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Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ(9)楔と鎧

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の9作目です。

第9曲は『Hayom Kadosh』使われている言語はヘブライ語です。


『心の黎明をめぐるあれこれ』を読む
『心の黎明をめぐるあれこれ』を始めから読む




心の黎明をめぐるあれこれ
(9)楔と鎧
 related to 'Hayom Kadosh'


 さて、第9曲は、ヘブライ語、つまりユダヤ民族の言葉で歌われる。

今日はあなたの神である主にとって聖なる日
嘆き悲しんだり泣いたりしてはならない。
静かにしなさい。この日は神聖だから、
憂えてはならない。


 歴史を振り返ると、ユダヤ人と迫害は、切っても切り離せない。第2次世界大戦時に、ナチス・ドイツの行った大虐殺は有名だが、その前にも多くの人々が犠牲になった。

 国土と民族がほぼ一致している日本人にはなかなかわかりにくいのだが、「ユダヤ人」というのは「とある言葉を話し、形質的な特徴を持つ人」や「イスラエルのパスポートを持っている人」のことではない。しかし、たとえば「仏教徒」でイメージされるような「特定の宗教を信じている人」のくくりでもない。つまり「イスラエルのパスポートも持っていなければ、ユダヤ教も(あまり)信じていないし、見かけもゲルマン系」というようなユダヤ人もいるのだ。

 その中に、国籍はどうあれ、きっちりと戒律を守り、全身黒い衣服と帽子、もみあげの所にカールした髪を垂らしている「正統派ユダヤ人」と呼ばれる人たちがいる。服装だけでなく、暮らし方、生き方のすべてにおいて律法にしたがって生きる人たちだ。

 世界中に散らばる、DNAも生き方も全く異なる人びとを「ユダヤ人」の4文字で片付けるのは難しい。そもそも私は、ユダヤ教のことを、よく理解できていないので、たくさん語れる立場にはない。だから、この文で語ることはすべて私見である。

 ヨーロッパにおいて、長い歴史の中で特定の文化背景を持つ人たちが嫌われて迫害を受けてきたことについては、決して許されることではないと、昔から思っていたし、今でもそれは変わらない。その一方で、なぜ彼らがその憂き目に遭ったのかについては、日本にいたときよりは理解できるようになった。

 もちろん「冷血漢の高利貸し、選民思想に凝り固まり、キリスト教徒に害をなす」ユダヤ人像は極端なレッテル貼りにすぎない。高利かどうかは別として、銀行業を営むユダヤ人がいたのは事実だ。中世ヨーロッパではキリスト教徒は利息をつけてお金を貸すことが禁じられていたのだが、銀行は必要だったので、キリスト教徒に対する銀行業を禁じられていなかったユダヤ人が従事したのだ。

 単純に、彼らは目立ったのだと思う。ヨーロッパでは何度も民族移動が起こり、民族は交雑していった。その中でユダヤ教を信じる人々は律法遵守の姿勢とその選民思想ゆえに、頑なに交雑を避けアイデンティティを守り続けた。だから、国土がなくても彼らは消えないまま残ったのだ。

 その中で、現代社会においても独特の行動をする人たちがいる。ある種の社会マナーを無視し、自分たちの中にある規範(もしくは思想)を優先して我を通すタイプの人たちだ。皆が辛抱強く並んでいる列に割り込む。ゴミを散らかす。札束をひけらかして多くの人が買いたいものを買い占める。弱い立場の人を怒鳴りつける。その国の法律で用意できない物を要求し断るとレイシストだと大騒ぎする。

 そうした人たちは、全体の(いや、正統派に限っても)ユダヤ人の中では多数派とは言えないのだが、それが目立つためにまた「ユダヤ人」が嫌われてしまう。さらにいえば、同じ国土の中にいる異教徒にかつて歴史で起きた迫害にも負けないような攻撃をしてしまうところも、「だからあいつらはロクでもないんだ」と、差別主義者に言わせる口実になってしまう。

 日本でも、ネトウヨといわれる人たちや、モンスタークレーマーといわれる困った存在がいる。私だってそういう人たちは好きではない。彼らのせいで「だから日本人は全滅させてもいい」と判断されて殺されることには納得がいかない。ユダヤ人差別も同じだと思う。

 さて、欧米では今でも独特の立場にいるユダヤ人だが、今回の歌詞で使われたのは旧約聖書のネヘミヤ記からの引用だ。紀元前586年に新バビロニアに破れ、ユダ王国のユダヤ人たちはバビロンに移される。その後紀元前539年、アケメネス朝ペルシャによって新バビロニアが滅ぼされ、捕囚民はエルサレムへの帰還が許される。しかし、独立国としてではなく属州の住民としてである。ネヘミヤ記には、総督として派遣されたユダヤ人であるネヘミヤが、神殿を修復すると同時に、宗教上や社会上の改革に努めたことが記されている。

 この時の改革で厳しく決められたことの中でとても重要なのが、安息日の厳格な決まりと異教徒との結婚の禁止だ。

 ネヘミヤ記では、今回の歌詞とされた言葉がほぼ同じ形で3回繰り返される。なぜ民が泣いているのかというと「すべての民が律法の言葉を聞いて泣いたからである(ネヘミヤ記8-9)」

 バビロンの捕囚をはじめとする民族の危機もつらかったが、課された律法もひどく重かったらしい。有名な「モーセの十戒」のようなものなら、泣くほどのこともないだろうと思っていたので調べてみた。ユダヤ教における律法というのは旧約聖書の最初の5書、つまり創世記から申命記までをいう。試しに読んでみたが、けれど、600にも及ぶという細かい規定を読んでいくと、確かにこれを守り抜くのはなかなか厳しい。

 安息日の厳守、10分の1税、各種の捧げ物、食べていいものといけないもの、恩赦、結婚・離婚、裁判、職業選択、それに奴隷の扱いなど、ありとあらゆることに決まりがある。

 現代でも厳格なユダヤ教の生活を守っている人たちは、たとえば安息日である土曜日には、労働にいってはいけないだけではない。自宅で棚を作ったり、お茶を淹れるためにやかんに火をつけることすら許されていないのだ。そして、結婚するのならば、相手はユダヤ教徒であるか少なくとも改宗しなくてはならない。

 氣になったことはいくつかある。たとえばレビ記にある「レプラ」と呼ばれる病にかかった者の扱いだ。当時の医学的な知識に基づいて定められたので、ハンセン病患者とそれ以外の重い皮膚病が一緒くたに記述されていることがわかっている。そして症状によって患者は「穢れた者」とされてしまう。

 治療法のなかった当時は、隔離することで病が他の人に広がることを防ぐ、必要な定めだったのだということはわかる。それは、人に感染しやすい寄生虫や細菌の温床となっている豚の食用を禁止した法にも言えることで、制定当時は合理的な理由があったのだ。

 しかし、もし、現在もまた、この旧約聖書の内容を忠実に実行することが正しいと信じる人々がいるのならば、治療すれば治る病にかかった人を「穢れた者」扱いし不当に差別することになってしまう。

 またモーセの十戒には、「人を殺してはならない」とあるが、その「人」の中に異邦人は入っていないらしい。別の箇所で、戦争で勝った場合、敵に対し「つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない(20-13)」とも書いてある。

 これに忠実であろうとするなら、他民族との平和な共存は無理だし、弱者も切り捨てられてしまうだろう。

 律法が非現実的であるという指摘は、この2500年のあいだ当のユダヤ民族の中から何度も上がった。もっとも有名なのがナザレのイエスだろう。彼が同胞のユダヤ人たちに憎まれて十字架刑にされたのは、主にそのせいだった。

 同じ神への信仰を持ちながら、律法に縛られないイエスの新しい教えとして始まったキリスト教だが、2000年たった今、当時のユダヤ人たちと同じように聖書の一字一句に固執するキリスト教徒もいて、歴史が繰り返しているのだなと思うこともある。イエスの死後500年以上経ってからあらわれた預言者ムハンマドの教えを信じるムスリムの人々も、信じている神は同じだ。その3つの宗教を信じる人々が、それぞれの聖典に書かれた文を拠り所に、互いに争い続けているという図式も、どうにかならないものかと思う。

 同じ聖典と神を旗印に、お互いに相手を嫌うことを正当化するレッテルを貼り合って、憎しみのボールを投げ合っている。これでは「嘆き悲しむ」要因はなくならないだろう。

 ネヘミヤ記、ひいてはこの歌詞で繰り返される「嘆いてはならない」という言葉からは、彼らは禁じられてもなお嘆きたくなる苦しみを受けたことが浮かび上がる。

 作曲者クリストファー・ティンは中国系アメリカ人だ。中国人、もしくは華僑と呼ばれる人たちも、ユダヤ人と同様に、異国であまりその国に馴染まずにもともとの生活様式を守って生きる傾向があるように思う。

 同化しないことで目だち、差別の対象ともなることを、彼が全く意識しないはずはない。だからこそ、彼はこの作品を多様な民族のバッチワークにして、注意深く言葉を選んだのだろう。

 日本にいて、多数派を占める民族の一員であった頃、差別による被害は私にとって他人ごとだった。それは許されないことだと知っていても、自分自身が痛みを覚えた事柄ではなかった。

 スイスに住むようになり、私はどちらかというと差別される方になった。もちろん、現代の成熟した社会では、あからさまな差別を受けることはめったにない。まともな教育を受けていれば、その加害者となることは恥ずべきことだと知っているからだ。

 それでも、人は時おり意識せずに差別的な言動をしてしまうことがある。私はそのことで深く傷ついたりすることはない。世の中にはもっとひどい屈辱に耐えている人がたくさんいるだろう。実害を受けいてる人もたくさんいるのだ。笑える程度の差別なんて大したことはない。

 優しくなるためには、想像力さえあれば十分だという人もあるかもしれない。それに、この世界のすべてを体験することなど実質的には不可能だ。体験だけが人の心を動かすのならば、創作の存在意義すらも疑われる。

 それでも、この立場になることは、たぶん私には必要だった。私は、直接的な加害者になってはならないのだと、他人ごとのごとく知っていただけで、それ以上ではなかった。岐路に立たされたときにどう振る舞うべきか、たとえばテストの場での正解を考えるように差別のことを捉えていたが、そうではなく、もっと生活と人生全般にわたる、区別も難しい、正解も見つけにくい複雑な問題だった。

 心ない言葉受けた心の痛みや、他の人とあからさまに差をつけられた現実的な不利益は、笑顔を消し、氣力を奪い、卑屈で歪んだ思想の種を植え付けていく。跳ね返す能力のある者は、その方法で前に進むが、それと同時に鎧を身につけざるを得なくなり、周囲との間に楔が打たれる。

 あいつらは、ああだから嫌われるんだ……。その判断は、まるで鶏と卵のようだ。嫌われるからこそ、人は変わっていく。そのことに氣づけたのは、私が高みの見物をしていられず、哀しみも、憂いも、鎧も、すべて自分の事として受け止めるようになったからだ。

 偉大といわれる宗教家たちが何千年ものあいだ善くあろうと努力してもいまだに消えていない問題を、小市民である私がそれを解決できるなどとはもちろん思っていない。

 それでも少なくとも私は、ほんのわずかでも、嘆き悲しむ人たちの心に寄り添いたいと思う。そんなことを思いながら、今日もまた地味な小説に思いを託している。

 私はシミュレーションゲームのように、多くの軍勢を右や左に走らせて神と同じ権能を手にした者のように振る舞いたくない。楔は俯瞰する下方ではなく、私の目の前に打たれている。鎧は目の前の誰かが、もしくは自分自身が身につけている。世界は評論すべき下界にではなく、自ら歩き、道を選び、つまずき、また立ち上がっていく同じ目線の場にあるのだ。

(初出:2020年9月 書き下ろし)

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'Hayom Kadosh'
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Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ(8)今もいつも

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の8作目です。

第8曲は『Hymn do Trójcy Świętej』使われている言語はポーランド語です。


『心の黎明をめぐるあれこれ』を読む
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心の黎明をめぐるあれこれ
(8)今もいつも
 related to 'Hymn do Trójcy Świętej'


 何度かこのエッセイ集でも書いているが、私はカトリック信者の家庭で育った。カトリックのミサには、典礼と呼ばれる公式の祈祷文がある。「キリエ」や「サンクトゥス」といったよくクラッシック音楽のミサ曲の題名は、この典礼に基づく。

 典礼で三位一体に対する賛美歌および祈祷文は(カトリックでは)『栄唱』と呼ばれ、ミサや『ロザリオの祈り』といった祈祷時に唱えられる。私が日本で礼拝に行っていた頃は、次のような文語体だった。(訳は時おり変わる)

ラテン語
Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto.
Sicut erat in principio, et nunc, et semper, et in saecula saeculorum. Amen.

願わくは父と子と聖霊とに栄えあらんことを。
初めにありしごとく今もいつも世々にいたるまで、アーメン。



 今回、『Calling All Dawns』第8曲で使われている詩『Hymn do Trójcy Świętej』はポーランド語による『三位一体の讃歌』、つまり『栄唱』である。

 日本にいたとき、私はポーランドを含む世界各国の歴史や民族事情に鈍感だった。世界史は好きだったけれど、それは小説を読む感覚とあまり変わらなかった。もしくは、映画のあらすじと似た、つまり、現実にその歴史の延長線上に誰かが生きていることをほとんど考えていなかったと思う。

 ポーランドという国があるのはもちろん知っていたけれど、とても遠い国だった。

 首都はワルシャワ。ショパンと、キュリー夫人、それにヨハネ・パウロ2世の出身国。社会主義の国(当時)だから、ソビエト連邦の子分のようなもの。ひどく雑な理解だけれど、当時はインターネットはなかったし、私自身にも受験勉強の合間を縫い、わざわざこの国のことをもっと理解したいと思う熱意もがなかった。

 ヨーロッパの人々が、中国と日本を混同する程度に、私の東ヨーロッパに対する興味も薄かったのだ。そして、おそらく私の周りにいた同年代の多くが、その程度の理解だったのではないかと思う。

 現在、スイスの私の住む地域、車で10分くらい走ったところにある村には「ポーランドの小径」という地名がある。第2次世界大戦中ポーランド人の戦争捕虜たちが多く住んでいた場所なのだそうだ。彼らは、国を略奪された後、フランスに逃れ対ドイツの抵抗をしていたグループだそうで、フランスがドイツの侵攻を受けたときに、そのままドイツ軍に捕まるよりはマシだという判断で、スイスに入ってきて投降し捕虜となったらしい。

 捕虜なので、労働をさせられたり、居住の自由などはなかったが、少なくとも迫害されることもなく戦時中を過ごし、戦後にもそのまま村の娘と結婚して残った者もいたとのことだ。時おり出会うポーランド由来の苗字をもつ人が、この時にスイスに住みついた人の子孫である確率も高い。

 ポーランドは、スイスが「たどっていたかもしれない」歴史を歩んだ。どちらもヨーロッパの中央部にあり、周りの強国たちに何度も国を狙われた。ポーランドの方は、1度ならず分割され、1795年には国が消滅する憂き目に遭っている。その同じ近隣諸国は、ほぼ同じ時期にスイスにも触手を伸ばしていた。スイスは多くの血の代償を払い、独立を守り切ったが、1つ間違えばポーランドと同じような目に遭ったかもしれない。

 スイスに住んでから、非常によく感じるようになったのが、日本を取り巻く海の存在のことだ。いくつかの島をめぐる領有争いは別として、基本的に一般的日本人は国境線は守られて当然と思っているようだ。本州、北海道、九州、四国のあるあの地図上の姿が、万葉の時代から今まで変わらなかったのだから、これからも変わらないだろうという感覚だ。

 海という越えがたい垣根に守られて、日本は長らく大きな努力もせずに1つの国であり続けた。300年前に測量した地図と、現在の地図には測量技術の違い以外の大きな差異はない。(日本内部で複数の民族による支配・被支配はおこったけれど)

 ヨーロッパの歴史地図は、そうはいかない。国境線は常に動く。昨日の自国と外国が、明日も同じであるとは限らない。国境は、為政者を信頼していれば守られる揺るぎない壁ではない。

 ましてや、何度も祖国をケーキのように分割されてしまった歴史を持つ人々たちにとっての国境線は、戦い勝ち取ってようやく手にした冷酷な隣人との間に立てた垣根だ。

 だからポーランドの人びとが祈りで口にする「初めにありしごとく今もいつも世々にいたるまで」は、おそらく私のそれとは重みが違う。

 現在は、ポーランドもスイスも、その他のどのヨーロッパの国も、宗教はかつてほど大きな意味を持たなくなった。たとえば、洗礼を受けたのがカトリックかプロテスタントかということで、職業や結婚に差し障りが起こるというようなことはなくなった。ムスリムでも、無神論でもいいのだ。

 だが、ほんの50年ほど前まではそうではなかった。どの国の、どの地域がカトリックか、プロテスタントか、もしくはロシア正教かというようなことが、もしくは社会主義により信教が禁じられるというようなことが、人びとの生活や行動に大きく関わっていた。

 ポーランドは、社会主義時代にもカトリックの信仰が強く、国境の封鎖に関しても他の社会主義国とは違っていたようだ。たとえば東ドイツから西ドイツへ一般人が旅行することは不可能だった時代に、ポーランド人は国の許可があればスイスに海外旅行をすることが可能だった。

 体制と実際のあり方が矛盾していようと、彼らは周りの国に合わせることなかった。苦難の中にあったとき、信仰を保ち続け、彼らに苦難を強いる存在から開放されることを諦めなかった。

 旧約聖書の詩編30章に「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」という1節がある。旧約聖書を聖典としたユダヤ民族も、長い苦難の歴史を歩んだが、国がなくなり迫害を受けた年月に民族を1つに結びつけていたのは、やはり信仰だった。ポーランド人もユダヤ人も、再び国土を持ち、迫害されることがなくなった今、若い人たちの信仰離れが進んでいるというのは、時代の流れがあるにしても興味深い事実だと思う。

 そういえば、私自身が『栄唱』を唱えていたのは、ずいぶんと昔のことになった。子供の頃、父親が双極性障害にかかった。今から思えばそれは病であり、しかも父が亡くなるまでの有限の困難であったが、当時の私にとってそれは永遠に続く逃れようのない苦難だった。ある程度ものごとがわかるような年齢になってから、一時期まじめに教会に通いロザリオを繰っていた。聖母マリアの加護を祈る『ロザリオの祈り』には、最後の方に『栄唱』を唱える。

 スイスに来てから、たとえ教会に行っても典礼で使われている言葉はドイツ語になり、自ら『ロザリオの祈り』でもしない限り『栄唱』を唱えることはない。そして、私は、もう長らくその祈りを唱えていない。私は、自由になり、困難も過ぎ去ってしまったから。

 切実でなくなれば忙しさに紛れて忘れてしまう、なんとも自分勝手で適当な信仰だ。人間のありがちなさが を、自ら見事に体現しているといっていい。だが、それだけでなく、私の中で信仰に対する姿勢が変わったことも、この変化に影響しているだろう。

 既にこのエッセイ集で何度か書いているように、私の信仰は、カトリックの教義からかなり外れてしまっている。もっともその教義そのものも時代によって揺れる。たとえば有名な免罪符は、もちろん現在では誤りだったというのが公式見解だし、布教目的の戦争も現在でははっきりと否定されている。同性愛や妊娠中絶などをめぐっては見解が揺れている真っ最中だ。

 少なくとも「自分たちの信仰だけが絶対の正義で、他は全部間違い」という偏狭な理屈は、教会にもなくなってきている。

 私の育った日本には、元来、他の信仰に寛容な風土がある。神道と仏教を同時に祀るおおらかさだし、その上で教会に連れて行き「賛美歌を歌え」といわれれば抵抗なく歌う人が多いと思う。「我が家のご本尊とは違うけれど、来たからにはこちらのお寺でも手を合わせておこう」に近い感覚で。

 一神教の原理主義を奉じている人たちには、これらは許されざる大罪だろう。神は唯一で、他のものを信じるのは偶像崇拝なのだから。

 でも、カトリックでは、「父(神)」と「子(イエス・キリスト)」そして「精霊」と3つも存在を同時に崇めている。それが『三位一体』という教義だ。(さらに聖母マリアや聖人たちにも取り次ぎを願うという形式をとっているが、ほとんど信仰しているに近い態度で祈る人が多い)

 子供の頃に、カトリック系の小学校に通っていた。宗教の時間、『三位一体』についてシスターから受けた授業のことは、今でもよく憶えている。こんな内容だった。
「『三位一体』とは、マヨネーズのようなものです。成分は油と酢と卵ですが、マヨネーズになると切り離せない1つのものになるのです。私たちは3柱の神を信じているのではなく、唯一の神を信仰しているのです」

 小学校低学年に説明するため、こうなったのだとは思う。だが、『三つ子の魂百まで』のことわざの通り、私の中での『三位一体』はいまだにマヨネーズのイメージだ。

 ギリシャ神話に出てくるような人間くささ全開の神は別だが、私は世界にあるどの宗教で信じられている存在もが、同じ『神』のみせる別の一面なのだと捉えている。大日如来像に手を合わせるときも、出雲大社で手を合わせるときも、バチカンのサン・ピエトロ寺院の中で手を合わせているときと同じ存在に手を合わせているのだと。

 マヨネーズをわずかにとりだして、油をみつける者も、酢の成分を見いだす者も、もしくは卵を見いだす者もいるだろうが、それはとりだした側の認識違いにすぎず、そこにあるのはマヨネーズという1つの存在。子供の頃に受けた教えを勝手に解釈を広げて、私は、世界の宗教や神の存在をそんな風に説明している。

 それゆえ、人間の作ったどの建物に、どれだけの頻度で通うのか、そのことに対してはあまり重要性を見いださなくなっている。その建物に通いその時だけ祈祷文を唱えるよりも、すべての生活においてどんな心を持って『善く』生きているかの方が大切なのだと思う。しかも、世界が自分にとって都合の悪いときだけでなく、都合がよくて楽しいときにも、『善く』生きることが大切なのだと信じている。

 それを願いながら見上げる空は、日本で見たのと同じように青い。風もまた同じように心地よい。「初めにありしごとく今もいつも世々にいたるまで」……。

(初出:2020年8月 書き下ろし)

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Hymn Do Trojcy Swietej (feat. Frederica Von Stade)

【歌詞はこんな意味です】

聖なる三位一体への賛美歌

燃える太陽が昇る
聖三位一体よ、汝は分かちがたい一つのもの
われらが心の中にある永遠の光
思いもよらぬほどの愛を放つ

われらは朝に汝を崇め
夕に汝にひれ伏さん
われらを汝のもとに召したまえ
天の聖人たちとともに

願わくは父と子と聖霊とに栄えあらんことを。
初めにありしごとく今もいつも世々にいたるまで、
アーメン。

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Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ(7)異界のとなりに

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の7作目です。

第7曲は『Caoineadh』使われている言語はゲール語です。


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心の黎明をめぐるあれこれ
(7)異界のとなりに
 related to “Caoineadh’


 子供の頃、私はいつもどこか遠くへ行きたかった。それも、学校の遠足や修学旅行のような決められた場所に集団で行くのではなく、自由に「ここではないどこかへ」行きたかった。東海道線に乗って静岡県まで行く短い時間に、太平洋を見ながら心ゆくまで空想を泳がせた、あの時間が愛おしかった。

 あるていど歳を重ねると、人は金銭的にも、能力的にも多くを手にする。子供の頃には不可能だった新幹線や寝台列車の切符を買うことは、「いつか叶えてみたい遠い夢」ではなくなる。それどころか海外旅行も大冒険ではなくなる。

 私は、海外に住み、日々外国語を話し、365日海外旅行をしているのと変わらない生活をすることになった。年にいく度も国境を越え、見たかったものを見て、食べたかったものを食べた。

 それでも、遠くへ行きたいという願いは、消え去っていない。よその惑星や宇宙に行きたいという願いは皆無だけれど、「ここではないどこか」に対する憧れは、まだある。そして、そのハードルは子供の頃よりも高くなってしまった。100キロメートルほど移動しただけで心躍っていたあの頃には、世界は未知のもので満ちていた。現在は既知のものに埋まり、散文的で、機械的な世界に囲まれている。

 そんな私を、今も昔も瞬時に心躍らせてくれる魅力に溢れた場がある。それが、ケルト民族の遺構だ。

 ケルト十字、ドルイド教。ケルト文明や類似するあれこれが好きな輩には答えられない魅力がある単語だ。今では、ゲームやラノベなどですっかりメジャーになり、調べたければ事典なども日本語でいくらでも購入できるトピックになったケルト文明も、私がティーンエイジャーの頃は、まだかなりマニアックな人間しか知らない異文化だった。

 ケルト文明は、アイルランドやブリテン島それにフランスのブルターニュなどで現在もケルト系言語を話す人たちがその文化を引き継いでいる。そのため、かつての私のように、アイルランドあたりが発祥の民族と文化なのだろうと思う人も多いかもしれない。

 実際には、正確には不明ながら、中央アジアからやって来た民族の文化と文明が、後に血縁関係のない別の民族の子孫に引き継がれて、ブリテン諸島に残っている、ということらしい。

 何千年も、1つの島に同一民族が(何種類か)いて、同じ言語と文化を継承しているのが当然のように感じてしまうのは、たまたまその状況に近い極東の列島で生まれ育ったからだ。世界の別の場所では、それは当然のことではない。

 国家と言語と民族が、それぞれバラバラであることは、現在住んでいるスイスに関わり始めてからようやく「そういうことか」と実感を持って受け止められるようになった。

 住民AとB、Cが、全員同じ言語を話すとは限らない。Aは異国語であるBの言語を便宜上用いつつ、とりあえず住んでいるCの文化を継承していくこともある。そして、BとCの子孫がすべてDの文化と言語に飲まれた後も、Aの子孫が異国でBとCのなごりを伝えることもあるのだと。

 ともあれ、考古学上または歴史上スイスに重要な爪痕を残したケルト人たちの直接の子孫は、すぐそこにいるのではないかと思うが、残念ながらスイスで私がそれを感じることは皆無だ。同じくケルト人が向かったスペインでも、ユリウス・カエサルと戦ったガリア人の地フランスでも。

 ブルターニュ半島やブリテン諸島には、言語だけでなく、古代より伝わるケルト文化が未だに残っている。たとえば、私がデボン州のなんでもない墓地を訪れたとき、ケルトに関する観光地でも何でもなく、そこに住む人たちの多くはごく普通の英語を話すキリスト教徒だったにも関わらず、ケルト十字の墓標が非常に多く目に付いた。ケルトの結び目のシンボルを組み合わせたものもあった。

 はじめてイギリスを訪れたのは、大学に入った年だ。日本で憧れていたケルトのシンボルが、現実に当たり前のように使われていることにひどく感激した。そう、まるで異世界に迷い込んだかのように。あの頃は、海外旅行の敷居はずっと高かった。海外へ行くこと自体が非日常に属していた。ましてや、自分がヨーロッパで暮らすことになるなど、夢にも思わなかった。

 ケルトに限らず、私はずっと民俗信仰に興味を持ち続けている。だから、このエッセイ集でも取りあげているように、節操なく「あれも好き、これにも興味がある」と騒いでいる。アイルランドには、残念ながらまだ行ったことがない。ゲール語も、ウェールズ語も、ブルトン語も何一つわからない。私の「ケルト大好き」はその程度の浅さだ。

 ともあれ、私がこれまでに関心を持った世界の多くの民俗信仰は、どちらかというと「生きている人間の世界」に関わるものなのだが、どうもケルトに関してだけは、「あの世に近い」と感じることが多い。

 たとえば、アーサー王伝説の終盤、瀕死の重傷を負ったアーサーを3人の女たちがアヴァロン島へ連れて行く。その女たちは、人間なのか、魔女なのか、はたまた妖精なのか曖昧であるし、アヴァロン島もどうやらあの世のようである。

 イングランド・サマセット州にあるグラストンベリー、フランスのブルターニュ半島沿岸にあるリル・ダヴァル、コーンウォール半島沿岸のセント・マイケルズ・マウントなど「ここがアヴァロンである」といわれる場所がいくつかある。現実の場所が伝説のあの世と一致すると考えられているところが、彼らの「異世界との近さ」を表しているように思う。(島根県の東出雲町に「黄泉比良坂」があるのと似ている)

 そして、ケルト神話では、英雄に人気があればあるほど、いわゆるこの世でのハッピーエンドにならない。負けて死んだり、妖精に魅入られて連れ去られたり、もしくはあっさり天に召されてしまったりするのだ。理不尽な誓約ゲッシュ に縛られて、やらなくていい危険に飛び込んで死んでしまう英雄もいる。

 立派な人物が亡くなる前には、バンシーまたはクーニアックと呼ばれる妖精があらわれて泣き叫ぶという。長い髪をし、泣きはらした赤い目で、怖ろしい泣き声を上げる妖精の不吉なイメージは、ケルトとあの世を地続きに感じさせた。

 さて、クーニアック(Caoineag=泣く者)と、『Calling All Dawns』第7曲の題名「Caoineadh(嘆き歌)」は、同じゲール語の単語から来ている。

 ヨーロッパにはアイルランドに限らず、哀悼歌の伝統があり「エレジー」「ラメント」と呼ばれ、実際に「Caoineadh」は「エレジー」「ラメント」と訳されることが多い。

 しかし、イタリアやドイツなどにある「エレジー」や「ラメント」は楽曲に限られ、吟遊詩人によって語られるか、もしくは作曲されて歌うことが前提だ。一方で、「Caoineadh(嘆き歌)」は「キーン(Keen)」とも呼ばれ、葬儀の時に棺の上で読み上げられる詩を指す。ケルト的習慣、死の妖精バンシーを彷彿とさせる哀歌だ。実際にアイルランドでは、19世紀になっても実際の葬儀の一部として職業的「泣き女」が叫んでいたという記録がある。

 第7曲の歌詞を読むと、悲劇的な内容には思えない。英語から日本語に訳してみた。
 

我が友、心から愛する者よ!
ああ、輝く剣の使い手よ。
起きて、服を着てください
あなたの美しく高貴な服を
黒ビーバーを纏い、
手袋をはめてください。
見て、鞭はここにかかっている
あなたの素晴らしい雌馬はあなたを待っている
狭い道を東に向かって走って
茂みはあなたの前でかがみ
小川はあなたの道行きでは幅を狭くし
男も女もあなたにはひれ伏すだろうから……



 非の打ち所のない英雄の、立派な旅立ちを促す歌詞だ。メロディーは英雄の勇ましい旅立ちという感じではない。どちらかというと祈りのよう。しかも「Caoineadh(嘆き歌)」という題名であるからには、これは「起きて、服を着る」ことのできなくなった主人への虚しい懇願なのだろう。

 クリストファー・ティンによる解説を読むと、この歌詞の出典は「Caoineadh Airt Uí Laoghaire」だ。18世紀にアイルランドの大佐アート・オリアリーは、良質の馬をめぐるいざこざにより、とあるイギリスの役人に殺された。夫人アイリーン・オコネルは、アイルランドの伝統的な葬儀のために、とても長い悲劇的な詩を彼のために書き上げた。

 そこでこの詩のことも少し調べアイルランドの作家・詩人であるブレンダン・ケネリーによる英訳をみつけた。ティンが用いた部分を含む長い詩には、夫が無残にも殺され、それを嘆き復讐を誓う様子が語られていた。

 悲しみと喪失を痛烈に訴えかけ、それどころか夫の敵を自ら率先して討とうとする態度は、ケルト民族の伝統に通じる。控えめな表現をよしとする日本人がこの詩の全文を読むと芝居がかっているように感じるが、そこが文化の違いなのだとも思う。

 妻の嘆きはバンシーのそれに通じ、現実の18世紀の夫は伝説の英雄の姿に重なる。ティンの引用した部分を読んだとき、私はそれが18世紀の話だとは想像もできなかった。まるで、アーサー王の時代にタイムスリップしたようだ。

 一方、同じケルト文化がかつて存在し、国の呼び方にその民族の名ヘルヴェティアを残すスイスには、たとえその血が体内に流れているとしても、それを感じさせる文化は何ひとつ残っていない。

 スイスには幽霊がいない。これは私の長年の感覚だ。妖精も、ゴブリンも、アンデットも。いるのが似つかわしくないと表現した方がいいかもしれない。人々はその存在を信じないだろうし、万が一存在していても、彼らですら「この行為は合法か」もしくは「どの保険会社に加入すべきか」といった興ざめな話題をしていそうだ。柳の下、廃墟、古い巨木、大きな岩の陰、どこに行っても、「そこにはなにかがいる」という伝承はない。いたのかもしれない妖精たちも、語り手がいなくては張り合いもなく、いずこへか立ち去ってしまっただろう。

 同じヨーロッパに住みながら、私がブリテン島を訪れるとき、若き日の私と同じく心躍るのは、「ここは異界が近い」と感じる余地があるからだ。見えなくとも、妖精やゴブリン、樫の側にいる緑の者たちが、去っていないと感じるからだ。

 いずれまたケルトの異界を感じにブリテン諸島を旅してみたいと思っている。セント・マイケルズ・レイラインをたどり、「トリケトラ」や「永遠の結び目」といったケルトのシンボルを探し、大きな樫やヤドリギにケルトの秘密を感じる、自己満足な旅をしてみたい。「ダナンの子供たち」が残していったとする巨石の神秘を訪ねたい。

 まだこの世を立ち去っていない異界の者たちが、私を待っていると考えるほどおめでたくはないが、あの世と地続きになっている土地に佇むロマンを感じることはできるだろう。

(初出:2020年7月 書き下ろし)

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Caoineadh (feat. Anonymous 4)
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心の黎明をめぐるあれこれ(6)永遠の光の中へ

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の6作目です。

第6曲は『Lux Aeterna』使われている言語はラテン語です。


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心の黎明をめぐるあれこれ
(6)永遠の光の中へ
 related to “Lux Aeterna’


 第6曲 “Lux Aeterna’は、このような歌詞だ。

Lux aeterna luceat eis domine
Requiem aeterna dona eis domine
主よ、永遠の光が彼らの上を照らしますように
主よ、彼らに永遠の安息を与えて下さい



 これはキリスト教の『レクイエム(死者のためのミサ)』典礼文の聖体拝領唱 (Communio)の一部と入祭唱 (Introitus)の一部だ。単純に、この曲を耳にするだけでは、これが『レクイエム』の一部だと想像するのは難しい。しかも、とくに悲しさを感じさせないメロディになっているので、余計にそう思う。

 しかし、私と『レクイエム』の関わりを考えるのに、この曲の淡々としたあり方は妙な符号を感じる。

 最初に『レクイエム』を耳にしたのはいつだろう。何のための曲か理解しながら聴いたのは3歳ぐらいだったろう。モーツァルトの『レクイエム』だった。

 両親ともにクラッシック音楽畑の家庭に育った私は、歌謡曲よりも早くにクラッシック音楽を耳にする、若干風変わりな育ち方をした。自分では記憶にないが、童謡と同じ氣軽さでワーグナーやベートーヴェンを口ずさんでいたらしい。

 さて、父が何度も繰り返しかけて、強烈な印象を私に残したモーツァルトの『レクイエム』は、ヘルマン・シェルヘン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団による1959年録音だった。なぜこれほど細かいことがわかっているかというと、数年前にそのLPレコードを実家で発見したのだ。持ち帰りたかったが、LPでは聴けないので、写真だけ撮り同じ録音をiTunesストアからダウンロードした。

 このLPが幼かった私に大きな印象を残した要因の1つは、そのカバージャケットだ。おそらく本当に亡くなった誰かの青ざめた足の裏と白い布のアップという、大胆な写真が使われていた。2年前にiTunesでダウンロードした方は、もちろんそのように衝撃的な写真は使われていない。

 私の父が一時期狂ったようにこの曲ばかりをかけていた理由と、おそらく私が3才の頃だっただろうと推測するのは、その頃に私の弟が夭逝したからだ。享年3ヶ月だった弟を初めて見たのは、棺の中で花に囲まれている姿だったので、私には生きていた弟を亡くしたという実感は現在に至るまで薄い。もちろん両親にとってそれは全く違ったことだろう。今は3人ともあちら側にいる。私は、親への悼みを通して、両親の弟に対する想い、痛みや悲しみを感じる。

 子供の頃に私が聴いていた『レクイエム』も同様に、父母の感じ方と、私の感じ方とでは全く違ったものであったろう。私は、『レクイエム』と実際の身内の死が結びついていなかったのだ。そして、純粋に音楽としてモーツァルトの『レクイエム』を好きだった。
 
 そのような一風変わったなじみ方をしたせいか、私はごく普通のクラッシック音楽愛好家と比較しても『レクイエム』をよく聴いている。つまり、「お葬式の音楽」という物忌み感が薄かったように思う。なぜ過去形なのかというと、母が亡くなって以来は、どちらかというと本来の意味での鎮魂ミサ曲として聴くようになったからだ。

 誰もがクラッシック音楽やキリスト教の葬儀に詳しいとは限らないので、簡単に説明を入れるが、『レクイエム』とは「安息を」という意味のラテン語である。カトリック教会で「死者のためのミサ(死者の安息を神に願うミサ)」に使われるラテン語の典礼文が、この言葉で始まるのだ。そして、ミサは、言葉で唱えるほか合唱曲として演奏する形もあり、クラッシック音楽でいう『レクイエム』は、この典礼音楽のことをいう。グレゴリオ聖歌をはじめとして、多くの曲が存在するが、有名なのがモーツァルト、ヴェルディ、フォーレの3作品である。

 日本では、ヴェルディの『レクイエム』から『怒りの日(Dies irae)』が映画の主題歌に使われたのをご存じの方も多いかもしれない。私が聴くのは、やはり圧倒的にモーツァルトの作品で、次にフォーレ。ヴェルディは、通しで聴いたことがないかもしれない。これは個人の好みの問題もあるが、そもそもヴェルディの作品は教会で『死者のミサ』のために演奏されることが少ないのだ。オーケストレーションがドラマティックすぎて葬儀に向かないからかもしれない。

 このブログによく書くように、私は音楽を聴きながら小説のアイデアを膨らませていくことが多い。そして、2つの『レクイエム』の『入祭唱とキリエ』が、『樋水龍神縁起』の重要シーンの発想の源になった。モーツァルトが本編、そしてフォーレが続編である『樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero』の、それぞれ瀧壺に潜るシーンである。

 死を意識せずに書いたかといえば嘘になるのだが、この2つのシーンはどちらも死と生の境界が非常に曖昧な世界を舞台にしている。

 私たちの日常では、死と生はコンピュータ演算で言えば1と0と同じくらい明確に分かれ、曖昧であることはあり得ない。たとえば、私が両親や弟とこの世で再会することは100%ない。けれど、『樋水龍神縁起』でなんとか表現しようとした世界、人間の叡智の及ばぬレベルの世界では、生と死がまったく同じものとみなされている。それは、キリスト教会で説かれる世界観ではなく、東洋哲学を元にした、けれど宗教に囚われない精神世界の話だ。私は、このエッセイで何度か述べている『般若心経』の解釈からこの世界観を作り出した。そこでは生と死だけではなく、聖と俗、男と女、過去と未来、愛と憎、有と無など全ての相反するものが1つとなる。

 その世界に向かうときに私がイメージしている曲が、どちらも『レクイエム』だったのは、私にとってその世界が死に近かったからではなく、私の原体験により『レクイエム』が死よりもそのどちらでもない世界に近かったからだ。弟は死でも生でもない世界に属していた。耳にしていたメロディも同様だった。その世界は、暗闇と光の両方を持っている。外界から光の届かない深い瀧壺に現実ともつかぬ黄金と虹色の光が溢れている。

 その世界観は、私自身がどのように世界を理解しているかの集大成でもある。私は一応カトリック信者の名簿に載っている信者だが、その思想はローマ法王庁の教示には全くしたがっていない。私が理解している「神」とは、キリスト教信者が信じ、そしてまた、彼らは認めなくとも、その他の宗教を信じる者たちも信じている至高の存在である。

 その存在は、私たちに都合よくは存在しない。免罪符や壺を買ったり、票集めに協力することで不老不死にしてくれたり死後に快適な場所を確保してくれるような存在ではない。人類だけに特権を与え、他の存在を破壊することを許可するような存在でもない。

 私がいまよりも幸福になれるか、楽な死を迎えられるかは、全く保証されていない。たとえ「あの世」があるにしても、私が他の誰かよりも有利になるように、いま現在できることは、ない。

 私が「この世」で、少しでも良く生きようとするのは、ポイントを集めて来世で何かの特典と交換するためではない。単純に、私は「この世」で後から後悔したくないから、つまり、自分の精神を良く保つためにだけ、信条にしたがって日々の生活を営んでいるだけだ。

 私がこの宗教観らしきものにたどり着いてから、そろそろ20年ほどになる。正しいかどうかはわからないし、誰かに勧めようとも思わない。ただ、私はそう考えて生きている。

 とはいえ、私が日常生活で本当に達観して生きているかと問われれば、それは違う。母が逝ったのは『樋水龍神縁起』を書いてから7年も経っていた2018年だが、大きなショックを受け嘆き悲しんだ。思想をもって感情を制御できるというものではない。

 同じ敷地内に住む大家の飼っていた犬や猫たちが寿命でこの世を去ったときですら、悲しくて辛かった。そういうものなのだろう。

 死に関することだけではない。日々の生活で理不尽な目に遭ったり、不愉快な思いをすれば、そのことで大いに感情を乱される。私はそれでいいと思う。悲しみや怒りに左右される分、喜びや楽しみの感情も私にはあり、それを思想に遮られることなくおおいに享受することができるのだから。

 私が2度と会うことのできなくなった人たち、両親や弟、祖父母、親戚、恩師、隣人、それに、短い寿命を駆け抜けていってしまった犬や猫たちの魂、ただの物質以上の何かであらしめていた心ある存在は、どこへ行ったのだろう。

 生と死の境のなくなる、暗闇と光が同じものとなるどこかで、個であることをやめたのだろうか。少なくとも彼らは、金銭や今日の食べるものの心配、成績不振、年金不足、戦争や地球温暖化、いつ終わるともしれぬ病魔の影などに煩わされることのない、安息の中にいる。

 いつか私もまた、同じ光の中に去っていくことを考える。それでいて、「それは今日ではなさそうだ」と根拠もなく考えている。まだ、夕食の献立に頭を悩ませ、つまらないことに腹を立て、安物買いで銭を失い、平和で美しい田舎の光景に感動し、小市民としての日常を繰り返すことだろう。

(初出:2020年6月 書き下ろし) 

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Lux Aeterna
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心の黎明をめぐるあれこれ(5)意思を持って前へ

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の5作目です。

第5曲は『Rassemblons-Nous』使われている言語はフランス語です。


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心の黎明をめぐるあれこれ
(5)意思を持って前へ
 related to 'Rassemblons-Nous'


 さて。この第5曲は、もっとも『厨二病』的な歌詞だ。言語はフランス語。ゲームのサウンドトラックから生まれたアルバムなので、ある意味正しいのかもしれない。この随筆では、ゲームではなく私の内面的な沿革を辿っているのだが、前回書いたように私自身はその病は克服したつもりでいるので、そちら側に引き戻されてはたまらない。

一つになろう
時を同じくし
我らの千の顔が
一つのスクリーンで
一つの声として
宣言する



 この歌詞を訳しながら、はじめに私が思い描いていたのは、某有名アニメをテレビで放映するときのお約束のことだ。作品の一番盛り上がるところで、SNSを通して主人公たちと同時に呪文を唱えるあれだ。

 このアルバムの元となった『Civilization』というゲームをプレイしたことはないので、多くのプレイヤーが同時に何かを宣言することに意味があるのかどうかは知らない。あるとして、宣言するのにフランス語は向くのだろうかと、首を傾げた。 

 知らないことはさておき、フランス語と私自身の個人的な関わりについてここで触れてみよう。私がフランス語に初めて触れたのは、小学校の低学年である。あるカトリック系の私立小学校に通っていたのだが、週に1度フランス語の授業があったのだ。母親がしばらくフランス語を習っていた、大学の第二外国語でフランス語を選択した。

 さらには、結婚した相手がフランス語圏で生まれ育ったお陰で、フランス語を母語だと思っている。現在、私たちはドイツ語圏に住んでいるので、フランス語が必要になることはないのだが、彼としてはフランス語で話せる相手とは、とにかくそちらで会話したがる。

 と、ここまでフランス語と縁のある人生を歩んできたのに、私は一貫してフランス語が苦手である。ペラペラなのに英語では書けない連れ合いと文通するために、涙目になりながらフランス語の手紙を書いていた時期ですら、「なんだ、この言語」とむかっ腹を立てていた。リエゾンが起こったり語尾の子音がどこかに消えてたりすることで、見たままの文字と発音がまったく違うのも腹が立つ。

 言語そのものも苦手だけれど、実はフランス人と会話をするのも少し苦手である。もちろんフランス人といってもいろいろな人がいて、ひと絡げにしてはいけないのはわかっている。同じフランス人でも田舎の人たちとは素敵な思い出がある。たどたどしくしか話せないアジア人が1人でいるときには、フランス語を話すスイス人の連れ合いと一緒にいるときと全く違った対応を受けることも確かだ。何よりもひどい目に遭ったのはパリで、4、5回は訪れているのだが行くたびに散々な目に遭った。だからフランスやフランス語にヨーロッパの他の国よりもいい印象を持てないのかもしれない。

 フランス語は耳障りが優しく美しい言語だけれど、話している人たちがその言葉で柔かく和を以て繋がっているかといえば、決してそうではない。

ラテン系の言語を話す人たちは、ゲルマン系の人たちと比較すると社会的に集まることを好む傾向がある。カフェやレストランで村の仲間がワイワイ話したり、日曜日ごとに離れて住む家族が集まったりする傾向がある。イタリア語やスペイン語、ポルトガル語を話す人たちもたとえドイツ語圏に住んでいてもその傾向が強い。

 フランス語を話す人たちも、その傾向は強いのだが、一緒にいるからといって考え方や心の向いている方があまり一致していないという印象が強いのだ。なので、にこやかに微笑みながら非常に辛辣なことを言い合っている場面に何度も遭遇した。

 意地の悪い人たちと言うことはできない。自分の慣れている方法と違う付き合い方をするというだけで、ひと絡げに悪評を押しつけるのはフェアではない。それで居心地が悪くても、それは彼らが違ったタイプの人付き合いをしたがる人たちなのだと考えて尊重しなくてはならない。

個人主義が深く浸透している人たちだ。日本人の好きな「みんな」を、彼らはさほど好まないのだ。

 あなたはそう考えるかもしれないわね。でも、私はこうなの。そんな風に主張することを、彼らはためらわない。みなが忙しそうにしているので一人だけ定時には帰れない、などという日本人の発想は理解してももらえないだろう。ファッションブランドが多いけれど、日本人のように右も左も流行の服装で埋まるということもない。自分に似合うかに合わないかを決めるのも個人。

 そんな氣質のフランス人でも、集まるときには集まる。たとえば、フランス革命の時、現在でいえば黄色いベスト運動をはじめとする各種のデモ、フランス人は抗議行動のためには率先して集まる。

 皆がそうしているから、ではなくて、自らの主張を断固として相手に届けるために集まる。革命において絶対王政を打ち倒して、市民の力で勝ち取った民主主義を象徴する大切な政治行動なのだろう。

 ということを考えて、この第五曲の歌詞を考えると、作曲者クリストファー・ティンがフランス語とこの歌詞を組み合わせたことに「なるほどな」と感じる。

我々は服従してはならない
我々は消えてはならない



 彼は、意識的に英語を使わなかったのだと思うが、「団結して、抵抗しよう」と語りかけるのにフランス語が選ばれた理由は、フランス革命から脈々と繋がる市民抗議行動の伝統に敬意を表してのことなのかもしれない。

 フランス人たちは、十分にこうした主張をすることに慣れているのだけれど、自らを振り返り、心の遍歴を辿ってみると、私自身にとってこの五曲の内容は弱点を突かれたように感じる。

 長い時間をかけて、相手の言い分を尊重しつつ自分の意見を言うこと自体は、少しずつできるようになってきた。とはいえ、その主張を社会のためと信じて一致団結し進むようなことには、長いこと拒否感とまではいかないが、他人事に近い感覚を持っていた。

 日本にいた頃は、政党に加わったり、支援者を勧誘するような行為は、する必要もないと考えていた。学生時代や日本で勤め人だった頃も、たとえば昼食時に同僚と政治問題で論じ合うようなことをした記憶がない。

 選挙の前に各政党の出したマニフェストを読み、一番いいと思う候補者や政党に1票を投じる。それだけをやっていめばいいのだとどこかで考えていた。

 現在すむスイスは、日本と違って直接民主制の国だ。私は外国人なので投票はできないのだが、スイス人の手元には、月に1度か2度、投票用紙が送られてくる。ありとあらゆることが国民投票にかけられているのだ。政府や政党が発議することもあるし、国民が署名を集めて発議することもある。投票が近づくと、人々はごく普通に意見を交わす。「賛成」にも「反対」にも利点と欠点があるが、どちらを選ぶ方がよりいいのかを論じ合うのだ。

 たとえば、私の住む州は2026年冬季オリンピックを招致しようとしていたのだが、国民投票で否決された。経済効果よりも負担させられる費用が多く割に合わないと感じた住民が多かったということだ。

 直接民主制は、スイスの長い伝統だ。投票率は常に高いわけではない。あまりにも多くの国民投票があるので、面倒になってしまう人もあるのだろう。「賛成」と「反対」が拮抗するときもあるが、圧倒的にどちらかが優勢になるときもある。政府として「国際問題になるのでこんな決定はしたくない」というテーマであっても、国民投票にかけられればその決定が尊重される。たとえば、イスラム教のミナレット(尖塔)建設禁止が決定されたときは、イスラム諸国から猛反発が起きた。

 スイス国内に本部があるというのに、スイス自身が国際連合に加盟したのは2002年である。それまでも何度か国民投票にかけられていたのに、絶対的中立が損なわれる恐れがあるとことごとく否決されてきたからだ。

 スイスという国は、隣国のドイツやフランスまたはオーストリアなどと違い、絶対王政や貴族制度などがなかった。つまり、支配する側とされる側という明確な線引きがなく、たとえそれがあっても理不尽だと感じれば一致団結して抗議をして覆すという伝統をもっていた。ちょうどウィリアム・テルの伝説のように。

 簡単に支配されない、問題があれば易々と服従しない、その政治的態度は21世紀でも健在のようだ。その世界に日本からやって来た私は、影響されて政治に対する考え方がだいぶ変わったように思う。既に書いたように、スイスの国政には一票を投じられない身なのだが。

 そういうわけで、私の政治や主義主張に関する感覚は、移住してからゆっくりと変わってきた。デモンストレーションという形では、福島の事故以後に原子力発電の停止を求めた行進に参加したくらいだが。もとより日本の政治に対する行動は、遠くて直接参加するのは難しい。

 現在では、自分の意思を表示するためにウェブ署名運動やTwitterデモによく参加している。また、スイスの国民投票は外国人で権利がない代わりに、日本の選挙では毎回意思表示をしている。

 更にいえば、デモンストレーションのような行動だけが政治ではない。たとえば、環境問題に対する意見を持つのならば、規制を求めるだけでなく自分でも自然環境を守るための日々の行動がともなわなくてはならない。意見を表明するだけでなく、生活態度が合致していなくては意味がない。意見を口にすることには多くの責任が伴う。おそらく、それが大人ということなのだろう。今さらだけれど。

 そんなことを考えながらもう一度歌詞を読むと、もうそれは『厨二病』的なバーチャル空間にフワフワと浮かぶ言葉ではなく、やはり、私の人生の心の旅路と重なる内容だ。たとえ苦手なフランス語であっても。

 ところで、歌詞に出てくる「大聖堂」「銀の塔」に私は勝手にパリのイメージを重ね合わせてしまう。つまり、ノートルダム大聖堂とエッフェル塔だ。実際にそれを意識して歌詞を書いたどうかを知る術はない。それに、日本語訳だけを見ていると「格好いい言葉をなんとなく並べたよう」に思えるかもしれないが、原文を読めばすぐにわかるように、これは韻文だ。なんとなく選んだ言葉ではなく、考え抜いて使った言葉。だから、そこに私の想像するようなぼんやりとしたパリ観光名所を散りばめる意図があったかどうかは疑問だ。

 とはいえ、勝手にイメージしてしまったので、私の中では「銀の塔」はエッフェル塔だし(別に銀というわけでもなかったが)、「大聖堂」はつい先日無残に焼けてしまったノートルダム大聖堂の姿をとって脳内再生される。なんだかんだいって、私の発想は実に単純である。

(初出:2020年5月 書き下ろし) 

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【歌詞はこんな意味です】
一つになろう
時を同じくし
我らの千の顔が
一つのスクリーンで
一つの声として
宣言する
我々は服従してはならない
我々は消えてはならない

我が運命、我が血、
それは暗闇の深みへ導く
手放すことを怖れていたにもかかわらず
我は前へ踏み出す
真実の瞬間に立ち上がるために
服従してはならない
消え去ってはならない

君の兄弟、君の友
我々は夜に再会する
みなで一緒に
街に繰り出そう

一つになろう
時を同じくし
我らの千の顔が
一つのスクリーンで
一つの声として
宣言する
勇気を持とう

空港から
大聖堂へ
男であろうと女であろうと
構うものか
運命への巡礼の旅で
手を取り合おう

汚れた牢屋から
名もなき街から
神聖なる空間から
銀の塔へと
四方八方より集まろう
時を同じくして
覚醒の鐘を鳴らそう

絶え間ない戦いの中
我らは声を合わせ
足踏みを揃え
行動を同じくしよう
怖れも憎しみもなく
来たりくるその日に
ステージに上がろう

一つになろう
時を同じくし
我らの千の顔が
一つのスクリーンで
一つの声として
宣言する

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心の黎明をめぐるあれこれ(4)受け入れて、生きましょう

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の四作目です。

第四曲は『Se É Pra Vir Que Venha』使われている言語はポルトガル語です。


『心の黎明をめぐるあれこれ』を読む
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心の黎明をめぐるあれこれ
(4)受け入れて、生きましょう
 related to 'Se É Pra Vir Que Venha'


 第四曲目は、ポルトガル語。そう、住んだことのある日本とスイスを除いたら一番に思い入れがある国の言葉だ。

 ここしばらく私がポルトガル礼賛ばかりしているので、ずっとポルトガル狂だったと思われているかもしれないが、そうではない。2012年に初めてポルトに行ったのは「なんとなく」の思いつきで、まさかその後にこれほど嵌まり、毎年訪れることになるとは思ってもいなかった。

 日本とも縁の深い国ではあるけれど、かつての私にとってポルトガルは「よく知らない国」でしかなかったのだ。イベリア半島に共存しているというだけで「スペインみたいな国かも?」と考えていたくらいに。とんでもない無知である。

 この四曲目を歌っているのは、私の大好きな歌手ドゥルス・ポンテスだ。ファドの歌手という言い方もできるのだけれど、この人はどちらかというと典型的なファド以外も歌うし、映画音楽や海外の音楽家との共演などでの活躍の方が目立つ。今回のアルバムへの参加も然り。

 この曲の歌詞は、第三曲の『老子道徳経』に由来する歌詞に比較すると、かなりわかりやすい。だからと言って、内容に深みがないわけではない。

 歌詞はこんな感じで始まる。

私の牛を野に放とう
牧草地に横になろう
風景を私のものにし
悲しむことなく微笑もう



 実は、私はポルトガルで放牧を見たことはない。しかし、住んでいるスイスでは隣家が牧畜農家で、放牧された家畜は東京で見る鳩や雀くらいに馴染みがある風景だ。

 東京で育った私は、スイスに移住するまで生きた牛や羊、山羊などのことをほとんど知らなかった。牛乳や牛肉は、スーパーマーケットで製品として買うもので、動物園や□□ファームといった特別の場所で目にする動物との別の姿だとは知っていても実感がなかった。現代の子供たちは海に魚の切り身が泳いでいると想像していると笑い話を聞いたことがあるけれど、それを笑うことができないほど、私の家畜と食料の関連性についての意識は薄いものだった。

 ごく普通の日本人と同じくかつての私なら、この歌詞を読んで牧歌的で美しい光景をイメージするだろう。アニメに描かれるようにきれいでのんびりとした光景を。それは間違いではないけれど、その後ろにはもっと多くのものが横たわっている。

 オフィスワークなどと較べてずっと長い労働時間。肉体的に厳しい労働、その中には糞尿の処理なども含まれている。優しい瞳をして懐いてくる家畜たちに名前をつけて可愛がっても、何年かすれば屠殺に送らざるを得ない現実もある。家畜はペットではないのだ。

 見渡す限りの美しい牧草地で、優しい風に吹かれながら、僅かな平和と美しさを享受する時間の背後に、現在の私はこうしたあれこれを感じ取ることができる。その背景は、美しさや平和を否定することはない。むしろ深みを増させる要素だと思うのだ。

 曲の題名にもなっている「Se é pra vir, que venha」というリフレインは、「やってくるものがあるならば、来るに任せよう」という意味である。とても牧歌的で心地よいメロディにのせて歌っているので、爽やかな詩かと考えてしまうが、最後まで読むとやはりそれだけではないことがわかる。

私は人生や
また、その反対にあるものを恐れない
何かが来るのなら、来るに任せよう



 生きることの反対にあるものとは、やがてやってくる死のことだろう。死を怖れるのは、未知のことだからだ。同様に生きることを怖れるのも、どうなっていくのかわからないからだろう。これまでがどうであったかに関わらず、未来を見通すことは難しい。だからこそ、人は怖れる。この歌はそれを優しく否定する。

 ポルトガルは、ヨーロッパの中でも経済的に困難な状況にある。平均給与は低く、家族がバラバラになっても他国への出稼ぎに行かざるを得ない人も多い。でも、人々は比較的当たりが柔らかい。地域にもよるだろうが、私がよく行く北ポルトガルの人々は勤勉で、家族や友人との関係を大切にし、美味しいものを食べ、彼らの文化を大切にしながら生きている。

 そんなポルトガルを大好きな私には、この歌詞は受け身の姿勢ではなく、懸命に生きた上での潔い受容なのだと聞こえてくるのだ。

 人によって人生はとても過酷で、たとえば生まれてからずっと爆撃に怯えながらの生活だけをしている人もあれば、長いあいだ病に苦しんでいる人もいる。そういった大変な苦難を背負っている人に較べたら、私は恵まれた非常に楽な人生を歩み続けてきた。

 そうなのだけれど、やはり時には「これはなんとかならないものか」「頑張りでは打開できないぞ」と思うようなことが起こる。「こんなはずじゃなかった」や「間違ってきちゃったかなあ」と過去の選択に涙目になることもある。

 隣の芝生が青く見えることもしょっちゅうだ。誰よりも努力したとは口が裂けてもいえない一方で、でも、まったく何もしなかったわけではないと、時には唇を噛みしめたくなることもある。

 それでも、他の人生を生きたかったかと問われれば、私は否と答えるだろう。違う家庭環境であれば、異なる配偶者を選べば、もしくは一人で生きてくれば、あるいは別の思い出が蓄積したかもしれない。他のことを学び、別の職種を探し、別の土地で暮らせば、もっと笑顔になったかもしれないし、その反対もあるだろう。でも、その「もし」の存在は、私ではない。

 実のところ私は世の中のためになることを成し遂げていない。世界平和にはほとんど貢献していない。人に感謝されるようなすごい仕事もしてこなかったし、これからもきっとしない。生きているだけで、どちらかというと環境破壊に加担してしまう。

 そんな自分を肯定するのは、時に非論理的に感じられて、とても難しい。

 かつては自己肯定感や自尊心がもっと強かった。

 中学校から高校生のはじめくらいまでは、今で言うところの『厨二病』に罹患していた。つまり、見合った努力は全くしていないにもかかわらず、自分には世界を救うとまではいかないけれど、素晴らしい運命が待っていると期待していた。もちろん何も起こらなかった。

 高校に入った頃から、急に周りの似たような境遇の人たちとは微妙に違う役割が与えられるようになった。最初は、生徒会の役員に抜擢されたというような、大したことのないものだった。大学のサークルでも、就職してからも『○○連盟」といった団体の役員や、労働組合の執行委員というような役割に抜擢される。本人はその様な目立つことをしたいとは全く思っていないにもかかわらずである。

 中学時代からの勘違いの延長で、自分をどこか特別な存在だと思っていたのを、察知されていたのかもしれない。スケールは『厨二病』時代に考えていたものよりもかなり小さいけれど、どこか自分は他の人とは違うものを持っているのだと、まだ考えていた。だから、それらの与えられた役割を、私は全力でこなした。

 今にして思えば、私がそれぞれ所属した団体にどれほどの尽力をしたかと問われれば、大したことはないと言うしかない。「女性初の△△」などという肩書きも「革命的な●●」といわれた当時の働きも、時間が経てば「過渡期の小さな半歩」でしかない。おそらく誰も憶えていない何かでしかないのだ。

 日本からスイスに移住して、それがはっきりした。ちょうど日本では履歴書に書かれた大学名が就職を若干有利にしたような、もしくは、ずっと住んでいた街の名前を言うだけで実際よりもハイクラスのように扱われたような、本人とは本来は無関係なのに下駄を履かせてくれた前提は、ほかのあらゆる業績と共に全て消えた。残ったのは、そこら辺のティーンよりもまともに話せず、文法正しく体裁の整った文章も書けず、当たり前の教育も受けておらず、極東の聞いたこともないどこからか来た取るに足りぬ外国人だった。私は平均以上に特別な存在ではなく、平均以下の存在になったとはっきりと感じた。

 それは認めるのはつらかったけれど、紛れもない事実で、私は『厨二病』の第二段階からも卒業しなくてはならなかった。それから、もう一度生きる意味を探すことになった。そして、たどり着いたのは、やはり自分の歩いた道と学びを肯定することだった。

 すべての経験が特別なことだった。外側である世界にとってではなく、内側つまり私本人にとっては。何かを成し遂げたとか、よいことをしたとか、立派な功績を残したといった、世界にとっての貢献ではなかったかもしれないが、それらはみな天から与えられた課題で、私はそれらをこなしてきたのだと。

 私が選んだ道は、きっと他の誰かにとっては不正解で、つまらなく、通るに値しないだろうが、私にとっては常に必要で、意味があり、何を犠牲にしてでも通るべきだったのだ。つまり、私は小市民であることを認め、その範囲でしぶとく生きることを受け入れたのだ。

 それを自覚するようになってから、私の書く小説は現在のようなスタイルになった。主人公が小市民で華々しい活躍はしない。世界を救ったり、華麗などんでん返しもない。そうではなく、苦しんだり、笑ったり、美味しいものを食べたりして、それぞれにとってはかけがえのない一つの命を生きる等身大の人生を扱うのがメインだ。

 そういえば、ポルトガルへの愛を詰め込んで書いた小説『Infante 323 黄金の枷 』をはじめとする『黄金の枷』シリーズのテーマは「運命との和解」だった。与えられた困難と戦って打ち勝つという「RGPの勇者」のようなアプローチではなく、自らに与えられた運命を受け入れつつ、その範囲の中で主人公たちがより良く生きていこうとする姿を描きたいと思ったのだ。

 この第四曲が、ポルトガル語で受容のメッセージを伝えてくれることに、改めて縁を感じてしまうのは、その辺りにもあるのかもしれない。
 

(初出:2020年4月 書き下ろし)

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Se É Pra Vir Que Venha (feat. Dulce Pontes)

【歌詞はこんな意味です】

私の牛を野に放とう
牧草地に横になろう
風景を私のものにし
悲しむことなく微笑もう

手綱を締めたり
ルールにも従うことなく
後悔も渇望もなく
ダンスをしそびれることもない
何かが来るのなら、来るに任せよう
 
すべてが色彩に満ちている
たとえ白や黒であっても
私が描くものは美しい
そして、その線はシンプル
直線でも曲線でも
球であっても線であっても

人生は常に正しい
私は、私の人生を恐れない
何かが来るのなら、来るに任せよう
 
何かが来るのなら、来るに任せよう
たとえ黒や白であっても
私は人生や
また、その反対にあるものを恐れない
何かが来るのなら、来るに任せよう

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Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ(3)弱者、神仙をおもう

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の三作目です。

第三曲は『『Dao Zai Fan Ye』使われている言語は中国語です。


『心の黎明をめぐるあれこれ』を読む
『心の黎明をめぐるあれこれ』を始めから読む




心の黎明をめぐるあれこれ
(3)弱者、神仙をおもう
 related to “Dao Zai Fan Ye”


 第三曲は、中国語。『老子道徳経』、四十章からの引用だ。作曲者クリストファー・ティンはアメリカ人だがバックグラウンドは中国にあるので、この曲を作曲するときには他の曲に勝る思い入れがあったのではないかと想像している。女性が淡々と歌う構成は、第二曲『Mado Kara Mieru』と対照的だが、その思想の深さを思うと、歌い方やメロディとの組み合わせに納得する。

 日本の四季と禅の思想を重ね合わせて書いた前回のエッセイと、この第三曲に関して私が感じることには共通点がある。道教の思想と、サンスクリットの教えに基づく禅の教えにも共通するものがあるのかもしれない。

反者道之動。
弱者道之用。
天下萬物生於有、有生於無。

反者は道の動なり。
弱き者は道の用なり。
天下万物は有より生じ、有は無より生ず。



 前半の話はこのエッセイの後半に譲るとして、まずは後半に注目しよう。「天下万物は有より生じ、有は無より生ず」という言葉は、「色即是空」と同じように矛盾に感じる。慣れてしまった西欧的科学法則から考えると、納得がいかない。

 しかし、西欧科学にしても、突き詰めて考えるとやはり同じ問題にぶつかる。「宇宙の始まりはビッグバンだった」と私は教わった。その前はなかったと。もし現在ある原子や分子からしか、何かが生まれないならば、始まりの前にも存在していたことになる。しかし、だとしたらその瞬間は「始まり」ではあり得ない。世界の始まりにどうにかして無から有が生まれたのだ。

 生命も同じだ。生命が生命からしか生まれないならば、最初の生物はどう生まれたのか。始めは生ではなかったものが、生命に変わった瞬間があるはずだ。でもどうやって?

 考えても答えは出ない。しかし、間違っていると思った『老子道徳経』の言葉は、やはり正しいのだ。

 一般に世界で役に立つとされているのは、前向きなマインド、屈強で健康な身体だ。けれど、老子の言葉は、これにも反している。はっきりと意見をいい、自分が正しいと主張する。たくさんの友人を持ち、スケジュール帳を予定で埋める。仕事も趣味も充実させて、恋人も支持者も多ければ多いほどよいと。

 この傾向は、西欧社会には強い。私の住むスイスは、もともと山岳に住む民族なので、若干その傾向は少ないが、それでも私にとってはポジティヴな傾向を持つ人が多い。

 『老子道徳経』の説くタオ では、そのプラス思考讃美を否定している。従うべき唯一の存在や、強固な力に、そして権力などに「道」を知った神仙は背を向けるものなのだと。

 ここまで格調高く「道」などと書いてきたが、ここから話は小市民である「私」のことに移る。ティーンエイジャーの頃、私は四川州に憧れていた。理由は単純で、「パンダと神仙の両方がいるから」である。ジャイアントパンダは実在だが、神仙はどうだろう。過去に存在していたとしても、私のイメージするような(外国人がニンジャに抱く幻想と変わらない)神仙はいなかっただろうし、ジャイアントパンダ同様に四川州限定で生息していたはずはないだろう。とはいえ、未だに私にとって四川州は特別な郷愁を呼び起こす憧れの土地である。

 そもそも、どこから神仙に憧れたか語るのも恥ずかしいのだが、とある香港映画を観たからである。ツイ・ハーク監督作品『蜀山』という。ここでは初めて観た第一回東京国際映画祭での邦題で書いているが、その後に別の題で公開されたときの邦題の方がもっと知られているかもしれない。そちらも観にいったが、日本語字幕や主人公の名前などがとてもイタい感じに変更されていて非常に悲しかった。

 ユン・ピョウ主演の香港映画である。ワイヤーワークで空を飛ぶタイプの武侠アクション映画。隠さずに言おう。私は、耽美系や芸術作品よりもコテコテのエンターテーメントに惹かれるのである。『2001年宇宙の旅』よりも『2010年』が好きといって映画好きに嘆息される。そもそも最初に夢中になった映画が『プロジェクトA』と『STAR WARS』だ。もちろん「ご趣味は」と訊かれて「映画鑑賞」とだけは答えてはいけないと自覚している。

 という話はさておき、『蜀山』に描かれていた中国神仙の世界に魅せられた私は、それから「神仙とはなんぞや」と興味を持ち、『聊斎志異』の和訳を買って喜んでいたりした青春時代を過ごした。当時にブログをやっていれば、そういう話の好きな人と語り合えただろうが、もちろんインターネットに一般人が繋がっているはずのない時代で、ひとりでニヤニヤしていただけだ。

 当時書いていた作品には、『蜀山』の影響をもろに受けた四人の神仙(というよりはカンフーのまねごとをして怪異と戦うキャラクター)がいて、今から考えたら設定からして黒歴史以外の何物でもないのだが、それでも私の中には、『森の詩 Cantum Silvae』や『黄金の枷』ワールドに匹敵するひとつの世界観として今でも存在している。

 というわけで、韓流ドラマに夢中になった方が韓国にある種の特別な憧憬を持つように、またはとある歴史ドラマからある方がロシアやフランスに特別な思い入れを持つように、私にとって中国や神仙たちのメッカとも言える峨眉山を頂く四川州は、ある種の憧れの地になったまま現在に至っている。

 私の場合、その手の憧れの地が四川州だけでなく、中南米だったり、アフリカだったり、イースター島だったり、中近東だったり、あちこちに分散しているのだが、それはまた別の話である。

 中国の神仙思想は、紀元前三世紀頃から広まっていた原始的アニミズムの一種で、不老不死の神仙が存在し、修行または仙丹という薬によって人は神仙になれると信じられていた。『老子道徳経』に出てくる『タオ 』とは、そもそも神仙に至る道のことだ。
 
 しかし、現代社会において心の指標にしようと『老子道徳経』を繙くひとは、ワイヤーワークのごとく空を飛び霞を食べて生きる神仙になろうと思っているわけではないだろう。私もそうだ。いくら永遠の『厨二病』の氣があるといっても、さすがに修行すればその手の存在になれると信じるほどおめでたくはない。だが、初めて『老子道徳経』の存在を知った頃に較べて、それなりの年月を人間として暮らしてきて、その教えが別の意味で心の琴線に触れるようになってきている。

 それに、なんというのか、その昔に夢中になっていた往年のアイドルが何十年かぶりに復帰して回想録を出版したら買いに走ってしまうように、『老子道徳経』と言われると脊髄反射的に「お」と意識が向いてしまうのだ。

 さて、この第三曲に用いられている『老子道徳経』の四十章、前半が非常に難解である。

 読み下しても、意味はほとんどわからない。インターネットで探せばいくつかの解釈があるけれど、いろいろな解釈があって意味はかなりかけ離れている。とくに前半の解釈がバラバラだ。どれが正しいかなんて、教養のない私にわかろうか、いや、わかるはずはない。(漢文の授業風)

 仕方ないので、クリストファー・ティンが発表している公式の英訳から、彼の意図している意味を考えてみた。

The motion of the Way is to return;
The use of the Way is to accept;
Things under the sky/heavens,
Are born of being, are born of non-being/death.



「道の動きとは戻るもの。道の働きは受け入れるもの。天下の全ては存在するものより生じ、存在しないもの(死)から生じる」やはり前半の言いたいことが今ひとつわからない。でも、「弱者」というのが、単なる「弱い存在」ではないらしいということはわかった。

同じ老子道徳経』の七十八章に、有名な一説がある。

天下莫柔弱於水。
而攻堅強者、莫之能勝。
以其無以易之。

天下に水より柔弱なるは莫し
而も堅強を攻むる者、これに能く勝る莫し。



 天下に水ほど柔らかく弱いものはないが、それでいて堅く強いものを打ち破るのに水に勝るものもない。ダイアモンドのように硬いものも割ることはできるけれど、弱い水を折ることができないし、岩ですら水で穿つことができる。「 正言若反( 正しい言葉は普通とは逆に聞こえる)」と続くこの章は、わかりにくい四十章の理解に役立つように思う。

 結局は、前回取りあげた般若心経の「色即是空」と同じように、一見反して見えるものが決して相容れない存在ではなく、「弱さ」「無」「死」というものが「強さ」「有」「生」と表裏一体なのだということを伝えているのだと思う。

 タオ の目指す神仙とは、ワイヤーワークのごとく空飛ぶ超能力者ではなく、いわばゴータマ・シッタールダのごとく解脱して道を悟り彼岸に至った存在、超人であり、そんな存在に至るには、鍛えて鍛えて強くなるプラスのベクトルだけを求めていては到達できないのだ、そんなことをいいたいのではないかと、ぼんやりと思う。

 こちらは、神仙どころか通常の社会的勝者になる街道からもとっくに脱落している身だ。だから、「ぼんやりと思う」などど人ごとのように思っている。とはいえ、「こんなに頑張っているのに、なぜ勝者になれない?!」と苦しんでいる人から見れば、自らの弱さを受け入れて生きていることが、生きやすさにつながっているのではないかと思う。
 

 (初出:2019年3月 書き下ろし) 

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『Calling All Dawns』(3)Dao Zai Fan Ye
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Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ(2)窓の向こう、四季の移ろい


クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の二作目です。

第二曲は『Mado Kara Mieru』使われている言語は日本語です。


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心の黎明をめぐるあれこれ
(2)窓の向こう、四季の移ろい
 related to “Mado Kara Mieru”


 前書きでも触れたように、クリストファー・ティンのアルバム『Calling All Dawns』を知ったきっかけは、南アフリカのラジオ放送局でかけた、第二曲『Mado Kara Mieru』だった。

 きちんとした日本語に聞こえたので調べてみたら、日本の歌手が数人参加して歌っている。声優としても活躍している方のようで、少女のように歌ったり、成年女性のように歌ったりと、表現の幅がとても広い。四季の移ろいと人生を重ねて、俳句から選んだ歌詞は馴染みがあると同時に、ある種の驚きもあった。

 俳句は海外でも広く紹介され、欧米の言語で俳句を作る試みもある。もちろん本来の五七五・十七文字で表現することは、ヨーロッパの言語では不可能だと思う。ここまで簡素でありながら、かほど多くを表現できることが、驚きと共に受け入れられているのだが、おそらくそれは同様に欧米でもある種のブームになっている禅思想との共通点を感じさせるからではないかと考えている。

 題名であり歌詞にも繰り返し現れる「窓から見える」という言葉は、おそらく普通の窓のことではないだろう。もちろん、普通の窓からも四季折々の光景は見える。けれど、外国の人がわざわざ言及するとしたら、たぶん日本家屋の障子窓や雪見窓、もしくは禅寺の「悟りの窓」のような丸窓を意識しているだろう。それこそ、日本の観光旅行パンフレットにあるように。

 調度のほとんどない部屋に窓がある。外には自然そのままにみえて計算し尽くされた庭がある。春は桜の花片が静かに舞い、夏は眩しい新緑が萌える。秋は紅葉に照らされ、冬は雪の静寂を聴く。窓から覗く世界の美しさは、同時に哲学的だ。

 私は小説『樋水龍神縁起』を四部に分けて、それぞれを季節と四神相応に対応させて書いたのだが、この作品をつなぐテーマが般若心経の私的解釈だった。

 般若心経すなわち魔訶般若波羅蜜多心経は、禅の思想の中心にあるといってもいい。サンスクリット語の音訳である題名そのものが示すように、『彼岸に至る大いなる叡智』に関する教えを説いているが、それはつまり、意味もわからずに唱えることを想定したものではない。教えを理解してこそ意味がある。

 話は少しそれるが、キリスト教でかつてはラテン語だけが使われていた典礼を各国語で行うことも同じ意味があると思う。世界にあるどの信仰であっても、この世のクラブへの参加や何とか会員権の購入とは違う。共同体に属しているかどうか、決められた行為を繰り返すかだけではなく、対峙する心が重要なのだと思う。

 話を戻すが、禅または般若心経を理解するのは決して容易ではない。つまりまるで言葉の遊びのように感じるではないか。「色即是空 空即是色」有名なこの八文字ですら、理解がとても難しい。解釈の一例として「形のあるものは常に移ろい消えゆくものだが、その移ろいやすく消えやすいものもまた確かな存在なのだ」と言うものがある。「空=0」「色=1」と考えてしまうと数式(0=1)として間違いになる。けれど、たとえば人間の身体に喩えてみれば真だとわかる。私の細胞は常に死滅と誕生を繰り返し、子供の頃からずっと存在し続けている全く同じ私ではない(空)が、それでも私は子供の頃から一人の同じ確固たる存在(色)だと感じ続けている。

 では、私とはなんだろうか。脳細胞シナプス信号の見せている幻覚だろうか。では、私がコンビュータの0と1だけを本人が意識しないままに書き綴り公開している小説も、幻覚の余波だろうか。では、それを読んでいる人が書いてくれる感想も? 私はそんなことは思わない。私は存在し、私の思考と小説も存在し、読者も存在する。日々入れ替わる細胞の見せている幻覚などではない。

 そして私が対峙している世界とはなんであろうか。朝に降った雪は、もう消えている。そして、次に降る雪とは同じ物ではない。去年降った雪とも。けれど、それは雪であり、冬だ。移ろい消えていく物でも、確かに再び同じ(そして決して同じではない)形態で再び現れる。

 わたしが『窓から見える』という言葉から連想するのは、禅宗の『悟りの窓』から眺める世界で、おそらくこうした景色だ。それは美しいだけでなく、時に厳しく、時に慰めとなる景色だ。

 この曲『Mado Kara Mieru」には印象的なリフレインが挿入されている。

余命 いくばくかある
今宵はかなし 命短し



 単なる四季を歌ったものではなく、時の移ろい、すなわち人の一生を追った選歌になっているようだ。もちろん、冬の歌として選ばれた正岡子規は老衰で亡くなったのではないが、歌詞と季節から想起されるのは、老いて死んでいく人の一生だ。

 若く健康で青春を満喫している人には、たとえぱ十代だった頃の私には、このフレーズは他人事だ。知らなかったわけではないし、むしろ憧れていた節もあるが、それはすなわち自分がそれとは対極の位置にいることを知っていたからだろう。今風に言えば「厨二病」とでも表現する感覚だろうか。明日の命もしれぬ儚いヒロインのイメージは、それほどまでに当時の私とはかけ離れていた。

 いま私は相変わらず儚い美女とはかけ離れているものの、「余命いくばくかある」は他人事ではなくて実感に近い言葉になっている。もちろん明日や明後日だとは思いたくないし、なんらかの健康問題を抱えているわけでもないので、正岡子規らの心持ちとは違うし「命短し恋せよ乙女」の「命短し」とも意味合いは違う。

 とはいえ、人生を春夏秋冬に喩えたなら、どうジタバタしても夏までは通り過ぎて秋には到達してしまった身だ。さらにジャネーの法則(「生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢に反比例する」)に対して激しく頭を振って肯定したいくらい、ここ十年ほど時間のスピードが加速しているので、これからどれほど長生きできても、それはきっと一瞬のように感じるに違いないと思う。

 本当に般若心経の説く「悟り」の境地に達していれば、余命がどれほどであろうと心安らかにいられるであろうが、こちらはまだ十分に迷っている未熟者。どちらかというと「全く宿題に手をつけないまま、現在が八月二十日過ぎであることを突如認識した小学生」のような焦りを抱えている。

 そんな中途半端な状態ではあるが、たとえば日本旅行の折に、典型的な庭園を望むお寺の一室に座るような機会があると、四季折々の光景に人生を重ね合わせて想いを馳せている自分にも氣付く。これはきっと日本の伝統的な思考回路であり、更にいうと何世紀も前から日本に住む年齢を重ねた人々が感じてきたことなのではないかと思う。

 なぜそんなことを考えるかというと、スイスで二十年近く見慣れた秋や冬の光景を見ても、日本のそれほど人生の春秋と重ね合わせることがないからだ。これは奇妙なことだ。めぐる月日も、自然の移ろいも国に関係ないからだ。感覚を日本の文化に重ね合わせるときだけ、人生のあれこれが想起される。

 だからこそ、日本人ではなく中華系アメリカ人であるクリストファー・ティンが、このアルバムで二曲目に選んだ言語と思想の組み合わせに感心する。

 禅の思想も、多くの日本人が抱える四季に関するノスタルジーも、俳句の組み立ても、他の言語と文化で育った者が理解するのは非常に難しいと思う。それらは、翻訳では理解できないし、言葉の意味がわかる人に説明するのも非常に難しい。

 世界の多くの文化では、空間をひたすら細かく埋め豪奢に飾り立てるほど価値が増すと考える傾向がある。ユネスコ世界遺産に指定された多くの建造物は、大きく豪華で、さらに隙間なく飾り立てられている。アルハンブラ宮殿しかり、アンコールワットしかり、ベルサイユ宮殿しかり。だが、禅寺の「悟りの窓」のあるような空間は、それとはありかたのベクトルが正反対だ。畳と窓。装飾は皆無と言えるまでに抑えられ、窓の向こうに見える自然だけが鮮やかに何かを訴えかけている。驚異と威厳を永久に留めようとはせず、反対に「諸行無常」であることを見せつけるのだ。

 私の知り合いのスイス人は、写真で見た日本の八重桜に憧れて庭に植えたが、花びらがやたらと散ることに我慢がならず数年で伐ってしまった。桜の醍醐味は「散ること」だと考えていた私には斬新な発想だったが、散り際に大きな意味を見いだしている民族の方が特異なことはいうまでもない。

 散る桜に儚さを感じ、霞みかかる月を見上げる。そこで感じる無量の想いは、過去の誰かが積み重ねてきた歴史や文学にも影響を受けている。ある君主が辞世の句に詠んだ故事や、百人一首で親しんだ有名な歌、ティーンエイジャーのころに熱中していた上代を題材としたマンガに描かれていた情緒。その積み重ねが、同じ自然現象に違う感情を抱かせている、私はそう思う。

 もう一つ例を挙げる。柳は日本だけでなく、ヨーロッパにもある。しかし、柳の下でどことなく落ち着かない想いをするのは、日本だけなのだ。ごく普通の柳の下に、幽霊がいないことを私は知っている。それは、日本であろうとヨーロッパであろうと関係ないことも。にもかかわらず、日本で柳の下にいるときだけ、なんともいえぬおちつかなさを感じるのは、やはりあの水墨画のおそろしい幽霊図を見慣れてしまったからではないかと思う。

 スイスやヨーロッパの多くの国で、美しい紅葉があり、春の素晴らしい花の光景がある。それぞれの風景に感動し、何度も訪れたいと思う一方で、いつも不思議に思うことがある。美しい日本の春の光景、秋の光景を眺めるときと、心に押し寄せる感情の種類が違うのだ。それは夏に蝉時雨を聞きながら緑の中を歩くときや、冬の雪景色を見るときも同様だ。日本の光景は、私の心につよい郷愁を呼び起こす。

 一番近い端的な表現は『哀しみ』かもしれない。それとも『悼み』だろうか。

 それらの感情は、私の経験に基づくものとは思えない。人生の三分の一以上の経験を、日本以外でしてきているのだ。明らかに、光彩を通して物理的にではなく、日本または日本文化という心理フィルターを通して、光景を見ている……つまり『窓から見て』いるのだろう。

 日本の四季を日本人としての『窓』から覗いて見るときにあらわれる特別な感情は、時代と世代を超えて私の中に息づくものだ。明らかに私ではない過去の誰かの哀しみや悼みを感じ、もはや存在していない細胞のシグナルの続きを受信し発信し続ける『色即是空』の世界。たとえ私の余命がわずかでも、窓から見える世界は永遠なのだと思う。
 
(初出:2020年2月 書き下ろし)

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心の黎明をめぐるあれこれ(1)み旨の天に行われるごとく

前書きでも書きましたが、今年の『十二ヶ月の●●』はクリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作の形を取ります。また例年と違い、連番は発表する月とは関係なく、単純にアルバムの曲順です。

第一曲は『Baba Yetu』使われている言語はスワヒリ語(ケニアの公用語)です。


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心の黎明をめぐるあれこれ
(1)み旨の天に行われるごとく
 related to “Baba Yetu”


 1996年、私は正社員として勤めていた百貨店を退職し、ケニアへと旅立った。特にはっきりとした計画がなかったにもかかわらず、私はそれを無謀だとは思っていなかった。当時、バブルはとっくにはじけていたけれど、日本社会にはまだ今ほどの閉塞感はなかったし、戻ってきてからも何らかの形で食べていくことは可能だろうと、妙に楽観的な感覚を持っていた。

 当時の私は、生き方に迷っていた。といっても、若きウェルテルのように真剣に悩んでいたわけではなく、むしろ「どことない違和感を持て余している」程度のつかみ所のない迷い方をしていた。「これこそが私の生きる道」とわかっている人は、その道に至る方向転換をしてズンズン進んでいけばいいだけだが、「ここではないように思う」という迷い方をしていると、どちらに向かって歩み出せばいいのかわからない。

 そんな時に出会ったいくつかの書籍は、私の進むべき道を照らしているように思った。実際には具体的に示していたわけではなかったが、後から考えると今思う「これでいいのかもしれない」道にそのいくつかの書籍は最短距離で導いてくれたように思う。

 そう思うに至った不思議な符号のいくつかをここで説明していると、いつまで経っても本題に入れないので、それはまたいつか別の機会で書くことにする。

 ともあれ、私のアフリカ行きの水先案内人となったのは、当時夢中になっていた科学者ライアル・ワトソンの著作だった。彼が「科学の淡い淵ソフトエッジ 」と表現した不思議な事々は、おそらく今のネット社会では「エセ科学」のひと言で片付けられるものかもしれない、もしくはオカルトの領域に押し込められることかもしれない。

 けれど、その彼の思想は、私の中のこの世界に対する違和感に大きな指針を与えてくれた。私の生き方や考え方、何かを選び取るときの基準、それに世界との接し方の根本に彼の思想や示してくれた事柄が影響している。

 私がアフリカに旅発ったのは、たぶん彼の思想を体感したかったからだ。それもお膳立てされた体験スクールという安全で楽な方法で。実際には、その滞在期間に経験したことよりも、その後に自分自身で経験したことの方がずっと彼の思想の理解に役立った。

 その体験スクールでは、マサイマラ国立公園とアンボセリ国立公園に合わせて一ヶ月ほど滞在した。そして、その後に一人で三週間ほどアフリカ大陸を旅して回った。

 最初に学んだのは、精神世界がどうのこうのというレベルではなく、彼の地では日本で馴染んでいた生活や考え方が全く通用しないことだった。日本がどうとか、海外がどうとか語る以前に、私は無能な井の中の蛙だったのだ。

 大学名や、どこに住んでいるか、いわゆる常識と思っていた考え方と行動様式は、東京を離れると同時に全く役に立たなくなり、私はろくに意思疎通もできず、平べったい顔をした手に職もなく肉体的能力も劣ったつまらない女でしかなかった。

 ところでそのスクーリングでは、常駐しているはずの「通訳」がその役目を果たせないことが明らかになった。私もまた、一度も海外で暮らしたことのない多くの日本人同様、学校では何年も学んだくせに全く話せないレベルでありながら、日々英語で意思疎通を図る必要に迫られた。その時の「意思を伝え合うために」する根本的な努力は、その後に出会った多くの人びととの相互理解に大いに役立った。

 時には日本人の講師がやって来たり、片言の日本語の話せるケニア人スタッフもいて、その助けもあって馴染んだこともあり、受け身だった参加者は徐々に主体的に学ぶ姿勢を身につけていった。そもそも全てが新しい体験だった。未知の土地を知り、別の民族に属する人と出会い、食べたことのなかったものを食べ、全く違う価値観に触れた。

 レストランではなくて、スタッフの住居区画に案内されて、ベランダで山羊をまるごと焼くパーティをしてもらったこともある。焦げて塩の味しかしないニャマチョマと味の薄いウガリには、レストランで見かけた数匹程度ではなく大量のハエがたかっていた。が、私たちのために大がかりな準備をしてくれたことを思い、キクユ族の青年に感謝して食べた。

 アフリカで、「普通なら」の「普通」が、日本以外では通用しないことを知った。

 レストランに数匹のハエがいたと騒いでも意味がない。高級ホテルというのは「電気や水が潤沢にある場所」ではない。「従業員はお客様にたいする礼儀をわきまえるべき」と考えている人たちがどこにでもいるわけではない。

 水や電気が途絶え、紙幣が価値を失い、誠実さや努力と誤魔化しや欺瞞が同居することを理解し、一人で上手くやっていくことは不可能だと痛感した。

 お金があっても、何かを売っている場所がなければ欲しいものを買うことはできない。その一方で道ばたに生えている雑草が、私たちがスーパーマーケットで購入するしかない日用品の代わりに使われていることも、自分と世界の関わりを深く考えるきっかけになった。

 限りある資源を有用に活用しているのはどの社会だろうか。何をもって私たちは「上の」または「下の」と文明や社会を評価しているのだろうか。そんなことをよく考えた。

 遊んだり学んだりする以前に働かなくてはいけない境遇に属する幼い子供も珍しくない。両親をHIVで失った少女は、赤子の弟を背負って10キロ先の小学校への往復をし、その後に祖母を手伝い煮炊きをしていた。

 サバンナの真ん中では、トムソンガゼルが目の前で出産をはじめた。もしその数十分の間に肉食動物がやってくれば親子共に終わりだという瞬間を見守った。彼らを保護することは許されない。

 愛らしい生き物だけに生きる権利があるわけではない。アニメーション映画ではずるい悪役である生き物もまた、同じ大地で平等に生と死の営みを繰り返しているだけだ。

 同様に、ティッシュを無限に使い散らし、水を無駄に垂れ流しながら語る環境問題も、愛らしい動物だけに寄付金を贈る野生動物保護もまた偽善か自己満足でしかないという現実にも向き合った。

 世界は広く、人間は霊長でも何でもなく、技術は自然に打ち勝つことはできず、文明の定義は曖昧だった。

 彼の地で、私は自分にとっての信仰の意味を感じるようになった。そう、頭で考えるのではなく、肌で感じたのだ。

 私はカトリックの家庭で育ち、少なくとも小学校の四五年生くらいまでは、信仰に全く疑いを持っていなかった。けれど、子供たちがサンタクロースの存在に疑問を持つように、大きくなりある種の知恵が増えてくるに従い、子供の頃に信じていたような形の信仰は姿を消していった。歴史を学び、免罪符に象徴される腐敗の話や、血なまぐさい争いの歴史を知り、神の名の下に行われた多くの殺戮のことを知り、自らがいくら告解しても追いつかないほどの罪を重ね、他の多くの宗教のことを知り、宗教はどちらかというと一種の文化のように解釈して自分の良心との折り合いをつけていた。

 子供の頃、聖書と共に教えられた「主の祈り」は、権威があり絶対的な祈りだったが、私の中に実感として息づいていたわけではなかった。

天にまします我らの父よ 
願わくばはみ名の尊まれんことを み国の来たらんことを
み旨の天に行わるるごとく、地にも行われんことを
我らの日用の糧を 今日我らに与えたまえ
我らが人に許すごとく 我らの罪を許したまえ
我らを試みに引きたまわざれ 我らを悪より救いたまえ


 ケニアは、イスラム教の影響が強く、街の至る所にアラビア文字が見える。スワヒリ語の語彙の多くにアラビア語からの借用が見えるほどその影響は強い。だから、はじめて「Baba Yetu」を聴き、この歌がキリスト教の「主の祈り」だと知ったときには小さな違和感があった。この作曲者は、どうして主の祈りをわざわざスワヒリ語で歌わせて、ゲームの主題歌にしたのだろうと。

 けれど、私自身のアフリカでの体験と重ねてこの曲を聴くと、この組み合わせはラテン語で歌わせるよりもずっと魂に訴えかけるように思う。少なくとも、アフリカの地では一度も教会にあたるところに行かなかったにもかかわらず、私はいつも日本では感じたこともなかった謙虚な想い、帰依としか表現しようのない想いを持っていた。

 それは、アフリカで見たこと感じたことの多くが、技術や文明や人間の意思ではどうにもならないことだったからではないかと推測している。

 ケニアを舞台にした小説『郷愁の丘』では、宗教観を感じさせる記述は極力避けて書いたのだが、それでも主人公がサバンナのもっとも印象的な光景に出会ったときの記述には、感覚が信仰に近づく曖昧な瞬間をひと言だけ紛れ込ませた。

 快適な部屋の中でスクリーンに向かってゲームをしながら、スワヒリ語の『主の祈り』を聴いても、何かが変わるほどの強烈な感情や思想の変革は起こらないだろう。リセットすることもできず、課金することもできない世界で、残酷とも思える生と死の営みを他人事ではなく目撃し、自らの小ささを痛感することは、ゲームを楽しむこととは全く相容れないのだから。

 アフリカに行かなければ、感じることのできない世界だと言うつもりはない。反対に言えば、アフリカに行っても、その様な心境に至らない人も多いだろう。単純に、私にとって、スワヒリ語と『主の祈り』の組み合わせがちょうど過去の体験と重なっただけだ。
 
 もしかしたら、はるか昔、水道も電気も一般家庭に届いて折らず、抗生物質も健康保険も存在していなかった頃、もちろん魔法やチート設定なども存在しない頃には、祈りは今よりもずっと意味のある行為だったのかもしれない。


(初出:2020年1月 書き下ろし)

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『Calling All Dawns』(1)Baba Yetuの歌詞 英訳可能



【さらに追記】
やはりこの曲だけはこっちの方が好きなので、貼り付けておきます。

Baba Yetu (The Lord's Prayer in Swahili)-Alex Boyé, BYU Men's Chorus & Philharmonic; Christopher Tin
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Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ 前書き

 毎年書いている『十二ヶ月の●●』シリーズは、テーマを決めての短編集でしたが、今年は趣向を変えてエッセイを書いてみることにしました。「野菜」や「アクセサリー」といったテーマに沿って書いた小説群を踏襲することも考えたのですが、昨年であった一つの音楽アルバムに沿って、私の人生哲学をゆるく辿ることにしました。

 そのアルバムとは、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』です。

 もともとゲームの主題歌として作曲された第一曲"BABA YETU”を含めた十二の言語と文化で昼から夜、そして夜明けまでを表現していく時間と思想の旅のようなアルバムで、ゲーム音楽としてははじめてのグラミー賞も取っています。

 とはいえ、ゲームにはとことん疎い私ですのでリアルタイムでは全く知りませんでしたし、『Civilization』というゲームがどれほどプレイされているのかも知りませんでした。すみません。

 そもそも”BABA YETU”もオリジナルではなくて、アレックス・ボエの歌うカバーバージョンの方を先に買ったくらいですし。そう、「郷愁の丘」でアフリカシーンを書くときにBGMにしていたんですね。

 アルバム『Calling All Dawns』を買うきっかけとなったのは、2曲目の「窓から見える」でした。実は、南アフリカ共和国のラジオチャンネルで、この曲が流れたんですよ。「日本語だ!」と驚いて調べたら、このアルバムにたどり着いたというわけです。そして、四曲目を歌っているのが私の大好きなポルトガル人歌手ドゥルス・ポンテスだと氣付いた時点で、 iTunesストアでアルバム全体をダウンロードして買いました。

 そして、聴いているうちにそれぞれの歌詞の意味が知りたくなり、知れば知るほど内容に惹かれ、ずるずるとこのアルバムの虜になったというわけです。

 という個人的な事情はさておき、スワヒリ語、日本語、中国語、ポルトガル語、フランス語、ラテン語、アイルランド語、ポーランド語、ヘブライ語、ペルシャ語、サンスクリット語、そしてマオリ語と、選ばれた十二の言語は、私が人生の中で興味を持った文化圏とほぼ一致(ケチュア語がないのは残念だけれど)していました。そして、その歌詞の(選ばれた思想の)深いこと。

 一度は、記事で普通に触れようかと思ったのですけれど、それだけでは伝わらないなと思い、せっかくなのでエッセイ集として一つの作品にし、私の脳内を旅してみることにしました。

「心の黎明をめぐるあれこれ」月に一度の更新ですが、よろしくお願いします。

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