とりあえず末代 2 馬とおじさん
今日の小説は、limeさんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト内容
テーマ: ときめき
私のオリキャラ、もしくは作品世界: 誰か
コラボ希望キャラクター: limeさんのオリキャラ
時代: 現代
使わなくてはならないキーワード、小物など: 馬
limeさんのところには魅力的なオリキャラがたくさんいるのですけれど、迷ったあげくにこちらの作品から(よりにもよってその人を!)お借りすることにしました。この方、大好きなんですもの。
『凍える星』おまけ漫画『NAGI』−『寒い夜だから』
で、私の方のキャラも、limeさんにご縁のある子たちを連れてきました。「scriviamo! 2018」で、limeさんのお題から生み出した「とりあえず末代」という作品から中学生悠斗と猫又の《雪のお方》です。
とりあえず末代 2 馬とおじさん

このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。
この夏休み、僕の最大のイベントは、もちろんはじめての大阪ひとり旅だ。ひとり旅……のつもりだったけれど、例によってお目付役が同行している。静岡の従姉を訪ねるのと違って、頼れる人もいないところに行くのだから心配なのは分かるけれど、クラスメートたちの中には、ひとりで飛行機に乗った子だっているのにな。ともあれ、猫又は人じゃないし、ひとり旅だということにしておこう。
僕は、伊藤悠斗。旧家というほどではないけれど、少なくとも元禄時代から続いている伊藤家の長男だ。家系図もないのになぜそんなことが分かるかというと、伊藤家の跡取りには猫又が取り憑いているからだ。
一見、白い仔猫にみえる《雪のお方》は、元禄の初めにご先祖の伊勢屋で飼われていたそうだ。20歳まで生きて無事に猫又になったんだけれど、跡取り長吉に祝言をあげるという口約束を反故にされて、怒りのあまり「末代まで取り憑いてやる」って誓いを立てちゃったんだって。で、僕は当面、伊藤家の末代なので《雪のお方》にロックオンされているってわけ。
「妾はそろそろお役御免になりたいのじゃが、伊藤家断絶まではなんともならぬ」
そういいながら、僕たちが絶対に切らさないように用意させられているイタリア産の最高級エクストラ・ヴァージン・オリーブオイルをなめるのだ。
僕が大阪に行くことになったきっかけはこうだ。夏休みの宿題の1つに「したことのない戸外活動」がある。アルバイトやボランティア、それに旅行などをして、その経験をリポートするのだ。「ひとり旅」そのものは、もうやってしまっていたので、何かいい夏休み限定の経験がないかなとインターネットで探していたら、目に入ってきたのが乗馬スクールを運営しているとある財団のサイトだった。体験乗馬プランというのがあって、覗いてみたら「1日1名さま限定、体験乗馬ご招待」と書いてある。当たると思わずに申し込んだのだけれど、まんまと当選してしまったというわけ。
事後報告で父さんと母さんに、大阪行きを懇願したら、許可して旅費を出してくれる条件として、《雪のお方》に監督してもらうことと言い渡されてしまった。僕も《雪のお方》との旅行は好きだからいいけれど。
「そろそろ着くかな」
僕は、車窓を見た。東海道新幹線のぞみ号にひとりで乗っているのって、まるで夢みたいだ。残念なのは、あっという間だったこと。だって、《雪のお方》が周りの人の注目を集めすぎて、話しかけられてばかりいたんだもの。
新横浜で新幹線に乗り込んで以来、《雪のお方》ったら、しょっちゅう駅弁の箱に前足をかけて、指示をする。
自宅だったら「その唐揚げを妾が毒味して進ぜよう」とかはっきりと口にするんだけれど、今は仔猫のフリをしているので「みゃーみゃー」とかわいらしくいうだけだ。
「えっと、この佃煮? 卵焼き? それとも、唐揚げ?」
なんて質問を、僕が反応を確かめつつしていると、隣や前後の人が満面の笑みで話しかけてくる。
「まあ、かわいい猫ちゃんねえ」
その人たちからちゃっかり魚やシウマイをせしめた上に、名古屋で入れ替わった隣の人からは、天むすと松阪牛まで手に入れた《雪のお方》の人誑しっぷりには感心する。おかげで、僕、越すに越されぬ大井川も、うなぎの浜名湖も、木曽義仲ゆかりの木曽川も、ついうっかり見そびれちゃったじゃないか。
もうじき着くと分かったのはその2人目のお隣さんが慌ただしく支度をして降りていったからだ。
「おお、あっという間に着いたね。じゃあね、悠斗くんと雪ちゃん」
人好きのするおじさんで、まん丸の顔にちょんとついた鼻がちょっぴり赤い。僕が、今回のひとり旅についてする説明をずっと優しく聞いてくれた。体験コースのパンフレットを見せたら、どうやって行けば新大阪駅から馬場に楽にたどり着けるかの説明までしてくれた。
おじさんの去った駅の表示板を見ると、なんと京都だった。ええっ! 僕まだお弁当食べ終えていないのに。そのお弁当は、すっかりベジタリアンモードになっていた。《雪のお方》が動物系タンパク質をことごとく食べてしまったからだ。ねえ、猫又は何も食べなくてもいいって、普段は油しかなめないのに、なんで? 首を傾げながら、食べ終えると、降りるために荷物をまとめた。
泊まるホテルは、新大阪駅のすぐそば。父さんがいうには、大阪の中心の梅田は迷路みたいになっていて絶対に迷うから、子供が荷物を持ってウロウロするのは無理らしい。それに、明日の体験乗馬をさせてくれる馬場は豊中市にあって、梅田とは反対側なんだって。僕は、わりとすぐにホテルにたどり着きチェックインをした。荷物を置いたらすぐに遊びに行きたい。
「明日の準備をしてから遊びに行く方がいいのではないか」
《雪のお方》は、荷物を置いてすぐに出ようとした僕に釘を刺した。
「大丈夫だよ。手袋はこのリュックに入っているし、後は何もいらないもの。それよりも早く行かないと暗くなっちゃうよ」
両親との約束で、出歩くのは日暮れまでと決まっているのだ。
《雪のお方》は慣れたものでリュックの外側のポケットに自分からおさまった。僕はカードキーをポケットにしまい、颯爽と市内に向かう。大阪メトロ御堂筋線。大変って言うけれど、普通に乗れるじゃん。僕は余裕で新大阪駅を後にした。
梅田には5分くらいでついた。道頓堀に行きたいのだからなんばに直接行けばいいのだけれど、スマホのケーブルを買いたくて家電量販店が駅前にあるという梅田で途中下車したのだ。持ってきたケーブルは、新幹線の中で《雪のお方》のお方がじゃれついて傷つけてしまった。
どの改札から出ればいいのかわからなかったけれど、とにかく一番近いところを出たら、『ホワイティうめだ』というところに行き着いた。家電量販店の場所を訊いたら「ここからだと難しいねぇ。北出口から出ればよかったのに」と言われてしまった。いったん百貨店を経由手して大阪駅にでて、連絡橋口というのを目指すのがいいかもしれないとアドバイスを受けた。
それにしても、商店街には美味しそうな店がたくさん並んでいる。駅弁を食べ終えたばかりだから我慢しようと思ったら、《雪のお方》が「みゃーみゃー」と騒ぎ出した。やっぱり食べたいのか。無視して百貨店の中に入った。
なんだかメチャクチャいい匂いがしてきたと思ったら、あの『552』ってナンバーのついているお店だった。新幹線で持ち帰るのは難しそうだし、ホテルに持ち込むには勇気のいる匂いだし、食べたくてもずっと我慢していたのだ。ところが、そこは販売しているだけでなくイートインコーナーまである。そういうわけで、《雪のお方》だけでなく僕も我慢ができなくなってしまった。
晩ご飯は、ここに決定だ。焼きそばに、豚まんとしゅうまいをつけて食べることにする。あれ、《雪のお方》は、昼もシウマイ食べたっけ、まあ、いいか。猫がカウンターでさらに手を伸ばしていたら、もちろん注目の的になる。
「おや、猫ちゃんかいな」
飲食店にペットを連れ込んじゃだめって怒られるかな。そう身構えたけれど、お店のお兄さんは、笑って言った。
「ほんまはアカンのやけど、カワイイ猫は正義っていうしな。見なかったことにするわ」
《雪のお方》は小さな声で「なかなか見どころのある若人じゃ」と呟いた。
そんな風に寄り道をしていたので、家電量販店に行くべく連絡橋に出たら、なんともう暮れかかっていた。しまった。約束の夕暮れになってしまったので、道頓堀に行くのは無理だ。夕ご飯も食べちゃったから、いいけれど。結局、ケーブルだけを購入してすごすごとホテルに戻ることになった。
そして、朝が来た。スマホに保存しておいた地図を頼りに、昨日乗った御堂筋線を反対方向にちゃんと乗り、僕は体験乗馬に間に合うように馬場にたどり着いた。
入園の窓口で名前を言うと、お姉さんがこう言った。
「はい。では、お送りした確認書をお願いします」
ああ、そうだった。それは、チラシと一緒にリュックのこのポケットに入れたはず……あれ?
昨日、新幹線の中でも見たし、絶対にあるはずなのに、どうしてないんだろう。まさか、ホテルに置いてきたってこと? でも、スーツケースに移したりしていないのに、どうして?
「明日の準備をした方がいいのではと、言ったであろう」
そう言いたげな目で、《雪のお方》はじっと見つめ、係員の女の人も怪訝な顔で見つめている。僕は真っ赤になって、リュックの中身を1つ1つ取り出しながら確認書を探した。
「ああ、いた、いた。伊藤悠斗くん!」
後ろから、声がして僕たちは全員そちらを見た。
そこにいたのは、昨日、京都で降りていったまん丸顔のおじさんだ。あれ、なんでここに?
おじさんは、白いハンカチで額をふくと、背広の内ポケットから、4つに折りたたんだ白い紙を取りだして、僕に渡した。
「これが、昨日持っていた紙袋に入っていたんだ。きっと、ここのチラシを見せてくれたときにでも落ちて紛れちゃったんじゃないかな」
それは、いま必死で探していた『体験乗馬ご招待当選確認書』だった。そういえば、このおじさんと話したり、チラシを見せたり、《雪のお方》が唐揚げに手を出しているのを止めたり、あれこれ同時にやっていたような。
「ありがとうございます。届けに、わざわざここまで来てくれたんですか?!」
おじさんは、にこにこ笑いながら頷いた。
「昨日のうちに届けに行けたらよかったんだけれど、京都から帰ったのが遅くてね。それも、ちょっと部長に誘われて飲んでから帰ったもんだから、入っていたこと知らないまま寝ちゃったらしい。母さん……いや、うちの奥さんが名古屋みやげの袋に入っていた、これ今日だけれど大丈夫なのかって、見せてくれたのでびっくりして持ってきたんだ。どっちにしても今日は午後からの出勤だし」
「わあ、ありがとうございます。僕、もうちょっとで体験乗馬できなくなるところでした」
「時間もあるし、せっかくだから、迷惑でなかったら、悠斗くんと雪ちゃんの乗馬、見ていこうかな」
おじさんは、にこにこして売り場でお財布を取り出した。やり取りを見ていた売り場のお姉さんは手を振った。
「あ、保護者等の方、1名までは見学無料なので、そのままどうぞ」
おじさんと一緒に園内に入ると、早速貸してくれる装具を合わせるところに連れて行かれた。ヘルメット、ブーツ、それにエアバッグベストを身につけて、これから乗馬するんだって氣分が盛り上がってくる。僕のリュックと《雪のお方》は、おじさんが一緒にベンチで見ていてくれることに。そういえば、《雪のお方》をどうするか考えないでここまで来ちゃった。
それから馬にご対面。
「今日、悠斗くんが乗るのは、アキノコスモス号です。あいさつしてください」
茶色い馬はとても優しい目をしている。馬が突然お辞儀をしたので僕も深くお辞儀をした。そうしたら、歯を出してはっきりと笑った。それから鼻先を前方に出してきて、あっという間に僕の鼻にタッチしてしまった。
「あらあら、ご機嫌ね。いきなり首やお腹を触ったりすると、嫌がられるので、まずはゆっくり手の甲でさっき触れた鼻先を撫でてみて」
僕は、しばらくアキノコスモス号を撫でて、それから助けてもらって背中に乗せてもらった。わ、高い! アキノコスモス号は急に頭を低く下げた。見ると目の前に《雪のお方》が来ている。
「え。来ちゃったの!」
《雪のお方》はすまして、小さな声で「みゃー」と馬に話しかけた。馬はすっと頭をもっと低く下げ、その瞬間に《雪のお方》は馬の頭に飛び乗った。係員のお姉さんはびっくりして「まあ」と言った。そして、結局《雪のお方》ったら、僕の体験レッスンの間中、ずっとそこに居続けたんだ。
レッスンは楽しくてあっという間だった。係員のお姉さんがついていてくれてだけれど、僕はアキノコスモス号と一緒に歩いたり、停まったりできるようになった。それどころか、ベンチのおじさんに手を振る余裕もできた。
昼前にレッスンが終わり、降りておじさんのところに向かうと、おじさんはニコニコ笑って僕のスマートフォンで撮ってくれた写真をあれこれ見せた。
「この写真、おじさんももらってもいいかな。悠斗くんも、雪ちゃんも、馬さんもみなこっちを向いていてかわいいんだ。母さんに見せたいし」
「もちろん。おじさん、LINEかメール教えてくれる?」
おじさんは、LINEのアドレス交換のやり方を知らなかったけれど、アプリは入っていた(奥さんからのメッセージだけがたくさん入っていた)ので、奥さん以外で初めてのLINE友達になり、写真を送った。ついでにおじさんが《雪のお方》を抱っこしているところの写真も撮って送ってみた。
「やあ、うれしいね。これね、おじさんの初めてのスマホなんだ。せっかくだから、いい写真でいっぱいにしたくてね。魂の非常食のつもりで」
「なんですか、それ?」
おじさんは、はっとして、それから恥ずかしそうに頭をかいた。
「そうだよね、わけがわからないよね。請け売りなんだ。母さんは、よく宝塚歌劇団に行くんだけれど、『贔屓に逢うトキメキは、魂のご飯』っていって、贔屓の写真をたくさんスマホに保存しているんだ。で、魂の非常食っていって見せてくれるんだ」
へ、へえ……。
「そういうものなのかなって思ってたけれど、昨日、悠斗くんに雪ちゃんと遊ばせてもらったら、そのことがようやくわかったよ。ちょっとの時間だったけれど、疲れも取れてすっかり癒やされてね」
その後、おじさんと一緒にお昼ご飯を食べることになった。昨夜は何を食べたのかという話になったので、『552』のイートインコーナーの話をしたら、嬉しそうに目を細めた。
「それはいいところを見つけたね。その場で食べられる店はほとんどないんだ。おじさんは、いつも持ち帰りだな」
翌日、僕はおじさんに教えてもらった『552』のチルドパックをお土産に買って、帰りの新幹線に乗り込んだ。
「それでは、帰路に食せないではないか」
《雪のお方》は少し不満げだけれど、おじさんが教えてくれたように、ホカホカのヤツを持ち込むと、車両いっぱいに匂いが広がってめっちゃ恥ずかしかったはず。それに、家に帰ったら冷め切っちゃうだろうし。
僕は、車窓を流れて後ろに去って行く関西地方を見ながら、おじさんの言っていたことを考えた。『贔屓に逢うトキメキは、魂のご飯』かあ。アキノコスモス号の優しい茶色い目を思い出す。うん。あれもトキメキだな。学校や塾の勉強や、将来のこと、それに日々のあれこれを考えるとため息が出ちゃうこともあるけれど、あの茶色い瞳や背中で感じた爽やかな風を思い出すと、2年間くらい頑張れそうな氣がする。それに……どのクラスメートの家にだって、猫又が住んでいて話を聞いてくれるなんてことはないんだ。それを思うと、《雪のお方》がいてくれるのも、きっと僕には絶大な魂のご飯だよなあ。
「少しはわかったか」
《雪のお方》ったら、エスパーかよ!
「あのおじさんも、僕たちのレッスン見ていて癒やされたって言っていたよね。ストレスたまっているのかなあ」
「どうじゃろうな。贔屓にしょっちゅう逢っているのだから、魂は腹一杯なのではあるまいか」
僕は、《雪のお方》が何のことを言っているのかわからない。
「奥方のことを話すときに、もともと細い目がなくなるほどに目尻を下げていたではないか。あれは、昨日も『552』を手土産に買って帰ったに相違ない」
そうか。そういうことか。僕も、いつか魂のご飯っていうくらい大事な奥さんに会えるのかなあ。そう考えていると、《雪のお方》は少しだけ嫌な顔をした。
「お前、またいずれ結婚をしようなどど考えておるな。腰を据えて伊藤家の末代になろうという考えはないのか、まったく」
(初出:2020年9月 書き下ろし)
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【小説】賢者の石
今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト内容
テーマ: 旅
私のオリキャラ、もしくは作品世界: レオポルドⅡ・フォン・グラウリンゲン
コラボ希望キャラクター: マコト
使わなくてはならないキーワード、小物など: 賢者の石
中世ヨーロッパをモデルにした架空世界を舞台にしているレオポルドと、彩洋さんのメイン大河小説の主役……から派生した別キャラのコラボということで、舞台も時代ももちろん被っていません。オリキャラのオフ会でメチャクチャやらせたので、そのくらいどうって事ない……といってはそれまでですが、一応(?)オフ会ではないということで、どちらが動くかということを考えたのですよ。
しかし、「賢者の石」と言われたら、現代(または昭和)日本ではないかな、と思ってこちらの世界にいらしていただきました。しかし、あくまでこちらの世界観から見たマコトですので、彩洋さんの所でのようにしゃべったりしません。しゃべっているあれこれは、ファンのみなさんが各自アテレコしていただければよいかなと(笑)
さて、設定したのは、本編の2年くらい前ですね。マックスが旅に出たちょっと後です。ま、全然関係ありませんけれど。
そして、もうしわけないのですが、またしてもオチなしです。
【参考】
![]() | 「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む あらすじと登場人物 |
森の詩 Cantum Silvae 外伝
森の詩 Cantum Silvae・外伝
賢者の石
ことが済むと、彼は長らく横たわっていたりはしなかった。高級娼館《青き鱗粉》を経営するヴェロニカは彼の好みを知り尽くしているので、送り込む女の容貌に遜色はない。この女も唇が厚く、肌は柔らかく、肉づきのいいタイプだが、ほかに氣にかかることのある彼にとっては、今のところどうでもいいことだった。
「ヴェロニカには、また連絡すると伝えてくれ」
それだけ言うと、彼はさっさと上着を羽織り、政務室に向かった。
私室の警護をしていた者から連絡が入ったのか、政務室で召使いに軽い飲み物を持ってくるように言いつけたのと入れ違いに、ヘルマン大尉が入ってきた。
「フリッツ。きたか」
「それはこちらのセリフです、陛下。午後はずっとあの女とお過ごしになるはずでは?」
フリッツ・ヘルマンは、グランドロン王である彼の警護責任者である。乳母の一番歳下の弟であるため、子供の頃から彼の剣術の相手として身近に育った。腹の底のわからぬ貴族の子弟などと違い、彼にとっては数少ない信頼を置く人物だ。人には言えぬ話題も、彼には安心して相談できた。
「午後はずっと、と言ったのは、ジジイどもに他の予定を入れられぬためだ。悪いが、老師のところに行くんでな。うるさい連中に見つからないように付いてきてくれ」
ヘルマン大尉は首を傾げた。国王であるレオポルドが護衛なしに城の外に出ることは、彼としてはもちろん許しがたい。とはいえ、この君主は、いくらヘルマン大尉が口を酸っぱくして説いても、全く意に介さず、勝手に城を抜け出す常習犯だ。わざわざ自分についてこいという理由がわからない。
「着替えた方がいいのでしょうか」
戸惑うヘルマン大尉に、レオポルドは首を振った。
「いや。そのままでいい。お前の用事だというフリをして、馬車を出してくれ」
「ははあ。なるほど」
若き国王は、彼の教育を担当していた老ディミトリオスに、何か内密の頼み事があるのだ。それも、周りの人間にどうしても知られたくない。何だろう?
彼は、宮廷の裏口に馬車の用意をさせると、政務室の扉の外に部下を配置し、午後いっぱいは誰が来ても取り次がぬようにと言いつけてから出かけた。政務室の奥の隠し扉から抜け出してきたレオポルドは、裏口にもう来ており、ヘルマン大尉と馬車に乗った。外套のフードを目深に被っているので、御者はまさか国王その人を乗せているとは氣がついていない。
「賢者どのは、ご存じなのですか?」
「こちらから行くとは言っていないが、おそらく待ち構えているだろう。ヴェロニカを通じて、連絡をよこすくらいだからな」
「なんですと?!」
ヘルマン大尉は仰天した。堅物で有名な賢者ディミトリオスが、《青き鱗粉》のマダム・ベフロアを通じて連絡をよこしたことなど、これまで1度もなかったからだ。
「あの女が、わざわざ言ったんだからな。老賢者ディミトリオスさまが、猫を飼いだしたと」
「猫? それが何か」
レオポルドは、ふふんと、鼻を鳴らした。
「わからぬか。《ヘルメス・トリスメギストスの叡智》とでも言えば、わかるか」
「皆目わかりません」
ヘルマン大尉は憮然として、主君の顔を見た。
「まあ、いい。話をするのはいずれにせよ余だからな」
レオポルドは至極上機嫌だ。
老賢者テオ・ディミトリオスの屋敷は、王城からさほど離れていない城下町のはずれにある。王太子時代から彼の教えを受けていたレオポルドは、表向きはまだその屋敷を訪れたことはないことになっている。だが、彼は時おり貴族の子息デュランと名乗って王城を抜け出しており、そのついでに何度か老師の屋敷を訪問したことがあった。
ディミトリオスは、非常に白く長い髪とひげを持つ老人で、何歳になるのかよく知られていない。市井では、不老不死になる薬を飲んで生き続けているとうわさするものもあるが、もしそれが本当ならばこれほど年老いた姿のはずはないだろうと、ヘルマン大尉は密かに思った。背は曲がり、近年はよく手先が震えるようになっているが、鷲のような眼光は健在で、頭脳の働きも一向に衰えていないようだ。
先王の病死に伴い、王位を継承したばかりのレオポルドは、相談役としてかつての師を厚遇していた。屋敷には、常時数名の弟子が生活を共にしている。弟子といっても、ヘルマン大尉の父親の世代の男たちばかりだ。
ヘルマン大尉は玄関先で突然の訪問を詫び、出てきた召使いに取り次いでもらった。国王のもっとも信頼する腹心の部下として、彼はすぐに丁重に迎え入れられ、応接室に案内された。飲み物が用意され、召使いと入れ違いに老賢者が入ってきた。扉がきっちりと閉められるのを確認してから、老師はフードの男に非難めいた言葉をかけた。
「いったい、どういうお戯れですかな、陛下」
レオポルドは、笑って外套を脱ぐと老師に軽くあいさつをした。
「ヴェロニカの送ってきた女が言ったのだ。猫を入手したとか。『アレ』を試すのではないかと思ってな」
「はて。妙ですな。我が屋敷のどの者が娼館にいったのやら。時に『アレ』とは何のことでございましょう」
「しらばっくれずともよい。《賢者の石》だ。硫黄や水銀が足りないのなら、余が用意させるぞ」
老賢者は、露骨に嫌な顔をした。
「突然お見えになったかと思えば、また酔狂なことを」
その時、扉の向こうでかすかにカリカリと音がした。
「おや、ちょうどいい。向こうから来たみたいですな」
老賢者は、わずかに扉を開けると、「みゃー」という声と共に、なにやら小さな毛玉が飛び込んできた。
それは、赤っぽい茶トラの仔猫で、老賢者の足下に直進してきて、その長いローブにじゃれついた。ヘルマン大尉は、笑いそうになるのを堪えるために、横を向き暖炉の上にある醜いしゃれこうべを眺めた。
「なんだ。こんなに小さな猫か。これじゃ、指輪ほどの金しかできないではないか」
レオポルドがいぶかしげに言った。
「あなた様は、どうしても錬金術から離れられないようですな。私めは、この猫をその様な理由でここに置いているわけではありませぬ。それは単なる迷い猫でございます」
「錬金術?!」
ヘルマン大尉は、仰天して思わず口に出してしまった。
「そうだ。フリッツ、そなたはそもそも錬金術について何を知っている?」
「えー、魔術で金を作ることですか?」
国王と賢者は2人とも非難の目つきを向けた。老賢者はため息をついた。
「ヘルマン大尉。学問は、魔術ではございませんぞ」
ヘルマン大尉は恥じ入った。彼にとって、老師の行っている学問と、魔術の境目は今ひとつ曖昧なのだが、その様なことを口にできる雰囲氣ではない。
「まあまあ、少しわかるように説明してやってくれ」
「かしこまりました。そもそも、錬金術は、この世の仕組みを解き明かそうとする試みです。古人の知恵によれば、世界のすべては火、氣、水、土の四つの元素より成り立っていますが、これらもまた唯一の物質《プリマ・マテリア》に、湿もしくは乾、熱もしくは冷の4つの性質が与えらてできていると、考えられています。すなわち、《プリマ・マテリア》に正しい性質を与えることさえできれば、どのような物質でも作り出すことができるのです。我々が追い求めているのは、その真実、純粋なる《プリマ・マテリア》を見つけ出し、自在にどのような物質をも作り出すことのできる手法です」
「はあ」
よくわからない。ヘルマン大尉はちらりと考えた。
「こういうことだ。そこの土塊から、土塊たらしめている性質を取り除き、鋼の性質を与えてやるだけで、鉱山にも行かずに名剣ができるとしたら、便利ではないか」
なるほど。でも、やはり魔術そのものではないか。
「で、老師は、それがおできになるのですか」
「まさか」
「なんだ。いいところまでいっているのではないのか?」
レオポルドは、自分の足下に寄ってきた仔猫を拾い上げて、どかっと椅子に腰掛けた。仔猫は国王の上着の袖の装飾が面白いようで、揺らしながらパンチを繰り返している。
「物質を《プリマ・マテリア》に戻し、そして別の性質を与える《賢者の石》は、その辺に転がっているものではありませんでしてな。残念ながら」
老師は、にっこりと微笑んだ。それは全く残念そうに響かない言い方だったので、レオポルドはもちろんヘルマン大尉ですら信じられなかった。
「そなたが口にしたのだぞ。生きた猫に水と硫黄と水銀と塩を適正量飲み込ませ、その体の中で黄金を精製させる方法を試した錬金術師がいたと」
仔猫と戯れながら、レオポルドが言った。
「事実を申したまでです。私めが同じことをするとは申し上げておりませんぞ。それでは、陛下。その仔猫に硫黄と水銀を飲ませたいとお思いで?」
老賢者が問うと、国王はピタリと動きを止めた。仔猫は愛らしい2色の瞳を向けて、遊んでくれる長髪のおじさんを見上げている。
「ううむ。この仔猫か。それは……」
レオポルドは、愛らしい仔猫にすっかり骨抜きにされたようだ。
「なぜ猫にその様な物質を飲ませるのでございますか?」
ヘルマン大尉は、恐る恐る訊いた。
「《賢者の石》といわれる物質にはいくつかの説がございましてな。言葉の通り石の形状をしているという者もあれば、赤い粉だと言う者もあります。また
「あ。溶けてしまいますね」
「さよう。たとえそれを見つけても保管するどころか、捨てることすらできないのですよ。地面も、海も、すべて溶けてしまいますから」
「それで?」
「それで、この世で万物融化液に一番近いが、外界に危険のない存在として注目されたのが猫だったというわけです」
「は?」
「猫は、地を這い、空を飛び、森にも山にも人家にも自在に棲む。愛らしさを持つと同時に、魔女の手先ともなる。ごく普通の動物でありつつ、液体のようにどこにでも入り込むことができる。誰がいい始めたことかはわかりませぬが、猫を《賢者の石》そのものとみなし、その体内で精の製を試す錬金術師が現れたというわけです」
「では、賢者殿は、その様な説は信じていらっしゃらないわけですね」
「今のところ、敢えて猫を死なせる物質を飲ませるつもりはございません」
レオポルドは「ふん」と鼻を鳴らした。
「この余や、そなたの弟子に毒を飲ませることは躊躇しなかったのにな」
「それは、あなた様の御身のためですよ。その証に、あなた様はそこでピンピンして猫を撫でておられる。sola dosis facit venenum…服用量が異なれば毒とは申せませぬ」
賢者も負けていない。
「そういえば、余とともに毒になるギリギリの物質をあれこれと飲まされた、そなたの弟子はどこに行ったのだ。まさか飲ませすぎて死なせたのではあるまいな」
「とんでもございません。少なくともここを発った時は、あなた様以上に健康でしたよ」
「ほう。出て行ったのか」
「はい、半年ほど前のことでございます。陛下にお仕えする前に、世を見て見聞を深めたいと申しまして」
「まったく、羨ましいことだ。余も政務や軍務などに煩わされずに、自由に旅をしてみたい」
老賢者は、ムッとして言った。
「お言葉ですが、陛下。他国の諸王は、あなた様のように勝手に領内を出歩いたりなさりませんぞ。あなた様の自由な『領内視察』を可能にするために、ここらおいでの大尉ほか一部の臣下がどれほど手を尽くしているか、よくお考えくださいませ」
「わかった、わかった」
ヘルマン大尉も黙ってはいなかった。
「それに、他の方よりも自由に旅もなさっているではありませんか。先日、使者で済ませることもできたのに、わざわざマレーシャル公国まで姫君に会いに行かれましたし……」
「ふふん、あそこには、行っておいてよかっただろう。母上の強引な勧めに従って結婚していたら、今ごろお前たちは贅沢にしか興味のないあの氣まぐれ女に振り回されていたぞ。絵姿と家格の釣り合いだけで決めるのは余の性分に合わない。父上が不幸な結婚生活を強いられたのも、そんな横着をしたからだしな」
ヘルマン大尉は、主君の発した他国の姫や実母である王太后への失礼な発言は聞かなかったことにした。
国王レオポルドの花嫁選びは難航している。彼が好みにうるさく、ことごとく断るからだ。だが、花嫁候補への挨拶という口実で彼が隣国に足を運び、その土地の特産や富み具合、地形の強みや弱み、住民の気質、国境警備の状況などを予め伝えられている情報とすりあわせていることも知っていたので、王太后や城の老家臣たちのように、国王の判断を責めるような愚行もしなかった。
息抜きに城下に遊びに行き、また、暗君のごとく娼館の女たちとふざけているようで、彼は貴族たちとつきあうだけでは得られない市井の人々の生きた言葉に触れている。ヘルマン大尉をはじめとする腹心の臣下たちも、表向きの仕事だけでなく主君の手足となるように陰に日向に動き回り、レオポルドがつきあっている妙な連中をむやみに追い払ったりしないようにしていた。
しかし、この猫は、どうなんだろう。黄金を作り出す《賢者の石》でないのは確かなようだが。
「陛下、この仔猫、お氣に召されたのであれば、王城に召し出しましょうか」
レオポルドは、驚いて大尉を見た。
「いや、そんなことは考えてもいなかったぞ。そもそも、老師、そなたが猫を飼うのははじめてではないか?」
「私が望んで連れてきたわけではございませぬ。召使いが家の前で保護したのでございます」
「そうか。ネズミ捕りくらいには役立つかもしれんな」
「それはちと疑問が残りますな。なんせ、ネズミとの戦いで負けて、助けを求めてきたのが、拾うきっかけになったとのことでございますし……」
自らの不名誉な戦歴が話題になっていると認識しているのか、仔猫はなにやら勇ましい様子で机の上に登ったが、暖炉の上に置いてある髑髏をみつけると、あわてて飛び降り、レオポルドの上着に頭をこすりつけた。
「なんだ、ネズミに負けた上に、動きもしない髑髏に怯えているのか。その調子では、魔女のお付きなどにはなれんぞ」
そう言うと、国王は椅子から立ち上がった。
「陛下、本当にこの猫をお連れになりますか?」
賢者の問いに、彼は首を振った。
「いや、その猫と四六時中遊んでいるようだと、このヘルマン大尉らやジジイどもが氣を揉むからな。仔猫よ、次に来るとき、また遊んでやるから、それまでにネズミくらい狩れるようになっておけ」
彼は、小さな頭をもう一度撫でた。
「そんなにしょっちゅう王城を抜け出されるのは困ります。それに、この猫も、ネズミ捕りの練習をするほどヒマではないかもしれませんぞ」
「ふん。そうか。では、もう少し遊んでから帰るか」
陛下。そろそろお城に帰っていただかないと、空の政務室を守っている私の部下たちが困るのですが……。ヘルマン大尉は、仔猫と戯れる国王を見ながらため息をついた。確かに水銀やら硫黄やらを飲ませるには、残念なほど愛らしい仔猫だった。おかしな錬金術が流行ることがないように祈りつつ、彼は午後いっぱい猫と遊ぶ君主を辛抱強く待ち続けた。
(初出:2020年7月 書き下ろし)
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【小説】復活祭は生まれた街で
今日の小説は、GTさんのリクエストにお応えして書きました。ご希望は『夜のサーカス』の関連作品です。
『夜のサーカス』は、当ブログで2012年より連載した作品です。イタリアの架空のサーカス「チルクス・ノッテ」を舞台に個性的なメンバーの人間模様を描いた小説で、2014年に好評のうちに完結しました。話の中心になったのはブランコ乗りの少女ステラと謎の道化師ヨナタンです。GTさんは、この作品をお氣に召して、今回のリクエストでも選んでくださいました。
あまり奇をてらわずに、GTさんのお氣に入りのヒロイン・ステラを前面に出したストーリーを考えました。四月のご希望でしたので、復活祭(パスクァ)を題材にしました。妙に食いしん坊小説になっていますが、これは、作者の脳内がこれで詰まっている、という証ですね。

【参考】
小説・夜のサーカス 外伝
![]() | 「夜のサーカス」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
夜のサーカス・外伝
復活祭は生まれた街で
ついこの間まで、季節外れの雪が降っていたというのに、今日は随分と暖かい。着てきたジャケットが暑くて、脱いで腕に持った。横を歩いている彼がふっと笑った。ヨナタンって、いつも涼しげよね。暑くないのかしら。ステラは首をかしげた。
教会の鐘が鳴り響いている。久しぶりだけにその音は格別大きかった。一昨日の聖金曜日にステラはヨナタンと一緒に彼女の生まれた町にやってきた。普段は大きな連休の時には興行する団長だが、さすがに聖金曜日から
ステラは、例年ならば一人でこの町に帰ってくるのだが、今年はヨナタンを伴った。彼は天涯孤独なので、復活祭でも帰る生家はないのだ。「嫌じゃなかったら、うちに来て復活祭を楽しんで」と誘うと「迷惑でないならぜひ」と言ってくれた。ステラはとても嬉しかった。
ヨナタンと二人で遠出することは滅多になかった。電車やバスを乗り継ぐ時間、ずっと彼と一緒だった。車窓から指さして懐かしい山や川の名前を教えるのも楽しかったし、乗り換えの話をするのですらわくわくした。
北イタリアのアペニン山脈の中腹にあるステラの故郷は、年間を通じてとても静かだ。かつてこの地を治めていたあまり裕福でなかった領主が残した城は、小さく観光客も滅多に来ないし、復活祭でも中世を彷彿とさせるパレードなどの大きな祭事はない。ごく普通のミサがあり、その後に家族でご馳走を食べるのだ。
伝統を守る人たちは、聖金曜日から肉を食べない。教会も鐘を鳴らさずに、イエス・キリストの死を悼み、救世主を死なせてしまった人間の罪の深さを思う。そして、日曜日に主の復活を祝って鐘がなると、ご馳走をたらふく食べて祝うのだ。
待ちに待った復活祭。何よりも楽しみなのは、ミサの後の午餐だ。その美味しいご馳走を誰にも文句を言わせずに、心ゆくまだ食べるために、いや、良心がとがめるのが嫌なので、ステラは町の人々に交じって復活のミサに預かる。ヨナタンがカトリックかどうかは聞いたことがないけれど、それに、普段は日曜日に教会に行ったりはしないからあまり熱心な信者ではないみたいだが、彼も特に文句は言わずについてきてミサの席に座っていた。
そして、無事にミサが終わったので、二人はステラの家へと再び向かっているのだ。少し前を母親のマリが歩いている。彼女の経営するバルの常連たちに囲まれ、楽しく話をしながら。
「あの小さかったステラが、サーカスの花型になって帰ってくるとはね」
「しかも、ボーイフレンドを連れてきたよ」
そんな噂話も聞こえてきて、ステラとヨナタンは顔を見合わせて小さく笑った。ステラの父親は、ずっと昔にいなくなってしまって、ステラはマリが女手一つで育てた。子守もいなかったので、多くの時間をマリのバルで過ごした。だから、常連のおじさんたちはみな親戚のような存在だった。
そして、このバルの片隅で食事をしていたヨナタンと、六歳だったステラは出会ったのだ。だから、ステラにとってこの町は生まれ故郷というだけでなく、愛する人との運命の出会いの舞台でもあるのだ。彼とまたここにこうして来られたのがとても嬉しい。ああ、なんて素敵な春なのかしら!
バルでもある家に着くと、常連たちと別れを告げて、マリは急いで中に入った。食事の用意があるから。ステラとヨナタンも、人びとと別れを告げて家に入る。すぐにマリの弟夫妻がやってくるから、食卓をきちんとしておかなくてはならない。ヨナタンも進んで手伝ってくれるので二人でテーブルセッティングをした。
ステラの生まれた地方は、生ハムの生産で世界的に有名だ。だから、お祝いの食事は前菜には、プロシュットが色づけされた卵と一緒に並ぶ。アーティチョーク、アスパラガスといった春の野菜、復活祭にいつも作るチーズのトルタと一緒に食べる。生ハムを薔薇のように巻いてお皿に飾りつけながら、ステラはヨナタンが子供の頃にくれた運命の赤い薔薇のことを思い出していた。
賑やかな笑い声と共にジョバンニとその妻のルチアが花を持って登場した。ステラの母親マリとジョバンニは仲のいい姉弟だが、夫妻はローマに住んでいるので会えるのは年に一度かそれ以下だ。愉快なジョバンニは、尋常でなく口数が多い。そしてルチアはいつも笑っている。二人が来るとマリの家には十人客が増えたかのように賑やかになる。ヨナタンが静かすぎるということもあるのだけれど。
マリは、ヨナタンが用意してきたワインを開けてデキャンタに注いだ。アマローネ・デッラ・ヴァルポリチェッラだ。アマローネは葡萄を半年近く陰干しする特別な製法によって作られ、濃厚な味わいが特徴だ。値段が高く贈答用などに珍重されている。ヨナタンがこのワインを選んだのは、もう一つ理由があった。復活祭に縁が深いワインだからだ。
「『最後の晩餐』でイエス・キリストが飲んでいたのは現代のアマローネみたいなワインだった」ということになっているのだ。
イエス・キリストが亡くなる前の晩に弟子たちと過ごした『最後の晩餐』は、レオナルド・ダ・ビンチの絵画でも有名だ。
「みな、この杯から飲みなさい。 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」
『マタイ福音書』にそう書かれていることから、キリスト教信者にとって赤ワインは特別の意味を持っている。
研究によると、当時ローマで飲まれていたワインには、腐敗を防ぎ風味をつけるために、樹木の樹脂や様々のスパイスを加えて作っていたようだ。エルサレムの街の近くで発見されたイエスの時代と近いワインの壺にはスモーク・ワインや非常に暗い色のワインとの記載があった。非常に濃厚で重いタイプのワインが好まれた可能性がある。
実際に「アマローネ」の歴史は古く、古代ローマ時代に「レチョート・デッラ・ヴァルポリチェッラ」という甘口ワインを作る過程で偶然できた糖分の少ないワインだ。本当に最後の晩餐で飲まれたワインに近い味わいなのかもしれない。
いずれにしても、普段自宅用にはなかなか手の届かない高級ワインなので、初めて恋人の家を訪れる時のプレゼントとしては悪くないだろう。
マリの用意した食事は、そのワインに恥じない美味しいものだった。
プリモ・ピアットはステラの好きなタリアテッレ・アル・ラグー(ミートソース)。パスタのゆで具合に少しうるさいステラ自身がアルデンテに茹であげた。ラグーの香りがほわんと台所に広がり、ステラはテーブルに着くまで食べるのを我慢するのに苦労した。ヨナタンに食い意地が張りすぎていると思われるのが恥ずかしかったので、なんとかつまみ食いはせずに耐えた。
ジョバンニは、すべての料理について涙を流さんばかりに感動して食べた。ステラは普段、彼の食事を作っているルチアが氣分を害さないか心配になったけれど、彼女は夫が何を言っても、まるでワライダケでも食べさせられたかのように笑っているのだった。
セコンド・ピアットは仔羊のローストのバルサミコソースがけ。仔羊肉は固くなってしまうと美味しくない。切ったら中身がピンクになっているべきだ。ステラは、まだ上手く仔羊を調理できない。いつか、自分が奥さんになる時までには、上手に焼けるようにしたいと思っていた。
「あーあ、作り方を見ておくの忘れちゃった」
ステラがため息をつくと、ジョバンニが姪の心がけが素晴らしいと褒め称え、どういうわけかルチアがけたたましく笑った。ステラがうつむいているので、ヨナタンがそっと言った。
「チルクス・ノッテに戻ったら、折を見て一緒にダリオに教えてもらおう」
ダリオは、チルクス・ノッテ専属の料理人だ。毎日とても美味しい食事を作ってくれるだけでなく、団員たちの相談にものってくれる優しい人だ。料理を習うなんて考えたこともなかったけれど、ヨナタンが一緒に習おうと言ってくれたのがとても嬉しくて、ステラもまたルチアのように楽しい心持ちになった。
デザートは、鳩の形を象ったフルーツの砂糖漬けやレーズンをたっぷりと混ぜ込んだブリオッシュ生地のお菓子コロンバと、チョコレートの卵。この卵は、本当は子供たちがもらうもので、中から小さなおもちゃが出てくる。ステラは、もうおもちゃをほしがる年頃ではないけれど、子供時代へのノスタルジーで、自分で買ってきた。
アマローネの瓶は空になり、お皿の上も綺麗に何もなくなった。マリとジョバンニとルチアが楽しく笑いながらリビングで語らっている。ステラは申し出て、ヨナタンと一緒に皿を洗った。こうやって二人で何かを作業できるのが嬉しくてたまらない。
“Natale con i tuoi. Pasqua con chi vuoi.”(クリスマスは家族と、復活祭は好きな人と)
イタリアでは、こんな風に言うけれど、家族も好きな人も全部一緒に楽しめるのって、本当に素敵! ステラは、人生の春を思い切り楽しんだ。
(初出:2018年4月 書き下ろし)
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【小説】春は出発のとき
今日の小説は、山西左紀さんのリクエストにお応えして書きました。
コラボ希望のサキのところのキャラはミクとジョゼ。
テーマは「十二か月の情景」に相応しいものを設定して、
2人の結婚式の様子をストレートに書いてください。
次第はすべてはお任せします。
ジョゼというのは、もともと2014年の「scriviamo!」で書いた『追跡』という小説で初登場し、左紀さんの所の絵夢やミクと出会った小学生でした。後に、『黄金の枷』本編でヒロイン・マイアの幼馴染として使い、同時に左紀さんの所のミクとの共演を繰り返すうちにいつの間にかカップルになってしまいました。で、前回左紀さんはプロポーズの成功まで書いてくださったのです。結婚式を書くようにとの仰せに従って今回の作品を書きました。
ポルトガルの結婚式というのはこんな感じが多いようです。ブライズメイドたちがお米を投げたり、花嫁が教会の出口でスパークリングワインを飲む、というのは実際に目撃しました。その時の花嫁は、グラスを後ろ向きに投げて壊していました。
いちおう『黄金の枷』の外伝という位置づけにしてありますので、そっちを読んでいらっしゃらない方には「?」な記述もあるかもしれませんが、その場合はその記述をスルーして、結婚式をお楽しみください。ついでにいろいろとコラボの間にばら撒いたネタを回収しています。どうしても氣になるという方は、下のリンクやサキさんと大海彩洋さんの関連作品をお読みください(笑)
サキさんのお誕生日には、少し早いのですけれど、これからPやGの街へと旅立たれるということなので、前祝いとして今、発表させていただきます。サキさん、先さん、そしてママさん、良い旅を。

【参考】
小説・黄金の枷 外伝
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
黄金の枷・外伝
春は出発のとき
アーモンドの花が風に揺れている。エレクトラ・フェレイラは、Gの町のとある家への道を急いだ。若草色のドレスは新調したもの、七人の
もう一人の姉のマイアは、花婿と子供の時に一緒に学んだ仲で、本来ならばもっとこの結婚式の花嫁介添人にふさわしかったのだろうが、残念ながら式に参列することができない。そもそも幼馴染のジョゼが結婚することを知らない可能性が高い。なんせエレクトラ自身が数カ月以上もマイアと連絡がとれないのだ。
花嫁介添人の多くを花婿の知り合いがつとめるのは珍しいが、花嫁は外国人でこの国での友人や親戚がさほど多くない。一方、花婿の方は「俺を招ばなかったら許さない」と言い張る輩が百人以上いるような交友関係に、先祖代々この土地に根付いていたので親戚縁者がこれまたやたらと多い。
ジョゼを落とそうと頑張っていたことを考えると、この役目を受けるのはどうかと思ったが、もう氣にしていないことを示すにはいい機会だと思う。それに、この二日間、街中からジョゼの友人たちが入れ替わり立ち替わりやってくるのだ。どんないい出会いが待っているかわかったものじゃない。行かないなんてもったいない。
ジョゼの結婚式は、マイアの結婚式とはだいぶ様相が違っていて、この国ではわりと普通の結婚式だ。つまりたくさんの招待客や親戚演者が集まり、二日間にわたってパーティをするのだ。
マイアの結婚式には友人たちを集めてのアペリティフやパーティもなかったし、宴会場でのフルコースもなかった。
今回の結婚式は、そんな妙な式ではなかった。式はPの町にあるサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われる。ここは、マイアがあの謎のドラガォンの当主と結婚した教会で、それが偶然なのかどうかはわからなかった。
でも、エレクトラは直接教会にはいかない。介添人は花嫁の自宅に集合するのだ。花嫁であるミク・エストレーラには両親がいなくて、ティーンの頃にGの町に住む祖母に引き取られたのだそうだ。現在、歌手である彼女は主にドイツで活躍しているので、この国に帰ってくるときは祖母の家に滞在している。集まるのはその祖母の家なのだ。
「遅かったわね! どうしたの」
セレーノとジョゼの二人の女友だちはもう着いていて、エレクトラに手を振った。花嫁の三人の女友達ともすっかり仲良くなって一緒にカクテルを飲んでいた。
「美容院で思ったよりも時間がかかっちゃったの。私が最後?」
皆が頷いた。落ち着いた赤紫のツインピースを着たアジアの顔をした婦人が笑顔で出迎えてくれた。この人がお祖母さんなの? お母さんでもおかしくないくらい若く見える!
「はじめまして、フェレイラさんね。今日はどうぞよろしく。軽くビュッフェを用意しているからぜひ召し上がってね」
中に入ると真っ白な花嫁衣装に身を包んだ今日の主役が座っていた。長く裾の広がったプリンセスラインのドレスは、わりと小さめの家の中で動き回るとあちこちの物とぶつかる危険がある。それで、彼女は動かない様に厳命されていた。
それでも、はにかみながら笑顔を見せて立ち上がると、自分のために来てくれたことへの礼を述べた。
「エレクトラ・フェレイラさんよね。初めまして。今日はどうぞよろしくお願いします」
エレクトラは、にっこり笑って挨拶した。
「はじめまして。介添人に選んでくれて、どうもありがとう。まあ、なんて綺麗なのかしら。ジョゼはきっと惚れ直すと思うわ」
ミクはぽっと頬を染めた。初々しいなあ。たしかジョゼよりもけっこう年上だって聞いていたけれど、そんな風に見えないし、お似合いだなあ。エレクトラは感心した。っていうか、こんなところで感心しているから、負けちゃうんだよね。
遅くなったので、あまりたくさん食べている暇もなく教会に向かうことになったが、ミクの祖母の作ったタパスはどれもとても美味しかった。あとでたくさん食べることになるから、ここでお腹いっぱいになっちゃマズいし、遅れてきて正解だったかな。エレクトラは舌を出した。
教会には、参列者がたくさん待っていた。それに白いスーツを着せられて所在なく待っているジョゼも。
代わる代わるジョゼと
つまり、エレクトラのよく知らない顔は、花嫁の招待した人たちなのだろう。ドイツ語で話している数名の男女がいた。おそらくミクが出演しているオペラ関係の人たちだろう。それに、ミクの祖母が急いで挨拶に向かった先にいる日本人女性。綺麗な人だけれどだれかな。
「あ、あの人、知っている?」
セレーノが話しかけてきた。
「ううん。お姉ちゃん、あの人知っているの?」
「ええ。偶然ね。日本のヴィンデミアトリックスって大財閥のお嬢さんだよ。ジョゼとミクが知り合うきっかけになった人なんだって」
「へえ。すごい人と知り合いなんだね。あっちのドイツ人は、オペラの人でしょ」
「そうだよ。ミュンヘンの劇団の演出家だって、ガイテルさんって言ったっけ。憮然としているでしょ?」
「え。そうだね。なんかあまり嬉しそうでもないよね」
「そうだよ。あなたと同じ、失恋組だからね」
「セレーノ。私はもう……」
「まあまあ。強がらなくてもいいってば」
ミクを乗せた車がやってきた。あれ。ジョゼが迎えに行っちゃった。教会の中で、お父さんが花嫁を連れてくるのを待つわけじゃないんだ。エレクトラの疑問を見透かしたようにセレーノが囁いた。
「ミクのお父さんは亡くなっているの。身内に父親役を頼めるような人は叔父さんしかいないらしいけれど、なんか事情があって頼みたくないみたいだよ。だから、二人で入口から一緒に祭壇まで歩いて行くんだって。あなた、遅刻したからそういう事情を聞きそびれたのよ」
ジョゼは、ミクの花嫁姿に見とれているようだった。確かに綺麗な花嫁だよね。ドレスはとろんとしたシルクサテン、華やかな上に高級感もある。ジョゼと研修で訪れた日本で見たけれど、日本のシルクって長い伝統があるんだよね。大きく広がった裾、後ろが少し長くなっていて楕円形に広がるようになっている。
ヴェールはそれほど長くなくて、あっさりしているから、ミクの笑顔がはっきりと見える。そして、百人以上集まっている参列者たちを見て目を丸くした。これからは、これだけのジョゼの友達たちと付き合っていくことになることを、実感しているってところかしら。
さあ、私たちは
そして、これからのひたすら食べる宴会の戦略も立てなくちゃ。宴会場でアペリティフがあり、揚げ物やフルーツ、それにチーズやハムなどがでるけれど、そこでたくさん食べすぎるとフルコースが入らなくなってしまう。二時からの着席宴会は五時ぐらいまでだけれど、一度帰ってからまた集まって、ビュッフェ。ダンスをして真夜中にケーキカットをするまでずっと飲んで食べてが続くのだ。
大人たちはそれで帰るけれど、私たち若者は朝まで騒ぐのが通例。
しかも、明日もある。普通は二日目は親戚だけだけれど、ミクのところに親戚が少ないので私たちも招待されている。つまり明日もフルコース。たぶん、明後日からダイエットしないと大変なことになっちゃう。明日はGの町にある日本料理店でやるっていうから、とても楽しみ。
サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会の向かいは緑滴る憩いの公園になっている。その前に一台の黒塗りの車が入ってきたが、道往く人々や参列者たちは、ちょうど花嫁と花婿が現れた教会のファサードに注目していて、その車がゆっくりと停車したことに氣付くものは少なかった。
挙式で司祭の手伝いをしていた、神学生マヌエル・ロドリゲスは、目立たぬように通りを横切り、黒塗りの車のところへやってきた。待っていた運転手が扉を開けた。6ドアのグランド・リムジンには向かい合った四つの席があり、彼は素早く中に入り既に座っている二人の女性の向かいに座った。
「ご足労でした、マヌエル。式は無事に終わったようね」
向かって右側に座っていた黒髪の貴婦人がにっこりと微笑んだ。
「はい、ドンナ・アントニア、そして、ドンナ・マイア」
ドンナ・アントニアと呼ばれた黒髪の貴婦人の右隣に、少し背の低い女性が座っていた。そして、嬉しそうに窓から幸せそうなカップルの姿を眺めた。
「あの人が、ジョゼの言っていた人ね。うまくいって、本当によかった。ああ、セレーノとエレクトラもいるわ」
マイアは、妹たちが
「ドンナ・アントニア、本当にありがとうございます。あなたが言ってくださらなかったら、こうして二人の結婚式を見ることはできなかったでしょうから」
マイアが言うと、アントニアは首を振った。
「アントニアでいいって、言ったでしょう。あなたはもう私の義妹なのよ。あなたの友達が結婚するたびに出てくるわけにはいかないけれど、今回はたまたまこんな近くで結婚したし、マヌエルが教えてくれたんですもの。あの青年にはライサの件で助けてもらったし、私もトレースももう一度お礼がしたかったの」
マヌエルは、アントニアの視線の先に眼を移した。彼の座っている隣の席に大きな包みが二つ置いてある。
「では、こちらが……」
その言葉に、二人の女性は頷いた。アントニアが続ける。
「これがマイアとトレースからのプレゼントで、こちらが私から。あの花嫁さんにトレースが作ったのは、とても上品な桜色のパンプスよ。妬ましくなるくらい素敵だったわよね、マイア」
「うふふ。あなたがそういえば、23は作ってくれると思いますけれど……」
「そんな時間は、全然ないじゃない。あの忙しい合間にあの青年の靴も作ったのよね」
「ジョゼは、23の靴の大ファンだから、きっと大事にすると思うわ」
マヌエルは、なるほどと思った。この大きい箱には、靴が二足入っているのだ。知る人ぞ知る幻の靴職人の作った、究極のオーダーメード。まさか、ドラガォンの当主その人が作ったとは二人共思いもしないだろう。
「もう一つの箱にはボトルが入っているので、扱いに注意するように言って渡してくださいね」
アントニアは言った。
マヌエルは「かしこまりました」と言った。運転手が再びドアを開けた。彼はプレゼントを大切に抱えてベントレーから降りた。
「なんのボトルにしたのですか」
「1960年のクラッシック・ヴィンテージのポートワインよ」
そう聞こえた時に、ドアが閉まり二人の会話は聞こえなくなった。
何と幸運な二人だ、今日華燭の宴を迎えたカップルは。マヌエルは密かに笑った。
百人以上の友人たちの暖かい祝福、家族の愛情、仕事仲間も駆けつけ、イタリアのとある名家からも特別な祝いが届いている。それだけでなく、ドラガォンの当主たちからもこの祝福だ。こんな婚礼は、滅多にないな。
二人は教会の入口で参列者たちの拍手と歓声の中、笑顔でスパークリングワインを飲み干していた。そして、これから続く幸せな日々、ひとまずは、これから二日間続く食べて飲んで踊ってのハードな披露宴に手を携えて立ち向かいはじめた。
(初出:2018年3月 書き下ろし)
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【小説】最後の晩餐
いただいたリクエストはこちらでした。
舞台は、アフリカのどこか(夕さんのお気に入りの場所、もしくは書いてみたいけれど、まだ書いていない場所)。キーワードは最後の晩餐。
で、全く違う話を書いてもよかったんですが、ちょうどアフリカの話を書いている途中だったので、他の登場人物は頭の中にでてきませんでした(笑)というわけで、こんなお話になりました。
この作品の主人公を知らないと思われても、ご心配なく。(ほとんど)初登場ですから。それにしても、本当に何もかもネタバレになっているな。ま、いっか。
![]() | 「郷愁の丘」を読む あらすじと登場人物 |
郷愁の丘・外伝
最後の晩餐
そっとドアを押して、台所を覗き込んだ。埃っぽく、あいかわらずきちんと掃除のされていない室内は、どこか饐えた匂いがした。転がっている空の酒瓶の多くには埃がたまりだしていて、それが彼の母親が迎えにくる時も決してこの家の中に足を踏み入れたがらない理由のひとつだった。
それでもこれが見納めになるのかと思うと、この酒瓶ですら彼をセンチメンタルな心地にした。
「おじいちゃん?」
彼は、小さな声で祖父を呼んだ。答えはなく、彼は壁に新しくかかっている絵の人物と目が合ったような氣がして、思わず近寄った。
それは額にすら納まっていなかった。どこかの雑誌から鋏で乱雑に切り取ったペラリとした一枚の絵画の写真で、画鋲で直接壁に刺さっていた。ブルーグレーや褪色したオレンジ色の服を着た人物が何人もいて、食卓を囲んでいる。暗いグレーの天井や、元は白かったのだろうが薄汚れて見える壁、全体に色褪せてしまった色合いが、埃にまみれて疲れていくこのだらしない台所のうら寂しさと妙にマッチしていた。
食事中のようなのに、ある者は立ち上がり、大きな身振りで語り合い、もしくは恐慌をきたしていた。真ん中の人物と、その左側にいる人物だけは穏やかな顔をしているが、それが何を意味するかは彼にはわからなかった。
「それに氣がついたか、グレッグ」
声がしたので振り返ると、祖父が立っていた。あいかわらず汚れたシャツを着て、残り少ない髪はもじゃもじゃに乱れていた。
「おじいちゃん」
「それは『最後の晩餐』っていう絵なんだ。今日にふさわしいと思ってかけておいたのさ」
「これが? 誰の絵?」
「イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチっていう有名な画家さ。キリストが磔にされる前の晩餐会の様子を示しているんだとさ」
そういいながら、祖父は戸棚からコンビーフ缶を取り出して開けた。洗ってある食器と、洗っていないと思われる調理器具がごちゃごちゃに置いてある山のようなところから、器用にフライパンを取り出すと、いくらか角度を変えながら眺めて、納得したように頷くとそのままコンロのところに持っていった。
グレッグ少年には、祖父が「洗わないでもそのまま使えそうだ」と判断したことがわかった。実際に同じように準備された焼きコンビーフを彼は既に何度も口にしていたが、とくにお腹が痛くなったこともなかったので、意見はいわないことにした。
最後の晩餐と言っても、祖父が彼に作る食事はいつもと一緒だった。スライスして焼いたコンビーフ、カットされたパンにマーマイトを塗る。運がよければ、生のトマトがカットされてついてくることもあった。それだけだ。
この祖父の息子とはとても思えない几帳面な父親は、滅多に料理はしなかったが、する時はきちんとしたステーキに、シャトー型に切った人参とジャガイモ、完璧な固さに茹でられているが鮮やかな色を失っていないインゲン豆などをきちんと用意した。英国風のミンスミートやキドニーパイが得意な母親も、料理以前に混沌の極みにある義父の台所を料理をするところだとは認めなかった。非常に仲が悪くどんな小さなことにも反発し合う夫婦だったが、グレゴリー・スコットの家で食事をすることだけは決してしないことで意見が一致していた。
だから、両親の離婚にともない、イギリスへと移住することになったグレッグ少年が、最後に祖父のところにお別れに行きたいと言った時には、二人とも馬鹿にしたような顔をした。
グレッグは、コンビーフを焼いている祖父の横に行き、片付けていない洗った食器の山から、そっと皿を二枚取ると、テーブルのところに持っていった。まずは、テーブルに載っている沢山のいらないもの、請求書や古いクリスマスカード、それに空になったグラスなどを片付けて、皿を二つ置くスペースを作らねばならなかった。それからカトラリーをなんとか二組見つけ出して、皿の脇に置いた。
固くなったパンと、きれいなグラスもみつけてテーブルに置いてから椅子に座り、壁の『最後の晩餐』を眺めた。
「この人たちもコンビーフを食べていたのかな」
そう訊くと祖父はゲラゲラ笑った。
「この時代にはまだ缶詰はなかっただろうよ。それはそれそうと、つい最近終わった修復で面白いことがわかったんだぞ」
祖父は、絵の近くにやってきて目で示した。
「ここにパンがあるだろう? 聖書では、キリストはユダヤ教の伝統的な過ぎ越しの祭を祝ったことになっているんだ。イーストの入っていないぺっちゃんこのパンと、子羊の丸焼きを食べる伝統なんだ。それなのに見てみろよ、このパンは膨らんでいるし、それに料理は子羊じゃなくて魚料理なんだとさ。この画家、自分の好きな料理を描いたのかもしれないぞ。伝統なんてクソ食らえってさ」
食事は、いつも通りに進んだ。祖父は安物のワインをたくさん傾けて、同じような話をろれつの回らない口調で繰り返した。
「それで。いつイギリスへ発つんだ」
「来週の月曜日。来月から、あっちの学校に通うんだって」
「そうか。ロンドンってのは面白いモノのある大都会だって言うからな」
「おじいちゃん。僕が行くのはバースってところだよ」
「そうか。そうだったな。ともかく、そこに行ったら、ケニアやじいちゃんのことなんてすぐに忘れてしまうさ」
少年が「そんなことはない」と言おうとした時に、電話が鳴った。話している様子から、それは祖父が最近懇意にしているアリトン家の後家だということがわかった。
「今、孫が来ているけれど、すぐに帰るから、後でそちらに寄るよ」
もうそろそろ帰ってほしいということなのかもしれないと思った。すぐに忘れてしまうのは僕じゃなくて……。グレッグは、バラバラになったコンビーフの塊が喉につかえそうになるのを、無理に水で流し込んだ。
母親の車がやってくるのを待ちながら、グレッグ少年と祖父は、夕陽が真っ赤に染める丘を眺めていた。アカシアの樹のシルエットを彼は瞳に焼き付けようとした。バースになんて行きたくない。いられるものならば、ずっとここにいたい。
でも、父親は彼を手元においておきたいとはまったく思っていないらしかった。母親も、話すのは「少しは愛想よくして、新しくお父さんになる人に嫌われないようにしてちょうだい」というようなことばかりだった。唯一彼を可愛がってくれたと感じられる祖父ですら、酒瓶やアリトン家の後家ほどの関心は持ってくれていない。ここには、僕のいられる場所なんてないんだ。
遠くから、母親の運転するシトローエンが砂埃を巻き上げて近づいてくる。
「来たな」
祖父は、少し感傷的な声を漏らすと、グレッグをぎゅっと抱きしめた。
「元氣で頑張れよ、小さいグレッグ」
「うん。おじいちゃん。さようなら」
こんばんは、グレッグ。
この間の手紙を送ったあと、ニューヨークはひどい悪天候に見舞われたのよ。ハリケーンがやってくるような季節じゃなかったので、とても驚いたわ。クライヴは、こんな恐ろしい嵐は初めてだって、彼のお店にも行かないで、ずっと《Sunrise Diner》でお茶ばかり飲んでいたから、クレアがとても怒ってしまって、彼のトレードマークの傘を取り上げてしまったの。おかしかったわ。あなたもアフリカに帰るまではずっとイギリスにいたのよね。ハリケーンみたいなひどい嵐は、想像もつかないかしら?
ケニアは今、少雨期だったわね。《郷愁の丘》にシマウマたちが戻ってくるのを想像して、また行きたくなってしまったわ。だから、次の休暇で、イタリアに行くのはやめて、またケニアに行く案も考えたのよ。
でも、あなたからの問い合わせに少しびっくりしているの。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』は、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーチェ教会にあるのよ。そして、私の家族の故郷は、北イタリアなのでどちらにしてもミラノが基点になるの。もし、あなたも北イタリア旅行に興味があるのならば、私の休暇の時期をあなたの旅行に合わせてもいいのよ。
私のルーツ探しにはあまり興味がないかもしれないけれど、『最後の晩餐』の本物を見るチャンスだし、それ以外にもイタリアはアメリカともケニアともまったく違う文化と景色で、あなたを深く魅了すると思うわ。ウンブリア平原やフィレンツェにも、ダ・ヴィンチに縁の場所がたくさんあるの。きっとあなたにとっても有意義な旅になるはずよ。それに、あなたはイタリア料理をとても好きだったじゃない?
大して上手じゃないけれど、簡単なイタリア語通訳ぐらいはできると思うわ。いい返事を聴かせてね。あなたの友達、ジョルジア
彼は、放心したように手紙を見つめていた。
ジョルジアへの手紙に『最後の晩餐』のことを書いたのは、イタリアヘ行くという彼女の言葉にセンチメンタルな想いを呼び起こされたからだ。今は亡き祖父が、壁に貼付けていた『最後の晩餐』の印刷された紙は、彼がケニアに戻ってきて祖父の遺産を相続した時にはとっくになくなっていた。
あの絵のことをずっと考えていたわけではない。だが、ここしばらくあれも何かの符号だったのかもしれないと考えていた。まったく何の因果もなかったイタリアという国にいつか行ってみたいと思いつづけていたのは、祖父との最後の思い出に端を発しているのかと。そして、偶然出会い、心に住み着いてしまった女性がただのアメリカ人ではなくて、イタリア文化を色濃く受け継いでいたことにも、ただの偶然では片付けられない何かを感じていた。
だから、彼女が次の旅行先に、祖父母の故郷をめぐることを考えていると書いて来た時に、「行けるものなら、僕もいつかイタリアに行ってみたい。でも、きっと夢で終わるんだろうから、代わりに、あの絵の小さなポスターか大きめの絵はがきを送ってくれないだろうか」と頼んでみたのだ。彼女の返事は彼の予想を大きく超えていた。
一緒に旅行を? そんな多くを望んだつもりはなかった。いつかイタリアを旅してみたいと書いた時には、共に行くことを夢見ながら彼女が訪れた場所を一人で辿ることを想像していただけだ。もちろん一緒に行きたい、彼女もそれを望んでくれるならば。
彼は、スケジュールを確認した。この秋には抜けることのできない大事な学会や会議などはない。調査の方はいない分だけ抜けてしまうが、毎年のことではないし諦めることができる。問題は費用だ。彼はどうしたら旅費が捻出できるか計算した。
それからアメリカ人ダンジェロ氏からの援助のことを思い出した。ジョルジアが、ダンジェロ氏の妹であると知った時は驚いたが、結局彼女の口添えがあったからこそ、地味な研究をする自分に助成金を出してもらえることになったのだ。
これまで、切り詰めて食べていくのが精一杯だったが、研究さえ続けられればいいと思っていたので、それ以外のことをする経済的余裕がないことを残念と思ったこともなかった。学会と関係のない純粋な休暇旅行など一度も行こうと考えたことがなかった。
けれど、もうその心配はしなくていいのだ。ダンジェロ氏から定期的に振り込まれる助成金で、生活費を削ることなく、不在時のシマウマ調査を他の人間に頼むこともできるし、二週間程度の休暇ヘ行く費用もある。
あの絵の実物を見に行くのだと、それも、心から大切に想う女性と一緒にイタリアに行くのだと知ったら、墓の下で眠る祖父はなんというだろうかと考えた。『最後の晩餐』にも描かれたイタリアのパンと、魚料理を食べて、その味を報告したら、彼は笑ってくれるだろうか。
彼は、ジョルジアに快諾の返事を書くために、自室のデスクに向かった。
(初出:2016年11月 書き下ろし)
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【小説】ジョゼ、日本へ行く
ご希望の選択はこちらでした。
*現代日本
*薬用植物
*地元の代表的な酒/もしくは嗜好飲料
*城
*ひどい悪天候(嵐など)
*「黄金の枷」関係
「黄金の枷」シリーズの主要キャラたち、とくに「Infante 323 黄金の枷」の主人公たちは設定上、今回のリクエストの舞台である日本には来ることが出来ないので、同じシリーズのサイドストーリーになっているジョゼという青年の話の続きを書かせていただきました。できる限り、この作品の中でわかるように書かせていただきましたが、意味不明だったらすみません(orz)
このキャラは、山西左紀さんのところのミクというキャラクターと絡んでいるんですが、全然進展しないですね。新キャラを投入して引っ掻き回していますが、私の方にはまったく続きのイメージがありません(なんていい加減!)この恋路の続きは、サキさんに全権委任します。
【参考】
小説・黄金の枷 外伝
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
黄金の枷・外伝
ジョゼ、日本へ行く
すごい雨だった。雨は上から下へと降るものだと思っていたが、この国では真横に降るらしい。それも笞で打つみたいに少し痛い。痛いのはもしかしたら風の方だったかもしれないが、そんな分析を悠長にしている余裕はなかった。目の前を立て看板が電柱から引き剥がされて飛んでいき、とんでもないスピードで別の電柱に激突するのを見たジョゼは、危険を告げる原始的なアラームが大脳辺縁系で明滅するのを感じてとにかく一番近いドアに飛び込んだ。
それは小さいけれど洒落たホテルのロビーで、静かな音楽とグロリオサを中心にした華やかな生花が高級な雰囲氣を醸し出していた。何人かの日本人がソファに座っていて、いつものようにスマートフォンを無言でいじっていた。
風と雨の音が遠くなると、そこには場違いな自分だけがいた。びっしょり濡れて命からがら逃げ込んできた人間など一人もいない。
「ジョゼ! いったいどうしたのよ」
エレクトラが、落ち着いたロビーの一画にあるソファに座って、薄い白磁でサーブされた日本茶と一緒にピンクの和菓子を食べていた。
ジョゼは、とある有名ポートワイン会社の企画した日本グルメ研修に、勤めるカフェから派遣された。彼が職場の中でも勉強熱心で向上心が強いウエイターであるからでもあったが、日本人とよく交流していて仕事中にも片言の日本語で観光客を喜ばせているのも選考上で有利に働いたに違いない。
彼は、日本に行けることを喜んだ。彼の給料と休みでは永久に行けないと思っていた遠くエキゾティックな国に行けるのだ。そしてその国は、なんと表現していいのかわからない複雑な想いを持っているある女性の故郷でもある。ああ、こんな言い方は卑怯だ。素直に好きな人と認めればいいのに。
話をややこしくしている相手が、目の前にいる。日本とは何の関係もないジョゼの同国人だ。幼なじみと言ってもいい。まあ、そこまで親しくもなかったんだけれど。
エレクトラ・フェレイラは、ジョゼとかつて同じクラスに通っていたマイアの妹だ。フェレイラ三姉妹とは学校ではよく会ったが、それはマイアの家族が引っ越すまでのことで、その後はずっと会っていなかった。ひょんなことから彼はマイアの家族が再び街の中心に戻ってきたことを知った。
快活で前向きな三女のエレクトラは、小さいお茶の専門店で働いている。ジョゼの働いているカフェのように有名ではないし、従業員も少ないのでいくら組合の抽選で当たったとはいえ、休みを都合して日本へ来るのは大変だったはずだ。それを言ったら彼女はにっこり笑って言った。
「だってジョゼが行くって知っていたもの。一緒に海外旅行に行くのはもっと親しくなる絶好のチャンスでしょう」
「え?」
「え、じゃあないでしょう。そんなぼんやりしているから、そんな歳にもなって恋人もいないのよ。マイアそっくり。もっともマイアだって、さっさと駒を進めたけれどね」
「あのマイアに恋人が?」
エレクトラは、人差し指を振って遮った。
「恋人じゃないわ、夫よ」
「なんだって?」
「しかも、もうじき子供も生まれるんですって」
「ええええええええ?」
「彼女、例の『ドラガォンの館』の当主と結婚しちゃったの。全く聞いていなかったから、のけぞったわ。私たちが知らされたのは結婚式の前日よ」
「マイアが?」
「あ。なんかの陰謀じゃないかって、今思ったでしょう」
「いや、そんなことは……」
「嘘。私も思ったわよ。でもね。結婚式でのマイアを見ていたら、なんだ、ただの恋愛結婚かって拍子抜けしちゃった。あの当主のどこがそんなにいいのかさっぱりわからないけれど、マイアったらものすごく嬉しそうだったもの」
「僕に知らせてもくれないなんて、ひどいな」
「仕方ないわよ。おかしな式だった上、それまでも、それからも、私たちですらマイアに会えないんだもの。妙な厳戒態勢で、私たちが結婚式に列席できただけで奇跡だってパパが言っていたわ」
意外な情報にびっくりして、ジョゼは目の前の女の子に迫られているという妙な状況も、自分には好きな女性がいると告げることもすっかり意識から飛ばしてしまった。だから、最初にきっぱりと断るチャンスを失ってしまったのだ。それにエレクトラは、ものすごい美人というわけでもないが、表情が生き生きとしていて明るく、会話が楽しくて魅力的なので、好かれていることにジョゼが嬉しくないと言ったら嘘になった。
この旅に出て以来、エレクトラはことあるごとにジョゼと行動を共にしたがった。彼は、曖昧な態度を見せてはならないと思ったが、朝食の席がいつも一緒になってしまい、一緒に観光するときも二人で歩くことが増えて、周りも「あの二人」という扱いを始めているくらいなのだった。
「一体、何をしてきたのよ、そんなに濡れて」
「あの嵐でどうやったら濡れずに済むんだよ」
エレクトラは肩をすくめた。
「この台風の中、地下道を使わないなんて考えられないわ」
彼女が示した方向にはガラスの扉があり、人々が普通に出入りしていた。ホテルは地下道で地下鉄駅と結ばれていたのだ。ジョゼはがっかりした。
彼女はバッグからタオルを取り出すと、立ち上がって近づき、ジョゼの髪や肩のあたりを拭いた。
「日本では、水がポタポタしている男性は、いい男なんですって。文化の違いっておかしいと思っていたけれど、案外いい線ついているのかもしれないわね」
エレクトラの明るい茶色の瞳に間近で見つめられてそんなことを言われ、ジョゼはどきりとした。けれど、彼女はそれ以上思わせぶりなことは言わずにタオルを彼に押し付けるとにっこり笑って離れ、また美味しそうに日本茶を飲んだ。
「明日からは晴れるらしいわよ。金沢の観光のメインはお城とお庭みたいだから、晴れていないとね」
あの嵐はなんだったんだと呆れるような真っ青な晴天。台風一過というのだそうだ。 ジョゼは、まだ少し湿っているスニーカーに違和感を覚えつつ、電車に乗った。ただの電車ではない。スーパー・エクスプレス、シンカンセンだ。
「この北陸新幹線は、わりと最近開通したんですって。だから車両の設備は最新なのね」
エレクトラは、ジョゼの隣に当然のように座り、いつの間にか仕入れた情報を流した。彼は、ホテルや町中のカフェなどと同じように、この特急電車のトイレもまた暖かい便座とシャワーつきであることに氣づいていたので、なるほどそれでかと頷いた。
この国は不思議だ。千年以上前の建物や、禅や武道のような伝統を全く同じ姿で大切に継承しているかと思えば、どこへ行っても最新鋭のテクノロジーがあたり前のように備えてある。それは鉄道のホームに備えられた転落防止の扉であったり、妙にボタンの多いトイレの技術であったり、雨が降るとどこからか現れる傘にビニール袋を被せる機械であったりする。
クレジットカード状のカードにいくらかの金額を予めチャージして、改札にある機械にピタンとそのカードを押し付けるだけで、複数の交通機関間の面倒な乗り換えの精算も不要になるシステム。40階などという考えられない高層にあっという間に、しかも揺れもせずに運んでくれるエレベータ。
ありとあらゆる所に見られる使う側の利便を極限まで想定したテクノロジーと氣遣いは、この国では「あたりまえ」でしかないようだが、ジョゼたちには驚異だった。
それは、とても素晴らしいことだが、それがベースであると、「特別であること」「最高のクラスであること」を目指すものには、並ならぬ努力が必要となる。
ジョゼは、街で一二を争う有名カフェで働いていて、だから街でも最高のサービスを提供している自負があった。ただのウェイターとは違うつもりでいたけれど、この国からやってきた人にとっては、ファーストフードで働く学生の提供するサービスとなんら変わりがないだろう。
彼女は、ミュンヘンで彼のことを好きだと言った。あまりにもあっさりと言ったから、たぶん彼の期待したような意味ではないんだろう。知り合った時の小学生、弟みたいな少年。あれから月日は経って、背丈は追い越したけれど、年齢は追い越せないし、住んでいる世界もまるで違う。もともとはお金持ちのお嬢様だったとまで言われて、なんだか「高望みはやめろ。お前とは別の次元に住んでいる人だ」と天に言われたみたいだ。そして、彼女の故郷に来てみれば、理解が深まるどころか民族の違いがはっきりするばかり。
「なんでため息をついているの?」
エレクトラの問いにはっとして意識を戻した。「なんでもない」という事もできたけれど、彼はそうしなかった。
「この国と、僕たちの国って、大きな格差があるなって思ったんだ」
そういうと、彼女は眉をひとつ上げた。
「格差じゃないわ。違いでしょう。私は日本好きよ。旅行には最高の国じゃない。まあ、同化していくのは難しそうだから、住むにはどうかと思うけれど。結局のところ、物理的にも精神的にも、この国と人びとは私たちからは遠すぎるわよね」
台風は秋を連れてくるものらしい。それまでは夏のようなギラギラとした陽射しだったのに、嵐が過ぎた後は、真っ青な空が広がっているのに、どこか物悲しさのある柔らかい光に変わっていた。
金沢城の天守閣はもう残っていない。もっとも堂々たる門や立派な櫓、それに大きく整然としたたくさんの石垣があるので、エキゾティックなお城を見て回っている満足感はある。
何百年も前の日本人が、政治の中心とは離れた場所で、矜持と美意識を持って独自の文化を花咲かせた。それが「小さい京都」とも言われる金沢だ。同じ頃に、ジョゼの国では世界を自分たちのものにしようと海を渡り独自の文化と宗教を広めようとした。かつての栄誉は潰えて、没落した国の民は安い給料と生活不安をいつもどこかで感じている。
ジョゼたち一行は、金沢城を見学した後、隣接している兼六園を見学した。薔薇や百合や欄のような華やかな花は何ひとつないが、絶妙なバランスで配置された樹々と、自然を模した池、そして橋や灯籠や東屋など日本の建築がこれでもかと目を楽しませる。枯れて落ちていく葉も、柔らかい陽の光のもとで、最後の輝きを見せている。
「この赤い実は、
「こちらの黄色い花はツワブキといいます。茎と葉は火傷や打撲に対する湿布に使います。またお茶にすると解毒や熱冷ましにもなる薬用植物です」
ガイドが一つひとつ説明して回る花は、見過ごしてしまうほどの地味なものだが、どれも薬になる有用な植物ばかりだ。
「野草をただ生えさせておいたみたいに見えるのに、役に立つ花をいっぱい植えているのねぇ」
エレクトラが言った。
地味で何でもないように見えても、とても役に立つ花もある。そう考えると、没落した国の民、しがないウェイターでも、なんらかの役割はあるのかもしれない。それが
なんだかなあ。彼女の国に行ったら、いろいろな事がクリアに見えてくるかと思っていたのに、反対にますますわからなくなっちまった。ジョゼはこの旅に出てから20度目くらいになる深いため息をついた。
(初出:2016年11月 書き下ろし)
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【小説】雪降る谷の三十分
ご希望の選択はこちらでした。
*古代ヨーロッパ
*植物その他(苔類・菌類・海藻など)
*アペリティフまたは前菜
*乗用家畜
*ひどい悪天候
*カンポ・ルドゥンツ村在住キャラ
*コラボ (範子と文子の驚異の高校生活 より 宇奈月範子)
今回のリクエスト、どの方も全く容赦のない難しい選択でいただきましたが、ポールさんも例に漏れず。これだけ長く空いてしまったのも、書かせていただくからには原作を読まなくてはいけないと思ったからですが、「範子と文子の驚異の高校生活」さりげなくものすごい量があるんですよ。
誠に申し訳ないのですが、一つひとつが読み切りになっているのをいいことに、半分くらいまで読ませていただいた上で今回の作品を書かせいていただきました。ポールさん、もし「なんだよ、原作と違うこと書くなよ」ということがありましたらご指摘いただけるとありがたいです。
今回のストーリーは、その中でこの二本を元ネタに書かせていただきました。(と言っても、大して絡んではいませんが)
範子と文子の三十分一本勝負:FIGHT・6
範子と文子の三十分一本勝負:FIGHT・92
今回もまた、盛り上がりもなければオチもない妙な作品になっていますが、カンポ・ルドゥンツ村って、そうそうめくるめく話のあるような場所じゃないんですよ。大昔も今も(笑)
なお、77777Hitの記念掌編はこれでお終いですが、「タッチの差残念賞+お嬢様のご結婚祝い」のかじぺたさんと「80000Hitぴったり踏んだで賞」の彩洋さんのリクエスト、これも近いうちに発表させていただきます。
雪降る谷の三十分
- Featuring 「範子と文子の驚異の高校生活」
その谷は豊かな森林に覆われて、射し込む陽の光は神々しいほどだった。澄んだ空氣はぴんと張りつめて、「祝福された聖なる土地」に降り立ったのではないかと、二人はほんの一瞬思った。そして、こういう光景はテレビや映画で映像としてみる方がずっと好ましいと同時に結論づけた。
「ここ、寒いわね、範ちゃん」
「文子。そういう事実は、わざわざ口にしなくてもいいのよ」
「でも、私たち、冬用の衣装着ていないよ」
レザーアーマーにショートソードという格好の範子は、なぜかショートパンツ姿で太ももが露出している。本来は戦闘するなら全身を覆うべきで、そんな妙なところの装備を弱くするはずはないのだが、この衣装は日本国のゲーマーたちの目を楽しませるためのデザインなので、実用とは関係ないし、ましてや防寒は考慮されていない。
ローブに杖という格好の文子の方は、少しはマシだったが、このローブはコスプレ用に売られているチープな作りで、残念ながらやはり防寒を目的として制作されたものではないようだった。
宇奈月財閥の後継者であるお嬢様範子と、その友人である下川文子は、私立の紅恵高校および作者の都合でどこかの謎の学校または学校ですらない場所に神出鬼没に登場する女子学生である。氣の毒なことに、二人は予告なしで、台本すら渡されずに、どこかに放り出されるだけでなく、その事態に30分でオチをつけることを要求されていた。
だが、その小説『範子と文子の驚異の高校生活』は、既に完結した。ようやく安穏の生活を手に入れたはずの二人は、またしてもこんな出立ちで、高校生活とはあきらかに縁のなさそうな森林に出没したことに、明らかに不満を持っているようだった。
「まず状況を把握しなくちゃいけないわ。この植生から推測すると、かなり北の方だと思う」
「それはこの寒さからも予想がつくわよ、範ちゃん」
文子の指摘を無視して、範子はショートソードで当たりの草を掻き分けた。そして、どうやら丘の上のようなところにいることと、とてもそうは見えないけれど、そこが道であることを確認した。
「う~ん。まずいわね」
「なにがまずいの。範ちゃん」
「みてご覧なさいよ、文子。あの先にある集落」
「あれは、なんだったけ、えっと」
「竪穴式住居。今どき北半球にあんな文明未発達の集落があるわけないし、これって……」
「タイムスリップ?」
「もしくはパラレルワールドよね。そのこと自体はどうでもいいけれど、あんな家にセントラルヒーティングがあると思う?」
「……。ないと思う」
とはいえ、寒空に立っていれば自動的に暖かくなるわけでもない上、どうも雲行きが怪しくてこのままでは更に震える羽目に陥りそうだったので、二人はその道を下り始めた。
「範ちゃん、待ってよ」
「今度は何?」
「このローブがあちこちの枝に引っかかってそんなに早く歩けないのよ。なんなの、ここは」
「しょうがないわね」
範子は、ショートソードを振って、枝や草を切りひらきながら歩き始めた。そうやっているとわずかでも暖かくなるように思った。
「○×△※◆」
野太い男の声がしたので、二人は動きを止めた。後にいつの間にかロバを連れた男が立っていた。何種類かの獣の皮を繋ぎ合わせたような外套を身につけていて、濃いヒゲのある浅黒い男だった。
「範ちゃん! ガイジンさんだよ。なんか言ってる」
「文子。その情報は、わたしには必要ないわ。この場にいるんだから」
「でも、範ちゃんならなんて言っているかわかるんじゃないかなって」
「全然わかんないわよ。英語でも、イタリア語でも、フランス語でも、スペイン語でもないし、ラテン語ですらないわ。一応、ラテン語で訊いてみようかな - 《ラテン語、話せます?》」
男は、厳しい顔をして答えた。
「《なんだ、お前ら、ローマ市民か!》
「つ、通じた……。でも」
「でも、何、範ちゃん?」
「どうやら怒っているみたい。ラテン語は使わない方がよかったのかしら」
「え。でも、その人も使っているんでしょう」
「言われてみれば、そうよね。ローマ市民がどうのこうのってことは、ここはローマ帝国時代なのかしら。その前提で話を進めてみようかしら」
範子は日本人特有の意味のない微笑を浮かべながら、まったく好意を感じられないヒゲ男に語りかけた。
「《ローマ市民じゃないわ。あなたの言葉がわからないから、これなら通じるんじゃないかと思っただけ。私は範子、こちらは文子。旅の間に迷子になったみたいなの。あそこの集落はあなたの村なのかしら》」
「《その通りだ。俺はジヴァン。そのルドゥンツに住んでいる行商人だ》」
「行商人? 狩人かと思った。《何を商っているの?》」
「《いろいろ扱うが、メインは火打石や金属、それに塩だな。お前の持っている剣はなんだ?》」
「剣のこと訊かれちゃった。これってコスプレ用だからずいぶん軽いけれどプラスチック?」
「範ちゃん、この時代にプラスチックとか言わない方がいいんじゃないの?」
「言わないわよ。《よくわからないの。どっちにしても戦いには向かないチャチな剣よ》」
ジヴァンは、ますます難しい顔をして、二人を眺めた。見れば見るほど、話せば話すほど怪しくなるのだろう。でも、高校の制服で登場しなかっただけでもマシな方だ。
「《本当にローマからの回し者じゃないんだろうな。俺たちは、コソコソ嗅ぎ回られるような悪いことはやっていないぞ。それに何度言われてもびた一文払わんからな》」
「《あ~、政治状況がわからないんだけれど、ここはローマの属州なのかしら》」
ジヴァンは、ムッとして手に持っている棒で殴ろうとしたが、範子がそれをショートソードで防ごうともせずに、単に逃げ腰になったので拍子抜けしたらしかった。
「《本当に何もわかっていないようだな。ここはラエティアだ。ローマの奴らはどんどん自分たちの陣地を増やして、ラエティア州などと自分たちのものにしたつもりかもしれんが、寒いのが苦手らしく、このあたりにはまだ来ないのさ。俺たちの先祖であるティレニア海の輝ける民はもともとローマの奴らに追い出されてここに来たんだ。ようやく見つけた安住の地をまた奪われてなるものか》」
文子は範子をつついた。通訳しろという意味だ。
「おそらくここはドイツ南部からスイス東部のどこかね。この地形だとアルプスの麓、グラウビュンデン州あたりじゃないかしら。ローマ人に追い出されたエトルリア人かなんかの子孫の集落なんじゃないかな。ルドゥンツ村の行商人ジヴァンさんだって」
「ふ~ん。セントラル・ヒーティングの件は、やっぱり無理そうよね」
「無理無理。火打石とか言っているし。《すみませんが、すぐに嵐が来そうな感じだし、更にいわせてもらうと、とっても寒いんだけど》」
「《今日は、この季節にしたら暖かいじゃないか。見ろよ、これから雪がくるんだぞ》」
「《雪が降るのに何で暖かいのよ》」
「《わからないヤツだな。晴れていたらもっとずっと寒いだろ。そもそも、お前がそんな恰好をしているから寒いんだろう》」
現代のスイスでも、真冬の晴天には-10℃を下回ることが多く、雪が降りそうな天候では摂氏0℃くらいまで氣温が上昇するのだが、日本の首都圏に住んでいる範子たちにとっては「雪=とっても寒い」なのだった。
男が指摘した通り、範子は地球温暖化が進む前の、いや小氷河期と言っても構わない古代アルプス地方にふさわしい服装をしていない。が、ゲーマー好みのコスプレなどと言っても理解は得られないので、こほんと咳をして誤摩化すと畳み掛けた。
「《とにかく、あなたの村で暖をとらせてくれないかしら。お礼に、これをあげるから》」
そういって、文子のマントを留めているプラスチック製のブローチを示した。ちょっと見には宝石のように見えなくもないし、そもそもプラスチック製のブローチが宝石よりも価値がないことはバレっこない。
ジヴァンはちらっとブローチを眺めて、素早く何かを計算したようだった。そして、ついて来いと顔で示して、ルドゥンツの集落に入っていった。
一番手前の家に入ると、ロバを杭に繋ぎながら大きな声を出した。
「○×△※◆」
おそらく、今戻ったぞとか、客を連れてきたなどと言ったのであろう。竪穴式住居の中からすぐに女性が顔を出して、何かを言った。
「《これが妻のミーナだ。ようこそと言っている。悪いが、その物騒な武器はこの入口に立てかけて中に入ってくれ》」
範子にとっては、このショートソードは杖以上の役割は果たせないので、大人しく言う通りにして中に入った。中は、思っていたよりもずっと暖かくて、二人はホッとした。建物の真ん中に炉があって火が赤々と燃えている。火には串刺しになった肉類がくべられていて、バーベキューのようないい香りがしている。そして、その側にある平らな石にはピタパンかナンのようなパンが並べられていた。
「ラッキー! 暖かいだけじゃなくて、なにか美味しいものも食べられるみたい」
文子は嬉しそうに炉の前にぺたっと座った。ミーナはニッコリと笑って、まずはその謎のパンを手渡してくれた。
「熱っ。いただきま~す」
暖かさに幸せになりながら、ぱくついた二人は、すぐに目を白黒させた。
「何これ。苦い……」
文子は少し涙目だ。範子はジヴァンに訊いた。
「《これ、何ですか》」
「《これを挽いて作ったパンだよ》」
彼が指差した先には、淡い栗色の海藻みたいな外見の苔が山積みになっていた。
「何これ」
「えっと。地衣類みたいね。なんだっけ、Cetraria islandica。アイスランドゴケともいうエイランタイが日本での名称だと思うわ。解熱や腹痛のときに使う民間薬としても有名なのよ」
「ええっ。そんなの食べてお腹大丈夫?」
「大丈夫じゃないかも。まあ、北ヨーロッパでは現代でもパンにしたりするって聞いたことがあるから、こうやって食べるのは問題ないとしても、こんなに苦いのにたくさん食べるのはちょっとね。でも、お肉もそろそろ焼けるみたいだし……」
そう言った途端、轟音とともに突風が吹いて、木のドアがばたんと開いた。雪のつむじ風が渦巻き、二人の高校生を巻き込むと、その場から連れ去った。
「ええ~、範ちゃん、お肉まだ食べていないよ~。あのまずい前菜だけで終わりなんてひどすぎる」
「しかたないわよ、文子。もう30分経ってしまったんだもの。どうしてこのシリーズって30分限定なのかしら!」
約束のブローチを渡すこともなく、大事なパンをただ食いしたあげくに、礼も言わずに消えてしまった二人の女に、ジヴァンは腹を立てた。が、よそ者を安易に家に連れてくるからだと妻に怒られて終わった。ブツブツ言いながら戸締まりをした時に、雪にまみれてプラスチック製の子供騙しなショートソードが残っているのを発見した。
見かけはなかなか派手だが戦いには全く役に立たないこのコスプレ用の剣が、当時のヨーロッパ中をババ抜きのババように売り渡されて、最終的にイギリスのストーンヘンジのあたりで埋められたあげくに後日発掘され、謎のオーパーツとして大英博物館に所蔵されることになるのは、もう少し後の話である。
(初出:2016年10月 書き下ろし)
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【小説】夜のサーカスとガーゴイルのついた橋
ご希望の選択はこちらでした。
*現代・日本以外
*薬用植物
*一般的な酒類/もしくは嗜好飲料
*橋
*ひどい悪天候(嵐など)
*「夜のサーカス」関係
今回のリクエストは、先週発表したものに引き続き「夜のサーカス関係」でした。もともとこの「夜のサーカス」はスカイさんにいただいたリクエスト掌編が発展してできたお話。とてもご縁が深い作品なのです。今回の舞台は「現代・日本以外」ですので、いつものようにイタリアでメインキャラたちと遊んでもよかったのですが、せっかく団長とジュリアがいなくなっているのですから、たまにはサーカスの連中も海外に行かせるか、ということでドイツにきています。
何しにきたかは、読んでのお楽しみ。題名にもなっているガーゴイルとは、よくヨーロッパの建築についている化け物の形をした石像のことです。私はガーゴイルが結構好き。変なヤツです。
なお、この作品は外伝という位置づけですが「夜のサーカス」本編のネタバレ満載です。本編の謎解きをしたい方はお氣をつけ下さい。
![]() | 「夜のサーカス」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
夜のサーカス Circus Notte 外伝
夜のサーカスとガーゴイルのついた橋
そのキャンプ場は、みすぼらしい外観からの予想を裏切って、立派な設備が整っていた。例えば、カフェテリアにはかなり大画面のテレビがあって、いま話題のニュースも確認できた。
とはいえ、カフェテリアには大きなトラックの貨物室に乗ってやってきたイタリア人の集団がいるだけで、なぜ彼らがドイツ語放送のニュースを観て騒いでいるのか、カフェテリアの店番のハインツにはわからなかった。
一人だけドイツ語の達者な女がいて、ニュースをイタリア語に訳して伝えていた。この女だけがログハウスを借りていて、残りの集団はみなそれぞれ持ってきたテントに寝泊まりしていた。この辺りは自然が豊かで、湖で泳いだりサイクリングをしたり、一週間くらい滞在する客は他にもいるが、この連中ときたら朝も晩もカフェテリアでニュースばかりを観ている。だったらイタリアにいた方が面白いだろうにと彼は首を傾げた。だが、彼はイタリア語が全くわからなかったので、興味を失いクロスワードパズルを解くために新聞に意識を戻した。
アントネッラは、鋭い目つきでテレビを睨みながら、センセーショナルに報道されるいわゆる「アデレールブルグ・スキャンダル」の経過を説明していた。ミュラー夫妻殺人事件の公判に弁護士側の証人として登場したイェルク・ミュラー青年は、有名政治家ミハエル・ツィンマーマンこそがミュラー夫妻殺害の首謀者であると証言した。さらにアデレールブルグ財団設立をめぐるペテンの全容が公判で語られてしまったので、一大センセーションを巻き起こした。
ツィンマーマンの配下による攻撃から証人ミュラー青年を守るために、警察は24時間態勢の警護をつけ、さらにその滞在先は極秘とされていた。
「なんで僕たちにまで秘密なんだよ」
キャンプ場の閑散としたカフェテリアを見回しながら、マッテオは口を尖らせた。
「知らせれば、こうやってゾロゾロみんながついていき、最終的にヨナタンがチルクス・ノッテにいることがバレちゃうからでしょう」
アントネッラは非難の目を向けた。
「都合良く《イル・ロスポ》がデンマークへ行くって言うからさ」
マルコが笑った。馴染みの大型トラック運転手《イル・ロスポ》ことバッシ氏が、彼らをこの南ドイツの街まで連れてきてくれたのだ。そして、一週間後に再びイタリアへと連れ帰ってくれる約束になっている。
その場にいたのはマッテオだけでなく、ステラ、マルコ、エミーリオ、ルイージ、それに料理人ダリオまでいた。団長とジュリアが日本へ旅行に行き、チルクス・ノッテは珍しく一斉休暇になっていた。それで彼らは公判のために、シュタインマイヤー氏とともにドイツへと向かったヨナタンことイェルク・ミュラーを追ってドイツへやってきたのだ。ブルーノとマッダレーナも来たがったが、一週間ライオンたちを放置できないため、馬の世話も兼ねて二人は残っていた。
「それにしても、すごい天候になっちゃったわね」
ステラが、暗い外を眺めた。先ほどまでよく晴れていたのに、あっという間にかき曇り、大粒の雹が降り出したのだ。彼らは慌ててまずアントネッラのログハウスに向かったがすぐに6人もの人間が雨宿りするのは無理だとわかった。彼女の自宅同様、あらゆる物が床の上に散乱していたからである。
それで、ダリオが腕を振るった特製ごった煮スープの鍋を持って、このカフェテリアに飛び込んだというわけだった。カフェテリアの中は、とてつもなくいい香りで満ちていた。普段は持ち込みの飲食は禁止なのだが、店番のハインツにもこの絶品スープを振るまい、さらにビールを多目に注文することで目をつぶってもらうことに成功した。ハインツは、上機嫌でパンを提供してくれた。
食事が済むと、彼らはハインツに頼んでまたしてもテレビを付けてもらった。
「あっ、あれがツィンマーマンか!」
エミーリオが叫んだ。一同はテレビに意識を戻した。レイバンのサングラスをした背の高い男が、取材陣のフラッシュを避けながら裁判所の入口で待っていた黒塗りの車に乗る所だった。
あれがヨナタンを利用したあげくに殺そうとした悪い男! ステラは、その有名政治家を睨んだ。
報道規制が敷かれているのか、事件当時未成年だった証人のイェルク・ミュラー、現在ステラたちがヨナタンと呼んでいる青年は一切の報道で顔が明らかにされていない。一度だけ「法廷から滞在先向かう証人の車」を三流紙がスクープしようと追ったが、車の後部座席の窓にはカーテンがかかっていた。
ステラはそのスクープとは言えない新聞も買った。ステラが興味を惹かれたのは、その車が通っているのはとある石橋で、氣味の悪い生き物を模したガーゴイルがその柱についていた。そして、それは今朝彼女が散歩した、このキャンプ場から3キロほど離れた所にあった橋のものに酷似していたのだ。
もしかしてヨナタンもこの辺りに滞在しているのかしら。だったら、散歩の途中にばったりと出会ったりしないかな。
そのアイデアを告げると、アントネッラは少し厳しい顔をしてステラに言った。
「ねえ。そういう思いつきで、ヨナタンの居場所を突き止めようとなんてしていないわよね」
「逢えたらいいなって思っただけよ」
「でも、なぜ彼が誰にも居場所を知らせないか、わかっているでしょう? ツィンマーマンの配下は血眼になって、ヨナタンを亡き者にするか、ヨナタンに証言させないための策略を練っているの。万が一、あなたたちとヨナタンのつながりを悟られたりしたら、わざわざ危険を冒して証言をしようとしている彼の迷惑になるのよ」
そういわれると、ステラは自分がいかに思慮が浅かったか思い知らされて項垂れた。早く裁判が終わらないかな。こんなに長くヨナタンと離れているのは久しぶりなんだもの。
青空が戻ってくると、みな自分のテントに戻った。雹の被害を受けていなかったのは、木の下に張ったステラのテントだけだった。
他のみなが、テントを張り直して忙しそうだったので、ステラは水着の上にデニムのショートパンツとデニムシャツを着て、小さなリュックを背負うと川の方へと歩いていった。
例の化け物のようなガーゴイルが沢山ついている橋の方をちらりと眺めた。ちょうど橋の向こうに黒塗りの車が2台停まって、黒いサングラスをして、黒い革ブルゾンや黒い背広を着た男たちが降りてきた。ステラはそっと身を隠すと、男たちの様子を伺った。
「この辺だ。よく探せ!」
一人の男が横柄な口調で命令していた。きっとあの悪者の手下たちだわ。ヨナタンを探して危害を加えようとしているのね。ステラは下唇を噛んだ。
ステラは、そっと橋の下に移動すると、その裏側を腕の力だけでぶら下がりながら音を立てずに渡り始めた。川までは2mくらいあるが、ふだんサーカスのテントの上を飛び回っているステラには何でもなかった。無事に渡りきると、男たちに見つからないように身を屈めて車に近寄った。
2台の車を停めてあった所は、セイヨウオトギリソウの自生地だった。背が高いものは1m近くにもなるので、身を隠すのにも丁度よかった。レモンのような香りのする可憐な黄色い花を咲かせる草で、怪我をした時に外用したり、お腹の調子を整えるハーブティーに入れたりもする有用な植物だ。
この黄色い花は、ステラにはヨナタンとの思い出のある大事な花だった。それを無造作に車で踏みにじるなんて! ステラは「みていらっしゃい」と言うと、リュックからアーミーナイフを取り出すと、それぞれのタイヤをパンクさせた。
「なに、屋敷のようなものがあるって。本当か。あっちなんだな。よし、車で行くぞ」
その声が聞こえた時には、ステラはまた橋の下を伝わって向こう岸に戻っている途中だった。無事に渡りきると、いかにも今、泳ぎにきましたという風情で川の方へ降りて行った。2台ともパンクさせてあった黒い車は、男たちを乗せて発進した途端、変な方向に曲がり、そのままお互いに追突してしまった。
「変な話もあるものね」
シュタインマイヤー氏からの電話を切ったアントネッラが首を傾げていた。
「なにが変なのさ?」
マッテオが訊いた。
雹の降った日の二日後、思い思いに休暇を楽しんでいたチルクス・ノッテの面々は、再びキャンプ場のカフェテリアに集い、ダリオが即席で作ったラズベリーの絶品ジェラートに舌鼓を打っていた。もちろんハインツにも振る舞ったので、コーヒーが勝手に出てきた。
「ミハエル・ツィンマーマンの手下がね。あちこちでヨナタンのことを探していたんだけれど、二日前からこの辺りだけを重点的に探すようになったんですって。嗅ぎ付けられないように氣を付けろって言われたわ。でも、どうしてなのかしら。撒き餌はあちこちにしたのに」
「撒き餌ってなんのこと?」
エミーリオが、その場にいた全員の疑問を代弁した。アントネッラは肩をすくめた。
「ヨナタンの乗っている車のフリをした囮の車、バラバラの方向に走らせているのよ。ほら。この近くの特徴のある橋の写真もその一つ」
「え。あれって、囮の車だったの? ヨナタン、この辺にはいないの?」
ステラは驚いて訊いた。
「いないわよ。私もどこにいるかは知らないけれど、少なくともこの辺りじゃないことは知っているわ。でも、どうして、あいつらは、この辺りばかりを重点的に探すようになったのかしら?」
アントネッラの言葉にステラは申しわけなさそうに首を縮めた。
「もしかして、私のせいかも」
「ステラ? 何かやったの?」
「ええ。ちょっとね。見られていないはずだけれど、車をパンクさせちゃった」
アントネッラがため息をついた。
「本当に困った子ね。でも、おかげであいつらがヨナタンを襲う確率は限りなく小さくなったからいいかしら。悪いけれど、もう二度とそんなことしないでよ。私たちとヨナタンの関係を知られるわけにはいかないんだから」
「ええ。ごめんなさい。もうやらないわ」
ステラは内心すこしだけ嬉しかった。ヨナタンの身を守るのに貢献できたのだから。あとは足を引っ張らないように大人しくしていよう。
イェルク・ミュラーの証言で裁判は、シュタインマイヤー氏の目論んだ通りに進み、ミュラー少年の命を助けた被告のヨナタン・ボッシュは実刑を免れた。一方で、ミュラー夫妻の殺害容疑ならびにアデレールブルグ財団設立に関する詐欺への捜査が始まり、主犯としてミハエル・ツィンマーマンの逮捕状が取られた。
ステラたちの休暇も終わりが近づいていた。みなテントを畳んで撤収を済ませ、間もなく迎えにくる《イル・ロスポ》の貨物トラックを待った。ハインツは、ダリオと堅く握手をして、相伴に預かったおいしい料理の数々に対しての感謝を述べた。そして、「帰り道で飲んでくれ」とビールを2ダースも渡してくれた。
通販会社Tutto Tuttoのロゴの入った大きなトラックが、キャンプ場に停まった。車窓から《イル・ロスポ》がそのあだ名の通りひきがえるにそっくりの顔を見せて「乗りなさい」と告げた。
ヨナタンはいつ帰ってくるのかな。悪者たちにみつからないように、シュタインマイヤーさんがそのうちに届けてくれるんだろうか。早く逢いたいな。こっちではテレビでも、新聞でも、顔は見えなかったけれど、同じ国にいるだけで嬉しかったんだけれどな。ステラは後髪引かれる想いでしぶしぶトラックに乗った。
「早く帰らないと、マッダレーナとブルーノが怒るよな」
マルコが言った。そうよね。あの二人は、来ることもできなかったんだし、文句を言っちゃダメかな。ステラはしょんぼりして、トラックの荷台の扉を閉めた。トラックはすぐに発車した。
アントネッラが、ステラに言った。
「ほら、この大きな包みを開けてごらんなさい」
彼女の指差した先にはタンスの絵の描かれた大きな箱があった。「商品じゃないの?」と首を傾げたがよく見ると宛先は「チルクス・ノッテ」だった。ステラはドキドキしながらガムテープを剥がし始めた。マルコとエミーリオ、それにマッテオも続けて手伝いだした。開いた箱の中から、いつもの目立たないシャツとジーンズを身に着けた青年が出てきた。
「ヨナタン!」
みなが一斉に叫ぶと、チルクス・ノッテの道化師はニッコリと笑った。
「ただいま」
ステラは大喜びで彼に抱きついた。《イル・ロスポ》の運転するトラックは、サーカスの一団を乗せて、一路イタリアへと帰っていった。
(初出:2016年8月 書き下ろし)
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【小説】夜のサーカスとマリンブルーの輝き
ご希望の選択はこちらでした。
*現代日本
*野菜
*地元の代表的な酒/もしくは嗜好飲料
*公共交通機関
*夏
*「夜のサーカス」関係
*コラボ(太陽風シンドロームシリーズ『妖狐』の陽子)
今回のリクエスト、サキさんが指定なさったコラボ用のオリキャラは、もともとlimeさんのお題絵「狐画」にサキさんがつけられたお話なのですが、サキさんらしい特別の設定があって、これをご存じないと意味がないキャラクターです。というわけで、今回はご存じない方は始めにこちらをお読みになることをお薦めします。
山西左紀さんの 狐画(前編)
山西左紀さんの 狐画(後編)
そのかわり、私の方のウルトラ怪しい(っていうか、胡散臭い?)キャラクターは、「知らねえぞ」でも大丈夫です。
「夜のサーカス」はイタリアの話なんですけれど、現代日本とのことですので舞台に選んだのは、一応明石市と神戸市。でも、サキさんのお話がどことはっきり書かない仕様になっていますので、一応こちらもアルファベットにしています。前半の舞台に選んだのは、こちらのTOM-Fさんのグルメ記事のパクリ、もといトリビュートでございます。
![]() | 「夜のサーカス」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
夜のサーカス Circus Notte 外伝
夜のサーカスとマリンブルーの輝き
蒸し暑い夏の午後だった。その日は、僕の個展が終わったので、久しぶりの休みを取りA市方面へ行った。長いほったらかしだった時間の埋め合わせをするように、出来る限り彼女の喜ぶデートがしたかった。
ようやく僕が出会えた理想の女性。思いもしなかったことで怒らせたり泣かせてしまったりもしたけれど、誤解は解けて、僕たちはとても上手くいっている。少なくとも僕はそう思っている。
今ひとつ僕の言葉に自信がないのは、陽子にどこかミステリアスな部分があることだ。もちろん、僕が一度経験した、夢のような体験に較べれば受け入れられる程度に謎めいているだけだけれど。
朝食をとるにはとても遅くなってしまったので、僕たちはブランチをとることにした。彼女の希望で、A市に近い地元で採れた五十種類以上の野菜を使ったビュッフェが食べられるレストランを目指した。
そこは広大な敷地、緑豊かな果樹園に囲まれている農作業体験施設の一部で、その自然の恵みを体で感じることが出来る。都会派でスタイリッシュな陽子が、農業や食育といったテーマに関心があることを初めて知った僕は、戸惑いを感じると同時に彼女の新しい魅力を感じて嬉しくなった。
ビュッフェに行くと、僕はどうしても必要以上に食べたくなってしまうのだが、薄味の野菜料理なのでたとえ食べ過ぎてもそんなに腹にはこたえない。もっとも大量に食べているのは僕だけで、陽子はほんのわずかずつを楽しみながら食べていた。そして、早くもコーヒーを飲みながら静かに笑った。
「はじめての体験って、心躍るものね」
「初めて? ビュッフェが?」
彼女は、一瞬表情を強張らせた後でにっこり微笑むと「ここでの食事が、ってことよ」と言った。それは当然のことだ。馬鹿げた質問をしてしまったなと、僕は反省した。
そのまま農作業体験をしたいのかと思ったら、彼女は首を振って「海に行って船に乗りたいわ」と唐突に言った。
海はここから車で三十分も走れば見られるが、船に乗りたいとなると話は別だ。遊覧船のあるK港まで一時間以上かけていかなくてはならない。だが、今日、僕は彼女の願いを何でも叶えてあげたかった。
「よし。じゃあ、せっかくだから、特別におしゃれな遊覧船に乗ろう」
「おしゃれな遊覧船?」
「ああ、クルージング・カフェといって、美しいK市の街並を海から眺めながら、洒落た家具の揃ったフローリングフロアの船室で喫茶を楽しむことが出来る遊覧船があるんだ。あれなら君にも満足してもらえると思う」
K市の象徴とも言える港は150年の歴史を持つ。20年ほど前に起こった大きな地震で被害を受けた場所も多かった。港では液状化した所もあったが、今では綺麗に復旧している。災害の爪痕は震災メモリアルパークに保存され、その凄まじさを体感できるようになっているが、そこからさほど遠くないクルーズ船乗り場の近くにはショッピングセンターや観覧車などがある観光名所になっている。
僕は陽子をエスコートしてチケットを購入すると「ファンタジー号」ヘと急いだ。船は出航寸前だったからだ。この炎天下の中、長いこと待たされるのはごめんだ。
なんとか甲板に辿りつくと、この暑さのせいでほとんど全ての乗客は船内にいた。ところが、見るからに暑苦しい見かけの男が一人、海を眺めながら立っていた。
その男は外国人だった。赤と青の縞の長袖の上着を身に着けていて、大きな帽子もかぶっていた。くるんとカールした画家ダリのような髭を生やしていて、僕と陽子を見ると丁寧に帽子を取って大袈裟に挨拶をした。
「これは、なんと美しいカップルに出会えた事でしょう、そう言っているわ」
陽子が耳打ちした。僕は、陽子がこの英語ではない言語を理解できるとは知らなかったので驚いて彼女を見つめた。陽子は「イタリア人ですって」と付け加えた。
怪しいことこの上ない男は、それで僕にはイタリア語がわからず、陽子にだけ通じていることを知ったようだった。全く信用のならない張り付いた笑顔で、たどたどしい日本語を使って話しだした。
「コノコトバ ナラ ワカリマスカ」
僕は、どきりとした。かつて僕が体験した不思議なことを思い出したのだ。人間とは考えられない異形の姿をしたある女性(異形であっても女性というのだと思う)を、僕は一時期匿ったことがあるのだが、その獣そっくりの耳を持った女性が初めて僕に話しかけてきた時、「コノコエデツウジテイル?」と言われたのだ。
僕は、この人は日本語も話せるのか感心しながら「日本語がお上手ですね」と答えてみた。すると、男は曖昧な微笑を見せてすまなそうに英語で言った。
「やはり、日本語でずっと話すのは無理でしょうな。英語でいいでしょうか」
僕は、英語ならそこそこわかる上、たどたどしい日本語よりは結局わかりやすいので、英語で話すことにした。
「日本にいらしたのは観光ですか?」
「ええ。私はイタリアで小さいサーカスを率いているのですが、こともあろうに団員の半分が同じ時期に休みを取りたいと言い出しましてね。それで、まとめて全員休みにしたのですよ。演目が限られた小さな興行で続けるよりは、全員の休みを消化させてしまった方がいいですからね。それで生まれて初めて日本に来たというわけです」
サーカスの団長か。だからこんな派手な服装をしているのか。
「それにしても暑くないのですか? そんな長袖で」
「私はいつ誰から見られてもすぐにわかるように、常に同じでありたいと思っているのですよ。だからトレードマークであるこの外見を決して変えないというわけなのです」
変わった人だ。僕は思った。
「外見を変えない……。変えたら、同じではなくなるなんてナンセンスだわ」
陽子が不愉快そうに言った。すると、サーカスの団長といった男は、くるりとしたひげを引っ張りながらにやりと笑い、陽子の周りをぐるりと歩いた。
「そう、もちろん服装を変えても、中身は同じでしょう。ごく一般的な場合はね」
「なんですって?」
男は、陽子には答えずに、僕の方に向き直ると怪しい笑顔を見せた。
「だまされてはいけません。美しい女性というものは、化けるのですよ、あなた」
「それは、どういう意味ですの」
陽子が鋭く言った。
「文字通りの意味ですよ。欲しいものを手に入れるために、全く違う姿になり、それまでしたことのない経験を進んでしたがる。時には宝石のような涙を浮かべてみせる。我々男にはとうていマネの出来ない技ですな」
「聞き捨てならないわ。私のどこが……」
言い募る陽子の剣幕に驚きつつも、僕はあわてて止めに入った。
「この人は一般論を言っているだけだよ。僕は、少なくとも君がそんな女性じゃないことを知っている」
そういうと、陽子は一瞬だけ黙った後に、力なく笑った。
「そう……ね。一般論に激昂するなんて、馬鹿馬鹿しいことだわ。ねぇ、キャビンに入って、アイスクリームでも食べましょう」
その場を離れて涼しい船内へと入ろうとする二人に、飄々とした声で怪しい男は言った。
「では、私もご一緒しましょう」
陽子は眉をひそめて不快の意を示したが、そんなことで怯むような男ではなかった。それに、実のところ空いているテーブルはたった一つで、どうしてもこの男と相席になってしまうのだった。僕は黙って肩をすくめた。
ユニフォームとして水兵服を着ているウェイトレスがにこやかにやってきて、メニューを示した。
「いらっしゃいませ。何にいたしましょうか」
「何か冷たいものがいいな。陽子、君はアイスクリームがいいと言っていたよね。飲み物は何がいい?」
「ホットのモカ・ラテにするわ」
僕は吹き出した汗をハンカチで拭いながら、驚いて陽子を見た。ふと同席の二人を見ると、どちらも全く汗をかいた様子がない。いったいどういう事なんだろう。
「私は、このビールにしようかな。こちらの特別メニューにあるのはなんですかな」
サーカス団長の英語にウェイトレスはあわてて、僕の方を見た。それで僕はウェイトレスの代わりに説明をしてやることにした。
「ああ、期間限定で地ビールフェアを開催しているんですよ。このH県で生産しているビールですよ。城崎ビール、メリケンビール、あわぢびーる、六甲ビール、有馬麦酒、山田錦ビール、幕末のビール復刻版、幸民麦酒か。ううむ、これは迷うな。どれも職人たちが手作りしている美味いビールですよ」
「あなたがいいと思うのを選んでください」
そういわれて、僕は悩んだが、一番好きな「あわぢびーる」を選んで 二本注文した。酵母の生きたフレッシュな味は、大量生産のビールにはない美味しさなのだ。
「なるほど、これは美味いですな」
成り行き上、乾杯して二人で飲んでいる僕に陽子が若干冷たい視線を浴びているような氣がして僕は慌てた。
「陽子、君も飲んでみるか?」
「いいえ、私は赤ワインをいただくわ」
陽子は硬い笑顔を僕に向けた。結局、クルーズの運行中、謎の男はずっと僕たちと一緒にいて、陽子の態度はますます冷えていくようだった。
下船の際に、さっさと降りて行こうとする陽子を追う僕に、サーカスの団長はそっと耳元で囁いた。
「言ったでしょう。女性というのは厄介な存在なのですよ」
誰のせいだ、そう思う僕に構わずに彼は続けた。
「彼女のことは、放っておいて、どうですか、私と今晩つき合いませんか?」
僕は、心底ぎょっとして、英語がよくわからなかったフリをしてから彼に別れを告げ、急いで陽子を追った。
彼女は僕の青ざめた顔を見て「どうしたの」と訊いた。
「どうしたもこうしたも、あの男、どうやら男色趣味があるみたいで誘ってきた。女性を貶めるようなことばかり言っていたのは、それでなんだな」
それを聞くと、陽子は心底驚いた顔をした。
「まあ……そういうことだったのね、わたしはてっきり……」
「てっきり?」
彼女は、その僕の質問には答えずに、先ほどよりもずっとやわらかくニッコリと笑った。
「なんでもないわ。ところでせっかくだから、そこにあるホテルのラウンジに行かない? もっと強いお酒をごちそうしてよ」
「いいけれど、僕は車だよ」
「船内でもうビールを飲んでしまったでしょう。あきらめなさい」
僕は予定していなかった支出のことを考えた。海を眺める高層ホテルの宿泊代ってどれだけするんだろう。それでも、誰よりも大切な陽子が喜ぶことなら……。
Kの港は波もない穏やかな海のマリンブルーの輝きに満ちていた。
(初出:2016年8月 書き下ろし)
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*中世ヨーロッパ
*薬用植物
*一般的な酒類/もしくは嗜好飲料
*乗用家畜(馬・ロバ・象など)
*雨や雪など風流な悪天候
*「森の詩 Cantum Silvae」関係
中世ヨーロッパをモデルにした架空世界のストーリー『森の詩 Cantum Silvae』は、魔法やかっこいい剣士など一般受けする要素が皆無であるにも関わらず、このブログを訪れる方に驚くほど親しんでいただいているシリーズです。他のどの作品にもまして、地味で活躍しない主人公よりもクセのある脇役たちが好かれるので、勝手にその個性の強い脇役たちが動き出して続編がカオスになりつつあります。
今回、limeさんに「森の詩 Cantum Silvae」関連でとのリクエストをいただきましたので、独立したストーリーでありつつ、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」で拾えなかった部分と、続編「森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠」に繋げる小さいスピンオフを書いてみました。
ここに出てくる兄妹(馬丁マウロと侍女アニー)以外のキャラクターは全て初登場ですので、「知らないぞ」と悩まれる必要はありません。また、マウロとアニーの事情も全部この掌編の中で説明していますので、本編をご存知ない方でも問題なく読めるはずです。
出てくる修道院はトリネア侯国にあるという設定ですので、センヴリ王国(モデルはイタリア)をイメージした舞台設定になっていますが、この修道院長はドイツに実在したヒルデガルド・フォン・ビンゲンという有名な女性をモデルに組立てています。
そして《ケールム・アルバ》という名前で出てくる大きな山脈のモデルはもちろん「アルプス」です(笑)
【参考】
![]() | 「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む あらすじと登場人物 |
森の詩 Cantum Silvae 外伝
森の詩 Cantum Silvae 外伝
旅の無事を祈って
時おり子供のような天真爛漫さを見せるその娘を、エマニュエル・ギースはいつも氣にしていた。彼は、ヴァレーズの下級貴族の三男で受け継ぐべき領地や財産を持っていなかったが、生来の機敏さと要領の良さでルーヴランの王城に勤めるようになってからめきめきと頭角を現し、バギュ・グリ候にもっとも信頼される紋章伝令長官アンブローズ子爵の副官の地位を得ていた。
同郷のその娘は、とある最高級女官の侍女だった。森林管理官の姪で両親を早くに失ったので兄と二人叔母を頼り、その縁で王城に勤めていた。健康で快活なその娘のことを好ましく思い、彼はいつもからかっていた。
「なんだ。そんなにたくさんの菓子を抱えて。食べ過ぎると服がちぎれるぞ」
「これは私が食べるのではありません。里帰りのお土産です」
「おや、そうか。楽しみすぎて戻ってくるのを忘れるなよ」
「まあ、なんて失礼な。私は子供じゃないんですから! ギース様だって侯爵様の名代としてペイ・ノードへいらっしゃるんでしょう。あなた様こそ遊びすぎて戻ってくるのを忘れないようになさいませ」
彼女のぷくっと膨らんだ頬は柔らかそうだった。触れてみたい衝動を抑えながら、彼はもう少し近くに寄って、こぼれ落ちそうになっている菓子を彼女が抱えている籠の中に戻してやった。
「一刻、家に戻るそなたと違って、私は雪と氷に閉ざされた危険な土地ヘ行くのだぞ。長い旅の無事を祈るくらいの心映えはないのか?」
娘は不思議そうに彼を見上げて言った。
「ギース様ったら、あなた様の槍はあちこちの高貴な奥方さまから贈られたスダリウム(注・ハンカチのような布)でぎっしりじゃないんですか?」
「まさか。私はそんなに浮ついてはいないよ」
「まあ。槍が空っぽなんて、かわいそうに」
彼女は楽しそうに言うと、籠を彼に持たせると懐から白いスダリウムを取り出して彼の胸元に無造作に突っ込んだ。
「これでもないよりはマシでしょう? あなた様の旅の安全を!」
屈託のない笑顔を見せてくれたその娘が、捨て石にされてその主人であった女官とともに異国に送り込まれたのを聞いたのは、彼がペイ・ノードから戻ってきた後だった。
マウロは北側にそびえる白い山脈を見上げた。白く雪を抱いたそれは、グランドロンやルーヴランといった王国と、センヴリやカンタリア王国のような南の地域を分ける大きな山脈だ。あまりに高く、壮大で、神々しいために、人びとは「天国への白い階段(Scala alba ad caelum)」転じて《ケールム・アルバ》と呼んでいた。
彼は国王の使者であるアンブローズ子爵に連れられて、センヴリ王国に属するトリネア侯国の聖キアーラ女子修道院に来ていた。そこではルーヴラン王族出身の福者マリアンナの列聖審査が進んでいる。ルーヴラン国王はそれを有利に進めたかった。それで教皇庁から審査に派遣されているマツァリーノ枢機卿へ芦毛の名馬ニクサルバを贈ることにしたのだ。馬丁であるマウロはその旅に同行することを命じられた。
ただの馬丁でありながら、マウロは自分が非常に危うい立場にあることを自覚していて、できれば一刻も早くこの勤めから解放されたかった。
ルーヴラン王国は、永らくグランドロン王国から領地を奪回するチャンスを狙っていた。だが国力に差があり普通に戦を交えても勝てないことは火をみるより明らかだった。それでルーヴラン世襲王女との婚姻を隠れ蓑にグランドロン王国に奇襲をかけようとした。そのために偽の王女が送られたが、その奸計はグランドロンに見破られた。
マウロは親友ジャックと共に、偽王女にされた《学友》ラウラと恋仲であった教師マックスの逃亡を手伝った。死んだ振りをしていたマックスを地下に運んだジャックは身の危険を感じて早くに姿をくらましたが、マウロは侍女である妹アニーの身を案じて城に留まった。
ラウラ付きの侍女としてグランドロン王国に行ったアニーは一度は戻ってきたものの、バギュ・グリ侯爵に伴われて再びグランドロンへ行った。そして、それきり戻ってくることはなかった。
「勝手にいなくなった。おそらく死んだのだろう」
侯爵はそれ以上の説明をしてくれなかった。
心酔していたラウラの仇を討とうとしたアニーがグランドロン王の暗殺に成功すればいいと思って自由にさせたに違いないのに、それが失敗すればすぐ自分たちは関係ないと切り捨てる。身勝手で小心者の侯爵をマウロは憎いとすら思った。彼はすぐにも妹を捜しに行きたかったので退職したいと申し出たが、それも許されなかった。
ルーヴランやグランドロンのある北側の土地とセンヴリやカンタリアのある南側の土地の間に横たわる長く連なる山脈《ケールム・アルバ》にはすでに深く雪が降り、アセスタ峠を越えることが出来ないので、一行はバギュ・グリ領を通って海からトリネアに入った。
アンブローズ子爵は船室の奥でギースと話をしていた。
「バギュ・グリ侯は、あの馬丁を殺してくるようにと仰せだ」
「なぜですか」
「侯爵は、グランドロンとの関係を損なわぬために、ラウラ姫をはじめからフルーヴルーウー伯に嫁がせたということにしたいのだ。だからあの偽王女が実はラウラ姫だったことを知っているだけでなく、侯爵がフルーヴルーウー伯やグランドロン王を殺そうとした件も知っているあの兄妹を抹殺したいのだよ。王を狙った妹の方はグランドロンで秘かに始末されたらしいが」
ギースが下唇を秘かに噛んだが、アンブローズは氣づかなかった。
「とにかく、我々が戻るまでに殺らなくてはならない。だが、他の者たちには、我々が手を下したとわからぬようにせねば。この船の上から突き落としてしまえば簡単じゃないかね」
ギースは首を振った。
「それはなりません。あの馬の世話はただの召使いにはできません。馬を引き渡すまではお待ちください」
一行の中で軍馬ニクサルバの世話が出来るのはマウロだけだった。エサや水をやるだけではなく、マッサージをし、蹄鉄や足の状態などのチェックをするには熟練した馬丁である必要があった。アンブローズもそれは認めた。
「だが、あの者は我々を警戒しているだろう。馬がいなくなったら早々に逃げだすんじゃないのか」
ギースはしばらく考えていたが、やがて言った。
「私におまかせくださいませ。修道院長のマーテル・アニェーゼは、以前からの個人的な知り合いなのです。独自修道会を目指すあの方はルーヴラン王国の支援が喉から手が出るほど欲しいはず。私から上手く事を運ぶように手紙を書きましょう」
トリネア港につく少し前に、ギースは巨大な軍馬の世話をしているマウロの所へ行った。
「まもなく大役も終わりだな」
「ギース様」
「マウロ。アニーのことは、本当に氣の毒だった」
その言葉を聞くと、馬丁は青ざめて下を向いた。
「グランドロン王の暗殺を企てたのなら、許されるはずはありません。そうわかっていても、ラウラ様のご無念を思うと、何事もなかったように暮らすことは出来なかったのでしょう。止めることも、代わってやることもできなくて、本当にかわいそうなことをしました」
ギースは、マックスとラウラが生きて、しかもフルーヴルーウー伯爵夫妻の地位におさまっていることを口にはしなかった。今ここでそんな事を言ったら、無為に妹を失い、自らも命の危険に晒されているこの馬丁が怒りと絶望でどんな無茶を始めるかわからない。彼は黙って自分のすべきことを進めることにした。
「マウロ。お前は危険が迫っていることを知っているな」
「ギース様……」
「お前にチャンスをやろう。いいか。あの修道院で馬を渡す時に、具合が悪いと修道女に申し出よ。我々の誰もがいない所に案内されたら、この手紙を院長にお渡しするのだ。お前を助けて逃すように書いておいた」
「ギース様、なぜ? そんなことをしたらあなた様のお立場が……」
彼は、黙って懐から白い布を取り出した。そのスダリウムをマウロはよく知っていた。刺繍の不得意なアニーが彼にもくれたスダリウムにも、言われなければそうとは到底わからぬ葡萄とパセリの文様がついていた。妹がエマニュエル・ギースを慕っていたような氣配はまったくなかったので彼はとても驚いたが、少なくとも彼がそのスダリウムを肌身離さず持っている意味は明確だった。マウロは心から感謝して、その手紙を受け取った。
アンブローズ子爵の一行は、華麗な馬具を身につけたニクサルバを連れて修道院へ入った。大人の身丈の倍近くもあるその軍馬は、さまざまな戦いで名を馳せ、諸侯の垂涎の的だった。その堂々とした佇まいは、馬には目のない枢機卿をはじめとした人びとの賞賛を浴びた。
長い退屈な引き渡しの儀式の後、修道院の食堂で枢機卿と子爵の一行、そして修道院長マーテル・アニェーゼが午餐を始めた。マウロは、ギースに言われた通りに具合が悪いと若い尼僧に申し出た。
粗相をされると困ると思ったのか、尼僧はすぐにマウロを案内し、中庭に面した静かな部屋に案内した。
「横になられますか。ただいまお水をお持ちします」
マウロはあわてて声を顰めて言った。
「あの、具合の方は問題ないのです。実は、伝令副官のギース様から、他の同行者に知られぬように院長にお渡しすべき手紙を預かっているのです」
それを聞くと尼僧は驚いたが「わかりました」と言って出て行った。
大きな扉が閉められ、嘘のように静かになった。中庭にある泉ではチョロチョロと水音が響いていた。冷え冷えとしていた。マウロはこれからどうなるのだろうと不安になった。逃げだしたことがわかれば子爵はすぐに追っ手をよこすだろう。そうすれば殺すことももっと簡単になる。貴族でもなければ、裕福な後ろ盾もない者の命は、軍馬のたてがみほどの価値もない。
そうでなくても、土地勘も友人もないトリネアでどこに逃げればいいというのだろう。追っ手を恐れながらどんな仕事をして生きていけばいいというのだろう。道から外れた多くの貧しい者たちのように、じきに消え失せてしまうのだろうか。
妹と同じように、この世からいなくなってもすぐに忘れられるのだろう。彼はアニーにもらったスダリウムを取り出して眺めてから目の所へ持っていった。
「何をメソメソしているんだ」
張りのある声がして、振り返ると戸口の所に華奢な少年が立っていた。ここにいるからには修道院つきの召使いなのだろうが、ずいぶん態度が大きい。

このイラストの著作権はうたかたまほろさんにあります。無断転用は固くお断りします。
「なんでもない。君は誰だ。院長はいらしてくださらないのか」
「私はジューリオだ。院長は頃合いを見て抜け出してくるだろう。あの枢機卿は酒が入るとしつこいんだ。上手くあしらわないと列聖審査にも関わるし、大変なんだぞ」
「そうか。君は、ここで働いているのか。使用人にしては、ルーヴラン語、うまいな」
「トリネアの言葉はセンヴリの言葉よりもルーヴランの言葉に近いんだ。これは普段話している言葉さ。それに、私はここで働いているわけではない」
「じゃあ、なぜここにいるんだ? ここは女子修道院だろう?」
「マーテルお許しがあってここには自由に出入りできるのさ。それよりもお前こそ何しにきたんだ」
「マーテル・アニェーゼに手紙を渡すためだ」
「どの手紙だ、見せてみろ」
「そんなのダメだよ。それに君は読み書きが出来るのか」
ジューリオと名乗った少年は口を尖らせた。
「失礼な。詩を作ったりするのは得意じゃないが、手紙を読むくらいなんでもないぞ。どのみちマーテルに言えば、私に見せてくれるに決まっているんだぞ。いいから見せてみろ」
そう言われたので、マウロは懐から手紙を出して彼に渡した。マーテルがどんな反応をするのかわからなかったし、もしかしたらこの少年が逃げる時になんらかの手助けをしてくれるかもしれないと思ったのだ。ジューリオは笑って受け取ると丁寧に手紙を開いた。だが、手紙を読んでいるうちに眉をひそめて真剣な顔になった。マウロは不安な面持ちでそれを見つめた。
「なんて書いてあるんだ? 僕のことを書いてあると思うんだけれど」
ジューリオは、ちらっと彼を見ると頷いた。
「命を狙われているから逃がしてやりたいと書いてある」
マウロはホッとした。少なくともギースは彼を騙したのではなかったのだ。
その時、衣擦れの音がして二人の尼僧が入ってきた。一人は先ほどの若い尼僧で、もう一人が枢機卿の隣にいた修道院長だった。彼女はジューリオを見ると驚き、深くお辞儀をした。
「まあ、いらしていたのですか! ごきげんよう、エレオノーラさま。この方のお知り合いなのですか」
「いや。珍しい馬がいると聞いたのでやってきて、たまたまここで知り合ったのさ」
マウロはぎょっとしてジューリオを見た。
「君は女性だったのか? それに……」
「この方はあなた様がどなたかご存じないのですか、エレオノーラさま」
「私は誰かれ構わず正体を明かすほど無防備ではないのだ」
「しかし、姫さま」
「そのことはどうでもいい。それよりもこの者が持ってきたこの手紙を見てくれ。この手紙を書いたギースという者はマーテル、あなたの友達か?」
「はい。古い知り合いでございます。以前ヴァレーズで流行病にかかった修道女たちを助け、薪の配達を停止した森林管理官に掛け合ってくださったことがございます。立派なお方です」
「そうか。この馬丁はルーヴで少々知りすぎたようで命を狙われている」
そういうとジューリオことエレオノーラは手紙を院長に渡した。院長は厳しい顔で読んでいたが困ったようにマウロとエレオノーラの顔を見た。
「この方を亡き者にしたように振る舞いながら、フルーヴルーウー伯爵領へと逃してほしいと。神に仕えるこの私に演技とは言えそんなことを」
エレオノーラは笑った。
「おもしろいではないか。あなたなら上手く切りぬけると期待されているのだ。マウロ、そもそも何を知ってしまったのか話してみろ。我々は口が堅いし、事情によっては、この私ひとりでもお前を助けるぞ」
マウロは、ルーヴランで起こったことを院長とエレオノーラに話した。罪のない恋人たちと妹に起こった悲しい話に、修道女たちは同情の声を漏らした。妹が下手な刺繍をほどこしたスダリウムを見せながら、ギースが自らの危険を省みずに自分を救ってくれようとしていることも語った。院長はそのスダリウムを手にとった。
「これは珍しい意匠ですが、私どもとも縁の深いデザインです。あの薬酒を持っておいで」
院長は、若い尼僧に言った。やがて尼僧は小振りな壺と盃を三つ盆に載せて戻ってきた。院長は香りのするワインを注ぐとマウロとエレオノーラに渡した。
「これは特別なお酒なのですか?」
マウロが訊くと院長は微笑んだ。
「この修道院の庭で採れた葡萄で作った白ワインにお酢と蜂蜜、そしてパセリが入っています」
「なんだ。珍しくも何ともないではないか」
エレオノーラが不思議そうに覗き込む。院長は笑った。
「珍しいものではございません。けれども、そこにこの修道会の意味と神のご意志があると思っています。滅多に手に入らぬ珍しい植物で作った薬はとても高価で、王侯貴族や裕福な者しか使うことが出来ません。けれど貧しい者たちも健康な体を作ることで病に負けずに生き抜くことが出来るのです。どこでも手に入るものだけで出来たこの飲み物は強壮にいいのですよ。高価な薬を一度だけ使うよりも、日々体を丈夫にすることの方が効果があります。さあ、乾杯しましょう。あなたの妹さんが心を込めて刺繍をしたのと同じように、あなたの長生きを願って」
そう言って乾杯した。マウロはアニーを思って目頭が熱くなった。それから、この院長のもとに彼を逃してくれたギースに感謝して。
「マウロさん。時に私たちは試練の大きさに心砕かれ、父なる神に見捨てられたと感じるかもしれません。けれど、自暴自棄にならず、起こったことの意味を考えてください。あなたたちを利用し見捨てた方々をお恨みに思うお心はよくわかります。けれども、どうか憎しみの連鎖でお命を無駄になさらないでください。妹さんは、お仕えしていた方のために命を投げ出されましたが、同時にあなたとギースさまの幸運と安全を願われました。憎しみが妹さんのその想いよりも尊いはずはございません。ギースさまがあなた様のことをこの私に頼まれたのは、そうお伝えになりたかったからだと思います」
「しかし、なぜフルーヴルーウー伯爵領なのだろう? 腕のいい馬丁ならば、私の所に来てもいいのだが」
エレオノーラが言うと、院長はじろりと彼女を見てから言った。
「
「ははは、そうだった。出奔したジュリア姫の夫になったのは馬丁だったな」
「マウロさん。ギースさまがフルーヴルーウー伯領ヘ行けとお書きになった理由は、私にはわかりませんが、何かご深慮がおありになるのでしょう。つい先日見つかったばかりの伯爵は、岩塩鉱で働く人びとの安全を慮って三人一組で働くようにと決まりを変えられたそうです。おそらく神の意に適うお心を持った方なのでしょう。私が腕のいい馬丁が働き口を求めているという推薦状を書きますので、それを持ってフルーヴルーウー伯爵の元をお訪ねになってみてはいかがですか」
マウロは院長の言葉に深く頭を下げた。
「はい。ありがとうございます。フルーヴルーウー伯爵領にいれば、ルーヴランでの知り合いに会うことはないでしょうから、ギースさまにもご迷惑はかからないと思います。院長さまのご助力に心から感謝します」
「珍しくもない白ワインやパセリが、私たちの役に立つように、一介の馬丁であってもその天命を全うすることは出来ます。それに、エレオノーラさま。女の役目を全うしつつも活躍をすることは出来るのですよ。私たちはそれぞれに与えられた役割を受け入れることによって、真の力を発揮することが出来るのです」
この手の説教には飽き飽きしているらしいエレオノーラは、手をヒラヒラさせると言った。
「わかった、わかった。では、私はじゃじゃ馬としての天命を全うすることにしよう。ここで出会ったのも神の思し召しだろう。この者がこの国を無事に出て、フルーヴルーウーへ辿りつけるように、私が手配しよう」
それを聞いて院長はニッコリと笑った。
彼女は枢機卿やアンブローズ子爵の元に戻ると、倒れた馬丁は性質の悪い流行病なのでしばらく修道院で預かると告げた。
マウロは、姫君エレオノーラの遊興行列に紛れてトリネアの街を出て、雪のちらつく峠を越えてフルーヴルーウー領へと向かった。
数日後にルーヴランに帰る前に馬丁の様子を知りたいとやってきたアンブローズ子爵に対して、院長は「もうここにはいません」と答えた。ぎょっとしてどこにいると訊く子爵に、彼女は黙って上の方を指差し十字を切った。
修道院長が十字を切るということは、決して嘘ではないことを知る子爵は、心の中で笑いながらも悲しそうな顔を作り、礼を言って暇乞いをすると一行に帰国を命じた。
雪はゆっくりと里へと降りてくる。冬の間、トリネアやフルーヴルーウーと、バギュ・グリ領やルーヴランの間には、冬将軍が厳しい境界を作る。一刻でも早く帰らねばならなかった。
子爵の横にいたギースには院長が指差した先は本物の天国ではなく雪を抱く《ケールム・アルバ》、かの伯爵領との国境であるフルーヴルーウー峠を指していることがわかっていた。
マウロは、フルーヴルーウー伯爵となったマックス、妹が命よりも大切にしていた伯爵夫人ラウラと再会するだろう。兄がその二人の元で大切に扱われることこそ、アニーが心から望むことに違いない。
彼は白いスダリウムの入っている左の胸に右手を当てた。
(初出:2016年8月 書き下ろし)
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ご希望の選択はこちらでした。
*現代日本
*針葉樹/広葉樹
*地元の代表的な酒/もしくは嗜好飲料
*橋
*晴天
*カンポ・ルドゥンツ村在住キャラ
*コラボ「秘密の花園」から花園徹(敬称略)
『秘密の花園』は、つい最近読ませていただいたけいさんの小説。花園徹はけいさんの小説群にあちこちで登場する好青年(ある小説ではすでに素敵な大人の男性になっています)で、本人には秘密めいた所はないのになぜか「秘密の花園」と言われてしまうお方。作品全てに共通するハートフルで暖かいストーリーからは、けいさんのお人柄と人生観がにじみ出ているのです。
うちでは「カンポ・ルドゥンツ村在住キャラ」「現代日本」ということですから、日本に縁のあるリナが一番適役なのは間違いないですが、あのお嬢はまったくハートフルではないので、毒を以て毒を制するつもりでもう一人強烈なキャラを連れて来日させました。
けいさん、私がもたもたしていたら、旅にでられてしまいました。これは読めないかな。ごめんなさいね。オーストラリアに戻られたらまた連絡しますね。
【参考】
「リナ姉ちゃんのいた頃」シリーズをはじめから読む
横浜旅情(みなとみらいデート指南)
Featuring『秘密の花園』
晴れた。カラッカラに晴れた。桜木町駅の改札口で、花園徹は満足して頷いた。日本国神奈川県横浜代表として、スイスからやってきた少しぶっ飛んだ女の子とその連れに横浜の魅力を伝えるのに、申し分のないコンディション。
徹は神奈川国立大学経営学部に在籍する21歳。オーストラリアにワーキングホリデーに行ったことがあり、英語でのコミュニケーションは問題ない。それに、そのスイス在住の女の子は、高校生の時に一年間日本に交換留学に来ていたことがあって、ただのガイジンよりは日本に慣れている。
今日案内することになっているリナ・グレーディクとは、「友達の従妹の、そのまた知り合いの兄からの紹介」という要するに全く縁もゆかりもない仲だった。が、二つのバイトを掛け持ちしつつ学業に励む中での貴重な一日を潰されることにも怒らずに、徹は『インテリ系草食男子』の名に相応しい大人の対応で、誰も彼もいとも簡単に友達にしてしまう謎の女とその彼女が連れて来る男を待っているのだった。
相手の男の名前は、トーマス・ブルーメンタール。厳つい筋肉ムキムキの男かな。リナが昨夜電話で徹につけた注文は「デートコース! ヨコハマデートにおすすめの所に案内してよね!」だったので、熱々の仲の男を連れてくるのかなと思った。でも、ってことは俺はお邪魔虫なんじゃ?
「おまたせ!」
素っ頓狂な英語が聞こえて、徹は現実に引き戻された。見間違うことのないリナがそこに立っていた。栗色の髪の毛は頭のてっぺんの右側でポニーテールのように結ばれている。オレンジ色のガーベラの形をした巨大な髪留め。
それが全く氣にならないのは、着ているものがオレンジと黒のワンピースなんだかキャミソールなんだかわからないマイクロミニ丈のドレスにオレンジのタイツ、そして、やけに高い黒のミュールを履いているド派手さのせいだった。徹は特にブランドに詳しいわけではないが、そのドレスがヴェルサーチのものであることはわかった。なんせ胸にでかでかとそう書いてあるのだから。
だが、ド派手なのはリナだけではなかった。リナの連れは、ボトムスこそは黒いワイドパンツだけれど、カワセミのような派手なブルーに緑のヒョウ柄の、大阪のおばちゃんですら買うのに躊躇するようなすごい柄のシースルーブラウスを身につけていた。赤銅色に染めた髪の毛はしっかりとセットされている。その上リナにも負けない、いやもっと氣合いの入ったフルメイクをしていて、見事に手入れされた長い爪には沢山のラインストーンがついていた。
「はじめまして」
その「男」はにっこりと笑いかけた。
「トオル、紹介するわね。これがトミー。私がよく行く村のバー『dangerous liaison』の経営者よ。今回は、彼に日本のあちこちを紹介して回っているの」
「はじめまして、花園徹です」
「トミー、この人が『秘密の花園』ことトオルよ」
リナの紹介に彼は少しムッとした。
「ちょっと待て、俺には秘密なんかない。そのあだ名が嫌いだってこの前も言っただろう」
リナは大きな口をニカッと開けてチェシャ猫のように笑って答えた。
「だからそう呼ぶのよ。ショーゴもそう言っていたわ」
ちくしょう。田島、あいつのせいだ。なんでこんな変なチェシャ猫女に俺のあだ名を教えるんだ。徹は大きくため息を一つつくと、諦めて二人に行こうと身振りで示した。
「デートコースが知りたいって言っていたよね」
聞き違えたのかと心配になって徹が訊くとリナもトミーも頷いた。
「そうそう。デートの参考にしたいよね」
「そうね。侘び寂びもいいけれど、続いたから少し違ったものが見たいのよ。日本のカップルが行くような場所のことをスイスにいるアタシのパートナーのステッフィに見せてあげたいし」
OK。では、間違いない。安心して歩き出す。
「わあ、きれい。これがベイブリッジ?」
リナが左右の海を面白そうに眺めながら訊いた。それは、長い橋のようになっている遊歩道だ。かつては鉄道が走っていた道を整備したものだが、眺めがいいのでちょっとした観光名所になっている。
「違うよ。横浜ベイブリッジは、ずっとあっち。この遊歩道は汽車道っていうんだ。いい眺めだろう?」
「そうね。海ってこんな香りがするのね」
トミーが見回した。スイスには海がないので青くどこまでも広がる海は、バカンスでしか見ることが出来ない。
徹は、周りの日本人たちがチラチラとこちらを見ていることに氣がついていた。そりゃあ目立つだろうなあ。このド派手な外国人二人連れて歩いているんだから。
「横浜ベイブリッジに展望遊歩道があると聞いたの。留学してたときも横浜は中華街しか行ったことがなかったから、今度は行こうと思っていたんだけれど、今日は時間ない?」
リナは振り返って訊いた。
徹は首を振った。
「残念ながら、あのスカイウォークは閉鎖されてしまったんだ。年々利用者が減って維持できなくなってしまったんだよね」
横浜ベイブリッジの下層部、大黒埠頭側から約320mに渡って設置された横浜の市道「横浜市道スカイウォーク」は、1989年から20年以上市民に親しまれていたが、競合する展望施設が多かったことに加え、交通の便が悪いことや、隣接予定だった商業施設の建設計画がバブルの崩壊後に白紙に戻ったこともあり、年々利用者が減って2010年には閉鎖されてしまった。
「そのかわりに、これから特別な展望施設に連れて行ってあげるよ。そこからはベイブリッジも見える。いい眺めだぞ」
そう徹がいうと、リナはニカッと笑って同意を示した。
徹は二人をよこはまコスモワールドの方へと誘導した。この遊園地は入園無料で、アトラクションごとに料金を払うことになっている。シンボルとなっている大観覧車にだけ乗るのもよし、キッズゾーンだけ利用するもよし、単純に散歩するだけでも構わない。
もっとも、リナは、水の中に突っ込んで行っているように見えるジェットコースターに目が釘付けになっていた。
「あれに乗りたい!」
「はいはい」
ダイビングコースター「バニッシュ!」は、祭日ともなると一時間も待たされるほどポピュラーなアトラクションだが、平日だったためか奇跡的にすぐに乗ることが出来た。徹はトミーとリナが並んで車両の一番前に陣取るのを確認してから、一番写真の撮りやすい場所に移動してカメラを構えた。
すげえなあ、見ているだけで目が回りそうだ。ピンクのレールを走る黄色いコースターはくるくると上下に走り回る。人びとの悲鳴とともに、コースは水面へと向かうように走り落ちてくる。そして、水飛沫のように思える噴水が飛び交うと同時に池の中のトンネルへと消え去った。タイミングばっちり。二人が戻ってくるまでにデジカメの記録を確認すると、楽しそうに叫ぶリナと、引きつっているトミーがいい具合に撮れていた。
「きゃあ~! 面白かった〜。こういうの大好き!」
リナは戻ってきてもまだ大はしゃぎだ。
「アタシはこっちを試したいわ」
トミーが選んだのは、巨大万華鏡。星座ごとに違うスタンプカードをもらって迷路の中で正しい自分の星座を選んでスタンプを押して行くと最後にルーレットチャンスがあるらしいが、そもそも日本語が読めないトミーはそちらは無視して、中の幻想的な鏡と光の演出を楽しんだ。
「こういう方が、ロマンティックだわ」
それぞれが満足したあとで、徹は二人とコスモクロック21に乗った。この大観覧車は100メートルの回転輪、定員480名と世界最大のスケールを誇っている。15分の間に、360度のパノラマ、横浜のあらゆるランドマークを見渡すことができる。
「ああ、本当だわ。あれがベイブリッジね!」
「あそこに見える赤茶色の建物は?」
トミーが訊いた。
「あれは赤レンガ倉庫だ。後で行こうと思っていた所だよ」
「そう。チューリヒにローテ・ファブリックっていう、カルチャーセンターがあって、あたし、そこで働いていたことがあるの。あの赤レンガの外壁を見てなんか懐かしくなってしまったわ」
「へえ。そうなんだ。あの建物も今は文化センターとして機能している所なんだ」
横浜赤レンガ倉庫は、開港後間もなく二十世紀初頭に建てられた。海外から運び込まれた輸入手続きが済んでいない物資を一時的に保管するための保税倉庫で、日本最初の荷物用エレベーターや防火扉などを備えた日本が世界に誇る最新鋭の倉庫だった。関東大震災で半壊したあと、修復されて第二次世界大戦後にGHQによる接収を挟んで再び港湾倉庫として使用されていたが、海上輸送のコンテナ化が進んだことから1989年に倉庫としての役割を終えた。現在は「港の賑わいと文化を創造する空間」としてリニューアルされ沢山の来場者で賑わっている。
「ここにあるカフェ『chano-ma』はちょっと有名だぞ。ソファ席もあるけれど、靴を脱いでカップルでまったりと寛げる小上がり席やベッド席もあるんだ」
「なんですって? 靴を脱ぐと寛げるの? どうして」
トミーは首を傾げた。リナは肩をすくめる。
「日本人は靴を脱ぐと自宅にいるような感じがするんじゃないかしら?」
「へえ。トオルは、そのベッド席で可愛い女の子としょっちゅう寛いでいるわけ?」
「いや、俺は……そのいろいろと忙しくて、まだ……いや、俺のことなんてどうでもいいだろう!」
その徹にリナはニカっと笑って言った。
「ふーん。いろいろと忙しいなんて言っていると、かわいいナミを他の人にとられちゃうよ?」
ちょっと待て。どこからそんな情報を。奈美さんは確かにとても素敵な人だけど!
リナは、赤くなって口をぱくぱくさせている徹に容赦なくたたみかけた。
「この間、ショーゴに言われていた時にも、同じように赤くなっていたよ。あれからまだ連絡取っていないの? ゼンハイソゲなんでしょ」
「その話はいいから。ところで、夕方までここにいて、ライヴつきのレストランで食べたい? それとも、もっと歩いて横浜中華街に行きたい? デートコースっぽいのは、オシャレなライヴの……」
「中華街!」
確かデートコースを知りたいとか言っていたはずの二人は声を揃えて叫んだ。色氣よりも食欲らしい。まあ、その方がこの二人には似合うけどな。
赤レンガ倉庫には何軒かの土産物屋があったので、出る前にそこをぶらついて行こうということになった。トミーは徹に訊いた。
「せっかくここまで来たんだから、うちのバーで出せる横浜らしいものを送ろうと思っているんだけれど何がいいと思う?」
「おすすめはこれだな」
徹は、黒いラベルのついた茶色の瓶を手にとった。
「横浜エール。開港当時のイギリスタイプの味を再現した麦芽100%のビールなんだ。国際ビールコンペティションで入賞したこともある」
「私はビール飲まないんだけれど」
リナが言うと徹はすぐ近くにあった透明な瓶を見せた。
「これもいいぞ。横浜ポートサイダーというんだ。爽やかな味が人氣だよ。この横浜カラーの水玉がかわいいだろ?」
「あ。これ、おしゃれ! 後から見ると水玉模様になってる。これ一本買って帰って、飲み終わったら花瓶にしようっと」
そのセリフだと開けずにスイスまで持って行こうとしているように聴こえたが、見ているうちに待てなくなってしまったのか、リナはレジで払う時に栓を開けてもらい、山下公園への道を歩いている最中に飲んでしまった。
「荷物は軽い方がいいでしょ?」
山下公園を歩いている時、白い花の咲く背の高い木を見上げてトミーが立ち止まった。スイスでは見かけない木だ。微かないい香りがしている。
「ああ、これは珊瑚樹だよ」
徹は、ついている木のネームプレートを確認してから二人に説明した。
「珊瑚樹?」
「赤いきれいな実がなるんでそう呼ばれているんだ。この厚くて水分の多い葉と枝が延焼防止に役立つというので、防火のために庭木や生け垣によく使われるんだ。銀杏などと一緒に横浜市の木に指定されているんだよ」
「へえ。そうなの」
「それにしても開放的でいい公園ね」
リナはそんな高いミュールでどうやってやるんだと訝るような軽やかさでスキップを踏んでいる。
晴れ渡った青い空が遠い水平線で太平洋とひとつになる。氷川丸が横付けされたこの光景は、横浜らしい爽やかさに溢れている。太平洋の明るさが眩しい場所だ。この山下公園に、これまで何度来たことだろう。徹は思った。そして、この光景のある県が自分の故郷であることを誇らしく思った。
「さあ、中華街に行って美味しいものを食べましょう! 沢山食べたいものがあるの。道で売っている大きいお饅頭でしょ。ワゴンで運ばれてくる点心いろいろでしょ。それから回るテーブルのお店にも行かなきゃ。青椒肉絲に、酢豚に、海老チリソースに、レバニラ炒めに、フカヒレスープ。チャーハンも食べなきゃいけないし、焼きそばは硬いのと柔らかいのどっちも食べたいわ。それに〆はやっぱり杏仁豆腐!」
どこの腹に、そんなに沢山入るんだよ。徹は呆れた。ツッコミもしないトミーの方もそんなに食べるつもりなんだろうか。なんでもいいや、久しぶりに美味い中華を楽しもう、彼は自身も食欲の権化になって、中華街への道を急いだ。
(初出:2016年7月 書き下ろし)
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*現代・日本以外
*毒草
*肉
*城
*ひどい悪天候
*「黄金の枷」関係
*コラボ・真シリーズからチェザーレ・ヴォルテラ(敬称略)
『真シリーズ』は、彩洋さんのライフワークともいっていい大河小説。何世代にもわたり膨大な数のキャラクターが活躍する壮大な物語ですが、中でも相川真に続くもっとも大切な主人公の1人が大和竹流ことジョルジョ・ヴォルテラです。今回リクエストいただいたチェザーレ・ヴォルテラはその竹流のパパ。ヴァチカンに関わるものすごい家系のご当主です。
うちでは「黄金の枷」関係、しかも毒草だなんて「午餐の後に」のような「狐と狸の化かしあい・その二を書け~」といわれたような。彩洋さん、おっしゃってますよね? どうしようかなと悩んだ結果、こんな話になりました。実は「ヴォルテラ×ドラガォン」のコラボはもう何度かやっていまして、いま私が書いているドラガォンの面々は、竹流と真の子孫と逢っていますので、チェザーレとコラボすることは無理です。で、23やアントニア、それにアントニオ・メネゼスの先祖にあたる人物を無理矢理作って登場させています。
彩洋さん、竹流パパのイメージ壊しちゃったら、ごめんなさい。モデルのお方のイメージで書いてしまいました……。
【参考】
小説・黄金の枷 外伝
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
黄金の枷・外伝
薔薇の下に Featuring『海に落ちる雨』
レオナルド・ダ・ヴィンチ空港の到着口で、ヴァチカンのスイス衛兵伍長であるヴィーコ・トニオーラは待っていた。
「出迎え、ですか?」
彼はステファン・タウグヴァルダー大尉に訊き直した。直接の上司であるアンドレアス・ウルリッヒ軍曹ではなく大尉から命令を受けるのも異例だったし、しかもその内容が空港に到着する男を迎えに行けというものだったので驚いたのだ。
「そうだ。ディアゴ・メネゼス氏が到着する。お待たせすることのないように早めに行け」
「これは任務なのですか」
「もちろんだ。《ヴァチカンの警護ならびに名誉ある諸任務》にあたる。くれぐれも失礼のないように」
「そのメネゼス氏は何者なのですか。……その、伺っても構わないのでしたら」
「竜の一族の使者だ」
「それはどういう意味ですか?」
彼は答えなかった。
「その……空港でお迎えして、その後こちらにお連れすればいいのでしょうか」
「いや、ヴォルテラ氏の元にお連れしてくれ。その後、すぐに任務に戻るか、それとも引き続き運転をしてどちらかにお連れするのかは、ヴォルテラ氏の指示に従うように」
「ヴォルテラ氏というと、リオナルド・ヴォルテラ氏のことですよね。ローマに戻っていたんですか」
ヴォルテラ家はヴァチカンでは特別な存在だった。華麗なルネサンスの衣装を身に着け表立って教皇を守るスイス衛兵と対照的に、完全に裏から教皇を守る世には知られていない家系だ。ようやく部下を持つことになった程度の若きスイス衛兵ヴィーコは、当然ながらヴォルテラ家と共に働くような内密の任務には当たっていない。だが、当主の子息ではあるが氣さくなリオナルド・ヴォルテラとは面識があるだけでなく一緒にバルでワインを飲んだこともあった。彼は英国在住で、時折ローマに訪れるのみだ。
「まさか。寝ぼけたことを言うな。当主のチェザーレ・ヴォルテラ氏に決まっているだろう」
タウグヴァルダー大尉は、渋い顔をして言った。仰天するヴィーコに大尉は畳み掛けた。
「これはただの使い走りではない。君の将来にとって、転機となる任務だ。心して務めるように」
ヴィーコは落ち着かなかった。彼は、スーツに着替えると空港に向かった。激しい雨が降っていた。稲妻が扇のように広がり前方を明るくする。それはまるで空港に落ちているかのように見えた。こんなひどい雨の中運転するのは久しぶりだ。故郷のウーリは天候が変わりやすかったので、彼は雷雨を怖れはしなかった。
本来であったら今日はウルリッヒ軍曹とポンティフィチオ宮殿の警護に当たるはずだった。軍曹と二人組で仕事をするのが氣まずくて、この任務に抜擢され二人にならずに済んだことは有難いと思った。だが、これは偶然なのだろうか。
ヴァチカン児童福祉省で実務の中心的役割を果たしているコンラート・スワロスキ司教がローマ教区での児童性的虐待に関わっている証拠写真を偶然見つけてしまった時、軍曹は「歯と歯を噛み合わせておけ」つまり黙認しろと命令した。
「俺たちの仕事は猊下とヴァチカン市国を守ることだ。探偵の真似事ではない」
彼には納得がいかなかった。スワロスキ司教と個人的な親交を持つウルリッヒ軍曹が、彼をかばっているのだと思ったのだ。カトリック教会内における児童性的虐待は新しい問題ではなかったが、それを口にすることを嫌う体質のせいで永らく蓋をされてきた。プロテスタントの勢力が強いスイスでも問題視し告発する者がようやく現れた段階で、ヴァチカンの教皇庁内部の人間を告発したりしたらどれほど大きいスキャンダルになるかわからない。だが、このままにしておくことは、ヴィーコの良心が許さなかった。
彼は親友であるマルクス・タウグヴァルダーにこのことを相談していた。マルクスはタウグヴァルダー大尉の甥だ。マルクスから大尉に伝わったのだろうか。彼は大尉に呼び出された時に、その件だと思った。だが、ポルトガル人を出迎えてヴォルテラ氏の所に行けというからには、自分にとって悪いことが起こる前触れではないだろうと、少し安心した。とにかくこの任務をきちんと果たそう。
予定していた飛行機はこの雷雨にもかかわらず定刻に到着していた。ヴィーコは「メネゼスさま」という紙を掲げて税関を通って出てくる人びとを眺めた。
「出迎え、ご苦労様です」
低い声にぎょっとして見ると、いつの間にか目の前に黒い服を来た男が立っていた。きっちりと撫で付けたオールバックの髪、痩せているが背筋をぴんと伸ばしているので、威圧するような雰囲氣があった。丁寧な英語だが、抑揚が少なく感情をほとんど感じられなかった。
「失礼いたしました。スイス衛兵のヴィーコ・トニオーラ伍長です。ヴァチカンのヴォルテラ氏の所へご案内します。お荷物は?」
小さめのアタッシュケース1つのメネゼスに彼が訊くと、黙って首を振った。
彼はまっすぐにヴァチカン市国に向かった。雨はまだ激しく降っていて、時おり稲光が走った。ヴィーコは不安げに助手席に座った男を見たが、彼は眉一つ動かさずに前方を見ていた。
サンタンナ門からスイス衛兵詰所の脇を通って中央郵便局の近くに車を停めると、メネゼス氏を案内してその近くの目立たぬ建物に入った。扉が閉まると、激しい雷雨は全く聞こえなくなり、ヴィーコはその静けさに余計に不安になった。そこは、何でもない小屋に見えるが、地下通路でヴォルテラ氏の事務所に繋がっていた。
緩やかな上り坂の通路の突き当たりにいかめしい樫で出来た扉があり、ヴィーコがセキュリティカードを脇の機械に投入すると数秒の処理の後、自動でロックが解除され扉が開いた。さらに先に進むと、紺のスーツを着た男が扉を開き頭を下げて待っていた。
「ようこそ、メネゼスさま。主人が待っております、どうぞこちらへ」
メネゼスが応接室へと入ると、ヴィーコはその場に立って「もう戻っていい」と言われるのを待っていたが、紺の服の男は、ヴィーコにも目で応接室に入るようにと促した。戸惑いながら応接室に入ると明るい陽射しが目を射た。瞬きをして目が明るさに慣れるのを待つと、がっしりとしたマホガニーのデスクと、暗い色の革の椅子、そして同じ色の応接セットが目に入った。
窓の所にいた男がこちらに歩み寄り、メネゼス氏に丁寧に挨拶をしているのが見えた。格別背は高くないが、灰色の緩やかにウェーヴのかかった髪と青灰色の意志の強そうな瞳が印象的で、一度見たら忘れられない存在感のある男だった。チェザーレ・ヴォルテラ。彼の事務所に足を踏み入れる日が来るなんて。ヴィーコは入口の近くに直立不動で立っていた。
「トニオーラ伍長、ご苦労だった。申し訳ないが、後ほどリストランテまで運転してほしいのだ。もう少しここで待っていてほしい」
ヴィーコは、ヴォルテラ氏に名前で呼ばれて仰天しつつ、頭を下げた。
「ドン・フェリペは、お元氣でいらっしゃいますか」
「はい。猊下とあなたにくれぐれもよろしくと申しつかっています」
紺の服を着た男が、メネゼス氏とヴォルテラ氏の前にコーヒーを用意する間、二人はなんと言うことはない世間話をしていたが、男が部屋を出て扉が閉じられると、しばらくの沈黙の後、声のトーンを低くして厳しい顔で語りだした。
「それで。緊急に処理をしなくてはならないご用事とは」
ヴォルテラ氏が言うと、メネゼス氏はアタッシュケースから一枚の写真を取り出した。
「この方をご存知でしょうな」
ヴォルテラ氏はちらっと眺めてから「ベアト・ヴォルゲス司教ですな。ヴォルゲス枢機卿の甥の」と言った。
メネゼス氏は続けた。
「その通りです。私どもの街にいらして以来、実に精力的に勤めてくださいまして、ずいぶんと多くの信奉者を作られているようです」
「それは好ましいことです」
「ええ。正義感の強いまっすぐな方で、なんの見返りも求めずに人びとの幸福を願う素晴らしい神父でいらっしゃる。ところで私どもが問題としているのは、とある青年がある娘と結婚が出来ないことを悲しみ、ヴォルゲス司教に相談をしたことなのです」
「とおっしゃると、その女性は金の腕輪をしている方ということでしょうか」
「おや、あなたが女性のアクセサリーに興味があるとは存じませんでした。ええ、あなたがその素晴らしい指輪をしていらっしゃるのと同じように確かに彼女は腕輪をしているようです。それはともかく、司教は二人の問題をペレイラ大司教に訴えました。大司教は、私と同じ役割の家系出身で、当然ながらその件からは手を引くように説得したのですが、納得のいかない司教が叔父上である枢機卿とローマに掛け合うと言い出したのです」
ヴィーコは、話の内容についていけなくなった。金の腕輪? 結婚できない二人の話? メネゼス氏と同じ役割の家系? 何の話だろう。
ヴォルテラ氏とメネゼス氏は、ヴィーコに構わずに話を続けていた。
「それで、私どもにどうせよとおっしゃるのですか」
「私どもが、あなた方に何かをお願いしたり、ましてや要求できるような立場にはないことは明白です」
「では?」
「たんなる情報としてお伝えしに参ったのです」
含みのあるいい方だった。まったく別の印象を抱かさせる物言いだ。ヴィーコは、メネゼス氏を送り込んだドン・フェリペとやらがヴォルテラ氏に何かをさせようとしていることを感じた。ヴォルテラ氏は、眉一つ動かさずに言った。
「つまり、これはイヌサフラン案件だとおっしゃりたいのですか」
メネゼス氏は、即座に首を振った。
「まさか。あのように善良な方を『ゆっくりと、苦しみながら死に至らせる』なんてことは、キリスト教精神に反します」
「そうですか」
ヴォルテラ氏の反応を確かめるように、メネゼス氏はゆっくりと続けた。
「そうですとも。ところで、ローマで珍しい樹の苗を扱う業者をご存じないでしょうか。私は最近園芸に興味が出てきまして、いい苗を買いたいと思っているのですよ。例えばミフクラギなどを」
「ミフクラギですか。Cerbera manghas。インドで自生する花ですな。わずかに胃が痛み、静かに昏睡し、三時間ほどで心臓が止まる。よりキリスト教精神に則った効果が期待できると」
メネゼス氏は特に表情を変えずに言った。
「いいえ。私はあの白くて美しい花を我が家にも植えたいだけです」
ヴィーコは、ぞっとして二人の話を聴いていた。恋する二人の信徒を助けたいと願った善良な司教についてなんて話をしているんだろう。
ヴォルテラ氏は小さくため息をつくと言った。
「園芸業者のことは私は存じません。それはそうと、ヴォルゲス司教のことはいい評判を聞いていますので、早急にローマに戻っていただくのがいいと猊下に申し上げましょう。猊下でしたら枢機卿が話を大きくする前に、司教にふさわしい役目を用意してくださるでしょう。ちょうど空いたポストもあることですし」
メネゼス氏は、黙って頭を下げた。ヴォルテラ氏はほとんど表情を変えないポルトガル人を見ていたが、青ざめて立っているヴィーコの方を向いて言った。
「リストランテ・サンタンジェロに予約が取ってある。悪いが一緒に来てもらい、その後メネゼス氏をもう一度空港へと送ってもらうことになる。いいね」
「はい」
ヴィーコは頷いた。
「サンタンジェロですか。というと、あの有名なイル・パセットを歩いていくわけですか?」
とメネゼス氏が言った。彼が言っているのは、ボルゴの通路(Il Passeto di Borgo)のことだ。サンタンジェロ城とヴァチカンを結ぶ中世の避難通路で、他国からの侵略があった時に歴代の教皇が使ってきたものだ。このポルトガル人はニコリともしないのでジョークなのか本氣で訊いているのかわからない。
「せっかくローマまでいらしたのですから、ご案内したいのは山々ですが、あの通路の半分以上には屋根がないのですよ。この悪天候ではリストランテには入れないほどびしょ濡れになってしまうでしょう」
ヴォルテラ氏は穏やかに微笑みながら返し、手元の小さいベルを鳴らした。
ドアが開き、先ほどの紺のスーツの男が入ってきた。
「図書館の前にお車を回してあります。リストランテの予約は、スイス人ベルナスコーニ、3名で入れてあります」
まさか! 3名ってことは、僕も一緒にってことか? 戸惑うヴィーコに、紺の服の男は「入口であなたがベルナスコーニだと名乗ってください」と言った。
つまり、このイタリア人とポルトガル人が逢っていたことが噂にならないように注意しろという意味なのだと思った。だが、それならわざわざ何も知らないヴィーコにさせなくとも、この男か他のヴォルテラ氏の配下がやったほうが抜かりがないはずだ。なぜ? ヴィーコは訊きたかったが、余計なことをしてヴォルテラ氏を怒らせるようなことをしてはならないことだけはわかっていた。
想い悩むヴィーコをよそに、図書館へと至る地下通路を歩きながら二人は和やかに話をしていた。
「ところでメネゼスさん、猪肉はお好きですか」
「ええ。そのリストランテは猪肉を出すんですか?」
「そうです。おそらくあれだけの味わい深いの漁師風赤ワイン煮込みは、あそこでしか食べられないと思います。ぜひご案内したいと思っていました」
「それは楽しみです。食通で有名なあなたが太鼓判を押す味なら、間違いありませんから」
「猪猟はトスカーナの伝統なのですが、本日ご案内する店で出している肉は、とある限られた地域のものなのです」
「ほう。何か特別な地域なのですか?」
「ええ。イタリアでも珍しくなってしまった手つかずの森がある地域でしてね。そこでしか育たない香りの高い樫があるのですよ。その店の肉は、その幻の樫のドングリをたっぷりと食べて育った若い猪のものなのです」
「幻の樫ですか」
「ええ。この国の者でもその存在を知る者はほとんどないでしょう。この世の中は深く考えずに踏み込み、滅茶苦茶に荒らしてしまう無責任で無知な者たちで満ちています。失われてはならぬものを守るためには、その存在を公から隠し、目立たぬようにしなくてはならない。いや、あなたにこのような話は無用でしたな」
メネゼス氏は立ち止まり、しばらく間を置いてから低い声で呟いた。
「ご理解と、ご助力に心から感謝します」
「なんの。これで先日の借りを返せるのならば、お安いことです」
ヴォルテラ氏の張りのある声が地下道に響いた。
「ところで、トニオーラ伍長」
暗い地下通路の真ん中で、不意にヴォルテラ氏が立ち止まり振り返った。ヴィーコはどきっとして立ちすくんだ。
「はい」
「あなたも園芸に興味がありますか?」
唐突な問いかけだった。
「い、いえ。私は無骨者で、その方はさっぱり……」
ヴォルテラ氏は、静かに言った。
「そうですか。児童福祉省のコンラート・スワロスキ司教は、コンゴへと赴任することになりました。あなたの上司のウルリッヒ軍曹がご家庭の事情で今日付けで急遽退官なさることになったのとは、全く関係のないことですが、おそらくあなたには報せておいた方がいいかと思いましてね」
ヴィーコの背中に冷たい汗が流れた。ヴォルテラ氏はこれ以上ないほど穏やかに微笑みながら続けた。
「今日、特別な任務を引き受けてくださったお礼としてあなたに何かをお贈りしようか考えていたのですが、園芸に興味がないということでしたら、苗をお贈りしてもしかたないでしょうね」
「苗ですか。私に……?」
「もちろんミクフラギやイヌサフランではありませんよ。私が考えていたのは薔薇の苗です」
ヴィーコは、即座にヴォルテラ氏の言わんとすることがわかった。彼が必要もないのにメネゼス氏の送迎を任された理由も。
「Sub rosa(薔薇の下に=秘密に) ……」
彼は、ヴォルテラ氏の望んでいる言葉を口にした。
ヴォルテラ氏は満足そうに頷くと「ワインはタウラージの赤7年ものを用意してもらっているのですよ」とメネゼス氏との会話に戻っていった。
すっかり震え上がっているヴィーコは、どんな素晴らしい料理を相伴させてもらうとしても、全く味を感じられないだろうと思いつつ、二人について行った。
(初出:2016年7月 書き下ろし)
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【小説】そばにはいられない人のために
ご希望の選択はこちらでした。
*現代日本
*園芸用花
*一般的な酒類もしくは嗜好飲料
*家
*雨や雪など風流な悪天候
*「大道芸人たち」関係
*コラボ、『花心一会』の水無瀬彩花里(敬称略)
『花心一会』は、WEB誌Stellaでもおなじみ、若き華道の家元水無瀬彩花里とその客人たちとの交流を描くスイート系ヒーリングノベル。優しくも美しいヒロインと花によって毎回いろいろな方が癒されています。今回コラボをご希望ということで勝手に書かせていただいていますが、本当の彩花里の魅力を知りたい方は、急いでTOM-Fさん家へGo!
今回の企画では、リクエストしてくださった方には抽象的な選択だけをしていただき、具体的なキャラやモチーフの選択は私がしています。どうしようかなと思ったんですけれど、せっかくお家元にいらしていただくのだから、日本の伝統芸能に絡めた方がいいかなと。花は季節から芍薬を、嗜好飲料はとある特別な煎茶を選ばせていただきました。そして「家」ですけれど、「方丈」にしました。お坊さんの住居だから、いいですよね。ダメといわれてもいいことにしてしまいます。(強引)
TOM-Fさん、『花一会』の流儀、いまいちわからないまま書いてしまいました。もし違っていたら直しますのでおっしゃってくださいね。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説で、現在その第二部を連載しています。興味のある方は下のリンクからどうぞ

![]() | このブログではじめからまとめて読む あらすじと登場人物 |
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
そばにはいられない人のために Featuring『花心一会』
瞳を閉じてバチを動かすと、なつかしい畳の香りがした。湿った日本の空氣、夏が近づく予感。震える弦の響きに合わせて、放たれた波動は古い寺の堂内をめぐり、やがて方丈に戻り、懐かしいひとの上に優しく降り注いだ。
浄土真宗のその寺は、千葉県の人里から少し離れた緑豊かな所にあった。『新堂のじいちゃん』こと新堂沢永和尚は四捨五入すると百の大台に乗る高齢にも関わらず、未だにひとりでこの寺を守っていた。日本に来る度に稔はこの寺を訪れる。これが最後になるのかもしれないと思いながら。
彼の求めに応じて三味線を弾く。または、なんてことのない話をしながら盃を傾ける。死ぬまで現役だと豪語していた般若湯(酒)と女だが、女の方は昨年彼より二世代も若い馴染みの後家が亡くなってから途絶えたらしい。
「これもいつまで飲めるかわからん。心して飲まねばな」
カラカラと笑って大吟醸生『不動』を傾ける和尚を稔は労りながらゆっくりと飲んだ。
「何か弾いてくれ」
「何を? じょんがら節?」
「いや、お前がヨーロッパで弾くような曲を」
それで稔は上妻宏光のオリジナル曲を選んだ。その調べは白い盃に満たされた透明な液体に波紋を起こすのにふさわしい。懐かしくもの哀しいこの時にも。Artistas callejerosはこの曲を街中ではあまり演奏しなかった。コモ湖やバルセロナのレストランでの演奏の時に弾くと受けが良かった。頭の中ではヴィルがいつものようにピアノで伴奏してくれている。
まだ弾き始めだったのだが、和尚は小さく「稔」と言った。バチを持つ手を止めて、彼の意識のそれた方に目を向けると開け放たれた障子引き戸の向こうに蛇の目傘をかざし佇む和装の女性が見えた。
「ごめんください」
曲が止まったのを感じて、彼女は若く張りのある声で言った。和尚は「いらしたか」と言うと、稔に出迎えに行けと目で合図した。客が来るとは知らなかった稔は驚いたが、素直に立ち上がって方丈の玄関へと回った。
その女性は、朱色の蛇の目傘を優雅に畳んで入ってくると玄関の脇に置いた。長い黒髪は濡れたように輝き、蒸し栗色の雨コートの絹目と同じように艶やかだった。そして、左腕には見事な芍薬の花束を抱えていて、香しい華やかな薫りがあたりに満ちていた。
「どうぞお上がりください」
稔はそれだけようやく言うと、置き場所に困っている女性から芍薬を受け取った。彼女ははにかんだように微笑むと、流れるような美しい所作で雨コートを脱ぎ畳んだ。コートの下からは芍薬の一つのような淡い珊瑚色の着物が表れた。
色無地かと思ったが、よく見たら単衣の江戸小紋だった。帯は新緑色に品のいい金糸が織り込まれた涼やかな絽の名古屋、モダンながらも品のいい色の組紐の帯締めに、白い大理石のような艶やかな石で作られた帯留め。この若さで和装をここまで粋に、けれども商売女のようではなくあくまでも清楚に着こなせるとは、いったい何者なのだろう。
「おう、遠い所よくお越しくだされた。何年ぶりでしょう。実に立派になられましたな、彩花里さん。いや、お家元」
居室に案内すると、和尚は相好を崩して女性を歓迎した。
「ご無沙汰して申しわけありません。お元氣なご様子を拝見して嬉しく思います」
きっちりと両手をつき挨拶する作法も流れるように美しく稔は感心して「お家元」と呼ばれた可憐にも美しい女性を見つめた。
「あ~、このお花、花瓶に入れてきましょうか」
稔が訊くと、和尚は大笑いした。
「いかん、いかん。お前なぞに活けられたら芍薬ががっかりしてしぼむわい。わしもこの方に活けていただく生涯最後のチャンスを逃してしまうではないか」
それから女性に話しかけた。
「ご紹介しましょうかの。ここにいるのは、わしの遠縁の者で安田稔と言います」
「安田さん……ということは……」
「その通りです。安田流家元の安田周子の長男です。稔、こちらは華道花心流のお家元
稔は、畳に正座してきちんと挨拶した。
「はじめまして。大変失礼しました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」
「こやつは三味線とギターのこと以外はさっぱりわからぬ無骨者で、しかも今はヨーロッパをフラフラとしている根無し草でしてな。華道のことも、あなたが本日わざわざお越しくださっている有難さも全くわかっておりません」
彩花里は、微笑んだ。
「いいえ。私たちが一輪の花を活けるのも、一曲に全ての想いを込めて奏でるのも同じ。先ほどの曲を聴いてわかりました。安田さんは、私と同じ想いでここにいらしたのですね」
それから稔の方に向き直った。
「花心流の『花一会』はひとりのお客さまのために一度きりの花を活けます。本日は、和尚さまへのこれまでの感謝とこれからの永きご健康をお祈りして活けさせていただくお約束で参りました。安田さん、私からひとつお願いをしてもかまわないでしょうか」
「なんでしょうか」
「私が活けるあいだ、先ほどの曲をもう一度弾いていただきたいのです。私が来たせいで途中になってしまいましたから」
「わかりました。よろこんで」
それから和尚の前の一升瓶を見て、彩花里はわずかに非難めいた目つきを見せた。般若湯などと詭弁をろうしても、住職が不飲酒戒を破っていることには変わりない。ましてや陽もまだ高い。堂々と一升瓶を傾けるのはどうかと思う。
「お届けしたお茶はお氣に召しませんでしたか?」
和尚は悪びれることもなく笑った。
「いやいや、あの特別のお茶とお菓子はあなたとご一緒したくてまだ開けておりませんのじゃ。どれ、湯を沸かしてきましょうかの」
彩花里が花の準備をしている間、稔は和尚を助けてポットに入れた熱湯と、盆に載せた茶碗、そして美しい茶筒、三つ並んだ艶やかな和菓子『水牡丹』を居室に運んだ。
準備が整うと、彩花里は和尚の正面に、稔はその横の庭を眺められる位置に座して三味線を構えた。
「それではこれから活けさせていただきます」
彩花里は深々と礼をした。彩花里の目の合図に合わせて、稔は先ほどの曲をもう一度弾きだした。
彩花里の腕と手先の動きは、まるで何度もリハーサルを繰り返したかのように、稔の奏でる曲にぴったりとあっていた。活けるその人のように清楚だが華やかな花の枝や葉を、たおやかな手に握られた銀の鋏が切る度に馥郁たる香りが満ちる。
稔はかつてこの空間にいたはずの、和尚の失われた息子のことを考えた。彼のために奥出雲の神社で奉納演奏をしたのは何年前のことだったろう。妻に先立たれ、ひとり息子を失い、生涯が終わる時までこの寺で独り生きていく大切な『新堂のじいちゃん』の幸について考えた。
この美しい女性も、たった一度の花を活けながら今の自分と同じ氣持ちでいるのだと考えた。真紅、白、薄桃色。雨に濡れて瑞々しくなった花が彼女の手によって生命を吹き込まれていく。寂しくとも、悲しくとも、それを心に秘めて人のために尽くし続ける老僧を慰めるために。
バチは弦を叩き、大氣を振るわせる。その澄んだ音色は、もう一度、和尚の終生の家であるこの方丈の中に満ちていった。
外は晴れたり降ったりの繰り返しだった。眩しいほどに繁った新緑がしっとりと濡れている。その生命溢れる世界に向けて三味線の響きは花の香りを載せて広がっていった。消えていく余韻の音を、屋根から落ちてきた滴が捉え抱いたまま地面に落ちていった。
彼がバチを持った手を下ろして瞼を開くと、彼女は完成した芍薬を前にまた頭を下げていた。
ほうっと和尚が息をつき、深く頭を下げた。
「先代もあなたがここまでの花をお活けになられると知ったらさぞお喜びでしょう」
彩花里は、穏やかに微笑みながらゆったりとした動作で茶を煎れた。その色鮮やかな煎茶の香りを吸い込んで、稔は日本にいる歓びをかみしめた。
「八十八夜に摘んだ一番茶でございます。無病息災と不老長寿をお祈りして煎れさせていただきました」
「水牡丹」の優しい甘さが、新茶の香りを引き立てている。稔は、茶碗を持ったまま瞳を閉じている和尚に氣がついた。飲まないんだろうか。
「和尚さま、このお茶の香りに、お氣づきになられましたか」
彩花里は優しく言った。
「奥出雲の山茶……」
彼は、わずかに微笑みながら言った。
「はい。日本でもわずかしかない在来種、実生植えされ、百年も風雪に耐え、格別香りが高いこのお茶こそ、今日の『花一会』にふさわしいと思い用意いたしました」
そうか。あの神社から流れてくる川の水で育ったお茶なんだな。それを飲んで無病息災を願う。本当にじいちゃんのために考え抜いてくれているんだ。
「お前もこの日本の味を忘れぬようにな」
彩花里が完璧に煎れてくれた一番茶を味わっている稔の様子を和尚はおかしそうに見ていた。
「安田さんは、ヨーロッパにお住まいとのことですが……どこに」
彩花里が思い切ったように口を開いた。
「はい。俺は大道芸人をしていて、あちこちに行くんです」
「では、あの、パリに行くことなども、おありになるのでしょうか」
「時々は。どうして?」
「母が、パリにいるんです」
「先代お家元の愛里紗さんは、彩花里さんに家元の座を譲られてからパリで華道家として活躍なさっていらっしゃるのじゃ」
和尚が「水牡丹」を食べながら言った。
「何か、お母様にお渡しするものがありますか?」
彩花里は首を振った。
「いま弾かれた曲を、母の前で弾いていただけませんでしょうか」
稔は訊いた。
「無病息災と、不老長寿を祈願して?」
彩花里は「はい」と微笑んだ。
稔は彼女の母親は、この曲の題名を知っているのだろうかと考えた。『Solitude』。彼は、和尚にはあえて言わなかった。家元の重責に氣丈に耐えているこの女性もおそらく知っているけれど、あえて口にすることはないのだろう。共にはいられないことを言い募る必要はない。ただ想う心だけが伝われば、それでいいのだと思った。
(初出:2016年6月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 — アウグスブルグの冬
お題ワードを使いきるのに、かなり無理をしている分、ドイツでも最も古い都市ながら日本には馴染みのないアウグスブルグについてのミニ知識をあちこちに散りばめました。少し早いクリスマスのムードも楽しんでいただけると嬉しいです。(ヴィルの所属していた劇団と、待ち合わせをしたレストランは架空です。念のため)
この66666Hit企画は、六名の方から出していただいた名詞をそれぞれ一つ以上使うというルールがあります。今回、使った名詞は順不同で「禁煙」「飛行船 グラーク ツェッペリン」「オクトーバーフェスト」「ロマンティック街道」「ピアノ協奏曲」「彗星」「博物館」「羽」「シャープ」「ガラス細工」の十個、これで35ワード、コンプリートです。この企画にご協力くださった、出題者の皆様、そして、一緒に書いて(描いて)くださった皆様、本当にありがとうございました。あ、まだという方も、まだまだ募集中です。ぜひご参加くださいませ。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
アウグスブルグの冬
黄土色の壁が目に眩しい一画を、三人は歩いていた。ヴィルが壁を指差した。
「これが、フッガーライ。低所得者のための社会福祉住宅としては、ヨーロッパ最古と言ってもいい」
ドイツ南部の街アウグスブルグにあるフッガーライは、16世紀に世界的大富豪であったヤコブ・フッガーが建てた貧者のための集合住宅だ。アウグスブルグ出身の勤勉だが貧しいカトリック教徒がほんのわずかの家賃で住むことができた。
アウグスブルグは、ロマンティック街道の中心都市。ローマ皇帝アウグストゥスにその名前の起源を持つ二千年の古都だ。日本人の稔と蝶子にはあまり馴染みがなかったが、ヴィルにはなつかしい故郷だ。彼が蝶子たちにアウグスブルグの名所を案内するのは、今日が初めてだった。
「最古の福祉住宅ね。で、今でも、人が住んでいるのか?」
稔が見回す。ヴィルは頷いた。
「ああ、家賃は今でも1ライングルデン。0.88ユーロだ」
「ええっ? ひと月?」
「年間だ」
蝶子と稔は顔を見合わせた。
「それって、要するにタダってこと?」
「まあな。光熱費は別だが」
「それなら俺にも払えるぞ」
「住みたければそれでもいいが、しょっちゅうやってくる観光客に家を覗かれるのは、そんなに心地いいものじゃないぞ」
フッガーライを通り過ぎ、ヴィルは蝶子と稔を『アウグスブルガー・プッペンキステ』という人形劇博物館へと連れて行った。1943年にエーミヘン一家が始めた操り人形よる劇は、戦後テレビ放映されたことから全国的な人氣を博した。
「へえ。ずいぶん大掛かりなものもあるんだな」
「ブラン・ベックも連れて来ればよかったわね」
稔と一緒に感心しつつ、蝶子が言った。レネは、久しぶりに逢うヤスミンとの時間を過ごすために別行動なのだ。後で、劇団『カーター・マレーシュ』の仲間であるベルンと待ち合わせしているレストランで落ち合うことになっていた。
「これが、『
ヴィルは、バイクに乗っている白黒の猫の人形を指した。ドイツやオーストリアなどのドイツ語圏の子供ならば、テレビで一度は観たことがあるという、ポピュラーなシリーズで、『アウグスブルガー・プッペンキステ』というと、この猫を思い出す人も多いらしい。
「ああ、これをもじって『カーター・マレーシュ』なのね」
「マレーシュは、アラビア語で上手くいっていない時に『氣にするな』ってかける常套句だ」
「その二つの組み合わせかよ。それじゃ、日本人には、ピンとこないよな」
ヴィルは『カーター・マレーシュ』の俳優だった。逃げるように去ったこの街に、ようやく何の問題もなく戻ってこられるようになった。Artistas callejerosの仲間たちと一緒に。劇団の仲間ともあたり前のように逢って、酒を飲んで旧交を温めることが出来る。彼は、クリスマス前のアウグスブルグ観光を楽しむ蝶子と稔を見ながら、感慨にふけった。
時間より少し遅れて、三人は『Starrluftschiffe(飛行船)』というレストランの扉を押した。頭上に黄金の飛行船のプレートがある。
「レストランに飛行船モチーフって珍しいよな」
「そうね。なぜ飛行船って名付けたのかしら」
蝶子も首を傾げた。
赤い玉や、樅の木の飾りなどクリスマスらしい装飾で満ちた店内には、既にベルン、ヤスミン、そしてレネが座っていた。三人は、テーブルに向かいお互いに抱き合って再会を喜んだ。
「クリスマス市に行くにはまだ早いから、少しここで腹ごなししておこう」
先に来ていた三人の前には、既に飲み物が来ていた。レネはワイン、残りの二人はわりと小さめのグラスでビールだった。
「どうしたんだ?」
ヴィルが、ベルンに訊いた。ジョッキで飲まないとは珍しい。
「オクトーバーフェストで飲み過ぎて以来、ちょっと控えめにしているんだ」
彼が、肩をすくめると、ヤスミンが補足した。
「とんでもない醜態を晒したのよ。私が行った時にはぶっ倒れてお医者様が呼ばれていたの」
四人に、へえという顔をされて、ベルンは少し赤くなって自己弁護をした。
「元はと云えば、隣の席にいた日本人カップルが、いい調子でがぶ飲みしていたせいだよ。バイエルン人の誇りにかけて負けてはならじと……」
「ええっ。あれは、カップルじゃないでしょう」
ヤスミンは、何を言うのかといわんばかりの剣幕だった。
「え。違うのか?」
「とても歳が開いてみたいだし、それに、あんなに他人行儀なカップルはないわよ」
「そうかな? でも、娘があんなに飲むのを放置する親父っていうのも変だぞ?」
稔とレネは、二人の会話を聴きながら、顔を見合わせた。どんな二人組だったんだろう?
その話題をまるっきり無視してメニューを見ていた蝶子が「あ。なるほど!」と言った。
「何が、なるほどなんだ?」
稔が訊くと、蝶子はメニューの内側の最初のページを見せた。そこにはやはり飛行船の絵と、レストランの名前が大きく書かれていた。
「飛行船 グラーク ツェッペリン」
「これが?」
「ほら、この下の方を見てご覧なさいよ『グラーク=ツェッペリン家(Familie Glag-Zeppelin) 』って、書いてあるでしょう? これ、苗字なのよ。たまたまグラークさんとツェッペリンさんが結婚して、まるでツェッペリン伯爵みたいな響きになったんで、面白がってレストランに『飛行船』って付けたんだわ。『雄猫ミケーシュ』をもじって『カーター・マレーシュ』って名付けたみたいなものなのね」
「
「本物の伯爵が大衆レストランを経営する訳はないだろう」
ヴィルが口を挟んだ。
三人は飲み物につづいて料理も頼んだ。自分の頼んだグーラッシュが目の前に置かれて、稔は「ああ、これか!」と言った。
「何が?」
「シチューだったんだな。グーラッシュってなんだっけと訝りつつ頼んだんだ」
「まあ、わかっていなかったの?」
「うん。これ、ご飯がついていたらハヤシライスみたいだよな」
「ハヤシライス?」
レネが訊いた。
「ハッシュドビーフ・ライスのことよ。日本ではハヤシライスっていい方をする場合もあるの」
蝶子が、説明した。
「ハッシュドって、そもそもどういう意味だっけ?」
稔が訊く。
「細かく刻んだって意味でしょ」
「電話についている、ハッシュマークも同じ意味なのかな?」
「語源は同じなんじゃないの? 細かく刻んでいるみたいに見えるし」
「あれって、シャープマークじゃないんでしったけ?」
レネが、ザワークラウトと格闘しながら訊いた。
「似ているけれど違う。シャープは横棒が斜めで、ハッシュは縦棒が斜めになっているんだ」
ヴィルが、ビールを飲みながら答えた。
「ドイツ語ではなんて言うんだ?」
稔が訊いた。
「シャープはクロイツ。ハッシュはドッペルクロイツ」
ベルンの返事にレネが首を傾げる。
「クロイツって十字マークじゃ」
蝶子は笑ってさらに混乱させることを言った。
「バッテンも、シャープもクロイツよね」
「わかりにくいな」
食事が終わると、ベルンが席を外した。
「トイレにしちゃ長いな」
稔が言うと、ヤスミンが煙草のジェスチャーをした。ああ、と稔は頷いた。
「ドイツも吸えないんだっけ」
「公共の場での喫煙は禁止されているの。レストランも同様。だから、吸いたければ、外で吸うしかないんだけど、なんせマイナス15℃ぐらいまで下がるからね。冬の間に禁煙に成功する人も多いのよ。もっともここ数日は暖かいから、彼は当分止められないでしょうね」
ヤスミンが言うと、四人は笑った。
「それで、公演は終わったのか?」
ヴィルが訊くとヤスミンは頷いた。彼女は、『カーター・マレーシュ』の重要な裏方だ。
「三十年戦争終結四百周年の記念イベントに私たちも参加したの。アウグスブルグの十七世紀って、盛りだくさんだったのね」
「当時の歴史に関する劇だったのか?」
「ええ。最初は三彗星の出現から始まったのよ」
1618年の秋に、ヨーロッパには三つもの彗星が同時に現れた。同時に二つ以上の彗星が現れたのは、それから2004年までなかったことを考えると、彗星のめぐる仕組みが知られていなかった当時の人びとにとってそれがどれほどの異常事態であったかは想像に難くない。現在のように明るいネオンのなかった時代、いくつものほうき星の出現は、さぞ人びとを不安にしたことだろう。
その年に、三十年戦争が始まり、アウグスブルグも一時スウェーデンに占領されることになった。件のフッガーライの貧しい住民たちも追い出されて、一時は兵舎となったのだ。
「そのせいで、団長にスウェーデン語のセリフがあって。稽古にやたらと時間がかかったよ。それより大変だったのはベルンのピアノだけれど」
「ピアノ?」
「ああ、スポンサーがどうしてもモーツァルトを絡ませたいというので、現代人である主人公が、ピアノを練習しているうちに夢を見たという設定にしたの」
「でも、なんでモーツァルト?」
レネが訊く。
「アウグスブルグは、モーツァルトゆかりの街という観光キャンペーンもやっているから」
ヤスミンが言うと、蝶子は茶化した。
「モーツァルトと言っても、お父さんの方、レオポルド・モーツァルトのゆかりじゃない」
「そう、だから、なんとしてもヴォルフガングの方とアウグスブルグを結びつけなくちゃいけなかったの。でも、ベルンはピアノなんてできないから、弾いている振りして、録音した音源と合わせたの。このシンクロがなかなか上手くいかなくて、稽古にやたらと時間がかかって。あなたがいてくれたら、自分で弾けたのにね」
そういってヴィルを見た。
「何を弾いたんだ?」
「ピアノ協奏曲第六番変ロ長調 K.238」
蝶子が目を丸くした。
「ずいぶんマニアックな選曲ね。同じコンチェルトでも21番や23番みたいにポピュラーなものもあるのに」
「第六番は、ここアウグスブルグで、モーツァルトが自ら演奏したって記録があるんだ。モーツァルトの街を自認するアウグスブルグならではの選曲だと思う」
ヴィルの説明に、蝶子たちは納得して頷いた。
噂のベルンが戻ってきた。
「外はだいぶ暗くなってきたぞ。そろそろ行くか」
市庁舎の前では、『
本物の羽根を使って作った小鳥や、ガラス細工の大きな雪のオーナメントがぎっしりと屋台に飾られていて、明るい照明の中でキラキラと輝いている。ヤスミンとレネは、靴の形をした一つの同じ容器からグリューワインを飲んで微笑んでいた。蝶子は、クリスマスツリーに付ける新しいオーナメントを買った。
突然、オルガンの高い音が響いた。人びとがざわめき、市庁舎の窓を見上げた。窓に灯りがつく。そして、開いた窓から、一人、また一人と、背中に翼を付けた奏者たちが窓に現れた。『
「なんだ。あそこにいるの、マリアンじゃないか」
ヴィルが言うとベルンが頷いた。
「そうだよ、それにユリアもあっちにいる。エンゲル・シュピールも毎回出演すると、結構な餅代が出るしな。俺みたいにむくつけき輩は、残念ながら天使にはなれないんだが」
劇団員は、生活費を捻出するためにあちこちでバイトをするのが常だ。かつてはバーでピアノを弾いていたヴィルも、配送業の仕事をするベルンも、美容師の仕事とかけ持ちをしているヤスミンも例外ではなかった。
「クリスマス市の季節か。こうなると今年も、あっという間に終わるな」
ベルンがグリューワインを飲みながら言った。
「そうね。来年もみな健康で、いいことがたくさんあるといいわね」
蝶子が言うと、ヤスミンがウィンクをした。
「それに、あなたたちは、あまり大立ち回りのない平和な一年になるといいわね」
いろいろありすぎたこの一年のことを思い出して、蝶子は肩をすくめた。それから大切な仲間、一人一人とグリューワインで乾杯をして、来年が平和になるよう、心から祈った。
(初出:2015年11月 書き下ろし)
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【小説】バッカスからの招待状 -3- ベリーニ
この66666Hit企画は、六名の方から出していただいた名詞をそれぞれ一つ以上使うというルールがあります。今回、使った名詞は順不同で「バンコク」「桃の缶詰」「名探偵」「エリカ」「進化論」「にんじん」「WEB」の七つです。使うのに四苦八苦している様子もお楽しみください(笑)
参考:
バッカスからの招待状
いつかは寄ってね
君の話をきかせてほしい
バッカスからの招待状 -3- ベリーニ
大手町は、典型的なビル街なので、秋も深まると風が冷たく身にしみる。加奈子は意地を張らずに冬物を出してくるべきだったと後悔しながら、東京駅を目指して歩いていた。ふと、横を見ると、見覚えのある看板がある。『Bacchus』。隆に連れてきてもらったことのあるバーだ。あいつには珍しく、センスのある店のチョイスだったわよね。重いショルダーバッグの紐が肩に食い込んでいる。あいつのせいだ。加奈子は、駅に直行するのは止めて、その店に入るためにビルの中に入っていった。
「いらっしゃい」
時間が早かったらしく、まだそんなに混んでいなかった。バーテンダーの田中が、加奈子の顔を見て少し笑顔になる。憶えていてくれたのかしら。
「こんばんは、鈴木さん。木村さんとお待ち合わせですか」
あら、本当にあいつと来たことを憶えていたんだわ。しかも私の苗字まで。
「いいえ。一人よ。隆とは、いま別れてきたところ。彼、明日バンコクに行くの。朝早いから帰るって」
「出張ですか?」
「ううん、転勤だって。私もつい一昨日聞いたのよ。ヒドいと思わない?」
木村隆とは、つき合っているのかいないのか、微妙な関係だった。加奈子の感覚では、一ヶ月に一度くらい連絡が来て、ご飯を食べたりする程度の仲をつき合っているとは言わない。告白されたこともないし、加奈子も隆のことは嫌いではないが、自分から告白をして白黒をはっきりさせるほど夢中になっている訳ではないので、そのままだ。
突然電話がかかってきて「これから逢おうよ」などと言われる。例えば、夜の九時半に。はじめはそれなりにお洒落をして待ち合わせ場所に向かったりしたが、家の近くのファミリーレストランや赤提灯にばかり連れて行くので、そのうちに普段着で赴くようになった。一応、簡単なメイクだけはしている。これまでしなくなったら、女として終わりだと思うので。
そんな彼が、連れて来た中では、洒落ていると思えた唯一の場所が、ここ『Bacchus』だった。
「なんで、あなたがこんな素敵な店を知っているの?」
「え? いつもと違う?」
「全然違うわよ」
「そうかな。僕は、流行やインテリアの善し悪しなんかはあまりわからなくて、お店の人が感じのいいところに何度も行くんだよ。ここは、会社の先輩に一度連れてきてもらったことがあるんだけれど、田中さん、すごくいい人だろう?」
そう、それは彼の言う通りだった。彼の連れて行く全ての店は、必ず感じがいい店員か、面白いタイプの店主がいて、彼は必ず彼らと楽しくコミュニケーションをとるのだった。そして、加奈子は、彼や彼の連れて行く店で出会う人びとと、楽しい時間を過ごすのが好きだった。
だから、本当につき合っているのかどうか、彼が加奈子のことを好きなのかどうかにはあまりこだわらずに、彼の誘いは出来る限り断らないようにしてきた。洒落た店や、高価なプレゼント、それにロマンティックなシチュエーションなども、彼とは無縁だと納得してきた。それに、加奈子自身も、さほどファッショナブルではないし、目立つ美人という訳でもない。そういうフィールドで勝負しなくていいのは氣持ちが楽だと思っていた。
「でも、今回はあんまりだと思う。見てよ、これ」
そういうと、大きなショルダーバッグのジッパーを開けて、田中に大手町界隈を歩く時には通常持ち運ぶことはない品物を示した。
にんじん、芽の出掛かっているジャガイモ、中身が出てこないようにビニール袋で巻いてある使いかけのオリーブ油、やはり開封済みの角砂糖、そして何故か五つほどの桃の缶詰。
「これは?」
田中が訊く。
「バンコクに送る荷物には入れられなかったけれど、もったいないから使ってほしいって。そのために呼び出したのよ! 転勤も引越も教えなかったクセに」
彼はいつでもそうだ。加奈子は、「普通ならこう」ということに出来るだけこだわらないようにしているつもりだが、彼の言動は彼女の予想をはるかに越えている。
「前に、誕生日を祝ってくれると言うから、プレゼントはなくてもいいけれど、せめて花でも持ってこいと言ったら、何を持ってきたと思う? エリカの鉢植えよ、エリカ! 薔薇を持ってこいとは言わないけれど、あんな荒野に咲く地味な花を持ってこなくたって」
田中は、笑い出さないように堪えた。
「確かに珍しい選択ですが、何か理由がおありになったのではありませんか」
「訊いたわよ。そしたらなんて答えたと思う? 『手間がかからないだろう』ですって。蘭みたいな花を贈ってもどうせ私は枯らすだろうと思ってんのよ、あの男は!」
それだけではなくて、別に誕生日プレゼントももらった。『名探偵登場』というパロディ映画のDVD。全然ロマンティックじゃないし、唐突だ。でも、面白かった。実は、昔テレビ放映された時に観たことがあって、結構好きだった。
世間の常識からはずれているけれど、私との波長はそんなにズレていない。そう思っていた。加奈子は、そんな自分の直感を大事にしているつもりだった。でも、それが間違っていたのかとがっかりしてしまう。
こんなにたくさんの桃の缶詰、いったいどうしろって言うのよ。桃なんてそんなにたくさん食べるものじゃないし、これを見る度に、私はあいつに振り回された訳のわからない日々を思い出すことになるじゃないのよ!
でも、あいつはよく知っているのだ。あいつと同じく、私も食べ物を無駄に出来ない。邪魔だから捨てるなんて論外だ。あいつが私にこれを託したのは、私が全部食べるとわかっているから。もう!
「ねえ。これで、ベリーニを作って」
彼女はカウンターに黄桃の缶詰を一つ置いた。
田中は、加奈子の瞳と、缶詰を交互に見ていたが、やがて静かに言った。
「困りましたね」
「どうして? 缶詰なんかじゃカクテルは作れないってこと?」
「もちろんカクテルは作れます。ただ、ベリーニは、黄桃ではなくて白桃で作らなくてはならないんですよ」
「どうして?」
「イタリアの画家ジョヴァンニ・ベリーニの描くピンクにインスパイアされて作られたカクテルなんです。黄桃ではピンクにはなりませんからね。少しお待ちください」
そう言うと、彼はバックヤードへ行き、二分ほどで小さなボールを手に戻ってきた。薄桃色のシャーベットのように見える。
「何それ?」
「白桃のピューレです。夏場は、新鮮な白桃でお作りしていますが、冬でもベリーニをお飲みになりたいという方は意外と多いので、冷凍したものを常備しているのですよ」
田中は、グレナディンシロップを使わなかった。その赤の力を借りれば、もっとはっきりした可愛らしいピンクに染まるのだが、それでは白桃の味と香りが台無しになってしまう。規定よりも少ないガムシロップをほんの少しだけ加えてグラスに注いだ後、しっかりと冷やされていたイタリア・ヴェネト州産の辛口プロセッコを注いで出した。
「うわ……」
加奈子は、ひと口飲んだ後、そう言ってしばらく黙り込んだ。
桃の優しい香りがまず広がった。それから、華やかで爽やかな甘さが続いた。それを包む、プロセッコのくすぐるような泡と大人のほろ苦さ。その組み合わせは絶妙だった。本家ヴェネチアのベリーニとは違うのかもしれないが、特別な白桃の味と香りがこのカクテルを唯一無二の味にしていた。想像していたよりもずっと美味しくて、そのことに衝撃を受けて口もきけなくなってしまった。それから、もう二口ほど飲んで、ベリーニを堪能した。
「田中さん、ごめんね」
「何がですか?」
「缶詰でベリーニを作れなんて言って。とても較べようがないものになっちゃうところだったわ。これ、ただの桃じゃないんでしょう?」
彼は、控えめに笑った。
「山梨のとあるご夫婦が作っていらっしゃる桃です。格別甘くて香り高いんです。たくさんは作れないので、大きいスーパーなどでは買えないんですが、あるお客様のご紹介で、入手できるようになったんです。お氣に召されましたか?」
「もちろん。ますます缶詰の桃が邪魔に思えてきちゃった」
「そんなことはありませんよ。少々、お待ちください」
田中は、加奈子の黄桃の缶詰を開けると、桃を取り出してシロップを切った。ひと口サイズに切り、モツァレラチーズ、プチトマトも一口大にカットして、生ハム、塩こしょうとオリーブオイルで軽く和えた。白いお皿に形よく盛り、パセリを添えて彼女の前に出した。
「ええっ。こんな短時間で、こんなお洒落なおつまみが?」
「この色ですからベリーニにはなりませんが、缶詰の黄桃も捨てたものじゃないでしょう?」
「そうね……」
加奈子は、生ハムの塩けと抜群に合う黄桃を口に運んだ。隆と一緒に食べたたくさんの食事を思い出しながら。結構楽しかったんだよなあ、あいつとの時間。
「私、振られたのかなあ」
加奈子は、ぽつりと言った。
「え?」
田中は、グラスを磨く手を止めて、加奈子を凝視した。
「いや、そもそも彼は、私とつき合っているつもりは全然なかったってことなのかしら。転勤になったことも、引越すことも何も言ってくれなくて、持っていけない食糧の処理係として、ようやく思い出す程度の存在だったのかな」
田中は、口元を緩めて言った。
「木村さんのコミュニケーションの方法は、確かに独特ですけれど……」
「慰めてくれなくてもいいのよ、田中さん。私……」
田中は、首を振った。
「ようやく出会えたんだって、おっしゃっていましたよ」
「?」
「はじめてご一緒にいらした翌日に、またいらっしゃいましてね。『昨日連れてきた子、いい子だろう』って。木村さんがこの店に女性をお連れになったことは一度もなかったので、それを申し上げました。そうしたら『ここに連れてこられるほど長くつき合えた子は、これまで一人もいなかったんだ』と」
加奈子は、フォークを皿の端に置いた。
「それで?」
「『どんな話をしても、ちゃんと聞いてくれる。バンバン反論もするけれど、聞いてくれなきゃ意見なんかでないだろ』って。それに、『どんなあか抜けない店に行っても、僕が美味いと思う料理は、必ずとても幸せそうに食べてくれるんだ。マメに連絡できなくても怒らないし、服装がどうの、流行がどうのってことも言わない。だから、とてもリラックスしてつき合えるんだ』と、おっしゃってました」
加奈子は、ベリーニのグラスの滴を手で拭った。そうか。けっこう評価していてくれたんだ。それに、あれでつき合っているつもりだったんだ。
「しょうがないわね。あれじゃ、そんな風に思っているなんて伝わらないじゃない。明日にでも、メールを送って説教しなくっちゃ」
「木村さんの言動は、聞いただけだと、なかなか理解されないでしょうけれど、鈴木さん、あなたを含めて彼の周りにいる方は、みな彼のことをとても大切に思っている。素敵な彼の価値のわかる方が集まってくるのでしょうね。チャールズ・ダーウィンがこんな事を言っていますよ。『人間関係は、人の価値を測る最も適切な物差しである(注1)』って」
「へえ。それって、あの『進化論』のダーウィン?」
「ええ。そうです」
「田中さん、すごい。教養があるのね」
「とんでもない。格言集は、面白いのでよく読むんですよ。元々は、お客さんにいろいろと教えていただいたんですけれどね。あ、今は、WEBでいくらでも調べられますよ」
「へぇ~。家に帰ったら調べてみようかな」
「ダーウィンは他にも、私たちのような職業の者には言わないでほしかった名言を残していますよ」
「なんて?」
「『酔っ払ってしまったサルは、もう二度とブランデーに手をつけようとしない。人間よりずっと賢い(注2)』んだそうです」
加奈子は、楽しそうに笑った。そうかもね。でも今夜はそれでも、あの訳のわからない男のことを思い出しながら、この優しいベリーニに酔いたいな。
ベリーニ(BELLINI)
レシピの一例
プロセッコ 12cl
白桃のピュレ 4cl
ガムシロップまたはグレナディンシロップ 小さじ1杯
作成方法: グラスに白桃のピュレとシロップを入れ、よく冷えたプロセッコを注ぐ
(注1)A man's friendships are one of the best measures of his worth. - Charles Darwin
(注2)An American monkey, after getting drunk on brandy, would never touch it again, and thus is much wiser than most men. - Charles Darwin
(初出:2015年11月 書き下ろし)
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【小説】パリでお前と
この66666Hit企画は、六名の方から出していただいた名詞をそれぞれ一つ以上使うというルールがあります。今回、使った名詞は順不同で「テディーベア」「天才」「中国」「古書」「蚤の市」「モンブラン」「アルファロメオ」「野良犬」「遊園地」「モンサンミッシェル」の十個です。
参考:「ファインダーの向こうに」

ファインダーの向こうに・外伝 — パリでお前と
アンジェリカは、彼の手のひらに手を滑り込ませた。フォーシーズンズ・ジョルジュ・サンクからギャラリー・ラファイエットまでのさほど長くない道のりを、渋滞に巻き込まれて退屈な時間を過ごすことになっても文句一ついわなかったし、むしろ彼をリラックスさせようと明るく話し続ける彼女を、レアンドロ・ダ・シウバは愛おしいと思った。
二時間もあれば飛んでこられるのに、わざわざドーバーを越えるフェリーを使ってフランスまで来たのは、愛車スパイダー・ヴェローチェに乗せてやるという一年前からの約束を果たすためでもあったが、実際のところ幼い彼女には、1993年に生産終了となったスポーツタイプ車の価値などはあまりわかっていなかった。だが、少なくとも、デパートメントストアの駐車係は、その車の価値をわかったようで、しかも運転してきたのが、かなり有名なサッカー選手であることに氣がついて、慇懃に挨拶をしたので、彼の自尊心は大いに満足した。
アンジェリカの白いコートを持ってやり、二人は輝かしいシャンデリアを見上げた。クリスマス前の最後の買い物をしようとする人びとが忙しく動き回っていた。アンジェリカは、少し怯えたようにごった返す店内を見回した。彼は、そんな八歳の少女の手のひらを優しく握りしめた。
前に逢ったのは半年も前で、その間にずいぶんと背が伸びて、より美しくなったように感じた。離婚して毎日は逢えなくなった我が娘に対して感じる、大抵の父親と同じ感想なのかもしれないが、少なくとも絶世の美女と世間の認めるスーパーモデル、アレッサンドラ・ダンジェロにますます似てくる娘を美しいと感じるのは、親の欲目だけとは言えないであろうと思った。
「それで。本当に明日には、スイスに行ってしまうのか。雪があるだけで、つまらない山の中だろう。結婚式が終わるまで、パパと一緒にマンチェスターへ来てもいいんだぞ」
ブラジル出身のプロサッカー選手であるレアンドロは、二年ほど前にプレミアムリーグに属する有名チームに移籍した。
アンジェリカは、首を振った。
「だめよ、パパ。ママの結婚式では、私、フラワーガールをすることになっているんだもの。それが終わったら、私はまたロサンジェルスに戻って、学校に行かなくちゃいけないのよ。マンチェスターで、パパの試合を応援する時間なんてないんだわ。それに、パパがトレーニングしている間、ソニアとお茶を飲んでいるだけなんて退屈だもの」
それで彼は、二度目の妻がアレッサンドラ・ダンジェロとその娘に対して、あまり好意的でないことを思い出して、娘をイングランドに連れて行くという計画を諦めた。そういえば、だからこそ、彼がわざわざパリまで出てきたのだった。
「じゃあ、少なくとも今日一日まるまるは、パパとデートしてくれるだろう。アレッサンドラは今日は、忙しいんだろうし」
「そうね。ウェディング・ドレスの仕上げなんですって。ねえ、パパ、どうしてママは結婚する度に新しいドレスを作るの? 二年前のだって、一度しか着ていないのに」
レアンドロは、もう少しでむせ返るところだった。
「さ、さあな。そもそも、パパは、なぜあいつが、また結婚するつもりになったのか、それだってわからないよ」
「どうして? パパは、シングルに戻ったママともう一度結婚したかったの?」
「う~ん。そう簡単にはいかないんだよ」
「ああ、そうか、パパはソニアと結婚しているものね」
アンジェリカは、したり顔で頷いて、それから大きなデパートメントストアの、子供服売場の方に意識を戻した。
レアンドロは、娘の着ているスモモ色のビジューギャザーのワンピースをちらっと見た。確かイ・ピンコ・パリーノとかいうイタリアのブランドだ。マッテオ伯父さんに買ってもらったと言っていたな。
アレッサンドラの兄、ニューヨーク在住のマッテオ・ダンジェロに対して、レアンドロは強い対抗意識を持っていた。あいつにバカにされないものを買ってやらなくちゃいけない。俺は子供服のことはさっぱりだが、ふん、少なくとも値段が高いか安いかくらいは、わかるさ。このデパートメントに売っているものが、どれもバカ高いことだってな。
「欲しいのは、洋服だけか。ほら、あそこの熊のぬいぐるみは?」
レアンドロが指差した先には、茶色い大きなテディーベアがサンタクロースの衣装を着せられてかなり雑な様子で椅子に座らされていた。
「もう、パパったら。私ね、何ヶ月か前だけれど、ジョルジアとメイシーズに行って、ジュリアンの誕生日にこういう熊を選んであげたの」
ジョルジアは、アレッサンドラの姉だ。なんともぱっとしない女で、確か写真家だったな。レアンドロは素早く考えたが、ジュリアンというのがわからない。まさか、アンジェリカのボーイフレンドじゃないだろうな。いくらなんでも早すぎる。
「ジュリアンというのは、誰だったかな?」
「ジョルジアが名付け親になっている子よ。六歳なんだけれど、子供っぽいの。親はスキーウェアがいいって言ったらしいけれど、あの子はそんなのより、ぬいぐるみの方を喜ぶわよってジョルジアにアドバイスしてあげたの。それで、ああいう巨大なテディーベアが、スキーウェアを着ているような形にしてプレゼントしたら大喜びだったんだって。でも、私はもう、ぬいぐるみを抱えて寝るような子供じゃないのよ」
彼女は、そう澄まして言いながらも、傾いて座っているテディーベアの位置を直してやってから、優しくポンポンとその頭を叩いた。
一人前のような口をきいて、同年齢の子供よりも大人びて見えるが、時折見せる子供らしさをレアンドロは見逃さなかった。彼女は、両親にたくさん時間を割いてもらえないことを批難したりはしない。彼らの離婚と再婚によって複雑怪奇になる一方の家庭事情も黙って受け入れている。大人のような口をきくのも、寂しさと折り合うための彼女なりの努力なのかと思うと、彼の心は締め付けられた。
子供服売場をひとしきり歩いたけれど、アンジェリカの目が輝くことはなかった。どれもカジュアルすぎるし、思ったよりもペラペラしている。マッテオ伯父さんに甘やかされて、最高級のイタリアブランドを着慣れている彼女は、子供なのに目が肥えてしまっているらしい。
「もっと大人っぽいのがいいんだけれどな」
「どんなブランドがいいのかい?」
「う~ん。マリー・シャンタルか、ジャカルディみたいなの。でも、なければいいのよ、パパ。レストランに入っておしゃべりしましょうよ」
マリーなんとかに、ジャカルタか。はじめて聞いた。子供服のブランドなんだろうか。デパートには入っていないのかもしれないな。サッカー選手はあれこれと悩んでいたが、娘は彼の手を引いてさっさと飲茶専門店に入っていった。
「中国のお料理、パパも好きでしょう? 私、綺麗な点心を少しずつ食べるの大好きなの」
「そうか。じゃあ、美味しいものをたくさん食べよう」
そこからが一苦労だった。フランス語と中国語のアルファベット表記と漢字で書かれたメニューは、ブラジル人のレアンドロには、呪文の書かれた魔法書やギリシャ語で綴られた古書と変わらなかった。西欧の料理ならば、それでも前菜なのかメインなのかくらいはわかるが、中華料理ではそれすらもわからない。だが、メニューも読めないほど学がないと思われるのも悔しい。彼はウェイターを呼んだ。
「悪いが、英語のメニューを持ってきてくれ」
本当はポルトガル語がいいけれど、あるわけないからな。
結局、英語のメニューでも彼にはどんな料理かよくわからず、アンジェリカが美味しいだろうと提案してくれたものを頼むことにした。ちくしょう、二度とパリなんかで逢ったりしないぞ、父親の威厳が台無しじゃないか。彼は心の中で呟いた。
彼は、しばらく箸を使えるようなフリをしようとした。が、いつまで経っても水餃子をつかめない。今は、娘に逢いにアメリカへ行く度に飛行機のファーストクラスを使ったり、ル・プラザ・アテネに宿泊料金を確認せずに泊ったり出来る年棒をもらっているが、アンジェリカくらいの年齢の時には、サンパウロの貧民街で野良犬と一緒にゴミをあさっていたのだ。箸の使い方なんか、習ったことはなかった。彼は、諦めて箸を持ちかえると、水餃子をぐさっと突き刺した。
「で、アレッサンドラと、なんとかっていうお貴族様は、スイスのどこで結婚するんだ? モンブランのあたり?」
アンジェリカは、饅頭を上品に食べながら、しょうがないなという顔をした。
「パパったら。モンブランは、フランスの山でしょ。結婚式と披露宴があるのは、サン・モリッツよ。ヨーロッパ中の貴族が招待されるから、高級リゾートで、しかも警備が万全にできるところがいいんですって。パパは、スキーってしたことある? あれって、簡単に滑れるようになるのかしら? 赤ちゃんみたいな、ジュリアンだって出来るんだから、そんなに難しくないはずよね」
「さあな。パパはまだやったことはないよ。でも、お前、フラワーガールをやるなら、怪我をしたりしないようにしないと。よく骨折しているヤツがいるじゃないか」
「そうか。そうよね。じゃあ、結婚式の前はスキーは習わない方がいいのかな。でも、だとしたら、明日から結婚式までの五日間、何をしたらいいのかしら。とても退屈そう」
それを聞くと、レアンドロは急いでスマートフォンを取り出して、ここ数日の予定を確かめた。クリスマス休暇中でトレーニングはないし、変更しても問題はなさそうだ。
「じゃあ、パパとあと二、三日一緒にいよう。サン・モリッツにはパパのアルファロメオで送っていってやるよ」
「本当に? パパ、まだ数日、こっちにいられるの?」
「そうさ。パリをもう少し観光して、なんだっけ、ジャカルタとかいう洋服屋にもいこう」
「ジャカルタじゃないわよ。ジャカルディ。本店にいってくれるの? 嬉しいけれど、そんなに長くパリ観光をしたら、パパラッチにつかまっちゃうんじゃないの?」
「ふん。あいつらは今、お前のママの写真を撮るのに必死で俺たちを撮っているヒマなんてないのさ。その店の他にはどこに行きたい?」
「うふふ。凱旋門とエッフェル塔に登りたいな。クリニャンクールの蚤の市も行ってみたいし。アンティーク調のアクセサリーが欲しいの。クラスの子が誰も持っていないようなのをね」
「なんて言ったっけ、あの遊園地、そうだ、ユーロ・ディズニーランドにも行くか」
「パパったら。今、私はロサンジェルスに住んでいるのよ」
アンジェリカは、緩くカールしている濃い栗毛を手の甲ではらってから、大きくため息をついた。
「そうだったな。でも、ムーラン・ルージュ観光ってわけにはいかないだろう」
「だったら、パリの観光は、今日この後に全部やっちゃって、明日一緒にモンサンミッシェルか、ベルサイユに行かない? 電車だと時間がかかりそうだけれど、車で行ったら、すぐでしょう?」
アンジェリカは、ニッコリと笑った。
パリから昨日側を通ったばかりのモンサンミッシェルまで車で往復し、さらにその翌日に、スイスの東の端まで凍結しているに違いない道を走って行くのは、運転の好きなレアンドロでも、決して容易くはないのだが、娘の微笑みにはそれを言い出せなくするような不思議な力があった。
どこかで、こうやって女に振り回されたことがあったなと、数秒考えた。どこかじゃない。目の前に座っている娘とそっくりの微笑みだ。世界中の男たちの羨望を浴びていた十年くらい前の話だ。アレッサンドラ・ダンジェロは八歳の少女ではなかった。彼女は無邪氣なのではなくて、確信犯だった。ひとかどの人物と自負している男を、自分の自由に動かす術を知り尽くしている天才だった。そして、それがわかっても腹立たしくはならない不思議な女だった。
どうして、あの女と別れることになってしまったのかな。彼は訝った。そして、いまアレッサンドラに振り回されているのは、いつだったかの神聖ドイツ皇帝の末裔たる貴族だ。
悔しいような、ホッとするような、不思議な想いだった。今日、アンジェリカを送り返す時に、あの女に逢ったら、どんなことを思うのだろうと考えながら、レアンドロは最後の饅頭に手を出した。彼の小さい娘は、澄ましてジャスミン茶を飲みながら、満足そうに微笑んだ。
(初出:2015年11月 書き下ろし)
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【小説】彼岸の月影 — 赫き逡巡
この66666Hit企画は、六名の方から出していただいた名詞をそれぞれ一つ以上使うというルールがあります。使った名詞は順不同で「ピラミッド」「赤い月」「マロングラッセ」「マフラー」「いろはうた」「楓」「鏡」「金魚鉢」の八つです。かなり無理矢理感がありますが、お許しください。
参考: 「彼岸の月影」
彼岸の月影 — 赫き逡巡
晃太郎は、赤に囚われている。
彼は怖れている。かつては、盆と正月のどちらかだけに訪れるだけだった故郷の村に、ことあるごとに戻ってくるようになったことを、家族に訝られはしないかと。だが、彼の母親は、一人息子の帰郷を純粋に喜び、老いてめっきり弱った祖父を心配していると、都合よく解釈していた。
彼が帰郷すると、祖父の芳蔵の酒の相手は晃太郎の役目だった。それは、取りも直さず、芳蔵が竹馬の友である村長の北村の家に飲みに行くときの付き添いとなることをも意味していた。北村は、子供のころからよく知っている晃太郎をやはり実の孫のように可愛がってくれるが、晃太郎の方はもっと複雑な想いを持っていた。
「佐竹様、ようこそおいで下さいました。まあ、今日は、晃太郎さんもおいでですのね」
北村の年若い後添い燁子が、艶やかに挨拶をする。蒸栗色の小紋に黒い帯を締めているが、帯締めが鮮やかな緋色だ。それは唇の濡れたような紅と対を成している。村はずれの地獄沼の北側に一斉に生える曼珠沙華の色だ。
三年ほど前、地獄沼のほとりに立つ阿弥陀堂で、晃太郎は名も知らなかったこの若い女と秘密の逢瀬を持った。祖父の友人の妻だとは夢にも思わず。誰も訪れぬ崩れかけた阿弥陀堂。鏡のごとく静まり返った水面に映った十六夜の月。噎せ返るような曼珠沙華の赫さ。それ以来、彼はこの村の赤に囚われている。
今宵も美味い肴を食べながら、芳蔵と北村は吟醸酒を酌み交わした。晃太郎は、二人の昔語りに相づちを打ちながら、三人に酌をする美しい女を凝視しないように苦労していた。
「晃太郎よ、今宵が月見の宴というのを知って帰って来たのか」
北村は、縁側にしつらえられた薄と月見団子を目で示した。
「いえ。でも、十五夜は、だいぶ前ではありませんでしたか」
自信なく彼が訊くと、一同は笑った。
「旧暦八月十五日が中秋の名月。今宵は、旧暦九月十三日、十三夜じゃよ。十五夜だけ月見をするのは片見月といって縁起が悪いので、十三夜も祝うのだ。お前の家でもそうだっただろう?」
北村が訊くと、祖父の芳蔵は肩を揺すって笑った。
「もちろんじゃ。だが、こいつは子供の頃、団子を食べることしか興味がなかったらしく、それも憶えていないらしい」
燁子は、備えてある漆の盆の一つを取って、晃太郎の前に持ってきて薦めた。金色の紙に包まれたマロングラッセがきれいなピラミッドとなって積まれていた。
「今宵は、別名栗名月とも言われております。お嫌いでなかったら、どうぞ」
女は白い指先で優雅に金の小粒を取り、もう片方の手を添えながら晃太郎に手渡そうとする。彼が手のひらを差し出すと、菓子を置く時にその指がわずかに触れた。あの夜と同じように、ひんやりと冷たかった。そのまま、その手を取って引き寄せたいのを、必死で思いとどまる。
視線が合うと、女の紅い唇がわずかに微笑んだ。秘密めいた視線はすぐに逸らされて、女は優雅に立ち上がると、二人の老人のもとに盆を運んで行った。彼は、その女の後姿を目で追った。
彼は、酔った祖父を助けて家に戻り寝かせてから、いつものように一人で地獄沼に向かった。廃堂となった阿弥陀堂の縁側に腰掛けて、女を待つ。決してやってこない燁子を。
なぜだ。ならば、なぜあの時に誘った。いつもの問いを繰り返す。故郷に戻っては、この半ば崩れかけた阿弥陀堂にやってきて、縁側に腰掛ける。すぐ側の畳の上で確かに起こったことに想いを馳せる。
東京で出会う女たちとも、この三年間まともな関係を築こうとしていなかった。あの夜のせいだけではないが、この村を訪れる機会を失うことへの抵抗があることはまちがいなかった。
それに、翔のことがある。二歳になったばかりの燁子の息子だ。そろそろ八十に手の届く北村に子供を作る能力があったことも驚きだったが、かつて北村と祖父が冗談まじりに語っていた言葉が、心の隅に引っかかっている。
「翔は、奇妙なことに、お前の小さい頃にそっくりだ。お前、わしの知らない間に、燁子に手を出したか」
「くっくっく。わしまでお前のように、この歳でそんなことができると? もう三十年も前に引退したわい」
晃太郎が、燁子を正式に紹介された時には、もう翔は産まれていたので、晃太郎を疑う者はいない。だが、彼の胸には憶えがある。たった一度とは言え、計算も合う。だが、北村の前でしか燁子と会えない晃太郎には、疑惑について彼女に問いただす機会がない。少なくとも女は、そのことについて晃太郎に何かを示唆しようとするつもりも全くないようだった。
彼は、前回の帰郷の時、北村の家の近くを通った。いろはうたを歌う燁子の声が聞こえて、思わず垣根の隙間から覗き込んだ。
縁側に、大島紬に珊瑚色の帯をした燁子の側で、黄色いダッフルコートを着て橙色のマフラーをした幼子は、金魚鉢を覗き込んでいた。楓のような小さな手のひらが、金魚鉢をつかんでいる。秋の陽射しが水に反射して、赤い金魚は舞っているようだった。母親に合わせて、歌を口ずさもうとしている子のことを、晃太郎は確かに北村よりは自分に似ていると思った。
子供は、金魚と歌に夢中になっていたが、その母親はそうではなかった。生け垣の向こう側に黙って立っている晃太郎に目を留めると、紅い唇を動かしてわずかに微笑んだ。だが、話しかけることはせずに、すぐに我が子に視線を戻し、まるで誰も見なかったかのように振るまった。
晃太郎に出来るのは、真夜中に地獄沼のほとりの阿弥陀堂に行くことだけだった。彼は、この沼の畔に咲く曼珠沙華に囚われている。真実が知りたいのか、それとも、ただ女に逢いたいだけなのか、自分でもわからない。一晩中、それについて想いを巡らし続ける。冷え込む栗名月の夜を。
明け方の赤い月は、西に沈んで行く。晃太郎は、女がやってはこないことに失望して、阿弥陀堂を後にするほかはなかった。
(初出:2015年10月 書き下ろし)
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【小説】君を知ろう、日本を知ろう
お題:「『八少女 夕』に密着取材!」
キャラ:複数ブログからの複数キャラ
(けいさん)
さて60000HIT企画のお題ですが、気遣い無用とのことですので「そばめし」でどうでしょうか?
そしてキャラはサキの作品から夕さんの気になる人物をお貸しします。
誰でもいいですよ(複数可)。
(サキさん)
けいさんのお題にお応えするために、こちらのキャラはヤオトメ・ユウ&クリストフ・ヒルシュベルガー教授です。正確にはヤオトメ・ユウと私はイコールではないのですが、違っているところには注釈をつけました。
密着取材ということ、それに複数のブログから複数のキャラというご指定なので、TOM-Fさんちのジャーナリスト、それから、けいさんもよくご存知の大海彩洋さんにもご協力をいただき、それにサキさんのキャラにも絡んでいただいてコラボにしました。
けいさんの「夢叶」からロジャー、TOM-Fさんの「天文部」シリーズからジョセフ(名前のみのご登場)、彩洋さんの「真シリーズ」から龍泉寺の住職。そして左紀さんの「絵夢の素敵な日常 」から榛名(すべて敬意を持って敬称略)をお借りしています。けいさんが「ロジャーの苗字、つけてもいいよ」おっしゃってくださったので、遠慮なくつけちゃいました。けいさん、お氣に召さなかったらおっしゃってくださいね。
ウルトラ長くなってしまったので、前後編にわけるつもりでしたが、「オリキャラのオフ会」作品もどんどん伸びて、このままでは新連載が始められないので、この作品は14500字相当、まとめてアップする事になりました。はじめにお詫びしておきます。
【参考】
教授の羨む優雅な午後
ヨコハマの奇妙な午後
パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして
君を知ろう、日本を知ろう
ううむ。これは、よくない事の前触れじゃないかしら。ユウは、嫌な予感に身を震わせた。バーゼルでの学会が滞りなく終了したら、久しぶりの休暇。その足で日本へと旅立つつもりだった。もちろん、一人で。日本に全く興味がない夫は既に南アフリカへと旅立っていたので、これからの三週間は誰にも邪魔されずに、ホームランド・ジャパンを満喫するはずだった……。
「それは、実に面白い偶然だね。フラウ・ヤオトメ」
立派な口髭をほころばせて、威厳たっぷりに微笑むのは、他でもないユウの上司、クリストフ・ヒルシュベルガー教授だ。上質のツイード・ジャケットをきちんと着て、完璧な振舞いと威厳ある態度を示すので、はじめて逢う人間は厳格な紳士だという印象を持つ。第一印象がいつも正しいとは限らない。
「私の休暇の行き先も、やはり日本でね。君の通訳やオーガナイズは、決して満点をあげられるものではないが、少なくとも私の好みをよくわかった上で手配を任せられるという意味では、これ以上のガイドはいないからね」
「お言葉ですが、先生。いったい私がいつ、休暇を先生のガイドとしてのボランティアに使うと申し上げたんでしょうか」
「まあまあ、いいではないか。前回のように、君一人ではとても泊れないホテルへのアップグレードや、日本ならではの最高級料理店に、私の財布であちこち行けるのは、悪い話ではないだろう」
「う……」
そう言われてしまうと、ぐうの音もでない。それに、断ってもどうせ引っ付いて来るのだ。こちらにも大した用事はないので、つきあって日本のグルメと、こぎれいなビジネスホテルのシングルルームを堪能できる方がいい。
その誘惑にうっかり負けてしまったので、ユウはヒルシュベルガー教授と並んでチューリヒ経由日本行きの飛行機に乗る事になった。
「この機内食には、まったくもって我慢がならん」
ヒルシュベルガー教授は、そういいながらもワインを二杯お替わりし、ソースのあまりかかっていないチキンだけでなくカラカラに乾いた米まで平らげた。
「なぜパンを食べないんだね」
「前に一度、申し上げたでしょう。私は主食の炭水化物を二つ重ねて食べるのはあまり好きではないんです。私だけでなく、多くの日本人がそうだと思うんですけれど。お米がついているのにパンは不要でしょう」
「だったら、私が」
そういうと教授は、ユウの返事も聞かずに彼女のトレーからパンとバターを取って食べはじめた。
ユウを挟んで教授と反対側、つまり窓側に座っていた青年が、身を乗り出してきた。
「失礼ですが、あなたは日本人で、しかもドイツ語がお話になれるのですね」
ユウは「はい」と答えて、その青年を見つめた。スイス方言のドイツ語を話した青年は、人懐こい微笑みを見せた。茶色い髪がドライヤーをあてているかのように綺麗になびき、ヘーゼルナッツ色の瞳が輝いていた。
「僕はバーゼルの新聞社に勤めているもので、ロジャー・カパウル(Roger Capaul)と言います。実は、ニューヨークのとある有名なジャーナリズムスクールの夏期講習に参加して、インタビューの具体的手法の実習中なんですよ。それでその講師が僕に課したレポートのテーマが『日本人への密着取材を通して日本という国を知る』なんです。たまたまこれから東京へ仕事で行き、その後に自分の休暇を利用して旅行をするつもりなので、向こうに行ってからどなたかに頼もうかと思っていたんです。が、つい先ほど待合室で会った人に、現地の日本人はあまり外国語を話したがらないと言われまして」
ユウは頷いた。外国語を話したがる日本人はいないわけではないだろうが、知らない外国人に「密着取材をさせてくれ」と言われて快諾する人はあまりいないだろう。いたとしても若干厄介なタイプである可能性が高い。
「あまり賢いメソッドとは言えませんね。バーゼルでお知り合いをつてに探して頼む方が早いと思いますけれど」
「僕もそう思いましたが、実は時間切れ間近でして。それで、もしご迷惑でなければ、このフライトの間だけでも、ご協力をいただけたらと……」
ユウは戸惑って、ヒルシュベルガー教授を見た。彼は、しっかり話は聴いていたが、まだ口を挟むときではない思っているらしく知らんぷりをしていた。
その時に、近くをフライトアテンダントが通りかかり「お飲物はいかがですか」とにこやかに聞いた。ロジャーは素早く言った。
「有料でも構わないのですが、普通よりもいい赤ワインなどはありますか?」
「ございます。2005年のボルドーで、先ほどファーストクラスのお客様のためにあけた特別なものがまだ半分ほど……」
「では、それをこちらのお二人分も含めて、三人分お願いします。クレジットカードは使えますよね」
その言葉を耳にした途端、ヒルシュベルガー教授は厳かにユウに宣言した。
「フラウ・ヤオトメ。先日、君はたしか日本では袖がこすれるとどうこうと、私に言っていたように思うが」
ユウは、ヒルシュベルガー教授がロジャーの懐柔作戦にあっさりと乗った事を感じて、軽蔑の眼を向けながら答えた。
「『袖触れあうも他生の縁』です。わかりました。協力すればいいんでしょう。ったく」
ロジャーは、作戦の成功が嬉しかったのか、にっこりとした。
ユウはロジャーの方に向かって口を開いた。
「まずは自己紹介しますね。私は、ヤオトメ・ユウと言います。東京出身の日本人で、14年前から夫の住むカンポ・ルドゥンツ村(注1)に住んでいます。職業は、ここにいるクリストフ・ヒルシュベルガー教授の秘書(注2)、それからサイドワークとして小説を書いています(注3)」
「ほう。小説ですか。ドイツ語で、それとも日本語で?」
「日本語のみです。半分趣味みたいなものですが、私のライフワークです」
「今回の日本行きもお仕事ですか?」
「いいえ、ただの休暇です。ボスがついてきてしまったのは予想外だったのですが」
ユウの嫌味など、全く意に介さない様子で、滅多に飲めないヴィンテージのボルドーをグラスで堪能しながら教授は威厳ある態度で頷いた。
ロジャーは、手元のタブレットに繋げたBluetoothキーボードを華麗に叩いて内容を打ち込んでいく。
「そうですか。では、東京以外にもいらっしゃるのですか?」
「京都と神戸に行くのだ」
教授が即答したので、そんな予定のなかったユウはムッとして雇い主、もとい『休暇の予備のお財布』を睨んだ。
「あの、それでしたら、その時の往復の電車だけでも同行させていただけませんか。道中に目にするものと、あなたのご意見を通して、日本を知る事が出来そうに思うんですが」
ユウは、ひっついてくる輩は一人でも二人でもさほど変わらないと思った。教授がまた口を開いた。
「道中一緒なら、どうせなら向こうでも一緒に廻ったらどうかね。私は構わんが」
ユウは、いったい誰の休暇で、誰の旅行なんだと思いつつ、諦めて同意した。絶対にどちらかに神戸牛をおごらせてやる。それに、大吟醸酒も飲むからね。
それから、不意に氣になり、ロジャーに訊いた。
「ところで、あなたにその課題を出した、ジャーナリズムスクールの講師、なぜ日本のことを?」
ロジャーは、肩をすくめた。
「何故かは、僕にもわかりません。彼には教え子の日本人がいて、よく彼女をジュネーヴに派遣したりしているんですよ。その関係でスイス人の僕には、日本の事でもと思ったのかな。もっとも、彼女に密着取材するなんて手っ取り早い方法はダメだって、最初に釘を刺されましたけれどね」
ユウは、どぎまぎした。どう考えても、その講師というのは……。
「う……。もしかして、その方、ニューヨーク在住で、お名前はクロンカイト氏……なんてことは……」
「ご存知なんですか? それは奇遇だ。こんど彼がスイスに来る時には、ぜひご一緒に……」
「い、いや。その、知り合いってわけではなくて。その、いろいろとあって、彼には大変申し訳のない事をした事があって……その禊がまだ済んでいないのよね……」
教授は口髭をゆがめて笑った。
「悪い事は出来ないね、フラウ・ヤオトメ」
だが、ロジャーは、別のことに食いついてきた。
「ミソギって、なんですか?」
ユウはぎょっとした。
「え? ああ、これも日本独特の思想と観念に基づいた言葉よね。もともとはね、日本固有の宗教である神道で、宗教行事の前に清らかな水で体を洗って綺麗にすることを禊っていうの。でも、それから転じて、一度罪を犯したり、失敗をしたり、醜態を晒しても、それを自ら認めてお詫びや償いをすることで『水に流して』もらって、再びまっさらな罪悪感のない状態で社会や被害を受けた人の前に出られるようになることを『禊を済ませる』って、言うのよね」
「シントー……なるほど」
彼のタブレットには、また大量の文字が打ち込まれていった。ユウはその手元の向こう、窓の外に広がっている、何時間も続くロシアの大地を眺めつつ、どんな旅になるのだろうかと考えた。
新幹線の中で、ロジャーが歓声を上げたのは、やはり向かい合わせになる三人掛け椅子だった。もちろんその前には、二列になって礼儀正しく待つ乗客たちの正に真ん前でドアを開き、秒単位の正確さで次々と出発する、スーパーエクスプレス新幹線に大袈裟な感嘆の声を上げた。
「いま君は、典型的な『はじめて日本に来た観光客』になっているぞ」
ヒルシュベルガー教授が、三度目の来日らしい余裕で笑ったが、ロジャーの興奮はまだおさまっていなかった。やたらと写真は撮っているが、どうやら被写体として魅力的なのは密着取材相手よりも日本の驚異の方らしく、はじめの頃に較べるとユウと教授の映っている写真はめっきりと減っているのだった。
「それで、お仕事の方は無事に終わったの?」
成田で一度別れてから、三日後の今朝、JR品川駅の新幹線改札口で再びロジャーと合流したのだ。
「ええ、おかげさまで。とある国際会議の取材だったんですが、昨夜、会社に原稿と写真を送りました。ほら、これですよ」
そう言って、タブレットでインターネット版の記事を見せてくれた。へえ、もう記事になっているんだ。あ、本当だ、名前が一番下に書いてある。へえ~、かっこいい。
「ですから、今日からは、楽しい休暇です。まあ、密着取材はしますけれど、せっかくだから日本を楽しみたいなって」
「そう。じゃあ、ここでは、何から話せばいい……」
「ああ~!」
突然、ロジャーが大声を上げたので、ユウと教授は面食らった。が、すぐに理由がわかった。日本晴れの真っ青な空の下、車窓に富士山が見えていたのだ。
ロジャーだけでなく、同じ車内にいた外国人たちは揃って、富士山の見える窓の方に駆け寄り、カメラを向けた。それを見て、日本人乗客たちは微笑みつつ、それぞれがスマートフォンを取り出してやはり写真を撮っていた。もちろんユウも一枚撮った。
「なんて雄大で素晴らしい姿なんだろう! それも、こうやって新幹線の中から簡単に見られるなんて!」
チューリヒからジュネーヴへ向かう特急からマッターホルンやユングフラウヨッホがついでのように見える事はない。ロジャーが旅をしたオーストラリアでも、エアーズロックことウルルに一番近い主要都市アリススプリングスまでは500キロあった。とても旅の途中に見る事の出来るものではなかった。
「冬の晴天だと、場所によっては東京からでも見えるのよ」
「ええっ。そうなんですか」
ロジャーが富士山の勇姿に興奮しているのとは対照的に、教授の方は、品川駅で一つに絞りきれずに三つ購入した駅弁の内、シュウマイ弁当にとりかかっていた。
「ところで、君のお父さんはグラウビュンデンの出身でフランス語圏で暮らしているのか? 珍しいな」
箸を休めることのないまま、教授はロジャーに話しかけた。
「ええ、その通りです。さすがですね」
ロジャーがそう答えたので、ユウは驚いて教授に訊いた。
「どうしてわかったんですか?」
「カパウルは典型的なロマンシュ語の苗字だからね。それなのにドイツ語の発音はロマンシュ語よりもフランス語訛りの方が強い。つまり、彼はフランス語圏で育ったと簡単に推測できるんだ」
ユウは感心した。スイスの言語事情というのは、なかなか複雑だ。公用語が四つあるが、誰もがすべてを理解できるわけではない。バーゼルはドイツ語圏だが、フランスとも国境を接している。英語、ドイツ語、フランス語を流暢に扱い、さらにはネイティヴでない限りは話せないロマンシュ語まで話せるスイス人というのは滅多にいないので、新聞社に勤めるにあたってロジャーは実に有利だろうと思った。
それに、この人なつこい笑顔もまた大きな武器になるだろう。ユウも、彼の与えられた課題にそこまで協力する必要はないだろうと思いつつ、この笑顔で質問されると、ついつい何でも答えたくなってしまう。
今日も既に、いろいろと聞き出されていた。
「そもそも、どうしてスイスに来ることになったんですか? スイスがお好きだったんですか?」
「いいえ、全然。スイスは、東京よりも寒そうだったから、全く興味がなかったのよね」
「じゃあ、どうして?」
「あ~、私、一人でアフリカ旅行をしたことがあるの。その時にたまたまスイス人の夫と知り合って。彼は日本には全く興味のないタイプでね。そういう人が日本に住むのは大変だし、仕事もないでしょ。だから、私がスイスに来るしかなかったわけ」
「アフリカ一人旅ですか。それまた思い切ったことをなさいましたね」
「まあね。大学で東洋史の専攻でエジプトやセネガルの民間伝承をちょっと齧ったりしたんで、その延長で」
「日本が恋しくなりませんか」
「う~ん。あまりならないですね」
「それはどうして? スイスの生活の方が合っているんですか」
「そうね。スイスの生活は嫌ではないわ。私、人に合わせるのがちょっと苦手なの。日本って国では、周りと合わせることはとても大切なのよね。もっとも、それが日本が恋しくならない理由ではないけれど」
「では、どんな理由があるのですか」
「日本のもの、情報が簡単に手に入るし、帰国するのもそんなに難しくないからかしら。私の曾々祖母は、ドイツ人で明治の初期に日本にお嫁に行ったのだけれど、生涯祖国に帰れなかったし、インターネットもテレビもなかったのよね。彼女に較べると、私はずっとお手軽な時代に異国に嫁いだと思うの」
「なるほどね」
そうやって、ロジャーの質問に答えている間に、教授は「幕の内弁当東海道」と「ヒレカツ弁当」も綺麗に平らげて、きちんと身支度を済ませてから、スイス製高級腕時計を眺めて厳かに宣言した。
「そろそろ京都につく頃だな」
既に、新幹線には二度乗っている教授は、新幹線の発着がスイス時計と同じくらい正確であることをさりげなくロジャーに示したのだ。
「え。もう? 500キロの距離をこの短時間で?」
「それが新幹線なのよ」
ユウは少しだけ自慢したくなった。
京都駅に着くと、教授は「約束の時間には、十分間に合いそうだ」と言った。
「約束の時間って、なんの?」
ロジャーが訊く。
「お昼ご飯っていう意味よ」
ユウが囁く。駅弁を三つ食べたあとなのに? ロジャーの顔に表れた疑問は、二人には黙殺された。
連れて行かれた先は、龍泉寺。お寺だ。レストランに行くんじゃないのか? ロジャーは首を傾げた。
入口で作務衣を来た若者に、ユウが約束があることを告げると、「伺っております」と言って奥へと消えた。そして、すぐに小柄な老僧侶が出てきた。黒い着物に紫の袈裟を身につけている。白い眉毛が長く、目が細いので、ロジャーは昔みた香港映画の仙人を思い出した。もちろん仙人と違って、その老人はワイヤーワークでいきなり空を飛んだりはしないようだったが。
「ようこそおいでくださった。おひさしぶりでございますな、ヒルシュベルガー先生。それに八少女さんも」
深々とお辞儀をすると、ユウは教授に住職の言葉を訳した。教授は、礼儀正しく彼に手を差し伸べた。
「ご無沙汰いたしております。チューリヒでのワークショップで素晴らしい講演をしていただいて以来ですね。またお目にかかれてこれほど嬉しいことはありません。いつかこちらへお邪魔させていただくという約束をようやく果たせました」
ユウは、教授の言葉を訳した後に、続けてロジャーを示して言った。
「ご紹介させてください。こちらは、バーゼルで新聞記者をなさっているロジャー・カパウルさんです。休暇を利用して、私に密着取材をしながら、日本という国を知ろうとなさっているのです。私のような日本にも外国にも属さないコウモリのような日本人を取材しているだけでは、日本の本質からはほど遠いので、ぜひ和尚さまから禅を通して日本のことをお教え頂けないかと思い連れてまいりました」
ユウの言葉に、和尚は細い目をさらに細めて笑った。
「ほ、ほ、ほ。仏の道には日本も外国もございません。禅の教えは誰もが知っている至極簡単なものでございます。己の内と向き合い、まっさらな心で、穏やかに生きる。たとえば、そろそろお昼で、お腹がすきましたでしょう。どうぞお上がりください」
ユウに訳されて、ヒルシュベルガー教授は、至極もっともだと言わんばかりに頷いた。ロジャーは、老僧の言葉に既に深い感銘を憶えたようで、目が輝いていた。
「はい。お邪魔いたします」
住職に案内されて三人は、奥の広間に向かった。そこは天井に見事な龍が描かれいる書院造の間で、四人分の膳が用意されていた。ロジャーは、キョロキョロと珍しそうに見回していたが、教授はわずかに咳払いをしてさっさと座るように促した。
始終にこやかな住職は、言った。
「難しいことはございません。一度の食事をすることでも、禅と日本に受け継がれてきた心のあり方を知ることが出来ましょう。本日は、私どもが通常食べる、飯、汁、香菜、平、膳皿、坪の一汁三菜に加えて、もてなしの心を込めて、猪口、中皿、箸洗代わり、麺を加えた二汁五菜の献立を用意させていただきました」
既にユウは全てを訳すことが出来なくなって適度に端折っているが、訳せたとしてもロジャーには全て憶えられたとは思えないのでいいことにした。
「これは美味しい。ベジタリアン料理というのがこれほど美味しいものだとは思いませんでした」
教授は感嘆した。
「そう。精進料理は、誤解されています。修行のために、美味しいものを諦めて不味さを我慢する食事というように。しかし、その考え方は禅の教えとはかけ離れています。いま目の前にある食材に手間をかけ、その持ち味を活かすように心を込めて調理する。そして、一度しかないこの食事に感謝しながらいただく。不味くなどなるはずがないのです」
「この胡麻和えも美味しいですね。胡桃に、胡瓜、椎茸、さくらんぼ、それにキウイも入っているんですね」
ユウの言葉に住職は頷く。
「
「これは……プリンみたいですね」
でも、甘くない? ロジャーが首を傾げる。
「これは胡麻豆腐です。炒り胡麻、水、片栗粉で作ります。材料はこれだけですが、胡麻をここまで滑らかにするまでに半刻ほどかかります。雑念を捨て、一心に胡麻をすりあげる調理方法が禅の考えそのものと通じるので『精進料理の華』と呼ばれています。だし醤油、木の芽、わさびと味付けもシンプルですが、その僅かな香りと辛みが持ち味を活かしておりますでしょう」
香りの高い枝豆入り梅おこわ、夏野菜の天麩羅、ご汁風けんちん、メカブの酢の物、手打ちの蕎麦など、どれも美味しくて飽きがこなかった。肉が大好きな教授も、ジャパンな舞台に圧倒されているロジャーもその食事に夢中になった。
「
「そう。食事を大切にすることは、禅の心に適っているということだな」
厳かにヒルシュベルガー教授が宣言する。ユウは、まあ、そういわれればそうだけれど、あなたの場合は少し極端では……と思ったが、この素晴らしい精進料理と住職の禅の手ほどきを受けて感動の渦の中にいるロジャーのためにも、この場では黙っておこうと思った。
素晴らしいもてなしと、禅の心に感動し、すっかりお腹もいっぱいになったので、礼を言って退出しようとしたが、三人とも足がしびれて立てなくなるというみっともない経験をすることになった。給仕をしてくれた、あの作務衣の修行僧が、必死で笑いを堪えていた。
神戸で、三人を待っていてくれるのは、黒磯榛名という青年らしかった。
「どうやって、そうやって次から次へと日本在住の日本人と知り合いになるんですか?」
ユウが訊くと、ヒルシュベルガー教授は澄まして答えた。
「昔、香港で仲良くなった友人の子息だよ。友人はヴィンデミアトリックス家の執事をしていてね。今日は残念ながら時間が取れないので、かわりにハルナ君が迎えにきてくれて案内もしてくれるというんだ。悪い話じゃないだろう?」
「え? ヴィンデミアトリックス家って、あの有名な?」
ロジャーがぎょっとした。
「知っているの?」
ユウが訊くと、ロジャーはもちろんと言わんばかりに頷いた。
「というわけで、明日はおそらくヴィンデミアトリックス家も認める最高の味のレストランで神戸ビーフを食べることになるから、今日は対極な庶民の味に案内してもらうことになっているのだ」
教授が真面目な顔で言う。
また食べ物の話か。ユウは思ったが聞き流した。ここ数日の間で、彼の行動パターンを理解したロジャーもあっさりと受け流した。
京都での二泊旅行を堪能した後、三人は再び新幹線に乗って新神戸へと向かった。京都駅からわずか30分、京都駅に較べると簡素な印象の駅だが、新幹線の発着のためだけの駅なのでホームも上りと下りの二つだけであっさりしているのも当然だった。駅に直結しているホテルに泊る事になっているので、荷物を持たずに神戸の街に行けるのもありがたかった。
無事にチェックインをしてひと息ついた後に、ユウの部屋にフロントから電話があり、黒磯青年がやってきたことがわかった。ユウは、教授とロジャーの部屋に電話をして、エレベータの前で待ち合わせをし、一緒にフロントへと降りて行った。
フロントで待っていたのは、手足が長くすらっとした細身の青年だった。少し長めの黒髪、とても白い肌、そして大きな瞳が印象的だ。
「はじめまして。ようこそ、神戸へ。黒磯榛名です」
「お忙しいのに、ありがとうございます。八少女 夕です。こちらが、クリストフ・ヒルシュベルガー教授。そして、バーゼル在住の新聞記者で、ロジャー・カパウルさんです。今日は、どうぞよろしくお願いします。榛名さんは、ネイティヴではない外国人の話す英語はわかりますか?」
「簡単な英語でしたら。難しくなったら通訳をお願いできますか」
「わかりました。というわけで、これからはドイツ語じゃなくて、英語でよろしくお願いします」
ユウは二人のスイス人に宣言した。
二人のドイツ語を日本語に訳しつつ、日本語をドイツ語に訳すのは大変なのだ。日本人は、スイス人の話すぐらいの英語は大抵聴き取れるので、スイス人に英語で話してもらえれば、日本人が上手く表現できない言葉を英語やドイツ語に訳すだけで済み、ずっと楽になる。
「庶民的な神戸の味にご案内するようにと父から言われているのですが、地下鉄に乗って移動するのは問題ないですか?」
「もちろん」
「そうですか。では西神・山手線に乗って新長田駅までいって、そこから少し歩きます」
地下鉄に乗っている時から、ロジャーは少し不思議な顔をしていたが、新長田駅について歩き出してから、榛名に質問をした。
「京都で見た街並と比較すると、何もかもが新しいように見えますが、ここは新開発地域なのですか?」
榛名は、街並を見回して答えた。
「1995年に、とても大きい地震があって、この地域はとても大きい被害を受けたのです。この駅は全壊して、あの辺りは震災の後に起きた火災で一面の焼け野原になってしまったのです。いまご覧になっている新しい建物はそれ以降に再建されたものなのです」
「つい最近のことのように感じるが、あの大地震から二十年経っているのだな」
ヒルシュベルガー教授も周りを見回した。
阪神大震災のニュースのことを記憶している教授はもちろん、若いロジャーもコウベの地震については、知っていた。彼の住むバーゼルは地震がそれほど多くないスイスの中で、巨大地震によって街が全壊したという希有な歴史を持っている。1356年に起きたこの地震では、近隣30キロメートル以内の教会や城も倒壊するほどで、マグニチュード6.5であったといわれているが、7以上だったという研究すらある。
とはいえ、知っていて関心があるというのと、経験するのとでは大きな違いがあった。一行は、日本に到着してから、すでに二度は体感する大きさの地震にあっていたが、ロジャーは、ユウをはじめとして日本人たちがほとんど騒がないことにも強い印象を受けた。彼自身は地震や火山などの被害が考えにくい国に住んでいることをとても嬉しいと感じたからだ。
「もちろん、日本人だって、地震や、火山や、台風や、その他の自然災害にあわないことを願っているのよ。でも、いつ何か大きな自然災害が起こっても不思議はない、そういう感覚は誰もが持っていると思う。スイスにいるよりもずっと自然の驚異というものを身近に感じて暮らしているって氣がする」
ユウは、ロジャーに言った。榛名は、それに同意して頷いた。
「すっかりきれいになったのですね」
ユウは、榛名に言った。彼女は震災の数ヶ月後に、仕事のためにこの地域を訪れたことがある。震災直後ひどい状態ではなかったとはいえ、瓦礫が片付けられて何もなくなった街には、全てを失った虚しさが漂っていた。いま見る新長田は、その状態が嘘のように、きちんとした街になっていた。
「建物の再建や、地下鉄の再開などは、震災後に比較的早くに再開発が進んだらしいです。ですから、東日本大震災に較べると、街が綺麗になったのはとても早かったんですが、その後にテナントがなかなか決まらなかったり、人通りが震災前のレベルにはなかなか戻らないなど、未だに問題はたくさん残っているんです」
「そうなんですか。大変なんだな」
ロジャーは、言った。
榛名は、紺の暖簾に「お好み焼き」と白く染め抜かれた小さな店を指差しながら答えた。
「ええ、ですから僕は、三宮の繁華街にある店ではなくて、少し離れていてもこの店に来ようと思ったんです。こうやって、客を連れて来ることも、この地域の復興に少しでも役に立つかなと思って」
「お好み焼きとたこ焼きのお店ですか? 神戸なのに?」
ユウは不思議そうに榛名を見た。お好み焼きとたこ焼きと言うと、大阪名物という印象がある。榛名は笑った。
「この辺りは、日本でも有数のお好み焼きの激戦区です。だから美味いですよ。それに、この地域が発祥と言われる庶民の味があるんですよ」
あまり大きくない店内は茶色い木の壁、木の椅子に紺地の座布団とユウのイメージするお好み焼きやそのままのインテリアで、肉や醤油、ソースの焼ける香ばしい匂いに満ちていた。まだ昼前だが、座席はそこそこ埋まっていて、人氣店だというのがよくわかった。
「お、榛名君、いらっしゃい」
「こんにちは。今日は外国からのお客さん連れてきたんだ」
「それはそれは。その奥でいいかい?」
「黒磯さん、常連なんですね。予約はなさらなかったんですか?」
ユウが訊くと「ここは予約は受け付けない店なんですよ」と笑った。
彼は、生ビールを人数分頼んで、それから三人の全権を受けて食べ物を注文した。牛すじ肉とコンニャクを煮たぼっかけ入りのにくてん焼き、すじ焼き、貝焼き、だし汁に浸けて食べる明石焼、を注文してから「それにそばめしも」と言った。
「そばめし?」
一度も聞いたことのない名称に、ユウは訊き返した。
「ええ。そばめしです。これが長田発祥の庶民の味なんですよ」
「そばなんですか? それともご飯?」
「両方です。焼きそばとご飯を一緒に焼き付けたものです」
「ええっ?」
説明を訊いたヒルシュベルガー教授は、ユウにちくりと言った。
「君は、日本人は炭水化物を二つ一緒に食べるのは好きではないと言っていたね」
「う。それって嘘じゃないですよ。そんな組み合わせ、はじめて聞きました」
ユウが言うと、榛名は笑った。
「関東の方は、そばめしをご存じなくて、最初はそういう反応を示される方が多いですよ。騙されたと思って食べてみてください」
ロジャーはもちろん、ヒルシュベルガー教授もお好み焼きを食べるのは生まれてはじめてだった。
「これは?」
「スイスで言うオムレツみたいなもの」
ユウは答えた。
ドイツ語圏のスイスでは、オムレツというのは日本でいうオムレツとは違って、どちらかというとパンケーキに近く、ハムやチーズと一緒に食べる。卵と小麦粉の生地を円形に焼くというところは、似ている。
ユウは東京ではわざと、お好み焼きやもんじゃ焼きの店に教授を連れて行かなかった。もんじゃ焼きのどろっとした感じには、西洋人は抵抗があるだろうし、関西と違って店によって味のレベルに当たり外れがありすぎるからだ。
出てきたにくてん焼きをひと口食べて、その判断は正解だったと思った。これだけの味を東京で探すのはかなり難しかっただろう。すじ肉の味がじわっと来る。スイスのぼんやりとした肉の味とは大違いだ。はじめて見る不思議な食べ物に戸惑っていた二人のスイス人も、ひと口食べて以降の箸を動かすスピードが倍増した。
「うっわ~、おいしいですね」
そして、そばめしが出てきた。ご飯と細切れになった焼きそばが一緒くたになっている。こんな料理あり? 目を丸くするユウだったが、榛名の微笑みに促されてひと口食べてびっくりした。焼きそばと、焼き飯のおいしいところを一つにした料理と言うが、二つ合わさると倍ではなくもっと美味しくなるらしい。それに、ぎっしりと入ったすじ肉、それにお焦げの風味が絶妙だ。
「ここのそばめしは、油を一切使わないで、強火で仕上げるんです。自宅でやりたくてもちょっと出来ない味なんですよ。どうですか」
「……美味しい」
「炭水化物、二つだがね」
勝ち誇ったように教授は言い、彼女の目の前のそばめしを一瞬で全てかすめ取った。
「ちょっと、先生! 大人げないですよ」
二人の子供っぽい争いを見て、ロジャーと榛名は大笑いした。
「それで、日本のことはわかった?」
神戸に三日滞在した後、ユウは、帰りの新幹線の中でタブレットに忙しく何かを打ち込んでいるロジャーに訊いた。
彼は、しばらく考えていたが、やがて言った。
「まだ、まとまりませんね。歴史を感じる伝統の様式美、あちこちで見かけるキッチュな風物、この新幹線のような完璧なテクノロジーや、行き届いたサービスのこと、経済の仕組みのこと、震災のこと、それにあの和尚さんやハルナ、クロイソ氏、それにヴィンデミアトリックスの皆さんのホスピタリティなど、取り上げるテーマが多岐にわたっていて、印象もまちまちなんです。そもそもユウ、あなたのことも知れば知るほどわからなくなります」
「どうして?」
「日本と同じですよ。シンプルのようでいて、奥深い。私たちと似ているようで、想像を絶する違いもある。いろいろなものを受けとめる柔軟な成熟さがあるかと思えば、信じられないほど子供っぽい。これをレポートにしてクロンカイト氏に提出したら、結局何が言いたいんだと怒られそうです」
ユウは肩をすくめてから教授に訊いた。
「日本って、そんなにわかりにくいですか、先生?」
ヒルシュベルガー教授は、「神戸牛すきやき弁当」とおにぎりや沢山のおかずを楽しめる「六甲山縦走弁当」を食べ終え、壺に入った「ひっぱりだこ飯」に取りかかっているところだった。
「そんなことはない、大変わかりやすいよ。庶民的な味も、身代が傾くような高級料理店の味も、それぞれ違っていても、実に美味い。日本とは、そういう国だ」
「……。もう少し格調高くまとめられないんですか」
「そんな必要がどこにあるかね。どんなものでも、心を込めて大事に調理し、それを一人一人が美味しく食べる。それこそが禅の真髄だと、龍泉寺の和尚も言っていたではないか」
あれってそういう意味だったっけ、と首を傾げるユウとは対照的に、教授の言葉に深く感銘を受けたロジャーは、タブレットを鞄にしまい、側を通った車内販売の係員からビールと駅弁を買って食べだした。
ユウは、クロンカイト氏が読まされるレポートの内容を想像して、「氣の毒に」と小さくため息をついた。
(初出:2015年7月 書き下ろし)
注釈
- カンポ・ルドゥンツ村は、グラウビュンデン州にあるということになっている架空の村。リアル八少女 夕在住の村がモデルで、ここを舞台にした小説がたくさんある。
- この秘書というのは高橋月子さんが書いてくださった掌編の設定で、チューリヒ在住の生理学の権威クリストフ・ヒルシュベルガー教授はもちろんフィクション。リアル八少女 夕の職業はプログラマー。
- 高橋月子さんの書いてくれた小説の設定では、作家ヤオトメ・ユウの小説「夜のサーカス」は出版されていることになっているが、リアル八少女 夕の本は出版されていない。あたり前。
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【小説】The 召還!
『異世界』でお願いしたいと思います。
(紗那さん)
ええと、お題は 『時間(または「時」に関連するものや、連想する何かなど)』
キャラは…もし可能であれば…こちらの世界の住人の誰か(人選、人数などは任意で…)を入れて頂けると…嬉しいです><;
(ふぉるてさん)
では、そうですねえ、お題というほどこだわらなくてもいいんですが、「植物」をどこかにいれてほしいな。
木でも草でも花でも。菌類でも(笑)←架空の植物でもいいです。
「ぼく夢」の博士が植物研究者ってことにちなんで。
そして、うちの玉城をどこかにちょろっと出してもらえたら、もうすごく喜びます^^
(limeさん)
このリクエストにお応えするために、「リナ姉ちゃんのいた頃」シリーズでおなじみのリナ・グレーディクと、彼女の友達でロンドン在住の東野恒樹をメインに据えました。そして無謀にも、異世界に無理矢理連れて行ってしまいました。
紗那さんの「まおー」からユーニス、ふぉるてさんの「ARCANA」からハゾルカドスとモンド、そしてlimeさんの「RIKU」から玉城(すべて敬意を持って敬称略)をお借りしています。
The 召還!
話が違う。東野恒樹は、ビッグベンの文字盤の長針にぶら下がりながら呟いた。
彼が、ロンドンに引越してきてから、一年以上が経つ。周りの日常会話が聴き取れるようになり、言いたいことの半分くらいは言えるようになった。友達もそれなりに出来た。
それなりでよかったはずが、友情を深める必要もない女と友達になってしまった。それが、この絶体絶命の一番の原因だ。
「おい! なんで俺がこんなアクションスターみたいな真似をしなくちゃいけないんだよっ! リナ!」
ロンドン名物、国会議事堂の時計塔であるビッグベンことエリザベス・タワーは、英国在住者であれば無料のツアーに参加することで登れることになっている。彼を訪ねてきたリナ・グレーディクはスイス人なので、無料ツアーには参加できない。それでも、どうしてもエリザベス・タワーに登るために、彼女は国会議員のなんとかさんと、ウェストミンスター寺院で主任なんとかをしているかんとかさんを動かした。恒樹とリナだけが、特別ツアーガイドのミスターXに引率されていく、というのも十分に怪しかったが、集合時間も尋常ではなかった。23時って、なんだよ。
暗闇の中、懐中電灯を頼りに階段を登っているのは、まるで泥棒ツアーみたいだったし、だいたい夜景以外何も見えなかった。謎のアジア系移民という趣のミスターXは、こっちの理解などおかまいなしに、ペラペラ喋りながらさっさと階段を登っていったが、こんな時にハイヒールのサンダルを履いてきたリナは、階段の隙間に踵が引っかかったとかで、あれこれ騒いだ。恒樹は、しかたなく戻った。
元々は美人とは言え、例のチェシャ猫みたいな口の大きい笑い顔が懐中電灯の光に浮かび上がって相当ブキミだった。「笑ってる場合じゃないだろ」とリナを引っ立てて、ミスターXの銭湯の中みたいに妙に響く声を追って登った。
それが、急に何も聞こえなくなった。
「あれっ? おい、俺たち、はぐれたのかもしれないぞ」
「そう? そこら辺にいるんじゃないの?」
「おいっ。そうやって勝手に動くなよっ。……って、わぁぁぁぁ」
急に足元が抜けたようになった。そして、氣がついたら、彼は世界で最も有名な時計の一つの長針にぶら下がっていた。
「きゃあっ。コーキ、大丈夫? ちょっと待って。そっちに行くから」
「おい、氣をつけろ。お前、そんなハイヒールで!」
「だって、靴脱ぐと、それはそれで危なさそうでしょ?」
こんな状況で、のんきなことを言うな! ともあれ、恒樹は文字盤の上のアーチの柱につかまりながら手を伸ばすリナに腕を伸ばした。二人とも必死で手を伸ばして、ようやく二人の手が届きそうになった時、リナのつかまっている柱にひびが入って少しだけ崩れ、彼女は支えを失った。
「え? きゃあああああ」
落っこちてきたリナの手を握っていた恒樹は、反動で長針から手を離してしまった。そのまま、二人は、真っ逆さまにビッグベンから、ロンドンの夜景へと落っこちていった。まるで007の映画みたいに。いや、こんな時に冗談言っている場合じゃないって。恒樹は、泣きそうになりながら考えた。どこだっていいから、ここでないところに居たいと。
「もうし、もうし……」
う~ん、なんだ? どこからか、間延びした声が聞こえてくる。恒樹は、そっと瞼を開いた。眩しかったので、すぐに一度閉じたが、その時に目にしたものがありえなかったので、額に手をかざしながら、もう一度怖々と瞼を開けた。
あ~、なんだこれは。一つ目。一つ目~?
恒樹はがばっと起き上がると、状況の確認をした。草むらに横たわっていた。周りは深い森というわけではないが、少なくともロンドンの国会議事堂の前にはないような緑豊かな場所だった。ただし、イギリスのどこにでもあるような、普通の控えめな植生ではなく、赤やピンクの派手な花があちこちに咲いている、妙にサイケデリックな森だった。だが、特に湿度が高いわけではなく、まるで大昔のチャチな映画セットみたいだ。
恒樹の横たわっていたすぐ側には、リナが横たわっている。氣絶ではない、俗にいう爆睡ってやつだ。百年の恋も醒めるような豪快な眠りっぷり。
そして、恐る恐る、先ほど見た珍妙なものを確認すべく、前に辛抱強く立っている男の顔を見た。鼻と、口と、その下の白いあご髭は普通だ。ただ、まん丸い目が一つだけ、真ん中についている。ありえん。とりあえず、俺の頭がどうかしちまったのか、確認するためにこいつを起こそう。
「おい、リナ! 起きろ!」
「うう~ん。眠いもん」
「寝ている場合じゃないって。お前、危機管理能力なさすぎ!」
「あん? うるさいなあ。睡眠不足は、美容の大敵……あれ? ここ、どこ?」
「知らん。なんか尋常じゃないことが起こったような……」
「ビッグベンから落ちたんじゃなかったっけ?」
「ああ、でも、天国にしちゃ、ここちょっと普通だぜ? それに、この人さ……」
リナは目をこすって、ようやく一つ目の男を見た。
「あれ?」
「おお、お目覚めかな。こんな所で二人で寝ているから、何かあったのかと思いましたんじゃ」
一つ目の男は、意外と親切らしい。
「あ~。あなた、誰?」
リナのヤツ、単刀直入だ、と恒樹は思った。一つ目の男は、笑顔を見せて言った。
「ユーニスというんじゃ。お前さんがたはどこから来たのかな」
「こんにちは、ユーニス。あたしはリナ。この人はコーキ。ちょっと前までロンドンにいたんだけれど、ここはどこかしら?」
「ここか。おそらくイースアイランドのどこかと思いますがの」
恒樹は、その語尾の自信のなさをとらえて詰め寄った。
「おそらくってなんだよ。確信はないのか?」
「十分ほど前に、魔王様と一緒にいたのは、間違いなくイースアイランドでしたからの。たまたま魔王様たちが視界に入っていないものの、まあ十中八九はまちがっていないかと」
「俺たちだって、少し前はロンドンにいたんだよ! そんな推論があてになるかよ」
リナは、まあまあと間に入った。
「別にイースアイランドとやらだって、不都合はないでしょ。そういうことにしておこうよ」
「リナ、お前なあ。現在位置がわかんなきゃ、帰り道だってわかんないだろ!」
リナは肩をすくめた。
「面白いから何でもいいじゃない。少し冒険していこうよ。これってイセカイショーカンってやつでしょ?」
「召還じゃねぇ! ただの迷子だろ」
リナは、恒樹の言葉をあっさり無視して、ユーニスの肩を馴れ馴れしく叩いた。
「じゃあ、とにかく一緒にこの森を出ない? うまく魔王様に出会えたら、私たちを送り返してって頼めばいいでしょ?」
「おっしゃることはもっともですの。では、行きましょうか」
歩き出そうとするユーニスとリナに向かって、恒樹は訊いた。
「そっちだって、確証はあんのか?」
リナは当然大きく首を振った。ユーニスは大きな一つ目をくるりと一回転させてから答えた。
「こちらから歩いてきましたからの。そのまま前方へ進もうかと」
「そうしたらもっと迷うだけじゃないのか?」
「じゃあ、あそこのお兄さんに訊いてみようよ」
リナが突然言った。お兄さん? ユーニスと恒樹は、怪訝な顔をしてリナの方を振り返った。リナが指差している先に、アマリリスに酷似している巨大な花が沢山咲いている異様に妖しい繁みがあり、そこから「痛って~」と頭を抱えながら、日本人とおぼしき男性が立ち上がっている所だった。

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「ったく、なんだよ。人の頭を思いっきり叩きやがって」
チェックのシャツを着たその青年は、屈んで何かを拾った。それは宝石が埋め込まれたかなり立派な杖のように見えた。
「大変失礼しました! あなた様の頭を叩くつもりは全くなかったのでございます!」
その声に、青年はぎょっとしたようだった。恒樹たち三人も、どこからその声が聞こえたのか周りを見回したが、他に人影はなかった。
「わたくしでございます。ここ、ここ」
青年は「わっ」と言って杖を投げ出した。
「っと。それはあまりに乱暴な!」
「つ、杖が喋った!」
これは面白いと、リナが走って青年と杖の所へと向かったので、恒樹とユーニスも巨大アマリリスの繁みへと急いだ。
「わたくしは、ハゾルカドスと申します。偉大なる魔法使いレイモンド・ディ・ナール様によって、このような特別の力を授かったものでございます」
杖がペラペラ喋るという状況には簡単に順応できない青年の代わりに、リナは杖を起こして訊いた。
「じゃ、あなたも魔法が使える?」
「え。いえ、魔法をお使いになるのはわがマスターでして……」
「そっか。じゃあ、その偉大なるご主人様を呼んでよ」
「はあ。で、でも、その……マスターはどうしてここにいないんだろう……それに、他の皆さんも、いったいどこに」
「なんだよ。魔法の杖も迷子かよ」
恒樹が呆れる。それから日本人に話しかけた。
「君、日本人だよな? 俺は東野恒樹、日本人。こっちは、リナ・グレーディク、スイス人。ロンドン観光中にどういうわけかこの謎の世界に飛ばされちまった様子。この一つ目のおっさんは、魔王様のお付きとやらでユーニスっていうんだってさ。で、君は?」
青年は、巨大アマリリスの繁みからようやく抜け出してくると、ぺこんと頭を下げた。
「玉城って言います。さっきまで熱を出して自宅で寝ていたはずなんですけれど、なんでこんな所にいるんだろう。ここ、ロンドンなんですか?」
「イースアイランドですじゃ!」
ユーニスが叫んだ。その横から杖のハゾルカドスが異議を唱えた。
「いいえ、ヴォールのはずです!」
「あ、どっちも証拠ないから信じなくていいと思う」
恒樹が宣言すると、それは全然慰めにならなかったらしく玉城は泣きそうな顔をした。
「いっぱい増えたけれど、あたしたち全員、役立たずの上に迷子ってこと?」
リナがのんびりと訊くと、ユーニスとハゾルカドスは揃ってため息をついた。
「ねえねえ。ここの花って、持ち帰ったりしてもいいのかな」
間延びしたリナの質問に、恒樹は首を傾げた。
「何をするつもりだよ」
「こんな大きいアマリリス見た事ないもの。持って帰って増やそうかなって」
「そういう無謀なことは、やめた方がよいの」
ユーニスがいうと、ハゾルカドスもカタカタ動いて同意した。
「ちょうどヴォールでは『ラシル・ジャルデミア』のご神木が500年に一度の花を咲かせているのです。何か特別なことが起こっているから、私どももこのような不可解なことの巻き込まれているのかもしれませぬ。この森の植物は、どれも奇妙ですから、触ったり抜いたりなどということはなさらない方が……」
リナは、こちらを向くと例のチェシャ猫のようなニッという笑いを見せて、右手を上げた。
「もう、抜いちゃった」
リナの右手に握られた巨大なアマリリスの下から、玉ねぎサイズの球根がブルブル震えて見えた。
「うわっ。こいつ、やっちまったよ」
恒樹が、後ずさるのと、球根が「ぎゃーーーー」とつんざく叫びをあげたのが同時だった。リナは、ぱっと手を離して、一目散に逃げだした。恒樹が続き、ユーニスも走り出した。
「お待ちください!」
杖のハゾルカドスは叫ぶと、腰を抜かして座り込んだ玉城の背中とシャツの間に飛び込んだ。玉城は、必死に立ち上がると、さっさとトンズラした三人を追った。
球根は走れなかったらしく、追ってこなかった。無事に逃げたとわかると、四人と杖は座り込んで息を整えた。
「お前さ、少し考えてから行動しろよ」
恒樹がいうと、ユーニスが同意した。
「とんでもないガールフレンドをお持ちですの」
「ちっ、違う! こいつは、俺のガールフレンドじゃない!」
「そんなに激しく否定しなくたっていいじゃない。ねぇ、タマキ? あ、これって、ファーストネーム?」
リナが訊くと、恒樹は「違うよな」と確認した。玉城は黙って首を振った。
「じゃあ、ファーストネームは、なんていうの?」
リナが訊いた。その途端、玉城は「わっ」と泣き出した。
「おい、お前、どうやらしちゃいけない質問をしたらしいぜ」
恒樹が言うと、リナは黙って肩をすくめた。
「それはそうと、無茶苦茶に走って逃げたので、さらに迷ってしまったようですの」
ユーニスが不安げに言った。先ほどよりも暗く、どうも森の奥に入ってしまったようだ。
「森の動物にでも案内してもらえるといいんだがな」
恒樹が腕を組んで考えているとハゾルカドスが、「あっ」と言った。
「なんですの。いい案でもありますかな」
「ええ。リスの知り合いがいるんです。モンドっていうんです。呼んでみましょうか」
そこで、四人と杖は、声を合わせて「リスのモンドさ~ん!」と呼んだ。恒樹と玉城は、「なんでこんな馬鹿げたことを」という思いを隠しきれなかったが、他に方法もなさそうなのでしかたなく一緒に叫んだ。
「あっしを呼んだでござんすか」
不意に足元から声がした。
「わぁっ!」
不意をつかれて恒樹が飛び上がった。ごく普通の茶色いリスがそこにいた。
「おひかえなすって!」
リスは片手を前に出して器用にも仁義を切り出した。
「生まれはアゼリス、育ちはルクト。生来ふわふわ根無し草、しがねぇ旅ガラス、風来坊のモンドってのぁ、あっしの事でござんす!」
「旅リスじゃないの?」
リナが話の腰を折るので恒樹が睨んだ。
「なあ、風来坊のモンドさんよ。この森には詳しいのかい?」
恒樹が、間髪入れずに本題に入った。
「まあ、全部をわかっているというわけじゃありやせんが、そこそこ」
「おお、じゃあ、出口はわかりますかの?」
ユーニスが訊くと、モンドはこくんと頷いた。
「やった! 連れて行って!」
リナが言うと、モンドは、先頭に立ってちょこちょこと歩き出した。
「あ、球根が叫ぶアマリリスの繁みは避けてくれるかな」
恒樹が注文を出した。
「構いやせんが、するってぇと、少し遠回りになりますぜ。火を吹く竜のいる池を泳ぐのと、九つの首のあるコブラの大群が待っている渓谷とどちらがお好みでやんすか」
リスが訊くと、四人と杖は揃って首を振った。
「アマリリスの繁みでいいです」
つい先ほど通った、巨大アマリリスの繁みでは、地面に転がった球根が「元に戻せ!」とうるさく叫ぶので、リナの代わりに玉城が球根を土の中に埋めた。
「どうもありがとっ」
リナは、玉城の頬にキスをして感謝を示したが、若干迷惑そうな顔をされた。さもあらんと恒樹は思った。
それから、サイケデリックな花園を通り、妖しげな道なき道を進んだ。
それから、太い蔓草が絡んでいるジャングルに入る時にリスは振り返った。
「腕時計をしている方はいやせんでしょうね」
「iPhoneがあるから時計は持っていないけれど、なんで?」
リナが訊いた。リスは蔓草を示して答えた。
「これは『時の蔓草』でやんす。時計の、時を刻む音がすると、途端にとんでもないスピードで育ちだすので、進むのがやっかいになりやんす」
「面白い草だね」
リナの言葉に、嫌な予感を持ったのか、ユーニスが続けた。
「この草が育ちだすと、ついでに時間の方も進み方が無茶苦茶になるんでの。出来れば、今は余計ないたずら心を起こさんで欲しいんじゃが、お若いの」
何かしたくても時計を持っていないもの、とリナがブツブツ言うのに安心しつつ、一行はただの蔓草にみえる『時の蔓草』の繁みを掻き分けて通り過ぎた。
突然目の前が開けた。
「さ、ここが森の出口でござんす!」
リスのモンドは、威張って宣言した。
四人と杖は、一瞬絶句した。確かに、森は唐突に終わっていた。目の前にはハワイのような真っ青な大海原と白砂のビーチが広がっていて、沢山のパラソルとリクライニングチェアが置いてあった。
「魔王様はどこだよ」
恒樹がユーニスに訊くと、一つ目の男は悲しげに首を振った。
「大魔法使いは?」
玉城が訊くと、杖も項垂れるようにしなった。
「ま、いっか。せっかくビーチがあるから、少し海水浴でも楽しもうよ」
のんきにリナが言うと、三人の男と杖は黙って彼女を睨んだ。
リスが言った。
「残念でござんすが、この海は泳ぐためのものではないざんす」
「じゃ、何のため?」
「テレポート・ステーションでござんすよ」
「なんだって?」
「あそこのリクライニングチェアに座って、目を閉じるんでやんす。太陽がちょうど傘の真ん中に来た時に、行きたい所を思い浮かべると、そこへテレポートするでやんす」
「早く言えよ!」
太陽は、かなり高く上がっている。一同は、慌ててリクライニングチェアへとダッシュした。
「ありがとう、リスさん!」
「お役に立ててようござんした!」
恒樹は、白と青のストライプのリクライニングチェアに座って、行きたい所はと考えた。ふと、日本にいる幼なじみの顔が浮かんだが、いま日本に出現したら、厄介なことになると思った。ロンドン、ロンドン。彼は、呟いた。
リナも一瞬、スイスに帰るか、それともかつてホームステイした東京のある家庭のことも考えたが、ロンドンにお氣に入りのスーツケースが置き去りになっていることを思い出して、ロンドンにしようと思った。
ユーニスは、どうやら魔王様の滞在先を呟いているようだった。
玉城にリクライニングチェアに横たえてもらった杖のハゾルカドスは「マスターのところへ帰らせてくださいませ」と呟いていた。
そして、玉城は「リク、今、助けにいくからね」と呟いた。
太陽は、ビーチの真上にやってきた。「お達者で!」というリスの声が聞こえたかと思ったら、傘の中心から白くて強い光が溢れ出て、恒樹には周りがまったく見えなくなった。ロンドン、ロンドン。あ、ビッグベンにいたんだよな、俺たち。
「なんでこうなるんだよっ!」
恒樹は、泣きそうになった。確かに彼はロンドンに戻ってきた。だが、彼はまだビッグベンの文字盤の長針にぶら下がったままだった。ヒュルルと風が強い。絶体絶命。
「えっ。やだ! コーキも、ここに戻ってきちゃったわけ?」
その声に、上を見ると、リナがいた。
「た、助けてくれっ」
「ちょっと待って、いいもの持ってきたから」
そう言うと、リナはポケットから緑色のものを取り出した。それはさっきのジャングルにあった、妙に太い蔓草だった。……ちょっと待てよ。確かあのリスは『時の蔓草』って、言ったよな。時計があるとヤバいとかなんとか……。恒樹は、巨大な時計の長針にぶら下がっているというのに。
リナは、それの片方をアーチに固く結びつけると、反対側を恒樹に投げてよこした。そんな短いものが届くかと思ったのもつかの間、それはぐんぐん伸びて、文字盤と針を覆いはじめた。あのリスの言う通りだった、ヤバいぞと思った。が、ちょうど足場にして、上へとよじ上るのに都合よかったので、リナへの文句は言わないことにした。
恒樹が無事に上のアーチに上がり、ひと息をついた頃には、ビッグベンはすっかりその巨大な蔓草で覆われていた。このままじゃ、まずいよなあと思ったが、とにかく急いで塔から降りることにした。ユーニスの言葉によると、この草のせいで、時間の進み方もめちゃくちゃになるらしいから、早くこの場を離れた方がいい。
実際に、上では真夜中だったはずなのに、なんとか下まで辿りついた頃には、夜がうっすらと明けはじめていた。
「あ~あ、朝になっちゃったかぁ」
リナが間延びした声で言うので、批難のコメントをしようと振り向くと、『時の蔓草』に覆われたビッグベンが目に入った。奇妙で大きな蔓草は、朝日を浴びて、溶けるように消えていく所だった。
安堵と疲れで、声もなく立ちすくむ恒樹に、リナは言った。
「ねえ、コーキ。私、お腹空いちゃった。この時間にご飯食べられるところ知ってる?」
恒樹は、先ほどよりずっと強い疲労感を感じつつ、何があっても懲りない変な女を振り返った。
(初出:2015年7月 書き下ろし)
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【小説】ロマンスをあなたと
リクエストですが、「園城真耶」でお願いします。久しぶりに、彼女の鬼っぷり……もとい、神っぷりが見たいです(笑)
ということですので、思いっきり趣味に走らせていただくことにしました。舞台はウィーン。音楽はマックス・ブルッフ。そして、真耶と言ったら、セットは拓人(なんでといわれても困りますが)です。
途中で新聞記事上に日本人女性がでてきますが、TOM-Fさんのキャラを無断でお借りしています。50000Hitの時に「ウィーンの森」のお題で書いてくださった掌編、それにこの間のオフ会にも出てきている、TOM-Fさんのところの新ヒロインです。
あ、そもそも「真耶って誰?」「それからここに出て来る拓人ってのは?」って方もいらっしゃいますよね。「大道芸人たち Artistas callejeros」や「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」に出てくるサブキャラなんですが、「大道芸人たち 外伝」なんかにもよく出てきています。この辺にまとめてあります。ま、読まなくても大丈夫だと思います。
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
ロマンスをあなたと
六月は、日本ではうっとうしい季節の代名詞だが、ここヨーロッパでは最も美しい季節のひとつに数えられる。特に今日のように太陽が燦々と降り注ぐ晴れた日に、葡萄棚が優しい影を作る屋外のレストランで休日を楽しむのは最高だ。
『音楽の都』ウィーンで、真耶がのんびりとホイリゲに腰掛けているのには理由があった。昨夜、楽友協会のホールでソリストとしての演奏をこなし、拍手喝采を受けた。その興奮と疲れから立ち直り、次の演奏の練習に入るまでの短い休息なのだ。
マックス・ブルッフの『ヴィオラと管弦楽のためのロマンス ヘ長調 作品85』は、日本ではもう何度も演奏していたが、海外で演奏するのははじめてだった。真耶の透き通った力強い響き、そして、冷静に弾いているように見えるのに激しい情熱を感じる弓使いは、屈指の名演を聴き慣れているウィーンっ子たち、それに手厳しい批評家たちをも唸らせた。
黄金に輝く大ホール。美しく着飾った紳士淑女たち。オレンジの綾織りの絹のドレスを着て強い光の中に立ちながら、真耶は見えていない客席に向かって彼女に弾ける最高の音を放った。それが、日本でもウィーンでも関係なかった。目指すものは全く同じだった。
そして、その客席の中に、彼が座っていることが、真耶の昂る神経に対してのある種の重しになった。二人で目指した同じ芸術。彼がピアノ協奏曲のソリストとして、客席に座る真耶の一歩前に出てみせれば、次の演奏会で、真耶がさらに先へと進んでみせる。そして、時には同じ舞台の上で音を絡ませ、共に走る。子供の頃からあたり前のように続けてきた道のりだ。
昨晩も、彼は真耶の音の呼びかけを耳にしたに違いない。そして、もし彼が忘れていなければ、彼女の奏でた音の中に、豪華絢爛な楽友協会大ホールとは違う、緑滴る小道での爽やかな風を感じたはずだ。小学生だった真耶と拓人が、あの夏に歩いた道。
結城拓人の父親は、軽井沢に別荘を持っていた。幼稚園の頃から、夏になると結城家は避暑で軽井沢へ行く。もちろん、別荘にもグランド・ピアノが置いてあり、拓人は夏の間も自宅と同じようにピアノ・レッスンをさせられた。
拓人の母親の従姉妹である真耶の母親は、毎年二週間ほど真耶を連れてその結城家の別荘へ行っていた。真耶自身は拓人と違い、放っておいても幾らでもレッスンをしたがった。当時真耶が習っていたのはヴァイオリンだった。
普段はレッスンをサボりたがる拓人も、一つ歳下の真耶に笑われるのが嫌で、彼女が来たときだけは毎朝狂ったようにレッスンをした。それで、安心した母親二人は連れ立ってショッピングに行くのだった。
あの日も、そうやって午前中を競うようにしてレッスンで過ごし、お互いの曲についてませた口調で批評し合った。その日の午後は、街に行って「夏期こどもミュージックワークショップ」に行くことになっていたが、母親たちは遠出をしていたので、二人で林を歩いて街まで行くことになっていた。
蒸し暑い東京の夏と違い、涼しい風が渡る美しい道だった。蝉の声に混じって、秋の虫の声もどこからか聞こえてくる。そして、遠くからエコーがかかったような鳥の鳴き声が聞こえていた。半ズボンを履いた11歳の拓人は紳士ぶって、真耶のヴァイオリンケースを持ってくれた。それから時おり「足元に氣をつけろよ」などと、兄のような口をきいた。
樹々の間から木漏れ陽が射し込んだ。風が爽やかに渡り、真耶のマンダリン・シャーベット色のワンピースと帽子のリボンが揺れた。
「あっ」
突如として強く吹いた風に、麦わら帽子が飛ばされて、真耶は少し林の奥へと追うことになった。拓人も慌ててついてきた。そして、今まで近づいたことのない木造の洋館の近くで帽子をつかまえた。
二人は、窓を見上げた。白いレースのカーテンが風になびき、開けはなれた窓から深い響きが聞こえてきたのだ。それが、マックス・ブルッフの『ヴィオラと管弦楽のためのロマンス』だった。それも、たぶん当時でもかなり珍しいレコードの特徴のある雑音の入った演奏だった。
「待たせてごめん!」
その声に我に返ると、待ち人がようやくこちらに向かってきていた。ベルリン公演が終わったあと、帰国の予定を変更して、昨夜ウィーンに駆けつけて聴いてくれた
「私も15分くらい前に来た所なの。だから、まだ何も頼んでいないから。それで、デートは終わったの?」
真耶は、拓人が荷物を置けるように自分の隣の椅子を少し動かした。
彼は少しふくれっ面をした。
「デートじゃないよ。後援会長。でも、さすが日本人だね。ここまで来たらブダペストにも行きたいって、たった三日の旅程なのに行っちゃったよ。あの歳なのに、元氣だよな。おかげでこっちはお相手する時間が少なくて済んだけれど」
「文句言わないの。今度の大阪公演のチケットも大量に捌いてくれるんでしょう?」
「まあね」
拓人は、真耶の前に座ると、荷物からドイツ語の新聞を取り出した。
「それより、ほら。ちゃんと買ってきたよ」
真耶は、それが昨日のマックス・ブルッフの批評のことだとわかっている。言われるページを開けてみると、タイトルからして悪くなかった。
「柔らかい動きの弓にのせて、ロマンスは躍動した……ね」
「美しき日本のヴィオリストは、我々に改めてヴィオラという楽器の奏でる控えめだが力強い主張を教えてくれた……。これは、あの辛口批評家のシュタインミュラーが書いたんだぜ。文句の付けようがなかったってことだろう?」
「どうかしら。後から演奏されたブルックナーの方も絶賛されているもの。辛口批評をやめただけなんじゃないの?」
「いずれにしたって、極東から来たヴィオラ奏者が褒められたんだ。立派なもんさ」
真耶は、その隣のページのサイエンス欄にも目をやった。
「あら、ここにも日本から来た女性が取り上げられているわよ」
拓人は、ウィンクをして言った。
「うん、じっくり読んだよ。美人の話は氣になるからね。そんな可愛い顔しているのに、なんとCERN(欧州原子核研究機構)で活躍している物理学者らしいぜ」
「CERNって、ジュネーヴでしょう? スイスで活躍する日本人が、なぜウィーンの新聞に?」
「ああ、そのイズミ・シュレーディンガー博士は、ウィーンで育ったらしいんだ。その真ん中あたりに書いてあった」
まあ、そうなの。同じ日に二人の日本人女性がウィーンの新聞に並んで載ったのが少し嬉しくて、真耶は新聞を大切にバッグにしまった。
ウェイトレスが、注文を訊きにやってきた。
「あれ、まだ全然メニューを見ていないや。ここは何が美味いんだろう?」
拓人が訊く。メニューを見せながら真耶は言った。
「この季節限定メニュー、アスパラガスのコルドンブルーって、美味しそうじゃない?」
「ああ、そうだな、それにしよう。ワインは?」
「白よね。これに合わせるとしたらどれがおすすめ?」
ウェイトレスは、フルーティで軽いGrüner Veltlinerを奨めた。ピカピカに磨かれたワイングラスに葡萄棚からの木漏れ陽が反射した。
拓人は、乾杯をしながら、葡萄棚を見回した。
「ここは氣持ちいいなあ。よく見つけたね」
「何を言っているのよ。ここに来たのははじめて?」
真耶は、首を傾げる拓人に笑いかけた。
「この店? 『
「ここはね、ベートーヴェンが第九を書いた家として有名なホイリゲなのよ。日本人がベートーヴェン巡礼にしょっちゅう来ているわよ」
「へえ。そうなんだ。確かに『田園』の着想を得たって言うハイリゲンシュタットだもんな。その向こうの『遺書の家』記念館は、ずいぶん前に一度行ったよ」
「でしょう? だから、ここにしようと思ったの」
拓人は、若干げんなりした顔をした。真耶のいう意味がわかったのだ。東京に帰ったら、次のミニ・コンサートで彼女が弾きたがっているのがベートーヴェンの『ロマンス 第二番』なのだ。もともとはヴァイオリンのための曲だが、一オクターブ下げてヴィオラで弾くバージョンを、拓人も氣にいっているのは確かだ。だが、昨日の今日で、もう次の曲の話か……。
「そういえば、昨日のも『ロマンス』だったな」
拓人は、ぽつりと言った。真耶は、周りの滴る新緑を見上げた。そうよ。あの時に聴いた曲だわ。
「ああ、そうだ。軽井沢、こんな感じだったよな」
拓人は、あたり前のごとく言った。憶えていたのね。真耶はニッコリと笑った。もちろん彼女は一度だって忘れたことはない。ヴァイオリンではなくてヴィオラを習いたいと突然言いだして、親を慌てさせたのは、あの洋館から聴こえてきたマックス・ブルッフの『ロマンス』が、きっかけだったから。
そして、あの時は、全く考えもしなかったことがある。兄妹のように憎まれ口をたたきながら育ち、どんなことも隠さずに話してきた親友でもある再従兄、音楽と芸術を極めるためにいつも共にいた戦友でもある目の前にいる男のことを、いつの間にか『ロマンス』と名のつく曲を奏でる時に心の中で想い描くようになったこと。
だが、そのことは口が裂けてもこの男には言うまいと思った。そんな事を言う必要はないのだ。ロマンスがあろうとも、なかろうとも、二人が同じ目的、一つの芸術のために生きていることは自明の理なのだから。彼女のロマンスは、常にその響きの中にある。そして彼は、いつもその真耶の傍らにいる。
二人の話題は、次第に来月のベートーヴェンの『ロマンス 第二番』の解釈へと移っていった。葡萄棚からの木漏れ陽は優しく煌めいていた。六月の爽やかな風がウィーンを渡っていった。
(初出:2015年7月 書き下ろし)
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【小説】追憶のフーガ — ローマにて
彩洋さんが書いてくださった作品:
『【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(前篇) 』
『【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(中篇) 』
『【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(後篇) 』
彩洋さんの作品は、なんとご自身のライフワークと言ってもいい、一番大切な「真シリーズ」の最終章になっています。一世紀に及ぶ大河ドラマの集大成。す、すごい。そんな大事な作品をわざわざ書き下ろしてくださいました。あ、いや、もちろん私のためにではないでしょうけれど、でも、企画に合わせていま書いてくださったというのは、とても嬉しいです。
で、「ローマ」です。どうしようか悩んだのですよ。「大道芸人たち」は使い過ぎて新鮮みがいまいち。「夜のサーカス」でマッダレーナを主役にして「セレンディピティ」を書こうかなと思ったけれど、団長ロマーノが悪ふざけしちゃってふさわしくない。それとも若干ご縁がないとも言い切れない「ルドヴィコ+ロメオ」のイタリア人コンビも考えたのですが、彩洋さんがここまで大事な作品で書いてくださっているからには、あの二人じゃ役不足過ぎる。
で、こうなりました。人物は二人とも小者ですが、舞台だけは立派。サン・ピエトロ大聖堂です。彩洋さん家のヴォルテラ家に敬意をはらって。(あ、ニアミスはしているかもしれませんが、どなたともお逢いしていません)彩洋さんと同じ「まだ完結していないシリーズ物の全部終わった後の話」ただし、バリバリの主人公のお話であるあちらと違って、でてくるのは本編には入れられなかった枝葉エピソード+補足。シリーズは現在連載中の「Infante 323 黄金の枷」とその続編三部作で、出てくる女性は脇役の一人です。この作品を読んでいらっしゃらない方には「?」な部分がたくさんあると思います。読んでいらっしゃる方でもわからない部分があると思いますが、読み切りストーリーとしてはほとんど意味がないのであえてほとんどの説明を省きました。「そういうことらしい」と割り切ってお読みください。
50000Hit記念リクエストのご案内
50000Hit記念リクエスト作品を全て読む
「Infante 323 黄金の枷」をご存じない方のために
この作品は現在「月刊・Stella」用に連載している長編小説です。読みたい方はこちらからどうぞ
![]() | 「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
追憶のフーガ — ローマにて
タラップを降りて周りを見回した。そこはイタリア、ローマだった。生まれ育った街、出て行くことを生涯禁じられていたはずの街を飛び立ち、何の問題もなくこうして異国に降り立ったことが信じられなかった。ここでも同じように呼吸ができて、黒服の男たちに止められることもなかった。後ろの乗客が控えめに咳をした。それで通行の邪魔をしていたことに氣がついた彼女は小声で謝ると、抱えて持つには多少重いが、海外旅行にしては少なすぎる荷物を持ち直した。
強い陽射しを遮るために左手を額にかざした。そこには、あるはずだったものがなくなっていた。本来だったら生涯外されることのなかったはずの黄金の腕輪の代わりに、彼女は日焼けに取り残された白い痕を見た。違和感が消えない。あれは、氣がついていなかったけれど、とても重かったのだ。当然だろう、黄金だったのだから。どこへ行くのも何をするのも完全な自由を手にした今、彼女を苛んでいるのは心細さだった。
ローマ市内に行くために交通機関を検討しようと、案内板を見上げた。タクシーは即座に却下した。エクスプレスも、彼女の金銭感覚には合わないように思った。彼女は財布の中に入っている黒いクレジットカードのことを思いだした。ローマ市内どころか、シチリアまでタクシーで行っても一向に困らないはずだった。けれど、彼女は微笑んでそのアイデアを打ち消した。
ふと視線を感じて横を見ると、先ほど彼女がタラップを降りる時にちょうど後ろにいた、若い青年がいた。どちらかと言えば貧相なタイプで、茶色い髪は少し伸び過ぎで、黒いシャツに灰色のジャケットはフランス資本のスーパーマーケットで揃えたような安物だった。
彼女と目が合ったので、青年は照れ隠しに笑った。少しの躊躇の後、彼は口を開いた。
「星、一つだったんですね」
彼女は反射的に青年の左手首を見た。この発言で、彼女には彼が「知っている人間」だということがわかった。黄金の腕輪はしておらず海外にいるということは、《監視人たち》の一人なのだろう。しかし、禁じられてはいないとは言え、《監視人たち》も街の外に出ることはほとんどないはずだ。この人はなぜローマにいるのだろう。
「すみません、唐突でしたね。僕は、マヌエル・ロドリゲス。神学生です」
差し出された手を握りながら、彼女はなるほどと思った。それならば、街を離れてローマに学びに行くこともあるだろう。彼らの家業でもある監視、それさえしていれば汗水たらして働かなくても生活できる結構な仕事を、あえてしたくない人間もいるのかもしれない。それとも、彼らは教会の中でも《星のある子供たち》を監視するのだろうか。
「クリスティーナ・アルヴェスです。名前もご存知かもしれないわね。あなたのこと、全く記憶にないから、《監視人たち》としてとてもいい仕事をしていたのね」
そういうと、マヌエルは鼻の所で黒ぶちの眼鏡を押し上げながら、参ったなというように笑った。
「僕、神学校の休みの時に数回だけ兄の代わりをしただけですから」
それから首を傾げて訊いた。
「ローマははじめてのようですね。よかったら市内までご一緒しましょうか」
クリスティーナは、少し考えてから頷いた。
「ええ、お願いするわ。アウレーリア通りってご存知かしら」
「なんですって。バチカンの真ん前じゃないですか。もちろん知っています。目的地までお届けしますよ」
クリスティーナはテルミニ駅からもたくさん歩くことになるのかなと思った。それともバスで。結局、タクシーとは縁がなさそうだ。
黄金の腕輪についていた赤い宝石の数が、一つではなくて二つだったと言ったら、どうなるのだろうかと思った。星一つでない限りは生涯外されることのない《星のある子供たち》の黄金の枷。《星のある子供たち》を生んだからではなく、一年経っても子供ができなかったからでもなく、特別な事情で腕輪を外されたことは、職務に忠実なごく普通の《監視人たち》には知られない方がいいに違いない。そう、私を自由にしてくれた彼のために。
「私をどこで監視したの?」
彼女は訊いてみた。答えないかもしれないと思いながら。
「二度はアリアドスの側で、それから先月、あの婚礼で……」
クリスティーナははっとした。それはドラガォンの館のすぐ側にあるサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われた結婚式に違いなかった。花嫁の家族は、ドラガォンの館の中に入ることが許されていないので、例外的にあそこで挙げたのだ。この青年がいたかどうかクリスティーナが氣に留めていなかったのも当然だった。彼女は婚礼も出席者も司祭や助祭も見ていなかった。彼女は、座った席の正に横の位置の床に、新しく設置された四角い石を見ていた。《Et in Arcadia ego》石にはただそれだけ刻まれていた。
その位置にその石が設置されたのは、おそらくクリスティーナのことを慮ってだったろう。もし、ドラガォンの館の敷地内にあれば、腕輪を外されたクリスティーナは二度と訪れることはできないだろうから。
名前はない。墓標だと氣づく者もない。始めから存在しなかった者が再び幻影に戻った、その記念。
「何かつらいことを思いださせてしまいましたか?」
声にはっとして、マヌエルの存在を思いだした。バスは高速道路に入った所だった。高速道路そのものは彼女の故郷にあるものとあまり変わらないのだなと思った。と言っても彼女が高速道路というものを通ったのは、今日が初めてだったのだが。
「ごめんなさい。初めて飛行機に乗って、少し疲れたみたい」
「そうですか。一時間近くかかりますので、少しお休みになっても構いませんよ。近くなったら起こしますから」
そう言ったマヌエルの方が、先にウトウトとしだした。頼りない人ね、笑ってクリスティーナは窓の外を眺めた。彼に逢ったのは偶然なのだろうか。それとも《監視人たち》は今でも私を監視しようとしているのだろうか。それから肩をすくめた。もし、そうだとしても、こんな抜けた人を選ぶわけはないわよね。
それから彼女は、幾年も前のことを思いだした。あの館でゆっくりと刻んだ時間、いつでも彼がいた。それは海辺の波のようだった。ゆっくりと押し寄せて、それから静かに帰っていく。フーガのように、追いかけては追い越していく。仕事のことを話すだけだった長い期間、それから、その外見と堂々とした態度からは想像もできない傷つきやすい魂を知ったこと。ゆっくりとその手が伸ばされて、戸惑い、諦め、潤んだ瞳だけが語る長い時が過ぎていった。
熱にうなされ、一人で消えていく恐怖に怯えていた彼を、この世につなぎ止めたくて必死でその手を握った。弱々しい力が、わずかな歓びにうち震えた。彼女にとって深く哀しくも歓びに満ちた日々の始まりだった。尊敬と親しみが、愛に変わった瞬間だった。
「愛されるというのは、幸せなものだな……」
彼の大きい手のひらを自分の頬に引き寄せて、頷いた。それもまたゆっくりと記憶の彼方に帰っていった。
「あれ。いつの間に……」
目の覚めたマヌエルを見て、クリスティーナは笑った。
「そろそろ着くんじゃないかしら」
マヌエルは眼鏡をかけ直して車窓を眺めた。
「ええ。もうすぐです。ホテルの近くまで行くバスにご案内しますね」
クリスティーナは、ふと思いついて訊いた。
「ねえ、サン・ピエトロ大聖堂を案内してくれない? 見所や歴史についてあなたはとても詳しいのでしょう」
マヌエルはすぐに首を縦に振った。
「喜んでご案内しますよ。実のところとても詳しいとは言えませんけれど、行き慣れていますし、母国語で説明を聞くのはあなたにとっても楽でしょうから」
クリスティーナのチェックインしたホテルを見て、マヌエルは目を丸くした。僕の記憶が確かならば、この女性はドラガォンの館の使用人だったはずだ。ここはかなり格の高い四つ星ホテルだ。クリスティーナは彼の考えを見透かしたように言った。
「ドラガォンからのボーナスみたいなものよ。でも、これからずっとこんな暮らしをしていくわけじゃないのよ」
あのクレジットカードをくれたということは、たぶん彼らは私にそうしてもいいと言っているのだろう。おあいにくさま。私がそんなに怠惰だと思ってくれては困るわ。クリスティーナは心の中でつぶやいた。
荷物を置きに部屋に入ると、花瓶にピンクと黄色のグラデーションになった薔薇の花束が生けてあるのが目に入った。私がこの色の薔薇が好きだと、彼はわざわざセニョールに伝えておいてくれたんだろうか。強い香りを吸い込み一本手にとろうとした。「いたっ」棘が指に刺さった。ドラガォンでは、使用人たちが丁寧に棘を取り除いて生けていた。そう、もう、ここはドラガォンではない。イタリアのローマにいるのだ。
血が流れる。痛みとその真紅が、クリスティーナに「まだ生きているのだ」と告げる。
ロビーに降りて行くと、マヌエルが所在なげに座っていた。クリスティーナが手を振ると、嬉しそうに立ち上がった。
「お待ちどうさま。部屋からサン・ピエトロ大聖堂のドームが見えたわ。本当にローマにいるのね」
彼女が言うと、マヌエルは微笑んだ。彼の荷物をフロントに預けて、二人はサン・ピエトロ大聖堂に向かった。
テレビで遠景をみたことがあったが、カトリックの総本山だけあってその壮大さはただ事ではなかった。彼女の街の「セ」という呼び名で親しまれている大聖堂や黄金の装飾で有名なサン・フランシスコ教会も壮大だと思っていたが、スケールが違った。そもそも四柱のドリス式列柱に囲まれた楕円形の広場からしてずっと広い。
「この列柱廊は、信者を優しく抱擁するように広げた腕のようになっているんです。あ、ここに立って見てください。四列の柱がぴったり重なって一柱のように見えるでしょう?」
マヌエルはゆっくりと歩きながら説明していった。13の聖人像の見えるファサード、教皇が祝福を与えるバルコニー、玄関廊の五つの扉、観光客たちが押し寄せていく中を、ゆっくりと大聖堂の中に向かって歩んでいく。
身廊に入ってすぐ右側に人だかりがしていた。クリスティーナはすぐにそれがなんだかわかった。ミケランジェロの「ピエタ像」だ。亡くなったキリストを腕に抱く聖母マリア像。若々しく穏やかで美しい嘆きの母は、クリスティーナを再び記憶の海に引き戻した。
彼が眠りについたあの夜、報せを訊いて駆けつけると、枕元で泣いていた彼の母親は立ち上がって彼女を抱きしめた。
「かわいそうな、クリスティーナ」
かわいそうなのは、あなたでしょう。息子を失っても、嫁でもない女の心を慮らなくてはならない。自由になることは許されず、願った人生を生きることも叶わない。それでも、優しく、強く、思いやりを失わない人。あなたが私の前を歩いてくれたから、私は不幸に溺れることがありませんでした。私のことを心配なさらないでください。私も泣くだけの人生を送ったりしません。彼の思い出を掘り返すだけに、残りの人生を費やすこともしないでしょう。
身廊を進みながら、マヌエルがいくつもの絵画やモザイク画を説明してくれた。参拝者が接吻していくために右足のすり減ってしまっているブロンズのペテロ像、そして、大きな天蓋に覆われた教皇の祭壇。
祭壇の真上のクーポラからは光が溢れていた。ルネサンスの最高傑作とはよく聞くものの、実際に立ってみるまではその意味がはっきりとはわからなかった。なんて美しいのだろう。人は、どれほどの時間をかけ、技量と知恵を振り絞って、天上の美というものを表現しようと試みたのだろう。そして、今、私はここに立ってそれを見ているのだ。
「すごいわね」
彼女のため息に、マヌエルは頷いた。
「とてつもない時間と労力。この豪華絢爛な建造物を作る費用を貧しい人に向ける方がずっと神の意に適うという人もいます。確かにそれにも一理あるんですが、それだけで片付けられない何かがあるんです。僕はこの驚異をこの目で見ることができてよかったと思うんですよ」
クリスティーナは黙って頷き、光を見ていた。マヌエルは横で続けた。
「ここは、僕には特別な所なんです。ずっとドラガォンと《監視人たち》のシステムについて悩み続けてきました」
彼女ははっとして、青年の横顔を見つめた。彼はペテロ像の方を見た。
「ローマ教皇は主イエス・キリストの精神的後継者として代々受け継がれてきた。そして、あなたたちが受け継いでいるのは同じ主の血だと聞いたことがあります」
「それはただの噂でしょう」
「ええ、その通り噂です。信憑性を確かめることもできないものを守るために、時代遅れで人権無視のシステムが動き続けている。僕は、システムの一部である《監視人たち》の家系に生まれて、不都合を押し付けられたあなたたちに苦痛を強いることの意味をずっと考えていました。そして結論はシステムから逃げだすことだったのです」
彼が「
「参ったな。バッハの『パッサカリアとフーガ ハ短調』ですね」
フーガ。イタリア語でもポルトガル語でも音楽用語の遁走曲以外に、逃走や脱出、脱落やこぼれ落ちることを意味する。クリスティーナは左手を見た。ここにいる二人はドラガォンのシステムから抜けだしている。特例によって、もしくは、意志によって。システムを離れたものは部外者だ。血脈が本当は何を意味するかわかったとしても、もはやその保存に対して何かをすることはできない。クリスティーナの左手首はとても軽くなった。その彼女を自由にしてくれた人は、自分自身は自由になることができないまま、システムに身を任せ、あの四角い石の下に眠っている。豪華な墓標もなく、功績を知られることもなく、存在を打ち消された。
石の上に書かれた銘文のアナグラムを思いだす。《I tego arcana dei》。『神の秘密を埋めた』
華やかなフーガの流れる、世界が驚嘆の目を向ける大聖堂。主イエス・キリストの後継者たちの偉大なる聖座。それはどれほど彼女の愛した男やその先祖または後に続く者たちの人生と異なっていることだろう。
《星のある子供たち》の存在に意味があるかはわからない。それは栄誉であるとも悲運であるとも言いきれない。世間の目から隠し通し、複雑怪奇で厳格なシステムを使ってまで残そうとした人たちの強い意志は今も働いている。そして、その厳格な網の間を通って、システムを動かす人たちの精一杯の優しさが、このクーポラから射し込む光のように暖かく人を包み込む。
「自由になって、幸せになってほしい。これは、彼の願いだった」
昨日、ドラガォンの当主が、書斎でそう言った。黒檀の机の上に、クリスティーナのパスポートと黒いクレジットカード、それから頼んであったローマへの航空券とホテルのバウチャーを静かに置いた。
「ありがとうございます。メウ・セニョール。そうするよう努力します。お世話になりました」
クリスティーナは、最後に微笑むことすらできた。
たくさんの思い出の詰まった館を、親しんだ仲間たちのもとを、振り返りもせずに出てきた。もう二度と足を踏み入れることはできない。けれど、それがなんだというのだろう。もう、彼はいないのだ。この世のどこにも存在しない。記憶は波のように寄せては帰っていく。そうして私は生き続けていく。この地球に住む他の全ての人びとと同じように。
ホテルに戻り、彼の荷物を受け取って、ロビーで別れを告げる時に彼女はもう一度右手を差し出した。
「一緒に来てもらってよかったわ。詳しくないなんて謙遜しすぎよ。トラベル・ガイドになればいいのに」
クリスティーナが言うと、マヌエルはあっさりと頷いた。
「ええ、実をいうと、それも考えているんです」
彼女はびっくりした。
「司祭になるんじゃないの?」
彼は首を振った。
「とんでもない。神学校に入ったのは《監視人たち》の仕事から離れるための単なる方便ですよ。それに……」
それから声を顰めた。
「妻帯も許されないような集団に興味はないんです」
クリスティーナは呆れた。かわいそうなご家族ね。
「あなたは、この旅の後、どうなさるのですか?」
マヌエルはためらいがちに訊いた。クリスティーナは微笑んだ。
「国に帰るわ。そして、仕事を探さなきゃ。血脈のためなんかじゃなくて、私自身の人生を探していくんだわ。あなたもそうでしょう?」
彼も微笑んだ。
「そうですね。でも、ドラガォンと全く関係のない、ここ、イタリアで暮らしていくのも悪くないと思っているんです。初日じゃわからないと思いますけれど、数日いてみたら、きっと僕のいう意味がわかるかもしれませんよ。もし、そうしたいと思ったら連絡をください。僕、力になれると思いますよ」
クリスティーナは明るく笑った。とんだ神学生ね。イタリアに馴染みすぎよ。強い陽射しが輝いていた。彼女の新しい人生は始まったばかりだった。
(初出:2014年11月 書き下ろし)
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【小説】パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして
ポールさんが書いてくださった作品: 『パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして 』
最初にタイトルを見たときは目を疑いました。「そ、そんなリクエスト、するか?」と。この地名は、常連の方はおわかりでしょうが、これまでにこの企画でいただいた地名を全部つっこんだものです。こういうタイトルで小説を書けと。しかも、ご本人がもう書いていらっしゃるから「じゃあ、自分で書いてみなよ」とは言えない(笑)もっとも、これは暴球攻撃というよりは、書けると思っているからしてくださったリクエストでしょうから、そのありがたいご評価に感謝するとともに「こんなお題も受付るらしいよ、だから戸惑っている人もどんどんリクエストしようね」という、援護射撃なのだと理解しております。
で、このお題ですので、質よりも返球の速さで行くことにしました。内容はどうしようもないので、一企画に一回しか使えない禁じ手を使ってあります。ですから、よい子のみなさんは、同じようなリクエストをしないでくださいますよう、お願いいたします。
なお、出てくるキャラは、以下の小説からの流用です。読まなくても意味は通じますが、読みたい方はのためにリンクをつけておきます。(ちなみに、ここのヤオトメ・ユウはフィクションのキャラです)
教授の羨む優雅な午後
ヨコハマの奇妙な午後
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パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして
チューリヒには霧が重く垂れ込めていたが、グラウビュンデン州にさしかかったあたりから真っ青な空が広がった。夏時間が終わったばかりだが、すでに初雪が降ったライン河沿いの高速道路を、華麗な運転テクニックを駆使しながら黒いアウディが南に向かって走っていた。この場合の華麗なテクニックというのは、どんなカーブや上り坂でも法定許容限度分きっちり超過したスピードで走るということだ。クリストフ・ヒルシュベルガー教授ほどの人物ともなると、スピード違反の証拠写真を撮られるなどというヘマはしない。
ヒルシュベルガー教授は、チューリヒの大学で生理学の教鞭をとる重鎮で、今年55歳になる。若いころはさぞ美青年であったであろうと思える端正な横顔だが、太い眉に銀のラウンド髭を蓄えた姿は厳格そのもので取っ付きにくい。物言いも手厳しいため、大学では近寄りがたい人物として通っている。実際には、どちらかというと変わり者であり、型破りな言動に面食らうことはあるが、さほど怖い人物ではない。
「そうやって、横でぶつぶつ言うのはやめてくれないか」
助手席に座って窓の外を見ていた秘書であるヤオトメ・ユウは教授の批難でようやく自分が日本語のひとり言を音に出していたことに氣づいた。
「申しわけありません」
「また例のくだらない趣味かね」
「先生。くだらないとおっしゃるならば、一々私の作品をドイツ語に訳させて聞きたがるのをやめていただけませんか」
「私はあなたの雇い主として、あなたの公私にわたる思想活動を把握しておく必要があるのだ。それに、その趣味を通してあなたが社会や人生についてどのような考え方を持っているのかわかり、大変興味深い」
ユウはため息をもらした。彼女は結婚してスイスに移住し、二年ほど前からヒルシュベルガー教授の個人秘書を勤めているのだが、日本にいた頃から休まずに小説を書き続けていた。現在の主な活動はブログを通してで、自分の自由時間を使っての執筆なので、教授にあれこれ言われる筋合いは全くないのだが、日本出張で彼に小説執筆のことが知れてしまって以来、作品を発表する度に彼のチェックが入り、辟易していた。
「前任のマリア・シュタイナーさんは青十字の広報誌でコラムを書いていらっしゃいますが、送ってこられる広報誌に目を通されることはないじゃありませんか」
ユウが反論すると、教授はユウの方を見てニッコリと笑った。
「禁酒団体にこの私が興味を持つと思うかね」
「そりゃ、思いませんけれど……」
クリストフ・ヒルシュベルガー教授の行動規範が、見かけや態度とは大きく異なり、彼の個人的興味に大きく左右されていることは、彼と近しく接したことのある者ならば誰でも知っていた。とはいえ、彼がユウに対して女性としての強い興味を抱いているわけではないことははっきりしていた。彼女が日本人であることや日本文化に対してでもない。彼が固執しているのは、日本の食文化であった。
今日、二人が向かっている先は、生理学の研究とは何の関係もなかった。アルプスを越えたイタリア側に新しいレストランができて、そこでコウベ・ビーフを食べさせてくれるという情報をキャッチした教授が、全ての予定をキャンセルして向かっているのだ。
「それで、今度は何を書くのに手間取っているのかね」
くだらないという割に、教授は出来上がった作品だけでなく、ユウの構想段階の作品に対するチェックも怠らない。彼女は厳しいコメントに滅入るのであまり話したくないのだが、時おり鋭いヒントをくれることもあるので、訊かれた時には正直に話すことにしていた。
「地名が入ったタイトルの作品を募集したんです。色々な方からリクエストを一時にいただいたんですが、どれをどんな作品にするか決めなくちゃいけなくて」
「どの地名なのか」
「ウィーン、パリ ― イス、北海道、それにニライカナイの四つです」
「北海道は日本の北にある島だったな。最後のはなんだね」
「あ、沖縄の伝承にある異世界の名前です」
「ふむ。ウィーンと言えばトルテにコーヒー、それから『フィグルミュラー』のカツレツ、パリはいわゆるフランス料理もいいが、焼き栗が美味しい季節だな。北海道と言ったら、確か海の幸が……」
「先生。私はグルメ記事を書くわけではないんですが」
「まあ、いいではないか。ちなみに沖縄では何が食べられるのかね」
この人はいつもこうなんだよなあ。ユウは胸の内でつぶやいた。
「なんでしょう。亜熱帯性の食材を利用した琉球料理ですね。すぐに思い浮かぶのは、豚肉を使ったソーキそばや、ちょっと苦い野菜を使ったゴーヤチャンプルーでしょうか。健康にいいらしくて沖縄では長寿の方も多いんですよ」
教授は苦いと聞いて眉をひそめた。
「健康にいい料理か。私はどちらかというと……」
「わかっています。でも、美味しいと思いますよ。それに米軍基地が多い関係で、ステーキを食べさせるレストランが多いように思います」
「甘いものは」
「パッと思いだすのは、サーターアンダーギーというドーナツみたいなお菓子やちんすこうというクッキーのような味でしょうか。パイナップルも穫れるので、それをドライフルーツに加工したものも美味しいですね」
「ふむ。では、一度沖縄に出張するのも悪くないな」
そういう話だったかしら。ユウは首を傾げた。
「で、どんな話にするつもりかね」
教授が90度のカーブなのに全くスピードを落とさずにに華麗にターンしながら訊いた。あら、本題を憶えていたんだわ、とユウは思った。
「ええ、ウィーンの話は、レハールの『金と銀』とこの季節の色彩を絡めた話にしようと思っているんです」
「ふむ。グルメはどうするんだ」
「え? 入れなきゃダメですか」
「入れないのか?」
そういわれると入れないわけにはいかないような……。
「では、カフェでケーキセットでも食べさせますか」
「舞台をカフェにしたらどうかね」
「はあ」
教授はユウの冷たい視線にまったく構わずに続けた。
「イスは、ブルターニュ伝承の沈んだ街だな。あの辺りにはそば粉のクレープとシードルが……」
「先生。それはモン・サン・ミッシェルを舞台にした小説の時にもう書きました」
「ふむ。そうだったな。では、舞台はパリにするのが一番か」
この人、意外と協力的だな、ユウは感心した。本当は、小説自分が書きたいんじゃないの? ユウの想いには構わず教授は続けた。
「北海道は、絶対にグルメを入れなさい」
「はあ。海鮮丼でも入れますか。海の親子丼といって、鮭といくらがたっぷり載っているご飯もあるんですよね。新鮮だから美味しいだろうなあ」
「取材旅行に行きたいんじゃないかね。なんなら、同行しようか」
「先生、つい先日、休暇で横浜に行ったばかりじゃないですか」
教授は反省した様子もなく肩をすくめた。絶対この人、北海道でのシンポジウムはないかと騒ぎだすに違いない。ユウは思ったが、大学がまたしても旅費を出してくれるというならば、同行するのにやぶさかではなかった。
「ニライカナイはどうしましょうか」
自分の食欲を満たしてくれる可能性のない場所には全く興味のない教授はにべもなく言った。
「しらんね。架空の土地の話なら、SFでも書くがいい」
あ、そうか。それは考えてもいなかった。この調子なら、それぞれ何か書けそう。
「ところで、その地名のリクエストは、もう締め切ったのかね」
「いえ、まだですが何故でしょう」
「なに、私も一つリクエストしてみようかと思って」
「先生。くだらない趣味とおっしゃったのをお忘れですか」
「いや、忘れてはいないし、くだらないと思うが、いい氣分転換になるのでね」
そうですか。ひどい言われようだけれど、ここまで協力してもらっては断りにくいじゃない。ユウはぶつぶつと文句を言った。
「そして、どこの地名にしようかね。ものすごく書きにくい難しい地名がいいのだが……」
「そういう嫌がらせはやめてください」
「何故だ。こういう企画は、難しいものをこなしてこそ腕が上がるんだ。つべこべ言うのはやめなさい」
「う……。おっしゃる通りです。それで、どの地名になさるのですか」
「それは、コウベ・ビーフを堪能しながら考えよう。ほら、もうそろそろ到着だ。すっかりお腹がすいてしまったよ。朝一の講義も休講にすべきだったかね」
平然と言い放つヒルシュベルガー教授にうんざりしながら、ユウは窓の外を見やった。その途端に、お腹がキュルルと鳴った。
(初出:2014年10月 書き下ろし)
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【小説】終焉の予感 — ニライカナイ
左紀さんが書いてくださった作品: 『ニライカナイ 』
で、私の作品ですが。情けないことに「ニライカナイ」って何? という所から出発しました。なんと、沖縄にそんな伝承があったのですね。全く知りませんでした。お返しは、サキさんの小説っぽくしたいなと思ったのです。といっても私の書くものなので似ても似つかぬものになっちゃうことは始めからわかっていましたが。私の小説群の中でSFっぽいのはこれしかありません。以前書いた『終焉の予感』。あれの続きではなくて前日譚を書いてみました。「ニライカナイ」を使ったのは新しい設定ですが、キャラや設定は既に頭の中で固まっていたもの。上手く融合できたかな。
あ、現在いただいている50000Hitリクエストはこれで全て書きましたが、引き続き無期限で受け付けています。よかったらいつでもどうぞ!
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終焉の予感 — ニライカナイ
暗い店内を、ヴィクトールは見回した。牛脂灯か。こういう地の果てには、まだ原始的なものが残っていたんだな。この街から、いや、全世界から、電灯が消えて半年が経っていた。
半年前、直径300m程度の隕石が、海洋に浮かぶ島を直撃した。その衝撃は惑星規模の厄災を引き起こした。地震、津波、熱波による火事、粉塵による寒冷化の被害もひどかったが、人類にとって壊滅的な被害を及ぼしたのは、その衝突が引き起こした強い電磁パルスだった。全ての電子回路と半導体が損傷を受けて使えなくなった。携帯電話、コンピュータ、車、ビル、工場、交通機関、全てが麻痺した。発電所は停まり、浄水施設も機能停止した。
各国、各大陸の政府も正常に機能しなくなった。最優先で非常用電源を用い、人類がじきに迎えるであろう次なる厄災に備えるべく手を打っているが、テレビもラジオも壊れ新聞も配達されなくなったため人びとの耳には噂話しか入ってこなかった。
ヴィクトールは、その中ではもっとも多く情報を得ている人間の一人だった。職業はと訊かれれば「冒険家」と答えるのが常のこの男は、未開の地や密林で秘宝を見つける「探し屋」として名をあげていた。この数年間彼が取り組んでいたプロジェクトは伝説の永久エネルギー源、コードネーム《聖杯》を発見して持ち帰ることだった。
《聖杯》は大陸を覆うほどの超エネルギーシェルターを動かすことのできる、理論的には唯一のエネルギー源で、それを狙っているのは彼の故郷であり雇い主でもある《旧大陸》だけではなかった。
《旧大陸》《北大陸》《南大陸》《中大陸》《黒大陸》。人口爆発が、統制なくしては手に負えなくなることがはっきりした百年ほど前より、世界は五つの大陸に分かれ統括されるようになった。特別な許可証を持たない人間は、他の大陸へ渡航することすらも許されなかった。ヴィクトールがこの《南大陸》に入る許可証を得るのも大変だった。普段は許可証ぐらい自分のつてでなんとかするのだが、今回だけは依頼人経由で入手してもらう他はなかった。誰もが《聖杯》を狙っている。妨害がひどいということはすなわち、《聖杯》を手に入れられる可能性のある者として、彼がそれだけ知れ渡っているということだった。
他大陸へ渡航する許可証の必要ない唯一の例外が、《コウモリ》と陰口を叩かれる《アキツシマ》の人びとだった。彼らは本来《旧大陸》に属する大きい群島に住んでいた。だが、半世紀ほど前にその島々を載せていた三つのプレートが崩壊し、全ての島が消滅した。生き残った一億一千万の難民を《旧大陸》だけで受け入れるのは不可能だったため、五大陸の合意の上、彼らだけは移動の自由が与えられ、望む大陸へと移住できるようになった。
ヴィクトールの入ったこのバーの持ち主チバナは、《アキツシマ》だった。
「いらっしゃい」
チバナが、きたわね、という顔をした。ちょっと見ただけでは男か女かわからない妙に中性的な小男だ。いつも赤かピンクに近い色のものを身につけているので余計そう感じるのかもしれない。
まっすぐに彼の前のカウンター席に座った。
「いつものテキーラを」
「あんたのためにとっておいたよ。あれも、もうなかなか手に入らなくなってね」
「工場が放棄されたのか」
「途中に電解プロセスが必要なんだって」
チバナは氷の入っていないテキーラを彼の前に置いた。冷凍庫が動くはずはないのだから文句を言う客は居なかった。ヴィクトールもライムが入っていることに感謝しながら飲んだ。
「それで」
「来ているよ」
「本物なのか」
「どういうこと?」
「本物のアダシノ・キエなのか」
「それは、あんたがテストしてみればいいじゃない。あたしは、ここで以前に三度見ただけ。《南大陸》や《黒大陸》の連中が奪おうとしていたけれど、《北大陸》の連中が守りきっていたわ」
「護衛は」
「全滅みたいね。一人で困っている。あそこの隅よ」
チバナが目で示した奥の席をそっと見ると一人の女が寄る辺なく座っていた。ヴィクトールは思わず十字を切った。まったく場違いな女だった。密林どころか、街から一歩も出たことがないようなひ弱なタイプだ。
「あれか?」
「そうよ。見えないでしょう?」
「見えないどころか、数時間でお陀仏になっちまうんじゃないか」
「そう。肉体的なトレーニングまで手が回らなかったんでしょう」
彼はもう少し情報を集めようとした。
「本当に一人なのか」
「当然でしょう。《北大陸》のリチャードソン総帥の秘蔵っ子で、最後の切り札よ。それが、護衛もなくあんな状態で居るんだから、本当にもう誰も残っていないのよ。でも、一人で居るのが分かるのも時間の問題ね。そうなったら、とんでもない争奪戦が始まるはずだわ」
「この世にたった一人しかいないんだからな」
ヴィクトールの愛用の暗号解読マシーンも半年前の電磁ショックでの被害を受けた。十年以上かかけて用意したデータが全て消失し、暗号を解くのは不可能だった。それはどの「探し屋」も抱えている悩みだった。現在、暗号解読が可能なのは、外部データと電子回路を使わずに自身の脳だけで情報処理ができる特殊訓練を受けたサヴァンのみだ。アダシノ・キエの能力は、中でも群を抜いており、世界中のエージェントが欲しがっていた。彼はもう一度振り返って、店の片隅に寄る辺なく座る女を眺めた。精神的に不安定な挙動は特に見られない。人付き合いが良さそうにも見えないが。
「ところで、顔立ちから言うと、あんたと同じ《コウモリ》か?」
「さあ、どうかしら。可能性はあるわね。少なくとも遠い祖先はそうかも。名前はそうだから」
「あれは、本名なのか?」
チバナはちらっとヴィクトールを見た。
「役所に届けられた名前という意味なら、そうなんじゃない」
「他にどんな意味があるんだ」
「帰属意識がない人間ってのはね、自分の存在そのものに違和感があるの。外側の自分と名前に嫌悪感を持ち自分だけしか知らない名前を持つことで心の平安を保とうとする者が多い。だから、あの子がアダシノ・キエ以外の本当の名前を持っていても、あたしは驚かないわ」
「あんたにも本当の名前があるのか」
「当然でしょう」
それはなんだと訊いてみたかったが、答えないのは分かっていた。無駄な質問に使っている時間はなかった。
「このチャンスを作ってくれたあんたの狙いはなんだ」
「何を言っているのよ。あんたとあたしの仲でしょう」
「あんたが友情なんて甘い概念なんかで動くタマか」
「ふふん。分かっているでしょう。あたしにできるのは、《聖杯》がどの大陸に行くのかを正確に見極めることだけ」
「で、俺に賭けるってわけか」
「あんたが最有力なのは間違いない。でも、大穴もありえるわね。あたしは《旧大陸》と《北大陸》のどちらに行ってもいいのよ。見極めたら、そちらに行くんだから」
「たいした《コウモリ》だな」
ヴィクトールが軽蔑したように言うと、チバナは笑った。
「ニライカナイって、知っている?」
「いや。コウモリ語か?」
「イエスでもあるしノーでもあるわね。《アキツシマ》の支配民族じゃない民族の間で信じられていた場所なの。東の果て、海の底にあり、あたしたちが生まれてくる前にいたところで、死んでから帰るところ」
彼はいつものノートブロックを取り出して、その聞いたことのない言葉を書き込んだ。ニライカナイ。
「あんたはその民族の出身なのか」
「ええ。でも、そんな区別はもう意味がないわね。わかるかしら。支配民族も被支配民族も居場所を失ったの。神々は、ニライカナイからやってきて、あたしたちに豊穣をもたらしてからまた帰って行くというけれど、かつては海と島という違いのあった双方が、今では海の底にあるの。この惑星に残された時間もわずかな今、大陸の所属も意味を失っている」
「何が言いたい」
「今のあたしはニライカナイにいるのと変わらない、死んでいるとは言わないけれど、生きる以前の状態でしょう。いくべき所に行って根を張って生きたいの。それがどこにあるのか見極めたいの」
そう言って、チバナは空になったヴィクトールのグラスをもう一度テキーラで満たした。
ヴィクトールは立ち上がって言った。
「ようするに生き残れる場所ってことだろう。それは《旧大陸》さ。そうでなくてはならないんだ、俺にとっては。なんせ俺は《コウモリ》じゃないからな」
店の一番奥に座っていた女は、近づいてくるヴィクトールを見て一瞬怯えた目をしたが、下唇を噛み、体を強ばらせて、まともに彼を見つめた。彼は、どっかりと彼女の前の椅子に座った。
「俺は、ヴィクトール・ベンソン。はじめまして、アダシノ・キエさん。チバナから聞いているだろう」
キエは頷いた。
「私を《聖杯》のある神殿まで連れて行ってくれる人が居るって。あなたが《北大陸》のために働いているという証拠を見せていただけませんか」
ヴィクトールは首を振った。
「隠してもしかたないから言うが、俺は《旧大陸》に雇われている」
キエは眉をひそめた。
「私が協力すると思っているんですか」
「するさ」
「理由を言ってください」
ヴィクトールはキエの瞳をじっと見つめて言った。
「あんたは一人では神殿まで辿りつくことはできない。《北大陸》のヤツでそれを助けられるヤツはいまこの辺りにはもういない。上のヤツらがそれに氣づいて、他のヤツらを送り込んでもここに到達するまで、数日から数週間かかる。その間、あんたは丸裸だ。あんた自身がよくわかっているはずだ」
キエは眼を逸らした。彼は続けた。
「あんたのことは他の大陸のヤツら、全員が狙っている。《旧大陸》に雇われた俺以外のヤツも含めて。俺はあんたを人間的に扱い、あんたの意志を尊重するが、他のヤツがそうしてくれる可能性は低い。むしろ目的のために手段は選ばないだろう。あんたを拷問するか薬漬けにしてでも協力させようとする。いずれにしてもあんたは神殿に行くしかない。あんたが相手を出し抜いて《聖杯》を《北大陸》に持ち帰るためには、少なくとも五体満足でいなければならない。もちろん俺も簡単に渡すつもりはないが、それでも俺と行くのがあんたにとっての最良の選択だ。そうだろう」
キエはしばらく下を向いて考えていたが、ヴィクトールのいう事がもっともだと思ったようで、頷いてからもう一度彼の顔を見た。ほとんど黒く見える瞳に強い光が灯っている。根性はありそうだ、彼は思った。
「契約条件を教えてください」
「簡単だ。俺はあんたを神殿まで連れて行く、そのために必要な全ての助力をし、あんたを守る。あんたは、ここから神殿までの間にぶつかるはずの全ての暗号を解き、神殿で《聖杯》を取り出す」
「あなたが私に危害を与えないという保証は」
「証明はできないから信じてもらうしかない。あえていうなら、こんなところで契約を持ちかけていることだ。暴力や薬物を使うなら、もうとっくに実行している。俺にはあんたと行ってもらう以外の選択肢はないし、浪費する時間もない。俺は拷問や薬には詳しくないが、人間ってものを多少はわかっている。強制したり憎みあったりするよりも、好意的な人間関係を築く方がずっとエネルギー消耗が少なく時間短縮になる。だから俺はあんたに危害を加えるよりも好意的にするんだ」
「……納得しました」
「じゃあ、念のために三つの質問で、あんたの能力をテストさせてもらう。もしあんたが詐欺師か誇大妄想狂だったと後でわかっても、やり直す時間は俺にはないんでな」
「どうぞ」
ヴィクトールは懐からいくつかの紙片を取り出した。一枚めの紙には二つの長い文字列が書かれている。彼が携帯マシンのテスト用に用意したもので、数年の時を経て黄ばんでいた。
「この文字列は暗号化されている。下にあるのが暗号化する前の文字列で、アルゴリズムは言えない。キーを解読してほしい」
制限時間は15分だと言おうとした時に、キエは口を開いた。
「RSA、秘密鍵はM@rga1ete2987」
彼は動きを止めた。彼の自慢の専用マシンで二時間半かかった演算だ。彼の卒業した大学のスーパーコンピュータなら三日はかかるはずだ。
「次はこれ。前近代的なメソッドを併用してある」
キエはじっとそれを見た。彼はメモと鉛筆を差し出したが、彼女は見ていなかった。視点が定まらなくなっている。白目が見えた。ヴィクトールが眉をひそめた。が、それは二十秒くらいのことだった。
「ヴィジュネル暗号とシーザー式の併用ね、ケチュア語の『iskay chunka hoqniyoq』は21。これをシーザー式の鍵にしたのね。元の文字列はポルトガル語で『E nem lhe digo aonde eu fui cantar』」
ありえない。俺のテストでは15時間かかったのに。
「最後は、本物の俺たちが探している古代文明の暗号だ。こっちが書いてあるのが、あんたも知っている『密林の書』の暗号ページ。それから、俺が先日奥地でみつけた礎石にあった文字列……」
そう言ってから、ヴィクトールはふと不安になった。キエの尋常ではない解読のスピードに何かのトリックがあるのではないかと疑ったのだ。どこかと秘密裡に接続していて、連絡を取りあっているのではないかと。
紙片を見せるのをしばらくためらった。それは実際に最初の砦に行ったヴィクトールだけが持っている情報であると同時に、他の「探し屋」に対する唯一のアドバンテージだった。これを今《北大陸》に知られたら、俺にチャンスはなくなる。彼は腹の中でつぶやいた。
彼はもう一枚の別の紙をキエに見せた。
「この文字列が鍵かどうかは、俺にはわからん。次の砦のある位置を解読できるか」
それを見たキエは眉をひそめた。『密林の書』の方は見ようともせず口を開いた。
「正しい情報をインプットしなければ解は得られません」
「試しもしないで間違った情報だとなぜわかる」
「ニライカナイ。これは砦にあった文字列ではなくて、チバナさんに聞いた言葉でしょう」
「あいつ、あんたにもその話をしたのか?」
「いいえ。でも、私も《アキツシマ》ですから」
「そうか。すまなかった。あまりに解読が速いんで不安になったんだ。あんたは俺を信用できるか」
「わかりません。今までそういう人は一人も居ませんでした」
「そうか。それでも契約するつもりはあるか」
キエは黒い瞳を伏せた。暗号解読よりずっと長い時間をかけていたが、やがてまた彼の目を見た。
「連れて行ってください」
ヴィクトールは頷いて、チバナのもとに戻り、もう一つのテキーラのグラスを持って戻ってきた。グラスを重ねて彼はここ数年のもっともポピュラーな乾杯の言葉を口にした。
「《聖杯》の救いに」
キエは同じ言葉では答えなかった。
「《聖杯》で救われるなんて信じていません」
「では、なぜ行くんだ?」
「個人的な興味です。知りたいんです」
「何を」
「これまでしてきたこと、これからすること、生まれてきたこと、生きることに価値があるのかどうか」
彼は彼女の目を見つめ返した。
「あんたは、いや、俺たちは、きっとその答えを得るよ」
(初出:2014年10月 書き下ろし)
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【小説】君との約束 — 北海道へ行こう
(おまけ漫画)『NAGI』-北海道ヘ行こう-
で、私の掌編ですが。北海道を舞台に、limeさんのお好きなミステリー仕立てにしたかったんですが……ダメでした。なんといってもトリックがね……。だから、すっぱりあきらめて、紀行ものにしました。途中で出てくる若干シリアスなエピソードは、知り合いの実話から着想を得て作ったフィクションです。でも、中身はどうしてか食いしん坊になるのが私のお約束。
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君との約束 — 北海道へ行こう
北海道二泊三日旅行をしようと思ったのは、不純な動機だった。ラーメン、ジンギスカン鍋、カニ、イクラ、ウニ、ええと、それからなんだっけ。女なんか邪魔なだけ。友人の健児と男同士でがっつり食い倒れる……予定だった。
それなのに、なんだよ、健児のヤツ。
「いやぁ、悪い。彼女がどうしても一緒に行きたいっていうからさ」
「はじめまして~。綾です。あーやって呼んでもいいよ。よろしくね」
縦ロールに赤いリボンのツインテール、白いミニスカートとピンクのブラウス、なんだよ、可愛いじゃないか。
「ついてくるのはいいけどさ。もともと予約してあったツインの部屋を明け渡すのはいいとして、何で俺が別途シングルを予約しなきゃいけないんだよ」
「悪い。それも出したいのは山々だけどさ。俺、マジ、金欠。こいつの航空券だけでもう今月ヤバくってさ。お前は、マンション持ちで金には余裕あるじゃん」
くそう、お前がそうやって女にうつつを抜かしている分を、俺はローンにまわしているんだよっ。それに何が「あーやと呼んでもいい」だ。ふざけんな。ニコニコ笑ってもダメだぞ。
でも、俺は押し切られて、ホテルの件もうやむやにされて、飛行機に乗ってしまった。ムカつくことに、俺があーやの短いスカートと、そこからにょっきりでている形のいい足を堪能できたのは千歳空港までだった。俺が見過ぎたのがいけなかったのか、俺がトイレに行っている間に二人でトンズラしてしまったからだ。
千歳空港で、いきなり一人ぼっち。消えんなら、ツイン分の金を返してくれ! 俺はガッカリした。予約したホテルへ押し掛けて行って、文句を言ってもいいけれど、そこで争ったあと、楽しい旅行ができるような氣は全然しない。いいよ、計画変更。シングルもキャンセル。一人でだって旅は楽しめるんだ。
札幌と函館観光の予定だった。でも、計画通りに行って、あの二人とバッタリなんていやだから、どこか他に行こう。到着ロビーを見回すと、目の前にレンタカーのカウンターがあった。免許証は、財布に入っているよな……。よし、こうなったら北海道をあてもなくドライブしてやる。
カウンターの前は空いていた。先に着いた女がいたのだが、何かを迷っているかのごとく、ちゃんとカウンターの前に立たなかった。そして、俺を見ると黙って脇にどいた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの美人がにこやかに笑った。
「ええと、三日間、借りたいんですが」
俺は言った。予約をしていないことがわかると、美人は車種と金額を調べて一番安いコンパクトタイプの在庫を調べてくれた。
「ああ、ありました。返却はここでいいですか。札幌市内にも出来ますが」
「いや、どこに行くか決めていないんだ。でも、その日に飛行機に乗るのは間違いないから……」
手続きを済ませ、その場にあるソファに座って車の到着を待つように言われた。ふと横を見るとさっきの女が、まだそこにいた。ジーンズにベージュのカットソー、黒い小さな革のリュック。少し茶色がかった直毛を素っ気なく後ろで結んでいる。あまり地味なのでこれまで氣がつかなかったが、さっきのあーやと変わらないくらい若いようだ。
俺に見られていることを悟った女は、その視線を避けるかと思ったのだが、反対に意を決したように話しかけてきた。
「あの……失礼ですけれど」
「はあ」
「先ほど、カウンターで行き先が決まっていないって、おっしゃっていましたが……」
「ああ、言いましたよ」
「では、レンタカー代をお支払いしますので、私を富良野に連れて行っていただけないでしょうか」
「はあ?」
俺は女をまじまじと見つめた。彼女は冗談を言っているようには見えなかった。なんだ、なんだ?
「あのですね。若い女性が、そんな危険なことをするのはどうかと思いますよ。俺は見知らぬ人間で、とんでもない悪人かもしれないじゃないですか」
俺が説教を始めると、彼女は項垂れた。
「そう……ですよね。おっしゃる通りだと思います。ごめんなさい」
おっしゃる通りって、俺は悪人じゃないぜ。ちょっと悔しくなった。
「一応、事情を伺ってもいいですか」
彼女は顔を上げた。少し明るくなった表情を見て、ドキッとした。笑うと思いのほか可愛いじゃんか。
「どうしても今日、富良野に行きたくて、発作的に飛行機に乗ってきたんです。で、ここで免許証を忘れてきたことに氣がついて」
俺は首を傾げた。
「でも、電車やバスもありますよ」
「わかっています。でも、私の行きたい所は普通の観光地じゃないので、レンタカーでないと行けないんです」
カウンターの美人が、車のキーを持って近づいてきた。俺はちょっとだけ考えた。断ってもいいけれど、後味悪くなるよなあ。彼女は悲しそうに目を伏せた。う~ん、しょうがないなあ。
「わかりました。じゃあ、一緒に行きましょう、富良野へ」
「本当ですか?」
「ええ。レンタカー代は折半、それと、海鮮丼の大盛りを奢ってください」
俺がそういうと、彼女は満面の笑顔を見せた。
「ありがとうございます!」
で、俺は見知らぬ地味子ちゃんと、ドライブすることになったというわけだ。レンタカーに乗り込み、慣れないコックピットやカーナビをひと通り確認してから、シートベルトを締めてとにかく富良野に向かって走り出した。
「ところで、俺は山口正志っていうんだけれど、君は?」
「あ、すみません、名乗り忘れていました。白石千絵といいます」
道東自動車道に入るまでに、俺たちはお互いの素性を簡単に紹介した。俺は新宿区をメインに清涼飲料水の営業をやっていることや、三鷹に住んでいること、それから悪友の健児に逐電された情けない経過などを話した。
千絵は横浜に住んでいて、職業は看護師だと言った。それから、黒い革リュックからそっと小さい箱を取り出した。
「悩んだんです。これを渡したら、ただ悲しませるだけかもしれないって」
俺は、何がなんだかわからなかった。道は北海道のイメージ通り簡単そうで、64キロメートル直進だというので、彼女の話を詳しく聞くことにした。
「担当していた患者さんが二週間前に亡くなりました。ちょっと難しい手術を控えて入院なさったんですけれど、手術より前に容態が急変して」
「それは……。気の毒だったね」
「とっても痛くて苦しかったはずなのに、いつも明るくて、私たち看護師にも感謝の言葉を忘れない方でした。若い魅力的な男性なのに珍しいねって、同僚の中でもとても人氣があったんです」
う……。そういう流れか。じゃあ、この親切でポイントを稼いで仲良くなる、なんてのはダメそう。俺は心の中で落胆した。
「で?」
「その方に頼まれたんです。ダイヤモンドつきの指輪を注文してほしいって」
「え? その、つまり……」
「ええ、プロポーズ用でしょうね。ある女性の誕生日に間に合わせてほしいって言われました。内側に日付と『with love』って入れてほしいと。富良野に送り届けたいから、それも手配してほしいって。そのことは私しか知りませんでした。驚かせたいから誰にも言うなって言われていたので」
ってことは、この子とのロマンスの話じゃないのか?
「それで?」
「彼の容態が急変して亡くなった時、私は休暇でアメリカにいたんです。戻ってきたらもうすべてが終わっていて、私はご遺族にも逢えなかったんです」
彼女は白いリボンのかかった水色の小さな箱を取り出した。
「迷いました。事情を話してキャンセルすることもできましたし、上司に相談もできました。でも、そうなったら事務的に処理されるだけだと思ったんです。誕生日に好きな人にサプライズのプレゼントをすることが彼の最後の願いだったと思うと、どうしてもそれはできなくて……」
「で、これからそれを届けようとしている?」
「ええ、今日がその女性の誕生日なんです。ずっと悩んでいました。もともとのプランのように彼の名前で送りつけたら、オカルトかと驚くだろうなとか、私がそこまでするといろいろと勘ぐられるんじゃないかとか、これを届けてしまったらその女性は生涯この指輪の重さに縛り付けられてしまうんじゃないかとか。そして、今日になってしまったんです」
「それで、居ても立ってもいられなくなって飛行機に飛び乗っちゃったんだ」
「はい」
お人好しにも程がある。それだけその亡くなった男がいいヤツだったのかもしれないけれど。
「俺なら、遺族に電話するか上司に言って、さっさと話を終わらせるだろうけれど、それはあくまで本人を知らないから言えることだよな。わかったよ。とにかく、一緒にそこに行こう。男連れで来たら、きっと相手は勘ぐることもないだろうから、ちょうどいいだろう?」
「どうもありがとう。本当に助かります」
七月の北海道のドライブらしい光景がずっと続いていた。青い空、白い雲、まっすぐな道に、左右は豊かな若緑。二時間ぐらいで、富良野に着いた。
「どうする? すぐにその彼女の家を探す?」
俺が訊くと、千絵はそっと腕時計を見た。
「お昼時になっちゃいましたね。山口さん、運転してお疲れでしょう。先に休んでご飯を食べませんか?」
俺はその心遣いにちょっと感動した。健児とあーやカップルのエゴイズムにムカついた後だったから余計そう感じたんだと思うけれど。せっかくだから、有名な『ファーム富田』の併設レストランに入ることにした。
ラベンダーの香りが、風に乗ってふわりと漂ってくる。なんていうのか、高校の時、クラスの女の子の襟元から漂ってきた石鹸の香りにぐらりと来た、あの感覚だ。いかん、いかん。そうじゃなくて。千絵は不純な俺と違って、純粋に花畑ファームに感動していた。
「なんていい香り。あ、あちらに花畑があるんですね……」
俺はほんの少し残念そうな千絵に言った。
「もう、ここまで来ているんだし、少し花畑を楽しんでから行ってもいいんじゃないか? 飯を食ったら、少し観て行こうよ」
彼女の顔にはぱっと笑顔が花ひらいた。
「ええ、そうですよね。七月の富良野に来るなんて、そんなにしょっちゅうあることじゃないですもの」
フードメニューはたいしたことがなく見えた。パスタかカレーか。俺はカレーに男爵コロッケがトッピングされた一皿を選んだ。千絵は普通のカレーを頼んだ。
「げっ。このコロッケ、激ウマだよ!」
花畑併設のカフェなんて、全く期待していなかったのに、やるじゃないか、北海道。
千絵はホッとしたように笑った。
「よかったです」
「なんで?」
「だって、山口さんの旅行を台無しにしちゃったかなって思っていたので。観光らしいこと、まだしていませんよね」
俺は、この子はいつもこうやって他人のことばかり心配しているのかなと思った。
「そんなことないって。北海道ドライブだってしたし、富良野の花畑なんて超有名観光地に来ているんだぜ。それに、友達にトンズラされて、一人で旅していたって楽しいことないよ。こうして道連れができたのは、ありがたいと思っているよ」
「本当ですか」
「うん。だから、その、山口さんってのと、ですます調、そろそろやめてくれるとありがたいんだけれど……」
千絵は、えっ、というように瞳を見開いたあと、少し赤くなって頷いた。
食事の後、俺たちは花畑を散歩した。すごい光景だった。ラベンダーの明るい紫、白いかすみ草、赤いやオレンジのポピー、あと、俺は名前を知らないピンクや青い花でできた帯が、虹のように整列してはるか彼方まで続いている。ラベンダーの香りはとても強くて、くらくらしてきそうだ。真っ青な空、嬉しそうな千絵の笑顔。俺は思わず携帯を構えて、鮮やかな花畑をバックに彼女の横顔を撮った。彼女は微笑んだ。
「山口くんも、撮る?」
俺はちょっと考えてから、そこを歩いていた観光客を捕まえて、千絵とのツーショットを撮ってもらった。それでもう、旅行の元が取れたような氣がした。
それから、車に戻って、ナビに千絵が訪ねようとしている女性の住所を登録して、しばらく走った。確かにその一帯は観光名所がなく、土地勘のない俺たちが公共交通機関だけを使って訪れるのは難しそうだった。千絵はタクシーを見て、「あれを使えばよかった」と言ったけれど、俺としては一緒に来れてよかったと思っていた。もし彼女が一人で来ていたら、行き方が難しくて立ち止まる度に、「行くべきなのだろうか」という想いに負けてしまったかもしれない。俺がそれを告げると彼女は「そうね」と頷いた。
隣の家と一キロくらい離れている丘の上にその家はあった。樹々に囲まれたログハウス。俺は表札を確認した。上田久美子と小さく書いてあった。
「ここだろ?」
千絵は黙って頷いた。彼女は迷っていた。俺にもわかる。誰だってこんな重いプレゼントを渡したくない。だが、俺には亡くなった男の最後の願いやまだ逢っていない女性の心情よりも、たまたまそこで働いていたためにそのすべてを抱え込んでしまったおせっかいな女の子の重荷の方が心配だった。
「行こうぜ。今行かなかったら、その指輪、お前が生涯抱えることになるんだぜ」
俺は千絵の返事を待たずに呼び鈴を押してしまった。
「はい?」
中からきれいな女性が出てきた。俺たちを見て不思議な顔をした。そりゃそうだ、全く面識がないんだから。俺がつつくと、千絵はようやくぺこりと頭を下げた。
「はじめまして。私、横浜の○○総合病院で看護師をしている白石千絵と言います」
そう千絵が言った途端、彼女の顔はさっと曇った。千絵は早口に俺にしたのと同じ話をして、水色の箱を差し出した。久美子さんは震えながらその箱を受け取って、それから白いリボンを外した。輝くダイヤモンドと、銀色の指輪の裏側に彫られた文字を読んで、彼女の目には涙がいっぱいたまった。
「馬鹿……」
俺は、こんな風に愛情のこもった暖かい罵倒の言葉を聞いたことがなかった。それから彼女は千絵に向かって深く深く頭を下げた。「ありがとうございました。あなたのご親切、生涯忘れません」
俺たちは、富良野かどこかでホテルを探すと言ったのだけれど、彼女は泊めてくれると言って訊かなかった。久美子さんが富良野の名産である豚肉でステーキを焼いてくれた。とれたての野菜もやけに美味かった。俺たちは、彼女の誕生日を富良野ワインで祝った。ダイニングに笑顔の男性の写真がかかっていた。俺がそれに目をやると、千絵が頷いた。久美子さんは指輪の箱を、その写真の前に置いた。
翌日俺たちは、久美子さんの家を後にして、美瑛に足を伸ばした。「四季彩の丘」という7ヘクタールの花畑があって、これまた絶景だった。ヒマワリ、ケイトウ、ルピナス、金魚草、百日草、ラベンダー……。地平線まで続く広大な花畑を見ていたら、千歳空港でのむしゃくしゃした氣分はもうどこにも残っていなかった。
「こりゃ、すごいや」
「本当にきれいね。ふさわしい言葉が見つからないわ」
「そうだな。ここに連れてきてくれたことに、礼を言わなくちゃな」
「やだわ。お礼を言うのはこっちよ。久美子さんの涙を見て、来て本当によかったなって思ったの。山口君が後押ししてくれなかったら、きっと私、怖じけづいて帰っていたわ。本当にありがとう」
今日の夕方の飛行機で帰るという千絵をもう一度千歳空港に送るために、俺はまたハンドルを握った。札幌で一人でもう一泊してもよかったけれど、健司たちとばったり会うのも嫌だったので、俺も予約を変更して、千絵と一緒に帰ることにした。搭乗手続きをしていると彼女は俺の顔を覗き込んだ。
「いいの? せっかくのお休みなのに」
「いいさ、あっ!」
俺は突然思いだして、ゲートの向こうの札幌を惜しげに振り返った。
「どうしたの?」
「カニとイクラを食べ損ねた」
そういうと、千絵ははっとした。
「ごめんなさい! 海鮮丼をごちそうするの、忘れていたわ!」
それを聞いて、俺はにやりと笑った。
「約束は約束だから、また一緒に北海道に来て、ごちそうしてもらわなきゃな」
千絵は、まあ、という顔をしたが、すぐにニッコリと笑って「そうするわね」と答えた。俺は腹の中でガッポーズをした。
(初出:2014年10月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Paris - Ker Is
ウゾさんが書いてくださった作品: 『パリ - イス 』
で、これまた難しいお題でした。題名指定って、単なるテーマ指定と違って、ものすごく大変なことが分かりました。二度とやらないと思います。
「パリ 椅子」でギャグにしてもよかったのですが、あえていただいたウゾさんの作品に寄せて、同じケルトの伝説イースを持ってきました。でも、同じものを書いてもしょうがないので、困ったときの「大道芸人たち」(しょーがないなあ……)本編が始まる数年前のお話で、あの人が登場です。パリだから。
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大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
Paris - Ker Is
男たちと女たちの妖しい上目遣いが紫とピンクのライトの光に染まっていた。肩や足が露出している女たちですら、その熱氣に喘いでいる。スーツを着こなした男たちは懐から白いハンカチを取り出して、時おり汗を拭わねばならなかった。
週末でもないのにそのクラブは満員で、お互いの声がよく聴き取れないほどに騒がしかった。テーブルに置かれたカクテルグラスに注がれたギムレットが、ざわめきで揺れていた。この店は、パリ、モンマルトルにある高級クラブの中でも特に敷居が高く、団体の観光客などは一切入れない。
レネ・ロウレンヴィルのようなしがない貧乏人がこの場にいるのは、もちろん仕事でだった。彼は駆け出しの手品師で、故郷のアヴィニヨンから出てきてからまだ一年も経っていなかった。普段は観光客の多い有名キャバレーの隣のクラブで前座を務めているのだが、今夜はこのクラブのマジシャンが高熱を出したというので、代打に送り込まれたのだ。
「こっちの舞台の前座はどうでもいいが、あっちに穴をあけるわけにはいかないからな」
オーナーは髭をねじった。
「そういう高級クラブでは、どんな手品が観客受けするんでしょうか」
レネはおどおど訊ねた。
オーナーはナーバスになったレネを笑った。
「何だっていいんだよ。あそこの客は手品なんかまともに見ちゃいねえ。ビジネスをしているか、ラリっているか、それとも女を口説いているかだ。とくに《海の瞳のブリジット》を」
オーナーの言葉は正しかった。レネの演技はおざなりな拍手で迎えられ、得意のリング演技は私語に邪魔された。観客の関心のない様子には落胆させられたが、退場のみやたらと大きな拍手をもらった。演技に集中していたレネですら、その時の人びとの興味の中心がどこにあるのかがわかった。舞台と反対側の奥に置かれたVIP用ソファーに案内された青いワンピースドレスの女性だった。
ああ、では、あれが《海の瞳のブリジット》なんだ。数週間前に突然現れたという、パリ中の若い御曹司や成金たちが競って愛を求めている謎の美女。金箔入りのシャンペンを浴びるように飲み、プレゼントの宝石で身動きが取れないほどで、しかも、次々と求婚者を袖にして絶望の縁に追いやっているとオーナーが話していた。
ブリジットは、膝丈ドレスの過剰なフリルを払ってソファーで足を組みなおした。それは少しずつ彩度の異なる青いオーガンジーを重ねた繊細なオーダーメードで、とくにマーメイド部分のフリルはデザイナーが三日もかけて何度もやり直させたこだわりの細部だったのだが、彼女は自分が美しく見えさえすれば、デザイナーや針子の努力などはどうでもよかった。
彼女の周りには、その金糸のごとく光る豊かな髪に触れ、その青く輝く瞳を自分に向けさせようと、多くの男たちが面白おかしい話や、長く退屈な家系の話、それに金鉱山を買い取った話などをしていた。彼女は艶やかに笑って、一人一人を品定めしていた。仕事を終えたレネはその噂に違わぬ艶やかな様子に心奪われて、礼儀も忘れて近くへと歩み寄っていった。
あら、見かけない顔ね。ああ、さっき手品をしていた芸人ね。どうりで黒いスーツがまったく似合っていないこと。でも、退屈しのぎにはいいかも。彼女はニッコリと笑いかけた。
「こっちにいらっしゃいよ、手品師さん。お仕事が終わったなら、ここで私を少し楽しませて」
レネは、顔を赤らめてブリジットのソファの前にやってきた。新しいライバルにはなりえないと判断した男たちは、手足がひょろ長くもじゃもじゃ頭の手品師のことをあからさまに笑った。
手品の用具は舞台裏に置いてきてしまったので、レネは常に内ポケットに入っているタロットカードを取り出した。レネが誰かを驚嘆させることのできるたった一つの特技、それがタロットカードによる占いだった。華麗な手さばきでカードを切る。右の手から左の手に移す時に、カードは一枚ずつ弧を描くように空を飛んだ。それがとても見事だったので、ブリジットの青い瞳は初めて感嘆に輝いた。
レネが扇のように開いたカードの群れを彼女に差し出すと、男たちがどよめいた。不吉な予感がした。
「いけない、ブリジット……」
「何がいけないの。たかがカードじゃない」
「いや、そうだが……確かに、そうだが……」
海のように青いドレスを纏い、黄金の髪を王冠のように戴いた美女は、挑むような目つきでカードに手を出した。銀色のマニキュアが震えている。レネは、自分でもいったい何が起こっているのかわからなかった。このクラブは暑すぎる。息苦しい。
「きゃあ!」
彼女はカードを投げ出した。「塔」のカードを。塔には、天からの稲妻があたり、二人の人間が落とされている。レネは彼女が「たかがカード」と言ったわりに、恐ろしく動揺しているのを不思議に思いながら、柔らかく不安を取り除くような解釈を口にしようとした。本当は、大アルカナカードの中でもっとも不吉なカードであるけれど。
だが、ブリジットも取り巻きの男たちも、レネを見ていなかった。その後ろにいつの間にか立っていた一人の背の高い男に畏怖のまなざしを向けていた。
「ゼパル……。どうしてここに」
ブリジットが震えていた。レネは一歩退き、ゼパルと呼ばれた男をよく見た。背の高い男は撫で付けた漆黒の髪と暗く鋭い光を放つ瞳を持ち、黒いあごひげを蓄えていた。真っ赤な三揃えの上から真紅のマントを羽織っていた。先の尖った赤いエナメル質の靴を履いている。そして、その姿なのに、この熱氣に汗一つかかずに背筋を伸ばして立ち、ブリジットを見据えて低く言葉を発した。
「実にあなたらしいことだ。享楽を愛する淫らな人よ。だが、ここはあなたのための都ではない。迎えにきました」
「いやよ。私があんな所に戻ると思って?」
「それでも、あそこはあなたのために存在する城です。私はあなたの番人だ。どこへ逃げても地の果てまで追いかけて、あなたを連れ戻しましょう」
レネはこの美しい女性は、どこか外国の囚われの姫君なのかと考えた。映画「ローマの休日」を地でいくように、わずかな自由を楽しんでいる所なのかと。その一方で、記憶の奥底で「これは知っている」と囁くものがあった。なんだったかな……。
「あっ」
レネは思い至った。全身赤い服を纏った男に心を奪われて水門の鍵を渡してしまった王女……。ブルターニュにあったという伝説の都イースには、夜な夜な貴公子たちと愛を交わす美しい王女がいた。そして、その都は神の怒りに触れて、いつまでも海の底に沈んでいるという。
「お前は誰だ! ブリジットは嫌だと言っているじゃないか」
取り巻きの男たちがいきり立ったが、赤装束の男は微動だにしなかった。レネはぞっとした。伝説での赤い服を来た貴公子は悪魔が化けていたから。いや、待てよ。あれはあくまで伝承だから、二十一世紀のパリで怯えることはないかな……。でも、これからケンカになるかもしれないから、ちょっと離れておこうかな……。
巻き込まれる前に、愛用のカードを回収して去ろうとすると、「塔」のカードに目をやった真紅のゼパルは口を開いた。
「そう、かつて、悪徳の都は崩壊し、大きな災害が押し寄せた。ところで、人類は歴史に何かを学ぶことができたと思うか」
自分に向かって話しかけられていることを感じたレネは不安げに男を見上げた。彼はレネを見ておらず、酒に酔い、妖しげな薬剤を用い、淫らに騒ぐクラブの客たちを見回していた。それは、確かにヨハネ黙示録に描かれた滅ぼされるべき淫蕩のバビロンを彷彿とさせる風景ではあった。
レネは人類とパリを救わねばならないような氣持になっておずおずと答えた。
「ここは、ちょっと騒がしいですが、パン屋は早起きをしておいしいパンを焼いていますし、僕の生家では、両親が心を込めて葡萄を作っていますよ。それに、教会にちゃんと通っている人も多いですし……」
男はレネが自分を、最後の審判を下す恐ろしい天の使いか、イースを海の底に沈めた悪魔だと思っていると悟ったのだろう。思わせぶりに、にやっと笑った。それからおもむろに、ブリジットの方に手を伸ばすと、嫌がる彼女を軽々と肩の上に載せ、唖然とする人びとの間を巧妙にすり抜けて去っていった。
取り巻きの男たちが、騎士道精神を発揮して真紅の男と抱えられた姫を追うとしたが、クラブの人混みに遮られてままならなかった。そして、男たちがクラブのドアから出ると、どういうわけか二人の姿は影も形もなかった。
レネが、そのクラブで仕事をしたのはその一晩だけだったので、《海の瞳のブリジット》がその後どうなったのかはわからなかった。オーナーによると、あれから二度と現れていないそうだ。
「ったく、いい客寄せになったのにな。婚約者かなんかに見つかって連れ戻されたんだろうか」
そうなのかもしれない。だがレネは、まだあの二人がケルトの異世界からやってきたとのではないかと疑っていた。伝説のイースの王女ダユはケルトの女神ダヌと同一視されているが、そのダヌと女神ブリギットも同一視されている。名前までもケルトっぽいんだよなあ。赤い悪魔、天の使い魔ゼパルが、快楽と淫蕩に満ちたパリの街に警告を与えにきたのではないかな。
とはいえ、その街パリは、レネにとって日々のパン代を稼ぐ職場だった。つべこべ言っている余裕はなかった。ああ、神様。もしパリを沈めてイースを甦させるおつもりなら、もうしばらく、つまり、あと百年くらいお待ちください。レネは小さくつぶやくと、モンマルトルの派手なネオン街をもう一度見回した。
Pa vo beuzet Paris
Ec’h adsavo Ker Is
パリが海に飲み込まれるときは
イースの街が再び浮び上がるであろう
(初出:2014年10月 書き下ろし)
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うわぁ、どうしよう。大好きな街です。合計で三回行っています。この街を舞台に使っている作品群もあります。でも、なんかふさわしくないし、掌編にするのに面白くない。というわけで、新たな物語を作りました。あたり前ですが、ほぼフィクションです。でも、飛行機に置いていかれてウィーン半日観光が出来たのは、私の実体験をもとに書いています。そして、TOM-Fさんも好きだといいな、レハールの『金と銀』を使わせていただきました。
(追記)TOM-Fさんが作品を発表してくださいました。それも、この作品に対するアンサー小説になっています。
TOM-Fさんの作品 「ウィーンの森」
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ウィーンの森 — 金と銀のワルツ
森というよりは、山なんだ。半日で観ようっていうのは無謀だったわね。ベートーヴェンが住んで『田園交響曲』の着想を得たというハイリゲンシュタット、ルドルフ皇太子の心中したマイヤーリンク、温泉保養地バーデン。『ウィーンの森』という名のテーマパークのような観光名所があるわけではないので、どこに行っていいのかわからないし、たぶん時間もそんなにない。
クロアチア出張の帰りだった。ドブロブニクの空港でエンジントラブルがあって二時間の遅延があった。ウィーンについた時には乗り継ぎ便はもう東京に向かって飛び立ってしまった後だった。いますぐインドのボンベイ経由で帰るのと、一泊して明日直行便で帰るのとどちらがいいかと訊かれて、真美は迷うことなく一泊二食付きのウィーン滞在を選んだ。
ウィーンは乗り継ぎだけのつもりだったから、観光地などは全く調べてこなかった。半日の自由時間を効率よく過ごすための情報は限られていた。でも、そんなことは構わない。真美はタブレットをバッグにしまうと、バスの窓から外を眺めた。
バスはちょうど街の中心へとさしかかっていた。18世紀を思わせる重厚な建築群が連なっていた。街路の栃の樹から枯葉が車道に降り注ぐ。そして、その上を黒い馬車がゆっくりと通り過ぎていった。その向こうに音楽の教科書の表紙になっていたモーツァルトの像が見えた。嘘みたい。私、本当のウィーンにいるんだ。
真美に一番近いウィーンはずっと日本の田舎町にあった。そこには十年以上行っていない。真美が十七歳の時に父親が東京に栄転したから。でも、まだ喫茶店『ウィーンの森』は変わらずに存在していて、人びとの憩いの場所になっていると風の便りに聞いている。
真美は近所の青年、吉崎護になついていた。彼は母親の親友の息子で、学生時代に『ウィーンの森』でバイトをしていたのだが、学校を卒業後オーナーに店を任された。真美は、高校の帰りによく店に行き、ミルクのたっぷり入ったコーヒーを飲みながら、他愛もない話をした。
それは、ウィーンのカフェハウスを模して、メニューにもウインナ・コーヒーではなくてアイシュペンナーと載せるようなこだわりの店だった。県内で唯一のドイツ系コンディトライからケーキを取り寄せていて、クーゲルホフやアプフェルシュトゥルーデル、そしてショコラーデ・トルテが真美にとっての馴染み深い菓子だった。
銀のお盆に載ったコーヒーには必ずグラスに入った水が添えられていて、それだけで特別な飲み物になった。ウィンナ・ワルツのかかっている店内は、ただの喫茶店とは格の違う空間だった。真美には護もまた特別な存在だった。白いシャツと黒いパンツに、ワインカラーのエプロンをして、客たちににこやかに話しかける彼のことが大好きだった。
道に面したドアと反対側には大きい窓と勝手口があり、その向こうには白樺の林があった。晩秋にはその葉は鮮やかな黄色に染まり、陽射しを受けて輝きながら舞い落ちていった。それはちょうどワルツに合わせて踊っているように見えた。
「ほら、あんまり見とれていると、コーヒーが冷めるぞ」
護が真美の側にやってきて、一緒に白樺の落葉を楽しんだ。
「うん。きれいねえ。秋っていいわね」
「ああ、俺も、この時期のこの光景が一番好きだな」
真美はカップを両手で包み込むようにして、香り高いコーヒーの湯氣を吸い込んだ。幸福が押し寄せてきた。
「落ち葉も踊っているね。ねえ。これ、なんて曲?」
「フランツ・レハールの『金と銀』だよ。ウィンナ・ワルツの代表的作品だな」
秋の柔らかい光。黄葉の煌めき。『金と銀』……。
「いい曲ねぇ。これでダンスをするのね。ねえねえ、あれだよね。白いドレス着て、ティアラつけて宮殿で踊るの、デビュタントだっけ?」
護はちらりと真美を見て答えた。
「ああ、正月のオーペルンバルでやっているな」
「ねえねえ。私もデビュタントしたいな。護兄さん、一緒に行こうよ」
真美がそういうと彼は笑った。
「そういうのは彼氏と行くもんだろう」
彼女はふくれ面で答えた。
「私はもうじき16歳だよ。あと数年で大人の仲間入りだもん。そしたら、護兄さんの彼女にしてくれる?」
彼はそれを笑い飛ばした。ジョークだということにされてしまった。
それから一年もしないうちに護が結婚すると聞いて、真美は号泣した。その事実を認めまいと頑になり、披露パーティへの出席どころか『ウィーンの森』にすら行かなくなった。結婚式から帰って来た母親は「きれいなお嫁さんで、素晴らしいお式だったわ」と、報告した。心の整理がつく前に、父親の転勤で東京に越してきてしまい、それ以来護とは会っていない。
あの当時の彼の歳になった今なら真美にもわかる。仕事の責任があり、日々の生活を全て自らコントロールしている今だって、ちゃんとした大人とは言えない。何もできないのにロマンスだけは一人前にできるつもりでいたあの頃の自分を思うと確かに笑い飛ばしたくなる。それと同時に、あれは彼なりの優しさだったのだと思う。子供の憧れを利用したりせずに、その未来を大切にしてくれた、責任感のある大人、護兄さんはそういう人だった。真美はウィーンの街並を眺めながら思った。
空港の目の前にあるビジネスホテルに泊めてもらったのは正解だった。飛行機のチェックインまでの間、荷物を預けておき、身軽にウィーンの観光をすることができる。といっても時間がないので、たぶん二カ所ぐらいしか行けないだろう。森を諦めるとしたら……。決めた。カフェでショコラーデ・トルテを頼み、それから、よく映画でダンスシーンを撮影するシェーンブルン宮殿へ行こう。
アール・デコの美しいカフェに入り、真美は案内された席に座った。金髪のウェイトレスが明らかに日本人観光客である真美の顔を見て、英語で「英語のメニューですか?」と訊いてきた。真美は黙って頷いた。コーヒーにミルクの入ったものがブラウナーで、泡立てたホットミルクの入ったエスプレッソがメランジェ。ウィーンのカフェの専門用語は今でもスラスラ出てくる。それで注文には「メランジェ……ショコラーデ・トルテ」と中途半端にドイツ語で頼んでしまった。ウェイトレスは、「お願いします」もまともに言えないのに一人でカフェに入ってくる日本人観光客に慣れているらしく、頷くとさっとメニューを持って奥へ行ってしまった。
銀のお盆に、メランジェとグラスに入った水が載って出てきた。チョコレートケーキも、使われている食器も、『ウィーンの森』で護が出してくれたものとよく似ていた。ウェイトレスがそっけなく伝票をテーブルに置かれた銀の筒に丸めて突っ込み、去っていったのだけが違った。
「お待たせ」
そう言って護兄さんはいつも笑顔でお盆を置いてくれたよね。
トラムに乗ってシェーンブルン宮殿まで行った。駅から門まで、そして門から宮殿までもそれなりの距離があり、大きい宮殿、さらにその後ろの広大な庭園を眺めただけで、これはゆっくり見ている時間などないとわかった。
次の見学ツアーの出発は一時間後だった。それからのんびり見学などしていたら、また飛行機に乗り損ねてしまう。真美は宮殿内の見学を諦めて、庭園を歩くことにした。
宮殿正面のフランス式庭園は、写真で何度も見たことがあった。たくさんの観光客が記念写真を撮っていた。真美は先ほどから感じ続けている違和感について想いをめぐらせた。ウィーンに、そう本物のウィーンにいて、何もかも想像していた通りなのに何かが違う。その何かの正体がつかめない。
私はウィーンに何を期待していたのだろう。ここに何があると思っていたんだろう。ここは普通の都会。オーストリアの首都で、私のトランジット先。それだけ。それ以上を期待するのが間違っている。ここはこんなに美しいじゃない。
庭園の中程まで歩いて、ふと横を見ると、広葉樹の木立が黄色に染まっていた。真美は思わず走り寄って、声をあげた。
「わあ」
宮殿の壁の色よりもひと回り鮮やかで深い色。なんてきれいなんだろう。真美は魅せられてその木立でできたアーチの中へと吸い込まれていった。
黄色い枯葉が陽の光を受けながら舞い落ちていく。葉の裏に秋の陽射しがオレンジに透けている。葉と葉の間を抜けて差してくる木漏れ陽の中で、細かい土ぼこりが銀色に反射しながら舞っている。それは寂しい秋の風景ではなくて、華やかで美しい色彩の舞踏会だった。
突然、真美の心の中に、レハールの『金と銀』が響いてきた。金管、弦楽、流れるハープ、それから輝きながらゆっくりと旋回していく木の葉たち。穏やかに語り合いながら歩いていくカップル。犬を連れて散歩をする老婦人、どこまでも続く黄色い木立のトンネル。
そうか。私が見たかったのは、聴きたかったのは、そして行きたかったのは、あそこだったんだ。『ウィーンの森』の光景。金と銀のワルツ。「いつかは行きたい憧れの街」と言いながら、一度も本当のウィーンを訪れようとしなかったのは、だからだったのね。
真美は彼がどれほどしつこく自分の心の奥に居座っていたのかに初めて氣がついた。初めての失恋から立ち直って、忘れて、全く違う人生を謳歌してきたはずだった。他の恋も普通にして、別れてを何度か繰り返した。護と彼らを比較したこともないと思っていた。友達の結婚式に招待されるたびに親からちくりと言われる「あなたもね」に「まだまだ仕事が楽しいし」と笑い飛ばしていても、彼のことは関係ないと自分に言い聞かせてきた。
護が離婚したと耳にした時、反応しないようにしたのも、その後にも故郷に行こうとしなかったのも、全て自分の信じていたことと正反対だったのだ。私は意固地になっていただけだ。認めたくなかったから。まだ同じ夢を追っていることを。
護兄さんにふさわしいパートナーになりたかった。一緒にこのウィーンでダンスを踊りたかった。もう、デビュタントにはとても加われない歳になってしまったし、それ自体が意味を持たなくなってしまったけれど。『ウィーンの森』で、そして、ここ本当のウィーンのカフェで注文したかったのはメランジェでもトルテでもなくて、彼の笑顔だったんだね。
真美は不意にあの時にどうやっても立てなかったスタートラインに立っていることに氣がついた。相手にしてもらえなかった子供ではなくなっている。ちゃんと自立して仕事もしている。ウィーンにも一人で来られて、世界と自分の過去を分析もできるようになっている。今なら、護兄さんにもちゃんと一人の人間として向き合えるかもしれない。
今度の休みには、久しぶりにあの街を訪れて『ウィーンの森』に行ってみよう。ウィーンに行ってきたことを彼に話してみよう。何かが始まるのか、それとも何かが終わるのかわからない。けれど、とにかく行ってみよう。私にとってのウィーンへ。真美はもう一度木の葉のダンスを見上げると、踵を返して空港へと戻っていった。
(初出:2014年10月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 白い仔犬 - Featuring「ALCHERA-片翼の召喚士」
フェンリルは、ユズキさんが連載中の異世界ファンタジー「ALCHERA-片翼の召喚士-」に出てくる白い狼の姿をした神様です。本当の姿を現わすと一つの街がつぶれちゃうくらい大きいので、普段は白い仔犬の姿に変わって常にヒロインの側にいます。本文の描写の中でも可愛いのですが、ユズキさんご本人の描かれる挿絵の仔犬モードフェンリルも、とってもキュート!
大好きなフェンリルを貸していただいたので、どうしようかなと悩みましたが、こんな感じでわずかな時間だけ四人につき合っていただくことにしました。舞台は、フランスのモン・サン・ミッシェルです。どなたもお氣になさっていないかと思いますが、「大道芸人たち Artistas callejeros」は2045年前後の近未来小説なので、モン・サン・ミッシェルに関する記述の一部もそれを意識したものになっています。
【追記】なんとユズキさんがご紹介記事を書いてくださり、その中にフェンリルを隠しているヴィルを描いてくださりました!嬉しい! ものすごく男前(だけど笑える)なのです。みなさま、いますぐユズキさんのブログにGO!
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
白い仔犬 - Featuring「ALCHERA-片翼の召喚士」
潮が引いた。朝もやの中に城塞のように浮かび上がるのは大天使ミカエルを戴いた島だ。その優雅な佇まいを見て稔は感慨深くつぶやいた。
「これがモン・サン・ミッシェルか……」
天使の砦を覆っていた霧が晴れ四人を誘うように隠れていた橋が浮かび上がった。かつては常にこの島へと渡れるように道が造られていた。ところがこの道のせいで堆積物が押し寄せ、海に浮かんでいた幻想的な島はただの陸続きの土地となってしまった。再び工事をして道を取り除き海流が堆積物を押し流すまでかなりの時間がかかったが、今では潮の満ち引きで完全に島となる時間がある。
「行くぞ」
荷物を肩に掛けた。蝶子もベンチから優雅に立ち上がった。残りの二人が後ろから続いてくる様子がないので振り向くと、レネがぽうっとした様相でバス停の方を見ている。
「何よ。また美人でもみかけたの?」
「ええ、パピヨン。いまそこに、本当に素敵な女性がいたんですよ。長い金髪で青空のような澄んだブルーのワンピースを着ていて……」
「はいはい、わかったから。ここにいたなら、その女性も間違いなくあの島に行くだろうから、早く行きましょ。ところでヴィルはどこに行っちゃったのかしら」
「え。さっきまでここにいたのに。あれ?」
レネはキョロキョロとドイツ人を探した。二人は同時に少し離れたところでかがんでいるヴィルを見つけた。
「何してるの? 早く行きましょうよ」
蝶子が覗き込むと、ヴィルは顔を上げた。それで、彼の足元にいた白い仔犬が見えた。
「ひゃっ。可愛い!」
レネが叫ぶ。つぶらな目をまっすぐに向けたその仔犬は、ヴィルが背中を撫でるままにさせていたが、レネの賞賛に嬉しそうにするわけでもなく、蝶子の「あら」という冷静な反応に反発するようでもなかった。つまり、尻尾も振らなければ、唸りもしなかった。
「ここにいたんだ。親犬か飼い主とはぐれたのかもしれない」
ヴィルが無表情のまま言った。レネと蝶子は顔を見合わせた。人間の赤ん坊が泣き叫んでいても、いつものヴィルなら無視して横を通り過ぎるだろう。その彼が、仔犬の心配をしている。びっくりだ。
「おい、お前ら、いったいいつ来るんだよ」
先を歩いていた稔も戻ってきた。そして、ヴィルが仔犬から離れられないでいるのを見て目を丸くした。
「意外でしょ? 犬の方は、そんなに困っているようには見えないんだけれどね」
蝶子がささやいた。稔は宣言した。
「いいから犬ごと来い。早くしないといつまでも島に行けないぞ」
その言葉がわかったかのように、白い仔犬はすっと立ち上がり、稔の側まですたすたと歩いてからヴィルの顔を見上げて「早く行こう」と言わんばかりに頷いた。ヴィルが呆然としているので蝶子とレネはくっくと笑った。
カトリックの聖地として、サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼地の一つにもなっているモン・サン・ミッシェルだが、もともとここはケルト人たちが「墓の山」と呼ぶ聖地だった。ここから遠くないブルターニュ地方では、今でも人びとはケルト系の言語を話している。
遠くから見るとまるで一つの建物のように見えるが、実際には頂上に戴くゴシック様式の尖塔を持つ修道院へと旋回して登っていく門前町だ。路地は狭く、そこに観光客がひしめくので曜日と時間帯によってはラッシュアワーのパリの地下鉄のような混雑になってしまう。幸いまだ朝も早いので、それほどの混雑ではなかった。
四人と一匹は朝靄が晴れたばかりの清冽な時間をゆっくりと進んでいった。島内のホテルに宿泊した観光客たちはまだ朝食にも降りてきておらず、普段は観光客でごった返す名物のスフレリーヌを提供する「la Mère Poulard」の店の前にも誰もいなかった。とはいえ、そんなに朝早く食べる類いのオムレツでもなく、それに観光客が大挙して押し寄せるところを毛嫌いするヴィルとレネに配慮して、蝶子と稔は目を見合わせて肩をすくめるだけで前を素通りした。
人出の少ない石造りの道は、どこか中世を思わせ、サン・マロ湾から吹く潮風が時の流れすらも吹き飛ばしていくようだった。一番前を行くヴィルの足元を時には追い越し、時には後ろになりトコトコと歩いていく白い仔犬は静かだった。
「ねぇ、妙な組み合わせじゃない?」
蝶子が囁くと、レネは頷いた。
「犬好きだなんて今まで一度も聞いたことなかったですよね」
それが聞こえたのかヴィルは立ち止まって三人を見た。それから仔犬を抱き上げて頭を撫でながら言った。
「子供の時に唯一の友達だった犬に似ているんだ」
「うわっ。やめてくれ。何だよその暗いシチュエーションは」
稔がびびった。ヴィルは肩をすくめた。
「なんて名前だったの、そのお友だちは?」
蝶子が訊いた。
「クヌート。シロクマの子供みたいだったからな」
「じゃ、この子もシロクマですかね」
レネが仔犬を覗き込んだ。わずかに馬鹿にしたような顔をされたように感じたが、氣のせいだろうと思った。
「シロクマじゃないだろう。どっちかって言うと、白い狼って感じだぜ。それにしても小さくて可愛いのに変わった目してんな」
稔が首を傾げる。
「変わっている?」
犬に詳しくない、というよりもほとんど興味がないために近寄ったことのない蝶子が訊き返した。
「うん。なんかさ、目だけ何もかもわかっている老犬みたいだ。今もテデスコに甘えているっていうよりは、撫でさせてやってる、苦しうないって風情だろ」
「ふ~ん。あれじゃないの。大天使ミカエルが化けているのかも」
「パピヨン、妬けますか?」
「ふふん。そんなわけないでしょう」
そういいつつ、蝶子は仔犬を肩に乗せて歩いていくヴィルをちらりと見てから、ぷいっと別の方向を見た。
修道院についた。中を見学しようと入口に行くと、ペット持ち込み禁止のサインがついていた。三人は黙ってヴィルを見た。ヴィルはまったくの無表情のまま白い仔犬をつまみあげると自分の上着の中に入れてファスナーを閉じた。蝶子はしょうもないという顔をして頭を振った。仔犬はまったく抵抗していない。稔とレネは肩をすくめて何も見なかったことにした。
修道院の中はゴシック式のアーチの連なりが美しく、天井に近い窓からこぼれる光が射し込んで荘厳な雰囲氣を創り出していた。今のように観光客のアトラクションとなる前は、多くの人びとが祈りを捧げてきたのだろう。その前は、ケルトの民が海に浮かぶ特別な山に祈りを捧げてきたはずだ。信仰や歴史のことはわからなくても、特別な場所に立っていることだけはわかる。
「天使か……」
蝶子はぽつんとつぶやいた。
「多くの人たちが祈りを捧げてきたんでしょうね」
レネが並んで上を見上げた。
「後で、外で奉納演奏していくか、いつものように」
稔が言うと、ヴィルも横に並んで黙って頷いた。
外に出ると、ヴィルは上着を脱いで、白い仔犬を外に出してやった。仔犬は黙って四人を見つめていた。稔はギターを、蝶子とヴィルはフルートを取り出して、モンの頂上に立つ剣と秤を持った大天使ミカエルを見上げてから息のあったタイミングでフランクの「パニス・アンジェリクス」の伴奏をはじめた。レネが澄んだテノールで朗々と歌い上げる。
白い仔犬は体を伏せて両前足の上に頭を載せ、目を閉じて四人の奏でる楽の音にじっと耳を傾けていた。
「敬愛する神よ、どうか私たちを訪れてください。あなたの道へ私たちを導いてください。あなたの住みたもう光の許へ私たちが行き着くために」
いつの間にか、彼らの周りには人垣ができていた。人びとは天使の砦に捧げられた「天使の糧」のメロディに心とらわれて立ちすくんでいた。レネが最後の繰り返しを歌い終え、三人が静かに演奏を終えると、しばらくの静寂の後に拍手がおこった。
四人はお辞儀をした。人びとがアンコールを期待して拍手を続けるので顔を見合わせた。
「どうしましょうか」
レネが稔をつついた。
「さあな。その仔犬も期待しているらしいな。しっぽ振ってるぞ」
蝶子は片眉を上げてヴィルに言った。
「ですって。あなた、『こいぬのワルツ』でも吹けば?」
それを聞いて、レネと稔も笑いながらヴィルを見た。ヴィルは肩をすくめてからフルートを持ち上げると、ショパンの「こいぬのワルツ」を吹いた。
仔犬はじっとヴィルの顔を眺めながら流れるような調べに耳を傾けていた。
その曲が終わると、人びとが再び拍手をした。ヴィルは仔犬に手を伸ばしたが、仔犬は観客の後ろかに聞こえてくる別の声に耳を傾けていた。
「フェンリル? どこ?」
白い仔犬はさっと立ち上がるとその声のする方に猛スピードで走り出した。びっくりした観客がさっと道をあけた。すると道の向こうに青空色のワンピースを身に着けたほっそりとした美しい女性が見えた。
レネが「あっ、あのひと」と言った。稔と蝶子は顔を見合わせた。ブラン・ベックのいつものビョーキが始まった、と無言で確認したのだ。
女性めがけて一目散に走り、途中まで行ったところでフェンリルは振り向いた。手を伸ばしたままで無表情に見つめているヴィルのところに戻ってくると、その手をそっと舐めた。それから再び全力で女性の許に走っていき、その細い腕の中に飛び込んだ。
去っていく女性に見とれているレネと寂しそうに立っているヴィルを、稔がぐいっと引っ張った。
「ほら。飯食いにいくぞ」
「お腹空いた。わたし、ブルターニュ風のそば粉のクレープが食べたい。シードルつきで」
蝶子の声で我に返った二人は顔を見合わせて頷くと、荷物を肩に掛けて、女性とフェンリルが去っていったのと反対側にあるレストランに向かって歩き出した。
尖塔のてっぺんのミカエル像は微笑んでいるようだった。
(初出:2014年6月 書き下ろし)
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【小説】半にゃライダー 危機一髪! 「ゲルマニクスの黄金」を追え
ええと、「半にゃライダーって何?」という方、いらっしゃいますよね。もともとはlimeさんのイラストに彩洋さんがつけたお話にちらりとのせた番組名に、私が食いついて8888Hitの記念作品を書いていただき、それがいつの間にか、「スイスを舞台にした新シリーズ、半にゃライダー2」が始まるってことになっていて……。詳しくは彩洋さんのこの作品とその解説をお読みくださいませ(説明放棄の丸投げですみません)
そしてですね。リクエストのお答えしてのこの作品ですが、スイスを舞台にした「半にゃライダー2」という番組という設定の掌編です。100%内輪受けの冗談作品になっています。「半にゃライダー」「大道芸人たち Artistas callejeros」「日本の時代劇」のうち、少なくとも二つはご存じないと意味不明だと思います。また、おちゃらけた冗談作品、内容のない小説は苦手という方もお氣をつけ下さい。
半にゃライダー 危機一髪!
「ゲルマニクスの黄金」を追え
ニゲラの花のように青くて雲ひとつない晴天。子供たちの歓声を受けながら一人の仏蘭西人が手品を披露していた。
「子供たちと親しくなり、情報を得よ」
お上からの命を受け、彼はアルプを見上げる平和な村ドルフリの噴水広場にやってきた。
彼の本当の名前はレネ・ロウレンヴィルというのだが、移住した極東の国の風習に倣い今では楠麗音と名乗ることになった。手妻師は世を忍ぶ仮の姿、彼の正体は隠密同心である。永らく足を踏み入れていなかった欧羅巴に渡ることになったのも隠密支配、内藤勘解由の命によってであった。
同じ頃、ライン河を越えた保養地バート・ラガッツの高級ホテルの温泉浴場では二人の日本人がやはり隠密捜査をしていた。この保養地には、欧羅巴中から多くの富豪が治療のために訪れる。たとえばつい先日も、フランクフルトに住むとある裕福な商人の娘が訪れ、歩けるようになって帰ったという。
「で、なぜ、いきなりこんな際どい入浴シーンがあるわけ?」
黒髪を頭の上にまとめあげ、通常のものよりも布の面積が少ないように思われるビキニを着用して胸の谷間が見える絶妙の位置にまで湯に浸からされ、ぶつぶつ文句を言っているのは篠笛のお蝶と呼ばれる隠密同心。
「あん? 予算がなくて三十分番組なんだってさ。だから、お約束のシーンは出し惜しみしないでガンガンいくんだそうだ」
同僚である三味線屋のヤスは、ニヤニヤと笑いながら役得を楽しんでいる。
「そういうわけで、時間がないので話を進めるぞ。内藤様が事前にキャッチした情報によると、問題が起こっているのはあのアルプだそうだ」
「あの山の上? 山羊や牛が食べる草原以外は何もないところじゃない」
「そう見えるだろ。それなのに干し草づくりをしていた牧人や、チーズ職人たち、それに貧しい山羊飼いたちが、次々と強制退去させられ、断った者たちは事故にあった」
「きな臭いわね」
「そうだろう。で、怪しいとされているのが、あの男だ、ロマーノ・ペトルッチ」
ヤスがそっと示した先には、確かに異様に怪しい男がいた。赤と青の目立つ縦縞の上着を羽織り山高帽をかぶった男だ。プールサイドだというのに。くるんとした髭が自慢らしくしきりにひねり、いくつものプールが見渡せるバーに座っていた。
「何者なの?」
「ドルフリの会計係だ。だが、
「じゃ、ちょっとその会計係を揺さぶってみましょ」
お蝶は勢いよくプールから上がると、係員にバスローブを着せてもらい、さりげなくロマーノの隣に座ってテキーラ・サンライズを注文した。ロマーノは「ほう」という顔をして神秘的なアジアの女を頭から足先まで眺めた。
「泳がないんですか?」
お蝶は魅惑的に微笑みながら訊いた。
「私は眺める専用でして。例えばあなたのように美しい方を」
「まあ、お世辞が上手ですこと」
「お世辞ではありません。実をいうと、私がここにいるのはスカウトのためなのですよ」
「なんのスカウトですか?」
「修道女です」
お蝶は目を丸くした。何もプールでそんなスカウトをしなくても。ロマーノはくるんと髭をしごきながら笑った。
「ご心配には及びません。修道女というのはあくまで形式でして、実をいうと大司教様のお世話をする美しい女性が必要なのです。その、おわかりですね、特別なお世話です」
「まあ、そういうお世話ですか。そういうお仕事なら興味がないわけではありませんわ」
お蝶は納得したという風情で艶やかに微笑んだ。ロマーノは彼女の手をしっかりと握り、「それでは」と言った。
「ところで、どちらの大司教様?」
「クール大司教、ハインリヒ・フォン・エッシェンドルフ様ですよ」
へ~え。それが黒幕ってことかしら……。
「パピヨンは、あんなところで何をしているんですか?」
やってきた麗音がそっとヤスに話しかけた。
「色仕掛けだよ。ところで子供たちの方はどうだった?」
「はい。どうやらあの村の伝説によると、あの山のてっぺんにはラエティア族からローマの将軍ゲルマニクスが奪ったとされる『ゲルマニクスの黄金』が埋まっているみたいです。たぶん、それを狙っているんでしょう」
「なるほど。だから、あんな何もないところを。それで立ち退きはほとんど終わっているのか?」
「いいえ。どうやら偏屈者のアルムオイヒという爺さんとその孫娘がどうしてもどかないらしいです。こちらに情報を提供してくれたヨーゼフという山羊飼いは、どうやらその孫娘のボーイフレンドのようです」
「で、立ち退きを進めさせているのは?」
「村の会計係ペトルッチです。どうやらクール大司教の後ろ盾があるらしく、抵抗した者の娘たちはみな修道女にされてどこかに連行されたとか」
その時、どこからともなくヨーデルが響いてきた。遥か先、川向こうのドルフリからのようである。その響きは何か訴えかけるような痛々しいものだった。
「あれは、なんだ?」
隠密同心たちは、急いで更衣室に向かう。水着では駆けつけられないので。
同じ頃、件のアルプにいたヨーゼフもまたそのヨーデルを耳にした。彼はその意味をはっきりとわかっていた。SOSだ。そして、そのそれを発している女性は、アルムオイヒの孫娘であり、村長の娘でもあるマルガレーテであった。度重なる修道女スカウトをにべもなく断っていたのだが、好色な大司教が実力行使に出たに違いない。いますぐ助けにいかなくては。三十分番組は展開が早すぎる。
しかし、アルプに散らばった山羊をそのままにはしていけない。狼に食べられてしまう。ヨーゼフは必死で口笛を吹き山羊たちを集める。そのヨーゼフを見て助けに立ち上がったものがいた。ずっと登場していなかったが、この番組のヒーローである飼い猫ペーターだ。彼は半にゃライダーの伝統にふさわしい茶色い虎柄の仔猫で、普段はカラスが来ても逃げる。けれども、伝家の宝刀である般若面を被るとちょびっと強くなるのだった。一割増程度。
「変っ身!」
時間が押しているのでサクサクと変身すると、一頭の山羊にまたがり、ドルフリに向かって駆けていった。ヨーゼフは祈るようにその後ろ姿を目で追う。
「頼むぞ、半にゃライダー! 僕もすぐに追いかける!」
ヨーゼフと隠密同心の四人がドルフリに駆けつけた時、半にゃライダーの姿はなかった。そして、村の老人たちが号泣していた。
「マルガレーテと、全ての若い娘たちは修道院に連行されてしまった。それに、あの変な猫も捕まって、クールに連れて行かれてしまい……」
「遅かったか!」
「許せん!」
いつの間にか正装に着替えた四人とヨーゼフは、横に一列に並び、ついでに山羊の群れも道路を占領しつつ片道四時間およそ五里(19km)を徒歩でクールに向かった。
「隠密同心 心得の条 我が命我が物と思わず 武門の儀、あくまで陰にて 己の器量伏し、ご下命いかにても果すべし なお 死して屍拾う者なし 死して屍拾う者なし 死して屍拾う者なし」
「めええ」
クールの大司教館ホーフでは、マルガレーテが民族衣装ドリンデルを脱がせようとするハインリヒ大司教に抵抗していた。
「やめてください! あなたは聖職者ではないですか」
「よいではないか、よいではないか(注)。抵抗しても無駄というもの。お前も、お前の爺さんの小屋の下に眠る黄金もワシのもの。あのお宝さえあれば、枢機卿の座はもちろん、賄賂次第では次の教皇となることも……」
「ふふふ。大司教様も悪ですなあ」
「そういうペトルッチ、お前もな……」
「話は聞いた!」
「だ、誰だっ」
「めええ」
隠密同心たちと山羊の群れは豪華な広間になだれ込む。山羊の匂いにハインリヒは顔を歪める。だがペトルッチは少し安心した顔になった。
「なんだ、さっきの尻軽女たちか。お前も大司教様の愛人にしてやるから、さっさとこちらに来い」
だが、ハインリヒの目は
「そこにいるのは……数年前に家出をしたわが息子、アーデルベルト……なぜお前がサムライの格好をしているのだ」
「げっ。大司教さま! カトリック聖職者のあなた様が隠し子がいることをここで認めちゃ、まずいんじゃ……」
ロマーノが小声で囁く。
「その通り! この俺がお前の悪行の動かぬ証拠だ!」
「徳と祈りによってではなく『ゲルマニクスの黄金』で、枢機卿の座を買おうとする腐りきった性根、言い逃れはできませんよ!」
「さらに、罪のない娘たちを修道女に仕立てて愛人化したことも教会に背く大罪よ」
「それだけではない。村長の座を狙うペトルッチの言葉に載せられてドルフリ村長一家を陥れんとし、あまつさえ一人娘を誘拐したこと、許しがたい! 教皇猊下にありのまま報告する故おとなしくご沙汰を待つがよい」
二人は青くなる。
「な、なんだと? 貴様ら一体何者だ!」
「ローマ教皇猊下の密命を受け、わざわざスイスまでまかり越した。我は隠密同心、
「同じく、手妻師 楠麗音!」
「同じく、篠笛のお蝶!」
「同じく、三味線屋ヤス!」
「そして、この私、山羊飼いのヨーゼフこそ、隠密支配・内藤勘解由!」
「隠密同心に異人が三人もいるのって、どうよ……」
ヤスが小さい声でお蝶に囁く。お蝶は肩をすくめる。
「最近は助っ人異人なしではどの業界も成り立たないって話よ。とくにうちは労働条件が劣悪だからなかなかなり手がねぇ」
「まあな。葬儀代くらい支給してくれないとなあ」
「ううむ。もはやこれまで。こうなったら貴様らもろとも、死んでもらうだけだ。ものども、出あえ、出あえ~!」
後ろの扉をばたんと開くと、その場に全くそぐわない、チープな黒タイツに白い骨のような柄のついた集団が大量に躍り出た。
「イー」
「ちょっと、何なの? あのへんな集団は」
「ショッカーだよ! この番組、半にゃライダーだから」
ヤスが三味線から取り出した仕込み刀を手にショッカーたちに飛びかかっていく。忍者風の衣装なので身軽だ。
「え? 大江戸捜査網じゃないの?」
お蝶は呆然とした。主演ではなく別番組ということは、その他大勢とやり合わなくてはならないというわけだ。不満を表明しても聞いてくれる人がいるわけでなし、諦めてやはり笛の形をした仕込み短刀を取り出してショッカー退治に取りかかった。芸者の衣装は動きにくいことこの上ない。
「この変な集団と殺陣をやるために、俺はこのアバンギャルドな髪型にされたのか……」
「イー」
抵抗することもなく、バタバタと倒れていくショッカーたちに呆れている。
黒地のサテンの衣装に赤い帯を絞めた麗音は、懐からしゅるしゅると取り出した赤い長い絹を投げかける。ショッカーたちはくるくると巻かれて意識を失っていく。
「いいですね~。僕、正義の味方役、好きになりそうです」
「ところで、主役はいつ出てくるんだよ。あと残り8分だぜ?」
ヤスが叫ぶ。すると大司教ハインリヒが「ふっふっふっ」と笑い出した。
「何がおかしい!」
「世を忍ぶ仮の姿なのはお前たちだけではない。我こそ、仮面ライダーの本番組でも活躍した、ハインリッヒ博士よ! 変っ身!」
ハインリヒが自分の大司教の衣装の胸の辺りをつかんで引っ張ると、それは簡単に剥がれて、いつの間にか白衣を来た似ても似つかぬオヤジが立っていた。その手にはケーキが四つ入る程度の四角い箱を持っている。
「ふふふ。ライダーが密室ではエネルギーを作り出せない弱点はこのわしが発見したのだ」
箱の中からはみーみーいう猫の鳴き声が弱々しく響いている。見ないと思ったら、ペーターはそこに捕まっていたらしい。
「なら、箱を開ければいいんでしょ!」
お蝶が肩をすくめた。
「その通り!」
ヤスが三味線のバチをハインリッヒ博士に向けて投げた。それは箱の蓋に引っかかり、バチに括り付けられた三味線の弦をヤスが引っ張ると、簡単に博士の手から離れて空を飛んだ。
「えいっ!」
麗音が懐から取り出したハトが空を飛んで、箱をキャッチし、五人のもとに運んできた。稲架村が箱を開けると、中から般若面を付けたペーターが顔を出した。
「にゃー」
「おい。残りあと五分だから、さっさと決め技を出せ」
ヤスが話しかけるとペーターは「にゃ?」と首を傾げたが、はっと思い出したかのように語りだす。
「ひとちゅ、ヒトのよにょ、いきちをすすり……」
「すみません。もう押しているんで、セリフはカットってことで」
ディレクターの指示が聞こえたので、四人は一斉に駆け出すとハインリヒとロマーノをボコボコにして簀巻きにした。ペーターはまだ続けてセリフを言っていたが、大音響でかかっていた「大江戸捜査網のテーマ」にかき消されてしまった。
五里の道のりを再び徒歩で山羊を連れて帰る集団は、明らかに周囲から浮いていた。服装も変だったが、周りの迷惑も省みずに横に広がって歩くので、後ろには大変な渋滞が連なっていた。
「海外ロケ、面白かったよな。来週もスイスなんだっけ?」
三味線屋のヤスが訊いた。
「残念ながら、これで最終回みたいです」
手妻師 麗音が申しわけなさそうに答えた。
「ええっ、なんで?」
篠笛のお蝶には寝耳に水だったらしい。
「半にゃライダーが目立たなすぎるんで、怒りの投書が殺到しているらしい。日本からだけでなく、ヨーロッパからも前の番組の復帰を願う電話が鳴り止まないんだそうだ。それにロケと役者の飲食代に金がかかり過ぎだそうで」
歌舞伎役者
隠密同心たちは肩を落として、帰国の準備をした。まだチーズフォンデュを食べていないのだ。もっともペーターは半にゃライダーとしての重荷から開放され、ごく普通の飼い猫に戻ることを喜んだ。彼は、「半にゃライダー3」の放映を誰よりも楽しみにしているらしかった。
(初出:2014年6月 書き下ろし)
(注)山西サキさんのご指摘により、このセリフも入れてみました。サキさん、ありがとうございました。
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【小説】リナ姉ちゃんのいた頃 -7- Featuring 「Love Flavor」
刹那さんは紗那さんの『Love Flavor』に出てくる主要キャラのお一人で、コラボで使わせていただくのは、ええと、何度目だろう。リナは『Love Flavor』の方にも出演させていただいていますしね。
今回も頼まれもしないのに出てきた当方のオリキャラ東野恒樹は刹那さんに報われない片想いをしているという設定で『Love Flavor』の二次創作のためだけに作ったキャラです。だから、しつこく出します。紗那さん、すみません。前半が恒樹の語りで、後半はミツです。念のため。
「リナ姉ちゃんのいた頃」をご存知ない方のために。このシリーズの主人公は日本の中学生の遊佐三貴(もともとのリクエストをくださったウゾさんがモデル)とスイス人高校生リナ・グレーディク。日本とスイスの異文化交流を書いている不定期連載です。前の分を読まなくても話は通じるはずですが、先に読みたい方は、下のリンクからどうぞ。
リナ姉ちゃんのいた頃 をはじめから読む
リナ姉ちゃんのいた頃 -7-
— Featuring 「Love Flavor」
携帯電話が鳴った。ちょうどビッグベンが午前九時を報せたところだった。表示されているナンバーには今ひとつ憶えがない。「+41」で始まっているところを見ると、ヨーロッパのどこか、ああ、スイスか。スイスから俺にかけてくるといったらあの女の他にはいない。
「リナか。何の用だ」
俺は首を傾げた。あいつ日本に行くと言っていなかったか? やめたのかな。耳に飛び込んできたのはありえない声だった。
「ホントに東野くんの声だ……」
「えっ?」
俺の頭はまさにホワイトアウト。このハスキーな声は……。
「ハッロ~? ねっ、驚いた? セツナと私が知り合うなんて思わなかったでしょ」
けたたましく聞こえてきたのは、電話番号から俺が予想していたチェシャ猫女だ。
「おっ、おい! 今のはどういうことだ! 今の、まさか、本物の白鷺刹那かよっ!」
ここはロンドン、ウェストミンスター。日本人観光客が横をぞろぞろ歩いているようなところで、白鷺の名前を出すのはためらわれる。なんせあいつは超有名モデル。あ、もとモデル、か。
俺、東野恒樹は混じりっけのない大和民族特有の顔立ちで、日本人であることはどこから見てもバレバレだ。加えて日本語訛りの抜けない英語でケータイに向かって叫ぶ羽目に陥った。だが、そんなことを構っている場合ではない。
「そうなの。今、友達になったのよね。ミツと一緒に火浦学園に来てるの」
「ミツって誰だ」
「ん? あ、ホームステイ先の子だよ。エージは知っているでしょ? ミツはエージの弟なの」
ちょっとまて。エージってまさか……。
「お前、もしかして遊佐栄二の家にホームステイしてんのか?」
「そうよ。昨日、偶然コーキの話になって、それなら、ぜひセンパイ紹介するからって。ねえ、この学校、面白いね。私もここに留学したかったな~」
俺は頭痛がしてくるのを感じた。
「さっきのが本当に白鷺なら、悪いが、もう一度代わってくれ……」
「いいよ、もちろん」
「東野くん? そっちはどう?」
「あ。うん。元氣にやってるよ。お前は?」
「相変わらず、かな。もっとも、来週からは大学だから、相変わらずじゃなくなるけれど」
「ああ、そうだよな。進学おめでとう。蓮も一緒にだろう?」
日本にいる友達の中で、俺が一番親しい(と俺は思っている)蓮の名前を白鷺に語る時だけは複雑な氣分になる。
蓮は白鷺にとって一番親しい友達だ。幼なじみでもある。俺だって二人を小学生の頃から知っているけれど、この二人ほどの近さではない。そして、俺がかつて白鷺に告白して玉砕したのは、蓮の存在があるからじゃないかと今でも思っている。白鷺は「そんなんじゃない」と言ったけれど。
「もちろん一緒だよ。でも、一緒に大学に上がるのはボクたちだけじゃないし」
相変わらず、見かけとまったく一致しない一人称だ。蜂蜜色の髪に琥珀色の瞳、完璧な美貌に女性らしいスタイルのくせに、親しい人間の前だとこうなってしまう。氣を許してもらっているのだと思うと嬉しいが、こいつを諦めようと決めてこっちに来てからそろそろ一年だって言うのに、未だにダメだ……。ここで声なんて聴いちまったからまた振り出しじゃんか。
「東野くんのハガキ、ときどき蓮が見せてくれる。彼、楽しみにしているみたい。ボクもだけど」
「お前も?」
「だって、東野くん、ボクには一枚も送ってくれないし」
「え……。それは、そんなの送ったら、迷惑かと……いや、送ってもいいなら、送るけど……」
俺が真っ赤になりながらしどろもどろ答えている横を、日本人観光客が怪訝な顔をして通り過ぎていく。が、その(あくまで俺にとってだけだけど)甘い会話は突然打ち切られた。
「ちょっと! コーキったらいつまで話してんのよ。私もセツナと話したいのよ!」
「リナ……。俺とじゃないのかよ」
「コーキには、スイスに戻ってから幾らでも電話してあげるわよ」
俺は慌てた。
「ちょっと待て。白鷺の前で、誤解されるような発言はするなよ!」
「あん? ああ、なるほど。セツナ、心配しないで。私とコーキは恋愛関係じゃなくてただの友達だから」
い、いや、そういういい方されると……。デリカシーのない女め。迷惑そうな顔をしている白鷺の姿が目に浮かぶ。ちくしょう。もともと1%もない奇跡の起こる確率をゼロにすんなよ、チェシャ猫女め。俺は無情にも切られた電話を眺めながら、嘘みたいなあいつとの会話を心の中で繰り返していた。
あれ? そういえばこの会話、リナのスイスの携帯からだったな。スイスの番号で。っていうことは、あいつ、日本からスイスにローミングしていて、その電話でさらにロンドンの俺の携帯まで国際電話かけてきたんだ。通話料、一体いくらになったんだろう……。
「ありがとうございました。通話料、かなりかかったんじゃないですか。失礼でなかったら支払いたいと思いますが」
刹那さんは柔らかいけれどきちんとした調子でリナ姉ちゃんに訊いた。姉ちゃんは笑って手を振った。
「そんなの氣にしないでいいわよ。わたし、いつもヨーロッパにかけまくっているから。それより、コーキが喜んで嬉しいわ。さっ、ご飯食べにいきましょう!」
刹那さんはきれいな微笑みを見せた。白鷺刹那さんとご飯を一緒に食べるなんて、ラッキーだなあ。栄二兄ちゃん、すごい人を知っているんだって改めて思ったよ。
「どんなものを食べたいですか? この時間だとまだどこも混んでいないから何でも」
刹那さんは腕時計を見て言った。五時十五分か、そうだね、まだ早いよね。
リナ姉ちゃんは即答した。
「『ラーメン大将』!」
刹那さんは目を丸くした。僕は思わず叫んだ。
「姉ちゃん! 刹那さんにラーメンなんてっ」
「なんで? ラーメン、美味しいよ。豚肉二倍、替え玉、餃子つき〜」
「リナ、そんなにラーメンが食べたかったら、明日連れて行ってやるからさ……。刹那センパイとはもう少し小洒落たところに……」
事なかれ主義の栄二兄ちゃんすらが説得に走ったが、意外なことに刹那さんがそれを止めた。
「いいわよ。そこに行きましょう。しばらくそういうところに行っていないし」
天下の白鷺刹那ともなると、ラーメンを食べるのすらスタイリッシュだ。へえ、こんな風に格好よく食べられるんだ。周りの視線が熱い。だってこの店、むさ苦しいオヤジしかいないのに、やたらと目立つ女が二人もいるんだもの。リナ姉ちゃんは名前は知られていないけれどド派手な玉虫色のタンクトップを着て額にシャネルのサングラスを引っ掛けたガイジンだし、その向かいには有名モデルが座っている。同席している栄二兄ちゃんと僕は、周りの好奇と羨望の視線を一身に浴びて、食欲もそがれがち。でも、リナ姉ちゃんの食欲は全くそがれないみたいだった。
「リナ。よく食べるな」
栄二兄ちゃんが男性でも残しそうなラーメンをいつの間にか食べ終えて二皿目の餃子に手を出した姉ちゃんを白い目で見た。
「だって美味しいんだもの。セツナも食べなさいよ」
「ありがとう」
刹那さんは優雅な箸使いで餃子を一つ食べた。この人が食べると、ラーメン屋の餃子も「点心」って風情になる。
「東野くんとはどこで?」
刹那さんはアフタヌーンティーでも楽しんでいるかのような調子で話しかける。
「去年の春にロンドンで。日本のことを知りたくて話しかけたの。だから、私の最初の日本人の友達ね」
「もう、ロンドンに慣れたんでしょうね」
「そうね。馴染んでいるのは間違いないけれど、でもねぇ」
「何か?」
「心残りが日本にあるみたいね」
と、刹那さんの方を見て大きな口をにっと開けた。
「リナ姉ちゃんっ!」
僕と栄二兄ちゃんは姉ちゃんが何を言いだすのかとドキドキしっぱなし。
刹那さんは琥珀色の瞳を少し揺らした。けれど、それについては何も答えなかった。
姉ちゃんは「ふ~ん」という顔をした。僕はいつだったか姉ちゃんが言った言葉を思い出した。
「日本人って、複雑よね。でも、それがいいところなのかも。私にはとても真似できないけど」
今の姉ちゃんは、きっとそう思っているに違いない。
「それはともかく、セツナ、わたしあなたが大好きになっちゃった。いつかスイスにも来てよ。そのレンって子も一緒に。その時はコーキもロンドンから呼びつけるから」
僕たちがさらにオロオロするのを目の端で捉えながら、刹那さんは全く動じずにふっと笑った。
「ええ、ぜひ。楽しみにしていますね」
さすがだ。僕と兄ちゃんはただひたすら刹那さんに尊敬のまなざしを向けていた。
(初出:2014年6月 書き下ろし)
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【小説】買えぬならつくってみせよう柏餅
・・・リクエストしちゃいましょうか。フランスパンと柏餅、そこにスイスのドイツ系頑固おやぢでひとつ、お願いします。無茶言うな? (汗
ええ、もちろん頭を抱えました。その上、柏餅と言ったらこどもの日ですよ。こどもの日に間に合わせなかったら意味なし! というわけで、急遽、書いてみました。ええ、そうなんです。私の取り柄、それは書き上がるまでが早いってことなのですよ。miss.keyさん、お氣に召すかはかなり不安ですが、少なくともお題は入れ込みました。ただし、頑固系オヤジは、当人は出て参りません。
あと、他の読者の方で「リナ姉ちゃんのいた頃」やカンポ・ルドゥンツ村ものをお読みになっていらっしゃる方は、そちら系小説としてお楽しみくださいませ。このブログの記事と小説に10000を超える拍手をくださいました、心優しい読者のみなさま全員へ心からの感謝を込めてお送りします。
買えぬならつくってみせよう柏餅
ぱーんという派手な音がした。トミーことトーマス・ブルーメンタールは綺麗に弓型に整えた眉を少しあげてみせた。カンポ・ルドゥンツ村にあるバー『dangerous liaison』は、過疎の村には似つかわしくない洒落た南国風インテリア、大人のジャズ、そしてゲイのカップルであるトミーとステッフィが経営しているために保守的な地域では珍しく自由な雰囲氣を併せ持った特別な空間だ。常々トミーは「日曜日には時計仕掛けの人形のように定時に教会のベンチに座るくせに、それ以外の曜日は不寛容によそ者を非難するプリミティヴな客はお断り」と言っていたのだが、この扉の開け方は、その類いの奴らのように思われたのだ。けれどトミーは入ってきたスタイルのいい女を見て、ちょっと表情を和らげた。
「何よ、リナ。また喧嘩したわけ?」
リナ・グレーディクは憤怒の表情のまま、大股でカウンターに歩み寄ると、黒い革のミニスカートからすらりと伸びた長い足を交差させてスツールに腰掛けた。
「カールア・ミルク。リキュール多めで!」
リナは二十歳。この村の出身のこの年齢の若者は、できればチューリヒに、そうでければせめて州都クールに出て都会の暮らしをしたがる。けれどリナはこの村に残ることを選んだ。かといって彼女が保守的な井の中の蛙というわけではない。それどころか、多少という域をはるかに超えて冒険をしたがるタイプで、高校生の時には一年間、極東の日本に交換留学をしていたぐらいだ。
スイスの若者のほとんどが知らないカールア・ミルクも日本で覚えたらしい。そして、クールではどのバーテンダーも知らなかったこのカクテルを、きちんと二層に分けて、大きいアイスキューブも入れて出してくれたこのバーのことを絶対的に信頼しているのだ。
「聞いてよ、トミー。ハンス=ルディったらさ!」
トミーはにやりと笑う。ここの所、リナは仕事の合間に、村一番の頑固者、ハンス=ルディ・ヨースの所に行って、コンディトライの修行にいそしんでいる。パンとケーキ、チョコレートなどを作る仕事だ。もちろん本職になるためには、四年間の徒弟期間をパン屋で修行し、終了試験に受からなくてはならないのだが、リナは単純に食いしん坊が高じて習いたくなっただけなので、パン屋を息子夫婦に譲って老後を楽しんでいるハンス=ルディに無料で習っているのだった。世捨て人のように村はずれの高地に住む癇癪持ちの老人と、シマウマ柄の絹のブラウスにヴェルサーチのジャケットを合わせる村では浮きまくっている生意氣な女は、ありえない組み合わせだったので誰もが一度で物別れに終わると思ったが、どういうわけかもう三ヶ月もこの修行は続いているのだった。
「今日は何なの?」
「バゲットよ! 私はあいつの言った通りに生地を練って、発酵時間だって、まあ、ちょっとはしょったけれど、ちゃんとやってさ。とっても美味しくできたから持っていったのに、あいつったら中の氣泡がどうのこうのって、ずーっと小言を言うんだもの!」
トミーはにやっと笑った。
「それはハンス=ルディの方が正しいわよ。きちんと穴の開いていないパンなんて、スーパーで売っている工場生産のものと変わらないじゃない」
「う・る・さ・い!」
「持ってんでしょ。出して見なさいよ」
「う……」
リナはパンが入っているとはとても思えないプラダのバックから半分になったバゲットを取り出してカウンターに置いた。トミーはパン切りナイフでそのバゲットを切った。パリッと音がして表面の皮が割れ、香ばしさが広がった。その外側を二本の指で押さえるとしっかりとした弾力が感じられた。中の氣泡による穴は確かに少なく、均等な感じだが、食べてみるともっちりして喉の奥にも香りが登る。
「どう?」
「そうね。彼の言う通りじゃない。氣包の穴がちゃんとできるようになったら、完璧ってことよ。あの人の息子がここまで焼けるようになるには二年くらいかかったんじゃないかしら」
リナはそれを聞くとにっと笑った。この村でも一二を争う美人なのだが、笑うとその口の大きさが強調されて、途端にコミカルになる。トミーは、この娘のこのギャップもかなり氣にいっていた。
「次回は、発酵時間をはしょったりするような真似はおよしなさい」
「わかっているって。今回は、ちょっと起きるのが遅くなっちゃったのよね」
リナはぺろっと舌を出した。トミーは赤いマニキュアを綺麗に塗った指先で優雅にカールア・ミルクのグラスを持ち、そっとリナの前に置いた。
「ありがと」
リナはせっかくトミーが完璧に二層に分けて出したそのカクテルを豪快に混ぜてこくっと飲んだ。それからほうっとひと息ついた。
「どうしよっかなあ。この頑固オヤジ、もう二度と来るもんかって出てきちゃった」
トミーは肩をすくめた。
「私が間違っていました、って謝りにいけば?」
リナはぷうと頬をふくらませて横を向いた。そりゃ、無理かしらねぇ。トミーは笑った。
「いいこと教えてあげようか?」
「何?」
「あのじいさんね、甘い物に目がないのよ。でもね、スイスに普通にある甘ったるいお菓子に我慢がならなかったので、自分で作れるようにあの職業を選んだんですって」
「へえ、そうなんだ」
「そうよ。あんた、せっかく日本にいたんだし、繊細な甘味で有名な日本のスイーツでも作って持っていけば? 懐柔も楽々だと思うわよ」
「トミーって、ほんとうに悪知恵が働くのね」
リナにそう言われて、トミーは片眉をあげて不満の意を表明した。
「何作ろうかな~。って、どうやったら作れるんだろ。この間ミツに送ってもらったジョウシンコって粉で何かできないかな」
「ミツって?」
「あ、日本にいた時にホームステイしていたうちの子。ちょっと待って」
リナはiPhoneを取り出すと、番号を選んで電話を掛けた。そして英語で話しだした。
「あ、ミツ? わたし、わたし、ひっさしぶり~、あ、ごめん、寝てた? あ、今そっち午前二時なの? 悪いわね」
トミーは目を天井に泳がせた。氣の毒に。
「うん。この間送ってくれたジョウシンコで、どんなスイーツができると思う。うん、草餅? あ、あれ美味しいね。え、ヨモギ? そこら辺の草でいいの? ダメか……。え、柏? それならあるよ。ああ、カシワモチ! うん、あれ大好き。ね、いますぐ作り方調べて英語で送って! え、明日の朝? ま、いっか、それでも。うん、お休み」
電話を切ったリナにトミーは食って掛かった。
「あんたね。それが人に物を頼む態度なの? 午前二時にたたき起しておいて、今すぐレシピを送れだなんて」
「あん? そう言えばそうだよね。ちょっと反省。あとで謝罪のメールを送ろっかな」
リナがiPhoneを横において、残りのカールア・ミルクをこくこくと飲んでいると、チリンとメールの着信音が鳴った。
「あ、ミツだ! やっぱり、寝る前に英訳して送ってくれたよ」
トミーは、さすがこの娘を一年間も受け入れた一家の一員だと呆れてため息をついた。
「ふむふむ。柏の葉っぱは茹でればいいのね。白あんは白いんげん豆から作るのか。これはそこら辺で買えるよね。ああ、白みそ。ちょっと高いけれど、クールの自然食品店で売っていた。ふーん、ちょっと面倒だけど、バゲットほどじゃないわね」
そういうとリナは料金を置いて立ち上がった。
「何よ、もう帰るの?」
「うん。味噌を買いにいかなきゃ。日本の諺にね『善は急げ』ってのがあるのよ。ちょうど明日は五月五日の男の子の日だから、あの爺さんにはぴったりじゃない?」
男の子の日ねぇ。トミーはやれやれという顔をした。扉を閉める前にリナはもう一度顔を見せていった。
「上手くできたら、トミーにも持ってきてあげるね。カシワモチのためなら、一日くらい男の子に戻るのも悪くないでしょ?」
トミーは真っ赤なマニキュアが印象的な手をヒラヒラさせて言った。
「あたしは今でもれっきとした男の子よ。ステッフィの分も持って来なかったら承知しなくてよ」
「了解!」
ニィッと笑ってリナはつむじ風のように去っていった。
(初出:2014年5月 書き下ろし)
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【小説】夜のサーカスと黒緑の訪問者 Featuring「チュプとカロルとサーカスと」
scriviamo!の第十七弾です。(ついでにStellaにも出しちゃいます)
スカイさんは、受験でお忙しい中、北海道の自然を舞台にした透明な掌編を描いてくださいました。本当にありがとうございます。
スカイさんの書いてくださった掌編 チュプとカロルとサーカスと
スカイさんは、現在高校生で小説とイラストを発表なさっているブロガーさんです。代表作の「星恋詩」をはじめとして、透明で詩的な世界は一度読んだら忘れられません。また、篠原藍樹さんと一緒に主宰なさっている「月間・Stella」でも大変お世話になっています。
「Stella」で一年半ちかく連載し、間もなく完結する「夜のサーカス」はもともと10,000Hitを踏まれたスカイさんのリクエストから誕生しました。それまでどこにもいなかったサーカスの仲間たちは、スカイさんのおかげでうちのブログの人氣シリーズになったのです。
今回スカイさんが書いてくださったお話は、北海道を舞台にゴマフアザラシと本来ならその天敵であるはずのワタリガラスの微笑ましい友情を描いたお話ですが、「チルクス・ノッテ」が少し登場します。そこで、とても印象的なワタリガラスのライアンをお借りして、「夜のサーカス」の番外編を書いてみる事にしました。
![]() | 「夜のサーカス」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
「scriviamo! 2014」について
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと黒緑の訪問者 Featuring「チュプとカロルとサーカスと」
——Special thanks to Sky-SAN

風が吹いてきて、バタバタとテントを鳴らした。バタバタ、バタバタと。エミリオが大テントの入口の布を押さえようと顔を出して、山の向こうからゆっくりとこちらに向かってくる真っ黒な雲を眼にした。
「あれ、ひと雨来るかな……」
それ以上バタバタ言わないように、入口の布をくるくるっと巻いて、しっかりと紐で縛っている時に氣配を感じた。真横にいつの間にか一人の男性が立っていた。
黒い三つ揃いのスーツは、不思議な光沢だった。光の加減で緑色に見えるのだ。しかも、その男は黒いエナメルの靴、黒いシルクのワイシャツ、そして黒いネクタイに、黒いシルクハットを被っていた。真っ黒い前髪が目の辺りまであって、その奥から黒い小さい瞳がじっとこちらを眺めている。
エミリオはとっさにどこかの王族かなにかだと思った。こんなに堂々とした様子で立っている、しかもひと言も発しない相手ははじめてだった。男はエミリオの顔を注意深く観察すると、納得したように頷いてから堂々とした足取りで大テントの中に入ろうとした。
「あっ。いや、まだ入れないんですよ。開場時間は午後七時なんです」
男は何も言わずにエミリオをじっと見つめた。何も悪い事をしていなくても「ごめんなさい」と謝ってしまいたくなるような鋭い一瞥だった。だが少なくとも彼はエミリオの制止を振り切るつもりでないらしく、黙って立っていた。
「え。あ、いや、だから、あと二時間経ってから、暗くなってから来てくださいよ」
しどろもどろでエミリオが言った。それでも入ってきてしまったら、僕には止められないな、そう思いながら。だが、男は納得したようで、黙って頷くと踵を返して歩いていった。あのひと足が悪いのかなあ、変な歩き方だ。エミリオは首を傾げた。
まったく今日は変な闖入者の多い日だ。午後一番には、テントでリハーサルをしていたマッテオがエミリオにあたりちらしたのだ。
「お前! 何テントにカラスを入れてんだよっ!」
「えっ?」
そう言われて客席を見ると、こともあろうにVIP席の背もたれに、ワタリガラスが停まっていた。
「うわぁ」
背もたれに粗相でもされたら、団長とジュリアにこっぴどく怒られる。エミリオは棒を振り回しながら、その巨大な鳥をテントから追い出そうとした。一体どうやって入ってきたんだろう。だがカラスはポールの上の方へと飛んでしまって、なかなか降りて来ない。どうしたもんだろうかと考えあぐねていたが、たまたまマッダレーナがリハーサルのためにヴァロローゾを連れて入ってきたので問題は解決した。雄ライオンがエミリオも逃げだしたくなるようなものすごい咆哮を轟かせた途端、ワタリガラスは入口へと一目散に向かい、そのまま出て行ってしまったのだ。
無事に開演準備の仕上げを終えると、共同キャラバンへと走った。わぁ、みんな食べ終わっちゃったな。すっかり遅くなってしまった。キャラバンに駆け込むと、案の定、そこにはもう今日の当番のステラしかいなかった。
「ごめん。遅くなった」
「大丈夫。まだ時間あるから。みんなは本番前に集中したいからって、もう行っちゃったけれど。でも、何か問題があったの?」
「いや。風が強かったから、全ての入口の布を丸めていたんだ。そしたら、変なヤツが来てさ」
「変なヤツ?」
「うん。全身真っ黒のスーツを着た男。まだ開演時間でもないのに中に入ろうとしてさ。ダメですって断ったら帰ってくれたんだけれど、ひと言も喋らなくてさ……」
「そう……」
その真っ黒な男は、その日から興行に毎晩やってきた。マルコはその晩のチケット担当だったのだが、エミリオから話を聞いていたのですぐにわかった。立派な服装なのに、チケットは誰かが落として踏みにじられたようなしわくちゃ紙だった。その次の日はマッテオが本番前に見かけたと言うし、次の日にはマッダレーナも「私も見た」と報告してきた。
「毎日チケットを買っていらしてくださるとは、大事なお得意様じゃないか。喜べ」
団長が団員の不安を笑い飛ばしたので、彼らもそれもそうかとそのままにしておく事にした。
「それよりも、ステラ。ジュリアが言っていたが、三回転半ひねりが上手くできなくて、二回転半で誤摩化していると言うじゃないか。チラシにわざわざ載せたんだし、しっかりしてくれないと困るな」
「すみません」
実際には三回転半のジャンプそのものは成功していて、ちゃんと毎晩披露していた。問題は、二回転と三回転半の連続技で、タイミングがまだはっきりとつかめていない。落ちるのが怖くて上手くできないのだ。いや、以前のシングル・ブランコのときだったら落ちても下にいるのはヨナタンで、きっとネットを拡げて受け止めてくれると信じていたので安心して飛ぶ事ができた。でも、この興行で下にいるのはマルコだ。マルコもちゃんと受け止めてくれるとは思うのだが、ヨナタンほど信用できない自分が情けなかった。
ステラはレッスンを終えてから自分のキャラバンに戻りながら、自分の腕を目の前で泳がせてタイミングを反復してみた。
「ここで、一、二、んで、ジャンプ! 一回転、二回転……」
その時、「カポン」という声がした。
「ん?」
ステラが見上げると、目の前の楡の木にワタリガラスが停まっていた。大きな翼を一、二度拡げたり閉じたりしてから再び「カポン」と叫ぶと、不意に黒い鳥は飛び上がった。そして、二回転半してから隣の枝に一瞬脚を掛けると、停まらずにすぐに飛び立って三回転半をしてみせた。
ステラはぽかんと口を開けた。その間にワタリガラスはもっと上の枝に着地するとまた「カポン」と鳴いた。
「ねえ! もう一度、やって、お願い!」
そうステラが頼むと、まるで人間の言葉がわかっているかのように、黒い鳥は同じ連続ジャンプをすると、今度は停まらずに飛んでいってしまった。ステラは呆然として、もう一度練習するために大テントに向かって歩き出した。
「あのタイミングなんだわ……」
風がバタバタいう宵だった。色とりどりのランプが、ひゅんひゅんと何度もテントに打ち付けられた。チルクス・ノッテは満員だった。この街で最期の興行なので、一度観にきた観客たちももう一度駆けつけてきた。あのセクシーなライオン使いをもう一度観たいな……。俺は、あの馬の芸を観ておきたいよ。チラシで宣伝していたブランコ乗りのデュエットも、悪くないよな。
ステラは、舞台の袖でマッテオと一緒に立っていた。衣装の左胸の裏側にはいつものお守り、黄色い花で作った押し花も入っている。大丈夫……。ヨナタンが応援してくれると、もっと心強いんだけれどな。もう何日もヨナタンと話をしていなかった。こんなことは入団以来はじめてだった。でも、いつかは、また……。涙をこらえるようにして、左胸に手を当てた。あふれそうになった涙を抑える。いけない。今は演技に集中しないと。
マッテオに泣いているのを見られないように、急いで後ろを向いた。すると誰かが更に奥の袖にさっと隠れた。ステラはその衣装を目の端でとらえていた。コメディア・デラルテのアルレッキーノの衣装。ヨナタンだ。団長に怒られていたから、心配して見に来てくれたのかな……。ステラは嬉しくなって、下を向いた。頑張るね。
舞台の眩しい光。観客の割れるような拍手。熱氣。マッテオがみごとな大回転でブランコに膝の裏でつかまり、ゆっくりと揺れはじめる。ステラは、タイミングを数えはじめる、あのワタリガラスを思い出しながら。いち、に……。
華麗な二回転半の後、マッテオの手にしっかりと掴まったステラは、そのまま再び飛び立った。一回転、二回転、三回転半! 手はしっかりともう一つのブランコをつかんでいた。できた! 今日も二回転半だと思っていたジュリアとロマーノが袖であっけにとられて立ちすくんだ。エミリオの「やった!」という声は観客の大拍手でかき消された。派手な衣装と仮面を身につけた青年も袖から眩しそうに少女を見上げていた。
観客席には、真っ黒い衣装を身に着けた例の男がじっと座っていた。その隣には、やはり緑の光沢のある黒いドレスを身に着けた黒髪で黒いトーク帽に黒いヴェールをかけた女が座っていて、そっと体を傾けて黒服の紳士に顔を近づけた。紳士は大きく頷いてから他の観客には聞こえない小さな声で「カポン」と言った。
(初出:2013年4月 書き下ろし)
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scriviamo!の第十七弾です。(ついでにStellaにも出しちゃいます)
スカイさんは、受験でお忙しい中、北海道の自然を舞台にした透明な掌編を描いてくださいました。本当にありがとうございます。
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スカイさんは、現在高校生で小説とイラストを発表なさっているブロガーさんです。代表作の「星恋詩」をはじめとして、透明で詩的な世界は一度読んだら忘れられません。また、篠原藍樹さんと一緒に主宰なさっている「月間・Stella」でも大変お世話になっています。
「Stella」で一年半ちかく連載し、間もなく完結する「夜のサーカス」はもともと10,000Hitを踏まれたスカイさんのリクエストから誕生しました。それまでどこにもいなかったサーカスの仲間たちは、スカイさんのおかげでうちのブログの人氣シリーズになったのです。
今回スカイさんが書いてくださったお話は、北海道を舞台にゴマフアザラシと本来ならその天敵であるはずのワタリガラスの微笑ましい友情を描いたお話ですが、「チルクス・ノッテ」が少し登場します。そこで、とても印象的なワタリガラスのライアンをお借りして、「夜のサーカス」の番外編を書いてみる事にしました。
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夜のサーカスと黒緑の訪問者 Featuring「チュプとカロルとサーカスと」
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風が吹いてきて、バタバタとテントを鳴らした。バタバタ、バタバタと。エミリオが大テントの入口の布を押さえようと顔を出して、山の向こうからゆっくりとこちらに向かってくる真っ黒な雲を眼にした。
「あれ、ひと雨来るかな……」
それ以上バタバタ言わないように、入口の布をくるくるっと巻いて、しっかりと紐で縛っている時に氣配を感じた。真横にいつの間にか一人の男性が立っていた。
黒い三つ揃いのスーツは、不思議な光沢だった。光の加減で緑色に見えるのだ。しかも、その男は黒いエナメルの靴、黒いシルクのワイシャツ、そして黒いネクタイに、黒いシルクハットを被っていた。真っ黒い前髪が目の辺りまであって、その奥から黒い小さい瞳がじっとこちらを眺めている。
エミリオはとっさにどこかの王族かなにかだと思った。こんなに堂々とした様子で立っている、しかもひと言も発しない相手ははじめてだった。男はエミリオの顔を注意深く観察すると、納得したように頷いてから堂々とした足取りで大テントの中に入ろうとした。
「あっ。いや、まだ入れないんですよ。開場時間は午後七時なんです」
男は何も言わずにエミリオをじっと見つめた。何も悪い事をしていなくても「ごめんなさい」と謝ってしまいたくなるような鋭い一瞥だった。だが少なくとも彼はエミリオの制止を振り切るつもりでないらしく、黙って立っていた。
「え。あ、いや、だから、あと二時間経ってから、暗くなってから来てくださいよ」
しどろもどろでエミリオが言った。それでも入ってきてしまったら、僕には止められないな、そう思いながら。だが、男は納得したようで、黙って頷くと踵を返して歩いていった。あのひと足が悪いのかなあ、変な歩き方だ。エミリオは首を傾げた。
まったく今日は変な闖入者の多い日だ。午後一番には、テントでリハーサルをしていたマッテオがエミリオにあたりちらしたのだ。
「お前! 何テントにカラスを入れてんだよっ!」
「えっ?」
そう言われて客席を見ると、こともあろうにVIP席の背もたれに、ワタリガラスが停まっていた。
「うわぁ」
背もたれに粗相でもされたら、団長とジュリアにこっぴどく怒られる。エミリオは棒を振り回しながら、その巨大な鳥をテントから追い出そうとした。一体どうやって入ってきたんだろう。だがカラスはポールの上の方へと飛んでしまって、なかなか降りて来ない。どうしたもんだろうかと考えあぐねていたが、たまたまマッダレーナがリハーサルのためにヴァロローゾを連れて入ってきたので問題は解決した。雄ライオンがエミリオも逃げだしたくなるようなものすごい咆哮を轟かせた途端、ワタリガラスは入口へと一目散に向かい、そのまま出て行ってしまったのだ。
無事に開演準備の仕上げを終えると、共同キャラバンへと走った。わぁ、みんな食べ終わっちゃったな。すっかり遅くなってしまった。キャラバンに駆け込むと、案の定、そこにはもう今日の当番のステラしかいなかった。
「ごめん。遅くなった」
「大丈夫。まだ時間あるから。みんなは本番前に集中したいからって、もう行っちゃったけれど。でも、何か問題があったの?」
「いや。風が強かったから、全ての入口の布を丸めていたんだ。そしたら、変なヤツが来てさ」
「変なヤツ?」
「うん。全身真っ黒のスーツを着た男。まだ開演時間でもないのに中に入ろうとしてさ。ダメですって断ったら帰ってくれたんだけれど、ひと言も喋らなくてさ……」
「そう……」
その真っ黒な男は、その日から興行に毎晩やってきた。マルコはその晩のチケット担当だったのだが、エミリオから話を聞いていたのですぐにわかった。立派な服装なのに、チケットは誰かが落として踏みにじられたようなしわくちゃ紙だった。その次の日はマッテオが本番前に見かけたと言うし、次の日にはマッダレーナも「私も見た」と報告してきた。
「毎日チケットを買っていらしてくださるとは、大事なお得意様じゃないか。喜べ」
団長が団員の不安を笑い飛ばしたので、彼らもそれもそうかとそのままにしておく事にした。
「それよりも、ステラ。ジュリアが言っていたが、三回転半ひねりが上手くできなくて、二回転半で誤摩化していると言うじゃないか。チラシにわざわざ載せたんだし、しっかりしてくれないと困るな」
「すみません」
実際には三回転半のジャンプそのものは成功していて、ちゃんと毎晩披露していた。問題は、二回転と三回転半の連続技で、タイミングがまだはっきりとつかめていない。落ちるのが怖くて上手くできないのだ。いや、以前のシングル・ブランコのときだったら落ちても下にいるのはヨナタンで、きっとネットを拡げて受け止めてくれると信じていたので安心して飛ぶ事ができた。でも、この興行で下にいるのはマルコだ。マルコもちゃんと受け止めてくれるとは思うのだが、ヨナタンほど信用できない自分が情けなかった。
ステラはレッスンを終えてから自分のキャラバンに戻りながら、自分の腕を目の前で泳がせてタイミングを反復してみた。
「ここで、一、二、んで、ジャンプ! 一回転、二回転……」
その時、「カポン」という声がした。
「ん?」
ステラが見上げると、目の前の楡の木にワタリガラスが停まっていた。大きな翼を一、二度拡げたり閉じたりしてから再び「カポン」と叫ぶと、不意に黒い鳥は飛び上がった。そして、二回転半してから隣の枝に一瞬脚を掛けると、停まらずにすぐに飛び立って三回転半をしてみせた。
ステラはぽかんと口を開けた。その間にワタリガラスはもっと上の枝に着地するとまた「カポン」と鳴いた。
「ねえ! もう一度、やって、お願い!」
そうステラが頼むと、まるで人間の言葉がわかっているかのように、黒い鳥は同じ連続ジャンプをすると、今度は停まらずに飛んでいってしまった。ステラは呆然として、もう一度練習するために大テントに向かって歩き出した。
「あのタイミングなんだわ……」
風がバタバタいう宵だった。色とりどりのランプが、ひゅんひゅんと何度もテントに打ち付けられた。チルクス・ノッテは満員だった。この街で最期の興行なので、一度観にきた観客たちももう一度駆けつけてきた。あのセクシーなライオン使いをもう一度観たいな……。俺は、あの馬の芸を観ておきたいよ。チラシで宣伝していたブランコ乗りのデュエットも、悪くないよな。
ステラは、舞台の袖でマッテオと一緒に立っていた。衣装の左胸の裏側にはいつものお守り、黄色い花で作った押し花も入っている。大丈夫……。ヨナタンが応援してくれると、もっと心強いんだけれどな。もう何日もヨナタンと話をしていなかった。こんなことは入団以来はじめてだった。でも、いつかは、また……。涙をこらえるようにして、左胸に手を当てた。あふれそうになった涙を抑える。いけない。今は演技に集中しないと。
マッテオに泣いているのを見られないように、急いで後ろを向いた。すると誰かが更に奥の袖にさっと隠れた。ステラはその衣装を目の端でとらえていた。コメディア・デラルテのアルレッキーノの衣装。ヨナタンだ。団長に怒られていたから、心配して見に来てくれたのかな……。ステラは嬉しくなって、下を向いた。頑張るね。
舞台の眩しい光。観客の割れるような拍手。熱氣。マッテオがみごとな大回転でブランコに膝の裏でつかまり、ゆっくりと揺れはじめる。ステラは、タイミングを数えはじめる、あのワタリガラスを思い出しながら。いち、に……。
華麗な二回転半の後、マッテオの手にしっかりと掴まったステラは、そのまま再び飛び立った。一回転、二回転、三回転半! 手はしっかりともう一つのブランコをつかんでいた。できた! 今日も二回転半だと思っていたジュリアとロマーノが袖であっけにとられて立ちすくんだ。エミリオの「やった!」という声は観客の大拍手でかき消された。派手な衣装と仮面を身につけた青年も袖から眩しそうに少女を見上げていた。
観客席には、真っ黒い衣装を身に着けた例の男がじっと座っていた。その隣には、やはり緑の光沢のある黒いドレスを身に着けた黒髪で黒いトーク帽に黒いヴェールをかけた女が座っていて、そっと体を傾けて黒服の紳士に顔を近づけた。紳士は大きく頷いてから他の観客には聞こえない小さな声で「カポン」と言った。
(初出:2013年4月 書き下ろし)
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【小説】バッカスからの招待状 -2- ゴールデン・ドリーム
バッカスからの招待状 -2-
ゴールデン・ドリーム
開店直後のバーに入るのは本番前の舞台を覗くような、少しだけ優越感に浸れる瞬間だ。
「いらっしゃい」
ドアを開けた時に響いてきた変わらぬ声。懐かしさが込みあげた。
「これは、これは。高橋さんじゃないですか」
バーテンダーは声を弾ませた。高橋一は嬉しそうに頷いた。
「四半世紀ぶりだね。田中さん」
「お元氣そうで」
「田中さんも。この店が続いていて嬉しいよ」
かつてはジャズがかかっている事が多かった店だが、今日は静かなピアノ曲がかかっていて、柔らかい間接照明がメロディに合わせて揺れているように感じた。一は磨き込まれたカウンターのマホガニーを愛おしむように撫でてから、かつて自分の席と決めていた位置に座った。
「広瀬さん、いえ、奥さまはお元氣でいらっしゃいますか」
「ああ、今晩ここに来ると言ったら、悔しがっていたよ。田中さんに是非よろしくって」
「ありがとうございます。次回はぜひご一緒に。本日は、何になさいますか」
一は嬉しそうに下を向いて笑ってから言った。
「やっぱり、山崎だよね、ここに来たら。十二年を頼む。あと、つまみは連れが来てからで」
「お連れさまですか」
「デートなんだ」
田中はびっくりした。高橋一はかつての客で、広瀬摩利子と結婚して島根県に移住するまでここでよく待ち合わせていた。その時の二人の様子からは、一が摩利子以外の女性とデートをするなんてありえないように思えたのだが。
「妻公認でデートできる二人のうちの一人だよ」
一はウィンクした。
ドアが開いて、ぱたぱたと誰かが入ってきた。
「わ、遅れちゃった、お父さん、ごめんなさい!」
それを聞いて田中は納得して微笑んだ。一はさっと手を上げて合図した。
「田中さん、これ、俺の娘です。瑠水っていいます。この店にはまだヒヨッコすぎて似合わないけれど、どうぞよろしくお願いします」
父親に紹介されて、瑠水は田中に向かってぺこっと頭を下げた。
「はじめまして」
それから瑠水は父親の横、かつては摩利子がよく腰掛けていた椅子に座った。
「ここ、落ち着く素敵なお店ね。もっと前に教えてくれたら、よかったのに」
そういって、店内を見回した。一は「そうだな」と相槌を打ったあと、田中に肩をすくめて説明した。
「こいつ、つい最近まで東京にいたんだけれど、残念ながらまた島根にもどってくることになっちゃったんですよ」
田中は微笑んで、ささみをトマテ・セッキのオリーブオイル漬けなどで和えたものをそっと二人の前に出した。
「何をお飲みになりますか」
瑠水は、首を傾げてからカウンターにあったメニューを開いた。カクテルはあまり詳しくない。そういうものが出てくる店ではいつも連れて行ってくれた結城拓人が提案してくれたものを飲んだ。
「あ。この曲……」
瑠水はメニューから目を上げて、流れてくるピアノ曲に耳を傾けた。
「ああ、シューマンのトロイメライですね」
田中はグラスをピカピカに磨き上げながら言った。瑠水は口を一文字に結んで頷いた。結城さん、これも弾いてくれたっけ。もう過去の事になってしまった。夢のように遠い。
「あの……何か夢に関するカクテルって、ありますか?」
瑠水が訊くと、田中と一は目を見合わせて微笑んだ。
「そうですね。例えばゴールデン・ドリームはいかがでしょうか。リキュールベースで柑橘系と生クリームがデザートのようなカクテルで、お好きな女性が多いですよ」
「あ、では、それをお願いします」
瑠水は結城拓人の事を考えていた。とても優しい人だった。拓人に出会った時、瑠水は出雲にいる真樹に報われない片想いをしていると思っていた。拓人は遊びの恋しかしないと聞いていたので大切にしてくれるなんて思いもしなかった。瑠水は拓人のピアノを聴きたかった。あの優しい音色に包まれて、真樹を想う痛みを和らげてほしかった。
あれは、拓人のマンションに二度目に行ったときの事だ。彼は瑠水が一番喜ぶ事を知っていた。東京の夜景が拓人の背後の全面ガラスに見えた。それは潤んで泣いているようだった。彼の音はその悲しむ世界を落ち着かせるように柔らかく響いた。
「この曲は?」
瑠水が訊くと、拓人は弾き続けながらそっと言った。
「ロベルト・シューマンの『トロイメライ』、聴いた事はあるだろう?」
「ええ。優しい、心の落ち着く旋律ですね」
「ああ。ドイツ語で夢想とか白昼夢って意味だけれど、僕には他のイメージが浮かぶんだ」
「それは?」
「ドイツ語で肉屋の事をメツゲライ、乳製品屋をモルケライっていうんだ、その連想で僕にはトロイメライと言われるとなんとなく夢を売っている店ってイメージが広がってしまうんだ」
拓人はその羽毛のような髪を少し揺すらせていたずらっ子のように笑った。
どんな店なんだろうと瑠水も思った。でも、いま思えば、拓人自身が瑠水に夢をくれたのだった。彼が教えてくれたのだ。真樹が扉を叩いてくれるのを半ばあきらめつつ待つのではなくて、強く確信を持って愛し続ける事を。瑠水の立ち止まったままだった背中を、彼とその音楽がそっと優しく押してくれたのだ。それから一度に開かれた扉。瑠水は願い続けていた真樹のいる人生を手にする事ができた。そして、大切な自然と世界のために働く一歩も踏み出す事ができた。
「それで。みなさんへのご挨拶は終わったのか」
一が訊いた。
「ええ。急だったから、異動までに逢えなかった人も多かったし。でも、ちゃんと言ってきた。お父さんも、ごめんね。無理に引っ越しの手伝いに来させちゃって」
「俺はいいよ。それより、相談もなく決めたと早百合が激怒していたぞ」
「わかってる。でも、お姉ちゃんに相談すると反対されるから……」
瑠水は下を向いた。一が瑠水の頭を撫でた。それだけで、瑠水は父親が自分の紆余曲折を否定せずに見守り、決定を後押ししてくれている事を感じた。母親の摩利子も暖かく迎えてくれた。樋水村の人びとも、樋水川も、龍王神社も、全てがあるがままの自分を受け入れてくれている事を感じた。そして、真樹も。
東京で何があったを真樹は訊かなかった。ただ変わらずに愛してくれた。瑠水は自分の行動が、受身な態度が、多くの人たちを傷つけた事を少しずつ理解していた。だから、その分も自分がつかんだ幸せをずっと大切にしようと思った。
「お父さん、ありがとう」
「ん? なんだいきなり」
「シンと結婚するなんていきなり言って、びっくりしたでしょう?」
「う~ん、どうだろう。俺は、お前がシン君と逢った頃から、きっとこうなるんじゃないかと思っていたからなあ」
田中が納得した顔で、瑠水の前にカクテルグラスをそっと置いた。淡いクリーム色、細かい泡が聞こえないほどの小さな音を出していた。ひと口含むと、柔らかい甘さが舌に広がった。爽やかな香りとともに飲み込むと、わずかにガリアーノリキュールの苦さが引き締めた。泣いていた東京の夜景、瑠水を許して受け入れてくれたピアノを弾く人の嘆き。
「お父さん。心配かけた分、これから一生懸命、親孝行するね」
瑠水が言うと、一はもう一度、娘の頭を撫でた。
「俺やお母さんの事はいいんだよ。シン君を大事にして、幸せになれ。お前たちが島根で所帯を持ってくれて、俺は嬉しいよ。住むのはシン君の工場のある出雲にするのか、それともお前の勤める松江?」
「えっと、間をとって宍道あたりにしようかと思っているんだけれど。明後日お社に結婚式の相談に行くんだけどね、シンが今日電話したら武内先生が住む所の事でも話があるっておっしゃっていたんだって。もしかしたら別の所を紹介してくれるのかもしれない」
一は「えっ」と言う顔をした。妻の摩利子なら「あのタヌキ宮司、何を企んでいるのかしら」とでも、いうところだ。
でもなあ、シン君と結局は一緒になったし、俺たちがヤキモキした所でどうしようもないよなあ。
瑠水は神妙な顔をしてクリーム色のカクテルを飲んでいた。優しい色をした酒は、親子のつかの間の時間を優しく包んでいる。一が東京で飲むならぜひここに行きたいと言ったわけがわかったような氣がした。拓人が弾いてくれた『トロイメライ』のように、心を落ち着かせてくれる柔らかさがある。ああ、「夢を売ってくれる店」って、こういう所なのかもしれないな。
ゴールデン・ドリーム(Golden dream)
標準的なレシピ
ガリアーノ - 20ml
コアントロー - 20ml
オレンジ・ジュース - 20ml
生クリーム - 10ml
作成方法: シェイク
(初出:2014年4月 書き下ろし)
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【小説】夜のサーカスと赤いリボン - Featuring 「物書きエスの気まぐれプロット」
本日発表する小説は、40,000Hit記念の第二弾で、山西左紀さんさからいただいたリクエストにお答えしています。いただいたお題は「ダンゴ(という左紀さんのオリキャラ)を使って何か」でした。サキさん、リクエストありがとうございました。
左紀さんの「ダンゴ」の出てくる小説 物書きエスの気まぐれプロット8(H1)
さて、こう来たからには、やっぱり「夜のサーカス」とのコラボでしょう。(どこがやっぱりなのか?)ご希望に添えたかどうかはちょっと疑問なのですが、少なくとも発表日にだけはこだわってみました。今日はサキさんのお誕生日です。だから、うちの看板キャラたちをかなりたくさん出演させて、作品を書いてみる事にしました。
サキさん、Happy Birthday! 健康で楽しい事のたくさんある一年となりますように。(追記:そして、オリキャラのエスも今日がお誕生日だそうです。おめでとうございます!)
「夜のサーカス」番外編
夜のサーカスと赤いリボン
- Featuring 「物書きエスの気まぐれプロット」

今日のアントネッラは挙動不審だった。もともと彼女は世間が期待するような挙動はあまりしていないのだが、いつもと違って今日はコモの町中にいたので、人眼を惹いた。彼女はあまがえる色の日本製バイクの前に立って、あっちから覗き込んだり、こっちから眺めたり、かれこれ十分もそのバイクの前にいた。
バイクの持ち主は、ちかくのバルでのんびりとコーヒーを楽しんでいたのだが、明らかにモーターサイクルファンとは違う様相の女が自分のバイクの前でウロウロしているので、不安になり、ずっとアントネッラの動きに注目していた。
さらに十分ほど眺めた後、アントネッラは自分に宣言した。
「これを書くのは、私には無理だわ」
アントネッラはブログで小説を書く友達エスからのリクエストを受けていた。お題は「ダンゴを使って、何か物語を書いてほしい」だった。ダンゴというのは、エスの小説に出てくる女の子だ。一体何の因果でそんなニックネームを頂戴する事になったのか、エスの小説ではまだ詳らかにはなっていない。そもそも「ダンゴ」とはどういうものなのか、イタリア人のアントネッラには今ひとつ理解できていない。辞書で調べるとコメの粉を原料とした球形のケーキのようなものという事なのだが、場合によってはジャガイモなど他の原材料でも作るし、鼻の形容にも使われるとあり、ますます何を指しているのかわからなくなった。しかし、エスの小説によると髪をポニーテールにした可愛い女の子のようなので、たぶん球形の食べ物と外形上の因果関係はないのであろう。
この他に、小説ではダンゴのボーイフレンドと予想される青年が出てきた。ケッチンというニックネームで、こちらはどの辞書にも出てこない単語だった。もっともアントネッラの検索能力は非常に低いので、日本語で「ケッチン」が意外と知られた単語である可能性もないわけではなかった。そのケッチンはかわいいダンゴの姿を褒める事もせずにバイクの事を話すのだが、この関連でアントネッラはコモの街にまでできてバイクを観察する事になったのだ。
バイクに関する小説を書く事を放棄したアントネッラは、そのまま湖畔沿いにゆっくりと歩き、書くはずだった自作小説「夜のサーカス」のことを考えた。「チルクス・ノッテ」というサーカス面白い題材を発見して、その人間模様を書いた長編小説をずっと温めてきたのだ。でも、その小説はお蔵入りになりそうだった。なぜならその主人公のモデルにあたる青年のことを好奇心から調べているうちに、意外な事実が明らかになりドイツ警察も巻き込んだ大事になってしまったからだ。アントネッラがこの小説を発表すれば、モデルとなった青年の事を書いていると多くの人にわかってしまう。それで泣く泣く原稿をくずかごに放り込んだばかりだったのだ。
「そうだ! だったら、せめてこの短編にはあの二人を出そう。それがいいわ」
アントネッラは急いで自分の部屋に戻ると、古いコンピュータの電源を入れて、あまり上手く入力できないキーボードを叩くようにして、作品を書き出した。
ステラはヨナタンと湖畔の道を歩いていた。この春のように穏やかな暖かい心持ちでの散歩だった。たくさんの言葉は必要ではなかった。キラキラと輝く湖水が世界を祝福しているようだった。ステラは高く結ったポニーテールを二つに分けてぎゅっと左右に引っ張った。キラキラ光る金髪をまとめたゴムが締まって、きもちまでも引き締まったように思えた。ステラはお氣に入りの赤いリボンをしていた。サーカス「チルクス・ノッテ」に入団して、最初のお給料で買った思い出の品だ。大好きなヨナタンが道化師の扮装をして掲げる紅い薔薇を思わせる色だった。
少し先の方に、小さな人だかりがてきていた。
「なんだろう。ヨナタン、行ってみない?」
青年は黙って微笑んだので、ステラはとても嬉しくなって駆け出した。
近づいてみると、そこには四人組の大道芸人がいて二人はフルートを、一人はギターを奏で、その真ん中で青年が見事なテノールで歌っていた。
「あ、この曲、知ってる……何だっけ……」
「ドリーゴのセレナーデ」
ステラの問いかけに、ヨナタンは小さな声で答えた。
「『百万長者の道化師』とも言うんですよね」
突然、横から東洋人風の女の子が口を挟んだ。ステラは「まあ!」という顔をしてヨナタンを見たが、その「まあ」に含みを感じたヨナタンは露骨にイヤな顔をした。
ステラは慌てたように、東洋人の女の子の方を向いて話しかけた。
「こんにちは。あなたは旅行中なの?」
女の子はにっこりと笑った。深緑と茶色のジャケットのポケットに両手を突っ込み、飾り氣のない少年のようないでたちで、セミロングの髪も無造作に後ろで束ねてあるだけだ。でも、笑うと形のいい唇の口角が上がって女の子らしくなる。微かに色のさしたふっくらとした頬が柔らかそうだ。
「日本から来たんです。ダンゴって、みんなに呼ばれています」
ステラは大きく握手をしてダンゴに笑いかけた。
「私はステラよ。こちらはヨナタン。私たち、サーカスで働いているのよ」
「わたし、あなたを知っています。昨夜、サーカスを観に行ったんです。あなたのあの演技、とても素敵だったわ。なんていうのかしら、あの演目……。布を体に巻き付けてそれを飛ぶみたいな……」
「エアリアル・ティシューって言うのよ。見てくれてありがとう。このヨナタンは、ジャグリングをしていた道化師なの」
ダンゴの差し出した手をヨナタンも握って微笑んだ。「道化師の曲にぴったりね」ダンゴがそういうとヨナタンは肩をすくめた。
「ダンゴは一人で旅をしているの?」
「そうなんです。でも、短い旅で、すぐに帰るんです」
「どうして?」
「とても大切な人の誕生日がすぐなの」
「まあ、おめでとう!」
「伝えます」
ダンゴはうつむいて小さく笑った。それからステラとヨナタンを眩しそうに見て、それから何度かとまどってから、ようやく口を開いた。
「お二人、とても仲がいいんですね」
ステラとヨナタンはびっくりしたように顔を見合わせたが、何でもないようにヨナタンが微笑むとステラはにっこりと笑って言った。
「そうなの。あのね、私がヨナタンの事を大好きでアタックしまくっているの。それをわかって、ヨナタンは優しいから一緒にいてくれるのよ」
それからダンゴの耳に口を近づけた。
「もしかして、ダンゴは誰かと仲良くしたいの?」
ダンゴはじっと下を向いた。そんなことは、自分では思っていなかったし、そう意図して訊いたわけでもなかった。でも、そういわれてみると、もしかしてステラに訊きたかったのはその事だったのかもしれないと思った。
ステラはとても嬉しそうに笑った。
「答えなくていいの。あのね。おまじないを教えてあげる。もしかして、ずっと後の事だけれど、だれかと仲良くしたくても勇氣が出ないようなことがあったら、つかうといいわ」
それからポニーテールに手を当てると、するっとサテンでできた赤いリボンをぬいた。
「ほら、綺麗でしょう。ミラノで買ったの。これをしているとね、とても可愛い女の子になれるの。大好きな人の前に立って、ほら見て、可愛いでしょうって言いたくなるのよ。赤はハートの色なの」
そういうと、さっとダンゴの髪の周りに赤いリボンをかけて、カチューシャのようにし、右の上の方に蝶結びをした。ダンゴの顔が、花が咲いたように明るくなった。ほらかわいい。ステラはにっこりと笑った。
「普段は男の子みたいでもいいの。でもね、この世にはセクシーできれいな女の人や、優しくてかわいい子がいっぱいいるでしょう? だから、いつも男の子みたいにしていると、男の子にとって透明になっちゃうの。だから、ここぞって時には可愛い女の子だよって、アピールしないと忘れられちゃう。ダンゴは足も綺麗だから、ミニスカートも似合うのよ」
ダンゴはびっくりして手を振った。ミニスカートなんて履こうと思った事もなかった。
ステラはダンゴの反応におかまいなしにどんどんと続けた。
「一度で氣がついてくれなくてもがっかりしないでね。なんどもなんどもしつこくアピールしたら、きっと氣づいてくれるから」
それを聞いて、ヨナタンはやれやれという風に天を仰いだ。ダンゴは本当なんだと思っておかしくなった。
「さあ、ダンゴの大事な人のお誕生日の前祝いをしてもらいましょう!」
ステラはダンゴの腕をとって、大道芸人たちの前に連れて行った。ヨナタンがギターケースの中に五ユーロ札をそっと置いた。ステラが四人の大道芸人たちに耳打ちすると、四人は大きく頷いて、演奏を始めた。
Tanti Auguri a te,
Tanti Auguri cara S,
Tanti Auguri a te!
Happy birthday to you.
Happy birthday to you.
Happy birthday dear サキさん.
Happy birthday to you!
(初出:2013年3月 書き下ろし)
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【小説】第二ボタンにさくら咲く
そして、テーマが合うので、先日「自由に使っていいですよ」とおっしゃっていただいたユズキさんの桜の絵で華やかにさせていただこうと思います。ユズキさん、どうもありがとうございます。
第二ボタンにさくら咲く
— Thanks for Shana-San

このイラストの著作権はユズキさんにあります。使用に関してはユズキさんの許可を取ってください。
桜が咲いてしまった。入学式ではなくて、卒業式に。今年は、例年になく早い。だが、それ以外は毎年と変わらない。三年間、この高校で学んだ子たちが、巣立って行く。嬉しいような、寂しいような。
「あおげば尊しわが師の恩、か」
歌いながら涙ぐんでいるあの子たちは、友達との別れは悲しんでいるようだが、歌詞に歌われている「師の恩」そのものはどうでもいいようだ。世話になりまくった担任はともかく、一介の国語教師の僕に何の感慨もないのは、まあ、しかたない。
僕は特に出番もなくてヒマだったので、講堂にずらっと並んだ卒業生を一人一人眺めていた。生徒会長を務めた沢田は答辞を読むので最前列にいる。妥当だな。お、やんちゃで有名だった川田の髪が黒く染まっている。就職したっていうのは本当だったらしい。その後ろには、ああ、モテ男の荘司だ。このあとの第二ボタン争奪戦が見物だろうな。
その斜め後ろには、後藤加代が座っていた。彼女も卒業だったかと思うと、少し胸が痛んだ。いや、もちろん教師の僕が高校生の彼女に邪な感情を持っているわけじゃない。だけどなあ。
本人に告白された事はないが、なぜか複数の人から加代が僕のファンだというようなことを聞かされていた。自慢じゃないが、六年の教師生活で僕が女生徒に憧れられた事はこれまで皆無だったし、これからもないだろう。体操で国体に出場経験がある体育教師の吉川や、憂いを含んだ横顔が腐女子に受けている数学の新城は、バレンタインデーでいつも大量のチョコをもらい、僕ら全くもらえない奴らにお裾分けをする余裕もある。だが、僕は背も高くないし、顔は十人なみ、教えているのも生徒の嫌がる古文と、モテる要素は皆無だ。
後藤加代は大人しいがしっかりとした印象の子で、成績もそこそこ優秀、クラスに上手く馴染めないでいた同級生を誘ってやるなど、クラス運営に頭を悩ませていた担任からも頼りにされている子だった。
変な噂は、加代が毎回古文だけ百点を取り続けたところからはじまった。古文の眉村に熱を上げているからだって。それから、「源氏物語」の現代語訳を買うとしたらどれがいいかと質問にやってきたり、クラスメイトの田中真知子の赤点の補習につき合って放課後残ったりしたもので、ますます噂が広まった。でも、バレンタインデーにチョコレートくれなかったし、ただの噂だろう。それでも、卒業してしまうのは残念だな。わりと可愛いし。いや、なんて事を考えているんだ。いかんいかん。
在校生の歌は悪くなかったし、沢田の答辞もなかなか立派だった。女の子たちは例によってすすり泣き、感動的に卒業式が締めくくられた後、講堂は空になった。
校庭は春のうららかな光に満ちていて、風で桜の花びらが黒い学ランや、ブレザーの上に散っていく。僕は校舎に戻る前に花見を兼ねて桜の並木を歩いた。そこから見える校庭の一部では、予想通り学年一のモテ男、テニス部の荘司が後輩たちに囲まれていた。プレゼント攻勢にあっているらしい。羨ましい事だ。
と、目の前の桜の陰に後藤加代がいた。何、こいつも荘司狙いだったか!
「卒業おめでとう。後藤、こんな所で何しているんだ?」
「あ、眉村先生。ありがとうございます。でも、大きな声立てないでくださいよ」
「いや、悪い。なんだ、荘司に用があるんじゃないのか」
そういうと加代は悪びれもせず肩をすくめて言った。
「ええ、第二ボタン、狙っている所です。ううむ、ちょっと形勢不利な感じ」
僕は著しくガッカリした。いや、加代とどうこうなりたいとかそういう事ではなくて、ブルータス、お前もかって心境だ。ま、冴えない国語教師に憧れてくれる女生徒なんているわけないよな。だが、そう思えば思うほど、ここでいい所を見せてやりたくなった。
「よし、先生に任せとけ」
「え?」
桜の陰に加代を残したまま、僕は果敢に荘司と女の子たちのもとに歩いていった。
「こらこら。君たち、何をしているんだね」
「あ、眉村センセー。やばっ」
女の子たちが慌てる。先日の職員会議で決定した卒業式のプレゼント禁止の現場を押さえられた後ろめたさがある。もちろん、この決定は年々華美になる卒業生へのプレゼントを抑止するためにしただけで、誰も本当に禁止しようなんて思ってもいない。だが、今回は、これを利用させてもらおう。
「はい。全部没収。荘司、お前は生徒指導室で説教つき」
「ええ〜!」
女の子たちの非難の声と荘司の不満そうな顔。そりゃそうだろう。
大人しくついてきつつも、荘司は僕に話しかける。
「眉村センセー、きついっすよ。ほら、あの子たちだって悪氣はないと思うし。それに、俺がなんで怒られるの?」
「うるさい。みせしめだ。それとも取引するか?」
「取引って、なんの?」
「無罪放免+このプレゼントも持ち帰ってもいい。その代わり、お前の第二ボタンをよこせ」
荘司はぎょっとしたように立ちすくんだ。
「センセー、ロリコンじゃなくて、もしかして、そっちのケがあるわけ?」
「バカっ! ロリコンでもなければ、男にも興味はないっ! 事情があって、お前の第二ボタンをとある女性のために狩る事になっただけだ!」
荘司は「はあ」と氣のない顔をしたが、無罪放免に加えて大量のプレゼントも戻って来ると知り、悪い取引ではないと思ったらしい。大人しく第二ボタンをブチッと引きちぎると僕のスーツのポケットにつっこみ、プレゼントの入った紙袋を奪うようにして走っていった。
呆然としたが、氣を取り直してポケットを探ると、ちゃんと糸のついたままの第二ボタンが入っていた。金色の安っぽいボタン。こんなもの、なんで女は欲しがるかなあ。
振り向くと桜の下で後藤加代が待っていた。花びらがひらひらと舞って、柔らかい黒髪が風に揺れていた。僕はゆっくりと歩み寄って、彼女のふっくらとした綺麗な手のひらに、戦利品のボタンをぽんと置いた。ありがとう、三年間だけでも、モテる教師になったような幻想を抱かせてくれて。これが僕にできる精一杯のお礼だ。
「ありがとう、先生! きっと、真知子、大喜びするわ。絶対無理だって泣いていたから、奪ってきてあげるって、約束しちゃったの」
そういうと、加代は手を振りながら走り去っていった。それだけの事で、僕は再び浮上した。我ながらしょうもないと思った。
いい人生送れよ。それに荘司みたいなチャラチャラしたのじゃなくて、いい男をみつけろよ! 桜は僕の心にも春を持ってきた。
(初出:2014年3月 書き下ろし)
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- 【小説】北斗七星に願いをこめて - Homage to『星恋詩』 (15.09.2013)
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【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 森の詩 Cantum silvae
「scriviamo! 2014」の第十二弾です。ユズキさんは、「大道芸人たち Artistas callejeros」の四人を描いてくださいました。ありがとうございます。

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。
ユズキさんの描いてくださったイラスト scriviamo! 2014参加作品
ユズキさんは、素晴らしいイラストと、ワクワクする小説を書かれるブロガーさんです。私はユズキさんの書かれるキャラのたった女性や、トップ絵に描かれるクールな女性が大好きなのですが、版権ブログの方でお見かけする突き抜けたおじさんキャラやデフォルメした動物キャラも素晴らしくて、自由自在な筆のタッチにいつも感心しているのです。すごいですよ、本当に。
そして、そのユズキさんが、どういうわけだかうちの「大道芸人たち」と氣にいってくださいましてファンアートをどんどん描いてくださるのです。もう、これはモノを書いている人ならきっとわかってくださるかと思いますが、夢のまた夢ですよ。ああ、生きていてよかった。恥を忍んで公開して本当によかったと思います。
そのユズキさんが今回のために描いてくださったのは、なんと森の中で演奏する四人。この深い森のタッチをどうぞご覧ください。ええ、これは私、はまりました。ユズキさんはご存じなかったのですが、「scriviamo! 2014」が終わり次第連載をはじめようとしている新作「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」にどっぷりはまっている私には、これはその新作の森《シルヴァ》にしか思えなくなってしまい……。そして、新作宣伝モードに……。ユズキさん、わけがわからないことになりましたが、どうぞお許しください。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
「scriviamo! 2014」について
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大道芸人たち 番外編
森の詩 Cantum silvae
——Special thanks to Yuzuki-san
「何それ」
蝶子はレネが持っているというよりは、バラバラにならないように支えている、古い革表紙の小さな手帳のように見えるものを指した。
「昨日、街の古い書店で見つけたんです。ずいぶん長い時間を生き延びてきたんだなと思ったら、素通りできなくて。嘘みたいに安かったんですよ」
「お前、それ読めるのか? ずいぶん古めかしい字体だし、何語なんだろう」
稔が覗き込んだ。
「大体の意味はわかりますよ。ここは、ラテン語です」
「ラ、ラテン語?」
レネがドイツ語やイタリア語、はてはスペイン語の詩も読んで頭に入れているのは知っていたが、会話の方は大したことがなかったので、まさかラテン語ができるほど学があるとは夢にも思っていなかった稔は心底驚いた。
「いや、フランス語はラテン語から進化したので、ヤスが思うほど難しくないんですよ。それに、この本の中でラテン語なのは詩だけで、残りの部分は古いフランス語なんです。しかも僕はこの詩を前から知っているんですよ」
そういうと、すうっと息を吸ってから朗々と歌いだした。
O, Musa magnam, concinite cantum silvae.
Ut Sibylla propheta, a hic vita expandam.
Rubrum phoenix fert lucem solis omnes supra.
Album unicornis tradere silentio ad terram.
Cum virgines data somnia in silvam,
pacatumque reget patriis virtutibus orbem.
「ああ、それか」という顔をして、ヴィルがハミングで下のパートに加わった。蝶子と稔は顔を見合わせた。全然聴いたことがなかったからだ。それはサラバンドに近い古いメロディだった。
「あなたも知っているの?」
蝶子はヴィルの顔を覗き込んだ。
「ああ、今から十五年くらい前かな。とある修道院から、四線譜に書かれたこの歌の羊皮紙が発見されて、ヨーロッパ中でセンセーショナルに取り上げられたんだ」
「なんでセンセーショナル?」
稔が首を傾げると、レネが説明をしてくれた。
「だれもが知っている古いおとぎ話に関連するものだったからですよ。『Cantum Silvae - 森の詩』というサーガで、ヨーロッパの中央にあった、おそらくは黒い森を中心とした荒唐無稽な数世代にわたるストーリーなんです」
ヴィルが続ける。
「その話は、口承の形では断片的に残っていて、15世紀の文献にも言及があったんだが、それまでは17世紀以降の伝聞による作品しか現存していなかったんだ。で、南フランスの修道院で出てきた羊皮紙はもっとも古い、オリジナルに近い文献だということで大騒ぎになったんだ」
「僕たちは子供の頃から親しんでいた物語だから、興奮しましたよね」
「ああ、で、学校の催し物でも生徒にこの曲を歌わせるのが流行ったな」
蝶子と稔は再び顔を見合わせた。
「有名なのね。いったいどんな話なの?」
「馬丁から出世したフルーヴルーウー辺境伯の冒険……」
「麗しきブランシュルーヴ王女と虹色に輝く極楽鳥の扇……」
「
「ああ、一角獣に乗った黄金の姫の話もありましたよね!」
ヴィルとレネが懐かしそうに次々と語るその話は、日本人の二人には初耳だった。
「う~ん、ありえない度で言うと、古事記みたいなもんか?」
「そうね。聞いた事もない国の名前に、変わった姫君たち。ファンタジーかしらね」
ヴィルがレネの古本を覗き込んだ。
「で、古フランス語の本文は何が書いてあるんだ?」
レネは嬉しそうにめくりながら語った。
「《一の巻 姫君遁走》か。ああ、これは
ジュリアは行く手の樹木の間から煙を見た。ジプシー。聖アグネスの祭りだ。彼らは侯爵夫人の喪になんか服さないだろう。
森の空き地に数台の幌馬車が停まり、炎の周りでジプシーたちは踊っていた。ジュリアには誰も氣に留めずに、めいめいで歌ったり踊ったりしているので、少しずつ中に入っていった。やがて一人の老女がじっと見つめているのに氣がついた。
「バギュ・グリの姫さんが何の用かね?」
老女は言った。
「あたし、お前に会ったことないけれど」
「私らは何でも知っているよ」
「嘘ばっかり。私がなぜここに来たかわからないくせに」
「知っているともさ。お前は別れに来たんだよ」
「誰とさ」
「全てとね。まず、その男物の服をなんとかしよう。それでは踊っても楽しくないだろう」
「そうね。でも、こうしていないと男どもが寄ってくるのよ」
「悪いことじゃあるまい。寄ってくる男どもをあしらうのは、女の楽しい仕事さ。それともダンスもできない方がいいのかね」
「わかったわ。この服とはお別れしよう。私を変身させて」
老婆はジュリアを幌馬車に連れて行った。再びジュリアが出て来た時ジプシーたちはもはや彼女に無関心ではいられなかった。薄物を纏い、しなやかに歩み出る彼女は深夜の月のようだった。彼女は踊り始めた。その悩ましさは例えようもない。ジュリアにとってもこの夜は麻薬だった。踊りの恍惚。自分が誰かも忘れ、夢の中にいるように狂った。
深夜に老婆は緑色に透き通る液体を差し出した。
「これをお飲み。聖アグネス祭の今宵、お前さんは愛する男を夢に見るだろう」
ジュリアは口の端をゆがめて言った。
「あたしは誰も愛していないわよ。嫌いな男ばっかり」
「だからこそ、この薬が必要なんじゃ」
ジュリアは受け取って一息で飲んだ。強い酒だった。
「へえ。こういう話なんだ」
「そう。この後、ジュリアは世にも美しい馬丁と結ばれるんですが、そのままジプシーに加わっていなくなってしまうんです。姫と別れた馬丁のハンス=レギナルドは、森を彷徨ってからグランドロン王国にたどり着き、そこでレオポルド一世に仕えることになるんですよ」
「何世代か後に、レオポルド二世とルーヴラン王女の婚姻話が持ち上がるんだったな」
「そうです。《学友》ラウラがその王女に仕えていて……」
「わかった、わかった。思い出話が長くなりそうだ。それってこういう森を舞台に話が進むんだ?」
四人は、森の中をゆっくりと進んでいた。黒い森ではなくて、アルザスにほど近い村はずれの森で『森の詩』に謳われている《シルヴァ》に較べると林に近いものだったが、浅草出身の稔にとっては十分に深い森だった。
木漏れ陽がキラキラと揺れている。四人が下草を踏みしめながら進んでいくと、よそ者の訪問に驚いたリスや小鳥が、大急ぎで移動していくのがわかる。時おり、松やにのような香りが、時には甘い花の芳香も漂ってくる。
「そうですね。《二の巻》の主人公、マックスは森を旅していましたよね」
「人里にいる時の方が多かったぞ」
「ああ、それにラウラはお城で育っていましたよね」
「でも、『森の詩』なの?」
「そうなんです。森は話の中心ではないけれど、いつもそこにあって、人びとの生活と心の中に大事な位置を占めているってことだと思うんですよね」
「当時は、今ほど文明が自然と切り離されていなかったってことなんだろう」
ヴィルが言うと、レネは深く頷いた。
「この歌そのものが『Cantum Silvae - 森の詩』といって、グランドロン王国で祝い事がある時には、必ず歌って踊ったと伝えられている寿ぎの曲なんです」
「じゃ、せっかくだからそのメロディを演奏してみましょうよ。そんなに難しくなさそうだし」
蝶子が鞄を開けて青い天鵞絨の箱からフルートを取り出した。ヴィルも自分のフルートを組立てる。
「サラバンド風か。ちょっと風変わりに、三味線で行くか」
稔がいうと、レネは嬉しそうに頷いて、本をそっと太陽に向けて掲げ、伴奏に合わせて歌いだした。それはこんな意味の歌だった。
おお、偉大なるミューズよ、森の詩を歌おう。
シヴィラの預言のごとく、ここに生命は広がる。
赤き不死鳥が陽の光を隅々まで届け、
白き一角獣は沈黙を大地に広げる。
乙女たちが森にて夢を紡ぐ時
平和が王国を支配する。
(初出:2014年2月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 黄昏のトレモロ - Featuring「Love Flavor」
「scriviamo! 2014」の第十一弾です。栗栖紗那さんは、純愛ラノベ「Love Flavor」本編の最新作でご参加くださいました。ありがとうございます。
栗栖紗那さんの書いてくださった作品 Love Flavor 007 : "感情?"
栗栖紗那さんは生粋のラノベ作家ブロガーさんです。この方もブログでの小説交流をはじめたもっとも古いお友だちの一人で、書いているもののジャンルが全く違うにもかかわらず、積極的に絡んでくださる嬉しいお方です。紗那さんらしい人氣作品では「グランベル魔法街へようこそ」や「まおー」などが有名なのですが、私としては、この学園青春ラノベだけれど、ちょっと深刻なものも含まれる「Love Flavor」を一押しさせていただきます。この作品に絡んで去年のscriviamo!で東野恒樹というオリキャラを誕生させて書きましたし、その後も「リナ姉ちゃん」シリーズと共演していただくなど、うちの作品とはとても縁が深いのです。
さて、今回は「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」に絡んで、うちのオリキャラ結城拓人をなんと本編の中に出していただきました。お返しをどうしようかなと思ったのですが、さすがに拓人と蓮さまや紗夜ちゃんがバッタリ出会うというのは難しいので、紗那さんの作品の中に出てきた一セリフに飛びついて、全然違う話を作らせていただきました。実は、拓人が失恋した時期と、うちのとあるキャラが失踪した時期、ほぼぴったりなのですよ。そういう訳で、「大道芸人たち」外伝、お借りしたのは今年も再び白鷺刹那さまです。
【大道芸人たちを知らない方のために】
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あらすじと登場人物
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大道芸人たち 番外編
黄昏のトレモロ - Featuring「Love Flavor」
——Special thanks to Kuris Shana-san
「ち。上手くいかない」
普段、表ではまず口にしない乱暴な舌打がでてしまった。もし、彼女を知っている人がそれを見たらぎょっとしたことだろう。たとえば、数年前にティーンエイジャー向けのファッション雑誌の愛読者だったなら彼女を知らないということはありえない。そうでなくても蜂蜜色の髪と日本人離れしたスタイルは容易にかつて出演していた広告を思い出させるので、名前は知らなくてもあの人だとすぐに氣付かれる。だからモデルとしての活動をやめても、白鷺刹那は表ではかつてのように女らしく麗しく振る舞うのを常としていた。
しかし、今日はすっかりそれを忘れていた。ここは町内の小さな公園、午前中には若い母親たちが我が子を連れて社交に精を出すが、この夕暮れには誰も見向きもせず、刹那がギターの練習をするには格好の場だった。
刹那はギターをはじめてまだ二ヶ月だ。最初はいくつかコードを弾けるようになってそれで満足していた。同時にベースもやっていたのでそちらにまずは夢中になった。だが、どうもギターの他の奏法が氣になってきて、ここのところはクラッシックギターを練習している。アルペジオ奏法はそんなに難しくなかった。セーハが上手くいかなかったので、途中のレッスンを飛ばして「アルハンブラ宮殿の思い出」を弾こうとした。だがこちらもそう簡単にはいかなくて苛立っていた。
「何やってんだ?」
刹那が顔を上げると、そこに男が立っていた。黒髪がツンと立った男で、歳の頃は二十代の終わり頃だろうか。刹那をというよりは、刹那の右手を見ていた。
「上手く弾けないのよ、やになっちゃう」
刹那は乱暴な言葉遣いを聴かれたと思ったので、やけっぱちになって半ばふてくされるように答えた。
「ギターはじめてどのくらいだ?」
「二ヶ月。独学なの」
男は呆れたというように空を見上げた。
「そんな早くトレモロは弾けないだろう」
「なんで」
「訓練しないと全部の指に均等に力が入らないんだ。毎日やっていればそのうちにできるようになるよ」
刹那はすっと立つと男にギターを差し出した。
「そういうからには、あなたは弾けるんでしょう。やってみてよ」
男は素直に受け取ると、刹那の立ったベンチに座るとギターを構えて静かに弾きだした。はじめの音からすぐに脱帽ものだとわかった。刹那が上手く動かせない右の指は軽やかにけれど均等に弦を弾いて、アルハンブラ宮殿の陽光に煌めく噴水を表現しはじめた。トレモロの部分だけでなく、その下を支えるメロディもしっかりと歌っている。
刹那は、その演奏を黙って聴いていた。まだ肌寒い公園には、樹々も葉を落とし眠っているが、刹那と男の周りだけは夏のアンダルシアの幻想が広がっていた。しかも、それはそれだけではなかった。遠い憧れや、哀しみや、それにそれだけでない何かも表現されていた。今までに何度も聴いた「アルハンブラ宮殿の思い出」の演奏とは違う、特別な演奏だった。強い感情が感じられた。上手い人間が単純にギターを弾いているのとは違った。
演奏が終わると、五秒ほど放心したようにギターの弦を見ていたが、男はゆっくりと立ち上がってギターを刹那に返した。
「こういうわけだ。長く続けていけばそのうちに弾けるようになるよ。もっとも、あんた忙しくて練習する時間ないかもしれないけれど」
それを聞いて刹那は首を傾げた。
「ボクを知っている?」
「あん? まあな。モデルの白鷺刹那さん。知らないヤツの方が珍しいだろ。あ、俺はただの一般人で、安田稔っていうんだけどさ」
刹那はため息をついた。
「もうモデルやっていないんだけれどね」
「ああ、最近、あまり見ないと思ったら、そうだったんだ」
「ねえ、安田さん、あの、唐突に失礼だけど……」
「なんだ」
「う〜ん、やっぱやめる」
「なんだよ、言えよ」
「わかった。演奏で思ったんだけれど、あなた、何か悩んでいるんじゃない?」
刹那がそういうと、稔はぎょっとした顔をして、それから再び青空を眺めた。
「そんな音していたか」
「音、かな……。それとも表現……ううん、顔の表情で思ったのかも。とにかく、単に公園でギターを爪弾くっていうのとは全然違っていた。すごく上手だったけれど、演奏って言うのを通り越して、まるで迷って苦しんでいるみたいだった」
稔は刹那のギターをじっとみつめたまま言った。
「わかるもんだな……。俺さ、ギターで身を立てたいってずっと思っていたんだけれど、その夢におさらばしたばっかりなんだ」
「どうして? そんなに上手いんだから、あきらめることないのに」
刹那の強い言葉に、稔は口を歪めた。
「ありがとう。でも、どうしようもないんだ」
「もし、ギターが本職じゃないなら、ふだんは何をしているの? サラリーマン?」
「いや、津軽三味線弾き」
刹那は目を丸くした。
「両方弾けるってすごくない?」
「ギターの方は趣味だったんだ。君と同じで独学。でも、三味線は家業だから、流派のことや後継者のことが絡んでいる。俺一人の問題ではなくなっている。ギターで食っていきたいと言っても、そう簡単にはいかないんだ。それに……」
刹那が首を傾げて続きを促すと、稔は横を向いた。
「たとえば、モデルみたいな世界だったら三百万円なんてはした金かもしれないけどさ。俺にはどうしても必要だったから、その金額で自分の未来を売っちゃったんだ」
刹那は口を尖らせた。
「モデルだって、三百万円をはした金なんて言える人はそんなにいないよ。未来を売っちゃったって、お金を受け取るかわりに、ギターをやめたってこと? どうしてもしたいことをそんなに簡単にあきらめていいの? 他に試せることはないの?」
稔は考え込んでいるようだった。刹那は続けていいの募った。
「安田さんは、ボクにトレモロは毎日少しずつ練習しなくちゃ弾けるようにならないって言ったけどさ。そのどうしても必要な三百万円だって、少しずつの積み重ねで何とかなるんじゃないの? 自分にとって大切なことをお金と引き換えなんかにしちゃダメだよ」
稔は刹那を見た。彼女は本氣で訴えかけていた。たまたま公園で知り合った通りすがりの人間にずいぶんと熱心だな、彼は少し驚いた。刹那は自分の剣幕を恥じたのか、下を向いてつぶやいた。
「どうやっても取り返しがつかなくなることもあるんだ。そうなってから後悔しても遅いんだから……」
「ありがとう。そんなに真剣に言ってくれて。本当は、その金だけの問題じゃないし、いろいろなことに外堀を埋められているのが現状だけれど……。そうだな。俺、明日から旅にでるんだ。そこでよく考えてくるよ」
「旅?」
「うん。最後のわがままって言って、ヨーロッパへの貧乏旅行に行くことを許してもらったんだ」
「ふ〜ん。アルハンブラにも行く?」
「ん? 行くかもしれないな」
「もし行ったら、そこでもう一度ボクの言ったことを考えてみて。後悔しないように。ボクは、安田さんと次に遭う時までにトレモロを練習しておくから」
稔は何かが吹っ切れたように笑った。
「わかった。じゃあ、次に遭った時は、二人で何か二重奏しようか」
公園は夕陽で真っ赤に染まった。しっかりとした足取りで去っていくその背中を眺めながら、刹那は稔の旅の安全を祈った。
(初出:2014年2月 書き下ろし)
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【小説】ヨコハマの奇妙な午後
リクエストはこの三点でした。
- ウゾさんから「エトヴェシュ・アレクサンドラ(『ヴァルキュリアの恋人たち』) + 会員制 幽霊ホテル」
- TOM-Fさんから「四条蝶子(『大道芸人たち』) + ケーキの食べ放題」
- 山西サキさんから「フラウ・ヤオトメ(『教授の羨む優雅な午後』) + サイエンスフィクション」
さてさて、こんな難しいお題をどう調理するか、けっこう悩みましたが、結局こんな風になりました。それぞれの作品から、もう一人ずつ助っ人に来てもらっています。
ヨコハマの奇妙な午後
「君に言いたいことがあるんだが、フラウ・ヤオトメ」
クリストフ・ヒルシュベルガー教授は自慢の口髭をもったいぶった様子で捻りながら、よく通るバリトンの声で宣言した。
夕はこういう教授に慣れていたので、彼の芝居がかった様式美を100%無視してアスファルトの道を前を向いて進んだ。
「私が事前に知った情報によると、君の国の女性は男性の後ろ三歩半を静々と歩み、その影を踏まないようにするのではないかね」
ヒルシュベルガー教授は歩き疲れていたし、夕の無関心な様相にも断固として異議を唱えるのが筋だと感じていた。
「お言葉ですが、先生」
夕はくるりと振り返ると両脚を肩幅に開き、腰に手をおいて胸を張った。
「確かに私はあなたの秘書ですが、現在は休暇中で、私費で日本に帰っているんです。偶然あなたが私の後ろを歩いているからって、知ったことじゃないでしょう⁈」
ヒルシュベルガー教授は夕が日本へ帰国することを聞きつけると、自分も休暇を取って、同じ飛行機に乗りこみ、澄まして同じホテルにチェックインした。前回松坂牛の鉄板焼きに連れて行かなかったことを未だに根に持っているらしい。
「そうはいっても既知の二人が異国を歩くんだ。それらしい優雅な会話を拒否するのはどういう了見かね」
「拒否じゃありません! 考え事で頭いっぱいなんです」
「また例のくだらない趣味かね?」
「くだらないですって? 小説は私のライフワークなんです。放っておいてください。それに今度のお題は本当に難しくて大変なんです。サイエンスフィクションが私に書けると思います?」
「知らんね。無理じゃないか? ところでここはどこかね?」
彼は夕のプライドを瞬時に粉々にすると、周囲を見回して訊いた。
「横浜です。港町として栄えたところです。1868年の開国の際……」
夕が説明している横を男女が英語で話しながらすれ違った。
「おかしいわね。地図によるとこの辺なんだけど」
「もう、いいですよ。パピヨン。僕がケーキの食べ放題なんて行きたがったのが間違いでした。もうホテルに帰りましょう」
「ケーキの食べ放題!」
ヒルシュベルガー教授が叫び、夕は頭を抱えた。よしてよ、このスイーツ狂が……。
「不躾に申し訳ないが、スイーツの食べ放題とおっしゃいませんでしたか?」
教授がにこやかに格調高く質問すると、切れ長の目の東洋女性はにこやかに紙を見せた。
「ええ。ホテルで見たこのチラシによると、この辺りの洋館で食べられるはずなんです。それで、来てみたんですが」
「そうですか。では私の秘書にもぜひ食べさせたいので、ご一緒させてください」
ちょっと! 私をだしにしないでよ! 夕は心の中で叫んだ。けれど、ここでスイーツの食べ放題に行かなかったら、スイスに帰国後、職場でどれだけネチネチ言われるかわからないので、大人しくついて行くことにした。
氣がつくと教授は勝手に自己紹介をしている。
「私はクリストフ・ヒルシュベルガーと言います。チューリヒで教鞭をとっている者で、こちらは秘書のヤオトメ・ユウです」
「はじめまして。私たちはヨーロッパの各地を大道芸をして回っているんです。私は日本人で四条蝶子、こちらはレネ・ロウレンヴィル、フランス人です」
夕は二人を観察した。大道芸人かあ。面白そうな人たち。小説のネタになるかも。でも、今はSFのネタの方が切実に必要なんだけど。
「おや、これじゃないのかね。いい感じに寂れた洋館があるぞ」
教授とレネが嬉々としてスタスタ近づいて入って行ったが、蝶子と夕は顔を見合わせて眉を顰めた。それは洋館には違いなかったが、少々、いやひどく傷んでいて使われているようには見えなかったのだ。
「先生、待ってください。ちょっと違うんじゃ……」
「ブラン・ベック、ちょっと! そんなに慌てて行かないでよ」
スイーツ狂の二人が勇み足で中の重い木の扉を開けるとそこは大広間で、長いテーブルと臙脂の天鵞絨の椅子がたくさん見えた。そして眩しいシャンデリアの光の下に二人の人間が居た。二人は向き合って話をしていたが、闖入者の氣配にグレーのマーメイドスカートのワンピースを着た女が振り向いた。
レネは言葉を失った。片方にまとめられた黒髪が光を反射していた。細くカーブする眉の下に黒曜石のような瞳。赤い唇も形のいい鼻も、全てが鋭利な印象だ。それはレネにスイーツ食べ放題を忘れさせる充分な効果があったが、一方ヒルシュベルガー教授には全く何の作用も引き起こさなかった。東欧の女か、そう思っただけである。
「あんた達が俺たちを呼び出したのか?」
アメリカ訛りの英語を口にしたのは、女といた屈強な男だ。緊迫している口調からすると、スイーツの食べ放題とは縁がなさそうである。あら、いい男ねえ。蝶子はニンマリと笑った。
「すみません。私たち間違って入ってきたみたいで、すぐに出て行きますから……」
夕が慌てて言ったが、扉を開けようとした蝶子が囁いた。
「ヤオトメさん、扉、開かない……」
「俺たちがどうやっても開けられなかったのに、簡単に入ってきたから驚いたが、やっぱり外からしか開けられないらしい」
「パピヨン、僕たち……」
「とじこめられたみたいね」
ヒルシュベルガー教授は憮然として訊いた。
「スイーツの食べ放題は?」
「ここじゃないみたいです」
「では、何が食べられるのかね?」
「さあな。爺さん、あんたいい肝っ玉しているな。氣に入ったぜ」
アメリカ人が言った。
「それは何より。私は君の態度を全く氣に入っていないが」
東欧風の美女が笑った。
「この人は礼儀も知らない山猿なの。おわかりでしょうけれど」
「それはそれは。私はスイス人でプロフェッサー・ドクター・クリストフ・ヒルシュベルガーと申します。お名前を伺っても差し支えないでしょうか、マダム?」
「はじめまして。エトヴェシュ・アレクサンドラ、ハンガリー人よ。こっちはブロンクスの類人猿マイケル・ハースト」
教授は礼儀正しく差し出されたアレクサンドラの手にキスをしてから夕と二人の大道芸人を紹介した。
「さて、これから何が起こるのか。俺たちを呼び出したのは誰で、脱出できるのか」
マイケルはポケットから手榴弾を取り出した。夕たちがギョッとしているのを見て、アレクサンドラがたしなめた。
「およしなさい。東京で戦争ごっこなんかやると、後始末が面倒になるわ」
「だけどさ、アレックス」
「その下品な呼び方、やめてって言ってるでしょ! 大体なんで私が東京なんかに来なきゃいけないのよ。日本人のユキヒコが来ればいいのに」
「そりゃ無理だろ。あいつ日本じゃ顔を知らない奴いないくらい有名だからさ。そこら中にあいつが携帯持って笑ってる広告が貼ってあるじゃないか。隠密になんて動けやしないだろ」
「あの、あなた達はいったい……」
レネが勇氣を振り絞りアレクサンドラに話しかけようとした時だった。全員が入ってきたのとは反対側の扉がバンッと開いて冷たい風が入ってきた。そして、奥には真っ赤でとても強い光が放たれ、六人は思わず眼を手や腕で庇いながらそちらを見た。
光を遮るように何人もの人影がこちらへ向かって来ていた。そして食べ物のとてもいい香りがしてくる。
マイケルがゆっくりと手をジャケットのポケットに忍ばせる。銃の安全装置を外すカチという音がする。だが、ヒルシュベルガー教授の顔は先ほどより朗らかになっている。
「どうやら事態は好転したようだね。フラウ・ヤオトメ」
どこが! 夕は思う。
「ほら、君の待ち望んでいたSF式の事態になり、私はあの鶏の丸焼きを食べられるってわけだ」
確かにSF調ではある。執事の制服を着たリトル・グレイに給仕してもらうのは生まれて始めての体験だ。でもこんなストーリーじゃシュール過ぎて編集に却下されるに決まっている。全然参考にならないよ!
リトル・グレイ給仕達は手際良くテーブルを整えていく。食器はどうやらマイセンのものらしい。カトラリーはピカピカ光る銀だ。グラスはバカラ。
ヒルシュベルガー教授だけでなく六人全員がもう少しここにいてもいいかなと思い出したのは、グラスに1970年代のドゥロの赤が注がれた時だった。
ふと目を上げると、いつの間にか向かいの席に誰かが座っていた。
それは明らかに生きた人間ではなかった。いや、生きてはいるようだが、ヒューマン・ビーイングとは違う種属に見えた。リトル・グレイのお仲間にも見えなかった。男か女かもわからない。ただ人型のようで、ほとんど透けているので、椅子の臙脂色が見えていた。
その誰かは、声帯を使わず六人の脳に直接話しかけてきた。
「ようこそ、横浜ゴーストホテルへ! 大変お待たせしましたが、歓迎の準備が調いました。今夜は皆様を愛と恐怖のめくるめくホーンテッドワールドへと誘わせていただきます」
六人は顔を見合わせた。ホテル? 泊まることになっている?
透けている謎の人物は続けた。
「ちょっと形式的な手続きで興醒めですが、ここで会員証をご提示いただきたいのですが」
「会員証?」
六人の声が同時に響いた。
「ほら、あれです。アルデバランの当クラブの本部で入会手続きをしてくださった時にお渡しした、ヒヒイロカネ製の小さなカードです」
「アルデバラン?」
「行きましたよね?」
六人とも首を振った。
「なんですって?」
透けた人物は立ち上がった。
入り口の扉がバーンと開いて横浜の町が見えた。
「それでは、大変恐縮ですが、今晩の御予約は取消させていただきます。ここは会員制なんですよ。まずはアルデバランに行っていただかないと」
「あーあ。ひと口だけでも飲んでおけばよかったな」
蝶子が後ろを振り向きながら言った。
「パピヨン。今晩帰れなかったら、テデスコとヤスが心配しますよ」
「そうね。でも、それもスリルがあっていいじゃない」
「それで私たちは何が食べられるんだね。フラウ・ヤオトメ」
「ちょっと待って下さい。あれ、その角に洋館がある。もしかしたら」
「ああ! パピヨン、ありましたよ! ケーキ食べ放題が」
四人が向かうのを見ていたアレクサンドラとマイケルは顔を見合わせた。
「寄って行く?」
「いいけれど、そもそも情報の受け渡しは?」
「食ってから考えようぜ、アレックス」
「だから、その呼び方やめてよ!」
六人が隣の洋館に消えたのを確認してから、執事の服を着たリトル・グレイたちはオドオドとハイパースペースへの通路を閉じ、会員証の確認をせずに部外者を入れたことへの小言をきくために上司の部屋へと向かった。
(初出:2013年11月 書き下ろし)
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愛 燦々と〜
この記事のコメント欄に早い者勝ち3名様でお申し出ください。
当ブログのオリキャラ1名+お題一つを指定してください。
ご要望をもとに掌編小説を書きます。ただし、いただいた3名様分を一緒にした大集合小説になります。キャラの出自作品は揃えなくていいです。そして、時間・空間的矛盾も無視します。当方のオリキャラの代わりにご自身のブログのオリキャラをご指定いただいても構いません。
追記 : 三名さまからのリクエストいただきましたので、締め切りました。
さて、ここからが本日の本題です。いつぞやの大流行したバトンで小説書きの皆様が「ラブラブは苦手」とおっしゃっていたので、あえて相思相愛カップルを集めて座談会決行です。
(三)こんにちは。司会に任命された遊佐三貴です。「リナ姉ちゃんのいた頃」シリーズから来ました。
(リ)同じく「リナ姉ちゃんのいた頃」出身のリナ・グレーディクよ。今日は、よ・ろ・し・く〜。
(三)なんで未成年の僕たちが司会なんだろう。
(リ)いいじゃない。ここ飲み放題なんでしょ。ワインをお願いっ。
(三)ねえちゃんっ!
(田)ああ〜、座談会ではすっかりお馴染みになりました『Bacchus』のバーテンダー田中です。司会が慣れていないみたいなんで、ご紹介しますと、未成年司会の監督役としてクリストフ・ヒルシュベルガー教授、それから、恒例の消去役の神様として招き猫神タンスの上の俺様に来ていただいています。(と、カウンターを示す)
(ヒ)勝手にやってくれたまえ。ヘル・タナカ。この牛肉のカルパッチオは絶品だね。もう少し出してくれないか。
(リ)なんで招き猫が神様なの?
(三)旧暦神在月は日本の神様はみな出雲に行っているんだよ。手が空いているのはその猫だけだったんじゃないの?
(俺)失敬なことを言うな。俺様に来てもらってありがたいと思え。
(田)あの、全然進まないので、参加者の皆さんの紹介を。
(三)あ、そうですね。まずは「大道芸人たち」から四条蝶子さんとアーデルベルト・ヴィルフリード・フォン・エッシェンドルフさんです。
(蝶子とヴィルが会釈する)
(三)「夜のサーカス」からはジュリア&ロマーノ・ペトルッチ夫妻です。
(団長ロマーノが頷き、ジュリアは手を振る)
(三)「カンポ・ルドゥンツ村」シリーズを代表しての登場は、トーマス・ブルーメンタールさんとステファン・バルツァーさんです。このお二人の男性、普段はトミーとステッフィで通っています。『dangerous liaison』というバーの経営者だそうです。
(トミーがニッコリと笑い、ステッフィは黙って頷く)
(三)最後は「樋水龍神縁起」シリーズから高橋一・摩利子夫妻です。
(摩利子がワイングラスを持ち上げ、一は立ち上がって一礼)
(三)ええと、今回はラブラブなみなさんに存分に無駄な熱々ムードを振りまいてもらおうと言う変な企画で、最初のテーマですが……。
(リ)私にも言わせて! ええと、恋に落ちた瞬間について語ってくださいっ。まずは蝶子さんたちから。
(蝶)え。落ちた瞬間って、いつの間にかよねぇ……。
(ヴ)(無表情で黙るが、ちょっと顔が赤い)
(三)トミーさんたちは……。
(ト)あたしは他の男にフラレてやけ酒を飲んでつぶれていたのよ。そしたら、ステッフィが革ジャンを脱いでかけてくれて、ねぇ、憶えてる?
(ス)(サングラスで表情はわからないが素直に頷く)
(リ)そっちのお二人は?
(一)う〜ん。摩利ちゃんが僕の勤めている店に買い物に来たんだよね。すごくきれいだったから、見とれちゃったんだよなあ。
(摩)あら、私は私の方が先に好きになったんだと思っていたけれど。何度デートしても手も握ってこなかったから脈がないのかとイライラしちゃったっけ。
(リ)この二人の話は参考になりそう。メモメモ。
(ロ)そして、私たちだね。私がはじめて愛しのジュリア、私の小鳥さんを見た瞬間、世界が曙色に染まったのだよ。それは、穏やかな春の日のようにではなく、真夏の灼熱の太陽のごとく私の心を燃え立たせ、世界が突如として七色の総天然色に輝きだしたのだ。私の心はヒバリのように高く叫び、私の足はカモシカのごとき軽やかさで真実の愛のもとに急いだのだ。
(ト)(白けた顔で、手を振る)もう、その辺にしておきなさいよ。あんた達が仮面夫婦なのは誰だって知っているんだから。純真な中学生に嘘八百を吹き込むのはやめなさい。
(ロ)うるさい。ところで、ステッフィくん、あとで電話番号教えてくれる?
(ト)ステッフィに手を出さないでっ。キ〜!
(三)えっと、次のテーマです。思い出ぶかい愛のエピソードをお願いします。(誰だ、こんなテーマ考えたの)
(蝶)う〜ん。告白した時かなあ、フランスのディーニュの駅だったわよね。いなくなっちゃうかと思って必死になっちゃった。
(ヴ)ずっと離れていて、再会した時。
(蝶)あの時って……よくも騙してくれたわね!
(ヴ)来るなと言ったのにあんたがノコノコやってきたからだろう!
(三)ケンカしないでください。高橋さんたちは?
(摩)そうねぇ、一がブルブル震えながらプロポーズしてくれた時かなあ。
(一)まさか、あんなにあっさり摩利ちゃんがOKしてくれるとは思わなかったからびっくりしたよ。
(摩)もうちょっとじらせば良かったかな。でも、嬉しかったんだもの。
(ロ)私たちは……
(ジ)だれも私たちのラブラブエピソードなんて期待していませんよ、あなた。でも、私、あなたと一緒にロウソクの光でディナーを食べる時間がとても好きよ。
(ロ)ああ、私のひな菊さん。あなたはなんて素晴らしい人なんだ。
(ト)私は、ステッフィが『dangerous liaison』を一緒にやろうと言ってくれた時。「ずっと一緒にいよう」って言ってくれたのよね。
(ス)(黙って頷く)
(リ)ステッフィさん、話をする事もあるのね。
(ト)ほとんど話さない分、言ってくれた事の重みが増すのよ。(チラッとロマーノを見る)
(三)だんだんばからしくなってきたなあ。最後に、ラブラブエピソードをこれからも演じたいですか。
(蝶)別にそういうシーンは書かないでくれてもいいけれど、でも、もう書いちゃったんだっけ?
(ヴ)(ものすごく迷惑そうに)俺に訊くな。この間も変な「彼女のために生きている」って歌を歌わされたんだ。
(ト)私は書いてくれなくてもいいわ。二人だけの時にこっそりとラブラブするから。
(ス)真っ赤になって頷く。
(一)僕は書いてくれてもいいけれど、もう大きな子供が二人もいるしなあ。
(摩)初老の日向ぼっこみたいな仲良しシーンっていうのも悪くないわよね。もちろん『龍の媾合』は別だけど。
(ロ)私たちはこれからも熱々ぶりを猛アピールするよね、私のダイヤモンドさん。
(ジ)(にっこり)あなたは本当に私の事を深く愛してくれているのね。嬉しいわ。
(リ)大人って大変なのね。
(三)うん。なんか、大人になる自信がなくなってきた。
(俺)心配はいらぬ。この俺様が記憶を消してやるので、何もかも忘れて心置きなく大人になるがよい。
(ヒ)記憶は消してもいいが、このティラミスはお持ち帰り用に包んでくれたまえ。
(田)ため息。読者の皆様、今後とも「scribo ergo sum」をよろしくお願いします。
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 Séveux 芳醇
このストーリーは、いつも素敵な「Dum Spiro Spero」の挿絵を描いてくださる羽桜さんに捧げます。ちょびっと、羽桜さんのご希望の方向に寄っています。
途中で「大道芸人たち」の話が出てきます。この外伝はちょうど第一部が終わる直前くらいの話です。お読みになった方は拓人の推測に「違うよ」と心の中でつっこんでくださいませ。そして、お読みでない方は、この外伝とはまったく関係ありませんのでご心配なく。心置きなくスルーしてくださいね。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Séveux 芳醇
羽桜さんに捧ぐ
「拓人。今夜はデートなの?」
真耶から電話があった。
「昨夜が遅かったら、今日はオフにしてある。何故?」
「あなたが飲みたがっていたアマローネ、昨夜お父様が開けたのよ。まだ三分の二残っているの。今から来るなら残しておくけれど」
アマローネの赤ワイン、2003年もの。これを逃したら一生飲めないだろう。
「行く! それならデートをキャンセルしてでも行くって」
「あなたって、本当にどうしようもない人ね」
真耶は少し笑って電話を切った。
デートをキャンセルしてでもなんて本音を言える女は真耶だけだろう。話の途中で急に今かかっている曲の数小節のことが氣になって指を動かしだしても怒ったりもしない。それどころか、一緒に口ずさみ意見を交わしてくれる。面倒が何もないのは子供の頃からの信頼関係ゆえだろう。
だが、女とのつきあいでは多少の面倒さも一種のスパイスだ。だから必要があるのかないのかわからないままに、次々と女とつきあう。ずっと同じ女とは一度だけというルールを自分に課していた。もう何年も前になるが、ちょっと本氣になったことがあって、彼女にふられてから少し真面目に女性たちと向き合おうとした事もあった。つまり二回か三回めになるまでつき合ってみて、相手の興味対象やそれまでの事を知ろうとした事があった。でも、いろいろと面倒になってしまって、結局、前のやり方に戻した。
「無理して恋をしなきゃなんて思う事はないわ。あれはしようと思ってするものじゃないでしょう」
真耶のいう事ももっともだと思ったので、自分の生活スタイルを保つ事にしたのだ。そもそも、食事をしたり、話をするだけなら真耶に匹敵する女なんかいない。どこに連れて行っても恥ずかしくないし、周りも当然のように受け入れる。マスコミだって同じだ。真耶と僕が一緒にいてもスキャンダルにもなりはしない。もっとも僕と女との付き合いもスキャンダルにはならない。どっちにしろ長続きしないのはマスコミもその読者も知っているのだ。知らないヤツは、そもそも僕の名前すら知らないから、同じ事だ。
園城の家に着くまでには七時を少し越えた。ああ、愛しのアマローネちゃん、残っていてくれよ。
「遅かったじゃないか、拓人くん」
そう声を掛けたのは園城のおじ様、真耶の父親だ。この家で会うのは久しぶりのような氣もするが、つい先日ブラームスのコンチェルト第一番で一緒したばかり。日本でも有数の高名な指揮者として、音楽に対する姿勢は厳しいが、プライヴェートで逢うと子供の頃から親しく出入りしていた従叔父としての優しさが前面に出る。
「これでも急いだんですよ。電話を受けたときは大船にいたんですから」
「君が来ないと、真耶がボトルに指一本触れさせてくれないんだ。いったい誰のワインなんだか……」
僕は真耶を拝んだ。やっぱり、真耶は最高だ。
透明なムラノ製のクリスタルグラスにワインが注がれる。通常の赤ワインよりもずっと混濁した不透明な葡萄色が重たげにグラスの底に沈んだ。そっとグラスを右の掌に置くとゆっくりと揺らしながら香りを楽しむ。ああ、それは味に対する期待をぐっと盛り上げる芳醇たる幽香だ。揺れて酒に触れたグラスには、透明に輝くアーチが残る。真耶と園城氏が微笑みながら見守る中、待ち望んでいたひと口を嗜む。
口蓋に薫りが広がる。それは薔薇のように華やかであり、熟したベリーのような甘く若々しいものだ、けれど、その印象を覆すようにもっと深く複雑な薫りが続く。甘い葡萄そのものが一瞬感じられ、極上の蜂蜜を口にしたときのような濃厚な一撃が続く、そして、それは薫りではなくて味覚なのだと自覚する間もなく、喉の奥を通って灼熱の何かが消えていく。鉄、それとも、血潮? なんて深い……。
瞼を開けると、二人はまだ僕を見ていた。が、その微笑みはもっとはっきりしている。
「感想も出ないってわけね」
真耶が自分のグラスを持ち上げると、僕はたっぷり五秒くらい使ってようやく口を開いた。
「ああ、真耶。このお礼に、何でもいう事をきくよ」
親娘は顔を見合わせて吹き出した。
「だったら、再来月、つき合ってもらおうかしら」
「何に?」
「ボランティアでミニ・コンサートを企画しているの。テレビ局の密着取材つき。で、伴奏者が必要なんだけれど、絵になる方がいいって言われちゃったのよ。一週間くらいスケジュール開けて」
「再来月? イギリス公演と北海道コンサートツアーがあるんだぜ。一週間!」
「なんとかしてくれるでしょう、私のためなら」
僕は頭を抱えた。この僕に、こんな無茶をしかけてくるのも真耶一人だけだ。いや、それをなんとかしてしまおうと思わせる、特別なやり方を心得ているのはって意味だが。
「なんとかって。せめて、初見の曲を弾かせたりしないでくれよ。本当に時間がないんだ」
「大丈夫よ。シューマンの『おとぎ話の絵本』」
それならちょっとは安心だ。この曲ははじめて二人でやったミニ・コンサート以来、何度もやっているから、大して合わせなくてもなんとかなる。頭の中で素早く予定調整をしながらぶつぶつとつぶやいた。
「お前って、例のドイツ人に難題をふっかける蝶子そっくりだ」
その言葉を聞いて、真耶の眉が少し顰む。彼女は立ち上がって、ライティング・デスクに置かれていたハガキを持ってきた。ガウディのサクラダ・ファミリア、つまりバルセロナから届いたんだな。
「また三人の名前しかないのよ」
僕は真耶から葉書を受け取る。
「どうしている? キノコが美味しい季節になったので食べてばっかり。また太っちゃう。蝶子」
「タレガのすげー欲しい楽譜見つけたんだけど高過ぎ。買うか三日悩んでる。稔」
「日本で食べた黄身餡そっくりなお菓子を見つけたんですよ。また日本に行きたくなりました。レネ」
あのドイツ人の名前がない。真耶が心配している事情。僕には予想がつく。あの男は三人のもとを去ったのだろう。蝶子が事実を知り、受け入れられなかったのだろう。無理もない。だが、それは推測に過ぎない。そして、その推測の元になる事実、僕が偶然知った事を口にする事は出来ない。あのドイツ人と約束したのだから。このハガキの様子だと、蝶子の精神状態はそんなに悪くなさそうだ。だったら、早く事情を真耶に言ってくれよ! 真耶に、この僕が秘密を持ち続けなくてはならないこの苦悩を察してくれ!
僕はもうひと口、アマローネを飲む。真耶の瞳を避けるために酔ってしまいたいと思うが、この酒は僕を全く酔わせない。たまにこういう酒があるものだ。アルコールは強いはずなのに頭に向かわず、喉から体の中、たぶんハートに向かって消えていく。何本飲んでもなんともないはずだ。残念な事に、二本めは存在しないので確かめようがないが。
「ほら。感想はまだなの?」
そういわれても、適当な言葉が出てこない。豊かなボディー。薫りが口の中に広がる。そんなありきたりの言葉で表現するのは冒涜のように感じられる。
「たったひと言で表現できるはずなんだけれどな。この、深く複雑なのに明瞭に突き抜けた感じ。ぴったりする何かを知っているはずなんだ」
真耶がそっと微笑む。例の化粧品のCMで見慣れた、最上級の微笑みだ。熱烈なファンの男たちが見たら、僕を殺したくなるに違いない。
「それはそうと、真耶」
園城のおじ様が咳払いをした。
「お前、結城先生から回ってきた縁談の報告はしたのか?」
僕は、もう少しで何よりも大切なアマローネを吹き出す所だった。
「どうしたのよ、拓人」
「い、今、なんて?」
親子は顔を見合わせた。
「拓人ったら知らなかったの?」
「君のお父さんが縁談を持ってくるなんて珍しいから、私はてっきり君が裏で糸を弾いているのかと……」
「んなわけ、ないでしょう。そんなことをしたら、真耶に叱り飛ばされるに決まってんのに。親父のヤツ、何を考えて」
「いやあ、さすが結城先生が紹介してくださるだけあって、すごい方だったよな、真耶」
僕は恐る恐る真耶の顔を見た。真耶はワインを優雅に飲むとそっと赤い唇を開いた。
「そうね。申し分のない方ね。本物の紳士で、驚くくらい見識が深いの。それに素晴らしい人格者なのよ。スポーツも万能みたいだったし」
「なんだよ、それ。胡散臭いじゃないか。女たらしじゃないのか」
真耶は声を立てて笑った。
「あなたにそんな事を言われるなんてお氣の毒だわ。本人は女性とつき合った事が少なくてとても緊張するっておっしゃっていたのよ」
けっ。どうだか。
「で、どうするんだ?」
父親の言葉に真耶は肩をすくめた。
「どうするって、お断りしたわよ」
「何故?」
困惑する父親に真耶はきっぱりと言った。
「他の事はすべて申し分なかったんだけれど、結婚したら家庭に入ってほしいって言われたの。それって、演奏活動をやめろってことでしょう。無理よ。結城の叔父さまには先ほど謝罪の電話をした所なの」
どこかホッとしている事を自分でも意外に思っていた。僕も真耶も、お互いに自由に生きながら、何でも話し、ときどき一緒に演奏する、子供の頃から変わっていない関係はずっと続くんだと思っていた。でも、それは本当は永遠ではない。そして、だからこそ、どんな存在にも分たれる事のない僕たちのこの芳醇なひと時は何にも増して愛おしいのかもしれない。
もうひと口、アマローネを口に含んで、不意に思い当たった。正統的で誰にでも好まれるのに単純ではない味わい。濃厚でありつつ、突き抜けた明快さ。文句のつけようのない最高の存在。
「真耶。お前のヴィオラの音だ」
文脈が飛んだので、一瞬わからないという顔をした後、アマローネの形容だと得心して、彼女はもう一度、例の最高の微笑みを見せた。
(初出:2013年10月 書き下ろし)
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「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」座談会 その2
「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」座談会 その1
「その2」は「瑠水をめぐる男たち」でお送りいたします。
大手町のBar『Bacchus』にて。
(田)今日は、お忙しいところ、皆さんお集まりいただきましてありがとうございます。今回の座談会は、東京はこの店で開催しろという事で、司会も仰せつかりました。私は当店のバーテンダー田中佑二です。って、新堂さんじゃないですか、大変ご無沙汰しています。(作者注・新堂朗は『樋水龍神縁起』本編の主役で『Bacchus』の常連でした。ついでにいうと樋水龍王神社で祀られている三柱のうち背神安達春昌命ならびに最近よく現れる蛟はこの人という設定です)
(新)こちらこそ、久しぶりだね。今回のメンバーは、皆勝手に話すはずなんで、特に仕切らなくてもいいそうだ。
(田)ええと、今回は、龍王様はいらっしゃらなかったんですか?
(新)神在月だからね。龍王神と媛巫女神は行事が目白押しでね。あとで「なかったことにする」のと、島根組が通ってきた根の道を閉じなくちゃいけないので今回は私が来たんだ。前回同様コストは樋水龍王神社に請求してくれたまえ。
(田)はい。それで今回は「瑠水さんをめぐる青年たち」編ですか。で、いらっしゃった方は……。
(真)生馬真樹です。出雲から来ました。お忘れかもしれませんが、チャプター1で主役だったはず……。
(拓)結城拓人です。ピアニストやってます。チャプター2で瑠水といろいろあった所です。
(彰)早良彰です。瑠水の幼なじみで義兄です。本当はずっと瑠水の事を……いや、言うまい。
(稔)えっと、作品違うんですけれど、瑠水さんにときめいたつながりで来てみました。安田稔って言います。(作者注・稔は『大道芸人たち』の日本編で瑠水にデレデレでした)
(三)三ちゃんこと、三造です。「大衆酒場 三ちゃんの店」をやってます。ただの部外者です。瑠水ちゃんにもときめいたりしてませんが、新堂先生がシン君連れて飲みにいくって聞いちゃね。ま、みんな勝手にやってて。バーテンさん、この間と一緒で、梅酒サワーとチェイサーとして焼酎ね。
(真)あの……もしかして、あの結城拓人さんですか? うわっ、本物なんですね。あの、サインをいただいても……。
(拓)ああ、サインね、はいはい。ん? 君、出雲から来たって言ったか?
(真)はい。そうですが?
(拓)ってことは、お前が例の島根男かっ! くっそ〜。
(彰)拓人さんはいいじゃないですか。瑠水の水揚げもしたし、いい人扱いだし。僕なんてただの悪役ですよ。
(稔)なんだって、結城、お前いつの間に!
(拓)んな事言ったって、僕だっていい面の皮だったんだからさ。く〜(泣)
(真)えっと、東京でいったい何が? (作者注・田舎者で、会話の意味について行っていません、幸い)
(拓)(冷たく)君は何も知らなくていいよ。
(彰)ところで、瑠水は今どこに?
(拓)(島根に帰ると)聞いたけれど、教えてやらない。(と、ちらっと真樹をみる)
(稔)お前、陰険だぞ。
(拓)うるさい! 失恋してまだ一週間経っていないんだ!
(稔)他の女に慰めてもらえばいいだろ。それか園城にさ。
(拓)他の女じゃ代わりにならないよ。それに真耶は「デートしないで時間があるなら、練習でもしろ」って冷たいしさ。
(彰)自業自得……。
(新)君、会話に加わらないの。
(真)いや、どうも氣遅れしちゃって。都会の皆さんとはテンポが違うのかな。それに、どうも結城さんにも嫌われているみたいだし。
(田)まあ、理由はさっきからの会話を聞いているだけでも、なんとなくわかりますが。(といって、真樹と朗にウィスキーをそっと出す)
(三)あ。バーテンさん! 俺っちもそれ飲みたいな。
(真)あの、この後の事なんか、訊いてもいいですか? (すっかり朗と飲むモード)
(朗)訊いてもいいけれど、この座談会が終わったら記憶消すことになっているよ。
(真)だったら訊いてもしかたないか。ふう。
(朗)チャプター3は、君の話から始まるってことだけは伝えておこうかな。出番が近づいているから、覚悟しておいてくれよ。
(真)はい。読者の皆さんも、今後ともどうぞよろしくお願いします。
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 Andiamo! — featuring「誓約の地」
最後にお借りして登場していただいたのは、修平さまです。最初の回でお借りした杏子姐さんが惚れるくらいですからいい男に決まっています。で、こちらが最後までとっておいたのは、蝶子です。今回はカルちゃんは出番がなくなってしまいました。もっとも、この後、カルちゃん+Artistas callejeros+「誓約の地メンバーズ」がどこかで大集合する事になっています(たぶん)ので、修平さんもいずれはカルちゃんと知り合える事でしょう。
「Andiamo!」(行きましょう!)は、だらだらとフィレンツェにお借りした四人を足止めし、いつまでも遊んでいるArtistas callejerosが、「楽しかったね、じゃ、そろそろお開きにして出かけようか」というつもりでつけました。ついでにプラトリーノでArtistas callejerosはウゾさんちのキャラと宴会したりと好き勝手やっていましたが、そろそろ真面目に大道芸の旅に戻るようです。これほど長くおつき合いくださった読者の皆様、そして大事な大事なキャラをどーんとまとめて四人貸してくださいましたYUKAさん、ありがとうございました。
前回までの話とは独立していますが、一応シリーズへのリンクをここに載せておきます。
『大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 熟れた時の果実 — featuring「誓約の地」』
『大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Vivo per lei — featuring「誓約の地」』
『大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 薔薇の香る庭 — featuring「誓約の地」』
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Andiamo!
— featuring「誓約の地」
「たまげるな」
赤茶けたタイルはコトーンと乾いた音をさせた。朝一番の予約で入ったのでほとんど誰もいないその部屋に青年は佇んでいた。中学一年生の時に美術の教科書で見た絵が目の前にある。思っていたよりもずっと大きい。あまりに大きいので、後ろに下がって見なくてはならない。巨大なあこや貝の上に乗って豊かな金髪で体の前面を隠している。ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』。美術に興味があろうとなかろうと、題名と作者がすぐに浮かんでくるだろう名画中の名画だ。そして、その立ち位置で顔を右に向けると『春』があるのだ。
日本だったら、一つで美術館がひとつ建つレベルのお宝が、ここでは一つの部屋にいくつも押し込められている。そして、これはかつて彼が留学していたアメリカのいくつかの大きな美術館で目にした名画のように、財力にものを言わせて遠くから購入して集めて来たものではなく、これを描いた巨匠が、これを注文したメディチ家の主が生きて歩いたフィレンツェの当時の面影を残す建物の中にあるのだ。「ウフィツィ」。それは「事務所」を意味する。ルネサンスのこの巨大な建物は、実際にオフィスだったのだ。
「スケールが違う」
そう言って、もう一歩下がったところで、彼は誰かとぶつかった。
「うわっ、失敬」
思わず日本語で叫んでから、その東洋人の女の顔を見て、あわてて英語で謝った。
「Excuse me!」
女はちらっと白けた顔をして答えた。
「大丈夫です。日本語でも」
「え。日本人でしたか、重ね重ね失敬」
とっさに絶対に大陸の女性だと思ってしまったのは、その顔のせいだった。目がね、つり上がっているし。青年は短い髪をカリカリとかいた。
「早起きですね。宿題は朝の涼しいうちに、なんちゃって」
話題を変えるべく、そう青年が言うと、女性はニッコリと笑った。
「懐かしい事を言うのね。そうよ。混んで来たり、歩き疲れる前にここに来たかったの。あなたも?」
「ああ、ウフィツィ美術館は時間がかかるって仲間たちが言っていたから」
「お仲間たちは?」
「もう二度も見たからって、三人とも別のところに行った。自由行動日なんだ」
「へえ、私と一緒ね。良かったらこの先も一緒に観る?」
「お、よろしく。俺、石野修平っていうんだ」
「はじめまして。四条蝶子よ」
蝶子は大都市に行く度に必ず美術館を見て回るようになっていた。フィレンツェに来たのは初めてではないが、前回はパラティーナ美術館に行ったので、このウフィツィ美術館がお預けになってしまった。フィレンツェがすごいのは、このように必見の美術館が一つではないところだ。
ちらりと隣を歩く青年を見た。黒いジーンズに落ち着いたグレーのシャツというさりげない服装だが、よく見るとどちらもイタリアのディーゼルのデザインものだ。背が高い。普段一緒にいるゲルマン人や、ひょろひょろしているフランス人の背が高いのは当然だと思っていたが、ここにいる青年も日本人にしてはずいぶん長身だ。堂々として姿勢のいい歩き方や流暢な英語も日本人離れしていたのでハーフだろうかと思ったが、非常に整ってはいるものの外国人の血が混じっている顔には見えなかった。
「うわ、ここにもあった」
修平がフィリッポ・リッピの『聖母子と二天使』をみてぎょっとして言った。
「何が?」
「いや、なんていうのかな、犬も歩けば名画にあたる状態? 尋常じゃない美術館だ」
蝶子はくすくすと笑った。
「言い得て妙ね。しかも、こんなに空いているなんて日本じゃ考えられないわよね」
「ああ、これの一つでも来たら、それだけで長蛇の列。『立ち止まらないでください』と係員が声をからす状態になる事請け合いだよな」
それから、ふと思いついたように言った。
「でも、君はそういうところには行かないんじゃないか?」
「なぜそう思うの?」
「う~ん、勘。群れるのとか、大人しく行列で待つのとか、嫌がりそうに見える」
蝶子はケラケラと笑った。
「あたり。日本にいた時は、そんな時間もあまりなかったし」
「今は日本にいないのか?」
「ええ。こっちにいるの。あなたは旅行?」
「まあね」
蝶子は何か事情があるのね、とでも言いたげに曖昧に笑って、その話題からすっと離れた。それがあまりにも自然だったので、かえって修平はおやと思った。
「訊かないわけ?」
「言いたければ、自分で言うでしょう?」
あまりに広いので、全て観るのはあきらめて二人は出口に向かった。蝶子はいつもの習慣でハガキを買う。やっぱり『ヴィーナスの誕生』かしら。
「あれ、チェーザレ・ボルジアの肖像なんてあったんだ」
修平がコレクションの一枚をポンと指で叩いた。
「観たかったの?」
「いや、どうしてもこの絵が観たかったわけじゃないさ。よく考えたら、この場所にも彼が立っていたのかもしれないよな。そう考えるとすごいところだ」
シニョリーア広場の方へと歩きながら、二人はチェーザレとルクレツィア兄妹の事を話した。
「