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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】モンマルトルに帰りて

scriviamo!


今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第8弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった 『ソリチュード ~La Route semée d’étoiles~』 

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、古事記と日本書紀に見える衣通姫伝説を下敷きにした古代ミステリー『挿頭の花 -衣通姫伝説外伝- 』。もともとの記紀にある人物がみなさんアレなので、もちろんものすごい展開なのですが、そのシチュエーションの中で胸キュンの純愛を織り込むという離れ業に感心しながらドキドキ読ませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。

さて、『花心一会』ワールドの若い(むしろ若すぎる)家元誕生の成り行きが明かされた今回のお話、ストーリーからいったら当然のことながら華道に対する知識がとても大切なポイントになっているのですよ。お返しを書き始めて困ったのがこれでした。私、全然わかっていない……。

なのにあえて火中の栗を拾いにいってしまいました。以前ヒロインの方のお家元がたった1人のために生ける『花心一会』をなさる様子を勝手に書かせていただいたことがあるのですが、今回はお母様にも無理やりです。ああ、玉砕しそうな予感。でも、レネがメインだから、逃げ切れるかな……。うう、ごめんなさい。


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【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物

大道芸人たち・外伝




大道芸人たち・外伝
モンマルトルに帰りて
——Special thanks to TOM−F-san


「やっぱり迷惑なんじゃないかなあ……」
「いや、連絡したときにはそんな感じじゃなかったって」

 ここに来るまでに、3回は繰り返した問答を、レネと稔はもう1度した。稔は、つい1週間ほど前に訪れたアトリエの呼び鈴を鳴らした。

 中から現れた水無瀬愛里紗みなせありさは、涼しやかな微笑みで2人を中に招き入れた。

 今日の装いは落ち着いた紫の絞り小紋に、蒲公英の柄が微笑ましい濃い緑の名古屋帯。この色の組み合わせは早蕨襲、春を感じさせる。そうか。もう3月になったんだっけ。

「お忙しいのに、無理なお願いを聞き遂げてくださり感謝します。彼が、電話で話したレネ・ロウレンヴィルです」
「マダム・ミナセ、はじめまして。どうぞよろしく」
「どうぞよろしく。そんなに恐縮しないでくださいね」

 そこは、パリの真ん中にあるというのに、東京以上に日本を感じさせる空間だ。

 日本ブームがヨーロッパに広がってから、各地でそれらしい和室を目にしてきたが、畳が正方形だったり、障子の桟が白く塗られた合板だったりと、どこか「なんちゃって」感を否めない和室が多かった。そうした和室は、スーパーで売られる「SUSHI」と同じ香りがした。サーモンとアボカド、またはやけに鮮やかなトビコの安っぽさを眺める度に、「日本はそこまで近くはない」と感じ、かつ自分の方が日本を知っているのだとつまらない自負心を満足させるのだ。

 だが、このアトリエには、稔が逆立ちしても叶わない日本文化の真髄が感じられた。

 小上がりの座敷には、きちんとした炉が切られている。窓はわざわざ円窓にしてある。

 この部屋を維持するのがいかに大変か、稔はよく知っている。日本にいれば電話一本で畳屋が来てくれるし、障子が破けてもホームセンターに行けば簡単に新しい障子紙を購入できる。梅や桃、桜や椿などもさほど苦労せずに入手できるだろう。極上の茶や主菓子も同様だ。

 だが、ヨーロッパで、これだけの完璧な日本を維持するのは、並大抵のことではない。もちろんパリは大都会なので、日本人のネットワークを使えばそれは可能だろう。でも、この人は、日本人会などで同国人と固まっているタイプには見えない。まあ、俺には関係ないけれど……。

 煎茶とともに小ぶりの大福餅が出てきた。和菓子の大好きなレネの顔が喜びに輝いたのを見て、稔は「本題を忘れるなよ」の意味を込めて肘で小さくつついた。

「それで、私に作ってほしいというのは?」
本題は、彼女の方から切り出してくれた。

「先日、ここにお伺いした日に、水無瀬さんのことを特別な人のための特別な花を生けるプロだって説明したんです。そしたら、彼が花をお願いできないかって……。ただ、俺はうまく訳せなくて英語でフラワーアレンジメントって言ってしまったので、生け花との違いも説明していただけると助かります」
そう言って稔は、レネに顔で続きを促した。

「ある女性のためにブーケかアレンジメントを作っていただけませんか」
レネが頼んだとき、愛里紗の顔にはなんとも微妙な表情が浮かんだ。おそらくそれは、この異国で先入観と無知に彼女の華道がフラワーアレンジメントと混同されたときの一瞬の抵抗なのかもしれないと、稔は思った。

 愛里紗は、けれど、レネの頼みを簡単に断るようなことはしなかった。
「大切な女性への花なのかしら?」

「はい」
稔は「ふうん」という顔をした。ヤスミンはここに来ていないとはいえ、義理堅く一途なブラン・ベックがわざわざ特別な花をねぇ。

「承るかどうかを決める前に、どんな目的なのかを訊いても差し支えないかしら?」
愛里紗は、英語で話し続けている。レネとだったらフランス語で会話した方が早いだろうに、稔が同席しているのでそうしているのだろう。

「もちろんです。僕はここにいるヤスたちと出会って大道芸人として暮らし出す前は、ここパリで暮らしていました。その時に出会った女性です」
レネはゆっくりと語り出した。

 レネにとって、パリの日々にはつらい記憶が多い。手品師の専門学校を終えて希望を持って花の都に上がってきたものの、ショーの花型になるどころかまともな稼ぎを得ることすら難しかった。

 モンマルトル界隈のナイトクラブを転々として、はじめはホールスタッフと変わらぬ扱いを受けた。ようやく前座としてマジックショーを披露できるようになるまでは数年かかり、その間にもいろいろな人に利用されたり出し抜かれたりしながら、いつかは手品だけで食べていける日を夢見て暮らしていた。

 恋もした。もともとはホールスタッフとして勤めだしたジョセフィーヌが、レネのアシスタントとして一緒にショーに出演することになってからは、彼女に夢中になった。

 ええっ。その女かよ。稔は話を聞きながらぎょっとした。そいつ、ライバルに寝取られた同棲相手だろ?

「お花を贈りたいのは、その方?」
愛里紗が、口をはさむと、レネは首を振った。

「違います。彼女に、僕は夢中だったけれど、ジョセフィーヌはこの街で僕の味方になってくれた人ではなかった。それはエマだけだったと、今になって思うんです」

「エマ?」
稔は思わず訊いた。一度も聞いたことのない名前だったから。

 レネは、頷いて彼のパリでの物語を続けた。

 ムーラン・ルージュをはさんで、レネの勤めるナイトクラブとちょうど反対ぐらいの距離に小さい煙草屋があった。そこには店の染みのような小さな老婆がいて、いつもなにかに対して文句を言っていた。

「この頃の政治家ってのはなってないね。きれいな顔をして偽善的なことを口にすればまた当選するとでも思っているのかね」
「あんたの横柄な態度になぜこのあたしが我慢しなくちゃいけないのさ。嫌なら2度とこの店に足を踏み入れなければ良いだろ」
「あんたは母国がサッカーに負けたからって、周り中に当たり散らす権利なんかないんだよ」
「禁煙がトレンドだって? ひとの商売の衰退をわざわざ告げに来るとはいいご身分だね」

 それがエマだった。

 レネは煙草の類いは何も嗜まないので、この店に入るときはチョコレートを買うときだけだった。他の店にはない故郷プロヴァンスの小さな工場で作っている銘柄がこの店にはあったのだ。

 レネにとって忘れられない思い出がある。

 それは、パリを去った夏のことだ。ナイトクラブからクビを言い渡されたレネは、とぼとぼと帰り道を歩きながら、故郷の懐かしいチョコレートで心を慰めようとエマの煙草屋に入った。

 レネは、思わず涙をこぼした。今日の午後、買い物から帰ってアパルトマンのドアを開けたら、なぜか同じナイトクラブで働くラウールが、ジョセフィーヌとベッドの上にいた。それだけでもショックなのに、出勤した途端にオーナーから彼のマジックショーは、今後ラウールとジョセフィーヌがやるのでお前はもう来なくてもいいと宣告されてしまったのだ。

 自分の要領がよくないことはわかっていた。ラウールが優れた容姿で客たちから人氣があることもわかっていた。でも、真面目に精一杯生きてきたのに、こんな風に何もかも取りあげられたのかと思うと、やるせなくて涙が止まらない。

 エマは「商売の邪魔になるから泣くな」などとはいわなかった。レネが落ち着くまで待って、話を聞いてくれた。今になって思えば、この街で、レネが自分の弱さや悲しみを吐露できたのは、これが初めてだった。

「あの雌狐なら、そのくらいのことをしても不思議じゃないと思うね。だから何度もいっただろ。あの娘には温かい血が流れていないって。あんたがこのチョコを勧めたとき、小馬鹿にしてそっちの大量生産のチョコをわざわざ買ったことがあったよね。人の思い出を踏みにじるようなヤツは、どんなに見かけがよくても中身は爬虫類と一緒だ」

 レネは、それを聞いてよけい強く泣いた。ジョセフィーヌが、彼の故郷のあらゆる物を馬鹿にしていたことを思いだした。見下されていたのは彼の生まれ故郷ではなくて、彼自身でもあったのだと思うと情けなくて逃げたしたかった。

「仕事も恋人もなくなって、僕はどうしたらいいんだろう」
また1からこの街で手品をやらせてくれる場を探すかと思うと、レネは心から途方に暮れた。

 エマは冷徹にも思える調子で言い放った。
「そもそもこの街はあんたみたいな弱くて純なヤツには向いていないんだよ。ここを離れるのが一番だ」

 レネは言葉を失った。ようやくパリに慣れてきたと思ったのに。少し間を置くと、おずおずと言った。
「でも、どこにいったら……?」

 エマは、少し温かく思える調子に変えてゆっくりと言った。
「南へお行き。あんたの故郷のプロヴァンスでも、もっと南の地中海でも、どこでもいい。ただし、ニースみたいなスノッブでおかしな人間の集まるところに行っちゃダメだ。広くて、大地に足をつけて人びとが助け合いながら生きている土地に行くんだ。最初にいったところにはいなくても、どこかには必ずいる。それを探すんだね。あんたの正直で優しい心持ちを大切にしてくれる輩がね。それを見つけたら、それがあんたのいるべき土地さ」

 稔は、思わずレネの顔を見た。レネは、稔の目を見返して、はにかみながら笑った。

「その通りになったのね」
愛里紗が問う。

「はい。僕は、コルシカでこのヤスに会いました。それから、他の生涯の友達にも」

 エマの直接的でお節介なアドバイスが、あの時レネをコルシカ島に向かわせた。悲しみに押し潰れることなく、新しい人生を探すための必要な背中のひと押しをしてくれたのは、店の染みのような小さな老婆だった。

「わかったわ。その方へ捧げるお花、ぜひ私に作らせてちょうだい」
愛里紗が微笑んだ。

「ありがとうございます、マダム」
レネが前のめりで礼を言う。

「でも、1つだけ確認したいの。西洋で作るいわゆるフラワーアレンジメントは、全方向から見られることを意識して作るものだけれど、日本の生け花というのは、たった一つの方向から見ることを想定してデザインするものなの。その方がどのように受け取るかのシチュエーションは決まっていたら教えてほしいわ」
愛里紗が訊くと、レネははっとして、1度下を見てからふたたび愛里紗の目を見据えた。

「正面は……どういえばいいのか。墓石の上に載せるので……。彼女はモンマルトル墓地に眠っているそうですから」
その言葉に、稔と愛里紗が同時に息を飲んだ。

* * *


「エマ・マリー・プレボワ ここに眠る」
小さな墓石は、必死で探さないと見過ごしてしまいそうだった。エドガー・ドガ、モーリス・ユトリロ、エミール・ゾラ、アレクサンドル・デュマといった錚々たる有名人の墓は大きく立派だが、そのモンマルトル墓地には、地域の一般人も埋葬される。

 まだ、春といっても早いので、陽光は弱く柔らかい。周りの木々には膨らんだ芽はあるが若葉が現れるにはまだしばらくかかるだろう。

「お。来た来た」
稔が手を振ると、かなり向こうから蝶子とヴィルがこちらに向かってくる。

「ごめん。私たちが先につくぐらいだと思ったのに」
「探していた墓は、見つかったのか? ランパルだっけ?」
「ええ。せっかくここに来るんなら、お詣りしたくてね」

 フルートの名手であったジャン・ピエール・ランパルも、モンマルトル墓地に眠っている。そういえば、ブラン・ベックはハイネの墓の場所を探していたから、後でそこに行くんだろうな、と思った。

「それが、例の日本人に作ってもらった花か」
ヴィルが珍しく明らかに感銘を受けたとわかる顔つきで訊いたので、稔はそうだろうなと思った。

 レネは頷いた。手にしているのは半球型に盛られた、花かごだった。といっても花器として使われている籠は苔山で覆われほとんど見えない工夫がしてあり、まるで何もないところに偶然にも木や草花が育ったかのように見える。

 1度左に向かってから弓なりに右に向かう盆栽のような枝振りの木はミモザだ。黄色い花が力強く明るく咲いている。そして、根元に絶妙なバランスでいけられたのは、フランス人のこよなく愛する『田舎風シャンペトルブーケ』でよく使われるカヤ、ユーカリ、コバングサなどだ。それらとともに、薄紫と若緑の野の花を思わせる花々が絶妙なバランスで配置されている。

 レネがその籠を墓石の上に置くと、まるで彼女の墓から草花が遅い春を待てずに萌えだしたかに見えた。

「すごいわね。ここまでフランスっぽい素材だけを使っているのに、これはフラワーアレンジメントじゃなくって華道だってわかるように作れるものなのね……」
蝶子が感心してつぶやいた。

 亡き人を悼む草花は弱い風にそよいでいる。

 レネは、眼鏡を取ると涙を拭った。エマの声が蘇ってくる。
「くよくよするんじゃないよ。あんたが悪いんじゃない。今のめぐり合わせとの相性が悪いだけさ。あんたにふさわしい居場所はきっとあるからね」

(初出:2023年3月 書き下ろし)
関連記事 (Category: scriviamo! 2023)
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Category : scriviamo! 2023
Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】再告白計画、またはさらなるカオス

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第1弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化している『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。

最近、つーちゃん&ムツリくんの方に関心が向かいがちなので、強引にアーちゃんの恋路に話題を戻そうとしましたが、なんだかもっとカオスになってしまいました。あはははは。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私が書いた『やっかいなことになる予感』
ダメ子さんの『疑惑』

私の作品は以下のリンクからまとめ読みできます。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ

「scriviamo! 2023」について
「scriviamo! 2023」の作品を全部読む
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



再告白計画、またはさらなるカオス - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 びっくりした。どこかに行ったかと思ったら、帰ってきたアーちゃんが、とんでもないことを言い出すんだもの。

「ねえ、つーちゃん。もしかして、ムツリ先輩に強引に迫られちゃったの?」

 私は一瞬絶句。氣を取り直してこういうのが精一杯だった。
「何わけのわからないこといっているの? そんなわけないでしょ」

「でも、つーちゃん、ずっとため息ついているよ。何かあったのかなって」
そう言われて、ドキッとした。私、ため息なんてついていたっけ。

「そ、そうかな? それに、どこからムツリ先輩……?」
ダメだこりゃ。我ながら狼狽えすぎ。これじゃ、誤解されてもしかたないかも。アーちゃんは、ますます疑い深い顔になっている。違うってば。

 そもそも「モテ先輩の彼女になるためにチャラ先輩を使って暗躍している」という噂が広まって、アーちゃんが女の先輩たちに睨まれている件をなんとかしようとして、ムツリ先輩に相談をしたかったんじゃないのよ。すっかり忘れてた。

 だって、ムツリ先輩、あの大人っぽい女の人と特別な関係みたいだったし。いや、だから、私にはまったく関係のないことだけど。

 私のことなんか、どうでもいいのよ。それよりもアーちゃんの件を何とかしないと。好きなのはモテ先輩じゃなくて、チャラ先輩だって、女の先輩方に認識してもらわないとこれから面倒だよ。

 そう言おうとして、アーちゃんを見ると、なんか様子が違う。妙に嬉しそうだ。目が合うと、はにかんで笑った。
「さっき、チャラ先輩と普通にお話しできちゃった。名前も憶えてもらったし、嬉しいな。つーちゃんが助けてくれたから、ここまで親しくなれたんだもの。私もつーちゃんのために頑張るよ」

 私は、慌てて断った。
「私の推しは日本にはいないから、頑張るのは難しいよ。氣持ちだけで十分。ありがとう」

 こう言われたら、やっぱりアーちゃんのために頑張らなくちゃ。改めて作戦を練らなくちゃ。

「ねえ。アーちゃん。やっぱり、チャラ先輩の誤解をちゃんと解いた方がいいと思うんだ」
そういうと、アーちゃんはぱっと顔を赤らめて言った。

「それは、私もそう思うけど、どうしたらいいかわからないんだもの。来年のバレンタインデーまで待ってもいいかなあ」

 そんな悠長なことを言っていたら、モテ先輩大好きな先輩たちに袋だたきにされちゃうよ。

「1年も待つ必要なんてないよ。なんなら明日にでもまたお菓子作ってきなよ。『作ったので、お裾分けです』とかなんとか言ってさ。そこで『なぜ』って訊かれたら、『バレンタインのチョコもチャラ先輩宛だったんです』って言えるじゃない」

 アーちゃんは、きょとんとしていた。どうやら今の中途半端な仲の良さでも悪くないと思っているらしい。モテ先輩好きの皆さんからの悪評については氣づいていないみたい。とはいえ、私が強引に勧めたので、明日はクッキーを作ってくるみたい。

 というわけで、私はムツリ先輩を探して、再告白のためのお膳立ての協力を仰ぐことにした。やっぱり、教室みたいな目立つところではあがり症のアーちゃんが告白できるわけはないし、目立たないところに連れ出してもらう必要がある。

 またバスケ部にでもいるんだろうと、部室の方に歩いていったら無事にムツリ先輩を発見した。

『先輩。ちょうどいいところに。ちょっとアーちゃんのことでお願いが……」
「俺に? うん、なに?」

「このままじゃ、アーちゃん、モテ先輩のファンの先輩たちに睨まれてバスケ部でも立場が悪くなりそうですよね。だから、この辺で再告白させて、話をすっきりさせようかと」

「あー、なるほどね」
「で、明日、彼女がクッキーを焼いてくるってことにしたんですけれど、先輩を目立たないところに引っ張ってきてくれないかと……」
「あ。そういうことか。明日の放課後?」

「なになに、仲良く相談? 聞こえちゃったぞ」
その声にぎょっとして振り向くと、なんと当のチャラ先輩が後ろにいた。いつの間に。忍者か。

「えっと。つまり、その……」
慌てる私に、チャラ先輩は「みなまで言うな」という顔で続けた。

「それは、俺もいい案だと思うよ。もう1度モテの野郎にはっきりと告白するってのはさ。でも、俺たち男が告白場所まで行けと言っても、あいつ、簡単には行かなそうだろ。ちょっと策を練らないとなぁ。あ、思いついたぞ!」

 そう言うと、チャラ先輩は校門に向かって歩いている1人の先輩を呼び止めた。
「おーい。いいところに、なあ、ちょっと!」

 その人はおかっぱ頭の小柄な女性だ。たしかムツリ先輩と同じクラスだったような。

「まずい。チャラが暴走している」
ムツリ先輩が困ったように、チャラ先輩の後を追ったので、私もついていった。チャラ先輩は帰宅しようとしているその先輩と話し始めている。

「なあ。君さ。モテの隣の席じゃん、名前、なんだっけ、えーと」
「多迷さんだろ」
ムツリ先輩が小さな声で指摘する。

「そうそう。あのさ。明日の夕礼の直前にさ、モテにメモを渡してくれないかな。あいつに告白したい子がいるんだよ。俺たちが言っても素直には来てくれないと思うけど、普段、関わりの少ない多迷さんからメモをもらったら、モテもつべこべ言わずに来てくれると思うんだ」

 多迷先輩は、先ほどからなんだか慌てた様子で、ほとんどはっきりとした返答を返していない。アーちゃんとは違うタイプだけれど、コミュニケーションが上手ではなさそう。

 私とムツリ先輩は、無言でうなずき合った。こうなったら、この状況を利用させてもらおう。

 あとで、この多迷先輩に事情を説明して、そのメモはモテ先輩には渡さないようにしてもらおう。そして、ムツリ先輩には、告白を遠くで見守ると称してチャラ先輩をここに連れてきてもらい、ここでアーちゃんに告白させる。うん。それでいこう。

 多迷先輩は、チャラ先輩に押し切られて何かモゴモゴ言っている。大丈夫、その役目、やらずに済むから。

 そんなやり取りをしている時に、また別の先輩が通りかかった。わりと明るめの髪をしたこの人は、知ってる。たしか愛瀬ミエ先輩。前、モテ先輩とつきあっているって噂になっていたような……。

「ダメ子っちじゃん。楽しそうに、なにしているの? 私も混ぜて」
「お。君も協力したい? 実は、俺たちの後輩の子がさ。明日モテのやつに告白するのを多迷くんに協力してもらうことになったんだよ」

「おい、チャラ……その子さ、たしか……」
ムツリ先輩も、噂は知っていたみたいだけど、チャラ先輩は知らないのかな? あらあら、多迷先輩も焦っているし、愛瀬先輩はその多迷先輩を見て涙目になっているみたい。

 ああ、ちゃちゃっと告白し直しで話がおさまるかと思いきや、また別のカオスが起き始めているかも。明日が思いやられるよ。

(初出:2023年1月 書き下ろし)

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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】再告白計画、またはさらなるカオス

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第1弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化している『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。

最近、つーちゃん&ムツリくんの方に関心が向かいがちなので、強引にアーちゃんの恋路に話題を戻そうとしましたが、なんだかもっとカオスになってしまいました。あはははは。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私が書いた『やっかいなことになる予感』
ダメ子さんの『疑惑』

私の作品は以下のリンクからまとめ読みできます。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ

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再告白計画、またはさらなるカオス - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 びっくりした。どこかに行ったかと思ったら、帰ってきたアーちゃんが、とんでもないことを言い出すんだもの。

「ねえ、つーちゃん。もしかして、ムツリ先輩に強引に迫られちゃったの?」

 私は一瞬絶句。氣を取り直してこういうのが精一杯だった。
「何わけのわからないこといっているの? そんなわけないでしょ」

「でも、つーちゃん、ずっとため息ついているよ。何かあったのかなって」
そう言われて、ドキッとした。私、ため息なんてついていたっけ。

「そ、そうかな? それに、どこからムツリ先輩……?」
ダメだこりゃ。我ながら狼狽えすぎ。これじゃ、誤解されてもしかたないかも。アーちゃんは、ますます疑い深い顔になっている。違うってば。

 そもそも「モテ先輩の彼女になるためにチャラ先輩を使って暗躍している」という噂が広まって、アーちゃんが女の先輩たちに睨まれている件をなんとかしようとして、ムツリ先輩に相談をしたかったんじゃないのよ。すっかり忘れてた。

 だって、ムツリ先輩、あの大人っぽい女の人と特別な関係みたいだったし。いや、だから、私にはまったく関係のないことだけど。

 私のことなんか、どうでもいいのよ。それよりもアーちゃんの件を何とかしないと。好きなのはモテ先輩じゃなくて、チャラ先輩だって、女の先輩方に認識してもらわないとこれから面倒だよ。

 そう言おうとして、アーちゃんを見ると、なんか様子が違う。妙に嬉しそうだ。目が合うと、はにかんで笑った。
「さっき、チャラ先輩と普通にお話しできちゃった。名前も憶えてもらったし、嬉しいな。つーちゃんが助けてくれたから、ここまで親しくなれたんだもの。私もつーちゃんのために頑張るよ」

 私は、慌てて断った。
「私の推しは日本にはいないから、頑張るのは難しいよ。氣持ちだけで十分。ありがとう」

 こう言われたら、やっぱりアーちゃんのために頑張らなくちゃ。改めて作戦を練らなくちゃ。

「ねえ。アーちゃん。やっぱり、チャラ先輩の誤解をちゃんと解いた方がいいと思うんだ」
そういうと、アーちゃんはぱっと顔を赤らめて言った。

「それは、私もそう思うけど、どうしたらいいかわからないんだもの。来年のバレンタインデーまで待ってもいいかなあ」

 そんな悠長なことを言っていたら、モテ先輩大好きな先輩たちに袋だたきにされちゃうよ。

「1年も待つ必要なんてないよ。なんなら明日にでもまたお菓子作ってきなよ。『作ったので、お裾分けです』とかなんとか言ってさ。そこで『なぜ』って訊かれたら、『バレンタインのチョコもチャラ先輩宛だったんです』って言えるじゃない」

 アーちゃんは、きょとんとしていた。どうやら今の中途半端な仲の良さでも悪くないと思っているらしい。モテ先輩好きの皆さんからの悪評については氣づいていないみたい。とはいえ、私が強引に勧めたので、明日はクッキーを作ってくるみたい。

 というわけで、私はムツリ先輩を探して、再告白のためのお膳立ての協力を仰ぐことにした。やっぱり、教室みたいな目立つところではあがり症のアーちゃんが告白できるわけはないし、目立たないところに連れ出してもらう必要がある。

 またバスケ部にでもいるんだろうと、部室の方に歩いていったら無事にムツリ先輩を発見した。

『先輩。ちょうどいいところに。ちょっとアーちゃんのことでお願いが……」
「俺に? うん、なに?」

「このままじゃ、アーちゃん、モテ先輩のファンの先輩たちに睨まれてバスケ部でも立場が悪くなりそうですよね。だから、この辺で再告白させて、話をすっきりさせようかと」

「あー、なるほどね」
「で、明日、彼女がクッキーを焼いてくるってことにしたんですけれど、先輩を目立たないところに引っ張ってきてくれないかと……」
「あ。そういうことか。明日の放課後?」

「なになに、仲良く相談? 聞こえちゃったぞ」
その声にぎょっとして振り向くと、なんと当のチャラ先輩が後ろにいた。いつの間に。忍者か。

「えっと。つまり、その……」
慌てる私に、チャラ先輩は「みなまで言うな」という顔で続けた。

「それは、俺もいい案だと思うよ。もう1度モテの野郎にはっきりと告白するってのはさ。でも、俺たち男が告白場所まで行けと言っても、あいつ、簡単には行かなそうだろ。ちょっと策を練らないとなぁ。あ、思いついたぞ!」

 そう言うと、チャラ先輩は校門に向かって歩いている1人の先輩を呼び止めた。
「おーい。いいところに、なあ、ちょっと!」

 その人はおかっぱ頭の小柄な女性だ。たしかムツリ先輩と同じクラスだったような。

「まずい。チャラが暴走している」
ムツリ先輩が困ったように、チャラ先輩の後を追ったので、私もついていった。チャラ先輩は帰宅しようとしているその先輩と話し始めている。

「なあ。君さ。モテの隣の席じゃん、名前、なんだっけ、えーと」
「多迷さんだろ」
ムツリ先輩が小さな声で指摘する。

「そうそう。あのさ。明日の夕礼の直前にさ、モテにメモを渡してくれないかな。あいつに告白したい子がいるんだよ。俺たちが言っても素直には来てくれないと思うけど、普段、関わりの少ない多迷さんからメモをもらったら、モテもつべこべ言わずに来てくれると思うんだ」

 多迷先輩は、先ほどからなんだか慌てた様子で、ほとんどはっきりとした返答を返していない。アーちゃんとは違うタイプだけれど、コミュニケーションが上手ではなさそう。

 私とムツリ先輩は、無言でうなずき合った。こうなったら、この状況を利用させてもらおう。

 あとで、この多迷先輩に事情を説明して、そのメモはモテ先輩には渡さないようにしてもらおう。そして、ムツリ先輩には、告白を遠くで見守ると称してチャラ先輩をここに連れてきてもらい、ここでアーちゃんに告白させる。うん。それでいこう。

 多迷先輩は、チャラ先輩に押し切られて何かモゴモゴ言っている。大丈夫、その役目、やらずに済むから。

 そんなやり取りをしている時に、また別の先輩が通りかかった。わりと明るめの髪をしたこの人は、知ってる。たしか愛瀬ミエ先輩。前、モテ先輩とつきあっているって噂になっていたような……。

「ダメ子っちじゃん。楽しそうに、なにしているの? 私も混ぜて」
「お。君も協力したい? 実は、俺たちの後輩の子がさ。明日モテのやつに告白するのを多迷くんに協力してもらうことになったんだよ」

「おい、チャラ……その子さ、たしか……」
ムツリ先輩も、噂は知っていたみたいだけど、チャラ先輩は知らないのかな? あらあら、多迷先輩も焦っているし、愛瀬先輩はその多迷先輩を見て涙目になっているみたい。

 ああ、ちゃちゃっと告白し直しで話がおさまるかと思いきや、また別のカオスが起き始めているかも。明日が思いやられるよ。

(初出:2023年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】モンマルトルに帰りて

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。
scriviamo!


今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第8弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった 『ソリチュード ~La Route semée d’étoiles~』 

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、古事記と日本書紀に見える衣通姫伝説を下敷きにした古代ミステリー『挿頭の花 -衣通姫伝説外伝- 』。もともとの記紀にある人物がみなさんアレなので、もちろんものすごい展開なのですが、そのシチュエーションの中で胸キュンの純愛を織り込むという離れ業に感心しながらドキドキ読ませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。

さて、『花心一会』ワールドの若い(むしろ若すぎる)家元誕生の成り行きが明かされた今回のお話、ストーリーからいったら当然のことながら華道に対する知識がとても大切なポイントになっているのですよ。お返しを書き始めて困ったのがこれでした。私、全然わかっていない……。

なのにあえて火中の栗を拾いにいってしまいました。以前ヒロインの方のお家元がたった1人のために生ける『花心一会』をなさる様子を勝手に書かせていただいたことがあるのですが、今回はお母様にも無理やりです。ああ、玉砕しそうな予感。でも、レネがメインだから、逃げ切れるかな……。うう、ごめんなさい。


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【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物

大道芸人たち・外伝




大道芸人たち・外伝
モンマルトルに帰りて
——Special thanks to TOM−F-san


「やっぱり迷惑なんじゃないかなあ……」
「いや、連絡したときにはそんな感じじゃなかったって」

 ここに来るまでに、3回は繰り返した問答を、レネと稔はもう1度した。稔は、つい1週間ほど前に訪れたアトリエの呼び鈴を鳴らした。

 中から現れた水無瀬愛里紗みなせありさは、涼しやかな微笑みで2人を中に招き入れた。

 今日の装いは落ち着いた紫の絞り小紋に、蒲公英の柄が微笑ましい濃い緑の名古屋帯。この色の組み合わせは早蕨襲、春を感じさせる。そうか。もう3月になったんだっけ。

「お忙しいのに、無理なお願いを聞き遂げてくださり感謝します。彼が、電話で話したレネ・ロウレンヴィルです」
「マダム・ミナセ、はじめまして。どうぞよろしく」
「どうぞよろしく。そんなに恐縮しないでくださいね」

 そこは、パリの真ん中にあるというのに、東京以上に日本を感じさせる空間だ。

 日本ブームがヨーロッパに広がってから、各地でそれらしい和室を目にしてきたが、畳が正方形だったり、障子の桟が白く塗られた合板だったりと、どこか「なんちゃって」感を否めない和室が多かった。そうした和室は、スーパーで売られる「SUSHI」と同じ香りがした。サーモンとアボカド、またはやけに鮮やかなトビコの安っぽさを眺める度に、「日本はそこまで近くはない」と感じ、かつ自分の方が日本を知っているのだとつまらない自負心を満足させるのだ。

 だが、このアトリエには、稔が逆立ちしても叶わない日本文化の真髄が感じられた。

 小上がりの座敷には、きちんとした炉が切られている。窓はわざわざ円窓にしてある。

 この部屋を維持するのがいかに大変か、稔はよく知っている。日本にいれば電話一本で畳屋が来てくれるし、障子が破けてもホームセンターに行けば簡単に新しい障子紙を購入できる。梅や桃、桜や椿などもさほど苦労せずに入手できるだろう。極上の茶や主菓子も同様だ。

 だが、ヨーロッパで、これだけの完璧な日本を維持するのは、並大抵のことではない。もちろんパリは大都会なので、日本人のネットワークを使えばそれは可能だろう。でも、この人は、日本人会などで同国人と固まっているタイプには見えない。まあ、俺には関係ないけれど……。

 煎茶とともに小ぶりの大福餅が出てきた。和菓子の大好きなレネの顔が喜びに輝いたのを見て、稔は「本題を忘れるなよ」の意味を込めて肘で小さくつついた。

「それで、私に作ってほしいというのは?」
本題は、彼女の方から切り出してくれた。

「先日、ここにお伺いした日に、水無瀬さんのことを特別な人のための特別な花を生けるプロだって説明したんです。そしたら、彼が花をお願いできないかって……。ただ、俺はうまく訳せなくて英語でフラワーアレンジメントって言ってしまったので、生け花との違いも説明していただけると助かります」
そう言って稔は、レネに顔で続きを促した。

「ある女性のためにブーケかアレンジメントを作っていただけませんか」
レネが頼んだとき、愛里紗の顔にはなんとも微妙な表情が浮かんだ。おそらくそれは、この異国で先入観と無知に彼女の華道がフラワーアレンジメントと混同されたときの一瞬の抵抗なのかもしれないと、稔は思った。

 愛里紗は、けれど、レネの頼みを簡単に断るようなことはしなかった。
「大切な女性への花なのかしら?」

「はい」
稔は「ふうん」という顔をした。ヤスミンはここに来ていないとはいえ、義理堅く一途なブラン・ベックがわざわざ特別な花をねぇ。

「承るかどうかを決める前に、どんな目的なのかを訊いても差し支えないかしら?」
愛里紗は、英語で話し続けている。レネとだったらフランス語で会話した方が早いだろうに、稔が同席しているのでそうしているのだろう。

「もちろんです。僕はここにいるヤスたちと出会って大道芸人として暮らし出す前は、ここパリで暮らしていました。その時に出会った女性です」
レネはゆっくりと語り出した。

 レネにとって、パリの日々にはつらい記憶が多い。手品師の専門学校を終えて希望を持って花の都に上がってきたものの、ショーの花型になるどころかまともな稼ぎを得ることすら難しかった。

 モンマルトル界隈のナイトクラブを転々として、はじめはホールスタッフと変わらぬ扱いを受けた。ようやく前座としてマジックショーを披露できるようになるまでは数年かかり、その間にもいろいろな人に利用されたり出し抜かれたりしながら、いつかは手品だけで食べていける日を夢見て暮らしていた。

 恋もした。もともとはホールスタッフとして勤めだしたジョセフィーヌが、レネのアシスタントとして一緒にショーに出演することになってからは、彼女に夢中になった。

 ええっ。その女かよ。稔は話を聞きながらぎょっとした。そいつ、ライバルに寝取られた同棲相手だろ?

「お花を贈りたいのは、その方?」
愛里紗が、口をはさむと、レネは首を振った。

「違います。彼女に、僕は夢中だったけれど、ジョセフィーヌはこの街で僕の味方になってくれた人ではなかった。それはエマだけだったと、今になって思うんです」

「エマ?」
稔は思わず訊いた。一度も聞いたことのない名前だったから。

 レネは、頷いて彼のパリでの物語を続けた。

 ムーラン・ルージュをはさんで、レネの勤めるナイトクラブとちょうど反対ぐらいの距離に小さい煙草屋があった。そこには店の染みのような小さな老婆がいて、いつもなにかに対して文句を言っていた。

「この頃の政治家ってのはなってないね。きれいな顔をして偽善的なことを口にすればまた当選するとでも思っているのかね」
「あんたの横柄な態度になぜこのあたしが我慢しなくちゃいけないのさ。嫌なら2度とこの店に足を踏み入れなければ良いだろ」
「あんたは母国がサッカーに負けたからって、周り中に当たり散らす権利なんかないんだよ」
「禁煙がトレンドだって? ひとの商売の衰退をわざわざ告げに来るとはいいご身分だね」

 それがエマだった。

 レネは煙草の類いは何も嗜まないので、この店に入るときはチョコレートを買うときだけだった。他の店にはない故郷プロヴァンスの小さな工場で作っている銘柄がこの店にはあったのだ。

 レネにとって忘れられない思い出がある。

 それは、パリを去った夏のことだ。ナイトクラブからクビを言い渡されたレネは、とぼとぼと帰り道を歩きながら、故郷の懐かしいチョコレートで心を慰めようとエマの煙草屋に入った。

 レネは、思わず涙をこぼした。今日の午後、買い物から帰ってアパルトマンのドアを開けたら、なぜか同じナイトクラブで働くラウールが、ジョセフィーヌとベッドの上にいた。それだけでもショックなのに、出勤した途端にオーナーから彼のマジックショーは、今後ラウールとジョセフィーヌがやるのでお前はもう来なくてもいいと宣告されてしまったのだ。

 自分の要領がよくないことはわかっていた。ラウールが優れた容姿で客たちから人氣があることもわかっていた。でも、真面目に精一杯生きてきたのに、こんな風に何もかも取りあげられたのかと思うと、やるせなくて涙が止まらない。

 エマは「商売の邪魔になるから泣くな」などとはいわなかった。レネが落ち着くまで待って、話を聞いてくれた。今になって思えば、この街で、レネが自分の弱さや悲しみを吐露できたのは、これが初めてだった。

「あの雌狐なら、そのくらいのことをしても不思議じゃないと思うね。だから何度もいっただろ。あの娘には温かい血が流れていないって。あんたがこのチョコを勧めたとき、小馬鹿にしてそっちの大量生産のチョコをわざわざ買ったことがあったよね。人の思い出を踏みにじるようなヤツは、どんなに見かけがよくても中身は爬虫類と一緒だ」

 レネは、それを聞いてよけい強く泣いた。ジョセフィーヌが、彼の故郷のあらゆる物を馬鹿にしていたことを思いだした。見下されていたのは彼の生まれ故郷ではなくて、彼自身でもあったのだと思うと情けなくて逃げたしたかった。

「仕事も恋人もなくなって、僕はどうしたらいいんだろう」
また1からこの街で手品をやらせてくれる場を探すかと思うと、レネは心から途方に暮れた。

 エマは冷徹にも思える調子で言い放った。
「そもそもこの街はあんたみたいな弱くて純なヤツには向いていないんだよ。ここを離れるのが一番だ」

 レネは言葉を失った。ようやくパリに慣れてきたと思ったのに。少し間を置くと、おずおずと言った。
「でも、どこにいったら……?」

 エマは、少し温かく思える調子に変えてゆっくりと言った。
「南へお行き。あんたの故郷のプロヴァンスでも、もっと南の地中海でも、どこでもいい。ただし、ニースみたいなスノッブでおかしな人間の集まるところに行っちゃダメだ。広くて、大地に足をつけて人びとが助け合いながら生きている土地に行くんだ。最初にいったところにはいなくても、どこかには必ずいる。それを探すんだね。あんたの正直で優しい心持ちを大切にしてくれる輩がね。それを見つけたら、それがあんたのいるべき土地さ」

 稔は、思わずレネの顔を見た。レネは、稔の目を見返して、はにかみながら笑った。

「その通りになったのね」
愛里紗が問う。

「はい。僕は、コルシカでこのヤスに会いました。それから、他の生涯の友達にも」

 エマの直接的でお節介なアドバイスが、あの時レネをコルシカ島に向かわせた。悲しみに押し潰れることなく、新しい人生を探すための必要な背中のひと押しをしてくれたのは、店の染みのような小さな老婆だった。

「わかったわ。その方へ捧げるお花、ぜひ私に作らせてちょうだい」
愛里紗が微笑んだ。

「ありがとうございます、マダム」
レネが前のめりで礼を言う。

「でも、1つだけ確認したいの。西洋で作るいわゆるフラワーアレンジメントは、全方向から見られることを意識して作るものだけれど、日本の生け花というのは、たった一つの方向から見ることを想定してデザインするものなの。その方がどのように受け取るかのシチュエーションは決まっていたら教えてほしいわ」
愛里紗が訊くと、レネははっとして、1度下を見てからふたたび愛里紗の目を見据えた。

「正面は……どういえばいいのか。墓石の上に載せるので……。彼女はモンマルトル墓地に眠っているそうですから」
その言葉に、稔と愛里紗が同時に息を飲んだ。

* * *


「エマ・マリー・プレボワ ここに眠る」
小さな墓石は、必死で探さないと見過ごしてしまいそうだった。エドガー・ドガ、モーリス・ユトリロ、エミール・ゾラ、アレクサンドル・デュマといった錚々たる有名人の墓は大きく立派だが、そのモンマルトル墓地には、地域の一般人も埋葬される。

 まだ、春といっても早いので、陽光は弱く柔らかい。周りの木々には膨らんだ芽はあるが若葉が現れるにはまだしばらくかかるだろう。

「お。来た来た」
稔が手を振ると、かなり向こうから蝶子とヴィルがこちらに向かってくる。

「ごめん。私たちが先につくぐらいだと思ったのに」
「探していた墓は、見つかったのか? ランパルだっけ?」
「ええ。せっかくここに来るんなら、お詣りしたくてね」

 フルートの名手であったジャン・ピエール・ランパルも、モンマルトル墓地に眠っている。そういえば、ブラン・ベックはハイネの墓の場所を探していたから、後でそこに行くんだろうな、と思った。

「それが、例の日本人に作ってもらった花か」
ヴィルが珍しく明らかに感銘を受けたとわかる顔つきで訊いたので、稔はそうだろうなと思った。

 レネは頷いた。手にしているのは半球型に盛られた、花かごだった。といっても花器として使われている籠は苔山で覆われほとんど見えない工夫がしてあり、まるで何もないところに偶然にも木や草花が育ったかのように見える。

 1度左に向かってから弓なりに右に向かう盆栽のような枝振りの木はミモザだ。黄色い花が力強く明るく咲いている。そして、根元に絶妙なバランスでいけられたのは、フランス人のこよなく愛する『田舎風シャンペトルブーケ』でよく使われるカヤ、ユーカリ、コバングサなどとともに、薄紫と若緑の野の花を思わせる花々が絶妙なバランスで配置されている。

 レネがその籠を墓石の上に置くと、まるで彼女の墓から草花が遅い春を待てずに萌えだしたかに見えた。

「すごいわね。ここまでフランスっぽい素材だけを使っているのに、これはフラワーアレンジメントじゃなくって華道だってわかるように作れるものなのね……」
蝶子が感心してつぶやいた。

 亡き人を悼む草花は弱い風にそよいでいる。

 レネは、眼鏡を取ると涙を拭った。エマの声が蘇ってくる。
「くよくよするんじゃないよ。あんたが悪いんじゃない。今のめぐり合わせとの相性が悪いだけさ。あんたにふさわしい居場所はきっとあるからね」

(初出:2023年3月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -16- エイプリル・レイン

scriviamo!


今日の小説は「scriviamo! 2022」の第9弾、ラストの作品です。大海彩洋さんは、大河ドラマ「真シリーズ」の第一世代と第二世代が交錯する作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『あなたの止まり木に 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じの通りです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一の凱旋コンサートにお出かけの方たちのお話を、当ブログの『バッカスからの招待状』の田中も行きつけているらしい喫茶店を舞台に語ってくださいました。

お返しどうしようか悩んだのですけれど、茜音は、『Bacchus』の常連になってくださっているということなので、素直にご来店お願いしました。たぶん、設定は壊していないはず。お酒、強いと踏んで書いちゃいました。まさか夏木たち下戸チームじゃないですよね? もしそうなら該当部分は書き直します……。(あ、『ゴッドファーザー』とかそれっぽい話が違う文脈だけれど入っているのはわざとです。私の好きな茜音の実のお父さんへのオマージュ)

そして、メインの話をどうしようか悩んだのですけれど、彩洋さんの今回のお話の大事なモチーフになっている「雨」と「借りた傘」をこちらでも使うことにしました。


「scriviamo! 2022」について
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【参考】
「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -16- エイプリル・レイン
——Special thanks to Oomi Sayo-san


「高階さん、いらっしゃいませ」
田中は、意外に思いながら、心を込めて挨拶した。20時を回っていた。いつも彼女が好んで座る入り口近くのカウンター席はすでに塞がっていた。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 店主でありバーテンダーでもある田中は、奥のカウンター席に1人で座っている女性客に顔を向けた。
「井出さん、お隣、よろしいですか?」

「ええ。もちろん」
その快活な女性は、すでに彼女の鞄を隣の椅子から除いて自ら座る椅子の後ろにかけ直していた。

 高階槇子は、会釈して空けてもらった席に向かった。

「この時間にお見えになるのは珍しいですね」
田中はおしぼりを渡し、それから、メニューを手に取って槇子の反応を待った。今日は、いつもとは違う注文をするかもしれないと考えたからだ。

 槇子は、いつも開店直後にやって来て、1杯だけ『ゴッドマザー』を飲むとすぐに帰るのが常だった。よく来る客というわけでもない。年に4回も来れば多い方だ。だが、それが10年にも及んでいる。
「今日は、いかがなさいますか」

 槇子は、メニューを持つ田中に手を伸ばした。
「そうね。今日は、メニューを見せていただこうかしら。急ぐ必要もないから、おつまみも……」

 槇子の視線は、井出さんと呼ばれた若い女性の前にある生ハムとトマトの1皿に注がれた。

「あ。これ、美味しいですよ。このバルサミコ酢と絶妙にマッチして。私は次、桃モツァレラにしようかなあ」
井出茜音は、ウィンクした。

 会計を済ませて出ていったばかりの客が戻ってきた。
「悪い、もう少しいさせてもらっていいかな」

 その客のトレンチコートに雨の染みがいくつもついているのを見て、田中は訊いた。
「降ってきましたか?」
「ああ。今日降るって、予報だったっけ? まあ、でも、この調子だと、すぐに止むと思うんだ」

 茜音は、鞄の中を確認してから安心したように言った。
「今日は、ちゃんと折りたたみ傘、持ってきたのよね」

「よかったですね」
槇子が答えると、茜音は少し明るく笑った。

 ちょうど田中と目が合ったので、茜音はおどけるような口調を使った。
「たとえ持っていなくても、田中さんに置き傘を借りるのは? ほら、このあいだ会った、喫茶店でそんな話をしていたでしょう? 置き傘を貸すと、返すついでにまた来てくれるお客さんがいるって話」

 田中はわずかに微笑むような表情を見せた。
「もちろんお貸ししますけれど、そうでなくても井出さんはこうしてお越しくださっていますよね」

 向こうのカウンターで「あれぇ。よそで井出さんと会っているのかぁ?」などという茶化した声が上がるのを、田中は軽く流している。カウンターの常連たちが笑う声にはかまわずに、槇子が囁くように言った。

「傘は安易に借りない方がいいかもしれませんよ」

 その声は、茜音にしか聞こえなかった。田中と他の常連たちが他愛のない会話を繰り広げている中、茜音は、槇子の翳った表情を見てやはり囁くように訊き返した。
「どうしてですか?」
「それだけじゃ済まなくなるかもしれないから」
「え?」

 槇子は、にっこりと微笑んでから、田中に言った。
「私、この『エイプリル・レイン』をいただくわ。ちょうど今日にぴったりだもの。それから、まず、この方と同じトマトと生ハムをお願い」

 田中は「かしこまりました」と答えた。『エイプリル・レイン』もまた『ゴッドマザー』と同じくウォッカベースのカクテルだ。

「娘がね。下宿生活を始めたので、急いで帰らなくてもよくなったの」
「ああ。大学は遠方でいらっしゃるんですね。お寂しくなったでしょう」
「そうね。12年前と同じ、1人暮らしに戻っただけなんだけれど、変な感じだわ。私、前はほんとうに1人暮らしをしていたのかしらって」

 田中と話す槇子の会話をぼんやりと聞きながら、茜音は妙な顔をした。横目でそれを感じたのか、槇子は笑って話しかけた。
「勘定が合わない、でしょう?」

 茜音は、無理には訊かないという意味の微笑を浮かべていた。槇子は続けた。
「言ったでしょう? 安易に傘を借りたりするものじゃないって。代わりに女の子を育てることになってしまったの」

 茜音はますます、これ以上の事情を深く訊いていいのか戸惑った。彼女は職業上相手の話を引き出すことには長けているが、その卓越した能力をプライヴェートで使うことには慎重だ。

「あら。この曲……」
槇子は、そんな茜音をよそに店内でかかったボサノバ調の曲に耳を傾けた。

「ご存じの曲ですか?」
「ええ。アストラッド・ジルベルトの『The Gentle Rain』……。昔よく聴いたのよね。まるで、私と娘のことを歌っているようだったから」

私たちは2人ともこの世に迷い独りぼっち
優しい雨の中、一緒に歩きましょう
怖がらないで
あなたと手と手を取り合い
しばらくの間、あなたの愛する者になるから

Astrud Gilberto: Gentle Rain より
Written by: LUIZ BONFA, MATT DUBEY
意訳:八少女 夕



「傘を貸してくれた人の娘だったの。返しに行った時に出会ったの。突然、親を失って、途方に暮れて泣いていたの。行政に連絡して、そのまま忘れることもできたんだけれど、そのバタバタの時にもたまたまこの曲を聴いてしまって……」

「それで、引き取って育てたってことですか?」
目を丸くする茜音に、槇子は頷いた。

「成り行きでいきなりシングルマザーになってしまったの。でも、我が子を産んだり、イヤイヤ期を体験したりって経験をもつ友人たちに比べたら、ずいぶん楽な子育てだったのよ」

 槇子は、『エイプリル・レイン』を置いた田中にも微笑みかけた。

「いつも『ゴッドマザー』をご注文なさっていたのは、それでだったのですか?」
「そうなの。初めてここのメニューであのカクテルを知って、私のためにあるような名前だなって、氣に入ってしまったの。もちろん美味しかったからだけれど」

「『ゴッドマザー』って、どんなカクテル?」
茜音が訊く。

「ウォツカとアマレットでつくります。スコッチウイスキーとアマレットで作る『ゴッドファーザー』のバリエーションの1つなんですが、ウォツカを使うことでアマレットの優しい甘みが生きるようになります」

「甘いの?」
「いいえ。甘めの薫りはしますが、味としてはすっきりとした味わいで、甘いお酒が苦手の方もよくお飲みになります」

「ちょっとアルコールが強いので、むしろ女性で手を出す人は少ないかもしれないわね」
槇子が言うと、田中も頷いた。
「井出さんなら問題はないかと思いますが」

 茜音は、槇子の前の『エイプリル・レイン』にも興味を示した。
「それも強いんですか?」
「ええ。でも、ライムジュースも入っているから、『ゴッドマザー』ほどじゃないかもね。とても爽やかでいいわね、これ」

 槇子が氣に入ったようなので、田中は微笑んだ。
「恐れ入ります」

 茜音は、頷いた。
「じゃあ、私も次はそれをお願いします。新しい味を開拓したいし、今日にぴったりだもの」
「かしこまりました」

 槇子は微笑んで、グラスを傾けた。新しい生活リズム、新しい味、新しい知りあい、そんな風に途切れずに続いていく生活。今までと違い、仕事帰りに好きなときにこの店を訪れることもできるのだという実感が押し寄せてくる。

 12年前に突然生活が180度変わってしまったあの日から、無我夢中で走ってきた。見知らぬ少女を引き取り、シングルマザーとしての自覚や自信を見つけたり失ったりしながら、お互いになんとか心から家族と思える関係を築いてきた。

 おかげで、色恋沙汰とは無縁な人生になってしまったが、その直前にあったことで若干懲りていたので、それも悪くなかったと思う。これで人生終わったわけでもないし、自分の時間を楽しむうちに何かがあればいいし、なくてもそれはそれで構わないと達観できるようになった。

 12年前、槇子は仕事の帰りにたまたま近くを通ったので、連絡をせずに恋人のアパートを訪れた。連絡をせずに立ち寄ることをひどく嫌うことはわかっていたが、彼が傘を何本も持っていないことを知っていたので、借りた傘を早く返したかったのだ。いなければ、アパートのドアにかけておけばいいと思った。

 でも、着いたらたくさんのパトカーがいて、彼の部屋に警察官が出入りしている。慌てて事情を訊きにいったら、部屋の中から子供の泣き声がするというので大家が通報したらしかった。

 昨夜、繁華街で車に乗った男女が事故を起こし、2人とも死亡していた。運転していたのは子供の母親で、後に槇子の恋人の別居中の妻だったとわかった。助手席に乗っていたのが子供の父親である槇子の恋人だった。

 子供をアパートに置いて、2人がどういう事情で事故を起こしたのか、明らかにはなっていない。2人が口論をしていたという目撃もあるが、意図的な無理心中なのか、単なる事故なのかも不明のままだ。

 警察に何度も事情を訊かれ、ようやくわかったことに、槇子はどうやら恋人に欺されていたらしい。すくなくとも独身と嘘をつかれていた。

 ショックや悔しさに泣いた。でも、怒りをぶつける相手がもうこの世にいない。それどころか、彼の娘のことを聞いたら、そちらの方がそれどころでは無い状態だった。引き取れる身寄りが無く、独りで生きられる年齢でもない。悲しみも不安も槇子どころではないだろう。

 彼女の心配をしてやる義理も義務もないのだと言ってくるお節介もたくさんいた。それまた真実だった。でも、槇子が愛した男と時間を過ごしたあのアパートで、泣いていた少女のことが頭から離れなかった。

あなたの涙が私の頬に落ちる
まるで優しい雨のように温かい
おいで小さな子
あなたには私がいる
愛はとても甘くて悲しい
まるで優しい雨のよう

Astrud Gilberto: Gentle Rain より
Written by: LUIZ BONFA, MATT DUBEY
意訳:八少女 夕



 彼の面影ではなく、愛娘として愛するようになるまで、思ったほどはかからなかった。むしろ、大人として巣立っていくのがこれほど寂しくなるとは、全く想像もしていなかった。

 4月の雨は、優しくて悲しい。きっとそうなのだろう。槇子は微笑みながらグラスを傾けた。


エイプリル・レイン(April Rain)
標準的なレシピ

ウォッカ - 60ml
ドライベルモット - 15ml
フレッシュ・ライムジュース - 15ml
ライムの皮 (飾り用)

作り方
氷を入れたカクテルシェーカーに、ドライベルモット、ウォッカ、ライムジュースを入れる。
勢いよくシェイクする。
冷やしたカクテルグラスに氷を半分ほど入れ、濾す。
ライムの皮を飾りとして添える。



(初出:2022年4月 書き下ろし)

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Astrud Gilberto: The Gentle Rain
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -16- エイプリル・レイン

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scriviamo!


今日の小説は「scriviamo! 2022」の第9弾、ラストの作品です。大海彩洋さんは、大河ドラマ「真シリーズ」の第一世代と第二世代が交錯する作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『あなたの止まり木に 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じの通りです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一の凱旋コンサートにお出かけの方たちのお話を、当ブログの『バッカスからの招待状』の田中も行きつけているらしい喫茶店を舞台に語ってくださいました。

お返しどうしようか悩んだのですけれど、茜音は、『Bacchus』の常連になってくださっているということなので、素直にご来店お願いしました。たぶん、設定は壊していないはず。お酒、強いと踏んで書いちゃいました。まさか夏木たち下戸チームじゃないですよね? もしそうなら該当部分は書き直します……。(あ、『ゴッドファーザー』とかそれっぽい話が違う文脈だけれど入っているのはわざとです。私の好きな茜音の実のお父さんへのオマージュ)

そして、メインの話をどうしようか悩んだのですけれど、彩洋さんの今回のお話の大事なモチーフになっている「雨」と「借りた傘」をこちらでも使うことにしました。


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【参考】
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バッカスからの招待状 -16- エイプリル・レイン
——Special thanks to Oomi Sayo-san


「高階さん、いらっしゃいませ」
田中は、意外に思いながら、心を込めて挨拶した。20時を回っていた。いつも彼女が好んで座る入り口近くのカウンター席はすでに塞がっていた。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 店主でありバーテンダーでもある田中は、奥のカウンター席に1人で座っている女性客に顔を向けた。
「井出さん、お隣、よろしいですか?」

「ええ。もちろん」
その快活な女性は、すでに彼女の鞄を隣の椅子から除いて自ら座る椅子の後ろにかけ直していた。

 高階槇子は、会釈して空けてもらった席に向かった。

「この時間にお見えになるのは珍しいですね」
田中はおしぼりを渡し、それから、メニューを手に取って槇子の反応を待った。今日は、いつもとは違う注文をするかもしれないと考えたからだ。

 槇子は、いつも開店直後にやって来て、1杯だけ『ゴッドマザー』を飲むとすぐに帰るのが常だった。よく来る客というわけでもない。年に4回も来れば多い方だ。だが、それが10年にも及んでいる。
「今日は、いかがなさいますか」

 槇子は、メニューを持つ田中に手を伸ばした。
「そうね。今日は、メニューを見せていただこうかしら。急ぐ必要もないから、おつまみも……」

 槇子の視線は、井出さんと呼ばれた若い女性の前にある生ハムとトマトの1皿に注がれた。

「あ。これ、美味しいですよ。このバルサミコ酢と絶妙にマッチして。私は次、桃モツァレラにしようかなあ」
井出茜音は、ウィンクした。

 会計を済ませて出ていったばかりの客が戻ってきた。
「悪い、もう少しいさせてもらっていいかな」

 その客のトレンチコートに雨の染みがいくつもついているのを見て、田中は訊いた。
「降ってきましたか?」
「ああ。今日降るって、予報だったっけ? まあ、でも、この調子だと、すぐに止むと思うんだ」

 茜音は、鞄の中を確認してから安心したように言った。
「今日は、ちゃんと折りたたみ傘、持ってきたのよね」

「よかったですね」
槇子が答えると、茜音は少し明るく笑った。

 ちょうど田中と目が合ったので、茜音はおどけるような口調を使った。
「たとえ持っていなくても、田中さんに置き傘を借りるのは? ほら、このあいだ会った、喫茶店でそんな話をしていたでしょう? 置き傘を貸すと、返すついでにまた来てくれるお客さんがいるって話」

 田中はわずかに微笑むような表情を見せた。
「もちろんお貸ししますけれど、そうでなくても井出さんはこうしてお越しくださっていますよね」

 向こうのカウンターで「あれぇ。よそで井出さんと会っているのかぁ?」などという茶化した声が上がるのを、田中は軽く流している。カウンターの常連たちが笑う声にはかまわずに、槇子が囁くように言った。

「傘は安易に借りない方がいいかもしれませんよ」

 その声は、茜音にしか聞こえなかった。田中と他の常連たちが他愛のない会話を繰り広げている中、茜音は、槇子の翳った表情を見てやはり囁くように訊き返した。
「どうしてですか?」
「それだけじゃ済まなくなるかもしれないから」
「え?」

 槇子は、にっこりと微笑んでから、田中に言った。
「私、この『エイプリル・レイン』をいただくわ。ちょうど今日にぴったりだもの。それから、まず、この方と同じトマトと生ハムをお願い」

 田中は「かしこまりました」と答えた。『エイプリル・レイン』もまた『ゴッドマザー』と同じくウォッカベースのカクテルだ。

「娘がね。下宿生活を始めたので、急いで帰らなくてもよくなったの」
「ああ。大学は遠方でいらっしゃるんですね。お寂しくなったでしょう」
「そうね。12年前と同じ、1人暮らしに戻っただけなんだけれど、変な感じだわ。私、前はほんとうに1人暮らしをしていたのかしらって」

 田中と話す槇子の会話をぼんやりと聞きながら、茜音は妙な顔をした。横目でそれを感じたのか、槇子は笑って話しかけた。
「勘定が合わない、でしょう?」

 茜音は、無理には訊かないという意味の微笑を浮かべていた。槇子は続けた。
「言ったでしょう? 安易に傘を借りたりするものじゃないって。代わりに女の子を育てることになってしまったの」

 茜音はますます、これ以上の事情を深く訊いていいのか戸惑った。彼女は職業上相手の話を引き出すことには長けているが、その卓越した能力をプライヴェートで使うことには慎重だ。

「あら。この曲……」
槇子は、そんな茜音をよそに店内でかかったボサノバ調の曲に耳を傾けた。

「ご存じの曲ですか?」
「ええ。アストラッド・ジルベルトの『The Gentle Rain』……。昔よく聴いたのよね。まるで、私と娘のことを歌っているようだったから」

私たちは2人ともこの世に迷い独りぼっち
優しい雨の中、一緒に歩きましょう
怖がらないで
あなたと手と手を取り合い
しばらくの間、あなたの愛する者になるから

Astrud Gilberto: Gentle Rain より
Written by: LUIZ BONFA, MATT DUBEY
意訳:八少女 夕



「傘を貸してくれた人の娘だったの。返しに行った時に出会ったの。突然、親を失って、途方に暮れて泣いていたの。行政に連絡して、そのまま忘れることもできたんだけれど、そのバタバタの時にもたまたまこの曲を聴いてしまって……」

「それで、引き取って育てたってことですか?」
目を丸くする茜音に、槇子は頷いた。

「成り行きでいきなりシングルマザーになってしまったの。でも、我が子を産んだり、イヤイヤ期を体験したりって経験をもつ友人たちに比べたら、ずいぶん楽な子育てだったのよ」

 槇子は、『エイプリル・レイン』を置いた田中にも微笑みかけた。

「いつも『ゴッドマザー』をご注文なさっていたのは、それでだったのですか?」
「そうなの。初めてここのメニューであのカクテルを知って、私のためにあるような名前だなって、氣に入ってしまったの。もちろん美味しかったからだけれど」

「『ゴッドマザー』って、どんなカクテル?」
茜音が訊く。

「ウォツカとアマレットでつくります。スコッチウイスキーとアマレットで作る『ゴッドファーザー』のバリエーションの1つなんですが、ウォツカを使うことでアマレットの優しい甘みが生きるようになります」

「甘いの?」
「いいえ。甘めの薫りはしますが、味としてはすっきりとした味わいで、甘いお酒が苦手の方もよくお飲みになります」

「ちょっとアルコールが強いので、むしろ女性で手を出す人は少ないかもしれないわね」
槇子が言うと、田中も頷いた。
「井出さんなら問題はないかと思いますが」

 茜音は、槇子の前の『エイプリル・レイン』にも興味を示した。
「それも強いんですか?」
「ええ。でも、ライムジュースも入っているから、『ゴッドマザー』ほどじゃないかもね。とても爽やかでいいわね、これ」

 槇子が氣に入ったようなので、田中は微笑んだ。
「恐れ入ります」

 茜音は、頷いた。
「じゃあ、私も次はそれをお願いします。新しい味を開拓したいし、今日にぴったりだもの」
「かしこまりました」

 槇子は微笑んで、グラスを傾けた。新しい生活リズム、新しい味、新しい知りあい、そんな風に途切れずに続いていく生活。今までと違い、仕事帰りに好きなときにこの店を訪れることもできるのだという実感が押し寄せてくる。

 12年前に突然生活が180度変わってしまったあの日から、無我夢中で走ってきた。見知らぬ少女を引き取り、シングルマザーとしての自覚や自信を見つけたり失ったりしながら、お互いになんとか心から家族と思える関係を築いてきた。

 おかげで、色恋沙汰とは無縁な人生になってしまったが、その直前にあったことで若干懲りていたので、それも悪くなかったと思う。これで人生終わったわけでもないし、自分の時間を楽しむうちに何かがあればいいし、なくてもそれはそれで構わないと達観できるようになった。

 12年前、槇子は仕事の帰りにたまたま近くを通ったので、連絡をせずに恋人のアパートを訪れた。連絡をせずに立ち寄ることをひどく嫌うことはわかっていたが、彼が傘を何本も持っていないことを知っていたので、借りた傘を早く返したかったのだ。いなければ、アパートのドアにかけておけばいいと思った。

 でも、着いたらたくさんのパトカーがいて、彼の部屋に警察官が出入りしている。慌てて事情を訊きにいったら、部屋の中から子供の泣き声がするというので大家が通報したらしかった。

 昨夜、繁華街で車に乗った男女が事故を起こし、2人とも死亡していた。運転していたのは子供の母親で、後に槇子の恋人の別居中の妻だったとわかった。助手席に乗っていたのが子供の父親である槇子の恋人だった。

 子供をアパートに置いて、2人がどういう事情で事故を起こしたのか、明らかにはなっていない。2人が口論をしていたという目撃もあるが、意図的な無理心中なのか、単なる事故なのかも不明のままだ。

 警察に何度も事情を訊かれ、ようやくわかったことに、槇子はどうやら恋人に欺されていたらしい。すくなくとも独身と嘘をつかれていた。

 ショックや悔しさに泣いた。でも、怒りをぶつける相手がもうこの世にいない。それどころか、彼の娘のことを聞いたら、そちらの方がそれどころでは無い状態だった。引き取れる身寄りが無く、独りで生きられる年齢でもない。悲しみも不安も槇子どころではないだろう。

 彼女の心配をしてやる義理も義務もないのだと言ってくるお節介もたくさんいた。それまた真実だった。でも、槇子が愛した男と時間を過ごしたあのアパートで、泣いていた少女のことが頭から離れなかった。

あなたの涙が私の頬に落ちる
まるで優しい雨のように温かい
おいで小さな子
あなたには私がいる
愛はとても甘くて悲しい
まるで優しい雨のよう

Astrud Gilberto: Gentle Rain より
Written by: LUIZ BONFA, MATT DUBEY
意訳:八少女 夕



 彼の面影ではなく、愛娘として愛するようになるまで、思ったほどはかからなかった。むしろ、大人として巣立っていくのがこれほど寂しくなるとは、全く想像もしていなかった。

 4月の雨は、優しくて悲しい。きっとそうなのだろう。槇子は微笑みながらグラスを傾けた。


エイプリル・レイン(April Rain)
標準的なレシピ

ウォッカ - 60ml
ドライベルモット - 15ml
フレッシュ・ライムジュース - 15ml
ライムの皮 (飾り用)

作り方
氷を入れたカクテルシェーカーに、ドライベルモット、ウォッカ、ライムジュースを入れる。
勢いよくシェイクする。
冷やしたカクテルグラスに氷を半分ほど入れ、濾す。
ライムの皮を飾りとして添える。



(初出:2022年4月 書き下ろし)


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Astrud Gilberto: The Gentle Rain
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】やっかいなことになる予感

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今年最初の小説は、「scriviamo! 2022」の第1弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化しているこのシリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。あ、ダメ子さん、アーちゃんもつーちゃんも、フルネームはどうぞご自由につけてくださいね。

今回は、ムツリくんのヒミツ(?)に肉薄してみました。ほら、意外と経験豊富っていう、アレです。つーちゃんは、単なる耳年増系で経験は全く豊富でないので役不足かもしれないけれど、適当にグルグルさせてみました。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』

私の作品は新しいカテゴリーでまとめ読みできるようにしてみました。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ


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やっかいなことになる予感 - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 困ったなあ。私は、アーちゃんに持ち込まれた新たな問題に頭を抱えている。

 1つ上の学年に、モテ先輩というめちゃくちゃモテる人がいる。カッコいいのは間違いないけれど、私もアーちゃんも、モテ先輩ファンクラブ(そんなものがあるのかどうかも知らないけれど)に入っているわけではないし、ましてや彼女になりたいとか狙うような野望はない。

 私は、2.5次元のおもに北方系の美男子モデルへのオタ活が忙しいし、アーちゃんは、モテ先輩と同じクラスのチャラ先輩にずっと片想いをしているのだ。

 でも、問題は、そのチャラ先輩が絶望的に鈍くて、アーちゃんの必死のアプローチをわかってくれないこと。それどころか、あがり症のアーちゃんがようやく手渡せたバレンタインのチョコを、なぜかモテくん宛だと思い込んでいることなのよね。

 そのせいで、先輩のクラスやバスケ部では、アーちゃんが年下のくせに抜け駆けして、チャラ先輩まで使ってモテ先輩にすり寄っていると思っている女の先輩もいるとか。そんなこと、言われてもねぇ。

 ここは、例によってムツリ先輩に相談して、クラブやクラスでのモテ先輩好きの方々の誤解を上手く解いてもらうしかないかな。って、なぜ私がこんなことばかりしているんだろう。アーちゃん、本人が言えばいいんだけれど、あの子はあがり症で、誰ともまともに会話できていないしなあ。

 私は、クラブが終わりそうな時間を見計らって、帰宅するムツリ先輩を待ち伏せすることにした。いや、私は別に口実作って、ほぼ毎日ムツリ先輩に会おうとしているわけじゃないから。本当だってば。

 まあ、ムツリ先輩、けっこうしっかりしているし、昨日渡したどうでもいいお礼も思いのほか喜んでくれたし、いい人なのは確かなのよね。

 そう言えばあの時「俺も金髪に染めようかな」なんて言われて、びっくりだったな。「金髪が似合うのはあっちの美少年だけ」って話に持って行ってしまってちょっと傷つけちゃった感があるのよね。

 全否定しちゃったのはまずかったかなあ。美少年ってジャンルじゃないのは確かだけれど、でも、カッコよくないっていう意味で言ったんじゃないし……。いや、私は、一体だれに言い訳しているのかしら。

 あ、来た。アーちゃんのバレンタイン騒動以来、週に何度もムツリ先輩と会っているので、けっこう遠くからでも歩き方やシルエットがわかるようになったのが驚き。これは、ちょっと由々しき問題じゃない? 

 私が、声をかけようとしたとき、ずっと前方にいた女の人が、驚いた声を出した。
「あら! コクルの弟くん……えっと、兵くんだったよね。久しぶり~。私のこと、覚えているよね?」

「あ。はあ、もちろん……ご無沙汰しています」
ムツリ先輩が、立ち止まって軽く頭を下げている。

「イヤだあ。そんなかしこまって。タメ語で話してくれてもいいのよ。ほら、私たち、その……他人行儀にすべき仲ってわけでもないし、ねっ」
「いや。そういうわけには……」

 聞き捨てならない会話が続くので、つい聞き耳を立ててしまう。台詞から考えると、あのひと 、たぶん先輩のお姉さんの友だちよね。でも、ちょっと変。先輩の肩や前髪を触ったり、媚び媚びの声色になったり。

 私は、電柱の影に隠れて2人の会話を聞いていた。2人は、こっちの方に歩いてきて、ひとつ手前の角で曲がって視界から消えた。2人一緒に歩いているというのか、あの女の人が、ムツリ先輩にまとわり付いていた感じだけれど、でも、先輩もまんざらでもないのか迷惑そうな感じではなかった。

 私がいたことには氣づいていなかったと信じたいけれど……。いや、別に私は後ろめたいことがあるわけじゃないし、氣づかれてもいいんだよ。

 肝心なムツリ先輩が女の人と一緒に帰ってしまったので、私は相談をあきらめて帰ることにした。

 なんだかなあ……。アーちゃんの問題も棚上げだし、今日は、推しの記事が出ていると思われる雑誌をチェックしに書店に行く予定だったけれど、その氣も削がれちゃったなあ。

 っていうか、どうして私は、こんなにガッカリしているのかな。ちょっとこれは、厄介なことになる予感がする。問題があるのはアーちゃんだけで、私はオブザーバーのはずだったんだけれどなあ。

(初出:2022年1月 書き下ろし)

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ダメ子さんがお返し作品を書いてくださいました!

ダメ子さんの描いてくださった 「疑惑」

電柱で挙動不審なつーちゃん by ダメ子さん
このイラストの著作権はダメ子さんにあります。無断使用は固くお断りします。
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Category : 小説・バレンタイン大作戦
Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】やっかいなことになる予感

scriviamo!


今年最初の小説は、「scriviamo! 2022」の第1弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化しているこのシリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。あ、ダメ子さん、アーちゃんもつーちゃんも、フルネームはどうぞご自由につけてくださいね。

今回は、ムツリくんのヒミツ(?)に肉薄してみました。ほら、意外と経験豊富っていう、アレです。つーちゃんは、単なる耳年増系で経験は全く豊富でないので役不足かもしれないけれど、適当にグルグルさせてみました。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』

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 困ったなあ。私は、アーちゃんに持ち込まれた新たな問題に頭を抱えている。

 1つ上の学年に、モテ先輩というめちゃくちゃモテる人がいる。カッコいいのは間違いないけれど、私もアーちゃんも、モテ先輩ファンクラブ(そんなものがあるのかどうかも知らないけれど)に入っているわけではないし、ましてや彼女になりたいとか狙うような野望はない。

 私は、2.5次元のおもに北方系の美男子モデルへのオタ活が忙しいし、アーちゃんは、モテ先輩と同じクラスのチャラ先輩にずっと片想いをしているのだ。

 でも、問題は、そのチャラ先輩が絶望的に鈍くて、アーちゃんの必死のアプローチをわかってくれないこと。それどころか、あがり症のアーちゃんがようやく手渡せたバレンタインのチョコを、なぜかモテ先輩宛だと思い込んでいることなのよね。

 そのせいで、先輩のクラスやバスケ部では、アーちゃんが年下のくせに抜け駆けして、チャラ先輩まで使ってモテ先輩にすり寄っていると思っている女の先輩もいるとか。そんなこと、言われてもねぇ。

 ここは、例によってムツリ先輩に相談して、クラブやクラスでのモテ先輩好きの方々の誤解を上手く解いてもらうしかないかな。って、なぜ私がこんなことばかりしているんだろう。アーちゃん、本人が言えばいいんだけれど、あの子はあがり症で、誰ともまともに会話できていないしなあ。

 私は、クラブが終わりそうな時間を見計らって、帰宅するムツリ先輩を待ち伏せすることにした。いや、私は別に口実作って、ほぼ毎日ムツリ先輩に会おうとしているわけじゃないから。本当だってば。

 まあ、ムツリ先輩、けっこうしっかりしているし、昨日渡したどうでもいいお礼も思いのほか喜んでくれたし、いい人なのは確かなのよね。

 そう言えばあの時「俺も金髪に染めようかな」なんて言われて、びっくりだったな。「金髪が似合うのはあっちの美少年だけ」って話に持って行ってしまってちょっと傷つけちゃった感があるのよね。

 全否定しちゃったのはまずかったかなあ。美少年ってジャンルじゃないのは確かだけれど、でも、カッコよくないっていう意味で言ったんじゃないし……。いや、私は、一体だれに言い訳しているのかしら。

 あ、来た。アーちゃんのバレンタイン騒動以来、週に何度もムツリ先輩と会っているので、けっこう遠くからでも歩き方やシルエットがわかるようになったのが驚き。これは、ちょっと由々しき問題じゃない? 

 私が、声をかけようとしたとき、ずっと前方にいた女の人が、驚いた声を出した。
「あら! コクルの弟くん……えっと、兵くんだったよね。久しぶり~。私のこと、覚えているよね?」

「あ。はあ、もちろん……ご無沙汰しています」
ムツリ先輩が、立ち止まって軽く頭を下げている。

「イヤだあ。そんなかしこまって。タメ語で話してくれてもいいのよ。ほら、私たち、その……他人行儀にすべき仲ってわけでもないし、ねっ」
「いや。そういうわけには……」

 聞き捨てならない会話が続くので、つい聞き耳を立ててしまう。台詞から考えると、あのひと 、たぶん先輩のお姉さんの友だちよね。でも、ちょっと変。先輩の肩や前髪を触ったり、媚び媚びの声色になったり。

 私は、電柱の影に隠れて2人の会話を聞いていた。2人は、こっちの方に歩いてきて、ひとつ手前の角で曲がって視界から消えた。2人一緒に歩いているというのか、あの女の人が、ムツリ先輩にまとわり付いていた感じだけれど、でも、先輩もまんざらでもないのか迷惑そうな感じではなかった。

 私がいたことには氣づいていなかったと信じたいけれど……。いや、別に私は後ろめたいことがあるわけじゃないし、氣づかれてもいいんだよ。

 肝心なムツリ先輩が女の人と一緒に帰ってしまったので、私は相談をあきらめて帰ることにした。

 なんだかなあ……。アーちゃんの問題も棚上げだし、今日は、推しの記事が出ていると思われる雑誌をチェックしに書店に行く予定だったけれど、その氣も削がれちゃったなあ。

 っていうか、どうして私は、こんなにガッカリしているのかな。ちょっとこれは、厄介なことになる予感がする。問題があるのはアーちゃんだけで、私はオブザーバーのはずだったんだけれどなあ。

(初出:2022年1月 書き下ろし)

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ダメ子さんがお返し作品を書いてくださいました!

ダメ子さんの描いてくださった 「疑惑」

電柱で挙動不審なつーちゃん by ダメ子さん
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Posted by 八少女 夕

【小説】もち太とすあまと郵便屋さんとノビルのお話

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第6弾です。津路 志士朗さんはイラストと掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!

 志士朗さんの書いてくださった「もち太とすあま。

志士朗さんは、オリジナル小説と庭とご家族との微笑ましい日々を綴られる創作系ブロガーさんです。大海彩洋さん主催の「オリキャラのオフ会」でお友達になっていただき、昨年から、「scriviamo!」にもご参加いただいています。

書いてくださった作品は、可愛らしい2匹のハスキー犬に関するイラストで、一緒に発表してくださった掌編によると、こちらは志士朗さんがメインで執筆なさっていらっしゃる「子獅子さん」シリーズの作中作のキャラクターのようです。

そして、2匹のハスキー犬で思い出すのが、「オリキャラのオフ会」で登場した動けるし話せるぬいぐるみたち。そんなあれこれを考えながら、お返しを考えてみました。

志士朗さんの作品の中に、作中作『もち太とすあま。』の第2作の執筆が待たれているということでしたので、もし、これが書かれたとしたらどんな感じかな〜、と思ったのが今回の作品です。志士朗さん、もし、「こういうんじゃないんだよ」と思われたとしたら、ただの二次創作ということで、軽く無視していただければと思います。


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もち太とすあまと郵便屋さんとノビルのお話
——Special thanks to Shishiro-san


 お日様がぴかぴかとあたりを照らしました。ジメジメとした梅雨が終わったのです。春のはじめには怖々と辺りをうかがっていた木々の新しい葉っぱは、先を争うかのようにぐんぐんと伸びるようになりました。

 いくつかの道路を越えていくと、大きな草原と林が広がっています。優しい小川も太陽の光を反射して笑うように流れていきます。鳥たちも、すいすいと楽しそうに空を駆けていました。

 そんな心地よい午後に、2匹のハスキー犬が、ときに前を行き、ときに後ろになりながら、坂道を歩いていました。

 1匹は、青い首輪をして少し大きく、もう1匹は赤い首輪をした小さい仔。2匹とも、お餅のように白くてふっくらとしており、お揃いのアクアマリンのようにきれいな水色の瞳をしていました。

「すあま! そんなに急いで行くなよ。転んだりすると、危ないだろ」
大きい方の犬は、叫びました。このハスキー犬は、もち太という名前でした。

「もち兄が、グズグズしているんだよ。そんなんじゃ、夏が行っちゃうよ。ツバメみたいにぴゅーっと飛ばなくちゃ。ウサギみたいにぴょんぴょん跳ねなくちゃ」
小さいすあまは、兄の言うことなどまったく聞こうとしません。

 もち太は、必死で走ってすあまに追いつくと、首の後ろをぱっと咥えました。突然、宙に浮いたすあまは、びっくりして足をバタバタ動かしました。

 すると目の前を、銀色の何かがシャーっと通り過ぎました。自転車です。あと1秒遅かったら、すあまはぺっちゃんこになっていたかもしれません。もち太は、すあまをそーっと地面に下ろしてから怖い顔を作って言いました。
「危ないだろう、すあま。道に飛び出したりしたら。自転車も急には止まれないんだ」

「ひとりでも、ちゃんと止まれたよ! すあまは赤ちゃんじゃないんだ! もち兄ったら」
すあまは、ちっとも反省していません。

 2匹は、それからは少し慎重にいくつかの道を渡り、草原を横切って林の入り口までやってきました。

「あ。郵便屋さんだ」
もち太は、1人で散歩をしている男性に目を留めて叫びました。

 郵便屋さんは、いつももち太の家に手紙や小包を届けてくれる優しいおじさんです。ときどき美味しいおやつもくれるので、すあまもおじさんを見ると喜んで駆けていきました。

 郵便屋さんは、山菜採りをしているようです。この辺りには、おいしい山菜がたくさん生えているのです。
「おお、こんなところにノビルが生えているよ。これは美味しそうだ」

 野蒜は今が花盛りのようです。白い星のような花びらの先は、紫がかったピンクで彩られています。中心の額は鮮やかな若緑です。すっくと立つ茎から、暗赤色のムカゴを突き抜けるように、可憐な花がいくつも飛び出して咲き誇っていました。

 郵便屋さんは、野蒜を摘み取って、持っている籠にポンポンと入れていました。
「どれどれ、1つ試してみるかな」
地下茎の皮をきれいに剥くと、真っ白い鱗茎が顔を出しました。郵便屋さんは、それを生のまま口に放り込んで、シャリシャリと食べてから、これは美味しいと微笑みました。

「すあまもたべたい」
それを見ていたすあまが、言いました。

 郵便屋さんは、ギョッとして大きく首を振りました。
「ダメだよ。絶対に食べちゃダメだ」

「ずるい、美味しいものを独り占めしようとしている」
「違うよ。君たちはこれは食べられないんだ」

 もち太は、あれ、でも、郵便屋さんはいま食べていたよね、そう思いましたが、すあまも同じことを思ったようです。

「食べられるもん。さっき、美味しいって言ったじゃない。すあま、草食べられる。おうちでエン麦も食べているもん。これは、きれいな花。お店で売っているすあまとおんなじ、白とピンク!」
そういうと、すあまは野蒜の花をぱくっと食べてしまいました。

「やめろ!」
「ダメだ!」
もち太と、郵便屋さんが同時に叫びましたが、間に合いませんでした。

 もぐもぐと口を動かしたすあま、顔をゆがめました。
「なんだこれ、ぜんぜん美味しくないや。エン麦のほうが100倍美味しいよ」
そういうと、口の中から、残った草をぺっと吐き出しました。

「まったく食べなかっただろうね。それとも少し飲み込んでしまったのかい?」
郵便屋さんは、真剣にすあまの顔をのぞき込みました。すあまは、急に世界が回り出したように感じで怖くなりました。それに、どういうわけかだんだんお腹が痛くなってきたのです。

 もち太は、すあまの具合が悪そうになってきたので心配してその顔をなめました。すあまは、先ほどまでの生意氣な態度はどこへやら、その場にうずくまってシクシク泣き出しました。でも、お腹はどんどん痛くなってくるのです。

「もち兄~っ!! お腹が痛いよう。助けてよう」
転がって苦しむすあまをみて、真っ青になったもち太は、グルグルと周囲を回りました。でも、どうしたらいいのかわかりません。もち太はお医者様ではないのです。

「ああ、食べてしまったんだな。これはよくない、何とかしなくちゃいけないな」
郵便屋さんは、しゃがみ込んですあまのお腹に手を当てようとしました。

 もち太は、自分で身を守ることもできないすあまを守ろうと、郵便屋さんとの間に入り込んで唸りました。

 郵便屋さんは、優しく言いました。
「ひどいことはしないよ。でも、一刻も早くノビルをこの子の体から取り出さないといけない。いい子だから信用してそこを退いておくれ」

「なんで?」
もち太は、唸るのをやめて郵便屋さんの顔を見ました。

「君たち、犬にとってネギの仲間は毒なんだよ」
「それは知っているよ。すあまは、ネギは食べていないよ」
「うん。でも、ノビルはネギの仲間なんだ」

 もち太は、真っ青になりました。すあまが苦しがっているのは、毒を食べてしまったからなのです。

「大丈夫。俺がここにいたのは、この子にとってラッキーだったんだよ」
郵便屋さんは、そういうと痛がっているすあまのお腹のあたりを優しくさすりました。するとどうしたことでしょう、すあまの真っ白なお腹に銀杏ほどの小さな盛り上がりがいくつも見えてきたかと思ったら、それが小さな5ミリほどの暗赤色をした粒に変わり、ポンポンとはじけて郵便屋さんの掌におさまりました。

 すあまのお腹の痛みは、すうっと消えていき、ハスキーは思わず咳き込みました。

「すあま!」
心配するもち太の声に、すあまは瞼をあけました。アクアマリンのように透き通った瞳がもち太を見て微笑みました。
「もち兄、お腹痛いの、治った!」

「やあ、これは立派なムカゴだな。無事に全部取れたようだね。じゃあ、これはもらっていくよ」

 すあまは、ぴょんと横に飛び退きました。先ほどの痛みはすっかり消えていました。もち太は、元氣になったすあまを見て、尻尾がちぎれんばかりに振って喜びました。

「すあま! 郵便屋さんにお礼を言いなさい。治してくれたんだよ」
もち太は言いましたが、その時にはすあまはもう先まで駆けだしていました。飛び回れるようになったのが嬉しくて仕方ないようです。

 もち太は、郵便屋さんにぺこりとお辞儀をすると、いそいですあまを追いかけました。1人で行かせておくと、また何かやらかすかもしれないからです。

 郵便屋さんは、「夏を楽しみなさい」と手を振って見送ってくれました。

 もち太は、すあまを追って駆けていきました。草原には、白、黄色、紫と、色とりどりの小さな花がたくさん咲いています。

 自分も、すあまも、健康で走り回れることは、なんて素晴らしいのでしょう。ことしの夏も、去年のように美しくて楽しいものになりそうです。

 でも、どうして。あんなに苦しんでいたすあまが、郵便屋さんがお腹にちょっと触れただけで、簡単に治っちゃったんだろう。もち太は、走りながらチラッと考えました。あれは、なにかの魔法なのかも。でも、そうだとしたら、どうしてあの人は郵便屋さんなんて、しているんだろうなあ。僕なら、魔法が使えたら世界旅行をして、美味しいものを食べ歩くけれどなあ。

 もち太は、すあまよりも大きくて賢いハスキー犬でしたが、どう考えても答えを見つけることはできませんでした。でも、答えがみつからなくても不都合はなかったので、じきに忘れてしまいました。

 すあまといると、もっと急いで考えなくてはいけないことがたくさんありました。いまも、見つけたばかりのヒキガエルに飛びかかろうとしているすあまを止めるために、もち太はふたたび全力疾走をしなくてはなりませんでした。

(初出:2021年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】ショーワのジュンコ

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第4弾です。つぶあんさんは今年も、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

つぶあんさん(たらこさん)は、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんで、「ひまわりシティーへようこそ!」を連載中です。しばらくさまざまな事情でブログをお休みでしたが、つい前日復帰なさいました。

「scriviamo!」ではいつもBプランをご希望です。1月末ということで、締め切りまで1か月しかないので、他の方の作品より一足早く発表させていただきます。サキさん、志士朗さん、ごめんなさい!

さて、今回はたらこさんの「ひまわりシティーへようこそ!」からお2人の大事なキャラクターと共演させていただきました。殺し屋デスと茶々じいのお2人です。設定やキャラなどを壊さないように氣をつけたつもりですが、何か問題があったらおっしゃってくださいね。そして、この後は全くのお任せです。任務は遂行しないでいただいて全く構いません(笑)

さて、今回の作品、もし書いてある意味が全てわかったら、あなたも「昭和」です。そういう小説にしてみました。

【27.03.2021 追記】
たらこさんが お返し作品を書いてくださいました。そして、素敵なジュンコのイラストも!
ありがとうございました。

たらこさんの書いてくださった 「ショーワのジュンコ
ショーワのジュンコ by たらこさん
このイラストの著作権はつぶあんさん(たらこさん)にあります。許可のない使用は固くお断りします。


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ショーワのジュンコ
——Special thanks to Tsubuan-san


 郵便配達夫が、2度ベルを鳴らして、電報を持ってきた。父は、何度言っても携帯電話も電子メールも持とうとしない。なので、急ぎの用事は電報を使う。

シンダイシャキボウ アスアサカラルスバンニコイ イリグチデハキモノヌゲ


 なんとまあ、物騒な。電報で殺人依頼。死んだ医者ってことは、あの隣のいけすかない医院のジジイをついにやっちゃえってことなのね。でも、もう少し計画的にできないのかしら。普通、明日の晩に、完全犯罪をしろと電報で娘に命じる?

 アタシはジュンコ。「ひまわりシティー」郊外の、名もない村に住んでいるの。父は、少し変わった人で、通っていた純喫茶の看板を見てアタシの名前を決めたんですって。純喫茶って、知っている? エッチなことはしない喫茶店のことで、シャガールっぽい絵が掛かっていて、シャンデリアのぶら下がっている店内に、レコードでヴィヴァルデイの『春』がかかっている系統と思ってくれればいいわ。ナウなヤングはあまり行かないタイプの店よね。

 そんなことは、どうでもいいのよ。ジジイといっても、相手は男性。抵抗でもされたら私に押さえつけるのは難しい。ってことは、殺し屋でも雇わないとダメよね。

 アタシは、『ひまわりシティー・イエローページ』をめくった。殺し屋の電話番号なんて載っているかしら? あった。インド人もびっくり。探してみるものね。

 早速、ダイヤルしようとして、やめた。自宅からかけたら、足ついちゃうかもしれないし。とりあえず、駅まで行き、公衆電話からテレカででかける。
「もしもし 殺し屋のデスさんのお宅ですか?」

 相手が、電話の向こうで渋い声を出している。もしかするとゴルゴ13みたいな、いい男なのかもしれない。
「ちょっと、明日の晩におねがいしたいことがあるんです」

 殺し屋に電話をするのは、さすがのアタシでも初めてだ。そこをしっかりと強調しておかないと。
「え〜っと、ジュンコといいます。うら若い乙女です。初体験なので、どうおねがいしたらいいのか、いろいろと教えていただきたいんですけれど」
「そうですか。そういうことでしたら、もちろん喜んで。待ち合わせはどうしましょうか」

 ランデブーするみたいな言い方ね。でも、電報の情報を伝えなくちゃいけないし、ちょっと変装して行きましょうか。

 実年齢より若く見えるように、普段はあまり着ない服をチョイスした。膝小僧が出るくらいのキュロットに、赤いとっくりのセーター、それから、緑色の光るジャンパー。余裕のヨッちゃんで、高校生くらいには見えるでしょ。

 デスが指定してきたのは「ひまわりシティー」の『茶々』。渋いお爺さんマスターがひとりで切り盛りしている。殺し屋っぽい人は、まだ来ていないようだ。アタシは、マスターに待ち合わせであることを告げてから、窓際の目立たない席に腰掛けた。

 入ってきたのは、アイスホッケーのマスクをつけている、めちゃんこ怪しい男だ。店内をぐるっと見回して、アタシと一瞬目が合ったのにマスターに言った。
「待ち合わせなんだ。待たせてもらう」

「あちらのお客様が、先ほどからお待ちですが」
「いや、若い女の子と約束したから」
何その言い草! アタシが若くないっていうの?! 激おこぷんぷん丸。

「あの、デスさんですよね。お仕事の依頼をしたジュンコです」
「え。あなたがジュンコさん? しかも、仕事? 初体験なんていうから、てっきり……」
「なんですって?」
「いや、なんでもないです」

 アタシは、ジジイ医者の家を教え、依頼人が隣人である父とわからないように言葉を選びながら明日の晩に実行すべきであることを告げた。

「なぜ明日の晩限定なんですか?」
この殺し屋、シュールな格好の割には常識的な質問をしてくる。

「それは、依頼人からの電報にそうあるからなんです。明日朝から留守、晩に来いって。それから、入り口では着物を脱ぐって注意書きがあります。罠に氣をつけてください」
「着物を脱ぐ? ストリップをしろと?」
「ええ」

 デスは、首を傾げた。
「とりあえず、前金として、報酬の半分をいただきましょうか。ま、氣の乗らないときは遂行しないこともあるんですけれどね」
「え? その場合、前金はどうなるんですか?」
「お返ししたくてもね……。住所氏名、口座などを教えてくだされば、払い込みますけれどね〜」
デスはせせら笑っている。こちらが身元を明かさないことを知っているからだ。トサカにくる。
 
「そんなひどい。お金を持ってドロンされても、泣き寝入りなんて、涙がちょちょぎれちゃう」
ハンケチをとりだして泣く真似をした。

 2人分のコーヒーを運んできたマスターが言った。
「どうなさいましたか。あなたのように美しい人を泣かせるなんて、こちらのお客さんは罪な方ですね」

 まあ、なんて胸キュンのナイスガイなのかしら。「君の瞳に乾杯」なんてセリフを言うのはこういうタイプの人なのね。ウブなアタシはイチコロだわ。

 少し浮上したアタシは、暑くなったのでジャンパーを脱いだ。するとデスの目がアタシのボインな胸元に釘付けになった。ふふん、着痩せするタイプのアタシ、けっこうグラマーなのよ、これでも。

「じゃ、こちらの氣が乗らずに任務を遂行しない場合は、来週またここで待ち合わせるってのはどうでしょう」
デスの声色がずいぶんと変わっている。おかげでこちらもツンとした態度で喫茶店を後にすることができた。
「おねがいしますね」

 さて、ちゃんと殺しの依頼が済んだことを、父に報告するためにアタシは実家に向かった。

「おう来たか」
土間の奥で盆栽をいじっていた父は、アタシの顔を見ると、まず嬉しそうな顔をしたが、すぐに険しい顔になって続けた。
「わざわざ書いたのに、なぜ外で履き物を脱がないんだ」

「なんですって?」
「書いただろう、電報に。入り口で履き物を脱げって。先週からここは土間じゃなくしたんだ。土足は困るんだよ」

「履き物を脱げ? お隣の医者宅で着物を脱ぐんじゃなくて?」
「なんの話だ。隣の藪医者の話なんか誰もしておらん。それより、切符はどこだ。駅の窓口は混んでいたか?」

「切符? 駅? なんの話?」
アタシは呆然とした。

「ちゃんと電報に書いただろう、寝台車希望って。明日からの旅行の話に決まっているだろう」
ちょっとタンマ。何それ? 話がピーマン。

 アタシは、もう1度、父の送ってきた電報を取りだした。

シンダイシャキボウ アスアサカラルスバンニコイ イリグチデハキモノヌゲ


父は、それを取りあげて音読する。
「寝台車希望。明日、朝から留守番に来い。入り口で履き物脱げ。火を見るより明らかだろう。何が問題なんだ」

 なるへそ。考えてみれば、電報で明晩に隣人を殺せなんて、書くわけないか。とほほ。さて、殺し屋どうしよう。今から、あの男をキャンセルするの? あんな高ビーな態度で、出てこなければよかった。チョベリバ。

(初出:2021年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】酒場のピアニスト

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第2弾です。大海彩洋さんは、当ブログの『黄金の枷』シリーズとのコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『【ピアニスト慎一シリーズ】Voltaste~あなたが帰ってきてくれて~ 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じだと思いますが、ピアノもその一つで、実際にご自分でも演奏なさるのです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一がPの街にお越しくださいました。そして、23がちゃっかりそのピアノを聴かせていただいたり、誰かさんに至っては、慎一御大にお遊び用のカラオケを用意させるというような申し訳ない事態になっています。ひえ〜。

お返し、どうしようか悩んだのですけれど、インファンテやインファンタが直接慎一たちに絡むのは、かなり難しいこともあり(とくに慎一、ただの日本人じゃなくてヴォルテラ家絡みですしねえ)、ちらっと名前だけ出てきた方を使わせていただくことにしました。時系列では、ちょうど連載中の『Filigrana 金細工の心』とだいたい同じ頃、つまり彩洋さんの書いてくださった作品の「8年前」から1、2年経ったくらいの頃でしょうか。

そして、それだけでなく、彩洋さんの作品へのオマージュの意味を込めて、ショパンの曲をあえて使ってみました。そのキャラ、彩洋さんの作品にサラッと書いてあった感じではショパン・コンクールを目指したかった……みたいな感じだったので。

さて。もう1人のキャラは、連載中の『Filigrana 金細工の心』の未登場重要キャラです。またやっちゃった。どうして私は、隠しておけないんだろう……。ま、いっか、別にものすごい秘密ってわけじゃないし。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物


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酒場のピアニスト
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 電話を終えると、チコはゆっくりと歩き出した。Pの街は久しぶりだ。以前来たときよりも観光客向けの洒落た店が多くなっている。そうなると途端に値段がチコ向きではなくなる。彼は、裏通りに入って、見かけは単純だが、そこそこ美味しくて彼の財布に優しい類いの店を探した。

 どこからかファドが聞こえてくる。観光客向けのショーらしい。看板が目に入った。ファドとメニューのセットの値段が、派手な黄色で走っている。それを眺めながら通り過ぎようとして、もう少しで誰かとぶつかりそうになった。

「失礼」
チコが謝ると、青年は「いいえ、こちらこそ」とブツブツ言いながら、ファドのレストランに入っていった。扉を押すときに左手首に金の細い腕輪が光った。

 金メッキの腕輪など珍しくもなんともないが、チコはとっさに彼の《悲しみの姫君》のことを思い出した。チコは、厳密には彼女が金の腕輪をしているのを見たことはない。彼女が腕輪の話をしたことも、1度もない。腕輪の話をしたのは、彼女の妹、チコたちの仲間から《陽氣な姫君》とあだ名をつけられたマリアだ。

「みて、ライサの左手首」
潮風に髪をなびかせながら、マリアはそっとチコに囁いた。オケの同僚であるオットーやジュリアたちと、姉妹の特別船室に招かれて、小さなパーティーのようなことを繰り返していたある夕暮れのことだった。

 一介のクラリネット吹きであるチコが、特別船室に足を踏み入れることなど、本来なら考えられないのだが、華やかな社交に尻込みして部屋から出たがらないライサのために、姉の唯一興味を持った楽団のメンバーたちをオフの晩にマリアが招き入れるようになったのだ。

 女性の装身具などには全く詳しくないチコは、言われるまでまったく目に留めたこともなかったのだが、ライサの左手首には何かで線を引いたような細い痕があった。
「あれね。腕輪の痕なの。日焼けせずに残った肌の色」

 おかしなことを言うなと思った。腕時計をしなくなった人に、そういう痕が残ることは知っているけれど、しばらくすればそこもまた日に焼けて目立たなくなるものだろう。マリアはそんなチコの考えを見過ごしたかのように微かに笑ってから続けた。
「私の記憶にある限り、常にライサには金の腕輪がつけられていたの。子供の頃からずっと」
「つけられていた? つけていたじゃなくて?」

 マリアは、じっとチコを見て、区切るようにはっきりと言った。
「つけられていたの。金具もないし、自分では、絶対に取れない腕輪よ。ねえ、チコ。どうして私たちがこんな豪華客船で旅をできるのか、知りたいって言ったわね。私も知らないけれど、でも、1つだけはっきりしていることがあるの。それは、あの腕輪をつけたり外したりできる人たちが、払ってくれたのよ」

「ライサは、それが誰だか知っているんじゃないかい? 自分の事だろうし」
「もちろん、知っていると思うわ。でも、あの子は絶対に言わない。言わせたところで、あの子が救われるわけでもないの。でもね、チコ」
「うん?」
「外してもらった腕輪は、まだあの子を縛っているんじゃないかなって」
「それは、つまり?」
「あの子は、はじめてパスポートをもらったの。クレジットカードも。こんな豪華客船の特別船室で、世界中の珍しいものを見て回って、美味しいものを食べて、好きなものを買える立場にいるの。でも、彼女の心は、Pの街の、私の知らないどこかに置き去りになっているみたい」

「彼女が、とても淋しそうなのは、わかるよ。僕に、『グラン・パルティータ』を吹いてほしいって頼んだとき、たぶん彼女は何かを思い出して、その場所を懐かしんでいるんだろうなと思ったし」

 その場所は、おそらくこのPの街にあるのだろう。3か月の船旅の後、姉妹はこの街に戻った。マリアは元働いていた銀行でバリバリと活躍しているらしい。ライサが今どうしているかは……。チコは、そこまで考えてわずかに微笑んだ。明日、彼女と会える。その時に、いろいろな話をしよう。

 豪華客船の楽団メンバーの仕事は、本来旅の好きだったチコには合っている。もちろん、学校を出たばかりの頃は、室内楽や交響曲だけでなく、ビッグバンドの真似事やジャズまでもまとめてやることになるとは思わなかったけれど、最近は、それもさほど嫌だとは思わなくなっている。

 長い航海が嫌だと思ったことはこれまではなかったけれど、今回だけは別だった。この国から遠く離れているうちに、ライサが新しい人生をはじめて、彼のことなど記憶の果てに押し流してしまうんじゃないかと思っていたから。でも、マリアのあの口ぶりでは、ライサはいまだに引っ込み思案で、友だちらしい友だちも作らずにいるらしい。僕にももしかしたらチャンスがあるかもしれない。

 近くに寄ったついでというのは、口実だときっとマリアにはバレているんだろう。でも、そんなこと構うものか。

 彼は、そんなことを考えながら、数軒先に見つけた手頃そうな店で食事をすることにした。テーブルワインと前菜の干し鱈のコロッケパステイス・デ・バカリャウを食べているとドアが開いて、誰かが入ってきた。チコは、はっとした。それは先ほどぶつかった青年だったからだ。

「よう。ダリオ。今日は出番の日かい」
奥からオヤジが声をかけた。

「ああ。ファド・ショーが中止になったから、急遽弾いてほしいって。おじさん、僕にもメニュー、おねがいします」
そう答えると、ダリオと呼ばれた青年は、狭い店内のチコの斜め前に座り、軽く会釈をした。

「ああ、同業者でしたか。僕、クラリネットなんです。あなたは、ええと」
チコが、声をかけると青年は「ピアノを弾きます」と小さく答えた。

「あそこ、ちょっと高そうでしたが、飲み物だけで入るのって、無理かな」
そう訊くと、青年は首を振った。
「ファドの日じゃないし、文句は言われないですよ。そもそも、セットメニューは、英語しか読めない観光客用ですし」

 それから、肉の煮豆添えが出てくるまでの間、2人は軽く話をした。
「じゃあ、以前はあの交響楽団にいたんですね。子供の頃テレビでチャイコフスキーの協奏曲第一番を見ましたよ。大人になったら、ああいう舞台で弾きたいって、弟に大言壮語していたっけ」
ダリオは、少し遠くを見るように言った。

 観光客や酔客相手に演奏する、日銭稼ぎのピアニストであることを恥じているんだろうか。大きな交響楽団をバックにソリストとして活躍するほどのピアニストになるのは、大変な努力の他に大きな才能も必要だ。才能と幸運の女神は、誰にでも微笑むわけではないことを、チコ自身もよく知っている。
「子供の頃は、僕もずいぶん大きな口を叩いていましたよ」

 ダリオは、多くを語らずに食事を終えた。チコは、ダリオと一緒に、先ほどの店にいった。暗い店内は、ファドでないせいかさほど観光客がおらず、かなり空いていた。チコは、セルベッサを頼んで、ピアノの近くに座った。

 ダリオは、センチメンタルな典型的なバーのジャズピアノ曲を弾いていた。客たちは聴いているのかいないのかわからない態度で、ピアニストの存在は忘れられている。チコは、ダリオが手首を動かす度に、ライトを受けて腕輪が光るのをぼんやりと眺めていた。

 彼が夢見ていた音楽と、これは大きな違いがあるのかもしれない。誰もが夢中になって聴くソリストと、存在すらも忘れられる心地よいムード音楽。主役は、食べて飲んでいる客たちの時間。目の前に揺れて暗闇に浮かび上がるロウソクの焰。セルベッサのグラスに走る水滴。

 チコの仕事も、あまりそれと変わらないときもある。それでも、船の上のシアターで行う演奏会の時は、熱心に聴いてくれる客がいる。ライサのように、彼らの音色が聴きたくて通ってくれた人がいる。ダリオは、どんなことを思いながらこの仕事を続けているんだろう。

 しばらく、ムードジャズを弾いていた彼は、ちらっとチコを見ると、ゆっくりと短調の曲を弾き出した。あ、ショパンだ。なんだっけ、これは。あ、ノクターンの6番か。映画『ディア・ハンター』で演奏されていたから、強引に映画に出てきた音楽ですと言い張ることもできるけれど、きっとこれは僕がいるからクラシック音楽を弾いてくれたんだろうな。

 彼の感情を抑えた指使いが、静かに旋律を奏でる。装飾音も少なく、単純な右手の響きが繰り返される。数あるノクターンの中でも演奏される機会が少ないのは、演奏会などで弾くには華やかさが足りないからなのかもしれない。暗闇の中で焰を揺らすのに、これほど似合うことを、チコは初めて知った。

 氣がつくと、騒いでいた客たちは黙って、ダリオの演奏に耳を傾けていた。ダリオは、後半でわずかに強い想いを込めて何かを訴えかけたが、転調してからはまるで諦めるかのようにコーラル風の旋律を波のように繰り返しながら引いていった。焰も惑うのをやめた。

 曲が終わった後の休止。チコは、手を叩いた。それに他の客たちもわずかに続いたが、ダリオがわずかに頷いてすぐに再びムードジャズに戻ると、また忘れたようにおしゃべりに興じた。

 彼が、ピアノの譜面台を倒して立ち上がったときも、それに目を留める客は多くなかった。チコは、再び手を叩くと、ダリオを彼の前に座らせた。
「素晴らしかったよ。とくに、ショパン。君、さっきはずいぶん謙遜していたんじゃないかい?」

 ダリオは、はにかんだ笑いを見せると答えた。
「そんなことはないよ。でも、ありがとう。聴いてくれる人がいるっていうのは、嬉しいものだな」
「今からでも遅くないから、就職活動をしたらどうかな? 少なくとも僕の乗っている船でだったら、ソリストとして活躍できると思うよ。他にも……」

 チコの言葉を、ダリオは遮った。
「いいんだ。ちょっと事情があって、僕はこの街を離れられないし、ここの仕事も、わりと氣に入っているんだ。次に、この街に来るときには、また聴きに来ておくれよ」

 チコは、「そうか」と頷いた。明日逢うことになっているライサの、《悲しみの姫君》の微笑みを思い出した。何かを諦めたかのような瞳。揺れる焰の向こうでダリオはセルベッサを飲み干した。金の腕輪がまた煌めいた。


(初出:2021年1月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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さて、これが出てきたショパンのノクターン6番です。


Frederic Chopin- Nocturne no. 6 op. 15 no. 3 in G Minor

そういえば、彩洋さんの作品には、以前書かせていただいた某チャラ男も登場しているのですけれど、今度こやつでも遊びたいなあ。ま、大道芸人たちのほうが馴染みがいいのでそっちにしたいのだけれど、実はちょっとタイムトリップなので、(ヴィルはいままだ幼児)いずれまた別の機会に!
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Posted by 八少女 夕

【小説】つーちゃん、プレゼントに悩む

scriviamo!


今年最初の小説は、「scriviamo! 2021」の第1弾です。ダメ子さんは、プランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化しているこのシリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。1年に24時間しか進まないのに、展開は早いこのシリーズ、今回、先行で書かせていただきましたが、実は24時間なんて進んでいません。合同デートのその夜の話です。どうなるんでしょうねぇ。っていうか、もともとのメインキャラ、アーちゃんを置き去りにしているかも……。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』

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つーちゃん、プレゼントに悩む - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 私は、帰宅してからずっとネットの前に陣取っている。それまでの検索履歴は、ずっと麗しい外国人モデルばかり、私のまったくお金のかからないパーフェクトな趣味に関するものだけだったのに。あ、「薄い本」つまり同人誌を作るための諸々のコストは別だけれど。

 なのに、この私が現存する(そりゃ外国人モデルだって現存しているだろうけれど、2.5次元の世界にいるから現存しないも同然だ)日本人男子学生のために、ネットショップを巡回する羽目になるとは!

 私は、ムツリ先輩が少しは喜びそうな、でも、仰々しくない、ついでにいうと動機を誤解されない程度のプレゼントを購入するというミッションを抱えている。

 今日のデートは、いや、私のデートではなくて、アーちゃんとチャラ先輩のデートに私とムツリ先輩が同行しただけだけれど、私たちの思うような方向にはなかなか行かなかった。どういうわけか、私とムツリ先輩がゲームセンターに迷い込んでしまい、『時空の忠臣蔵』っていうシュールなゲームに興じていたので、映画を見そびれてしまったのだ。

 で、その後、プリクラを撮ったり、他のゲームをしたりして、4人で色氣もへったくれもない午後を過ごした。

 ふとみたら、クレーンゲーム・コーナーがあって、ぬいぐるみがこちらを見ていた。お。これって、アーちゃんを喜ばせるチャンスをでは? そう思った私は、中でも特にカワイイぬいぐるみが入っている台のところで騒いでみた。
「きゃー、アーちゃん、これかわいいよね。欲しくない?」
アーちゃんの部屋に、こういうファンシーなぬいぐるみがそこそこ置いてあるのはリサーチ済みだ。

「うん。かわいいね。あれ? つーちゃんも、これ欲しいの?」
怪訝な顔をするアーちゃん。それも当然。そもそも私はぬいぐるみには興味はない。ロシアのイケメンの方がずっといい。そこは、スルーして「きゃー、欲しい」とだけ言っていればいいものを。

 チャラ先輩とムツリ先輩も近づいてきて、「ほお」という顔をした。
「よし。ムツリ、俺たちで取ってあげようぜ」

 げ。私はいらないよ! とはいえ、言い出しっぺなので今更いらないとも言いにくい。ああ、チャラ先輩がクレーンゲーム上手で、ムツリ先輩は下手だといいなあ。

 でも、現実はそんなに都合よくは運ばなかった。2人ともクレーンゲームはさほど得意とはなさそうだった。もちろん私がやったらもっと下手だったはず。問題は、2人ともけっこう課金しちゃったこと。もちろん、チャラ先輩の取ったピンクのウサギは、順当にアーちゃんが手にした。なんか空氣を読まないチャラ先輩は、最初私にくれようとしたんだけれど、私は急いでこう言ったのだ。
「わ。このウサギ、今日のアーちゃんの服とぴったり!」

 まだ取れていないムツリ先輩に「もういいから他のことをしませんか」と言いそびれたのは、そのやり取りがあったからだ。アーちゃんは、チャラ先輩からもらったウサギを大事に抱きしめていた。結局、直にムツリ先輩が取った緑の亀をもらうことになったのは私だった。

アーちゃんとつーちゃん by ダメ子さん
ダメ子さんからイラストをいただいてきました。このイラストの著作権はダメ子さんにあります。

 不要な課金をさせてしまった以上、なんかのお返しをしなくては、私の氣が済まない。ただでさえお茶代とかもお2人が出してくれたしなあ。っていうか、チャラ先輩とアーちゃん、そろそろ勝手にデキて、2人でデートしてくれないかなあ。

 さて。私は、ムツリ先輩の好みなんて、全然知らない。まあ、どんなチョコが好きかは、安売りチョコの交換をしたので知っているけれど、さすがにアレってわけにはいかない。

 こんな短い間に、何度もプレゼントのやり取りをしていると、周りだけでなくムツリ先輩にも誤解されそうだし、何か「これは儀礼的なお返しですから」って感じのするプレゼントってないかなあ。私は、3次元にはとことん縁のない女なので、こういうときにどうしたらいいのかがさっぱりわからない。

 ネット巡回を繰り返していると、スマホがメッセージの到来を告げる。あ、アーちゃんだ。

「つーちゃん、今日はつきあってくれて、どうもありがとう。大好きなチャラ先輩と。お茶して、一緒にゲームして、夢のような午後でした。チャラ先輩に取ってもらったウサちゃん、宝物だよぅ」

 って、その文面を、そのままチャラ先輩に送って、次につなげるのよ! って、3次元に縁のない私が、なんでこんなツッコミをしているんだか。私は、急いで返信を書く。
「それそれ。その文面をチャラ先輩に送って、ウサちゃんのお礼をさせてくださいって、1対1のデートにつなげるのよ!」

「ええっ。そんなの、無理! つーちゃんは、ムツリ先輩と、そうやってデートするの?!」
なんなのよ、この文面は。
「するわけないでしょ。私は、形だけのお礼の物品を渡して終わり。アーちゃんは、ちゃんとかわいく、先につなげてよ!」

「でも、でも! わ、私、デートなんてしたことないし、つーちゃんがいないと、どうしていいかわかんない!」
おいおい。私だってそんなことわかんないし、そもそも、そんなんじゃ生涯おつきあいなんてできないじゃない。
「大丈夫だって。今日だって、しばらくチャラ先輩と2人きりでお茶していたじゃない。アレの続きだと思えば……」

 だいたい私は、パニクるアーちゃんにつきあっているヒマはないのだ。さくっとムツリ先輩へのプレゼントの件を片付けて、美形の2.5次元を眺める日常に復帰しなくちゃいけないんだから。

 うーん、何がいいかなあ。ムツリ先輩はバスケ部だから、なにかバスケットボール関係のもの? タオルとかはどうかな。スポーツブランドの……わっ、けっこう高い。かといって、お風呂で使うみたいなもの贈るのも微妙。

 バスケ関係の書籍は……。「上手くなるためのトレーニング100」かあ。これじゃ、バスケが下手だと宣言しているようなもんか。ダメだ、これは地雷。

 面白グッズは……。バスケットボール柄のマウスパッドか。こういうのいらないよね。ほら、心にヒットして愛用されても困るし、反対にいらないモノをあげても迷惑なだけだし。

 何か、消え物ないかなあ。引越のあいさつでいう、ティッシュみたいな。誰もが必要だけれど、でも、すぐに使い切って、なくなってくれるもの。

 あっ、これは? Shoe Cleaning Wipesだって。靴のクリーナー? 携帯用の個別包装で12個セット。値段もまあまあお手頃で、クレーンゲームで使った分くらいだよね。これなら使ってなくなるし、色氣はゼロな感じだし、決定。

 私は、商品をポチって、お母さんにクレジットカードの入力を頼んだ。

「なにこれ?」
「バスケットボールの靴をきれいにするお手拭きみたいなもん?」
「あなた、バスケットボール部に入ったの?」
「ううん、帰宅部のままだよ」
「ああ、じゃあ、アーちゃんへのプレゼント? にしては、可愛くない真っ黒な商品ね」

 お母さんにいろいろ詮索されても面倒なので、この手の商品にファンシーなものはないのだとだけいって、金額分のお小遣いを渡し、なんとか購入にこぎ着けた。ああ、面倒くさい。やっぱり2.5次元を眺めている方がずっと楽だわ。

 商品がうちについて、それをさりげなくラッピングして、さらに変な感じにならないようにサラッとムツリ先輩に渡すのかあ。なんだか、障害物競走をしているみたい、はあ。

 私が、悩みまくっているのも知らず、その間もアーちゃんから、これからどうしたらいいのかを問い合わせるメッセージが、どんどんと貯まっていた。

(初出:2021年1月 書き下ろし)
関連記事 (Category: scriviamo! 2021)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと重苦しい日々

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scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第8弾です。山西 左紀さんは、今年2回目、「物書きエスの気まぐれプロット」シリーズの掌編でご参加いただきました。ありがとうございます!


 左紀さんの書いてくださった「エスの夜遊び

ご存じの方も多いかと思いますが、サキさんの「物書きエスの気まぐれプロット」にときどき登場させていただいている「マリア」というハンドルネームの友人は、当方の作品『夜のサーカス』の登場人物です。本名アントネッラというドイツ&イタリア・ハーフの中年女性で、コモ湖畔のヴィラで一風変わった暮らし方をしている人物という設定です。

サキさんが、エス関連で「scriviamo!」にご参加くださるときは、アントネッラ系でお返しするのが半ばお約束になっていますので、今回もそのパターンでお送りします。また、メカメカのお得意なサキさんがボカロの曲をモチーフに書いてくださいましたので、こちらも1つ音楽をモチーフにして書くことにしました。イタリア語の歌ですので、追記に動画と意訳ですがだいたいの意味を載せておきました。この曲、コロナに合わせて作られた曲ではありません。が、妙に符合しているので使ってみました。

……で。例によって、オチもないんですけれど、すみません!


【参考】

「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物

夜のサーカス 外伝

「scriviamo! 2021」について
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



夜のサーカスと重苦しい日々
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 アントネッラは、受話器を置くと深いため息をついた。コモ湖を臨むアプリコット色のヴィラ。彼女は、その本来は屋根裏にあたるかつての物見塔を居室兼仕事場として使っている。

 古めかしいダイヤル式の黒電話が彼女の仕事道具だ。数年前に、アナログの電話はこれからは通じなくなるので、デジタルの電話を導入しろと電話会社に言われたのだが、この電話機でないとどうもうまく仕事ができないので、結局パルス信号をトーン信号にする変換器を取り付けてもらい、無理に使い続けている。

 アントネッラは電話相談員だ。かつては大きな電話相談協会で仕事をしていたが、どうしても彼女だけに相談したいという限られた顧客がいて、このヴィラに遷る時に独立したのだ。そう、回線費用は高い。つまり相談料は安くない。けれど、なによりも「誰にも知られない」ということに重きをおくVIPたちには費用はどうでもいいことだった。

 彼女の顧客の多くは、実のところ相談をしているのではなかった。アドバイスを必要としているわけでもなかった。彼らはとにかく抱えている秘密を口に出したいだけで、アントネッラは高い相談料と引き換えにひたすら耳を傾けるのだ。

 しかし、ここしばらくの相談は、滅入るものが多い。それまでは、人の悩みも秘密も千差万別だったのだが、今はそうではない。ドイツからの相談も、イタリア国内からの相談も、基本的には同じ内容だ。家から出られない。旅行に行けない。レストランにすら行けない。閉じ込められた家庭内で不協和音が響く。隠しておきたい秘密の趣味をパートナーに知られないように、もう何か月も密かなる趣味に時間を使うことができない。

 受話器を置いて、アントネッラはため息をつく。少なくとも彼女は、閉じ込められた家庭でパートナーとの不協和音に苦しむことはない。家族などいないのだから。

 彼女の趣味である小説書きも、ロックダウンで遮られることはない。彼女に必要なのは、狭い机の上にドンと置かれた古いブラウン管ディスプレイとキーボードを備えた、古いコンピュータのテキストエディタだけだ。イタリア有数の保養地の湖畔にあるだけあって、燦々と降り注ぐ陽光もきもちよく、彼女の状況はさほど悪くない。

 だが、それでも顧客たちの不平と、先行きの不安とが、彼女を滅入らせる。そして、もともと出かけることをさほど必要としていなかったにもかかわらず、禁じられた外出が彼女にも小さな苛立ちとして降り積もっていた。

 日々の感染者数や死者を確認することもやめた。医療行政としてはその数字は大切なことだろう。だが、アントネッラにとっては、数値がどうでも同じなのだ。人口十万人あたり何人が感染して亡くなるかは確率と統計という形で提示される。だが、アントネッラ本人にとっては、病にかかるか、かからないか、もしくは、外に出られるか、できないか、それぞれ二者択一の問題だ。そして、いま以上に氣の滅入る情報を得ても、人生はよくならない。

 人びとのバラエティーに飛んだ生き様を、アレンジして小説のプロットにすることを、彼女はずっと楽しんでいたが、ここ数ヶ月はそれもちっとも楽しくなかった。自分がうんざりするものを、読まされる方はもっとつらいだろう。この世界の多くの人々が同じことにうんざりしているなんて、アントネッラの始まったばかりとはとてもいえない人生でも、初めてのことだった。

 アントネッラは、窓を開けた。まだ春というには肌寒すぎるが、コモ湖に反射する陽光は少しずつ明るさを増している。マキネットがコポコポと音を立て、エスプレッソの深い香りがあたりを満たしてくるのを、アントネッラは大人しく待った。

 いま流行のプラスチックカプセルに収まったコーヒーを放り込んでボタンを押すマシンを購入すれば、あっという間に1杯分のエスプレッソを飲めることはわかっている。そういえばあのマシンを宣伝しているハリウッドスターは、やはりコモ湖に大邸宅を持っている。はじめは鼻で嗤っていた隣人たちの多くも、粉だらけのエスプレッソメーカーが不調をきたして、何度目かの修理をすることになったあげくに、結局あのタイプのマシンを使うようになったらしい。

 アントネッラは、揺るがなかった。赤と黒に光る合成樹脂のボディーを見るだけで虫唾が走るのだ。たとえ実際に口にするエスプレッソの味に毎回揺らぎがあろうとも、ふきこぼして本来する必要のない掃除をすることになっても、頑なに銀のマキネットを愛用していた。

 同様に、ずいぶんと昔から使っているラジオも、つまみを回してチューニングをするタイプのものだ。どちらにしろ送信側がデジタルになってしまっているのだから、受信側もボタンひとつで他局に変えられるデジタル式のラジオにする方がいいと、ここを訪れる多くの人が忠告する。だが、アントネッラは、まだそうするつもりになれなかった。

 ラジオのスイッチを入れると、やはりつまみが少しずれていた。わずかに調整をしていつもの放送局を選ぶ。早口で情報を伝えるDJが語り終えぬ間に、イントロが流れてきた。これは、誰の曲だったかしらと、ぼんやりと考えていた。だが、男性の声が聞こえてきて、すぐにわかった。ティツィアーノ・フェッロ。聞き間違えようのない声だ。

 とくに低音は、不思議なざらざらとしたノイズが入る。正確な音程と伸びやかなヴォーカルに纏わり付くざらつき。好きか嫌いかを超えて、決して忘れられない声は、幾億もの遺伝子の組み合わせから偶然誕生した彼だけが持つ声帯の恩寵だ。

 ああ、そうか。アントネッラは、ひとり頷いた。彼女の友人であるエスに聴かせてもらった、ボーカロイドの歌のことを思い出したのだ。日本語だったので、歌詞はわからなかった。エスは意訳してくれたが、その真意までははっきり伝えられないだろう。アップテンポのビートのきいた曲で、失恋しつつもいまだに2人の未来を紡ごうと語りかけているらしいのだが、その様な感情は歌詞なしには伝わってこなかった。「これは宇宙ステーションで昼食のメニューを読み上げている内容」と言われたとしても、言葉のわからないアントネッラには「そうなのか」としか思えない。

 どんな音楽を好むかは、人それぞれだ。アントネッラ本人は、あまり夢中にならなかったが、父親の故郷であるドイツでは、かつて電子音楽グループのKRAFTWERKが一世を風靡した。1960年代にシンセサイザーを用いた前衛的なロックは、現在とは比べものにならぬ大きな衝撃を音楽界に与えた。彼らの斬新さと主張を理解できないほどアントネッラは旧弊した人物でもなかった。

 エスが人間の声よりも、ボーカロイドを好む理由は知らない。アントネッラの若かった頃に友人のひとりがそうだったように「シンセサイザーの音が近未来的でときめく」というような理由ではないだろう。若い世代にとってコンピューターやボーカロイドは未来ではなく、既に現実なのだから。ボイストレーニングや息継ぎなどの肉体的な制限もなければ、スタジオやギャラなどの制約もない、自由と平等さが好きなのかもしれない。それとも彼女にとって歌は楽器の一種で人間の個性は邪魔なのかもしれない。

 アントネッラが聴きたい声は、機械や機械を模して感情を押し殺した発声ではなく、その反対のところにあるものだった。

 彼女が関心を持ち書き続けている小説は、空想世界で繰り広げられる超人的な展開や斬新なアイデアよりも、むしろありきたりの自分の生活ベースに近いものを題材にしている。

 音楽や詩も、やはり生活に近いものを好む。宇宙や深海よりも地上にあるものに関心が強い。悪魔的な破壊を叫ぶヘビーメタルや、環境問題を訴えるクラウトロックよりも、カップルの間に生じる感情を歌うイタリアンポップスに心地よさを感じるのだ。

 いま耳にしているティツィアーノ・フェッロの歌は、そうしたアントネッラが馴染んでいるジャンルの音楽だった。

 人類最高ではないが、機械はもちろん、他の誰かでも決して真似のできない特別な声。感情の理解できる抑揚は、時に揺らぎ歪む。それは決して高低や大小だけではなく、2度と再現できない毎回異なる波形の中で作り出すものだ。年齢によって深くなることもあれば、やがては衰えて再現できなくなる、一瞬の発露。

 ボタンひとつで、まったく同じ正しい味が再現されるエスプレッソマシンに失敗はないが、何年も使い込んだマキネッタから注がれる粉のざらつくエスプレッソのような、複雑な苦みや旨味もない。それは待たされる時間や、数々の試行錯誤や失敗がスパイスとなって作り出す味だから。

 それにしても、いま聞こえてきている曲の内容は、先ほどの電話相談の続きのようだ。閉じ込められた鬱屈が、本来ならば支え合うはずの2人を疲弊させている。この曲は、確か数年前に発表されたものだから、現状を意識して書かれたわけではない。人々の悩みは、結局、似たようなものだということだろうか。

 世界の未来を憂えるのでもなく、社会正義を歌うのでも、手に入らない儚い愛を夢見るのでもなく、うまく処理できない重苦しい現実を見つめている。病に苦しんでいるわけでもなく、大きな破局がきているわけでもないが、世界中の多くの家庭の中で立ちこめている暗雲そのもののようだ。
 
 彼女の見慣れていた世界は、いつ、もう少し朗らかになるのだろうか。あとどのくらい、仲間たちと笑い合ってワインを傾ける程度の楽しみすらも許されない日々が続くのだろうか。

 冬の真ん中で、「明日春になってほしい」と望んでもどうにもならぬように、人々も苛立ちや重苦しさをなだめつつ、状況が変わっていくのを待つしかないのかもしれない。ボタンひとつで新しい世界に入り込むことができない代わりに、忍耐強く苦難を乗り越えた先には、なんでもない安物のワインや、あくびが出そうな電話相談ですら最高に素晴らしく思える日々が来るのかもしれない。

(初出:2021年2月 書き下ろし)

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Tiziano Ferroは多くの歌手とこの曲を歌っているのですが、こちらの動画は、Giorgiaとのデュエットバージョン。
歌詞が動画に出てくるので選んでみました。

Giorgia - Il conforto (Lyric Video) ft. Tiziano Ferro

歌詞のだいたいの意味はこんな感じです。


もしこの街が眠らないなら
私たちは2人きり
逃げられないように
私はドアをロックして鍵をあなたに渡した。

いま、私ははっきりと感じている。
ぴったり寄り添うこととと、近くにいることの違いを
それはあなたの動き方にあらわれる
この砂漠の天幕の中で

たぶん7月からの雨のせい
あるいは世界が涙を爆発させているから
もしかしたら何ヶ月も外出してないから?
あなたは疲れているのか、単に笑顔を使い切っただけなのか
両手で心の重さを量るには勇気がいる
目隠しされた目で背を向けた空を見る
忍耐、我が家、繋がり、そして、あなたの安らぎ
それは私に関係があるはず
それはなにか私に関係のあるはずのこと

もしこの街が混乱しているなら
あなたたちは2人きり
逃げられないように
私の目を閉じて、あなたに鍵を渡した
今、私にははっきりとわかっている
空間としての距離と、よそよそしさの違いが

たぶん7月からの雨のせい
あるいは世界が涙を爆発させているから
何ヶ月も外出してないから?
疲れているのか、単に笑顔を使い切っただけなのか
両手で心の重さを量るには勇気がいる
目隠しされた目で背を向けた空を見る
忍耐、我が家、勇気、そして、あなたの安らぎ
それは私に関係があるはず
それはなにか私に関係のあるはずのこと

たぶん夏の雨のせい
それとも天から私たちを見下ろす神のみわざ
何ヶ月も外出してないから?
疲れているのか、単に息をするだけで精一杯なのか
両手で心の重さを量るには蜃気楼が必要
どれほどの安らぎが、あなたと関係あるのか
どれほどの安らぎが、あなたと関係あるのか
両手で心の重さを量るには勇気がいる
そして、多くの、多くの、多すぎる愛を量るのも



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Posted by 八少女 夕

【小説】酒場のピアニスト

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scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第2弾です。大海彩洋さんは、当ブログの『黄金の枷』シリーズとのコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『【ピアニスト慎一シリーズ】Voltaste~あなたが帰ってきてくれて~ 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じだと思いますが、ピアノもその一つで、実際にご自分でも演奏なさるのです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一がPの街にお越しくださいました。そして、23がちゃっかりそのピアノを聴かせていただいたり、誰かさんに至っては、慎一御大にお遊び用のカラオケを用意させるというような申し訳ない事態になっています。ひえ〜。

お返し、どうしようか悩んだのですけれど、インファンテやインファンタが直接慎一たちに絡むのは、かなり難しいこともあり(とくに慎一、ただの日本人じゃなくてヴォルテラ家絡みですしねえ)、ちらっと名前だけ出てきた方を使わせていただくことにしました。時系列では、ちょうど連載中の『Filigrana 金細工の心』とだいたい同じ頃、つまり彩洋さんの書いてくださった作品の「8年前」から1、2年経ったくらいの頃でしょうか。

そして、それだけでなく、彩洋さんの作品へのオマージュの意味を込めて、ショパンの曲をあえて使ってみました。そのキャラ、彩洋さんの作品にサラッと書いてあった感じではショパン・コンクールを目指したかった……みたいな感じだったので。

さて。もう1人のキャラは、連載中の『Filigrana 金細工の心』の未登場重要キャラです。またやっちゃった。どうして私は、隠しておけないんだろう……。ま、いっか、別にものすごい秘密ってわけじゃないし。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物


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酒場のピアニスト
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 電話を終えると、チコはゆっくりと歩き出した。Pの街は久しぶりだ。以前来たときよりも観光客向けの洒落た店が多くなっている。そうなると途端に値段がチコ向きではなくなる。彼は、裏通りに入って、見かけは単純だが、そこそこ美味しくて彼の財布に優しい類いの店を探した。

 どこからかファドが聞こえてくる。観光客向けのショーらしい。看板が目に入った。ファドとメニューのセットの値段が、派手な黄色で走っている。それを眺めながら通り過ぎようとして、もう少しで誰かとぶつかりそうになった。

「失礼」
チコが謝ると、青年は「いいえ、こちらこそ」とブツブツ言いながら、ファドのレストランに入っていった。扉を押すときに左手首に金の細い腕輪が光った。

 金メッキの腕輪など珍しくもなんともないが、チコはとっさに彼の《悲しみの姫君》のことを思い出した。チコは、厳密には彼女が金の腕輪をしているのを見たことはない。彼女が腕輪の話をしたことも、1度もない。腕輪の話をしたのは、彼女の妹、チコたちの仲間から《陽氣な姫君》とあだ名をつけられたマリアだ。

「みて、ライサの左手首」
潮風に髪をなびかせながら、マリアはそっとチコに囁いた。オケの同僚であるオットーやジュリアたちと、姉妹の特別船室に招かれて、小さなパーティーのようなことを繰り返していたある夕暮れのことだった。

 一介のクラリネット吹きであるチコが、特別船室に足を踏み入れることなど、本来なら考えられないのだが、華やかな社交に尻込みして部屋から出たがらないライサのために、姉の唯一興味を持った楽団のメンバーたちをオフの晩にマリアが招き入れるようになったのだ。

 女性の装身具などには全く詳しくないチコは、言われるまでまったく目に留めたこともなかったのだが、ライサの左手首には何かで線を引いたような細い痕があった。
「あれね。腕輪の痕なの。日焼けせずに残った肌の色」

 おかしなことを言うなと思った。腕時計をしなくなった人に、そういう痕が残ることは知っているけれど、しばらくすればそこもまた日に焼けて目立たなくなるものだろう。マリアはそんなチコの考えを見過ごしたかのように微かに笑ってから続けた。
「私の記憶にある限り、常にライサには金の腕輪がつけられていたの。子供の頃からずっと」
「つけられていた? つけていたじゃなくて?」

 マリアは、じっとチコを見て、区切るようにはっきりと言った。
「つけられていたの。金具もないし、自分では、絶対に取れない腕輪よ。ねえ、チコ。どうして私たちがこんな豪華客船で旅をできるのか、知りたいって言ったわね。私も知らないけれど、でも、1つだけはっきりしていることがあるの。それは、あの腕輪をつけたり外したりできる人たちが、払ってくれたのよ」

「ライサは、それが誰だか知っているんじゃないかい? 自分の事だろうし」
「もちろん、知っていると思うわ。でも、あの子は絶対に言わない。言わせたところで、あの子が救われるわけでもないの。でもね、チコ」
「うん?」
「外してもらった腕輪は、まだあの子を縛っているんじゃないかなって」
「それは、つまり?」
「あの子は、はじめてパスポートをもらったの。クレジットカードも。こんな豪華客船の特別船室で、世界中の珍しいものを見て回って、美味しいものを食べて、好きなものを買える立場にいるの。でも、彼女の心は、Pの街の、私の知らないどこかに置き去りになっているみたい」

「彼女が、とても淋しそうなのは、わかるよ。僕に、『グラン・パルティータ』を吹いてほしいって頼んだとき、たぶん彼女は何かを思い出して、その場所を懐かしんでいるんだろうなと思ったし」

 その場所は、おそらくこのPの街にあるのだろう。3か月の船旅の後、姉妹はこの街に戻った。マリアは元働いていた銀行でバリバリと活躍しているらしい。ライサが今どうしているかは……。チコは、そこまで考えてわずかに微笑んだ。明日、彼女と会える。その時に、いろいろな話をしよう。

 豪華客船の楽団メンバーの仕事は、本来旅の好きだったチコには合っている。もちろん、学校を出たばかりの頃は、室内楽や交響曲だけでなく、ビッグバンドの真似事やジャズまでもまとめてやることになるとは思わなかったけれど、最近は、それもさほど嫌だとは思わなくなっている。

 長い航海が嫌だと思ったことはこれまではなかったけれど、今回だけは別だった。この国から遠く離れているうちに、ライサが新しい人生をはじめて、彼のことなど記憶の果てに押し流してしまうんじゃないかと思っていたから。でも、マリアのあの口ぶりでは、ライサはいまだに引っ込み思案で、友だちらしい友だちも作らずにいるらしい。僕にももしかしたらチャンスがあるかもしれない。

 近くに寄ったついでというのは、口実だときっとマリアにはバレているんだろう。でも、そんなこと構うものか。

 彼は、そんなことを考えながら、数軒先に見つけた手頃そうな店で食事をすることにした。テーブルワインと前菜の干し鱈のコロッケパステイス・デ・バカリャウを食べているとドアが開いて、誰かが入ってきた。チコは、はっとした。それは先ほどぶつかった青年だったからだ。

「よう。ダリオ。今日は出番の日かい」
奥からオヤジが声をかけた。

「ああ。ファド・ショーが中止になったから、急遽弾いてほしいって。おじさん、僕にもメニュー、おねがいします」
そう答えると、ダリオと呼ばれた青年は、狭い店内のチコの斜め前に座り、軽く会釈をした。

「ああ、同業者でしたか。僕、クラリネットなんです。あなたは、ええと」
チコが、声をかけると青年は「ピアノを弾きます」と小さく答えた。

「あそこ、ちょっと高そうでしたが、飲み物だけで入るのって、無理かな」
そう訊くと、青年は首を振った。
「ファドの日じゃないし、文句は言われないですよ。そもそも、セットメニューは、英語しか読めない観光客用ですし」

 それから、肉の煮豆添えが出てくるまでの間、2人は軽く話をした。
「じゃあ、以前はあの交響楽団にいたんですね。子供の頃テレビでチャイコフスキーの協奏曲第一番を見ましたよ。大人になったら、ああいう舞台で弾きたいって、弟に大言壮語していたっけ」
ダリオは、少し遠くを見るように言った。

 観光客や酔客相手に演奏する、日銭稼ぎのピアニストであることを恥じているんだろうか。大きな交響楽団をバックにソリストとして活躍するほどのピアニストになるのは、大変な努力の他に大きな才能も必要だ。才能と幸運の女神は、誰にでも微笑むわけではないことを、チコ自身もよく知っている。
「子供の頃は、僕もずいぶん大きな口を叩いていましたよ」

 ダリオは、多くを語らずに食事を終えた。チコは、ダリオと一緒に、先ほどの店にいった。暗い店内は、ファドでないせいかさほど観光客がおらず、かなり空いていた。チコは、セルベッサを頼んで、ピアノの近くに座った。

 ダリオは、センチメンタルな典型的なバーのジャズピアノ曲を弾いていた。客たちは聴いているのかいないのかわからない態度で、ピアニストの存在は忘れられている。チコは、ダリオが手首を動かす度に、ライトを受けて腕輪が光るのをぼんやりと眺めていた。

 彼が夢見ていた音楽と、これは大きな違いがあるのかもしれない。誰もが夢中になって聴くソリストと、存在すらも忘れられる心地よいムード音楽。主役は、食べて飲んでいる客たちの時間。目の前に揺れて暗闇に浮かび上がるロウソクの焰。セルベッサのグラスに走る水滴。

 チコの仕事も、あまりそれと変わらないときもある。それでも、船の上のシアターで行う演奏会の時は、熱心に聴いてくれる客がいる。ライサのように、彼らの音色が聴きたくて通ってくれた人がいる。ダリオは、どんなことを思いながらこの仕事を続けているんだろう。

 しばらく、ムードジャズを弾いていた彼は、ちらっとチコを見ると、ゆっくりと短調の曲を弾き出した。あ、ショパンだ。なんだっけ、これは。あ、ノクターンの6番か。映画『ディア・ハンター』で演奏されていたから、強引に映画に出てきた音楽ですと言い張ることもできるけれど、きっとこれは僕がいるからクラシック音楽を弾いてくれたんだろうな。

 彼の感情を抑えた指使いが、静かに旋律を奏でる。装飾音も少なく、単純な右手の響きが繰り返される。数あるノクターンの中でも演奏される機会が少ないのは、演奏会などで弾くには華やかさが足りないからなのかもしれない。暗闇の中で焰を揺らすのに、これほど似合うことを、チコは初めて知った。

 氣がつくと、騒いでいた客たちは黙って、ダリオの演奏に耳を傾けていた。ダリオは、後半でわずかに強い想いを込めて何かを訴えかけたが、転調してからはまるで諦めるかのようにコーラル風の旋律を波のように繰り返しながら引いていった。焰も惑うのをやめた。

 曲が終わった後の休止。チコは、手を叩いた。それに他の客たちもわずかに続いたが、ダリオがわずかに頷いてすぐに再びムードジャズに戻ると、また忘れたようにおしゃべりに興じた。

 彼が、ピアノの譜面台を倒して立ち上がったときも、それに目を留める客は多くなかった。チコは、再び手を叩くと、ダリオを彼の前に座らせた。
「素晴らしかったよ。とくに、ショパン。君、さっきはずいぶん謙遜していたんじゃないかい?」

 ダリオは、はにかんだ笑いを見せると答えた。
「そんなことはないよ。でも、ありがとう。聴いてくれる人がいるっていうのは、嬉しいものだな」
「今からでも遅くないから、就職活動をしたらどうかな? 少なくとも僕の乗っている船でだったら、ソリストとして活躍できると思うよ。他にも……」

 チコの言葉を、ダリオは遮った。
「いいんだ。ちょっと事情があって、僕はこの街を離れられないし、ここの仕事も、わりと氣に入っているんだ。次に、この街に来るときには、また聴きに来ておくれよ」

 チコは、「そうか」と頷いた。明日逢うことになっているライサの、《悲しみの姫君》の微笑みを思い出した。何かを諦めたかのような瞳。揺れる焰の向こうでダリオはセルベッサを飲み干した。金の腕輪がまた煌めいた。


(初出:2021年1月 書き下ろし)

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さて、これが出てきたショパンのノクターン6番です。


Frederic Chopin- Nocturne no. 6 op. 15 no. 3 in G Minor

そういえば、彩洋さんの作品には、以前書かせていただいた某チャラ男も登場しているのですけれど、今度こやつでも遊びたいなあ。ま、大道芸人たちのほうが馴染みがいいのでそっちにしたいのだけれど、実はちょっとタイムトリップなので、(ヴィルはいままだ幼児)いずれまた別の機会に!
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Posted by 八少女 夕

【小説】辛の崎

今日は「123456Hit 記念掌編」の第5弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、ダメ子さんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: 成長
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: 高橋瑠水
   コラボ希望キャラクター: ダメ子さんのオリキャラ
   時代: 現代
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 大人の女性


ダメ子さんのところからは、定番でダメ家3姉妹をお借りしました。特に、今回はダメ奈お姉さまに女子大生らしい知識を披露していただくことにしました。

さて、リクエスト内容から考えると、たぶんちょっと違ったイメージの作品を期待なさっていらっしゃるんじゃないかと思うんですよね。でも、あえてこんな感じにしてみました。それと、今回は大阪から離れてみました(笑)


【参考】
「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物



樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero・外伝
辛の崎


 澄んだ深い青だった。どこまでも続く日本海は息を呑むほど美しい。
「こんな見晴らしのいいところがあったのね」
瑠水は、真樹を振り返った。

「登った甲斐があっただろう?」
彼は、笑いかけた。
 
 駐車場にYAMAHAを停めて、10分ほど登ったところに石見大崎鼻灯台はあった。坂道や階段が続いたので、瑠水は少し息切れしている。真樹は2人分のヘルメットとバイクスーツの上着を持って来たにもかかわらず、息が上がった様子もないので、瑠水は少しだけ悔しかった。

 瑠水は、真樹とタンデムで出かけるようになってから、いろいろなところに連れて行ってもらっている。かつては、住む奥出雲樋水村と、出雲にある高校をバスで往復するだけだった。道草をしているときにたまたま知り合った生馬真樹は、誰もいないところでクラシック音楽鑑賞をする瑠水の周りにはいなかったタイプの友だちだ。バイクに乗せてもらい、クラシック音楽を聴くのが大好きになった瑠水は、よく週末に一緒に出かけるようになった。

「次はどこへ行くの?」
先々週、瑠水はまた連れて行ってもらえると期待して訊いた。すると彼は、少し困ったように答えた。
「少し遠くへ行こうと思っているんだ。お前も来たいなら、ご両親の許可がいるな」
「泊まり?」

 彼はギョッとした顔をしてから言った。
「まさか! 100キロちょっとだから、日帰りだよ。でも、朝はいつもより早く迎えに来るよ」

 暗くなる前に帰ってくる約束をして、瑠水は今日のドライブについてくることができた。江津市に足を踏み入れるのは初めてだった。

「すみませ〜ん」
後ろからの声に振り向くと、3人の女性たちが登ってきていた。
「灯台、今日登れますか?」

「いや。灯台の中は、灯台記念日にしか公開しないから」
真樹が答えると、どうやら都会からわざわざやって来た3人はがっかりしたようだった。

「もう、リサーチ不足だよ。ここまで来たのに」
3人は姉妹のようだ。顔がとてもよく似ている。一番年上に見える女性が言った。

「でも、灯台に登らなくても、ここからの眺めもなかなかだよ」
灯台の足下のテラスからは、絶景が広がっている。真樹と瑠水は、3人が景色を堪能できるように少し脇にのいた。3人は礼を言って景色を見ながら写真を撮った。

「ここ、バイカーには有名なの?」
瑠水は、真樹に訊いた。
「どうだろうな。ものすごく有名ってわけではないかもしれないな」
「こんなに絶景なのに? じゃあ、どうやって知ったの?」

 彼は笑った。
「去年の12月に、その先の都野津つのづ 柿本神社に仲間内でお詣りに来たんだ。その時にこの灯台のこと聞いて、一度バイクの季節に行ってみたいなと思ったんだよ」

「こんな遠くにお詣りにきたの?」
「そうだね。歳によって違うけれど、ときどき高津柿本神社にも行くよ」

 全国に存在する柿本人麿命を祀る柿本神社の本社とされる高津柿本神社は、ここよりさらに100キロほど西に行った益田市にある。  

「わざわざ柿本神社にお詣りするのね」
「うん。人丸さんには火防の御利益もあるから、ときどき仲間でお詣りするんだ」
真樹は消防士だ。

「防火の神様なの?」
「うん。『人麿ひとまる 』が『火止まる』に通じるから」

「柿本人麻呂って、益田市にいたの? それともここ?」
瑠水は、そもそもいつの人だったかしら、などと考えながら訊いた。

「さあ。俺はあまり古典には詳しくないからな」

 すると、先ほどから2人の会話が氣になっていた風情の、3人姉妹の次女と思われる女性が、ためらいがちにこちらを見た。
「えっと……石見の国府があったのは浜田市だそうです。7世紀のことだから、はっきりとわかっているわけではないんですが」

「お姉ちゃん! 知っているの!」
瑠水と同い年くらいのおかっぱの女性が小さな声で言った。
「ええ。大学の古典の授業で、わりと最近、柿本人麻呂についてやったんだもの。それで、ここに来てみたくなって……」

「そうなんですか」
「さっきお話に出ていた都野津柿本神社は、人麻呂と奥さんの依羅娘子よさみのおとめ が暮らしていたという伝承があるそうです。そして、万葉集に収められている長歌に出てくる辛の崎からのさき も、ここだという説が最有力なんです」

「辛の崎?」
首を傾げる瑠水に、真樹は笑った。島根県人なのに、都会の女子大生に何もかも教えてもらっているのがおかしかった。

 高官としてその名が史書に残っていない柿本人麻呂は、政治犯として死罪になったのではないかという説もある謎の人物である。しかし、史書に名前はなくとも、その歌が後世に与えた影響は無視できず、歌聖と呼ばれ『万葉集』には、80首も採用されている。後には、正一位が贈位され「歌の神」となった。

 その人麻呂が残した多くの万葉歌の中で、ひときわ叙情的で格調高い石見相聞歌は、石見の地で最後の妻になったといわれる依羅娘子よさみのおとめとの間に交わされたもので、日本の和歌史上、初めて個の叙情を歌ったものと言われている。そして、江津周辺の地名がいつくか歌枕として詠みこまれている。

「駐車場に歌碑があっただろう? あれは、ここがその辛の崎だという説を発表した万葉学者の揮毫きごう だそうだ」

 角障經 石見之海乃 言佐敝久 辛乃埼有 伊久里尓曽
  つのさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる 海石にぞ
 深海松生流 荒礒尓曽 玉藻者生流
  深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふる
 (石見の海の辛の崎にある海の岩には、海草が生い茂り、荒磯にも藻が生い茂っている)


「そうなの。ってことは、柿本人麻呂とその奥さんも、この光景を見たかもしれないわね」

 3人の女性たちが、礼儀正しくあいさつをして去って行った後、瑠水は、もう1度テラスの先に進み、柿本人麻呂が見たと思われる光景を堪能した。

「屋上山こと宝神山。高角山こと鳥の星山。そして、角の浦に、角の里」
柵にかけられた案内板と実際の光景を見比べていブツブツ言っている様子を、真樹は楽しそうに見守った。

「ああ、本当にきれいね。あんな遠くまで真っ青な海が続いているのね」
「そうだな。あの時代には、旅をするのは大変だったろうし、その度に今生の別れかもしれないって思ったんだろうね」

「え。そういう歌なの?」
「そうだよ。上京するときに、奥さんとの別れを惜しんだ歌、それに、逢えずに亡くなった人麻呂を思う彼女の歌も『万葉集』にはおさめられているんだってさ」
「そうなの。昔は、大変だったのね。100キロくらい、バイクで簡単に日帰りできる時代に生まれてよかったわね」

 そう言って無邪氣に笑う瑠水に、真樹は本当にその通りだと思って頷いた。

* * *


 また灯台までの坂道を登るのは、思いのほか骨が折れた。あの日はなんともなかった10分程度の登り坂を、真樹は30分ほどかけた。事故で上手く動かなくなった左足を引きずりながら歩いたせいでもあるが、おそらくそれだけではなかった。あの日の眩しい思い出を噛みしめていたからだろう。

 いい陽氣で、空は高い。海は凪ぎ、優しい風が吹いている。

 あの日、俺は瑠水といつまでも側に居ると、心のどこかで思っていた。成長するのは瑠水で、自分はそれを待っているだけだと思っていた。たとえ日常生活で、いくらかの物理的な距離が間に置かれても、愛車 XT500で飛ばせば、簡単にその距離を縮めることができると思っていた。

 彼は、もう消防士ではなく、「火止まる」御利益を求めて柿本神社にお詣りすることはなくなった。そして、瑠水は遠い東京にいる。遠出をするのに親の許可が必要だった高校生ではなく、自立した大人の女性としてひとり立ち、自身の人生を進めていることだろう。

 事故が起きたとき、彼の人生は終わったと思った。瑠水が彼を拒否して東京に去ったショックが、事故を引き起こした不注意の要因だったことは否めない。だが、それで彼女の人生を縛り付けることはしたくなかった。だから、彼は瑠水にはなにも知らせなかった。

 そして、本当にそれっきりになってしまった。彼女にとっては、もう終わったことなのだろう。たぶん、俺にとっても……。なのに、まだ忘れられないとは不甲斐なさ過ぎる。あの3年間に捕らえられ、失ったものを思い続ける、成長しないのは自分の方だったらしい。そう思いつつも、ここに来て思い出すのは、やはりあの日のことだ。

ただ の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ(万2-225)
(直接お逢いすることはかなわないでしょう。せめて石川のあたりに雲が立ち渡っておくれ。それを見ながらあの人を偲びましょう)


 都に着いていくことのできなかった依羅娘子が人麻呂を想い嘆く歌を読んだとき、人麻呂とは違い自分には逢いに行ってやる手段も氣概もあると思っていた。まさか、自分の方が、遠く東京にいる瑠水を想い、その山が退けば彼女のいる地を望めるのではないかと願うとは考えもしなかった。しかも、相聞歌にもなりはしない、ただの未練だ。

 時代や科学技術だけでは、越えられないものがある。それは、万葉の時代も今も同じなのだ。そして、人の心もまた、千年ほどでは簡単には変わらない。

 柿本人麻呂の詠んだ石見の海を眺めながら、彼は間もなくやってくるまたしても1人の冬を思い立ち尽くした。

この道の 八十隈やそくま ごとに よろず たび かへり見すれど いやとほ に 里はさか りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひしな えて 偲ふらむ 妹がかど 見む なびけこの山(「万葉集」巻2 131 より)
この道の曲がり角、曲がり角ごとに幾度も振り返って見るけれど、いよいよ遠く、妻のいる里は離れてしまった。 いよいよ高く、山も越えて来てしまった。 妻は今頃は夏草が日差しを受けて萎(しお)れるように思い嘆いて、私を慕っているだろう。 その妻のいる家の門を遥かに見たい、なびき去れ、この山よ。



(初出:2020年10月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

とりあえず末代 2 馬とおじさん

今日は「123456Hit 記念掌編」の第4弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、limeさんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: ときめき
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: 誰か
   コラボ希望キャラクター: limeさんのオリキャラ
   時代: 現代
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 馬


limeさんのところには魅力的なオリキャラがたくさんいるのですけれど、迷ったあげくにこちらの作品から(よりにもよってその人を!)お借りすることにしました。この方、大好きなんですもの。
 『凍える星』おまけ漫画『NAGI』−『寒い夜だから』

で、私の方のキャラも、limeさんにご縁のある子たちを連れてきました。「scriviamo! 2018」で、limeさんのお題から生み出した「とりあえず末代」という作品から中学生悠斗と猫又の《雪のお方》です。



とりあえず末代 2 馬とおじさん

『リュックにゃんこ』 by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。


 この夏休み、僕の最大のイベントは、もちろんはじめての大阪ひとり旅だ。ひとり旅……のつもりだったけれど、例によってお目付役が同行している。静岡の従姉を訪ねるのと違って、頼れる人もいないところに行くのだから心配なのは分かるけれど、クラスメートたちの中には、ひとりで飛行機に乗った子だっているのにな。ともあれ、猫又は人じゃないし、ひとり旅だということにしておこう。

 僕は、伊藤悠斗。旧家というほどではないけれど、少なくとも元禄時代から続いている伊藤家の長男だ。家系図もないのになぜそんなことが分かるかというと、伊藤家の跡取りには猫又が取り憑いているからだ。

 一見、白い仔猫にみえる《雪のお方》は、元禄の初めにご先祖の伊勢屋で飼われていたそうだ。20歳まで生きて無事に猫又になったんだけれど、跡取り長吉に祝言をあげるという口約束を反故にされて、怒りのあまり「末代まで取り憑いてやる」って誓いを立てちゃったんだって。で、僕は当面、伊藤家の末代なので《雪のお方》にロックオンされているってわけ。

「妾はそろそろお役御免になりたいのじゃが、伊藤家断絶まではなんともならぬ」
そういいながら、僕たちが絶対に切らさないように用意させられているイタリア産の最高級エクストラ・ヴァージン・オリーブオイルをなめるのだ。

 僕が大阪に行くことになったきっかけはこうだ。夏休みの宿題の1つに「したことのない戸外活動」がある。アルバイトやボランティア、それに旅行などをして、その経験をリポートするのだ。「ひとり旅」そのものは、もうやってしまっていたので、何かいい夏休み限定の経験がないかなとインターネットで探していたら、目に入ってきたのが乗馬スクールを運営しているとある財団のサイトだった。体験乗馬プランというのがあって、覗いてみたら「1日1名さま限定、体験乗馬ご招待」と書いてある。当たると思わずに申し込んだのだけれど、まんまと当選してしまったというわけ。

 事後報告で父さんと母さんに、大阪行きを懇願したら、許可して旅費を出してくれる条件として、《雪のお方》に監督してもらうことと言い渡されてしまった。僕も《雪のお方》との旅行は好きだからいいけれど。

「そろそろ着くかな」
僕は、車窓を見た。東海道新幹線のぞみ号にひとりで乗っているのって、まるで夢みたいだ。残念なのは、あっという間だったこと。だって、《雪のお方》が周りの人の注目を集めすぎて、話しかけられてばかりいたんだもの。

 新横浜で新幹線に乗り込んで以来、《雪のお方》ったら、しょっちゅう駅弁の箱に前足をかけて、指示をする。

 自宅だったら「その唐揚げを妾が毒味して進ぜよう」とかはっきりと口にするんだけれど、今は仔猫のフリをしているので「みゃーみゃー」とかわいらしくいうだけだ。
「えっと、この佃煮? 卵焼き? それとも、唐揚げ?」
なんて質問を、僕が反応を確かめつつしていると、隣や前後の人が満面の笑みで話しかけてくる。
「まあ、かわいい猫ちゃんねえ」

 その人たちからちゃっかり魚やシウマイをせしめた上に、名古屋で入れ替わった隣の人からは、天むすと松阪牛まで手に入れた《雪のお方》の人誑しっぷりには感心する。おかげで、僕、越すに越されぬ大井川も、うなぎの浜名湖も、木曽義仲ゆかりの木曽川も、ついうっかり見そびれちゃったじゃないか。

 もうじき着くと分かったのはその2人目のお隣さんが慌ただしく支度をして降りていったからだ。
「おお、あっという間に着いたね。じゃあね、悠斗くんと雪ちゃん」

 人好きのするおじさんで、まん丸の顔にちょんとついた鼻がちょっぴり赤い。僕が、今回のひとり旅についてする説明をずっと優しく聞いてくれた。体験コースのパンフレットを見せたら、どうやって行けば新大阪駅から馬場に楽にたどり着けるかの説明までしてくれた。

 おじさんの去った駅の表示板を見ると、なんと京都だった。ええっ! 僕まだお弁当食べ終えていないのに。そのお弁当は、すっかりベジタリアンモードになっていた。《雪のお方》が動物系タンパク質をことごとく食べてしまったからだ。ねえ、猫又は何も食べなくてもいいって、普段は油しかなめないのに、なんで? 首を傾げながら、食べ終えると、降りるために荷物をまとめた。

 泊まるホテルは、新大阪駅のすぐそば。父さんがいうには、大阪の中心の梅田は迷路みたいになっていて絶対に迷うから、子供が荷物を持ってウロウロするのは無理らしい。それに、明日の体験乗馬をさせてくれる馬場は豊中市にあって、梅田とは反対側なんだって。僕は、わりとすぐにホテルにたどり着きチェックインをした。荷物を置いたらすぐに遊びに行きたい。

「明日の準備をしてから遊びに行く方がいいのではないか」
《雪のお方》は、荷物を置いてすぐに出ようとした僕に釘を刺した。
「大丈夫だよ。手袋はこのリュックに入っているし、後は何もいらないもの。それよりも早く行かないと暗くなっちゃうよ」
両親との約束で、出歩くのは日暮れまでと決まっているのだ。

 《雪のお方》は慣れたものでリュックの外側のポケットに自分からおさまった。僕はカードキーをポケットにしまい、颯爽と市内に向かう。大阪メトロ御堂筋線。大変って言うけれど、普通に乗れるじゃん。僕は余裕で新大阪駅を後にした。

 梅田には5分くらいでついた。道頓堀に行きたいのだからなんばに直接行けばいいのだけれど、スマホのケーブルを買いたくて家電量販店が駅前にあるという梅田で途中下車したのだ。持ってきたケーブルは、新幹線の中で《雪のお方》のお方がじゃれついて傷つけてしまった。

 どの改札から出ればいいのかわからなかったけれど、とにかく一番近いところを出たら、『ホワイティうめだ』というところに行き着いた。家電量販店の場所を訊いたら「ここからだと難しいねぇ。北出口から出ればよかったのに」と言われてしまった。いったん百貨店を経由手して大阪駅にでて、連絡橋口というのを目指すのがいいかもしれないとアドバイスを受けた。

 それにしても、商店街には美味しそうな店がたくさん並んでいる。駅弁を食べ終えたばかりだから我慢しようと思ったら、《雪のお方》が「みゃーみゃー」と騒ぎ出した。やっぱり食べたいのか。無視して百貨店の中に入った。

 なんだかメチャクチャいい匂いがしてきたと思ったら、あの『552』ってナンバーのついているお店だった。新幹線で持ち帰るのは難しそうだし、ホテルに持ち込むには勇気のいる匂いだし、食べたくてもずっと我慢していたのだ。ところが、そこは販売しているだけでなくイートインコーナーまである。そういうわけで、《雪のお方》だけでなく僕も我慢ができなくなってしまった。

 晩ご飯は、ここに決定だ。焼きそばに、豚まんとしゅうまいをつけて食べることにする。あれ、《雪のお方》は、昼もシウマイ食べたっけ、まあ、いいか。猫がカウンターでさらに手を伸ばしていたら、もちろん注目の的になる。

「おや、猫ちゃんかいな」
飲食店にペットを連れ込んじゃだめって怒られるかな。そう身構えたけれど、お店のお兄さんは、笑って言った。
「ほんまはアカンのやけど、カワイイ猫は正義っていうしな。見なかったことにするわ」
《雪のお方》は小さな声で「なかなか見どころのある若人じゃ」と呟いた。

 そんな風に寄り道をしていたので、家電量販店に行くべく連絡橋に出たら、なんともう暮れかかっていた。しまった。約束の夕暮れになってしまったので、道頓堀に行くのは無理だ。夕ご飯も食べちゃったから、いいけれど。結局、ケーブルだけを購入してすごすごとホテルに戻ることになった。

 そして、朝が来た。スマホに保存しておいた地図を頼りに、昨日乗った御堂筋線を反対方向にちゃんと乗り、僕は体験乗馬に間に合うように馬場にたどり着いた。

 入園の窓口で名前を言うと、お姉さんがこう言った。
「はい。では、お送りした確認書をお願いします」
ああ、そうだった。それは、チラシと一緒にリュックのこのポケットに入れたはず……あれ?

 昨日、新幹線の中でも見たし、絶対にあるはずなのに、どうしてないんだろう。まさか、ホテルに置いてきたってこと? でも、スーツケースに移したりしていないのに、どうして?

「明日の準備をした方がいいのではと、言ったであろう」
そう言いたげな目で、《雪のお方》はじっと見つめ、係員の女の人も怪訝な顔で見つめている。僕は真っ赤になって、リュックの中身を1つ1つ取り出しながら確認書を探した。

「ああ、いた、いた。伊藤悠斗くん!」
後ろから、声がして僕たちは全員そちらを見た。

 そこにいたのは、昨日、京都で降りていったまん丸顔のおじさんだ。あれ、なんでここに?

 おじさんは、白いハンカチで額をふくと、背広の内ポケットから、4つに折りたたんだ白い紙を取りだして、僕に渡した。
「これが、昨日持っていた紙袋に入っていたんだ。きっと、ここのチラシを見せてくれたときにでも落ちて紛れちゃったんじゃないかな」

 それは、いま必死で探していた『体験乗馬ご招待当選確認書』だった。そういえば、このおじさんと話したり、チラシを見せたり、《雪のお方》が唐揚げに手を出しているのを止めたり、あれこれ同時にやっていたような。
「ありがとうございます。届けに、わざわざここまで来てくれたんですか?!」

 おじさんは、にこにこ笑いながら頷いた。
「昨日のうちに届けに行けたらよかったんだけれど、京都から帰ったのが遅くてね。それも、ちょっと部長に誘われて飲んでから帰ったもんだから、入っていたこと知らないまま寝ちゃったらしい。母さん……いや、うちの奥さんが名古屋みやげの袋に入っていた、これ今日だけれど大丈夫なのかって、見せてくれたのでびっくりして持ってきたんだ。どっちにしても今日は午後からの出勤だし」

「わあ、ありがとうございます。僕、もうちょっとで体験乗馬できなくなるところでした」
「時間もあるし、せっかくだから、迷惑でなかったら、悠斗くんと雪ちゃんの乗馬、見ていこうかな」
おじさんは、にこにこして売り場でお財布を取り出した。やり取りを見ていた売り場のお姉さんは手を振った。
「あ、保護者等の方、1名までは見学無料なので、そのままどうぞ」

 おじさんと一緒に園内に入ると、早速貸してくれる装具を合わせるところに連れて行かれた。ヘルメット、ブーツ、それにエアバッグベストを身につけて、これから乗馬するんだって氣分が盛り上がってくる。僕のリュックと《雪のお方》は、おじさんが一緒にベンチで見ていてくれることに。そういえば、《雪のお方》をどうするか考えないでここまで来ちゃった。

 それから馬にご対面。
「今日、悠斗くんが乗るのは、アキノコスモス号です。あいさつしてください」

 茶色い馬はとても優しい目をしている。馬が突然お辞儀をしたので僕も深くお辞儀をした。そうしたら、歯を出してはっきりと笑った。それから鼻先を前方に出してきて、あっという間に僕の鼻にタッチしてしまった。
「あらあら、ご機嫌ね。いきなり首やお腹を触ったりすると、嫌がられるので、まずはゆっくり手の甲でさっき触れた鼻先を撫でてみて」
 
 僕は、しばらくアキノコスモス号を撫でて、それから助けてもらって背中に乗せてもらった。わ、高い! アキノコスモス号は急に頭を低く下げた。見ると目の前に《雪のお方》が来ている。
「え。来ちゃったの!」

 《雪のお方》はすまして、小さな声で「みゃー」と馬に話しかけた。馬はすっと頭をもっと低く下げ、その瞬間に《雪のお方》は馬の頭に飛び乗った。係員のお姉さんはびっくりして「まあ」と言った。そして、結局《雪のお方》ったら、僕の体験レッスンの間中、ずっとそこに居続けたんだ。

 レッスンは楽しくてあっという間だった。係員のお姉さんがついていてくれてだけれど、僕はアキノコスモス号と一緒に歩いたり、停まったりできるようになった。それどころか、ベンチのおじさんに手を振る余裕もできた。

 昼前にレッスンが終わり、降りておじさんのところに向かうと、おじさんはニコニコ笑って僕のスマートフォンで撮ってくれた写真をあれこれ見せた。
「この写真、おじさんももらってもいいかな。悠斗くんも、雪ちゃんも、馬さんもみなこっちを向いていてかわいいんだ。母さんに見せたいし」
「もちろん。おじさん、LINEかメール教えてくれる?」

 おじさんは、LINEのアドレス交換のやり方を知らなかったけれど、アプリは入っていた(奥さんからのメッセージだけがたくさん入っていた)ので、奥さん以外で初めてのLINE友達になり、写真を送った。ついでにおじさんが《雪のお方》を抱っこしているところの写真も撮って送ってみた。

「やあ、うれしいね。これね、おじさんの初めてのスマホなんだ。せっかくだから、いい写真でいっぱいにしたくてね。魂の非常食のつもりで」
「なんですか、それ?」

 おじさんは、はっとして、それから恥ずかしそうに頭をかいた。
「そうだよね、わけがわからないよね。請け売りなんだ。母さんは、よく宝塚歌劇団に行くんだけれど、『贔屓に逢うトキメキは、魂のご飯』っていって、贔屓の写真をたくさんスマホに保存しているんだ。で、魂の非常食っていって見せてくれるんだ」

 へ、へえ……。
「そういうものなのかなって思ってたけれど、昨日、悠斗くんに雪ちゃんと遊ばせてもらったら、そのことがようやくわかったよ。ちょっとの時間だったけれど、疲れも取れてすっかり癒やされてね」

 その後、おじさんと一緒にお昼ご飯を食べることになった。昨夜は何を食べたのかという話になったので、『552』のイートインコーナーの話をしたら、嬉しそうに目を細めた。
「それはいいところを見つけたね。その場で食べられる店はほとんどないんだ。おじさんは、いつも持ち帰りだな」

 翌日、僕はおじさんに教えてもらった『552』のチルドパックをお土産に買って、帰りの新幹線に乗り込んだ。

「それでは、帰路に食せないではないか」
《雪のお方》は少し不満げだけれど、おじさんが教えてくれたように、ホカホカのヤツを持ち込むと、車両いっぱいに匂いが広がってめっちゃ恥ずかしかったはず。それに、家に帰ったら冷め切っちゃうだろうし。

 僕は、車窓を流れて後ろに去って行く関西地方を見ながら、おじさんの言っていたことを考えた。『贔屓に逢うトキメキは、魂のご飯』かあ。アキノコスモス号の優しい茶色い目を思い出す。うん。あれもトキメキだな。学校や塾の勉強や、将来のこと、それに日々のあれこれを考えるとため息が出ちゃうこともあるけれど、あの茶色い瞳や背中で感じた爽やかな風を思い出すと、2年間くらい頑張れそうな氣がする。それに……どのクラスメートの家にだって、猫又が住んでいて話を聞いてくれるなんてことはないんだ。それを思うと、《雪のお方》がいてくれるのも、きっと僕には絶大な魂のご飯だよなあ。

「少しはわかったか」
《雪のお方》ったら、エスパーかよ!

「あのおじさんも、僕たちのレッスン見ていて癒やされたって言っていたよね。ストレスたまっているのかなあ」
「どうじゃろうな。贔屓にしょっちゅう逢っているのだから、魂は腹一杯なのではあるまいか」
僕は、《雪のお方》が何のことを言っているのかわからない。

「奥方のことを話すときに、もともと細い目がなくなるほどに目尻を下げていたではないか。あれは、昨日も『552』を手土産に買って帰ったに相違ない」

 そうか。そういうことか。僕も、いつか魂のご飯っていうくらい大事な奥さんに会えるのかなあ。そう考えていると、《雪のお方》は少しだけ嫌な顔をした。
「お前、またいずれ結婚をしようなどど考えておるな。腰を据えて伊藤家の末代になろうという考えはないのか、まったく」

(初出:2020年9月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -14- ジュピター

今日は「123456Hit 記念掌編」の第3弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、TOM−Fさんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: 絆
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: 『樋水龍神縁起』シリーズの女性キャラ
   コラボ希望キャラクター: 『天文部シリーズ』から智之ちゃん
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 木星往還船



ええと。わかっています。『樋水龍神縁起』だって言ってんのに、なんで『Bacchus』なんだよって。ええ。でも、『Bacchus』はそもそも『樋水龍神縁起』のスピンオフなのですよ。というわけで、「木星往還船」を使わなくちゃいけなかったので、紆余曲折の末こうなりました。あ、ちゃんと一番大物の女性キャラ出しているので、お許しください。(あの作品も、ヒロインはサブキャラに食われていたんだよなあ……いつものことだけど)

智之ちゃん、名前は出てきていませんが、ご本人のつもりです。三鷹にいるのは詩織ちゃんのつもりです。TOM−Fさん、なんか設定おかしかったらごめんなさい!


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -14- ジュピター

「いらっしゃいませ。……広瀬さん、いえ、今は高橋さん! ようこそ」
全く変わらない心地よい歓迎に、摩利子は思わず満面の笑みを浮かべた。

「お久しぶり、田中さん。早すぎたかしら?」
「いいえ。どうぞ、いつものお席へ」

 いつも座っていたカウンター席をなつかしく見やった。一番奥に1人だけ若い青年が座っていた。やはり、いま来たばかりのようで、おしぼりで手を拭きながら渡されたメニューを検討していた。

 久しぶりに東京を訪れた摩利子は、新幹線で帰り日中の6時間以上を車窓を眺めているよりも、サンライズ出雲で寝ている間に島根県に帰ることを選んだ。そこでできた時間を利用して午後いっぱいをブティック巡りに費やした。そして、大手町まで移動して出発までの時間を懐かしいなじみの店で過ごすことにした。
 
 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 かつて彼女は、今は夫になり奥出雲で彼女の帰りを待っている高橋一と、この店をよく訪れた。仕事が早く終わる摩利子が一の仕事が終わるのを待つ間、いつもこの席に座りマティーニを注文した。
「ジンを少し多めに。でも、ドライ・マティーニにならないくらいで」

 店主であり、バーテンダーでもある田中佑二は、にっこりと微笑みながら摩利子が満足する完璧な「ややドライ・マティーニ」を作ってくれた。結婚して東京を離れてから、飲食店を開業、さらに母親となり、なかなか東京には出てこられない日々が続き、この店を訪れるのは実に10年ぶりだったが、田中は全く変わらずに歓迎してくれた。それがとても嬉しい。

「今日は、お里帰りですか」
「うふふ。用事のついでにね。これから寝台で島根に帰るの」
「高橋さんは、お元氣でいらっしゃいますか」
「ええ。さっき電話して『Bacchus』に行くっていったら、田中さんにくれぐれもよろしくって言われたわ」
「それはありがたいことです。どうぞよろしくお伝えください」
「ええ」

 カウンター席の青年は、常連然とした摩利子と田中の会話を興味深そうに聞いている。

「今日は、何になさいますか。マティーニでしょうか」
メニューを開こうともしない摩利子に、田中は訊いた。彼女は、少し考えてから答えた。
「そうね。懐かしい田中さんのマティーニ、大好きだけれど、今日はほんの少しだけ甘くロマンティックな味にして欲しい氣分なの。夜行電車の向こうに星空が広がるイメージで」

 田中は、おや、という顔をしたがすぐに微笑んで、いった。
「それでは、メニューには書いてありませんが、ジュピターはいかがですか。マティーニと同じくドライジンとドライヴェルモットを基調としていますが、スミレのリキュール、パルフェ・タムールとオレンジジュースをスプーン1杯分加えてつくるのです」

 摩利子は、へえ、と嬉しそうに頷いた。

「ジュピター!」
カウンターの端に腰掛けている例の青年が大きな声を出した。

 摩利子と田中は、同時に青年のほうを見た。彼は、話に割り込んだことを恥じたように、戸惑っている。摩利子はかつて職場の同期の男の9割に告白をさせたと有名になった、自信に満ちた笑顔をその青年に向けた。

「ジュピターって、カクテル、初めて聞いたわ。あなたも?」
それは「会話に加わっても構わない」というサインで、それを受け取った青年は、ほっとしたように2人に向けて言葉を発した。

「はい。僕も……その、すみません、大きな声を出してしまって。今日1日、高校時代の天文部のことを考えていたので、ジュピターって言葉に反応してしまって……」
「まあ。天文部。私はまた、なんとかっていう女性歌手のファンなのかと……。ほら、『ジュピター』って曲があったじゃない? もしくは、なんとかってマンガもあったわよね」

「マンガですか?」
田中が、シェーカーに酒を入れながら訊いた。
「ええ。なんだっけ、プラなんとかっていう、木星に行く宇宙船の話」

「『プラネテス』木星往還船を描いたSFですね。NHKでアニメにもなりました。2070年代、宇宙開発が進み、人類が火星に実験居住施設を建設していて、木星や土星に有人探査を計画している、そういう設定の話でした」
青年が言った。

「さすがによく知っているのね。木星って、現実にも探査が進んでいるはずよね、確か。人間は乗っていたかしら?」
「いえ、無人探査です。現在は何度も周回して木星を詳細に観測するジュノーのミッションが進行中です」

「どうして降り立たないの?」
「木星の表面は固体じゃないし、常時台風が吹き荒れているようなものなんです。そもそも、ジュノーあそこまで近づくことも、長時間にならないように緻密に計算されているんです。強い放射線の影響で機器に影響が出ないように」

「放射線?」
「ええ。木星からはものすごく強い放射線がでているんです」
「そうなの?」

「では、木星の近くまで旅行するのも難しそうですか?」
田中に訊かれて、青年は笑った。
「今の技術では難しいですね。木星には衛星もあるし、たとえばエウロパには表面の分厚い氷の下に豊かな液体の海があって間欠泉と思われるものも観測されているんですが、木星に近すぎて放射線問題をクリアできないでしょう。一方、カリストくらい離れればマシのように思いますが、こちらには液体の水はないようです」
「そうなんですか。技術が進化すれば宇宙進出もできるというような単純な話ではないのですね」

「それに、たとえ、寒さや放射線の問題がなかったとしても、ちょっと遠いんですよ。僕たちが海外旅行を楽しむような氣軽さでは行けないと思います」
「どのくらい遠いの?」
「太陽から地球までを1天文単位っていうんですけれど、太陽から木星まではだいたいその5倍くらいあります。なので単純に一番近いときでも、太陽までの4倍ちょっとあります。以前計算したことがありますが、時速300キロの新幹線で行くとすると230年以上。時速2000キロのコンコルドで35年、時速2万キロのスペースシャトルで3年半ぐらいです。もっともその間も木星は動いているので、この通りというわけにはいきませんけれど」

「片道でそんな距離なのね」
「燃料、ずいぶんと必要なんでしょうね」
「そうですね。僕にチケットが払えないのは、間違いなさそうです」

 シェークを終えた田中が、カクテルグラスを摩利子の前に置いた。ほんのりとスミレの香りがする紫のカクテル。
「まあ、きれいね。それに……オレンジジュースのお陰なのかしら、爽やかな味になるのね」
「パルフェ・タムールは、柑橘系の果実をベースにしたリキュールですから、その味も感じられるのではないですか」

「それ、アルコールは強いですか?」
青年が訊いた。
「そうですね。マティーニのバリエーションなので、マティーニがお飲みになれれば……」
田中は言った。

 摩利子は、ということはこの客は初めてここに来たのだなと思った。何度かやって来た客がどのくらいの酒を飲めるのかを、田中はすぐに憶えてしまうのだ。

「せっかくですから、僕もその『ジュピター』をお願いします」
田中は微笑んで、再び同じボトルをカウンターに置いた。

 摩利子は、話を木星に戻した。
「じゃあ、スペースシャトルが格安航空券なみにダンピングされたら、木星往復ツアーなんてできちゃうかしらね。7年間、ほとんど車窓が変わらなそうでなんだけど」

 青年は、首を傾げた。
「どうだろう。7年で往復できるとしても、その時間、地球では、他の人たちが別の時間を過ごしていて、帰ってきたら浦島太郎みたいな想いを味わうんじゃないかな」

 摩利子は、にっこりと微笑んだ。
「7年なんて、あっという間よ。待っている人たちは、待っているわ」

田中が、そっと『ジュピター』を青年の前に置いた。青年は軽く会釈をして、紫のドリンクを見ながら続けた。
「『去る者日々に疎し』っていいますよね」

「そうねぇ。側に居て同じ経験を続けていないだけで疎くなってしまうのって、それだけの関係なんじゃないかしら。ほら、私、そんなにしょっちゅうは来られないけれど、『Bacchus』と田中さんは、私たち夫婦にとってとても大切なままだもの」
「恐れ入ります」

「それは……そうだけれど。星空だけを観ながら時間を止めたような旅をしている人と、その間もたくさんの他の経験をしている人との間に、認識の差が生まれてくることはないのかなって。離れている間に、どんどんお互いの知らない時間と経験が積み重なって、なんていうんだろう、他の誰かたちとは絶対的に違うと僕は感じている『何か』が、相手たちの中では薄れていくのかもしれない、なんて考えることがあるんですよ」

「それは木星旅行の話じゃなくて、現実の話?」
「まあ、そうです。高校の時に、いつも一緒だった仲間たちのことを考えています」

 摩利子は、なるほど、という顔をした。それからわずかに間をとってから言った。
「私たちね。私たち夫婦も、それに、ここにいる田中さんも……たぶん、もう帰ってこないだろう人を待っているの」
「え?」

 田中は、何も言わずに頷き、後ろにある棚を一瞥した。キープされたボトルのうち、定期的に埃がつかないようにとりだしているが、2度と飲まれないものがあった。彼は一番端にある山崎のボトルを見ていた。

 青年は、具体的にはわからないが、2人が示唆している人物の身に何かが起こったのだろうなと考えながら聞いていた。摩利子は、それ以上具体的なことは言わずに続けた。

「絆って、ほら、一時やたらと軽く使われたでしょう? だから、手垢がついた言い回しになってしまったけれど、でも、きっと、そういう時間や空間の違いがどれだけ大きくなっても変わらない、口にすることもはばかられる強いつながりのことをいうんだと思うわ」

 青年は「そうかもしれませんね」と、カクテルグラスを傾けた。わずかに頷きながら、確かに自分の中にある『絆』を確認しているようだった。

「僕は、高校まで兵庫県にいたんですけれど、それから京都に出てそれからずっとです。高校の時の仲間も、アメリカに行ったり、東京に出たり、みなバラバラになったけれど……確かにまだ消えていないな」

「あら。じゃあ、こちらに住んでいるわけじゃないのね」
「ええ。昨日から泊まりがけで研修があり東京に来ました。今日夕方の新幹線で帰るはずだったんですけれど、こちらには滅多に来ないし、明日は日曜日なので、先ほど思い立ってステーションホテルに部屋を取ったんです」

「そう。じゃあ、この店に来たのは、もしかして偶然?」
「はい」
「あなた、とてもラッキーな人ね。知らずにここを見つけるなんて」

 青年は、顔を上げて2人を見た。それから、頷いた。
「本当だ。ここに来て、話をして、そして『ジュピター』を飲んで。すごくラッキーだったな」

 それから、何かを思いついたように晴れやかに訊いた。
「あの、三鷹って、ここから近いんでしょうか」
「三鷹? 多摩のほうでしょう。山の中じゃなかった? 子供の頃、遠足に行った記憶があるわ」

 摩利子の言葉を田中が引き継いだ。
「確かに多摩ですけれど、山の中ってことはありませんよ。東京駅で中央線の快速に乗れば30分少しで着くのではないでしょうか」

 2人は、この青年が明日、『絆』を確かめ合う相手に連絡することを脳裏に浮かべながら微笑んだ。


ジュピター(Jupiter)
標準的なレシピ
ドライジン : 45ml
ドライヴェルモット: 20ml
パルフェ・タムール: 小さじ1
オレンジジュース: 小さじ1

作成方法: アイスカクテルシェーカーでシェイクし、カクテルグラスに注ぐ。



(初出:2020年8月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ 123456Hit

Posted by 八少女 夕

【小説】賢者の石

今日は「123456Hit 記念掌編」の第2弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: 旅
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: レオポルドⅡ・フォン・グラウリンゲン
   コラボ希望キャラクター: マコト
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 賢者の石


中世ヨーロッパをモデルにした架空世界を舞台にしているレオポルドと、彩洋さんのメイン大河小説の主役……から派生した別キャラのコラボということで、舞台も時代ももちろん被っていません。オリキャラのオフ会でメチャクチャやらせたので、そのくらいどうって事ない……といってはそれまでですが、一応(?)オフ会ではないということで、どちらが動くかということを考えたのですよ。

しかし、「賢者の石」と言われたら、現代(または昭和)日本ではないかな、と思ってこちらの世界にいらしていただきました。しかし、あくまでこちらの世界観から見たマコトですので、彩洋さんの所でのようにしゃべったりしません。しゃべっているあれこれは、ファンのみなさんが各自アテレコしていただければよいかなと(笑)

さて、設定したのは、本編の2年くらい前ですね。マックスが旅に出たちょっと後です。ま、全然関係ありませんけれど。

そして、もうしわけないのですが、またしてもオチなしです。


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む
あらすじと登場人物

森の詩 Cantum Silvae 外伝



森の詩 Cantum Silvae・外伝
賢者の石


 ことが済むと、彼は長らく横たわっていたりはしなかった。高級娼館《青き鱗粉》を経営するヴェロニカは彼の好みを知り尽くしているので、送り込む女の容貌に遜色はない。この女も唇が厚く、肌は柔らかく、肉づきのいいタイプだが、ほかに氣にかかることのある彼にとっては、今のところどうでもいいことだった。

「ヴェロニカには、また連絡すると伝えてくれ」
それだけ言うと、彼はさっさと上着を羽織り、政務室に向かった。

 私室の警護をしていた者から連絡が入ったのか、政務室で召使いに軽い飲み物を持ってくるように言いつけたのと入れ違いに、ヘルマン大尉が入ってきた。
「フリッツ。きたか」

「それはこちらのセリフです、陛下。午後はずっとあの女とお過ごしになるはずでは?」
フリッツ・ヘルマンは、グランドロン王である彼の警護責任者である。乳母の一番歳下の弟であるため、子供の頃から彼の剣術の相手として身近に育った。腹の底のわからぬ貴族の子弟などと違い、彼にとっては数少ない信頼を置く人物だ。人には言えぬ話題も、彼には安心して相談できた。

「午後はずっと、と言ったのは、ジジイどもに他の予定を入れられぬためだ。悪いが、老師のところに行くんでな。うるさい連中に見つからないように付いてきてくれ」

 ヘルマン大尉は首を傾げた。国王であるレオポルドが護衛なしに城の外に出ることは、彼としてはもちろん許しがたい。とはいえ、この君主は、いくらヘルマン大尉が口を酸っぱくして説いても、全く意に介さず、勝手に城を抜け出す常習犯だ。わざわざ自分についてこいという理由がわからない。

「着替えた方がいいのでしょうか」
戸惑うヘルマン大尉に、レオポルドは首を振った。
「いや。そのままでいい。お前の用事だというフリをして、馬車を出してくれ」
「ははあ。なるほど」

 若き国王は、彼の教育を担当していた老ディミトリオスに、何か内密の頼み事があるのだ。それも、周りの人間にどうしても知られたくない。何だろう?

 彼は、宮廷の裏口に馬車の用意をさせると、政務室の扉の外に部下を配置し、午後いっぱいは誰が来ても取り次がぬようにと言いつけてから出かけた。政務室の奥の隠し扉から抜け出してきたレオポルドは、裏口にもう来ており、ヘルマン大尉と馬車に乗った。外套のフードを目深に被っているので、御者はまさか国王その人を乗せているとは氣がついていない。

「賢者どのは、ご存じなのですか?」
「こちらから行くとは言っていないが、おそらく待ち構えているだろう。ヴェロニカを通じて、連絡をよこすくらいだからな」

「なんですと?!」
ヘルマン大尉は仰天した。堅物で有名な賢者ディミトリオスが、《青き鱗粉》のマダム・ベフロアを通じて連絡をよこしたことなど、これまで1度もなかったからだ。

「あの女が、わざわざ言ったんだからな。老賢者ディミトリオスさまが、猫を飼いだしたと」
「猫? それが何か」

 レオポルドは、ふふんと、鼻を鳴らした。
「わからぬか。《ヘルメス・トリスメギストスの叡智》とでも言えば、わかるか」
「皆目わかりません」
ヘルマン大尉は憮然として、主君の顔を見た。

「まあ、いい。話をするのはいずれにせよ余だからな」
レオポルドは至極上機嫌だ。

 老賢者テオ・ディミトリオスの屋敷は、王城からさほど離れていない城下町のはずれにある。王太子時代から彼の教えを受けていたレオポルドは、表向きはまだその屋敷を訪れたことはないことになっている。だが、彼は時おり貴族の子息デュランと名乗って王城を抜け出しており、そのついでに何度か老師の屋敷を訪問したことがあった。

 ディミトリオスは、非常に白く長い髪とひげを持つ老人で、何歳になるのかよく知られていない。市井では、不老不死になる薬を飲んで生き続けているとうわさするものもあるが、もしそれが本当ならばこれほど年老いた姿のはずはないだろうと、ヘルマン大尉は密かに思った。背は曲がり、近年はよく手先が震えるようになっているが、鷲のような眼光は健在で、頭脳の働きも一向に衰えていないようだ。

 先王の病死に伴い、王位を継承したばかりのレオポルドは、相談役としてかつての師を厚遇していた。屋敷には、常時数名の弟子が生活を共にしている。弟子といっても、ヘルマン大尉の父親の世代の男たちばかりだ。

 ヘルマン大尉は玄関先で突然の訪問を詫び、出てきた召使いに取り次いでもらった。国王のもっとも信頼する腹心の部下として、彼はすぐに丁重に迎え入れられ、応接室に案内された。飲み物が用意され、召使いと入れ違いに老賢者が入ってきた。扉がきっちりと閉められるのを確認してから、老師はフードの男に非難めいた言葉をかけた。
「いったい、どういうお戯れですかな、陛下」

 レオポルドは、笑って外套を脱ぐと老師に軽くあいさつをした。
「ヴェロニカの送ってきた女が言ったのだ。猫を入手したとか。『アレ』を試すのではないかと思ってな」

「はて。妙ですな。我が屋敷のどの者が娼館にいったのやら。時に『アレ』とは何のことでございましょう」
「しらばっくれずともよい。《賢者の石》だ。硫黄や水銀が足りないのなら、余が用意させるぞ」

 老賢者は、露骨に嫌な顔をした。
「突然お見えになったかと思えば、また酔狂なことを」

 その時、扉の向こうでかすかにカリカリと音がした。
「おや、ちょうどいい。向こうから来たみたいですな」
老賢者は、わずかに扉を開けると、「みゃー」という声と共に、なにやら小さな毛玉が飛び込んできた。

 それは、赤っぽい茶トラの仔猫で、老賢者の足下に直進してきて、その長いローブにじゃれついた。ヘルマン大尉は、笑いそうになるのを堪えるために、横を向き暖炉の上にある醜いしゃれこうべを眺めた。

「なんだ。こんなに小さな猫か。これじゃ、指輪ほどの金しかできないではないか」
レオポルドがいぶかしげに言った。

「あなた様は、どうしても錬金術から離れられないようですな。私めは、この猫をその様な理由でここに置いているわけではありませぬ。それは単なる迷い猫でございます」

「錬金術?!」
ヘルマン大尉は、仰天して思わず口に出してしまった。

「そうだ。フリッツ、そなたはそもそも錬金術について何を知っている?」
「えー、魔術で金を作ることですか?」

 国王と賢者は2人とも非難の目つきを向けた。老賢者はため息をついた。
「ヘルマン大尉。学問は、魔術ではございませんぞ」

 ヘルマン大尉は恥じ入った。彼にとって、老師の行っている学問と、魔術の境目は今ひとつ曖昧なのだが、その様なことを口にできる雰囲氣ではない。

「まあまあ、少しわかるように説明してやってくれ」
「かしこまりました。そもそも、錬金術は、この世の仕組みを解き明かそうとする試みです。古人の知恵によれば、世界のすべては火、氣、水、土の四つの元素より成り立っていますが、これらもまた唯一の物質《プリマ・マテリア》に、湿もしくは乾、熱もしくは冷の4つの性質が与えらてできていると、考えられています。すなわち、《プリマ・マテリア》に正しい性質を与えることさえできれば、どのような物質でも作り出すことができるのです。我々が追い求めているのは、その真実、純粋なる《プリマ・マテリア》を見つけ出し、自在にどのような物質をも作り出すことのできる手法です」

「はあ」
よくわからない。ヘルマン大尉はちらりと考えた。

「こういうことだ。そこの土塊から、土塊たらしめている性質を取り除き、鋼の性質を与えてやるだけで、鉱山にも行かずに名剣ができるとしたら、便利ではないか」
なるほど。でも、やはり魔術そのものではないか。

「で、老師は、それがおできになるのですか」
「まさか」

「なんだ。いいところまでいっているのではないのか?」
レオポルドは、自分の足下に寄ってきた仔猫を拾い上げて、どかっと椅子に腰掛けた。仔猫は国王の上着の袖の装飾が面白いようで、揺らしながらパンチを繰り返している。

「物質を《プリマ・マテリア》に戻し、そして別の性質を与える《賢者の石》は、その辺に転がっているものではありませんでしてな。残念ながら」
老師は、にっこりと微笑んだ。それは全く残念そうに響かない言い方だったので、レオポルドはもちろんヘルマン大尉ですら信じられなかった。

「そなたが口にしたのだぞ。生きた猫に水と硫黄と水銀と塩を適正量飲み込ませ、その体の中で黄金を精製させる方法を試した錬金術師がいたと」
仔猫と戯れながら、レオポルドが言った。

「事実を申したまでです。私めが同じことをするとは申し上げておりませんぞ。それでは、陛下。その仔猫に硫黄と水銀を飲ませたいとお思いで?」
老賢者が問うと、国王はピタリと動きを止めた。仔猫は愛らしい2色の瞳を向けて、遊んでくれる長髪のおじさんを見上げている。

「ううむ。この仔猫か。それは……」
レオポルドは、愛らしい仔猫にすっかり骨抜きにされたようだ。

「なぜ猫にその様な物質を飲ませるのでございますか?」
ヘルマン大尉は、恐る恐る訊いた。

「《賢者の石》といわれる物質にはいくつかの説がございましてな。言葉の通り石の形状をしているという者もあれば、赤い粉だと言う者もあります。また万物融化液アルカエスト という、液体だという説もございます。この万物融化液はすべての物質を溶かすのですが、問題はそれを入れる容れ物も物質でしてな」

「あ。溶けてしまいますね」
「さよう。たとえそれを見つけても保管するどころか、捨てることすらできないのですよ。地面も、海も、すべて溶けてしまいますから」
「それで?」

「それで、この世で万物融化液に一番近いが、外界に危険のない存在として注目されたのが猫だったというわけです」
「は?」
「猫は、地を這い、空を飛び、森にも山にも人家にも自在に棲む。愛らしさを持つと同時に、魔女の手先ともなる。ごく普通の動物でありつつ、液体のようにどこにでも入り込むことができる。誰がいい始めたことかはわかりませぬが、猫を《賢者の石》そのものとみなし、その体内で精の製を試す錬金術師が現れたというわけです」

「では、賢者殿は、その様な説は信じていらっしゃらないわけですね」
「今のところ、敢えて猫を死なせる物質を飲ませるつもりはございません」

 レオポルドは「ふん」と鼻を鳴らした。
「この余や、そなたの弟子に毒を飲ませることは躊躇しなかったのにな」

「それは、あなた様の御身のためですよ。その証に、あなた様はそこでピンピンして猫を撫でておられる。sola dosis facit venenum…服用量が異なれば毒とは申せませぬ」
賢者も負けていない。

「そういえば、余とともに毒になるギリギリの物質をあれこれと飲まされた、そなたの弟子はどこに行ったのだ。まさか飲ませすぎて死なせたのではあるまいな」
「とんでもございません。少なくともここを発った時は、あなた様以上に健康でしたよ」

「ほう。出て行ったのか」
「はい、半年ほど前のことでございます。陛下にお仕えする前に、世を見て見聞を深めたいと申しまして」
「まったく、羨ましいことだ。余も政務や軍務などに煩わされずに、自由に旅をしてみたい」

 老賢者は、ムッとして言った。
「お言葉ですが、陛下。他国の諸王は、あなた様のように勝手に領内を出歩いたりなさりませんぞ。あなた様の自由な『領内視察』を可能にするために、ここらおいでの大尉ほか一部の臣下がどれほど手を尽くしているか、よくお考えくださいませ」
「わかった、わかった」

 ヘルマン大尉も黙ってはいなかった。
「それに、他の方よりも自由に旅もなさっているではありませんか。先日、使者で済ませることもできたのに、わざわざマレーシャル公国まで姫君に会いに行かれましたし……」

「ふふん、あそこには、行っておいてよかっただろう。母上の強引な勧めに従って結婚していたら、今ごろお前たちは贅沢にしか興味のないあの氣まぐれ女に振り回されていたぞ。絵姿と家格の釣り合いだけで決めるのは余の性分に合わない。父上が不幸な結婚生活を強いられたのも、そんな横着をしたからだしな」

 ヘルマン大尉は、主君の発した他国の姫や実母である王太后への失礼な発言は聞かなかったことにした。

 国王レオポルドの花嫁選びは難航している。彼が好みにうるさく、ことごとく断るからだ。だが、花嫁候補への挨拶という口実で彼が隣国に足を運び、その土地の特産や富み具合、地形の強みや弱み、住民の気質、国境警備の状況などを予め伝えられている情報とすりあわせていることも知っていたので、王太后や城の老家臣たちのように、国王の判断を責めるような愚行もしなかった。

 息抜きに城下に遊びに行き、また、暗君のごとく娼館の女たちとふざけているようで、彼は貴族たちとつきあうだけでは得られない市井の人々の生きた言葉に触れている。ヘルマン大尉をはじめとする腹心の臣下たちも、表向きの仕事だけでなく主君の手足となるように陰に日向に動き回り、レオポルドがつきあっている妙な連中をむやみに追い払ったりしないようにしていた。

 しかし、この猫は、どうなんだろう。黄金を作り出す《賢者の石》でないのは確かなようだが。
「陛下、この仔猫、お氣に召されたのであれば、王城に召し出しましょうか」

 レオポルドは、驚いて大尉を見た。
「いや、そんなことは考えてもいなかったぞ。そもそも、老師、そなたが猫を飼うのははじめてではないか?」

「私が望んで連れてきたわけではございませぬ。召使いが家の前で保護したのでございます」
「そうか。ネズミ捕りくらいには役立つかもしれんな」
「それはちと疑問が残りますな。なんせ、ネズミとの戦いで負けて、助けを求めてきたのが、拾うきっかけになったとのことでございますし……」

 自らの不名誉な戦歴が話題になっていると認識しているのか、仔猫はなにやら勇ましい様子で机の上に登ったが、暖炉の上に置いてある髑髏をみつけると、あわてて飛び降り、レオポルドの上着に頭をこすりつけた。
「なんだ、ネズミに負けた上に、動きもしない髑髏に怯えているのか。その調子では、魔女のお付きなどにはなれんぞ」
そう言うと、国王は椅子から立ち上がった。

「陛下、本当にこの猫をお連れになりますか?」
賢者の問いに、彼は首を振った。
「いや、その猫と四六時中遊んでいるようだと、このヘルマン大尉らやジジイどもが氣を揉むからな。仔猫よ、次に来るとき、また遊んでやるから、それまでにネズミくらい狩れるようになっておけ」
彼は、小さな頭をもう一度撫でた。

「そんなにしょっちゅう王城を抜け出されるのは困ります。それに、この猫も、ネズミ捕りの練習をするほどヒマではないかもしれませんぞ」
「ふん。そうか。では、もう少し遊んでから帰るか」

 陛下。そろそろお城に帰っていただかないと、空の政務室を守っている私の部下たちが困るのですが……。ヘルマン大尉は、仔猫と戯れる国王を見ながらため息をついた。確かに水銀やら硫黄やらを飲ませるには、残念なほど愛らしい仔猫だった。おかしな錬金術が流行ることがないように祈りつつ、彼は午後いっぱい猫と遊ぶ君主を辛抱強く待ち続けた。

(初出:2020年7月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ リクエスト 123456Hit

Posted by 八少女 夕

【小説】禍のあとで – 大切な人たちのために

今日は「123456Hit 記念掌編」の第1弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、山西サキさんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: 愛
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: サキさんの知っているキャラ
   コラボ希望キャラクター: サキさんの作品のキャラクターを最低1人
   時代: アフターコロナ。近未来(2~5年先?)
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 道頓堀



今だってわからないのに、アフターコロナの道頓堀なんて、皆目、予想がつかないのですけれど、書けとおっしゃるので仕方なく書いてみました。これ、いまから1年後にこうだったら困るかもしれません。笑い話になることを期待しつつ。

さて、登場人物です。実は、こちらで使うキャラクターはすぐに決まったのです。アフターコロナだと、近未来キャラのうち、もう生まれているのがぼちぼちいますので。使ったのは、いつもコンビで登場している2人組です。で、この2人と共演させるためにお借りするのはどなたがいいかなと迷ったあげく、この方にしました。

というのは、メインキャラの方の年齢設定が今ひとつわからなかったので。この方は3代くらいずっとストーリーの中にいらっしゃるので、どこかはかするだろうなと思ったんです。



大道芸人たち・外伝
禍のあとで – 大切な人たちのために


 やっぱり赤い街だ。拓人は、思った。青空を額縁のように彩る看板に赤やオレンジの利用率が高い。昨日のホールや泊まったホテルのある周辺はそうでもなかったので、彼は印象を間違って記憶していたのかと訝っていた。

 拓人が大阪を訪れるのは2度目だ。2年前は、父親のリサイタルだったので純粋にピアノを聴くために連れてこられたが、今年はどちらかというとシッターが見つからなかったので連れてこられた感がある。母親が従姉妹と一緒にジョイントコンサートをするのだ。その娘で拓人とは再従兄妹の関係にある真耶も、同じように連れて来られていたが、彼女の方は大阪が生まれて初めてだった。

 とはいえ真耶は、まだ6才だというのに妙に落ち着いていて、コンサートは当然のこと、新幹線でも街並みでもはしゃいだりしなかった。

 2人の母親たちは、今日はワークショップがあり観光につきあってくれる時間はない。ホテルで大人しく待たせるつもりだったのだが、夕方訪れる予定にしていたヴィンデミアトリックス家が観光をさせてから先に邸宅へと連れて行ってくれると申し出てくれたので、安心して仕事に専念しているというわけだ。

* * *


「私、歩くのが速すぎやしませんか、お2人とも」
香澄は、訊いた。黒磯香澄は、ヴィンデミアトリックス家で働いている。今日は、東京から来ているお客様の子供たちを観光させてから、邸宅につれていくいわばベビーシッターの役目を任されていた。

「大丈夫です。……だよな、真耶」
拓人は、香澄を挟んで反対側にいる真耶に訊いた。大きなマスクの下から彼女は「ええ」と、くぐもった声を出した。外出時に誰も彼もがマスクをするエチケットは、ようやく薄れてきたが、今日はかつての繁華街に行くのだから、預かる方としては徹底したいと、香澄が2人につけさせたのだ。もちろん彼女自身もしている。

 真耶は、道頓堀の繁華街を眺めながら、言った。
「……ここは、なんだか、テーマパークみたいなところね」

 真耶は、戸惑っていた。それはそうだろう。大きなタコや、ふぐや、カニがあちこちにあり、騒がしい音がしている。東京の繁華街で見るよりも看板が派手だ。

 平日の昼とはいえ、人通りは少ない。これではマスクも必要なさそうだ。かつての賑やかな道頓堀を知る香澄には不思議な光景だった。
「ここ、開店時間、遅いの?」
拓人は、香澄に訊いた。

 香澄は首を振った。
「いいえ。もう11時ですもの。例のロックダウンで閉店してしまったお店がたくさんあって、まだ次のテナントが決まっていないところが大半なのね」

 未知のウイルスのために、世界中で都市のロックダウンがされてから1年以上が経った。拓人の通っていた小学校も、しばらく登校禁止になった。現在はロックダウンをしている都市はないけれど、社会的距離を保ち感染を防ぐための政策は続いていて、2年前のような賑わいは世界中のどこにも戻っていない。

 拓人や真耶の住む東京も、かつては日本でももっとも賑わったと言われる繁華街の1つであるここも、押し合いへし合いといった混み方はもうしないらしい。見れば、シャッターを閉め切ったままの店がいくつもある。

「2年前は、人がいっぱいで、まっすぐ歩けなかったよ」
「そう。そういえば、ずっと外国人観光客が押し寄せていたのよね。それはまた、私には少し不思議な光景だったのだけれど」

 香澄は、2人に優しく話しかけた。
「お昼はどこにしましょうか。スイスホテルのラウンジがいいかしら」

 拓人は、露骨に不満を表明した。
「えー。せっかく道頓堀にいるのに、そんな洒落たとこに行くの? 東京と同じじゃないか」

「でも……」
香澄は少し困ったように、フリルのたくさんついた可愛らしい洋服を着た真耶を見た。大人しく文句も言わずに付いてきているけれど、この上品な少女は、B級グルメの店には行き慣れていないだろうし、嫌がるのではないかと思ったのだ。

 視線を感じた真耶は、香澄を見上げて言った。
「わたしのことなら、大丈夫。拓人、たこ焼きとお好み焼きを食べるって、新幹線からずっと言ってました。ね、拓人」
「うん。ママたち、うちで食べるのとおんなじようなものばっかり食べたがるんだもん。今を逃したら食べられないよ」

 香澄は笑いを堪えた。白いシャツに蝶ネクタイとグレーの半ズボン、上品そうな格好はさせられていても、彼はやんちゃ盛りの少年だ。マダムたちの好きそうな小洒落たカフェよりも、目の前の鉄板で繰り広げられるエンターテーメントが楽しいに決まっている。インパクトの強いコクと旨味たっぷりの庶民の味も、子供の舌には合うだろう。

 ヴィンデミアトリックス家に勤めて長いので、良家の食事がどんなものであるか香澄はよく知っている。それらは栄養に富み、美しく、繊細で、多くの文化と技術が凝縮されている。子女たちはそれらを日々口にすることで、外見だけでなく内面までも、一両日では真似のできない真の上流階級に育っていくのだろう。

 そうであっても、庶民の味の美味しさをよく知る香澄は、B級グルメを心ゆくまで楽しむ幸福もまた人生を豊かにすると思うのだ。せっかくだから、めったにない機会を2人にプレゼントしてあげたいと思った。

 普段なら決して許してもらえないだろう、たこ焼きの買い食いからはじめた。かつては長々と行列ができていた有名店もほんのわずか待つだけで購入することができる。たこ焼きだけでお腹いっぱいになっては本末転倒なので、香澄は一舟だけを買い、堀沿いの遊歩道にあるベンチに腰掛けた。

 真耶は、小さなハンドバッグにマスクをしまうと、レースのハンカチを取りだして、おしゃまに膝の上に置いた。その間にたこ焼きの1つはすでに拓人の口に放り込まれていた。香澄は慌てた。
「氣をつけて! 中はとても熱いから!」

 あまりの熱さに目を白黒する拓人を見て、女2人は思わず笑ってしまった。わずかに火傷をしたらしいけれど、それでも拓人の食欲は衰えなかったようで、嬉しそうに大きな3つを平らげた。香澄と真耶は2つずつを楽しんで食べた。香澄は、ここのたこ焼きが大好きだ。大きなタコのほどよい弾力。生地の外側はカリッとしているのに、中側の柔らかな味わい。ネギや鰹がソースと上手に混じって、ひと口ごとに幸福が口の中に広がる。子供の頃から、たこ焼きは彼女にとって「ハレの日」の食べ物だった。真耶もたこ焼きを氣に入ったようなので、香澄はほっとした。

「こんどはお好み焼きだね」
拓人の言葉に笑いながら、香澄は以前夫に連れて行ってもらった美味しいお好み焼き屋に2人を案内するため、法善寺横町の方へ向かう。

 橋を渡り、少し歩いていると、ギターと笛の音が響いてきて、真耶は足を止めた。異国風のメロディーがここらしくないと香澄は思った。見ると南米風の衣装をまとった2人の男と拓人たちと同年代の少女がいた。ギターとケーナを演奏する2人の大人は、背の高さが少し違うものの明らかに兄弟なのだろう、そっくりの見かけだ。傍らの少女は鈴で拍子を取っている。

 彼らは東洋人のようでもあるが、肌が浅黒くどこか悲しげな印象を与える。拓人と真耶は、少女の前に歩み寄った。

 2人の他に、その演奏に足を止めるものはほとんどいなかった。その空虚さと、ケーナの独特の息漏れと音色のせいで、曲調は決して悲しくないのだが、香澄はなんだか居たたまれない心持ちになった。

 真耶と拓人が熱心に聴いてくれるので、鈴を振っている少女は嬉しそうに笑った。その曲が終わると、子供たちは大きく拍手をした。ケーナとギターの大人たちは帽子をとって大きくお辞儀をした。

「すてきでした。南米のどちらからですか」
香澄が訊くとケーナの男がにっと笑った。
「ペルーのクスコですわ」

「あら。こちらにお長いんですか?」
香澄は驚いた。男の返事が、大阪弁のアクセントだったからだ。

「せや。ぼちぼち30年になんねん」
なんとも不思議な心地がする。民族衣装を着た外国人が外国なまりの大阪弁で話しているのを、東京から来た子供たちが不思議そうに見上げているシュールな絵柄だ。大道芸人だろうか。

「音楽家なの?」
拓人がストーレートに訊いた。ギターの方の男が、首を振って答えた。
「いや、その裏でペルー料理屋をやっているんだ」

「まあ。ここにペルー料理のお店が?」
香澄は思わず声を上げた。

「ええ。小さい店です。よかったら、どうぞ」
男は、ギターケースの中に入っていた紙を香澄に渡した。

「なあに?」
真耶がのぞき込む。

「チラシだ」
拓人が受け取って真耶に見せた。ランチタイムセットの案内だ。

 香澄は、どうしようかと思った。楽しみにしている拓人はお好み焼きを食べたいだろう。一方、真耶は同じ年頃の少女やいま聴いた音色、ひいてはペルーに興味を示している。ここで意見が分かれたら……。

 拓人は、真耶の方を見た。
「行きたい?」

 真耶は「お好み焼きはいいの?」と訊き返した。拓人は、にっと笑うとチラシを香澄に渡して、言った。
「ここに行っちゃダメ?」

 香澄は、ほっとして微笑んだ。
「行きましょうか。……子供たちの食べられる、辛くない料理もありますか?」

 ギターの男が頷いた。
「今日のランチセットは、ロモ・サルタードといって、醤油も入った日本人向けの味ですし、唐辛子は使っていません」

「よかったな。来てくれはる、いうとるよ」
ケーナの男が、少女に言い、彼女はうれしそうに微笑んだ。

 その店は、路地裏の地下にあり、狭かった。外から見ると、こんな所に店があるとはわからないぐらいだ。ランチタイムなのにここまで閑散としているのは、どんなものだろう。味はわからないが、店の感じは決して悪くない。店内は暗くならないように木目の壁で覆われ、机の上には刺繍された黄色いテーブルクロスがかかっていた。

 奥から女性がひょいと顔を出した。
「ママー!」
女の子がその女性に向かって飛んでいった。

 2人はスペイン語で何かを話し、女の子の母親が3人ににっこりと笑った。
「マイド。ドーゾ」

 演奏していた2人とくらべると、日本語は片言ではあるが、彼女も優しい笑顔で歓迎してくれた。ギターの男が、3人に水を運んできた。
「注文はどうしますか。ランチセットですか?」

 チラシの写真では、肉野菜炒めのように見えたので、3人ともランチセットを注文した。わりとすぐにでできたのは、牛肉の細切りとタマネギやピーマン、フライドポテトを炒めて、醤油やバルサミコ酢で味付けした料理だった。

「おいしいわね」
真耶は、あいかわらず上品に食べている。

 少女の母親が調理したのだろうか、家庭料理のような見かけだが、肉は軟らかいし、フライドポテトははサクッっとしていて、パプリカも上手に甘みが引き出されている。醤油とバルサミコ酢もしっかりからんでいて、舌の上でジュワッと旨味が広がる。これだけおいしい料理を出し、感じのいい店主たちの経営する店なのだからもっと繁盛してもいいはずだと香澄は思った。

 拓人は、四角錐に盛られたご飯を崩すのがもったいないようだ。
「ご飯が、ピラミッドみたいになってる」
「お、わかったかい。これは僕たちの故郷にあるピラミッドをイメージして盛っているんだよ」

 ギターの男が、テーブルの近くにやって来た。真耶の近くに立っている少女を膝にのせると、子供たちにもわかるように答えた。

「エジプトと関係あるの?」
「いや、ないと思うね。僕たちの言葉ではワカっていうんだ。神聖な場所って意味だよ」

「ペルーって遠いの?」
そう拓人が訊くと、女の子は「地球の反対側っていうけど、よく知らない」と言った。
「この子は、まだペルーに行ったことがないんだよ。ここで生まれたから」
父親が説明した。

「コロナが流行ったときに、帰らなかったの? 同じクラスのナンシーの家は、急いでアメリカに帰っちゃったよ」
拓人が訊いた。

 彼は首を振った。
「そう簡単にはいかなくてね。向こうには住むところもないし、この店をたたむのも簡単じゃない。それにこの子はここで生まれたから、向こうの学校にはついていけない。ここで踏ん張るしかなかったんだ」

 香澄は、この店をめぐる状況を理解した。国の仲間や観光客が来なくなり、外出の自粛の影響も大きく客足が途絶えたのだ。店内で待っているだけでは食べていけないほどに経営が苦しいのだろう。

 ケーナの男が出てきて、少女の父親に声をかけた。
「せっかくやから、何か演奏しよか、フアン。坊ちゃんと嬢ちゃん、何がええ? 『コンドルは飛んでいく』?」
奥のわずかに高くなって舞台のようにしてある所に座った。

 真耶が訊ねた。
「さっきの曲は、なんていうの?」

「ん? あれは、『Virgenes del Sol 太陽の処女たち』っていうんや。好きなんか?」
真耶は、頷いて訊き返した。
「たいようのおとめたちって、誰?」

 ファンが答える。
「昔、ペルーには僕たちの先祖の築いたインカという帝国があったんだ。そして、皇帝のいる都クスコには、全国から集められたきれいで賢い女の子たちが、織物を作ったり、お供えのお酒をつくったりしながら、神殿で太陽の神様に仕えたんだ。あの曲は、その女の子たちのための曲なんだよ」

 膝の上の少女は、大きな瞳を父親に向けた。祖先のインカの乙女たちを思わせる優しく澄んだ黒目がちの瞳。フアンは、娘をぎゅっと抱きしめて「頑張らなくちゃな……」と呟いた。

 香澄は、ひと気のない街並みのことを思った。興味を持って立ち寄った日本人、観光や出稼ぎで日本を訪れた外国人、それらの人々で賑やかだっただろう、かつてのこの店の様子を想像した。国に帰ることと、ここに残ることのどちらも楽ではない。苦渋に満ちた決断だったに違いない。客引きのため大道芸人のような真似をしてでも、この街のこの店で営業を続けるのは、守るべき大切な家族がいるからだ。

 みな頑張っているのだ。愛する家族や仲間たちを守るために。

「フアン~。来てや、弾くで~」
ケーナの男がしびれを切らしたらしい。
「わかったよ」

「ホセのおっちゃん、パパの従兄弟なの。一緒にクスコから来たんだって」
少女が、小さな声で説明してくれた。それから棚から鈴を3つ盛ってきて、2つをテーブルに置き、自分で1つ持った。

 拓人と真耶は、同時に鈴に手を伸ばして、駆けていく少女の後を追った。香澄は、2人のよく似たペルー人と、仲良く鈴を鳴らす子供たちが、仲良く演奏する姿を眺めながら、微笑んだ。

(初出:2020年6月 書き下ろし)

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Quena - Virgenes del Sol - Eduardo Garcia
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Posted by 八少女 夕

【小説】Fiore di neve

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第八弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の登場人物と私のところのキャラクターとのコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 TOM−Fさんの書いてくださった『惜春の天花 《scriviamo! 2020》』

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在連載中のフィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』では、難しい物理学の世界で真実を探るジャーナリストの奮闘を描いていらっしゃいます。

「scriviamo!」には皆勤してくださり、毎回趣向を凝らした名作でご参加くださっています。そして、毎回難しいんだ……。さて今回も名曲にちなんだ作品で、「なごり雪」をテーマにして書いてくださいました。(諸般の事情で、原曲が簡単に連想されないように改稿なさっています)で、私も雪にちなんだ名曲がいいかな……ということで中島美嘉の『雪の華』を選んでみました。ただし、もう一ひねり。イタリア語のカバー曲をモチーフにしたんですよ。

現実の北イタリアでは、現在こんなことはできないのですけれど、こちらは2020年の春ではないということで、ご理解くださいませ。


【参考】
世界が僕たちに不都合ならば
きみの笑顔がみたいから
その色鮮やかなひと口を -3 - 

「scriviamo! 2020」について
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Fiore di neve
——Special thanks to Tom-F-san


 ふんわりと、よく見えないほど微かな白い粒が、ガラス窓の向こうに舞った。
「あ……」

 向かいに座るロメオも窓の外を見やる。湖の半ばに浮かぶサン・ジューリオ島が淡く霞んでいく。
「降り出したね」

 予報では昨夜から降るはずだったが、外れたと思っていた。二人とも傘は持っていないが、このくらいの雪ならホテルまで帰るのに問題はないだろう。

 夏には各地からの観光客で賑わうオルタ湖畔にも、この季節にはほとんど外国人の姿は見られない。珠理とロメオは、ミラノの喧噪から逃げだして穏やかな週末を過ごしていた。

 なごり雪……。珠理は、それに類するイタリア語はあったかしらと考えた。

 小さなカフェテリアで、二人はホットチョコレートの湯氣を挟んで座っていた。チョコレートをまるごと溶かしたような濃厚な飲み物を初めて見たとき、珠理は飲み終えられるのか不安になったが、いつの間にか冬になくてはならない風物詩になった。この飲み物もそろそろ季節はずれになる。

 店内には有線放送がかかっていて、一つの歌が終わったところだった。続けて流れてきたのは聞き覚えのある曲だ。イタリアンポップスでありながら、日本を思い出させる曲でもある。

 曲名は『Fiore di neve』。歌っているのはSonohraというグループ名の兄弟だが、中島美嘉の『雪の華』のカバーなのだ。

 ウインドウの向こうに舞っている雪片に合わせてかけたのではないだろうが、三月も半ば過ぎに雪の舞を眺めながらこれを聴くのは不思議な心地がする。

僕の腕の中で、君は花、雪の華のようだった

(Sonohra『Fiore di neve』より)



 おなじ「雪の華」について歌っていても、原曲と違ってこの歌は終わってしまった過去の愛について語りかける。

 イタリア語の言葉の選び方は日本語のそれとは違う。愛するという感情、言葉にするまでに胸の中で反芻する想いも、もしかしたら珠理の慣れているやり方とは違うのかもしれない。

僕らは魂の両輪、鷲の両翼、雪の涙だった。僕らは海の稲妻、二粒のアフリカの真珠、二滴の琥珀だった。僕らは剣のように四本の腕を絡ませた太陽の下に立つ木だった……

(Sonohra『Fiore di neve』より)



 少なくともロメオは、もう少し珠理にとって心地のいい、すなわち、もう少し日常生活に近い言葉を使う人だ。そのことを珠理は強く感じた。

 珠理は、ミラノに住んでいる。ロッコ・ソヴィーノ照明事務所でデザイナーとして働き始めて五年が経っていた。その前にいたドイツでも、そして、ソヴィーノの下で働き始めてからも、決して順調にキャリアを積んだとは言えなかったけれど、なんとかこの地に根を下ろし始めていると感じている。

 そう思えるようになったのは、ロメオがいてくれたからだ。イタリア人男性のイメージからはかけ離れている無口な彼だが、とても細やかに敬意をもって彼女を愛してくれる。珠理はかつて恋人だったオットーの、言動の一致しない不実な態度に傷つき恋愛関係を築くことに絶望していた。その彼女を職業的なコンプレックスも含めてすくい上げてくれたのは、ロメオの口数は少なくとも誠実で芯の通った愛し方だった。

 オットーがしょっちゅう投げてよこした愛の言葉は、ティッシュペーパーを丸めたように身がないものだった。だから、珠理は愛情表現と愛情は比例しないし、たとえ自分の中に確かな想いがあってもそれを表現することが必要だと思えなかった。

 けれど、口数が少ないのと、何も伝えないのは違う。珠理は、ロメオからそれを習った。

 夢破れてイタリアを去った珠理を、ロメオは日本まで追いかけてきてくれた。控えめで無口な彼が、行動だけで伝えてくれた大きなメッセージ。それは、何億もの言葉に勝った。一緒に朝食をとるだけの仲だった二人が、人生のパートナーという別の次元へ移るきっかけとなった出来事だ。

 彼は、それからも空虚な言葉を並べるようなことは決してしなかったけれど、静かに、でも確実に、珠理を大切に思っていることを表現した。言葉ではなくて態度で示すことの方が多かったけれど、その一つ一つが珠理にとっては、命の宿った本当の花のようだった。朝露の中で輝く薔薇のように。それとも真冬に艶やかに花開く椿のように。初夏の訪れに身を震わす花水木のように。

 口にしなければ、身をもって示さなければ、決して伝わらない想いを珠理は少しずつ表現するようになった。それは、彼女がこだわり続けてきた色の重なり、ほんのわずかの違いで表現する色の競演にとても似ていた。絵の具で色を重ねれば、濃くなりやがて黒くなってしまう。けれども、光は重ねれば重ねるほどに明るくなり、やがて白く昇華されていく。この雪片のように。お互いに重ねた愛情が、優しく明るさを増し、やがて純白になるのだ。その考え方は、珠理をとても幸福にした。

 はじめて『Fiore di neve』を聴いて違和感を感じたのは、甘い言葉にむしろ傷つけられていた時期だったからだ。だから彼女は歌詞を素直に受け入れることができなかった。舞台の台詞のように、心とは裏腹の演じられた文言に感じられたのだ。

 けれども、いま耳にする同じ歌をあの頃よりもずっと心地よく感じるのは、寡黙で温かいロメオから贈られた愛情のお陰だ。一つ一つの小さな愛の光線が重なり白く輝いていることを確信できるようになって、珠理は慣れなかった言葉の花束に、素直に耳を傾けられるようになったのだ。

 その一方で、原曲に歌われている素朴な幸福は、向かい合う二人の間にあるホットチョコレートの湯氣のようだ。掴むことは難しいけれど、そこに確実に存在している。温かく懐かしい。こうして眺める雪片は、なんと美しく優しいものなんだろう。

 舞う優しい雪片を眺めながら、何か大切なことを忘れているように思った。この温もりの向こうに、ガラスで隔てられた寒空に何かを置き忘れている。嗚咽を堪えているような、喉に何かが引っかかっているような感覚がする。それはとても遠くて、何がそんな感覚を引き起こすのか、珠理はどうしても思い出せなかった。

「雪に、インスピレーションを刺激された?」
その声に前を見ると、ロメオが優しく笑っていた。それで珠理は、またやってしまったのかと思った。何かを考えていると、つい他のことを忘れてしまうのだ。

「ごめんなさい。この曲や、色の重なりのことを考えていたの」
ロメオは頷いた。

 雪が少し小降りになったので、二人はホテルに戻ることにした。カフェテリアを出る時に、彼がガラス戸を引いて珠理を通してくれながら話を続けた。
「考えていたのは、前に話してくれた、千年前の服のルールのこと?」

 それを聴いて、珠理は驚いた。いつだったか平安時代の襲のことをロメオに説明したのだが、それを憶えていてくれたとは夢にも思わなかった。
「ロメオ、すごいわ。襲の話は、一度しかしなかったわよね」

「うん。でも、君が図鑑で見せてくれたその色の組み合わせ、とても印象に残っているんだ。自然の言葉との組み合わせや、僕たちの慣れている色使いと違う感覚に、君の色使いの原点を見たように感じたから」

 そういえば。珠理は脱いでいるコートを見た。ほとんど白に近い薄ベージュに純白の雪の結晶がふんわりと舞い落ちる。
「これは……『雪の襲』だわ」

 ロメオは首を傾げた。
「うん。雪だね……?」

「ごめんなさい。わかりにくいわよね。白と白を重ねる組み合わせのことを『雪の襲』または『氷の襲』って言うの。平安時代に書かれた長編小説『源氏物語』の中で、我が子の将来を思って別れることになった母親が、悲しみの中でこの組み合わせの衣装を纏っていた印象的なシーンもあるのよ」

「白と白の組み合わせ?」
ロメオは少し驚いたようだった。彼の感覚ではそれは「色の組み合わせ」とは言わないのだろう。単なる同色だから。白だけを纏うのは、イタリア人の彼にとってはおそらくローマ教皇の装いだ。冬や高潔さを伴う母の悲しみとは無縁だろう。親しんできた文化の違いは時に違う感覚を生み出す。

 珠理は、その時ようやく思い出した。色の襲について、こんな風に隣で話を聞いてくれた故郷の青年のことを。あれもまた春、この季節だった。呼び戻せずにもどかしい思いをした記憶が、屏風が開いていくように、鮮やかに珠理の前に現れた。

「雨宮くん……。『紅梅匂』の襲……。雪降る駅……」
何かを告げたがっていた青年の瞳が蘇る。ドイツへの移住を相談したときの彼の答え。いつも優しかった友人が、不意に見せた苛立ち。あれは……なんだったのだろう。

「わからないよ、僕には。どうして、ここではだめなのか。言葉も生活も、なにもかも違うのに、どうしてそんな遠い国に行くのか……」
彼の言葉が心に鮮やかに蘇る。

 珠理は、その青年との思い出をロメオに説明した。
「そんなことを軽々しく相談されても、困らせるだけよね。申し訳のないことをしたわ」

 ロメオは微かに笑って首を振った。
「違うと思うよ、それは」
「違うって?」
「彼は、ただ君に遠くへ行って欲しくなかったんだ、きっと。あの時の僕と同じに」

 珠理は驚いて彼を見た。雨宮君が? そんなこと、あるだろうか。大学の研究室でいつも一緒にいたのに、彼はそんな素振りを全く見せなかった。

 それから、彼の瞳の光を思い出した。珠理が自然の魅せる色の妙に我を忘れてしまった時、彼はいつも珠理を待ってくれていた。我に返り横を見ると、彼は珠理を見ていた。瞳に光を宿して。

 瞳は心を映す窓だ。……それをのぞき込む用意のある者には。あの日、珠理は彼の語らなかった言葉を読み取ることができなかった。今、ロメオの瞳を見つめて彼の想いを理解し、彼の温かい掌に彼女のそれを重ねられるようには。

 彼は、あれからどんな時間を過ごしたのだろうか。彼の心の言葉に応えることのできる誰かと出会い、幸せになったであろうか。そうであって欲しいと、心から願った。

 オルタ・サンジュリオ街の石畳に雪片が舞降り、静かに消えていく。積もることなく、冬は去っていくようだった。

(初出:2020年3月 書き下ろし)

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Fiore di neve - Sonohra


雪の華 - 中島美嘉
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】合同デート

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第六弾です。ダメ子さんは、毎年恒例のバレンタインの話で参加してくださいました。ありがとうございます!

ダメ子さんの『お返し』

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化しているこのシリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。一年に二十四時間しか進まないのに、展開は早いこのシリーズ、今回はなんとお返しデート! モテくん、さすがモテる男は行動早っ。でも、デートにはモテくん来ないらしいので、相変わらずのメンバー……。


【参考】
私が書いた「今年こそは~バレンタイン大作戦」
ダメ子さんの描いてくださった「チョコレート」
ダメ子さんの描いてくださった「バレンタイン翌日」
私が書いた「恋のゆくえは大混戦」
ダメ子さんの「四角関係」
私が書いた「悩めるつーちゃん」

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合同デート - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 日曜の朝、私は決心した。なんとしてでもアーちゃんとチャラ先輩を二人っきりにする! そもそも、この大混戦になったのは、アーちゃんとチャラ先輩が二人っきりでちゃんと話をしていないからだ。いくら重度のあがり症とはいえ、休みの日に数時間二人っきりになったら、あの子だって、自分の想いを伝えられるだろう。

 事の起こりはバレンタインデーだ。中学の頃から憧れているバスケットボール部のチャラ先輩に、アーちゃんはようやく手作りチョコを手渡した……っていうのかな。まあ、手渡したのは事実。ところが、あがり症でちゃんと告白できなかったアーちゃんの不手際が誤解を生み、チャラ先輩はそれをモテ先輩へのチョコだと思って渡してしまったらしい。

 しかも、翌日に、改めて告白しようとしたアーちゃんに、先輩は「好きな人が誰かなんていわなくていいから」と言って去ってしまったそうな。「これってお断りってことだよね」とメソメソするアーちゃんに「誤解だと思う」とは伝えたものの、実際のところ私にもどっちなのかわからない。

 私はこの恋はお蔵入りかなともう半分諦めていたのだけれど、なんとあのモテ先輩が手作りチョコのお礼で五人で遊びに行くことを提案してくれたらしい。モテる人って、ここまでマメなのか。私にはそういう世界はわからない。まあ、でも、次の作品の参考にさせてもらおう。

 いや、私の萌えの話は、ここではどうでもいい。アーちゃんとチャラ先輩を二人っきりにする大作戦のほうが大事。

 幸いそつのなさそうなモテ先輩だけでなく、ムツリ先輩もかなり察しがよさそうなので、私が上手に誘導したら、その場から上手に消えてくれるに違いない。そして、その後、私は上手にアーちゃんたちの後をつけて、必要ならアシストする。

 私は、ワードローブを覗いた。うーん、何を着ようかな。適度に消えるとはいえ、しばらくはチャラ先輩の前にもいるわけだから、とにかくアーちゃんよりも目立つ服はダメだよね。もっさり系の服なんて、あるかな。

 あったけど、このパーカー付き部屋着はダメだよね。「ベニスに死す」展でつい買っちゃったヤツだけど、ビョルン・アンドレセンの顔写真プリントされているのって、やっぱり外には着ていけない。チャラ先輩はともかく、ムツリ先輩に軽蔑されそうだし。あ、ムツリ先輩に氣に入られたいとか、そういうんじゃない。ほら、その、私服が変な子とか噂になりたくないし。

 アーちゃん、かわいい系でいくだろうから、かわいくない感じの服にすればいいか。女捨てている感じだとこれかな、革ジャンとジーンズ。あ、この間買ったブーツ合わせちゃお。

 待ち合わせした駅前に行くと、アーちゃんはまだ来ていなかった。きっとギリギリまで何を着ていくかで迷っているんだろうな。あ。ムツリ先輩、いた。

 先輩は、私の服装をみて少し驚いたようだった。どうでもいいでしょう。私はどうせ付き添いだし。
「こんにちは。お誘いくださり、ありがとうございました。えーと、チャラ先輩とモテ先輩は……」

 そう言うと、ムツリ先輩は頭をかいた。
「チャラはトイレ行っている。モテは来ない。チャラには言っていないんだけど、始めから言われてた。その方がいいだろうからって」

 へえ。モテ先輩、よくわかっているんじゃない。って、ちょっと待って、ってことは、これはアーちゃんとチャラ先輩を二人きりにする絶好のチャンスなのでは? 私は、ムツリ先輩に近づいて宣言した。
「じゃあ、私たちもトンズラしましょう!」
「えっ?!」

 あ、いや、ムツリ先輩と二人でどっかに行こうって意味ではなくて!
「このまま、私たちが姿を現さなければ、あの二人のデートになるんですよ。そうなったら、さすがのアーちゃんでも、誤解を解けるかと! 私たちは、こっそり後をつけてアシストするんです」

「あー、そういうこと」
ムツリ先輩は、氣のない返事をした。名案だと思ったんだけれどなあ。

「わかった、じゃあ、隠れるか。って言っても、どこに」
ムツリ先輩と見回す。
「あ、あの駅ビルに大きい窓が。あそこから様子を見ましょう」

 私たちは、急いでその場を離れ、広場に面した駅ビルの中に入っていった。
「ところで、今日って、どこに行く予定なんですか?」

 ムツリ先輩は首を傾げた。
「チャラに任せたから知らないんだよな」
えー、チケットとか買ってあったりして。

 駅前広場を見下ろすウィンドウについて改札の方をみると、出てくるチャラ先輩が見えた。辺りを見回している。そして、私が予想したとおり、アーちゃんはこのビルの横の歩道橋を渡って現れた。おお、ピンクのワンピース。私には絶対に着られない甘い服。よく頑張った!

 しかし、二人きりで慌てているのか、ものすごく挙動不審だ。普段の私が集合五分前には必ず行くので、まさかいないとは予想もしていなかったに違いない。チャラ先輩は、スマホを手に取って操作している。

「あ。チャラからだ」
見ると、ムツリ先輩がスマホを見ている。

「今どこ、だって」
「私が遅れているので、拾って行くから先に行って欲しい、どこに行くか知らせろって返事してください」
「君、策士だね」

 ムツリ先輩は、メッセージを書き込む。すかさず電話がかかってきた。
「よう。俺? ええと、俺もトイレ行こうと思って。うん、つーちゃんからメール来た……いや、バックレないよ、行く行く。うん、アーちゃんにも言っておいてって。……わかった。じゃ、後で」

 改札前のチャラ先輩がアーちゃんに説明している。彼女はますます挙動不審の慌てぶりだ。何やってんのよ、せっかくチャンス作ってあげているのに。

「えーと。このビルの五階、サンジャン・カフェで待っているって」
ムツリ先輩が言った。
「ええっ。そんな普段っぽいチェーン店? どういうチョイスなんですか?!」
「っていうか、最上階の映画館にいこうとしているらしい。でも、俺たちが来るまで待つらしい」

 むむ。そういうことか。いずれにせよ、私が遅れている設定なので、見つからないようにどこかで時間を潰す必要があるわね。

 ムツリ先輩と私は、二人と鉢合わせしないように急いで階段を昇り六階に向かった。そこはフロアの半分がゲームセンターになっている。その奥にある催事場でしばらく時間を潰そうと横切っていった。

 ふと振り返ると、ムツリ先輩がプリクラゾーンのど真ん中で突っ立っている。ちょっと待って。まさかプリクラ撮りたいわけでもないでしょうに、なぜそんなところに引っかかるのよ。少し戻ると先輩はプリクラ機を見ているのではなく、その奥の誰もいないようなくらいゾーンを見ていた。

 のぞき込むと、どうやら格闘ゲームのコーナーらしい。ゲームセンターは友だちとワイワイ行くところなので、プリクラとか音ゲーとかは行くけれど、格ゲーはやったこともない。
「なんですか?」

「いや、今聞こえた音楽……」
そう言いながら、そちらに吸い寄せられていく先輩を追った。他の場所と較べて明らかに閑散としているコーナーの一番奥に、先輩のお目当てはあったらしい。

「げ、本当に『時空の忠臣蔵』だ……」
「なんですか、それ」
「え。ああ、四年くらい前にあちこちのゲーセンにあったんだけれど、マイナーですぐに入れ替えられちゃった格ゲーなんだ。ここにまだあったのか」

「えーと。好きだったんですか?」
「ああ、うん。出てくる敵とか設定にツッコミどころが多くて、やっていても飽きなかったというか……」

 へえ。どうツッコミどころが?
「ちょっと、やってみてくださいよ」
「え、いいの? じゃあ、ちょっとだけ」

 オープニングが流れ、元禄15年12月14日つまり討ち入りの当日、仲間とはぐれている早野勘平が吉良上野介の屋敷に急ぐことが告げられる。ところが、次から次へと邪魔が入ってなかなか屋敷まで進めないという設定らしい。

「ほら出た」
すぐに出てきた敵キャラ。でも、それはイノシシ。えー、人じゃないの?

「この辺はまだまともなんだよ。『仮名手本忠臣蔵』では勘平は猟師として暮らしていて、イノシシを撃とうとするエピソードもあるんだ」
へえ。先輩、詳しい。すごくない?

 その次に出てきた敵キャラは「義父を殺して金を奪った斧定九郎」というテロップが出た。先輩は慣れた様子でそのキャラも倒した。
「設定がおかしくなるのはこの後から」

 次のキャラは、打って変わり立派なお殿様っぽい服装だ。「何をしている」と言って出てきたけれど、名前を見ると浅野内匠頭って、えーっ、ご主人様じゃん。なのに戦うの? っていうか、この人が松の廊下事件を起こしたあげく切腹したから討ち入りに行くことになったんじゃなかったっけ? 

「よっしゃ。次」
ちゃっちゃと主君を倒した勘平は角を曲がる。次に出てきた腰元女キャラ。え。お軽って……それは恋人じゃ……。

 その後、将軍綱吉の愛犬や新井白石、桂昌院など変な敵と戦った後、なぜか将軍綱吉まで倒して先を急いで行く。なんなのこれ。

 そして、次の敵は、まさかの堀部安兵衛。ちょっと仲間と戦うってどうなのよ。ムツリ先輩は慣れた様子で堀部安兵衛との戦いを始める。えー、やるの?

「もう、つーちゃんったら!」
その声にギョッとして振り向くと、後ろにアーちゃんとチャラ先輩が立っていた。

 げっ。なんで? ムツリ先輩も予想外の事態に呆然として動きが止まった。その隙に、堀部安兵衛はあっさりと早野勘平を倒し、エンディングテーマが流れる。
「命を落とした早野勘平は、討ち入りに参加することは叶わなかった……」

 チャラ先輩はニヤニヤ笑っているが、アーちゃんは激怒に近い。
「もしかしたらここじゃないかって、先輩が言っていたけれど、私はそんなはずはないって思っていたのに!」
えーっと、謎の格ゲーに夢中になっていたら、けっこうな時間が過ぎていたらしい。

「あ、いや、ついてすぐにサンジャン・カフェに行こうと思ったんだけど……」
「じゃあ、なぜカフェより上の階にいるのよ! もう」
アーちゃんのいつものあがり症は、怒りでどこかへ行ってしまったらしい。

 チャラ先輩は、ムツリ先輩に近づくと言った。
「映画、始まっちゃったよ。次の回は夕方だけどどうする?」
「う。申し訳ない」

 私はアーちゃんに小声で訊いた。
「で。先輩と沢山お話できたの?」
誤解は解けてちゃんと告白できたんだろうか? 仲良く二人でここにいるって事は、そうだと願いたい。

「いっぱいしたけど、主につーちゃんたちが今どこにいるかって話よっ!」
ありゃりゃ、だめじゃない。策略、大失敗。

 結局、映画は次回にしようということになり、そのままゲームセンターで遊ぶことになった。氣を遣う私は、アーちゃんとチャラ先輩がプリクラで一緒に収まるように誘導する。まず男同士、女同士でさりげなく撮り、先輩方が微妙な顔をしているところに提案をした。
「私は、ムツリ先輩と撮りますから、先輩はアーちゃんと撮ってくださいね」 

 もとのあがり症に戻ってしまったので、喜んでいるのかはいまいちわからないけれど、とにかくあのプリクラはアーちゃんの宝物になるだろう。

 問題は私の方。ムツリ先輩とのプリクラ、どうしたらいいのかしら。無碍にしたら失礼だからちゃんと持って帰るけど、捨てるのもなんだし……でも、これずっととっておくのかしら、私。先輩はどうするんだろう。うーん、もっと可愛い服着ておけばよかったかな……。


(初出:2020年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】アダムと私の散々な休暇

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第二弾です。ポール・ブリッツさんは掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!

 ポールブリッツさんの書いてくださった「わたしの五日間

皆勤してくださっているポール・ブリッツさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。お名前の通り、電光石火で掌編を書かれるすごい方です。毎年ポールさんのくださるお題は手加減なしで難しいんですけれど、今年はオーソドックスな難しさですね。

書いてくださった作品、舞台はどこと明記されていませんので、私も「なんとなく」を匂わせつつ、明記はしませんでした。そして、次の舞台にした場所も読む方が読めば「そこでしょ」なのですが、敢えてどことは書きませんでした。すみません、ポールさん、「わたし」の居住地、そんなところにしてしまいました。

この掌編、軽く説明はしていますが、ポールさんの作品と続けて読んでいただくことを想定して書いてあります。


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アダムと私の散々な休暇
——Special thanks to Paul Blitz-san


 荷物を運び込んだポーターが、物欲しげな瞳で微笑んだので、仕方なく一番安い額面のお札を握らせた。自分で持ち運べば、払わずに済んだかもしれないけれど、鳥籠と荷物の両方をもって初めてのホテルで部屋を見つけて、カードキーを上手に使うのは難しい。

 もらうものをもらったので、さっさと踵を返したポーターにアダムがろくでもないことを叫び出す前に、急いで部屋の扉を閉めた。鳥籠を覆っていた布カバーを外すと、彼は「低脳ノ守銭奴メ!」と得意そうに叫んだ。

 私がこのオウムの世話を隣人や友人に頼めないのは、ひとえにアダムの口の悪さが尋常でないからだ。どうやっているのかわからないが、相手をもっともひどくこき下ろす言葉を選んで罵倒する芸当を、この鳥はいつの間にか身につけた。私が教え込んだことがないといくら言っても、きっと誰も信じてくれないだろう。

 アダムは、四年ほど前に当時の恋人に押しつけられた。特別養護施設で大往生した女性が飼っていたとかで、十一歳のオウムが残されたと。施設はその引取り先に困り、とある職員がその弟に泣きついた。「私が飼ってあげたいけれど、鳥アレルギーなんですもの」

 その弟こそが私のかつての恋人で、自宅に引き取ったけれど全く世話はしなかった。それどころか、まもなく他に女を作って逃げていった。残された私は、確かに彼のことを罵っていたけれど、その時に使ったのよりもずっとひどい罵声をアダムがどこで憶えたのか、どう考えてもわからない。

 とはいえ、たかが鳥だ。そんなに長い間のはずはないから、命あるうちは世話をしよう。そう高潔なる決意をして優しく微笑んだらコイツはバタバタと羽ばたきながら甲高く叫んだ。
「生憎ダナ! おうむノ寿命、五十年!」

 一人暮らしの女がペットを飼いだしたらお嫁に行けないと言うけれど、アダムみたいな鳥を飼っていたら、間違いなく恋人なんてできない。部屋まで送ってきてくれた優男が、甘い台詞を囁きいいムードになるとすかさず「ソイツノ腕時計、偽物! 金ナンテナイ!」などと叫ぶのだ。いや、私、金目当てでつきあっているわけじゃないってば。でも、相手は真っ赤になって震え、私の性格と思考回路がどのようなものかを勝手に結論づけて、連絡が途絶えるのだ。

 もしかして、コイツがいる限り、私は独り者ってこと?
「生憎ダナ! おうむノ寿命、五十年!」

 OK、当面ボーイフレンドのゲットは諦めよう。でも、休暇は諦めたくない。誰かにアダムの世話を頼むのは問題がありすぎるので、連れ歩くことになるけれど、それでも自宅にずっといるよりはマシだ。あんなところに冬の間中こもるなんて、死んでも嫌。っていうか、死んじゃう。

 私の住んでいる村は、そびえる雪山の麓にある。夏は涼しく爽やかで、早番の仕事が終わった後にテラスのリクライニングチェアでのんびり日光を楽しむことができる。自転車で森をめぐり辺りの村にいったり、緩やかな山を越えるハイキングも楽しい。肩に載せたアダムが、放牧されている牛や羊、それにリスやイタチに喧嘩を売るのを見るのも微笑ましい。夏は、村そのものがリゾートみたいなものだと思い込むこともできる。

 でも、冬は最悪。日は短いし、暗いし、寒いし、道はツルツルに凍るし。子供の頃に事故を起こしてから、ウィンタースポーツを禁じられてしまった私には、いい事なんて何もない。田舎過ぎてショッピングも楽しめないし。

 スキーリフトもない谷なので、冬は閑古鳥の村で、夜になると通りはゴーストタウンみたいに誰もいなくなる。そんな寒村だから、村で唯一のちゃんとしたホテルは、二ヶ月の長期休暇にして閉めてしまう。私が勤めている安宿は、隙間で稼ぐいい機会だからと開けているけれど、光熱費の無駄だと思う。

 でも、そんな宿にも常連がいる。その一人が、毎年この時期にやってくる外国人で、五泊して行く。村に店はないし、隣村にもスーパーや衣料品店、ガソリンスタンドくらいしかない。面白いものなんて何もないけれど、その客ときたら外出することもなく、部屋でパンとチーズをプランデーで流しこんでいるらしい。ワインじゃないのはなんだと思うけれど、その辺は好き好きだから別にいい。

 ルームサービスで、追加のパンとチーズを持って行くと、とろんとした目で顔を上げる。ブツブツ言っていて、妻がどうとか、終末期医療の看護がこうとか、論文がああとか、私には理解できないことばかり。

 私なら、こんな村、寒くて暗い冬の安宿なんて、一度来れば十分だと思うけれど、なぜかこの客は十五年も通っているらしい。私は去年の夏から雇われているので、この客に逢ったのは初めてだけど。

 十五年って、アダムと一緒、私がアダムと暮らした日々の三倍だ。そんなに長く冬のこんな村に通うなんて、本当にどうかしている。どうかしているといえば、我が家のアダムもその客がいた五日間は、いつもにましてけたたましかった。

 ドクターのくせに教授職に就かないのはいかがなものかとか、著作が一冊もないなんて恥ずかしいとか、意味不明なことをギャーギャーと騒ぐのだ。

「うるさいわね。私は博士号なんて持っていないし、持つつもりもないわよ! 本を書くとしたらイケメン俳優と結婚して、離婚して回想録を書くくらいでしょ。アンタがいたらどうせイケメン俳優と結婚なんてできないんだから、黙りなさいよ!」
仕事から帰って疲れているのに、オウムに理不尽なことで責められるのは勘弁ならない。

「これ以上、意味不明なことをいうと、フライドチキンにしちゃうわよ!」
そういうとアダムはキッと睨み言った。
「オレサマ、鶏ジャナイ!  フライドパロット!」
仰有るとおり。って、オウムに言い負かされてどうする。

 そんなこともあり、イライラと、冬由来の欲求不満が積み重なっていたが、その客がようやく帰ったので、私は休暇を取ることができた。

 もちろん、太陽を求めて南へと旅立つのだ。青い海、白い建物、地中海料理が私を待っている。あ、私とアダムを。

 荷物を解いて、一息ついてから、私はバーでウェルカムドリンクを飲むことにした。ほら、映画ではそういう所にハンサムな御曹司かなんかがいて、恋が始まったりするし。部屋に放置するのもなんなので、アダムの入った鳥籠をもって私はバーに向かった。

 鳥籠を置けるカウンターの一番端に陣取ると、バーテンダーにダイキリを頼んでバーの中を見回した。イチャイチャするハネムーンカップルや、ケチそうな観光客はいるものの、御曹司タイプはみかけない。そうはいかないか。がっかりしていると、アダムがバタバタと羽を動かした。
「犯罪者メ! かくてるニでーとどらっぐ入レタナ!」

 振り向くと、バーテンダーがダイキリのグラスを差し出そうとしているところだった。
「ちょっと! そんな言いがかりをつけるのは止めなさいよ!」

 そして、バーテンダーに「ごめんなさい」と謝って、グラス手を伸ばそうとすると、バーテンダーは少し慌ててグラスを引っ込めた。
「申し訳ありません。今、ハエが飛び込んでしまって、取り替えます」

 私の方からは、ハエは見えなかったけれど、親切な申し出に感謝した。これ以上アダムがろくでもないことを言わないことを祈りつつ。新しく作ってもらったダイキリは美味しかったけれど、周りの観光客に見られているのが恥ずかしくて、まだ見ぬ御曹司の登場を待つこともなくレストランに移動した。

 レストランでは、鳥を連れていることに難色を示されたけれど、交渉してテラス席ならいてもいいと許可をもらった。海に沈む夕陽の見える素晴らしい席で、ラッキーだと思った。ここまで来たんだから、地中海料理を堪能しないと。

 前菜は魚卵をペーストにしたタラモサラダ。羊の内臓などを煮込んだスープ、パツァス。スパイスのきいたミートボールのケフテデス。もうお腹いっぱいだけれど、どうしても食べ高かったブドウの葉っぱでご飯と挽肉を巻いたドルマデス。デザートは胡麻や果物を固めたハルヴァ。アシルティコの白ワインも美味しかったし、ヴィンサントのデザートワインもいい感じ!

「ソンナニ食ウナンテ正氣ノ沙汰ジャナイ!」
アダムの毒舌に「失礼ね、このくらい普通でしょ」と言おうとしたのだけれど、言えなかった。食べ過ぎのせいか、お腹が痛い。っていうか、激痛……。えー、なんで。あまりの痛さに汗が出てきて目の前が暗くなった。

* * *


 目が覚めたら、ベッドの上にいた、白衣の人たちが歩き回っている。首から提げた聴診器を見て、ああ、病院にいるのかと思った。記憶を辿って、あのレストランでお腹が痛くなり、そのまま倒れてしまったのかと思う。

 ここは旅先だったっけと思うと同時に、アダムはどうしたんだろうと考えたが、長く思案する必要はなかった。視界にはいないがけたたましい声が聞こえたからだ。
「イツマデ寝テイルンダ!」

「大丈夫ですか? わたしがわかりますか?」
視線を声のする方に向けると、男がのぞき込んでいた。服装から見ると看護師のようだ。どこかで聴いたような声だ、どこでだったかしら。

「どくたーナラ、本ヲ沢山出版シナサイヨ! 教授二ナリナサイヨ!」
ちょっと待って。またあの戯言が始まった。

「私は博士号なんて持っていないと、言ったでしょう、アダム!」
私が叫び返すと、目の前の看護師は静かに答えた。
「わたしは持っていますよ。あなたは宿屋でも同じ事を訊きましたよね」

 私は、ぼーっとした頭の奥で脳細胞に仕事をしろと叱咤激励し、ようやくこの男が数日前に職場の宿に滞在していたあのブランデーを飲んだくれていた男であることを思い出した。

 それから、別の事も思い出した。専門は終末医療だって答えたよね、この人!
「えええええっ。私、死ぬんですか?」

「人生百年時代! デモ、必ズ百歳ニナルトハ限ラナイ!」
アダム、黙って!

「ご心配なく。人間は例外なくみな死にますから」
淡々と男が答える横から、聴診器をつけた別の男性が遮った。
「こらこら、そんな答え方をしないように。心配しないでください。ここは救急病棟です。氣分はいかがですか」

 どうやら、救急病棟の当番でこの看護師がここにいるらしいとわかったので、ずいぶんと氣分がよくなった。もちろん、すぐには死なないと太鼓判を押してもらったわけではないのだけれど。

「古イおりーぶおいるニアタッタ、間抜ケ。寝テテモ治ルケレド、ココデハ高イ医療費フンダクラレル!」
アダムが、期待を裏切らぬ無礼さで騒ぎ出すと、親切そうな医者の額がひくついた。

「私たちは、医療はビジネスではなく、尊い仕事だと思っていますので、ご心配なく」
そう断言する隣で、看護師の顔が奇妙な具合に歪んだ。

 忙しそうに、医者が退室すると、看護師はかがみ込んで小さな声で言った。
「命拾いしたかもしれないな。ああ言われても不必要な処置をして高額請求できるような、肝っ玉は据わっていないんだ、あのセンセイは」

 私は、ギョッとしてつい数日前まで客だった看護師の顔を見た。
「本当……だったの?」

 彼はウィンクした。
「旅行健康保険は入っている?」
「ええ。っていうか、クレジットカードに付いているの」
「ならいい。確実に払えってもらえると確認できない旅行者は退院させてもらえないしね。ところで……」

 彼は、鳥籠の中のアダムを見て訊いた。
「この鳥は、エスパーかなにかかい?」

 私は、首を傾げた。
「ひどく口の悪いオウムですけれど、エスパーなんてことはないかと……」

 彼は、首を傾げたままだ。
「さっきの言葉、とても偶然と思えなくてね」
「さっきのって、ドクターや教授がどうのこうのって、アレですか?」
「ああ」

 それで思い出した。
「そういえば、我が家で同じようなことを言っていたのは、あなたの滞在中でしたね。でも、勤務先には連れて行きませんでしたから、あなたの言葉をおぼえたってことはあり得ないと思いますけれど」
「それじゃあ、ますます……不思議だな」

 無事に食あたりもおさまり、救急搬送や深夜医療の代金を保険が払うことを確約してくれたので、私とアダムは翌朝にはホテルに戻ってもいいと許可をもらえた。

 私の休暇は一晩を無駄にしただけで済んだし、親切な看護師……不思議な縁もあるお客さんでもある人と知り合えたし、そんなに悪い経験じゃなかったかも。

 私は、鳥籠をもって終末医療セクションに向かい、彼に美辞麗句を尽くしてお礼の言葉を述べた。こういう時に印象をよくしておくと、次に繋がるはずでしょう。毎年あの宿に泊まるくらいだから、私の住む村のことは結構好きなはずだし、これって運命かも。

 そう思っているのに、アダムはあいもかわらず看護師に向かって謎の非難を繰り返している。ちょっと、なんなのよ!

「十五年も聴かずに済んだのに、またこれを繰り返されるのはたまらないな」
小さな声で、看護師は呟いた。

 それで、私は納得した。これって、私のボーイフレンド未満の男性陣を追い払った罵声と同じなんだ。なんなのよ、こんなところに来てまで邪魔するとは。これじゃ、いつになったらボーイフレンドができるやら。

 アダムは、得意げに宣言した。
「生憎ダナ! おうむノ寿命、五十年!」

(初出:2020年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】お菓子天国をゆく

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第一弾です。ユズキさんは、プランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

ユズキさんは、小説の一次創作やオリジナルのコミックを発表、それにイラストライターとしても活躍なさっているブロガーさんです。現在代表作であるファンタジー長編『片翼の召喚士-ReWork-』の続編『片翼の召喚士-sequel-』、そして『アストリッド様と「行くわよ愉快な下僕たち!」』などを連載中です。そして大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストも描いてくださっています。

 今回はプランBで完全お任せということでしたので、どうしようかなあと悩みました。アスト様の世界も好きなのですけれど、まだ世界観をちゃんとわかっていないですし、(あ、アルケラの世界もちゃんと読み込めているかというとかなり不安ですけれど)、勝手にコラボはやはり何回かしていただいている皆さんにお願いしようかなと……。

今回メインでお借りしたのは、愛くるしいフロちゃんですが、仔犬ではなくて神様です。うちのレネが相変わらずぼーっとなっている【ALCHERA-片翼の召喚士-】世界のヒロイン、キュッリッキ嬢を護るために地上にいらしているのですけれど、おやつに目がないところがツボで、うちの甘い物好きと共演させたくなってしまったのです。ユズキさん、勝手なことを書きまして失礼しました。リッキーさんたちの活躍の舞台はこの惑星じゃないんですけれど、うちの連中のスペックが低過ぎてそちらに伺えないので、無理矢理ポルトガルに来ていただきました。


【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物



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大道芸人たち・外伝
お菓子天国をゆく
——Special thanks to Yuzuki san


 春のポルトガルは雨が多い。大道芸にはあまり向かないのだが、大道芸の祭典『La fiesta de los artistas callejeros』の準備で来たので、今回の渡航目的のメインではない。余った時間に偶然晴れていて稼げたら儲けもの程度の心づもりでやって来た。

 思いのほか珍しくよく晴れて今日は十分稼げたので満足だった。マグノリアの紫の花が満開になっていて、青空によく映える。白と青のタイル、アズレージョで飾られた教会の前には、若葉が萌え立つ街路樹が楽しそうにそよいでいた。

 稔は、街中の楽器店を回って、ようやく目当ての弦を見つけた。ギターラと呼ばれるポルトガルギターの弦ではないので、ポルトガル以外でも買えるのだが、これからミュンヘンに戻るまでは大きな都市に滞在しないので、できれば入手しておきたかった。途上でもかなり激しく弾くから、また切れるなんて事もあるしな。それに、ずいぶん安かったのは、有難いよな。そんな独り言を呟きつつ坂を下った。

 さてと。ブラン・ベックたちを拾って行かなきゃ。稔は、通りの洋服屋や靴屋は存在を無視し、土産物屋を覗くこともせずに、ショーウィンドウに菓子がズラリと並んでいるパステラリアのみをチェックした。ポルトガルでコーヒーを飲もうとする地元民は、カフェまたはパステラリアに行く。違いはパンや菓子などを売っているかどうかだ。パステラリアは「お菓子の博覧会」状態で、ポルトガル人の愛する卵黄を使ったお菓子のために全体的に黄色く見える。

 三軒目の入り口近くに、ニコニコ笑いながら菓子を選んでいるレネがいた。稔がガラスの扉を開けて中に入ると、太った店員がレネの言葉に従い茶色の袋に次から次へと菓子を放り込んでいる。ブラン・ベック、どんだけ食うんだよ。それ一個でも、めちゃくちゃ甘いぞ。

 稔に氣付いたレネは、すこし照れたように笑ったが、指示はまだ続いた。抱えるほどの大きさになったところで、ようやく会計するように頼んだ。

 稔は奥を覗いたが、他のメンバーは見当たらない。
「あれ。お蝶とテデスコは?」
「先に行って飲んでいるそうです」

 四人は小さなアパートを借りて滞在し、夜はいつも通り宴会をする予定だ。甘い物に興味があるのはレネだけなので、スイーツ選びに飽きて帰ってしまったのだろう。

「こんなにどうすんだよ。そんなに食えないだろ。酒に合わせるならタパスにすりゃあいいのに」

 レネは人差し指を振ってウィンクした。
「ヤスが教えてくれたんじゃないですか。お菓子は別腹です」

 お菓子は別腹という、謎の言い草は日本でしか市民権を得ていないのだが、レネの心にはヒットしたらしい。確かに彼はいくらご飯でお腹いっぱいになっても、スイーツは無限に食べられる特異な胃袋の持ち主だった。

 ポルトガルは、甘い物に目のないレネにとっては、天国のような国だ。パステラリアのショーケースは、彼にとって宝石箱のように見えるらしい。洗練されたディスプレイではない上、日本のケーキ屋のように見かけには凝っていないし、それぞれの名前も書いていない。店員も日本のケーキ屋の恭しい接客はしないが、ポルトガル語が堪能でなくても欲しいものを指さして手軽に買うことができる。

 マカオでエッグタルトとして有名になったパステル・デ・ナタはもちろん、シントラ名物のケイジャーダ、ライスケーキの一種ボロ・デ・アロース、ココナツで飾ったパン・デ・デウス、豆を使ったパステル・デ・フェイジャオン。ドイツで有名なベルリナーの黄味餡バージョンのボラ・デ・ベルリン。稔にわかるのはそのあたりだ。

 レネの知識は、さらにそれを凌駕していた。次々と未知の菓子を解説してくれる。
「名前がいいんですよ。ミモス・デ・フェイラは《修道女の甘やかし》。ケイジーニョス・ド・セウは《天国のミニチーズケーキ》、トラオン・レアルは《ロイヤルクッキー》、こっちは《黄味あん入りの宝箱》」

「お前、いつそんなにポルトガル語に詳しくなったんだよ」
「お菓子の名前しかわからないんですけれどね」

「俺もなんか買おうかな」
稔は、ショーケースを見回してから、甘みの少なそうな黒い菓子を一切れだけ買った。
「なんだろ、これ」

「《チョコレートのサラミ》って言うんですよ。ビスケットの欠片を少し柔らかめのダークチョコで固めてあるんですよね。美味しいですよ」
「ふ、ふーん」

 ようやく会計を終えて帰ることにした。レネは大量の菓子の入った袋を抱えているので、稔が扉を開けてやる。

 通りの向こうを白い長衣を着た男性と、空色のドレスを着たカップルが歩いて行くのが見えた。外国人を見慣れている稔でも凝視せずにいられないほど、美男美女だ。後ろを白い仔犬と黒い仔犬がとことこと付いていく。

 二人が仲睦まじく話している声が届いた。
「ねえ。メルヴィン。その教会の尖塔に昇ってみたいの」
「ああ、上からは街が隅々まで見渡せるでしょうね。エレベーターはないから、階段をかなり昇らなくてはなりませんが、大丈夫ですか?」

 レネは、ぼーっとその美少女に見とれていた。
「おい、ブラン・ベック。またかよ。めちゃくちゃ綺麗な子だけどさ。どう考えても、相思相愛のカップルだぜ」

 レネは抗議するように振り向いた。
「違いますよ。もちろん、綺麗だなあって見とれましたけど、それだけじゃないですよ。ほら、僕たち、あの女の子に一度逢ったことあるなって」

「どこで」
「モン・サン・ミッシェルで。ほら、見てくださいよ、二人の後ろにいるあの白い仔犬……ヴィルがしばらく連れていた迷い犬……」

 稔は首を振って遮った。
「おいおい。お前、大丈夫か? 飼い主の女の子までは憶えていないけど、あの白いのは、たしかにあの時の仔犬にそっくりだよ。だけどさ。あれから何年経っているんだよ。ずっと仔犬のままのはずないだろう」
「そうですよね。確かに……。それに、今度は二匹だし」

 そう言った後に、レネは首を傾げた。
「だったんですけれど……もう一匹、どこに行ったんだろう?」

 通りの向こう、目立つ美貌のカップルが教会の尖塔を見上げている足下には、かつてあのヴィルが珍しくかわいがった仔犬とそっくりな白い仔犬が座っている。だが、つい数秒前に一緒にいた黒い仔犬はいない。

 稔が、レネの肩を指でつんつんと叩いた。見るともう一つの指はレネの足下を示している。目で追うと、そこには……。
「ええっ!」

 飛び上がった、足下には青いつぶらな瞳を輝かせて、黒い仔犬が座っていた。親しみ深い口元を開けて、ちょこんと座る姿は実に愛らしい。かつてモン・サン・ミッシェルでヴィルが肩に載せていた白い仔犬と較べると、ずいぶんと丸々としているし、いかにも何かを期待している様子も大きく違う。

前足をレネのに置き、催促するように布地を引っ張った。
「え?」

 黒い仔犬が期待を込めて見つめる視線の先は、お菓子のあふれている紙袋のようだ。
「もしかして、お菓子が食べたいとか? まさかね」

「わざわざお前のところに来たって事は、そうかもしれないぞ。こんなに菓子買っているヤツ、他にはいないもんな」
そう言って、稔は自分の買った《チョコレートのサラミ》をパクパク食べた。

 黒い仔犬は「どうして僕にくれないの」とでも言いたげに、稔の足下に移動してぐるぐると動いた。
「お。悪い。でも、これはダメだよ。犬にはチョコは毒だろ?」

 仔犬は不満げに見上げていたが、さっさと切り替えてまたレネを見上げた。
「仕方ないですね。どれがいいかな」
レネがしゃがんで、お菓子の袋を開け、選ぼうとした。すると、黒い仔犬はまっすぐに袋に顔を突っ込んで食べ出した。

「ええっ! ちょっと、それは!」
ほんの一瞬のことだった。仔犬の頭は袋の中にすっぽりとハマり、躊躇せずに食べている音だけが聞こえる。

 二人ともあっけにとられていると、後ろから短い鳴き声がした。仔犬と言うよりは狼の遠吠えのようだ。いつの間にか白い方の仔犬が、レネたちの足下に来ている。

 黒い仔犬は、ぴたっと食べるのを止めた。白い仔犬は、黒い仔犬の尻尾を口にくわえて引っ張り、紙袋から頭を出させた。黒い仔犬の口元は、ありとあらゆるお菓子の破片がベッタリついている。黄味餡、アーモンド、ココナツラペ、ケーキの欠片。

「フローズヴィトニル! なにしてるの?!」
「申し訳ありません。もしかして、あなたのお菓子を食べてしまったのでは」
道の向こうにいた二人が、なにが起こったかを察して慌ててこちらに走ってきた。当の黒い仔犬は可愛い舌をペロリと見せて、愛くるしく一同を見上げる。

「いや、いいんです。それより、勝手にお菓子をあげてしまったりして、大丈夫でしょうか……」
レネがもじもじと、二人に答えている。

 稔は、またブラン・ベックのビョーキかよと呆れながら傍観することにした。黒い仔犬はどうやら白い仔犬に叱られているようだ。って、そんな風に見えるだけかもしれないけどさ。

「ごめんなさいなの。この子、ウチでいつもケーキとか食べさせてもらっているので、遠慮なく食べちゃって」
「弁償させていただきたいのですが、このくらいで足りますでしょうか」
背の高い青年もそつのない態度で頭を下げ、財布から何枚ものお札を取り出した。

「とんでもない。ポルトガルのお菓子はとてもリーズナブルですから、そんなにしません」
レネは、感謝して、20ユーロ札を一枚だけ受け取った。

 もう一度同じお菓子を買うために、レネがパステラリアへ足を向けると、黒い仔犬は当然のように自分も入ろうとしたので、二人と白い仔犬に止められた。稔は堪えきれなくなって爆笑した。なんなんだよ、この食い意地の張ったワンコは。

 でも、ブラン・ベックにとっても、この黒ちゃんにとっても、ここがお菓子天国なのは間違いないな。右も左もパステラリアだらけだし、十分楽しむがいいや。

 レネから譲り受けたかつてお菓子の入っていた袋にまた頭を突っ込んで残りのお菓子を平らげる黒い仔犬は、わかっているよと言いたげに、小さな尻尾を振って見せた。

(初出:2020年1月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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ユズキさんがお返しの動画を作ってくださいました!

ユズキさんの動画 【企画参加】scriviamo! 2020

ありがとうございました!

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Posted by 八少女 夕

【小説】豪華客船やりたい放題 - 5 -

大海彩洋さんと、ちゃとら猫マコト幹事で開催中の「【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅」の参加作品の第五回目です。

お目付役の京極に見つかってしまったので、仕方なく一緒に船内を回ることにした山内拓也。現在は『不思議の国のアリス』コスチュームをしたアンジェリカの外見です。ただし、中身と声は拓也そのものです。

今回は、中途半端な『旅の思い出』と参加者のみなさまとのコラボ系を少し書いてみました。それとレストラン名などは、数学パラドックス系で遊んでみただけです。次回、最終回にできるかなあ、頑張ります。


オリキャラのオフ会


【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
私のところのチームの詳細設定/この話をはじめから読む



目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 5 -


「すげーな、豪華客船って。プールもある、カジノもある、レストランやバーもいっぱいある、船室だっていくつあるんだか」
アメリカ人少女、アンジェリカの外見に成り代わった俺は、執事コス、もといタキシードをビシッと着こなした京極に付き添われて船内を歩いた。

「客船に乗るのは初めてか?」
京極が訊いた。

「もちろん。お前は、初めてじゃないのかよ」
「子供の頃に、何回か乗ったことがある。もっとも世界一周するような客船ではなくて、三日くらいの国内クルーズだったけれど」

「へえ? 海外のクルーズだっていくらでも行けるだろうに、なんで?」
「父は仕事人間でね。三日以上の休みを取ったことがないんだ。家族旅行そのものも滅多に行かなかったけれど、行くとしても最長三日。それも、お盆や年末などの会社の閉まる時期だけだから。どこへ行っても混むのがわかりきっている。だから、定員以上にはならないし、渋滞もないクルーズ旅行をしたんじゃないかな」

 そうなんだ。
「で、この船と較べてどうだった?」
「僕は子供だったからね。何もかもが大きくて、夢のように見えた。もっとも、実際には、この船の方がずっと大きいし、豪華だし、スケールも桁違いなんだけれどね。オーナーはもちろん、招待客にしろ、用意されている食事やアトラクション、エンターテーメントにしろ」

 そうなんだっけ? エビフライやスパゲッテイは、けっこう馴染みっぽい味だったけどな。

「どこがそんなにすごいんだ?」
俺が首を傾げると、京極は壁に掛かっているポスターを示した。

「例えば、ほら。メインダイニングでは、今夜は相川慎一とテオドール・ニーチェがベートーヴェンのソナタを聴かせてくれる。明日は、新星ディーヴァとの呼び名も高いミク・エストレーラによるディナーコンサートだ」

「俺、そういう高尚なのは、よくわかんないからな。こっちのほうが面白そうじゃね? 高級クラブ『サンクトペテルブルク』でワンドリンク付きショウってだってさ。おい、見ろよ、このシスカって歌手の姉ちゃん、銀髪にオッドアイだぜ。戦闘服系のコスプレさせたら、メチャクチャ似合いそう」

 京極がため息をついた。なんだよ、思うのは自由だろ。
「お。こっちも、いいじゃん」
俺の指したポスターを見て、京極は「ほう」という顔をした。

「君もスクランプシャスのファンなのか」
俺はムッとした。俺だってアニソンの専門じゃないんだよ。スクランプシャスは若者の思いを代弁してくれる名バンド。ま、俺も若者っていっていいのか、若干怪しい年齢にさしかかっているけどさ。

 しかし、まさか生スクランプシャスがここに来るとは。ライブはいつなんだろう。お願いだから『魔法少女♡ワルキューレ』放映時間とだけは重ならないでくれよ。

 そんな話題を花咲かせながら、俺たちは豪華客船の中を歩いて行った。

 目立つメインダイニングに行くことを京極が渋るので、俺たちはカジノを横切り、わりと目立たないカフェテリア『アキレスと亀』を目指した。

 カジノでは、アラブの王族みたいな服を着た男と、小柄の中年のおっさん、それに胡散臭いオヤジが、目も醒めるようなタイコーズブルーのドレスを着た女と勝負をしていた。はじめはけっこう余裕をかましていた男たちだが、みるみるうちにチップが女の方に移動していく。へえ。すげえ。

「なあ、京極、俺も少し賭けていい? あの赤い髪のねーちゃんみたく賭ければ、少し儲かるかも。そしたらコスプレも、自分の金で買えるようになるし」
そういうと、京極は首を振った。
「君は今、十歳のアンジェリカ嬢なんだ。カジノで賭け事するなんて言語道断だ。行くぞ」

 ちぇっ。本当にお堅いんだから。少しぐらいいいじゃん。

 カジノを横切って再び廊下に出ると、小脇に二頭のハスキー犬ぬいぐるみを抱えたとても幼い少女とぶつかりそうになった。おっと。

 少女はぽかんとしているだけだが、抱えたぬいぐるみ達が眉間を釣り上げて吠えかけたような氣がした。
「なんだよ、怖えな。わざとじゃないって」

 少女を氣遣っていた京極が振り向いて「なんだって?」と訊いた。
「いや、そのぬいぐるみが、怒ってしかもちょっと火を噴いたような……」
俺が言うと、京極は今日何度目になるかわからないため息を漏らした。

「ハスキー犬が怒っているように見えるのは普通だろう。模様だよ」
ま、そうだよな。よく見てもやはりぬいぐるみだし。京極の女に対する神通力は、幼児から老婆まで変わらないらしく、小さな女の子は俺なんか見もせずにヤツににっこりと笑いかけて手を振った。

 まあいいや、とにかくメシ食おう。カフェテリア『アキレスと亀』は、その廊下の突き当たりにあった。黒をメインにしたインテリアに、ギリシャ風の壺などがあちこち置いてある。

 俺は、メニューを開いて「うーん」と唸った。なんだよ、ここ、ギリシャ料理の店じゃん。俺は、普通の洋食が……。あれ、このムサカってのは美味そうだな。茄子のグラタンみたいなもんじゃん? それにほうれん草のパイか。それももらおう。それにえっと、飲み物は、おおっ。ウゾか、結構強そうだな。

「それはダメだ。君は十歳なんだから」
京極がすぐにダメだしする。ちっ。ま、いいか、このヨーグルトドリンクみたいなヤツで。

 選んでいると、奥の方のステージに灯がついた。ミュージシャン登場かな? でも、この店、まだ開店休業状態じゃん。俺たちの他にいる客といったら……、あ、白っぽいキャミソールドレスを着た女が一人か。お、すげー美人だ。それにあのスタイル。ポン、キュッ、ポンてな具合だよな。今のドレスもいいけど、コミケで着せるとしたらやっぱりピッタリとした戦闘スーツかなあ。別に戦闘系にだけ萌えるわけじゃなんいだけどさ。

 ともかく、客より従業員の方が多そうな状態だけれど、何かショーが始まるらしい。

 見ると、奥にわずかに他の床よりも高い場所があり、大広間にあったのとは比べものにならない古ぼけた感じのするピアノが置いてある。そこに着崩した麻のジャケットを着た金髪の男が座った。フルートを持った女や、ギターを抱えた男もステージに上がってきた。この二人はアジア人だ。それから、ひょろひょろとしたもじゃもじゃ頭の眼鏡男がピアノの前に立った。

 最初に弾きだしたのは、ギターを持った日本人。流れてきたメロディは、ギリシャ風の曲だ。あ、これ聴いたことがあるような。ギリシャ観光局って感じ? 別にどうということのない曲なので、メシを食うのに邪魔になることはなさそう。もじゃもじゃ頭の眼鏡男はなぜかトランプ手品を繰り広げている。

 俺は目の前に置かれたムサカに取りかかることにした。あっちっち。茄子と挽肉のグラタンみたいなもん? 美味っ。
「上品に食べてくれよ」
京極がささやく。うるせえな。お前は食わないのかよ。

 ヤツは、舞台の方に集中している。金髪男がピアノで先ほどより上品そうな曲を弾き出して、手品男もトランプをしまって歌い出した。意外にも上手いのでびっくり。

「モーリス・ラヴェルの『五つのギリシャ民謡』だな」
京極が頷く。
「なんだよ、お前、知ってんのか」
「ああ。ギリシャの民謡に素晴らしい和声のアレンジを加えて作った作品だ。この店に合わせてこの曲目を用意するなんて、洒落たアイデアだと思わないか?」

 俺は「うん」とは答えてみたものの、いまいちピンときていない。飯が美味ければ、何でもいいんだけど。京極はレチーナワインを飲んでいるだけで、全然食わないので俺がどんどん片付ける。舞台の曲は、アジア女のフルートや、ギター男が演奏に加わり、なかなか華やかな演奏になってきた。

 その『五つのなんとやら』が終わったらしく、客席から拍手が起こった。京極、白いドレスの綺麗な姉ちゃんや、いつの間に入ってきたのか他の観客も拍手を送っている。

 舞台のギター男がさっと立ち上がり手を伸ばした。その先にいたペパーミントグリーンのドレスを着たショートカットの女が、舞台に上がった。あ、この顔は知っている。さっき京極がポスター見ながら褒めてた歌手じゃん。初音ミクみたいな名前の、ええと、なんだっけ。

 一層大きな拍手に迎えられ、彼女は優雅にお辞儀をした。もじゃもじゃ男は舞台から降りて、アジアの二人と金髪男が伴奏をはじめた。

 おお、この曲はよく知っているぞ。なんて曲か知らないけれど。
「映画『日曜日はダメよ』のテーマ曲『Ta Pedia Tou Pirea』だな」
京極が解説してくれる。

「何それ?」
「ギリシャを舞台にした名作映画だよ。曲名は『ピレアの男たち』って意味じゃないかな。アカデミー音楽賞も取ったはずだ」

 澄んだ歌声は心地よい。さすがメインダイニングで歌う予定のディーヴァ。見るとキャミソールドレスの別嬪姉ちゃんも、さっきのもじゃもじゃ眼鏡男の時とは全く違う熱心さで舞台に見入っていた。

 俺は、とりあえずほうれん草のパイを片付けるのにメチャクチャ忙しい。京極、悪いけど全部片付けちゃうぞ。美味いし。

「ところで、君はいつまでアンジェリカ嬢の身体を乗っ取っているつもりなんだ」
京極は声を潜めて訊いた。

「ほんのちょっとだよ。うまいもん食って満足すればそれでいいんだ。最長で明日の『魔法少女♡ワルキューレ』放映時間までには戻してくれって頼んである。あの子が、船のあちこちを見るのに飽きちゃったら、すぐにでも終わりだろ。ほら、そこにも四角い額縁があるしさ」
俺は、ガツガツとフェタチーズとオリーブ入りのサラダをかき込んだ。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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忘れてた……。ミク嬢が歌ったのをイメージしたのはこちらです。

Ta Pedia Tou Pirea - NANA MOUSKOURI


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Posted by 八少女 夕

【小説】豪華客船やりたい放題 - 3 -

台風の被害に遭われたみなさまに心からのお見舞い申し上げます。こんな時にのんきにどうでもいい小説をアップしている場合ではないのかもしませんが、とはいえ数日自粛しても同じ事ですし、不快に思われる方は読まないと思いますので、予約投稿通り本日公開します。以下、予約投稿の文章です。

大海彩洋さんと、ちゃとら猫マコト幹事で開催中の「【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅」の参加作品の第三回目です。

サラッと書いて終わらせるはずだったのに、なんか思いのほか文字数が……。はじめに謝っておきますが、真面目に豪華客船の謎に挑んだりはしません。能力も興味も皆無なキャラクターで出かけてきてしまったので。さらにいうと、妖狐の問題も全く解決する予定はありませんので、ストーリーに期待はなさらないでくださいね。

さて、今回の語り手は、京極髙志の方です。


オリキャラのオフ会


【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
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目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 3 -


 僕は、ウェルカムパーティで何組かの知り合いと遇った。父が後援していた指揮者の令嬢で、かなり有名なヴィオリストである園城真耶。そして、彼女の又従兄弟で日本ではかなり有名なピアニストである結城拓人。この二人が乗船していたのは、嬉しい驚きだった。

「まあ、京極君じゃない! 久しぶりね。十年以上逢っていなかったんじゃないかしら」
彼女は、あいかわらず華やかだ。淡いオレンジのカクテルドレスがとてもよく似合っている。

「僕は、五年くらい前に舞台で演奏している君たちを見たけれどね。君たちもこの船に招待されたのか?」
シャンペングラスで乾杯をした。結城拓人はウィンクしながら答えた。
「いや、僕たちは君たち招待客を退屈させないために雇われたクチさ。変わらないな、京極。あいかわらず、あの会社に勤めているのかい? 先日、お父さんに遇ったけれど、そろそろ跡を継いで欲しいってぼやいていらしたぞ」

 僕は肩をすくめた。ぼんくらの二代目になるのが嫌で、自分の力を試すために父の仕事とは全く関係のないところに就職した。父はさっさとやめて自分を手伝えとうるさいが、責任のある仕事を任されるのが楽しくなってきたところだ。それに、何人もの社内若手の身体を乗っ取ったあげくに、山内の身体とパスポートを使い海外に逃げ出した妖狐捜索の件がある。自分も巻き込まれた立場とはいえ、いま放り出して会社去るのは、無責任にも程があるだろう。

「父は誰にでもそんなことを言うが、そこまで真剣に思っているわけじゃないんだ。ところで、君たちはこの船のオーナーと知り合いかい? もしそうなら、紹介してもらいたいんだが」
《ニセ山内》の件を相談するにも、まずはオーナーと知り合わないと話にならない。

「いや、僕たちはヴォルテラ氏と面識はないんだ。でも、あそこにいる二人なら確実に知り合いだと思う。ほら、イタリア系アメリカ人のマッテオ・ダンジェロ氏とヤマトタケル氏だ」
拓人は、二人の外国人を指さした。

 一人は海外のゴシップ誌でおなじみの顔だ。スーパーモデルである妹アレッサンドラと一緒にしょっちゅうパーティに顔を出すので有名になったアメリカの富豪で、たしか妹の芸名に合わせてダンジェロと名乗っているとか。

 もう一人の金髪の男も見たことがある。雑誌だっただろうか。端整な顔立ちと優雅な立ち居振る舞いの青年だ。変わっているといえば、茶トラの子猫を肩に載せているとこだろうか。もちろんパーティで猫の籠を持ち歩くわけにはいかないし、この人混みでは足下にじゃれつかせていたらいつ誰かに踏まれるかわからないので、そうするしかなかったのかもしれない。

 僕は首を傾げた。
「ということは、彼があの有名なヤマト氏なのか? でも、噂では、彼の父親は……」

 園城真耶は謎めいた笑みで答えた。
「だから拓人が、確実に知り合いって言ったのよ。もっとも、紹介してくれるかはわからないけれどね。でも、マッテオは、この船のオーナーとも財界やイタリアの有力者とのパイプで繋がっているに違いないわよ。とにかく挨拶に行きましょうよ」

 僕は、二人に連れられて、ひときわ目立つ二人のところへと向かった。驚いたことに、日本に永く住み音楽への造詣も深いと噂のヤマト氏だけでなく、ダンジェロ氏までが結城や園城をよく知っている様子で、親しく挨拶を交わしていた。特に園城に対しては最高に嬉しそうに笑顔を向ける。

「ああ、真耶、東洋の大輪の薔薇、あなたに再会するこの日を、僕がどれほど待ち焦がれていたか想像できますか? 今日もまた誇り高く麗しい、あなたにぴったりの装いだ。先日ようやく手に入れた薔薇アンバー・クイーンの香り高く芯の強い氣高さそのままです」

 僕は、ダンジェロ氏が息もつかずに褒め称えるのを呆然と聞いていた。彼女は、この程度の褒め言葉なら毎週のように聞いているとでも言わんばかりに微笑んで受け流した。
「あいかわらずお上手ね。ところで、私たちの古くからの友達とそこで再会したの。ぜひ紹介させてくださいな。京極髙志さん、あなたもよくご存じ日本橋の京極高靖さんのご長男なの。ご近所だからタケルさんはご存じかもしれないわね」

「おお、あの京極氏の……。はじめまして、マッテオ・ダンジェロです。どうぞお見知りおきを」
「はじめまして。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」

 ヤマト氏もどうやら父のことをよく知っているらしい、ニコニコして握手を交わしてくれた。
「お噂はよく伺っています。お近づきになれて嬉しいです。今、マッテオと話をしていたのですが、あちらのバーにとてもいい出來のルイ・ロデレールがあるそうなんです。それで乾杯しませんか」

 それで、僕たちは広間の中央から、バーの方へと移動することにした。が、園城と結城は一緒に移動する氣配がない。
「失礼、私たち、これからリハーサルがあるのでここで失礼するわ」

「リハーサル? ああ、君たちが出演する、明日の演奏会のかい?」
ダンジェロ氏が訊くと結城は首を振った。

「いや、それとは別さ。実は、普段ヨーロッパにいる友達四人組も来ているんだ。それで急遽一緒に演奏することになってね。たぶん、夜にバーで軽く演奏すると思うから、時間があったら来てくれ」
「じゃあ、また、後で逢いましょう」
そう言って二人は、去って行った。それで、僕はダンジェロ氏とヤマト氏に連れられてバーの方へ行った。

 移動中に、ヤマト氏の愛猫が何か珍しいものを目にしたらしく、彼の肩から飛び降りてバーと反対の方に駈けていってしまった。ヤマト氏はこう言いながら後を急いで追った。
「失礼、マコトを掴まえて、そちらに行きます!」

 結局、僕はダンジェロ氏と二人で、笑いながらバーに向かった。

 がっしりとした樫の木材で作られたバーは後ろが大きな四角い鏡張りになっていた。そして、そこに目をやって僕はギョッとした。映った僕たちの他に、白い見慣れた顔が見えたのだ。思わず叫んでしまった。
「山内!」

 その声に驚き、ダンジェロ氏も鏡の中の妖狐に氣付いた。しまった……。

 よく見ると山内の様子がいつもと違う。立ち方がエレガントだし、それにいつも好んで選ぶ変な服と違い、上等のワンピースを着ている。サーモンピンクの光沢のある絹の上を白いレースで覆った趣味のいいカクテルドレスだ。そして、僕の横を見て嬉しそうに口を開き、鈴の鳴るような可愛らしい声で英語を口にした。
「マッテオ! 私よ」

「おや、その声は僕の愛しい天使さんだね。どういう仕掛けになっているのかな? アンジェリカ」
ダンジェロ氏が、その声に反応した。

 僕は、自分でも血の氣が引いていくのをはっきりと感じた。山内のヤツ、なんてことをしてくれたんだ!
「まさか、妖狐に身体を乗っ取られてしまったのかい、お嬢さん!」

 妖狐の姿をしたダンジェロ氏の連れと思われる少女は、首を振った。
「いいえ。違うの。さっきタクヤとしばらくのあいだ身体を交換する契約を結んだだけ。マッテオが社交で忙しい間、この船内のなかなか行けないところを冒険するつもりなの。明後日の十時までに戻るから心配しないで。マッテオに心配かけないように、あらかじめちゃんと説明しておこうと思って。でも、会場の真ん中には行けなくて困っていたの。この広間で四角い枠はこの鏡の他にはあまりないでしょう。この側に来てくれて本当に助かったわ」

「ダンジェロさん、この方は……」
僕が恐縮して訊くと、ダンジェロ氏は、大して困惑した様子もなく答えた。
「ああ、紹介するよ。僕の姪、アンジェリカだよ。普段は十歳の少女なんだ。アンジェリカ、こちらは京極髙志氏だ」

 ってことは、山内のヤツは十歳のアメリカ人少女のなりでこの船内を歩き回っているっていうわけか……。

「ああ、タクヤが言ってたタカシっていうのはあなたね。どうぞよろしく。マッテオ、詳しくはこの人に説明してもらってね」
妖狐の中の少女は朗らかに笑った。

 ダンジェロ氏は、鷹揚に笑った。
「オーケー、僕の愛しい雌狐ヴォルピーナ ちゃん。世界で一番賢いお前のことだ、何をするにしても僕は信用しているよ。危険なことだけはしないでおくれよ。それに、困ったことが起こりそうだったら、すぐに僕たちに相談すると約束してくれるね」

「サンクス、マッテオ。もちろんそうするわ。タカシも、心配しないでね」
妖狐姿のアンジェリカはウィンクした。

「ところで、アンジェリカ。そのカクテルドレスだけれど」
ダンジェロ氏が、鏡の奥へと去って行こうとする彼女を呼び止めた。彼女は振り返って「叱られるかな」という顔をした。

「私の服だと小さくて入らないから家に戻って、ママのワードローブから借りてきたの。だって、変な安っぽい服着ているのいやだったんだもの。ダメだった?」
ダンジェロ氏は、「仕方ないな」と愛情のこもった表情をして答えた。

「エレガントでとても素敵だよ。アレッサンドラに内緒にしておくが、汚さないないように頼むよ。来月ヴァルテンアドラー候国八百年式典の庭園パーティーで着る予定のはずだ。とくにそのレース、熟練職人の手編みで1ヤードあたり六千ドルする一点ものだから、引っかけたりしないようにしてくれよ、小さなおしゃれ上手さん」

 僕の常識を越えた世界だ。姪に甘いにも程がある。だが、よその家庭の話はどうでもいい、僕はアンジェリカ嬢の身体を借りて、何かを企んでいる山内を探して監視しなくては。まったく、どうしてことごとく邪魔ばかりするんだろう、あの男は。誰のために僕がこの船のオーナーと話をしたがっているのか、わかっているんだろうか。
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Posted by 八少女 夕

【小説】豪華客船やりたい放題 - 2 -

大海彩洋さんと、ちゃとら猫マコト幹事で開催中の「【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅」の参加作品の第二回目です。

ようやく本題に入った。こんな感じでストーリーが進みます。というわけで、うちのキャラを書こうとしているみなさま、中身が入れ替わっておりますので、ご注意ください。


オリキャラのオフ会


【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
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目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 2 -


 俺がお茶会に紛れ込んで美味いものを食うにはどうしたらいいかを考えていると、ドアの前に来ていたブルネットの少女が「ところで」と唐突に話しかけた。げっ。いつの間に。

「あなたは一体だれ? その耳と尻尾は仮装なの?」
どっかで見たような顔の少女だった。俺は、アイドルや二次元の方が好みだったのでガイジンには詳しくないが、この顔にそっくりな女は何度も見たことがある。スーパーモデルってやつ? 名前までは知らないけれど。が、この子は大人びてはいるけれど、絶対に本人じゃないだろう、若すぎる。

 俺がこの妖狐スタイルになって実にラッキーだと思うことの一つに、語学問題がある。学校に通っていたときから、勉強は苦手で英語なんて平均点以上採ったことがない俺だが、この狐耳から聞こえてくる言葉は、全部日本語と同様にわかるのだ。テレビの会話を理解していただけだから、俺が話す言葉もガイジンに通じるかどうかはわからないけれど。

「仮装じゃないさ。本当の耳と尻尾」
言ってみたら、少女は目を丸くした。
「触ってみてもいい?」

 ってことは、俺の言葉も通じているって事だ。へえ、びっくり。
「触ってもいいけどさ、あんた、怖くないのか? 俺が妖怪だったらどうするんだよ」

 少女は首を振った。
「全然怖くないわよ。だって、カーニバルで仮装の子供たちが着るみたいな、ペラペラの服着ているお化けなんているわけないもの。なぜセーラー服にミニスカートを合わせているの? 狐の世界での流行?」

 俺はがっかりした。日本でも放映が始まったばかりの『魔法少女♡ワルキューレ』をガイジンが知っているとは思わないけれど、アニメコスプレについては、海外でももっと市民権を得ていると思ったのにな。でも、確かにこの子が着ている服、めちゃくちゃ高価そうだもんな、化繊の安物コスチュームに憧れるわけないか。

「狐の流行じゃなくて『魔法少女♡ワルキューレ』のコスチュームだよ。あんた、ジャパニーズ・アニメは観ないのか。どこの国から来たんだ? 俺は、日本人で山内拓也って言うんだけどさ」
俺が訊くと、少女はにっこりと笑って握手の手を差し出した。

「はじめまして。私、アンジェリカ・ダ・シウバ。アメリカ人よ。マッテオ伯父さんと一緒に来たの。タクヤは、日本の狐なの? 招待されて一人で来たの?」
「いや。京極髙志っていうヤツが招待状をもらったんだ。俺は面白そうだから来ただけ。俺、どこにでも行けるんだぜ。四角い枠からは出られないんだけどさ」
「ふーん。便利なんだか不便なんだかわからないわね。ところで、どうして男の人みたいな声なの?」
「俺、もともとは男だったんだもの。身体をだれかに取られちゃってさ。まあ、この身体のままでも、そんなに悪くないけどね。お茶会に行けないのが、目下の悩み」

 アンジェリカは、少し思案をしていた。
「お茶会に行けなくて悩んでいるのって、みんなとお茶が飲みたいの?」

「いや、美味いものさえ食えれば、それでいいんだけどさ。でも、ビュッフェのところにいって好きなものを取りに行くとか、そういうことはできないんだ。京極の野郎は、社交で忙しくて、エビピラフとグラタンを取ってきてくれとか、言っても聞いていないと思うし」

 アンジェリカは、頷いた。
「せっかくどこにでも行けるのに、簡単じゃないのね。私はエビピラフなんか食べられなくてもいいから、ちょっとだけでもどこにでも行ける能力が欲しいな。この船の地下に、いろいろと秘密があるんですって。でも、どこにも通路がないんだもの」

 で、俺はひらめいた。
「まじか? だったら、しばらく身体を交換しないか?」
「交換? そんなことできるの?」
「ああ。俺がこの服を脱いで、あんたと目を合わせれば、入れ替わる」

「でも、それで元に戻れなくなったら困るもの」
「この身体になったら四角いところのどこへでも行けるんだぜ。つまり好きなときに俺の前に出てきて目を合わせれば戻れるんだ。もっとも俺、明後日の朝十時までにはどうしてもこの身体に戻って『魔法少女♡ワルキューレ』の第二回放送を観たいんだ。遅くともそれまでにしてくれよ」

 アンジェリカは、少し考えていたが頷いた。
「わかったわ。そうしましょう。でも、私の格好をして、品位の下がるようなことしないでよ」

 俺は、情けなくなった。京極にもいつも叱られっぱなしだけど、こんなガキにまで信用ないなんて。まあ、無理ないけど。

 そういうわけで、俺とアンジェリカは、身体を交換した。アンジェリカに教えてもらった彼女の船室に戻り、お茶会に相応しい服を選ぶことにする。いま着ているクリーム色のワンピースを見るだけで、大金持ちの娘なのは丸わかり。俺、ロリコン趣味はないけど、これだけの美少女の身体でコスプレ、もといファッションショーごっこをするのは悪くない。明後日の十時までの四十時間、楽しく遊ばせてもらうぜ。ついでに好きな食い物たらふく食べるぞ!
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Posted by 八少女 夕

【小説】豪華客船やりたい放題 - 1 -

大海彩洋さんと、ちゃとら猫マコト幹事で開催中の「【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅」の参加作品の第一回目です。

すみません、まだウゾさんのところのキャラしか出てきていませんし、宿題の『旅の思い出』も出てきていません。次回以降にぼちぼち書きますので、今日は導入部のみで失礼します。


オリキャラのオフ会


【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
私のところのチームの詳細設定など




目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 1 -


 ほう。さすがは、お坊ちゃま。

 京極は、ウェルカムパーティに遅れないように身支度をした。タキシード、俺には執事コスプレにしか思えない服装をしてもちゃんと絵になる。鏡を覗いて、俺がちゃっかり来ているのを知り、露骨に嫌な顔をした。

「来るなといったのに、どうしてここにいるんだ、山内」

 山内拓也、それが俺の名前だ。見かけは全然それっぽくない。かつては普通の男だったけれど、あれこれあって、今は狐の耳と尻尾を持つ美少女の姿をしている。四角い枠の中にしかいられないのはもどかしいが、反対に四角い枠の中であればどんなところにでも自由にいけるという、非常に便利な能力を持った異形なのだ。

 京極髙志は、俺が勤めていた会社の総務課長代理だ。イケメンで、お育ちもいい上に、仕事も出来るので女たちが群がるけっこうなご身分。ずっとムカついていたけれど、俺が本来の身体を乗っ取られてこの姿になってしまって以来、自宅にかくまってくれて面倒を看てくれている。そう、こいつは性格もいいヤツなんだ、腹立たしいことに。

「世界から金持ちがワラワラ集まる豪華客船パーティ、美味いものも、綺麗どころもたっぷりと聞いたら、そりゃ行きたくなるさ。お前だけ楽しむなんてずるいぞ」

 京極は、ますます嫌な顔をしてため息をついた。
「僕は、遊びに来たわけじゃない。乗っ取られた君の身体とパスポートで、イタリアに入ったという《ニセ山内》の情報をもらうために、この船のオーナーと話をする必要があるから来たんだ。君だって、早く身体を取り戻したいだろう」

 そう言われて、俺は少し考えた。まあ、確かに身体を取り返したいって思いはあるけれど……。
「そんなに急がなくても、いいかな。ほら、先週『魔法少女♡ワルキューレ』の放映が始まったばかりだし、その他にリアルタイムで追いたいシリーズがいくつかあるんだよな。ゲームもまだシリーズ3に着手しだしたところだし、コスプレの方も……」

 俺ののんびりライフのプランを聴いてイラッときたのか、京極はそれを遮った。
「そういえば、先週も着払いで何かを頼んだだろう」

「悪い。けど、しょうがないだろう。俺は休職中で収入ないしさ。お前のクレジットカードの家族カード作ってくれたら、着払いはやめるよ」
「冗談じゃない。カードなんか作ったら、とんでもないサイトで課金するに決まっている」

 よくおわかりで。
「まあね。でも、服は仕方ないよ、必要経費だろ? お前にとっても」

 これは京極にとっても痛いところをついたようだ。服の着用が、俺の持つもう一つの迷惑な能力を封印するからだ。

 俺は、誰かと目を合わせると、そいつと身体を交換することが出来る。まあ、そういうわけで俺自身の身体を誰かに持って行かれてしまったわけだ。で、もう一度目を合わせると再び元に戻る。同じ相手とは一度しか交換できない。つまり、俺は俺自身と目を合わせて身体を取り戻さなくちゃいけないわけだけれど、そいつがどこにいるのかわからない限り、話は簡単じゃない。

 で、事情をよく知っている京極ん家の露天風呂をメインの根城にさせてもらっているのだが、一応美少女の姿をしているので、独身の京極には目の毒らしく「服を着ろ」と言われた。で、着てみたらなんと誰と目を合わせても問題は起こらないということがわかったのだ。おかげで、京極は俺が服を脱いで人前に出ないようにますます心を砕く羽目になったというわけだ。

 俺にとっても悪い話ではなかった。もともと俺は猫耳のギャルが大好きなのだ。で、鏡に映せば自分の姿にはいくらでも萌えられる。コスプレもし放題。アニメとゲームの合間にコスプレ、こんな天国がどこにあるだろうか。身体が戻ってしまったら、またドヤされながら営業に回らなくっちゃいけない。だったら今のうちに存分楽しまなくちゃ。

 払わされる京極には悪いけど、俺の軍資金はとっくに底をついてしまったから……。ま、いいだろ、お坊ちゃまには働かなくても構わないくらい財産があるんだから、月に数着の服くらい。いや、数着じゃないな、小物も入れたらギリ二桁ってとこ?

 今日、選んでみたのはさっき届いたばかりの『魔法少女♡ワルキューレ』のシリーズもの。まずは『ファイヤー戦士ブリュンヒルド」を着てみた。白い肌に赤いミニスカって、滅茶苦茶合うよね。髪型もちゃんと高めのポニーテールにして再現したけど、京極のヤツ、わかってんのかな。

 京極はため息をつくと、袖口をカフスで留めた。
「しかたないな。観て歩くのは仕方ないが、あまりあちこちで迷惑をかけるなよ。大人しくそこでアニメでも観ていてくれ」

 そう言って京極のヤツは出て行った。ふふん、この船のテレビはオンデマンドだから、かじりついていなくても再放送を観られるんだよ。もちろん『魔法少女♡ワルキューレ』の放映は外せないけどさ。

 さ。せっかくたくさんの服を用意してきたし、あちこちで見せびらかしてこなくっちゃ。どこから行こうかな。

 テレビやスマホ、ドア、窓や鏡だけじゃない。プール、ビリヤード台、調理場の流し、ワゴンの下、段ボール箱、ポスター。四角いところならこの船のどこにでもある。

 試しに一つのドアへ行ってみたら、ちょうど二人の少女が挨拶をしているところだった。一人はクリーム色のボレロ付きワンピースを着たブルネットの少女で、もう一人は全身真っ白のビスクドールのように美しい少女。ブルネットの少女が一人であれこれ話しかけながら、もう一人の少女にガラスの煌めく髪飾りをプレゼントして去って行った。白い少女は、髪飾りを陽に透かし、それから少し離れたところで立っていた全身黒づくめの男にそれを見せた。

 俺は、もう一人の少女が語っていたことをちゃんと聞き取っていた。「甲板長主催の船に纏わる伝説とお茶会」そんなものがあるなら、顔を出してみようかな。いや、茶菓子を食べるのは、枠の中にいたらダメだよな。さて、どうしよう。
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Posted by 八少女 夕

【小説】不思議な夢

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第八弾です。ユズキさんは、『大道芸人たち Artistas callejeros』の主人公の一人ヴィルの登場するコラボマンガを描いてくださいました。ありがとうございます!

 ユズキさんのブログの記事『scriviamo!2019はマンガを描きました 』
 ユズキさんの描いてくださった『コアラ先生は謎の男を拾っておもてなしをしました。

ユズキさんは、小説の一次創作や、オリジナルまたは二次創作としてのイラストも描かれるブロガーさんです。現在代表作であるファンタジー長編『ALCHERA-片翼の召喚士-』の、リライト版『片翼の召喚士-ReWork-』、そして『アストリッド様と「行くわよ愉快な下僕たち!」』を集中連載中です。

そして大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストを描いてくださっています。

 今回描いてくださったマンガは、『ALCHERA-片翼の召喚士-』の世界観、続編に出てくるキャラクターのコアラのトゥーリ族であるウコン先生がいち早くお披露目だそうです。コラボ相手に選んでくださった唐変木男ヴィルとユズキさんの作品とは縁が深くて、ヒロインのキュッリッキ嬢や、その守護神であるフェンリルとのコラボもさせていただきました。

で、今回はヴィルが異世界召喚されちゃって、もったいないおもてなしを受けているのに、なのに相変わらずの無表情&唐変木ぶりを発揮している、もう私にとってはツボ! なマンガだったのですが、ご希望は、このお話をヴィル視点で書いて欲しいとのことでした。というわけで、書きましたが、あ〜、ユズキさん、申し訳ありません。失礼の数々、ヴィルに代わって深くお詫びいたします。


【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物



「scriviamo! 2019」について
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
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大道芸人たち・外伝
不思議な夢
——Special thanks to Yuzuki san


「ねえ、やっぱりちゃんとお医者様に診てもらった方がいいんじゃないの?」
蝶子の言葉にヴィルはムスッと答えた。
「こんなのは寝ていれば治る」

「なあ。健康保険をなんのために払ってんだよ。俺運転するぜ。ちょっと診てもらって抗生物質を出してもらうとかさ。なんなら、お尻にぶすっと注射でも打ってもらえば……」
「注射なんて死んでもごめんだ!」
そういうと、ドイツ人は布団をかぶって背を向けた。

 蝶子は、稔と顔を見合わせて肩をすくめると、仕方ないので部屋の外に出た。
「なぜあんなに意固地になるのかしら」
「さあな。ただの風邪なら確かに寝てりゃ治るけれど、あれ、インフルエンザじゃないのか? そういえば、テデスコが寝込むほど具合が悪くなったのって、もしかして初めてだな」

「普段の理屈っぽさはどこに行っちゃったのかしら。あそこまで非論理的になるなんて」
「テデスコ、もしかして注射が怖いのかもしれませんよ」
レネが言った。

 全くお手上げだった。エッシェンドルフの屋敷にいれば、ミュラーが医者の往診を頼んでくれるだろうが、旅先ではそういうわけにもいかない。
「しかたないわね。私、薬局に行って解熱剤でも買ってくる」

「じゃあ、俺たちは、買い出しに行くか」
稔が言うと、レネは頷き、三人はそっと宿を出て行った。

「注射なんて死んでもごめんだ」
ブツブツとつぶやくと、ヴィルはもう一度寝返りをうった。激しい頭痛がして、なかなか寝付けない。体が頑丈なのが取り柄なのに、一体どうしたというんだ。明日までに熱が下がるといいんだが。

* * *


 ほらみろ。少し寝ていたら、痛みは治まったし、熱ももうないようだ。医者なんかに行く必要はなかったな。

 ヴィルは、勝ち誇った思いで瞼を開けた。それから、何度か瞬きをした。安宿で寝ていたんじゃなかったのか? 何で俺は、ここに立っているんだろう。

 そもそも、その場所に見覚えがなかった。街の作りは、さほど奇妙ではなかった。若干カラフルすぎるように思うが、美しく計画された、清潔な町並みだ。しかし問題は、道行く人々が彼の馴染んでいるヨーロッパの人種と違うようなのだ。中には、彼自身と同じゲルマン系に見える人々もいる。たとえアジア系やアフリカ系の人間がいても、今時は珍しくない。だが、動物の頭をした人物が、服を着て直立二足歩行をしているのは普通ではない。

 狐がすれ違いざまに振り向いていった。連れだって歩いているのは大きな熊だ。そんなことがあってたまるか。

 つい数日前に、稔が話していたことを考えた。確か蚊が媒介するウィルスが脳炎を起こすので、日本では子供の頃に予防接種が義務づけられているとか。日本人に生まれなくてよかったと思っていたが、もしかして、先日の日本行きで蚊に刺されその脳炎にかかってしまったのだろうか。

 呆然としていると、服の一部を誰かが引っ張った。視線を下げて見ると、そこに服を着たコアラがいる。コアラだ。こんな間近にコアラを見たのは初めてだ。そう考えて、次に自嘲した。近くも何も俺はコアラを見たことなんかないじゃないか。あの時に、見そびれたんだから。小学五年生の遠足。夢にまで見たデュイスブルク動物園。

 服を着たコアラは、何かを話しかけている。残念ながら、何を言っているのかさっぱりわからない。どうやら悪意はなさそうだ、どちらかというと親切な話し方だ。

「悪いが、英語で話してくれないか」
言ってから、自分でもどうかしていると思った。オーストラリアにいるからといってコアラが英語を話すわけないだろう。オーストラリアのコアラは服は着なかったと思うが。

 そして、そのコアラは、英語に切り替えてくれることはなかった。どうやらヴィルが何を言っているのか、通じていないようだ。だが、彼は(オスだと思うのだが確かなところはわからない)、ヴィルをどこかに連れて行こうとしている。放っておいて欲しいと伝えようとしたが、考えてみればこのままここにいても問題が解決しそうにないので、とりあえずそのコアラについて行くことにした。

 ついてから、「最悪だ」と思った。どうやらそこは、あれほど行くことを拒否した診療所のようなところだったからだ。

「いや、俺はもう治ったので、心配しないでくれ。特に注射はごめんだ、絶対に断る」
幸いコアラは注射器を取り出すような氣配はなかったが、どうもこの消毒薬の匂いは落ち着かない。

 ヴィルは、子供の頃から病院や診療所が苦手だった。成長して、診療所は病を治療するところで、拷問するところではなく、怖れることは何もないのだとわかってからも、苦手意識は変わらなかった。それは、彼にとって苦々しいことだった。論理的でないとわかっているのに、感情が自分を支配しているのが腹立たしい。いい歳をして病院が怖いなどと認めるのは絶対に嫌だった。

 服を着て二足歩行をし、パイプを吹かし、人間に話しかける、非論理の極みであるコアラは、消毒薬の匂いのするこの診療所を我が物顔で歩き、診察椅子と思われるところに座れと促している。人間の医者にかかるのだってごめんなのに、どうしてコアラに診療されなくちゃいけないんだ。

「はっきりさせておきたいが、これは夢なんだろう。いわゆる明晰夢ってやつなんじゃないか。明晰夢なんてモノをみたことはこれまでに一度もないが、そもそも不眠症ぎみの俺は、ほとんど夢を見ないしな。もしこれが夢ではなかったら、俺は頭がイカれてしまったことになる。そうすると、それはそれであんたのフィールドだ。あんたが医者のコアラならな」

 コアラの方は、じっと真剣にヴィルの問いかけを聴いていたが、それがわかったわけではないらしい。かなり困った顔をしながら、何かを懸命に訴えていた。身振り手振りを推察するとなぜあそこにいたのだ、どこから来たのかと質問しているようだ。そんなこと、俺の方が訊きたい。ヴィルは途方に暮れて押し黙った。

 コアラは、どこかへと電話をした。電話も使うのか。そうだろうな、家や診療所を持っているくらいだ。電話くらいするだろう。ヴィルは妙な感慨を持った。

 直に、誰かが訪ねてきたので、コアラは玄関へ行き招き入れた。別のコアラが来るのかと思ったが、今度は人間だった。ヴィルは、これ幸いと英語を始め、ドイツ語やイタリア語、それに片言の日本語の単語なども含めて男に問いかけた。人間なんだから英語くらいわかるだろうと思った読みは外れた。その男は、コアラと同じ言葉を使っていた。ヴィルに触って、何かを調べていたようだったが、結局なんの解決にも至らずに帰って行った。

 これではっきりした。ここは、いつもいる旅先のどこかではない。俺の頭が高熱でおかしくなってしまったという疑いは晴れないが、それにしては恐怖を引き起こすような状況は(注射を除いては)起こりそうにもない。ということは、やはり明晰夢の一種なのだろう。ヴィルは、とにかく落ち着いて、目の覚めるのを待とうと思った。

 そもそも自分はなぜコアラの夢を見ているんだろうかと考えた。コアラが特別好きだと思ったことはない。そもそも、三十年以上生きてコアラに関わることはほとんどなかった。唯一あるとしたら……。

 小学五年生の時、ドイツ西部のデュイスブルクに遠足に行くことになっていた。オランダにほど近い街までは遠いので泊まりがけだった。デュイスブルク動物園はコアラの繁殖に力を入れていて、オーストラリア固有種を生まれて初めて見ることを子供たちは、みな楽しみにしていた。ヴィルもそうだった。

 だが、泊まりがけと聞き、ヴィルの父親は反対した。私生児として生まれたヴィルの音楽の才能に氣がついた父親は、週に一度ミュンヘンの屋敷にレッスンに来るよう命じた。厳しいレッスンと課題に追われる日々が続いた。例外は許さず、たかが動物園に行くためにレッスンを休むなどとんでもないというのが彼の主張だった。

 デュイスブルク行きの費用を、母親は出してくれなかった。それだけの経済的余裕はなかったし、レッスンに関することで父親に反対することも彼女は望まなかった。城のように豪奢な邸宅住む父親にとって、その費用ははした金以下だろうが、頼んでも無駄なことは訊くまでもなくわかっていた。

 ヴィルが諦めなくてはならなかったのは、デュイスブルク行きだけではなかった。サッカーの試合も、友人の家に泊まりに行くことも、年末のパーティも、どんな羽目外しも許してもらえなかった。彼は、父親の教えに従い、フルートとピアノの腕前をあげ、大学在学中にコンクールで優勝するほどに上達したが、後に反抗して音楽から離れ、演劇の道に入った。

 あの時に夢にまで見た、コアラをみること。それがこの夢の引き金だろうか。だったらなぜサッカーの試合観戦や、遠足の夢を見ないんだ。ヴィルは、首を傾げた。

 服を着たコアラは、彼を別の部屋、おそらくダイニングルームと思われる部屋へ連れて行き座らせた。それからにこやかに何かを告げると席を外した。

 何が起こるかはわからないが、危害を加えられることもないと思ったので、目が覚めたときに分析できるように、周りの状況を目に焼き付けておこうと思った。窓の外には、新緑が萌え盛っている。季節も違うらしいな。

 カチャカチャと音がして、コアラが部屋に戻ってきた。見ると磁器のティーセットを盆に載せている。質のいい薄い茶碗に、コアラは紅茶を注いだ。それをヴィルに勧めて飲めと促した。それから、次から次へと甘そうな菓子類を運んできた。

 おい、コアラはユーカリしか食べないはずじゃなかったか。いや、これまで見たあれこれと比べたら何を食べようがこの際さほど重要ではないのかもしれない。

 真っ白な生クリームの上に、色とりどりのベリーが載ったトルテ。カスタードクリームに季節のフルーツをこんもりと載せたタルト。カラメルソースの艶やかなカスタードプディング。イチゴにクリームのたっぷり載ったサンデー。チョコレートやナッツを使ったクッキーやショートブレッド。パルミエパイ、クッキー、スコーン、マカロン。

 ちょっと待て。なぜこんな大量の菓子を運んでくるんだ。何十人の客が集まるんだ? それにしては、ティーカップが二人分しかないが、どういうことなんだ。ヴィルは、言った。
「まさか、俺一人にこんなに食えって言うんじゃないだろうな。ブラン・ベックじゃあるまいし、こんなに甘いものばかり食えないぞ」

 彼の仲間の一人であるレネは、甘いものに眼がなく、一緒に日本に行ったときにもスイーツ・バイキングで一人だけ山のようにこういった菓子を頬張っていた。あの時ヴィルは、妙に薄いコーヒーのみを飲み、醒めた目で仲間を見ていた。最後に蝶子に押しつけられたエクレアを一つだけ食べたのだ。甘かったが、それなりに美味いと思った。

 ちらりと菓子を見た。一つくらいなら、食べてみてもいいのかもしれない。

 それから、急いで自分を戒めた。ダメだ、ダメだ。お伽噺のセオリーだと、こういう時に出されたモノを口にしてはいけないことになっているんだ。ただの夢なのに馬鹿馬鹿しいとは思うが、ここは用心して食わないのに限る。ブラン・ベックなら、問答無用で楽しく食うかもしれんが、俺はもう少し慎重なんだ。

 コアラは、親切そうに何かを訴えている。食え食えと言っているんだろう、見ればわかる。おや、なんだか泣いているようだ。俺が泣かせたんだろうか。

 その泣き顔を見ているうちに、ヴィルは子供の頃のことを思い出した。学校の行事に参加することがなくなり、クラッシック音楽の練習に明け暮れていたため、同級生からはお高くとまった子供だと敬遠され、彼は次第に孤立していった。デュイスブルク動物園に行かせてもらえず、悲しい想いでいたときも、それを打ち明け悲しみを吐露する友人がいなかった。彼は、誰の前でも泣くことが出来なくなった。

 そうか、俺は、ずっと泣きたかったんだ。つらい悲しいと、わかってほしいと、誰かに打ち明けたかったんだ。ずっとその相手がいなかったから、飲み込んでいたが、今の俺はもう一人じゃない。悲しみも、歓びも、共に分かち合える仲間がいるじゃないか。

 三人が楽しそうに甘いものを食べているときに、あれは俺の食べるものではないと、醒めた態度で見ていたが、一緒にワイワイと食べればよかったのかもしれない。だから、俺は、こんな夢を見ているのかもしれない。

 そう思った途端、急に晴れ晴れとした心持ちになった。周りが霞がかかったようにぼやけていく。そうか、俺は目醒めるんだな。元いたところへ、三人の元に帰れるんだ。

 彼は立ち上がると、コアラの医者に礼を言った。
Danke sehr.どうもありがとう

* * *


 目を覚ますと、少し暗くなっていた。やっぱり夢だったな。どのくらい寝ていたんだろう。ああ、本当に熱が下がったらしい、痛みもなくなっている。トイレに行くために起き上がり、多少ふらつきながらドアに向かった。

「え! 帰っていたの?」
ドアの向こうにいた蝶子が驚いた。

「何がだ? それはこっちの台詞だろう」
ヴィルは眉をひそめた。

「だって、薬を買って戻ってきたら、いなかったから。ねえ?」
蝶子が同意を求めると、稔とレネも真面目な顔で頷いた。

「よほど具合悪くなって一人で医者に行ったのかと思った。そこら辺は見て回ったけれど、倒れてもいなかったし、早く連絡をくれないかって話していたところだったんだぜ」
稔も口を尖らせた。

「もしかして、僕たちがいないと思っていただけで、本当は布団にくるまっていて見えなかっただけなんでしょうか?」
レネも首を傾げている。

 ヴィルは、トイレから戻ってくると、三人の座っているテーブルについた。それから、買いだしてきたと思われるクッキーの袋に手を伸ばすと、開けて食べた。

「どうしたの? まだ、熱があるの?!」
普段は自分から甘いものを食べないヴィルが、いきなりそんな行動に出たので蝶子はうろたえた。

「これも食べますか?」
レネは、おそるおそるマカロンも差し出した。

 悪くない。あんなにたくさんはいらんが、たまには甘いものもいい。ヴィルは、心配してくれる三人の顔を眺めながら思った。そして、先ほど見たシュールな夢について語った。

「馬鹿馬鹿しい夢だが、何か意味があるのかもしれないと思ったよ」
そう言って話を終えると、三人は顔を見合わせて、笑った。

「それって、異世界召喚ってヤツなんじゃないか」
稔が言った。ヴィルは、とことん馬鹿にした顔で応じた。

「いいなあ。もし僕がその場にいたら、全部少しずつ食べさせてもらったのになあ」
レネが言うと、蝶子は吹き出した。
「少しずつじゃなくて、完食したんじゃないかしら」

 ヴィルも同じことを思った。それから、「シャワーを浴びてくる」と立ち上がった。

「もういいの?」
「すっかり毒が抜けたよ。明日、予定通り移動も出来るさ。次の目的地、決めといてくれ」

 そう言うと、ドアへ向かう彼の後ろ姿に、稔が笑って言った。
「もう決まっているよ。デュイスブルクだろ」

 ヴィルが驚いて、振り向くと、蝶子とレネも笑って人差し指をあげて賛成の意を示していた。多数決が成立し、行き先が決まった。

(初出:2019年2月 書き下ろし)


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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】追憶の花を載せて

今日は「十二ヶ月の情景」十二月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。100,000Hit記念企画のラストになります。

月刊・Stella ステルラ 10、11月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、ポール・ブリッツさんのリクエストにお応えして書きました。

12月、うちの鈴木くんと八少女さんのキャラクターを誰かコラボさせてください。いろいろと性格とか考えると、八少女さんの小説世界にからめられる人間が鈴木くんくらいしかいない(笑)

そろそろ鈴木くんも中学生なのでホームステイかなにかでヨーロッパへ旅行させてもいいでしょうしね(^^)


鈴木くんとは、こちらのポールさんの小説の主人公です。
恩田博士と生まれ変わりの機械たち

ヨーロッパへ来ていただく事も可能だったのですが、私のキャラが中学生がホームステイするような所にあまりいないなあ、ということで、日本を舞台にした掌編になりました。

ポール・ブリッツさんの元になった小説が、とてもいいお話なので、余計なことを書いてぶち壊したくないなと思い、もともとの設定を元に書きました。あー、と言うわけで、原作を未読の方はまずポールさんの作品を読んでから、こちらを読まれることを推奨いたします。

コラボさせたのは、昨年の「十二ヶ月のアクセサリー」シリーズの中で出てきた二人組です。


短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



追憶の花を載せて

 加奈はウィンドゥ・ディスプレイ越しに灰色の空を見上げた。今朝はかなり冷え込んでいる。もしかしたら雪が降るのかもしれない。

 恋人たちがイルミネーションの輝くロマンティックな街を歩く。洒落たレストランで乾杯をする。そんなクリスマスの過ごし方を加奈はしたことがない。恋人が出来れば、その時には……というような期待もない。なぜならば、加奈には既に生活を共にするパートナーがいるのだ。

 その麗二と加奈にとって、クリスマス・イブはかき入れ時だ。二人は『フラワー・スタジオ 華』という花屋の共同経営者なのだ。

 クリスマスはパーティや花束の注文が多く、二十五日からは忘年会や送別会、それにお正月迎えの花の注文で、文字通り食事をする暇もなくなる。一日が終わるとくたくたで、とてもその後にデートをするつもりにはなれない。

 ハードなのはそれだけではない。花屋というのは冬には過酷な職場だ。しもやけやあかぎれは日常茶飯事だし、ひんやりした店をつらく感じることも多い。バイト時代とは違って、二人で店を持つようになってからは、防寒着で店に出るようにしたし、定期的に暖かい室内での仕事や作業を交代でするようにしているけれど、それでも、なぜこんなに寒い思いをする仕事を選んでしまったんだろうとため息をつくこともある。

 それでも加奈は、この仕事が好きだった。二人とも初めて持った店である『フラワー・スタジオ 華』は、生業であると同時に夢の実現でもあった。この世知辛い世の中、いくつもの花屋が生まれては消えていくが、店の経営はなんとか軌道に乗り、持ちこたえて八周年を迎えようとしている。

 花を贈る人々、花を自宅に用意する人たちにはそれぞれの物語がある。その人生の重要なシーンに、麗二とともに関われることは、とても素敵だ、そう加奈は思っている。

 それに、この時期の客たちから聞くストーリーは、なかなかドラマに満ちて、加奈の趣味である同人誌の題材になってくれることも多い。

 モデルになった人たちは、自分の容姿や言動に似ている登場人物が、同人誌の世界で華麗にパフォーマンスをしていることはもちろん知らない。モデルにした人たちについては、完全な架空の人物よりも敬意を払い、重要で好意的な役割を与えていたけれど、さすがに伝える勇氣はない。

 一方、キャラクターへの愛情が湧き、モデルとなった客に対しても、より好意的に熱心に接客に当たることになる。その本末転倒な熱意にもかかわらず、その顧客がある時から二度と店にやってきてくれないこともある。同人誌の件が明るみに出たからではなく、単純に他の店を好んで行くようになったり、引っ越したり、亡くなったり、とにかく様々な理由からだ。

 そうした店にとっては過去となった顧客の好んだ花の組み合わせや、特別な理由で作ったアレンジは、加奈の心の中でそのお客さんたちに捧げた花束として残っている。その人たちの顔を思い浮かべる時に、いつも花があるのだ。

 麗二にその話をしたら、彼はそれに同意した。
「ああ、俺も花を一緒に思い浮かべるよ。もっとも、今よく来てくれるお客さんでもそうだけどな」

 加奈は、意外に思った。想像の中で花を散らしているのは、件の趣味を持っているがための、少し妙な妄想だと思っていたのだ。そうではなくて、どうやらこれは、花屋の職業病みたいなものなのかもしれない。

 そんなことをつらつらと考えつつ、レジの下に置いた小さなヒーターで手足を温めていたら、ドアが開いて、ベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」
そういいながら、入ってきた客を見て、加奈は「あら」と意外に思った。十代前半と思われる少年だったのだ。彼は、怖々と店の中をのぞき込み、「花くらい、毎週、買っています」というような風情はなかった。

 彼を見て、すぐに「対象外」と思った。同人誌のジャンルは、麗しい男性によるステージパフォーマンスで、ソフトなロマンスも含むが、加奈に言わせると「BL」ではない。少女マンガ以下のぬるい描写だからというのがその言い訳だが、そう言い張る加奈にも良心はある。モデルにするならやはり成年でないと。いくら妄想とはいえ、犯罪はいけない。ましてや相手はお客さんだ。

 そんな彼女の思惑を何も知らない少年は、店を一通り見回してから、助けを求めるようにこちらを見た。

「何かお探しですか」
加奈は少年が逃げ出したくならないように、できるだけさりげない調子で訊いた。

「ええと、花を」
それはそうだろう、ここは花屋だから。そう思ったけれど、そうは言えない。

「花束? アレンジ? それとも鉢植え? プレゼントですか?」
矢継ぎ早に質問を投げかける。目的がわかると、提案がしやすいのよね。

「お墓に供えようと思って。今は寒いから、すぐにダメになっちゃうのかな」
少年は、口ごもった。なんと。意外な目的だわ。

 ちょうどその時、バックヤードから麗二が出てきた。筋肉ムキムキな上に姿勢がいいので小柄な少年には威圧的なのかもしれないと一瞬心配したが、片手に持った小袋から裂きイカを取り出しては口に放り投げていて、威厳のカケラもない。っていうか、その接客態度は、ちょっと。

「あ、ちょうどいい所に。こちらのお客さん、お墓に供えるお花を探していらっしゃるんだけれど、切り花じゃない方がいいのかって、寒いから」

 麗二は、少し考えて頷いた。
「そうだな。菊などはわりと寒さに強いし、寒い方が暑いよりも持つとは思う。もっとも、ごく普通の仏花をここに買いに来たわけじゃないんだろう、きみ」

 そう訊くと、少年の顔はぱっと明るくなった。
「そうなんです。ぼくにとって、一番尊敬できる大切な人のお墓なので、お墓の近くで売っている、みんなと同じような花は、いやなんです。でも、みんなと違う花を供えて、ぼくのだけすぐにダメになったり、供えるべきでない常識はずれの花を持っていったなんて言われたりしたらよくないと思って」

 麗二は、少年に笑いかけた。
「そうか。基本的には、何を供えても構わない。でも、『常識がない』と後ろ指を指されるのが嫌なら、とげのある花と蔓のある花は、避けた方が無難だね。例えば薔薇なんかだよ」

「なるほど。そう言えば、お墓に薔薇が供えてあるのは、見たことがありません。ぼく、白い薔薇ならいいかなって思っていたんですけれど、それじゃダメですね」

「薔薇は寒さには弱いから、いずれにしても今はやめた方がいいだろうな。そういえば本物の薔薇じゃないけれど、クリスマスローズの鉢植えはどうかい? 寒さに強くて、この季節らしいし、文句を言われないような色のものが多いよ」
そう言って麗二は、薄いピンクや白の鉢植えを少年に見せた。 

 十二月に咲くクリスマスローズは、ヘレボルス属の中でもニゲルと呼ばれる植物だ。同じヘレボルス属のオリエンタリス も日本では「クリスマスローズ」の名前で売られているが、こちらの開花は春先になる。

 花びらに見える部分は、実は萼片がくへん なので、寒さの影響が少なく長持ちする。

「ああ、クリスマスローズは、花言葉もちょうどいいかもしれないわね」
加奈が言うと、少年はこちらを見た。
「なんていうんですか?」

「いろいろあるけれど、『慰め』や『追憶』って言葉が代表的かしら」
「それに、受験生や学者に贈る人もいるよな。『がく が落ちない』を『学が落ちない』って語呂合わせにしてさ」

「学者……。実は、供えたいお墓に眠っているのは、僕が一番尊敬している博士なんです」
「だったら、ちょうどいいな。多年草だから直植えして根付いたら、ずっと咲き続けるよ」
麗二は、咲きそろっている花の鉢をそっと揺らした。

「そうですか。じゃあ、それでお願いします」

「春先に咲くのがいいなら、ヘレボルス・オリエンタリスだけれど、今はまだ入荷していないな。今、欲しいなら、このニゲルだね。どんな色がいいのかな」
「その薄紫のをください。それから、春になったら咲くのも供えたいから、入荷したら教えてくれませんか」

「いいとも。じゃあ、ここに名前と連絡先を書いてくれるかい……ふむ、鈴木君っていうんだね。電話番号も……ああ、ありがとう」
麗二は、大人の自分よりもずっと上手な鈴木少年の字を感心して眺めた。

 大事に鉢植えを抱えて鈴木少年が出て行ってすぐに、また扉が開いて一人の老人が入ってきた。
「ああ、先生、こんにちは」
麗二は頭を下げた。

「今の男の子……」
先生と呼ばれた老人は、首をひねっていた。

「ご存じなんですか」
加奈が訊くと、はたと思い出したような表情をしてから、彼は笑顔を見せた。

「ああ、旧友の葬儀で遭った子だ。彼の最後の弟子といってもいいな。あの時は、確か小学生だったが、ずいぶん大きくなったな」

 ウィンドウから覗くと、少年は自転車の籠に鉢を大事そうに載せると、颯爽と漕いで去って行った。

「そうですか。一番尊敬している博士のお墓に供えるって言っていましたよ。その方のお墓じゃないでしょうか」
麗二は言った。

「だろうな。あいつを憶えていて、まだ慕ってくれることは、わたしは嬉しく思うよ。だが、あいつはどう言うかな。『追憶』なんてものは、老人に任せて、若者は前を向いて行けなんて、あまのじゃくなことを言うんじゃないかな。というのも、わたしもあいつの遺言に近いような言葉を聴いたんだ」

『ふり返っちゃだめだぞ、鈴木くん。ペダルをこげ、ひたすらこぐんだ!』

 加奈は、もう一度ウィンドウの外を見た。鈴木少年は、力いっぱいペダルを漕いで、寒空をものともせずに去って行った。籠の中のクリスマスローズも、寒さに負けずに花びらに見える白いがく をけなげに広げていた。

 たぶん彼は、追憶だけに生きたりはしていないだろう。恩師の願ったとおりに、未来に向かってひたすらペダルを漕いでいるのだ。でも、振り向かずに進むその先々に、きっと恩師がいる。彼は、繰り返し咲く冬にも強い花を、その恩師に見せるために植えるのだろう。

 『フラワー・スタジオ 華』で迎える八年目のクリスマス。私だって寒さに負けている場合じゃないよね.加奈は、麗二との夢であるこの店という花を何度でも咲かせるために、自分も未来に向かって力強くペダルを漕いでいこうと思った。

(初出:2018年12月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 100000Hit コラボ 月刊・Stella キリ番リクエスト

Posted by 八少女 夕

【小説】その色鮮やかなひと口を -7 - 

今日は「十二ヶ月の情景」十一月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。今日は、まだ十月ですが、来週にすると、Stellaの締め切りに間に合わなくなるので、今日の発表です。

月刊・Stella ステルラ 10、11月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。

11月17日、真の誕生日なんですよね~。テーマは「蠍座の女」、コラボ希望はバッカスの田中氏と思ったけれど、すでにlimeさんちの水色ちゃんとコラボ予定のようなので、出雲の石倉六角堂で。出雲なので、別の誰かさんたちが出没してもいいなぁ~(はじめちゃんとか。まりこさまとか。)


「真」とはご存じ彩洋さんの大河小説「相川真シリーズ」の主人公です。翌日11月18日は、実は今連載中の「大道芸人たち Artistas callejeros」のヒロイン蝶子の誕生日ですが、今回は絡めませんでした。「さそり座の女」ですけれど、あいつはヨーロッパにいるんですよ。「石倉六角堂」は松江ですし、蝶子はそんなにしょっちゅう日本には来ないので、無理がありすぎました。

で、はじめに謝っておきます。たくさんご要望があるんですけれど、全部はとてもカバーできませんでした。五千字ですよ! 出すだけなら出せますけれど、まとまった話にならなくなるし。というわけで、「石倉六角堂」までをカバーしました。そして、かなり無理矢理ですが彩洋さんの大事な真のお誕生日を絡ませました。でも、ご本人は出てきません。その代わり、以前この話で少しかすらせていただいた、あの方が登場です。


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【参考】
「その色鮮やかなひと口を」



その色鮮やかなひと口を -7 - 

 うわ、可愛い。怜子は思わずつぶやいた。ルドヴィコの作る和菓子は、いつも色鮮やかで、かつ、日本情緒にあふれるトーン、動物を象った練り切りなどは愛らしいのだが、今回はいつもにましてキュートだと思った。

 それは金魚を象っていた。単なる金魚ではなく、島根県の天然記念物にも指定されている『出雲なんきん』だ。土佐錦、地金とともに三大地金のうちの一つに数えられている、島根ゆかりの金魚だ。小さな頭部と背びれがないこと、それに四つ尾の特徴がある。

 既に江戸時代には、出雲地方で大切に飼育され、大名諸侯が愛でていた、歴史ある品種なのだ。不昧公の呼び名でおなじみの松江藩七代藩主松平治郷は、江戸時代の代表的な茶人でもあり、彼の作法流儀は不昧流として、現在に伝わっている風流人だが、彼もまた『出雲なんきん』をこよなく愛し「部屋の天井にガラスを張って泳がせて、月光で眺めた」という伝説すら残っている。

 今年はその不昧公の没後二百年であるため、島根県の多くで不昧公二百年祭として縁の催しが行われている。ルドヴィコの勤める『石倉六角堂』でも、不昧公ゆかりの伝統的な和菓子に加えて、二百年祭にふさわしい創作菓子を毎月発表していた。

 十二月の分を任されたルドヴィコは、怜子にアイデアがないか相談した。彼女が勧めたのが『出雲なんきん』を象ったお菓子だった。

 求肥は、上品な白で、所々朱色で美しく彩色してある。透けている餡は橙色の黄味餡。狭い目幅の特徴をよく捉えた丸い目がこちらを見ている。凝り性のルドヴィコは、試食用の『出雲なんきん』の柄を全て変えていた。

「おお、これは綺麗だ」
「ルドさんらしいわねぇ」
集まってきた職人たちや、販売員たちが口々に褒めて、手に取った。

「あ、奥様。お一つどうぞ」
怜子は、石倉夫人に朱色の部分の多い一つを手渡した。

 夫人は、一瞬その和菓子を眺めてから、わずかに不機嫌に思える口調で言った。
「いいえ、そちらのもっと白い方を頂戴」

「え。あ。はい」
怜子は素直に渡した。どうしたんだろう、そんなことをこれまで言ったことないのに。

「ルドちゃん。味は満点だけれど、つくる時はできるだけ白い部分を多くしなさいね。『出雲なんきん』は、他の金魚と違って白い部分が多い白勝ち更紗の体色が好まれるので、わざわざ梅酢を使ってより白くなるようにして育てるのよ」
穏やかに語る様子は、いつもの夫人だった。

 彼女が事務室に戻って言った後、義家が言った。
「あちゃー。サソリ女を思い出したんだな。桑原くわばら」

 怜子は、はっとした。

 それは、先週のある晩のことで、時間は遅く閉店間際だった。お店に、かなり酔っている女性が入ってきたのだ。大きめのサングラスと、真っ赤な口紅が少し蓮っ葉な印象を強めていた。
「ふふーん、ここなのね。来ちゃったわ」

 販売員は、和菓子に用はなさそうだと思っても一応「いらっしゃいませ」と言った。女性はハスキーな声で言い放った。
「あんたには用はないわ。せっちゃんを出してよ」

「……石倉のことでしょうか」
せっちゃんという名前で思い当たるのは、社長の石倉節夫以外にはいなかった。

「そうよ。あの人を出して。あたしの大事な人なの」
それを聞いていた店の人間は固まった。石倉夫人が厨房から出てきたからだ。

「申し訳ありませんが、主人は不在ですが、何のご用でしょうか」
石倉夫人が訊くと、女はゆっくりとサングラスを外して、そちらを見た。厚化粧だが、目の下の隈や目尻の皺は隠せていなかった。

「主人……ね。なんとなくわかっていたわ。やっぱり、そうだったのね。昨夜は、あたしの誕生日だったのよ。一緒に過ごす約束だったのに、いつまで経っても来ない。電話にも出ない。約束したのに、ひどいわ」
その年齢には鮮やかすぎる朱色のワンピースの開いた襟元に見える鎖骨が少し痛々しかった。

「奥さんがいる人ってわかったからって、はいそうですかって、忘れられるようなものじゃないわ。あたし、大人しく引き下がったりしないから。地獄までついていくつもりだって、せっちゃんに伝えてちょうだい。……あたし、こう見えても一途なの。ほら、歌にもさそりは一途な星座っていうじゃない、ははははは」

 その翌日、出てきた石倉社長は、いつもの朗らかな様子はどこへ行ったのか、すっかり消沈していた。数日ほどは夫人に口もきいてもらえなかったらしいが、ようやく元の朗らかな様子に戻った所を見ると、今回は許してもらえたらしいというのが、職人たちの一致した意見だった。

 その女性が来店した時は、怜子はその場にいなかったので、『出雲なんきん』の菓子から連想するとはまったく想像できなかった。でも、奥さま氣の毒だもの……。私だって、ルドヴィコが他の人にフリーだといって言い寄ったりしたら嫌。

「怜子さん。どうしたんですか? 怖い顔していますよ」
ルドヴィコにいわれてはっとした。

「ごめんなさい。あれ? それ、どうするの?」
彼は、店内試食用とは別にしてあった『出雲なんきん』を箱に詰めていた。それは販売を想定していたものよりも躍動感あるデザインで大きめに作ってあった。

「特注です。驚かないでください。怜子さんも知っているイタリア人が今から取りに来ます」

 怜子は首を傾げた。ルドヴィコを除けば、怜子の知っているイタリア人は、ルドヴィコの家族と、ミラノ在住の親友ロメオくらいだ。誰が日本に来たんだろう?

 自動ドアが開き、のれんの向こうから背の高い金髪の男性が入ってきた。女性店員たちがどよめいた。

 あ。雑誌の人だ! ヴォルなんとか家の御曹司で、同居人にすごい和食を作っているって人。かつて、この人の特集の載っている雑誌に、店のみんなでキャーキャー騒ぎ、男性陣の白い目を浴びたことを思い出した。なーんだ。そういう意味の知っている人か。

「こんにちは、いらっしゃいませ」
怜子は、使える数少ないイタリア語で言ってみた。他のアルバイトたちが羨ましそうにこちらを見ている。

 男性は、魅力的に微笑んだ。
「松江でイタリア語の歓待を受けるとは思いませんでした。嬉しいですね。お電話した大和です。マセットさんは、いらっしゃいますか」
「はい。厨房にいるので、呼んできますね」

 怜子が声をかけると、ルドヴィコは先ほどの箱を持って出てきた。
「こんにちは、大和さま」

 イタリア人同士なのに、何も日本語で会話しなくてもいいのに。どちらも、日本人と遜色のない完璧な発音だ。怜子は、つたないイタリア語で話したことを少しだけ後悔した。

「特注品で、四つでしたよね。こちらでよろしいでしょうか」
ルドヴィコは『出雲なんきん』が四匹、頭を突き合わせているように箱に詰めたものを大和氏に見せた。

「おお、これは綺麗だ。大使館でお目にかかったファルネーゼ特使が、松江に行くなら是非マセットさんの和菓子を食べてくださいと勧められた理由がわかりましたよ。これは、金魚ですよね……蠍ではなくて」

 その一言に、場の空氣は凍り付いた。幸いそこには、石倉夫人はいなかったが、石倉節夫社長が来ていた。先ほどの会話があったので、誰もがあの酔った女性のことを思い浮かべて彼の方を見ないように不自然な動きをした。もちろん、大和氏は何も氣付いていないであろう。

「ええ、これは『出雲なんきん』という島根特産の金魚を象りました。もしかして蠍に見えましたか?」
ルドヴィコが訊くと、大和氏は首を振った。

「いえ、もちろん蠍には見えません。ただ、たまたま今日、これを食べさせようとしている相手が、さそり座の生まれなのですよ。蠍にちなむものを探した関係で、朱いものを見ると何もかも蠍かもしれないと考えてしまって」

「そうでしたか。さそり座ということは、もしかして今日がお誕生日ですか?」
「ええ。そうです。彼とは、この後に出雲で待ち合わせ、誕生日を祝うつもりなのです。本人には内緒ですが、ちょっとした懐石料理の準備をしてありまして、その締めにこちらを出そうと思っています」

 例の雑誌のインタビューでも、同居人に凄い和食を作っているって話していたけれど、この人、懐石料理まで作っちゃうんだ。怜子は目を白黒させた。

「そうでしたか。蠍モチーフを探しておられたのですね。では、少々お待ちください」
そう言うと、ルドヴィコは箱から『出雲なんきん』を一つだけ取り出して厨房へ入っていった。そして、十分ほど経って出てきた時には、別の和菓子を手にしていた。

「あ、蠍……」
怜子は、思わずつぶやいた。『出雲なんきん』は透明度の高い求肥で包んでいたが、蠍の方はマットでどっしりとした練り切りだ。鋏と尾が躍り、今にも動き出しそうだ。

「一般には、あまり売れるモチーフではないですが、せっかく特注でいらしたのですから」
そうルドヴィコがいうと、大和氏は楽しそうに笑った。

「ああ、これは素晴らしい。松江中を探した蠍をこんな形で手に入れられるなんて。ありがとうございます。彼がどう反応するか楽しみです」
「どうぞ素敵なお誕生日を、とお伝えください」

 大和氏は、礼を言って代金を払うと、大事に『出雲なんきん』と『蠍』の入った箱を抱えて帰って行った。

「ルド公。ありがとうな。お前さん、機転が利くな」
「ありがとうございます、社長。蠍は朱一色ですし、形もさほど難しくなかったので」
「イタリア人っていうのは、大人になっても誕生日を盛大に祝うものなのか」

 ルドヴィコは、節夫ににっこりと笑いかけた。
「誕生日は、習慣になっているから祝うものではありませんよ」

 節夫は、わからない、という顔をした。ルドヴィコは、ニコニコしていた。
「義務や形式じゃないんです。その人のことを氣にかけている、誕生日も忘れていない、これからも仲良くしていきたい、その想いの表れなんです」

「そうか。どうも、そういうのは慣れなくてな。いつも一緒にいる相手だと、余計やりにくいんだよな」
「ストレートな表現は、一般的な日本人男性よりも一般的なイタリア人男性の方が得意かもしれません。そういう形がよりよいとは言いませんが、行動に出すと想いは伝わりやすいと思います」

 節夫は「そうか」と言って、何か考えていたが、閉店時間になると早々に帰って行った。普段のように店の若い連中を飲みに誘うこともなく。

* * *


「ただいま、帰った」
玄関の扉を開けると、節夫は少し大きな声で言った。奥の台所から妻の柚子が出てきた。

「お帰りなさい、どうしたの、こんなに早いなんて珍しい」
「まあな」
そう言うと、下げていたショッパーを持ち上げて渡した。

「あら、なあに?」
「そ、その、夕方、今日が誕生日で祝うっていうお客さんが来たんだ。それでちょっと思い出して」

 柚子がのぞき込むと、小さめのホールケーキが入っていた。和菓子屋の社長夫人として、ほとんど口には出さないが、柚子はチョコレートケーキが好きなのだ。節夫が買ってきたのは、チョコレートスポンジに、ガナッシュクリームを挟み、更にダークチョコレートでコーティングしたチョコレート尽くしのケーキだった。

「まあ。よく憶えていてくださったわね」
「誕生日だってことか」
「ええ。それに、ここのチョコレートケーキが好きなことも」
「まあな。お前は、あれが好きとか、これが欲しいとか滅多に言わないから、憶えやすいさ」
「他の女性と違って」

 きつい一刺しも忘れない。節夫は、思ったが口には出さなかった。さそり座の女は一人ではないのだ。

 柚子は、チョコレートケーキを冷蔵庫にしまい、手早く節夫の晩酌の用意をすると一緒に座った。彼女の態度は、まだ若干冷ややかだが、絶対に許さないと思っているならば、こんな風に一緒に座ってくれることはないだろう。

 四十年近い結婚生活、節夫は浮氣が発覚する度に謝り、関係を修復してきた。彼女は、どんなに怒り狂っていても「石倉六角堂」の営業に支障が出るような騒ぎを起こしたことはない。妻としてだけでなく、共同経営者として節夫にとって柚子以上の存在がいないことは、二人ともよくわかっているのだ。

 柚子は、しばらくするとチョコレートケーキをテーブルに運び、紅茶を淹れた。
「せっかくですもの。いただきましょう」
「おう」

 節夫は、ティーカップに口をつけた。ふと、柚子の視線を感じて「ん?」と訊いた。彼女は、楽しそうに笑って、『さそり座の女』の一節を口ずさんだ。
「紅茶がさめるわ さあどうぞ それには毒など入れないわ」

 むせそうになったが、節夫はなんとか飲み込んだ。まいったな。ご機嫌を直してもらう方法を、もう少しルド公に習わなくっちゃな。


(初出:2018年11月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 100000Hit コラボ 月刊・Stella キリ番リクエスト

Posted by 八少女 夕

【小説】September rain

今日は「十二ヶ月の情景」九月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、山西先さんのリクエストにお応えして書きました。いやはや、難しいリクエストでした。

コラボの希望は「ヤキダマ」そして「コハク」です。ずうずうしくも2人ですがお許しください。
一応サキの了解は取っています。面白そうだからいいか、とのことでした。
リアルコハクは知りませんが、まぁ良いでしょう。
別々の作品のキャラですが、ヤキダマは現実世界にも設定がありますし、コハクは現実世界のキャラです。
2人共建築関係の仕事ですし、まだそんなに偉くはなってないようですが、世界を舞台に活躍している様子です。
年齢はヤキダマが少し上くらいでしょうか?

そしてテーマは「9月の雨」でお願いします。
私の年代ですと太田裕美ですね。

コラボ相手は完全にお任せです。


少し補足しますが、先さんは、既に発表した『春は出発のとき』のリクエストをくださったサキさんと二人三脚でブログを運営なさっています。サキさんと先さんはのお二人で左紀さんなんですけれど、リクエストをいただいた「コハク」や「ヤキダマ」というキャラクターとお話そのものを考えられたのはサキさんです。ですから、「了解を取った」ということなのでしょうが、かといって、私が今後の作品に差し支えるような重大な設定を作るわけにはいかないのは、他のコラボと同様です。

そして、建築士の「コハク」は、たしか『物書きエスの気まぐれプロット』シリーズのエスの友達ではなくて、その作品に出てくるキャラクターだったはず。(つまり左紀さんのブログには、サキさんの友達の「リアルコハク」、エスの友達の「コハク」、それにエスの作品のキャラ「コハク」と少なくとも三人の「コハク」が登場)、一方、「ヤキダマ」は『シスカ』と同じ架空世界に住んでいるのですが、私の所のキャラクターたちとのコラボや、『オリキャラのオフ会』では、現代の日本(やイタリア)に普通にいるという設定もあります。

そういうわけで、今回は、強引に『物書きエスの気まぐれプロット6』の中の『コハクの街』に出てくるコハク(シバガキ・コハク、漢字不明)と、『いつかまた・・・(オリキャラオフ会)』に出てくるヤキダマ(本名・三厩幸樹)が、「建築系の大学で知り合っていた友人だった」という強引な設定のもと、話を作りました。たぶん、サキさんの逆鱗に触れる設定ではないと思いたい……です。まずかったらおっしゃってください。


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September rain

 三厩幸樹みんまや こうき は、もと来た道を戻ることにした。これから友人を訪ねる予定なので、時間がたっぷりあるというわけではなかったのだが、先ほど見かけた光景をそのままにして置いたらずっと後悔するように思ったのだ。

 彼は迷った時に、こう考えるのが常だ。彼の妻にこの話をして、その判断に賛成してもらえるだろうかと。彼女に胸を張って報告できないようなことはしたくない。

 通り過ぎた角を二つほど戻ると、その女性はまだ同じ場所にいた。スーパーマーケットの入り口の近く、歩道に出ているので自動ドアが開くことはないが、庇に覆われることもない場所だ。冷たい雨が降りしきる中、手に持った傘を広げもせずに佇んでいる。

 よけいなお世話かもしれないけれど、でも、この後、自動車道に飛び込まれたりしたら困る。近づいてよく見ると、泣いているわけではないようだ。二十代後半だろうか、白いリネンのブラウスに、焦げ茶のタイトスカート。落ち着いた服装だが、個性にも乏しい。他の通行人が誰も立ち止まらないのは、その存在が大きく主張してこないからかもしれない。

 彼は、その場に数秒立って、声をかけるべきか思案した。濡れたまま、空を見上げるように立っていた女性は、それでも視界に入った彼の存在に氣がついたようで、彼の顔を見て不思議そうな顔をした。
「何か……」

 彼は、傘を差し掛けた。
「あ。いや、どうなさったのかと……。傘はお持ちのようなのに、濡れたまま立っていらしたので……」

 彼の指摘で初めて降雨に氣付いたかのごとく、彼女は「あ」と言ってから自分の傘を広げた。
「私ったら、ぼんやりして」
「あ、いや、何でもないならいいです……すみません」

 その女性は、少し慌てた。
「いいえ。その……氣にかけていただき、ありがとうございました。実を言うと、考え事、いえ、昔のつらかったことを思い出していました」

 彼は、返答に困ったが、歩いている方向がどうやら同じで、会話を打ち切るのは難しかった。
「そういうことは、ありますよね。でも、今日みたいに冷たい雨に濡れると、風邪をひきますよ」

「九月の雨は冷たくて……」
彼女は、小さな声で歌を口ずさんだ。
「?」

「あ、何でもないです。昭和の歌謡曲……だからご存じないですよね」
「ええと、聴いたことはありますよ。太田裕美でしたっけ。でも、あなたもこの歌がヒットした時に聴いた世代じゃないですよね」
彼が訊くと、寂しげな笑顔が返ってきた。

「大学生の時に、お付き合いしていた男性が教えてくれたんです。お父さんが大ファンだったそうで、家でカラオケをする時に、お母さんが歌わされるんだって、九月になるとよく口ずさんでいました」

「それで憶えてしまったんですね」
「ええ。その時は、昔の曲だな、歌詞も前時代的な価値観の、いかにも昭和な言葉選びだなって、彼と笑い合っていたんですけれど……」

「けれど?」
「その彼と、別れることになったのは九月でした。冷たい雨の中、濡れながら家に帰ったんです。歩きながらあの曲の歌詞を思い出して、涙が止まりませんでした。辛さから逃げるために東京に出て、別の仕事をして、少しは自立して、がむしゃらに働いて……。もう、忘れたと思っていました。でも、先ほど、ああ、九月の雨だって思い出したら、急に胸がいっぱいになってしまって」

「どんな歌詞でしたっけ」
彼は、間抜けな質問だと思いながらも、口にした。彼との個人的な思い出の方は、これ以上訊きづらかったから。

「失恋の歌です。かつては幸せだったのに、相手の心が離れてしまったのを感じながら、九月の雨に濡れている。昔から、秋って別れのシーズンだったんでしょうね」

 角まで歩くと、彼女は小さな惣菜屋を示した。
「私は、ここで。ご心配いただき、ありがとうございました」

「お買い物ですか」
彼が訊くと、彼女は首を振った。
「いいえ。ここに勤めているんです。素朴なものばかりですが、結構美味しいですよ。機会があったら寄ってくださいね」

 彼女は、お辞儀をして去って行った。傘を畳む後ろ姿は、柔らかかった。

 店にやってきて惣菜を購入していく客たちは、彼女の人生について思いを馳せることはないだろう。彼もまた、彼女が東京でどんな生活を送り、なぜ戻ってきたのか、そして、この街でかつて起きた恋と別れについて、何も具体的なことは知らない。

 彼が、過去も含めて全てを包み込みたいと願ったのは、結婚したばかりの妻だ。彼は、愛する人のつらい過去を変えることは出来ないが、日々の生活の中で笑顔と喜びを共有することは出来る。そして、これから起こりうるどんな困難にも共に立ち向かい、持てる全ての力で守っていきたいと思っている。

 今、わずかに言葉を交わした女性もまた、様々な思い出を抱え、人生の続きを家族や友人たちと歩いて行くのだろう。九月の雨に、いずれもっといい思い出ができるといいが。彼は、そんなことを考えつつ、先を急いだ。

* * *


「シバガキさん、チェックをお願いします」
涼二は、CADで作成した設計図を設計士の所に持っていった。若々しい彼女は、彼よりも年下に見えるが、この設計事務所の中ではすでにベテランの一人だ。下の名前は、なんだったか宝石みたいな綺麗なやつだったな……ああ、そうだ、コハク。

 ショートカットの髪をわずかに傾けながら、彼女は涼二の作成した図面をチェックしている。彼は、間違いが見つからないといいなと考えながら、彼女の向こう側の窓をぼんやりと眺めた。

 雨が降っている。ちくしょう。また予報が外れた。どうして傘を持っていない日に限って降るんだろう。
 
「あら。降ってきたわね。帰るまでに止むかしら」
彼女は、身震いすると窓の所へ行って閉めた。
「ずいぶん涼しくなったわよね。どちらかというと寒いくらい。九月って、もう秋の始まりなのよね」

 彼女の言葉に、涼二はそう言えば、九月の雨だったかと改めて思った。
「September rain rain……」

「ちょっと。小林君、なんなのよ、突然」
彼女は、涼二の突然の鼻歌に、目を丸くしている。

「すみません。つい、思い出してしまって」
「なんの歌?」
「あ。昔のヒット曲です」
「……くわしいのね。カラオケ?」

「ええ、まあ。家で、親父とお袋が喜んで歌っているのを見て育ちまして。もっとも、それを思い出したわけじゃないんですけれど」
「じゃあ、何を思いだしたのよ」

 涼二は、口を一文字に閉じて視線を落とした。彼女は、急いで付け加えた。
「あら。イヤなら言わなくてもいいのよ」

「あ、そういうわけではないです。……今まで、意識していなかったけれど、ずいぶんダメージを受けていたんだなと、今ようやく認識したんです」
「え?」

 涼二は、窓に背を向けて立った。窓には冷たい雨が伝わって落ちる。部屋の中には水滴は入ってきていないが、彼の背中には冷たさが流れているようだった。

「大学の時つきあっていた彼女がいたんです。彼女は短大で二年早く社会に出て、僕は甘えた学生だったな。今なら平日の夜中に突然呼び出したりしたら迷惑だってわかるけれど、あの時の僕は、配慮が足りなかったと思います。いろいろなことがすれ違って、それがいわゆる性格の不一致ってやつだと、思っていました」

 彼女はデスクに頬杖をついて聴いていた。
「それで?」

 彼は肩をすくめた。
「つまらない喧嘩をしたんです。二股をかけていると疑われて、カッとなって、売り言葉に買い言葉でした。しばらくしたら、謝ってくるだろう、くらいに思っていたんですけれど、それきりになってしまい、共通の知人から彼女が東京に転職してしまったと聞かされました。急に、周りの地面がなくなって、崖に一人で立っているようで。でも、その後は日常に戻って、けっこう上手くやっているつもりだったんです」

「もしかして、今でも引きずっているの?」
「どうでしょうね。あれから、何人かの女性と付き合い始めるくらいはしているんですけれど、全然続かないのは、もしかして、あの別れのせいかな。あの喧嘩も、こういう冷たい雨の日だったなあ。まさに『九月の雨』だ」

「そのお知り合いに訊いて、連絡してみれば。また付き合うとかそういうのでなくても、ほら、お互いに伝えられなかった言葉を、今なら上手に表現できて、その結果、苦い過去がいい思い出になるかもしれないし」

 明快な人だな。涼二は思った。
「そうできたらいいんですけれど、東京のどこにいるか、あいつも知らないんじゃないかな。彼女のご両親は、この街にいるから、いずれまた遭うことがあるかもしれませんが……。すみません、こんな話してしまって。図面を見ていただいているのに」

「いいのよ。どっちにしても、もうじき人が来る予定で、この図面のことは明日の朝話そうと思っていたし」
「そうですか。 お客さんですか?」
「いいえ、違うわ。同業者ってとこかな。大学時代に知り合ったの。彼は、大学院まで行って、今はK市の建築事務所で活躍しているのよ。今日、駅前に仕事で来るって聞いたので、久しぶりだからついでに寄ってねって言ってあったの。あ……来た!」

 彼女は立ち上がっで、窓の外を眺めた。涼二の知らない男性がこちらに向かってきた。
「小林君、悪いけれどエントランス、開けてくれる?」
時間外なので自動ドアはもう開かない。彼は、急いで入り口に向かった。

 入ってきた男性と、簡単な挨拶を交わした後、彼女は彼に涼二を紹介した。
「幸樹、こちらはうちの新人で小林涼二君。建築士目指して私たちの通った大学の夜間部に通っているの。小林君、こちらは、三厩幸樹さん。とても優秀な建築士よ」

 涼二は、「はじめまして」と手を伸ばしながら見上げた。柔和な顔立ちをした背の高い男性だ。

 彼女が三人分のコーヒーとクッキーを用意する間に、涼二は図面を片付けて、ミーティングの机に幸樹を案内した。先日彼女が手がけた音楽堂に入ったと熱心に話をする幸樹の専門的な見解に、涼二はなるほどと、目からうろこが落ちる思いで耳を傾けた。

 コーヒーが空になる頃、彼女は提案した。
「ねえ、小林君とこの後軽く飲みつつ、二級建築士試験についてのアドバイスをする予定なんだけれど、よかったら幸樹もどう? 空調設備や防災設備など、設備工学のことは、私よりも幸樹のほうがずっと精通しているし……」
と、言いかけてから、彼女ははっとして慌てて訊いた。
「あ、幸樹、新婚だったね。急いで帰らないと、可愛い奥様が心配する?」

 すると、幸樹は笑って言った。
「いや、『今日はコハクに会う』と言ったら『よろしく伝えてね。ゆっくりしてきて』と言われたよ。彼女も、北海道で知り合った友達と再会するとかで遅いらしいし」
涼二は、幸樹の話をもっと訊きたいと思っていたので、とても嬉しかった。

 場所を移した先は、駅ビルのスペイン料理屋だった。
「私ね。ちょうど今の小林君みたいに、建築事務所で働きながら資格試験の準備をしていた時に、自分の適性について悩んだことがあってね。それで、衝動的にスペインへ行ったことがあるの。それ以来、スペイン料理が大好きになっちゃったの。タパスは少しずつたくさん頼めてお酒のおつまみにいいし」

「へえ。シバガキさんが……。意外ですね」
彼女は、いつも颯爽としていて、迷いなどないタイプなのかと思っていた。

 自分に建築家としてやっていく才能があるか、涼二は不安に思う時があった。一度は諦めて普通の就職をした後で、もう一度夢に向かっての再チャレンジだ。年齢のこともあり、将来に不安がないと言ったら嘘になる。でも、その不安が自分だけのものではないと思うことは、大きな励みになる。

 彼女はいくつかのタパスを注文し、ベネデスの白ワインを、男性陣はビールの方が得意なので、セルベッサを頼んだ。

 チーズのオリーブオイル漬けや、スペイン風オムレツ、タコと青唐辛子のピンチョスなどが運ばれてきた。ウェイターの一瞬の戸惑いを察知した幸樹が黙って皿を動かして、テーブルに空間を作った。

 彼女はそれを涼二に示して言った。
「この人、こういう氣遣いが本当に上手なのよね。奥さんのサヤカさんも、感心していたわよ」

「え。彼女が、コハクにそんなことを?」
幸樹は、驚いた。

「彼女もあいかわらずなのね。とても感謝しているって、本人にはほとんど言わないんでしょう? 幸樹の奥さんってね、口数が少ないから、知らない人から見ると、ぶっきらぼうにも見えるんだけれど、とても繊細な感性を持った素敵な女性なのよ。ね、幸樹」
「ええ。まあ」

 涼二は、照れる幸樹を意外に思いつつ見ていた。新婚か。そりゃ、幸せだろうなあ。その途端、不意に自分のことを思い出して俯いた。あの時、彼女と別れていなければ、もしかしたら自分も今ごろは、こんな顔をしていたのかもしれないと。……参ったな。

「あ。小林君が暗くなっちゃった」
「シバガキさん、さっきの話のせいですよ。あ、いや、自分で話したんだから、自分のせいか……」
「九月の雨のせいでしょう」

「九月の雨?」
幸樹が妙な顔をした。

「そうなんです。さっき、シバガキさんに、昔、九月の雨の日に別れてしまった話をしていたんですよ」
涼二は、肩をすくめた。

「えっ……」
幸樹は、二度瞬きをして涼二を見た。

「どうしたの?」
彼女が訊くと、幸樹は、少し間を空けてから答えた。
「あ、いや。ここに来る前に、偶然会った人のことを、考えていたんだ」

「どんな人?」
彼女が訊くと、幸樹はまずセルベッサのグラスを空けた。そして、二人の顔を見てから、口を開いた。
「太田裕美の『九月の雨』って曲、知っているかい?」

(初出:2018年9月 書き下ろし)

※2019年11月25日 サキさんのご要望に従い、ヤキダマとコハクのお互いの呼び方を訂正しました。
※2019年11月26日 サキさんのご要望に従い、コハクからのコトリの呼び方を訂正しました。
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Posted by 八少女 夕

【小説】コンビニでスイカを

今日は「十二ヶ月の情景」八月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、けいさんのリクエストにお応えして書きました。

リクエスト月は8月でお願いします。
内容は、うちのキャラを適当に使って、一つ情景を描いていただけたら嬉しいです。


一番乗りでいただいたリクエストです。けいさんのところのキャラは、皆さん素敵なので悩みましたが、今まで一度もコラボしたことのない方にしようと、あれこれ探してみました。

けいさんの「怒涛の一週間」シリーズの三作目に当たる「セカンドチャンス」から、お二方にご登場願いました。実質コラボしていただいたのは、とある高校生(作品中ではまだ中学生でした)です。本編の中では、主人公の親友とその教え子という形で印象的に登場した二人ですけれど、もしかしたらいずれはこの二人が主役の作品が発表されるかも? 以前、ちらりと候補に挙がっていると記事を書いていらっしゃいましたよね。そんなお話も読みたいなーと願って、この二人にコラボをお願いすることにしました。あ、それに、舞台設定のために、もう一方も……。

けいさん、好き勝手書いちゃいましたが、すみません! 


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コンビニでスイカを

 私には、行きつけの店がある。……といっても、コンビニエンスストアだけれど。都心に近いのに緑の多い一角、道路の向こうの街路樹を眺める窓際の飲食コーナーの一番端に座るのが好き。

 オレンジジュースを買ってきて、問題集を広げる。クラスの女の子たちは、シアトル発の例のファーストフードに行っているけれど、なんとかラテを毎日飲んでいたら、私のお小遣いは一週間で尽きてしまう。話の合わないクラスメートに交じって居たたまれなく座ることに対する代償としては高すぎる。だから協調性がないって言われるのかな。

 冷たいオレンジジュース。風にそよぐ街路樹の青葉を眺めてぼーっとしていたら、知っている男性が窓の外を通っていった。私が通う塾の先生。すぐ後ろからついていくのは、青木先輩。去年までおなじ中学に通っていた有名人だ。

 少なくとも夏休みの前までは、彼は私のクラスの女の子たちの憧れの存在だった。背が高くて、スポーツマン。陸上部のエースだった。都大会で、100メートルと幅跳びで優勝。大会新記録と都中学新記録を同時に達成。関東大会と全国大会出場も決まっていた。高校のスポーツ推薦も決まっていたとか。

 でも、新学期になったらに、彼の起こした事件のことでみんなが大騒ぎしていた。どこかのコンビニで万引きをして捕まったって。部活はすぐに引退との名目で辞めさせられて、推薦も取り消されたらしい。

 それから、クラスの子たちの態度は180度変わった。以前はキャーキャー言っていたのに、今度はヒソヒソと眉をひそめて噂するようになった。当の青木先輩は、最初は少し背を丸くして、下を見ながら歩いていたけれど、二学期も後半になるとまたちゃんと前を向いて歩くようになった。

 その理由を、私はなんとなく知っている。先ほど、彼の前を歩いていた塾の先生。私の担当じゃないから、確かじゃないけれど、名前は確か阿部先生。私は、このウィンドウから二人が行ったり来たりするのを何度も見た。最初は先生が先輩を引っ張るようにして歩いていた。それから先輩はうなだれるようにして、その次には妙に嬉しそうについていった。

 学校でみんながヒソヒソ噂することや、受験しなくてはいけなくなったことは、先輩にとってとても大きなストレスだったと思う。きっとあの先生がいたから乗り越えられたのだろう。もっとも、のんびりそんなことを想像している場合ではないのよね。一年後の今、受験に立ち向かっているのはこっちだし。

 私は、推薦で一足先に高校入学を決められるほど成績はよくない。もちろんスポーツ推薦はあり得ない。運動音痴だし。目指している学校は、私にとっては背伸びもしているけれど、近所のおばさんたちを感心させるほどの難関校というわけでもない。

 オレンジジュースを飲みながら、私は問題集を解いた。なんのために受験をするのかな。義務教育は今年で終わる。みんな当たり前のように高校に行く。それに、成績がよかったら大学にも行くのだろう。お母さんは「頑張らないといい大学には入れないわよ」って言うけれど、まず高校に入らないと。

 高校に行ったら、何か楽しいことがあるのかな。それとも今みたいに、クラスメートたちに嫌われないように適度な距離を取りながら、いるのかいないのかわからない存在でありつづけるのかな。透明人間みたい。

 あれ、青木先輩が戻ってきた。なんだろう。

 自動ドアが開いて、先輩は入ってきた。もちろん私には氣付かない。っていうか、多分、先輩は私を知らない。

「要。どうしたんだ」
レジの所にいる店長が先輩に声をかけた。えー? 名前を呼び捨てって、身内なのかな。

「ちょっとね。先生ん家に寄ることになってさ。先生の友達も久しぶりに来るんだって。だから、なんか一緒に食えるもん買いに来た。アイスかな。それとも……」
「ここから先生のお宅までは少しあるだろう。溶けるぞ」
「そうだよねー」

 店長は、冷蔵ケースの方へ行きカットスイカを持ち上げた。
「これはどうだ。冷えているし、すぐに食べられる」
「いいね。えっと、398円か。二つ……小銭足りるかな」
「俺が払おう。息子がお世話になっているんだ」
「だめだよ。これは俺から先生への差し入れだもん。俺が買うの」

 先輩はレジでスイカのパックを二つ支払った。律儀なんだなあ。私は、首を伸ばしてそちらを見た。あ、スイカ、本当に美味しそう。途端に、青木先輩と目が合った。

「あれ」
「なんだ、要。知っている子か」
「うん。中学の一学年下の子だと思う。たしか塾も同じだったはず」」

 わ。先輩が、私の顔を知っていた。私は、ぺこりと頭を下げた。

「よう。勉強しているんだ。偉いね」
私は、先輩の近くまで歩いて行った。

「七時から塾なんです。まだ早いから」
「帰らないの?」
「家に帰ると、とんぼ返りしなくてはいけないし、うち、飲食店で夕方から親が忙しいし」

 店長が笑った。
「うちと同じだな、要」

 私は先輩に訊いた。
「店長さん、先輩の……?」
「うん。親父」

「わ。知りませんでした。すみません。山下由美です」
「いや、こちらこそ、まいどありがとうございます」

 一杯のジュースで一時間も粘る客って、ダメな常連客じゃないかなあ。私は少し赤くなる。
「私も、その美味しそうなスイカ買います」

 青木先輩が、ポケットからまた財布を取り出した。
「じゃ、それも俺がご馳走するよ」
「そ、そんな。悪いです」

「大丈夫だって。こんなに暑いのに、頑張って勉強しているんだろう。俺、去年、懲りたもん。暑いとぼーっとなって、もともとバカなのにもっと問題を間違えてさ。阿部先生にいつもの倍ヒントもらわないと解けなかった」

「でも、先輩、ちゃんと受験に成功して高校に行けたじゃないですか。私は頑張らないと。A判定出たことないし」
「俺だって、A判定も一度も出なかったよ」

 そうか、それでも受かる時には受かるのね。諦めずに頑張ろう。

 私は、先輩におごってもらったスイカのパックを開けて勧めた。店長がフォークを二つつけてくれた。先輩は、パックを私のいつも座る席まで持ってきてくれて隣に座り、嬉しそうに食べた。「おっ。甘い!」

「ごちそうさまです」
そう言って私も食べた。本当だ。甘い。

「スイカ食べたの、本当に久しぶり」
私はしみじみと味わいながら言った。先輩は驚いたようにこちらを見た。
「ええつ。何で? 夏って言えばスイカじゃん?」

「大きいから自分では買わないし、普段は、うちに帰っても一緒に食べる人いないし。あと、種を取るのが面倒くさいから、お母さんに買ってって頼んだことなかったんですよ」

 青木先輩は笑った。
「確かに面倒だけれどさ。種のないスイカって、なんだか物足りないよ」
言われてみると、本当だな。種を取ったり、ちょっと甘みの足りないところにがっかりしながら食べるのがスイカ。そうやって食べると、甘いところがより美味しくなるみたい。

 ってことは、何もせずに簡単に高校に行けるより、受験で苦労して入るほうがいいのかなあ。

「先輩。高校って楽しいですか」
私の唐突な質問に、先輩は首を傾げた。
「楽しいって言うのかなあ。前とそんなに変わらない。君は中学、楽しい?」

「全然。登校拒否したいと言うほど嫌じゃないんですけれど、あまり合わない同級生たちに嫌われないようにばかみたいに氣を遣っているんですよね。勉強もスポーツも得意じゃないから、学ぶ意味とか、達成感もあまりないし。こんなこというの贅沢かもしれないけれど」

「そうだなあ」
先輩は、よく知らない私の愚痴に、真剣に答えを探しているみたい。変なこと言って、まずかったかな。

「去年の夏休み、俺のやったこと、聞いているだろ」
えっと……。万引きの件かな? 今度は私が返答に困った。
「あまり詳しくは、知りません。推薦がダメになったって話は聞きましたけれど」

「そ。万引きの手口を研究して、できそうだから試してみたら捕まっちゃったんだ。自分のバカさ加減に呆れて、何もかも嫌になって死にたいって思ったよ」
「先輩が?」

「うん。でも、阿部先生が止めてくれて、セカンドチャンスをくれたんだ。俺に、どんなバカでもやり直しできるってわかるようにサポートしてくれたんだ。それに、そうやって先生に助けてもらいながら頑張っているうちに、うちの親だって、俺のことを要らないから放置していたんじゃないってなんとなくわかったし、こんな自分でも生きていれば何かの役に立てるかもしれないって思えるようになったんだ」

 私は、頬杖ついて、先輩の話に聞き入っていた。
「そうだったんですか」

 先輩は、大きく頷いて笑った。明るくて素敵な笑顔。
「うん。だから、メチャクチャ勉強して、今の高校に入った。正直言って、高校で学ぶことが何の役に立つのか、よくわからないし、すげー親友ってのともまだ出会えていないけれどさ。でも……」

「でも?」
「阿倍先生にとても仲のいい友達がいるんだ。本当に羨ましくなるくらいの親友。今日も来るんだよ。その人と先生、大学で知り合ったんだって。もし先生が高校に行っていなかったら、大学にも行けなかったし、そうしたら親友とも出会えなかったってことだろう? 出会いなんてどこにあるかもわからないし、未来のこともわからない。でも、今を頑張らないと、きっと未来のいいことはどっかにいってしまうんだ。そう思えば、なんだかなあって思う受験も頑張れるんじゃない?」

 そうか。いま頑張ったご褒美、ずっと後にもらえることもあるのかな。

「あ。スイカ、なくなっちゃった! ごめん」
青木先輩が、空になったパックを見て叫んだ。あ、本当にあっという間に食べちゃった。

「ごちそうさまでした。美味しかったです」
そろそろ塾に行かなくてはいけない時間だ。私は、問題集を鞄にしまって立ち上がった。
「お。行くのか。俺も、そろそろ行かなくちゃ。また今度な」

 店長の「またお越しください」という感じのいい挨拶に送られて、私は先輩と一緒にコンビニを出た。先輩は、阿部先生のお宅へと向かうので、角で別れた。頭を下げて見送ると、ビールやジュースやおつまみと一緒にスイカのパックの入った袋が嬉しそうに揺れている。

 先輩の言ったことを、じっくりと噛みしめた。数学も、英語も、今後何の役に立つのかなんてわからない。私が高校に行って、意味があるのかも。楽しいことやいいことが、どこで待っているのかわからないし、ただのクラスメイトじゃなくて、本当の意味での親友といえる人とどこで会えるのかも知らない。

 だからこそ、今やれることを一生懸命やるのが大事。うん。頑張ろう。先輩の高校、共学だったよね。志望校、今から変えたら先生に何か言われるかな。


(初出:2018年8月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -13- ミモザ

今日は「十二ヶ月の情景」七月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、limeさんのリクエストにお応えして書きました。

舞台は、バッカス。あの面々が出演。
そして、話のどこかに「水色ネコ」を混ぜてください^^
私のあのキャラじゃなくても構いません。単に、毛色が水色の猫だったらOK。
絵だったりアニメだったり、夢だったり幻だったりw


というご要望だったのですが、水色ネコと言ったら、私の中ではあのlimeさんの「水色ネコ」なんですよ。やはりコラボしたいじゃないですか。とはいえ、お酒飲んじゃだめな年齢! っていうか、それ以前の問題もあって、コラボは超難しい!

というわけで、実際にコラボしていただいたのは、その水色ネコくんと同居しているあのお方にしました。それでも、「耳」の問題があったんですけれど、それはなんとか無理矢理ごまかさせていただきました。大手町に、猫耳の男性来たら、ちょっと騒ぎになると思ったので(笑)

limeさんの「水色ネコ」は、あちらの常連の皆様はすぐにわかると思いますが、初めての方は、待ち受け画面の脳内イメージは、これですよー。こちらへ。私が作中で「待ち受け画面」にイメージしていたイラストです。


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バッカスからの招待状 -13- ミモザ

 その客は、少し不思議な雰囲氣を醸し出していた。深緑の麻シャツをすっきりと着こなし、背筋を伸ばし綺麗な歩き方をする。折り目正しい立ち居振る舞いなので、育ちのいい人なのだと思われるが、ワッチキャップを目深に被っていて、それを取ろうとしなかった。柔らかそうな黒い前髪と後ろから見えている髪はサラサラしているし、そもそもこの時季にキャップをつけているのは暑いだろう。ワッチキャップはやはり麻混の涼しそうなものだから、季節を考慮して用意したものだろう。きっと何か理由があるのだ、たとえば手術後の医療用途といった……。

 夏木は、カウンターの奥、彼が一番馴染んだ席で、新しい客を観察していた。店主の田中は、いつものようにごく自然に「いらっしゃいませ」と言った。

 今晩は、カウンターにあまり空きがなく、夏木は言われる前に隣に置いた鞄を除けた。田中は、申し訳なさそうに眼で合図してから、その客に席を勧めた。

「ありがとうございます」
若々しい青年だった。

 その向こう側には、幾人かの常連が座っていて、手元の冊子をみながら俳句の季語について話をしていた。
「ビールや、ラムネってところまでは、言われれば、そりゃ夏の季語だなってわかるよ。でも、ほら、ここにある『ねむの花』なんていわれても、ピンとこなくてさ」
「ねむって植物か?」
「たぶんな。花って言うからには」

 タンブラーを磨いて棚に戻しながら田中は微笑んだ。
「ピンクのインクを含ませた白い刷毛のような花を咲かせるんですよ」

「へえ。田中さん、物知りだね」
「じゃあさ、この、芭蕉布ってのはなんだい?」

「さあ、それは……」
田中が首を傾げるとワッチキャップを被った青年が穏やかに答えた。
「バナナの仲間である芭蕉の繊維で作る布で、沖縄や奄美大島の名産品です」

 一同が青年に尊敬の眼差しを向けた。彼は少しはにかんで付け加えた。
「僕は、時々、和装をするので知っていただけです。涼しくて夏向けの生地なんです」

「へえ。和装ですか。風流ですね」
夏木が言うと、彼は黙って肩をすくめた。

「どうぞ」
田中が、おしぼりとメニューを手渡し、フランスパンを軽くトーストしてトマトやバジルを載せたブルスケッタを置いた。

 青年は、メニューを開けてしばらく眺めたが、困ったように夏木の方を見て訊いた。
「僕は、あまりこういうお店に来たことがなくて。どんなカクテルが美味しいんでしょうか」

 夏木は苦笑いして、『ノン・アルコール』と書かれたページを示して答えた。
「僕は、ここ専門なんで、普通のカクテルに関してはそちらの田中さんに相談した方がいいかもしれません」

 彼は、頷いた。
「僕も、飲める方とは言えませんね。あまり強くなくてバーの初心者でもある客へのおすすめはありますか」

 田中は、にっこりと笑った。
「そうですね。苦手な味、例えば甘いものは好まないとか、苦みが強いのは嫌いだとか、おっしゃっていただけますか」

「そうですね。甘いものは嫌いではないのですが、ベタベタするほど甘いものよりは、爽やかな方がいいかな。何か、先ほど話に出ていた夏の季語にちなんだドリンクはありますか?」
緑のシャツを着た青年はいたずらっ子のように微笑んだ。

 田中は頷いた。
「ミモザというカクテルがあります。そういえばミモザも七月の季語ですね。カクテルとしてはオレンジジュースとシャンパンを半々で割った飲み物です。正式には『シャンパーニュ・ア・ロランジュ』というのですが、ミモザの花に色合いが似ているので、こちらの名前の方が有名です」

「おお、それは美味しそうですね。お願いします」

 ポンっという音をさせて開けた緑色の瓶から、黄金のシャンパンがフルート型のグラスに注がれる。幾千もの小さな泡が忙しく駆け回り、カウンターの光を反射して輝いた。田中は、絞りたてのカリフォルニア・オレンジのジュースをゆっくりと注ぎ、優しくステアしてオレンジスライスを飾って差し出した。

「へえ、綺麗なカクテルがあるんだねぇ」
俳句について話していた常連の一人が首を伸ばしてのぞき込んだ。

「面白いことに、本来ミモザというのはさきほど話題に出たねむの木のようなオジギソウ科の花を指す言葉だったのが、いつの間にか全く違う黄色い花を指すようになったようなんですよ。その話を聞くと、このカクテル自体もいつの間にか名前が変わったことを想起してしまいます」

「へえ、面白いね。俺も次はそれをもらおうかな」
もう一人も言った。田中は、彼にもミモザを作り、それから羨ましそうにしていた夏木にも、ノン・アルコールのスパークリングワインを使って作った。

 待っている間に、緑のシャツの青年が「失礼」と言って腰からスマートフォンを取り出した。どうやら誰かからメッセージが入ったようだ。礼儀正しく画面から眼をそらそうとした時に、待ち受け画面が眼に入ってしまった。

 水色のつなぎを着た、とても可愛い少年が身丈の半分ほどある雄鶏を抱えていた。瞳がくりくりとしていて、とても嬉しそうにこちらをのぞき込んでいる。つなぎは頭までフードですっぽりと覆うタイプなのだが、ぴょこんと耳の部分が立っていてまるで子猫のようだ。夏木は思わず微笑んだ。

 青年と目が合ってしまい、夏木は素直に謝った。
「すみません。見まいとしたんですけれど、あまりに可愛かったので、つい」

 そういうと青年はとても嬉しそうに笑った。
「いや、構いませんよ。可愛いでしょう。いたずらっ子なんですけれど、つい何でも許してしまうんです。最近メッセージを送る方法を覚えまして、時々こうして出先に連絡してくるんです」

 そういうと、また「失礼」といってから、メッセージに急いで返信した。
「一人で留守番させているんですけれど、寂しいのかな。急いで帰らないと、またいたずらするかな」

「オジギソウとミモザみたいに、混同されている植物って、まだありそうだよな」
青年の向こう側で俳句の話をしていた二人は、田中とその話題を続けていた。

「この本には月見草と待宵草も、同じマツヨイグサ属だけど、似ているので混同されるって書いてあるぞ。どちらも七月の季語だ」

「どんな花だっけ」
「ほら、ここに写真がある。なんでもない草だなあ」
「一重の花なんだな。まさに野の花だ。白いのが月見草で、待宵草は黄色いんだな。そういえば、昔そういう歌がなかったっけ」

「待~てど、暮らせ~ど、来~ぬ人を……」
「ああ、それそれ。あれ? 宵待草じゃないか」

 田中が、笑って続けた。
「竹久夢二の詩ですね。語感がいいので、あえて宵待草にしたそうですが、植物の名前としては待宵草が正しいのだそうですよ」

 その歌は、夏木も知っていた。
「待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ 今宵は月も 出ぬそうな」

 日暮れを待ちかねたように咲き始め、一晩ではかなく散る待宵草を、ひと夏のはかない恋をした自分に重ね合わせて作った詩だとか。

 夏木は、隣の青年がそわそわしだしたのを感じた。彼は、スマートフォンの待ち受け画面の少年を見ていた。にっこりと笑っているのに、瞳が悲しげにきらめいているように感じた。

 青年は、残りのミモザ、待宵草の色をしたカクテルを一氣に煽った。それから、田中に会計を頼むと、急いで荷物をまとめて出て行った。帰ってきた青年を、あの少年は大喜びで迎えるに違いない。

 待っている人が家にいるのっていいなあと、夏木は思いながら、もう一杯ノン・アルコールのミモザを注文した。

ミモザ(Mimosa)
標準的なレシピ
シャンパン : 1
オレンジジュース:1

作成方法: フルート型のシャンパン・グラスにシャンパンを注ぎ、オレンジ・ジュースで満たして、軽くステアする。



(初出:2018年7月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】夏至の夜

今日は「十二ヶ月の情景」六月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 6、7月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。いただいたテーマは「夏至」です。(明日が夏至ですから、なんとしてでも今日発表したかったのです)

そして、【奇跡を売る店】シリーズで素敵な短編小説を書いてくださいました。


彩洋さんの書いてくださった 「【奇跡を売る店・短編】あの夏至の日、君と

コラボは、ここに出てくる登場人物の誰か、でいいでしょうか。このシリーズ、元々がパロディなので、適当にキャラを崩壊させていただいても何の問題もありません。如何様にも料理してくださいませ。
そして、舞台は、私がまだ見ぬ巨石・ストーンヘンジがいいかなぁ。あるいは夜のない北欧の夏至でも。


というご要望だったのですが、この中の誰かって、皆さん日本にいるし、ヨーロッパの夏至にいた方たちのうちお一人は、もうコラボできないし、結構悩みました。

それで、コラボしているような、全くしていないようなそんな話になりました。さらにいうと、ストーンヘンジは絡んでいますがメインではありません。キャラクターも読み切り用でおそらくもう二度と出てこないはず。若干「痛たたたた」といういたたまれない状況に立っています。「そうは問屋が卸さない」って感じでしょうか。

ちなみにリトアニア辺りだと、夏至でもまだ夜はあるようです。私の辺りで日没は21時半ぐらいですが、リガだと22時半ぐらいのよう。その短い夜に一瞬だけ咲くと言われる、生物学的には存在しない花。これが今回の小道具です。


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夏至の夜

 風が牧場の草をかき分けて遠くへと渡っていった。川から続く広い通りは、聖なるサークルへの最後の導きだ。ここまで来るのに三年の月日が経っていた。これほどかかったのは誤算だったが、なによりも長くつらい旅を乗り越えられたことに感謝しなくてはならないだろう。

 彼は、遠く常に雪に覆われた険しい山脈の麓からやってきた。この地に伝わる「癒やす石」の力を譲り受け、同じ道を帰らねばならない。主は彼の帰りを待ちながら、苦しい日々を過ごしているはずだ。もちろん、まだ彼が生きていれば。それを知る術はない。

 なんと長い一日だ。彼の故郷でもこの時期の日は長い。だが、この北の土地ではゆっくりと眠る暇もないほどに、夜が短くなる。通りを歩く旅人の姿が多い。みなこの日にここへ来ようと、集まってくるのであろう。聖なるサークルへと向かい、夜を徹して祈り、不思議な力を持った朝の光がサークルを通して現れるのを待つのだ。夏至祭りだ。

 彼は、サークルへ向かう巡礼者たちの間に、奇妙な姿を見た。純白の布を被った小柄な女だ。どのような技法であの布をあれほどに白くしたのだろう。布はつややかで柔らかそうだった。風にはためき時折身につけている装身具が現れた。紫水晶のネックレスと黄金の耳飾り。

 視線を感じたのか、女は振り向き彼を見た。浅黒い肌に大きな黒い瞳、謎めいた笑みをこちらに向けた。

* * *


 奈津子は反応に困っていることを顔に出さないようにするのに苦労した。目の前にいるのが中学生だったなら、「これが中二病か」と納得して面白かったかもしれない。また、妙齢の大人だったら、一種の尊敬心すら湧いてきたかもしれない。もし、自分の身内だったら「何言っているの」と一蹴することもできた。

 けれど、目の前で憂鬱そうな様子で先史時代のストーンヘンジの話をしているのは、基本的には自分とは縁もゆかりもない、二十歳も年下の日本人男性だった。そして、非常にまずいことに、妙にいい男だった。

 奈津子がこの青年と二人で旅することになった原因を作ったのは甥だ。それも唯一氣が合い、コンタクトを持ち続けてくれる可愛い身内だ。そもそも奈津子は甥の順と一緒にこの旅行をするつもりで休暇を取った。計画の途中で、「友人を連れて行ってもいいか」と訊かれたので「もちろんいいわよ」と答えた。甥が出発前日に「会社存続を左右する顧客への対応で、どうしても休暇を返上しなくてはならなくなった」とキャンセルしてきたので、初対面の若い青年とこうして旅をしているというわけだ。

 甥がわざわざこの青年を旅に誘った理由は、間もなくわかった。

 スイスに住む奈津子は、宗教行事の影に隠れた民俗信仰を訪ねることをライフワークにしていて、これまでも色々な祭りを見てきた。スペイン・アンダルシアのセマナサンタ、ファリャの火祭り、フランスのサン・マリ・ド・ラ・メールの黒い聖女サラを巡るジプシーの祭り、ヨーロッパ各地の個性豊かなカーニバル、チューリヒのゼックス・ロイテン、エンガディン地方のカランダ・マルツ。

 豊穣の女神マイアの祭りに起源があると言われる五月祭とその前夜のヴァルプルギスの夜や、太陽信仰と深い関係のある夏至や六月二十四日の聖ヨハネの祝日は、ヨーロッパ各地で様々な祭りがあり、奈津子にとって休みを取ることの多い時期だ。有名なイギリスのストーンヘンジの夏至のイベントも若い頃に体験していて、そのことを甥に話したこともある。甥の順とは、去年一緒にノルウェーの夏至祭を回った。

 今年の順との旅では、リトアニアの夏至祭を訪ねることにしていた。

 この時期のリガのホテルはとても高いだけでなく、かなり前からでも予約が取れないため、奈津子は車で五十分ほど郊外にある小さな宿を予約してあった。今日の午後、早く着いた奈津子が既にホテルにチェックインを済ませた。それから空港に一人でやってきた古森達也を迎えに行った。別の部屋とは言え、見知らぬ年上の女と一週間も過ごすことになって、さぞかし逃げ出したい心地になっているだろうと思っていたのだが、達也は礼儀正しい好青年でそんな態度は全く見せなかった。

 レンタカーでホテルに向かい始めてから、助手席に座った達也はどうしてこの旅に同行したいと順に頼んだのかを語り始めた。長年彼を悩ませている夢。夏至を祝うためにストーンヘンジに向かい、謎の女に出会うという一連のストーリーの繰り返し。それも、おそらく先史時代のようだった。

 そんな話を真剣に語られて、奈津子は戸惑った。

 そもそもストーンヘンジには、痛々しい思い出があった。二十年以上前のことだ。まだ、大学を卒業して間もなく、また、自分自身でも何を探していたのかよくわからなかった頃、奈津子も熱に浮かされたようにパワースポットといわれる場所を巡っていた。そして、夏至のストーンヘンジへ行ったのだ。

 太陽と過去の叡智が引き起こす自然現象を待つ巨石遺構は、エンターテーメントを求める人々で興ざめするほどごった返していた。そもそも、こうした祭りには一人で参加するものではない。一人でいると周りの盛り上がりにはついて行けず、楽しみも半減していた。

 当時はまだ今ほど外国語でのコミュニケーションに慣れていなかったので、奈津子は一週間近くまともな会話をしていなかった。そんな時に、明らかに日本人とわかる二人の壮年男性らを見かけて、もしかしたら会話に混ぜてもらえないかと近くまで寄っていったのだ。ヒールストーンの彼方から太陽が昇ったその騒ぎに乗じて、その二人に話しかけるつもりだった。

 だが、それは非常にまずいタイミングだった。奈津子は、一人の男性がもう一人に対して愛の告白をするのを耳にしてしまったのだ。いくら人恋しいからといって、このなんとも氣まずい中を平然と話しかけられるほど奈津子は人生に慣れていなかった。今から思えば、そこでふざけて話しかければあの二人のギクシャクした空氣の流れを変えられたのかもしれないが。

 あの時と違って、奈津子はいい年をしたおばちゃんになった。スイスで十年間以上一人で暮らし、言葉や度胸でも当時とは比べものにならない。そして、可愛い美青年が、妙な告白をしても、なんとか戸惑いは表に出さずに、会話を続けることもできた。

「だとしたら……どうしてストーンヘンジに行かずにここへ来たの?」
奈津子は単刀直入に訊いた。

 達也は頭をかいてつぶやいた。
「いや、あれは、夢の話ですから。変な話をしてしまって、すいません」

「いいえ、してもいいのよ。でも、どう答えたらいいのか、わからないのよ。それはあなたの前世の記憶だって思ってるの?」
「いや、そんなことは……。あれです、どっかのアニメか映画で観たのかもしれないです」

 奈津子は首を傾げた。
「さあ、知らないわ。あったとしても、私は浦島太郎で、日本のアニメや映画などにはずっと触れていないのよ。もっとも私、夏至のストーンヘンジにはいったことがあるのよ」
「知っています。順がそう言っていました。だから奈津子さんに逢ってみろと」

 一度もストーンヘンジに行ったことがないにしては、達也の話すストーンヘンジの様子は妙に具体的だった。誰でも見たことのある二つの石の上に大きな石で蓋がしてあるような形のトリリトンの話なら、行ったことがない人でも記憶に留めているかもしれない。だが、達也はヒールストーンの向こうから昇る朝日のことを口にしていた。

 ヒールストーンは周壁への出入り口のすぐ外側のアヴェニューの内部に立つ形の整えられていない赤い砂岩でできた巨石だ。サークルの中心から見て北東にあり、夏至の日に太陽はヒールストーンのある方向から出て、最初の光線が遺跡の中央に直接当たり、ヒールストーンの影はサークルに至る。

 普段の観光ではあまり話題にならないが、夏至のストーンヘンジでは、主役といってもいい石なのだ。

 それに、最近の学説では、夏至のストーンヘンジの祭りは天文学的な意味合いだけではなく、民俗的な、ヨーロッパの他の夏至祭りとも関連のある意味合いを持つともいわれている。すなわち男女の仲を取り持つ祭りというわけだ。馬蹄形に並べられたトリリトンとその周辺にあるヘンジは女性器を表すと考えられ、もともとは脇に小ぶりな岩が二つ置かれていたと考えられるヒールストーンの影が夏至にその遺跡に届くことが、性的な象徴として祝われていたというものだ。

「ヨーロッパの各地の夏至祭りでは、いわゆるメイポールのような柱を立てて、その周りで踊ったり、たき火を飛び越えたりして祝う習慣があるのね。そして、この日に将来の結婚相手を占う、あまりキリスト教的ではない呪いが、主に北ヨーロッパで行われているの。多くが縁結び的な役割を担っているのよね」

「大昔のストーンヘンジでも、そういう役割を担っていたということなんですか」
達也は真面目に訊いた。奈津子は肩をすくめた。
「なんとも言えないわ。そうかもしれないし、違うかもしれない。ブルーストーンに癒やしの力があった信じられていたというのも、推測に過ぎないし、ヒールストーンの影に性的な意味合いがあるというのも、勘ぐりすぎなのかもしれないし。現在の各地の夏至祭に縁結び的な側面があるというのは事実だけれど」

 薬草を摘み、三つ叉になったポールを囲み祝う。朝露を浴びる。そうした呪いの後、夢の中に未来の夫が現れるといった縁結び的信仰が共通してみられるのだ。

 とはいえ、奈津子には夏至祭りに縁結びの力があるとは思えなかった。なんせ二十年以上、何かとこの祭りに行っているのに、一向に御利益がないからだ。たまにいい男と一緒かと思えば、ここまで年下だと、期待するのも馬鹿みたいだ。

「夢の中に……ですか」
「枕の下にセイヨウオトギリソウを置いて眠ると、未来の夫が夢に現れるというような信仰ね」
「なるほど」
「この辺りでは、シダに夏至の夜にしか咲かない赤い花が咲くので、それを見つけて持ち帰るといいという言い伝えもあるのよ」
生物学的にはナンセンスだと言われている。そもそも胞子で増えるシダに花は咲かないから。

「なんですって?」
達也が大きな声を出した。奈津子はぎょっとした。

「どうしたのよ」
「いや、シダの赤い花っておっしゃったから」
「言ったけれど?」
「さっき、日没の直後くらいに見たように思ったんです」

 奈津子は車を停めた。今夜は、夏至祭りではない。祭りは大抵どこも聖ヨハネ祭である二十四日かその前夜である二十三日に行われるからだ。つまり、二日ほどゆっくりと観光をしてから祭りに行く予定だった。が、よく考えれば今夜こそが本来の夏至だ。そこで赤いシダの花を見たなどと言われては聞き捨てならない。

「どこで?」
「さきほど通った林ですよ。ここは一本道だから。このまま戻ったら見られると思いますけれど」

 馬鹿馬鹿しいと、このまま走り抜けてもよかったのだが、好奇心が勝った。それに、夏至らしい思い出になるではないか。無駄足だとしても、少しくらい戻っても問題はないだろう。ホテルはすぐそこだ。奈津子は素直に車をUターンさせた。

 その林は、さほど時間もかからずに、たどり着くことができた。十一時を過ぎてすでに暮れていて、どこにシダが群生しているのか見つけるのにもう少しかかった。けれど、最終的に車のライトが茂みをはっきりと映し出した。

「ほら、あそこに」
それは、本当に花と言えるのか、それともまだ開いていない葉が赤く見えているのか、奈津子には判断できなかった。けれども、それが花に見えるというのは本当だった。

「本当だわ。まるで花みたいね」

 赤い花を咲かせるシダを見つけたら、深紅の絹でそっと包み、決して立ち止まらずに家まで持ち帰らなくてはならない。そして、道を尋ねる旅人に出会っても、決して答えてはいけない。それはただの旅人ではないのだ……。奈津子は、赤いシダ花の伝説を思い出して身震いした。

 達也は、車から降りると、黙ってシダに手を伸ばした。奈津子は、心臓の鼓動が彼に聞こえるのではないかと怖れた。奇妙な組み合わせとは言え、夏至の夜に未婚の男女が、存在しないはずの伝説の植物を手にしようとしている。それは、常識や社会通念というものを超えて、何かを動かす力を持つのかもしれない。ストーンヘンジで、道ならぬ恋心を打ち明けたあの男が、もしかしたらこのような夏至の魔法に促されたように。

 達也は、シダを手折ると、奈津子には目もくれずに林の奥へと歩き出した。人里離れた林の奥を目指しているようだ。声を出してはならない。そう思う氣持ちとは逆に、どこかで冷静で現実的なもう一人の奈津子が「戻さないとまずい」と訴えていた。

 と、視界の奥に、見るべきでないものが入ってきた。白いマントのようなもので全身を覆った人。小柄だからおそらく女だろう。二十一世紀には全くふさわしくないドルイド僧のようなその姿に、奈津子は焦った。彫りの深い顔立ち、黄金の耳飾りと、紫水晶のネックレス。つい先ほど彼が描写したままの謎の女の姿。

 あれこそ、決して答えてはならない危険な旅人ではないのだろうか。達也は、ずっとその人物と無言で見つめ合っていた。どれほどの時間が経ったのかわからない。しびれを切らした奈津子は禁忌を破り、声をかけた。
「達也君。そっちへ行ってはダメよ。さあ、ここから離れて、ホテルに行きましょう」

 達也は、ビクッとしてこちらを振り向いた。奈津子は、手にしていたシダを全て手放させると、袖を引っ張るようにして、彼を歩かせ車に乗せた。彼は何度か振り向きつつも、やはり理性の命じるままに助手席に乗った。そのままホテルにつくまで、奈津子が何を訊いても全く口をきかず、ずっと考え込んでいた。

 翌朝、約束の朝食の席に降りてきた奈津子は、達也が伝言メモを残して消えてしまったのを知った。

 慌てて日本の順にメールを送ると、彼にもメールが入っていたそうだ。急に予定を変えることになり、一足先に帰国することになった。お詫びを順からも伝えて欲しいと。ホテルのフロント係によると、朝一番でチェックアウトしたらしい。隣には、異国風の女性が一緒にいたということだった。

へい、奈津っち。

ぶったまげたよ。達也がまさかいきなり国際結婚するとか、ありえなくね? つーか、俺が何度訪ねていっても、奈津っち一度だって女の子紹介してくれたことないのに、なんで達也にはそんなサービスするんだよ。てか、人の世話していないで、自分の相手は?

それにしてもすげー美人を連れてきたって、仲間内でも大騒ぎだぜ。この間ダメになった休暇の代わりに改めて休みをもらったので、冬休みには、そっち行くから、その時に話そうな。 順


 別に私がくっつけたわけじゃないわよ。甥からのメールを見ながら、奈津子はひどい疲れを感じた。あちこちを蹴飛ばしたい氣分だった。心配して損した。前世がどうのこうの、ストーンヘンジがなんとかかんとかいうから、夏至の揺らぎが見せる魔界に取り込まれたんじゃないかって、どっちが中二病かわからない不安を持っちゃったじゃない。

 彼はきっと、あの女性がどうしているのか氣になって、またあの林に行ったのだろう。そして、そのまま意氣投合して二人で旅することにしたのだろう。

 男女の仲を取り持つと言われる不思議な夜。確かに、ある種の人々には効果絶大らしい。たまたま自分だけそうでないからと言って、迷信扱いするのは間違っているのかもしれない。いや、語り部というのは、その手の恩恵は手にすることができないということなのか。

 奈津子は大きなため息を一つつくと、この件はもう忘れようと思った。そして、「冬に来るならクリスマスマーケットに付き合え」という趣旨のメールを、唯一なついてくれる甥っ子に書いた。


(初出:2018年6月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】キノコの問題

今日は「十二ヶ月の情景」五月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

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今日の小説は、canariaさんのリクエストにお応えして書きました。

テーマはずばり「マッテオ&セレスティンin千年森」です!

情景は森(千年森)で、ギリギリクリアかな?

キーワードと小物として
「セレスティンの金の腕時計」
「幻のキノコ」
「健康食品」
「アマゾンの奥地」
「猫パンチ」
希望です。

時代というか時系列は、マッテオ様たちの世界の現代軸でお願いしたいと思っています。
コラボキャラクターはクルルー&レフィナでお願いいたします。


「千年森」というのはcanariaさんの作品「千年相姦」に出てくる異世界の森、クルルーとレフィナはその主人公とヒロインです。

一方、マッテオ&セレスティンは、私の「ニューヨークの異邦人たち」シリーズ(現在連載中の「郷愁の丘」を含む)で出てくるサブキャラたちです。「郷愁の丘」の広いジョルジアの兄であるマッテオは、ウルトラ浮ついた女誑しセレブで、その秘書セレスティンはその上司には目もくれずいい男と付き合おうと頑張るけれど、かなりのダメンズ・ウォーカー。このドタバタコンビをcanariaさんの世界観に遊びに来させよという、かなり難しいご注文でした。

これだけ限定された内容なので、ものすごくひねった話は書けなかったのですけれど、まあ、そういうお遊びだと思ってお読みください。コラボって、楽しいなってことで。canariaさん、なんか、すみません……。



短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」





「ニューヨークの異邦人たち」・番外編
キノコの問題


 覆い被さり、囲い込み、食べ尽くして吸収してしまうかと思うほど、深く濃い緑が印象的な森だった。鳥の羽ばたきと、虫の鳴き声、そしてどこにあるのかわからないせせらぎの水音が騒がしく感じられる。道のようなものはあるはずもなかった。ありきたりの神経の持ち主ならば、己が『招かれざる客』であることを謙虚に受け止め、回れ右をして命のあるうちに大人しくもと来た道を戻るはずだ。だが、今その『千年森』を進んでいる二人は、ありきたりの神経を持ち合わせていなかった。

「それで、あとどのくらいこの道を進めばいいんでしょうか」
若干機嫌の悪そうな声は女のものだ。都会派を自認する彼女は、おろしたての濃紺スウェード地のハイヒールを履いていて、一歩一歩進むたびに苛ついていると明確に知らせるトーンを交えてきたが、彼女の前を進んでいるその上司は、全くダメージを受けていないようだった。

「なに、もうそんなに遠くないはずだ。こんなに森も深くなったことだし、【幻のキノコ】がじゃんじゃん生えていそうじゃないか」
そう言って彼は振り返り、有名な『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』を見せたが、『アメリカで最も商才のある十人の実業家』に何度も選出された男としては、かなり無駄な行為だった。エリート男と結婚したがっている何十万人もいるニューヨーク在住の独身女のうちで、セレスティン・ウェーリーほど『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』に動かされない女はいないからだ。

「それはつまり、あなたは根拠も何もなく、こんな未開の森を進んでいると理解してもいいんでしょうか」
「そうさ、シリウス星のごとく熱く冷たいセレ。まさか誰もまだ知らない【幻のキノコ】の生えている場所が、カラー写真と解説つきの地図として出版されていたり、GPS位置情報として公開されているなんて思っていないだろうね」

 ヘルサンジェル社は、CEOであるマッテオが一代で大きくした。主力商品は健康食品で、広告に起用されたマッテオの妹であるスーパーモデル、アレッサンドラ・ダンジェロの完璧な容姿の宣伝効果でダイエット食品の売り上げはアメリカ一を誇る。社のベストセラー商品はいくらでもあるが、新たな商品開発はこうした企業の宿命だ。とはいえ、あるかどうかもわからないキノコを社長みずからが探すというのは珍しい。

 セレスティンは深いため息をついた。
「もうひとつだけ質問してもいいでしょうか」
「いいとも、知りたがりの綺麗なお嬢さん」

「あなた自らが、その【幻のキノコ】を探索なさるのは勝手ですけれど、どうして社長秘書に過ぎない私までが同行しないといけないのでしょうか。この靴、おろしたてのセルジオ・ロッシなんですよ!」

「まあまあ。世界一有能な秘書殿のためなら、五番街のセルジオ・ロッシをまるごと買い占めるからさ。ところで、今日の取引先とのランチで君が自分で言った台詞を憶えているかい?」
「もちろんですわ。とても美味しい松坂和牛でしたけれど、あんなに食べたら二キロは太ってしまいます。週末はジムで運動しなくちゃいけない、そう申し上げました」

「ここを歩くとジムなんかで退屈な運動をするよりもずっとカロリーを消費するよ。湿度が高いってことはサウナ効果も期待できるしね。それに、【幻のキノコ】は、カロリーを消費中の女性のオーラに反応して色を変えるそうだ。つまりこの緑一色の中で見つけやすくなるってことだ。ウインウインだろう?」

 セレスティンは、カロリーを消費する運動やサウナでのウェルネスに、テーラードジャケットとタイトスカートが向いていないことを上司に思い出させようと骨を折った。が、マッテオはそうした細部については意に介さなかった。
『とにかく今日この森に来られたことだけでもとてつもなく幸運なんだ。そうじゃなかったらアマゾンの奥地まで行かなきゃいけないところだったんだぜ」

「なぜですの?」
「『千年森』に至るルートは、いくつか伝説があってね。一番確実なのがブラジルとボリビアの国境近くにある原生林らしいんだが、あそこには七メートルくらいある古代ナマケモノの仲間が生存しているという噂があってさ。追われたらハイヒールで逃げるのは大変だろう?」

「それはその通りですわ。でも、カナダとの国境近くの町外れの廃墟がボリビアと繋がっている森への入り口になるなんてあり得ませんわ」
「あり得ないもへったくれも、僕たちは今まさにそこにいるんだ。まあ、堅いことを言わずに、ちょっとしたデートのつもりで行こうよ、大海原色の瞳を持つお嬢さん」

「いつも申し上げている通り、まっぴらごめんです。そもそも、今日はちゃんとしたデートの予定があったのに……ハーバード大卒で銀行頭取の息子なんですよ。ああ、連絡したいのにここ圏外じゃないですか」
「まあ、なんと言っても『千年森』だからね。安心したまえ。今日のが不発に終わっても、今後ハーバード大卒で頭取の息子である独身者と知り合う確率は……チャートにして説明した方がいいかい?」
「けっこうです!」

 ブリオーニのビスポークスーツにゴールドがかった絹茶のネクタイを締めた男とマーガレット・ハウエルのテーラードジャケットを来た女が森の奥深く【幻のキノコ】を探しているだけでも妙だが、話題もどう考えてもその場にふさわしいとは思えなかった。

 その侵入者の会話に耳を傾けつつ、物陰から辛抱強く観察している影があった。それは黒髪を持った美貌の少年で、二人のうちのどちらが彼の存在に氣付いてくれて、悲鳴を上げた瞬間に颯爽と飛びかかろうとひたすら待っていた。

 だが、都会生活が長く野生の勘のすっかり退化してしまったニンゲンどもは、いつまで経っても彼に氣付かなかった。それどころか、めちゃくちゃに歩き回っているにもかかわらず、どうやら最短距離で彼の大切な養い親のいるエリアに到達してしまいそうだった。

「お。見てみろよ。あの木陰、なんだか激しく蠢いているぞ」
マッテオが示した先を、セレスティンは真面目に見ていなかった。大切なハイヒールのかかとが何かぬるっとしたものを踏んだようなのだ。

「マッテオ。この森はどこを見ても木陰だらけで、蠢いているなんて珍しくもなんともありませんわ、それよりも……」
「でも、ほら。女神フレイヤの金髪を持つお嬢さん、木陰は珍しくなくても、木々と一緒に女性が蠢いているのはちょっと珍しいよ」

「なんだって!」
背後から叫びながら突然黒い影が飛び出してきたので、今度こそセレスティンとマッテオは驚いた。

「本当だ! レフィーったら! 僕がちょっと目を離すとすぐこれだ。発情の相手なら、この僕がいるって言うのに!」

 マッテオは、セレスティンに向かって訊いた。
「あれは、誰かな。男の子のようにも見えたけれど、猫耳みたいなものと、尻尾が見えたような……」

 セレスティンは、目をぱちくりさせて言った。
「猫耳に尻尾ですって。マッテオ、あなた頭がどうかなさったんじゃないですか。それよりも、いつから私たちの後ろにいたのかしら。やはり危険いっぱいじゃないですか、この森。これ以上、こんなところに居て、私のおろしたてのハイヒールに何かあったら困るわ。何か変なものを踏んじゃったみたいだし……」

 ところが、そのハイヒールの惨状に98パーセント以上の責任があるはずの彼女の上司は、その訴えをまるで聴いていなかった。
「ひゅー。こいつは、滅多に見ない別嬪さんだ」

 返事が期待したものと全く違ったので、真意を確認したくて顔を上げると、マッテオが意味したことがわかった。先ほど森と一緒に蠢いているとマッテオが指摘した誰かが、黒髪の少年に木陰から引きずり出されていた。深い緑の襤褸がはだけていて、白い肌や白銀に輝く髪が露わになっていた。あら、確かに、珍しいほどの美女だわ。いつも綺麗どころ囲まれているマッテオでも驚くでしょうね。

 マッテオは、美女を見たら口説くのが義務だとでもいうように、ずんずんと二人の元に歩いて行って、アメリカ合衆国ではかなり価値があると一般に思われている『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』をフルスロットルで繰り出した。

「こんにちは、麗しい森の精霊さん。この深くて神秘的な森には、人知れず永劫の時間を紡ぐ至宝が隠されているはずだと私の魂は訴えていたのですよ。美こそが神の叡智であり、すべてに勝る善なのですから、私があなたを崇拝し、その美しさを褒め称えることを許してくださいますよね」

 何やら揉めていたようだった森色の襤褸を着た美女と黒髪の少年は、この場の空氣を全く読まない男の登場にあっけにとられて黙った。相手に困惑されたくらいで、大人しく引き下がるような精神構造を持たないマッテオは、構わずに続けた。

「怪しいものではありません。僕は、マッテオ・ダンジェロといいます。アメリカ人です。この森で国籍というものが何らかの意味を持つなら、ですけれど。少なくとも佳人に恋い焦がれる心に国境はありません。あなたも、この森のように幾重にも巡らされた天鵞絨の天幕の後ろに引きこもっていてはなりません。どのような深林も恋の情熱の前では無力なのですから。あなたの名前を教えてくださいませんか。私が心から捧げる詩を口ずさめるように」

「てめぇ、何を馴れ馴れしく!」
黒髪の少年が我に返って敵意を剥き出しにした。襤褸を着た美女は、その少年をたしなめた。

「クルルー。客人にそのような口をきいてはならぬ」
「でも、レフィー。聖域であるこの森で神聖なあなたを口説くのがどんなに罰当たりか思い知らせないと」

「さっき、発情の相手がどうのこうのって自分でも言っていたのに」
セレスティンが、小さくツッコんだ。
「なんだとぉ」

 少年は、セレスティンの元に飛んできた。おや、こちらも美形だったわ。セレスティンは驚いた。緑色の宝石のような切れ長の瞳に、漆黒ではなくて所々トラのような模様の入った不思議な髪。綺麗だけれど、危険な匂いがプンプンするタイプの美少年だ。ツンとしていれば、いくらでも女が寄ってきそうだが、どういうわけか今の少年は取り乱して怒っていた。

 手元を素早く前後に動かして、こちらを小突いてくる。この動作は、ええと、ほら、あれ……猫パンチ。うわー、ありえない。美少年がやっちゃダメな動作でしょう。
「ちょっと、やめてよ。何取り乱しているの」
「レフィーの前で余計なこと、言うなよ」
「あのね。そうやって取り乱すと、知られたくないことがバレバレになるのよ。わかってるの?」

 二人がこそこそと会話を交わしている間、マッテオはさらに美女に愛の言葉の攻勢をかけていた。
「あんた、あいつを止めなくていいのか。目の前で他の女を口説くなんて、とんでもない恋人だな」
少年が怒っている。

「おあいにく様。あの人は、私の上司で、恋人じゃないの。それよりも、目下の問題は、私のハイヒール……。何を踏んじゃったのかしら」

 セレスティンが、足下を見ると、どういうわけかそこには真っ赤なキノコがうじゃうじゃと生えていた。しかも、怪しい蛍光色の水玉が沢山ついていて、それが点滅しているのだ。
「やだっ、何これ!」

 美女にクルルーと呼ばれた美少年は肩をすくめた。
「ああ、そのキノコね。ニンゲンの女に先の尖った靴で踏まれると増殖を始めるんだよね。ああ、こんなに増えちゃって面倒なことに……。レフィー、ちょっと! お取り込み中のところ悪いけれど、緊急事態みたいだよ」

 マッテオの口説き文句を半ば呆れて、半ば楽しむように聴いていた美女はこちらを振り向いた。そして、セレスティンとクルルーの周りにどんどん増殖している赤いキノコを見て、慌ててこちらに走ってきた。
「なんだ。おい! 何をやっているんだ」

 マッテオは、そのキノコを見て大喜びだった。
「なんてことだ。これこそ僕たちの求めていた【幻のキノコ】だよ! セレ、でかした!」

 だが、襤褸を着た美女の方は厳しい顔をした。
「何が【幻のキノコ】だ。これを増やすことも、持ち出すことも許さんぞ。やっかいなことになるからな。クルルー、その二人を森の外へ連れて行け。私はそのキノコの増殖を止めねばならぬ」

 クルルーが、ものすごい力を発揮してキノコで真っ赤になったエリアからマッテオとセレスティンを引き離すと、美女はそこへ立ち、続けて森の緑が同調するようにその場所に覆い被さった。そこで、美女が何をやっているのかはわからなかった。クルルー少年に引きずられて二人は森の端まで連れて行かれたからだ。

「これだからニンゲンをこの森に入れるのは反対なんだ。カナダ側にも巨大ナマケモノを配置しないとダメなんだろうか」
そういうと、少年は二人をドンと突き飛ばした。

 一瞬、世界がぐらりと歪んだかと思うと、二人の目の前から美少年クルルーと『千年森』は消えていた。それどころか、彼らが通ってきたはずのカナダとの国境近くの町から400マイル近く離れているマンハッタンのカフェに座っていた。

「え?」
騒がしかった鳥のざわめきの代わりに、忙しく注文をとるウェイターと客たちのやり取りが聞こえ、心を洗うようなせせらぎの代わりに、趣味の悪い電飾で飾られた噴水の調子の悪い水音が響いた。

「なんてことだ。ここまで飛ばされてしまったか。やるな。さすがは『千年森の主』だ」
マッテオは、残念そうに辺りを見回した。セレスティンは、まず手始めに自分の服装がまともな状態に戻っているかを確認したが、残念ながら汗だくでボロボロの様相は、『千年森』にいたときと変わっていなかった。

 でも、ニューヨークに戻ってくるまでの時間を短縮できたんだから、急いで家にもどれはデートまでに着替える時間があるかも! 彼女はお氣に入りの金の腕時計を眺めた。ギリギリ! でも、今すぐ行けば間に合うはず。

「セレ。君のハイヒールに、例のキノコ、ついていないかい?」
諦めきれないマッテオが訊いた。彼女は、大事なハイヒールにキノコがついていたら大変と見たが、『千年森の主』が何らかの魔法で取り除いたのか、あの赤いキノコは綺麗さっぱり消え失せていた。

 それに、あのクルルー少年の言葉によると、ハイヒールに近づけると、あのキノコはとんでもなく増殖してしまうはず。ついていなくて本当によかったってところかしら。

「残念ながら、ついていないみたいですわ、マッテオ。申し訳ないんですけれど、もうアフターファイブですし、私、失礼します。今から急げば、デートに間に合いますので」
そう言いながら、颯爽と立ち上がった。

「OK。楽しんでおいで。今日の残業分、明日はゆっくり出社するといい。やれやれ、僕は氣分直しにジョルジアを訪ねてご飯を作ってもらおうかな」

 セレスティンは、にっこりと微笑みながら立ち去った。途中でもう一度時間を確認するために金時計を見た。

 あら。この時計の文字盤、ルビーなんてついていたのかしら。

 この時計は、なくして困り果てていたところ、マッテオが見つけてくれて、さらに素晴らしい高級時計に変身させてくれたものだ。だから、見慣れていた前の安っぽい時計だった時についていなかったものがあっても不思議ではない。でも、確か、今朝はついていなかったと思うんだけれど。

 立ち止まってもう一度サファイアガラスの中の文字盤をよく見た。ルビーがキラリと光った。蛍光色みたいな色で。しかも動いているような。

 これ、ルビーじゃないわ。さっきのキノコ。この中に入り込んでしまったのかしら。

 セレスティンは先ほどの趣味の悪い噴水前のカフェに戻ろうとした。マッテオに見せないと。だが、どうもカフェが見つからないし、マッテオもいない。ううん、今から電話して戻ってきてもらってこれを見せるとなると、時間を食っちゃう。せっかくの頭取の息子とのデートが……。

 彼女は、そのやっかいなキノコは金時計に閉じ込めたまま、明日まで何も言わないことにした。どう考えても、今夜この時計がハイヒールで踏まれるような事態は起こらないはずだし、明日の朝に氣がついたことにしても問題ないと思う。

 彼女は、キノコの問題はとりあえず忘れることにして、今夜ハーバード大卒の男を逃さないために、彼の前でいかに頭の足りない金髪女の演技をすべきか、綿密にプランを練りだした。

(初出:2018年5月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 100000Hit コラボ 月刊・Stella キリ番リクエスト

Posted by 八少女 夕

【小説】春は出発のとき

今日は「十二ヶ月の情景」三月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。今月以降は、みなさまからのリクエストに基づき作品を書いていきます。まだリクエスト枠が二つ残っていますので、まだの方でご希望があればこちらからぞうぞ。

月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 オムニバス小説 stella white12
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今日の小説は、山西左紀さんのリクエストにお応えして書きました。

コラボ希望のサキのところのキャラはミクとジョゼ。
テーマは「十二か月の情景」に相応しいものを設定して、
2人の結婚式の様子をストレートに書いてください。
次第はすべてはお任せします。



ジョゼというのは、もともと2014年の「scriviamo!」で書いた『追跡』という小説で初登場し、左紀さんの所の絵夢やミクと出会った小学生でした。後に、『黄金の枷』本編でヒロイン・マイアの幼馴染として使い、同時に左紀さんの所のミクとの共演を繰り返すうちにいつの間にかカップルになってしまいました。で、前回左紀さんはプロポーズの成功まで書いてくださったのです。結婚式を書くようにとの仰せに従って今回の作品を書きました。

ポルトガルの結婚式というのはこんな感じが多いようです。ブライズメイドたちがお米を投げたり、花嫁が教会の出口でスパークリングワインを飲む、というのは実際に目撃しました。その時の花嫁は、グラスを後ろ向きに投げて壊していました。

いちおう『黄金の枷』の外伝という位置づけにしてありますので、そっちを読んでいらっしゃらない方には「?」な記述もあるかもしれませんが、その場合はその記述をスルーして、結婚式をお楽しみください。ついでにいろいろとコラボの間にばら撒いたネタを回収しています。どうしても氣になるという方は、下のリンクやサキさんと大海彩洋さんの関連作品をお読みください(笑)

サキさんのお誕生日には、少し早いのですけれど、これからPやGの街へと旅立たれるということなので、前祝いとして今、発表させていただきます。サキさん、先さん、そしてママさん、良い旅を。


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【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」Infante 323 黄金の枷




黄金の枷・外伝
春は出発のとき


 アーモンドの花が風に揺れている。エレクトラ・フェレイラは、Gの町のとある家への道を急いだ。若草色のドレスは新調したもの、七人の花嫁介添人マドリーニャスは、結婚式のテーマカラーであるグリーン系のドレスを着るのだ。一つ年上の姉セレーノは少し落ち着いた松葉色のドレスを選んだ。

 もう一人の姉のマイアは、花婿と子供の時に一緒に学んだ仲で、本来ならばもっとこの結婚式の花嫁介添人にふさわしかったのだろうが、残念ながら式に参列することができない。そもそも幼馴染のジョゼが結婚することを知らない可能性が高い。なんせエレクトラ自身が数カ月以上もマイアと連絡がとれないのだ。

 花嫁介添人の多くを花婿の知り合いがつとめるのは珍しいが、花嫁は外国人でこの国での友人や親戚がさほど多くない。一方、花婿の方は「俺を招ばなかったら許さない」と言い張る輩が百人以上いるような交友関係に、先祖代々この土地に根付いていたので親戚縁者がこれまたやたらと多い。花婿の友人パドリーニョスを務める男たちの数を考えると花嫁介添人マドリーニャスの水増しは必要だった。

 ジョゼを落とそうと頑張っていたことを考えると、この役目を受けるのはどうかと思ったが、もう氣にしていないことを示すにはいい機会だと思う。それに、この二日間、街中からジョゼの友人たちが入れ替わり立ち替わりやってくるのだ。どんないい出会いが待っているかわかったものじゃない。行かないなんてもったいない。

 ジョゼの結婚式は、マイアの結婚式とはだいぶ様相が違っていて、この国ではわりと普通の結婚式だ。つまりたくさんの招待客や親戚演者が集まり、二日間にわたってパーティをするのだ。

 マイアの結婚式には友人たちを集めてのアペリティフやパーティもなかったし、宴会場でのフルコースもなかった。花嫁介添人マドリーニャス花婿の友人パドリーニョスなどもいなかった。ただ、教会で厳かなミサが行われただけで、教会の出口でお米のシャワーで迎えることすらなかったのだ。父親とセレーノとエレクトラだけが招ばれ、ミサが終わると迎えに来たのと同じ車に乗せられた。宴会場にでも行くのかと思ったら、そのまま自宅に送り届けられてしまったので、驚いた。

 今回の結婚式は、そんな妙な式ではなかった。式はPの町にあるサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われる。ここは、マイアがあの謎のドラガォンの当主と結婚した教会で、それが偶然なのかどうかはわからなかった。

 でも、エレクトラは直接教会にはいかない。介添人は花嫁の自宅に集合するのだ。花嫁であるミク・エストレーラには両親がいなくて、ティーンの頃にGの町に住む祖母に引き取られたのだそうだ。現在、歌手である彼女は主にドイツで活躍しているので、この国に帰ってくるときは祖母の家に滞在している。集まるのはその祖母の家なのだ。

「遅かったわね! どうしたの」
セレーノとジョゼの二人の女友だちはもう着いていて、エレクトラに手を振った。花嫁の三人の女友達ともすっかり仲良くなって一緒にカクテルを飲んでいた。

「美容院で思ったよりも時間がかかっちゃったの。私が最後?」
皆が頷いた。落ち着いた赤紫のツインピースを着たアジアの顔をした婦人が笑顔で出迎えてくれた。この人がお祖母さんなの? お母さんでもおかしくないくらい若く見える!

「はじめまして、フェレイラさんね。今日はどうぞよろしく。軽くビュッフェを用意しているからぜひ召し上がってね」

 中に入ると真っ白な花嫁衣装に身を包んだ今日の主役が座っていた。長く裾の広がったプリンセスラインのドレスは、わりと小さめの家の中で動き回るとあちこちの物とぶつかる危険がある。それで、彼女は動かない様に厳命されていた。

 それでも、はにかみながら笑顔を見せて立ち上がると、自分のために来てくれたことへの礼を述べた。
「エレクトラ・フェレイラさんよね。初めまして。今日はどうぞよろしくお願いします」

 エレクトラは、にっこり笑って挨拶した。
「はじめまして。介添人に選んでくれて、どうもありがとう。まあ、なんて綺麗なのかしら。ジョゼはきっと惚れ直すと思うわ」

 ミクはぽっと頬を染めた。初々しいなあ。たしかジョゼよりもけっこう年上だって聞いていたけれど、そんな風に見えないし、お似合いだなあ。エレクトラは感心した。っていうか、こんなところで感心しているから、負けちゃうんだよね。

 遅くなったので、あまりたくさん食べている暇もなく教会に向かうことになったが、ミクの祖母の作ったタパスはどれもとても美味しかった。あとでたくさん食べることになるから、ここでお腹いっぱいになっちゃマズいし、遅れてきて正解だったかな。エレクトラは舌を出した。

 教会には、参列者がたくさん待っていた。それに白いスーツを着せられて所在なく待っているジョゼも。花婿の友人パドリーニョスを務める七人たちに囲まれてかなり緊張しているようだ。ミクのドレスを本番まで内緒にするために、今日はまだ花嫁に会っていない。でも、これからずっと一緒なんだからいいのかな? エレクトラは参列者の方に目を移した。

 代わる代わるジョゼと花婿の友人パドリーニョスのところに行って大げさに喜んでいる友達たちは、エレクトラたちのよく知っているメンバーだった。祭りの度に待ち合わせて大騒ぎしているし、子供の頃からいつも一緒にいるメンバーなのでほぼ全員の顔と名前が一致している。

 つまり、エレクトラのよく知らない顔は、花嫁の招待した人たちなのだろう。ドイツ語で話している数名の男女がいた。おそらくミクが出演しているオペラ関係の人たちだろう。それに、ミクの祖母が急いで挨拶に向かった先にいる日本人女性。綺麗な人だけれどだれかな。

「あ、あの人、知っている?」
セレーノが話しかけてきた。
「ううん。お姉ちゃん、あの人知っているの?」
「ええ。偶然ね。日本のヴィンデミアトリックスって大財閥のお嬢さんだよ。ジョゼとミクが知り合うきっかけになった人なんだって」

「へえ。すごい人と知り合いなんだね。あっちのドイツ人は、オペラの人でしょ」
「そうだよ。ミュンヘンの劇団の演出家だって、ガイテルさんって言ったっけ。憮然としているでしょ?」
「え。そうだね。なんかあまり嬉しそうでもないよね」
「そうだよ。あなたと同じ、失恋組だからね」
「セレーノ。私はもう……」
「まあまあ。強がらなくてもいいってば」

 ミクを乗せた車がやってきた。あれ。ジョゼが迎えに行っちゃった。教会の中で、お父さんが花嫁を連れてくるのを待つわけじゃないんだ。エレクトラの疑問を見透かしたようにセレーノが囁いた。
「ミクのお父さんは亡くなっているの。身内に父親役を頼めるような人は叔父さんしかいないらしいけれど、なんか事情があって頼みたくないみたいだよ。だから、二人で入口から一緒に祭壇まで歩いて行くんだって。あなた、遅刻したからそういう事情を聞きそびれたのよ」

 ジョゼは、ミクの花嫁姿に見とれているようだった。確かに綺麗な花嫁だよね。ドレスはとろんとしたシルクサテン、華やかな上に高級感もある。ジョゼと研修で訪れた日本で見たけれど、日本のシルクって長い伝統があるんだよね。大きく広がった裾、後ろが少し長くなっていて楕円形に広がるようになっている。

 ヴェールはそれほど長くなくて、あっさりしているから、ミクの笑顔がはっきりと見える。そして、百人以上集まっている参列者たちを見て目を丸くした。これからは、これだけのジョゼの友達たちと付き合っていくことになることを、実感しているってところかしら。

 さあ、私たちは花嫁介添人マドリーニャスのお仕事。二人に続いて教会に入り、それにミサが終わったら入口でライスシャワー。

 そして、これからのひたすら食べる宴会の戦略も立てなくちゃ。宴会場でアペリティフがあり、揚げ物やフルーツ、それにチーズやハムなどがでるけれど、そこでたくさん食べすぎるとフルコースが入らなくなってしまう。二時からの着席宴会は五時ぐらいまでだけれど、一度帰ってからまた集まって、ビュッフェ。ダンスをして真夜中にケーキカットをするまでずっと飲んで食べてが続くのだ。

 大人たちはそれで帰るけれど、私たち若者は朝まで騒ぐのが通例。

 しかも、明日もある。普通は二日目は親戚だけだけれど、ミクのところに親戚が少ないので私たちも招待されている。つまり明日もフルコース。たぶん、明後日からダイエットしないと大変なことになっちゃう。明日はGの町にある日本料理店でやるっていうから、とても楽しみ。

* * *


 サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会の向かいは緑滴る憩いの公園になっている。その前に一台の黒塗りの車が入ってきたが、道往く人々や参列者たちは、ちょうど花嫁と花婿が現れた教会のファサードに注目していて、その車がゆっくりと停車したことに氣付くものは少なかった。

 挙式で司祭の手伝いをしていた、神学生マヌエル・ロドリゲスは、目立たぬように通りを横切り、黒塗りの車のところへやってきた。待っていた運転手が扉を開けた。6ドアのグランド・リムジンには向かい合った四つの席があり、彼は素早く中に入り既に座っている二人の女性の向かいに座った。

「ご足労でした、マヌエル。式は無事に終わったようね」
向かって右側に座っていた黒髪の貴婦人がにっこりと微笑んだ。

「はい、ドンナ・アントニア、そして、ドンナ・マイア」
ドンナ・アントニアと呼ばれた黒髪の貴婦人の右隣に、少し背の低い女性が座っていた。そして、嬉しそうに窓から幸せそうなカップルの姿を眺めた。

「あの人が、ジョゼの言っていた人ね。うまくいって、本当によかった。ああ、セレーノとエレクトラもいるわ」
マイアは、妹たちが花嫁介添人マドリーニャスを務めることを知らなかった。

「ドンナ・アントニア、本当にありがとうございます。あなたが言ってくださらなかったら、こうして二人の結婚式を見ることはできなかったでしょうから」
マイアが言うと、アントニアは首を振った。

「アントニアでいいって、言ったでしょう。あなたはもう私の義妹なのよ。あなたの友達が結婚するたびに出てくるわけにはいかないけれど、今回はたまたまこんな近くで結婚したし、マヌエルが教えてくれたんですもの。あの青年にはライサの件で助けてもらったし、私もトレースももう一度お礼がしたかったの」

 マヌエルは、アントニアの視線の先に眼を移した。彼の座っている隣の席に大きな包みが二つ置いてある。
「では、こちらが……」

 その言葉に、二人の女性は頷いた。アントニアが続ける。
「これがマイアとトレースからのプレゼントで、こちらが私から。あの花嫁さんにトレースが作ったのは、とても上品な桜色のパンプスよ。妬ましくなるくらい素敵だったわよね、マイア」
「うふふ。あなたがそういえば、23は作ってくれると思いますけれど……」
「そんな時間は、全然ないじゃない。あの忙しい合間にあの青年の靴も作ったのよね」
「ジョゼは、23の靴の大ファンだから、きっと大事にすると思うわ」

 マヌエルは、なるほどと思った。この大きい箱には、靴が二足入っているのだ。知る人ぞ知る幻の靴職人の作った、究極のオーダーメード。まさか、ドラガォンの当主その人が作ったとは二人共思いもしないだろう。

「もう一つの箱にはボトルが入っているので、扱いに注意するように言って渡してくださいね」
アントニアは言った。

 マヌエルは「かしこまりました」と言った。運転手が再びドアを開けた。彼はプレゼントを大切に抱えてベントレーから降りた。

「なんのボトルにしたのですか」
「1960年のクラッシック・ヴィンテージのポートワインよ」

 そう聞こえた時に、ドアが閉まり二人の会話は聞こえなくなった。

 何と幸運な二人だ、今日華燭の宴を迎えたカップルは。マヌエルは密かに笑った。

 百人以上の友人たちの暖かい祝福、家族の愛情、仕事仲間も駆けつけ、イタリアのとある名家からも特別な祝いが届いている。それだけでなく、ドラガォンの当主たちからもこの祝福だ。こんな婚礼は、滅多にないな。

 二人は教会の入口で参列者たちの拍手と歓声の中、笑顔でスパークリングワインを飲み干していた。そして、これから続く幸せな日々、ひとまずは、これから二日間続く食べて飲んで踊ってのハードな披露宴に手を携えて立ち向かいはじめた。

(初出:2018年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】未来の弾き手のために


scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十五弾、最後の作品です。大海彩洋さんは、『ピアニスト慎一』シリーズ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

彩洋さんの書いてくださった短編 『【ピアニスト・慎一シリーズ】 What a Wonderful World』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。とてもお忙しくて、特に今年は予期せぬ事態があったにもかかわらず、睡眠時間を削っても、妥協しないすばらしい作品を書いてくださいました。

ピアニスト相川慎一のでてくるお話は、彩洋さんの書いていらっしゃる壮大な大河ドラマの一つなのですけれど、ブログを通してのお付き合いで発表のきっかけというのか、そう言ったご縁が多いせいか、私が特に注目しているシリーズでもあるのです。クラッシック音楽の素人一ファンとして、このシリーズに書かれる音楽の話は本当に興味が尽きませんし、私にはこんなに書けないけれどその分音楽を読む楽しみをいつも与えてくれる物語です。

今回は、その慎一の人生のターニングポイントとも言える一シーンをバルセロナを舞台に書いてくださったのですが、その背景にうちのチャラチャラした面々がちゃっかりと注目を浴びていて、申し訳ないやら、何やってんだあんたたち、という状態でした。ま、みんな仕事しているからいいのか。

お返しは、舞台をウィーンに移して書いてみました。ほら、リアルの私が先週そこから帰って来たばかりだし、それにお借りするあるキャラクターの本拠地ですから。そして、ご指名なので、うちの六人全員を無理やり登場させました。今回は、仕事しているのは一人だけです。最もチャラい奴だけが働いているのって(笑)

今日どうしても発表したかったのは、本日が彩洋さんのお誕生日だから。Happy Birthday, 彩洋さん。創作にも、リアルライフにも実り多くて幸せな一年になりますように!


【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2018」について
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大道芸人たち・外伝
未来の弾き手のために
——Special thanks to Oomi Sayo san


 あまり高い席は用意しないでくれと釘を刺されていたので、どんな服装でくるのかと思ったが、杞憂だったな。結城拓人はドイツ人のスーツ姿を見て思った。蝶ネクタイではないが、紺のスーツの生地は一目でわかる上質さで、仕立て具合を見れば明らかにオーダーメードだとわかる。

 拓人が招聘されてウィーンのコンツェルトハウスで演奏することになったのは、ヨーゼフ・マルクスの『ロマンティックピアノ協奏曲』だった。ウィーンで何世紀にも渡り内外の名だたる大作曲家たちが活躍したためか、祖国ですら存在をあまり知られなくなったオーストリアの作曲家の作品だ。客を集めにくい作曲家の作品であるだけではなく、ピアニストに驚異的なテクニックを要求するために、この作品が演奏されることは滅多にない。拓人にとっても初めての挑戦だった。

 かなり図太い神経を持つと自他共に認める彼ですら、この数カ月は胃が痛くなる様な思いをしたが、その甲斐あってまずまずと言っていい演奏をすることができた。普段、日本で当然のように受ける取り巻きたちからの熱烈な喝采と違い、下手な演奏には容赦ないウィーンっ子たちからアンコールを要求されたのだ。彼にとっては枕を高くして眠ることのできる成功だった。

 彼の親しい友人であるドイツ人、エッシェンドルフ男爵が今日この場に来て聴いてくれたのは、彼の精神状態を心配して力付けようとしたわけではない。そうしようとしてくれたのは、彼の再従妹はとこである園城真耶とドイツ人の三人の仲間たちで、彼らはもうホールを出て後で落ち合う予定のワインケラーへと向かっている。三人はドレスコードに悩まされるのが嫌なので、カテゴリー6の席を希望した。

 真耶と共にカテゴリー2の席に座り、さらにわざわざ終演後に拓人とともにロビーで待ち合わせたのはヴィルだけだったが、それはどうしても紹介して欲しい人がいたからだ。

「すまないな、拓人。無理を言って」
「別に無理でもないさ。僕にできるのは引き合わせることだけ。引き受けてもらえるかどうかはわからないんだから。でも、噂で聞いたほど難しい男ではないと思うけれどな。まあ、氣軽に頼めるとはいえないけれど。今回の調律をしてくれたのは、僕の音楽をお氣に召したわけではないと思うから」

「というと?」
「忘れられたオーストリアの作曲家の名作に再びスポットを当てる手伝いをしたいという男氣がひとつだろうな。そして、もう一つの幸運は僕が日本人ピアニストだったってことかな。彼はある日本人ピアニストの才能に惚れ込んでいて、その縁でハードルを一つ低くしてもらえたってわけだ。おかげで、こちらは『あのシュナイダー氏に調律してもらえる幸運』をお守りに本番に臨めたってわけだ」

「なんの慰めにもならないな。俺はドイツ人だ。しかもまともなピアニストですらない」
そうヴィルが言うと、拓人は魅力的に笑いながら言った。
「だが、お前には父上の遺言という切り札があるじゃないか。ダメ元で頼んでみろよ」

 そう話している間に、への字口をした老人が姿を見せた。かろうじて背広といってもいい上着を身に付けているが、シャンデリアの輝くホールでは多少場違いに見えた。だが、そんなことはおそらく誰も氣にしないだろう。その険しい顔を見ると、すれ違うものは自分が悪いことをしている心持ちになり、目をそらしてしまう。

 拓人はヴィルの腕を取り、急いで彼の方に歩いて行った。
「シュナイダーさん! 今日の演奏を素晴らしいものにしてくださった喜びは、言いつくせません。なんとお礼を言っていいのか」

 拓人の謝辞を遮るように老人は手を眼の前にあげた。「お世辞なぞたくさん、さっさと用を言え」とでもいいたげに。拓人は肩をすくめて、ヴィルを示した。
「ご紹介します。友人のアーデルベルト・フォン・エッシェンドルフ男爵です。先日亡くなったミュンヘンのエッシェンドルフ教授の子息です」

 老人はじっとヴィルを眺めた。ドイツ人は、愛想のいい拓人と違いほとんど無表情だった。まっすぐに老人を見て、敬意のこもった声で「はじめまして」と言った。シュナイダー老人は十分に観察をすると口を開いた。
「父上の若い頃に似ているな。ピアノを弾く息子のことは聴いていたよ。だが、音楽はやめたんだろう。もう俺の調律は必要なくなったと父上は連絡してきたが」

 それでは、父親があのベーゼンドルファーの調律をもうこの男には頼まなくなったのは、彼が音楽をやめてあの館に足を踏み入れなくなってからなのか。父親は、彼を抱きしめることもなく、共に夢を語ることもなかった。だが、彼のために可能な全ての手を尽くしてバックアップしようとしていたのだ。

 急死した父親に代り、先祖代々の領地と館と爵位を引き継いだヴィルは、かつて彼が知っていた音とは違う音を出すベーゼンドルファーを元の状態にしたかった。父親が秘書であるマイヤーホフに残していた指示の一つが、長らく連絡の取れない状態になっている著名な調律師を探し出すことだった。

 ウィーンのコンツェルトハウスで演奏することになった拓人と電話で話していた時に、無理だと諦めていた調律師が仕事を引き受けてくれたという話題になった。それが件のシュナイダー氏だと知ったヴィルはすぐにここにくることを決めていた。

「その通りです。私は父の元を離れて生きるつもりでした。そして実際に何年もあのピアノに触れませんでした。今、私が触れるあのピアノは、もはや私が何よりも愛したエッシェンドルフのピアノとは違う存在になってしまっている。亡くなる直前まで父もずっとあなたを探していた。あなたが今日の調律をすると聞き、飛んで来ました。もう一度あのピアノを蘇らせていただけないだろうか」

 老人は首を振った。
「諦めてくれ。こっちはこの歳だ。残された時間はさほどない。その時間の全てを捧げたいと思う弾き手のためにしか調律はしない。ましてや弾かないピアノのためにミュンヘンまで行くような時間はない」

 拓人は思わず口を挟んだ。
「シュナイダーさん、彼はピアノをやめてはいません。コンサートピアニストではありませんが……」

 ヴィルは、その拓人を制した。
「いや、拓人。シュナイダーさんは正しい。あのベーゼンドルファーは、ふさわしい弾き手を持っていない。かつてこの方に調律してもらっていたこと自体がおこがましかったんだ」

 老人は、拓人に訊いた。
「お前さんは、この男の腕をどう思う」
「彼は、僕の音楽の同志です。表現する世界と方法は違いますが、同じものを目指していると断言できる数少ない音楽家の一人だと思っています」
拓人は迷わずに答えた。ヴィルは少し驚いた。拓人がそこまで認めてくれているとは知らなかったから。

 老人は「ふん」と言った。それからもう一つの問いを発した。
「この男の耳はどうだ」

 拓人は怪訝な顔をした。
「耳ですか? 確かだと思っていますが、なぜですか」

 老人は、ヴィルをじっと見つめて口を開いた。
「この世には、最高の腕を持つ弾き手がいる。そして、最高傑作である楽器がある。残念ながらその二つが同時に存在することは稀だ。あのベーゼンドルファーは、金持のサロンの飾りであるべきではない。あんたは父上の跡を継いで、あの楽器と有り余る金を手にした。もし、あんたの手に余っているのなら、俺はあんたに聞いて欲しいことがある」

* * *
 

 拓人と真耶が滞在しているホテルから五十メートルほど先に、そのワインケラーはある。どっしりとした表構えの店は十七世紀の創業で、地下へ降りて行く階段の手すりなどにも時代を感じる。暖かい照明とガヤガヤとした混み方は、天井が高くて豪華絢爛なコンツェルトハウスの堅苦しい様式美とは打って変わり、落ち着き楽しい。

「ようやく来たのね。もう結構飲んじゃったわよ」
蝶子が、奥の席から手を振った。隣に座る真耶はあっさりとしたワンピースに着替えていた。そうすることでめずらしくブレザーと開襟のシャツを着ている稔やレネとほぼ同じレベルの服装になっていた。拓人はホテルで急いで着替えて来たので、やはり砕けている。ヴィルは上着を椅子にかけてネクタイを外した。

「まず乾杯しなくちゃ。大成功、おめでとう!」
拓人は、仲間と次々とグラスを重ね、ビールを一口飲むとようやく緊張が解けて笑顔になった。

「海外でのコンチェルト、初めてじゃないんだろう? いつもと違うのか?」
稔が不思議そうに訊いた。

「確かにすごい曲だけど、結城さんは普段リストもラフマニノフも楽々と弾いているから、そんなにピリピリすることがあるなんて意外よね。例の後援会のおばさま方が付いてくるのはいつものことだろうけれど、真耶まで応援に来るのって珍しくない?」
蝶子も続けた。

「だって、こんなに青くなって練習している拓人、もう何年も見たことなかったんだもの。マルクスのコンチェルトは日本ではまずやらないし、どうしても本番を聴きたくなって。どちらにしてもミュンヘンでの休暇は決まっていたし、ちょうどいいじゃない?」
真耶はニッコリと笑った。

「う。確かに余裕はなかったな。準備は十分にしてきたのに、先週の始めに通しで弾いた時に途中で真っ白になって、死ぬかと思った」
拓人は、ビールをぐいっと飲んだ。

「デートも全部断ったって、本当?」
蝶子が面白そうに訊いたので、拓人は真耶を睨んだ。

「本当のことでしょう」
「デートどころじゃなかったからね。あんなに大変な曲なのに、問題はそうは聴こえないってことなんだ」

 レネは不思議そうに言った。
「どうしてですか。僕はピアノのことは素人ですけれど、見ているだけでわかりましたよ。ものすごくテクニックを必要とされるんだろうなって。そう思わない人がいるんでしょうか」

 稔がハーブ塩のかかったフライドポテトをつつきながら言った。
「あの豪華絢爛なオーケストレーションがわかり易すぎるのかなあ」
「どういうこと?」

「ベートーヴェンやチャイコフスキーだといかにもクラッシックって感じがするけれど、今日のはなんだか映画音楽みたいに軽やかに思えるメロディでさ」
「ああ、そうか。たしかに聴いていて心地いいメロディが多かったですね」

「弾いている方は、難関の連続で、心地いいどころじゃないか」
ヴィルは二杯目のビールを飲んでいる。

 拓人は大きく頷いた。
「しかも、作曲家が知られていないとなると、演奏会をしても客が入るか心配だろう。ますます誰も弾きたがらなくなって、ほとんど演奏されることがいない。いい曲なのに残念だよな」

「じゃあ、敢えてそのとんでもない挑戦をした拓人に、もう一度乾杯!」
六人はグラスを合わせて笑いながら立ち上がった。
「『ロマンティックピアノ協奏曲』を世に広める、拓人と未来の弾き手たちのために!」

 座って飲みながら蝶子がヴィルに訊いた。
「そういえば、もう一つのトライはどうなったの?」

「断られたよ」
ヴィルは肩をすくめた。
「ダメだったんですか?」
レネが驚きの声を出した。

「完全に断られたわけじゃないだろう」
拓人が言った。
「どういうこと?」
四人は拓人とヴィルを代わる代わる見た。

「一度エッシェンドルフに来てくれるそうだ」
「じゃあ、断られていないんじゃない」
真耶は首をかしげる。

「彼の下で学んだことのある若い調律師を連れてくるそうだ。そして、俺が納得したら、今後彼に頼んで欲しいと言われた」
「本人じゃなくて?」

「一度だけの調律ではなくて、しょっちゅうすることになるだろうから。その調律師はバーゼルに住んでいるので、ウィーンよりは近い。シュナイダー氏のように有名ではないから定期的に来てもらうことができる」
「シュナイダーさんと正反対で、若くてチャラチャラした性格らしいけれど、腕は彼が保証するというくらいだから確かなんだろうと思うよ」

「でも、どうして定期的に調律が必要だなんていうの? そりゃ、一度っきりというわけにはいかないけれど……」
蝶子は首を傾げた。

 ヴィルと拓人は顔を見合わせて頷いた。それからヴィルが口を開いた。
「あのサロンとベーゼンドルファーを、才能があるけれど機会の少ない音楽家たちに解放していこうと思うんだ」

「へえ……」
四人は、グラスを置いて二人の顔を見た。拓人が肩をすくめた。

「シュナイダーさんは、ヴィルに弾き手としてだけでなく、後援者としての役割を期待していると言っていた。今は、以前ほどクラッシック音楽に理解のある後援者がたくさんいるわけではないし、各種奨学金制度もサロン的な役割まではしてくれないからな」

 拓人の言葉にヴィルは頷いた。

「俺が、エッシェンドルフを継ごうと思った理由の一つが、あんたたちの音楽を道端の小遣い稼ぎだけで終わらせたくないことだと言っただろう。あの館を中心にこれまでとは違う活動をするなら、少し範囲を広げていろいろな音楽家たちをバックアップすることも悪くないんじゃないかと思ったんだ。あんたたちはどう思う?」

「賛成よ。あのサロンなら、室内楽の演奏会も問題なくできるわ」
蝶子が言った。

「そういうのの手伝いをするっていうことなら、穀潰しの俺らも、あそこにいる間になんかの役に立つかもしれないよな」
稔の言葉にレネも大きく頷いた。

 真耶がすかさず続けた。
「機会があったら、私たちも混ぜてもらいましょうよ、拓人」
「そうだな。悪くない。休暇がてらに滞在して、何か一緒に弾いたりしてさ」

「休暇といえば、今回、結城さんもエッシェンドルフに来ればいいのに」
蝶子が言うと、拓人は残念そうに答えた。
「そうしたいのは山々だけれど、来週の頭から大阪公演なんだ。ちくしょう、いいなあ、真耶。マネージメントに文句いってやる。なんで僕だけこんなに働かされるんだ」

 一同は楽しく笑った。ウィーンの古いワインケラーで旧交を温める若い仲間たちは、自らとまだ見ぬ未来の若い音楽家のために、熱い夢を語りつつ何度もグラスを重ねた。

(初出:2018年3月 書き下ろし)

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拓人が弾いたという設定のマルクスのロマンティックピアノ協奏曲は、こんな曲です。
この曲を見つけた時には驚愕しました。華やかで、なんだか少し浮ついていて、さらに実は超難解だというあたり、こんなに結城拓人のイメージに近い曲が偶然見つかるなんて超ラッキー。そんな事を考えている私はそうとうイタい作者だという自覚くらいはありますよ。

Joseph Marx - Romantic Piano Concerto in E-major (1920)


そして、聴きまくるために私がiTunesストアにて購入したのはこちらです。マルカンドレ・アムランの名演ですよ。これが家にいて14フランで買える世の中っていいですねー。お店で探したらどんなに大変か……。本当はヨーゼフ・マルクスの『ロマンティックピアノ協奏曲』だけ買いたかったのですが、敵もさる者で、この三曲はアルバムごとじゃないと買えませんでした(笑)
Korngold & Marx: Piano Concertos
Korngold & Marx: Piano Concertos
Marc-André Hamelin, BBC Scottish Symphony Orchestra
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Posted by 八少女 夕

【小説】恋のゆくえは大混戦

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十一弾です。ダメ子さんは、昨年の「scriviamo!」で展開させていただい「後輩ちゃん」の話の続き作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

ダメ子さんのマンガ 『バレンタイン翌日』

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

昨年、キャラの一人チャラくんに片想いを続けているのに相変わらず想いの伝わらない「後輩ちゃん」の話を、名前をつけたりして勝手に膨らませていただいたところ、その話を掘り下げてくださいました。そして、今年はその翌日の話でを描いてくださいました。

今年はついに「後輩ちゃん」(アーちゃん)の顔が明らかになり、可愛いことも判明しました。なのにチャラくんは誤解したまま別の女の子(つーちゃん)にちょっかい出したりしています。

というわけでさらにその続き。今年メインでお借りしたのは、チャラくんではありません。見かけによらず(失礼!)情報通だしリア充なあの方ですよ。


【参考】
昨年私が書いた「今年こそは〜バレンタイン大作戦」
昨年ダメ子さんの描いてくださった「チョコレート」

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恋のゆくえは大混戦 - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 まったく、どういうこと?! あんなにけなげなアーちゃんの前で、よりにもよって付き添いの私に迫るなんて。だからチャラチャラした男の人って!

 何年も思いつめてようやくチョコを手渡せたバレンタインデーの翌日、アーちゃんは恥ずかしいからと部活に行くのを嫌がった。仕方ないので再び付き添って体育館の近くまで一緒に行ったところ、チャラ先輩がやってきた。ちゃんとお礼を言ってくれたから「めでたしめでたし」かと思いきや、モテ先輩にもっと積極的に迫れなどと言い出した。それだけでなく、この私に「モテのやつに興味が無いなら、俺なんてどうよ」なんて囁いたのだ。

「はあ。モテ先輩との仲を取り持とうとするなんて、遠回しの断わりだよね。彼女にしてもらえるなんて、そんな大それた事は思っていなかったけれど、ショックだなあ。つーちゃん、私、帰るね」
アーちゃんは、ポイントのずれたことを言いながら帰ってしまった。

 ってことは、モテ先輩の話が出た時点で泣きながら自分の世界に入ってしまって、あの問題発言は耳にしなかったってことかな。だったら、よかった。だって、こんな事で友情にヒビが入ったら嫌だもの。

 どうもチャラ先輩とアーちゃんは、お互いに話が噛み合っていないような氣がする。もちろん私の知った事じゃないけれど、またアーちゃんの前でチャラ先輩が変なことを言い出さないように、ここでちゃんと釘を刺しておくべきかもしれない。

 私は、一度離れた体育館の方へまた戻ることにした。バスケ部の練習時間にはまだ早いのか、練習している人影はない。あれ、どこに行っちゃったんだろう。

「あれ。君は、昨日の」
その声に振り向くと、別の先輩が立っていた。モテ先輩やチャラ先輩と同じクラスで、わりと仲のいい人だ。昨日も、アーちゃんがチョコをチャラ先輩に渡した時に一緒にいた。

「あ。こんにちは。さっき、チャラ先輩がここにいたんですけれど、えーと……」
「チャラのやつは、今すれ違ったけれど、今日の練習はなくなったからって帰っちゃったよ。急用なら連絡しようか」

 いや、そこまでしてもらうほどの用じゃないし、呼び出したりしたらさらに変な誤解されそう。困ったな。
「そういうわけじゃないんですけれど……。あの、昨日のアーちゃんのチョコレートの件、チャラ先輩、なんか誤解していませんでした?」

 先輩は、無言で少し考えてから言った。
「モテにあげるつもりのチョコだと思っていたようだね。あいつ、あの子がしょっちゅう見ていたのに氣がついていないみたいだし」

 知ってんなら、ちゃんと指摘してよ! 私は心の中で叫んだが、まあ、仕方ないだろう。アーちゃんのグダグダした告白方法がまずいんだし。

「あの子、カードにチャラ先輩へって書かなかったんですね」
「書いていなかったね。やっぱりチャラへのチョコだったんだ」

「先輩は、アーちゃんがチャラ先輩に憧れている事をご存知だったんですね」
「俺? まあね、なんとなく。確証はなかったけど」
「まったく、中学も同じだというのにチャラ先輩ったらどうして氣づいてあげないのかしら」
「あー、なんでかね」

 暖簾に腕押しな人だな。この人づてに、チャラ先輩に余計なちょっかいを出して私たちの友情に水をささないで的なお願いしたらと思ったけど……う~ん、なんかもっとやっかいなことになるかも?

「君は、バスケ部じゃないよね。あの子のためにまた来たの?」
先輩は訊いた。いや、一人で来たわけじゃないんですけれど!
「さっき、アーちゃんと来たんですけれど、チャラ先輩が思い切り誤解した発言をして、彼女泣いて帰っちゃいました」

 先輩は、「へえ」と言ってから、じゃあ何の用でお前はここにいるんだと訊きたそうな目をした。
「俺ももう帰るんだけど、よかったらその辺まで一緒に行く?」

 私は、このまま黙って帰ると更に誤解の連鎖が広がるような嫌な感じがしたので、もうこの先輩にちゃんと話をしちゃえと思った。
「じゃあ、そこまで」

 それから、私はその先輩としばらく歩きながら、お互いに名乗った。その人はムツリ先輩ということがわかった。

 駅までの道は商店街になっていて、ワゴンではチョコレートが半額になって売られていた。あ、あれは美味しいんだよなー。
「すみません、ちょっと待っていただけますか。あれ、ちょっと見過ごせないです」
「あ、あれはうまいよね。半額かあ。俺も買おっかな」

 ムツリ先輩もあのチョコが好きだったらしい。チョコなら昨日たくさんもらったんじゃないですかって訊くべきなのかもしれないけれど、地雷だったらまずいからその話題はやめておこう。

「バレンタインデーは、私には関係ないんですけれど、この祭りが終わった後の特典は見逃せないんですよね。でも、こういうのって傍から見たらイタいのかしら」

 そういいながらレジに向かおうとすると、まったく同じものを買おうとしていたムツリ先輩が言った。
「だったら、俺がこれを君にプレゼントするから、君がそっちを俺にくれるってのはどう?」

 私は、思わず笑った。確かに虚しくはないけれど、自分で買っているのと同じじゃない。
「じゃあ、これをどうぞ。一日遅れでしかも半額セールですけれど」
「で、これが一ヶ月早いホワイトデー? おなじもので、しかも半額だけど」

 バレンタインデーも、この程度のノリなら楽なのに。私は、アーちゃんの毎年の大騒ぎのことを思ってため息が出た。あ、チャラ先輩の話もしておかなくちゃ。

 私がチャラ先輩にはまったく興味が無いだけでなく、アーちゃんとの友情が大事なので変な方向に話が行くと困るということもそれとなく話した。ムツリ先輩は「あはは」と笑った。あはは、じゃなくて!

「まあ、じゃ、チャラにはあのチョコの事は、それとなく言っておく。その、君の事も……適当に彼氏がいるとか言っておけばいい?」
ムツリ先輩は、ちらっとこちらを見ながら訊いた。

 私は必死に手を振った。
「やめてください。私に彼氏だなんて! 私は逸般人いっぱんじんですから」
「え? 一般人?」

「あー、わかりませんよね。腐女子って言えばわかりますか? それも、生もの、つまり実在する人物を題材にした作品を愛好しているんです」
「ええっ。じゃ、モテとか?」

「やめてください。そういう身近なところでは萌えません。M・ウォルシュとかA・ベッカーとか知っていますか。ドイツやロシアのモデルなんですけれど。実在するのが信じられないほど美しい人たちなんですよ」
ムツリ先輩は思いっきり首を振った。やっぱり。まあ、知らなくて当然よね。

「というわけで、チャラ先輩にはうまくいっておいてくださいいね。あ、チョコ買ってくださってありがとうございました」

 私はそう言って、角を曲がるときにおじぎをしてムツリ先輩を振り返った。

 先輩は手を振って去って行った。ちょっと、恥を忍んでカミングアウトしたのに、なんで無反応なの?! ムツリ先輩って、あっさりしすぎていない? っていうか、私、今までそんなこと氣にした事なかったのにな。

 私は、ムツリ先輩と交換した半額セールのチョコを、大切に鞄にしまって家路を急いだ。

(初出:2018年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと漆黒の地底宮殿

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第二弾です。山西 左紀さんは、今年もプランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさんで、こだわった描写にはいつも唸らされています。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

既に多くの作品でコラボさせていただいていますが、もっとも多いのが、「夜のサーカス」のキャラクターの一人であるアントネッラと、そのブログ友達になっていただいたサキさんの「物書きエスの気まぐれプロット」のエスというキャラクターとの競演です。

で、お任せということですので、去年の「ファンタジー企画で七転八倒しているアントネッラの話」の続きを書かせていただきました。まあ、相変わらずアントネッラの作中作はやけっぱちですが、お許しください(笑)


【追記】
サキさんがお返し作品を書いてくださいました! エスと友人コハクの話も、苦手とおっしゃりつつとても面白いファンタジーも二重に楽しめる作品になっています。
夜のサーカスと漆黒の地底宮殿


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物

「夜のサーカス」外伝


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夜のサーカスと漆黒の地底宮殿
——Special thanks to Yamanishi Saki-san



 磨かれた黒い大理石は、よく目を凝らすと細かい銀の粒で満ちていた。それはまるで永遠へと続く星空のようで、見つめ続ければ吸い込まれ二度とは戻れないのではないかと思わせる。

 ロジェスティラは、可能な限り音を立てないようにゆっくりと歩いたが、それはほとんど不可能だった。彼女の鋼の甲冑は無粋な音を立てた。これではモルガントに見つかるのは時間の問題だ。

「そのような物々しい為りで現れるとはな。お前が《天翔けるロジェスティラ》か」

 ギョッとして振り向くと、いつの間にかそこには小柄な少女が立っていた。流れるような長い金髪、輝く黄金の瞳、白い襞の多いローブ、穢れなく無邪氣な様子をしているが、この口調からすると万物への愛に満ちているとは考え難かった。

「そうよ。あなたは何者なの」
「妾か。何とでも呼ぶがよい。かつてこの地で妾を崇めていた人の子は《冬に暖める母》とも《焼き尽くす者》とも呼んだがな」

 それではここにいるのは火を吹く山の女神、ヘロサなのか! ロジェスティラは身震いした。かの天空のヘロス大聖殿で起こった突然の炎柱が皇孫オルヴィエートのローブに火を点けた時、彼女は皇孫将軍が信じていたほどの高潔な精神の持ち主でない事を知った。彼女が《光の子たち》の騎士としての役割に初めて疑問を持ったのはあの時だった。

「あなたは、モルガントに協力しているのですね、《炎の女神》よ」
わずかに膝をついて敬意を示すロジェスティラを見つめて、少女は甲高く笑った。

「協力だと、妾が? 《天翔けるロジェスティラ》よ。お前は、稀有の戦士で運にも恵まれている。だが、救いようもないほど愚かだ。まずはあの愚鈍な白いサルに忠誠を誓い、我が聖なる神殿を血で穢したかと思えば、今度はあの田舎者に懸想してこの地底宮殿まで追ってくる。お前は一体何がしたいのだ」

 ロジェスティラは、びくっと肩を震わせた。それは、彼女自身が知りたい事だった。



「なんだかどんどん混沌の極みに陥っているような氣がするわ」
アントネッラはため息をつくと、エスプレッソをこくんと飲み干した。もういい加減にコーヒーの休憩はやめなくてはならない。いくら話が行き詰まっているからと言って。

「まさかあのエセファンタジーの続きを書かなくちゃいけないことになるなんてねぇ」

 小説を書くブログを運営している仲間たちでファンタジー作品を書き、その中で二作品を選んで仲間の意見を取り入れた上で完成させる企画だった。アントネッラはやけっぱちでメチャクチャな作品の書き出しを提出した。ファンタジーは書いたことがないどころか、まともに読んだこともなかったのだ。

 そもそも一度作品が消えてしまった時点でギブアップしようと思っていたぐらいなのだ。ところが、その作品の一つ前のバージョンを読んで意見をもらっていたエスが保存しておいてくれたおかげで、少なくともギブアップだけは免れた。つまり体裁だけ整えて提出すればすぐにこの話から逃れられると思っていた。

 器用になんでも書くエスの『クリステラと暗黒の石』が満場一致で選ばれたのは当然だと思ったが、驚いたことに自分の『天空の大聖殿』までが選ばれてしまった。どうやら仲間たちは、エスの作品のように独創的できちんと考えられている作品を二つ選ぶと、どちらにも口を出しづらいが、こんな稚拙なファンタジーになら何を言っても大丈夫だと思ったらしい。

 実際に、仲間たちがワイワイと意見を言ってきて大幅な改稿を繰り返すうちに、当初のコンセプトはもはやどこかに吹っ飛んでしまった。

 正統派ヒーローのはずだった皇孫オルヴィエートは、仲間の人氣が著しく低く二章目であっけなく醜態を晒して退場した。エスの強い勧めで新たなヒーローの座に着いたのはヒロインの幼馴染、悪の象徴からレジスタンス組織に変わってしまった《闇の子たち》の首領モルガントだ。

 アントネッラは、かつてとある地方巡業サーカスの団員たちと知り合いになり、彼らの物語を小説にしようとしていたが、警察も巻き込む大きな事件と上流階級のスキャンダルに関わってしまい、その小説を闇に葬らなくなってしまったことがある。せっかくの個性的なメンバーのことを世に出せなくなったのが残念で、今回の小説では既に二人の容姿を借りてロジェスティラとモルガントを設定している。

「エスは、どうせマッダレーナやヨナタンをモデルにしたキャラクターを主役にするならステラがモデルの可憐な妖精みたいなのも出せって言うんだけれど、あの容姿で妖精にしてもそのまますぎておもしろくないし。もっとも、この活火山の擬人化みたいなキャラにしてみたけれど、これはこれでどうなのかしらね。ま、いいか。あとは光と闇の調停をする大神官としてブルーノ、最高神の化身としてあの胡散臭い団長でも配置しておこう。そこまでセオリーから外したら、きっとみんなも呆れてこれ以上この話に興味を持たなくなるだろうし」

 書けば書くほど、どんどんおかしな設定になって行くが、奇妙なことにアントネッラはこの話が以前ほど嫌いではなくなっていた。ファンタジー専門で書いていこうとは思わないけれど、きっと完結したらこの話のことが誇らしくなるだろうと感じていた。おそらくファンタジーとしてはメチャクチャになるだろうけれど。

「そういえば『クリステラと暗黒の石』の方は、どうなったんだろう」
コーヒーを飲む以外に、行き詰まった小説から逃れる理由を思い出したアントネッラは、ニコニコして古風なブラウン管式ディスプレイ画面に向かった。

「現在改訂版の執筆中……か。『ドラゴンの結石が大量に必要なら、イラつくキャラでも派遣してドラゴンにストレスをかけてやれ』って冗談で書き込んだのは、まずかったかなあ。怒ってブロックされているんじゃないといいけれど」

 エスの改訂版を読むことができなかったので、本当に自分の作品に向かうしかやることがなかった。それに時間もそれほど残っていない。

 アントネッラはブラウザを閉じると、ロジェスティラとヘロサの緊迫した対決の場面の書かれたテキストを開いて大人しくキーボードを叩き始めた。暗黒宮殿のシーンにはまったくふさわしくない、ダフネの甘い香りが漂っていた。北イタリアが少しずつ春めいてきたことを彼女は知った。

(初出:2018年1月 書き下ろし)
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Category : scriviamo! 2018
Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】異教の影

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十五弾です。TOM-Fさんは、代表作『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』とうちの「森の詩 Cantum Silvae」のコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった小説『ヴェーザーマルシュの好日』

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広く書かれるブログのお友だちです。音楽や趣味などで興味対象がいくつか重なっていて、それぞれの知識の豊富さに日頃から感心しまくっているのです。で、私は較べちゃうとあれこれとても浅くて恐縮なんですが、フィールドが近いとコラボがしやすく、これまでにたくさん遊んでいただいています。

今回コラボで書いていただいたのは、現実の某ドイツの都市の歴史と、某古代伝説、そしてTOM-Fさんのところの『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』の登場人物の出てくるお話の舞台に、当方の『森の詩 Cantum Silvae』の外伝エピソード(『王と白狼 Rex et Lupus albis』)を絡めたウルトラC小説でした。

いやあ、すごいんですよ。よく全部違和感なくまとめたなと感心してしまうんですけれど、それもすごくいい話になって完結しているんです。素晴らしいです。

でも、毎年のことながら「こ、これにどうお返ししろと……」とバッタリ倒れておりました。なんか、あちらの姫君が「森の詩 Cantum Silvae」の世界を旅していらっしゃるらしいので、なんとなく全然違う話は禁じられたみたいだし……。七転八倒。

で、すみません。天の邪鬼な作品になっちゃいました。TOM-Fさんのストーリーが愛と自由と正義の讃歌のような「いいお話」で、しかも綺麗にまとまっているのに、全部反対にしちゃいました。愛と正義を否定する、言っていることは意味不明、ゲストにとんでもない態度。なんというか全くもってアレです。

まあ、「森の詩 Cantum Silvae」らしいと言っちゃえば、らしいです。この世界の人たちは、その時代の枠を越えることはできないので。(象徴的に言えば、トマトどころか、フォークすらありません! 手づかみでお食事です)

TOM-Fさんの作品と揃えたのは、「ある実在する都市の観光案内」が入っていることです。この都市のモデルを知りたい方は「ムデハル様式 世界遺産」または「スペインのロメオとジュリエット」で検索してください。

そして、すみません。あちらの登場人物の従兄ということでご指名いただいた某兄ちゃんは完璧に役不足なので無視しました。せっかくなので、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の続編で登場する最重要新キャラをデビューさせていただきます。登場人物を知らないと思われた方、ご安心ください。知っている人はいません(笑)

で、TOM-Fさんのところの姫君(エミリーじゃなくてセシル系? このバージョンもそういう仕様なのかしら?)も、グランドロン王国ではなくずっと南までご足労願っています。舞台は、中世スペインをモデルにした架空の国、カンタリア王国です。


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む
あらすじと登場人物


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森の詩 Cantum Silvae 外伝
異教の影 - Featuring「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」
——Special thanks to TOM-F-san


 その高級旅籠は、三階建でムデハル様式の豪奢な装飾が印象的だった。もし異国からこのカンタリアの地に足を踏み入れたばかりの者ならば、ここはいったいキリスト教の国なのか、それともサラセン人に支配されたタイファ諸国に紛れ込んでしまったのかと訝るところだ。

 これはサラセン人たちの技術を取り入れたカンタリア独特の建築様式で、その担い手の名を冠してムデハル様式と呼ばれていた。ムデハルとは、国土回復レコンキスタ が進むにつれて後退していくタイファ諸国に住んでいたムスリムたちのうち、技術の高さから残留を許された者のことである。レンガやタイル、寄せ木細工などを用いて幾何学模様を施したサラセン風の装飾が、異国にいるような錯覚を呼び起こす。

 今でこそ国土回復レコンキスタ は絶対的正義の大義名分を得、「憎きサラセン人どもを神の名において駆逐する」と言う者もいるが、そもそもこのカンタリア半島では異教徒とキリスト教徒たちは永らく共存し、交流をする普通の隣国同士であった。文化的にも技術的にも優れていたのはタイファ側であったので、キリスト教諸国の商人たちはタイファ諸国の地ヴァンダリスへとこぞって買い付けにいったものだ。

 その旅籠に本日逗到着した一行は、ムデハル様式の建築が盛んなこの街サン・ペドロ・エル・トリーコに初めて逗留したので、豪奢に隙間なく飾られた壁や柱を珍しそうに見回した。その旅籠は、彼らの暮らす王宮よりも美しく彩られているようにさえ見えた。
「なんというところだ」

 ぽかんと口を開けて、周りを見回す太った青年とは対照的に、影のように控えている男は顔色一つ変えなかった。そして低い声で言った。
「殿下。お部屋の用意が済んだようでございます。どうぞあちらへ」
「ヴィダル。お前には、この光景は珍しくも何ともないのであろうが……」

 ヴィダルと呼ばれた黒髪で浅黒い顔の男は、嫌な顔をした。彼もこの街に来るのは初めてなのだ。「異教徒だ」「モロ(黒人)だ」と陰口を叩かれるのを毛嫌いしている彼は、母親の出身を示唆する王子の言葉に苛立ちを感じた。

 その様子を離れたところから眺めていた客が「くすっ」と笑った。ヴィダルは、そちらを鋭く一瞥した。宿屋の中だというのに灰色の外套を身につけたままで、そのフードを目深に被っている。声から女だと知ったが、それ以上のことはわからなかった。

 王子の安全を氣するヴィダルに宿屋の主人は「ヴェーザーマルシュのヘルマン商会の方です。正式な書き付けをお持ちですから物騒なお方ではないと思います」と耳打ちした。

 カンタリアの第二王子エルナンドとその一行は、旅をしていた。表向きは物見遊山ということになっていたが、彼らには別の目的があった。そのために、センヴリ王国に属するトリネア侯国、偉大なる山脈《ケールム・アルバ》を越えた北にあるグランドロン王国の王都ヴェルドン、そしてその西にあるルーヴラン王国の王都ルーヴにそれぞれ嫁いだカンタリア王家出身の女性たちを訪れるつもりであった。

 王都アルカンタラを出て以来、グアルディア、タラコンなど縁者の城に逗留してきたのだが、この一帯には逗留できる城はなく、山がちながらも比較的安全で王子の逗留にふさわしい旅籠のあるこの街に立ち寄ったのだ。

 この旅籠は決して小さくはないのだが、王家の紋章の入った華やかな鞍や馬鎧を施された馬に乗ったエルナンド王子、やはりそれぞれの紋章で馬や武具を飾り立てて付き従う十数名の騎士たち、そして護衛の従卒や小姓たちが入るとそれなりにいっぱいになったので、先客たちは早めに旅籠についておいてよかったと安堵した。

 食事は二階の大食堂で行われた。従卒や小姓などの身分の低い者は別だが、エルナンド王子と騎士たちは食堂の中心にある大きいテーブルに座った。物事を一人で決めるのが不得意な王子に常に付き従う《黒騎士》ヴィダルはいつものように、宿屋の者とすぐに話が出来るように一番端に座った。

 彼の斜め前には、先ほどの外套を着たままの商人が一人で座り、食事をしていた。ナイフを扱ったりフィンガーボールで洗う時に見える白く美しい手から、ヴィダルはこの女は意外と位の高い貴族なのではないだろうかと思った。

 だが、到着してからすでに浴びるほどの酒を飲み続けていた騎士たちは、その外套姿の方にしか目がいかなかったらしい。
「変わった女だ。なぜいつまでもその外套をとらぬのだ」
騎士の一人が言うと、その女は短く答えた。
「あまり人に見せたくない容姿だから。それに女の一人旅は、用心に越したことがないでしょう」

「女というのは氣の毒な生き物だな。己の醜さに囚われて旅籠ですら寛げぬとは」
「そんなに醜いなら、一人旅でもとくに問題はないであろう」
既に酔い始めた騎士たちは、口々に女を馬鹿にする言葉を吐き、ひどく笑い始めた。

 そして、ある者は、ヴィダルの方をちらりと見ながら言った。
「醜いというのならまだましさ。この世には恐ろしい魔女もいる。その美しさで男を籠絡し理性を奪う。外見が変わることもなく、この世の者ならぬ力でいつまでも男を支配し続ける悪魔がな」

 それまで騎士たちの嘲りに反応を見せなかった女が、低い声で呟きながら立ち上がった。
「黙って聴いておれば、このわたしを悪魔扱いして愚弄するつもりか。ずいぶんと勇氣のあることだな」

 ヴィダルは、女の口調にぎょっとして、その動きを遮るように立ち上がった。
「あの男が言っているのは、この私の母のことだ」
「お前の?」

 その時飲み過ぎた別の騎士が椅子から落ちて、地面に倒れ込んだ。騎士たちがどっと笑い、小姓たちが駆け寄って介抱する間、食堂にいた者たちの目はそちらに集中した。だが、ヴィダルは未だに自分を見ているらしい女に目を戻した。

「そうだ。カンタリア国王の愛妾だ。もちろん魔女でも悪魔でもなく普通に歳もとっている。だが、愚か者は自分と見かけの違う者を極端に怖れ、冷静に観察することも出来ぬのだ」
彼の苛立ちを隠さぬ口調に、女は興味を持ったようだった。

「なるほど。お前のその肌の色は母親譲りというわけか。そうか。港街で商人たちがお前の噂をしていたぞ。カンタリアの王子に付き添うサラセンの《黒騎士》がいるとな」
「サラセンでもモロでもない。かといって、正式に呼ばれる名前にも意味はない」

「意味がないのか」
「私がもらった名前は、私の欲しかったものではない。だが、構うものか。名前は自ら獲得してみせるのだから」

 女が顔をもっと上げ、ヴィダルをしっかりと見つめた。そのためにヴィダルの方からも初めてその女のフードに隠れていた顔が見えてぎょっとした。その手と同じように白い肌に、先ほど醜いとあざけった騎士ならば腰を抜かさんばかりの美貌を持った女だった。が、それよりもわずかに見えている髪が白銀であることと、赤と青の色の違う瞳の方に驚かされた。なるほど、この容姿ならば人に無防備に見せたくはないだろう。

 女はわずかに笑うと、座ってまたもとのように食事を取り出した。おそらくこの女の顔を見たのは彼一人だったのだろう。周りは彼らの会話に氣をとめていなかった。女はヴィダルの方を見もせずに低い声で続けた。
「その氣にいらぬ名前を名乗ってみろ」

 ヴィダルはわずかに苛つき答えた。
「それを知りたければ自分から名乗れ」

「ツヴァイ」
「それは人の子の名か。その立ち居振る舞いに言葉遣い、商人などではないな」

「名前に意味はないと自分で言わなかったか。が、知りたければ聴かせてやろう。セシル・ディ・エーデルワイス・エリザベート=ツヴァイ・ブリュンヒルデ・フォン・フランク。これで満足か。名乗れ」

「ヴィダル・デ・アルボケルケ・セニョーリオ・デ・ゴディア」
ヴィダルは苦虫を噛み潰したように言った。
「インファンテ・デ・カンタリアと名乗りたいということか」
 
 嫡出子ではないヴィダルは国王の血を受け継いでいてもカンタリア王家の一員として名乗ることは許されない。愛妾ムニラを溺愛するギジェルモ一世が、せめて貴族となれるようにアルボケルケ伯の養子にしてゴディア領主としたが、彼はその名に満足してはいなかった。だが、彼は女の問いに答えなかった。ひどく酔っぱらって狂騒のなかにいるとはいえ、その場にはあまりに多くの騎士たちがいたから。

「言いたくはないか。ところで、お前は、これも食べられるのか」
女が示しているのは、この地方の名産山の塩漬け肉ハモン・セラーノ だ。その横には、豚の血で作ったチョリソなどもあり、どちらもムスリムやユダヤ人などの異教徒は口にすることが出来ない禁忌品だ。

「もちろん、食べるさ。禁忌などに縛られるのはごめんだ」
彼はそう言ったが、宿の主人は彼の前に無難な川魚料理を出した。彼は塩漬け豚を彼にも出すように改めて頼まなくてはならなかった。女がクスリと笑う声を耳にして、彼は忌々しそうに見た。

「キリスト教徒に見えぬお前はこの地では生きにくいだろうが、異教徒の心は持たぬのだから、かの地に行ってもやはり生きにくいのかもしれんな」
「生きにくい? この世に生きやすいところなどあるものか。そういうお前はどうなのだ。商人のフリをしているのは、何かから逃げているのか」

 すると女は鈴のような笑い声を響かせた。
「わたしか。逃げる必要などない。ただ自由でいたいだけだ。この旅も大いに楽しんでいる。カンタリアの酒と食事は美味い」

 強い太陽の光を浴びた葡萄から作られたワインは、グランドロンやルーヴランで出来るものよりもずっと美味で、香辛料漬けにする必要がなかった。オリーブから絞られた油は、玉ねぎやニンニクを用いた料理の味を引き立てていた。山がちのこの地域は、清流で穫れる川魚、山岳地方の厳しい冬と涼しい夏が生み出す鮮やかな桃色の塩漬け豚も有名だった。さらに、残留者ムデハルが多いため、《ケールム・アルバ》以北ではほとんど食べられていない米、ヒヨコ豆やレンズ豆、アーモンド、ナツメヤシ、シナモンなど、特にアラブ由来の食材をたくさん使う料理が発達した。それらの珍しい食材が古来の食材と融合して、独特の食文化を築き上げていた。

* * *

 
 翌朝、王子たちの朝食は遅かった。深夜まで酒を飲んでいた騎士たちと王子がなかなか起きなかったからだ。ヴィダルはまた端の席に座って静かに朝食をとった。昨夜見た女は、とっくに朝食をとったのだろう、その場にはいなかった。

「ヴィダル。今日は一日この街でゆっくりするのだから、街の名所を案内してくれるよう、宿の主人に頼んでくれぬか」
王子の言葉に頷き、彼は宿の主人に街を見せてくれる人間を推薦してほしいと頼んだ。主人は二つ返事で、彼の舅が案内をすると言った。

 それはかなり歳のいった老人だったが、貴人たちに街を案内するのは慣れているらしく、よどみのない話し方で街の名所を手際よく説明してくれた。ムデハル様式の築物は街の至る所にあり、中でもサンタ・マリア大聖堂の塔、サン・マルティン教会とその塔の美しい装飾を技法の説明も交えて要領よく説明していった。そして、彼は次にサン・ペドロ教会に一行を案内した。

「この教会もムデハル様式の装飾で有名ですが、もっと有名なのは、ここに埋葬されているある恋人たちの悲しい物語なのです」
彼がもったいぶって説明すると、王子と騎士たちは一様に深い興味を示した。彼は一行を教会内部の二つの墓標が並んでいる一画へと案内した。

「いまから百年ほど前のことでした。この街に住んでいたイザベルという貴族の娘と、アラブの血を引く貧しいファンが恋仲になったのです。イザベルの父は二人の結婚を認めず、目障りなファンを厄介払いするために、法外な結納金を設定し五年以内にそれを用意できれば娘と結婚させると約束しました。ファンは唯一のチャンスにかけて、聖地奪回の戦いに身を投じ、五年後に莫大な戦利品を得て凱旋することが出来たました。ところが、イザベルは父親にファンが戦死したと言われたのを信じて既に他の男に嫁いでしまっていました。やっとの思いでイザベルのもとに忍び込んだファンのことを彼女は結婚した身だからと拒絶せざるを得なかったのです。彼は絶望によりその場で亡くなってしまいました。そして、彼を愛し続けていたイザベルもまた埋葬を待つ彼の遺体に口づけしたまま悲しみのあまり死んでしまったのです。その姿を発見した父親と街の人びとは、深く後悔して二人を哀れみ、この教会に共に埋葬しました」

 王子エルナンドは、懐から白いスダリウムを取り出し涙を拭いた。
「なんという悲しくも美しい話であろうか」

 騎士たちもまた、それぞれが想い人たちから贈られた愛の徴であるスダリウムを手にし、悲しい死んだ恋人たちのために涙を流した。だが、ヴィダルだけは醒めた目つきで墓標を見ているだけで何の感情も見せなかった。エルナンドは、ヴィダルのその様子をみると言った。
「お前はこの話に心動かされぬのか」

「心を動かされる? なぜ、私が」
「お前と同じ、サラセン人の血を引く男が、愛する女と引き裂かれたのだ。あの娘のことを思い出しただろう」
そう王子が言うと、《黒騎士》は笑った。

「あの娘とは、どの娘のことです。私は、女のために命を投げ出し、戦い、せっかく得た名声もそのままに悲しみ死んでしまうような愚かな男ではありません」

 エルナンドは首を振った。
「すくなくとも、何といったか……あのルシタニア出身の娘のことだけは愛していたのだと思っていたのだが。他の者のようにお前が悪魔のごとく血も涙もないモロだとは思わんが、時々疑問に思うぞ。神はそもそも、お前に魂を授けたのか?」

 ヴィダルは「さあ。私もそれを疑問に思っております」と答えて、教会の内部装飾の説明をする老人とそれに続く騎士たちの側を離れた。

 老人は、奥の聖壇の豪奢な装飾について滔々と説明をしていた。
「ご覧ください。神の意に適う者たちが命の危険を省みずに聖地を奪回するために戦った勇氣、次々とヴァンダルシアを我々キリスト教徒の手に取り戻したその偉業、神の意思が実現された歓びをこの聖壇の美しさは表現しているのです」

 彼は、幾何学文様と草花のモチーフの繰り返された鮮やかな壁面装飾を見上げた。明り取りの窓から入った光は、その見事な装飾にくっきりと陰影を作っていた。

「神の意ときたか」
女の声にぎょっとして横を見ると、いつの間にか昨夜の謎の女ツヴァイが立っていた。

「お前もここにいたのか」
「この街は面白い。神の栄光を賛美するのに、敵の様式をわざわざ用いるのだから」
女はおかしそうに笑う。

 ヴィダルは首を振った。
「大昔は知らんが、今のこの国で奴らが口にする、残忍な異教徒の追放だの、神の意だの、聖地奪回だのは、本音を覆い隠す言い訳だ。実際は領土拡大と経済的な動機で戦争をしているだけだ。そこでありがたがられている死んだ男も、そうやって手っ取り早く名声を得、大金を稼いだのだ。それなのに女に拒否されたくらいで死ぬとは何と愚かな」

 女は声を立てて笑った。
「それには違いない。だが、たった一人の相手ためにすべてを投げ打つほどの想いの強さがあったのだ。真の愛が人びとの心を打つからみな涙してここに集まるのだろう」

「他人の涙を絞るだけで本人には破滅でしかない愛など何になる。欲しいものを手にすることが出来ないならば、氣高い心や善良な魂なども無用の長物だ」
ヴィダルは拳を握りしめた。女は朗らかにいった。
「では、わたしは、お前がその手で何を掴むのか楽しみにしていよう、《黒騎士》よ」

 ヴィダルはその言葉に眉をひそめて、灰色の外套を纏った女の見えていない瞳を探した。
「ツヴァイ。お前は、一体何者なのだ」

 女は笑った。
「わたしが誰であれ、お前にとって意味はない、そうだろう?」

 それを聞くと、ヴィダルはやはり声を上げて笑った。
「その通りだ。たとえお前が商人であれ、高位の貴族であれ変わりはない。神の使いや、悪魔の化身であっても、同じことだ。この出会いで、私は己のしようとすることを変えたりはせぬ」

 彼は、射し込んだ光に照らされた祭壇の輝きを見ながら頷いた。

(初出:2017年3月 書き下ろし)

ヴィダル by うたかたまほろさん
このイラストの著作権はうたかたまほろさんにあります。無断使用は固くお断りします。



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Tag : 小説 読み切り小説 いただきもの コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】ありがとうのかわりに

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十四弾です。けいさんは、毎年恒例の目撃シリーズで書いてくださいました。この作品は、当scriviamo! 2017の下のようにプランB(まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法)への返掌編にもなっています。ありがとうございました。

プランBで、拍手絡みの物語を、うちの「シェアハウス物語」とコラボでお願いしても良いですかね。それを受けて、私も掌編を描く。それのお返事掌編をまたいただく…B→B(A)→A混合サンドイッチ、みたいなの。


この二つ書けとおっしゃるうち、ひとつはちょうどブログトップのFC2拍手を1000カウント目にしてくださった記念掌編です。

けいさんの書いてくださった『とある飲み屋での一コマ(scriviamo! 2017)』

けいさん、実はどうも今、公私ともにscriviamo!どころではない状況みたいで、いま発表するのはどうかなと思ったんですが、こちらの事情(後が詰まっていて)で、空氣を全く読まない発表になってしまいました。ごめんなさい!

今回の掌編は、けいさんの掌編を受けて、前回私が書いた作品(『頑張っている人へ』)の続きということになっています。そっちをお読みになっていらっしゃらない方は、え〜と、たぶん話があまり通じないかもしれません。

今回は「シェアハウス物語」のオーナーにご登場いただいていますが、それと同時にけいさんの代表作とも言えるあの作品にもちょっと関連させていただきました。

で、けいさん……。大変みたいだけれど、頑張ってくださいね。応援しています。


「いつかは寄ってね」をはじめから読むいつかは寄ってね


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ありがとうのかわりに - Featuring「シェアハウス物語」
——Special thanks to Kei-san


 東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。ママと呼ばれる涼子が一人で切り盛りをするこの飲み屋は、二坪程度でカウンター席しかないが、そのアットホームさを好む常連客で毎夜そこそこ賑わっていた。

「いらっしゃいませ。あら、葦埜御堂あしのみどうさん。今夜はお一人?」
涼子は現に微笑んだ。

「残念ながらね。でも、みんなここがとても氣にいったようで、近いうちにまた来たいらしいよ。その時には、またよろしく頼むよ」
シェアハウスのオーナーである現は、先日シェアハウスに住む国際色豊かな四人をこの店に連れてきたのだ。

 今日は、会社が終わると一目散にやってきて現が来る頃には大抵でき上がっている西城と、少しは紳士的なのに西城にはハッシーと呼ばれてしまっている橋本が仲良く並んで座っていた。そして、カウンターの中には、涼子ママと、常連だがツケを払う代わりに料理を手伝う板前の源蔵がいた。

「よっ。現さん、この間は驚いたよ。あのガイジンさんたち、すごかったよねぇ」
西城は、あいかわらずろれつが回っていない。

「何がすごかったんですかい?」
あの時、一人だけ店にいなかった源蔵が訊いた。橋本が答えた。
「現さんのつれていらした人たち四人のうち三人が外国の人たちだったんですが、みなさん、日本語ぺらっぺらで、しかも鶴まで折っちゃって。日本人の僕たちよりも上手いのなんの……」

「それに、あのアジアのおねーちゃん! あの人形の折り紙はすごかったよなあ。アレを折り紙で折るなんて、目の前で見ていなければ信じられなかったよ」

 涼子はもう少し説明を加えた。
「源さんも知っているでしょう、時々やってくる、小林千沙さん、あの方の従兄の方が闘病しているって話になって、だったらみんなで応援しようってことになって、あの夜、ここでみんなで鶴を折ったのよ」

 現はその間にメニューをざっと検討して、まずヱビスビールを頼み、肴は適当に見つくろってほしいと頼んだ。源蔵がいる時は、料亭でしか食べられないような美しくも味わい深い、しかもメニューには載っていない一皿にめぐりあえることがあるからだ。

 源蔵はそれを聞くと嬉しそうに、準備に取りかかった。現は、突き出しとして出された枝豆の小鉢に手を伸ばしながら訊いた。
「その後、どうなったんでしょうね」

 涼子は微笑むと、カウンターから白い紙袋を取り出した。
葦埜御堂あしのみどうさんがお見えになるのを待っていたのよ。実はね、四日くらい前だったかしら、小林さんがいらっしゃってね。これを、皆さんにって」

 現は「へえ」と言いながら紙袋の中を覗き込んだ。中には、赤と青のリボンで二重に蝶結びにして止めた、白い袋が五つ入っていた。そして、それぞれに付箋がついていた。

「ゲンさんへ、か。これが僕のだ」
彼は、一つを取り出した。残りの四つには「ワンさんへ」「ニコールさんへ」「ムーカイさんへ」「ソラさんへ」と書いてある。あの時、耳にしただけで漢字がわからなかったので全てカタカナなのだろう。ワンちゃんだけ「ちゃん」付けするのはまずいと悩んだんだろうな。うんうん。彼は笑った。

「西城さんたちももらったんですか?」
現が訊くと、二人は大きく頷いた。

「もちろんさ。俺っちたちは、千沙ちゃんが来た時にここにいたからさ、直接いただいちゃったって訳。開けてごらんよ」

 中には透明のビニール袋に入ったカラフルなアイシングクッキーと、CDが入っていた。彼は取り出して眺めた。

 ピンクや黄色や緑のきれいなアイシングのかかったクッキーは、全て紅葉の形をしていた。それはちょうどあの日ワンちゃんが折った拍手に見立てたたくさんの紅葉に因んだものなのだろう。

「小林さんの手作りですって。いただいたけれど、とっても美味しかったわ」
涼子が微笑んだ。

「それは嬉しいね。少し早いホワイトデーみたいなものかな。で、こちらは?」
彼はCDをひっくり返した。それはデータのディスクか何かを録音したもののようだった。

「それさ。例の闘病中の従兄が演奏したんだってよ」
西城が言った。

 現は驚いて顔を上げた。橋本が頷いた。
「そうなんだってさ。先日、無事に放射線療法がひと息ついて、退院して自宅療養になったんだって」

 涼子がその後を継いだ。
「あの皆さんからの折り紙がとても嬉しかったんですって。絶対に諦めない、頑張るって改めて思われたそうよ。それで退院してから小林さんと相談して、みなさんに何かお礼の氣持ちを伝えたいって思われたみたい。それで、ギターで大ファンであるスクランプシャスっていうバンドの曲を演奏して録音したんですって」

「歌は入っていなくてインストだけれど、すごいんだよ。俺たちもらったCD全部違う曲が入っていたんだ。だから現さんたちのとこのもたぶん全部違う曲だと思うぜ」
橋本は興奮気味だ。

「そうですか。僕のはなんだろう。あ、裏に書いてあるぞ『悠久の時』と『Eternity Blue』か。デビュー・アルバムからだね」
「あら、葦埜御堂あしのみどうさん、お詳しいのね」

「もちろんだよ。僕は自慢じゃないけれど、スクランプシャスのアルバムは全部持ってんだから」
現が言うと、皆は「へえ~」と顔を見合わせて頷いた。

「だれが『夢叶』をもらったのかな」
現が皆の顔を見回して訊くと、涼子は笑った。
「私たちじゃないわ。たぶんワンさんじゃないかしら。あの時、いつか折り紙作家になりたいっておっしゃっていたから」

「俺っちもそれに賭ける」
西城が真っ赤になりながら猪口を持ち上げた。

「宇宙かもしれないぞ。あいつもこれから叶える夢があるからな」
その現の言葉に、皆も笑って頷いた。

 涼子が現のグラスにヱビスビールを注ぎ、源蔵が鯛の刺身を梅干しと紫蘇で和えた小鉢を置いた。

 現はプレゼントを紙袋に戻すと、嬉しそうに泡が盛り上がったグラスを持ち上げた。

(初出:2017年2月 書き下ろし)
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Category : scriviamo! 2017
Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】絶滅危惧種

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十一弾です。

大海彩洋さんは、『ピアニスト慎一』シリーズの番外編で参加してくださいました。ありがとうございます!


彩洋さんの書いてくださった短編 『サバンナのバラード』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。年代が近い、物語を書いてきた長さが近い、ブランクがあったことも似ているなどなど「またシンクロしている!」と驚かされることの多い一方で、えらい違いもあり「ううむ、ちゃんと精進するとこれほどすごいものが書けるようになるのか」と唸らされてしまうことがとても多いのです。

今回書いていただいた作品とその本編に当たる「死と乙女」でも、私のよく書く「好きなクラッシック音楽をモチーフに」に挑戦されていらっしゃるのですが、「なんちゃってクラッシック好き」の私とまさに「えらい違い」な「これぞクラッシック音楽をモチーフにした小説!」が展開されています。

で、今回書いてくださったのは、またまた「偶然」同じモチーフ「女流写真家アフリカヘ行く」が重なった記念(?)に、彩洋さんのところの女流写真家ご一行と、うちの「郷愁の丘」チームとのコラボです。というわけで、こちらはその続きを……。

しかし! 大人の事情で「ジョルジア in アフリカ with グレッグ」は出せませんでした。出すとしたら「郷愁の丘」が終わったタイミングしかなくて、それはあまりにもネタバレなので却下。そして、せっかくゲスト(奈海、ネイサン、ソマリア人看護師の三名)に来ていただいているというのに、某おっさんは、これま