を動かすのならば、創作の存在意義すらも疑われる。

 それでも、この立場になることは、たぶん私には必要だった。私は、直接的な加害者になってはならないのだと、他人ごとのごとく知っていただけで、それ以上ではなかった。岐路に立たされたときにどう振る舞うべきか、たとえばテストの場での正解を考えるように差別のことを捉えていたが、そうではなく、もっと生活と人生全般にわたる、区別も難しい、正解も見つけにくい複雑な問題だった。

 心ない言葉受けた心の痛みや、他の人とあからさまに差をつけられた現実的な不利益は、笑顔を消し、氣力を奪い、卑屈で歪んだ思想の種を植え付けていく。跳ね返す能力のある者は、その方法で前に進むが、それと同時に鎧を身につけざるを得なくなり、周囲との間に楔が打たれる。

 あいつらは、ああだから嫌われるんだ……。その判断は、まるで鶏と卵のようだ。嫌われるからこそ、人は変わっていく。そのことに氣づけたのは、私が高みの見物をしていられず、哀しみも、憂いも、鎧も、すべて自分の事として受け止めるようになったからだ。

 偉大といわれる宗教家たちが何千年ものあいだ善くあろうと努力してもいまだに消えていない問題を、小市民である私がそれを解決できるなどとはもちろん思っていない。

 それでも少なくとも私は、ほんのわずかでも、嘆き悲しむ人たちの心に寄り添いたいと思う。そんなことを思いながら、今日もまた地味な小説に思いを託している。

 私はシミュレーションゲームのように、多くの軍勢を右や左に走らせて神と同じ権能を手にした者のように振る舞いたくない。楔は俯瞰する下方ではなく、私の目の前に打たれている。鎧は目の前の誰かが、もしくは自分自身が身につけている。世界は評論すべき下界にではなく、自ら歩き、道を選び、つまずき、また立ち上がっていく同じ目線の場にあるのだ。

(初出:2020年9月 書き下ろし)

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'Hayom Kadosh'
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Posted by 八少女 夕

日本で買った便利なモノ (8)エコバックShupatto

さて、今日は日本で買った便利グッズを紹介するコーナーです。8回目の今回は、日本でも必要性がアップしているエコバッグの話です。

Shupatto

スイスでは、もともと買い物袋はほとんど有料(めちゃくちゃお高い店は別)で、エコバッグは必須でした。ちなみに袋詰めなんかも誰もしてくれないので、レジでは自分でサクサク袋詰めをする能力も鍛えられたのですけれど、ずーっと、エコバッグのある点が苦痛でした。たたむのが面倒くさい。

週に一度のお買い物の時はいいのです。基本的に大きなたたまないエコバッグを持って行きますから。そうではなくて外に出るときには必ず持ち歩いているコンパクトなエコバッグ。そうなるとたたむときには1度机の上に置いてちゃんとたたまないと外袋に入らない。でも、その一手間がめちゃくちゃ面倒だったのです。

こういう時に、頼りになるのが日本の商品。「エコバック たたむの面倒」などで検索すれば、絶対に何か出てくるはず。で、思った通り出てきましたよ。検討した結果、Shupattoという、エコバックのDrop型のものをゲットしたのです。



動画では、シュパッと縦長にした後、机に置いてたたんでいますが、手に持ったままでも簡単にたためて、ゴムで留めるので袋に入れる必要すらありません。前に持っていた常時携帯用エコバッグより少し大きめになってしまいましたが、この便利さには代えられません。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(3)出逢い

『Filigrana 金細工の心』の3回目です。

追記に動画を貼り付けておきましたが、今回主人公が弾いているベートーヴェンのピアノ曲『ロンド・ア・カプリッチョ ト長調』は奇妙な俗称がついています。『失われた小銭への怒り』と。これはベートーヴェン自身が付けたわけではないのですが、本来の題名よりもずっと有名になっています。そして、とても難曲なのだそうです。

少なくとも今回のシチュエーションで弾くような曲とは思えませんが、当の奏者はかなり皮肉っぽい性格。アントニアは「なぜこれをいま弾く」と心の中で突っ込んでいたに違いありません。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(3)出逢い

 ライサは追われ、必死で逃げていた。いつもの悪夢、血まみれの赤ん坊、そして、笑いながら彼女を犯す狂った金髪の男から。目が醒めて、暗闇の中に放り出された。彼女は、光と音を探した。それは夜で、彼女の求めるものはどこにもなかった。

 ピアノが聞こえなければ、彼女は安心できなかった。シンチアやルシアなど使用人たちもいなかった。ピアノの聞こえるところ、光の見えるところまで、彼女は逃げなくてはならなかった。彼女は、パニックに襲われ、ベッドから抜け出した。1度も出た事のない部屋から出て、階段を転げるようにして降りた。

 いくつかのドアを開けて周り、ようやく探しているものを見つけた。サロンの真ん中に、グランドピアノがあり、月光に浮かび上がっていた。彼女はそれに近づき蓋を開けて、めちゃくちゃに鍵盤を押した。みじめな不協和音が響くだけで、彼女を悪夢から救い出す、あの響きは創り出せなかった。

「こんな時間に、何をしている」
男の声がした。ライサが振り向くと、月の光の中に男が立っていた。明るい月の光に照らされて、柔らかく光沢のある髪が見えた。背の高いすっきりとした体格も。

 ライサは悲鳴を上げた。彼女が怖れている悪夢の男がここまで追いかけてきた。陽の光で見てもよく似ている2人を、暗闇の中で錯乱したライサが見分けられるはずはなかった。

「いや! やめて! 助けて!」
「私は、何もしない。落ち着きなさい」

 混乱したライサは、部屋の隅へと向かい泣き叫んだ。男の後ろから何人かの人々と共に飛び込んできた女性が側に駆け寄った。
「ライサ!」

 アントニアだった。現実の世界にいるはずの、彼女に安全を約束してくれる女性。ライサは、彼女に抱きついて泣き叫んだ。
「いや! 助けて! ピアノが聞こえない! ピアノが!」

 アントニアは、男に向かって叫んだ。
「叔父さま、何かを弾いてちょうだい」
「なんだって?」
「何でもいいから、弾いて! お願い!」

 彼は憮然とすると、ライサが倒した椅子を起こして座り、月の光の中で弾きだした。ベートーヴェンのピアノ曲『ロンド・ア・カプリッチョ ト長調』だ。このシチュエーションには唐突な、明るく軽快な曲だが、俗に『失われた小銭への怒り』と呼ばれているので、夜中にたたき起された上に野獣扱いをされた事への抗議も含まれているのかもしれないとアントニアは思った。

 アントニアの腕の中で、ライサは自分の耳を疑った。流れるようなトリル。力強く自信に満ちた連打。目の前で演奏されているのは、まさに彼女の望んでいた響きだった。ピアノの弾き手、ライサをいつも安全な現実の世界へ連れて行ってくれていた人物は、アントニアではなかった。この男だったのだ。

 やがて、それが誰だかわかった。彼女にトラウマを与えたインファンテ324ではなく、その叔父のインファンテ322、アントニアとともにこの館に住んでいる、もう一人の「メウ・セニョール」なのだと。

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Beethoven - Rondo 'Die wut  über den verlorenen groschen'
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Posted by 八少女 夕

【キャラクター紹介】マヌエル・ロドリゲス

久しぶりのキャラクター紹介の記事です。発表済みの作品や、まだ発表していない作品のキャラクターをちょこちょこっと紹介して、作品に親しみを持ってもらおうかな、という姑息な企画ですね。

今回は連載中の「黄金の枷」シリーズから外伝にしか出てこない脇キャラ、マヌエル・ロドリゲスの紹介です。現在連載中の『Filigrana 金細工の心』はもちろんのこと、それ以外にも今後活躍する予定は全然ないのですけれど、なんかたまには全く重要でもないお気楽キャラの紹介もいいかなーと思って。


【基本情報】
 作品群: 「黄金の枷」シリーズ
 名 前: マヌエル・ロドリゲス(Manuel Rodrigues)
 居住地: Gの街(D河を挟んでPの街の対岸にある。モデルはVila Nova de Gaia)
 年 齢: 初登場の「追憶のフーガ — ローマにてでは28歳
 職 業: 修道士見習い 兼 《監視人たち》中枢部つき

* * *


マヌエルは、Pの街で《監視人たち》の家系の1人として生まれました。子供の頃から運命づけられた家業(《星のある子供たち》たちの監視ならびに掟の強要)に疑問を持ち、その枠組みから逃げ出すために、神学にも教会にも興味もないのに神学生となることを選びました。

しかし、女の子は大好きなので、妻帯の許されない司教になるつもりははじめから皆無でした。予想に反して送られたのがカトリックの総本山であるヴァチカンで、しかもドラガォンとつながりの深いエルカーノ枢機卿の秘書にされてしまいます。早く司教になるための終生誓願をするようにとつつかれていたので、どうやって逃れようかと画策していたところ、ローマで以前に監視したことのあるクリスティーナと出会います。実は、クリスティーナはもともと《星のある子供たち》生まれで亡くなったドラガォンの最重要人物の恋人でした。そして、システムの例外救済措置で自由になったばかりでした。

後に、ドラガォンで発生したある事件を解決するために、クリスティーナは《星のある子供たち》である別の人物と入れ替わり再びPの街に帰ることになりました。クリスティーナを崇拝するマヌエルは、彼女の側にいるために、《監視人たち》中枢組織の一員として働くことを了承しPの街に戻りました。

帰国後しばらくは『ドラガォンの館』のすぐ近くにあるサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会付きの修道士見習いでした。ボルゲス司教の計らいではじめた地域の独居老人を定期的に訪問する仕事にやり甲斐を感じるようになります。現在は新しく担当になったGの街の小さな教会に住み、地域住民の便利屋のような仕事を続けています。

一方で、ドラガォンからの依頼で、イタリアやスペインから来た客人を案内する仕事や、クリスティーナの通訳兼ボディガードを任されることもあります。とくに前の経歴やヴァチカンの要職にある人物と親交があることから、ヴァチカンがらみの訪問者があるときは、クリスティーナやアントニアの通訳を優先的に任されています。

あっけらかんとしたお調子者で、フットワークはとても軽いです。クリスティーナには仕事相手としか認識されていませんが、なにかとペアで仕事ができるので今のところ満足しています。

ちなみにクリスティーナのマヌエルに関する第一印象がこれです。ひどすぎ(笑)

 ふと視線を感じて横を見ると、先ほど彼女がタラップを降りる時にちょうど後ろにいた、若い青年がいた。どちらかと言えば貧相なタイプで、茶色い髪は少し伸び過ぎで、黒いシャツに灰色のジャケットはフランス資本のスーパーマーケットで揃えたような安物だった。




【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」『Infante 323 黄金の枷 』
『Usurpador 簒奪者』を読む『Usurpador 簒奪者』
『Filigrana 金細工の心』を読む『Filigrana 金細工の心』
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(2)悪夢

『Filigrana 金細工の心』の2回目です。

ええと。この回はR18指定すべきかなと思う内容なので、読みたくないという方はお氣を付けください。とはいえ、この記述をしないで書くのは、ぼんやりした話になってしまうので、あえてこうなりました。前作では、23がマイアにソフトに語るという形で説明した24のやっていたことが、少し具体的に記述されます。

ここまで具体的な描写は、今後ほとんどないと思いますので、ご安心を。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(2)悪夢

「……ママ。ママ。かわいそうなママ……。あいつがあなたを苦しめているんだね」
その声はすぐ近くで聴こえた。終わりのない悪夢は彼女を休ませなかった。疼痛よりも針が近づいてくるその瞬間が怖かった。ベッドに縛り付けている手錠に電流を近づけてくる時の、狂った笑顔が恐ろしかった。どれほど懇願しても、絶対に逆らわないと誓っても彼は信用しなかった。声が出ないようにかまされた猿ぐつわに手をやり「このなめらかな肌に食い込む枷が美しい」と囁いた。

 乳房をねじ上げられ、苦痛に歪む顔を見て、青い瞳は輝いた。それから彼は欲望のままに、抵抗できない彼女に覆い被さり激しく腰を動かして囁いた。
「ああ、ママ。かわいそうな、ママ。あなたは、あいつに犯されて、苦しんでいる。いますぐに、僕があなたを救ってあげる。こうして、あなたの中からあいつの穢れた体液を搔き出してあげる……僕の存在で満たしてあげる……」

 その声が、次第に大きくなると、彼女の膨れ上がった腹がめきめきと割けて、中から血まみれの赤ん坊が顔を出した。口が裂けて、尖ったギザギザの歯を見せて奇声を発した。彼女は声にならない悲鳴をあげた。

 いつの間にか彼女は自由になっていて、必死で逃げた。暗闇の中、足が縺れ、何度も怪物につかまりそうになり、滑る足元によろけながら、彼女は走った。どこからか、ピアノの音色が響いてきた。彼女は、音のする方へと走る。そこへ辿りつければ、彼女は怪物から逃れられるのだと、そう信じて走った。

 彼女はベッドから起き上がった。体中が強張り、震えていた。喘息の発作のように激しく呼吸をしていた。ピアノの音色はしていなかった。

 汗でネグリジェは、ぐっしょりと濡れていた。ドアがノックされて、妹マリアの声が聞こえた。
「ライサ? どうかした? うなされていたみたいだけれど……」

 ライサは、息を継ぐと答えた。
「……夢を見たの。ごめんなさい、大丈夫」
「そう。わかったわ。おやすみなさい」

 マリアの足音が去り、隣の部屋のドアが閉められたのとを聞くと、ライサは首の付け根に手をやり、汗を拭った。夢……。夢だとわかるようになるまでにどれほどの時間が流れたか、彼女の記憶は欠けていた。ピアノの音色が彼女の救いとなったのもいつだったか憶えていない。

 あの悪夢は、かつては現実だった。彼女が愛し、自身で望んで一緒になった男が、もう1つの顔を見せたとき、その悪夢が始まったのだ。それがあまりにも長く続き、救いが見えなかったので、彼女の精神は現実と夢の境界を失った。肉体の痛みと精神の痛みは交錯してねじれた。胎内の奥深くに挿入された電動の器具が、彼女に快楽を強要しても、彼女には苦痛との違いを感じ取れなくなった。薬品が彼女の現実を壊した。昼と夜は逆転し、愛と憎しみも入れ替わった。

 悪夢は、常に彼女を襲い続け、それが終わる希望など持っていなかった。けれど、そのピアノの音が聴こえるようになって以来、明らかに何かが変わっていた。悪夢にインターバルが訪れるようになっていた。誰かが、優しく彼女の肌や髪を洗っていた。女性の明るい笑い声が近くですることもあった。食事に味がする。時には熱く、ライサは吐き出した。それを誰かが片付け、優しく口元を拭いてくれていた。それが悪夢の男とあまりにも違うのでライサは混乱した。

 やがて、彼女はベッドに座り、誰かが彼女に食事をさせてくれていることに氣がついた。そこはとても居心地がよかった。誰もが優しく、彼女を傷つけたりしなかった。どこからか、ピアノやヴァイオリンの音色がしていた。それを耳にしながら、ライサはここは安全な世界だとゆっくりと理解したのだ。

 それから、ある女性がよくベッドの側に座るようになった。その女性の落ち着いた声は、ライサには心地よく響いた。言葉の意味が分かるまでにはやはり長くかかった。長い心地のいい夢を見ているようだった。ゆっくりと、ぼやけていた画像のピントが合っていくように、ライサはその女性のいる心地いい夢が現実なのだとようやく信じられるようになった。その頃から、その女性にどこかで逢った事があるように思いだした。

「ライサ。今朝の氣分はどう?」
女性は、穏やかに訊く。親しげで優しい。それが自分の名前だと、ある朝、突然わかった。この人は、私に問いかけているのだ。そう思って、ライサは女性の顔を見た。彼女の表情が、つかの間、驚きに変わり、それから笑顔になった。
「ライサ?」

「あなたは……誰?」
ライサは、声を絞り出した。かすれていた。自分の声なのだと、後からわかるほど現実味がなかった。いや、しようと思った事が、できる事、声を出し質問したら、その通りに聞こえた事が驚きだった。

 女性は、微笑んだまま答えた。
「アントニアよ」

 アントニア? 知っている誰かの名前。どこで聞いたのだろう。アントニア。……ドンナ・アントニア……。

 突然、世界が回りだした。石造りの重厚な建物、どっしりとした家具、輝くシャンデリア。『ドラガォンの館』に集う、高貴なる一族。そして、恐ろしい悪夢。震えて泣き出しそうになるライサに、女性ははっとして、それから首を振った。
「心配しないで。あなたは、もう安全な所にいるの」

 その言葉が、ライサを現実に戻した。「安全な場所にいる」心で確認したがっていた言葉を、彼女が口にした。
「ここは……ここはどこ?」

 ライサが、『ドラガォンの館』から連れ出されて、アントニアの住む『ボアヴィスタ通りの館』で療養していることを理解するまでにはまだしばらくかかった。彼女の精神の混乱は、それほどに根深かった。だが、やがて彼女は、朝になり目が醒めると、必ず同じ場所にいて、悪夢が襲いかかってこなくなるという事を信じられるようになった。怖いのは夜眠っているときだけだった。そして、彼女を朝の安全な世界に導いてくれるピアノの音は、『ボアヴィスタ通りの館』で実際に奏でられているのを知る事となった。

 ライサは、ずっと同じ部屋にいた。彼女を世話してくれる使用人が、シンチアという名前で、ライサ自身と同じくドラガォンに雇われている存在である事も理解できるようになった。時々もっと若いルシアという女性が代わる事もあった。ライサは、自分でスプーンやフォークを持って食事をしたり、タオルで顔や手を拭く事もできるようになった。1人で浴室を使えるようになるまでは、もう少しかかったが、やがて、密室に1人でいても、眠らない限り悪夢は襲ってこない事が理解できるようになった。

 階下から聞こえてくるヴァイオリンとピアノの2重奏についてシンチアに質問した。
「ああ、あれはメウ・セニョールのヴァイオリンにドンナ・アントニアが伴奏なさっているのですよ」

「メウ・セニョール?」
その響きに彼女が怯えているのを見て、シンチアは、急いで言った。
「ドンナ・アントニアの叔父上です。亡くなられたドン・カルルシュの弟の Infante322です」

 それが24ではないとわかって、彼女は安堵した。それから、あのピアノを弾いていたのは、ドンナ・アントニアだったのねとひとり言をつぶやいた。
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Posted by 八少女 夕

プリンが好き

プリン

唐突な話題ですが、私はプリンっぽい食感の食べ物が好きです。正統派のカスタードプリンも好きだし、「プッ●ンプリン」のような、安価なプリンも別物として大好き、それに卵豆腐や茶碗蒸しにも目がありません。

実は卵そのものも大好きで、卵かけご飯も、すき焼きに入れる溶き卵も、卵サンドイッチも好きです。そういえば、子供の時に店屋物で麺を頼むとなると必ず卵とじうどんを食べたがっていましたね。

さて、プリンに話を戻しますが、東京のようにそこら辺のどこでも美味しいプリンを買えるわけではありません。なので、「超絶美味しいプリンが食べたい!」と思ったら自分で作ることが前提です。「面倒くさい」にどのくらい打ち勝てるかにより、ゼラチンで固める簡易プリンにするか、それともオーブンで蒸す本格的なプリンになるかが決まります。

写真は、もうだいぶ前に過ぎてしまいましたが、誕生日にレストランに行ったらプレゼントで出してくれたプリンです。そこのウェイターさん、私がプリン好きでいつも食べるのを憶えていてくれたみたい。嬉しいサプライズでした。


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Posted by 八少女 夕

【小説】プレリュード

今日の掌編は、『黄金の枷』シリーズの外伝です。連載を開始したばかりの『Filigrana 金細工の心』とも関わりの強い作品なのですが、視点が(よくわかっていない)マイアで進むので、外伝として本編からは外しました。『Filigrana 金細工の心』本編で後にこの話で使われた曲がもう1度使われます。

【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」『Infante 323 黄金の枷 』
『Usurpador 簒奪者』を読む『Usurpador 簒奪者』
『Filigrana 金細工の心』を読む『Filigrana 金細工の心』




黄金の枷・外伝
プレリュード


 マイアは、いつものように白いブラウスに黒い絹のサーキュラースカートを身につけた。どんな服でも自由に注文していいと言われ、通信販売のカタログをいくつも渡してもらったのだが、以前買っていたようなTシャツやチノパンなどを買うのはためらわれた。そんな服を午餐や晩餐に着ていくことはできなかったし、23と話をするためにいつドンナ・マヌエラやメネゼスたちが入ってくるかわからなかったので、居住区内用の服も体には楽だけれども見た目はカジュアルすぎないものを選んで買ってもらった。

 いま着ている服は、宣告を受けた翌朝に23がその日の晩餐に間に合うようにメネゼスに用意させた2着のうちの1つだった。白いフリルの多いブラウスと、似ているけれど僅かに違うふくらはぎ丈の全円スカートで、どんな状況でも、たとえマイアが上流社会の振舞に慣れていなくても、違和感なく馴染めるスタイルだった。

 その初めての晩餐で、マイアは23がいつも座る席の隣に案内された。前日までは給仕する立場だったのが、してもらう立場に変わっていた。メネゼスが椅子を引き「どうぞ」と言った。23の顔を見ると、黙って頷いたのでマイアは小さく会釈して座った。

 あの食事では、誰も特別なことを言わなかったが、みながマイアの様子に注目していた。突然の宣告で23の居住区に閉じこめられた彼女がどんな反応をするのか誰も予想がつかなかった。ショックを受け、泣き叫び助けを懇願しても不思議はないとみな思っていた。それはこの館では既に何度か繰り返された光景だった。

 マイアが何をするのにも23の顔を伺い、それに対して彼がそっと小さくアドバイスすると、彼女が黙って頷く。時おり嬉しそうに23の方を見て笑いかけたりしているのを見て、心配していた家族や使用人は一様に安堵した様子を見せた。特に、ドンナ・マヌエラは食事が終わると、わざわざマイアの側にやってきて、両手で彼女の手を包み優しく「ありがとう」と言った。マイアは何にに対してそう言われているのか全くわからなかった。

 唯一違う反応を見せたのが24だった。23のことを全く嫌がっていない、むしろ一緒にいられるのが嬉しくてたまらない様子のマイアを見て「なぜ」と言った。24が一緒に一夜を過ごした娘たちは、そんな反応は絶対に見せなかった。必ず一晩にして24への愛は消え去り、怯えながら逃げ惑うようになったからだ。

 その日から、ドラガォンの家族が集まる時には、必ずマイアも同席することとなった。毎日の晩餐、日曜日の午餐、それにその前に行われる礼拝にも、マイアはこれまでの召使いたちの場所ではなく、ご主人様の1人である23の隣に座ることになった。そして、そうした機会に身につけるべき服で悩みたくなかったので、マイアは23がそうするように、新たに用意してもらう服も全て白いブラウスと黒いスカートにしてもらった。そうすれば23のいつも着ている服と釣り合うし、難しいことを考えずに済むからだ。

 日曜日の礼拝と午餐に、ボアヴィスタ通りに住んでいるドンナ・アントニアがやってくるときは、午餐の後に家族がサロンに集まり団らんをする習慣があった。召使いだった頃のマイアは、このサロンでの団らんの場に居合わせたことはなかった。

 母屋3階にあるサロンは、マイアにとってなじみが薄く畏怖すら感じる空間だった。もちろん、本来ならばインファンテの居住区であっても親しみやすさを感じる要素はないのだが、23がラフに接してくれたお陰で屋敷の中でもっとも寛げる一角になっていた。しかし、ドンナ・マヌエラやドン・アルフォンソの部屋の掃除をすることもなかったマイアにとって、母屋3階はよほどのことがない限り足を踏み入れない場所になっていた。

 宣告後、居住区の中で暮らすことになったマイアは、鍵を開けられて呼ばれたときだけ居住区からでることができた。23と一緒に居られるだけで幸福なマイアにとっては、特に差し障りがなかったが、23はマイア1人を居住区に残すことを嫌がった。一家団らんの場に行って何をすればいいのかはわからなかったが、ただ座っていればいいのだと言われて、黙ってついていった。

 おそらくそれは、館の中の多くの人間を安堵させたことだろう。少なくともこちらの居住区では、人知れず娘が長期にわたる虐待を受けたりはしていないことが、誰の目にも明らかだったのだから。

 サロンは広く明るい部屋で、寄せ木張りの床の上に非常に大きな絨毯の敷かれている。年代物に違いない大きなシノワーズの壺や、金箔飾りの施された黒檀の調度が置かれている。この集まりには、メネゼスの他、ジョアナとクリスティーナが同席するのが常だった。

 瑠璃色と金の装飾を施したコーヒーセットが置かれ、マイアは割ったりしたくないなと思いながら邪魔をしないように座るのだった。

 23とマイアが部屋に入ってきたとき、既にドンナ・マヌエラとドンナ・アントニア、そして、2人に挟まれて24がゆったりと座っていた。彼は、午餐の時とは違う服を着ていた。午餐の時は、クリーム色の光沢のあるシャツにグレーのベストを合わせたスタイルだったが、今は昔の人が着ていたようなスイカ色のフロックコート姿だ。時代めいているとはいえ、豪奢なひじ掛け椅子に座っている彼は、場違いという印象を全く与えなかった。落ち着いた菖蒲色のロングドレスを身に纏っているドンナ・マヌエラや、赤紫に黒で縁取りされたスペンサージャケットと対のタイトスカートを見事に着こなしているドンナ・アントニアに挟まれているからかもしれない。

 この部屋に置かれているアームチェアはヴィクトリアン・スタイルで、重厚なマホガニーに装飾華美にならないギリギリの装飾が施されている。おそらく何百年単位で使われているものだろうが、定期的にメンテナンスを施されているのだろう、どの家具もつい先日納品されたものと変わらない状態を保っている。

 マイアは、高そうな椅子に座ることにもまだ慣れていない。そっとサーキュラースカートを広げ、メネゼスに案内された席に怖々と座った。

 23とマイアが入ってきたのを全く意に介さずに、得意の詩作について蕩々と述べていた24だったが、最後にドン・アルフォンソがゆっくりと入ってきて座ると、嬉しそうに立ち上がって言った。

「やあ、兄さん。やっと来ましたね。僕が、生み出した最高傑作、すぐにでも聴いてもらわなくちゃ。ビリヤードのピンク球と釣りブレード針のさる環に関する形而上学的考察に基づく詩なんです」

 ドン・アルフォンソは、全員にコーヒーや茶菓が行き渡っているのを見て取ると、メネゼスに合図をして立っているジョアナやクリスティーナが背後で座れるように配慮をしてから、待ちわびている24に聴いている者には意味がさっぱりわからない詩の暗唱を許可した。

 24の詩を聴くのはこれが初めてではなかったけれど、今回の詩は格別に意味不明だった。そもそもマイアはビリヤードもしたことがないし、釣りの方はさらに興味がなかった。だが、たとえその両方に詳しい者が聴いても、この詩の内容に共感することは難しいだろう。少なくとも韻の踏み方が完璧なのは、マイアでもわかった。新参者の分際であくびをするわけにはいかないので、マイアは23と一緒に街に出かけた日のことを考えて時間をやり過ごした。

 ようやく暗唱が終わったらしい。母親であるドンナ・マヌエラがにこやかに微笑みながら言った。
「お前の詩作に対する情熱は、非凡な才能を開花させたのね。釣り具が美しく思える描写を初めて知りましたよ、メウ・クワトロ」

 氣をよくした24が、ではもう1つと言い出すのを察知したドン・アルフォンソは、急いでドンナ・アントニアに話しかけた。
「アントニア。今日は、お前も何か聴かせてくれるのだろう?」

 マイアは思わずほっとした表情をしたが、横にいた23に氣付かれてそっと肘でつつかれた。ドンナ・アントニアは、微笑みながら立った。
「むしろ私は、トレースに聴かせてもらうことを期待してきたんだけれど」

「ギターラは持ってきていない」
23は短く答えた。23が何かを弾き、それをドンナ・マヌエラが褒めたりしたら、また24が対抗意識で新しい詩を吟じ出したりするかもしれない。だったら、ここでは弾かないでほしいと、マイアは密かに願った。

 ドンナ・アントニアは、それ以上特に23のギターラには触れずに、グランド・ピアノに向かった。
「じゃあ。ここしばらくずっと練習していた曲を……バッハの平均律を元に書かれたシロティの『前奏曲』よ」

 彼女は、ゆっくりと弾き始めた。マイアは、ドンナ・アントニアはピアノを弾けるんだと感心した。思えば、この女性のことを私は何も知らないんだなと思った。ずっと23の恋人だと思い込んでいて、姉だということも知らなかった。ようやく知ったことといえば、成人してから『ボアヴィスタ通りの館』に移り住んでいるが、近年はドンナ・マヌエラに代わって、ドラガォンの対外的な仕事をこなしていることぐらいだった。

 ドン・アルフォンソや23と同じ黒髪は、亡くなったドン・カルルシュ譲りだという。とても美しいが、柔らかい印象の強いドンナ・マヌエラにはほとんど似たところがなかった。
「顔もドン・カルルシュに似ているの?」
マイアが訊くと、23は笑った。
「まさか。俺が父上そっくりなんだ」

 マイアは、ピアノを弾くドンナ・アントニアの横顔を眺めた。いつも快活で華やかな彼女が、どことなく違って見える。静かな旋律が囁きかけるように始まったが、少しずつクレッシェンドをして近づいてきたように感じた。その旋律は再びディクレッシェンドして、遠ざかった。

 右手の旋律は同じように繰り返したが、左手が先ほどとは違いずっと強く分散和音を奏でた。それは、まるでずっとそこにいたけれど視界に入っていなかった誰かが、急にいることに氣付いたときのようだった。

 娘の演奏を聴いているドンナ・マヌエラは、先ほど息子の詩を褒めたときのような柔らかな微笑みを浮かべていなかった。瞳は、娘を通してもっと遠くの別のものを見つめていた。そして娘の紡ぎ出す音色から、憂いと痛みを聴き取っているようだった。マイアの知らない誰かが、ドンナ・アントニアの陰でピアノを弾いている。誰も口にしようとしない重い存在が、サロンに満ちていた。

 短い曲はすぐに終わった。最後の和音が空中に解け、ドンナ・アントニアが静かに手を鍵盤から離して静寂に沈んだ。

 サロンの空氣は先ほどとは全く変わっていた。24だけが派手な拍手をし、ドンナ・アントニアはいつもの快活な笑顔を見せて椅子に戻ってきた。ドンナ・マヌエラも柔らかい微笑を取り戻していたが、マイアはみなの瞳の中に憂いが残っているように感じた。平和な午後の語らいはいつも通り2時間ほど続いた。そして、暇乞いをしてドンナ・アントニアが館を去ると同時に、マイアたちも居住区に戻った。

 あれは何だったんだろう。マイアは、先を歩く23の背中を見ながら考えた。訊いたら教えてくれると思うけれど、軽々しく訊かない方がいいのかも。

 23は、いつもと違って静かなマイアの様子を変に思ったのか、振り向いた。
「どうした?」

 マイアは、笑って首を振った。
「なんでもない。ねぇ、23。さっきリクエストできなかったから、今からギターラ、弾いて」

(初出:2020年8月 書き下ろし)

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Emil Gilels plays the Prelude in B minor (Bach / Siloti)
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Posted by 八少女 夕

乳製品の海で

つい先日、レアチーズケーキを作りました。レシピは日本のものだったのですが、室温で柔らかくしたクリームチーズの他にヨーグルトを水切りしたものを使うと書いてありました。

レアチーズケーキ

しかし、わざわざ水切りヨーグルトを使う必要があるのかと首を傾げてしまったのです。

スイスは酪農国ですから、乳製品がやたらと多いのです。おそらくこの研究家が目指したものと同じ味をもっと簡単に再現できるのではないかとおもったんですよね。

調べてみたところ、「低脂肪クワルクが手に入らないときの代用品として水切りヨーグルトが使える」というブログ記事を発見、つまり水切りヨーグルトは低脂肪クワルクで代用できるということです。ということは、「室温で柔らかくしたクリームチーズ+水切りヨーグルト」を何か他の商品で代用できないか……。というわけで、これまで面倒で避けていた、スイスの乳製品についてざっと調べてみたのでした。

結論としては、クリームクワルク(Rahmquark)を、冷蔵庫から出してそのまま突っ込むという荒技で美味しいレアチーズケーキができました。日本だと洋菓子作りは非常に手間のかかる工程が入っていることがあるのですけれど、もしかして、これは本来は簡単な工程なのに、材料が手に入りにくいことで苦労なさった研究者の方の努力の結晶なのかなあと、しみじみと思った1件でした。

おまけに、普段よく見かける(クリーム状の)乳製品の種類と、その乳脂肪分を並べてみますね。

牛乳の仲間
*全乳(Vollmilch)3.5%
*牛乳風ドリンク(Milchgetränk/Teilentrahmte Milch)2.5%

生クリーム(Rahm)の仲間
*生クリーム(Vollrahm)  35%
*半生クリーム(Halbrahm )12%
*2倍生クリーム(Doppelrahm) 45%

*サワークリーム(Sauerrahm) または クレーム・フレッシュ(Crème fraiche) 15%
*サワー半クリーム(Sauer Halbrahm)  6%
*サワーミルク(Sauermilch) 12%

クワルク(Quark)の仲間 
 フロマージュ・フレ(Fromage Frais)、凝乳、カードともいう。
*半脂肪クワルク(Halbfett Quark)9%
*脱脂肪クワルク(Margenquark) 0.5%
*クリームクワルク(Rahmquark) 15 - 36%

発酵乳の仲間
*ヨーグルト(Joghurt)9%
*ギリシャヨーグルト(Griechischer Jogurt) 10%
*ビフィズスヨーグルト(Bifidus) 8%
*ケフィア(Kefir)3.5%

チーズの仲間
*マスカルポーネ(Mascarpone)20-40%
 ティラミスでおなじみイタリアの濃厚なクリームチーズ。クセがないので使いやすい。
 生クリームを泡立てる代わりに使うこともあり。
*リコッタ(Ricotta) 20%
 同じくイタリアのチーズだがずっとあっさりしている。舌触りが少しざらっとしている。
*フレッシュチーズ(Frischkäse) 11- 15%
 チーズケーキによく使うのはこれ。ただし、冷蔵庫から出してすぐだと扱いにくい。
*ダブルクリーム・フレッシュチーズ(Doppelrahm-Frischkäse) 32%
*カッテージチーズ(Hüttenkäse または Cottage cheese) 6%
 粒状になっているので、クリームとしての使用は要注意。

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Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ(8)今もいつも

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の8作目です。

第8曲は『Hymn do Trójcy Świętej』使われている言語はポーランド語です。


『心の黎明をめぐるあれこれ』を読む
『心の黎明をめぐるあれこれ』を始めから読む




心の黎明をめぐるあれこれ
(8)今もいつも
 related to 'Hymn do Trójcy Świętej'


 何度かこのエッセイ集でも書いているが、私はカトリック信者の家庭で育った。カトリックのミサには、典礼と呼ばれる公式の祈祷文がある。「キリエ」や「サンクトゥス」といったよくクラッシック音楽のミサ曲の題名は、この典礼に基づく。

 典礼で三位一体に対する賛美歌および祈祷文は(カトリックでは)『栄唱』と呼ばれ、ミサや『ロザリオの祈り』といった祈祷時に唱えられる。私が日本で礼拝に行っていた頃は、次のような文語体だった。(訳は時おり変わる)

ラテン語
Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto.
Sicut erat in principio, et nunc, et semper, et in saecula saeculorum. Amen.

願わくは父と子と聖霊とに栄えあらんことを。
初めにありしごとく今もいつも世々にいたるまで、アーメン。



 今回、『Calling All Dawns』第8曲で使われている詩『Hymn do Trójcy Świętej』はポーランド語による『三位一体の讃歌』、つまり『栄唱』である。

 日本にいたとき、私はポーランドを含む世界各国の歴史や民族事情に鈍感だった。世界史は好きだったけれど、それは小説を読む感覚とあまり変わらなかった。もしくは、映画のあらすじと似た、つまり、現実にその歴史の延長線上に誰かが生きていることをほとんど考えていなかったと思う。

 ポーランドという国があるのはもちろん知っていたけれど、とても遠い国だった。

 首都はワルシャワ。ショパンと、キュリー夫人、それにヨハネ・パウロ2世の出身国。社会主義の国(当時)だから、ソビエト連邦の子分のようなもの。ひどく雑な理解だけれど、当時はインターネットはなかったし、私自身にも受験勉強の合間を縫い、わざわざこの国のことをもっと理解したいと思う熱意もがなかった。

 ヨーロッパの人々が、中国と日本を混同する程度に、私の東ヨーロッパに対する興味も薄かったのだ。そして、おそらく私の周りにいた同年代の多くが、その程度の理解だったのではないかと思う。

 現在、スイスの私の住む地域、車で10分くらい走ったところにある村には「ポーランドの小径」という地名がある。第2次世界大戦中ポーランド人の戦争捕虜たちが多く住んでいた場所なのだそうだ。彼らは、国を略奪された後、フランスに逃れ対ドイツの抵抗をしていたグループだそうで、フランスがドイツの侵攻を受けたときに、そのままドイツ軍に捕まるよりはマシだという判断で、スイスに入ってきて投降し捕虜となったらしい。

 捕虜なので、労働をさせられたり、居住の自由などはなかったが、少なくとも迫害されることもなく戦時中を過ごし、戦後にもそのまま村の娘と結婚して残った者もいたとのことだ。時おり出会うポーランド由来の苗字をもつ人が、この時にスイスに住みついた人の子孫である確率も高い。

 ポーランドは、スイスが「たどっていたかもしれない」歴史を歩んだ。どちらもヨーロッパの中央部にあり、周りの強国たちに何度も国を狙われた。ポーランドの方は、1度ならず分割され、1795年には国が消滅する憂き目に遭っている。その同じ近隣諸国は、ほぼ同じ時期にスイスにも触手を伸ばしていた。スイスは多くの血の代償を払い、独立を守り切ったが、1つ間違えばポーランドと同じような目に遭ったかもしれない。

 スイスに住んでから、非常によく感じるようになったのが、日本を取り巻く海の存在のことだ。いくつかの島をめぐる領有争いは別として、基本的に一般的日本人は国境線は守られて当然と思っているようだ。本州、北海道、九州、四国のあるあの地図上の姿が、万葉の時代から今まで変わらなかったのだから、これからも変わらないだろうという感覚だ。

 海という越えがたい垣根に守られて、日本は長らく大きな努力もせずに1つの国であり続けた。300年前に測量した地図と、現在の地図には測量技術の違い以外の大きな差異はない。(日本内部で複数の民族による支配・被支配はおこったけれど)

 ヨーロッパの歴史地図は、そうはいかない。国境線は常に動く。昨日の自国と外国が、明日も同じであるとは限らない。国境は、為政者を信頼していれば守られる揺るぎない壁ではない。

 ましてや、何度も祖国をケーキのように分割されてしまった歴史を持つ人々たちにとっての国境線は、戦い勝ち取ってようやく手にした冷酷な隣人との間に立てた垣根だ。

 だからポーランドの人びとが祈りで口にする「初めにありしごとく今もいつも世々にいたるまで」は、おそらく私のそれとは重みが違う。

 現在は、ポーランドもスイスも、その他のどのヨーロッパの国も、宗教はかつてほど大きな意味を持たなくなった。たとえば、洗礼を受けたのがカトリックかプロテスタントかということで、職業や結婚に差し障りが起こるというようなことはなくなった。ムスリムでも、無神論でもいいのだ。

 だが、ほんの50年ほど前まではそうではなかった。どの国の、どの地域がカトリックか、プロテスタントか、もしくはロシア正教かというようなことが、もしくは社会主義により信教が禁じられるというようなことが、人びとの生活や行動に大きく関わっていた。

 ポーランドは、社会主義時代にもカトリックの信仰が強く、国境の封鎖に関しても他の社会主義国とは違っていたようだ。たとえば東ドイツから西ドイツへ一般人が旅行することは不可能だった時代に、ポーランド人は国の許可があればスイスに海外旅行をすることが可能だった。

 体制と実際のあり方が矛盾していようと、彼らは周りの国に合わせることなかった。苦難の中にあったとき、信仰を保ち続け、彼らに苦難を強いる存在から開放されることを諦めなかった。

 旧約聖書の詩編30章に「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」という1節がある。旧約聖書を聖典としたユダヤ民族も、長い苦難の歴史を歩んだが、国がなくなり迫害を受けた年月に民族を1つに結びつけていたのは、やはり信仰だった。ポーランド人もユダヤ人も、再び国土を持ち、迫害されることがなくなった今、若い人たちの信仰離れが進んでいるというのは、時代の流れがあるにしても興味深い事実だと思う。

 そういえば、私自身が『栄唱』を唱えていたのは、ずいぶんと昔のことになった。子供の頃、父親が双極性障害にかかった。今から思えばそれは病であり、しかも父が亡くなるまでの有限の困難であったが、当時の私にとってそれは永遠に続く逃れようのない苦難だった。ある程度ものごとがわかるような年齢になってから、一時期まじめに教会に通いロザリオを繰っていた。聖母マリアの加護を祈る『ロザリオの祈り』には、最後の方に『栄唱』を唱える。

 スイスに来てから、たとえ教会に行っても典礼で使われている言葉はドイツ語になり、自ら『ロザリオの祈り』でもしない限り『栄唱』を唱えることはない。そして、私は、もう長らくその祈りを唱えていない。私は、自由になり、困難も過ぎ去ってしまったから。

 切実でなくなれば忙しさに紛れて忘れてしまう、なんとも自分勝手で適当な信仰だ。人間のありがちなさが を、自ら見事に体現しているといっていい。だが、それだけでなく、私の中で信仰に対する姿勢が変わったことも、この変化に影響しているだろう。

 既にこのエッセイ集で何度か書いているように、私の信仰は、カトリックの教義からかなり外れてしまっている。もっともその教義そのものも時代によって揺れる。たとえば有名な免罪符は、もちろん現在では誤りだったというのが公式見解だし、布教目的の戦争も現在でははっきりと否定されている。同性愛や妊娠中絶などをめぐっては見解が揺れている真っ最中だ。

 少なくとも「自分たちの信仰だけが絶対の正義で、他は全部間違い」という偏狭な理屈は、教会にもなくなってきている。

 私の育った日本には、元来、他の信仰に寛容な風土がある。神道と仏教を同時に祀るおおらかさだし、その上で教会に連れて行き「賛美歌を歌え」といわれれば抵抗なく歌う人が多いと思う。「我が家のご本尊とは違うけれど、来たからにはこちらのお寺でも手を合わせておこう」に近い感覚で。

 一神教の原理主義を奉じている人たちには、これらは許されざる大罪だろう。神は唯一で、他のものを信じるのは偶像崇拝なのだから。

 でも、カトリックでは、「父(神)」と「子(イエス・キリスト)」そして「精霊」と3つも存在を同時に崇めている。それが『三位一体』という教義だ。(さらに聖母マリアや聖人たちにも取り次ぎを願うという形式をとっているが、ほとんど信仰しているに近い態度で祈る人が多い)

 子供の頃に、カトリック系の小学校に通っていた。宗教の時間、『三位一体』についてシスターから受けた授業のことは、今でもよく憶えている。こんな内容だった。
「『三位一体』とは、マヨネーズのようなものです。成分は油と酢と卵ですが、マヨネーズになると切り離せない1つのものになるのです。私たちは3柱の神を信じているのではなく、唯一の神を信仰しているのです」

 小学校低学年に説明するため、こうなったのだとは思う。だが、『三つ子の魂百まで』のことわざの通り、私の中での『三位一体』はいまだにマヨネーズのイメージだ。

 ギリシャ神話に出てくるような人間くささ全開の神は別だが、私は世界にあるどの宗教で信じられている存在もが、同じ『神』のみせる別の一面なのだと捉えている。大日如来像に手を合わせるときも、出雲大社で手を合わせるときも、バチカンのサン・ピエトロ寺院の中で手を合わせているときと同じ存在に手を合わせているのだと。

 マヨネーズをわずかにとりだして、油をみつける者も、酢の成分を見いだす者も、もしくは卵を見いだす者もいるだろうが、それはとりだした側の認識違いにすぎず、そこにあるのはマヨネーズという1つの存在。子供の頃に受けた教えを勝手に解釈を広げて、私は、世界の宗教や神の存在をそんな風に説明している。

 それゆえ、人間の作ったどの建物に、どれだけの頻度で通うのか、そのことに対してはあまり重要性を見いださなくなっている。その建物に通いその時だけ祈祷文を唱えるよりも、すべての生活においてどんな心を持って『善く』生きているかの方が大切なのだと思う。しかも、世界が自分にとって都合の悪いときだけでなく、都合がよくて楽しいときにも、『善く』生きることが大切なのだと信じている。

 それを願いながら見上げる空は、日本で見たのと同じように青い。風もまた同じように心地よい。「初めにありしごとく今もいつも世々にいたるまで」……。

(初出:2020年8月 書き下ろし)

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Hymn Do Trojcy Swietej (feat. Frederica Von Stade)

【歌詞はこんな意味です】

聖なる三位一体への賛美歌

燃える太陽が昇る
聖三位一体よ、汝は分かちがたい一つのもの
われらが心の中にある永遠の光
思いもよらぬほどの愛を放つ

われらは朝に汝を崇め
夕に汝にひれ伏さん
われらを汝のもとに召したまえ
天の聖人たちとともに

願わくは父と子と聖霊とに栄えあらんことを。
初めにありしごとく今もいつも世々にいたるまで、
アーメン。

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Posted by 八少女 夕

野良ニンジン

健康のため歩いていて、わかったことがあります。スイスの野の花は初夏から秋までほぼ同じものが咲くと思っていたのですけれど、そうではありませんでした。ずっと咲いている花もあるのですけれど、やはり順番があるのですね。

にんじん?

現在、一番咲き誇っているのが、今回話題にしている「ノラニンジン」です。英語では「Wild carrot」または「Queen Anne's Lace」というのだそうです。私は、iPhoneに植物の名前を同定するためのアプリを入れているのですけれど、それで初めて知りました。「ニンジンか! たしかに葉っぱはニンジンっぽいわ」

どうやら食卓でおなじみのニンジンの原種のようですが、ものすごい繁殖力で牧草地一帯に広がっています。

しばらく経つと農家が根こそぎ刈っていくのですけれど、私は少しだけ採って母の写真の前に供えます。他の野の花よりもずっと花持ちがいいのも、実際に採ってみて初めて知りました。
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -14- ジュピター

今日は「123456Hit 記念掌編」の第3弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、TOM−Fさんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: 絆
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: 『樋水龍神縁起』シリーズの女性キャラ
   コラボ希望キャラクター: 『天文部シリーズ』から智之ちゃん
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 木星往還船



ええと。わかっています。『樋水龍神縁起』だって言ってんのに、なんで『Bacchus』なんだよって。ええ。でも、『Bacchus』はそもそも『樋水龍神縁起』のスピンオフなのですよ。というわけで、「木星往還船」を使わなくちゃいけなかったので、紆余曲折の末こうなりました。あ、ちゃんと一番大物の女性キャラ出しているので、お許しください。(あの作品も、ヒロインはサブキャラに食われていたんだよなあ……いつものことだけど)

智之ちゃん、名前は出てきていませんが、ご本人のつもりです。三鷹にいるのは詩織ちゃんのつもりです。TOM−Fさん、なんか設定おかしかったらごめんなさい!


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -14- ジュピター

「いらっしゃいませ。……広瀬さん、いえ、今は高橋さん! ようこそ」
全く変わらない心地よい歓迎に、摩利子は思わず満面の笑みを浮かべた。

「お久しぶり、田中さん。早すぎたかしら?」
「いいえ。どうぞ、いつものお席へ」

 いつも座っていたカウンター席をなつかしく見やった。一番奥に1人だけ若い青年が座っていた。やはり、いま来たばかりのようで、おしぼりで手を拭きながら渡されたメニューを検討していた。

 久しぶりに東京を訪れた摩利子は、新幹線で帰り日中の6時間以上を車窓を眺めているよりも、サンライズ出雲で寝ている間に島根県に帰ることを選んだ。そこでできた時間を利用して午後いっぱいをブティック巡りに費やした。そして、大手町まで移動して出発までの時間を懐かしいなじみの店で過ごすことにした。
 
 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 かつて彼女は、今は夫になり奥出雲で彼女の帰りを待っている高橋一と、この店をよく訪れた。仕事が早く終わる摩利子が一の仕事が終わるのを待つ間、いつもこの席に座りマティーニを注文した。
「ジンを少し多めに。でも、ドライ・マティーニにならないくらいで」

 店主であり、バーテンダーでもある田中佑二は、にっこりと微笑みながら摩利子が満足する完璧な「ややドライ・マティーニ」を作ってくれた。結婚して東京を離れてから、飲食店を開業、さらに母親となり、なかなか東京には出てこられない日々が続き、この店を訪れるのは実に10年ぶりだったが、田中は全く変わらずに歓迎してくれた。それがとても嬉しい。

「今日は、お里帰りですか」
「うふふ。用事のついでにね。これから寝台で島根に帰るの」
「高橋さんは、お元氣でいらっしゃいますか」
「ええ。さっき電話して『Bacchus』に行くっていったら、田中さんにくれぐれもよろしくって言われたわ」
「それはありがたいことです。どうぞよろしくお伝えください」
「ええ」

 カウンター席の青年は、常連然とした摩利子と田中の会話を興味深そうに聞いている。

「今日は、何になさいますか。マティーニでしょうか」
メニューを開こうともしない摩利子に、田中は訊いた。彼女は、少し考えてから答えた。
「そうね。懐かしい田中さんのマティーニ、大好きだけれど、今日はほんの少しだけ甘くロマンティックな味にして欲しい氣分なの。夜行電車の向こうに星空が広がるイメージで」

 田中は、おや、という顔をしたがすぐに微笑んで、いった。
「それでは、メニューには書いてありませんが、ジュピターはいかがですか。マティーニと同じくドライジンとドライヴェルモットを基調としていますが、スミレのリキュール、パルフェ・タムールとオレンジジュースをスプーン1杯分加えてつくるのです」

 摩利子は、へえ、と嬉しそうに頷いた。

「ジュピター!」
カウンターの端に腰掛けている例の青年が大きな声を出した。

 摩利子と田中は、同時に青年のほうを見た。彼は、話に割り込んだことを恥じたように、戸惑っている。摩利子はかつて職場の同期の男の9割に告白をさせたと有名になった、自信に満ちた笑顔をその青年に向けた。

「ジュピターって、カクテル、初めて聞いたわ。あなたも?」
それは「会話に加わっても構わない」というサインで、それを受け取った青年は、ほっとしたように2人に向けて言葉を発した。

「はい。僕も……その、すみません、大きな声を出してしまって。今日1日、高校時代の天文部のことを考えていたので、ジュピターって言葉に反応してしまって……」
「まあ。天文部。私はまた、なんとかっていう女性歌手のファンなのかと……。ほら、『ジュピター』って曲があったじゃない? もしくは、なんとかってマンガもあったわよね」

「マンガですか?」
田中が、シェーカーに酒を入れながら訊いた。
「ええ。なんだっけ、プラなんとかっていう、木星に行く宇宙船の話」

「『プラネテス』木星往還船を描いたSFですね。NHKでアニメにもなりました。2070年代、宇宙開発が進み、人類が火星に実験居住施設を建設していて、木星や土星に有人探査を計画している、そういう設定の話でした」
青年が言った。

「さすがによく知っているのね。木星って、現実にも探査が進んでいるはずよね、確か。人間は乗っていたかしら?」
「いえ、無人探査です。現在は何度も周回して木星を詳細に観測するジュノーのミッションが進行中です」

「どうして降り立たないの?」
「木星の表面は固体じゃないし、常時台風が吹き荒れているようなものなんです。そもそも、ジュノーあそこまで近づくことも、長時間にならないように緻密に計算されているんです。強い放射線の影響で機器に影響が出ないように」

「放射線?」
「ええ。木星からはものすごく強い放射線がでているんです」
「そうなの?」

「では、木星の近くまで旅行するのも難しそうですか?」
田中に訊かれて、青年は笑った。
「今の技術では難しいですね。木星には衛星もあるし、たとえばエウロパには表面の分厚い氷の下に豊かな液体の海があって間欠泉と思われるものも観測されているんですが、木星に近すぎて放射線問題をクリアできないでしょう。一方、カリストくらい離れればマシのように思いますが、こちらには液体の水はないようです」
「そうなんですか。技術が進化すれば宇宙進出もできるというような単純な話ではないのですね」

「それに、たとえ、寒さや放射線の問題がなかったとしても、ちょっと遠いんですよ。僕たちが海外旅行を楽しむような氣軽さでは行けないと思います」
「どのくらい遠いの?」
「太陽から地球までを1天文単位っていうんですけれど、太陽から木星まではだいたいその5倍くらいあります。なので単純に一番近いときでも、太陽までの4倍ちょっとあります。以前計算したことがありますが、時速300キロの新幹線で行くとすると230年以上。時速2000キロのコンコルドで35年、時速2万キロのスペースシャトルで3年半ぐらいです。もっともその間も木星は動いているので、この通りというわけにはいきませんけれど」

「片道でそんな距離なのね」
「燃料、ずいぶんと必要なんでしょうね」
「そうですね。僕にチケットが払えないのは、間違いなさそうです」

 シェークを終えた田中が、カクテルグラスを摩利子の前に置いた。ほんのりとスミレの香りがする紫のカクテル。
「まあ、きれいね。それに……オレンジジュースのお陰なのかしら、爽やかな味になるのね」
「パルフェ・タムールは、柑橘系の果実をベースにしたリキュールですから、その味も感じられるのではないですか」

「それ、アルコールは強いですか?」
青年が訊いた。
「そうですね。マティーニのバリエーションなので、マティーニがお飲みになれれば……」
田中は言った。

 摩利子は、ということはこの客は初めてここに来たのだなと思った。何度かやって来た客がどのくらいの酒を飲めるのかを、田中はすぐに憶えてしまうのだ。

「せっかくですから、僕もその『ジュピター』をお願いします」
田中は微笑んで、再び同じボトルをカウンターに置いた。

 摩利子は、話を木星に戻した。
「じゃあ、スペースシャトルが格安航空券なみにダンピングされたら、木星往復ツアーなんてできちゃうかしらね。7年間、ほとんど車窓が変わらなそうでなんだけど」

 青年は、首を傾げた。
「どうだろう。7年で往復できるとしても、その時間、地球では、他の人たちが別の時間を過ごしていて、帰ってきたら浦島太郎みたいな想いを味わうんじゃないかな」

 摩利子は、にっこりと微笑んだ。
「7年なんて、あっという間よ。待っている人たちは、待っているわ」

田中が、そっと『ジュピター』を青年の前に置いた。青年は軽く会釈をして、紫のドリンクを見ながら続けた。
「『去る者日々に疎し』っていいますよね」

「そうねぇ。側に居て同じ経験を続けていないだけで疎くなってしまうのって、それだけの関係なんじゃないかしら。ほら、私、そんなにしょっちゅうは来られないけれど、『Bacchus』と田中さんは、私たち夫婦にとってとても大切なままだもの」
「恐れ入ります」

「それは……そうだけれど。星空だけを観ながら時間を止めたような旅をしている人と、その間もたくさんの他の経験をしている人との間に、認識の差が生まれてくることはないのかなって。離れている間に、どんどんお互いの知らない時間と経験が積み重なって、なんていうんだろう、他の誰かたちとは絶対的に違うと僕は感じている『何か』が、相手たちの中では薄れていくのかもしれない、なんて考えることがあるんですよ」

「それは木星旅行の話じゃなくて、現実の話?」
「まあ、そうです。高校の時に、いつも一緒だった仲間たちのことを考えています」

 摩利子は、なるほど、という顔をした。それからわずかに間をとってから言った。
「私たちね。私たち夫婦も、それに、ここにいる田中さんも……たぶん、もう帰ってこないだろう人を待っているの」
「え?」

 田中は、何も言わずに頷き、後ろにある棚を一瞥した。キープされたボトルのうち、定期的に埃がつかないようにとりだしているが、2度と飲まれないものがあった。彼は一番端にある山崎のボトルを見ていた。

 青年は、具体的にはわからないが、2人が示唆している人物の身に何かが起こったのだろうなと考えながら聞いていた。摩利子は、それ以上具体的なことは言わずに続けた。

「絆って、ほら、一時やたらと軽く使われたでしょう? だから、手垢がついた言い回しになってしまったけれど、でも、きっと、そういう時間や空間の違いがどれだけ大きくなっても変わらない、口にすることもはばかられる強いつながりのことをいうんだと思うわ」

 青年は「そうかもしれませんね」と、カクテルグラスを傾けた。わずかに頷きながら、確かに自分の中にある『絆』を確認しているようだった。

「僕は、高校まで兵庫県にいたんですけれど、それから京都に出てそれからずっとです。高校の時の仲間も、アメリカに行ったり、東京に出たり、みなバラバラになったけれど……確かにまだ消えていないな」

「あら。じゃあ、こちらに住んでいるわけじゃないのね」
「ええ。昨日から泊まりがけで研修があり東京に来ました。今日夕方の新幹線で帰るはずだったんですけれど、こちらには滅多に来ないし、明日は日曜日なので、先ほど思い立ってステーションホテルに部屋を取ったんです」

「そう。じゃあ、この店に来たのは、もしかして偶然?」
「はい」
「あなた、とてもラッキーな人ね。知らずにここを見つけるなんて」

 青年は、顔を上げて2人を見た。それから、頷いた。
「本当だ。ここに来て、話をして、そして『ジュピター』を飲んで。すごくラッキーだったな」

 それから、何かを思いついたように晴れやかに訊いた。
「あの、三鷹って、ここから近いんでしょうか」
「三鷹? 多摩のほうでしょう。山の中じゃなかった? 子供の頃、遠足に行った記憶があるわ」

 摩利子の言葉を田中が引き継いだ。
「確かに多摩ですけれど、山の中ってことはありませんよ。東京駅で中央線の快速に乗れば30分少しで着くのではないでしょうか」

 2人は、この青年が明日、『絆』を確かめ合う相手に連絡することを脳裏に浮かべながら微笑んだ。


ジュピター(Jupiter)
標準的なレシピ
ドライジン : 45ml
ドライヴェルモット: 20ml
パルフェ・タムール: 小さじ1
オレンジジュース: 小さじ1

作成方法: アイスカクテルシェーカーでシェイクし、カクテルグラスに注ぐ。



(初出:2020年8月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

もう戻りたくない

前回、「人生の下り坂にさしかかって」みたいな話題をしました。その記事を書いているときや、たまたま数日前に読んだ本の中に人生に関する記述があり、「後悔しない人生」というようなテーマに考えをめぐらせたのですね。

時間

本人としては、途中でサボりまくった記憶もないし、自分のできることを懸命にやってきた人生だとは思っているのですけれど、ふと周りを見回すとみなさん立派に大成していたりして、「あらあ……差が出たわね」と思わないこともないのです。高校時代や、大学時代の頑張りが違ったのか、その後なのか、そもそもキャパシティや素材が違ったのか、その辺はわかりませんけれど。

とはいえ、時間のリールを巻き直して、もう1度たとえば10代前半からやり直したいかと問われれば、私の答えは「ノー」ですね。あの時代に戻ったら、「あの時間はこう使うし、こんなこともしただろうし、あれは無駄だったから手を出さなかったし」ということはあるのですが、それでも、もう戻りたくないです。

それは、この8年間にしてもそうで、このブログのサイドバーを見ても思います。こんなに書いたんですよ。今ならもっといいものが書けるかもしれないけれど、これをまた1から書くなんて、本当にごめんです。

同様に、体験した1つ1つのこと、積み上げてきたすべてのことを、またはじめからやり直すのは、勘弁願いたいです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(1)新しい腕輪

今日から『Filigrana 金細工の心』の連載を開始します。本当は、123456Hitのリクエストをすべて発表してからと思っていたのですが、大人の事情で(単に書き終わらなかっただけ)こちらを先に上げます。

第2作『Usurpador 簒奪者』は主に30年ほど前の事情を取りあげていましたが、この作品は、第1作『Infante 323 黄金の枷 』の直接の続編という位置づけです。ただし、前作のヒロインだったマイアは、今回の記述を最後にヒロインの座を明け渡し、表舞台から引っ込みます。最後なので、サービス(誰への?)で、沐浴シーンです(笑)



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(1)新しい腕輪

 その夜、23の髪を洗っている時にマイアがふざけて突然腕を出した。23はとっさにそれをよけて脇にどいた。バスタブに落ちそうになったマイアを支えようとして、結果として23は大量の湯を跳ねさせてしまい、服を着たままのマイアはびしょ濡れになった。2人は顔を合わせて愉快に笑った。
「着替えてくるね」

 23は泡だらけの髪を指して「このまま?」と訊いた。
「だって、このままじゃ風邪引いちゃう」
マイアが重くまとわりつく服を見せると、23はマイアの腕を引っ張った。
「お前も一緒に入ればいいじゃないか」

 マイアは顔を真っ赤にして「えっ」と言った。彼にはマイアが今さら恥ずかしがる理由が全くわからないようだった。最終的に彼女も23のいう事に理を見出して、「後ろを向いていてね」と念を押してから、濡れた服を脱いで広いバスタブの23の横にそっと滑り込んだ。

「お風呂、2人で入るの、はじめてだね」
マイアがいうと、彼は彼女の肩に腕をまわしてそっと顔を近づけてきた。
「そういえばそうか」

 いつもよりずっと長くなってしまった入浴を終えて、その後、びしょびしょになっていた浴槽の周りを2人で笑いながらピカピカにしてから、ベッドに横になったのは11時近かった。

 23の胸にもたれかかるように眠っていたマイアは、彼が身を起こすのを感じて目を覚ました。
「どうしたの。私、重かった?」と目をこすりながら訊いた。

 23はマイアの唇に人差し指を置いて、それから部屋のずっと先にあるドアに向けて声を掛けた。
「何があった」

 するとドアの向こうからメネゼスの声がした。
「このような時間に誠に申しわけございません、メウ・セニョール。大変恐れ入りますが、至急お越しいただきたいのです」

「すぐに支度するので、待ってくれ」
そう言うと、23はベッドから出ると服を着て、ドアの方に向かった。途中で引き返してくるとマイアに言った。
「待たずに寝ていていい。遅くなるかもしれないから」

 それから耳に口を近づけてメネゼスに聞こえないように言った。
「寝間着は着ておいた方がいいぞ」

 マイアは真っ赤になって頷いた。23が出て行き、2人の足跡が階下へと消えていってから、マイアは急いで寝間着を着た。それからシーツをかぶりながら考えた。こんな時間にどうしたんだろう。今までこんなこと1度もなかったのに。窓の鉄格子から月の光が射し込んでいた。寝ていいと言われたけれど氣になるな。彼女は寝返りを打った。

 それでも、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目が覚めたのは、階段を上がってくる2人の足音を聞いたからだ。
「朝、またお迎えに参ります」
「お前は何時に起きるんだ?」
「いつも通り5時に」
「では、6時に起こしにきてくれ」
「かしこまりました、メウ・セニョール」

「それから、朝一番で24とアントニアに知らせるように」
「かしこまりました」
「クリスティーナはしばらく業務から外してやってくれ。必要ならマイアに手伝いを」
「かしこまりました。朝、ミゲルに連絡をしてマティルダにも手伝いにきてもらうように手配いたします」
「そうしてくれ」
「おやすみなさいませ、メウ・セニョール」

 ドアが開き、23がしっかりした足取りで入ってきた。マイアは23の側のサイドテーブルの電灯をつけた。時計の文字盤が見えた。針は2時半を指していた。
「どうしたの」

 23は口を一文字に閉じたまま、サイドテーブルに鍵の束を置いた。マイアはびっくりした。彼が鍵を持つことを許されたことはなかったから。このような鍵の束をメネゼスがいつも使っていた。

 不安そうに見上げるマイアをじっと見つめると、23は服を着たまま突然ベッドに載ってきてマイアの胸に顔を埋めた。マイアは、えっ、こんな時間にするの、寝間着を着ろと自分で言ったのに、と思ったが、彼はそのまま肩をふるわせていた。やがて絞り出すような声が漏れてきた。
「アルフォンソ……アルフォンソ……」

 寝間着に涙が沁みた。マイアにも何があったのかわかった。ドン・アルフォンソが亡くなったのだ。とっさに彼女の右肩をつかんでいる23の左手首を見た。黄金の腕輪の手の甲の側、これまで何の飾りもなかった所に1つ青い石が増えていた。

 マイアは鍵の束の意味を理解した。23は、たった今ドン・アルフォンソになったのだと。
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