【小説】ニューヨークの英国人
「scriviamo! 2016」の第三弾です。ウゾさんは、たくさんの小説群の中でも大人氣を誇る「探偵もどき」のお話で参加してくださいました。
ウゾさんの書いてくださった『星の夢』
ウゾさんは、とても深いものを書かれる高校生ブロガーさんで、おつきあいが一番長い方たちのお一人です。短い作品の中に選び抜かれた言葉を散りばめる独特の作風で、たくさんのファンがいらっしゃいます。
さて、書いていただいた作品は、強烈な個性を持つキャラクターの揃う「探偵もどき」シリーズの最新作、で、ウゾさんらしいなぞなぞがあったんですけれど……。
ごめんなさい。謝っておきます。どう考えてもこの謎は全く解けませんでした。私の解釈は、たぶん間違っていると思います。でも、ウゾさんのお話からイメージした話を書きました。私が発表したいまなら、ウゾさんが正解を発表してくださるかも。これからウゾさんの作品をお読みになるみなさん。誰か、ウゾさんに正解を訊いてください!
で、この話は、ついこの間さようならしたばかりの、あの世界に戻ってきてしまいました(笑)それどころか、キャラクターが二人増えてる。「鳥打ち帽のおじいさん」同様、この二人の生みの親はウゾさんです。
【参考】
読まなくても話は通じるはずですが、関連する小説へのリンクを置いておきます。
「マンハッタンの日本人」シリーズ
「ファインダーの向こうに」

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ニューヨークの英国人
——Special thanks to Uzo san
ドアが開いて、いつものように「ハロー」と言ってから、キャシーは、あれ? と思った。彼女の勤める《Sunrise Diner》は、ニューヨークのロングアイランドの海の近くにある。大衆食堂だから、わりとラフな服装で来る人が多い。
なのに、その客はちょっと変わっていた。グレーの長めのコート。ぴしっとアイロンの効いたチェックのスラックス。グレーの帽子に、黒い雨傘。今日は降りっこないし、降ったとしても雪じゃない、なんで傘がいるのよ。
彼は帽子を持ち上げて「ごきげんよう」と挨拶すると、窓際の席に腰掛けた。
「こんにちは。ご注文をどうぞ」
「紅茶をお願いするよ。煮立ったお湯を注ぐ前に、冷たいミルクを先にポットに入れてほしい」
キャシーは、この客大丈夫かなと少し不安になった。ここは、ケンジントン宮殿じゃないんだけど、わかっているのかしら。
「冷たいミルクを……って、ポーションのコーヒーフレッシュしかないんだけれど。ちなみにこのカップしかないし、リプトンのティーバックですけれど」
男性は、わずかに失望の表情を見せたが、礼儀正しく頷いた。
「トーストは、あるかな」
「ありますよ。ベーグルや、パンケーキもね」
彼は、キャシーが見せたメニューの写真を見て、少し悲しそうな顔をした。
「三角に切る必要はないけれど、片面だけ焼いてくれるなんてことは、ないだろうね、
「残念ながら、ないわね。トースターが一度に両面焼いちゃうもの」
「じゃあ、しかたない。トースト二枚に、スクランブルエッグとベーコンも頼む」
キャシーは、自慢のブラウン・ポテトを薦めようと一瞬考えてからやめた。それから、てきぱきと働きながら、カウンターに座っている常連客にコーヒーのお替わりを入れてやった。
それはミズリー州出身の、特に面白くない話で笑いを取ろうとするのが玉に瑕の男だが、チップを弾むのでキャシーは辛辣なことは言わないようにしていた。彼は、もったいぶって始めた。
「新年のなぞなぞだ、キャシー。クリスマスはいつ終わると思う?」
「今日でしょ。1月6日、
キャシーが、即答すると彼は笑った。
「そう思うだろう? でも、国によって違うんだぜ」
「どう違うのよ」
「例えば、グレゴリウス暦と13日ズレてしまっているユリウス歴を採用しているギリシアやロシアの正教会では明日1月7日がクリスマスで、
「なんで?」
「日本人の大多数はキリスト誕生にはあまり興味がなくて、24日に恋人たちがデートするのがクリスマス。そして25日以降は正月の準備で忙しいんだ」
本当かしら。その件は、ミホに確認しなくちゃ。キャシーは心の中で決意した。
「そしてだ。英国の金持ちのクリスマスはいつ終わると思う?」
彼は、窓際の英国人をからかうように見ながら言った。キャシーは答えた。
「そのくらい知っているわよ。私たちと同じでしょ。今日」
「違うね。12月26日のボクシングデーに、あいつらは使用人に休みをやらなくちゃならないんだ。だから、クリスマスの翌日には普段やりもしない、家事やら掃除を自分たちでやらなくてはならない。そんなわけで、クリスマスは一日でおしまいさ」
同国人が小馬鹿にされて笑われることに雄々しく堪えつつ、礼儀正しい英国人は背筋を伸ばして、コーヒーフレッシュ入りの薄い紅茶を飲んだ。キャシーはやれやれと思った。
その時に、ドアがばたんと開いて、一人の女性が飛び込んできた。キャシーが「ハロー」という暇もなく、彼女は謎の紳士を見つけて、彼のテーブルに大股で歩み寄った。
「やっと見つけた! マクミランさん、アイリーンはどこ?」
見る方向によっては美人といえないこともない、生き生きとして表情豊かな女性だった。
紳士は、礼儀正しく立って彼女の手を握ろうとしたが、そんなまどろっこしいことはしていられないという風情の女性の表情を読んで、わずかにお辞儀をした。
「ごきげんよう、ダルトンさん。残念ながら、あなたのお姉さんがどこにいるか、私も知らないのですよ」
「なんですって。駆け落ちをしてアメリカに来てまだ三日も経っていないじゃないですか! どうやったらそんな薄情になれるの? アイリーンは、この国では右も左も分からないのよ」
マクミラン氏は、ため息を一つついた。
「そうおっしゃっても、私はあなたのお姉さんを盗み出したのでも、強引にさらってきたのでもないのです。アメリカにどうしても行きたいとおっしゃって、ついていらしただけで。現に、ニューヨークに着いた翌日に理想の男性に出会ったとかで、嬉々として去って行かれましたよ」
「理想の男?」
「ええ。南欧風のスタイリッシュな男性でした。なんといったかな、ああ、ダンジェロ氏。ミスター・マッテオ・ダンジェロとかいっていたな。羽振りのいい実業家みたいでしたよ」
「やだわ。マッテオ・ダンジェロって、大金持ちのセレブで、有名なプレイボーイよ。ほら、この雑誌にもでている」
キャシーが口を挟んで、カウンターから『クオリティ』という写真誌を取り出した。インタビューとともに、海岸にいる青年実業家のモノクロームの写真が特集になっていた。それを見て英国人は、確かにこの人だと頷いた。
「まあ、大変。アイリーンったら、またいつもの『有名人に一目惚れされてしまったみたい』病がでちゃったのね。それじゃ、そのダンジェロ氏の周辺を探さなくちゃ。でも、そんな有名人にどうやったらコンタクトできるのかしら」
それから、彼女はキャシーの方を見て、懇願した。
「お願い。知恵を貸してくださいな。この人は、全く頼りにならないし、私は昨日この国についたばかりなの」
それから、キャシーのあっけにとられた顔を認識してから、少し恥じたように頭を下げた。
「ごめんなさい。自己紹介もしていなかったわね。私はクレア・ダルトン、英国人です。姉のアイリーンを探しているの。協力してくれませんか。マッテオ・ダンジェロって人はどこにいるの」
キャシーは、面白そうな顔になってきた。
「マンハッタンのものすごく高いアパートメントのはずよ。どこだったかな。あ、この写真を撮ったの、私のお客さんの一人なの。だから、もしかしたら居場所も知っているかもね。あ、私は、キャシー。よろしくね。で、こっちの人は?」
それを聞くと、おかしな男はあわてて立ち上がった。
「大変失礼しました。クライヴ・マクミランといいます。私も英国人です」
キャシーは笑った。
「英国人なのは、はじめからわかっているわよ」
クレアも、おかしそうに笑った。それから、クライヴの前に座った。
「せっかくだから、私も朝食をいただこうかしら」
「トーストを両面焼いちゃうけれどいいの?」
「もちろん問題ないわ。それにここで特におすすめなのは何? ニューヨークらしいものを食べさせて」
それを聞いてキャシーは、満足そうに微笑み、ちらっとクライヴを見た。
「このモーニング・セットはどう? ニューヨークで最高のブラウン・ポテトを食べさせてあげるわ。それに、アメリカン・コーヒーをヨーロッパの人たちが嫌がるけれど、あなたはコーヒーにはそんなにうるさくないでしょう? お替わり自由よ」
「じゃあ、それをお願い。それから、そこのドーナツも。お腹がペコペコなの」
クレアは、あっという間にキャシーと仲良くなってしまった。
キャシーは、クレアに朝食を用意してから、携帯電話を取り出して、客であり友人である写真家ジョルジア・カペッリにかけた。
「ハロー、ジョルジア。今朝は、食べにくる? え。ああ、もうじき着くのね。それならいいわ。ちょっと頼み事があるの。うん、着いたらその時にね。うん。紹介したい人たちがいるの。うん。じゃ、すぐ後で」
電話を切ると、クレアに笑いかけた。
「彼女、あと五分で着くって。よかったわね」
「ありがとう。ところで、このポテト、とっても美味しいわ。マクミランさん、なぜあなたもこれを頼まないの?」
「そうだな。とてもいい匂いだ。紅茶に合うかな」
キャシーはカウンターに頬杖をついた。
「なぜあなたたち、お互いにそんなに他人行儀なの?」
「なぜって……」
「私たちは、そんなに親しくないんですよ。実をいうと、アイリーン・ダルトンさんともファーストネームで呼び合う仲じゃなかったんです」
「ええっ」
キャシーとクレアが声を揃えて驚いた。
「駆け落ちしたのに?」
キャシーが訊くと、クライヴは首を振った。
「私としては、きちんと順番を踏みたかったんです。でも、手の甲にキスをしている段階で、彼女に何か違うと思われてしまったんでしょうね。あの人は、きっと男性に言い寄られるのに慣れていて、行儀のいい付き合いには魅力を感じないのかもしれません」
別に、言い寄られ慣れていなくても、今どきそんなまどろっこしいことしているヤツはいないわよ。キャシーは思った。一緒に海を越えようと言っているのに、手を握るだけなんて脈はなし、さっさと次いこうと思うに決まってるでしょ。
「で、あなたは、ここニューヨークで何をしているの?」
キャシーは、クライヴに訊いた。
「私ですか。ロンドンにある大きな骨董店のニューヨーク支店を任されたんですよ。ここから歩いて五分くらいのところです。たぶん、折々にここに来ることになるでしょうね。そういえば、ダルトンさん、よく私を探し当てましたね」
「あなたのお店で教えてもらったのよ。朝食を食べに行った、おそらくあの辺りだろうって。雨傘と帽子姿の英国人を知らないかと訊いたら、あたりの人たちみんな見かけていたわ。あなた、どれほど目立っているかわかっている?」
「なるほど。私のモットーは『誰に何を言われようと自分らしく』なんですよ」
「自分らしくはいいけれど、そろそろファーストネームで呼びあってくれない? 聴いていてイライラするから」
キャシーが言うと、クレアとクライヴは顔を見合わせた。それから、クレアがさっと手を出した。
「私、クレアよ」
「クライヴです。光栄です」
「ねえ。クレアもこれからニューヨークに住むの?」
「いいえ。姉を見つけたら英国に帰るつもり。もっとも、せっかく来たんだから、少しアメリカ見物するのもいいかもしれないわね。国に帰っても失業保険手続きの列に並ぶだけだから」
「だったら、私の店で働きませんか。こちらで雇ったスタッフはみな、紅茶とショートブレッドで休憩時間を過ごそうとしてくれないんですよ」
クライヴがすかさず言った。
「なんですって? あなた私たち一家に関わるのは、ごめんだと思わないの?」
クレアが心底驚いて訊いた。
「店をあなたのご両親のお家みたいに、けばけばしく電飾で飾り立てないでくれれば、何の文句もありませんよ」
クレアは肩をすくめた。
「あの電飾は、ママの趣味だから。絶対にクリスマスの終わるエピファニーまで飾り立てたいママと、電氣代を心配してボクシングテーには消したいパパが、毎年大騒ぎしていたのだけれど、ようやく二人とも満足する解決策を見つけたの」
「ほう、それは?」
「水力発電所のあるウェールズの村に引越したの。電氣代が割安になるって。だから私は住む場所と仕事といっぺんに失ってしまったの。田舎には住みたくなかったし」
「そうですか。では、『ニューヨークの英国人』となるのは、あなたにも悪い選択ではないようですね」
「悪くないけれど、アイリーンを探すのが先決よ」
キャシーは、こんなへんなナンパ初めて見たと、心の中で呟いた。『誰に何を言われようと自分らしく』ねえ。流儀は人それぞれ。クレアがそれでいいなら、問題ないわよね。
(初出:2016年1月 書き下ろし)
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アメリカ組は八重垣神社に行き、Artistas callejerosは、昼から夕方まで宴会をしていました。そして、夕方。四人は宍道湖で夕陽を眺め、そして玉造温泉で打ち上げします。なお、私が書くのはここまでですので、話を上手く納める方、さらに混乱させたい方はどうぞご自由に!
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
~ 松江旅情(4)さくら咲く宵に
「何やるの?」
キャシーは、八重垣神社の参詣がすんだ後に、奥の院にある「鏡の池」の前で、美穂に問いかけた。そこには、四人の女性がいて、池の水を覗き込んでいた。正確には、池に浮かべた紫色の紙のようなものとその上にのせられた硬貨を覗いていたのだった。
「で?」
「ほら、見て。さっき買ってきたこの占い用の和紙の上にね、ああやって硬貨を載せて浮かべるの。すぐ近くに沈んだ場合は身近な所に結婚に至るご縁があって、遠くに沈んだ時は遠方に、それにすぐに沈んだ場合は、すぐに……」
「でも、ご縁もヘったくれもあたしたち……」
「わかっているわよ。私たちは既婚だけれど」
美穂はそういってから、黙って写真を撮るのに夢中になっているジョルジアの方を見た。ああ、なるほど。キャシーはそういう顔をしたが、美穂がジョルジアを誘いにいったので、池を眺めている四人の女性の方を見た。
一人の女性が格別目立つ。顔は見えていないが、ボブカットの髪の毛はまるで真珠のように白く輝いていた。その横に二人の女性がいて、あれこれ話していたが待つのに疲れたのか、あたりを散策に行ってしまった。屈んでコインを見ていた女性は、顔を上げて白く輝くボブカットの女性の方を見た。その女性は、何かを考えているかのように、奥の院の緑深い樹々の方を見つめていた。風が通って髪の毛がサラサラと泳いでいた。かがんでいる女性は、深いため息を一つつくと、決心したかのように人差し指を伸ばしてコインをつついた。
「あ」
キャシーが言うと、二人の女性は同時にこちらを見たかと思うと、キャシーの視線を追って沈んでいくコインと、まだ濡れている女性の人差し指に視線を合わせた。
「だからね、ジョルジア、この和紙にコインを載せてね……」
ジョルジアを連れて、美穂がやってくると同時に、他の二人も池の周りに戻ってきた。
「あ。ついに沈んだの?」
そういうと、屈んでいた女性は首を振った。
「もう待っていられないもの。神様の手伝いしちゃった」
そう言って指を見せた。「やだあ」二人の女性の笑い声が響いた。
「お待ちどうさま。さ、次に行こう。ほら、敷香も」
そう言って、屈んでいた女性は、先頭に立って歩き出した。そして、キャシーの横を通る時に、少し切ない微笑みを見せてから会釈して通り過ぎた。
「キャシー、どうしたの?」
美穂が訊くと、キャシーはぽつりと答えた。
「あなたたちの神様って、容赦なく真実を語るんだ……」
「え?」
キャシーは、ジョルジアの方に向き直った。
「やってみる?」
ジョルジアは、首を振った。
「そんなことをする必要はないわ。神様に訊かなくたって知っているもの」
そういって、カメラを持って去っていってしまった。
美穂は、紫の紙を持ったまま、困って立っていたが「もったいないもの」と言って自分の財布から五円玉を取り出すとそっと紙の上に載せて水面に浮かせた。どういうわけだか、五円玉と紙は数秒も経たないうちに、手からほとんど離れない場所に沈んでしまった。
「わかりきったことをしなくてもいいのに」
キャシーが肩をすくめて、ジョルジアを追い、美穂も急いでそれに続いた。
夕方、Artistas callejerosの四人と茶虎の感じの悪い仔猫は、宍道湖夕日スポット(とるぱ)にいた。
「夕陽を見るためだけに、こんななんにもない所に来たのか?」
ヴィルは、例によって身も蓋もないことをいうが、蝶子と稔は無視した。レネは、既にセンチな心持ちになっている。『スズランの君』に貰ったハンカチを取り出して、泣く準備も完了だ。
直に、人びとが集まってきた。すぐ近くに、五十代くらいのとても品のいい金髪の女性が立って、その後ろからやってきたもっと年上の、しかし女性とよく似た風貌の男性が彼女のためにハンカチを広げて座るように促した。小声の静かな会話は東欧系の言葉のように聞こえた。それから女性がふざけてフランス語で「レマン湖に行ったときのことを思い出すわ」と言ったので。レネがびくっと振り向いた。
「あら、フランスの方?」
婦人は優しくレネに笑いかけた。
「はい。ご旅行ですか」
「ええ、そうね。そうと言えないこともないのだけれど……」
困ったように、連れの男性を見た。
「どうやら、紛れ込んでしまったようだが、あたふたしてもしかたないので、美しいと言われる城の桜を見学してから、もともと突然現れたこの湖畔に来てみたのだよ」
豊かな人生経験があって、たいがいのことでは慌てたりしない人のようだと、レネは感じた。会話の内容を英語に訳して三人に話した。すると、次からは二人も英語で話しだした。見事な発音で、二人ともひとかどの人物に違いないと思わされた。
「夜桜でしたら、私たちこの後、タクシーで千手院という所へ行くつもりなんですよ。よかったらご一緒しませんか。その後、私たちは玉造温泉へ行く予定ですが、その前にまたここへお連れしますけれど」
蝶子が言うと、二人は顔を見合わせてから頷いた。
「私は蝶子、こちらはレネ、稔、そしてヴィルです。お近づきになれて嬉しいです」
蝶子が手を伸ばすと、紳士は古風にその手にそっと口づけをした。
「私はカロル・ルジツキー、これは妹のへレナです。どうぞよろしく」
「ルジツキー?」
ヴィルが少し驚いた顔をしたので、ルジツキー氏は少しだけ笑って「ご存知ですかな」と言った。
「父が取引をしていた有名な財閥の名前と一緒だったので」
「ほう、失礼だが、お名前は?」
「エッシェンドルフといいます」
「というと、ミュンヘンの?」
「はい。やはり、あのルジツキーさんなのですか?」
「どうだろうな。お父様の名前は、ルドルフ・フライヘル・フォン・エッシェンドルフではないだろう? おかしく響くかもしれないが、ルドルフとはただの知り合いではなく友人なのだよ。彼は典型的なバイエルン人でね、非常にドイツ的なものと徹底的に反ドイツ的なものを同時に持っている。その分、我々の間にも傍目には理解できないであろう強い愛憎がある」
「……。六代前はルドルフでした。彼は十九世紀の生まれです」
「そうか。我が家もエッシェンドルフ家も、長く安泰のようで何よりだ」
他の三人は、ただ黙って何も聴かなかったことにした。
宍道湖はオレンジに染まっていた。嫁ヶ島のむこうに夕陽が静かに沈んでいく。湖面は静かに波立ち、平和な一日が暮れていく。あたり前のようでいて、全くあたり前ではない一日。平和であることの美しさに、彼らはしばし言葉を失った。
千手院で、多くの人びとと一緒にしだれ桜、枝華桜を見た時にも彼らは同じように無口になった。樹齢250余年の花は、オレンジ色のライトアップで妖しくも美しく咲いている。その間に起こってきた、人間たちの傲慢さや愚かさに満ちた行動も、それぞれの市井の人びとの歓びや哀しみにも、何も言わず、ただ黙々と毎年この美しい花を咲かせ続けてきたのだろう。
「ねえ、ルドヴィコ。あの人たち、今朝来たお客さんだよ」
その声に振り向くと、「石倉六角堂」で接客してくれた女性がそこにいた。レネがあまりに大量に買うので、稔と蝶子が大笑いしたので憶えていたのだろう。
「毎度ありがとうございます。お氣に召していただけましたか」
一緒に立っていた外国人が、あまりにもよどみない日本語で話したので、四人はびっくりした。
「ええ。とても綺麗な練りきりで、それに繊細な味付けでした。あなたもお店の方なんですか?」
蝶子が訊くと彼は頷いた。
「ええ。今朝の練りきりは僕が作りました。和菓子職人なんです」
「ええっ。こちらで生まれ育ったんですか?」
「いいえ、ミラノの近くです。こちらに来て、修行を始めて、そろそろ十年になります」
「げっ。なのに、俺よりも流暢な日本語」
稔がブツブツと言った。英訳を聴いて、レネ、ヴィル、ルジツキー兄妹も驚いて頷いている。
「十年勉強なさったのですか。では、ニホンシュとやらを飲んだわけではないんですね」
ヘレナがそっと訊いた。
「?」
流暢な日本語と日本酒とのつながりのわからないArtistas callejerosの四人とルドヴィコに、ルジツキー氏が説明した。
「先ほど、ここに来たばかりの時は、日本語がまるでわからなかったんですよ。でも、あるお店でニホンシュなるものを飲まされたら、二人とも突然日本語がわかって、話せるようになりましてね。残念ながら、それが醒めてしまったら、また全くわからなくなってしまったんだが」
「え? それは普通の日本酒ではないです。僕たち散々飲んでいますけれど、一度も日本語がわかったことないですよ」
レネは哀しそうに答えた。ルドヴィコもおかしそうに笑って肯定した。
「ここ島根は日本の神々の集まる、特別な場所なんです。建国神話にも深い関わりがありましてね。不思議な話もたくさん伝わっているのですよ。だから、そういう不思議な力のある日本酒があっても驚きませんよ。そうですよね、怜子さん?」
ルドヴィコに突然振られても、英語がわかっていない怜子は首を傾げた。彼が素早く日本語に訳したので、笑って頷いた。
「さてと、この二人は時空を迷子になっているらしいんだけれど、どこに連れて行ったら一番簡単に帰れそうかな。怜子さん、そういう場所のことを聞いたことがありますか」
稔がルジツキー兄妹を示しながら訊くと、怜子は少しだけ首を傾げた。
「さあ、どこでそういうことが起こっても不思議はないと思いますけれど」
「いま、一番行きたい所に行くのが一番じゃないですか? たぶんお二人が心惹かれる所が、そのスポットなんじゃないかな」
ルドヴィコが言葉を継いだ。
皆の注目を浴びて、兄妹は顔を見合わせた。それから、ヘレナが静かに言った。
「実は、こちらの四人が温泉に行くとおっしゃるのを聞いて、私も行ってみたいと思っていたんです」
「君もか。私も、できることならその温泉に行って、月見酒とやらを嗜んでみたいと思っていたのだよ」
「じゃ、決まりですね。行きましょうか。ところで、怜子さん、あなたたちもご一緒にどうですか? 私たち今日たくさんの方と知り合ったんですが、みなさん、玉造温泉に行くみたいなの。こんな不思議なことって、滅多にないでしょう?」
蝶子が言うと、ルドヴィコと怜子は顔を見合わせた。怜子が少し赤くなって下を見たけれど、ほぼ二人同時に頷いた。
「そうと決まったら、早速、移動しよう」
稔が言って、全員は笑いながら大型のタクシーに乗り込んだ。
桜の散りかけている花びらが吹雪のように湯面を覆っている。月が煌煌と明るい。奥出雲の方では、突然の嵐になって、樋水川は急に水量を増したと聞く。だが、玉造温泉は絶好の好天のままだった。
「さっきの宴会飯、上手かったよな」
ぴちゃんと湯を跳ねさせながら、稔は腹をさすった。昨夜入ったときは、蝶子しかいなかった大露天風呂に、今日はずいぶん沢山の人びとがいる。
特筆すべきは、もちろん昨日から目を付けていたかわいい姉妹三人組だが、その他にも、綺麗めの女性四人組もいる。びっくりしたのは、その中の一人がまたしてもオッドアイだったことだ。いったいどうなっているんだろう? それに、不思議な額飾りをした男もオッドアイだったな。
「あとでまた、宴会場に戻るんでしたっけ。また、別のご馳走がでるんでしょうか」
レネは、月を見るか、女性を見るか、それとも日本酒を飲むか、どれをしていいのかわからず混乱しながら言った。
「なぜ俺たちが余興を用意することになったんだ?」
ヴィルが当面の問題について話しだした。もちろん盃を傾ける速度は変わらない。
「一番ヒマそうに見えたのか、それとも大道芸人だから? なんか案はあるか?」
稔は、さりげなくカワイ子ちゃんたちを観察できるポジションをとりながら答えた。
「あ、あれはどうですか? このあいだ憶えさせられた、あの踊り」
レネが恐る恐る訊くと、稔は腕を組んだ。
「ハイヒールを履いて、ビヨンセの音楽で踊るやつか? ウケるのは間違いないけれど、あの時とメンバーが違うからな」
「今度のメンバーの男と言うと……満沢はバッチリだろうな。あれは役者だから」
「あの和菓子職人もイタリア人ですからね、ノリでは問題ないでしょう」
「高校生は?」
「『級長』って方は、ノリノリだろう。オッドアイの方は……」
「冷静に、何やっているんだと見つめられそうです」
「額飾りをつけた、オッドアイの男は?」
「風呂に入るのですら恥ずかしがっているのに、無理だろう」
ヴィルは盃を飲み干した。
「さっきの挙動不審男は?」
稔が言及しているのは、アメリカから来たという四人のうちの一人で、風呂の水に飛び込んだかと思ったら、急に妻にキスの雨を降らせた謎の男だ。いたたまれなくなった妻に引きずられるようにして風呂から出て行った。
「あれか。妻を人質に取れば何でもやりそうだな。だが踊りが上手そうには見えん」
ヴィルが切り捨てている。
「あそこの二人は?」
「猫に睨まれていた玉城とかいう男の方は、『義務だ』とか言えば、やってくれそうだ。美形の方は……」
「あの人にそんなことをやらせたら、僕たち、あの偉丈夫なお姐さんに首の骨折られそうです」
「それに、あのスイスの教授にも踊ってもらうんですか?」
レネがおずおずと訊く。稔は、手酌をしているヴィルから徳利を奪って、自分の盃を満たしながら言った。
「あのおっさんは、食べ物で釣れば、大抵のことはやりそうだ。もっとも見たいヤツがいるかな? それに、お前のご先祖様の友達は?」
ヴィルは眉をしかめた。
「やめた方がいい。あの人は、怒らせると怖いと思う」
「『スズランの君』と同行しているブロンドの長髪の人は……」
レネが訊くと、稔とヴィルは顔を見合わせ、それから同時に言った。
「命が惜しい。他の余興にしよう」
稔たちが、熱心に語り合っている時に、噂になっているとも知らず、セシルとアーサーは並んで大浴場の上にひろがる星空を見て語り合っていた。
「こんなにゆっくりとできるのは、本当に久しぶりだな、セシル」
「そうだな、アーサー。ここでもロンドンと同じ星が見えるんだな」
だが、湯氣が立ちのぼり、空にもヴェールがかかったようになっていた。
「ち。少し、晴れるようにするか」
セシルは、右手をすっと浴場の中心に向かって動かした。はっとして、アーサーが言った。
「やめろ。忘れたのか、今日ここには『ドラゴン』のエアー・ポケットが多数開いているんだ、下手なことをすると空間が予測不能に歪むぞ!」
その二人の動きが、わずかに空間を歪めた。一瞬だけ湯氣が完全に晴れ、おかしな渦が露天風呂の中を走った。
その少し前に、キャシーは、洋子と並んで日本酒を飲んでいた。先ほど八重垣神社の池に指でコインを沈めた女性だ。
美穂が、夫ポールの奇妙な行動に真っ赤になって、彼を引きずるように浴場から連れ出して消えると、それを面白くなさそうに見ていたキャシーの隣にいつの間にか来て、日本酒をついでくれたのだ。
「私、あなたとはいい友達になれそうって予感がしたわ」
洋子はそれだけ言うと、盃を合わせた。キャシーはニヤッと笑って言った。
「さっき、私もそう思った」
それから、日本酒を立て続けに何杯か煽ってすっかりほろ酔いになったキャシーは、「スタンド・バイ・ミー」を歌いながら、上機嫌で風呂の真ん中まで移動していた。両手を挙げて踊りながら。そこを、先ほどの渦が通り過ぎたのだ。
キャシーを覆っていた布が、ハラッとほどけた。途端につんざくような叫びをあげて、彼女はお湯の中に座り込んだ。事態を察知した洋子が、速攻で近くに寄り、布を拾って彼女の周りに巻き付けてやった。一秒後には、再び湯氣が辺りを覆った。
セシルの手を見ていたアーサーをはじめ、それぞれ誰かと話をしていた人物は、場面を見ていなかったが、二人だけ偶然キャシーの裸の上半身を見た人物がいた。一人が『級長』こと享志で、目撃した物をラッキーと判断していいのか、自分の良心に問い合わせていた。
それと、ちょうど対角線上にいて、キャシーの見事な胸を目撃した稔は、享志を見てぐっと親指を突き出した。「超ラッキー」という意味だ。それを見とがめたキャシーがすぐにやってきて、稔は散々お湯を引っ掛けられたので、享志はこの幸運については、自分の胸三寸におさめておくべきだと若くして学んだ。
俺様は、宴会場で風呂チームが戻るのを待っている。ここには、俺様をはじめとして四匹の猫がいる。猫と風呂は相いれないから、これでいいのだ。ニンゲンのくせに、風呂に入りたがらないヤツらも二人ばかりここにいる。イタリア系アメリカ人の女と、国籍不明の、額に飾りをした男だ。それぞれ事情があるのかもしれん。いずれにしても、他の彼奴らが食い散らかした残りのサシミや松葉ガニなどをほぐして俺様たちに食わせる係として使ってやっている。
俺様以外の三匹は、どれも甘え上手だ。白いヘブンは控えめなヤツで、俺様にも挨拶をした。「空氣を読む」猫の典型だ。世界的に有名な『半にゃライダー』ナオキは、スターの傲慢さが全くない。他の二匹にサインをせがまれて、背中に醤油に浸した肉球を押し付けていたが、どうせ価値のわからぬニンゲンどもが、数日でシャンプーしてしまうに違いない。
左右の目の色の違うマコトとやらは、やたらとアメリカ女に対して質問が多いが、ニンゲンが愚かでその言葉を理解していないことには氣がついていないらしい。だが、そのことを指摘してやるほど親切な俺様ではない。猫たるもの、ニンゲンが愚かであることは、自ら悟るべきなのだ。
さて、風呂組も、順番に宴会場に戻ってきている。最初にやってきたのが、やたらと妻に謝ってばかりいるアメリカ人とその日本人妻。妻は「もう、恥ずかしかったんだから」とか言って批難しているが、夫の方は謝りながらも妙に嬉しそうだ。言動が破綻しているぞ。
次にやってきたのは、ああ、この二人は彼奴らの中ではもっとも賢そうな兄妹。
「カロル、本当に楽しかったですね。これでいつ帰っても悔いはないわ」
「そうだな。いい経験だった」
なかなか品のいい二人だ。この二人の所になら、飼われてやってもいいかなと少し思う。毎日美味しいものも食えそうだしな。と思ったら、突然二人は姿を消した。なんと。『根の道』が再び開きだしているらしい。
それを見ていた、額に飾りをつけた男も、はっとしてその閉じかけている『根の道』に飛び込んだ。なんだ、こやつも帰るのか。だが、アメリカ女よ。お前はもう少しここにいて、俺様たちにその白身魚をほぐすがよい。そこのしじみもな。
「じゃあ、やっぱり『半にゃライダー』ごっこでもするか。ちょうど満沢とナオキもいるし」
「俺はまたあのアバンギャルドな髪型をしなくちゃいけないのか」
「テデスコ。サムライ役は格が上なんですよ。ところで、そうなると入浴シーンは?」
「お蝶が、まだ入っているだろ。お色氣シーンは、あいつの独断場だ」
「ああ~、いい湯だった」
「よし。続きでここで飲むぞ!」
そう言って、ぞろぞろとうるさいヤツらが戻ってきた。ちっ。俺様たちの食べ放題はこれでおしまいか。うむ。早く次のオフ会をしてくれないかな。俺様としては、次回は北海道辺りで開催してもらいたいものだ。なんせ、うまい海の幸には事欠かないからな。
(初出:2015年4月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 - 松江旅情(3)堀川めぐり
TOM-Fさんの所のセシルとアーサー、それに彼らの目撃情報によると彩洋さんちのハリポタトリオ、けいさんのところの「半にゃライダー」コンビも目撃されている界隈、まだまだ目撃情報が続きます。すみません、ストーリーもへったくれもなく、食べて飲んで見学して騒いでいるだけです。なお、私以外誰も知らないイタリア系アメリカ人キャラが一人登場しています。「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の終わった後に連載する中編の主人公です。知らなくても心配なさらずにスルーしてください。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
〜 松江旅情(3)堀川めぐり
「参りましたね」
レネは、辺りを見回した。ヴィルの表情は変わっていないが、困っているのは彼も同じだ。よりにもよって、なぜ日本人二人とはぐれてしまったのか。しかもこんなジャパニーズな場所で。
松江城の見学が終わってから、四人は一緒に塩見縄手と呼ばれる通りまではやってきたのだ。そして、武家屋敷の中を一緒に見学することにした。松江藩士たちが住んだ屋敷で、二百七十年前のものがとても良い状態保存されているのでショーグンの時代にタイムスリップしたかのようだとレネは大喜びだった。
それだけなら良かったのだが、ついうっかり「お休み処」に心惹かれて、庭を見ている蝶子や稔と離れてしまったのがいけなかったらしい。レネを引き止めにきたヴィルも巻き添えで迷子になってしまった。
「そんな遠くには行っていないはずだ。次にはコイズミなんとかに行くと言っていたから、そこを探せばいいだけだろう」
ヴィルは通りを見回した。
問題は、二人とも日本語が全く話せないということだった。そして、日本人たちというのは、外国人が簡易な英語で話しかけると、どういうわけだか、一様に意味不明な笑みを見せて逃げていってしまうという謎もあった。
「ああ、日本人じゃない人がいましたよ!」
レネが嬉しそうに叫んだ。ヴィルが振り向くと、門の前に、褐色の肌を持った女性が立っていた。どうやら彼女は写真を撮っている別の女性たちを待っているようだった。
「ちょっとお伺いしていいですか」
レネが近づくと、彼女は振り向いた。そしてはっきりとしたアメリカ英語で答えた。
「どうぞ」
「どうやら俺たちは仲間の日本人たちとはぐれてしまったようなんだが、コイズミなんとかにはどうやったらいけるんだろうか」
ヴィルが訊いた。
彼女は、肩をすくめてから、庭をみている二人の女性のうちの一人に英語で声を掛けた。
「ミホ! コイズミなんとかって知っている?」
写真を撮っていた白人女性に一声かけてから、日本人女性がこちらに歩いてきた。
「ええ、すぐ側よ。このあと、私たちもそこへ行こうかと思っていた所だわ。でも、こちらは裏門だから、ここで探しても見つからないわよ」
ヴィルとレネは安心して頷いた。アメリカ英語だが、話の通じる女性がいたのはありがたい。
「すまないが、連れて行ってくれるとありがたい。俺はヴィル、こっちはレネだ」
「よろしく。私は美穂、こちらはキャシーです。それから、あそこで写真を撮っているのは……。ジョルジア! そろそろ行くわよ。じゃ、行きましょうか。ところで、その足元の猫は、あなたの?」
そう言われて、足下を見ると、茶虎の仔猫がじっとこちらを見上げていた。見上げているというよりは、睨んでいると言った方がいいかもしれない。一度も見たことのない猫だった。
「いや、僕たちの猫じゃありません。なんか、おっかない猫ですね」
レネが狼狽えた。

「そう、今日は、やけにたくさん猫がまとわりつく日なのよね。さっきも茶虎の仔猫にあったんだけれど、そっちはやけに可愛くて、しかも目の色が左右で違ったのよ」
キャシーが言うと、ヴィルとレネは顔を見合わせた。二人とも、今朝あった『スズランの君』と、昨日旅館で逢った高校生のことを思い浮かべていた。オッドアイの猫が、二人のオッドアイの人たちが偶然来ている街にいる? どんな確率で起こることなんだろう。
「それに、ニューヨークでも大人氣の『半にゃライダー』のロケ現場にも出くわしたの。本物のナオキを見られるなんて、日本に帰って来た甲斐があったわ」
美穂が嬉しそうに言った。『半にゃライダー』? どこかで聞いたような……。
「あっ。以前、バイトをしたあの番組!」
レネが叫んだが、ヴィルは、ため息をついた。
「ついさっき、お城でショーをやっていたじゃないか。あんたはどうせ団子屋しか見ていなかったんだろう」
「あ、あのショー、あなたたちもご覧になっていらしたんですか? ラッキーでしたよね。『やにゃれたらにゃり返す。あなたには500倍返しにゃ。それが私の流儀なんでにゃ』あの決め台詞を聞けたなんて」
美穂がうっとりとするのに心動かされた様子は皆無で、ヴィルはキャシーに訊いた。
「あんたたちも、あのマスクを被った猫のファンか?」
キャシーは肩をすくめた。
「よくわからないわ。ああいうのは子供のためのものだと思うんだけれど、日本人にとっては違うみたいね。ジョルジア、あなたはどう思う?」
そう言って振り向くと、連れの女はまた遅れていた。写真を撮るのに夢中になっているらしい。
「ジョルジア! 今日くらいは仕事のことは、忘れなさいよ! 今度はあなたがはぐれるわよ」
レネとヴィルは、急いでこちらに向かってくるその女をちらっと見た。黒いショートヘアに飾りのない白いTシャツ、ジーンズにGジャンという少年のような佇まいで、どうやらスッピンのようだ。だが意外と整った南欧系の顔立ちだ。「
「イタリア語も話せるのか」
ヴィルがイタリア語に切り替えて訊くと、少し驚いたが首を振った。
「私はニューヨークで育ったの。相手の言っているイタリア語はわかるんだけれど、ちゃんとは話せないの。あなたたちの方が、私よりずっと上手だわ」
「だって、僕たちは、年の1/3くらいはイタリアにいるんですよ」
「そう」
威張った顔つきの仔猫は、五人にしっかりついてきている。話が分かっているみたいに、時々、バカにしたようにこちらを眺めるのがおかしい。
「ああ! いたいた!」
「おい、お前ら、探したんだぞ!」
小泉八雲記念館のすぐ前にいた蝶子と稔が近づいてきた。
「すみません! つい、うっかり」
レネが謝ったが、その時には二人は、新しく増えた連れの方に興味を示していた。
「へえ。ニューヨークから来たんだ。女性三人で?」
「ううん。ここにいるミホの旦那も入れて四人で。この子たちはサンフランシスコでイタリア料理店を経営しているの。せっかくだからミホの故郷を見にこようってね。私と、ここにいるジョルジアは生まれてからずっとニューヨーク在住。この人は、私の勤めている食堂のお客さんで、フォトグラファーなのよ」
キャシーが簡単に説明した。稔は不思議そうに美穂を見た。
「旦那さんは?」
彼女は肩をすくめた。
「なんだか旅の途中から、様子がおかしくて。具合が悪いのかと訊いてもなんでもないって言うし。なれない長時間旅行で疲れただけだから、三人で観光して来いって言われちゃったの。何度か電話を入れているんだけれど、急病ではないみたいなんで、少し休んでいれば治ると思うんたけれど」
「ジェットラグかしらね?」
蝶子が言って、「小泉八雲記念館」の入り口をくぐった。六人はそれに続いた。
後に小泉八雲と名乗ることになったラフカディオ・ハーンはギリシャで生まれ、アイルランドやフランス、アメリカで暮らした後に、明治23年、日本へやってきて島根県の尋常中学校と師範学校の英語教師となった。そして、松江に住み小泉セツと結婚した。橋姫伝説などの怪異譚を知り、後に『怪談』をはじめとして、多くの日本の伝説や文化について海外に紹介する原点となった松江生活だが、実際には一年と三ヶ月ほどしかいなかったと言う。
「大雪と冬の寒さに堪えたんですって」
展示を見ながら蝶子が言うと、稔が頷いた。
「ここは山陰だからな。降るときはすごいんだろうな」
「春に来て正解でしたよね」
美穂も頷いた。どういうわけか足元の猫も頷いていた。
「私たちこれから堀川遊覧船に乗るんだけれど、よかったら一緒にどう?」
そう蝶子が訊くと、アメリカ組三人はすぐに頷いた。
松江城の堀川は3.7km、所要時間55分で城の周りを一周する遊覧船がめぐっている。すぐ近くにあった乗船場で七人は同じ舟に乗った。
「その猫もですかい?」
そう訊かれて足下を見ると、まだ茶虎の猫がそこにいた。「当然」という顔をされて、周りを見回してから「しかたないな」と抱え上げたのは稔だった。
船頭はなかなかのエンターテーナーで、松江城や松江藩の歴史をよどみなく話し、さらには「松江夜曲」なる歌まで披露してくれた。もっともガイジン比率が高く、内容をわかっていたのは限られていたが。
岸辺と松江城の桜が見事だった。春の陽が波立つ川に反射してキラキラしていた。泳いでいた魚がぴちゃんと跳ねると、仔猫はびくっとして、稔にしがみついた。
「なんだ、魚が怖いのか?」
そういうと、「失敬な」という目つきで睨んだ。稔は「しょうがないな」といって、猫の尻尾の付け根あたりをこすってやった。一瞬、きっと睨んだが、そのポジションからいっこうに動かない所を見ると、もっと撫でろという意味なのかもしれない。周りの全員が桜や松江城を堪能しているのに、どうして俺だけこの猫の面倒を看ているんだろうと、稔は首を傾げた。
一周して同じ発着所で遊覧船を降りた。代わりに乗り込んできたのは、三人組の日本人だった。男性が二人と女性が一人。一番前が、ふわりとした栗色の髪に大きい瞳が印象的な美青年。その後ろから長い髪を後ろで縛っている筋肉質で背の高い女性が乗り込んだ。一番後ろの黒髪で鼻筋が通り切れ長の目の青年は、ハンサムと言っても過言ではないのだが、どういうわけか頼りない印象を与えた。彼は城の桜を撮影していたが、女性に「玉城、船頭さんが待っているんだから、さっさと乗れ」と叱られていた。
稔にくっついていた仔猫は、すぐにその青年の所へ行って、批難のまなざしで見上げた。稔と背の高い女性の二人は、それに同時に氣がついて、顔を見合わせて笑い出した。船の中で桜を見ていた美形の青年と、カメラをしまって舟に乗り込もうとしていた玉城と呼ばれた青年は、何があったのかわからずにぽかんとして、女性と稔の顔を交互に見た。それから、玉城青年が足元の茶虎の仔猫に睨まれていることに氣がつき「ひゃっ」と言った。それで、こんどはその場にいた全員が笑った。
それから仔猫はすっと稔の横に戻ってきた。会釈を交わすと、三人組をのせた遊覧船は、岸を離れていった。
そのまま七人で昼食をとることにした。発着所の隣に『松江・堀川地ビール館』という建物があり、最高級の島根和牛を焼き肉で食べることができる。七人という大所帯なので、コースの他にいろいろな肉や野菜を少しずつ頼んで、地ビールも堪能した。
「なんだ、このビール。やけに美味いな」
ヴィルが首を傾げると、稔と蝶子はガッツポーズをした。
「インターナショナル・ビア・コンペティションで何度も入賞しているんですって。ドイツのビールにも負けていないでしょう?」
レネとヴィルは頷いた。キャシーはいける口のようで、陽氣に騒いでいた。一方で、ジョルジアはビールではなく島根ワインを頼み、静かに食べていた。
島根和牛の美味しさは、格別だ。ヨーロッパの煮込まないと食べられないような大して美味しくない牛肉に慣れているArtistas callejerosの四人も、それから量だけはあるが大味なアメリカンビーフに慣れているアメリカチームも、焼き肉を食べるときはしばし無口になった。
「ああ、日本の食事って、おいしいですよね」
霜降り和牛と一緒に食べているお替わり自由のご飯を噛み締めるように、美穂が言った。
「カリフォルニアなら和食なんて珍しくもないかしら?」
蝶子が訊くと、美穂は首を振った。
「日本料理店は多いですけれど、私はほとんど行かないんです。なんせ自分自身がイタリア料理店で働いているので」
「じゃ、家で和食ってこともないんですね」
レネが訊いた。美穂は首を振った。
「和食って手間がかかるでしょう。仕事以外ではあまり調理に時間をかける氣にならないんで、食べたくて死んじゃうって時じゃないと、なかなかね」
「さっき懐石料理とかいう料理のパンフレット見せてもらったけれど、手が込んでいるんだものねぇ。あれを仕事のあとに作るなんて、私も嫌だな」
キャシーが言った。稔も蝶子も、懐石料理を家庭で作るわけないだろうと思ったが、家庭料理との違いについての説明が面倒だったのでスルーした。
「みなさんは、これからどうするんですか?」
美穂は稔に訊いた。
「松江フォーゲルパークに行こうと思ったんだけれど、ガイジンたちがもう動きたくないって言うんで、諦めて夕方までここで酒でも飲んでいようかと思っているんだ。宍道湖の夕陽を見た後、千手院のしだれ桜を見て、それから玉造温泉に戻るよ」
「えっ。玉造温泉にお泊まりなんですか? 私たち『長楽園』に泊るんですが」
「へえ。偶然だな、同じ宿だ。じゃ、また逢えるな」
「ええ。じゃあ、私たちは『八重垣神社』へ行ってきますから、後でまたお逢いしましょう」
美穂と、キャシー、そしてジョルジアは手を振って、出て行った。
四人はそのまま地ビールとつまみで本日の宴会の第一弾を始めた。茶虎の仔猫は「しかたないな」という顔をして、大騒ぎする四人を片目で見てから丸まった。
(初出:2015年4月 書き下ろし)
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【小説】ピアチェンツァ、呪縛の古城
今日の作品は、ほんのちょっとホラー・テイストです。イタリアの古城で起こった幽霊による神隠し。悲鳴を残していなくなった恋人のために奮闘する青年のお話。
ピアチェンツァ、呪縛の古城
どうしてこんなことになったのだろう。イェルク・ヨナタン・ミュラーは、青ざめて古城の暗い廊下を歩んでいた。
彼は、休日を利用して、恋人であるステラと一緒に、このピアチェンツァに日帰り旅行に来ていた。その坂を登ったところに、できたての野菜と美味しい豚肉料理を出してくれるアグリトゥーリズモの田舎風レストランがあるはずだった。ステラに地図を読ませたのが間違いだった。「私だって地図ぐらい読めるわ」彼女の言葉を信じてしまった彼の失態でもあった。女に地図が読めるはずがないのに。
坂を登りきった所にあったのは農家ではなくて古城だった。それもレストランなどが併設されているようではなく、明らかにプライヴェートの。すぐに来た道を戻ろうとするヨナタンに、ステラは言った。
「でも、この裏に農家があるかも」
彼女が勝手にそちらに行ってしまったので、彼はあわてて後を追った。そして、空模様が急におかしくなっていることを知った。まさかこんな時期に雷雨が来るのか? 雨宿りをしなくてはならない、だがその前にステラを止めないと、角を曲がろうとした時に、ステラの悲鳴が聞こえた。
「ステラ! 何があったんだ」
慌てて後を追ったが、角を曲がった途端に、彼は意識を失った。氣づいた時には、冷たい石畳の敷き詰められた暗い廊下に横たわっていた。
「目が覚めたか」
女の声がしたので振り向いたが誰もいなかった。
「誰だ。どこにいる」
「ここだ。だがお前には見えまい。ふふふ。さあ、立ってこちらに来るのだ。声のする方に……」
「だが……彼女は無事なのか?」
ヨナタンは、焦りを隠さずに問いかけた。女の声はカラカラと笑った。
「お前が言う事をきかなければ、無事では済まない。いいか、お前に選択権はない。ここでは、人間ごときの能力など何の役にも立たないからだ」
姿の見えない女の声は薄氣味悪く虚空に響いた。
石の床は彼の足元で冷たい音を立てた。廊下の両側に立っている中世の甲冑が揺れてカチャカチャと鳴った。金属音が鋭く彼の耳を貫いた。脇に冷たい汗が流れる。ここから逃れる術は何もないのだろうか……。
やがて、彼は大きな木のドアの前に立たされた。
「さあ、ここに入るんだ」
おどろおどろしい声に促されて、怖々と彼がそのドアを開けると、何故か全く似つかわしくない音楽が大音響で流れていた。
――これは……ビヨンセじゃないかな?
そして目に飛び込んできた光景はもっと奇妙だった。たくさんの男たちがいた。全部で20人くらいだろうか。男だけだったが、どういうわけか全員ハイヒールを履いて踊っていた。
「は~い、マウリッツィオ。新しいバックダンサー連れてきたわよ」
ふと横を見ると、さっきの声の主が、天使みたいな羽根をつけた少女の姿になって顕現していた。

このイラストの著作権はlimeさんにあります。使用に関してはlimさんの許可を取ってください。
「おお、ご苦労。次の迷子が来たら、またここに連れてきてくれ、アロイージア」
一番前で踊っていた黒髪に青い瞳をした男が頷いた。後ろで踊っていた男たちも騒いだ。
「よろしく! 新しいお仲間さん!」
「お前らは黙って練習しろ。おい、そこの新入り。さっさとそこにあるハイヒールに履き替えて、一番後ろに並べ! そこの筋肉男! 振り付けを教えてやれ」
マウリッツィオは、厳しい顔で命じた。
「あ、あの……、これはいったい……」
ヨナタンが体格のいい男に近づいて声を顰めた。
「よろしく。俺の名前は、マイケル・ハースト。アメリカ人だ。それから、そこにいる三人は大道芸人だそうだ。金髪のドイツ人がヴィル、茶髪のフランス人はレネ、それからそこの日本人は稔というらしい。ああ、それからもう一人日本人がいたな。たしかヤキダマとかいう。それにそこのモロッコから来たヤツはムスタファ。あとは、俺もまだ名前を知らないんだ。ところで、あんたは?」
「ヨナタンです。ドイツ人ですが、イタリアに住んでいます」
「そうか、ヨナタン。ご苦労だが、あんたがここに来たからには俺たちと一緒に踊ってもらわなくちゃいけない。俺たちの連れの女たちは全員人質になっている。そしてあのマウリッツィオとさっきの羽の生えた幽霊が満足する踊りを習得するまで解放してもらえないんだ。この曲は知っているだろう?」
「はあ。たしかビヨンセの……」
「そう『Crazy In Love』だ。そんで、あいつはヤニス・マーシャルみたいにカッコ良く踊りたいんだってさ。で、俺たちがバックダンサー。人質を無事に返してもらいたかったら、とにかくこの振り付けを憶えんだな」
「……はあ」
ヨナタンは、生まれて初めてハイヒールを履き、とにかく振り付けを憶えた。といってもうまく踊れるはずなどなく、マウリッツィオに罵倒されつつ必死でレッスンを繰り返した。
前の列で踊っている三人の大道芸人たちは、バックダンサーにされてからかなり長い時間が経っているらしく、振り付けはばっちり、おしゃべりをする余裕もあるらしかった。
「ヤス、その日本の盆踊りみたいな動きは何とかならないのか」
「お前こそこんなシュールなダンスを無表情で完璧に踊るのはやめろよ」
「テデスコ、少し手加減してくださいよ。あまりうまく踊るとマウリッツィオを食っちゃって、睨まれますよ」
「ふん。どうやったらヤスみたいに下手に踊れるのかわからん」
「くそっ! 憶えていろ!」
ヨナタンは、周りを見回した。ヤキダマと紹介された男は日本人らしく黙々と練習していた。よほど人質となった女性が心配らしい。僕もちゃんと踊らないと。ステラはどんな辛い目に遭っているんだろう。
その一方で、彼は視界の端に、三頭の仔パンダが楽しそうに踊っているのもとらえていた。真面目に心配するようなシチュエーションには思えないが、ここはいったいどうなっているんだろう。
「もう少し、コーヒーはどう?」
にこやかに奨められて、ステラは戸惑いながらコーヒーカップを差し出した。
「あの、こんなことをしている間に、ヨナタンは……」
そう言うと目の前の蝶子と名乗った日本人女性が笑って否定した。
「大丈夫よ。エンターテーメントの練習をしているんですって。私たちはこうやってお茶会をして待っているだけ。ほら、レアチーズケーキもあるわよ」
ステラは周りを見回した。17、8人の女性と、明らかにパンダに見えるのに服を着ている二人が大きな舞台のある大広間に用意されたデザートビュッフェでにこやかに談笑していた。国籍も、年齢もバラバラだが、誰もがかなりリラックスしていた。
時おり、彼女たちをこの広間に連れてきた羽根のある幽霊がやってきては、報告をしてからいなくなった。
「まだ踊れないヤツがいて、もうちょっとかかるかも。あ、パンナ・コッタも用意したから。ワインの方がいい人がいたら言ってね」
ステラは、隣の席に座っているコトリと名乗った日本人に話しかけた。
「あなたもレストランを探していて迷いこんだの?」
「いいえ。新婚旅行中で古城ホテルに泊るはずだったんですけれど、そのホテルからいつの間にか転送されてしまって」
「え。そうなの?」
「バイクはあっちのホテルにあるはずだし、この催し物が終わったら、どうやって帰っていいのか」
向かいの席に座っていたミシェルと名乗ったフランス人の女性がコーヒーを飲みながら言った。
「私たちなんか、元の世界に連れを一人追いてきちゃったみたいなの。早く帰って世話をしてあげないといけない人なんだけれど、それを言ったらあの幽霊は、時間が止まっているし、満足のいくエンターテーメントになったら、元の世界にはちゃんと送り返すから大丈夫だって。ま、心配しても何もできないし、こんなにゆっくりできることって久しぶりだから、楽しんじゃおうかなって」
そうか。じゃあ、私もヨナタンが戻ってくるまで、パンナ・コッタでも食べようかな。
ステラが、パンナ・コッタと、レアチーズケーキと、ベイクド・チーズケーキと、サバイオーネと、レモンケーキと、マチェドニアと、ティラミスと、それからマーマレード・サンドイッチを食べ終えた頃、舞台に灯りがついて、音楽が流れた。ビヨンセの『Crazy In Love』だ。
奥の大階段から、一番前に艶のある黒革の衣装に、黒いハイヒールを履いたマウリッツィオが降りてきて、後ろに二十人のバックダンサーが続く。うまい男と下手くそな男と色々いるが、それぞれが懸命に踊っている。
ヨナタンが、ハイヒールで踊っている……。ステラは、カルチャーショックで固まった。隣を見るとコトリも硬直していた。けれど、ミシェルと蝶子、それにガタイのいい男を応援しているアレクサンドラという女は、大笑いしながらも拍手をして騒いでいた。
稔は予想通りヘタクソだった。だが、ふっきれて笑いを取る方に走っていたので、見ていて辛くはない。レネは意外と踊りが上手い。リズムのとり方が上手な上、リラックスしている。ヴィルはプロ並に上手いのはいいのだが、いつもの無表情のままなのでかえって怖い。
一生懸命が服を着ているような踊り方をしているのは、ヤキダマだ。振り付けを間違えないように集中しているので、新婚旅行中にハイヒールを履いて踊らされている理不尽について思いやってあげられるのは、新妻のコトリ一人だった。
そのヤキダマの一生懸命さと比較して、ヨナタンの方は「なぜこんなことをしているんだろう」という疑問が表情と踊りの両方に表れていた。もっとも普段から舞台で音楽に合わせて演技するサーカスの道化師なので、踊り方はさほど下手ではない。
そして、褐色のモロッコ人ムスタファはさすがに身体能力が抜群で、踊りが様になっている。負けてなるものかと、横でノリノリで踊るのは、「ブロンクスの類人猿」とアレクサンドラに呼ばれているマイケル。二人で、アドリブを混ぜながら仲良く踊っている。「楽しんだもの勝ち」のいい実例だ。
そして、望み通りのバックダンサーを従えて得意顔のマウリッツィオは、羽根の生えた幽霊アロイージアの用意したスポットライトの光を浴びて汗を飛び散らせ回転している。
「キャー! セクシーねぇ」
「おお、こんなに上手く踊れるとは!」
女たちは拍手喝采だ。その周りを、ポルターガイストで、カップや皿が広間を飛び回っている。
間奏曲になると、三頭の仔パンダが前面に出てきて、キュートなダンスを披露する。あまりの可愛さに、女たちは悶死寸前だ。
それから再び全員で激しく踊り、熱氣の中で最後のポーズが決まった。やんやの拍手喝采がなされた。スタンディグ・オベーションにマウリッツィオは大満足だった。
バックダンサーにされた男たちは、女たちが菓子とコーヒーとワインでもてなされているのを見て、文句たらたら、さらに男なのに仔パンダが踊るのと引き換えにこちらで待っていられた父親パンダへのひいきに文句を言うものも出てきたが、今からお茶会に加わっていいとのマウリッツィオの宣言を聞くと、大喜びで舞台から降りてきて、それぞれの連れの女性の所へと走った。
「お疲れさま。ヨナタン。意外だったけれど、かっこよかったよ」
ステラが言うと、ヨナタンは照れたように笑って「ありがとう」と言った。
女たちにそれぞれ上手に労われて、さらに空腹が癒されると、男たちの機嫌も治ってきた。
「お腹もいっぱいになったことだし、いい加減この衣装とハイヒールは返したいよな」
稔が言うとレネも頷いた。
「僕の服、どこに言っちゃったんだろう」
「俺の服のポケットには、手榴弾が入っているんだ。扱いには氣をつけてくれよ」
マイケルは物騒な文句を言う。
「そんなに、着替えたいか」
その声に見上げると、マウリッツィオ・ビアンコが不敵な笑みを漏らして立っていた。
「まさか、このまま解放してくれないとか?」
ヴィルが眉をひそめた。
ビアンコは高笑いした。恐ろしいラップ音とともに、バックダンサーたちは、黒いシャツに白いスーツというお揃いの服装に早変わりしていた。
「もちろん、このまま返すわけはないだろう。次は『サタデー・ナイト・フィーバー』だ。さっ、男ども、さっさと練習室に戻るんだよ!」
マウリッツィオ・ビアンコに命じられて、男性陣は猛烈なブーイングで抗議したが、ポルターガイストで何でも起こる古城で彼らにできる抵抗はほとんどなかった。
彼らが練習室に姿を消すのを見守った後、女性陣とパンダの夫婦は顔を見合わせると、再びコーヒーポットから熱々のコーヒーをお互いのカップに注ぎ、新しく積まれたお菓子に手を伸ばして和やかに談笑を始めた。
幸せな北イタリアの春の午後は、のんびりと過ぎていった。
(初出:2015年4月 書き下ろし)
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- 【小説】ピアチェンツァ、古城の幽霊 (14.09.2014)
【小説】大道芸人たち 番外編 - 松江旅情(2)城のほとり
あ、参加者の方への業務連絡です。玉造温泉の混浴が人氣でしたので、夜に千手院で夜桜を堪能した後に、また玉造温泉に戻って再び四人を月見沐浴させようと思います。ご希望の方は、どうぞ乱入してきてくださいね。また、私が書いていない時間、スポットでの目撃談も、どうぞご自由に書いてくださいませ。
ちなみに、Artistas callejerosの四人組の外見描写、私の書いている中にはほとんど出てきません。目の色などを細かく知りたい方はこちらをどうぞ。視覚で知りたい方は下のユズキさんの描いてくださったイラストで。髪型など、完璧に再現してくださっていますので。服装も、このままということにしちゃいます。蝶子だけは、これに白っぽいスプリングコートを上に着ているかな。

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
〜 松江旅情(2)城のほとり
「ちょっと、ブランベック。なに食べ歩きしているのよ」
蝶子は露骨に嫌な顔をした。レネは、たった今入ったばかりの和菓子店「石倉六角堂」で買いあさった和菓子のうち、どら焼きを開けて食べていた。
「お茶もなしによくそんな甘いものが食えるな」
稔も呆れている。ヴィルも今回は助け舟を出すつもりはないらしい。なんせ四人はつい今しがた、併設された簡易喫茶で練りきりと緑茶を堪能してきたばかりなのだ。
「こんなにおいしい和菓子は、僕たちの所では食べられないじゃないですか。放っておくと固くなっちゃうし、少しでもたくさん食べておかないと」
レネはふくれた。
「そんな姿をみたら、百年の恋も醒めちゃうわよ」
「ほっておいてください。見られて困るような人がここにいるわけないんですから」
レネが、一つめを食べ終わって、さらに袋を探っている所を稔がつついた。
「おい。今の言葉、後悔すんなよ。ほらっ」
レネは顔を上げて、稔が顎で示している方向を見て、ぽかんとした。
「……スズランの君……」
蝶子とヴィルも、レネの視線を追った。道の向こう側、お城の堀に近い方向を、二人の外国人が歩いていた。一人は長い金髪に濃紺のスーツを身に着けた背の高い男性で、もう一人は桜色に薔薇の柄のフリルの多いドレスを着ている若い女性だった。
その女性をもっとよく見て、ヴィルと蝶子にもレネが誰の事を言っているのかわかった。真珠色の長い髪に赤と青のオッドアイ。ロンドンで、レネがぽーっとなったという女性だろう。レネは彼女にもらったレースのハンカチを未だに大切にしているのだが、そのハンカチから薫っていたのが『リリー・オブ・ザ・バレー』の香水だった。
「ほらみろ。買い食いなんてするもんじゃないだろう」
稔が言うと、レネは恥ずかしげに出しかけていた二つ目のどら焼きを袋にしまった。
「どうした?」
ヴィルが、蝶子に訊いた。蝶子は、やはり少し驚いた様子で、女性の連れの方を見ていた。
「あの男性……」
「知ってんのか?」
稔が訊くと蝶子は頷いた。
「大英博物館で逢った人よ。へえ。『スズランの君』と知り合いだったのね」
「そういえば」と稔は首を傾げた。「あの時のサツ野郎と一緒じゃないんだな……」
「ロンドンで逢った人たちと、日本で再会か……。不思議なめぐり合わせだな」
ヴィルが言うと、レネが息巻いた。
「運命ですよ!」
蝶子と稔は吹き出した。それから稔が訂正した。
「『縁』だろ。島根県は『縁の国』だからな」
四人は、道路の向こうの二人に会釈をして通り過ぎた。ところで、あの人は私のことを憶えているのかしら? 蝶子はちらりと考えた。
松江城の観光を始める前に、まず松江歴史館から観ることにした。武家屋敷のような建物で、松江城とその堀川の景色ともよくマッチしている。もともとは四家の重臣の屋敷のあった場所で、その中の松江藩家老朝日家長屋の一部が今も残り、松江市指定文化財となっている。歴史館にはこの建物や復元された木幡家茶室や日本庭園と企画展示室が上手に組み合わされている。
展示室では、松江藩の概要、産業、城下町の暮らし、それに水とともにある松江の暮らしなどをコーナーごとに解説し、模型、絵巻風のパネルや鎧兜、陶器、その他の展示で日本語が読めないものも飽きずに見学できるようになっていた。
ひと通り見学を終えて、出口に向かう途中、売店の側でレネが足を止めた。喫茶店があったのだ。蝶子が辛辣なひと言を言おうとした正にその時、横をドイツ語で話しながら二人組が通り過ぎた。
「先生。ついさっき和菓子屋で食べたばかりじゃないですか。いちいち和菓子を見る度に食べようとなさらないでください!」
「失敬なことをいうね、フラウ・ヤオトメ。この前に通った、少なくとも二軒の和菓子屋では立ち止まらなかったぞ」
蝶子は吹き出した。首を傾げるレネと稔にヴィルが素早く通訳した。それを耳にして、二人組は立ち止まった。一人は太い眉に銀のラウンド髭を蓄え、細かいチェック柄のツイードの上着を着た厳格そうな外国人で、もう一人は首までの茶色く染めた髪を外側にカールさせ、臙脂色のスプリングコートを着た日本人女性。
「この街で、ドイツ語のわかる人に逢うとは思わなかったな」
と、紳士は握手の手を伸ばし、スイスに住むクリストフ・ヒルシュベルガー教授であると自己紹介をして、同行しているのが秘書のヤオトメ・ユウであると言った。
「お知り合いになれて光栄です。ヴィルフリード・エッシェンドルフです」
ヴィルは、手を伸ばし礼儀正しく挨拶をした後、続けて残りの三人を紹介した。
「せっかくですから、ここの喫茶店でお茶でもしませんか」
教授がそう言ったので、蝶子はまた笑いそうになったが、必死で堪えて喫茶店『きはる』に入った。日があたり暖かいので屋外の濡れ縁で、和菓子と緑茶を楽しんだ。
「この後は、どこに行かれるのですか?」
ユウが訊いた。蝶子は日本語で答えた。
「ここ以外は、まだ、和菓子屋にしか入っていないので、これからちゃんと観光する予定なんです。まずはお城に行って天守閣に登りたいなと思っています。それから、できれば堀川遊覧船にも乗りたいですし、武家屋敷や小泉八雲記念館にも行きたいなと思っているんですが、あまりたくさん観光したがらないガイジン軍団がいるんで、計画通りにいくかどうか……ユウさんは?」
「ええ、和菓子屋めぐりはそこそこにして、イングリッシュガーデンにいくか、神魂神社への参詣ついでに『風土記の丘』や黄泉比良坂に行くのもいいかなと」
「氣になる所、たくさんありますよね」
「ええ。でも、外国人連れだと……何に騒いでいるのかわかってもらえない部分もありますよね」
「確かに」
妙な所で意氣投合してしまった。
「でも、外せないのは宍道湖の夕陽を見て、千手院でしだれ桜を見ることでしょうか」
ユウが言うと、稔が頷いた。
「確かにそれは見逃せないな。じゃあ、後でまた逢うかもしれないな」
和菓子も食べて、レネとヒルシュベルガー教授も満足したようなので、六人は松江歴史館を出て再会を約束して別れた。
「さあ、とにかくお城に行きましょう」
立派な門を通って、小高い丘を登っていく。
「やっと入口か。天守閣に行くのもさらに登るんだよな。覚悟しろよ」
稔が言う。
「あ、あそこでお団子を売っていますよ!」
レネの叫びを、三人は無視することにした。
(初出:2015年3月 書き下ろし)
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今回のオフ会でも、結局この四人をメインに物語を組立てることにしました。物語と言っても、あまりストーリーもありませんけれど。前泊、朝、昼、宵くらいで松江市をうろつかせようかなと思っています。途中で、ほかのウチのオリキャラもいろいろと出てくると思いますが、それは適当に。他の方が書かれたものがあれば、それに合わせてどんどん動かしたいと思いますのでどうぞよろしくお願いします。臨機応変にね。あ、本文には書きませんでしたが、他の方達に目撃された時、四人はたぶん旅館の浴衣と半纏を着ていると思う……。
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ


あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
〜 松江旅情(1)玉造温泉
「うわっ。こりゃ壮観だ」
稔は玉湯川の桜並木を見て叫んだ。四百本の桜が咲き乱れる様は壮観だ。夜はライトアップされる。
「きれいねぇ。やっぱり桜の時期の日本は外せないわね」
蝶子がうっとりする。
「この桜、すごいですね。花がこんなにぎっしりと詰まっている」
「なるほどな。日本の桜を見ろと、行ったヤツが口を揃える理由がわかったよ」
ガイジン二人もすっかり感心している。
玉造温泉は、松江からJR山陰本線でおよそ十分のところにある温泉街だ。『枕草子』にも三名泉としてその名が登場し、歴史と格式がある。規模は大きいが、歓楽色がないうえ、料金設定も高めで数寄屋造りの高級旅館が多い。そのため、観光客ずれした場所を嫌うヴィルやレネを連れてくるにはもってこいだった。街のあちこちに、出雲の神話をモチーフにしたオブジェが建っている。
「まずは、今夜のお宿に行きましょうよ。温泉に浸かってゆっくりとして、明日、松江の観光に行くことでいいわよね」
蝶子が言うと、稔が付け加えた。
「宴会を忘れんなよ」
島根県松江市玉湯町にある「玉造温泉 湯之助の宿 長楽園」は、明治元年創業の老舗だが、創業した長谷川家は奈良時代からこの地に住み、江戸時代より松江藩から「湯之助」の官職を申しつかり玉造温泉の差配・管理をしていた由緒ある家柄だ。
そもそも玉造温泉は、奈良時代に開かれた日本最古の歴史を持つ温泉の一つで、大国主命とともに国造りをした少彦名命が発見したとの言い伝えもある。
「『ひとたび濯げば形容端正しく、再び浴すれば万の病ここぞとに除こる』って、出雲風土記に書いてあるんだって」
説明書きを読みながら、蝶子が頷く。
「なんですか、それは?」
もともと日本語はまったくわからないレネが首を傾げる。稔が砕いて英訳した。
「一回入ると美形になって、二回入ると病が治るってことじゃないか」
「僕も?」
レネが言うと、ヴィルは鼻で笑った。
「温泉に入っただけで、姿形が変わるわけないだろう」
「とにかく! ここに来たのは混浴ができるからなのよ」
蝶子が言うと、ガイジン二人は目を剥いた。
「こ、混浴? で、でも、日本のオンセンって……あの、その、すっぽんぽんで……」
レネが大いに狼狽えて、ヴィルは無表情ながらもムッとしたのがわかった。
「大丈夫だよ。混浴って言う場合は、本当の裸じゃないんだ」
稔がパンフレットを見せた。たしかに女性モデルが薄いバスタオルのようなものを巻いて温泉に入っている。
「前に日本に来た時、私だけ別のお風呂だったでしょう? 今度は絶対混浴温泉に行こうと思っていたの」
蝶子はすっかり乗り氣だった。一方、ヴィルはパンフレットに掲載された料理に興味を示した。
「ここでも、例の宴会か?」
稔は大きく頷いた。
「そ。日本で旅館に泊まるとなると、必ず宴会食なんだ」
「日本酒、楽しみですねぇ」
レネも目を細める。
食事は、掘りごたつの座敷会場でだったが、自分たちの席に案内される時に他の客たちが既に食事をしている横を通った。
「お、おい。なんか可愛い三人組がいるぞ」
稔が蝶子を肘でつついた。見ると、二人ロングの長髪、一人はおかっぱの少女で、三人ともよく似ているので姉妹のようだ。稔は、一番年若いと思われるおかっぱの少女を見てにやけている。蝶子は肩をすくめた。
「あなたって、本当に結城さんと女の子の好みがダブっているわよね」
「いいじゃないか。結城と違って、こっちは見ているだけで実害はないぞ」
「まあね。あの子、未成年みたいだから、実害があっちゃ困るわよ」
「あの子たちも混浴温泉に行くのかなあ。断然楽しみになってきたぞ」
蝶子は、ため息をついて通り過ぎた。案内された席の反対側には、やはり高校生と思われる三人組がいた。こちらは女の子ひとりと、男の子二人。そのうちの一人が元氣よくその場をしきっている。もう一人の男の子は、寡黙だ。どこか違和感があって、蝶子がもう一度よくその少年を見た。そして納得した。瞳が片方だけ碧かったのだ。へえ。珍しいもの見ちゃった。蝶子は心の中でつぶやいた。
もっとも日本人二人、外国人二人の蝶子たちは、やはり周りの注目の的だった。特に隣の高校生たちが大人しくジュースを飲んでいるのに、次々と日本酒をオーダーしてよく飲むArtistas callejerosは、かなり浮いていたに違いない。
島根和牛のステーキ、桜鯛や花烏賊のお造り、筍の土佐煮、白魚と穴子の桜花揚げ、その他たくさんの海の幸と山の幸を桜を多用した春らしい会席料理。
「日本の料理って、味だけでなくて、見た目も楽しむものなんですよね」
レネが言い、四人は頷きながらしみじみと味わう。
「これが終わったら、露天だ、露天」
やけにハイテンションな稔に蝶子は白い目を向ける。
「こんなに飲んで、お風呂で倒れないでよ」
水曜日の朝、蝶子は一人で朝風呂に向かった。昨夜、四人で露天風呂に来たが、いたのは彼らだけだった。
「ちぇ。せっかく日本の露天に来て、見れたのはお蝶だけかよ」
ブツブツ言っていた稔のことを思い出す、おかしくてしかたない。
ふと見ると、昨日の三人組の女性が、仲良く並んで女湯に浸かっていた。あらぁ、いるじゃない。もっともここじゃ、ヤスが見るチャンスは皆無だったわね。
蝶子は、巻物を身につけて、朝の露天風呂に向かった。冷たい風が氣持ちいい。ほのかに桜の香りのただよう春の露天で、今日のこれからのことを考えた。朝食の後、チェックアウトして松江に向かうのよね。美味しいものもたくさんあるし、観たいものもいろいろ。もっとも、ガイジン軍団は、あまり動きたがらないから、どうやって移動させるかがポイントよね。
楽しい一日が始まった。
(初出:2015年3月 書き下ろし)
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【小説】追憶のフーガ — ローマにて
彩洋さんが書いてくださった作品:
『【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(前篇) 』
『【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(中篇) 』
『【いきなり最終章】ローマのセレンディピティ(後篇) 』
彩洋さんの作品は、なんとご自身のライフワークと言ってもいい、一番大切な「真シリーズ」の最終章になっています。一世紀に及ぶ大河ドラマの集大成。す、すごい。そんな大事な作品をわざわざ書き下ろしてくださいました。あ、いや、もちろん私のためにではないでしょうけれど、でも、企画に合わせていま書いてくださったというのは、とても嬉しいです。
で、「ローマ」です。どうしようか悩んだのですよ。「大道芸人たち」は使い過ぎて新鮮みがいまいち。「夜のサーカス」でマッダレーナを主役にして「セレンディピティ」を書こうかなと思ったけれど、団長ロマーノが悪ふざけしちゃってふさわしくない。それとも若干ご縁がないとも言い切れない「ルドヴィコ+ロメオ」のイタリア人コンビも考えたのですが、彩洋さんがここまで大事な作品で書いてくださっているからには、あの二人じゃ役不足過ぎる。
で、こうなりました。人物は二人とも小者ですが、舞台だけは立派。サン・ピエトロ大聖堂です。彩洋さん家のヴォルテラ家に敬意をはらって。(あ、ニアミスはしているかもしれませんが、どなたともお逢いしていません)彩洋さんと同じ「まだ完結していないシリーズ物の全部終わった後の話」ただし、バリバリの主人公のお話であるあちらと違って、でてくるのは本編には入れられなかった枝葉エピソード+補足。シリーズは現在連載中の「Infante 323 黄金の枷」とその続編三部作で、出てくる女性は脇役の一人です。この作品を読んでいらっしゃらない方には「?」な部分がたくさんあると思います。読んでいらっしゃる方でもわからない部分があると思いますが、読み切りストーリーとしてはほとんど意味がないのであえてほとんどの説明を省きました。「そういうことらしい」と割り切ってお読みください。
50000Hit記念リクエストのご案内
50000Hit記念リクエスト作品を全て読む
「Infante 323 黄金の枷」をご存じない方のために
この作品は現在「月刊・Stella」用に連載している長編小説です。読みたい方はこちらからどうぞ
![]() | 「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
追憶のフーガ — ローマにて
タラップを降りて周りを見回した。そこはイタリア、ローマだった。生まれ育った街、出て行くことを生涯禁じられていたはずの街を飛び立ち、何の問題もなくこうして異国に降り立ったことが信じられなかった。ここでも同じように呼吸ができて、黒服の男たちに止められることもなかった。後ろの乗客が控えめに咳をした。それで通行の邪魔をしていたことに氣がついた彼女は小声で謝ると、抱えて持つには多少重いが、海外旅行にしては少なすぎる荷物を持ち直した。
強い陽射しを遮るために左手を額にかざした。そこには、あるはずだったものがなくなっていた。本来だったら生涯外されることのなかったはずの黄金の腕輪の代わりに、彼女は日焼けに取り残された白い痕を見た。違和感が消えない。あれは、氣がついていなかったけれど、とても重かったのだ。当然だろう、黄金だったのだから。どこへ行くのも何をするのも完全な自由を手にした今、彼女を苛んでいるのは心細さだった。
ローマ市内に行くために交通機関を検討しようと、案内板を見上げた。タクシーは即座に却下した。エクスプレスも、彼女の金銭感覚には合わないように思った。彼女は財布の中に入っている黒いクレジットカードのことを思いだした。ローマ市内どころか、シチリアまでタクシーで行っても一向に困らないはずだった。けれど、彼女は微笑んでそのアイデアを打ち消した。
ふと視線を感じて横を見ると、先ほど彼女がタラップを降りる時にちょうど後ろにいた、若い青年がいた。どちらかと言えば貧相なタイプで、茶色い髪は少し伸び過ぎで、黒いシャツに灰色のジャケットはフランス資本のスーパーマーケットで揃えたような安物だった。
彼女と目が合ったので、青年は照れ隠しに笑った。少しの躊躇の後、彼は口を開いた。
「星、一つだったんですね」
彼女は反射的に青年の左手首を見た。この発言で、彼女には彼が「知っている人間」だということがわかった。黄金の腕輪はしておらず海外にいるということは、《監視人たち》の一人なのだろう。しかし、禁じられてはいないとは言え、《監視人たち》も街の外に出ることはほとんどないはずだ。この人はなぜローマにいるのだろう。
「すみません、唐突でしたね。僕は、マヌエル・ロドリゲス。神学生です」
差し出された手を握りながら、彼女はなるほどと思った。それならば、街を離れてローマに学びに行くこともあるだろう。彼らの家業でもある監視、それさえしていれば汗水たらして働かなくても生活できる結構な仕事を、あえてしたくない人間もいるのかもしれない。それとも、彼らは教会の中でも《星のある子供たち》を監視するのだろうか。
「クリスティーナ・アルヴェスです。名前もご存知かもしれないわね。あなたのこと、全く記憶にないから、《監視人たち》としてとてもいい仕事をしていたのね」
そういうと、マヌエルは鼻の所で黒ぶちの眼鏡を押し上げながら、参ったなというように笑った。
「僕、神学校の休みの時に数回だけ兄の代わりをしただけですから」
それから首を傾げて訊いた。
「ローマははじめてのようですね。よかったら市内までご一緒しましょうか」
クリスティーナは、少し考えてから頷いた。
「ええ、お願いするわ。アウレーリア通りってご存知かしら」
「なんですって。バチカンの真ん前じゃないですか。もちろん知っています。目的地までお届けしますよ」
クリスティーナはテルミニ駅からもたくさん歩くことになるのかなと思った。それともバスで。結局、タクシーとは縁がなさそうだ。
黄金の腕輪についていた赤い宝石の数が、一つではなくて二つだったと言ったら、どうなるのだろうかと思った。星一つでない限りは生涯外されることのない《星のある子供たち》の黄金の枷。《星のある子供たち》を生んだからではなく、一年経っても子供ができなかったからでもなく、特別な事情で腕輪を外されたことは、職務に忠実なごく普通の《監視人たち》には知られない方がいいに違いない。そう、私を自由にしてくれた彼のために。
「私をどこで監視したの?」
彼女は訊いてみた。答えないかもしれないと思いながら。
「二度はアリアドスの側で、それから先月、あの婚礼で……」
クリスティーナははっとした。それはドラガォンの館のすぐ側にあるサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われた結婚式に違いなかった。花嫁の家族は、ドラガォンの館の中に入ることが許されていないので、例外的にあそこで挙げたのだ。この青年がいたかどうかクリスティーナが氣に留めていなかったのも当然だった。彼女は婚礼も出席者も司祭や助祭も見ていなかった。彼女は、座った席の正に横の位置の床に、新しく設置された四角い石を見ていた。《Et in Arcadia ego》石にはただそれだけ刻まれていた。
その位置にその石が設置されたのは、おそらくクリスティーナのことを慮ってだったろう。もし、ドラガォンの館の敷地内にあれば、腕輪を外されたクリスティーナは二度と訪れることはできないだろうから。
名前はない。墓標だと氣づく者もない。始めから存在しなかった者が再び幻影に戻った、その記念。
「何かつらいことを思いださせてしまいましたか?」
声にはっとして、マヌエルの存在を思いだした。バスは高速道路に入った所だった。高速道路そのものは彼女の故郷にあるものとあまり変わらないのだなと思った。と言っても彼女が高速道路というものを通ったのは、今日が初めてだったのだが。
「ごめんなさい。初めて飛行機に乗って、少し疲れたみたい」
「そうですか。一時間近くかかりますので、少しお休みになっても構いませんよ。近くなったら起こしますから」
そう言ったマヌエルの方が、先にウトウトとしだした。頼りない人ね、笑ってクリスティーナは窓の外を眺めた。彼に逢ったのは偶然なのだろうか。それとも《監視人たち》は今でも私を監視しようとしているのだろうか。それから肩をすくめた。もし、そうだとしても、こんな抜けた人を選ぶわけはないわよね。
それから彼女は、幾年も前のことを思いだした。あの館でゆっくりと刻んだ時間、いつでも彼がいた。それは海辺の波のようだった。ゆっくりと押し寄せて、それから静かに帰っていく。フーガのように、追いかけては追い越していく。仕事のことを話すだけだった長い期間、それから、その外見と堂々とした態度からは想像もできない傷つきやすい魂を知ったこと。ゆっくりとその手が伸ばされて、戸惑い、諦め、潤んだ瞳だけが語る長い時が過ぎていった。
熱にうなされ、一人で消えていく恐怖に怯えていた彼を、この世につなぎ止めたくて必死でその手を握った。弱々しい力が、わずかな歓びにうち震えた。彼女にとって深く哀しくも歓びに満ちた日々の始まりだった。尊敬と親しみが、愛に変わった瞬間だった。
「愛されるというのは、幸せなものだな……」
彼の大きい手のひらを自分の頬に引き寄せて、頷いた。それもまたゆっくりと記憶の彼方に帰っていった。
「あれ。いつの間に……」
目の覚めたマヌエルを見て、クリスティーナは笑った。
「そろそろ着くんじゃないかしら」
マヌエルは眼鏡をかけ直して車窓を眺めた。
「ええ。もうすぐです。ホテルの近くまで行くバスにご案内しますね」
クリスティーナは、ふと思いついて訊いた。
「ねえ、サン・ピエトロ大聖堂を案内してくれない? 見所や歴史についてあなたはとても詳しいのでしょう」
マヌエルはすぐに首を縦に振った。
「喜んでご案内しますよ。実のところとても詳しいとは言えませんけれど、行き慣れていますし、母国語で説明を聞くのはあなたにとっても楽でしょうから」
クリスティーナのチェックインしたホテルを見て、マヌエルは目を丸くした。僕の記憶が確かならば、この女性はドラガォンの館の使用人だったはずだ。ここはかなり格の高い四つ星ホテルだ。クリスティーナは彼の考えを見透かしたように言った。
「ドラガォンからのボーナスみたいなものよ。でも、これからずっとこんな暮らしをしていくわけじゃないのよ」
あのクレジットカードをくれたということは、たぶん彼らは私にそうしてもいいと言っているのだろう。おあいにくさま。私がそんなに怠惰だと思ってくれては困るわ。クリスティーナは心の中でつぶやいた。
荷物を置きに部屋に入ると、花瓶にピンクと黄色のグラデーションになった薔薇の花束が生けてあるのが目に入った。私がこの色の薔薇が好きだと、彼はわざわざセニョールに伝えておいてくれたんだろうか。強い香りを吸い込み一本手にとろうとした。「いたっ」棘が指に刺さった。ドラガォンでは、使用人たちが丁寧に棘を取り除いて生けていた。そう、もう、ここはドラガォンではない。イタリアのローマにいるのだ。
血が流れる。痛みとその真紅が、クリスティーナに「まだ生きているのだ」と告げる。
ロビーに降りて行くと、マヌエルが所在なげに座っていた。クリスティーナが手を振ると、嬉しそうに立ち上がった。
「お待ちどうさま。部屋からサン・ピエトロ大聖堂のドームが見えたわ。本当にローマにいるのね」
彼女が言うと、マヌエルは微笑んだ。彼の荷物をフロントに預けて、二人はサン・ピエトロ大聖堂に向かった。
テレビで遠景をみたことがあったが、カトリックの総本山だけあってその壮大さはただ事ではなかった。彼女の街の「セ」という呼び名で親しまれている大聖堂や黄金の装飾で有名なサン・フランシスコ教会も壮大だと思っていたが、スケールが違った。そもそも四柱のドリス式列柱に囲まれた楕円形の広場からしてずっと広い。
「この列柱廊は、信者を優しく抱擁するように広げた腕のようになっているんです。あ、ここに立って見てください。四列の柱がぴったり重なって一柱のように見えるでしょう?」
マヌエルはゆっくりと歩きながら説明していった。13の聖人像の見えるファサード、教皇が祝福を与えるバルコニー、玄関廊の五つの扉、観光客たちが押し寄せていく中を、ゆっくりと大聖堂の中に向かって歩んでいく。
身廊に入ってすぐ右側に人だかりがしていた。クリスティーナはすぐにそれがなんだかわかった。ミケランジェロの「ピエタ像」だ。亡くなったキリストを腕に抱く聖母マリア像。若々しく穏やかで美しい嘆きの母は、クリスティーナを再び記憶の海に引き戻した。
彼が眠りについたあの夜、報せを訊いて駆けつけると、枕元で泣いていた彼の母親は立ち上がって彼女を抱きしめた。
「かわいそうな、クリスティーナ」
かわいそうなのは、あなたでしょう。息子を失っても、嫁でもない女の心を慮らなくてはならない。自由になることは許されず、願った人生を生きることも叶わない。それでも、優しく、強く、思いやりを失わない人。あなたが私の前を歩いてくれたから、私は不幸に溺れることがありませんでした。私のことを心配なさらないでください。私も泣くだけの人生を送ったりしません。彼の思い出を掘り返すだけに、残りの人生を費やすこともしないでしょう。
身廊を進みながら、マヌエルがいくつもの絵画やモザイク画を説明してくれた。参拝者が接吻していくために右足のすり減ってしまっているブロンズのペテロ像、そして、大きな天蓋に覆われた教皇の祭壇。
祭壇の真上のクーポラからは光が溢れていた。ルネサンスの最高傑作とはよく聞くものの、実際に立ってみるまではその意味がはっきりとはわからなかった。なんて美しいのだろう。人は、どれほどの時間をかけ、技量と知恵を振り絞って、天上の美というものを表現しようと試みたのだろう。そして、今、私はここに立ってそれを見ているのだ。
「すごいわね」
彼女のため息に、マヌエルは頷いた。
「とてつもない時間と労力。この豪華絢爛な建造物を作る費用を貧しい人に向ける方がずっと神の意に適うという人もいます。確かにそれにも一理あるんですが、それだけで片付けられない何かがあるんです。僕はこの驚異をこの目で見ることができてよかったと思うんですよ」
クリスティーナは黙って頷き、光を見ていた。マヌエルは横で続けた。
「ここは、僕には特別な所なんです。ずっとドラガォンと《監視人たち》のシステムについて悩み続けてきました」
彼女ははっとして、青年の横顔を見つめた。彼はペテロ像の方を見た。
「ローマ教皇は主イエス・キリストの精神的後継者として代々受け継がれてきた。そして、あなたたちが受け継いでいるのは同じ主の血だと聞いたことがあります」
「それはただの噂でしょう」
「ええ、その通り噂です。信憑性を確かめることもできないものを守るために、時代遅れで人権無視のシステムが動き続けている。僕は、システムの一部である《監視人たち》の家系に生まれて、不都合を押し付けられたあなたたちに苦痛を強いることの意味をずっと考えていました。そして結論はシステムから逃げだすことだったのです」
彼が「
「参ったな。バッハの『パッサカリアとフーガ ハ短調』ですね」
フーガ。イタリア語でもポルトガル語でも音楽用語の遁走曲以外に、逃走や脱出、脱落やこぼれ落ちることを意味する。クリスティーナは左手を見た。ここにいる二人はドラガォンのシステムから抜けだしている。特例によって、もしくは、意志によって。システムを離れたものは部外者だ。血脈が本当は何を意味するかわかったとしても、もはやその保存に対して何かをすることはできない。クリスティーナの左手首はとても軽くなった。その彼女を自由にしてくれた人は、自分自身は自由になることができないまま、システムに身を任せ、あの四角い石の下に眠っている。豪華な墓標もなく、功績を知られることもなく、存在を打ち消された。
石の上に書かれた銘文のアナグラムを思いだす。《I tego arcana dei》。『神の秘密を埋めた』
華やかなフーガの流れる、世界が驚嘆の目を向ける大聖堂。主イエス・キリストの後継者たちの偉大なる聖座。それはどれほど彼女の愛した男やその先祖または後に続く者たちの人生と異なっていることだろう。
《星のある子供たち》の存在に意味があるかはわからない。それは栄誉であるとも悲運であるとも言いきれない。世間の目から隠し通し、複雑怪奇で厳格なシステムを使ってまで残そうとした人たちの強い意志は今も働いている。そして、その厳格な網の間を通って、システムを動かす人たちの精一杯の優しさが、このクーポラから射し込む光のように暖かく人を包み込む。
「自由になって、幸せになってほしい。これは、彼の願いだった」
昨日、ドラガォンの当主が、書斎でそう言った。黒檀の机の上に、クリスティーナのパスポートと黒いクレジットカード、それから頼んであったローマへの航空券とホテルのバウチャーを静かに置いた。
「ありがとうございます。メウ・セニョール。そうするよう努力します。お世話になりました」
クリスティーナは、最後に微笑むことすらできた。
たくさんの思い出の詰まった館を、親しんだ仲間たちのもとを、振り返りもせずに出てきた。もう二度と足を踏み入れることはできない。けれど、それがなんだというのだろう。もう、彼はいないのだ。この世のどこにも存在しない。記憶は波のように寄せては帰っていく。そうして私は生き続けていく。この地球に住む他の全ての人びとと同じように。
ホテルに戻り、彼の荷物を受け取って、ロビーで別れを告げる時に彼女はもう一度右手を差し出した。
「一緒に来てもらってよかったわ。詳しくないなんて謙遜しすぎよ。トラベル・ガイドになればいいのに」
クリスティーナが言うと、マヌエルはあっさりと頷いた。
「ええ、実をいうと、それも考えているんです」
彼女はびっくりした。
「司祭になるんじゃないの?」
彼は首を振った。
「とんでもない。神学校に入ったのは《監視人たち》の仕事から離れるための単なる方便ですよ。それに……」
それから声を顰めた。
「妻帯も許されないような集団に興味はないんです」
クリスティーナは呆れた。かわいそうなご家族ね。
「あなたは、この旅の後、どうなさるのですか?」
マヌエルはためらいがちに訊いた。クリスティーナは微笑んだ。
「国に帰るわ。そして、仕事を探さなきゃ。血脈のためなんかじゃなくて、私自身の人生を探していくんだわ。あなたもそうでしょう?」
彼も微笑んだ。
「そうですね。でも、ドラガォンと全く関係のない、ここ、イタリアで暮らしていくのも悪くないと思っているんです。初日じゃわからないと思いますけれど、数日いてみたら、きっと僕のいう意味がわかるかもしれませんよ。もし、そうしたいと思ったら連絡をください。僕、力になれると思いますよ」
クリスティーナは明るく笑った。とんだ神学生ね。イタリアに馴染みすぎよ。強い陽射しが輝いていた。彼女の新しい人生は始まったばかりだった。
(初出:2014年11月 書き下ろし)
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ポールさんが書いてくださった作品: 『パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして 』
最初にタイトルを見たときは目を疑いました。「そ、そんなリクエスト、するか?」と。この地名は、常連の方はおわかりでしょうが、これまでにこの企画でいただいた地名を全部つっこんだものです。こういうタイトルで小説を書けと。しかも、ご本人がもう書いていらっしゃるから「じゃあ、自分で書いてみなよ」とは言えない(笑)もっとも、これは暴球攻撃というよりは、書けると思っているからしてくださったリクエストでしょうから、そのありがたいご評価に感謝するとともに「こんなお題も受付るらしいよ、だから戸惑っている人もどんどんリクエストしようね」という、援護射撃なのだと理解しております。
で、このお題ですので、質よりも返球の速さで行くことにしました。内容はどうしようもないので、一企画に一回しか使えない禁じ手を使ってあります。ですから、よい子のみなさんは、同じようなリクエストをしないでくださいますよう、お願いいたします。
なお、出てくるキャラは、以下の小説からの流用です。読まなくても意味は通じますが、読みたい方はのためにリンクをつけておきます。(ちなみに、ここのヤオトメ・ユウはフィクションのキャラです)
教授の羨む優雅な午後
ヨコハマの奇妙な午後
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パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして
チューリヒには霧が重く垂れ込めていたが、グラウビュンデン州にさしかかったあたりから真っ青な空が広がった。夏時間が終わったばかりだが、すでに初雪が降ったライン河沿いの高速道路を、華麗な運転テクニックを駆使しながら黒いアウディが南に向かって走っていた。この場合の華麗なテクニックというのは、どんなカーブや上り坂でも法定許容限度分きっちり超過したスピードで走るということだ。クリストフ・ヒルシュベルガー教授ほどの人物ともなると、スピード違反の証拠写真を撮られるなどというヘマはしない。
ヒルシュベルガー教授は、チューリヒの大学で生理学の教鞭をとる重鎮で、今年55歳になる。若いころはさぞ美青年であったであろうと思える端正な横顔だが、太い眉に銀のラウンド髭を蓄えた姿は厳格そのもので取っ付きにくい。物言いも手厳しいため、大学では近寄りがたい人物として通っている。実際には、どちらかというと変わり者であり、型破りな言動に面食らうことはあるが、さほど怖い人物ではない。
「そうやって、横でぶつぶつ言うのはやめてくれないか」
助手席に座って窓の外を見ていた秘書であるヤオトメ・ユウは教授の批難でようやく自分が日本語のひとり言を音に出していたことに氣づいた。
「申しわけありません」
「また例のくだらない趣味かね」
「先生。くだらないとおっしゃるならば、一々私の作品をドイツ語に訳させて聞きたがるのをやめていただけませんか」
「私はあなたの雇い主として、あなたの公私にわたる思想活動を把握しておく必要があるのだ。それに、その趣味を通してあなたが社会や人生についてどのような考え方を持っているのかわかり、大変興味深い」
ユウはため息をもらした。彼女は結婚してスイスに移住し、二年ほど前からヒルシュベルガー教授の個人秘書を勤めているのだが、日本にいた頃から休まずに小説を書き続けていた。現在の主な活動はブログを通してで、自分の自由時間を使っての執筆なので、教授にあれこれ言われる筋合いは全くないのだが、日本出張で彼に小説執筆のことが知れてしまって以来、作品を発表する度に彼のチェックが入り、辟易していた。
「前任のマリア・シュタイナーさんは青十字の広報誌でコラムを書いていらっしゃいますが、送ってこられる広報誌に目を通されることはないじゃありませんか」
ユウが反論すると、教授はユウの方を見てニッコリと笑った。
「禁酒団体にこの私が興味を持つと思うかね」
「そりゃ、思いませんけれど……」
クリストフ・ヒルシュベルガー教授の行動規範が、見かけや態度とは大きく異なり、彼の個人的興味に大きく左右されていることは、彼と近しく接したことのある者ならば誰でも知っていた。とはいえ、彼がユウに対して女性としての強い興味を抱いているわけではないことははっきりしていた。彼女が日本人であることや日本文化に対してでもない。彼が固執しているのは、日本の食文化であった。
今日、二人が向かっている先は、生理学の研究とは何の関係もなかった。アルプスを越えたイタリア側に新しいレストランができて、そこでコウベ・ビーフを食べさせてくれるという情報をキャッチした教授が、全ての予定をキャンセルして向かっているのだ。
「それで、今度は何を書くのに手間取っているのかね」
くだらないという割に、教授は出来上がった作品だけでなく、ユウの構想段階の作品に対するチェックも怠らない。彼女は厳しいコメントに滅入るのであまり話したくないのだが、時おり鋭いヒントをくれることもあるので、訊かれた時には正直に話すことにしていた。
「地名が入ったタイトルの作品を募集したんです。色々な方からリクエストを一時にいただいたんですが、どれをどんな作品にするか決めなくちゃいけなくて」
「どの地名なのか」
「ウィーン、パリ ― イス、北海道、それにニライカナイの四つです」
「北海道は日本の北にある島だったな。最後のはなんだね」
「あ、沖縄の伝承にある異世界の名前です」
「ふむ。ウィーンと言えばトルテにコーヒー、それから『フィグルミュラー』のカツレツ、パリはいわゆるフランス料理もいいが、焼き栗が美味しい季節だな。北海道と言ったら、確か海の幸が……」
「先生。私はグルメ記事を書くわけではないんですが」
「まあ、いいではないか。ちなみに沖縄では何が食べられるのかね」
この人はいつもこうなんだよなあ。ユウは胸の内でつぶやいた。
「なんでしょう。亜熱帯性の食材を利用した琉球料理ですね。すぐに思い浮かぶのは、豚肉を使ったソーキそばや、ちょっと苦い野菜を使ったゴーヤチャンプルーでしょうか。健康にいいらしくて沖縄では長寿の方も多いんですよ」
教授は苦いと聞いて眉をひそめた。
「健康にいい料理か。私はどちらかというと……」
「わかっています。でも、美味しいと思いますよ。それに米軍基地が多い関係で、ステーキを食べさせるレストランが多いように思います」
「甘いものは」
「パッと思いだすのは、サーターアンダーギーというドーナツみたいなお菓子やちんすこうというクッキーのような味でしょうか。パイナップルも穫れるので、それをドライフルーツに加工したものも美味しいですね」
「ふむ。では、一度沖縄に出張するのも悪くないな」
そういう話だったかしら。ユウは首を傾げた。
「で、どんな話にするつもりかね」
教授が90度のカーブなのに全くスピードを落とさずにに華麗にターンしながら訊いた。あら、本題を憶えていたんだわ、とユウは思った。
「ええ、ウィーンの話は、レハールの『金と銀』とこの季節の色彩を絡めた話にしようと思っているんです」
「ふむ。グルメはどうするんだ」
「え? 入れなきゃダメですか」
「入れないのか?」
そういわれると入れないわけにはいかないような……。
「では、カフェでケーキセットでも食べさせますか」
「舞台をカフェにしたらどうかね」
「はあ」
教授はユウの冷たい視線にまったく構わずに続けた。
「イスは、ブルターニュ伝承の沈んだ街だな。あの辺りにはそば粉のクレープとシードルが……」
「先生。それはモン・サン・ミッシェルを舞台にした小説の時にもう書きました」
「ふむ。そうだったな。では、舞台はパリにするのが一番か」
この人、意外と協力的だな、ユウは感心した。本当は、小説自分が書きたいんじゃないの? ユウの想いには構わず教授は続けた。
「北海道は、絶対にグルメを入れなさい」
「はあ。海鮮丼でも入れますか。海の親子丼といって、鮭といくらがたっぷり載っているご飯もあるんですよね。新鮮だから美味しいだろうなあ」
「取材旅行に行きたいんじゃないかね。なんなら、同行しようか」
「先生、つい先日、休暇で横浜に行ったばかりじゃないですか」
教授は反省した様子もなく肩をすくめた。絶対この人、北海道でのシンポジウムはないかと騒ぎだすに違いない。ユウは思ったが、大学がまたしても旅費を出してくれるというならば、同行するのにやぶさかではなかった。
「ニライカナイはどうしましょうか」
自分の食欲を満たしてくれる可能性のない場所には全く興味のない教授はにべもなく言った。
「しらんね。架空の土地の話なら、SFでも書くがいい」
あ、そうか。それは考えてもいなかった。この調子なら、それぞれ何か書けそう。
「ところで、その地名のリクエストは、もう締め切ったのかね」
「いえ、まだですが何故でしょう」
「なに、私も一つリクエストしてみようかと思って」
「先生。くだらない趣味とおっしゃったのをお忘れですか」
「いや、忘れてはいないし、くだらないと思うが、いい氣分転換になるのでね」
そうですか。ひどい言われようだけれど、ここまで協力してもらっては断りにくいじゃない。ユウはぶつぶつと文句を言った。
「そして、どこの地名にしようかね。ものすごく書きにくい難しい地名がいいのだが……」
「そういう嫌がらせはやめてください」
「何故だ。こういう企画は、難しいものをこなしてこそ腕が上がるんだ。つべこべ言うのはやめなさい」
「う……。おっしゃる通りです。それで、どの地名になさるのですか」
「それは、コウベ・ビーフを堪能しながら考えよう。ほら、もうそろそろ到着だ。すっかりお腹がすいてしまったよ。朝一の講義も休講にすべきだったかね」
平然と言い放つヒルシュベルガー教授にうんざりしながら、ユウは窓の外を見やった。その途端に、お腹がキュルルと鳴った。
(初出:2014年10月 書き下ろし)
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【小説】終焉の予感 — ニライカナイ
左紀さんが書いてくださった作品: 『ニライカナイ 』
で、私の作品ですが。情けないことに「ニライカナイ」って何? という所から出発しました。なんと、沖縄にそんな伝承があったのですね。全く知りませんでした。お返しは、サキさんの小説っぽくしたいなと思ったのです。といっても私の書くものなので似ても似つかぬものになっちゃうことは始めからわかっていましたが。私の小説群の中でSFっぽいのはこれしかありません。以前書いた『終焉の予感』。あれの続きではなくて前日譚を書いてみました。「ニライカナイ」を使ったのは新しい設定ですが、キャラや設定は既に頭の中で固まっていたもの。上手く融合できたかな。
あ、現在いただいている50000Hitリクエストはこれで全て書きましたが、引き続き無期限で受け付けています。よかったらいつでもどうぞ!
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終焉の予感 — ニライカナイ
暗い店内を、ヴィクトールは見回した。牛脂灯か。こういう地の果てには、まだ原始的なものが残っていたんだな。この街から、いや、全世界から、電灯が消えて半年が経っていた。
半年前、直径300m程度の隕石が、海洋に浮かぶ島を直撃した。その衝撃は惑星規模の厄災を引き起こした。地震、津波、熱波による火事、粉塵による寒冷化の被害もひどかったが、人類にとって壊滅的な被害を及ぼしたのは、その衝突が引き起こした強い電磁パルスだった。全ての電子回路と半導体が損傷を受けて使えなくなった。携帯電話、コンピュータ、車、ビル、工場、交通機関、全てが麻痺した。発電所は停まり、浄水施設も機能停止した。
各国、各大陸の政府も正常に機能しなくなった。最優先で非常用電源を用い、人類がじきに迎えるであろう次なる厄災に備えるべく手を打っているが、テレビもラジオも壊れ新聞も配達されなくなったため人びとの耳には噂話しか入ってこなかった。
ヴィクトールは、その中ではもっとも多く情報を得ている人間の一人だった。職業はと訊かれれば「冒険家」と答えるのが常のこの男は、未開の地や密林で秘宝を見つける「探し屋」として名をあげていた。この数年間彼が取り組んでいたプロジェクトは伝説の永久エネルギー源、コードネーム《聖杯》を発見して持ち帰ることだった。
《聖杯》は大陸を覆うほどの超エネルギーシェルターを動かすことのできる、理論的には唯一のエネルギー源で、それを狙っているのは彼の故郷であり雇い主でもある《旧大陸》だけではなかった。
《旧大陸》《北大陸》《南大陸》《中大陸》《黒大陸》。人口爆発が、統制なくしては手に負えなくなることがはっきりした百年ほど前より、世界は五つの大陸に分かれ統括されるようになった。特別な許可証を持たない人間は、他の大陸へ渡航することすらも許されなかった。ヴィクトールがこの《南大陸》に入る許可証を得るのも大変だった。普段は許可証ぐらい自分のつてでなんとかするのだが、今回だけは依頼人経由で入手してもらう他はなかった。誰もが《聖杯》を狙っている。妨害がひどいということはすなわち、《聖杯》を手に入れられる可能性のある者として、彼がそれだけ知れ渡っているということだった。
他大陸へ渡航する許可証の必要ない唯一の例外が、《コウモリ》と陰口を叩かれる《アキツシマ》の人びとだった。彼らは本来《旧大陸》に属する大きい群島に住んでいた。だが、半世紀ほど前にその島々を載せていた三つのプレートが崩壊し、全ての島が消滅した。生き残った一億一千万の難民を《旧大陸》だけで受け入れるのは不可能だったため、五大陸の合意の上、彼らだけは移動の自由が与えられ、望む大陸へと移住できるようになった。
ヴィクトールの入ったこのバーの持ち主チバナは、《アキツシマ》だった。
「いらっしゃい」
チバナが、きたわね、という顔をした。ちょっと見ただけでは男か女かわからない妙に中性的な小男だ。いつも赤かピンクに近い色のものを身につけているので余計そう感じるのかもしれない。
まっすぐに彼の前のカウンター席に座った。
「いつものテキーラを」
「あんたのためにとっておいたよ。あれも、もうなかなか手に入らなくなってね」
「工場が放棄されたのか」
「途中に電解プロセスが必要なんだって」
チバナは氷の入っていないテキーラを彼の前に置いた。冷凍庫が動くはずはないのだから文句を言う客は居なかった。ヴィクトールもライムが入っていることに感謝しながら飲んだ。
「それで」
「来ているよ」
「本物なのか」
「どういうこと?」
「本物のアダシノ・キエなのか」
「それは、あんたがテストしてみればいいじゃない。あたしは、ここで以前に三度見ただけ。《南大陸》や《黒大陸》の連中が奪おうとしていたけれど、《北大陸》の連中が守りきっていたわ」
「護衛は」
「全滅みたいね。一人で困っている。あそこの隅よ」
チバナが目で示した奥の席をそっと見ると一人の女が寄る辺なく座っていた。ヴィクトールは思わず十字を切った。まったく場違いな女だった。密林どころか、街から一歩も出たことがないようなひ弱なタイプだ。
「あれか?」
「そうよ。見えないでしょう?」
「見えないどころか、数時間でお陀仏になっちまうんじゃないか」
「そう。肉体的なトレーニングまで手が回らなかったんでしょう」
彼はもう少し情報を集めようとした。
「本当に一人なのか」
「当然でしょう。《北大陸》のリチャードソン総帥の秘蔵っ子で、最後の切り札よ。それが、護衛もなくあんな状態で居るんだから、本当にもう誰も残っていないのよ。でも、一人で居るのが分かるのも時間の問題ね。そうなったら、とんでもない争奪戦が始まるはずだわ」
「この世にたった一人しかいないんだからな」
ヴィクトールの愛用の暗号解読マシーンも半年前の電磁ショックでの被害を受けた。十年以上かかけて用意したデータが全て消失し、暗号を解くのは不可能だった。それはどの「探し屋」も抱えている悩みだった。現在、暗号解読が可能なのは、外部データと電子回路を使わずに自身の脳だけで情報処理ができる特殊訓練を受けたサヴァンのみだ。アダシノ・キエの能力は、中でも群を抜いており、世界中のエージェントが欲しがっていた。彼はもう一度振り返って、店の片隅に寄る辺なく座る女を眺めた。精神的に不安定な挙動は特に見られない。人付き合いが良さそうにも見えないが。
「ところで、顔立ちから言うと、あんたと同じ《コウモリ》か?」
「さあ、どうかしら。可能性はあるわね。少なくとも遠い祖先はそうかも。名前はそうだから」
「あれは、本名なのか?」
チバナはちらっとヴィクトールを見た。
「役所に届けられた名前という意味なら、そうなんじゃない」
「他にどんな意味があるんだ」
「帰属意識がない人間ってのはね、自分の存在そのものに違和感があるの。外側の自分と名前に嫌悪感を持ち自分だけしか知らない名前を持つことで心の平安を保とうとする者が多い。だから、あの子がアダシノ・キエ以外の本当の名前を持っていても、あたしは驚かないわ」
「あんたにも本当の名前があるのか」
「当然でしょう」
それはなんだと訊いてみたかったが、答えないのは分かっていた。無駄な質問に使っている時間はなかった。
「このチャンスを作ってくれたあんたの狙いはなんだ」
「何を言っているのよ。あんたとあたしの仲でしょう」
「あんたが友情なんて甘い概念なんかで動くタマか」
「ふふん。分かっているでしょう。あたしにできるのは、《聖杯》がどの大陸に行くのかを正確に見極めることだけ」
「で、俺に賭けるってわけか」
「あんたが最有力なのは間違いない。でも、大穴もありえるわね。あたしは《旧大陸》と《北大陸》のどちらに行ってもいいのよ。見極めたら、そちらに行くんだから」
「たいした《コウモリ》だな」
ヴィクトールが軽蔑したように言うと、チバナは笑った。
「ニライカナイって、知っている?」
「いや。コウモリ語か?」
「イエスでもあるしノーでもあるわね。《アキツシマ》の支配民族じゃない民族の間で信じられていた場所なの。東の果て、海の底にあり、あたしたちが生まれてくる前にいたところで、死んでから帰るところ」
彼はいつものノートブロックを取り出して、その聞いたことのない言葉を書き込んだ。ニライカナイ。
「あんたはその民族の出身なのか」
「ええ。でも、そんな区別はもう意味がないわね。わかるかしら。支配民族も被支配民族も居場所を失ったの。神々は、ニライカナイからやってきて、あたしたちに豊穣をもたらしてからまた帰って行くというけれど、かつては海と島という違いのあった双方が、今では海の底にあるの。この惑星に残された時間もわずかな今、大陸の所属も意味を失っている」
「何が言いたい」
「今のあたしはニライカナイにいるのと変わらない、死んでいるとは言わないけれど、生きる以前の状態でしょう。いくべき所に行って根を張って生きたいの。それがどこにあるのか見極めたいの」
そう言って、チバナは空になったヴィクトールのグラスをもう一度テキーラで満たした。
ヴィクトールは立ち上がって言った。
「ようするに生き残れる場所ってことだろう。それは《旧大陸》さ。そうでなくてはならないんだ、俺にとっては。なんせ俺は《コウモリ》じゃないからな」
店の一番奥に座っていた女は、近づいてくるヴィクトールを見て一瞬怯えた目をしたが、下唇を噛み、体を強ばらせて、まともに彼を見つめた。彼は、どっかりと彼女の前の椅子に座った。
「俺は、ヴィクトール・ベンソン。はじめまして、アダシノ・キエさん。チバナから聞いているだろう」
キエは頷いた。
「私を《聖杯》のある神殿まで連れて行ってくれる人が居るって。あなたが《北大陸》のために働いているという証拠を見せていただけませんか」
ヴィクトールは首を振った。
「隠してもしかたないから言うが、俺は《旧大陸》に雇われている」
キエは眉をひそめた。
「私が協力すると思っているんですか」
「するさ」
「理由を言ってください」
ヴィクトールはキエの瞳をじっと見つめて言った。
「あんたは一人では神殿まで辿りつくことはできない。《北大陸》のヤツでそれを助けられるヤツはいまこの辺りにはもういない。上のヤツらがそれに氣づいて、他のヤツらを送り込んでもここに到達するまで、数日から数週間かかる。その間、あんたは丸裸だ。あんた自身がよくわかっているはずだ」
キエは眼を逸らした。彼は続けた。
「あんたのことは他の大陸のヤツら、全員が狙っている。《旧大陸》に雇われた俺以外のヤツも含めて。俺はあんたを人間的に扱い、あんたの意志を尊重するが、他のヤツがそうしてくれる可能性は低い。むしろ目的のために手段は選ばないだろう。あんたを拷問するか薬漬けにしてでも協力させようとする。いずれにしてもあんたは神殿に行くしかない。あんたが相手を出し抜いて《聖杯》を《北大陸》に持ち帰るためには、少なくとも五体満足でいなければならない。もちろん俺も簡単に渡すつもりはないが、それでも俺と行くのがあんたにとっての最良の選択だ。そうだろう」
キエはしばらく下を向いて考えていたが、ヴィクトールのいう事がもっともだと思ったようで、頷いてからもう一度彼の顔を見た。ほとんど黒く見える瞳に強い光が灯っている。根性はありそうだ、彼は思った。
「契約条件を教えてください」
「簡単だ。俺はあんたを神殿まで連れて行く、そのために必要な全ての助力をし、あんたを守る。あんたは、ここから神殿までの間にぶつかるはずの全ての暗号を解き、神殿で《聖杯》を取り出す」
「あなたが私に危害を与えないという保証は」
「証明はできないから信じてもらうしかない。あえていうなら、こんなところで契約を持ちかけていることだ。暴力や薬物を使うなら、もうとっくに実行している。俺にはあんたと行ってもらう以外の選択肢はないし、浪費する時間もない。俺は拷問や薬には詳しくないが、人間ってものを多少はわかっている。強制したり憎みあったりするよりも、好意的な人間関係を築く方がずっとエネルギー消耗が少なく時間短縮になる。だから俺はあんたに危害を加えるよりも好意的にするんだ」
「……納得しました」
「じゃあ、念のために三つの質問で、あんたの能力をテストさせてもらう。もしあんたが詐欺師か誇大妄想狂だったと後でわかっても、やり直す時間は俺にはないんでな」
「どうぞ」
ヴィクトールは懐からいくつかの紙片を取り出した。一枚めの紙には二つの長い文字列が書かれている。彼が携帯マシンのテスト用に用意したもので、数年の時を経て黄ばんでいた。
「この文字列は暗号化されている。下にあるのが暗号化する前の文字列で、アルゴリズムは言えない。キーを解読してほしい」
制限時間は15分だと言おうとした時に、キエは口を開いた。
「RSA、秘密鍵はM@rga1ete2987」
彼は動きを止めた。彼の自慢の専用マシンで二時間半かかった演算だ。彼の卒業した大学のスーパーコンピュータなら三日はかかるはずだ。
「次はこれ。前近代的なメソッドを併用してある」
キエはじっとそれを見た。彼はメモと鉛筆を差し出したが、彼女は見ていなかった。視点が定まらなくなっている。白目が見えた。ヴィクトールが眉をひそめた。が、それは二十秒くらいのことだった。
「ヴィジュネル暗号とシーザー式の併用ね、ケチュア語の『iskay chunka hoqniyoq』は21。これをシーザー式の鍵にしたのね。元の文字列はポルトガル語で『E nem lhe digo aonde eu fui cantar』」
ありえない。俺のテストでは15時間かかったのに。
「最後は、本物の俺たちが探している古代文明の暗号だ。こっちが書いてあるのが、あんたも知っている『密林の書』の暗号ページ。それから、俺が先日奥地でみつけた礎石にあった文字列……」
そう言ってから、ヴィクトールはふと不安になった。キエの尋常ではない解読のスピードに何かのトリックがあるのではないかと疑ったのだ。どこかと秘密裡に接続していて、連絡を取りあっているのではないかと。
紙片を見せるのをしばらくためらった。それは実際に最初の砦に行ったヴィクトールだけが持っている情報であると同時に、他の「探し屋」に対する唯一のアドバンテージだった。これを今《北大陸》に知られたら、俺にチャンスはなくなる。彼は腹の中でつぶやいた。
彼はもう一枚の別の紙をキエに見せた。
「この文字列が鍵かどうかは、俺にはわからん。次の砦のある位置を解読できるか」
それを見たキエは眉をひそめた。『密林の書』の方は見ようともせず口を開いた。
「正しい情報をインプットしなければ解は得られません」
「試しもしないで間違った情報だとなぜわかる」
「ニライカナイ。これは砦にあった文字列ではなくて、チバナさんに聞いた言葉でしょう」
「あいつ、あんたにもその話をしたのか?」
「いいえ。でも、私も《アキツシマ》ですから」
「そうか。すまなかった。あまりに解読が速いんで不安になったんだ。あんたは俺を信用できるか」
「わかりません。今までそういう人は一人も居ませんでした」
「そうか。それでも契約するつもりはあるか」
キエは黒い瞳を伏せた。暗号解読よりずっと長い時間をかけていたが、やがてまた彼の目を見た。
「連れて行ってください」
ヴィクトールは頷いて、チバナのもとに戻り、もう一つのテキーラのグラスを持って戻ってきた。グラスを重ねて彼はここ数年のもっともポピュラーな乾杯の言葉を口にした。
「《聖杯》の救いに」
キエは同じ言葉では答えなかった。
「《聖杯》で救われるなんて信じていません」
「では、なぜ行くんだ?」
「個人的な興味です。知りたいんです」
「何を」
「これまでしてきたこと、これからすること、生まれてきたこと、生きることに価値があるのかどうか」
彼は彼女の目を見つめ返した。
「あんたは、いや、俺たちは、きっとその答えを得るよ」
(初出:2014年10月 書き下ろし)
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【小説】君との約束 — 北海道へ行こう
(おまけ漫画)『NAGI』-北海道ヘ行こう-
で、私の掌編ですが。北海道を舞台に、limeさんのお好きなミステリー仕立てにしたかったんですが……ダメでした。なんといってもトリックがね……。だから、すっぱりあきらめて、紀行ものにしました。途中で出てくる若干シリアスなエピソードは、知り合いの実話から着想を得て作ったフィクションです。でも、中身はどうしてか食いしん坊になるのが私のお約束。
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君との約束 — 北海道へ行こう
北海道二泊三日旅行をしようと思ったのは、不純な動機だった。ラーメン、ジンギスカン鍋、カニ、イクラ、ウニ、ええと、それからなんだっけ。女なんか邪魔なだけ。友人の健児と男同士でがっつり食い倒れる……予定だった。
それなのに、なんだよ、健児のヤツ。
「いやぁ、悪い。彼女がどうしても一緒に行きたいっていうからさ」
「はじめまして~。綾です。あーやって呼んでもいいよ。よろしくね」
縦ロールに赤いリボンのツインテール、白いミニスカートとピンクのブラウス、なんだよ、可愛いじゃないか。
「ついてくるのはいいけどさ。もともと予約してあったツインの部屋を明け渡すのはいいとして、何で俺が別途シングルを予約しなきゃいけないんだよ」
「悪い。それも出したいのは山々だけどさ。俺、マジ、金欠。こいつの航空券だけでもう今月ヤバくってさ。お前は、マンション持ちで金には余裕あるじゃん」
くそう、お前がそうやって女にうつつを抜かしている分を、俺はローンにまわしているんだよっ。それに何が「あーやと呼んでもいい」だ。ふざけんな。ニコニコ笑ってもダメだぞ。
でも、俺は押し切られて、ホテルの件もうやむやにされて、飛行機に乗ってしまった。ムカつくことに、俺があーやの短いスカートと、そこからにょっきりでている形のいい足を堪能できたのは千歳空港までだった。俺が見過ぎたのがいけなかったのか、俺がトイレに行っている間に二人でトンズラしてしまったからだ。
千歳空港で、いきなり一人ぼっち。消えんなら、ツイン分の金を返してくれ! 俺はガッカリした。予約したホテルへ押し掛けて行って、文句を言ってもいいけれど、そこで争ったあと、楽しい旅行ができるような氣は全然しない。いいよ、計画変更。シングルもキャンセル。一人でだって旅は楽しめるんだ。
札幌と函館観光の予定だった。でも、計画通りに行って、あの二人とバッタリなんていやだから、どこか他に行こう。到着ロビーを見回すと、目の前にレンタカーのカウンターがあった。免許証は、財布に入っているよな……。よし、こうなったら北海道をあてもなくドライブしてやる。
カウンターの前は空いていた。先に着いた女がいたのだが、何かを迷っているかのごとく、ちゃんとカウンターの前に立たなかった。そして、俺を見ると黙って脇にどいた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの美人がにこやかに笑った。
「ええと、三日間、借りたいんですが」
俺は言った。予約をしていないことがわかると、美人は車種と金額を調べて一番安いコンパクトタイプの在庫を調べてくれた。
「ああ、ありました。返却はここでいいですか。札幌市内にも出来ますが」
「いや、どこに行くか決めていないんだ。でも、その日に飛行機に乗るのは間違いないから……」
手続きを済ませ、その場にあるソファに座って車の到着を待つように言われた。ふと横を見るとさっきの女が、まだそこにいた。ジーンズにベージュのカットソー、黒い小さな革のリュック。少し茶色がかった直毛を素っ気なく後ろで結んでいる。あまり地味なのでこれまで氣がつかなかったが、さっきのあーやと変わらないくらい若いようだ。
俺に見られていることを悟った女は、その視線を避けるかと思ったのだが、反対に意を決したように話しかけてきた。
「あの……失礼ですけれど」
「はあ」
「先ほど、カウンターで行き先が決まっていないって、おっしゃっていましたが……」
「ああ、言いましたよ」
「では、レンタカー代をお支払いしますので、私を富良野に連れて行っていただけないでしょうか」
「はあ?」
俺は女をまじまじと見つめた。彼女は冗談を言っているようには見えなかった。なんだ、なんだ?
「あのですね。若い女性が、そんな危険なことをするのはどうかと思いますよ。俺は見知らぬ人間で、とんでもない悪人かもしれないじゃないですか」
俺が説教を始めると、彼女は項垂れた。
「そう……ですよね。おっしゃる通りだと思います。ごめんなさい」
おっしゃる通りって、俺は悪人じゃないぜ。ちょっと悔しくなった。
「一応、事情を伺ってもいいですか」
彼女は顔を上げた。少し明るくなった表情を見て、ドキッとした。笑うと思いのほか可愛いじゃんか。
「どうしても今日、富良野に行きたくて、発作的に飛行機に乗ってきたんです。で、ここで免許証を忘れてきたことに氣がついて」
俺は首を傾げた。
「でも、電車やバスもありますよ」
「わかっています。でも、私の行きたい所は普通の観光地じゃないので、レンタカーでないと行けないんです」
カウンターの美人が、車のキーを持って近づいてきた。俺はちょっとだけ考えた。断ってもいいけれど、後味悪くなるよなあ。彼女は悲しそうに目を伏せた。う~ん、しょうがないなあ。
「わかりました。じゃあ、一緒に行きましょう、富良野へ」
「本当ですか?」
「ええ。レンタカー代は折半、それと、海鮮丼の大盛りを奢ってください」
俺がそういうと、彼女は満面の笑顔を見せた。
「ありがとうございます!」
で、俺は見知らぬ地味子ちゃんと、ドライブすることになったというわけだ。レンタカーに乗り込み、慣れないコックピットやカーナビをひと通り確認してから、シートベルトを締めてとにかく富良野に向かって走り出した。
「ところで、俺は山口正志っていうんだけれど、君は?」
「あ、すみません、名乗り忘れていました。白石千絵といいます」
道東自動車道に入るまでに、俺たちはお互いの素性を簡単に紹介した。俺は新宿区をメインに清涼飲料水の営業をやっていることや、三鷹に住んでいること、それから悪友の健児に逐電された情けない経過などを話した。
千絵は横浜に住んでいて、職業は看護師だと言った。それから、黒い革リュックからそっと小さい箱を取り出した。
「悩んだんです。これを渡したら、ただ悲しませるだけかもしれないって」
俺は、何がなんだかわからなかった。道は北海道のイメージ通り簡単そうで、64キロメートル直進だというので、彼女の話を詳しく聞くことにした。
「担当していた患者さんが二週間前に亡くなりました。ちょっと難しい手術を控えて入院なさったんですけれど、手術より前に容態が急変して」
「それは……。気の毒だったね」
「とっても痛くて苦しかったはずなのに、いつも明るくて、私たち看護師にも感謝の言葉を忘れない方でした。若い魅力的な男性なのに珍しいねって、同僚の中でもとても人氣があったんです」
う……。そういう流れか。じゃあ、この親切でポイントを稼いで仲良くなる、なんてのはダメそう。俺は心の中で落胆した。
「で?」
「その方に頼まれたんです。ダイヤモンドつきの指輪を注文してほしいって」
「え? その、つまり……」
「ええ、プロポーズ用でしょうね。ある女性の誕生日に間に合わせてほしいって言われました。内側に日付と『with love』って入れてほしいと。富良野に送り届けたいから、それも手配してほしいって。そのことは私しか知りませんでした。驚かせたいから誰にも言うなって言われていたので」
ってことは、この子とのロマンスの話じゃないのか?
「それで?」
「彼の容態が急変して亡くなった時、私は休暇でアメリカにいたんです。戻ってきたらもうすべてが終わっていて、私はご遺族にも逢えなかったんです」
彼女は白いリボンのかかった水色の小さな箱を取り出した。
「迷いました。事情を話してキャンセルすることもできましたし、上司に相談もできました。でも、そうなったら事務的に処理されるだけだと思ったんです。誕生日に好きな人にサプライズのプレゼントをすることが彼の最後の願いだったと思うと、どうしてもそれはできなくて……」
「で、これからそれを届けようとしている?」
「ええ、今日がその女性の誕生日なんです。ずっと悩んでいました。もともとのプランのように彼の名前で送りつけたら、オカルトかと驚くだろうなとか、私がそこまでするといろいろと勘ぐられるんじゃないかとか、これを届けてしまったらその女性は生涯この指輪の重さに縛り付けられてしまうんじゃないかとか。そして、今日になってしまったんです」
「それで、居ても立ってもいられなくなって飛行機に飛び乗っちゃったんだ」
「はい」
お人好しにも程がある。それだけその亡くなった男がいいヤツだったのかもしれないけれど。
「俺なら、遺族に電話するか上司に言って、さっさと話を終わらせるだろうけれど、それはあくまで本人を知らないから言えることだよな。わかったよ。とにかく、一緒にそこに行こう。男連れで来たら、きっと相手は勘ぐることもないだろうから、ちょうどいいだろう?」
「どうもありがとう。本当に助かります」
七月の北海道のドライブらしい光景がずっと続いていた。青い空、白い雲、まっすぐな道に、左右は豊かな若緑。二時間ぐらいで、富良野に着いた。
「どうする? すぐにその彼女の家を探す?」
俺が訊くと、千絵はそっと腕時計を見た。
「お昼時になっちゃいましたね。山口さん、運転してお疲れでしょう。先に休んでご飯を食べませんか?」
俺はその心遣いにちょっと感動した。健児とあーやカップルのエゴイズムにムカついた後だったから余計そう感じたんだと思うけれど。せっかくだから、有名な『ファーム富田』の併設レストランに入ることにした。
ラベンダーの香りが、風に乗ってふわりと漂ってくる。なんていうのか、高校の時、クラスの女の子の襟元から漂ってきた石鹸の香りにぐらりと来た、あの感覚だ。いかん、いかん。そうじゃなくて。千絵は不純な俺と違って、純粋に花畑ファームに感動していた。
「なんていい香り。あ、あちらに花畑があるんですね……」
俺はほんの少し残念そうな千絵に言った。
「もう、ここまで来ているんだし、少し花畑を楽しんでから行ってもいいんじゃないか? 飯を食ったら、少し観て行こうよ」
彼女の顔にはぱっと笑顔が花ひらいた。
「ええ、そうですよね。七月の富良野に来るなんて、そんなにしょっちゅうあることじゃないですもの」
フードメニューはたいしたことがなく見えた。パスタかカレーか。俺はカレーに男爵コロッケがトッピングされた一皿を選んだ。千絵は普通のカレーを頼んだ。
「げっ。このコロッケ、激ウマだよ!」
花畑併設のカフェなんて、全く期待していなかったのに、やるじゃないか、北海道。
千絵はホッとしたように笑った。
「よかったです」
「なんで?」
「だって、山口さんの旅行を台無しにしちゃったかなって思っていたので。観光らしいこと、まだしていませんよね」
俺は、この子はいつもこうやって他人のことばかり心配しているのかなと思った。
「そんなことないって。北海道ドライブだってしたし、富良野の花畑なんて超有名観光地に来ているんだぜ。それに、友達にトンズラされて、一人で旅していたって楽しいことないよ。こうして道連れができたのは、ありがたいと思っているよ」
「本当ですか」
「うん。だから、その、山口さんってのと、ですます調、そろそろやめてくれるとありがたいんだけれど……」
千絵は、えっ、というように瞳を見開いたあと、少し赤くなって頷いた。
食事の後、俺たちは花畑を散歩した。すごい光景だった。ラベンダーの明るい紫、白いかすみ草、赤いやオレンジのポピー、あと、俺は名前を知らないピンクや青い花でできた帯が、虹のように整列してはるか彼方まで続いている。ラベンダーの香りはとても強くて、くらくらしてきそうだ。真っ青な空、嬉しそうな千絵の笑顔。俺は思わず携帯を構えて、鮮やかな花畑をバックに彼女の横顔を撮った。彼女は微笑んだ。
「山口くんも、撮る?」
俺はちょっと考えてから、そこを歩いていた観光客を捕まえて、千絵とのツーショットを撮ってもらった。それでもう、旅行の元が取れたような氣がした。
それから、車に戻って、ナビに千絵が訪ねようとしている女性の住所を登録して、しばらく走った。確かにその一帯は観光名所がなく、土地勘のない俺たちが公共交通機関だけを使って訪れるのは難しそうだった。千絵はタクシーを見て、「あれを使えばよかった」と言ったけれど、俺としては一緒に来れてよかったと思っていた。もし彼女が一人で来ていたら、行き方が難しくて立ち止まる度に、「行くべきなのだろうか」という想いに負けてしまったかもしれない。俺がそれを告げると彼女は「そうね」と頷いた。
隣の家と一キロくらい離れている丘の上にその家はあった。樹々に囲まれたログハウス。俺は表札を確認した。上田久美子と小さく書いてあった。
「ここだろ?」
千絵は黙って頷いた。彼女は迷っていた。俺にもわかる。誰だってこんな重いプレゼントを渡したくない。だが、俺には亡くなった男の最後の願いやまだ逢っていない女性の心情よりも、たまたまそこで働いていたためにそのすべてを抱え込んでしまったおせっかいな女の子の重荷の方が心配だった。
「行こうぜ。今行かなかったら、その指輪、お前が生涯抱えることになるんだぜ」
俺は千絵の返事を待たずに呼び鈴を押してしまった。
「はい?」
中からきれいな女性が出てきた。俺たちを見て不思議な顔をした。そりゃそうだ、全く面識がないんだから。俺がつつくと、千絵はようやくぺこりと頭を下げた。
「はじめまして。私、横浜の○○総合病院で看護師をしている白石千絵と言います」
そう千絵が言った途端、彼女の顔はさっと曇った。千絵は早口に俺にしたのと同じ話をして、水色の箱を差し出した。久美子さんは震えながらその箱を受け取って、それから白いリボンを外した。輝くダイヤモンドと、銀色の指輪の裏側に彫られた文字を読んで、彼女の目には涙がいっぱいたまった。
「馬鹿……」
俺は、こんな風に愛情のこもった暖かい罵倒の言葉を聞いたことがなかった。それから彼女は千絵に向かって深く深く頭を下げた。「ありがとうございました。あなたのご親切、生涯忘れません」
俺たちは、富良野かどこかでホテルを探すと言ったのだけれど、彼女は泊めてくれると言って訊かなかった。久美子さんが富良野の名産である豚肉でステーキを焼いてくれた。とれたての野菜もやけに美味かった。俺たちは、彼女の誕生日を富良野ワインで祝った。ダイニングに笑顔の男性の写真がかかっていた。俺がそれに目をやると、千絵が頷いた。久美子さんは指輪の箱を、その写真の前に置いた。
翌日俺たちは、久美子さんの家を後にして、美瑛に足を伸ばした。「四季彩の丘」という7ヘクタールの花畑があって、これまた絶景だった。ヒマワリ、ケイトウ、ルピナス、金魚草、百日草、ラベンダー……。地平線まで続く広大な花畑を見ていたら、千歳空港でのむしゃくしゃした氣分はもうどこにも残っていなかった。
「こりゃ、すごいや」
「本当にきれいね。ふさわしい言葉が見つからないわ」
「そうだな。ここに連れてきてくれたことに、礼を言わなくちゃな」
「やだわ。お礼を言うのはこっちよ。久美子さんの涙を見て、来て本当によかったなって思ったの。山口君が後押ししてくれなかったら、きっと私、怖じけづいて帰っていたわ。本当にありがとう」
今日の夕方の飛行機で帰るという千絵をもう一度千歳空港に送るために、俺はまたハンドルを握った。札幌で一人でもう一泊してもよかったけれど、健司たちとばったり会うのも嫌だったので、俺も予約を変更して、千絵と一緒に帰ることにした。搭乗手続きをしていると彼女は俺の顔を覗き込んだ。
「いいの? せっかくのお休みなのに」
「いいさ、あっ!」
俺は突然思いだして、ゲートの向こうの札幌を惜しげに振り返った。
「どうしたの?」
「カニとイクラを食べ損ねた」
そういうと、千絵ははっとした。
「ごめんなさい! 海鮮丼をごちそうするの、忘れていたわ!」
それを聞いて、俺はにやりと笑った。
「約束は約束だから、また一緒に北海道に来て、ごちそうしてもらわなきゃな」
千絵は、まあ、という顔をしたが、すぐにニッコリと笑って「そうするわね」と答えた。俺は腹の中でガッポーズをした。
(初出:2014年10月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Paris - Ker Is
ウゾさんが書いてくださった作品: 『パリ - イス 』
で、これまた難しいお題でした。題名指定って、単なるテーマ指定と違って、ものすごく大変なことが分かりました。二度とやらないと思います。
「パリ 椅子」でギャグにしてもよかったのですが、あえていただいたウゾさんの作品に寄せて、同じケルトの伝説イースを持ってきました。でも、同じものを書いてもしょうがないので、困ったときの「大道芸人たち」(しょーがないなあ……)本編が始まる数年前のお話で、あの人が登場です。パリだから。
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大道芸人たち Artistas callejeros 番外編
Paris - Ker Is
男たちと女たちの妖しい上目遣いが紫とピンクのライトの光に染まっていた。肩や足が露出している女たちですら、その熱氣に喘いでいる。スーツを着こなした男たちは懐から白いハンカチを取り出して、時おり汗を拭わねばならなかった。
週末でもないのにそのクラブは満員で、お互いの声がよく聴き取れないほどに騒がしかった。テーブルに置かれたカクテルグラスに注がれたギムレットが、ざわめきで揺れていた。この店は、パリ、モンマルトルにある高級クラブの中でも特に敷居が高く、団体の観光客などは一切入れない。
レネ・ロウレンヴィルのようなしがない貧乏人がこの場にいるのは、もちろん仕事でだった。彼は駆け出しの手品師で、故郷のアヴィニヨンから出てきてからまだ一年も経っていなかった。普段は観光客の多い有名キャバレーの隣のクラブで前座を務めているのだが、今夜はこのクラブのマジシャンが高熱を出したというので、代打に送り込まれたのだ。
「こっちの舞台の前座はどうでもいいが、あっちに穴をあけるわけにはいかないからな」
オーナーは髭をねじった。
「そういう高級クラブでは、どんな手品が観客受けするんでしょうか」
レネはおどおど訊ねた。
オーナーはナーバスになったレネを笑った。
「何だっていいんだよ。あそこの客は手品なんかまともに見ちゃいねえ。ビジネスをしているか、ラリっているか、それとも女を口説いているかだ。とくに《海の瞳のブリジット》を」
オーナーの言葉は正しかった。レネの演技はおざなりな拍手で迎えられ、得意のリング演技は私語に邪魔された。観客の関心のない様子には落胆させられたが、退場のみやたらと大きな拍手をもらった。演技に集中していたレネですら、その時の人びとの興味の中心がどこにあるのかがわかった。舞台と反対側の奥に置かれたVIP用ソファーに案内された青いワンピースドレスの女性だった。
ああ、では、あれが《海の瞳のブリジット》なんだ。数週間前に突然現れたという、パリ中の若い御曹司や成金たちが競って愛を求めている謎の美女。金箔入りのシャンペンを浴びるように飲み、プレゼントの宝石で身動きが取れないほどで、しかも、次々と求婚者を袖にして絶望の縁に追いやっているとオーナーが話していた。
ブリジットは、膝丈ドレスの過剰なフリルを払ってソファーで足を組みなおした。それは少しずつ彩度の異なる青いオーガンジーを重ねた繊細なオーダーメードで、とくにマーメイド部分のフリルはデザイナーが三日もかけて何度もやり直させたこだわりの細部だったのだが、彼女は自分が美しく見えさえすれば、デザイナーや針子の努力などはどうでもよかった。
彼女の周りには、その金糸のごとく光る豊かな髪に触れ、その青く輝く瞳を自分に向けさせようと、多くの男たちが面白おかしい話や、長く退屈な家系の話、それに金鉱山を買い取った話などをしていた。彼女は艶やかに笑って、一人一人を品定めしていた。仕事を終えたレネはその噂に違わぬ艶やかな様子に心奪われて、礼儀も忘れて近くへと歩み寄っていった。
あら、見かけない顔ね。ああ、さっき手品をしていた芸人ね。どうりで黒いスーツがまったく似合っていないこと。でも、退屈しのぎにはいいかも。彼女はニッコリと笑いかけた。
「こっちにいらっしゃいよ、手品師さん。お仕事が終わったなら、ここで私を少し楽しませて」
レネは、顔を赤らめてブリジットのソファの前にやってきた。新しいライバルにはなりえないと判断した男たちは、手足がひょろ長くもじゃもじゃ頭の手品師のことをあからさまに笑った。
手品の用具は舞台裏に置いてきてしまったので、レネは常に内ポケットに入っているタロットカードを取り出した。レネが誰かを驚嘆させることのできるたった一つの特技、それがタロットカードによる占いだった。華麗な手さばきでカードを切る。右の手から左の手に移す時に、カードは一枚ずつ弧を描くように空を飛んだ。それがとても見事だったので、ブリジットの青い瞳は初めて感嘆に輝いた。
レネが扇のように開いたカードの群れを彼女に差し出すと、男たちがどよめいた。不吉な予感がした。
「いけない、ブリジット……」
「何がいけないの。たかがカードじゃない」
「いや、そうだが……確かに、そうだが……」
海のように青いドレスを纏い、黄金の髪を王冠のように戴いた美女は、挑むような目つきでカードに手を出した。銀色のマニキュアが震えている。レネは、自分でもいったい何が起こっているのかわからなかった。このクラブは暑すぎる。息苦しい。
「きゃあ!」
彼女はカードを投げ出した。「塔」のカードを。塔には、天からの稲妻があたり、二人の人間が落とされている。レネは彼女が「たかがカード」と言ったわりに、恐ろしく動揺しているのを不思議に思いながら、柔らかく不安を取り除くような解釈を口にしようとした。本当は、大アルカナカードの中でもっとも不吉なカードであるけれど。
だが、ブリジットも取り巻きの男たちも、レネを見ていなかった。その後ろにいつの間にか立っていた一人の背の高い男に畏怖のまなざしを向けていた。
「ゼパル……。どうしてここに」
ブリジットが震えていた。レネは一歩退き、ゼパルと呼ばれた男をよく見た。背の高い男は撫で付けた漆黒の髪と暗く鋭い光を放つ瞳を持ち、黒いあごひげを蓄えていた。真っ赤な三揃えの上から真紅のマントを羽織っていた。先の尖った赤いエナメル質の靴を履いている。そして、その姿なのに、この熱氣に汗一つかかずに背筋を伸ばして立ち、ブリジットを見据えて低く言葉を発した。
「実にあなたらしいことだ。享楽を愛する淫らな人よ。だが、ここはあなたのための都ではない。迎えにきました」
「いやよ。私があんな所に戻ると思って?」
「それでも、あそこはあなたのために存在する城です。私はあなたの番人だ。どこへ逃げても地の果てまで追いかけて、あなたを連れ戻しましょう」
レネはこの美しい女性は、どこか外国の囚われの姫君なのかと考えた。映画「ローマの休日」を地でいくように、わずかな自由を楽しんでいる所なのかと。その一方で、記憶の奥底で「これは知っている」と囁くものがあった。なんだったかな……。
「あっ」
レネは思い至った。全身赤い服を纏った男に心を奪われて水門の鍵を渡してしまった王女……。ブルターニュにあったという伝説の都イースには、夜な夜な貴公子たちと愛を交わす美しい王女がいた。そして、その都は神の怒りに触れて、いつまでも海の底に沈んでいるという。
「お前は誰だ! ブリジットは嫌だと言っているじゃないか」
取り巻きの男たちがいきり立ったが、赤装束の男は微動だにしなかった。レネはぞっとした。伝説での赤い服を来た貴公子は悪魔が化けていたから。いや、待てよ。あれはあくまで伝承だから、二十一世紀のパリで怯えることはないかな……。でも、これからケンカになるかもしれないから、ちょっと離れておこうかな……。
巻き込まれる前に、愛用のカードを回収して去ろうとすると、「塔」のカードに目をやった真紅のゼパルは口を開いた。
「そう、かつて、悪徳の都は崩壊し、大きな災害が押し寄せた。ところで、人類は歴史に何かを学ぶことができたと思うか」
自分に向かって話しかけられていることを感じたレネは不安げに男を見上げた。彼はレネを見ておらず、酒に酔い、妖しげな薬剤を用い、淫らに騒ぐクラブの客たちを見回していた。それは、確かにヨハネ黙示録に描かれた滅ぼされるべき淫蕩のバビロンを彷彿とさせる風景ではあった。
レネは人類とパリを救わねばならないような氣持になっておずおずと答えた。
「ここは、ちょっと騒がしいですが、パン屋は早起きをしておいしいパンを焼いていますし、僕の生家では、両親が心を込めて葡萄を作っていますよ。それに、教会にちゃんと通っている人も多いですし……」
男はレネが自分を、最後の審判を下す恐ろしい天の使いか、イースを海の底に沈めた悪魔だと思っていると悟ったのだろう。思わせぶりに、にやっと笑った。それからおもむろに、ブリジットの方に手を伸ばすと、嫌がる彼女を軽々と肩の上に載せ、唖然とする人びとの間を巧妙にすり抜けて去っていった。
取り巻きの男たちが、騎士道精神を発揮して真紅の男と抱えられた姫を追うとしたが、クラブの人混みに遮られてままならなかった。そして、男たちがクラブのドアから出ると、どういうわけか二人の姿は影も形もなかった。
レネが、そのクラブで仕事をしたのはその一晩だけだったので、《海の瞳のブリジット》がその後どうなったのかはわからなかった。オーナーによると、あれから二度と現れていないそうだ。
「ったく、いい客寄せになったのにな。婚約者かなんかに見つかって連れ戻されたんだろうか」
そうなのかもしれない。だがレネは、まだあの二人がケルトの異世界からやってきたとのではないかと疑っていた。伝説のイースの王女ダユはケルトの女神ダヌと同一視されているが、そのダヌと女神ブリギットも同一視されている。名前までもケルトっぽいんだよなあ。赤い悪魔、天の使い魔ゼパルが、快楽と淫蕩に満ちたパリの街に警告を与えにきたのではないかな。
とはいえ、その街パリは、レネにとって日々のパン代を稼ぐ職場だった。つべこべ言っている余裕はなかった。ああ、神様。もしパリを沈めてイースを甦させるおつもりなら、もうしばらく、つまり、あと百年くらいお待ちください。レネは小さくつぶやくと、モンマルトルの派手なネオン街をもう一度見回した。
Pa vo beuzet Paris
Ec’h adsavo Ker Is
パリが海に飲み込まれるときは
イースの街が再び浮び上がるであろう
(初出:2014年10月 書き下ろし)
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うわぁ、どうしよう。大好きな街です。合計で三回行っています。この街を舞台に使っている作品群もあります。でも、なんかふさわしくないし、掌編にするのに面白くない。というわけで、新たな物語を作りました。あたり前ですが、ほぼフィクションです。でも、飛行機に置いていかれてウィーン半日観光が出来たのは、私の実体験をもとに書いています。そして、TOM-Fさんも好きだといいな、レハールの『金と銀』を使わせていただきました。
(追記)TOM-Fさんが作品を発表してくださいました。それも、この作品に対するアンサー小説になっています。
TOM-Fさんの作品 「ウィーンの森」
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ウィーンの森 — 金と銀のワルツ
森というよりは、山なんだ。半日で観ようっていうのは無謀だったわね。ベートーヴェンが住んで『田園交響曲』の着想を得たというハイリゲンシュタット、ルドルフ皇太子の心中したマイヤーリンク、温泉保養地バーデン。『ウィーンの森』という名のテーマパークのような観光名所があるわけではないので、どこに行っていいのかわからないし、たぶん時間もそんなにない。
クロアチア出張の帰りだった。ドブロブニクの空港でエンジントラブルがあって二時間の遅延があった。ウィーンについた時には乗り継ぎ便はもう東京に向かって飛び立ってしまった後だった。いますぐインドのボンベイ経由で帰るのと、一泊して明日直行便で帰るのとどちらがいいかと訊かれて、真美は迷うことなく一泊二食付きのウィーン滞在を選んだ。
ウィーンは乗り継ぎだけのつもりだったから、観光地などは全く調べてこなかった。半日の自由時間を効率よく過ごすための情報は限られていた。でも、そんなことは構わない。真美はタブレットをバッグにしまうと、バスの窓から外を眺めた。
バスはちょうど街の中心へとさしかかっていた。18世紀を思わせる重厚な建築群が連なっていた。街路の栃の樹から枯葉が車道に降り注ぐ。そして、その上を黒い馬車がゆっくりと通り過ぎていった。その向こうに音楽の教科書の表紙になっていたモーツァルトの像が見えた。嘘みたい。私、本当のウィーンにいるんだ。
真美に一番近いウィーンはずっと日本の田舎町にあった。そこには十年以上行っていない。真美が十七歳の時に父親が東京に栄転したから。でも、まだ喫茶店『ウィーンの森』は変わらずに存在していて、人びとの憩いの場所になっていると風の便りに聞いている。
真美は近所の青年、吉崎護になついていた。彼は母親の親友の息子で、学生時代に『ウィーンの森』でバイトをしていたのだが、学校を卒業後オーナーに店を任された。真美は、高校の帰りによく店に行き、ミルクのたっぷり入ったコーヒーを飲みながら、他愛もない話をした。
それは、ウィーンのカフェハウスを模して、メニューにもウインナ・コーヒーではなくてアイシュペンナーと載せるようなこだわりの店だった。県内で唯一のドイツ系コンディトライからケーキを取り寄せていて、クーゲルホフやアプフェルシュトゥルーデル、そしてショコラーデ・トルテが真美にとっての馴染み深い菓子だった。
銀のお盆に載ったコーヒーには必ずグラスに入った水が添えられていて、それだけで特別な飲み物になった。ウィンナ・ワルツのかかっている店内は、ただの喫茶店とは格の違う空間だった。真美には護もまた特別な存在だった。白いシャツと黒いパンツに、ワインカラーのエプロンをして、客たちににこやかに話しかける彼のことが大好きだった。
道に面したドアと反対側には大きい窓と勝手口があり、その向こうには白樺の林があった。晩秋にはその葉は鮮やかな黄色に染まり、陽射しを受けて輝きながら舞い落ちていった。それはちょうどワルツに合わせて踊っているように見えた。
「ほら、あんまり見とれていると、コーヒーが冷めるぞ」
護が真美の側にやってきて、一緒に白樺の落葉を楽しんだ。
「うん。きれいねえ。秋っていいわね」
「ああ、俺も、この時期のこの光景が一番好きだな」
真美はカップを両手で包み込むようにして、香り高いコーヒーの湯氣を吸い込んだ。幸福が押し寄せてきた。
「落ち葉も踊っているね。ねえ。これ、なんて曲?」
「フランツ・レハールの『金と銀』だよ。ウィンナ・ワルツの代表的作品だな」
秋の柔らかい光。黄葉の煌めき。『金と銀』……。
「いい曲ねぇ。これでダンスをするのね。ねえねえ、あれだよね。白いドレス着て、ティアラつけて宮殿で踊るの、デビュタントだっけ?」
護はちらりと真美を見て答えた。
「ああ、正月のオーペルンバルでやっているな」
「ねえねえ。私もデビュタントしたいな。護兄さん、一緒に行こうよ」
真美がそういうと彼は笑った。
「そういうのは彼氏と行くもんだろう」
彼女はふくれ面で答えた。
「私はもうじき16歳だよ。あと数年で大人の仲間入りだもん。そしたら、護兄さんの彼女にしてくれる?」
彼はそれを笑い飛ばした。ジョークだということにされてしまった。
それから一年もしないうちに護が結婚すると聞いて、真美は号泣した。その事実を認めまいと頑になり、披露パーティへの出席どころか『ウィーンの森』にすら行かなくなった。結婚式から帰って来た母親は「きれいなお嫁さんで、素晴らしいお式だったわ」と、報告した。心の整理がつく前に、父親の転勤で東京に越してきてしまい、それ以来護とは会っていない。
あの当時の彼の歳になった今なら真美にもわかる。仕事の責任があり、日々の生活を全て自らコントロールしている今だって、ちゃんとした大人とは言えない。何もできないのにロマンスだけは一人前にできるつもりでいたあの頃の自分を思うと確かに笑い飛ばしたくなる。それと同時に、あれは彼なりの優しさだったのだと思う。子供の憧れを利用したりせずに、その未来を大切にしてくれた、責任感のある大人、護兄さんはそういう人だった。真美はウィーンの街並を眺めながら思った。
空港の目の前にあるビジネスホテルに泊めてもらったのは正解だった。飛行機のチェックインまでの間、荷物を預けておき、身軽にウィーンの観光をすることができる。といっても時間がないので、たぶん二カ所ぐらいしか行けないだろう。森を諦めるとしたら……。決めた。カフェでショコラーデ・トルテを頼み、それから、よく映画でダンスシーンを撮影するシェーンブルン宮殿へ行こう。
アール・デコの美しいカフェに入り、真美は案内された席に座った。金髪のウェイトレスが明らかに日本人観光客である真美の顔を見て、英語で「英語のメニューですか?」と訊いてきた。真美は黙って頷いた。コーヒーにミルクの入ったものがブラウナーで、泡立てたホットミルクの入ったエスプレッソがメランジェ。ウィーンのカフェの専門用語は今でもスラスラ出てくる。それで注文には「メランジェ……ショコラーデ・トルテ」と中途半端にドイツ語で頼んでしまった。ウェイトレスは、「お願いします」もまともに言えないのに一人でカフェに入ってくる日本人観光客に慣れているらしく、頷くとさっとメニューを持って奥へ行ってしまった。
銀のお盆に、メランジェとグラスに入った水が載って出てきた。チョコレートケーキも、使われている食器も、『ウィーンの森』で護が出してくれたものとよく似ていた。ウェイトレスがそっけなく伝票をテーブルに置かれた銀の筒に丸めて突っ込み、去っていったのだけが違った。
「お待たせ」
そう言って護兄さんはいつも笑顔でお盆を置いてくれたよね。
トラムに乗ってシェーンブルン宮殿まで行った。駅から門まで、そして門から宮殿までもそれなりの距離があり、大きい宮殿、さらにその後ろの広大な庭園を眺めただけで、これはゆっくり見ている時間などないとわかった。
次の見学ツアーの出発は一時間後だった。それからのんびり見学などしていたら、また飛行機に乗り損ねてしまう。真美は宮殿内の見学を諦めて、庭園を歩くことにした。
宮殿正面のフランス式庭園は、写真で何度も見たことがあった。たくさんの観光客が記念写真を撮っていた。真美は先ほどから感じ続けている違和感について想いをめぐらせた。ウィーンに、そう本物のウィーンにいて、何もかも想像していた通りなのに何かが違う。その何かの正体がつかめない。
私はウィーンに何を期待していたのだろう。ここに何があると思っていたんだろう。ここは普通の都会。オーストリアの首都で、私のトランジット先。それだけ。それ以上を期待するのが間違っている。ここはこんなに美しいじゃない。
庭園の中程まで歩いて、ふと横を見ると、広葉樹の木立が黄色に染まっていた。真美は思わず走り寄って、声をあげた。
「わあ」
宮殿の壁の色よりもひと回り鮮やかで深い色。なんてきれいなんだろう。真美は魅せられてその木立でできたアーチの中へと吸い込まれていった。
黄色い枯葉が陽の光を受けながら舞い落ちていく。葉の裏に秋の陽射しがオレンジに透けている。葉と葉の間を抜けて差してくる木漏れ陽の中で、細かい土ぼこりが銀色に反射しながら舞っている。それは寂しい秋の風景ではなくて、華やかで美しい色彩の舞踏会だった。
突然、真美の心の中に、レハールの『金と銀』が響いてきた。金管、弦楽、流れるハープ、それから輝きながらゆっくりと旋回していく木の葉たち。穏やかに語り合いながら歩いていくカップル。犬を連れて散歩をする老婦人、どこまでも続く黄色い木立のトンネル。
そうか。私が見たかったのは、聴きたかったのは、そして行きたかったのは、あそこだったんだ。『ウィーンの森』の光景。金と銀のワルツ。「いつかは行きたい憧れの街」と言いながら、一度も本当のウィーンを訪れようとしなかったのは、だからだったのね。
真美は彼がどれほどしつこく自分の心の奥に居座っていたのかに初めて氣がついた。初めての失恋から立ち直って、忘れて、全く違う人生を謳歌してきたはずだった。他の恋も普通にして、別れてを何度か繰り返した。護と彼らを比較したこともないと思っていた。友達の結婚式に招待されるたびに親からちくりと言われる「あなたもね」に「まだまだ仕事が楽しいし」と笑い飛ばしていても、彼のことは関係ないと自分に言い聞かせてきた。
護が離婚したと耳にした時、反応しないようにしたのも、その後にも故郷に行こうとしなかったのも、全て自分の信じていたことと正反対だったのだ。私は意固地になっていただけだ。認めたくなかったから。まだ同じ夢を追っていることを。
護兄さんにふさわしいパートナーになりたかった。一緒にこのウィーンでダンスを踊りたかった。もう、デビュタントにはとても加われない歳になってしまったし、それ自体が意味を持たなくなってしまったけれど。『ウィーンの森』で、そして、ここ本当のウィーンのカフェで注文したかったのはメランジェでもトルテでもなくて、彼の笑顔だったんだね。
真美は不意にあの時にどうやっても立てなかったスタートラインに立っていることに氣がついた。相手にしてもらえなかった子供ではなくなっている。ちゃんと自立して仕事もしている。ウィーンにも一人で来られて、世界と自分の過去を分析もできるようになっている。今なら、護兄さんにもちゃんと一人の人間として向き合えるかもしれない。
今度の休みには、久しぶりにあの街を訪れて『ウィーンの森』に行ってみよう。ウィーンに行ってきたことを彼に話してみよう。何かが始まるのか、それとも何かが終わるのかわからない。けれど、とにかく行ってみよう。私にとってのウィーンへ。真美はもう一度木の葉のダンスを見上げると、踵を返して空港へと戻っていった。
(初出:2014年10月 書き下ろし)
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(イラスト)妄想らくがき・羽根のある君と

このイラストの著作権はlimeさんにあります。使用に関してはlimさんの許可を取ってください。
で、せっかくですから行ってきたばかりの北イタリアの古城のイメージを使い、さらにポール・ブリッツさん流の「省エネ」作戦で、自分の企画した「地名系お題」シリーズにも加えてしまう事にしました。
ピアチェンツァ、古城の幽霊
サルヴァトーレ・フィジーニは満足げに黒檀の机の上の書類に署名をしようとした。目の前にいるベージュのスーツを着たビアンコとかいう男はサルヴァトーレが古城の所有者となろうとしているのに、大した感銘を受けた様子もなかった。不動産会社の社員なんてものは、古城の所有などとは生涯無縁なのだろう。だがこの私は違う。ミラノのビジネス界で成功し、ついにここまで登り詰めたのだ。次のビジネス・ディナーではなんでもないように口にする事ができる。
「城を購入して住みはじめたばかりなのですが、まだ、全ての部屋を確認し終えていないのですよ」
この城は、実のところミラノから日帰りできる範囲で買えるどの城よりも格安だった。ピアチェンツァに点在するたくさんの城のほとんどが廃墟か個人所有になっている。売り出される事自体はそんなに多くない。フィジーニはマッジョーレ湖沿いのヴィラの購入も考えたが、この城ほど格安で人びとを感嘆させる新居は手に入らなかった。
古城とは言え、二十五年ほど前にきちんと改築され、どの部屋も改装の必要なく住むことが出来そうだった。もちろんネットの配線などの工事は必要だろうが、城にふさわしい高価な家具も食器類も揃っているうえ快適な現代生活が送れそうだった。
マウリッツィオ・ビアンコは登記済み証や、城の平面図などを機械的に確認し、フィジーニの用意した書類を書類ばさみに入れていきながら付け加えた。
「こちらにあるのが、全ての部屋の鍵です。そうそう、この鍵だけは使うことはないと思いますが」
いわれた鍵は一つだけ錆臭く黒ずんでいる大型のものだ。
「どこの鍵かね」
「アロイージアの部屋です。屋根裏の一つ手前です、ご存知ですよね」
「アロイージア? 誰だそれは」
「ご存じないのですか。この城の幽霊です」
「幽霊だって?」
ビアンコはちらっとフィジーニを見た。
「ええ、幽霊です。古城なんですから、居るに決まっているでしょう」
「決まっているって、君、何を言っているのかね。今は二十一世紀で、そろそろ一般人が宇宙旅行をしようっていう時代だぞ。幽霊だなんて、ちゃんちゃらおかしい」
ビアンコはため息をついた。
「やれやれ。最近は学校でも教えないんですかね。昔は幽霊がいる事も知らない一般常識のない人が古城を買うなんてことはなかったものですが」
フィジーニはドキッとした。馬鹿馬鹿しいおとぎ話だが、上流階級との会話には幽霊の話も必須なのかもしれない。とても信じるつもりにはなれないが、ここでそのアロイージアとやらの情報も仕入れておいた方がいいかもしれない。
「どんな幽霊なんだね。老婆か、それとも妙齢の女性か」
「少女の姿をしているそうです。他のお城の幽霊と違って、氣難しくはないそうですが、一番嫌がるのが自分の部屋に勝手に鍵をかけられる事。もちろん彼女は鍵かかかっていようがいまいが、自由にこの城のどの部屋にも出入りできます。ああ、それから、ヴェルディよりもプッチーニの方を好むとか」
「ええっと、ラップ・ミュージックは?」
ビアンコはその発言をしたフィジーニをじっと見つめた。なんだなんだ、ポップスはダメなのか、それは参ったな。フィジーニはドギマギしてきた。
「それから、携帯電話はお使いにならない方がいいかもしれません」
「なぜだ」
「いえ、前の所有者が、アロイージアの機嫌を損ねたのですが、携帯電話会社の経営者でしたから」
やめてくれ! フィジーニは泣きそうになった。いくら古城に住むと言っても、普通の生活ができないと困るじゃないか。
「私の方からは、以上です。契約は成立いたしました。どうぞ新しい我が家を存分にお楽しみください」
マウリッツィオ・ビアンコは頭を一つ下げると、書類を集めて、古ぼけた白いフィアットに乗って去っていった。フィジーニはとにかく新しい我が家に慣れるため、用意しておいたスプマンテを開けてリラックスする事にした。
フィジーニが24km先にあるビアンコの事務所の前にアルファ・ロメオを乗りつけたのは二週間後の事だった。
「城を買い戻してもらいたい」
「なぜですか。契約書にあるいかなる条項にも反している所はないと思いますが」
「君のいう通りだ。部屋の状態も、インフラも、家具も、日当りも、全て住む前に確認した状態だった。だが、君のいう幽霊の件は契約書になかったじゃないか」
「なんですって。二十一世紀だというのに、幽霊のせいで契約が無効だとおっしゃるんですか。今のミラノでは、そういう戯れ言がビジネスとして通用するんですか」
「いや、そうではなくて……」
「何が問題なんですか」
「その、つまり、何もできないんだ。ネットには接続できない。電話もできない。恋人と食事をしようとすると、休みなくドアが開いたり閉まったりする。ラップ・ミュージックをかけると水が降ってくるし、プッチーニにすると今度は大音響にされて会話もできなくなる」
ビアンコは馬鹿にしたように肩をすくめた。わかっている。フィジーニは屈辱を感じた。どうやっても証明できない。ドアのたてつけは悪くないし、ネット接続機器や音響設備が故障しただけだといわれたらそれまでの事だ。彼は諦めて購入価格の三分の二ほどの金額を提示した。ビアンコは粘り、ついに半額で買い戻してもらう事が出来た。フィジーニはアルファ・ロメオのリースを解約する事を考えつつ、契約書に泣く泣くサインをした。
「二週間で追い出すとはずいぶん急いだじゃないか、アロイージア。いったいどうしたんだ?」
フィジーニの忘れていったグラッパを開けて、マウリッツィオは食堂の心地のいい椅子に腰を沈めた。
「だって、明日はスカイ・チャンネルで『名探偵登場』を放映するのよ。絶対にあなたと一緒に観ようって思っていたんですもの」
アロイージアは、マウリッツィオの肩越しにくすくす笑うと、パンっとラップ音を立ててエロス・ラマゾッティのラブ・バラードをかけだした。
「おい。古城の幽霊らしくないものをかけるなよ」
「そう? 私はラマゾッティだけでなくって、エミネムも、シャキーラも、スイスのヨーデルもそんなに嫌いじゃないわよ。今どき、クラッシックだけなんて、そんな幽霊がいると思う?」
「ふん」
マウリッツィオはグラッパを飲み干すと、ポケットからiPhoneを取り出して、メール受信を終えるとエアプレーン・モードにした。
「新しいカモが連絡してくるかもよ?」
アロイージアが訊くと、マウリッツィオは興味なさそうにiPhoneを机の上に放り出した。
「今回の取引でたっぷり儲かったからな。半年くらいはここでお前とゆっくりするさ」
小さな幽霊は歓声を上げて、マウリッツィオの首にかじりついた。
(初出:2014年9月 書き下ろし)
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お題で遊べる? 2014
といっても、今回は神話系ではありません。地名で行こうかと思っています。しかも、お題は地名でも実際には地名と関係のない話でも大丈夫。たとえば、こんなの。
・ブルーハワイ ← ハワイが入っているのでセーフ。カクテルの話にしてもOK
・アグリジェントの鷹 ← ハードボイルド?
・三つの伊予柑 ← 伊予が入っているのでセーフ
・愛と憎しみのマンハッタン ← これで掌編書けるのか?
・僕とカーネルの泳いだ道頓堀 ← なんかが優勝すれば……
・樋水龍神縁起 ← 架空の土地だけれど樋水村が出てくるストーリーなのでセーフ
・霧のロンドン殺人事件 ← 探偵ものは書けないんだけれどなあ
・三宮恋情 ← 神戸の話でもいいし、三番めの宮様の恋話でもOK。
・静かの海 ← 月にそういう地名があるのでセーフ。本文が地名と関係なくてもOK
こんな感じで、お題に実際のまたは架空の地名が入っていれば、あとはなんでもいいというルール。もしよかったら、もの書きのみなさま、ぜひ一緒に遊んでくださいませ。(上に書き出したのはあくまでも例です。どんな地名でもOKです)
それと同時に、次のキリ番、50000Hit。たぶんあと六週間くらいでくると思うんです。ちょっと大きいキリ番だし、いつもと違う趣向でいこうかなあと思っています。
つまり、50000Hitの時は、この地名入りお題を考えてリクエストしていただくよう、お願いしたいと思っています。奇抜なものもOK。ただし、全く同じお題で競作していただきたいな〜と。つまり、書くのは私だけではなく、出していただいた同じお題で掌編なり、イラストなり、旅行記なり、ただの雑文の記事なり、何でもいいので出題者にも書いていただくプチscriviamo!を期待しております。(過去に地名の入ったお題の何かを発表済みの場合は、それを使っていただいてもOK)私はお題をいただいてから10日以内に掌編を書きますが、出題者にはとくに締切はありませんのでブログをやめるまでに発表していただければ。
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