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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】禍のあとで – 大切な人たちのために

今日は「123456Hit 記念掌編」の第1弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、山西サキさんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: 愛
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: サキさんの知っているキャラ
   コラボ希望キャラクター: サキさんの作品のキャラクターを最低1人
   時代: アフターコロナ。近未来(2~5年先?)
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 道頓堀



今だってわからないのに、アフターコロナの道頓堀なんて、皆目、予想がつかないのですけれど、書けとおっしゃるので仕方なく書いてみました。これ、いまから1年後にこうだったら困るかもしれません。笑い話になることを期待しつつ。

さて、登場人物です。実は、こちらで使うキャラクターはすぐに決まったのです。アフターコロナだと、近未来キャラのうち、もう生まれているのがぼちぼちいますので。使ったのは、いつもコンビで登場している2人組です。で、この2人と共演させるためにお借りするのはどなたがいいかなと迷ったあげく、この方にしました。

というのは、メインキャラの方の年齢設定が今ひとつわからなかったので。この方は3代くらいずっとストーリーの中にいらっしゃるので、どこかはかするだろうなと思ったんです。



大道芸人たち・外伝
禍のあとで – 大切な人たちのために


 やっぱり赤い街だ。拓人は、思った。青空を額縁のように彩る看板に赤やオレンジの利用率が高い。昨日のホールや泊まったホテルのある周辺はそうでもなかったので、彼は印象を間違って記憶していたのかと訝っていた。

 拓人が大阪を訪れるのは2度目だ。2年前は、父親のリサイタルだったので純粋にピアノを聴くために連れてこられたが、今年はどちらかというとシッターが見つからなかったので連れてこられた感がある。母親が従姉妹と一緒にジョイントコンサートをするのだ。その娘で拓人とは再従兄妹の関係にある真耶も、同じように連れて来られていたが、彼女の方は大阪が生まれて初めてだった。

 とはいえ真耶は、まだ6才だというのに妙に落ち着いていて、コンサートは当然のこと、新幹線でも街並みでもはしゃいだりしなかった。

 2人の母親たちは、今日はワークショップがあり観光につきあってくれる時間はない。ホテルで大人しく待たせるつもりだったのだが、夕方訪れる予定にしていたヴィンデミアトリックス家が観光をさせてから先に邸宅へと連れて行ってくれると申し出てくれたので、安心して仕事に専念しているというわけだ。

* * *


「私、歩くのが速すぎやしませんか、お2人とも」
香澄は、訊いた。黒磯香澄は、ヴィンデミアトリックス家で働いている。今日は、東京から来ているお客様の子供たちを観光させてから、邸宅につれていくいわばベビーシッターの役目を任されていた。

「大丈夫です。……だよな、真耶」
拓人は、香澄を挟んで反対側にいる真耶に訊いた。大きなマスクの下から彼女は「ええ」と、くぐもった声を出した。外出時に誰も彼もがマスクをするエチケットは、ようやく薄れてきたが、今日はかつての繁華街に行くのだから、預かる方としては徹底したいと、香澄が2人につけさせたのだ。もちろん彼女自身もしている。

 真耶は、道頓堀の繁華街を眺めながら、言った。
「……ここは、なんだか、テーマパークみたいなところね」

 真耶は、戸惑っていた。それはそうだろう。大きなタコや、ふぐや、カニがあちこちにあり、騒がしい音がしている。東京の繁華街で見るよりも看板が派手だ。

 平日の昼とはいえ、人通りは少ない。これではマスクも必要なさそうだ。かつての賑やかな道頓堀を知る香澄には不思議な光景だった。
「ここ、開店時間、遅いの?」
拓人は、香澄に訊いた。

 香澄は首を振った。
「いいえ。もう11時ですもの。例のロックダウンで閉店してしまったお店がたくさんあって、まだ次のテナントが決まっていないところが大半なのね」

 未知のウイルスのために、世界中で都市のロックダウンがされてから1年以上が経った。拓人の通っていた小学校も、しばらく登校禁止になった。現在はロックダウンをしている都市はないけれど、社会的距離を保ち感染を防ぐための政策は続いていて、2年前のような賑わいは世界中のどこにも戻っていない。

 拓人や真耶の住む東京も、かつては日本でももっとも賑わったと言われる繁華街の1つであるここも、押し合いへし合いといった混み方はもうしないらしい。見れば、シャッターを閉め切ったままの店がいくつもある。

「2年前は、人がいっぱいで、まっすぐ歩けなかったよ」
「そう。そういえば、ずっと外国人観光客が押し寄せていたのよね。それはまた、私には少し不思議な光景だったのだけれど」

 香澄は、2人に優しく話しかけた。
「お昼はどこにしましょうか。スイスホテルのラウンジがいいかしら」

 拓人は、露骨に不満を表明した。
「えー。せっかく道頓堀にいるのに、そんな洒落たとこに行くの? 東京と同じじゃないか」

「でも……」
香澄は少し困ったように、フリルのたくさんついた可愛らしい洋服を着た真耶を見た。大人しく文句も言わずに付いてきているけれど、この上品な少女は、B級グルメの店には行き慣れていないだろうし、嫌がるのではないかと思ったのだ。

 視線を感じた真耶は、香澄を見上げて言った。
「わたしのことなら、大丈夫。拓人、たこ焼きとお好み焼きを食べるって、新幹線からずっと言ってました。ね、拓人」
「うん。ママたち、うちで食べるのとおんなじようなものばっかり食べたがるんだもん。今を逃したら食べられないよ」

 香澄は笑いを堪えた。白いシャツに蝶ネクタイとグレーの半ズボン、上品そうな格好はさせられていても、彼はやんちゃ盛りの少年だ。マダムたちの好きそうな小洒落たカフェよりも、目の前の鉄板で繰り広げられるエンターテーメントが楽しいに決まっている。インパクトの強いコクと旨味たっぷりの庶民の味も、子供の舌には合うだろう。

 ヴィンデミアトリックス家に勤めて長いので、良家の食事がどんなものであるか香澄はよく知っている。それらは栄養に富み、美しく、繊細で、多くの文化と技術が凝縮されている。子女たちはそれらを日々口にすることで、外見だけでなく内面までも、一両日では真似のできない真の上流階級に育っていくのだろう。

 そうであっても、庶民の味の美味しさをよく知る香澄は、B級グルメを心ゆくまで楽しむ幸福もまた人生を豊かにすると思うのだ。せっかくだから、めったにない機会を2人にプレゼントしてあげたいと思った。

 普段なら決して許してもらえないだろう、たこ焼きの買い食いからはじめた。かつては長々と行列ができていた有名店もほんのわずか待つだけで購入することができる。たこ焼きだけでお腹いっぱいになっては本末転倒なので、香澄は一舟だけを買い、堀沿いの遊歩道にあるベンチに腰掛けた。

 真耶は、小さなハンドバッグにマスクをしまうと、レースのハンカチを取りだして、おしゃまに膝の上に置いた。その間にたこ焼きの1つはすでに拓人の口に放り込まれていた。香澄は慌てた。
「氣をつけて! 中はとても熱いから!」

 あまりの熱さに目を白黒する拓人を見て、女2人は思わず笑ってしまった。わずかに火傷をしたらしいけれど、それでも拓人の食欲は衰えなかったようで、嬉しそうに大きな3つを平らげた。香澄と真耶は2つずつを楽しんで食べた。香澄は、ここのたこ焼きが大好きだ。大きなタコのほどよい弾力。生地の外側はカリッとしているのに、中側の柔らかな味わい。ネギや鰹がソースと上手に混じって、ひと口ごとに幸福が口の中に広がる。子供の頃から、たこ焼きは彼女にとって「ハレの日」の食べ物だった。真耶もたこ焼きを氣に入ったようなので、香澄はほっとした。

「こんどはお好み焼きだね」
拓人の言葉に笑いながら、香澄は以前夫に連れて行ってもらった美味しいお好み焼き屋に2人を案内するため、法善寺横町の方へ向かう。

 橋を渡り、少し歩いていると、ギターと笛の音が響いてきて、真耶は足を止めた。異国風のメロディーがここらしくないと香澄は思った。見ると南米風の衣装をまとった2人の男と拓人たちと同年代の少女がいた。ギターとケーナを演奏する2人の大人は、背の高さが少し違うものの明らかに兄弟なのだろう、そっくりの見かけだ。傍らの少女は鈴で拍子を取っている。

 彼らは東洋人のようでもあるが、肌が浅黒くどこか悲しげな印象を与える。拓人と真耶は、少女の前に歩み寄った。

 2人の他に、その演奏に足を止めるものはほとんどいなかった。その空虚さと、ケーナの独特の息漏れと音色のせいで、曲調は決して悲しくないのだが、香澄はなんだか居たたまれない心持ちになった。

 真耶と拓人が熱心に聴いてくれるので、鈴を振っている少女は嬉しそうに笑った。その曲が終わると、子供たちは大きく拍手をした。ケーナとギターの大人たちは帽子をとって大きくお辞儀をした。

「すてきでした。南米のどちらからですか」
香澄が訊くとケーナの男がにっと笑った。
「ペルーのクスコですわ」

「あら。こちらにお長いんですか?」
香澄は驚いた。男の返事が、大阪弁のアクセントだったからだ。

「せや。ぼちぼち30年になんねん」
なんとも不思議な心地がする。民族衣装を着た外国人が外国なまりの大阪弁で話しているのを、東京から来た子供たちが不思議そうに見上げているシュールな絵柄だ。大道芸人だろうか。

「音楽家なの?」
拓人がストーレートに訊いた。ギターの方の男が、首を振って答えた。
「いや、その裏でペルー料理屋をやっているんだ」

「まあ。ここにペルー料理のお店が?」
香澄は思わず声を上げた。

「ええ。小さい店です。よかったら、どうぞ」
男は、ギターケースの中に入っていた紙を香澄に渡した。

「なあに?」
真耶がのぞき込む。

「チラシだ」
拓人が受け取って真耶に見せた。ランチタイムセットの案内だ。

 香澄は、どうしようかと思った。楽しみにしている拓人はお好み焼きを食べたいだろう。一方、真耶は同じ年頃の少女やいま聴いた音色、ひいてはペルーに興味を示している。ここで意見が分かれたら……。

 拓人は、真耶の方を見た。
「行きたい?」

 真耶は「お好み焼きはいいの?」と訊き返した。拓人は、にっと笑うとチラシを香澄に渡して、言った。
「ここに行っちゃダメ?」

 香澄は、ほっとして微笑んだ。
「行きましょうか。……子供たちの食べられる、辛くない料理もありますか?」

 ギターの男が頷いた。
「今日のランチセットは、ロモ・サルタードといって、醤油も入った日本人向けの味ですし、唐辛子は使っていません」

「よかったな。来てくれはる、いうとるよ」
ケーナの男が、少女に言い、彼女はうれしそうに微笑んだ。

 その店は、路地裏の地下にあり、狭かった。外から見ると、こんな所に店があるとはわからないぐらいだ。ランチタイムなのにここまで閑散としているのは、どんなものだろう。味はわからないが、店の感じは決して悪くない。店内は暗くならないように木目の壁で覆われ、机の上には刺繍された黄色いテーブルクロスがかかっていた。

 奥から女性がひょいと顔を出した。
「ママー!」
女の子がその女性に向かって飛んでいった。

 2人はスペイン語で何かを話し、女の子の母親が3人ににっこりと笑った。
「マイド。ドーゾ」

 演奏していた2人とくらべると、日本語は片言ではあるが、彼女も優しい笑顔で歓迎してくれた。ギターの男が、3人に水を運んできた。
「注文はどうしますか。ランチセットですか?」

 チラシの写真では、肉野菜炒めのように見えたので、3人ともランチセットを注文した。わりとすぐにでできたのは、牛肉の細切りとタマネギやピーマン、フライドポテトを炒めて、醤油やバルサミコ酢で味付けした料理だった。

「おいしいわね」
真耶は、あいかわらず上品に食べている。

 少女の母親が調理したのだろうか、家庭料理のような見かけだが、肉は軟らかいし、フライドポテトははサクッっとしていて、パプリカも上手に甘みが引き出されている。醤油とバルサミコ酢もしっかりからんでいて、舌の上でジュワッと旨味が広がる。これだけおいしい料理を出し、感じのいい店主たちの経営する店なのだからもっと繁盛してもいいはずだと香澄は思った。

 拓人は、四角錐に盛られたご飯を崩すのがもったいないようだ。
「ご飯が、ピラミッドみたいになってる」
「お、わかったかい。これは僕たちの故郷にあるピラミッドをイメージして盛っているんだよ」

 ギターの男が、テーブルの近くにやって来た。真耶の近くに立っている少女を膝にのせると、子供たちにもわかるように答えた。

「エジプトと関係あるの?」
「いや、ないと思うね。僕たちの言葉ではワカっていうんだ。神聖な場所って意味だよ」

「ペルーって遠いの?」
そう拓人が訊くと、女の子は「地球の反対側っていうけど、よく知らない」と言った。
「この子は、まだペルーに行ったことがないんだよ。ここで生まれたから」
父親が説明した。

「コロナが流行ったときに、帰らなかったの? 同じクラスのナンシーの家は、急いでアメリカに帰っちゃったよ」
拓人が訊いた。

 彼は首を振った。
「そう簡単にはいかなくてね。向こうには住むところもないし、この店をたたむのも簡単じゃない。それにこの子はここで生まれたから、向こうの学校にはついていけない。ここで踏ん張るしかなかったんだ」

 香澄は、この店をめぐる状況を理解した。国の仲間や観光客が来なくなり、外出の自粛の影響も大きく客足が途絶えたのだ。店内で待っているだけでは食べていけないほどに経営が苦しいのだろう。

 ケーナの男が出てきて、少女の父親に声をかけた。
「せっかくやから、何か演奏しよか、フアン。坊ちゃんと嬢ちゃん、何がええ? 『コンドルは飛んでいく』?」
奥のわずかに高くなって舞台のようにしてある所に座った。

 真耶が訊ねた。
「さっきの曲は、なんていうの?」

「ん? あれは、『Virgenes del Sol 太陽の処女たち』っていうんや。好きなんか?」
真耶は、頷いて訊き返した。
「たいようのおとめたちって、誰?」

 ファンが答える。
「昔、ペルーには僕たちの先祖の築いたインカという帝国があったんだ。そして、皇帝のいる都クスコには、全国から集められたきれいで賢い女の子たちが、織物を作ったり、お供えのお酒をつくったりしながら、神殿で太陽の神様に仕えたんだ。あの曲は、その女の子たちのための曲なんだよ」

 膝の上の少女は、大きな瞳を父親に向けた。祖先のインカの乙女たちを思わせる優しく澄んだ黒目がちの瞳。フアンは、娘をぎゅっと抱きしめて「頑張らなくちゃな……」と呟いた。

 香澄は、ひと気のない街並みのことを思った。興味を持って立ち寄った日本人、観光や出稼ぎで日本を訪れた外国人、それらの人々で賑やかだっただろう、かつてのこの店の様子を想像した。国に帰ることと、ここに残ることのどちらも楽ではない。苦渋に満ちた決断だったに違いない。客引きのため大道芸人のような真似をしてでも、この街のこの店で営業を続けるのは、守るべき大切な家族がいるからだ。

 みな頑張っているのだ。愛する家族や仲間たちを守るために。

「フアン~。来てや、弾くで~」
ケーナの男がしびれを切らしたらしい。
「わかったよ」

「ホセのおっちゃん、パパの従兄弟なの。一緒にクスコから来たんだって」
少女が、小さな声で説明してくれた。それから棚から鈴を3つ盛ってきて、2つをテーブルに置き、自分で1つ持った。

 拓人と真耶は、同時に鈴に手を伸ばして、駆けていく少女の後を追った。香澄は、2人のよく似たペルー人と、仲良く鈴を鳴らす子供たちが、仲良く演奏する姿を眺めながら、微笑んだ。

(初出:2020年6月 書き下ろし)

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Quena - Virgenes del Sol - Eduardo Garcia
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Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ(6)永遠の光の中へ

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の6作目です。

第6曲は『Lux Aeterna』使われている言語はラテン語です。


『心の黎明をめぐるあれこれ』を読む
『心の黎明をめぐるあれこれ』を始めから読む




心の黎明をめぐるあれこれ
(6)永遠の光の中へ
 related to “Lux Aeterna’


 第6曲 “Lux Aeterna’は、このような歌詞だ。

Lux aeterna luceat eis domine
Requiem aeterna dona eis domine
主よ、永遠の光が彼らの上を照らしますように
主よ、彼らに永遠の安息を与えて下さい



 これはキリスト教の『レクイエム(死者のためのミサ)』典礼文の聖体拝領唱 (Communio)の一部と入祭唱 (Introitus)の一部だ。単純に、この曲を耳にするだけでは、これが『レクイエム』の一部だと想像するのは難しい。しかも、とくに悲しさを感じさせないメロディになっているので、余計にそう思う。

 しかし、私と『レクイエム』の関わりを考えるのに、この曲の淡々としたあり方は妙な符号を感じる。

 最初に『レクイエム』を耳にしたのはいつだろう。何のための曲か理解しながら聴いたのは3歳ぐらいだったろう。モーツァルトの『レクイエム』だった。

 両親ともにクラッシック音楽畑の家庭に育った私は、歌謡曲よりも早くにクラッシック音楽を耳にする、若干風変わりな育ち方をした。自分では記憶にないが、童謡と同じ氣軽さでワーグナーやベートーヴェンを口ずさんでいたらしい。

 さて、父が何度も繰り返しかけて、強烈な印象を私に残したモーツァルトの『レクイエム』は、ヘルマン・シェルヘン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団による1959年録音だった。なぜこれほど細かいことがわかっているかというと、数年前にそのLPレコードを実家で発見したのだ。持ち帰りたかったが、LPでは聴けないので、写真だけ撮り同じ録音をiTunesストアからダウンロードした。

 このLPが幼かった私に大きな印象を残した要因の1つは、そのカバージャケットだ。おそらく本当に亡くなった誰かの青ざめた足の裏と白い布のアップという、大胆な写真が使われていた。2年前にiTunesでダウンロードした方は、もちろんそのように衝撃的な写真は使われていない。

 私の父が一時期狂ったようにこの曲ばかりをかけていた理由と、おそらく私が3才の頃だっただろうと推測するのは、その頃に私の弟が夭逝したからだ。享年3ヶ月だった弟を初めて見たのは、棺の中で花に囲まれている姿だったので、私には生きていた弟を亡くしたという実感は現在に至るまで薄い。もちろん両親にとってそれは全く違ったことだろう。今は3人ともあちら側にいる。私は、親への悼みを通して、両親の弟に対する想い、痛みや悲しみを感じる。

 子供の頃に私が聴いていた『レクイエム』も同様に、父母の感じ方と、私の感じ方とでは全く違ったものであったろう。私は、『レクイエム』と実際の身内の死が結びついていなかったのだ。そして、純粋に音楽としてモーツァルトの『レクイエム』を好きだった。
 
 そのような一風変わったなじみ方をしたせいか、私はごく普通のクラッシック音楽愛好家と比較しても『レクイエム』をよく聴いている。つまり、「お葬式の音楽」という物忌み感が薄かったように思う。なぜ過去形なのかというと、母が亡くなって以来は、どちらかというと本来の意味での鎮魂ミサ曲として聴くようになったからだ。

 誰もがクラッシック音楽やキリスト教の葬儀に詳しいとは限らないので、簡単に説明を入れるが、『レクイエム』とは「安息を」という意味のラテン語である。カトリック教会で「死者のためのミサ(死者の安息を神に願うミサ)」に使われるラテン語の典礼文が、この言葉で始まるのだ。そして、ミサは、言葉で唱えるほか合唱曲として演奏する形もあり、クラッシック音楽でいう『レクイエム』は、この典礼音楽のことをいう。グレゴリオ聖歌をはじめとして、多くの曲が存在するが、有名なのがモーツァルト、ヴェルディ、フォーレの3作品である。

 日本では、ヴェルディの『レクイエム』から『怒りの日(Dies irae)』が映画の主題歌に使われたのをご存じの方も多いかもしれない。私が聴くのは、やはり圧倒的にモーツァルトの作品で、次にフォーレ。ヴェルディは、通しで聴いたことがないかもしれない。これは個人の好みの問題もあるが、そもそもヴェルディの作品は教会で『死者のミサ』のために演奏されることが少ないのだ。オーケストレーションがドラマティックすぎて葬儀に向かないからかもしれない。

 このブログによく書くように、私は音楽を聴きながら小説のアイデアを膨らませていくことが多い。そして、2つの『レクイエム』の『入祭唱とキリエ』が、『樋水龍神縁起』の重要シーンの発想の源になった。モーツァルトが本編、そしてフォーレが続編である『樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero』の、それぞれ瀧壺に潜るシーンである。

 死を意識せずに書いたかといえば嘘になるのだが、この2つのシーンはどちらも死と生の境界が非常に曖昧な世界を舞台にしている。

 私たちの日常では、死と生はコンピュータ演算で言えば1と0と同じくらい明確に分かれ、曖昧であることはあり得ない。たとえば、私が両親や弟とこの世で再会することは100%ない。けれど、『樋水龍神縁起』でなんとか表現しようとした世界、人間の叡智の及ばぬレベルの世界では、生と死がまったく同じものとみなされている。それは、キリスト教会で説かれる世界観ではなく、東洋哲学を元にした、けれど宗教に囚われない精神世界の話だ。私は、このエッセイで何度か述べている『般若心経』の解釈からこの世界観を作り出した。そこでは生と死だけではなく、聖と俗、男と女、過去と未来、愛と憎、有と無など全ての相反するものが1つとなる。

 その世界に向かうときに私がイメージしている曲が、どちらも『レクイエム』だったのは、私にとってその世界が死に近かったからではなく、私の原体験により『レクイエム』が死よりもそのどちらでもない世界に近かったからだ。弟は死でも生でもない世界に属していた。耳にしていたメロディも同様だった。その世界は、暗闇と光の両方を持っている。外界から光の届かない深い瀧壺に現実ともつかぬ黄金と虹色の光が溢れている。

 その世界観は、私自身がどのように世界を理解しているかの集大成でもある。私は一応カトリック信者の名簿に載っている信者だが、その思想はローマ法王庁の教示には全くしたがっていない。私が理解している「神」とは、キリスト教信者が信じ、そしてまた、彼らは認めなくとも、その他の宗教を信じる者たちも信じている至高の存在である。

 その存在は、私たちに都合よくは存在しない。免罪符や壺を買ったり、票集めに協力することで不老不死にしてくれたり死後に快適な場所を確保してくれるような存在ではない。人類だけに特権を与え、他の存在を破壊することを許可するような存在でもない。

 私がいまよりも幸福になれるか、楽な死を迎えられるかは、全く保証されていない。たとえ「あの世」があるにしても、私が他の誰かよりも有利になるように、いま現在できることは、ない。

 私が「この世」で、少しでも良く生きようとするのは、ポイントを集めて来世で何かの特典と交換するためではない。単純に、私は「この世」で後から後悔したくないから、つまり、自分の精神を良く保つためにだけ、信条にしたがって日々の生活を営んでいるだけだ。

 私がこの宗教観らしきものにたどり着いてから、そろそろ20年ほどになる。正しいかどうかはわからないし、誰かに勧めようとも思わない。ただ、私はそう考えて生きている。

 とはいえ、私が日常生活で本当に達観して生きているかと問われれば、それは違う。母が逝ったのは『樋水龍神縁起』を書いてから7年も経っていた2018年だが、大きなショックを受け嘆き悲しんだ。思想をもって感情を制御できるというものではない。

 同じ敷地内に住む大家の飼っていた犬や猫たちが寿命でこの世を去ったときですら、悲しくて辛かった。そういうものなのだろう。

 死に関することだけではない。日々の生活で理不尽な目に遭ったり、不愉快な思いをすれば、そのことで大いに感情を乱される。私はそれでいいと思う。悲しみや怒りに左右される分、喜びや楽しみの感情も私にはあり、それを思想に遮られることなくおおいに享受することができるのだから。

 私が2度と会うことのできなくなった人たち、両親や弟、祖父母、親戚、恩師、隣人、それに、短い寿命を駆け抜けていってしまった犬や猫たちの魂、ただの物質以上の何かであらしめていた心ある存在は、どこへ行ったのだろう。

 生と死の境のなくなる、暗闇と光が同じものとなるどこかで、個であることをやめたのだろうか。少なくとも彼らは、金銭や今日の食べるものの心配、成績不振、年金不足、戦争や地球温暖化、いつ終わるともしれぬ病魔の影などに煩わされることのない、安息の中にいる。

 いつか私もまた、同じ光の中に去っていくことを考える。それでいて、「それは今日ではなさそうだ」と根拠もなく考えている。まだ、夕食の献立に頭を悩ませ、つまらないことに腹を立て、安物買いで銭を失い、平和で美しい田舎の光景に感動し、小市民としての日常を繰り返すことだろう。

(初出:2020年6月 書き下ろし) 

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Lux Aeterna
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(11)燃えて消えゆく想い

『Usurpador 簒奪者』の最終回です。

また大きく時が動いて、マヌエラは我が子アルフォンソの病床にいます。全ての目撃者であるジョアナは、マヌエラたちと自分たちの運命が変わった若かりし日々のことについて記憶をたどります。

30年前に起こったことの物語はこれでおしまいですが、この話の因縁が第1作『Infante 323 黄金の枷 』の直接の続編でもある第3作『Filigrana 金細工の心』に引き継がれます。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(11)燃えて消えゆく想い

 濃紺のゴブラン織りカーテンを締め切ってあるせいで、部屋はことさら暗く思われた。横たわる当主の具合が悪く、サントス医師は、しばらく泊まり込むことになるだろう。すぐ隣の部屋の準備を済ませた後、ジョアナは静かに戻り、控えめに報告を済ませた。

 当主ドン・アルフォンソの顔色はいつもに増して悪く、食事のために起き上がることも出来なかった。それでも、彼はジョアナに礼を言うことを忘れなかった。その声は、聞き取れないほどにわずかなものだったが、彼が生まれた時からこの館で働き見守り続けてきた彼女にはよくわかった。

 当主は、ベッドの脇に座る母親ドンナ・マヌエラに微笑みかけて、話の続きに戻った。
「父上が亡くなった日の事を思いだすのですよ」

 マヌエラは、瞳を閉じた。ジョアナも、その日のことはよく憶えている。わずか5年ほど前のことだ。現当主と同じく身体の弱かった前当主は、同じように暗くカーテンを締め切った部屋でこの世を去った。

 周りに揃った家族たち1人1人に、思いやりのこもった声をかけていた臨終のカルルシュは、しかし、意識が混濁すると、ずっと口にしなかった想いを漏らした。

「ドイス……。ドイス……。おもちゃも、絵本も……全部あげる……。だから、もう1度、笑ってよ……」

 その心の叫びは、臨終に立ち会うことを拒んだ22には伝わらなかった。

 カルルシュを支えて生きることを選び、結婚し、4人の子供の母親となったマヌエラを、22は裏切り者と罵倒し、2度と目を合わせようとしなかった。17年後、23が居住区に遷るのと入れ違いに『ボアヴィスタ通りの館』に遷されてからは、ジョアナが22と顔を合わせることはほとんどなくなった。

 5年前、臨終のカルルシュのうわごとを耳にしたマヌエラは、いつものように娘のアントニアに伝言を頼むのではなく自ら『ボアヴィスタ通りの館』へ出かけ、22にこの部屋にきてくれるように懇願した。だが、彼女は虚しく1人で戻ってきた。

 溝はあまりにも深く、時は無力だった。双子のように仲良く育った2人の少年は、もう2度とかつてように笑い合うことはなかった。

 マヌエラは、その時のことを思い出したのだろう、聞き取れないほどの微かな声で言った。
「かわいそうなドイス……。かわいそうなカルルシュ」

 それから我が子の頬にそっと手を触れて続けた。
「それに、かわいそうなアルフォンソ、かわいそうなクリスティーナ……」

 ジョアナは、はっとして心を現実に戻した。非情なドラガォンの掟に遮られ、愛し合った2人が結ばれることの出来ない例は、22とマヌエラだけではなかった。

 アルフォンソは間もなくくるであろう死を覚悟し、愛し合った娘と結婚しなかった。やがて代わりに当主アルフォンソとして生きることになる弟23に、決して触れることの出来ない妻を残さないように。新しい当主が自ら選んだ妻との間にドラガォンの《5つの青い星を持つ子》を残すこと。それはこの部屋にいる全て、ジョアナ自身を含めて、掟によって黄金の枷に囚われた《星のある子供たち》が、自らの想いを諦めてもサポートしなくてならないドラガォンの悲願だ。

「母上。私は幸せでしたよ。クリスティーナも、きっとこれから幸せをつかんでくれることでしょう」
当主は肩で苦しそうに息をしながらも、穏やかな口調で微笑みかけた。
「アルフォンソ」

 マヌエラの背中を、ジョアナは見つめた。肩が震えていたが、彼女は取り乱すようなことはしなかった。ジョアナもまた、黙ってその場に立ちすくんだ。彼女の覚悟も、目の前の間もなくこの世を去ろうとしている若い当主がこの世に生まれたあの日にもう出来たのだ。

* * *


「ジョアナ。これはなんだ」
アントニオの手には、ジョアナの日記があった。昨晩、マヌエラの出産を控室で待ちながら書いていたのを、ドタバタでつい置きっぱなしにしてしまった。氣づいて朝一番で取りに来たが、その時にはもうなかったのだ。

「読んだの?」
「ああ。誰のものだかわからなかったからね。最初の方、誰が書いたかわかるまで読ませてもらった」
「そう」

 受け取ろうと手を伸ばしたジョアナに対し、アントニオは首を振った。
「申し訳ないが、これをそのまま返すわけにはいかない」

「どうして?」
「君は誓約を忘れたのか」

 ジョアナは首を傾げた。誓約が何かぐらいはわかっている。ここで起こったことを、外の人間に話したことは1度もないし、この日記を外の人間に見せるつもりも全くなかった。
「誓約を破ったりしていないわ。これは純粋な日記よ。個人的なものだし、いけないの?」

 アントニオは頷いた。
「君が、これをよその人間に見せたりするような人でないことはよくわかっている。でも、君はたった数時間でもこれのことを忘れていたね。同じことが君の家で起こるかもしれない。それが起こってしまってからでは遅いんだ」
「持って帰ったりしないと言っても?」

「この館の中で存在を忘れることも許されないんだ。君は、この中にインファンテの存在について触れている。この記録を後世に残すことは許されない。たとえ、この館の中であっても」

 アントニオが、どこまで読んだかジョアナにはわからなかった。彼女の彼に対する想い、フェルナンドの死、マヌエラをめぐるカルルシュとドイスの葛藤、すべてを次の世代の《星のある子供たち》と《監視人たち》にも知られずに置かなくてはならないことは、ジョアナにもわかった。

 彼女は、この館の中で時間を過ごし、多くを目撃し、体験し、大切なものを得て、そして別の大切なものを失った。彼女は歳を重ねたのだ。それは記録してはならないものだった。アントニオは、いつものように落ち着いた低い声で言った。
「すべてを君の心の中に留めておくがいい。それは、誰にも禁じることはできない」

 ジョアナは頷いた。薪の燃えている暖炉に視線を移した。
「燃やしてちょうだい」

 アントニオも頷くと、彼女の手をその日記に添えさせた。彼女は力を込めて、それを火の中へと放り込む彼の手助けをした。

(初出:2020年6月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(10)決意

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

「うっかり」のせいで、自分の意思とは関係なくカルルシュの相手になってしまったマヌエラ。もともとは強制だった現実を、彼女は自分の意思で選び取ることになります。

現実に同じことがあるとして、たった2日でコロッと相手を変えるかと思う方があるかもしれませんね。私が思うに、マヌエラは始めから揺れていたのだと思います。人生には、あるものを得るために他方はどうしても捨てなくてはいけない場面があります。宣告は、どちらを選んでも後悔しただろう彼女に、一方の道に迷いなく進ませるための、大義名分を与えたのかもしれません。



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あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(10)決意

 宣告されたマヌエラが、掟に従い居住区に閉じ込められて2晩が過ぎた。はじめの晩にカルルシュが自死を試みた。一命は取り留めたものの、常に医師や召使いたちが行き来し続けていた。マヌエラは、特別に運び込んでもらった簡易寝台で夜を明かし、医師たちの指示に従い、弱っているカルルシュの世話をしてすごした。
 
 鎮静剤によって眠りつづける彼を見て、マヌエラは複雑な想いに囚われていた。愛する男との未来を奪った彼への怒りや憎しみがないと言ったら嘘になる。けれども、彼が後悔し償いのために迷わず命を差し出したことは、彼女の怒りや悲しみの焰に大量の雨を降らせてわずかな熾り火にまで鎮火させてしまっていた。

 それに、マヌエラは心底疲れていた。宣告から自殺騒ぎが立て続けに起き、居住区には常に誰かがバタバタと出入りしていた。本来ならば、宣告で意思に反した決定を強制された彼女を、館中の人々が氣を遣うはずだろうが、緊急事態でそのことは忘れ去られていた。ここから出ることの許されない彼女のために、朝昼晩の食事が運び込まれるが、それをゆっくり食べるような状況ではなかった。そもそも食欲もほとんどなかった。

 厚い壁に遮られた隣の居住区には、22がいるはずだったが、その兆しは何も感じられなかった。彼が大きな声を出しで抵抗したのは、彼女がここに閉じ込められるまでの事だった。その後に彼女は、常に誰かが忙しく出入りしている居住区の2階の出入り口には行かなかったし、そうでもしなければやはり居住区に閉じ込められている22と話すことは不可能だった。

 3階の小さな部屋で用意された食事を終えると、彼女はカルルシュが横たわる寝室に戻り、ベッドの近くの小さな椅子に座った。その椅子は医師たちの邪魔にならないように、かなり後ろの壁際にあり、そこで彼女は痛み止めで朦朧としたカルルシュの顔を眺めていた。

 やってくる召使いたち、監視人たち、そしてサントス医師や看護師たちは、これまでと同じようにカルルシュに丁寧に言葉をかけ、世話をしていたが、誰もがぎこちなかった。

 マヌエラは、そのぎこちなさをよく知っていた。これまでも、ここまであからさまではなかったが、誰もがカルルシュに対してある種の距離を持って接していた。どこかに「ここにいるべきではない相手」に仕方なく接している風情があった。マヌエラは、カルルシュがずつと感じてきた疎外感を、この2日ほど強く身をもって感じたことはなかった。たった2日でも、直接自分とは関係がないにもかかわらずこれほどまでに居たたまれない立場に、彼は当事者として20年も立っていたのだ。

 簒奪者ウーズルパドール ……。本来の跡継ぎの座を奪った、望まれぬ星5つの存在。うつろな瞳で天井を見ているカルルシュは、これまでたった1人しかいなかった味方、すなわち彼自身にも見放されてしまった。

 そして、サントス医師の指示で、その日彼はベッドの上に起き上がり午後を過ごした。うつむきサントス医師の言葉を聞いていたが、「何かありましたら、マヌエラに伝えてください」という言葉で、はっとした。壁際に疲れた表情で座っている彼女を見つけ、申し訳なさげに項垂れた。

 彼が起き上がっていることを聞いたのだろうか、騒動以来はじめて当主ドン・ペドロが居住区に入ってきて、いつもの威圧的な佇まいでカルルシュを見下ろした。その眼差しには、いつもの厳しさだけでなく、あからさまな憎しみもこもっていた。当主が、怒りを収めていないどころか、2日前よりももっと腹を立てていることがマヌエラにも伝わってきた。

「22にお前の遺書のことを話してきた」
ドン・ペドロは、カルルシュを冷たく見つめ言い放った。マヌエラは震えながら立った。

 カルルシュが残した遺書を、彼女は読んでいなかった。首を吊ろうとした彼を支えて助けを呼び、そのまま大騒ぎの中で震えている間に、その遺書は然るべき相手の手に渡ったらしい。この2日の間に、伝え聞く情報でおおよその内容は耳に入っていた。彼は命と引き換えに、彼が望まずに奪ってしまった全てを22に返したかったのだ。

 だが、その遺書すらも、ドン・ペドロをひどく怒らせているらしい。

「22はこう言った。『全てなんてありえない。ドラガォンの掟では、私は2度とマヌエラに触れられない。あの男が死んで、私がプリンシペに代わったとしても、私が血脈を繋ぐなんて期待されては困ります。私はあなたたちドラガォンには絶対に協力しない。血脈を繋ぎたければあなたたちでなんとかするんですね』」

 カルルシュは黙っていた。苛立ちを募らせてペドロは吐き捨てた。
「いいか。お前は自分の引き起こしたことの責任をとるんだ。その女でも、他の女でもかまわん。必要なら医学の手を借りてもいい。血脈を繋げ。他に何もできなくても、そのくらいはできるだろう。それさえ済ませれば、死ぬなりなんなり、好きにするがいい」

 なんてひどい……。マヌエラは、ドン・ペドロの非情さに震えた。自分を道具扱いされたことよりも、ただひたすらカルルシュへの彼の冷たい態度にショックを受けた。

 マヌエラはカルルシュの顔を見た。青ざめて、その瞳にはいっぱいの涙がたまっていたが、育ての父親が腹立ち紛れに部屋の扉を叩き付けるように閉めて出て行っても、反論もせず、泣きわめくこともなく下唇をかみしめていた。

 ゆっくりと身を起こすと、まだ立ち竦んだまま彼を見ているマヌエラの視線から身を隠すように背を向けた。
「嘲笑ってくれ」

 彼女は、言葉を見つけられなかった。瞳を閉じて、わき上がってくる悲しみと憐憫を持て余した。

「長く生き過ぎたんだ。こんなことをひきおこす前に、出来損ないはさっさと死んでいればよかったんだ。謝罪なんか何の役にもたたないのはわかっている。だから、もし、それで君の氣が済むなら、僕が死ぬまで憎んで、罵倒して、嘲笑ってくれ」

 肩を落として震えるその姿は、マヌエラの心を締め付けた。

 カルルシュは、このシステムの被害者だ。彼は、マヌエラと22にだけはひどいことをしたかもしれないが、それ以外の全ては、彼に何の責任もない。彼を追い詰め、命を差し出そうとしても許さずに責め立てるドン・ペドロと周りの人々は、彼を苦しめるドラガォンのシステムそのものだ。マヌエラに将来の職業を諦めさせ、22の才能を腐らせる巨大で非情なシステム。いま目の前で震えているカルルシュは、権力に潰されかけている弱者だ。法の下の正義を学びたかった彼女には、それは許せることではなかった。いや、それに抵抗しないことで、自分も加害側に加担してしまうことが許せなかった。

 彼女は彼の横にそっと腰かけると、その手をとって自分の唇の所に導いた。彼は訝しげに涙に濡れた瞳を向けた。

 マヌエラは静かに語りかけた。
「そんなことはしないわ、カルルシュ。あなたは1人じゃない。私があなたの味方になるから」

「マヌエラ?」
「あなたの運命の重みも、ドイスやドン・ペドロから受ける憎しみも、私と分け合いましょう」

 彼は戸惑って、言葉を飲み込んだ。マヌエラは彼の喉に巻かれた包帯にそっと手をやり、哀れみに満ちた優しさでその溝をなぞった。

「どうして……。憎んでも憎みきれないだろう?」

「憎んでも、もう私たちは他の道には行けないのよ。憎みながらここににいても、お互いにつらいだけだわ。それに、こんなに追いつめられたあなたを、高みの見物をしながら嘲笑うなんてどうしてできるの。先に生まれてきたのも、体が弱いのも、あなたのせいじゃないのに。どうしてあなただけが全てを背負わなくてはならないの。どうしてあなただけが、皆に見捨てられなくてはならないの。そんなの悲しすぎるでしょう」
「マヌエラ……僕を哀れんでくれるのか」

 マヌエラは微笑んで彼をそっと抱きしめた。彼は堪えきれず、声を上げて泣き出した。
「負けずに生きて。つらい時は、一緒に泣きましょう。私に助けられることは、なんでもするわ。叱られる時にも、一緒にいてあげるから」

 カルルシュは、泣きながらマヌエラを抱きしめた。

 彼女は心の中でつぶやいた。ドイス、許して。私はこの人の力になりたい。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(9)宣告

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

さて、このストーリーのメインとなる事件を語る回です。「そんなアホなことで……」と呆れるかもしれませんが、カルルシュの「うっかり」で何人かの運命が変わってしまいました。

サブタイトルになっている「宣告」について、前作未読の方のために少しだけ説明しますが、この作品群に出てくる《星のある子供たち》といわれる腕輪を填めた人々には、特別な掟があり、そのうちの一つに「《星のある子供たち》である男は、まだ誰にも選ばれていない《星のある子供たち》の女に、立会人の前で正式の文言による宣告をすることで、自分と一緒になることを強制できる」というものがあるのです。

前作の主人公23がヒロインであるマイアに発動したのもその正式な宣告でした。これは非人間的なので、現代では滅多に起こらないことになっています。ところが、この親子ときたら2代続けて宣告することになってしまったのでした。23は他に方法がなかったとは言え、それをしてしまったことでめっちゃ落ち込んでいました。なんせ母親に起こったことは、ある意味で、この一族のトラウマになっていましたし……。



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あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(9)宣告

 息苦しさに目を覚ました。暗闇の中に白い顔が浮かび上がった。眠っていた彼の上に、重みをかけてのしかかっていた。目を血走らせ、眉を吊り上げた、その凄惨な顔の女はドンナ・ルシアだった。同時に、その女の腕が自分の首にかかって締め付けているのもわかった。声は出ず、脳の周りにはち切れそうになった血管が集まり痛いほどに膨らんでいるのもどうする事も出来なかった。

 なぜ、それほどまでに、僕が憎いのですか、母上。霞んでいく瞳、苦しくて恐ろしくて、抵抗する事も出来なかった。

 カルルシュは、目を覚ました。13歳だったあの夜の夢を見た理由がわかった。首に痛みが残っている。脳の周りの痛みも、頭痛として残っている。ベッドの上にいて、サントス医師の顔が見えた。

「ご加減はいかがですか。メウ・セニョール」
「……死に損ねたのか」
「マヌエラが、すぐにあなた様を支えてくれたのですよ。そうでなければ、危ない所でした」

 サントス医師の視線を追って顔を僅かに動かすと、ソファでぐったりとして顔を覆っているマヌエラが見えた。薄れていく意識の向こうで、彼女の悲鳴を聴いたのは間違いではなかったのだと思った。

* * *


 22がマヌエラと愛し合っていることは、もはや公然の秘密だった。誰もがその日は近いと感じていた。彼らが当主ドン・ペドロに一緒になる許しを請い、インファンテ322の居住区がもはや独房ではなく、共に格子の向こうで暮らすことを望んだマヌエラとの愛の巣になる瞬間。

 そして、事実、彼は昨日の午餐が終わったときに、立ち去ろうとする父親ドン・ペドロを呼び止めたのだ。彼は、マヌエラに近づきその手を優しく取ると、当主に許しを請うために近づいた。

 カルルシュにとっては、死の宣告にも等しい瞬間だった。ドイスに、青い星を持つ男に選ばれたその瞬間から、赤い星を持つマヌエラは永久に、やはり青い星を持つカルルシュには手の届かないところへと行く。どれほど愛しても、事態が変わろうとも、絶対に覆すことの出来ない掟だ。

 もう2度と、夢を見る事も許されない。自分が求愛して受け入れてもらう夢も、それから同じように繰り返した彼女に宣告で強制する夢も。夜の暗闇の中で何度も繰り返した虚しい宣告の言葉ももう使うチャンスがなくなるのだ。

「《碧い星を5つ持つ竜の直系たる者が命ずる。紅い星2つを持つ娘、マヌエラ・サントスよ、余のもとに来たりて竜の血脈を繋げ》」

 いつものひとり言のつもりだった。だが、彼は、3人が信じられないと言う顔をしながらこちらを眺めているのを見た。いったいどうしたんだろう。いつも僕の事なんか誰も見ないのに。

「嘘だろう……?」
22の顔が激しい憎悪に歪んだ。何かを続けて言おうとしているのを、彼の父親が制止した。それから、息子に負けないくらい憎しみのこもった目をしながら、低く妙に静かな声で言った。

「《碧い星を5つ持つ竜の直系たる余は、碧い星を5つ持つドン・カルルシュ、そなたの命令を承認する。竜の一族の義務を遂行せよ。紅い星2つを持つ娘、マヌエラ・サントスよ、ドン・カルルシュに従え。そなたには1年の猶予が与えられた》」

 その時にカルルシュは、ようやく自分が本当に宣告をしてしまっていた事に氣がついた。あたりは白く遠ざかり、騒ぎが何も聞こえなくなって周りが回っているようだった。当のマヌエラの絶望に満ちた眼も、他の召使いたちの驚愕に満ちた顔も、彼に飛びかかろうとする22をアントニオが必死で止める姿も、まるで現実ではないように存在していた。

「なぜなんだ!」
22は暴れながら叫んでいた。
「まだ足りないのか! 名前も、人生も、夢まで取り上げて、それでもまだ足りないのか!」

 カルルシュは、その言葉で我に返った。ドン・ペドロの合図で、ソアレスはマヌエラの腕を取って食堂から連れ出そうとした。それを見て22は絶叫した。
「離せ、アントニオ! 父上! あなたには心というものがないのか! マヌエラ、マヌエラ!」

「ドイス……」
マヌエラも泣きながら、無理矢理に格子の向こうへ押し込められる22に向かって手を伸ばした。

「父上……。私はなんてことを……」
カルルシュは椅子に崩れ落ちるように座り込むと、テーブルに突っ伏した。

ペドロはその息子を厳しく見つめた。
「撤回はできない。お前の義務を遂行しろ」

* * *


 もっと早くに死んでいれば、あの時、彼を殺めようとした母親、いや、彼が母親だと信じていた女性が失敗していなければよかったのにと、彼は瞳を閉じた。

 我が子である22をインファンテの宿命から救い出すために、彼女は手を穢そうと決心した。だが、その行為は、彼女の夫であるドン・ペドロに氣づかれてしまい、完遂する事が出来なかった。そして、彼は自分の妻を退けなければならなかった。プリンシペであるカルルシュに手を掛けようとした、ドラガォンで考えられる限り最も重い罪を犯した女は、当主夫人でありながら許されるはずはなかった。

 僕は、ドイスからすべてを奪ったのだ。名前も、立場も、未来も、母親も、そして愛する女まで。

 ドイスが大切だった。つらい館での子供時代で、ドイスだけが僕の光だった。それなのに、僕はドイスの人生と心を殺してしまった。ほんのわずかの不注意で、するはずではなかった宣告をしてしまった。

 マヌエラは、22のとは別の居住区に閉じ込められた。そして、1年経つか、妊娠するか、それともカルルシュと正式に結婚するまでそこから出ることを許されなくなった。彼もまた、その居住区で寝泊まりすることになり、夜になるとそこへと案内された。顔を覆って泣いているマヌエラの横を通った。

 彼は、短く遺書をしたためた。自分が死ねば、ドイスは本来手にすべきだったものを全て取り戻すことが出来る。ドラガォンも相応しい跡継ぎの帰還を喜ぶだろうと。

 それから、バスルームへ向かうとタオルをシャワーヘッド掛けに結びつけ、小さな椅子の上に立つと輪に首を通した。怖かった。目をつぶって勢いをつけて椅子を倒した。苦しくて痛くて激しく後悔したが、すぐに意識がなくなった。

 そして、あの悪夢の後、目が覚めた。絶望の中にいながらも、あの音を聞いて駆けつけたマヌエラが彼の命を救ってくれたのだ。彼は、瞳を閉じた。

 マヌエラがいてくれたら、人生が変わると、1人ではなくなると、思っていた。そんな事はすべきじゃなかった。1人でいるべきだったんだ。たぶん、みんなの幸せのためには、僕はもともと生まれてくるべきではなかった。なのに、どうして死ぬ事も出来ないんだろう。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(8)太陽と影

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

ようやくタイトルになっている「簒奪者」が、本文に出てきました。カルルシュの大きなコンプレックス、彼を生涯苦しめた言葉です。才能がないのに上に立たざるを得ない者と、才能があるのに何一つすることを許されない者。たった数日の誕生の違いで道が分かれてしまったことが、本来ならばお互いを思いやって仲良く生きられた兄弟の関係を壊してしまうことになります。

マヌエラは、その目撃者であると同時に、二人が和解できなくなってしまった要因そのものになっていきます。



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あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(8)太陽と影

 その間に、22との近さほどではないものの、マヌエラはカルルシュとも親しい言葉を交わすようになっていた。始めは、単に法学に関するヒントを話すぐらいだったのが、天候の話や、彼女の家族の話、それに好きな食事の話など他愛もない話題についての雑談もするようになった。

 よく叱責を受けて、項垂れている彼が、短い会話の後で僅かでもリラックスして笑顔を見せることを、マヌエラは嬉しく思っていた。

 その朝もドン・ペドロは、カルルシュにレポートを突き返した。
「いいか。カーネーション革命が無血に終わり素晴らしい、などという文言は、単なる感想文に過ぎない。そんなことはどうでもいいのだ。肝心なのは、40年間続いた独裁体制が終焉に至った社会的背景だ。このレポートには、植民地戦争やソビエトやキューバからの独立支援について何も触れていないではないか。書き直すように」

 項垂れて部屋に戻ったカルルシュは、いくつかの歴史書や百科事典を書斎に持ち込んだ。マヌエラが、掃除にやって来た時に、彼は書斎の机の上に何冊もの分厚い本を広げて、あちこちメモをとっていた。小さな文字で書かれたメモは散乱し、彼は、本をひっくり返しながら、書いたばかりのメモを探した。

「失礼します」
邪魔にならないように、小さな声で断ると、彼は驚いて立ち上がった。その時に一枚のメモが宙に浮き、それをとろうとした彼が反対に本にぶつかり、バタバタとあらゆるものが床に落ちた。百科事典、歴史書、レポート用紙、メモ用紙、その全てがごちゃごちゃに地面に伏せた。

 マヌエラは、彼を助けるために近くに寄り、まずは貴重な本が傷んでないか確認しながら閉じて机に置いた。その間に彼は散乱した紙類を集めた。

「ごめんなさい、私が来なければ……」
彼はあわてて首を振り、レポート用紙やメモを机の上に置き、マヌエラの邪魔にならないように書斎から出た。
「いや。違う。僕こそ、申し訳ない。こんなに散らかしてしまうなんて……ここをきれいにしなくちゃいけないんだよね。どうぞ、終わらせてくれ」

 彼女は、つとめて平静を保ち、手早く書斎の埃取りと拭き掃除を終わらせた。机の上のレポート用紙は、教師の入れたコメントで真っ赤になっており、ちらりと見えたメモ用紙の内容は、彼にドン・ペドロの叱責内容があまり頭に入っていないことを思わせる頼りない走り書きだった。

 訊かれてもいないのに、何かを言ってはいけない。マヌエラは、見なかったことにして仕事を終え、書斎から出た。
「お待たせしてごめんなさい。終わったので、どうぞ」

 彼は、もの言いたげな瞳で彼女を見た。
「革命……。かつて王国があって、独裁政治になって、それから、革命があった……。なのに、ここ竜のシステムはそのままだ。ここにも革命があればいいのに。……そうでなかったら、相応しくない者を排除してくれればいいのに」

 マヌエラは、言葉に詰まった。プリンシペである彼が、やがて当主になる立場の人が、いうべきではない言葉だ。けれども、それを指摘して何になるだろう。彼自身がそれを誰よりもよくわかっている。ドラガォンのシステムには革命どころか、引退も譲位もない。彼は教育からも叱責からも逃れられない。そして、やがては教育などという生易しいシミュレーションではなく、現実の荒波に耐えなければならない立場にいる。心身共に弱く、覚悟も定まらない、俯きがちな青年が。
 
 ため息をもらすと、彼は少し離れた所へ動き、小さな声でつぶやいた。
「僕のこと、みんながなんと呼んでいるか知っているか」
「いいえ」

簒奪者オ・ウーズルパドール
「どうして、そんな……」
少なくともマヌエラは、誰かがそんな風に呼んだのを一度も聞いたことがなかった。

「僕の本当の父親は、『ガレリア・ド・パリ通りの館』にいるInfante321だ、彼が戯れに愛し、後に憎んだ女が僕の本当の母親だ。彼女と、母上、いやドイスの母親はほとんど同時に身籠り、ドイスの出産予定日の方が一ヶ月以上早かった。それなのに、僕の方が先に生まれた。本当のプリンシぺを押しのけてずる賢くこの地位を手に入れた」
「……でも、あなたはしようと思ってしたわけじゃないでしょう」

「もちろん。でも、父上は、我が子をインファンテにしてしまった憎むべき存在の僕を、長男として引き取らなければならなかったし、この僕に責任を持って教育をしなくてはならないんだ。それだけじゃない。口にしなくても誰もが思っている。ドイスの方がずっと当主になるにふさわしいって」
「そんな……」

「君だって思うだろう? 同じ頃に、同じ血の濃さで生まれてきたのに、彼は……そう、彼はまるで太陽みたいだ。本人そのものに力があって全てを惹きつけ輝いている。その存在を誰もが待ち望み、ありがたく思う。その一方で、僕ときたら……」
「あなたは、月なの?」

 カルルシュは、首を振った。とても悲しそうに。
「いいや、僕は月じゃない。あんなに輝かしくて美しい存在じゃない。僕はきっと、月か、地球か、とにかく何かの影みたいなものだ。僕がおかしな所に立つせいで彼の姿が見えなくなる。それで、誰もがわかるんだ。ドイスは素晴らしい。『メウ・セニョール』と呼ばれて傅かれるのに相応しい、上に立つべき人間だって」

 嫌みや恨みなどの混じっていない、純粋な言い方だった。他人事にも聞こえて、マヌエラは戸惑った。カルルシュは、彼女の言外の判断を感じたのか、とってつけたように笑顔を見せた。

「わかっているんだ。彼じゃなくて、僕こそあれこれできなくちゃダメな立場だってことは。でも、他に言いようがないんだ。彼は素晴らしい。頭脳や才能、それに容姿だけじゃなくて、人格も。この館にやって来て彼のことを知れば、誰でも一週間もかからずにそれをわかる。僕は、そんな彼を20年も知っているんだ」

「双子のように一緒に育ったんですよね」
マヌエラは、慎重に言葉を選んだ。彼は、少し悲しそうに笑った。
「そう、空間と時間的にはね。いつも一緒だった。幼い頃は、おなじおもちゃで遊び、同じ絵本を読み、一緒に絵を描いた。あの頃から、失敗をするのはいつも僕で、でも、彼はいつも、叱られる時でさえ一緒にいてくれた。ピアノだって……」

「ピアノ?」
「ああ。最初にピアノを習ったのは僕の方だったんだ。22が、ヴァイオリンを習い始めていて、僕も何かやりたいって。彼が、あっという間にヴァイオリンを弾けるようになったので、楽器なんて簡単だと思ったんだろうな。でも、全然上手く弾けない。先生が苛々するくらいに。1人で練習していると、見かねた22が一緒につきあってくれた。そうしたら、あっという間に彼のピアノが上手になってしまったんだ」

 それでも、カルルシュは、努力を続ければいずれは自分にも素晴らしい演奏ができると思い、楽譜を譜面台に広げて新しい曲に挑もうとした。隣に立っていた22は、初めて見た譜面にもかかわらず、メロディを口ずさんだ。

「どうしてそんなことができるんだって訊いたんだ。五線譜の上にまばらに広がる音符は真っ黒な模様で、僕にはメロディは全然浮かばなかったから。そしたら、見ればそのまま音が浮かぶっていうんだ。僕は、右手と左手と同時にかって訊き返した。そしたらもちろんって言った。そして、持っている交響曲の譜面を見せてくれて、オーケストラの全てのパートが、譜面を見れば聴こえるって……」

 マヌエラは驚いた。指揮者や作曲者が、そういうことができるのは知っていたけれど、楽器を習い始めたばかりの少年にそんなことができるとは思いもしなかったからだ。

 カルルシュは、力なく笑った。
「それで、さすがの僕も才能の違いを痛感してね。音楽は諦めた……いや、音楽も……かな」

 こんなに何もかも差をつけられてしまうことに、彼は怒りも嫉妬もおぼえないのだろうか。マヌエラは複雑な想いでカルルシュを見た。彼は、思い出に浸るように考えていた。

「彼に、何一つ敵わないことは、悲しくなかった。それは僕にとって当然のことだったんだ。母上が……」
「お母様?」
8年ほど前に館から去ったと聞かされたかのドンナ・ルシアのことだろう。

「いつも言っていた。ドイスはお前なんかとは違うと。記憶にある最初から、いつも。僕が何か意に染まぬことをしてしまうと、母上はとてもきつく叱った。罰だと言ってたくさんの書き取りをさせられたり、おやつを禁止されたりした。でも、つらくて泣いていると、いつも慰めてくれて、おやつを分けてくれたのはドイスだった」

 ようやく彼女には、納得がいった。カルルシュにとって、22は妬むべきライバルではなくて、憧れ頼るべき唯一の存在だったのだ。

「ごめん。こんな事を言っても君を困らせるだけだよね。忘れてくれ」

 マヌエラは、悲しみでいっぱいになって、カルルシュのそばに近づいた。
「ねえ。みんなじゃないわ。少なくとも私は、あなたがどれだけ努力をして、苦しんでいるか、わかっている。努力しても結果が出なくて辛い氣持ちも、わかっているわ」

 それを聞いて、カルルシュは顔を上げた。マヌエラの同情の浮かんだ顔をじっと見つめて、それから視線を落とした。
「ありがとう。ドイス以外で、そんな風に言ってくれたのは君1人だ」

 赤みの増した彼の頬を彼女は見つめた。彼は、しばらく戸惑っていたが、やがて言いにくそうに口を開いた。
「マヌエラ……、あの、もし、僕が……君と……」

 そこまで言われて、彼女は彼が愛を告白しようとしていることを察した。彼にまで想われていることに狼狽えた。22との距離を縮めたときのような、単純な嬉しさとは全く違っていた。彼女は、視線を落とした。

 断ったら、もし自分が22と生きることを決めたこと、そして間もなくそれが現実となることを告げたら、彼はもっと傷つくだろうととっさに思った。だから、言わないでほしいと願った。

 常に貶められてきたカルルシュはそれを敏感に感じ取ったのであろう。ひどく傷ついた顔をして口ごもった。
「ごめん。なんでもない。忘れてくれ」

 マヌエラは苦しくて泣きたくなった。心が引き裂かれるようだった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(7)選択

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

この『黄金の枷』世界観でドラガォンに関する一連の掟は、かなり厳しく決まっています。前作や外伝の発表時、何度か読者から「そうはいっても、お目こぼししてくれるんじゃない?」的な質問をいただいたことがあります。基本的には、「お目こぼし」させないための役職が《監視人たち》なのですけれど、何回か出てきている「システムの例外」は矛盾ではないかと疑問に思われている方があるかもなあ、と思っていました。(第一作で出てきたライサ・モタや、外伝で語られたクリスティーナ・アルヴェスなどです)

じつは許される「例外」にも厳格な決まりがあり、今回はその内容について語られます。ちなみに、『ドラガォンの館』に出入りできるのは、誓約に縛られた《星のある子供たち》と《監視人たち》中枢システムの人だけという決まりがあるので、腕輪を外された人は、街から自由に出て行ける代わりに館には入れなくなります。



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Usurpador 簒奪者(7)選択

 簡単に決められることではなかった。彼女の前の道は2つに分かれていて、大きく離れていく。けれども、道を選べるのは彼女1人だ。彼は違う道を選ぶことはできない。

 もし、法学に進む道があったのならば、あるいは彼を忘れようと努めたかもしれない。だが、その道は既に絶たれている。そして、ドラガォンで主たる役目を果たせるかもしれないという曖昧な願いには、法学ほどの強い引力はなかった。

 一方で、ドラガォンで中心的な役割を果たすことになるとしたら、22がどんな様子であるのかは常に耳に入ってくる。彼が絶望して苦しむことも、反対に誰か他の女性と幸せを掴むことも、マヌエラは聞きたくなかった。それは彼女の決断が引き起こす不愉快な結果だ。

 いま想像できる範囲で、後悔しない選択は、1つしかない。22と同じ檻の中に自ら入り、彼を孤独と虚無から救い出すこと。

 だが、マヌエラがその覚悟を22に伝える前に、『ドラガォンの館』には緊張が走った。召使いとして働いていたフェルナンド・ゴンサーガが亡くなったのだ。

 ドン・ペドロは厳しい顔で幹部と話し合い、執事ソアレスも緊張した面持ちで同僚の死に動揺する使用人たちを励ましつつも仕事に支障が出ないように指図を出した。

 フェルナンドの死の衝撃は大きく、館には重い空氣が漂っていた。フェルナンドに選ばれた状態だったジョアナは、館でソアレスからそのいまわしいニュースを知らされた。いつも朗らかだった彼女は、ほとんど笑わなくなったが、氣丈にも仕事を休むようなことはしなかった。もう1人の当事者であるアントニオ・メネゼスも、いつも通り冷静に仕事をこなしている。

 事件があってすぐは、マヌエラは居住区で掃除の当番にならなかった。次の機会に、彼女は彼の演奏を聴くことなく立ち去ろうとした。
「もういかなくちゃ。この後、ジョアナと洗濯室でしみ抜きをすることになっているの」

 ピアノの前に座っていた22は立ち上がって側に来た。
「いつも長くここにいて、叱られたのか?」

「そうじゃないけれど……ジョアナには、あんなことがあったばかりだし、私が浮かれているのは酷じゃないかと思って」
彼女は、この事件に誰よりもショックを受けているジョアナを励まし支えたかった。

「マヌエラ。待ってくれ」
階段を上がろうとする彼女を22は呼び止めた。振り向いた彼女の近くに彼は来て、いつもよりも距離を縮めて立った。

「聴いてほしい。前回、君を急かすようなことを言ってしまったので、氣になっていたんだ。君が、親友であるジョアナの氣持ちを慮ることはよくわかる。僕とのことを考えるのは、彼女の心の整理ができてからでも全く構わない。それに、君が中枢部で働きたいというなら、思う存分力を発揮させてやりたいとも思う。なんなら、やりたいことを全てやり終えた後でも、10年や20年後になってしまっても、いいんだ。それでも僕は、いつまでも君を待ちたい」
「……ドイス」

 マヌエラは、彼を見上げた。言葉が見つからず、胸が熱くなった。見つめ合い、お互いの心を読むと、彼は顔を近づけてきて彼女は瞳を閉じた。初めての口づけは、優しくて柔らかかった。甘く切なかった。

 唇が離れた後、恥ずかしくて彼女は下を向いたけれど、自然に笑顔がこぼれた。
「10年だなんて……私自身が、そんなに待てそうもないわ」

 彼は、不安そうだった表情を変えて瞳を輝かせた。
「そういってもらえると期待していたわけではないんだが、そうだとしたらありがたいな。それだけで生きる張りがでるよ。希望に満ちていると、奏でるだけでなく、学ぶことにも、力が漲るんだ。それどころか、雄鶏に色を塗るのすら、素晴らしくてしかたないことに思えるよ」

 彼の笑顔があまりに眩しかったので、マヌエラはもう1度、そして自分からキスをした。そして、彼の手を取って見上げた。
「フェルナンドのことがあって、言いにくくなってしまったんだけれど、私ね、お許しをもらえたらいつでも、この格子のこちら側に来たいって、あなたに伝えるつもりだったの」

 それから、2人は当主であるドン・ペドロに許可を得るタイミングについて具体的に話し合うようになった。

* * *


 2人は、3ヶ月ほど待った。その間に、もちろんマヌエラは召使いとしての仕事をこなした。ジョアナが再び笑顔を見せるようになり、さらには自分からマヌエラに2人の仲がどうなっているのか質問をしてきたので、彼女は素直に22と自分の意向を知らせた。

 ジョアナは、マヌエラに抱きついて言った。
「大変な決意だと思うけれど、きっとあなたなら後悔せずにやっていくと思うわ。私、あなたを応援する。幸せになって」

 マヌエラは、涙を浮かべながら頷いた。
「あなたにそう言ってもらえるのは、本当に嬉しいわ」

「だったら、どうしてそんな大切なことを教えてくれないのよ」
ジョアナは、ほんの少し拗ねたように訊いた。

「それは……とても酷な立場に立たされたあなたに、浮かれたことを言うのが心苦しかったの」
仕方なく答えたマヌエラに、ジョアナはわずかに笑って言った。

「予想していたとおりだわ、マヌエラ。私に遠慮しているんじゃないかって、氣になっていたの。そんなことしないでね。私、アントニオにもそう言ったくらいなんだから」
「なんですって?」

 ドラガォンには、誰にも動かすことのできない掟がいくつかあった。ジョアナは、その1つにより、《星のある子供たち》だけでなく、他の誰とも永久に一緒にはなれない。ジョアナが《星のある子供たち》を産み出したらすぐに一緒になるはずだつたアントニオにも、その機会はなくなった。けれど、2人が愛し合っていることは、前と変わらないのだ。

 ジョアナは、下唇を噛みしめて僅かに黙ったが、しっかりと頭をもたげてマヌエラを見た。それからはっきりとした笑顔を見せて言った。
「彼に言ったの。責任を感じて1人で居続けたりしないでって。あなたの人生の邪魔はしたくない、私が側で見ていると奥さんを探せないなら、私がここを辞めてもいいって」

「まあ、ジョアナったら。それで?」
ジョアナは言葉を探していたが、しばらくするとゆっくりと語り出した。
「そもそもはね、彼にシステムの例外の話をされたの」

「例外って?」
「滅多に起こらないことだけれど、ドラガォンのシステムを維持するために、大きな犠牲を払わされた《星のある子供たち》がでると、例外として扱って救済してくれることがあるって」

「まあ。あなたにはその資格があるんじゃない? だって、あなたは何も悪いことをしていないのに、義務を果たすことができなくなったんですもの」
マヌエラは期待に満ちて訊いた。けれど、ジョアナ自身はさほど嬉しそうではなかった。

「でも、その救済方法は、一つしかないの」
「どんな?」
「腕輪を外してくれるんだって」

 マヌエラは押し黙った。けれど、すぐに思い直して微笑みかけた。
「もう、ここにいられなくなるのは残念だけれど、でも、《星のある子供たち》の掟の外におかれれば、腕輪をしていない誰とでも結婚できるでしょう? アントニオとだって」

 ジョアナは悲しそうに笑った。
「アントニオが、そんなことすると思う? あの人はもう《鍵を持つ者》なのよ。私の腕輪を外す決定だってできる。けれど、彼がその私と結婚したら、ドラガォンのシステムに私情で介入したことになってしまう。他の人なら、もしかしたらそういうことをするかもしれない。でも、あの人はそんなことは死んでもしない。自らが自由にした娘と結婚することなんて絶対にないわ」

 マヌエラは、頷いた。ジョアナは正しい。アントニオ・メネゼスは、絶対に私情を挟んだりはしない人だ。誰よりもシステムに忠実で自分に厳しい。

「だから、私は腕輪を外さないでって頼んだの。私はむしろここで、彼の側で働きたい。そう思った。でも、それから思ったのよ。私がここでずっと物欲しそうに見ていたら、彼にとって迷惑になるのかもしれないって。むしろいなくなってほしいのかなって。だから、あなたにとって私が出ていく方がいいなら、ここから去る、って言ったの」

「それで?」
「彼は、少しでも長く一緒に働きたいって」

 マヌエラは、アントニオらしい選択だと思った。そして、ジョアナも。夫婦にはなれなくても、仕事を通してずっと一緒に居ようとしているのだろう。そんな人生もあるのかもしれない。マヌエラもまた、22と共に格子の向こうで多くの人とは違う人生を歩もうとしている。そうなった後も、自分の人生は続き、一歩一歩進んでいくことになるのだと思った。親友ジョアナと同じように。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(6)希望

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

前作『Infante 323 黄金の枷 』や外伝で登場したときの22が、とても感じが悪かったのと、今回のストーリー(30年前)の彼ができすぎキャラなので、前作からの読者のみなさまがかなり警戒しておられるご様子。このストーリーは、どうして彼があんな感じの悪い人になってしまったのか、そんな人を主人公に据えて第3作『Filigrana 金細工の心』はどうすんだ、ということを説明するための作品といっていいでしょう。

というわけで、今回からの3回は、少し冗長ですが、書かねばならない章でした。ええ、筆が進まず結局一番最後になったこの3つです。

今回の22の考え方ですが、前作の23とかなり似ています。もっとも、はっきりと誤解のないように口にしている22とくらべて、23の方は何も言わないので話が長くなった、という説もありますね。コミュニケーションは大事。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(6)希望

 4月も終わりになると一斉に芽吹いた新緑が、街を鮮やかにする。この館から決して出て行くことのできない青年が、背筋を伸ばして立ちすくむ窓辺からも、日々変わっていく世界の様子が見てとれる。

 冬に窓から眺めた街は、陰鬱な憂いを見せた。赤茶けた瓦は僅かに黒ずみ、時おり格子の外側に停まるカモメも、膨らませた羽毛に顔を埋めて暖かい室内に入れない不条理にムスッとした顔つきで耐えていた。だが、太陽の馬車はひたすら空をめぐり、日の長さをどんどんと伸ばした。屋根瓦の合間から深緑が萌え立つようになると、世界は心地よく緩み、朗らかな笑顔を振りまくようになった。

 そんな風に、2人でいるときの22もまた、冬とは明らかに違う朗らかな笑顔を見せるようになっていた。

 視線が交わった僅かな瞬間の戸惑いが、微かな笑みに変わり、それから確信が瞳に表れた。優しいメロディと礼儀正しく親しみある言葉が、もっと情熱的な音と健康的で爽やかな語らいになった。マヌエラは、その彼に恋をしているのだと、はっきりと感じるようになっていた。それも一方的ではなく、慕う相手に想われていることを確信して有頂天になった。

 そして、それに伴い、ある種の非生産的な人生を意識するようになっていた。マヌエラの母親は家庭に入ったときに、それまでしていた歯科助手の仕事を辞めたのだという。もともと辞めたかったから悔いはなかったと聞かされたが、私なら仕事を辞めなくてはならないなら、結婚なんかしたくないなと子供心に考えた。それからも、誰かのために自分の築き上げてきたものを全て引き換えにすることなど、考えることがなかった。

 インファンテである22は、当主のスペアとしての人生を送る。ドン・ペドロとカルルシュがこの世からいなくならなければ、ドラガォンで主たる役割を果たすことはない。彼は木彫りの雄鶏を彩色する仕事をしているが、それだけだ。それ以外に求められるのは、いや、そもそも真に求められているのは、子孫を作ることだけだ。

 彼に選ばれるということは、結婚ですらない。彼は法的には存在していないのだ。彼女自身が、彼といる間、やはり存在しないも同然になる。もし子を産めば、我が子だけはドラガォンの血脈の中で意味を持つが、それは存在しない者たちの手柄とはならない。22の愛を受け入れること、それは、文字通り愛のために人生を捧げること、つまり、それ以外の全てを諦めることなのだ。

 彼と合意した赤い星を持つ娘は、最低1年間を居住区で共に暮らし、彼の子供を産むことを期待される。もしその娘が、何らかの志を持ち成し遂げたいと望むならば、たとえば、この館にやって来た時のマヌエラ自身のように、中枢システムに属して知識や能力を存分に生かした役割を果たしたいと望むのならば、自らインファンテの元を去らなくてはならない。

 少なくとも1人の子供を産むか、もしくは1年経っても妊娠しなければ、赤い星を持つ娘は青い星を持つ男の元を自由意志で出て行くことが許される。それが、関係を強制されることもある女たちへのシステム上の救済措置になっていた。

 けれど、彼女にそれができるだろうか。ありとあらゆる才能を持ちながら、生涯を黄金の枷の中に閉じ込められて過ごす孤高の青年、彼女が惹かれてやまない男を捨て、自分だけが外へと歩み去ることが。彼の、1年以上かかってようやく見せるようになった輝くばかりの笑顔と、幸福に舞い踊る音楽の翼をまとめてゴミ箱に放り込むようなことが。

 22は、事を急ごうとしなかった。彼は、自分の立場を誰よりもよくわかっていた。父親である当主の許可を得てマヌエラの手を正式に求めること、彼女のたった1人の青い星を持つ相手となることを切望していたが、彼と共にいる限り彼女もまた檻の中にいなくてはならないことを知っていた。彼女の才能と、この館に来た理由を理解しているからこそ、それを諦めさせることの残酷さを知っていた。

 彼は、それまでにいた他のインファンテ、たとえばカルルシュの父親321のように、1年ごとに新しい女と寝たいと考えるような人ではなかった。彼はマヌエラと生涯を共にしたいと口にした。それが彼女のそれまでの望みを絶つからこそ、彼は慎重にマヌエラの意思が固まるのを待つつもりだと言った。それゆえ彼は、人前でマヌエラを愛している素振りを見せなかった。たとえ、館の多くの者がそれに氣付いていても。

 彼は、居住区の掃除のために彼女がやってくる僅かな時間にだけ、その想いを伝えた。優しい語らいと情熱のメロディ、楽しい会話と、わずかな触れ合い。

* * *


 しばらく経った別の午後、彼は、乾かすために机に並べられていた木彫りの雄鶏を、1つ1つ仕切りで区切られた段ボールの箱に収めていた。伝統的にインファンテは、目立たない手仕事を持っている。いつの頃からそうなったかを誰も知らない。おそらくは、有り余る時間を過ごすために誰かが始めたことなのだろう。彼の仕事は几帳面で、ムラがなく、それでいてよく見ると遊び心のある絶妙の色使いと模様を用いていた。

 それらが詰められた箱は、夕方までに居住区の入り口近くの小さなテーブルに置かれる。あまり時を置かずして、召使いがそれをバックヤードへと持って行き、配送の準備を整える。街のいくつかの土産物屋で観光客たちがそれらを手にして購入していく。その木製の雄鶏たちが、どんな運命を辿るのか知るものはない。リビングルームの片隅で他の土産物に混じり埃を被るのかもしれない。もしくは、大して注意を払われることもなくフリーマーケットに出品されるのかもしれない。

 22は、黙々と彼の小さな作品たちをしまい込んでいく。
「氣に入って、大切にとっておく人だって、きっといると思うわ」
マヌエラの言葉に彼は「中にはね」と、肩をすくめた。

「この仕事をするよりも、読書や音楽にもっと時間を割きたいの?」
その問いを耳にすると、彼は意外そうにマヌエラを見て、それから首を振った。

「いや。この仕事を週に何時間しなくてはならないといった決まりはないんだ。実際のところ、全くやらなくても何も言われないだろうな。だが、少なくともこれは、本当に僕がやるべき数少ない義務の一つなんだ。学問や、音楽はそうじゃない」
「そんな……」

「これを彩色するとき、思うんだ。これが現実だと。僕は、誰も知らない存在すら氣に留めない彩色職人、父やカルルシュとは違うと」
「そんなことないわ。あなたは、システム上は名前を持たないけれど、私たちにとって間違いなく必要なひとよ。あなたは有能なだけでなく、人柄もよくて、皆に慕われている。私たち使用人だけじゃないわ。ドン・ペドロも、そしてドン・カルルシュも、あなたのことを誰よりも頼りにしているみたい」

 その言葉を聴くと、彼は黙ってマヌエラを見た。それから立ち上がり、格子の嵌まった大きい窓の前まで歩いた。しばらく背を向けて窓の外を眺めていた。彼女が、この話を始めるべきではなかったのかと思いだした頃、彼は背を向けたまま言った。

「僕が13歳になるまで、この隣の居住区には21が住んでいた。彼は、コルクで小物を作る職人だったらしいけれど、僕は彼が作品を作ったのを見たことは1度もない。いつもひどく酔っていて、誰かれ構わず罵倒していた。それを非難されると、笑いながら周りに迷惑をかけるのを楽しんでいると豪語するような人だった」
「楽しむ?」

 彼は、振り向いた。彼の後ろから差し込む日差しがつよく、その表情がよく見えなかったので、マヌエラは不安になった。

「そう、よくそう言っていた。でも、僕自身が居住区に住むようになってから、彼のことを少し理解できたような氣がする。本当に楽しんでいたんじゃない、彼はひどく不幸だったのだと」
「ドイス……」

「僕は、彼のようになりたくないし、なるつもりもない。でも、僕は皆に頼られるような立派な存在でもない。父も、カルルシュも、僕に好意を寄せてくれるのは知っている。僕も期待に応えたいと思う。だが、ここに入る前に周りの世界に抱いていたのと同じ感情を持ち続けることは、とても難しいんだ。どこかで、もう1人の自分が冷たく言っている。僕の何がわかるんだ、彼らは、ここで暮らしたことなんてないんだ、何を学ぼうとその知識を用いる場のない、将来に夢や希望を抱くこともできない虚しさは、彼らにはわからないってね」

 マヌエラは、彼の言葉に何かを答えようとしなかった。彼の言うとおりだ。ずっと多くのものを手にしている彼女が言えることはない。彼女がこの居住区から出ることを許されなくなるまでは。

「僕らインファンテは、その成り立ちから、どうしたって孤独に苛まされるようにできている。だが、システムを変えることができない以上、折り合いをつけて生きていくしかない。結局、どの男たちも似たような解決策を求めたみたいだ……残念ながら叔父の21に選ばれた赤い星を持つ10人以上の女性たちは、全員が彼のもとを去ることを選んだけれど、その前にいた320に選ばれた女性は彼が亡くなるまでずっと一緒に居たと聞いている。その話は、僕にとって希望の光なんだ」

 彼女は、真剣に頷いた。軽々しく、自分がそうなると言ってはいけない。でも、きっと私はそうするだろう。彼女は、心の中で呟いた。彼は、笑顔に戻って言った。

「許してくれ。君を困らせるためにこんなことを言ったんじゃない。むしろ反対だ。僕は、君と幸せになりたいと願っている。その一方で、君にもずっと幸せでいて欲しいし、後悔して欲しくないんだ。だから、この格子のこちら側が何を意味するのか、隠したくなかった。結論を急がないで、よく考えてくれ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(5)弱き者

『Usurpador 簒奪者』の続きです。今回と次回のエピソードは本来同じサブタイトルで書いていたものなのですが、あまりにも長いので、2つの章に分けました。

前作『Infante 323 黄金の枷 』で、母親のいないマイアのことを氣にかけて何かと世話をしてくれていたドラガォンの主治医、若かりし日サントス医師がちらりと登場しています。この方、実はマヌエラの又従兄弟でした。今回のエピソードとは全然関係ないのですが。



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あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(5)弱き者

 掃除のためにカルルシュの部屋を一人訪れる時、マヌエラはどこか暗い心持ちになることが多かった。22の居住区を訪れる心地よさとは反対だった。

 朝食の席で、彼は当主に叱責されることが多かった。理由は、他愛もないことばかりだ。コーヒーをこぼしたり、服にジャムを飛ばしたりのこともあったし、家庭教師の報告に書かれた情けない試験結果のこともあった。厳格なドン・ペドロが、おそらくカルルシュのために義としている厳しい教育なのかもしれないが、萎縮したプリンシペはさらなる失敗を重ねるばかりだった。

 一週間前に叱咤されたことが、改善されないことにドン・ペドロは苛立ちを見せる。それを自覚しているのか、彼は当主の叱責に項垂れるばかりだ。加えて、身体の弱いカルルシュは無理がきかず、教師の訪問が中断されることも度々あった。

 とくに氣管支が弱く、わずかな急な天候の移りかわりや夜更かしなどが続くと、風邪を引いたり熱を出すことも多かった。ドン・ペドロは「またか」といいたげな様相で、カルルシュの喘息のような発作にも心配を見せなかった。

 彼が体調を崩すと、よほど重い症状でない限りジョアキン・サントス医師が呼ばれてきた。彼は、ドン・ペドロの主治医である老サントス医師の長男でありマヌエラの又従兄弟にあたる。ジョアキンは、手慣れた様子で吸入剤を用意し、丁寧に彼を診察していた。カルルシュは、申し訳なさそうに体を縮こめ、涙を浮かべて身を任せていた。

 学業のさらなる遅れに焦るのか、まだ完全に熱が下がっていないのに起き上がって課題に取り組んでいることもあった。

「メウ・セニョール。氣管支喘息はアレルギーやウィルス感染だけでなく、ストレスからも引き起こされると考えられているのですよ。お体をいたわることも大切ですが、ストレスをため込まないようにすることもお忘れにならないでください。お一人で抱え込まずに、親しい方とお茶でも飲んでゆったりと話される時間をお持ちください」

 ジョアキンは、彼に諭した。必要なタオルなどを持参してその場にいたマヌエラは、医師のアドバイスを聞きながら心の中で(誰と)と呟いた。カルルシュには、自由時間に楽しく語り合う友人などいない。ドン・ペドロの厳しい教育に着いていくことの難しい彼にとって、ストレスを減らすことも難しいだろう。そして、彼は脱落することも、逃げ出すことも許されない立場にいる。

 そして、起き上がり歩けるようになれば、朝食や午餐の席でドン・ペドロに厳しく叱責を受ける日々が待っている。マヌエラは、給仕をしながら、彼の苦難の再開を感じて氣を揉んだ。

 三日ぶりに床を離れた彼は、覇氣のない疲れた表情で朝食の席に座った。ソアレスとその朝の朝食当番のマヌエラは、ドン・ペドロとカルルシュ二人の給仕に当たった。

 22の居住区からは、新しいソナタを練習する音が響いていた。彼が朝食を居住区で簡単に済ませるようになった理由がそれだ。執事と召使いに給仕され、当主たちとのんびりと朝食を取れば簡単に一時間ほど経ってしまう。彼はむしろその時間をピアノの練習に充てたがった。その成果は、マヌエラが掃除にやってくる日のメロディとなるのだから。

 ドン・ペドロは、22が習慣を変えたことに、何も言わなかった。彼は、屋敷のどのような小さなこともソアレスやその他の腹心から報告を受け、若い世代の様子にも十分に目を留めていたが、22の生活態度に対して意見を言うことはほとんどなかった。22は、午餐や晩餐、または礼拝などにはきちんとした服装で、落ち着いた態度で臨席し、家庭教師や音楽教師からは絶賛されていたし、使用人たちとの関係も良好で問題を一切起こさなかったからだ。

 当主が、カルルシュに厳しくあたる様を目にするのは、あまり心地よいものではない。だが、マヌエラは認めなければならなかった。ドン・ペドロは、理に適わぬことでカルルシュを叱責したことはただの一度もなかった。語氣に苛立ちを込める前に、彼は少なくとも二度はカルルシュに同じことを冷静に指摘している。既に「ああ、次に同じ間違いをすれば、ドン・カルルシュは叱られる」とマヌエラにも予想ができるようになっていた。

 法務関係の課題に関しては、法学を学びたかったマヌエラにもわかるトピックが多かった。今朝、彼が叱られているのは、先週の初めやり直しを命じられた法務に関する課題だ。

「カルルシュ、いいか。お前が弁護士や裁判官として人前に立つことはない。だが、ドラガォンが関わる多くの重要決定事項にはお前が決裁を下さねばならないことばかりだ。契約書を作成するのもお前ではないが、裁決をするのはお前だ。法の強行規定と任意規定の差がわからぬような者に、その役割が果たせると思うのか?」

 朝食の皿を下げながら、マヌエラはカルルシュと目が合わないようにした。当主は、家庭教師から預かった彼の課題である書類をたたき付けるようにして返した。
「午餐の前に、まともな契約書らしい体裁に書き直せ。もちろん、数学の課題も遅れずに出すように。22の課題は、どちらもとっくに終わっているんだぞ」

 朝食の給仕が終わるとすぐに、彼女はカルルシュの部屋の掃除に向かった。ノックに答えはなかったので、中に入ると人影はなかった。

 あらかたの拭き掃除を終えてマヌエラが彼の書斎に続くドアを念のためにノックをして開けると、彼は中にいて先ほどの書類を見ながら真剣な面持ちで考えている所だった。
「失礼しました。また、後で伺います」

 カルルシュは赤い顔をしてパッと立ち上がり、彼の足元に書類は散らばった。
「あっ」
二人はあわてて、書類を拾うためにかがんだ。

 彼のすぐ近くで、目が合うと、彼はさらに赤くなり、その後に項垂れてだまって書類を集めた。
「すまない。一生懸命に考えていて……いや、違う、さっき叱られたのを見られたのが恥ずかしくて、君が掃除に来たのに返事もしなかったんだ」
「メウ・セニョール……」

 マヌエラは、彼をそっとしておくために去ろうかと思ったが、何か言いたそうな彼が助けを求めているように感じたので、思い切って言ってみた。

「あの……、先ほどのドン・ペドロのお話ですけれど……。強行規定とは、たとえば独占禁止法による規制や売買契約における消費者側のクーリング・オフ権など、契約がどうであろうと法律上動かせない規定のことで、任意規定は、たとえば商品引き渡しと支払いの順番のように、両者の合意や契約内容で変更してもいい規定です。だから、どの部分が強行規定に抵触しているのかだけ見つけられれば、修正すべき所もおわかりになるのでは?」

 彼は非常に驚いた様子で、彼女の顔を見た。
「申し訳ありません。出過ぎたことを……」

 彼は慌てて言った。
「いや、違うんだ。ありがとう。本当にどこをどうしていいのかわからなくて、でも、誰に訊いていいのかもわからなかったんだ」

 彼女は、頭を下げてから、ハタキかけを始めた。彼は、そのマヌエラについてきて話しかけた。
「昔は、困っていると22がこっそり教えてくれた。だから、こんな僕でもなんとかやっていけたんだ。でも、22が居住区に移ってからは、そんな風に教えてくれる人がいなくなってしまって」

「お役に立てて光栄です。でも、たまたま知っていたことですので……」
「君みたいな優秀な人は、召使いとして働いているのはもったいないな。きっと、すぐに中枢システムにいくんだろうな」

 マヌエラは、思わず足を止めた。すぐにここを離れて……?

 そうであって欲しいと、彼女はずっと願っていたはずだった。それなのに、その言葉を聴いたときに「ここから離れるのは嫌だ」という想いが頭をもたげた。心のどこかに流れているピアノの旋律と共に。

「その……。もし、またこういうことがあったら、また君に助言をお願いしてもいいだろうか」
カルルシュは、消え入りそうな声で訊いた。

「もちろんです。お手伝いできることがありましたら、いつでも」

 彼が書き直した課題は、完璧なものとはいえなかったようだが、それでも午餐の後にそれを読んだドン・ペドロは彼の努力と改善を認めてさらなる改善点を静かに口にした。向かいに座る22も微笑んで頷くのを見て、カルルシュは頬を紅潮させた。

 ちょうどマヌエラが「どうぞ」と目の前に運んできたコーヒーを置くと、彼は顔を上げて万感の思いを込めて「ありがとう」と言った。

 それから、カルルシュは、マヌエラの顔を見ると緊張を解くようになった。

(読者からのご指摘に基づき強行規定の例を訂正しました)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(4)《鍵を持つ者》

『Usurpador 簒奪者』の続きです。このエピソードについては『Usurpador 簒奪者』に入れるか、それとも外伝として独立させるか迷ったのですけれど、外伝にするには重いし、かといって独立した話として語ると、まとめて読む方が混乱すると思うので、同時代というくくりでこの作品に埋め込むことにしました。

前作『Infante 323 黄金の枷 』で、脇役として出てきた二人の人物に関する話です。この二人の話が、メインとして語られるのは、おそらくこれが最初で最後だと思います。読者に知らせなくてもいいかなとは思ったのですけれど、システムに閉じ込められて重たいことをやっているのは、当主一家だけではないという例としてお読みいただければと思います。

少し長いですが、前回同様この「Usurpador 簒奪者」に関しては長々と連載するつもりはないので、まとめて発表しています。



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あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(4)《鍵を持つ者》

 若葉が次々と芽吹きだした四月。大西洋からの風が道往く人々の上着やスカーフを無為に揺らした。それは、まるでギターラを戯れにかき鳴らすようだった。

 フェルナンド・ゴンザーガは、サントス医師の診療所に行くためにアリアドス大通りを渡った。思い詰めた暗い顔をし、手のひらをぎゅっと握りしめていた。

 彼が愛した娘は、彼の求婚を拒絶した。その理由を彼はよく知っていた。ジョアナ・ダ・シルヴァには愛する男がいた。そして、その男アントニオ・メネゼスもまたジョアナを愛していた。だが、彼らはすぐに一緒になる事はできなかった。《星のある子供たち》であるジョアナは同じ《星のある子供たち》である男との子供を産まない限りは《監視人たち》一族の男とは結婚できないのだ。

「だったら、まず俺と一緒になって子供を作れよ」
彼は、言い募った。一年間共に暮らし、子供も出来れば、あるいはジョアナの心が自分に向く事もあるかもしれないと思ったのだ。

――女なんて、寝てしまえば簡単になびく。お前の母さんもそうだった。
彼にそう言ったのは、フェルナンドの父親だ。もともとは子供を作るまでとの約束で一緒になった彼の両親は、結局現在に至るまで結婚生活を続けている。

 しかし、ジョアナは首を振った。
「それは無理だわ。あなたの事を私もアントニオも知っている。たとえ私が子供を産んでからあなたの元を去ったとしても、同じ職場で働く彼とあなたと私の間にはわだかまりが残ってしまう。そうでしょう? 私は、《監視人たち》中枢組織に頼んで、人工授精を望む《星のある子供たち》の男性を紹介してもらうわ」

 それは、フェルナンドにはもっとつらい言葉だった。もし彼女の人工授精の相手が決まってしまえば、彼のチャンスは永久に潰える。《星のある子供たち》である女は、たった一人の《星のある子供たち》の男としかペアになれないから。どんな事があってもジョアナを諦める事の出来ないフェルナンドにはたった一つしか道がなかった。

 彼自身が人工授精の精子提供者となり、ジョアナの相手であるたった一人の《星のある子供たち》の座を確保する事。彼は、それをジョアナに申し出た。拒否反応を示す彼女に、もし断るなら宣告をすると脅迫じみた言葉まで使って、ようやく賛同を取り付けた。だが、彼女が子供を身籠り出産するまでの時間を確保しただけで、フェルナンドにとっての苦悩は終わらなかった。

 《星のある子供たち》である男は《星のある子供たち》である女に子供を産ませる事を強制できる。けれども、女はその男の元を去る権利を持つ。ジョアナは子供を産みさえすれば自由になり、アントニオと家庭を作るだろう。アントニオ・メネゼスは、いずれバジリオ・ソアレスの跡をついで、ドラガォンの執事になり、《監視人たち》中枢組織の最重要ポストにつく。前途洋々の未来があり、彼の愛するジョアナと彼自身の子供をも奪っていく。フェルナンドの絶望は深かった。

 現在は彼のパートナーであるジョアナをアントニオに渡さないようにする方法は、一つしかなかった。人工授精を始まらせない事。もちろん《監視人たち》組織は、いくら彼がぐずぐずしても彼に精子採取を急がせるだろう。あの組織は《星のある子供たち》を作り出す事にしか興味はないのだから。

 フェルナンドの足は、サントス医師の診療所に向かわず、大聖堂の方へと進んだ。そして、その先には大きく美しいドン・ルイス一世橋が堂々たる姿を横たえていた。空は青く、カモメが悠々と飛び回り、河にはボートがゆっくりと進んでいた。人びとが街の美しさを楽しみ、幸せを謳歌していた。

* * *


 アントニオ・メネゼスは、警察での諸手続きを終わらせると、哭き叫ぶフェルナンドの母親とじっと悲しみを堪えている父親の待つ病院へと向かった。検死が終わり次第、フェルナンド・ゴンザーガの遺体は自宅に帰ることになっていた。なぜと問う両親に、執事であるバジリオ・ソアレスはどのような説明をしたのだろうと思った。

 警察では、事故と自殺どちらの可能性も捨てきれないと言われた。遺書はなく、目撃者もいなかった。人工授精の第一回目の精子採取のためにサントス医師の診療所に向かう代わりに、どのような理由で彼がドン・ルイス一世橋から河に転落したのか知る手段はなかった。

 アントニオにも、何が起こったのかはわかっていなかった。わかっているのは、少なくともフェルナンドが望んでいた事が一つだけは叶ったことだ。ジョアナ・ダ・シルヴァは、もう誰かと一緒になる事は出来ない。彼女がフェルナンドとの人工授精を一年間にわたり試行することは、永久に不可能になってしまったからだ。手続き上すでにフェルナンドに「選ばれて」しまったジョアナは、もう他の《星のある子供たち》の男に「選ばれる」ことも出来ない。

 フェルナンドが、ジョアナを彼に渡さないためだけに命を断ったとは思いたくなかった。彼とジョアナが彼を追いつめたのだと考えるのは苦しかった。だが、いずれにしても何もかも遅すぎた。

* * *


 アントニオ・メネゼスは、渡された鍵の束をじっと見つめた。

「重いだろう」
執事バジリオ・ソアレスは、口元を歪めるだけのいつもの笑い方をした。

 それは鍵の数から考えると実に重かった。十に満たない鍵が、丸い輪でまとめられている簡素な鍵束だ。見かけは古めかしいレバータンブラー錠用の鉄鋳物風棒鍵だが、実際にはスイスのメーカーに特別に作らせたディンプル錠が組み合わされており、さらに紛失や盗難に備えて内部発信機や自動溶解システムが組み込まれている最先端の鍵だ。だが、その鍵を常時持つという事実に比べれば、実際の重量など大したことではなかった。

 この鍵束と同じものを常時携帯することが許されているのは、他にはドラガォンの当主と執事だけだった。この鍵束を持つということは、緊急時にはドラガォンの運営に関する全てを独断で決定できるということであり、その権能の規模は、おそらく世界で数人のみが可能な非常に強大なものだった。

 だが、世界の他の権能者とドラガォンの支配者たちには決定的な差があった。他のものは、その力を誇示し、財力を用い、己の名声を高め、世界に広く知られる外向きの発展があるが、ドラガォンの使命は、誰からも存在を注目されぬよう、その存在を隠しながら存続を図ることにあった。

 アントニオは《監視人たち》の家系の中でも、ソアレス家同様に、多くの《鍵を持つ者》を生み出してきたメネゼス家の直系男子として、生まれた時から特殊教育を受けてきた。《監視人たち》の家系に生まれた者の中で、黒服を身に纏い特別な任務に当たる者たちは百人ほどだ。その中でもドラガォンの当主と話をしたことがある者は三十人に満たない。

 《監視人たち》が黒服を纏うようになると、ドラガォンの中枢的存在として一目置かれるようになる一方、もはや他の生き方は一切許されなくなる。黄金の腕輪をした《星のある子供たち》は、この世から隠されている存在だったが、黒服を着た《監視人たち》は、自らを滅し《星のある子供たち》を命に代えて守る役割を担っていた。

 アントニオは、黒服を着て働くべく育てられた。彼の個性は、その任務と人生に適していた。彼を知る多くの人間は「あの男が何を考えているのかわからない」と感じるだろう。彼は私的感情を滅多に表に出さない子供だった。そして、成人した今もそれは変わらない。「冷たい男」ともよく評された。そのことを、彼の家族や上司は喜んだ。《鍵を持つ者》の後継者として、これほど好ましい資質はないのだから。

 彼は、鍵束の重みを噛み締めた。
「まだ早すぎませんか」
黒服を着た《監視人たち》の中枢組織の最上位に就く証を、わずか二十五歳の若者が手にした前例は聞いたことがなかった。

 ソアレスは、いつもの口元を歪める微笑を見せた。
「検査の結果が出たのだよ」

 ソアレスが言及しているのは、先日彼が病院で受けた精密検査のことだろう。
「どれほど意志が固くても、病には勝てぬ。私はまもなくこの重要な努めを果たすことができなくなるだろう。それまでに、お前に全てを託さねばならない。今はまだいい。ドン・ペドロが適切な判断を下し、この巨大なシステムの舵取りを続けてくださる。だが……」

 ソアレスが眉を顰める原因は、己れの病にあるのではないことは確かだった。そうではなくて、次のドラガォンの当主の世代になったときのことを考えているのだ。そして、その時に自分はもはやどんな支えにもなれないことを歯噛みしたい想いで考えているのだ。

「よいか、アントニオ。私はお前に、決して外せない枷をかけた。《星のある子供たち》ですらも固辞したくなる辛い役目だ。時にお前は、安らかに眠れぬかもしれぬ。その手が白いまま墓に入ることも叶わぬかもしれぬ。だが、それでもお前はこのシステムに忠実であらねばならぬ。それがお前の宿命さだめだ」

 アントニオは、バシリオ・ソアレスがその宿命を受け入れてきたことを知っていた。当主に代わりその手を穢したであろうことも知っていた。穢したとまでは行かずとも、「心のない冷たい男」と謗られたことが幾度もあることも知っていた。たとえば、ドンナ・ルシアが、プリンシペに手をかけようとした罪でこの館から追われた時も、我が子から引き離されることを恐れて許しを乞う女主人の懇願に、彼は眉ひとつ動かさなかった。ソアレスは揺るがなかった。彼は掟に忠実に振る舞い、その役目を果たした。

 掟の前には、どの《星のある子供たち》も《監視人たち》も平等だった。たとえ、その一人に対して個人的な好意を持っていても、あるいは不快感を持っていても、それを理由に掟を曲げることは許されない。《鍵を持つ者》であるならばなおさらだ。我が子が閉じ込められるのを指示し、罪を犯した妻を遠ざけ、その怒りと悲しみと憎しみを受け止めながら、何事もなかったかのように当主としての日々の仕事を続けたドン・ペドロも、やはり《鍵を持つ者》だった。彼の前の当主たちも、ソアレスの前の執事たちも全て同じ厳格さで、このシステムを守り続けてきた。

「ところで、アントニオ。少し個人的なことに立ち入っても構わないか」
「なんでしょうか」

「先日、ドン・ペドロと話をしている時に、お前の話題になったのだ。お前は《鍵を持つ者》としては非常に若いが、メネゼス家の男子として若すぎるということはない。つまり、その……」

 アントニオは「またか」と心の中で思ったが、顔色一つ変えなかった。
「つまり結婚して跡取りをつくらないのか、ということでしょうか」
「そうだ」
ソアレスはあっさりと認めた。

「ソアレスさん。私の系統でなくとも、ジョアンとペドロの中にメネゼス家の血は流れています」
アントニオは、必要もないことをあえて口にした。バシリオ・ソアレスの妻ローザ・マリアは、アントニオの父の妹だった。バシリオの長男ジョアンはすでに《監視人たち》中枢部で幹部として働いており、歳の離れた次男のペドロも特別教育を受けいずれは兄に続くであろう。

「それは、わかっている。《星のある子供たち》と違って、我々《監視人たち》の家名が途絶えることは、さほど大きい問題ではないし、子孫を残す努力を強制されるわけではない。だが、アントニオ。ドン・ペドロは心配しておられるのだ。お前が、あの娘の件の責任を取ろうとしているのではないかと」

 アントニオは、わずかに眉をひそめた。
「責任。どうやって」

「そうだ。フェルナンド・ゴンザーガの死に、誰にも責任を取ることはできない。そして、ジョアナ・ダ・シルヴァが掟の迷宮から抜け出せなくなったことも。だから、お前がその宿命に付き合う必要はないのだ」

 アントニオは、普段決して見せない反抗心の籠もった鋭い目つきでソアレスを見た。

 彼には、世界中の他の全ての女と結婚する権利が残されていた。彼の人生がそれで終わったわけでもなかった。だが、彼は決して出る事の出来ない黄金の枷に囚われた愛する女を見捨てて、自分だけ忘れる道を選ぶことはできなかった。フェルナンドは、彼にも決して外せない枷を掛けてこの世を去ったのだ。

「《星のある子供たち》に対して、掟に従うように強制する役目を私は果たします。ジョアナが生涯一人でいなくてはならない掟も。私が彼女に別の幸福を見せつけることが、ドラガォンのためになるとは思えません」
「では、やはり彼女のためにお前は生涯独身を通すつもりなのか」

 彼は答えなかった。ただ、重い鍵束を受け取り、《鍵を持つ者》としての使命を生き始めた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(3)ため息

しばらく空きましたが、『Usurpador 簒奪者』の続きです。また前回更新で記述したシーンから再び過去に戻っています。マヌエラがドラガォンの館に勤めだした二十歳前後の話です。

この『黄金の枷』シリーズの設定、とくに「ドラガォンの館」や《星のある子供たち》または《監視人たち》の説明はあまりにも長くなるので、前作『Infante 323 黄金の枷 』をお読みになっているという前提で書き進めています。この作品から読み始めた方には非常識と感じられることがたくさんあるかと思いますが、そういう設定だということでご了承ください。

今回もいつもなら二回に分ける長さなのですけれど、この「Usurpador 簒奪者」に関しては長々と連載するつもりはないので、まとめて発表しています。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(3)ため息

 マヌエラがドラガォンの館に勤めるようになって一年が経った。サントス家に生まれた娘として、それは義務に近かった。この地には、一般には知られていない特別な一族が住んでいる。その左手に自ら外すことのできぬ黄金の腕輪をはめた《星のある子供たち》。己の名声や偉業を押し殺し、ひたすら過去の誰かの血脈を守るためだけの存在。

 サントス家は、ドラガォンの館に当主として君臨する《青い星を五つ持つ者》の血を色濃く受け継いだいくつかの名家の一つだ。絶対的に守らねばならぬ秘密を抱えた館に関わる多くの職務をになっている家に生まれた宿命は、彼女の意思の入り込む余地を与えなかった。マヌエラは法学を学ぶことを願っていたが、その夢を諦めてドラガォンの館で召使いの職に就くように説得された。

 反抗することはできた。けれど、彼女は知りすぎていた。いくら学問を究めても、彼女はその知識を真に社会のために役立てることは許されないのだ。名のある法律家になり、この街を出て行くことは不可能だ。そして、外部の人間になぜ他の街や海外に行ってはならないかを説明することすら許されていない。その様な存在がこの世に存在することを、知らせてはならないのだ。

 この街に生まれ、黄金の腕輪をはめ、《監視人たち》に見守れながら生きる存在であることを、そして、直接的にも間接的にも《星のある子供たち》と《監視人たち》の双方を統べる立場として、血脈を守る役割を果たしてきた先祖たちの努力を子守歌のように聴かされて育ったのだ。

 彼女は、サントス家の娘としての本分を果たすことを承諾した。召使いとして勤めるといっても、文字通りの役割だけが期待されるわけではない。それはドラガォンのシステムを維持する人材グループの一人となる事を意味した。《星のある子供たち》と《監視人たち》双方を統べる中枢システムに属する人々は、次代を担う人材を慎重に選び、教育し、そして、お互いに知り合わせる。選ばれた《星のある子供たち》と《監視人たち》は、共に働き、時に婚姻を通して絆を深めながら、システムを維持し続ける。

 この館から出ることのほとんどない当主の直系子孫たちは、館の中にいる存在の中から配偶者を選ぶ。マヌエラの曾祖母や大伯母は、当主の娘であるインファンタだったし、前々当主夫人ドンナ・カミラはサントス家の出だった。

 彼女は、しかし、結婚相手を見つけるためにこの館で働こうと思ったことはない。むしろ法学を諦めたのに値する責任ある職務を担う可能性に期待してこの館に足を踏み入れた。召使いの仕事が不満だったわけではないが、それだけで終わることは、彼女の自尊心を傷つける。

 同僚に彼女と同じような志を持って勤めている者は多くなかった。おそらく執事バジリオ・ソアレスが信頼するアントニオ・メネゼス、そしてその他の数人だけだろう。だから、インファンテ22の聡明さと自己克己が余計にマヌエラの目を引いた。

 22は「当主後継者のスペア」としての人生を送るには、無駄な優秀さを備えていた。冷静沈着で、物覚えが早い。立ち居振る舞いも洗練され、使用人や《監視人たち》中枢部からの人望も篤かった。

 同い年の兄であるカルルシュは、身体が弱く動きも鈍重だった。二人が並んで比較されるような場面は少ないが、一日に一度ある午餐か晩餐では、当主であるドン・ペドロを挟み二人が向かい合うので、使用人達にもその二人の差がよくわかる。

 ルネサンスの彫刻家達が好んだような端正な顔立ちと綺麗になびいた明るい茶色の髪をもつ22は、質のいいスーツを品良く着こなし、背筋を伸ばして完璧なマナーで食事をする。

 一方のカルルシュは、黒くもつれた髪と眉が濃く厳つい風貌を持ち、俯きがちで姿勢がよくないので、あまり背が高くないのにもっと小さく見える。落ち着きがなく、水をこぼしたり肉をうまく切れずにソースを皿の外にこぼしてしまったりするのは、いつも彼の方だった。

 ドン・ペドロは、その席で様々な話題を口にした。この国や世界の時事問題のこともあるし、先の大戦やその前後にこの国を襲ったファシズムに関する話題のこともあった。ローマ時代のカタコンベに関する話題のこともあったし、先史時代のブリテン島の遺跡で見つかった装飾品について話すこともあった。

 どんな話題になっても22は、当意即妙に話題をつないだ。父親の興味のあることについてよく知っているだけでなく、本人も興味を持ってあらかじめ多くの本を読んでいることがわかる。建築についても、医療についても、法律についても、彼は多くに興味を示し、知らないことがあるとすぐに文献を取り寄せて読み、次の午餐では父親を驚かせるような視点で話題を広げることもあった。

 一方のカルルシュは、ドン・ペドロに話題を振られても長く話題を続けることはできなかった。彼もまた真面目に話題についていこうとしているのだが、ドン・ペドロと22が熱心に討論をはじめると、もはやその流れについていくことができずに黙ってナイフとフォークを動かしていることが多かった。

 跡継ぎとして、ドン・ペドロや《監視人たち》中枢組織のメンバーから期待をかけられていることを自覚している彼は、次回は話題についていこうと22に薦められた本を読み始めるのだが、そもそも家庭教師から言い渡された課題すらもなかなか終えることができない要領の悪さで、それ以外に本を読了する時間などはほとんど残っていない。マヌエラ達が掃除に入ると、前回と置く場所が変わっていない本の山にハタキがけをしなくてはならないことが多かった。

 22の方は、課題も読書も難なく終えて、さらに彼自身の一番好きな行為に多くの時間を割くことすらできた。彼の居住区の一階には、黒く艶やかに光るグランド・ピアノが置かれ、彼はそこに腰掛けて好きな曲を心ゆくまで練習するのだった。

 マヌエラはその朝一階のはたきをかけ終えて、隅から拭き掃除を始めた。階段を降りて22が現れ、マヌエラに氣付くことなくグランドピアノの屋根を開けて譜面台を起こした。しかし、彼は譜面を置くことをせずにそのまま何か曲を弾き出した。短くて優しい曲だった。邪魔になるかと思い、マヌエラが二階の掃除に移動しようとすると、氣付いた彼は演奏を止めた。
「いたのか。すまない、もう終わって出て行ったのだと……」

「いえ、私こそ。先に上からやります」
マヌエラが言うと、彼は首を振った。
「そのまま続けていいよ。掃除機をかけるときは言ってくれ。退散するから」

 そう言うと、棚から楽譜を持ってきて、練習を始めた。右手の練習、左手の練習、同時にゆっくりとしたテンポで、それからより自然なテンポで。ピアノなど全く弾けないマヌエラにも、その曲が決して簡単ではないことだけはわかった。

 彼の元には、週に一度教師がやってくる。厳めしい顔つきをした老人で、左の手首の腕輪を持ち上げるのも大儀な様子だ。自分が弾いてみせることはほとんどなく、歌うように指示しながらレッスンをつけていた。22が格別優秀な生徒であることは、召使い同士の噂で知っていた。もし、彼が、いや、《星のある子供たち》として生まれていなければ、ピアニストとして名を成すこともできたであろうと。

 もし、ただの《星のある子供たち》であったなら、彼は有り余る才能をどう使ったのだろうか。この街を離れることも、著名な楽団と共演することもできないピアニスト。いや、それどころか、彼は裁判官にも、大学教授にも、優秀な経営者にもなれる頭脳と要領の良さを兼ね備えている。けれども、マヌエラが法学の道を諦めたように、彼もまた『市井の目立たぬ誰か』以上の存在になることは許されないであろう。ここドラガォンで何らかの役割を果たす以外には。

 けれど、彼はドラガォンで中心的な役割を果たすことも許されていなかった。存在しない者として、その頭脳と才能を、単なる趣味に費やすことしか許されていなかった。

 にもかかわらず、彼の奏でる音は、なんと美しいことだろう! トリルの一つ一つは朗らかで優しく、静かに響かせる和音からは世界の深淵が顔を覗かせる。

 手を動かさずに、聴いているマヌエラを見て、彼は微笑んだ。彼女は恥じて、慌てて仕事を続けた。

「ピアノ曲は、好きかい?」
彼は訊いた。

「ええ。クラッシック音楽には、あまり詳しくないのですが、聴くのは好きです。光景が目に浮かぶようですね」

 彼は、意外そうに彼女を見ると「そうか」と言った。先ほどの笑顔よりもずっと柔らかい、嬉しそうな表情だった。
「じゃあ、次に君が来るときは、通しで何かを弾けるように準備しておこう。今日は、そろそろ掃除機をかけたいだろうから、僕は退散するよ」
そう言って彼は二階に上がっていった。

 約束通り、次に彼の居住区を掃除するときに、彼ははじめから一階で待っていて、マヌエラに美しいメロディを聴かせてくれた。それどころか、マヌエラが掃除に来るときには、次第にそのミニコンサートが決まりのようになっていった。彼は、曲が終わると曲名を教えてくれた。ショパンだったり、ベートーヴェンだったりした。優しく可憐な曲もあれば、おどけた楽しい曲の時もあった。半年もするうちに、マヌエラは彼の演奏を聴いただけで、誰の作曲か推測ができるほどにピアノ曲に詳しくなってきた。

 ある春の日に、22が弾いて聴かせた曲をマヌエラはことのほか氣に入った。彼女は、はじめの頃のように仕事をしながらかしこまって聴くことはなくなっていた。

「リストだよ。『三つの演奏会用エチュード』という作品の中の一曲さ」
「エチュードって?」
「練習曲のことだ」

「これが? こんなにロマンティックで素敵な曲が練習曲なの?」
「リストは皮肉っぽい人だったんじゃないかな。一般には『ため息』と呼ばれている曲なんだ」

 それは、ほんとうにため息をつきたくなる美しい曲だった。仕事中である事も忘れて、ピアノの脇に進み、鍵盤に触れられるほど近くに立って彼の演奏に聴き入った。流れるような左手から生み出される細やかな音が、心の中を優しく撫でていく。右手の落ち着いた動きが、何か確かなものを語っている。それから、右と左の手は、役割を交代しながら優しく、戯れながらマヌエラの周りを踊った。その中に微かにとても真剣な想いが紛れ込む。

 この人は、本物なのだと思った。繊細な黄金の糸で出来た輝かしいハートを、この暗い石造りの牢獄にいながら、決して曇らせる事なく燃やし続けている希有な人なのだと。たとえシステムが彼の存在を否定しようとも、誰にもそんなことはできない。生まれた順番や運命も、彼の心を砕くことも錆びさせることもできない。

 格子の嵌まった窓から漏れてくる陽の光が、端正な横顔を浮かび上がらせる。明るい茶色の艶やかな髪の上で、メロディに合わせて踊りを踊る。この美しい時間を止める事が出来たらどんなにいいだろうと思った。

 余韻とともに曲が終わっても、二人ともしばらく動かなかった。マヌエラがため息とともに彼を見ると、彼もその青い瞳を向けてきた。それが、二人の秘めやかな関係の始まりだった。

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Claudio Arrau Liszt Trois Etudes de Concert S.144 III Un Sospiro
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Posted by 八少女 夕

【小説】秋深邂逅

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第十弾、そしてラストの作品です。大海彩洋さんは、『オリキャラオフ会@豪華客船』の作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『2019オリキャラオフ会・scrivimo!2020】そして船は行く~方舟のピアニストたち~ 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じだと思いますが、今回はピアノとピアノ曲に関する愛をたっぷりと詰め込んで、「何でもあり」の豪華客船に乗せてくださいました。そもそも主要キャラたちが「そんなふうに集まるのは本編ではないでしょ」な状態に大集合しているのですけれど、加えてお友達のブログのそうそうたるメンバーも乗っちゃっている「オリキャラのオフ会」です。

うちのチャラいピアニストもちゃっかり加わってすごいピアノに触らせていただいているようですが、さすがにこのストーリーに直接絡むのは無理だわ……。うちオフ会参加メンバーはほとんど逃げたした後だしなあ……。

というわけで、単純なオマージュ作品を書いてみました。このお返しの方法は、TOM−Fさんの作品には何回かしたことがありますが、彩洋さんへのお返しでは初めてかも? 

「船旅」「四人の演奏」「一人の女の過去」あたりを踏襲してあります。歴史的事実と「聊斎志異」に出てくるとある怪異譚もちゃっかり絡めてありますが、加えて私の未公開(黒歴史ともいう)作品由来の嘘八百も混在しています。こちらもオリキャラのオフ会と同じくアトラクタBだということで、ご容赦ください。

読む上では関係ありませんが、使ったメインの四人は、先日のエッセイにちらりと語った「黒歴史で抹殺した神仙もの」のキャラクターたちです。つまりワイヤーワークで空飛ぶ仙人だと思っていただいて結構です。今回用意した通名は、ガーネット、翡翠、アクアマリン、紫水晶の中国名で、これは石好きな彩洋さんへのサービス(笑)


「scriviamo! 2020」について
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秋深邂逅
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 深まる秋の夜空に大きな月が煌々と輝いていた。出立より荒れ狂う波にひどく悩まされた航海で、このように凪いだ宵は初めてである。紅榴は箜篌くご を抱えて甲板に出た。遠く絹の道の最果てから伝わったとされる竪琴は、紅榴の指先を通し二十三本の弦から妙なる調べを繰り出す。

 紅榴と呼ばれるこの弾き手は、揚州出の高官という触れ込みである。まるで少年のように若く、ひどく赤みの強い髪を髷に結っているために露わになっている首がほっそりとしている。文人でありながら武術もなかなかの腕前である。大使と共に第一船に乗る晁衡大人からの推挙状を持っていたため、この船でも破格の扱いを受けている。なぜ本名ではなく紅榴と呼ばれるのか、また、どこで流暢な日本の言葉を身につけたのか、皆が訊いたが笑みを浮かべるのみで多くを語らなかった。

 蘇州黄泗浦を出て三日、遣唐使船四艘のうち二艘の姿は見えない。が、渡航が上手くいき阿児奈波に着けば消息も知れよう。

 紅榴のつま弾く箜篌の音は、近くを走行するもう一艘に届いているらしい。むせび泣く声がこちらにまで届いてくる。

「おそらく普照どのではないか。鑑真和上を日本にお連れできなかったことを嘆いておられるのだ」
顔を上げると、いつの間に側まで来たのか、翠玉が立っていた。紅榴は、「そうやもしれぬな」と口先だけで笑った。

 十九年の長きにわたり、日本で授戒を行うことのできる高僧を探し、苦労を重ねてきた普照にしてみれば、五度の失敗にもかかわらず、日本へ行こうとしてくれた鑑真を置いて日本へ帰らねばならぬことは耐えがたいに違いない。同じ志を持ち共に辛苦を耐えた栄叡は唐で客死し、鑑真和上と共に日本へと向かおうとした弟子の多くも波間に消えていった。ようやくやって来た遣唐使の船に鑑真を乗せることができたというのに、発覚を怖れた大使藤原清河が一行を降ろしてしまったのだ。

「ご存じないのはお氣の毒だが、あれだけ派手に嘆いてくれれば、清河殿は和上を密かにお連れしていることに氣付くまい。大伴様としてはありがたいのではないか」

 背の高く深緑の装束に身を固めた男は、持っていた縦長の包みを前に置いて紅榴の横に座った。絹の包みを取り去り現れたのは七弦琴だ。黒く漆塗りが施され金銀や螺鈿で装飾されている。

 翠玉と呼ばれるこの男もまた、謎に包まれている。太い眉の下に鋭い光を放つ切れ長の目を持つ剣士で、口髭の下の口元は一文字に結ばれ、長い髪は乱れ一つない。途中でこの船を襲った海賊どもを軽々と撃退したときですら、顔色一つ変えなかった。しかし、武門だけでなく風流にも通じているのか、七弦琴を嗜むらしい。紅榴は、この男と旧知の仲らしく現れた琴に驚きすらも示さなかった。

 二人が静かに演奏を繰り広げるところに現れたのは、二人の僧侶である。老いた一人は手に五絃琵琶を手にしている。

「これは海藍どの。あなたも加わっていただけますか」
翠玉は琴を少し引いて、僧の座る場所を作った。

「このような月夜に、ともにつま弾くことができるのは、願ってもないことでございます。仏のご加護ですな。ところで、こちらにおりますのは、私と同室で過ごしております常白殿です。鑑真和上と共に日本に向かわれるのです。紅榴どのの弾いておられた曲のことをお訊きしたいと仰せでしてな」

 紅榴は眉を上げて、壮年僧の顔を見た。思い詰めているのか、それとも怖ろしい思い出があるのか、わずかに震えている。

「先ほどそなたが弾いていた曲といえば……」
翠玉は、琴をつま弾いた。紅榴は、音色を絡ませながら答えた。
「……紫娘娘が我らに教えた曲だ」

「紫娘娘!」
常白の顔色は一層悪くなった。

「失礼ですが、あなた方は、どこかでその娘娘にお会いになったのですね」
その僧が震えながら訊くと、老僧海藍までがバチを手に合奏に加わった。
「その通り。そして、今そなたもな」

 船倉から誰かが簫笛を奏でながら上がってきた。淡い紫の薄物を纏った女だった。明るい月の光に照らされて、女の白い顔がくっきりと浮かび上がる。この世の者とも到底思えぬ美しさだ。

 演奏をしていた三人は、一様に手を止め、笛を吹く女に拱手礼をした。常白だけは、ガタガタと震えながらその場に立ちすくんでいた。

 女は吹き終えると緩やかに笛を放し、三人に一人一人深く抱拳揖礼をした。
「海藍上人、翠玉真人、そして、我が師、紅榴元君、お久しゅうございます」

「紫娘娘、頭をお上げください。あなたも、日本へと向かうおつもりとは存じ上げませんでした」
海藍が愉快な声で告げた。

「みなさまがこの船に乗られるのを知り、急ぎはせ参じました。お声がけいただけなかったことを、恨みに思いますわ」

 紅榴は箜篌をつま弾いた。
「そなたは泰山にて修行中と聞いた。我らが酔狂、鑑真和上の密航が発覚したときの安全弁の仕事などで邪魔するには忍びなかった」

「まあ。安全弁ですって?」
紫娘娘が大きく目を瞠る。

 翠玉が答えた。
「さよう。皇帝は、高僧鑑真を連れていくなら、道教を広めるのため道士も連れて行けと、難題を押しつけたそうだ。それで大使の清河殿は、皇帝からの正式な許可を得るのを諦めた。大伴古麻呂殿は、晁衡大人と謀り、一度降ろされた鑑真和上と弟子たちを密かにこの第二船に乗せた。それにあたり、我らは用心棒かつ役人に捕まった場合の申し開き用の道士として招聘されたというわけだ。ついでに日本の見学もできるしな」

 紫娘娘は鈴のような笑い声を上げた。
「でしたら尚更、お誘いくださらなくては。私はみなさまと違いかの蜻蛉洲あきつしま を見たことがないのでございます。加えて、この素晴らしき望月の宴に加わらせてくださらないなんて、あんまりですわ」

 そこまで言ってから、いまにも倒れんばかりに震えて立つ壮年僧を見て、艶やかに微笑んだ。
「私、紫石英と申します。どうぞお見知りおきを。……それとも」

 海を一陣の冷たい風が立った。紫娘娘の黒髪と薄絹がゆらりと泳ぎ、それに伴い牡丹の花のような芳香がただよった。
「紫葛巾と名乗った方が、よろしゅうございますか?」

 常白は、地面にひれ伏し叫んだ。
「許してくれぇ! 葛巾、許して……頼む、許してくれ……」 

 紫娘娘は、ひんやりとした眼差しを向けて立っていた。その口元にはうっすらと微笑みすら浮かべている。

 常白は、その顔を仰ぎ見る勇氣もないらしい。
「そなたを置いて逃げたのは、申し訳なかった。皇子さまに嫁ぐ予定の貴人と駆け落ちするなど、とんでもないことをしでかしてしまったと、恐ろしくてならなかったのだ」

 紅榴がおかしそうに口を開く。
「なるほど。娘娘を盗み出したあげく、破れ屋に置き去りにした日本からの進士受験生というのはこの男だったか」

 翠玉が、やはり口元だけで笑いながら琴をかき鳴らした。口を挟むつもりはないようだが、わざわざ唐までやってきた志も果たせず、見捨てた女の怒りを怖れて震える小人に呆れている様子が見て取れた。

「どうか祟らないでくれ。成仏して欲しい。……おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばら はらばりたや うん」
固く目を瞑り、真言を唱えて震えている。

 海藍上人は、笑いながら常白の肩をトントンと叩いた。
「心配せずとも良い。このお方は怨霊などではない。ここにいる紅榴どのの弟子にて我らが同志でもある。そなたごときに去られたぐらいで、命を落とすほど弱々しき女子ではない」

「ご上人、その言い様はあんまりでございます。あのとき私は悲しみと飢え苦しみで生きる望みを失っておりました。実際に通りかかった師がお救いくださらなければ、あのまま山中で朽ち果てていたはずでございます」
紫石英は、氷を吹くように告げて、ゆっくりとかつての愛しい男に近づいた。

「仏門に入ったのも、私の菩提を弔うためではありませんのでしょう」
「いや……その……」

「鑑真和上は、ご自身で費用を賄われてまで日本行きを決意しておられた」
海藍は、琵琶をかき鳴らす。

「渡航の禁を破ってまでな。……お側にいれば、日本に戻る機会に恵まれる」
紅榴が箜篌で加わり、翠玉も琴をつま弾きながら答えた。
「進士に受からず遣唐使船で大っぴらに帰国できぬ日本人には、唯一の手立てだろうな。元来望んでいなかった剃髪をしても」

 常白は、もはやきちんと立っていることもできなくて、紫娘娘から離れようとガタガタと震えながら船室の方へと這っていく。彼が退くと、彼女はゆっくりと歩みを進め、その距離はほとんど変わらない。月がゆっくりと歩むのと同じように、青白く浮かび上がった二人は移動していった。

 残った三人は、もう二人を見ることもなく和やかにそれぞれの楽器を構え、再び先ほどの曲を合奏し始めた。

 かつて二人が恋人同士であった唯一の満月に、微笑みながら共に奏でた曲が凪いだ海を渡っていく。もう一つの船で嘆く普照の泣き声と、許しを請う不実な常白のわめき声は、共に闇夜に消えていった。

 悲鳴と何かが階段を転げ落ちる大きな音がして、こちらの船の不快な声はピタリと止まった。船室の奥で、何事が起きたのかバタバタと駆け寄る音がしているが、紫娘娘は興味を失ったかのごとく身を翻し、合奏する三人の元へと戻ってきた。

 三人とも手は休めずに、女の方を見やった。紫娘娘は、ほんのわずかの微笑みを口に浮かべたが、何も言わずに簫笛を構えた。美しい音色が加わり、冴え渡る月は輝きを増したようだった。

 凪いだ地平線の彼方にわずかに黒い影が見える。鑑真和上が熱望した日本への玄関である阿児奈波は、もうさほど遠くないようだった。

(初出:2020年3月 書き下ろし)

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四人が弾いていた楽器は、正倉院に収められている楽器をもとに書いてみました。なお、現在の中国の五絃琵琶はバチを使わずに爪で弾くのですが、唐代はバチを使っていたということなので、その様に書きました。

当時の曲では全くないのですけれど、それぞれの楽器の音色を探しているうちに、この曲はどの楽器でも弾いている人が多いので、勝手に脳内イメージソングにしていました。「绿野仙踪」というのは「オズの魔法使い」って意味だそうです。同じ曲をあれこれ貼り付けても仕方ないので、ここでは笛バージョンを。

琵琶吟 又は《绿野仙踪》
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Posted by 八少女 夕

【小説】青の彼方

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第九弾です。山西 左紀さんは、掌編で再びご参加くださいました。ありがとうございます!

 左紀さんの書いてくださった「青の向こう

今年二作目として書いてくださったのは「太陽風シンドローム」シリーズの新作で、「補陀落渡海」をモデルにした空想世界のお話のようです。

日本、もしくは関西では常識なのかもしれませんが、無知な私は「補陀落渡海」を知りませんでした。なんとこんな風習があったのですね。即身仏のことは知っていましたが、船で渡っていくんだ……。

さて。お返しの作品ですが、サキさんの作品を先に読んでくださることを前提に書きました。そして、サキさんの書き方、「詳しくは想像にお任せします」も踏襲しています。あ、「補陀落渡海」だと思って読むと「不可能」で終わってしまいますので、現実の地理での整合性確認(たとえば和歌山県からの出航などの限定)は、しない方がいいと思います。更にいうと、サキさんの作品の続きかどうかも、はっきりしていません。全然関係のない作品として読んでいただいてもOKです。案の定、オチもありません。


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青の彼方
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 サゴヤシの林を抜けて海岸へたどり着くと、強烈な光で一瞬目が見えなくなったように感じる。

 アンジンは、海の彼方を眺めた。砂浜の上の白い波頭をアクセントにした透明な水が、やがて淡い緑色になり、それから濃く冷たい濃紺になり紺碧の大空と繋がる。押し寄せては消え去る波と、時おり訪れる海鳥以外は、何一つ変わらぬ光景だった。

 空に雲が現れると、やがてやってくる灰色の世界と嵐の予兆になるが、今日の所はその兆しもなかった。

 アンジンは、自分の所有するサゴヤシ十数本をゆっくりと確認した。半年前に亡くなった【おじい】から相続したこれらの木は、一人で生きていかなくてはならない彼女にとって生命線と言っても過言でなかった。

 アンジンは村の鼻つまみ者だ。若くもないし、美人でもない。身よりもなく【おじい】の身の回りの世話をする代わりに、寝食を恵んでもらって生き延びてきた。名前も「どこから来たのか得体の知れぬ犬」と誰かが毒づいたなごりでアンジンと呼ばれるが、産んでくれた母親がなんと名付けてくれたか、誰も知らない。

 サゴヤシを倒して収穫する時には、急いで参加し、根氣のいる濾過作業を買ってでては、持ち主にわずかなデンプンを分けてもらう。ゴマすりが上手だと蔑まれても、生きていくためには仕方ない。魚を捕まえて売ったり、サゴヤシ葉の繊維を織ってスカートや網を作り果物と交換してもらうこともある。

 みなし児は、この島では珍しい。いくつかの大きな集落に分かれているとはいえ、元を辿ればみな親戚のようなものだ。あちらの子はうちの従姉妹の子、隣の娘は母方の伯父と繋がりがある、そういった具合にたとえ両親が一度に亡くなったとしても、必ずどこかの家庭が引き取って身内として育ててくれる習わしだ。だがアンジンは本当にこの島に一人の身寄りも居ない存在だった。

 彼女は、両親と共に海の彼方から舟に乗ってたどり着いたそうだ。どこから来たのか知るものはない。両親はそれを語ることのないままこの世を去っており、赤ん坊の彼女だけが残されていた。だから、もちろん彼女も自分がどこから来たのか、両親がどのような言葉を話していたかも知らない。村で一番の偏屈者で嫌われていた【おじい】が引き取ってくれなかったらそのまま死んでいたはずだ。

 ケチで見栄っ張りな嫌われ者が、みなし児を引き取ることに、何か裏があるだろうと皆が陰口をきいた。おそらく赤ん坊を包んでいる珍しい布が欲しいのだろうと。この島では布を作ることはできないが、近隣の島との交易を通して裕福な家庭は布を所有し、主に壁に掛けていた。様々な色や柄があったが、黄色い布だけは手に入らないと言われていた。アンジンは、その黄色い布に包まれて発見されたのだ。

 【おじい】は、まったく親切なところはなく、彼女を徹底的にこき使った。少なくとも立って歩けるようになるまで、村の女たちにお前の世話をさせたのだからありがたいと思え、いつもそんな言い方をした。【おじい】が亡くなった時、アンジンがそれを悲しいと思うことはなかった。村の女たちは、淡々と小屋を片付けるアンジンを見て「恩知らず」と聞こえるように噂をした。

 そうは見えなくとも、本当のところ、アンジンはひどく不安だった。【おじい】の後継者としてサゴヤシや小屋を相続できなければ、今後どうやって生きていけばいいか皆目わからなかったからだ。幸い集落には【おじい】と近い親族は一人もおらず、かなり離れた集落に遠い親戚がいるだけだった。【おじい】のサゴヤシは大して多くない上にその親戚のサゴヤシ林からあまりにも離れていたため、彼らはアンジンが相続人となることに異を唱えなかった。

 この島では、他の人たちと同じやり方を踏襲する他に生きる手立てがない。サゴヤシを倒し、デンプンを漉し、果物を集め、魚を獲り、家の屋根を葺くことから、サゴヤシのスカートや釣り針を作ることまで全て集落のやり方に沿って行う。ルールに反して追放されれば、飢え死にするだけだ。

 アンジンの両親たちは、そんな世界とはかけ離れた世界から来たのだろう。浜辺に打ち上げられていた舟も、アンジンが包まれていた黄色い布も、この島で作ることはできない材質で作られていたという。

 彼女は、なぜ両親は美しい布を買うことのできるけっこうな生活を捨てて、こんな何もない島へと向かったのだろうと考えた。もし、その故郷に行くことができたら、そして、そこで大金持ちの跡継ぎとして迎えられたら、どんな幸せな人生を送れることだろうと、両親の決定を恨めしく考えたりもした。

 砂浜をカニがにじっていた。アンジンは駆け寄ると手にしていた木の棒で殴りつけた。砂浜にめり込んだため、カニは一度は難を逃れたが、アンジンは容赦なく何度も叩きつけ、ようやく獲物を掴まえた。殻が割れて中身の飛び出しかけた小さな赤黒いそれを背負った小さな籠に放り込むと、他に似たような獲物がいないか、用心深く見回した。

 波打ち際に何か太陽光を反射するものが見える。魚かもしれない。彼女は、急いで駆け寄った。

 それは魚ではなかった。けれど、アンジンにとってはもっと心惹かれるものだ。朱色の木棒。自然の木ではなく、艶やかに何かで色を塗ってある。似たような木の破片を【おじい】が持っていた。アンジンの両親が乗っていた舟の一部だったそうだ。

 アンジンたちが流れ着いてから三十年近くもここにあったはずはない。彼女は心臓が大きく高鳴るのを感じた。

 見回すと海岸のずっと東、岩場しかない湾に茶色い小舟が見えた。アンジンが手にしているのと同じ朱色の木の柱で飾られた内側に大きな男の背丈ほどの長さをした小さな木製船室がある。

 岩場にたどり着き、よく見ると、船室の入り口は乱暴な様で壊されていた。慎重に近づき、全く物音がしないのを確認してから、舟の下手まで歩いた。岩場に嵌まっているので動かないが、どこかに固定されている様子はなかった。またのぞき込み誰もいないのもわかった。

 舟の中には白っぽい薄く平たいものが何枚も散乱していた。そこには黒く文様が書き込まれている。果物の皮や動物の肉を干したものの残骸が散乱して腐敗しだしている。そのためか、ひどく嫌な臭いがしていた。

 けれど、そんなことよりも、アンジンにとって心惹かれるものが目に付いた。鮮やかな黄色い布だ。

 彼女は、急いで舟の中に入り込み、黄色い布を掴んだ。この舟がどこから来たのかはわからないが、自分のルーツと関係あるのだろうと思ったのだ。

 布を拾い上げてギョッとした。その布の床に触れていた部分の大半が赤黒く染まっていた。血だ。よく見ると、木の壁や天井も含めて、周り中に似たような赤黒いシミが見られた。打ち破られた出入り口といい、この舟の中では、ごく普通の乗り降りだけではない何かが起こったらしい。

 アンジンは、急いで舟から出ようとした。その性急な動きで船倉が傾き、ギィィと大きな音がした。波が打ち寄せ、舟は岩場から離れて海に浮いた。四つん這いになったアンジンは、無様に這いながら壊れた戸口を目指した。

 舟は、引き返す潮に乗せられて、静かに陸から離れていく。アンジンは声にならない悲鳴を上げながら陸の方を見た。

 見ると岩場に誰かが座っている。布でできた服を全身に纏い、頭に黄色い布を巻き付けている小柄な人物だ。男か女かもわからない。アンジンは助けを求めて必死で手元の黄色い布を振った。

 岩場に座っていた人物はそれに氣が付いた様子はなかった。ただじっと遠く水平線を見やっていた。遙か北の青く冷たい海の彼方を見つめて微動だにしなかった。


(初出:2020年3月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】Fiore di neve

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第八弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の登場人物と私のところのキャラクターとのコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 TOM−Fさんの書いてくださった『惜春の天花 《scriviamo! 2020》』

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在連載中のフィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』では、難しい物理学の世界で真実を探るジャーナリストの奮闘を描いていらっしゃいます。

「scriviamo!」には皆勤してくださり、毎回趣向を凝らした名作でご参加くださっています。そして、毎回難しいんだ……。さて今回も名曲にちなんだ作品で、「なごり雪」をテーマにして書いてくださいました。(諸般の事情で、原曲が簡単に連想されないように改稿なさっています)で、私も雪にちなんだ名曲がいいかな……ということで中島美嘉の『雪の華』を選んでみました。ただし、もう一ひねり。イタリア語のカバー曲をモチーフにしたんですよ。

現実の北イタリアでは、現在こんなことはできないのですけれど、こちらは2020年の春ではないということで、ご理解くださいませ。


【参考】
世界が僕たちに不都合ならば
きみの笑顔がみたいから
その色鮮やかなひと口を -3 - 

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Fiore di neve
——Special thanks to Tom-F-san


 ふんわりと、よく見えないほど微かな白い粒が、ガラス窓の向こうに舞った。
「あ……」

 向かいに座るロメオも窓の外を見やる。湖の半ばに浮かぶサン・ジューリオ島が淡く霞んでいく。
「降り出したね」

 予報では昨夜から降るはずだったが、外れたと思っていた。二人とも傘は持っていないが、このくらいの雪ならホテルまで帰るのに問題はないだろう。

 夏には各地からの観光客で賑わうオルタ湖畔にも、この季節にはほとんど外国人の姿は見られない。珠理とロメオは、ミラノの喧噪から逃げだして穏やかな週末を過ごしていた。

 なごり雪……。珠理は、それに類するイタリア語はあったかしらと考えた。

 小さなカフェテリアで、二人はホットチョコレートの湯氣を挟んで座っていた。チョコレートをまるごと溶かしたような濃厚な飲み物を初めて見たとき、珠理は飲み終えられるのか不安になったが、いつの間にか冬になくてはならない風物詩になった。この飲み物もそろそろ季節はずれになる。

 店内には有線放送がかかっていて、一つの歌が終わったところだった。続けて流れてきたのは聞き覚えのある曲だ。イタリアンポップスでありながら、日本を思い出させる曲でもある。

 曲名は『Fiore di neve』。歌っているのはSonohraというグループ名の兄弟だが、中島美嘉の『雪の華』のカバーなのだ。

 ウインドウの向こうに舞っている雪片に合わせてかけたのではないだろうが、三月も半ば過ぎに雪の舞を眺めながらこれを聴くのは不思議な心地がする。

僕の腕の中で、君は花、雪の華のようだった

(Sonohra『Fiore di neve』より)



 おなじ「雪の華」について歌っていても、原曲と違ってこの歌は終わってしまった過去の愛について語りかける。

 イタリア語の言葉の選び方は日本語のそれとは違う。愛するという感情、言葉にするまでに胸の中で反芻する想いも、もしかしたら珠理の慣れているやり方とは違うのかもしれない。

僕らは魂の両輪、鷲の両翼、雪の涙だった。僕らは海の稲妻、二粒のアフリカの真珠、二滴の琥珀だった。僕らは剣のように四本の腕を絡ませた太陽の下に立つ木だった……

(Sonohra『Fiore di neve』より)



 少なくともロメオは、もう少し珠理にとって心地のいい、すなわち、もう少し日常生活に近い言葉を使う人だ。そのことを珠理は強く感じた。

 珠理は、ミラノに住んでいる。ロッコ・ソヴィーノ照明事務所でデザイナーとして働き始めて五年が経っていた。その前にいたドイツでも、そして、ソヴィーノの下で働き始めてからも、決して順調にキャリアを積んだとは言えなかったけれど、なんとかこの地に根を下ろし始めていると感じている。

 そう思えるようになったのは、ロメオがいてくれたからだ。イタリア人男性のイメージからはかけ離れている無口な彼だが、とても細やかに敬意をもって彼女を愛してくれる。珠理はかつて恋人だったオットーの、言動の一致しない不実な態度に傷つき恋愛関係を築くことに絶望していた。その彼女を職業的なコンプレックスも含めてすくい上げてくれたのは、ロメオの口数は少なくとも誠実で芯の通った愛し方だった。

 オットーがしょっちゅう投げてよこした愛の言葉は、ティッシュペーパーを丸めたように身がないものだった。だから、珠理は愛情表現と愛情は比例しないし、たとえ自分の中に確かな想いがあってもそれを表現することが必要だと思えなかった。

 けれど、口数が少ないのと、何も伝えないのは違う。珠理は、ロメオからそれを習った。

 夢破れてイタリアを去った珠理を、ロメオは日本まで追いかけてきてくれた。控えめで無口な彼が、行動だけで伝えてくれた大きなメッセージ。それは、何億もの言葉に勝った。一緒に朝食をとるだけの仲だった二人が、人生のパートナーという別の次元へ移るきっかけとなった出来事だ。

 彼は、それからも空虚な言葉を並べるようなことは決してしなかったけれど、静かに、でも確実に、珠理を大切に思っていることを表現した。言葉ではなくて態度で示すことの方が多かったけれど、その一つ一つが珠理にとっては、命の宿った本当の花のようだった。朝露の中で輝く薔薇のように。それとも真冬に艶やかに花開く椿のように。初夏の訪れに身を震わす花水木のように。

 口にしなければ、身をもって示さなければ、決して伝わらない想いを珠理は少しずつ表現するようになった。それは、彼女がこだわり続けてきた色の重なり、ほんのわずかの違いで表現する色の競演にとても似ていた。絵の具で色を重ねれば、濃くなりやがて黒くなってしまう。けれども、光は重ねれば重ねるほどに明るくなり、やがて白く昇華されていく。この雪片のように。お互いに重ねた愛情が、優しく明るさを増し、やがて純白になるのだ。その考え方は、珠理をとても幸福にした。

 はじめて『Fiore di neve』を聴いて違和感を感じたのは、甘い言葉にむしろ傷つけられていた時期だったからだ。だから彼女は歌詞を素直に受け入れることができなかった。舞台の台詞のように、心とは裏腹の演じられた文言に感じられたのだ。

 けれども、いま耳にする同じ歌をあの頃よりもずっと心地よく感じるのは、寡黙で温かいロメオから贈られた愛情のお陰だ。一つ一つの小さな愛の光線が重なり白く輝いていることを確信できるようになって、珠理は慣れなかった言葉の花束に、素直に耳を傾けられるようになったのだ。

 その一方で、原曲に歌われている素朴な幸福は、向かい合う二人の間にあるホットチョコレートの湯氣のようだ。掴むことは難しいけれど、そこに確実に存在している。温かく懐かしい。こうして眺める雪片は、なんと美しく優しいものなんだろう。

 舞う優しい雪片を眺めながら、何か大切なことを忘れているように思った。この温もりの向こうに、ガラスで隔てられた寒空に何かを置き忘れている。嗚咽を堪えているような、喉に何かが引っかかっているような感覚がする。それはとても遠くて、何がそんな感覚を引き起こすのか、珠理はどうしても思い出せなかった。

「雪に、インスピレーションを刺激された?」
その声に前を見ると、ロメオが優しく笑っていた。それで珠理は、またやってしまったのかと思った。何かを考えていると、つい他のことを忘れてしまうのだ。

「ごめんなさい。この曲や、色の重なりのことを考えていたの」
ロメオは頷いた。

 雪が少し小降りになったので、二人はホテルに戻ることにした。カフェテリアを出る時に、彼がガラス戸を引いて珠理を通してくれながら話を続けた。
「考えていたのは、前に話してくれた、千年前の服のルールのこと?」

 それを聴いて、珠理は驚いた。いつだったか平安時代の襲のことをロメオに説明したのだが、それを憶えていてくれたとは夢にも思わなかった。
「ロメオ、すごいわ。襲の話は、一度しかしなかったわよね」

「うん。でも、君が図鑑で見せてくれたその色の組み合わせ、とても印象に残っているんだ。自然の言葉との組み合わせや、僕たちの慣れている色使いと違う感覚に、君の色使いの原点を見たように感じたから」

 そういえば。珠理は脱いでいるコートを見た。ほとんど白に近い薄ベージュに純白の雪の結晶がふんわりと舞い落ちる。
「これは……『雪の襲』だわ」

 ロメオは首を傾げた。
「うん。雪だね……?」

「ごめんなさい。わかりにくいわよね。白と白を重ねる組み合わせのことを『雪の襲』または『氷の襲』って言うの。平安時代に書かれた長編小説『源氏物語』の中で、我が子の将来を思って別れることになった母親が、悲しみの中でこの組み合わせの衣装を纏っていた印象的なシーンもあるのよ」

「白と白の組み合わせ?」
ロメオは少し驚いたようだった。彼の感覚ではそれは「色の組み合わせ」とは言わないのだろう。単なる同色だから。白だけを纏うのは、イタリア人の彼にとってはおそらくローマ教皇の装いだ。冬や高潔さを伴う母の悲しみとは無縁だろう。親しんできた文化の違いは時に違う感覚を生み出す。

 珠理は、その時ようやく思い出した。色の襲について、こんな風に隣で話を聞いてくれた故郷の青年のことを。あれもまた春、この季節だった。呼び戻せずにもどかしい思いをした記憶が、屏風が開いていくように、鮮やかに珠理の前に現れた。

「雨宮くん……。『紅梅匂』の襲……。雪降る駅……」
何かを告げたがっていた青年の瞳が蘇る。ドイツへの移住を相談したときの彼の答え。いつも優しかった友人が、不意に見せた苛立ち。あれは……なんだったのだろう。

「わからないよ、僕には。どうして、ここではだめなのか。言葉も生活も、なにもかも違うのに、どうしてそんな遠い国に行くのか……」
彼の言葉が心に鮮やかに蘇る。

 珠理は、その青年との思い出をロメオに説明した。
「そんなことを軽々しく相談されても、困らせるだけよね。申し訳のないことをしたわ」

 ロメオは微かに笑って首を振った。
「違うと思うよ、それは」
「違うって?」
「彼は、ただ君に遠くへ行って欲しくなかったんだ、きっと。あの時の僕と同じに」

 珠理は驚いて彼を見た。雨宮君が? そんなこと、あるだろうか。大学の研究室でいつも一緒にいたのに、彼はそんな素振りを全く見せなかった。

 それから、彼の瞳の光を思い出した。珠理が自然の魅せる色の妙に我を忘れてしまった時、彼はいつも珠理を待ってくれていた。我に返り横を見ると、彼は珠理を見ていた。瞳に光を宿して。

 瞳は心を映す窓だ。……それをのぞき込む用意のある者には。あの日、珠理は彼の語らなかった言葉を読み取ることができなかった。今、ロメオの瞳を見つめて彼の想いを理解し、彼の温かい掌に彼女のそれを重ねられるようには。

 彼は、あれからどんな時間を過ごしたのだろうか。彼の心の言葉に応えることのできる誰かと出会い、幸せになったであろうか。そうであって欲しいと、心から願った。

 オルタ・サンジュリオ街の石畳に雪片が舞降り、静かに消えていく。積もることなく、冬は去っていくようだった。

(初出:2020年3月 書き下ろし)

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Fiore di neve - Sonohra


雪の華 - 中島美嘉
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Posted by 八少女 夕

【小説】露草の雨宿り

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第七弾です。limeさんは、素敵な掌編小説で参加してくださいました。ありがとうございます!

 limeさんの書いてくださった『どうってことない雨になれ』

limeさんは、繊細で哀しくも美しい描写の作品を書かれるブロガーさんです。小説においてはコンテストの常連受賞者であるだけでなく、イラストもとても上手で羨ましい限りです。現在は文章教室で本格的に勉強なさっていらっしゃるので、ブログでの作品発表は抑えていらっしゃいますが、投稿サイトのエブリスタでは代わらずにご活躍中です。

今回は、「傘」をテーマにしてお書きになった作品でご参加くださったので、私も「傘」と「つらい日常の(実際の解決はしていないけれど)心の方向転換」をテーマにごく短い話を書いてみました。はじめから謝っておきますが、とくに事件が起こるわけでも、素敵なオチがあるわけでもありません。


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露草の雨宿り
——Special thanks to lime-san


 ああ、この季節は憂鬱。雫は灰色の空を見上げた。大人になったら梅雨のない国に移住したい。ハワイはどうかな。いつも青空じゃないかしら。もちろん本氣で移住できるなんて思っていない。一介の高校生には遠すぎる夢だから。

 マッハスピードで掃除を終わらせ、急いで帰路についた。この様子だといつ降り出すかわからない。折りたたみ傘を持ってこなかったことを悔やんだ。

 家に帰るのが嬉しいわけではない。母親はいつも苛々している。主に同居している祖母、つまり彼女にとっては姑との不仲が原因だが、雫があまりできのいい娘でないことも彼女の不機嫌の焰に油を注いでいる。母は、いつも帰りが遅く休みの日も家にいない事が多い父親とも上手くいっていなくて口論ばかり、かといって父親や祖母が雫の味方になってくれるわけでもない。

 成績が低空飛行ゆえに、クラブ活動や課外活動をしたいと言い出すこともできず、たとえ許してもらえたとしても友だちがいないので、何に参加していいのかわからない。だから雫は帰宅部だ。授業が終われば、一人で帰る。部屋に籠もり、勉強をするか、図書館で借りた本を読む。今日の空のように灰色の日々ばかりで、これからもそんな日が続くようだ。

 英語の成績もろくでもない。でも、いつだったかテレビで見たような海外の生活を夢見てしまう。広い家。可愛いインテリアの個室。家族揃って、冗談を言いながらの食事。きれいな私服。沢山の友だちや優しいボーイフレンド。……転生でもしない限り叶いそうもない。

 下駄箱の所に、同じクラスの岡崎莉子と橋口エリカがしゃべりながら立っていた。
「先週発売されたミックスベリーフラペチーノ、ヤバくない?」
「うん。お小遣い、もらったし行ける。寄ってこ。あ、ルリも行こうよ!」
二人は、通りかかった別のクラスメートも誘った。

 靴を替えている雫を見て、三人は押し黙った。雫は、下唇を噛んで上履きを下駄箱に押し込むと、三人に挨拶もせずに立ち去った。

 クスクスと笑う三人の声が背中に刺さる。雫のことを笑っているのかどうかは定かではない。もしかしたら、被害妄想なのかもしれない。

 莉子たちはクラスの中心的存在だ。きれいに巻いた髪、上手なメイク、可愛いキャラ弁、最新流行の文房具やバッグ、スマホはいつも最新機種。どれも雫には無縁なあれこれを揃えている。

 クラスカーストの最上位にいるのが莉子たちなのか、それとも、来年は特進クラス間違いなしといわれている斉藤君をはじめとする優等生たちなのかは、微妙なところだ。でも、勉強も体育も可愛さもお小遣いの額も全てにおいてイマイチな雫が最下位に近いところにいるのは間違いない。

 なぜお父さんとお母さんは、せめて陽奈とか、夏海とか、そういう可愛くて明るい名前にしてくれなかったのかなあ。六月生まれだからって、雫なんて地味で湿っぽい。

 わかっている。莉子たちが微妙な顔をするのは、名前が地味なせいではない。お小遣いが少なくておしゃれなカフェに行けないせいでもない。そもそも彼女たちに誘われたこともない。上手く会話に加われない。さりげなくグループに入っていけない。でも、一人でいることが嬉しいわけでもない。

 あ、降り出した。雫は仕方なく走り出した。普段の通学路はやめて商店街へ向かう。アーケードの下は濡れずに済むから。

 水たまりを踏み込んでしまった。靴下に染みこむ惨めさ。母親の小言がもう聞こえ、こめかみの辺りがキリキリする。帰りたくない。

 買うつもりもないのに、果物屋や煎餅屋の前を行ったり来たりした。アーケードの天井を打つ雨音が大きくなる。

 後ろから聞き慣れた少女たちの声が響いてきた。莉子たちだ。そうか。なんとかフラペチーノって言っていたから、やはりここにくるのよね。家にも帰りたくなかったが、また彼女たちに笑われるのもごめんだった。駅に一番近い出口に向かうのを諦めて、その一つ手前の角を曲がる。

 一度も行ったことのないその一画には、日本茶を売っている店や、呉服屋、布団屋、金物屋などがあった。今どきのおしゃれとはほど遠い店の連続だから、クラスメイトは絶対に足を踏み入れない。

 莉子たちに氣付かれる前に……そう思って急いだせいかもしれない。出会い頭に店から出てきた誰かとぶつかってしまった。

「きゃっ」
「これは失礼」

 着物だ。最初にそう思った。ぶつかった男性は、藍色の和装だった。お父さんよりは若いけれど、お兄さんと呼ぶには失礼な感じだ。

「怪我はなかったかい?」
「いえ、まったく。よそ見していて、ごめんなさい」

 雫と同じくアーケードの出口に向かっているらしく、並んで歩くこととなった。出口が見えてきて、雫はため息をついた。ずいぶんと降っている。走ってもずぶ濡れになるだろう。

 男性は、雫の様子を見て傘がないことに氣付いたのだろう、紺の傘を広げて差し掛けてくれた。
「駅までかな? よかったらどうぞ」

 それは洋傘ではなかった。
「蛇の目傘!」

 思わず口走った雫に、彼は笑って答えた。
「いや、蛇の目ではないんだ」
「違うんですか?」
「蛇の目と同じ和傘だけれど、番傘というんだ」

「どこが違うんですか?」
「こちらは柄が竹でできている。蛇の目傘は、木の柄で持ち手に籐が巻いてある。それに……」
彼は、内側の骨の部分を指さした。
「蛇の目傘はこの部分に装飾が施してある。番傘はこのようにシンプルな作りなんだ」

 雫は傘をのぞき込んだ。普段使っている洋傘と較べるとずいぶん沢山の骨に支えられている。和傘を近くで見たのは初めてだった。
「これ、もしかして紙ですか?」
「そうだよ。和紙に油を染みこませて水をはじくようにしてあるんだ」
「きれいなブルー……。広げると淡い色になるんですね」
「草木染めでね、露草色っていうんだ。和紙なので光が透けて明るい色合いになるんだよ」

 雫は、駅までの数分間、ずっと傘を見上げていた。駅に着いたと氣がついたのは、男性が傘を閉じたからだ。

「ありがとうございました」
お礼を言った。男性は穏やかに笑った。
「どういたしまして」

 駅の階段を上がる様子がないので、ここに来る予定はなかったのに送ってくれたのかと思い至った。
「あの……すみませんでした」
「そこに用があったから、氣にしないでくれ」
駅前の和菓子屋を指さしている。もう一度頭を下げてから階段を上がった。改札に向かう前に、和菓子屋を見ると、傘立てに露草色の番傘を挿し、彼は店内に入っていくところだった。

 雫は、彼の職業を想像した。呉服屋さん、茶道や華道の師匠、和菓子屋の関係者、能楽師か日本舞踊の先生、それとも和傘屋さん?

 ほんの数分間、同じ傘の下にいただけだが、全く知らない世界にい迷い込んだようだ。ずっと憧れていた外国とは全く違うけれど、それよりももっと知らない世界だった。あそこは学校と駅の間、いつもどこか知らないところに行きたいと願いながら歩いていたところと十数メートルしか離れていないのに。

 電車の窓から眺めるいつもの光景に光が射してきた。雨は上がったのだ。雲間から柔らかい光が射してくる。

 雫は、次のにあの商店街に行ってたら、またあの一画へ行きあの人を探してみようと思った。番傘のことや、他のよく知らない日本文化のことを教えてもらおうと。

(初出:2020年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】合同デート

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第六弾です。ダメ子さんは、毎年恒例のバレンタインの話で参加してくださいました。ありがとうございます!

ダメ子さんの『お返し』

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化しているこのシリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。一年に二十四時間しか進まないのに、展開は早いこのシリーズ、今回はなんとお返しデート! モテくん、さすがモテる男は行動早っ。でも、デートにはモテくん来ないらしいので、相変わらずのメンバー……。


【参考】
私が書いた「今年こそは~バレンタイン大作戦」
ダメ子さんの描いてくださった「チョコレート」
ダメ子さんの描いてくださった「バレンタイン翌日」
私が書いた「恋のゆくえは大混戦」
ダメ子さんの「四角関係」
私が書いた「悩めるつーちゃん」

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合同デート - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 日曜の朝、私は決心した。なんとしてでもアーちゃんとチャラ先輩を二人っきりにする! そもそも、この大混戦になったのは、アーちゃんとチャラ先輩が二人っきりでちゃんと話をしていないからだ。いくら重度のあがり症とはいえ、休みの日に数時間二人っきりになったら、あの子だって、自分の想いを伝えられるだろう。

 事の起こりはバレンタインデーだ。中学の頃から憧れているバスケットボール部のチャラ先輩に、アーちゃんはようやく手作りチョコを手渡した……っていうのかな。まあ、手渡したのは事実。ところが、あがり症でちゃんと告白できなかったアーちゃんの不手際が誤解を生み、チャラ先輩はそれをモテ先輩へのチョコだと思って渡してしまったらしい。

 しかも、翌日に、改めて告白しようとしたアーちゃんに、先輩は「好きな人が誰かなんていわなくていいから」と言って去ってしまったそうな。「これってお断りってことだよね」とメソメソするアーちゃんに「誤解だと思う」とは伝えたものの、実際のところ私にもどっちなのかわからない。

 私はこの恋はお蔵入りかなともう半分諦めていたのだけれど、なんとあのモテ先輩が手作りチョコのお礼で五人で遊びに行くことを提案してくれたらしい。モテる人って、ここまでマメなのか。私にはそういう世界はわからない。まあ、でも、次の作品の参考にさせてもらおう。

 いや、私の萌えの話は、ここではどうでもいい。アーちゃんとチャラ先輩を二人っきりにする大作戦のほうが大事。

 幸いそつのなさそうなモテ先輩だけでなく、ムツリ先輩もかなり察しがよさそうなので、私が上手に誘導したら、その場から上手に消えてくれるに違いない。そして、その後、私は上手にアーちゃんたちの後をつけて、必要ならアシストする。

 私は、ワードローブを覗いた。うーん、何を着ようかな。適度に消えるとはいえ、しばらくはチャラ先輩の前にもいるわけだから、とにかくアーちゃんよりも目立つ服はダメだよね。もっさり系の服なんて、あるかな。

 あったけど、このパーカー付き部屋着はダメだよね。「ベニスに死す」展でつい買っちゃったヤツだけど、ビョルン・アンドレセンの顔写真プリントされているのって、やっぱり外には着ていけない。チャラ先輩はともかく、ムツリ先輩に軽蔑されそうだし。あ、ムツリ先輩に氣に入られたいとか、そういうんじゃない。ほら、その、私服が変な子とか噂になりたくないし。

 アーちゃん、かわいい系でいくだろうから、かわいくない感じの服にすればいいか。女捨てている感じだとこれかな、革ジャンとジーンズ。あ、この間買ったブーツ合わせちゃお。

 待ち合わせした駅前に行くと、アーちゃんはまだ来ていなかった。きっとギリギリまで何を着ていくかで迷っているんだろうな。あ。ムツリ先輩、いた。

 先輩は、私の服装をみて少し驚いたようだった。どうでもいいでしょう。私はどうせ付き添いだし。
「こんにちは。お誘いくださり、ありがとうございました。えーと、チャラ先輩とモテ先輩は……」

 そう言うと、ムツリ先輩は頭をかいた。
「チャラはトイレ行っている。モテは来ない。チャラには言っていないんだけど、始めから言われてた。その方がいいだろうからって」

 へえ。モテ先輩、よくわかっているんじゃない。って、ちょっと待って、ってことは、これはアーちゃんとチャラ先輩を二人きりにする絶好のチャンスなのでは? 私は、ムツリ先輩に近づいて宣言した。
「じゃあ、私たちもトンズラしましょう!」
「えっ?!」

 あ、いや、ムツリ先輩と二人でどっかに行こうって意味ではなくて!
「このまま、私たちが姿を現さなければ、あの二人のデートになるんですよ。そうなったら、さすがのアーちゃんでも、誤解を解けるかと! 私たちは、こっそり後をつけてアシストするんです」

「あー、そういうこと」
ムツリ先輩は、氣のない返事をした。名案だと思ったんだけれどなあ。

「わかった、じゃあ、隠れるか。って言っても、どこに」
ムツリ先輩と見回す。
「あ、あの駅ビルに大きい窓が。あそこから様子を見ましょう」

 私たちは、急いでその場を離れ、広場に面した駅ビルの中に入っていった。
「ところで、今日って、どこに行く予定なんですか?」

 ムツリ先輩は首を傾げた。
「チャラに任せたから知らないんだよな」
えー、チケットとか買ってあったりして。

 駅前広場を見下ろすウィンドウについて改札の方をみると、出てくるチャラ先輩が見えた。辺りを見回している。そして、私が予想したとおり、アーちゃんはこのビルの横の歩道橋を渡って現れた。おお、ピンクのワンピース。私には絶対に着られない甘い服。よく頑張った!

 しかし、二人きりで慌てているのか、ものすごく挙動不審だ。普段の私が集合五分前には必ず行くので、まさかいないとは予想もしていなかったに違いない。チャラ先輩は、スマホを手に取って操作している。

「あ。チャラからだ」
見ると、ムツリ先輩がスマホを見ている。

「今どこ、だって」
「私が遅れているので、拾って行くから先に行って欲しい、どこに行くか知らせろって返事してください」
「君、策士だね」

 ムツリ先輩は、メッセージを書き込む。すかさず電話がかかってきた。
「よう。俺? ええと、俺もトイレ行こうと思って。うん、つーちゃんからメール来た……いや、バックレないよ、行く行く。うん、アーちゃんにも言っておいてって。……わかった。じゃ、後で」

 改札前のチャラ先輩がアーちゃんに説明している。彼女はますます挙動不審の慌てぶりだ。何やってんのよ、せっかくチャンス作ってあげているのに。

「えーと。このビルの五階、サンジャン・カフェで待っているって」
ムツリ先輩が言った。
「ええっ。そんな普段っぽいチェーン店? どういうチョイスなんですか?!」
「っていうか、最上階の映画館にいこうとしているらしい。でも、俺たちが来るまで待つらしい」

 むむ。そういうことか。いずれにせよ、私が遅れている設定なので、見つからないようにどこかで時間を潰す必要があるわね。

 ムツリ先輩と私は、二人と鉢合わせしないように急いで階段を昇り六階に向かった。そこはフロアの半分がゲームセンターになっている。その奥にある催事場でしばらく時間を潰そうと横切っていった。

 ふと振り返ると、ムツリ先輩がプリクラゾーンのど真ん中で突っ立っている。ちょっと待って。まさかプリクラ撮りたいわけでもないでしょうに、なぜそんなところに引っかかるのよ。少し戻ると先輩はプリクラ機を見ているのではなく、その奥の誰もいないようなくらいゾーンを見ていた。

 のぞき込むと、どうやら格闘ゲームのコーナーらしい。ゲームセンターは友だちとワイワイ行くところなので、プリクラとか音ゲーとかは行くけれど、格ゲーはやったこともない。
「なんですか?」

「いや、今聞こえた音楽……」
そう言いながら、そちらに吸い寄せられていく先輩を追った。他の場所と較べて明らかに閑散としているコーナーの一番奥に、先輩のお目当てはあったらしい。

「げ、本当に『時空の忠臣蔵』だ……」
「なんですか、それ」
「え。ああ、四年くらい前にあちこちのゲーセンにあったんだけれど、マイナーですぐに入れ替えられちゃった格ゲーなんだ。ここにまだあったのか」

「えーと。好きだったんですか?」
「ああ、うん。出てくる敵とか設定にツッコミどころが多くて、やっていても飽きなかったというか……」

 へえ。どうツッコミどころが?
「ちょっと、やってみてくださいよ」
「え、いいの? じゃあ、ちょっとだけ」

 オープニングが流れ、元禄15年12月14日つまり討ち入りの当日、仲間とはぐれている早野勘平が吉良上野介の屋敷に急ぐことが告げられる。ところが、次から次へと邪魔が入ってなかなか屋敷まで進めないという設定らしい。

「ほら出た」
すぐに出てきた敵キャラ。でも、それはイノシシ。えー、人じゃないの?

「この辺はまだまともなんだよ。『仮名手本忠臣蔵』では勘平は猟師として暮らしていて、イノシシを撃とうとするエピソードもあるんだ」
へえ。先輩、詳しい。すごくない?

 その次に出てきた敵キャラは「義父を殺して金を奪った斧定九郎」というテロップが出た。先輩は慣れた様子でそのキャラも倒した。
「設定がおかしくなるのはこの後から」

 次のキャラは、打って変わり立派なお殿様っぽい服装だ。「何をしている」と言って出てきたけれど、名前を見ると浅野内匠頭って、えーっ、ご主人様じゃん。なのに戦うの? っていうか、この人が松の廊下事件を起こしたあげく切腹したから討ち入りに行くことになったんじゃなかったっけ? 

「よっしゃ。次」
ちゃっちゃと主君を倒した勘平は角を曲がる。次に出てきた腰元女キャラ。え。お軽って……それは恋人じゃ……。

 その後、将軍綱吉の愛犬や新井白石、桂昌院など変な敵と戦った後、なぜか将軍綱吉まで倒して先を急いで行く。なんなのこれ。

 そして、次の敵は、まさかの堀部安兵衛。ちょっと仲間と戦うってどうなのよ。ムツリ先輩は慣れた様子で堀部安兵衛との戦いを始める。えー、やるの?

「もう、つーちゃんったら!」
その声にギョッとして振り向くと、後ろにアーちゃんとチャラ先輩が立っていた。

 げっ。なんで? ムツリ先輩も予想外の事態に呆然として動きが止まった。その隙に、堀部安兵衛はあっさりと早野勘平を倒し、エンディングテーマが流れる。
「命を落とした早野勘平は、討ち入りに参加することは叶わなかった……」

 チャラ先輩はニヤニヤ笑っているが、アーちゃんは激怒に近い。
「もしかしたらここじゃないかって、先輩が言っていたけれど、私はそんなはずはないって思っていたのに!」
えーっと、謎の格ゲーに夢中になっていたら、けっこうな時間が過ぎていたらしい。

「あ、いや、ついてすぐにサンジャン・カフェに行こうと思ったんだけど……」
「じゃあ、なぜカフェより上の階にいるのよ! もう」
アーちゃんのいつものあがり症は、怒りでどこかへ行ってしまったらしい。

 チャラ先輩は、ムツリ先輩に近づくと言った。
「映画、始まっちゃったよ。次の回は夕方だけどどうする?」
「う。申し訳ない」

 私はアーちゃんに小声で訊いた。
「で。先輩と沢山お話できたの?」
誤解は解けてちゃんと告白できたんだろうか? 仲良く二人でここにいるって事は、そうだと願いたい。

「いっぱいしたけど、主につーちゃんたちが今どこにいるかって話よっ!」
ありゃりゃ、だめじゃない。策略、大失敗。

 結局、映画は次回にしようということになり、そのままゲームセンターで遊ぶことになった。氣を遣う私は、アーちゃんとチャラ先輩がプリクラで一緒に収まるように誘導する。まず男同士、女同士でさりげなく撮り、先輩方が微妙な顔をしているところに提案をした。
「私は、ムツリ先輩と撮りますから、先輩はアーちゃんと撮ってくださいね」 

 もとのあがり症に戻ってしまったので、喜んでいるのかはいまいちわからないけれど、とにかくあのプリクラはアーちゃんの宝物になるだろう。

 問題は私の方。ムツリ先輩とのプリクラ、どうしたらいいのかしら。無碍にしたら失礼だからちゃんと持って帰るけど、捨てるのもなんだし……でも、これずっととっておくのかしら、私。先輩はどうするんだろう。うーん、もっと可愛い服着ておけばよかったかな……。


(初出:2020年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】休まない相撲取り

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第五弾です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!

もぐらさんの朗読してくださった作品「相撲取りと貧乏神

もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。お一人、もしくはお二人で作品を朗読なさり、当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。いつもとても長くて本当にご迷惑をおかけしています。

今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品です。貧乏神のシリーズとはいえ、毎年、とてもハートフルなエンディングでお正月にふさわしい素敵な作品ばかりです。どうぞあちらで聴いてみてくださいね。

お返しですが、去年までは平安時代の「樋水龍神縁起 東国放浪記」の話を書いてきましたが、今年は趣向を変えて現代の話にしてみました。もぐらさんとも縁の深い『Bacchus』……ではなくて姉妹店(違う!)の『でおにゅそす』を舞台にしたストーリーです。


「いつかは寄ってね」をはじめから読むいつかは寄ってね


「scriviamo! 2020」について
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休まない相撲取り
——Special thanks to Mogura-san


 引き戸が開いて客が入ってくるとき、いつもの二月なら寒い風のことでヤキモキするのだが、今年はあまり氣にならない。暖冬。涼子は思った。

「いらっしゃいませ」

 恰幅のいい若い青年が、いそいで扉を閉めてから、カウンターを見回した。

 東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。ママと呼ばれる涼子が切り盛りをするこの飲み屋は、二坪程度でカウンター席しかないが、そのアットホームさを好む常連客で毎夜そこそこ賑わっていた。

 涼子や常連たちに見つめられて、青年は戸惑ったように言った。
「坂本源蔵……は、来ていませんか」

「源さん?」
奥の席で出来上がっている西城が裏返った声で叫んだので、隣の橋本がどっと笑った。困った人ね、と言いたげに見つめてから、涼子が引き取った。
「ああ、甥御さんね。どうぞお座りになって。源さん、魚を受け取りに行ってくださったんだけれど、道が混んでいて少し遅れるんですって」

 源さんというのは、近所に住む元板前だ。『でおにゅそす』開店以来の常連の一人で、西城や橋本とも旧知の仲だ。もともとはただの客として通っていたのだが、付けを払う代わりにカウンターの中に入り、つまみを用意することが多いので『でおにゅそす』の半従業員のようになっていた。

 青年は、頭を下げて入り口に近い空いている席に座った。
「そうですか。はじめまして。小島津与志です」

 西城が大きな声を出した。
「源さんの甥っ子って、たしか関取だよなっ? 四股名で名乗れよう」

 すると、青年は下を向いて唇を噛みしめた。それから、顔を上げて小さい声で告げた。
稲佐浜毅いなさはまつよし といいますが、その、もうじき名乗れなくなるかも……」

 店内は、察して微妙な空氣が流れたが、すっかり酔っている西城には通じなかった。
「なんだい、もっと大きな声で言ってくれ。ひがーいしー、橋本やまぁ。にしぃ、西城がわぁ。はっけよい、のこった、のこったぁ!」

 涼子は、おしぼりを渡しながら言った。
「どうぞ。氣になさらないでね。西城さんは、もうずいぶん飲んでいらして」
「いえ。僕こそ」

 ガラッと引き戸が開き、待ち人が現れた。
「おう、津与志、来てたか。遅くなってすまん」

「源さん、ごめんなさいね。どうもありがとう」
涼子が言うと、源蔵は首を振りながら、上着を脱ぎ、前掛けをすると、クールボックスを抱えてそのままカウンターに入った。

「買ってきました。とくにサワラと平目、いいのが手に入りましたよ」
涼子に嬉しそうに言った後で、甥の方を向いた。
「津与志。今日は、少しゆっくりしていけ。親方には話してあるからな」

 大きな身体を縮めるようにして、小島青年は頷いた。源蔵は、涼子に説明した。
「こいつは、二年前は前頭四枚目まで番付を上げたんですが、膝の怪我でしばらく成績が低迷していましてね。悩んでいるようなので、ここに来いと。涼子ママに話を聞いてもらえと、しつこく言って、ようやく来たんですよ」

「甥御さん、源さんにとてもよく似ているわね」
涼子が言うと、源蔵は笑った。
「顔は、似てますがね。この子は、わしとは似ても似つかぬ真面目なタチでね。部屋の掃除も、ちゃんこ鍋の用意も、もちろん稽古も手を抜かずにやりまくって、コツコツと番付をあげてきた努力家なんですよ」

「へえ、じゃあ、やっぱり似ているんじゃないか。源さん、そう言うけど真面目を絵に描いたような板前だもんな」
橋本が言うと、涼子も他の常連たちも頷いた。

「その真面目さが、助けにならない時もある。石頭なのも、似ているのかな。壁にぶつかって、でも、横に避けたり、戻ったりするのが難しいみたいでね。わしが言っても、アレなんで、助言してやっていただけませんかね」
源蔵は、グラスにも全く手をつけずに下を向いている甥を眺めた。

「涼子ママに相談するの、いいんだよなあ。俺っちも、かかあのことも、娘の反抗期のことも、いっぱい助言もらったよなあ」
西城は、熱燗を空けながら大きな声を出した。

 橋本も続ける。
「そういえば、僕も、偏頭痛を治してもらいましたよね」
「あら、メガネの度が合っていないのかもって言っただけでしょう。治してくださったのは眼鏡屋さんよ」

「まあ、ママはわしや皆さんにとっての福の神みたいな存在だって事ですよ。津与志、だからお前もここでいい運をもらっていきなさい」
源蔵が言うと、青年は小さく頷いた。

「お怪我は、もういいの?」
涼子が訊くと、小島青年はいっそう暗い顔をした。

「完治する前に、すぐに稽古を始めるから治らないって、親方に言われただろう」
源蔵が言うと、青年は顔を上げた。
「でも、休場したらどんどん番付が下がるだけだ」

「あれ? コーショー制度は?」
西城が言った。酔っていても、話にはちゃんとついて行っているらしい。

「なんですか、それ?」
橋本が首を訊いた。

「ハッシー、わかってないなー。怪我で休場しても、復活したときには同じ地位から始められるんだよ。なっ!」

 青年は首を振った。
「いえ。確かにその制度はあったんですが、2003年に廃止されたんです。公傷が乱発されて休場する力士があまりにも多くなってしまったので。ですから、僕は怪我をした場所で途中休場しただけで休まずに出ているのですが、負けが込んでしまって。期待してくださった親方や先輩方にも申し訳なく、もう引退した方がいいのかと……」

「怪我をしているのに土俵に上がって、大丈夫なのかい?」
相撲に詳しくない橋本は、純粋な質問を投げる。西城が解説した。
「ぶちかましとか、突っ張りとか攻める手は、膝をかばいながらでも、わりといけちゃうんだよね。問題は、向こうが積極的に攻めてきたときに、踏ん張ったり上手に凌ぐのが難しいわけ」

「西城さん、詳しいのね」
涼子が言うと、嬉しそうに答えた。
「惚れ直した、涼子ママ? 熱燗、もう一本頼むよ」

 小島青年は、ビールをゴクンと飲み干した。源蔵が捌いたヒラメの昆布締めをキュウリの薄切りと一緒に小鉢に入れて、涼子は彼の前にそっと置いた。柚醤油の香りがほのかに漂う。

「どうして引退した方がいいとお思いになるの?」
涼子が訊いた。青年は、少し言葉に詰まった後で、答えた。
「幕下だと給料も出ませんし、ただの穀潰しです。周りの士氣にも影響するし、まるで貧乏神だなと……」

 涼子は、小さく笑った。
「幕下の方はたくさんいるでしょう。貧乏神は、そんなにいるかしら」
「……」

「相撲の世界は、勝負がとてもシビアでしょうけれど、それ以外のお仕事でも、必ずしも結果や利益を生み出している人たちだけではないと思うわ。でも、結果だけで、その方たちの価値が決まるわけではないと思うの」

 すると、西城や橋本も頭をぶんぶんと振って頷いた。
「俺っちもさぁ。どっちかっていうと日当たりのいい席に座らされているけどさあ。くさくさしたって仕方ないもんな。いる場所で、やれることをコツコツやるっきゃないだろ、なっ、ハッシー!」
橋本は、いきなり背中を叩かれて吹き出しそうになった。

 涼子はテキパキと皆の前の空いた皿を片付けて、新しい小皿を置いていく。小島青年は、伯父も含めて和氣あいあいとした『でおにゅそす』の一同を眩しそうに眺めた。

「焦る氣持ちは、よくわかるわ。私たちのような仕事と違って、スポーツは何十年もかけてのんびり結果を出せばいいというものではないでしょうから。でも、がむしゃらに頑張るか、そうでなければ辞めるか、その二つしか道がないのかしら。怪我が治れば、結果はむしろ出やすくなるのではなくて?」

 源蔵は、椎茸の肉詰めを皆の前に置いていきながら言った。
「行き詰まっているときには、自分のやり方を続けても道は見つからないぞ。急がば回れっていうだろう」

「俺っちたちも考えようぜ」
西城が赤い顔で大きな声を出した。涼子は取りなすように小島青年に言った。
「あなたもずっと考えていらっしゃるでしょうし、親方のご指導も受けていらっしゃるでしょうけれど、素人たちの突拍子もない意見ももしかしたら参考になるかもしれないわ」

「俺っちは思うんだよ。何よりも優先すべきは怪我の治療だろ。だから、稽古にしたって膝に負担のかかることはやめる」
「膝に負担のかからない稽古ってあるのか?」
「あるんじゃないかい? 柔軟体操みたいな稽古あったよな? 詳しくはわかんないけど、今までの稽古では沢山時間をかけられなかったことを、目一杯やっておくとかさ」

 小島青年は、はっとしたように頷いた。
「確かに、早く復帰することや部屋に貢献したい一心で、ぶつかり稽古や三番稽古を少しでも多くしようとしていたかもしれません」

「すみません。それなんですか?」
橋本が小さな声で訊く。橋本が解説する。
「三番稽古ってのは、力士同士で何度も取り組むやつで、ぶつかり稽古というのは、片方が目一杯攻めて、もう一方はそれを受け止めるヤツだ。どっちも膝には悪そうだよな」

「そういうのはしばらく休んだら、ダメなんですか」
「なんか一人でやるトレーニングあったよな。四股しこ とか鉄砲とかさ」
「あ。四股ってのは聞いたことあります。なんだっけ」
「ほら、取り組みの前にやってんじゃん、足を片っぽずつどーんと上げるヤツ」
「ああ、あれか」

「鉄砲ってのは、柱に向かって張り手みたいなのを繰り返すヤツだろ?」
小島青年は頷いた。
「その通りですが、腰を落としてすり足で片方ずつ足を寄せながらやりますので、全身運動にもなっています。どちらにしても全身の筋肉を鍛える大切な基礎で、本当はもっと沢山やった方がいいと思っていましたが、取り組み稽古ほどは熱心にしていなかったかもしれません。膝をかばいながらでも、できるんだから、本当はもっとやるべきだったんだ……」

「休場して、怪我の治療に専念すると言って、そういうのだけをやらせてもらえばいいんじゃないか?」
「そんで、部屋の役に立つのは、もっと他のことにするとかさ」
「他の事って?」
「うーん、ちゃんこ作り?」

「関取さんになったら、お料理当番はしないのでは?」
涼子が訊くと、小島青年は首を振った。
「いえ、負け越してしまったのでもう関取ではなくて幕下です。ちゃんこ番もあります」

「お。だったら、めちゃくちゃ美味い鍋を極めるとかさ。それこそ、源さんにコツを訊いてさ」
「ですよね。美味しいものを食べられれば、みんなハッピーだし」

 いつの間にか店中の客たちが、怪我で苦しむ若き力士の復帰プランと当面の部屋での身の振り方をああだこうだと論じていた。実際の大相撲の制度やトレーニング、生活のことなどのわかっていない人々の考えでなので、実際に機能するかどうかはわからない。皆アルコールが入っているので、氣が大きくなっていることも確かだ。それでも、引退することや、世話人・マネージャーなどへの転身などをせずに、もう一度関取に返り咲くことができそうだと、前向きな予想ばかりだ。

 作っていた吸い物を一通り客たちに出して、一息ついた源蔵がみると、甥は大きな身体を縮めるようにして下を見ていた。白木のカウンターに、ぽたりと一粒、何かが落ちた。涼子がすかさず差し出したおしぼりで、顔を拭いてから彼は顔を上げた。目は赤いが、悲しそうな様子ではなかった。

「僕は、自分では精一杯頑張っている、なのに報われていないと思っていました。でも、どうやら自分のやり方に固執して、引くに引けなくなっていただけのようです。皆さんに応援していただいて、空回りの努力は止めて、もう一度頑張ってみようと思いました。本当にありがとうございます」

 その言葉が聞きたかったんだ、と誰かが叫んだ。店内は青年の関取返り咲きを祈念して、盃が重ねられた。

 涼子と源蔵は瞳を合わせた。青年に憑いていたかもしれない貧乏神は、きっとどこかに去り、代わりに福の神と一緒に部屋に戻れそうだと微笑み合った。

(初出:2020年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】愛の駆け引き

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第四弾です。山西 左紀さんは、掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!

 左紀さんの書いてくださった「砂漠のバラ

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

今年書いてくださった作品は、「アリスシンドローム」シリーズの新作で、サキさん曰く「思い切って夕さんの作風には全く合いそうも無い作品」だそうです。サキさんらしさ全開の近未来SFの戦闘機パイロットのお話でした。

二人の超優秀な女性パイロットが、淡々と敵機を打ち落としていく様子、そのどちらかというとゲームと現実の境目がなくなっているような特別な感覚が、なんともいえない感情を呼び起こす作品です。

お返しの作品は、サキさんの作品とはまったく関係のない話です。ただし、サキさんの『砂漠のバラ』に触発されて書いた作品です。どこがどの部分に触発されたのかについては、読み手の自由な感想を左右したくないのでここでは触れません。


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愛の駆け引き
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 しつこく降り続けていた雨がおさまり、十日ぶりに太陽が輝いた。木漏れ日がキラキラと揺れている。彼女がここに住むようになってしばらくが経つ。生まれ故郷は岩沙漠だったので、揺れる木漏れ日の心地よさなどとは無縁だった。

 故郷が嫌いだったわけではない。単純に統計上の問題だ。彼女がよく口にする《狩り》の、もっと上品な言い方をするなら《生きるため必要なあれこれを得ること》や《愛の駆け引き》のチャンスを増やすには、この土地の方が向いているのだ。

 ミラは、生活を支える手段も、本能から来る快楽も、ロマンティックな感情も、全て一緒くたにしてしまうタイプの女だ。楽しくて、キモチよくて、さらに生活に必要なあれこれが手に入るならば、それにこしたことはない。上品さや貞節、それに誇りなとどいう言葉は彼女にとって大した重みを持っていない。

 《愛の駆け引き》は、なによりも好きだ。

 たとえば、あの角にいる若い男。若い子は大好き。柔らかい巻き毛を優しく撫でて、甘い吐息を吹きかけてあげたいの。

 ミラは、相手がどんな行動に出るのか注意深く観察した。経験豊かで魅力的な彼女を狙っているのはわかっている。小麦色の長い足、黒い瞳。積極的で美しいミラは、危険な魅力をたたえている。

 相手の容姿などには頓着しない。もっと重要なことがある。彼女を満足させることができる男を慎重に選ぶのだ。快楽を与えてくれる相手を。脳天がクラクラするほどの快感。

 沙漠にいたときの、記憶が蘇る。夕方の最後の光が突き刺した忘れられない瞬間に、ミラは最初の恋人と愛を交わしたのだ。たくましい男が、彼女を組み伏せた。抵抗する彼女を彼は縛り付けた。手の自由を奪われて、屈辱と怒りに我を忘れ、彼女は足を蹴り上げた。彼は笑いながら足を絡めて彼女を征服した。彼女の心に決して消えない焼き印を押しつけ、笑いながら消え去った。

 ひどい人、縛られた私を放置して、笑いながら逃げていった、ひどい人。絶対に許さない、死ぬほどの快楽を、私に教えたあの人。

 ミラは、ずっと一人だ。友だちと呼べる人はいない。誰かとなれ合ったり、つるんだりするのは性に合わない。誰かと一緒に食事をするのも嫌い。

 世のためになる仕事をするほど高尚ではない。子供の世話に心を尽くすような女がいるのも知っているけれど、ミラはさほど母性にあふれているタイプではない。純粋に、男と寝るのが好きなのだ。私の獲物、若い男に縛られて組み敷かれる、倒錯した愛の時間が欲しい。

 若い男が近づいてくる。嫌われないように、恥をかかされないように、慎重に、スマートに誘おうとしている。すべてわかっているのよ。

 愛の手練手管を知り尽くしているミラは、ゆっくりと振り向き、黒い瞳を潤ませた。そして、唇を突き出した。彼女の身につけた香水が、彼を惹きつける。フェロモンに満ちた薫り。さあ、いらっしゃい、私の可愛い坊や。少しだけ、隙を見せてあげる。あなたから行動を起こしたと、思わせてあげる。

 木漏れ日がキラキラと輝いた。

「あなたのことばかり考えてしまうの。どうしてかしら」
ミラは彼の柔らかい巻き毛をそっと撫でる。
「本当に? その……君みたいに綺麗で、もてそうな女性が、僕を選んでくれるなんて」

「私が怖いの?」
「うん……少し。僕、実は初めてなんだ」

 ミラは、優しく笑って彼の足に彼女の長い足を絡ませた。
「心配しないで。あなたの好きにしていいのよ。私の自由を奪って、アドバンテージを取るといいわ。それなら怖くないでしょう?」
「いいのかい? 君がそういうなら……」

 彼は、痛くしないように優しくミラの両腕を縛った。柔らかい絹のタッチで、縛られていく感覚にミラは恍惚となる。瞳の奥には沙漠の夕暮れが蘇る。おずおずとミラを抱きしめる男は、ああ幸せだと呟いた。

 ミラにも、絶頂の瞬間が訪れる。ああ、なんて素敵なの。いい子ね、私の坊や。可愛くて、柔らかくて、食べちゃいたいくらい。

 愛の昂揚で、相手の動きの止まった瞬間を、ミラは逃さなかった。躊躇せずに鋭い歯を彼の喉に突き立てた。驚き逃げようとする男を彼女は渾身の力で押さえつけた。弱々しく巻き付けてあった両腕の枷は、あっという間に断ち切った。

 ミラの身体の半分ほどしかない男は、力では彼女には敵わない。両腕にうまく糸を巻き付けなければ、彼女の動きを封じることはできないのだ。彼が生き延びるチャンスは、糸をきちんと巻き付けられなかったあの時に消えていた。

 彼は、まだひくついている。頭はもうミラの喉を通って胃の中に向かっているのに。可愛い子ね。とても美味しい、可愛い子。私の産む子蜘蛛たちの一部となって、世界に旅立っていきなさい。

 木漏れ日がキラキラと揺れている。今日は最高に美しい日だ。《狩り》が成功すると、とても氣分がいい。

 《愛の駆け引き》と食事を終えたミラは、彼女を縛ったまま逃げていった沙漠の恋人のことを考えた。彼に会いたいと願っているわけではない。彼を探して彷徨うような時間はない。子供たちが卵嚢から出て、世界へと拡散していくその後に、彼女に多くの時間がのこされているわけではないから。

 ただ、可能な限り幾度でも《愛の駆け引き》を繰り返し、恍惚の中で男を抱き寄せる、たくさんのミラたちで世界をいっぱいにするのだ。沙漠の突き刺すような夕陽に。優しい木漏れ日の輝く昼下がりに。

(初出:2020年2月 書き下ろし)

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ナーサリー・ウェブ・スパイダー(Pisaurina mira)は、北米およびカナダに生息するキシダグモ科の蜘蛛。オスはメスに捕食されないよう、メスを縛ってから交尾を行う習性がある。
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】アダムと私の散々な休暇

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第二弾です。ポール・ブリッツさんは掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!

 ポールブリッツさんの書いてくださった「わたしの五日間

皆勤してくださっているポール・ブリッツさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。お名前の通り、電光石火で掌編を書かれるすごい方です。毎年ポールさんのくださるお題は手加減なしで難しいんですけれど、今年はオーソドックスな難しさですね。

書いてくださった作品、舞台はどこと明記されていませんので、私も「なんとなく」を匂わせつつ、明記はしませんでした。そして、次の舞台にした場所も読む方が読めば「そこでしょ」なのですが、敢えてどことは書きませんでした。すみません、ポールさん、「わたし」の居住地、そんなところにしてしまいました。

この掌編、軽く説明はしていますが、ポールさんの作品と続けて読んでいただくことを想定して書いてあります。


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アダムと私の散々な休暇
——Special thanks to Paul Blitz-san


 荷物を運び込んだポーターが、物欲しげな瞳で微笑んだので、仕方なく一番安い額面のお札を握らせた。自分で持ち運べば、払わずに済んだかもしれないけれど、鳥籠と荷物の両方をもって初めてのホテルで部屋を見つけて、カードキーを上手に使うのは難しい。

 もらうものをもらったので、さっさと踵を返したポーターにアダムがろくでもないことを叫び出す前に、急いで部屋の扉を閉めた。鳥籠を覆っていた布カバーを外すと、彼は「低脳ノ守銭奴メ!」と得意そうに叫んだ。

 私がこのオウムの世話を隣人や友人に頼めないのは、ひとえにアダムの口の悪さが尋常でないからだ。どうやっているのかわからないが、相手をもっともひどくこき下ろす言葉を選んで罵倒する芸当を、この鳥はいつの間にか身につけた。私が教え込んだことがないといくら言っても、きっと誰も信じてくれないだろう。

 アダムは、四年ほど前に当時の恋人に押しつけられた。特別養護施設で大往生した女性が飼っていたとかで、十一歳のオウムが残されたと。施設はその引取り先に困り、とある職員がその弟に泣きついた。「私が飼ってあげたいけれど、鳥アレルギーなんですもの」

 その弟こそが私のかつての恋人で、自宅に引き取ったけれど全く世話はしなかった。それどころか、まもなく他に女を作って逃げていった。残された私は、確かに彼のことを罵っていたけれど、その時に使ったのよりもずっとひどい罵声をアダムがどこで憶えたのか、どう考えてもわからない。

 とはいえ、たかが鳥だ。そんなに長い間のはずはないから、命あるうちは世話をしよう。そう高潔なる決意をして優しく微笑んだらコイツはバタバタと羽ばたきながら甲高く叫んだ。
「生憎ダナ! おうむノ寿命、五十年!」

 一人暮らしの女がペットを飼いだしたらお嫁に行けないと言うけれど、アダムみたいな鳥を飼っていたら、間違いなく恋人なんてできない。部屋まで送ってきてくれた優男が、甘い台詞を囁きいいムードになるとすかさず「ソイツノ腕時計、偽物! 金ナンテナイ!」などと叫ぶのだ。いや、私、金目当てでつきあっているわけじゃないってば。でも、相手は真っ赤になって震え、私の性格と思考回路がどのようなものかを勝手に結論づけて、連絡が途絶えるのだ。

 もしかして、コイツがいる限り、私は独り者ってこと?
「生憎ダナ! おうむノ寿命、五十年!」

 OK、当面ボーイフレンドのゲットは諦めよう。でも、休暇は諦めたくない。誰かにアダムの世話を頼むのは問題がありすぎるので、連れ歩くことになるけれど、それでも自宅にずっといるよりはマシだ。あんなところに冬の間中こもるなんて、死んでも嫌。っていうか、死んじゃう。

 私の住んでいる村は、そびえる雪山の麓にある。夏は涼しく爽やかで、早番の仕事が終わった後にテラスのリクライニングチェアでのんびり日光を楽しむことができる。自転車で森をめぐり辺りの村にいったり、緩やかな山を越えるハイキングも楽しい。肩に載せたアダムが、放牧されている牛や羊、それにリスやイタチに喧嘩を売るのを見るのも微笑ましい。夏は、村そのものがリゾートみたいなものだと思い込むこともできる。

 でも、冬は最悪。日は短いし、暗いし、寒いし、道はツルツルに凍るし。子供の頃に事故を起こしてから、ウィンタースポーツを禁じられてしまった私には、いい事なんて何もない。田舎過ぎてショッピングも楽しめないし。

 スキーリフトもない谷なので、冬は閑古鳥の村で、夜になると通りはゴーストタウンみたいに誰もいなくなる。そんな寒村だから、村で唯一のちゃんとしたホテルは、二ヶ月の長期休暇にして閉めてしまう。私が勤めている安宿は、隙間で稼ぐいい機会だからと開けているけれど、光熱費の無駄だと思う。

 でも、そんな宿にも常連がいる。その一人が、毎年この時期にやってくる外国人で、五泊して行く。村に店はないし、隣村にもスーパーや衣料品店、ガソリンスタンドくらいしかない。面白いものなんて何もないけれど、その客ときたら外出することもなく、部屋でパンとチーズをプランデーで流しこんでいるらしい。ワインじゃないのはなんだと思うけれど、その辺は好き好きだから別にいい。

 ルームサービスで、追加のパンとチーズを持って行くと、とろんとした目で顔を上げる。ブツブツ言っていて、妻がどうとか、終末期医療の看護がこうとか、論文がああとか、私には理解できないことばかり。

 私なら、こんな村、寒くて暗い冬の安宿なんて、一度来れば十分だと思うけれど、なぜかこの客は十五年も通っているらしい。私は去年の夏から雇われているので、この客に逢ったのは初めてだけど。

 十五年って、アダムと一緒、私がアダムと暮らした日々の三倍だ。そんなに長く冬のこんな村に通うなんて、本当にどうかしている。どうかしているといえば、我が家のアダムもその客がいた五日間は、いつもにましてけたたましかった。

 ドクターのくせに教授職に就かないのはいかがなものかとか、著作が一冊もないなんて恥ずかしいとか、意味不明なことをギャーギャーと騒ぐのだ。

「うるさいわね。私は博士号なんて持っていないし、持つつもりもないわよ! 本を書くとしたらイケメン俳優と結婚して、離婚して回想録を書くくらいでしょ。アンタがいたらどうせイケメン俳優と結婚なんてできないんだから、黙りなさいよ!」
仕事から帰って疲れているのに、オウムに理不尽なことで責められるのは勘弁ならない。

「これ以上、意味不明なことをいうと、フライドチキンにしちゃうわよ!」
そういうとアダムはキッと睨み言った。
「オレサマ、鶏ジャナイ!  フライドパロット!」
仰有るとおり。って、オウムに言い負かされてどうする。

 そんなこともあり、イライラと、冬由来の欲求不満が積み重なっていたが、その客がようやく帰ったので、私は休暇を取ることができた。

 もちろん、太陽を求めて南へと旅立つのだ。青い海、白い建物、地中海料理が私を待っている。あ、私とアダムを。

 荷物を解いて、一息ついてから、私はバーでウェルカムドリンクを飲むことにした。ほら、映画ではそういう所にハンサムな御曹司かなんかがいて、恋が始まったりするし。部屋に放置するのもなんなので、アダムの入った鳥籠をもって私はバーに向かった。

 鳥籠を置けるカウンターの一番端に陣取ると、バーテンダーにダイキリを頼んでバーの中を見回した。イチャイチャするハネムーンカップルや、ケチそうな観光客はいるものの、御曹司タイプはみかけない。そうはいかないか。がっかりしていると、アダムがバタバタと羽を動かした。
「犯罪者メ! かくてるニでーとどらっぐ入レタナ!」

 振り向くと、バーテンダーがダイキリのグラスを差し出そうとしているところだった。
「ちょっと! そんな言いがかりをつけるのは止めなさいよ!」

 そして、バーテンダーに「ごめんなさい」と謝って、グラス手を伸ばそうとすると、バーテンダーは少し慌ててグラスを引っ込めた。
「申し訳ありません。今、ハエが飛び込んでしまって、取り替えます」

 私の方からは、ハエは見えなかったけれど、親切な申し出に感謝した。これ以上アダムがろくでもないことを言わないことを祈りつつ。新しく作ってもらったダイキリは美味しかったけれど、周りの観光客に見られているのが恥ずかしくて、まだ見ぬ御曹司の登場を待つこともなくレストランに移動した。

 レストランでは、鳥を連れていることに難色を示されたけれど、交渉してテラス席ならいてもいいと許可をもらった。海に沈む夕陽の見える素晴らしい席で、ラッキーだと思った。ここまで来たんだから、地中海料理を堪能しないと。

 前菜は魚卵をペーストにしたタラモサラダ。羊の内臓などを煮込んだスープ、パツァス。スパイスのきいたミートボールのケフテデス。もうお腹いっぱいだけれど、どうしても食べ高かったブドウの葉っぱでご飯と挽肉を巻いたドルマデス。デザートは胡麻や果物を固めたハルヴァ。アシルティコの白ワインも美味しかったし、ヴィンサントのデザートワインもいい感じ!

「ソンナニ食ウナンテ正氣ノ沙汰ジャナイ!」
アダムの毒舌に「失礼ね、このくらい普通でしょ」と言おうとしたのだけれど、言えなかった。食べ過ぎのせいか、お腹が痛い。っていうか、激痛……。えー、なんで。あまりの痛さに汗が出てきて目の前が暗くなった。

* * *


 目が覚めたら、ベッドの上にいた、白衣の人たちが歩き回っている。首から提げた聴診器を見て、ああ、病院にいるのかと思った。記憶を辿って、あのレストランでお腹が痛くなり、そのまま倒れてしまったのかと思う。

 ここは旅先だったっけと思うと同時に、アダムはどうしたんだろうと考えたが、長く思案する必要はなかった。視界にはいないがけたたましい声が聞こえたからだ。
「イツマデ寝テイルンダ!」

「大丈夫ですか? わたしがわかりますか?」
視線を声のする方に向けると、男がのぞき込んでいた。服装から見ると看護師のようだ。どこかで聴いたような声だ、どこでだったかしら。

「どくたーナラ、本ヲ沢山出版シナサイヨ! 教授二ナリナサイヨ!」
ちょっと待って。またあの戯言が始まった。

「私は博士号なんて持っていないと、言ったでしょう、アダム!」
私が叫び返すと、目の前の看護師は静かに答えた。
「わたしは持っていますよ。あなたは宿屋でも同じ事を訊きましたよね」

 私は、ぼーっとした頭の奥で脳細胞に仕事をしろと叱咤激励し、ようやくこの男が数日前に職場の宿に滞在していたあのブランデーを飲んだくれていた男であることを思い出した。

 それから、別の事も思い出した。専門は終末医療だって答えたよね、この人!
「えええええっ。私、死ぬんですか?」

「人生百年時代! デモ、必ズ百歳ニナルトハ限ラナイ!」
アダム、黙って!

「ご心配なく。人間は例外なくみな死にますから」
淡々と男が答える横から、聴診器をつけた別の男性が遮った。
「こらこら、そんな答え方をしないように。心配しないでください。ここは救急病棟です。氣分はいかがですか」

 どうやら、救急病棟の当番でこの看護師がここにいるらしいとわかったので、ずいぶんと氣分がよくなった。もちろん、すぐには死なないと太鼓判を押してもらったわけではないのだけれど。

「古イおりーぶおいるニアタッタ、間抜ケ。寝テテモ治ルケレド、ココデハ高イ医療費フンダクラレル!」
アダムが、期待を裏切らぬ無礼さで騒ぎ出すと、親切そうな医者の額がひくついた。

「私たちは、医療はビジネスではなく、尊い仕事だと思っていますので、ご心配なく」
そう断言する隣で、看護師の顔が奇妙な具合に歪んだ。

 忙しそうに、医者が退室すると、看護師はかがみ込んで小さな声で言った。
「命拾いしたかもしれないな。ああ言われても不必要な処置をして高額請求できるような、肝っ玉は据わっていないんだ、あのセンセイは」

 私は、ギョッとしてつい数日前まで客だった看護師の顔を見た。
「本当……だったの?」

 彼はウィンクした。
「旅行健康保険は入っている?」
「ええ。っていうか、クレジットカードに付いているの」
「ならいい。確実に払えってもらえると確認できない旅行者は退院させてもらえないしね。ところで……」

 彼は、鳥籠の中のアダムを見て訊いた。
「この鳥は、エスパーかなにかかい?」

 私は、首を傾げた。
「ひどく口の悪いオウムですけれど、エスパーなんてことはないかと……」

 彼は、首を傾げたままだ。
「さっきの言葉、とても偶然と思えなくてね」
「さっきのって、ドクターや教授がどうのこうのって、アレですか?」
「ああ」

 それで思い出した。
「そういえば、我が家で同じようなことを言っていたのは、あなたの滞在中でしたね。でも、勤務先には連れて行きませんでしたから、あなたの言葉をおぼえたってことはあり得ないと思いますけれど」
「それじゃあ、ますます……不思議だな」

 無事に食あたりもおさまり、救急搬送や深夜医療の代金を保険が払うことを確約してくれたので、私とアダムは翌朝にはホテルに戻ってもいいと許可をもらえた。

 私の休暇は一晩を無駄にしただけで済んだし、親切な看護師……不思議な縁もあるお客さんでもある人と知り合えたし、そんなに悪い経験じゃなかったかも。

 私は、鳥籠をもって終末医療セクションに向かい、彼に美辞麗句を尽くしてお礼の言葉を述べた。こういう時に印象をよくしておくと、次に繋がるはずでしょう。毎年あの宿に泊まるくらいだから、私の住む村のことは結構好きなはずだし、これって運命かも。

 そう思っているのに、アダムはあいもかわらず看護師に向かって謎の非難を繰り返している。ちょっと、なんなのよ!

「十五年も聴かずに済んだのに、またこれを繰り返されるのはたまらないな」
小さな声で、看護師は呟いた。

 それで、私は納得した。これって、私のボーイフレンド未満の男性陣を追い払った罵声と同じなんだ。なんなのよ、こんなところに来てまで邪魔するとは。これじゃ、いつになったらボーイフレンドができるやら。

 アダムは、得意げに宣言した。
「生憎ダナ! おうむノ寿命、五十年!」

(初出:2020年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(2)囚われ人の忠告

『Usurpador 簒奪者』の続きです。とはいうものの、前回のシーンからは一度18年先の時点に飛んでいます。前作『Infante 323 黄金の枷 』の主人公だった23が16歳、その弟の24が14歳の時の話です。前作で登場したメネゼス、ジョアナ、アマリアなどの名前が出てきますが、もちろんヒロインのマイアはまだ子供で23との再会は十年後までお預けです。

後半は、前回のシーンよりもさらに過去に遡ります。普段なら二回に分ける長さなのですけれど、この「Usurpador 簒奪者」に関しては長々と連載するつもりはないので、まとめて発表してしまいます。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(2)囚われ人の忠告

 館の執事であるアントニオ・メネゼスは、珍しく厳しい表情を見せていた。それでも、共に少年を扉の向こうに押し込めたクラウディオのように乱れた服装のまま息をついていたりはしなかった。

 半月ほど前に、ドン・カルルシュとドンナ・マヌエラの三男であるインファンテ324に第二次性徴が認められた。ドラガォンの掟に従い、これまで館の三階、両親の部屋の向かいに自室を持っていた少年は、館の北西翼に位置する特殊居住区に移されることとなった。その居住区は一階から三階までの空間を持ち立派な調度を備えた贅沢な空間だが、二階にある出入り口には鉄製の頑丈な格子が備えられ、一日一度の午餐の時間以外はそこから出ることも許されない幽閉空間だった。

 全ての準備が整い、今日の午餐が終わった時、彼は自室へ戻ることは許されず居住区へと案内された。兄であるインファンテ323は、慣れた様子で自らの居住区へと戻ったが、24はおなじ事を自分も求められていることを理解できなかった。即座に拒否し、丁寧ながらもメネゼスが引かないのを見て取ると、いつもの愛らしい様子で母親に助けを求めた。母親にはどうすることも出来ないことを知ると、当主である父親に涙を流して懇願した。最後は半ば引きずられるように格子の向こうへと連れて行かれた。

 それから、数時間にわたり懇願と、それから怒りの罵声を続けたが、誰も助けに現れることはなかった。500年以上にわたるドラガォンの掟。少なくとも323人の少年たちの懇願が受け入れられたことがないのに、彼だけ例外となることなど、不可能だった。彼は、夕食の用意に入ってこようとした召使いに体当たりをしてその隙に居住区から出ようと試み、アントニオとクラウディオがかなりの力を使って留めなくてはならなかった。

 これまで両親の愛情を受け、どんな我が儘にも耳を傾けてもらえた少年が、突然檻の中に押し込められる立場となったのだ。二年ほど前に既におなじ立場になっていた兄23のことを馬鹿にしてはやし立てていた彼は、時期が来れば自らもおなじ立場になることを知らされていなかった。長兄ドン・アルフォンソが、檻の中に入ることがなかったように、自分もまた常に屋敷の中で王子のごとく扱われて生きるものだと信じ切っていた。

 アントニオは、もう一度格子の出入り口を確かめ、しっかりと鍵がかかっていることを確認した。就寝準備のために三階へと向かうジョアナが静かに通った。彼女と目が合うと、アントニオは呼び止めるように手を挙げた。
「セニョール324の居住区へ明朝の掃除に入るのは?」

「アマリアが当番です」
ジョアナは、答えた。彼は頷いた。若いが落ち着いた娘だ。セニョール324の罵声を聞きながらでも掃除は出来るだろう。

「セニョール324は、納得しておられない。一人で入れば危険を伴うかもしれない。当分クラウディオを連れ、二人で行くように」
ジョアナは黙って頷いた。

 頭を下げてその場を去る時、ジョアナは階段の端に当主ドン・カルルシュが立っているのに氣がついた。彼の顔には苦しみがにじみ出ていた。嫌がる愛しい我が子を、無理に檻の向こうに押し込めなくてはならない自らの立場、何も出来ぬ無力さに苦しんでいることは間違いなかった。

 ジョアナとその後ろに立つアントニオを見るその目は、絶対権力者としての当主のそれではなく、助けを懇願する弱々しいものだ。ここ数年、ようやく当主らしい立ち居振る舞いをするようになった彼が封印したはずの迷いがその視線に見える。ジョアナは、振り返ってアントニオを見た。彼はいつものようにほとんど表情を変えずに佇んでいた。彼女はもう一度頷くと、軽く頭を下げながら当主の横を通り過ぎた。

「セニョール324の居住区への引越は完了しました。現在は、三階でお休みです。お氣持ちを鑑み、セニョール323の時と同様にしばらくは二十四時間体制をとります」

 アントニオ・メネゼスは、感情を排した声色でドン・カルルシュに報告した。ルイスに報告に行かせたのだから、ここでおなじ事を繰り返す必要はなかった。だが、メネゼスの言葉は、当主に決して覆らぬドラガォンの掟を思い起こさせた。彼は恥じたように瞳を落し、低く「ご苦労だった。引き続き頼む」とつぶやき、踵を返した。

* * *


 取り乱してはならない。カルルシュは、自室へと戻りながら考えた。二年前と同じだ。24にも、23と同様に諦めてもらう以外の選択はないのだ。二人を救ってやりたい、あの居住区から出してやりたいという願いを口にすることは、彼には許されていなかった。当主ですらドラガォンの掟からは自由になれないのだ。

 動揺を見せてはいけない。無力な姿を晒し監視人たちと問題を起こせば、黙って全てに耐えているマヌエラをいま以上に苦しめることになる。我が子が苦しみ、歪み、怒りと恨みを募らせていく姿を、見なくてはならない立場に彼女を追い込んだのは自分だ。誰よりも彼女の幸せを願っていたはずなのに。すべての恩讐を越え味方になってくれたたった一人のひとなのに。

 当主の座など欲しくなかった。愛する妻や我が子を苦しめる立場になどなりたくなかった。……それに、ドイスを苦しめたい、出し抜きたいなどと願ったことも一度もなかった。

 彼の心は、四半世紀前に戻っていた。ドイスが、今日閉じ込められた我が子と奇妙なほどよく似た少年が閉じ込められたあの忘れられない年に。

* * *


 前の週におこった騒ぎは、カルルシュをひどく不安にした。親しみを込めてドイスと呼ばれていたインファンテ322に第二次性徴が訪れ、母親である当主夫人ドンナ・ルシアが取り乱して館に緊張が走っていた。何が起こっているのか理解できずに戸惑うカルルシュを、これまでほとんど口をきいたことのなかった男が呼び止めた。その男は、居住区に隔離されていたインファンテだった。

「おい。何をメソメソしてんだ」
インファンテ321、自分の本当の父親だと言われたことがあるが、とてもそんな風には思えなかった。その日も彼は昼間だというのに酔っていた。

「いえ。なんでも……」
彼は足早に通り過ぎようとしたが、21はそれを許さなかった。
「待て。こっちに来い」

「なんでしょうか」
「どうせあのヒステリー女に恨み言でも言われたんだろう。メソメソするな。嘲笑ってやればいいんだ」

「でも、いったい……」
21は、弱々しくみじめで覇氣のない我が子を、淀んだ目で見下ろすと、ろれつの回らない口調で言った。

「いいか。おそらくお前と話すのはこれが最後になるだろう。俺は直にここから移されるんだからな」
「移される?」

「そうだ。インファンテは代替わりし、俺はもう用なしってことさ。だが、俺にはもう一つ大事な役目が残っている。……お前に忠告をすることだ」
「忠告?」

「そうだ。俺は、ペドロとあの女を出し抜いて、俺の種であるお前をプリンシペにした。だが、これで勝負がついた訳じゃないんだ。お前みたいなメソメソしてのっそりした奴なんぞ、あいつらの子は簡単に出し抜ける。いいか。氣を抜くな」

「氣を抜くなって、何に対して?」
「閉じこめられたインファンテは、存在意義を求めてあがくものだ。そして、いずれは俺と同じ結論に辿りつく。自分の遺伝子をドラガォンの五つ星にするのが一番だってな。お前は、プリンシペだが王冠が約束されたわけではない。いいか、油断するな。あいつに王冠を渡してはならない」

「ドイスと僕は何かを奪いあったりしない。彼はいつも親切だ」
「どうかな。これからは違う。違いはどんどん出てくる。そうなったら、お前は俺の言葉を思いだすだろう。お前は愚鈍で体も弱い。だが、お前がすべきことは本来たった一つだ。お前の血脈を繋げ。一刻も早く始めるのだ。あいつが女に興味を持ち出す前に。あの坊やがスマートに求愛をしている間に。女に命令し、寝室に引きずり込め。システムがお前の行動を後押ししてくれる。迷うな。そして、躊躇するな」

 カルルシュは、実父の言葉に嫌悪感を持った。血脈をつなぐと言うことが、具体的に何を意味するのかはよくわかっていないけれど、どんなことであれ誰かに乱暴をしたり、プリンシペの立場を利用して何かを強要したりするようなことをするものかと心の中で呟いた。

* * *


 それなのに、僕は本当に彼のいう通りにしてしまったのだ。ドイスの希望と歓びを横取りし、明るくまっすぐだった彼の瞳の輝きを奪ってしまった。

 カルルシュは、重い足を引きずるように階段を昇る。

 22は閉じ込められることがわかった日に、今日の24のように抵抗したりはしなかった。賢い彼は自分に名前がないことと同じ連番の呼称を持つ21との境遇から既に覚悟していたのだろう。その現実に向き合えなかったのは、むしろ22の実母であるドンナ・ルシアの方だった。

 22に第二次性徴が認められた日から、居住区の準備が整い移されるまでの間にやはり二週間ほどあったが、彼女はヒステリーを起こしたかと思うと、それまではあからさまにしなかったひどい憎しみをカルルシュに向けてきた。カルルシュ自身は、急に口撃されることの意味がわからず戸惑っていたが、22の方は、それで自分の運命がこれまで双子のように過ごしてきたカルルシュと分かたれることを悟ったのだろう。

 ドンナ・ルシアは、ついに踏み越えてはならない線を越えてしまった。誰もが望む結末をもたらすのだという確信に基づき、彼女は彼女にとっての正義を実行しようとした。それを望まないのはインファンテ321とその愚鈍な息子の二人だけのはずだった。けれど、すでに二十四時間の監視が実行されていた館の中で、彼女は計画を成し遂げることができなかった。

 ドンナ・ルシアは、愛する我が子に別れを告げることすら許されなかった。そのまま「ドラガォンの館」から姿を消した。

 母親が急にいなくなってしまった理由を知っていたにもかかわらず、22は決してカルルシュに恨みじみたことを言わなかったし、当主の実子であるにも関わらず檻の中に押し込められることへの不満をカルルシュにぶつけることもなかった。彼は、ただ運命を受け入れ、自分の足で居住区に入り、召使いたちが施錠するのを見つめた。

 以前のようにともに学び、余暇時間を過ごすことはなくなり、午餐や礼拝の時に顔を合わせるだけになったが、22は彼に対する態度を変えなかった。それは、周りの期待に応えられずドン・ペドロの叱責に項垂れる他はないカルルシュにとって、ずっとほぼ唯一の慰めだった。当主にも、《監視人たち》にも、召使いたちにも、助けと慰めと優しさを求められなかったカルルシュにとって、22は唯一の家族であり、友であり、助け手だった。……ずっと後にやってきたマヌエラが22以外にはじめて手を差し伸べてくれるまで。

 けれど、22にとって彼はその様な存在ではなかったのだ。彼は簒奪者で、裏切り者だった。絶望の中でようやく見つけたたった一つの小さな蕾を無残に踏みにじった。誰からも愛され、才能あふれ、高潔な魂を持った一人の男の人生をめちゃくちゃにしてしまった悪魔でしかなかった。

 十三歳だったあの夜に姿を消したドンナ・ルシアの行方をカルルシュが知ったのは、彼女の夫であるドン・ペドロが亡くなり、正式にドラガォンの当主となってからだ。22に既に二十年近く会っていなかった母親と面会させてやりたいというのは、カルルシュらしい甘く感傷的なアイデアだったが、ソアレスはひと言で済ました。
「ドン・ペドロは、あの方の腕輪を外されました」

 カルルシュは項垂れた。彼女は生涯インファンテと会う機会を失っていたのだ。

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Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 護田鳥

今日の小説は、唐突ですが「樋水龍神縁起 東国放浪記」です。

実はですね。「scriviamo!」でユズキさんへのプランB作品として書き出したものなんですよ。ユズキさん、鳥がお好きなので、鳥の作品を書きたいなと。ところが、書いているうちに「ダメだ、これ、本編読んでいないと意味もわからない」「っていうか、どう考えても本編じゃん」と。で、もう一度対策を練り直し、「scriviamo!」の方は、日曜日に「お菓子天国をゆく」という「大道芸人たち・外伝」をアップしたというわけです。

でも、せっかく書いたので、もう出しちゃえと思いまして。外伝ではもう登場しているメインキャラが本編でようやく登場です。


「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む 「樋水龍神縁起 東国放浪記」




樋水龍神縁起 東国放浪記
護田鳥


 エボー、ボーという、こもったような低い鳴き声が聞こえて三根は夏だと思った。この鳴き声がするのはほんのわずかの間だけで、それが終わると蒸し暑い日々になる。

 護田鳥おずめどり (注・ミゾゴイ鳥の和名)は、巣作りを始めたようだ。

 三根が護田鳥にことさら心を掛けているのは、彼女がいただいているありがたくない呼び名のせいでもある。悍女おずめ 。船衆だけでなく、町衆までも三根をそう呼ぶ。他の女と較べてさほど氣が強いとも、強情であるとも思ったことはないが、一度ついてしまった名を返上するのはなかなか難しい。

 だが、その名と引き換えにしても、あのいまわしいガマガエル男の慰み者にならずに済んだことを三根は嬉しく思っていた。少領の息子として産まれてきたというだけで、飯炊き女から湯女まで悉く自由にできると思ったら大きな間違いだ。

 ただし、うつけ息子を張り倒して少領のお屋敷から飛び出した後の行動は、考えが足りなかったかもしれないと、今にして思う。三根は港に向かい、兄の作蔵に助けを求めた。

 鬼のように大きく力強い作蔵だが、若狭小浜の船衆に過ぎない。少領なら、難癖をつけて罰することもできる。そのまま三根を匿っていたら船どころか命すらも失ったやもしれぬ。たまたま荷揚げのためにその場にいた『室菱』の元締めが素早く三根を連れ去り自分の元に匿ってくれたので、作蔵は追っ手に知らぬ存ぜぬを通すことができた。

 かや 様には、一生かかっても返せないほどの恩ができた。三根は、身内でもないのに自分をかばい、そのまま置いてくれた女主人、『室菱』の若き元締めのことを考えた。

 献上品となる尊い濱醤醢はまひしお は、同じ大きさの壺に入った砂金ほどの価値があると言われている。鮮度のいい最上の小鯛のみを使い、家に伝わる秘伝の製法にて調整した魚醤だ。もともとこの若狭小浜で作られてきた名産品だが、『室菱』の濱醤醢は別格で、濱醤醢の元締めである萱は平民であっても少領ごときが難癖をつけられるような相手ではない。

 三根は少領の屋敷に戻らずに済んだだけでなく、そのまま萱の元に留まり働くことを許された。「悍女おずめ 」の悪名はついてしまったが、氣にしていなかった。

 大きな羽音がした。

 見ると田んぼに赤茶けた姿が暴れている。護田鳥おずめどり だ。一体どうしたというのだろう。

 護田鳥が水辺にいるのは普通のことだ。人を見ても立ち去らないので田を護る鳥だと言われている。だが、普段ならこのように暴れることはない。近づいてみると、羽ばたいているのは一方の翼だけでもう片方はだらんと垂れている。怪我をしているのか、どこかで折れたのかもしれない。

 三根が近づくと、警戒しつつも羽ばたきはやめない。キッとこちらを見る様子を見て、思わず三根は笑った。その鋭い目つきと人を怖れない態度が「おずめ」と呼ばれる所以なのだ。
「安心して。害は加えないわ。でも、こんなところに居たら直にトンビにでも襲われてしまうわよ」

 腰からしびら だつもの(注・エプロンか巻きスカートのような布)を外し、護田鳥を包んだ。護田鳥は観念したのかそれ以上暴れず、三根の腕に収まった。

 『室菱』にたどり着くと、いかがしたことか中がいつもより騒がしい。献上品は昨日に大領のお屋敷にお届けしたばかりなので、何があったのかわからない。土間で足を洗っていると、奥から萱が出てきた。

「三根か。遅かったがどうしたのか」
「申し訳ございません、萱様。怪我をしていた護田鳥をそのままにできませんでした、この通り」
そう申して褶だつものに包まった鳥の顔を見せると、女主人は笑った。
「お前も病人を連れてきたか」

「と、おっしゃいますと、他にも?」
萱の片側に下げてある長い髪が揺れた。三根や他の平民の娘たちと違い、萱の佇まいと姿はやんごとないお方のようだ。同じような小袖を身につけていても乱れなく、襟元も常に整っている。髪を長くしているが、鴉のように艶やかで美しい。

 萱は頷いて、奥を示した。
「客人が二人いる。市の近くで宿を求めていた公達と従者だ。が、従者の方が倒れてしまったので、岩次にここに運ばせた。三根、申し訳ないが佐代と交代して病人の世話をしてくれぬか」

 三根は頷くと、入ってきた岩次に護田鳥を褶だつものごと預け、奥に向かった。佐代は自分の仕事の他に、公達の世話と病人の世話でてんてこ舞いに違いない。それにしても、萱様はなんとお人好しなのか。見ず知らずの二人組を連れてきて面倒を見る義理もないだろうに。

 奥の小さな部屋に、病人は寝かされていた。三根がそっと入ると、佐代は安堵の顔を見せた。手招きされて共に台所へ向かった。佐代からたらいを受け取る。
「どうなさったの?」

「大変な熱なの。主どのを草の庵で寝かせるわけにはいかないと、無理していたみたいだけれど、歩けなくなってしまったみたいで」
「それはお氣の毒だけれど、どうして萱様が面倒を見ることになったわけ?」

 佐代は声を潜めて答えた。
「どうやら、萱様がご存じの方のようよ」
「その公達が?」
「いえ、倒れた従者の方」

 公達の世話をするために去って行った佐代と別れ、たらいに冷たい水を張って三根は小さい部屋に戻った。切灯台の焰が揺れている。

 どうやら熱は高いものの、容態は落ち着いているようだ。三根は、男の額に置かれた手ぬぐいを取り替えた。男は目を覚ましたのか、わずかに目を開き、粗く息をつきながら言った。
「かたじけのうございます……。ここは、いずこに……ございましょうか……。我が主……春昌さまは……」

 三根は答えた。
「ご安心くださいませ。ここは濱醤醢を醸造する『室菱』の屋敷。わが主、萱様があなたのご主人様を別のお部屋でおもてなししています。お心安らかにお休みくださいませ」
「なんと……それは、ありがとう存じます……」

 安堵したのか、再び寝息を立てだした。三根は静かに部屋を抜け出し、護田鳥を岩次から受け取ってきた。岩次がすでに応急処置を終えており、折れた翼は固定され、もう一つの翼もたたんだ上に布で巻かれ羽ばたけないようにして、魚採りの籠に収めてあった。

 イワシを与えると盛んに食べるが、目つきは相変わらず鋭く、「おずめ」の名は伊達ではないと三根は笑った。そのまま籠をもって、病んだ従者の寝ている部屋に戻った。

* * *


 エボー、ボー。尺八のような籠もった音が響いている。うるさいなあ。どうして森で鳴かないんだろう。三根の意識は朦朧と彷徨っている。

「護田鳥は夏を無駄にしたくはないのでしょう。かわいそうに、この翼では森へ行くことは叶いますまい」
……この声は、萱様?

「鳴くほどの力が戻ってきたのだから、あるいは、命をつなぐことができるやもしれぬ」

 聞き慣れぬ男の声にぎよっとして、三根は飛び起きた。いつの間に眠ってしまったのか、朝の光が天窓から差し込んでいる。病人は変わらずに寝息を立てているが、その向こうに萱と見知らぬ男が座っている。狩衣を身につけているので、これが病人の主人なのだろう。

 三根は頭を畳に擦り付けた。
「も、もうしわけございません!」

 萱はわずかに口角を上げた。
「よい、三根。夜通しの看病で疲れたのであろう。ご苦労でした」

 公達が頭を下げた。
「次郎の熱はすっかり下がった。そなたの献身的な看病のお陰だ。心からの礼を申し上げる」

「め、滅相もございません!」
ちらりと見ると、確かに病人は静かに寝息を立てている。明け方にはまだかなり熱があり肩で息をしていたので、朝になったら萱様に報告せねばと思っていたのだ。

 三根は公達の姿を見て首を傾げた。紺の狩衣を身につけているが、色は褪せ、袴にも汚れが見えている。堂々とした佇まいとこの服装、そして従者を連れて歩いているところを見ると、やんごとなき方なのだろうが、その日の宿にも困るような理がわからない。佐代は萱様が従者の次郎さんとやらをご存じだって言っていたけれど。

「それにしても縁とは不思議なものだ。萱どの。そなたが次郎を知っていたとは」
公達が、三根のまさに訊きたかった件を切り出してくれた。水を替えに行こうとした三根は、せっかくなので次郎の手ぬぐいをもう一度濡らして、もうしばらくその場にいることにした。

「はい。五年ほど前になりますでしょうか。まだ父が生きておりました頃、名代として奥出雲の樋水龍王神社に参りました」
萱は、静かに語り出した。

「樋水に?」
「はい。樋水龍王神社では、奴奈川比売さまの例祭に姫川の御神酒をお使いになるのです。あの年は、越国で大変な飢饉がございました。糸魚姫川流域ではほとんど米が獲れなかったのでございます。奉納予定だった御神酒を乗せた船が沈み、多くの樽が失われた後、代わりのお酒を探しても、姫川から獲れたものはもう残っていなかったそうです」

「それで?」
「私どもの所に八樽ほどございました。私どもの濱醤醢も、姫川のお酒を使うのです。もちろん神事ではございませんので、どうしてもそのお酒でなくてはならないということもございませんので、樋水にお譲りすることになりました。お届けしてそのまま帰途につく心づもりでおりましたが……」

 公達は、萱をじっと見つめて言った。
「媛巫女様が、お目にかかりたいとおっしゃられたのでしょう」

「どうしてそれを?」
萱は心底驚いたさまで頷いた。

「そなたが龍王さまの神域に現れたなら、いやでも氣付く。それほどそなたの発する氣は大きく強い。そうおっしゃったのでは」

「はい。誠に。あの……安達様はなぜそれを」
公達は、わずかに笑みを見せた。
「媛巫女にも劣らぬそなたの氣が見えているからだ。おそらく、そなたにも見えているのではないか」

 萱は、首を振った。
「いいえ。亡き父は、私が童の頃にこの世ならぬものをよく見ていたと申しておりましたが……」
「……そうか。童の頃にはぼんやりと見えていたが、やがてなにも見えなくなってしまう者も多い。が、そなたの氣を見る限り、そのような微かな力とは思えぬ。見えぬようになったのではなく、自ら封印し見ぬようにしただけやもしれぬ。いずれにせよ、媛巫女がそなたに逢いたがった理由は、よくわかる。そして、その折りに次郎とも見知ったのだな」

 三根は、不思議に思い二人の顔を見た。この病人は、樋水龍王神社の関係者なのだろうか。

 萱は頷いた。
「媛巫女様の郎党であられた次郎様と、このような形で再びお目にかかるとは、ほんに縁とは不思議でございます。安達様も、媛巫女様をご存じでいらしたのですね」

 途端に、切灯台に残っていた焰が揺れて消えた。護田鳥が鳴くのをピタリと止めた。

 安達春昌は、ほとんど表情を変えずにいたが、萱がぴくっと動き、客人の顔をまともに見た。三根には全くわからない何かを、女主人は明らかに感じたらしかった。
「安達様……」

「すまぬ。そなたを驚かせたようだ。そのつもりはなかった。さよう、私は媛巫女を知っている。樋水へ行き、媛巫女も、そして次郎も知ったが、そうするべきではなかった。私が樋水に行かなければ、この者はこのようなところで病に倒れることもなく、そなたにもこのように迷惑を掛けずに済んだのだ」

 春昌は、ほとんど表情を変えずにこれだけ言うと、口を閉ざした。萱は、しばらく考えるように間をおいてから、護田鳥の入った魚籠を手に取って、客人に見せた。

「ご覧くださいませ。護田鳥は、命を救われてもこのように私どもを睨みつけます。この濱に立ち寄らなければ、そなたたちに迷惑を掛けずに済んだなどとは申しません。それが自然の理でございます」

 安達春昌は、わずかに表情をゆるめて萱を見た。それから、眠る次郎を見つめた。

「次郎様がお倒れになったのも、安達様がこちらにおいでになったのも、全ては縁でございます。そして、おそらくは媛巫女様がお引き合わせくださいましたのでしょう。どうぞ、ゆるりとおくつろぎくださいませ。私も、そして、こちらの三根も、心を込めてお世話させていただきます」

 三根は力づよく頷いた。萱様がこのお二人をお助けしたいと思うなら、私も。

 彼女自身も萱に助けられ、その人となりに心酔しよく仕え、懸命に働きたいと常日頃考えている。

 萱に特別な氣とやらがあるかどうか、三根にはさっぱりわからない。だが護田鳥ですら、三根が世話をしていたときのように挑戦的な動きをしない。いつもそうなのだ。どのような獣も、萱の前では大人しくなる。

 同じく悍女おずめ と呼ばれる三根も、萱に対しては反抗的に振る舞ったりはしない。萱に匿ってもらった恩義はもちろんだが、ここで働きたいと願う思いはそれだけではない。ましてや迷惑をかけるのでここを去ろうなどということは考えたことすらない。

 難しいことはわからないけれど、それが縁というものなのだろう。一番の恩人である三根に、相変わらず反抗的な目つきをしてみせる護田鳥に、小鯛のエラや背びれを与えながら、三根はそんなことを考えていた。

(初出:2020年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】お菓子天国をゆく

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第一弾です。ユズキさんは、プランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

ユズキさんは、小説の一次創作やオリジナルのコミックを発表、それにイラストライターとしても活躍なさっているブロガーさんです。現在代表作であるファンタジー長編『片翼の召喚士-ReWork-』の続編『片翼の召喚士-sequel-』、そして『アストリッド様と「行くわよ愉快な下僕たち!」』などを連載中です。そして大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストも描いてくださっています。

 今回はプランBで完全お任せということでしたので、どうしようかなあと悩みました。アスト様の世界も好きなのですけれど、まだ世界観をちゃんとわかっていないですし、(あ、アルケラの世界もちゃんと読み込めているかというとかなり不安ですけれど)、勝手にコラボはやはり何回かしていただいている皆さんにお願いしようかなと……。

今回メインでお借りしたのは、愛くるしいフロちゃんですが、仔犬ではなくて神様です。うちのレネが相変わらずぼーっとなっている【ALCHERA-片翼の召喚士-】世界のヒロイン、キュッリッキ嬢を護るために地上にいらしているのですけれど、おやつに目がないところがツボで、うちの甘い物好きと共演させたくなってしまったのです。ユズキさん、勝手なことを書きまして失礼しました。リッキーさんたちの活躍の舞台はこの惑星じゃないんですけれど、うちの連中のスペックが低過ぎてそちらに伺えないので、無理矢理ポルトガルに来ていただきました。


【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物



「scriviamo! 2020」について
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大道芸人たち・外伝
お菓子天国をゆく
——Special thanks to Yuzuki san


 春のポルトガルは雨が多い。大道芸にはあまり向かないのだが、大道芸の祭典『La fiesta de los artistas callejeros』の準備で来たので、今回の渡航目的のメインではない。余った時間に偶然晴れていて稼げたら儲けもの程度の心づもりでやって来た。

 思いのほか珍しくよく晴れて今日は十分稼げたので満足だった。マグノリアの紫の花が満開になっていて、青空によく映える。白と青のタイル、アズレージョで飾られた教会の前には、若葉が萌え立つ街路樹が楽しそうにそよいでいた。

 稔は、街中の楽器店を回って、ようやく目当ての弦を見つけた。ギターラと呼ばれるポルトガルギターの弦ではないので、ポルトガル以外でも買えるのだが、これからミュンヘンに戻るまでは大きな都市に滞在しないので、できれば入手しておきたかった。途上でもかなり激しく弾くから、また切れるなんて事もあるしな。それに、ずいぶん安かったのは、有難いよな。そんな独り言を呟きつつ坂を下った。

 さてと。ブラン・ベックたちを拾って行かなきゃ。稔は、通りの洋服屋や靴屋は存在を無視し、土産物屋を覗くこともせずに、ショーウィンドウに菓子がズラリと並んでいるパステラリアのみをチェックした。ポルトガルでコーヒーを飲もうとする地元民は、カフェまたはパステラリアに行く。違いはパンや菓子などを売っているかどうかだ。パステラリアは「お菓子の博覧会」状態で、ポルトガル人の愛する卵黄を使ったお菓子のために全体的に黄色く見える。

 三軒目の入り口近くに、ニコニコ笑いながら菓子を選んでいるレネがいた。稔がガラスの扉を開けて中に入ると、太った店員がレネの言葉に従い茶色の袋に次から次へと菓子を放り込んでいる。ブラン・ベック、どんだけ食うんだよ。それ一個でも、めちゃくちゃ甘いぞ。

 稔に氣付いたレネは、すこし照れたように笑ったが、指示はまだ続いた。抱えるほどの大きさになったところで、ようやく会計するように頼んだ。

 稔は奥を覗いたが、他のメンバーは見当たらない。
「あれ。お蝶とテデスコは?」
「先に行って飲んでいるそうです」

 四人は小さなアパートを借りて滞在し、夜はいつも通り宴会をする予定だ。甘い物に興味があるのはレネだけなので、スイーツ選びに飽きて帰ってしまったのだろう。

「こんなにどうすんだよ。そんなに食えないだろ。酒に合わせるならタパスにすりゃあいいのに」

 レネは人差し指を振ってウィンクした。
「ヤスが教えてくれたんじゃないですか。お菓子は別腹です」

 お菓子は別腹という、謎の言い草は日本でしか市民権を得ていないのだが、レネの心にはヒットしたらしい。確かに彼はいくらご飯でお腹いっぱいになっても、スイーツは無限に食べられる特異な胃袋の持ち主だった。

 ポルトガルは、甘い物に目のないレネにとっては、天国のような国だ。パステラリアのショーケースは、彼にとって宝石箱のように見えるらしい。洗練されたディスプレイではない上、日本のケーキ屋のように見かけには凝っていないし、それぞれの名前も書いていない。店員も日本のケーキ屋の恭しい接客はしないが、ポルトガル語が堪能でなくても欲しいものを指さして手軽に買うことができる。

 マカオでエッグタルトとして有名になったパステル・デ・ナタはもちろん、シントラ名物のケイジャーダ、ライスケーキの一種ボロ・デ・アロース、ココナツで飾ったパン・デ・デウス、豆を使ったパステル・デ・フェイジャオン。ドイツで有名なベルリナーの黄味餡バージョンのボラ・デ・ベルリン。稔にわかるのはそのあたりだ。

 レネの知識は、さらにそれを凌駕していた。次々と未知の菓子を解説してくれる。
「名前がいいんですよ。ミモス・デ・フェイラは《修道女の甘やかし》。ケイジーニョス・ド・セウは《天国のミニチーズケーキ》、トラオン・レアルは《ロイヤルクッキー》、こっちは《黄味あん入りの宝箱》」

「お前、いつそんなにポルトガル語に詳しくなったんだよ」
「お菓子の名前しかわからないんですけれどね」

「俺もなんか買おうかな」
稔は、ショーケースを見回してから、甘みの少なそうな黒い菓子を一切れだけ買った。
「なんだろ、これ」

「《チョコレートのサラミ》って言うんですよ。ビスケットの欠片を少し柔らかめのダークチョコで固めてあるんですよね。美味しいですよ」
「ふ、ふーん」

 ようやく会計を終えて帰ることにした。レネは大量の菓子の入った袋を抱えているので、稔が扉を開けてやる。

 通りの向こうを白い長衣を着た男性と、空色のドレスを着たカップルが歩いて行くのが見えた。外国人を見慣れている稔でも凝視せずにいられないほど、美男美女だ。後ろを白い仔犬と黒い仔犬がとことこと付いていく。

 二人が仲睦まじく話している声が届いた。
「ねえ。メルヴィン。その教会の尖塔に昇ってみたいの」
「ああ、上からは街が隅々まで見渡せるでしょうね。エレベーターはないから、階段をかなり昇らなくてはなりませんが、大丈夫ですか?」

 レネは、ぼーっとその美少女に見とれていた。
「おい、ブラン・ベック。またかよ。めちゃくちゃ綺麗な子だけどさ。どう考えても、相思相愛のカップルだぜ」

 レネは抗議するように振り向いた。
「違いますよ。もちろん、綺麗だなあって見とれましたけど、それだけじゃないですよ。ほら、僕たち、あの女の子に一度逢ったことあるなって」

「どこで」
「モン・サン・ミッシェルで。ほら、見てくださいよ、二人の後ろにいるあの白い仔犬……ヴィルがしばらく連れていた迷い犬……」

 稔は首を振って遮った。
「おいおい。お前、大丈夫か? 飼い主の女の子までは憶えていないけど、あの白いのは、たしかにあの時の仔犬にそっくりだよ。だけどさ。あれから何年経っているんだよ。ずっと仔犬のままのはずないだろう」
「そうですよね。確かに……。それに、今度は二匹だし」

 そう言った後に、レネは首を傾げた。
「だったんですけれど……もう一匹、どこに行ったんだろう?」

 通りの向こう、目立つ美貌のカップルが教会の尖塔を見上げている足下には、かつてあのヴィルが珍しくかわいがった仔犬とそっくりな白い仔犬が座っている。だが、つい数秒前に一緒にいた黒い仔犬はいない。

 稔が、レネの肩を指でつんつんと叩いた。見るともう一つの指はレネの足下を示している。目で追うと、そこには……。
「ええっ!」

 飛び上がった、足下には青いつぶらな瞳を輝かせて、黒い仔犬が座っていた。親しみ深い口元を開けて、ちょこんと座る姿は実に愛らしい。かつてモン・サン・ミッシェルでヴィルが肩に載せていた白い仔犬と較べると、ずいぶんと丸々としているし、いかにも何かを期待している様子も大きく違う。

前足をレネのに置き、催促するように布地を引っ張った。
「え?」

 黒い仔犬が期待を込めて見つめる視線の先は、お菓子のあふれている紙袋のようだ。
「もしかして、お菓子が食べたいとか? まさかね」

「わざわざお前のところに来たって事は、そうかもしれないぞ。こんなに菓子買っているヤツ、他にはいないもんな」
そう言って、稔は自分の買った《チョコレートのサラミ》をパクパク食べた。

 黒い仔犬は「どうして僕にくれないの」とでも言いたげに、稔の足下に移動してぐるぐると動いた。
「お。悪い。でも、これはダメだよ。犬にはチョコは毒だろ?」

 仔犬は不満げに見上げていたが、さっさと切り替えてまたレネを見上げた。
「仕方ないですね。どれがいいかな」
レネがしゃがんで、お菓子の袋を開け、選ぼうとした。すると、黒い仔犬はまっすぐに袋に顔を突っ込んで食べ出した。

「ええっ! ちょっと、それは!」
ほんの一瞬のことだった。仔犬の頭は袋の中にすっぽりとハマり、躊躇せずに食べている音だけが聞こえる。

 二人ともあっけにとられていると、後ろから短い鳴き声がした。仔犬と言うよりは狼の遠吠えのようだ。いつの間にか白い方の仔犬が、レネたちの足下に来ている。

 黒い仔犬は、ぴたっと食べるのを止めた。白い仔犬は、黒い仔犬の尻尾を口にくわえて引っ張り、紙袋から頭を出させた。黒い仔犬の口元は、ありとあらゆるお菓子の破片がベッタリついている。黄味餡、アーモンド、ココナツラペ、ケーキの欠片。

「フローズヴィトニル! なにしてるの?!」
「申し訳ありません。もしかして、あなたのお菓子を食べてしまったのでは」
道の向こうにいた二人が、なにが起こったかを察して慌ててこちらに走ってきた。当の黒い仔犬は可愛い舌をペロリと見せて、愛くるしく一同を見上げる。

「いや、いいんです。それより、勝手にお菓子をあげてしまったりして、大丈夫でしょうか……」
レネがもじもじと、二人に答えている。

 稔は、またブラン・ベックのビョーキかよと呆れながら傍観することにした。黒い仔犬はどうやら白い仔犬に叱られているようだ。って、そんな風に見えるだけかもしれないけどさ。

「ごめんなさいなの。この子、ウチでいつもケーキとか食べさせてもらっているので、遠慮なく食べちゃって」
「弁償させていただきたいのですが、このくらいで足りますでしょうか」
背の高い青年もそつのない態度で頭を下げ、財布から何枚ものお札を取り出した。

「とんでもない。ポルトガルのお菓子はとてもリーズナブルですから、そんなにしません」
レネは、感謝して、20ユーロ札を一枚だけ受け取った。

 もう一度同じお菓子を買うために、レネがパステラリアへ足を向けると、黒い仔犬は当然のように自分も入ろうとしたので、二人と白い仔犬に止められた。稔は堪えきれなくなって爆笑した。なんなんだよ、この食い意地の張ったワンコは。

 でも、ブラン・ベックにとっても、この黒ちゃんにとっても、ここがお菓子天国なのは間違いないな。右も左もパステラリアだらけだし、十分楽しむがいいや。

 レネから譲り受けたかつてお菓子の入っていた袋にまた頭を突っ込んで残りのお菓子を平らげる黒い仔犬は、わかっているよと言いたげに、小さな尻尾を振って見せた。

(初出:2020年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(1)誰もいない海

今年最初の小説は、予告したように『Usurpador 簒奪者』の第一回です。新年には特に相応しくない、暗い始まりなのですが、この小説、ずっとこのまま暗いかも……。

前作『Infante 323 黄金の枷 』を読んでくださった方は混乱するかもしれませんが、この話はおよそ30年くらい前の話がメインです。時々時間軸が動いたりします。一応、連載として連番が打ってありますが、実際はそれぞれが別の外伝に近い書き方をしてあります。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(1)誰もいない海

 大統領の秘書は最敬礼して帰って行った。ポサーダであるフレイショ宮殿ホテルの貸し切られた一室で、静かにコーヒーを飲み終えたマヌエラは、同席していたジョアン・ソアレスに頷いた。彼は立ち上がると携帯電話で運転手のヌエスに表に車を回すように告げた。

「お疲れさまでした。その……失礼ながら、感服いたしました」
ソアレスは、口ごもった。

「何がですか」
マヌエラは、黒服の男を見やった。彼は、つい数ヶ月前まで彼女の上司であったドラガォンの執事バジリオ・ソアレスの長男で、《監視人たち》中枢組織の中でも最高幹部にあたる存在だった。大統領の筆頭秘書と会見して、ドラガォンの当主ドン・ペドロの手紙を手渡す大役を初めて務めたマヌエラにとって、彼は補佐であると同時に目付役、文字通りの監視人でもあった。

「このような場でも、実に堂々となされて、まるで何年も前からドラガォンのスポークスマンとしてご活躍なさっておられるようです」
「ありがとう。一人だったら不安でしたけれど、あなたがそこに控えていてくださったから、安心していられました」

 ドラガォンの当主は、伝統的に外の人間に会うことはない。相手が大統領本人でも、ローマ教皇でも同じだ。代わりに応対するのは、通常はその妻またはインファンタと呼ばれる当主の娘だ。だが、当主ドン・ペドロの妻ドンナ・ルシアが館から退けられてから八年が経っており、ドン・ペドロには女子がなかったので、これまではジョアン・ソアレスなど《監視人たち》中枢組織幹部がドン・ペドロの名代となってきた。

 当主の跡継ぎドン・カルルシュと結婚しドンナ・マヌエラとなった彼女は、ドン・ペドロの名代としての役目を果たすことになった。まだ二十二歳と若いことや、妊娠していることは、その役割を退ける言い訳とはならなかった。彼女は、全てがこれまでの人生とは変わってしまったことを日々噛み締めていた。自分で選んだことではなかったが、動かすことは出来なかった。ドン・カルルシュと結婚し、未来の当主夫人として生きていくことを受け入れたのは彼女自身だった。

 強くならなくてはならない。これが、現実に進んでいく人生なのだと、理解しなくてはならない。「そうだったかもしれないもう一つの人生」について考えるのはもうよそう。彼女は、窓からD河の煌めく波を眺めた。彼を、カルルシュを支えて一緒に運命に立ち向かおうと決めたのだから。

「そろそろ行きましょう、ミニャ・セニョーラ」
ソアレスの言葉に我に返り、頷くと、マヌエラは開けてもらった扉の向こうへと歩き出した。

 正面玄関の前で待っていたヌエスは、後部座席の扉を開けてマヌエラを座らせた。それから助手席に座ったソアレスとマヌエラ両方に言った。
「事故がございまして渋滞しているようですので、河向こうを通り、アラビダ橋経由で戻らせていただきます」

 マヌエラは頷いた。どこから帰ろうと同じだった。ドラガォンの館に向かうしかないのだから。その同じ館に閉じこめられている男のことを考えた。彼女が車窓から眺める光景を、きっと彼は生涯目にすることはないだろう。そして、本当だったらマヌエラも、今見ている光景を見ることなどなく、格子のはまった窓からかつてみた街の記憶を辿るはずだった。当主の名代になるとこなどなく、ただ一人の男の人生に寄り添っているはずだった。

「裏切り者」
彼の憎しみに満ちた瞳が、マヌエラの心を刺し続けている。選んだのは自分ではない、逃げることも出来ない、そうであっても、マヌエラは彼の言葉が正しいのだと思った。カルルシュを憎み拒むことだけが、彼の想いに寄り添うたった一つの意思表示なのだから。カルルシュを受け入れ、結婚し、生まれてくる命を待っている自分は、たしかに彼の愛を裏切ったのだ。

 マヌエラは、彼女を得た代わりに世界で一番大切な人間の愛を失ってしまった簒奪者の苦悩に想いを馳せた。アラビダ橋から見えた大西洋は輝いていた。船もなく、観光客や漁師たちの姿も見えなかった。世界は空虚で冷たかった。
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Posted by 八少女 夕

Usurpador 簒奪者 あらすじと登場人物

この作品は、ポルトガルのポルトをモデルにした街のとある館を舞台に進む小説群『黄金の枷』シリーズの第2作です。『Infante 323 黄金の枷』とその続編『Filigrana 金細工の心』よりも30年ほど前に起こったことを主に扱っています。

【あらすじ】
 黄金の腕輪をはめた娘、後の当主夫人マヌエラは召使いとして「ドラガォンの館(Palácio do dragão)」で働き、2人の対照的な青年と関わることになった。

【登場人物】(年齢は第一話時点でのもの)

◆マヌエラ・サントス(22歳)
 「ドラガォンの館」の召使い。ブルネットに近い金髪にグレーの瞳が美しい娘。

◆ドン・カルルシュ(21歳)
 「ドラガォンの館」の世継(プリンシぺ)。黒髪と濃い焦げ茶の瞳を持つ背の低い青年。

◆Infante 322 [22] (21歳)
 同じ年に生まれたドン・カルルシュの弟。「ドラガォンの館」で「ご主人様(meu senhor)」という呼びかけも含め、ドン・カルルシュと全てにおいて同じ扱いを受けているが、常時鉄格子の向こうに閉じこめられている。雄鶏の形をしたコルク飾りに彩色をする職人でもある。明るい茶色の髪。海のような青い瞳。ピアノ、ヴァイオリンを弾くことができる。

◆アントニオ・メネゼス(26歳)
 「ドラガォンの館」の執事補佐で、《監視人たち》の一族出身。

◆ジョアナ・ダ・シルヴァ(21歳)
 「ドラガォンの館」の召使いである女性。同僚であるマヌエラの親友。

◆ドン・ペドロ
 「ドラガォンの館」の当主で22の実父。非常に厳格で、特に次期当主となるべきカルルシュには厳しくあたる。

◆Infante 321[21]
 ドン・ペドロの弟であるインファンテ。カルルシュの実父。22が閉じ込められると同時に別邸へと遷された。 

◆バジリオ・ソアレス
 「ドラガォンの館」の執事で、《監視人たち》の一族出身。厳しく「ドラガォンの館」の掟に忠実。

◆「ドラガォンの館」の使用人
 フェルナンド・ゴンザーガ(故人 享年23歳)
 バジリオ・ヌエス(36歳) - 運転手 《監視人たち》の一族出身。


【用語解説】
◆ Usurpador(ウーズルパドール)
簒奪者。本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事。ないしそれを批判的に表現した語。

◆ Príncipe
 スペイン語やポルトガル語で国王の長子(Príncipe)である男子をさす言葉。日本語では「王子」または「王太子」と訳される。この作品では「ドラガォンの館」の時期当主となる予定の男性のこと。貴族を意味する称号「ドン」が名前の前につく。

◆Infante
 スペイン語やポルトガル語で国王の長子(Príncipe)以外の男子をさす言葉。日本語では「王子」または「親王」と訳される。この作品では「ドラガォンの館」に幽閉状態になっている(または、幽閉状態になっていた)男性のこと。命名されることなく通番で呼ばれる。

◆黄金の腕輪
 この作品に出てくる登場人物の多くが左手首に嵌めている腕輪。本人には外すことができない。男性の付けている腕輪には青い石が、女性のものには赤い石がついている。その石の数は持ち主によって違う。ドン・ペドロとドン・カルルシュは5つ、21および22は4つ、マヌエラは2つ。腕輪を付けている人間は《星のある子供たち》(Os Portadores da Estrela)と総称される。

◆《監視人たち》(Os Observadores)
 Pの街で普通に暮らしているが、《星のある子供たち》を監視して報告いる人たち。中枢組織があり、《星のある子供たち》が起こした問題があれば解決し修正している。

◆モデルとなった場所について
 作品のモデルはポルトガルのポルトとその対岸のガイア、ドウロ河である。それぞれ作品上ではPの街、Gの街、D河というように表記されている。また「ドラガォン(Dragãon)」はポルトガル語で竜の意味だが、ポルト市の象徴である。この作品は私によるフィクションで、現実のポルト市には「ドラガォンの館」も黄金の腕輪を付けられた一族も存在しないため、あえて頭文字で表記することにした。

この作品はフィクションです。実在の街、人物などとは関係ありません。
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Posted by 八少女 夕

【小説】新しい年に希望を

「十二ヶ月の歌 2」のラスト、十二月分です。同時に今年最後に発表する小説となります。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十一月はABBAの “Happy New Year” にインスパイアされて書いた作品です。年末年始にはよく流される曲ですけれど、よく歌詞を読むと「ひたすらめでたい」曲ではないのですね。

縁起を担ぐ日本に限らず、どこでもクリスマスやお正月、それに各種のお祝い事にはネガティヴなことを言わないようにする傾向がありますけれど、暦上のどんな日であろうと「ちっともめでたくなんかない」日々を過ごしている人もいて、でも、それが文句を大声で言うほどではない、ということも。

今年最後の小説ですが、そんな中途半端な小市民たちが、暦の一区切りで氣持ちを新たにしたいと願っている姿で終わりにしたいと思いました。


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新しい年に希望を
Inspired from Inspired from “Happy New Year” by ABBA

 おせちの重箱は二段にした。三段にするとスカスカになってしまうから。一人で迎えるのだから、たくさん買ってもしかたない。一人に戻って以来、あれこれ切り詰めてきたので、デパートやスーパーで予約をしている立派なおせちを買う案は却下した。かといって、いくつものおせち料理を一人用に作るのも大変なので、スーパーで一口サイズのパックをあれこれ買って詰めることにした。お煮しめだけは自分で作る。スモークサーモンやローストビーフ、それに白ワインも買ってきて冷蔵庫にしまった。

 普段は買わない高級レトルトカレーや、コタツに籠もる時用にミカンも用意した。一人の年越しをとことん楽しむつもりだ。

 もともと本家で繰り広げられる親戚の集まりなどは苦手だったし、だから独り立ちすると同時に東京に出てきたのだ。帰らずにすむのはありがたい。普段なら「帰ってきなさいよ」と口うるさいお母さんをはじめ、今年は誰も帰ってこいとは言わない。それはそうだろう。

 従姉妹の絢香はダブルおめでたで、かねてからの願い通り大がかりな華燭の宴を開いた。伯父は代議士なので地域の名士が悉く参列して祝った。今も本家では彼女と初孫を中心にいつものように格式を重んじたお正月迎えに余念がないことだろう。

 去年は、私に注目が集まっていた。結婚して初めて夫だった志伸を連れて行ったお正月。かつては目立たなかった私が、東京でエリート官僚と結婚したというので、親戚のおば様方からちやほやされた。絢香は面白くなさそうにしていたが、彼女らしいやり方で注目を自分に向けることに成功した。

 とにかく今年の本家では夫婦となった志伸と絢香が、去年のことなど何もなかったかのように「めでたいお正月」を祝うのだから、私の登場など誰一人として期待はしていないだろう。これで二度とあの面倒くさい盆暮れの里帰りをしなくて済むようになったと思えば、そんなに悪いことではない。

 お金持ちやエリート官僚と結婚したかったわけじゃない。たまたま東京に出てきて大学で出会い、それ以来ずっと一緒にいて仲良く笑い転げた人が、いつの間にかそういう立場になっていただけ。私にとって志伸はいつも志伸だったから、私がその隣には相応しくなくなっていたことに、氣が付かなかった。

「どう謝ったらいいのかわからない」
彼は下唇を噛みしめた。彼女の方が将来に役に立つから乗り換えたわけではない、ほんの出来心のつもりだったのに、子供ができてしまったと。それが本心かどうかなんて確かめようはない。それにどちらにしてももう全て終わったのだ。志伸にとって私との未来は消えて、絢香と子供との未来ができた、それが現実なのだから。

 大学の仲間にとっても、親戚にとっても、私は「めでたさに水を差す存在」になったのが腹立たしくて、私は距離を置くようになった。

 チャイムが鳴った。誰だろう?

「リカ! いるぅ?」
声を聴いてすぐにわかった。佑輝だ。すぐに玄関に向かう。ドアを開けると、彼は綺麗なポーズで立っていた。紫のコートにピンクのフェイクファーを巻いた独特な出で立ちにギョッとする。

「どうしたの?」
「どうしたのって、アタシも仕事を納めたし、侘しい独り者同士で年越そうかなって」
佑輝はウィンクした。

 大学以来、ずっと仲間として楽しくつきあっていたけれど、私と志伸が結婚して以来、しばらく疎遠になったのは、なんとなく彼も志伸のことを好きだったのではないかと感じたからだ。新婚家庭にも他の仲間のように招べないでいた。だから、会うのは結婚式以来だ。

「入って、入って」
「お邪魔しまーす。あ、これ、冷蔵庫に入れてね」

 佑輝は、よく冷えたシャンペンを差し出した。2020と大きく書いてある。カウントダウン用か。白ワインの瓶の位置に入れた。冷えているワインは出してコタツのテーブルに置く。

「へえ。いい部屋じゃない。ここは、もらったの?」
佑輝はマンションの中を見回した。私は、いろいろとつまみを用意しながら答えた。
「もともとは共同名義だったんだけどね。従姉妹の実家がタワーマンション買ったの。だから、ここには私が続けて住んでもいいって。まあ、慰謝料みたいなものかな」

 乾杯をしてコタツに入ると、久しぶりに笑い転げながら近況を語った。そうだった。仲間で集まると、いつも腹筋が痙攣するくらい笑うことになるのだ。後から考えると何がそんなにおかしいのかわからないのだが。こんなに笑ったのは本当に久しぶりだ。

「でも、元氣そうでよかった。これでも心配していたのよ」
佑輝がニッと笑った。

 私は、頬杖をついて彼を見た。
「意外だったな」
「何が?」

「ほかの仲間、みんな志伸とは連絡取っているんでしょう。あれから飲み会にも私はお声が掛からなくなったし。だから、佑輝が心配してきてくれたの、驚いた」

 そういうと、佑輝はふくっと頬を膨らませた。
「アタシを見損なわないでよ」

 ワインが回ってきたみたいで、力も抜けてきた。私の存在が迷惑っていうなら、親戚も大学の仲間もいらない。一人のクリスマスも、年末年始も大したことではない。そんな風に肩に妙に力を入れて、離婚騒ぎから今日まで走ってきたのかもしれない。

「佑輝は、私よりも志伸と仲良かったじゃない?」
そういうと、佑輝は笑った。

「大学時代は、確かにそうだったわ。でもね、アタシは、判官贔屓なの。それに、リカの氣持ちがよくわかるのよね。悔しくても悲しくても、つい虚勢を張っちゃって、いいわよ、好きにしなさいよって言っちゃうのよ、アンタもアタシも。志伸みたいな、デキるくせにどこか抜けていて、みんなに愛されて、結局美味しいところを持っていく男に弱いのも一緒でしょう?」

 そうよね。一緒だ、確かに。
「本当はね。悔しかったし、凹んでいたのよね。でも、志伸があっちを選んだ以上、泣きわめいて大騒ぎしても、みっともなく見えるのは自分だけだし」
「アンタね。そういう時は、相手の女をビンタぐらいしても罰は当たらないわよ」

 絢香にビンタか。やっておけばよかったかな。それも、結婚式の当日に手形のついた顔にしたりして。
「佑輝は、みんなと二次会行ったんでしょう? 絢香のこと、どう思った?」

 佑輝は首を振った。
「そっか。志伸から耳に入るわけないわよね。みんな行くのを拒否したのよ。リカがかわいそうだって」

 私は、かなり驚いて佑輝の顔を見た。彼は、空になった私のグラスに淡々とワインを注いだ。
「そうだったんだ。親戚筋からは、立派な式だった、幸せそうな二人だったって話しか入ってこなかったから、てっきり……」

「仮にもお祝い事だから、表だって非難したりする人はいないと思うけれど、祝いに来ないってことも、ある種の意見表明でしょう。大学時代の志伸は、本当にいい男だったもの、あんなことしてすぐに幸せいっぱいになれるほど、志伸の感性が鈍ったとは信じたくないわね」

 佑輝の顔を見ながら、私は自分が現実を曲解していじけていたのではないかと訝った。自分だけが貧乏くじを引き、志伸は何一つ失わずに幸福を満喫しているのだと、どこかで考えていた。

「もっともみんなもね、志伸に制裁を加えようと示し合わせたわけじゃないのよ。それぞれがね、みんな集まるだろうから、せめて自分だけはリカの代わりに抗議してやりたいって考えたみたい。二次会、花嫁側の出席者ばかりで異様な感じだったって、後から幹事に恨み言いわれちゃったわ。身から出た錆でしょって突っぱねたけれどね」

 私ですら、それは氣の毒かもと思った。志伸はみんなとの絆を本当に大切に思っていたから。絢香との新しい人生と引き換えに失いかけているもののことを考えたのかもしれない。

 仲間との絆を彼は誇りに思っていた。おそらくそれは志伸にとって、絢香や伯父様、そして親戚たちの評価と違って、エリート官僚やお金のある後ろ盾を持つ存在であることよりも、ずっと価値のあることだったのだと。彼の二度目の結婚披露二次会は、新しい妻との幸福な門出であると同時に、そして築き上げてきた友情のごっそりと抜けた、苦さのある「人生最良の日」だったのだ。そして、それは今でも続いている。

 彼が、どんな思いで、私とではない年末年始を迎えているのだろうと想像した。絢香と子供を氣遣いながら、去年は私の親戚だった人たちの複雑な腹の底を想像しながら座っていることを考えた。いい氣味だとは思わなかった。

「ありがとね」
私は、佑輝の顔を見ながら、彼のグラスを満たした。

「何に対して?」
「今夜、来てくれて。それに、私のことを氣遣ってくれて。私、仲間うちではほとんど存在感なかったし、心配してもらっているなんて、全然知らなかった」

 彼は長いつけまつげを伏せた。
「アンタは確かに騒いだり、目立つタイプじゃなかったけれど、アタシはリカが仲間にいてくれて本当によかったと、当時から思っていたわよ」
「どうして?」

「アタシがカミングアウトしたときも、男装をやめて好きな服を着るようになった時も、アンタは変わらずに接してくれた。興味本位であれこれ詮索もしなかったし、恋バナにも当たり前みたいにつきあってくれた。他の仲間も、結局は受け入れてくれたけれど、リカが平然としているのを見ていなかったら、ドン引きされたままだったかもしれない」

 新宿二丁目の店に勤めている佑輝は、今日も私よりもずっと綺麗にメイクして、洒落たパンツスーツを着こなしている。そんな彼も大学一年の頃は、短髪でTシャツとジーンズという、どこにでもいる青年の格好をしていた。当時から綺麗なモチーフ入りのジーンズや小物を選び、動きや語尾なども独特だったからもしかしたらと皆感じていたが、噂に過ぎなかった。三年生になる頃、何のきっかけだったか忘れたけれど、あっさりとカミングアウトしてからは、服装も話し方もどんどん変わった。

 当時の私が、その佑輝の変化に戸惑わなかったといえば嘘になる。でも、大切な仲間の一人が、いいにくいことを打ち明けてくれたのに、嗤ったり無視したりするようなことはしたくなかった。そんな薄っぺらい友情じゃないという自負もあった。私は目立たず、仲間うちで一番どうでもいい存在だったから、そのことを佑輝が憶えていたのがむしろ驚きだった。

「そうか。私ね。みんな失ったと思っていたんだ。親戚は絢香を選ぶだろうし、みんなは今後も志伸とつきあいたいだろうし、私の居場所はどっちにもなくなったなって」

「ふふ。アタシの居場所ですらなくならなかったんだもの、大丈夫よ」

 そうか。私の居場所はなくならなかった。それに、たぶん志伸にとっても、離婚は私との関係以外の何かの終わりじゃないんだ。

 彼が、新しい友との絆を持つには、もしくはかつての仲間たちと昔のように笑い合えるようになるまでには、おそらく長い月日を必要とするだろう。

 でも、きっと彼は惜しまずに時間をかけて、仲間との絆を回復するだろう。そして、今の居たたまれなさは時間と共に薄まっていき、新しい彼の人生は「これでよかったんだ」と思えるものに変わっていくのだろう。私の人生がそうであるべきように。彼と一緒にやっていけなかったのは残念だけれど。

「ねえ、佑輝。来年の抱負をきかせて」
私は、彼のグラスを満たした。

 彼は少し勿体ぶって話し出した。
「そうね。アタシ、店を変わる予定なのよ。ちょっと世話になった人に頼まれてね」

「えっと、もしかしてママになるとか?」
「あはは。残念、チーママってところかしら」
「えー、それでもすごいじゃない。私も行ってもいい? それとも女は禁制?」

 佑輝は、艶やかに笑った。
「そういうおかしな垣根のない店にしたいって、立ち上げメンバーと話しているの。アンタも、ほかのみんなも、それに志伸も、来たい人はみんなウェルカム。アンタこそ、それじゃ来たくない?」

 私は首を振った。
「ううん。私か志伸かどっちかが遠慮しなくちゃいけないのは嫌。でも、私の方が先に常連になりたいなあ。で、やってきた志伸に、ああ、あなたも来たのねって、余裕で言いたい」

 佑輝は、ゲラゲラ笑った。
「いいプランじゃない。じゃあ、オープンから通ってもらうわよ」

 除夜の鐘が鳴り出した。おしゃべりに夢中になっているうちに紅白を見逃したらしい。私は、佑輝の持ってきてくれたシャンパンを冷蔵庫から取り出してきた。去年から一度も使っていなかったフルートグラスを戸棚から取り出す。これ、志伸が大切にしていたやつだ。「特別な日はこれで乾杯しないと」が口癖だった。今ごろこのグラスを置いてきてしまったことを考えているのかな。それとも伯父さんにお酌するのに忙しくて、そんなことは忘れているかしら。

 佑輝は、慣れた手つきでコルクを抜くと、綺麗にグラスを満たしてくれた。人生最低だと思った年は終わった。壊れてしまった関係も、見捨てられて惨めだと思っていた自己憐憫のループも、終わったこととして思い出ボックスに閉じ込めてしまおう。

「明けましておめでとう、佑輝、今年もよろしく!」
「おめでとう、リカ。いい年になりますように」

 そうだね。私も、佑輝も、仲間のみんなも、田舎のお父さんお母さんも、そして、私と年末年始を過ごしたくなかった人たちも。それぞれのよりよい未来に向けて、別々に歩いて行くのよね。みんなにとって、いい年になりますように。

(初出:2019年12月 書き下ろし)

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Abba - Happy New Year
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(9)新しい家族 - 4 -

今回は、中編とはいえ、長く連載してきた「霧の彼方から」の最終回です。そして、「ファインダーの向こうに」「郷愁の丘」と合わせて、ジョルジア三部作もこれで完結です。

追記に後書きを記載しました。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(9)新しい家族 - 4 -

「あ。このサンドイッチ、パセリが入っている」
アンジェリカは、パセリをつまみ出したが、置き場がなくて困ったように見回した。

 グレッグは、黙ってそれを受け取り、ぱくっと食べてしまった。
「アンジェリカ、あなたったら、パセリを食べられないの?」
ジョルジアが訊くと、少女は首を傾げた。
「あれって、食べるものなの? いつもお皿の脇にどけちゃうのよ」

 ジョルジアは、ため息をついた。
「嫌いじゃないなら、食べた方がいいわよ。栄養もあるし、それにパセリを作る農家の人、みんなが残して捨てるのをわかっていても、大事に育てているのよ」
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、次から食べてみるわね」

 無邪氣なアンジェリカの様子を見ながら、ジョルジアはレベッカ・マッケンジーの庭を思い出していた。

 今日もまた、彼女はあの美しい庭と、完璧に手入れされた館を保つために、きびきびと動き回っているのだろう。そして、手を休めたときに、ほんのわずかの息子との邂逅を想っているのだろうか。

『パセリ、セージ、ローズマリー、タイム……』

 美しいチョコレートを買い求め、息子の学業に対する激励をしたレベッカ。彼が理解し合えると願いはじめての愛情を抱いたジェーン。彼に性の手ほどきをし幾晩か温かい肌で包んだマデリン。三人の彼の心に沈む女性たちは、この霧に覆われた島のどこかにいる。彼に教えと激励を授けたウォレス、そしてその他多くの関わった人々も同じように。

 彼女たちは過去の亡霊ではなく、今でもそれぞれの人生を営みながら、存在している。忙しく今日という日を過ごしていることだろう。

 ジョルジアは、食事を終えたグレッグが、アンジャリカやジョルジアの出したゴミを小さく一つにまとめてゴミ箱に捨てる様子を目で追った。自然な動き、行動様式は、誰から習い受け取ったかを考える必要がないほどに、彼の一部となっている。そして、それはいずれジョルジアやアンジェリカ、その他の彼と関わる多くの人に影響を与えていくだろう。彼女は、その考え方が氣に入って、一人微笑んだ。

「ねえ、記念写真撮らない? ママやパパと外にいる時って、できるだけ撮られないようにって行動するから、空港で家族と映った写真なんて一枚も持っていないんだもの」
アンジェリカが言うと、グレッグはすぐに申し出た。
「じゃあ、僕が撮るよ」

 アンジェリカは、首を振った。
「そしたら、グレッグが映らないじゃない」

 彼女にとって、グレッグはもうファミリーの一員なのだ。彼もそれを感じて、はにかみながら笑った。ジョルジアも笑顔になり、近くにいる人に自分のiPhoneを渡して撮影を頼んだ。アンジェリカは、少し斜めを向いて首を傾げた。おそらくこの三人の中で一番撮られ慣れているのだろう。

 写真を見て、アンジェリカは満足そうに頷いた。
「これ、ママのところに送っておいてね。それから、パパにも送って」

「すぐに送るわ。それに、結婚式のフラワーガールの写真も送らなくちゃね」
ジョルジアが言うと、アンジェリカは満面の笑顔を見せた。
「向こうでも、みんなでいっぱい写真を撮っていいでしょう?」

 ジョルジアは、そんな姪を愛しそうに見て頷いた。それから、ふいに思い出したようにグレッグに言った。
「ねえ。そういえば、結婚式の写真をウォレスにも送る約束をしたじゃない?」

「ああ。まさか彼が、そんなことに興味があるとは思わなかったな」
彼は苦笑した。

「僕たちの正装を見たいわけじゃないだろうから、出席者全員のを送るべきだろうか。もしかして、ケニアのパーティの方がいいかな。レイチェルやマディも映っているだろうから」

 ジョルジアは笑った。そこまであれこれ考えているとは思わなかったのだ。
「それもいいアイデアね。両方送ればいいじゃない。それで、思ったんだけれど、どうせならその写真、アトキンスさんにも送ったらどうかしら」

 彼は心底驚いた顔をした。
「マデリンに? どうして?」
「私の撮ったアトキンスさんの写真を現像して送る予定だけれど、せっかくだから。あなたがケニアで幸せに生きていることを知らせたら喜ぶんじゃないかと思うの」

「そうだな。きちんとお礼の手紙も書いて、それに、できたら借りも、一緒に……」
彼が、真剣な面持ちで決心を呟くと、二人を見上げていたアンジェリカが訊いた。
「アトキンスさんって誰?」

「グレッグの昔の恩人よ」
ジョルジアは笑って答えた。
「じゃあ、ウォレスって?」
「グレッグの恩師なの」

 アンジェリカは、重々しく言った。
「グレッグ、恩のある人いっぱいいるのね」

 彼は、考え深く答えた。
「そうだね。たくさんの人に興味を持ってもらい、助けてもらい、生きてきたんだ。それなのに、ずっと誰からも愛されない独りぼっちの人生だと思い込んでいた」

「そんなはずないじゃない。だって、ジョルジアと結婚するんでしょ?」
アンジェリカが、首を傾げた。婚約している二人は笑ってお互いを見た。

 青年だった彼の軌跡を巡る旅では、多くの発見があった。彼は心の整理をした。彼にとって、この国は寂しく悲しい思い出だけに心を抉られる異国ではなかった。袖触れ合うわずかな期間だとしても彼を育ててくれた優しい人たちが住む土地だった。そして、過去だけではなく、研究を共に進める新しい友が現在と未来においても彼を待つ国になった。

 ジョルジアにとっても、やはり心をみつめる旅だった。彼に対する理解を深め、彼という鏡を通して自分のコンプレックスに向き合い、誰かの影でいることをやめたのだ。

 二人は立ち止まり、考え、悩みを脱ぎ去り、そしてまた、他の人たちと同じように、人生を一歩ずつ進めていく。お互いに手を携えて、心の迷路から抜けだし、未来へと。

 『答えは、お前とともにある』長老の言葉は、正しかった。いつものように。

 ゲートへの案内が流れて歩き出した三人には、いつのまにか霧が晴れて窓から陽の光が注いでいた。新しい家族となる儀式に臨むため、彼らは足を速めて搭乗ゲートへと向かった。

(初出:2019年12月 書き下ろし)

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【後書き】
ジョルジアが最初にこのブログに登場したのは、私の記憶が間違っていなければ、最初のオリキャラのオフ会「松江旅情」でした。裏では、すでに「ファインダーの向こうに」を推敲していたので、私にとってはオフ会で出すのはとても自然だったのですが、おそらく読者の方には「?」だったと思います。みんな玉造温泉を楽しんでいるのに、意固地になってお風呂に入らず「俺様猫」にカニの身をほぐして時間を潰していました。

その後で「ファインダーの向こうに」の連載を開始、もともとはTOM−Fさんへのお詫び作品で、リア充にはならずに退場する予定だったのですが、あらあら、どういう風の吹き回しか、数年経ったら読者の方を辟易させるような甘ったるい婚約状態で話を完結させる事になってしまいました。こんな構想は、もちろん最初はなかったんですよ。

この方向転換に、大きな役割を果たしたのは、もちろんこのシリーズのもう一人主人公グレッグです。「郷愁の丘」以降は、ジョルジアだけでなく、グレッグの過去と性格と想いとが、物語の進行と運命に大きな役割を果たし出します。その傾向は今作では完全に逆転して、ほぼグレッグをめぐるストーリーになっています。

「郷愁の丘」は作品の組み立て上、限られた数回を除き、敢えてジョルジアの考えと問題を中心に物語を進めてきました。物語の構成が煩雑になるのを避けるために、敢えて設定してあるのに述べなかったグレッグの(ジョルジアに負けていない)大きな問題は、そのために大して表面には出せなかったのですが、続編である今作「霧の彼方から」を書くにあたって、私は今回はむしろ彼に焦点を当てようと思ったのです。

舞台をアフリカのまま記述してもよかったのですが、彼のこじれた性格の原点である子供時代を、一人称語りの会話だけでなく、少し客観的な視点から語り手(=目撃者)ジョルジアに理解させるためには、やはりイギリスを舞台にした方がいいと思いました。無理矢理イギリスへ連れて行き、さらにはオックスフォードへ連れて行くためにいくつかのエピソードを作り出しましたが、それが不自然でなければいいなと今さらながら思っています。

母親にようやく婚約者を紹介するというごく当たり前の展開は、まったく当たり前でない形で突如打ち切られました。そして、オックスフォードでは、ジョルジアの誤解と迷走そして好奇心を機に、彼の若き日に対する理解が深まりました。この作品では、立ち向かう大きな敵もなく、本当の意味での悪人も存在しません。ジョルジアとグレッグがお互いへの理解を深めて、家族としての未来を見据えながら歩き出す、それだけのストーリーです。

イギリスには数回訪れていますが、今回は設定上、あまり詳しくない地域を中心に記述したので、途中で不安になってロケハンに行きました。そういう意味でも印象深い作品になりました。

あいかわらず、地味なストーリー展開でしたが、最後までお付き合いくださり本当にありがとうございました。ジョルジアとグレッグを中心に据えた連載小説はこれでおしまいですが、この「ニューヨークの異邦人たち」の世界観には多くの個性的な面々が蠢いているので、また短編などで彼らを登場させることもあるかと思います。

まずは長い間のご愛読に心からの感謝をこめて、このストーリーの結びとさせていただきます。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(9)新しい家族 - 3 -

「霧の彼方から」の最終章『新しい家族』、四回に分けた三回目です。本当は五回に分けたかったところを無理矢理四回に分けたので、今回更新分はいつもよりも少し長くなっています。前半は、前回の続きでオックスフォード、後半はヒースロー空港です。

お読みになればわかると思いますが、この小説、ロンドン市内の描写が皆無です。書いてもよかったのですけれど、観光名所を安易に描写するとガイドブックから抜き出したみたいな文章になりますし、そうならないように書くには丁寧な描写が必要で2千字程度では難しいのです。無駄に長くするとでテーマがぼけるので、敢えて行きも帰りもロンドン滞在分をごっそりと飛ばしました。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(9)新しい家族 - 3 -

 部屋の灯を落とし、窓の外の街灯が雨粒に反射してにじむのを、彼の肩に頭をもたせかけながら見つめた。彼は、彼女の肩に腕を回した。

「私があなたを必要としているって、信じられるようになった?」
ジョルジアが訊くと、彼は少し戸惑ってから小さく頷いた。

「たぶん。その……今まで、誰からも必要とされたことがなかったから、それに、追いかけてもらったこともなかったから、まだ勝手がわからないんだ。でも、これまでとは何もかも違っているのは感じている。君のいる世界に僕は居続けていいらしい。君の家族も、友達も、僕の存在を歓迎してくれている。これまで起こらなかったことが、当たり前のように起こり始めている。きっと、本当に君が僕の探し続けていた問いへの答えなんだ」
「そして、あなたが私の問いへの答えなんだわ」

「君の問い?」
グレッグは首を傾げた。ここ数週間のジョルジアの迷走に、本当に氣がついていなかったようだと、彼女はおかしくなった。

「そう、私の問題。あなたがこれまでの人生でずっと答えを探していたように、私もあちこちで躓きながら、答えを探していたように思うの。答えがあなただと思ったら、ようやく問いがなんだかわかったように思うの」
「それは? あ、その、訊いても構わないなら……」

 彼といてこんなにほっとするのは、多分彼が高みから話をしないからだと思った。礼儀正しさと臆病さが同居している。その臆病さはジョルジアの持つそれと似ている。だから彼女は安心して自らの弱みを彼にさらけ出すことができる。

「もちろん。あのね。私は、これまでの人生でいつも同じことに怯えていたの。誰か他の人と比較されて、劣った存在だと思われること。主に妹や、それから兄と比較されて、それで私の方が劣っているのは事実だったから、次第に何も言われる前からそうだと決めつけて卑屈になってしまったんだわ」
「そんな……。君は、本当に素晴らしいのに」

 彼の茶色の瞳は柔らかい光をともし、誠実に彼女を肯定していた。彼女は笑った。
「あなたにこんなに大事にしてもらっていることを知りながらも、他の誰か、かつて付き合っていた女性と比較されて失望されているんじゃないかと心配していたの。でも、いろいろなことが勘違いだったとわかって、それで自分のコンプレックスがはっきりしたのね。それに、たとえ劣っているとしても、努力してそれを乗り越えていこうと思えるようになったのも、あなたのおかげだわ」

 彼は、ほっと息をつき、それから笑った。
「僕も、君のお陰で信じられないほど変わったんだ。それに、どれほど多くのどうしようもないと思っていた部分を君に肯定してもらったことだろう。僕が君を必要としているだけでなく、君もまた僕を必要としていてくれる。そのことが、どれほどの喜びをもたらしてくれているか。こんなに口下手ではなくて、君に効果的に伝えることができたらどんなにいいだろう」

* * *


 ヒースロー空港の構内を歩きながら、アンジェリカはガラスの向こうをつまらなそうに一瞥した。霞んで何も見えなかったのだ。

 出発便が遅れてゲートが表示されないので、グレッグはどこかで軽く食事でもしようかと提案した。すると、アンジェリカがキオスクで買いたいとねだった。
「あそこに、組み合わせ自由のミールセットを売っているの。でも、ママやパパと一緒だといつもファーストクラスのラウンジに行って、ああいうのを食べるのは無理なんだもの」

 アンジェリカは目を輝かせて、サンドイッチと小袋入りポテトチップス、それに安物のオレンジジュースを選んだ。ジョルジアとグレッグは、彼らにとっては大して珍しくもない安価なサンドイッチやミネラルウォーターを一緒に買い物籠に放り込み顔を見合わせて苦笑した。

 ベンチに座り、三角サンドイッチを頬張るアンジェリカは満足そうだった。この調子では、エコノミークラスに乗ることも新体験として喜ぶかもしれない。

 防犯にかかわるホテルはともかく、飛行機まで勝手にクラス替えをされてしまうことに、ジョルジアは猛反対したのだ。
「どっちに乗っても安全性には関係ないし、アンジェリカがどうしてもいやというなら、彼女だけビジネスかファーストクラスに座らせてちょうだい」

 アンジェリカは、もちろん二人と一緒のエコノミークラスを熱望し、アレッサンドラも「それならどうぞ」と譲ったのだ。

 ポテトチップスをかじりながら、少女は横なぐりの雨が伝い落ちる窓を眺めた。
「サン・モリッツは、晴れている日は毎日真っ青な空だし、雪が降る時はどっさり降るのよ。ずっと寒いけれど。ねえ、グレッグ。どうしてここでは毎日雨が降ったり止んだりするの?」

 彼は、一瞬ひるんだが、口を開いた。
「簡単に言うと、ブリテン島の位置のせいなんだ」
「位置?」

「うん。赤道近くのアフリカ沖で暖められた南大西洋の暖流は北上して、ヨーロッパ大陸の西岸を流れ、ブリテン島付近でUターンするんだ。そして偏西風が常に海流上の暖氣を運んでくる。この二つの要素のせいで、例えばロンドン辺りの西岸に近い場所の冬はいつも比較的暖かいのだけれど、同時に天候や氣温が不安定で変わりやすくなってしまうんだ」

「だからスイスよりもずっと北にあっても全然寒くないのね」
アンジェリカがわかったように頷く。

「それにサン・モリッツは標高1500メートルだから寒いんじゃない?」
ジョルジアは付け加えた。

「もちろんそれもあるね。とはいえ、君のお父さんのいるマンチェスターにしろ、ロンドンにしろ、あれだけの緯度にしては温暖なのは確かなんだ。それに雨ばかり降っている印象があるだろうけれど、すぐに止んでしまうので年間降水量はそれほど多くないんだ」
グレッグが付け加えると、アンジェリカは頷いた。

「グレッグの説明は、わかりやすいわね。これから、わからないことがあったらグレッグに訊くわ。パパの説明は『そういうもんなんだよ』だけでちっとも納得できないんだもの」

 彼は、少し慌てて言った。
「たまたま君のお父さんの知らないことを僕が知っていただけだよ。別のこと、例えば、スポーツのことや人間工学なんかについては、僕よりも君のお父さんの方がよく知っていると思うよ」

「そうね。私、スポーツの授業で上手くいかなかったことを、次に会う時にパパに話すと、いつも理論からとても丁寧に説明してくれて、トレーニングにも付き合ってくれるの。だから、私、スポーツの成績もすごくいいのよ」

 グレッグは、満面の笑顔を見せる少女を眩しそうに見つめた。ジョルジアは、姪に言った。
「そうね。あなたのことはとても誇らしいわ、アンジェリカ。それに、誰に何を質問するのがいいか、わかっているのはとても大切なことね。グレッグは、動物行動学の先生だし、学び方のメソッドもよくわかっているから、あなたの心強い味方になるわよ。私もいつも彼に新しいことを教えてもらっているもの」

 グレッグは、はにかんで言った。
「僕も君からいつもたくさんのことを学んでいるよ。きっと君も僕にたくさんのことを教えてくれるだろうね、アンジェリカ」
少女は嬉しそうに頷いた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(9)新しい家族 - 2 -

「霧の彼方から」の最終章『新しい家族』、四回に分けた二回目です。本当は五回に分けたかったところを無理矢理四回に分けているので、シーンとしては途切れています。まあ、でも、内容から考えれば妥当なところで切ったかな。

登場したパブは、オックスフォードでご飯を食べにいった「Turf Tavern」をモデルにしています。美味しかったなあ。

今回、はじめてアンジェリカの養父となるルイス=ヴィルヘルムの性格の話が登場しています。別に無理して書くことなかったのですけれど、彼女の境遇を理解するには、あった方がいいかなと。本題とはまったく関係ありませんし、フラグでも何でもありません。あしからず。

アンジェリカは「できる子」なので、後半は邪魔せずに大人しく寝てますね(笑)


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(9)新しい家族 - 2 -

「この店、素敵ね」
ジョルジアは、古いパブを見回した。

 ニスの黒変した木のカウンターや傷のついた椅子。ビールマシンのピカピカに磨かれた真鍮の取っ手。それは、ニューヨークで時折みる、古いパプ風にあえて古い木材やアンティークの家具をそろえて作った「それらしい」インテリアではなく、本当に何百年もの間に多くの学生たちが学び巣立っていくのを見つめていた年老いた店なのだ。

 若かりしグレッグや、リチャード、それにアウレリオたちも、ここでビールを飲み、将来の夢について語り合ったのかもしれない。

「この店についての思い出を聞かせて」
微笑みながら訊く彼女に、グレッグは小さく笑った。

「大した思い出はないんだ。リチャードが、誘ってくれたのでやってきて座るんだけれど、彼はほとんど全ての客と友達で、挨拶しに別のテーブルへ行き話し込む。僕は、その間、ずっと黙って座っていたな。やることがなかったから、メニューを開いていて、暗記してしまったっけ」

「それと同じメニュー?」
アンジェリカがメニューを開いて訊いた。

「いや、新しくしたみたいだね。もっとも、書いてある内容はほとんど変わらないな。このソーセージ&マッシュは、オックスフォードのパブの定番料理だけれど、ここのは秘伝のグレービーソースを使っていて美味しいよ」

 豚肉と牛肉の合い挽きで作った粗挽きソーセージが、クリーム仕立てのマッシュポテトにどっかりと載り、上からグレービーソースがかかっている。グレッグはチキンとマッシュルームのパイ包みも頼み、三人でシェアすることを勧めた。アンジェリカは、嬉しそうに両方の味を楽しんだ。

「明日は屋台のフィッシュ&チップスを食べてもいい?」
アンジェリカは、ジョルジアの反応を見た。伯母は笑って頷いた。
「パパやママに禁止されているものを、ことごとく試そうって思っているでしょう」

「そういうわけじゃないけれど、ママはそんなものは食べないし、今はなおさらよ。貴族って、屋台で買ったものを立ち食いしたりしないんですって。そんなのつまらなくない? グレッグは貴族なんかじゃないわよね」

 彼は答えた。
「僕の知っている限り全部遡っても、貴族は一人もいないな。もっともサバンナには屋台はないから、立ち食いしたくても出来ないよ」
「じゃあ、明日はなんとしてでもフィッシュ&チップスを食べなくちゃね」
アンジェリカは嬉しそうだ。

「ルイス=ヴィルヘルムは、とてもいい人だけれど、ハンバーガーが食べたいとか、コークが飲みたいとか、言い出せないところがあるの」
「どうして? たしなめられるの?」

 ジョルジアは、意外に思って訊いた。二年前の妹の結婚式を含めてまだ数回しか逢っていないが、ヴァルテンアドラー候家当主ルイス=ヴィルヘルムは、アレッサンドラだけにではなく、連れ子のアンジェリカにもかなり甘く接しているように見えたのだ。

 アンジェリカは首を振った。
「そうじゃないの。その反対。何でも叶えようと、大騒ぎしちゃうの。通りすがりのファーストフードに寄ってくれればいいだけなのに、夕食のフルコースのメニューを変えてなんだかすごいハンバーガーを用意させようとしたりして、コックさんを困らせたみたいなの。それで、ママが慌てて、用意してあるご飯でいい、いちいち私の我が儘に耳を傾けるなって」

「まあ」
「私のはまだいい方よ。結婚してわりとすぐの頃だったけれど、ママと一緒に別の貴族のお城に招待されたんですって。それでママがお世辞でそのお城を褒めて、こういうところに住んだら素敵でしょうねって言ったら、そのお城を購入して喜ばせようと、本氣で交渉し始めかけたんだって。ママは、それに懲りて、慎重に発言するようになったって」


* * *


 続き部屋の扉をそっと閉めて、ジョルジアはもうベッドに入っているグレッグに微笑みかけた。

「アンジェリカは、今夜一人で寝られるのかい? 寂しがっていないかい?」
小さい声でグレッグは訊いた。

「いいえ、大丈夫よ。あの子、両親の間を行き来して、時にこうやってどちらもいないところで寝るのに慣れているのね。あっさりと寝息を立てだしたわ。彼女のませた口調にびっくりした?」
「いや。とてもいい子だね。君とやり取りしている様子、微笑ましいよ。君の家族、とても仲がよくて信頼し合っているのがよくわかる」

 彼の言葉にはほんの少し哀しみが混じっている。ジョルジアは言った。
「グレッグ。もうすぐあなたが私の家族になり、私の家族はあなたの家族になるのよ」

 彼は、瞳をあげて言った。
「そうだろうか。そうだとしたら……いや、そうなんだ。ずっと望んでいた、暖かい家庭を、君とすぐに僕は持つことができる。夢ではなくて、本当に。そして、君の素晴らしい家族は、もうすぐ僕の姻戚になるんだ。とても嬉しいよ」

 窓の外ではずっと風が木の枝をしならせている音がしていたが、いつの間にか雨音に変わっていた。心地のいい寝室で、その雨音を聴きながらどれほどロンドンやバースで聞いた雨音と違っていることだろうと、ジョルジアは思った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(9)新しい家族 - 1 -

「霧の彼方から」の最終章『新しい家族』です。本当は五回に分けたかったのですが、そうすると年内に「十二ヶ月の歌」を発表できなくなってしまうので、無理矢理四回に分けました。

今年どういうわけか妙にたくさん出してしまったキャラクターであるアンジェリカが登場します。別にラスボスではないです(笑)

前作を読んでいない方のために簡単に説明すると、アンジェリカは元スーパーモデルであるジョルジアの妹アレッサンドラ・ダンジェロと、ブラジル人サッカー選手レアンドロ・ダ・シウバの間の娘です。両親が離婚しているので、二人の間を行ったり来たりしています。


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あらすじと登場人物




霧の彼方から(9)新しい家族 - 1 -

 レアンドロ・ダ・シウバは、愛娘に何度もキスをして、抱きしめた。
「じゃあな、アンジェリカ。五月には会いにいくから、それまでのさよならだ。ああ、明日の試合がなかったら、あと三日は一緒にいられたのに。なあ、もう少し、こっちに居たくないか。パパと、またマンチェスターに戻ってもいいんだぞ」

「パパったら。そんな訳にはいかないのはわかっているでしょう。どっちにしても、来週には学校が始まるのよ。大丈夫よ、パパ。一ヶ月半なんてあっという間ですもの。ロサンゼルスで待っているわ」

 イースター休暇を利用して、マンチェスターの父親の元に滞在していたアンジェリカは、ジョルジアたちと共にアメリカへ帰ることになっていた。アレッサンドラからの連絡を受けたレアンドロは、愛娘を愛車に乗せてオックスフォードまで届けに来た。

 永遠に思われる「さようなら」の儀式を、ジョルジアとグレッグは顔を見合わせてから、何も言わずに辛抱強く待っていた。レアンドロの車は目立つし、そのオーナーはサッカーに興味がない人ですら記憶に残るほどの有名人だ。彼の娘がそこら辺にいるとわからないように、わざわざ五つ星ホテルのロビーで待ち合わせたのだ。

 それなのに、車寄せに見送りに行き、ドアマンだけでなくその場を通る一般人にも丸見えのところで二人は別れを惜しんでいる。

 やがて、レアンドロは、ジョルジアたちに簡単に別れを告げると、名残惜しそうに去って行った。

「三時間も乗っていたんですもの。車はもうたくさん」
車が見えなくなると、アンジェリカはぽつりと言った。レアンドロ自慢のスパイダー・ベローチェも彼女にとってはただの車にすぎない。娘が自分のようにドライブ好きだと疑わずに思っているレアンドロには氣の毒だが、マンチェスターからオックスフォードまでのドライブは、アンジェリカには退屈だったようだ。

 彼女は、くるりと振り向くと、父親と別れる寂しさで、真っ赤になった目元を伏せた。手元のビーズつきのハンドバッグからレースに縁取りされた薄桃色のハンカチを取り出して、目をぬぐい鼻をかみ、またバッグに投げ込んでパチンと閉じた。それから、にっこりと笑うと、グレッグに手を差し出した。
「初めまして。私、アンジェリカ・ダ・シウバよ」

「初めまして。僕は、ヘンリー・グレゴリー・スコットだよ。ああ、君はたしかにジョルジアの家族だね。とてもよく似ているよ」

 それを聞いて、ジョルジアは目を丸くした。アンジェリカも一瞬驚いたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「そう言ったのは、あなたが初めてよ。みんなアレッサンドラ・ダンジェロそっくりっていうのに」

「ってことは……」
グレッグが自信無さそうに二人の顔を代わる代わる見た。ジョルジアが答える前に、アンジェリカは言った。
「もちろん知っていると思うけれど、私のママよ」

「僕は、君のママにはまだ会ったことがないんだ」
グレッグの言葉はアンジェリカには新鮮な驚きだった。
「ママを見たことないの? 雑誌でも?」

「アンジェリカ。グレッグは、ケニアの動物学者なの。アメリカの芸能雑誌は読まないし、スーパーモデルにはそんなに興味ないと思うわよ」
ジョルジアは少し慌てて言った。グレッグは、困ったように笑った。

 アンジェリカは、可笑しそうに笑った。ママの顔を知らないなんて人、はじめて。
「うふふ。そういう人もいるのね。最高。姻戚になる人の中で、絶対に仲良くなれそうと初日に思ったのはあなたが初めてよ。ねえ、私もグレッグって呼んでもいい?」

 それを聞いて、グレッグはほっとしたように笑った。
「もちろん」

「アンジェリカ、お腹は空いている?」
「そうね。そんなに空いてはいないけれど、何か美味しいものが食べたいなあ。ソニアの料理って、あまり美味しくないんだもの。パパのウェイトコントロールのためだと思うけれど」

 ジョルジアは、小さいアンジェリカが父親の新しい妻にあまり歓迎されていないことを知りながらも、角が立たないように騒がず、氣丈に振る舞ったのを感じてそっとその手を握った。彼女は、伯母の愛情を感じて嬉しそうに笑った。

「だから、今日からジョルジアと一緒だって聞いた時、実をいうと、ほっとしたの。ねえ、グレッグ、あなたはものすごくラッキーだって知っている? ジョルジアみたいに美味しいご飯を作れる奥さんって、そんなにいないわよ」

 彼は大きく頷いた。
「知っているよ。ご飯づくりだけじゃなくて、君のジョルジア伯母さんは、何もかも素晴らしい人だ。僕は本当にラッキーな男だよ」

 ジョルジアは、彼がそんなことを言うとは思いもしなかったので驚いた。

「でも、今晩は、ジョルジアのご飯は食べられないのよね。どこか美味しいお店、知っている?」
ませた口調でアンジェリカが訊いた。

 グレッグは、少し考えてからジョルジアに言った。
「僕は、学生時代にはあまり外食をしなかったから、そんなに詳しくないんだけれど、とても美味しい料理を出すパプがあったんだ。もし君が反対でなければ……」

 ジョルジアは肩をすくめた。十歳の子供を連れて行ってもいいのだろうか。アンジェリカは、急いで言った。
「ジョルジア、お願い。私一度でいいからパブに入ってみたいの。でも、ソニアがいつも反対するんだもの。子供がお酒を出す店に行くものじゃないって」

 アンジェリカの言葉に、ジョルジアは少し困ってグレッグに訊いた。
「子供が入っちゃだめなの?」
「いや。キッズメニューがあるパブもあるよ。そこにはないかもしれないけれど」

 彼が行こうと考えるからには、酔っ払いがひどく騒ぐような店ではないのだろう。
「じゃあ、あなたのお薦めのそのパブに行きましょうよ。アンジェリカ、パパにどんなお店に行ったか訊かれたら、パブじゃなくてレストランに行ったと言っておいてね。教育方針に反しているかもしれないから」
「もちろん、黙っているわ。やった!」
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Posted by 八少女 夕

【小説】主よみもとに

「十二ヶ月の歌」の十一月分です。十月分に続いてですが、「霧の彼方から」の最終章をはじめてしまうと十二月になってしまうので。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十一月はBYU Vocal Pointの “Nearer, My God, to Thee” にインスパイアされて書いた作品です。作品中に出てくる賛美歌は世界中で歌われていますが、この歌もその一つです。一番よく歌われるのはお葬式という特殊な賛美歌です。

歌詞はむしろ喜びに満ちているような歌なのですが、トーンはどちらかというと悲壮です。このギャップに私はいつも引っかかっていました。これが、この話で伝えたかったことと重なりました。これは「悲壮な幸福」の話です。

今回のストーリーは、名前だけを変えてありますが、私小説です。私の話ではないのですけれど。

追記に動画と、歌詞、そして意味がわかるように私のつたない訳を添えました。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む



主よみもとに
Inspired from “Nearer, My God, to Thee” by BYU Vocal Point ft. BYU Men's Chorus

 私が海外に移住した時期と、シスター荻野が帰国したと母から聞いたのは、ほぼ同じ頃だったと思う。私の記憶の中のシスター荻野は、小柄なのにとてもエネルギッシュ、快活な女性だった。カトリックの小学校に通った私の身近には、白いくるぶしまである服を着て黒いベールを被ったシスターと呼ばれる修道女がたくさんいたので、彼女たちがどのような出来事をきっかけに修道の道に入ったのか、深く考えることがなかったように思う。

 純潔を保ち、神に仕える。ありとあらゆる私欲を、今の私にとっては決して罪ではない、例えば「欲しいものを好きなだけ所有する」「大笑いするためだけのエンターテーメントを観にいく」「誰かを好きになる」「同僚達と一緒にムカつく上司の噂を肴にして呑む」といったことのどれもができない生活に自ら志願して向かう、覚悟のある人たちの心持ちをほとんど考えていなかった。

 子供の頃の私にはわかっていなかった。たとえ善良な努力家であっても、世界に溢れる物質的または精神的な誘惑に抵抗し、世界とそこに生きる誰かのために己の人生を捧げることが、どれほど難しいことなのかを。

 シスター荻野は、そうした修道女の中でも格別で、驚くべき熱意と克己心を持ち、その人生を神に捧げる道を邁進し、行動に移した。ブラジルの貧民窟にある修道院に志願し赴任したのだ。

 子供の頃に考えていたほど、宗教の世界は徳と善良だけが支配する世界ではない。それは、他の宗教と同様にカトリックも例外とはならない。免罪符の販売に象徴された中世における腐敗とは違うかもしれないが、十三億もの信者を抱える大きな組織には、階級もあり、それに伴い莫大な資金の動きもある。権力争いもあれば、栄華もある。

 テレビに映り、みなに跪かれ、ジェット機で飛び回る有名な枢機卿もいれば、教会内での信者や他の聖職者を己の意のままにして満足する司祭もいる。また、オルガンの演奏者として名を成すもの、心ゆくまで学究にいそしむ学者型の聖職者もいる。学校の経営者として子供たちを厳しく導く修道女たちもいる。

 どの生き方が正しい、またはキリスト者として間違っていると、私が断じることはできない。真面目な信者とは口が裂けてもいえない俗物である私と違って、信仰と祈りによってその道に邁進している人たちは、それぞれに信念に従って正しいことをしているのだから。

 ただ、『選び取った苦難』の一点だけにこだわれば、現代においては、その道を選ぶキリスト者は少ない。

「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広く、その道は広々としており、そこを通って入る者は多いからだ。 命に至る門はなんと狭く、その道はなんと狭められていることか! それを見いだす者は少ない」(マタイによる福音7章13-14節)

 マタイの福音書で、有名な『山上の教え』の一つとしてイエス・キリストが語っている言葉を実践することは、非常に難しい。恵まれた世界に生を受けたにもかかわらず、自ら苦難に向かっていくことは非常な思い切りを必要とする。

 シスター荻野は、その道を選んだのだ。日本にいて、ごく普通の修道女として信仰に満ちた生活を送る事もできたのに、それでは自分にできる全てを差し出したことにはならないと、敢えて志願したのだ。

 彼女のことを思い出すとき、母が段ボールに詰めながら私に見せた古着やタオルのことが脳裏に蘇る。母は、シスターからの手紙を読み、支援物資を集め、教会を通してブラジルに送る担当を買って出た。
「こんなよれたバスタオルやTシャツは失礼かと思っていたんだけれど」

 私は目を丸くした。以前手伝った近所の教会バザーでは、新品に近い物以外は持ち寄ることはしない。売れないので結局主催者の邪魔になるからだ。その箱の中には、切って雑巾にでもした方がいいかと思うものもあった。
「色褪せた物どころか、穴の空いたものですら、有難いんですって」

 新品はおろか、こぎれいな中古品を買うことすらもできない人々が溢れているという事実は、どこか別の惑星の出来事のように、私の観念からシャットアウトされ続けてきた。けれど、その箱は、わずか一瞬ではあるが、その遠い世界のことを私に想起させた。貧しく誰かの支援なしには生きられない人たちの、出口のない苦しみをほんのわずかだけ想像して、氣の毒に思った。そして、その世界と日々向き合い、異国で神と人々に奉仕し続けるシスターについての尊敬の念を深くした。

 私にとっては、ほんのそれだけのことで、すぐに忘れ、いつもの飽食と怠惰な日々を過ごした。人生の全てを擲ち、貧しい異国の人々の救済のために捧げているシスター荻野のことは、それからしばらく忘れてしまっていた。

 そのシスター荻野が、帰国したと母から聞いたとき、はじめは休暇の帰国なのかと思った。
「まさか。自分の休暇のために使える飛行機代があったら、貧民街の方のために使ったでしょうね。上層部からほぼ命令に近い形で送り返されたんですって」
「どうして?」
「ずっと帰国していなかったし、健康状態がよくないので精密検査をしなさいってことだったみたい……」

「ご病氣なの?」
「ええ。検査の結果ドクター・ストップで、海外赴任は禁止されてしまったらしいわ。本来ならとっくに定年になってるお歳だし、あんなに尽くされたんだし、ゆっくり養生して楽に余生を送っていただきたいと思うけれど、ご本人はブラジルに戻りたいと本当に悔しそうで」

「それで、今どうしてらっしゃるの?」
私が訊くと母は「U市の祈りの家ですって」と答えた。それは、高齢の修道女だけが住んでいる家で、いわば修道女達の老人ホームのような位置づけの場所だった。

* * *


 次にシスター荻野の近況を耳にしたのは、週に一度していた母との国際電話でだった。鍼灸院に私の姉が行ったときに偶然出会ったというのだ。腰が曲がって歩くのもやっとだったらしい。

 それから、母は祈りの家にシスターを訪ね、歩くのもおぼつかないのに奉仕に加わろうとしていた様子を話してくれた。
「あんなに永いこと働きづめだったのだから、老後くらいはのんびりして欲しいと私たちは思うけれど、ご本人はまだ神様に尽くして働きたいのでしょうね」

「じゃあ、何か簡単な仕事をなさっているの?」
私が訊くと、母のトーンは暗くなった。今でも何かで奉仕したいと願うシスター荻野のことを、世話をしている若い修道女らが迷惑がってきつく当たっているようだと。

「意地悪をしているつもりではないんでしょうけれど、身体が動かないのに余計なことをするから仕事が増えると言わんばかりだったのよね。私たち古い信者や関係者は、シスターの素晴らしい働きのことを知っているけれど、若い人たちは昔のことなど知らないし、ご本人も謙遜して何もおっしゃらないみたいだったし」

 なんて悲しい老後なんだろうと私は思った。母もそう思ったらしく、時おり訪問して、話を聞いたり教えを受けていたようだ。次に私が日本に行くときは一緒に訪問しようかと話をしていたのだが、元氣だった母が急逝してしまい、その約束は果たされなかった。

* * *


 母の葬儀に際しては、急いで一週間だけ日本に帰国したので、シスター荻野の話題を姉としたのは、その次に日本に帰国したときだった。

「そういえば、お母さんと近いうちにシスター荻野の所に訪問したいって話したから、今から一人で行ってこようかしら」

 すると、姉は首を振った。
「行ってもわからないと思う。三ヶ月くらい前に、鍼灸院の先生に聞いたんだけれど、認知症が進んでしまって、誰のこともわからなくなってしまわれたんだって。それを聞いて私も訪問を諦めたの」

 どうして……。私は、シスター荻野の人生の苦難を思い、やりきれない心持ちになった。

 努力が必ず報われるわけではないことくらい知っている。でも、因果応報の法則から考えれば、あれほどまでに人のために尽くし、キリスト者としての理想的な生き方を続けてきた彼女には、笑顔と尊敬に囲まれた穏やかな老後が相応しいと思っていた。こんな人生の最終章は、あまりにも酷だ。

 亡くなった母の葬儀で聴いた「主よみもとに」の歌詞が心に響く。

主よ、みもとに 近づかん のぼるみちは 十字架に
ありともなど 悲しむべき  主よ、みもとに 近づかん

さすらうまに 日は暮れ   石のうえの かりねの
夢にもなおあめを望み 主よ、みもとに 近づかん

主のつかいは み空に  かようはし の うえより
招きぬれば いざ登りて  主よ、みもとに 近づかん

目覚めてのち まくらの  石をたてて めぐみを
いよよせつに 称えつつぞ  主よ、みもとに 近づかん

うつし世をば はなれて  あまがける日 きたらば
いよよちかく みもとにゆき  主のみかおを あおぎみん

(カトリック聖歌 658番 / 讃美歌 320番)


 葬儀では、たいてい歌うので、亡くなった人のための曲のように錯覚するが、これは生きている信者達がどのように生きて死を迎えるべきか思い新たにするための歌なのだ。

 キリスト教の、そしておそらくシスター荻野が考えていた幸福とは、おそらく私の感じる幸福とは違うのだと思う。現世での因果応報や、人々に認められて尊敬されることも、穏やかで健康な老後も、その他、私がそうだったらいいと願うよりよい人生の終わり方も、真のキリスト者の目指すべきものではないのだろう。

 幸福といえば、健康で衣食が満たされ、栄誉を授けられ、氣の合う仲間やお互いを大切に思う家族に恵まれるようなことをすぐに思い浮かべるが、キリスト教の教えではそれは真の幸福ではない。イエス・キリストが人類のために無実の罪で十字架の上で命を失ったように、使徒やそれに続く信者達が迫害に屈せず殉教したように、断固として教えの道に忠実に生きて命を捧げ、最後の審判で認められて天国に受け入れられることこそが幸福なのだ。

 もちろん過去から現在に至る多くの信者は、その様な生き方はできない。かなり善良な信者でも、良心に恥じない、つまり「盗まず」「殺さず」「姦淫せず」程度のさほど難しくない戒めを守り、時おり貧しい者を心にとめて慈善行為をしたり、時おり思い出したように祈りを唱えたりして、自らの至らなさに心を留めるのが精一杯だ。ついつい食べきれないほどの豪華な食事を食べてしまったり、恵まれた人たちを妬んでしまったり、嘘をついてしまったりと、小さな罪をも重ねつつ、それでもできることなら死んだら地獄には行きたくないと、都合のいい望みを抱く。

 そうした何億人もの「正しい信者になりたくてもなれない人びと」、聖書のいうところの広き門から入り楽に暮らす人々を見つつも、一線を画して真のキリスト者を目指すことは、厳しく孤独な道行きだ。生きているうちに尊敬され報われるのではなく、一人狭き門と険しい道を選び続け、惨めな生の終わりすらも神の国へ至る途上だと喜ぶのはなんと難しいことだろう。

 身体がボロボロになるまで働き、邪険に扱われ、お荷物と見なされていることを肌で感じ、働きたくても身体が動かなくなったことを嘆くシスターには、忘却は一つの救いなのかもしれない。一足先に旅立った母は言っていた。あの方こそ、神の国に迎えられるのに相応しいと。
 
 他の誰かが天国に行くのかは知らない。惜しまれて立派な葬儀で送り出された人のことも。けれども、ゆっくりと旅立とうとしているシスター荻野の行く先については、私は亡き母と同じ意見を持っている。

(初出:2019年11月 書き下ろし)

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Nearer, My God, to Thee | BYU Vocal Point ft. BYU Men's Chorus

歌詞と意訳

Nearer My God to Thee
主よ御許に近づかん

【ラテン語】
In articulo mortis
(死の瞬間には)
Caelitus mihi vires
(私の強さは天からもたらされる)
Deo adjuvante non timendum
(神は助けたまい、なんの怖れもない)
In perpetuum
(永遠に)
Dirige nos domine
(我らが主よ、導きたまえ)
Ad augusta per angusta
(狭き小径より至る いと高きところへ)
Sic itur ad astra
(そは星々へ至る道のごとし)
Excelsior
(さらなる高みへの)

Nearer, my God, to Thee, nearer to Thee!
(もっと近くへ、我が神よ、もっとあなたの近くへ)
E'en though it be a cross that raiseth me,
(たとえそれが私を十字架に架けるとも)
There let the way appear, steps unto Heav'n;
(天へと続く道と階段を現してください)
All that Thou sendest me, in mercy giv'n;
(全ては私に下され、天から与えられたもの)
Excelsior excelsior excelsior excelsior
(もっと もっと もっと もっと 更に高く)
Still all my song shall be, nearer, my God, to Thee.
(それでも全ての我が歌は、我が神よ、あなたの御許に)
Nearer, my God, to Thee, nearer to Thee!
(あなたの御許に、我が神よ、あなたの御許に)
Though like the wanderer, the sun gone down.
(さすらい人のごとく太陽は沈もうとも)
Darkness be over me, my rest a stone;
(暗闇が私を覆い、石の枕で休むこととなろうとも)
Excelsior excelsior excelsior excelsior
(もっと もっと もっと もっと さらなる高みへ)
Angels to beckon me nearer, my God, to Thee.
(天の使いが私を誘う あなたの御許に、我が神よ、あなたの御許に)
Nearer, my God to Thee, nearer to Thee.
(あなたの御許に、我が神よ、あなたの御許に)
Excelsior excelsior excelsior excelsior excelsior excelsior excelsior excelsior
(もっと もっと もっと もっと さらなる高みへ)
Or, if on joyful wing cleaving the sky,
(さもなくば 歓びの翼に乗り空を駈けるなら)
Sun, moon, and stars forgot, upward I'll fly.
(太陽、月、そして星を後に残し、私はさらに上へと飛ぶだろう)
Excelsior!
(さらなる高みへ!)





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Posted by 八少女 夕

【小説】走るその先には

「十二ヶ月の歌」の十月分です。十月はいろいろあって発表できなかったので、ここで。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十月はホイットニー・ヒューストンの “Run To You” にインスパイアされて書いた作品です。これまた超有名な曲ですので、歌詞やその和訳はネットにたくさん出回っています。

歌詞を聴いて(読んで)いただくと、何にインスパイアされたのかがわかると思います。この話も実話をモデルにして書いています。


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走るその先には
Inspired from “Run To You” by Whitney Houston

 最初にヴェルダの存在を意識したのは、いつだっただろうか。レオニーが最初にヘルツェン野犬保護センターでのボランティアに参加したのが二年前だったので、その時にはもう出会っていたのかもしれない。

 最初の年、レオニーは実に軽い心構えでそのプログラムに参加した。好きな動物と触れ合いながら、エキゾティックなイスタンブールの街を楽しめる、パッケージ旅行のようなものだと。

 でも、その考えが甘ったれたものだと、初日に思い知らされた。センターはレオニーと同郷の獣医フライシュマン女史が自費で立ち上げた。彼女は定年後の人生をトルコの放置されて傷ついた野犬たちの保護活動に捧げている。色艶の悪い顔は表情に乏しく、痩せた筋肉質の肌は日焼けで荒れていた。ギスギスとしているのは外見だけでなく、口のきき方も同じだった。だが、あの地獄を毎日続けていたら誰だって朗らかで自分の容姿に氣を配ることなんてできなくなるだろう。

 荷物を奥に置いて一息つく余裕もなく、レオニーはフライシュマン女史が棘を抜こうとしている大きな犬を共に押さえつけるように言われた。それは、後からわかったのだが、アバクシュというトルコの固有種の成犬で、白く豊かな体毛が特徴なのだが、黒っぽい犬だと思い込むほどにひどい汚れにまみれていた。

 痩せこけ、疥癬にまみれて、所々の露出した肌にウジ虫がたかり、さらにどこかの有刺鉄線に引っかかったのだろうか、目の近くに鉄の棘が深く刺さり化膿しかかっていた。ひどい目に遭い続けてきたのだろう、人間不信がひどく、センターのメンバーたちが保護したときも、処置を受けているときも吠え続けていた。

 それから、少しは人なつこさを残している小さな犬たちの世話でくれた一週間は、レオニーに動物保護の現実を思い知らせた。それは愛情に満ちた崇高な旅などではなく、人間の身勝手さと己の無力さに向き合うだけの日々だった。

 同じプログラムに参加した同郷のメンバーで、翌年の休暇もヘルツェン野犬保護センターへ行くことを決めたのはレオニー一人だった。
「思っていたよりも、骨があるようね」
フライシュマン女史は、そう言って初めて笑顔を見せてくれた。

 二年目に担当するように言われたのが、身体が大きい犬たちの世話だった。ヴェルダは、そのうちの一頭だった。トルコ固有種カンガールの血を引くと思われる雑種犬で、身体の多くの部分は白い短毛で覆われ、くるんと撒いた尾と鼻の頭が黒い。保護されたときは生後三ヶ月だったというが、すでにそこら辺の成犬より大きかった。唸ったりはしなかったが、檻の奥に張り付くようにうずくまり疑い深くレオニーを眺めていた。

「ヴェルダって、どういう状態で保護されたんですか?」
フライシュマン女史は、顔を曇らせて答えた。
「ひどい状況だったわ。母犬と一緒に放り出されたみたい。母犬は打ち据えられてあの子を含む三匹の子犬を抱きかかえるようにして冷たくなっていた。生きて保護されたのは二匹だけで、生き残ったのはヴェルダだけ」

「そうだったんですか。人なんか信用できないって思うのも無理ないのかな。じゃあ、名前は先生がつけたんですか?」
彼女は、奥で作業している青年エミルを示して答えた。
「これだけたくさんいると、私が考えつく名前にも限りがあるのよ。だから、この子の名前はエミルが考えてくれたの。近所の雌犬と同じなんですって、薔薇って意味らしいわ」

 ヴェルダは、食事を入れて檻の扉を閉めると、そろそろと近づいてきて喉につかえるかと思うほど急いで平らげた。
「心配しなくても、だれもあなたのご飯を取ったりしないよ、ヴェルダ」

 レオニーは、前回と違い三週間滞在したので、以前よりも犬たちと信頼関係を築くことに成功した。一週間目の終わりには、食事の用意や散歩だけでなく、多くの犬たちのブラッシングやシャンプーもできるようになったし、ヴェルダも匂いを嗅いで身体を撫でさせてくれるまでになった。尻尾を振って黒い鼻先をすり寄せてくる様子が愛しくて、レオニーはたくさんの言葉をかけながら心を込めて撫でた。

 次に来るのはまた一年後のつもりだったが、フライシュマン女史が人手不足に悩んでいるとメールをよこしたので、レオニーは半年後のクリスマスにも一週間だけまたセンターへ行った。

 夏に馴染んだ大型犬たちのほとんどは姿を消していた。怪我が治りきらなかったアバクシュ犬のように亡くなってしまった犬もいたし、幸い新しい飼い主に引き取られてセンターを去った犬たちもいた。

 ヴェルダは、まだいた。レオニーの姿を見ると狂ったように尻尾を振った。
「あなたの後任の子とは合わなかったのよね。スタッフにも時間もなかったから、かわいがってもらうこともなかったし。だからあなたに会えて嬉しいのよ」
フライシュマン女史は頷いた。

 センターは深刻な人手と資金の不足に悩んでいた。一週間の滞在中、レオニーは以前の三倍の数の犬たちを担当し、ヴェルダと遊ぶ時間はほとんどなかった。けれど、大きくなった白い犬は、哲学的な面持ちで、食事や散歩のために近づいてくるレオニーをじっと見つめ嬉しそうに尻尾を振って見せた。

「レオニー、お願いがあるの」
フライシュマン女史が、クリスマスケーキの一切れを手に彼女の側に座ったのは、レオニーが発つ二日前だった。

「なんでしょうか」
「ヴェルダの引取先がチューリヒの老婦人に決まったことは話したでしょう。その輸出許可関連の書類が、今日届いてね。急だけれど、あなたが帰る時に付き添って欲しいの。こちらから付添人のために航空券を買う余裕がないから。空港に私の知人が引き取りに来て先方に届けるので、多くの手間は取らせないわ」

 レオニーは、ヴェルダに家ができることにほっとすると同時に寂しさも感じた。新しい飼い主に愛情を注がれて、幸せになったらきっと私の事なんて忘れちゃうんだろうな、そんな風に思ったから。

 イスタンブールで、ヴェルダを連れて車に乗り込んだ。尻尾を振るレオニーに「一緒に行くんだよ。新しいお家に行くんだよ」と語りかけた。ヴェルダは、まるで意味がわかっているかのようにことさら激しく尻尾を振り笑顔を見せた。特別貨物室へ向かうヴェルダは不安そうだったのでやはり声をかけた。
「大丈夫。同じ飛行機に乗るから。チューリヒでまた逢おうね」

 チューリヒのクローテン空港で、ヴェルダを受け取ったとき、疲れていたのかぐったりしていたのが、レオニーを見てまたちぎれんばかりに尻尾を振って立ち上がったのが愛しくて、思わず駆け寄った。税関と検疫の長く煩雑な手続きも無事に終えて、綱をつけたヴェルダと一緒に到着ゲートを越えた。

 フライシュマン女史の言った通り、そこには迎えが来ていてそこでヴェルダと別れることになった。不審げに幾度も振り返りつつ連れられていくヴェルダをレオニーは涙ぐんで見送った。

* * *


 三ヶ月後にフライシュマン女史からもらったメールを読んでレオニーは驚いた。ヴェルダを引き取った老婦人が老人ホームに入ることになり、大型犬を飼い続けることができなくなったというのだ。費用や検疫手続きを考えるとトルコに送り返すのは現実的ではないが、このままではチューリヒの動物保護施設に送られ場合によっては安楽死になることもある、できれば新しい引取先を見つける手伝いをして欲しいというのだ。

 だったらはじめからトルコから大きな犬を引き取ったりしなければいいのに。あの檻の奥で絶望的に眺めていたヴェルダの表情を思い出して、レオニーの心は痛んだ。虐待で母親や兄妹を失い、ようやく慣れたセンターから遠くスイスまでやって来たというのにまた別のセンターに逆戻りで、さらに生きられる保証もないなんて。レオニーは憤慨した。

 レオニーは、急いでチューリヒに向かい、老婦人の話を聞きに行った。もう誰か引き取り手を見つけたのか、どのくらい時間の余裕があるのか知りたかった。

 レオニーを見たヴェルダは、狂ったように尻尾を振って近づいてきた。老婦人は、驚いて言った。
「まあ、こんなに喜びを表現することもあるのね。大人しいけれど感情に乏しい犬だと思っていたの。今まで飼った犬みたいに、人なつこいと引き取り手も見つけやすいのだけれど、この子のように相手を選ぶとなかなかね。それにこんなに大きいし」

 成犬になったヴェルダは、85センチもの体高になっていた。それにトルコでは牧羊犬として狼や熊にも立ち向かうといわれる勇猛さ故、子供のいる家庭では敬遠されるだろう。でも、それもわかっていて引き取ったはずなのに。

 これからヴェルダは、どれだけ長く家族が見つからない不安な状態を過ごすのだろう。新しい飼い主が見つからなければ、邪魔者扱いされてこんな故郷から遠く離れたところで命を落としてしまうのだろうか。

「私が引き取ります」
ほとんど何も考えずにレオニーは口にしていた。老婦人は驚いた。自分でも驚いたが、もう後には引けない。

 フライシュマン女史に報告したところ「おすすめじゃないわね」と言われた。関わる犬を全て引き取ることはできない、割り切ることも大切だと言うのだ。それはわかっている。でも、そうやって割り切って、後からまた嫌なニュースを耳にすることには我慢がならない。

 それにヴェルダが茶色の瞳を輝かせて見ていたのだ。尻尾を振り、大きく口を開いて。
「おいで、ヴェルダ。はじめから私が飼えばよかったんだよね。私の住む村は、散歩するところもたくさんある。だから一緒に行こう」

 白い大きな犬が、体当たりするように駈けてきた。まだ20キロくらいしかなかった頃によくしてきたように。50キロ近くになり、大きくてがっしりとした彼女の身体は、責任感の重さそのもののようだった。でも、きっと上手くいく。こんなに喜んでくれるんだもの。

 レオニーは、思いがけず大型犬と過ごすことになる、大きな生活の変化に向けて、あれこれと思いを巡らせた。

(初出:2019年10月 書き下ろし)

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もともとは、恋愛の歌なんですけれど……。



Whitney Houston - Run To You (Official Music Video)
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 6 -

「霧の彼方から」の続きです。『もう一人のマデリン』六回に分けた最後です。ようやくこの章も最後、長かったですね。

この連載の開始前に公開したPR動画での台詞、氣になさっていらした方もあるようですが、たぶんこの回のアレじゃないかしら。予想通りの意味合いでの台詞か、それとも全然違う意味合いを想像なさっていらしたのか、ちょっと興味があったりします。

さて、少しだけ別小説を挟んだ後、この小説もついに最終章に入ります。今年ももうすぐ終わり。妙に早いなあ。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 6 -

 グレッグは、瞳を閉じてうなだれた。
「僕のために……僕はなにも知らずに、誰にも受け入れてもらえないといじけていたのか」

 ジョルジアは、彼の髪を梳き、そのまま顎髭に指を絡めて優しく撫でた。
「でも、あなたは、彼女の期待に応えたわ。ちゃんと卒業して、立派な学者になった。そして《郷愁の丘》で、望む仕事ができるようになった。アトキンスさんは、それを知ったらとても喜ぶと思うわ」

「そして、ケニアでシマウマの研究をすることができたから、君と出会うこともできたんだ」
瞳を上げて、彼はジョルジアを見つめた。

「僕は、こんな歳だけれど、今までこんな密接な関係を誰かと持ったことがない。愛想を尽かされて去られることを怖れて、ちゃんとした関係を築く努力をしてこなかったんだ。君と上手くやっていきたいし、不快な思いはさせたくないけれど、おそらく僕はまた失敗をたくさんすると思う。嫌だと思ったことは言って欲しい。そして、僕に自分を変えるチャンスをくれないか」

「グレッグ。それはそのまま、私の言葉よ。私たち、お互いにそうやって一緒に歩いて行ける、そう思わない?」

「ありがとう。ジョルジア」
「それに……」

「それに?」
彼女は、彼を愛おしいと思うと同時に、心からの憐憫を感じた。この旅で知ったのは、彼女が想像していたようなノスタルジックで甘い過去ではなく、彼のあまりにも寂しい半生だった。

「あなたはもう一人じゃないわ。私では代わりにはならないのはわかっているけれど、でも、これからは、私があなたを抱きしめて暖めるから。お祖父さまやご両親の代わりに。ジェーンの代わりに。アトキンスさんの代わりに……」

 彼は雷に打たれたように、ビクッと震えた。そして、彼女の言葉を遮った。
「君は誰かの代わりなんかじゃない」
彼の少し強い調子に、ジョルジアは驚いた。彼は、じっと彼女を見つめて言った。

「そうじゃない。君を、誰かの代わりに仕方なく抱きしめるなんてことはない。絶対に」
「グレッグ」

「そうじゃないよ。反対なんだ。僕はこれまでの人生、ずっと君を探し続けていたんだ。まだ君を知らなかったから、その代わりにあちこちで、違う人に間違った期待をかけて、断られて、困惑していたんだ」

 ジョルジアは、再びそっと彼の頬に触れた。彼はその手を暖かい手のひらで包んだ。
「長老の言葉を、僕は間違って解釈していたみたいだ」

 彼女は首を傾げた。彼は笑って続けた。
「『答えはお前とともにある』と言われたのを、僕は答えを自分で知っていると言われたと思っていた。でも、そうじゃなかった」
「そうじゃなくて……?」

「僕が人生をかけてずっと探していた問いの答えが君なんだ。そして、君は本当に今、僕の側にいてくれる。ここまで来る必要なんかなかったんだ。僕の求めていた愛情も、探していた温もりも、見続けていた夢も、理想の女神の形をとってここにいるんだから。愛されなかった過去に苦しむ必要なんかもうないんだ。君が愛してくれたから」

 ジョルジアは、彼の胸に顔を埋めて呟いた。
「私は、ここに来て良かったと思っているわ。あなたのことを知りたかったの。知り合うまでのあなたの人生を理解したかったの」

「僕は、知られることに不安を持っていた。いつも、何か上手く行きかけると、後からやはりダメだったと落胆することばかりで、今度もそうなるんじゃないかと怖れていた」

 ジョルジアは、彼の瞳を見上げた。
「私も怖れていたわ。あなたが、私が理想の女神じゃないと知ったら、きっと離れていってしまうって。でも、あなたは、私の肉体や精神の欠点を知っても変わらずに愛してくれた」

 グレッグは、ジョルジアの頬に優しく触れて答えた。
「それは君の欠点なんかじゃないよ。確かに君は他の人とは違う外見を持ち、別の行動をするだろうけれど、それは単なる違いなんだ。僕は模様のないロバの毛皮もいいと思うけれど、シマウマの縞模様のことをとても美しいと思う。君の服の下に隠れている肌も、僕にできないことを瞬時にやってみせる好奇心も、君が君である全てを僕は愛しく思う。そして、君が情けない僕のことも、こんな風に愛してくれるのも同じ理由なんじゃないかと思うんだ」

 ジョルジアは、彼の言葉をその通りだと感じた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】豪華客船やりたい放題 - 5 -

大海彩洋さんと、ちゃとら猫マコト幹事で開催中の「【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅」の参加作品の第五回目です。

お目付役の京極に見つかってしまったので、仕方なく一緒に船内を回ることにした山内拓也。現在は『不思議の国のアリス』コスチュームをしたアンジェリカの外見です。ただし、中身と声は拓也そのものです。

今回は、中途半端な『旅の思い出』と参加者のみなさまとのコラボ系を少し書いてみました。それとレストラン名などは、数学パラドックス系で遊んでみただけです。次回、最終回にできるかなあ、頑張ります。


オリキャラのオフ会


【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
私のところのチームの詳細設定/この話をはじめから読む



目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 5 -


「すげーな、豪華客船って。プールもある、カジノもある、レストランやバーもいっぱいある、船室だっていくつあるんだか」
アメリカ人少女、アンジェリカの外見に成り代わった俺は、執事コス、もといタキシードをビシッと着こなした京極に付き添われて船内を歩いた。

「客船に乗るのは初めてか?」
京極が訊いた。

「もちろん。お前は、初めてじゃないのかよ」
「子供の頃に、何回か乗ったことがある。もっとも世界一周するような客船ではなくて、三日くらいの国内クルーズだったけれど」

「へえ? 海外のクルーズだっていくらでも行けるだろうに、なんで?」
「父は仕事人間でね。三日以上の休みを取ったことがないんだ。家族旅行そのものも滅多に行かなかったけれど、行くとしても最長三日。それも、お盆や年末などの会社の閉まる時期だけだから。どこへ行っても混むのがわかりきっている。だから、定員以上にはならないし、渋滞もないクルーズ旅行をしたんじゃないかな」

 そうなんだ。
「で、この船と較べてどうだった?」
「僕は子供だったからね。何もかもが大きくて、夢のように見えた。もっとも、実際には、この船の方がずっと大きいし、豪華だし、スケールも桁違いなんだけれどね。オーナーはもちろん、招待客にしろ、用意されている食事やアトラクション、エンターテーメントにしろ」

 そうなんだっけ? エビフライやスパゲッテイは、けっこう馴染みっぽい味だったけどな。

「どこがそんなにすごいんだ?」
俺が首を傾げると、京極は壁に掛かっているポスターを示した。

「例えば、ほら。メインダイニングでは、今夜は相川慎一とテオドール・ニーチェがベートーヴェンのソナタを聴かせてくれる。明日は、新星ディーヴァとの呼び名も高いミク・エストレーラによるディナーコンサートだ」

「俺、そういう高尚なのは、よくわかんないからな。こっちのほうが面白そうじゃね? 高級クラブ『サンクトペテルブルク』でワンドリンク付きショウってだってさ。おい、見ろよ、このシスカって歌手の姉ちゃん、銀髪にオッドアイだぜ。戦闘服系のコスプレさせたら、メチャクチャ似合いそう」

 京極がため息をついた。なんだよ、思うのは自由だろ。
「お。こっちも、いいじゃん」
俺の指したポスターを見て、京極は「ほう」という顔をした。

「君もスクランプシャスのファンなのか」
俺はムッとした。俺だってアニソンの専門じゃないんだよ。スクランプシャスは若者の思いを代弁してくれる名バンド。ま、俺も若者っていっていいのか、若干怪しい年齢にさしかかっているけどさ。

 しかし、まさか生スクランプシャスがここに来るとは。ライブはいつなんだろう。お願いだから『魔法少女♡ワルキューレ』放映時間とだけは重ならないでくれよ。

 そんな話題を花咲かせながら、俺たちは豪華客船の中を歩いて行った。

 目立つメインダイニングに行くことを京極が渋るので、俺たちはカジノを横切り、わりと目立たないカフェテリア『アキレスと亀』を目指した。

 カジノでは、アラブの王族みたいな服を着た男と、小柄の中年のおっさん、それに胡散臭いオヤジが、目も醒めるようなタイコーズブルーのドレスを着た女と勝負をしていた。はじめはけっこう余裕をかましていた男たちだが、みるみるうちにチップが女の方に移動していく。へえ。すげえ。

「なあ、京極、俺も少し賭けていい? あの赤い髪のねーちゃんみたく賭ければ、少し儲かるかも。そしたらコスプレも、自分の金で買えるようになるし」
そういうと、京極は首を振った。
「君は今、十歳のアンジェリカ嬢なんだ。カジノで賭け事するなんて言語道断だ。行くぞ」

 ちぇっ。本当にお堅いんだから。少しぐらいいいじゃん。

 カジノを横切って再び廊下に出ると、小脇に二頭のハスキー犬ぬいぐるみを抱えたとても幼い少女とぶつかりそうになった。おっと。

 少女はぽかんとしているだけだが、抱えたぬいぐるみ達が眉間を釣り上げて吠えかけたような氣がした。
「なんだよ、怖えな。わざとじゃないって」

 少女を氣遣っていた京極が振り向いて「なんだって?」と訊いた。
「いや、そのぬいぐるみが、怒ってしかもちょっと火を噴いたような……」
俺が言うと、京極は今日何度目になるかわからないため息を漏らした。

「ハスキー犬が怒っているように見えるのは普通だろう。模様だよ」
ま、そうだよな。よく見てもやはりぬいぐるみだし。京極の女に対する神通力は、幼児から老婆まで変わらないらしく、小さな女の子は俺なんか見もせずにヤツににっこりと笑いかけて手を振った。

 まあいいや、とにかくメシ食おう。カフェテリア『アキレスと亀』は、その廊下の突き当たりにあった。黒をメインにしたインテリアに、ギリシャ風の壺などがあちこち置いてある。

 俺は、メニューを開いて「うーん」と唸った。なんだよ、ここ、ギリシャ料理の店じゃん。俺は、普通の洋食が……。あれ、このムサカってのは美味そうだな。茄子のグラタンみたいなもんじゃん? それにほうれん草のパイか。それももらおう。それにえっと、飲み物は、おおっ。ウゾか、結構強そうだな。

「それはダメだ。君は十歳なんだから」
京極がすぐにダメだしする。ちっ。ま、いいか、このヨーグルトドリンクみたいなヤツで。

 選んでいると、奥の方のステージに灯がついた。ミュージシャン登場かな? でも、この店、まだ開店休業状態じゃん。俺たちの他にいる客といったら……、あ、白っぽいキャミソールドレスを着た女が一人か。お、すげー美人だ。それにあのスタイル。ポン、キュッ、ポンてな具合だよな。今のドレスもいいけど、コミケで着せるとしたらやっぱりピッタリとした戦闘スーツかなあ。別に戦闘系にだけ萌えるわけじゃなんいだけどさ。

 ともかく、客より従業員の方が多そうな状態だけれど、何かショーが始まるらしい。

 見ると、奥にわずかに他の床よりも高い場所があり、大広間にあったのとは比べものにならない古ぼけた感じのするピアノが置いてある。そこに着崩した麻のジャケットを着た金髪の男が座った。フルートを持った女や、ギターを抱えた男もステージに上がってきた。この二人はアジア人だ。それから、ひょろひょろとしたもじゃもじゃ頭の眼鏡男がピアノの前に立った。

 最初に弾きだしたのは、ギターを持った日本人。流れてきたメロディは、ギリシャ風の曲だ。あ、これ聴いたことがあるような。ギリシャ観光局って感じ? 別にどうということのない曲なので、メシを食うのに邪魔になることはなさそう。もじゃもじゃ頭の眼鏡男はなぜかトランプ手品を繰り広げている。

 俺は目の前に置かれたムサカに取りかかることにした。あっちっち。茄子と挽肉のグラタンみたいなもん? 美味っ。
「上品に食べてくれよ」
京極がささやく。うるせえな。お前は食わないのかよ。

 ヤツは、舞台の方に集中している。金髪男がピアノで先ほどより上品そうな曲を弾き出して、手品男もトランプをしまって歌い出した。意外にも上手いのでびっくり。

「モーリス・ラヴェルの『五つのギリシャ民謡』だな」
京極が頷く。
「なんだよ、お前、知ってんのか」
「ああ。ギリシャの民謡に素晴らしい和声のアレンジを加えて作った作品だ。この店に合わせてこの曲目を用意するなんて、洒落たアイデアだと思わないか?」

 俺は「うん」とは答えてみたものの、いまいちピンときていない。飯が美味ければ、何でもいいんだけど。京極はレチーナワインを飲んでいるだけで、全然食わないので俺がどんどん片付ける。舞台の曲は、アジア女のフルートや、ギター男が演奏に加わり、なかなか華やかな演奏になってきた。

 その『五つのなんとやら』が終わったらしく、客席から拍手が起こった。京極、白いドレスの綺麗な姉ちゃんや、いつの間に入ってきたのか他の観客も拍手を送っている。

 舞台のギター男がさっと立ち上がり手を伸ばした。その先にいたペパーミントグリーンのドレスを着たショートカットの女が、舞台に上がった。あ、この顔は知っている。さっき京極がポスター見ながら褒めてた歌手じゃん。初音ミクみたいな名前の、ええと、なんだっけ。

 一層大きな拍手に迎えられ、彼女は優雅にお辞儀をした。もじゃもじゃ男は舞台から降りて、アジアの二人と金髪男が伴奏をはじめた。

 おお、この曲はよく知っているぞ。なんて曲か知らないけれど。
「映画『日曜日はダメよ』のテーマ曲『Ta Pedia Tou Pirea』だな」
京極が解説してくれる。

「何それ?」
「ギリシャを舞台にした名作映画だよ。曲名は『ピレアの男たち』って意味じゃないかな。アカデミー音楽賞も取ったはずだ」

 澄んだ歌声は心地よい。さすがメインダイニングで歌う予定のディーヴァ。見るとキャミソールドレスの別嬪姉ちゃんも、さっきのもじゃもじゃ眼鏡男の時とは全く違う熱心さで舞台に見入っていた。

 俺は、とりあえずほうれん草のパイを片付けるのにメチャクチャ忙しい。京極、悪いけど全部片付けちゃうぞ。美味いし。

「ところで、君はいつまでアンジェリカ嬢の身体を乗っ取っているつもりなんだ」
京極は声を潜めて訊いた。

「ほんのちょっとだよ。うまいもん食って満足すればそれでいいんだ。最長で明日の『魔法少女♡ワルキューレ』放映時間までには戻してくれって頼んである。あの子が、船のあちこちを見るのに飽きちゃったら、すぐにでも終わりだろ。ほら、そこにも四角い額縁があるしさ」
俺は、ガツガツとフェタチーズとオリーブ入りのサラダをかき込んだ。

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忘れてた……。ミク嬢が歌ったのをイメージしたのはこちらです。

Ta Pedia Tou Pirea - NANA MOUSKOURI


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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 4 -

「霧の彼方から」の続きです。『もう一人のマデリン』六回に分けた四回目です。

もと娼婦マデリン・アトキンスの家に行ったことをグレッグに話したジョルジア、彼の固まった様子に「マズいことをしたかしら」とようやく思い至った様子です。そりゃ、そんなことしちゃ波風立ちますとも。まあ、相手はヘタレなグレッグだからよかったものの、もっと強氣な人なら口論になるかもしれませんね。

ようやくグレッグの口から、ジョルジアが興味を持っていた若かりし日の一連の出来事が語られます。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 4 -

「あの……。プレゼントを探している時に寄った……」
「あそこに、行った?」

 彼の許可も得ずに、マデリン・アトキンスを探して話を聞き出したことが大きなプライバシーの侵害だと、この時点になってようやくジョルジアは思い当たった。

「ええ。あの……たまたま、アトキンスさんに逢ったの。それで、お茶をご馳走してくださったの。いろいろな話をして、写真を撮らせていただいて……」

 彼の表情は強ばり、息を呑んだ。
「彼女と話をした? 君が?」
「ええ。あの……私……」

 彼は立ち上がって、後ずさった。まるで、四年前に戻ってしまったかのようなぎこちない動きだ。
「僕は、もう一つの部屋で寝た方がいいだろうか。それとも、そのソファで……」

「グレッグ」
彼女は震えを抑えられなかった。

「ごめんなさい。私のやったことを許せないかもしれないけれど、申し訳なかったと思っていることは知って欲しいの」
ジョルジアが絞り出すようにそう告げると、彼は驚いて首を振った。

「僕は、君の方が不快に思っているのだと……」
「どうして? そのつもりはなかったけれど、結果的にあなたの過去のことを嗅ぎ回ったのは、私でしょう?」

 彼は、ほうっと息をついた。
「また、同じことになると思ったんだ」
「同じこと?」

 彼は、戻ってくると、またベッドの横に腰掛けてうなだれた。
「ジェーンは、言った。『穢らわしい。近づかないで』って。言い訳もさせてもらえなかった」

「ジェーンっていうのは、お母さまのところで話題になっていた人?」
「そうだ。彼女はマッケンジー氏の遠縁の女性で、オックスフォードで学ぶことになったので面倒を見て欲しいと頼まれた。僕は、女性と親しく話をしたこともなかったし、しばらく一緒に時間を過ごすうちに好きになって、うまく行くことを夢見るようになったんだ」

 ほとんどバースに帰っていなかったグレッグの恋愛事情があの感じの悪いマッケンジー兄妹にも知れ渡ってしまったのは、ジェーンがそもそもマッケンジー家の親戚だったからだ。彼らは、グレッグが手酷い失恋をしたと面白おかしく口にした。

 その失恋の事情はどうやらマデリン・アトキンスと関係しているらしい。マデリンが「ガールフレンドと手も握れない晩熟な学生」と言っていたのがグレッグのことだとしたら、いや、文脈からおそらく間違いなくグレッグのことだと思うが、彼はジェーンとの関係を慎重に真摯に進めようとしていたに違いない。彼が自分との関係を四年もかけて紳士的に育んだように。

「マデリンのもとに行くことにしたのも、彼女の件があったからだ。僕は、生物学や動物行動学の知識はあっても、いわゆるガールフレンドがいたことがなくて、女性と付き合うのはどうしたらいいのかもわからなかった。だから、恥を忍んでリチャードに相談したんだ。そうしたら、口で説明するよりも実習をしろと言われたんだ」
「実習っていうのは、言い得て妙ね。それがアトキンスさんのところへ行くことだったのね」

 彼は頷いた。
「ああ、彼は僕がどうしようか悩む間もなくすぐに話をつけてきてくれて、僕は彼の言葉にも理があると思ってマデリンの所に行ったんだ。それがとんでもない間違いだったとわかったのは、噂でそれがジェーンの耳に届いてしまったことを知った後だった」

 十代の終わりの若い娘がそれをおぞましく思ったことをジョルジアも当然だと思った。彼女は、彼の瞳を見つめた。
「おせっかいな人が告げ口をしてしまったのね」
「男が娼婦のところにいくということを、女性はそう感じるものだと、あの時僕は初めて学んだ」

 ジョルジアは、彼のうなだれた表情を優しく見つめた。いたずらを見つかって縮こまっている子供のような瞳だ。
「彼女も若かったのよ、きっと」

「そうなのかな。おそらく彼女なら僕を理解して受け入れてくれると、僕は勝手な期待していたんだと思う。だから、あんな形で関係が終わって、全世界にまた拒否されたと感じた。それから、やはり僕が誰かに愛されることはないんだと思うようになった。でも、それだけじゃなかったんだ」

「というのは?」
ジョルジアは、言うかどうかをためらっている彼の硬い表情を見つめた。彼は、口に出すことを怖れるように時間をかけていたが、やがて諦めたように口を開いた。

「僕は、それからまたマデリンのところに行った。軽蔑するかもしれないけれど、たとえ仕事だとしても、彼女の肌は温かかったし、僕は性的高揚を知ったばかりだった。彼女はのろのろとした客を嗤ったり冷たくあしらったりしなかったから、僕は甘えたかったんだと思う。失恋の苦しみを薄れさせるために、彼女の優しさに逃げ込めると期待したんだ。少なくとも一度は彼女は優しくしてくれた。でも、彼女にとっても僕は迷惑な存在でしかなかったんだ」

「迷惑?」
「リチャードが取り決めてくれた金額は、一回限りの特別料金だったんだろうね。なのに、世間知らずの僕はその値段で彼女のところに通おうとしていたんだ。それっぽっちしか払えないならもう来ないでほしいとはっきり言われてしまった。でも、僕には急いで差額を払えるだけの余裕もなくて、謝って退散するしかなかったんだ」

 彼は、自虐的な笑みを漏らした。
「今回、マデリンがまだ居るか知ろうとしたのは、彼女とまた関係を持ちたかったからじゃない。今更だけれど、差額を払ったほうがいいのかと思ったんだ。でも……」
「でも?」

「君に知られたらおしまいだと思った。ジェーンに拒絶された時みたいになるって」
彼は、肩を落とした。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 3 -

「霧の彼方から」の続きです。『もう一人のマデリン』六回に分けた三回目です。

もと娼婦マデリン・アトキンスの家に招かれたジョルジア、本来の好奇心はどこへやら、フォトグラファー・モードに入ってしまいました。人生のパートナーと「関係」のあった女性を前にして、個人的な感慨をどこかへ置き去り瞬時に客観視してしまう姿勢は、本人がそうと意識していないだけで、重度の職業病なのかもしれません。それに、後先考えずに夢中になってしまうところ、もしかしたらかなり似た者夫婦なのかもしれませんね。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 3 -

 マデリンは、ジョルジアのカップに紅茶を入れた。
「あんたは、ケニアで何をしているんだい? 旅行関係?」

「私は写真家なんです。マサイ族の写真を撮る時にリチャードにアテンドしてもらいました」
「ああ、それでか」
「それでって?」

 マデリンは笑った。
「あんたは、自分では氣付いていないだろうが、いろいろな物をじっと見るんだよ。あたしの顔や、服装や、この部屋の様相、それにこの紅茶もね。最初は警官なのかと思ったくらいさ。それで、何かこの部屋に撮りたい被写体があるのかい? 娼婦の部屋らしい様子はもうないと思うけれどね」

 ジョルジアはチャンスだと思って頼んだ。
「私は、人生の陰影を感じるポートレートを撮りたいんです。あなたのお話を聴いていて、先ほどからずっと思っていました。沢山の人生を受け止めていらした深さや重みを感じるんです。フィルムに収めても構わないでしょうか」

「あたしをかい?」
「はい。あなたをです。もし、お嫌でなかったらですけれど」
「構わないさ。こんな婆さんを撮りたいっていうのはわからないけれど」

 ジョルジアは、当初の目的も忘れてマデリンを撮った。マデリンは面白がりながら、撮られている間もいろいろな昔話を続けた。

 とある著名な教授が部屋を出る時に、その学生と鉢合わせしてしまった話。三年も通ってくれた青年に恋をしてしまった話。ある客と事に及んでいる時に、スコットランドから出てきたという妻が乗り込んできたこと。いつも空腹でお腹を鳴らしながらも、貯めたわずかなお金で通おうとした貧しい青年を追い返した話。

「どうして追い返したんですか?」
「娼婦に通うなんて事は、精神的にも経済的にも余裕のない時にするべきではないんだよ。さもないと、取り返しのつかないところに堕落してしまうからね。学業がおろそかになり落伍しても、本人に別の道を見いだせる器用さがあったり、親が面倒を見てくれるような坊やならあたしも氣にしないさ。でも、その学生は学者にでもなるしか将来の可能性はなさそうだったしね」

 ジョルジアは、微笑んだ。この人は、暖かい心を持った素敵な人だ。はじめから娼婦だと聞かされていたら偏見を持ったかもしれない。そうでなかったことを、嬉しく思った。グレッグに写真を見せたらなんて言うだろうと考えた。

 マデリンのフラットを出ると、また雨が降っていた。ジョルジアは、折りたたみの傘を広げて路地を出た。石畳がしっとりと濡れている。雨は直に小降りになってきたが、先が霞んで昨日や先ほどとは全く違った光景に見えた。

 ジョルジアは、iPhoneを取りだして時間を確認した。約束の時間まであと十五分ほどだ。

 観光客たちが行き過ぎるバス乗り場を越えて、ホテルの近くまで来た時に、霧の向こうから見慣れたコートの後ろ姿が見えてきた。ゆったりとした歩きが停まり、彼は振り向いた。ジョルジアの足音に氣が付いたのだろう。

 彼女はいつもと変わりない彼に笑いかけた。
「ウォレスとは、心ゆくまで話せた?」
「ああ。学生時代から思っていたけれど、彼の頭の回転は、信じられないくらい早いんだ。昨日から今日の間に、もう三つも新しいアイデアをシミュレートしていて、それがまた僕の研究を新しい次元に導いてくれたんだ。ホテルに戻ったらレイチェルにメールをして、彼女の意見も聞こうと思うんだ」

* * *


 夕食までの時間、彼は真剣な面持ちでメールを打っていた。ジョルジアは、生き生きとしている彼の様子が嬉しくて、邪魔をしないようにカメラの手入れをしていた。

 夕食中やその後も、彼は普通に話をしながらも、時おり思い出したように内ポケットに入れた手帳に思いついたことを書き込んだり、ウォレスに電話をしたりしていた。その様な状態では、バーやティールームにいても仕方ないので、二人はすぐに部屋に戻った。彼は、研究の話に夢中になりすぎたことを謝り、ジョルジアは笑った。

 明日からニューヨークに着くまでは、姪のアンジェリカが隣の部屋にいるので、あまり甘い夜は過ごせないだろう。だから、今夜は彼に甘えてみようと、ジョルジアはシャワーを浴びるとさっさとベッドに向かって彼を待った。

 彼は、そのジョルジアの意図を理解したのかしないのか、背広を箪笥にしまい部屋のあちこちを適度に片付けてから、シャワーを浴びてバスローブ姿でベッドの近くまでやってきて、ベッドの端に腰掛けた。

「そういえば、僕のことばかり話して訊きそびれてしまったけれど、君はどんな一日だった?」
そう訊かれて、ジョルジアは微笑んだ。

「そうね。まず、セント・メアリー・チャーチの塔に登ったの。地理を理解する時に、いつも一番高いところに登るの。それから、カバード・マーケットに行ったの」

 グレッグは笑った。
「意外だな。君でも、いかにも観光客って周り方をするんだね」

 それを聞いて、ジョルジアはおどけて言った。
「その後は、さほど観光客って感じじゃなかったわ。あのね、昨日あなたと行ったあの小路に行ったのよ」

「あの小路って?」
彼の動きが止まった。不安そうな顔つきで彼女を見ている。その顔を見て、ジョルジアは不意に自分は何をしたんだろうと思った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】豪華客船やりたい放題 - 3 -

台風の被害に遭われたみなさまに心からのお見舞い申し上げます。こんな時にのんきにどうでもいい小説をアップしている場合ではないのかもしませんが、とはいえ数日自粛しても同じ事ですし、不快に思われる方は読まないと思いますので、予約投稿通り本日公開します。以下、予約投稿の文章です。

大海彩洋さんと、ちゃとら猫マコト幹事で開催中の「【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅」の参加作品の第三回目です。

サラッと書いて終わらせるはずだったのに、なんか思いのほか文字数が……。はじめに謝っておきますが、真面目に豪華客船の謎に挑んだりはしません。能力も興味も皆無なキャラクターで出かけてきてしまったので。さらにいうと、妖狐の問題も全く解決する予定はありませんので、ストーリーに期待はなさらないでくださいね。

さて、今回の語り手は、京極髙志の方です。


オリキャラのオフ会


【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
私のところのチームの詳細設定/この話をはじめから読む



目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 3 -


 僕は、ウェルカムパーティで何組かの知り合いと遇った。父が後援していた指揮者の令嬢で、かなり有名なヴィオリストである園城真耶。そして、彼女の又従兄弟で日本ではかなり有名なピアニストである結城拓人。この二人が乗船していたのは、嬉しい驚きだった。

「まあ、京極君じゃない! 久しぶりね。十年以上逢っていなかったんじゃないかしら」
彼女は、あいかわらず華やかだ。淡いオレンジのカクテルドレスがとてもよく似合っている。

「僕は、五年くらい前に舞台で演奏している君たちを見たけれどね。君たちもこの船に招待されたのか?」
シャンペングラスで乾杯をした。結城拓人はウィンクしながら答えた。
「いや、僕たちは君たち招待客を退屈させないために雇われたクチさ。変わらないな、京極。あいかわらず、あの会社に勤めているのかい? 先日、お父さんに遇ったけれど、そろそろ跡を継いで欲しいってぼやいていらしたぞ」

 僕は肩をすくめた。ぼんくらの二代目になるのが嫌で、自分の力を試すために父の仕事とは全く関係のないところに就職した。父はさっさとやめて自分を手伝えとうるさいが、責任のある仕事を任されるのが楽しくなってきたところだ。それに、何人もの社内若手の身体を乗っ取ったあげくに、山内の身体とパスポートを使い海外に逃げ出した妖狐捜索の件がある。自分も巻き込まれた立場とはいえ、いま放り出して会社去るのは、無責任にも程があるだろう。

「父は誰にでもそんなことを言うが、そこまで真剣に思っているわけじゃないんだ。ところで、君たちはこの船のオーナーと知り合いかい? もしそうなら、紹介してもらいたいんだが」
《ニセ山内》の件を相談するにも、まずはオーナーと知り合わないと話にならない。

「いや、僕たちはヴォルテラ氏と面識はないんだ。でも、あそこにいる二人なら確実に知り合いだと思う。ほら、イタリア系アメリカ人のマッテオ・ダンジェロ氏とヤマトタケル氏だ」
拓人は、二人の外国人を指さした。

 一人は海外のゴシップ誌でおなじみの顔だ。スーパーモデルである妹アレッサンドラと一緒にしょっちゅうパーティに顔を出すので有名になったアメリカの富豪で、たしか妹の芸名に合わせてダンジェロと名乗っているとか。

 もう一人の金髪の男も見たことがある。雑誌だっただろうか。端整な顔立ちと優雅な立ち居振る舞いの青年だ。変わっているといえば、茶トラの子猫を肩に載せているとこだろうか。もちろんパーティで猫の籠を持ち歩くわけにはいかないし、この人混みでは足下にじゃれつかせていたらいつ誰かに踏まれるかわからないので、そうするしかなかったのかもしれない。

 僕は首を傾げた。
「ということは、彼があの有名なヤマト氏なのか? でも、噂では、彼の父親は……」

 園城真耶は謎めいた笑みで答えた。
「だから拓人が、確実に知り合いって言ったのよ。もっとも、紹介してくれるかはわからないけれどね。でも、マッテオは、この船のオーナーとも財界やイタリアの有力者とのパイプで繋がっているに違いないわよ。とにかく挨拶に行きましょうよ」

 僕は、二人に連れられて、ひときわ目立つ二人のところへと向かった。驚いたことに、日本に永く住み音楽への造詣も深いと噂のヤマト氏だけでなく、ダンジェロ氏までが結城や園城をよく知っている様子で、親しく挨拶を交わしていた。特に園城に対しては最高に嬉しそうに笑顔を向ける。

「ああ、真耶、東洋の大輪の薔薇、あなたに再会するこの日を、僕がどれほど待ち焦がれていたか想像できますか? 今日もまた誇り高く麗しい、あなたにぴったりの装いだ。先日ようやく手に入れた薔薇アンバー・クイーンの香り高く芯の強い氣高さそのままです」

 僕は、ダンジェロ氏が息もつかずに褒め称えるのを呆然と聞いていた。彼女は、この程度の褒め言葉なら毎週のように聞いているとでも言わんばかりに微笑んで受け流した。
「あいかわらずお上手ね。ところで、私たちの古くからの友達とそこで再会したの。ぜひ紹介させてくださいな。京極髙志さん、あなたもよくご存じ日本橋の京極高靖さんのご長男なの。ご近所だからタケルさんはご存じかもしれないわね」

「おお、あの京極氏の……。はじめまして、マッテオ・ダンジェロです。どうぞお見知りおきを」
「はじめまして。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」

 ヤマト氏もどうやら父のことをよく知っているらしい、ニコニコして握手を交わしてくれた。
「お噂はよく伺っています。お近づきになれて嬉しいです。今、マッテオと話をしていたのですが、あちらのバーにとてもいい出來のルイ・ロデレールがあるそうなんです。それで乾杯しませんか」

 それで、僕たちは広間の中央から、バーの方へと移動することにした。が、園城と結城は一緒に移動する氣配がない。
「失礼、私たち、これからリハーサルがあるのでここで失礼するわ」

「リハーサル? ああ、君たちが出演する、明日の演奏会のかい?」
ダンジェロ氏が訊くと結城は首を振った。

「いや、それとは別さ。実は、普段ヨーロッパにいる友達四人組も来ているんだ。それで急遽一緒に演奏することになってね。たぶん、夜にバーで軽く演奏すると思うから、時間があったら来てくれ」
「じゃあ、また、後で逢いましょう」
そう言って二人は、去って行った。それで、僕はダンジェロ氏とヤマト氏に連れられてバーの方へ行った。

 移動中に、ヤマト氏の愛猫が何か珍しいものを目にしたらしく、彼の肩から飛び降りてバーと反対の方に駈けていってしまった。ヤマト氏はこう言いながら後を急いで追った。
「失礼、マコトを掴まえて、そちらに行きます!」

 結局、僕はダンジェロ氏と二人で、笑いながらバーに向かった。

 がっしりとした樫の木材で作られたバーは後ろが大きな四角い鏡張りになっていた。そして、そこに目をやって僕はギョッとした。映った僕たちの他に、白い見慣れた顔が見えたのだ。思わず叫んでしまった。
「山内!」

 その声に驚き、ダンジェロ氏も鏡の中の妖狐に氣付いた。しまった……。

 よく見ると山内の様子がいつもと違う。立ち方がエレガントだし、それにいつも好んで選ぶ変な服と違い、上等のワンピースを着ている。サーモンピンクの光沢のある絹の上を白いレースで覆った趣味のいいカクテルドレスだ。そして、僕の横を見て嬉しそうに口を開き、鈴の鳴るような可愛らしい声で英語を口にした。
「マッテオ! 私よ」

「おや、その声は僕の愛しい天使さんだね。どういう仕掛けになっているのかな? アンジェリカ」
ダンジェロ氏が、その声に反応した。

 僕は、自分でも血の氣が引いていくのをはっきりと感じた。山内のヤツ、なんてことをしてくれたんだ!
「まさか、妖狐に身体を乗っ取られてしまったのかい、お嬢さん!」

 妖狐の姿をしたダンジェロ氏の連れと思われる少女は、首を振った。
「いいえ。違うの。さっきタクヤとしばらくのあいだ身体を交換する契約を結んだだけ。マッテオが社交で忙しい間、この船内のなかなか行けないところを冒険するつもりなの。明後日の十時までに戻るから心配しないで。マッテオに心配かけないように、あらかじめちゃんと説明しておこうと思って。でも、会場の真ん中には行けなくて困っていたの。この広間で四角い枠はこの鏡の他にはあまりないでしょう。この側に来てくれて本当に助かったわ」

「ダンジェロさん、この方は……」
僕が恐縮して訊くと、ダンジェロ氏は、大して困惑した様子もなく答えた。
「ああ、紹介するよ。僕の姪、アンジェリカだよ。普段は十歳の少女なんだ。アンジェリカ、こちらは京極髙志氏だ」

 ってことは、山内のヤツは十歳のアメリカ人少女のなりでこの船内を歩き回っているっていうわけか……。

「ああ、タクヤが言ってたタカシっていうのはあなたね。どうぞよろしく。マッテオ、詳しくはこの人に説明してもらってね」
妖狐の中の少女は朗らかに笑った。

 ダンジェロ氏は、鷹揚に笑った。
「オーケー、僕の愛しい雌狐ヴォルピーナ ちゃん。世界で一番賢いお前のことだ、何をするにしても僕は信用しているよ。危険なことだけはしないでおくれよ。それに、困ったことが起こりそうだったら、すぐに僕たちに相談すると約束してくれるね」

「サンクス、マッテオ。もちろんそうするわ。タカシも、心配しないでね」
妖狐姿のアンジェリカはウィンクした。

「ところで、アンジェリカ。そのカクテルドレスだけれど」
ダンジェロ氏が、鏡の奥へと去って行こうとする彼女を呼び止めた。彼女は振り返って「叱られるかな」という顔をした。

「私の服だと小さくて入らないから家に戻って、ママのワードローブから借りてきたの。だって、変な安っぽい服着ているのいやだったんだもの。ダメだった?」
ダンジェロ氏は、「仕方ないな」と愛情のこもった表情をして答えた。

「エレガントでとても素敵だよ。アレッサンドラに内緒にしておくが、汚さないないように頼むよ。来月ヴァルテンアドラー候国八百年式典の庭園パーティーで着る予定のはずだ。とくにそのレース、熟練職人の手編みで1ヤードあたり六千ドルする一点ものだから、引っかけたりしないようにしてくれよ、小さなおしゃれ上手さん」

 僕の常識を越えた世界だ。姪に甘いにも程がある。だが、よその家庭の話はどうでもいい、僕はアンジェリカ嬢の身体を借りて、何かを企んでいる山内を探して監視しなくては。まったく、どうしてことごとく邪魔ばかりするんだろう、あの男は。誰のために僕がこの船のオーナーと話をしたがっているのか、わかっているんだろうか。
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Posted by 八少女 夕

【小説】豪華客船やりたい放題 - 2 -

大海彩洋さんと、ちゃとら猫マコト幹事で開催中の「【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅」の参加作品の第二回目です。

ようやく本題に入った。こんな感じでストーリーが進みます。というわけで、うちのキャラを書こうとしているみなさま、中身が入れ替わっておりますので、ご注意ください。


オリキャラのオフ会


【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
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目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 2 -


 俺がお茶会に紛れ込んで美味いものを食うにはどうしたらいいかを考えていると、ドアの前に来ていたブルネットの少女が「ところで」と唐突に話しかけた。げっ。いつの間に。

「あなたは一体だれ? その耳と尻尾は仮装なの?」
どっかで見たような顔の少女だった。俺は、アイドルや二次元の方が好みだったのでガイジンには詳しくないが、この顔にそっくりな女は何度も見たことがある。スーパーモデルってやつ? 名前までは知らないけれど。が、この子は大人びてはいるけれど、絶対に本人じゃないだろう、若すぎる。

 俺がこの妖狐スタイルになって実にラッキーだと思うことの一つに、語学問題がある。学校に通っていたときから、勉強は苦手で英語なんて平均点以上採ったことがない俺だが、この狐耳から聞こえてくる言葉は、全部日本語と同様にわかるのだ。テレビの会話を理解していただけだから、俺が話す言葉もガイジンに通じるかどうかはわからないけれど。

「仮装じゃないさ。本当の耳と尻尾」
言ってみたら、少女は目を丸くした。
「触ってみてもいい?」

 ってことは、俺の言葉も通じているって事だ。へえ、びっくり。
「触ってもいいけどさ、あんた、怖くないのか? 俺が妖怪だったらどうするんだよ」

 少女は首を振った。
「全然怖くないわよ。だって、カーニバルで仮装の子供たちが着るみたいな、ペラペラの服着ているお化けなんているわけないもの。なぜセーラー服にミニスカートを合わせているの? 狐の世界での流行?」

 俺はがっかりした。日本でも放映が始まったばかりの『魔法少女♡ワルキューレ』をガイジンが知っているとは思わないけれど、アニメコスプレについては、海外でももっと市民権を得ていると思ったのにな。でも、確かにこの子が着ている服、めちゃくちゃ高価そうだもんな、化繊の安物コスチュームに憧れるわけないか。

「狐の流行じゃなくて『魔法少女♡ワルキューレ』のコスチュームだよ。あんた、ジャパニーズ・アニメは観ないのか。どこの国から来たんだ? 俺は、日本人で山内拓也って言うんだけどさ」
俺が訊くと、少女はにっこりと笑って握手の手を差し出した。

「はじめまして。私、アンジェリカ・ダ・シウバ。アメリカ人よ。マッテオ伯父さんと一緒に来たの。タクヤは、日本の狐なの? 招待されて一人で来たの?」
「いや。京極髙志っていうヤツが招待状をもらったんだ。俺は面白そうだから来ただけ。俺、どこにでも行けるんだぜ。四角い枠からは出られないんだけどさ」
「ふーん。便利なんだか不便なんだかわからないわね。ところで、どうして男の人みたいな声なの?」
「俺、もともとは男だったんだもの。身体をだれかに取られちゃってさ。まあ、この身体のままでも、そんなに悪くないけどね。お茶会に行けないのが、目下の悩み」

 アンジェリカは、少し思案をしていた。
「お茶会に行けなくて悩んでいるのって、みんなとお茶が飲みたいの?」

「いや、美味いものさえ食えれば、それでいいんだけどさ。でも、ビュッフェのところにいって好きなものを取りに行くとか、そういうことはできないんだ。京極の野郎は、社交で忙しくて、エビピラフとグラタンを取ってきてくれとか、言っても聞いていないと思うし」

 アンジェリカは、頷いた。
「せっかくどこにでも行けるのに、簡単じゃないのね。私はエビピラフなんか食べられなくてもいいから、ちょっとだけでもどこにでも行ける能力が欲しいな。この船の地下に、いろいろと秘密があるんですって。でも、どこにも通路がないんだもの」

 で、俺はひらめいた。
「まじか? だったら、しばらく身体を交換しないか?」
「交換? そんなことできるの?」
「ああ。俺がこの服を脱いで、あんたと目を合わせれば、入れ替わる」

「でも、それで元に戻れなくなったら困るもの」
「この身体になったら四角いところのどこへでも行けるんだぜ。つまり好きなときに俺の前に出てきて目を合わせれば戻れるんだ。もっとも俺、明後日の朝十時までにはどうしてもこの身体に戻って『魔法少女♡ワルキューレ』の第二回放送を観たいんだ。遅くともそれまでにしてくれよ」

 アンジェリカは、少し考えていたが頷いた。
「わかったわ。そうしましょう。でも、私の格好をして、品位の下がるようなことしないでよ」

 俺は、情けなくなった。京極にもいつも叱られっぱなしだけど、こんなガキにまで信用ないなんて。まあ、無理ないけど。

 そういうわけで、俺とアンジェリカは、身体を交換した。アンジェリカに教えてもらった彼女の船室に戻り、お茶会に相応しい服を選ぶことにする。いま着ているクリーム色のワンピースを見るだけで、大金持ちの娘なのは丸わかり。俺、ロリコン趣味はないけど、これだけの美少女の身体でコスプレ、もといファッションショーごっこをするのは悪くない。明後日の十時までの四十時間、楽しく遊ばせてもらうぜ。ついでに好きな食い物たらふく食べるぞ!
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Posted by 八少女 夕

【小説】豪華客船やりたい放題 - 1 -

大海彩洋さんと、ちゃとら猫マコト幹事で開催中の「【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅」の参加作品の第一回目です。

すみません、まだウゾさんのところのキャラしか出てきていませんし、宿題の『旅の思い出』も出てきていません。次回以降にぼちぼち書きますので、今日は導入部のみで失礼します。


オリキャラのオフ会


【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
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目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 1 -


 ほう。さすがは、お坊ちゃま。

 京極は、ウェルカムパーティに遅れないように身支度をした。タキシード、俺には執事コスプレにしか思えない服装をしてもちゃんと絵になる。鏡を覗いて、俺がちゃっかり来ているのを知り、露骨に嫌な顔をした。

「来るなといったのに、どうしてここにいるんだ、山内」

 山内拓也、それが俺の名前だ。見かけは全然それっぽくない。かつては普通の男だったけれど、あれこれあって、今は狐の耳と尻尾を持つ美少女の姿をしている。四角い枠の中にしかいられないのはもどかしいが、反対に四角い枠の中であればどんなところにでも自由にいけるという、非常に便利な能力を持った異形なのだ。

 京極髙志は、俺が勤めていた会社の総務課長代理だ。イケメンで、お育ちもいい上に、仕事も出来るので女たちが群がるけっこうなご身分。ずっとムカついていたけれど、俺が本来の身体を乗っ取られてこの姿になってしまって以来、自宅にかくまってくれて面倒を看てくれている。そう、こいつは性格もいいヤツなんだ、腹立たしいことに。

「世界から金持ちがワラワラ集まる豪華客船パーティ、美味いものも、綺麗どころもたっぷりと聞いたら、そりゃ行きたくなるさ。お前だけ楽しむなんてずるいぞ」

 京極は、ますます嫌な顔をしてため息をついた。
「僕は、遊びに来たわけじゃない。乗っ取られた君の身体とパスポートで、イタリアに入ったという《ニセ山内》の情報をもらうために、この船のオーナーと話をする必要があるから来たんだ。君だって、早く身体を取り戻したいだろう」

 そう言われて、俺は少し考えた。まあ、確かに身体を取り返したいって思いはあるけれど……。
「そんなに急がなくても、いいかな。ほら、先週『魔法少女♡ワルキューレ』の放映が始まったばかりだし、その他にリアルタイムで追いたいシリーズがいくつかあるんだよな。ゲームもまだシリーズ3に着手しだしたところだし、コスプレの方も……」

 俺ののんびりライフのプランを聴いてイラッときたのか、京極はそれを遮った。
「そういえば、先週も着払いで何かを頼んだだろう」

「悪い。けど、しょうがないだろう。俺は休職中で収入ないしさ。お前のクレジットカードの家族カード作ってくれたら、着払いはやめるよ」
「冗談じゃない。カードなんか作ったら、とんでもないサイトで課金するに決まっている」

 よくおわかりで。
「まあね。でも、服は仕方ないよ、必要経費だろ? お前にとっても」

 これは京極にとっても痛いところをついたようだ。服の着用が、俺の持つもう一つの迷惑な能力を封印するからだ。

 俺は、誰かと目を合わせると、そいつと身体を交換することが出来る。まあ、そういうわけで俺自身の身体を誰かに持って行かれてしまったわけだ。で、もう一度目を合わせると再び元に戻る。同じ相手とは一度しか交換できない。つまり、俺は俺自身と目を合わせて身体を取り戻さなくちゃいけないわけだけれど、そいつがどこにいるのかわからない限り、話は簡単じゃない。

 で、事情をよく知っている京極ん家の露天風呂をメインの根城にさせてもらっているのだが、一応美少女の姿をしているので、独身の京極には目の毒らしく「服を着ろ」と言われた。で、着てみたらなんと誰と目を合わせても問題は起こらないということがわかったのだ。おかげで、京極は俺が服を脱いで人前に出ないようにますます心を砕く羽目になったというわけだ。

 俺にとっても悪い話ではなかった。もともと俺は猫耳のギャルが大好きなのだ。で、鏡に映せば自分の姿にはいくらでも萌えられる。コスプレもし放題。アニメとゲームの合間にコスプレ、こんな天国がどこにあるだろうか。身体が戻ってしまったら、またドヤされながら営業に回らなくっちゃいけない。だったら今のうちに存分楽しまなくちゃ。

 払わされる京極には悪いけど、俺の軍資金はとっくに底をついてしまったから……。ま、いいだろ、お坊ちゃまには働かなくても構わないくらい財産があるんだから、月に数着の服くらい。いや、数着じゃないな、小物も入れたらギリ二桁ってとこ?

 今日、選んでみたのはさっき届いたばかりの『魔法少女♡ワルキューレ』のシリーズもの。まずは『ファイヤー戦士ブリュンヒルド」を着てみた。白い肌に赤いミニスカって、滅茶苦茶合うよね。髪型もちゃんと高めのポニーテールにして再現したけど、京極のヤツ、わかってんのかな。

 京極はため息をつくと、袖口をカフスで留めた。
「しかたないな。観て歩くのは仕方ないが、あまりあちこちで迷惑をかけるなよ。大人しくそこでアニメでも観ていてくれ」

 そう言って京極のヤツは出て行った。ふふん、この船のテレビはオンデマンドだから、かじりついていなくても再放送を観られるんだよ。もちろん『魔法少女♡ワルキューレ』の放映は外せないけどさ。

 さ。せっかくたくさんの服を用意してきたし、あちこちで見せびらかしてこなくっちゃ。どこから行こうかな。

 テレビやスマホ、ドア、窓や鏡だけじゃない。プール、ビリヤード台、調理場の流し、ワゴンの下、段ボール箱、ポスター。四角いところならこの船のどこにでもある。

 試しに一つのドアへ行ってみたら、ちょうど二人の少女が挨拶をしているところだった。一人はクリーム色のボレロ付きワンピースを着たブルネットの少女で、もう一人は全身真っ白のビスクドールのように美しい少女。ブルネットの少女が一人であれこれ話しかけながら、もう一人の少女にガラスの煌めく髪飾りをプレゼントして去って行った。白い少女は、髪飾りを陽に透かし、それから少し離れたところで立っていた全身黒づくめの男にそれを見せた。

 俺は、もう一人の少女が語っていたことをちゃんと聞き取っていた。「甲板長主催の船に纏わる伝説とお茶会」そんなものがあるなら、顔を出してみようかな。いや、茶菓子を食べるのは、枠の中にいたらダメだよな。さて、どうしよう。
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Posted by 八少女 夕

【小説】あなたを海に沈めたい

「十二ヶ月の歌」の九月分です。なぜ一ヶ月がこんなに早いんだろう……。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。九月は加藤登紀子の”難破船”にインスパイアされて書いた作品です。中森明菜が歌ってヒットしましたよね。私にとってもそのイメーシが強いのです。こちらは日本ではとても有名な曲ですので、聴いてみたい方、歌詞を知りたい方はWEBで検索してくださいね。

さて、もちろん原曲は、純粋な失恋の歌なのですけれど、私の中でこんなイメージがいつもつきまとっていました。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む



あなたを海に沈めたい
Inspired from "難破船" by 加藤登紀子

 おかしな降り方の雨だった。
「今日降るなんて聞いていないよ!」「傘、もってこなかった」
人々は口々に文句を言いながら通り過ぎた。ぽつりほつりと降っていたのはほんのわずかの間だけで、すぐに熱帯雨林のスコールのような土砂降りになり、庇や地下鉄へと駆け込もうとする人々で街は急に騒がしくなった。

 唯依だけが、恨めしげに天を仰いだだけで、そのまま重い足取りで進んだ。何もかもが上手くいかなくなり、全てが裏目に出た。雨にひどく濡れるくらい、大して違いはない。むしろ、惨めなのは自分だけではないと思えて有難かった。

* * *


 マストはゆっくりと揺れていた。ほとんど無風だ。眩しい光と、たくさんの白が、勝の眼を射た。白い帆、白い船体、白いリクライニングチェア、そして、その上で背中を焼く茉莉奈の白いビキニ。彼は、船内に入り冷えたヴーヴ・クリコの瓶を冷蔵庫から取りだした。ポンと心地のいい音をさせて、コルクは青い大西洋に吸い込まれていった。

 セントジョージを目指すプライヴェート・セーリング。真の勝者だけがエンジョイできる娯楽だ。残業禁止だ、営業成績不振だと締め付けられながら、代わり映えのしない日々をあくせくと働く奴らが、生涯手にすることのできない時間をこうして楽しんでいる。彼は、ジャンペンを冷えたグラスに注ぎ、この幸福を彼にもたらした新妻に渡した。

「ああ、美味しい。ヴーヴ・クリコの味が一番好き。屋内のパーティで飲むのも悪くないけれど、こうして太陽の下で飲むのが一番よね」
茉莉奈は、にっこりと笑った。

「社の飲み会では、乾杯以外ほとんど口をつけなかったから、君はアルコールに弱いんだと思っていたよ」
「私、あの手の安っぽいビール、嫌いなの。そもそも、会社の飲み会なんて全く行きたくなかったわ」
「勤めも社長と会長に言われて、仕方なくだったのかい?」
「まあね」

 茉莉奈が社長の娘であることは、ずっと秘密にされていた。もちろん、どこかのお嬢様に違いないとは、入社してすぐから噂になったけれど。勝は、次期社長の座を狙って茉莉奈に近づいたわけではない。彼を振り向かせようと躍起になったのは彼女の方だった。華のある美人で、スタイルも抜群、しかも将来の出世が約束されているとわかっているのに袖にするほど勝も天邪鬼ではない。

 同期の佐藤が結婚したときにもらった休暇は二週間だった。ハネムーンはハワイで、芋洗いのような混雑したビーチでのスナップ写真を見せられた。勝と茉莉奈は、一ヶ月のハネムーン旅行を大いに楽しむことが出来る。大型セーリングヨットを貸し切り太陽を自分たちだけのものにするのだ。もちろん、帆を張ったり、航路を決めて安全に走行するのは二人のクルーの役目だが。

「経理課や総務課なんて、死んでもごめんよ。あんな地味な制服を着て週の大半を過ごすなんて。あんなつまらない仕事は、地味に働くほかない人がするものよ。……鈴木唯依さんとか」

 勝は眉を寄せた。
「……彼女と知り合いなのか?」

 茉莉奈は意味ありげに笑った。
「知り合いってほどじゃないわ。でも、狙った相手にアタックする前に恋人がいるかリサーチぐらい、誰だってするわよ。もしかして、知られていないと思ってた?」

 勝は、少し慌てた。
「君と二股をかけていたわけじゃない。その……フェードアウトしていた時に、君と知り合ったんだ」

 茉莉奈は、シャンパングラスを傾けて、答えた。
「知ってるわよ。彼女の担当の仕事が忙しくて、ずっと逢えなかったんでしょう? だって、そうなるように板東のおじさまにお願いしたんだもの」
「経理部長に? まさか」

「柿本英子って知ってる? 私の同期。板東のおじさまとつきあっているの。それをパパに告げ口されたら大変だと思ったんじゃないかしら、ちょっと冗談っぽくお願いしただけで、何も訊かずにあの子を仕事漬けにしてくれたわ。でも、誓ってもいいけれど、それ以上のことは何もしていないわよ。だって、一緒にいる時間さえあれば、あなたが私を選んでくれることはわかっていたもの」

 勝は取ってつけたように笑った。
「まったく君には勝てないな。言うとおりさ。僕は君の魅力に抗えなかった」

 油断していたと思った。唯依とつきあっていたことを茉莉奈に知られていたなんて。茉莉奈との二度目のデートにこぎ着け、自分の人生に新たなチャンスが巡ってきたことを確信してすぐに、唯依にメールで別れを告げた。彼女が納得せず大騒ぎになることを怖れていたが、物わかりのいいことが一番の美点だと常々思っていた通り、一度会ってできるだけ誠実に見えるように振る舞ったら、なんとかこじれずに別れることが出来た。

* * *


 熱帯雨林のように不快な湿氣を恨めしく思った。纏わり付き、この身を雁字がらめに捕らえているのは、勝への妄執なのだと思った。忘れることも出来ず、憎むことも出来ず、まだ、どうしようもなく彼を望む心を持て余していた。
 
 だが、今さら何が出来るというのだろう。加藤勝に捨てられてからもう半年以上が経っていたし、彼は会社中の祝福の中で社長令嬢と華燭の宴をあげてしまった。唯依とつきあっていたことすら、会社ではほとんど誰も知らず、興味も持っていない。彼の心も未来も彼女のものなのだ。それを納得できないでいるのは唯依たった一人なのだ。

 二人の女を天秤にかけ自分を捨てていった勝への怒りは、どこかへと押し込められていた。それ以上に、ただ、彼の元へ行き、泣きすがり、抱き留めてもらいたいという願いに支配されていた。

 二人がセーリングヨットを貸し切りにしてハネムーンを過ごしていると聞いたフロリダの海を心に描いた。自分とのハネムーンだったらどんなに素晴らしいことだろう。空を駈け、彼を探して飛び回った。白い大きな帆船。三角の二つのマスト。シャンペングラスを持った勝の姿を目にしたように思った。

 突然立ちくらみがして、唯依はその場にしゃがみ込んだ。

* * *


 突然、バンっという大きな音が頭上から聞こえた。間髪入れずに「きゃっ!」と茉莉奈が叫んだ。リクライニングチェアのすぐ脇に、落ちてきた何かが大きな音を立てた。
「やだっ。何?」

 勝が近寄ると、それは白い鳥だった。わずかにオレンジがかった顔と黒い羽根の先、ピンクのくちばしでびっくりするほど大きい。カモメってこんなに大きかったんだと驚いた。マストにぶつかったのだろうか。片方の翼だけをはためかせて暴れている。茉莉奈が怯えるので、とにかく抑えようと側に寄った。鳥の方は、捕まらないように、もっと大きな音を立てた。

「どうしました」
機関室の裏側で作業をしていたクルー、ラモン・アルバが寄ってきた。

「落ちてきたんだ。マストにぶつかったんじゃないかな」
勝は肩をすくめた。

「あっ。そ、その鳥は……怪我をしているのでは?」
「ああ、片方の翼を動かせないみたいだね。折れちゃったんじゃないかな」

「嫌だわ。早くどけてよ」
茉莉奈は、眉をひそめた。東京でも感染症を引き起こす菌が多いからと鳩の側に行くのを異様に嫌がる彼女が、こんな近くで暴れる野鳥に我慢できるはずはない。

 勝は側にあったクッションを手に取ると、叩くようにしてカモメを船首の脇に追いやった。

「おい! 何をするんだ!」
水夫が怒鳴ったので、勝はむしろ驚いて振り向いた。その勢いで暴れていた哀れな鳥は柵を越えて海へと姿を消してしまった。

 駆け寄ってきたラモンと共に首を伸ばすと、ロープにかろうじて引っかかっていた鳥は次の瞬間に海へと落ちていった。勝は腹に苦い思いがしたが、あえて平静を保って言った。
「かわいそうだが、どっちにしても長くは生きられないさ」

「かわいそうで済むか! 不吉極まりないことをするな」
「なんだって?」

 この男は、やたらと迷信深くて困ると彼は腹の中で呟いた。茉莉奈が船内にバナナを持ち込もうとしたときも「不吉だ」と怒ったし、勝が口笛を吹いたときにもすぐにやめさせた。

「どうしたんですか?!」
機関室から船長デニス・ザルツマンが顔を出した。

「なんでもないよ。カモメが落っこちてきて暴れたから、どけただけさ。海に落っこちてしまったみたいだな。どっちにしても折れた翼じゃ長生きできないだろう」

 ラモン・アルバは青ざめて首を振った。
「違います、船長。あれはカモメなんかじゃない。俺はこの目で見たんだ。アルバロトロスだったんだ!」

 アルバロトロス? なんだ? どの鳥だって、この際どうでもいいだろうに。勝は首を傾げた。

 デニスは、眉をひそめた。
「落ち着くんだ、ラモン。そんなわけないだろう。北大西洋にアホウドリアルバロトロス は生息していない」

「だから、こっちも慌てているんですよ。この俺が、アホウドリがわからないとでも?」
「そうは思わないが……ミスター・カトウ。カモメっておっしゃいましたが、どんな鳥でした?」

「白くて、このくらいの大きさで、顔がオレンジっぽくって、くちばしは淡いピンクだったかな……わざと殺したわけじゃない」
勝が言うと、あきらかに船長の顔色が変わった。
「まさか。……よりにもよって、アホウドリを殺したっていうのか?」

 勝と茉莉奈には、何が何だかわからなかった。まるで死んだのがカモメなら問題ないみたいな言い方だ。まあ、この辺りに生息していない鳥が現れたのは奇妙かもしれないが、たまたま飛んできただけかもしれないのに。

 ラモン・アルバは、震えて今にも泣き出しそうだ。船長は、そんなスペイン人に「しっかりしろ」と言って船内の用事を言いつけた。

 それから小さな声で勝に言った。
「帆船時代、船乗りたちはアホウドリを海で死んだ仲間の生まれ変わりと考え、殺せば呪いがかかると信じていたんですよ。今でももちろんアホウドリを殺すのはタブーです」

 勝はため息をついた。
「時代錯誤な迷信だ。今は、二十一世紀だというのに。大体他にもあの男は、バナナがとうとか、口笛がどうとか……」

 船長は、厳しい目を向けていった。
「つまり、あなたは船に乗るときのタブーをことごとく破り続けているというわけですね。ご自分の国でもそんなことばかりなさっていらっしゃるんですか?」

 勝は、居心地悪そうに視線を落とした。茉莉奈との結婚式は、もちろん大安だったし、スタッフや会社からの参列者にも服装や忌み言葉に氣を付けるよう徹底させた。茉莉奈にとって最高のウェディングになるように心を配ったのだ。

 デニスは、苦々しそうに言った。
「ここバミューダ海域が、他の海よりも危険だという噂は事実ではありません。いわゆるバミューダ・トライアングルで忽然と消えたと喧伝されている幽霊船ストーリーの多くはねつ造です。だが、海そのものが100%安全なわけではありません。私たち船の上で働くものは、常に最善を尽くし安全に旅が終わるように心がけています。その姿勢を馬鹿にするような態度は改めていただきたい」

「ねえ、勝。鳥のことなんかよりも、私、きもち悪い。もっと静かに走るように言ってよ」
茉莉奈の不機嫌な声が聞こえた。船酔いしがちなのだ。

 心なしか先ほどよりも船が大きく揺れている。勝は手すりにつかまった。船長は厳しい顔をして機関室に向かおうとした。

「何か、おかしいのか?」
勝の問いに、彼は行き先を指さした。

 地平線の彼方に、恐ろしい勢いで黒雲が広がっているのが見えた。勝は思わず叫んだ。
「チクショウ! 嵐になりそうじゃないか」
「いい加減にしろ! 海で悪態をつくな! まだわからないのか?!」

「いい加減にするのはどっちだ。こっちは客だぞ。そんなことを言っているヒマがあったら、嵐になる前にセントジョージに到着してみろ」

 デニスは、勝をにらみつけ叫んだ。
「お前らみたいなとことん不吉な客だと知っていたら、載せなかったよ。まさか、この上、誰かの恨みでも買っているんじゃないだろうな。つべこべ言わずに、あの金のかかりそうな女と船室で震えていろ。どんなに立派な船だろうと、どれだけ技術があろうと、嵐が直撃したらこの程度の船はひとたまりもないんだ!」

 おかしな降り方の雨だった。ぽつりほつりと降っていたのはほんのわずかの間だけで、すぐに熱帯雨林のスコールのような土砂降りになった。波はひどく高くなり、80メートルもある船が、木の葉のように上下に揺れた。

 デニスと、船室から出てきて青ざめながら作業をはじめたラモンの様子から、近づいてくる嵐は生命の危険すらある深刻なものだと勝にもわかった。船の揺れはもう立っているのが精一杯になってきた。とにかく茉莉奈を落ち着かせなくては。不安で泣き叫ぶ新妻の腕を取り、這うような形で彼は船室を目指した。

* * *


「どうしました? 大丈夫ですか?」
遠くから声が聞こえる。唯依は、それが自分にかけられていることを認識した。瞼を開けると、数人の親切そうな人たちが囲んでいた。心配そうにのぞき込んでいる。

 唯依は、目を上げた。いつもの通勤路だ。先ほどの雨が嘘のように、雲が消え去り強い陽光が濡れた服をじりじりと温めた。

「なんでもありません。少し立ちくらみがしたんです」
彼女は立ち上がった。

 ここは東京だ。心だけでも大西洋にいる彼を追いかけていけるなんて、そんなことがあるはずはない。彼と一緒に二人でバミューダ海の底へ沈んでしまいたいだなんて、馬鹿げた願いだ。

 思い惑い、半年以上も進む道を見つけられない自分は、難破船のようだと思った。

 だれにも顧みられない、ひとりぼっちの自分でも、人生はまだ続いていく。経理課の仕事は、自分に向いている。彼と社長令嬢の幸せな話を聞くのはつらいけれど、生活のためには黙って働き続けるしかない。もしかしたら、その平凡な日常こそが、自分をどこかの岸辺に連れて行ってくれるのかもしれないと願った。

(初出:2019年9月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(7)恩師 - 2 -

「霧の彼方から」の続き「恩師」の二回目です。

前回、サザートン教授へのプレゼントを探して街を歩いているうちに、グレッグはどうやら思い出のある場所にたどり着いたようです。考え事をすると他のことに思いがいかなくなってしまう、若干ツメの甘い彼らしい行動がここでも見られます。

一方、ようやくタイトルの恩師登場。ケニアのレイチェルとほぼ年がおなじで仲良くしている模様。有能かつ社交的で順調に出世している教授が、グレッグによくしてくれる理由は……あ、次週更新分ですね。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(7)恩師 - 2 -

 彼は、一度過ぎたところを、少し戻って奥の道を眺めた。ジョルジアも戻ってきた。
「確か、この角を……」
「何を探しているの?」

 すると彼ははっとして、ジョルジアを見た。
「あ、いや、その……知り合いがこの通りに住んでいたので、まだいるかなと思っただけなんだ」

 その通りの建物は、どれも古い時代の石造りだった。表通りのような華やかな煉瓦色ではなく、手入れが行き届いていない暗い佇まいだ。
「建物は憶えているの?」

「ああ、そうだ、その角を曲がった奥の……」
「じゃあ、行ってみましょうよ」

 細い路地だった。暗い色をした煉瓦には落書きが至る所にあり、足下にはスナックの残骸や濡れて丸まったプラスチック製の袋などが散逸している。ジョルジアは、ニューヨークのスラム街を思い出したが、そこにはスラム街のような危険な匂いはなかった。単純に貧しく手入れの行き届かない地域のようだ。

 彼は、ある家の階段の前に立った。郵便受けが八つ並んでいるのを見ていた。その表情に変化が表れ、ジョルジアは彼の知り合いがまだここにいることを知った。郵便受けには五軒分しか名前がついておらず、その中で明らかに古いものは一つだけだった。

 マデリン・アトキンス。女性だ。ジョルジアの胸が騒いだ。同時に、彼の母親の家で聞いた名前と違う女性であることに少しほっとしていた。彼がかつて愛した女性のファーストネームはジェーンというはずだった。そして、まさか、昔の恋人の家にジョルジアを連れて行ったりするはずはないだろうと、彼女は考えた。

「探しているのは、この方のお家?」
ジョルジアが訊くと、彼は頷いた。

「突然だけれど、訪問してみる? それとも、ホテルからアポイントメントを入れる?」
そういうと、彼はギョッとしたようにジョルジアを見て、それから慌てて首を振った。

「あ、別に訪問しなくても、いいんだ。きっと僕のことなど憶えてはいないだろうから。行こう、教授は時間にうるさいから、遅れないようにしないと」

* * *


 あらかじめ伝えられていたように、二人はサザートン教授の部屋に案内された。歴史を感じる部屋はまるで図書館の書庫の一角のようだった。作り付けの棚が全て本で埋まり、重厚なデスクの上にもたくさんの書類と本が載っていた。

 サザートン教授は、一見グレッグより歳下に見える。髭をしっかりと剃り、茶色い巻き毛はきれいに撫でつけてあるが、後ろに一つだけ寝癖のように立っている部分があった。べっ甲眼鏡の奥から悪戯っ子のような瞳が笑っている。実際にはグレッグよりも十歳以上年長で、現在は動物行動学を教える教授の中では重鎮だった。

 教員と学生たちが正装で晩餐に臨む有名なホールのすぐ脇に、喫茶とバーが一緒となった『バッテリー』があり、二人はそこで教授とお茶を飲むのだと思っていたが、彼は「とんでもない」と言って、格式高いシニア・コモン・ルームへ案内してくれると言った。普段は在籍生でも入ることを許されない部屋だ。

「でも、その前に少しここでおしゃべりをしよう。君ももう立派な学者になったことだし、今度こそファーストネームで呼び合っていいよね、ヘンリー。私はウォレスだ」
彼と握手をしながら、グレッグは「はい」とはにかんだ。

「そして、こちらが君の噂の婚約者だね。レイチェルから聞いているよ。本当におめでとう、ええと、ジョルジア・カペッリさんだったね」

 名乗る前に知られていたので、ジョルジアは仰天した。
「初めまして。ジョルジア・カペッリです。サザートン教授。お目にかかれて光栄です」

「いや、ヘンリーの奥さんになるんだから、もう少しラフに付き合ってくれないかな。君だけ敬語だと、ヘンリーが元の敬語に戻っちゃうだろう?」
そう言って彼はウィンクをした。

 ジョルジアは笑って言った。
「わかりました。どうぞジョルジアと呼んでください」

 チョコレートとポートワインの瓶を渡しながら、写真集はレベッカ・マッケンジーではなくこの人に渡したら喜んでもらえたかもしれないと考えた。そう思った途端、視界の端に見慣れたグレーの本が見えて、思わず凝視した。

 教授のデスクの上に、彼女の写真集『陰影』が載っていたのだ。見間違えようがない。真ん中に兄であるマッテオ、そのすぐ下にグレッグの横顔が見えている表紙だ。
「まさか!」

「ああ、これかい? 驚くには値しないよ。私は必要な本はインターネットですぐに注文するんだ。だから、どこもかしこも、この部屋みたいになっちゃうんだけれどね。とにかく、レイチェルに訊いてすぐに、調べてこれを見つけたよ」
そう言ってウォレスは、グレッグの姿を映した作品のある最後の数ページを開いた。

「本当にいい写真だね。彼らしさが、この数枚に詰まっているし、それを見つめる君の愛情を感じるよ。これを見て、これはいいパートナーを見つけたなと確信したんだ」

 真剣な面持ちで文献に向かうグレッグの姿、ルーシーにブラッシングをしている時に反対に顔をなめられて破顔しているシーン、あえて彼よりも手前のワイングラスを持つ手にピントを合わせた一枚、そして、最終ページに置いた食べられたシマウマを前に悲しみながらその死を受け入れているサバンナでのショット。

 ジョルジアにとっては、当たり前に目の前で繰り広げられた彼の自然な日常光景だったし、グレッグも自分自身もこの写真を撮った時には後に結婚することになるとは夢にも思っていなかったのだが、言われてみればあの時と今と、彼に対する根本的な感情、言葉にならない深い絆に対する実感は、全く変わっていないのだと思う。撮るとしたらやはり同じシーンを切り取ろうとするに違いない。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(7)恩師 - 1 -

「霧の彼方から」の続きです。

母親レベッカ・マッケンジーと短く言葉を交わしたのみで、グレッグは母親との関係改善をすることもなく、バースを後にしました。大学時代の恩師から「イギリスにいるのならぜひ会いたい」との連絡を受け、ジョルジアを連れて学生時代を過ごしたオックスフォードへと向かいます。

この作品を書き出した時点で、私はオックスフォードに足を踏み入れたことがなかったので、かなり「これでいいのか」と首を傾げながら書いていました。三月に縁あって無事ロケハンにいけたので、その頃よりは「まあ、こんな感じかな」と思いながらの発表です。でも、とんでもないこと書いているかも……。

この章も三回に分けます。恩師、出てきていないじゃん orz


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(7)恩師 - 1 -

 バースから乗り換えを含めて一時間半ほど電車に揺られ、オックスフォードについたのは昼に近い時間だった。駅を出たところは、ごく普通のビルが建ち並んでいたが、橋を渡った辺りからは赤茶色と白の煉瓦で覆われた、歴史ある町並みが現れた。マグノリアが咲き乱れ、街をさらに華やかにしている。

 まずは、ホテルに向かい荷物を預けることにした。ホテルの名前を告げたところ、グレッグは困惑した表情を見せた。かなり有名な五つ星ホテルだったからだ。
「その……部屋の料金は確認したのかい?」

 ジョルジアは肩をすくめた。
「昨日、私が予約したホテルはもっとリーズナブルだったんだけれど、それじゃダメだって、アレッサンドラが、このホテルを指定してきたの」

 ニューヨーク到着を遅らせて、イギリスに滞在することを兄マッテオから聞いた妹アレッサンドラから懇願の電話がかかって来たのは、ケニアを発つ二日前だった。

 イースター休暇を利用して、マンチェスターの父親の元に滞在する娘アンジェリカを当初はアレッサンドラが迎えにくる予定だったが、夫の生家で不幸があり彼女はドイツで伝統に基づく葬儀に参列しなくてはいけなくなったのだ。レアンドロは、試合があってアメリカまで娘に付き添うことは不可能だった。そんな時に、ジョルジアが偶然イギリスに行くというのは神からの救いの手に思えたのだろう。

 予定では二日後に、バースにレアンドロが連れてくることになっていたが、もしかしたらマッケンジー家に滞在することになるかもしれないと考えていたジョルジアは、滞在先を着いてから連絡する取り決めをしていた。オックスフォードに移動することになったので、同時に予約したホテルを知らせたところ、アレッサンドラがあっという間に予約変更をして連絡してきたのだ。

「だったらアンジェリカの来る前の二日間だけ、安いホテルに泊まるって言ったんだけれど、有無を言わさずにホテルを変えられちゃったわ。前のホテルのキャンセルも終わっているって。また全額払われてしまったわ、困っちゃうわね」
「そうか、姪御さんの安全問題かな……。そのくらい自分で払うと言えないのは歯がゆいけれど、そういうことなら贅沢させてもらうか」

 金モールのついた外套を着用したドアマンに丁重に迎えられるような経験は、二人とも滅多にしたことがなかった。そのホテルは灰緑のどっしりとした石造りの外観で、中心地に位置するにもかかわらず、中に入ると静かで落ち着いていた。

 早い時間だったにもかかわらず、すぐに部屋に案内された。天蓋のついたベッドのある広い部屋で、二人は思わず顔を見合わせた。
「こちらのドアで、続いているお隣の部屋へと直接入ることができます」

 どうやらアンジェリカが泊まる予定の部屋は、二日も到着しないにもかかわらずすでに押さえられているらしかった。

 サザートン教授にはお茶の時間に招かれていた。ジョルジアは、グレッグの母親を訪問したときと同じスーツに着替えた。ホテルのレストランで食べるほどはお腹がすいていなかったので、二人は街を歩いて、書店に入り、その二階のティールームで軽食を食べた。

 それから、サザートン教授に花かチョコレートを買うために少し街を歩いた。

「ワインか何かの方がいいのかしら?」
ジョルジアが訊くと、グレッグは首を傾げた。
「ワインを飲んでいる姿は見たことがないな。もっとも、僕がカレッジのバーにも寄りつかなかったからでもあるけれど」

「カレッジにもバーがあるの?」
ジョルジアは驚いた。

 オックスフォード大学では、学生は街に散らばる38のカレッジのどれかに所属し、大学の学部とカレッジの両方で指導を受けるというシステムを取っている。

 カレッジが、それぞれの講堂や教室、図書館などの他に、礼拝堂や食堂などを持っていることはグレッグの説明でジョルジアも知っていたが、酒を出すところまで揃っているとは思ってもみなかった。

「ああ、C.S.キャロルとJ.R.R.トールキンが一緒に通っていたことで有名な『The Eagle and Child』みたいに、普通のパブを大学が経営している場合もあるんだけれど、それとは別に大学の学生食堂のような感じで校内にバーがあることもあるんだ。普通は、外のパブよりも安く酒を飲めるので、通う学生は多いよ」

 結局、二人はチョコレートとポートワインを買った。彼の母校であるベリオール・カレッジのある街の中心部に戻ろうとしている時、不意に彼が「ここは……」と言って立ち止まった。

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Posted by 八少女 夕

【小説】《ザンジバル》

「十二ヶ月の歌」の八月分です。今年も三分の二も終わりって……嘘だ。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。八月はフランスのシンガーソングライター、ディディエ・シュストラックの”ザンジバル”という歌にインスパイアされて書いた作品です。

私がこの曲を知った経緯はそのままこの小説に書いてあります。そして、1996年のアフリカ一人旅でも、本当にザンジバル島を訪れています。そして、ここを訪れたことが、現在、アフリカとは全く関係のないこの国に移住することになった小さなきっかけの一つになっているのです。だから、私の中でこの島は今でもものすごく特別な場所です。

観念的でこれといったオチのない話です。よかったら、先に(または同時に)曲を聴いてお読みください。なお、小説を飛ばして動画だけご覧になるのもいいかと思います。素晴らしい光景ですけれど、これ、いいところだけを上手に切り取った系の風景ではなく、本当にこういう島です。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む



《ザンジバル》
Inspired from "Zanzibar" by Didier Sustrac

 明るいエメラルドグリーンの海がどこまでも広がっていた。白い砂浜には陽光が反射している。こんなに完璧なビーチだというのに、観光客の姿が少ない。いないわけではない。だが、八月と言えば世界中から夏の休暇で観光客が押し寄せるハイシーズンのはずだ。例えば、カナリア諸島やギリシャの島ではパラソルやビーチタオルが隙なく広げられて、砂浜も見えないほどだ。それなのにここでは、背景に自分たち以外は映っていない、まるで無人島のような写真を撮ることも簡単なほどわずかな観光客しかいないのだ。

 ようやくここにやって来た。初めてこの島のことを知ってから八年が経っていた。渋谷のCDショップで何げなく試聴したフランス語のアルバム。ディディエ・シュストラック。聞いたこともないアーティストだったけれど、心地よい声とリズムに心惹かれて、歌詞の意味もわからずに買い求めた。その最後に入っていた曲がアルバムのタイトルにもなっていた「Zanzibar」だった。

 日本語対訳を読みながら、この歌が実在のザンジバル島のことを歌いながら、同時に遠い憧れを語っていることを知った。でも、よく理解できない言葉がいくつかあった。「貿易風はささやく、”ランボー”と……」「わずかなアビシニアの魅力と、”アルチュール”の言葉」。何のことだろう? フランスの詩人ランボーのこと?

 それで、調べてみた。ザンジバルと関係のあるランボーのことを。それは本当に詩人アルチュール・ランボーの事だった。彼は、なくなる前年までの十年間を、アラビアのアデンと、アビシニア(現在のエチオピア)のハラルを往復して過ごした。そこからフランスの家族にあてた手紙で「ザンジバルへ行くつもりだ」と告げていたのだ。けれど、彼は実際には一度もザンジバル島に足を踏み入れなかった。

 彼は、アデンでフランス商人に雇われ、やがてハラールで武器商人となって暮らした。骨肉腫で右足を切断することになり、フランスに戻り亡くなった。

「あなたは、中国人?」
私は、驚いて手に持っていたカメラを取り落とすところだった。

 振り向くと、褐色肌のすらりとした女性が立っていた。アーモンド形の綺麗な瞳、化粧ではなくて自然のままに見えるのにまるで二日目の月のごとく完璧な形の眉。すらりとした鼻筋と口角の上がった厚めの唇。低めにまとめたストレートの黒髪は、とても長いのだろう大きなシニヨンとして艶やかに首の後ろを飾っている。鮮やかなセルリアンブルーの布を巻き付けたように見えるワンピースドレスが褐色の肌の美しさを引き立てていた。

 ここまで彫りが深くて目鼻立ちの整った女性は、『アフリカの角』の出身だろう。かの『シバの女王』やランボーの愛した《アビシニアの女》と同じく。

 ランボーは、アデンに住んでいた一時、アビシニア出身の恋人と住んでいた。手紙で金を無心していたフランスの母親にはひた隠しにしていたその女の存在は、雇い主の家政婦であったフランス人女性によってある程度詳しく証言されている。美しいキリスト教徒の娘と彼は睦まじく過ごしていたと。

「あなたは、中国人なの? それとも?」
現実の方の女性は、英語の質問を繰り返した。

「いいえ、私は日本人です」
私は、答えた。

「まあ、そうなの。日本にはいずれ行ってみたいと思っているのよ、素敵な国だって聞いているわ」
彼女は、微笑んだ。真っ白い歯ののぞく肉感的な唇には、女である私すらもドキドキする。

 私は自分の服装を見下ろして、情けなくなった。近所のコンビニに行くのすらもはばかられる格好だ。大学生時代からの習慣で、バックパックで安宿を泊まり歩くスタイル。捨てて帰る予定のヨレヨレのTシャツと、色のあせたジーンズ、それに履き古したスニーカーと折りたためるのが利点のベージュの帽子。タンザニアの空港では、さほど場違いだとは思わなかったし、スリや置き引きなどに狙われないためには、貧乏に見えた方がいいと思っていたが、この美しい海浜には全くそぐわない。

 彼女の装いは対照的だ。波のきらめきのように様々なトーンの青が混じり合う薄物のドレスは、ファッション誌の巻頭グラビアか、それともリゾートのパンフレットを飾るモデルのように、ビーチを完璧に変えている。もともとの美貌を選び抜いた服装で神々しいまでに昇華しているのだ。美を保つとは、どれほどの努力を必要とするのだろう。そして、それを厭わなかったわずかな人が、こうして「美こそが究極の善である」印象を世界に誇示することが出来るのだ。

「ザンジバルは、初めて?」
「はい。こんなに綺麗な海なのに、ほぼ独り占めってすごいことだなって感心していたところなんです」
「そうね。確かに観光客が押し寄せることは少ないわね。イエローカードが必要だからかしら」

 ザンジバル島は、タンザニアの一部だ。そしてタンザニアに入国するためには黄熱病の予防接種が必須だ。一週間程度のバカンスを頼むのに、わざわざ保健所を訪れて予防接種をしたがる観光客はあまりいないかもしれない。

「あの注射、死ぬほど痛かった。私も予約する前に知っていたら、来るのを考え直したかも。……あなたも予防接種をしてきたんですか?」
私が訊くと彼女は笑った。
「ここに来るためにする必要はないわ、もともとしているもの。私はエチオピアから来たのよ」
ああ、この女性は、本当に『アビシニアからきた麗人』だったのだ。

「あなたは、ここに来たのは初めてなのね。どうして来ようと思ったの?」
その質問に、私ははっとした。言われてみれば、それは少し珍しい選択だったのかもしれない。

 会社を辞めて、次の就職活動をするまでの一ヶ月に旅をしようと思ったのは、それほど珍しくはないだろう。学生時代にはユーレイルパスを利用して、ヨーロッパ横断の旅をしたし、オーストラリアにワーキングホリデーに行った友人もいる。サラリーマンの短い有休では決して行けない旅先でよく聞くのは、マチュピチュなどインカの遺跡を巡る旅、イースター島やナスカの地上絵やウユニ湖など少し遠いけれど有名なところだ。もしくは中国やアジアの多くの国を巡ったり、アメリカ横断、さらには資金問題はあるとはいえ世界一周も悪くない。

 ザンジバルに行くと言って、親や友人たちに口を揃えたように言われたのは「それはどこにある国?」だった。熱帯の島と答えれば、どうしてハワイやグアムではないのか、もしくは新婚旅行で有名なセイシェルやニューカレドニアならツアーがあると逆に提案もされた。

 この島に行きたいという思いを、日本の家族や友人に理解してもらえなかったのは、知名度から言って当然だと受け止めていたけれど、アフリカ出身のこの女性から見ても、極東からここを訪れるのは不思議なことらしい。

 私にとっては、いつの日かこの島を訪れるのは、当たり前のことだった。あの曲が、私の人生に囁きかけてからずっと。《ザンジバル》という名は、私にとって《シャングリラ》《ガンダーラ》《エルドラド》などと同じどこかにある理想郷になっていた。

「ある歌で、ここへの憧れを歌っていたんです。それに、詩人のアルチュール・ランボーも憧れていたと聞いて、一度来てみたいと思っていました」

 ランボーの名前を口にしたときに、彼女の表情にわずかな変化があった。あのエピソードを知っているのだろうと感じた。彼女から、かの《アビシニアの女》の子孫だと告白されるとしても、私は驚かないだろう。もちろん、彼女はそんなことを言い出したりはしなかった。

 その代わりに私の心が、アルチュール・ランボーがマルセイユで短い一生を終えた十九世紀末、まだ私自身が影も形もなかった頃に飛んでいた。ちょうどこの美しい女性のように、かの《アビシニアの女》が、この場に佇んでいたという幻覚、勝手な想像に心を遊ばせた。こんな風に。

「ザンジバル島に行きたいんだ。それから、船に乗って、もっと東へね。とにかく、何よりも大切なのは行くって意思だよ」

 でも、ザンジバルにこうして立っているのは、彼ではなくて私。
「どこでも、好きなところへ行ってしまえ。もう、僕はお前とは関係ないからな」
そう言われて、旅の半ばで放り出された、この私。

 彼は、「はみ出しもの」だとよく自嘲していた。若き日に、恩師との恋愛沙汰と発砲事件がスキャンダルになり、国での出世の見込みは絶たれたと言っていた。母親が心から望んだ、国内のきちんとした職場でコツコツと働くことが出来ず、ギリシャやカイロへ出稼ぎに行ってしまうのだと。

 アデンで一緒に暮らしていた頃、彼は時おりこんなことを口にした。
「フランスにお前を連れ帰ることはできないよ。結婚許可証をもらえる見込みはないしね」
「うちの母親や彼女の住んでいる村は、びっくりするほど旧弊で、お前を連れ帰ったりしたら大変なスキャンダルになるだろうよ」

 なぜそんなことを口にするのだろうと、私はいつも不思議に思った。遠く帰る必要もない国の許可証なんて、何の意味があるのだろう。ましてや、私は彼の国に行くつもりなんてこれっぽっちもなかったのに。

 今ならば、少しだけわかる。

 彼自身が、まっぴらだと言っていた彼の国と、その「常識的な生き方」から自由になっていなかったのだと。彼は、どこかで「まともな女と」「ちゃんとした家庭をもち」「いずれは国に帰る」と思っていたのだろう。

 ザンジバルへ行き、それから、どこだかよくわからない東の国へと向かうことなど、本当は「できない」と思っていたのだろう。

「お前は女だから」
「お前は教育も受けていないから」
「お前は海の風土に耐えられないだろうから」

 彼が、私をザンジバルにも、彼の故郷にも連れて行けない言い訳のように使った全てのフレーズは、彼自身が海の果ての未知の国へと行けないと思い込んだ理由だったのだ。彼は、十分に勇猛でなく、知識や経験が足りず、湿度や高温に耐えられない貧弱な身体であると、恥じていたのかもしれない。

 私は肌の色や、話す言葉の違いなどにはこだわらない。行きたいところにどんな風土病があるかや、そこの人々が自分を受け入れてくれるだろうかなどを怖れたりなどはしない。どこにいても病にかかることはあるし、生まれ故郷でいつも歓迎されていたわけではない。

 小さな舟を乗りついで、私はこの島へやって来た。鮮やかな花と、珍しい果物の溢れる島。遠浅の美しい海が守る島。ほんの少し前まで、かのムスリム商人たちが、大陸から欺して連れてきた人々を、遠い国に奴隷として売り払っていた港。

 私は「ヒッパロスの風」に乗り、アラビアへ、そしてもっと東へと進むだろう。私は風のように自由だ。何よりも彼と違うのは……私は生きているのだ。



「あなたは、アルチュールの夢見たユートピアを探しにここへ来たのね」
青いドレスの麗人が優しく囁いた。私は、現実に引き戻され、はっとしながら彼女を見た。謎めいた瞳には、どこか哀れみに似た光が灯っていた。

 突然、私は悟った。たどり着いたこの地について、はっきりと認識したのだ。

 遠浅の白い砂浜。エメラルドグリーンの海。バニラ、カルダモン、胡椒、グローブ、コーヒー、カカオ、オクラ。島の中程に南国のスパイスを宝物のごとく栽培する島。イランイランやブーゲンビリアの花が咲き乱れ、イスラム世界を思わせる装飾の扉で迎えるエキゾティックな家並み。夕日に映える椰子の林や、枝を天に広げるバオバブの大木。想像していた以上に美しく、観光客ずれもしていない、奇跡のような美しい島。

 けれど、ここは私の《ザンジバル》ではなかった。アルチュール・ランボーが生涯足を踏み入れなかった憧憬の島でもなかったし、ディディエ・シュストラックが誘い願った「物語の終わり」の地でもなかった。

 それは、この島が期待はずれであったからではなく、単純に、私がこんなに簡単にたどり着いてしまったからだ。飛行機を予約し、わずかな金額を振り込み、たった二度の乗り換えで二十四時間もかけずにこの地に降り立ってしまった。悩みも、苦しみも、別離も、挫折も経ずに、なんとなく心惹かれるという理由で、ここに来てしまったから。ユートピア、憧憬の島は、そんな形ではたどり着くことはできないのだ。

「確かにこの島に一度は来たかったし、それにとても素晴らしい島ですけれど……。でも、ユートピアではないですよね」

 彼女は、私の答えに共感したようだった。
「ユートピアは、辿りつくところではなくて、夢見て旅を続けるために存在する場所なのかもしれないわね」

 それから、私の後ろの方を見て、続けた。
「夫が来たわ。私たち、午後の便で帰るの。そろそろ空港に行かなくては。島を楽しんでね」

 会釈をして別れた彼女が向かう先には、レンタカーで待つ白人男性の姿があった。たぶん、移動の手段も、人種の違う二人の結婚も、アルチュール・ランボーの時代とは何もかも違うのだろう。愛の意味も、夢のあり方も。

 この美しい島は、もしかしたら私の想像したように《アビシニアの女》を目撃したかもしれない。そして、私を目撃し、何世紀も後に同じように夢の島を探して彷徨う誰かを目撃するだろう。

 私の《ザンジバル》を求める旅も続く。物語に終わりはないのだ。

(初出:2019年8月 書き下ろし)

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Didier Sustrac "Zanzibar"

この曲についてはあった方がいいかなと思うので歌詞と意訳をしばらく掲載します。
ただし、歌詞カードにあったものを丸写しは出来ないので、私自身が訳したものです。

Zanzibar
(D.Sustrac)

Il y a
L'azalée au mur
Et l'azur indigo
L'alizé qui murmure
Rimbaud

Rien qu'un zeste
D'Abyssinie
Et d'Arthur les mots
Ces voyelles à lire
Incognito

Viens, allons-nous-en
Au Zanzibar
Viens on a tous laissé quelque part
Un rêve, une île
Le bout d' histoire

Parfois
Ces parfums d'épices
A fleur de peau
Nous laissent le mystère d'une miss Afro

Allez, viens, allons-nous-en
Au Zanzibar
Viens on a tous laissé quelque part
Un rêve, une île
Le bout d' histoire

Allez, viens, allons-nous-en
Au Zanzibar
Viens on a tous laissé au hassard
Un bonheur qui ressemble
Au Zanzibar

ザンジバル

アザレアの生け垣と紺碧
貿易風は囁く
詩人ランボーの名前を

わずかなアビシニアの魅力と
アルチュールの言葉
そっと読むべき母音

行こう、ザンジバルへ
行こう、人はみな
夢や島や物語の終わりを
どこかに置き去っている

時にはスパイスの香りがする
肌の華は
僕たちにミス・アフロの謎を残していく

さあ行こう、ザンジバルへ
行こう、人はみな
夢や島や物語の終わりを
どこかに置き去っていく

さあ行こう、ザンジバルへ
一緒に行こう、誰でもザンジバルみたいな
幸福を置き忘れているんだ

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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 4 -

「霧の彼方から」の続き、「蜂蜜色の街」の四回に切ったラストです。

バースの「観光案内」的描写、ローマンバスでもなく、バルトニー橋やロイヤルクレセントでもなく、ましてや「サリー・ラン」でもなく、一番さりげないここを選びました。このくらいなら「いかにも観光名所を入れてみました」的な記述にはならないかなと思って……。

さして、こんな形で二人はバースを去ることになります。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 4 -

 表に出ると石畳が濡れていたが、柔らかい陽の光が射していた。
「あら、いつの間にか雨が降っていたみたいね」
ジョルジアは、空を見上げた。噂に聞く英国の天候、一日の間に全ての天氣を体験できるというのは、冗談でも大袈裟でもなく、普段傘を持ち歩かないジョルジアでも今回は毎日折りたたみ傘をバッグに入れることを覚えた。

「傘を広げずに済んでラッキーだったわね。ホテルに帰る前に、また少し散策しない?」
そういうと、グレッグは頷いた。

 彼は、しばらく歩いて向かいの道を指さした。
「あそこに女性の人形があるだろう?」

 オブジェが眼に入った。昔のファッションをしたマネキン人形のように見えるが、全身チョコレート色で艶やかな仕上がりと相まってまるで巨大なチョコレートのように見える。
「ええ。あれ、チョコレート屋かしら?」
「そうだ。バースでは一番有名なチョコレート専門店だろうな。十八世紀にシャ―ロッテ・ブランズウィックという女性が始めた伝統のある店なんだ」

 彼は、店に歩み寄ると、窓から色とりどりのパッケージの並ぶ店内をのぞき込んだ。
「思い出があるの?」

 彼は頷いた。
「ケニアからここにつき、母とマッケンジー氏が正式に結婚するまでの間、僕たちは市内の小さなアパートメントに住んだんだ。僕は、こんな風にショーウィンドウにいろいろな物が並べられている街に住むのは初めてだったし、驚きと憧れでいつもキョロキョロしていた。母は、いつも叱りながら僕を引っ張っていたよ。でも、一度だけ、ここでチョコレートを買ってくれたことがあったんだ」

 それは、彼の誕生日の一ヶ月ほど前だった。二週間後に寄宿学校に入る彼のために、必要な買い物をしながら、二人はバースの街を歩いていた。当日やその直後の週末に、自宅に戻り彼の誕生日を祝うという計画はなかった。母親はマッケンジー氏と結婚し、マッケンジー氏の二人の子供や使用人たちの面倒を見る主婦としての新しい仕事に全力を傾けるつもりだった。

 彼自身は、誕生日を祝ってもらった記憶もなかったので、特別に悲しいとは思っていなかった。歩きながらチョコレート店のウィンドウをのぞき込んだのも、買ってもらえるという期待があったわけではない。彼は、アフリカにいた時から、生存に必要な物か、もしくは教育に役立つ物以外は頼んでも絶対に買ってもらえないことに慣れていたので、物欲しそうな顔すらしなかった。ただ、ひたすらに眩しかったのだ。華やかで楽しそうな箱に詰められた、宝石のようなチョコレートの数々が。

 また歩みが遅れている息子を振り返り、いつものように小言を言おうとしたレベッカは、留まり息子を見た。母親に叱られると悟ったのだろう、少年は黙ってウィンドウから離れて、彼女の元にやってきた。レベッカは、「欲しいの?」と訊いた。

「きれいだと思ったんだ。前におじいちゃんがくれた、キスチョコみたいに美味しいのかな」
そう言うと、母親は呆れた顔をした。

「アメリカの大量生産チョコレートとは全く違うのよ。ずっと美味しいに決まっています。いらっしゃい、入りましょう」
彼女の息子は、目を丸くした。

 中にいた感じのいい店員は、少年に試食用のチョコレートの欠片を二つ三つくれた。高級チョコレートを始めて口にした少年にはどう表現していいのかわからなかったが、その滑らかで香り高い口溶けは彼を天にも昇る心地にした。彼は、その経験だけでも十分に幸せだったが、母親はプラリネが四つ入った小さな箱を買い求めた。

 誰かへのプレゼントにするのだろうと彼は思っていたが、料金を払って受け取ったそれを、彼女は息子に手渡した。
「少し早いけれど、誕生日祝いです。しばらく帰って来られないけれど、しっかり勉強しなさい」

 彼は衝撃を受けた。まさか自分がそのリボンのかかった美しい箱の持ち主になるなんて。嬉しくて嬉しくて仕方なかった。

「そうだったの。それはお母様との美しい思い出ね」
ジョルジアは、窓の向こうのプラリネの山を見ながら語るグレッグに微笑みかけた。

「この話にはまだ続きがあるんだ。僕はそのチョコレートを大切にしすぎて、クリスマスの前まで開けなかったんだ。愚かなことに、暖房ラジエーターの近くに飾っておいたせいで、溶けてしまってね。食べられなくはないけれど、大して美味しくなってしまっていた。それを母に手紙で書いて叱られた。今にして思えば、母にしてみたらせっかくのプレゼントを粗末にされて悲しかったのかもしれないな」

 ジョルジアは、初めてもらった美しいチョコレートをいつまでも取っておこうとした寂しいグレッグ少年を抱きしめたかった。もし彼が喜ぶのならば、この店中のチョコレートを買い占めて、彼の寄宿舎の部屋に飛んでいきたかった。けれど、彼が待っていたのはチョコレートではなく、きっと暖かな楽しい家庭だったのだ。

 レベッカが、息子に普段は買い与えないチョコレートを贈ったのは、もしかしたら厄介払いをするように寄宿学校に送ることへの後ろめたさだったのかもしれない。でも、そのことを口にしたら、彼にとって数少ない母親との美しい思い出にケチをつけることになる。同様にここで彼にこの店のチョコレートを贈ることも、やはり彼の母親に対するノスタルジーを傷つけることになる。

 テレビでのドキュメンタリーのように、母と子が愛を確かめ合う感動の再会にならなかったことは、しかたがない。けれど、そうであっても、グレッグにとってレベッカは母親で、彼女に対する子供としての想いはこれからも続いていくのだろう。そして、レベッカにとってもそれは同じなのだろう。

 振り返ると、彼はもうチョコレート店を覗いてはいなかった。ジョルジアは、彼に近づいた。彼は、スマートフォンを見ながら何かを思案していた。
「何かあったの?」
ジョルジアが訊くと、彼はメールの画面を見せた。

「いま例の恩師、サザートン教授からメールが来た。教授は、レイチェルとも親しいんだ。僕がイギリスにいるって彼女から聞いたんだろうね、会いに来いと言っている」

 ジョルジアは言った。
「まあ、素敵じゃない。あなたは逢いたくないの?」
「いや、久しぶりだし、可能なら逢いたい。母のところの用事は終わったから、バースに長居をする必要はなくなったんだし。その……また予定を変更してオックスフォードへ行ってもいいだろうか」
「もちろんよ。あなたが学んだ街を見てみたいわ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 3 -

「霧の彼方から」の続き、「蜂蜜色の街」の四回に切った三回目です。

先週アップした分と同じく、二人は昼食代わりに入ったティールームで話をしています。

どこかで読んだようなエピソードが、と思われる方もあるかもしれません。前作「郷愁の丘」の連載中、クリスマスに合わせて発表した外伝「クリスマスの贈り物」という作品です。あの作品も今回と同じ、グレッグと実母レベッカの、実の親子なのに上手くいかない様子を描写していました。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 3 -

「もっと応援してもらいたかったと思うのは、当然だと思うわ。あなたは自分の道を行くことを選び、それでお母様との関係を壊してしまったと苦しんだのね」
「たぶんね。それに、僕は今日まで母のことを冷静に分析するのを避けていたんだと思う」

「分析?」
「母親は子供ために存在するわけではなくて、一人の別個の人間だ。でも、僕は自分のことで頭がいっぱいで、その視点で考えていなかった」

「お母様の視点……」
「離婚して、イギリスに戻ってきた母は、今の僕よりずっと若かった。一度結婚に失敗して、今度こそ自分に合う相手と巡りあい、新しい人生の舵取りをするのに精一杯だったのだと思う。なのに、我慢して面倒を見続けている息子が氣にいらない進路を選んだりするものだから、嫌みの一つも言いたくなったのかもしれない」

「でも、子供が母親は女や人間であると認識するのって難しいことじゃない?」
「小さい子供ならね。でも、僕はもう四十歳を超えているんだし」

 ジョルジアは、ふと初めて会ったときと今では、彼の印象がずいぶんと変わっていることを思った。彼の穏やかで感情を露わにしない態度は、口髭を生やしている彼の外見の影響もあり、初対面の人には実際の年齢よりも年上の印象を与える。少なくとも両親との関係で悩んでいるようには見えない。おそらく今から十年前でも、いや、二十年前でも同じ印象を与え続けてきただろう。

 けれども、今のジョルジアには、時折彼が小さな子供のように感じられるときがある。叱られて泣きながら、理由もわからずに両親の許しを請う幼い少年が彼の中に住んでいるのを感じる。まだ甘えたかった年頃に、寄宿学校の小さな部屋で孤独に耐えていた彼の話は、ジョルジアの心を締め付けた。

 漁師として働いていたジョルジアの両親も滅多に家に居なかったが、寂しいときには歳の離れた兄マッテオがいつもあふれんばかりの愛情で抱きしめてくれた。そして、しばらくぶりに会う両親も、ジョルジアと妹のアレッサンドラに十分すぎる愛を注いでくれた。その愛は、やがて確認しなくても信じられるようになり、今こうして離れていても家族の絆を感じることができる。

 けれど、グレッグは愛に飢えたまま独りで立ち続けてきたのだ。
 
 やがて、彼は少しやわらかい調子で話した。
「今日の彼女は、僕の記憶にある母そのものだった。それなのに、僕は違う母と会えるつもりでここに来たんだ」
「違うお母様?」

 彼は自分を嘲るような笑い方をした。
「僕が憶えている母の姿は、歪んだ記憶なんじゃないかと、会ってみたらもっとずっと快い歓待をしてもらえるんじゃないかと、期待していたのだろうね。でも、それは彼女に対しても失礼なことだった」
「どういうこと?」

「母を正しく理解するためにならともかく、僕はただ自分の心の安定のために、それにこだわっていたんだ。誰一人として僕のことを愛してくれる人がいないと認めたくなかったからだろう。自分が両親にすら愛されることのない存在であるということに、向き合うのが辛すぎたから。でも、やっとわかった」

「何が?」
「彼女は、彼女なりに母親として僕を愛しているのかもしれない。それが僕の望む形ではないことを彼女は知らないし、今後も知ろうとはしないだろう。そして、僕も、彼女が望むような息子には永久になれないだろうし、なりたいとも思わない。それは、彼女が悪いわけではなく、そして、僕がずっと思っていたように、僕が悪いからでもない。ただ、どうしようもないことなんだ」

「あなたは、それでいいの? つらくはないの?」
「ああ。それでいいと感じたし、今、少し驚いているんだが……母と上手くいかないことに、以前ほど傷ついてもいないんだ。不思議なくらいに」

 それから、彼はジョルジアの方をじっと見つめて言った。
「こんなに平常心でいられて、母との関係を冷静に分析できるのは、君と出会ったからだと思う」
「それは少し大袈裟じゃない?」

「いや、全く大袈裟じゃないよ。今から思うと、クリスマスにも、これまでと違うのを感じたんだ」
「クリスマス?」
突然話題が飛んだので、ジョルジアは戸惑った。

「ああ。君と親しくなって初めてのクリスマスに、プレゼントとカードを送ってくれただろう?」
「ええ。憶えているわ、あれが?」

 ジョルジアがニューヨークのデパートメントストアで見つけた、サバンナの動物たちを象ったクリスマスツリーのオーナメント。

「ずっと苦手だったクリスマスシーズンだが、あれから、待降節を他の人と同じように少し浮かれて過ごすようになったんだ。あのオーナメントと、君たちからのカードを眺めながらね」
彼は、思い出しながら微笑みを漏らした。

 ジョルジアは、その温かい想いに覚えがあった。彼女自身、それまでクリスマスシーズンは嫌いではなかったが、どこか場違いさを感じていた。兄のペントハウスの三メートルもあるクリスマスツリーの豪華な飾りや、妹の豪邸で姪を喜ばせるために飾られたオーナメントの数々には圧倒されたが、それは自分とはほど遠い祭りに感じていたのだ。

 けれど、彼へのプレゼントとしてサバンナの動物たちのオーナメントを買い込んだ後、わざわざ小さなニューヨークの小さな住まいでも同じオーナメントを飾るようになった。七千マイル離れた《郷愁の丘》で、同じオーナメントを飾ったツリーを眺める彼と、一緒にクリスマスを待つことが出来るように感じたから。

「君からの、それに君のお兄さんや、キャシーたちからのカードは、僕にとって初めてもらった義務ではなくて心のこもったクリスマスカードだったんだ。僕は、あれからクリスマスの期間を悲しく辛い想いで過ごすことがなくなった。たとえ独りでいても。世界中の人間に嫌われているから独りでいなくてはいけないわけじゃないんだと、思えるようになったんだね」

 彼女は、彼を見つめ返した。彼のいう意味が、彼の感じ方が、よくわかった。
「あなたは誰にも愛されない人なんかじゃないことを知ったのよね」
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 2 -

「霧の彼方から」の続き、「蜂蜜色の街」の四回に切った二回目です。

一つ前の記事でも書きましたけれど、この章は三月にイギリスに行き、バースを歩いてから書き足したところです。そんなわけで、ロケハンの成果がいろいろと顔を出すのですけれど、今回切ったところにはあまりないか。

「郷愁の丘」を書いていたときに私の脳内にすら存在しなかったこの世界の重要キャラクターが一人だけいて、それが今回名前の出てくる人です。そもそも私の小説はそんなキャラクターばかりですけどね。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 2 -

「プラウマンズランチをいつも食べていたわけではないの?」
訊くと、彼は首を振った。
「パブなどで外食することはほとんどなかったから」

「主に自炊していたってこと?」
「いや、君も知っているように、僕の料理の腕は初心者以下だ。寄宿学校時代は学食以外で温かいものは食べなかった。オックスフォードでは二回ほど引っ越したけれど、住んでいたところのどこにも、ちゃんとした自炊の設備はなかったし。共有スペースのオーブントースターくらいは使ったけれど。リチャードたちやサザートン先生が残り物をくれたこともあったので、それを温めたりしてね」

「サザートン先生?」
「ああ、そうか、言っていなかったね。オックスフォードでの指導教員チューター だった人なんだ。今は教授になっている。議論が苦手だった僕は、グループでの指導チュートリアル で、はじめは意見も言えないでいたけれど、彼は他の指導教員よりも熱心に面倒を見てくれたんだ。いろいろな意味で彼には世話になったな」

「今は、交流はないの?」
「アフリカに戻る前に、挨拶に行ったのが最後だった。形式的なことが嫌いな人で、別れの挨拶になんか来るなって怒られたよ」

「今回、会いに行くつもりはないの?」
「お忙しいだろうし、それに、僕のことをよく憶えていないかもしれないし……」

 しばらく黙ってサンドイッチを食べていた彼は、紙ナフキンで口を拭うと言った。
「いや、憶えてはいるだろうな。どんなことにも抜群の記憶力を持つ人なんだ。でも、僕は彼の貴重な時間を奪っても歓迎されるような存在じゃないから」

 それから、ためらいがちに続けた。
「それは、母にとっても同じだったのかもしれないな。わざわざ来る必要なんてなかったのに、君にまで無駄足をさせてしまった」
彼は、彼の心を沈ませいてるトピックに戻り、先ほどと同じ言葉を繰り返した。

「私のことは氣にしないで。お母様と知り合って、ご挨拶はしたかったから、来てよかったと思うわ」
ジョルジアは、言葉を選びながら、ようやくそれだけ言った。「母親にとって息子が特別じゃないなんてことはありえない」と明確に否定したくても、先ほどレベッカとグレッグ親子が決裂に近い形で別れたのは事実なのだ。

「不愉快にさせたのは本当に申し訳なかった。ただ、君に母と僕との関係を見てもらえたことは、今後のためにはよかったかもしれないな」

「どうして?」
「僕はこれまで通りに、母とは最低限の関わりしか持たないだろうが、そのことを理解してもらえるだろうから。僕と母は、無理して付き合ってもお互いに愉快なことにはならないんだ」

 グレッグは、サンドイッチを食べ終えると紙ナフキンで口を拭い、皿の上にきちんと並べたフォークとナイフの下に置いた。テーブルに散らばったパンの粉を集めて、それも皿に置いた。ジョルジアはすっかり見慣れた、とても自然な動きだった。

「子供の頃の僕は、母に振る舞いや考えを否定される度に、どんな悪いことをしてしまったのだろうと悩んだ。反省して、できることなら自分を彼女の希望に合わせようとした」

 ジョルジアは慣れていたが、グレッグの几帳面で紳士的な振る舞いは、もしかするとレベッカ・マッケンジーの厳しい躾の結果なのかもしれないと思った。彼は、茶色い瞳をあげて少し強く言った。

「でも、途中から、僕はどうしても彼女の願うとおりには生きられないことを悟ったんだ」
「あなたにも、譲れないことがあったのね」

「ああ。動物行動学研究の道に進むことを決めたときも、アフリカへ戻ると決めたときも、彼女には愚かでくだらない決断だと言われた。思いとどまるように説得された」

「そんな……野生動物の研究やアフリカは、お母様には嫌な思い出でしかないみたいだけれど……」

「ああ。そして、それは理解できるし、僕は彼女にアフリカや僕の研究を好きになってもらおうとは思ったことはない」

 彼は、ため息をついた。
「学位を取った時に知らせに行った。博士号を取った時も手紙で知らせた。母は、『おめでとう』と言ってくれた。でも僕は、母が心から喜んでいないことを感じる。もし法科や経済学を修めて、イギリスの大学にでも職を得たら、ひどく喜んだだろう。もしくは、首席で卒業したら……。だから、辛辣なことを言われなかっただけでもマシと考えるべきかもしれない。いずれにしても、僕の心は沈んでしまう。それを避けようとして、僕は母に話すことがなくなってしまったんだ」

 ジョルジアは、学校に通っていた頃のことを思い出した。妹のアレッサンドラは、モデル養成学校でもトレーニングを積みながら、学校の試験でも優秀な成績を取った。出席日数がギリギリだと嫌みを言う教師たちを、試験の度に黙らせてきた。ジョルジアは、中の上程度の成績を取った時、家に帰るのが嫌だった。ずっと時間のある自分の努力不足を指摘されると思ったから。

 でも、兄のマッテオは、アレッサンドラを心から賞賛すると同時に、ジョルジアが美術で満点を取ったことを、言葉を尽くして褒め称えた。優秀で有能な兄妹二人に挟まれて、居たたまれない思いで生きてきたと思い込んでいたが、彼女は認められ、肯定され、愛されてきたのだ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 1 -

「霧の彼方から」の続き、二人は引き続きバースに滞在しています。

母親との関係改善のためにわざわざ予定を変更して来たはずなのに、グレッグは母親レベッカのジョルジアへの態度に我慢できずにさっさと退散してしまいました。その続きであるこの章も9000字以上あるので、四回に分けてお送りします。

さて、章のタイトル「蜂蜜色の街」、実はものすごく悩んだのです。「蜂蜜色」はイングランド中央部、数州にまたがって広がるコッツウォルズ地方で採れる「コッツウォルズ・ストーン」に対しての形容で、バースの街を彩っている「バースストーン」は、もう少し淡いクリーム色なのですよね。ただし、現地の人によると「同じものだよ」ということですし、題名として「クリーム色の街」より「蜂蜜色の街」の方がしっくりきたので、結局ここはそのままにしました。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 1 -

「不快な思いをさせてしまった。本当に申し訳ない」
家を出てすぐに彼は謝った。

「いいえ。私こそ、配慮が足りなかったと思うわ。ごめんなさい。せっかく、お母様に会いに来たのに。もっと話したかったでしょう」
ジョルジアが言うと、彼は首を振った。

「話すことなんて、何もないんだ。昔からそうだった。来なくてもよかったんだ」
彼は、吐き出すように言った。いつもの穏やかな物言いとは違う、少し激しい口調だった。

「大丈夫?」
ジョルジアの不安な表情を見て、彼は黙った。それからゆっくりと道を進みながら言葉を探していた。

 二人は、ホテルに近いバース中心部に戻った。母親に会いに行くのに、どうしてホテルを予約するのだろうとジョルジアは思っていたが、今になってみればあの家に泊まらずに済んでどこかほっとしていた。

 街の中心にはたくさんの観光客がいて、蜂蜜色のジョージア調の建物を感嘆の眼差しで見つめている。中心には大聖堂と、ローマ時代の温泉施設があり、その周りに高級な商店やカフェなどが並んでいた。

 観光地特有の浮ついた雰囲氣を横目で見ながら、それらがほとんど眼に入らない様子で俯きながら歩くグレッグをどう慰めたらいいか、ジョルジアは途方に暮れた。

 イギリスに来た目的、母親との関係改善は完全な失敗に終わった。

 ジョルジアは、レベッカと実際に逢うまで、グレッグとその母親との関係を理解できなかった。喧嘩しているわけではないのというのに、彼の生活の中に実母の影がほとんど見られない。唯一の交流だというクリスマスカードには、整った美しい筆蹟ではあるが、まるで企業の印刷物のように紋切り型の短い挨拶だけが綴られていた。文字数が愛情のバロメーターとは思わないが、そのクリスマスカードからは、ほとんど何も感じ取れなかったのだ。

 そして、そのカードを書いた人物と対面して、ジョルジアは納得した。あのカードは、怒りや猜疑心などの何か表に出せない意図に基づいてわざわざ紋切り型に書かれたのではなく、レベッカ・マッケンジーという女性の嘘偽りのない感情が、あの文章に表れているのだと。彼女は、正しさにひどくこだわり、ユーモアを全く必要としない、ジョルジアの周りにはほとんどいなかったタイプの人間なのだと。

 レベッカがアフリカでの結婚生活を、ただの失敗と切り捨ててしまったことを、ジョルジアは感じた。その激しい否定は、サバンナへの強い想いを持て余していた幼かったグレッグをひどく孤独にしたに違いない。母親との溝はそんな風にして生まれていったのだろう。彼は、その修復をするためにここまで来たのだ。だが、それはおそらく無理なのだろうと、彼女は感じた。

 彼女は、黙ってグレッグの手を握った。彼は、はっとして彼女を見た。彼女の瞳を見つめ、同情と、それから、一人ではないのだと優しく肯定する光を見つけた。彼は、空を見上げ、ため息を漏らした。

 握る彼の掌に力が込められた。二人はそのまましばらく黙って歩いた。大聖堂の脇を通り過ぎ、陽の射さない細い路地を曲がる。灰色の石畳がコツコツと音を立てる。

「何か食べようか」
彼がぽつりと言った。それで、ジョルジアは遅い朝食の後、まだ何も食べてなかったことを思い出した。マッケンジー家のお茶ではいつもたくさんの茶菓子やサンドイッチが用意されるというので、あえてランチをとらなかったのだ。

「そうね。そんなにお腹はすいていないから、ティールームか何かでいいんじゃないかしら」
ジョルジアが言うと、彼も頷いた。

 辺りを見回すと、すぐ側に小さな店があった。黒板が出ていて「デリ / カフェ / 自然農法のワイン」とシンプルに書かれている。中に入ってみると、カントリー調のインテリアで古い木製の床がみしりと音を立てた。

 バーには年配の男が立っていて「いらっしゃい」と言った。カウンターの端には手作りクッキーやケーキが置かれていた。

「簡単なものを食べることができるだろうか」
グレッグが訊くと、男は頷き奥のテーブル席へ案内してくれた。

 ジョルジアはチェダーチーズとハムのサンドイッチを、グレッグは農夫風プラウマンズ サンドイッチを頼んだ。

「農夫風って、どんなサンドイッチ?」
ジョルジアは訊いた。

 パンとチーズやピクルス、ハム、サラダ、林檎、チャツネなどの冷たいものを盛り合わせた一皿をプラウマンズランチと呼び、イギリスではパブの定番料理であることは知っていた。農夫がお弁当として外で食べた伝統食らしい。ニューヨークでも、たまにプラウマンズランチを出すカフェはあるものの、サンドイッチになっているものは見たことがなかった。

 彼は前に置かれたサンドイッチの全粒粉のパンを開いて見せた。
「チーズにサラダ菜とチャツネだね。チャツネが入っていて酸っぱいと農夫風って言うのかな」
首を傾げながらかぶりつく彼の姿に、ジョルジアは微笑んだ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】ひなげしの姫君

「十二ヶ月の歌」の七月分です。もう七月も終わりに近づいているなんて!

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。七月はホセ・ラカジェの”アマポーラ”にインスパイアされて書いた作品です。夏になると、通勤路に野生のひなげしがたくさん咲くので、この曲を選んでみました。

そして、このストーリーは「アマポーラ」だけでなく、もう一つのひなげしに関するお伽噺も下敷きにしてあります。もともとはインドの民話のようです。「小さな子ネズミが魔法で美しい姫君に姿を変えてもらい王子様に見初められるのですが、正体がばれるのを怖れて慌て池に落ちて亡くなってしまう、その後美しいひなげしが池の周りに咲いた」というものです。

しかしながら、いつも通り私の話は、そこまでドラマティックには着地しません。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む



ひなげしの姫君
Inspired from “Amapola” by Joseph Lacalle

 彼女は、桃色の頬と、ふっくらとした紅い唇を持った、魅力的な少女だった。同じ教室で机を並べていたときから、僕はいつだって彼女のことが大好きだった。ひなげしに喩えて謳ったあの曲のように、いつも心の中で「僕を愛しておくれよ」と語りかけていた。だから、クラスメートに知られないように、机の上にナイフで刻んだ名前、日記帳の中に綴った彼女の名前は、アマポーラだった。

 僕の求愛を、まるで相手にしてくれなかったアマポーラとは、卒業後に逢うチャンスもなくなってしまったけれど、僕の心の中には、いつも彼女がいたのだと思う。そりゃ、忘れていたことがなかったとは言えない。でも、たとえば、夏が来て赤いひなげしを目にすると、僕はいつも可憐なアマポーラのことを思い出して、そっと微笑んだのだ。

 彼女を、都で見かけたのは、本当に偶然だった。変わらずに綺麗だっただけでなく、びっくりするくらい垢抜けていて、その場で声をかけるのをためらってしまった。

 乗っていた黒塗りの馬車は、立派な紋章がついていて、横に乗っていた男は仰々しい山高帽を被っていた。そんなことってあるだろうか。あのアマポーラが、貴族と連れだって馬車に乗るなんて。どんなに綺麗だって、僕たちの階級の人間が、お高くとまった奴らとつきあうことなんてできないはずだ。でも、この僕が、アマポーラを見間違えたりなんかするものか。

 彼女とその立派な紳士が馬車を待たせ入った店に、僕も入った。それは、有名なコンディトライで、大理石の床、樫材の壁、シャンデリアや金飾りの鏡に囲まれたティールームで、濃厚なチョコレートを飲む奥方や葉巻をくゆらす紳士たちで賑わっていた。

 僕には、日給の半分もするようなコーヒーやケーキを楽しむ余裕はなかったが、売店で小さなチョコレートを注文しながら、世間話をした。
「それはそうと。表の馬車の紋章、つい最近見たはずなのにどこだか思い出せないんだ」

 店員は、にっこりと笑って答えた。
「エンセナーダ侯爵さまですよ。婚約なさったばかりで、よくこの店にいらしてくださるんです。ここで出会われたんですよ。誉れです」

「婚約者って、あの娘……?」
「お美しい方でしょう? 東方の王家の血を引くお嬢様で、ポストマニ様とおっしゃるんですよ」

 まさか! アマポーラに王家の血なんか一滴も入っていないどころか、東方の出身なんかじゃないことも、僕が誰よりも知っている。アマポーラの父方の爺さんは村のくず拾いだったし、母さんは皮剥ぎ職人の妹だった。

 僕は、礼を言ってチョコレートを受け取ると、氣取った包みを開けて、一つ口に含んだ。ゆっくりと滑らかに溶けるプラリネは、僕らが普段食べ慣れている混ぜ物入りのざらざらした板チョコとは別の食べ物のようだった。

 この店にしょっちゅう通っている、金持ちの奴らは僕とは関係のない雲の上の存在だ、いつもなんとなくそんなことを考えていた。アマポーラは、上手く混じっている。すごい玉の輿だな。僕はただの機械工だけれど、じきに侯爵夫人となるあの別嬪の幼なじみなんだって思うと、妙に誇らしかった。昔話をして、可憐なひなげしを捧げた話を憶えているだろうと笑い合いたかった。

 エンセナーダ侯爵ときたら、まるで世界に他の女がいないみたいに、じっとアマポーラのことばかり見つめて、その手を握りしめたりキスしたりばかりしているんだ。

 でも、彼女自身は、そこまで婚約者に夢中という風情ではなかった。店内を見回したり、ハンドバッグから取り出した小さな手鏡で自分の顔を確認したりしていた。カウンターで、見つめている僕には氣付いたんだろうか。笑いかけてくれることも、手を振ってくれることもなかったから、よくわからない。

 僕は、彼女が化粧室に向かうのを確認して、急いで後を追った。

 幸い、周りには誰もいなくて、僕は化粧室から出てきた彼女を小声で呼んだ。
「アマポーラ! 僕を憶えているかい?」

 彼女は、ひどくびっくりして周りを見回した。僕の姿を見て、ものすごく嫌な顔をした。それから、まるで聞こえなかったかのように反応もしないで去って行こうとしたので、僕は後を追いもう一度呼ぼうとした。

「しっ。やめてよ。どういうつもり?!」
彼女は、動きを止めると小さな声で言った。

 僕はつられてもっと小さな声になった。
「どうって、久しぶりだから。綺麗になったねって、言おうと思ったんだ」

「あんたなんかと知り合いだとわかったら大変なのよ、ペッピーノ、少しは遠慮しなさいよ。それとも私を強請ろうってわけ?」
「まさか!」
「だったら、あっちへ行ってちょうだい。私につきまとわないで。私は、ポストマニ姫ってことになっているんだから」

 僕が名付けたのと同じ、可憐でひなげしを思わせる真っ赤なワンピースを着た彼女は、僕を邪魔者みたいに追いやろうとした。それどころか、小さなビーズのハンドバッグから、僕の週給にもあたるような紙幣を三枚も取りだして、さも嫌そうに僕に押しつけたのだ。

「何のつもりだよ。僕は、金なんか……」
そう言いつのろうとしたとき、角から店の支配人が歩いてきた。
「どうなさいましたか、お嬢様。何か問題でも……」

「いいえ、何でもありません。馬車まで送ってくださいます?」
アマポーラは、外国人が話すみたいに、変な発音で支配人に言った。支配人は、僕の汚れた服装をじろりと見回すと、彼女につきまとうなと言いたげに僕をにらみつけると、彼女をガードするように侯爵の待つ馬車まで送っていった。

 彼女たちが去ると、支配人は戻ってきて、僕に慇懃無礼な様子で言った。
「申し訳ございませんが、お引き取りいただけませんか。チョコレートを購入なさりたいのなら、街のはずれに露店もございますし……」

 僕は、すっかり腹を立ててコンディトライを後にした。お前なんかに何がわかるんだって言うんだ。追い出したこの僕と姫君みたいに扱ったアマポーラは、同じ村の同じ学校で机を並べていたんだぞ。

 乞食に恵むみたいに、こんな金を渡すなんて、ひどいや。僕は、アマポーラにも腹を立た。このまま、この金を受け取ったら、僕は強請り野郎になってしまう。このまま黙って引き下がれるものか。

 僕は、駅前のバーのカウンターでエスプレッソを頼み、会計のついでにエンセナーダ侯爵とやらがどこに住んでいるのかを訊きだした。

「あんた都にはしばらく来なかったのかい? あの小高い丘の上、都のどこからでも見える『雲上城』を、侯爵が買って引っ越してきたときの騒ぎを知らないなんて」
「へえ? もともとは都にいなかったお貴族様なんだ」

「ああ、この国の方じゃないからね。海の向こうの大陸に、この国の三倍くらいある領地を持っていて、何でも持っている人なんだそうだ。引越の時には、たくさんのお宝や綺麗な調度を積んだ船が港にずらっと並び、それをお城に運び込むために二週間くらい毎日パレードみたいな行列が街道を進んだ。足りないのは、相応しい奥方様だけだと、みなが噂していたのだけれど、ついにお姫様と知り合ったらしいね」

 外国人なら、アマポーラがこの国の生まれか、東方の国の育ちか見破れなくても不思議はない。でも、街の奴らはわからないのだろうか。

 ふうふう言いながら、『雲上城』を目指して、急勾配の道を進んだ。丘と言うよりは小さな山みたいだ。都のど真ん中にあるのに緑豊かで、街の喧騒からは切り離されている。ほぼ毎日、馬車に揺られてあのコンディトライに通って、ホットチョコレートを飲むなんて、優雅な身分だなと思った。実家に戻れば、酒癖の悪い親父に怒鳴られながら鶏や豚の世話をしなくちゃならないだろうに。

 ようやく見えてきた門は、背丈の倍以上ある立派なものだった。真ん中に大きな黒い金属板で紋章が打ち出されている。先ほど見た馬車についていたのと同じだ。内側に守衛所があって黒い服を着た門番がやたらと胸を張って立っていた。

 僕は、そっと門に近づいた。門番は怪訝な顔で「何か用かね」と言った。
「友達がここにいるって聞いたんだ」
僕が言うと、門番は話にならないという顔つきをした。

 こいつも、あの支配人と同じだ。僕を見下して追い払おうとしている。
「僕が機械工だからって、馬鹿にするんだな。僕は、話があってきたんだ。悪いこともしていないし、嘘も言っていない。なのに、服装だけで僕のことを誰も真面目に受け取ってくれないなんてフェアじゃないよ!」

「だったら、ちゃんとした紹介状か、お屋敷のその人にここに来てあんたが友達だ言ってもらうんだな。こっちだって仕事なんだ、誰だかわからないヤツを入れるわけにはいかんよ」
門番の主張はもっともだった。僕は途方に暮れた。

「私の知人よ、入れてあげて」
声がしたので、門番も僕も驚いて顔を向けた。ひなげしの花そっくりの、ドレープのある朱色のスカートを着たアマポーラが立っていた。門番は、すぐに頭を下げて門を開けて僕を招き入れた。

 僕は、急いで中に入り、彼女に挨拶しようとした。けれど彼女は急いでその場を離れた。門番に会話を聞かれたくないんだろうと思って、僕は黙ってついていった。

 門からは全く見えなかったが、森林の小径を抜けると城の前に広がる大きな庭園に出た。丸い池にからくりの噴水が涼しげな水煙をほとばしっている。その池の周りにたくさんの大きなひなげしが植えられていて、優しく風に花びらをそよがせていた。

「あれじゃ、足りないって言うわけ?」
アマポーラは、低い声で言った。僕は、カッとなった。

「僕は、強請りに来たわけじゃない! それにこんなもの!」
コンディトライで渡された紙幣を取り出すと、彼女めがけて投げつけた。

「何するのよ」
「嘘で塗り固められたお姫様からの、汚い金なんて受け取れない」

 アマポーラは、下唇を噛みしめてから言った。
「やっと巡ってきたチャンスなのよ。洗濯女なんて死ぬまで働いても指輪一つ買うことが出来ないんだわ。あんな生活に戻りたくないの。邪魔をしないで」

 僕は言った。
「邪魔なんてしないさ。僕はそんなつもりで声をかけたんじゃない。久しぶりだったから、話をしたかっただけなんだ。物乞いか強請みたいに扱われて、そのまま立ち去れなかっただけだ。それで幸せになれるっていうなら、するがいいさ。僕には関係のないことだ」

 そう言って、僕は彼女の返事も待たずにまた門の方へ向かった。門番は、慇懃に頭を下げて僕を出してくれた。

* * *


 支配人に疎まれてコンディトライに行けなくなってしまったので、エンセナーダ侯爵に関するニュースを耳にしたのは半年以上後だった。あれから三ヶ月も経たないうちに、海の向こうの領地で大きな飢饉があり、不満を抱いた領民たちが革命騒ぎを起こしたのだそうだ。

 侯爵は、財産の大半を失い、『雲上城』を二束三文で売り払って海の向こうへ帰って行ったそうだ。最愛のポストマニ姫と華燭の宴をあげたのか、そして彼女が不運の侯爵に付き添ってかの国に向かったのか、誰も知らない。僕は、彼女はついていったりしなかったのではないかと思う。

 魔法の解けてしまった偽物の姫は、今どこにいるのだろう。少なくとも洗濯女に戻ったりはしていないだろう。馬鹿馬鹿しく高いホットチョコレートを優雅に飲むけっこうな生活を知ってしまったんだから。

 彼女は、またどこかの姫君のフリをして別の貴族や富豪の奥様におさまろうと、性懲りもなく計画を練っているだろう。可愛いアマポーラ。ちっぽけな少年に見向きもしなかったように、きっと君は貧乏な機械工を愛してくれたりなんかしない。でも、僕は、それでも君とまた再会することを願っているんだ。

(初出:2019年7月 書き下ろし)

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「アマポーラ」はいろいろな歌手が歌っていますが、私はこのポルトガルのカウンターテナーのバージョンが好きです。この方、「男」ですよ。



Nuno Guerreiro “Amapola”
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(5)花咲く家 - 3 -

「霧の彼方から」の続き三つに切った「花咲く家」のラストです。

今回のストーリーは日本の話ではないので、嫁と姑との関わり方を日本のそれとは違う前提で書いています。すなわち「●●家の嫁になるのだから」的な発想はないのです。けれど、「嫁と姑の関係は時に面倒くさい」は世界共通です。

レベッカには、「国際結婚などしたのが間違いだった。だから、息子は出来ることなら英国で、英国人と結婚し、まともな人生を送るのが幸せなのに」という思いが根底にあるようです。で、連れてきた嫁は、よりにもよってイタリア系アメリカ人だった……。むしろ、《Sunrise Diner》の常連であるクレアを連れてきたら大喜びしたでしょうね。継子のマッケンジー兄妹の方は、もちろん有名人の家族の方が嬉しそう。ミーハーです。

実母レベッカの登場、実はこれでおしまいです。話はまだ続きますけれど。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(5)花咲く家 - 3 -

 ジョンも、妹とそっくりの笑い方をした。
「おい、やめろよ。誰だって昔の失恋の話なんか触れて欲しくないさ。とりわけ婚約者の前ではね。しかし、意外だな。君がこんな洗練された人と……」

 レベッカは、先ほど受け取った二冊の写真集を義理の息子と娘に見せた。
「カペッリさんは、写真家でこのような写真集を出版しているそうです」

 二人は、珍しそうに写真集を見たが、『陰影』の表紙を見て叫んだ。
「やあ、これはマッテオ・ダンジェロじゃないか。あのアレッサンドラ・ダンジェロの兄の」
「まあ、そうよ。なんてこと、マッテオ・ダンジェロのすぐ側に、ヘンリーがレイアウトしてあるわ。こんなことって信じられる?」

「すごいな。あんな有名人を撮るって大変じゃないですか」
そう言われて、ジョルジアとグレッグは困ったように顔を見合わせた。が、隠しても仕方ないと思いジョルジアは口を開いた。
「実は、マッテオは私の兄でもあるんです」

「ええ! ってことは、ヘンリーがあのアレッサンドラ・ダンジェロの義兄になるってこと!」
ナンシーが大きな声を上げたので、レベッカは露骨に嫌な顔をした。

「僕は、スーパーモデルの姉である誰かと結婚するんじゃない。この人と結婚するんだ」
グレッグは、はっきりと言った。

 ジョルジアは、意外に思った。あまりにも長くアレッサンドラ・ダンジェロの姉というレッテルを貼られ続けてきたので、反抗心を持つことも忘れていた。ましてや、誰かがそれを強く打ち消すための言葉を言ってくれるなど期待したこともなかったのだ。

 だが、当の兄妹は、その抗議に大して反応せずに、あいかわらずマッテオの写真を見ながらあれこれ言っていた。ついにはスーパーモデルや浮ついた億万長者などには批判的な継母に軽薄だとぴしゃりと言われて、応接間から体よく追い出されてしまった。

「本当に嘆かわしい反応だこと。真っ当な生き方よりも札束を好む人たちを羨むような口ぶりで」
ダンジェロ兄妹など、ろくでもない社会の膿だとでも言い出しかねない口調で、そもそもその二人がジョルジアの愛する家族なのだと言うことは、全く意に介さない様子だった。

 それどころか、それで未来の義理の娘が嘆かわしい風情である理由が腑に落ちたと言わんばかりにため息をついた。

「アメリカという国では、スカートは流行遅れなのでしょうね。イギリスのある程度の階級で育った娘さんならば、婚約者の母親に会いに行くためのワンピースを買いに行く手間を惜しんだりすることは考えられないでしょうけれど、なんせ全然違う文化の国から来た人ですもの。マナーをあれこれいうのは無意味なことでしょう」

 ジョルジアはとまどった。普段デニムとTシャツばかり着ているのでスカートという選択肢をまったく考えなかったのだが、どうやら未来の義母にとってこの服装は常識外れだったらしい。少なくとも今日は滅多に着ないエレガントなパンツスーツを着てきた。グレーの柔らかめのドレープ生地のパンツとそれに近いストールが、パンツスーツの尖った感じを和らげている。

「母さん。失礼な上に非論理的なことをいうのはやめてくれ」
自分から非礼を詫びる前に、グレッグがそう言ったので、ジョルジアは驚いた。

「なんですって」
「女性はスカートを穿くべきだなんて、一世紀前の価値観だ。アメリカもイギリスもケニアも関係ない」

「ケニア。私はあそこに住みましたからね。どれだけ野蛮な土地なのか、身を以て知っていますとも。あそこならば、マナーなんかどうでもいいという価値観になるでしょうよ。私は少なくとも祖国に戻ってきて生き返りましたとも。それに、お前がまともな教育を受けてよりよい生活ができるように連れ帰ったのに、わざわざあんな国に戻るなんて」

 ジョルジアは思わず言った。
「彼が住んでいるのは素晴らしいところですわ」

 レベッカは優雅な動作で、ティーカップをテーブルに置いた。
「まあ。それでは、あなたは本当にヘンリーにお似合いね。それだけは安心しました。結婚したはいいものの、あの国が嫌で数日で取りやめたなんて話は聞きたくありませんもの」

 ジョルジアは、ここに来る前にもう《郷愁の丘》での同居を始めていたことは、口にしないほうがいいのかもしれないと思った。結婚前に何年も同居することは彼女にはごく普通のことだったが、レベッカ・マッケンジーにとっては恥ずべき非道徳行為なのかもしれないから。

 彼女のとげのある言い方が不快でないと言ったら嘘になる。でも、彼女は黙ってやり過ごそうと思った。口論をしたらグレッグが困るだろう。親子の団らんに水を差すようなことはしたくない。

 そう思っていたところ、グレッグは突然立ち上がった。
「そろそろ失礼するよ。母さん、もてなしをありがとう」

 ジョルジアは驚いた。十五年以上会わなかった母親との再会を、こんなにあっさりと打ち切るとは思っていなかったからだ。もしかして、自分のせいなのかと不安に思った。

 ところが、レベッカの方はさほど驚いた様子は見せなかった。
「どういたしまして。プレゼントをありがとう。私としては、お前が健康で、そして、立派にやってくれればそれでいいのよ。普通よりも遅いけれど、少なくとも家庭を持つつもりになったことは、いいことだと思いますよ。どうぞお幸せに。次はもっと繁く母親を訪れるつもりになってくれるといいわね」
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(5)花咲く家 - 2 -

「霧の彼方から」の続き三つに切った「花咲く家」の二回目です。この「郷愁の丘」そのものは完結した作品で続編が必要とは思っていなかったのですが、要望を受けて前作では飛ばしたシーンを書いたときに、「むしろこっちの話の方が重要かもなあ」と頭に引っかかっていたのが、グレッグのイギリス時代の話でした。

実母レベッカとの邂逅は、ある意味では「郷愁の丘」で描いた実父ジェイムス・スコット博士との邂逅の繰り返しでしかないのですけれど、グレッグが幼少期を乗り越えて前に進むためには必要なステップでした。と、同時に、この後の流れにつなげるための「あり得る唯一のきっかけ」でもあります。

「レベッカは実母なのに我が子にこんなに冷たいはずがない」とお思いの方もあるかもしれません。でも、実はこの外から見るとものすごく変わった親子関係、ちゃんとモデルがあります。しかも、私自身の●親等の世界です。


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あらすじと登場人物




霧の彼方から(5)花咲く家 - 2 -

「ようこそ、カペッリさん。私がレベッカ・マッケンジーです」
彼女は、ジョルジアに手を差し出したが、ハグをしようとする様子は全く見せなかった。そして、ジョルジアが会釈をしてその手を握ったが、乾いた手のひらは全く力を込めてこなかった。それは、握手よりも、扉を開けるためにドアのノブに触れている時のように無機質な感触だった。

 それから、レベッカは、ようやくグレッグの方を見て言った。
「久しぶりね、ヘンリー。よく来てくれました」

 握手もなければ、ハグもキスもなかった。久しぶりに会った母と息子は、全く触れ合うことすらなかったのだ。

 レベッカはソファに座るよう勧めた。ゴールドベルベッドのチェスターフィールドソファで、座り心地は抜群だ。

 用意された銀のティーポットは磨き抜かれ、触ると壊れるのではないかと思われるほど薄い花柄のティーカップがその隣に行儀よく置かれていた。

 ジョルジアは少し硬くなり、ソファに浅く腰掛けた。目を向けると、グレッグも寛がない様子で座っていた。

「イギリスやケニアの方ではないようね」
レベッカは、紅茶を勧めながら言った。

「アメリカ人です。祖父母は北イタリアの出身ですが、両親の代からニューヨークに住んでいます」
「まあ。ニューヨークの方が、サバンナで世捨て人のように暮らすヘンリーとどうやって知り合ったの」

 ジョルジアは、鞄から二冊の写真集を取り出した。グレッグと知り合うきっかけとなった『太陽の子供たち』と、彼も被写体として入っている『陰影』だ。
「私は写真家なのですが、この作品の撮影の時にお世話になったのがきっかけです」

 二冊を受け取りながら、レベッカは驚いた表情を見せた。
「写真家ですって? まあ、驚いた。そのような仕事をする女性がいるのは知っていましたが、実際に逢うのははじめてです」

 グレッグは言った。
「母さん。彼女はとても才能のある人で、その帯にあるように、『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』という権威ある賞で入賞したんだ」

「あなたのお陰でね」
ジョルジアは、付け加えて微笑んだが、レベッカはその話題には、さほど興味がないようだった。

 モノクロームで人物を撮った『陰影』は、心の中で最も重要な位置を占める存在として、グレッグの写真がラストページに入っている。表紙には彼の横顔も写っているのだが、レベッカはどちらの写真集も開こうとせず、少し離れたサイドテーブルに置いた。

 その時、玄関から大きな音がして、誰かが邸内に入ってきたのがわかった。男女が大きな声で話しながら廊下を進んできた。

「ああ、わかっているよ。客間にいるんだろう」
「あのヘンリーが、結婚相手を連れて来たって、本当かしら」

 ノックと同時に、応接室の扉が開かれ、明らかに兄妹だとわかるよく似た二人が入ってきた。

「やあ。本当にヘンリーだ。何十年ぶりだろう。僕たちのことを憶えているだろうか」
「そりゃあ、憶えているでしょうよ。ねえ、ヘンリー。結婚するって本当?」

 グレッグが立ち上がったので、ジョルジアもそれに倣った。
「ごきげんよう。ジョン、ナンシー。こちらは婚約者のジョルジア・カペッリだ。ジョルジア、ジョン・マッケンジーとナンシー・エイムズ兄妹だ」

「はじめまして」
ジョルジアが手を差し伸べると、二人は感じよく笑いながら手を握った。

「ヘンリーが、結婚するって聞いて驚いたのよ」
「全くびっくりさせるよな。独身主義者じゃなかったのか」

 グレッグは、困ったように言った。
「主義じゃない。これまで相手が居なかっただけだ」

 ナンシーが意味ありげに笑った。
「ジェーンが結婚したので世をはかなんで、サバンナに籠もったって聞いたわよ」

 ジョルジアは、心の中でジェーンとつぶやいた。その人なのかしら、彼が心の奥にしまっている特別な女性は……。グレッグを見ると、わずかに眉をひそめていた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(5)花咲く家 - 1 -

「霧の彼方から」の続きです。ようやく本題、というかそもそもの舞台であるイギリスに戻ってきました。ロンドン到着などはすっ飛ばして、二人は既にバースにいます。バースはローマ時代の温泉施設が残る街で、イングランド西部サマセット州にあります。十八世紀のジョージアン時代に王侯や富裕層の保養地として有名になり、その時代の優美な建造物が美しい町並みを作っています。

バースに初めて行ったのは、大学生時代でした。その時は「ストーンヘンジとバース、ウィンザー城観光」というありがち一日観光の一つとして訪れ、時間もなかったのでローマン・バスしか観なかったという記憶があるのですけれど、今年の三月は取材という目的意識を持って行ったので、ずいぶんと違った印象になりました。

もっとも、その町並みの話が出てくるのは次の章。今回は,グレッグの母親レベッカとの対面がメインとなります。この章も三回に切ります。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(5)花咲く家 - 1 -

 その家に着いた時、ジョルジアは思わず歓声を上げた。かつて素材写真集の撮影で『イギリス的邸宅』を扱ったことがある。そして、編集部がアメリカ中を探し回って探してきた『イギリスマニア』の家を撮影しながら、イギリスにもこんな家はもうないに違いないと思っていた。だが、グレッグが連れてきた彼の母親の住む家は、それを軽く上回る完成度だったのだ。

 それは城のように大きいものではなかったが、バースストーンと言われる蜂蜜色の石を用い、優美な柱やアーチで飾り付けをした大きな窓が印象的な典型的なジョージ王朝様式の邸宅だった。

 おそらく何世紀もの時が作り出した壁の石材の色褪せ方は、グレッグの母親やその夫のマッケンジー氏の意思とは関係ないのであろうが、その前に広がる英国風庭園のきめ細やかな手入れを見れば、この夫婦がこの館の維持にどれほどの情熱を傾けているかを瞬時に見て取ることができる。

 三月末はまだ肌寒い日もあり、どこの家でも時折冬の名残である枯れた草や、新緑が隠すのを待っている木々の隙間などを見ることがあったが、この庭の飛び石は綺麗に掃き清められ、枯れ草などは取り払われていた。しかし、フランスでよく見るような無理に形を整えられた木々はなく、あくまで自然な形であるように配置されていた。

 だがよく見ると、黄色い水仙の花には、色褪せたものや枯れ始めたものは一つもなく、スノードロップやデイジーも行儀よく並んでいた。チューリップは、無造作に違う色の球根が植えられたかのように見えて、その配置をよく見るとパレットに置かれた絵の具のように計算され、しかもバッキンガム宮殿の衛兵のごとく完膚なき振る舞いで立ちすくんでいた。森の自由な妖精を思わせるブルーベルですら傷みのない個体だけが、春の陽光の中でその透き通るように薄い花びらを慎ましく開いていた。

「なんて素晴らしい庭なのかしら。精魂込めてお世話なさっているのね」
思わず彼女がつぶやくと、グレッグは振り向いて口角を上げた。
「そうだね」

 ジョルジアは、その反応を少し意外に思った。彼の態度には母親の自慢の庭について誇らしく思う喜びが欠けていた。普段、自然を愛し、その美しさを素直に賞賛する彼の態度を見慣れていた。だが、今日の彼は、子供の頃から多感な時期を過ごした家に対する愛着が全く感じられず、それどころかなんとも言えない哀しさすら漂わせていたのだ。

 玄関の脇には、料理用のハーブが植えられていた。ローズマリーの鉢は冬を室内で越したものだろう。北の氣候には合わないにもかかわらず、凍えた様子もなくピンと細い針のような葉のついた枝を広げていた。地植えで越冬させたセージの葉は、ようやく芽が出てきたところで、若い緑が瑞々しい。側を通る時に服に触れて香りが立った。

 ジョルジアは、再び「スカボロ・フェア」の歌詞のことを考えた。『パセリ、セージ、ローズマリー、タイム……』

 桜の花びらがはらりと舞い落ちる。その根元は今朝丁寧に掃いた跡があり、その上にわずかな花びらがゆっくりと着地していった。グレッグはその横を通り過ぎると、ジョルジアに手を差し伸べて一緒にステップを上がり、玄関のベルを鳴らした。

 しばらくすると、ガチャリと厳かな音がして、内側に扉が開かれた。黒っぽい服を着た中年の女性が立って重々しく言った。
「ようこそ、スコット様。奥様が応接室でお待ちです。ご案内いたします」

 ジョルジアは、そっと彼の顔を眺めた。この格式張った応対は、彼女にはあまり馴染みがないものだった。

 ニューヨーク随一の好立地にあるペントハウスに住む兄マッテオの所を訪ねる時も執事がまず出てくる。けれど、ジョルジアが来たとわかると兄は走って飛んできてキスの雨を降らせる。両親は、兄と妹アレッサンドラの成功に伴い、早めに引退してロングアイランドの高級住宅街に住んでいるのだが、貧しい漁師だった頃と生活を変えるのが嫌で、常時の使用人を置いたりしない。だから、訪ねていく時はもちろん自らが出てきて喜んで歓待してくれる。

 グレッグは、ほとんど何も言わずに女性に従って応接室に向かった。暗い廊下から応接室に入った時、その明るさにジョルジアは眼を細めた。窓辺にはサテンを織り込んだカーテンが揺れていて、壁紙もクリーム系のダマスク柄、リネンフォールド多用した重厚なアンティーク家具が置かれ、壁の一面がほとんど暖炉となっていた。

 その暖炉の近くに座っていた女性が重々しい様子で立ち上がった。とても小柄な女性で、くるぶし近くまであるモスグリーンのワンピースを身に纏い、古風なシニヨンに髪を結っていた。銀縁の眼鏡が鈍く光った。
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