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【小説】郷愁の丘(11)君に起こる奇跡 - 2 -

「郷愁の丘」の続き、四回に分けた「君に起こる奇跡」の二回目です。

グレッグに引き合わせてくれようとしていた大富豪マッテオ・ダンジェロがジョルジアの兄だということを初めて知ったレイチェルとグレッグ。一方、マッテオも溺愛している妹がいつもとまったく違った態度をグレッグに示していることを見てとり興味を持ったようです。ジョルジアはマッテオにも何も話していませんでしたから。

横文字の名前を覚えるのが苦手という方のために、ここでもう一度解説しておきますが、ジェームス・スコット博士は、グレッグの父親(グレッグが十歳の時に離婚)でレイチェル・ムーア博士の恋人です。マディというのは、二人の間の娘で、グレッグの腹ちがいの妹です。そして、お忘れかもしれませんが、アマンダというのはジョルジアがグレッグとの仲を密かに疑っていたキクユ族の手伝いの少女ですね。

そして、最後に登場する人は……前作をお読みの方なら予想がつくかもしれませんね。すみません、わざとじゃないですけれど、今週はここでお預けです。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(11)君に起こる奇跡 - 2 -

 バーの方に二人が歩いていって、声が届かなくなるのを確認すると、マッテオはレイチェルの方に向き直って微笑んだ。
「レイチェル。どうして今まで教えてくれなかったんだい?」

「何を?」
「君が、ジョルジアのボーイフレンドを紹介してくれるってことをだよ」

「ねえ、マッテオ。私はジョルジアがあなたの妹だって本当に知らなかったのよ」
「ああ、そうか。彼女は君にも黙っていたんだね。彼は、ジェームスの息子だって言ったね」
「ええ」

「ジェームスから一度も息子が同じ畑にいるとは聞いたことがなかったので、今回の依頼メールを読んだ時にはずいぶん驚いたんだぜ」

「わかっているわ。実を言うと、今回の依頼も私が個人的にヘンリーに奨めたの。正直言って、ジェームスと彼は、あまり交流がないのよ。ケンカしているわけじゃないんだけれど、ヘンリーは人付き合いがあまり上手な方じゃないし。ジェームスも、彼のお母さんとひどく憎み合っていたので、離婚以来息子である彼ともずっと連絡を絶っていて、他人みたいな人間関係しか築いてこられなかったの。それもあって、いまさら自分から歩み寄りにくいみたい。でも、ジェームスとの親子関係の事情は別として、ヘンリーの研究は地味だけれど大きな意義があるの。こういう基礎研究はすぐに何かが返ってくるわけではないので皆なかなかスポンサーになってくれないの。彼は、自分から人脈を形成していくタイプではないし放っておいたら研究に生活費までつぎ込んで飢え死にしてしまうんじゃないかって心配だわ」

 マッテオはため息をついた。
「彼には、生活面で心配してくれるような人はいないのか。家事もなにもかも一人でやっているのか?」
「いいえ。簡単なことは出来るけれど、掃除・洗濯や簡単な炊事は、キクユ族の娘が通ってやっているわ。そういう使用人を雇うのは、ケニアではものすごく裕福でなくても普通のことなの」

「その娘っていうのは、もしかして……。その、詮索して悪いけれど……」
「いいえ。わかるわ。大切な妹さんが関係しているからよけい氣になるんでしょう? その心配はないと思うわ。あなたも見ていてわかったと思うけれど、彼はジョルジアに夢中なの。残念ながら友達の枠は超えられていないみたいだけれど」

 それから声を顰めて言った。
「そのアマンダという娘はね。実のところヘンリーの妻の座を狙っているの。でも、彼のことが好きなんじゃなくて、単に白人の奥様になって、使用人にいろいろとやらせて、好きなものを買ってもらう生活をしたいだけなのよ。本当に計算高い娘なのよ。ヘンリーもそれはわかっているわ。一度引っかからないようにしなさいって忠告したら、笑って言っていたもの、彼女には村に恋人がいてベタベタしているのを見たことがあるって」

「そうか。そういうことなら、僕が彼の立場でも警戒するだろうな。出来心でも手を出すような真似はしないか」

「彼は、不器用すぎてため息がでるくらいなの。とても純粋なんだと思うし、悪いことだとは思わないけれど、このままじゃ永久に独り者だとマディもヤキモキしているわ。あなたの大切な妹のお相手としては物足りないと思うけれど、私たちは二人が上手くいったらいいのにって思っているわ」

「僕は彼女の交友関係を邪魔したりするつもりはないんだ。彼女ももうティーンエイジャーじゃないからね。いま彼女がつき合っている友人たちは、数は少ないけれど信用できる人ばかりだ。彼女の人を見る目については僕は全く心配していないよ。それに、君と彼女の両方が援助するに値するというなら、もちろん彼の研究だって応援するとも。成果が百年後にでることだって構いやしないさ。明日大金が転がり込むかどうかで援助を決定するのは、篤志とは言えないからね」

 彼は、グレッグが一人でこちらに戻ってくるのを見ながら、レイチェルに訊いた。
「ところで、なぜジョルジアは彼をグレッグと呼ぶんだい?」
「さあ、わからないわ。彼のミドルネームは、ジェームスの父親グレゴリーからもらったのだと思うわ。でも、彼は、たいていヘンリー・スコットとだけ名乗るし、私の知る限り、ジェームスを含めてみな彼をヘンリーと呼んでいるわよ」

 戻ってきたグレッグに、マッテオは訊いた。
「ジョルジアは?」

 グレッグは説明した。二人が、バーに着いたとき、ジョルジアのバッグからメッセージの着信音が響いたのだ。ベンジャミン・ハドソンからで資料のありかを電話で説明するために彼女は会場の外に出た。

「会社と連絡を取らなくてはならないそうで、電話をしてから来るそうです」
「そうでしたか。今、レイチェルとあなたへの援助の事を話していたのですがね。……と、あれ。あそこにいるのは……」

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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(11)君に起こる奇跡 - 1 -

「郷愁の丘」の続きです。グレッグの渡米について記述する最後の章「君に起こる奇跡」です。今回、三回に切るか、四回にするか悩んだのですが、結局四回に分けることにしました。大して長くないつもりだったのですが、結構字数がありました。

実は、今年の「郷愁の丘」本編の連載は、この「君に起こる奇跡」までとなります。来年もまた「scriviamo!」を開催予定なので、例年のようにみなさんにご参加をいただけると仮定すると、まるまる三ヶ月間「郷愁の丘」の連載がストップします。ただ、今年の終わりに関連する外伝が入りますし、ストーリーも同じように季節が飛ぶので、偶然ですがちょうどいい季節に再開することを予定しています。

さて、今回は、グレッグが兄マッテオに援助を頼むということを知ったジョルジアが、彼のために嫌いなパーティに一緒に出席することを決めたところです。このパーティ、男性ならタキシード、女性もドレスという格式高いドレスコードがあるので、普段デニムにTシャツ姿のジョルジアもちゃんと着飾って登場します。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(11)君に起こる奇跡 - 1 -

 約束より少し早くからホテルの前で待っていたグレッグは、何台目かのタクシーが停まり、知らない人たちが乗ったり降りたりするのを見るとはなしに眺めていた。ジョルジアは、車の中から彼に手を降ったが氣づいていないので、運転手に言って一度降りた。確かにいつもとは違うドレス姿だけれど、自分だってタキシードなんだから、そのくらい予想していてくれてもいいのに。ジョルジアはおかしくなって微笑んだ。彼は、手を振る彼女に氣づくと急いでこちらに寄ってきた。

 ジョルジアは光沢のある絹のシンプルなドレスを着ていた。フレンチスリーブのスレンダータイプでスクエアネックの胸元に大粒の真珠が品よく輝いている。同じ輝きのティアドロップ型のイヤリングも、耳元で揺れている。肌寒いので羽織っている暖かみのある黄色のコートは、長さもウエストの絞り具合もドレスにぴったりと合っていた。ヒールの高い絹のパンプスのせいで、いつもよりも背が高くなっている。

 彼は息を飲んで、何かを言おうとしてから口をつぐんだ。言葉を飲み込んでいる。もしくは思ったことを隠そうとしているように見えた。潤んだ瞳を見ながら、この表情をどこかで見たと思った。そして思い出した。《郷愁の丘》の彼の家で、あのボローニャ風ソースのスパゲティを出した時だ。でも、どうしたのかしら。

 ジョルジアは、自分のドレスを改めて見下ろして訊いた。
「どこか、おかしい?」

 彼は、慌てて答えた。
「そんなことないよ。素敵な色だ」

 ジョルジアは肩すかしを食らったように感じた。うんざりするほど褒めまくる兄マッテオに慣れてしまっていたからかもしれない。着飾ることは滅多になかったが、こんなに簡潔に服装を評価されたこともなかった。

「この色のドレスを着たのは初めてなの。今年妹がくれようとした中で、一番シンプルで露出が少なかったからこれをもらったんだけれど」
「妹さんが、しょっちゅうドレスをくれるのかい?」
「ええ。ファッションの仕事をしていて、シーズンごとに沢山の服をとり替えるの。ほとんど着ていない服ばかりよ。おかげで私はほとんど買わずに済んで助かるわ。ドレスって高いし流行もすぐに変わってそんなに長く着られないから。男の人が羨ましい」

 彼は笑って自分の着ているタキシードを見た。
「確かにね。僕はずいぶん長いことこれを着ているよ。年に一度着るか着ないかだ。次の時に着られなくなると困るから太らないように氣をつけなくちゃいけないんだ」

 二人は同時に笑い出した。それから再びタクシーに乗って、会場に急いだ。

 レイチェルは既に来ていて、たくさんの友人に囲まれて談笑していたが、二人を見ると歓声を上げて近づいてきた。
「久しぶりね、ジョルジア。まあ、今日の装いはなんて綺麗なのかしら。あなたがとても美人なのは、ちゃんと氣づいていたわよ。あなたにこうしてまた逢えて本当に嬉しいのよ。マッテオと知り合いなんですって? 彼はもう来ていたわ。早速、彼にこのシャイな研究者を紹介しちゃいましょう」

 レイチェルは、人混みを上手にかき分けて、奥で主催者たちと談笑しているマッテオのもとに二人を連れて行った。レイチェルが手を振って声を掛けようとした時に、マッテオの方も氣がついてこちらに顔を向けた。そして、大きく驚いた様子を見せると、駆け寄ってきた。

「なんてことだ! ジョルジア! お前にここで逢えるなんて、僕は夢を見ているのか?!」

 それから、驚く周りの様子にも構わずに、固く抱きしめて頬にキスの雨を降らせた。いつもの事ながらジョルジアは少し困った。
「大袈裟よ、マッテオ。確かにちょっと久しぶりだけれど」

 あまりの親密ぶりに、レイチェルもグレッグも戸惑っているようだったので、彼女は慌てて言った。
「実は、マッテオは、私の兄なの」

「え? あなたたちが兄妹?」
「そう。僕の本名は、マッテオ・カペッリなんだ。僕には自慢の妹が二人いるんだよ」
満面の笑顔でそういうと、再び愛しそうにジョルジアを見つめて賞賛の言葉を発した。
 
「ああ。僕の愛しい妖精さん! 今宵はまた一段と美しいね! この緑はエル・グレコの絵で聖母が纏っていた色だね。本当にお前によく似合っているよ。もし天国に森があるとしたら、お前のように輝かしく優美な天使が待っているに違いないよ。それに、僕の贈った真珠を使ってくれているんだね。とても嬉しいよ」

 ジョルジアは、先ほどグレッグがドレスの同じ色についてたったひと言で済ませたことを思い出して、思わず笑った。

「ありがとう、兄さん。ところで、レイチェルから聞いていると思うけれど、私の大切な友達を紹介させて。グレッグ、ヘンリー・グレゴリー・スコット博士よ」

 そう言われて、マッテオは改めてその場に立ちすくんでいたグレッグに目を移した。彼は人懐こい笑顔を見せて歩み寄るとしっかりと握手をした。
「それでは、あなたがドクター・スコット・ジュニアですか。はじめまして。お逢いするのを楽しみにしていましたよ」

「はじめまして」
グレッグの声からは強い緊張が感じられた。マッテオの放つ圧倒的なパワーに氣後れしている。ジョルジアは、彼を力づけるために近くに立った。

「ニューヨークははじめてだそうですね。お氣に召しましたか?」
「はい。妹さんに、案内していただきました」

「そうなのか、ジョルジア? どこにお連れしたんだ?」
「ノースフォークの海岸よ。私たちの住んでいたところ。ああいうところは、ツアーの旅行じゃ見られないでしょう? この間、電話をもらった日よ」

 マッテオは「そうか」と嬉しそうに頷いたが、ふと思い出したように「あの日?」と言ってからグレッグの方を向いて片眉を上げた。

「ということは……あのボローニャ風ソースを食べてしまった急な客っていうのは、もしかしてあなたなんですか、スコット博士?」

 グレッグは戸惑いながら頷いた。
「はい。美味しかったです」

「美味しかった? もちろん美味しいに決まっていますが、そんな簡単な表現で、あのソースを?」
「マッテオ、やめてよ! そんなに食べたいなら、来週でもまた作って持っていくから……」

「ああ、ジョルジア。僕の小さなコックさん。お前の休日を僕のために無駄にさせるなんて出来ると思うのかい。なんせあのソースを作るのにお前を台所に縛り付けなくちゃいけない時間は八時間以上なんだから」

「八時間?! そんなに?」
グレッグが驚きの声を上げた。マッテオは、それを聞くと極上の微笑みを見せながら、グレッグに歩み寄った。

「まさか、あれがレトルトパックのパスタソースを温めるのと同じ手間で出来たと思っていたわけじゃないでしょうね。ノンナ直伝のあの味を作れるのは、このアメリカでは彼女だけなんですから。僕が行くニューヨーク最高のイタリアンレストランでも、あの愛に満ちた味は超えられないんですよ」

「い、いや、うちで作ってもらった時に時間がかかる事は聞いたんですが、まさかそんなに……」
「うち? まさか、あなたは、あれをもう二回も食べたなんて言うんじゃないでしょうね」
「兄さん! 本当にいい加減にして。たかがパスタソースのことで、グレッグに絡まないで」

 マッテオは、少し不思議そうに妹を一瞥すると、愛しげに微笑んで言った。
「わかったよ。僕の小さなカンノーロちゃん。これ以上、彼を嫉むとお前に嫌われてしまうな。そんなことになったら、僕は悲しみで死んでしまうよ。何を飲みたい? ボーイがいろいろと運んできてくれるけれど、僕のおすすめはあのバーにあるスーペル・トスカーナだな。一時間後にはもうなくなるぞ」

 ジョルジアは微笑むと、あっけにとられているレイチェルに向かって肩をすくめてみせてから、グレッグに言った。
「わかったわ。じゃあ、私たちもそのワインをもらってきましょう」
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【小説】バッカスからの招待状 -12- カーディナル

WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

今回は、今年最後の「Stella」参加作品で、かつボージョレ・ヌーヴォーの解禁に近い頃の発刊ということなので、ボージョレのワインとクリスマス(キリストの誕生日)にちなんだカクテルを題材に選んでみました。

なお、細かいことが氣になる方のモヤモヤをはじめから晴らすためにここに書かせていただきますが、一般に日本で発音されている「ボジョレー・ヌーボー」ともう一つ「ボージョレ・ヌーヴォー」の二つの単語を混在して記述しています。違いは、バーテンダーの田中は、本来のフランス語の発音を口にしているので「ボージョレ」「ヌーヴォー」で、客たちは日本語として一般的な「ボジョレー・ヌーボー」と口にしているという設定です。

なお、「Stella」に「バッカスからの招待状」で参加するのは、今回でお終いにしようと思っています。この作品を終わりにするというわけではなく、来年からは、「十二ヶ月の〇〇」シリーズと「Stella」参加作品を兼ねる方向で行こうと思っています。というわけで、「バッカスからの招待状」は、「scriviamo!」やキリ番など折々にリクエストしてくだされば、頑張って書きます。ご理解のほど、よろしくお願いします。


月刊・Stella ステルラ 10、11月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む
「いつかは寄ってね」をはじめから読む「いつかは寄ってね」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -12- 
カーディナル


 麻里亜は、偶然その店を見つけた。できるだけ人目につかないところで飲みたくて、会社の同僚たちがいつも向かう道と反対側を東京駅に向かって歩いた。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにあった。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれていた。

 仕事で失敗したことは、仕方ない。そんなことは年中あることだ。巷がボジョレー・ヌーボーの解禁で騒いでいるのも毎年のことで、目くじらをたてることでもない。フランスを忌々しい国だと思っているのは単なる逆恨みだということも麻里亜はきちんと自覚していた。

 要するに失恋しただけのことだ。ライバルが神様ではどうやっても勝ち目はない。まったく。

「いらっしゃいませ」
少し重めのドアを開けると、丁寧な挨拶の声がした。

 カウンターの四十くらいの年齢のオールバックの男性が挨拶をした。落ち着いた声だ。冷たくも親し過ぎもしない、入りやすい応対だった。麻里亜はほっとした。カウンターにサラリーマンと思われる客が数名、少し離れた奥のテーブル席には話し込んでいるカップルがいた。

「一人なんですが」
「カウンターと奥のお席とどちらがよろしいですか」

 麻里亜は、ほかの客たちと少し離れた入り口に近いカウンター席をちらっと見た。察したバーテンダーが「こちらですね」と言ってくれたので、ホッとしてコートを脱いだ。

 彼女が落ちついて座るのを待ってから、バーテンダーは微笑んでいるような柔らかい口元で「どうぞ」とおしぼりを渡してくれた。続いて渡されたメニューをゆっくりと開いた。

「田中さん、そういえば今日はボジョレー・ヌーボーの解禁日だったよね。せっかくだから飲みたいけれど、僕、ワインはあまり詳しくないんだよね。どうなの?」
カウンターの真ん中に座って居る洒落たスーツの男性が訊いた。

「近藤さんは、葡萄ジュースにしておいた方がいいんじゃないの」
もっと奥の席のロマンスグレーの客が笑った。

「あ、ひどいなあ。たしかにサラトガは強すぎたけれど、ワイン一杯くらいなら、大丈夫ですよ」
近藤は頭をかいた。

 バーテンダーの田中は、にっこりと微笑みながら、別になった白いメニューを近藤に手渡した。

「今年はヴィラージュ・ヌーヴォーでは、ドミニク・ローランのものと、ルイ・ラト、そしてルイ・ジャドのものをご用意しています。ヨーロッパの天候がワイン向けではなかったので全体に収穫量が少なく入手が困難でした。また、ヌーヴォーではないのですが、特に優れたワインを生産している村でできたクリュ・ボージョレも別にメニューに載せています。こちらはとても良い出来ですよ」

 ボジョレー・ヌーボーなんて嫌い。格別美味しいわけでもないのに、毎年みんなで大騒ぎして。フランスもブルゴーニュも嫌い。放っておいてもみんなが押しかける場所なんだから、わざわざ私の目に触れるところで宣伝しないでほしい。それにイエス・キリストだって。毎年世界中の人が誕生日をお祝いしてくれる人氣者なんだから、わざわざ極東の仏教国から私の大事な人を連れて行かなくてもいいじゃない。……わかっている。何もかも私の逆恨みだって。でも……。

 麻里亜は、首を伸ばして近藤が検討しているその白いメニューを見た。嫌いといいつつ、やはり氣になるのだ。彼はまもなくブルゴーニュへと旅立つ。どこまでも葡萄畑の続く村に住むと言っていたから、来年はきっとこうしたワインを飲むことになるのだろう。

「よろしかったら、こちらもご覧になりますか」
氣づいた田中が、その白いメニューを麻里亜にも渡してくれた。彼女は困ったように言った。
「私、あまりお酒は詳しくないんです。それに、ワインだけはあまり飲まなくって。ヌーボーとか、ヴィラージュって、何が違うんですか」

 ロマンスグレーが聞きつけて笑った。
「お。よく質問してくれた! 僕もそれを知りたかったんだ」

 田中は、いくつかのボトルをカウンターに置いた。
「そもそもボージョレというのはフランス、ソーヌ=エ=ロワール県とローヌ県にまたがるボージョレ地方で生産されているブルゴーニュワインの一種です。このこれ以外のコミューンで作られたワインはボージョレと名乗ることは許されていません。ヌーヴォーというのは新しいという意味で、新酒、つまり今年収穫された葡萄で作られたお酒です。通常ワインは秋の初めに葡萄を収穫して、発酵させた後にゆっくりと熟成させ、翌春に出荷するものですが、その年のワインの出来を確認するためにマセラシオン・カルボニックという特別な方法で三週間ほどで発酵させて作るのです。こうやって作られたボージョレワインは初めてを意味するプリムールという規格となります。一般に言われているヌーヴォーとは、こちらにあたります。ボージョレのプリムールの出荷日は、十一月の第三木曜日と決まっているので、毎年解禁日が話題になるのですね」

「今年ってことは、あまり発酵していないってことだろう。だから僕でも一杯くらいなら問題ないと思うんだ。でも、クリュ・ボジョレーにヌーボーはないのか。それは知らなかったな」
近藤が、ほかの人より詳しいよという雰囲氣を撒き散らしながら言った。

 ロマンスグレーは「また近藤さんがはじまった」という顔をしてから田中に訊いた。
「クリュ・ボジョレーってのは何かってところから頼むよ」

「はい。ボージョレ地方の96村の中でもとくに高品質の葡萄で作る46の村で作られる高品質のワインはボージョレ・ヴィラージュと言って区別します。このプリムールつまり新酒は、ボージョレ・ヴィラージュ・ヌーヴォーと言います。ボージョレ・ヴィラージュの中でも更に限定された地域22の村で作られるワインを特にクリュ・ボージョレと言います。このクリュ・ボージョレには、プリムールという規格が適用されないことになっているので、たとえ今年出来たお酒でもヌーヴォーとは呼ばないというわけです。でも、高品質のボージョレ・ワインであることには変わりはありません。むしろ他のボージョレよりもいいワインである故に稀少でかつ値段も張るのです」

 田中の説明は、わかりやすいのだけれど、結局何を頼むべきか麻里亜にはわからなくなってしまった。
「私は、解禁日には興味がないからヌーボーじゃなくて良いわ。でも、せっかくだからボジョレーワインを使って、飲みやすいカクテルを作ってもらえませんか」

 田中は優しく笑った。
「かしこまりました。例えば、カーディナルはいかがでしょうか」

「カーディナル?」
麻里亜はメニューを見た。

「はい。白ワインとカシスリキュールで作るキールというカクテルを赤ワインに変えたバリエーションです。特にボージョレワインを使うのが本格的だとおっしゃる方もあります。色が濃い赤になりますので、枢機卿を意味するカーディナルと呼ばれているのです」

 麻里亜は、はっとした。
「枢機卿って、カトリックのお坊さんよね」

「そうですね。教皇に次ぐ高位の聖職者ですね。赤いマントや帽子を身につける決まりがあるそうです」

 彼女は力なく笑った。
「実は、私の幼馴染が、カトリックの助祭になったの。もうじきフランスのブルゴーニュ地方に赴任するんですって。偶然とは思えないから、それを作っていただこうかしら」

 田中は、頷いて、よく冷やしてあるクレーム・ド・カシスの瓶を取り出した。
「はい。割合は如何なさいますか。カシスリキュールの割合が多くなるほど甘めになります」

「ワインらしさがわかるようにしていただけますか」
「かしこまりました」

 彼はクリュ・ボージョレであるサン・タムールとクレーム・ド・カシスを九対一の割合にして用意した。ヌーヴォーほど軽くはなく、キールを用意するときほど冷えてはいない。カクテル通の客であれば、文句が来るかもしれない作り方だった。

 けれど、麻里亜のわずかに憂いに満ちた表情から、彼は彼女が「そうあるべきカクテル」ではないものを注文したのだろうと感じた。洒落た見かけや、解禁日の話題性ではなく、手の届かないところへ行ってしまう人を想うためのもっと深い飲み物を。

「美味しい。昔、一度だけボジョレー・ヌーボーを飲んだことがあるんだけれど、全然美味しいって思わなかったの。全然違うのね」

「こちらは、ヌーボーとは違う醸造法で作り、熟成に五年ほどかけています。愛の聖人という意味なんです。本来はカクテルにはしないワインですが、おそらく、これが一番ふさわしいのではないかと思いました」

 麻里亜の目元に光るものがあった。が、それは田中以外には誰も氣づかないわずかなものだった。

 紅く深い色を彼女は見つめた。カーディナル。私には遠い世界でも、彼には馴染みのある名前なんだろうな。

 他の人に笑われても、決して曲げなかった彼の信念を理解しようと思った。詳しいことはわからなくても、彼の子供の頃から変わらない高い理想と志を応援しようと思った。秘めていた自分の想いの行き場がなくなったことを苦しむこともやめようと思った。

「愛の聖人か。赤はハートの色だものね。私、キリスト教も、ブルゴーニュも、ボジョレーも、みんな嫌いになるところだったけれど、おかげでカーディナルが、一番好きなカクテルになりそう」

 麻里亜は、今晩ここにきてよかったと、しみじみと思った。

カーディナル(Cardinal)
標準的なレシピ
赤ワイン : 4~ 9
カシス・リキュール:1

作成方法: ワイン・グラスに、赤ワインとカシス・リキュールを注ぎ、軽くステアする。
ゴブレットの縁から静かにグレナディン・シロップを注ぎ、底に沈める。


(初出:2016年11月 書き下ろし)
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【小説】カササギの願い

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」十月分を発表します。十月のテーマは「指輪」です。

今回の話を書くにあたって、ヨーロッパで一般に信じられている「カササギが光るモノを盗んでいく」が本当なのか少し調べてみました。そして、「光るモノを自分の巣に運ぶという習性はない」ということを知り、ウルトラがっかり。ただし、カササギが光るモノを警戒して、本来あった場所から自分の邪魔とならないところに運び去るということはあるらしいことを確認しました。やれやれ、よかった。もう少しでこの話を破棄しなくちゃいけないところでした。


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カササギの願い

 街から離れ石畳の上を車輪が走らなくなると、馬車の中の揺れは心地よいものとなり、僕は軽い眠氣に襲われた。森林の中を進みハンプトン荘へと向かう現在とまったく同じ道の、けれど秋の弱い光に照らされた黄色に支配された今の木立ではなく、みずみずしい夏の光景が瞼の奥に広がった。どこからかカササギのギーッという鳴き声が響く。それは、八年前の記憶だ。あの時、僕はまだ十三歳の膝までのズボンの方が心地いい少年だった。

 年間通して街にある本屋敷にいることを好んだ母のために、ハンプトン荘に行った事はほとんどなかったが、その夏だけは例外だった。兄のエドガーが怪我のために除隊となり、静かな療養が必要となって遅い春から滞在していたのだ。

 使用人達がいるのだから、敢えて僕たちも行く必要はなかったのだろうが、夏休みが始まってしばらくしてから、突然両親は家族全員でハンプトン荘に滞在する事を決めた。
「なんといっても、エドガーにはコートレーン家令嬢との縁談が進んでいるのですから」

 縁談と僕たちの別荘行きがどう関係しているのか、僕にはさっぱりわからなかったが、自然に溢れたハンプトン荘での滞在は僕を感喜させた。厳格で面白みのない執事ウィルキンソンもついてこなかったし、二言目には綴りの間違いがどうのこうのと騒ぐミス・カーライルもいない代わりに、素朴で妙な話し方をする庭師のチェスターや、美味しいパイをつくってくれるマクレガー夫人、そしてとても優しい女中のマリーが、僕に思いもかけなかった伸び伸びとした二ヶ月を約束してくれた。

 マリーは、あの頃の僕には他の人たちと同じように大人に見えたけれど、実際にはまだ十八歳だったはずだ。優しくて氣が利いて、僕の味方をしてくれる彼女が大好きだった。

 屋敷の裏にはいくつもの大木があって、僕は一人でターザンごっこをしたり探検をしたりして遊んだが、その度に服を汚して母に叱られた。でも、次第にマリーが先回りして助けてくれることが多くなった。
「またこんなに汚してしまわれたのですね、パトリック様ったら。お母様に知られるまえにお召替えをしておきましょうね。お召し物もすぐに洗えばわかりませんもの」

 母がマリーに厳しく当たるのは、僕の味方をして隠し事が多かったからだと、当時の僕は思っていた。だから、あんな理不尽な疑いもかけられたのだと。

 あの忌々しい指輪を僕が初めて見たのは、ヴァレリア・コートレーン嬢が到着する前の晩だった。母がディナーの席で重おもしく取り出して、エドガーに手渡したのだ。

「これは私がお前のお父様に婚約の印にいただいた指輪よ。このレイボールド子爵家の跡取りが妻となる女性に贈る伝統は二百年以上続いています。だから近いうちにお前がこれを必要とする日がくる事を期待して、渡しておきます」

 一カラットはあると思われる大きなエメラルドの周りをいくつものダイヤモンドが取り巻いた指輪はシャンデリアの光でキラキラと輝いた。僕は指輪になんか興味はなかったし、次男だからあの指輪とも全く縁がないけれど、それでもあの時は身を乗り出してもっとよく見てみたいと思った。

 給仕のために後ろに立っていたマクレガー夫人とマリーもその指輪に目が釘付けになっていたみたいだけれど、物欲しそうにしていたのはむしろマクレガー夫人の方だった。それなのに、あれがなくなった時に真っ先に疑われたのはマリーだったのだ。

 あの翌日に到着したヴァレリアはロンドンの社交界で花形だという触れ込みが納得出来る華やかで美しい女性だった。いくら爵位が自尊心をくすぐり、財産がそこそこあるからといって、こんな田舎貴族の跡取りと結婚するなんて想像もつかない美しさで、思春期に入りかけていた僕も、少しポーっとなってしまった。

 結婚には興味はないと言っていた兄のエドガーもあっという間に意見を変えたらしく、二人はいつも一緒にいて、散歩をし、見つめ合い、幸福で建設的な未来について思いを馳せたらしい。そして、兄は早くも彼女に結婚を申し込もうと心を定めたらしかった。

「大変だ!」
滅多に動揺したところをみせない兄の声に驚いた。彼は例のディナーで母が渡した指輪の赤い箱を手にして青ざめていた。箱の中は空だった。
「こんな風に開いたままの箱がライティングデスクの上に置かれていたんだ」

 ハンプトン荘は大騒ぎとなり、警官もやってきた。母は他にもたくさん宝石を持ってきていたが、盗まれたのはあの指輪だけだった。容疑者から除外されたのはその存在を知らなくて、たとえ知っていても指輪がもらえるはずだったヴァレリア。そして僕を含めて家族も一旦容疑から外された。

 僕にはよくわからない理由で、マリーが一番の嫌疑を受けた。金銭的なものだけでなく、この婚約を邪魔したい動機も持っているというのだ。僕は「マリーはそんな事をする人じゃない」と訴えたが母は冷たく言い放った。
「お前は子供でまだ何もわかっていないのよ」

 もちろん、マリーは否認したが、状況は彼女に不利だった。マリーはあの晩、指輪を見ていたし、なくなった朝にも掃除するためにエドガーの部屋に一人で入っていた。

 僕は、彼女の持ち物から指輪が出てこないにもかかわらず、マリーが幾晩も帰ってこないことにやりきれなかった。部屋の窓から毎日遊んでいた裏の大木を眺めていた。マリーがいなければ服をこっそり洗ってくれる人もいない。大木に登ること自体よりも、マリーと秘密を共有することが楽しかったのだと思った。何度も助けてくれた彼女のために何もできない自分が悲しかった。

 ギーッという鋭い鳴き声がして、白と黒の大きな鳥がバサバサと羽ばたいた。カササギだ。僕は、その動きをぼんやりと眺めていた。何か銀色のものを加えている。あれはスプーンかなんかだろうか。そして、僕はハッとした。あの指輪だったらきっと泥棒カササギも欲しがるだろうと。僕はカササギの動きを注意深く観察し、大木の近くの地面を掘っているのを見た。

 カササギがスプーンを隠していた穴からエメラルドの指輪が見つかり、僕はちょっとした英雄になった。警察本部長から感謝の言葉を述べてもらったし、マリーも釈放されて帰ってきた。両親がマリーに謝罪して彼女がそれを受け入れたので不穏な空氣は感じられなくなって、僕は嬉しかった。

 それからすぐに、エドガーがヴァレリアに感動的なプロポーズをした。婚約祝いが本屋敷で行われることになり、僕たちは慌ただしくハンプトン荘を去った。

 あれから八年間、僕は一度もハンプトン荘を訪れなかった。遠い寄宿舎に入り、それから大学に進んだ。少し根を詰めて勉強をしすぎたせいで、いや、それは表向きの理由で、本当はあまり好ましくない友人たちと酒場などに入り浸ったのを両親に知られたせいで、僕はしばらく大学を休み、静養することになった。

 せっかく静養するのだから、街の本屋敷ではなく、ハンプトン荘でゆっくりしたいというと、母は僅かに渋ったが結局は許してくれた。というのは、少なくともハンプトン荘の周りに入り浸れるような酒場は一軒もないのが確かだったから。

 馬車が停まった。僕は扉を開けて、あの夏とは打って変わり、色づき始めた木立に覆われた屋敷を眺めた。小鳥のさえずりと羽ばたき、乾いた木の葉の間を渡る風だけが音を立てる静かな世界。まるで時間が置き忘れたような古く秘密めいたハンプトン荘が変わらぬ様相で立っていた。

「ごきげんよう、パトリック様。すっかり大きくなられましたね」
玄関に目をやると、随分と小さくなって見える年老いた女性がニコニコと笑って立っていた。

「ああ、マクレガー夫人。世話になるよ。皆あの頃と変わらないんだね」
「ええ。チェスターはまだ庭の世話をさせていただいていますし、ほら、この通りマリーも変わらずにこちらでお世話になっています」

 夫人の後ろに思い出とほとんど変わらぬ姿だけれど、やはりあの時ほど背が高くないマリーが立っていた。

 僕は、自分が二十一歳の若者となり、ずっと背が高くなったことを改めて感じた。そして、マリーの儚くも優しい、それでいてぴったりとした女中服から感じられる女性らしい体つきを目にして、かつてのように自分の世話をしてくれる大人の使用人とは感じなくなっていることを知った。

 マリーの僕を見る瞳の中に、わずかな驚きがあった。それからどこかやる瀬ないほとばしる輝きがあり、それからすぐにその光を消した。まるで僕の中に別の誰かを見て、それから急いでその想いを打ち消したように。

 すぐそばから、ギーッというけたたましい警戒音を立てて、カササギが大きく羽ばたいて大木の中へと姿を消した。

 僕は、その時すべてを理解した。あの指輪を持ち去ったのは、確かにカササギだったけれど、それを望んだのはあの鳥だけではなかったことを。僕たちが到着する前、この世間から切り離された館で療養していた兄エドガーとマリーの間にあった、誰も語ろうとしなかった物語を。

 僕は、マリーを誤認逮捕から救った小さな英雄ではなくて、彼女の切なる願いを打ち砕いてしまった愚か者だったのかもしれない。

 ロンドンでエドガーと暮らす兄嫁ヴァレリアの即物的で浮ついた様相を思い出し身震いをした。マリーをこの館に悲しみとともに置き去りにしたことをエドガーはどう思っているのだろうか。

 そして、見つかったあの指輪が自分の目の前で、美しく華やかな令嬢に贈られるのを見ていたマリーは、どんな想いで立ちすくんでいたのだろう。

 僕があの日、土の中から見つけ出した指輪は、銀のスプーンや真鍮の蝶番に紛れて、夏の揺れてまぶしい木洩れ陽に輝いていた。許されないとわかっていてもどうすることもできない、悲しく強い想いのように。

 カササギはあの指輪を誰にも見えないところへと消してしまいたかったのだ。僕がそれを邪魔してしまったのだ。

 弱く柔らかくなった秋の木洩れ陽と枯葉が舞い落ちていく午後、僕はカササギの苦しがっているような鳴き声を聴きながら、時に忘れ去られたようなハンプトン荘へと入って行った。

(初出:2017年10月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(10)一週間 - 3 -

「郷愁の丘」の続きです。三回に分けた「一週間」のラスト部分です。

さて、ジョルジアの故郷へ行っていた二人はお昼を食べ損ねました。これに続くシチュエーションは、実は別のキャラクターの別のストーリーのためにしばらく妄想していたものなんですが、構想そのものがボツったのでこのストーリーで使わせてもらうことにしました。

今回はジョルジアが借りている部屋の話が出てきます。《郷愁の丘》のグレッグの家もそうですが、こうしたストーリーを書くときには「このぐらいの広さで、間取りはこうで、外見はこんなかんじで」とかなり詳しく決めます。でも、実際に描写するのはほんのわずかなんですよね。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(10)一週間 - 3 -

 ロングビーチが近づく頃になると、さすがに二人ともかなり空腹だった。氣がつくと四時を回っている。

「この時間だと、ランチには遅いし、ディナーには早すぎるわね。《Sunrise Diner》なら、なにか食べられるとは思うけれど、ちょっと前に出てきたばかりだし。ねえ、もしよかったら、わが家に来る? 実は、昨日あのパスタソースを作ったばかりなの。スパケッティを茹でるだけですぐに食べられるわ」

 グレッグは耳を疑った。自宅に招いてくれている?
「本当に? もし迷惑でなかったら、もちろんもう一度食べたいよ」

 ジョルジアは、ウィンクをした。
「あなたの家みたいに広くないし、それに、特別なご馳走も出てこないわよ。でも、グレッグ。今日からニューヨークに来るって教えてくれなかったあなたが悪いのよ」

 彼女のフラットは、《Sunrise Diner》のある海岸沿いから三ブロックほど内陸に入ったところにある。彼女が借りているのは二階の半分だ。寝室にリビング、キッチンと浴室、それにほとんどが資料と写真で占められた部屋がある。オーナーもイタリア系アメリカ人で、家賃も手頃だ。何よりも会社まで歩いていける距離にあるし、家の前に駐車スペースがあるのも便利だった。

 もっと広い部屋を借りた方がいいと忠告する人もいたが、彼女はほとんど人付き合いをせず、泊りにくるどころか訪問する友人すらほとんどいなかった。両親と会う時には彼女がガーデンシティに出向き、ロサンジェルス在住の妹アレッサンドラはニューヨークでは兄マッテオのペントハウスに泊る。

 だから、兄マッテオ以外で、この五年間にこの部屋に足を踏み入れたのは、実はグレッグが初めてだった。ジョルジアは、だが、あえてその事に言及はしなかった。
「さあ、どうぞ。幸いそんなに散らかっていないと思うんだけれど」

 彼女は、小さなフラットの中を案内した。といっても、玄関からすぐに見渡せるリビングとカウンターで仕切られた小さいキッチン、それに玄関脇にあるシャワーつき洗面所のみで、あっという間に見せ終わった。

 《郷愁の丘》でグレッグに描いてもらったサバンナとシマウマの絵は、額に入れて寝室のベッドの向かいの壁に掛けてある。彼女が寝室の灯を消す前、彼女が目覚めて伸びをするとき、その絵を目にしてあの忘れられない地に想いを馳せている。そう、今朝もいつものようにそれを見つめて、グレッグがルーシーとあの朝焼けを眺めているのかと想像したばかりだったのだ。彼が、すぐ近くにいるとは夢にも思わずに。

 彼女は、その絵の掛かっている寝室を見せようかと思ったが、やめた。誘っていると誤解されても仕方ない行為だと思ったから。彼が、あの部屋は何かと訊いてきたら、そのときに見せようと思ったが、礼儀正しい彼が、そんなことを言うはずはなかった。

「あ。あのソースの香りがする」
グレッグはリビングを褒めるより前に、思わずそう言って、ジョルジアに笑われた。
「待ってて。すぐにスパゲティを茹でるから」

 キッチンには、彼女が一人でいるときは食事もする小さなテーブルがあった。ジョルジアは、彼をそこに座らせて買ってきたノースフォークのワインを開けてもらい、まずはそれで再会の乾杯をした。そして、スパゲティを茹ででいる間に、サラダ用のレタスを彼に渡してちぎってもらった。

 さまざまな会話をしながら、二人で食事の用意をする。《郷愁の丘》の二週間でいつの間にかできていた役割分担が戻ってきた。論文の話や、学会の話、それにサバンナの現状など、話は尽きなかった。

 リビングにある少し大きいテーブルに皿やカトラリーを用意して、食事をはじめてからも二人の楽しい会話は続いた。

「ところで、ルーシーはどうしているの?」
「レイチェルのところのドーベルマンと一緒に、マディが面倒をみてくれている。《郷愁の丘》に置いておくのはかわいそうだから」

 彼は具体的には言わなかったが、ルーシーの世話を頼むとしたらいつも通ってきているアマンダしかないだろう。ルーシーはいつもアマンダにひどく吠えるし、彼女もルーシーを毛嫌いしている。下手をすると水も替えてもらえないかもしれない。ジョルジアも、マディに頼んだのは賢明な選択だと思った。

 会話も弾んだが、食欲の方はそれにまったく邪魔されなかった。スパゲティとジョルジア自慢のボローニャ風ソースは全部きれいになくなった。彼女はそれに大層満足した。

 デザート代わりに、缶詰のフルーツサラダを食べていると、ジョルジアのiPhoneが振動した。

「あ、兄だわ」
そう言ってジョルジアは電話をとった。彼は、親しげに話すジョルジアの様子を目を細めてみていたが、彼女がこういうのを聞いて戸惑った。
「あ、ごめんなさい。パスタソースね、急なお客さんが来て、今食べちゃったの。……そんなにがっかりしないで。また作るから……」

 電話を切った後に、空になった鍋を見ながらグレッグは心配そうに訊いた。
「もしかしてお兄さんと食べるために作ったのかい?」

「あら、違うわ。思い立って、自分のために作ったのよ。兄は、昨日も電話をかけてきてね、何をしているのかって訊かれたから、作っていると言ったら、近いうちに食べにくるかもって言っていただけよ。別に約束したわけじゃないの」
彼女の言葉に、彼は少しだけホッとした様子を見せた。

 それに続く五日間、ジョルジアは、グレッグの学会の始まるのが遅ければ《Sunrise Diner》で一緒に朝食を摂り、そしてほとんど毎晩待ち合わせた。もう一度だけ彼女のフラットで料理をしたが、後は用意する時間がなかったので外食になった。

 彼のホテルは《アルファ・フォト・プレス》やジョルジアのフラットから近く、どこへ行くのもたいていは《Sunrise Diner》かクライヴの骨董店の前を通るので、手を振り、話しかけ、「じゃあ後でね」という話になった。

 《Sunrise Diner》に何度も通ったので、かしこまっていたグレッグは、キャシーや常連たちと普通に話せるようになり、リラックスしてその場にいられるようになった。

 そう言えばと思い出し、レイチェルはどうしているのかジョルジアが訊くと彼は肩をすくめた。
「偉い人たちと毎晩会食しているよ」
「え? あなたは行かなくても大丈夫だったの?」

「僕が来るとは誰も思っていないよ。それに、レイチェルに僕が君と一緒にいると言ったら、そっちに行った方が楽しいだろうって」
「そう。それを聞いて安心したわ」

 それからキャシーにも聞こえるように体の向きを変えて言った。
「明日の晩だけれど、あなたがニューヨークにいる最後の夜でしょう? 明後日の夜はフライトだから。《Sunrise Diner》で、いつもやってくるみんなとお別れ会をしようかって話していたの。空いている?」

 グレッグは、困った顔をした。
「せっかくだけれど、明日の夜はパーティに行かなくちゃいけないんだ」

「パーティ?」
「ああ。同伴者も参加できるパーティだから、ぜひ君も連れて来いってレイチェルは言っていたけれど……君は僕と同じでパーティが嫌いなんだよな」

「そうね。可能なら、パーティに行きたくないのは確かだけれど……学会のパーティなの?」
「そうだね。といっても、WWFがスポンサーになっているパーティで、学者以外に、会員に名を連ねている篤志家もたくさんくるんだ。それで、レイチェルが、ずっと彼女や父のスポンサーをしてくれている若い大富豪に、僕を紹介してくれるっていうんだ。だから、どんなにパーティが嫌いでも絶対に出ろと厳命されているんだ」

「その富豪に、あなたのスポンサーにもなってもらうってこと?」
「そうだといいね。レイチェルがしてもらっているみたいに定期的に援助してもらえたら最高だけれど、さすがにそれは無理だろうな。いま関わっているプロジェクトだけでもいいから、少しバックアップをしてもらえたらありがたいんだ。でも、どうかな。僕は、初対面の人に好印象を残せたことはないから、無駄足になるかもしれないと、今から氣が重いんだ」

「その大富豪って、氣難しい人なの?」
ジョルジアが訊くと、彼は首を振った。
「氣難しいどころか、誰にでも好かれる素敵な人らしいよ。マッテオ・ダンジェロ氏って言うんだ。かなりの有名人らしいね」

 ジョルジアは目を丸くした。
「マッテオ? 彼が、レイチェルたちを援助していたの?」
「知っているのかい?」

「ええ。とてもよくね。彼は……」
そこまで言ってから、彼女は少し言葉切ってから、楽しそうに笑った。カウンターにいたキャシーも笑いを堪えている。グレッグは不思議そうにジョルジアの言葉を待った。

「グレッグ。そのパーティ、私も行ってあげるわ。レイチェルだけでなく、私からもマッテオに頼んであげる」
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(10)一週間 - 2 -

「郷愁の丘」の続きです。三回に分けた「一週間」の二回目。

グレッグが学会でニューヨークにやってきた初日の朝、彼と再会したジョルジアは、ダイナー《Sunrise Diner》に彼を連れて行きます。常連仲間の一人クライヴに、グレッグの観察能力がないと言われて納得のいかなかった彼女は、ほんの一瞬通り過ぎただけの猫を観察させて、まずクライヴに絵に描いてもらいました。そして、次にグレッグに紙とペンを渡します。

さて、今日更新する部分の後半には、ジョルジアの生まれた場所がでてきます。前作でも兄マッテオの撮影場所としてちらっと出しましたが、ニューヨークなのに漁村というような場所があるのですね。彼女がニューヨーク育ちなのに何もないケニアのサバンナでも簡単に適応できたのは、完全な都会育ちではないこともあるかもしれませんね。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(10)一週間 - 2 -

 彼は、ジョルジアの意図がわかって、ほんの少しだけ微笑むと、紙に向かった。ペンの先は紙の左上に停まり、そこに耳が現れた。ほとんど一筆書きだが、全くデッサンは崩れずに、歩いている猫の姿が紙の上に再現されていく。先端が少しねじれた長い尻尾は、ぴんと立っていた。

 ジョルジアは、《郷愁の丘》で彼女が受けたショックをキャシーとクライヴが受けるのを楽しんだ。クライヴの描いた絵と違い、それは細部に至るまで正確だった。

「ええっ。何これ? 写真みたい!」
「縞の模様や本数まで憶えているんですか?」
「この前足! ふわふわさがわかる。汚れの位置まであの短時間に?」

「ほらね。すごいでしょう?」
ジョルジアが言うと、彼はあわてて言った。
「すごくないよ。いつもやっている事だから、出来るだけで……」

「そんなことないわよ。自慢していいことよ」
キャシーが言った。クライヴも大きく頷く。
「本当だ。全くの脱帽ものですよ。先ほどの失礼をお許しください」

 そう言っていると、クライヴの電話が鳴った。
「まずい。クレアだ。しまった、もうこんな時間」
いつまでも店に帰ってこないので、クレアがしびれを切らしたらしい。

「本当にもうこんな時間なのね。ごめんね、キャシー」
ジョルジアが訊くとキャシーは肩をすくめた。
「私も楽しかったから。でも、そろそろ閉めないとね」
朝食とランチタイムの間、《Sunrise Diner》は二時間ほど閉まる。

「じゃあ、私たちは、すこしニューヨーク観光をしましょうか、グレッグ。明日からは学会で、あまり日中は出歩けないんでしょう?」
「でも、そんなに長い間、君の時間をとっていいのかい? さっきのハドソン氏との打ち合わせは?」
「ベンが、今日じゃなくていいって言っていたじゃない。今日は、私はオフにするって決めたの。どこに行きたい? 自由の女神像? セントラルパーク? それともブロードウェイ?」

 ジョルジアは満面の笑みを浮かべていた。グレッグはその彼女を眩しそうに見つめていたが、おずおずと切り出した。
「じゃあ、君の言っていた例の海岸に……」

 ジョルジアは目をみはった。それは、《郷愁の丘》で星をみながら話した事の一つだった。たくさん交わした手紙の中でも、彼女は何度かその海岸について触れていた。子供の時にジョルジアたちが住んでいたノースフォーク。大都会ニューヨークの一部とは思えない鄙びたところで、両親はそこで漁業を営んでいた。忙しくて娘たちの相手をする時間のない両親たちの代わりにジョルジアと妹は歳の離れた兄につれられていつも海岸を散歩した。

「わかったわ。ノスタルジック・ツアーね。行きましょう」

* * *


 ジョルジアは、一旦ホテルに戻ったグレッグをCR-Vで迎えに行った。
「車で行くのかい?」

 ジョルジアは笑った。
「せっかく自家用車を持っているんですもの。ケニアほどではないけれど、アメリカも車がないと少し不便なの。MTA公共交通機関 だとロングビーチからでも場合によっては四時間もかかってしまうんだけれど、車なら二時間かからないわ」

「そんな遠くだとは知らなかったんだ。いいのかい?」
「もちろんよ。私も久しぶりに行きたいもの。家族はもう誰も住んでいない事もあって、私も滅多に行かないの。最近では撮影で行っただけだから、オフの時にゆっくり行きたかったの」

 片道三車線の広く状態のいいハイウェイを、車はぐんぐんと走っていった。マンハッタンのような高層ビルはもうどこにも見られない。わずかに色づいた緑に囲まれた郊外の風景だ。空は青く心地よい風が吹いていた。

「ロングアイランドの東端はフォークのように二つに分かれていて、その北側の半島をノースフォークっていうの。天候も穏やかで土壌もいいので、葡萄の栽培にも適していて、ワイナリーがあるのよ。ニューヨークのワインって、飲んだ事ないんじゃない? ニューヨークのボルドーなんていう人もいるの」

「温暖なのか。僕は、ニューヨークは冬の寒さが厳しいという印象が強いんだ」
「そうね。冬の寒さはこたえるわ。大雪も降るし。だから、私の祖父母もイタリアからやってきてびっくりしたんじゃないかしら。それで、少しでも暖かい所に来たんだと思うわ」

 ジョルジアは、高速道路から離れるとしばらくほとんど家もない地域を走った。そして、ほとんど人通りのない、なんという事のない海岸に停まった。青と白の大きな平屋建ての大きな建物が一つ、かなり離れた所に海に面してテラスのある家がいくつか。

 彼女は青い建物の駐車場に停車したが、それとその隣の空き地にはほとんど差もなかった。

 マリンディで見た強烈な青さのインド洋と較べて、その海は少し暗い色をしている。浜にあるのは砂ではなくて小石で、浜辺の水の色は透明で優しい波が打ち寄せていた。ジョルジアは、子どもの頃にいつも兄に連れられて妹と一緒にここを散歩した。

「今は、建て替えられてしまったけれど、あの先に私たちの住んでいた家があったの。くすんだ緑の壁だったわ。両親はああいう船に乗って、魚を捕りに朝早くから海へ行っていた。家でもしょっちゅう網を直していたのを憶えている。暗いランプの光。波の音。海藻の匂い。湿氣て状態の良くなかった家。なのにとても懐かしくて泣きたい氣持ちになるの。もう存在しないからでしょうね」

「君は、きっとここで、家族と幸せな時間を過ごしたんだね」
「ええ。そうだと思うわ。いろいろな事があったけれど、私はとても幸せだったのね」

 ジョルジアは、彼の優しい笑顔を見つめた。兄と妹の社会的成功に伴い、貧しいイタリア系移民カペッリ家はもうどこにもいなくなってしまった。幸せなダンジェロ兄妹の家族が存在する以上、それはもちろん好ましい事なのだが、それでも波の音の中にノスタルジーを感じている自分は天の邪鬼なのではないかと感じていた。

 けれど、彼は、それすらもあたり前のように受け入れてくれている。彼が、ここに観に来たのは、ニューヨーク州の海ではないだろう。そうではなくて、彼はジョルジアという人間を理解するためにここに来てくれたのだ。彼女はそれを強く感じた。

「ここもすっかり様相が変わってしまって。このビーチだけはまだ変わらないわね。漁船はほとんど見られなくなってしまったけれど」

「ご両親は、もうここにはいないと言っていたね」
グレッグは訊いた。

「ええ。今はだいぶ改善したんだけれど、一時この海の汚染がひどくて漁獲量が激減したの。ちょうどその頃、兄の事業が軌道に乗って、両親はそちらを手伝う事にしたの。今は、二人とも完全に引退して人生を楽しんでいるわ。昔は日曜日も祭日もなく働いていたから、少し早く引退するくらいでちょうどよかったんじゃないかしら」

「ニューヨークで?」
「ええ。ロングアイランドよ。ロングビーチから三十分くらいのガーデンシティという所。でも、実はあまり頻繁には逢っていないの。兄妹の中では私が一番近くに住んでいるんだけれど」

 グレッグは、黙ってジョルジアを見た。彼女は肩をすくめた。
「心配しないで。喧嘩はしていないの。ただ、逢うといろいろと心配して訊いてくるので、つい」
「そうか」

「子どもの頃から、両親はいつも私の事を心配していたわ。三人兄妹の中で一番頼りなかったから仕方ないんだけれど。兄と妹は、とても努力家の上に才能に恵まれていて、私は自分ひとりが黒い羊だと思っていたの。家族全員が、そんな事は関係なく大切に扱ってくれたんだけれど、私はその差に耐えかねて、もがいていたんだと思うわ。そう思えるようになったのは、本当にここ最近なのよ」

「君の努力と才能も、ようやく実ったからね」
「あら。そんなんじゃないわ。今でも兄や妹とは天地の差があるの。でも、それと家族であるという事は関係ないのね。それに、私が私である事も」

 近くの青空市場でカボチャやワインが並んでいるのを見学した後、二人はシーフードでも食べようかとレストランを探した。だが、不況の煽りを受けたのか全て閉店していた。あまりお腹が空いていなかったので、二人はロングビーチに戻る事にした。

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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(10)一週間 - 1 -

一回あきましたが、「郷愁の丘」の続きです。この部分も長いので三回に分けています。

前回更新分はグレッグが学会で一週間の予定でニューヨークにやってきたところまででした。この学会、翌日から五日ほど続くのですが、ジョルジア視点なので、グレッグが学会で何をやっているかはまったく出てきません。というか、この章の大半はグレッグが到着した最初の一日の描写です。

今日更新する部分に登場するのは、前作「ファインダーの向こうに」や外伝などでおなじみの《Sunrise Diner》の店員キャシーや常連たち。クライヴとクレアは「ニューヨークの英国人」という作品で初登場しました。あ、別に読まなくても大丈夫です。今回出てくる分だけでも、クライヴが個性的であることはお分かりいただけるかと(笑)こういうキャラを書くのは楽しいです。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(10)一週間 - 1 -

「で。手配した雑誌は、どこに届けますか。ホテル?」
売店のジェシーが訊いた。財布を取り出して手続きをしようとするグレッグを、ジョルジアは止めた。

「ジェシー、ベンの所に全部預けておいて。届けるのは私が手配するから」
「あ、社員割引を適用しますか」

「ジョルジア。そんなことをしてもらうのは悪いよ」
グレッグが慌てて言うと、彼女はニッコリと笑った。
「氣にしないで。その代わり、今度の手紙には感想を書いてね。でも、ニューヨーク滞在中は、私の写真の事なんて忘れて。今日は時間があるの?」

 彼は頷いた。
「学会は、明日からなんだ」

「それはよかった。ホテルはどこ?」
ジョルジアの質問に、彼は少し赤くなって俯いた。
「その先の、パーク・アベニュー・インなんだ」

 ジョルジアは朗らかに笑った。そのホテルは、《アルファ・フォト・プレス》から三ブロック先の廉価なビジネス・ホテルだ。学会の開催されるマンハッタンへは地下鉄を使わなくてはならない。もちろん、会場となっているホテルや、徒歩圏にあるホテルの部屋は四倍くらいするだろう。そう言った事情があるにしても、他のマンハッタンから離れた地域ではなくこのホテルを選んだのは、《郷愁の丘》に滞在した時にこのあたりの事を話したからだろう。

「ベスト・チョイスね。訊かれたら私もそこを奨めたでしょうね。私のフラットからも、私が朝食をとるダイナーからも五分以内よ」

 朝食と聞き、グレッグははっとして言った。
「そういえば、君は、朝食の途中だったんじゃないのか?」

「そうなの。たぶんまだ片付けられていないと思うから、よかったら今から一緒に行かない? とても美味しいアメリカ式朝食が食べられるわよ」
ジョルジアは、彼を《Sunrise Diner》へ連れて行った。

 ガラスドアを開くと、カウンターにいたキャシーが正に片付けようとしていた彼女の皿を見せた。
「ジョルジア、何していたの? ブラウン・ポテトが冷たくなっちゃったからこれは片付けたわよ。今、熱々のをもう一度……って、あれ? その人は、誰?」

 ジョルジアは、いつものカウンター席にグレッグを連れて行った。
「紹介するわ。ケニアの動物学者ヘンリー・スコット博士よ。学会で一週間ニューヨークに滞在するの。グレッグ、こちらはキャシーよ。仲のいい友達なの」
「はじめまして。お逢いできて光栄です」

「ヘンリーって言わなかった? ま、いいか。ねぇ、スコット博士なんてまどろっこしいわ。私もグレッグって呼ぶわね」
キャシーの遠慮のない態度に、彼は戸惑った。

 ガラスドアが再び開き、グレーのスーツを着て山高帽を被った青年と、柔らかいシフォンのブラウスにフレアスカートを着た茶色い髪の女性が入ってきた。
「ああ、ジョルジアがこの時間にいるのは珍しいね」

「ハロー、クレアに、クライヴ。もうあなたたちの休憩時間なのね」
キャシーが手を振った。この二人は、近くの骨董店で働いているイギリス人で、《Sunrise Diner》の常連になっており、ジョルジアとも親しかった。

「おはよう。友達が来たから連れて来たの。紹介するわ。ヘンリー・スコット博士よ」
ジョルジアがそう言ったので、グレッグは慌てて回転椅子から立ち上がり、礼儀正しくまずクレアに手を差し出した。

「ケニアの動物学者で、ジョルジアと私はグレッグって呼んでるのよ。何でだかは知らないけど」
キャシーが補足したのでクレアはニッコリと笑って「よろしく、グレッグ。私はクレアよ」と言った。

「お逢いできて光栄です」
彼は礼儀正しくクレアに挨拶してから、クライヴの方に向き直った。

「僕は、クライヴ・マクミラン、英国人です。この一ブロック先にある骨董店《ウェリントン商会》を任されています。こちらのクレア・ダルトン嬢と同じく今年の一月に渡米しました。この店にはほぼ毎日来ているんですよ。どうぞよろしく」
「お近づきになれて嬉しいです」
「オックスフォードの出身でいらっしゃいますね。なつかしい英語を久しぶりに耳にしました」

 なにが懐かしい英語よ。いつまでも続く堅苦しい挨拶の応酬にキャシーがため息をつく。
「ケンジントン宮殿みたいなのが増えちゃったってことかしら」

 それから、クライヴがクレアとこの店で紅茶を飲む時用にとわざわざ持ち込んだボーンチャイナのティーセットを取り出して、ティーバッグをポットにぽんと投げ込んだ。この十ヶ月で、クライヴの方も、アッサムの茶葉とか、冷たいミルクを先に入れてからとか、そういう細かい事はこの際何も要求せずに、キャシーがティーセットで紅茶を提供してくれる事で妥協するようになっていた。

 それでもいつもならば、お湯は直前に沸騰させるべきだとか、ティーポットが冷たいままだったとか、いちいちうるさい事を言うのだが、今日はオックスフォード出身者同士の内輪の会話に氣をとられていたせいか、キャシーはクレアやジョルジアとの会話を楽しむ方に時間を使えた。

「じゃあ、私は先に店に戻るわね。クライヴ。十時にはスミスさんがお店にいらっしゃるの、忘れないでよ」
クレアは、紅茶を飲み終わると一同に手を振って出て行った。

「あれ。行ってしまった。彼女は、本当にイギリス的で素晴らしい、そう思いませんか」
クライヴはティーカップを傾けながら、グレッグの同意を求めた。

「イギリス的?」
「ええ。レディの資質を完璧に備えている。国外であのような人と出会うのはとても難しい事です」

「悪かったわね。私たちは粗野なアメリカ人で。失礼よね、ジョルジア」
キャシーが言うと、ジョルジアは吹き出した。
「仕方ないわよ。クレアが服装も立ち居振る舞いも、クライヴの好みにぴったり合ったイギリス女性なのは間違いないし、私たちはそうじゃないんですもの」

「服装?」
グレッグは、会話の流れから完全に取り残されていた。その場にいた三人の女性のどこにレディの資質に当たる部分を見出すのか、さっぱりわかっていない様子なので、ジョルジアとキャシーはくすくす笑った。

「まさか、クレアの服装を憶えていないなんていうんじゃありませんよね。ウェーヴのかかった艶やかな髪に似合うあの美しいシフォンジョーゼットのブラウスと、秋の庭のような素晴らしい色合いのスカートを」

 クライヴが言ったのをキャシーが引き取った。
「スカートが短すぎないのがレディのたしなみだって言うんでしょ」

 グレッグは困ったように言葉を濁した。スカートの長さなど、まったく氣にもしていなかったから。クライヴはおかしそうに笑った。
「やれやれ。野生動物を調査する仕事をしている言うから、もう少し観察能力があるのかと思いましたよ。おかげで、私はライバルが増えなくて助かりますが」

 それを聞いてキャシーは小さく呟いた。
「そもそもクレアの服装を憶えているわけないじゃない。全然そっちは見ていないんだから」

 ジョルジアは、グレッグの観察能力を見くびられたようで看過できなかった。素早く周りを見回してから言った。
「誰が一番観察能力があるか教えてあげるわ。ほら、みんな今あそこのウィンドウのところを歩いていく猫を観察して」

 猫は、《Sunrise Diner》の前面にあるウィンドウの前をそのまま横切ると視界から消えた。

 ジョルジアは、カウンターに置いてある注文用の紙とペンをクライヴに渡すと「さっきの猫を描いて」と言った。

 クライヴは、「描くんですか?」と笑いながら手を動かした。縞の数本ある、漫画のような猫が現れた。

「尻尾は?」
「ええっと。あったよな。こんなだったっけ」

「意外と上手いじゃない。もっとヘタクソに描くのかと思っていた」
キャシーは身も蓋もないことを言う。

「グレッグ。描いて」
ジョルジアはもう一枚新しい紙を取ってペンとともに渡した。
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Posted by 八少女 夕

【小説】いつもの腕時計

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」九月分を発表します。九月のテーマは「時計」です。

「郷愁の丘」がぶつぶつ切れるなあとお思いの方、すみません。でも、今回はあの世界の外伝になっています。主人公は初登場の人物なのですが、雇い主のほうがお馴染みの人物です。「郷愁の丘」のヒロインの兄ですね。もっとも、「郷愁の丘」をはじめとする「ニューヨークの異邦人たち」シリーズを全く知らない方も、問題なく読めるはずです。

ちなみに、同じ「十二ヶ月のアクセサリー」の六月分「それもまた奇跡」に出てきたブライアン・スミスも同じ会社の重役なので、名前だけ出してみました。


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いつもの腕時計

 彼は、入ってきた彼女の服装に対する賛辞を口にしたが、言おうとしたことの三分の一も言えないうちにもう遮られた。
「マッテオ、褒めてくださるのは大変嬉しいのですが、今朝は本当に時間がないんです」

 セレスティン・ウェーリーは、ヘルサンジェル社の社長秘書だ。それも、非常に有能な秘書だった。しかも、社長夫人に収まろうという野望を持たずに仕事に全力を傾けてくれるという意味で稀有な存在だ。

 会社の創立者であり最高経営責任者であるマッテオ・ダンジェロは有能かつ魅力的で氣さくな人物ではあるが、若き独身の億万長者であるため女性関係が派手で、その副作用として女性秘書が長く居着かないという悩みを抱えていた。

 が、セレスティンがこの職を得てから九年、へサンジェル社の最高総務責任者であるブライアン・スミスは、やたらと入れ替わりの激しい社長秘書の面接をせずに済むようになった。

 「天上の青」を意味するそのファーストネームは、極上のサファイアを思わせる濃いブルーの瞳から名付けられたと思われる。ダークブロンドの髪は垂らせばこれ以上ないほどに男性を魅了すると思われるが、いつもシニヨンにまとめていて、その隙のない様相と、シャープな服装、怜悧な視線でもって近づき難い印象を与えていた。

 今日は、月曜日。マッテオは自由の女神が見える開放的な社長室の革張りの椅子にリラックスした姿勢で座り、ここ二日の予定を淀みなく説明しているセレスティンをニコニコと笑いながら眺めていた。今日の彼女は、シャープな襟の白いシャツに瞳によく合うセルリアンブルーのタイトスカート、それに少し感じ悪く見えるくらい鋭利な伊達眼鏡をかけている。

「マッテオ。大変申し訳ないのですが、少し真剣に聴いていただけませんか。私には二度説明する時間はありませんから」
「わかっているよ。でも、大丈夫。今、聴いた件はちゃんと用意ができているし、あとは直前まで忘れても五分前に君が促してくれるだろう」

「そういう訳にはいきませんの。なにしろ……」
そういって彼女は自分の左手首をちらっと見た。

「おや、今日はあの腕時計を忘れたのかい、セレ」
マッテオは、さも珍しいという顔つきで訊いた。当然だった。シンプルとはいえ、常に流行を意識した服や靴やアクセサリーを組み合わせて、日々目の保養をさせてくれるセレスティンが、何があろうと決して変えずに身につけているのがその金の腕時計だった。

 彼女の持ち物にしては、少し安物に見える金メッキの外装、しかも今時ネジを毎日巻かなくてはならないアナログな時計だった。彼女は、この時計に大きな思い入れがあるらしかった。秘書となって一年経った時に、ふさわしい時計をプレゼントしようとマッテオが提案しても「これをつけていたいんです」とハッキリ断った。

 セレスティンはため息をついた。
「どこに置き忘れたのか、見つからないんです」

「おや。金曜日には付けていただろう」
「ええ。少なくともディナーに向かう時には付けていたはずなのに」
「そうか。あれは確かお祖母さんからのプレゼントだったよね」

 セレスティンはちらりと雇い主を見た。相変わらず細かいことを憶えているわね。
「ええ。小学校に上がった時にもらったんです。安物ですけれど、毎日ねじを巻いて時間を合わせればほとんど狂わずにこれまで動いてくれたのに。今日はスマートフォンで時間を管理していますが、慣れないのでいつものように細かくコントロールできないんです」

 マッテオは頷いた。少し、他のことを考えていたが、会議が迫っていたのでいつまでも腕時計の話をしているわけにはいかなかった。

 だが、彼はその時計を思わぬところで見ていたのだ。見覚えのある時計だと思っていたが、まさかセレスティン本人のものだとは思わなかったので素通りしてしまったが。

「思い出したぞ」
マッテオが呟いたのは、その日の夜、高級クラブ《赤い月》で席に着いたときだった。とある女優とディナーを楽しんだ後に立ち寄ったのだ。

「何を?」
女優は、綺麗にセットした赤毛の頭を、完璧な角度で傾げながら微笑んだ。

「何でもないんだ、マイ・スイートハート。おととい、ここで見たもののことを急に思い出したのさ。でも、大したことじゃない。それよりも、君の最新作での役作りについて聴かせてくれないか」

 マッテオは、にっこりと微笑んだ。女優は、仕方ない人ねという顔をしてから、彼にとってはどうでもいい話を延々と語り始めた。それで、彼は思考を自由に使うことができた。

 彼女が化粧室に消えたとき、彼は立ち上がり、バーのカウンターに向かった。

 一昨日、スーツを着た男がそこに座り、金色の女ものの時計を目の前にぶら下げるようにして眺めていた。それから「ちっ。安物か」といいながらすぐ横にあった大きな陶製の鉢の中に投げ込んだのだ。妙な行動だったので記憶に残っていた。

 そして、今から思うとあれはセレスティンの腕時計にそっくりだったような氣がしてならない。彼は、カウンターに立っている馴染みのバーテンダーに一言二言話しかけると、鉢の中を見てもらうことにした。

* * *


 翌朝、マッテオはセレスティンが入ってくるなり予定を話し出したのを手で制して、口を開いた。
「その前に、少し個人的なことを訊いてもいいかな」

 彼女は伊達メガネを冷たく光らせて答えた。
「いま必要なことでしょうか」
「忘れると困るから」
「では、どうぞ」

 マッテオは、セレスティンの積み上げた書類の山を無造作に横に退けて、マホガニーのデスクの上で両手を組み、彼女を正面から見据えた。

「君は、例のテイラー君と、もう付き合っていないんだろう」
「ええ。たしかに、ジェフとは別れました。でも、それは三ヶ月前のことで、その後に《赤い月》でお会いした時に、ミスター・フェリックス・パークにお引き合わせしたと思いますけれど」

「ああ、そうだったね。で、そのパーク氏とも別れたのかな」
「……。ええ、金曜日のディナーで、別れましたけれど、それが何か」

 マッテオは、極上の笑顔を見せながら言った。
「そうだと思ったよ」
「笑い話にしないでください。そもそも振られたのはあなたにも責任が有るんですから」

「ほう。それは驚いたね。なぜだい」
「あなたがお給料を上げてくださったので、彼の年収を超えてしまったんです。我慢がならないんですって。もちろん、それだけが理由ではないんでしょうけれど」
「そんなことを理由にするような男と付き合うのは時間の無駄だ。別れてよかったじゃないか」
「その通りだと思いますわ。でも、なぜそんなことをお訊きになるんですか」

「なに、いまフリーなら、僕と付き合わないか訊いて見ようと思ったのさ」
「セクシャルハラスメントで訴えられるのと、パワーハラスメントで訴えられるのだと、どちらがお好みですか」
「どうせなら両方だね。でも、君は、そんなことはしないさ、そうだろう?」

「あなたが、いつもの冗談の延長でおっしゃっているなら訴えたりしませんけれど。ともかく真平御免ですわ、マッテオ。あなたをめぐるあの華やかな女性陣との熾烈な争いに私が参戦するとでもお思いですか。そういうどうでもいいことをおっしゃる時間があったら、法務省への手紙に目を通していただきたいのですが」

「わかった、わかった。ちゃんと目を通すから、その前にもう一つだけ訊かせてくれ」
「どうぞ」
「君がなくしたという、あの腕時計だけれど、デザインが氣に入っていたのかい、それとも機能? 他の時計を買いに行く予定があるのかい?」

 セレスティンは、意外そうに彼を見た後、首を振った。
「いいえ。センチメンタル・バリューですわ。思い出がつまっているし、人生のほとんどをあの時計と過ごしてきたので、ほかの時計がしたいとは思えなくて。安物で、周りの金メッキが剥げてきただけでなく、留め金が外れかけていたのでとっくに買い換えるべきだったのでしょうけれど……。仕事に支障をきたしますから、諦めて何かを買おうとはしているんです」

 マッテオは頷くと言った。
「買う必要はないよ。仕事に必要なんだから、僕が用意してあげよう。それまでは、スマートフォンでやりくりしてくれ」

 セレスティンは、じっと彼を見つめた。また何かを企んでいるみたい。でも、用意してくれるというなら頼んでしまおう。自分では、あの時計でないものを買うつもりになれないから。マッテオのプレゼントなら、納得することができるかもしれない。

 マッテオが、誰かに何かをプレゼントする時は、必ず相手の好みを考え、ふさわしいものを贈っていた。成金と陰口を叩く人がいるのも知っていたが、単純に高価なもので人が喜ぶという傲慢な考え方をする人ではないのは、誰よりもセレスティンが知っていた。

「わかりました。お言葉に甘えさせていただきますわ。ところで、手紙に目を通していただけますでしょうか」

 マッテオは悪戯っ子のような魅惑的な笑みを見せてから、最上級の敬意に溢れ、法務省の担当官が必死に粗探しをしても何一つ見つけられないように書かれた、セレスティンの最高傑作である手紙に目を走らせた。

* * *


 それから五日後に、マッテオはいつもより少し遅れてオフィスに入った。ことさら丁寧に朝の挨拶をするセレスティンの様子を見て、内外からのたくさんの電話攻撃を雄々しくかわしてくれたのだろうと思った。嫌味の攻撃が始まる前に、これを渡してしまおう。

 ジャケットのポケットから、無造作に突っ込んであった濃紺の天鵞絨張りの箱を取り出して彼女に渡した。

「え?」
「約束の腕時計だよ。メッキ職人のところに受け取りに行ったんだけれど、十時まで開かなかったんだ」

 メッキ職人? セレスティンは、意味がわからずに戸惑いながら、箱をおそるおそる開けた。そして、自分の目を疑った。愛用していた祖母のプレゼントの時計と全く同じデザインの時計だった。けれど、五番街の高級店で売っているものと遜色がないほど上質のコーティングがされていた。

「どうして……全く同じデザインの時計が? どうやってこのデザインを?」
 マッテオは笑った。
「僕がそれを憶えていたと? まさか。種明かしをすると、これは例の君の時計さ。たまたま僕が見つけたというだけだ」

「見つけた? このオフィスにあったのですか?」
「いや、《赤い月》だよ。偶然、例のパーク氏がこれを捨てようとしたのを目にしてね。君が時計をなくしたと聞いてそれを思い出したんだ」

 セレスティンははっとした。そういえば、別れ話をする前には確かにその時計をしていた。留め金が壊れかけていて、修理しないと落とすかもしれないと思ったのだ。そのあとのデートの惨めな展開に心を乱されたので、時計のことはその晩はもう思い出さなかったのだが。フェリックスが私の去った後にあの時計が落ちていたのを見つけたというわけね。

 それでも、この時計の幸運なこと! 捨てられる現場に居合わせたのが、この時計の彼女にとっての価値を知っている数少ない人物だったというのだから。

「なんてお礼を言っていいのか、わかりませんわ、マッテオ。見つけた時計をそのまま渡していただけるだけでも飛び上がるほど喜んだでしょうに、なんだかものすごく素晴らしく変身していますわね」
「せっかくだから、ちょっと化粧直ししたんだ」

 コーティングし直すときに、純金を使う事も出来たけれど、耐久性を考えて18金のホワイトゴールドにした。怜悧なセレスティンの美しさにふさわしい。金属アレルギーなどが出ないようにもっとも高価なパラジウム系コーティングにしてもらったのだが、メッキが剥がれやすくなるので、通常より多く丁寧に塗り重ねてもらった。

「ちょっとどころではないことぐらいは、わかりますわ。それにネジの部分も変わっていますけれど?」

 前の時計と違っているのは外見だけではない。個人的に交流のある老いた時計師に頼み込み、重さを感じないマイクロローターを組み込んだ自動巻きに変えてもらったのだ。
「ああ、これからは毎朝自分で巻く必要はないよ。これは自動巻きだから」

 一週間近くかかった理由がわかった。それに、おそらくスイス製の高級時計を購入するよりもずっと多くの費用がかかっている。セレスティンは、戸惑いながら訊いた。
「どうしてこんなに良くしてくださったんですか?」

 マッテオは自信に満ちた太陽のような笑顔を見せた。
「君の大切にしている物を、二度と安物か、なんて言わせたくなかったんだ。さあ、セレ。これがあれば、またこれまでのように僕の時間管理を完璧にしてくれるんだろう?」

 セレスティンは、腕時計を左手首につけた。うまく回っていなかった世界の歯車が、カチッと音を立ててあるべきところに収まった。彼女の才能を遺憾無く発揮することのできる世界だ。  

 セレスティン・ウェーリーは、ヘルサンジェル社経営最高責任者マッテオ・ダンジェロの最も有能な秘書として、その日の遅れていてる予定をうまく調整するために、その冷静で切れる頭脳を有効に使いだした。

(初出:2017年9月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(9)ニューヨークの風

今回も「郷愁の丘」の続きです。またさらに時間が経って、十月くらいのニューヨークです。

前回は時系列でいうと、去年の夏に発表した外伝「花火の宵」のシーンの直後(七月)にあたると書きましたが、今回の話は、「scriviamo! 2017」で外伝として発表した「絶滅危惧種」の翌月にあたります。あの小説で、グレッグは「ミズ・カペッリには連絡していない」と会う予定もないようなことを言っていましたが、それではストーリーが進まないので、ちゃんと逢わせます。

今回は、前作「ファインダーの向こうに」で重要な役割を果たしたジョルジアを陰に日向に助ける編集者ベンジャミンの視点になっています。前作をご存知の人なら、彼の複雑な心境が理解できると思いますが、わからない場合も無視してノープロブレムです。ちなみにベンは妻帯者です。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(9)ニューヨークの風

 《アルファ・フォト・プレス》の編集者であるベンジャミン・ハドソンは、クライアントを社の玄関まで送って、握手を交わした。彼が見えなくなると、仕事に戻ろうと身を翻し、受付横の売店で接客中の売り子ジェシーが手を振っているのに氣がついた。

「なんだ?」
「あー、うちの出版物のデータベースって、撮影者の名前で検索すると全部引っかかるんでしたっけ?」
「クレジットのある写真はひっかかるさ。誰の?」
「ミズ・カペッリです」

「ジョルジアなら、写真集を見つけるのは簡単だろ。雑誌の方は引っかかりすぎて反対に探しにくいぞ。『クオリティ』は特集で探せばいいが、『素材事典』は興味ないだろうし、『アルファ』もたった一枚入っていても引っかかっちゃうからなあ。彼女らしい作品を探しているなら、検索だけじゃなくて実際に中身を見てみないと」
「こちらのお客さんは、写真集はもう全てお持ちなんですよ。『クオリティ』の方はいま僕が手配したから……」

 ずいぶん熱心なファンだな。会社まで赴くとは……。そう思って、初めてその客を観察し、ベンジャミンははっとした。
「失礼ですが、あなたはヘンリー・スコット博士ではありませんか?」

 その男は、ぎょっとしたようにベンジャミンを見て、それから頷いた。
「そうですが、なぜ僕をご存知なんですか?」

「なぜって、あなたの写真がラストページにくる彼女の写真集の責了校正を昨夜遅くまでやっていたからですよ。この会社で編集長代理を務めているベンジャミン・ハドソンです。はじめまして」

 半年前、アフリカ旅行から戻ったジョルジアは、写真集の編集会議で一枚のプリントアウトを見せた。
「ラストは、これにしたいの」

 それは、他の写真と同じくライカで撮ったモノクロームだった。異質だったのは、写真の背景に暈けているが肉食獣に殺されたばかりとわかるシマウマの死体が映り込んでいたことだ。野生の世界の掟として受け入れつつも、親しんでいた若いシマウマの死に直面した男のやりきれなさを、その一枚の写真は見事に映し出していた。

 ベンジャミンは、戸惑った。いい写真だとは思う。だが。

 彼はずっと最終ページはジョセフ・クロンカイトを撮った例の墓地の写真にすべきだと強く主張していた。その写真を使わなければ、写真集は完全ではないとすら思っていた。

「撮影許可を得て撮った写真じゃないから使えるわけないでしょう」
彼女は、その写真が自分の作品と人生の中に占める位置を熟知した上でベンジャミンが提案しているのをわかっていても抵抗した。

 彼が場を設定するのでクロンカイトに頼みにいくべきだと言っても、ジョルジアは決して首を縦に振らなかった。なぜこの写真が重要なのかを本人に知られたくなかったのだ。
「マッテオの海辺の写真でいいんじゃないかしら。あれもこのスタイルで写真集を出すきっかけになった写真だし」

 彼女の心をとらえて人生を左右したニュースキャスターと、人生のほとんどを共に過ごした彼女の兄のどちらも、ベンジャミンにとっては納得のいく選択だった。ジョルジアの友人としてだけではなく、プロの編集者としても。どちらも有名人で、実に見栄えがする。だが、そのどちらかを置こうとしていた位置に突然見ず知らずの男の写真が飛び出した。しかも二人と比較して、その平凡な中年男はラストページにふさわしい華やかさに欠けていた。

「これは、誰?」
そう訊くと、ジョルジアは短く答えた。
「ヘンリー・スコット博士よ」

 ジョルジアは、わずかに微笑んでいた。その微笑みにベンジャミンの心は騒いだ。いや、それはありえないだろう。クロンカイトとは似ても似つかぬ地味な中年男じゃないか! ベンジャミンは、昨夜その写真を複雑な思いで十分ちかく眺めていた。

 その冴えない男が、なぜここにいるんだ? 
「アメリカにいらしていたとは知りませんでした。ここでジョルジアと会うお約束をしているんですか?」

 スコット博士は、なんとか狼狽えている様子を隠そうとしていた。
「いや、たまたま学会で……。お忙しいでしょうから、ミズ・カペッリにはお知らせしていません」

「ちょっと待ってください。今日は出勤してくるはずだけれど、時間は指定していなくて」
そういうと、ベンジャミンは携帯電話を取り出してジョルジアにかけた。スコット博士が慌てている様子を視界に入れて、こりゃ思っていたより全然親しくなさそうだと心の中で呟いた。

「あ。ジョルジア? 《Sunrise Diner》にいるのか。いや、僕の用事じゃなくてさ、今、社の売店にスコット博士が来ているんだけれど……え、そうだよ、ケニアの、うん……あれ?」
ベンジャミンは、困ったように電話を見た。なんだ? なんで慌てて切っちゃったんだ?

「す、すみません。いま彼女、ここから五分くらいのダイナーで朝食をとっていたみたいなんですが、待っててと言って電話切ってしまって……おい、ジェシー、とりあえずここ半年の『アルファ』を全部持ってきて、お見せして」

 ベンジャミンが、ジェシーに指示してから電話をかけ直そうと操作していると、メインエントランスでがたんという音がした。
三人が振り向くと、息を切らしているジョルジアがそこにいた。

「グレッグ……」
「ジョルジア」

 彼女は、《Sunrise Diner》を飛び出して、何も考えずに走って来たらしく、スコット博士を見つめたまま、次の言葉が浮かばないようだった。彼は、自分の方からジョルジアの方へと急ぎ足で歩み寄って「すまない」と言った。

「どうして……」
「その、君の邪魔をするつもりじゃなかったんだ。ただ、せっかくニューヨークまで来たから、まだ持っていない君の写真を……」
「そうじゃなくて、どうして来るって報せてくれなかったの?」

「……。君の迷惑になると思ったんだ」
「そんなわけないでしょう。いつ着いたの?」
「今朝」
「どのくらい居るの?」
「一週間」

 ベンジャミンは、二人の横を通って言った。
「ジョルジア、打ち合わせは今日でなくてもいいから。時間の空いた時に電話してくれ」

 それからスコット博士に「よいご滞在を」と言って、オフィスへと帰っていった。刺々しさが出ないように、自分を抑えなくてはならなかった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(8)往復書簡

2回ほど別の小説が入りましたが、「郷愁の丘」の続きです。ジョルジアは春のアフリカ旅行を終えてニューヨークに戻りいつも通り生活をしています。

そして今は夏。ムティト・アンディ駅で別れてから、現在に至るまでの二人の交流を、交わした手紙で表現しています。手紙によって取り巻く状況や時間の経過、それに心の動きを表現するという手法は、あまり得意ではないのですが、今回の二人は特殊な関係の上に思いっきり遠距離なので、うんうん唸りながら書きました。

いつもは四千字超えたら二つに切るんですが、今回は適度な長さに切れなかったので、まとめて掲載しています。

ところで、今回は時系列でいうと、去年の夏に発表した外伝「花火の宵」のシーンの直後にあたります。あちらを発表した時には、ジョルジアがどういう状態にあるのか知っているのは私一人だけだったのですが、本編を読んでからあちらを読むと、ちょっと「ふふふ。キャシー鋭い。なんか、あったのよ」「あ。兄ちゃん、いまひとつ分かっていないね」とニヤニヤできる、という趣向になっています。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(8)往復書簡

親愛なるジョルジア。

夏を楽しんでいるかい。君の手紙を読むとニューヨークの移り変わる季節を身近に感じるよ。独立記念日の花火は楽しそうだね。僕も花火は好きだ。野生動物たちにはストレスだから、本当は喜ぶべきじゃないんだけれど、どうしてもワクワクしてしまうんだ。

君の観察眼には驚いたよ。消印によく氣がついたね。そうだ。あの手紙を投函した日は、僕はヴォイにいたんだ。マディが産氣づいたんだけれど、例によってアウレリオがまた居なくなってしまい、レイチェルが駆けつけるまで病院で待機する事になったんだ。メグがぐずって大変だったよ。『ジョルジアはどこ』って言うんだ。参ったよ。

マディの第二子は男の子だったよ。エンリコって言うんだ。アウレリオはとても喜んで、サッカー選手にするって息巻いている。マディはとんでもないって言っているけれど。

いずれにしても乾季だったおかげで病院まで行くのも君が居た時ほどの時間がかからないので助かった。翌日は、講義があったから朝一で戻ったんだ。

先日の君の手紙を読んでから、研究とは全く別に「目が騙される事」についてしょっちゅう考えている。ここにいたとき、君は人間の目はわずかな色を感知してカラーとモノクロームの違いを見分けられると言っていたよね。そんなにわずかな差を見分けられる目でも、遠近法によって平面に描かれた絵は立体と感知してしまうってことだよね。色の違いには敏感でも、次元の違いには簡単に騙されるというのは興味深いな。

そう考えて、君の写真をもう一度眺めてみたら、本当にその通りだと思ったよ。でも、同じ写真でも、奥行きの感じ方は作品によって違うんだね。君の撮ったあのマサイの少女の写真は、笑顔に目がいって立体感そのものはあまり感じない。もちろん平面には見えないけれどね。でも、君が送ってくれたモノクロームで撮ったサバンナの写真、例の僕とガゼルが映っているものだけれど、あの写真にはものすごく距離を感じるんだ。近くに映っている僕と、それからサバンナとの。地平線が永遠の彼方にあるように感じる。光の加減なんだろうか、とても寂しい惑星にたった独りの人間として居るみたいだ。おかしいね。あの時、君が僕の隣に居たのに。

やはり、前に君が話していた、アリゾナの写真を見せてもらいたいな。大切な作品を覗き見るのは失礼かと思っていたけれど、君が沙漠で感じた事、サバンナと違いについても興味を惹かれるんだ。それとも、いつかその作品も《アルファ・フォト・プレス》から出版されるんだろうか。そうだとしたらもちろん購入するよ。それに、送ってくれるとしても本当に時間のある時でいいんだ。

とても忙しそうだけれど、身体を大切にしてくれ。そして、また氣が向いたら、新しいニュースを聞かせてほしい。別に今日何を食べたか、なんてことでもいいんだ。僕が君の手紙を読んでいると、ルーシーが喜んで寄ってくるよ。まるで君からだとわかっているみたいに。彼女に言葉が話せたらきっと「よろしく」って言うと思うから、ここに加えておくよ。じゃあ、また。

君の友、グレッグ



 彼からの手紙を読む時、ジョルジアは誰にも邪魔されない場所を探した。通信のほとんどを電子文書で送ることが可能になってから、彼女はほとんど手紙を書かないで過ごしていた。旅先で二言か三言挨拶を書いた葉書を書く事はあったが、それだけだった。だから、グレッグと文通をすることになるとは思ってもみなかった。

 春のアフリカ旅行から戻ってすぐに、彼女は撮った写真を現像した。グレッグの写真で写真集に入れる予定の作品はいくつかあったが、その他にも自分だけで持っているのはもったいないと思うものがあった。ランプに灯をともしている時の半分影になっている優しい微笑や、サバンナで仲間からはぐれたガゼルを見つけた時の印象的な横顔。それに、ルーシーと無邪氣に遊んでいる姿は最高の出来で、少し大きく引き延ばして歓待に対する感謝の手紙に添えて送った。

 十日ほどして彼から返事が届いた。彼の丁寧で小さい文字が便箋の上に行儀よく並んでいた。なんという事はない報告がいくつか書いてあったけれど、ちょうど《郷愁の丘》で飽きずに何時間も話した時のように興味深いトピックがあり、ジョルジアはすぐにまた返事を書いた。

 それから、手紙の往復が始まった。ジョルジアは、彼の手紙を読み、彼に返信する時間を大切に思うようになった。それは、それまでジョルジアの身近にはなかった知的興奮、生活の彩り、それに、どこかときめきに似た感情を伴っていた。

こんにちは、グレッグ。

そろそろニューヨークの夏は終わるようだわ。ショートパンツやノースリーブの人たちも少なくなってきたみたい。この間、ものすごいにわか雨が降ったの。《郷愁の丘》の雨を思い出したわ。でも、そちらは乾季なのね。動物たちには厳しい季節なんでしょうね。あなたの所は大丈夫なの? 地下水も乾季には減ってしまうんでしょう? 水道水があるのってとてもありがたい事なのね。蛇口をひねる度にそう思うようになったわ。

メグに弟が出来たのね。今度はイタリア風の名前ね。どうか心からの祝福を伝えてちょうだい。ミスター・ブラスって、本当にいつも肝心な時にいなくなってしまうのね。あなたが駆けつけてくれて、ミセス・ブラスはさぞ安心したことでしょう。でも、寝不足で運転するのは危険よ。氣をつけて。

あなたが指摘してくれた、作品の奥行きの事、驚いたわ。自分で撮った写真なのにそんな風に見た事がなかったの。あなたが感じている奥行きは、二次元と三次元の違いではなくて、もしかしたら心象の奥行きのことなんじゃない? そして、それは作品の中に映っている物体だけでなく感情が映し出されていると感じてくれたんでしょう? それは、私があなたの中に見たものなのかしら。それとも、私の心の中にそれがあるの? もしかしたら作品を見ているあなたの中にあるものなのかもしれない。いずれにしても私は今回の写真集に使う写真の中で、心象を映し出したかったの。だから、あなたの感想は、最大の讃辞だと受け取らせてもらうわ。ありがとう。

例のアリゾナの写真が掲載された『クオリティ』誌、同封するわね。私が紙焼きした一枚を挟んでおくから、雑誌との違いについての感想もお願いね。

ところで、私の方も、あなたとの会話のおかげで違う見方をするようになっているわ。視野の話だけれど、前方に見えている物の他に、左右に動く物が見えていることを意識するようになったの。ニューヨークの街を歩いている時にも、往来の右や左で起こっている事が確かに情報としていつの間にかインプットされているのがわかるの。ただし、確かに真後ろで起こっている事は、目が前方についている私たちには見えないのね。今まで意識していなかったけれど、時おり後ろを振り返って安全確認をしていることを改めて感じたわ。後から襲われる危険のある都会に何世代も住んでいると、私たちの子孫の目の位置もシマウマのように横に移動していくのかもしれないわね。

今日、私が何を食べたか興味ある? 魚よ。休みで時間があったから、新鮮なヒラメを焼いて、野菜と一緒にビネグレットに漬けてみたの。私の両親は昔、漁師をしていたって話したわよね。だから、私、普通のニューヨーカーよりもたくさん魚を食べるの。かつて住んでいたノースフォークで穫れた魚を入手できたのよ。そういうチャンスに恵まれると、なつかしさで不思議な氣持ちになるの。あの村の事は、また今度じっくりと説明するわね。じゃあ、また。

あなたの友達、ジョルジア



 ここにいたら、あなたにも食べさせてあげるのに。

 ジョルジアは、あまりにも自然にその考えが出てきた事に自分で驚いた。これまで彼女の生活に一緒に住む誰かの存在は全くなかった。両親や、兄もしくは妹は別として、誰かに手料理を振る舞う事もまずなかった。

 《郷愁の丘》に滞在した二週間、ジョルジアは彼と生活を共にしていた。調理をし、食事をし、皿洗いや片付けを共にして、テーブルを動かし、床を掃き、愛犬ルーシーの世話をした。普段は自分一人しかいない生活空間を、そもそも彼一人の物であるはずのあの家を、二人で共有して同じ時間を過ごした。たくさんの話をして、一度も退屈だったり、煩わしいと感じた事がなかった。

 おそらく二週間でなく、二ヶ月でも、二年でも、二十年でも、きっとこの人とは、一人でいるのと同じようにリラックスして、穏やかな時間を過ごせるのだろう。そして、一人でいるのよりもずっと楽しく興味深い日々を。

 それから、距離の事を考えた。アメリカとケニアの。ニューヨークと《郷愁の丘》の。ジョルジアとグレッグのいびつな関係の。

 二人の関係の危うさのことは、ジョルジア自身が誰よりもよくわかっていた。一緒に暮らすどころか、「再び逢いたい」という事すらも憚られる。そう言った途端に、恋愛関係を進めたいと思っているように響いてしまう。進めた方がいいのかもしれない。「友達」というレッテルはもはや彼女の中ではそぐわなくなっている。激しい恋のときめきはなくても、実の家族以上の近さを感じている人なのだ。それに、彼がレイチェルの家で告白した想いを引きずっているのならば、いつまでも友人関係に固執する事はひどく冷たく残酷な拒否になる。

 一方で、彼が自分に恋をしたのは、真実を知らないからなのだと思った。友人の枠から外れて進めば、精神的なものだけでなく肉体的な交わりも避けられなくなる。彼女は、「醜い化け物」と呼ばれた肉体を晒す瞬間を怖れている。それはこれまで築き上げてきた全てを覆してしまうかもしれない。そうなった時に何が残るのだろうか。二人の間に。ジョルジア自身の中に。

 極めて厄介な恋愛関係を介在させずに、ただ親しい人として、家族のように、彼に会う事ができたらいいのに。

 ケニアはあまりにも遠い。《郷愁の丘》は地の果てにひっそりと隠れるように存在している。彼は来る日もサバンナでシマウマたちを観察している。「偶然」再会することははない。

 ワイン片手に「近くまで来たから」と訪問し合うような距離にいたらどんなによかったことだろう。彼女は封筒に宛先を書きながら、ため息をついた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】麦わら帽子の夏

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」八月分を発表します。八月のテーマは「帽子」です。

このキャラ、どこかで見たぞと氣になる方がいらっしゃるかもしれません。「十二ヶ月の野菜」の中にあった「あの子がくれた春の味」に出てきた林かのんが再登場しています。あの掌編のコメントで「どういうわけであの子がああいう所に嫁に行くことになったのか知りたい」というお声を幾つかいただきましたので、そのリクエストにお応えするつもりで書きました。


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麦わら帽子の夏

 大学の英語のクラスで初めて林かのんを見た時、あまりいい印象を持たなかった。

「おい。あの子、まるで人形みたいにかわいいぞ」
クラスメートの男どもの大半は、彼女のフリフリな洋服や、完璧に手入れされた長い髪、それに整った顔立ち、とくに形のいい唇に惹きつけられていた。

 だが、太一は大きな目をゆっくり伏せたり、妙に首を傾げたりする、思わせぶりな動作に演技臭いものを感じて「けっ」と思ったのだ。

 砂糖菓子かよ。何ひらひらしてんだよ。可愛ければ、いいってもんじゃない。

 太一が通うことになったのは、総合大学で様々な学部がある。一年生の間だけ共通の教養学を全ての学生が一緒に学ぶことになっている。例えば、英語の授業はいろいろな学部の学生がランダムにクラス分けされていた。

 太一の入った農学部には、女学生は少ない。ましてや林かのんのようなふわふわしたお嬢さんタイプは、まず見かけないだろう。千葉の農家で生まれ育った太一の周りには、これまでこんな風が吹いても泣きだしそうな女はいなかった。がっつり食べて、朝から晩まで畑で作業する母親に代表される骨太の女ばかりに囲まれていたのだ。

 それは、新学期が始まって一ヶ月ほど経ったてからだと思う。

「大崎くん。かのん、ここに座っても構わない?」
横をみると、林かのんが一人で立っていたので仰天した。隣の席は、確かに空いているが、なぜわざわざここに。振り向くと、トイレすらも集団で行く、ひっつき虫の女どもはまとめて後ろの席に座っていた。そして、その列にはもう空きはなかった。

 だが、林かのんと親しくなりたがっている野郎どもの隣はまだいくらでも空いているのに。それよりも、この女が、女の集団に尻尾を振らないで一人で行動したことのほうにもっと驚いた。

「いいけど、ここに座るとかなりの確率で当てられるぞ。教壇からちょうど目にはいる席だしさ」
「大丈夫。かのんね、ちゃんと予習しているもの」

 へえ。そりゃ、ご立派なことで。そもそも、なんだよ、その一人称。自分の名前を呼ぶの、痛々しいぞ。

「後ろの方、みんなおしゃべりしていてあまり授業に集中できないんだもの。先週、大崎くんは、ちゃんと聴いていたでしょう? だから、次はかのん、ここに座りたいなって思っていたの」

 それから、妙なことになった。彼女がひっついて来るようになったのだ。最初は、授業に集中できる席のために隣に座るのかと思っていた。変な女だとは思ったけれど、一理あると思ったので、それ以上のことは考えなかった。毎週のことだから、林かのんと付き合いたがっている男子学生たちからは妬まれたけれど、「知るか」と無視していたら、大したライバルではないとわかったのか相手にもされなくなった。

 太一は雑誌に出てくるみたいな格好をして、ナンパに血道をあげているような男たちとは、全く仲良くしたくなかったので、クラスの男にしろ女にしろ他の学生たちとつるまずに一人でいることにはまったく問題がなかった。ところが、別の授業に行こうと移動しようとすると、林かのんが一緒についてくることがあった。

「なんだよ」
「大崎くん、次の授業は西棟四階でしょう。かのん、三階で美学史だもの」
「あ、そうか」

 来るなというのも変なので、一緒に歩いたが、これでは周りにつきあっていると誤解されるじゃないかとちらっと思った。っていうか、誤解されてもいいのか、この女は。

「ねえ。大崎くん。農学部だから知っていると思うんだけれど」
「なんだ?」

「かのんね。夏休みに普段できないような仕事を体験するアルバイトをしようと思って、いろいろと探してみたの。そうしたら、地方の農家で住み込みで働くというのが結構あるんだけれど、まったく知らないところに行くのを親が心配して反対するの。大崎くん、知っているお家でそういうバイト探していないかしら」

 太一は、目を丸くした。こんなマシュマロ女が、農家でバイト? ありえん。
「いや、君さ。農家はきついぞ。そう簡単に……」

「かのんだって、それはちゃんとわかっているよ。ママもそう言って許してくれないけれど、そんな事言っていたら、いつまで経ってもやりたいことにチャレンジできないじゃない? 就職したら、きついなんて言っちゃいけなくなるのに」

 うん。まあ、正論だ。でもなあ、言いたくはないが、農業体験ができるという触れ込みで実は嫁探しをしていたなんて話も聞いたことがあるし、知らないところは奨められない。でも、知っている農家にこんな弱そうな女を紹介して、キツさに泣いて一日で辞められたりしたら、俺が叱られるじゃないか。

「あー、俺が紹介して、林が速攻で弱音を吐いても迷惑をかけずに済むところと言ったら、一つしか浮かばないな」
「どこ?」

「俺んち。オヤジの農園。千葉で野菜を作っているんだ。遠いけれど、絶対に日帰りできない距離じゃないし、泊まるならちゃんとうちの敷地に玄関も別の部屋がある。なんなら親父とお袋に訊いてみるけれど」

「本当? かのん、やってみたい。バイト代、安くても構わないから、是非お願い」
彼女は目を輝かせた。おいおい、いいのか、そんな安易に。いつもこの調子で色んな男のところにホイホイついて行っているんじゃないだろうな。太一は首を傾げた。

 そして夏休みになると、彼女は本当に大崎農園にやってきて、一ヶ月も住み込んだ。まさかフリフリのスカートでくるんじゃないだろうなと心配したが、一応、デニムでやってきたので安心した。もっとも、ベージュだの薄い水色だの、舐めているんじゃないかという色のジーンズで、Tシャツもやけに可愛いオシャレなヤツだった。もちろん、うちのような田舎では浮きまくっていた。

 どういうわけか、母親に妙に氣に入られ、作業中だけでなく、夜の食事の手伝いなどでもいつも一緒にいたし、初日からずっと近所で育ったみたいに馴染んでいた。そして、珍しい動物が来たみたいに、父親や近所のおじさんたち、それに他のバイト兄ちゃんたちからも可愛がられて、ものすごく重いものは持たされずに済んでいたようなので、可愛いというのは得だなと妙な感心をした太一だった。

 太一が驚いたことに、ふわふわしたイメージとは裏腹に、彼女は実によく働いた。ネギを引っこ抜く作業は見かけよりもきつい肉体労働だが彼女は「疲れた」などということは一言も言わなかった。それに綺麗にして並べて出荷用に箱詰めするときも、とても丁寧だけれど思いのほか機敏でバイトの中で一番早く父親を満足させる作業ができるようになった。

 UVケアに必死で日傘でもさすんじゃないかと思っていたが、日焼け止めは塗っているようだけれど、外での作業もまったく嫌がらずに、つばの大きい麦わら帽子を被って作業をしていた。

「林、大丈夫か。熱中症にならないように氣をつけろよ」
一緒の作業になった日に、太一は言った。

「かのんね。このくらい何ともないよ」
麦わら帽子の下で、いたずらっ子のように大きい瞳が輝いた。太一は、その笑顔にどきっとした。

 彼女がバイトを終える前の晩に、別れを惜しんだ両親や、近所のおじさんたち、それにバイトの若者達が集まって、大きな宴会をした。

 採れたての枝豆や、母親が得意な手作りこんにゃくのステーキなど、ビールによく合うつまみが多くて、ついみんなメーターが上がってしまう。林かのんの送別会のはずだが、ただの飲み会になって、当人が何度も台所と往復するようなことになっていた。

「本当によく頑張ってくれたな。よかったら、また来年も来てくれよな」
父親が、空になったビール瓶を片付けるために台所へ向かおうとする彼女を引き止めて隣に座らせ、酔いで真っ赤になりながら上機嫌で云っていた。太一が最初に電話で訊いたときは「女の子は即戦力にならないからなあ」なんて言っていたくせに。

「太一は、無愛想だけれど、よかったら引き続き仲良くしてやってくださいね」
母親が、なんだかドサクサに紛れてとんでもない事を頼んでいる。ところが林かのんはにこにこ笑って答えた。
「私の方こそ、ずっと仲良くしていただきたいです」

 なに言ってんだ? その言い方は、もっと誤解されるぞ! 太一は、ビールをどんどん注がれて酔っぱらい、ふらふらになった頭で林かのんに説教をした。
「そーいうふーにー、けいかいしんのー、ないげんどう、を、しているとー、あぶないから。なっ。わかってんのか」

 彼女がにこにこと笑っていたような氣がするが、なんと答えたのかの記憶は、ほとんどないまま翌日になってしまった。

 太一は、母親に厳命されて、近くの無人駅にかのんを見送りに行った。
「あー、一ヶ月ありがとう。林が思ったよりもずっとよく働いてくれて驚いたよ。親父達も感心していた。バイト代、少なくてごめんな。少し色をつけたみたいだけれど、それにしても少ないだろう」

「ううん。全然少なくないよ。それに、一ヶ月、大崎くんと一緒に過ごせて、とても楽しかったの。もし、嫌じゃなかったら、また来年も来たいな。それに、二学期もまた大学で仲良くしてくれると、かのん、とても嬉しい」

 彼女の言葉に、太一はまたしても目を丸くした。こいつ、こんなことを誰にでも言うとしたら天然すぎる。

 太一は、以前から一度訊いてみたかった事を口にした。
「なあ、林。君、なんで俺なんかについてくるんだ? もっと、ちやほやしてくれる男が、いくらでもアプローチしてきているだろ」

「う~ん。かのんね、たくさんプレゼントしてくれる人や、なんでもしてくれる人、ちょっと苦手なの。大崎くんは、かのんがいてもいなくてもどっちでもいいのに、話しかけるとちゃんと答えてくれるし、一緒にいて心地いいの。それにね……」
「それに?」

「ずっと仲の良かった友達がいたの。今は、離れてしまったんだけれど。いつも背筋をピンと伸ばしていて、他のみんなが一緒にサンドイッチを食べようと言っても、私は好きなカレーを食べるっていうような子だったの。そういうところが大好きだったの。大崎くん、彼女みたいなんだもの」

「ふ、ふーん。確かに俺もカレーは好きだけれど……」
太一は、そういう問題じゃないとわかっていつつも、ピントのずれた答えしか返せなかった。

「じゃあ、今度、かのんがとびっきり美味しいカレーを作るよ。大崎くん、うちに食べに来る?」

 麦わら帽子についているオーガンジーのオレンジのリボンが風に揺れた。帽子の下に、溢れている笑顔は、これまでに見たどんな女の子の笑顔よりも可愛らしかった。太一は、やられたと思った。

 夏が終わり新学期が始まるまで、麦わら帽子を見るたびに俺はこの笑顔を思い出して、おかしくなってしまいそうだ。太一は、昨日の酒がまだ抜けていないのかと、ぐるぐるする頭で考えつつ、黙って頷いた。

(初出:2017年8月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(7)滞在と別れ - 3 -

「郷愁の丘」の続きです。「滞在と別れ」、三回に分けたラスト部分です。

実をいうと、ここまで書いてきた《郷愁の丘》での滞在時間よりも、今回発表する分での滞在時間のほうがずっと長いんですけれど、いつまでも細かく描写しても意味がないので具体的な描写はなく、すっ飛ばしています。

ジョルジアは、この旅行の大半を《郷愁の丘》で過ごしましたが、休暇が終わるのでニューヨークに帰らなくてはいけません。(当たり前ですね)

次回はニューヨークに帰ってからの続きですが、その前に「十二ヶ月のアクセサリー」と「バッカスからの招待状」が挟まりますので九月十三日の更新です。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(7)滞在と別れ - 3 -

《郷愁の丘》に滞在した二週間は、あまりにも早く過ぎ去った。

 ライカをいつも手元に置き、彼を撮り続けた。サバンナで、イクサの街で、一度は講師として働いている大学で講義している時も。それから、《郷愁の丘》で、柵を修理したり車の整備をしている姿も。厚い本を繰って何かを調べる真剣な表情。ワインのコルクを抜いている時のリラックスした笑顔。

 モノクロームのフィルムは全て使い切った。何度かここぞという瞬間に出会った。写真集に収める一枚という意味では、現像を待たずに手応えを感じていたが、あの墓地で感じた人生を変えるほどのシャッターチャンスとは思えなかった。少なくとも、彼女の魂の発露とは言いがたかった。

 グレッグは協力的で好意に満ちているのに、とても難しい被写体だった。何度か感じた「彼を捕らえた」勝利感は幻想だった。それは蜃気楼のように消えていく。シャッターを切った瞬間には間違いなくこれだと思うのに、指を離した時にはもう自信を失っていた。これほど自分に近いと感じるのに、それが何であるのかわからない。それは《郷愁の丘》も同じだった。

 朝は、世界が色の魔法で繰り返し魅了した。彼女は、早く起きてルーシーと散歩をするグレッグと合流するようになった。こちらを撮るためにはモノクロームではだめだとわかっていたが、頼りにならないコンパクトカメラは、部屋に置いたままだった。彼女の心をかき乱す色も、この丘に佇む一人の男のと忠実な犬の感情も、今の彼女とこのカメラでは映し出す事は出来ない。それだけはよくわかっていた。

 この《郷愁の丘》には、もっとずっと深く、慎重に探し当てねばならない啓示があった。深遠な秘密。「その名を助けを求めずお前だけの力で明らかにせよ。そうでなければ何ひとつ知る事は許されぬ」と明確に彼女に訴えかけてきた。

 それは、何でもない朝食の準備や、午後にハンモックの上でまどろむ穏やかな時間ですらも、常にジョルジアの中に点滅し、くすぶり続けた。

 魂の叫び。心の闕乏。それとも、ニューヨークではほとんど意識にも上らない、神という存在への讃美。力強くめぐる生命の神秘へ喝采。命あふれる惑星に佇むとても小さな間借り人である事の確認。《郷愁の丘》は、ジョルジアがこれまで経験した知覚をはるかに凌駕した特別な存在だった。頭脳で知り考えるのではなく、心と魂で感じる土地だった。

 自分がそうではない世界に属している事がぴんとこなかった。ナイロビで予定していた滞在を全てキャンセルし、帰る二日前まで二週間も《郷愁の丘》に滞在し続けたが、時は同じように機械的に進み、彼女は出発しなくてはならなかった。

 グレッグは、それまでと同じように淡々と、穏やかに最後の朝の散歩と朝食を共にした。特別な事は何も言わなかった。ジョルジアは、レイチェルの家で聴いた彼の告白が本当の事だったのか自信をなくしていた。

 いつものように礼儀正しく彼がランドクルーザーに彼女の荷物を運び込むと、ルーシーは嬉しそうに車に飛びのった。ジョルジアの心はそれほど弾んでいなかった。《郷愁の丘》に暇を告げることは、とても辛い事だった。明日、目が覚めても、朝焼けの中をグレッグやルーシーと散歩する事はないのだ。この二週間、ずっとあたり前のように続いた興味深い対話もこの午後からはひとり言になるのだ。

 駅に着くまで、彼の様子はずっと変わらなかった。穏やかで優しく心地いい態度。道の悪さからやたらと時間のかかるドライブも、今日ばかりはもっと長く続いてもいいのにと思えた。《郷愁の丘》へと続く寂しい自然道は終わり、舗装された道にたどり着いた時、駅を示す標識が表れた時、彼女は残念な氣持ちになった。

 そして、車は本当に駅についてしまった。
「なんとか間に合ったね。あと二十分ある」

 彼は、荷物を持ってホームまで来てくれた。
「ありがとう」
「途中で何か問題があったら、遠慮なく連絡してくれ」
「ええ。そうしたら、また《郷愁の丘》に泊めてくれる?」

 彼は、目を細めて「いつでも」と言った。

 電車が入ってくる。別れの時が迫っていた。ジョルジアはどんな風に彼と別れるのか戸惑った。

 彼女は親しくない人とハグをするのが苦手だった。ヨーロッパ式に頬にキスをされるのも、よほど親しい相手でないと緊張した。だから、普段仕事で会う人たちや単なる知人たちとは、握手をするのが一番ストレスなく感じるのだった。けれども、グレッグに対しては、ハグやキスも嫌だとは思わなかった。彼もそう望むのなら、それはとても自然なことだった。

 だが、彼は「じゃあ、さようなら」とだけ言った。握手すらしようとしなかった。レイチェルの家で怪我の手当をしてもらって以降、彼が一度も彼女に触れなかった事を、その時ジョルジアは始めて思い出した。

 彼とは対照的に、尻尾を振ったルーシーがしきりに彼女の手の甲を舐めて別れを告げた。
「さようなら、グレッグ。素晴らしい二週間だったわ。どうもありがとう」
車内に荷物を載せてくれて降りようとする彼に、ジョルジアは、万感の想いを込めて言った。

「僕こそ、礼を言うよ」
「何に対して?」
「僕のところに来てくれて。一緒に時を過ごしてくれて」
降りる後ろ姿だけで、表情は見えなかった。ジョルジアの心はまた締め付けられた。

「写真、現像したら送るわ。手紙も書くわね」
電車はゆっくりと走り始めた。彼女はホームのグレッグとルーシーに手を振った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(7)滞在と別れ - 2 -

「郷愁の丘」の続きです。「滞在と別れ」の二回目です。

まるで当たり前のように滞在していますが、ジョルジア、要するにほとんど知らなかった人の家にずっといるのです。彼女は年に一度、たいてい三週間から一ヶ月の休暇をまとめて取ります。今回の旅は三週間ほどという設定で、アメリカを出発してからここに来るまでが一週間ほどでした。

少し退屈かもしれませんが、今回のパートには、このストーリー上では大切な会話が入っています。ただし、既に外伝でいくつか開示した情報が混じっているので、たいして目新しくないかもしれません。グレッグが事情を自分で語るのは、多分ここが初めてじゃないかと思います。

ジョルジア、写真撮っていないじゃん、というツッコミが今回も入りそうですが、撮るところの前で切ってしまいました。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(7)滞在と別れ - 2 -

 翌日、彼はジョルジアを連れてマサイの村に寄った。茨で出来たボマといわれる大きな円形の柵の中に牛の糞で作った小屋が何軒も建っている。マサイの集落はハエが非常に多い。牛とその糞による湿氣がハエを呼ぶのだ。けれども牛の糞自体はさほど臭うものではない。糞だと思わなければさほど氣持ちの悪いものでもない。

 かつて撮影で連れて行ってもらったマサイマラの集落よりも小さい上、商売氣が少なかった。あの時は無秩序に人びとが集まってきた。頼みもしないのに色とりどりのビーズで作った首飾りをかけて売りつけようとしたり、自分の子どもの写真を撮らせてチップをもらおうと手を差し出しながら近寄ってくる者もいた。だが、今回は幾人かの男たちが興味を持って近づいては来るものの、グレッグが話そうとしている長老よりも前に出てこようとするのは子どもたちだけだった。女たちはそれぞれの家で仕事を続けていた。

 小さい子どもたちはジョルジアの周りに集まり、めずらしそうにあちこちに触れた。あまり日焼けのしていない肌や短いけれども縮れていない艶のある髪に興味を持ち、小さな手で触れてきた。

 グレッグは、短くマサイ語で挨拶した。長老はそれに答えて重々しく何かを語った。
「なんていったの?」
「彼は誤解しているんだ。僕が恋人を連れてきたと思って」

 彼は長老に英語ではっきりと言った。
「違うんだ。この人はお客さんで、僕の恋人ではない」
 長老は動じた様子もなく、さらにマサイ語で何かを重々しく告げた。

「なんですって?」
ジョルジアは、訊いた。グレッグは、少し悲しげな瞳をしていた。しばらく何も言わなかったが、それから口を開いた。
「僕にもなんと言っているのかわからない」

 ジョルジアは、きっと彼は長老の言葉の意味はわかったのだろうと思った。でも、通訳するつもりはないのだ。強いれば、もっと彼を悲しませる事になるような氣がした。

 彼は、サバンナの水場について長老と話をしていた。長老は聴き取りにくい英語で重々しく告げた。
「心配ない。ここしばらく雨が多いので、我々は牛を遠くに連れて行く必要もない。シマウマの群れは今年は《骨の谷》で渡るだろう。あの川は幅が狭く渡るには好都合だが、おそらくいつもより多くワニも待ち受けている事だろう。お前も氣をつけなさい」

 《郷愁の丘》に戻り、ジョルジアは昨夜作っておいたシチューを温めた。普段作るなんということのない料理も、添えるものがパンではなくウガリ(白いコーンミール)になっただけでアフリカの料理らしくなる。テーブルの用意をしているグレッグに彼女は訊いた。

「シマウマの通り道を教えてもらいにいったのね」
「そう。彼らは経験豊かで、伝承による叡智も受け継いでいるから、僕の予測よりもずっと正確なんだ」

「ワニが多いって言っていたけれど」
「そうだね。シマウマやヌーたちは、一斉に川を渡るんだ。ワニはそれを待ち構えている。ワニが一頭を襲い食べている間に、他のものは川を渡り切る」

「そんな危険があっても、川を渡るのね」
「そうしなければ、ここが乾季で干上がってしまうからね。彼らはどうしても南に行かなくてはならないんだ」

「そして、雨季になるとまた戻ってくるのね」
「そうだ。そして、次々と子どもが誕生するんだ」

 食後に二人はワイングラスを持ってテラスに移動した。涼しくなった風が心地よく渡っていく。

「あなたはそのシマウマの外見を憶えてしまうんでしょう?」
「ああ。生まれてから立ち上がるまで見守っていると、特徴が頭に入ってしまう。それから毎日みて、生き延びている事にほっとしたりする」

 ジョルジアは微笑んでから、赤ワインのグラスを持ち上げた。生き延びたシマウマに乾杯して二人はワインを飲んだ。
「名前を付けたりするの?」
「いや。サイやライオンやゾウのようにはいかないな。星の数ほど生まれて、そのうちの多くがあっという間に死んでいく。もっとも一度名付けた事がある。もう二度とするまいと思ったよ」

「どうして?」
「名前を付けるというのは特別な行為だと思い知った。つけた途端に大きな思い入れが発生する。ハイエナやライオンに追われるのを助けたくなってしまうんだ。もちろんそんな事は許されないからしなかったけれど」

 特別な行為と聞いて、彼女は氣になっていた事を訊いてみようと思った。どうしてみなが呼ぶヘンリーではなくて、グレッグと呼んでほしいと言ったのか。
「ねえ。グレッグという名前には特別な思い入れがあるの?」

 彼は、グラスを置いて彼女を見た。
「祖父から受け継いだ名前なんだ」
「お祖父様っ子だったの?」

 彼はしばらく黙っていた。ジョルジアが他の話題を持ち出すべきかと考えていると、彼は立って中に入り、書斎からセピア色の写真の入った額を持ってきた。彼とどことなく似ている老人と、並んで座っている五歳くらいの少年が映っていた。

「これはあなたなの?」
「ああ」

 彼は、ジョルジアの隣に座って話しだした。
「父と母ははじめからとても折り合いが悪かった。母は生まれた僕に自分が望む名前を付けたがった。だから父は、母が候補にした名前の中で、あえてスコット家に代々伝わる名前ではないヘンリーを選んだ」

 ジョルジアは、何と言っていいのかわからないまま彼の話を聴いた。
「父は僕の曾祖父、彼の祖父のトマス・スコットを尊敬していたが、アルコールに弱く学者にならなかった自分の父親グレゴリー・スコットのことは尊敬していなかった。だからヘンリーなどと付けずに、自分の名前を付けろと彼が言うと、アルコール中毒の義父を毛嫌いしている妻への嫌がらせでそれをミドルネームにしたんだ」

 悲しそうな顔をしているジョルジアに、彼はいつものように穏やかに微笑んで首を振った。
「僕は、祖父が好きだった。両親が留守がちで友達もいなかった僕は、一人でいる事が多かったけれど、そんな僕のために彼は時間をとってくれた。彼は僕のことを『小さいグレッグ』と愛情を込めて呼んでくれた。母が父と離婚してイギリスへ引越したのは僕が十歳のときで、直接逢ったのはそれが最後になった。もっともずっと手紙を書いていたから関係が途切れたわけじゃなかったけれどね」

「お祖父さまは……」
「十三年前に亡くなった。僕を氣にかけてくれて、わざわざ遺言で僕にいくばくかのものを残してくれたんだ。だから僕はこの《郷愁の丘》を買うことが出来たんだ」

「そうだったの」
「両親が離婚する時に、母は養育費を要求した。するとそれを拒みたかった父は僕にDNA検査をさせたんだ。それで僕は間違いなく父の子供だと証明されて、大学にまで進めたけれど、同時に父親に我が子ではないと疑われていたことも知ってしまった。離れていたこともあり、僕は父にはどうしても必要がある時以外は、自分から話も出来なくなってしまった。父もクリスマスにすら連絡をよこさなくてね。それで祖父は亡くなるまで僕たちの関係を心配してくれたんだと思う。相続する時に、ケニアに戻ってきて弁護士の所で十五年ぶりに父に会った。イギリスではなくてケニアで研究をしたいとようやくその時に言えた。彼は少なくとも反対はしなかった」

「お母様は?」
「バースにいる。こちらに戻ってから一度も逢っていない。クリスマスカードのやりとりはしているけれど」
「ケニアに戻って来たことがお氣に召さなかったの?」

「いや、僕が何をしようがさほど興味はないと思う。イギリスに戻ってしばらくは一緒に住んでいたけれど、僕が寄宿学校に入るとすぐに再婚して、新しい家庭を作った。あまり歓迎されないのがわかっていたので、休みの期間にもいつも寄宿舎に残っていたよ」

 胸が締め付けられるようだった。この人はなんて寂しい境遇で育ったんだろう。あまり裕福ではない漁師だったジョルジアの両親もほとんど家にいなかった。だが、彼女には歳の離れた兄マッテオと妹アレッサンドラがいた。妹二人を溺愛する兄の深い愛情、そして忙しくとも会える時には精一杯の愛情を注いでくれる両親の暖かさで、ジョルジアとアレッサンドラは常に幸福だった。

「父も母も、みなヘンリーと呼ぶ。でも、僕には祖父が呼んでくれた『小さいグレッグ』こそが本当の名前に思えるんだ」
「ええ。グレッグ。私もそう思うわ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(7)滞在と別れ - 1 -

一週あきましたが、再び「郷愁の丘」の続きです。この部分も少し長いので三回に分けます。

前作をお読みになっていらっしゃらない方のためにちょっと説明すると、ジョルジアは弱小出版社の専属カメラマンとして無名だったのですが、この前の年に世界中の子供の笑顔をテーマにした写真集『太陽の子供たち』が評判になり、『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の一般投票部門で六位入賞という快挙を果たしています。現在は一般受けする子供の写真から離れてモノクロームで大人の写真を撮っています。



郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(7)滞在と別れ - 1 -

 また激しい雨が降った。彼女の心はサバンナへと向かった。稲光の中で浮かび上がるアカシアの樹とキリンのシルエット。シマウマのくっきりとした縞の上を伝って落ちる雨水。

 天の恵である雨は、けれどもその瞬間には厳しい自然の猛威であり、屋根どころか傘すら持たない動物たちの上に等しく降り注いでいる。彼女は、サバンナで見かけた生まれたばかりのガゼルやシマウマの子どもたちが怯えていないか考えた。彼らにとっては初めての雷雨なのだ。

 生まれてすぐに立ち上がり、母親の与える乳を満足に飲む前に危険を避けて移動する術を学ばされる小さな生き物たち。自然の厳しい掟の中で、それでも続いていく生命の環は神々しいほどに美しかった。

 それに較べれば、ニューヨークで彼女が一喜一憂している、写真集の売上や雑誌に載ったシリーズの評判などは、取るに足らない杞憂だった。そして、世界中の称賛を受ける妹と比較されることへの抵抗や、彼女や成功した兄が自由に泳いでいく社交界の海に近寄る事すら出来ない不甲斐なさもどうでもいいのだと思えた。

 そう思っていた《郷愁の丘》の彼のリビングに、よりにもよって彼女が『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』に受賞した特集号である写真誌《アルファ》があるのを見つけた時には、その皮肉に思わず笑った。表紙に映っているのは授賞式のために着飾っているジョルジア自身なのだ。

 彼女は、不意にレイチェルの家で知った事を思い出した。彼はジョルジアの写真集を全て購入していた。それにこの特集号の存在も知って、わざわざアメリカから取り寄せたに違いない。彼女が、知り合ってもいない有名ジャーナリストに恋をしてしまい、その著作やレポートの載っている雑誌を買って読んでいたのと全く同じように。

 ジョルジアはジョセフ・クロンカイトとの恋が実るとは露ほども考えなかった。彼の側に間もなく婚約が発表されるだろうと噂された美しい女性がいたこともあるが、それ以前に彼女には愛の成就は遠すぎる願いだった。

「君のような化け物を愛せる男などいるものか」

 かつて投げつけられた言葉は、彼女の世界を変えてしまった。息ができなくなるほどの苦しいショックを何ヶ月もかけて克服した後、生身の恋愛はもはや彼女とは無縁の壁の向こうの出来事に変わってしまっていた。それから十年も可能な限り人と関わらずに生きてきたので、それがあたり前になってしまい、恋をしても片想いのままで終わる以外の選択はなかった。

 この《郷愁の丘》に来る直前に知った、グレッグに女性として愛されていたという事実は、彼女に大きなショックを与えた。それなのに、何事もなかったかのような紳士的で穏やかな彼の態度に慣れて、彼女は既にその事実を忘れかけていた。《アルファ》の表紙に映った授賞式用に特別に装った彼女自身の姿は、いかにもその場にあるのが不自然な存在として目に映った。非現実的でまるでオーパーツのようだった。

 彼女が黙ってその表紙を眺めているのを見ながら、彼は言った。
「そういえば、まだちゃんと言っていなかったね。受賞、おめでとう」

 彼女は、はっと我に返った。彼はさっきまでと変わらない。友情に満ちて穏やかな教養高い紳士だった。この《郷愁の丘》に関する全て、生命と孤高と美しさと厳しさを秘めた世界の専門家として、つまり、彼女を強く惹き付ける全てを兼ね備えたまま、彼女を唯一困惑させる異性としての氣配を消してそこに存在していた。

 彼女は、そのたゆまぬ努力にはじめて意識を向けた。愛する人を前にしてあふれそうになる想いを常に隠す事は、彼女に可能だろうか? 可能だとしても、それは何と苦しいことであるか。もし、彼がその苦しい努力を、ただ彼女のために続けてくれているとしたら、それは何とありがたい事なのだろう。

 それとも、親しくなった事で、彼の幻想が打ち砕かれ、彼は努力すら必要とせずに想いを消したのだろうか。そう思えれば、負い目はなくなるのに、彼女はそれを信じたくなかった。どこかで彼の崇拝を手放したくないと思っている。彼にとって、誰よりも特別な存在で居続けたいと願っている。なんというエゴイスムだろう。

「賞をとれたのはあなたのおかげよ」
彼女は、自分の中のこの不穏な想いから眼を逸らすために、努めて明るく彼に話しかけた。
「どうして?」

「あの時撮ったマサイの女の子の笑顔が評判よくて、いくつかのメディアで取り上げられたの。それで『太陽の子供たち』の売上が予想外に上がったの。あなたが長老に交渉してくれなかったらあの写真は撮れなかったもの」

 彼は笑った。
「それを聞いて嬉しいよ。たしかにあれはいい写真だった。その場にいたのに、僕は彼女があんな表情をした瞬間に氣がつかなかったよ」
「あの子、どうしたのかしら」

「数ヶ月前に、あの集落を訪れたよ。赤ん坊を背負っていたな」
「まさか! あの子、まだ幼児だったじゃない」
「彼らの結婚は早いけれど、さすがにまだだろうな。生まれてすぐに親が婚約を決めるけれど、実際に女の子が結婚するのは十三歳から十五歳くらいなんだ。背負っていたのはたぶんあの子の兄弟だと思うよ」

「そう。でも、小さな子供が兄弟の子守りをするのね。私の姪は、あの子より少し歳上だけれど子守りをするなんて考えられないわ」
「そうだね。あの子たちは欧米の子どもたちよりも早熟だ。六歳ぐらいから親の手伝いをするのが普通で、それはマサイ以外の部族でもそうだな。子供を背負ったまま十キロ近く歩いて学校に通う子もいるし、亡くなった母親の代わりに煮炊きをしているのをみた事もある」
「ここでは人生サイクルのスピードが私たちとは全く違うのね」

 彼は思い立ったように提案した。
「明日、マサイの村に行ってみるか? この近所の部族だから、あの子はいないけれど」
「いいの? 調査の件で行くんでしょう? よそ者がついて行ったら嫌がられない?」

 彼はじっとジョルジアをみてから言った。
「君なら大丈夫だ」
「どういうこと?」

「欧米の都会から来る人たちの中には、マサイ族を見せ物小屋のエンターテーナーのように扱う人たちがいる。飛び上がる所を写真に撮りたいとかね。彼らの生活の中に遠慮もなしに割り込んで、いますぐあれを見たい、これをしたいと要求するんだ。一部の部族は、既に観光客相手にショーをする事で生計を立てている人たちもいる。でも、僕が逢いに行く人たちは昔ながらの生活様式を守っていて、彼らのペースで誇りを持って生きている。君は、小銭を投げて、いいことをしてやっていると思うような傲慢な人じゃない。彼らの生活を尊重する事を知っている。だから、連れて行っても彼らは嫌がらないだろう」
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(6)シマウマたち - 4 -

「郷愁の丘」です。四回に分けた「シマウマたち」の四回目、ラスト部分です。

主人公グレッグはカメラを持っていません。彼は視覚的な記録をすべてスケッチで残しています。これはこの人の特殊能力とも関連あるのですが、お金もあまりなくてインフラも整っていないサバンナの生活では、このウルトラアナログな方法が一番面倒がないという事情もあります。

かつてフィルムのカメラが主流だった頃は、旅から帰国すると現像して写真を整理してという面倒がありました。現在はデジカメになりましたが、今度は旅先で「あ、コンセントの形状が!」とか「iPhoneもカメラも充電しないと」というような面倒が増えました。記録を鉛筆一本と紙一枚さえあれば自由に残せる、グレッグのような能力があればいいなと、時々思います。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(6)シマウマたち - 4 -

 それから、不意に思い出した。
「でも、グレッグ。あなたは今日、ノートに文字だけを書いていたわよね。スケッチをする事もあるの? もしかして、私が横でいろいろと訊いていたから落ち着いてスケッチできなかったの?」

 彼は首を振った。
「そうじゃないよ。スケッチは、いつも後でするんだ」
「後で? 写真にも撮らなかったのに、どうやって?」

 彼は、一度室内に入ると、スケッチブックを持って出てきた。そして、座ると何も描いていない白いページを開けると、尖った鉛筆を一番左端の下方に持っていった。鼻先から始まってすぐにシマウマとわかる顔が現れた。耳とたてがみ、背中、尻尾。脚が四本揃うまで、鉛筆はただの一度も間違った所を通らなかった。次に縞が描かれていく。その斜め後に二頭目が現れはじめた。ジョルジアは自分の目が信じられなかった。

「あの群れが、どこに、どんな風にいたのか憶えているの?」
「うん。これを描こうと意識すると、その詳細を憶える事が出来るんだ。もちろんはじめから集団全体を憶えられたわけじゃないよ。いつもこればかりやっていたからね。子供の頃から動物の絵を描くのはわりと得意だったんだ。その代わり、そっちに夢中になりすぎて、約束したのにクラスメイトと遊ぶのを忘れてしまったり、宿題をやらなかったりで、親や先生を困らせたんだ」

 ジョルジアは、彼が論文を確認するのに熱中して七時間も部屋にこもっていた事を思い出した。「あまり友達もいない、かなり変わったヤツなんですけれど」そうリチャード・アシュレイが彼について評していた事も。彼の集中力と才能は、おそらく多くの人間関係の犠牲を強いてしまったのだろう。

 どんどんシマウマは増えていった。あっという間に、草食動物の群れがスケッチブックを埋め尽くしていく。サバンナの下草も、アカシアの樹も、側にいたインパラやヌーもまるで写真を「鉛筆スケッチ」というフィルターをかけて加工したかのように正確に描き込まれていく。

 彼女は、黙ってスケッチを完成させていく彼を見つめた。彼は、彼自身の宇宙に籠っていた。ジョルジアの存在はたぶん完全に消え去っているのだろう。

 それが無礼だと、多くの人が彼を責めたのかもしれない。もしくは自分が大切な存在と認められていないと判断して腹を立てたのかもしれない。けれども、そういう事ではないのだと、ジョルジアは思った。

 先ほどサバンナで見かけたシマウマたちは、絶対に安全だと判断するまではこちらを観察するのをやめなかった。観察している人間が無害だと確信しなければ安心して草を食むことはないのだ。彼もまた、誰の前でもこれほど無防備な姿を晒せるわけではないだろう。

 彼女は、彼女がシャッターを切る瞬間と同じ、ある種の真空を感じた。絶対に邪魔をしてはならない時間。完成するまで、黙って待つ事は彼女には困難ではなかった。

「す、すまない」
我に返った彼が動転して発した言葉が予想とぴったりだったので、彼女は声を立てて笑った。彼は、彼女の朗らかな様子にホッとして笑顔を見せた。それから、はにかんで出来た絵を彼女に見せた。

 彼女はそれをしみじみと眺めた。先ほどのサバンナで、確かに彼女もこの景色を見た。デジタルカメラを再生するまでもなく、彼の描いたどこも間違っていない事を確信する事が出来た。
「素晴らしい才能だわ。信じられないくらいよ。画家になればよかったのに」

 彼は首を振った。
「僕が描いているのは観察記録だよ。芸術とは違う。例えば、これをリビングに飾りたいかい?」

 そう言われて、ジョルジアは首を傾げた。確かにリビングに飾る絵とは違う。
「う~ん。そうね。ちょっとバランスが。……このシマウマをここに移動することは無理かしら」

「移動?」
「そうよ。構図なんだけれど、ここにみんな固まっているでしょう。実際にそこにいたからなんだろうけれど。でも、この繁みと重なっていてシマウマの柄が上手く出ないから、こちらの何もないところだとすっきりすると思うの。空の割合とのバランスもよくなるし」

「構図?」
「三分割構図や黄金分割なんていろいろなメソッドがあるけれど、でも、印象的であればそれにこだわらなくてもいいのよ」

 彼はページをめくると、面白そうに手の位置を動かした。
「ここかい?」
「ええ。それも少し手前に大きく」

 彼女が想像した通りのシマウマが現れる。そして、アカシアの樹、遠くに見える《郷愁の丘》、遠くで眺める仲間のシマウマたちも。不思議な事に、それは彼女にとっても現実のサバンナとは違うファンタジーに見えた。

 彼は楽しそうに笑った。
「本当だ。絵画らしくなってきたね」

「そうね……。でも、こうして見るとわかるわ。これは印象的だけれど、明らかに本物じゃないわね。それに、あなたの研究の資料としては間違いになってしまうわ」

 彼はそれを聞いて、彼女の方を見た。ロウソクの暖かい灯り越しに、研究の価値を尊重してもらったことの喜びが伝わってきた。

 彼はスケッチブックからその絵を切り取ると、彼女に渡した。ジョルジアはそれを両手で受け取った。
「皺にならないように持って帰らなくちゃ。宝物にするわ」
「そんなの、大袈裟だよ」
「いいえ。額に入れて飾るの」
そう言って彼女は、シマウマの背の部分をそっと指でなぞった。

 彼女は、一日どこかに引っかかっていた何かにようやく答えが見つかったような氣がした。

「ねえ、グレッグ。私、今朝は望遠レンズと、リバーサルフィルム用のNIKONを持ってこなかった事を後悔していたんだけれど……」
「けれど?」
「わかったの。今回の私に、それらは必要なかったんだわ」

 グレッグは首を傾げた。
「いまは景色や動物たちは撮らなくていいってことかい?」

 彼女は首を振った。
「私がいま撮らなくてはならないのは、違うものなの。あの朝焼けの色でも、サバンナの雄大なドラマでも、そしてこの星空の輝きでもない。次の写真集に欠けている最後のピースなの」

 新しいモノクロームの人物像だけで構成する写真集。彼女が撮ってきた写真に映っている陰影は、全て彼女の心の光と影だ。それでいて、モデルとなった人たちは、全て彼女からほど遠い人たちだった。彼女はかけ離れた位置に立ち、自らが立ち直れないほどに傷つくことはない光と影を映し出した。

 けれど心の奥に、傷つきのたうち回っている弱い自分が待っている。正視する事の出来ない痣を持つ鏡の向こうの醜い化け物。理解してもらう事を求めながら、逃げ回る事しか出来ない臆病な生き物。それでいながら、わずかな居場所から生きる証を発信したいという願い。

 ジョルジアは、どうしてもその陰影をも映し出さねばならなかった。

 それと向き合えなかったのは、確信が持てなかったからだ。確信を持てなかったのは、自分が進んでいる道が正しいのか、報せてくれる道標を見かけなかったからだ。けれども、彼女は、自分の直感が導いたこの地で、十分すぎるほどの啓示を受け取ったと感じた。《郷愁の丘》と、グレッグという人間と。

 これまで彼女が手探りで求めてきたものを、全く違う場所で、かけ離れたメソッドで、同じように探している「私に似ている誰か」。人間社会の決めた「呼び名」のどれに当てはまるのか、決める事は出来なくても、これだけはわかる。この人は私の人生にとって絶対的に必要な人なのだと。

 彼は不思議そうに彼女を見ていた。ジョルジアは、身体の向きを変えて彼を正面から見据えて言った。
「あなたを撮らせてほしいの」
「僕を?」
「ええ。ここで、シマウマたちと対峙しているあなたを撮りたいの」

 世界に作品を受け入れてもらえるかどうかはわからない。けれど、彼女が世界にさらけ出すのは魂の風景でなくてはならなかった。そして、今の彼女には、魂の心象とは彼を撮る事に他ならなかった。

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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(6)シマウマたち - 3 -

「郷愁の丘」です。四回に分けた「シマウマたち」の三回目です。

今回「たてがみの極端に短い雄ライオン」がでてきます。これはこの個体の話ではなく、マサイライオンという種類のライオンの特徴です。ツァボ国立公園にはこのマサイライオンがいるのです。ご存知の方もあるかと思いますが「ツァボの人食いライオン」で有名になったのもこのマサイライオンの二頭です。今回は人は食われませんでしたが。

また、後半でウルトラ・ロマンティックな舞台をガン無視して、相変わらず色っぽさゼロの会話をしている二人がいます。ここで迫らなかったら、いつ迫るんだ、まったく。あ、グレッグの絵を描く能力に関しては、次回までお預けです。すみません。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(6)シマウマたち - 3 -

 その話をしている間に、穏やかだったサバンナに異変が起きた。一番奥の方から、急激に頭を上げたトムソンガゼルに続き、シマウマたちがざわつきだした。その動揺は、緩やかな波のように群れ全体に伝わっていった。緊張が走り、やがて土ぼこりと共にまずグラントガゼルたちが、つづいて全ての草食動物たちが一斉にジョルジアたちから向かって左側へと走り出した。

「来た」
グレッグは、右のずっと遠方を指差した。
「何が?」
ジョルジアには、草とアカシアの樹々しか見えない。

「ライオンが、一、二、……五匹だ。ほら、もう君にも見えるんじゃないか」
その通りだった。土ぼこりを立てながら、駆けて来るライオンたちが見えた。

 草食動物の群れは訓練されたように美しい隊列を組んで走っていく。土煙が、何千もの脚が、草が大きく動き、静かだった世界が、躍動に満ちたスペクタクルに変わる。けれどこれは舞台ではなく、生死を分ける真剣勝負だ。ジョルジアの心臓は激しく鼓動を打った。

 生まれたばかりのまだ弱いヌーの仔が遅れて、やがて一番最後に取り残される。ライオンたちは、集中してその仔を追いはじめる。

「だめ!」
ジョルジアは、思わず叫んだ。一番先頭のライオンが追いついてその尻に飛びついた。たてがみが異様に短いが、それは雄ライオンだった。仔ヌーが倒れると、他の若い雌ライオンたちも飛びかかった。ジョルジアは顔を手で覆った。

 十分に離れたところで、草食動物たちは停まり、世界は再び静かになった。狩りが終わった事を知ったハゲタカたちが空から舞い降りて来る。ジョルジアは瞼を開き、草食動物たちがゆっくりと去っていくのを確認してから、グレッグの方を見た。

 彼は、彼女の方を見て頷いた。ほとんど無表情に近かった。けれど、その瞳には摘み取られてしまった小さな命に対する悲しみをたたえ、それでもそうして生きていくライオンたちの生命に対する尊重も感じられた。

「ここは、動物園じゃないものね」
ジョルジアが呟くと、彼は黙って頷いた。あの仔ヌーがかわいそう。そんな言葉はこのサバンナでは空虚な偽善でしかなかった。

 二人は夕暮れ時に家に戻った。サバンナの夕焼けも美しかった。ヌーの事を考えてジョルジアは言葉少なめだった。彼は彼女の思考を遮らず黙って運転した。それに、ぬかるんだ道を崖の上を目指して走る事は慣れたグレッグにも困難で、彼は集中して慎重に運転せざるを得なかったのだ。

 夕食の後、彼はテラスでワインを飲まないかと言った。ガラス製風よけのついたキャンドルに灯をともし、ガーデニアの樹の横に置かれたテーブルに置いた。少し厚めで頑丈なワイングラスに彼はワインを注いだ。

「まあ」
ジョルジアはいつの間にか広がっていた満天の星空に驚嘆の声を上げた。

 地平線の上は巨大なプラネタリウムと化していた。天の川がくっきりと見える。星は瞬いていた。しばらく星を眺めているうちに、彼女の沈んだ心は慰められていった。

「サバンナに長く居ればあの光景に慣れざるを得なくなるけれど、はじめて見るとショックだろうね」
「テレビでは見た事はあるし、動物園のライオンだって、ベジタリアンではない事くらい知っているのにね。それに、実は、私もステーキが好きなのよ」
「僕もだ」
「私たちは普段そういう事から無意識に目を逸らしているのね」

「草食動物は、食糧でしかないみたいに言われる存在だし、サファリでは草食動物なんか見ても面白くないという人たちもいる。保護の観点でも、絶対数が多いせいかかなり後回しになる」
「あなたはどうしてシマウマの研究をしようと思ったの?」

 彼は、少しの間言葉を切った。キャンドルの光に照らされたその口角は、優しく上がっていた。
「子供の頃に、シマウマの絵を描いて祖父に褒められたんだ。それでシマウマを描くのが好きになった。直接のきっかけはそれかな。でも、もう少しちゃんとした理由もあるよ」

 ジョルジアはクスッと笑った。
「そちらの理由もきかせて」

「僕の曾祖父、トマス・スコットもまた動物学者だったんだ。彼は、現在の父のように権威ある職に就いたりしたわけではないんだが、やはりこのツァボ国立公園でフィールドワークをしていてね。当時のこの地域の実態を事細かに報告した日誌を残したんだ」

「日誌?」
「ああ、とても細かい人だったんだね。サバンナでは、年によって水場があちこちに移動したりするんだけれど、その位置や水場を訪れていた動物の種類や数なども詳細に報告している。また当時はこの地域に自生していた植物などもスケッチに残していて、植物の生態系の変化なども今と比較するいい研究材料になるんだ」

「その日誌はどこにあるの?」
「父が持っているよ。もっとも、現在一番活用しているのはレイチェルじゃないかな。曾祖父はゾウのこともよく調べていたからね」
「そう」

「ヒョウやサイなどの個体数がとても少ない野生動物は、追跡も楽だし緊急性があるから研究費も集めやすい。数の多い草食動物の研究はどうしても後回しになりがちだ。ましてや、単調で束縛される事の多い長期間の調査は皆やりたがらないんだ。僕は、父やレイチェルのような斬新な仮説や際立った研究をするほど頭がいい訳ではないんだけれど、でも、コツコツとフィールドワークをして現状に関する調査をする事は出来る。それも子供の頃から一番好きだったシマウマの研究でね。さほど目立った成果は出なくても、その調査を何十年も続ければ、曾祖父の日誌のように、後世の偉大な学者たちの役に立つものを残せるかもしれない。それが僕がここで研究をしようと思ったきっかけなんだ」
「素晴らしいと思うわ。地味だし、とても忍耐のいる仕事よね」

「僕のように、どこにも出かける予定のない人間に向いているんだ。仕事と趣味が一致しているようなものだし、ここに住むのは好きだ。パーティにもいかなくて済むし」
それを聞いてジョルジアは吹き出した。

「あなたは、曾お祖父さまの研究との比較をしているの?」
「いや、まだそこまではいっていない。いずれは現在の調査結果と曾祖父のフィールドワークを比較するアプローチをしたいと思っている」

「あなたの曾お祖父さまの遺産ですもの、いつかきっとあなたのものになるわよ」
「そうだね。そう願っている」
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(6)シマウマたち - 2 -

「郷愁の丘」です。四回に分けた「シマウマたち」の二回目です。

グレッグの研究対象であるシマウマの観察に連れて行ってもらうジョルジア。いわゆる「サファリ」ですね。草食動物は群れになっていることが多く、一度にたくさん眺めることができます。あまりたくさんいるので、そのうちに、人々は草食動物を見るのに飽きてしまいます。

私はシマウマが大好きだったので、シマウマに対しては飽きませんでしたが、そういえば滞在の終わりにはトピやガゼルを見ても「ふ~ん」くらいにしか思わなくなっていたかも。でも、どの動物も、動物園の動物とはまったく違う佇まいで、ちょっと神々しいほどでしたよ。というような話は、今回のストーリーとは関係ないですが。

今回発表する分もそうですが、この小説は主人公たちが二人でいることがとても多くて、会話の具体的内容にとても苦労しました。とにかく、この二人、ずっと恋愛とは無縁のことを話しまくっているんです。一緒にいる時間が長いのでそのボリュームも半端なく、しかも私は写真家でも動物学者でもないので、何を話すんだろうかというところから始めて、悩みまくりでした。しかもストーリーに絡まってないといけないし。自然に表現できていたらいいんですけれど。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(6)シマウマたち - 2 -

 その話をしている間、ランドクルーザーはゆっくりと進み、道の悪い長い坂をいくつか下っていった。しばらくすると切り立った崖を背にしてどこまでも広がる広大なサバンナを走っていた。そこは《郷愁の丘》のテラスから眺めているあの土地だった。やがて、彼の目指す水場が近づいてきた。昨夜の雨で広がった大きな水源で、今朝テラスからそれを見て見当をつけていたのだ。彼は、離れた木陰で車を停めた。

 トムソンガゼルやインパラやヌーの大群が、ゆっくりと草を食んでいる。キリンの姿も見えたし、もちろん彼の観察対象であるシマウマもたくさんいた。陽炎の先に彼らが立ちすくむ。何頭かが、こちらを観察している。それ以上近づいて来ないかどうかを慎重に。安心したように頭を下げて食べだすものがいる。

 それは子供の頃の絵本で見たエデンの園のようだった。ジョルジアは、無意識に装備を手にしようとした。そして、休暇中だった事と、今回の旅に望遠レンズを全く持ってこなかった事を思い出した。

 彼は、固まっているシマウマたちを指差しながら、説明をした。
「あそこの二頭は姉妹だ。手前の子供は一週間ほど前に生まれた。かなり近くにハイエナがいたから随分ひやひやしたよ」
「まあ。ねえ、もしかして、シマウマを個別にわかっているの?」
「ここの調査は頻繁にしているから、特徴のある個体はわかるよ」
遠いせいでもあるが、ジョルジアには小さい仔シマウマ以外はどれも同じに見える。それを告げると彼は笑った。

 しばらくすると、動かないランドクルーザーに興味を持ったのか、それとも安心したのか、もっとずっと近くに動物たちが近寄ってきた。もちろん、すぐ側というほどではないが、それでも背の高いキリンなどが通り過ぎると、その姿に圧倒される。ジョルジアはコンパクトカメラを構えて、何回かシャッターを切った。彼は、何かを手元のノートに書いていた。小さい几帳面な筆蹟だ。

 氣がつくと昼どきになっていた。彼は、ルーシーに水と乾いた餌を少しやった。ジョルジアは、紅茶の入ったポットから二つのカップに紅茶を注ぎ、朝用意したランチボックスを開けた。

 長時間の戸外で悪くならないように、ジャムだけが挟まったあっさりとしたサンドイッチと塩だけしかつけないゆで卵。ジョルジアが見慣れている物に較べて黄身が白い。それにいくつかのオレンジ。彼はポケットナイフを駆使してあっという間に皮を剥いてくれる。

 ランチはあっさりしているが、目の前にたくさんの野生動物がいて、一緒に食事をしているのは愉快だった。食事の後も、観察と会話は続いた。

「先日した話の続きだけれど。人間の目は、シマウマの縞部分の写真を見てモノクロームとカラーを見分けられるものなのか?」
「ええ。見分けられるわ。もしそれがイラストで、全くただの二色だったらダメだけれど。もしわずかでもグラデーションがあれば、カラー写真にはいろいろな色が写っているの。もちろん、個人差もあるし、遠くから眺めたら、それだけで判断するのは難しいわね。でも、シマウマ自身はどうなのかしら?」

「彼らがモノクロームとカラーの違いにこだわるとは思えないな。少なくとも彼らと僕たちとは違う見え方をしていることはわかっている。ほ乳類のうち三色型色覚を持つのは霊長類だけでシマウマは二色型色覚だ。青と赤の違いは識別できないだろうね。黄色や緑は識別できるから新鮮な草とそうでないものは見てわかるのかもしれないね」
「色の違いを認識する必要はないってことね」

「そうだね。彼らにとってもっと大切なのは、周囲の動きを認識する事だからね」
「つまり?」

「目のついている位置を観察してごらん。横についているだろう? あの配置のおかげで視野がほぼ三百五十度あるんだ。背後で何かが動けばすぐに氣づく。肉食獣から逃げるために必要なんだね。ただし、両方の目で同時に見る両目視野はとても狭くて距離を測るのは得意ではない」

 ジョルジアは、なるほどと思いながらシマウマを見た。確かに彼らは振り向かずに後も見ているようだ。
「ライオンやチーターは?」

「追う方の肉食獣は、距離の測定がとても大切なので、立体的に見える両目視野が百二十度あるかわりに後方に全く見えない領域が八十度ある」
「よく出来ているのね」
「そうだな。非常によく適応している事はわかっても、どうしてそうなったのかはわからないんだ。さっき話にでた、二色型と三色型の色覚も、魚類では三色型や四色型色覚を持っていたのにほ乳類は一度色覚を失って二色型になり、その後に霊長類が再び三色型を獲得している」

 ジョルジアにとっては、色の違いはとても重要な関心事であると同時に、あたり前の事でもあった。色の違いによって表現するカラー写真と、陰影で表現するモノクロームの世界。それは人類がその違いを認識できるからこそ存在する表現方法だ。

 そのシステムを考える事は、作品の根源を見極める事でもある。そして、写真家のジョルジアにとってだけでなく、この会話は動物学者であるグレッグにとってもなんらかのインスピレーションになっていればいいと思った。

「シマウマって、本当に斬新なデザインの毛皮を着ているわよね。あたり前みたいに思っていたけれど。よく考えるとどうしてあんな風に進化したのかしら」
「それはいい質問だね。実は未だにはっきりとはわかっていないんだ。わりと最近までは、あの模様が集団でいると個体の区別がつきにくくなり襲われにくくなるからと信じられていたんだが、群れから離れると反対に目立ちやすくなるだろう」

「最近は別の学説もあるの?」
「ああ。体温調節のためとも言われていたけれど、最近一番有力だとされているのは、ツエツエバエを除けるのに有効だという説だ」
「ツエツエバエ?」

「吸血蠅でね。睡眠病を引き起こすトリパノソーマの感染の原因になるんだ。研究ではツエツエバエから検出される血液の中から、シマウマのものは極端に少ない事がわかっているし、ウマ科の他の動物に比較するとシマウマが睡眠病にかかりにくいこともわかっている。そして、吸血虫は色が均一でない所には着地しづらいという研究があるんだ。つまり縞があると刺されにくくなるといってもいいね」

「それは人間でも有効なの?」
「そうだ。ツエツエバエに刺されると人間も睡眠病になる。だから、まだらな服を着ている方がいいってことになるね」

「自然の叡智ってすごいのね。縞のある方がいいとシマウマの遺伝子にプログラムが書き込まれるまで、随分とたくさんの試行錯誤をしたんでしょうね。私たちがあっさり『進化論』と呼んでいるものだって、細胞が知っているわけじゃないんですものね」

 彼女の言葉に、グレッグは頷いた。
「進化論というのは、結果的に生き残ったものがどうして生き残ったかの理由付けとしてわかりやすいけれど、本当はそれだけでは片付けられない多様性もある。何千万年経っても、いまだに弱くて生存に向かない個体も普通に生み出され続けていることの説明はつかない」

「そうね。言われてみるとそうだわ。でも、絶対的な勝者じゃなくても、何とか生き延びる事が出来たなら、それはそれで生き残った事にならない?」

 彼は、ジョルジアを見て驚いたような顔をした。それから答えた。
「その通りだね。生き残るというのは正にそういう事だ。そして、そうやってなんとか生き延びた弱い生命の中から、次の環境変化に適応できたものが、思いもしなかった繁栄に預かることもある。そう思うと、僕もなんとか生きていくことに希望が持てるな」

「私もよ」
ジョルジアがそう答えると、彼は笑った。それは「君は弱者ではないだろうに」という否定の笑い方だった。ジョルジアは、少しだけ不満に思った。彼女はいつも自身を光に満ちた人びとの蔭に埋没した取るに足らない存在だと認識し続けてきたから。
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Posted by 八少女 夕

【小説】それもまた奇跡

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」六月分を発表します。六月のテーマは「メダイ」です。「なんだそれ」と思われる方もあるかと思います。カトリックで使われるお守りのようなメダルのことです。

宗教的なもの、とくに「奇跡を起こすメダル」の話をするとアレルギー反応を示される方もあります。特に私がカトリックを公言しているので警戒なさる方もあるかもしれませんが、今回の話はとくに信仰心や奇跡とは関係のない話ですのでご安心ください。むしろどちらかというと「塞翁が馬」的なストーリーですね。

全く必要のない情報ですが、出てくる男性が勤めている「健康食品の会社」の社長は「郷愁の丘」のヒロインの兄、マッテオ・ダンジェロだという設定です。でも、この作品には出てきませんし、これはただの読み切りです(笑)


短編小説集「十二ヶ月のアクセサリー」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月のアクセサリー」をまとめて読む



それもまた奇跡

 ケイトは、行ったばかりのデパート、ボン・マルシェの方に戻った。その近くにある『奇跡のメダイのノートルダム教会』に寄ってくるように、トレイシーに懇願されていたことを思い出したのだ。

 彼女自身はカトリックではなく真面目なキリスト教徒とはお世辞にも言えなかったし、聖母出現だの、奇跡を起こすメダルなどというものはナンセンスだと思っていたが、それを信じて待っている人間のために、デパートの帰り道に寄るくらいのことを断るほど偏狭ではなかった。でも、くだらないと思っていたせいか、もう少しで忘れるところだった。

「何それ?」
パリに行くと話した時に、トレイシーがおずおずと口にした願いを耳にしたケイトは、何を買ってくればいいのか全く理解できなかったので問い直した。

「奇跡を起こすメダルよ。楕円形でね。表に聖母マリア像と『原罪無くして宿り給いし聖マリア、御身に寄り頼み奉るわれらのために祈り給え』って意味のフランス語が、裏には十字架とM、それにジーザスと聖母マリアの心臓が打出されているの。パリの教会で買う事ができるの」

「一つの教会でしか買えないの?」
「他のカトリックの教会で置いているところもあるかもしれないけれど、似ていて違うものとあなたは見分けがつかないでしょう? 道端で売っているものや、通販などだと偽物がほとんどよ。そもそも転売は禁止されているの。だから、本家の教会で買って来てほしいの」

 トレイシーは、現在入院中でパリに自ら行くことはできない。奇跡が必要なほどの重病でもないので、わざわざ家族が行くこともない。要するに親友が行くついでに欲しいと言ってみたのだろう。ケイトは、「わかったわ」と頷いた。

「ところで、その教会にそのメダイとやらは一種類しかないの?」
「いいえ。銀色だったり、ブルーだったり、いろいろとあるみたいだけれど、その教会で売っていればどれも本物だわ。このお金で買えるものを買ってきて。おつりはあなたにあげるから、好きなものを買ってね」

 彼女の手渡してくれたドル紙幣は、とっくにユーロに両替した。これで買って行かなかったら詐欺になってしまう。六月の日差しは刺すように強い。今日はとても暑い。何も考えずにタンクトップできてしまったけれど、その教会にこの格好で入れるかなあ。ケイトは先ほど暑くてしまったスカーフをカバンから取り出して、申しわけ程度に肩から羽織った。

 白い教会の門は、先ほど通り過ぎたところだった。中に入り、きょろきょろと見回した。熱心な信者なら教会で祈ってからメダイを買いに行くのだろうが、ケイトはそれを省略して売店に直行した。ボン・マルシェでの買い物にはあれほど時間をかけたのに、しかも、この後にスケジュールが詰まっているわけでもないのに、ひどい態度だ。敬虔なカトリックだった亡き祖母が知ったら、さぞ憤慨したことだろう。

 メダイはどこにありますかと訊く必要もなかった。壁際にたくさんぶら下がっていて、人びとが次々と買い求めていた。ケイトは近づいて見て驚いだ。一つ一つを結構な値段で売っているのかと思ったのだが、多いものは50個ほどがビニール袋にどさっと入っている。それでいて15ユーロほどの値段だから、ほぼ材料費だろう。最もいいものも一つ六ユーロなので、商売として売っているのではないようだ。

 ふーん。よくわからないけれど、とにかく買って帰ろう。

 トレイシーが身につけるように、一番高い一つ入りのものを一つ、それから彼女が他の人にプレゼントできるように大入袋を一つ買った。それに、信じていないのにどうかと思うが、試しに十個入りのものを自分用に買った。これはトレイシーから預かった金額ではなく、自分のお財布から出したつもりで。

 
* * *

 
 こんな踏んだり蹴ったりの旅は生まれて初めて。ケイトは心底腹を立ててシャルルドゴール空港のベンチにうずくまった。ケチがつき始めたのは、ボン・マルシェに行った水曜日からだ。

 ホテルに戻るとフロントの感じの悪い男に「さっさとチェックアウトしろ」と言われた。金曜日まで六泊する予約だから今日チェックアウトするはずはないと答えると、予約は三泊だけで昨夜までだという。

 そんなはずがあるかと予約確認書を見たら、どういうわけか本当に三泊分だけだった。慌ててインターネットで探してなんとか残りの三泊分の宿を確保したが、少し郊外で足の便が悪かった。そのせいで帰りの空港行きバスに乗り遅れた。

 次のバスで空港に向かうと、飛行機には乗れないという。まだチェックインは締め切っていないのになぜと問いただすと、ダブルブッキングでもう席がないという。次の便に代わりの席を用意してくれるというが、それでは乗り継ぎ便に間に合わなくなり、最終的には八時間も遅れることになった。

「はあ。本当に腹がたつ。こっちで八時間遅れるなら、まだパリ観光ができるのに」
ケイトは、使い切ろうと買い物をしてしまったために残り少ないユーロで、バゲットサンドイッチとオレンジジュースを買い、ゲート前のベンチで食べた。

 財布の中は、わずかなコインと、水曜日に買って財布に突っ込んだ『奇跡を起こすメダイ』だけが虚しい音を立てていた。
「そういえば、これを買いに行ったっけ。奇跡が起こるって言われたけれど、反対じゃない。礼拝堂に行かずにこれだけ買いに行ったのがいけなかったのかしら」
サンドイッチをかじりながら、ケイトはメダイをながめて首をかしげた。

「失礼。この席は空いていますか」
その声に振り向くと、スーツを着た小柄な男が立っていた。周りを見回すと、確かにもう空いているベンチはほとんどなく、ケイトは隣の席に置いていた彼女の手荷物を足ものとに置き直して「どうぞ」と言った。

 男は「ありがとう」と言って腰かけた。それからケイトの手元のメダイを見て話しかけた。
「カトリックですか」

「え。いいえ。母方の祖母はカトリックでしたが、私はプロテスタントで洗礼を受けています。もっとも、大人になってからは冠婚葬祭以外では一度も教会に行っていないかも。これは、友人に頼まれて買いに行ったついでに、つい自分用に買ってしまっただけ」
「どこで?」
「『奇跡のメダイのノートルダム教会』よ。他にもあるの?」

 男は身を乗り出してきた。
「ええ。同じデザインのものはあちこちの教会で売っています。けれど、いわゆる『奇跡を起こすメダイ』は、その教会で買ったものだけなんです。通信販売などはなく、しかもプレゼントは構わないが転売は禁止されていて、インターネットなどで売っているものでは奇跡は期待できないんです。では、あなたは本物を買われたんですね。羨ましい」

「あなたはカトリック? これを買いそびれたの?」
そうケイトが訊くと、男は頷いた。
「ええ。こちらにはビジネスで来て、昨日、やっと時間が空いたので買いに行ったんですが、教会が見つからなくて探している間に売店が閉まってしまったんですよ。闘病している母に頼まれたんですが、買えなくて残念です」

 ケイトは、それを聞くとカバンからビニール袋を取り出した。十個もいらないと思っていたところだったから。中から五個とりだすと、男に渡した。「どうぞ」

「え。そんなつもりではなかったんですが、本当にいいんですか? お支払いしますが、おいくらでしょうか」
「転売すると効果がなくなるんでしょう? 大した値段じゃなかったし、プレゼントするわ。お母さん、早く治るといいわね」

 男は、「ありがとう」と言って頭を下げた。
「お礼にご馳走させていただけませんか。目的地はニューヨークですか? それともどこかへ乗り継ぎですか?」

「ロサンゼルスまで行かなくちゃいけないの。実は、前の便にオーバーブッキングで乗れなくて、ニューヨークで四時間も待たなくちゃいけないの」

「でしたら、空港の近くのおいしいレストランにご案内しましょう。空港内よりもおいしいものが食べられますし」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて遠慮なく」

「僕は、ブライアン・スミスと言います」
「私は、ケイト・アンダーソンよ。よろしく」

 搭乗の案内が始まった。ファーストクラスとビジネスクラスから先にと言われ、ケイトはブライアンが立ち上がったのを座ったまま見送った。
「エコノミーなんですか?」
「ええ」

「ちょっと待ってください」
ブライアンは、カウンターに行くと何かを係員と話してからケイトに来るように合図した。なんだろう?

 ケイトがカウンターに行くと、係員が彼女の搭乗券の提示を求めた。
「こちらのスミスさまのマイレージで、ビジネスクラスにアップグレードをいたしますね」
「え? そんな、悪いです」
「いいんですよ。どっちにしても、マイレージは使い切れないんですから」

 係員の計らいで、ブライアンの隣の席にしてもらい、ニューヨークまでのフライトで彼とずっと話すことになった。話は面白いし、感じのいい人だ。

 話しているうちに、彼は健康食品の販売で有名な会社の重役であることがわかった。ふ~ん。道理でマイレージを捨てちゃってもなんでもないわけだ。ケイトはちらりと彼の上質なスーツを眺めた。若いのにすごいなあ。エリートってやつかあ。パリに遊びに行くのに五年も旅費を貯めなくてはならないケイトとは、随分と違う世界に住んでいる。

「ロサンゼルス市内にお住まいなんですか? 実は、今度の土曜日にロスの母の家に行く予定なんですよ。もしお時間があったら一緒にいかがですか。メダイを譲ってくれたご本人に母は会いたがるはずですから」
ブライアンはニコニコと笑いかけた。

 ええっ。これっきり二度と会わないはずだと思っていたけれど、この人そうじゃないの? いやいや、失礼な想像をしちゃダメよね。こんなにお金持ちで有能そうで性格も良さげな人は、放っておいても女性が群がるだろうし。まあ、ものすごくかっこいいってわけじゃないけれど……。

「ええと。その日は、私もトレイシーに会ってメダイを渡す予定なんです。彼女は今月いっぱいUCLAのリハビリ科にいて、そこなら我が家からそんなに遠くないし、それに彼女はこれを待っていると思うので……」

 その後でもいいなら、という前にブライアンは身を乗り出してきた。
「UCLAメディカル・センター? トレイシーさんはそこに入院しているんですね。なんて奇遇なんだろう」

 あ。トレイシーのお見舞いにも行くのね。ま、そうだろうなぁ。それじゃ、きっと彼女に夢中になるな。男性は、みんなトレイシーみたいな美人が好きだし、ましてや入院中の儚い感じは破壊力抜群だもん。よけいな期待しないでよかった。うんうん。

 ケイトは、変に安心して、自分の幸運の取り分を大いに楽しむことにした。すなわち、このビジネスクラスのフライトと、ニューヨークのレストランでの豪勢なランチだ。五個全て足しても五ユーロに満たないメダルと引き換えのラッキーとしては、奇跡とまではいかないけれど十分お釣りがくるだろう。ホテルを追い出されたことやフライトの遅れを差し引いても。

 ブライアンが連れて行ってくれたのは、予想に反して高価そうに見えないイタリア・レストランだったが、何もかも信じられないくらいおいしかった。食事がまずいことで有名な空港界隈にこんなにおいしいレストランがあるなんて。さほど値もはりそうになかったので、ケイトは安心して食べたいものをオーダーした。おいしいワインに、もちろん終わりのドルチェまで。もっともその食事で一番よかったのは、ブライアンとの楽しくて興味深い会話だった。

* * *


「ケイト! 奇跡をありがとう」
土曜日に、約束通りにメディカル・センターへ行くと、トレイシーが待ち構えていた。

「トレイシー。私があれをちゃんと買えたって、どうしてわかるのよ」
ケイトは笑いながら、『奇跡を起こすメダイ』を鞄から取り出してトレイシーの透き通るように白い手のひらに置いた。

「だって、スミスさんが全部話してくれたもの。そしてね。私たち、おかげで婚約したの!」
トレイシーの発言に、ケイトはずっこけた。いくらなんでも展開が早すぎる。

「え? も、もう?」
「ふふ。私たち、ずっとお互いにいいなって思っていたのよ。でも、ケイトの冒険のおかげで、月曜日からずっと個人的に話をすることになって……」

 えっ、月曜日? ケイトは首を傾げた。
「ミスター・スミスったら、そんなにすぐにここに来たの?」

 トレイシーは、きょとんとしてから、笑い出した。
「ごめんなさい。説明不足だったわね。私の言っているのは、あなたが出会ったブライアン・スミスさんの弟のダニーのことよ。ここで療法士をしているの。そもそも、あの『奇跡を起こすメダイ』のことを教えてくれたのもダニーなの。あなたとお兄さんがバリで知り合って、しかもメダイを譲ってもらったと聞いて、翌日に興奮して話に来たのよ。それがきっかけで、私たち、お互いにいいなと思っていたことがわかって」

 ケイトは、なるほど、と思った。婚約したのは弟さんか。ケイトはうっとりするトレイシーのますます綺麗な横顔を眺めた。
「今週に入ってから、私の回復のめざましさに、先生たちも驚いているわよ。やはり『奇跡を起こすメダイ』なのね。ケイト、本当にありがとう」
いや、それはメダイのおかげというか、愛の力なんじゃ……。そういう無粋なことは、この際言わないほうがいいのかな。

「で。ミスター・ブライアン・スミスは、お見舞いに来たの?」
「いいえ。でも、昨日ダニーがあなたの来る時間を訊いてきたの。きっとブライアンはもうじき来るでしょうね。あなたにしては、妙に首尾よく彼を夢中にさせちゃったのね、ケイト」

 ええっ? なんの冗談?
「それはないと思うわよ。もう二度と会わないと思って、ガサツに食べて飲んじゃったし」

 トレイシーはウィンクをした。
「ダニーによると、彼はあなたのことを周りに全然いなかったナチュラルなタイプで、とても氣になるって言っていたんですって。そもそもあなた、新しい出会いなんて全然ないってこぼしていたじゃない。これもメダイの奇跡かもしれないわよ」

 あんなに真面目に祈っている人たちの信じているメダルで起こる奇跡が、こんなどうでもいいことのわけないじゃない! まあ、でもラッキーというのはどんな形でもうれしいけれど。

 病室の外でコツコツと靴音が近づいてきた。ノックの音が聞こえて、ケイトは、真っ赤になった。


(初出:2017年6月 書き下ろし)

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この小説で扱っている『奇跡を起こすメダイ』はこういうメダルです。(画像はWikimedia Commonsより)

Miraculous medal
By Xhienne (Own work) [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 2.5-2.0-1.0], via Wikimedia Commons
Medal of the Immaculate Conception (aka Miraculous Medal), a medal created by Saint Catherine Labouré in response to a request from the Blessed Virgin Mary who allegedly appeared rue du Bac, Paris, in 1830. The message on the recto reads: "O Mary, conceived without sin, pray for us who have recourse to thee — 1830".
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 3 -

「郷愁の丘(5)朝焼けの家」、三回に切った最終部分です。少し長くなってしまいましたが、四回に分けるほどの量ではなかったので、このまま行きます。

今回書いたうち写真集に関する部分は、前作を読まれた方には重複になるかと思いますが、前作を読んでいな方へのダイジェストとして書き加えました。

また、後半部分では、グレッグがモテない理由がいくつかでてきます。生真面目で堅いだけが理由ではないんですね。とくに七時間の件は、やったら大抵の女の子は怒って去りますって。悪氣は全くないんですけれど。ジョルジアは、ぜんぜんへっちゃらでしたが。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 3 -

 明らかにきちんと仕事をしていないにもかかわらず、アマンダが帰ってしまったので、ジョルジアは余計なこととは思ったが、彼女の感覚での「ちゃんとした掃除」をしてから道具をしまい、また読書に戻った。

 グレッグは、その間一度も出てこなかった。それどころか昼の時間を過ぎて、ジョルジアが愛犬ルーシーとひとしきり遊んだ後になっても。

 裏庭には建物のすぐ近くに二本の大きなガーデニアの樹があって、優しい木陰を作っていた。その間にはキャンバス地のハンモックが吊るされていて、グレッグは時おりそこで昼寝をするのだと言っていた。何時でも自由に使ってくれと言われたのを思い出したジョルジアは、その上で読書の続きをしたり、しばらくうとうとしたりしなから、時おり鍋の様子を見てのんびりと時間を過ごした。

 その間、たくさんの野鳥たちがテラスを訪れた。黄色、赤、青、目の周りに模様のある鳥や、尾の長い鳥もいた。さらには宝石のように金属的な照りのある青い鳥がやってきて、ジョルジアは一人歓声を上げた。ルーシーは嬉しそうに尻尾を振った。

 インターネットはなかった。電話もなかった。今どき見かけないような古風なテレビやラジオもあったが、その日は電波が弱いらしくて使い物にならなかった。台所の窓のあたりにくるとiPhoneでメールチェックをする事は可能だったが、インターネットを快適に見られるほどではなかった。昨夜ジョルジアがしたメールチェックをグレッグが意外そうに見ていたのがおかしかった。

「そうか。この位置ならデータ通信が出来るのか。僕は携帯電話しか使わないし、そちらはほとんど問題ないのだけれど、前にマディがここはメールチェックも出来ないと憤慨していたんだ」

「Eメールがないと困らない?」
ジョルジアは訊いた。

「週に一度は講義で大学に行くので、その時に通信しているよ。僕がその頻度でしかメールチェックをしないので、急ぎの人は携帯電話かSMSで連絡してくる。でも、ここでもメールチェックが出来るなら、いずれはスマートフォンに変えた方がいいかな」
グレッグは肩をすくめた。

「どうかしら。メールに追われずに済むのって、現代社会では特権みたいなものだから、このままでもいいのかもしれないわよ」
その自分の言葉を思い出したジョルジアは、笑ってエアプレーンモードに切り替えた。

 こんなに「何もせずに過ごした」のは何年ぶりだろう。ジョルジアは、そのつもりがなくても自分はニューヨーク式の秒刻みの生活に慣れすぎていたのだと思った。いろいろな写真のアイデアが頭の中を通り過ぎていく。必要だったのは、別の物を見ることではなかった。外部からの刺激を減らしてアイデアが自由に行き交うスペースを確保することだったのだ。

 彼女は、最終段階にきている新しい写真集の事を考えた。

 一年半前の十一月、ニューヨークのウッドローン墓地で起こった事が始まりだった。それはとある追悼詩に使う墓石の写真を撮る仕事で、普段は使っていなかったILFORD PAN Fのモノクロフィルムを入れたライカを構えていた。その時に偶然視界に入ってきた男の佇まいに、彼女は衝撃を受けた。そして、氣がついたら夢中でシャッターを切っていた。彼女は、それをきっかけにモノクロームで人物像を撮りはじめた。

 彼女がそのまま恋に落ちてしまった知り合ってもいない男、彼女を愛し導いてくれる兄や妹、よく行くダイナーのウェイトレスで今や最良の友になったキャシー、誰よりも親しい同僚であるベンジャミン、そして、その他に少しずつ勇氣を出して向き合い撮らせてもらった幾人かの知り合いたち。どの写真にも映っていたのは、人生の陰影だった。モデルとなった人びとの陰影であると同時に、それはジョルジア自身の心の襞でもあった。彼女が選び取った瞬間、彼女が見つけた光と影。

 この旅が終わった後に編集会議があり、これまで撮った中から新しい写真集で使う写真を選ぶことになっている。彼女が考えているどの写真にも自負があり、意味がある。けれども、何かが足りなかった。彼女の中で、誰かが訴えかけている。一番大切な私をお前は忘れている。もしくは、蓋をしてみなかった事にしようとしていると。ニューヨークでは、それが何だか彼女には皆目分からなかった。ここ《郷愁の丘》でもまだわからない。だが、声はずっと大きく、もしくは近くで囁くように聞こえた。

* * *


 ばたんと扉が開いた音がして、まるで転がるように彼はキッチンに入ってきた。あまりの勢いだったのでジョルジアは何かあったのかと心配した。
「どうしたの?」

「え。いや、その……君を放置したまま、半日以上も……」
「ああ、そんなこと。論文は進んだ?」

 ジョルジアは、鍋の蓋を取って中を覗き込んだ。スプーンですくって味を見ると満足して火を止めた。彼は、テーブルの前に立ちすくんだ。
「その香りで、我に返ったんだ。なんて美味しそうな匂いなんだろう、お腹が空いたなって。それで、時計を見たら……」

 キッチンの隅々に夕陽の赤い光線が柔らかく入り込んでいた。ジョルジアが湧かしたお湯にスパゲティを投入するのをじっと見つめながら、彼は項垂れた。
「本当に申し訳ない。こんなに時間が経っていたなんて」

 ルーシーが、その側にやってきて慰めるようにその手を舐めた。ジョルジアは、テーブルの上にサラダボウルと取り皿を並べた。
「飲み物は、どうしたらいいかしら?」

 グレッグは、あわてて戸棚から赤ワインを取り出した。彼が栓を開け、ジョルジアは、食器棚からグラスを二つ出した。それから、二人でテーブルに向かい合った。

「夢中になって時間を忘れてしまうこと、私にもよくあるの。アリゾナで脱水症状を起こしかけたこともあったわ。ほんの半時間くらいのつもりだったのに、四時間も撮っていたの」
「それは大変だったね。でも、今回はもっとひどいよ。こんな何もない所に君を七時間も放置したなんて」

 ジョルジアは、微笑んだ。
「ルーシーと遊んだし、あのハンモックの上で持ってきた小説を読み終えたのよ。それに我慢ができなくて、少し写真も撮ってしまったの。初めて来た所なのに、こんなにリラックスして楽しんだことないわ。おかげで新しい仕事のアイデアがたくさん浮かんできたのよ。それに、これも作れたし」

 ジョルジアは、アルデンテに茹で上がったスパゲティとボローニャ風ソースをスープ皿に形よく盛りつけた。渡そうとした時に、彼が黙ってこちらを見ているのに氣がついた。朝食の後、何も食べていなかったようだし空腹だろうとは思ったが、グレッグの瞳が潤んで見えるのを大丈夫かと訝った。
「具合が悪いの?」

 彼は、はっとして、それから首を振った。それからいつものようなはにかんだ表情をしてから小さな声で言った。
「君にこんな家庭的な一面があるなんて、考えたこともなかった」

 ジョルジアは、彼の前に皿を置いて答えた。
「それは食べてから判断した方がいいんじゃない? どうぞ召しあがれ」

 彼は、スパゲティを絡めたフォークを口に運ぶと、目を閉じてしばらく何も言わなかった。ジョルジアがしびれを切らして「どう?」と言いかけた時に、瞳を見せてため息をもらすように「美味しい」と言った。兄マッテオがこのパスタソースについて毎回並べる何百もの讃辞に較べると、拍子抜けするほどあっさりとした意見だったが、その口調は兄の賞賛に負けないほど深いものだったので、ジョルジアは満足した。

「どんな魔法を使ったのかい?」
彼は台所を見回した。料理は得意ではないから、最低限の調味料しか持っていない。アマンダが届けてくれた野菜も、昨日肉屋で一緒に買ったひき肉も、普段と全く同じで、特別なものは何ひとつない。訝るのも当然だった。ジョルジアは肩をすくめた。

「特になにも。ちょっと時間がかかるだけで普通のボローニャ風ソースと一緒よ。祖母に習ったの」
「イタリア系のアメリカ人は、みなこういうパスタソースを食べるのかい?」
「いいえ、そうでもないわ。みな忙しいもの。スーパーマーケットの出来合いのソースで食べる方が多いんじゃないかしら」

「君も?」
「そりゃよそで出てきたら食べるけれど、自分で作るならこうやって作るわ。家にいる日ってあるでしょう? 他のことをしながら作ればいいのよ。たくさん作って、余ったら冷凍して置くの。もっとも、兄にこれを作ったのがわかると、たいていすぐにやってきて食べちゃうんだけれど」

「お兄さんがいるのかい?」
「ええ、マンハッタンに住んでいるの。妹もいるわ。彼女はロサンゼルスに住んでいるの」
「そうか」

 彼はわずかに遠くを見るような目つきをした。ジョルジアは、彼が自分の家族のことを考えているのだと思った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 2 -

「郷愁の丘(5)朝焼けの家」の第二回目です。

今回はじめてアマンダという女の子が登場します。要するにお手伝いさん的な仕事をしている女性ですが、こうした使用人を雇うのはわりと普通の事です。スイス辺りだと時給が高いので、大学講師で糊口を凌いでいる貧乏な研究者が使用人を雇うなんて不可能なのですが、それが出来てしまうのがアフリカなのかもしれません。

もっとも、グレッグは掃除くらいはできますが料理はさっぱりなので、こうした使用人もなしに一人で地の果てに暮らしているという設定は、ちょっと無理があるかもと思いました。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 2 -

 彼は朝食を用意していた。
「スクランブルエッグは、そこそこ普通に作れるんだ。目玉焼きだとあまり自信がないけれど……。どっちが好みかな?」
「お得意なスクランブルエッグをお願いするわ。それに、必要なら何かお手伝いするわよ」

 そして、二人で作った朝食をキッチンから運ぶと、ダイニングテーブルに向かい合って座り、朝食をとった。

 ジョルジアは、窓から見た朝焼けの魅力について話した。彼は、彼女の熱意に嬉しそうに耳を傾け、それから言った。
「ここは、マサイの言葉では《Ol-dóínyó olíyio》と呼ばれているんだ」
「どういう意味なの」

「隔離されて寂しい丘。世界に自分一人しかいないような心持ちになるからだろうね」
「《郷愁の丘》はロマンティックに響くけれど、マサイの呼び名にも一理あるわ」
「彼らは、僕らのような甘い言葉は使わないのかもしれない。もしくはもっと感受性が研ぎすまされていて、言葉による遊びはしたくないのかもしれない」

「あなたはマサイの言葉もわかるのね」
「いや、わかるというほどではない。簡単な挨拶は出来るけれど、彼らの言葉は難しいんだ」
「文法が?」
「それもあるけれど、僕たちの言語では全く違う概念に同じ単語をあてはめたりするので、何の話をしているのか理解するのが難しい。だから、結局は英語で話してもらうことになる」

「昨日のあの女の子もマサイ族なの?」
ジョルジアは、昨日ここに着いた時に、門の前で待っていた若い女性のことを考えた。ずっと大人しかったルーシーが、ものすごい勢いで吠えて、それは彼女が仕事を終えて去るまで続いた。その娘は忌々しそうにルーシーに舌打をして、それから、ジョルジアの事も睨みつけたようだった。

「いや、アマンダはキクユ族だ。ここから十キロくらいのところにキクユ族の集落があって、そこから通ってくる」
「十キロも歩いて?」
「ああ」
「大変なのね」

「実は、来てもらいたくて頼んだわけじゃないんだ。アマンダの家族が仕事を欲しいと言って来てね。断ってもいいんだけれど、よけいなトラブルを避けるために、来てもらっている。まあ、僕も家事が得意って訳ではないし」

 ジョルジアは、アマンダの緩慢な仕事ぶりを思い出した。拭き掃除も目についた所を少し触れるだけ、シンクに置かれていた食器類はずいぶんとたくさんの洗剤を使っていたわりに汚れが落ちきっておらず、ジョルジアは彼女が帰った後、食事を用意する時にそっと洗い直した。

 朝食の後、グレッグは戸惑いながらジョルジアに言った。
「申し訳ないが、できるだけ早くレイチェルに返さなくてはならない資料があるんだ。今日中に論文のその部分を確認したいんだけれど、しばらく君をひとり放置しても構わないだろうか」

「もちろんよ。私のことは氣にしないで。もし差し支えなかったら、勝手にお昼ご飯の用意をしていてもいい?」
「え。それは、申し訳ないな。でも、僕が用意しても大して美味しいものが作れるわけじゃないからお願いするかな……ここにある物は何でも自由に使っていい。わからなかったら訊いてくれれば……」
「火事にでもならない限り、ひとりでなんとかするわ。邪魔しないから安心して」

 一番近い街イクサまでは車で一時間近くかかる。ニューヨークでは、身近なもので足りないものがあれば徒歩で、大きい買い出しには車で十五分もあれば何でも揃う大型ショッピングセンターに行くことが出来る。だから、サバンナの真ん中に住むというのはちょっとしたサバイバル生活のように思える。彼はガスボンベや発電用のオイル、それに日常品の買い出しは大学に講義に行く時や用事があって街に出かける時にしていると言った。昨日も帰りがけにイクサの食料品店に寄って、何種類かの肉や卵を買った。スーパーマーケットと呼ぶにはずいぶんと小さな店だった。

 ジョルジアは、ひとまず冷蔵庫と貯蔵庫を調べた。思ったよりも充実している。野菜は、アマンダが届けてくれると言っていたが、こんなにたくさん持って十キロも歩くのは大変だろうなと思った。

 瓶詰めのスパイスの類いもいくつか発見した。これらは使った形跡もないが、古くても未開封なら問題はない。彼女の一番好きなパスタソースを作るのに足りないものはなかった。アフリカの強烈な日光を浴びて、トマトは十分に甘く熟している。

 それから三十分後には、ジョルジアは鍋の中でソースを煮込み始め、使った他の調理器具を洗い始めた。手際よくすべてを洗うと布巾で乾かして定位置に納め、台所の椅子に座って小説を読み始めた。

 そのすぐ後に、庭先でルーシーがものすごい勢いで吠えだした。どうしたんだろうとジョルジアは椅子から立ち上がって首を伸ばしたが、見えなかった。ガタッという音がしたので扉を見ると憮然とした顔でアマンダが立っていた。

「何をしているのよ」
彼女はツカツカと鍋に歩み寄ると、勝手にふたを開けた。
「何これ」
「パスタソースよ。イタリア料理なの」

 アマンダは、ジョルジアの答えに満足した様子はなく、乱暴に蓋を閉めると、シンク周りを見回した。全てが片付けられてやることはなくなっていた。

 それから裏から箒を持ってくると、乱暴に床を掃き始めた。ジョルジアの座っている下を掃く時に彼女の足にゴミがかかるような動きをしたが、彼女はさっと立ち上がって難を逃れた。
「お邪魔だったのね。終わるまで外で待ちましょうか」

「あんた、いつまでこの家にいるつもり?」
アマンダのトゲのあるいい方にジョルジアは戸惑った。
「数日はいると思うけれど」

 アマンダはもともと出ている唇を大きく突き出して、敵意を込めて睨むと雑巾をシンクに叩き付けて出て行った。ジョルジアは、もしかして、この娘はグレッグと雇用主と使用人以上の関係なのではないかと思った。

 その途端、胃のあたりがちくりとしたように感じた。彼女はグレッグのいる部屋の扉を見た。これは何なのだろう。それから彼女がずっと片想いをしているはずの男と彼が婚約するだろうと噂されていた美しい女性のことを思った。どちらも同じようにジョルジア自身の人生とは直接関わらないはずの関係。

 ジョルジアが、かつてそのジャーナリストと知り合う可能性があったパーティで、その日本人女性と一緒にいる姿を見かけたとき、彼女は苦しくて悲しかった。けれど、あの時、私は不快に思っただろうかと彼女は訝った。否、決して不快には思わなかった。ただ、自分が惨めで辛かっただけだ。

 一方、今の感情は何なのだろう。グレッグの想いに応えられないのならば、たとえどんな形にせよ彼に誰かがいることを喜ぶべきだろうに、どうして私はそれを嫌だと感じたのだろう。これは嫉妬なのかしら。だったらなぜ? 私は彼に惹かれ始めているんだろうか? ジョルジアは混乱したまま、しばらく廊下の奥を眺めていた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 1 -

「郷愁の丘(5)朝焼けの家」の第一回目です。ジョルジアは、グレッグの住む《郷愁の丘》に来ています。ここは九千字を超えているので分けています。綺麗に三回や四回に分けられればよかったんですが、そうはいかず、とりあえず三回に分けていますが三回目だけがすこし長くなります、すみません。新聞の連載小説を書いているプロの小説家って、本当にすごいなあ。

ともあれ、今回発表する部分は、本当に何度も何度も書き直しました。しかも、この作品の一番最初に着手した部分でもあります。本当はこの章のサブタイトルを「郷愁の丘」にしようかと思っていたんですが、本タイトルにしてしまったのでここは「朝焼けの家」にしました。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(5)朝焼けの家 - 1 -

 ここはどこだろう。目の醒めたジョルジアは、はじめニューヨークのソーホーにある地下レストランのことを考えた。それは狭くて騒がしい赤い照明が特徴の店で、壁に飾った七十年代風のオブジェも全て赤く染まってしまい、非現実的で落ち着かなかった。

 あの店にいるはずはない。ニューヨークのレストランに枕や布団があるはずはない。彼女は枕に手を触れて、ゆっくりと起き上がった。騒がしい音楽も、狭くて人いきれがして領域を侵害される感覚もなかった。

 ここは、《郷愁の丘》だ。昨夜到着したグレッグの家、彼に案内された客間。昨夜電灯をつけた時には普通の部屋だったのに、どうしてここはこんなに赤いのだろう。

 そして彼女はすぐに納得した。その赤い光は、東に面した大きいガラス窓から入ってきているのだ。《郷愁の丘》の敷地は七十メートルほどの崖の際にあった。客間の外は広々としたテラスとほぼ自然のままの庭が崖まで続き、その先にはサバンナが地平線まで広がっていた。そして、これまで見たことのないような鮮烈な朝焼けは、そのどこまでも続く広い大地を舞台に繰り広げられていた。

 火事のように燃える朝焼け。どこかで聞いたことのある言葉。それは、そんな簡単な表現や、テレビや映画の映像では決して再現することの出来ない強烈な光景だった。

 ジョルジアは、立ち上がり、ガウンを羽織るとテラスに通じるガラス窓に歩み寄った。

 自分の力で歩いているのか確かではなかった。息をしているのかも自信がなかった。これまでいたのと同じ惑星ではないように感じる。世界が燃え立っている。地平から上が、暖かい赤から黄色に近いオレンジへのグラデーションで彩られていた。遮るものは何もない。あったとしても、小さく意味もなかった。視界の全てはその色だけ占められた。ジョルジアの全感覚を支配したままゆっくりと変化する色の競演。陽炎のごとく揺らめいて広がっている。

 いいしれぬ感情は、光を捉える虹彩で感じているのではなかった。それはもっと深く強い激流として彼女の足元から、腹部から、螺旋を描きながら狂わんばかりの激しさで湧き出ている。立っていられることが奇跡のようだった。

 彼女は、あまりの強烈な色の輝きに写真を撮ることも忘れてただ眺めていた。

「一度アフリカに来たものは、いつの日か再びアフリカに帰る」
その言葉は、これまで知識や概念として彼女の中にあったが、今、彼女の中で叫んでいるのはもっと別の強い感情だった。

「いつの日か、私はここに帰る」

 彼女が再びケニアを訪れたのは、一度見た光景を忘れられなかったからではなかった。なぜここに来ようと思ったのか、彼女には説明できなかったし、意味など何もないと思っていた。そうではなかったのだ。彼女は、どうしても来なくてはならなかった。まだ一度も見たことのないこの世界を自らの目で見るために。

 それはナイロビでも、モンバサでも、マリンディでもなかった。雑多で混沌とした都会や、藁葺き屋根がリゾートの雰囲氣を盛り上げる海辺の別荘では決して見ることの出来ないものだった。笑い声が絶えなく快適なレイチェル・ムーア博士の家ででもなかった。文明から遠く離れ、サバンナに孤高に建つ、この《郷愁の丘》にたどり着いた者だけが見ることを許される光景だった。

 少し離れた敷地内を動く二つの影があった。愛犬と朝の散歩をするグレッグ。朝焼けをみつめる彼のシルエットを彼女は見つめていた。

 この人は、ずっとここに一人で立ち続けて来たのだ。億千もの朝の、グレートリフトバレーで生まれた遠い祖先の記憶を保ちながら、たった一人で。国籍や両親の居住地、受け入れてくれる社会、そんな概念では語れない強い郷愁が、彼をここに引き寄せた。

 そして、彼は私にそのかけがえのない秘密を見せてくれたのだ。想いに応えることも出来ず、約束も出来ず、ただ自分の寂しさを埋める優しさにもたれかかろうとした残酷な私に、何の見返りも求めずに。

 握りしめている手のひらに、昨日作った擦り傷が痛みとも熱ともつかぬ熱い感覚で脈打っていた。彼がレイチェルの家で、この傷の手当をしてくれた時の優しい感触が甦った。彼が彼女に触れたのは、本当にその時だけだった。紳士的でとても優しい態度の内側に、隠していた心を暴露された居たたまれなさと、愛する人の心を得る事のできない絶望が押し込められている。そんな立場に彼を追いやってしまったのが、自分なのだと思うと苦しくて悲しかった。

* * *


 彼とルーシーの姿がゆっくりと視界から消えてもしばらくジョルジアはその窓辺に立っていた。やがて朝焼けはごく普通の朝の空に変わり、昨日のように何でもない日常が戻ってきた。彼女は我に返ってガウンに手をかけると、部屋に隣接している浴室に行き、シャワーを浴びてから着替えた。

 客間を出て廊下を歩いた。玄関の近くにある居間兼ダイニングルームを覗くと、ルーシーは、尻尾を振って寄ってきた。グレッグが氣づいて笑いかけた。

「おはよう。よく眠れたかい」
「ええ。ぐっすりと」

 昨日あった事も、先ほどのジョルジアの人生を変えるほどの光景も、まるで何もなかったかのような穏やかな朝の挨拶だった。

 ジョルジアが思いもしなかった、彼の想いについて知った午後、転んで怪我をしたジョルジアを連れてグレッグが戻ると、レイチェルは困惑した顔をして二人を見ていた。彼がアカシアのトゲをひとつ一つ丁寧に抜いてくれ、それから消毒をしてくれている間、ジョルジアは《郷愁の丘》にある彼の家の事を質問した。どんな建物か、屋根の形や近くにどんな動物が来るのか、井戸から水を汲んでいるのか、など。

 その会話から、レイチェルもこれからジョルジアが彼の家に行こうとしている事を知り、納得して嬉しそうに送り出した。おそらく彼女はまた誤解したのだろう。彼女は知らないのだ。ジョルジアはニューヨークに住む著名ニュースキャスターに恋をしているとグレッグに告白してしまった。そして、その事実は簡単には動かせない。

 それでも、彼女はここに来た。何かが起こる事よりも、このままグレッグという彼女にとって特別な人間との交流が断ち切られる事がつらかった。だから、彼が求めてきたら拒否するような事はしまいと思っていた。

 けれども、昨夜は何も起こらなかった。彼は、男性の同僚や親族を家に泊めるのと変わらないように家の中を案内し、パンとチーズとワインだけの簡素な夕食を普通にした後、「今日は疲れただろう。また明日」と礼儀正しく挨拶をして寝室に向かった。

 ドアの閉まった客間の中から、彼女は彼の去っていく足音を聞いた。彼は、ルーシーに話しかけていた。
「そこにいろ。そして彼女を守るんだ」

 ジョルジアは、彼の事を考えながら穏やかに眠りについた。今、目の前にいるのは、その彼女が眠る前に思い浮かべたのよりはわずかに明るい笑顔を浮かべているグレッグだった。

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この作品にはいろいろな曲がインスピレーションをもたらしてくれていますが、このシーンを構想しているときはずっとこの曲を聴いていました。Eraはフランスのエリック・レヴィを中心とした音楽プロジェクトで、中世のラテン語風の歌詞で一世風靡した「Ameno」などで知られています。中世ヨーロッパ風の小説のBGMにいいかなと思っていましたが、どういうわけかこの「郷愁の丘」BGM用プレイリストに入ってしまいました。なぜかアフリカにも合うんですよ。


Era - I Believe
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Posted by 八少女 夕

【小説】麗しき人に美しき花を

今週は「十二ヶ月のアクセサリー」五月分を発表します。五月のテーマは「コサージュ」です。

子どもの頃「大人になったら、何になりたい?」と訊かれていつも答えていたのは「お花屋さん」でした。なぜ実際に花屋を目指さなかったかというと、子どもの頃の私はあかぎれとしもやけにひどく悩まされていて、水仕事というのは全く現実的な選択ではなかったからですね。

実際に大変なお仕事のようです。買う方が手にもつ花束はそんなに重くないですが、大量の花や、水の入った容器や鉢を動かすので腰を悪くしたり、朝がとても早かったり、たくさん勉強をしなくてはならなかったりと、「綺麗なお花に囲まれて幸せ」だけではないですよね。実際に携わっている方を尊敬します。今回は、そんな花屋を経営するちょっと変わった若いカップルの話です。


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麗しき人に美しき花を

 おお、来た。久しぶりにミウラ様が。加奈は顔がにやけないようにしつつ、上品な営業用笑顔をつくった。
「いらっしゃいませ」

 その三浦という名の男性客は、美形だ。ただの美形ではなく、本当に本人の肌なのか疑うほど瑞々しく皺ひとつない張りのある肌と、親か祖父母あたりが日本人ではないに違いないと思われる彫りの深い顔立ちをしている。そして自分の美貌の世間に与える効果をよくわかっているらしく、髪型から靴の先までいつも完璧に決めて登場するのだ。かつて「王子キャラ」を前面に打ち出していた歌手兼俳優がいるが、正にあのタイプ。ああ、麗しい。これこそ眼福だわ。これだけで今日の午後は幸せに過ごせそう。

「こんにちは。今日は、ご主人はいらっしゃらないのですか」
彼がいうご主人とは、加奈の同居人であると同時に、この『フラワー・スタジオ 華』の共同経営者でもある華田麗二のことだ。

「いますよ。奥でちょっと休憩中です。呼びましょうね」
「いえ。休憩は大切ですから。じゃあ、今日は奥様にお願いしましょう」
ミウラ様はどうやったら可能なのかさっぱりわからないが、どこにも皺を作らずに微笑んでみせた。その麗しさに、加奈は麗二よりもアレンジのセンスなどで信用されていないといわれたも同然の悲しみは忘れる事にした。

「あ、でも、彼の休憩、そろそろ終わりますよ。とにかくご希望をお伺いしましょうか」

 ミウラ様は微笑んだ。
「来週の日曜日にコサージュを作ってほしいんです。実は、ちょっとした祝い事のパーティを開く事になって、タキシードの胸元にコサージュを挿そうということになって。僕の分と、それから、とある女性の分の二点をこちらでお願いしようと思って」

 な、なに! 女性の分? まさか、その祝い事って結婚披露宴じゃないでしょうね。だとしたらショックだわ。動揺して、受注伝票を何枚も書き間違えてしまった。

「あれ。三浦さん、こんにちは」
後から麗二が出てきた。野太い声がどこかくぐもっているのは、何かを口に咥えているからだろう。ミウラ様の前でなんて接客態度! そう思って振り返ると、案の定、麗二は口に棒キャンディーを咥えている。

 名前から想像するのとは大違いの筋肉ムキムキ男で、『フラワー・スタジオ 華』の響きから想像する格調高さはみじんもない。ま、それでもミウラ様が麗二のことをお氣に入りのようだからいいんだけど。

「へえ。パーティ用コサージュね。えっと、つまり結婚披露宴ですか?」
わあ。そんなこと私の前で訊かないで! ショックに対する心の準備が。

「いいえ。違います。仕事上でのちょっとした受賞パーティなんです。ですから、べつに同僚と対にする必要はないです」
加奈は、それを耳にした途端に笑顔になり、麗二はそんな彼女の様子を見てため息をついた。

「お前な。顧客を妄想のオカズにするのはやめろよ」
上機嫌で三浦が帰って行った後、麗二は呆れた様子で言った。

「失礼ね! オカズだなんて。この私がミウラ様を穢すような事、するわけないでしょ!」
「でも、お前の同人誌のなんとかって作品のモデルなんだろ。ほんっと、あれだけはわかんないよ、男と男が絡んでいるのを想像して、何が面白いんだ」

「ちょっと! 私は腐女子でもなければ、オコゲでもないのよ! 単にミウラ様のように麗しい男性がステージ上でパフォーマンスするのを想像するのが楽しいだけで」
「でも、どうせ男しかでてこないんだろ」
「え。そりゃ、だって想像でも他の女性に盗られるのは嫌じゃない? でも、べつにハードな描写があるわけじゃないのよ」

 麗二はため息をつくと、陳列用のアレンジを作るために材料を作業台の上に並べつつ言った。
「あってたまるか。だいたいさ、なんか神格化しているみたいだけれど、あの人だって俺と同じに毎朝トイレにこもるだろうし、髭だって生えてくんだぞ」
「やめて! ミウラ様がトイレになんて行くわけないでしょ! 顎だって、脛だって、つるつるにきまっているのよ」

 そもそも、なんでトイレにこもるなんて話をしながら、薔薇やかすみ草をカットしてんのよ。だが、彼はそのあたりのことは、氣にもならないようだ。飴を咥えたままリラックスしながらどんどん手を動かしている。

「うへっ。すね毛をピッセットで抜く男なんてキモチ悪い」
「ピンセットで抜くわけないでしょ! 元からまったく生えてこないか、百歩譲っても、サロンで永久脱毛よ」

 麗二はおもいきり馬鹿にした顔をした。まあ、麗二とは無縁の世界よね。加奈は思った。彼の手元を見ると、ミウラ様が背負っていてもおかしくないような、紅薔薇とかすみ草の完璧なアレンジメントが出来上がっている。毎度の事ながら、言動と仕事のギャップがありすぎる。

 アレンジメントをショーウィンドウに置くと、麗二は先ほどの受注伝票を見ながら「う~ん」と言った。

「どうしたの?」
加奈も覗き込んだ。

「希望の花さ。こっちの三浦さん用のオーキッド系というのはいいんだけれどさ。女性の方はコサージュ向けじゃないんだよなあ。デルフィニウム、ストック、金魚草、スイトピーのような優しい花、野の花の雰囲氣かあ」

「え。でも、麗二、そういう花束はしょっちゅう作るじゃない」
「花束は問題ないけれど、コサージュだからさ。しかも主役だろ。水が下がってしおれたらクレームになるよ。よりにもよって水の下がりやすい花ばっかり」

「あ。そうだね。どうしようか」
「そうだなあ。希望を全部無視するわけにはいかないから、まあ、強い花を中心にして萎れても目立たないようにギュウギュウにして希望の花を入れるか」

 筋肉ムキムキ、すね毛ボーボーのワイルドな外見とは裏腹に、麗二の生花の知識と大胆なテクニックは、まさに花屋になるために生まれてきたと言っていいほどだった。子供の頃から「お花屋さん」に憧れて、なんとなくこの道を目指した加奈は、最初のバイト先で彼に出会い衝撃を受けた。

 当時から彼は天才肌で、セオリー通りの組み合わせでまとめようとする加奈には信じられない花同士をぱっぱとまとめて、どこにもない個性的でかつ優雅な、もしくはかわいいアレンジを作った。ユリと向日葵。さまざまな蘭の競演。紫陽花を使った花束。プロテアと薔薇。ネギ科の花で作ったポップなアレンジ。

 はじめは適当にやっているのかと思っていたが、つきあうようになり彼の部屋に初めて行った時に本棚に並んでいた膨大な蔵書を見て、彼がどれほど勉強家であるのかも知った。それに彼は「緑の親指」の持ち主で、どんなに難しい花でも咲かせる事が出来るし、部屋の隅で捨てられるのを待つばかりになっていた弱った鉢植えもいつの間にかピンピンにする事が出来るのだった。

 その麗二でも眉をひそめるような難しいコサージュかあ。人ごとのように思った時、麗二は腕を組んで意外な事を言った。
「これは加奈の出番だわなあ」

「私の?」
加奈は驚いた。ごく普通のなんて事はない花束やアレンジはするものの、大事なお客様の特別な注文はいつも麗二任せだし、彼女もそれが当然だと思っていた。加奈自身が得意なのは、どちらかというとワイヤリングや、いろいろな新素材を使ったラッピングの工夫だった。

「うん。普通よりもたくさんの花をぎゅうぎゅうにするだろ。絶対にへたらないように22番くらいでクロスしたいけど厚ぼったくしたくないんだ。そこで加奈にワイヤリングとテーピングとリボンをやってもらいたいんだ」

 麗二だって、ワイヤリングは上手だけれど、これはミリ単位で完璧なワイヤリングをしろってことね。麗二が私に頼るなんてめったにないことだし、他でもないミウラ様のためだし、頑張る! 加奈は奮い立った。

「わかった。じゃあ、一緒に完璧なコサージュ作ろうね。ところで、なんの受賞パーティなのかなあ。演劇とかかなあ。それともデザイナーとか?」
加奈が夢見がちに言うと、麗二は驚いたように答えた。

「なんだよ、お前、あの人の職業知らないのか?」 
「え? 知らないよ。麗二はそんな事教えてもらったの?」
「うん」

 何で今まで教えてくれないのよ。そう思いつつ、加奈は麗二にすり寄った。
「で、何? もったいぶらないで教えてよ」
「う~ん。知らない方がいいんじゃないかな。お前の妄想をぶち壊すかもしれないしさ」

「ええ~、ひどい。そんなこと言われたら氣になるよ」
「ま、いいじゃん。芸能人だと思っていりゃ。コサージュ作るのには、問題ないだろ」

 加奈は地団駄を踏んだ。
「教えてよ。教えてくれないと、今度の特別号で麗二をモデルにしたキャラとカップリングするよ」

 麗二はぎょっとして立ち上がった。
「おいっ。勘弁してくれ。それだけはやめろ! 自分の伴侶をオモチャにすんなよ!」
「じゃあ、教えてよ」

「なんだよ。お前のために黙っていたのにさ。ほら、この間、オヤジん家にシロアリがでたじゃん。その駆除の相談で窓口に行った時にさ……」
「ま、まさか、ミウラ様が……」
「うん。結構偉いみたいだったけれど、職場では作業着姿だったから、薔薇の花は背負っていなかったぜ」

 イメージが崩壊して打ちひしがれる加奈を横目でみながら、麗二はコサージュにする花のプランを紙に書きはじめた。適当でそうとは見えないイラストだが、彼のプラン画を見慣れている加奈にはどんなコサージュになるのかがすぐにわかった。じゃあ、あそこにこうワイヤーを通して……。頭の中には二人で作る最高傑作がどんどん出来上がっていく。

 うん。ミウラ様がどんな職業でもいいや。害虫駆除も大事な仕事だし。なんか受賞するってことはすごい人ってことだし。あの人とその同僚が、私と麗二の作る最高の花を身につけてくれれば、それで。

 カランと音がして、入口のドアが開いた。あ、新しいお客さんだ。おお、超美人。カトレアやカサブランカを背負うのがふさわしい感じ! 今まで、私の作品にはいなかったタイプのキャラだわ。

「いらっしゃいませ」
加奈は元氣よく迎えた。

(初出:2017年5月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(4)アカシアの道 - 2 -

「郷愁の丘(4)アカシアの道」の続きです。レイチェルのうっかり発言により、グレッグの片想いの相手は自分だとジョルジアは氣づいてしまいました。モテモテのひとは、こういう場合の上手なあしらい方というのをわかっているのでしょうが、彼女はそうでなく……。

人生には、時々こういう瞬間があると思います。これまでの経験がほとんど役に立たず、とっさに何かをしなくてはならない時。このとっさの行動が、実は人生のターニングポイントだったという事は、もちろんその時にはわかりません。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(4)アカシアの道 - 2 -

 苦痛に満ちた顔で、階段を降りていってしまった彼を見て、レイチェルは彼女に言った。
「ごめんなさい、私、ヘンリーに謝ってこないと」

 彼女が出て行き、閉まったドアをジョルジアは眺めていた。あまりの不意打ちで、彼女の思考は止まっていた。

 ジョルジアは、恋愛模様の当事者になった事はほとんどなかった。ティーンエイジャーの頃から人びとの関心は、美しく装った妹に集中し、彼女はそれを客観的に眺めるばかりだった。

 男性とデートするようになったのは通常よりずっと遅く、同僚のベンジャミンに紹介されてからだ。その相手であるジョンにひどく傷つけられて去られてから、彼女は人との交流そのものもまともに出来なくなり、社会からも背を向けた。

 一年ほど前から、意に反して恋に落ちてしまったが、その相手は知り合いでもなく実際に逢う事もないので、恋愛の当事者として当意即妙の反応を返す必要は全くなかった。

 突然、こんな形で男性を意識する事になり、彼女はどうしていいのかわからなかった。荷物の前に座り込み、何をするでもなくそれを見つめた。

 どれだけそうしていたかわからない。彼女は階段を上がってくる音を聞いた。短いノックが聞こえた。
「ジョルジア」
グレッグだ。

 彼女は立ち上がり、混乱して戸惑いながらドアに向かった。どんな顔をすればいいんだろう。

「開けなくていい、ただ聴いてほしい」
ジョルジアは、ドアノブに手をかけたまま立ちすくんだ。

「レイチェルが言ったことは、どれも本当だ。それに、あのとき君に話した、好きになってしまった女性というのは、君のことだ。でも、君をマリンディに招待したのも、こんな所まで連れてくることになってしまったのも、邪なことを企んでいたわけじゃない。ただ、リチャードの事務所で君に再会したときに思ったんだ。こんな奇跡は二度と起こらない。だから一分でも長く君と時間を過ごしたいと」

 彼女は、混乱していた。彼に対して一度も感じたことのなかった動悸にも戸惑っていた。それでいて、片想いをしている男に感じる強い痛みと熱情が欠けていることも冷静に感じていた。どうしていいのかわからなかった。ジョルジアは、望まぬ相手に愛の告白をされたことなどこれまでたったの一度もなかった。ましてや、その相手がこれまで一度も感じたことがないほど自分に近く感じる特別の相手なのだ。

「君がショックを受けて、僕に不信感を持つのは当然だ。距離を置かれたくなかったからだが、故意に隠していたのは事実だし、自業自得だと思う。君をちゃんとナイロビ行きの停まるヴォイかムティト・アンディまで送り届けてくれるようにレイチェルに頼んだ。せっかくの休暇に不快な思いをさせてしまって、本当にすまなかった」

 ジョルジアは、何か言わなくてはならないと思った。だが、何が言えるだろう。近いと思える存在を失いたくないから「無害な」友達でいてほしいと? そんな都合のいいことを言う権利があるとでも?

 しばらくしてから、彼が返事を待たずに去っていく足音が聞こえた。ジョルジアはドアを開けてその落胆した後姿が階段を降りて見えなくなるのを黙って見つめた。彼は振り返らなかった。

 何かを言わなくてはならない。もしくは、敵意のない態度を見せなくてはならない、例えば食事のときに、いや、リビングに行ってレイチェルに話しかけながらでも。

 彼が謝らなくてはならないことなどなにひとつなかった。もし、それが罪なら、ジョルジアが、自分を知りもしない相手のことをいつも考えてしまうのも大罪だった。彼女はグレッグと一緒にいた時間を不快に思ったことは一度もなかった。何と答えていいかもわからないほど混乱させられている彼の告白ですら不快ではなかった。

 ジョルジアが、それを告げようと決心して階下に降りようとした時、表からエンジン音がした。そしてルーシーの吠え声がドアの締まる音とともに消えたのも。

 彼女は、我に返って階段を走り下りた。玄関にはレイチェルがいて、ジョルジアを見て頷いた。

「彼は?」
「このまま、帰るそうよ。あなたをよろしくって、頼んでいったわ」

 ジョルジアは、そのまま彼女の横を通り抜けて表に出た。黒いランドクルーザーは、もう門を出て走り去っていた。ジョルジアは走って公道に出た。並木の間を赤茶けた道がずっと続いている。土ぼこりが舞い上がって、去っていく車が霞んでいく。彼女は、間に合わないと思いながらもただ走った。けれど、ぬかるみの中に隠れていた石につまづいて転んでしまった。

 膝と、それから手のひらに激痛が走った。こんなのは嫌。世界は突如として以前通り素っけなく親しみのないものに変わってしまった。アフリカも厳しく痛い存在になってしまった。どうして。

 こみ上げてくる苦しさを押し込もうとしたその時に、彼女は近づいてくる犬の吠え声を聞いた。顔を上げると、焦げ茶のローデシアン・リッジバックが走り寄って来ていた。
「ルーシー……」

 大きい犬は、尻尾を振ってジョルジアに駆け寄ると、振り向いて主人を呼んだ。グレッグが遅れて走って来ていた。彼は、駆け寄ると屈んで「大丈夫か」と訊いた。

「痛いわ」
彼女は、手のひらを見せた。赤茶けた泥まじりの土の下から血がにじみだしている。

「この辺りはアカシアの木ばかりだから、トゲがたくさん落ちているんだ」
彼はとても優しく手のひらの泥を拭って、棘がいくつも刺さっているのを見た。
「すぐに手当をしないと。立てるか」

 ジョルジアは、完全に安堵している自分に驚いていた。泥だらけの惨めな姿で、手のひらと膝は痛くても、心の方の痛みが消えていた。

「ルーシーが吠えて報せてくれなかったら、君が追って来ていたことも、こうして怪我をしたことも知らずにそのまま走り去ってしまう所だった」

「どうしてさよならも言わずに行ってしまうの? 約束したのに」
「約束?」
「約束したでしょう。私を《郷愁の丘》へ連れて行ってくれるって」

 彼は驚きに満ちた目で、彼女を見つめた。
「……。君は、二度と僕と二人きりにはなりたくないんだと思っていた」

「私はムーア博士に逢いにここに来たわけじゃないわ。マリンディに行こうと思ったのも、イタリア人街を見たかったからじゃない。あなたは、他のどんな人とも違う。あなたは私にとても似ていて、きっと誰よりもわかってくれる人だと感じたからよ。あなたと友達になりたかったの。それが迷惑だと言うなら諦める。でも、こんな風に黙って去っていったりしないで」

 グレッグは、ジョルジアを支えてゆっくりと立たせた。
「《郷愁の丘》までは日帰りできる距離じゃないんだ。それでも来るかい?」

 彼女は頷いた。
「荷物を取ってくるわ」

 グレッグは、少し間を置いてから言った。
「まず、この傷の手当をしてからだ。車をとってくるから、ルーシーとここで待っていてくれ」

 彼は、かなり先に乗り捨てたランドクルーザーの方に歩いて戻っていった。ジョルジアは、ルーシーの優しい鳴き声を聞きながら、その背中を見ていた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(4)アカシアの道 - 1 -

二週ほど別の小説が入りましたが、本年のメイン小説「郷愁の丘」再開です。五歳児メグを届ける目的で、祖母であるレイチェル・ムーア博士の家にやってきたジョルジアたち。ここでジョルジアは意外な事を知る事に……。

ところで、アフリカの白人のお家は平屋でやたらと広いものが多いのです。おそらく土地はいっぱいあるからなのでしょうね。以前ヨハネスブルグ郊外で滞在したお家は、とても広くて、トイレに行く時にギリギリまで我慢するとピンチになるくらいでした。ナイロビで滞在したお家、モンバサで滞在したお家も広かったなあ。

今回も二回に分けています。「よりによって、そこで切るか」と言われても、半分くらいがここだったんだもの……。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(4)アカシアの道 - 1 -

 四時間のドライブのあと、一行は赤茶けたサバンナの舗装されていない道をゆっくりと進み、たくさんのアカシアの樹が生えている一画に建つ家に入っていった。それはアフリカには多い大きな平屋建てで、二匹のドーベルマンが前庭を駆け回っていた。

 彼が降りて呼び鈴を押すと、電動で門が開き、彼は車を玄関先まで進めて停めると、メグを起こしてジョルジアと自分の荷物を玄関に運んだ。玄関が開いて映画でその姿に見覚えのある動物学者レイチェル・ムーア博士が出てきた。

 メグは祖母の姿を見ると、それまで必死で抱きついていたジョルジアからぱっと離れて、その腕の中に飛び込んだ。
「ナナー!」

 映画で見たときより少し歳とったとはいえ、レイチェル・ムーア博士は誰かの祖母という言葉がピンと来ないほど若々しくて生氣に溢れた女性だった。少し濃いめの金髪はボブカットに揃えられ、半袖のサファリシャツと太ももまでの丈のショートパンツから見えている手足は瑞々しかった。

 ああ、この人は光だ。ジョルジアは感じた。それは彼女が兄である実業家マッテオ・ダンジェロや、世界でもっとも成功したモデルの一人である妹アレッサンドラに対して感じる、抗えない強いパワーと同じエネルギーだった。

「なんてお礼を言ったらいいのかしら、ミズ・カペッリ。この子はどうしてもヘンリーのことが怖いらしいの。あの髭と生真面目さのせいだと思うんだけれど」

「レイチェル。僕は車を駐車場に入れてきます」
「あ、ヘンリー。申し訳ないんだけれど客用の駐車場に、アウレリオが買った鉢植えを八本も置いたまま行ってしまったの。適当にどけてくれる?」

 グレッグは頷いた。
「本来はどこに置くべき鉢なんですか」
「スイミングプールよ。置くスペースは作ったんだけれど、今日、雑用で来てくれているジェイコブが来なかったから移動できなかったの」
「わかりました。じゃあ、プールに運んでおきます」

「私も手伝うわ」
ジョルジアが言うと、グレッグは首を振った。
「君は、ゆっくりしててくれ。ようやく客らしい立場になれたんだし」

「そうよ。まず客間に案内するわね。その後すぐお茶を淹れるわ」
ジョルジアは少し慌てた。
「私の事はおかまいなく。ミセス・ブラスが大変な時で、それどころではないでしょう」

 レイチェルは笑顔で首を振った。
「最初の連絡では私も慌てたけれど、さっき本人から電話があってね。全く問題がないんですって。少しおかしいなと思った時に誰もいなかったのでパニックに陥ってしまったらしいの。ヘンリーがすぐに病院に運んでくれて、しかもあなたたちがメグを無事にここに届けてくれるとわかったら、安心したみたい。あっちは蒸し暑いでしょう。それで調子を崩したのね。明日、退院してアウレリオと一緒にこっちに戻ってくるわ。だから、マリンディではできなかった分、あなたをおもてなししたいの。よかったらこちらにお好きなだけ逗留していってくださいな」

 ムーア博士が彼女を二階に案内した。メグも嬉しそうについてきたが、客間の前でシャム猫をみかけると声を立てて駆け出し、猫と一緒にまた一階へ行ってしまった。

 ムーア博士は客間の扉を開けると言った。
「ねえ、どうか私をレイチェルと呼んでちょうだい。メグの友達になってくれたんですもの、私の友達にもなってほしいわ」
「光栄です。ジョルジアといいます」

 そう答えるとレイチェルはウィンクして答えた。
「知っているわ。あなたの名前も、それから、お仕事も。あなたとやっとお知り合いになれてとても嬉しいのよ。彼の幸せは私たちの重要な関心ごとなの。彼はどう思っているかわからないけれど、私もマディも、ヘンリーの家族のつもりだから」

 ジョルジアは、彼女が何を言っているのかよくわからなかった。どこから訊き直すべきか考えている間に、レイチェルは本棚から抜き出した写真集を見せて笑いかけた。それはジョルジアの『太陽の子供たち』だった。まさかケニア中部の初めてあった人の家でこれを目にするとは思わなかったので、彼女はさらに驚いた。

「これはヘンリーのところにあったのよ。この前のクリスマスに彼の家に行った時にマディが見つけてクリスマスプレゼント代わりにって強引にもらってきてしまったの。以前アテンドした写真家で、アメリカの有名な賞で入賞したって、アシュレイから訊いてから欲しがっていたのに、売り切れで手に入らなかったから」

 グレッグが『太陽の子供たち』を持っていた? まさか。

 今回の旅で、彼女は前回のアテンドのお礼として、リチャード・アシュレイとグレッグ用にそれぞれサイン入りの写真集を持ってきた。リチャードは「欲しかったのに手に入らなかったんですよ!」と大喜びしたが、グレッグははにかみながら礼を言って受け取っただけだった。関心があったとは思いもしなかったのでもう持っているかどうかは訊かなかったのだ。

「マリンディに出かける前に、マディがね。ヘンリーが招待した女性、どこかで聞いた名前だと思ったらこれだったんだわって、持ってきたのよ。私もね、彼が子供の写真集ばかり持っている理由がわかってホッとしたの。私たちがよく話すようになってからこのかたガールフレンドがいた形跡がないし、ペドフィリアの傾向があったら由々しき問題でしょう? でも、おつき合いしている女性の作品だったから集めていたんだとわかったから、本当に安堵したのよ」

「これ以外にも、私の写真集を?」
「ええ。七、八冊くらいあったかしら」

 それは、つまり、出版されている私の写真集をほとんど全て持っているってこと? 言葉がでてこなかった。

 彼が子供好きでないのは、メグの扱いを見てもわかる。それに七、八冊あるという事は、その前に撮っていた風景の写真集もあるはずだ。彼が写真集を買った理由は題材にあるわけではなく、写真家に興味があるとしか考えられなかった。けれど、彼はこれだけたくさんの事を話したのに一度もその事に触れなかった。それは……。

 彼との会話が甦る。
「知り合ってもいない人に恋をしたことがあるんですか?」
「いや、知り合ってはいます。でも、二度と逢う機会もない程度の知り合いだったから、あなたのケースとほとんど変わりありませんよ」

 彼女は、手にした自分の写真集を見つめた。あの言葉を聞いたとき、自分と結びつけて考えることはなかった。だが、そうではないと断言する理由などどこにもないのだ。

 レイチェルが誤解するのも無理はない。彼が、マリンディの別荘に誘った時に、ジョルジアは彼を既婚者だと思っていたのでそんなつもりはなく招待に応じたが、レイチェルやマディの立場で考えれば、彼が女性を連れてくると言ったら恋人だと思うだろう。

 彼が階段を上がってきたのが目に入った。ジョルジアが手にしている『太陽の子供たち』を見て、彼はレイチェルが何を話していたのか悟ったようだった。

「まさか……知らなかったの?」
レイチェルは、口元に手を当てて、痛恨のミスをどう取り戻そうかと考えているようだった。だが、ジョルジア自身は驚きと混乱で、氣の利いた言葉を返すことが出来なかった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -9- サラトガ

WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。もう二ヶ月か、早いなあ。

今回は、珍しく「ちょっと嫌われ者」の客が登場します。まあ、店主の田中にとってはどんな人でもお客様ですが。なぜか夏木が準レギュラー化しているなあ。それにバーの小説なのに、下戸のキャラばかりってどんなものでしょう。


月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む
「いつかは寄ってね」をはじめから読む「いつかは寄ってね」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -9- 
サラトガ


「今日は、いつものとは違う物を飲んでみたいな。田中さん、何でもいいからみつくろってくれないかな。お願いします」
夏木がそう言うと、田中はにっこりと笑った。
「かしこまりました。久しぶりのおまかせですね」

 大手町の隠れ家のような小さなバー『Bacchus』は、アルコールを全く受け付けない体質の夏木が唯一通っている店だ。店主でもあるバーテンダーの田中がいつも上手にノン・アルコールのカクテルを作ってくれる上、肴も美味しくカウンターに座る他の客との当たり障りのない交流も居心地がいいのだ。たった一人、あの男を除いて。この店は大好きなんだけれど、あの客だけは会いたくないんだよな。

 その客とはこの二月くらいから時々顔を合わせるようになった。

「いらっしゃいませ、近藤さん」
田中の声にはっとする。どうやら嫌な予感が的中したようだ。

「こんばんは、マスター。あれ、今日も先生が来ているね」
先生というのは夏木の事だ。夏木は教師でもなければ、医師でもないし、弁護士でもない。なのに、この近藤という男はいつも夏木をからかってそう呼ぶのだ。夏木が眼鏡をかけて、あまりオシャレではないコンサバなスーツを着、きまじめな様子でいるのが今っぽくないからというのが理由のようだった。

 近藤のスーツは、おそらくアルマーニだろう。やけに目立つ赤と黒のネクタイを締めて、尖ってピカピカに艶の出た靴を履いた脚を大袈裟に組むのだが、夏木は心の中で「お前はジョージ・クルーニーじゃないんだから、そんなカッコをしてもマフィアのチンピラにしか見えないぞ」と呟いた。もちろん口に出して言う勇氣はない。

「今日は、あのかわいいすみれちゃんと待ち合わせじゃないのかな。頑張ってアタックしないと、愛想を尽かされちゃうんじゃないかな」
放っておいてくれ、夏木は思ったが、田中を困らせたくなかったので喧嘩腰に口をきくのは控えた。

 近藤の話し方は早口で神経質だ。何がどうというのではないが、聴いているとイライラする。それに田中と他の客が話している時に、話しかけられてもいないのに割って入り、話題に関連した自分の知っている知識をこれでもかと披露する。そのせいでせっかくの話題の流れがおかしな事になってしまう事もある。どうしてもその話題をしたい訳ではなくても、話の腰を折られると面白くはない。

「マスター、僕のボトル、まだ空じゃないよね。いつものサラトガを作ってくれよ」
夏木が乗ってこないので興味を失ったように、近藤は田中に注文した。自分をからかう他に、夏木がこの男を氣にいらないもう一つの理由は、彼が田中を小僧のように扱う事だった。なんだよ、この上から目線。彼は心の中で毒づいた。

 田中は、いつものように穏やかに「かしこまりました」と言って、近藤の自筆で書かれたタグのついたブランデーのボトルを手にとり、規定量の酒をシェーカーに入れた。近藤は優越感に満ちた表情で夏木を見た。ボトルキープをしている自分はあんたとは違うんだよ。もしくは、ブランデーベースの強いカクテルを飲める自分はどうだい。そんな風に言われたようで、夏木は意味もなく腹が立った。

「お待たせしました」
近藤の前に、パイナップルスライスの飾られたカクテル・グラスが置かれた。

「これこれ。やはりバーにきたからにはサラトガを頼まないとね。このカクテルはバーテンダーの腕の差が出るよ」

 それから、夏木の方を見て言った。
「先生もどうです? なんなら、僕のブランデーをごちそうしますよ」

 夏木がアルコールを一滴も飲めないのを知っていての嫌味だ。彼はついに抗議しようと憤怒の表情を浮かべて近藤の方に向き直った。

 その不穏な空氣を察知した田中が、先に言った。
「夏木さんも、サラトガの名前のついたカクテルを既に注文なさっていらっしゃいます」

 夏木はぎょっとした。いくら悔しくても、女性にも飲める軽いカクテルですら飲めない彼だ。強い事で有名なサラトガは舐める事だって出来ないだろう。

 近藤も意外そうに田中の顔を見た。
「サラトガを先生が?」

 田中はコリンズ・グラスに砕いた氷を満たした。カクテル・グラスでないところから、少なくともサラトガは出てこないとわかって、夏木は安堵した。田中が夏木の飲めないものを出すはずがないと思い直し、彼は黙って出てくるものを待つ事にした。

 田中はライムを取り出して絞ったもの、シュガー・シロップに続き、グラスにジンジャーエールを注いだ。そして、軽くステアしてから夏木の前に出した。
「お待たせしました。サラトガ・クーラーです」

 クラッシュド・アイスはなくカクテル・グラスに入っているサラトガの方が色は濃いが、似た色合いのドリンクが並んだ。全く中身は違うけれど、どちらも丁寧に作られたカクテルで、全く遜色はないと主張していた。

 夏木は感謝して一口飲んだ。
「ああ。これは美味い。また新しい味を開拓できて嬉しいよ、田中さん」

 嬉しそうに飲む夏木の姿を見ながら、近藤はどういうわけかその晩は静かだった。十五分ほど黙ってカクテル・グラスを傾けていたが、料金を払うと「じゃあ。また」と言って去っていった。

 夏木は田中が片付けているカクテル・グラスを見て驚いた。
「あれ。ほとんど残っている」

「あの人、いつもそうだよね」
少し離れたところに座っている他の常連が口を挟んだ。

「わざわざポトル・キープまでしているわりに、全然飲まないんだから、本当はお酒は弱いんじゃないかなあ。無理してサラトガなんて頼まなくてもいいのに、何でこだわっているのかなあ」

 夏木は近藤が不愉快でいつも先に帰ってしまうので、知らなかった。田中は何も言わなかったが、それが本当に近藤がカクテルを飲み終わった事がないことを証言した形になった。

* * *


「近藤さん、こんばんは。今日はお早いですね」

 田中は、いつもよりもずっと早い時間にやってきた近藤にいつもの態度で歓迎した。今日の服装は、いつも通りのアルマーニのスーツではあるが、水色の大人しいネクタイだし、靴がオーソドックスなビジネスシューズだった。それだけでも印象が随分と変わる。さらによく見ると、髪を固めていた整髪料を変えたのか、艶やかにしっかりと固まっていた髪型が、わりとソフトになっている。

「うん。予定が変わって、時間が空いたんだ」
普段より大人しい様子の彼に、田中はどう対応していいのか迷った。だが、まずはいつも通りに対応する事にした。おしぼりを渡しながら訊いた。
「今日は、いかがなさいますか」

「いつものサラトガを……」
そう言いかけてから、近藤は言葉を切って、少し考えているようだった。田中はいつもとの違いを感じて結論を急がせないように待った。

 近藤は、顔を上げて言った。
「この間の、先生が飲んでいた方のサラトガを飲んでみていいかな」

「サラトガ・クーラーですね。かしこまりました」
田中は、なるほど風向きが本当に変わってきたんだなと思いつつ、コリンズ・グラスを取り出した。

 目の前に出てきたサラトガ・クーラーを一口飲んで、近藤はほっとひと息ついた。
「ああ。美味しいなあ。もっと前に、これを知っていたらよかったな」

「お氣に召して何よりです。本当はクーラーというのはアルコール飲料を炭酸で割ったものにつけられる名前ですが、こちらは完全なノンアルコールです。組み合わせが全く違うサラトガと同じ名前がついている由来も定説はないようです」

 近藤は、しばらく黙っていたがやがて言った。
「僕はね、もうわかっていると思うけれど、本当はアルコールにとても弱い体質なんだ。でも、ずっとそうじゃないフリをしてきた。飲めるのに飲めないフリはそんなに簡単にはバレないけれど、飲めないのに強いフリをしても無駄だよね。でも、マスターは、一度も他の人の前でそれを言わないでくれたよね。ありがとう」

「アルコールに弱い事は恥でも何でもなくて、体質ですから無理すべきではないのですが、そうはいかないときもありますよね」
「うん。でも、正直に言ってしまった方が、ずっと楽に生きられるんだよね。僕は、先生を妬んでいたんだろうな」

「どうしてですか?」
「最初にここで彼を見たとき、例のすみれちゃんと楽しそうに飲んでいたんだよ。僕は、ここじゃないバーで、女性にカクテルをごちそうしたりして、親しくなろうと何度も頑張ったけれど、うまくいかないんだ。最初はカッコいい名前のカクテルや、服装に感心していてくれた子たちも、僕が飲めなくて、ただの平社員で、カッコいい都心のマンションにも住んでいない事がわかると去っていく」

 それからグラスを持ち上げて爽やかなドリンクを照明に透かして揺らした。
「サラトガは、大学生の時に好きだった女の子が教えてくれたカクテルなんだ。彼女はもう働いていて、職場の出来る先輩が大人はこういうのを飲むんだって言ったらしくてね。サラトガというのは勝利の象徴だって。僕は、それから十年近くもその見えない大人の男に肩を並べなくてはと思っていたみたいだ。そうじゃないのに賢くてカッコいいヤツを装っていた。この間、マスターと先生の息のあったやり取りを見ていて、自分の目指していた大人像は間違っていて薄っぺらだったんだなと感じたよ」

 田中は、生ハムと黄桃のオリーブオイル和えをそっと近藤の前に出した。
「カクテルの名前の由来というのは、はっきりしているものもありますが、なぜそう呼ばれているのか説が分かれるものもあるんです。私に言えるのは、サラトガはブランデーの味のお好きな人のためのカクテルだということです。名前も、原材料も、どれが最高という事はありませんので、それぞれの方がご自身の好みに従ってお好きなものを注文なさるのが一番だと思っています」

「そうだよね。だから、もう背伸びするのはやめることにしたんだ。長い時間をかけて髪をセットするのも、窮屈な靴を履くのもやめてみたんだ。そうしたら、さっき約束していた子にイメージが違うと振られてしまったんだけれど」

 田中はぎょっとした。これは相当落ち込んでいるんじゃないだろうか。だが、近藤は笑った。

「心配しないで、マスター。僕は自分でも驚いているんだけれど、ほっとしているんだ。彼女は、とてもスタイリッシュで美人で目立つ人で、成功したエリートがいかにも好みそうなタイプだけれど、ご機嫌を取るのがとても難しくて僕にはひどいストレスだったんだ。振られて楽になったよ。負け惜しみと思うかもしれないけれど、本当なんだ」

 彼は、空になったグラスを持ち上げた。
「もう一杯、もらえるかな」

 田中は微笑んで頷いた。それぞれ好みのドリンクが違うように、最良の生き方も人によって違う。自分に合ったものが何であるかがわかれば、過ごす時間もずっと楽しいものになる。この店で逢う度に不穏な空氣になっていた夏木と近藤も、意外にも仲がよくなっていくのかもしれないと思った。

サラトガ(Saratoga)

標準的なレシピ
ブランデー = 60ml
マラスキーノ・リキュール = 2dash
アンゴスチュラ・ビターズ = 2dash
炭酸水 = 微量

作成方法: ブランデー、マラスキー・ノリキュール、アンゴスチュラ・ビターズをシェークし、カクテル・グラスに注ぎ、極少量の炭酸水を加えて、パイナップル・スライスを飾る。



サラトガ・クーラー(Saratoga Cooler)

標準的なレシピ
ライム・ジュース = 20ml
シュガー・シロップ = 1tsp
ジンジャー・エール = 適量

作成方法: クラッシュド・アイスを入れたコリンズ・グラスに、ライム・ジュースとシュガー・シロップを注ぎ、ジンジャー・エールでグラスを満たした後、軽くステアする。



(初出:2017年5月 書き下ろし)
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Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】あの人とお茶会に

「郷愁の丘」の連載中ですが、今週と来週はお休み。今週は「十二ヶ月のアクセサリー」四月分を発表します。四月のテーマは「和装小物」です。

アクセサリーと言うならば、正確には帯留めの飾りぐらいかなと思ったんですが、もう少し幅広くアクセサリーという事にして、乱暴ですが、帯締め、帯揚げ、伊達衿までを含めてしまいます。

和装は、日本人の民族衣装なのですが最近ではほとんど着ないという方も多いですよね。コストが高い、一人で着られるようになるまでのハードルが高い、決まり事が多くてどうしていいかわからないなど、理由はいろいろとありますが、知れば知るほど奥の深い世界で、世界に誇る民族衣装としてもっと普及してほしいなあと思います。


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あの人とお茶会に

 桜が終わり、藤の若緑が次々と公園を彩りはじめると、結花はしょっちゅうため息をつくようになった。月末の日曜日が永久に来なければいいのに。

 去年始めたお茶のお稽古。もともと茶道にはまったく興味はなかったけれど、同じ課に配属された一瀬美弥子が通っているというので興味半分で習い始めたのだ。美弥子がおっとりとして立ち居振る舞いも洗練されているのは、噂の通りお嬢様だからだと思っていたけれど、一緒にお稽古に通いだしてあの動きは茶道の決まった動きで鍛えられたのかと納得した。

 もっとも一年程度、お稽古に通ったからといって、美弥子のような洗練されたお嬢様らしい様相に変わるわけはなく、そもそものお茶の方もお菓子を食べてお茶を飲む動作はまあまあと言える程度になったぐらい。そして、今月末に初めてお茶会に参加する事になったのだけれども。

「はあ」
結花は、また、ため息をついた。なんで洋服で行っちゃいけないんだろうなあ。

 お茶会では、付下か訪問着、もしくは一つ紋以上のついた色無地を着るように宗匠に言われた。去年就職したばかりの結花はお稽古代やお茶会の費用を捻出するのが精一杯で、和服を新調するどころかレンタルする金額すら出せない。だから、叔母に相談したら三つ紋のついた色無地を譲ってくれたのだが、それがどうも思っていたような物とは違った。とはいえ、今さら別の物を用意したら叔母が傷つく。それ以来、お茶会に行くのが嫌になってしまったのだ。

「結花さん、どうしたの?」
お稽古の帰りに美弥子が話しかけてきた。

「え?」
「今日のお稽古、いつもよりもずっと憂鬱そうで、身が入っていなかったから。何かあったのかと思って」

 美弥子はおっとりとしているけれど、同僚や後輩にいつもきちんと心配りをして、心配事があるとすぐに声を掛けてくれる。きれいで、お金持ちのお嬢様なのに、誰からも妬まれたり嫌われたりしないのは、こういう天性の人のよさが自然と溢れ出ているからだろう。

 結花は、この際、いじけた思いを吐き出してしまおうと思った。
「お茶会に着ていく色無地の事なの。叔母が若いころに作ったものをくれたんだけれどね。なんかちょっとくすんだ黄土っぽい色なの。お婆さんみたいじゃない? この若さでそんなの着てくる人いないだろうし、季節にも合わないから借り物っぽいって嗤われるかもしれないって、今から恥ずかしくって」

 美弥子は「まあ」と目をみはった。それからニッコリと笑って言った。
「紋付の色無地はいろいろなシーンで着られるし、きっと長く使えるからその色になさったんじゃないかしら。大丈夫よ。着物は、組み合わせで全く違った印象にできるの。よかったらこの週末にでも、そのお着物を持ってうちに遊びに来ない? 私の持っている小物を組み合わせてみましょうよ。貸してあげられる物がたくさんあると思うわ」

 結花は驚いたけれど、大喜びでその提案を受け入れた。都心にある豪邸に住んでいると噂で聞いていた美弥子の家に行くのは初めてだったし、小物の合わせ方などにも自信がなくてそれも着物でお茶会に行くのが憂鬱な理由の一つになっていたからだ。

 土曜日に、なんとか一瀬家にたどり着いた結花は、都心だというのにまるでお寺の境内のような立派な庭園に囲まれた大きな日本家屋を見て圧倒された。呼び鈴を押して出てきたのが使用人だというのにも怯んだけれど、美弥子は応接間で優しく迎えてくれて、お手伝いさんが持ってきてくれたケーキとお茶を楽しんだ。

 その後に、彼女の案内で二階の広い和室に向かった。その部屋には和簞笥がいくつも並んでいた。美弥子の指示で、結花は畳の上で持ってきた着物のたとう紙を開いた。

「まあ、素敵な色じゃない」
「ババ臭くない?」
「全然。黄土色じゃないじゃない。花葉色か淡黄色っていうのよ。秋から春までの三シーズン使えるわよ。それに、いまでもミセスになってもおかしくない、オールマイティな一枚だと思うわ。帯はどんなのをいただいたの?」

「これ」
もう一枚のたとう紙を開き、朱色の帯を見せる。

「いいと思うわ。名古屋帯だけれど、金糸が入っているからかなり格も上がるし。結婚式だと袋帯の方がいいけれど、今回のお茶会ならこれでもいいと思うわ。じゃあ小物を合わせていきましょうよ」
そういうと、美弥子は嬉しそうにいそいそと、簞笥の引き出しを開けてたくさんの箱を取り出した。

 それはまるでおもちゃ箱をひっくり返したようだった。つやつやと輝きのある鮮やかな組紐、絹の美しい布が次から次へと出てくる。

「洋服だと、えっというような色の組み合わせも、和服だと素敵に見えるのよ。それに、小物の組み合わせ方で、清楚にも、大正ロマン風にも、現代っぽくもなるの。でも、宗匠は少し反動的だから、あまりアバンギャルドにはしないようにしましょうね」

 白にオレンジの混じった組紐の帯締め、鮮やかなひわ色に金糸の混じった帯締め、きれいな黄色の組紐、やさしい桃色の羽二重の帯揚げ、絞りで出来たオレンジと緑の帯揚げ、白地にちいさな花が刺繍された半襟などが次々と出てきて、着物の上に置かれた。

「さあ、どうしましょう。春らしい感じを出すならこのあたりよね」
美弥子がひわ色の帯締めを帯に合わせる。

 結花は黄色には黄色を合わせるのかと思っていたが、言われてみるとそうやって若草のような色を合わせると春のイメージが強くなる。
「へえ。こういう組み合わせもありなのね。帯揚げは? このオレンジと緑の?」

「そうね。そうするとわりと大人っぽくなるかしら。この薄桃色だと花霞のイメージだから若さを強調する感じ?」
美弥子が、それぞれを合わせてみる。言われてみるとその通りだ。同じ着物と帯なのにずいぶんと印象が変わる。

「でも、実際に着る人の顔に合わせてみるとまた感じが変わるのよ。この組み合わせで鏡の前で合わせてみましょうよ」
美弥子の言葉に、結花の心はワクワクしてきた。つまらないと思っていた色無地は、素敵な着物に思えてくる。

「帯が変わるとまた全く違った印象になるのよ。このあたりが和装の面白さなの。この着物も帯もオーソドックスだからいろいろな組み合わせに使えるわ。次に着物や帯を買うときにもきっと使えるわ」

 お茶会の日、結花は再び美弥子の家に行き、着付けを手伝ってもらった。一人では上手く着られないけれど、美容院で着付けてもらうとさらに出費がかさむからどうしようと悩んでいたのを、美弥子が察してくれて提案してくれたのだ。その分、結花は着付けに便利な専用の腰パッドや襟元が崩れないようにするゴムベルトを、美弥子のアドバイスで購入し、一人でそれなりの着付けが出来る手順を習った。

 柳の若葉が芽吹きだし、八重桜と藤の瑞々しい房が一斉に花ひらいた庭園に、それぞれの春の装いをした和装の女性が集まった様子は壮観だった。

 美弥子の訪問着は、サーモンピンクの地色に桜や藤などが描かれた優しい御所車柄の加賀友禅で、白金の無地の帯を合わせていた。朱色の帯締めやオレンジに近い帯揚げが柔らかい彼女の装いにきれいなアクセントとなっている。

 その彼女にぴったりとくっついている結花自身は、淡黄色の色無地に合わせた朱色の帯と、美弥子が見立ててくれた若草色の帯締めに薄桃色の帯揚げが、庭園の花爛漫と合っているようで嬉しくてしかたなかった。

 宗匠みずからのお点前をいただく時も、洋服でお稽古をしているときよりも少しだけ背筋が伸びて、優雅にいただけているような心地がした。

「美弥子さん、どうもありがとう」
後で二人で庭園を散歩している時に結花は言った。美弥子は、不思議そうに彼女を見つめた。
「改まって、どうしたの?」

「私ね、着物の件でこのお茶会が憂鬱で、お稽古までもが嫌になりかけていたの。でも、今日こうして晴れ晴れしいお茶会に参加できて、本当によかったなと思って。もともと私には敷居の高い世界だと思っていたけれど、ちょっとでも垣間みる事が出来たのと、尻尾を巻いて退散するのは大きな違いだもの」

 美弥子は、静かに笑った。花ひらく庭園がとても似合う優しい笑顔だった。彼女は、所作も歩き方も、結花よりずっと慣れていて洗練している。優美で惚れ惚れとする。

 彼女が素敵なのは、お稽古の成果である事は間違いないだろう。お金持ちの家に生まれて、そういう躾を受けてきた事もきっと影響している。でも、それだけではないと思った。暖かくて押し付けがましさのない思いやりは、たぶん彼女特有の人の良さだ。いろいろな意味で追いつけない事があるし、比較してもダメなんだろうけれど、それよりもこういう人と親しくなれた事、仲良くなっていろいろ教えてもらえるようになった自分もラッキーなのだと結花は思った。


(初出:2017年4月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(3)動物学者 - 2 -

第三回目「動物学者」、長いので三回に分けると前回書いて、三分の一に切ったんですが、この後に二つほど別の小説が入って間が空くので、この話はさっさとここで発表する事にします。ああ、行き当たりばったりだとこういう事に。いつもより長いですが、五千字程度なので、お許しください。すみません。

今回は、いろいろな設定上の情報がたくさん出てきます。(あ、無理に憶えなくても、必要になったら「あらすじと登場人物」を読めばいいのでご安心ください)それに、ようやく主人公の二人が「スコット博士」「ミズ・カペッリ」と呼び合うのを脱出します。やれやれ。でもまだ先は長い……。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(3)動物学者 - 2 -

 給油を済ませ、小さな村が遠ざかっていくのを振り返り、後方座席のメグとルーシーがともに寝いっているのを目にして彼女は微笑んだ。

「マニャニというのは大きい街ですか?」
ジョルジアが訊くと、彼は笑った。

「ニューヨークと比較したら村以前で集落と言った方がいいでしょうね。それにレイチェルは、少し街から離れた所に住んでいるんです。彼女は、ゾウの研究をしていて、裏庭にゾウが登場するような所に家を買ったんです」

 ジョルジアは、ふと思いついたように言った。
「じゃあ、ミセス・ブラスのお母様はもしかして……」

「ご存知かもしれませんね。レイチェル・ムーア博士です」
アフリカの動物研究者として、彼女は有名人だった。まだ五十代だが、ゾウの権威として認められる研究成果も知られていた。『夕陽の沈むさきに』と題した本人の半伝記映画に出演していたので、さほど動物学にも詳しくないジョルジアでもその名前を知っていた。

「あなたの義理のお母様でもあるんですよね」
ジョルジアが確認すると、彼はわずかに戸惑いを見せた。

「これから引き合わせるから、説明しておいた方がいいでしょうね。父の家はナイロビ郊外にあって、レイチェルの住む家とは別です。父ジェームス・スコットとレイチェルは、表向きはただの親しい友人ということになっています。もちろん同業者やこの辺りの人びとは、誰がマディの父親か知っていますし、二人はお互いの家を行き来しているのですが」

「ジェームス・スコット博士……あの映画にも出ていらっしゃいましたよね。確か、ライオンの権威で、大学の名誉学長をなさっていらっしゃる……。あの方があなたのお父様だったんですか」
「はい。でも、この世界でも僕と彼が親子であることを知らない人の方が多いでしょうね」

「どうして? ご自宅で他の研究者の方と顔を合わせたりはなさらないのですか?」
「僕は、八歳の時から彼とは別に暮らしているんです。今でも彼と会うのは年に一、二度、それも学会で遭う方がずっと多いんです」

 ジョルジアは、もしかしたら悪いことを訊いたのかと不安になって彼を見つめた。彼は顔を向けてまた微笑んだ。
「氣にしないでください。父と喧嘩しているわけではないのです。ただ、あまりにも僕の人付き合いが悪くて、家族ともまともにつき合えないし、父も自分から息子に歩み寄ろうというタイプではないんです。それで氣をもんだマディとレイチェルの方が、機会を作っては僕を家族の会と学会を含めた社会に引っ張りだしてくれているくらいなのです。あの二人には、感謝しています」

 ジョルジアは、また同じことを感じた。この人は、なんて私によく似ているんだろう。家族が嫌いなわけではないし、社会を憎んでいるわけでもないけれど、氣がつくと一人こもってしまう感覚は、彼女にはとても馴染みがあった。

「あなたが住んでいる所は、安心できる居場所なんですね?」
ジョルジアが訊ねると、彼は少し驚いたように彼女の顔を見た。揶揄でもなく、疑惑でもない、真摯な表情を見て、彼は少し間を置いてから力づよく答えた。
「ええ。あそこで僕は初めて安らぐことを知りました。《郷愁の丘》は、僕にとっての約束の地なんです」

「《郷愁の丘》ですって? なんて素敵な名前なの」
ジョルジアが言うと、彼は笑った。
「誰がその名前を付けたのかわかりません。前の持ち主はそんな三流ドラマみたいな名称は恥ずかしいから変えてもいいと言っていましたが、僕はそのままにしたかったんです」

「シマウマがたくさんいるんですか?」
ジョルジアは、訊いた。象の権威のムーア博士は、ゾウの生息地の近くに家を買ったというのだから、彼の自宅の側にも研究対象がいるのかと思ったのだ。

「ええ。シマウマも、ガゼルも、ヌーも。でも、彼らは留まりません、タンザニアヘ行き、それからまた次の年になると帰ってきます。研究には向いています。それに哲学者になるにもいい所かもしれません。あなたも、きっと数日間でしたらお氣に召すでしょう。写真に撮りたい景色がたくさんあるはずですから」

「どうして数日間なんですか?」
「ニューヨークと較べるまでもなく、とても退屈な所と思われるでしょうから。一番近い街まで一時間近くかかるんです。テレビやラジオの電波もよく途切れてしまうし、電氣や水道のといった公的ライフラインも通っていないんです。幸い、敷地内に泉があるので、ガスボンベと発電用のオイルを買うだけでなんとか生活はできますが」

「行ってみたいわ」
「本当ですか?」
「ええ。マリンディよりも、ずっと」

「じゃあ、お連れしましょう。今夜は、レイチェルの所に泊って、明日にでもあなたをムティト・アンディの駅にお連れしようと思っていました。でも、本当は、あなたにお見せしたいと思っていたんです。忘れられない風景や、心をつかむ瞬間を切り取る特別な目をお持ちのあなたなら、なぜあそこが《郷愁の丘》と名付けられたのか、きっとわかるでしょう」

 ジョルジアは遠くを見ている彼の横顔を見つめた。不思議だった。全幅の信頼としか言いようのない心の凪が、朝の砂漠のように鮮烈な陰影を持って横たわっていた。それは論理的ではなく、おかしな安心感だった。これまで独身男性の自宅に行こうとしたことは一度もなかった。ましてや街まで車で一時間も離れている陸の孤島に行くなど、考えたこともなかった。

 もちろんジョルジアは、彼もまた男性であることを忘れるほどナイーヴではなかった。けれど、彼女には失うものもなかった。片想いの相手には存在すらも知られておらず、かつてつき合った相手には女性としての存在を否定された。守る価値のないもののために、疑心暗鬼になる必要などないのだ。

 反対に、スコット博士のことは、もっと良く知りたかった。お互いのことをまだよく知りもしないのに、それでもこれほど近く感じる相手だ。一緒にいると心が安らぐだけではなく、話にも興味が尽きなかった。

 モンバサからマリンディへと向かう二時間、ジョルジアは彼といろいろな話をした。シマウマの縞の現れ方の話から、写真の印画と人間の虹彩に関する話題まで、お互いの専門を交えながら語り合った。

 彼の家族の話は、その二時間にはほとんど出てこなかった。その時は家庭があると思っていたので不思議だったけれど、今は納得していた。彼が独身だと知っていたら、マリンディの別荘への招待にどう答えただろうと彼女は考えた。異母妹マデリンの家族が常に一緒にいるとしても、おそらく彼女はイエスと言わなかったに違いない。

 でも、今、彼と同じ狭い空間を共有しても、彼女は彼に対して他の男性、例えばリチャード・アシュレイに対するような煩わしさや警戒心をまったく抱かなかった。モンバサからマリンディへと向かった二時間の後、彼はジョルジアにとってよく知らない男性ではなくて、ニューヨークで十年来の公私ともに強い信頼関係で結ばれている同僚のベンジャミン・ハドソンと同じような存在に変わっていた。

 マデリンの入院騒ぎを挟んで、再び彼の車で今度はマニャニへと向かうことになった時も、彼女は彼ともっと長い時間を過ごすことになることに躊躇いを感じなかった。彼の家である《郷愁の丘》へ行くことは、それとは少し意味合いが違うが、ジョルジアはこの成り行きに不安は全く感じなかった。彼はマリンディの別荘に誘っただけで、それ以降の行き先の変更は全てジョルジア自身が望んだことだ。

 彼は真面目で紳士的だった。そしてどういうわけだか、彼女が心地よいと感じる距離を知っていた。

 これ以上一センチでも近づけば、彼女が不安に感じる心理的な、もしくは物理的なテリトリーを、多くの人は無自覚に侵す。同僚であるベンジャミン・ハドソンのように長年知っている人や、《Sunrise Diner》のキャシーのように親しくしている人ですら、ジョルジアは時おりそれを感じて身を強張らせた。それが不必要な怯えだと思考ではよくわかっていても、反射的にびくついてしまうのだ。

 その一方で、彼女にはどうやっても近づけない類いの人たちがいる。ジョルジアの方から関心を持ちもう少し親しくなりたいと感じる時に、徹底的な無関心を示して近寄らせない人たちだ。自分からその距離を縮めなければ、親しくはなれないとわかっていても、その見えない壁や遠さを感じてわずかな一歩を踏み出すことが出来ないことが多くあった。

 彼がジョルジアとの間に置く距離は、その二つの距離の間にあった。どんな時でも。ジョルジアは、だから、自分が望む時に少しずつ彼に近づいていくことが出来た。いくつもの窓からそっと覗いてみると、心地よくて興味深い世界が存在している。そして、その世界は決して素っ氣なく扉を閉めて拒否したりはしない。どんな風に覗き込んでも優しく穏やかに歓迎してくれるのだ。

 そして、ジョルジアは新しく知り合う人から逃げるばかりだったこれまでと対照的に、むしろその場に留まり、彼の話をもっと聴き、自分のことを知ってもらいたいと思うようになっていた。

 それまで撮り続けていた子供たちの笑顔の写真を撮るのをやめて、モノクロームの人物写真を撮るようになったきっかけも、ニューヨークの知り合いにはほとんど話せなかったのに、彼には正直に話していた。

 秋の柔らかい陽が射し込む墓地で、彼女は一人の男の姿を偶然撮った。その横顔に浮かび上がった陰影は、自分の心を見つめ直すきっかけとなり、世間の喜ぶ子供の明るい笑顔ばかりを撮り続けていた彼女にとって、作品の方向転換のきっかけとなった。そして、彼女は有名キャスターであったその男に恋をした。

「一度も知り合っていない人にそんな感情を持つなんておかしいと、自分でもわかっているんです。でも、私の作品を創り上げるためには、その感情を無視することは出来ませんでした。自分と向き合わない限りはそれまでの殻を打ち破ることはできなかったんです」

 彼は、彼女の片想いについて、肯定してくれた。
「あなたはちっともおかしくなんかありません。あなたはそのニュースキャスターに迷惑をかけたわけではないんですから、そのことを恥じる必要はありませんよ。それに、恋とは論理ではないでしょう。いつの間にか身動きが取れないほど好きになってしまっている。僕にも似た経験があります」

「知り合ってもいない人に恋をしたことがあるんですか?」
「いや、知り合ってはいます。でも、二度と逢う機会もない程度の知り合いだったから、あなたのケースとほとんど変わりありませんよ」

「その女性への想いは、自然消滅したんですか?」
ジョルジアは訊いた。叶わない想いがいつかは解消された事例があれば、彼女自身が今の虚しい渇望に耐えることも楽になるかもしれないと思ったのだ。

 彼は、しばらく答えるのをためらっていたが、やがて首を振った。
「いいえ、まだ。いつか消えてくれればいいと思っています」

 ジョルジアは、彼が見せた表情の翳りに、悲しさをおぼえた。手の届かないものを想い続けることは苦しい。けれど、それを手放し失うことも、決して心躍ることではないのだ。それは人生に新たに刻まれる静かな敗北だった。それも、とても惨めな。自らを嘲笑して吹き飛ばそうとすれば、もっと激しい痛みとして心の奥に疼きだす、やっかいな感情の嵐。彼女のよく知っている世界だ。

「ミズ・カペッリ。まもなくマリアカニに着きます。給油を兼ねてまた少し休憩しますが、どのくらいお腹が空いていますか」
彼がそう言うと、ジョルジアは笑った。

「メグはとっくに名前で呼んでくれているのに、いつまで礼儀正しくミズ・カペッリなんですか」

 それを聞くと、彼は困ったように口ごもった。
「それは……親しくもない僕に馴れ馴れしくされたら、あなたは嫌だろうと……」

「でも、この数時間で、ずいぶん親しくなったと思うし、私はジョルジアと呼んでいただけたら嬉しいわ。私もスコット博士ではなくて、ヘンリーと呼んで構わないのかしら。そして、堅苦しい話し方をお互いにしないようにしません?」

 彼は、例のはにかんだような笑顔を見せた。ジョルジアはまた一歩彼に近づけたように感じて嬉しかった。彼は、少しの間黙っていたがためらいがちに口を開いた。
「その……もし嫌でなかったら、グレッグと呼んでくれないか」

「グレッグ?」
「ミドルネームがグレゴリーなんだ。とても小さかったとき、可愛がってくれた祖父にそう呼ばれていて……。もちろん、違和感があるならみんながそう呼ぶヘンリーでもいいんだが……」

 ジョルジアは微笑んだ。
「喜んで、グレッグ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(3)動物学者 - 1 -

タイトルにもなっている《郷愁の丘》という地名は、イタリアのポップグループ、マティア・バザールの歌「Amami」の邦題からイメージして命名しました。かなり年長の方でないとご存知ではないと思いますが、ずっと昔に三菱ギャランという車のCMにこの曲が使われていて、日本で発売された時の邦題は「郷愁の星」というものだったのです。イタリア語の歌詞そのものには、一度も「郷愁の星」という言葉は出て来ないのですが。この歌のイタリア語の歌詞からイメージしたモチーフは、この作品のあちこちに散りばめられています。

という話はさておき、第三回目「動物学者」です。長いので三回に分けます。こうやって分けていると、全然終わらないような氣がしてきたけれど、しばらくこれで行こうと思います。もしかしたら途中から巻くかもしれませんが……。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物




郷愁の丘(3)動物学者 - 1 -

「お疲れじゃないですか」
ジョルジアは、訊いた。彼はモンバサにジョルジアを迎えに来てマリンディから往復しているので、既に四時間も運転しっぱなしだった。これから四時間再び運転して、こんどはツァボ国立公園内のマニャニまで行かなくてはならない。

 彼は穏やかに微笑んだ。
「慣れていますから。この辺りで運転するとなると、たいていこんな距離になるんですよ」

 スコット博士と二人では絶対に行かないと泣き叫んだメグは、結局、二十分も立たないうちに彼の愛犬ルーシーにもたれかかって寝てしまったので、ジョルジアは再び助手席に座って彼と静かに話をすることになった。

 道は舗装されているものの、状態はよくなかった。アメリカの都市部であればおそらく三十分もあればついたのではないかと思われる距離を、ランドクルーザーは二時間近く使って走っていた。海岸部を離れ、森林部を抜けた頃になって、ようやく空氣が乾いてきた。モンバサやマリンディは興味深いところだったので、ほとんど何も見ないまま去ったのはある意味残念だったが、あの猛烈な湿氣と暑さから解放されたことに、ジョルジアはほっとしていた。マラリアの恐怖も去ったのだろう。

 広大な赤茶けたサバンナの間に時おり現れて、休憩と給油を繰り返す小さな街をジョルジアは見回した。カラフルな建物と看板。アルファベットで書かれているが、スワヒリ語の固有名詞で占められている。そして、半分はアラビア文字だ。特に東部はイスラム教徒が多いので、街ごとにモスクが目立つ。異国にいるのだと強く印象づけられる景観だ。

 癖の強い英語を話す黒人たちは、白人が乗っている車に給油する時に必ず法外な値段をふっかけてくる。スコット博士は穏やかに彼らと交渉して相場の値段を払っていた。これはこの人たちの日常なのだとジョルジアは思った。

 人種のるつぼであるニューヨークの、比較的有色人種が多い地域に住むジョルジアは、親しい友達であるキャシーをはじめとして多くの黒人たちを知っていたが、白人たちと比較してつきあうのにエネルギーを消耗すると思った事はなかった。だが、ここでは全てがニューヨークとは違う。人種差別や人類愛とは関係ないのだ。

 スコット博士が、彼らに対して怒ったり悪態をついたりしない事に、ジョルジアは強い印象を受けた。二年前にジョルジアたちを連れて回ったリチャード・アシュレイは五分に一度は悪態をつくか、冗談を交えながらも不平を漏らしていた。今も状況がわかる度にジョルジアはまたかとため息をつきたくなるのだが、対応している彼自身は繰り返されるジョルジアにとっては試練とも言える状況を黙々と受け入れていた。

 このように、氣候も人びとも文化風俗も違う国で、先祖はヨーロッパから来たという人びとは一種独特のテリトリーの中に生きていた。植民地時代には宗主国から来た彼らは特権階級でアフリカ大陸を根に持つ人びとを奴隷や家畜のように見下して快適な暮らしをしてきた。国が独立し政権が黒人たちの手に渡ると、あからさまな支配は終わったものの私有地の権利やその他の経済的優位性が残ったために、あいかわらずプール付きの豪邸に住む白人と貧しい黒人という構図は消えていない。

 現地で生まれた二世三世以降の白いアフリカ人たちは、今も独特のコミュニティを形成している。そこにあたらしく移住してきた白人たちも加わる事が多い。中には、そういった白人ムラを嫌い、現地の黒人たちの中に一人飛び込む人もいるが、そのまま上手く受け入れてもらえる、もしくは本人が欧米社会とはかけ離れた観念を持つ部族の生活に順応する事はまれで、大抵は失意のうちに欧米に戻る事になる。

 ヘンリー・スコット博士は十九世紀に移住したイギリス人の血を引いているが、自己紹介をする時には「ケニア人です」と言った。ジョルジアが彼と知り合ったのは二年前で、マサイマラ国立公園の近くで撮影をした時に、オーガナイズしたリチャード・アシュレイが連れてきた。

「彼はヘンリー・スコット博士といって、大学で講師もしている動物学者です。サバンナの事をよく知っていてマサイ族との交渉も慣れているんで来てもらいました。普通の観光なら僕一人でも問題ないけれど、子供たちを撮影するなら、マサイ族の長老と交渉しなくちゃいけないんです。で、こればっかりは彼がやった方が成功率が高いんですよ」

 口から生まれてきたようなリチャードよりも交渉のうまい人とはどんな人かと思ったが、スコット博士はまったく弁が立つ人間ではなかった。そうではなくて、長年の付き合いから、彼はマサイの長老たちに信頼されていたのだ。

「彼の本来のフィールドはツァボ国立公園のあたりなんですが、マサイマラでも、アンボセリでもマサイ族の連中と知り合いになっているらしいんです。白人たちの共同体では名前を知らない人もいるくらいに目立たない存在だというのに。パーティにも全然顔を出さないし」

 リチャードがそう話を振ると、当時彼は言葉少なく答えた。
「マサイ族の長老と酒を飲んでゴシップの交換するためににいっているわけじゃない。研究のことで話さなくてはいけないことがあるから。彼らは僕らの知らない事をたくさん知っているんだ」

 ジョルジアが、この人は私の同類だと初めて思ったのは、二年前に出会ったこの時だった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(2)海の街 - 2 -

先週から連載を再開した「郷愁の丘」今回は「海の街」の後編です。モンバサに来たのは、特に理由があったわけではなく、パーティの誘いから逃げたかっただけなのですが、実はジョルジアはほとんどケニアの海岸の観光をしないまままたサバンナに向かう事になります。

とくにスコット家所有の別荘内には、足も踏み入れていないという事態に。ブログのお友だちの彩洋さんのところのキャラは宿泊もしているのに(笑)でも、この別荘の事は、いずれ別の作品(外伝かな?)でちゃんと描写しようと思います。いろいろと設定はあるんですよ。


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あらすじと登場人物




郷愁の丘(2)海の街 - 2 -

 ひと通り写真を撮り終えて振り向くと、彼は新しいよく冷えたペットボトルの口を緩めてから手渡した。ジョルジアが礼を言って受け取り飲むのを待ってから、彼は愛犬にやった残りのペットボトルから飲んだ。この人は、どこまでも紳士だと彼女は思った。一連の動きには全くわざとらしい所がなく、評価してもらおうと意識しての行動でもないことが感じられた。

「なんて美しい海かしら。私の育ったところも海辺だったけれど、こんなに鮮烈な青じゃなかったわ。素晴らしい所に別荘をお持ちなんですね」
ジョルジアは感心して言った。彼は笑った。

「別荘を持っているのは父です。でも、彼はほとんど来ません。マディに薦められて投機の代わりに買ったようです。使うのはマディばかり。僕はよく運転手兼、鍵の管理人として駆り出されるのです」

 奥様の名前はマディとおっしゃるのですか、そうジョルジアが訊こうとしたときに、携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。ポケットから取り出してちらりと見てから「マディだ、失礼」と言って彼は電話を受けた。

 すぐに緊迫した様相になった。
「なんだって。わかった、大丈夫だ。あと五分もかからない、すぐに行く。メグは? わかった。玄関にいてくれ」

「どうなさったんですか」
ジョルジアは、ペットボトルの蓋を閉めると、ルーシーの水のボールを空にして車に戻った。ルーシーはついて来て、開けられたドアにさっと飛び乗った。エンジンをかけながらスコット博士は説明した。
「マディは、いま妊娠七ヶ月なんですが、急な腹痛に襲われたんだそうです。切迫流産の怖れがあるので、すぐに病院に運ばなくてはならないらしいんです」

 ジョルジアはぎょっとした。
「奥様がそんな大変なときに、迎えにきていただいたりして、済みませんでした」

 すると、スコット博士は首を振った。
「マディは、僕の妻ではありません。それに、夫のアウレリオも今朝はマリンディにいたんですよ。もっとも彼は肝心なときにどこかに行ってしまう才能があって、それをわかっているマディが、最近はマリンディに来る度に僕を呼びつけているんです」

「ご家族っておっしゃっていたので、奥様やお子さんといらしているんだと思っていました」
ジョルジアが言うと、彼はジョルジアの方を見て微笑んだ。

「僕は独身で、マディは妹です。正確に言うと、腹違いの妹ハーフ・シスター です。夫は、ミラノの実業家でアウレリオ・ブラス。娘のメグは五歳になります」

 そう話している間に、車は白い壁と藁葺きの屋根の大きい家の門に入っていった。玄関の所にぐったりと女性が座っていて、その足元に金髪をポニーテールにした少女がいた。

 スコット博士は急いで車から降りると、彼女の方に駆け寄った。ジョルジアも降りると、椅子の脇にあった荷物を持って、車に運び込んだ。荷物と反対側に少女が来て、ジョルジアの手を握った。ジョルジアがその目の高さに屈むとぎゅっと抱きついてきた。母親の危機を感じてよほど怖かったのだろう。

 博士が妹を運転席のすぐ後に座らせ、それからジョルジアからメグを受け取って母親の隣に座らせた。ジョルジアから離されるときに少女は少し抵抗した。

「メグ」
スコット博士が咎めると、彼女は泣きそうな顔をした。ジョルジアは荷物を最後部座席、ルーシーの腰に当たらないようにそっと置いた。そっと撫でると、不安そうな犬はクーンと鳴いた。

 車が出ると、マディは苦しそうに言った。
「はじめまして、ミズ・カペッリ……ごめんなさいね」
「こちらこそ……ミセス・ブラス」

 病院はさほど遠くなく、彼女は玄関で待っていた担架に乗せられて診察室に入った。廊下で抱きついて離れないメグと一緒に待っていると、車を駐車してきたスコット博士が、紐に繋いだルーシーと一緒に入ってきて、謝った。
「ミズ・カペッリ。本当に申し訳ない。せっかくの休暇なのに……」
「そんなことをおっしゃらないでください。先生が中でお待ちです」

 スコット博士は、ノックをして診察室に入っていった。ルーシーはジョルジアの足元に踞った。彼女は、うとうとしだしたメグをさすりながら廊下のベンチでしばらく待っていた。

 やがて、携帯電話で話しながらスコット博士が診察室から出てきた。
「そうですね。それが一番だと僕も思います。アウレリオは、明日直接ここに来るそうです。はい。このままそちらに向かえば夕方にはそちらにつきます。そうするしかないと思います」

 彼は電話を切ると、苦悩に満ちた顔で切り出した。
「ミズ・カペッリ。何とお詫びをしていいのかわからない。僕は、これからメグをここから四時間かかるマディの母親の所に届けなくてはいけないんです。彼女はアンボセリから急いで戻ってきますが、ここに彼女を引き取りにくるには遠すぎるのです。あなたをこれ以上引きずり回すわけにはいかないし、一人で放っておく訳にもいかない。どこかホテルへとご案内しようと思いますが……」

 ジョルジアは、自分でなんとかするので氣にしないで欲しいと言おうとしたが、その前にメグが泣き出した。
「いや! ヘンリーと二人でなんか行かない! ジョルジアと一緒にここにいる! ママはすぐに元氣になるもん」

「メグ! マディはしばらく入院しなくちゃいけないんだ。病院はホテルじゃないし、ミズ・カペッリにお前の世話をさせるわけにはいかないだろう」
「いや!」

 必死になって抱きついてくるメグと、困り果てているスコット博士を見ていたジョルジアは口を開いた。
「私も一緒に行きましょうか。特に予定はないですし、道中の子守りくらいのお役には立てると思います」

 スコット博士と、メグが同時にジョルジアを見た。ルーシーも、黒い鼻を持ち上げて、騒ぎの収まったらしい人間たちを見あげた。

 前よりもさらに強くジョルジアに抱きついている少女を見て、彼はため息をついた。しばらく、言葉を探していたが、やがて済まなそうに頭をさげた。
「そうしていただけたら、助かります」
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Posted by 八少女 夕

【小説】郷愁の丘(2)海の街 - 1 -

本日からまた小説の連載を始めます。外伝が既に二本も先に出てしまっていて、いろいろとネタバレをしている状態ではありますが、私が書いているのは推理小説ではないので、いいということにしましょう。「郷愁の丘」です。以前に読み切りとして発表した「サバンナの朝」がその本編の第一回で、今日は第二回に当たる「海の街」です。少し長いので来週との二回に分けます。

「郷愁の丘」はかつてこのブログで連載した「ファインダーの向こうに」の続編という位置づけで、ヒロインをはじめとしておなじみのキャラクターがたくさん出てきますが、おそらく前の作品を読んでいなくても話は通じるはずです。今回の話は、舞台のほとんどがニューヨークではなくてケニアに移っています。

ちなみに、ケニアだ、赤道直下だというと、どこに行っても暑くて死にそうのように思われるかもしれませんが、実は多くの場所は高山で過ごしやすいのです。でも、日本の夏にも負けずに暑いところがあります。それがモンバサやマリンディなどの海岸沿いの地域です。マラリア蚊がいるのもこのあたりです。


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あらすじと登場人物




郷愁の丘(2)海の街 - 1 -

 深い青を瞳に焼き付けたくて、彼女は助手席の窓を開けようとした。

「暑いんですか?」
穏やかな低い声がすぐ横からした。ジョルジアは、運転している彼の方を見た。その横顔からは、窓を開けることへの非難は読みとれなかったが、もしかしたらマラリア蚊が入るから、開けない方がいいのかもしれないと思った。

「海の色をもっと良く見たいと思ったんです」
そうジョルジアが言うと、顔をこちらに向けた。淡い茶色の瞳は優しい光を宿していた。短くきれいに手入れされた口髭の間から見えている口元は、暖かく口角をあげていた。

「すぐに見晴らしのいい海岸に出ます。良かったらそこで車を停めましょう」
その親切な提案に、彼女は「ありがとうございます」と答えた。

 彼はジョルジアの日常から考えると、常軌を逸して親切だった。ナイロビで偶然再会した時に、マリンディの別荘へと招待してくれたこともそうだった。それだけではなく、モンバサから電話を入れて、マリンディまでバスで行くので待ち合わせ場所を教えてほしいと訊くと、彼自身がモンバサまで迎えにくると申し出てくれたのだ。

 普段の彼女はよく知らない人とは距離を置いていた。別荘への招待も断っただろうし、ましてや片道二時間もかかるモンバサとの往復をしてもらうことに警戒心を持って断るのがあたり前だった。そもそも、モンバサに来たのも、パーティにしつこく誘ってくるリチャード・アシュレイの申し出から逃げるための口実だった。

 けれど、今、隣にいるヘンリー・スコット博士には、どういうわけなのか、彼女はまったく警戒心を持たなかった。招待に対しても「喜んで」と即座に返答してしまったぐらいなのだ。

 彼は二年前の写真集の撮影旅行のときに知り合い、世話になった動物学者で、ツァボ国立公園の近くに住んでいる。穏やかで誠実な上、口数が少なく、さらに必要以上に人とつき合おうとしない男だった。年齢はまだ四十には届かないようだが、あご髭のためにずっと年長者の印象を与える。

 初めて会った時から、ジョルジアは「彼は無害だ」という印象を持っていた。それは、アメリカ、とりわけニューヨークのような大都市では、決して褒め言葉ではない。むしろ口に出せば嘲笑と受け取られる心配すらある言葉だったが、彼女にとっては大いなる褒め言葉だった。

 彼は沈黙がもたらす平安を知っていた。あの時、車を運転していたリチャードは、沈黙を怖れて必死に何かを話し続け、ジョルジアは疲れて意識を遠くに飛ばした。そして、ふと意識が戻ったとき、バックミラーに映ったスコット博士も同じように違う世界で心を休ませているのに氣がついた。ジョルジアは、思わず後ろを振り返った。ゆっくりと視線を合わせたスコット博士は、ほんのわずかに口元を緩めた。

 リチャードが、郵便局へ寄るために席を外し、二人だけになったときにも、静かにいくつか言葉を交わしたが、そこには「間を持たせるための氣まずい会話」や「退屈な天候の話」などは何もなく、かといって有用な情報がたいていそうであるように脳内に緊張が満ちることもなかった。

 今よりも男性不信の傾向が強かったジョルジアは、仕事でつき合わざるを得なかったほぼ全ての男性と、八割以上の女性との会話に強い緊張を感じていたのだが、彼との会話だけは、まるで家族や親しい同僚としているかのごとくリラックスしたものであることにひどく驚いた。

 その印象が強かったので、彼のことはよく憶えていたのだが、偶然再会した後にもその印象はますます強くなっていた。

 彼女はそれと正反対の感情を知っている。もうやめたいと思っても未だに逃れられない片想いの相手を、テレビのニュースや雑誌の表紙で見かける時のことだ。その著名なニュースキャスターからは自分が見えるはずもなく、それどころかその存在すらも知られていないとわかっていても、動揺し、怯え、熱いとも冷たいともわからぬ何かが血管を駆け巡り、心は締め付けられる。それなのにスコット博士が自分とわずか二十センチも離れていない距離で、車という密室の中に座って微笑んでも、ジョルジアは完全にリラックスしているのだった。

 クーン、と小さい鳴き声がしたので、ジョルジアは思い出して後ろを振り返った。ランドクルーザーの最後部座席に、焦茶色のローデシアン・リッジバックが横たわっている。主人に劣らずもの静かな犬で、ライオン狩りにも使われる勇猛な性格は、ジョルジアの前ではまだ披露していなかった。元来大人しい性格の犬なのかと思ったが、スコット博士はモンバサでジョルジアと初対面をした時の愛犬の様子に驚きを示した。

 そこだけ黒い鼻先をジョルジアの太もものあたりにこすりつけて、彼女を見上げた。その赤茶色の透明な瞳に彼女は、すっかり魅せられてしまった。しゃがんで、そっと頭に触れると、頬にキスをしてきて、ちぎれんばかりに尻尾を振った。
「ルーシーが初対面の人にここまで懐いたのを始めてみました。たいていひどく吠えるんですが」

 ルーシーは、二時間のドライブの間、ほとんど身動きもせずに、座っていた。その存在を忘れてしまうほど静かなのだが、時折あくびをしたり体を伸ばす時の音でジョルジアが振り返ると、こちらを見つめて尻尾を振った。

「ルーシーに、水をあげた方がいいんじゃないでしょうか」
ジョルジアが訊くと、スコット博士はジョルジアの方を見て優しく微笑んだ。
「あなたも喉が乾いたでしょう。すぐそこの角で停まりましょう」

 それから本当に500メートルもいかない角を曲がったときに、ジョルジアは思わず息を飲んだ。そこは波止場になっていて、遮るもののない濃紺のインド洋が広がっていた。地平線はほんのわずかに球面を描き、ここは水の惑星なのだとジョルジアに告げた。

 しばらくサバンナの乾いて赤茶けた世界、埃がアカシアの灌木を覆うアフリカらしい光景ばかりを見ていたせいで、この鮮やかな海の煌めきがよけい眩しく感じられた。ジョルジアは、車の外に出ると、目は海に釘付けになったまま無意識にカメラを探した。

 そして思い出した。休暇で、ほとんどの装備はニューヨークに置いてきたのだ。持っているのはモノクロームのフィルムを装填したライカと、片手に収まるサイズのコンパクトデジタルカメラだけ。もし、この色を撮りたければデジタルカメラを使うしかない。

 立て続けにシャッターを切っているジョルジアを眺めながら、彼は後部のドアを開けてルーシーを出した。犬はすぐにジョルジアの側にやってきてその足元に座った。彼は、ステンレスのボウルをその前に置いてやり、冷えたペットボトルの水を半分ほど入れてやると、残りを持ってジョルジアを待った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】人にはふさわしき贈り物を

もう三月になっていますが「十二ヶ月のアクセサリー」二月分を発表します。二月のテーマは「ブローチ」です。

日本でも「●●お宝探偵団」的な番組があるようですが、ドイツ語圏にもその手の番組がいくつかあって、「先祖から受け継いだ」「蚤の市で買った」「離婚した夫が置いていった」などといったいろいろなアンティークや美術品、古い調度などが思いもよらぬ値段をつけてもらっていたり、反対に「これは二束三文です」といわれてがっかりして帰ったりするのが放映されています。今回の小説は、その番組にヒントを得て書き出しました。


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人にはふさわしき贈り物を

 宝石鑑定士の厳しい顔を見て、クルトはこれはだめだな、と心の中で嘆息した。一攫千金を夢見てここまで来たが、どうやら無駄足だったようだ。テレビで毎日のように放映されている「お宝鑑定」では、蚤の市で50ユーロで購入した陶製の壺が4000ユーロにもなったりしている。だから、彼もかねてから価値を知りたかったブローチを持って半日もかけてここまで出てきたのだ。

「残念ながら、これはルビーではありません。ルビーとよく間違えられるスピネルですらないんですよ」
「じゃあ、なんなんですか」
「アルマンディン(鉄礬ざくろ石)またはパイロープ(苦礬ざくろ石)です。どちらかは組成をみないとわかりませんが、どちらにしてもガーネットの中でもっともありふれたタイプの石ですな。もし、両者が入り交じっているとすると半貴石扱いになりますのでもっと価値は下がります」

 そう簡単にうまい話が転がっているわけはないな。

 クルトは、その石を持って帰るつもりになり、鑑定士の方に手を差し出した。
「そうですか。あまり価値のない石ってことなんですね」

 だが、宝石商は何か考え込むように、自分でありふれた宝石と断定したこの赤い石を見ていた。
「何か?」
不安に感じたクルトが訊くと、ためらいがちに答えた。

「カットと、この台座のデザインがですね」
「台座?」

「ええ。この石はスターストーンです。一つの光源のもとでだけ、内包された別種の鉱物に光が反射されて放射状の光が見える石のことをそう呼ぶのです。ほら、こうすると見える。この六本の白い光彩です。普通はこのスターを生かすように滑らかなカボッションに加工するものなんですが、この石はブリリアントカットを施されている」

 クルトは宝石を覗き込んだ。そう言えば一度白い筋のようなものが見えて、傷かと思っていたが違うのか。価値を落とすものじゃないならなんでもいい。

 宝石商はさらに石をひっくり返し、周りを飾っているすっかり黒くなった台座の細工を眺めた。

「この台座もずいぶんと凝っている。これは職人が手作業で作った台座ですが、今どきこのような加工をするととんでもない値段になるんですよ。大きいとは言え、この手のガーネットにねぇ。誰が何のためにこんなわけのわからないことをしたんだろう。このブローチの由来をご存知ですか」

 クルトは、肩をすくめた。
「亡くなった祖母さんが、戦争中に一晩だけ匿った将校にもらったって言っていましたよ。価値のあるものだから大切にするように、一緒に渡された手紙に書いてあったってね」

「手紙? どこにその手紙があるんですか?」
「さあね。祖母さんは、学がなくてよく読めなかった上、戦後の混乱の中でどっかいってしまったって言っていましたよ。少なくとも宝石だけはちゃんととっておいたと威張っていましたけれどねぇ」

「そうですか。いずれにしても、これだけの大きさの石ですからこの程度はお支払いさせていただきますよ。いかがですか」

 クルトは眉をひそめた。ここに来るまで期待していた額の十分の一もない。現金が欲しいのは間違いがないが、もし後から手紙が出てきてもっと価値が上がったということになると悔しいだろう。

「いや、ルビーじゃないかと思っていたのでね。そういう金額でしたら無理して売らなくてもいいんですよ。そちらには大したことのない石でも僕にしてみたらたったひとつ残った祖母さんの形見ですしね」

 彼はそのブローチを布にくるんでから箱にしまうと、持ってきたときよりも明らかに雑な動作でポケットにしまい、その店を出た。わざわざこんなところまで来たのにな。妻に散々に言われるんだろうな。そう思いつつ、村へと帰っていった。

* * *


 まだ春には遠い。彼は暖房の入っていない冷え冷えとした部屋を見回した。エレナは寝息を立てている。生まれて初めて男を知ったというのに泣きもしなかった。それに、この戦火でいつ人生が終わるかもしれない極限の状態にもかかわらず、ぐっすり眠れる神経というのは大したものだ。

 彼は服を着ると窓辺の小さなデスクに座り、満月の明かりを頼りに手紙を書き出した。こんなところを見回りの奴らに見つかったら、終わりだ。だが、これを書くチャンスは今を置いてはもうないだろう。彼はずっと楽観して生きてきた。だが、さすがの運命の女神の恩寵もこんどばかりは尽きたらしい。彼の叩き込まれた考え方からすると、今すべきことはたった一つだった。

 首からかけて肌身離さず持っていた絹の袋を開けた。中からそっと紅いカーバンクルを取り出した。そっとそのブリリアントカットの表面を指でなぞる。彼の存在の唯一の証明と行ってもいい宝物だ。手放すのはつらい。ましてやこの粗野な娘にその運命を託すのは心細い。だが、そうする他はない。彼とともにあれば先祖代々より託された全ての希望が潰えるのだから。

親愛なるエレナ。

 戦争中だからといって、見知らぬ男にこんな目に遭わされたことを恨みに思うかもしれないね。君は、僕を匿ってくれただけでなく、残り少ない食糧をわけてさえくれたのに。でも、僕は一時の欲望に突き動かされたわけでも、君を軽んじてこんなことをしたわけでもない。

 僕には君の助けが必要なんだ。

 僕は、君にはペーター・ポスティッチと名乗ったけれど、本名をアンドレイ・トミスラヴ・ペトロジョルジェヴィチといって今はなきアレクサンドロスベニア王国の正式な継承者なんだ。残念ながら祖父の代に起こった革命のせいで父はポーランドでの亡命生活を余儀なくされた。そして、追って来た狂信的な革命派の残党どもに惨殺された。

 それから僕は、身分を隠して生きてきた。アレクサンドロスベニア王国再興の良機を待ち続けていたが、どうやら僕の代でも悲願は叶わないようだ。僕は、君も知っているように追われている。ずっと親友だと信じていた男に密告され、先祖代々の財宝のほとんどを奪われた上、身分詐称の罪で軍の地位も剥奪された。

 おそらく数日で僕は捕まり、命を落とすことになるだろう。逃げ切りたいとは思うが、もはや僕にはどんなカードも残されていない。だが、アレクサンドロスベニア王家の未来にはまだチャンスがある。昨日、君のお母さんが闇市に出かけ、君と二人でこの家に残された時に、僕は確信したんだ。

 アレクサンドロスベニア国王として、ふさわしい王妃を迎えることが出来ないまま現在に至った今、僕は緊急避難として君に未来を託すことにした。

 もし神が僕を憐れみ、国の再興を許すならば、きっと君は子供を産むだろう。そしてその子供を正しい地位につけるために、僕は君を王妃に迎えようと思う。アレクサンドロスベニア国王であるアンドレイ・トミスラヴ・ペトロジョルジェヴィチは、エレナ・シマンスカにカレクシュザスカ公爵夫人の称号を授与し、アレクサンドロスベニア王妃として迎える。生まれてくる子に神の恩寵あれ。

 世が平和になり、君が世界にこの手紙を公表できるようになったら、君の子供、もしくはその子孫は再びアレクサンドロスベニア王としてあの地を統べることになるだろう。

 ここに君に預ける『アレクサンドロスベニアの血潮』は、代々の王位継承セレモニーで王が身につけるマントを留めた家宝だ。この星のある紅い宝石は、大きいだけでなく非常にユニークだから、この手紙の真贋を証明し、君の子供がふさわしい地位を得るのに大いに貢献するだろう。

 どうかこの戦争を生き延びてわが王朝の命運を引き継いでほしい。君が栄誉にふさわしき母となるよう命ある限り祈る。

心からの感謝を込めて
 アンドレイ・トミスラヴ・ペトロジョルジェヴィチ



 エレナ・シマンスカが目を覚ますと、かくまった青年将校の姿はもうどこにもなかった。闇市から母親が戻ってくる前に彼が姿を消してくれて本当によかった。親切にしてあげたのに、あんなふしだらなことをするなんて。

 お礼のつもりなのか、大きな赤い石のブローチとなんだか難しい言葉がたくさん書かれた手紙が残されていた。学校で書き取りをもっとちゃんとやっておけばよかった。達筆すぎてよく読めないし、読みとれたところも意味がわからない。

 宝石なんだろうとは思うけれど、こんなに大きな石は見た事がなかったし、下手に人に見せると盗んだのかと疑われたり、どうしてもらったのかと訊かれたり、面倒なことになりそうだ。しばらく、誰にも言わないでおこう。あの手紙は、みつかったらお母さんにひどく怒られるだろうから、頃合いを見つけて暖炉のたき付けにでもしてしまおう。

 エレナはブローチを無造作にポケットに突っ込むと、支度をして動員されている工場へと向かった。

(初出:2017年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記  鬼の栖

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十六弾、最後の作品です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!

もぐらさんの朗読してくださった作品『だまされた貧乏神』

もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。朗読というジャンルは、あちこちにあるようで、自作の詩を朗読なさっていらっしゃるブロガーさんの存在はずっと前より知っていたのですが、小説なども朗読なさるジャンルがあることを、私は去年の今ごろ、もぐらさんによって教えていただきました。

去年は他の方の作品をご朗読くださったのですが、今年はもぐらさんのオリジナル作品でのご参加でした。日本の民話を題材にした作品で、もぐらさんらしい、声の使い分けが素晴らしい、ニヤニヤして、最後はほうっとなる素敵な作品です。

さて、お返しですけれど、どうしようかなと悩みました。もぐらさんの作品に近い、ほっこり民話系の話が書けないかなと弄くり回してみたり、それとももぐらさんがお好きな「バッカスからの招待状」の系統はどうかなと思ったり。

でも、最後は、もともとのもぐらさんのお話をアレンジした、私らしい作品を書こうと決めました。これをやっちゃうと、どうやってもまたもぐらさんに朗読していただけなくなるんですが(長いし、朗読向けではなくなってしまうので)、今回は参加作品が朗読だったから、これでいいことにしようと思います。

それと。実は、このシリーズの話、今年書いてなかったから、どうしても書きたくなっちゃったんです。あ、シリーズへのリンクはつけておきますが、作品中に事情は全部書いてありますので、もぐらさんをはじめ、この作品群をご存じない方もあえて読む必要はありません。自らの慢心が引き起こしたカタストロフィのために都を離れ放浪している平安時代の陰陽師の話で毎回の読み切りになっています。

まったくの蛇足ですが、「貧乏神」は平安時代の言葉で「窮鬼」といいます。そして「福の神」のことはこの作品では「恵比寿神」と言い換えてあります。


【参考】
樋水龍神縁起 東国放浪記
樋水の媛巫女

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樋水龍神縁起 東国放浪記
鬼の栖
——Special thanks to Mogura-san


 ぽつりぽつりと雨が漏り、建て付けの悪い戸から隙間風が常に入り込む部屋で、次郎は三回目の朝を迎えた。その家は、里からわずかに離れており、馬がようやく濡れずに済むかどうかの廂があるだけの小屋で、次郎はこの家に宿を取らせてほしいと願うか、それとも更に五里ほど歩いてもう少しまともな家を探した方がいいか悩んだ。

 野分(台風)が近づいてきており、一刻も早く主人を屋根の下に案内したかったので、彼はこの里で唯一、見ず知らずの旅人を泊めてもいいと言ったこの家に決めたのだが、その判断を幾度も後悔していた。野分のせいで翌朝すぐに出立することが叶わなかったからだ。

 次郎は、出雲國、深い森に守られた神域である樋水龍王神社の膝元で生まれ育った。神社に仕える両親と同じように若くしてその郎党となった。そして、宮司から数えで五つにしかならぬ幼女である瑠璃媛に仕えるように命じられた。

 瑠璃媛はただの女童ではなく、千年に一度とも言える恐るべき霊力に長けた御巫みかんなぎ で、次郎はそれから十五年以上も敬愛する媛巫女を神のように崇めて仕えてきた。

 けれども、媛巫女瑠璃は、ある日京都からやってきた若き陰陽師と恋に落ちた。そして、その安達春昌は媛巫女を神社より盗み出して逃走した。神社の命を受けて盗人を討伐し、媛巫女を取り戻さんとした次郎は、春昌を守らんとした媛巫女を矢で射抜くことになってしまった。

 そして、媛巫女の最後の命令に従い、贖罪のために放浪する安達春昌に付き従い、帰るあてのない旅をしている。主人はいく先々で一夜の宿を乞い、求めに応じて人びとを苦しめる怪異を鎮めたり、その呪法と知識を用いて薬師を呼べぬ貧しき人びとを癒した。物乞いとさして変わらぬ心細い旅に終わりはなかった。

 時には、今回のごとく心沈む滞在をも忍ばなくてはならない。

 次郎は訝しく思った。この家は確かに貧しいが、これまで一夜の宿を乞うた家でもっとも悲惨な状態にあるわけではなかった。ほとんど水に近い粥しか食べられなかった家もあれば、火がおこせない家や、ひどい皮膚の病で直視できない者たちのところに滞在したこともあった。だが、この家にいた三日ほど一刻も早く出立したいと思ったことはなかった。

 この家には年老いて痩せ細った父親と、年頃のぎすぎすとした娘が二人で住んでいた。父親は、近くの庄屋の家の下男として朝から晩まで懸命に働いていたが、生活は苦しく疲れて悲しげであった。

 娘は、口をへの字にむすび、眉間に皺を寄せて、その庄屋がいかに強欲で情けがない者であるかと罵り、貧しいためにろくなものも食べられないとことあるごとに不満を口にしていた。

「私だって、もっといい食事をお出ししたいんですよ。でも、そんなことどうやってもできません。魚を穫りに行きたくても、こんなひどい野分では到底無理です。それに、ずっとまともなものも食べていないから、こんなに痩せて力もありません。こんな姿では婿に来てくださる方だってありはしません。世には大きいお屋敷に住み、美味しいものを食べて、綺麗に着飾る姫君もいるというのに、本当に不公平だわ」

 そういいながら、すばやく春昌と次郎の持ち物を見回し、この滞在のあとに何を置いていってもらえるか値踏みした。ろくなものを持っていないとわかると、たちまちぞんざいな態度になったが、春昌に陰陽の心得があるとわかると再び猫なで声を出し、また少し丁寧な態度になって下がった。

 そんな娘の態度に次郎は落ち着かなかったが、春昌は特に何も言わずに野分が去るのを待っていた。

 三日目の朝に、ようやく嵐は過ぎ去り、外は再び紺碧の空の広がる美しい秋の景色が広がった。空氣はひんやりとし、野分の残した水滴が、樹々に反射してきらきらと輝いていた。いつの間にか、あちこちの葉が黄色くなりかけている。何と美しい朝であることか。くすんで暗く落ち着かないこの家にやっと暇を乞えると思うと、次郎の心も晴れ晴れとした。

 馬の世話を済ませ、男に暇乞いを願い出ると、旦那様に願いたいことがあると言った。それで次郎は主人にそれを取り次いだ。滞在した部屋で支度を済ませていた春昌のもとにやってきた男はひれ伏して、娘から聞いたことがあり、お力を添えていただけないかと恐る恐る頼んだ。

「飢え死にしそうな貧しさなのに、三日間もお泊めしたんですから、私どものために一肌脱いでいただきたいわ」
おそらく娘はそう言ったのであろう。次郎はその様相を想像しながら控えていた。

「旦那様は陰陽師であられると伺いました。私どものような貧しいものが、都の陰陽師の方とお近づきになっていただくことは本来ならありえませぬし、このように貧しいのでお支払いも出来ませぬが、どうやったら私どもがこの貧しさから抜け出して幸せになれるのか、わずかでもお知恵を拝借できませぬでしょうか」

「そなたの娘は、この貧しさを何のせいだと思っているのか?」
春昌は静かに訊いた。

「はい。娘は、この家には、富の袋に穴を空け、どれほど働いても人を幸せにしないようにする鬼が棲んでいると申すのです。私は誰かそのような者が部屋にいたのを見たことはございませぬが、娘は、鬼とはあたり前の人間のように目に見えるのではなく、陰陽師のような特別な人にしか見えないのだと申します。ですから、私は是非お伺いしてみたかったのでございます」

 春昌は、ため息をつくと言った。
「それは、窮鬼と呼ばれる存在のことです。古文書には、すだれ眉毛に金壷眼を持った痩せて青ざめた姿で、破れた渋団扇を手にしている老いた男の姿で現れたとあります」
「さようでございますか。娘が申すようにそのような鬼が私どもの暮らしに穴をあけるのでございましょうか」

 男の問いに、春昌はすぐに答えなかった。次郎は主人の瞳に、わずかの間、憐れみとも悲しみともつかぬ色が浮かぶのを見た。彼はだが再び口を開いた。

「ここに、窮鬼がいるのはまことです。窮鬼を完全に駆逐するのは容易いことではありません。私がお手伝いすれば家から出すことは出来ますが、二度と戻らぬようにすることはことはできませぬ」

 次郎は驚いた。傲慢と慢心を罰せられてこのような心もとない旅に出る宿命を背負ったとしても、春昌の陰陽師としての力が並ならぬことは、疑う余地もなかった。初めて樋水龍王神社にやってきた時は、右大臣に伴われ「いずれは陰陽頭になるかもしれぬお人だ」と聞かされていたし、神に選ばれた希有な力を持つ媛巫女も彼の才識に感服していた。それだけでなく、この旅の間に遭遇したあまたの怪異を、次郎の目の前で春昌は常にいとも容易く鎮めてきた。それなのにこの度のこの歯切れの悪さはいったいどうしたことであろうか。

 瑠璃媛や春昌のように、邪鬼を祓ったり穢れを清めたりすることはできなかったが、次郎もまたこの世ならぬものをぼんやりと見る事の出来る力を授かって生まれてきた。この家は風が吹きすさび、いかにも貧しく心沈むが、禍々しき物の怪が潜んでいる時のあの底知れぬ恐ろしさを感じることはなかった。類いまれなき陰陽師である主人が、どうしてそのような弱き鬼を退治することが出来ぬのであろうか。

「わずかでもお力をお借りすることが出来ましたら、私めは幸せなのです。娘も旦那様の呪術をその眼で見れば、これこれのことをしていただいたと、納得すると思います」
男はひれ伏した。

 次郎にもこの男の事情が飲み込めた。このまま二人を何もせずにこの家から出せば、あの娘は不甲斐ない父親をいつまでも責め立てるに違いない。

 春昌は「やってみましょう」と言い、娘の待つ竃のところへ行き、味噌があれば用意するように言った。

「味噌でございますか? ありますけれど、大切にしているのでございますが。でも、どうしても必要と言うのでしたら……」
娘は眉間の皺を更に深くして味噌の壷を渋々取り出した。それは大きな壺だった。貧しくて何もないからと味もついていない粥を出したくせに、こんなに味噌を隠していたのかと次郎は呆れた。

 春昌はわずかに味噌を紙にとり包むと、父親と娘についてくるように言った。そして、竃のある土間、父親と娘が寝ていた部屋、春昌たちが滞在した部屋を順に回ると、何かを梵語で呟きながら不思議な手つきで味噌を挟んだ紙を動かしつつ、天井、壁、床の近くを動かした。それから、その味噌を挟んだ紙を持ったまま、次郎に竃から松明に火をともして持つように命じ、全員で家の外に出て、近くの川まで歩いていった。

 野分が去った後のひんやりとした風がここちよく、あちこちの樹々に残った水滴が艶やかに煌めいていた。狂ったように打ちつけた雨風で家や馬が吹き飛ぶのではないかと一晩中惧れた後に、この世が持ちこたえていて、いま何事もなく外を歩けることに次郎の心は躍ったが、足元が悪くなっていることに不服をいう娘の横で、その喜びは半減した。

 歩きながら春昌は、父と娘にこんな話をした。
「聞くところによると、かつて摂津のとある峠で老夫婦が茶屋を営んでおりました。が、どれほど懸命に働いても店は繁盛しませんでした。調べてみると窮鬼がいることわかったそうです」

「ほらご覧なさい。やはり窮鬼がいると、貧乏になるんだわ。追い出したらきっと幸せになってお金もたまるようになるわよ」
娘は勝ち誇ったように言った。

「その夫婦は、窮鬼に聞こえるようにわざと『店が流行らないので時間があって心が豊かになりますね』と言って笑い合ったそうです。それを聞いて、心を豊かにされてたまるかと、窮鬼は店にたくさんの客を送り込みました。二人はこれ幸いと懸命に働き、ますます楽しそうにしていたため、窮鬼は更に勘違いして、もっと店を忙しくしました。そのために窮鬼はいつの間にか恵比寿神となってしまい、その店を豊かにし、幸せになった夫婦は、恵比寿神を大切に祀ったそうです」

 男は驚いて言った。
「窮鬼が恵比寿神に変わることもあるのですか。それに、窮鬼が家にいるままでも裕福になれるのですか」

 春昌は、川のほとりに立つと次郎から松明を受け取り、先ほどの味噌の挟まった紙に火をつけた。味噌の焦げる香ばしい匂いが立ちこめた。彼はそれを川に流してから三人を振り返り言った。

「窮鬼は古来、焼き味噌を好むと言われています。ですから、このように味噌の香りと呪禁にて連れ出し送り火とともに川に流すのです。けれど、連れ出すことの出来るものは、また入ってくることも出来ます。おそらく焼き味噌の匂いに釣られて、近いうちに」

 あれほど大きな壺に味噌を仕込むこの娘の普段の台所は窮鬼がさぞや好むに違いないと次郎は考えた。

「窮鬼を追い出すのではなく、ともに生きることも容易いことではありませんが、天に感謝し、他人を責めずに、常に朗らかでいることで、件の茶屋のように恵比寿神に変わっていただくこともできるでしょう」

 深く思うことがある様相の父親は、それを聞くと何度もお辞儀をして礼を言い、出立する二人を見送った。娘の方は、少し納得のいかない顔をしていたが、何も言わなかった。

 里が遠ざかり、見えなくなると、次郎は馬上の主人に話しかけた。
「春昌様、お伺いしてもいいでしょうか」

「なんだ、次郎」
春昌は、次郎が質問してくるのをわかっていたという顔つきで答えた。

「なぜあの大きな壺ごと味噌を家から出さなかったのでございますか? あれでは窮鬼を呼んでいるようなものではありませぬか」

 それを聞くと春昌は笑った。
「味噌が家にあろうとなかろうと、大した違いはない」

「え?」
合点のいかない次郎に春昌は問うた。

「そなた、あの家の窮鬼を見なかったのか?」
「すだれ眉毛に金壷眼の鬼でございますか。ただの一度も……私めには物の怪の姿はいつもぼんやりとしか見えませぬので不思議はありませんが」

「次郎。それは古書に載っている窮鬼の姿だ。窮鬼はそのような成りではないし、そもそも家に棲むものでもない」
「では、どこに?」

 春昌は、指で胸を指した。
「ここだ。あの手の鬼は人の心に棲む。そして、あの家では、あの娘の中に棲んでいるのだ。父親がどれほど懸命に働こうとも、つねに不平を言い、庄屋や他の人を責め、何かをする時には見返りを求め、持てるものに決して満足しない。あのような性根の者と共にいると、疲れ苦しくなり、生きる喜びは消え失せ、貧しさから抜け出せなくなる」

 次郎は「あ」と言って主人の顔を見た。春昌は頷いた。

「味噌を川に流すことは容易く出来よう。だが、父親が我が子を切って捨てることは出来ぬ。だから、窮鬼を退治するのは容易ではないと申したのだ。あの娘が、少しでも変わってくれればあの善良な男も少しは楽になるであろう。だが……」

 彼は、少し間を置いた。次郎は不安になって、主人の顔を見上げた。春昌は、野分で多くの葉が落ちてしまった秋の山道を進みながら、紺碧の空を見つめていた。彼の瞳は、その空ではなくどこか遠くを眺めていた。

「人の心に棲む鬼は、容易く追い出すことは出来ぬ。たとえ、わかっていても、切り落としてしまいたくとも、墓場まで抱えていかねばならぬこともあるのだ」

 次郎は、主人の憂いがあの娘ではなく、彼自身に向いているのだと思った。野分の過ぎた秋の美しい日にも、彼の心は晴れ渡ることを許されなかった。

(2017年3月書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】異教の影

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十五弾です。TOM-Fさんは、代表作『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』とうちの「森の詩 Cantum Silvae」のコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった小説『ヴェーザーマルシュの好日』

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広く書かれるブログのお友だちです。音楽や趣味などで興味対象がいくつか重なっていて、それぞれの知識の豊富さに日頃から感心しまくっているのです。で、私は較べちゃうとあれこれとても浅くて恐縮なんですが、フィールドが近いとコラボがしやすく、これまでにたくさん遊んでいただいています。

今回コラボで書いていただいたのは、現実の某ドイツの都市の歴史と、某古代伝説、そしてTOM-Fさんのところの『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』の登場人物の出てくるお話の舞台に、当方の『森の詩 Cantum Silvae』の外伝エピソード(『王と白狼 Rex et Lupus albis』)を絡めたウルトラC小説でした。

いやあ、すごいんですよ。よく全部違和感なくまとめたなと感心してしまうんですけれど、それもすごくいい話になって完結しているんです。素晴らしいです。

でも、毎年のことながら「こ、これにどうお返ししろと……」とバッタリ倒れておりました。なんか、あちらの姫君が「森の詩 Cantum Silvae」の世界を旅していらっしゃるらしいので、なんとなく全然違う話は禁じられたみたいだし……。七転八倒。

で、すみません。天の邪鬼な作品になっちゃいました。TOM-Fさんのストーリーが愛と自由と正義の讃歌のような「いいお話」で、しかも綺麗にまとまっているのに、全部反対にしちゃいました。愛と正義を否定する、言っていることは意味不明、ゲストにとんでもない態度。なんというか全くもってアレです。

まあ、「森の詩 Cantum Silvae」らしいと言っちゃえば、らしいです。この世界の人たちは、その時代の枠を越えることはできないので。(象徴的に言えば、トマトどころか、フォークすらありません! 手づかみでお食事です)

TOM-Fさんの作品と揃えたのは、「ある実在する都市の観光案内」が入っていることです。この都市のモデルを知りたい方は「ムデハル様式 世界遺産」または「スペインのロメオとジュリエット」で検索してください。

そして、すみません。あちらの登場人物の従兄ということでご指名いただいた某兄ちゃんは完璧に役不足なので無視しました。せっかくなので、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の続編で登場する最重要新キャラをデビューさせていただきます。登場人物を知らないと思われた方、ご安心ください。知っている人はいません(笑)

で、TOM-Fさんのところの姫君(エミリーじゃなくてセシル系? このバージョンもそういう仕様なのかしら?)も、グランドロン王国ではなくずっと南までご足労願っています。舞台は、中世スペインをモデルにした架空の国、カンタリア王国です。


「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む
あらすじと登場人物


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森の詩 Cantum Silvae 外伝
異教の影 - Featuring「フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス」
——Special thanks to TOM-F-san


 その高級旅籠は、三階建でムデハル様式の豪奢な装飾が印象的だった。もし異国からこのカンタリアの地に足を踏み入れたばかりの者ならば、ここはいったいキリスト教の国なのか、それともサラセン人に支配されたタイファ諸国に紛れ込んでしまったのかと訝るところだ。

 これはサラセン人たちの技術を取り入れたカンタリア独特の建築様式で、その担い手の名を冠してムデハル様式と呼ばれていた。ムデハルとは、国土回復レコンキスタ が進むにつれて後退していくタイファ諸国に住んでいたムスリムたちのうち、技術の高さから残留を許された者のことである。レンガやタイル、寄せ木細工などを用いて幾何学模様を施したサラセン風の装飾が、異国にいるような錯覚を呼び起こす。

 今でこそ国土回復レコンキスタ は絶対的正義の大義名分を得、「憎きサラセン人どもを神の名において駆逐する」と言う者もいるが、そもそもこのカンタリア半島では異教徒とキリスト教徒たちは永らく共存し、交流をする普通の隣国同士であった。文化的にも技術的にも優れていたのはタイファ側であったので、キリスト教諸国の商人たちはタイファ諸国の地ヴァンダリスへとこぞって買い付けにいったものだ。

 その旅籠に本日逗到着した一行は、ムデハル様式の建築が盛んなこの街サン・ペドロ・エル・トリーコに初めて逗留したので、豪奢に隙間なく飾られた壁や柱を珍しそうに見回した。その旅籠は、彼らの暮らす王宮よりも美しく彩られているようにさえ見えた。
「なんというところだ」

 ぽかんと口を開けて、周りを見回す太った青年とは対照的に、影のように控えている男は顔色一つ変えなかった。そして低い声で言った。
「殿下。お部屋の用意が済んだようでございます。どうぞあちらへ」
「ヴィダル。お前には、この光景は珍しくも何ともないのであろうが……」

 ヴィダルと呼ばれた黒髪で浅黒い顔の男は、嫌な顔をした。彼もこの街に来るのは初めてなのだ。「異教徒だ」「モロ(黒人)だ」と陰口を叩かれるのを毛嫌いしている彼は、母親の出身を示唆する王子の言葉に苛立ちを感じた。

 その様子を離れたところから眺めていた客が「くすっ」と笑った。ヴィダルは、そちらを鋭く一瞥した。宿屋の中だというのに灰色の外套を身につけたままで、そのフードを目深に被っている。声から女だと知ったが、それ以上のことはわからなかった。

 王子の安全を氣するヴィダルに宿屋の主人は「ヴェーザーマルシュのヘルマン商会の方です。正式な書き付けをお持ちですから物騒なお方ではないと思います」と耳打ちした。

 カンタリアの第二王子エルナンドとその一行は、旅をしていた。表向きは物見遊山ということになっていたが、彼らには別の目的があった。そのために、センヴリ王国に属するトリネア侯国、偉大なる山脈《ケールム・アルバ》を越えた北にあるグランドロン王国の王都ヴェルドン、そしてその西にあるルーヴラン王国の王都ルーヴにそれぞれ嫁いだカンタリア王家出身の女性たちを訪れるつもりであった。

 王都アルカンタラを出て以来、グアルディア、タラコンなど縁者の城に逗留してきたのだが、この一帯には逗留できる城はなく、山がちながらも比較的安全で王子の逗留にふさわしい旅籠のあるこの街に立ち寄ったのだ。

 この旅籠は決して小さくはないのだが、王家の紋章の入った華やかな鞍や馬鎧を施された馬に乗ったエルナンド王子、やはりそれぞれの紋章で馬や武具を飾り立てて付き従う十数名の騎士たち、そして護衛の従卒や小姓たちが入るとそれなりにいっぱいになったので、先客たちは早めに旅籠についておいてよかったと安堵した。

 食事は二階の大食堂で行われた。従卒や小姓などの身分の低い者は別だが、エルナンド王子と騎士たちは食堂の中心にある大きいテーブルに座った。物事を一人で決めるのが不得意な王子に常に付き従う《黒騎士》ヴィダルはいつものように、宿屋の者とすぐに話が出来るように一番端に座った。

 彼の斜め前には、先ほどの外套を着たままの商人が一人で座り、食事をしていた。ナイフを扱ったりフィンガーボールで洗う時に見える白く美しい手から、ヴィダルはこの女は意外と位の高い貴族なのではないだろうかと思った。

 だが、到着してからすでに浴びるほどの酒を飲み続けていた騎士たちは、その外套姿の方にしか目がいかなかったらしい。
「変わった女だ。なぜいつまでもその外套をとらぬのだ」
騎士の一人が言うと、その女は短く答えた。
「あまり人に見せたくない容姿だから。それに女の一人旅は、用心に越したことがないでしょう」

「女というのは氣の毒な生き物だな。己の醜さに囚われて旅籠ですら寛げぬとは」
「そんなに醜いなら、一人旅でもとくに問題はないであろう」
既に酔い始めた騎士たちは、口々に女を馬鹿にする言葉を吐き、ひどく笑い始めた。

 そして、ある者は、ヴィダルの方をちらりと見ながら言った。
「醜いというのならまだましさ。この世には恐ろしい魔女もいる。その美しさで男を籠絡し理性を奪う。外見が変わることもなく、この世の者ならぬ力でいつまでも男を支配し続ける悪魔がな」

 それまで騎士たちの嘲りに反応を見せなかった女が、低い声で呟きながら立ち上がった。
「黙って聴いておれば、このわたしを悪魔扱いして愚弄するつもりか。ずいぶんと勇氣のあることだな」

 ヴィダルは、女の口調にぎょっとして、その動きを遮るように立ち上がった。
「あの男が言っているのは、この私の母のことだ」
「お前の?」

 その時飲み過ぎた別の騎士が椅子から落ちて、地面に倒れ込んだ。騎士たちがどっと笑い、小姓たちが駆け寄って介抱する間、食堂にいた者たちの目はそちらに集中した。だが、ヴィダルは未だに自分を見ているらしい女に目を戻した。

「そうだ。カンタリア国王の愛妾だ。もちろん魔女でも悪魔でもなく普通に歳もとっている。だが、愚か者は自分と見かけの違う者を極端に怖れ、冷静に観察することも出来ぬのだ」
彼の苛立ちを隠さぬ口調に、女は興味を持ったようだった。

「なるほど。お前のその肌の色は母親譲りというわけか。そうか。港街で商人たちがお前の噂をしていたぞ。カンタリアの王子に付き添うサラセンの《黒騎士》がいるとな」
「サラセンでもモロでもない。かといって、正式に呼ばれる名前にも意味はない」

「意味がないのか」
「私がもらった名前は、私の欲しかったものではない。だが、構うものか。名前は自ら獲得してみせるのだから」

 女が顔をもっと上げ、ヴィダルをしっかりと見つめた。そのためにヴィダルの方からも初めてその女のフードに隠れていた顔が見えてぎょっとした。その手と同じように白い肌に、先ほど醜いとあざけった騎士ならば腰を抜かさんばかりの美貌を持った女だった。が、それよりもわずかに見えている髪が白銀であることと、赤と青の色の違う瞳の方に驚かされた。なるほど、この容姿ならば人に無防備に見せたくはないだろう。

 女はわずかに笑うと、座ってまたもとのように食事を取り出した。おそらくこの女の顔を見たのは彼一人だったのだろう。周りは彼らの会話に氣をとめていなかった。女はヴィダルの方を見もせずに低い声で続けた。
「その氣にいらぬ名前を名乗ってみろ」

 ヴィダルはわずかに苛つき答えた。
「それを知りたければ自分から名乗れ」

「ツヴァイ」
「それは人の子の名か。その立ち居振る舞いに言葉遣い、商人などではないな」

「名前に意味はないと自分で言わなかったか。が、知りたければ聴かせてやろう。セシル・ディ・エーデルワイス・エリザベート=ツヴァイ・ブリュンヒルデ・フォン・フランク。これで満足か。名乗れ」

「ヴィダル・デ・アルボケルケ・セニョーリオ・デ・ゴディア」
ヴィダルは苦虫を噛み潰したように言った。
「インファンテ・デ・カンタリアと名乗りたいということか」
 
 嫡出子ではないヴィダルは国王の血を受け継いでいてもカンタリア王家の一員として名乗ることは許されない。愛妾ムニラを溺愛するギジェルモ一世が、せめて貴族となれるようにアルボケルケ伯の養子にしてゴディア領主としたが、彼はその名に満足してはいなかった。だが、彼は女の問いに答えなかった。ひどく酔っぱらって狂騒のなかにいるとはいえ、その場にはあまりに多くの騎士たちがいたから。

「言いたくはないか。ところで、お前は、これも食べられるのか」
女が示しているのは、この地方の名産山の塩漬け肉ハモン・セラーノ だ。その横には、豚の血で作ったチョリソなどもあり、どちらもムスリムやユダヤ人などの異教徒は口にすることが出来ない禁忌品だ。

「もちろん、食べるさ。禁忌などに縛られるのはごめんだ」
彼はそう言ったが、宿の主人は彼の前に無難な川魚料理を出した。彼は塩漬け豚を彼にも出すように改めて頼まなくてはならなかった。女がクスリと笑う声を耳にして、彼は忌々しそうに見た。

「キリスト教徒に見えぬお前はこの地では生きにくいだろうが、異教徒の心は持たぬのだから、かの地に行ってもやはり生きにくいのかもしれんな」
「生きにくい? この世に生きやすいところなどあるものか。そういうお前はどうなのだ。商人のフリをしているのは、何かから逃げているのか」

 すると女は鈴のような笑い声を響かせた。
「わたしか。逃げる必要などない。ただ自由でいたいだけだ。この旅も大いに楽しんでいる。カンタリアの酒と食事は美味い」

 強い太陽の光を浴びた葡萄から作られたワインは、グランドロンやルーヴランで出来るものよりもずっと美味で、香辛料漬けにする必要がなかった。オリーブから絞られた油は、玉ねぎやニンニクを用いた料理の味を引き立てていた。山がちのこの地域は、清流で穫れる川魚、山岳地方の厳しい冬と涼しい夏が生み出す鮮やかな桃色の塩漬け豚も有名だった。さらに、残留者ムデハルが多いため、《ケールム・アルバ》以北ではほとんど食べられていない米、ヒヨコ豆やレンズ豆、アーモンド、ナツメヤシ、シナモンなど、特にアラブ由来の食材をたくさん使う料理が発達した。それらの珍しい食材が古来の食材と融合して、独特の食文化を築き上げていた。

* * *

 
 翌朝、王子たちの朝食は遅かった。深夜まで酒を飲んでいた騎士たちと王子がなかなか起きなかったからだ。ヴィダルはまた端の席に座って静かに朝食をとった。昨夜見た女は、とっくに朝食をとったのだろう、その場にはいなかった。

「ヴィダル。今日は一日この街でゆっくりするのだから、街の名所を案内してくれるよう、宿の主人に頼んでくれぬか」
王子の言葉に頷き、彼は宿の主人に街を見せてくれる人間を推薦してほしいと頼んだ。主人は二つ返事で、彼の舅が案内をすると言った。

 それはかなり歳のいった老人だったが、貴人たちに街を案内するのは慣れているらしく、よどみのない話し方で街の名所を手際よく説明してくれた。ムデハル様式の築物は街の至る所にあり、中でもサンタ・マリア大聖堂の塔、サン・マルティン教会とその塔の美しい装飾を技法の説明も交えて要領よく説明していった。そして、彼は次にサン・ペドロ教会に一行を案内した。

「この教会もムデハル様式の装飾で有名ですが、もっと有名なのは、ここに埋葬されているある恋人たちの悲しい物語なのです」
彼がもったいぶって説明すると、王子と騎士たちは一様に深い興味を示した。彼は一行を教会内部の二つの墓標が並んでいる一画へと案内した。

「いまから百年ほど前のことでした。この街に住んでいたイザベルという貴族の娘と、アラブの血を引く貧しいファンが恋仲になったのです。イザベルの父は二人の結婚を認めず、目障りなファンを厄介払いするために、法外な結納金を設定し五年以内にそれを用意できれば娘と結婚させると約束しました。ファンは唯一のチャンスにかけて、聖地奪回の戦いに身を投じ、五年後に莫大な戦利品を得て凱旋することが出来たました。ところが、イザベルは父親にファンが戦死したと言われたのを信じて既に他の男に嫁いでしまっていました。やっとの思いでイザベルのもとに忍び込んだファンのことを彼女は結婚した身だからと拒絶せざるを得なかったのです。彼は絶望によりその場で亡くなってしまいました。そして、彼を愛し続けていたイザベルもまた埋葬を待つ彼の遺体に口づけしたまま悲しみのあまり死んでしまったのです。その姿を発見した父親と街の人びとは、深く後悔して二人を哀れみ、この教会に共に埋葬しました」

 王子エルナンドは、懐から白いスダリウムを取り出し涙を拭いた。
「なんという悲しくも美しい話であろうか」

 騎士たちもまた、それぞれが想い人たちから贈られた愛の徴であるスダリウムを手にし、悲しい死んだ恋人たちのために涙を流した。だが、ヴィダルだけは醒めた目つきで墓標を見ているだけで何の感情も見せなかった。エルナンドは、ヴィダルのその様子をみると言った。
「お前はこの話に心動かされぬのか」

「心を動かされる? なぜ、私が」
「お前と同じ、サラセン人の血を引く男が、愛する女と引き裂かれたのだ。あの娘のことを思い出しただろう」
そう王子が言うと、《黒騎士》は笑った。

「あの娘とは、どの娘のことです。私は、女のために命を投げ出し、戦い、せっかく得た名声もそのままに悲しみ死んでしまうような愚かな男ではありません」

 エルナンドは首を振った。
「すくなくとも、何といったか……あのルシタニア出身の娘のことだけは愛していたのだと思っていたのだが。他の者のようにお前が悪魔のごとく血も涙もないモロだとは思わんが、時々疑問に思うぞ。神はそもそも、お前に魂を授けたのか?」

 ヴィダルは「さあ。私もそれを疑問に思っております」と答えて、教会の内部装飾の説明をする老人とそれに続く騎士たちの側を離れた。

 老人は、奥の聖壇の豪奢な装飾について滔々と説明をしていた。
「ご覧ください。神の意に適う者たちが命の危険を省みずに聖地を奪回するために戦った勇氣、次々とヴァンダルシアを我々キリスト教徒の手に取り戻したその偉業、神の意思が実現された歓びをこの聖壇の美しさは表現しているのです」

 彼は、幾何学文様と草花のモチーフの繰り返された鮮やかな壁面装飾を見上げた。明り取りの窓から入った光は、その見事な装飾にくっきりと陰影を作っていた。

「神の意ときたか」
女の声にぎょっとして横を見ると、いつの間にか昨夜の謎の女ツヴァイが立っていた。

「お前もここにいたのか」
「この街は面白い。神の栄光を賛美するのに、敵の様式をわざわざ用いるのだから」
女はおかしそうに笑う。

 ヴィダルは首を振った。
「大昔は知らんが、今のこの国で奴らが口にする、残忍な異教徒の追放だの、神の意だの、聖地奪回だのは、本音を覆い隠す言い訳だ。実際は領土拡大と経済的な動機で戦争をしているだけだ。そこでありがたがられている死んだ男も、そうやって手っ取り早く名声を得、大金を稼いだのだ。それなのに女に拒否されたくらいで死ぬとは何と愚かな」

 女は声を立てて笑った。
「それには違いない。だが、たった一人の相手ためにすべてを投げ打つほどの想いの強さがあったのだ。真の愛が人びとの心を打つからみな涙してここに集まるのだろう」

「他人の涙を絞るだけで本人には破滅でしかない愛など何になる。欲しいものを手にすることが出来ないならば、氣高い心や善良な魂なども無用の長物だ」
ヴィダルは拳を握りしめた。女は朗らかにいった。
「では、わたしは、お前がその手で何を掴むのか楽しみにしていよう、《黒騎士》よ」

 ヴィダルはその言葉に眉をひそめて、灰色の外套を纏った女の見えていない瞳を探した。
「ツヴァイ。お前は、一体何者なのだ」

 女は笑った。
「わたしが誰であれ、お前にとって意味はない、そうだろう?」

 それを聞くと、ヴィダルはやはり声を上げて笑った。
「その通りだ。たとえお前が商人であれ、高位の貴族であれ変わりはない。神の使いや、悪魔の化身であっても、同じことだ。この出会いで、私は己のしようとすることを変えたりはせぬ」

 彼は、射し込んだ光に照らされた祭壇の輝きを見ながら頷いた。

(初出:2017年3月 書き下ろし)

ヴィダル by うたかたまほろさん
このイラストの著作権はうたかたまほろさんにあります。無断使用は固くお断りします。



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Tag : 小説 読み切り小説 いただきもの コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】ありがとうのかわりに

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十四弾です。けいさんは、毎年恒例の目撃シリーズで書いてくださいました。この作品は、当scriviamo! 2017の下のようにプランB(まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法)への返掌編にもなっています。ありがとうございました。

プランBで、拍手絡みの物語を、うちの「シェアハウス物語」とコラボでお願いしても良いですかね。それを受けて、私も掌編を描く。それのお返事掌編をまたいただく…B→B(A)→A混合サンドイッチ、みたいなの。


この二つ書けとおっしゃるうち、ひとつはちょうどブログトップのFC2拍手を1000カウント目にしてくださった記念掌編です。

けいさんの書いてくださった『とある飲み屋での一コマ(scriviamo! 2017)』

けいさん、実はどうも今、公私ともにscriviamo!どころではない状況みたいで、いま発表するのはどうかなと思ったんですが、こちらの事情(後が詰まっていて)で、空氣を全く読まない発表になってしまいました。ごめんなさい!

今回の掌編は、けいさんの掌編を受けて、前回私が書いた作品(『頑張っている人へ』)の続きということになっています。そっちをお読みになっていらっしゃらない方は、え〜と、たぶん話があまり通じないかもしれません。

今回は「シェアハウス物語」のオーナーにご登場いただいていますが、それと同時にけいさんの代表作とも言えるあの作品にもちょっと関連させていただきました。

で、けいさん……。大変みたいだけれど、頑張ってくださいね。応援しています。


「いつかは寄ってね」をはじめから読むいつかは寄ってね


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ありがとうのかわりに - Featuring「シェアハウス物語」
——Special thanks to Kei-san


 東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。ママと呼ばれる涼子が一人で切り盛りをするこの飲み屋は、二坪程度でカウンター席しかないが、そのアットホームさを好む常連客で毎夜そこそこ賑わっていた。

「いらっしゃいませ。あら、葦埜御堂あしのみどうさん。今夜はお一人?」
涼子は現に微笑んだ。

「残念ながらね。でも、みんなここがとても氣にいったようで、近いうちにまた来たいらしいよ。その時には、またよろしく頼むよ」
シェアハウスのオーナーである現は、先日シェアハウスに住む国際色豊かな四人をこの店に連れてきたのだ。

 今日は、会社が終わると一目散にやってきて現が来る頃には大抵でき上がっている西城と、少しは紳士的なのに西城にはハッシーと呼ばれてしまっている橋本が仲良く並んで座っていた。そして、カウンターの中には、涼子ママと、常連だがツケを払う代わりに料理を手伝う板前の源蔵がいた。

「よっ。現さん、この間は驚いたよ。あのガイジンさんたち、すごかったよねぇ」
西城は、あいかわらずろれつが回っていない。

「何がすごかったんですかい?」
あの時、一人だけ店にいなかった源蔵が訊いた。橋本が答えた。
「現さんのつれていらした人たち四人のうち三人が外国の人たちだったんですが、みなさん、日本語ぺらっぺらで、しかも鶴まで折っちゃって。日本人の僕たちよりも上手いのなんの……」

「それに、あのアジアのおねーちゃん! あの人形の折り紙はすごかったよなあ。アレを折り紙で折るなんて、目の前で見ていなければ信じられなかったよ」

 涼子はもう少し説明を加えた。
「源さんも知っているでしょう、時々やってくる、小林千沙さん、あの方の従兄の方が闘病しているって話になって、だったらみんなで応援しようってことになって、あの夜、ここでみんなで鶴を折ったのよ」

 現はその間にメニューをざっと検討して、まずヱビスビールを頼み、肴は適当に見つくろってほしいと頼んだ。源蔵がいる時は、料亭でしか食べられないような美しくも味わい深い、しかもメニューには載っていない一皿にめぐりあえることがあるからだ。

 源蔵はそれを聞くと嬉しそうに、準備に取りかかった。現は、突き出しとして出された枝豆の小鉢に手を伸ばしながら訊いた。
「その後、どうなったんでしょうね」

 涼子は微笑むと、カウンターから白い紙袋を取り出した。
葦埜御堂あしのみどうさんがお見えになるのを待っていたのよ。実はね、四日くらい前だったかしら、小林さんがいらっしゃってね。これを、皆さんにって」

 現は「へえ」と言いながら紙袋の中を覗き込んだ。中には、赤と青のリボンで二重に蝶結びにして止めた、白い袋が五つ入っていた。そして、それぞれに付箋がついていた。

「ゲンさんへ、か。これが僕のだ」
彼は、一つを取り出した。残りの四つには「ワンさんへ」「ニコールさんへ」「ムーカイさんへ」「ソラさんへ」と書いてある。あの時、耳にしただけで漢字がわからなかったので全てカタカナなのだろう。ワンちゃんだけ「ちゃん」付けするのはまずいと悩んだんだろうな。うんうん。彼は笑った。

「西城さんたちももらったんですか?」
現が訊くと、二人は大きく頷いた。

「もちろんさ。俺っちたちは、千沙ちゃんが来た時にここにいたからさ、直接いただいちゃったって訳。開けてごらんよ」

 中には透明のビニール袋に入ったカラフルなアイシングクッキーと、CDが入っていた。彼は取り出して眺めた。

 ピンクや黄色や緑のきれいなアイシングのかかったクッキーは、全て紅葉の形をしていた。それはちょうどあの日ワンちゃんが折った拍手に見立てたたくさんの紅葉に因んだものなのだろう。

「小林さんの手作りですって。いただいたけれど、とっても美味しかったわ」
涼子が微笑んだ。

「それは嬉しいね。少し早いホワイトデーみたいなものかな。で、こちらは?」
彼はCDをひっくり返した。それはデータのディスクか何かを録音したもののようだった。

「それさ。例の闘病中の従兄が演奏したんだってよ」
西城が言った。

 現は驚いて顔を上げた。橋本が頷いた。
「そうなんだってさ。先日、無事に放射線療法がひと息ついて、退院して自宅療養になったんだって」

 涼子がその後を継いだ。
「あの皆さんからの折り紙がとても嬉しかったんですって。絶対に諦めない、頑張るって改めて思われたそうよ。それで退院してから小林さんと相談して、みなさんに何かお礼の氣持ちを伝えたいって思われたみたい。それで、ギターで大ファンであるスクランプシャスっていうバンドの曲を演奏して録音したんですって」

「歌は入っていなくてインストだけれど、すごいんだよ。俺たちもらったCD全部違う曲が入っていたんだ。だから現さんたちのとこのもたぶん全部違う曲だと思うぜ」
橋本は興奮気味だ。

「そうですか。僕のはなんだろう。あ、裏に書いてあるぞ『悠久の時』と『Eternity Blue』か。デビュー・アルバムからだね」
「あら、葦埜御堂あしのみどうさん、お詳しいのね」

「もちろんだよ。僕は自慢じゃないけれど、スクランプシャスのアルバムは全部持ってんだから」
現が言うと、皆は「へえ~」と顔を見合わせて頷いた。

「だれが『夢叶』をもらったのかな」
現が皆の顔を見回して訊くと、涼子は笑った。
「私たちじゃないわ。たぶんワンさんじゃないかしら。あの時、いつか折り紙作家になりたいっておっしゃっていたから」

「俺っちもそれに賭ける」
西城が真っ赤になりながら猪口を持ち上げた。

「宇宙かもしれないぞ。あいつもこれから叶える夢があるからな」
その現の言葉に、皆も笑って頷いた。

 涼子が現のグラスにヱビスビールを注ぎ、源蔵が鯛の刺身を梅干しと紫蘇で和えた小鉢を置いた。

 現はプレゼントを紙袋に戻すと、嬉しそうに泡が盛り上がったグラスを持ち上げた。

(初出:2017年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】紅い羽根を持つ青い鳥

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十三弾です。

たおるさんは、素敵なイラストで参加してくださいました。ありがとうございます!


たおるさんの描いてくださったイラストと記事 『(scriviamo!参加作品)赤い鳥』

「赤い鳥」by たおるさん
このイラストの著作権はたおるさんにあります。無断使用は固くお断りします。

たおるさんは、小説とイラスト・マンガのどれも自在にこなしてしまう創作ブロガーさん。切ない系や、ちょっぴりピリッとした掌編のイメージが強いのですが、胸キュン系の人物模様が面白い「ポーカーフェイスな日常」シリーズもここのところ読み始めさせていただいていて、このシリーズもかなり好きです。

さて、scriviamo!に初参加してくださった今回は、とあるアニメの主人公のイラストを描いてくださったのだそうです。きっと日本の方は「ああ、あの作品の彼ね!」っておわかりになるんだと思うのですが、私はもともとアニメをほとんど観ない上に二十年来の浦島太郎で「こ、これはどんな作品のどなたかな」と全くわからない状態でした。

それで構わないということなので、単純にこのイラストからイメージしたストーリーを書かせていただきました。ですから、元のアニメとは全く関係ないと思います。もしくはどこか被っているかもしれませんが、それは単なる偶然です(笑)

今回の話の中に名前だけ出てくる私の創作世界の既出キャラたち(大富豪イザーク・ベルンシュタイン、アメリカ人傭兵マイケル・ハースト、ハンガリー人エトヴェシュ・アレクサンドラ)は、単に匿名よりはいいかと思って出してみただけで、特に意味はありません(笑)出てくる作品を探す必要は皆無です。


「scriviamo! 2017」について
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紅い羽根を持つ青い鳥
——Special thanks to Taoru san


「それで、調査結果はどうだったんだ。早く言ってくれ」

 びくついているキースに、《赤ネクタイのジョー》は鼻で笑って答えた。
「先に調査費用を半分渡してくれ。そうしたら八割を話してやる。あんたがそれに満足したら、残りの半分と引き換えに決定的な資料を渡すよ」

 《赤ネクタイのジョー》は、『調べ屋』だ。金さえ積めばどんなことでも調べてくれる。たとえ地球の裏側の政治情勢でも、その辺のマフィアが囲っている女のスカートの中のことでも、徹底的に調べ上げる。だが、その対価は大抵の依頼主にひどい頭痛を起こさせる程度に高かった。

 舌打するとキースはコートの内ポケットから封筒を取り出して、《赤ネクタイのジョー》に渡した。彼は咥えた火のついていない煙草でその蓋を開けると、十分な厚みがあることを確認して自分のコートの内ポケットにしまおうとした。が、すっと一枚を取りだしてキースに返した。

「やれやれ。これはあんたが持ちかえるんだな。発信器つきの紙幣はいらないよ」
「くっ。もう見破るとは、さすがだな」
「あんたのボスはせこいからな。俺からよろしくと言っておけば、それを仕込み損ねたことを叱ったりなんかしないさ」

 キースの属している組織では、直属の上司以外の顔を知る者はいない。どれだけ大きな組織なのか、そもそも何のための組織なのかもキース自身は把握していない。《赤ネクタイのジョー》は、ずいぶん昔に彼の上司のもとで働いていたことがあるらしいが、今はフリーだ。組織を抜けてやっていけるということが彼の能力を示している。少なくとも彼は十年以上も消されていなかった。

「ちなみに、あんたたちの邪魔をした奴らはあんたたちのような組織ではない。これが調査結果だ」
「なんだって? うちのビルにあんな大掛かりな妨害電波を仕掛け、しかもマカオのカジノの帰りではとんでもないカーチェイスを繰り広げたんだぜ。個人とその使用人だけであれだけの動きは無理だろう」

「何万人いてもクズばかり働いていることもあれば、たった数人でマフィアの向こうを張って利益をかっさらうことも出来るさ。ましてや、相手の財力はそこそこの国のGDP並だ」
「いったい誰なんだ」

「イザーク・ベルンシュタイン。名前くらいは知っているだろう、桁違いの大富豪さ。もっともあいつが担当しているのは金の捻出だけだ。実際に動いているのは傭兵でならしたアメリカ人と、美貌のハンガリー女だな。もっとも元締めが誰かは、俺の知ったことではない」

「やつらの狙いはなんだ」
「さあな。だが当面のターゲットは、あんた達と同じ幻の緑柱石ベリル 鉱だろう」

 ベリルから産出される元素ベリリウムは、アルミニウムの三分の二の重さしかない軽い元素だが、硬く強く融点も高い。原子炉の中で中性子の流れを制御する減速材として重要な役目を担うと同時に、少量で莫大なエネルギーに変換するのでロケットの燃料としても期待されている。

 キースが上司から受けた使命は、ある死んだ男が発見した、未だ知られていない巨大なベリル鉱山の位置を発見することだ。

「俺が思うに、奴らの方が核心に迫っているな」
「なぜ」
「あんた達がこの日本で、いまだに中国人たちと交渉しているからさ。やつらは、もうアジアからは手を引いているぞ」

 そういうと、《赤ネクタイのジョー》は胸ポケットから一枚の絵の映った写真を取り出した。それはおそらく十二世紀頃に描かれたと思われる絵で、想像上の鳥の姿だった。

「なんだ。あの死んだ男の持っていた絵じゃないか。これなら、俺たちはもうとっくに調べたぞ」
「ふん。じゃあ、知っているんだな、これが何か」

 キースは馬鹿にして鼻を鳴らした。
「これは中国の想像上の生き物で鳳凰だろう。ヤツの使っていたコードネームが《フェニックス》だったので混乱したが、俺たちだって、いつまでもフェニックスにこだわって中東を探しているわけじゃないんだ 」

「そう。あんた達は鳳凰を捜している。在日中国人に頼んで中国でな。だが、知っているか。これは正確には鳳凰じゃない。らん だ」

 キースは首を傾げた。鳳凰じゃない?
「そうだ。これは、違う種類の鳥だ。いずれにしても想像上の動物だがな。なぜ想像上の動物かというと、どっちにしてもそれは中国にはいなかったからなのさ」

「じゃあ、あの死んだ男が見つけたって言うベリル鉱は、アジアにはないと?」
「ない。その証拠に、あのアメリカ人たちは、もうここを発った」

「じゃあ、どこに?」
「そのヒントはこの鳥にある。憶えているか、あの男のダイイング・メッセージ『紅い羽根を持つ青い鳥』そして、この幻獣、鸞。これと同じ特徴を持つ鳥が実際に存在するんだ。それも、神として崇められている国がある」

「なんだって? それはどこに?」
キースが身を乗り出した。《赤ネクタイのジョー》はにやりと笑って、煙草に火をつけた。深く吸い込み、それからふーっと吐き出した。

「残りの金を渡せ」
「なんだと! 情報が先だ」

 せせら笑った《赤ネクタイのジョー》は懐から一枚の写真をとりだしたがキースには見せなかった。
「金を渡さないと、こうするぜ」
ゆっくりと写真を煙草に近づけていく、紅い火がゆっくりと写真の角に近づいていく。

「待て! わかったよ。ほら!」
キースは、もう一つの封筒を渡すと同時に、《赤ネクタイのジョー》の持つ写真をひったくった。

「こ、これは?」
それは輝く長い飾り尾を持つ青緑の鳥だった。胸の部分が真っ赤だ。

「その鳥は、ケツァールという。グアテマラの国鳥だ。35センチほどの鳥だが、尾を含めると1.2mにもなる。古代アステカでは農耕神ケツアルコアトルの使いとして珍重された。そして、決定的なことがある。アステカではエメラルドはケツァーリチリと呼ばれてケツアルコアトルと関連づけられていたんだ。もちろん知っていると思うがエメラルドは、ベリルの一種なのさ。ヤツが示唆していたのは、中国なんかじゃない。中米さ」

「くそっ。そうか! で、あんたはその鉱山の位置を突き止めたのか」

 《赤ネクタイのジョー》は、笑って小さな封筒を渡した。
「急いだ方がいいぞ。アメリカ人とハンガリー人は、すでに48時間前に現地に入っている。じゃあな」

 封筒をひったくるようにして、キースは車に飛びのって去っていった。

「ふん」
《赤ネクタイのジョー》は、踵を返し、反対方向の駅へと歩いていった。

 彼は懐から再び煙草とライターを取り出した。ライターについている探知機が再び小さいシグナルを瞬かせた。

「しつこいヤツだ、まったく」
彼は、二度目にもらった封筒を開けると、発信装置の組み込まれた100ドル紙幣を取り出した。

「赤い羽の共同募金にご協力お願いしまあす」
駅前ではユニフォームを身につけた女子学生たちが一列に並んで叫んでいた。《赤ネクタイのジョー》は、彼女たちの差し出した募金箱に100ドル紙幣を入れた。

 ぎょっとした顔をする少女に彼はニコリともせずに言った。
「あいにく日本円の持ち合わせはないんでね。銀行で両替してくれ」

「ありがとうございまぁす!」
最敬礼する女子学生たちからもらった赤い羽根を襟元に差して彼は立ち去りながら呟いた。
「紅い羽根を持つ青い鳥か。寄付なんぞ俺のガラじゃないが、たまにはいいだろう」                                                                      
(初出:2017年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】黒色同盟、ついに立ち上がる

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十二弾です。

かじぺたさんは、写真と文章を使った記事で参加してくださいました。ありがとうございます!


かじぺたさんの書いてくださった記事 『雅たちの宴(scriviamo! 2017に参加させて頂きますm(_ _)m)』

かじぺたさんは、旅のこと、日々のご飯のこと、ご家族のことなどを、楽しいエピソードを綴るブロガーさんで、その好奇心のおう盛な上、そして何事にも全力投球で望まれる方です。もっとも印象的だったのは、お正月の準備で徹夜をなさった件。今はもちろんのこと、日本にいたときもお正月の準備が紅白に間に合わなかったら、「ま、いっか」と一年延長していた私とは正反対だわ〜と感心しておりました。

さて、二回目の参加となった今回は、創作によるご参加ではなく、おそらく実際に起こったことを綴られている記事です。そうなんですよ、scriviamo!は創作でなくてもOKなんです。非創作カテゴリーのブロガー様たち、よかったら遠慮せずにご参加くださいませ。

で、お返しは、記事ではなくて掌編小説、さらにこの記事に関連したことがいいんだろうなあと思ったのです。こんな感じの若干ファンタジーな話になりました。

なお、今回のストーリーは、先にかじぺたさんの記事を読まれることを推奨いたします。そうしないと意味不明かも……。


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黒色同盟、ついに立ち上がる
——Special thanks to Kajipeta san


 その家を窓から覗き込みながら、タンゴは「ちっ」と舌打した。また新しい案件だ。今日の会議で話し合わなくちゃ。

 タンゴは誇り高き野良猫だ。真っ黒のつややかな毛並みが自慢。もちろん前足や後足などに白足袋を履いているような中途半端な黒さではなく、中世のヨーロッパにでもいたら真っ先に魔女裁判で薪の上に置かれたような完全な黒猫だ。

 もちろん今は黒いからといって焼き殺されることはないが、普通に歩いているだけで
「いやだ、もう! 朝から黒猫が横切るなんて、縁起が悪い」
などど恨みがましく叫ばれることはよくある。自分を何様だと思っているんだ。お前の方が縁起が悪いぞ。

「よう、タンゴ。なにをそんなに急いでいるんだ?」
声を掛けてきたのは、カラスヘビだ。シマヘビなのだが、全身が黒くなるメラニスティックとして生まれてきたので、虹彩に至るまで黒い。タンゴと同様に黒色同盟の理事を務めている。

「会議の議題を一つ追加しなくちゃいけないんだ」
「なんだって? 今になって?」
「そうさ。捨て置けない案件を、たったいま目撃してしまったんだ」
「そうかい。もう広場にみんな集まっていると思うぜ」

 太陽が黒松のてっぺんにさしかかった頃、黒色同盟の今年三回目の会議が開催される。議長は、持ち回りで今日は黒山羊のバアルだ。

「皆さん、ご静粛に。これより今年三回目の黒色同盟定例会議をはじめます。まずは出欠者の確認です。黒い皆さんはみんないらしていますか。白ヤギやシマリスなどの関係のない皆さんは、しばらく退席してください」

 ガヤガヤとその場で移動する音がして、黒松広場には文字通り黒い生き物だけが残った。黒山羊バアル、黒猫タンゴやカラスヘビ以外にも、黒鳥のオディール、蜘蛛のブラック・ウィドー、カラスたちの代表ダミアン、黒い蛙のブフォ、その他たくさんの黒い動物たちが参加していた。議題は主に「黒いからといって排除されたり嫌われたりする理不尽について」である。

「静粛に。今週の理不尽事例の発表は……。ああ、まずオディールから」
バアルは黒い髭をゆらゆらと揺らして、優雅に座る黒鳥を指名した。

 黒鳥はカモ科ハクチョウ属に分類されるオーストラリア固有種である。探しても無駄なことのたとえとして「黒い白鳥を探すようなもの」と慣用句で使われていたが、17世紀にオーストラリアで発見されてしまい、それ以来ことわざの意味が「常識を疑え」という意味に変わってしまったことでも有名だ。

「本日、私が申し上げたいのは、あのバカ王子の件です」
オディールはぷんすか怒って、黒松の下に据え付けられたステージによじ上ると、黒いチュチュをバタバタさせた。ああ、バレエ『白鳥の湖』の件ね。多くの参加者が「その話は知っているよ」という顔をした。

「いいですか。白鳥オデットに甘い言葉を囁いていたのに、後から私に結婚を申し込んだのは、私がオデットに化けて騙したからだっていうんですよ。自分が浮氣しただけなのに、ふざけやがって。私はちゃんと自分の黒い衣装で出かけていったのに。そして、私が悪魔の娘だっていうんです。ホント失礼しちゃう!」

 すると、カラスヘビが木の上から吊り下がって来た。
「悪魔と言えば、俺もムカつく件があるよ。アダムとイブを騙したのは俺っちだって濡れ衣さ。ヘビは狡猾でした、とか書きやがったヤツがいて、その挿絵にはいつも俺っちみたいな黒ヘビが描き込まれる。それなのに、あの人間どもときたら白ヘビは神様の使いとか言っちゃって、抜け殻を財布に入れたりするんだぜ」

 黒蜘蛛のブラック・ウィドーも糸を伝わってするするとステージに降りてきた。
「私は確かに交尾が終わるとオスを食べちゃいますけれど、それはオスも合意の上ですし、そもそも一度だって相手に保険をかけたことはないんですよ。それなのにあのがめつい人間の女たちと一緒にするなんてひどいと思います」

 黒山羊のバアルは、角でガンガンとステージを叩き、議長を無視して勝手に発言する輩を牽制した。

「静粛に。ここにいるほとんどの同盟者諸君は、みな人間の『黒い生き物は縁起や心がけが悪い』という偏見による被害を受けているのだ。過去の事例はいいから、現在進行中で抗議変更すべき事例はないのかね!」

 黒猫のタンゴは「はいはいっ!」と前足の肉球を高く持ち上げて発言許可を待った。

「なんだね。タンゴ。君が横切ると人間が不吉だと騒ぐ話は、わかっているから言わなくていいよ」
「違います。その話じゃありません。現在進行中の案件です」

 その場に集まった真っ黒の集団は、一様にざわめいた。
「なんだって! 現在進行中?」

「たった今、あの角を曲がったところにある家で、由々しき事態を目撃したのであります」
「なんと。いったい何を見たというのかね」

「はい。僕はこの会議に遅刻しないように、近道をしてその家の窓の外を通っていました。リビングで一人の女が大量の折り鶴を前に何かを騒いでいました。よく聴くと『こんなに黒い折り鶴が!』って、いうんです。どうやら何かのお祝い事で手分けして折り鶴を作らせて取りまとめている時に、黒い紙で折ったものを発見、それが縁起が良くないので取り除いていた模様であります!」

「なんだって。それは、我々が迫害されている動かぬ証拠ではないか」
黒山羊バアルは立ち上がり、興奮して黒松の上によじ上った。

「ようやく動かぬ証拠の現場に立ち会えるというわけだな。しかも、すぐそこというのが素晴らしい。早速抗議に行こう」

「そうだそうだ! 不当差別反対!」
「黒を葬式に使うのを阻止せよ!」
「黒はハードロックとパンクの色!」
「イカスミスパゲティにもっと愛を!」

 口々に叫ぶうちに、どうもおかしなスローガンに変わりつつあったが、みな興奮しているのでそれに氣づいていない者も多かった。

 会議場に招集された黒色同盟日本支部会員資格を持つ58万6742匹の動物たちは、足並みを揃えて黒猫タンゴが目撃した折り鶴を選り分けていた女性の住む家へと向かった。あまりにたくさんの黒い動物が移動したので、あたりは真っ暗になって、近隣の人びとは何事が起こったのかとドキドキした。

「あそこです! あの家です。そしてあの窓から見てください!」
タンゴがぴょんと窓枠に飛びのると、先ほどまで折り鶴を選り分けていた女性は奥に引っ込んでしまっていて見当たらなかった。そして、五百羽以上はあった色とりどりの他の折り鶴がなくなった机の上に、小さくてかわいらしい黒い折り鶴が六、七匹、ちょこんと残っていた。

「ほ、ほらっ。あんな風に迫害されて! 他の折り鶴はなくなってしまいましたが、あんなところに黒いのだけが放置されています!」
「どれどれ。たしかに黒いのだけ残っているな……。では早速抗議行動を……」

 その時、奥の部屋から女性の明るい声が聞こえてきた。
「ねえねえ、ちょっとこっちに来て見てみない? お祝いの折り鶴の山からしかたなく取り除いた黒い子たちだけれど……」

「なんだ? 黒い折り鶴がどうしたって?」
もっと奥から、優しそうな男性の声がした。

 明るい女性の声は続けた。
「うん。それがね。とってもかわいいから、このまま我が家に飾っておこうかなって思うの。こういう風に並べると、素敵だね」

 怒りの拳をあげていた黒色同盟の会員たちは、「あれ」と顔を見合わせた。

「迫害されていないじゃないか」
黒山羊バアルがいうと、タンゴはオロオロしながら頷いた。

「それどころか、他の折り鶴はまとめて持ち去られましたが、黒い折り鶴は永久保存してもらえるようですよ」
カラスヘビがとぐろを巻きながら言った。

「な~んだ。たまには僕たちも優遇されることがあるんだね」
「そうか~。そりゃ、よかったよかった」

 すっかり氣をよくした黒い動物たちは、ウキウキした心持ちでその場から解散した。帰り道にもみな上機嫌で、普段は喧嘩を引っ掛ける相手である白いチンチラ猫や白馬などにも朗らかに挨拶する者まで現れた。

 この一件があってから、しばらく黒色同盟の会議は開催されなかった。黒松広場は空いていることが多かったので、かわりに「灰色の動物たちをグレーゾーンから保護する会」の第一回総会が開催されるなど、近年にない様相を見せた。

 黒猫のタンゴと言えば、例の家の窓を訪ねては大事にされている黒い折り鶴たちを眺めて喜んでいる日々を送っていたが、あまりにもしょっちゅう来るのでその家の二匹のコーギー犬にすっかり憶えられてしまい、時々ドッグフードを恵んでもらう仲になったらしい。

 猫がドッグフードを食べるとどうなるのかについてはまだ黒色同盟では明らかにされていない。おそらく次の定例会では、例の黒い折り鶴たちの現状とともに、その件についても報告があると予想されている。


(初出:2017年2月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】絶滅危惧種

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十一弾です。

大海彩洋さんは、『ピアニスト慎一』シリーズの番外編で参加してくださいました。ありがとうございます!


彩洋さんの書いてくださった短編 『サバンナのバラード』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。年代が近い、物語を書いてきた長さが近い、ブランクがあったことも似ているなどなど「またシンクロしている!」と驚かされることの多い一方で、えらい違いもあり「ううむ、ちゃんと精進するとこれほどすごいものが書けるようになるのか」と唸らされてしまうことがとても多いのです。

今回書いていただいた作品とその本編に当たる「死と乙女」でも、私のよく書く「好きなクラッシック音楽をモチーフに」に挑戦されていらっしゃるのですが、「なんちゃってクラッシック好き」の私とまさに「えらい違い」な「これぞクラッシック音楽をモチーフにした小説!」が展開されています。

で、今回書いてくださったのは、またまた「偶然」同じモチーフ「女流写真家アフリカヘ行く」が重なった記念(?)に、彩洋さんのところの女流写真家ご一行と、うちの「郷愁の丘」チームとのコラボです。というわけで、こちらはその続きを……。

しかし! 大人の事情で「ジョルジア in アフリカ with グレッグ」は出せませんでした。出すとしたら「郷愁の丘」が終わったタイミングしかなくて、それはあまりにもネタバレなので却下。そして、せっかくゲスト(奈海、ネイサン、ソマリア人看護師の三名)に来ていただいているというのに、某おっさんは、これまた大人の事情で取りつく島もない態度……orz。彩洋さん、ごめんなさい。ここで簡単にネイサンたちと仲良しになれるようなキャラに変更すると、本編のプロット大崩壊なんです。

ということで、おそらく彩洋さんの予想と大きく違い、別のもっとフレンドリーなホストで歓待させていただきました。こっちは、たぶん五分で意氣投合すると思います。


郷愁の丘「郷愁の丘」を読む(第1回のみ公開済み)
あらすじと登場人物


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郷愁の丘・外伝
絶滅危惧種 
——Special thanks to Oomi Sayo san


 普段はあまり意見を言わない看護師がぼそっと言った。
「どうしてわざわざシマウマを観に行くの」

 運転席で、それは当然な問いかけだなと彼は思った。アフリカのゲーム・サファリをする時に、シマウマを観るためだけに車を走らせたりする者はない。ライオンやチーターを探すついでに見たくなくても見えてしまうのが普通だからだ。

「見せてもらうのはただのシマウマじゃないんだよ。ね、スコット博士」
フランスから来た医師が彼に話しかけた。

「はい。これからお目にかけるのは、グレービー・シマウマです」
彼は後を振り返って答えた。彼の運転するランドクルーザーには、三人の客と一匹の犬が同乗している。助手席にはソマリア出身の看護師が座り、フランス人の医師と日本人の女性カメラマンは後部座席に座っている。そして、その後に踞るのは彼の愛犬であるローデシアン・リッジバック、ルーシーだ。

 ネイサン・マレ医師は、撮影をしたがるに違いない奈海が助手席に座った方がいいと主張したのだが、ルーシーがソマリア人を執拗に威嚇するので、距離を開けるためにしかたなくその配置にしたのだ。

「よくあることなんだよ」
スコット博士がソマリア人に謝っているとき、ネイサンは奈海に耳打ちした。

「なにが?」
「アフリカの番犬は、黒人にひどく吠えることが多いんだ。別にそういう教育をしているわけじゃなくても。そして、多くの黒人は番犬が苦手になる。そうすると、それを感じとる犬はもっと吠えるんだ」
「でも、ルーシー、最初は私やあなたにもずいぶん吠えていたわよ」
「まあね。番犬として優秀ってことかな」

 その説明を聞きながら彼は申しわけなさそうに言った。
「彼女は、ほぼ全ての初対面の人間にひどく吠えるんです」

「ってことは、例外的に吠えなかった人もいるってことかい?」
ネイサンが訊くと、彼は短く「ええ」とだけ答えた。

 彼自身の父親であるジェームス・スコット博士でも、その恋人であるレイチェル・ムーア博士でもなく、そして二人の娘のマディでもない。初対面の人間にひどく吠え立てるルーシーがはじめからひどく尻尾を振って懐いたのは、半年ほど前に滞在したアメリカ人女性だった。

 それは、やはり今日のようにマリンディの父親の別荘に滞在した時だった。彼の意思とは関係なく別荘に行くことになったのは今回と同じだったが、その女性は自分で招待したのだ。彼が誰かを招待したのはここ十年では彼女一人だけだった。そもそも、断られると思いながら誘ったのだが、彼女が意外にも簡単に招待に応じてくれたのだ。

 その時たまたまその場にいた旅行エージェントを営む友人リチャード・アシュレイは、彼のことを誤解したようだった。しばらく逢わないうちにすっかり社交的になったのだと。実際には、あいかわらず人間との交流を可能な限り避けている。リチャードは、半年前に彼の人生の沙漠に突然訪れた夢のような二週間のことは知らないだろう。それとも、不器用なために何の成果も手にしなかった話がすでに面白おかしく伝わっているのかもしれない。

 そもそもリチャードは、今回この三人の客を彼に紹介したわけではなかった。ホスピタリティにあふれ、時おりビジネスの範囲を大きく超えて客を歓待するリチャードは、彼に三人の客を見事に接待する能力があると思うほど楽天的ではなかった。

 そうではなくて、この別荘を実質的にいつも使っている人懐こい夫婦に、三人のもてなしを依頼したのだった。つまり、マディとその夫であるイタリア人アウレリオ・ブラスだ。

 アウレリオはオックスフォード時代から付き合いのあるリチャード・アシュレイの親友だ。彼が、リチャードを通じて性格の全く違う無口で人付き合いの下手なケニア出身の学生スコットに近づいたのは、大いなる下心があってのことだった。すなわち、一目惚れした彼の腹違いの妹と親しくなるための布石だ。

 その甲斐あって、マデリン・ムーアと首尾よく結婚したアウレリオは、今では彼の義理の弟となってケニアに移住している。そして、イタリア系住民のコミュニティのあるマリンディの別荘でバカンスを楽しむことも多かったし、親友リチャードの依頼を愛想良く受けてその友人を歓待することも好んだ。だが、愛すべきアウレリオには、大きな欠点があった。肝心な時に決してその場にいないのだ。

 今回もリチャードから紹介され、三人の客の受け入れを快諾したものの、ミラノでの商談の時間がずれ込み約束の日にケニアに戻って来ることが出来なかった。だが、別荘の本来の持ち主である義父ジェームス・スコット博士に代わりに接待をしろとは言えない。妻のマディは二人の子供を抱えていて簡単に250キロも移動できない。そこで急遽、鍵を持っているジェームスの息子であるヘンリーが呼びつけられたのだ。

「グレービー・シマウマって、普通のシマウマとどう違うの?」
日本人カメラマン奈海の声で彼は我に返った。シマウマの研究者である彼は、説明を始めた。

「グレービー・シマウマは、アフリカ全土でよく見られるサバンナシマウマ種よりも大型です。縞模様がよりはっきりしていますが、腹面には模様がありません。ケニア北部とエチオピア南部のみに生息しています」

「ずいぶん減っているんだろう?」
「はい。ワシントン条約のレッドデータでEN絶滅危惧種に指定されています。1970年代には15000頭ほどいたのですが、現在およそ2300頭ほどしか残っていません」

 奈海は驚いた声を出した。
「そんなに減ってしまったの? どうして?」
「縞模様が格別にきれいで、毛皮のために乱獲されたんです。そして、家畜と水飲み場が重なったためにたくさん殺されました」

「今は保護されているんだろう?」
「ええ、捕獲や殺戮は禁止されていますしワシントン条約で保護されたためにここ数年の生息数は安定しています。でも、エチオピアが建設を予定している大型ダムが完成するとトゥルカナ湖の水位が大きく下がると予想されています。それで再び危機的な状況になると今から危惧されています」

 ランドクルーザーは、アラワレ国立自然保護区に入ってから、ゆっくりと進んでいた。マリンディから130キロしか離れていないと聞いていたので、すぐに到着して簡単にシマウマが見られると思っていたが、すでに三時間が経っていて、いまだにヌーやトムソン・ガゼルなどしか目にしていなかった。

「ほら、いました」
彼は、言った。
「あ、本当ね」
ソマリア人が答えた。

「え? どこに?」
奈海は後部座席から目を凝らした。彼女にはシマウマの姿は見えていない。ネイサンが笑った。
「都会の人間には、まだ見えないよ」
「え?」
「サバンナに暮らす人間は視力が6.0なんてこともあるらしいよ。遠くを見慣れているからだろうな。十分くらいしたら君や僕にも見えてくるさ」

 本当に十分以上してから、奈海にもシマウマが見えてきた。彼は生態や特徴などについて丁寧に説明してくれるが、奈海が満足する写真を撮れるほどには近づいてくれない。窓を開けてカメラを構えるがこの距離では満足のいくアングルにならない。

「もう少し車を近づけていただけませんか」
「これが限界です。これ以上近づくことは許可されていません。向こうから近づいてくればいいのですが」

「でも、周りには誰もいないし、僕たちはシマウマにとって危険じゃないから、いいだろう」
ネイサンは、奈海のために頼んだ。
「車で近づくのがダメなら、私、降りて歩いてもいいわ」

「近づくのも降りるのも不可です。彼らをストレスに晒すことになりますから。この規則は、あなたたちに問題が降り掛かるのを避けるためでもありますが、それ以上に生態系を守るためにあるんです」

 警戒心の強いシマウマたちは、どれだけ待っていても近づいてこなかった。やがて彼は時計を見て言った。
「申しわけありませんが、時間切れです。もう帰らないと」

「まだ陽も高いし、少しスピードあげて戻ればいいんだし、あと一時間くらいはいいだろう? まだ彼女が撮りたいような写真は撮れていないんだ」
ネイサンがまた奈海のために頼んだが、彼は首を振った。

「この保護区内では時速40キロ以上を出すことは禁じられているんです。そして、夕方六時までに保護区の外に出ないと」

 これまでのサファリで、こんなに融通の利かない事を言われたことはなかったので、ネイサンと奈海は顔を見合わせた。頼んでも無理だということは彼の口調からわかったので、大人しく引き下がった。

 出かける前にパリに電話をかけていて出発が遅くなったことが悔やまれた。そう言ってくれれば、電話は帰ってからにしたのに。奈海は名残惜しい想いで遠ざかるグレービー・シマウマの群れを振り返った。

* * *


「ヘンリー!」
マリンディに戻ると、アウレリオと二人の子供たちと一緒に到着したマディが待ち構えていた。夫が三人の客たちに無礼を詫びつつ、リビングで賑やかに歓待している間、彼女は彼を台所に連れて行った。

「私たちの到着が遅くなって、三人の世話をあなたにさせたのは悪かったわ。でも、ヘンリー、あなた、まさかお客様にあれを食べさせたわけ?!」
彼女は、流しの側に置いてあるコンビーフの空き缶を指差した。

 彼は肩をすくめた。
「僕にフルコースが作れると思っていたのかい」
「思っていないけれど、いくらなんでも!」

 彼は首を振った。
「心配しなくても、焼きコンビーフを食べさせたわけじゃないよ。そうしようかと思っていたら、見かねたマレ先生があれとジャガイモでちゃんとした料理を作ってくれた」
「あきれた。マレ先生に料理させちゃったのね」

「だから、今夜は、まともに歓待してやってくれ。僕は、帰るから」
「食べていかないの?」
「今から帰れば、明日の朝の調査が出来る。それに、僕がここにいても場は盛り上がらないから」

 マディは、居間にいる四人と子供たちがすっかり打ち解けて楽しい笑い声を上げているのを耳にした。そして、打ち解けにくい腹違いの兄との時間で三人が居たたまれない思いをしたのではないかと考えた。ヘンリーは決して悪い人ではない。ないんだけど……。

「そんなことないわ。それにあの日本女性、写真家だし、弾む話もあるんじゃないの?」
マディは、含みのあるいい方をしたが、彼は乗ってこなかった。

 彼女は続けた。
「彼女と連絡取り続けているんでしょう? 行くって聞いたわよ、来月ニューヨークに」
「どういう意味だ」
「ママがあなたも行くって。あなたが海外の学会に行くなんて、珍しいことだもの。ミズ・カペッリに会うんでしょう?」

 彼は首を振った。
「ニューヨーク学会に行くのは、レイチェルがスポンサーに紹介してくれるからだ。もしかしたら援助してもらえるかもしれないから。ミズ・カペッリは忙しいだろうし、押し掛けたら迷惑だから連絡していない」

「どうして?! せっかく再会できるチャンスなのに、この間、ずいぶん仲良くなったじゃないの」
マディは、よけいなおせっかいとわかっていながら言い募った。

 彼は、答えずに彼女の瞳を見つめ返した。暗い後ろ向きな光だった。彼女は、よけいな事を言ったことを後悔した。上手くいっていたと思っていたのに……。

 彼は、「じゃあ、これで」と言うと表で待つルーシーを連れて車に乗り込み去っていった。

 人付き合いが下手な上、父親ともほとんど没交渉の彼のことを、マディと母親のレイチェルはいつも氣にかけていた。クリスマスや復活祭の食卓に招んだり、別荘での休暇に呼び出したり、学会でも声を掛けたり、彼が《郷愁の丘》に引きこもり続けないように心を砕いてきた。彼は、それを感謝し嫌がらずに出かけてくるが、自ら打ち解けることはまだ出来ない。

 逢ってまだ三十分も立っていないのに、もう昔からの親友のように楽しそうに語り合うアウレリオとマレ医師たちの声を聴きながら、彼女はこの世と上手くやっていけない腹違いの兄と比較してため息をついた。

 夫は彼女に近づくのに躊躇したり、迷惑だろうからと遠慮したりはしなかった。そして、それが彼女自身の幸せにつながった。だが、それをヘンリーに言っても助けにはならないだろう。彼はそういう人間ではないのだから。

 彼女は両親や兄のように動物学者ではないから、学術的なことはわからない。でも、進化論で「絶滅した種は環境に適応できなかったから」と言われているのくらいは知っている。他の生物と同じく環境に適応できないために種を保存できない人間もいるのかもしれない。

 彼女は頭を振ると、去っていった兄の愛するアメリカ人ではなく、パリから来た女流写真家と会話を楽しむべく居間へと向かった。

(初出:2017年2月 書き下ろし)
関連記事 (Category: scriviamo! 2017)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】その色鮮やかなひと口を -5 -

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第十弾です。

嬉しいことに今年もココうささんが、俳句で参加してくださいました。冬と春の二句です。ありがとうございます!


ココうささんの書いてくださった俳句

冬木立手より重なる影ありぬ  あさこ
 
春の水分かれてもまた出会ひけり  あさこ


この二句の著作権はココうささん(あさこさん)にあります。無断転載ならびに転用は固くお断りします。


ココうささんは、以前素晴らしい詩や俳句、揮毫を発表なさっていらっしゃいましたが、現在はブログをお持ちではありません。でも、今でもこのブログを訪ねてくださり、時々、お話ししてくださるんです。実生活と違って、ブログ上でのお付き合いは連絡先を知らない限り簡単に途切れてしまいますが、こうして交流が続くこと、本当に嬉しく思います。

そして、毎年のお約束になっていますが、一年間放置した二人をココうささんの俳句で動かさせていただきました。島根県松江市で和菓子職人になったイタリア人ルドヴィコと店でバイトをしている大学生怜子のストーリーです。年に一度という寡作の割になぜか展開が早いのですが、もう五年もこのままですからね。


【参考】この話をご存じない方のために同シリーズへのリンクをつけておきます。
その色鮮やかなひと口を

「scriviamo! 2017」について
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



その色鮮やかなひと口を -5 - 
Inspired from 2 Haikus by Asako-San
——Special thanks to Kokousa san


 二月だというのに、道には雪はほとんどなかった。まだ肌寒いが、枝の蕾のふくらみや、穏やかな陽の光に歌う小鳥のさえずりが、春はそう遠くないことを報せてくれる。

 怜子は、運転席に座るルドヴィコに視線を移した。さほど空間の広くないレンタカーの中で、彼の頭と天井との空間はたくさんは残っていなかった。怜子は背の高い穏やかな青年の横顔に微笑みかけた。

「どうしましたか。怜子さん」
彼は、いつも通り流暢な日本語で語りかけた。怜子は「なんでもない」と言って窓の外に視線を戻した。

 注文品を届けることがあるので、彼は仕事で運転することはあるが、プライヴェートでは一畑電鉄のバスや電車にのんびりと乗るのを好んでいた。でも、今日は、山口県との県境まで行かなくてはならず、交通の便が今ひとつなので車を借りたのだ。怜子は、彼とドライブしたことは一度くらいしかないので、妙にワクワクしていた。もっとも、怜子の両親のところに行く用事の方にもっとドキドキすべきなのだが、そちらの方はいまいちピンと来ていなかった。

 そもそもの事の起こりは、二週間ほど前だった。怜子が将来のことでルドヴィコに相談を持ちかけたのだ。

「ゼミの指導をしてくれている助教授がね。恩師が教鞭をとっている京都の大学院を受けてみないかっておっしゃるの。どうしようかなあ」
「怜子さんは文学の研究を続けたいんですか?」

「う~ん。もっと研究したら面白いとは思うけれど、将来のこともあって考えちゃう。研究職に就きたいってことではないのよね。京都に行けば京阪神の大都会で仕事をする可能性が開けるとゼミ仲間は言うけれど、大学院卒ってよほど優秀じゃないと就職先ないし」

「怜子さん、都会で仕事したいんですか」
「私、島根県から出たことないもの。このままここで就職活動したら、井の中の蛙のままになるんじゃないかなあ。それでもいいれど、先生がせっかく奨めてくれるのは自分を試すチャンスかもしれないと思って。ルドヴィコはどう思う?」

「もし、こちらで就職活動をするとしたら、どんな所に勤めたいんですか?」
「とくに決めていないよ。私は特殊技能もないし、事務職かなあ。そもそも求人があるかしら」

「『石倉六角堂』にこのまま勤めるのは嫌なんですか?」
「いや、嫌じゃないけれど、私はバイトだもの。ルドヴィコみたいに和菓子職人としての技能があれば社長も正社員として採用してくれるけれど、バイトの正社員登用なんてないと思う」

 彼は腕を組んで納得のいかない顔をしていたが、どうやら社長に打診してくれたらしい、翌日怜子は石倉夫人と社長に呼ばれた。

「怜ちゃん、ルドちゃんから聞いたんだけれど、卒業後にここで働くつもりはないの?」
石倉夫人に訊かれて怜子は驚いた。
「え。考えたことなかったです。去年、千絵さんも就職活動の時期に辞められたのを見ていたから、はじめから無理だと思っていて……」

「うちはそんなにたくさん正社員を雇えないし、一度雇ったら誰かが辞めるまでは新しく募集できないさ」
社長がいった。怜子は、ほら、そうだよね、と思いながら頷いた。

「だからね。怜ちゃんが卒業するまでは、少しキツいけれどバイトのシフトだけでなんとか凌ごうって去年、アルバイトを増員したのよ」
石倉夫人は夫の言葉を継いだ。

「え?」
怜子は、目を瞬かせて二人の顔を見た。その反応に二人は顔を見合わせた。

「ルド公は、何にも言っていないのか?」
「なにをですか?」

「困ったヤツだな」
社長はため息をもらした。それから、ばっと事務所の扉を開けると、奥の厨房にいるルドヴィコに向かって叫んだ。
「おい。ルド公! 俺から言ってしまうからな!」

 奥から「どうぞ」という彼の声が聞こえると、社長は再びドアを閉めて、また怜子の前に座った。

「実はな。一年ぐらい前から具体的に話しているんだが、数年後にもう一軒支店を増やすつもりなんだ。新しい店は義家と真弓さんに任せるつもりでいる。そうなると、こっちでメインに作ってもらうのは佐藤とルド公になるだろ。で、真弓さんの代わりに昼夜関係なく働ける正社員がもう一人いるって話になったんだよ。そうしたらルド公が、自分の嫁じゃだめなのかといったんだよ」

「え?」
「その、ルドちゃんは、怜ちゃん、あなたが卒業したらお嫁さんになってもらって一緒にここでやっていくつもりだったの。もちろん私たちは大歓迎だけれど、彼ったら何も言っていなかったのね。まさか、こんな形で私たちから告げることになるとは夢にも思わなかったわ」

 あまりに驚いて何も言えない怜子に、社長は言った。
「あいつの嫁になるかどうかは別として、もしここを辞めて県外に行くなり、他の職種に就職したいって場合は、三月までに返事をくれないか? その頃には、正社員の募集をかけなくてはならないし」

 それで、その日の仕事から上がるとすぐにルドヴィコに詰め寄った。
「ルドヴィコ、わたし何も聞いていないよ!」

 彼は、肩をすくめて言った。
「だから、近いうちに怜子さんのご両親の住む街に行こうって言ったじゃないですか。怜子さんが試験が終わってからがいいと言ったんですよ」
「うちの両親なんて、これと関係ないでしょう。……って、あれ? まさか……」
「そうですよ。『お嬢さんをください』って、ご挨拶をしないと」

「ええっ? でも、ルドヴィコ、まだ私にプロポーズしていないよ?」
「しましたよ。怜子さんOKしたでしょう」
「いつ?」
「先週、城山稲荷神社で」
「え? あ……あれ?!」

 松江城の敷地内にある城山稲荷神社は千体もの石の狐がある不思議空間だ。店からもルドヴィコの住まいからもとても近いにも関わらず、この神社に一緒に行ったのはまだ三回目だった。石段を上るのが一苦労だからだ。

 でも、その日は二人で久しぶりにお稲荷さんにお詣りして、かつて小泉八雲が愛したと言う耳の欠けた狐や幸福を運ぶ珠を持った狐を二人で探した。

「小泉八雲は通勤中にここをよく訪れたそうですよ。日本らしい幽玄な光景、当時二千体もあったお稲荷さんを見て、そして、それが全て神として信仰されているのを知り、ここは故郷とどれほど違った国なのだろうと驚いたでしょうね」
「そうだよね。私たち日本人でも、これだけ揃っているとすごいなあって思うもの。八雲、よく日本に帰化する決心がついたよね」
 
 ルドヴィコは、怜子を見つめてにっこりと笑った。彼の後にある大きな樹から木漏れ日が射していた。
「彼は、日本とその文化を深く愛していたから、この国に居たいと思ったのでしょうね。でも、二度と故郷に戻らなくてもいい、ここにずっと居ようと決心させたのはセツの存在だと僕は信じます。この人が自分にとってのたった一人の人なのだと確信して、一緒に生涯を共にしようと思った。この松江で、僕もそういう人に逢えたことを神に感謝しています」

 そう言って、彼は怜子の手を取った。
「怜子さん。僕たちも、これからこの街の四季を眺めながら、ずっと長い人生を歩いていきましょう」

 葉を落とした大きな神樹の枝の影、背の高いルドヴィコの優しい影、そして繋がれた手のひらから伝わるぬくもりで、怜子の心は大きな安心感に満たされた。きっと小泉セツも、同じような確信を持って、異国の人と生涯を添い遂げようと思ったんだろうなと理解した。
「うん。ルドヴィコ。そうなるといいね」

 そのとき、怜子は、「いずれ彼と結婚することとなるに違いない」と確信したのだ。でも、まさかあれがプロポーズそのものだったなんて!

「あんな抽象的ないい方じゃ、プロポーズされているんだかどうだかわからないよ!」
「なんですって。じゃあ、僕がどんなプロポーズをすると思っていたんですか?」
「え。花もって、膝まづいて、結婚してくださいってヤツ?」

 ルドヴィコは「そんなベタなプロポーズは今どきイタリアでもしませんよ」と、大きなため息をついた。

 そして、ようやく怜子の試験が終わったので、レンタカーで両親のもとへ行くことにしたのだ。

 ナビゲーターに誘導されて、レンタカーは小さな谷間を走っていた。人通りの少ないのどかな田園風景がどこまでも続く。ルドヴィコは、車を停めて休憩をした。

「わあ。こんなところに、かわいい小川がある」
怜子は、道の脇から覗き込んだ。まだ残っている雪が溶けて、透明な滴をぽとり、ぽとりと川に注いでいた。

 休みの日に、こうやってルドヴィコと二人でのんびりと過ごせるのは、とても自然で嬉しいことだった。そして、それはこれからの人生ずっと続くことなのだ。あたり前のようでいて、とても不思議。怜子は考えた。

「あ。来週、先生に京都の件、断らなくちゃ」
怜子が言うと、ルドヴィコは「断っていいんですか」と訊いた。

「だって、大学院で研究しても、将来には結びつかないよ。京都や大阪で就職する必要もなくなったし」
「井の中の蛙は嫌なんじゃないんですか」
そう言われると、いいんだろうかと考えてしまう。

「ルドヴィコも、イタリアから外の世界に出てみたかったの?」
怜子が訊くと、彼は彼女の方を見て笑った。
「イタリアの外じゃなくて、日本に行きたかったんですよ。夢の国でしたから。今ほど簡単に情報が手に入らなかったので、混乱しましたけれど、その分、早く行ってみたいと想いを募らせていました」

「何があると思っていたの?」
「子供の頃は、ポケモンとニンジャですよ。少し大きくなってからは伊藤若冲とドナルド・キーン」
怜子はすこしずっこけた。子供の頃と少し大きくなってからが、全然つながっていない。

「日本に到着してからは、もっとたくさんの情報に振り回されましたが、松江にたどり着いてようやく落ち着きました。日本には本当に何でもありますが、自分にとって大切なものは、自ら削ぎ取らないと見失ってしまう。日本古来の美学は、それを知るいい指針となりました」

 怜子は、そうなのかなあと思いながら、田園風景を眺めた。確かにルドヴィコと私が両方とも大阪や東京にいたら絶対に出会えていなかっただろうし、お互いのよさに氣づく時間もなかっただろう。

「お茶室を初めて見たとき、ものすごく感動しました。家具と言えるものがほとんどなくて、畳の上に亭主と自分がいる。そして、お菓子とお茶がシンプルに出てきます。円形の窓から外の世界が見える。風の音、樹々のざわめき、鹿威しの音。わずかな音が静寂を際立たせる。僕に必要だったのはこの世界なんだと思いました。たくさん詰め込むのではなくて、不要なものを極限まで削ぎ取ったところに現れる世界。実際にはわずかな空間なのに無限の広がりを感じました。僕が日本に住もうと思った瞬間でした」

「だから、和菓子職人になろうと思ったの?」
「はい。小さな一つのお菓子の中に、季節ともてなしの心が詰まっている。伝統的であるのに、独創的で新しい。これこそ僕の探していたものだと思いました」

 探していたものかあ。私はなにか探したのかな。探す前に、いつも向こうからやってきているみたいだからなあ。怜子はまた考え込んだ。

「怜子さん。京都で研究したいなら、行ってください。結婚は大学卒業後すぐでなくても構いませんし、お店で働かなくてもいいのですから」
怜子は、はっとして彼を見た。

 ルドヴィコは、深い湖のような澄んだ瞳で見ていた。
「見てください。あそこで川の水は二手に分かれています。そして、少し離れてあそこでまた一つになっている。そしてどこを通ってもいつかは同じ海に流れていくんです。怜子さんがどちらに向かおうとも進む道に間違いはありません。したいと思うことを諦めずにしてください。僕はちゃんと待てますから」

 怜子は、その時にはっきりとわかった。自分がどうしたいのか。川の水もキラキラと光りながら迷わずに海へと向かっている。彼女はしっかりとルドヴィコを見つめ返していった。
「私、卒業したらすぐに『石倉六角堂』で働く。井の中の蛙でもいい。都会には行かないし、他のことも探さない。だって、私にとって大事なことは、ここにあるんだもの」

 彼はその言葉を聞くと笑顔になった。青いきれいな瞳が優しく煌めいていた。

 怜子は、続けた。
「その代わりに、私ね、イタリア語を始めようと思うの」
「え?」
「だって、ルドヴィコの家族とも親戚になるんでしょう? 挨拶も出来ないんじゃ、困るもの」

 彼は、目を見開いてから、嬉しそうに口を大きく開けて笑った。
「では、明日から特訓してあげましょう。鉄は熱いうちに打てって言いますからね。そして、遠からず行って僕の家族に引き合わせましょう」

(初出:2017年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -8- テキーラ・サンライズ

「scriviamo! 2017」の最中ですが、今日発表するのは、WEB月刊誌「Stella」参加作品「バッカスからの招待状」です。東京・大手町にある隠れ家のようなバー『Bacchus』。バーテンダー兼店主の田中佑二が迎える客たちのなんて事はない話をほぼ読み切りのような形でお届けしてます。

しばらくスペシャルバージョンが続きましたが、また田中はいつものオブザーバーに戻りました。今回の話は、ちょっと古い歌をモチーフにしたストーリーです。あの曲、ある年齢以上の皆さんは、きっとご存知ですよね(笑)


月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む
「いつかは寄ってね」をはじめから読む「いつかは寄ってね」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -8- 
テキーラ・サンライズ


 その二人が入って来た時に、田中に長年酒場で働いている者の勘が働いた。険悪な顔はしていないし、会話がないわけでもなかった。だが、二人の間には不自然な空間があった。まるでお互いの間にアクリルの壁を置いているように。

 大手町のビル街にひっそりと隠れるように営業している『Bacchus』には、一見の客よりも常連の方が多い。だが、この二人に見覚えはなかった。おそらく予定していた店が満席で闇雲に歩き回って見つけたのだろう。

 店などはどうでもいいのだ。未来に大切にしたくなる思い出を作るつもりはないのだろうから。どうやって嫌な想いをせずに、不愉快な話題を終わらせることができるか、それだけに意識を集中しているのだろう。

 二人は、奥のテーブル席に座った。田中は、話が進まないうちに急いで注文を取りに行った。彼らも話を聞かれたくはないだろうから。

「カリブ海っぽい、強いカクテルありますか」
女が田中に訊くと、男は眉をひそめたが何も言わなかった。
「そうですね。テキーラ・サンライズはいかがでしょうか。赤とオレンジの日の出のように見えるカクテルです」
「それにして。氣分は日の入りだけれど……」

「僕はオールドの水割りをお願いします」
男は女のコメントへの感想も、田中との会話をも拒否するような強い調子で注文した。田中は頷いて引き下がり、注文の品とポテトチップスを入れたボウルをできるだけ急いで持っていくとその場を離れた。

* * *


 亜佐美はオレンジジュースの底に沈んでいる赤いグレナディンシロップを覗き込んだ。ゴブレットはわずかに汗をかき始めている。かき混ぜてそのきれいな層を壊すのを惜しむように、彼女はそっとストローを持ち上げてオレンジジュースだけをわずかに飲んだ。
「こうやってあなたと飲むのも今日でおしまいだね」

 和彦は、先ほど田中に見せたのと同じような不愉快な表情を一瞬見せてから、自分の苛立ちを押さえ込むようにして答えた。
「あの財務省男との結婚を決めたのは、お前だろう」

「……ごめんね。私、もう疲れちゃったんだ」
「何に?」
「あなたを信じて待ち続けることに」

 和彦は、握りこぶしに力を込めた。だが、その行為は何の解決にも結びつかなかった。
「僕が夢をあきらめても、財務省に今から入れるわけじゃない。お前に広尾の奥様ライフを約束するなんて無理だ。それどころか結婚する余裕すらない」

「私が楽な人生を選んだなんて思わないで。急に小学生の継母になるんだよ。あの子は全然懐きそうにないし、お姑さんもプライド高そうだから、大変そう」
「なぜそこまでして結婚したがるんだよ」

 亜佐美は黙り込んだ。必要とされたということが嬉しかったのかもしれない。それとも、プロポーズの件を言えば、和彦が引き止めてくれると思いたかったのかもしれない。彼は不快そうにはしたけれど引き止めなかった。

「カリブ海、行きたかったな」
「なぜ過去形にするんだ。これからだって行けるだろう」

 彼女は、瞼を閉じた。あなたと行きたかったんだよ。それに、もう憶えていないかな。まだ高校生だった頃ユーミンの『真夏の夜の夢』が大ヒットして、一緒に話したじゃない。こんな芝居がかった別れ話するわけないよねって。なのに私は、こんなに長く夢見続けたあなたとの関係にピリオドを打って、まるであの歌詞と同じような最後のデートをしているんだね。

 サンライズじゃない。サンセット。私の人生の、真夏の夜の夢はおしまい。

 二人は長くは留まらなかった。亜佐美がテキーラ・サンライズを飲み終わった頃には、水割りのグラスも空になった。そして、支払いを済ませると二人は田中の店から消えていった。

* * *


 おや。田中は意外な思いで入ってきた二人を見つめた。常連たちのように細かいことを憶えていたわけではないが、不快な様子で出て行く客はあまりいないので、印象に残っていた。おそらく二度と来ないであろうと予想していたのだが、いい意味で裏切られた。

「間違いない。この店だよな」
「そうね。6年経ってもまったく変わっていないわね」

 二人の表情はずっと穏やかになっていた。男の方には白髪が増え、カジュアルなジャケットの色合いも落ち着いていたが、以前よりも自信に満ちた様子が見て取れた。

 女の方は、6年前とは違って全身黒衣だった。落ち着いて人妻らしい振舞いになっていた。

「カウンターいいですか」
男が訊いたので田中は「どこでもお好きな席にどうぞ」と答えた。

「どうぞ」
おしぼりとメニューを渡すと、女はおしぼりだけを受け取った。

「またテキーラ・サンライズをいただくわ」
それで田中は、この二人が別れ話をしていたカップルだったと思い出した。
「僕も同じ物を」
彼もまたメニューを受け取らなかった。

「それで、いつ発つの?」 
「来週。落ち着いたら連絡先を報せるよ。メールでいいかい?」
「ええ。ドミニカ共和国かぁ。本当に和彦がカリブ海に行く夢を叶えるなんてね。医療機器会社に就職したって年賀状もらった時には諦めたんだと思っていたわ」

「理想と現実は違ってね。ODAって、場所やプロジェクトにもよりけりだけれど、政治家やゼネコンが癒着して、あっちのためになるどころか害にしかならない援助もあってさ。それで発想を変えて本音と建前が一致する民間企業の側から関わることにしたんだ」
「夢を諦めなかったあなたの粘り勝ちね。おめでとう」

「お前に振られてから、背水の陣みたいなつもりになっていたからな。それにしても驚いたな。お前の旦那が亡くなっていたなんて」

 田中はその言葉を耳にして一瞬手を止めたが、動揺を顔に出すようなことはしなかった。亜佐美は下を向いて目を伏せたが、すぐに顔を上げた。

「そろそろ半年になるの。冷たいと思うかもしれないけれど、泣いているヒマなんかなかったから、かなり早く立ち直ったわ」
「まだ若いのに、何があったんだ?」

 亜佐美は、田中がタンブラーを2つ置く間は黙っていたが、特に声のトーンを落とさずに言った。
「急性アルコール中毒。いろいろ重なったのよね。部下の女の子と遊んだつもりでいたら、リストカットされちゃってそれが表沙汰になったの。上層部はさわぐし、お姑さんともぶつかったの。それで、彼女が田舎に帰ってしまってからすこし心を病んでしまったのね」
「マジかよ」

「受験も大学も、財務省に入ってからもずっとトントン拍子で来た人でしょう。挫折したことがなかったから、ストレスに耐えられなかったみたい。和彦みたいに紆余曲折を経てきたほうが、しなやかで強くなるんじゃないかな」

「それは褒めてないぞ。ともかく、お前も大変だったんじゃないか?」
「そうでもないわ。事情が事情だけに、みな同情的でね。お姑さんもすっかり丸くなってしまったし、奈那子も……」
「それは?」
「ああ、彼の娘。もうすぐ大学に入学するのよ。早いわね」

「えっと、亜佐美が続けて面倒見るのか?」
「面倒見るっていうか、これまで家族だったし、これまで通りよ」

「その子の母親もいるんだろう?」
「母親が引き取らなかったから、慌てて再婚したんじゃない。今さら引き取るわけないでしょ。最初はぎこちなかったけれど、わりと上手くいっているのよ、私たち。継母と継子って言うより戦友みたいな感じかな。思春期でしょ、父親が若い女にうつつを抜かしていたのも許せなかったみたい」

「お前は?」
「う~ん。傷つかなかったといえば嘘になるけれど、でもねぇ」

 亜佐美はタンブラーの中の朝焼け色をじっと眺めた。
「あの人、あんな風に人を好きになったの、初めてだったみたい。ずっと親に言われた通りの優等生レールを進んできて、初めてわけもわからずに感情に振り回されてしまったの。それをみていたら、かわいそうだなと思ったの。別れてくれと言われたら、出て行ってもいいとまで思っていたんだけどね」

 和彦は呆れたように亜佐美を眺めた。
「おまえ、それは妻としては変だぞ」
「わかっているわよ。奈那子にもそう言われたわ。でも、今日私があなたと会っているのも、あの子にとっては不潔なんだろうな」

「いや、今日の俺たちは、ただ飲んでいるだけじゃないか」
「それでもよ。でも、いいの。奈那子に嫌われても、未亡人らしくないって世間の非難を受けても、あなたが日本を離れる前にどうしてももう一度逢いたかった。逢って、おめでとうって言いたかったの」

「これからどうするんだ?」
和彦はためらいがちに訊いた。

 亜佐美は、ようやくストローに口を付けた。それから、笑顔を見せた。
「奈那子が下宿先に引越したら、あの家を売却して身の丈にあった部屋に遷ろうと思うの。奈那子の将来にいる分はちゃんと貯金してね。それから、仕事を見つけなきゃ。何もしないでいるには、いくらなんでもまだ若すぎるしね」

 和彦は、決心したように言った。
「ドミニカ共和国に来るって選択肢も考慮に入れられる?」

 亜佐美は驚いて彼を見た。
「本氣?」

 彼は肩をすくめた。
「たった今の思いつきだけど、問題あるか? 奈那子ちゃんに嫌われるかな」

 亜佐美は、タンブラーをじっと見つめた。あまり長いこと何も言わなかったので、和彦だけでなく、成り行きかから全てを聞く事になってしまった田中まではらはらした。

「新しい陽はまた昇るんだね」
彼女はそういうと、瞳を閉じてカクテルを飲んだ。

「今さら焦る必要もないでしょう? 一度、ドミニカ共和国に遊びにいくわね。カリブ海を眺めながら、またこのカクテルを飲みましょう。その時にまだ氣が変わっていなかったら、また提案して」
亜佐美の言葉に、和彦は明るい笑顔を見せた。

 田中は、安心してグレナディン・シロップの瓶を棚に戻した。


テキーラ・サンライズ (Tequila Sunrise)
標準的なレシピ
テキーラ - 45ml
オレンジ・ジュース - 適量
グレナディン・シロップ - 2tsp

作成方法: テキーラ、オレンジ・ジュースをゴブレットに注ぎ、軽くステアする。
ゴブレットの縁から静かにグレナディン・シロップを注ぎ、底に沈める。



(初出:2017年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 連載小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】赤スグリの実るころ

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第九弾です。GTさんは、オリジナル小説で参加してくださいました。ありがとうございます!

GTさんの書いてくださった『クロスグリのパイ』

GTさんは、わりと最近知り合って、交流してくださるようになったブロガーさんです。熱烈な世界名作劇場のファンで、ファンサイトとしてレビューなどを書かれる傍ら、名作劇場作品の二次創作、それから同じテイストの一次創作も発表なさっています。

私のブログにいらしてくださったのは、おそらく「スイス」に反応してだと思われますが、正直言って「アルプスの少女ハイジ」ともかく、スイスを舞台にした他の名作劇場作品を全く知らなかった私ではお話にならなくて、おそらくこのブログから得る知識は0かと思いますが、にもかかわらず熱心に作品を読んでくださり感謝しています。

今回、はじめてのscriviamo!参加のために書きおろしてくださったのは、オリジナル作品で私の生半可な知識ではどこの国のお話か、どの時代なのかまではちょっとわからなかったのですが、名前などから類推するとアメリカかカナダなどの英語圏のような感じがします。おそらく架空の土地のお話ですね。

GTさんのおすきな世界名作劇場でよく題材にされるのは18から20世紀初頭のストーリー、主に児童文学を原作にしたものが多いと思うのですが、たまたま私が不定期に連載している「リゼロッテと村の四季」シリーズが、その頃の話ですので、この世界の話でお返しを書くことにしました。

ところがですね。これがまたかなり苦戦しました。その経緯は、長くなりますので別記事にしますが、時代背景ならびにいくつかのモチーフを重ならせて書いています。GTさんの作品と合わせてお読みになると、同じ時代背景、同じモチーフを使って書いても、私の作品が全く「かわいく」なくて、さらにいうと児童文学には全く不向きだということがよくわかります。でも、私らしい作品を全力で書くことがGTさんに対して敬意を表する一番の方法だと信じてアップさせていただきます。


「リゼロッテと村の四季」
「リゼロッテと村の四季」・外伝

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赤スグリの実るころ
——Special thanks to GT-san


 つるつるの赤い果実を房から外す作業に、アナリースはかなりの時間をかけた。赤スグリのルビーのような赤がとても好きだ。両親の家の垣根のそばにある数本の木は、夏になるとこの艶やかな実がたわわに実り、優しい緑の葉と相まって目を楽しませてくれる。

 そして、ヨーゼフ・チャルナーが、アナリースと新生活を始めるために買ったこの家にも、三本の赤スグリの木があって、彼女はやっと自由に出入りすることが出来るようになったので、熟れた実を集めていた。

 たくさん摘んで大きめのボールにたっぷり入れた果実は、まるで無人島の洞窟に隠された海賊の財宝箱の中身のごとく秘密めいた輝きを放った。ひとつ二つと口に含むことはあるが、酸っぱくてもっと食べたくなることはない。赤スグリはジェリーにすることでその価値をはるかに増す。

 日曜日の三つ編みパンに添えて、バターと一緒につけるのも美味しいが、ちょっとしたデザートに添えるのも色味ともにアクセントになっていい。それに、秋の狩猟シーズンには、洋梨のコンポートに赤スグリのジェリーを載せたものを付け合せに加える。

 だから、彼女は庭の赤スグリを一粒も無駄にしたくなかった。彼もきっと喜んでくれるはずだわ。

「ちょっと。アナリース! あなた、何をやっているのよ」
入ってきたのは幼なじみで今は兄嫁であるマリアだ。

「何って、赤スグリのジェリーを作っているのよ」
「それは見たらわかるけれど、私が聞きたいのは、どうしてよりにもよって今そんなことをするのってこと。ヨーゼフは今日帰ってくるんでしょう? おめかししなくちゃいけないんじゃないの?」

 アナリースは笑った。掛けてある黒いスタンドカラーの飾りの少ないブラウスに、縦縞のくるぶしまである広がりの少ないスカートを目で示すと、マリアはその質素で面白みのない服装にため息をもらした。

「なによこれ。ほとんど普段着と変わらないじゃない。ヨーゼフに会うのは何年ぶりだと思っているの? もっと美しく装わないと」
「どうして?」

「バーゼルは都会だからきれいな服を着た女性が多いに違いないわよ。そういう女性を見慣れているんだから、田舎娘は野暮ったいなって思われちゃうわ。流行っている膨らんだ袖のドレスは一枚もないの?」

 アナリースは首を振った。
「きれいなドレスに興味がないと言ったら嘘になるけれど、ああいう服装をするためには布地が二倍も必要になるもの。私はそれだったら図書館の入場料にして、一冊でもたくさん本を読みたいの。先週ついにコンラート・フェルディナント・マイヤーの『女裁判官』が入ったのよ」

「なんですって。あなた、そんな本を読むの? あれって、確かスキャンダルになったんじゃない」
「そうよ。いけない? あれはカール大帝時代を題材にした歴史小説じゃない」
「でも、ほら、兄と妹の恋の話と、実のお母さんへの愛憎がモデルになっているって……」

「だから?」
「ヨーゼフは牧師になるひとだし、あなたは……」
「代理教師だから、牧師の婚約者だから、女だから、コンラート・フェルディナント・マイヤーを読んじゃいけないなんてナンセンスだわ」
アナリースはわずかに強い語調で言った。

 マリアは、友の苛立ちを感じた。話題を変えた方がいいかもしれないと素早く考えた。
「それで、どうしてあなたは着替えもせずになぜジェリーなんて作っているのよ」

 アナリースは、マリアの戸惑いを感じたので、少し恥じて俯いた。彼女は薪オーブンの上に置いてあったやかんをどかすと、赤スグリと砂糖を入れた鍋を置いて焦げないようにかき混ぜた。スグリからは紅いジュースがしみ出してきてやがてそれは固形物から液体に変わる。

「彼と約束したんだもの」
「これを?」
返事をする代わりに、アナリースは微笑んだ。

* * *


 ヨーゼフと同じ教室で学んでいた頃、アナリースの成績はクラスで一番だった。彼女は知識欲と向学心に燃えて、大学に進み立派な教師になることを夢見ていた。彼女の成績がずば抜けてよかったにもかかわらず、彼女は大学に進むことも出来なかったし、中学校教師の資格をとるのがやっとだった。

 海外にでる覚悟があればもっと高等教育を受けることも可能だったかもしれない。そうであっても女性が大学に通うことは、まだ眉をひそめられることだった。ましてやこの国のこの州では、大学進学は不可能だった。女性は代理教員としてしか雇ってもらえないし、そういう将来しか望めない人間の学費を負担するのを村は拒否した。「学費の補助は、女性の趣味のためではなく、家計を支え国の将来を担う男性のために使われるべきだ」と。

 彼女が女に生まれた理不尽さに涙していても、村の少女たちは「アナリースったら、本氣でそんな事を言っているの? 困った人ね」と頭を振るだけで氣持ちをくんではくれなかった。彼女たちにしてみれば、学校は出来れば行きたくないおぞましいところだったし、そもそも教育が人生の役に立つのかピンと来ないぐらいで、アナリースのことも校長先生になりたがっている権威欲の強い娘だと感じていたからだ。

 唯一、彼女の悔しさを理解してくれたのが、ヨーゼフ・チャルナーだった。彼はもう幼いクラスメートではなく青年になりかけていたが、正直で真面目なところは子供の頃から変わらなかった。それに、彼は温かい心の持ち主で、アナリースも相応の敬意を持っていた。

「アナリース。君は、僕のことを怒っているんだろう?」

 それは、日が高くて、青々とした牧草地からたくさんの色とりどりの野の花が風に揺れる初夏の夕方だった。丘を越えて自宅へと戻ろうとせっせと歩く彼女を後から追いかけてきたヨーゼフは、しばらく口をきかずにいたが、丘のてっぺんまで来ると話しだした。彼は秋からラテン語学校への進学が決まっていた。

「私が? あなたに怒ってどうなるっていうのよ」
そういいつつも、自分の声音に刺々しいものがあると彼女は感じた。ヨーゼフのせいで彼女が進学できないわけではない。でも、自分が通いたかった大学への道を歩みだした彼が、これまで一度だって試験で自分を負かしたことがないのを思わずにはいられなかった。

 彼は、ラテン語とギリシャ語を習う。そして、ヘブライ語も。バーゼルヘ行き、神学科に籍を置くことになる。そして、やがて立派な牧師として尊敬を集めるようになるだろう。それにひきかえ、自分は、高等学校からチューリヒの教師養成セミナーに進むだろう。そして、病欠をしたり、兵役に行く教師の代わりに一日または数週間だけあちこちの教室に派遣されて、「女なら大人しく家で料理でもしていればいいものを」と陰口を叩かれる存在になるのだ。

「じゃあ、ちゃんと僕の目を見てくれよ」
ヨーゼフは真剣に言った。アナリースはため息をついた。
「ごめんなさい。あなたにむかっ腹を立てることじゃないのに。ねえ、イヴがアダムの脇腹の骨から作られた取るに足らない存在だってことは、どうやっても変えられないのかしら?」

 ヨーゼフは首を振った。
「聖書を振りかざしてそういう事を言う人がいるのはわかっているよ。僕はそんなことは思わない。アダムとイヴはしらないけれど、少なくともアナリースがヨーゼフより優秀なのくらいはちゃんとわかっている」

「私は、そんな事を言いたいわけじゃ……」
「でも、それが事実だよ。だけど、アナリース。女性がとるに足りないなんて僕は思わないけれど、男性と女性が全く同じだとも言えないとも思っているんだ」

「つまり?」
「子供を産むのは女性にしか出来ない。女が子供を産んで育てている間に、男が森や野原で獲物を捕まえてくると役割分担ができて、それが今の社会につながったんじゃないかと思うんだ。もちろん、獲物を捕まえるのが得意な女性や、むしろ家で料理を作る方が得意な男性の存在は無視されてしまっているけれど。僕たちは世界を一日で変える事はできない。無視されるわずかな例外はつらいけれど、どうにかして世界と折り合って行くしかないんじゃないか」

 彼女は瞳を閉じて、丘の上を渡る風を感じた。後にシニヨンにまとめた髪からこぼれた後れ毛が風にそよいだ。彼は、そんな彼女を黙って見つめていた。

「大丈夫よ。どんな形でも、理想的な教師になるように努力するもの。それに、学問や読書は、ずっと続けるつもりよ。大学に行って、校長先生の資格を取るだけが、教育に関わる唯一の道じゃないはずよね」
アナリースがそういうと、ヨーゼフは一歩前にでて大きく頷いた。

「僕もずっとそう思っていたんだ。ねえ、アナリース。君のその志、僕と一緒に完成させないかい?」
「あなたと? どうやって?」

 彼は、真剣なまなざしで彼女を見つめた。
「僕は、いつかこの村に戻ってくる。この村の牧師として、村人たち、次の世代を担う子供たちの精神的な支えになる、とても重い責任を背負うことになる。一度だって君よりもいい成績を取れなかった、この頼りない僕が。だから、僕には支えが必要なんだ。思慮ぶかくて、氣高い精神にあふれた君みたいな女性が。そして、君も、牧師の妻としてならただの代理教師としてよりもずっと尊敬を集めて、さらに幅広く子供たちの教育に中心的な役割を果たすことが出来る。違うかい?」

 彼女は、ぽかんとヨーゼフの顔を眺めていたが、氣を取り直すと言った。
「で、でも、牧師の妻って……その……結婚は好きな人とするものじゃないの?」

 彼は肩をすくめた。
「僕は、君のことをかなり好きだけれど、ダメかな?」

 アナリースは、真っ赤になって「そんなのはダメ」と言おうとしたけれど、どういうわけだか全くその言葉が出てこなかった。それで、ヨーゼフは勝手に納得して「そのつもりで大学に行くけれど、待っていてくれるね」と言った。

「そんなに待った後で、あなたに他に好きな人がいるから、結婚できないって言われたら、私もう結婚できなくなってしまうわ」
「わかっているよ。でも、僕は約束はちゃんと守る」

 ヨーゼフは彼女の手をとった。
「僕は必死で勉強する。そして、学問だけでなく、村の牧師として必要になりそうなあらゆることを身につける。だから、君も僕を待っている間に、村の大人たちや女性たちに受け入れてもらえる牧師夫人目指して苦手なことにも挑戦してほしい。そうしたら、後は、ずっと一緒に理想を目指して歩いていこう」

 彼の示唆していることは、なんとなくわかった。アナリースは、勉強は得意でも裁縫や料理はあまり得意ではなかったし、おしゃべりをする時間がもったいなくて村の娘たちとの付き合いに顔を出さないので浮いた存在になっていた。

「そうね。……何から始めようかしら」
彼は、優しく笑った。
「そうだな。たとえば、ほら、あそこにある赤スグリ。僕、あのジェリーがとても好きなんだ。子供の頃、三つ編みパンとあのジェリーを毎日食べられるように毎日日曜日にしてくださいってお祈りして父さんにこっぴどく怒られたことがあるんだよ」
「……。作り方、お母さんに習っておくわ」

* * *


 あれから何度も夏と冬が過ぎた。赤スグリも何度も実った。アナリースは、もうジェリーを何も見なくても作れるようになっていた。

 パン焼き日には、村のパン焼き釜にでかけ、娘たちと話をしながらパンの焼けるまでの時間を過ごした。村の泉で洗濯をする時も、年末に豚の腸詰めや燻製を作るときも村人たちと一緒に作業するようになった。

 くだらない噂話だと思っていた会話が、時に人生の悲哀がこもり、時に哲学的な示唆に満ちた時間だということも知った。本や大学の教授からだけではなく、けたたましく笑ったり泣き言を言う村人からも学ぶことがたくさんあるのだと知った。

 そして、アナリースは、家事が上手で人付き合いの上手い立派な娘だとの評判を勝ち得た。牧師となるチャルナーと婚約していることも、村人たちからの敬意を得る大きな要素になった。

 それは静かな宵に、誰にも邪魔されずに本を読むことを許され、教師としての勉強を続けても誰にも非難されることのない心地よい立場だった。

 赤スグリと砂糖を溶かした真っ赤な液体を、消毒したガラス瓶に詰めながら、首を傾げるマリアを前に、アナリースは微笑んだ。
「いいの。私がどんな装いをするよりも、あの人はこの瓶が並んでいるのを喜ぶのよ」

(初出:2017年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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このストーリーに登場するヨーゼフとアナリースは、「リゼロッテと村の四季」でカンポ・ルドゥンツの村人が通う教会の牧師夫妻です。

カンポ・ルドゥンツ村は、私の住む村をモデルとした、スイス・グラウビュンデン州にあるということになっている架空の村で、「リゼロッテと村の四季」は、19世紀末から20世紀初頭のこの地域の歴史と生き証人からの話の聞き取りを基にした小説です。
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Posted by 八少女 夕

【小説】翼があれば

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第八弾です。limeさんは、今年も素敵なイラストで参加してくださいました。

limeさんの描いてくださった『またもや天使』
『またもや天使』 by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。

limeさんは、登場人物たちの心の機微を繊細かつ鮮やかに描くミステリーで人氣のブロガーさんです。各種公募企画で大賞をはじめとする受賞常連のすごい方です。穏やかで優しいお人柄に加えて、さらにこんなに絵も上手い。羨ましすぎる!

今回、scriviamo!参加用に出してくださったのは、ちょっとだけ脱いでいる(?)天使と蝶のイラストです。去年も私一人で七転八倒していたわりにみなさんはスラスラと素敵な作品を書かれていましたが、今年もすでに何名の方々がインスピレーションを受けて素晴らしい作品を発表なさっています。

で、他の方は自由参加ですが、私は何かを書かなくてはならないので「う〜ん」と悩みました。

もちろんあちらのコメント欄で盛り上がっていたナース服天使、という路線では書けません。(書いてもいいけれど、limeさんに絶交されるかもしれないし・笑)去年はふざけたストーリーでなんとかなりました(なっていないともいう)が、今年の天使はどちらかというと清楚でシリアス系なのでふざけておかえしするのはなし。しかも清楚なのに脱いでいるし。ここにかなり長くつまづいていましたね。「天使でなければ」「脱いでいなければ」って。

かといって、単に真面目に取り組んでもピンと来るストーリーにならなかったんですよ。私の作品って、あまり目立った色がないので、ごく正面からこの正統派で美しい絵に取り組むと、そのよさが台無しになるぼやぼやした感じの作品になってしまうんです。

じゃ、どうしようか、と思ってこうなりました。天使であること、脱いでいること、蝶がいること、そして、背景がああなっていること、全てを使ってみました。limeさん、みなさんが呆れる顔が今から目に浮かびます。すみません。今から謝っておきます。(毎年、毎年……orz)


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翼があれば
——Special thanks to lime-san


 若草がゆっくりと大地を埋め尽くし、柔らかな風が心地よく渡りはじめると、フラクシヌスは大きく広げた枝を微かに揺らした。停まっていた鳥たちは、わずかな間だけさえずりを止めたが、すぐにおしゃべりを再開した。

「ねえねえ。あなた初めてアフリカに行って戻ってきたんでしょう? 旅はどうだった?」
「どうってことはない、って言いたいところだけれど、大変だったなあ。去年の秋、ここを発ったところまではよかったけれど、ミラノのあたりでもうカスミ網に捕まりそうになったんだ」
「ああ、噂に聞くヤツね。南イタリアじゃないんだ、へえ」

「それから後も、ハプニングだらけ。でも、初めて見るものばかりで心躍ったなあ。フランスから来たコウノトリと仲良くなったんだぜ。それに、赤い湖でフラミンゴにもあったなあ。ところで、お前さんは?」
「私は、いつも通りこっちで越冬したわよ。雪が少なかったから、けっこう過ごしやすい冬だったなあ。あの山を越えたところに、美味しい餌を用意してくれるニンゲンがいてね。少し太っちゃった」

 フラクシヌスは、小鳥たちのさえずりに耳を傾けて、コウノトリやフラミンゴとはどんな鳥なのだろうかと想像した。赤い湖や山の向こうのニンゲンがどれほどここと違っているのだろうかと考えた。

 街はずれの小高い丘の上にたどり着き、大地の上に伸びをして小さな芽を出したあの日から、フラクシヌスはいつもここにいた。柔らかな緑色の芽はまっすぐに伸びて、やがて滑らかで青みかがった灰色の幹に変わった。それが分厚いたくさんヒビの入ったどっしりした幹に変わった頃には、大きく伸ばしたたくさんの枝には、たくさんの小鳥たちや虫たち、リスやヤマネなどが動き回るようになった。

 フラクシヌスは、そうやっていつも誰かの訪問を受けていたので、決して寂しくはなかったが、彼らがする噂話から、ここではない世界への憧れを募らせていた。

 夏が来ると、梢の葉はしっかりとしたものに変わり、暑い日差しを避けて立ち寄る動物や散歩の途中の人間などが、彼の根元で休みつつ新しい話を聞かせてくれるようになった。

 近頃の一番の楽しみは、黄金の髪の毛を持った優しい少女で、まどろむ小動物たちをアルトの優しい響きで歌いながら眠らせるのだった。

「ああ、私、本当にここが好きだわ。なんて美しい木陰なんでしょう。仕事も何もかも忘れて安らげるのはここだけよ」

 彼女は、誰に話しかけるでもなくよく呟いた。彼女のひとり言を耳にするのもフラクシヌスには楽しいひとときだった。

「本当に、私もあの鳥たちのように空を飛べたらねぇ。わずかな賃金と引き換えに、朝から晩まで工場で糸を紡いだりしないで、どこまでも自由に旅して行くのにねぇ」

 ああ、この娘も、私の同じ憧れを持っているんだ。翼を羽ばたかせて、世界の果てまで自由に飛んで行きたい。氷に閉ざされた光のカーテンのある国や、火を吹く怒りの山や、七色の湖のある谷間を探して飛んで行くことを夢見ている。そして、その願いをずっとここで、この私と共有してくれるのだ。

「お嬢さん、あなたは何を呟いているの?」
そこに来ていたのは、この間まで緑色の芋虫だった紫色の蝶だ。フラクシヌスの葉をたくさん食べて大きくなり、しばらく繭にこもったかと思うと、秋までには羽を持つ美しい姿に生まれ変わる。そして、仲間と一緒に隊列を組んで遠くの暖かい国まで飛んで行く。

「あら、きれいな蝶さん。まだ旅立たないの? 昨日、あなたのお仲間が隊列を組んでいたわよ」
「私は今朝、ようやく蝶になれたのよ。もう少し仲間が集まったら、私も旅立つわ。ところで、あなたは、何をおかしなことを言っているの?」

 紫の蝶は、ひらひらと娘の周りを飛んで、くすくすと笑った。

「笑うなんてひどいわ。私だって翼があったら、あなたのように飛んで行きたいのよ。でも、それが出来ないから、ため息が出ちゃうんじゃないの」

 すると蝶は娘の正面に戻ってきて、その瞳を覗き込んで言った。
「だから、おかしいのよ。あなただって飛んで行くことが出来るのに、何も試さないで文句ばかり言っているんですもの」

「飛んで行くことができる? どうやって? 私は貧乏な労働者で飛行機のチケットすら買えないのよ」
「チケットなんて必要ないわ。あなたにも翼があるのよ。知らないの?」

「翼が?」
「そうよ、服を脱いで、背中を湖に映してご覧なさい。翼が生えているのが見えるはずよ」

 娘が薄紅色の薄いワンピースを少し脱いで湖を覗き込むと、本当に白い一対の翼が現れた。彼女はひどく驚いて、触ったりくるくると回って確認したりした後に、本当に翼が動いて自分も空を飛べるのだということを納得した。

「なんて素敵なんでしょう。ねえ、蝶さん。あなたが南へ旅立つときまで、私に空を飛ぶ特訓をしてちょうだい。そうしたら、私もあなたと一緒に旅立つから」
「いいわ。じゃあ、すぐに始めましょう」

 嬉しそうに笑いながら、娘が紫の蝶と一緒に去ってしまうと、フラクシヌスは大きいため息をついた。

 娘は、彼の仲間ではなかった。鳥や蝶たちと同じように、翼を持って自由に飛んで行くことができる天使だった。彼はまた丘の上に取り残されて、小鳥たちのさえずりに耳を傾けた。

 夏が終わると、彼の枝にはたくさんの楕円形の種が用意された。新しい命を宿した、大地の実り。やがて何百年も生きる可能性を秘めた小さな、小さな、ユグドラシルの子孫。彼は旅立つ子供たちに、彼の憧れの全てを託した。空を飛び、遠くへと飛んで行けと。

 フラクシヌスの子供たち、セイヨウトネリコの種は、小さなヘリコプターのようにくるくると回りながら、風に運ばれて丘から森へ、森から平地へと飛んで行った。ある者は馬車の後に落ちて、隣町へと旅立った。また、別の種は、木こりたちの束ねた薪の間に着地して、都会への長い旅をはじめた。

 そして、フラクシヌスは、また長い生命のうちにめぐり来る厳しく白い冬を迎えるために、丘の上で眠りの準備に入った。

(初出:2017年1月 書き下ろし)


註・Fraxinus excelsiorは和名セイヨウトネリコ、英語ではアッシュ、ドイツ語ではエッシェンと呼ばれる大木になる広葉樹。成長が早い上、曲げやすくて衝撃にも強いので加工用木材としてよく使われる。燃料としても古くから使われていた有用な植物で、北欧神話の世界樹ユグドラシルはセイヨウトネリコである。秋になると楕円形の種がタケコプターのように飛来して行くのがよく見られる。

Fraxinus excelsior 4560
Fraxinus_excelsior, seeds
From Wikimedia Commons, the free media repository
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Posted by 八少女 夕

【小説】穫りたてイワシと塩の華

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第七弾です。夢月亭清修さんは、めちゃくちゃ美味しそうなお魚小説(?)で参加してくださいました。ありがとうございます!

夢月亭清修さんの掌編小説『フィッシュ&ソルト』

清修さんは、小説とバス釣りのことを綴られているブロガーさんです。サラリーマン家業の傍ら小説家としてブログの他に幻創文庫と幻創文芸文庫でも作品を発表なさっていて、とても広いジャンルを書いていらっしゃいます。そして、文筆に劣らぬ情熱を傾けているのがバス釣りで、ブログにはお魚の話題もたくさん載っています。

今回書いてくださった小説も釣り人としての知識と想いが詰め込まれた、短いながらも心と胃袋の両方をつかむ作品でした。

お返しは、悩んだ末、「お魚&塩」を踏襲しました。でも、日本の釣りや魚のことをよく知らない私が書いてもあまりにも見劣りがするので、舞台を去年行った場所に持ってきました。そして、一応、清修さんの作品のもう一つのモチーフにもかすってあります。でも、同じ登場人物なのかどうかは決めていません。たまたま似た状況の他人である可能性も含めて「この人かなあ」と読んでいただければありがたいです。


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穫りたてイワシと塩の華
——Special thanks to Mugetutei Seishu-san


 カモメか、それともウミネコか。飛んで行く白く大きい鳥を眺めて尚子は海の街から来た人を想った。

 もう何年経つんだろう。なぜ、あの時違う選択をしなかったんだろう。全ては遅すぎる意味のない問いかけだと知りつつ、彼女は波の音に耳を傾けた。

 ここは日本から遠く離れたポルトガル、海の街アヴェイロ。時間だけでなく距離もまた、彼からははるかに離れている。そして人生の道も。

 大企業をやめて、ポルトガル製品を扱う小さな店を開いた友人に協力すると決めた時、家族も含めて多くの人が反対した。必要だったのは「応援するよ」のひと言だけだったけれど、それはほとんど聞こえなかった。

 彼のプロポーズを断ったのは、会社を辞める前だったけれど、彼の妻になったら一生の夢が叶うチャンスを失うと思っていたことも理由のひとつだった。

 でも、今ならわかる。きっと彼は私の夢を応援してくれただろう。暖かい、人の心のわかる人だった。

 夢いっぱいではじめた店は、案の定、簡単には軌道に載らなかった。いや、思った以上に上手くいっていたのに、肝心の共同経営者である友人に裏切られてしまった。裏切ったというのは、よくないいい方なのかもしれない。彼女には、金銭的に他の選択肢がなかったのだろうから。

 開店から一年もしないうちに、尚子に何も言わずに、友人は夜逃げに近い形で姿を消した。連帯保証人となっていたが故の借金と商品の支払いが全て尚子にのしかかった。それでも必死で歯を食いしばって働き、ようやく返済を済ませ、よく儲かっているとは言えないまでもそこそこの利益を出せるようになってきた。

 もちろん完全な休暇の旅行をするような金銭的余裕はないが、買い付けと言う名目で、大好きなポルトガルに来れるようになったことはありがたい。

 このバタバタの間は、恋愛どころではなくて、彼のプロポーズを断って以来、異性とは何の縁もない。

 だから、想いはいつも簡単に、あの頃に帰って行く。元氣かな。あれから十年近く経ってしまったから、今でも一人でいるはずはないよね。あんなにいい人だったもの、もう結婚して子供もいるんだろうなあ。

「海がお氣に召しましたか?」
尚子は、その声にはっとして振り向いた。隣町にある陶器の工場の持ち主であるノゲイラ氏に案内してもらってここにいたのをすっかり忘れていた。

「すみません。海岸に来たの、久しぶりなんです。島国に住んでいるのにおかしいですね」
「いいえ。僕もこんなに近いのに、ここまで来たのは久しぶりですよ。せっかくですから、工場に行く前に、ここでご飯にしましょう。その前に、よかったら運河のモリセイロに乗りませんか?」

 モリセイロは、ポルトガルのヴェニスと呼ばれるこの街アヴェイロを縦横に走る運河に浮かぶ伝統的な小舟だ。このカラフルでフォトジェニックなボートは、かつては運搬用に使われていたが、現在は観光客用のアトラクションになっている。運河からアールヌーボー様式の美しいファサードを持つ街並を見て回るのだ。

 尚子は喜んでこの申し出を受けた。街並は確かに美しかったけれど、目をみはるほどではないなと思った。もちろんノゲイラ氏にはそんなことは言わなかったけれど。それにあっという間に折り返してきてしまい、もう終わりなのかとすこしあっけなく思った。

 だが小舟は船着き場を通り過ぎて、海の方へと進んで行った。船頭がポルトガル語に続き、英語で説明する。

「あの先を見てご覧なさい。あの白い小山は、塩です。この地域で伝統的に作られている天日の塩田です。引き込んだ海水を天日で蒸発させて塩をつくるんです。かつては250ほども塩田があったのですが、現在は少なくなってしまいました。量は少ないですが、かつてと同様にここで作られる上質な塩は、有名です。英国王室にも納品されたんですよ」

 へえ。天日の塩。アヴェイロの塩って、はじめて聞いたけれど、日本にお土産に買って行こうかしら尚子は塩の小山の写真を撮った。

 ノゲイラ氏はモリセイロを降りて、運河沿いのレストランに彼女を案内して説明した。

「天日の塩には、二種類あるんです。ごく普通のもの、そして、塩の華フィオール・ドゥ・サル という大粒のものです。これは海水を蒸発させる時にその表面に出来る結晶だけを集めたもので、とても美味しいのですが、たくさんのミネラルが含まれているので真っ白ではないんです。かつては、輸出用には普通の白い塩がたくさん取引されていて、塩の華はむしろ国内の上流家庭で消費していました。色はともかく格段に美味しいので。でも、フランス製の塩の華がグルメの間でブームになってから、ここの塩の華のよさも見なおされたんですよ。食べてみましょうか」

 出てきたのは、イワシのグリル。山のようなご飯、大雑把にカットされたレタスとトマトと玉ねぎだけの飾りっけのないサラダ。ポルトガルでよく見る実に素朴な料理だ。穫りたての焼いたイワシの香りが胃袋を直撃した。

 肉を焼く香りも美味しそうだと思うけれど、魚の脂が焦げる香りは、もしかしたら日本人のDNAのどこかを刺激するのではないかと思う。わずかな焦げも、パリパリになって波打っている皮と破れから覗く身の放つ湯氣も、「早く食べて!」と尚子を誘っていた。

 ポルトガルは、ヨーロッパの中でも特にたくさん魚料理を食べる国だ。さらにお米をたくさん食べるところも日本人には馴染みやすい。ヨーロッパの他の国を旅行しているとたまに和食とまではいかなくても中華料理でも食べようかなと思うことがあるのだが、ポルトガルでは一度もそう感じたことがない。どこかに懐かしさを感じる馴染みのある味によく出会う。

「さあ。食べてご覧なさい。これが塩の華。この良さを生かすために、他にはなにも味を付けないんです」

 大粒の塩の塊は、真っ白ではないと言われていて想像していたものとは違って、十分に白い。パラパラとかけてそっとナイフを入れてフォークで掬った。イワシの香りがさらにふわっと広がる。遅れて運ばれたフォークから熱々のイワシの身が舌の上に載った。

 尚子は思わず瞼を閉じた。魚の味、香り、そして塩の何とも言えぬ複雑な旨味が、口の中で極彩色になって飛び回りダンスを踊っているよう。ああ。なんて美味しいんだろう。

 こんなに美味しい魚を食べたのは、いつ以来なんだろう。東京でも魚は食べていたけれど、スーパーのパックの切り身や、定食屋のそこそこの焼き魚ばかりを食べていたように思う。

 不意に彼のことを思い出した。彼は、海辺の街の出身で、自身も熱心な釣り人だった。魚については強いこだわりがあって、デートの時にも店は汚くても格別美味しい魚を食べさせるところに連れて行ってくれた。

 そうか、彼のプロポーズを断って以来なのね。

 ノゲイラ氏に見せてもらったアヴェイロの街。街を彩るアズレージョにも通じるポルトガルの素朴な陶器づくり。好きだったポルトガル雑貨の販売で生計を立てられるようになったこと。今の穏やかで幸せと言えるようになった生活を得るために、失ってしまった時間と暖かくて穏やかな人のことを考えた。

 彼が、この十年近い時間を幸せに生きているといいと思った。そして、どこかで、ここで食べているような五臓六腑に染み渡るように美味しい魚を、誰かと笑い合いながら食べていてほしいと願った。

「ナオコ、どうしました? イワシ、熱すぎましたか?」
涙ぐんでいる彼女のことをノゲイラ氏は不思議そうに見た。

 尚子は笑って首を振り、極上のイワシの塩焼きを残さず味わうためにフォークとナイフを持ち直した。

(初出:2017年1月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】アプリコット色の猫

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第六弾です。たらこさんも、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

たらこさんは、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんです。「ひまわりシティーへようこそ!」の最終章を絶賛連載中です。

初参加の今回、いきなりのBプラン、なおかつご自分が描きやすくなるようなリクエストもなしという、前代未聞のチャレンジをなさっているので、全くフリーで書かせていただきました。しかも、普段ほとんど書かないファンタジー系。私が書きやすいファンタジーって、こういうのだなって改めて思いました。

せっかくたらこさんへのBプランなので、なんとなくキャバ嬢を絡めたくなってしまいました。いや、その、別にたらこさんがキャバクラ好きだと言いたいわけじゃありませんよ。ええ、そんなことは思っていませんとも。

で、書いていたらなぜか大幅に予定を越えて7000文字以上になってしまいました。これではいかんとどこかを削らねばと悩んだんですが、キャバクラ関連以外削るところがなかったので、削らずに長いままでいくことにしました。すみません。


【追記】
たらこさんが、素敵かつ笑える四コママンガでお返しを描いてくださいました!
たらこさんの描いてくださった 「アプリコット色の猫」



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アプリコット色の猫
——Special thanks to Tarako-san


 どこでおかしくなっちゃったのかなあ。姫子はバッグの奥をかき回しながら、考えた。

 今朝、ホテルでちゃんと持ちもの確認をしなかったから? あのホテルにエアコンがなくて、暑くて考えられなかったから? 安いホテルにしたのが悪かったの? そもそも夏のウィーンに来たのが悪いの? 

 いや、婚約破棄になって何もかも嫌になったせい? そもそも、キャバ嬢のバイトをしていたのが間違い? ううん、あの奨学金を返せるあてもないのに申し込んだのが悪かったの? っていうか、金持ちの娘に生まれてこなかったから?

 いや、落ち着こう。お財布は、どこかにあるはず。すられるほど人混みのところは歩いていないし、第一、こんなごちゃごちゃの鞄からお財布をするのはプロにも難しいはず。

「あ。あった」
キルティングのオレンジ色の財布は、お客さんにプレゼントしてもらったものの中で一番のお氣に入りで、これだけは転売しなかった。転売するような値段のものではなかったこともあるけれど、そういう問題ではない。大切な思い出が詰まっているのだ。

 姫子は、コーヒーの代金をつっけんどんな様子で待つ店員に払った。あ、これ最後の50ユーロ札だ。これからどうしようかなあ。

 姫子は勤めていた役所をクビになり、アパートも追い出されたので、荷物を処分して日本から逃げだしてきた。新婚旅行で行くはずだったウィーン。自暴自棄になって人生を諦める前に、ここだけは来てみたかった。でも、軍資金は底をついた。

 結婚したら、これまでの上手くいかない生活が全てリセットされて、白金や広尾で優雅にお茶の出来る日々が待っているんだと思っていた。ああいうちゃんとした人と結婚するなら、借金返済のためにキャバ嬢のバイトをしていたなんて言わない方がいいと思っていた。

「匿名で教えてくれた方がいましてね。興信所で調べてもらったんですよ」
あの人のお母さんが、とても冷たい目をして言った時、それでも一度でも結婚しようと思ったなら、少しはかばってくれるかと思ったんだけれど、避けるようにして帰っていったよね。

 公務員がバイトを、ましてや水商売の副業をしちゃダメなのはわかっていた。でも、あの給料で奨学金を返すのはどう考えても無理だった。

「ねえ、ちょっと」
日本語の声がしたので辺りを見回すと、誰もいない。つっけんどんな店員はもう別のテーブルに行っているし、隣のテーブルの熟年カップルは、熱々で二人の世界にどっぷり。こちらは存在していないかのような態度。ってことは、空耳かしら。

「ここだよ、ここ、ここ。下を見て」
また日本語なので、変だなと思って、足元を見た。

 猫がいた。つぶらな瞳をしたオレンジっぽい毛色の猫だ。何だっけなあ、この色。どっかで見た。ああ、今朝食べたアプリコットジャムの色だ。雑種かな。どこにでもいそうな普通の猫で、赤いコートを着ているわけでもないし、長靴も履いていない。それに見た感じでは人間の言葉は話してはいない。

「呼んだの、あなた?」
訊くと「みゃー」と短く鳴いた。

 馬鹿じゃないの、私。猫が日本語を話すわけないじゃない。空耳、空耳。姫子は、おつりを財布にしまうと、バッグにしまって出て行こうとした。するとまた声が聞こえた。
「ちょっと待ってよ。話は終わっていないんだから」

 姫子は、まじまじと猫を見た。
「今、呼んだの、本当にあなた? 本当なら、尻尾を三回振って」

 ゆらゆらゆら。尻尾が揺れた。へたりと椅子に座り直した姫子の膝に、その猫はストンと載って、ゆっくりと三回瞬きをした。それから頭の中にまた日本語が聞こえてきた。
「電車に乗ってフシュル湖へ行かないといけないんだ。協力してよ。お礼はちゃんとするからさ」

「フシュル湖? どこそれ? どうやって?」
幸い周りに日本語を解せる人がいないおかげで、変な目で見る人はいない。猫を可愛がっている無害な日本人観光客に見えるだろう。

「ザルツカンマーグートだよ。僕をペット用バスケットに入れてさ。バスケットはちゃんとあるんだ。上手くザルツブルグ行きの電車に乗せてくれたら、そこまででいい。お礼は最高のザルツブルグ観光を一日。どう?」
ザルツカンマーグートがどこにあるのかも知らない。でも、ザルツブルグは知っている。でも、今、観光させてもらって喜ぶような心境じゃないんだけれど。姫子は猫をじっと見つめた。

「一日観光はいいから、代わりに私の状況、少し変えてくれない? 私の人生詰んじゃっていて、いよいよ終わりにするかどうかってとこなのよ」

 猫は、一瞬だけ黙ってから、ヒゲを前足で弄びながら答えた。
「そんなの一介の猫には無理だよ」

 日本語テレパシーで喋っているくせに、都合が悪くなると「一介の猫」ですか。姫子はムッとした。そのまま彼女が立ち上がって払い落とされた猫は、慌てて言った。
「わかったよ。じゃあさ。あっちで僕としばらく一緒に暮らすといい。少なくとも人間の生活よりも面白おかしいぜ。会社に行ったりとか、税金の支払いとか、犬の散歩とか、そういう面倒なことは何もしなくていいんだ」

 姫子は、ちらっと考えた。心もとないけれど、どうせ路頭に迷うなら猫の世話になる方がいいかも。テレパシーが使えるなら魔法が使えるかもしれないし。

「そのザルツカンマーグートで、あなた、どんな所に住んでいるの?」
「小さめの城ってところかな。いくらでもいるヤマネを追いかけたり、鳥の羽根をむしったり、けっこういい暮らしをしていたんだぜ。でも、ここに連れてこられちゃってさ。早く帰りたいんだ」

 そのいい暮らしというのが、どうもネコ目線の意見で若干の不安はあるが、このままでは浮浪者となるのがほぼ確実なので、論議はしないことにした。

「でも、猫って、遠くに連れてこられても自力で歩いて帰るんじゃないの? 人間に頼んで連れて帰ってもらうなんてはじめて聞いたわ」
姫子は首を傾げた。猫は前足でヒゲをちょっと触ると上目遣いで言った。

「そりゃ時間がたっぷりあるならそうするさ。でも、僕は急いで帰らなくっちゃいけない事情があるんだ。協力するの、しないの? しないなら、他の人を……」

「え。するわよ。じゃ一緒に来て。荷物をホテルに取りに行くから。ところであなたのバスケットはどこにあるの?」
「そこの裏手さ、こっち」

 猫についていくと、カフェの裏手の暗い路地に、小さなプラスチックの猫移動用ケースが置いてあった。扉の部分が壊れている。
「これ、どうしたの」
「壊さないと出られなかったんだ。大丈夫だよ。電車の中ではペットらしくしているから」

 姫子はホテルに預けてあった全財産でもある小さな機内持ち込みサイズのスーツケースを受け取ると、猫についてウィーン中央駅に向かった。

「急いでよ。今日の電車がでちゃう」
電車の近くまで来ると、猫はちゃっかりとバスケットに収まって、飼い猫のフリをした。でも、姫子に指図する態度は一向に変わらない。

「あなた、なんで時刻表を知っているのよ」
「昨日と一昨日、上手く紛れ込めないかトライしたんだよ。でも、最近の電車は入口が電動で、高いところにあるボタンを押さなくちゃ開かないんだ」

 猫に案内されて、ザルツブルグに向かっている。細かいことは考えないに限る。ホテル暮らしをするお金はもうないんだし、猫でもなんでも頼らないと。

 電車が走り出すと、コンパートメントの扉を閉めてから、バスケットを椅子の上に置いた。猫は出てきて腰掛けると丁寧に顔を洗い始めた。

「ところで、ちゃんと説明してよ。なんでザルツカンマーグートからウィーンに来ることになったの? どうして急いで帰りたいの? どうして、私が助けてくれると思ったの?」
姫子は馬鹿馬鹿しいことを口にしているなあと思いながら立て続けに訊いた。

「僕は飼い主と賭けをしてね。彼の命が尽きるまでに僕が帰れることができれば僕はずっとあそこにいられる。それができなければウィーンの野良猫になるって。もうだめだと思ったけれど、君のアプリコット色のお財布を見て、ピンと来たんだ。この人が僕を連れ帰ってくれるってね。だから話しかけたんだよ」

 アプリコット色のお財布? ドキッとした。このお財布は、キャバクラであるお客さんが姫子にプレゼントしてくれたのだ。他の人がプレゼントしてくれたブランドものは、みなネットオークションで転売した。一円でも多く手にして返済に回したかったから。でも、そのお客さんは、姫子が奨学金の返済で困っているということを憶えていて、ブランド品の代わりにとても安いこのお財布の中にブランド品を買ってもおつりが来るだけのお金を入れてプレゼントしてくれたのだ。

「どうしてそんなによくしてくれるんですか?」
「全額返済してあげられるような甲斐性はないからね」

 そういって笑った彼は、キャバクラ通いをするお金が続かなかったらしく、やがて来なくなった。迷っていないでプライヴェートのメールを教えてあげればよかったなと思ったけれど、結局それっきりになってしまった。

 婚約した御曹司は、お金があって、私を救い上げてくれそうだった。でも、あのお客さんほどの真心も持っていなかったんだ。打算で結婚しようとした私もそれ以下の馬鹿だものね。姫子は考えた。

「でも、このお財布のことを知っているってことは、あなたのご主人は、あのお客さんなのかな?」
姫子がそう訊くと、猫は首を傾げた。
「なんのこと? 僕は仔猫の頃にその色をした古いお財布をオモチャにもらったんだ。僕と同じ色だからってね。それを思い出したんだよ」

 なんだ。そういうことか。

「飼い主は、年寄りで、病持ちで、もうそろそろアブナいんだって。だから、僕が死ぬまではつきあえないんだって。それで僕をウィーンに連れてきたんだ。帰りたいなら誰か信頼できる人に手伝ってもらえ、嫌ならウィーンの野良になれってね」

「猫のくせに、自由にしたくないの?」
「猫にだって、ホームが必要なんだよ。僕があそこに帰ったら、君だってあそこで自由にしていいんだ。時々、僕の世話はしなくちゃいけないけれど」

 それってねこまんまを作れってことかなあ。姫子は、窓の外の田園風景を眺めながら、それも悪くないかなと思った。

「ものすごくきれいなところなんだ。湖に光はキラキラしているし、大きな魚は撥ねているし、春にはレンゲや野菊やアプリコットの花が咲き乱れるんだ。ごちゃごちゃしたウィーンなんて目じゃないよ」

 へえ。ちょっとだけでもそういうところに暮らせたらいいなあ。姫子は思った。春までは無理としても、しばらく泊めてもらえないかな。飼い猫を届けるんだし。

 ザルツブルグでバスに乗り換えてフシュルまで行き、そこから歩いた。バスケットが邪魔なら捨てろと言われたけれど、ここまで持ってきたし、いつ必要になるかわからないし、軽いので持ち歩いた。

「急いでよ。早く!」
荷物がない身軽な猫にそう急かされて、姫子はふうふう言いながら上り坂を歩いた。途中から道は湖畔になり、輝く湖水が目を射た。

 ああ、本当だ。なんてきれいなところなんだろう。真っ青な湖、若緑の絨毯みたいな田園風景。揺れる木の葉に、落ち着いた緑の山並み。ウィーンも面白かったけれど、こんな静かで心洗われる風景ではなかった。それに蒸し暑かったウィーンと較べて、ずいぶんと爽やかだ。これならエアコンはいらないわよね。

 いつも東京の狭い六畳のワンルームアパートと、満員電車、灰色の役所、それにネオン街の往復しかしていなかったから、こんなに落ち着く光景に心うたれたのがいつ以来なのだかもう憶えていない。ここに来て、本当によかった。猫に急かされているとは言え。

 小走りで走っていた猫が、急にぴたっと止まった。それから、湖の方を眺めた。
「どうしたの?」
追いついた姫子が訊くと、項垂れて言った。
「もう急がなくていいよ。間に合わなかったんだ」

「ええっ。飼い主さんが死んじゃったの? なんでわかったの?」
猫は答えなかったが、再び歩き始めて、こんどはゆっくりと進んだ。それからひと言も話さなかったので、姫子は、さっきまで聴いていたのはもしかして自分の想像だったのかと思い始めた。

 やがて湖畔をそれてまた丘に登った猫は、果樹園のようなところを横切って、その中央にあるボロボロの小屋に向かって行った。え。ちょっと待って、さっき小さいお城って言わなかった? まさか猫のいうお城って、これ?

 小屋の前には、立派な車が三台ほど停まっていて、小屋の中からはドイツ語で話す声が聴こえていた。なんかお取り込み中みたいだな。私はどこかに隠れていた方がいいかも……。そう姫子が思った途端、開け放たれたドアの向こうにいた年配の女の人が大きな声を出して、姫子の方にやってきた。

 猫が姫子の足元にいて、姫子がバスケットを持っているので、猫を連れてきたのだと思ったのだろう。中にいた人たちも近寄ってきてみな口々に何かを言っている。ドイツ語なのでわからないけれど。

 小屋の中にはベッドがあって、亡くなったばかりと思われる老人が横たわっていた。猫は人間たちの足元を通り抜けて中に入り、そのベッドに飛び乗って、みゃーみゃーと鳴いた。それと入れ違いに出てきた眼鏡の男性が姫子に話しかけたが、言葉が通じないとわかると英語に切り替えて話しだした。

「あなたがあの猫を連れてきてくださったのですね」
「え。あ、はい。成り行きで……」

「そうですか。私は故人ケスラー氏の顧問弁護士トーマス・ウルリッヒです。こちらにいらっしゃるのは故人の息子のケスラー氏とその夫人です。奥にいて死亡診断書を書いているのがマイヤー医師です。あなたは?」
「あ~、日本人旅行者で永田姫子っていいます」

 名前を訊いたわりに、ケスラー夫妻とウルリッヒ弁護士の目は、なぜか姫子の持っている壊れたバスケットに釘付けになっていた。
「あなたは、この不明になっていた猫の事情をご存知ですか?」

 姫子は日本人らしく曖昧な笑顔を見せて肩をすくめた。猫から帰りたいと聞いたなんてことは言わない方がいいように思ったのだ。弁護士は深く頷くと話しだした。

「実は、故人には最近したためた遺言状がありましてね。古城を含めた全財産を慈善団体に譲るというものだったのです。もともとは、この果樹園小屋で暮らしたがる変わったご老人を息子さんたちが諌めたことが原因の諍いだったのですが、この遺言状が効力を持つと息子さんたちは全てを失うことになるんです」

「はあ」
それと猫がどう関係があるんだろう。

 弁護士は姫子の持っているバスケットに手を伸ばした。
「ちょっと見せていただきたいのですが、いいですか?」

 わからないまま頷くと、弁護士は壊れたバスケットの扉をどけて、中に手を伸ばした。床板をそっと動かすと、そこから立派な封筒が出てきた。
「あったぞ!」

 ケスラー夫妻が大喜びで、それを確認してから、姫子の手を握ってきた。
「ありがとう。あなたのおかげです」
姫子は、あいかわらず何がなんだかわからなかった。

 それから、古城に泊めてもらい、しばらく湖畔に滞在してわかったことには、バスケットに隠してあったあの封筒は全財産を慈善団体に寄付するとした遺言状よりも更に新しい、有効な遺言状だった。そして、遺産は元通りに息子夫婦が相続出来ることになった。

 ただし、あの果樹園と小屋だけは、バスケットを持って帰って来た人間に譲ると書いてあったので、なんと姫子がもらえることになった。さらに、息子夫婦は姫子が奨学金の残りを返済してもおつりが来るくらいのお礼をくれた。そして、姫子がこの村に住むことが出来るように面倒な手続きを全てしてくれた。

「あなたのおかげですもの」
「でも、どうしてあの方は果樹園小屋に住んでいたんですか?」
姫子は未だに納得がいかないままだった。

 ケスラー夫人は声を顰めた。
「それがね、お義父さまは、猫と意思疎通が出来るなんて言ったんです。主人はそれはナンセンスだと言って、売り言葉に買い言葉。それで、お義父様が家を出てしまわれて。帰って来いと主人が言っても猫と意思疎通が可能と認めなければ帰らないと言うし、主人も認めることは出来ないというし。そのうちに、あの猫と新しい遺言状を隠してきた、あの猫が誰かの助けを得て戻ってくるか、うちの主人が間違っていたと謝らない限りは、全財産は慈善団体に行くなんていいだして。しかも、どちらも折れないでいるうちに、お義父様があの日急逝なさってしまわれて、私たちは真っ青だったんですよ」

 姫子は、どうやって猫と一緒にここにたどり着いたかは言わなかった。ケスラー夫妻も追求してこなかった。ここはあやふやにしておくのが大人ってものだろう。

 こうして姫子は、猫と話せたおかげで新しい人生を始めることが出来た。かなりめちゃくちゃな結末だけれど、悪くない。

「とにかく、あなたのおかげで本当に私の人生、好転したのよ。どうもありがとう。果樹園の世話なんてどうやるのかわからないけれど、ケスラーさんたちが教えてくれるっていうから、きっとなんとかなるわよね」

 話しかけると、猫は大きく伸びをした。
「簡単だよ。水をやるのは、天の神様だし、授粉は蜂たちがやってくれるのさ。出来た木の実をもぐだけなんて、ネズミを狩ったりするほどの技術もいらないだろう」

 そういうものかな。なんか違うようにも思うけれど、これから家族になる猫だから、不要な喧嘩はしない方がいいだろう。そう思って、ふと思い出した。
「あなたの名前、訊いていなかったわね。なんていうの?」

 猫はきれいな瞳をくるくる回した。
「マリッレ。この木と同じだよ」

(初出:2017年1月 書き下ろし)

註・マリッレとはオーストリア方言でアプリコットのこと
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】今年こそは〜バレンタイン大作戦

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第四弾です。ダメ子さんも、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

新しいプランができてる
じゃあ私も久しぶりに思い切ってBプランを注文しますです


ダメ子さんは、お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人です。かわいらしい絵柄と登場人物たちの強烈なキャラ、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

せっかくなので「ダメ子の鬱」のたくさんのキャラたちのうち、ダメ子さんのクラスの男の子三人組、とくにチャラくんをお借りしてお話を書かせていただくことにしました。といっても、実際の主役は、一年に一度だけ出てくる、あの「後輩ちゃん」です。チャラくんはバレンタインデーのチョコを自分ももらいたいと思っているのですが、毎年この後輩ちゃんからのチョコを受け取り損ねているんです。

快くキャラをお貸しくださったダメ子さん、どうもありがとうございました。名前はダメ子さん式につけてみました。「あがり症のアーちゃん」と「付き添いのつーちゃん」です(笑)


【追記】
ダメ子さんが、バレンタインデーにあわせてお返しのマンガを描いてくださいました! アーちゃんのチョコの運命やいかに(笑) ダメ子さん、ありがとうございました!

ダメ子さんの描いてくださった「チョコレート」



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今年こそは〜バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 今日は例の日だ。2月14日、聖バレンタインデー。アーちゃんは、がたがた震えている。たかだか先輩にチョコを渡すだけなのにさ。

「ごめんね、つーちゃん。つきあわせて。でも、私一人だと、また去年の二の舞になっちゃう」

 アーちゃんは、とんでもないあがり症だ。昨日も授業で当てられて、現在形を過去完了に変えるだけの簡単な質問に答えられなかった。答えがわからなかったのではなくて、みんなの前で答えるというシチュエーションにパニックを起こしてしまったのだ。先生もいい加減アーちゃんがこういう子だって憶えりゃいいのに。

 そんなアーちゃんだけれど、意外と執念深い一面も持ち合わせていて、もう何年もとある先輩に懸想している。バスケ部のチャラ先輩だ。カッコ良くて女性の扱いの上手いモテ先輩ならわかるけれど、なんでチャラ先輩なんだろう。まあ、明るくてけっこう優しいところはあるけれどさ。

「前ね、今日みたいに授業で答えられなくて、クラスの男の子たちに下駄箱で嗤われたことがあるの。そこにチャラ先輩が通りかかってね。『かわいそうだから、やめろよ』って言ってくれたの」
「それ、いつの話?」
「えっと、中学のとき」

 何ぃ? そんな前のこと?
「もしかして、この高校を受験したのは……」
「うん。チャラ先輩がいたから。あ、それだけじゃないよ、偏差値もちょうどよかったし、家からもわりと近かったし」

 全然近くないじゃない。やっぱりこの子、変わってる。そんなに大好きなチャラ先輩に、告白が出来ないどころか、もう何年もバレンタインデーのチョコを渡しそびれているらしい。なにをやっているんだか。

 スイス産のクーベルチュール、70%カカオ、それにホワイトチョコレート。純国産のミルクチョコレートにとってもお高い生クリーム。彼女ったら、あれこれ買ってきて、レシピも調べて研究に余念がなかった。そして、なんとけっこうプロっぽい三色の生チョコを作ったのだ。

「わざわざ用意したんだから、あとは渡すだけじゃない。何で毎回失敗しているの?」

「だって、先輩、二年前は部活に来なかったの。去年は、ものすごく素敵なパッケージのチョコレートを食べながら『さすが、味も包装もまるでプロ並だよな』なんて言って通ったの。私のこんなチョコは受け取ってくれないかもと思ったら、渡せなくて」

 私はため息をついた。そんな事を言って食べているってことは、本命チョコのはずはないじゃない。でも、舞い上がっていて、そんなことを考える余裕がなかったんだろうな。

「わかった。さすがに一緒に行くってわけにはいかないけれど、途中まで一緒に行ってあげよう。どんなチョコにするの? パッケージもちょっと目立つものにするんだよ。義理っぽいものの中では目立つようにね」

 私がそういうと、アーちゃんはこくんと頷いた。
「ごめんね、つーちゃん。その日は他に用事ないの?」
「あ? 私は、そういうのは関係ないからさ。友チョコとか、義理チョコとか、そういう面倒くさいのも嫌いだからやらない宣言してあるし」

 というわけで、私は柄にもなく、きゃーきゃーいう女の子たちの集う体育館へと向かっているのだ。バレンタインでへの付き添い、この私が。チャンチャラおかしいけれど、これまた経験だろう。

 バスケ部のところに女どもが群がっているのは、どう考えてもモテ先輩狙いだろう。あんなにもらうチョコはどう処理しているんだろう。全部食べるわけないと思うんだけれど。女の私だって胸が悪くなるような量だもの。でも、目立つように処分したりするようなことはしないんだろうな。そう言うところは絶対に抜かりないタイプ。

 チャラ先輩は、そんなにもらうとは思えないから、いかにも本命チョコってパッケージのあれをもらったら、けっこう喜ぶと思うんだけれどな。アーちゃんは、かわいいし。

 もっとも男の人の「かわいい」と私たち女の思う「かわいい」って違うんだよね。男の人って、「よく見ると味がある」とか、「人の悪口を言わない性格のいい子」とか、「あがり症でも一生懸命」とか、そういうのはポイント加算しないみたい。むしろ「意外と胸がある」とか、「かわいいってのは顔のことでしょ」とか、「小悪魔でちょっとわがまま」とかさ。まあ、こういう分析をしている私は、男から見ても、女から見ても「かわいくない」のは間違いないけれど。

「つーちゃん、待って。私、ドキドキしてきた」
その声に我に返って振り向くと、アーちゃんが震えていた。まだ体育館にもたどり着いていないのに、もうこれか。これで一人で、先輩のところまで行けるんだろうか。

「いい、アーちゃん。あそこにモテ先輩と群がる女どもが見えるでしょ。あそこに行って彼女たちを掻き分けて先輩にそのチョコを渡すことを考えてご覧よ。どんなに大変だか。それに較べたら、ほら誰も群がっていないチャラ先輩のところにぴゅっと走っていって、『これ、どうぞ!』と手渡してくるだけなんて楽勝でしょ?」

 私は、チャラ先輩がムツリ先輩と二人で立っているのを見つけて指差した。二人は、どうやらモテ先輩がたくさんチョコをもらっているのを眺めながら羨ましく思っているようだ。
「これはチャンスだよ。自分も欲しいなあ、と思っている時に本命チョコを持って女の子が来てくれるんだよ。ほら、早く行っておいで」

 私の入れ知恵で、パッケージにはアーちゃんのクラスと名前が入っているカードが忍ばせてある。あがってひと言も話せなくても、チャラ先輩が興味を持ってくれたら自分から連絡してくれるはずだ。少なくともホワイトデーのお返しくらいは用意してくれるはず。……だよね。


 アーちゃんは、よろよろしながら体育館の方へと走っていく。えっ。何やってんの、そっちは方向が違うよ。

 彼女は、チャラ先輩の方にまっすぐ走っていかずに、モテ先輩の人だかりの方に迂回してしまった。人に紛れて見えないようにってことなのかもしれないけれど、それは誤解を呼ぶぞ。

 あらあらあら。あれはキツいバスケ部のマネージャーだ。モテ先輩とつきあっているって噂の。アーちゃんの持っているチョコを目ざとく見つけてなんか言っている。「抜け駆けする氣?」とかなんとか。

 アーちゃんは、慌てて謝りながら、モテ先輩の周りにいる女性たちから離れた。そして、動揺したせいか、その場に転んでしまった。私はぎょっとして、彼女の方に走っていった。

「アーちゃん、大丈夫?」
「う、うん」

 全然大丈夫じゃないみたい。膝が擦り剥けて血が出ている。手のひらからも出血している。
「わ。これ、まずいよ。保健室行こう」

 でも、アーちゃんは、自分よりもチョコの箱の惨状にショックを受けていた。
「つーちゃん、こんなになっちゃった」

 不器用なアーちゃんでもきれいに詰められるように、テトラ型のカートンにパステルカラーのハートを可愛くレイアウトして印刷したものを用意してあげたのだけれど、転んだ時のショックで角がひしゃげてしまっている。幸い中身は無傷のようだけれど。

「えっと、大丈夫?」
その声に見上げると、チャラ先輩とムツリ先輩だった。アーちゃんは、完璧に固まっている。

「だっ、大丈夫ですっ!」
彼女は、チョコの箱を後に隠して立ち上がった。
「わっ、私、保健室に行かなきゃ! し、失礼しますっ」

「あ、そのチョコ、モテにだろ? 僕たちが渡しておいてあげようか?」
チャラ先輩は、一部始終を見ていたらしく、覗き込むようにちらっと眺めながら言った。お。チャンス!

「え。いや。そうじゃないです! そ、それにもう、潰れちゃったから、渡せないし、捨てようかと……」
アーちゃんは、焦って意味不明なことを言っている。そうじゃなくて、これはチャラ先輩に持ってきたって言えって。

 パニックを起こしている彼女は、誤解を解くどころか、箱をよりにもよって私に押し付けて、ひょこひょこと校舎に向かって走っていった。ちょっと。これをどうしろって言うのよ。

 思いあまった私は、潰れた箱をチャラ先輩の手に押し付けた。
「これ、モテ先輩に渡したりしちゃダメですよ。 中身は大丈夫のはずだから、食べてくださいね!」
 
 あとはチャラ先輩がこれを開けて、中のカードをちゃんと読んでくれることを祈るのみ。中の生チョコが潰れていなければ、カードに必要な情報が全部書いてあるはずだから。

 ところでアーちゃんは「チャラ先輩へ」ってカードにちゃんと書いたのかな。今は、それを確かめようもない。私はアーちゃんを追わなくちゃいけないし。

 ああ、この私が加担したにもかかわらず、今年も前途多難だなあ。

(初出:2017年1月 書き下ろし)

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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】異国の女と謎の訪問者

scriviamo!


「scriviamo! 2017」の第二弾です。ポール・ブリッツさんは、私の小説群に出てくる架空の村、カンポ・ルドゥンツ村の出てくるスパイ小説で参加してくださいました。

ポール・ブリッツさんの書いてくださった『カンポ・ルドゥンツの来訪者』

ポールさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。どうも、こういう企画は難しい挑戦をしないといけないとお思いになっているらしくて、毎年しょっぱなから大いにハードルをあげてくださるブログのお友だちです。でも、挑戦されたからと言って、応える方の技量には限りってモノが……。まあ、いいや。

いやー最近読んでいるスパイ小説が面白くって(^^)


この参加宣言と、あちらの小説のみなさんのコメントでは、私もスパイ小説でお返しすることを期待されているような氣もしますが、そう簡単に書けるわけないじゃないですか。しかも舞台がカンポ・ルドゥンツ村ですよ。何もないし。というわけで、こんな話になりました。例によって真相は「藪の中」です。なにが本当でなにが憶測なのか、謎の男は何しにきたのか、ポーランド人と、ロシア人は、スパイ小説とどう関わっているのかもしくは全然関わっていないのか、それは読者の想像にお任せします。

登場するトミーとリナは、去年のscriviamo!をはじめとして、私の小説では既におなじみのキャラなのですが、別に読まなくても大丈夫です。一応シリーズのリンクはつけておきますけれど……。


【参考】
「リナ姉ちゃんのいた頃」シリーズ
「酒場にて」

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異国の女と謎の訪問者
——Special thanks to Paul Blitz-san


 道は凍り付いている。育ち始めた霜は、結晶を大きくさせて、雪が降ったあとのようにあたりを白くしている。カンポ・ルドゥンツ村は、ライン河の東岸にある小さな村だ。小高い丘の上にある少し裕福な人たちの住む場所は別として、泉のある村の中心部には三ヶ月にわたり一度も陽の光が差さない。

 河向こうにあるサリス・ブリュッケと違い住民も少ないこの村は、冬の間はまるで死んだかのように人通りがない。かつては広場を囲んで三軒あった旅籠兼レストランのうち今も営業しているのは一軒のみで、他には村の中心部からかなり離れたところにバーとそれに隣接した有機食料品店があるだけだ。

「こんにちは、トミー!」
そのバーの扉を勢いよく開けて飛び込んできたのは、そんな寒村には全く似合わない派手な出立ちの娘だ。鮮やかな緑のコートは確か雑誌で見かけたバリーの新作だし、その下から現れた白いミニ丈のニットドレスは、どこのブランドかわからないけれど今年のトレンドであることは間違いない。黒いタイツに茶色いロングブーツのバランスもこだわりを感じさせる。それがわかるトミーだが、そんなことを容易く褒めてはやらないのが彼らしさだ。

「リナ。いつお外が春になったのよ」
「なっていないわよ。マイナス10℃ってところかな。寒かった~」
「だったら何でそんな恰好をしているのよ」
「だって今日はこういう氣分なんだもん」

 『dangerous liaison』は、コンサバティヴで過疎な寒村カンポ・ルドゥンツ村のはみ出しものが集うバーだ。ゲイのカップルであるステッフィとトミーが経営している。青とオレンジを基調とした南国風の室内装飾はこのあたりでは滅多にない派手なインテリアで、やってくる客もこの谷の半径三十キロ地点にいるはみ出しものばかりだった。

 この村に住むリナ・グレーディクもその一人で、週に二度ぐらいはこの店にやってきてトミーに新しいファッションを披露するのだった。

 カウンターの奥でクスっと笑う声がしたので顔を向けると、ノヴァコフスキー夫人で通っているイリーナが壁についたカラフルなシミのように座っていた。このバーの常連の中で最高齢だと思われ、正確な歳は誰も知らないがおそらく八十歳は超えているはずだ。夫のノヴァコフスキーは五十過ぎてから結婚してこの村に彼女を連れてきたが、彼が亡くなった後三十年ひとりで近くのアパートメントに住んでいる。

「あれ。一人? お客さん、帰ったの?」
リナは訊いた。

 前回この店にきた時に、常連である自動車工マルコが大騒ぎしていたのを耳にしていたのだ。
「おい。知っているか? ノヴァコフスキーの後家婆さんのところにボーイフレンドが来ているぞ! あの歳でやるよな」

「どんなヤツだ?」
「外国人だよ。顔立ちから言うと南欧の男かな。でも背はかなり高い。どこにでもいそうな老人だ」

 マルコの情報によると、村の中心にある旅籠に滞在しているということだった。そして、イリーナが彼を訪ねてきて二人で自宅に向かったのを目撃したレストランの常連たちが、驚きと興味を持って二人の関係についてあれこれ詮索して騒いでいたというわけだった。

「あの婆さんもポーランド人だったっけ」
「いや。確かロシア人だったはずだ。ティツィーノ州からやってきたらしく、イタリア語が達者なんだ」
「ああ。亡命貴族が多いんだよな。革命の時にごっそり持ち出した財宝でマッジョーレ湖のヴィラで優雅に暮らしている帰化者がいっぱいいるって話だ」
「そんな金持ちが、ヤン・ノヴァコフスキーみたいな貧乏人と結婚してこんな田舎に来るか」
「さあな。貴族の召使いの子弟ってのもいるだろう」

「そもそもヤン・ノヴァコフスキーは何でこの村に来たんだっけ?」
「ああ。ありゃ戦争捕虜だよ。フランスで従軍していたんだが、ドイツに投降するくらいなら、スイスに入った方がマシな扱いを受けるからって越境してきたんだ。で、戦後に村の娘と結婚して帰化したはずだ」
「なるほど。その娘が亡くなってから後添いに来たのがあのイリーナ婆さんってことだな」

「その婆さんが、今度は別の外国人をこの村に連れてくるってことか? はてはて。で、今度は何人かな」

 そんな噂が村の中心を駆け巡っていたのが四日ほど前だった。だが、村人の予想に反して、謎の南欧風の男は迎えにきた車に乗ってどこかへと去っていった。

 リナの質問は、村の噂がすでにバー『dangerous liaison』にまで広がっていることや、自分が村の好奇心の対象となっていることを示していたので、イリーナは笑った。銀髪を優雅に結った女性で、若いころと変わらずに魅力的で秘密めいた微笑みを見せる。未亡人となってからはいつも黒い服を身につけているが、纏っているスカーフが色とりどりで華やかだ。

「ええ。帰りましたよ。昨日ね」
それから、トミーにワインのお替わりを頼んだ。

 すぐに帰るつもりはないと判断したリナは、イリーナの隣に座った。
「イリーナの家族?」

 イリーナは首を降った。
「いいえ。友達よ。ペンフレンドね」
「ペンフレンド?」

「ええ。いつだったか州都のスーパーマーケットで、告知をみつけたの。キリル文字で書かれていたのよ。懐かしかったから近寄って見たらペンフレンド募集だったのよ。それで連絡して文通するようになったの。この歳になると、使わないと、すっかり忘れて使えなくなってしまうのよ」

 リナはカンパリソーダを飲みながらイリーナの顔を覗き込んだ。
「イリーナはポーランド人じゃなかったんだ」
「いいえ。私の両親はロシアの出身なのよ。革命から逃げてティツィーノ州に来たの。私はイタリア語圏スイスで生まれ育ったんですよ」

「でも、イリーナはずいぶんきれいなドイツ語を話すよ? どうやって覚えたの?」
「若いころにルガーノに住んでいたドイツの男爵のところで働いていましたからね」

「リナ。あんたはいろいろな事を不躾に訊きすぎるわよ」
トミーが注意した。リナは「ごめん」とは言ったが、反省している様子はなかった。

「いいのよ。変な噂を流されるよりは、訊いてくれた方がすっきりするわ」
イリーナはワインを飲んだ。

 それで、リナは勢いこんで更に訊いた。
「それで、文通をしていた友達が会いにきたのね?」

「そうよ。変わった人でね。ペンフレンドを募集しておきながら、応募してくる人間がいるとは思わなかったなんて書いてくるし、特に文通がしたかったわけでもないみたいだったの。単に婆さんの書いてくる田舎の日常が面白かったから、暇つぶしに時々手紙をくれたみたいね。だから、まさか逢いにくるとは夢にも思わなかったんだけれど」

「じゃあ、何で来たのかしらね?」
リナが訊くと、老女はおかしそうに笑った。
「オクローシカを食べたかったみたいね」

「何それ?」
リナとトミーが同時に訊いた。

 イリーナは笑って言った。
「冷たい野菜スープの一種よ。クワスという発酵飲料で作るの。私は母からクワスの作り方を習っていたので、パンと酵母で手作りしているんですよ。この前の手紙でその話を書いたら、一度訪問したいって書いて来てね。大都会ならペットボトル入りのクワスが専門店で買えると思うんだけれどねぇ」

「ああ、それはわかるわ。故郷を離れていると、なかなか手に入らない手作りの味が無性に恋しくなるのよね」
トミーが頷いた。

* * *


 その頃、村の中心にある旅籠のレストランでは、男たちがまさにイリーナ婆さんと謎の男の噂をしていた。

「俺は、あの男はにはどこかおかしいところがあるように思うんだ」
マルコが熱弁を振るっている。他の男たちはビールを飲みながら首を傾げた。
「どこが?」

「第一に、こんな何にもない村にいきなりやって来たかと思うと、へんな送迎の男たちと去っていっただろう」
「はい、はい。また始まった。お前、外国人とみるとすぐになんかの陰謀だと言い出すんだよな」

 マルコはムキになって続けた。
「おかしいのはそれだけじゃないぞ」
「なんだよ」
「あの顔さ。手は皺しわなのに、額や鼻にほとんど皺がなかった。あれは整形かもしれないぞ」

「へえ。そうなのかな」
「で、イリーナ婆さんのところに何の用だ?」
「諜報機関の奴らが、なんかの書類を受け渡しにきたとかさ。ロシアの亡命貴族とKGBの密会というのは面白い組み合わせだな。それとも亡きポーランド人の遺した第二次世界大戦の時の重要書類か」

 それを聞くと、ほかの男たちは馬鹿にした顔つきで眼を逸らすと、新しいビールを注文した。
「お前は、スパイ小説を読みすぎだ。そんなわけないだろう。寝言もいい加減にしろ。あの男はどうせ婆さんの家族か親戚か、そんなところさ」

(初出:2017年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと天空の大聖殿

scriviamo!


今年最初の小説は、「scriviamo! 2017」の第一弾です。山西 左紀さんは、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。下記のようなリクエストをいただいています。

夕さんが気になる、或いは気に入ったサキのキャラとコラボしていただけたら 嬉しいです。


山西左紀さんは、色鮮やかな描写と緻密な設定のSFをはじめとした素晴らしい作品を書かれる方です。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

既に多くの作品でコラボさせていただいていますが、もっとも多いのが、「夜のサーカス」のキャラクターの一人であるアントネッラと、そのブログ友達になっていただいたサキさんの「物書きエスの気まぐれプロット」のエスというキャラクターとの競演です。

記念すべき初のプランBですから、やはりこの組み合わせで書きたいなと思いました。アントネッラとエスの交流の話、もしくは劇中劇形式になっているストーリーの話、どちらで遊んでいただけるのかも興味津々です。どんな形でお返事いただけるのか、いまからワクワクです。



「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2017」について
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



夜のサーカスと天空の大聖殿 - Featuring「物書きエスの気まぐれプロット」
——Special thanks to Yamanisi Saki-san


 風を切って雲の間を抜けていく時、《勇敢なる女戦士》ロジェスティラは、イポリトの首筋の茶色い羽毛に顔を埋めた。彼女の忠実な乗り物となったこの巨大なヒッポグリフは、そっと顔を向けて「大丈夫か」と伺うかのごとく黄金色の大きな瞳を動かした。

「怖くなんかないわ。これは武者震いよ。あの天空の大聖殿に近づくのは、お前のような神獣の助けを借りなくちゃ不可能だし、わが軍で《翼あるもの》の使い手は、いまや私一人ですもの。オルヴィエート様をお救いすることが出来るのは、お前と私しかいないんだわ」

 初めて目にした天空の大聖殿は、何と美しいことだろう! いくつもの尖塔がぎっしりとひしめき、針の山のように見えた。灰色と赤茶けた岩しか存在しない、人里離れた地の果てのごときヘロス山に、遠く離れたグラル山塊でしか産出しない青白い大理石をこれだけ運ぶ労力はどれだけのものだったのだろう。

 このように壮大な聖殿を建てても、祭司に集まる貴族たちも、祈りを捧げる民らも到達することは出来ない。五百年前の大噴火によってヘロサ新山が生まれた後、馬はもちろん、徒歩ですら近づくことが出来なくなったのだ。厳しい渓谷に阻まれたこの壮麗なヘロス大聖殿は秘密に守られて、何世紀にも渡り伝説で語られるだけの存在であった。

 ロジェスティラは、モルガントとの対決を思って下唇を噛んだ。将軍である皇孫オルヴィエートを欺き誘拐してこの大聖殿に立てこもっているのが、自分と子供時代を共に過ごした乳兄弟であることを知った時、彼女は「何かの間違いよ!」と叫んだ。けれども、それは間違いではなく、彼が邪悪な《闇の子たち》のために働いていることも疑う余地はなかった。

 いま彼女が躊躇すれば、高貴なるオルヴィエートの命やこの国の命運が失われるだけでなく、《光の子たち》の築き上げてきた世界そのものが崩壊してしまう。

「イポリト。氣をつけて。そろそろモルガントがお前の飛来を感じ取るはずよ。どんな攻撃を仕掛けてくるかわからないわ」

 ロジェスティラのささやきに、イポリトは「わかっている」と言いたげに振り向いた。「あなたこそ、振り落とされないように、お氣をつけなさい」そう言っているかのように瞬きをした。

 そして、イポリトは、ますます速度を上げて、稲光の中に浮かび上がる青白い要塞に向かって降りて行った。



「う~ん。どうも陳腐だわね」
アントネッラは、ため息をつくと、エスプレッソ用品の置いてある窓辺のテーブルに向かった。

 もちろん、そこまでのほぼ全ての地面には、本と書類の山や、二ヶ月ほど前に買ってきてまだショッピングバッグに入れたままになっているトイレットペーパーや洗剤やパスタ、彼女としてはきちんと積み上げてあると認識している衣類の入った木箱などが道を塞いでいるので、彼女はその間のわずかな空間を身体を横にしたり少し飛んだりしながら通らなくてはならない。これもまたいいエクササイズだわ、というのが彼女のいつものひとり言だった。

「さてさて。ファンタジーもののセオリーには、乗っ取っているんだけれど。謀略。主人公と敵対者の闘争。主人公によるヒロインの救出……これは立場が逆ね。敵対者の仮面が剥がれ、主人公の欠如が解消される。でもねぇ。なんだかどこかで聞いたような話になっちゃっているのよねぇ。どこかに、こう、パンチのあるひねりが欲しいわ」

 窓辺に辿りつくと、彼女は少し大きめのアイボリーの缶の蓋をがたがた言わせて開けた。中からは深煎りしたコーヒー豆が現れる。彼女はフランス製の四角い木箱のついたアンティークコーヒーミルに、その豆を入れて、ハンドルをひたすら回した。美味しいエスプレッソを淹れるためには極細挽きにしなくてはならないのだ。挽きたての魅惑的な香りが、彼女の部屋に満ちた。

「ロジェスティラのイメージは、やはりあのライオン使いのマッダレーナかしらね。愛する貴公子を救うために勇敢にも敵地に一人で乗り込む美しきヒロインですもの。容姿のところを書き足さなくちゃ。オルヴィエートは、よく電話してくるあの金髪の俳優にしておこうかな。でも、敵役モルガントの容姿はどうしようかしら。暗い感じで、でも、一見は悪者に見えないような容姿がいいのよね。あ、ヨナタンの容貌は悪くないわね」

 マキネッタの最下部に水を、その上にセットしたバスケットにきっちりと粉を詰めると、ポット部分をセットして直火にかけた。フリーズドライのインスタントコーヒーを使えば、こんな手間はいらないのだが、第一に、彼女はまっとうなエスプレッソを飲む時間を持てないほど人生に絶望してはいないし、第二に、こうした単純作業は創作に行き詰まった時の氣分転換に最高だと知っていたからだ。

「なんでファンタジーを書く企画に参加しちゃったのかしら。まったく書いたことのないジャンルなのに」
彼女は、マキネッタがコトコトと音を立てはじめたのを感じながら、窓の外に広がる真冬のコモ湖を眺めた。

「そもそも私、ファンタジーをまともに読んだこともないし、この系統の映画もほとんど観ていないし。でも、参加すると手を挙げちゃったからには、何かは完成させないと。ああ、困った」

 夏場は観光客を乗せて軽やかに横断する遊覧船が、手持ち無沙汰な様相で船着き場で揺れている。谷間の陽の光は弱く、どんよりと垂れ込めた灰色の雲の間から、わずかに光が射し込んで湖畔の家々を照らしている。

 少なくともエスプレッソが完成するまでは、窓辺でこの光景を眺めていられたのだが、無情にも完成してしまったので、彼女は素晴らしい香りとともにそのコーヒーを愛用のカップに注いで、またコンピュータの前に戻らざるを得なかった。

「そうだ。エスに彼女の進捗状況を訊いてみよう。彼女は、SFは得意だけれど、ファンタジーはあまり書いたことがないって言っていたから、同じように苦労しているかもしれないし」

 エスというのは、日本に住んでいるネット上の創作仲間だ。アントネッラがインターネット上で小説を公開しだしてから数年になるが、ごく初期の頃から交流をもち、お互いの小説について忌憚なく意見を交わしている。あまり情報処理のことに詳しくないアントネッラのかわりに、エスは調べ物をしてくれたりもする。とても頼りになる友人なのだ。

 今回の企画には、エスも同じように参加している。彼女のファンタジーについての意見を聞いたら、自分の作品に足りない「何か」の正体がわかるかもしれないと思ったのだ。

 アントネッラは、創作に使っているエディタを閉じると、チャットアプリを立ち上げて、ログイン画面が現れるのを待った。

 一瞬「保存しますか?」と訊く画面がでたように思ったが、普段ならキーを押したあとに続く「どのフォルダに保存しますか」と言う問いかけが出てこないことに氣がついた。チャットアプリに保存は関係ないから、保存すべきだったのは何だったのかしらと考えてから青ざめた。

 慌ててエディタの方をアクティヴにしようと試みたが、大人しく終了してしまったらしく、うんともすんとも言わない。

 チャットアプリのログイン画面がポップに輝くのを絶望的に眺めてから、アントネッラは乱雑に机の上に積み上げられた書類の山の中に突っ伏した。


(初出:2017年1月 書き下ろし)


【11.01.2017 追記】
サキさんが、あっという間に素晴らしい返掌編を書いてくださいました! さすがです。みなさまどうぞご一読を!

サキさんの作品 「物書きエスの気まぐれプロット(26)クリステラと暗黒の石


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Posted by 八少女 夕

【小説】ヴィラ・エミーリオの落日 -3-

今年最後の小説更新、3つに切った短編「ヴィラ・エミーリオの落日」最終回です。

イタリアの保養地ストレーザを訪れたイギリス人オースティン氏と愛犬グルーバーは、謎めいたエミーリオ荘の女主人アントネッラに内密で夫の娘を捜してほしいと依頼されました。そして、屋敷で使用人として働くラウラこそがその娘であるのではないかと氣づきます。

今週は、公開がいつもより遅くなってしまいましたが、個人的にはスイス時間の水曜日中にアップできたので、セーフということにしておこう。(何が?)

今年一年、毎週のように読んでくださり、コメントを下さったみなさま、本当にありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。




ヴィラ・エミーリオの落日 -3-
〜 オースティン氏のイタリア紀行


 ファボニオが吹き荒れて、生ぬるい氣温のまま一晩を明した翌朝に、エミーリオ荘の白木蓮の大木は力尽きたように最後の数輪の花を落としていた。それはちょうど、門のところに朽ちて落ちている大理石の彫刻と同じ色をしていた。実際には残っているはずのない花の香りが灰色の雲にに閉ざされたストレーザに満ちているように感じられた。雨が近い。

 まだ、マンツォーニ夫人は眠っているのだろうか。ラウラが湖を見ながら庭に立っているのを見て、オースティン氏は急いでアルカディア荘の裏庭からエミーリオ荘の庭に侵入した。

 ゆっくりとした動作で、荒れ果てた庭の枯れ枝を集めるラウラの後ろからオースティン氏は声を掛けた。
「なぜそんなにひたすら働くのですか」

 少し驚いたように振り向いたラウラはオースティン氏の姿を認めると安心したように笑った。

 ラウラの笑顔はとてもあでやかだった。ルクレツィアの笑いは実に親しみ深いあけすけなものだったが、ラウラのそれはラ・ジョコンダのようにどこか秘密めいていてその分見えない壁を感じさせるのだった。

 よく考えると不思議だ。使用人の服を着て完璧な使用人として振る舞う女の笑顔が、最高品質のカシミヤのワンピースを着た裕福な令嬢の笑顔より遠いのだから。

「わたしの仕事ですもの」
「仕事への義務ですか。それともお父様の大切な屋敷へのオマージュですか」

 ラウラの顔から遠い笑顔が消えた。それから不思議なことに彼女は再び小さく微笑んだ。今度の笑顔は、もう少し距離が縮まったように感じられる疲れた笑いだった。

「どうしてたった一か月の滞在でわかったりするのかしら」
「あなたが、アダンソニア・マンツォーニなんですね」

 ラウラは再び枯れ枝を集めだした。
「父は生涯アフリカに憧れていました。だから他にもいくらでも植物の名前はあるでしょうに、よりにもよってアダンソニアなんて名前をつけたんです。母はごく普通にラウラとつけたかったのでそう呼んでいましたし、私はラウラ・ステリタといわれたほうがしっくりくるんです」

「でも、あなたがマンツォーニ夫人にアダンソニアと名乗らないのはそのせいだけじゃないでしょう」
オースティン氏はこの発言がラウラに非難めいて聞こえないことを祈った。

「一度でいいからここで暮らしたかったんです。マンツォーニ夫人がここを売りたがっていることは知っていましたから」

「あなたが望めば、このヴィラはあなたのものになるんじゃないですか」

 ラウラは訝しげにオースティン氏をみた。
「父の書いた遺言状がどんなものであれ、マンツォーニ夫人を無一文で追いだすなんてできませんわ。あの人は結局のところ父の妻なんですし、父は私のことだけではなくて、あの人の将来のことも考えて遺言状を書くべきだったんです。私はあの人には父の唯一のまともな財産であるこのヴィラを自由にする当然の権利があると思いますわ」

「だから、まもなく売られてしまうと思ったから、その前にここで暮らすために、使用人として潜りこんだんですね」

 ラウラは少し黙って、それからオースティン氏をまともに見た。
「もう少し待っていただけませんか? マンツォーニ夫人にいうのは」
「あなたが望むなら、生涯黙っていますとも」

 ラウラは笑った。
「いま、二人の人間がこのヴィラを買いたがっています。一人は修理してここに住むつもりのスウェーデン人だけれど、マンツォーニ夫人は高いお金を出すというホテルチェーンを経営するドイツ人の方にヴィラを売るつもりじゃないかと思うの。でも、ホテルが買ったらヴィラはすぐに取り壊されてしまうわ」

「少なくともあなたには、夫人にここをどういう形で処分するかいう権利があるんじゃないのか」
「母と私はマンツォーニ夫人に憎まれていますもの。何か指図がましいことをしたら、たぶん反対のことをされてしまうわ」

 ラウラは愛おしげにエミーリオ荘を仰いだ。
「みて。朽ちていくこの屋敷を。父が買い集めた大理石の彫刻も、自慢げに話してくれた外壁の装飾も、かつては三人の庭師が働いていたこの庭も、ゆっくりと雑草と錆びとひび割れた石の中に埋もれていってしまうのよ。父が精魂を傾けたすべては、太陽が沈んでいくようにいずれ消え去ってしまうのだわ」


 肩を落としてオースティン氏がアルカディア荘に戻ると、ルクレツィア・ゴルツィ嬢がグルーバーの毛繕いをしていた。オースティン氏の様子を見て、彼女は訳ありに頷いた。

「とくにこんな春の日には、このストレーザの空氣の重さは、人を絶望的にさせるのよね」
それからふいに眉を少しあげて小声で言った。
「あなたも私と同じ結論に達したようね」

 オースティン氏は反射的にルクレツィアの灰色の眸をみた。
「アダンソニア。アフリカ狂の付けそうな名前じゃない?」
「なぜ? あまり聞いたことのない名前だけど」

 ルクレツィアは大笑いをした。
「アダンソニアってのは巨木バオバブの学名よ。女の子の名前って感じではないわね。でも、ラウラにはあっているような氣がするわ。毅然としているところが」
そういうと、ルクレツィアはグルーバーのお腹をさすってやった。

「なんで、ラウラのことだってわかったんだ?」
「アダンソニアで氣付いた女学生の名字がステリタだったから。ラウラの名字だと思い当たるのにしばらくかかったけれどね。でも、あなたがラウラと話している様子を遠くから見て確信が持てたわ。あなた、ラウラがすきなんでしょ?」

 オースティン氏は口ごもった。イギリスではこんな身も蓋もない話し方をする令嬢はあまりいない。

「隠さなくてもいいじゃないの。ラウラは素敵で有能な女性だもの。ちょっとまじめすぎるから、私にはあまり面白くないけど、尊敬しているのよ。彼女、ヴィラや相続のこと、どうするつもりなの?」

「彼女は、諦めている。本当は取り壊さないでいてくれるスウェーデン人に売れればいいと思っているみたいだけれど、マンツォーニ夫人はドイツ人のホテルに売る氣なんじゃないかって」

「どうかしらね。アントネッラもそこまで夫の遺志を無下にできるかしら。まあ、夫を憎んでいても無理はないと思うけどね」

 オースティン氏も同感だった。エミーリオ荘をみるのはこの休暇が最後になるような氣がした。ふいに、会ったこともないエミーリオ・マンツォーニに軽い怒りを覚えた。

 自分の好きなことばかりやりやがって。経緯はどうあれ結婚した妻か、愛人とその娘か、ヴィラか、それともアフリカか、どれかひとつだけにして、それにきっちり責任をとればいいのに。欲張ってとっちらかしたままいなくなったせいで、結局残された女たちが意味のない争いや憎しみや哀しみに苦しむだけになったじゃないか。

 自分が何もできないまま、この地を去らなくてはならないことに、オースティン氏は果てしない無力感を感じた。ファボニオが重い……。

 黙っているオーステイン氏の横では、ファボニオなどかけらも感じないらしいゴルツィ嬢が、イタリア内閣の改造のことと、首相と秘書との情事とを、どういう筋道でかわからないがみごとに組みあわせて、とうとうと語っていた。どうやら秘書のファションもイタリアという国では政治の根幹を揺るがすらしい。

* * *


 ついにロンドンに帰る日がやってきた。ゴルツィ兄妹やエミーリオ荘の人びととイタリア式に別れを惜しみ、すっかり馴染んだストレーザの春やファボニオに別れを告げ、オースティン氏はグルーバーとミラノへ向った。

 ストレーザからミラノ、マルペンサ空港からからヒースロー空港へと、移動するたびにけだるさや哀しみは薄れ、帰ってからの仕事のことや、ロンドンの友人、マッコリー夫人や隣人や同僚のことなどが、幻から現実へと形を変えて心の中に浮かんでくるのだった。

 ロンドンについた後、オックスフォード・ストリートの絶え間ない交通と、忙しく歩き回る人びとを見て、オースティン氏は呆然とした。人間はこんなに颯爽と動き回れるんじゃないか。それは、あのゆるやかなストレーザの日々からは考えられないテンポであった。

 ゴルツィ兄妹のしゃべりがうるさいと思ったのが信じられないほどの喧騒に、彼はおののき、唯一のよりどころであるグルーバーの綱をしっかりと握った。グルーバーはしっかりとした足どりで前を進み、その細かい歩みを見ていると、オースティン氏も落ち着いてフラットに戻ることができたのだった。

 ロンドンの日々は、てきぱきと過ぎ去った。マッコリー夫人の用意してくれた心地の良い部屋も、彼の安心感を増した。いつも部屋着、いつものスリッパ、同じ生活の繰り返し、そういうものが彼の日々をあたりまえに支配するようになると、ストレーザの日々のほうが夢か幻のように遠ざかっていくのだった。

 そんなある日、ゴルツィ氏から連絡があり、ロンドンに滞在しているデュールソンというスウェーデンの夫婦が是非オースティン氏を訪ねたいといっているという連絡を受けた。そういう名前に全く心当たりはなかったのだが、向こうがどうしても会いたいというのに断わるまでもなかろうと思って、訪ねてきた二人をフラットに迎え入れようとドアを開けた。

「君は……」

 そこには背の高い北欧の青年と一緒にラウラが立っていた。あの時のような前時代的な使用人としての服装ではなく、ジーンズの上にアイボリーの上質なジャケットというラフだけれどもよく似合ったいでたちであった。ゆるやかに波打つつややかな黒髪が肩にかかり、あらためてどれほど美しい女性であるか思い知らされたオースティン氏は顔を赤らめた。精悍な整った顔立ちのデュールソン青年は悔しいほどラウラにお似合いだった。

「突然ごめんなさい。でも、どうしてもお礼をいいたくて。ロンドンに来る機会はそんなにしょっちゅうあるわけではないので」
オースティン氏は何にに対してお礼を言われているのかわからなかった。

「ルクレツィアが話してくれたの。あなたとルクレツィアがマンツォーニ夫人を説得してくれたって。主人のクリスチャンはドイツのホテルの十分の一の金額しか提示できなかったのに、それでもマンツォーニ夫人はその金額で主人にエミーリオ荘を売ってくれたの」

「じゃあ、ヴィラを買いたがっているスウェーデン人っていうのは、もしかして……」
「はじめまして。ラウラの夫のクリスチャン・デュールソンです」

 青年と握手して、彼らをフラットに招き入れながらも、オースティン氏はまだ事情が飲み込めなかった。

「ラウラが素性をかくしてマンツォーニ夫人のところで働くという決意を話してくれたとき、僕はなんとかヴィラを残せる方法はないだろうかと考えました。一番確実なのは自分が持ち主になることだけだった。でも、ラウラは相続を強行することだけはできないといった。そうしたら、馬鹿げた話ですが買うしかないじゃないですか。お陰で僕たちにはかなりの借金ができたので、当分しっかり働かなくてはいけないし、あそこも人に貸さないといけないけれど、少なくとも取り壊されるのだけは避けられた」

 デュールソン青年の言葉をひきとって、ラウラが続けた。
「マンツォーニ夫人はミラノの近くに遷りました。少なくともヴィラを売ったお金で生活はしていけるようになりましたし、その金額の一部を私に残してくれたので、改装費にかかると思っていた金額の方は借金をせずに済んだんです」

「でも、君がヴィラを相続すれば、借金はそもそもなかったんじゃないのかい?」

「お金は働いて取り戻すことができます。でも、誰かの人生をダメにしてしまったらそれは取り返しがつきませんもの。私は父を愛しています。でも、彼のしたエゴイズムを容認することはできませんわ。彼は自分の欲しいものを、何もかも手にしたがりました。そして、それによって何か他のものを失うつもりなく、あちこちに問題を作ってはそれをウソで塗り固めて誤魔化しました。アフリカから帰ってきたら、もう少しまともな状態にもっていくつもりだったのか、それとも実際に死ぬまで好き勝手をするつもりだったのかわかりませんけれど。マンツォーニ夫人は特別な人格者ってわけでもありませんけれども、少なくとも夫も財産も全て奪われて無一文で追いだされて然るべきってほど、悪いことをしたわけではありません。私もそのことで生涯恨まれるのもあまりいい氣持ちがしませんもの」

 ルクレツィアは上手に立ち回ったのだった。オースティン氏がみつけてくれたソニアが、ヴィラを取り壊さない人に売ってくれるならば財産放棄の書類にサインするといっていると話したのだ。さらにいくつかのドイツ人の建てたろくでもないホテルに案内して、マンツォーニ夫人にもヴィラを残したいという氣持ちにさせたのだ。

 マンツォーニ夫人はルクレツィアに言ったそうだ。
「私だって、この屋敷がずっと好きだったのよ。エミーリオとあの女に裏切られたと知って、何もかも失う前にここを売って新しい生活をはじめるつもりだったけれど、エミーリオの帰宅を待って一人でここで暮らした日々ですら、もはや忘れ難い大切な思い出になってしまっているのよ。ドイツ人のブルドーザーでここが踏み倒されるのが嬉しいわけはないわ。エミーリオとあの女のことは受け入れることができないし、あの女が生きていたとしても友達にはなれないけれど、娘のことまで理由もなく憎み続ける必要はないわ。そういうカップルの間に生まれてきたのは彼女が悪いわけではないもの。ソニアに逢って、私がそこまで性悪でないことを伝えたいわ」

 それで、ルクレツィアはラウラを呼んだのだ。

 アントネッラ・マンツォーニはショックを受けたが、それでも取り乱したりはしなかった。はじめからソニアだと知っていたら、決して抱かなかったであろう好意を有能な使用人に抱いていたことは確かであったし、ラウラが愛人の娘とわかったというだけでこの四年間自分と屋敷に対して示してくれた誠実と信愛に眼をつぶるほど偏狭な性格でもなかったからだ。アントネッラはきっぱりと言った。

「あなたの申し出を喜んで受け入れることにするけれど、あなたがエミーリオの娘であり、彼があなたの将来を何よりも大切にしていたことは確かなんだから、私は屋敷を売ったお金を独り占めしたりはしません。ちゃんとふたりでわけましょう」

 そして、それからアントネッラはスウェーデン人にエミーリオ荘を売却し、ミラノ郊外にフラットを買ったのだ。これまでのように常時使用人を置くことはできなくなったが、通いの使用人に給料を払うぐらいは十分に可能だった。それに、広大なエミーリオ荘と違って機能的なフラットは住み込みの使用人は必要なかった。

「私たちは借金を返すために、馬車馬のように働くことになりました」
そういってクリスチャンは快活に笑った。

 若い二人は希望に燃えているからそれもいいのだろう。裕福な実業家の父親と一緒にインテリア関係のビジネスをしているというクリスチャンと、ストックホルム大学でイタリア語とアフリカ史を教えているというラウラなら、さほど遠からず借金を返済してエミーリオ荘に自由に滞在できる日がくるのかも知れない。いずれにしてもイタリアのヴィラの購入などはなからお話にもならない経済状況のオースティン氏には遠い異星のできごとと変わりがなかった。

 二人が幸せそうに帰った後、オースティン氏は半ば落込んだ氣持ちで紅茶を淹れた。もらったスウェーデンの名産であるアクアビット酒の瓶を横目で眺めながらため息をついた。

 彼女は香り高いイタリアの薔薇だ。手の届かない高嶺の花。豪奢なヴィラだの、芳醇たるワインだの、北欧の銘酒だの、華々しいインテリアビジネスだのといった世界よりも、この動物園の近くのこじんまりとしたフラットが身近であり、紅茶を飲んでいると何よりも寛ぐ。

 あの若く美しいカップルと自分とは住む世界が違うのだとつくづく思った。けれど、足元にはグルーバーがやはりどこにいるよりも寛いで座っている。その他意のないつぶらな眸をのぞきこんで、やがてひとことつぶやいた。
「ま、いっか」

 明日は、またマッコリー夫人がやってくる。こんな平和な人生も悪くはない。グルーバーと暮らす、もと通りのロンドンのフラットでの日常。三十年以上変わらずに我が家で嗜む紅茶はおいしい。

 電話がけたたましくなった。まさかとおもって受話器をとってみると、予感通りゴルツィ嬢だった。

 オースティン氏が何も言えないうちに、ラウラのこと、ストレーザの近況、新たな隣人になりそうなドイツ系スイス人に対する軽蔑嘲笑、キリスト被昇天の休日の時にピクニックにでかけて悪夢の渋滞にあったこと、その他にオースティン氏が後でどうしても思い出せなかったありとあらゆる類いのゴシップなどを、あいかわらずのスピードでまくしたてる。

 少しだけ受話器を耳から離しながらグルーバーに向って小さく眉をあげてみせた。もう元通りの日常なんてないらしい。でも、ま、いっか。毎日顔を合わせるわけでないし、口から生まれてきたようなイタリアの奇妙な令嬢と適度な友情をはぐくむってのも、人生のスパイスだな。

 グルーバーはくわばら、という顔をしてベランダの方に向かっていった。彼はどれほどオースティン氏が骨を折ろうともこの電話が一時間よりも短くは済まないことを十分承知していたのである。

(初出:2007年4月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】ヴィラ・エミーリオの落日 -2-

「ヴィラ・エミーリオの落日」の二回目です。

イタリアの保養地ストレーザを訪れたイギリス人オースティン氏と愛犬グルーバーは、招待主が戻ってくるまでの間、その隣のエミーリオ荘の世話になることになりました。そして、その屋敷の女主人アントネッラに内密で夫の娘を捜してほしいと依頼されました。

三つに切った二回目の今回は、エミーリオ荘の二人とは対照的にとても散文的な兄妹が登場します。

また話題に上がっている「ファボニオ(フェーン現象)」は、人びとの体調にも影響を及ぼす現象ですが、影響には個人差があり、全く感じないラッキーな人もいます。おそらくこの兄妹はほとんど何も感じないタイプ。




ヴィラ・エミーリオの落日 -2-
〜 オースティン氏のイタリア紀行


「君は、ご主人の娘さんのこと、なんか聞いているかい?」
思い余ったオースティン氏は、それから二日ほどしてから、こっそりラウラに聞いてみた。

 ラウラは一瞬なんのことかわからない、という顔をしたが、それから納得したように小さく頷いて言った。
「ご主人様は二十年近く奥様に内緒で別のご家庭もお持ちだったそうです。私がここに参ったときには、お嬢様のことをご存知の方は、この屋敷にはいませんでしたのよ。ご主人様が行方不明になられたので、全てが明るみに出たということですわ」

 それ以上のことをラウラに訊いても、到底答えてくれそうにもなかったので、オースティン氏は話題を変えてみた。

「君は、ずっとストレーザで生まれ育ったのかい?」
「いいえ。私は、アオスタの出なんです。スイスとの国境に近い山の町ですわ。」

「どうしてここに来ることになったの?」
「私の様な仕事を探すには、ここはいい町ですのよ」

 確かに、使用人としての仕事を探すにはいい町かもしれない。使用人を必要とする金持ちがいっぱい住んでいるんだから。

 だが、オースティン氏はさらに考えた。どうして使用人なんだ?そもそもラウラほどの才覚があれば、使用人以外の仕事だっていっぱい見つかるはずなのに。

 オースティン氏はラウラがこの家に関るほとんど全ての用事をひとりで切り盛りしていることについて、驚きと同時に違和感を隠せなかった。ラウラは掃除や料理の他に家計管理から格式ばった招待状の作成まで全てひとりでこなしていた。イタリア語と英語を流暢に操るだけでなく、彼女に相当の教養があることは、余計なことは一切言わなくてもわかる。

「どうしてもっといい仕事を探さないの」
数日前に会ったばかりの人に失礼とは知っていても訊かずにはいられなかった。使用人の職にしても、あのマンツォーニ夫人よりはいい雇い主はたくさんいるに違いない。

「ここが好きだからです。ファボニオは重くても」
「ファボニオ? 重い?」

「アルプスから吹いてくる風です。氣圧の関係で体が重くなり、何もかもがおっくうになるんですよ。頭痛や吐氣に悩まされる方もいます。私はそれほど感じる方ではないので幸いでしたけれど」

「今日も吹いている?」
「ひどいファボニオですわ」

 ラウラはそう笑って朝食を片づけた。だから、てきぱきと動けないんだな、とオースティン氏は納得した。

 空氣が重いのも、退廃した氣分になるのもそのせいなんだろうか。それとも、このマグノリアの香りのせいなんだろうか。

 庭の大きなマグノリアを見ようと首を伸ばした途端、アルカディア荘の門のところに車が停っているのに氣がついた。ゴルツィ氏が帰ってきたのだ!

* * *


「まったく申し訳なかったね」
悪びれる風もなくゴルツィ氏はいった。

 アルカディア荘はエミーリオ荘と何もかも対照的な場所であった。中途半端にお金のかかっているモダンなインテリアの中に座って、ゴルツィ氏の途切れることのないシチリア話を適当に聞き流しながら、一週間前にはエミーリオ荘の荒れ果てた外観や、氣位の高いマンツォーニ夫人の虚勢に氣後れしたのに、すでにエミーリオ荘の方に馴染みを感じている自分に首を傾げるオースティン氏だった。

 五十メートル離れていない場所に、あの時代に取り残されたような不思議な空間が存在している。そこにはもはや手に残っていない若さと権勢を未だに忘れられない一人の女と、何もかも手に入れられるはずなのにあの空間に全てを閉じ込めている美しい女がひっそりと住んでいる。

 それなのに、自分はここでアンディ・ウォーホールの絵を前に、いつ息継ぎをするかもわからぬほどひっきりなしにしゃべる散文的なイタリア人の話を黙って聴いているのだ。

「アントネッラ・マンツォーニが君を泊めたってのは驚きだったな」
ゴルツィ氏の言葉に我に返ったオースティン氏は、マンツォーニ夫婦のことについて、ラウラよりもずっとしゃべりたがっている男を止めたりはしなかった。実際のところ、オースティン氏もマンツォーニ家に何があったのか、興味津々だったのだ。

「エミーリオ・マンツォーニには、長いこと秘密のもうひとつの家庭があったのさ。たしか、ヴァレーゼの方だった思うがね。どっちしてもアントネッラはコモの社交界に未練があって、実家にいることの方が多かったし」

 ヴァレーゼに住んでいたあまり身分の高くない女とエミーリオの間には娘が一人生まれた。マンツォーニ夫人が探しているソニアという娘だ。エミーリオは、七年前にアフリカへ行き、消息を経った。マンツォーニ夫人が夫の失踪宣告を求めようと、裁判官と管財人に申し出てはじめてわかったのだが、もし、エミーリオが亡くなった場合には、財産の大半はアントネッラが存在すら知らなかったソニアが相続することになっていたのだった。

 つまり、エミーリオが亡くなったことにしなくては今後の生活に必要な財産を自由に処分することもできないのに、それをした途端に無一文になってしまう可能性があるのだった。そういわけで、現在住んでいるヴィラを修復することすらできない困窮状態に陥っているのだった。

「アントネッラはおそらくソニアを探しだして、わずかな金と引き換えに財産放棄のサインを迫るだろうな。貧しい連中というのは、裁判とか管財人とかそういう話を聞くと縮み上がってしまうからな」

「そんなバカな話ってないだろう。サインしなければもっとたくさんの金が手に入るのに」
「それが、ソニアの遺産相続の条件というのが、あのヴィラに住み維持をすることっていうんだ。貧乏人には無理だろう」

 そんな理不尽な話の片棒を担がされるのはいやだ、とオースティン氏は思った。ソニアを探しだしたとしても、あの夫人のいいなりにならないようにと忠告をしてやらなくては。

「そもそもソニアって娘のことはどのくらいわかっているんですか」
ゴルツィ氏は身を乗り出してきたオースティン氏を楽しげに眺めた。

「僕はほとんど知らないよ。でも、妹なら何か知っているかもな」
そういうと彼は立ち上がりドアのところまで行って上に向って怒鳴った。

「ルクレツィア。ちょっと来てくれないか?」
ゴルツィ氏に同居している妹がいるなんて知らなかった。ルクレツィアというからには金髪で薄幸な感じのイタリア美女であろうか。

 あらわれたのは、オースティン氏の予想を大きく裏切るタイプの女性だった。髪は赤いというよりは燃えるようなオレンジ色だった。金髪を染めたのではないかと思われる。さらいうと、その染色に失敗したのではないか、と疑うほどの妙ちきりんな色であった。

 その髪をきっちりと切り揃えた様子も、実に品のいい服を着ているところも、兄のように一目でブランド品とわかるようなものは一切身に付けていないところも、英国人たる自分の審美眼に叶っているはずであった。

 よくよくみると、顔立ちも品よく整い、動きも裕福な家庭にふさわしいものであった。それなのに、このゴルツィ嬢には、どこか「深窓のお嬢様」とは決して言えない独特の雰囲氣があった。すくなともルクレツィアという感じではなかった。

「マンツォーニ家について知りたいんですって?」
ルクレツィアはずけずけと訊いた。

 いたずらっ子のように灰色の眸をキラキラと輝やかせている。
「私はちょっと詳しいわよ。前の使用人やアントネッラからもずいぶんいろいろ訊きだしたしね」

 ルクレツィアはラウラの完璧に近い発音と対照的な、英語の単語と文法を着たイタリア語、というような話し方をした。たとえ英語でも、しゃべることに苦痛は露ほども感じないらしく、ゴルツィ氏の妹らしい冗舌で、エミーリオとヴァレーゼに住んでいた女のことを語りだした。

 ヴァレーゼに住んでいた女の名前などは不明だが、長年マンツォーニ家に使えていたエミーリオの乳母の身内だということであった。そもそもこの家に仕えた召使の半分はこの乳母と親戚筋に当たるそうで、ラウラもたぶんそのひとりなのではないかとルクレツィアは推測した。

「あの一家の紹介状があると、エミーリオは問答無用で雇ったし、エミーリオがいなくなって、さらに実家も時を同じくして破産して、他の使用人が雇えなくなったアントネッラも使用人を探すのなんてはじめてだったので、とっくに引退していたエミーリオの乳母に頼んで紹介してもらったそうなの。もちろん、その当時はこの乳母の身内とエミーリオができていたなんて知らなかったしね」

 とにかく、ヴァレーゼの女とエミリオはアントネッラに知られることなく、関係を続けていたのだが、この女はいまから八年ほど前に病でこの世を去ったのだった。既にソニアはケンブリッジに留学中で、独り立ちをしたも同然だったので、エミーリオは長年の夢だったアフリカ旅行にでかけたのだった。

「おまえ、エミーリオ・マンツォーニが失踪したときの新聞記事、どっかにもっていないか?」

 オースティン氏はちょっと驚いた。七年前の記事なんか誰が持っているというんだろう。

 もっと驚いたことにはルクレツィアはちょっと首を傾げた後
「たぶん、あるわ」
と、いって二人を二階の自分の部屋へと案内したのだった。

 この部屋がまた驚かせてくれた。尻尾を振って一緒にあがってきたグルーバーまでもがすこしたじろいだようだった。アルカディア荘は天井が高く、二階の個室でもそれぞれ四メートルほどあるのだが、ルクレツィアの部屋の壁の一方はその高い天井までのつくりつけの本棚になっていてそこにぎっしりと本や雑誌が詰められていた。

 十八世紀のアンティークのライティングデスクの脇に、ベコベコのベニヤ板でできた形も材質も違う箱形家具がいくつも無計画に置かれていて、その中も書類やら封筒やらでぎっしりであった。

 それだというのに収まりきれない本や雑誌や紙の類いがライティングデスクの上はもちろん、箱形家具の上にも、さらにわずかに歩いたり立ったりする場所を残して床にも積んであり、ルクレツィアは迷うことなくその山の一つに向かい、しばらくひっくり返していた後、一冊の雑誌に挟まっていた新聞記事をとりだした。

「あきれるだろ、この部屋。でも、こいつ、なんでもみつけるんだ。図書館で探し物をしてもこうはいかないぜ」

 ルクレツィアが見せてくれたちいさな囲み記事はイタリア語だったので、オースティン氏にはちんぷんかんぷんであったが、黄ばんだ写真にうつるエミーリオ荘はいまよりもずっとマシな状態であった。そのことをいうと、ゴルツィ氏は頷いた。

「エミーリオはあの屋敷を実に愛していたんだ。自分の名前と同じだったから買ったという経緯もあったみたいだけれど、女房より屋敷の方が大事に違いないと、みんなに陰口を叩かれていたものさ。湖に面しているいい立地だから、昔から売ってほしいというホテル経営者は絶たなかったが、一度たりとも首を縦に振らなかった。アントネッラはここをホテルに売ってまたコモやミラノで暮らしたいんじゃないかな。若いソニアがどうしたいかは、神のみぞ知るだけどね」

「ここが好きだからです。ファボニオは重くても」
あの女の言葉が、オースティン氏の心に甦った。

 その時にオースティン氏の心にひとつの疑いが芽生えた。

 ラウラこそソニア・マンツォーニその人なのではないかと。年齢も、見事な英語も、それからあんな屋敷と女主人のもとで黙って仕えているのも、彼女がエミーリオの娘であるからではないのか。

 そうだとしたら、彼女の狙いはなんなのだろうか。

 オースティン氏は、アントネッラ・マンツォーニに委任状を書いてもらうとケンブリッジ出身の友人を通して、セント・アン・コレッジの該当年の卒業生名簿を入手してゴルツィ氏あてに郵送してもらった。

 到着までには二週間ほどかかった。たぶんイギリスからイタリアまでが四日ほどで残りは怠慢なイタリア郵便局のせいに違いないと推察した。イタリアの郵便が想像を絶するほどのろいのはイギリスでも有名な話だった。

 その間、オースティン氏は、ゴルツィ兄妹と休暇を楽しんだ。マッジョーレ湖に浮かぶ三島を船でまわったり、モッタローネ山へハイキングにいったりして、イギリスよりひと足早い春を堪能したのだ。

 郵便が着いたときには、実はマンツォーニ家への好奇心はかなり薄れていた。いいかえれば、ファボニオによる体の重さに慣れてしまい、違和感を感じなくなったように、アルカディア荘の散文的なインテリアとひっきりなしにしゃべり続ける兄妹との暮らしに馴染み、エミーリオ荘にいたときの重苦しい詩的な寂寥感に心をしめつけられることがなくなってしまったのだった。

 しかし、ゴルツィ兄妹の好奇心の方はそう簡単に薄れることはなかったらしい。氣がつくと、すでに二人が名簿を検討していた。

「この年のアフリカ史専攻にマンツォーニという学生はいないな」
「ソニアってファーストネームもないわね」
ゴルツィ兄妹は首を傾げている。

 オースティン氏はひとつの名前をみていた。
アダンソニア・ステリタ。

 これだ。アントネッラをはじめとする皆が「ソニア・マンツォーニ」を探しても見つからないはずだ。ラウラ・ステリタはやはりソニアだったんだ。少なくとも、ソニアの身内だ。

 オースティン氏は自分の考えをゴルツィ兄妹に話すべきか迷った。二人は信頼できる人間だが、いかんせんしゃべりすぎる。ソニアが邸内にいることがアントネッラに伝わるのはもう少し後がいいような氣がした。少なくともラウラと直接話してからの方がいいだろう。
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Posted by 八少女 夕

【小説】ヴィラ・エミーリオの落日 -1-

今年ラストの小説は、一応読み切りなのですが、2万字もあったので3回に分けてご紹介しようと思います。

この小説は先日ご紹介した「羊のための鎮魂歌」と同じイギリス人ジョン・ヘンリー・オースティン氏と愛犬グルーバーの物語です。前作は1995年に書いたものですが、こちらはわりと新しいと思っていたら、なんと2007年に書いたものでした(笑)

このブログで私の小説をたくさん読んでくださっている方は「あれ?」と思われることが多いかと思います。もう使わないと思って設定をいろいろと使い回した、その原形が残っているんです。

ひっかかっても、全く別の小説ですので、お氣になさらずにお読みください。




ヴィラ・エミーリオの落日 -1-
〜 オースティン氏のイタリア紀行


 白木蓮の花は散りかけて茶変していた。まるで恋に破れて泣きはらした乙女のように、くたびれた様子で散りゆく時を推し量っているようだった。ジョン・ヘンリー・オースティン氏はここストレーザの暖かい春に潜む疲れ果てた空氣を感じていた。それは、ほかならぬオースティン氏自身がくたびれて途方に暮れていたからでもある。

 愛犬グルーバーは不平の鳴き声を漏らしたりはしない。このような場合、いつもグルーバーは賢く立ち回るのが常だった。つまり、ことさらつぶらな瞳でオースティン氏を見上げ、従順について行くのである。かくて誰もグルーバーのことを「静かにしろ!」とか「さっさと来い!」と怒鳴ってすっきりするなどということが出来ない算段なのである。

 オースティン氏は毎週家政婦としてフラットに来てくれるマッコリー夫人の言葉が正しかったことを認めないわけにはいかなかった。彼女は昨日もロンドンの動物園に近いフラットで荷物を詰めるオースティン氏にくどくどと話しかけたのである。
「なんといってもイタリア人がきちっと期日にことを運んだためしはないんですからね」

 オースティン氏は友人ゴルツィ氏はロンドンで長年商売をして成功をおさめているひとかどの人物だし、イタリア人といってもイギリス人に近いのだと説明したが夫人は納得しなかった。

「でも、見てご覧よ、この手紙を。これはシチリアから先月の終わりに出したものだけどね、四月の第一週にはストレーザに帰るから、それ以後はいつでも寄ってくれ、前もっての連絡はいらないって、ほらここに書いてあるだろう?」

 マッコリー夫人はふん、と鼻をならした。
「何が書いてあるかってことじゃあないんですよ、オースティンさん。私がいいたいのはね。イタリア人の約束なんて疑ってかかるに限るってことなんですよ。私なら、そのゴルツィさんだかなんだか存じませんけれど、電話が通じて、客間のベッドが空いているか、本当にストレーザにヴィラがあるのか、確認してからじゃないと、とても荷物なんて詰める氣にならないってことなんです」

 そういうと彼女はグルーバーの皿に自宅から持ってきた大きなハムの塊を入れてやり、大きく尻尾を振る彼女のお氣に入りを優しく撫でてやった。

 彼女の懐疑のうち、少なくとも一つは晴らしてやることができた、とオースティン氏はひとりごちた。ストレーザには間違いなくゴルツィ氏の所有のアルカディア荘が堂々たる門構えで建っていたのである。

 残念なことに、件の門はぴったりと閉ざされ、オースティン氏が呼び鈴を何度押そうと、門につかまって激しく揺らそうと、大声で旧友の名を叫ぼうと、決して開かれることはなかったのであった。午前中に軽い足取りでヒースロー空港にむかったオースティン氏は、既に暮れかかったストレーザで今夜の宿に困りつつ大きな荷物とグルーバーを抱えて途方に暮れているというわけだった。

「失礼ですが、シニョーレ」
ふいに女性の声がしたので、オースティン氏は醜態をさらしていたのではと後悔しつつ振り向いた。

 そこには二十代後半と思われる漆黒の髪をきっちりと結った使用人風の女性が立っていた。大変まじめそうな様子だったが、その緑色の瞳は少し楽しそうにきらめいているように見えた。

「奥様が窓からあなた様のご様子をご覧になり、何かお困りのようだから見て来るようにと私に申し付けました」

 話している途中から、オースティン氏には彼女がイタリア語ではなくて完璧なクイーンズ・イングリッシュで話してくれていることに氣づいた。だが、彼女はどこから見ても完全なイタリア美人だった。たとえ引っ詰め髪をしていても、である。

「ええ、じつは招待主である友人がいないようなんですよ」
かなり間抜けな説明をこのような美人相手にしなくてはならないことを情けなく思いつつも、オースティン氏は事情を説明した。

「それは、お氣の毒です。でも、ゴルツィ様はまだシチリアからお戻りではないんですよ。いずれにしても、奥様がどうぞエミーリオ荘でお休みください、とおっしゃっていますので、よろしければこちらへ」

 それで、はじめてその女性の指さす隣のヴィラに眼をむけた。そして、あやうく驚きの言葉を出しそうになったが、あわててひっこめた。

 アルカディア荘の三倍はありそうな広大な敷地にはかつては壮麗だったと思われるヴィラが立っていた。わざわざ過去形を使わなければならなかったのは、現在はちっとも壮麗ではなく、それどころか言われなければそこに人が住んでいるとは到底思えないほどの荒れ果てた外観だったからだ。

 かつてはクリーム色に塗られていたと思われる外壁はほとんど剥げ落ち、ローマ風の人物像の壁画はみじめに薄れていた。屋根瓦は崩れ落ちているし、第一、玄関の扉の木が半ば腐っている。庭の木々は美しいが、ちょうど白木蓮の散りかけた様子は、まさにそのヴィラと調和をなしていた。

 女性はオースティン氏の当惑に礼儀正しい無関心を装い、華麗な装飾はされているものの錆び付いた門をギギィと押した。オースティン氏は正直言って凄惨な荒れ方のヴィラに恐れをなしていたが、この一ヵ月のバカンス用の荷物や、これからの宿探し、ストレーザの坂の多い地形などを思い巡らし、また、この英語の堪能なイタリア美人のことも考慮に入れた。

 ふと氣づくと、グルーバーは大人しく女性についていくではないか。オースティン氏自身は決して認めなかったが、いつも愛犬のとっさの行動には無意識に絶大な信頼を置いていたので、グルーバーのしっかりとした足取りを見ただけで、いつの間にかこの屋敷に足を踏み入れてみてもいいかな、という氣になっていた。

 芝生のところどころに、彫刻が倒れている。小さな花瓶のような形の石も落ちていて、ふと見上げると、それは二階の装飾の一部が落ちてきたものだということがわかった。頭上注意だな、オースティン氏は首をすくめる。

 玄関の扉は重くどっしりとした木で、着色が剥げ、装飾が落ちてしまっているために、とりわけ荒んだ感じがしたが、よく手入れすれば見事なものだと思われた。その扉をすっと開けると女性は「どうぞ」と中に入るよう勧めた。

 オースティン氏が驚いたことには、外側の荒れ方から鑑みて、中の状態は思ったほど悪くなかった。確かに階段の手すり部分の装飾や天井画や赤い絨毯は少々年代が経ちすぎていたと見て、手入れが必要だと思われたが、それ以外のところは塵一つなくピカピカに磨かれていて、居心地が悪いとはいえない感じだった。

 女性が案内してくれたのは二階の東向きの部屋で、白磁の花瓶には桜の花が豪快に生けてあった。窓からは美しいマッジョーレ湖とボロメ諸島が一望の元に見渡せた。

「私はラウラ・ステリタと申します。このヴィラの使用人です。ご用の向きがございましたらいつでも遠慮なくお呼びください。ただいま犬用のバスケットと毛布、トレイなどをお持ちいたします」

 ラウラは簡潔に言ってその場を離れた。窓を開け放し、夕暮れに赤く染まるベラ島を見渡すと、涼しい風が部屋に入ってきた。荷物を簡単にクローゼットに納め、ピカピカに磨かれたバスルームで軽くシャワーを浴びる。タオルがふかふかだったことも、オースティン氏の印象をさらによくした。

 バスルームからでて、氣持ち良く真っ白に洗濯された枕カバーなどをちらっと見ながらオースティン氏はこの屋敷の持ち主のことを考えた。

「いったい、奥様ってのはどんな人なんだろう、グルーバー?」
グルーバーはすでに、心地よいクッションの入ったバスケットの中に丸まっていた。近くの椅子には毛布が、そしてその横にはグルーバーのトイレ用のトレイがおかれていた。

 しばらくするとラウラが食事の用意ができたと呼びに来た。グルーバーも一緒にと言う。オースティン氏はその心遣いに感謝するとともにほっとした。

 彼自身は認めなかったが、グルーバーがいないといつも何故か大変心細い思いをするのだ。

 一階の食堂はやはりかつては大変豪奢だったとおもわれる造りで、大きなシャンデリアが天井から外れて落ちてきませんように、とオースティン氏は秘かに祈った。二十人は座れるだろうと思われるテーブルにただ一人女性が座っている。

 オースティン氏は彼女の近くまで行って恭しく挨拶をした。その女性は重々しく言った。
「ようこそエミーリオ荘へ。私はここの女主人でアントネッラ・マンツォーニと申します」

「窮地をお救いくださいまして、心より感謝いたします。私は英国からきました、ゴルツィ氏の友人でジョン・ヘンリー・オースティンと申します。これは、私の連れのグルーバーですが、犬が同席してもよろしいのでしょうか」
「ちっとも構いませんことよ。お客様が犬を連れて滞在なさるのは普通のことですもの。特に狩のシーズンは、ですけれど」

 この家にお客様? とオースティン氏は少しだけ思ったが、もちろん口には出さなかった。

 マンツォーニ夫人は少々神経質な感じのする金髪美人だった。年のころは四十代後半から五十代、濃い化粧と強い香水の匂いがする。差し出された手にキスをする時、その指に三個も指輪が嵌めてあるのに氣づき、オースティン氏は驚いた。

 幸い、オースティン氏の席はマンツォーニ夫人の向かい、つまり二十人以上座れるテーブルの端と端だったので食事の間夫人の香水の匂いに悩まされることもなさそうだった。

 ラウラがスープを運んできて、給仕する。アスパラガスの薫りが食欲をそそる。オースティン氏はマンツォーニ夫人に訊かれるままに、自分がロンドンの小さな法律事務所に勤めていること、独身で家族はグルーバーだけであること、ゴルツィ氏とは仕事を通じて七年ほどのつきあいのある親しい友人であることなどを話した。

 ラウラがクリーム風味のニョッキを運んできた後、マンツォーニ夫人はこの屋敷は夫が三十年ほど前に購入したこと、その夫は現在はここにはいないことなどを氣取った言葉遣いで話した。

 ペンネ・アラビアータに続き、ウズラ肉と香味野菜ソテー、デザートにはパンナコッタのオレンジソースがけが運ばれてきた。どれもレストランに負けない味であるだけでなく美しい盛りつけである。選ばれたワインも全てがしっくり合い、普段は食に頓着しない彼でもこの屋敷の食事は並みならぬ水準であることに氣づいた。

「素晴らしい夕食でした。こちらでは特別なシェフを雇っていらっしゃるのですか?」
「いいえ、これはラウラが調理しているのです。お恥ずかしい限りですわ」

 オースティン氏はびっくりした。じゃあ、調理、盛りつけ、給仕を全部一人でやっていたのか? しかも完全なタイミングで出てきた。

 エスプレッソを飲みながら、先程からなんとなく変だと思っていたことが急にわかった。この屋敷にはこのマンツォーニ夫人という支配者とラウラという使用人の二人しかいないのだ。それなのに、使用人が五人も十人もいるような生活をしている。それが破綻せずにまわっているのが妙なのだ。

 隅々まで行き届いた掃除と心遣い、手の凝った料理と大仰な給仕、氣持ちのいいホスピタリティと貴族的な氣位。それは、居心地はいいもののどこか痛々しい感じがするのだった。それも痛々しいのは超人並に働いているラウラの方ではなく、むしろ年代物のカットグラスを物憂げに傾けるマンツォーニ夫人の方なのである。

「私の夫は貿易で財をなしましたの。ストレーザに住むのは子供の頃からの夢だったと申しましたわ。私は子供の頃からローマとコモを行き来する生活でしたから、夫がこの屋敷を買ったときも、特に感慨はなかったんですけれどね。不思議なことに私だけがこのストレーザに住むことになりましたわ」

「あの、失礼ですがご主人様はお亡くなりになったのでしょうか」
オースティン氏は恐る恐る訊いてみた。

「ラウラ、濃いエスプレッソをもう一杯持ってきて頂戴」
夫人は突然そう言い、それから永いこと黙っていたが、蝋燭の燃えるジジ……という音をきいて我に返ったように言った。
「実のところ、私は死んだと思っていますの。アフリカにはライオンとか、豹とかが沢山いますでしょう?」

 面食らったオースティン氏が答えを探して脳味噌をフル回転させているとラウラが銀のコーヒーポットを持ってテーブルに近づいて来た。

「今年で七年になるはずだわ。そうだったわね、ラウラ」
「左様でございます。奥様、私がこちらでお世話になる三年前のことでございますから」

 オースティン氏は助けを求めるようにラウラの顔を見た。ラウラは小さく頷きながら続けた。
「ご主人様は、ボツワナへおでかけになって以来、行方知れずになってしまわれたのです」

「余計なことは言わなくていいのよ」
マンツォーニ夫人の語氣の鋭さにオースティン氏はびっくりした。マンツォーニ夫人はコーヒーに手をつけないまま席を立った。

「いつまででも構いませんから、どうぞゆっくりご逗留なさってくださいね。外国のお客様を迎えるのは何よりも楽しいひとときですもの。たった一人で暮らしているのは、大層退屈なものですわ」

 夫人がいなくなるとオースティン氏はラウラに詫びた。夫人の叱責を浴びるようなことを言わせてしまったのはほかならぬ自分だとわかっていたからだ。ラウラは冷たくなったコーヒーを大して落胆した様子もなく片づけながら言った。

「お氣になさらないでください。奥様のお話の仕方には、びっくりなさったでしょう。でも、ご主人様のことは本当ですもの。他に申しようがありませんわ」
「それ以来、あの人はこういうふうに暮らしているのかい?」
「ええ」

 ラウラはイタリア人にしては言葉の少ない女性だった。英国の女性でも使用人というのはもう少し面白おかしく話すものだが、ラウラの返事からはあまり多くの情報は期待できない。

 だが、それでもオースティン氏はラウラに大変な好印象を持った。それは、これだけの有能で誠実な使用人に対してあのように冷淡に振る舞うマンツォーニ夫人への若干の反感も手伝ってのことだった。また、この使用人の話す英語が高等教育を受けたはずの夫人の英語よりもはるかに達者で正確だったことも、英国人オースティン氏の印象に大きく影響していることは間違いなかった。もちろん、イタリアに来て英語で通そうとしている自分のことは全く棚に上げて、である。

 それにしても、今日はなんという一日だっただろう。ピカデリーラインに乗り込んだときは、まさかこのような謎めいたヴィラで休暇が始まろうとは露ほども考えなかったものだ。この一件はなんとしてでもマッコリー夫人には内緒にしなくては。

 オースティン氏は洗濯のりの爽やかな薫りのする枕カバーに頭を埋め、バスケットにうずくまるグルーバーに「おやすみ」と声をかけた。グルーバーは満足そうに尻尾を振って見せた。

 まくら元のランプを消すと今晩は満月らしく、窓の外の白木蓮の大木がぼうっと浮かび上がって見えた。重く疲れ果てたように垂れ下がっている花びらの大軍。甘ったるくねっとりとした薫りが空氣を不透明にしているような氣がする。物憂げな空氣はストレーザの印象を大きく変えた。

* * *


 翌朝、少し肌寒い中オーステイン氏は自然と目が覚めた。体が重い。というよりは、頭の奥が鈍くうずいている感じで体があまり持ち上がらない。よく眠ったはずなのにどうしてだろう。

 彼は大変目覚めのいい性質だった。ロンドンではよほど早起きをしなくてはいけないとき以外は目覚まし時計を必要としない。よほど早いのかと思い時計をみると既に八時半をまわっている。慌てて起きて大急ぎで顔を洗い髭をあたる。

 ふと見るとグルーバーも大儀そうに毛繕いをしている。
「なんだ、お前も寝過ごしたのか。俺達、昨日の騒動でよっぽど疲れていたのかな」

 恨めしげに窓からゴルツィ氏の屋敷を眺めるが、やはり人のいる氣配は感じられない。いそいそと食堂に降りていくと階段を掃除しているラウラと遭った。

「お早うございます。オースティン様」
「お早う。シニョーラ・ステリタ。朝食に遅れてしまったようで大変申し訳ない」
「ラウラで結構ですわ。いいえ、ちっとも遅くございませんわ。奥様の朝食はいつも九時過ぎです」
と、微笑んだ。オースティン氏はその笑顔の爽やかさにどきりとした。

「朝食の準備は食堂に用意してございます。コーヒーになさいますか?紅茶やホットチョコレートなどもございますけれども」
「紅茶をもらおうかな。ミルクティを用意するのは大変かい?」
「とんでもございません。すぐにお持ちしますわ。卵料理なども召し上がりますか」

 オースティン氏は感激した。通常朝食では食べない卵料理を、英国人の自分のために用意しようかと訊いてくれている。
「いや、いいよ。君はただでさえ忙しいんだから」

グルーバーはまたはじまった、という顔をした。うちのご主人様はどうしてこう美人に弱いのだろう。

 そういうわけで、トーストではなく丸いパンとバター、ジャムとミルクティの朝食の間中、オースティン氏はせっせと働くラウラを見ながら、少々ぼうっとしていた。

* * *


「ロンドンにお住まいの前は、確かケンブリッジにいらしたっておっしゃいましたわよね、オースティンさん」

 愛想の良い笑顔を浮かべながらマンツォーニ夫人が近づいてきたのは、エミーリオ荘に滞在して五日目の午後も遅く、庭の樹木も少しくたびれた様相を見せはじめる時間であった。

 マッジョーレ湖を望む美しい庭園、どちらかというと手つかずの自然に近いものだったが、そこが英国人として氣に入ったオースティン氏は午後の散歩をしていたのだった。アントネッラは人目をはばかるように近づいてきたので、あきらかにラウラの眼をさけて彼と何かを話したかったのだろう。

「はい、書籍の販売に少し関っていた時代に、五年ほど住みましたが」
「ということは、今から十年ぐらい前は、ケンブリッジにいらしたの?」
「そういうことになりますね