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Posted by 八少女 夕

【小説】西の塔にて

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第9弾です。山西 左紀さんは、連載作品でご参加くださいました。ありがとうございます!

 山西 左紀さんの『白火盗 第四話』

左紀さんの今年の2作品目は、ことしの1つめの参加作品と同じ『白火盗』からです。

というわけで、お返しの作品はこちらも前回のお返しで使った世界観をそのまま使うことにしました。サキさんの使われたあるシチュエーションもつかっていますが、それ以外はまったく関係のない話です。ご了承ください。

コメントで「オットーを身代わりにしてハンス=レギナルドは、どこに逐電していたのか」とのご意見を何名からかいただいたので、その答えを(笑)


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西の塔にて
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 暗い城内を歩くとき、床石が硬い音をたてる。彼は眉をひそめた。

 普段彼が住む城塞では、石材よりも木材が多用されている。辺境であり、石材を運ぶのに必要な人足や石工が足りないこともあるが、何よりも王都ヴェルドンにはない膨大な木材の供給源があるからだ。

 常に雪を抱く《ケールム・アルバ》の麓はどこまでも続く森林であり、あまりにも広大で比するものがないゆえに単に森を表す《シルヴァ》と呼ばれている。

 辺境伯とは名ばかり、彼が治めることになった土地は、ほぼ未開の地だった。だが、少なくとも彼は王都ヴェルドンにいてその任に就いたときからそのことをよく理解していた。国王がこの困難な任務に彼を選んだのは、ただ単に彼を氣に入っていたからだけではない。

 彼は、尊い家系に生まれたひ弱な貴族ではなかった。遠くルーヴラン王国に属する地方領で馬丁として少年時代を過ごした。

 彼が騎士に叙任され異国の王に仕えるようになるまでには、それだけで吟遊詩人が一生困らぬほどの長い物語になる紆余曲折があったのだが、彼が祖国を去った原因についてはたったひと言で済む。領主バギュ・グリ候の令嬢が遁走した咎を追わされたくなかったからだ。

 彼女は、彼のかつての主人であり、初恋の相手でもあり、型破りな男姫ヴィラーゴで、ジプシーに加わり遁走する迷惑極まりない女で、しかも恋焦がれて止まない愛人でもあった。

 王都ヴェルドンの城の中を、奇妙な服装で深夜歩き回ることになったのは、まさしくその男姫ヴィラーゴのためだった。

 それでも、一昨夜の国王との会話がなければ、こんな危険な行動には出なかっただろう。

 国王の婚儀のために領地から集まった諸侯たちは、婚儀の前夜に特別の宴でもてなされた。彼が諸侯の1人としてもてなされるのは初めてであり、以前のように近くで親しく話をする機会はないと思っていた。

 実際、彼の席は国王からは遠く、その席順を見たヴァリエラ公爵は満足そうに笑った。出自の怪しい異国人が国王に重用されることに大きな警戒心を剥き出しにしていたからだ。

 彼は、もう以前とは違うのだと思った。フルーヴルーウー辺境伯としての爵位と領地、有り余る野心と才覚を向ける新しい活躍の場と引き換えに、彼は国王との奇妙なほどに近かった絆を失ったのだと。

 だが、深夜が過ぎ、諸侯たちの多くが酔い潰れた時刻に、彼は国王がわざわざ彼の元に歩いてくるのを見た。

 国王レオポルドは、不思議な人物だ。背の低さも、醜悪に近いほどの面立ちも、1度たりとも彼に嫌悪感を抱かせなかった。その強い眼光は、どのようなときも変わらない。そして、蠟燭と牛脂灯の鈍い灯の中でも、歩み来る彼の姿からは力強いエーテルが放たれているように感じられた。

 彼の隣で先ほどまで浴びるように飲んでいたノルム伯は、酔い潰れて祝卓に突っ伏していたが、ついに椅子からずり落ちて床に転がった。国王は、その寝姿をちらりと見てから、空いた椅子を引いて彼の隣に座った。

「そう。久しぶりだがあいかわらずだな、ハンス=レギナルド。ノルム伯と変わらぬほど飲んでいたようだが、顔色ひとつ変えぬとは」
「恐れ入ります。陛下こそ、もっとたくさんの祝杯をあげておいででしたが……」

 レオポルドは、緊張して立つ給仕に目で指図をして、2つの杯を満たさせた。

「おや。その袖か。フルーヴルーウー流とやらは」
国王は愉快そうにハンス=レギナルドの胴着の袖を見た。肩の膨らんだ部分を1度絞った位置から、長い袖が装飾用についているが、非実用的なためハンス=レギナルドは、これを縦に切って縫製させ下の胴着の袖を同色の糸で刺繍させたものを露出させた。

 これが宮廷の貴婦人たちの間で評判となり、彼が領地に赴任してヴェルドンの宮廷から去った後も大流行した。お堅いヴァリエラ公が風紀の乱れを懸念して進言したため、しばらく禁令が出たほどだ。

 ハンス=レギナルドは、諸侯たちに睨まれようと氣にも留めず、好きな礼装で今夜の宴に参加した。国王もそのフルーヴルーウー辺境伯の振る舞いを可笑しく思い楽しんでいる。2年会わなかったとはいえ、国王との信頼関係は揺るいでいない。

「この度は、誠におめでとうございます」
「うむ。よく来た。こんな折りでもなければ、そなたは戻らんだろうから、楽しみにしていたぞ」

 2人は杯を重ねて強い酒を飲み干した。給仕はあわてて2人の杯に蜜酒を注ぐ。ハンス=レギナルドは、かつてのように軽口を叩いた。
「それにしても、実に殺風景な祝宴でございますな。華が欠けております。……それも無理もないこと、今宵までは花嫁様も、高貴なる乙女の皆様も、敵国の姫ぎみ。しかし、婚礼がお済みになった明日には、みなさま方をご紹介いただけますか」

 それをいった途端、国王の顔は曇り小さな声でつぶやいた。
「いや。ブランシュルーヴを西の塔からは出さぬつもりだ」

 ハンス=レギナルドは、心底驚いた。
「それはいったいどういうわけで? なにかあちらの策謀でも?」

「そうではない。ただ、あれの姿をどのような男にも見せたくないのだ。あれの手を望み、欲しがろうとする男にとって、盗み取るのはさほど難しいことではあるまい」
そういうと、レオポルドは拳を強く握りしめた。

 ハンス=レギナルドは、不思議そうに彼の主人であり親友でもある男を眺めた。
「強い自信と求心力をもつあなた様を、王妃様がそこまで臆病にしたとは驚きましたね。陛下はかのイーラウ嬢をはじめお美しいご婦人方をいくらでもご覧になり、手に入れていらっしゃったではないですか」

 レオポルドは、小馬鹿にするように笑った。
「イーラウだと? 比較対象にもならん。あれは……ブランシュルーヴはまったく違うのだ。美しい造形が豪奢な布で着飾っているだけではない。まるで太陽のように強い光を放ち、すべてが霞む。もうこの世に、他の女など存在しないかのようだ」

 ハンス=レギナルドは「ほう」といって頷いた。
「しかし、姫はルーヴランの女官であった4人の高貴なる乙女たちをお連れになってのお輿入れと伺いました。おそらくは、4人とも陛下の愛妾とさせ、グランドロンとルーヴランの絆をより強固なものにするために……」

 その4人については、家名だけが伝わっていた。ヴァレーズ伯、マール・アム・サレア領主、アールヴァイル伯に加えて、彼の出身地であるバギュ・グリ候の令嬢たちだ。

 バギュ・グリ令嬢については、愛妾アデライドの連れ子クロティルデだろうと予想していた。バギュ・グリ候テオドールには候子マクシミリアンと候女ジュリアの他に子はなく、かのジュリアはジプシーと共に出奔して行方不明になっていたからである。

 国王は、4人の高貴なる乙女のことを促されて、鼻で笑った。
「あの女たちを愛妾に? なんの冗談だ。わざわざ王妃の不興を買えと? そもそも、どんな女たちかすら、憶えておらぬ。……いや、もちろん、1人は別だ。だが、いずれにしろそのような対象ではない。氣味が悪い女でな」

「氣味が悪い? 高貴なるご令嬢が?」
ハンス=レギナルドは、いままで国王が女にそのような評価を下したのを訊いたことがなかったので意外に思って訊いた。

「ああ。奇妙なことに、ブランシュルーヴがもっとも信頼しているのが、その女でな……そうだ。バギュ・グリは、そなたの出身地ではなかったか? 候女を知らないか? 美しいが、夜に蠢く獣みたいに残忍な顔つきをした姫だぞ」

 ハンス=レギナルドは、それから彼がどんな受け答えをしたかすら憶えていない。それはクロティルデではあり得ない。親のいうことには一切逆らわない、清楚で退屈な少女が、たった数年でそのような女に変貌するはずはない。

 ハンス=レギナルドの人生で、国王が描写したような特性を持つ女は、たった1人だった。そこにいるはずのない女、しかしながら紛れもないバギュ・グリ候女、男姫ヴィラーゴジュリアその人だ。

 西の塔には、いつもの3倍の護衛兵がいて、見つからずに通過することはできない。彼らは「どのような男も決して通してはならない」と厳命されている。

 だから、彼は修道女の服装を身につけてきた。彼にこの服を貸してくれた修道女は、あいにく見かけほどは慎ましくない。夫亡き後、修道院に入ったものの、彼の誘惑に軽々と応じ、彼がグランドロン王国の騎士となるのに十分な金銭的支援を申し出てくれた女だ。

 暗いとはいえ、女の服装だけで易々と地階の護衛を騙すことができたのは、彼の類い稀な美貌の恩恵だろう。護衛たちは、美しく清楚に見える修道女に戸惑い、問いかけることもなく彼を通してしまった。わずかな手振りをしただけで、《沈黙の誓い》を守っている慎ましい修道女だと勝手に判断してくれた。

 だが、難しいのはこれからだ。地階の護衛たちは新しく、まだ彼の顔をよく憶えていなかった。だが、上の階に行くたびに護衛の騎士は古参で忠誠心に篤い者らが固めるであろう。

 西の塔には、中心に円形階段があり、下からいくつかの広間と部屋が用意されている。最上階はもちろん王と王妃が休む広間と寝室だが、彼はそこに行くつもりはない。しかし、4人の高貴なる乙女たちがどこに部屋を与えられているのかまでは調べられなかった。

 バギュ・グリ候女がもっとも王妃の信頼が厚いというのならば、最上階に一番近い場所が妥当であろう。そこまでたどり着けるであろうか。

 円形階段を上がると2人の騎士が大きい木造の扉を守って立っていた。扉は開き、中の侍女が騎士の1人と話している。もう1人の騎士がこちらに向かって大股で歩いてきた。
「止まれ。お前は何者だ!」

 またしても《沈黙の誓い》の手振りで押し切れるだろうか、そう思ったとき、女が言った。
「お待ちください。その方は、伯女様のためにわたくしが呼んだのです。失礼の無きように」

「それは失礼いたしました。どうぞ」
2人の騎士は最敬礼をして、ハンス=レギナルドを通した。

 女は素早く彼を扉の内側へと連れ込むと、すぐに扉を閉めた。そして、声をひそめて囁いた。
「ハンス=レギナルド様! いったいここで何をなさっているの?」

 顔を見ると、それは宮廷騎士時代によく通っていた侍女だった。
「マルガレーテ! 君は今、ここに勤めているのかい?」
「ええ。アールヴァイル伯女様のお世話をおおせつかっているの。ハンス=レギナルド様こそ、いったいどうなさったの……」

 ハンス=レギナルドはみなまで言わせなかった。
「それは本当か。高貴なる乙女の皆様……いやバギュ・グリ候女様はこの部屋の奥に?」

「そんなわけあるでしょうか。ここはわたしたち侍女がご用事の準備をするための部屋で、候女様は王妃様のひとつ下、他の3人の姫様方はその下の階にご滞在なさっているわ。まさか、候女様のご寝所をお訪ねになるおつもりでしたの?」

 彼は、あっさり認めていいものか迷って口をつぐんだ。
「どんな事情があるかわかりませんけれど、今あそこに忍び込むなんて、正氣の沙汰ではありませんわ。いつ王様がお訪ねになるかもわかりませんのに……」

「なんだって? 候女様たちのところに陛下が? 昨日婚儀をすまされたばかりだというのに?」
氣色ばむハンス=レギナルドを見て、マルガレーテはよくわかったと言いたげな顔をした。

「まあ、ご心配にはおよびませんわ。王様だけでなく王妃様もご一緒にですもの。王妃様はこの西の塔から一歩も出られないので、大切なご友人たちを訪れるくらいの自由は王様もお許しになったのですわ。でも、王妃様とわずかの間でも離れたくない王様は、一緒に行かれるのです」

 ハンス=レギナルドは、上を見上げて「やれやれ」と言った。
「ところで、なんとか護衛兵に見つからないように候女様の部屋に行く方法はないかな」

 マルガレーテは、わずかに口を尖らせて言った。
「……つまり、わたくしが手引きするんですか。ご褒美はなんですの?」

 彼は、悪びれずに笑みを見せた。
「明日、水仙の咲く庭園の東屋で会おうよ。フルーヴルーウーの緑の水晶を知っているかい? 君が身につけたら綺麗だろうな」

 彼女は、「仕方のない方ね」と肩をすくめ、侍女しか使わない裏階段へと彼を案内した。

 細い螺旋階段を3階層ぶん登ってから、廊下を進む。かなり遠くに、この階への侵入者や客人を阻む護衛兵たちの立つ戸口が見えた。マルガレーテは口元に人差し指をあてて、奥の大きな樫の扉を示した。

「どうなっても知りませんからね。わたくしは仕事に戻らなくては」
そう耳元で囁くと、急いで元の道を戻って去って行った。

 ハンス=レギナルドは、意を決したように樫の扉に向かい、静かに扉を開けた。鍵はかかっていない。さっと入ると扉を閉めた。

 侵入者に氣づき声を上げられても困るので、小さな声で呼んだ。
「ジュリア様」

 その途端、奥から声がした。
「ほら。いったとおりであろう。余の勝ちだ、ブランシュルーヴ」

「まあ。なんてことでしょう。あなた様の部下は、皆こんな風に考えなしに行動するのですか、陛下」
涼しやかな女の声が響く。

「そなたの国の候女も負けず劣らず考えなしだと思うが、ちがうか?」
愉快そうなその声の持ち主はよく知っている。

 目をこらすと、奥の緞帳の影に国王レオポルドと、濃いヴェールで顔面を隠した高貴な服装の女性、おそらくブランシュルーヴ王妃が座っている。

「なんという格好だ。そなた、いつ修道院に入ったのだ。……まあ、女のなりも、それなりに似合うな」
レオポルドは蠟燭を掲げて、ハンス=レギナルドを見たのでその顔が目に入った。かなり呆れた表情をしている。

 暗闇の中で目をこらしてあたりを見ると、マルガレーテと同じような侍女の服装をした女が2人ほど横たわっている。王と王妃の前だというのに。

「ここはバギュ・グリ候女様のお部屋では……」
ハンス=レギナルドは、衝撃からやっとのことで立ち直り、それだけ口にした。

「一昨日と昨日のそなたの様子から、絶対に今宵来るとわかっていたぞ。それで王妃と賭けをしたのだ。王妃は、わざわざ捕まりに来る愚かな家臣がいるなど信じられぬ様子だったがな。それで、一緒に来て確認しようとしたら、なんと肝心な候女までいない。……いつのまにか別の場所で逢い引きの手配をしていたのかと呆れていたところだ」

 ハンス=レギナルドは、肩を落とした。ジュリアが抜け出した。もしかしたら、彼を探しに出かけたのかもしれない。すぐに戻りたいが、国王夫妻に侵入が露見したこの状態で、無事に西の塔を出られるとも思えない。

「わたくしの負けですわ。でも、陛下。この西の塔は、簡単に出たり入ったりできるのですね」
王妃は楽しそうにいった。

 レオポルドは、彼に訊いた。
「そんなに簡単だったのか?」

 ハンス=レギナルドは、首を振った。
「たまたま顔を知った衛兵がおりませんでしたので。《沈黙の誓い》の手振りで、声を出さずに済んだことも幸運でございました」
罪に問われるにしてもマルガレーテの協力のことは、なんとか隠したままにしておきたい。

「それにしても、候女様がここを抜け出せるとは思ってもいませんでした」
横たわっている侍女たちを見ながら彼はつぶやいた。

「この侍女らと余たちが朝までぐっすり眠っているあいだに、何食わぬ顔で戻っているつもりだったのではないか?」
王が笑いながら答えたので、ハンス=レギナルドはぎょっとして2人を見た。

「わたくし付きの侍女たちもだらしなく寝入っていますよ。わたくしたちには、その手の薬が効かないことは、ジュリアったら知らなかったのね」
王妃も楽しそうに笑う。

 ハンス=レギナルドは、深いため息をついた。ジュリアならばジプシー由来の得体の知れない薬を持っていても不思議はない。だが、異国に着いたばかりの身で、王と王妃にまで薬を盛るとは無謀すぎる。命がいくつあっても足りない。

「まあいい。今回のことは、そなたとの因縁に関連がありそうな上、王妃が候女がそのような女であることは織り込み済みで、それでも側に置き続けているという以上、余も騒ぎ立てるつもりはない。だから、衛兵たちを呼ばなかったのだ。だが、それだからこそ、こそこそバギュ・グリ候女に逢いに来た理由については、話してもらうぞ」

 意外な成り行きに、ハンス=レギナルドが返答を整理しようと考えていると、レオポルドはそれを待たずに王妃の方を向いた。
「……ブランシュルーヴ、そなたは候女から何か聞いておるのか?」

 王妃は、ヴェールの向こうから鈴のような笑い声を響かせた。
「いいえ。あれは、他の女官たちのようにはいきません。質問しても答えたいことにしか答えませんし、こちらの思うとおりに動かすことはできません。こちらが訊かなくても悩みや昔話を語りたがる女はいますが、ジュリアはそのような者でもありません。……それでいて、たまに語る経験譚ときたら、どんな物語よりもおもしろいのですわ」

「その中に、美貌の騎士の話はなかったのか?」
国王が愉快そうに訊くと王妃は首を振った。
「いいえ。でも、美貌の馬丁の話はありました。女とみたらすべて手を出す手のつけられない好色家なのに、彼女の身持ちの悪さについて説教をしてくる男……身に覚えがありますか? フルーヴルーウー辺境伯どの」

 ハンス=レギナルドは、憮然として答えた。
「ございますし、わたくしのことでしょうが、女のすべてではございません。それは、陛下が保証してくださるでしょう」

 国王は笑った。
「たしかにすべてではないな。だが、数が多いことはまちがいない。なあ、ハンス=レギナルド、そなたにいい報せがあるぞ」

「この首と胴体が離れずに済むという報せ以上のよきものでしょうか」
彼にも軽口を叩く余裕が戻ってきた。

「場合によってだがな。どうやら、候女もまた、そなたがこのヴェルドン宮廷にいることを知ってから浮き足立っていたというのだ。そうであろう、ブランシュルーヴ?」

 夫の問いかけに王妃もまた笑って答えた。
「はい。昨日の婚儀で、廷臣の皆様にご紹介いただいた時以来、ジュリアはずっと上の空でした。もちろん、他のものには氣づかせませんでしたが。あの時は、フルーヴルーウー伯爵殿と、それともその部下のヴォルフペルツ殿のどちらがジュリアを動揺させたのかわからなかったのですけれど、今夜はっきりしました」

 レオポルドは、ハンス=レギナルドに言った。
「さて、せっかくだから、このままここで候女が戻るのを待とうではないか」

 ハンス=レギナルドは、眉をひそめた。
「ジュリア様は、動揺して許しを請うようなことはなさらないかとおもいますが」

「そうだろうな。だが、そなたが領地に帰る前に、上手く話をまとめてやる機会はもうなさそうなのでな。そなた、そろそろ伯爵夫人がほしいところであろう?」
レオポルドは愉快そうに言った。

「懲罰ではなく、そのような恩寵をいただく理由がわかりませんが」
ハンス=レギナルドは、困惑していった。

「そなたが王妃に色目を使わなければそれでいいのだ」
国王は冗談とも本氣ともわかりかねることを言った。

「そなたがこの国に来て、騎士となり、武功を立て、ついには辺境伯にまでなったのも数奇な人生であったが、バギュ・グリ候女もまた波乱に満ちた境遇を経てこのブランシュルーヴに仕えることになり、この国にたどり着いたのだ。このまま再会せずに終わるのは天の意思にも反すると余は思うのだ、そうではないか?」

そう言って近づいてきた国王は、彼の修道女の服装を掴みながら笑った。
「もっとも、これではあまり絵になる再会とも思えんがな」

(初出:2024年3月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

ケチャップ麹つくった

手作り調味料の話です。

ケチャップ麹

発酵調味料をいろいろと手作りしている話は、過去にも何回か書きました。作ってみてあまり使い勝手がよくなかったものはリピートしないようにしています。現在、リピートしているのは醤油麹とコンソメ麹、そしてにんにく麹です。

麹は、乾燥麹を日本から送ってもらったものを使っています。1キロもあればしばらくは持つんですよね。

どの麹調味料も発酵が終わった時点でもう1度ブレンダーにかけて米粒がないように滑らかにしています。そうすると和洋中華、どの料理に使っても違和感がないのですよね。

そして、今回初挑戦したのがケチャップ麹です。ケチャップには大量の砂糖をはじめとしていろいろと謎のものが入っているので使う度に「いいのかなあ」と罪悪感があったんですよね。

それで、砂糖は入れなくても麹パワーでほんのり甘いと聞きつけて、ケチャップ麹を作ることに決めたのです。いろいろな作り方があるようですが、現在は生トマトが手元にないので(味がないので冬にトマトは買わない主義)、トマトジュースを使う作り方にしてみました。

分量はトマトジュース330ml(というものを使ったけれど、25mlでもいけるかも)、米麹100g、塩35g、小さい玉ねぎ1個、ローレル1枚です。

トマトジュースと塩と麹だけでもいいらしいのですが、トマト麹ではなくケチャップぽくしたいので、玉ねぎも入れて発酵しています。ローレルは香り付けに。

ヨーグルトメーカーなどを使って短時間で作ってしまう方法と常温発酵がありますが、わたしはいつも常温発酵で作っています。日本では(特に夏場は)常温発酵は難しいのかもしれませんが、スイスは室内の温度は年間を通して一定しているので、ズボラなわたしでも失敗したことはありません。

ケチャップ麹

というわけで、1週間発酵させてから、ブレンダーで滑らかにしたのがこちら。

米粒も一緒にペーストにしてしまったので、色はケチャップ風ではなくてオーロラソース風ですね。真っ赤なのがいい方は、ペーストにはしない方がいいのかも?

できたものをひと口食べてみた感想は、ケチャップよりもまろやかで、どちらかというとケチャップを使って作ったクリームソース系? 旨味もあるし、塩味もあるので、このままソースとして使えそうです。

これでケチャップを買わずに済むようになったらいいなあ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】王女さまと黒猫が入れ替わったお話

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第8弾です。もぐらさんは、オリジナル作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

もぐらさんが書いて朗読してくださった作品「第714回 貧乏神様と福の神様のとりかえっこ」

もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。

今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品群です。貧乏神のシリーズとはいえ、毎年、とてもハートフルなエンディングでお正月にふさわしい素敵な作品ばかりです。

今年の作品は貧乏神さんと福の神さんが取り替えっこするというお話です。もぐらさんのところの神様たちは、とても親しみやすくて、お互いを羨んでないものねだりをしつつも、自分の元の立場が悪くなかったことも学んで楽しく戻っていきました。

さて、お返しの作品は、いつもは『Bacchus』か『樋水龍神縁起 東国放浪記』のお話で作ることが多いのですが、今回はまったく違う、西洋のお伽噺風ファンタジーで作ってみました。もぐらさんのところのお2人と違って、入れ替わる2人も、他の登場人物もかなり残念なタイプですが、そこはわたしの作品だからみなさんご存じですよね。


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王女さまと黒猫が入れ替わったお話
——Special thanks to Mogura san


 ある日、王女は西の塔に赴きました。

 この塔はゲオルク・ケミアスという名の魔術師が、真夏でも大きな鍋を火にかけて、氣味の悪い薬品をあれこれと混ぜて錬金術に励んでいます。

 王女が入ってきたというのに、ひれ伏すどころか振り向きもせずに、鍋の中身を見つめてブツブツ何かをつぶやいています。

 鍋の脇には、少年がいて魔術師に言われるままに大きな棒で鍋の中身をかき混ぜていました。

 「ケミアス、おまえに命令があります」
王女は、精一杯の威厳を込めて言いました。

 ケミアスは、嫌そうに振り向くとおざなりに頭を揺らしました。
「これは殿下、ごきげんよろしゅう」

「いいこと。聞きなさい。命令があるのよ」
王女は声を張り上げました。魔術師は、しかたなく王女の方に向き直ります。
「なんでございますか」

「わたしを猫にしてちょうだい」
王女は、言いました。ケミアスは、一瞬だけぽかんと口を開けて王女を見つめましたが、すぐに頭を振りました。
「それはできません」

「なんですって。おまえは、この国で一番の魔術師で、この西の塔で錬金術とやらの研究をするのに多額の費用を使っているじゃないの。それなのに、王女であるわたしの命令を拒否するつもり?」

 魔術師は、まず少年に向かって「ヨハン、手を休めるな」と言ってから王女に向き直りました。
「そもそも、なにゆえ猫になられたいのですか」

 王女は、ここぞとばかりにまくし立てました。
「朝から文法や修辞学に弁証法と、たいくつな講義を聴く毎日がウンザリ! 算術や幾何学なんて何を言っているのかわからない。ようやく終わったかと思ったら、ダンスに刺繍に糸紡ぎよ。猫は、食べて寝て遊んでいるだけだもの、そっちの方がいいに決まっているわ」

 魔術師は、頷きました。
「それはお氣の毒です。ただ、あなた様は、王様と王妃様のただひとりのお世継ぎ。食べて寝て遊んでいる猫になられては、みなが困ります。王様もお許しにならないでしょう。わたくしめを雇っているのは王様ゆえ、王様の命令以外のことはできかねます。女王様になってから命令なさいまし」

 王女は、ひどく腹を立てていたので、叫びました。
「わたしが女王になったら、おまえの首をちょん切るように命令するわ」

 王女が出ていって、静かになったので魔術師ケミアスは「やれやれ」と言って仕事を続けた。ヨハン少年は心配そうに言いました。

「お師匠様。あんなに怒らせていいのですか」
「できないものは、できないのだ。あきらめてもらうしかないだろう」

「お師匠様の力でもできないのですか?」
弟子の納得いかない顔を見て、魔術師は言いました。
「よいか。王女殿下はわしと同じくらいの背丈があり、この盥20杯分ほどの重さだ。それを盥1、2杯ほどの猫に変えたとして、残りはどこに消えるというのだ。捨てればいいのか」

 弟子はなるほどと思いました。錬金術も無から黄金を作り出すのではなく、さまざまな金属や無機物を溶かしたりかき混ぜたりすることで、もともとの物質と同じ質量の金を作ろうとしています。

「心配するな。殿下も女王になったら、猫になったり魔術師の首を切ったりするより重要なことがあるとわかるであろう。わしは、王様に呼ばれているので、執務室に行ってくる。おまえは、しっかりと鍋をかき混ぜておくのだぞ」
そういうと師匠は、塔から出ていきました。

 ヨハンは、師匠ケミアスほど楽観的ではありませんでした。王女が女王になる頃には自分が魔術師として首をちょん切られる立場に置かれるのではないかと思ったのです。不安に思いながら、鍋の中身をかき混ぜていました。

「もうし。お頼みします。あなたが魔術師ケミアスさんですか」
入り口から小さな声がしたので、振り向くとそこに小さな黒猫がいました。

 ヨハンは、猫が口をきいたので驚きましたが、偉大なる師匠の名誉のために大きく首を振りました。
「ちがいます。ぼくは弟子です」

「そうですか。むしろ、そのほうが好都合……いや、なんでもありません。ひとつ、頼みをきいてくれませんか」
猫はもったいぶって言いました。

「頼みとはなんですか?」
「なに、ちょいと魔法を使って、わたしを人間に変えてほしいんですよ」

 ヨハンは、驚きました。師匠にもできないことを、どうして彼ができるというのでしょうか。
「それは無理というものです。そもそもなぜ人間になりたいのですか?」

「ああ、想像してみてくださいよ。わたしは、王女さまと王妃さまの部屋を行ったり来たりして過ごしているのですがね。2人とも、キラキラする首飾りやら、色とりどりの羽根飾りを山のように持っているのですよ。しかも、それらを毎日使いもしないのに、毎週のように行商人から新しいのを届けさせているのです。あれらすべてにじゃれついたら楽しいじゃないですか。それに、肉や魚が次々と出てくる晩餐! 2時間もかけて楽しめるんですよ。すてきじゃありませんか」

 ヨハンは、晩餐のあたりは少し羨ましいと思いましたが、羽根飾りにじゃれつくとはどういう意味なのかがよくわかりません。一生懸命に師匠の真似をして言いました。
「人間はあなたの20倍ほどの重さがあるのです。足りない分は、どこから持ってくるというのですか。無理を言わないでください」

 猫は、ニヤリと笑いました。
「大丈夫ですよ。さきほど王女さまが癇癪を起こして言っていました。どうしても猫になりたいってね。ってことは、わたしと王女様を取り替えれば、過不足はありませんよね」

 いまひとつ頭がまわっていないヨハンは、そういうものなのかなと思いました。錬金術に詳しいとは言いがたいのですが、それで王女さまと猫が満足し、師匠の首がちょん切られないのならいい解決策だと思いました。

「そうかもしれないね。でも、いったいどうやったらきみと王女さまを取り替えられるんだろう」

 猫は、これは好都合とほくそ笑みました。ヨハンが、まっとうに考えだしたり、魔術師が戻ってきては大変と、いそいで魔術師の書見台に飛び乗ると、写本のページを器用にめくって、目的のページを見つけ出しました。

 そうです。この猫は、魔術に精通していました。お城に来る前は、年老いた魔女の元に住んでいたからです。

「ほら、これですよ。このページです。必要な薬草は、こことあそこの瓶に入っています。あとはトカゲの尻尾に、その鍋の中の液体を40滴。そして、この呪文をつぶやいて混ぜればいいんです」

 ヨハンは、自分で魔法薬の調合などしたことがなかったのですが、猫に馬鹿にされると思って、言われるがままに薬を用意しました。

 猫は、作ってもらった薬を瓶に詰めて首にぶら下げてもらいました。
「助かりました。恩に着ますよ」
そういうと、嬉しそうに出ていきました。

 やがて、魔術師ケミアスが戻ってきましたが、ヨハンはなんとなく猫のことは言わない方がいいと思って黙っていました。

 さて、猫は薬を持って王女の寝室に向かいました。
「王女さま、王女さま」

 王女は、魔術師にわがままを聞いてもらえなかったので、癇癪を起こして泣き疲れ、寝台に突っ伏していましたが、聴き慣れない声に驚いて周りを見回しました。すると、いつもの黒猫がじっとこちらを見ていました。

「わたしに話しかけたのは、おまえ?」
「そうですよ。魔法の薬をもらってきました。わたしと一緒にこの薬を飲むと、あなた様は猫になれますよ」

 王女もヨハンに劣らず思慮が浅かったので、猫がしゃべっていることや、魔術師ケミアスに言われたことも全く考えずに、よろこんでその薬を猫と分け合いました。

 さすが王国一の魔術師ケミアスの持っている写本と薬剤の効果は素晴らしく、王女と猫は姿が入れ替わり、誰が見ても氣がつかないほどでした。

 もっとも違いがわからないのは容姿だけでした。召使いたちは、王女がタペストリーで爪を研ぎ、蝶に飛びかかったので困ったように目配せし合っていました。

 また黒猫の世話係は、猫が急に餌を食べなくなってしまったので、王妃から叱責を受けるのではないかとヒヤヒヤしていました。

 それから3日後のことでした。王女と黒猫が、西の塔の魔術師ケミアスを訪ねてきました。

「これは、これは。黒猫の姿をした王女殿下に、殿下の姿をした黒猫殿。何のご用ですかな」
ケミアスは、横目でチラリと弟子ヨハンを眺めつつ、うなだれている1人と1匹に話しかけました。

 ヨハンは、3日前に自分のしたことをもう忘れかけていたのですが、当の王女と猫が訪ねてきただけでなく、師匠が入れ替わった1人と1匹の正しい中身を言いあてたことに仰天し、叱られるのだと思ってうなだれました。

 黒猫の姿をした王女が叫びました。
「どうか元の姿に戻してくださいな! あの薬を作れたんだから、元に戻す薬も作れるのでしょう?」

 ケミアスは片眉を大きく上げました。
「はて。あの薬とは何の話でしょうか」

 王女の姿をした黒猫が上目づかいをしながら小さい声で言いました。
「あの……あの写本にあった、体を取り替える魔法の薬で……その、ちょっと……ヨハンさんにお願いして……」

 魔術師は、コソコソとドアの方に向かっているヨハンを捕まえると、静かな低い声で訊きました。
「ヨハン。薬を作って渡したのか」

「お許しください。黒猫さんの言うとおりです。その本にあるように調合したら簡単にできてしまったので……お2人が入れ替わって満足したら、お師匠様の首もちょん切られないし、みなが幸せになると思ったのです」

 魔術師は、大きなため息をつきました。王女の奇行を案ずる城内の噂で王女と黒猫が入れ替わったことは、わかっていました。この魔術を可能にする材料は、その辺りには転がっていません。誰かが忍び込んで薬剤を盗み出したりしているとしたら由々しき問題だったのですが、黒猫とヨハンの仕業とわかったので、心の中で安堵していました。

 ケミアスは王女と黒猫の方を見て訊きました。
「それで、お二方は望んだ姿になったのに、どうして元に戻りたいのですか」

 黒猫の姿をした王女が言いました。
「生肉と生魚ばかり出てくるんだもの。食べられないわ。それに、ゆっくり寝ていると、犬が来て追い回すの。それどころか、ネズミが穴から出てきて前足をかじったのよ。あまりにも怖くて氣絶するかと思ったわ」

 魔術師は王女の姿をした黒猫の方を見ました。
「あなたも戻りたいのですか。王女殿下としての暮らしはお氣に召しませんでしたか」

「宝石や羽根飾りで遊ぶ時間なんて全くありませんからね。やれダンスだ、やれ行儀作法だと苦痛なことを押しつけられてウンザリです」

 魔術師は、王女の豪奢なドレスがあちこち裂けて、髪もひどく乱れているのを目の端で捕らえました。

「ヨハン。おまえが入れ替えたのだから、元に戻すのもおまえがやるか?」
ケミアスは、弟子に問いかけました。ヨハンは思いきり首を横に振ります。

 魔術師は、大きいため息をつくと、とても怖い顔をして王女と猫の両方に言いました。
「もし2度とこのようなことを望まないとお約束くださるならば、戻して差し上げます。約束できない場合は、残念ながら生涯その姿のままです」

 震え上がった王女と猫は声を揃えて言いました。
「「約束します」」

 重々しく頷くと、ケミアスは何やらブツブツと呪文をつぶやきながら、さまざまな薬草といくつかの鉱物をすりつぶしたものを、ドロっとしたスープに混ぜました。それを2つの器に入れると、1つには黒猫のに、もう1つには王女に渡しました。
「さあ、こちらを飲んでください」

 王女と黒猫は、いそいでそれぞれの薬を飲み干しました。ヨハンはこわごわと、何が起こるのか見ていました。

 1人と1匹は「うーん」と蹲ると、しばらく黙っていましたが、やがてのったりと顔を上げました。猫は猫らしく背中を丸めて伸びをし、王女はお姫様らしい動きで辺りを見回し、それから、はっとしたように嬉しそうな表情になりました。

「ああ、やっとこの姿に戻れたわ。まあ、なんてひどいかぎ裂きなのかしら、このドレス、氣に入っていたのに」
王女は、優雅に立ち上がります。

「なーぅ。体が軽い! こうでなくっちゃ」
そう言って、黒猫は書見台から棚の上へと飛び移りながら叫びました。

 王女は、先ほどまでのしおらしい態度はどこへやら、魔術師に言いました。
「こんなことになったのは、あなたの弟子教育が今ひとつだったせいでしょ。このドレスの損害だって、どうしてくれるの?」

 ヨハンは青くなりましたが、ケミアスは全く動じませんでした。
「その理屈では、王女殿下がこのようなことをなさった教育の責任を、王様にとっていただくために、これから謁見を願い出てもいいわけですね?」

 王女は真っ青になりました。王は非常に厳格な性格だったからです。
「お願い! 父上様には言いつけないで!」

「女王陛下になったおりに、首をちょん切ると脅された件についても?」
「そんなこと、しないから、それも言わないで! お願い!」

 王女が出て行った後、コッソリと出ていこうとする黒猫の襟足を、魔術師はつかみ持ち上げました。
「待ちなさい。君は、ただの黒猫ではないようだね」

 黒猫は観念してうなだれました。
「わたしは、薪の上で燃やされるのでしょうか」

 ヨハンは、ぎょっとして師匠と黒猫を代わる代わる見ました。

「それは君も嫌だろうね。わしも弟子が巻き添えになって火あぶりの刑に処されるのは、後味が悪いのでね。……君が今後はわしの監視下で大人しく働くなら、王様に寛大な処置をお願いしてみるがね」

 黒猫は大きく頷きました。ヨハンは、自分が一緒に罰せられて火あぶりにされるなんて思ってもいなかったので、びっくりしましたが安心して笑顔になりました。

 魔術師は、そんなヨハンを見ながら、のんきだなと思いました。どう考えても黒猫の方が優秀な弟子になりそうだったからです。

 ともあれ、黒猫はこの日から魔術師ケミアスに引き取られました。かなり抜けているヨハンと、調子のよすぎる黒猫は、お互いを補い合いながら修行に励み、のちにヨハンは、素晴らしい使い魔を持つ大魔術師として名を馳せたそうです。本当のところはわかりませんが。

(初出:2024年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

どの交響曲が好き?

今日はひさしぶりにクラシック音楽の話題です。

X(旧Twitter)で見かけたトピックで、「あなたの一番好きな交響曲をリプライしていって」というのがあったんですよね。で、みなさんが「ベト5」とか「ブラ2」とか、通っぽいリプライをしているのをちらっと見ながら、わたしは何かな~と1週間くらい考えていました。

ちなみにわたしは上記のように省略して書くのが苦手です。いや、他の方は普通に使っていただいて問題ないんですよ。

わたしの父母はクラッシック音楽界にいたので、我が家でも子供の頃から「はくちょうこ(=チャイコフスキー『白鳥の湖』のこと)」やら「メンコン(=メンデルスゾーン『ヴァイオリン協奏曲 ホ短調』)」といった用語が飛び交っていました。なので、その手のお仕事についていらっしゃる方たちにとっては職業上の用語だとわかっていますし、通の方たちにとってもその言葉を使うのが自然なのだと思います。たんに自分が使うことに抵抗があるのです。自分はその手のプロでも、通でもないし、そういう自分がそんなに軽く言うのは偉大な作曲家と作品に対して失礼だと感じてしまうんですよね。

さて、本題。なぜ「これが1番!」が速攻で出てこなかったのかというと、実はわたしが偏愛している曲は交響曲よりも協奏曲や標題音楽などの方が多いんですよ。で、大好きなベートーヴェンでもわざわざ「交響曲ならこれ1つ!」というのがピンとこなかったのです。

で、結局この3つかな……と思って出てきたのは以下の通りです。
第3位 エクトル・ベルリオーズ 幻想交響曲
第2位 カミーユ・サン=サーンス 交響曲第3番 『オルガン付き』
第1位 ヨハネス・ブラームス 交響曲第1番

ま、順番は、そのときどきで入れ替わりますが。

あ、他にも好きな交響曲はあります。でも、こういうときに挙げる曲って、1、2回聴いて「あ、これ好きかも」って程度の作品じゃないですよね? 少なくともわたしは、大好きが高じて「どの楽章のどの部分が偶然ラジオから流れてきてもすぐにわかる」くらいに繰り返ししつこく聴いた曲に限定してしまうんです。そうなるとこの3作品になるかなと。

なぜこの3作品がそんなに好きだったのか……を語ると長くなるので、またいつか別の機会に。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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エクトル・ベルリオーズ 幻想交響曲

Berlioz - Symphonie fantastique, Op 14 - Jansons

カミーユ・サン=サーンス 交響曲第3番 『オルガン付き』

Saint-Saens Symphony No 3 / Munch, Boston Symphony (JMCXR-002) 1959/2009

ヨハネス・ブラームス 交響曲第1番

Brahms: Symphony No. 1 in C minor, Op. 68 • (Karajan-1973)
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Posted by 八少女 夕

【小説】もう存在しない熱海へ

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第7弾です。TOM-Fさんは、紀行文風小説でご参加いただきました。ありがとうございます!

 TOM−Fさんの書いてくださった「『鉄道行人~pilgrims of railway~』 第二話

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。

「scriviamo!」には皆勤してくださり、毎回趣向を凝らした名作でご参加くださっています。今回書いてくださった作品は、『乗り鉄』としての知識と経験をフルに生かした紀行文的な小説、2022年の「scriviamo!」に参加してくださったシリーズの2作目です。つい先日、国内鉄道全線完乗という偉業を成し遂げられたというTOM−Fさんにとってとても思い入れのある作品ではないかと感じています。

鉄道会社、鉄道ファン、そして、日常の利用者それぞれに想いと意見があって、それぞれの言い分にはどれも納得・理解、または共感できるし、正解のようなものはないのだと思うのです。

美しい文章と描写で表現したTOM−Fさんの作品を読んで感じた、それらのあれこれを何とか自分なりの感情にまとめようとしたのですが、結局その三者をどこかに置き去りにして、自分と鉄道のノスタルジーだけを強調する作品ができてしまいました。

不毛でオチはない作品ですが、日本中の鉄道に乗りまくったTOM−Fさんなら「知っている!」とおっしゃられるはずの古いネタがあれこれあるかと思います。


「scriviamo! 2024」について
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もう存在しない熱海へ
——Special thanks to TOM−F-san


 灰色の通路を降りていく。ここはいつも工事中だと思う。以前はそれを嘲笑したものだが、いまはむしろそのことにホッとする。変わらないものがあることはいい。

 横浜駅で東急東横線からJR東海道線に乗り換えるのは何回目だろう。

 記憶にある限り、ここはいつもひとりで乗り換えた。幼いとき、母に連れられて乗ったのは新幹線だったから菊名駅で乗り換えて新横浜駅に向かった。高校生になって以降、ひとり旅で東海道本線に乗ったのは、もちろんそれが経済的だったからだが、他にも理由があった。

 熱海の祖母の家に向かう道中、わたしはいつもひとりだった。たぶん、そのひとりの時間を少しでも引き延ばしたかったのだと思う。

 わたしの子供時代は、自然災害や戦火から逃げ惑う世界の氣の毒な子供たちどころか、日本にもいくらでもいる苦労人たちと比較しても、十分すぎるほどに恵まれていた。にもかかわらず、わたしは幸せではなく、無力な未成年であることに苦しみ、早く自由な大人になりたいとひそかに願い続けていた。

 それでいて、道を踏み外すほどの勇氣も無かったので、平凡で灰色の日常がただ過ぎ去るのを待っていた。学校の長期休暇に、少ないお小遣いを持って、熱海の祖母のところに遊びに行くことが、ほぼ唯一の心ときめく大冒険だった。

 新幹線が30分で走りすぎる道のりを、鈍行列車は80分以上もかけて行く。その時間をあの頃のわたしはひたすら楽しんだ。

 今日のわたしは、ないとわかっているものを探すために、同じ路線に乗る。

 ホームに上がる前に、駅弁を買うために売店に立ち寄る。探している駅弁は今日もない。

 そんなに難しい注文ではない。ただのお好み弁当だ。幕の内風にいくつかのおかずが詰まっていた。魚のフライ、卵焼き、ひき肉と筍の和え物、唐揚げ。

 以前はいつ行っても同じようなお弁当があったのに、いまは流行らないのだろうか。だから、次に食べたいシウマイ弁当を買う。少なくともこれはまだ存在することが嬉しい。

 昔はあったプラスチック容器、ポリ茶瓶に入ったお茶はどこにもないので、しかたなくペットボトルのお茶も購入する。

 すべてはこの調子だ。あの頃を探して見つけられない。

 ホームに入ってくる東海道本線は銀の車体に緑とオレンジの線が入っている。オレンジ地に上下が緑だった113系に乗れるはずはないのだ。でも、わたしはいつもそれを期待している。

 かつてはいつ乗ってもボックスタイプの座席があったけれど、いまは通勤列車風の長椅子座席が多い。ボックスタイプでないと駅弁が食べにくい。それで、やむを得ずグリーン券を購入する。グリーン車ならば長椅子ではないし、それに、東京駅からでなくとも座れる可能性が高い。

 到着を待つあいだ、近くのホームで電車が到着し、防護柵が開閉する度に、さまざまな電子音でのアラームが鳴り響き、心地よく爽やかで特徴のない女性の声で録音されたアナウンスが響く。そして、それに何人もの男性のアナウンスが被る。

 つまり、駅は常になんらかの音声が鳴り響いている。そうだ、これが日本の都会だった。わたしは苦笑いする。記憶の中にこの引っ切りなしに畳みかける音声はない。もしかしたら、当時もそうだったのかもしれないが、当時のわたしにはノイズキャンセル機能が備わっていたのかもしれない。

 憶えている音声は、鳥の声、蝉の合唱など、自然の音ばかりだ。

 平日、通勤時間帯でもないので、グリーン車の停車位置で待っている客は少ない。また、東海道本線は必ず横浜駅で停車するからなのか、防護柵も設置されていない。

 静かに到着した列車は、速やかに出発する。わたしは、せっかくなので2階席に上がる。海を見たかったので進行方向左側を探した。窓際に1人で座ることができてホッとした。思った以上に空いている。

 きれいな青空の下、電車は静かに走っている。まるで新幹線のようだ。電光掲示板、滑らかな女性のアナウンス、英語も続く。

 グリーン車の内装は、展望を考えた窓や、リクライニングもできるシート、そして、頭上にライトがついていたり、折りたたみテーブルがあるところなど、至れり尽くせりで飛行機のようだ。

 昔座った青いビロウドの四角い対面型ボックス席は、当時ですらレトロめいていた。足元の暖房が熱すぎるほどで、たまにシートが焼けているんじゃないかと思うような特別の香りがしたものだ。

 隔世の感があるが、それも当然のことだ。もう何十年も前なのだから。

 窓の外には都会らしい街並みから住宅街に変わって、さまざまな光景が流れていく。

 日本で初めて長距離電車に乗った外国人は、大都市間に郊外といえる景色がないことに驚いたと口を揃える。たとえば東京と横浜のあいだに、田んぼや牧草地だけの光景などはない。ひたすら都市部としかいいようのない建築物のみの光景が続く。

 とはいえ、よく注意して見ると、その光景は決して同じではない。横浜駅を出て大船あたりまでくると、線路から家までの距離はずっと遠くなってくるし、途中駅で待つ人びとの姿も明らかにまばらになっていく。街ごとの人口密度が大きく違うのだろう。

 相模川を越えると、住宅街が姿を消す。青空の下、白い工場や倉庫群が灌木に混じって見える。平塚に到着するというアナウンスが聞こえた。

 あまりのんびり車窓を眺めていると食べ損ねるので、駅弁を開ける。

 ほかの幕の内風弁当ではなく、シウマイ弁当を選んだ理由の1つが木箱だ。このほのかな木の香りに、格別ノスタルジーがある。それに、プラスチック製容器で食べるよりもご飯が美味しく感じる。

 大磯駅を過ぎた辺りから、待ちわびていた太平洋が遠くに見え始める。

 高校生のわたしが、通る度に心躍らせた光景だ。普段の生活圏からは東京湾だってめったに目にする機会はなかったけれど、熱海行きで見える海は、わたしにとって特別だった。汚れていない海の青さは、紛れもなく旅をしているのだと実感させてくれる。

 太平洋は変わらなかった。空よりも一段深い青でどこまでも広がっている。平らで、穏やかだ。

 電車は淡々と進む。二宮、国府津、鴨宮。鈍行に乗らなければ、存在すらも知らない街だけれど、わたしがかつて、1つ1つ心躍らせていた駅名だ。お城で有名な小田原。それから、早川、根府川、真鶴、そして湯河原まで来ればもう次は熱海だ。

 時おり通り過ぎる家の庭木に、取り損ねたミカンが見える。それも、懐かしい光景の1つだ。

 遠く霞んでいるのは初島だろうか。そう思った途端、小さい頃の思い出が蘇る。

 1度だけ母に連れられて行った。母は、決して安くはないフェリーの運賃を払って姉とわたしをわざわざ連れて行ってくれたのだろうが、岩場で見たフナムシにキャーキャーと怯え大騒ぎしたことしか憶えていない。

 何もない島という印象しかなかったのだが、今では、首都圏から一番近いリゾートアイランドとして、グルメスポットやマリンスポーツの拠点、アドベンチャー施設などのあるお洒落で明るい島を売りにしているようだ。

 熱海自体も、高校生のわたしがひとりで歩き回った街とは違っている。

 かつて温泉保養地として名を馳せた熱海は、バブル崩壊後に衰退して1度は侘しいシャッター街になってしまった。それを憂えた地元の人たちの努力と、若者たちを中心とした観光客への新たなマーケティングで、今はまた別の賑わいを見せるようになった。

 2000年前後の、ひどく廃れた街の様子には心を痛めたが、現在の若者で賑わうスポット、行列のできるグルメ店の様子を見ると、やはり別の意味での違和感を感じる。ここは、わたしが知っていた頃と同じ街ではないのだと思い知らされるのだ。

 なにもかもが変わってしまった。熱海も、わたしも、家族も。

 バブル期の訪れる前の、街全体が温泉リゾートか巨大な老人ホームの様相を示していた一時期に、わたしは熱海に通っていた。

 たくさんの高齢者向け分譲マンションがあり、引退した人びとが住んでいた。それぞれの部屋に住みながら、ロビーがあって管理人や看護師が常駐し、食堂や大浴場などで交流する、ゆるい共同生活をしていた。

 そのすべてが、もの珍しくて好ましかった。当時はまだ若くて元氣だった祖母が、山歩きに趣味の陶芸にと1人暮らしを楽しんでいた様子が、わたしの熱海への憧れにつながったのだと思う。

 祖母と部屋で遊び、小さなコンロで焼いた磯辺餅を食べ、屋上から海上花火大会を見た。温泉浴場にゆっくりと浸かり、近隣の山道を散策した。

 東京では見かけない運賃後払いのバスで街の中心に出かけると、大きなホテル裏手の配管から温泉の香りが漂っていた。

 商店街は、少し古くさく感じられる店が多かった。そう、あれは紛うことなき昭和の時代だった。

 街の中心にヤオハンというスーパーマーケットがあった。ひとりで行ったときには、普段は添加物が多いと買ってもらえなかった廉価な3個入りプリンを買ってひとりですべて食べた。

 もっと幼い頃は、母と姉と一緒に最上階のレストランに行った。なんでもない冷やし中華も、熱海で食べているというだけで特別美味しいと感じていた。

 そのヤオハンがなくなってしまったのは、最近のことではない。流通業界の再編は、地方都市では早かった。

 今でも当時食べていたいくつかの憧れの食べ物は、例えば東京で入手することができるのだろうが、それはきっとあの時のように美味しくはないのだろう。あの頃の熱海ではないのだから。

 大好きだった祖母はもうこの世にはなく、彼女が熱海で住んでいた高齢者向け分譲マンションの部屋もとっくに売却された。

 あの頃息苦しくてしかたなかった、逃げ出したくてたまらなかった学校と生活は遠い記憶の彼方に沈み、父母ももうこの世にはいない。姉もわたしも家庭を持ち、実家すらもうなくて、わたしは日本に帰る場のない存在になってしまった。

 わたしは異国に住み、生活費を稼ぎ、したくないことをせずに済む自由を手に入れた。所有する車のキーを回し、アクセルを踏むだけで、実家と熱海を隔てるのと同じ100キロメートルを容易に移動することができる。

 何十万円に相当するチケットを購入し、1万キロメートル離れた日本に里帰りして、思い出の地を訪ねたいからという理由でこうして電車に乗ることに誰の許可も必要としない。

 あれほど逃げ出したかった世界から、完全な自由を得たはずなのに、思い出すのはあの頃のことばかりだ。

 どこにも行けなかった、悲しくて情けなかったあの頃には、今はどれほど望んでも会えなくなってしまった人たちが当たり前のように存在していた。

 ひとりになりたくてしかたなかったあの頃には、もう2度と会えなくなってしまった人たちの面影を探しながら日本を彷徨う未来があるとは想像すらしなかった。

 わたしは、いまの、現代的でおしゃれな店に背を向ける。そして、楽しそうな観光客たちが向かわない、海岸の果てに立った。

 波の音が、あの頃と同じように繰り返す。

 東海道本線を走っていた113系の車体や、暖房の効きすぎたビロード張ボックス席や、ポリ茶瓶に入ったお茶や、ヤオハンや、昭和らしい街角の存在しなくなってしまった熱海に、かつてと同じように押し寄せる。

 わたしが思い出を共有した人がまったくいない海岸。

 おそらく未来のいつか、わたしがこの世に存在しなくなっても、この波はまったく変わらないだろう。

 帰りは、新幹線で帰ろう。わたしは、熱海駅に向かいながら考える。ただでさえ失われた世界に感傷的なわたしが、夕闇の差し込む東海道本線の郷愁に80分以上も堪えられるとは思えないから。
 
(初出:2024年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

土作りとニンジンの種まき

今年の畑仕事に向けてウズウズしているこの頃です。

にんじん準備中

三寒四温のスイスの田舎。去年初めて畑での家庭菜園が思いのほか上手くいったので、2年目の今年はもっと計画的にやってみようと冬のあいだいろいろと考えていました。

たとえば、せっかくニンジンの芽が出たのに雑草やルッコラなどに埋もれてしまい、上手く間引きもできなかったので収穫はいまいちでした。今年はもう少しちゃんとニンジンコーナーを作りたいと思って、まずは芽を室内で準備することに。出てきましたよ。

畑の土作り

畑の方は、先月の終わりに冬のあいだ育てていたコンポストを埋め込んでみました。ミミズたちが2週間くらい仕事をしてくれるのを待って、もう1度耕します。そして、前回の記事でも宣言したとおり、今年はマルチを張ってみようと思います。

マルチを張ると、地温が少し上がるらしいです。それに、もう1つ、雑草が生えまくるのを抑えることができるというのです。雑草は日本ほどの勢いはないとはいえ、やはり育てたい作物の養分を奪ってしまうし、去年あまりにもだらしない畑の状態になっていたのもちょっと恥ずかしかったんですよね。

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Posted by 八少女 夕

【小説】ケファの墓標

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第6弾です。ポール・ブリッツさんは掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!

ポール・ブリッツさんの書いてくださった 『城』

ポール・ブリッツさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や哲学論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。毎年ポールさんのくださるお題は手加減なしで難しいんですけれど、今年もまためちゃくちゃ難しかったです。

ポールさんがくださったお題は、ジャンルとしてはファンタジーとなっていましたが、読む方によってものすごく解釈が分かれそうな作品です。ロールシャッハテストみたいな?

今日発表する作品は、ポールさんの作品の中から、いくつかのキーワードをいただいて再編成して書きました。ポールさんが意図なさったお話とはかけ離れているとはわかっているんですが、あえてこんな風に書いてみました。


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ケファの墓標
——Special thanks to Paul Blitz-san


 テベレ川の向こうがゆっくりとオレンジ色に染まっていく。遠くアペニン山脈の稜線が空とオレンジに染まるローマの街を分けている。

 ローマの街を一望する高さ88メートルのジャニコロの丘は、下町トラステヴェレ地区の近くにある。その素晴らしい光景は、古くから詩人や画家たちに愛された。かつてヤーヌスの神殿があったことにちなんで名付けられたといわれるが、現代この丘ででもっとも注目を集めているのは、ガリバルディ広場に立つジュゼッペ・ガリバルディの堂々たる銅像だ。

 この丘の中腹に、わたしの目指している建物がある。サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会だ。この場所は、イエス・キリストの12使徒の筆頭であったシモン・ペテロの殉教地といわれている。

 眺めのよい広場から素晴らしい展望が広がる。南東には、サンタ・マリーア・イン・パルミス教会、通称ドミネ・クォ・ヴァディス教会があるはずだ。

 カトリックの伝承では、ローマでの迫害から逃れようとしたシモン・ペテロが、ここで天に帰ったはずのイエス・キリストと遭ったとされている。

主よ、どこへ行かれるのですかDomine, quo vadis ?」
そう問うペテロにイエスは答えた。
「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ行く」
自分の命を惜しんだことを恥じたペテロは、ローマに戻り殉教したという。

 これは2世紀末に小アジアで書かれた『ペテロ行伝』に書かれているエピソードであるが、信憑性については疑問視されている。この教会の建てられた場所が、もともとはローマの再来の神レディクルム神への祭儀に関連しており、シモン・ペテロが引き返したこととの連想で、異教を信じる人びとを取り込む目的に使われた可能性が高い。

 だが、現代イタリアや、世界宗教の1つとなったキリスト教を信じる人びとのあいだでは、そうした背景そのものはもうどうでもいいことなのかもしれない。

 遠くシリア属州ゴラン平原で生まれた漁師ヨハナンの子シメオン(シモン)はガリラヤの地、湖でナザレのイェーシュア(イエス)に従い弟子となった。彼を救済者メシアと信じ、その信仰を告白した。その時に彼は『ケファ 』という二つ名をもらった。

そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ である。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

マタイによる福音書16章15-19



 ローマカトリックの初代教皇とされる聖ペテロのシンボルが鍵なのは、この記述に基づいている。存命中から十二使徒のリーダー的存在かつ原始キリスト教団の中心的存在でもあったが、同時に人間くさい面も併せ持っていた。

 イエスが捕らえられ裁判にかけられたとき、彼は他の使徒たち同様に逃走した。そして、「あなたはあのイエスの仲間だ」と言われ、彼は3度までそれを否定した。そして、「鶏が2度鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」というイエスの言葉を思い出して泣いた。

 神の子に天国の鍵を預かるまでに信頼された弟子にしては、非常に脆い心と態度であるが、むしろこれこそが人の本質であり、それでも最後には勇氣を振り絞って信仰の道を全うしたことが、崇敬の念を集めているのかもしれない。

 ジャニコロの丘に建つサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会も、ローマの多くの教会同様、多くの美術作品で装飾されている。教会が閉まる時間が迫っているので、巨匠の作品をじっくり観察するのはあきらめて、ここに来た目当ての建物を目指す。

 ブラマンテのテンピエット。教会の中庭に、ルネサンスの建築家ドナト・ブラマンテが建てた殉教者記念礼拝堂だ。

 古代神殿に似た柱に支えられたドーム屋根が載った建築は、盛期ルネサンス建築の最高傑作と讃えられると同時に、アンドレア・パッラーディオに継承されて、その後のあらゆるドーム型建築の基本になった記念すべき建造物だ。

 建物の中心、聖ペテロ像の前に格子状の覆いのついた小さな穴があり、地下のクリプタが見えるようになっている。こここそが聖ペトロが逆さ十字架に架けられたと信じられている位置だ。

 ほんとうかどうか、確かめる術はない。それどころか聖ペテロがローマで死亡したことを示す歴史文書も存在しない。

 わたしは、ただ、自分と同じように弱くて、幾度も迷った人物が、背負うにはあまりにも重い重責を載せるケファとしての運命を受け入れたことに、敬意を示すためにこの地を訪れたのだ。

 中世以来ここは聖ペテロの磔刑の跡地として巡礼者を集めていた。小さな土塁でしかなかった土地に、スペインのカトリック両王フェルディナンド2世とイザベラは、1480年から1500年頃にかけて、サン・ピエトロ・イン・モントリオ修道院を建てさせた。

 わたしは、いろいろなことを考えながらモザイクに彩られた緑色の円を眺めた。

 陰氣な顔をした係員が、「時間だ」と言った。18時まではまだ2分ほどあるが、早く帰りたいのだろう。わたしは、頷いて出口に向かった。

 あたりはすっかり暗くなっていた。夜鳴き鳥が、静寂を破る。松のあいだを風が渡っていく。肌寒い。

 ガリバルディ広場へ戻り、ホテルのあるロヴェレ広場を目指して115番バスに乗った。

 バスは空いていて、わたしの他には前方に若い観光客が1人座っているだけだった。

 ロヴェレ広場に着く少し前に、その観光客は「おお」といってスマートフォンを構えた。

 左側にサン・ピエトロ大聖堂の大きなドームが見えている。いうまでもなくローマ・カトリック教会の総本山、バチカン市国にあるキリスト教最大の教会建築だ。
「うわ。やっぱりすごいな。なんて立派な建築なんだろう!」

 その言葉にわたしは複雑な想いを抱いた。
 
 聖ペテロの墓所があったとしてやはり信仰を集めていた場所に、最初の聖堂が建築されたのは4世紀である。この場所が本当に聖ペテロの墓であったかどうかは考古学的には立証されていない。ここにはかつて皇帝ネロの競技場があって、64年の大火の罪を背負わされたキリスト教徒たちが見世物として処刑されたとされている。大聖堂の地下にアウグストゥス時代のコインを奉献された墓所が出土しているので、少なくともここが初期キリスト教徒たちの信仰の対象地であったことは間違いない。

 地下墓所の祭壇跡の真上に、教皇の祭壇が位置し、この場所が初代教皇とみなされる聖ペテロの墓所であると全世界に宣言している。

 初代大聖堂は、ヨーロッパ最大の教会堂ではあっても、当時のキリスト教総本山たる主席教会堂ではなく1つの巡礼記念教会堂にすぎなかった。

 だが、ブラマンテが2代目サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命されたときは、すでに600年以上にわたり首席教会堂となっていた。

 ブラマンテは大きなドームを戴く回転対称にこだわったギリシャ十字形の集中式プラン大聖堂をデザインしたが、アーチと内陣部分が完成した時点で死去した。

 彼の死後に仕事を引き継いだ主任建築家らは、それぞれ完成を待たずに亡くなり、大聖堂の計画プランもその都度変更された。

 ミケランジェロが主任建築家となって、再びブラマンテのギリシャ十字集中式プランに戻し、のちにファサードが追加された以外は現在でも見られるサン・ピエトロ大聖堂の姿になった。

 その建築の最中にも、キリスト教会そのものが大きな転換期を迎えていた。贖宥状販売は、サン・ピエトロ大聖堂の建設のための大きな財源となっていた。それはマルティン・ルターが批判して宗教改革、ひいてはプロテスタント教会の成立を促した。また、1527年ドイツ王かつスペイン王であるカール5世によるローマ略奪がおきるなど、カトリックの権威と永遠の都だったはずのローマは斜陽の状態にあった。

 財政難と政争の中で、幾度も中断されたあげく、ほぼ現在見られるサン・ピエトロ大聖堂が完成したのは1680年だった。

 高さ25.5mのオベリスクを中心としたサン・ピエトロ広場、教皇が祝福を与えるバルコニーのある2階構造のファサード、観光客が 「スタンダール症候群」なる強迫観念の精神状態になるほど詰め込まれた膨大な芸術作品、持てる権力と財力を誇示するかのような内陣の青銅製大天蓋など、サン・ピエトロ大聖堂の威容を語るには言葉が尽きない。

 それは美しく壮大で感嘆の声を呼び起こす。けれど、その建物は、2000年前に信者たちが迫害を怖れながらも心を込めて祈っていた場とは、あまりにも違う存在になってしまった。 

 それを建てる際には、たくさんの贖宥状が売られ、ルネサンスの聖職者たちは豪奢な宮殿で放埒な生活を送り、石材を流用するために古代遺跡をも破壊した。神の代理人を名乗る教皇が庶子を儲けてその影響力を利用し我が子に一国を治めさせるような不品行が公然と行われていた。

 イエス・キリストがケファの上に建てた教会は、天国の鍵を預けられて自分の弱さを悔やみ泣きながらローマに戻り殉教したシメオンの墓は、そのような威容と豪奢を必要としたのだろうか。

あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。

マタイによる福音書23章27-28



 わたしはサン・ピエトロ大聖堂を眺めながら心の中でつぶやいた。
「2000年前に、ケファがあった……」

 すると前の席にいた観光客が怪訝な顔をしてこちらを見つめた。

 どうやらわたしは、モノローグを心の中にしまっては置けずに、音に出してしまったらしい。恥ずかしい想いをごまかすために、窓の外のローマを眺めた。

(初出:2024年2月 書き下ろし)



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ジャニコロの丘と言ったら、誰がなんといおうとこの曲なんですよ。わたしには。


Respighi - Pines of Rome  Karajan Berlin Philharmonic
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

12周年と創作を続けている意味

当ブログ「scribo ergo sum」は、3月2日が誕生日です。今年は12周年。去年は「scriviamo!」について語ったので、今年は創作を続けていること、ブログだけで発表している意味について語ってみます。

創作イメージ

まずはいつも足繁く通ってくださる常連の皆様、小説を読んでくださったり記事に興味を持ってくださる方に、心からの御礼を申し上げます。

ここは、現在わたしは週に2回このブログを更新することにしています。基本的に水曜日が小説、日曜日がスイスに住んでいるわたしの日常に関する記事をアップしています。

2012年にこのブログを立ち上げる時のコンセプトは「小説ブログ」だったのですが、まあ、あの当時はこの世にこれほど自作小説を発表している方がいらっしゃるとは夢にも思っていなかったので「たまにはこういうブログがあってもいいんじゃないか」程度の軽い動機ではじめました。

現在、日曜日にスイスの日常に関する記事をアップしているのは、明らかにそちらの方が需要があるからです(笑)とはいえ、「あわよくば、そこを目指してこのブログに到達してくださった方が1本くらいは読んでくださると嬉しい」程度の野望は持っていますよ。

とはいえ、他のブログのお友だちと違って、複数の小説系SNSに登録したり、コンペティションに参加したりといった、より読んでもらえる努力、もっと切磋琢磨する努力は、ここ数年一切していません。

何回か、そういう方向も考えたのですけれど、最終的にわたしの求める創作の形態はそれじゃないんだなと思うようになったのです。

創作仲間はほしいですけれど、でも、この12年間でたくさんの素晴らしい出会いがあって、しかもいまだに多くの方が(「しょうがないなあ」と内心思っていらっしゃるとは思いますが)おつきあいくださっています。正直言って今のところ「もっとたくさんの仲間がほしい」とは思わないのです。

そして、自分の小説についても「読んでいただきたい」という想いはもちろんあります。でも、「書きたいことを曲げる必要があるならポピュラーにならなくてもいい」という結論に至ってしまったのです。

ブログ活動で知り合った方の中には、ご自分の小説をよくするために大変な努力を重ねられている方が何人もいます。小説系SNSに登録すると、質の高い読者や創作仲間と知り合って批評し合ったり、時にはプロが批評してくれることもあります。そうした厳しい目にさらされてこそ、更なるレベルに到達できるのは間違いないと思います。

そうしようと思ったことも何度かあるんですけれど、最終的にはやめました。理由は……。わたしは小説を書き直すのが嫌いなんですよ。もちろん「てにをは」の間違いや、自分でも納得のいかなかった文章を書き直すことはしますよ。でも、既に1度書いて完結させた長編小説をまるまる書き直すような大きな努力をしたくないのです。

構成も、流れも、シーンも、表現も、その時点で考え抜いて書いたものです。キャラクターも話も結末も、一般に受けるとは思いません。小手先で書き直したからといって、おそらくそれは変わらないでしょう。だったら、逆戻りして同じ小説をもう1度書くよりも、まだ書き終えていない話を書きたいんですね。あいかわらず受けないでしょうけれど。

もう1つの理由は、創作を続ける意味を以前よりもはっきりと認識するようになったからです。昔は99%は「単なる趣味」だけれど1%くらいは「あわよくばこれで世に認められるかも」というような受け止め方だったんですよ。もともとアマチュアだった人が認められて作家デビューした話もありますし、昔の「文芸賞の入賞から文壇デビュー」というような険しさと比較すると「もしや」的な感情くらいは持てる世の中ですよね。とはいえ、12年間もこうやって周りを見て、そうなる方がなるべくしてデビューしていく姿を見れば、「そりゃ、わたしはないでしょ」がはっきりわかるわけです。そして、負け惜しみと取っていただいてかまわないんですけれど、わたしが求めている未来はそこにもないと思うようになったんですよ。

つまり、わたしは、これからも日本に戻ることはなくて、ここで自分の好きな小説を、誰にもケチをつけられずに書きたいんですよね。いや、批判は一切要らないという意味ではありませんよ。そうではなくて、「売れるための小説」「経済活動としての仕事」という視点ではなくて純粋に自分の書きたい題材を、誰にも忖度せずに書きたいという意味です。

これは趣味だからこそ続けられる書き方ですし、小説系SNSの運営基準に合わせて表現を変更したくもありません。だから、いっこうに読んでくださる方が増えない現在のままでも、この辺境ブログにだけひっそりとアップし続けていくつもりです。それに、たとえば、文学賞を目指して努力するつもりもありません。

そのかわり、どれほど厳しくても今のペースで発表し続けていこうと思っています。もう既に自分でもわけがわからなくなるほどの小説がありますけれど、まだ「お話の泉」は枯渇していないですし、広げた風呂敷を着々と畳んでいくのは、読み始めてくださった方に対する最低限の礼儀であるとも思っています。

こんな方針で運営し続けるブログですが、引き続きおつきあいいただければ、これ以上の喜びはありません。
今後もどうぞよろしくお願いします。
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Posted by 八少女 夕

【小説】春の先触れ

「scriviamo!」は終わっていないのですが、今日の小説は、植物をテーマに小さなストーリーを散りばめていく『12か月の植物』の2月分です。今週で2月も終わりですし。(「scriviamo! 2024」のお申し出は29日までです)

2月のテーマは『スノードロップ』です。我が家の近くでも、いま盛りですよ。

このストーリーに出てくる聖燭節シャンドルールという祝日、ドイツ語圏ではまったく祝わないので、いつのことだかわかっていなかったのですが、実は個人的にちょっと特別興味がありました。子供の頃に大好きでスイスにまで持ってきたフランスの児童文学『もしもしニコラ!』に出てきたんですよね。そっか。2月2日だったんだ。

というわけで、わたしもクレープ作って食べましたよ。


短編小説集『12か月の植物』をまとめて読む 短編小説集『12か月の植物』をまとめて読む



春の先触れ

 ボウルに卵と砂糖を入れて、泡立て器でかき混ぜる。カチャカチャという音に心が躍る。粉を何度かに分けて振り入れる。ダマにならないように丁寧に混ぜていく。牛乳で伸ばし、最後に塩も入れる。

 できた生地は、ラップをして1時間以上冷蔵庫で休ませる。いつもそうする時間があるわけではない。でも、余裕があるときにはこのお休みタイムを必ず設ける。しっかり吸水させると生地が伸びやすくなりきれいに焼けるからだ。

 2月2日。聖燭節シャンドルール を祝う知人は、この辺りにはいない。シュゼットの生まれ育ったフランス語圏では、聖燭節すなわち主の奉献の祝日には、クレープを食べて祝う習慣がある。イエス・キリストが生後40日目に律法の定めにより神殿で浄めの儀式を受けたという聖書の記述にちなんでカトリックの国では祝日とされることもある日だ。もともとはヨーロッパに古くからあった立春の祭が姿を変えたものだとも言われている。

 この日は冬至と春分のちょうど中間にあたり、春を待つ人びとの期待がもっとも膨らむ時季でもある。クレープを食べるのは形が太陽を象徴しているからとも、中世の教皇が聖燭節の巡礼たちに振る舞った聖体にちなんだともいうが、シュゼットは由来そのものには頓着しない。欠かさずに作るのは、とにかくクレープが大好きなのだ。

 本当は、1人で食べるものではないとも思う。少なくとも、フランス語圏にいたときは、そんなことは考えもしなかった。子供時代は、祖母や母が作ってくれて一緒に食べたし、成人して身内が1人もいなくなってからも、友人や恋人だったアランと一緒に食べたものだ。

 ローザンヌを去り、ドイツ語圏の小さな村に引っ越したのは、アランとの酷い別れから立ち直るために必要なことだった。生活圏や人間関係が被りすぎている場に身を置いていると、引きずると思ったからだ。

 それは正しい判断で、シュゼットは静かに人生の真冬をやり過ごし、精神的にもずいぶんと楽になった。誰にも会いたくないと心から思っていた時期に比べると、「クレープを1人で食べるのは変だ」と感じられるようになったのは、いい兆候だと思う。まずは、まともな社会関係を構築してからよね。彼女は心の中でつぶやく。

 シュゼットは、洗い物を終えてきれいに片付いたキッチンを満足げに見渡してから、庭に出た。

 夏には色とりどりの花を咲かせる小さな庭も、この季節は休眠状態だ。でも、東側の一画にだけ、小さな春が訪れている。スノードロップが花を咲かせたのを、彼女は3日前に確認していた。この花を飾るのも2月2日のお約束。

 白い6枚の花弁には、それぞれ黄緑色の飾りがついている。毎年、一番最初に花を咲かせる春の先触れだ。

「あら。もうスノードロップの時季なのね」
声に振り向くと、隣人のバタリア夫人が、スキーストックを杖代わりに立っていた。散歩の途中らしい。

「これが咲くと、冬も直に終わるってホッとします」
シュゼットが言うと、バタリア夫人は目を細めて頷いた。

 夫人とは、ふた回りも歳が違うが、近所の中では比較的仲良くしてもらっている。一昨年引っ越してきたシュゼットは、まだドイツ方言が上手く聴き取れなくて、地域に馴染んでいるとは言えない状態だ。若かりし頃にフランス語圏の農家で住み込みで働いたことのあるバタリア夫人は、そんなシュゼットに、困ったときには助け、そうでないときにはうるさくしすぎず、心地よい距離で接してくれる。

 シュゼットがスノードロップを少しカットしているのを見て、夫人は「ああ」と言った。

「そういえば今日はあなたのお誕生日だったわね。おめでとう。今日もクレープを用意しているのかしら?」
夫人はいたずらっ子のように笑った。

「ええ? 憶えていらっしゃったんですか? ありがとうございます」
シュゼットは、少し顔を赤らめた。

「そりゃあ、憶えるわよ。あなた、シュゼットだし」
ドイツ語圏のスイスでは、聖燭節を祝う習慣がない。だから、この日にわざわざクレープを食べる人もいない。そうしたあまりない習慣に話題が移ったとき、名前との奇妙な符合も話題になった。

 ドイツ語圏の人びとは、クレープをそれほど日常的に作って食べないが、「クレープ・シュゼット」のことはたいてい知っている。砂糖をかけたクレープに、グランマルニエを注いで火をつける。派手な演出と濃厚なカラメルソースが人氣のデザートだ。

 1年前の今日、バタリア夫人とその話題になり、シュゼットは自分がその名前をもらったのは、みながクレープを食べる日に生まれたからだと白状する羽目になったのだ。

「ええ。今年もクレープの生地、準備してあります。……あの、よかったら、お散歩のあと後で召しあがりにいらっしゃいません? 1時間くらいしたら、焼く準備も整いますし」
シュゼットは、訊いてみた。

「あら。それはすてきなお誘いね。ありがとう、ぜひ。聖燭節シャンドルールのクレープなんて半世紀ぶりくらいよ」
夫人は、喜んで散歩の続きに出かけ、シュゼットは小さな自分の誕生日会の準備のために家の中に入った。
 
 この地域では、自分の誕生日に同僚や友人にコーヒーと茶菓を振る舞う習慣がある。シュゼットの仕事はオンラインで近くに同僚もいないから、まだそうした振る舞いをしたことはない。でも、バタリア夫人には、何度かお茶に招いてもらったこともあって、1度は自分から招待してみたいと思っていたのだ。大袈裟でなく、さりげなく。誕生日の今日はとてもいい機会だ。

 スノードロップを小さな花瓶に生けてダイニングテーブルの中央に置いた。寝かせておいた生地を1枚ずつ焼いて重ねていく。他に用意するのは、生クリームを泡立てるくらい。茶器を用意して、はちみつやジャム類、それにクリームチーズとハムなどもテーブルに置いた。
 しばらくして、バタリア夫人が呼び鈴を鳴らした。

「お招きいただきありがとう。これ、お祝いよ」
 彼女は、チョコレートの箱を手渡した。

「まあ。ありがとうございます。そんな必要はないのに……」
そういうシュゼットに夫人は、にっこりと微笑んだ。
「いい匂いがしているわ。ご馳走になるのが楽しみ」

 テーブルに置いたホットプレートに、焼いてあるクレープを温めるためにしばらく置く。それから、それぞれ好きなものと一緒に食べる。

「あら、これ」
オレンジマーマレードは、バタリア夫人がたくさん作ったからとお裾分けしてくれたものだ。クレープによく合う。
「そうなんです。美味しくて、ほとんど食べてしまったので、残り少しなんですけれど」

 他愛のないおしゃべりをしながら、クレープを食べて時間が過ぎていく。子供の頃には当たり前だったけれど、今ではできなくなった聖燭節の午後だ。

 夫人は、テーブルの上のスノードロップを見ながら言った。
「ドイツ語圏でのこの花の言い伝え、知っている? どうして真冬にこんなにきれいに咲くのか」

「いいえ。どんな言い伝えなんですか?」
「昔むかしね、他のものには色があったけれど、雪にはまだ色がなかったんですって。それで雪はまず大地にお願いしたの。『どうかわたしに茶色を分けてください』って。でも、大地は眠っていて答えてくれなかったの。それで、雪は草に頼んだの。『どうかわたしに緑色を分けてください』って。でも草はケチで聞こえないフリをしたんですって」

「ケチだったんですか?」
シュゼットは笑った。

 バタリア夫人も笑って続けた。
「それで、雪は空に向かって頼んだの。『どうかわたしに青を分けてください』って。でも、空はあまりにも遠くてその声は届かなかったの。それで雪は絶望して泣き出したんですって」

「誰も分けてくれなかったんですね?」
「そう。でも、泣いている雪に声をかけたものがいたの。『どうしたの? なぜ泣いているの?』って。雪が顔を上げると、とても小さくて首を傾げた小さな花が咲いていたの。雪が自分の悲しみを話すと、スノードロップは言いました。『じゃあ、必要なだけわたしの色を持っていっていいわ』それを聞いた雪はとても喜んでその色をもらい、今のように真っ白になったの。そして、優しくしてくれたお礼に、スノードロップに対してだけは真冬でも冷たくしないようになったんですって」

 シュゼットは微笑んだ。
「だから、この花は冬でもきれいに咲くんですね」

 スノードロップの花言葉は『希望』『慰め』。この言い伝えにはぴったりだ。

 シュゼットとバタリア夫人は、次々とクレープを片付けた。ハムとチーズの組み合わせは好評だったし、オレンジマーマレードと生クリームでも何枚か食べた。最後の2枚になってから、2人ともバナナとチョコレートが好きだと判明したので大いに笑った。シュゼットは急いでチョコレートを溶かし、2人でチョコバナナを堪能した。

 楽しいお茶会だった。聖燭節である誕生日に、笑いながらクレープを食べる楽しい時間。誰かを思い出しながら心を痛めることもなく、ただ楽しむことがまたできるようになったのが何よりも嬉しかった。

 シュゼットは、雪のあいだからぐんぐんと伸びるスノードロップの姿を思い浮かべた。その花は間違いなく春がもどってくる兆しなのだ。

(初出:2024年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

庭仕事2024 事始め

もう2月も終わりに近づいているので。

トマト発芽

トマトと茄子の種を植えて、苗を育てはじめました。どれがトマトで、どれが茄子かわからなくなってしまったのですが、葉っぱがある程度出てくれば見分けがつくのでいいかな。このくらいいい加減です。トマトや茄子の苗を植えるまではまた2か月くらいあるので、たぶん間に合うはず。ダメなら苗を買ってきます(笑)

あとはブロッコリーやキャベツなども今年は種から育ててみたいのですが、どうでしょうかね。

畑 2月

借りている畑も、(去年から生き延びている野菜を除き)まだ何かを植えるという状況ではないのですが、準備をしています。今年は去年よりも計画的に作業を進めようと考えていて、畑の区画も変えてみることにしました。

今年は90センチ幅の畝を東西の方向に2つ、南北に1つT字型に配置することにしました。そして、去年雑草にけっこう栄養を取られたりも地温が低すぎたようなので、今年は基本マルチを張ってみようと考えています。

そのためにかなり早い段階で、耕して土作りをしなくてはと考えています。去年から野菜ゴミで作りだしたコンポスト堆肥をしばらく埋めて肥料にする予定なのです。これは先週にまず第1段階として耕してみた様子です。この週末コンポスト堆肥を植えてみようと思っていたのですが、実は今週はまた雪が降ってしまい、ちょっと延期です。
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Posted by 八少女 夕

【小説】緑の至宝

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第5弾です。津路 志士朗さんは、もう1つ掌編で参加してくださいました。ありがとうございます!

 津路 志士朗さんの『魔法の呪文にも色々ある件について。』

志士朗さんの2つめの参加作品は、『揃いも揃ってクラスメイトの癖が強い。』の北条くんほか高校生たちのお話です。

下記のCプランのお題を組み込んで書いてくださいました。

今年の課題は
*ご自分の既出のオリキャラを一人以上登場させる
 メインキャラ or 脇役かは不問
 キャラクターであれば人どころか生命体でなくてもOK
*季節は「秋」
*身の回りの品物を1つ以上登場させる
*交通手段に関する記述を1つ以上登場させる


こちらも直接絡むのは難しかったので、「呪文(この作品ではマントラ)」をテーマに作品を書いてみました。「魔法の呪文」に読めないこともないですが、その辺りはわたしの作品なので「単なる偶然か、科学的にどうにか説明のできる事象なのかも?」にとどめてあります。

ちなみに、こちらに出てくる神様だかなんだかわからない存在は、実はこの作品で登場させたことがあります。


「scriviamo! 2024」について
「scriviamo! 2024」の作品を全部読む
「scriviamo! 2023」の作品を全部読む
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



緑の至宝
——Special thanks to Shishiro-san


 ライナスは、鋭い目つきで辺りを見回した。少なくとも4人の男たちにドハティ卿を載せる輿を担がせる予定だったが、現地人たちの抵抗で用意することができなかった。それで、アーナヴが簡易椅子を背負う形になり、前を見られない卿は機嫌が悪い。だが、他に方法はない。目指す寺院は、車が入れるような所ではなく、車椅子すら通れないような足元の悪い隘路の先にある。

 夜明け前に出発しなくてはならないので、夜行性の野生生物に出くわす危険もあるが、ここ数日の高温を考えれば卿の健康にはいい。アーンドラ・プラデーシュ州は、デカン高原に位置するハイデラバードとは違う。真夏ではないのに、日中は40度近くまで上がり、湿度も高い。南東インドは、体調のよくない高齢者に心地いい氣候ではない。しかし、卿は自分で行くと言い張った。

 ライナス自身もこの近辺に足を踏み入れるのは初めてだ。子供の頃にハイデラバードに住んでいたため、簡単なテルグ語を理解できる彼は、それが決め手でドハティ卿の側近に取り立てられた。青年期にイギリスに戻って以来、インドにもヒンズー教寺院にも縁の無い生活をしてきた。そう、興味はほとんどない。インド人の女にもだ。

 ハリシャに近づき、心にもない愛の言葉で懐柔したのは、もちろん例のマハーマーユーリー寺院に到達するための足がかりがほしかったからだ。結局、ハリシャの父親アーナヴが卿を背負い寺院まで案内することを考えれば、ライナスの企みは成功したといってもいいだろう。

 欲しいものを手に入れた後は、黙ってインドを去る。ハリシャもアーナヴも追ってくることはできない。それを見越して、ライナスは彼に関する情報はすべて虚偽のものを伝えてある。

 秘密主義のドハティ卿が、ライナスに手の内を晒してくれたのは、数ヶ月前のことだった。東インド会社時代にこの地にいた4代前のドハティ卿の妻、レディ・アイリーンが残した日記にこの地とマハーマーユーリー寺院のことが書かれていた。

 1860年代、ゴールコンダ・ダイヤモンドで有名なコルール鉱山が操業していた最後の時期だ。ドハティ卿があれだけの財をなしたのは、おそらくゴールコンダ・ダイヤモンドの恩恵があったのだろうとライナスは想像している。

 王冠に取り付けられた《コ・イ・ヌール》や呪われた青ダイヤとして有名な《ホープ・ダイヤモンド》など宝飾史に残る名ダイヤモンドの多くがコルール鉱山で産出されたと考えられている。

 いまや、枯渇し廃鉱され過去のものとなってしまったコルール鉱山だが、レディ・アイリーンの時代にはまだ重要視されていた。

この村のマハーマーユーリー寺院については、暗号のように書くことにとどめます。親切なラージュに連れられて、わたしは早朝に川の向こうにたどり着きました。ああ、なんということでしょう。未開の地と思われているこの奥に、わたし達など及びもつかぬ世界が存在したのです。わたしは、この目で見たことを夫にすら言うことはできません。もしこれが知られたら、海の向こうからおそろしい勢いで何もわからぬハイエナたちが押し寄せてきて、すべてをめちゃくちゃにしてしまうことでしょう


 ドハティ卿は、レディ・アイリーンの日記の1ページを指し示して、ライナスの反応を待った。

「これは……」
「そうだ。彼女は、このとき療養のため別邸に滞在していた。ハイデラバードに残っていた夫には、何を見つけたのか伝えなかったのだろう。そうでなければ、もっときちんとした形で我が家に伝わっているはずだからね」

「では、あなたはレディ・アイリーンの見つけたものを探しすためにアーンドラ・プラデーシュに行くおつもりなのですね」
「そうだ。コルール鉱山ではなく、クリシュナ川沿いの小さなこの村に行って、マハーマーユーリー寺院とやらを見つけねばならぬ。しかも今年中に」

「なぜ今年なのですか」
ライナスは首を傾げた。この古い日記の記述を、卿はずっと知っていて、80歳近くになるまで探しに行かなかったのだ。40年ほど前なら、関節痛で100歩も歩けないなどということもなく、体力的にもずっと楽だっただろうに。

 ドハティ卿は、日記の別のページを開けて見せた。

ああ、どうか170年後のわたしの子孫が、この日記を読んでくれますように。その時代の人びとが今よりも精神的に円熟し、マハーマーユーリーの《緑の至宝》の真の価値を見いだせますように。そうでなければ、さらに170年待たなくてはならないでしょう


 ライナスは、考えつつ言った。
「170年に1度だけ。つまり、何らかの周期でこの《緑の至宝》とやらが現れる、見つけやすくなるということなんですかね」

 卿は頷いた。
「おそらくそうだろう。その隠された秘宝が現れるのが、今年というわけだ」
「《緑の至宝》とは、宝石でしょうか」
「おそらく緑のダイヤモンドだろう」
「ダイヤモンド?! エメラルドや翡翠ではなくて?」
 
「他の地域ならエメラルドなどもあり得るが、コルール鉱山のすぐ近くで他の石とは考えられないな。きさま、《ドレスデン・グリーン》は知っているだろう」

 卿の言葉にライナスははっとした。世界的に有名な珍しい緑のダイヤモンド。
「あれもゴールコンダ・ダイヤモンドなのですか。年代的にブラジル産なのかと……」

「インド由来だとする資料はなく推測の域は出ないが、ゴールコンダ・ダイヤモンドだと推測する根拠はある」
「それは?」

 卿は得意そうに語った。
「中がほとんど無傷で、窒素のほとんど混じらない透明度の高いタイプIIaなんだよ。41カラットもあるのに。IIaダイヤモンドは、すべてのダイヤモンドの1%未満しかないんだ。そして、それはゴールコンダ・ダイヤモンドの特徴なのだ」

 ライナスは息を飲んだ。
「では、あなたは、レディ・アイリーンがそのマハーマーユーリー寺院で《ドレスデン・グリーン》クラスのグリーン・ダイヤモンドを見つけられたとお考えなのですね」

「わしはそう考えている。マハーマーユーリーは孔雀を神格化した女神だから、緑色の宝石が奉納されている可能性は高い。盗難よけか神事かの理由で、170年に1度しか顕現しない仕掛けをされていたのを偶然彼女は目にしたのだろう。だが、彼女は、それを持ち帰ることはできなかった。だから、子孫にわかるように日記にそれを示唆したのだろう」

 それから数ヶ月が過ぎた。先にインド入りしたライナスは、首尾よく村の娘ハリシャと懇ろになり、村に定住したがる善良な外国人の演技を続けた。森の奥に地図に載っていないマハーマユーリー寺院があることも確認した。マハーマユーリーの祭があることを知り、その日に合わせてドハティ卿が先祖の足跡を追う金持ちとしてやって来た。

「なぜほかの男たちは、このご老人を運ぶのを断ったんだ」
ライナスは、アーナヴに訊いた。暗い足元を照らすために額につけたハロゲンライトが、アーナヴの浅黒い横顔を浮かび上がらせたが、背中にドハティ卿を背負う重みに俯きながら歩く男の表情はよくわからない。
「あの寺院は観光名所ではない。とくに今朝は……」

 ライナスは、森に先ほどまでは聞こえなかった鳥の囀りが始まったので、見回した。
「君1人で背負ってもらうことになったのは氣の毒だが、他に案内してくれる村人がいなかったのは予想外だったよ。……夜明け前に間に合うと思うか?」

「ええ。もう、そう遠くありません」
アーナヴの言葉の通り、直に川のせせらぎが聞こえてきて、木々が途切れる場所に出た。そこに見えている地平線近くはわずかに薄紫色に変わりだしている。吊り橋があり、アーナヴに続いて渡った。

 それから5分も歩かないうちに、不意に森は途切れ、何もない村しかない地域には不釣り合いなほど大きな石造寺院が現れた。一緒についてきたドハティ卿の部下や医者らが口々に驚きの声を上げた。

 その寺院は、苔やつる性の植物に覆われ、決していい状態とは言えないが、巨大な一枚岩を削り出して作ったと思われる楼閣にはたくさんの彫刻が施されている。

 アーナヴは、そっと腰を落とし、ドハティ卿を降ろした。ドハティ卿はようやく目指したマハーマーユーリー寺院を自らの目で見ることができた。
「これが!! さあ、中に入るぞ」

 だが、アーナヴは、どういうわけか寺院の正面にではなく、今やって来たばかりの川の方向に向いて、跪き頭を地面にこすりつけた。

「何をしているのだ。この寺院の中に、神像があるのではないのか?」
ライナスが訊き、アーナヴは答える。
「はい。しかし、今の時期は神像ではなく、マハーマーユーリーご本人に敬意を示すのが正しいのです。ハリシャは説明しませんでしたか?」

「ハリシャは、今朝寺院にいけば《緑の至宝》を目にするでしょうと言っていたが……。神像に緑のダイヤモンドがついているのではないのか?」
ライナスは、言葉をきちんと理解していなかったのか不安になった。

 アーナヴは不思議そうに見た。
「緑のダイヤモンド? いいえ。《緑の至宝》はダイヤモンドではありません」

「ダイヤモンドではない?!」
ライナスが大きな声を出し、ドハティ卿は、英語に通訳するように命じた。

「ダイヤモンドではないとしたら、《緑の至宝》とはなんなのだ!」
ドハティ卿は、急いで暗い寺院の中に入っていき、目をこらした。寺院の中は、緑色のつる性植物で覆われている。その奥に非常に大きい神像、孔雀の羽を広げた装飾の神像があった。

 ドハティ卿が、ライナスとアーニヴに説明を求めようと再び入り口に向かったとき、夜明けが輝きだした。

 そして、真っ赤に燃え立つ地平線を背に、誰かが歩いてくるのが見えた。

「ハリシャ?!」
ライナスは、アーニヴの娘、今のところは自分の恋人と目されている女の名を叫んだ。しかし、近づいてくるその人物は、純朴な村娘その人ではなかった。

 美しい顔は、女のようでも男のようでもあった。体つきも華奢ではあるが、女性らしい膨らみやくびれはない。そして、わずかにではあるが自身から光を発しているように見える。それともそれは夜明けの特別な光と朝靄が見せる幻影だろうか。

 アーニヴは、自分の娘には決してしないような態度でひれ伏した。その人物は、緑色の光沢のある布を身に纏っている。そして、ゆっくりと孔雀の派手な尾羽が後ろに広がった。いや、それも目の錯覚かもしれない。そのような装飾の服を着ているだけなのかもしれないのだ。

 近づいてくるその人物のはるか後ろには、一緒にここに来るのを拒んだ村人たちが続いていた。怪我をしている者や、長らく病で寝込んでいた老女までが行列をなしていた。

 孔雀の羽根飾りをつけた人物と村人たちは、ドハティ卿の一行が目に入らないかのように通り過ぎて、寺院の中に入った。それに続くアーニヴの姿で我に返ったライナスは、ドハティ卿に手を貸し、一緒に寺院の中に入っていった。

 寺院の中にも朝日が入り、中の様子がよく見えるようになっていた。緑の服装の人物が、神像に背を向けて立った。神像と人物の背丈はまったく一緒で、神像の姿は完璧に隠れ、緑の服の人物がちょうどマハーマーユーリー神像そのもののように見えた。

 やがて、その人物は朗々とマントラを唱えだした。孔雀の尾羽は震えてさらに広がって見えた。

 寺院の高い天井は、その声を反響させた。

「こ、この声は……」
ドハティ卿は、ライナスを見た。

「マントラですね。サンスクリット語の呪文のようなものです」
ライナスは小声で説明した。

「だが……この残響はいったい……」
普段は威圧的で居丈高なドハティ卿が、珍しく不安そうな様相で寺院の中を見回している。

「インド人は、マントラの振動が、人の意識やエネルギーに直接的に作用すると信じているそうで……もちろんわたしはそんなことは信じていなかったのですが……」
ライナスもまた、意味はわからないものの、寺院内に満ちる力強い音響に脅威を感じている。

 やがて、村人たちが唱和しはじめた。寺院内はもっと大きな響きに満ちた。

 長い残響が消えると、寺院内は静寂に包まれた。そして、ライナスは寺院の外に激しい雨が降っていることに氣がついた。その雨は、まるで滝のようで、イギリス人たちは顔を見合わせた。

 雨は長く続かず、また突然に止んだ。太陽の光が森の木々に残った雫に反射して輝いている。村人たちは、喜んで寺院から出て行った。

 ライナスは、先ほどまで足を引きずっていた男や、弱々しく歩いていた老女が、颯爽と歩いていることに氣がついた。驚いてドハティ卿をみると、彼もまた背が伸び、10歳以上も若返ったかのように足を動かしている。

「どういうことだ。痛みが全くない……」
卿は首を傾げている。同行していた医者が驚いて駆け寄った。
「まさか! あの関節の状態で、そんな風に歩けるはずはないのに……」

 ライナスは、驚いて孔雀の羽をつけたあの人物を見ようとした。だが、そこには石の神像があるだけで、あの美しい人物は影も形もなかった。

「孔雀は毒蛇を食べます。マハーマーユーリーは、毒蛇や病などあらゆる災難を取り除くのです」
アーニヴが、ライナスの困惑した顔を見て言った。

「あれは、一体だれなのだ。ハリシャに似ていたが、お前の親族なのか?」
ライナスが訊くと、アーニヴは首を振った。

「私の親族ですって? とんでもない。あの方が170年に1度しか現れない《緑の至宝》マハーマーユーリーです。病を癒やし、雨を降らせ、毒や災難を取り除きます。それだけでなくかのマントラは人間の3つの毒である欲・怒り・愚かさを滅して安楽をもたらしてくれるのです」

 ライナスは、動揺しつつもアーニヴの言葉をなんとかドハティ卿一行に通訳した。  

 ドハティ卿は、帰りの道のりを1人で歩いていった。医者は、ずっと首を傾げ続けていた。ライナスは、別のことで首を傾げている。卿がダイヤモンドのことを忘れてしまったかのように、何も口にしないことだ。

 レディ・アイリーンの日記について、ライナスは考えた。170年前に療養中だった彼女もまた、当時の村人たちと共に、あの不思議なマントラによって癒やされたのだろうか。

 村人たちの後ろに続いて橋を渡っているとき、向こう側にまたあのマハーマーユーリーの姿が見えた。もっとよく見るために人びとの間から覗くと、そこにいたのは緑色のサリーを着たハリシャだった。

 まるで若返ったような老女に近づき、嬉しそうに微笑み祝うハリシャは、朝日の中で輝いているように見える。その姿は、170年に1度しか現れない不思議な存在に劣らぬほど、神秘的で美しい。数日後にはライナスが置いて去ろうとしていた未開地の田舎娘は、もうどこにもいなかった。

 ライナスに氣がついたハリシャは、謎めいた微笑みを見せた。彼は、レディ・アイリーンの日記に書かれていた言葉をもう1度噛みしめた。
「《緑の至宝》の真の価値を見いだせますように」

(初出:2024年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

白菜、育っている

冬だけれど家庭菜園の話。

生き残った白菜

先日の「白菜が生きていた!」という記事の続報です。

去年、大雪に埋もれてしまったのであきらめて放置していた白菜が、しぶとく生きていて、それをそのまま育てているのです。コメントをいただいて知ったのですが、秋田県ではこのように雪に埋もれて収穫できなかった白菜が春にトウ立ちしたものを「ふくたち」という別の野菜として売り出すようになったとのことで、うちの白菜も、結球ではなくて「ふくたち」になるのかなと、(ほぼ何もしないで)見守っています。

暖冬で寒くないのでカバーも外して日光に当てているのですが、ボロボロだった葉っぱのあいだからきれいな新しい葉っぱが生えてきています。

まだまだと思っていましたが、もう2月も後半です。来月はもう最初の作物を植えるつもりです。なんて早い! というわけで、借りている畑の他の部分は、既に1度耕してみました。今年は去年よりもちゃんと計画的に作物を植えるつもりなので、その準備に土作りなども考えているのです。

そういえば、金曜日に畑を耕したのですが、土曜日の朝、体中が痛くてぎょっとしました。すぐに「あ、筋肉痛か」と思い出しました。思ったよりも体のあちこちを使う作業なんですね。
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Posted by 八少女 夕

【小説】彼女と話をしてみたら

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第4弾です。津路 志士朗さんは、掌編で参加してくださいました。ありがとうございます!

 津路 志士朗さんの『紅葉、色づくまで。』

志士朗さんは、オリジナル小説と庭とご家族との微笑ましい日々を綴られる創作系ブロガーさんです。代表作の『エミオ神社の子獅子さん』や、現在連載中の『揃いも揃ってクラスメイトの癖が強い。』など、とてもよく練られた設定の独自の世界を、軽妙な文体で展開なさっています。あと、執筆がとても早いのは驚くばかりです。

今年書いてくださった作品の1つめは、子獅子さんシリーズの世界からの掌編です。本編でのメインの咲零神社の子獅子さんたちではなくて、智知神社の子虎さんを主役にしたすてきなお話です。また、下記のCプランのお題も組み込んでくださいました。

今年の課題は
*ご自分の既出のオリキャラを一人以上登場させる
 メインキャラ or 脇役かは不問
 キャラクターであれば人どころか生命体でなくてもOK
*季節は「秋」
*身の回りの品物を1つ以上登場させる
*交通手段に関する記述を1つ以上登場させる


お返しの作品をどうしようか悩んだのですが、あちらのお話はきちんと収束していますし、無理に絡む余地はなさそう。また、わたしの世界には霊獣もいませんので、どうしようかと迷った結果「毛色」だけをいただいてくることにしました。

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彼女と話をしてみたら
——Special thanks to Shishiro-san


 ああ、カボチャのサラダ、始まったんだ。これ美味しいのよね。三智子は微笑んだ。商品が入れ替わって秋らしくなった。

 洋風惣菜を扱う店でパートをはじめてそろそろ1年だ。教わるばかりだった去年が懐かしい。今は新人パートやバイトの指導を任されることも多くなってきた。

「浜崎さん、そろそろポテトサラダがなくなるから、奥の冷蔵庫から出してきてください」
三智子は、暇そうに立っている浜崎京子に声をかけた。普段なら三智子自身が取りにいくのだが、ちょうどサラダ3種詰め合わせセットのラップかけの作業中だった。

 お弁当を買いに来るOLや、昼食の惣菜を探しに来る客たちが増える11時半までに、オープン冷蔵ケースに商品を並べる必要がある。

 京子は、露骨に嫌な顔をした。
「あたしに指図するんですか。社員でもないのに」

 三智子は、うわ、面倒くさいこと言い出した……と思った。川口主任は、いま会議中でいないし、同じパートに指図されるのが嫌なら、自分で考えて動けばいいのに。

 しかたないので、1度作業を中止して、自分で取りに行こうとしたところ、ポテトサラダの皿を持って、奥から松田エリ子が出てきた。
「わたし、持ってきましたぁ。あ、おはようございまーす」

 エリ子は、先月入った学生バイトだ。若干時間にルーズなのか5分程度遅刻することがよくある。今日は20分遅れだ。

「松田さん。前から言おうと思っていたけれど、あなた、社会人としての自覚はないの?」
京子がさっそく、説教をはじめようとしたが、幸い客が来たので、続かなかった。

「まだ社会人じゃないし~」
 小さく言ってぺろっと舌を出すエリ子に、三智子はとにかく対面ケースのポテトサラダの皿を下げて新しい皿と取り換えるように目で促した。遅刻の説教は、あとで社員がするだろう。いまは時間が惜しい。

 エリ子は、悪びれない。ハキハキして覚えもいいし、三智子にとっては京子よりも一緒に働きやすい。

 忙しい昼の時間を無事にやり過ごして、ようやくひと息つくと、エリ子が言った。
「あ、時間だ。休憩いただきまぁす」

 京子が、咎めた。
「ちょっと。遅くきたんだし、休憩は遠慮しなさいよ。ねぇ、主任、そう思いません?」

 社員の川口主任は、「いやぁ、いまどき、そういうわけにも……」ともごもご言うだけだ。

 エリ子は氣にせずに、行ってしまった。京子は不満たらたらだ。
「主任は甘すぎます。遅刻の常習だけじゃなくて、あの髪の色だって!」

 エリ子の髪は青い。黒髪に青い光沢がある程度ではなく、2回はブリーチをしてかなり鮮やかなコバルトブルーに染めてある。

 三智子は、黙って洗い物を終えると、炊事手袋とダスターを定位置に干して、川口主任と京子の方を見た。
「じゃ、お先に失礼します」

 今日は早番だったので、これで定時だ。川口主任は時計を見て「あ。そうだね」と言った。京子はこちらも見ずに「お疲れ様」と言った。

 バックヤードに向かっていると、後ろから川口主任が追いかけてきて声をかけた。
「吉川くん、ちょっと悪いんだけどさ」

「はい、なんでしょう?」
三智子が振り返ると、彼は声をひそめた。
「社員食堂を通るだろう? 松田くんに、遅刻のこと、ちょっと注意してくれないかなあ」

 川口主任は、いつもこんな感じだ。それはパートじゃなくて社員の仕事だと思うんだけどなあ。

 社員食堂はそこそこ賑わっていたが、エリ子はすぐに見つかった。窓際のカウンター席でスマホを見ている。

「松田さん」
声をかけると、エリ子は振り返った。三智子を見ると軽く手を振った。
「吉川さん。あがりですか」

「ええ。隣、いい?」
「どうぞ」

「飲み物、買ってくるわ。松田さんはどう? ご馳走するわよ」
「わ。いいんですか? じゃあ、サイダーにしようっかな」

 三智子は、荷物をエリ子の隣の椅子に置いて、アイスコーヒーとサイダーを買ってきた。

「はい。どうぞ」
トレーをカウンターに置くと、エリ子はペコッと頭を下げた。
「サンキューですっ。サイダー、久しぶりだな」

 三智子は、どうやって話をしようか、考えながら言った。
「もう慣れた?」

「うーん。そうですね。楽しくなってきました。接客業はじめてだし、続くか心配だったんだけど」
「あら。ハキハキ接客しているから、初めてだとは思わなかったわ」
「うち、商店街の食器屋で、子供の頃から親の接客見てたし。吉川さんは? ここ、長いんですよね?」

 三智子は首を振った。
「いいえ。1年ちょっとよ」
「え~? そうなんですか。なんでも知っているし、ずっとここにいるのかと思ってた」

 エリ子は、人なつっこく笑った。三智子は肩をすくめた。
「川口主任が赴任していらっしゃるちょっと前だったの。だから、いろいろ訊かれて、古株みたいに見えちゃうのかも」
「あ。だから浜崎さんがキーキーいうのかぁ」

 京子の三智子に対するトゲのある態度は、エリ子にも丸わかりだったようだ。

「さっき、遅延証明は吉川さんに渡した方がいいのか、それとも主任を待つ方がいいかって訊いたら、吉川さんは社員じゃないってものすごい剣幕だったんですよ。前言ってたけど、浜崎さん、ここの本社に内定決まっていたのに辞退したんですって。入社していたら、吉川さんどころか、川口主任よりも自分の方が偉かったのにって。でも、そんなイフの話したってしょうがないですよね」

 あら。そうだったのね。もしかして、それで……。

 浜崎京子がパートとして入りたての頃に、強引にSNSの連絡先交換させられた。以来、たまに流れてくる彼女のストーリーに、まるで彼女が本社の企画担当でもあるような口調の短文と共に職場の催事が登場していることに首を傾げていた。

 結婚して退職する前は全国展開の有名デパートで企画を担当していたと言っていたから、その頃の思い出をオーバーラップさせて書いているのかと思っていたけれど、もしかして、本人の思いの中では、今でも大手デパートの正社員のままなのかもしれない。

 そんなことを考えていたが、不意にエリ子の言った別のことに思い至って、驚いた。三智子はあわててサイダーを飲むエリ子の方に向き直った。
「ちょっと待って。遅延証明って言った? それって今日の遅刻の原因なの?」

 エリ子は不思議そうに見た。
「そうですよ。電車停まっちゃって。いつもの寝坊と違うから、来てすぐに浜崎さんに遅延証明をどうするのか訊いたんです。そしたらタイムカードのところに挿しておけばいいって。違うんですか?」

 三智子は返答に困った。遅延証明だけの問題ならそれは間違っているとは言えない。でも、遅れた原因をきちんと言ったのに、それが三智子と川口主任に伝わらなかったのは、知っていてわざと黙っていた京子のせいだ。でも、ここでそれを言えば同じパートの悪口を言っているようになってしまう。

「遅延証明に関しては、それで間違っていないんだけれど、この休憩終わったら、口頭でもう1度主任に理由を話した方がいいわ。……伝わっていなかったから」
そう言うと、エリ子は「あ」という顔をした。
「もしかして川口主任から遅刻の件でお説教するように言われたとかですか?」

 三智子は曖昧に笑って頷いた。エリ子はストローを振り回して言った。
「そっか~、浜崎さんにだけ言ったのが間違いだったか。ま、いつも遅刻しているし、お説教されても不当じゃないですよね」

 三智子は、わかっているんだと心の中で思った。
「学校の授業だと、遅刻しても叱られて済むくらいだけれど、仕事の時は、そうはいかないの。でも、松田さんが自分でわかって直そうとしているなら、うるさく言うつもりはないわ」

 エリ子は頷いた。
「努力しまーす。吉川さん、人間できていますよね。いろいろ決めつけて怒ったりしないし」

「そんなことないわ。今日の遅刻の理由、訊かなかったのは先入観あったからよ。それは謝らなきゃ」
「ははは。でも、だからって浜崎さんみたいに意地悪したりしないし、やっぱ人間できてますよ。……あと、話わかるだろうなって思ったのは、髪の色。きれいに染めてるし」

 三智子は、「え?」とエリ子の顔を見た。本心からそう思って言っているらしいとわかると、苦笑していった。
「これ、お洒落のために染めているんじゃないの。わたし、若白髪の家系でね……」

 三智子は40代なのに頭髪の3分の1以上が白い。あまりにも目立つので、白髪染めをしないわけにはいかない。ただ、3週間に1度と高頻度で染めるので肌にいいヘナとインディゴで植物染めをしている。

「そうなんですか? いっぱいメッシュ入れていてかっこいいなあって思っていたんですよ」

 三智子は苦笑した。ヘナ染めはブリーチ後の化学染料使用とは違って、黒髪の色は変わらない。その結果、黒髪とヘナとインディゴの相互作用による焦げ茶色、そして、インディゴが上手く入らなかったためにオレンジっぽい色の部分も残り、3色が何となく入り交じっている。

「あら、ありがとう。メッシュにしているわけでなくて、自分で染めているから、ムラになっているだけなんだけれどね。松田さんは、美容院で染めているんでしょう、それ?」

 エリ子は首を振った。
「セルフブリーチですよ。でも、自分でじゃなくて、美容師目指しているルームメイトがやってくれているんです。練習と実験を兼ねて。このブルーは、めっちゃお氣に入りなんです。お堅いとこ就職したらできなくなっちゃうから、今のうちにいろんな色を楽しみたいんですよね」

 三智子は感心した。
「先のことも考えてやっているのね。確かにバイトなら許されても就職したらできないことも多いんでしょうね」
「そうなんですよね。みんな同じ格好させて、違いなくさせて面接とか、何の意味があるのかって思うけど、文句言ってもしょうがないし。ま、でも、不自由はあっても、そのときどきに楽しいことを見つけるつもりなんで、今は、今にしかできないファッションを楽しみます」

 三智子は、自分よりずっと若いこのバイトの女の子に対して、一見問題のある言動にもかかわらず、常に好意を持ち続けている根源がはっきりわかったような氣がした。

 この子は、自分のやりたいこと、大切にしたいことがはっきりわかっているのだ。好きなことを存分にしていれば、卑屈になったり、反対に人を攻撃したりする暇なんかないのだろう。

 三智子は微笑んで立ち上がった。
「ええ。それには賛成だわ。……安心した。じゃ、今日の電車遅延のこと、ちゃんと主任に伝えるのよ」

 エリ子も立ち上がった。
「はーい。ごちそうさまでした。わ、早く戻らなきゃ!」 

 ちょっと立ち上がってから、また振り向いて言った。
「白髪染め必要になったら、吉川さんみたいにしようかな~」

 三智子は笑った。
「必要になるのはずっと先でしょう。まだそんなこと考えなくていいのよ」

 若い子と話すことはめったにないけれど、いいものね。帰宅はいつもより少し遅くなったけれど、三智子の足取りは軽かった。 

(初出:2024年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

カラーリップを作った

口紅代わりに使えるリップクリームを手作りした話。

手作りリップ

冬はあちこちカサカサしますよね。

何年も前から、シアバターとホホバオイル、そして尿素で作ったクリームを手や踵に塗っていました。時おり唇にも塗っていましたが、出先などではリップケースでササッと塗りたいときもあるんですよね。

そして、わたしは普段ほとんど化粧をしないのですが、唇だけは少し赤くしたいので、以前は口紅を使っていました。

でも、口紅っていろいろな添加物が入っていて、それが氣になっていたのです。少しずつですが口に入りますし。以前は自然食料品の店で扱っていた口紅を買ってみたんですが、その自然食料品チェーンが倒産してしまい、入手困難になってしまいました。他でも懸念のある添加物の少ない口紅は見かけたのですが、ケースが太いので買うのに躊躇してしました。

で、結論としては、自宅にある氣に入っているリップケースに自作品を入れるのがベストではないかと。

というわけで、はじめて色つきリップを手作りしてみました。材料は、蜜蝋2g、ホホバオイル5ml、シアバター1g、それに乾燥ビーツの粉、ココア(量は適当に)です。湯煎して溶かして流し込むだけ。それを冷蔵庫で冷やすと固まってちゃんとリップになってくれます。コツもへったくれもありません。

エッセンシャルオイルで香りをつけるというレシピもありますが、わたしは食事をするときに氣になるかなと思って、香りはなしにしました。(次回以降、試してみてもいいかな?)

ケースは、かつて愛用していた口紅のもの。しっかりしているし細身です。1つしか映っていませんが、実際には2本半分あったので、コートとジャケットのポケット、そしてハンドバッグに忍ばせて、氣になるときにさっとひと塗りしています。

口紅ほどの色はつきませんが、リップだけよりもうっすらと色がつきます。でも、食品なのでつけたまま放置しても荒れることはないです。次回はもう少し色をつけるつもり。

これを塗り始めた頃、ものすごく唇が荒れていたのですが、塗り始めて2日くらいでつやつやになりました。これはおすすめです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】毒蛇

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第3弾です。山西 左紀さんは、連載作品の最新話でご参加くださいました。ありがとうございます!

 山西 左紀さんの『白火盗 第五話』

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

今年書いてくださった作品は、左紀さんにとってはじめての時代小説「白火盗」の新作です。独自設定のもと、不思議な力を持つヒロインと、彼女にひかれる浪人の物語です。

お返しの作品は、もちろん左紀さんのお話の本編には絡めませんので、まったく関係のない話です。いちおう、お返しとして書きましたので「時代物(でも中世ヨーロッパ)」で、とあるシチュエーションだけまるまるいただいて書いてみました。

世界観は、現在連載中の『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』のものですが、現在のストーリーとはまったく関係ありませんので、連載を読んでくださっている方も、未読の方も、前作をお読みになった方も等しく「?」となる話です。登場するオットーという人物は、これまで1度も出てきていません。それ以外の人物は、連載中の作品の主要登場人物の先祖です。


【参考】
《男姫》ジュリアとハンス=レギナルドについてはこちら
【断片小説】森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走より
Virago Julia by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。

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毒蛇
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 オットーは、腕を組んで窓の方を見た。特に見たい物があるわけではなく、暗い部屋の中ではどうしても月明かりの差し込む窓に視線が向く。

 王都ヴェルドンの地を踏んだのは、2年ぶりだ。国王自身の婚礼がなければ、フルーヴルーウー辺境伯ハンス=レギナルドは、あと10年でも戻らなかったかもしれない。

 オットーは、「これまでに存在せず、今後も現れないであろう美しさ」と噂される花嫁、隣国ルーヴランのブランシュルーヴ王女にも、彼女が連れてきたという華やかな美女たちにも興味はなかったが、2年ぶりに国王に声をかけてもらい満足だった。

 それは異様な婚礼であった。花嫁とルーヴランから連れてきた4人の高貴なる乙女たちは、婚礼前だけでなく、婚姻の儀においても、その後のお披露目の宴でも濃いヴェールを外すことを許されなかった。

 それどころか、国王レオポルドは、新王妃を王城の王妃の間に住まわせることを拒んだのだ。本来、敵国から嫁いでくる花嫁を儀礼的に婚姻まで滞在させる西の塔に、そのまま厳しい見張りと共に置き、自らも塔で寝泊まりするようになった。

 はじめは、敵国による奇襲を警戒しているのではないかと噂した貴族たちも、やがて国王の怖れが自らの安全にはないことを理解しだした。彼は、新妻をほかの男に奪われることをなんとしてでも避けようとしているのだと。

 王朝史上もっとも大きな版図を拡大し、勇猛豪胆で、求心力のある国王には、決して拭えない大きな劣等意識がある。

 レオポルドは、異様に背が低く、オットーが立ち上がればその胸よりも下に頭が来る。また、細い目と低めの鼻に比べて口が大きい。敵国では《短軀王》または《醜王》と陰口を叩かれている。そうしたあだ名や容姿が劣ることを国王自身が氣に病んでいることは、側に仕える臣下たちはみな知っていた。

 おそらく、レオポルドが家臣としては誰よりも信頼する一方で、新妻の心を奪う可能性の存在としてもっとも警戒しているのがフルーヴルーウー辺境伯ハンス=レギナルドだろう。

 オットーの生まれ故郷ノルムは、グランドロン王国の北端にあるが、現在仕えているフルーヴルーウー辺境伯の領地は最南端にある。

 辺境伯爵領とは名前ばかり、実態は険しい山嶺《ケールム・アルバ》と広大な森《シルヴァ》の未開地だ。獰猛な動物と野蛮な周辺民の他には足を踏み入れる者もわずかしかいない。だが、《ケールム・アルバ》の南に広がるセンヴリ王国との交易や領土争いを有利にするためには、どうしても街道の整備をする必要がある。王国版図の拡大を目指すレオポルドが、着手した大事業だ。

 新たに設立されたフルーヴルーウー辺境伯爵領の領主となったのは、グランドロン王国ヴェルドン宮廷では特異な存在であった騎士ハンス=レギナルドだった。

 おそらく隣国ルーヴランの出身だと思われるこの男は、深い謎に包まれている。氣味が悪いほど整った容姿について、よくない噂をする者までいる。とある高貴な女が悪魔と交わって生まれた私生児だとか、いかがわしい男娼出身に違いないとか、ともかくその容姿について好意的な噂は聞いたことがない。とはいえ、女たちは噂には頓着せず、わずかでもこの男を振り向かせようとスダリウム布に高価な贈り物を忍ばせて手渡す。

 かつてのオットーは、他の騎士たち同様、この美丈夫に反感に近い感情しか持っていなかった。だがその自分に、国王はフルーヴルーウー伯爵の臣下になれと命じてきたのだ。2年前のことだった。

「このハンス=レギナルドの命令は、すなわち余の命令だ」
王は、オットーに言った。王の命令が絶対であるオットーは、かしこまって拝命した。

 ハンス=レギナルドを未開地に送り出したことを「厄介払い」と陰口を叩く者もいた。だが、そうではないことをオットーは知っている。オットーをはじめとする有力な騎士たちを何人も彼の助力になるようフルーヴルーウー辺境伯領へと送り出したのは、それだけこの事業が重要だからだ。憎み疎ましく思う男を、その要として選ぶはずがない。

 新たな主君は、レオポルドのようにわかりやすい尊崇は集めていなかった。国王の素早い決断と思慮深さ、辺りを払う威厳、忠臣をねぎらう公平な態度など、生まれながらの為政者として安定したありように心酔してきたオットーには、フルーヴルーウー辺境伯は奇異ですらあった。

 彼は、上に立つ者として育ってこなかったのだろう。命じることよりも自らが動こうとすることの方が多かった。恥や怖れを知らない。

 だが、不思議な魅力もある。部下たちの強みをよく見抜き、それぞれの得意な分野で活躍させる。異国の令嬢をたらし込み、軽率にも閨に連れ込むようなこともするが、諫言を口にしようとする部下に、悪びれもせずに女を通して手に入れたばかりの相手国の城門の鍵を渡してみせる。

 敵に奇襲をかける際の大胆不敵な発想や、寒く不快な野営でもへこたれぬ態度を見て、やがて臣下たちも新しい主君を認め、素直に従うようになった。

 とはいえ、フルーヴルーウー辺境伯の女に対する不品行ならびに女に対する影響力が衰えていないことは日の目を見るよりも明らかだったので、猜疑心にかられた国王は彼をはじめとする婚礼に集まった各地の有力貴族たちに、見張りの厳しい客間をあてがったのだろう。

 今宵のオットーは、そのハンス=レギナルドの戻りを待っていた。

 深夜に部屋を抜け出すと言いだした時には、ふざけているのかと思った。

「心配しなくとも王妃に興味があるんじゃないよ」
ハンス=レギナルドは笑って言った。王と共に西の塔にいるブランシュルーヴ王妃に夜這いをかけることは不可能だろうから、オットーもその心配はしていないが。

「じゃあ、お出かけはおやめになるべきではありませんか。ご婦人方は領地にもたくさんおられます」
オットーは控えめに言った。

「どうしても確認しなくてはいけないことがあるのだ。王妃が連れてきた4人の高貴なる乙女たちの名を聞いたか?」
主の言葉に、オットーは首を傾げた。
「ヴァレーズ、マール、アールヴァイル……それにバギュ・グリのご令嬢でしたか?」

 ハンス=レギナルドは頷いた。
「そうだ。あり得ない名前がある」
「とおっしゃると?」

 オットーの質問をハンス=レギナルドは無視した。
「確かめなくてはならない」

 そう言って密やかに出ていった部屋の主は、予定の時間を過ぎても戻ってこない。見回りの騎士の問いかけに代返をすること3度。それ以外はすることもない。寝台で寝てもいいと言われていたが、「狼の皮を被る者ウルフヘジン 」の名をもらったことのある誇り高いノルムの戦士は、主君を待つ間にだらしなく眠りこけたりはしないものだ。

 彼の本来の名はオホトヘレといい、かつては存在したノルム国の高貴なる戦士の家系に生まれた。ノルム王ウィグラフに仕えていたが、王の甥スウェルティングによるクーデターに際して捕らえられ、奴隷としてタイファのカリフに売られた30人の戦士たちの1人だった。

 グランドロン王国が対タイファ戦の戦利品として受け取った宝物・賠償類の中に、ただ1人生き残った彼が含まれており、レオポルド1世に氣に入られて奴隷の身分から解放され、騎士に取り立てられた。その時に名をグランドロン風にオットーと改めた。

 それだけでなく、かつての主君を殺した簒奪王スウェルティングと戦い、ノルムをグランドロン領に編入したレオポルドは、憎きスウェルティング処刑の際に、オットーに刃を握らせてくれた。騙され両親と妹を殺されたオットーが復讐を誓っていることを考慮してくれたのだ。

 それ以来、オットーはノルムの戦士としてではなく、グランドロン王の騎士として生きることに心を決めた。

 オットーは、レオポルド自身から「クサリヘビオッター 」というあだ名をもらった。攻撃が執念深く、敵を倒すまで決してあきらめない。また、昼よりも夜の奇襲で真価を発揮するところが、怖れられる毒蛇を想起させるというのだ。または、単に近い音を用いた言葉遊びかもしれない。実際にオッターという響きは、彼の実名の響きに近かった。

 窓に月がさしかかり、やがて消えた。見回りももう回ってこない。明け方になるまでは静かなままだろう。いつになったら主は戻ってくるのだろうか。

 扉の向こうにわずかな物音がした。そして、小さなノックが聞こえた。すぐに扉を開けた。

 するりと入ってきたのは、ハンス=レギナルドではなかった。黒く長い髪、挑みかけるように鋭い双眸を持つ女だ。

 戸惑うオットーにかまわず、女は後ろ手で扉を閉めると小さい声で訊いた。
「ハンス=レギナルドはどこ?」

「いま、こちらにはいらっしゃいません……あなた様は?」

 女は、オットーの方をチラリと斜めから覗くように見ると、馬鹿にしたような顔をして質問を無視した。
「そう。……あいつ、あいかわらずお盛んなのね」

 そういうと、寝台にドカッと腰掛けた。
「それで、お前はハンス=レギナルドの部下なの?」

「はい。わたくしめは騎士オットー・ヴォルフペルツと申します。お見知りおきを」
オットーは、型破りな女の様子に内心驚きつつも、礼儀正しく膝をつき挨拶をした。女はそれを立って受けるどころか、手を差し出すことすらしない。

「あいつが伯爵ねぇ」
そう言うと、窓の外を眺めて、足を組みその膝で頬杖をついた。

 オットーは、尋ね人がいなくても帰る様相のない女に戸惑った。暗闇の中とはいえ、その衣擦れと焚きしめた香から、侍女や下女などではないことはわかる。そのような女性と密室に2人でいることはあまり好ましくない。国王が警戒したのは自分ではないと思いたいが、見回りに見つかったらただでは済まないだろう。

 それに、主が戻ってきたら、この状況をどう思うだろうか。できれば、この部屋から出て行きたいが、主の代わりに見回りに返答する務めがある以上、そうもいかない。

 半刻ほど、お互いに口もきかずにそうしていた。やがて女は寝台に横になった。暗い部屋の中、表情などは見えないが、静かな衣擦れと均整のとれた肢体がゆっくりと動く様子に、オットーは思わず息を飲んだ。

「ここでお休みになるのですか」
のどが渇いたのか、声が枯れてうわずる。

「そうよ。何度も出向くほど暇じゃないからね」
女の声には、含み笑いが混じっている。衣帯を緩め膝を動かしているのを見て、急いで後ろを向いた。よく見えているわけではないが、騎士たる者、貴婦人の寛ぐ姿を淫らな目で凝視していると思われてはならない。

 この女が誰だかわからないが、フルーヴルーウー辺境伯とただならぬ仲であることは間違いないだろう。あらぬ疑いをかけられると、陛下の命令を全うできなくなる。また、見回りの者が近くにいる時に、大声でも出されたら、もっと大変なことになる。オットーは、女などいないかのように過ごそうと心に決めた。

 長い夜だった。あれほど歩みの早かった月は、その動きを止めてしまったかのようだ。時おり女の寝息と衣擦れと共に、焚きしめられた香が漂ってくる。オットーは、まとわり付く魔力に取り込まれぬように身を硬くした。

 ハンス=レギナルドは帰ってこない。オットーは壁の方を向いて小さな腰掛けの上でひたすら事態が変わるのを待っていた。

 自らの首がガクッと落ちかけるのに反応して、はっと起きた。いつの間にかウトウトしていたらしい。あたりは白みかけており、窓の向こうは赤紫色になっていた。

 含み笑いが聞こえたので、思わず振り向くと、女が寝台の上に起き上がっていた。明るくなったことで、女の姿がはっきりと見えた。

 白く透き通る肌。黒曜石のように輝く瞳。血のように紅い唇。ぞっとするほど美しい女だ。一瞬だけ「これまでに存在せず、今後も現れないであろう美しさ」の持ち主かと疑ったが、すぐに思い直した。ブランシュルーヴ王女は日の光のような金髪のはずだ。見るからに上等の布地と手入れされた手肌を見て、もしかするとこの女は、王妃に傅く4人の高貴なる乙女の1人ではないかと思った。

 ということは、主君ハンス=レギナルドが確かめたいと言っていたのは、この女の事なのかもしれない。だが、高貴な乙女たちはみな錚々たる家系の姫君ばかりだ。男の部屋を訪ねて勝手に寝たりするだろうか。

 身につけているのは寝室で着るような黒の薄物で、そんな姿で王城内をうろつき回っているとは信じられなかった。

 彼は、急いで女から眼をそらした。すると、寝台の上、足元にいくつかの衣類が無造作に置かれているのが見えた。

 オットーの戸惑いを見透かしたかのように、女はあけすけな笑い方をした。
「お前は意氣地なしね」

 彼は、度肝を抜かれた。そして、心外な思いを堪えて返答した。
「わたくしめは、ハンス=レギナルド様の臣下にて、騎士でございます」

 彼女は、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「人生は誰かが勝手に決めた手順に従ったり、他の者に遠慮して我慢するには、あまりにも短すぎるわ」

 女は恥じらう様子もなく、灰色の上着を身につけ、よく儀杖官が身につけるような黒い切れ込みのある立派な外套を鷹揚に羽織った。長い髪を器用に捻って角頭巾の中に押し込んだ。なるほど、見回りの兵士とすれ違っても、これならば高位の男と思われるだろう。

 その時、向こうから石の床を踏む金属的な足音が響いてきた。見回りだ。
「おはようございます。異常はございませんか、フルーヴルーウー伯爵様」

 オットーは、昨夜と同じように答えた。
「異常は無い。見回りご苦労である」

「はっ」
見回りは、次の部屋に向けて去って行った。

 女は、その足音が聞こえなくなると、扉を開けて、辺りを素早く見回した。
「ジュリアは待ちくたびれたと、ハンス=レギナルドに伝えるのよ、毒蛇オッター
女は笑った。血のように紅い唇が妖艶に広がる。そして、まだ暗い城内に消えていった。

 どっちが毒蛇だ。背筋に冷たい汗が流れた。

(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

久しぶりにケーキ食べた

甘いもの断ち中ですが、ちょっとだけインターバルを入れた話。

にんじんケーキ

別に厳しく止められているわけではないのですが、(いちおう)闘病中なので可能な限り砂糖を摂取しないようにしています。

たとえば、毎日飲んでいたコーヒーに、わたしは砂糖を1個入れないと飲めないと思っていたのですが、やめてみたら飲めました(笑)コーヒーではなくてお茶にすれば、もともと要りませんし、それは「超ガッカリ」というほどの変化ではありませんでした。

一方、お菓子は、病が発覚する前もそれほどは食べていないつもりでしたが、実は食べていました。小腹が空いたときのクッキーとか、口寂しいときのチョコとか、かなりの量だったらしく……20年近くどうしても減らなかった最後の2キロがあっという間に落ちてしまいました。いや、ダイエットするつもりはなかったんだけど……。

今のところ、制限しているのはいかにも砂糖たっぷりのお菓子類だけで、糖質そのものは氣にしていません。もちろん精製した炭水化物ではなくて、全粒粉やそれに類するミネラルの多いものを食べていますが、それは以前からそうでした。また果物は制限していません。むしろ甘いものが食べたいときに代わりに果物を食べることが多いです。

痩せすぎない方が体力を維持するために大切だと思いますし、それにQOLも大事だと思うので、あまり厳格にはしないように、先日外出したときに久しぶりにデザートを頼むことにしました。とはいえ、めちゃくちゃ甘いケーキなどは氣が進まないので、健康的っぽいにんじんケーキを頼んでみました。

満足しました。ドカ食いはしちゃダメですけれど、やはり極端に我慢しているとそれがストレスになりますし、「あれもダメ、これもダメ」と氣にしすぎると何も食べられなくなってしまいます。だから、これからもときどきは甘いものも食べて、その瞬間を大いに楽しもうと思います。
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Posted by 八少女 夕

【小説】一緒に剪定しよう

今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の植物』1月分です。今年は、植物をテーマに小さなストーリーを散りばめていくつもりです。

トップバッターは、『12か月のアクセサリー』の時に初登場させた花屋を経営する筋肉ムキムキ男&腐女子のカップルです。そして、植物は五葉松の盆栽です。

ずいぶん昔になりますが、東京で松の盆栽が展示されていました。樹齢を見たら500年でした! あの小さな鉢の中にそれだけの時間と、世話をした多くの人びとの歴史が詰まっているのですね。


短編小説集『12か月の植物』をまとめて読む 短編小説集『12か月の植物』をまとめて読む

【参考】
麗しき人に美しき花を
追憶の花を載せて



一緒に剪定しよう

 加奈は、剪定バサミを持ったまま、20分も右から左から眺めていた。テーブルの上にはかなり立派な盆栽がデンと置かれている。
「困ったなあ……」

「なんだよ。まだ悩んでんのか?」
ドアが開き、配達から帰ってきた麗二が笑った。

「うーん。やっぱ、わたし、この手の才能ないみたい。どうしたらいいのかわかんないよ」
加奈は、剪定バサミを置くと、盆栽をテーブルから持ち上げて部屋の片隅にある棚に持っていった。

「ちっちっち」
麗二が指を振って、加奈を止めた。

「なに?」
「五葉松は日当たりのいいところに置かなくっちゃダメだとさ」
麗二はスマホで調べながら言った。

「そっか。……わたし自信ないなあ。この松、近いうちに枯らしちゃいそう」
加奈はため息をついた。なんとなく枯れてきているような氣もする。

 大叔父が急逝したあと、子供のいない彼の遺産は、彼の兄弟姉妹またはその直系子孫が相続人となることになった。加奈の祖母は彼の妹だったが既に物故者だったので、加奈の母親が相続人の1人となった。結局、8人の相続人がいて、彼の住んでいた家を片付けて売りに出し、最終的に均等に分けたのだが、そこで1つの問題が発生した。大叔父の大切にしていた盆栽を受け取ることを全相続人が渋ったのである。

「そりゃあ、確かにわたしは園芸関係の仕事に就いているわよ。でも、盆栽とフラワーアレンジメントって、歌舞伎とバレエくらい違うのに!」

 娘の加奈が『フラワー・スタジオ 華』の共同経営者の1人だという理由で、その盆栽をほかの相続人から押しつけられた母親は、即日それを持って来てまくし立てた。
「ほら、わたしはサボテンも枯らすタイプでしょう。あの五葉松は樹齢30年以上なんですって。叔父さん、手塩にかけて育てたみたい。そういわれたら、すぐに枯らすわけにいかないじゃない。頼むわあ。ま、あなたがダメでも、麗二くんなら何とかしてくれるんじゃないかしら」

 加奈の公私ともにパートナーである麗二は「緑の親指」の持ち主で、どんなに難しい花でも咲かせる事が出来るし、部屋の隅で捨てられるのを待つばかりになっていた弱った鉢植えもいつの間にかピンピンにする事が出来る。

 だが、その彼ですら言った。
「盆栽はなあ。皆目わからないよ。根っこをコントロールすることで大きくなるのを抑えるってことくらいはわかるけど、やったことないもんなあ」

 困ったことに、大叔父は盆栽を育てるセンスがあったと見えて、受け取ったのは見事な仕立ての五葉松だった。龍のように波打ちつつもどっしりとした立ち上がり、正面から見たときのバランスのいい枝振り、丁寧に施された剪定、苔を押し上げる根のしっかりした張り、それに幹を故意に枯らした舎利のつけ方も絶妙だ。

「ま、これは枝が伸びてきたり育ったらどうにかすればいいのであって、今すぐ手を入れなくちゃいけないものじゃないだろ? その間に少し勉強すれば?」
麗二は、その枝振りをのぞき込みながら言った。

「そうよねぇ」
そういいつつ、店のショーウインドーの1つに置いたその盆栽は違和感を放っている。今はお正月氣分が残っているからいいものの、フラワーアレンジメントの店先に盆栽がある必要はない。バレンタインデー特集の時にはこのウインドーが必要になる。かといって、2階の自宅スペースのベランダは北側であまり日が当たらない。

「あれ」
麗二の声で顔を上げると、加奈もショーウインドーの向こうを行ったり来たりしている男性に氣がついた。杖をつきながらゆっくりと歩いているのだが、目は件の盆栽に釘付けだ。

 1度も見たことのない男性で、眉間に深く皺を寄せていて、声をかけたら怒鳴られるんじゃないかと思うような厳しい表情だ。麗二は、それでも果敢に入り口に向かいドアを開けた。
「いらっしゃいませ。よかったら中にどうぞ。寒いですし」

「いや。用があるわけじゃない」
男性はぶっきらぼうに答えて、立ち去ろうとした。

 その時だった。角を曲がってきた少女が大きな声を出した。
「お祖父ちゃん!」

 その子を見て、今度は加奈が声を出した。
「莉子ちゃん!」

「こんにちは、加奈お姉ちゃん。……あ、お祖父ちゃん、待って!」
少女は立ち去ろうとする男性のそばに行き、そのジャケットを掴んで引き留めた。

 麗二は訊いた。
「知ってる子?」
 加奈は頷いた。
「うん。従兄弟の子なんだけど。あちらの男性はどなたかしら」

「ねえ。この盆栽、見に来たんだよね。莉子と一緒に来てよ」
少女は、去ろうとする男性を必死で引き留めている。

 麗二は、2人の所に行って朗らかに言った。
「どうぞお入りください。盆栽のことなら、なおさらです。実は、俺たちも困っていることがありまして」

 男性は、立ち去りそうにしていた態度を変えて、じろりと麗二を見た。
「あんたは花屋だろう。何を困るっていうんだ」

「花は扱いますが、盆栽は畑違いなんですよ。もしかして、お客様こそお詳しいのではありませんか?」
そう言うと、莉子が大きく頷いた。
「そうだよ。お祖父ちゃん、いっぱい盆栽育てているじゃない! 誰よりも詳しいよ」

 加奈は驚いて、莉子に訊いた。
「本当? 達夫くん……莉子ちゃんのパパは、盆栽を育てられる人はいないって……。だから、しかたなくうちが受け取ったのよ」

 男性は、ぷいっと横を向き言った。
「そりゃ、わしの趣味なんぞ知らんだろう。我が家に来たこともないんだから」

「とにかくお入りください。お茶でも一緒にどうぞ」
麗二が言うと、今度は意外と素直に入ってきた。

 加奈がカウンターに場所を作って、男性と莉子を座らせている間に、麗二は奥に入ってお茶と羊羹を持ってきた。

 男性は、小さな声で「ありがとう」と言って飲んだ。
「失礼した。わしは、島崎隆生といいまして、酒田麻美の父親、この莉子の祖父です」

「高川加奈です。こちらは、パートナーの華田麗二です」
加奈は、自己紹介した。島崎氏は黙って頷き、お茶を飲んだ。

 莉子は嬉しそうに羊羹を食べながらはなした。
「昨日ね。酒田のじいじが亡くなって、松の盆栽が加奈ちゃんのところに行ったこと、莉子がお祖父ちゃんに話したの。そしたら、なぜママが引き取らなかったんだって、お祖父ちゃんと喧嘩になっちゃったの。お正月なのに」

 加奈は不思議に思った。酒田老人の葬儀には従兄弟の達夫だけでなくその妻で莉子の母親である麻美もいて、皆で盆栽を押しつけ合っていたのを知っていたのに、ひと言も口をきかなかったからだ。そういえば、父親なのであろうこの男性と麻美は面差しが似ている。

 莉子は、加奈に説明した。
「あのね、お祖父ちゃんの家に行っていること、パパには内緒なの」

 島崎氏は、ため息をついて口を開いた。
「お恥ずかしいことですが、わしは娘の結婚に反対して、挨拶に来ると言った婿を拒否したんです。それで、娘夫婦と10年近く関係を絶っていました。もっとも妻と娘はずっと外で会っていたようですが。それがわかって、2年くらい前から、娘とこの莉子が婿に隠れて会いに来るようになりましてね」

 なるほど。だから、麻美さんはお父さんが盆栽に詳しいことは口に出せなかったのか。

「この盆栽、とても立派ですが、俺ら素人の手には終えないのではないかと心配しているんです。島崎さんは、どう思われますか」
麗二が訊くと、島崎氏は五葉松をじっと見た。

「そりゃあ、簡単じゃないだろうな。……そもそもこの五葉松は、わしが種から育てたんじゃ」
それを聞いて、3人とも驚いた。

「ええ? お祖父ちゃんが?! じゃ、どうして酒田のじいじのところに?」
莉子は、加奈と麗二の想いを代弁した。

「実は先日なくなった酒田さんのひとり息子は、わしの友人でね。自分も盆栽を育ててみたいというので、ほどよく育っていたこれを譲ったんだ。友人はそれから5年もしないうちに事故で亡くなり、盆栽がどうなったかも知らなかったんだ。お父上がそのまま育ててくださっていたんだな」

 島崎氏は、立ち上がって五葉松に近づき、四方八方から眺めた。
「見事な枝振りだ。この最初の立ち上がりまで育てるのにとても苦労したんだが、それを生かすようにした上の幹の曲げ方も、どの方向から見ても素晴らしい。バランスの取れた半懸崖に仕立てようとしたんだな」

「ようとしている……って、できなかったの?」
莉子が立ち上がって一緒に眺めた。

「いや、できたさ。でも、この枝をごらん。せっかく長く伸ばした一の枝の先が枯れかけている。このまま放って置くとこの枝全体が枯れてしまう」
一番下の枝先だけ茶色く変色しているのが、加奈も麗二も氣になっていた。莉子は首を傾げてのぞき込む。

「直せないの?」
「そうだな。剪定して、新芽の勢いが増してくれば、もとのような樹形に近づけられるかもしれないな。うまく行くかどうかはやってみなければわからんが」

「今できる?」
「今、木は眠っているんじゃよ。やるとしたら春かな」

 それから、加奈と麗二の方を見て訊いた。
「あんたらが、やるかね?」

 2人は同時に首を振った。
「無理です。何をどうしていいのか、わかりません。この盆栽、お渡ししてもいいでしょうか」
加奈は正直に言った。

 島崎氏は、少し黙っていたが、首を振った。
「それはよくない。ここまで歳を重ねて上手く整った盆栽は、市場では高値で取引されているんじゃよ。婿は、あんたがこれを受け取ることには反対しなかったかもしれんが、わしのところに行くとなったら黙ってはいないだろう。そもそも、それではこの子がわしと会っていることもわかってしまうしな」

 麗二は言った。
「そうですか? 俺はこれを機に、普通に会えるようになる方がいいと思いますよ」

 加奈は驚いて麗二を見た。島崎氏も、麗二の顔を黙ってみている。

「そうだよ。お祖父ちゃんは、莉子のお祖父ちゃんだもの。なんでパパに黙って会わなくちゃいけないの?」
「そ、それはだな……」
「莉子が、パパに頼むよ。お祖父ちゃんと仲直りしてって」

 島崎氏の戸惑いを見ている限り、どうしても仲直りをしたくないわけでもないらしい。加奈の知る従兄弟の達夫も、10年以上も恨みを募らせるようなタイプではない。もしかしたらこの舅と婿は、単に仲直りの機会を逃したままお互いに困っているだけかもしれない。

「じゃあ、こうしましょう。この盆栽は莉子ちゃんにあげます。莉子ちゃんなら酒田の大叔父の遺品を受け取る権利もありますし、達夫くんも文句はないでしょう。そして、お母さんの麻美さんから相談を受けたという形で、島崎さんが一緒に育てることにしてくだされば万事解決じゃありませんか?」

 加奈の提案に、島崎氏はモゴモゴと口の中で何かを言っていたが、頭を下げた。莉子は大喜びだ。
「わーい。莉子、お祖父ちゃんと一緒にこの木の面倒みたい!」

 麗二も頷いた。わるくない解決策だと思っているのだろう。ここ『フラワー・スタジオ 華』では手に余る盆栽は、ふさわしい人のもとに旅立ち、1度は離ればなれになった家族を結びつける仕事までしてくれるようだ。

 日本でもっともおめでたい植物だものね。加奈は立派な五葉松を見つめてにっこりと笑った。

(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

白菜が生きていた!

スイスの冬だからと忘れていた家庭菜園ですが衝撃の事実が判明しました。

白菜

「大雪降った」という記事でも書きましたが、12月の頭にガツンと雪が降り、何となく残っていた作物は深い雪の下に埋もれてしまいました。かわいい雪なら救い出すことも考えたのですが、どこにあるかもわからないほどの深い雪で、「こりゃダメだ」と諦めたのです。

それから2週間くらいは、時おり未練たらしく様子を見にいったのですが、あいかわらず近寄ることもできなかったので、それからは完璧に放置していました。

それがここ1週間ほど、+10℃になるくらいの陽氣が続き、ようやく畑にアクセスできるようになったので、不織布カバーを回収するかと行ってみたのです。

そうしたらですね。その不織布の下から、白菜が出てきたんですよ。びっくり!

もともと、直接フワッと不織布を掛けていただけのところにドカッと雪の重圧がかかっていたので、結球どころかぺちゃんこなんですが、驚いたことに新しい葉っぱまででているし、葉にもほとんど凍った痕がないのです。

作物カバー

これからどのくらい寒くなるのかわかりませんが、まだ暖冬が続くなら、もしかしたらまだいけるかもしれないと思い、U字型の骨を設置して、取り急ぎ不織布を掛けました。

来年はこの位置には植えないと思いますが(そもそも冬のガーデニングは諦めるつもり)、せっかくなので冬の植物の動向を観察するためにも経過に留意してみようと思います。(諦めが悪いという話でもあったりして……)
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Posted by 八少女 夕

【小説】アーちゃん、がんばる

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第2弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化している『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。

さて、前回、ダメ子さんやミエちゃんまで引っ張り出してさらにカオスにしてしまったアーちゃんの再告白計画、まだ続いています。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私が書いた『やっかいなことになる予感』
ダメ子さんの『疑惑』
私が書いた『再告白計画、またはさらなるカオス』
ダメ子さんの『カオス』

私の作品は以下のリンクからまとめ読みできます。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ

「scriviamo! 2024」について
「scriviamo! 2024」の作品を全部読む
「scriviamo! 2023」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



アーちゃん、がんばる
——Special thanks to Dameko-san<


 深呼吸して、事態を整理して考えよう。こんなカオスの元凶は、そもそもチャラ先輩がめちゃくちゃ鈍いってことよね。アーちゃんが、バレンタインで告白しようとした相手が、自分だとまだわかっていない。

 もちろん、それに加えて、アーちゃんの告白のしかたが、絶望的にはっきりしないってことも問題なんだけど。

 でも、しかたないじゃない? アーちゃんは極度のあがり症。好きなチャラ先輩を前にして、はっきりくっきり「好きです。つきあってください」とか言えるぐらいなら、そもそも中学の時に伝わってたはず。

 でも、わたしとムツリ先輩が、影ながらこんなにサポートしているのに、ここまで伝わらないって、どういうこと?!

 というわけで、アーちゃんに再告白してもらうべく、ムツリ先輩も巻き込んで段取りをつけていたら、あいかわらず誤解したまんまのチャラ先輩ったら、クラスの女の先輩たちの協力まで要請して、モテ先輩を呼び出しちゃった。いや、だから、初めっからモテ先輩は関係ないっていうのに……。

「ねえ、つーちゃん。チャラ先輩、告白は重いって……。やっぱり先輩が言っていたみたいに『自然に、なんとなくいい感じになる』ってほうがよくない? そしたら、わたし、また告白しなくて済むし……」
アーちゃんが、めちゃくちゃ氣弱なことを言う。

 いや、普通のケースなら、それでいいのよ。でも、チャラ先輩はきっと、お祖父さんになるまでアーちゃんはモテ先輩が好きだと思い続けるよ。

「なんとなくも、へったくれもないわよ。それに、たとえ告白しないとしても、せっかくクッキー作ってきたんでしょ? チャラ先輩に食べてもらえたら嬉しくない?」

 わたしの言葉に、アーちゃんはけなげに頷く。
「うん。昨晩、3時までかかって4回も作り直した。見かけも味もこれまでの最高傑作だし、食べてもらいたい」

 わたしは、驚いた。めっちゃ氣合い入れて作ってた。
「じゃあ、渡そう」
「うん。……あ、こっちはね。2回目と3回目にできた作品。ハートのが割れちゃったり、アイシングが下手になっちゃったの。でも、味は美味しいはずだから、つーちゃんにあげるね」

「わあ、ありがとう。後でいただくね……それでね、思うんだけど」
「なあに?」
「多迷先輩にメモは渡さないでってお願いしたから、たぶん来ないとは思うんだけど、もし万が一、その場にモテ先輩が登場すると、また話がこんがらがるでしょ?」
「う……うん。そうだね」

 わたしは、重々しく言った。
「だから、モテ先輩が絶対に来ないところで渡そう」
「え? どういうこと?」

「だから、モテ先輩に来てくださいってお願いした用務員室の裏手から、すごく遠いところ……たとえばテニスコートの裏にチャラ先輩を連れ出すから、そこでアーちゃんがそのクッキーを渡すの。そしたら、さすがのチャラ先輩でも自分あてだとわかるでしょ?」

「え。でも、そしたら間違えて呼び出された、モテ先輩は?」
アーちゃん、けっこう義理堅く心配している。

「そっちは、クラスメイトの多迷先輩が、何とかしてくれると思う。あと、愛瀬先輩もいたし……心配なら、わたしかムツリ先輩が様子を見にいくから」

 アーちゃんは頷いた。
「わかった。でも、チャラ先輩も、あっちに行っちゃうんじゃない?」

「そこは、わたしとムツリ先輩で、なんとかしてテニスコートの方に行くように仕向けるから。とにかくアーちゃんは、クッキーを渡す準備をして、テニスコートの裏に行っていて!」

 わたしは、いそいでスマートフォンを取りだした。

 そうなんだよなあ。このドタバタで、ムツリ先輩といろいろ連絡を取り合うことがあって、結局、わたしはムツリ先輩の連絡先ゲットしちゃったのよね……。アーちゃん、チャラ先輩の連絡帳に載ったら死ぬほど嬉しいとか言っていたから、わたしがムツリ先輩と連絡先交換したこと、言い出しにくいんだけど……。ま、チャラ先輩の連絡先じゃないからいいか。

「あ、先輩。すみません。いまアーちゃんと話していて決めたんですけれど、モテ先輩のいないところで告白するのがベストだと思うんで、うまくチャラ先輩をテニスコート裏につれて行ってくださいませんか?」

 電話の向こうのムツリ先輩は少し口ごもった。どうやらそばにチャラ先輩がいるみたい。
「あ~、そうか。えーと、どうしよっか」

「場所変更って言って、上手にチャラ先輩だけ連れてきてください。モテ先輩の方は、上級生の女の先輩方がなんとかするでしょう、きっと」
「ああ、そう。わかった」

 ムツリ先輩は、口数少ないけど、話のわかりがよくて助かる。じゃ、わたしもテニスコートに向かおうっと。

 ふと見ると、用務員室の方にモテ先輩が歩いて行っている。そして、後ろから心配している感じで多迷先輩もついて行っている。あれれれれ。行かなくていいってひと言いえばいいのに??? そして、愛瀬先輩の姿も見えるな。あっちはあっちでちょっとカオスな感じなのかも。

 ま、いっか。とりあえず、アーちゃんの方を見届けよう。

 テニスコートの裏に着くと、向こうからムツリ先輩がチャラ先輩と話ながら近づいてきた。あ。無事に連れてきてくれたんだ。……アーちゃんは?

 テニスの用品入れ小屋の影から、アーちゃんが突進してきた。手にはちゃんとクッキーを持っている。察したムツリ先輩は、そっとチャラ先輩のそばを離れて、こっちに向かってきた。

「やあ。こっち来ちゃったけど、モテの方は大丈夫?」
ムツリ先輩は小さい声で訊いた。

「それが、どうも用務員室の方にやっぱり向かっていました。多迷先輩と愛瀬先輩が追っていましたけれど……多迷先輩にメモは渡さなくてもいいと伝えたので、フォローしてくれるかなと」

 ムツリ先輩は少し考えた
「うーん。どうかな。あの子、アーちゃんとは違うタイプであがり症じゃないんだろうけど、あまりはっきりと言わないかもなあ」
「え~。フォローしないとダメですかね」
「うーん。愛瀬くんもいるのか。……こじれたりして」

 そんなことを話している間に、アーちゃんがチャラ先輩にクッキーを渡しているのが見えた。おお、ばっちり渡した。これでチャラ先輩も氣がつくかしら。バレンタインのチョコが自分あてだったって。

 アーちゃんが告白しているっぽいのを見守りつつ、わたしはムツリ先輩にももらったクッキー包みの1つを渡す。
「あ。これ、アーちゃんからお裾分けです。失敗作らしいんですが……味は美味しいそうです」
「へえ。ありがとう」

「なんだよ。モテに直接渡せないのか? また渡してほしいとか?」
向こうからチャラ先輩の大きな声が聞こえて、わたしはずっこけた。え~、まだわかんないかな。

「そ、そ、うじゃなくて……こ、これは、モテ先輩じゃなくて……その……チャラ先輩、食べてください!」

 チャラ先輩は、首を傾げている。そうよ、考えて! アーちゃんが告白したいのは、チャラ先輩、あなたなんだから。

「大丈夫そうですね。ムツリ先輩、私たちはお邪魔虫だから去りましょう。モテ先輩の方に行って、謝った方がいいかもしれないし」

 わたしが言うと、ムツリ先輩はやる氣なさそうな様子で答えた。
「う〜ん……多迷さんがそつなく話を収めている……ってことはないだろうな。愛瀬さんもいるのかあ。……面倒な感じだなあ」

 ムツリ先輩ったら。
「だったら、なおさら行かなきゃ。さ、先輩、行きますよ!」

 わたしが先輩を引っ張って用務員室の方へ向かおうとしていると、遠く後ろからチャラ先輩の声が聞こえた。

「ああ、ムツリとつーちゃんもこのクッキー持ってんな。もしかして、これって友チョコならぬ、友クッキー?」

 わたしは、ムツリ先輩と顔を見合わせた。絶望的な氣分になったことは言うまでもない。アーちゃん、お願いだから、もうちょっと頑張って、それを否定して!

(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

猫おやつ常備

久々に猫の話。

冬のゴーニィ

これでも自重しているんですよ。ほうっておくと猫語りばかりになりそうなので(笑)でも、だいぶ我慢したし、たまにはいいでしょう。

写真はうちのゴーニィですが、今日のメインの話はゴーニィ以外の猫へのおやつのことです。

我が家は賃貸住まいで、隣人たちもそれぞれに猫を飼っています。そして、日本の都会と違って、猫たちは基本的に勝手に外に出て自由に近所を歩き回るんですね。

なので、わたしはゴーニィ以外の隣人の猫たちとも顔見知りです。大家のところのシンバとはもう15年くらいの顔なじみですが、それ以外にも特に最近やたらと新しい猫たちが増えました。

わりと古くからいるアリョーシャとイェンテルという猫たちはご夫婦の奥さんが亡くなられてから、どうもあまりしっかりとケアされていないようで、なぜかいつも飢えています。なので、連れ合いが毎日、外に餌を置いておいてあげて、それをガツガツ食べている様子。ただ、ゴーニィはテリトリー侵害とみなすようで、よく追い散らしています。なのでとくに老いたアリョーシャが食べたそうなときは、ゴーニィをひっ捕まえて屋内に閉じ込めます。

その他の猫たちは、隣人たちからたくさんご飯をもらっているはずですが、ときどきおやつをねだりに来ます。なので、ご飯が入らなくならない程度におやつをあげることもあります。

猫用サラミ ミニ

で、最近は、自宅だけでなく外出用のコートのポケットにおやつを忍ばせることになってしまいました。「今すぐほしい。ミャーミャー」とたかられたときに、「はいはい」と取り出せるように。

このサラミは、他のメーカーの半分サイズなので、外猫用です。
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