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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】緑の至宝

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第5弾です。津路 志士朗さんは、もう1つ掌編で参加してくださいました。ありがとうございます!

 津路 志士朗さんの『魔法の呪文にも色々ある件について。』

志士朗さんの2つめの参加作品は、『揃いも揃ってクラスメイトの癖が強い。』の北条くんほか高校生たちのお話です。

下記のCプランのお題を組み込んで書いてくださいました。

今年の課題は
*ご自分の既出のオリキャラを一人以上登場させる
 メインキャラ or 脇役かは不問
 キャラクターであれば人どころか生命体でなくてもOK
*季節は「秋」
*身の回りの品物を1つ以上登場させる
*交通手段に関する記述を1つ以上登場させる


こちらも直接絡むのは難しかったので、「呪文(この作品ではマントラ)」をテーマに作品を書いてみました。「魔法の呪文」に読めないこともないですが、その辺りはわたしの作品なので「単なる偶然か、科学的にどうにか説明のできる事象なのかも?」にとどめてあります。

ちなみに、こちらに出てくる神様だかなんだかわからない存在は、実はこの作品で登場させたことがあります。


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緑の至宝
——Special thanks to Shishiro-san


 ライナスは、鋭い目つきで辺りを見回した。少なくとも4人の男たちにドハティ卿を載せる輿を担がせる予定だったが、現地人たちの抵抗で用意することができなかった。それで、アーナヴが簡易椅子を背負う形になり、前を見られない卿は機嫌が悪い。だが、他に方法はない。目指す寺院は、車が入れるような所ではなく、車椅子すら通れないような足元の悪い隘路の先にある。

 夜明け前に出発しなくてはならないので、夜行性の野生生物に出くわす危険もあるが、ここ数日の高温を考えれば卿の健康にはいい。アーンドラ・プラデーシュ州は、デカン高原に位置するハイデラバードとは違う。真夏ではないのに、日中は40度近くまで上がり、湿度も高い。南東インドは、体調のよくない高齢者に心地いい氣候ではない。しかし、卿は自分で行くと言い張った。

 ライナス自身もこの近辺に足を踏み入れるのは初めてだ。子供の頃にハイデラバードに住んでいたため、簡単なテルグ語を理解できる彼は、それが決め手でドハティ卿の側近に取り立てられた。青年期にイギリスに戻って以来、インドにもヒンズー教寺院にも縁の無い生活をしてきた。そう、興味はほとんどない。インド人の女にもだ。

 ハリシャに近づき、心にもない愛の言葉で懐柔したのは、もちろん例のマハーマーユーリー寺院に到達するための足がかりがほしかったからだ。結局、ハリシャの父親アーナヴが卿を背負い寺院まで案内することを考えれば、ライナスの企みは成功したといってもいいだろう。

 欲しいものを手に入れた後は、黙ってインドを去る。ハリシャもアーナヴも追ってくることはできない。それを見越して、ライナスは彼に関する情報はすべて虚偽のものを伝えてある。

 秘密主義のドハティ卿が、ライナスに手の内を晒してくれたのは、数ヶ月前のことだった。東インド会社時代にこの地にいた4代前のドハティ卿の妻、レディ・アイリーンが残した日記にこの地とマハーマーユーリー寺院のことが書かれていた。

 1860年代、ゴールコンダ・ダイヤモンドで有名なコルール鉱山が操業していた最後の時期だ。ドハティ卿があれだけの財をなしたのは、おそらくゴールコンダ・ダイヤモンドの恩恵があったのだろうとライナスは想像している。

 王冠に取り付けられた《コ・イ・ヌール》や呪われた青ダイヤとして有名な《ホープ・ダイヤモンド》など宝飾史に残る名ダイヤモンドの多くがコルール鉱山で産出されたと考えられている。

 いまや、枯渇し廃鉱され過去のものとなってしまったコルール鉱山だが、レディ・アイリーンの時代にはまだ重要視されていた。

この村のマハーマーユーリー寺院については、暗号のように書くことにとどめます。親切なラージュに連れられて、わたしは早朝に川の向こうにたどり着きました。ああ、なんということでしょう。未開の地と思われているこの奥に、わたし達など及びもつかぬ世界が存在したのです。わたしは、この目で見たことを夫にすら言うことはできません。もしこれが知られたら、海の向こうからおそろしい勢いで何もわからぬハイエナたちが押し寄せてきて、すべてをめちゃくちゃにしてしまうことでしょう


 ドハティ卿は、レディ・アイリーンの日記の1ページを指し示して、ライナスの反応を待った。

「これは……」
「そうだ。彼女は、このとき療養のため別邸に滞在していた。ハイデラバードに残っていた夫には、何を見つけたのか伝えなかったのだろう。そうでなければ、もっときちんとした形で我が家に伝わっているはずだからね」

「では、あなたはレディ・アイリーンの見つけたものを探しすためにアーンドラ・プラデーシュに行くおつもりなのですね」
「そうだ。コルール鉱山ではなく、クリシュナ川沿いの小さなこの村に行って、マハーマーユーリー寺院とやらを見つけねばならぬ。しかも今年中に」

「なぜ今年なのですか」
ライナスは首を傾げた。この古い日記の記述を、卿はずっと知っていて、80歳近くになるまで探しに行かなかったのだ。40年ほど前なら、関節痛で100歩も歩けないなどということもなく、体力的にもずっと楽だっただろうに。

 ドハティ卿は、日記の別のページを開けて見せた。

ああ、どうか170年後のわたしの子孫が、この日記を読んでくれますように。その時代の人びとが今よりも精神的に円熟し、マハーマーユーリーの《緑の至宝》の真の価値を見いだせますように。そうでなければ、さらに170年待たなくてはならないでしょう


 ライナスは、考えつつ言った。
「170年に1度だけ。つまり、何らかの周期でこの《緑の至宝》とやらが現れる、見つけやすくなるということなんですかね」

 卿は頷いた。
「おそらくそうだろう。その隠された秘宝が現れるのが、今年というわけだ」
「《緑の至宝》とは、宝石でしょうか」
「おそらく緑のダイヤモンドだろう」
「ダイヤモンド?! エメラルドや翡翠ではなくて?」
 
「他の地域ならエメラルドなどもあり得るが、コルール鉱山のすぐ近くで他の石とは考えられないな。きさま、《ドレスデン・グリーン》は知っているだろう」

 卿の言葉にライナスははっとした。世界的に有名な珍しい緑のダイヤモンド。
「あれもゴールコンダ・ダイヤモンドなのですか。年代的にブラジル産なのかと……」

「インド由来だとする資料はなく推測の域は出ないが、ゴールコンダ・ダイヤモンドだと推測する根拠はある」
「それは?」

 卿は得意そうに語った。
「中がほとんど無傷で、窒素のほとんど混じらない透明度の高いタイプIIaなんだよ。41カラットもあるのに。IIaダイヤモンドは、すべてのダイヤモンドの1%未満しかないんだ。そして、それはゴールコンダ・ダイヤモンドの特徴なのだ」

 ライナスは息を飲んだ。
「では、あなたは、レディ・アイリーンがそのマハーマーユーリー寺院で《ドレスデン・グリーン》クラスのグリーン・ダイヤモンドを見つけられたとお考えなのですね」

「わしはそう考えている。マハーマーユーリーは孔雀を神格化した女神だから、緑色の宝石が奉納されている可能性は高い。盗難よけか神事かの理由で、170年に1度しか顕現しない仕掛けをされていたのを偶然彼女は目にしたのだろう。だが、彼女は、それを持ち帰ることはできなかった。だから、子孫にわかるように日記にそれを示唆したのだろう」

 それから数ヶ月が過ぎた。先にインド入りしたライナスは、首尾よく村の娘ハリシャと懇ろになり、村に定住したがる善良な外国人の演技を続けた。森の奥に地図に載っていないマハーマユーリー寺院があることも確認した。マハーマユーリーの祭があることを知り、その日に合わせてドハティ卿が先祖の足跡を追う金持ちとしてやって来た。

「なぜほかの男たちは、このご老人を運ぶのを断ったんだ」
ライナスは、アーナヴに訊いた。暗い足元を照らすために額につけたハロゲンライトが、アーナヴの浅黒い横顔を浮かび上がらせたが、背中にドハティ卿を背負う重みに俯きながら歩く男の表情はよくわからない。
「あの寺院は観光名所ではない。とくに今朝は……」

 ライナスは、森に先ほどまでは聞こえなかった鳥の囀りが始まったので、見回した。
「君1人で背負ってもらうことになったのは氣の毒だが、他に案内してくれる村人がいなかったのは予想外だったよ。……夜明け前に間に合うと思うか?」

「ええ。もう、そう遠くありません」
アーナヴの言葉の通り、直に川のせせらぎが聞こえてきて、木々が途切れる場所に出た。そこに見えている地平線近くはわずかに薄紫色に変わりだしている。吊り橋があり、アーナヴに続いて渡った。

 それから5分も歩かないうちに、不意に森は途切れ、何もない村しかない地域には不釣り合いなほど大きな石造寺院が現れた。一緒についてきたドハティ卿の部下や医者らが口々に驚きの声を上げた。

 その寺院は、苔やつる性の植物に覆われ、決していい状態とは言えないが、巨大な一枚岩を削り出して作ったと思われる楼閣にはたくさんの彫刻が施されている。

 アーナヴは、そっと腰を落とし、ドハティ卿を降ろした。ドハティ卿はようやく目指したマハーマーユーリー寺院を自らの目で見ることができた。
「これが!! さあ、中に入るぞ」

 だが、アーナヴは、どういうわけか寺院の正面にではなく、今やって来たばかりの川の方向に向いて、跪き頭を地面にこすりつけた。

「何をしているのだ。この寺院の中に、神像があるのではないのか?」
ライナスが訊き、アーナヴは答える。
「はい。しかし、今の時期は神像ではなく、マハーマーユーリーご本人に敬意を示すのが正しいのです。ハリシャは説明しませんでしたか?」

「ハリシャは、今朝寺院にいけば《緑の至宝》を目にするでしょうと言っていたが……。神像に緑のダイヤモンドがついているのではないのか?」
ライナスは、言葉をきちんと理解していなかったのか不安になった。

 アーナヴは不思議そうに見た。
「緑のダイヤモンド? いいえ。《緑の至宝》はダイヤモンドではありません」

「ダイヤモンドではない?!」
ライナスが大きな声を出し、ドハティ卿は、英語に通訳するように命じた。

「ダイヤモンドではないとしたら、《緑の至宝》とはなんなのだ!」
ドハティ卿は、急いで暗い寺院の中に入っていき、目をこらした。寺院の中は、緑色のつる性植物で覆われている。その奥に非常に大きい神像、孔雀の羽を広げた装飾の神像があった。

 ドハティ卿が、ライナスとアーニヴに説明を求めようと再び入り口に向かったとき、夜明けが輝きだした。

 そして、真っ赤に燃え立つ地平線を背に、誰かが歩いてくるのが見えた。

「ハリシャ?!」
ライナスは、アーニヴの娘、今のところは自分の恋人と目されている女の名を叫んだ。しかし、近づいてくるその人物は、純朴な村娘その人ではなかった。

 美しい顔は、女のようでも男のようでもあった。体つきも華奢ではあるが、女性らしい膨らみやくびれはない。そして、わずかにではあるが自身から光を発しているように見える。それともそれは夜明けの特別な光と朝靄が見せる幻影だろうか。

 アーニヴは、自分の娘には決してしないような態度でひれ伏した。その人物は、緑色の光沢のある布を身に纏っている。そして、ゆっくりと孔雀の派手な尾羽が後ろに広がった。いや、それも目の錯覚かもしれない。そのような装飾の服を着ているだけなのかもしれないのだ。

 近づいてくるその人物のはるか後ろには、一緒にここに来るのを拒んだ村人たちが続いていた。怪我をしている者や、長らく病で寝込んでいた老女までが行列をなしていた。

 孔雀の羽根飾りをつけた人物と村人たちは、ドハティ卿の一行が目に入らないかのように通り過ぎて、寺院の中に入った。それに続くアーニヴの姿で我に返ったライナスは、ドハティ卿に手を貸し、一緒に寺院の中に入っていった。

 寺院の中にも朝日が入り、中の様子がよく見えるようになっていた。緑の服装の人物が、神像に背を向けて立った。神像と人物の背丈はまったく一緒で、神像の姿は完璧に隠れ、緑の服の人物がちょうどマハーマーユーリー神像そのもののように見えた。

 やがて、その人物は朗々とマントラを唱えだした。孔雀の尾羽は震えてさらに広がって見えた。

 寺院の高い天井は、その声を反響させた。

「こ、この声は……」
ドハティ卿は、ライナスを見た。

「マントラですね。サンスクリット語の呪文のようなものです」
ライナスは小声で説明した。

「だが……この残響はいったい……」
普段は威圧的で居丈高なドハティ卿が、珍しく不安そうな様相で寺院の中を見回している。

「インド人は、マントラの振動が、人の意識やエネルギーに直接的に作用すると信じているそうで……もちろんわたしはそんなことは信じていなかったのですが……」
ライナスもまた、意味はわからないものの、寺院内に満ちる力強い音響に脅威を感じている。

 やがて、村人たちが唱和しはじめた。寺院内はもっと大きな響きに満ちた。

 長い残響が消えると、寺院内は静寂に包まれた。そして、ライナスは寺院の外に激しい雨が降っていることに氣がついた。その雨は、まるで滝のようで、イギリス人たちは顔を見合わせた。

 雨は長く続かず、また突然に止んだ。太陽の光が森の木々に残った雫に反射して輝いている。村人たちは、喜んで寺院から出て行った。

 ライナスは、先ほどまで足を引きずっていた男や、弱々しく歩いていた老女が、颯爽と歩いていることに氣がついた。驚いてドハティ卿をみると、彼もまた背が伸び、10歳以上も若返ったかのように足を動かしている。

「どういうことだ。痛みが全くない……」
卿は首を傾げている。同行していた医者が驚いて駆け寄った。
「まさか! あの関節の状態で、そんな風に歩けるはずはないのに……」

 ライナスは、驚いて孔雀の羽をつけたあの人物を見ようとした。だが、そこには石の神像があるだけで、あの美しい人物は影も形もなかった。

「孔雀は毒蛇を食べます。マハーマーユーリーは、毒蛇や病などあらゆる災難を取り除くのです」
アーニヴが、ライナスの困惑した顔を見て言った。

「あれは、一体だれなのだ。ハリシャに似ていたが、お前の親族なのか?」
ライナスが訊くと、アーニヴは首を振った。

「私の親族ですって? とんでもない。あの方が170年に1度しか現れない《緑の至宝》マハーマーユーリーです。病を癒やし、雨を降らせ、毒や災難を取り除きます。それだけでなくかのマントラは人間の3つの毒である欲・怒り・愚かさを滅して安楽をもたらしてくれるのです」

 ライナスは、動揺しつつもアーニヴの言葉をなんとかドハティ卿一行に通訳した。  

 ドハティ卿は、帰りの道のりを1人で歩いていった。医者は、ずっと首を傾げ続けていた。ライナスは、別のことで首を傾げている。卿がダイヤモンドのことを忘れてしまったかのように、何も口にしないことだ。

 レディ・アイリーンの日記について、ライナスは考えた。170年前に療養中だった彼女もまた、当時の村人たちと共に、あの不思議なマントラによって癒やされたのだろうか。

 村人たちの後ろに続いて橋を渡っているとき、向こう側にまたあのマハーマーユーリーの姿が見えた。もっとよく見るために人びとの間から覗くと、そこにいたのは緑色のサリーを着たハリシャだった。

 まるで若返ったような老女に近づき、嬉しそうに微笑み祝うハリシャは、朝日の中で輝いているように見える。その姿は、170年に1度しか現れない不思議な存在に劣らぬほど、神秘的で美しい。数日後にはライナスが置いて去ろうとしていた未開地の田舎娘は、もうどこにもいなかった。

 ライナスに氣がついたハリシャは、謎めいた微笑みを見せた。彼は、レディ・アイリーンの日記に書かれていた言葉をもう1度噛みしめた。
「《緑の至宝》の真の価値を見いだせますように」

(初出:2024年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】彼女と話をしてみたら

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第4弾です。津路 志士朗さんは、掌編で参加してくださいました。ありがとうございます!

 津路 志士朗さんの『紅葉、色づくまで。』

志士朗さんは、オリジナル小説と庭とご家族との微笑ましい日々を綴られる創作系ブロガーさんです。代表作の『エミオ神社の子獅子さん』や、現在連載中の『揃いも揃ってクラスメイトの癖が強い。』など、とてもよく練られた設定の独自の世界を、軽妙な文体で展開なさっています。あと、執筆がとても早いのは驚くばかりです。

今年書いてくださった作品の1つめは、子獅子さんシリーズの世界からの掌編です。本編でのメインの咲零神社の子獅子さんたちではなくて、智知神社の子虎さんを主役にしたすてきなお話です。また、下記のCプランのお題も組み込んでくださいました。

今年の課題は
*ご自分の既出のオリキャラを一人以上登場させる
 メインキャラ or 脇役かは不問
 キャラクターであれば人どころか生命体でなくてもOK
*季節は「秋」
*身の回りの品物を1つ以上登場させる
*交通手段に関する記述を1つ以上登場させる


お返しの作品をどうしようか悩んだのですが、あちらのお話はきちんと収束していますし、無理に絡む余地はなさそう。また、わたしの世界には霊獣もいませんので、どうしようかと迷った結果「毛色」だけをいただいてくることにしました。

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彼女と話をしてみたら
——Special thanks to Shishiro-san


 ああ、カボチャのサラダ、始まったんだ。これ美味しいのよね。三智子は微笑んだ。商品が入れ替わって秋らしくなった。

 洋風惣菜を扱う店でパートをはじめてそろそろ1年だ。教わるばかりだった去年が懐かしい。今は新人パートやバイトの指導を任されることも多くなってきた。

「浜崎さん、そろそろポテトサラダがなくなるから、奥の冷蔵庫から出してきてください」
三智子は、暇そうに立っている浜崎京子に声をかけた。普段なら三智子自身が取りにいくのだが、ちょうどサラダ3種詰め合わせセットのラップかけの作業中だった。

 お弁当を買いに来るOLや、昼食の惣菜を探しに来る客たちが増える11時半までに、オープン冷蔵ケースに商品を並べる必要がある。

 京子は、露骨に嫌な顔をした。
「あたしに指図するんですか。社員でもないのに」

 三智子は、うわ、面倒くさいこと言い出した……と思った。川口主任は、いま会議中でいないし、同じパートに指図されるのが嫌なら、自分で考えて動けばいいのに。

 しかたないので、1度作業を中止して、自分で取りに行こうとしたところ、ポテトサラダの皿を持って、奥から松田エリ子が出てきた。
「わたし、持ってきましたぁ。あ、おはようございまーす」

 エリ子は、先月入った学生バイトだ。若干時間にルーズなのか5分程度遅刻することがよくある。今日は20分遅れだ。

「松田さん。前から言おうと思っていたけれど、あなた、社会人としての自覚はないの?」
京子がさっそく、説教をはじめようとしたが、幸い客が来たので、続かなかった。

「まだ社会人じゃないし~」
 小さく言ってぺろっと舌を出すエリ子に、三智子はとにかく対面ケースのポテトサラダの皿を下げて新しい皿と取り換えるように目で促した。遅刻の説教は、あとで社員がするだろう。いまは時間が惜しい。

 エリ子は、悪びれない。ハキハキして覚えもいいし、三智子にとっては京子よりも一緒に働きやすい。

 忙しい昼の時間を無事にやり過ごして、ようやくひと息つくと、エリ子が言った。
「あ、時間だ。休憩いただきまぁす」

 京子が、咎めた。
「ちょっと。遅くきたんだし、休憩は遠慮しなさいよ。ねぇ、主任、そう思いません?」

 社員の川口主任は、「いやぁ、いまどき、そういうわけにも……」ともごもご言うだけだ。

 エリ子は氣にせずに、行ってしまった。京子は不満たらたらだ。
「主任は甘すぎます。遅刻の常習だけじゃなくて、あの髪の色だって!」

 エリ子の髪は青い。黒髪に青い光沢がある程度ではなく、2回はブリーチをしてかなり鮮やかなコバルトブルーに染めてある。

 三智子は、黙って洗い物を終えると、炊事手袋とダスターを定位置に干して、川口主任と京子の方を見た。
「じゃ、お先に失礼します」

 今日は早番だったので、これで定時だ。川口主任は時計を見て「あ。そうだね」と言った。京子はこちらも見ずに「お疲れ様」と言った。

 バックヤードに向かっていると、後ろから川口主任が追いかけてきて声をかけた。
「吉川くん、ちょっと悪いんだけどさ」

「はい、なんでしょう?」
三智子が振り返ると、彼は声をひそめた。
「社員食堂を通るだろう? 松田くんに、遅刻のこと、ちょっと注意してくれないかなあ」

 川口主任は、いつもこんな感じだ。それはパートじゃなくて社員の仕事だと思うんだけどなあ。

 社員食堂はそこそこ賑わっていたが、エリ子はすぐに見つかった。窓際のカウンター席でスマホを見ている。

「松田さん」
声をかけると、エリ子は振り返った。三智子を見ると軽く手を振った。
「吉川さん。あがりですか」

「ええ。隣、いい?」
「どうぞ」

「飲み物、買ってくるわ。松田さんはどう? ご馳走するわよ」
「わ。いいんですか? じゃあ、サイダーにしようっかな」

 三智子は、荷物をエリ子の隣の椅子に置いて、アイスコーヒーとサイダーを買ってきた。

「はい。どうぞ」
トレーをカウンターに置くと、エリ子はペコッと頭を下げた。
「サンキューですっ。サイダー、久しぶりだな」

 三智子は、どうやって話をしようか、考えながら言った。
「もう慣れた?」

「うーん。そうですね。楽しくなってきました。接客業はじめてだし、続くか心配だったんだけど」
「あら。ハキハキ接客しているから、初めてだとは思わなかったわ」
「うち、商店街の食器屋で、子供の頃から親の接客見てたし。吉川さんは? ここ、長いんですよね?」

 三智子は首を振った。
「いいえ。1年ちょっとよ」
「え~? そうなんですか。なんでも知っているし、ずっとここにいるのかと思ってた」

 エリ子は、人なつっこく笑った。三智子は肩をすくめた。
「川口主任が赴任していらっしゃるちょっと前だったの。だから、いろいろ訊かれて、古株みたいに見えちゃうのかも」
「あ。だから浜崎さんがキーキーいうのかぁ」

 京子の三智子に対するトゲのある態度は、エリ子にも丸わかりだったようだ。

「さっき、遅延証明は吉川さんに渡した方がいいのか、それとも主任を待つ方がいいかって訊いたら、吉川さんは社員じゃないってものすごい剣幕だったんですよ。前言ってたけど、浜崎さん、ここの本社に内定決まっていたのに辞退したんですって。入社していたら、吉川さんどころか、川口主任よりも自分の方が偉かったのにって。でも、そんなイフの話したってしょうがないですよね」

 あら。そうだったのね。もしかして、それで……。

 浜崎京子がパートとして入りたての頃に、強引にSNSの連絡先交換させられた。以来、たまに流れてくる彼女のストーリーに、まるで彼女が本社の企画担当でもあるような口調の短文と共に職場の催事が登場していることに首を傾げていた。

 結婚して退職する前は全国展開の有名デパートで企画を担当していたと言っていたから、その頃の思い出をオーバーラップさせて書いているのかと思っていたけれど、もしかして、本人の思いの中では、今でも大手デパートの正社員のままなのかもしれない。

 そんなことを考えていたが、不意にエリ子の言った別のことに思い至って、驚いた。三智子はあわててサイダーを飲むエリ子の方に向き直った。
「ちょっと待って。遅延証明って言った? それって今日の遅刻の原因なの?」

 エリ子は不思議そうに見た。
「そうですよ。電車停まっちゃって。いつもの寝坊と違うから、来てすぐに浜崎さんに遅延証明をどうするのか訊いたんです。そしたらタイムカードのところに挿しておけばいいって。違うんですか?」

 三智子は返答に困った。遅延証明だけの問題ならそれは間違っているとは言えない。でも、遅れた原因をきちんと言ったのに、それが三智子と川口主任に伝わらなかったのは、知っていてわざと黙っていた京子のせいだ。でも、ここでそれを言えば同じパートの悪口を言っているようになってしまう。

「遅延証明に関しては、それで間違っていないんだけれど、この休憩終わったら、口頭でもう1度主任に理由を話した方がいいわ。……伝わっていなかったから」
そう言うと、エリ子は「あ」という顔をした。
「もしかして川口主任から遅刻の件でお説教するように言われたとかですか?」

 三智子は曖昧に笑って頷いた。エリ子はストローを振り回して言った。
「そっか~、浜崎さんにだけ言ったのが間違いだったか。ま、いつも遅刻しているし、お説教されても不当じゃないですよね」

 三智子は、わかっているんだと心の中で思った。
「学校の授業だと、遅刻しても叱られて済むくらいだけれど、仕事の時は、そうはいかないの。でも、松田さんが自分でわかって直そうとしているなら、うるさく言うつもりはないわ」

 エリ子は頷いた。
「努力しまーす。吉川さん、人間できていますよね。いろいろ決めつけて怒ったりしないし」

「そんなことないわ。今日の遅刻の理由、訊かなかったのは先入観あったからよ。それは謝らなきゃ」
「ははは。でも、だからって浜崎さんみたいに意地悪したりしないし、やっぱ人間できてますよ。……あと、話わかるだろうなって思ったのは、髪の色。きれいに染めてるし」

 三智子は、「え?」とエリ子の顔を見た。本心からそう思って言っているらしいとわかると、苦笑していった。
「これ、お洒落のために染めているんじゃないの。わたし、若白髪の家系でね……」

 三智子は40代なのに頭髪の3分の1以上が白い。あまりにも目立つので、白髪染めをしないわけにはいかない。ただ、3週間に1度と高頻度で染めるので肌にいいヘナとインディゴで植物染めをしている。

「そうなんですか? いっぱいメッシュ入れていてかっこいいなあって思っていたんですよ」

 三智子は苦笑した。ヘナ染めはブリーチ後の化学染料使用とは違って、黒髪の色は変わらない。その結果、黒髪とヘナとインディゴの相互作用による焦げ茶色、そして、インディゴが上手く入らなかったためにオレンジっぽい色の部分も残り、3色が何となく入り交じっている。

「あら、ありがとう。メッシュにしているわけでなくて、自分で染めているから、ムラになっているだけなんだけれどね。松田さんは、美容院で染めているんでしょう、それ?」

 エリ子は首を振った。
「セルフブリーチですよ。でも、自分でじゃなくて、美容師目指しているルームメイトがやってくれているんです。練習と実験を兼ねて。このブルーは、めっちゃお氣に入りなんです。お堅いとこ就職したらできなくなっちゃうから、今のうちにいろんな色を楽しみたいんですよね」

 三智子は感心した。
「先のことも考えてやっているのね。確かにバイトなら許されても就職したらできないことも多いんでしょうね」
「そうなんですよね。みんな同じ格好させて、違いなくさせて面接とか、何の意味があるのかって思うけど、文句言ってもしょうがないし。ま、でも、不自由はあっても、そのときどきに楽しいことを見つけるつもりなんで、今は、今にしかできないファッションを楽しみます」

 三智子は、自分よりずっと若いこのバイトの女の子に対して、一見問題のある言動にもかかわらず、常に好意を持ち続けている根源がはっきりわかったような氣がした。

 この子は、自分のやりたいこと、大切にしたいことがはっきりわかっているのだ。好きなことを存分にしていれば、卑屈になったり、反対に人を攻撃したりする暇なんかないのだろう。

 三智子は微笑んで立ち上がった。
「ええ。それには賛成だわ。……安心した。じゃ、今日の電車遅延のこと、ちゃんと主任に伝えるのよ」

 エリ子も立ち上がった。
「はーい。ごちそうさまでした。わ、早く戻らなきゃ!」 

 ちょっと立ち上がってから、また振り向いて言った。
「白髪染め必要になったら、吉川さんみたいにしようかな~」

 三智子は笑った。
「必要になるのはずっと先でしょう。まだそんなこと考えなくていいのよ」

 若い子と話すことはめったにないけれど、いいものね。帰宅はいつもより少し遅くなったけれど、三智子の足取りは軽かった。 

(初出:2024年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】毒蛇

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第3弾です。山西 左紀さんは、連載作品の最新話でご参加くださいました。ありがとうございます!

 山西 左紀さんの『白火盗 第五話』

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

今年書いてくださった作品は、左紀さんにとってはじめての時代小説「白火盗」の新作です。独自設定のもと、不思議な力を持つヒロインと、彼女にひかれる浪人の物語です。

お返しの作品は、もちろん左紀さんのお話の本編には絡めませんので、まったく関係のない話です。いちおう、お返しとして書きましたので「時代物(でも中世ヨーロッパ)」で、とあるシチュエーションだけまるまるいただいて書いてみました。

世界観は、現在連載中の『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』のものですが、現在のストーリーとはまったく関係ありませんので、連載を読んでくださっている方も、未読の方も、前作をお読みになった方も等しく「?」となる話です。登場するオットーという人物は、これまで1度も出てきていません。それ以外の人物は、連載中の作品の主要登場人物の先祖です。


【参考】
《男姫》ジュリアとハンス=レギナルドについてはこちら
【断片小説】森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走より
Virago Julia by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。

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毒蛇
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 オットーは、腕を組んで窓の方を見た。特に見たい物があるわけではなく、暗い部屋の中ではどうしても月明かりの差し込む窓に視線が向く。

 王都ヴェルドンの地を踏んだのは、2年ぶりだ。国王自身の婚礼がなければ、フルーヴルーウー辺境伯ハンス=レギナルドは、あと10年でも戻らなかったかもしれない。

 オットーは、「これまでに存在せず、今後も現れないであろう美しさ」と噂される花嫁、隣国ルーヴランのブランシュルーヴ王女にも、彼女が連れてきたという華やかな美女たちにも興味はなかったが、2年ぶりに国王に声をかけてもらい満足だった。

 それは異様な婚礼であった。花嫁とルーヴランから連れてきた4人の高貴なる乙女たちは、婚礼前だけでなく、婚姻の儀においても、その後のお披露目の宴でも濃いヴェールを外すことを許されなかった。

 それどころか、国王レオポルドは、新王妃を王城の王妃の間に住まわせることを拒んだのだ。本来、敵国から嫁いでくる花嫁を儀礼的に婚姻まで滞在させる西の塔に、そのまま厳しい見張りと共に置き、自らも塔で寝泊まりするようになった。

 はじめは、敵国による奇襲を警戒しているのではないかと噂した貴族たちも、やがて国王の怖れが自らの安全にはないことを理解しだした。彼は、新妻をほかの男に奪われることをなんとしてでも避けようとしているのだと。

 王朝史上もっとも大きな版図を拡大し、勇猛豪胆で、求心力のある国王には、決して拭えない大きな劣等意識がある。

 レオポルドは、異様に背が低く、オットーが立ち上がればその胸よりも下に頭が来る。また、細い目と低めの鼻に比べて口が大きい。敵国では《短軀王》または《醜王》と陰口を叩かれている。そうしたあだ名や容姿が劣ることを国王自身が氣に病んでいることは、側に仕える臣下たちはみな知っていた。

 おそらく、レオポルドが家臣としては誰よりも信頼する一方で、新妻の心を奪う可能性の存在としてもっとも警戒しているのがフルーヴルーウー辺境伯ハンス=レギナルドだろう。

 オットーの生まれ故郷ノルムは、グランドロン王国の北端にあるが、現在仕えているフルーヴルーウー辺境伯の領地は最南端にある。

 辺境伯爵領とは名前ばかり、実態は険しい山嶺《ケールム・アルバ》と広大な森《シルヴァ》の未開地だ。獰猛な動物と野蛮な周辺民の他には足を踏み入れる者もわずかしかいない。だが、《ケールム・アルバ》の南に広がるセンヴリ王国との交易や領土争いを有利にするためには、どうしても街道の整備をする必要がある。王国版図の拡大を目指すレオポルドが、着手した大事業だ。

 新たに設立されたフルーヴルーウー辺境伯爵領の領主となったのは、グランドロン王国ヴェルドン宮廷では特異な存在であった騎士ハンス=レギナルドだった。

 おそらく隣国ルーヴランの出身だと思われるこの男は、深い謎に包まれている。氣味が悪いほど整った容姿について、よくない噂をする者までいる。とある高貴な女が悪魔と交わって生まれた私生児だとか、いかがわしい男娼出身に違いないとか、ともかくその容姿について好意的な噂は聞いたことがない。とはいえ、女たちは噂には頓着せず、わずかでもこの男を振り向かせようとスダリウム布に高価な贈り物を忍ばせて手渡す。

 かつてのオットーは、他の騎士たち同様、この美丈夫に反感に近い感情しか持っていなかった。だがその自分に、国王はフルーヴルーウー伯爵の臣下になれと命じてきたのだ。2年前のことだった。

「このハンス=レギナルドの命令は、すなわち余の命令だ」
王は、オットーに言った。王の命令が絶対であるオットーは、かしこまって拝命した。

 ハンス=レギナルドを未開地に送り出したことを「厄介払い」と陰口を叩く者もいた。だが、そうではないことをオットーは知っている。オットーをはじめとする有力な騎士たちを何人も彼の助力になるようフルーヴルーウー辺境伯領へと送り出したのは、それだけこの事業が重要だからだ。憎み疎ましく思う男を、その要として選ぶはずがない。

 新たな主君は、レオポルドのようにわかりやすい尊崇は集めていなかった。国王の素早い決断と思慮深さ、辺りを払う威厳、忠臣をねぎらう公平な態度など、生まれながらの為政者として安定したありように心酔してきたオットーには、フルーヴルーウー辺境伯は奇異ですらあった。

 彼は、上に立つ者として育ってこなかったのだろう。命じることよりも自らが動こうとすることの方が多かった。恥や怖れを知らない。

 だが、不思議な魅力もある。部下たちの強みをよく見抜き、それぞれの得意な分野で活躍させる。異国の令嬢をたらし込み、軽率にも閨に連れ込むようなこともするが、諫言を口にしようとする部下に、悪びれもせずに女を通して手に入れたばかりの相手国の城門の鍵を渡してみせる。

 敵に奇襲をかける際の大胆不敵な発想や、寒く不快な野営でもへこたれぬ態度を見て、やがて臣下たちも新しい主君を認め、素直に従うようになった。

 とはいえ、フルーヴルーウー辺境伯の女に対する不品行ならびに女に対する影響力が衰えていないことは日の目を見るよりも明らかだったので、猜疑心にかられた国王は彼をはじめとする婚礼に集まった各地の有力貴族たちに、見張りの厳しい客間をあてがったのだろう。

 今宵のオットーは、そのハンス=レギナルドの戻りを待っていた。

 深夜に部屋を抜け出すと言いだした時には、ふざけているのかと思った。

「心配しなくとも王妃に興味があるんじゃないよ」
ハンス=レギナルドは笑って言った。王と共に西の塔にいるブランシュルーヴ王妃に夜這いをかけることは不可能だろうから、オットーもその心配はしていないが。

「じゃあ、お出かけはおやめになるべきではありませんか。ご婦人方は領地にもたくさんおられます」
オットーは控えめに言った。

「どうしても確認しなくてはいけないことがあるのだ。王妃が連れてきた4人の高貴なる乙女たちの名を聞いたか?」
主の言葉に、オットーは首を傾げた。
「ヴァレーズ、マール、アールヴァイル……それにバギュ・グリのご令嬢でしたか?」

 ハンス=レギナルドは頷いた。
「そうだ。あり得ない名前がある」
「とおっしゃると?」

 オットーの質問をハンス=レギナルドは無視した。
「確かめなくてはならない」

 そう言って密やかに出ていった部屋の主は、予定の時間を過ぎても戻ってこない。見回りの騎士の問いかけに代返をすること3度。それ以外はすることもない。寝台で寝てもいいと言われていたが、「狼の皮を被る者ウルフヘジン 」の名をもらったことのある誇り高いノルムの戦士は、主君を待つ間にだらしなく眠りこけたりはしないものだ。

 彼の本来の名はオホトヘレといい、かつては存在したノルム国の高貴なる戦士の家系に生まれた。ノルム王ウィグラフに仕えていたが、王の甥スウェルティングによるクーデターに際して捕らえられ、奴隷としてタイファのカリフに売られた30人の戦士たちの1人だった。

 グランドロン王国が対タイファ戦の戦利品として受け取った宝物・賠償類の中に、ただ1人生き残った彼が含まれており、レオポルド1世に氣に入られて奴隷の身分から解放され、騎士に取り立てられた。その時に名をグランドロン風にオットーと改めた。

 それだけでなく、かつての主君を殺した簒奪王スウェルティングと戦い、ノルムをグランドロン領に編入したレオポルドは、憎きスウェルティング処刑の際に、オットーに刃を握らせてくれた。騙され両親と妹を殺されたオットーが復讐を誓っていることを考慮してくれたのだ。

 それ以来、オットーはノルムの戦士としてではなく、グランドロン王の騎士として生きることに心を決めた。

 オットーは、レオポルド自身から「クサリヘビオッター 」というあだ名をもらった。攻撃が執念深く、敵を倒すまで決してあきらめない。また、昼よりも夜の奇襲で真価を発揮するところが、怖れられる毒蛇を想起させるというのだ。または、単に近い音を用いた言葉遊びかもしれない。実際にオッターという響きは、彼の実名の響きに近かった。

 窓に月がさしかかり、やがて消えた。見回りももう回ってこない。明け方になるまでは静かなままだろう。いつになったら主は戻ってくるのだろうか。

 扉の向こうにわずかな物音がした。そして、小さなノックが聞こえた。すぐに扉を開けた。

 するりと入ってきたのは、ハンス=レギナルドではなかった。黒く長い髪、挑みかけるように鋭い双眸を持つ女だ。

 戸惑うオットーにかまわず、女は後ろ手で扉を閉めると小さい声で訊いた。
「ハンス=レギナルドはどこ?」

「いま、こちらにはいらっしゃいません……あなた様は?」

 女は、オットーの方をチラリと斜めから覗くように見ると、馬鹿にしたような顔をして質問を無視した。
「そう。……あいつ、あいかわらずお盛んなのね」

 そういうと、寝台にドカッと腰掛けた。
「それで、お前はハンス=レギナルドの部下なの?」

「はい。わたくしめは騎士オットー・ヴォルフペルツと申します。お見知りおきを」
オットーは、型破りな女の様子に内心驚きつつも、礼儀正しく膝をつき挨拶をした。女はそれを立って受けるどころか、手を差し出すことすらしない。

「あいつが伯爵ねぇ」
そう言うと、窓の外を眺めて、足を組みその膝で頬杖をついた。

 オットーは、尋ね人がいなくても帰る様相のない女に戸惑った。暗闇の中とはいえ、その衣擦れと焚きしめた香から、侍女や下女などではないことはわかる。そのような女性と密室に2人でいることはあまり好ましくない。国王が警戒したのは自分ではないと思いたいが、見回りに見つかったらただでは済まないだろう。

 それに、主が戻ってきたら、この状況をどう思うだろうか。できれば、この部屋から出て行きたいが、主の代わりに見回りに返答する務めがある以上、そうもいかない。

 半刻ほど、お互いに口もきかずにそうしていた。やがて女は寝台に横になった。暗い部屋の中、表情などは見えないが、静かな衣擦れと均整のとれた肢体がゆっくりと動く様子に、オットーは思わず息を飲んだ。

「ここでお休みになるのですか」
のどが渇いたのか、声が枯れてうわずる。

「そうよ。何度も出向くほど暇じゃないからね」
女の声には、含み笑いが混じっている。衣帯を緩め膝を動かしているのを見て、急いで後ろを向いた。よく見えているわけではないが、騎士たる者、貴婦人の寛ぐ姿を淫らな目で凝視していると思われてはならない。

 この女が誰だかわからないが、フルーヴルーウー辺境伯とただならぬ仲であることは間違いないだろう。あらぬ疑いをかけられると、陛下の命令を全うできなくなる。また、見回りの者が近くにいる時に、大声でも出されたら、もっと大変なことになる。オットーは、女などいないかのように過ごそうと心に決めた。

 長い夜だった。あれほど歩みの早かった月は、その動きを止めてしまったかのようだ。時おり女の寝息と衣擦れと共に、焚きしめられた香が漂ってくる。オットーは、まとわり付く魔力に取り込まれぬように身を硬くした。

 ハンス=レギナルドは帰ってこない。オットーは壁の方を向いて小さな腰掛けの上でひたすら事態が変わるのを待っていた。

 自らの首がガクッと落ちかけるのに反応して、はっと起きた。いつの間にかウトウトしていたらしい。あたりは白みかけており、窓の向こうは赤紫色になっていた。

 含み笑いが聞こえたので、思わず振り向くと、女が寝台の上に起き上がっていた。明るくなったことで、女の姿がはっきりと見えた。

 白く透き通る肌。黒曜石のように輝く瞳。血のように紅い唇。ぞっとするほど美しい女だ。一瞬だけ「これまでに存在せず、今後も現れないであろう美しさ」の持ち主かと疑ったが、すぐに思い直した。ブランシュルーヴ王女は日の光のような金髪のはずだ。見るからに上等の布地と手入れされた手肌を見て、もしかするとこの女は、王妃に傅く4人の高貴なる乙女の1人ではないかと思った。

 ということは、主君ハンス=レギナルドが確かめたいと言っていたのは、この女の事なのかもしれない。だが、高貴な乙女たちはみな錚々たる家系の姫君ばかりだ。男の部屋を訪ねて勝手に寝たりするだろうか。

 身につけているのは寝室で着るような黒の薄物で、そんな姿で王城内をうろつき回っているとは信じられなかった。

 彼は、急いで女から眼をそらした。すると、寝台の上、足元にいくつかの衣類が無造作に置かれているのが見えた。

 オットーの戸惑いを見透かしたかのように、女はあけすけな笑い方をした。
「お前は意氣地なしね」

 彼は、度肝を抜かれた。そして、心外な思いを堪えて返答した。
「わたくしめは、ハンス=レギナルド様の臣下にて、騎士でございます」

 彼女は、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「人生は誰かが勝手に決めた手順に従ったり、他の者に遠慮して我慢するには、あまりにも短すぎるわ」

 女は恥じらう様子もなく、灰色の上着を身につけ、よく儀杖官が身につけるような黒い切れ込みのある立派な外套を鷹揚に羽織った。長い髪を器用に捻って角頭巾の中に押し込んだ。なるほど、見回りの兵士とすれ違っても、これならば高位の男と思われるだろう。

 その時、向こうから石の床を踏む金属的な足音が響いてきた。見回りだ。
「おはようございます。異常はございませんか、フルーヴルーウー伯爵様」

 オットーは、昨夜と同じように答えた。
「異常は無い。見回りご苦労である」

「はっ」
見回りは、次の部屋に向けて去って行った。

 女は、その足音が聞こえなくなると、扉を開けて、辺りを素早く見回した。
「ジュリアは待ちくたびれたと、ハンス=レギナルドに伝えるのよ、毒蛇オッター
女は笑った。血のように紅い唇が妖艶に広がる。そして、まだ暗い城内に消えていった。

 どっちが毒蛇だ。背筋に冷たい汗が流れた。

(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】一緒に剪定しよう

今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の植物』1月分です。今年は、植物をテーマに小さなストーリーを散りばめていくつもりです。

トップバッターは、『12か月のアクセサリー』の時に初登場させた花屋を経営する筋肉ムキムキ男&腐女子のカップルです。そして、植物は五葉松の盆栽です。

ずいぶん昔になりますが、東京で松の盆栽が展示されていました。樹齢を見たら500年でした! あの小さな鉢の中にそれだけの時間と、世話をした多くの人びとの歴史が詰まっているのですね。


短編小説集『12か月の植物』をまとめて読む 短編小説集『12か月の植物』をまとめて読む

【参考】
麗しき人に美しき花を
追憶の花を載せて



一緒に剪定しよう

 加奈は、剪定バサミを持ったまま、20分も右から左から眺めていた。テーブルの上にはかなり立派な盆栽がデンと置かれている。
「困ったなあ……」

「なんだよ。まだ悩んでんのか?」
ドアが開き、配達から帰ってきた麗二が笑った。

「うーん。やっぱ、わたし、この手の才能ないみたい。どうしたらいいのかわかんないよ」
加奈は、剪定バサミを置くと、盆栽をテーブルから持ち上げて部屋の片隅にある棚に持っていった。

「ちっちっち」
麗二が指を振って、加奈を止めた。

「なに?」
「五葉松は日当たりのいいところに置かなくっちゃダメだとさ」
麗二はスマホで調べながら言った。

「そっか。……わたし自信ないなあ。この松、近いうちに枯らしちゃいそう」
加奈はため息をついた。なんとなく枯れてきているような氣もする。

 大叔父が急逝したあと、子供のいない彼の遺産は、彼の兄弟姉妹またはその直系子孫が相続人となることになった。加奈の祖母は彼の妹だったが既に物故者だったので、加奈の母親が相続人の1人となった。結局、8人の相続人がいて、彼の住んでいた家を片付けて売りに出し、最終的に均等に分けたのだが、そこで1つの問題が発生した。大叔父の大切にしていた盆栽を受け取ることを全相続人が渋ったのである。

「そりゃあ、確かにわたしは園芸関係の仕事に就いているわよ。でも、盆栽とフラワーアレンジメントって、歌舞伎とバレエくらい違うのに!」

 娘の加奈が『フラワー・スタジオ 華』の共同経営者の1人だという理由で、その盆栽をほかの相続人から押しつけられた母親は、即日それを持って来てまくし立てた。
「ほら、わたしはサボテンも枯らすタイプでしょう。あの五葉松は樹齢30年以上なんですって。叔父さん、手塩にかけて育てたみたい。そういわれたら、すぐに枯らすわけにいかないじゃない。頼むわあ。ま、あなたがダメでも、麗二くんなら何とかしてくれるんじゃないかしら」

 加奈の公私ともにパートナーである麗二は「緑の親指」の持ち主で、どんなに難しい花でも咲かせる事が出来るし、部屋の隅で捨てられるのを待つばかりになっていた弱った鉢植えもいつの間にかピンピンにする事が出来る。

 だが、その彼ですら言った。
「盆栽はなあ。皆目わからないよ。根っこをコントロールすることで大きくなるのを抑えるってことくらいはわかるけど、やったことないもんなあ」

 困ったことに、大叔父は盆栽を育てるセンスがあったと見えて、受け取ったのは見事な仕立ての五葉松だった。龍のように波打ちつつもどっしりとした立ち上がり、正面から見たときのバランスのいい枝振り、丁寧に施された剪定、苔を押し上げる根のしっかりした張り、それに幹を故意に枯らした舎利のつけ方も絶妙だ。

「ま、これは枝が伸びてきたり育ったらどうにかすればいいのであって、今すぐ手を入れなくちゃいけないものじゃないだろ? その間に少し勉強すれば?」
麗二は、その枝振りをのぞき込みながら言った。

「そうよねぇ」
そういいつつ、店のショーウインドーの1つに置いたその盆栽は違和感を放っている。今はお正月氣分が残っているからいいものの、フラワーアレンジメントの店先に盆栽がある必要はない。バレンタインデー特集の時にはこのウインドーが必要になる。かといって、2階の自宅スペースのベランダは北側であまり日が当たらない。

「あれ」
麗二の声で顔を上げると、加奈もショーウインドーの向こうを行ったり来たりしている男性に氣がついた。杖をつきながらゆっくりと歩いているのだが、目は件の盆栽に釘付けだ。

 1度も見たことのない男性で、眉間に深く皺を寄せていて、声をかけたら怒鳴られるんじゃないかと思うような厳しい表情だ。麗二は、それでも果敢に入り口に向かいドアを開けた。
「いらっしゃいませ。よかったら中にどうぞ。寒いですし」

「いや。用があるわけじゃない」
男性はぶっきらぼうに答えて、立ち去ろうとした。

 その時だった。角を曲がってきた少女が大きな声を出した。
「お祖父ちゃん!」

 その子を見て、今度は加奈が声を出した。
「莉子ちゃん!」

「こんにちは、加奈お姉ちゃん。……あ、お祖父ちゃん、待って!」
少女は立ち去ろうとする男性のそばに行き、そのジャケットを掴んで引き留めた。

 麗二は訊いた。
「知ってる子?」
 加奈は頷いた。
「うん。従兄弟の子なんだけど。あちらの男性はどなたかしら」

「ねえ。この盆栽、見に来たんだよね。莉子と一緒に来てよ」
少女は、去ろうとする男性を必死で引き留めている。

 麗二は、2人の所に行って朗らかに言った。
「どうぞお入りください。盆栽のことなら、なおさらです。実は、俺たちも困っていることがありまして」

 男性は、立ち去りそうにしていた態度を変えて、じろりと麗二を見た。
「あんたは花屋だろう。何を困るっていうんだ」

「花は扱いますが、盆栽は畑違いなんですよ。もしかして、お客様こそお詳しいのではありませんか?」
そう言うと、莉子が大きく頷いた。
「そうだよ。お祖父ちゃん、いっぱい盆栽育てているじゃない! 誰よりも詳しいよ」

 加奈は驚いて、莉子に訊いた。
「本当? 達夫くん……莉子ちゃんのパパは、盆栽を育てられる人はいないって……。だから、しかたなくうちが受け取ったのよ」

 男性は、ぷいっと横を向き言った。
「そりゃ、わしの趣味なんぞ知らんだろう。我が家に来たこともないんだから」

「とにかくお入りください。お茶でも一緒にどうぞ」
麗二が言うと、今度は意外と素直に入ってきた。

 加奈がカウンターに場所を作って、男性と莉子を座らせている間に、麗二は奥に入ってお茶と羊羹を持ってきた。

 男性は、小さな声で「ありがとう」と言って飲んだ。
「失礼した。わしは、島崎隆生といいまして、酒田麻美の父親、この莉子の祖父です」

「高川加奈です。こちらは、パートナーの華田麗二です」
加奈は、自己紹介した。島崎氏は黙って頷き、お茶を飲んだ。

 莉子は嬉しそうに羊羹を食べながらはなした。
「昨日ね。酒田のじいじが亡くなって、松の盆栽が加奈ちゃんのところに行ったこと、莉子がお祖父ちゃんに話したの。そしたら、なぜママが引き取らなかったんだって、お祖父ちゃんと喧嘩になっちゃったの。お正月なのに」

 加奈は不思議に思った。酒田老人の葬儀には従兄弟の達夫だけでなくその妻で莉子の母親である麻美もいて、皆で盆栽を押しつけ合っていたのを知っていたのに、ひと言も口をきかなかったからだ。そういえば、父親なのであろうこの男性と麻美は面差しが似ている。

 莉子は、加奈に説明した。
「あのね、お祖父ちゃんの家に行っていること、パパには内緒なの」

 島崎氏は、ため息をついて口を開いた。
「お恥ずかしいことですが、わしは娘の結婚に反対して、挨拶に来ると言った婿を拒否したんです。それで、娘夫婦と10年近く関係を絶っていました。もっとも妻と娘はずっと外で会っていたようですが。それがわかって、2年くらい前から、娘とこの莉子が婿に隠れて会いに来るようになりましてね」

 なるほど。だから、麻美さんはお父さんが盆栽に詳しいことは口に出せなかったのか。

「この盆栽、とても立派ですが、俺ら素人の手には終えないのではないかと心配しているんです。島崎さんは、どう思われますか」
麗二が訊くと、島崎氏は五葉松をじっと見た。

「そりゃあ、簡単じゃないだろうな。……そもそもこの五葉松は、わしが種から育てたんじゃ」
それを聞いて、3人とも驚いた。

「ええ? お祖父ちゃんが?! じゃ、どうして酒田のじいじのところに?」
莉子は、加奈と麗二の想いを代弁した。

「実は先日なくなった酒田さんのひとり息子は、わしの友人でね。自分も盆栽を育ててみたいというので、ほどよく育っていたこれを譲ったんだ。友人はそれから5年もしないうちに事故で亡くなり、盆栽がどうなったかも知らなかったんだ。お父上がそのまま育ててくださっていたんだな」

 島崎氏は、立ち上がって五葉松に近づき、四方八方から眺めた。
「見事な枝振りだ。この最初の立ち上がりまで育てるのにとても苦労したんだが、それを生かすようにした上の幹の曲げ方も、どの方向から見ても素晴らしい。バランスの取れた半懸崖に仕立てようとしたんだな」

「ようとしている……って、できなかったの?」
莉子が立ち上がって一緒に眺めた。

「いや、できたさ。でも、この枝をごらん。せっかく長く伸ばした一の枝の先が枯れかけている。このまま放って置くとこの枝全体が枯れてしまう」
一番下の枝先だけ茶色く変色しているのが、加奈も麗二も氣になっていた。莉子は首を傾げてのぞき込む。

「直せないの?」
「そうだな。剪定して、新芽の勢いが増してくれば、もとのような樹形に近づけられるかもしれないな。うまく行くかどうかはやってみなければわからんが」

「今できる?」
「今、木は眠っているんじゃよ。やるとしたら春かな」

 それから、加奈と麗二の方を見て訊いた。
「あんたらが、やるかね?」

 2人は同時に首を振った。
「無理です。何をどうしていいのか、わかりません。この盆栽、お渡ししてもいいでしょうか」
加奈は正直に言った。

 島崎氏は、少し黙っていたが、首を振った。
「それはよくない。ここまで歳を重ねて上手く整った盆栽は、市場では高値で取引されているんじゃよ。婿は、あんたがこれを受け取ることには反対しなかったかもしれんが、わしのところに行くとなったら黙ってはいないだろう。そもそも、それではこの子がわしと会っていることもわかってしまうしな」

 麗二は言った。
「そうですか? 俺はこれを機に、普通に会えるようになる方がいいと思いますよ」

 加奈は驚いて麗二を見た。島崎氏も、麗二の顔を黙ってみている。

「そうだよ。お祖父ちゃんは、莉子のお祖父ちゃんだもの。なんでパパに黙って会わなくちゃいけないの?」
「そ、それはだな……」
「莉子が、パパに頼むよ。お祖父ちゃんと仲直りしてって」

 島崎氏の戸惑いを見ている限り、どうしても仲直りをしたくないわけでもないらしい。加奈の知る従兄弟の達夫も、10年以上も恨みを募らせるようなタイプではない。もしかしたらこの舅と婿は、単に仲直りの機会を逃したままお互いに困っているだけかもしれない。

「じゃあ、こうしましょう。この盆栽は莉子ちゃんにあげます。莉子ちゃんなら酒田の大叔父の遺品を受け取る権利もありますし、達夫くんも文句はないでしょう。そして、お母さんの麻美さんから相談を受けたという形で、島崎さんが一緒に育てることにしてくだされば万事解決じゃありませんか?」

 加奈の提案に、島崎氏はモゴモゴと口の中で何かを言っていたが、頭を下げた。莉子は大喜びだ。
「わーい。莉子、お祖父ちゃんと一緒にこの木の面倒みたい!」

 麗二も頷いた。わるくない解決策だと思っているのだろう。ここ『フラワー・スタジオ 華』では手に余る盆栽は、ふさわしい人のもとに旅立ち、1度は離ればなれになった家族を結びつける仕事までしてくれるようだ。

 日本でもっともおめでたい植物だものね。加奈は立派な五葉松を見つめてにっこりと笑った。

(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】アーちゃん、がんばる

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第2弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化している『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。

さて、前回、ダメ子さんやミエちゃんまで引っ張り出してさらにカオスにしてしまったアーちゃんの再告白計画、まだ続いています。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私が書いた『やっかいなことになる予感』
ダメ子さんの『疑惑』
私が書いた『再告白計画、またはさらなるカオス』
ダメ子さんの『カオス』

私の作品は以下のリンクからまとめ読みできます。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ

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アーちゃん、がんばる
——Special thanks to Dameko-san<


 深呼吸して、事態を整理して考えよう。こんなカオスの元凶は、そもそもチャラ先輩がめちゃくちゃ鈍いってことよね。アーちゃんが、バレンタインで告白しようとした相手が、自分だとまだわかっていない。

 もちろん、それに加えて、アーちゃんの告白のしかたが、絶望的にはっきりしないってことも問題なんだけど。

 でも、しかたないじゃない? アーちゃんは極度のあがり症。好きなチャラ先輩を前にして、はっきりくっきり「好きです。つきあってください」とか言えるぐらいなら、そもそも中学の時に伝わってたはず。

 でも、わたしとムツリ先輩が、影ながらこんなにサポートしているのに、ここまで伝わらないって、どういうこと?!

 というわけで、アーちゃんに再告白してもらうべく、ムツリ先輩も巻き込んで段取りをつけていたら、あいかわらず誤解したまんまのチャラ先輩ったら、クラスの女の先輩たちの協力まで要請して、モテ先輩を呼び出しちゃった。いや、だから、初めっからモテ先輩は関係ないっていうのに……。

「ねえ、つーちゃん。チャラ先輩、告白は重いって……。やっぱり先輩が言っていたみたいに『自然に、なんとなくいい感じになる』ってほうがよくない? そしたら、わたし、また告白しなくて済むし……」
アーちゃんが、めちゃくちゃ氣弱なことを言う。

 いや、普通のケースなら、それでいいのよ。でも、チャラ先輩はきっと、お祖父さんになるまでアーちゃんはモテ先輩が好きだと思い続けるよ。

「なんとなくも、へったくれもないわよ。それに、たとえ告白しないとしても、せっかくクッキー作ってきたんでしょ? チャラ先輩に食べてもらえたら嬉しくない?」

 わたしの言葉に、アーちゃんはけなげに頷く。
「うん。昨晩、3時までかかって4回も作り直した。見かけも味もこれまでの最高傑作だし、食べてもらいたい」

 わたしは、驚いた。めっちゃ氣合い入れて作ってた。
「じゃあ、渡そう」
「うん。……あ、こっちはね。2回目と3回目にできた作品。ハートのが割れちゃったり、アイシングが下手になっちゃったの。でも、味は美味しいはずだから、つーちゃんにあげるね」

「わあ、ありがとう。後でいただくね……それでね、思うんだけど」
「なあに?」
「多迷先輩にメモは渡さないでってお願いしたから、たぶん来ないとは思うんだけど、もし万が一、その場にモテ先輩が登場すると、また話がこんがらがるでしょ?」
「う……うん。そうだね」

 わたしは、重々しく言った。
「だから、モテ先輩が絶対に来ないところで渡そう」
「え? どういうこと?」

「だから、モテ先輩に来てくださいってお願いした用務員室の裏手から、すごく遠いところ……たとえばテニスコートの裏にチャラ先輩を連れ出すから、そこでアーちゃんがそのクッキーを渡すの。そしたら、さすがのチャラ先輩でも自分あてだとわかるでしょ?」

「え。でも、そしたら間違えて呼び出された、モテ先輩は?」
アーちゃん、けっこう義理堅く心配している。

「そっちは、クラスメイトの多迷先輩が、何とかしてくれると思う。あと、愛瀬先輩もいたし……心配なら、わたしかムツリ先輩が様子を見にいくから」

 アーちゃんは頷いた。
「わかった。でも、チャラ先輩も、あっちに行っちゃうんじゃない?」

「そこは、わたしとムツリ先輩で、なんとかしてテニスコートの方に行くように仕向けるから。とにかくアーちゃんは、クッキーを渡す準備をして、テニスコートの裏に行っていて!」

 わたしは、いそいでスマートフォンを取りだした。

 そうなんだよなあ。このドタバタで、ムツリ先輩といろいろ連絡を取り合うことがあって、結局、わたしはムツリ先輩の連絡先ゲットしちゃったのよね……。アーちゃん、チャラ先輩の連絡帳に載ったら死ぬほど嬉しいとか言っていたから、わたしがムツリ先輩と連絡先交換したこと、言い出しにくいんだけど……。ま、チャラ先輩の連絡先じゃないからいいか。

「あ、先輩。すみません。いまアーちゃんと話していて決めたんですけれど、モテ先輩のいないところで告白するのがベストだと思うんで、うまくチャラ先輩をテニスコート裏につれて行ってくださいませんか?」

 電話の向こうのムツリ先輩は少し口ごもった。どうやらそばにチャラ先輩がいるみたい。
「あ~、そうか。えーと、どうしよっか」

「場所変更って言って、上手にチャラ先輩だけ連れてきてください。モテ先輩の方は、上級生の女の先輩方がなんとかするでしょう、きっと」
「ああ、そう。わかった」

 ムツリ先輩は、口数少ないけど、話のわかりがよくて助かる。じゃ、わたしもテニスコートに向かおうっと。

 ふと見ると、用務員室の方にモテ先輩が歩いて行っている。そして、後ろから心配している感じで多迷先輩もついて行っている。あれれれれ。行かなくていいってひと言いえばいいのに??? そして、愛瀬先輩の姿も見えるな。あっちはあっちでちょっとカオスな感じなのかも。

 ま、いっか。とりあえず、アーちゃんの方を見届けよう。

 テニスコートの裏に着くと、向こうからムツリ先輩がチャラ先輩と話ながら近づいてきた。あ。無事に連れてきてくれたんだ。……アーちゃんは?

 テニスの用品入れ小屋の影から、アーちゃんが突進してきた。手にはちゃんとクッキーを持っている。察したムツリ先輩は、そっとチャラ先輩のそばを離れて、こっちに向かってきた。

「やあ。こっち来ちゃったけど、モテの方は大丈夫?」
ムツリ先輩は小さい声で訊いた。

「それが、どうも用務員室の方にやっぱり向かっていました。多迷先輩と愛瀬先輩が追っていましたけれど……多迷先輩にメモは渡さなくてもいいと伝えたので、フォローしてくれるかなと」

 ムツリ先輩は少し考えた
「うーん。どうかな。あの子、アーちゃんとは違うタイプであがり症じゃないんだろうけど、あまりはっきりと言わないかもなあ」
「え~。フォローしないとダメですかね」
「うーん。愛瀬くんもいるのか。……こじれたりして」

 そんなことを話している間に、アーちゃんがチャラ先輩にクッキーを渡しているのが見えた。おお、ばっちり渡した。これでチャラ先輩も氣がつくかしら。バレンタインのチョコが自分あてだったって。

 アーちゃんが告白しているっぽいのを見守りつつ、わたしはムツリ先輩にももらったクッキー包みの1つを渡す。
「あ。これ、アーちゃんからお裾分けです。失敗作らしいんですが……味は美味しいそうです」
「へえ。ありがとう」

「なんだよ。モテに直接渡せないのか? また渡してほしいとか?」
向こうからチャラ先輩の大きな声が聞こえて、わたしはずっこけた。え~、まだわかんないかな。

「そ、そ、うじゃなくて……こ、これは、モテ先輩じゃなくて……その……チャラ先輩、食べてください!」

 チャラ先輩は、首を傾げている。そうよ、考えて! アーちゃんが告白したいのは、チャラ先輩、あなたなんだから。

「大丈夫そうですね。ムツリ先輩、私たちはお邪魔虫だから去りましょう。モテ先輩の方に行って、謝った方がいいかもしれないし」

 わたしが言うと、ムツリ先輩はやる氣なさそうな様子で答えた。
「う〜ん……多迷さんがそつなく話を収めている……ってことはないだろうな。愛瀬さんもいるのかあ。……面倒な感じだなあ」

 ムツリ先輩ったら。
「だったら、なおさら行かなきゃ。さ、先輩、行きますよ!」

 わたしが先輩を引っ張って用務員室の方へ向かおうとしていると、遠く後ろからチャラ先輩の声が聞こえた。

「ああ、ムツリとつーちゃんもこのクッキー持ってんな。もしかして、これって友チョコならぬ、友クッキー?」

 わたしは、ムツリ先輩と顔を見合わせた。絶望的な氣分になったことは言うまでもない。アーちゃん、お願いだから、もうちょっと頑張って、それを否定して!

(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】おせっかいなファボーニオと仔犬のマルコ

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の最初の作品です。ユズキさんは、アニメ絵本作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 ユズキさんの『scriviamo! 2024参加作品 絵本 けだまヒヨコちゃん』

ユズキさんは、小説の一次創作やオリジナルのコミックを発表、それにイラストライターとしても活躍なさっているブロガーさんです。現在代表作であるファンタジー長編『片翼の召喚士-ReWork-』の続編『片翼の召喚士-sequel-』をはじめ、たくさんの小説やマンガを発表される一方、イラストACでのイラストの提供もなさっています。そして大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストも描いてくださっています。

ご自分でもおっしゃってましたが、「scriviamo!」にご参加くださる度に、まったく新しい表現方法を模索してくださるのです。今回のアニメ絵本もたくさんの新しいアプリの使い方を勉強しているとおっしゃっていたのですが、この短期間でこんな完成度になるのですね! こちらの動画、音声にもこだわりがあるので、ぜひ音声を聞ける環境でご覧くださいね。

さて。お返しですが、「既存の相互作品のパロディじゃないもの」とのリクエストでしたので、今回のユズキさんの絵本の内容を踏襲する形で作りました。わたしの作品にだけ出てくる風神ですが、ローマ神話の風神の名前を使いました。対応するギリシャ神話(例えば西風ゼピュロス)の方が有名なのですが、イメージに引きずられないようにマイナーなローマ神話を使いました。そして、実は「ファボーニオ」とは、わたしの住むスイスでもイタリア語圏で「フェーン現象」のことを指す現役の言葉なのです。そして、時おりまだ冬なのに急に小春日和にしてしまうこのストーリーと似ているところのある風です。


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おせっかいなファボーニオと仔犬のマルコ
——Special thanks to Yuzuki-san


 その日、農場のおかみさんは、あまり機嫌がよくありませんでした。洗濯物を干しているときに、ガチョウが脱走していることに氣がついたのです。汗だくになってようやく捕まえて戻ってくると、雌牛が洗濯物に鼻をこすりつけていました。洗濯はやり直しです。

「フィンダス! ガチョウが逃げ出さないように見張っていておくれ!」
おかみさんは、猫に頼みました。彼はご自慢の毛皮をなめるのに忙しく、ガチョウの小屋には目もくれません。

「じゃあ、マーサや。お前がガチョウを見張っておくれ」
おかみさんは、ビーグルの母犬に頼みました。

 マーサは、すでにニワトリたちを見守るように、農場主のアルバーノさんに命じられていたのですが、おかみさんの機嫌がとても悪いので脱走好きのガチョウを優先して追いかけるほかはないと思いました。

 そこでマーサは、仔犬のマルコに声をかけました。
「いい子だね、坊や。あたしの代わりにニワトリたちの面倒を見ておくれ。彼女たちからお願いされたら、助けてあげるんだよ」

 マルコは、とても小さいビーグルですが、けなげに頷いていいました。
「わかったよ。ボク、鶏小屋に行ってくるね!」

 それは、とても暖かい午後のことでした。あまりにも暖かいので、遠く山では洞窟の扉をきっちりと閉ざして寝ていた熊までが、寝過ごしたのではないかと、ちらっと外をのぞき見したほどでした。

 でも、熊が寝過ごしたのではありません。まだ2月だったのです。

 風神ヴェンティの長男である北風アキローンは、ここのところとても忙しく働いていました。

 冷たくて強い息をブウブウと吹きつけられた湖畔のプラタナスたちには、真横に伸びる剣先のような氷柱が育ちました。道はつるつるに凍って、人間たちが冬の間に遊ぶスケートリンクのようになってしまいました。

 それから、山のてっぺんの雲をものすごい勢いで凍らせたので、どこもかしこも大雪が降りました。あまりにもたくさん雪が積もったので、鹿たちや野ウサギたちは、まったく餌を見つけることができなくなってしまいました。それを見て、アキローンは「どうだ、まいったか」とご機嫌でした。

 アキローンはたいそう満足して「さて、ずいぶんと働いたからつかれたぞ」と雪のお布団をかけて横になりました。とても疲れていたので、すぐに大きないびきをかいてぐっすりと眠ってしまいました。

 お腹のすいた動物たちがメソメソしているのを見て、かわいそうだと思ったのは、アキローンの弟である西風ファボーニオでした。

 ファボーニオは、本当はいま休暇中です。彼の仕事は、春の訪れを世界に知らせることです。植物と花を揺り起こして、世界に豊穣をもたらすには、いまは少し早すぎます。

 でも、ファボーニオは、親切な性格でした。どちらかというと、おせっかいだったのです。困っている動物たちを放っておくことはできません。それで、兄がぐっすり眠っている隙を狙って暖かい風を次から次へと送り込みました。

 たくさん積もっていた雪がどんどん溶けて、小川に流れ込みました。真っ白だった大地には若草が生えて、スノードロップやクロッカスはあわてて葉を延ばしはじめました。

 雪の下で眠っていた木々も、若芽を膨らましはじめたので、動物たちは喜んで新鮮な葉っぱを食べました。

 さて、ファボーニオが、そうやって辺りを早すぎる春にしていると、ちょうど目の下にこぢんまりとしたアルバーノさんの農場があることに氣がつきました。

 農場には、牛、ヤギ、ガチョウ、そして、たくさんのニワトリと、彼らを守るビーグル犬がいます。

 ファボーニオが、そっと農場に降りていくと、ビーグル犬のマーサが尻尾を振って近寄ってきました。
「こんにちは。ファボーニオさん。今年はずいぶん早いですね」

「おや。マーサ、久しぶりだね。元氣そうでなによりだ。何をしているんだい?」
「ご覧の通り、ガチョウと追いかけっこです。放浪の旅に出るんだってきかないんです」
「それは大変だね。でも、たしかに放浪の旅はすてきだよ。よかったら、君もやってみるといい。ところで、君には息子がいたんじゃなかったかい?」
「ええ。あの子は今、鶏小屋にいますよ」
「そうか。じゃあ、ちょっと寄って挨拶してこよう」

 ファボーニオは、そういうとガチョウを追いかけているマーサと別れて、鶏小屋の方に向かいました。

 いました。去年見たときは、豆粒のようだった仔犬のマルコは、ずっと大きくなっていました。といっても、歩き方はひょこひょことしていますし、小さな前足はふっくらとして、まるで綿毛のようです。

 綿毛といえば、鶏小屋には小さなヒヨコたちと、優しい雌鶏たちの綿毛がフワフワと舞っていました。

 ヒヨコたちは、はじめての春の予感に大喜びで小さい翼をパタパタさせてしきりにピヨピヨ鳴いて走り出していましたし、お母さん雌鶏は、大忙しで子供たちを追っていたからです。

「ファボーニオさん! ボクを憶えている? マルコですよぉ」
マルコは、ファボーニオが鶏小屋に入ってくると急いで近寄ってきました。
「もちろん、憶えているさ。大きくなったね。もう立派な番犬だね」

 マルコは、ファボーニオに褒めてもらったのが嬉しくてしかたありません。
「そうだよ。ボクね、きょうね、ニワトリさんたちの当番! ほら見て! みんながパタパタしたから、こんなにかわいい毛玉できたよ」

 ファボーニオは、マルコの示す方を見ました。そこには、雌鶏さんの白い羽毛と、ヒヨコたちの黄色い羽毛が集まってできた、ふわふわの毛玉がありました。マルコの小さな毛がちょうどつむじに生えた毛のような位置にあるので、まるで小さな小さなヒヨコに見えます。

「ああ、これはかわいいな。小さい『けだまヒヨコ』だね」
ファボーニオが言いました。

 本当に、そこに『けだまヒヨコ』が誕生しました。クリーム色のふわふわの毛玉に、にょきっと生えた白と茶色つむじの毛。小さなつぶらな瞳とかわいいくちばしを持った『けだまヒヨコちゃん』は、ふわふわと漂いながら、あたりの様子を眺めました。

 雌鶏お母さんも、ヒヨコちゃんたちも『けだまヒヨコちゃん』の誕生に大喜びで翼をパタパタして叫びました。
「おめでとう! かわいい『けだまヒヨコちゃん』」
「ぼくがお兄ちゃんだよ!」
「あたしはお姉ちゃんよ」

 優しい家族に囲まれて『けだまヒヨコちゃん』は嬉しくなりました。そして、ファボーニオの背に乗って農場を眺めました。
「ねえ。ここがわたしのお家なの?」

「そうだよ。ここが、君のお家だ。あそこにいるのが農場主のアルバーノさん。洗濯物を干しているのはおかみさん。大きな農場だろう? 雌鶏お母さんは優しいし、ヒヨコのお兄さんやお姉さんは、君のいい遊び相手になるだろう」
ファボーニオの言葉に、『けだまヒヨコちゃん』は嬉しそうに頷きました。

「あたし、農場の外も見てみたい。あそこの大きいのはなあに?」
「あれは山だよ」
「じゃあ、あっちの青いのはなあに?」
「あれは湖だ」
「カラフルなあそこは?」
「あれは牧草地だよ。牛やヤギたちが、あそこの草と花を食べるんだ。やあ、花がたくさん咲き出したな。……ちょっと早すぎたけれど、みな喜んでいるからいいだろう」

 そうやって、『けだまヒヨコちゃん』を背中に乗せて、ファボーニオは山や湖の上を通り過ぎて、農場周りの美しい自然を見せてあげました。

 ファボーニオの暖かい吐息に触れると、まだ残っていた雪はことごとく消え、小川はキラキラとした水で満ち、水車もカラカラと回り始めます。草原には、若草がぐんぐん伸びました。眠っていた花たちは、大きく伸びをして、頭を振ると閉じていた花びらを開きはじめます。黄色、ピンク、赤、紫、青と鮮やかな花が咲いていく様子に、『けだまヒヨコちゃん』は目を見開いて喜びました。

 ちょうどその時、眠っていた北風アキローンは、目を醒ましました。
「おや。なんだか騒がしいぞ」

 寝ぼけたまま、顔を上げて辺りを見回していましたが、目に入ってきた光景にびっくりしました。
「どうなっているのだ! 雪はどこへ消えた。氷柱がなぜなくなっている? ワシの芸術作品である樹氷の林がなくなっただけではなく、なぜ新芽が芽吹いているのだ!」

 あわてて辺りを見回すと、楽しそうに飛び回っている弟ファボーニオの姿が目に入りました。

「あの馬鹿者! まだ2月なのに何をしているのだ。父上に知られたら、ワシまで大目玉を食らうじゃないか。なんとかしなくては」

 アキローンは急斜面のてっぺんから助走をつけました。ゴロゴロと雪下ろしの遠雷を響かせて、農場や湖のある里の方へ真っ黒な雲のマントを纏って吹き降りていきました。

 分厚いその外套は氷の粒でできていましたが、里はファボーニオが走り回りとても暖かくなっていたため、すべて溶けて冷たい雨になりました。

 その大雨は『けだまヒヨコちゃん』にも降り注ぎました。ふわふわの毛玉ならばファボーニオの背中に載ることができましたが、水を含んで重くなってしまったら、もう空を飛ぶことはできません。

「えーん。落ちちゃった」
『けだまヒヨコちゃん』はしくしく泣きました。

 ファボーニオは、『けだまヒヨコちゃん』を助けたくてもどうすることもできません。それどころか怒り狂った兄アキローンが追いかけてくるので、逃げ回るのに必死です。

 逃げている最中に、農場からこちらに駆けてくるビーグル犬の仔犬マルコが見えました。そこでファボーニオはマルコに叫びました。
「ちょうどいいところに。『けだまヒヨコちゃん』は、あそこの花畑にいる。悪いけど、面倒を見てやっておくれ。ぼくはこれで失礼するよ。春にまた会おう!」

 そう言って、ファボーニオは急いで西のねぐらへと帰って行きました。

 マルコは、アキローンが降らせる冷たい雨をものともせずに、短い足を必死に動かして花畑に急ぎました。『けだまヒヨコちゃん』は濡れてすっかり小さくなっていましたが、たくさんの花たちも冷たい雨を避けて頭を下げていたので、何とか見つけることができました。

 アキローンがファボーニオを追いかけて行ってしまったので、冷たい雨は止みました。でも、『けだまヒヨコちゃん』は、どうしていいのかわからず泣くばかりです。

 マルコは、そっと『けだまヒヨコちゃん』の近くに寄って小さな鼻を近づけました。『けだまヒヨコちゃん』は驚いて泣き止みました。

「心配しないで、『けだまヒヨコちゃん』。ボクのあたまのうえに、のせてあげる」

 小さな『けだまヒヨコちゃん』は、マルコのことを知りませんでしたが、とても優しい顔の仔犬だったので、すぐに信頼して頷きました。マルコは頭を下げ、『けだまヒヨコちゃん』はその上によじ登りました。

 マルコは短い4本の足を交互に動かして、トコトコと歩きます。速くは進めませんが、振り落とされたりしないので『けだまヒヨコちゃん』には、その方が安全でした。

 このこいぬさん、どこに行くんだろう? 『けだまヒヨコちゃん』は考えました。マルコが行き先を訊かなかったし、言わなかったからです。

 でも、それはすぐにわかりました。マルコは、まっすぐにアルバーノさんの農場に帰ったのです。

「あ、『けだまヒヨコちゃん』が帰ってきたよ!」
「『けだまヒヨコちゃん』だ!」

 門のところに、たくさんの動物たちが待っていました。雌鶏のお母さん、ヒヨコのお兄ちゃんとお姉ちゃんたち。牛、ヤギ、ガチョウ、そして、猫のフィンダスとマルコのお母さんであるビーグル犬マーサが迎えてくれました。

「おかえりなさい、『けだまヒヨコちゃん』」
温かい歓迎に、『けだまヒヨコちゃん』は喜んで大きな声で答えました。
「ただいま」

 そして、自分を迎えに来てくれた仔犬も、同じ農場の仲間だとわかってもっと嬉しくなりました。そして、マルコに抱きついてお礼を言いました。

 立派に務めを果たして帰ってきた息子を、マーサは優しく舐めて讃えました。

 マルコは、マーサに訊きました。
「西風ファボーニオさんは、どこへ行っちゃったの?」

 マーサは笑って答えました。
「北風アキローンさまに追われて、山へ帰ってしまったよ。でも、あとひと月もしたら、また何食わぬ顔で戻っていらっしゃるでしょうよ。その時にまたたくさんお話をするといいよ」

 マルコは大きく頷きました。
「ボク、大きくなったら、ファボーニオさんみたいにあちこち行きたいな。『けだまヒヨコちゃん』と一緒に放浪の旅に出ようかな」

 マーサは、ガチョウみたいなことを言うんじゃありません、という小言を飲み込みました。マルコが大きくなったら、きっともう少し分別がつくだろうと思ったからです。

 アルバーノさんの農場に、春はもうすぐそこまで来ているようでした。

(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】毒蛇

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第3弾です。山西 左紀さんは、連載作品の最新話でご参加くださいました。ありがとうございます!

 山西 左紀さんの『白火盗 第五話』

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

今年書いてくださった作品は、左紀さんにとってはじめての時代小説「白火盗」の新作です。独自設定のもと、不思議な力を持つヒロインと、彼女にひかれる浪人の物語です。

お返しの作品は、もちろん左紀さんのお話の本編には絡めませんので、まったく関係のない話です。いちおう、お返しとして書きましたので「時代物(でも中世ヨーロッパ)」で、とあるシチュエーションだけまるまるいただいて書いてみました。

世界観は、現在連載中の『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』のものですが、現在のストーリーとはまったく関係ありませんので、連載を読んでくださっている方も、未読の方も、前作をお読みになった方も等しく「?」となる話です。登場するオットーという人物は、これまで1度も出てきていません。それ以外の人物は、連載中の作品の主要登場人物の先祖です。


【参考】
《男姫》ジュリアとハンス=レギナルドについてはこちら
【断片小説】森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走より
Virago Julia by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。

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毒蛇
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 オットーは、腕を組んで窓の方を見た。特に見たい物があるわけではなく、暗い部屋の中ではどうしても月明かりの差し込む窓に視線が向く。

 王都ヴェルドンの地を踏んだのは、2年ぶりだ。国王自身の婚礼がなければ、フルーヴルーウー辺境伯ハンス=レギナルドは、あと10年でも戻らなかったかもしれない。

 オットーは、「これまでに存在せず、今後も現れないであろう美しさ」と噂される花嫁、隣国ルーヴランのブランシュルーヴ王女にも、彼女が連れてきたという華やかな美女たちにも興味はなかったが、2年ぶりに国王に声をかけてもらい満足だった。

 それは異様な婚礼であった。花嫁とルーヴランから連れてきた4人の高貴なる乙女たちは、婚礼前だけでなく、婚姻の儀においても、その後のお披露目の宴でも濃いヴェールを外すことを許されなかった。

 それどころか、国王レオポルドは、新王妃を王城の王妃の間に住まわせることを拒んだのだ。本来、敵国から嫁いでくる花嫁を儀礼的に婚姻まで滞在させる西の塔に、そのまま厳しい見張りと共に置き、自らも塔で寝泊まりするようになった。

 はじめは、敵国による奇襲を警戒しているのではないかと噂した貴族たちも、やがて国王の怖れが自らの安全にはないことを理解しだした。彼は、新妻をほかの男に奪われることをなんとしてでも避けようとしているのだと。

 王朝史上もっとも大きな版図を拡大し、勇猛豪胆で、求心力のある国王には、決して拭えない大きな劣等意識がある。

 レオポルドは、異様に背が低く、オットーが立ち上がればその胸よりも下に頭が来る。また、細い目と低めの鼻に比べて口が大きい。敵国では《短軀王》または《醜王》と陰口を叩かれている。そうしたあだ名や容姿が劣ることを国王自身が氣に病んでいることは、側に仕える臣下たちはみな知っていた。

 おそらく、レオポルドが家臣としては誰よりも信頼する一方で、新妻の心を奪う可能性の存在としてもっとも警戒しているのがフルーヴルーウー辺境伯ハンス=レギナルドだろう。

 オットーの生まれ故郷ノルムは、グランドロン王国の北端にあるが、現在仕えているフルーヴルーウー辺境伯の領地は最南端にある。

 辺境伯爵領とは名前ばかり、実態は険しい山嶺《ケールム・アルバ》と広大な森《シルヴァ》の未開地だ。獰猛な動物と野蛮な周辺民の他には足を踏み入れる者もわずかしかいない。だが、《ケールム・アルバ》の南に広がるセンヴリ王国との交易や領土争いを有利にするためには、どうしても街道の整備をする必要がある。王国版図の拡大を目指すレオポルドが、着手した大事業だ。

 新たに設立されたフルーヴルーウー辺境伯爵領の領主となったのは、グランドロン王国ヴェルドン宮廷では特異な存在であった騎士ハンス=レギナルドだった。

 おそらく隣国ルーヴランの出身だと思われるこの男は、深い謎に包まれている。氣味が悪いほど整った容姿について、よくない噂をする者までいる。とある高貴な女が悪魔と交わって生まれた私生児だとか、いかがわしい男娼出身に違いないとか、ともかくその容姿について好意的な噂は聞いたことがない。とはいえ、女たちは噂には頓着せず、わずかでもこの男を振り向かせようとスダリウム布に高価な贈り物を忍ばせて手渡す。

 かつてのオットーは、他の騎士たち同様、この美丈夫に反感に近い感情しか持っていなかった。だがその自分に、国王はフルーヴルーウー伯爵の臣下になれと命じてきたのだ。2年前のことだった。

「このハンス=レギナルドの命令は、すなわち余の命令だ」
王は、オットーに言った。王の命令が絶対であるオットーは、かしこまって拝命した。

 ハンス=レギナルドを未開地に送り出したことを「厄介払い」と陰口を叩く者もいた。だが、そうではないことをオットーは知っている。オットーをはじめとする有力な騎士たちを何人も彼の助力になるようフルーヴルーウー辺境伯領へと送り出したのは、それだけこの事業が重要だからだ。憎み疎ましく思う男を、その要として選ぶはずがない。

 新たな主君は、レオポルドのようにわかりやすい尊崇は集めていなかった。国王の素早い決断と思慮深さ、辺りを払う威厳、忠臣をねぎらう公平な態度など、生まれながらの為政者として安定したありように心酔してきたオットーには、フルーヴルーウー辺境伯は奇異ですらあった。

 彼は、上に立つ者として育ってこなかったのだろう。命じることよりも自らが動こうとすることの方が多かった。恥や怖れを知らない。

 だが、不思議な魅力もある。部下たちの強みをよく見抜き、それぞれの得意な分野で活躍させる。異国の令嬢をたらし込み、軽率にも閨に連れ込むようなこともするが、諫言を口にしようとする部下に、悪びれもせずに女を通して手に入れたばかりの相手国の城門の鍵を渡してみせる。

 敵に奇襲をかける際の大胆不敵な発想や、寒く不快な野営でもへこたれぬ態度を見て、やがて臣下たちも新しい主君を認め、素直に従うようになった。

 とはいえ、フルーヴルーウー辺境伯の女に対する不品行ならびに女に対する影響力が衰えていないことは日の目を見るよりも明らかだったので、猜疑心にかられた国王は彼をはじめとする婚礼に集まった各地の有力貴族たちに、見張りの厳しい客間をあてがったのだろう。

 今宵のオットーは、そのハンス=レギナルドの戻りを待っていた。

 深夜に部屋を抜け出すと言いだした時には、ふざけているのかと思った。

「心配しなくとも王妃に興味があるんじゃないよ」
ハンス=レギナルドは笑って言った。王と共に西の塔にいるブランシュルーヴ王妃に夜這いをかけることは不可能だろうから、オットーもその心配はしていないが。

「じゃあ、お出かけはおやめになるべきではありませんか。ご婦人方は領地にもたくさんおられます」
オットーは控えめに言った。

「どうしても確認しなくてはいけないことがあるのだ。王妃が連れてきた4人の高貴なる乙女たちの名を聞いたか?」
主の言葉に、オットーは首を傾げた。
「ヴァレーズ、マール、アールヴァイル……それにバギュ・グリのご令嬢でしたか?」

 ハンス=レギナルドは頷いた。
「そうだ。あり得ない名前がある」
「とおっしゃると?」

 オットーの質問をハンス=レギナルドは無視した。
「確かめなくてはならない」

 そう言って密やかに出ていった部屋の主は、予定の時間を過ぎても戻ってこない。見回りの騎士の問いかけに代返をすること3度。それ以外はすることもない。寝台で寝てもいいと言われていたが、「狼の皮を被る者ウルフヘジン 」の名をもらったことのある誇り高いノルムの戦士は、主君を待つ間にだらしなく眠りこけたりはしないものだ。

 彼の本来の名はオホトヘレといい、かつては存在したノルム国の高貴なる戦士の家系に生まれた。ノルム王ウィグラフに仕えていたが、王の甥スウェルティングによるクーデターに際して捕らえられ、奴隷としてタイファのカリフに売られた30人の戦士たちの1人だった。

 グランドロン王国が対タイファ戦の戦利品として受け取った宝物・賠償類の中に、ただ1人生き残った彼が含まれており、レオポルド1世に氣に入られて奴隷の身分から解放され、騎士に取り立てられた。その時に名をグランドロン風にオットーと改めた。

 それだけでなく、かつての主君を殺した簒奪王スウェルティングと戦い、ノルムをグランドロン領に編入したレオポルドは、憎きスウェルティング処刑の際に、オットーに刃を握らせてくれた。騙され両親と妹を殺されたオットーが復讐を誓っていることを考慮してくれたのだ。

 それ以来、オットーはノルムの戦士としてではなく、グランドロン王の騎士として生きることに心を決めた。

 オットーは、レオポルド自身から「クサリヘビオッター 」というあだ名をもらった。攻撃が執念深く、敵を倒すまで決してあきらめない。また、昼よりも夜の奇襲で真価を発揮するところが、怖れられる毒蛇を想起させるというのだ。または、単に近い音を用いた言葉遊びかもしれない。実際にオッターという響きは、彼の実名の響きに近かった。

 窓に月がさしかかり、やがて消えた。見回りももう回ってこない。明け方になるまでは静かなままだろう。いつになったら主は戻ってくるのだろうか。

 扉の向こうにわずかな物音がした。そして、小さなノックが聞こえた。すぐに扉を開けた。

 するりと入ってきたのは、ハンス=レギナルドではなかった。黒く長い髪、挑みかけるように鋭い双眸を持つ女だ。

 戸惑うオットーにかまわず、女は後ろ手で扉を閉めると小さい声で訊いた。
「ハンス=レギナルドはどこ?」

「いま、こちらにはいらっしゃいません……あなた様は?」

 女は、オットーの方をチラリと斜めから覗くように見ると、馬鹿にしたような顔をして質問を無視した。
「そう。……あいつ、あいかわらずお盛んなのね」

 そういうと、寝台にドカッと腰掛けた。
「それで、お前はハンス=レギナルドの部下なの?」

「はい。わたくしめは騎士オットー・ヴォルフペルツと申します。お見知りおきを」
オットーは、型破りな女の様子に内心驚きつつも、礼儀正しく膝をつき挨拶をした。女はそれを立って受けるどころか、手を差し出すことすらしない。

「あいつが伯爵ねぇ」
そう言うと、窓の外を眺めて、足を組みその膝で頬杖をついた。

 オットーは、尋ね人がいなくても帰る様相のない女に戸惑った。暗闇の中とはいえ、その衣擦れと焚きしめた香から、侍女や下女などではないことはわかる。そのような女性と密室に2人でいることはあまり好ましくない。国王が警戒したのは自分ではないと思いたいが、見回りに見つかったらただでは済まないだろう。

 それに、主が戻ってきたら、この状況をどう思うだろうか。できれば、この部屋から出て行きたいが、主の代わりに見回りに返答する務めがある以上、そうもいかない。

 半刻ほど、お互いに口もきかずにそうしていた。やがて女は寝台に横になった。暗い部屋の中、表情などは見えないが、静かな衣擦れと均整のとれた肢体がゆっくりと動く様子に、オットーは思わず息を飲んだ。

「ここでお休みになるのですか」
のどが渇いたのか、声が枯れてうわずる。

「そうよ。何度も出向くほど暇じゃないからね」
女の声には、含み笑いが混じっている。衣帯を緩め膝を動かしているのを見て、急いで後ろを向いた。よく見えているわけではないが、騎士たる者、貴婦人の寛ぐ姿を淫らな目で凝視していると思われてはならない。

 この女が誰だかわからないが、フルーヴルーウー辺境伯とただならぬ仲であることは間違いないだろう。あらぬ疑いをかけられると、陛下の命令を全うできなくなる。また、見回りの者が近くにいる時に、大声でも出されたら、もっと大変なことになる。オットーは、女などいないかのように過ごそうと心に決めた。

 長い夜だった。あれほど歩みの早かった月は、その動きを止めてしまったかのようだ。時おり女の寝息と衣擦れと共に、焚きしめられた香が漂ってくる。オットーは、まとわり付く魔力に取り込まれぬように身を硬くした。

 ハンス=レギナルドは帰ってこない。オットーは壁の方を向いて小さな腰掛けの上でひたすら事態が変わるのを待っていた。

 自らの首がガクッと落ちかけるのに反応して、はっと起きた。いつの間にかウトウトしていたらしい。あたりは白みかけており、窓の向こうは赤紫色になっていた。

 含み笑いが聞こえたので、思わず振り向くと、女が寝台の上に起き上がっていた。明るくなったことで、女の姿がはっきりと見えた。

 白く透き通る肌。黒曜石のように輝く瞳。血のように紅い唇。ぞっとするほど美しい女だ。一瞬だけ「これまでに存在せず、今後も現れないであろう美しさ」の持ち主かと疑ったが、すぐに思い直した。ブランシュルーヴ王女は日の光のような金髪のはずだ。見るからに上等の布地と手入れされた手肌を見て、もしかするとこの女は、王妃に傅く4人の高貴なる乙女の1人ではないかと思った。

 ということは、主君ハンス=レギナルドが確かめたいと言っていたのは、この女の事なのかもしれない。だが、高貴な乙女たちはみな錚々たる家系の姫君ばかりだ。男の部屋を訪ねて勝手に寝たりするだろうか。

 身につけているのは寝室で着るような黒の薄物で、そんな姿で王城内をうろつき回っているとは信じられなかった。

 彼は、急いで女から眼をそらした。すると、寝台の上、足元にいくつかの衣類が無造作に置かれているのが見えた。

 オットーの戸惑いを見透かしたかのように、女はあけすけな笑い方をした。
「お前は意氣地なしね」

 彼は、度肝を抜かれた。そして、心外な思いを堪えて返答した。
「わたくしめは、ハンス=レギナルド様の臣下にて、騎士でございます」

 彼女は、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「人生は誰かが勝手に決めた手順に従ったり、他の者に遠慮して我慢するには、あまりにも短すぎるわ」

 女は恥じらう様子もなく、灰色の上着を身につけ、よく儀杖官が身につけるような黒い切れ込みのある立派な外套を鷹揚に羽織った。長い髪を器用に捻って角頭巾の中に押し込んだ。なるほど、見回りの兵士とすれ違っても、これならば高位の男と思われるだろう。

 その時、向こうから石の床を踏む金属的な足音が響いてきた。見回りだ。
「おはようございます。異常はございませんか、フルーヴルーウー伯爵様」

 オットーは、昨夜と同じように答えた。
「異常は無い。見回りご苦労である」

「はっ」
見回りは、次の部屋に向けて去って行った。

 女は、その足音が聞こえなくなると、扉を開けて、辺りを素早く見回した。
「ジュリアは待ちくたびれたと、ハンス=レギナルドに伝えるのよ、毒蛇オッター
女は笑った。血のように紅い唇が妖艶に広がる。そして、まだ暗い城内に消えていった。

 どっちが毒蛇だ。背筋に冷たい汗が流れた。

(初出:2024年1月 書き下ろし)

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Category : 小説・森の詩 Cantum Silvae 外伝
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】アーちゃん、がんばる

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第2弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化している『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。

さて、前回、ダメ子さんやミエちゃんまで引っ張り出してさらにカオスにしてしまったアーちゃんの再告白計画、まだ続いています。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私が書いた『やっかいなことになる予感』
ダメ子さんの『疑惑』
私が書いた『再告白計画、またはさらなるカオス』
ダメ子さんの『カオス』

私の作品は以下のリンクからまとめ読みできます。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ

「scriviamo! 2024」について
「scriviamo! 2024」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



アーちゃん、がんばる
——Special thanks to Dameko-san<


 深呼吸して、事態を整理して考えよう。こんなカオスの元凶は、そもそもチャラ先輩がめちゃくちゃ鈍いってことよね。アーちゃんが、バレンタインで告白しようとした相手が、自分だとまだわかっていない。

 もちろん、それに加えて、アーちゃんの告白のしかたが、絶望的にはっきりしないってことも問題なんだけど。

 でも、しかたないじゃない? アーちゃんは極度のあがり症。好きなチャラ先輩を前にして、はっきりくっきり「好きです。つきあってください」とか言えるぐらいなら、そもそも中学の時に伝わってたはず。

 でも、わたしとムツリ先輩が、影ながらこんなにサポートしているのに、ここまで伝わらないって、どういうこと?!

 というわけで、アーちゃんに再告白してもらうべく、ムツリ先輩も巻き込んで段取りをつけていたら、あいかわらず誤解したまんまのチャラ先輩ったら、クラスの女の先輩たちの協力まで要請して、モテ先輩を呼び出しちゃった。いや、だから、初めっからモテ先輩は関係ないっていうのに……。

「ねえ、つーちゃん。チャラ先輩、告白は重いって……。やっぱり先輩が言っていたみたいに『自然に、なんとなくいい感じになる』ってほうがよくない? そしたら、わたし、また告白しなくて済むし……」
アーちゃんが、めちゃくちゃ氣弱なことを言う。

 いや、普通のケースなら、それでいいのよ。でも、チャラ先輩はきっと、お祖父さんになるまでアーちゃんはモテ先輩が好きだと思い続けるよ。

「なんとなくも、へったくれもないわよ。それに、たとえ告白しないとしても、せっかくクッキー作ってきたんでしょ? チャラ先輩に食べてもらえたら嬉しくない?」

 わたしの言葉に、アーちゃんはけなげに頷く。
「うん。昨晩、3時までかかって4回も作り直した。見かけも味もこれまでの最高傑作だし、食べてもらいたい」

 わたしは、驚いた。めっちゃ氣合い入れて作ってた。
「じゃあ、渡そう」
「うん。……あ、こっちはね。2回目と3回目にできた作品。ハートのが割れちゃったり、アイシングが下手になっちゃったの。でも、味は美味しいはずだから、つーちゃんにあげるね」

「わあ、ありがとう。後でいただくね……それでね、思うんだけど」
「なあに?」
「多迷先輩にメモは渡さないでってお願いしたから、たぶん来ないとは思うんだけど、もし万が一、その場にモテ先輩が登場すると、また話がこんがらがるでしょ?」
「う……うん。そうだね」

 わたしは、重々しく言った。
「だから、モテ先輩が絶対に来ないところで渡そう」
「え? どういうこと?」

「だから、モテ先輩に来てくださいってお願いした用務員室の裏手から、すごく遠いところ……たとえばテニスコートの裏にチャラ先輩を連れ出すから、そこでアーちゃんがそのクッキーを渡すの。そしたら、さすがのチャラ先輩でも自分あてだとわかるでしょ?」

「え。でも、そしたら間違えて呼び出された、モテ先輩は?」
アーちゃん、けっこう義理堅く心配している。

「そっちは、クラスメイトの多迷先輩が、何とかしてくれると思う。あと、愛瀬先輩もいたし……心配なら、わたしかムツリ先輩が様子を見にいくから」

 アーちゃんは頷いた。
「わかった。でも、チャラ先輩も、あっちに行っちゃうんじゃない?」

「そこは、わたしとムツリ先輩で、なんとかしてテニスコートの方に行くように仕向けるから。とにかくアーちゃんは、クッキーを渡す準備をして、テニスコートの裏に行っていて!」

 わたしは、いそいでスマートフォンを取りだした。

 そうなんだよなあ。このドタバタで、ムツリ先輩といろいろ連絡を取り合うことがあって、結局、わたしはムツリ先輩の連絡先ゲットしちゃったのよね……。アーちゃん、チャラ先輩の連絡帳に載ったら死ぬほど嬉しいとか言っていたから、わたしがムツリ先輩と連絡先交換したこと、言い出しにくいんだけど……。ま、チャラ先輩の連絡先じゃないからいいか。

「あ、先輩。すみません。いまアーちゃんと話していて決めたんですけれど、モテ先輩のいないところで告白するのがベストだと思うんで、うまくチャラ先輩をテニスコート裏につれて行ってくださいませんか?」

 電話の向こうのムツリ先輩は少し口ごもった。どうやらそばにチャラ先輩がいるみたい。
「あ~、そうか。えーと、どうしよっか」

「場所変更って言って、上手にチャラ先輩だけ連れてきてください。モテ先輩の方は、上級生の女の先輩方がなんとかするでしょう、きっと」
「ああ、そう。わかった」

 ムツリ先輩は、口数少ないけど、話のわかりがよくて助かる。じゃ、わたしもテニスコートに向かおうっと。

 ふと見ると、用務員室の方にモテ先輩が歩いて行っている。そして、後ろから心配している感じで多迷先輩もついて行っている。あれれれれ。行かなくていいってひと言いえばいいのに??? そして、愛瀬先輩の姿も見えるな。あっちはあっちでちょっとカオスな感じなのかも。

 ま、いっか。とりあえず、アーちゃんの方を見届けよう。

 テニスコートの裏に着くと、向こうからムツリ先輩がチャラ先輩と話ながら近づいてきた。あ。無事に連れてきてくれたんだ。……アーちゃんは?

 テニスの用品入れ小屋の影から、アーちゃんが突進してきた。手にはちゃんとクッキーを持っている。察したムツリ先輩は、そっとチャラ先輩のそばを離れて、こっちに向かってきた。

「やあ。こっち来ちゃったけど、モテの方は大丈夫?」
ムツリ先輩は小さい声で訊いた。

「それが、どうも用務員室の方にやっぱり向かっていました。多迷先輩と愛瀬先輩が追っていましたけれど……多迷先輩にメモは渡さなくてもいいと伝えたので、フォローしてくれるかなと」

 ムツリ先輩は少し考えた
「うーん。どうかな。あの子、アーちゃんとは違うタイプであがり症じゃないんだろうけど、あまりはっきりと言わないかもなあ」
「え~。フォローしないとダメですかね」
「うーん。愛瀬くんもいるのか。……こじれたりして」

 そんなことを話している間に、アーちゃんがチャラ先輩にクッキーを渡しているのが見えた。おお、ばっちり渡した。これでチャラ先輩も氣がつくかしら。バレンタインのチョコが自分あてだったって。

 アーちゃんが告白しているっぽいのを見守りつつ、わたしはムツリ先輩にももらったクッキー包みの1つを渡す。
「あ。これ、アーちゃんからお裾分けです。失敗作らしいんですが……味は美味しいそうです」
「へえ。ありがとう」

「なんだよ。モテに直接渡せないのか? また渡してほしいとか?」
向こうからチャラ先輩の大きな声が聞こえて、わたしはずっこけた。え~、まだわかんないかな。

「そ、そ、うじゃなくて……こ、これは、モテ先輩じゃなくて……その……チャラ先輩、食べてください!」

 チャラ先輩は、首を傾げている。そうよ、考えて! アーちゃんが告白したいのは、チャラ先輩、あなたなんだから。

「大丈夫そうですね。ムツリ先輩、私たちはお邪魔虫だから去りましょう。モテ先輩の方に行って、謝った方がいいかもしれないし」

 わたしが言うと、ムツリ先輩はやる氣なさそうな様子で答えた。
「う〜ん……多迷さんがそつなく話を収めている……ってことはないだろうな。愛瀬さんもいるのかあ。……面倒な感じだなあ」

 ムツリ先輩ったら。
「だったら、なおさら行かなきゃ。さ、先輩、行きますよ!」

 わたしが先輩を引っ張って用務員室の方へ向かおうとしていると、遠く後ろからチャラ先輩の声が聞こえた。

「ああ、ムツリとつーちゃんもこのクッキー持ってんな。もしかして、これって友チョコならぬ、友クッキー?」

 わたしは、ムツリ先輩と顔を見合わせた。絶望的な氣分になったことは言うまでもない。アーちゃん、お願いだから、もうちょっと頑張って、それを否定して!

(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】一陽来復

今年最後の小説は、『12か月の建築』12月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、パッラーディオ式建築です。16世紀の天才建築家アンドレア・パッラーディオの建築に触発された西欧にたくさんある建築で、おそらく名前は知らなくてもこの形式の建築はどなたでも1度は目にしたことがあるはずです。

建築をテーマにした小説集を書くにあたって、トリは絶対にこれにすると決めていました。現在のスイスで新しく建てられる建築は、残念ながらこの小説の主人公の選択とは真逆なのですが、ヨーロッパにはまだこの手の建築を愛して大切にする文化もあります。こうしたムーブメントはお金もかかるし、自分ではどうしようもないのですが、せめて小説で援護射撃をしたいと願いながら書きました。


短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む 短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む



一陽来復

 ヴィオラはグラッソ・ホテルのポーチに立って、メレーラ谷を眺めた。その向こうの山々は、雪に覆われた鋭い剣先のようで、短い冬の太陽を反射して堂々とそびえ立っている。

 ポーチはローマの神殿を思わせる4本のイオニア式柱が支えるポルティコで、車寄せの機能も果たしている。わずかに茶色がかったサーモンピンクの壁と白い柱は、汚れが目立つという理由でヴェルナーが反対したが、この色でなくてはならないと確信していた。

 曾祖父レオナルド・グラッソが、故郷であるメレーラ村に建てたグラッソ・ホテルは、本来250メートルほど低い位置にあった村の中心地から離れていた。高速道路が開通する前で、どの車も村を通ったが、通りがかりの宿泊客が門を叩くのは、村のもう少し安い旅籠ばかりだった。

 村の中心から離れているというばかりでなく、その外観が「きっと宿泊料はとてつもなく高いに違いない」と思わせたのだろう。曾祖父と祖父の時代から経営は決して楽ではなかった。後を継いだ父と叔父もあまり商才はなかった。

 10年前に父が、そして昨年叔父が亡くなると、ヴィオラはホテル経営に関しての決断を迫られた。

 彼女に、改築と大手ホテルチェーンとの提携を持ちかけてきたのが、叔父の妻の連れ子でマネージメントにも永く関わってきたヴェルナーだった。
「今の流行はグレーの打ちっぱなしか、黒い御影石の、現代建築だよ。建て直すなら今しかない、そうだろ?」

 曾祖父がグラッソ・ホテルを建ててから、来年で100周年だ。つまり来年からは、歴史的建築物に認定され、大きな外見の変更は州の許可無くは不可能になる。

「こんな前時代な外見のホテル、誰が泊まろうと思うってんだ。ローマの神殿じゃあるまいし」
ヴェルナーは、焦っていたようだった。

 ヴィオラは、その彼の言い方に引っかかった。確かにポーチの柱、そして、その上に飾りとしてついている三角形の装飾にローマ神殿で見るニンフたちの群像のような浮き彫りが見える。けれど、それが古くさいという印象はまったく与えていない。

 むしろ70年代のインテリアや、周囲から浮いてしまう奇妙な形の建築、あるいは、一時期やたらと流行った白木を外壁に貼る建築が経年で黒ずんでいる様子などに比べると、100年近く前の建築でも普遍的な美しさを保っているように感じる。

「パッラーディオ式建築というのだよ」
子供の頃に祖父が教えてくれたのだが、どうしてもその言葉が思い出せなかった。それを思い出したきっかけは、カール・ジェンキンスの弦楽オーケストラのための作品『パッラーディオ』だった。どこかで聞いたタイトルだと思って調べたら、ルネサンス期の建築家にちなんでいるという。

 アンドレア・パッラーディオは16世紀イタリア・パドヴァ生まれの建築家だ。本名はアンドレーア・ディ・ピエトロ・デッラ・ゴンドーラ。彫刻家や絵描きが建築も手がけたのとは異なり、平面図を基本にして空間を設計した最初の専業建築家ともいわれる。ローマ時代の建築を取り入れたルネサンス建築は華やかで美しいだけでなく機能的で景観にも調和している。彼自身が設計した建築はすべて北イタリアにあるが、その影響は計り知れず、18世紀以降の英米の新古典主義建築家に多大な影響を与え、パラディアン・スタイルとして西欧の多くの大邸宅や公共機関の建築に取り入れられて現在まで残っている。

 ドリス式の柱、ロッジア、ドームなどイタリア・ルネサンス建築の基本的要素を継承しつつも、パッラーディオはそれらを洗練・簡素化してみせた。ローマ建築の装飾的要素も、建物の場所と機能とに適した革新的に取り入れている。

 もっとも有名なヴィチェンツァ郊外の『ラ・ロトンダ』は、円形ドームを備え、正方形のすべてのファサードに同じポルティコとイオニア式の円柱で支えられた三角形のペディメントが備えられた完全に対称的な建物だ。そして、それは敷地内や内部装飾が素晴らしいというだけではなく、ヴィチェンツァの景色と調和している。

 パッラーディオと彼の建築について調べだしてから、ヴィオラは曾祖父が非常なこだわりを持ってホテル・グラッソを建てたことに氣がついた。

 メレーラ村の中心地から離れたところに建てたのは、土地が安かったからではない。それは周りに他の建物がなく、独自の景観を保てるからだった。

 残念ながら、この村は山間にあり、ヴィチェンツァのようにどこまでも広がる農村地帯を見晴らせるわけではない。だから、『ラ・ロトンダ』のように4面すべてを同じファサードにする必要もなかった。

 とはいえ、100年前に曾祖父が思いもしていなかった事が起こった。

 人びとが当時よりもたくさんの電氣を必要とするようになり、水力発電のためにダムが建設されることになったのだ。そして、メレーラ村の中心地が人造湖の底に沈むことになった。

 反対運動があった十数年の後、多くの村人は多額の補償金を得てもっと便利な都会に移り住むことを選択した。最後まで反対していた村人たちは、補償金の他に、谷の反対側、以前よりも日当たりのいい200メートル標高の高い位置に、先祖代々の家や教会を移設することを約束させ、移住が完了した。

 ヴェルナーは、新しくできる新メレーラ村の近くに、都会的なフィットネス・リゾートを建てるべきだと強く主張した。同じ村に所属している以上、移築が必要となった場合、ヴィオラにも補償金を得る権利があった。それを元手に大改築をしろというのだ。
「僕の友人が、その手の設計を手がけているんだ。『カジノ&スパ・リゾート サンモリッツ』を知っているだろう? あのチームにいたんだぜ。あそこみたいな大理石だと高くつくけど、いまはわりと高級に見える模造石材も揃っているって言ったよ」

 そのリゾートは、10年ほど前に有名になったからよく憶えている。変形した台形を組み合わせた斬新な設計で、外壁すべてに黒い大理石を使おうとして論争の元になった。つまり景観に合わないというのだ。結局、外壁は白大理石に変更され、その代わりに内部が星空をイメージした黒いパネルで覆われた。カジノやブティックを備えたスパ・リゾートとして当時はよくホテル特集に取りあげられていたが、最近ではあまりいい噂を耳にしない。

 世界中からプライヴェート・ジェットで大富豪が集まるサンモリッツですら、そうしたリゾート施設の営業は厳しいということだ。ましてや、近くに空港や大きな列車駅もないメレーラ村に奇抜なリゾートホテルを建てて営業が軌道に乗るだろうか。

 ヴィオラが悩んでいると、ヴェルナーはこうも言った。
「彼なら、大きいホテルチェーンとの繋がりもあるよ。なんならチェーンの傘下に入ればいいんじゃないか?」

 ヴィオラは、ヴェルナーの顔をまじまじと見た。あたりのいい言葉の裏に、安易に経営の舵取りをして儲けたいという強欲さが浮かんでいた。

「ちょっと考えさせて」
ヴィオラはそう言って、その日は話を打ち切った。

 その時は、まだ眼下に間もなく湖に沈むメレーラ村が見えていた。

 12月のメレーラ渓谷は3時間ほどしか陽が射さない。だから、たいてい11月から12月半ばまでホテルは休業する。スキー場が開く時期でもあり、クリスマスシーズンに忘年会食の予約が入るので、その日から再び開業したが、平日で予約客は、2組ほどしかなかった。

 どうしたらいいんだろう。ヴェルナーの言うとおり、大手ホテルチェーンが経営に参画し、リゾートホテルとして宣伝してもらえば、いまより経営は楽かもしれない。でも、そうなったら、残るのはせいぜいグラッソ・ホテルという名前だけだ。曾祖父の愛したホテルはどこにもなくなってしまう。

 ヴェルナーは創業者レオナルド・グラッソもその息子のマルコ・グラッソも知らない。叔父がヴェルナーの母親と再婚したのは祖父マルコが亡くなった後だったし、そもそも叔父自身も10年前父が亡くなるまではメレーラ村にはほとんど足を踏み入れなかった。

 曾祖父や祖父がヴェルナーの提案を聞いたら真っ赤になって怒るだろう。心から愛したグラッソ・ホテルが、チェーン・ホテルの真っ赤なネオンサインで覆われる。そして、ルネッサンス式の均衡と調和とはなんの関係もない、台形を組み合わせた模造石材または曲線コンクリート外壁の建物にする。それは創業者親子にとっては冒涜に過ぎない破壊だろう。でも、経営に失敗したら、結果は同じになる。私がそうするか、どこかの外資がするかの違いしかない。

「どうしましたか」
声がしたので振り向くと、先ほどチェックインしたばかりの宿泊客ヨルディ氏が立っていた。彼は、昔から常連で、1年に1度、この時期に泊まりに来る。ヴィオラが経営者となってからは、はじめての滞在だ。

 ポルティコにはもう陽光はない。急激に寒くなっている中、ここに居続けると風邪をひくかもしれない。

「いえ。すみません。少し考え事をしていました。ロビーでアペリティフなどはいかがですか」
ヴィオラが訊くと、ヨルディ氏は笑って「そうですな」と言ってから、目を谷の向こう側の山に向けた。

「あなたのひいおじいさんも、よくここであちらを見ていましたね」
「曾祖父をご存じでしたか?!」

 ヨルディ氏は頷いた。
「ええ。かなりご高齢でしたから、もちろんもう引退なさっていらっしゃいましたが、現役の頃と同じようにホテルを歩き回り、隅々にまで氣を配られておられました。花瓶の花がしおれていれば抜き取り、新聞が乱雑に置かれていれば整えて。そして、私のような若造の客にも丁寧に話しかけてくれましたね。ここに来るのが楽しみでした」

 ヴィオラは目を細めた。曾祖父には直接教わらなかったが、祖父が口を酸っぱくして教えてくれたことは、曾祖父からのグラッソ・ホテルの伝統だったのだ。
「それで、毎年いらしてくださるのですね」

 ヨルディ氏は、頷いた。
「そうですな。それもあります。近年は、どのホテルもたいそう機能的になっていて、人びとの入れ替わりも激しい。毎年変わらずに会話を交わせるような場所はめっきり減りました。レストランで食事をしても、給仕をする人以外は顔も見せないのが普通になってしまいました。でも、ここは違う。私はあなたの曾おじいさん、お祖父さん、お父さん、叔父さん、そしてあなたと知り合い、滞在中に何度も話をし、食事の時も話しかけてくれ、そうしてとても親しく心地よく滞在させてもらっている。それが、ここに来る一番の理由であることは確かです。ただ……」

「ただ?」
ヴィオラが訊き返すと、ヨルディ氏は少し悪戯っぽい笑顔を見せた。

「私が冬に来る理由をご存じですか?」

「いいえ。夏には、南の方に行かれるのがお好きなのかと思っておりました」
ヴィオラが答えると彼は首を振った。

「実は、以前は必ず夏の休暇に泊まりに来ていたのですよ。でも、ある日、あなたの曾お祖父さんが教えてくれたのです」
そう言って彼は、向かいの山嶺を指さした。

 ヴィオラがその視線を追うと、『二剣岳』と呼ばれている雪冠を被った山頂があった。

「冬至の朝、あの2つの剣先の間から昇る朝日の光が、まっすぐこのホテルの正面に当たるのだと。そうなるように正確にこのホテルを建てたのだそうです。ですから、私は、毎年太陽の誕生日である冬至に、その朝陽の差し込むこのポルティコに佇むことにしたのですよ」

 ヴィオラは言葉を発することができなかった。ただ、老ヨルディ氏の穏やかな微笑みを見た。

 彼女は曾祖父からのメッセージを受け取ったように思った。経営がうまく行くかどうかはわからない。彼女の代でホテルを潰してしまうかもしれない。けれど、100周年までこの位置に残すことさえできれば、あとは歴史的建築物に認定されたグラッソ・ホテルは、国に守られてずっと冬至の一陽来復を受け続けることができる。

 そう心を決めたヴィオラを、ヴェルナーは翻意させることはできなかった。移築をしなかったグラッソ・ホテルは、補償金を得ることはなかった。だが、人造湖に沈むメレーラ村の話は、ニュースとなったし、村人たちが建物の移築を待つ間の仮住まいとしての特需もあり、ここ10年なかったほどの増収があった。ヴェルナーは去ったが、ほかの従業員たちはみな残ってくれた。

 そして、人造湖ができて初めての冬至がやってくる。

 暗いうちにロビーに降りてきたヴィオラは、正面の扉を開けた。日の出の少し前に、階段がきしみ、年老いているがしっかりとした足取りでヨルディ氏が降りてきたのがわかった。

 ポルティコの前には、昨年までとまったく違った光景が広がっている。

 メレーラ渓谷に新しく生まれたメレーラ湖は暗闇の中で静かに横たわっている。その湖を臨み堂々と建つグラッソ・ホテルは、次第に紫から紅色へと変わりゆく空と、雪を戴き厳しくも冷たくそびえる山嶺の荘厳さと見事に調和している。

 『二剣岳』から一筋の強い光が差し込み、それはちょうど正面玄関に立つヨルディ氏の後ろ姿を輝かせて、ヴィオラのもとにも届いた。ロビーが突如として白く輝き、優美な階段の奥まで明るく華やかな光に満ちた。

 曾祖父の作りだした理想の建築は、この光の魔法に誇らしげに顔を向けている。柱も桟も花台も、その他すべての細部にいたるまで、丹精込めて作り出されたグラッソ・ホテルは、100年経とうとも色褪せない美しさを放っていた。

 ゆっくりと正面玄関を出てポルティコに立つと、ヨルディ氏が振り向き微笑んだ。

 湖は青く輝き、グラッソ・ホテルの茶色がかったサーモンピンクの壁と白い柱を際立たせている。凍てつく空氣の中、ここにこの建物があるべき理由を静かに提示してくる。

 これでよかったんだわ。厨房や部屋係が仕事を始める音が、聞こえてきた。輝きをもう1度目に留めて、ヴィオラは仕事を続けるべくロビーへと戻った。

(初出:2023年12月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more

パッラーディオの傑作と言われる『ラ・ロトンダ』に関する動画です。

Villa Almerico Capra "La Rotonda" - Vicenza - 4K

それから、私がパッラーディオについて調べるきっかけをくれた曲です。こちらも有名ですよね。

Jenkins: Palladio - 1. Allegretto (arr. for Strings Orchestra)
関連記事 (Category: 短編小説集・12か月の建築)
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(26)《トリネアの黒真珠》 -3-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第26回『《トリネアの黒真珠》』3回に分けたラストをお届けします。

フリッツが聞いてしまった不穏な会話をエレオノーラに告げるレオポルドたち。少なくとも1人が誰かはすぐにわかったようです。外伝で登場した陰険野郎ですね。そういえば、この小説の会話を書いているときにATOKに「不適切表現です」といっぱい怒られたなあ。「小説上の表現なんで」といってもわかってもらえないんですよね。

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』の年内更新はこれで終わりです。例年の「scriviamo!」をまたやる予定ですので、連載再開まで2か月ほど空く可能性があります。「scriviamo!」の参加が少なければすぐに再開するかもしれませんが。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(26)《トリネアの黒真珠》 -3-


 エレオノーラは、遠く懐かしむような目をしていた。
「ペネロペは、本当に美しい人だった。淑やかで優美な彼女は、《トリネアの黒真珠》と讃えられていた。彼女が貧しい平民出身の《学友》だったことなど、もう誰も思い出しもしなかった。兄様も彼女に夢中だった」

 夫亡き後、後ろ盾もなく義父カミーロ・コレッティとも疎遠だった彼女は、聖キアーラ修道院に入ることを強く望んだが、候子フランチェスコの懇願で思いとどまりトリネア湾を臨む修道院にほど近いヴィラ《白隼荘》で敬虔な隠遁生活を送っていた。

「だが、このフリッツが耳にした会話では、そのベルナルディ夫人はなにやら物騒な亡くなり方をしたとか……」
レオポルドは核心に迫る問いを放った。

「ああ、そうだ。ペネロペは何者かに誘拐されたあげく惨殺されて港の近くにうち捨てられたんだ」
「そして、その下手人とされているのが、あのトゥリオ殿だとも……」

「そして、そのあげくに人狼になってしまったというのか? そなたたちだってその目で見ただろう? あれは、まったくの言いがかりなんだ。トゥリオにすべてを押しつけるための! 彼はペネロペに害を加えるなんてことは絶対にしない。ベルナルディ家でも、トゥリオだけがペネロペが心を許せる存在だったんだ」
エレオノーラは、言いつのった。

「と、いうことは、トゥリオ殿はベルナルディ家にお勤めなのですか?」
マックスが訊いた。

 エレオノーラは頷いた。
「そうだ。実は、トゥリオが老ベネナルディ殿の私生児だというのは周知の事実で、つまりかの亡くなった家令ピエトロ・ベルナルディの腹違いの弟にあたるんだ。歳は親子以上に離れていたけれど。兄様の《学友》を勤め、成人後はベルナルディ家の従僕となり、寡婦となったペネロペの隠遁に伴い一緒に《白隼荘》に来ていた」

「ということは、カンタリアの王子の従者と密会していたのは、トゥリオ殿の同僚で、ペネロペ殿の誘拐・殺害に関わった上でトゥリオ殿に罪をなすりつけた当人という可能性もありますな」

 レオポルドの言葉に、エレオノーラは深く頷いた。
「一体だれが……。もしかしてトゥリオなら、フリッツ殿の話を聞けば、それが誰だかわかるかも……。すぐに修道院へ行きたいところだけれど、あのギース殿がいるとなると……」

「もう1つ、カンタリア王子の従者らしき人物ですが……」
レオポルドが訊くと、エレオノーラは、はっとしてフリッツの方を向いた。

「その従者、どんな男だった? 何か特徴は?」
訊かれてフリッツは頷いた。
「ユダヤ人らしく変装していましたが、次に会えばすぐにわかるほどの特徴のある男でございました。かなり浅黒く、漆黒の髪と目を持ち、つまり、その……」

「モロだったってことか?」
タイファ諸国出身の肌の黒い人びとを指す半蔑称を言いよどむフリッツに、エレオノーラはずばりと訊いた。フリッツは頷いた。
「はい」

 エレオノーラは言った。
「だったら、簡単だ。それは、王子がもっとも信頼を寄せて常に側に置いているアルボケルケ卿ヴィダルだ」

 レオポルドも驚いた様子だ。
「カンタリア王子がモロを側近に? カンタリア王国とタイファ諸国との停戦交渉は決裂したと聞きましが」

 エレオノーラは肩をすくめた。
「なぜ側に置いているのかなんて知らない。でも、ゴディア伯らしいから純粋なモロではなく合いの子なのかもしれないな」

「王子様は信頼を寄せておられるとのことですが、その男は主をなんとも思っていないようですな」
レオポルドが言うとエレオノーラはつぶやいた。
「たしかに陰険そうな男だが、そもそもあの浅薄な王子に心酔するのなんて、聖人でも無理だ。……私のような欠陥姫に言われる筋合いはないかもしれないが……」

「では、そう言われないように、さっそく授業をはじめましょう」
レオポルドはそう言ってラウラに目で促した。

 ラウラは、先ほどまでの憔悴した様子が嘘のように軽やかに立ち上がった。アニーは無事で、ゆっくりと修道院で休んでいる。それだけで心に羽が生えたかのようだった。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(26)《トリネアの黒真珠》 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第26回『《トリネアの黒真珠》』3回に分けた2回目をお届けします。

あっちでもこっちでも嘘つきばかりな状況の中で、候女エレオノーラに嘘がばれないかヒヤヒヤしながら、面会しているレオポルドたち。

今回は、トリネア候国の内政の話があれこれ出てきますが、正直言って覚える必要はないです。「ああ、なんか不安定な国なのね」と思っていただければそれで十分ですので。


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【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(26)《トリネアの黒真珠》 -2-


「そうか、その通りだな。お氣遣いに感謝する。アニー殿を助けた貴人というのは、エマニュエル・ギースという名で、ルーヴラン王国の紋章伝令副長官だ。母上がマーテルの親戚にあたり、トリネア港を通るときには必ず立ち寄る方なのだが、まさかアニー殿の知り合いだとは」
エレオノーラは、眉をひそめた。

「アニーはもともとルーヴランのヴァレーゼ出身で、森林保護官夫人である叔母を頼り王都で働いたことがあると聞いております」
レオポルドは、この件に関しては真実を告げた。マーテル・アニェーゼ経由でギースからのどのような情報が入ってきているかわからないからだ。

「ああ、なるほど。たしかギース殿もヴァレーゼ出身だ。だとしたら知っていても不思議はないな。しかし、ここでこのような形で再会するとは、なんとも不思議なめぐり合わせだ」
「まことに」

 エレオノーラは、アニーがギースを知っていた経緯についての疑問はとくに持たなかったようだ。アニーが王宮に勤めていたことは先方では話題には上っていないのかもしれない。レオポルドをはじめ一行は内心で安堵した。候女は他のことに氣を取られていた。
「少なくともアニー殿につきっきりでいてくれるおかげで、ギース殿はこちらに見舞いに来ることもなさそうだ。それはありがたい」

「幸い、マーテルもアニーやフリッツと同じことに思い至られたらしく、アニーを知らぬ振りを通してくださったとのこと」
マックスはこの件に関しては軽く話を切り上げ、より彼女にとって重大と考えられる問題の方に意識を誘導するようレオポルドに目で示唆した。

 レオポルドは、これまでよりもずっと重々しい口調に変えた。
「ところで、我々が頼んだ女傭兵がマーテルと話をしてくれている間、このフリッツは修道院近くのお屋敷に身を潜めながら待っておりました」
彼は、フリッツが偶然耳にしてしまった不穏な話についてエレオノーラに告げた。

 エレオノーラは興味深くその話を聞いていた。
「その屋敷は《白隼荘》といってベルナルディ家が所有している。かつてペネロペが住んでいたところだ。そこの召使いが……」

 エレオノーラは、それからしばらく考えに沈んでいたが、顔をあげた。このままにはしておけないという強い決意がその瞳にこもっている。
「オルダーニ家の仕業だと思っていてくれれば好都合だと、そう言ったというんだな」

 フリッツに目で確認をとり、レオポルドが答えた。
「そうです。オルダーニ家というのは……」

 もちろんレオポルドも、横で共に聞くマックスも、オルダーニ家がトリネア候国の有力貴族であることは知っているが、異国の商人らしく事情に疎いフリをしてエレオノーラの意見を引き出そうとしているのだ。

「長らくわがトリネア侯爵領の家令を務めてきたのは、マーテルの生家であるベルナルディ家だったのだが、3年前に、新しくリヴィオ・オルダーニが家令となったのだ。このオルダーニ家というのは昔から何かにつけてルーヴラン王国寄りだ。リヴィオ・オルダーニもそれは同じで、兄様とバギュ・グリ侯爵令嬢エリザベス殿との結婚を勧めようとしていた。だから、ペネロペが邪魔だったんだ」

 そこまで言ってから、レオポルドたちがよくわからないという顔をしているのを見て、口を切った。少しだけどこから話そうかと考えていたが、やがてこう言った。

「兄様とペネロペは恋仲だったんだ。兄様は本氣でペネロペとどうにか結婚できないか探っていた。でも、ペネロペの出自を持ち出してオルダーニはひどく反対していた」

 それからエレオノーラは、運命に翻弄されて亡くなった彼女の親友について語り出した。

「私が学びを拒否した後も、《学友》にするために城下から召し上げたペネロペは、簡単に両親の元には戻せなかったらしい。名目上、彼女を養女にしたカミーロ・コレッティは、準備金がかさんだだけでなんの旨味もなかったと激怒していたと聞いている。そんな事情もあって、ペネロペは当時の家令ピエトロ・デ・ベルナルディが妻にするという形で引き取ったんだ。彼の長年連れ添った妻は2年ほど前にみまかっていたから」

 ラウラは首を傾げた。
「でも、あなた様が学びをおやめになったのは、たしか……」

 エレオノーラは頷いた。
「私が10歳の時だ。ペネロペは、私と同い年だった。ピエトロの後妻になったとき、彼女はまだ11歳だった」

 ラウラは「まあ」とだけ言った。エレオノーラは、肩をすくめた。
「それでも、どちらがマシだったかといったら、親子以上に歳の離れた男の妻になることだったと思う。少なくともピエトロは彼女を鞭打ったりせずに、大切にした。たった6年だったけれど」

「離縁させられたのですか?」
レオポルドが訊くと、エレオノーラは首を振った。
「いや、ピエトロが亡くなったんだ。ペネロペは17歳で寡婦になった」
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(26)《トリネアの黒真珠》 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第26回『《トリネアの黒真珠》』をお届けします。今回も3回に分けています。

ようやく話はメインキャラたちのいる離宮へと戻ってきました。フリッツとフィリパが戻ってきました。ラウラもアニーの無事がわかりひと安心です。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(26)《トリネアの黒真珠》 -1-


「そう。無事なのね」
ラウラは、涙を浮かべて微笑んだ。アニーが川に流されて以来、水すら飲まずに祈り続けてきたが、フリッツとフィリパが朗報を持ってきてようやく顔に精氣が戻った。

「それで、なぜまた修道院に?」
マックスは、フリッツとフィリパだけが帰ってきたことに戸惑っていた一同の思いを代弁した。

「それが、やっかいなお方がアニーの側におりまして」
「それは?」
「ルーヴランの紋章伝令副長官ギース殿です」

「「なんだって?」」
レオポルドとマックスが同時に叫んだ。

 エマニュエル・ギースは、ルーヴの宮廷でマックスやラウラと親しく言葉を交わしたこともある。そして、それだけでなく、ノードランドの停戦交渉の場にもいたので、レオポルドの顔をもよく知っている。さすがにフリッツの素性まではわからないだろうが、顔を見知っている可能性はある。

 アニーの兄マウロの命を救い、フルーヴルーウー辺境伯領へと送る手助けをしてくれたのも当のエマニュエル・ギースだが、それはつまり、彼がラウラとマックスが現在はフルーヴルーウー辺境伯夫妻となっている裏事情をよく知っていることを意味する。それだけにいかにも軍人然としたフリッツが現れてアニーを引き取ったりしたら、すぐに何かがおかしいことに氣づくだろう。

「それでアニーは同行者などいないというフリをしたんだろう。溺れかけたそのあとでよく機転を利かせてくれたというほかはないが……困りましたね」
マックスは、どうしたらいいだろうかというようにレオポルドを見た。

「それで、マーテル・アニェーゼはなんと?」
レオポルドはフィリパに訊いた。

「あの尼さんも大したタヌキですね。アニー殿のこと、まるで初めて見た知らない娘みたいに振る舞っていましたよ。そのギースとかいうルーヴラン人の方は、アニー殿が心配で氣も狂わんばかりで、とにかく快復するまで滞在するって言い張っていました。で、マーテルがあたしを横に連れて行き、このお方が出立したら連絡をするのでそれまで待つようにと言い、この書状を姫さんに渡せって」

 レオポルドは、安堵して笑顔になった。
「なるほど。それが今のところ我々にとっても最善だな。ああ、フィリパ、悪いが、もう1つ頼みたいことがある」

「なんですかい?」
「もう1度修道院に行き、アニーに会い、我々から連絡があるまでそこで待てと伝えてほしい」
「そりゃあ、構いませんが、なんか忘れてませんか」

「なんだ。砂金なら先ほど渡したではないか」
「ヘルマン殿の代わりに尼さんところで黙って伝言係をやるなんてのも、予め言われた話にもなかったけれどやってきたんでね。そろそろ追加料をもらわないと」

 レオポルドは上を見てため息をつくと、マックスに目配せをした。マックスは笑いながら財布から再び砂金をとりだして与えた。

「こりゃ、どうも。ヘルマン殿との密偵ごっこの方もこっちに入れておきますね。あれはなかなか面白い体験だった。我々は、しばらく修道院脇で野営をしているから、またなんかあったらいつでもどうぞ」
そういうとフィリパは、悠々と出て行った。

 レオポルドは、フリッツの方に向いて訊いた。
「それで、密偵ごっこというのは、お前が報告したいと言っていた件か?」
「はい」
「よし話せ」

 フリッツからの報告を聞くと、レオポルドとマックスは、これはエレオノーラの耳にも入れる方がいい案件だと一致した。それで、全員ですぐにエレオノーラのいる東翼に向かった。

 マーテル・アニェーゼからの手紙を渡しがてら、レオポルドは「お耳に入れたいことが」といい、暗に使用人たちの人払いを頼んだ。エレオノーラは、頷くと場所を変え、書斎にレオポルド一行と隠り、手紙を開封した。

「あそこに運び込まれたなら、なぜフリッツ殿が行って直接アニー殿を連れ出さなかったんだ?」
マーテル・アニェーゼからの手紙には、アニーはしばらく修道院で静養させ、快復したら連絡すると書いてあった。

「修道院に連れて行った貴人が、もしかするとあなた様をご存じだといけないと思い、アニーは自分には連れはいなくて1人だと説明したようなのです。確かに、あの修道院にトゥリオ殿が匿われている事情や、あなた様が病に伏せっておられるのではないことが、その貴人を通じてほかの方々にわかると面倒ですし」
レオポルドは、予め考えてあった通りに話した。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(25)密会 -3-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第25回『密会』3回に分けたラストをお届けします。

さて、フィリパが修道院にアニーの様子を見にいってくれている間、目立たぬように近くの屋敷の影に潜んでいたフリッツ。ちょうどその屋敷の使用人と、向こうからやって来た人物が密会をはじめたようです。フリッツは、それを盗み聞きすることになってしまいました。

まだ名前は出てきていませんが、この男が、おそらくこの作品群の最後に登場した主要サブキャラです。すでに外伝では登場させていますが、そっちは読まなくても大丈夫です。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(25)密会 -3-


 歩いてきた方はユダヤ人の服装をし肌色が非常に濃い男だ。屋敷から出てきた男は、その屋敷の召使いと思われる服装だ。だが、このような屋敷の使用人とユダヤ人が密会しているのはいかにも不自然だ。

 召使いの方は、聴き取りにくい小さな声で何かを囁いていた。それに対して、ユダヤ人の服装の男がカンタリア語で話しだした。
「では、例の男の口はまだ塞がれていないということか」

 フリッツの母親がレオポルドの乳母だったので、親子は子供の頃からレオポルドならびにカンタリア出身の母后の近くに侍ることが多く、グランドロン人としては珍しくカンタリア語を幼少期からたたき込まれている。

「はい。人狼であるという噂が立っているのをいいことに、うまく片付けるように仕向けておりましたが、邪魔が入りました」
屋敷の召使いの方は、カンタリア語は得意でないらしく、センヴリ語訛りで答えているが、カンタリア語とセンヴリ語はかなり近いので十分に会話が成立していた。フリッツにも何を言っているのかがよくわかった。

「邪魔? つまり、だれかがあの男を助けたと?」
「はい」
「あの男に味方がいるというのはよくない兆しだな。そちらも消さねばならぬとは思わぬのか?」

 フリッツは、話の内容に眉をひそめた。人狼というからには、例のトゥリオに違いない。カンタリアの人間が候女に近いトリネア人の殺害を示唆している。

「それが、どうも姫君の息のかかった者のようで」
「姫君? ああ、あの欠陥候女か」
「はい」

 浅黒い男は、わずかに考えていたが、ふっと笑った。
「そうか。それなら、むしろ好都合かもしれぬな」
「と、おっしゃいますと?」

「あの女は、孤立している。侯爵夫妻からも期待されておらず、どの有力貴族たちからもあざ笑われ、城内で頼る者もない。犯罪人を匿ったのが明るみに出れば廃嫡もあり得る大失態だ。そういって脅すことで、こちらに都合よく動く傀儡にすることも可能だ」
「なるほど、確かに」

「ともかくあの従僕の居場所を一刻も早く探って、あの女による隠匿である証拠を掴んでから消せ。あの候女が頼り匿っている者がいるなら、そちらも潰すいい機会だ」

「わかりました。それに、幸いトゥリオ自身がそう信じているように、姫君にも、ペネロペ殿はオルダーニ家に殺されたと思って動いていただければむしろ好都合です。万が一にも、こちらが計画したことと氣づかれれば、せっかく進んでいるそちらの殿下とのご縁談にも差し支えましょう」
「ふん。わが主にはまだ細かい事情を知らせるつもりはない。あの男は候女の前で馬鹿正直に思ったことを口にして、何もかも台無しにするだけだ」

 フリッツは仰天した。不穏な話題もだが、この男はカンタリア王子エルナンドの家来らしい。ということは、ユダヤ人などではなく変装だろう。この浅黒い顔はモロと通称されるタイファ諸国の褐色人のようにも見える。そのような男を王子が家来にしているのは奇妙だが、この件を主人レオポルドに報告すれば、いずれ候女エレオノーラ経由で何者なのかわかることだろう。

「まて。誰か来るぞ」
ユダヤ人の服装の男が声をひそめた。

 フリッツは自分の存在に氣づかれたかと思ったが、そうではなかった。かなり向こうからだが、この屋敷の方へ近づいてくる金属音がしている。フィリパに違いない。先ほども腰につけていたダガ剣とベルトが歩く度に音を立てていた。

「では、私はこれにて」
屋敷の召使いは、慌てて裏木戸を押した。彼が向きを変えたときに、その頬髭がつる性植物に引っかかりわずかに引っ張られた。それで、フリッツにその男の左頬の下にそれまで氣がつかなかった大きな黒子があるのが見えた。

「わかった。引き続きそちらからの情報を待つことにしよう」
浅黒い顔の男はあたりを見回してから、急ぎその場を離れ、召使い男はそそくさと屋敷に入った。

 見ていると、かなり先でその男とフィリパがすれ違い、彼女が胡散臭げに振り返っていた。モロである男は、目もくれずにすれ違ったが、しばらくしてふり返りフィリパと、そしておそらくこの屋敷を何か言いたげに見つめているのがわかった。

 フリッツは、もしかして忍んで話を聞いていたのを感づかれたのかと訝った。だが、男は、身を翻すと城下町の方へと去って行った。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(25)密会 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第25回『密会』3回に分けた2回目をお届けします。

さて、フィリパが修道院にアニーの様子を見にいってくれている間、目立たぬように近くの屋敷の影に潜んでいるフリッツ。やることもないのでグルグルどうでもいいことを考えています。フリッツって、本当に結婚やら男女交際に向いていない人なんだろうな。何が悪かったのか、本氣でわかっていませんね。こりゃ。

そして、最後の方にだけ、ちょっと本題が……。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(25)密会 -2-


 インゲの方も、夫にスダリウム布の1つすら贈ろうとしなかった。レオポルドに従いノードランド戦に出征したときにすらだ。それについてフリッツは不満に思ったことはない。既に夫婦なのだからそんな甘ったるいことは不要だと考えていたからだ。

 それを知ったとき、副官のブロイアー中尉は驚愕し、周りにはそのことが一両日中に知れ渡った。レオポルドまでが呆れていた。
「そなた、インゲをそうとう怒らせているのではないか?」

「なぜですか」
「なぜって……。本物の戦に旅立つ夫にスダリウムを贈らない妻なんぞ、聞いたこともないぞ。それはつまり、『安全に帰ってこなくてもよい』という意思表示ではないか」
「まさか。そう思うのなら、はっきり口でそう言うでしょう」

 もちろんインゲはそうは言わなかったが、もしかしたら本当にそう思っていたのかもしれない。何も言わないから、生活に満足しているとは限らないのだとフリッツが学んだのは、インゲがドライス伯爵のもとに走ってからだった。

 表向きは、インゲはまだヘルマン大尉夫人だった。彼女は離縁を求めてこなかったし、フリッツもそうする必要は特に感じなかった。ほかにつきあいたい女性がいたわけでもなければ、そもそも誰かと知り合う機会も時間もなかった。まだ結婚している身であるという自覚と節操を持ち続けることが自分に合っているとも思っていた。

 エマニュエル・ギースとアニーの様子は、もうほとんど思い出さなくなっていた不快な感情を再び喚起した。去ったインゲが恋しいと思ったことはない。寂しさも感じなかった。それは失敗からくる苦さであり、何が間違っていたのかわからない事に対する苛立ちに近かった。

 そして、いま見た2人の様子に対する戸惑いは、宮廷でドライス伯爵とインゲを見かける時の感情とは少し違っていた。そもそもフリッツはレオポルドやフルーヴルーウー辺境伯夫妻ほどルーヴラン語に堪能ではないので、2人の会話の詳細まで理解したわけではない。だが、ギースがさまざまな言葉を尽くしてアニーの身を案じ、再会の喜びを表現していることはよくわかった。

 もし、あの男が現れず、フリッツが溺れかけたアニーと再会していたとしたら、彼はどんな態度を取っただろうかと考えた。

 川に落ち、溺れそうになった彼女を見て、役目もすべて忘れ飛び込み助けたいと思ったことを、彼は伝えただろうか。伝えないだろう。

 宝物を抱えるようにリネンに包みその胸に愛しげにかき抱いて馬を走らせたりするだろうか。しないだろう。もちろん風邪をひかないように布を用意してやることくらいはしたに違いない。そうして、いつものように一緒に馬に乗り、お互いの主の待つ場所へ戻る、それだけだ。

 あの娘はこの旅での『設定』とは異なり、彼の妻ではない。節度ない振る舞いをすれば彼女は拒み、いつものように生意氣な態度で抗議してくるに違いない。

 だが、あの男は、アニーにとってあのような振る舞いを許す存在のようだ。それが、フリッツをひどく苛つかせていた。様子を見にいかせたフィリパはいったいどうしたのだろう。あれからしばらく経つのに。

 辻の方を見ながら思いをめぐらせていると、反対側から誰かが近づいてくる音が聞こえた。フリッツは、人狼騒動のおりに近隣の村の者たちの恨みを買ったことを思いだした。何かあってもあの程度の男たちに負けるような腕前ではないが、エマニュエル・ギースがすぐ近くの修道院にいるのに、ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。見つからないように身を潜めた。

 すぐに、つる性植物の下でギィと音がして、そこが屋敷の裏木戸であることがわかった。中から男が顔を出し、やって来た男と顔を見合わせて頷いた。あたりの様子を慎重に確認している。どうやら見られたくないと思っているのはこちらだけではなさそうだ。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(25)密会 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第25回『密会』をお届けします。今回、本当は3回にわけるような長さじゃないのですが、2回だと切るところがおかしくなり、1つが長すぎることになります。で、3回にわけています。決して続きが遅れているから引き延ばしているわけでは……ないことはないか……。

さて、フィリパが修道院にアニーの様子を見にいってくれている間、役に立たない状態のフリッツは、近くの屋敷の近くに身を潜めて待っています。サブタイトル「密会」に関係してくるのは、分けた3回目だけなのですが、今回と次回は、わたしの小説によくあるキャラのグルグル思考をお楽しみください。このキャラのグルグルなんて、誰も待っていないとは思いますが。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(25)密会 -1-


 アニーと連絡をとるために修道院へ行ってくれたフィリパを待つ間、フリッツは辻の近くの屋敷の影に身を潜めていた。修道院ほどではないが、かなり立派な屋敷だ。

 建物の上部前面が柱で支えられた回廊様ポルティコになっており、その列柱の古代風装飾が優美で美しい。下部は塀に遮られて見えないが、門柱飾りは立派な松の実の装飾で、グランドロンでは見かけない香り高い白い花をつけたつる性植物がその塀を覆っていた。

 フリッツは、センブリ王国の建築様式などに関する知識はほとんどないが、少なくともかなり裕福な人物の持ち物であることは推測できた。おそらく名のある貴族の別宅だろう。

 もっとも、塀を覆う植物は少々生い茂りすぎている。修道院の塀にも蔦が這っていたが、下男たちが乱れぬ程度に剪定していた。この屋敷には、人手が足りないのか、もしくは長いあいだ主の目が届かぬ状態になっているのかもしれぬと考えていた。

 そのようなことを考えるのは、今のフリッツは為す術もなくここで女傭兵を待たなくてはならないからだった。普段の彼は、つねにレオポルドの行動に反応して、その安全に身を配っているので、このように何もせずにただ待つというようなことは記憶にあるかぎりしたことがなかった。

 今日は、何もかもが予想外のことばかりだった。アニーが川に投げ出され、すぐに助けに行きたいという思いと身に染みついた国王の警護優先に引き裂かれた。彼女の無事が確かめられたかと思えば、一行の正体を知る人物がその場にいた。

 そして、そのエマニュエル・ギースの態度振る舞いすら、彼の想定をはるかに超えていた。ルーヴラン人に多い、女にベタベタするタイプなのか、アニーに対しての距離感がおかしい。まるで熱愛する貴婦人に跪く騎士のような振る舞いだ。いったい何なんだ、あの優男は。

 フリッツは、小夜曲を奏でながら跪いて求愛するタイプの男が何よりも嫌いだ。皮肉なことに、彼の妻インゲがなびいて公然の愛人となってしまったのは、まさにそのタイプの男ドライス伯爵だった。

 インゲに夫ある身でほかの男と出歩くようなふしだらな振る舞いを慎むようにと言い渡したときに、彼の妻は慌てるどころか、フリッツをはなから馬鹿にした様子で言い放ったものだ。
「そんな態度で女を引き留めることができるなんて思わないことね」

「私があの方と出歩くだけだと思っているなら、おめでたいことだわ」
そう言って屋敷を後にしてから、インゲはもう戻らなかった。今ではヴェルドン宮廷の誰もが知っている。彼女はドライス伯爵の屋敷の1つに住み、舞踏会など社交の場にも堂々と伯爵とともに出てくるのだ。

 インゲとは、もともと恋愛感情があって結婚したわけではない。お互いに恥ずかしくない程度の家柄ということで、仲介者を通して知り合った。口数は少なく、家政をしっかりと切り盛りできるしっかり者だと判断したので結婚を申し込んだ。

 実際にインゲはきれい好きで整理整頓も得意だった。下男や下働きの娘の扱いだけでなく、自身もたまにする料理も下手ではないのだが、調理場を汚すような料理は作らない主義で、あっさりとしたあまり腹にはたまらない料理ばかりを作った。しかし、フリッツはそれに対して文句を言ったことはなかった。

 お互いに腹を割って話し合うようなことはしたことがない。もちろんドライス伯爵がお得意の、花を抱えて甘ったるい讃美の言葉を囁いたり、リュートで小夜曲を奏でたりするようなことは一切しなかった。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(24)予期せぬ再会 -3-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第24回『予期せぬ再会』3回にわけたラストをお届けします。

敬愛するラウラとその一行の嘘を護るため、嘘に嘘を塗り重ね泥沼に嵌まりつつあるアニー。幸い、ギースに対して嘘をつかなくてならないのは一行だけでなかったので、首の皮一枚で繋がった模様。これで、しばらくアニーは一行から離れて静養することになってしまいます。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(24)予期せぬ再会 -3-


 なんとか行かずに済む方法がないか考えたが、彼女が遠慮していると思い込んでいるエマニュエルは、性急に立ち上がり、彼女を抱き上げると馬に乗せてサンタ・キアーラ修道院へと急いだ。

 旅籠の陰からそれを見ていたフリッツとフィリパは、急いで馬をつないである木の所まで戻った。

「なんだい、ヘルマンの旦那。ずいぶんとご機嫌斜めだね」
フィリパに茶化すように言われて初めて、ようやくフリッツはひどく苛ついていたことに氣がついた。なんだ、あの氣障な伊達男は。虫唾が走る。

「別に、機嫌が悪いわけではない」
「そうかい。あの貴人はヘルマンの旦那の『奥様』とずいぶんと親しそうだったけどねぇ」

「それは私の知ったことではない」
「おお、こわっ」

「くだらないことを言うな。それよりも、厄介なことになってきたな。あの男の前に顔を出すわけにはいかないが、なんとかアニーと連絡をとらねば……」

 フィリパは、訊いた。
「あの男、知っているヤツか?」

「ルーヴランの紋章伝令副長官エマニュエル・ギース殿だ。ノードランドの戦いの停戦交渉の場にいた。私の顔までは覚えていないかもしれないが、陛下のことはすぐにわかるだろう。それに、ルーヴ城にいた伯爵ご夫妻のことはもっとよく知っているはずだ。……だからアニーも同行者とははぐれたなどと嘘を言ったんだろう」

 フィリパは頷いた。ギースとアニーの向かった修道院に向かっていたが、辻で立ち止まると、フリッツに提案した。
「そうか。ならば旦那はいま出ていかない方がいいな。あたしは身分を偽っているわけじゃないし、ちょっと寄って様子を見てこよう。旦那は、その辺で待っていてくれ」

「そうだな。頼む。私はあそこの屋敷の陰で待っていよう」

* * *


 ギースが修道会に着くと、修道院の下男らは「これはギース様、お久しぶりでございます」と頭を下げた。

 アニーは下男たちに顔が見えないように、リネン布を少し引いた。この感じだと、ギース様とマーテルはお互いにとてもよくご存じの仲なんだわ。どうしよう。

「今そこで、溺れかけた娘を庇護したのだ。申し訳ないが、マーテルに手当をお願いしてくれ」

 ギースはすぐに中に通され、建物の中で診療に使われている小さな部屋に案内された。アニーは、ギースに抱きかかえられたまま、どうやってあれこれ露見するのを防ごうか頭を悩ませていた。

 すぐにマーテルがやって来た。
「ごきげんよう、エマニュエル。久しぶりにいらっしゃったと思えば、何があったのです?」

「久しぶりだね、アニェーゼ。トリネアに来たので、いつものようにあなたに挨拶するつもりでこちらに来たんだ。そうしたら、そこで溺れかけたルーヴラン人がいると通訳を頼まれてね。行ってみたら、なんと知っている娘だったんだ。しかも、数日来、同行者とはぐれて行き場もない状態らしいんだ。水を飲んでしまっているみたいで、手当をお願いしたい。費用はいくらかかっても払うので請求してほしい」

 マーテルは濡れたリネンに包まれた娘の姿を見ると、すぐに他の尼僧に着替えや乾いた布を取りに行かせた。
「わかったわ。この方の着替えをさせて手当をするので、あなたは呼ぶまで隣の部屋に行っていてちょうだい」
「わかった。じゃ、アニー、また後で」

 アニーと呼ばれたのを聞いて、マーテルはリネンを深く被っている娘の顔をのぞき込んだ。それからはっとしたが、エマニュエルの前で声を出すようなことはしなかった。

 彼が部屋から出ると、扉をしっかりと閉めてから戻ってきて小さな声で言った。
「いったい何があったのですか」

 アニーも同じように囁いた。
「『死者の板橋』が流されてしまって、私だけ川に落ちてしまったのです」
「他の方は?」

「無事だと思います。主人たちが姫様のいる離宮に向かっていることは他言しない方がいいかと思い、1人だったと言ったのですが……」

「そうですか。賢明なご判断に感謝します。エマニュエルはキリスト教徒としては素晴らしい魂を持つ人ですが、ルーヴラン王宮に勤める身、離宮にいるエレオノーラ様が病気ではないことや、今ここでトゥリオ殿を匿っていることは、悟らせたくないので……あなたのことを私は知らないことにしてもいいかしら」

 アニーは、大きく頷いた。マーテルが、そういう理由で陛下のご一行のことをギース様に黙っていてくださるのなら、ひと安心だわ。

 受け取ったさっぱりした服に着替え、マーテルの診察を受けてから暖かい寝具に横たえられてひと心地着いたころ、エマニュエルが呼ばれて入ってきた。

「大丈夫か、アニー」
「はい。よくしていただきました。ありがとうございます」
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(24)予期せぬ再会 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第24回『予期せぬ再会』3回にわけた2回目をお届けします。

川に流されてしまったアニーは無事だったものの、ここで会うべきではない人物に遭ってしまいます。レオポルドやマックス、ラウラの顔をよく知っているエマニュエル・ギースです。しかも、兄の命の恩人でした。敬愛するラウラたちをピンチに陥れないよう、必死に頑張るアニーですが……。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(24)予期せぬ再会 -2-


 とはいえ、アニーにはもう1つの秘密がある。他ならぬレオポルドの一行が、トリネア候国の人びとに正体を隠し、『商人デュラン一行』として離宮に向かっていることだ。

 これだけは、絶対に隠さなくてはならない。……今、ギース様とラウラ様たちが顔を合わすようなことになったら、エレオノーラ様にすべてがわかってしまうわ。アニーは、必死に頭を働かせた。

「いいえ。王城に忍び込むようなことはできなくて、でも、侯爵様のご一行はもう帰国してしまわれたので帰ることもかなわず、そのままヴェルドンにおりました」
「ヴェルドンに? 右も左もわからぬ異国で行くところもなく、さぞ苦労したのだろう」
「いえ。幸い、親切な商家に拾っていただきまして……」

「なぜトリネアに?」
当然の質問をしてきたギースに、アニーは慎重に応えねばと思った。

「ご主人さまの買い付けの旅に同行していました」
商人デュランの買い付けの旅という設定はずっとしてきたので、話が続けやすい。

「では、これまで誰かと一緒だったのか? 他にも流された者がいると?」
エマニュエルは、訊いた。

 アニーは、これはまずいと思った。誰か一行がアニーを探しに来てこの紋章伝令副長官と鉢合わせしたら、グランドロン国王とフルーヴルーウー辺境伯夫妻がトリネアにいることがわかってしまう。

「いえ。今日、私はひとりでした。実は、数日前に旦那様たちとはぐれてしまって、トリネア城下町に行けば再会できるのではないかと急いでいたのです」

 ちょうどその時、旅籠の外まで来ていたフリッツとフィリパは、窓から聞こえるアニーの説明を耳にした。2人は、顔を見合わせて、室内の会話をさらに聞くことにした。

 レオポルドの護衛を南シルヴァ傭兵団に頼み、馬で急ぎ下流に向かったフリッツは、下流の村で村人たちが騒いでいるのを見た。先ほど渡った川の向こう側の村だったので、再び渡るためにさらに下流に走り橋を見つけた。渡ってから急ぎ馬を走らせ戻ってきたところ、こちら岸を走ってきた女傭兵フィリパと合流した。

 村人たちは、まだそこにいて噂話に話を咲かせていた。

「ここで何があったんだい?」
「川に落ちて溺れかけたルーヴランの娘がいるんだってよ」
「大丈夫かしら」
「あそこの旅籠に連れて行ったってよ。ルーヴランの言葉を話す旦那様がいるんで通訳をお願いするってね」

 それを聞いたフリッツとフィリパは頷き、馬を木につないでから旅籠に急いだ。

 窓からそっと覗き、アニーを認めて声を出そうとしたフィリパをフリッツは急いで止め、身を窓の外に潜めて中から見えないようにした。アニーに話しかける男の顔をよく知っていたからだ。どこで見たんだ、あの男は……。

 その男は、もってこさせた大きなリネンで全身ずぶ濡れのアニーの身体を優しく包み込んだ。
「では、そなたは異国にたった1人で? しかもこんな恐ろしい目にあって……。アニー、そなたは幾たび私の心を張り裂けさせれば氣が済むのだ」
なんだ、この男は。アニーのことをよく知っているのか? フリッツは首を傾げた。

「ギース様、ご心配をおかけして申し訳ありません」
アニーの声で、フリッツははっとした。そうか。ノードランドの停戦交渉の時にいたルーヴランの紋章伝令副長官エマニュエル・ギースだ。ということは、陛下の顔だけでなく、ルーヴ王城時代のフルーヴルーウー伯爵夫妻のこともよく知っているはずだ。これはまずい。

 アニーは続けた。
「私はたぶん大丈夫です。服さえ乾けば……」
そう言った途端、彼女は咳き込んだ。水が、喉に詰まったらしい。

「なんてことだ。すぐに服を着替え、手当をして、身体を休ませねば。この界隈には医師などはいなだろうから……。そうだ、私がこれから訪れる予定の修道院に一緒に行こう。院長は私の知り合いだ」

 アニーは、慌てた。マーテル・アニェーゼの所に行ったら、先ほどまで「ご主人さまたち」がいたことがわかってしまう。どうしよう。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(23)川の氾濫

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第23回『川の氾濫』をお届けします。今回は短いので切らずにいきます。

身分を隠したまま、候女エレオノーラの再教育係になった一行は、トリネア侯爵家の離宮に遷ることになりました。他の人びとに見られずに、トリネア候国の内情について知ることのできる絶好の機会ですが、もちろん身バレの危険性とも隣り合わせですね。さて、今回は、その教育が始まる前に起こってしまった、とあるハプニングの回です。

そういえば、この川流れのシーン、どこが元ネタだっけとずっと考えていたのですが、ようやく思い出しました。「信じられぬ旅」(ディズニー映画『三匹荒野を行く』の原作ですね)で、シャム猫が流されたシーンでした(笑)


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(23)川の氾濫


 翌朝エレオノーラは使用人たちに滞在の準備をさせるからといって、一足先に去って行った。

 午後に、5人は支度を済ませて離宮に向けて出発した。昨夜に激しい雨が降ったため、修道院周りの道はひどくぬかるんでいた。

 川に向かって進んでいると、見慣れた一団が野営していた。
「やあやあ、みなさん。こんな所でお目にかかるとは奇遇ですな」

 もみ手で近づいてくる南シルヴァ傭兵団の副団長レンゾの姿を認め、マックスとレオポルドは急いで視線を交わした。

「てっきり城下町の高級旅籠にでも泊まっておられるかと思いきや、あの修道院にいらっしゃったんで? 物騒じゃありませんかい? 護衛が必要なら、いくらでもお力になりますぜ」
大声で騒ぐので、他の団員たちも一行に氣がついて近づいてきた。

「いらん」
憮然としてレオポルドがいうと、レンゾは「おお、こわい」と言って、一歩下がった。本当に怖がっているようには全く見えず、むしろ面白がっている。

「で、どちらに向かわれるんで? 城下町への道は、あっちですぜ」
レンゾの問いに、一行はうんざりした。

「どこであろうと、お前の知ったことではない。いいか、我々は貴族ではないことになっているんだ。まとわりつくな」

 それでも付いてこようとするレンゾたちを振り切ろうと、一行は馬の歩みを早めた。

「おい。待て、そんなに急ぐな」
少し遠くで見ていた、例の女傭兵フィリパが何かを告げようとしているのがわかった。だが、ガヤガヤさわぐ近くの男たちと馬の蹄の音、それからぬかるんで歩きにくい道にもっと氣を取られた。

 渡ろうとしている川はさほど大きくはない。ただし、昨夜の雨のせいか、かなりの濁流が大きな音を立てている。ずいぶんと増水しているようだ。

 目指している渡り場所は、なんと『死者の板橋』であった。

 グランドロンでもかなり細い小川などによく架かっているのだが、葬儀の時に死者を載せて運んだ板に、その死者の名前を刻み小川に架けることがある。人びとがその橋を通る度に、死者の魂のために祈る習わしがあり、そうすることで死者は早く煉獄から脱出することができる。つまり、ある程度の財力のある死者の親族がこのような『死者の板橋』を架けさせるのだが、このように流れの速い時にはもう少ししっかりとした橋の方が安全だ。

 マックスは、一瞬どうすべきか迷った。流れが穏やかになるのを待つ方がいいのだが、そうすればうるさい傭兵団に囲まれてしまう。

「行こう。あの候女だって、さっさと渡ったんだろうから」
レオポルドが言った。

 マックスは頷いた。まず渡るのは自分だ。橋に何かあっても、レオポルドの安全は確保できる。同じ馬に乗るラウラに囁いた。
「降りて渡る方がいい」

 ラウラは頷き、2人は馬から降りた。橋板に申しわけ程度につけられた欄干に、ラウラは両手で、マックスは馬の手綱を握っていない片手で掴まりながら、慎重に歩いた。轟音を立てる濁流と、頼りない板橋のきしみが恐ろしかったが、なんとか渡りきった。

 それを確認した後でレオポルドが渡った。フリッツは「馬は私が」と言ったが、レオポルドは「急げ」と言って断り、マックスと同じように渡った。レオポルドが渡るときに、橋板はひどくたわみ、不快な音を立てた。

 渡りきった、レオポルドは振り向いてフリッツに叫んだ。
「氣をつけろ。この橋は……」

「やめろ! その橋は!」
後ろから馳けてきたフィリパが叫んでいるが、その時にはフリッツとアニーは既に橋を渡りだしていた。

 フリッツと馬が向こう岸に着くのと同時に、メリッという音がして、橋が折れた。まだ渡りきっていなかったアニーは投げ出され、フリッツは手を伸ばしたが馬を抑えていたために届かなかった。

 濁流はものすごい勢いでアニーを押し流し、あっという間にその姿を見えなくした。

「アニー!」
ラウラは取り乱し、すぐに川に入ろうとしたが、マックスが必死で止めた。
「だめだ、君も流される!」

 動転してもがきながら泣くラウラをマックスが止めている間に、レオポルドはフリッツに命じた。
「すぐに探しに行け」

 すぐに下流に身体が向いたものの、フリッツは立ち止まって言った。
「私はお側を離れるわけには……」

「自分の面倒はみる」
「しかし……」
「いいから行け!」
 
 本人も氣が急いているが、染みついた義務感の方にも絡め取られているフリッツは、すぐに対岸の傭兵たちを見て頭を下げた。
「どうかしばしこのお方をお守りください」

 対岸にたどり着いた傭兵たちは、橋の崩壊を見て蜂の巣をつついたように騒いでいたが、フリッツ・ヘルマンが頭を下げると一様にこちらを見た。

 先ほど冷たくあしらわれたレンゾは白い目をしていた。
「なんだよ、これまで散々邪険にしておきながら、ずいぶんとご都合のいいことで。さっき『まとわりつくな』って言いやがったのは、どこのどちらさんでしたっけ」

 フリッツの窮状に助け船を出したのはフィリパだった。
「いいのか。流されたあの娘は、あたし達が仕事を得られるように口添えしてくれたあの馬丁マウロの妹だぞ」

 後からやって来た首領のブルーノは、それを聞くと大きな声で言った。
「なんだって。……そうか、そういうことなら話は別だ。俺たちは恩知らずじゃねぇ。ヘルマンの旦那、行きな。『旦那様』の護衛は俺たちに任せろ」

 フリッツは、頭を下げて馬にまたがると、急いで下流に向かって馳けて行った。

 ブルーノたちは、長い縄の一方の端をレオボルドのいる方の岸に投げてよこした。マックスと協力してそれを木にくくり付けさせると、『死者の板橋』が渡してあったいくつかの大岩を足場にしつつ縄で伝いながら5人ほどが、こちらに渡ってきた。

「さて。じゃあ、行き先まで護衛して行きやしょう。あ~、ちなみに俺たちは先払いでお願いしてるんですがね」
レンゾは、悪びれもせずに要求してきた。

 レオポルドが指示するまでもなく、マックスは財布を開けて砂金を渡した。レンゾは愛想よく受け取った。
「へへへ。こりゃあ、どうも」

 レオポルドはフィリパに向かって言った。
「すまないが、フリッツ1人では困ることがあるやもしれぬので、様子を見にいって必要なら手助けをしてもらいたい」

「わかった」
フィリパは、マックスから別の砂金を受け取ると、下流に向かって走っていった。
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【小説】雷鳴の鳥

今日の小説は『12か月の建築』9月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、アフリカのジンバブエにある『グレート・ジンバブエ遺跡』です。私は1996年に、じっさいにこの遺跡を訪れています。

登場する人物は、いまのジンバブエがまだローデシアと呼ばれていた時代に実在した研究者たちです。


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雷鳴の鳥

 その鳥の小柄な身体には見合わぬ巨大な巣は、ついに屋根で覆われた。それから、シュモクドリは、人間の男性が載っても壊れないほどの強度ある巣の機能面だけでは満足せずに、2メートル以上もある目立つ巣をありとあらゆる装飾品で覆い始めた。カラフルな鳥の羽、草食動物たちから抜け落ちた角、ヘビの抜け殻、骨、イボ猪の牙、ヤマアラシの棘などが運ばれた。

 それらは、呪術師ウイッチドクター の呪具と似通っている。これがシュモクドリが魔法を使う存在だと信じられる根拠の1つとなっている。現地の言葉で『インプンドゥル』すなわち『雷鳴の鳥』と呼ばれる霊鳥は一般的にこのシュモクドリのことだと信じられている。

 伝説上の霊鳥は、白と黒の背の高い鳥で、魅力的な男性または女性に姿を変えることもできるし、生命にとって欠かすことのできない雨と水を呼び寄せる。実際のシュモクドリ(Scopus umbretta)は、ペリカン目シュモクドリ科シュモクドリ属の茶色い鳥だ。全長56~58センチ。カラスと変わらない。その名の通り、頭の後ろの飾り羽が少し突き出ていてハンマーのようだ。オスとメスには見かけ上の違いは比較的少なく、共同で非効率の極みと思えるほどの巨大な巣を作る。

 アフリカのサハラ以南、マダガスカル、アラビア半島南西部の浅い水瀬のあるあらゆる湿地帯に生息する。ペアで保持するテリトリーに留まり、渡りのように大きく移動することは少ない。繁殖しているかどうかに関わらず、年間3個から5個の巣を作り、そのうちの1つだけで雛を育てる。

 雛たちの多くは1年以上は生きられないが、生き延びた成鳥は時には20年も生きる。

 水辺に佇み、空の彼方を見つめるとき、人びとは呪術師たる雷鳴の鳥インプンドゥルが嵐を呼んでいるのだという。

 人を怖れず、マングローブ、水田、貯水池などにも巣を作り住むが、彼らを捕まえたり巣を壊して追い払おうとする者は少ない。雷鳴の鳥インプンドゥルの祟りで家に雷が落ちるような危険は冒さない。またこの鳥は南アフリカでは雨乞い師を意味するNjakaと呼ばれている。雨の前に大きな声で鳴くからだ。

* * *


 その遺構は、はるか昔にその地に建てられた脅威だった。1800年代にこの地を「未開の地」として蹂躙しにやって来た白人たちは、アフリカ大陸の南に巨大な遺跡を見いだした。1867年にドイツの狩猟家アダム・レンダーが「発見した」と言われる遺跡群は、実際にはすでに16世紀のポルトガル人たちによって記録されている。

 現地のショナ語でそれは「Zimbabwe ジンバブエ」と呼ばれていた。ポルトガル人ベガドは「裁判所を意味する」と報告しているが、現在ではこの言葉の意味については2つの説が有力である。「石の家」を意味するというものと、「尊敬される家々」という言葉に由来しているというものだ。鉄器時代の現地の人びとは、記録する文字を用いなかったので、当事者たちによる正確な由来を書いた文献は見つかっていない。

 この遺跡は、単なる「家々」という言葉で表現できるような規模ではない。最盛期には18000人が住んでいたと推測される、その驚くべきスケールと精密さが、逆に過去の偉大な創建者たちを本来賞賛を受けるべき名誉から遠ざけた。

 キャスリーンは、彼女の上司であるガルトルード・ケイトン=トンプソンが見せてくれた手紙を読んでため息をついた。それは、彼女たちの緻密で丁寧な論証に対して単に否定的だというだけでなく、明からさまな憎悪に満ちていた。ガルトルードは、「ナンセンスな内容だわ」と投げ出した。

 ローデシアをめぐる社会の目は、三重の意味で偏見に支配されていた。白色人種は黒色人種より優れているので植民地支配が正しいのだという立ち位置。オリエントやギリシャなどの過去の優れた文明文化が、彼ら白色人種たちに受け継がれているという曲解。そして、男性の仕事が女性のそれよりも常に優れているという驕り。ケイトン=トンプソン調査団が提示した報告は、そのすべてを根幹から揺るがす内容だった。

 1928年に英国アカデミーにローデシア、ムティリクウェ湖近くの遺跡の期限を調査するために招待されたケイトン=トンプソンは、この分野ではまだ珍しかった女性考古学者だ。第1次世界大戦中に海運省に勤務し、パリ講和会議にも出席したことのある彼女は、その後ロンドン大学で学び始め、マルタ島、エジプトなどの発掘調査で経験を積んだ後に、このアフリカ南部の謎の遺跡調査を依頼されたのだ。

 すでに19世紀にジェームズ・セオドア・ベントらによって発掘調査は行われていたが、この遺跡の起源についての全く誤った仮説を証明するためだけの杜撰な調査で、考古学者の間からも疑問が出ていたのだ。

 彼らの主張は簡単にいうとこうだった。
「下等なアフリカ人に、このような偉大な建築が可能なはずはない。これは過去の偉大な中近東の遺構に違いない」

 ソロモン王を訪ねたシバの女王国はここであった、もしくは、古代フェニキア人またはユダヤ人が築いた、アラビア人たちの黄金鉱山だったというような主張だ。

 20世紀初頭にデイヴィッド・ランダル・マッキーヴァーの調査では、それまでの調査隊が「取るに足りぬゴミ」として放置していた、現地人が現在も使うのとほぼ同じタイプの土器や、石造建築物の構造の調査から遺跡はショナ人など現地住民の手によるものだと結論づけたが、当時の権威たちはそれを認めなかった。

 こうした中で再調査を依頼されたケイトン=トンプソンが編成したのは、写真撮影で協力参加したキャスリーンを含め全員が女性の調査隊だった。これは、全く前例のないことだった。ケイトン=トンプソンは現代でも村人が使用している陶器やテラス造りの壁といった構造と比較することで、マッキーヴァー説を強く支持する調査結果を発表した。

 彼女が、他の調査隊と違ったのは、『谷の遺跡ヴァレー・コンプレックス』と『大囲壁グレート・エンクロージャー』について緻密なトレンチ調査を行い、層位学的研究法の見地から最下層までの層位と遺物を対応させた実測図とデータを提示して、後の研究者がデータを検証できるような報告書を作成するように努めたことだ。

 データが語っている。これはソロモン王の時代の遺跡ではない。アラビア人たち西アジアの人びとが建設したものでもない。後の放射性炭素年代測定でも、この遺跡は12世紀から15世紀に建設されたものであることが証明されている。

 遺跡は50以上の円形または楕円形の建造物の集合体で、3つに分けて分類されている。北側の自然丘陵を利用して作られた通称『丘上遺跡ヒル・コンプレックス』、その南部に広がる『谷の遺跡ヴァレー・コンプレックス』、そして巨大な楕円形の外壁をもった『大囲壁グレート・エンクロージャー』だ。

 何よりも「原住民には作れない」と偏見の対象となったのは、『グレート・エンクロージャー』で、1万5千トン以上の花崗岩を用い、漆喰などは使わずに精巧に積み上げてある。長径は89m、外壁の周囲の長さは244m、高さは11mで、外壁の基部の厚さは6mに達する。東側には高さ9mを超える円錐形の塔がそびえ立ち、おそらく祭祀的空間であったと考えられている。

 『ヴァレー・コンプレックス』は、首長の妻子たちの住居跡地だと考えられている。円形の壁を持つ住居が通路で結ばれた構造だ。鉄製のゴング、大量の食器や燭台、ビーズ、銅、子安貝などで作られた装飾品、犂や斧、儀礼用の青銅製槍などの他、中国製の陶磁器、西アジア製のガラス瓶まで出土しており、まだヨーロッパ人たちが大航海時代を迎える前に、彼らが遠隔地交易との豊富な金属加工で大いに栄えていた証拠となっている。

 『ヒル・コンプレックス』の東エンクロージャーには石組みのテラスが敷かれ、祭祀に関連する遺物が出土した。中でも最も重要だったのは、6体の滑石製の鳥彫像だ。似たものが『ヴァレー・コンプレックス』からも出土している。ショナ族の世界観では、鳥は天の霊界と地の俗界を往き来して仲介する使者であり、呪術師はその力を借りて雨乞いなどの儀式を行うために鳥を象った彫像を作ったと考えられている。

 キャスリーンは、『ヒル・コンプレックス』で作業をしていたときに、何度も襲ってきた雷雨のことを考えた。遠くに稲妻が煌めくと、次第に灰色の雲が青空を覆い隠していく。

 雷鳴の鳥インプンドゥルたるシュモクドリが甲高く鳴いて嵐を呼んでいる。

 西エンクロージャーは自然の巨石を利用し、花崗岩ブロックのと合わせて直径30メートル、高さ7メートルの巨大な建物に仕立てている。雷雨の激しさを知るキャスリーンは、急いでこの首長の政治統治の場だったと思われる建物に入っていくが、恐ろしげに首をすくめる。

 15世紀から今まで絶対に落ちてこなかったのだから、絶対に安全だとわかっていても、屋根となっている自然巨岩の危うげなバランスに強迫観念を感じてしまうのだ。だが、痛いほどに打ちつけるアフリカの夕立に打たれるよりは、ひとときこの岩の下で息をひそめる方がマシだった。

 すぐ近くで出土したジンバブエ・バードの黒く滑らかな立ち姿を思い浮かべた。なんという鳥を模した像なのか、キャスリーンもケイトン=トンプソンもはっきりとはわからない。ショナ族にとって重要なトーテムであるチャプング(ダルマワシ)またはフングウェ(サンショクウミワシ)だと考えられているが、どれも決め手に欠ける。

 そういえば手伝いに来ていた現地人ンゴニは雷鳴の鳥インプンドゥルではないかと言っていた。なんでもない姿をした格別強くもないシュモクドリだが、「鳥の中の王」と見做されているからだ。キャスリーンも、アフリカの各地でそう見做されていることについては知っている。
 
 大変な努力を持って作り上げられたシュモクドリの巣は、彼らだけが使うわけではない。空き家の巣はチョウゲンボウやワシミミズクなどほかの鳥たちや、ネズミやなど他の動物たちも利用する。中でもクロワシミミズクは巨大で怖れられ敬われている鳥だが、シュモクドリの巣の上に陣取り1日を過ごす姿が「猛禽が宮殿を守っている」とみなされ、「雷鳴の鳥インプンドゥルこそが実は鳥の中の王だからだ」という言い伝えを強化している。

 不思議な鳥だ。雨を呼び、稲妻を司る雷鳴の鳥インプンドゥル。巨大な巣を作り上げるシュモクドリ。理由も理解も、そして、首長たちが崇めた神像のモデルとしての地位も、もしかしたら彼らには必要ではないのかもしれない

* * *


 キャスリーン・ケニオンは1950年代にパレスチナ東部エリコの発掘調査を主導し20世紀でもっとも影響力のある考古学者と呼ばれるまでになった。後にオックスフォードのセントヒューズ大学長を務め、大英帝国勲章のデイムに除された。

 一方、グレート・ジンバブエ遺跡を発掘したときの上司であったガルトルード・ケイトン=トンプソンも、1934年に女性として初めてリバーズ賞を受賞し、1944年に王立人類学研究所の副所長にも選出された。46年にはハクスリー賞を受賞した。さらには東アフリカの英国歴史考古学学校の創設メンバーとなり、評議会の委員を10年間務めた後、名誉フェローに任命された。

 ローデシア時代は、偏見と政治的圧力により覆い隠された「グレート・ジンバブエ=アフリカ人建設説」は、脱植民地化独立運動の後、ジンバブエ共和国が成立すると「未だに謎に包まれている」という公式見解は取り消され、正式に認められるようになった。

 過去の偉大な建築物は、新しい国の精神的な支えの中心となり、国名もここから取られた。そして国旗にはジンバブエ・バードの1つが国のシンボルとしてデザインされた。それと同時に、この遺構を示す言葉は、「偉大な」という意味を込めて「グレート・ジンバブエ」と呼び区別されることになった。1986年にはユネスコ世界遺産に登録された。

 ローデシア時代の偏見と悪意に満ちた発掘調査のために、多くの部分が破壊・遺棄されたグレート・ジンバブエ遺跡の発掘調査はいまだに進められ、考古学的証拠や最近の調査結果により歴史的背景などについても少しずつ解明が進められている。

 古い権威と悪意のヴェールが取り除かれ、アフリカ第2の巨大遺跡グレート・ジンバブエ、1000年前のショナ族たちの栄光は陽の目を浴びた。一方、シュモクドリが巨大な巣作りに偏執的なほどの情熱を傾ける謎は、いまだに解明されていない。

(初出:2023年9月 書き下ろし)

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Great Zimbabwe National Monument (UNESCO/NHK)


Hamerkop
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(22)男姫からの依頼 -3-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第22回『男姫からの依頼』3回にわけたラストをお届けします。

縁談相手であるレオポルドがそこにいることも知らず、《学友》経験者であるラウラに礼儀作法とグランドロンについて特訓してほしいと頼んだエレオノーラ。確かにここにいるメンバーは、適任です。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(22)男姫からの依頼 -3-


 ラウラは、ようやく理解した。確かに今から礼儀作法を教える宮廷教師を探し、一般論から教えを請うていたら、レオポルドの来訪には間に合わないだろう。ラウラならば、そうした場で何が求められるか、効率よく判断して必要そうなものだけを集中して教えることもできるだろう。とはいえ……。

「それは、私の一存では引き受けかねます」
そう言ってラウラはレオポルドの方を見た。エレオノーラは、ラウラの視線を追って、後ろに立っているレオポルドとマックスを見た。

 エレオノーラは、ラウラの主人である商人の元に大股で歩み寄り、真っ正面から見据えて訊いた。
「秘書殿の奥方を2週間ほど貸してはくれぬか。私はまだたくさんの権限は持たぬ身だが、それでもそなたの商売に最大の便宜を図ることを約束しよう」

 レオポルドは、若干面食らったようにがさつな姫君を眺めていたが、急に笑い出して、ふてぶてしく答えた。
「わかりました。せっかくなので、私の秘書もお使いください。実は、このマックスは宮廷教師の資格を持っております。グランドロン語や古典の話題、歴史などについては、彼が役に立つでしょう。かくいう私も商業や政情についての知識を多少なりともお伝えできるでしょう」

 今度はラウラとマックスが驚く番だった。断ると思っていたからだ。ラウラは、エレオノーラに同情していたので、数日だけでも協力できないか頼むつもりでいたが、必要なかったようだ。

 エレオノーラも若干面食らったようだが、ほっとしたようで嬉しそうな顔を見せた。
「それはかたじけない。心から感謝する。報酬についてだが……」

 レオポルドは、それを遮った。
「報酬などは必要ございません。ただし……」

「ただし?」
「その教育期間、静かで、他の人びとが出入りしない場を用意していただきたい。それから、これだけ我々の時間と手間をかけるからには、その国王陛下との謁見とやらで『身代わりを立てずに済む』程度の成果は出していただきたいですな」

 それを聞いて、後ろに立っていたラウラは息を飲んだ。これは明らかに、例の偽王女事件に関するレオポルドの嫌みだ。ついでに言えば、マリア=フェリシア姫の教育に当たっていたマックスに対する当てつけでもある。ラウラは、そっと唇を引き締めて、わずか挑戦的にレオポルドを見た。

 部屋に戻ると、マックスは小さな声でレオポルドに詰め寄った。
「いいんですか……」

「ああ、むしろ都合がいいのだ。貴族用の旅籠よりはマシとはいえ、この修道院に居続けたら、いつ我々を知っている貴族たちに出くわすかわからん。それに、トリネアや城下町の様子は見て回ることはできるが、さすがに城内には入れないから、どう情報収集しようかと思っていたんだ。あの娘の特訓に関われば、あの娘や家族のことだけでなく、トリネアの情勢も政治に対する考え方も自然に聞き出せるしな」
「私どもの本当の身分がわからぬように、話を合わせておく必要があるかと存じますが」

「ああ、そうだな。マックス、遍歴教師だった時にラウラと出会ったことにすれば自然だろう。とにかく、我々が一丸となって協力するということにしよう」
「仰せの通りに。15日間もずっと近くにいて、バレても知りませんよ」
「そこは、上手くやれ」

 マーテル・アニェーゼは、この計画を聞いて喜んだ。エレオノーラの数少ない理解者として陰に日向に支えてきたものの、エレオノーラが貴婦人としての振る舞いを身につけないまま女侯爵になることを強く案じていたからだ。本人が初めて学ぶことを決意したのと、ちょうどその時にふさわしい教師役と知り合えたことを神の恩寵と感謝した。

 それゆえ、彼女はすぐに必要な準備をしてくれた。まず、侯爵に手紙を書いた。誰の言うこともきかない候女が唯一敬意を持って交流する存在であるマーテル・アニェーゼは、侯爵夫妻から何度も再教育に関する相談を受けていた。

 手紙には、エレオノーラがはじめて自らの意思で再教育を受けたがっていること、そのやる氣を削がないのがとても重要であることを書き、時間が無いので再教育に関しては任せてほしいこと、静かな環境を確保するため、表向き候女は伝染性の季節性疾患に罹ってしばらくトリネア城には戻れないことにしてほしいと願った。

 侯爵からの返事はすぐに来た。『候女を離宮で【静養】させるように』と書いてあり『何卒よしなにお願いする』と書かれていた。

 件の離宮は、修道院から見て谷の向かい側にある。かつては夏の避暑用に建てられたが、亡くなった候子フランチェスコが長らく静養に使っていたため、ここ2年ほどは使われていない。立地からいっても、トリネア城に出入りする貴族たちに見られる必要がない点からいっても理想的な場所だった。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(22)男姫からの依頼 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第22回『男姫からの依頼』3回にわけた2回目をお届けします。ちょっと今日の部分は長いのですが4回にするには短かったのですよね。

今回、ようやく残念な姫からの依頼内容が明かされます。エレオノーラは、ラウラにあることの白羽の矢を立てていました。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(22)男姫からの依頼 -2-


 エルナンド・インファンテ・デ・カンタリアは、レオポルド自身とも親戚関係にある。レオポルドがまだ王位に就く前なのでかなり昔になるが、母親のところに贈られてきたカンタリア王家の肖像で見たことがあった。下唇が前方に突き出た特徴的なその顔つきで、レオポルドの母親とも似ていた。

 同様に氣性が激しく残虐なことを厭わないのは母親個人の性格だと思っていたが、もしかするとカンタリア王家ではさほど珍しいことでもないのかもしれない。

 同じカンタリア王家の血を継いでいるとはいえ、フリッツが指摘したとおり、エレオノーラにはそのような特徴はなかった。エルナンド王子とその騎士たちの振る舞いに我慢がならないと震えている。

「つまり、逃げ出して、嵐が過ぎるのを待つというわけですか?」
レオポルドは、挑発するように話しかけた。マックスは「あまりお楽しみになりすぎませんように」と目で制したが、レオポルドは氣にしていない。

 エレオノーラは、そう言われて悔しそうな顔をしたが、それから肩を落として俯いた。
「そういうわけにはいかない。縁談はこれからもいくらでも来る。隠れて済む問題じゃない。兄様が生きていた頃なら、それで済んだけれど、今の私は未来の女侯爵だ。……そもそも縁談は、いま2つ重なっているんだ」
「2つ?」

「ああ。実は、2週間後には、グランドロンの国王も来るんだ」
エレオノーラは肩を落とした。

「なんと」
レオポルドがわざとらしい驚き方で言うと、マックスだけでなくフリッツも「いい加減にしてください」という顔で見た。

 考え事に沈んでいたエレオノーラは、その3人の様相には氣がついていなかったが、意を決したように静かに座っているラウラの方に歩み寄った。

「ラウラ。あなたは、ルーヴラン人だよね」
「はい」
「その……。その左手首……」

 ラウラは、はっとして左手首を見た。いまはきちんとスダリウム布で覆われて傷跡は見えていないが、一同はここに着いた日にこの布を巻き直すところをエレオノーラがじっと見つめていたのを覚えていた。

 エレオノーラは、単刀直入に言った。
「もしかしてどこか貴族の《学友》だったことがあるんじゃないか?」

 ラウラは、一瞬怯んだ。他にこのような傷をもつ説得力のある経歴は思いつかない。ルーヴランに平民出身の《学友》経験者はたくさんいるし、ここは肯定してしまった方がいいと思った。

「はい。ある貴族のお屋敷で勤めていたことがあります」
「やっぱり、そうか。ひどい習わしだ。」

「《学友》のことを詳しくご存じで、驚きました」
「《中海》周辺はセンヴリ王国に属していても、ルーヴランの文化をありがたがる国が多くて、実はここトリネアも同じことをしているんだ。トゥリオの左手首、見たかどうかわからないけど、やっぱりいくつかの傷があるよ。……彼は、兄様の《学友》だったんだ。幸い、兄様はとても優秀で、トゥリオが鞭打たれることは本当に稀だったけどね」

 ラウラは、わずかに驚いた。《学友》の制度を取り入れる国や貴族の家庭は増えていることは知っていたが、マリア=フェリシア姫が好んだように、自分の代わりに受けさせる罰として鞭打ちを取り入れているのはごくわずかだと思っていたからだ。まさかこのトリネア候国が、そのわずかな例だったとは。

「ということは、姫様にも……」
「ああ、私にもいた。ほんの1年ほどだったけれどね。……ラウラ、そなたにたっての願いがあるんだ」

 エレオノーラは、ラウラの前に座った。
「私は、子供の時に学ぶことを拒否した。私が愚かな間違いをすると、代わりに私の《学友》ペネロペがひどく鞭打たれた。私はそれに耐えられなかった」

 ラウラは息を飲んだ。エレオノーラはしばらく口をつぐんだが、やがて続けて言った。
「本当は、ペネロペが鞭打たれずに済むように、私が完璧に振る舞えばよかったんだ。でも、そんなことは到底できないと思った。実際に無理だったんだ。だから、私はすべてを投げ打って、絶対に教育を受けないと決めたんだ。教育係も、乳母も、もちろん父上や母上、そして兄上、その他の誰も彼もが、説得しようとしたけれど、私は揺るがなかった」

「《学友》なしで教育を受けることは許されなかったのですか?」
ラウラが訊いた。

 エレオノーラは、首を振った。
「乳母や兄上がその妥協策を提案してくれたんだ。でも、カミーロ・コレッティ、ペネロペを養女にして《学友》として差し出した廷臣なんだが、彼からの抗議が激しくて、それは受け入れられないって言われたんだ。それで、私は意固地になって一切の教育を徹底的に拒否したんだ。教師が来たら部屋にこもるか逃げ出した。日々の周りの人びとの忠告はすべて耳を閉ざして聞き入れなかった」

 ラウラは、複雑な思いでエレオノーラの言葉を聞いていた。この候女の頑固な振る舞いは、子供じみていて愚かだった。そんなことをしても、トリネア候国の姫君という立場は変えられるものではなく、自分の立場が悪くなるだけだ。けれど、実際に当時のエレオノーラは子供だったのだ。ほかにどうすることができただろう。幼かった彼女は、たった1人の少女を守るために必死だったのだ。その優しさにラウラは深く心打たれていた。

 静かな部屋に、エレオノーラの声が響いた。
「そして、最後には父上も、母上も諦めた。侯爵になるのは優秀な兄様がいるし、私はいずれこの修道院にでも押し込めるつもりだったんだろう。私も、トリネアの汚点として隠されて生きるんだなと氣楽に考えていた。……でも、兄様が亡くなって、すべての事情が変わってしまった」

 たとえ最低な姫君であろうと、トリネア候国を背負って行かざるを得なくなったのだ。

「さっき、城を出る前に父上に宣言してきた。グランドロン王の訪問の時に表に出るって。本当は、父上は私が病氣だとか適当なことを言って、この話をうやむやにするつもりでいたんだ」

 ラウラは、息を飲んだ。そっと目でレオポルドを追うと、後ろから身振りで「続けさせろ」と指示している。ラウラは、慎重に言葉を選んだ。
「それは、あなた様が、このご縁談をすすめたいとのお考えに変わったという意味ですか?」

 エレオノーラは、大きく笑った。
「進められるわけはないだろう。断られるに決まっている。でも、そう宣言すれば、少なくとも、それまでの間に他の縁談を進めることはできないだろう。2週間もすればあの野蛮な王子はいなくなるだろうし」

「まあ」
ラウラは返答に困った。エレオノーラ自身は、同じ国王から2度も縁談を断られるという恥辱に対して、とくに氣にもしていないようだ。

「とはいえ、いまの作法で、私がグランドロン王の前に出ることを、父上や母上も戸惑っておられる。当然だけれど……」
ラウラは、よけいに返答に困ったが、賢明にも真剣な顔で黙って続きを待つという手法をとった。

 エレオノーラは、ラウラの左手首を取って、そのスダリウム布にそっと手を当てた。
「じつは、そなたに会ってその傷に氣づいたときから、決めていたんだ。どんなことをしても助けてもらおうって。報酬はいくらでも出す、聞いてくれないか」

「私に?」
ラウラは、驚いてエレオノーラの顔をまじまじと見つめた。エレオノーラの後ろで、レオポルドとマックスが、やはり驚いて顔を見合わせている。

「そうだ。15日後に、グランドロン国王がこのトリネアにやって来る。そして、城で謁見と歓迎の会が開かれる。私がそれに出席して、取り繕うことができるぐらいまでに、行儀作法とグランドロンのことを教えてくれないか?」
エレオノーラは真剣だった。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(22)男姫からの依頼 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第22回『男姫からの依頼』をお届けします。今回は少し長いので3回にわけます。

首尾よく修道院で宿泊するチャンスを掴んだレオポルド一行。今回は、我らがヒロイン(?)のどこが残念なのか、具体的に明かされます。本当に残念なんですよ、この人。

さて、説明を忘れていましたが、修道院長マーテル・アニェーゼのマーテルとは院長に与えられる敬称です。日本でもごく普通の尼僧がシスターと呼ばれるのに対して修道院長がマザーと呼ばれますよね。この敬称を設定するときにイタリア語にしようかとも思ったのですが、中世だしラテン語風にマーテルにしておきました。


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【参考】
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(22)男姫からの依頼 -1-


 レオポルドが聖キアーラ修道院に半ば強引に滞在しようとしたのは、トリネア候国の事情に明るそうなマーテル・アニェーゼと親しくなり、候国や候女についての情報を得るつもりだったからだ。ところが、一行をここに連れてきた男装の娘こそが、よりにもよって縁談の相手である候女エレオノーラだった。

 夕食の時に現れた彼女は、まだ少年の服装をしたままだったし、女性らしい振る舞いや口調になることもなかった。マーテル・アニェーゼをはじめとした修道女たちや下男たちも、この姫君の変わった振る舞いに慣れているらしく、そのままにしていた。

 アニーは、長らくルーヴの王宮で侍女として働いていたので、貴婦人の模範とまで謳われたラウラだけでなく、王族や貴族の奥方や姫君の立ち居振る舞いを近しく目にしてきた。

 おしゃべりで会話の内容に問題があった伯爵夫人や、いろいろな香水を混ぜすぎて同席した貴人たちを戸惑わせた令嬢はいたものの、本当に貴族なのか疑うような行儀作法の侯爵令嬢が存在するとは考えたこともなかった。

 語学や政治情勢、歴史、詩作などでは、宮廷教師だったマックスを悩ませるほど劣等生だったマリア=フェリシア姫ですら食卓では、そこそこの振る舞いができた。

 だが、エレオノーラの振る舞いには、そのアニーですら時おり目を疑いたくなった。スープを食べるときに音を立てていたし、肉を触った指をフィンガーボールで洗う前に杯に触れてベタベタにしていた。極めつけは肉汁が口についたときに、置かれているリネンではなくテーブルクロスで口を拭いていた。

 ラウラは顔色一つ変えずに、やはりまるで何も見なかったように振る舞う尼僧たちと会話をしていたが、レオポルドは時おり目を宙に泳がせていたし、マックスとフリッツは不自然なほど違う方向を見ていたので、やはり衝撃的だったのだろうとアニーは思った。

 アニーは、もしかして来月を待たずにグランドロン国王は帰るかもしれないと考えた。マリア=フェリシア姫よりひどい結婚相手なんてこの世には存在しないと思っていたけれど、この姫君はあまりといえばあまりだ。

 だが、アニーの予想に反して、レオポルドは翌日もトリネア城下町を去りたがる氣配を見せなかった。それどころか、港を訪れたり、市場を回ったりしながら、トリネア城下町を見て回った。確かに、候女と結婚しなくてもトリネア候国のことを近しく目で見る機会そのものは、そうそうはないのだから、急いで帰る必要もないのかもしれない。

「ずいぶん若い修道院長だと思っていたが、あの女は相当の切れ者だな」
アニーは、港から修道院に戻る道すがら、レオポルドがマックスと話しているのを聞いていた。

「そうですね。それに、薬草についても医学者なみに博学で驚きました」
グランドロン王国一の賢者であるディミトリオスの弟子だったマックスが驚くというからには、並みならぬ知識を持っているのだろうとアニーは考えた。

「有力とはいえ家臣のベルナルディ家が、あそこまでの教育をほどこせるのに、なぜ候女がああなのか、どう考えてもわからぬ」
レオポルドが小さな声でつぶやいた。

 修道院に戻ると、その候女が再び来ていた。もう二度と会うこともないだろうと思っていたので、一行は驚いた。奥で治療中と聞いた、例の人狼を騙っていた男トゥリオの様子を見に来たのだろうか。

「私もしばらくここに泊めてもらうことにしたんだ」
エレオノーラは言った。

「そんなに何度もお城を抜け出してよろしいのですか?」
ラウラが訊くと、エレオノーラは「今日はあそこにいたくなかったんだ。……あんなのと縁談を推し進められるのはまっぴらだ」とつぶやいた。

「恐れながら、誰との縁談ですか?」
もしや自分との縁談の件かと好奇心に駆られてレオポルドが訊くと、エレオノーラは「カンタリアの王子だよ」と答えた。

 聞き捨てならないな、カンタリアの王子がたった今トリネア候国を訪れているのか。これは詳しく話を聞き出す必要がありそうだ。

 レオポルドは、エレオノーラに近づいた。
「カンタリアの王子とおっしゃいましたか?」

「ああ。私の母親は、カンタリア王の従姉妹なんだ。カンタリアの第2王子のエルナンドっていうのが、ルーヴラン王国目指して旅をしているらしいんだけれど、その途中に母上に挨拶するってことで立ち寄っているんだ」
エレオノーラは、身震いをした。

 あからさまな嫌悪の表情を見せるのがおかしくて、レオポルドは訊いた。
「あなた様にとっても親戚なのに、会えて嬉しくないのですか?」

 エレオノーラは口を尖らせた。
「嬉しいもんか。そなただってあの野蛮な男たちを目にしたらうんざりするに決まっている。あいつら、まともに立てないくらいに酔って、中庭に母上から贈られた豚を連れてきてその場で殺したんだ。腸を切り開いて、馬鹿笑いしていたんだぞ」

 ラウラだけでなく、レオポルドとマックスも顔を見合わせて眉をひそめた。それは国によって作法が違うといって済まされる程度の無作法ではない。

「王子様がたはその作法で、ルーヴ王宮に行くつもりなのですか。それはさぞ……」
レオポルドは、ことさら取り澄ましたルーヴランの貴族たちがさぞ驚くだろうと、残りの言葉を飲み込んだ。

「なのに、母上ったら、あの王子は第2王子だから、結婚すれば婿入りしてくれる。氣に入られるように振る舞えなんて言うんだ。だから、急いで逃げ出してきたんだ」

 マックスとレオポルドは、再び顔を見合わせた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(21)修道院 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第21回『修道院』の2回に分けた後編をお届けします。

ジューリオと名乗り男装をしている娘の案内で聖キアーラ女子修道院についた一行は、訳ありの男トゥリオとジューリオを助けた縁で、茶菓のもてなしを受けました。

今回は、思いがけない成り行きに渡りに舟と食いつくレオポルドたちが、その語にジューリオの正体に氣がつくことになります。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(21)修道院 -2-


 マーテル・アニェーゼは、さまざまな焼き菓子を一同の前に置き、薬草入りの白ワインをすすめた。
「城下町に滞在なさるご予定ですか」

「はい。安全で心地のいい宿をいくつかご存じでしょうか」
マックスが訊いた。

「そうですね。この近くにもいくつかございますが、あの森の村人たちとかち合わないようにとなると、かなり町の中心まで行く必要がございますね」
修道院長は考えながら答えた。

 ジューリオは、その会話を遮るように突然言った。
「ねえ。マーテル。いっそのこと、この人たちをここに泊めてくれないか? ここなら安全だし」

「まあ。でも、よろしいのですか? その……あなた様の……」
修道院長は、困ったように口淀んだ。

「少年のフリをしている女だとわかってしまう……と?」
レオポルドが言うと、2人は驚いたように見た。一行の誰も驚いていないので、どうやらとっくにわかっていたようだと、マーテルは肩をすくめた。

「もし懸念がそれだけだというのなら、今から城下町の中心まで行き、まともな旅籠を探すのも骨が折れるので、お言葉に甘えさせていただけるだろうか」
レオポルドは、マーテル・アニェーゼともう少し話をする機会を逃すつもりはない。

「そうですね。ここは修道院でございますので、申しわけございませんが、殿方様のお部屋と、奥方様のお部屋に分けさせていただきます。また、夕刻の祈りの時間には門の錠を締めさせていただきますので、あまり遅くまでの外出はできません。それでもよろしゅうございますか」
「もちろん異存は無い」

 マーテル・アニェーゼは頷いた。
「それでは、どうぞ、ゆっくりとご滞在くださいませ」

 レオポルドは、頭を下げた。
「ご親切に感謝します。もちろん相応のお代は支払わせていただくので、私の秘書であるこちらのマックスに申しつけていただきたい」

「私どもは旅籠ではございませんのでお代はいただきませんが、もちろんいくばくかでも寄進をいただければ幸いです。それでは、皆様のお部屋を用意いたしましょう」

 マーテル・アニェーゼが立ち上がると、ジューリオも立ちラウラとアニーの横に立った。
「わたしも、今日はここに泊まるんだ。あなたたちの部屋には私が案内しよう」

「エレオノーラ様」
マーテル・アニェーゼは咎めるような声を出した。

「いいじゃないか、マーテル。ここでの私は下人みたいなものだろう」
「冗談はおやめください、姫様。それに、今日のあなた様は、お祈りのためにここに泊まるお許しをお父様からいただいたんじゃありませんか。トゥリオ殿の看病とお客様のお世話は私どもがしますので、あなた様は大人しくなさっていてください」

 一同は、黙ってジューリオ、正しくはエレオノーラというらしい男装の姫を見た。

 当人は、ため息をついて答えた。
「わかった。じゃあ、この人たちの世話は任せた。何といってもこの人たちは、私の、つまりトリネアの恩人だしな」

 レオポルドとフリッツは、戸惑ったように目配せをしあった。

* * *


 案内された部屋に入った途端、レオポルドはフリッツに詰め寄った。
「おい。まさか、あれがトリネア候女だっていうじゃないだろうな」

 マックスも、「やっぱりそうなのか」と思った。

 聖キアーラ修道院長マーテル・アニェーゼは、トリネアの有力貴族ベルナルディ家の出身だ。その彼女が尊い姫のように扱っているということは、あんななりをしていてもかなりの家柄の令嬢なのは間違いない。加えて、かの男姫は自分たち一行のことを「トリネアの恩人」と言った。

 フリッツは、困ったように答えた。
「残念ながら、その可能性は高そうです。姫君の正式なお名前は、エレオノーラ・ベアトリーチェ ・ダ・トリネアでしたよね。そのうえ院長は姫様と呼んでいましたし。まあ、他に姫様と呼ばれる同名の女性がいる可能性もあるわけですが」

 レオポルドは頭を抱えた。
「あれはないだろう。あんな粗忽な姫なんて見たことがないぞ。勘弁してくれ」

「1つだけ、陛下の出された条件に合ったところもありますよ」
フリッツは、慰めるように言った。

「何だ」
「御母后様とはまったく似たところがございません」

 マックスは思わず吹き出しそうになったのをそっぽを向いてこらえ、レオボルドに睨まれた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(21)修道院 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第21回『修道院』をお届けします。今回は2回にわけます。

人狼と思われていた男トゥリオを救ったため、村人たちに報復される可能性のある道を避け、一行はジューリオと名乗った少年の案内で聖キアーラ女子修道院へと向かっています。レオポルドは本来の身分と名前を隠したまま修道院長マーテル・アニェーゼと知り合えると目論んでいます。

この修道院ならびにマーテル・アニェーゼは一度外伝でも登場しましたが、モデルは中世ドイツのヒルデガルト・フォン・ビンゲンです。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(21)修道院 -1-


 森の道は、半刻ほど登り坂のままだった。それからわずかに下り勾配となった。足下が崩れやすいので、1歩ごとの時間がそれまでよりもかかった。道幅が広く、歩きやすくなってしばらくしてから、かなり大きい灰色の建物が木々の合間から見えてきた。

「あれがその修道院か」
レオポルドが訊いた。

「ああ、そうだ。すぐに着く」
ジューリオはそう答えたが、実際に壁面にたどり着くまでは半刻ほどかかった。ここの道もかなりの傾斜で下り、歩みは再びゆっくりとなった。木々は広葉樹ばかりとなり、若葉の色もずっと明るい黄緑で、明るく感じられた。

 ようやく森から出て、石畳にも似た石盤が土の合間に敷かれた道を修道院の壁に沿ってしばらく歩いたところでジューリオは停まった。

「ほら、そこが裏門だ」
生い茂る蔦に隠れるように裏木戸があった。ジューリオは、辺りを確かめながら裏木戸を開けて、一行を塀の内側に入れた。

「ちょっとここで待っていてくれ」
そう言って、ジューリオは建物の中へと向かった。5人とトゥリオはその場に残った。

「なんだあれは」
レオポルドが眉をひそめて言った。フリッツが肩をすくめた。
「伝説の男姫でしょうか」

「《男姫》ユーリアは絶世の美女だったって話じゃないか。こっちは単なるちんちくりんだぞ」
レオポルドは吐き出すように言った。

 それを聴いて、アニーが驚いてラウラに耳打ちした。
「あの方、女性なんですか?」
「そうみたい。でも、ここで大きな声でその話はしない方がいいわ」
ラウラはトゥリオを目で示しながら答えた。

 しばらくすると、ジューリオが3人の尼僧と戻ってきた。背の高い女性には明らかに他の2人とは異なる威厳があった。彼女は一行に頭を下げると、レオポルドに話しかけた。

「当修道院の院長でございます。この度はとんだ災難でございました。この2人をお助けくださったとのこと、私からも御礼申し上げます。どうぞ中でしばしお休みくださいませ」

 レオポルドは、頭を下げた。
「それはご親切にありがとうございます。お言葉に甘えて、すこし休息させていただきます」

 尼僧たちは、下男たちを手配しトゥリオを手当てするため奥に連れて行った。レオポルドたちは、そのまま中庭へと案内され、そこで茶菓のもてなしを受けた。院長マーテル・アニェーゼとジューリオも一緒に座った。

 塀に囲まれた大きな修道院は、俗世間から隔離されていることもあり、小さな城のような様相を示している。広い庭園にはたくさんの野菜とともに薬草になる植物がたくさん植えられ、蜂が忙しく蜜を集め、鶏も歩き回っていた。

 修道女たちが心を込めて作ったパンや菓子の甘い香りが漂い、夏の熱い日差しを葡萄棚が遮る庭園での休息は非常に心地よかった。

「ラウラ様……」
アニーがそっと立ち上がりラウラの左に回った。見ると左手首に巻いたスダリウムが外れかけている。馬から下りるときにずれたのだろう。赤い皮膚の傷跡が見えていた。

 ラウラがルーヴランでマリア=フェリシア姫の《学友》として代わりに罰を受けていた頃は、この傷が癒える間もなく次の鞭が当てられたものだが、グランドロンに来てからそのようなことはなくなり、傷は完全に塞がっている。だが、その痛々しい跡はもう消えることがないので、王都やフルーヴルーウー城では金糸の縫い取りのついた厚手の覆いをしている。だが、それは平民に相応しいものでもなく現在の服装にも合わないので、この旅の間は白いスダリウム布で簡単に覆うようにしていた。

 アニーが、スダリウムを結び直している時に、ジューリオはその様子をじっと見つめていた。
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【小説】地の底から

今日の小説は『12か月の建築』8月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、トルコはカッパドキアにある古代の巨大地下都市デリンクユです。当時はそういう名前ではなかったとどこかで読んだので古い名前を使いました。

これは、実際にこういうことがあったという裏付けのある話ではありません。デリンクユのことを調べている間に、「これってどうやって暮らしていたんだろう」と想像が膨らみ、いつのまにか生まれてきてしまった話です。


短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む 短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む



地の底から

 水面に月明かりが揺らめいている。セルマは静かに桶を浸した。痛いほどの冷たさを感じた。日中に外に出れば、怯えるほどの熱風に晒されるはずだが、この地底はアナトリア高原の厳しい夏とは無縁だ。少なくとも彼女はもう何か月も地上へは行っていない。

 セルマは、地下都市マラコペアの最下層に小さな部屋を与えられている。その役目を果たす時以外に彼女と関わろうとする者は非常に少ない。時おり、好奇心に駆られて話しかけてくる人はいる。しばらくの交流があり、やがて家族や友人たちに止められ、後ろめたそうに去って行く。いま、時おり訪れてくるファディルもいつかはそうなるのだろう。

 セルマは『水番』だ。地下都市マラコペアの最下層には地下水の泉がある。10以上ある同じような泉は、すべての階層の家族の命を支えている。この地下都市と地下通路で繋がっているほかの地下都市もまた、同じつくりになっている。この井戸は地上と地下の双方の住民のため使われており、地下都市にとっては、水汲みの井戸としてだけでなく、通氣口にもなっている。外界から空氣と光が差し込む唯一の場所だ。

 泉の周りに、入り組んだ細い通路や階段につながれた居住区が、互い違いに上下に存在する迷路のような構造になっており、セルマの暮らす最下層は地下8階にあたる。

 セルマや、他の井戸に住む『水番』は、上から降りてくる桶に水を汲み、それが引き上げられる前に少しだけ水を飲んでみせる。それが『水番』の勤めだ。外敵によって井戸に毒が投げ込まれれば、それは地下都市で生きるすべての家族の死を意味する。だから、『水番』が必要なのだ。

 地下都市マラコペアがいつ建設されたか、詳しいことは誰も知らない。主イエス・キリストが生まれる何百年も前の時代にヒッタイト人またはフリギア人が建設したという者もいるし、ペルシャ人たちは伝説のペルシャ王イマが建設した地下宮殿がここだと主張しているらしい。いずれにしても、大昔のことだ。

 キリスト教が急速に広がると同時に、それを問題視するローマ帝国では迫害も始まった。聖ステパノが最初に殉教してから120年ほど経った今、迫害を避けて移動してきた信者たちの多くがこのアナトリア高原の地下都市マラコペアにたどり着いた。

 もともとの地下都市の壁は硬くしっかりとしていたが、その奥の空氣に触れる前の火山岩層は脆く容易に掘り進められることがわかった。それで、人びとは単にここに隠れ住むだけではなく、地下都市を拡張させ、狭い通路と防御のための大人5人分ほどの重さのある引き扉を用意した。それどころか、敵が通ると背後に回り通路を閉じて行き止まりの空間に誘導する罠までも作った。

 住居だけでなく調理場、倉庫、家畜小屋、会堂、そして長らく地上へと戻ることのできないときのための墓所までが用意されている。

 祈りを捧げる信徒たちの歌声がわずかに響いてきた。ひときわ美しい声は『聖女』ペトロネッラだ。聖堂と呼ばれる十字型をした広い空間に彼らは集い、敬虔な祈りを捧げる。この地下都市に潜む数百家族のうち、明け方の礼拝で聖堂に常に集うのは司祭ヒエロニムスを中心とした数十人だけだ。

 ファディルは、その重要な人びとの1人だ。若く力強く、新しい通路を掘るための設計を任されている有能な若者で、いずれは有力な指導者の1人となるだろう。まだ独身で、青年たちの住居区画に住んでいる。

 井戸の1つ上の階層で水汲み窓に問題があったのを機に、セルマの仕事場兼居住場にやって来たが、それをきっかけにときどき話をするようになった。

 蔑まれる異教徒のセルマに対する公正な態度。朗らかで誠実な人柄、若々しく精悍な佇まい。セルマが密かに想いをよせるようになるのに時間はかからなかった。

 もちろん、願いが叶うことはないだろう。彼は『聖女』ペトロネッラの崇拝者のひとりだし、そうでなくても異教徒と関係を持つことは、彼や彼を取り立てた司祭ヒエロニムスの立場を悪くするだけだ。

 司祭ヒエロニムスは、何人かいる司祭たちの中では穏健派だ。同じ地下都市に潜む異教徒たちとの関わりを禁止しようとする厳格派たちをやんわりと抑えて、その必要性を唱えた。掘り進む通路を完成させるためには純粋な信者たちだけでは倍の時間がかかる。それに、現在『水番』となっているのは、みな異教徒たちだ。なぜなら、同じ信者の中に、理論的に犠牲者となりうる存在を出すわけにはいかないから。

 セルマの村とその周辺の地域は、ローマ帝国の税制に反対して壊滅させられた。生き延びるためには、キリスト教徒たちの力を借りて、この地下都市に住まわせてもらう他はなかった。男たちは人足となり、一部の女たちはキリスト教に帰依して共同体の一部になった。そうしなかった子供のいない女は、竈番になったり、『水番』になった。

 キリスト教徒たちは、異教徒たちを半ば奴隷化していることを信仰という名の大義名分で覆った。後ろためさを交流しないことでなかったものにしている。厳格派の司祭たちを支持する裕福な信徒たちは、『水番』や人足たちは、無料で安全と食糧を享受しているのだから彼らの奉仕を受け取るのは当然なのだと主張していた。

 久しぶりに穏健派の司祭であるヒエロニムスが、教会の中心となってからは、こうした異教徒たちへの冷たい扱いは、減ってきているかもしれない。

 ヒエロニムスを中心に……もしかすると本当の求心力を持っているのは、ペトロネッラなのかもしれない。

 セルマは、『聖女』ペトロネッラの整った清冽な横顔を思い浮かべた。聖ペトロの血を引く高貴な生まれだと、人びとがひれ伏し敬愛する若い女が、かつてエラという名で、セルマと同じ村でハシシの製造で身を立てていた少女だったと知る者はほとんどいない。

 ファディルは、セルマの言葉を信じなかった。
「言っていいことと悪いことがあるぞ。彼女は高潔で穢れなき魂そのままの顔かたちをしている。セルマ、妬みは君自身のためにならないよ」

 妬みか……。そうかもしれない。一番低い階層に、もっとも地上から遠い洞穴空間に潜み、賛美歌を聴いている。けれど、信徒たちのように、神の国の訪れを待っているわけではない。いつの日かローマ帝国の怒りを氣にせずに暮らせる日まで生き延びたい、それだけだ。

 桶に水を汲む度に、複雑な想いが渦巻く。地上を避けて地下都市マラコペアに隠るのは、教えを認めず迫害する人たちがいるからだ。毒を投げ入れるとしたら、それは教えを迫害する為政者の手の者たちであろう。だから、毒で死ぬとしたら殺害者はローマ帝国の手の者だ。

 それでも……。司祭ヒエロニムスも、『聖女』ペトロネッラも、他の信徒たち、そう、ファディルですら、毒を入れられた水で彼らの代わりに死ぬのは『水番』だとわかってその役目をさせているのだ。

 桶が降りてくる度に、数分後にも生き延びられていることを願いながら水を飲む。ここに来て以来、願いが叶わなかったことはまだない。だが、その幸運が続かなった同胞もいることを知っている。隣の泉で2か月前に起こった騒ぎの時には、しばらくセルマの泉に投げ込まれる桶の数がずっと増えた。

 あれ以来、信者たちは、食事の度に生命を賭けることを課されている『水番』たちともっと距離をとるようになった。誰が隣の泉に毒を入れたのか、本当に地上から投げ入れられたのか、それとも中に忍び込んだ敵がいるのではないかと、誰もが疑心暗鬼になった。そして、より疑われたのはやはり異教徒の住人たちだった。

 それぞれの井戸は離れており、人ひとりが身をかがめてやっと通れる狭い複雑な通路を通ってしか行き来できない。桶が投げ込まれたときにその場にいなくてはならない『水番』たちは、他の井戸へと向かうような時間的余裕はない。だから、セルマはほかの『水番』たちが、何を想っているかを確かめることはできない。全員が未だ生きているのかすら知らないのだ。

 地上には通じていない泉が1つだけある。地下都市マラコペアの中央にあり、聖堂の奥、普段は人びとが足を向けない墓所の先で、位の高い聖職者や有力者だけがその場所を知りいざという時のために守っている。すべての泉に毒が投げ入れられて飲み水が使い物にならなくなった場合のためだ。

 神とイエス・キリストを信じ、運命を共にする信仰共同体とはいえ、完全にすべての人びとを信じているわけではないのだ。2万人が暮らすことのできる巨大地下都市網、常に新しく掘り続けられる通路、信仰共同体の中の新たな上下関係が、また別の不信を呼び起こしている。

 異教徒たるセルマは、聖堂だけでなく他の人びとの部屋、ワインセラー、食堂などを訪れることは許されていない。

 共有スペースとなっている調理場を訪れることは許されている。床に埋められたタンドール竈で調理する調理場は、泉からさほど離れていない場所にそれぞれ設けられている。煙突から漏れる煙が外界から見えないように、調理は夜間だけに限られる。できたての肉やパンは、まず聖職者に、それから裕福な家族たちと順番に提供される。セルマはもう誰も訪れなくなった明け方に、そっと調理場を訪れ、黙って食事をする。

 司祭ヒエロニムスが聖書を朗読しているのを耳にしたのは、食事を終えて居住区に帰ろうとしたときだった。

 賛美歌の音色と、厳かな雰囲氣に心惹かれ、ロウソクの光を頼りに普段は向かわぬ聖堂への通路を通った。聖堂は地下都市の中でもっとも大きな空間を占めている。十字型をしており、天井や壁に壁画までが施されている。セルマはそっと聖堂脇の戸口の陰に座った。

もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。

(ローマ人への手紙 14章15-17)



 尊敬する『聖女』ペトロネッラの周りに集まる若い婦人たちや、彼女を賞賛しその手を望むファディルと若者たちは、その聖句に神妙に頷いているが、彼らは知らないのだ。

 セルマの生まれ故郷がまだローマ帝国に対して反旗を翻す前のことだ。地域には広大な麻畑が広がっていた。過酷な夏にも涼しく心地よい上質な衣服や丈夫な縄を作るのに重宝された作物だが、葉や花を燃すことで酩酊効果があることも知られていた。

 貧しい村人たちは、パイプ用の樹脂を作成して、秘密裏に売り現金収入を得ていた。セルマと同じ村の娘エラも、パイプ用樹脂を作り売っていた。美しくあまたの男性に対する影響力を自覚していた彼女は、ローマからの差配人の誘いを断らなかった。ローマでは珍味として珍重されるヤマネ肉をご馳走してやると言われて彼と何度も逢ったのだ。そして、差配は、何度かめの訪問の時に、村で麻の樹脂を作成して密売していることに氣がついた。

 差配人は、その地域の不正をローマに進言することで出世した。セルマの村だけでなく近隣の50ほどの村が争いに巻き込まれた。

 村が、ローマとの争いで荒廃し、彼女を崇拝していたたくさんの若い男たちが命を落としていたとき、エラは差配人によってとっくに安全な南部地域に逃されていた。それから、彼女の身に何があったのか、セルマも他の生き残った村人も知らない。再び彼女が姿を現したとき、そこにいたのは若い男を籠絡してほしいものを手に入れていたエラではなく、愛と慈しみに満ちたキリスト教徒の鏡のような『聖女』ペトロネッラだった。

 彼女を知る者はもうほとんどいない。そして、何を言おうと、『聖女』に狂信的な忠誠を誓う信者たちは、異教徒のセルマたちの言葉など一顧だにしない。エラは、それをよく知っている。美しい面に慈しみに満ちた微笑みをたたえて、妄言を語る異教徒すらを許す信仰深き態度を演じてみせる。

「あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない」
そう告げる聖書の言葉を、エラはどのような思いで聴いているのだろう。彼女が炙ったヤマネ肉と引き換えにして捨てた故郷の村はもうない。戦って死んでいった崇拝者たちも、人足として、あるいは『水番』として蔑まれつつ、時には命を失う不条理に耐えて生き延びるかつての同郷者たちを、偽りの特権の座から眺めるのはどんな心持ちなのだろう。

 聖堂の中心、司祭と共に会衆に向かって立っているエラは、戸口に潜むセルマに氣づき、挑戦するかのような冷たい視線を向けた。他の信者たち、司祭ヒエロニムスも氣づかぬほどのわずかな時、まったく違う立場になってしまったかつての同郷者たちは、瞳を交わした。

 司祭ヒエロニムスが、聖餐を記念する聖句を唱え出すと、『聖女』ペトロネッラは我にかえり、祭壇の脇に置かれた水差しを手に取った。その中のワインは、司祭ヒエロニムスが祝福することで聖水となったと信者たちにありがたがられている水から作られた。一方で、その水をセルマが汲んだおり、毒が入っていないか確かめた行為は考慮され感謝されることもない。

 ファディルが聖なるパンを捧げ持ち、水差しを持つ『聖女』ペトロネッラと並んで司祭の待つ祭壇へと運んでいった。ヒエロニムスの唱う聖句に合わせて信者たちが唱和する祈りの響きが聖堂に満ちた。悲しいほどに美しいハーモニーが、地底の聖域に響き渡る。

 信徒たちは、迫害にも負けぬ清らかな心と互いに対する善行という正しさを拠り所に、『聖女』と共に天国に入る鍵を手に入れようとしている。彼らが今や日々口にするすべての食物や飲み物に入る水に込められた、セルマの苦い想いは氣づかれることすらない。
 
(初出:2023年8月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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Respighi: Pini di Roma, P. 141 - II. Pini presso una catacomba

私にとっての「ローマ時代のキリスト教迫害」のイメージといったら、誰がなんといおうともこの曲なんですよ。今回の作品はこの曲のイメージから何となく生まれてきたものです。
* * *

デリンクユについて興味をお持ちの方は、こちらがわかりやすくて興味深かったです。

デリンクユ:かつて2万人が生活していた地下都市とは
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(20)人狼騒ぎ -3-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第20回『人狼騒ぎ』の3回にわけたラストをお届けします。

人狼を罠にかけてリンチしようとしている村人に、無謀にも立ち向かっていく少年を放っておけずレオポルド、マックス、そしてフリッツの3人は様子を見にいきました。(あいかわらず前作の主人公たる約1名は全く役に立っていませんが……)

かつて外伝で登場させたことのあるこの少年の格好をした人物は、歴史上の男姫ヴィラーゴジュリアに憧れているのでジューリオと名乗っています。男姫ジュリアの方は(超問題ありな言動はともかく)絶世の美女だったということですが、我らがヒロインの方は、まったくそういう属性はありません(笑)


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(20)人狼騒ぎ -3-


 一番威勢のいい男が棒を振り上げて少年に向かって振り下ろした。ダガ剣がそれを受け止め、意外にもあっさりと男を後ろにはね返した。

「手加減してやったのに、この野郎!」
他の男たちも次々と少年に襲いかかる。そこそこ剣の腕前はあるようだが、多勢に無勢で明らかに少年の分が悪い。

 少年に跳ね返された棒が1つ、マックスたち3人の近くに飛んできた。レオポルドは徐にそれを拾うと、一番近くの男の後頭部にそれを投げつけた。

「いてっ。何すんだ!」
振り返った男は、他にも3人の男がいるのにはじめて氣がついた。
「何だお前ら。人狼の味方かよ!」

 レオポルドに向かって男が突進してきたので、すぐにフリッツが剣を抜いた。

「やり過ぎるなよ」
レオポルドの言葉に答えながら、フリッツは既に応戦していた。
「わかっていますよ」

 6人の村人たちは、少年ひとりならともかく、鍛え抜かれたフリッツとレオポルドに敵うわけもなく、数分以内に全員が棒を失った。

「ちくしょう。1度退散だ。応援を呼んでこようぜ」
ひとりの男の声を合図に、6人ともほうほうの体で逃げ出していった。

 少年は、急いで落とし穴に向かい、魚網をどけて中の汚い男に手を差し伸べた。
「トゥリオ! 探したぞ」

「申しわけございません」
物乞いでもこんなにひどい格好をしているものは珍しいと思うほどの男だが、驚いたことにきちんとした言葉遣いをした。

 マックスは、急いで落とし穴に向かい、手を差し出して少年と一緒にその男を引っ張り出した。見ると男は足をくじいたのかまともには歩けない。

「あなた様にこのような危険を冒させてしまいました。到底許されることではございません」
「何を言う。もちろん助けるとも。兄上やペネロペが生きていたら、きっと同じようにしたはずだ」

 少年と男の会話を聞いていると、どうやらこの男は人狼などではないだけでなく、ある程度の身分ある屋敷の家人のようだ。レオポルドたちは目配せをしあった。

「加勢していただき助かった。礼を言う」
少年は、3人に頭を下げた。トゥリオと呼ばれた汚い男もまた頭を下げた。

「大したことはしていない。だが、あいつらが戻ってくるまでに、ここを離れた方がいいな」
レオポルドが答えた。

「迷惑をかけて申し訳ない。そなたたちは旅人か」
少年は、訊いた。

「ああ、トリネア城下町まで行く予定だが……」
マックスが答えると、少年は首を振った。

「それはよくないな。この道を行くとあいつらの村を通ってしまう。私が別の道を案内しよう」

 それで、一行は急いで馬に荷物を載せた。歩けないトゥリオはフリッツの馬に乗せ、一行は少年と一緒に歩いた。

「私はジューリオという。ここにいるトゥリオは追われている知人なのだが、この森に隠れていることを知り、救出に来たのだ。1人では助けられないところだった。そなたたちの加勢に、心から礼を言う」
 
「私は商人で、デュランという。そなた1人で立ち向かうのは無謀だったな」
レオポルドが言うと、ジューリオは俯いた。
「わかっている。相手の人数が多すぎた。でも、あのままにしていたらこの男は殺されてしまっていただろう」

「そうかもしれんな。……もっとも、遠吠えをしたり、羊をかみ殺したりしたというなら、公に裁いてもらっても同じことになった可能性もあるな」
レオポルドが言うと、ジューリオは色をなした。
「トゥリオがそんなことをするはずはない。人狼ではないんだから。目撃者なんてあてになるものか」

 トゥリオは、申し訳なさそうに口をはさんだ。
「羊をかみ殺したりはできませんが、遠吠えの真似事はしました。村の子供たちが、面白半分に近寄ってきたことがありまして……」

 一同は、馬上の怪我人を見つめた。ジューリオは呆れていった。
「じゃあ、人狼の噂が広まったのは、お前自身のせいなのか?」
「はい。もうしわけございません」

「たまたま近くに本物の狼が出たのも噂を広めることになったのかもしれませんね」
マックスがつぶやいた。

 ジューリオはため息をついた。
「おかげでお前の居場所の予想はついたけれど……。でも、運が悪かったら、向こうが先にお前を見つけてしまったかもしれないんだぞ」

 トゥリオは頭を下げた。レオポルドと顔を見合わせてから、マックスは訊いた。
「向こう?」

 ジューリオは答えた。
「このトゥリオに人殺しの罪をなすりつけて亡き者にしようとしたヤツらだ。でも、それが誰だかはっきりしないので、このまま彼を連れ帰ることはまだできないんだ」

 レオポルドは訊いた。
「じゃあ、そなたはいま、どこに向かっているのだ?」
「トリネア城下町の外、聖キアーラ会修道院に行く。院長は私の知りあいなので、トゥリオのことも匿ってくれるはずだ」

 聖キアーラ修道院と聞いて、レオポルドとマックスは顔を見合わせた。かつてトリネア候女との縁談を持ち込んだのは、他ならぬ聖キアーラ女子修道院長のマーテル・アニェーゼだった。

 身分を隠したままマーテル・アニェーゼやその近くの尼僧たちと知りあいになれるとは、トリネア事情を知るのに望んでも得られぬ好機だ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(20)人狼騒ぎ -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第20回『人狼騒ぎ』の3回にわけた第2回をお届けします。

村の男たちが座っている円卓というのは、私の住むスイスやその他のドイツ語圏ではいまだによく見かけます。ドイツ語ではStammtischといって、ようするに常連たちがいつも集まる席です。特殊なパーティーやクラブ的に説明されていることが多いのですが、少なくとも小さな村では、会員権が必要とか、必ず決まったことをしているというわけではなく、ただ飲んでいるだけということも多いです。ここでは、そうした村の男たちがいつも集まって飲んだくれる場所をイメージして書きました。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(20)人狼騒ぎ -2-


 静かに食事をするレオポルド一行や、その隣の席の少年とは対照的に、円卓の男たちはアクア・ヴィタの盃を重ねるのに忙しく、食事は遅れ氣味だった。

「それで、どうやって捕まえるって?」
「それ、昨日説明しなかったか? いいか、よく聴けよ。ヤツはいつもこの店の余り物を狙って裏手にやって来る。で、俺様が昨日のうちに落とし穴を仕掛けておいたんだ。今はジュゼッペが見張っている。もしヤツがかかったら、俺たち全員で行って、投石して、傷ついたら殴って息の根を止める」
「飛びかかってこないのか?」
「ジュゼッペが上手くやったら、魚網を上からかけて、穴から出られないようにしているはずさ」

 ラウラは、カタンという音がしたので隣の席を見た。例の少年は、ゴブレットをテーブルに置いたようだ。握りしめている手がわずかに震えている。

 ラウラの視線を追ってマックスも少年を観た。フリッツもその視線を追う。少年は、思うところがあるようで、円卓の男たちの騒ぎを険しい表情で見ていた。だが強い酒を重ねながら騒ぐ男たちは少年の様子には氣がついていなかった。

「人狼だ!」
裏手から男が叫んだのが聞こえた。

 円卓の男たちは、一斉に立ち上がって騒いだ。
「人狼がかかったぞ! 急げ」
「よし、行くぞ!」

 男たちは、脱いでいた上衣を急いで身につけ、隅に立てかけてあった棒をそれぞれが手に取り出かける支度をした。

 その間に、例の少年が静かに立ち上がり、黙って戸口から出て行った。少年の腰には細いダガ剣が刺さっていた。見るとテーブルの上にいつの間に用意したのか代金が置いてある。どうやらはじめからこの捕り物に加わろうと機を待っていたらしい。

「あいつらを阻むつもりかもしれないな」
レオポルドは小声で言った。あの視線の険しさは、人狼退治の男たちに賛同しているとは考えられなかった。だが、どう考えてもあの華奢な少年が、屈強な村人たちに敵うとは思えない。

 レオポルドは、マックスに視線で支払いをするように促した。それを予想していたマックスは、懐から財布を取り出し、十分だと思われる金額をテーブルに置いた。

「巻き込まれない方がいいんじゃないですか」
フリッツが制する。ちらりとラウラの方を見てレオポルドは好奇心と危険を天秤にかけていた。

 それを見て取ったラウラが言った。
「あの方を助けたいのなら、急ぎませんと……」
男たちが出て行って、店は急に静かになっていた。

「奥方様たちは、ここで待っているように」
レオポルドがそういうと、ラウラは素直に頷きアニーと共にその場に残った。荷物もあるし、馬もまだつながれたままだ。

 レオポルドとマックス、そしてフリッツは、男たちの後を追って店の裏手に向かった。

 かなり近くまで行くと、助けを請う男の声が聞こえた。
「やめてくれ」

「いまさら命乞いしても遅いぞ、人狼め」
「満月まで生かしておいたら俺たちを襲うつもりだろう」
数人の男たちは魚網で押さえつけ、他の男たちは殴りつけるための大きめの石を探している。

「やめろ!」
声がして、先ほどの少年が飛び出してきた。

「何だ?!」
男たちは、驚いて動きを止めた。

「やめてくれと言っているじゃないか。本当に人狼かどうかもわからないのに、裁判にもかけずに殺すつもりなのか」
少年は急いで落とし穴の近くに寄った。

「ふざけるな。こいつが人狼なのは、なんども目撃されていて確かなんだよ。遠吠えだって何人もが聞いているんだ」
「先月から、俺たちの羊がこいつに裂き殺されているんだ。満月が来る前に退治しなかったら、また被害が広がるだろうが」

 男たちは、手に石を持って落とし穴の方に投げようとしている。

「やるなと言っているだろう!」
少年は、ダガ剣を構えて男たちと落とし穴の間に割って入った。

「何だ、お前。邪魔するならガキだからって許さないぞ」
男たちは石を捨てて、棒を構えた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(20)人狼騒ぎ -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第20回『人狼騒ぎ』の第1回をお届けします。今回も3回にわけます。

ボレッタなる村での民泊を経て、ついに一行は目的地トリネア城下町が見えるところまでやって来ました。今回更新分に出てくる蒸留酒のモデルはグラッパです。当時、ワインが高価だったというのはモデルとなった中世ヨーロッパでも同じで、実際にイタリア語圏の庶民は残り滓に水を加えたヴィナーチェを飲んでいたようです。めちゃくちゃ強いお酒を「命の水」などと名付けるのはヨーロッパ各地ではよくあることなので、ここではそれを真似して名付けてみました。

今回、さりげなーくずっと出てこなかったあの人が登場しています。ま、もう誰も待っていないでしょうが……。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(20)人狼騒ぎ -1-


 翌朝、一行はウーゴとその妻のもてなしに感謝して、ボレッタを後にした。ここまで来ると街道と森の中の「民の道」はほぼ並行となる。

 街道といっても四輪馬車がようやく1台通れる程度のものだが、それでもトリネア城下町までのわずかな距離に2度も通行料を払う必要のある砦がある。馬車に乗らない貧しい旅人たちはその街道に沿って森の中を行った。その踏み分けられた場所が非公式の道となり、「民の道」と呼ばれていた。

 マックスは人目につきにくいのでこの道を選んだが、実際には強い日差しを防ぐ快適な道である上に、平坦で楽な道のりだった。

「城下町はそろそろでしょうか」
フリッツが訊く。

「そうですね。あと半刻もすれば、《中海の真珠》を一望できる丘に到達します。今日はいい天氣ですから、実に印象深い光景を目にすることができるでしょう」
マックスは振り向いて微笑んだ。 

 トリネア侯爵領の中心であるトリネア城下町は、《中海の真珠》と讃えられている。丸いキューポラが印象的な堂々とした大聖堂と、ほぼ同じ大きさの城を中心に、こぢんまりとした印象ながら均整のとれた美しさで有名だった。

 海から訪れるトリネアも格別美しいが、陸路でトリネアを訪れる者は、街道の谷道で突然現れる「見晴らしの丘」からの眺めに一様に心打たれる。それは、「民の道」から出て、その丘に立った一行にも同じく強い印象をもたらした。

「なんてきれいなところなの!」
アニーが思わず口にして、あわてて口を押さえた。自分だけがそんなことを言ってはしたないと思ったのだ。

 けれど、それを恥じる必要はなかった。言葉も出ないほどにラウラはその光景に心打たれていたし、レオポルドも、それどころかフリッツまでもその絶景に言葉を失っていた。

 レオポルドがそれまで見たことのある海は、戦で見た北の地ノードランドの冷たく暗いそれだった。重く垂れ込めた雲の下、不快な湿った凍風を送ってくる非情な存在でしかなかった。だが、始めて目にする《中海》はなんと明るく輝かしいことだろう。

 沖は深く濃い青で、港に近づくにつれて明るい青ととも緑ともつかぬ色となる。その水面を、陽光が燦々と降り注ぎ、波の動きとともにキラキラと輝いていた。繰り返す波のリズムに合わせて白い波頭が踊る。

 温暖で陽光に満ちた土地には、色鮮やかな花々が咲き乱れ、異国を思わせる南洋の樹木の間に白レンガの壁と赤茶けた屋根の家々が立ち並ぶ。

 海を見ることも初めてであったラウラとアニーは、その美しさに心打たれ顔を輝かした。マックスは一同の反応に満足したように頷くと、再び「民の道」に戻り、トリネア城下町に向けて下りだした。

 城下町にほど近い麓の小さな村に、かつてマックスが入ったことのある旅籠兼居酒屋があった。なかなか美味しい料理をわずかな料金で食べられたことを思いだした彼は昼食をとろうと中をのぞいた。

 まだ正午にはなっていないこともあり、5人分の席はかろうじて空いている。奥から女将が愛想よく声をかけてきた。
「ようこそ、4人ですかい?」

「いや、馬をつないでいる者がいる。全部で5人だ。昼食、いいかい?」
「もちろんです。こちらへどうぞ」

 案内された奥の席は、L字型の長椅子で5人から6人座ることが可能だった。

 入り口近くには円卓があり、大声で話す男たちが5人ほど座って食事をしていた。女将や給女は冗談を含む軽口で対応していたので、おそらく常連なのであろう。

 奥のマックスたちが案内された席と反対側に、2人用の席に1人で座る華奢な少年がいて、何か考え事をしているような様子でワインを口に運んでいた。長めの髪を後ろで縛り、濃い紅色のトゥニカを着ている。この地域ではカミシアと呼ばれる簡素なシュミーズに、非常短く露出の多いコタルディと呼ばれる上衣を身につけている若者が多いので、太ももの近くまで隠れるトゥニカ姿は少し古風に見えた。

 少年がじっと見つめている先は、大きな声で話す円卓の村人たちだ。
「今日こそ、絶対に捕まえてやる」
「満月になる前に捕まえなきゃな」
「おう。あのふてぶてしいウチのカカアが、すっかり怯えているんだ。ここでいいところを見せてやらなくちゃ」

 昼間だというのに、男たちは生命の水アクア・ヴィタと呼ばれる蒸留酒をがぶ飲みしていた。

 ワインは貧しい庶民には高価すぎる飲み物で、ワインの残り滓に水を加えたヴィナーチェが一般的であった。物珍しさからレオポルドはイゾラヴェンナに泊まった夜に1度だけ頼んだことがあったが、顔をしかめて何とか飲み干し、2度と頼もうとしなかった。

 一方で、このヴィナーチェを蒸留した強い酒は、ものすごく強いのだが深い味わいのある良酒で、ワインそのものよりも美味い。だが、昼に酔い潰れるわけにはいかないし、間もなくトリネア城下町が近づいており言動には注意しなくてはならない自覚もあるのでもちろん一行はアクア・ヴィタを頼んだりはしなかった。

 この店に置いている薬草を加えたワインはなかなかの味で、裕福な商人を装っているレオポルドは、ヴィナーチェではなくこのワインを飲むことが出来たことに満足していたが、目立つ事を避け何度も頼むようなことはしなかった。

 料理は、マックスの記憶と違わず美味で、わずかな肉であったが一緒に煮込んだ豆や栗がしっかりと腹を満たした。
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Posted by 八少女 夕

【小説】花咲く街角で

今日の小説は『12か月の建築』7月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。先週もこのシリーズでしたが、ここで発表しておかないと、また1月ずれちゃいそうなので。決してどっかの小説のヒロイン登場を勿体ぶっているわけではありません(笑)

今月のテーマは、フランスアルザス地方の家です。

実はですね。私の曾々祖母の故郷はストラスブールでして、かつて彼女の痕跡を捜しに旅をしたことがあるのです。こんな世界に住んでいたのかと感動してしまいました。それほどにこのアルザス地方は印象に残る場所でした。

今回の掌編の裏テーマは「人生の楽しみ方」です。忙しく真面目に生きているだけで、何かを忘れがちなのは私も同じ。ある人たちは、人生の楽しみ方をよく知っているように思います。


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花咲く街角で

 カスタード色のルノーからは、どこかオイルの焦げるような匂いがしている。ティボーからお香みたいな独特の香りがするのと同じで、エリカはすでに慣れてしまっていた。

 車にはほとんど興味が無くて、ポルシェとアルファロメオを間違えたことすらあるエリカはいまだにいま乗っているオンボロ車の車種が定かではない。ティボーは「カトルシュボ」と言っていたような氣はするが。少なくともティボー自身の名前は憶えたのだから、それでよしとしてほしい。

 ブリキのおもちゃのような車内装飾。赤い縞のシートは、今どきの車のように運転席と助手席が完全には独立していない。ティボーが右手を下に延ばすとき、はじめエリカは足にでも触られるのではないかと身構えたが、何のことはない、その位置にギアがあるだけだった。

 地平線まで続く葡萄畑からは、硫黄の香りが漂ってくる。昨夜の通り雨を輝かす朝の光が葡萄畑をわたる風とともにルノーの中を通り過ぎていく。泣きたくなるくらいの美しさだ。

 アルザスワイン街道をいつかは通ってみたいとは思っていたけれど、まさかこんな形で通ることになるとは思わなかった。朝からワインをがぶ飲みして、オンボロ車を運転する、首に変な入れ墨のあるちょっとジャンキーっぽい見知らぬ男に連れられて、エリカは『人生の延長試合』をはじめたところだ。

 コツコツと真面目に生きてきたつもりだった。小さな貿易会社の事務員として10年働き、慎ましく生活してきた。来年には5年同棲した男と結婚して、新婚旅行もするつもりだった。でも、なぜかその男と、職場でエリカが一番仲がよかったはずの同僚が「おめでた婚」をすることになっていた。しかも、大切に貯めた結婚資金の大半はいつの間にか消えて、エリカが彼に「貢いでいた」ことになっていた。

 それがわかってからしばらくの事は、もう思い出したくもない。半分自棄で身辺整理をして逃げ出してきた。新婚旅行に行くならと憧れていたコルマールで、人生を終えてやれと鼻息荒く飛び出してきた。その旅費ぐらいは残っていたから。

 そして、パリからTGVに乗ってコルマールまで着いた。噂に違わぬ素敵な街並みだったけれど、楽しそうな観光客たちを横に、「人生を終える場所」など見つからなかった。エリカは、華やかな町の中心部から離れ、ホテルの小さなバーでワインを飲みながらメソメソと泣いていた。

 その時に、隣でパスティスを飲んでいたのがティボーだった。
「なんで泣いているんだ?」

 エリカは、拙い英語で自分の悲劇を語ってみた。思ったほどの同情を得られた氣はしなかった。

 ティボーは、まるで「そんなことはフランスでは日常茶飯事だ」とでも言いたげな態度で頷き言った。
「せっかくこんないい時期にここに来たんだから、そんなにすぐに『おしまい』にすることはないよ。ワイン街道はみたのか? コルマール以外の村は?」

 エリカは、若干ムッとしながら「まだ」と答えた。ティボーは、にやっと笑って言った。
「じゃあ、明日からは『人生の延長試合』だ。ワイン街道で、アルザスワインをたらふく飲んで、それからもっと小さな村を見にいこう」

 これまでのエリカだったら、こんな怪しい男の誘いには乗らない。騙されてお金を巻き上げられるか、それに類したろくでもない事が待っていそうだ。でも、「死ぬに死ねない」状況で、さらにいうと帰国しても仕事も帰る場所もない現状では「その手の犯罪に巻き込まれるのもアリか」と思ってしまったのだ。

 そして、エリカはそのホテルを今朝チェックアウトして、このオンボロ車の助手席に座ることにしたのだ。小さな荷物は、後部座席にぽつんと載った。

「あなたって、何している人? 引退するって年齢じゃなさそうだけど」
エリカは、疑問に思っていたことを口にした。見かけから推察するに40代くらいに見える。もう少し上の世代に多いヒッピー的な長髪を後ろで結んでいる。入れ墨はサンスクリット語のようだけれど、どんな意味か訊くのはやめた。白人がクールだと思って入れる漢字タトゥーは、漢字文化圏の者が見ると情けないモノが多いので、サンスクリット語だけが例外ではないと思うから。

「俺? 詩人……かな。ま、他にもいろいろやっているけれどね」
うわ。やっぱり、ヤバそうな人かも。……ま、いっか。たかったり、騙したりしようにも、私にはほとんど何も残っていないし。

 なだらかな丘陵をいくつか登って、ルノーは小さな看板の出ている葡萄畑の傍らで停まった。ティボーは、懐から小さなビニール袋を取りだして、中に入っている紙で煙草の粉を巻いて火を点けた。

 ああ、この香りだ。エリカは納得した。お香のようだと思ったのは、巻き煙草か。くたびれたアロハシャツに綿の7分丈パンツ、黒いビーチサンダル。肩の力の抜けた人だ。

 葡萄農家と少し話すと、葡萄棚で日陰になった石のテーブルとベンチに案内された。白ワインといくつかのチーズにクラッカーが出てきた。

「さあ、乾杯しよう」
ティボーは笑った。

「もうお酒? まだ9時にもなっていないのに」
エリカが言うと、ティボーと農園の女将は不思議そうな顔をした。

「朝と、夜で何が違うんだい?」
言われてみると、なぜ朝だと飲まないのか、よくわからない。ましてや人生を終わらせるつもり、もしくは『人生の延長試合』を生きているエリカには、さして重要な禁忌とは思えなかった。ええい、飲んじゃえ。

 飲みやすい白だ。甘すぎず、渋さもない。いくらでもいけそう。このカマンベールみたいなのとよく合うし。しかも、このバケット、パリッパリだ。美味しいなあ。こんなにきれいな場所でワインを飲んだ事って、これまでになかったかもしれない。誰かのグラスが空じゃないかと心配する必要もないし、ただ自分だけが楽しむためのワイン。最高だわ。

「ほら。まだ先は長いから、酔っ払いすぎないように。もう行くよ」
1杯だけ飲むと、意外にもティボーはさっさと立ち上がった。

 そして、ようやくエリカは氣がついたのだが、ティボーは『アルザスワイン街道』を通り、この先のいくつもの農園でさまざまなワインを飲み比べさせてくれるつもりらしい。

 フランス北東部を、北はマーレンハイムから南はタンまでヴォージュ山脈の麓の市町村を結ぶ170キロメートルを『アルザスワイン街道』と呼んでいる。アルザスワインの1000にものぼる生産者がこの地域にあり、試飲をしたり生産者から直接買ったりすることができる。

 そして、それだけでなく途中で通る村がいちいち美しい。

 壁の骨組みを木で造り、その間に石やレンガを入れて漆喰で固める「木骨造り」という中世ドイツの影響を色濃く残した様式の家々はカラフルな壁と飾られた花と相まっておとぎの国のようにかわいい。

 世界中にも伝統的な家屋を一部だけ残した歴史地区などはあるけれども、『アルザスワイン街道』は170キロメートルにわたり、通る村のほぼすべてがこのような様式の家で建てられているのだ。

 エリカは、ずっとコルマールやいくつかの有名な村の一部だけが、このような美しい外観なのだと思っていたので、とても驚いた。

「ああ、ここでコーヒーを飲まなくちゃ」
そう言ってティボーはなんでもないパン屋の前で車を停めた。

おはようモルゲ 、ティボー」
パン屋の女将が挨拶する。

「やあ。パン・オ・ショコラはあるかい?」
ティボーの問いに、女将はショーケースを自慢げに見せた。

 店の片隅の丸テーブルで、紙ナフキンで包んだだけのパン・オ・ショコラとコーヒーを渡された。何十もの層となった生地がサクッとした歯触りで口の中に広がる。固すぎず、でも、クリームではない板チョコがたっぷり入っている。
「うわ。ちょっと待って。これ、本当に美味しい……」

 店には次々と客が入ってきて、お互いに挨拶しながら他愛のないことを話している。ティボーともみな知り合いらしく、次々と会話が弾んでいた。ドイツ語に近い不思議な言葉、アルザス方言だ。

 たった1杯のコーヒーと、1つのパンを食べている間に、世界がいきなり社交的で優しくなったかのようだ。ここに逃げ出してくる前の生活では、休憩時間とはスマホをチェックしてトイレに行くぐらいの時間だった。この国に到着してからも、パリでは観光客に対しての事務的で冷たい扱いを受けていたように思う。

「コーヒータイムも、悪くないだろ?」
ティボーは、そんなエリカの考えを見透かしたかのようにウインクした。

 また車に乗って、葡萄畑の間を走っているときに、エリカは言った。
「私ね、朝からワインなんて飲んじゃいけないって思っていたけれど、そういうばコーヒータイムもコーヒーを飲むだけでみんなでおしゃべりすることは避けていたかも」

「どうして?」
「どうしてかしら。もちろん仕事中には決まった時間以上に休んじゃいけない決まりはあると思うんだけれど、休みの日は関係ないはずよね。でも、そういうものだと思い込んでいたのかも」

「今朝の時間の過ごし方はどう? 心地よい? それとも居心地悪い?」
ティボーは助手席のエリカを見て訊いた。

「新鮮で、そうね。とても心地よい驚きだと思うわ。午前中って、人生って、こんな風に楽しんでいいのかって」
「それならよかった」

 午前中に、ティボーに連れられて3軒の農家で白ワインを楽しんだ。太陽が高く上がるにつれて氣温はぐんぐんと上がり、アルコールはどんどん蒸発していった。1杯につき50ccもないとはいえ、運転するティボーがこんなに飲んでいるのは合法なのかどうか怪しい。だが、さすがフランス人というのか全く酔った感じはない。

「さあ。昼食の時間だ」
コルマールよりも南のエギスハイムに着いたとき、ティボーは言った。

 エリカは、言った。
「お昼は、私が払うわ」

 朝からエリカは1銭も払っていない。何度か財布を取り出したが、ティボーに人さし指を振って断られてしまったのだ。

 ティボーは、片眉をあげてニヤッと笑った。
「それは無理だな。レストランじゃないからね」

 どういうこと? ティボーは、観光客たちのように車を城壁の外の駐車場には停めず中に進めて村人が停めている駐車場に停めた。

 そして勝手知ったる足取りで小さな小路を進み、クリーム色の壁の家の外階段を登って行った。茶色い木のドアを解錠して中に入っていった。
「ようこそ。我が家へ」

 エリカは目を丸くした。ティボーの住む家?!

 外壁はクリーム色だったが、内壁は白かった。外壁と同じなのは木骨が台形に張り巡らされていることで、同じ色の古い木材の柱、同じくらい古そうな丸い木のテーブルと椅子、備え付けの家具類だった。天井も同じ木材で、丸いランプは取り付けてあるが、それ以外は「中世からこのまま」と言われても信じてしまいそうな佇まいだ。

 よく見るとキッチンにはガスコンロやオーブンもあるし、冷蔵庫もあるのだが、その冷蔵庫もどこのアンティークなんだろうと思うような古い50年代風外観で、先ほどまで乗っていたルノーを彷彿とさせた。

「まあ、座って」
そう言うと、部屋の片隅に置かれたレトロなラジオのスイッチを入れた。サクソフォンが心地よいラウンジ・ジャズがわずかな雑音とともに部屋に満ちる。

 それから、レモンを入れた緑の重いガラスコップを持ってきて、そこにミネラルウォーターを注いだ。

 彼はラジオに合わせて鼻歌を歌いながら、冷蔵庫から食材を取りだして木製のキッチン台に並べた。

「えーと、何か手伝えること、ある?」
エリカが訊くと、彼は「そうだね」と言って、テーブルに洗ってあるチシャを持ってきた。
「これを、このお皿に載せて」
「こんな感じ?」
「うん。それでいい」

 彼は、何かのパテをそのチシャの上に載せて、上からバルサミコ酢をかけた。それから、テーブルに冷えたワインボトルとグラスを持ってきた。
「ゲヴュルツトラミネールだよ。ちょっと癖のある料理に合うんだ。だから、前菜は鴨のパテにした」

 ティボーはグレーのテーブルマット、布ナフキン、カトラリーレストなどを慣れた手つきでセットしていき、あっという間にレストランのようなセッティングにしてしまった。

 グラスに琥珀色のゲヴュルツトラミネールが注がれた。なんともいえないフルーティーな香りがする。
「これ、何か薬草でも入っているの?」
「いや、そういう品種の葡萄なんだ」

 引き締まった辛口で、ワイン自体に強いアロマがあり癖が強いのだが、香辛料のきいた鴨のパテに驚くほどよく合う。
「意外ね。喧嘩しそうなのに、こんなに合うなんて」

 そして、もう1つ意外だったのは、ティボーが料理上手だったことだ。パテの次に、スズキの香草焼きをあっという間に作り、茹でポテトとほうれん草まで添えてあった。切るときに幸福な香りを漂わせたパリパリのバゲットは小さな籠の中で待っている。今度のワインはリースリング。
「もしかして、料理人でもあるの?」

 ティボーは、笑った。
「若い時にセネガルやモロッコを旅して回ったんだ。その時にそういう仕事をしたこともある。でも、それとは関係なく、食べるのは好きなんだ。毎回の食事は大いに楽しまないとね」

 エリカは、前に食事を楽しんだのはいつだったかと考えた。3回きちんと食べることは心がけていたつもりだったけれど、それは楽しかっただろうか。今朝、ホテルで出てきた朝食ですら「タダなのにもったいないから」食べたような氣がする。

 ティボーは、「デザートはテラスで食べよう」と言った。石の階段を登って、裏の庭側に小さなテラスがある。そこからはどこまでも続く葡萄畑を一望することができた。すぐ近くの建物の屋根に、コウノトリが巣を作り、カタカタと音を立てている。

 ビターオレンジのシャーベットに、エスプレッソコーヒー。とても簡単なデザートだけれど、こうやってゆったりと食べると本当に美味しいなあ。

「日本で使う漢字でね、忙しいって字は心を亡くすって書くの。私、もしかしてずっと心をなくしたまま生活していたのかもしれない」

 ひとり言のようなエリカの言葉に、ティボーは微笑んだ。
「今日、心を取り戻した?」

「わからないけれど、少なくとも何もかもがきれいで、美味しくて、楽しい。久しぶりだなあ、こういう氣持ち」

 空のグラスに、リースリングが新しく注がれる。窓枠から入ってくる優しい陽の光がグラスに反射する。
「じゃあ、わかるまで、ゆっくりと探せばいいよ」

「そうできたらいいけれど、お金もほぼ使い切っちゃったし、そうもいかないわよね」
エリカは、現実的に答えた。

「中途半端にあるからお金は足りないって感じるんだよ。全くなくても、実は何とかなるものさ」
「でも、今夜泊まるホテル代すら足りないかもしれないのよ」
「ほらね。ホテルに泊まろうと考えるから足りないのさ。……この階の部屋は空いているから使うといいよ」

 エリカは目を白黒させた。
「なんで? 知り合いでもなんでもない人をただで泊めても、あなたにメリット何もないじゃない?」

 ティボーは、肩をすくめた。
「僕は、世界中で、知り合いでもなんでもない人たちにしばらく住まわせてもらったし、助けてもらったよ。誰もメリットがあるないなんて言わなかった。誰かが困っていたら手を差し伸べて、楽しく時間を過ごせれば、それでいいんじゃないかな。それじゃ君の氣が引けて困るなら、家事を手伝ってくれればいいし、この村にしばらくいれば、簡単な仕事くらいは見つかるだろうし」

 エリカは、疑い深く食い下がった。
「でも、私、フランスの滞在許可もないし」

 ティボーは、ウインクした。
「そんなことは、いま氣にしなくてもいいんだよ。お金のことも。まずは、よく寝て、食べて、飲んで楽しむ事が先だ。それ以上のことは、あとからついてくる。いまは、この1杯を全力で楽しむんだ」

 エリカは、少し考えた上で、ワイングラスを持ち上げた。確かに、昨日あれだけ悩んだけれど「人生の終わらせ方」は見つからなかった。それよりも、無茶苦茶な『人生の延長試合』を続ける方が、なんとかなりそうな予感がする。

 生き方を少し変えてみたら、強敵みたいに思っていた人生とも、うまく折り合っていけるのかもかもしれない。

(初出:2023年7月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】水の祭典

今日の小説は『12か月の建築』6月分です。7月になってしまいましたけれど……すみません。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、オーストリアはザルツブルグにある『ヘルブルン宮殿』の『水の庭園(Wasserspiele)』です。

ザルツブルグに夏に行かれる方は、滞在を1日延ばしてでも行く価値がありますよ。私はザルツブルグには2度ほど行ったのですけれど、一番印象に残っているのは今は亡き母と回ったこのヘルブルン宮殿です。

今回のストーリーの2人はこちらの作品で登場させた既存のキャラクターです。顛末はこの作品にも触れていますので、前作は読まなくても全く構いません。


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水の祭典

 暑い。昨日は爽やかな初夏らしい、結婚式にはぴったりの天候だったけれど、今日はうって変わって、強い日差しに焼かれて焦げちゃいそう。

 ケイトは、隣を歩くブライアンのポロシャツ姿をチラリと見た。スーツでない彼を見るのは、もしかして初めてかもしれない。

 ブライアン・スミスは、昨日華燭の宴をあげたダニエル・スミスの兄だ。ということは、昨日からケイトの親友であるトレイシーの義兄になったということだ。

 よりにもよって、結婚式をオーストリアのザルツブルグで挙げたのは、トレイシーがザルツブルグで生まれ育ったからだ。でも、婚約パーティーはロスでしたから、ケイトがザルツブルグに招待されるとは思っていなかった。

「ねえ、トレイシー。大切なあなたの門出だもの、もちろん喜んで駆けつけたいのよ。でも、私、この間パリに行ったときにけっこうな貯金を使ってしまったし、正直言って経済的に厳しいの」

 そう言ったケイトにトレイシーはウインクして答えた。
「心配しないでよ、ケイト。あなたの旅費は、もちろんご招待よ。忘れているかもしれないけれど、あなたが私たちの恋のキューピットなのよ。それに、あなた、ブライアンのガールフレンドとして、スミス家の一員みたいなものじゃない?」

 ケイトは、後半の誤解にあわてて、前半の提案へのリアクションをし忘れた。
「私たち、そんな関係じゃないわよ?! 聞いていないの?」

「だって、デートしているんでしょ?」
トレイシーに訊かれて、ケイトは首を傾げた。
「デートなのかな? たしかに何回か誘われて食事には行ったわ。でも、別にそれ以上の進展はないし、女友達の1人なんじゃないかしら? ニューヨークにはちゃんとした恋人がいるかも」

 トレイシーは、ため息をついた。
「まだ、そんなところなの? ダニーには、あなたの話ばかりしているみたいなのに」

 ケイトは、ますます首を傾げた。ブライアンとは、話していてとても楽しい。ヘルサンジェル社の重役というアメリカン・ドリームの頂点にいるような存在のはずなのだが、時おり、その辺の中小事務所で働く平社員ではないかと思われるような空氣を醸し出す人だ。

 いつだったか、それが不思議で訊いたときに、彼は笑って頷いた。
「もともと僕は友達の仕事を手伝っていただけの、ふつうの労働者だったんだよ。だけど、その友達の進める事業がとんでもなく成功して、会社がやたらと大きくなってしまったんだ」

 ヘルサンジェル社は、健康食品を扱う大企業だが、その最高経営責任者であるマッテオ・ダンジェロと、広告に起用されたスーパーモデルである妹アレッサンドラ・ダンジェロのイメージが強すぎる。マッテオの華やかな生活は、有名人たちとの数々の浮名を含めてセレブのゴシップ誌にしょっちゅう紹介されている。

 一方で、最高総務責任者が誰であるかは、ゴシップ誌しか見ないような人たちはまず知らない。そして、それが、いまケイトの隣を歩いているブライアンなのだ。

 かつて、トレイシーからの頼まれごとが縁で、たまたまパリの空港でブライアンと知り合ったケイトだが、彼がロサンゼルスに来るときに食事に誘われるという付き合いが1年ほど続いている。つまりまだ両手で数えられるほどだ。

 彼が本当はもっとロスに来ているのか、または他の女性とも会っているのかも、ケイトは知らない。それを知る権利があるとも思っていない。まさか、トレイシーが言うように、彼が自分に夢中だなんて思うほどうぬぼれているわけではない。

「今日は、どこに行くの?」
ケイトはブライアンに訊いた。新婚夫婦の邪魔をするわけにはいかないし、トレイシーのオーストリアの友達とは親しくないので、自由時間を過ごすのはなんとなくブライアンと2人ということになった。

「トレイシーおすすめのヘルブルン宮殿だよ。今日みたいに暑い日にはぴったりだと思う」
ブライアンは言った。

 旧市街から見えている高台のホーエンザルツブルク城や、庭園のきれいなミラベル宮殿は挙式の前日にトレイシーやダニーの家族と一緒に見学したのだが、他にも宮殿があるとは知らなかった。
「たくさん宮殿があるのね」
「夏の離宮だそうだ。だから少し離れているんだね」

「誰の離宮? ハブスブルグ家の王様?」
「いや、ザルツブルグがオーストリアになったのは19世紀で、それまではドイツ支配下の大司教領だったんだ。だから、ヘルブルン宮殿を建てたのも大司教ってことになるね」
「お坊さんが、そんなにお金持っているの?」
「大司教といっても領主だし、それに、このマルクス・ジティクスって大司教はホーエンエムス伯だからもともと貴族だ。いまの宗教家のイメージとはちょっと違うんだろう」

 夏の離宮というからには、涼しい高地にでもあるのかしら。ケイトはブライアンに連れられるまま、市バスに乗った。かなり遠くなのかと思ったら、30分もかからずに目的地に着いたようだ。
「ここ?」

 なんでもないバス停かと思ったら、道の向こうに黄色い壁があり、「ヘルブルン宮殿入り口はこちら」という矢印が見えた。さすが宮殿の塀だけあって、そこから入り口まで暑い中かなり歩いたが、そこからは美しい庭園だったので、外を歩くときのような日差しの暴力は感じなかった。

「大丈夫? もう疲れてしまったかな。先に休むかい?」
ブライアンに訊かれて、ケイトは首を振った。いくら何でもそれほどヤワではない。
「いいえ。大丈夫よ。暑いけれど、もう夏ですものね。ああ、広い。こんなに大きな敷地のお城だったら、ザルツブルグの旧市街には入りきらないわよね」

 ブライアンは、目を細めて「そうだね」とケイトに笑いかけた。それから、ケイトが手にしているカメラを見て言った。
「それ、しまった方がいいかもしれないな。これを使って」

 彼が、ポケットからビニール袋を2つ3つ取りだして渡してきたので、ケイトは首を傾げた。
「これ、どうするの?」

「濡れたら困る電子機器があったら、それで保護しておいた方がいい」
ブライアンはそう言って、彼のスマートフォンもビニール袋で包んでポケットにしまい直した。

 ケイトは、これまでいくつかの噴水のある庭園を訪れたことがあるが、スマートフォンやカメラをビニール袋にしまうようなことはしなかった。ブライアンって、意外と大袈裟な人なのかしら?

 グループツアーの集合アナウンスがあり、「行こう」と言うブライアンに続いてケイトはグループに合流すべく進んだ。

 そして、案内人は宮殿の中ではなく一同を庭園へと導いた。

 さまざまな大理石の彫刻で飾られた広大な人工池が涼しげな水音をたてている。緑色の水には黒い大きな魚や鴨が泳いでいる。宮殿を向こうに見渡す池の傍らにオレンジの壁とさまざまな彫刻で飾られたローマ劇場と石テーブルや椅子のある広場があり、案内人はまずそこで止まった。

「ようこそ、ヘルブルン宮殿の水の庭園へ! 今日は、とても暑いのであなたたちはまさにぴったりの場所を訪れたというわけです。さまざまな噴水をお目にかける前に、『諸侯のテーブル』にお座りいただき、この庭園の歴史について簡単にご説明しましょう」
案内人はそう言って、参加者たちをテーブルの周りある8つの椅子にそれぞれ座らせた。

「この宮殿は、大司教マルクス・ジティクス・フォン・ホーエンエムスの依頼で、1613年から15年にかけてイタリアの建築家サンティーノ・ソラーリの設計で建設されました。後期ゴシック様式の素晴らしい建築の妙については、後の宮殿内ツアーでご説明するとして、まずは世界的に有名なこの庭園の仕掛け噴水についてお話ししましょう」

 案内人は、にっこりと笑って一同を見回した。
「実は、大司教マルクス・ジティクスは、ちょっと人の悪いところがあったようで、宮殿を訪れる客をびしょ濡れにして、驚き慌てるさまを眺める趣味があったようなのです……こんなふうに」

 そう言った途端、8人が座った席の真後ろの石畳から水が噴き出して、水のカーテンができた。
「きゃあっ」
実際には、動かなければ濡れないような絶妙の位置に水は噴き出しているのだが、びっくりして立ち上がった観光客はあっという間に濡れてしまった。

 ケイトも思わず身をひねって倒れそうになったが、さっとブライアンが腕を伸ばして庇ってくれたので、難を逃れた。

「ありがとう。あら、代わりに濡れてしまったのね、ごめんなさい」
ブライアンの腕と、ポロシャツの袖が濡れている。

「大したことはない。すぐに乾くよ。……次の仕掛けでもっと濡れるかもしれないけれど……」

 ケイトは、笑って訊いた。
「こういう風になるって、知っていたの?」
「具体的には知らなかったけれど、濡れる可能性があるとトレイシーが教えてくれたんだ」

 子供たちは喜んで、自ら水の中に飛び込んでいっている。大人たちは首をすくめて、水が止まるのを待った。無事に止まったので、席を立ち少し離れたが、とある観光客がしくみはどうなっているのかよく見ようと覗くと、今度は座っていた椅子からも噴水が噴き出して、その男はびしょ濡れになった。これらの不意打ちで、仕掛け噴水ツアーの観客たちはみな笑顔になり、一瞬で打ち解けた。

「この仕掛け噴水は、当時のシステムのままで、電動ポンプなどは一切使用されていません。世界的にももっともよく保存されたルネッサンス後期の技術の粋を、お楽しみください」

 園内に立ち並ぶ彫像たちは、よく見るとふざけた表情を持つものが多く、あかんべーをしているように見えるものもある。よく見るとその口の中には管があり、どうやらこれも噴水となっているようだ。

 続いて案内された人工鍾乳洞グロットには、水の中を動き回る龍やイルカ、舌を出し入れする悪魔像など、現代ではテーマパークでよく見られるような仕掛けがそこここにあった。

 ここでも、油断しているのをいいことに、高いところ、低いところから客たちが通り過ぎるのを狙ってピュッピュと水が吹き出してくる。

 外に出れば、先ほどは何もないと思っていた通路には水のアーチができており、ブライアンとケイトも笑いながらもはや濡れることを避けずに通り過ぎた。

 ギリシャ神話を題材にしたさまざまな仕掛けのある洞窟を通り、案内されたのは巨大なドールハウスのような機械劇場だ。3階建ての建物にオルゴール仕掛けのごとく現れる精巧な仕掛け人形たちが、圧巻だ。偉そうな男が頷き、労働者たちは樽を転がし、兵隊たちが行進し、熊は引き回されている。そして、やはり水力で自動演奏されるオルガンが楽しげな音楽を奏でる。

「見て。あそこ、踊っているわ」
「本当だ。そしてここでは、屠殺場面かな?」
ケイトとブライアンは、これらのバラエティ豊かな仕掛けのすべてが、全く電氣を使わない水力だけのカラクリだということにあらためて驚いた。

 そして、最後に案内されたのは、噴水の水圧で王冠が浮く仕掛け噴水だ。はじめはゆっくり持ち上げて、さほど高くなかったので油断していると、突然ものすごいスピードではるか頭上まで持ち上がる。水と光の相乗効果でとても幻想的で印象深い。

 洞窟の外に出ると、またしてもあちこちから水が飛んでくる。宮殿にかかっている鹿の頭部に至っては、角からも口からも四方八方に水が飛んでくる。

 ケイトは、こんな風にきゃあきゃあ言って楽しんだのは、本当に久しぶりだと思った。子供の時以来かもしれない。普段は礼儀正しくて物静かなブライアンも、大笑いして楽しんでいる。ふと氣がつくと、物理的に距離が近づいてしまった。

 バスを降りてこの宮殿まで歩いていたときには、2人の間にはもう1人が入れるくらいの距離があったのに、今はとても近くを歩いている。そして、それがとても自然に感じられた。

 これまでは、2人の仲をトレイシーに指摘されたら、いつも全否定していたけれど、もしかしたら私たちって本当にそういう仲になるのかも。

 そう思って、なんとなくブライアンの顔を見たら、彼もこちらを見て微笑んでいた。あちこち濡れて、少々情けない身だしなみになっているにもかかわらず、そんな彼がいつもよりも格好良く見えて、思わずケイトは顔を赤らめた。
 
(初出:2023年7月 書き下ろし)

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非常に興味深いシステムですので、よかったらこちらでご覧ください。直訳調ですが、日本語の字幕もつけられますよ。


Austria's 400-year-old gravity fountains still work perfectly
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(19)荒れた村 -3-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第19回『荒れた村』3回にわけたラストをお届けします。

予想と違い妙に荒れている村ボレッタで、ウーゴという男の家に泊まることになった一行ですが、ここで村から人びとがいなくなった事情が語られます。

この物語でカンタリアと呼ぶ国のモデルはスペインです。その南のタイファ諸国とは、イベリア半島のムスリム諸国を指していると考えていただいて結構です。

この物語では、主要な舞台となった地域にはすべて架空の名前(例・グランドロン王国の王都ヴェルドン)を与えていますが、それ以外の場所に関しては、できるだけ実在した名称の別名を使うようにしています。例えば『聖地ヒエロソリュマ』とありますが、これはエルサレムのラテン語読みです。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(19)荒れた村 -3-


 食事の時に、マックスは村の様子の変化についてウーゴに訊ねた。
「4年前とずいぶん様相が違っているようですが、いったいどうしたのですか」

 彼は、ため息をついて答えた。
「レコンキスタですよ」

 サラセン人に支配されている聖地ヒエロソリュマを奪還すべく十字軍の遠征が始まったのはレオポルドの曾祖父の時代だった。当時は多くの騎士が生死をかけたものだが、やがて参加者の動機が崇高とは言いがたいものに変わった。つまり、現地での略奪が横行しただけではなく、犯罪者が刑罰から逃れるために従軍する事が一般化してしまい、一般的に罪人の集まりと認識されるまでになってしまった。

 教皇庁自体が十字軍を非難するようになったこともあり、今ではグランドロンでも、ルーヴランまたはセンヴリでも国策としての十字軍遠征は進めていない。

 しかし、同じ半島内にサラセン人たちのタイファ諸国があるカンタリア王国では、いまだに「憎きサラセン人から国土を取り戻せ」との号令のもと国土回復レコンキスタが進められていた。

「ここはセンヴリ王国に属していると思っていましたが……」
マックスは慎重に言った。

 非常に繊細な話題だった。レオポルドが自分の目で確認したいと言っていたことの1つに、どれだけカンタリア王国の影響が強いかというトリネア政治情勢があった。

 ウーゴは肩をすくめた。
「もちろん、トリネア候はセンヴリ王に忠誠を誓っていますよ。奥方様がカンタリアのご出身だからと言って、カンタリアのために領民を供出したりはしません。……そういうことではなくて、その……、つまりですね」

 歯切れが悪いウーゴを、その妻がつついた。
「別にあんたが悪いんじゃないんだし、言ってしまってもいいんじゃないの?」

「そうだな、お前の言うとおりだ。……つまりですね。15年ほど前に村の若者の1人がカンタリアに出稼ぎに行ったんですが、数年前に大層な金持ちになって帰ってきたのです」
ウーゴが語り出した。

「それは、レコンキスタでひと旗あげたということですか?」
マックスが確認した。

 カンタリア半島南部のタイファ諸国にはサラセン人たちの美しい宮殿があり、その壮麗なことはグランドロンにも噂が届いていた。隅々まで色鮮やかなタイルと幾何学紋様の装飾で飾られ、絹と宝石で着飾った美しい女たちが黄金の茶道具を運んでくるというのだ。国土回復レコンキスタは、その国土を取り返して民をキリスト教に再帰依させることよりも、金銀財宝を略奪することに重きが置かれているとも噂されていた。

「そうです。そして、彼はファゲッタに立派な屋敷を建てましてね。それを見た村の多くの男たちが、競ってカンタリアへと行ってしまったのです」
ウーゴは言った。

「だが、老人や女子供はどうしたのだ? 彼らもまたカンタリアへと向かったのか?」
レオポルドが疑問を呈した。

「いいえ。でも、働き手がいなくなり、栗を拾うだけでは生活が成り立たなくなったので、彼らの多くは子供を連れてトリネア城下町やイゾラヴェンナ、ファゲッタなどに遷りました。村に活氣がなくなったので、カンタリアに行かなかった者たちも、村から離れるものが出てきました。今では、この村に住んでいるのは10軒ほどです」

「トリネアでは、村人たちが自由に住む場所を変えられるのですね」
ラウラが訊くと、ウーゴの妻は首を振った。

「いいえ。もちろん自由民もいましたが、カンタリアに向かった男たちの多くは自由民ではなかったのです。ただ、この一帯を管理なさっているのはパゾリーニ家の方なので、いわゆる『事務手数料』をたくさん払いさえすれば管轄内の好きなところに家を建てたり、家業を変えたりすることも可能なのです」

 マックスとレオポルドは、そっと目配せをした。グランドロン王都ヴェルドンの周辺はいうに及ばず、かつて代官であったゴーシュ子爵による腐敗がかなり進んでいたフルーヴルーウー辺境伯領ですら、ここまで身分制度がなし崩しになっていることはなかった。

 トリネア候国に限らず、センヴリ王国に属する国々では、こうした制度の形骸化が激しいことを、マックスはこれまでの旅の経験で、レオポルドは伝聞で訊いていたが、まさか村がひとつ荒廃するほどだとは思っていなかった。

 トリネア候国は侯爵家とその親族の他に、家令を務めるベルナルディ家や、オルダーニ家あるいはパゾリーニ家などの有力貴族の力が拮抗している。また、侯爵夫人の出身地であるカンタリア王国の影響も強い。港に強い興味があるとはいえ、グランドロン王家にとって、未来の女侯爵との縁談が賢い選択なのかどうか、十分に吟味する必要がありそうだと、2人は目で語り合っていた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(19)荒れた村 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第19回『荒れた村』3回にわけた2回目をお届けします。

早くトリネア城下町に着きたいがために、ファゲッタという少し大きな村では泊まらずに、森を越えたところにあるはずのボレッタを目指している一行ですが、いざついてみたら若干様子が予想と違ったようです。

今回の記述で栗の話が出てきますが、これはモデルにしたブレガリア谷やキアヴェンナ谷の名産品なのです。ただし、実際のスイスイタリア国境地帯とは違い、このストーリー上の地理では、地中海をモデルにした《中海》は《ケールム・アルバ》の麓まで食い込んでいる設定なので、一行は既にトリネア城下町までは馬で1日くらいの辺りまで来ています。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(19)荒れた村 -2-


 ブナの森は深かったが、かなり広くなってきている川沿いに進んでいるために迷うことはなかった。やがて、栗の木が多くなってきた。栗の木はブナの木よりも明確に管理がされる。そのため村からの出入りも多く、道として踏み分けられている部分も広い。マックスの記憶によるとボレッタ村はもう遠くない。

「おかしいな。ずいぶんと荒れている」
栗のイガがたくさん落ちているが、中身が入ったままだ。この時期に栗の実は早すぎるので、去年のものだろう。大半は動物や虫たちに食い荒らされ、中には芽を出したものもあるがうまく根付かずに枯れている。

 栗は腹持ちがよく保存性も高い。貴族のように豊かな食材をふんだんに食べられない庶民にとって栗は大切な食材だ。もちろんグランドロン王国の領土の大半では栗は栽培できないが、センヴリ王国やルーヴラン王国の南部、そしてカンタリア王国では栗が非常に重宝されていた。その栗が、このように放置されることは考えにくい。

 村に入ると、やはり様子がおかしかった。もう日が傾きかけているのに多くの家の煙突から煙が出ていない。そうした家々の周りには雑草が生い茂り、人が住んでいないように思われた。

 5人は注意深くあたりを観察しながら、村の中心に向かった。かつては数軒の旅籠がある村だったが、広場にも煙突に煙が上がっている家は少なく、旅籠の看板を掲げている家は見つからなかった。

 しかし、これからトリネア城下町に向かうには遅くなりすぎる。これまではレオポルドの安全のために避けていたことだが、民家に泊めてもらうことを考えなくてはならなかった。

 いくつかの煙の出ている家の中でも、庭がきちんとしていて塀なども崩れていない大きめの家をあたると、3軒目に5人を泊めてもいい家が見つかった。

 レオポルドは民家に泊まったことなどはなかったが、子供の頃から出入りしていた王都郊外の村で、靴屋のトマスの家などに入ったことがあるので、今夜どのような部屋に泊まるのかの想像はできた。

 トマスの家には、家族全員で眠る大きめのベッドが1つあるのみで、それも藁の上にシーツを引いただけだった。家財といっても食卓、ベンチ、長持ちくらいしかなかった。

 長持ちには衣服、薄手の陶器、パン、塩などをしまっていた。衣服も粗末な毛、麻の生地、山羊や羊の毛皮で作ったもので、今、レオポルドたちが着ているような色鮮やかに染織した織物などは持たず、粗末ながらも晴れ着にしているわずかに上等な服やベルトなども親から子供に引き継いで大切にしていた。

 5人を家に上げてくれたウーゴ夫婦の服装は、そうしたレオポルドが個人的に知っている貧しい人びとのそれよりはわずかによく、生成りの肌着の上に色褪せて灰色がかった青い上衣を着ている。

 家は、入ってみると2軒分であった。つまりかつては別の家族が住んでいた方の家を旅籠代わりにした旅人を泊めているらしい。調度は古いが、そこそこ清潔で心地のいい部屋が2つあてがわれた。大きい部屋の方に男性3人が、小さい部屋にラウラとアニーが泊まることにして、荷を解くと母屋の食堂に集まった。

 旅籠ではないので、立派な食事は期待していなかったが、ワインやパンも出てきた。そして肉を調理する匂いもしてきたので、マックスはホッとした。遍歴教師時代には、空豆かエンドウ豆と薄い粥だけの食事でも満足しなくてはならないことが何度かあったが、その時は変装した国王の付き添いではなかった。

 肉は乾燥して味の凝縮された栗とともに煮込まれたもので、旅籠で提供される食事に負けぬほど美味しかった。客たちの讃辞に機嫌をよくした主人ウーゴは、奥から再びワインを持ってきて機嫌良く一行をもてなした。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(19)荒れた村 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第19回『荒れた村』の前編をお届けします。今回は、微妙な長さだったので3回に切ることにしました。

今回の記述では、モデルにした地域の名産品を使ってみました。「子豚キノコ」とはご存じポルチーニ茸のことです。ドイツ語では「シュタインピルツェ」すなわち「石のキノコ」と呼ばれています。ミラノ風リゾットを作るときにはいつも入れます。キノコの旨味って、格別ですよね。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(19)荒れた村 -1-


 イゾラヴェンナを出て、旅の目的地であるトリネアまでの道中は狭い谷の小さい村々を通りながら進む。グランドロン王国に属する北側ほどの傾斜はなく旅は比較的楽で、ほぼ常に馬に乗って進むことが出来ていた。

「トリネア城下町にはいつ着くんだ?」
レオポルドは前を進むマックスに訊いた。

「そうですね。すぐ先のファゲッタで泊まれば明後日になりますが、きょう頑張って、もう少し先まで行けば、明日の昼にはトリネア港が遠くから眺められると思います」
マックスが考えつつ言った。

「もし奥方様らが疲れていなければ、『頑張る』のはどうだ?」
レオポルドが言うと、フリッツが言いかぶせた。
「ファゲッタの先にも、まともな旅籠がありますか」

「そうですね。最後の通ったのは4年ほど前ですが、『子豚キノコの森』と呼ばれるブナの大きな森を越えた所にボレッタという比較的大きい村がありました」
マックスが言うと、フリッツは安心したように頷いた。

「まだ先まで行っても大丈夫かい?」
マックスは、小さな声でラウラに訊いた。アニーの都合をフリッツが訊くとは思えなかったので、先まで進むかどうかはラウラにかかっている。

「もちろん私は構いません」
男性陣ほど騎乗に慣れているわけではないが、これまでの道中に較べれば今日の旅は楽だった。アニーもさほど疲れていないだろうし、騎馬に耐えられなくなったら彼女はさっさと降りて歩く方を選ぶだろう。旅の間に、アニーはフリッツに対してかなりはっきりと意思表示をするようになっていた。

 それで、一行はファゲッタでは短い休息をとっただけで出発し、ブナの森に入っていった。

「『子豚キノコ』とはなんだ?」
レオポルドが訊いた。

 マックスは、大きなブナの木の根元に生えている茶色い暈の茸を指した。
「それですよ」

「なんだ『石のキノコ』ではないか。それとも違うのか?」
レオポルドが訊いた。

「いえ。同じです。センヴリ語では『子豚キノコ』というのです」

「もうこんなに大きくなっている! やはりこちらの方が暖かいので、ずいぶん早いですね」
アニーは、子供の頃を思い出しながら驚いて言った。彼女の出身地であるヴァレーズでは、この時期に森に入っても、まだここまで大きくなっていなかった。

「お前、キノコに詳しいな」
フリッツが言ったので、アニーははっとした。貧しい民たちは、当然のように森番の目を盗んで茸を採っていたが、それは違法だった。

「た、たまたまです」
慌てるアニーに、特に氣づいたような様子もなくフリッツは続けて訊いた。

「家では、どうやって食っていたんだ?」
「え? 普通に、焼いたり、煮たり……」

 聴いていた他の3人は、思わず笑った。この答えで、日常的に茸採集していたのが確定してしまった。誘導されたのがわかったアニーはむくれ、フリッツの方は上機嫌だった。

 民衆が森で密かに狩りをしたり、木の実や茸を集めたりすることは、レオポルドやマックスにとってはすでに「しかたないこと」になっていた。

 違法な狩りや採集は野生動物に襲われる危険とも隣り合わせでそれに対する保護もない危険な行為だ。それでも、せざるを得ないのは年貢や賦役による負担が多く、貧しく生活が苦しいからだ。

 レオポルドとマックスは、ラウラに懇願されるまでもなく、そうした民の1人であったアニーを責める氣にはまったくならなかった。

 為政者としては、民が餓死し年貢や賦役が途絶えるよりは、彼らが生き延びるために目の届かないところで法を破っている方が、都合がいいのもたしかだ。
 
 森は広大で、木の実や茸は豊富にある。茸だけでなく、ナラやブナの実も豚など家畜の飼料にするだけでなく、不作の時は平民たち自身が食糧とすることもあった。
 
 そうした事情を、マックスは放浪の旅で、アニーは生活を通して知ったが、王太子として不自由なく育ったレオポルドはもちろん、王都で育ったラウラやフリッツも知らなかった。

 正規の教育は体系的で広範にわたった知識と近視眼的ではない物事の見方を可能にするが、世界は机上の理論通りには動いていない。旅の間の小さな見聞や、会話は、この世が王城で見える整った姿だけではなく、複雑で深淵な層が重なり合ってできあがっていることを教えてくれる。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(18)身体のきかない職人 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第18回『身体のきかない職人』の後編お届けします。前回は、戸口に痩せた男が立っていることに一行が氣がついたところでした。その続きです。

今回の話は、阿部謹也氏の著作にあったエピソードを下敷きにしています。完全に同じではありませんが、当時は国による障害年金のような仕組みはなく、それぞれの共同体の相互扶助や教会などがそうした役目を担っていたようです。制度の悪用とまではいきませんが、グレーゾーンを上手に使って厄介払いをされてしまった男の話です。ただし、どうあるのが本当にその人のためになるのかは、なかなか結論が出しにくいことなのかもしれません。それは現代でも同じかも。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(18)身体のきかない職人 -2-


 そして、職人たちやマックスらに挨拶することもなく、部屋の奥にある腰掛けを目指して歩いた。それは非常にゆっくりとした動きで、杖にすがるようにして交互に足を踏み出していた。しかも杖をしっかりと握れているのは左手だけで、右手はだらんと垂れ下がり、座る際、テーブルに躓いたときにも右手でとっさに支えることができない体であった。

 話をやめて男の様子を眺めていた職人たちの1人が、声をかけた。
「お前さん、どうしたんだ? 峠越えの途中で事故にでも遭ったのか?」

 痩せた男は、こちらを見て、自分が注目されていることに氣がついた。そして、虚ろな目をして首を振った。
「いや。2年前に故郷をでたときから、ずっとこうなんだ」

 男の言葉には、強いノードランド訛りがある。グランドロン王国の最北に位置する領国で、先王の代までルーヴラン王国に属していたので、職人たちは今でもルーヴラン語の影響の強い方言で話す。

「なんだって? その手足でグランドロン王国を横断してきたってのかい?」
「そうだ」

 マックスは、おかしいなと思った。服装から考えると指物師のようだが、これでは仕事を得ることはできないだろう。親方資格を得るのに十分な修行ができないのであれば、苦労して遍歴をする意味はない。

 職人たちも同じ疑問を持ったらしい。
「そんな状態で、遍歴を? なんで療養しないんだ?」

 男は、悲しげに答えた。
「3年療養したんだ。でも、まったくよくなる見込みがなくって、組合はもう療養費を払いたくなかったんだろう。資格証明を作ってきて、遍歴に出させられてしまったんだ」

 意味のわからなかったラウラが、そっとマックスの顔を見た。他の3人も同じような目つきで見ていたので、彼は小さな声で説明した。
「事故や病で働けなくなった職人たちの療養にかかる費用は、居住地の同業組合が負担する決まりになっているんです。でも、遍歴中の滞在費用や路銀支給は、行く先々の同業組合持ちですからね」

「親方になるための修行をしないとわかっているのに、遍歴のための資格証明を出すのはどんなものだ」
レオポルドが小さい声で訊いた。

「それを禁じる法律がない限り、違法ではないですが……」
マックスは、今回の件は自分の領地で起きた問題ではないので、わずかに余裕がある。一方、レオポルドは困ったような顔をしていた。

 違法な税の搾取や、農業改善策のように、国政や法に関わる問題であれば目くじらを立てる必要があるが、少なくとも資格証明書が本当に故郷の組合で発行されたものならば、この男がここに数日泊まり、次の街への路銀を受け取ることは違法ではない。

 この男が故郷に留まる限り、同業組合にはその生活と療養費を負担する義務があり、それを知る他の救済機関は支払いを肩代わりすることはないだろう。彼が生活に必要な金を手にすることができるのは、組合の望んだとおり異国を遍歴することだけなのだ。 

 ラウラは、かつてルーヴの貧民街で見た、死を待つばかりの貧しい人びとのことを考えた。当時のルーヴラン宰相イグナーツ・ザッカは低い声で告げたものだ。
「仕事のないものには、手遅れになる前に仕事を与えなくてはならない。食べるものを買えなくなってからでは遅いのだ。貧しさは悲惨さを呼ぶ」

 あの足で旅をさせるなんて氣の毒だ、街にそのまま住まわせてあげた方がいい、そう言うのは簡単だ。だが、収入が途絶え、食べるものを手に入れられなくなれば、この男はあの貧民街の人びとと同じような身になるだろう。

「そちらのみなさん、そんなに憐れんだ目をなさらんでください。これでも、いつかは遍歴の旅に出て、他の国々を見てみたいと思っていた、かつての夢は叶ったんですから」
痩せた男は、ラウラたちのテーブルを見て、ぎこちなく笑った。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(18)身体のきかない職人 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第18回『身体のきかない職人』の前編お届けします。2回に切るには短かったのですが、1度で終えるにはちょっと長かったので、困りました。

今回から、現代風に言うと「国境を越えて異国に入った」状態になりました。フルーヴルーウー峠の南側はセンヴリ王国の支配下になります。モデルにしたのはアルプス越えをしてイタリアに入るルートですね。ここからは、センヴリ王国の支配下であるだけでなく、直接の領主はトリネア侯爵ということになります。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(18)身体のきかない職人 -1-


 その日は、昨夜の寒さが嘘のように暖かく、イゾラヴェンナに到着した頃にはむしろ暑いといってもよいほどだった。《ケールム・アルバ》を越えてトリネア侯爵領に入った途端、フルーヴルーウー辺境伯領ではほとんど感じなかった湿度を感じるようになった。イゾラヴェンナは、標高でいえばフルーヴルーウー城下町よりも高いのだが、太陽の光はずっと強く感じられ、男も女も誰ひとりとして外套などは身につけず、袖をまくり上げて歩いている。

 ギンバイカやオリーブ、そしてマンネンロウなど、《ケールム・アルバ》の北側では見られない植物がそこここに見られた。また、見上げるほど大きな栗の木がたくさんあり、緑色のイガがたわわに実っている。

 イゾラヴェンナは、トリネア侯爵領では3番目に大きな街だ。大聖堂の立派な塔をはるか彼方からも見ることができた。

 マックスは、貴族などが好む豪奢な旅籠のある大聖堂の近くを避け、トリネアの街に向かう街道にほど近い西側の地域に向かった。そこは職人たちの住む地域で、靴屋、毛織物工、染物屋、鉄工、石工、塗装工などの工場兼住居の他、同職組合の事務方を兼ねる特殊宿泊施設もいくつかあった。

 開業可能な親方資格を取得するために、どの職業であっても職人たちは少なくとも3年以上の遍歴をしなくてはならない。その遍歴の間、生まれ故郷には足を踏み入れてはならず、故郷からの経済援助も得てはならないことになっている。

 その代わりグランドロン、センヴリ、ルーヴラン各王国内の各組合は、同職組合からの正式な資格証明書を提示されれば、たとえその街での修業受入れ先を用意できない場合でも、2泊の宿と飲食ならびに次の街までの路銀を提供しなくてはいけないこととなっていた。

 イゾラヴェンナの職人街は、各地から集まる遍歴職人たちの宿泊先を職業組合ごとに手配するのではなく、いくつかの組合が共同で大きめの宿泊施設を経営していた。この施設が満室でない場合は、組合に所属していない旅人も有料で宿泊することが可能だった。

 既知の貴族たちと鉢合わせする可能性を避けるためだけではなく、あまり接点を持つことのない手工業者の世界を見てみたいというレオポルドの希望を叶えるため、マックスはこの宿泊施設または近隣の旅籠に泊まるつもりで案内した。

 幸い宿泊施設はさほど混んでいなかったため、5人の宿泊を受け入れてくれた。ただし、男女同室を許可していなかったので、男性3人、女性2人に分かれて宿泊することになった。

 ラウラと同室だと知らされてアニーは傍目からもよくわかる喜びようだった。その様子を見たフリッツはムッとした様相だった。

「なんだ。さんざん不平を言っておきながら『妻』と離れるのはいやなのか」
レオポルドが意外そうに訊くと、フリッツはさらに心外だという表情をした。

「そんなわけないでしょう。まるでいままで私があの娘にちょっかいを出していたかのような言い方をしないでください」

「ちょっかいを出すくらいの面白みがあればちょっとはマシな……」
「何とおっしゃいましたか」
「いや、なんでもない」

 主従のやり取りを聞いていたマックスは、顔を背けて奇妙な咳をした。見ると笑いを堪えているようだ。

 食事までの時間、一同は食堂に隣接されている居間で寛いでいた。その居間にはいくつかの丸テーブルとひじ掛け椅子が置かれていて、5人ほどの職人たちが意見交換をしていた。それぞれは異なった職業のようだが、それぞれの通ってきた地域についての情報は参考になるらしく盛んに質問し合っている。

「ヴォワーズ大司教領? いや、あそこは、毛織物工だけでなくて、今いかなる遍歴職人をも受け入れていないと聞いたぞ」
「本当か? ヴァスティエラは疫病で組合自体が閉鎖されたっていうし、センヴリ王国内で受け入れ先を探すのは難しくなってきたな」
「こうなったら、グランドロンに戻った方がいいのかもしれないぞ」
「とりあえずトリネアで探してみてダメならまた北上するか」
「トリネアからなら、そのままルーヴランに入るのもありかな」

 職人たちの話を聞いていたマックスは、ラウラが戸口に視線を向けていることに氣がついた。その視線の先には、1人の痩せた男がひとりで立っていた。
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【小説】心の幾何学

今日の小説は『12か月の建築』5月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、モロッコの『リアド』とそれを彩るモザイク『ゼリージュ』です。

実は、モロッコはアフリカ大陸内のスペイン領セウタに行ったときに、半日ツアーで行ったことがあるだけなのです。なので、美しいリアド滞在はまだ未体験。めちゃくちゃ憧れているんですけれどね。


短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む 短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む



心の幾何学

 ナナはスークを急いで横切った。この市場には、これまでに5度ほどしか訪れたことがない。観光客が土産物を探すマラケシュのスークなどと違い、観光客のさほど多くないこの町は、地元民の生活に即した品物のみが置かれ、大半が屋根のない露天だ。足下の乾いた埃っぽい土が舞い上がり、そこここに放置されたゴミを踏まずに進むことと、スリに注意することで神経をすり減らす。

 ベルナールが言うように、リアドに隠っていればいいのかもしれない。何かあったら、彼に対処してもらわなくてはならない。彼はため息をつきながら「だから、言っただろう」と子供を諭すように言うのだろう。

 でも、今日は『彼』に食事を振る舞うつもりなのだ。それにザタールがないなんて、あり得ないもの。ナナは、買ったスパイスを抱えて急いで帰路についた。

 ザタールはモロッコの万能ふりかけと言うべきミックススパイスで、塩、タイムの一種、白ごま、スーマックという赤い果実を乾燥させた粉などが入っている。肉を素焼きの壺で長時間煮込んだタンジーヤの付け合わせとして添えるパンはプレーンでもいいのだが、ナナはザタールをかけてから焼いたものが一番合うと思っていた。

 埃っぽく、灰色で、異国情緒もへったくれもない街角を、なんとか迷わずに進み、ナナはくたびれたピンクの壁がつづく一画の一番奥に向かった。それから、重い扉についた手の形をした取っ手を操作しながら解錠した。

 それまでの世界と、まったく違う光景が広がる。柔らかな円やくびれたカーブが優美なアーチ。透明ガラスと装飾が幻想的な陰影を作り出すランプ。細かい紋様のモザイクタイル。そして、金銀の刺繍で彩られた鮮やかな布の襞が織りなすオリエンタルな影。

 東京で過ごした子供の頃に読んだ「アラビアンナイト」の絵本にあった王宮さながらだ。フランスで知り合ったベルナールが「モロッコで暮らさないか」と誘ってきたときに想像していた世界そのものだ。

 大きな中庭を持つ古い邸宅を改装した宿泊施設として、日本をはじめとして世界の観光客にも人氣なリアドは、もともとはアラビア語で「邸宅」を意味する言葉だった。その意味で、ここもまたリアドには違いない。

 12世紀から15世紀に、レコンキスタが進むイベリア半島から逃げてきた有力者たちが建てたアンダルスとモロッコの建築様式が融合した邸宅の多くは、21世紀には観光客向けのエキゾチックな宿泊施設として生まれ変わった。

 このリアドも、かつてはそのブームに乗ろうと、水回りをはじめとして宿泊施設らしく改修されたが、マラケシュやフェズのように観光に適した町ではなかったので経営に行き詰まったらしい。ベルナールは、二束三文で売りに出されていたのを見つけたと自慢げに語った。

「僕はね。このリアドを完璧な状態に修復して『千夜一夜物語』の世界を再現したいんだ」

 パティオには、星形の噴水が置かれ、棕櫚やバナナの木が美しい木陰を作っている。2階はバルコニーがパティオを囲むようにあり、5つのテイストの違う部屋があった。

 ナナが使っている部屋は、ターコイズ・ブルーをテーマにした部屋で、とりわけバスルームの壁とタイルが美しかった。

 ベルナールに、モロッコ移住を提案されたとき、ナナは彼とここに住むのだと思っていた。実際には、常にここに住んでいるのはナナ1人で、ベルナールは年に2か月ほど滞在する以外は、月に3日ほど訪れるだけだった。

 パリにあるモロッコのインテリアを売る店は繁盛しており、彼はこれまで通りに2国を行き来して暮らすのだろう。

 彼が、電話で話している姿を見て、彼は離婚もしていなければ、ナナを正式なパートナーにしようとも思っていないことを知ってしまった。これは、日本でいうお妾さんにマンションを買い与えるのと変わらない事なのだと氣がつき、がっかりした。

 それは、日本で母親が受けていた扱いと同じだった。私生児だから、ハーフだからと受けた仕打ちには負けたくなかった。だから、フランスに渡り自分の力で生きていこうとした。けれども、フランスではナナは今度はアジア人として扱われた。1人前の仕事をさせてもらえなかったのは、人種差別のせいだとは思いたくなかったけれど、実力が無いと認めるのも悲しかった。しかも、結局、自分もまた愛人として囲われることになってしまった。

 日本やフランスに戻って、地を這うような生活をしながら独りで生きていく決意はまだつかない。このアラビアンナイトのような美しい鳥籠と、その外に広がる厳しい現実の世界の対比はナナを億劫にする。

 細やかな刺繍の施されたフクシアピンクのバブーシュを履く。ただのスリッパと違い、足にぴったりと寄り添う滑らかな革のひんやりとした肌触りが好きだ。足下には星や千鳥のように見えるタイルが敷き詰められている。何も知らなければただの床だが、ゼリージュ細工の仕事を知るナナは、足を踏み出すごとに畏敬の思いを抱き歩く。

 コンコンという、規則正しい音がする。ナナは、音のする方へと向かった。ホールの隅で、『彼』が働いている。ゼリージュ職人であるアリーだ。

 細かくカットしたタイルを組み合わせて、幾何学模様のモザイクを作り出す装飾をゼリージュと呼ぶ。古くからイスラム圏で広く使われていたゼリージュは、その膨大な手間から現在ではほぼモロッコだけに継承されている。

 白、黒、青、緑、黄、赤、茶の釉薬を塗って焼いた伝統的なタイルを、360種ほどもあるという決められた形に割っていく。組み合わせるときに、他のタイルとのあいだに隙間が出来ないように、それぞれを完璧な形にしていかなくてはならない。それは氣の遠くなるような作業だ。

 アリーは、そうした技術を継承した職人だ。ベルナールの依頼で、この邸宅の装飾を修復するために時おり通ってくる。

 ナナが、話をすることが一番多いのが、このアリーだ。掃除を請け負うファティマや、グロッサリーを搬入してくれるハッサンとも定期的に顔を合わすのだが、この2人は英語もフランス語も話さないため話し相手にはならない。

 ナナは、パティオの奥に設けられた木陰の読書スペースで本を読んで過ごすことが多い。日本にいたときには積ん読になっていた多くのシリーズものは、この木陰で何回か読破した。

「それは、中国語?」
そう訊かれて、顔を上げたのが、アリーとの最初のコンタクトだった。訛りはあるがフランス語だ。

「いいえ。日本語よ」
「ああ、君は日本人なのか」
「半分ね。でも、東京で生まれ育ったの。読むならフランス語よりも日本語が楽なのよ」
「そう。面白いね。本当に縦に読んでいくんだ。ああ、右から左に進むんだね」
「そうよ。アラビア語もそうよね」
「まあね。横方向にだけど」

 たわいない話だが、ベルナール以外の人と、ごく普通の会話をするのは久しぶりだった。単語だけでようやく意思疎通をするだけのファティマたち。買い物の時にフランス語が達者な売り子と話すこともあるが、ぼんやりしていると高いものを売りつけられたりスリに狙われたりするので世間話に興じることはほとんどない。

 アリーは、それ以来、籠の中の鳥のように暮らすナナにとってこの世界に向けたたった一つの窓のような存在だ。何かを売りつけるためではなく、雇用主として阿るわけでもなく、ただその空間と時間を共有する相手として接してくれる。そんな彼と話す時間を、ナナは心待ちにしている。

 それは、不思議な感覚だ。

 パリにいたとき、ナナはベルナールとの逢瀬を渇望していた。彼の妻よりも、ずっと彼を愛していると思っていたし、モロッコ行きを決めたときには愛の勝利に酔いしれた。4つ星ホテルの空調の効いた部屋での情交も、このリアドで格別に選んだターコイズ・ブルーの居室での睦みごとも、ベルナールとの強い想いと絆の当然の帰結だと感じていた。

 でも、いつの間にかベルナールに1日でも多く滞在してほしいという願いはなくなっていた。嫌いになったわけではないし、離婚するつもりがないことに対して怒っているわけでもない。ただ、彼の存在が、日々どんどんと希薄になっていくだけだ。

 ベルナールがやって来て、滞在するとき、ナナは彼を精一杯もてなす。店員が上得意客をもてなすように。覚えたモロッコ風の料理は、ベルナールを満腹にした。赤い部屋、オレンジの部屋、緑の部屋で楼閣に住む娼婦のように、彼を悦ばせた。それは、『アラビアンナイト』の世界に住まわせてくれる主人に対するナナの義務だと感じていた。

 そして、彼が去ると、ナナはどこか安堵している。再びひとりに戻ったことに。そして、中庭に響く静かな水音の向こうから聞こえてくるゼリージュ・タイルを作る規則正しい音に、心が震えるのだ。

 小さなタイルが組み合わされる。それは単なる装飾やパズルあそびではなく、自然を手本とした幾何学の魔法だ。シンメトリカルに広がる多様性。シンプルと複雑さの絶妙な組み合わせ。そして水の揺らめきや木漏れ日の揺らぎまでが計算され尽くしたかのように美しさを倍増する。

 大量生産があたりまえのこの時代においても、ゼリージュのタイルはすべて手作業で作られる。粘土を乾かし、釉薬を塗って焼いたタイルを1つ1つ蚤を使って小さなパーツに切り取っていく。ごく普通のセラミックタイルの300倍もの値段がすることに驚愕する人も多いが、この手作業を目で見たら納得するだろう。

 ゼリージュのタイルを使ったインテリアは、パリでは金持ちの贅沢だが、ここモロッコでは1000年以上も受け継がれてきた伝統であり、創造主たる神への讃美と感謝でもある。イスラム世界のほとんどで失われてしまったこの伝統を、モロッコのゼリージュ職人たちは黙々と受け継いできた。

 アリーの茶色い手が、なんでもないようにタイルを組み合わせ、それを固定していく。繊細な作業をしているようには見えないのに、出来上がったタイルの組み合わせは完璧だ。それは、自然の造形と似ている。1つ1つは好き勝手に育っているように見えるのに、光景となった時にはすべてのパーツがきちんと収まるべきところに収まり、調和し、美しく、畏敬を呼び起こす。

 ナナは、彼が働いているときには黙ってそれを見つめる。息を殺し、身動ぎもせずに、世界のパーツが正しい位置に納まっていくのを待つ。

 学生の時、図書館で「千夜一夜物語」の訳文を読んだことがある。后であるシェーラザードが1001夜にわたって夫である暴君に話をすることになったきっかけは、もともとシャフリヤール王の后が奴隷と浮気をしていたからだった。王の后となったのに、浮氣なんかしなければいいのにとその時は単純に思ったけれど、いまならその后たちに少し同情することができる。

 ここのように美しい、それとも、もっと煌びやかな王宮に閉じ込められた后は、ハーレムを戯れに巡回する夫君がいつやって来るのかも知らない日々を過ごしていたのではないだろうか。ちょうどナナにとってのベルナールと同じだ。そして、王は自分は自由に複数の女性を楽しみつつ、后が他の男に抱かれているのを見たら憤り、その首をはねた。そして、女性不信から生娘と結婚しては翌日に殺すということを繰り返したのだ。

 ナナは、絶えず聞こえている水音と、棕櫚の枝を揺らす風を感じながら、ひたすら働くアリーの手元を見ていた。アリーとの間に、后と奴隷との間に起こったような展開はない。おそらくアリーはナナに対して女性としての興味は持っていないだろう。ナナにしても、この感情をどう捉えるべきなのか、はっきりとした定義はできない。

 わかっていることは、今のナナにとって、訪れに心躍るのはもうベルナールではなくなっているという事実だ。

 アリーが仕事の合間の休息をとるとき、ナナは淹れたての甘いミントティーを持っていく。銀のティーポットから金彩の施された小さなガラスの器に熱いお茶を注ぐ。このポットの取っ手は素手で持つのは難しい。最初の時に、鍋つかみを持ってきてあたふたしていたら、アリーは笑って代わりに注いでくれた。それ以来、お茶を注ぐのはアリーだ。

 そういえば、正しいモロッコ風ミントティーの淹れ方を教えてくれたのもアリーだった。初めて持っていった午後、一口飲んでから黒目がちの瞳をナナに向けた。
「これ、どうやって淹れた?」

 ナナはポットを指さして答えた。
「お茶っ葉とミントを入れて、熱湯を注いだの」

 アリーは、彼女をキッチンに連れて行った。そして、正しい手順を見せてくれた。

 まずポットに茶葉を入れる。1人用ポットなら小さじ2杯。もう少し大きいポットは3杯だ。そこにやかんの熱湯をグラス1杯分だけ注ぎ、すぐにグラスに戻す。かなり濃いお茶だ。
「これはお茶のスピリットだから、あとでまた使う」

そして、浸る程度の熱湯を再びポットに入れるけれど、そのお茶は捨ててしまう。これを2度行う。
「これで苦みを取るんだ」

 そして、そこに大量のミント、小さじ大盛り3杯の砂糖、そして、とっておいた「お茶のスピリット」を入れてからお湯を注ぎ、それを中火にかける。そうやってお茶とミントをしっかりと煮出す。

 出来上がったお茶の底に砂糖が固まっているように思われたので、スプーンでかき混ぜようとしたら再び笑われた。
「こうするんだよ」

 彼は、そのままグラスにお茶を注いだ。少しずつポットを持ち上げ、最終的にはかなり高いところからお茶を注いでいる。そして、グラスに入ったお茶を再びポットに戻す。これを何度も繰り返すことで中の砂糖は均一に混じるらしい。

 それ以来、ナナは正しいモロッコ式ミントティーアツァイ・マグリビ を作るようになった。最初は抵抗があって砂糖を少なめにしていたけれど、アリーと一緒に飲むために彼に習った量を入れるようにしてみたら、苦みとのバランスがよくその強烈な甘さにも慣れてしまった。高いところからお茶を注ぐのでミントの香りが辺りに広がる。

 添えたデーツをかじりながら、しばらくさまざまなことを話して過ごす。
「日本でもお茶を飲むんだろう?」
「ええ。でも、お砂糖は入れないのよ」
「へえ」
「それに、いいお茶は、60℃ぐらいの温度で淹れて、苦みを出さないようにするの」

 同じ植物を使っていても、ミントティーと玉露は、まったく違う飲み物だ。ナナにとって障子と畳のある部屋で居住まいを正して飲む玉露は、もうとても遠い飲み物になってしまった。色鮮やかなゼリージュと中庭の棕櫚や椰子の木、噴水の水音と木漏れ日の中で飲むミントティーこそが、いまのナナの現実そのものだ。

 ティーグラスを持つアリーの茶色い手を見ながら、ナナはこの午後が永久に続けばいいのにと願う。共にいたい相手がベルナールでないことに思い至り、心の中で自分を嗤う。

 ベルナールにとって『千夜一夜物語』の具現であるリアド。経年で崩れていた細部を修復する魔法をかけに来るアリー。甘言と欺瞞の満ちた華やかな籠の中で王への忠誠を失った后の物語。人の心もまた小さなパーツで織りなされるモザイクだ。

 金彩の輝くグラスには今日もまた、なんと名付ければいいのかわからない強烈な甘さと苦さが満ちている。

(初出:2023年5月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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せっかくなのでゼリージュの作り方を紹介した動画を貼り付けておきますね。


FROM CLAY TO MOSAICS
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(17)峠の宿泊施設にて -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第17回『峠の宿泊施設にて』の後編お届けします。

睡眠と食事のために立ち寄った峠のホスピスには、一行の正体を知る南シルヴァ傭兵団が滞在していました。幸いものわかりのいい女傭兵以外はまだ寝ていて出くわさなかったので、無事に秋からの仕事とのバーターで口止めをしたマックス。

今回は、全員との再会になります。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(17)峠の宿泊施設にて -2-


 一同は昼までぐっすりと眠った。アニーは、フリッツに起こされた。
「いつまで寝ているつもりだ。お前が最後だぞ」

「えっ。申しわけございません、ラウラさま!」
アニーは寝ぼけて女主人に謝り、またフリッツに叱られた。
「こら。お前のご主人様は、『デュランさま』だろう」

 支度をして食堂に降りていくと、ほかの客たちは既に食卓に着席していた。

「おお。こっち、こっちへどうぞ、『旦那様』」
ことさら大きな声で呼んだのは、あの南シルヴァ傭兵団の首領ブルーノだ。フィリパがしっかりと言い含めたらしく、「陛下」だの「伯爵様」などという発言は控えてくれている。

 見れば、彼らの用意した5つの席以外は埋まっているので、そこに座らざるを得ないらしい。ブルーノの隣にマックス、副首領レンゾの隣にフリッツが座り、その間にレオポルドが座った。向かいにラウラとアニーが座ったが、それでラウラはフィリパの隣になった。

 それとほぼ同時に、食事が運ばれてきた。宿泊施設ホスピスは、標高が高くて物資の運搬に手間がかかる上、貴賤多くの者が利用するので、豪奢なもてなしはなく、日によって決まったメニューが提供された。

 また、リネン類は清潔なものを使うように徹底され、利用者も食事前に手洗いをするように要求されるなど可能な限り疫病の巣窟にならないような工夫がされていた。干し肉、チーズ、フルーツなどに続き、豆のスープが提供される。

「なんだよ。またこのワインかよ。普通のワインはないのか」
レンゾが大きな声を出した。アロエの果肉入りワインは抗菌作用があり、聖騎士団も健康のためによく飲んだものだが、世間一般ではあまり受け入れられていない。

「ここにはこれしかないんだ。文句を言うな」
フィリパが低い声で言った。

 いずれにしても、傭兵団の男たちは、味などわからないのではないかと言うほど大量に飲んで大騒ぎをしている。昼間だというのに、売春婦相手に卑猥な冗談をいう者もいて、アニーは思わず下を見て顔を赤らめた。

 そうとうな喧噪の中、ブルーノはマックスに比較的小さな声で問うた。
「で、旦那がたは何しにここに?」

「なんでもないさ。ちょっとした酔狂だ」
「そんなわけないでしょう。ここの下男に聞きましたが、トリネアまで向かわれるらしいですね」

 あのおしゃべり下男め。マックスは思った。
「君たちこそ、センヴリには仕事で行くのか?」

「そうなんですよ。実は、来月トリネアに枢機卿猊下がいらっしゃるんでね。幸い秋までは時間があるんで、行ってみようかと。ご自分では身を守れない坊さんたちの周りには、いつもいい仕事が転がっているんでね。顔つなぎができないかってわけでさ」
ブルーノが上機嫌で言うと、レンゾが慌てた顔をした。

 マックスは、わずかに軽蔑のこもった目をして言った。
「つまり、枢機卿が割のいい仕事をくれたら、他に決まった仕事は放り出すってことかい」

 すると、ブルーノは大笑いした。
「まさか。旦那、俺たちはそんな不義理はしませんぜ。決まった仕事は、きっちりやるんだ。だがねぇ。そういう態度なのは俺たちの方だけでね」

 マックスが、わからないという顔をすると、フィリパが後を継いで説明をした。
「貴族の方々は、口約束はいくらでも反故にできるとお考えの方が多いんですよ。採用されなかったり、クビにされたりして、全員路頭に迷うような危険は侵せません。ゆえに大きな仕事については二手に分かれ半分の人員でこなします。そして、残りの半分は別の小さな仕事をこなしたり、新しいコネを探して積極的に売り込みに回るというわけです」

 なるほど。マックスは頷いた。騎士たちと違い、傭兵団は使い捨てにしても構わないと思う領主たちは多い。彼らは平民どころか周辺民扱いであり、名誉なども重んじられない。本人たちも、尊重されることなどは期待しておらず、それゆえ報酬にしか興味がなく、忠誠心などはない。

 だが、多くの似たような傭兵団の中でも、南シルヴァ傭兵団の評判は比較的よかった。要求する報酬は高いが、実力があることも知られており、従軍した戦いではほぼ負け知らずだった。

 フィリパは、もの言いたげな口調で続けた。
「幸い、つい昨日のことですが、アテにしていた仕事のうちの1つは、確実にもらえる算段がつきました。それが始まるまでに全員でトリネアへ行き教皇庁に顔の利くようにしようと今朝決めたのです」

 マックスは、軽くフィリパを睨み返した。『商人デュラン一行』の正体を吹聴しないでいてくれることを盾に脅されたようなものだからだ。

「ところで、5人だけで『買い付けの旅』をするなんて物騒じゃないですかい。よかったら、俺たちが護衛しますぜ」
レンゾがこれまた意味ありげにいった。

「君らの申し出はありがたいが、我々には護衛としてこのフリッツもついているし、私自身も、それなりに鍛えているんだ。身軽に旅をしたいので、ついてこられるのは遠慮したい」
商人デュランことレオポルドはきっぱりと断った。

 いい金づるになると期待していたレンゾは、少しがっかりしたようだったが、すぐに氣持ちを切り替えて大いに飲み始めた。

 一方、『商人デュラン一行』は、さっさと食事を済ませると、イゾラヴェンナに向けて出発した。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(17)峠の宿泊施設にて -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第17回『峠の宿泊施設にて』の前編お届けします。

めちゃくちゃ寒い思いをした一行は、峠のホスピスでひと休みすることにしました。

そういえば、架空世界での話を書くときに、氣にしているのが度量衡の名称です。例えばメートル法は使わないようにしています。それだけで嘘っぽくなりますから。とはいえ、完全に架空の用語を散りばめると、読む方はそのスケールが想像できなくなります。なので、「なんとなくそれっぽい」用語を作り出すようにしています。この辺はあまりこだわらずにスルーしていただくとありがたいです。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
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【参考】
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(17)峠の宿泊施設にて -1-


 1時間ほど歩いて、一行はフルーヴルーウー峠にたどり着いた。グランドロン側は2本の道がこの峠の3森里シルヴァ・ミレ 手前で1つになる。

 巨大な山嶺である《ケールム・アルバ》を越える峠は東西にいくつもあるが、通年低地から全行程にわたり2頭だての馬に牽かせた4輪馬車が通れるのはフルーヴルーウー城下町からこのフルーヴルーウー峠を越えてセンヴリ王国のイゾラヴェンナに至る俗にいう《フルーヴルーウー街道》だけである。

 たとえばルーヴラン王国のタタム峠は大きく宿泊施設も立派だが、王都ルーヴと結ぶ街道の中央に非常に狭く危険な《悪道峡谷》があり、荷をロバに載せ替え2日ほどかけて通る必要があった。一方、2輪馬車であれば通れるアセスタ峠は雪深く10月末から4月末までは通れない。

 《ケールム・アルバ》にあるほぼすべての峠には、公的な宿泊施設ホスピスがある。フルーヴルーウー峠の宿泊施設は、フルーヴルーウー辺境伯爵領とトリネア侯爵領が共同で経営している。

 昨夜ほぼ眠れなかったため、マックスの提案で半日だけ宿泊用の部屋を借りて休み、昼食を食べてからイゾラヴェンナに向けて降りていくことにしていた。

 その手続きをマックスがしている間、フリッツを除く3人は食堂で暖かい茶を飲んでいた。誰が聞いているかわからないので、お互いに何も言わずにいたが、しっかりと温まった食堂は心地よく、ほっとしていた。

 フリッツは馬の世話をする下人たちに心付けを渡すために馬小屋にいた。下男の1人とともに彼が宿泊施設に向かうとき、旅立ちの支度を済ませた男とすれ違った。

 フリッツは、その男の顔を覚えていた。おとといの旅籠でのことだ。旅籠の女将がその客が泊まることを拒否したのだ。服装をみればかなり裕福だと思われるのに、女将は「今夜はいっぱいで」と言っていた。だが、どう考えても宿には十分な余裕があり、断る前に女将がレオポルド一行をちらりと見たことから、何か理由があるのだろうと思っていた。

 下男が男を振り返り、軽蔑を意味する舌打ちをしたのでフリッツは「なんだ?」と訊いた。下男は、はっとふり返り不躾な振る舞いを詫びてから言った。

「いまの男、立派な旦那様のように振る舞っていますが、ヴォワーズで刑吏としてしこたま儲けたヤツですよ。昨夜は傭兵団は泊まるわ、刑吏が来るわで、周辺民だらけでございました。旦那様がたが今朝到着したのは、むしろ幸運だったかもしれませんよ」

 宿泊施設ホスピスは、国や貴賤を問わず必要な保護を与えるための施設だ。必要最低限の簡素な設備だが、馬の世話をし、十分な量の食事を取り、夏でも雪の消えない土地で凍えずに一晩を過ごすことを約束する。

 それゆえ、商人や農民などの単なる平民だけでなく、刑吏・傭兵・売春婦・異教徒など周辺民として蔑まれていた人びとでも分け隔て無く宿泊することができるようになっていた。

 もちろん全行程を馬車で行くような貴族たちは、はじめからこの簡易な宿泊施設で一夜を過ごすことは予定していないが、馬の世話や休憩で立ち寄るため、平民たちとは区切られた若干豪華な食堂も用意されていた。

「傭兵団といったね。彼らはもう発ったのか?」
フリッツは、嫌な予感がして下男に訊いた。

「とんでもございません。ヤツら、昨夜遅くまで飲んで騒いでいましたからね。まだグースカ眠っています。なにやら、秋からはこの近くで仕事をするかもしれないとかで、ずいぶんと態度が大きく辟易しました。売春婦なども同行しているようで、目を覆いたくなるような醜態を晒しましてね。給仕の者たちはうんざりしておりました」

 下男と別れて廊下を進むと、マックスが見覚えのある女傭兵と小声で話している場を見えた。フリッツは、泊まっていたのはやはりあの南シルヴァ傭兵団だったかと思った。彼を見るとマックスは「ああ」と手を挙げた。

 女はフリッツを見ると「やあ」と言い、マックスに「じゃ」と言って立ち去った。

「頼むよ」
「わかった。ちゃんと皆に口止めしておく。その代わり、頼んだよ」

 フリッツは、マックスのところに歩いていき、言った。
「あの女は、たしか……」

「フィリパというんだ。そこで出くわしたときには仰天したけど、いたのが話のわかるあの女だけで助かったよ。他の男たちは酔い潰れてまだ寝ているらしい。僕たちの本当の身分について仲間たちに口止めをして欲しいと頼んだ。秋からの仕事と引き換えなので、上手くやってくれるだろう。おかげで騎士ゴッドリーを説得しなくちゃいけなくなったよ」

 マックスが手配したのは、5人で1つの部屋だった。単に仮眠をするだけだし、フリッツが警護上の心配をしなくても済むだろうと考えたからだ。部屋は簡素だが清潔で、マックスは、後で管理人に領地から慰労と賞賛を伝えようと思った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】やまとんちゅ、かーらやーに住む

今日の小説は『12か月の建築』4月分です。といっても、5月になってしまいましたが。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、沖縄県八重山地方の『かーらやー』(古民家)です。

石垣島には大学を卒業する年に1度だけ行きました。正直言って、あの美しい海と竹富島観光のことしか記憶にないのですけれど、今回の作品を書くためにあれこれ調べていたら興味深い事がたくさんあって「ずいぶんと勿体ないことをしたな」と反省しました。

当時印象に強く残っているのは、「石垣の近くに寄りすぎるな、ハブが潜んでいるかもしれないから」と言われたことです。今回、ハブに関する話が出てくるのも、その時の印象に引きずられているのかも。この話もオチはありません、あしからず。


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やまとんちゅ、かーらやーに住む

 赤茶の瓦に初夏うりずんの心地よい陽光が降り注いでいる。八重山伝統のこの手の家は『かーらやー』と呼ばれる。ちょこんと座ったシーサーは海を眺めている。その海からはずいぶんと離れている。

 沙織は、静かに縁側に座った。縁側からは海は見えない。外壁には門のようなものはなく、代わりに門の奥に石垣と同じ素材で作られた衝立ひんぷんが配置される。風の直撃を防ぎ、目隠しの役割も果たすが、人間に対しては単なる視覚的境界であって、侵入してこようとする他人を防ぐ事はできないだろう。

 沙織の前夫である亮太だったら、ここに住むことには大反対しただろう。彼は名護市内のマンション暮らしにすら耐えられなかった。

 そもそも沖縄県移住を提案して沙織を連れてきたのは亮太だった。そして、離婚とともに彼が内地に戻る時に、沙織が東京に帰ろうとしないことにひどく驚いていた。
「まさか、こんな所に住み続けるつもりか?」

 亮太にとって、沖縄移住はリゾート滞在の延長線だった。移住に伴う多くの問題を対処できるか、彼は考えてもいなかったらしい。

 半年にわたる強烈な湿氣、次々と襲い来る台風、賃金水準は低いのに、物価は東京並みどころか場合によっては高くつく。和食を食べられる店が少なく、面白いエンターテーメントも少ない。それらは、東京で少しネット検索すればわかることだったのに、亮太は本当に行き当たりばったりで移住を決めたのだ。

 だが、沙織もまた沖縄について亮太よりもわかっていたわけではない。東京を離れて美しい海のあるリゾート地で暮らせるのだと喜んでいたのだ。

 子供のいない若い夫婦として共稼ぎをしているが、沙織自身は移住で職探しをする必要はなかった。必要だったのはネット環境だけで、移住先の名護市でも問題なく仕事をすることができた。問題は亮太の方で、リゾートホテルで働く事のできた1年はよかったが、そのホテルが倒産してからはいくつかの仕事を渡り歩いた。

 仕事が変わる度に亮太はすさみ、沖縄に対する不満も積もっていった。

 沖縄うちなータイムと呼ばれる特殊な時間ルールもその1つだ。待ち合わせをして、5分前集合どころかぴったりにすら来ない。しかも長く待たせたことに対して謝ることもないと亮太は集まりの度に怒り狂うようになった。沙織にしてみれば、もう何年も沖縄時間を経験しているんだから、そんなことに目くじらを立てない方が楽なのにと思うが、そうはいかなかったらしい。

 少し遠くに飲みに行きたくても電車がないので行けない、お風呂に追い炊き機能がついていない、通販でものを頼むと送料が高すぎる、塩害で車が錆びた、治安が悪くヤンキーが多いなど、最後の方は毎日不満ばかり言っていた。沙織はそんな亮太にうんざりしていた。

 彼の浮氣が発覚した時に、沙織はすぐに離婚したいと言った。やり直したくなるほどの情が残っていなかった。亮太は「お前がそんなだから、他の女に安らぎを求めたくなったんだ」と言った。沙織の収入なしに賃料が払えなかったので、彼は東京に戻ることを決めた。

 沙織は反対に、沖縄本島を離れ石垣島に移住した。本土と較べて不便だし、人びとは閉鎖的だと忠告してくれる人もいたが、沙織はもともと引っ込み思案でエンターテーメントや物質的な便利さはさほど必要としないタイプだったので氣にしなかった。

 最初は石垣市に住んだが、1年ほど前に縁あって島の北寄り集落にある古民家を格安で借りるチャンスに恵まれた。

 折からの古民家ブームで、心地よく住める家はとてつもなく高い賃料だというのが常識となっている。けれど、沙織には偶然が味方した。

 亮太と離婚して戻した旧姓の宮里は、沖縄によくある姓だったので、あきらかに本土の人やまとんちゅなのに、沖縄の人うちなーんちゅのように処してくれる人がいたのだ。

 そしてもう1つは、沙織が亮太のように東京の生き方に固執しないで、島の人たちのやり方を受け入れ、仲間に入れてくれないことに関しては氣にせずに放置することができたからだ。しま言葉は永久にわからないだろうし、完全に島民として扱ってもらえることもないだろう。

 それで十分なのだ。

 この家に住まわせてくれるのも、大家が沙織のことを格別に思ってというわけではない。この家に、仏壇があるからだ。

 先祖崇拝の風習の残る沖縄では仏壇のある家は小さくても本家の扱いだ。普段は沖縄本島や、市街地のある島の南部にそれぞれ住んでいても、旧暦の正月やお盆には家族がその家に集まる。しかし、普段は誰も住まない家は傷む。湿氣の多い沖縄はことさら家が傷みやすい。

 沙織は、石垣市のアパートに住んでいたときに、大家に自分の生まれた『かーらやー』に住むのはどうかと打診された。家賃はとても安い。トイレと風呂が母屋にはないがそれも氣にならない。

 沖縄の他の多くの古民家と同じように、この家の南側には、床の間のある一番座と仏間のある二番座がある。北側の裏座はプライヴェートな居住空間だ。日差しが入りにくいので日中でも少し暗いのだが、夏の蒸し暑い中でも比較的快適に暮らせる。

 名護のマンションや石垣市のアパートと比較して、この古民家はずっと過ごしやすい。琉球瓦は熱を反射し、断熱効果が高い。また丸い形と平たい形をした2種類の瓦を組み合わせ漆喰で固めてあるので雨漏りは一切せず台風の強風にも強い。木造家屋にこの特殊な屋根を組み合わせた平屋は、古くても頑丈で快適なのだ。

 年に数回、大家の家族が集まり、一番座と二番座で宴会をする。沙織はしばらく参加してもいいし、その時だけどこかに旅行することもある。最近のお氣に入りの過ごし方は、高価なリゾートホテルに滞在し、ビーチを眺めながらカクテルを飲むことだ。

 それ以外は、誰にも邪魔されることなくこの家で静かに暮らしている。近くにスーパーマーケットの類いはないので、必要に応じて10日に1度くらい南部の市街地に買い出しに行く。

 仕事をするために通信だけは整っていないと困るのだが、幸い光通信が通っている地域で、初期工事費を自分で持つと申し出たら、大家はあっさりと導入を許可してくれた。それどころか工事費も持ってくれたのだ。「息子たちが大賛成だというのでね」と。

 庭にはバナナの木が植わっているし、小さな畑もあって、沙織は生まれて初めて家庭菜園にも挑戦してみた。と、いっても自給自足を目指しているわけではなく、台風が続いてスーパーの棚が空になるときや、買い物に行くのが面倒なときに足しになればいいか程度の動機からだ。本土ではあまり見ない島野菜の方が手間がかからずに育つ。タマナーとも言われるシャキシャキしたキャベツ、スターフルーツみたいな変わった見た目のうりずん豆、エンツァイと呼ばれる空心菜、失敗の少ない島オクラなどの他、スーパーで買ってきて食べた豆苗やネギの残った苗部分を再生するのにも使っている。

 オシャレな服を買うような店はないが、そもそもリゾートホテルに行くときでもないとしゃれた服は必要ないので、新しく服を買う必要性も感じない。映画館や美術館などもないのだが、デートをする相手もいないので、特にそうした施設が必要にはならない。こんなライフスタイルであることを見抜いたので、大家もこの家に住むことを提案してきたのかもしれない。

 休みの日には、朝から散歩をするような氣軽さで海へと歩いていく。赤・黄・ピンクのハイビスカス。濃いピンクのブーゲンビリア、パパイヤやバナナの木。近所には、あたりまえのように南国の植物が植わっている。石垣やシーサーは青空に映えて、南国にいるんだなあとしみじみと幸せを感じる。

 今日はいつもと違い、4月なのに夏のような日差しだったので、昼に帰ることはやめて、1日をゆっくりと海辺で過ごした。夕焼けにオレンジに染まった家々や南洋の花を楽しみながら歩く帰路は、いつもとは違う美しさだ。
 
「ぱんな」
声がしたので振り返ると、背の高い男が沙織に話しかけていた。

「えっと……」
沙織の口調から、方言がわからないとわかったようで、男は言い直した。
「そっちに行かないでください。ハブの目撃情報があったので確認しているんです」

 沙織は驚いた。4月なのにもうハブ?
「ええっ。スプレー、まだ買っていない……」

 自宅に出てきた時の対策として、噴射するタイプの駆除スプレーを去年は大家が持ってきてくれたのだが、まだ一度もでたことがない上、まだ4月なので今年は油断して自分で用意するのを忘れていたのだ。

 男は、不思議そうに彼女を見てから訊いた。
「もしかして、この近くに住んでいるんですか?」

「ええ。この道の突き当たりの比嘉さんのお家を借りています。石垣は対策補修されていますが、衝立ひんぷんがあるので、もしかしたら入って来ちゃうんじゃないかしら」

 男は、振り返って坂の上を見た。
「あそこですよね。街灯が正面を照らしているので、まず大丈夫でしょう。でも、心配だったら、あとで駆除スプレーをお届けしましょうか」

 沙織は、大きく頷いた。
「そうしていただけたら、助かります。すみません」

 男は、笑った。
「氣にしないでください。じゃあ、お家まで一緒に行きましょう、私の後ろを歩いてきてください」

 沙織は、頭を下げた。ハブ駆除の専門家だろうか。夕方とはいえまだけっこう暑いのに、長袖長ズボンの作業着で全身をしっかり覆っている。

 手には捕獲器を持っているし、この人といるならハブが出てきてもなんとかしてくれそう。でも、もし現れても悲鳴を上げて蛇を刺激しないようにしなくちゃ。沙織の緊張がわかったのか、男は再び笑った。

「そんなに怖がらなくても道の真ん中を歩いていれば大丈夫ですよ。まだ十分明るいですし、向こうから出てくることはほとんどないでしょう」
「はい。もともと東京育ちで、それに一昨年までは市街地に住んでいたので、慣れていなくって。ハブがでることがちょっと怖いんです」

 家の前に来たので、少しホッとしながらいうと、男は頷いた。
「そのぐらいの方がいいんです。サトウキビ畑に入っていこうとしたり、夜にふらふらで歩くような油断をすると、ちょっと危険ですから。じゃあ、後でスプレー、お届けします。車の中にあるので、20分くらいですね」

 沙織が頭を下げて、確認をしつつ歩いていく男を見送っていると、隣家の伊良部のお婆さんが出てきた。
今晩はくよなーら

「くよなーら、伊良部さん」
まだ伊良部おばぁと呼ぶ勇氣は出ない。

 伊良部おばぁは首を伸ばして、道を観察しながら去って行く男の後ろ姿を見た。
「おや。……もうハブがでたんだね。暑かったからねぇ」

「あ、ご存じの方ですか」
「向かいの平良やんの孫だよ。昇っていうんだ。他の兄弟はやまなぐーだったけど、あの子だけはまいふなーだったでなー」

 沙織が「?」という顔を見せたので、彼女は「あなたわー本土の人やまとんちゅだもんなー」と笑った。

 伊良部おばぁは、慣れない標準語を探しながら、ゆっくりと話した。
「だっからよー、あの子は、やまとぅ言葉で『大人しい』だったかね。でも、肚が座っているから、ハブが襲ってきてもなんでもなく捕まえる。あの調子で嫁さんも捕まえられればいいのに、そうはいかないみたいだねぇ。わー、どうばぁ?」

 沙織は、滅相もないと首を振った。離婚のことは面倒なので話していない。だから、いい歳してこんなところでグズグズしている晩熟娘だと思われているのかもしれない。
「そんな……あちらに失礼ですし……」

 伊良部おばぁは、はははと笑った。この程度のことを真に受けるなとでも言いたげだ。どうもまだ会話の受け流しはうまく出来ない。

「あ、ほれ、これはたくさん作ったチャンプルーよ、召しあがれおいしょーり
「あ。いつもありがとうございます」

 今日も、いただいちゃった。島豆腐チャンプルー。沙織が作るのと格段違ったものは入っていないのに、伊良部おばぁが持ってきてくれるお惣菜は、なぜだかとっても美味しいのだ。

 沙織は、ハブのこともすっかり忘れて米を洗い出した。日が暮れて辺りは暗くなった。東京では見たことがなかったほどの満天の星空が、『かーらやー』の赤瓦の上に広がっているはずだ。この家にたどり着くまでの、いくつかの住まいを思い出して、ここほど心地がいいと感じた場所はなかったなと微笑んだ。

「すみません」
一番座の方から声が聞こえる。あ。さっきの人だ。スプレー缶、持ってきてくれたんだ。

 先ほどの男が、生真面目な様子で立っていた。手には駆除スプレーを持っている。

「すみません。本当に助かります。おいくらですか」
沙織が訊くと、彼は首を振った。
「お代はけっこうです。万が一、使うことがあったら、ここの名刺の代表に連絡してください」

 市の環境課の名刺で先ほど伊良部おばぁが言っていたとおり平良昇という名が印刷されていた。頭を軽く下げると、昇は去って行った。

 ハブ捕獲の専門家とは別に親しくならなくてもいいんだけれど、市のお役人がああいう感じで仕事熱心なのは好感が持てるなあと、沙織は考えた。

 伊良部おばぁのチャンプルーは、どうしてこんなにごはんが進むんだろう。豚肉の風味だけでなく今日は島タケノコも入っていて香り豊かな上歯ごたえも楽しい。

 母屋にはないトイレやお風呂、玄関も入り口の鍵もない『かーらやー』にいつの間にか故郷のようになれてしまったのと同様、八重山の味にもすっかり馴染んだ。台風と湿氣に悩まされ虫とハブに怯えることはあっても、美しい海と満天の星、南国の花や果物のあふれる島の暮らしは、とても心地よい。

 きっとこのままこの島に住み続けるんだろうな。沙織はぼんやりと考えながら、チャンプルーを口に運んだ。

(初出:2023年4月 書き下ろし)
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(16)凍える宵 -4-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第16回『凍える宵』を4回にわけたラストをお届けします。

この旅の中間地点であるフルーヴルーウー峠まであとわずかというところで、一同は悪天候に見舞われました。雨宿りをした小屋で結局ひと晩過ごすことになり、8月とは思えぬ寒さに震えています。

前作の連載を終え、このメンバーで旅をする続編を書こうと思いついたときから、このシーンは入れようと考えていました。

スイスに住むようになって印象的だったことの1つに「アルプス山脈は、ヒマラヤ山脈などとは違い、みな氣軽にハイキングやマウンテンバイクで越えてしまうこと」がありました。その一方で、峠程度といっても標高がそれなりにあるので、夏でも寒いのです。この感覚は、初めて旅をする面々には体験してもらわねばと思っていました。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
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【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(16)凍える宵 -4-


「外套も、そろそろ乾いている。必要ならこれも着るといいでしょう」
フリッツは、それぞれに外套を渡した。

 ラウラに外套を羽織らせてアニーが腰掛けると、ラウラは自分の膝の上にかかっている上掛けを彼女の膝にも載せた。
「そんな、ラウラさま。私なんかに……」
「アニー。いまの私は、あなたと同じく平民なのよ。一緒に暖まりましょう」

 そのさまを微笑ましく眺めてから、レオポルドたちは、この山越えについて話を始めた。

「後悔なさっておられるのでは?」
フリッツが単刀直入に訊いた。平民のフリなどをしなければ、少なくとも雨になど濡れない馬車で峠の宿泊施設にたどり着いたはずだ。

 レオポルドは肩をすくめた。
「戦で野営もしたではないか」
「あのときは、陛下用の寝台をお持ちしましたよね」
「わかっているさ」

 それに戦の野営とはいえ、国王が寒さに震えるようなことはなかった。それだけ、ついてきた臣下や従者たちが、彼のために心を砕いたということだ。彼のための毛皮の敷物、寝具、簡易囲炉裏などが彼の天幕に用意されていた。『裕福な商人デュラン』が持てるようなものではなく、今回の旅でレオポルドが期待していたものでもない。

 レオポルドは言った。
「ふかふかの寝床に包まれて眠ることだけを望むなら、フリッツやモラたちの言うとおりに王らしい旅をしていればいいのだ」

 マックスは答えた。
「わざとこのような厳しいところにお連れしたわけではありませんが、民の中には眠れないほど寒い夜を過ごしたり、薄い粥以外食べられない人たちも珍しくありません。目で見るだけではなく、実際に肌で感じることも、陛下のおっしゃっていたさまざまな階級を知る1つの手立てとなるように思います」

 レオポルドも、一同も頷いた。地図上で行程を考えるのと、今日の昼に登ったような道を実際に行くのは違う。冬にまともな暖房もない小屋で凍える民の話も聞いたことはあるが、実際に自分たちが眠れぬほど寒い思いをするのは話が別だ。

 同時に貴族としての煌びやかな服を着たままで市井の人びとの本音を聞くことも難しい。この数日間、レオポルドはこれまで目にし耳にしてきたこととは異なる民の生活を体感してきた。

「そなたが見てきたものを、この短い旅ですべて見られると思っているわけではない。だが、少なくともまったく想像もつかないのと、わずかでも経験するのでは違う。そうだろう?」
「そうですね。例えば、我々にとってこの夜はたった1晩の経験に過ぎませんが、この生活しか知らぬ民がいると想像できるのは、為政者たる我々にとって悪いことではないですね」

 ラウラが訊いた。
「ここは、夏でもいつもこんなに寒いのですか」

 マックスは頷く。
「朝晩は、常にヴェルドンの真冬くらいに寒くなる。日中、陽が射せば照り返してかなり暑くなるけれど、悪天候の時は8月でも雪が降ることもある」

 これほど粗末な設備にもかかわらず、馬用にも屋根のある小屋が用意してあったのは、夏でも寒すぎる夜のせいだった。

 結局、5人は少しウトウトしただけで、深く眠ることはなかった。このままここに留まるよりも、夜明けとともに出発し、峠の宿泊施設で暖を取り、きちんとした食事を摂ることをマックスは奨め、4人はそれに同意した。

 雷雨は夜更けに止み、雲のなくなった空には何万という星が輝いていた。明るい白と紫、そして紺色が混じる《乳の河》が強い光を放っているようだった。

 東の空は少しずつ色を変え、稜線が赤く光り出す。湿氣が霧のように溜まっている。そこにやがて橙色から黄色へと色を変えていく光が見えて、太陽が上がってきた。

 その神々しい光を見てから、5人は峠への道を歩き出した。分岐点まで戻ると、辺りはすっかり明るくなり、すっかり濡れた下草が宝石のごとく輝いているのを見て、昨夜の雨の激しさを思い起こした。

 朝焼けに十字架のシルエットが浮かび上がっている。下方に見える昨日通り過ぎた湖が赤と金に輝いている。ピーピーと動物の声が響いている。マックスが岩の合間を指さした。
「マルモルティーレだ」

 リスに似ているが仔猫くらいに大きく丸々と太った動物が岩の中に急いで飛び込み身を隠す。その横を鷹が通り過ぎていく。

「なんて可愛いの! 初めて見たわ」
アニーがマルモルティーレをよく見ようと身をよじった。

「おい。突然そんな風に暴れると、落馬するぞ」
フリッツが強引に彼女の姿勢を正した。

「なんてことを! 私は幼児じゃないんですから、女性らしく扱ってくださらないと」
「幼児とどこが違うんだ。慎ましく座ってもいられん癖に」

 レオポルドとマックスは「またじゃれ合っている」といいたげに顔を見合わせた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(16)凍える宵 -3-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第16回『凍える宵』を4回にわけた3つ目をお届けします。

この旅の中間地点であるフルーヴルーウー峠まであとわずかというところで、一同は悪天候に見舞われました。今回の記述は実際に中世ヨーロッパの山越えがこうだったというわけではなく、私の知っているいくつかの知識を組み合わせての創作が入っています。

この国に来てから、中世から前世紀までのさまざまな風物を近しく目にする機会に恵まれました。お城の豪華な調度などはネットなどでいくらでも調べられる時代になりましたが、貧しく面白そうでもない市井の人びとの暮らしの痕跡は、ネットや急いだ旅行などではなかなか見聞することが出来ないので、偶然目にしたり話を聞いたりしたときには、いつ使えるかわからなくても、できるだけ写真を撮ったり書き留めておくようにしています。今回はそんな情報が少し役に立ちました。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(16)凍える宵 -3-


 マックスは馬を止め、方向を転換した。

「どうするのだ」
レオポルドが訊くと、先ほどの分岐点を指さした。
「このまま峠まで行くのは無理です。雨宿りをしましょう」

 分岐点の脇から岩にほぼ隠れている細い道を進んだ。そこは珍しく低木がいくつかある場所で、奥が見えていなかったが、しばらく行くと開けた平らな場所が見えてきた。滝にほど近く、粗末な小屋が3つほど並ぶ場所があった。

 1つは馬小屋で、残りの2つは人用の小屋になっていた。馬をつなぐと、5人は1つの小屋に入っていった。

 天井の低い小屋には誰もいなかった。寝台や腰掛けになりそうな台がいくつか並ぶ以外は、調度らしい家具もほとんどないが、火をおこす場所はある。

 マックスは、木の窓覆いを開けて、とりあえず内部に光を入れた。激しい雨は、ますますひどくなっており、稲光が時おりあたりを明るくする以外は、辺りを天幕のように降水が覆っていた。このまま進まずに済んだことをラウラはホッとして辺りを見回した。でも、ここは誰かの所有なのだろうか。

 マックスが言った。
「誰でもここに入ることは許可されているんだ」

「ラウラさま。このままではお風邪をひきます」
アニーが、ラウラに近づき外套を脱がせようとした。
「大丈夫よ、アニー。1人でできるわ。それよりも陛下の方を」

「外套くらい、ひとりで脱げなくてどうする。……といっても、どこで乾かすのがいいだろう」
レオポルドが、外套を手に持ち見回した。

「お待ちください」
マックスは既に火をおこす準備に入っている。フリッツは、3頭の馬にくくり付けてあった荷物を1つずつ小屋に運び入れている。

 小屋の外に積んであった薪を暖炉にくべ、隅に山のようにまとめてある藁を少し置くと、マックスは火をおこした。アニーは暖炉脇の杭にそれぞれの濡れた外套を引っかけた。

「ここは簡易宿泊所のようなものか」
全員がひと息ついて火の周りに座ると、レオポルドが訊いた。

「はい。旅籠や峠の宿泊施設や修道院と違い、人はいませんが緊急の場合に旅人が寝泊まりすること、薪や藁を使うことは許可されています。ただし、追い剥ぎなどには自分で対処しなくちゃいけないんですが」

「ということは、今夜はここで寝るんですね」
フリッツが確認した。

「すぐに雨が止めば、峠の宿泊施設まで行けますが、このまま夜半までこの調子であれば、ここで1泊するしかないでしょうね」

 激しい雷雨は、全く止む様子はない。大きな雷鳴のとどろきに、アニーは耳を押さえて小さな悲鳴を上げた。ラウラはそっとそんな彼女の肩を抱いて力づけた。

 他の旅人がやって来てもいいように、フリッツの運び込んだ荷物は隅の1カ所にまとめ、暖炉からさほど遠くないところに、寝床を作ることになった。

 入り口近くの隅に山になっている藁を何回かに分けて運び、1人眠れる程度の小山にすると、その上にやはり隅にまとめてあった布をかけた。旅籠のリネンのように使う度に清潔に洗濯することを期待することは全くできないが、少なくとも藁の上で直接眠るよりは快適になるはずだ。いずれにしてもこの寒さの中眠るとしたら、いま身につけている服装のまま横になることになるので、旅籠の寝具と比較する必要はなかった。

「今はとても冷たく感じるかもしれないが、藁は人の湿氣で温度が上がるので、眠っているうちに少しは暖かくなると思う。といっても、快適な夜は期待しないでくれ」
マックスが、アニーとラウラに説明した。

 夜半を過ぎても雨は衰えることなく降り続け、一行は持参したパンに干し肉とチーズの夕食を取った。レオポルドとラウラ、そしてアニーは少し赤ワインを飲んだが、フリッツとマックスは飲まなかった。

「今夜は、2人交代で火の晩をします。ぐっすり眠るわけにはいきませんからね」

 深夜、マックスがフリッツと静かに交代し、熾火を動かしていると、レオポルドが起き上がってきた。

「どうなさいましたか。お休みになれませんか。藁の積み方を少し変えましょうか」
フリッツが訊くと、レオポルドは首を振ってやはり囁き声で返した。
「いや、寝床の快適さが問題というわけではない。単に目が覚めたのでな」

 ガサッと音がしたので振り向くと、ラウラとアニーが共に起き上がっていた。

「そんなにうるさくしてしまいましたか」
フリッツが申し訳なさそうに言うと、女性陣は共に首を振った。

「うるさかったわけではありません。ずっと半分起きたままでした。その……」
ラウラが言いよどむと、アニーがはっきりと言った。
「ラウラさま。お寒いのでしょう。私の上掛けを……」

 マックスが暖炉の前に場所を作っていった。
「陛下、皆も、こちらに来て少し暖をとるといいでしょう」

 全員が、それぞれ上掛けを羽織り、火の周りに集まった。暖炉の上に置かれた鍋には湯が沸いていた。アニーがそれぞれに暖かい湯飲みを渡した。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(16)凍える宵 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第16回『凍える宵』を4回にわけた2つ目をお届けします。

今回の記述の大半は、中世に関する文献から得た知識だけではなく、現代の私がアルプス山脈を越えるときに見聞きしたものをアレンジしてあります。(完全に同じというわけではありません。《ケールム・アルバ》はあくまで中世ヨーロッパ風の架空の場所です)

4つの石のピラミッドは、中世では実際に道標の役割を果たしていたそうですが、現代では使われていません。現在はきちんと道標があるか、もしくは赤白の旗のようなマークがその代わりに見られます。

樹木が生えなくなるのは、およそ標高2000メートルです。ここまで来ると峠まであと少しですね。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(16)凍える宵 -2-


「陛下の馬の手綱も、私が」
フリッツは言ったが、レオポルドとマックスに視線で制された。道は狭く、2頭の馬に挟まりフリッツが歩くような幅ではない。

 一番前をマックスが、続いてラウラとアニーが、その後ろをレオポルド、最後は背後を守りながらフリッツが歩くことになった。

 マックスが言ったとおり、しばらく険しい道を歩くと、草むらと言っていい平坦な野が現れた。再び馬に乗って進んだが、半刻もしないうちに、ふたたび険しい岩道を進むことになった。

 それぞれが太い枝を杖がわりにして歩いた。転んだり、躓いたりしないためにも必要だったが、蛇などに噛まれるのを避けるためにも必要だった。

「危険な蛇と、そうでない蛇の簡単な見分け方を知っているかい?」
マックスに訊かれて、ラウラは少し考えた。
「頭の形や柄でしょうか?」

 レオポルドとフリッツは顔を見合わせて、肩をすくめた。蛇に噛まれる危険のあるところを長く歩くのは初めてだ。

「基本はそうだ。怖れなくてはならないのはクサリヘビの仲間のアスピ蛇、つぎに十字クサリヘビだが、実は、これらの毒蛇にそっくりな大人しい蛇もいる。正確には目の形でたいてい見分けることが出来るんだ。縦に細長い目をしていたら、それは真に危険な毒蛇だ」
マックスは、遍歴教師らしく説明した。

 それはもちろん興味深いのだが、現在自分が噛まれるかもしれないという恐怖を減らしてくれる情報ではなかったので、アニーが思わず声を上げた。
「でも、目の形なんかわかるほど近くに行ったら……!」

 マックスは、杖代わりの枝で、前方の草むらや岩を派手に叩きながら言った。
「その通りだよ、アニー。だからこうやって、かなり前から大きな振動を与えて、蛇が危険を感じるほどこちらに近づかないようにしているんだよ」

 それから、アニーが必死になって大きな音を立てながら進むので、一同は笑った。

 やがて、そうした深い草むらは少なくなり、馬に乗って進める地域が増えてきた。以前はフリッツと同じ馬に乗ることを嫌がっていたアニーが、大喜びで馬に乗ろうとしたので、一同は再び笑った。

 途中で、マックスは再び砕石が多い急傾斜の道を選んだが、もっと楽そうな谷川の草むらを見て、フリッツがなぜそちらの道を選ばないのか訊いた。
「どう見ても楽そうな道に、まったく人が踏み分けた後がないのが分かりますか」
「はい。なぜでしょうか」

 マックスは先に見える川の湾曲を指さしながら説明した。
「これは、危険な道だからですよ。おそらくあちらは沼になっています。旅人は、できるだけ楽な道を行こうとし、その思いをくじかれて戻ることを繰り返して、行ってはならない道を見分ける術を学ぶのです。これをご覧なさい」

 険しい岩道の手前に4つの石が小さなピラミッド状に積み上げられている。
「これは、ここを通る旅人たちからの奨めです。ここには道標のようなものはありませんが、同じ旅をした先人たちからのメッセージが、次のこの道を通る者たちを正しい道に導いてくれるのですよ」

 前よりもいっそう肌寒くなってきていた。見ると、広葉樹は一切なくなり、針葉樹もまばらになってきていた。風が冷たくなり、渓谷のあちこちの日陰に雪の名残が見えるようになった。

 朝は晴れ渡っていたのに今はかき曇り、うっすらと霧がかっている。マックスはつぶやいた。
「ああ、これはまずいな。峠の宿泊施設にたどり着く前に、ひどく降られるかもしれない」

「あの先だろう? おそらく夕方には着くのではないか? 曇っているだけであるし」
レオポルドが訊く。

「運がよければ、さほど濡れずに宿泊施設に着くでしょうが、難しいかもしれません。途中で雨宿りできる場所もありますから、行けるだけ進んでみましょう」
マックスは答えた。

 馬に乗っているとはいえ、走らせることは出来なかった。道は崩れやすい大きめの石砕で埋まっている。ついに木は1本も無くなり、非常に短い下草と崩れた岩が広がる地域に来た。川は片足を反対側に置いたまま渡れるほどの細いものが、木の根のようにあちこちに広がるだけになった。

 マックスは、途中で岩の奥に進む道との分岐点で止まった。馬の足下にある小さな石ピラミッドを見ていたが、天を仰ぐとそのまま峠までの道を進んだ。曇り空はさらに重く暗くなっており、先ほどまで吹いていた風はどういうわけかピタリと止んでいた。

 それからしばらくして、雨が降ってきた。再び風が吹いてきたが、先ほどのものよりも冷たく強い風だった。皆はマントを深く被ったが、雨宿りをする木陰がないので、冷たい雨がマントに染みてくるまでにはさほど時間がかからなかった。雨ははじめから非常に強く、雲の色から見て、すぐに止むようにも思えない。雷鳴がつんざくような音を上げ、ラウラは思わず首をすくめて震えた。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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アスピ蛇と書いたのは「Aspisviper(アスプクサリヘビ)」、十字クサリヘビと書いておいたのは「Kreuzotter(ヨーロッパクサリヘビ)」のことで、共にスイスに実在する毒蛇です。さすがに普通の村暮らしでこれらの毒蛇に遭遇するチャンスは幸いほぼないのですが、森や山間部では、現在でも普通に生息している蛇ですので、ハイキングをなさるような方はお氣をつけください。本文にあるように、本当に毒蛇かどうかを確認できるほど側には寄らない方がいいかと思います。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(16)凍える宵 -1-

年初の恒例企画「scriviamo!」が終わったので、今日から通常連載である『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』を再び更新します。第16回はかなり長いので4回にわけての更新で、今回はその1回目です。

お忘れの方も多いかと思いますので軽く説明をすると、国王レオポルドとフルーヴルーウー辺境伯マックス(+おまけ)の一行は、険しい山脈《ケールム・アルバ》を越えて、南側のセンヴリ王国に属するトリネア候国へとの平民のフリをしたお忍びの旅をしています。

今回は、もっとも厳しい山越えの話です。《ケールム・アルバ》のモデルはアルプス山脈。夏とはいえ時間と天候によっては、歌いながらハイキングをするような旅ではなくなります。


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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(16)凍える宵 -1-


 幸い、その後に泊まった2軒の宿では、フルーヴルーウー辺境伯の内政に関わる問題やグランドロン王国の根幹を揺るがすような噂話をする旅人たちとの交流はなく、『裕福な商人デュランとお付きの一行』は、順調に旅をして南へと向かっていた。

 既にサレア河の扇状地と呼べる低地は過ぎ、森と小さな峡谷を交互に通りながら少しずつ高度が上がっていることを、一行は肌で感じていた。視界が広がり、谷を臨めば今朝去ったばかりの村が遥か眼下に見える。日中でも外套を脱ぐことは少なくなってきた。道に石畳が敷かれていることはかなり稀になり、それどころか土の均された道は村の近くにしかなくなった。

 そもそもマックスが1人旅をしていた遍歴教師時代には、フルーヴルーウー峠と城下町の間に3泊もしたことはなかった。今回は国王が生まれて初めての庶民に化けた旅をしており、更には旅慣れていない女性が2人も同行している。それで、できるだけ疲れが出ないよう、さらには道中の村やサレア河上流に多い風光明媚な渓谷や滝などを見ながらゆっくりと《ケールム・アルバ》を登っていた。

 ダヴォサレアの村を過ぎて最初の辻につくと、マックスは馬から下りた。辻とはいえ、目の前には、岩で出来た階段に近いものが草むらから顔を出している道とはいいにくい光景が続いている。

「この先の山道はとても狭く、崖の傾斜が急でとても馬に乗ったままは越えられない。つらいだろうけれど、しばらくは徒歩で行くしかない」

 フリッツは、眉をひそめて言った。
「まさか、峠まで徒歩なのですか」
もちろん彼自身が嫌なのではなく、レオポルドの疲労と安全を案じてのことだ。
 
 マックスは首を振った。
「ずっとではありません。ですが、おそらく徒歩で行く距離は、馬に乗れるそれ以上になります。時間でいったら、ずっと徒歩ばかりという氣がするでしょうね。引き返し、《フルーヴルーウー街道》を行きますか」

 《フルーヴルーウー街道》は、馬車に乗ったままフルーヴルーウー峠を越えられる公道だ。幾箇所もある城塞にて通行税を払う必要があるので、資金に余裕のない平民たちは大きな荷がない限り、宿場だけは通るがそれ以外は整備されていない森や谷間の自然道、一般に《野道》と呼ばれるルートを通った。

 もちろんレオポルドには十分すぎる資金の余裕はあるが、数ある城塞で《フルーヴルーウー街道》を行く高貴な旅人たちに逢い、どこで正体を知る相手に出くわすかわからないため、あえてはじめから《野道》を進んでいた。

 レオポルドは、フリッツを制した。
「この道が厳しいのは百も承知で、平民の行く《野道》を来たがったのはこちらだ。だが……」

 レオポルドは、馬上のラウラをちらりと見て言葉を濁した。彼女がつらければ、引き返すことも考えねばならないとの想いが顔に表れている。

 ラウラは、マックスの方に手を伸ばし、降りる意思を見せた。マックスは、彼女を地面に下ろしてやった。アニーも急いでフリッツと共に馬から下りた。

 ラウラは、レオポルドに頭を下げた。
「身の程をわきまえず無理についてきたことで、お心を煩わせてしまい申しわけございません。女である私とアニーがいることで、旅にたくさんの不自由が生じていること、日々感じお詫びのしようもございません」

 馬から下りて、レオポルドは言った。
「頭を上げなさい。謝られるような不自由はまだなにも受けておらぬ。そなたたちが絶対に耐えられぬ道だと思えば、マックスは元からこの道は選ばなかったであろう。どうだ、マックス」

 マックスは頷いた。
「先日見た傭兵団に従軍している女たちを見ただろう。彼女たちも年に数回、この道を往復しているのだ。今は夏で足下の危険も少ない。多少、速度を緩めれば、君たちが越えられないはずはないと思う」

 ラウラは、マックスの方を見て言った。
「より時間がかかってしまうこともお詫びしなくてはなりませんわ。私が伝聞で満足しなかったために、陛下やあなたを足止めしてしまうことになるのでしょう」

 マックスは首を振った。
「謝らなくていい。それに、僕は出発前とは違う意見を持っている。君がここまでの道程で感じてきたことは、僕からの伝聞で知ったことはまったく違うものだろう。この旅で、世界のすべてを見聞きすることはできないけれど、それでも君が、世間や、それに僕という人間を理解するために、この旅は必要だったと思うよ」

「それでは行くか。我々男は馬の手綱を引くので、奥方さまたちは、自分の足下に責任を持ってついてくるように」
レオポルドが、おどけた様子で言った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】漆喰が乾かぬうちに

今日の小説は『12か月の建築』3月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、スイス・エンガディン地方の典型的な壁面装飾スグラフィットです。本文でも説明がありますが、もっと詳しく知りたい方は追記をご覧ください。

あまり説明臭くなるので書きませんでしたが、スイスの若者は進路がだいたい16歳前後で別れます。大学進学を目指す限られた子供たちをのぞき、義務教育を終えた子供たちは職業訓練を始めます。週に数日働いて少なめのお給料をもらうと同時に、週の残りの日は学校に行くというスタイルを数年続けると、職業訓練終了の証書がもらえて一人前の働き手として就職できるというしくみになっています。


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漆喰が乾かぬうちに

 ウルスラは、誰と帰路についたのだろう。テオは砂と石灰をかき混ぜながら考えた。3月も終わりに近づいたとはいえ、高地エンガディンの屋外は肌寒い。

 だが、作業をするには適した日だ。数日にわたり晴れていなければならない。けれど、夏のように日差しが強すぎれば、漆喰は早く乾きすぎる。スグラフィットの外壁は、現在では高価な贅沢であり、失敗は許されない。職人見習いであるテオに、「今日は休みたい」と、申し出ることなど許されるはずはない。

 昨夜は、村の若者たちが集まって過ごした。それは、テオにとっては、楽しかった子供時代のフィナーレのようなものだった。

 3月1日には、伝統的な祭『チャランダマルツ』がある。かつての新年であった3月1日に、子供たちが首から提げたカウベルを鳴らしながら、冬の悪魔を追い払いつつ村を練り歩く。

 現在では成人とは18歳と法律で決まっているけれど、かつては堅信式を境に子供時代が終わり、長ズボンをはいて大人の仲間入りをした。その伝統は、今でも残っていて、例えば飲酒や運転免許の取得などは法律上の成人を待つけれど、祭の参加での「大人」と「子供」の境は、堅信式を行う16歳前後に置かれている。

 それは皆が一緒に通った村の学校を卒業して、それぞれの職業訓練を始める時期とも一致している。

 去年の8月からスグラフィット塗装者としての職業訓練を始めたテオにとって、今年の『チャランダマルツ』は、最年長者、すなわち「参加する子供たち」として最後の年だった。

 テオと同い年の8人が子供たちの代表として、村役場と打ち合わせを重ね、馬車を手配し、行列のルートを下見し、打ち上げ会場の準備もした。祭の最中は、小さい子供たちの面倒を見るのも上級生の役割だ。行列に遅れていないか、カウベルのベルトを上手くはめられない子供はいないか、合唱のときにきちんと並ベているか、確認して手伝ってやる。

 祭が終わった後は、小学校の講堂を使ってダンスパーティーもした。テオは、音響係として、楽しいダンスで子供たちが楽しむのを見届けた。

 昨夜は、8人の代表たちが集まって、打ち上げをした。それぞれが、はじめて夜遅くまで外出することを許され、14歳から許可されているビールで乾杯した。ハンスやチャッチェンは金曜日だからとベロベロになるまで飲んでいたが、テオは2杯ほどしか飲まなかった。今日、朝から働かなくてはならなかったからだ。

 それで、11時には1人で家に帰った。本当はウルスラを送って行きたかった。

 音響係だった3月1日のパーティーでは、ダンスに誘いたくてもできなかったから、せめて昨夜の打ち上げでは近くに座って、今より親密になりたいと思った。けれど、それも上手くいかなかった。酔っ払ったハンスとチャッチェンが大声でがなり立てるので、静かに話をすることなど不可能だったのだ。

 ウルスラのことが氣になりだしたのは、去年の春だった。それまでは、ただの幼なじみで、子供の頃からいつも同じクラスにいた1人の少女に過ぎなかった。

 テオは、1つ上の学年にいたゾエにずっと夢中だった。ゾエは華やかな少女で、タレントのクラウディア・シフによく似ていて、化粧やファッションも近かった。卒業後は村を離れて州都に行ってしまった。モデルとしてカレンダーで水着姿を披露するんだと噂が広がり、小さな村では大騒ぎになった。

 テオは、スグラフィット塗装者としての職業訓練を始めるか、それとも他のもっと一般的な手工業を修行するために、州都に行くか迷っていた。ゾエが村を離れるとわかったときに、心の天秤は大きく州都に傾いた。

 スグラフィットは16世紀ルネサンス期のイタリアで、そして後にドイツなどでも流行した壁の装飾技法で、2層の対照的な色の漆喰を塗り重ね、表面の方の層が完全に乾く前に掻き落として絵柄を浮き出す。スイスではグラウビュンデン州のエンガディン地方を中心に17世紀の半ば頃よりこの技法による壁面装飾を施した家が作られるようになった。

 アルプス山脈の狭い谷の奥、今でこそ世界中の富豪たちがこぞって別荘をもつようになった地域も、かつてはヨーロッパの中でも富の集中が起こりにくい、比較的貧しい地域だった。

 ヨーロッパの多くの都市部で建てられた石材を豪華に彫り込んだ装飾などは、この地域ではあまり見られない。それでも、素っ氣ない単色の壁ではなく、立体的に見える飾りを施したのだ。

 角に凹凸のある意思を配置したかのように見える装飾、幾何学紋様と植物を組み合わせた窓枠、または立派な紋章や神話的世界を表現した絵巻風の飾りなど、それぞれが工夫を凝らした美しい家が建てられた。

 モチーフは違っても、2層の色が共通しているので村全体のバランスが取れていて美しい。ペンキによる壁画と違い、スグラフィットで描かれた壁面装飾は、200年、時には300年も劣化することなく持つ。

 だが、この装飾はフレスコ画と同じで、現場で職人が作業することによってしか生まれない。工場での大量生産はできないし、天候や氣温にも左右される、職人たちの経験と勘が物を言う世界だ。どの業界でも同じだが手工業の世界は常に後継者問題に悩まされている。

 テオは、子供の頃から見慣れていたこの美しい技法の継承者としてこの谷で生きるか、それとも若者らしい自由を満喫できる他の仕事を探すかで揺れていた。最終的には、親方やスグラフィットの未来を案じる村の大人たちが半ば説得するような形で、彼の決意を固めさせた。州都に行ったゾエがよくない仲間と交際して学校をやめたらしいという噂もテオの心境に変化をもたらした。

 スグラフィット塗装者としての職業訓練が決まった後、同級生の間では少しずつ親密さに変化が出てきた。テオはずっと村に残る。ハンスやチャッチェンは、サンモリッツで職業訓練を受けることが決まり、アンナは州立高校に進学する。

 同級生の中で、一番目立たない地味な存在だったウルスラは、村のホテルで職業訓練をすることが決まり、週に2日の学校の日はテオと一緒に隣の村に行く。ほとんど話をすることもなかったのだが、それをきっかけに『チャランダマルツ』の準備でもよく話をするようになった。口数は少ないけれど、頼んだことは必ずしてくれるし、どんなに面倒なことを頼んでも文句を言うことがなかった。

 3月1日の『チャランダマルツ』が終わってから、1か月近くテオは奇妙な感覚を感じていた。忙しくて煩わしかったはずの『チャランダマルツ』の準備が終わり、同級生たちと会うことがなくなった。仕事と学校だけの日々。時に親方に叱られながらも、漆喰の準備や工房で引っ掻く技法の訓練をしていた。

 学校に行く日は、なんとなくウルスラの姿を探した。でも、先々週、彼女は風邪をひいて学校を休んだし、その後は学校が1週間の休暇になった。その間に、彼は落胆している自分を見つけて、驚いた。

 だから、打ち上げで彼女に会うのが楽しみだった。ウルスラは、元氣になってそこにいたけれど、アンナやバルバラと話をしていて、またはテオがほかの人に話しかけられていてほとんど話ができなかった。

 明日が早いからと、彼だけ帰るときに、ウルスラが何かを言いたそうにしていたのをテオは見たように思った。もしかしたら自分の思い過ごしかもしれないけれど……。テオは、少し落ち込んでいた。

「おい、テオ。聞いているのか」
親方が、呼んでいた。

「えっ。すみません」
テオは、親方が見ている手元を自分も見た。

「お前、配分間違えていないか。いくら何でも色が濃すぎるぞ」
確かにそれはほとんど真っ黒だった。
「すみません」

「昨夜は遅くまで飲んでいたのか」
親方は訊いた。小さい村のことだ。同級生が打ち上げをする話は、簡単に大人たちに伝わってしまう。

「いえ。11時には帰りました」
でも、このざまだ。テオはうなだれた。

「まあ、まだ塗っていないんだから、取り返しはつくさ。だがな。こういうときのやり直しには、長年の勘が必要なんだ。まだお前には無理だな。どけ」
そう言って、親方は石灰の粉を持ってテオが作っていた塗装混合物の色調整を始めた。

 石灰と砂、そして樽で保存されている秘伝の石灰クリームが適切な割合で混ざり、完璧な硬さの下地が用意されていく。

「さあ、行くぞ」
親方は、大きいバケツを持って村の中心へと向かった。泉のある広場の近くに今日の現場はある。壁面全部ではなくて、門構えの修復だ。

 不要な部分に漆喰がかからないように、プラスチックのフォイルとマスキングテープで保護をしていく。それから、バケツに入っている濃い灰色の漆喰を丁寧に塗っていく。

 午前中は瞬く間に過ぎた。幸い、漆喰は時間内にきれいに塗られた。午後の太陽が、かなり濃い灰色をゆっくりと乾かしていくだろう。今日と明日は雨が降らないだろうから、理想の色合いになるはずだ。

「さあ、少し遅くなったが飯の時間だ。帰っていいぞ」
バケツや塗装道具を工房に運び込んだところで、親方が言った。親方の自宅は工房の上で、女将さんが用意したスープの香りが漂っている。

「あ。今日は、うちには誰もいないんで……」
テオはパン屋でサンドイッチでも買うつもりで来た。

「なんだ。この時間にはもうサンドイッチは残っていないかもしれないぞ。うちで食っていくか?」
「いえ。だったらそこら辺で何かを食べます」

 テオは、頭を下げて工房から出た。もう1度村の中心部に戻ると、意を決してホテルのレストランに入っていった。

「あら。テオ!」
声に振り向くと、そうだったらいいなと想像していたとおり、ウルスラがいた。

「やあ。君も今日、出勤だったんだね」
彼が訊くと、ウルスラは頷いた。

「土日休みの仕事じゃないし……。でも、幸い今日は遅番だったの。テオは昼休み?」
ウルスラは不思議そうに訊いた。ランチタイムにテオがここに来たのは初めてだったから。

「うん。今日は、母さんが家にいないから、パン屋でサンドイッチを買うつもりだったんだけど、ちょっと遅くなっちゃったんだ。……スープかなんか、あるかな?」

 スープなら、さほど高くないだろう。そう思ってテオはテーブルに座った。ウルスラは、メニューを持ってきた。
「今日のスープは、春ネギのクリームスープよ。あと、お昼ごはん代わりなら、グラウビュンデン風大麦スープかしら?」

 テオは頷いて、メニューをウルスラに返した。
「腹持ちがいいからね。じゃあ、大麦スープを頼むよ。あと、ビールは……仕事中だからダメだな」

「じゃあ、リヴェラ?」
そう訊くウルスラに、彼は嬉しそうに頷いた。乳清から作られたノンアルコールドリンク、リヴェラはスイスではポピュラーだけれど、同級生の多くはコカコーラを好んだ。でも、テオがコーラではなくてリヴェラをいつも頼むことを彼女は憶えていたのだ。

 柔らかい春の陽光が差し込む窓辺に立つ彼女の栗色の髪の毛は艶やかに光っていた。民族衣装風のユニフォームも控えめなウルスラにはよく似合う。彼女は、リヴェラと、それからスープにつけるには少し多めのパンを運んできてくれた。

「昨夜は、遅かったのかい?」
テオが訊いた。

「12時ぐらいだったわ。みんなは、もう1軒行くって言ったけれど、私は帰ったの」
ウルスラは笑った。

「誰かに送ってもらった?」
すこしドキドキしながら訊くと、彼女は首を振った。
「まさか。男の子たち、あの調子で飲み続けて、自分面倒も見られなさそうだったわよ」

「そうか。じゃあ、僕がもう少し残って、送ってあげればよかったな」
そういうと、ウルスラは笑った。
「こんなに近いし、こんな田舎の村に危険があるわけないでしょう。……でも、そうね、次があったら送ってもらうわ。テオは、ひどく酔っ払ったりしないから安心だもの」

 ウルスラは、他の客たちの給仕があり、長居をせずに去って行った。それでもテオは幸福になって、大麦スープが運ばれてくるのを待った。

 テオは、先ほど塗ったばかりの塗装のことを考えた。下地の灰色が乾いたら、上から真っ白の漆喰を塗り重ねる。その漆喰が完全に乾く前に、金属で引っ掻くことで灰色の紋様が浮かび上がる。そうして出来上がるスグラフィットは、地味だけれども何世紀もの風雨に耐える美しい装飾になる。

 チューリヒや、ベルリンやミラノ、パリにあるような面白いことは何も起こらない村の日々は、退屈かもしれない。でも、スイスの他の州では見られない特別な風景と伝統を過去から受け継いで未来に受け渡す役目は、そうした大都会ではできないだろう。

 ウルスラが、スープを運んできた。素朴な田舎料理の湯氣が柔らかく彼女の周りを漂っている。村に残って、ここで生きていくことを選んだのは大正解みたいだ。

 テオは、今日塗った漆喰が乾く前に、彼女をデートに誘おうと決意した。

(初出:2023年3月 書き下ろし)

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スグラフィットについては、かつてこういう記事を執筆しました。

それからチャランダマルツについても記事を書いています。
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ウサギの郵便

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第10弾、ラストの作品です。大海彩洋さんは、大河ドラマの第二世代である「ピアニスト慎一」シリーズの作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『【ピアニスト慎一シリーズ】光ある方へ 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じの通りです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一のお話を別の人物の視点から語ってくださいました。私も大好きなラフマニノフのピアノ協奏曲第3番をメインモチーフに書いてくださった重厚な作品です。

お返しどうしようか悩んだのですけれど、今回は彩洋さんの作品とも、ラフマニノフはもちろんのことクラシック音楽とも関係のない作品にしてみました。いや、ラフマニノフの2番をメインモチーフに作品書いた、めちゃくちゃチャラいピアニストとか出している場合じゃないだろうと思ったんですよ。

かすっているのは「亡くなった人からの手紙」だけです。あまりにも遠いので、どこが彩洋さんの作品へのお返しなのかとお思いでしょうが、個人的に、私の今の心情的に、これがお返しです。


「scriviamo! 2023」について
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ウサギの郵便
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 家具が全てなくなり、がらんとした窓の向こうに、まだ眠っている庭が見えた。施設の中で割り振られたこの部屋は、偶然にも外に小さな薔薇園とハーブ園があって、生涯にわたって庭仕事を愛してきた母親の最後の住処としてはこれ以上望めない僥倖だと喜んだのが昨日のことのようだ。

 彼女は、この部屋に2年半住んだ。たった1週間前には、カリンはここをこんな風に片付けるとは思いもしなかった。このように空っぽの部屋を見るのは2度目で、その時は、誰か親族が一定の期間住んだ痕跡を消し去る作業をしたことを想うことはなかった。思ったよりも早く施設に空き室が出たことを単純に喜んだだけだ。

 父親が亡くなってから10年以上住んだ4部屋もあるフラットでの1人暮らしが難しくなり、2年ほど訪問看護の世話になった後、母親は自らの意思で老人施設に入ることを決めた。トイレとシャワーのついた部屋は、キッチンや冷蔵庫・洗濯機などはないものの、備え付きのベッドとテーブルや椅子・ウォークインクロゼットの他に、小さな家具や装飾品などを運び込むことが許されていて、それぞれが小さいながらも自分のプライベートな生活を楽しむことができた。

 とはいえ、それまでの暮らしで持っていたたくさんの家具や衣装、寝具、家電などの多くを処分することになった。カリンと、遠くで暮らす姉や弟が受け継いだものもあるが、亡くなった父の遺品を始め多くの品物をその時点で処分することになった。

 カリンが受け取ったのは、高価な食器や花瓶などの日用品が大半で、カリン自身が子供の頃に使っていたものなどの大半は処分してもらった。

「これは? 持っていきたいんじゃないの?」
カリンは、その記憶をたどる。その時に母親が見せてきたのは大きいウサギのぬいぐるみだった。郵便屋の制服を着てバッグを斜めがけにしているもので、子供のときの一番のお氣に入りだった。

「やだ。こんなの、まだとってあったの?」
「だって、あなたがとても大切にしていたんだもの。捨てられないわ」
「それは子供の頃だもの。心置きなく捨てちゃっていいわよ。それとも、私がセカンドハンドショップに持っていく?」

 そういうと、母親は残念そうに眺めていたがこう言った。
「喜ぶかもしれない女の子を知っているから、要るか訊いてみるわ」

 カリンは、それを覚えていたらいいけど、という言葉を飲み込んだ。足腰だけでなく、記憶力が衰え始めたために1人暮らしが困難になって施設に入ることになったのだが、それを指摘するのは残酷すぎる。それに、カリン自身の忙しい生活の中で、徒歩で10分以内の距離とはいえ常に観察し続けることは不可能だったので、ようやく施設に行くことを決意してくれてホッとしていたことへの後ろめたさもあった。

 ほぼ毎日のように様子を見にいっていた1人暮らしの頃と比較して、施設に入ってからはずっと楽になった。それでも、毎週、必ず訪問しているのは自分だけで、年に2回ほどしか訪問しない姉と弟についてズルいという想いを持つときもあったし、記憶を失って同じ言葉を繰り返す母親に苛つきぎみに返答してしまうことに落ち込むこともあった。

 たった1週間ほど前まで、それは終わりの見えない日常だった。それが突然に亡くなり、そんな風に解放されることは望んでいなかったと枕を涙で濡らす日々だ。

 思い出すのは、ここ数週間に交わした会話のあれこれだ。

「もうじき春が来るといいわ」
彼女は、訪れる度に同じことを口にした。そう言ったことを、20分後には憶えていなかった。

 昔は春が近づくと「もうじきカリンちゃんのお誕生日ね」と言っていた母親。成人してからはカリン自体が4月に楽しみにするのは復活祭の連休であって自分の誕生日には興味を示さなくなった。それでも、毎年祝っていてくれた母親が、物忘れがひどくなってからはそれも言わなくなった。

 彼女が春を待つ理由はなんだろう。私の誕生日は憶えていないし、でも復活祭は待っているのかしら。

「もうじき春が来るといいわ」
何度もそう告げる母親に、カリンはうんざりしたように答えた。
「そもそも冬なんか来なかったようなものじゃない」

 今年の冬はとても暖かかったので、1月にはヘーゼルナッツの花が咲いてしまったし、ダフネの花もクリスマスの頃からずっとダラダラと咲いていた。

 それでも母親は、窓の外を見ながら言った。
「でも、まだ外で散歩するには早いもの。春になったら……」

 カリンは、それで申しわけのない心持ちになって少し柔らかい言葉を使わなくてはと思った。

 母親がかつてのように外を出歩けないのは、寒い冬のせいではなくて、歩くのがおぼつかなくなっていたからだ。足がむくみ、それを改善するためにと、施設のケアマネージャーの指示で足には強めに圧力バンドが巻き付けられ、それの痛みと暑さで、彼女は以前にも増して室内で座って過ごすようになっていた。

 本を読み、編み物をする。施設の中で与えられた部屋の空間は十分すぎるほどに広いし、彼女はまったく不満を漏らさないけれど、だからといって彼女が幸せの絶頂にいると勝手に判断するべきではなかった。

 カリンはそれらの、たった2週間ほど前に心の中にあった逡巡を思い出して涙を流した。母親を大切に思う氣持ちと、苛立ちとを何度も行き来していたあの日々に、母親はその場に、この世界にカリンと共にいたのだ。

 今は、こんなに春めいている午後に、それをひたすら待っていた母親のいない部屋に立っている。

 家具を自宅の屋根裏へ運び、残っていた衣類や小さな電化製品などをセカンドハンドショップに引き取ってもらい、ほぼ何もなくなった部屋は、掃除をしてゴミと残りの小さな私物を運び出して、ケアマネジャーと確認するだけになっている。

 庭に通じるガラス戸を開けると、まだ眠っている庭の脇に、母親が鳥用に吊していたボール状の餌が見えた。そして、その横に小さなプラスチックの卵がつるしてあった。イースターエッグを吊すにはまだ早かったのにね。カリンは、また少し涙ぐんだ。イースターを待っていたんだね。

 ノックが聞こえたので、カリンは目許を拭って振り向いた。そこには、ケアスタッフのユニフォームを着た女性が立っていた。

「リエン……」
カリンは、その女性を知っていた。かつて母親の住んでいたフラットの隣人だったベトナム人だ。

「心からお悔やみ申し上げます。一昨日ベトナムから帰ってきて、昨日出勤したらマルグリットが亡くなったって聞いて、私ショックで」
リエンは、涙ぐんでいた。

「どうもありがとう。あなた、ここで働いていたのね。知らなかったわ」
カリンが言うと、リエンは頷いた。
「マイが学校に入ったので、去年の秋から働き始めたんです」

 カリンは頷いた。それから、不思議そうにリエンが手に抱えている袋からのぞいているものを見た。リエンは、頷いて中からウサギのぬいぐるみを取りだした。

「これ、マルグリットが、ここに入るときにマイにくれたぬいぐるみなんですけれど……」
「ええ。これ、昔は私のものだったの。母は、あのとき誰かにあげたいと言っていたけれど、マイのことだったのね」

「そうだったんですね。その、それで……」
リエンは袋からウサギのぬいぐるみを出すと、ウサギがしている郵便鞄のボタンを外して中を見せた。

「あ……」
そこには小さな封筒が入っていた。リエンは、それを取りだしてカリンに渡した。

「ごめんなさい。これに氣がついたのは、2か月前なんです。でも、ウサギをもらってから2年も経っているし、次に出勤するときにマルグリットに返せばいいかと思って、そのままベトナムに帰省しました。でも、昨日訃報を聞いて……。これはマイに宛てた手紙じゃないので、お返しした方がいいと思いました」

 カリンは震える手で封筒を開けて、手紙を読んだ。

カリンちゃん、7歳のお誕生日おめでとう。
あなたの健やかな成長と幸せを祈って、このウサギを贈ります。
ウサギのように元氣よく飛び回ってください。
好奇心いっぱいに世界を嗅ぎまわってください。
たくさん食べて、ぐっすり眠ってください。
そして、悲しいことや辛いことがあっても、次の朝にはすっかり消えてしまいますように。

パパとママより


 カリンは、リエンの前だということも忘れて泣いた。母親は、ぬいぐるみの鞄にこの手紙を入れたままにしていることを忘れて、ウサギをマイにあげたのだろう。

 カリン自身はこの手紙の存在は全く憶えていなかった。子供の頃は意味がよくわからなかっただろうし、わかっていたとしても今ほどの重みは感じなかっただろう。

 リエンは、号泣するカリンの背中をしばらく撫でていたが、やがて言った。
「このカードだけじゃなくて、もしかしたらこのウサギも、今のあなたに必要なんじゃないかと思って、持ってきました」

「だって、マイが悲しむんじゃないかしら?」
「いいえ。マイはほかにもたくさんぬいぐるみを持っていますから、大丈夫です」

 カリンは、礼を言ってウサギを受け取った。リエンが去った後、しばらく部屋の中で座っていた。

 自分の子供が成人するような年齢になって、大きなぬいぐるみを抱えることになるとは思わなかったけれど、今はたしかにこの温もりが必要だった。

 ぬいぐるみに顔を埋めると、長いこと忘れていた今はない実家の絨毯に転がったときと同じ香りがした。まだ子供で、自分も両親もこの世からいなくなるようなことが、まったく脳裏になかった幸福な時代。
 
 大切な人がいなくなり、何もなくなったがらんどうの部屋に、ウサギの郵便屋が遅くなった郵便を届けに来た。

 想いも絆も消えていない。ただ、遠く離れただけだ。これから幾度の春を、あなたなしで迎えることになるのだろう。その度に、私はこの手紙を読んではウサギを抱きしめるのだろう。

 カリンは、葬儀の日にうたった賛美歌を口ずさみながら、部屋の中に夕陽が入ってくるのを眺めていた。

また会あう日まで、
また会あう日まで、
神の守り
汝が身を離れざれ。

「賛美歌 405 かみとともにいまして」より



(初出:2023年3月 書き下ろし)

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Gott mit euch, bis wir uns wiedersehn
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Posted by 八少女 夕

【小説】藤林家の事情

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第9弾です。

山西 左紀さんは、もう1つ掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!


山西左紀さんの書いてくださった「ドットビズ  隣の天使」

今年2本目の作品は、「隣の天使」シリーズの1つです。といっても過去の作品とは直接関係がないようです。賭け事が大好きで世間的に見ると若干問題があるような行動の兄ちゃんと、世間の評価なんて全く意に介さない自分軸のはっきりした女の子の風変わりな関係が面白い作品でした。

この作品に直接絡む要素はなさそうでしたので、今回は単純に「周りが見ている関係は、本人たちにはどうでもいい」をテーマにちょっとあり得ない世界を書いてみました。


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藤林家の事情
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 暖かくなると、女たちも噂話の度に凍えなくて済む。今日のようにポカポカしているとなおさらだ。
「見てみて。山田さんのところの……」
「あ。本当だ、いい目の保養になるわねぇ」

 彼女たちが眺めているのは、半年ほど前に7階に越してきた若い男性だ。こざっぱりとした身なりで、すらりと背が高く、非常に整った顔立ちをしている。

「俳優なんですって」
「ああ、そういう感じね~。テレビには出ていなさそうだけど……」
「まあ、テレビでよく見るくらい売れていたら、ああいう方とは住まないわよね」

 意地の悪いクスクス笑い。それが半分やっかみだとわかっていても、彼女たちは山田淑子へ辛辣な評価をしてしまうのだった。彼らが引っ越してきた当初、同じマンションの住人たちの多くは2人が親子、まはた祖母と孫なのだと勘違いしていた。

 それを確認する、婉曲表現を交えた挨拶に、淑子はにこやかに答えたのだ。
「いいえ。ヒロキは私のパートナーですのよ」

 噂は瞬く間にマンション中に広まった。7階はもっとも広く日当たりのいい部屋のある階で、値段も高い。そこを建設中に2軒購入し、壁を取り去って大きな1軒にした人がいた。投資目的で買ったのか、しばらくは誰も入居しなかった。そこに入居してきたのが、そんな曰く付きカップルだったので、なおさら噂話の格好の餌食となったのだ。

 買い物の袋を持っているのは、常に「売れない俳優」ヒロキだ。淑子だけで外出する姿はあまり目撃されない。たいていヒロキが一歩下がって付き添っている。

 淑子の服装は、同年代の女性を考えると派手めだというのが、近所の女たちの評価だ。趣味が悪いというわけではない。だが、例えば紫だと薄紫などよりもはっきりとした京紫を使うし、柄も小花柄などは好まず、市松やウロコ柄、麻の葉といった幾何学紋様をアレンジしたものが多い。

「いやぁね、自分を客観視できないって。それに、あんなに若くて素敵な男性がお金目当て以外の理由で自分を選ぶとでも思っているのかしら」
「ほんっとよね。さっきも外でね、あの人、ちょっと派手めのお姉さんに因縁つけて追い返していたわよ」
「ああ、あれ、イケメンくんが連絡先きかれていたからよ。そりゃあ、真っ青になって追い払うでしょうね。おかしいわぁ」

* * *


「坊。何度申し上げたらわかるんですか。今年の減点はすでに6点ですよ。平均点がこのざまだと、来年も本家には戻れませんが、それでいいんですか」
部屋に戻ると、淑子は詰問をはじめた。

「ごめんよ、篠山。先週現れたばかりだし、またくノ一で接触してくるとは思わず油断しちゃったんだよ」

 この青年、山田ヒロキとは、世を欺く仮の名で、本名は藤林光之助という。忍法藤林家の跡取りであり、当主弦一郎の長男である。

 藤林家のしきたりとして、跡取りは都で一定期間の修行をしてはじめて認められることとなっている。修行期間中には、見聞を広め、当主にふさわしい知見を得ると同時に、仮想敵からの接触に正しく対処し、『三十三の宝』といわれる仮の宝物を1つでも多く守り抜くことが期待されている。

 つまり、やがて当主となる人物の修行と、全国の一族郎党に跡取りが当主としてふさわしい才覚の持ち主であることを明らかにするためのシステムである。『三十三の宝』を1つ1つ自力で取得した後に、それを修行期間中守り抜く事が要求される。

 一方、全国の一族郎党にとっては、修行中の跡取りが手にした『三十三の宝』を奪取することで、個人としての才能が認められ本家での要職につく絶好の機会であり、腕に覚えのある忍びが次々に跡取りの周囲に集まってくる。

 顔だけはいいものの、かなりぼんくら若様である光之助は、物理的攻撃だけでなく、すでに数回のハニートラップに引っかかっており、修行を始めて2年のうちに『三十三の宝』の9品を失っていた。

 また、年間の平均減点が10点を下回ることがなく、このままでは跡取りとして本家に戻れる可能性が限りなくゼロに近いと思われたので、急遽今年からお付きが変更となり、分家の篠山がサポートにつくことになったのだ。

 篠山を引っ張り出したということは、すなわち実権を握る前当主俊之丞が孫息子に対して絶望的な見解を持っていることを意味している。

 俊之丞は、忍び界では藤林家きっての名当主として知られていた。

 40年ほど前の跡取り修行期間は最低限の2年のみ、失点はたったの2点だった。歴代当主の総合失点がおおむね10点前後であることを鑑みると、それだけでも有能なことは証明されているが、『三十三の宝』も奪われたのはたったの1品だった。

 そして、奪ったのは他ならぬ篠山だった。

 藤林で篠山に何かを命じることできるのは、前当主俊之丞とその妻の壱子だけだと言われている。『鬼の篠山』と言われた亡き夫ですら、彼女の納得しない事を強制することは不可能だった。現当主である光之助の父親、弦一郎も篠山に連絡をするときは書状のみ、失礼だというので電話をかけることはしない。

「明日は、合羽橋に行きます。手順は、おわかりですね」
篠山は、光之助が冷蔵庫にしまおうとした薄切り肉のパックを目にも留まらぬ速さで奪った。ぼうっと顔を見てくる若者をじろりと睨むと、卵を取りだし、調理台の方に移動した。

「ええっと、なんか小刀を受け取るんだったっけ?」
光之助は、父親弦一郎から送られてきた指示の巻物を広げながら、ところで合羽橋ってどこだっけなどと情けないことを考えていた。

「韮山の雪割れ花入れ、です。なんのことだかおわかりですよね」
まず、炒り卵、それから甘辛く味をつけた薄切り肉にさっと火を入れて、絹さや、甘酢生姜とともに丼にしたものを食卓に運ぶ。

 ぼーっと座っている光之助は、首を傾げた。
「花入れってことは、陶器かな?」

 篠山が、さっと何かを投げた。頬杖をついている光之助の右手1センチのところで風を切って曲がると、それは回転して箸置きの上にきちんとおさまった。竹の箸だ。

「怖っ。怪我したらどうすんだよ」
「これっぽっちを避けられずに当主になれるとお思いですか。それに何度言ったらわかるんですか。ボーッと座っていないで、食膳を用意なさい」

 光之助は、とりあえず頭を下げた。
「すみません」

 子供の頃から甘やかされた彼は、いまだに怠惰な行動を取ってしまうが、これまでのお付きと違い篠山に楯突くと後でどれほどキツく指導されるかこの半年で十分に学習していた。

 手早く用意されたお吸い物も食卓に運び、自分も座ると篠山は冷たく光之助の無知を指摘した。
「韮山の雪割れといったら竹に決まっているんですよ。明日、行っていただくのは竹製品の専門店です」

「そんなもんまで『三十三の宝』に入っているんだ。竹の花入れなんてゴミみたいなもんじゃん」
「ゴミ……。千利休の愛用品ですが」
「えっ?」

「とにかく今回の品は小さくて奪いやすいので、十分に注意してください。受け取りに時間をかけすぎないこと。また、前回みたいに必要以上にキョロキョロしないことをおすすめします」

 光之助は、前回の失敗を反省しているようには見えなかった。篠山はため息をつきながら青年を見た。惚れ惚れするような美しい所作で吸い物の椀を手にしている。忍びとしては入門したての7歳児よりも使えない男だが、役者としての資質は十分すぎるほどにある。本人をよく知らなければ、「ものすごくできる男」「信じられないほどの切れ者」と勘違いさせるだけの立ち居振る舞いはできるのだ。

 これまでのお付きや身の回りの世話をしてきた者たちが、教育に失敗してきたのは、ひとえにこの青年の外見と中身のギャップに慣れることができず、結局は甘やかすことになったからだった。

 残念ながら、藤林家の当主たるものは、台本を覚えて堂々と振る舞えればいいというものではないので、俊之丞は篠山に頭を下げることになった。

 表向きは、跡取り修行中の光之助の世話をする老女という体裁を取っているが、実際には外で行動するときの警護ならびに任務のサポートに加えて、屋内では忍びとしての再訓練も行っていた。

* * *


 合羽橋は浅草と上野の中間に位置する問屋街の通称であり、さまざまな調理器具、食器、食品サンプルなど料理に関するものはなんでも購入できると評判で観光客にも人氣がある。専門店の数は170を超えると言われる。中には江戸時代からの老舗もあり、さらにその中の一部は藤林の系列一族が経営していた。

 竹製品専門店「林田竹製品総合店」の店主である林田もまた藤林の出身である。隣の食料サンプル店のポップな店構えに押されて、小さな竹製品専門店があることすら氣づかれないことが多いが、高齢の店主と地味な従業員ならびにパートの女性だけで回すのは難しそうなほど、店は奥に深く大量の商品を扱っている。

 光之助は指示書の通り、クレーマーを装って店主の林田と直接話すことになっていた。だが、パートの女性がやたらとにこやかに対応するので、うまく店主を呼び出すところまでたどりつかない。

 しかたなく篠山は店の影から吹き矢を使い、竹製の楊枝を光之助の尻めがけて拭いた。
「いででっ!」

 篠山の睨みに氣がついた光之助は、しかたなく再びクレーマーらしく振る舞い始めた。
「なんだよ。こんなところに楊枝が刺さったぞ。怪我するじゃないか。店主を呼んでこい」

 パートに呼ばれて奥から出てきた林田は、光之助の様子を見て、いかにも実直な老店主のように振る舞っていたが、そばに立っている篠山を見てぎょっとした。跡取り光之助が韮山の雪割れ花入れを受け取りに来ることは知っていたが、だれが付き人となっているかを知らなかったのだ。林田は、篠山の顔を知っている数少ない忍びの1人で、当然ながらすべての失態が当主に伝わることも即座に予測できた。

 急に用心深く奥に案内すると、従業員とパートにわざわざ用事を言いつけて奥に来られないようにした。篠山は、林田と光之助の入った部屋と、店の中間位置に立ち、花入れの受け渡しに邪魔が入らないように見張った。

「今後、氣をつけてくれよ!」
クレーマーの負け惜しみのような捨て台詞を言って光之助が出てきた。林田は光之助ではなく、篠山の顔を見ながらヘコヘコとお辞儀をして見送った。

 店を出る直前に、例のパート女性がにこやかに近づいてきた。
「またどうぞお越しくださいませぇ」

 その手が不自然に光之助の鞄に近づくのを察知して、篠山は再び吹き矢で楊枝を飛ばした。
「うっ」

 光之助は、もうここに奪取者が待っていたことに驚愕したようだが、篠山に目で促され、しかたなく店の外に出た。

 マンションに戻るまで、サラリーマン風の忍び2人と、女子大生を装ったくノ一を撃退せねばならなかった。光之助のあまりの警戒心のなさに呆れつつ、篠山はその夜再びこんこんと説教した。あいかわらず反省した様子は見られない。

「篠山って、若い頃からお祖父ちゃんと仲良かったの?」
光之助は前々からの疑問をぶつけた。

「俊ちゃんとは、入門以来ずっと一緒に訓練してきましたよ」
「へえ。その頃から、お祖父ちゃんは無双だったの? あれ、それとも篠山の亡くなった旦那さんの方が強かったんだっけ?」

 それを聞くと、篠山はふんっと鼻で嗤った。
「一番強かったのは、俊ちゃんでも、篠山でもありませんでしたよ。私が2番、2人はその下でした、常に」

「ええっ。そんな話、初めて聞いたよ。で、誰がもっとも強かったの?」
光之助は、身を乗りだした。

「壱ちゃんですよ」
あたりまえでしょうと言わんばかりに篠山は答えた。

「お祖母ちゃん?! まさか。だって、あの人、箸より重いものは持てないみたいな風情じゃないか」
光之助は腰を抜かさんばかりに驚いた。

「壱ちゃんは、どうしても俊ちゃんと結婚したかったので、俊ちゃんの好みに合わせた振る舞いをしているだけで、本当はわが一族で一番強いんですよ。俊ちゃんも、壱ちゃんが化けていることは重々承知で、当主として一族をまとめるのに壱ちゃんの協力がどうしても必要だったから騙されたフリをしていたんだと思いますよ」

 光之助は、少し口を尖らせていった。
「なーんだ。じゃあ、僕だってこんなに苦労して修行しなくても、できるお嫁さんをもらって、何とかしてもらう方がよくない?」

 篠山は、頭を抱えた。
「いいですか。くノ一は裏方にされることに慣れています。それは男の忍びも同じで、表だった成功は必ずしも求めません。でも、その分仕える相手に対してはシビアなんですよ。顔だけよくてもあなたみたいな無能に、壱ちゃんクラスのくノ一が惚れ込むわけないでしょう」

 光之助は、わずかに目を宙に泳がせた。周りにいくらでもいるくノ一たちは、そういえば誰も彼に惚れてくれなかった。近づいてくるのはハニートラップばかり。ま、でも、もしかしたら全国のどこかには、そういう物好きもいるかも知れないよなあ。

 坊は明らかにわかっていないようだと目の端で捉えた篠山は、今後を思って深いため息をついた。

(初出:2023年3月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】モンマルトルに帰りて

scriviamo!


今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第8弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった 『ソリチュード ~La Route semée d’étoiles~』 

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、古事記と日本書紀に見える衣通姫伝説を下敷きにした古代ミステリー『挿頭の花 -衣通姫伝説外伝- 』。もともとの記紀にある人物がみなさんアレなので、もちろんものすごい展開なのですが、そのシチュエーションの中で胸キュンの純愛を織り込むという離れ業に感心しながらドキドキ読ませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。

さて、『花心一会』ワールドの若い(むしろ若すぎる)家元誕生の成り行きが明かされた今回のお話、ストーリーからいったら当然のことながら華道に対する知識がとても大切なポイントになっているのですよ。お返しを書き始めて困ったのがこれでした。私、全然わかっていない……。

なのにあえて火中の栗を拾いにいってしまいました。以前ヒロインの方のお家元がたった1人のために生ける『花心一会』をなさる様子を勝手に書かせていただいたことがあるのですが、今回はお母様にも無理やりです。ああ、玉砕しそうな予感。でも、レネがメインだから、逃げ切れるかな……。うう、ごめんなさい。


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【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物

大道芸人たち・外伝




大道芸人たち・外伝
モンマルトルに帰りて
——Special thanks to TOM−F-san


「やっぱり迷惑なんじゃないかなあ……」
「いや、連絡したときにはそんな感じじゃなかったって」

 ここに来るまでに、3回は繰り返した問答を、レネと稔はもう1度した。稔は、つい1週間ほど前に訪れたアトリエの呼び鈴を鳴らした。

 中から現れた水無瀬愛里紗みなせありさは、涼しやかな微笑みで2人を中に招き入れた。

 今日の装いは落ち着いた紫の絞り小紋に、蒲公英の柄が微笑ましい濃い緑の名古屋帯。この色の組み合わせは早蕨襲、春を感じさせる。そうか。もう3月になったんだっけ。

「お忙しいのに、無理なお願いを聞き遂げてくださり感謝します。彼が、電話で話したレネ・ロウレンヴィルです」
「マダム・ミナセ、はじめまして。どうぞよろしく」
「どうぞよろしく。そんなに恐縮しないでくださいね」

 そこは、パリの真ん中にあるというのに、東京以上に日本を感じさせる空間だ。

 日本ブームがヨーロッパに広がってから、各地でそれらしい和室を目にしてきたが、畳が正方形だったり、障子の桟が白く塗られた合板だったりと、どこか「なんちゃって」感を否めない和室が多かった。そうした和室は、スーパーで売られる「SUSHI」と同じ香りがした。サーモンとアボカド、またはやけに鮮やかなトビコの安っぽさを眺める度に、「日本はそこまで近くはない」と感じ、かつ自分の方が日本を知っているのだとつまらない自負心を満足させるのだ。

 だが、このアトリエには、稔が逆立ちしても叶わない日本文化の真髄が感じられた。

 小上がりの座敷には、きちんとした炉が切られている。窓はわざわざ円窓にしてある。

 この部屋を維持するのがいかに大変か、稔はよく知っている。日本にいれば電話一本で畳屋が来てくれるし、障子が破けてもホームセンターに行けば簡単に新しい障子紙を購入できる。梅や桃、桜や椿などもさほど苦労せずに入手できるだろう。極上の茶や主菓子も同様だ。

 だが、ヨーロッパで、これだけの完璧な日本を維持するのは、並大抵のことではない。もちろんパリは大都会なので、日本人のネットワークを使えばそれは可能だろう。でも、この人は、日本人会などで同国人と固まっているタイプには見えない。まあ、俺には関係ないけれど……。

 煎茶とともに小ぶりの大福餅が出てきた。和菓子の大好きなレネの顔が喜びに輝いたのを見て、稔は「本題を忘れるなよ」の意味を込めて肘で小さくつついた。

「それで、私に作ってほしいというのは?」
本題は、彼女の方から切り出してくれた。

「先日、ここにお伺いした日に、水無瀬さんのことを特別な人のための特別な花を生けるプロだって説明したんです。そしたら、彼が花をお願いできないかって……。ただ、俺はうまく訳せなくて英語でフラワーアレンジメントって言ってしまったので、生け花との違いも説明していただけると助かります」
そう言って稔は、レネに顔で続きを促した。

「ある女性のためにブーケかアレンジメントを作っていただけませんか」
レネが頼んだとき、愛里紗の顔にはなんとも微妙な表情が浮かんだ。おそらくそれは、この異国で先入観と無知に彼女の華道がフラワーアレンジメントと混同されたときの一瞬の抵抗なのかもしれないと、稔は思った。

 愛里紗は、けれど、レネの頼みを簡単に断るようなことはしなかった。
「大切な女性への花なのかしら?」

「はい」
稔は「ふうん」という顔をした。ヤスミンはここに来ていないとはいえ、義理堅く一途なブラン・ベックがわざわざ特別な花をねぇ。

「承るかどうかを決める前に、どんな目的なのかを訊いても差し支えないかしら?」
愛里紗は、英語で話し続けている。レネとだったらフランス語で会話した方が早いだろうに、稔が同席しているのでそうしているのだろう。

「もちろんです。僕はここにいるヤスたちと出会って大道芸人として暮らし出す前は、ここパリで暮らしていました。その時に出会った女性です」
レネはゆっくりと語り出した。

 レネにとって、パリの日々にはつらい記憶が多い。手品師の専門学校を終えて希望を持って花の都に上がってきたものの、ショーの花型になるどころかまともな稼ぎを得ることすら難しかった。

 モンマルトル界隈のナイトクラブを転々として、はじめはホールスタッフと変わらぬ扱いを受けた。ようやく前座としてマジックショーを披露できるようになるまでは数年かかり、その間にもいろいろな人に利用されたり出し抜かれたりしながら、いつかは手品だけで食べていける日を夢見て暮らしていた。

 恋もした。もともとはホールスタッフとして勤めだしたジョセフィーヌが、レネのアシスタントとして一緒にショーに出演することになってからは、彼女に夢中になった。

 ええっ。その女かよ。稔は話を聞きながらぎょっとした。そいつ、ライバルに寝取られた同棲相手だろ?

「お花を贈りたいのは、その方?」
愛里紗が、口をはさむと、レネは首を振った。

「違います。彼女に、僕は夢中だったけれど、ジョセフィーヌはこの街で僕の味方になってくれた人ではなかった。それはエマだけだったと、今になって思うんです」

「エマ?」
稔は思わず訊いた。一度も聞いたことのない名前だったから。

 レネは、頷いて彼のパリでの物語を続けた。

 ムーラン・ルージュをはさんで、レネの勤めるナイトクラブとちょうど反対ぐらいの距離に小さい煙草屋があった。そこには店の染みのような小さな老婆がいて、いつもなにかに対して文句を言っていた。

「この頃の政治家ってのはなってないね。きれいな顔をして偽善的なことを口にすればまた当選するとでも思っているのかね」
「あんたの横柄な態度になぜこのあたしが我慢しなくちゃいけないのさ。嫌なら2度とこの店に足を踏み入れなければ良いだろ」
「あんたは母国がサッカーに負けたからって、周り中に当たり散らす権利なんかないんだよ」
「禁煙がトレンドだって? ひとの商売の衰退をわざわざ告げに来るとはいいご身分だね」

 それがエマだった。

 レネは煙草の類いは何も嗜まないので、この店に入るときはチョコレートを買うときだけだった。他の店にはない故郷プロヴァンスの小さな工場で作っている銘柄がこの店にはあったのだ。

 レネにとって忘れられない思い出がある。

 それは、パリを去った夏のことだ。ナイトクラブからクビを言い渡されたレネは、とぼとぼと帰り道を歩きながら、故郷の懐かしいチョコレートで心を慰めようとエマの煙草屋に入った。

 レネは、思わず涙をこぼした。今日の午後、買い物から帰ってアパルトマンのドアを開けたら、なぜか同じナイトクラブで働くラウールが、ジョセフィーヌとベッドの上にいた。それだけでもショックなのに、出勤した途端にオーナーから彼のマジックショーは、今後ラウールとジョセフィーヌがやるのでお前はもう来なくてもいいと宣告されてしまったのだ。

 自分の要領がよくないことはわかっていた。ラウールが優れた容姿で客たちから人氣があることもわかっていた。でも、真面目に精一杯生きてきたのに、こんな風に何もかも取りあげられたのかと思うと、やるせなくて涙が止まらない。

 エマは「商売の邪魔になるから泣くな」などとはいわなかった。レネが落ち着くまで待って、話を聞いてくれた。今になって思えば、この街で、レネが自分の弱さや悲しみを吐露できたのは、これが初めてだった。

「あの雌狐なら、そのくらいのことをしても不思議じゃないと思うね。だから何度もいっただろ。あの娘には温かい血が流れていないって。あんたがこのチョコを勧めたとき、小馬鹿にしてそっちの大量生産のチョコをわざわざ買ったことがあったよね。人の思い出を踏みにじるようなヤツは、どんなに見かけがよくても中身は爬虫類と一緒だ」

 レネは、それを聞いてよけい強く泣いた。ジョセフィーヌが、彼の故郷のあらゆる物を馬鹿にしていたことを思いだした。見下されていたのは彼の生まれ故郷ではなくて、彼自身でもあったのだと思うと情けなくて逃げたしたかった。

「仕事も恋人もなくなって、僕はどうしたらいいんだろう」
また1からこの街で手品をやらせてくれる場を探すかと思うと、レネは心から途方に暮れた。

 エマは冷徹にも思える調子で言い放った。
「そもそもこの街はあんたみたいな弱くて純なヤツには向いていないんだよ。ここを離れるのが一番だ」

 レネは言葉を失った。ようやくパリに慣れてきたと思ったのに。少し間を置くと、おずおずと言った。
「でも、どこにいったら……?」

 エマは、少し温かく思える調子に変えてゆっくりと言った。
「南へお行き。あんたの故郷のプロヴァンスでも、もっと南の地中海でも、どこでもいい。ただし、ニースみたいなスノッブでおかしな人間の集まるところに行っちゃダメだ。広くて、大地に足をつけて人びとが助け合いながら生きている土地に行くんだ。最初にいったところにはいなくても、どこかには必ずいる。それを探すんだね。あんたの正直で優しい心持ちを大切にしてくれる輩がね。それを見つけたら、それがあんたのいるべき土地さ」

 稔は、思わずレネの顔を見た。レネは、稔の目を見返して、はにかみながら笑った。

「その通りになったのね」
愛里紗が問う。

「はい。僕は、コルシカでこのヤスに会いました。それから、他の生涯の友達にも」

 エマの直接的でお節介なアドバイスが、あの時レネをコルシカ島に向かわせた。悲しみに押し潰れることなく、新しい人生を探すための必要な背中のひと押しをしてくれたのは、店の染みのような小さな老婆だった。

「わかったわ。その方へ捧げるお花、ぜひ私に作らせてちょうだい」
愛里紗が微笑んだ。

「ありがとうございます、マダム」
レネが前のめりで礼を言う。

「でも、1つだけ確認したいの。西洋で作るいわゆるフラワーアレンジメントは、全方向から見られることを意識して作るものだけれど、日本の生け花というのは、たった一つの方向から見ることを想定してデザインするものなの。その方がどのように受け取るかのシチュエーションは決まっていたら教えてほしいわ」
愛里紗が訊くと、レネははっとして、1度下を見てからふたたび愛里紗の目を見据えた。

「正面は……どういえばいいのか。墓石の上に載せるので……。彼女はモンマルトル墓地に眠っているそうですから」
その言葉に、稔と愛里紗が同時に息を飲んだ。

* * *


「エマ・マリー・プレボワ ここに眠る」
小さな墓石は、必死で探さないと見過ごしてしまいそうだった。エドガー・ドガ、モーリス・ユトリロ、エミール・ゾラ、アレクサンドル・デュマといった錚々たる有名人の墓は大きく立派だが、そのモンマルトル墓地には、地域の一般人も埋葬される。

 まだ、春といっても早いので、陽光は弱く柔らかい。周りの木々には膨らんだ芽はあるが若葉が現れるにはまだしばらくかかるだろう。

「お。来た来た」
稔が手を振ると、かなり向こうから蝶子とヴィルがこちらに向かってくる。

「ごめん。私たちが先につくぐらいだと思ったのに」
「探していた墓は、見つかったのか? ランパルだっけ?」
「ええ。せっかくここに来るんなら、お詣りしたくてね」

 フルートの名手であったジャン・ピエール・ランパルも、モンマルトル墓地に眠っている。そういえば、ブラン・ベックはハイネの墓の場所を探していたから、後でそこに行くんだろうな、と思った。

「それが、例の日本人に作ってもらった花か」
ヴィルが珍しく明らかに感銘を受けたとわかる顔つきで訊いたので、稔はそうだろうなと思った。

 レネは頷いた。手にしているのは半球型に盛られた、花かごだった。といっても花器として使われている籠は苔山で覆われほとんど見えない工夫がしてあり、まるで何もないところに偶然にも木や草花が育ったかのように見える。

 1度左に向かってから弓なりに右に向かう盆栽のような枝振りの木はミモザだ。黄色い花が力強く明るく咲いている。そして、根元に絶妙なバランスでいけられたのは、フランス人のこよなく愛する『田舎風シャンペトルブーケ』でよく使われるカヤ、ユーカリ、コバングサなどだ。それらとともに、薄紫と若緑の野の花を思わせる花々が絶妙なバランスで配置されている。

 レネがその籠を墓石の上に置くと、まるで彼女の墓から草花が遅い春を待てずに萌えだしたかに見えた。

「すごいわね。ここまでフランスっぽい素材だけを使っているのに、これはフラワーアレンジメントじゃなくって華道だってわかるように作れるものなのね……」
蝶子が感心してつぶやいた。

 亡き人を悼む草花は弱い風にそよいでいる。

 レネは、眼鏡を取ると涙を拭った。エマの声が蘇ってくる。
「くよくよするんじゃないよ。あんたが悪いんじゃない。今のめぐり合わせとの相性が悪いだけさ。あんたにふさわしい居場所はきっとあるからね」

(初出:2023年3月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】仙女の弟子と八宝茶

scriviamo!


今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第7弾です。津路 志士朗さんは、オリジナル掌編で参加してくださいました。ありがとうございます!

志士朗さんが書いてくださった「女神の登場はアールグレイの香りと共に。」

志士朗さんは、オリジナル小説と庭とご家族との微笑ましい日々を綴られる創作系ブロガーさんです。代表作の『エミオ神社の子獅子さん』がつい先日完結したばかりです。派生した郵便屋さんのシリーズで何度かあそばせていただいていますよね。

今回書いてくださった作品は、スーパーダーリンならぬスーパーハニーをテーマにしたハードボイルド。とても楽しい作品で一氣に読んでしまいました。

お返しですが、あちらの作品には絡めそうもないので、全く別の作品を書いてみました。テーマは志士朗さんの作品同様スーパーハニーです。ただし、中国のお話、お茶ももちろん中国のもの。下敷きにした怪談は「聊斎志異」からとってあります。


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【参考】
今回の作品とは直接関係はないのですが、今回登場した紅榴を含む空飛ぶ仙人たちの登場する話はこちらです。
秋深邂逅
水上名月




仙女の弟子と八宝茶
——Special thanks to Shishiro-san


 朱洪然は福健のある村に住む若者で、童試の準備をしているが、後ろ盾もなく、また際だった頭脳もないため受かる見込みはない。妻の陳昭花は家事、畑仕事に加えて、近所の道士の手伝いまでして朱を支えていた。

 いつものように朱が昼から酒などを飲みながら、桃の花を眺めて唸っていた。
「桃の灼灼たる其の華……」

 陳氏は部屋をきれいに拭きながらその声を耳にしたので、通り過ぎるときに訂正した。
「桃の夭夭たる 灼灼たり其の華 之の子于き帰ぐ 其の室家に宜し」

 それを聞くと、朱は顔を真っ赤にして怒り、盃を投げ捨てると「こんな邪魔の入るところで勉強はできない」と叫び、出て行ってしまった。妻の陳氏の方が優秀だという近所の噂に苛ついていたからである。

 田舎ゆえ、近所に知られずに昼から酒などを嗜める店はない。やむを得ず、どこかで茶でも飲もうと道をずんずんと進んだ。

 しばらく行くと村のはずれにこれまで見かけなかった茶屋があった。新しい幟がはためいているが、誰も入っていないようだ。朱は中を覗いた。

「おいでなさいませ」
出てきたのは、皺だらけの老婆で、あけすけなニヤニヤ笑いをしている。

「ここは茶屋か。何か飲ませろ」
横柄に朱が命じると、婆はもみ手をしてから茶を持ってきた。

 それは、水の出入りのない沼のようなドロドロの黒緑色をしており、生臭い。朱は、茶碗を投げ捨てると、つばを吐きかけて地団駄を踏んだ。
「こんなひどい茶が飲めるか。なんのつもりだ!」

 婆が、茶碗を拾ってブツブツ言っていると、奥から衣擦れがして女が出てきた。立ち去りかけていた朱は、思わず立ち止まってそちらを見た。

 それは沈魚落雁または閉月羞花とはかくやと思われる美女だった。烏の濡れ羽のような漆黒の髪を長くたなびかせ、すらりとした優雅な柳腰をくねらせて茶を運んできた。

「このお茶をお飲みになりませんか。とても喉が渇いているんでしょう? あたくしが、手ずから飲ませてさし上げましてよ」

 婆の持ってきた茶とほとんど変わらないものだったにもかかわらず、朱は女に飲ませてもらえるのが嬉しくて、座って頷いた。

「この茶は水莽草すいぼうそうのお茶なんです。お勉強に明け暮れている貴方なら、何のお茶かわかりますわよね」
女は嬉しそうに笑うと、なんのことかわからないでいる朱の口にまずくて苦い茶を流し込んだ。

 女は、代金も取らずに朱を送り出した。ぼうっとしたまま家に戻った朱は、玄関でそのまま倒れてしまった。

老公あなた、いかがなさいましたか」
妻の陳氏が、あわてて出てきた。

「なんだかわからんが、水莽茶とやらを飲んでから、具合が悪い」
そういうと、そのまま息を引き取ってしまった。

 陳氏は、朱と違い水莽草が何を意味するのか知っていたので驚いた。

 この毒草を食べて死ぬと水莽鬼という幽霊になってしまい、他の水莽鬼が現れないと成仏できない。それで、水莽鬼は生きている人に水莽草を食べさせようと手を尽くすのである。

 陳氏は、急ぎ夫の亡骸を寝かせると、鬼にならないように御札を貼り、急ぎ馴染みの道士の元に急いだ。

「どうした、小昭花」
慌てて入ってきた陳氏を見て、道士は訊いた。

 かなり赤みの強い髪をしたこの人物は、数年前からこの庵に住み修行をしていることになっている。身の回りの世話に通う陳昭花の他には付き合いもないので知られていないが、実は単なる道士ではなく天仙女である。

「紅榴師、どうぞお助けくださいませ。夫が水莽鬼にされてしまいます」

 紅榴は、片眉を上げた。
「村はずれの水莽鬼に化かされたのか。お前のような立派な妻がいるのに、全くなっていないな、あの者は。もう、見限ってもよいのではないか」

「そうおっしゃいますが、それでもわが夫でございます。なんとかお助けいただけないでしょうか」
昭花は床に額をこすりつけて願った。

「しかたない。あの男を助けてやりたいとはみじんも思わぬが、お前が氣の毒ゆえ助けてやろう」

 そう告げると紅榴は陳昭花に墨書きの札をいくつか授けた。深く抱拳揖礼をしてから札を受け取った昭花は、そのまま夫の元に戻ろうと戸口を出ようとした。

「待ちなさい。これも持っていくとよい。あちらが茶で人を取り込むのならば、こちらも茶で対抗せねばな」
紅榴は、笑うと最新の愛弟子に包みを授けた。

* * *


 陳昭花が家に戻ると、そこは瘴氣で満ちていた。見ると家の中には夫の亡骸だけではなく、老婆と若い女の幽鬼がいる。殺した男を水莽鬼に変えようと長い爪で朱の亡骸の上を引っ掻いていた。

 見れば、昭花が貼った鬼除け札はほとんど剥がされている。紫の顔をした夫も、胸をかきむしり御札を剥がそうとしていた。

「悪鬼ども。わが夫より離れよ」
昭花は剣を構え、鬼女たちに斬りかかる。

「こざかしい女め。人間の分際で我らに敵うと思うのか」
老女は、白髪を逆立て、血走った目に蛇のような舌をちらつかせて長い爪で昭花の喉を切り裂こうと飛びかかってきた。

 昭花は、紅榴元君の元で何年も修行しただけあり、軽々とそれを避けて後ろに飛び上がった。

 師が授けた封印の札を投げつけると、それは若い鬼女の口を塞ぎ、瘴氣が漏れてこなくなった。瘴氣は鬼女自身にも仇をなす毒を持つらしく、若い鬼女の動きが止まった。

 昭花は、老女にも御札を投げつけたが、こちらは長い爪でビリビリに裂いてしまった。老婆は高らかに笑うと、昭花に向かって飛びかかってきた。

「ぎぇ!」
瞬時に振り下ろされた昭花の剣が鬼婆の長い爪を切り取った。それこそがこの幽鬼の瘴氣の源であったので、瞬く間に老婆は干からびて、干し魚に変化して床に落ちた、

「おのれ、母上に何をする!」
ようやく御札を取り去って自由になった若い美女だった鬼が、姿を変えた。漆黒の髪は束になって持ち上がり、それぞれが毒蛇に変わった。口は耳まで広がり、獣のような牙がいくつも剥き出しになった。

 見るも恐ろしい鬼女だったが、昭花は臆さずに剣を構え、襲いかかってくる毒蛇を一匹ずつ切り落としていった。

 最後の蛇が落ちると、鬼女も断末魔のうめきをあげながら足下に倒れ、そのまま薄氣味悪い染みを残して消え去った。

 昭花が夫を見ると、紫色の顔をした水莽鬼として蘇った朱は、ガタガタと震えながら妻を見ていた。

老公あなた、これでもこの女の方がよろしゅうございますか」
昭花が訊くと、朱は首を横に何度も振った。

「美しい女だと思ったのに、あんなバケモノはごめんだ。助けてくれ。そんな物騒なもので、俺を斬らないでくれ」

「さようでございますか。では、私の淹れるお茶を飲んでくださいますか」
昭花は、水莽鬼としての瘴氣すら醸し出せぬ夫に詰め寄った。

「先ほどの茶みたいな、まずいものは飲みたくない」
朱はうそぶいた。

 夫の言い分には全く耳を貸さず、昭花は紅榴にもらった包みを開けて中の茶をとりだした。湯の中に入れると、それは白い菊のような花、龍眼、クコの実のほか、貴重な薬草を惜しげなく使った八宝茶だった。

 昭花に助けられて、その茶を飲んだ朱は、激しい咳をした。そして、水莽草の塊が口から飛び出してきた。蛇のように蠢くそれを、昭花は剣ですかさず斬った。

 しばらくすると、朱の顔色は普通の肌色に戻ってきて、そのまま彼は失神してしまった。直に大きないびきをかきだしたので、昭花には夫が人として息を吹き返したことがわかった。

 悪鬼どもの屍体や水莽草の残骸を片付け、部屋を浄めていると、どこからともなく紅榴が入って来た。

 大いびきをかいて寝ている朱を呆れたように眺めると、ため息をついていった。
「小昭花。そろそろこの男に愛想を尽かしてもいいのではないか。妾は間もなく泰山に戻る心づもりだ。そなたが望むなら連れて行くぞ。向こうで心ゆくまで修行して化仙するとよい」

 昭花は、師の言葉を噛みしめていたが、やがて言った。
「たいへん心惹かれるお言葉ですが、今しばらく夫に従うつもりでございます。また次にこのようなことがございましたら、その時は私も人としての契に縁がなかったと諦め、修行に励みたいと存じます」

 紅榴は頷いた。
「ならばしかたない。では、次にこの男が問題を起こしたら、潔く捨てて妾のもとに来るのだぞ。お前には見どころがあるからな」

 そのことがあってから数ヶ月は、朱が柄にもなく試験の準備に心を入れたと噂になった。だが、その後、酒に酔って村長の妻に言い寄ったためにひどく打ち据えられてから牢に入れられた。

 朱が半年後に牢から出てきたときには、家に妻の陳氏はいなかった。きれいに浄められた家には女が住んでいた痕跡は残っていなかった。朱の物を持ちだした様子はなく、金目のものも一切なくなっていなかった。

 卓の上には、いま淹れたばかりのような熱い八宝茶があった。陳氏の行方を知るものはいない。

(初出:2023年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】黒い貴婦人

今日の小説は『12か月の建築』2月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマ建築は、カンボジアのコー・ケー遺跡です。同じクメール王朝による遺跡群ではアンコール・ワットやアンコール・トムの方が有名なのですが、もう少し見捨てられた感の強いマイナーな遺跡を探してここにたどり着きました。もちろんフィクションです。お間違いのなきよう。(そんなの当然って?)

なお、後半に登場したアメリカ人傭兵は『ヴァルキュリアの恋人たち』シリーズで『ブロンクスの類人猿』よばわりされている人ですが、まあ、誰でもよかったので出しただけで意味はありません。それにこの話もまたしてもオチなしです。すみません。


短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む 短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む




黒い貴婦人

 香木の燻された煙が、湿った空氣に溶け込んでいく。ひどい頭痛のように感じられるのは、実際には痛みではなく、途絶えずに鳴り響く蝉の声だ。リュック・バルニエ博士は、ことさら神妙な顔をして老女を見つめた。

 スレイチャハと呼ばれるこの醜い女は、シヴァ寺院の神官のような役割をしている。他の村民たちの絶対的な信頼を受け、この女が頭を縦に振らなければ、リュックの計画している保護計画を進めることは不可能だ。

 村の長老と占い師の中間のような立場なのだろうが、中世フランスであれば、真っ先に薪の上に載せられて火をつけられたであろうと、リュックは表情に出さないように努めながら考えた。

 ヒンドゥー教に改宗するつもりはまったくないが、それでも村民たちとともに煙をくゆらす細い香木を捧げ、リュックは恭しくスレイチャハに寺院の内部に散乱する神像の破片を持ち出すことの許可を願い出た。

 コー・ケー遺跡は、カンボジアの一大観光地シェムリアップの北東120キロメートルに位置する遺跡群だ。80平方キロメートル以上の保護域の中に180を超える聖域が発見されている。そのうち、観光客が立ち入ることを許可されているのは20ほど、残りは深い熱帯雨林に埋もれ実態もいまだつまびらかになっていない。森には地雷の危険もあり調査は遅々として進まない。

 10世紀の終わりにたった16年ほどクメール王朝の都とされたこの地は、当時はチョック・ガルヤ、またはリンガプーラと呼ばれていた。リンガは男性器を意味する石柱でシヴァ神の象徴だ。コー・ケーはアンコール遺跡群と違い、仏教と習合していない純粋なヒンドゥー教寺院だ。アンコール王朝7代目の王ジャヤーヴァルマン4世が出身地に遷都し、息子のハルシャーヴァルマン2世と共にこの地にヒンドゥー教を中心とする王都を作った。

 アンコール王朝は、遺跡に見られる穏やかな微笑みとは相容れぬ王位簒奪と混乱の繰り返しで成り立っていた。簒奪者は実力で王位を手にすると、前国王の王妃や王女と結婚することでその正当性を主張したが、その度に己の実力を誇示し威光を確実なものとするために壮大な寺院を中心とした華麗な王都を建設した。

 コー・ケー遺跡もまた、かつてはヒンドゥー教世界の乳海を模した巨大な貯水池バライ「ラハール」周りに世界の中心である須弥山を模した巨大なピラミッドを持つプラサット・トム寺院をはじめとして、数多くの壮大な寺院を配置し、「ラハール」の水を使った灌漑農業で栄えていたという。

 だが、再び遷都されて王権が届かなくなった後は、次第に廃れて忘れられていった。盗掘や、自然の驚異による破壊だけでなく、15世紀以降にシャム王朝に併合されてからの破壊、また、西欧諸国の植民地時代の美術品の無計画な持ち出しによって、遺跡はかつての詳細な状態がわからないまでに荒廃した。

 彼らの祖先が大切に守ってきた寺院は仏教を信じる異国出身の王に破壊され、大切な神像もハイエナのような西洋人たちに持ち出され、狂信的なクメール・ルージュに打ち壊された。そして、荒廃した寺院の中を熱帯の植物たちが根や枝を蛇のようにくねらせて打ち砕いていく。

 コー・ケー遺跡に限らず、カンボジアのクメール王朝による遺跡には謎が多い。これほど壮大で精巧な遺跡を短期間で作るには高度な技術者と多くの建設に関わった人間がいるはずだ。一説によると当時は35万人もの人びとが現在のアンコール遺跡群のあったあたりに住んでいたはずだという。

 だが、そうした高度な文明の担い手たちは、どこへいってしまったのだろう。

 ここコー・ケー遺跡でも、神々を拝む人びとは、神殿を覆い尽くす熱帯雨林の浸蝕から彼らの神像や神殿を守ることができない。つい最近まで内戦があり、文化遺産の保護どころか治安維持すらままならぬ状態だったカンボジアでは、政府とともに保護活動を進めているのは「アンコール世界遺産国際管理運営委員会」を中心とした国際的な支援チームだ。

 リュックは、子供の頃にアンコール・ワットを紹介するテレビ番組でクメール王朝のことを知った。そして、残された仏像や王の肖像の微笑みに魅せられた。なんと謎めいた美しい微笑みだろう。それが今日の専門へと導いたのだ。これらの遺跡を破壊から守り、謎を解き明かしたい。若き学者として、彼は志を持ってこの地に赴任した。

 西欧の先進的な技術とメソッドは、自分の情熱とともに、きっとこの国の文化遺産をあるべき姿に戻すのに役立つ。そう考えて彼は仕事に臨んだ。だが、実際に赴任してみて、彼の尊い仕事がさほど簡単に進まないことや、ものごとがそれほど単純ではないことにも氣づきはじめた。

 クラチャップ寺院やクラハム寺院の修復のためには、一度倒壊した神像を搬出して工房で修復する必要がある。だが、世界遺産保護プロジェクトが国の許可を得て遺跡の一部を移動させることは、住民たちにとっては神を盗み出すことと見做されることもある。

 リュックは、スレイチャハや村民たちがよそ者を信頼していないことを感じていた。遺跡を守りかつての威容を再現するための修復だと説明しても、信頼できない。かつて、彼らの神は「国を支配する者」によって否定され完膚なきまでに破壊された。熱帯雨林には多くの地雷が埋められ、人びとはいまだに恐怖と背中合わせで生きている。

 スレイチャハは、平たく潰したような口調で呪文を唱え、丁寧に細い香木をリンガに備えた。それは根元から折れてしまっており、台座であった部分にもたせかけるように安置してある。

 ニエン・クマウ寺院。その名は『黒い貴婦人』を意味する。塔の表面がおそらくは山火事で焼かれて黒くなっていることに由来するといわれている。だが、もしかしたら山火事ではなくてクメール・ルージュ撲滅の焦土作戦で焰に晒された結果なのかもしれない。

 リュックが、コー・ケー遺跡の調査に初めて参加したとき、前任の調査員は「ここは奇跡的に破壊を免れた」と説明した。だが、本尊であるリンガがこのように無惨な状態になっているのを「破壊を免れた」と表現することには疑問が残る。

 このリンガを修復のために搬送することが最終目的だが、今日のところは散在する神像の破片の搬出に同意してもらい、信頼関係を築きたい。それに同意してもらうのもまた一苦労だ。

 既に政府の主導する学術保護チームがプラサット・ダムレイやその他の遺跡群から瓦礫と区別もつかずにいた女神像やヤマ神像などを搬出し見事に復元したのだが、それらは現在博物館で展示され、倒壊を待つようなコー・ケー遺跡には戻されていない。その意味を理解してくれる住民たちもいるが、少なくともスレイチャハとその信奉者たちは、西洋人たちが政府と結託して彼らの神を盗み出していると感じているようだ。

 ものすごいスピードで育つガジュマルやその他の植物、氣の遠くなるような湿氣、どこにあるかわからない地雷の数々。彼らの祖先の作った文化遺産を守るためには、早急に修復が必要だ。スレイチャハらが忌み嫌う観光客たちは、そのための費用を生み出す金の卵でもあり、修復した神像をクーラーの完備した博物館で展示することにも意味がある。そう伝えても、彼女らは決して納得しない。

「それで、次の修復ですが……」
片言のクメール語を使い、スレイチャハに話しかけようとすると、老女はそんな声などどこにもしなかったかのごとく無視した。そして、後ろの方を見て「トゥバゥン」と言った。

 すると、信奉者である男たちを搔き分けてひとりの女が寺院の中に入ってきた。リュックは息を飲んだ。この辺りの村で、今まで1度も見たことのなかった女だ。若く、漆黒の美しい髪を後ろに長く伸ばしており、金糸の多い紫の上着と黒い長いスカートをはいている。そのスリットからしなやかで長い足が歩く度にリュックの眼を射る。

 観光客に清涼飲料水を売りつけたり、村で農作業に明け暮れている類いの垢抜けない女とは明らかに一線を画している娘だ。娘から目を離せないでいるリュックを見て、スレイチャハは意地悪な微笑みを見せた。

「トゥバゥン。このフランスの学者さんはお疲れのようだ。あちらでもてなしてやっておくれ」
スレイチャハが言うと、娘はひと言も口をきかずにリュックの手を取り、その場から連れ出した。香木の香りがきつく、頭が割れるように痛い。

 寺院から出た途端、蝉の鳴き声が倍ほどの音量で降り注ぐ。蒸し暑さと、日差しの暴力にリュックは目眩を感じた。

 娘は、彼を半ば崩れた寺院の中に誘った。彼女に勧められるままに、崩れた石の1つに腰掛けて目を閉じた。彼女からは、スレイチャハが焚きしめていたのと同じ香木の強い匂いがしている。そして、その吐息が異様なほどに近くにあるのを感じて困惑した。

「その昔、『黒い貴婦人ニエン・クマウ』と呼ばれた王女が、この地に封じ込められたのです」
娘が囁いたのはフランス語だと氣づいたのはしばらくしてからだった。リュックは、それすらもわからぬほどに混乱していた。

「そこで暮らすうちに、この地の出身の高僧ケオの噂を聞き、この世の悲喜についての教えを請うために彼の庵を訪ねました。そして、師に敬意を表するためにごく近くに寄ったので、師の身体のすべてくまなく知ることになりました」

 リュックはぎょっとして女の顔を見た。具合が悪く相づちもまともに打てていなかったので、自分が何かを聞き違えたのかと思ったのだ。

 トゥバゥンの顔は、不自然なほどにリュックの近くにあった。瞳は暗闇の中で漆黒に見える。艶やかな黒髪は、『黒い貴婦人』の容貌がこうではなかったのかと思わせる。

「そう。そして、ケオ師は還俗し、ニエン・クマウ王女と塔の中でいつまでも愛し合ったのです」
そう囁くと、トゥバゥンはリュックの理性をいとも簡単に崩壊させてみせた。

 さして遠くない寺院で村民たちが祈りを捧げていることも、彼が仕事上で大切な交渉の途中であることも、リュックは半分以上忘れ去っていた。頭はまったく働かない。暑さと湿氣にやられたのか、それともまとわり付くような薫りの香木に何か仕掛けがあるのか。

* * *


「おい。バルニエ博士。おいったら」

 氣がつくと、リュックは1人、寺院の瓦礫の上に横たわっていた。懐中電灯の光が眩しくて思わず手のひらで遮った。

「大丈夫か。宿舎で騒ぎになってんだけどよ」
ゆっくりと起き上がりながら、リュックは呻いた。

 声の主がわかった。マイケル・ハーストだ。単なる宿舎の護衛としてだけでなく、地雷除去の経験もあるというので重宝されているアメリカ人傭兵だ。

 辺りはすっかり暗くなっていて、蝉の声はもう聞こえない。代わりにカンタンの鳴き声がやかましい。

 懐中電灯の灯に目が慣れてハーストの表情が見えた。いぶかしがっているようだ。視線を追うと、自分の上半身のボタンはすべて外され、胸が完全に露出している。視線をおろすと下半身はかろうじて露出を免れていた。いったい、どうなったんだ……。

「……。女は……?」
リュックは、辺りを見回した。ハーストは、目を細めて「やれやれ」という表情を見せた。

「ったく、あんたたちフランス人は、あいかわらずお盛んだな。こんなにボロいけどさ、ここは、一応あいつらの寺院なんだぜ。わかってんのか」

「いや、そういうんじゃない」
あわてて否定してみせた。

「はいはい」
ハーストは、リュックの弁解をまったく信じていないようだ。

「熱中症か、それとも、あの香木に酔ったのか。とにかく、午後から記憶がないんだ。……もしかして、大変な騒ぎになっているのか?」
リュックは、立ち上がるとシャツのボタンをはめて身支度をした。

「大変ってほどじゃないけどさ。あんたが、あの婆さんと交渉に行くと息巻いて出て行ってからちっとも帰ってこないから、何かあったんじゃないかって。女を買うなら、宿舎に戻ってから普通に村に行けよ。こんなところで夜に迷って、地雷だらけの密林に迷い込んだらバラバラになるぞ」

 女としけ込んだと断定されてしまい、心外だったがそれ以上反論するつもりにもなれなかった。本当にそういうつもりではなかったのか、自分でも定かではない。

 あの女、トゥバゥンは何者だったのだろう。あれだけのフランス語を話す女なら、本来通訳として皆に知られているはずだ。だが、見たことも聞いたこともなかった。まるで女の話していた『黒い貴婦人ニエン・クマウ』の幽霊が現れたかのようだ。

 リュックは、ふらつきながら寺院から出て宿舎に帰ろうと歩き出した。

「違う。こっちだ」
マイケル・ハーストに首元を掴まれた。

「俺が来なかったら、本当に明日になる前に死体になっていたかもな。何週間いようと、熱帯雨林に慣れたつもりにはなるな」
リュックは、ぞっとして周りを見回した。

 ガジュマルが絡みつき、今にも崩れそうな寺院が目に入った。月明かりの中で、木々は昼よりもずっと邪悪に見えた。根は蠢き、絡みつき、その力で人間の作りだした文明という名の驕りを簡単に壊していく。

 リュックは、スレイチャハとの交渉について考えた。具合が悪かったとはいえ、彼女の神事を途中で放り出して礼を尽くさなかった。また、あの女とのことを騒がれたらプロジェクト全体も止まってしまうかもしれない。いずれにしても、彼の立場は今朝までと較べてかなり危うくなっている。

 神像の微笑が浮かび上がって見えた。それは、子供の頃にテレビで見たときのような穏やかで柔和な表情ではなかった。ガジュマルの根でじわじわと締め付ける密林の笑い声がどこからか響いてくるようだった。

(初出:2023年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -18- レモンハイボール

scriviamo!


今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第6弾です。もぐらさんは、オリジナル作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

もぐらさんが書いて朗読してくださった作品「第663回 大事な壺」

もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。いつもとても長くて本当にご迷惑をおかけしています。

今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品群です。貧乏神のシリーズとはいえ、毎年、とてもハートフルなエンディングでお正月にふさわしい素敵な作品ばかりです。

今年の作品はケチな爺さんと、貧乏神さんのいろいろと考えさせられるお話。お返しは考えましたが、今回は強引に『Bacchus』に持ってきました。もぐらさんが最初にうちに来てくださり、朗読してくださるようになったのが、『Bacchus』でしたよね。

お酒はレモンハイボールですが、今回の話の主役は、大きな壺とサツマイモです。

それと、本当にどうでもいいことですが、今回登場する客のひとりは、この作品で既出です。ちゃっかり常連になっていた模様。


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バッカスからの招待状 -18- レモンハイボール
——Special thanks to Mogura san


 日本橋の得意先との商談が終わったのはかなり遅かった。直帰になったので、雅美は久しぶりに大手町に足を向けた。『Bacchus』には、しばらく行っていなかった。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 バーテンダーでもある店主田中の人柄を慕い、多くの常連が集う居心地のいい店で、雅美も田中だけでなく彼らにも忘れられない頻度で足を運んでいた。

 早い時間なので、まだ混んではない。田中と直接会話を楽しめるカウンター席は常連たちに人氣なので、かなり早く埋まってしまうのだが先客が1人だけだ。

「柴田さん、いらっしゃいませ」
いつものように田中が氣さくに歓迎してくれるのが嬉しい。雅美は、コートを脱いで一番奥のカウンター席に座った。

 反対側、つまりもっとも入り口に近い席には、初老の男が座っている。質は悪くないのだろうが、今ではほとんど見かけなくなった分厚い肩パッドのスーツはあまり身体に合っていない。金色の時計をしているのだが、服装に対して目立ちすぎる。

 雅美にとっては初めて見る顔だ。1度目にしたら忘れないだろう。人間の眉間って、こんなに深く皺を刻めるものなんだ……。雅美は、少し驚いた。

 その男は、口をへの字に結び、不機嫌そうにメニューを見ていた。仕事で時おりこういう表情の顧客がいる。すべてのことが氣に入らない。どんなに丁寧に対応しても必ずクレームになる。2度と来ないでくれていいのにと思うが、どこでも相手にされないのが寂しいのか、結局、散々文句を言ったのにまた連絡してくるのだ。

 少なくとも現在は、自分の顧客ではないことを、雅美は嬉しく思った。田中さんに難癖つけないといいけど。

「どれがいいのかわからないな。洋風のバーにはまず行かないからな」
男は、メニューをめくりつつ、ため息をついた。

「どんなお酒がお好みですか。ビール、ワインなどもございますが」
田中が訊くと、男は不機嫌そうな顔で、でも、とくに怒っているとは感じられない口調で答えた。
「せっかくバーに来たんだし、いつもと同じビールを飲んでもしかたないだろう。カクテルか……。なんだか、わからない名前が多いが……これは聞いたことがある……ハイボール」

 雅美は、ああ、ハイボールってここでは頼んだことなかったかも、そう思った。

「なんだ、ウイスキーの炭酸割りのことなのか。自分でもできそうだが、奇をてらったものを飲んでまずいよりも、味の予想がつくのがいいかもしれないな」

 男は、ブツブツと言葉を飲み込んでいる。雅美は、少し反省しながら見ていた。クレーマータイプだと決めつけていたが、いたって普通の客だ。

 田中は雅美にもおしぼりとメニューを持ってきた。既に彼女の心の8割がたはハイボールに向いている。
「田中さんが作るなら、ハイボールもありきたりじゃないように思うの。お願いしようかしら」

 そういうと、田中は微笑んだ。
「ウイスキーでお作りしますか。銘柄のご希望はございますか?」

「田中さんおすすめのウイスキーがいいわ。ちょっと爽やかな感じにできますか?」
「はい。では、レモンハイボールにしましょうか?」
「ええ。お願いするわ」

 そのやり取りを聞いていた初老の男性は言った。
「僕にも、そのレモンハイボールをお願いできるかな」

「かしこまりました」

「おつまみは何がいいかなあ。あ、さつまいものサラダがある! こういうの好きなのよねぇ。お願いするわ」
「かしこまりました」

 初老の男は「さつまいも……」と言った。

 あれ。眉間の皺がもっと濃くなった。あれ以上眉をしかめられるとは思わなかったわ……。雅美は、心の中でつぶやいた。

 田中も、そちらの方には、声をかけていいか迷っている様子だ。2つのグラス・タンブラーに、大きい氷を入れてから、すぐにはハイボールを作らずに、さつまいものサラダの方を用意し、雅美の前に置いた。

 それから、タンブラーの中で氷を回すように動かした。

「何をしているの?」
雅美が訊くと、田中は笑った。

「タンブラーを冷やしているのです」
「ええ? 氷を入れるのに?」

「アルコールと他のものが混ざるときには希釈熱という熱が発生して、温度が上がるんです。ハイボールの場合、これによって炭酸が抜け、氷もすぐに溶けてぼんやりとした味になってしまいます。それを避けるためにできるだけ温度が上がりにくくするわけです」
「なるほどねぇ」

 氷と溶けた水を1度捨ててから、あらためて氷を入れて、レモンを搾って入れ、ウイスキーを注いだ。田中は再びグラスを揺らし、ウイスキーの温度を下げた。それから、冷えたソーダ水を注ぐと、炭酸が飛ばないようにほんのわずかだけかき混ぜた。

 田中がカクテルを作る姿を見るのは楽しい。1つ1つの手順に意味があり、それが手早く魔法のごとくに実行に移されていく。そして、出来上がった見た目にも美しいドリンクが、照明の真下、自分の前に置かれるときには、いつもドキドキする。
 
 さつまいものサラダは思っていた以上に甘く、しっかりとした味が感じられた。
「美味しい。これ、特別なさつまいもですか?」

「茨城のお客様が、薦めてくださったんです。シルクスイートという甘めの品種です」

 それを聞いて、初老の男は、なんとも言えない顔をした。先ほどまでは怒っていたようだったのが、今度は泣き出しそうだ。

 ハイボールを彼の前に置いた田中は、その様子に氣づいたのか「どうなさいましたか」と訊いた。

 初老の男は、首を振ってから言った。
「いゃ、なんでもない。……シルクスイート……。これもなにかの縁なのかねぇ……。僕にも、そのサラダをくださいませんか」

 それから、田中と雅美の2人に向かっていった。
「なにか因縁めいたことなんでね、お2人に聞いてもらおうかな」

 田中と雅美は思わず顔を見合わせた。男は構わずに話し出した。
「題して『黄金の壺』ってところかな」

「壺……ですか?」
「ああ。だが、ホフマンの小説じゃないよ」
 そう言われても、雅美には何のことだかわからない。

「ホフマンにそんな題名の小説がありましたね」
田中は知っていたらしい。

「おお、知っていたのか。さすが教養があるねぇ。ともかく、そんな話じゃないけれど、まあ、黄金の詰まった壺と、それに魅入られた困った人間の成り行きというところは、まあ、違っていないかもしれないね」

 黄金の壺とさつまいもの関係はわからないけれど、面白そうなので、会話の相づちは田中に任せて、雅美は黙って頷いた。

「今から30年近く前の話なんだけどね。僕は、火事でほとんどの家財を失ってしまったんだ」
「それは大変でしたね」

「ああ。うちは、もともとカツカツだったけれど、田舎の旧家でね。蔵もあったんだよ。その奥に置いた壺に親父の代から、いや、もしかしたら、その前の代からか、当主がコソコソと貯めた金やら、貴金属やらを隠していたんだ」

「壺にですか?」
「ああ。妻には言わずにね。それで、女を買いたいときや、その他の妻には言いにくい金の使い方をするときには、そこから使っていくんだと親父に教わったものさ」

 男もへそくりするんだ。雅美は、心の中でつぶやいた。

「僕は、元来、倹約するタチでね。親父に言われたとおりに、自分もかなりの金品をその壺に隠していたんだが、自分で使ったことは1度もなかったんだよ。なんだかせっかく貯めたのに勿体ないと思ってね」

 ああ、わかった。この人、クレーマー体質なのではなくて、要するにケチなタイプだ。雅美は、納得した。

「そうですか。それならば、かなりたくさん貯まったでしょうね」
「まあね。でも、件の火事があってね」
「それで、すべて失ってしまったと?」

「そうじゃないんだ。すべて燃えてしまったとしたら、むしろよかったかもしれない。でも、火事の後、すっとんで蔵に行き、壺の安全を確かめたのを見られたのかねぇ。火事で母屋のほとんどが焼けてしまっただけでなく、その後しばらくして、その壺が忽然となくなってしまったんだ」

「壺、丸ごとですか?」
思わず雅美が言うと、彼は頷いた。
「壺と言っても、小さな物じゃない。胸のあたりまである巨大な壺だ」

「そんなに大きな壺だったんですか」
田中も驚いたようだ。

 男は頷いた。
「常滑焼っていってね。その手の大型の壺は昔から米や野菜を貯蔵するために使われてきたものなんだよ。冷蔵庫が普及してからは、ほとんど誰も使わなくなって作るところも限られているけどね。今は、無形文化財に指定される職人さん1人だけが作っているっていうなあ」

「その壺を誰かに持って行かれてしまったんですね」
田中が、氣の毒そうに言った。雅美は訊いた。
「トラックかなんかで、運び出したのかしら」

「うん……。どうだろうねぇ。あとで、あまり遠くない空き地で、たくさんの破片が見つかったので、なんとも言えないんだ。……実は、妻がなくなった後に、遺品から盗まれたはずの古い紙幣が見つかってね」

「え?」
雅美は、驚いた。田中もボトルを棚に戻す手を止めて男の顔を見た。

「それで当時の日記などを見たら、それは妻がやったことだと書いてあったんだ。ずっと金がないと、苦労を強いられてきたのに、夫がこんなに隠し持っていたことが許せないと。金がほしくてやったわけではないと書いてあった。実際に少なくとも僕がしまった現代のお札や、以前見たことのある貴金属はすべてそのままだったし、古い紙幣もまったく手をつけていなかったようだ」

 火事で家財をなくし大変だったときに、隠し持った大金をまったく使わずに、夫を責めることもなく、自分のやったことを告白することもなく、ただ、黙っていた妻の複雑な心境を考えて、雅美は手もとのハイボールのグラスを見つめた。

「妻の死後にそれらが出てきて、僕は先祖からの伝統をまた元通りにしようと、常滑焼の壺を買い求めようと思ったんだ」
「常滑って、愛知県ですよね?」
「ああ。だから電話で連絡したら……しばらく時間がかかる。岐阜県の焼き芋屋用に、たくさん注文が入っているからって言うんだ」

「焼き芋?」
「そう。それで、焼き芋屋がなぜあの壺を必要としているのか、見にいってみたんだ」

 岐阜県の大垣市では近年とあるフードプロデューサーの広めた「つぼ焼き芋」が人氣だ。石焼き芋は直火で焼くが、「つぼ焼き芋」は常滑焼の大きい壺の底に炭火を熾し、壺の首あたりに吊してある籠に芋を入れる。底から上がってきた炭火の熱が巨大な壺の中で循環し、焦げることなくじっくりと均一に熱が通る。60度から70度で1時間半から2時間かけて、さつまいものデンプンは麦芽糖に変わり、甘みが増していく。

「食べてみたんだ。そしたら、信じられないくらい甘くて、美味しかった。日によって種類を変えているらしいんだが、僕が食べたのはまさにシルクスイートでね」
「そうだったんですか。それはすごい偶然ですね」

「ああ。客がたくさん来て、みな喜んで買っていた。辺りは、かなり賑やかでね。焼き芋が地域の町おこしになっていたよ。そのフードプロデューサーはその『つぼ焼き芋』を独占もできたのに、周りの同業者にも勧めて一緒にこの焼き芋を広めたんだね。考えさせられたんだよ」
出てきたさつまいものサラダを食べながら、彼は言った。

「僕は、自分の宝物を壺に隠すことしか考えていなかった。その中身を活かすことも、妻と楽しむこともしなかった。また同じ壺を買って、見つかったお宝を再びしまっても、同じことの繰り返しだ。でも、あの焼き芋屋の芋は違う。金色に輝いて、ほくほくとして暖かい。店主が喜び、客が喜び、同業者が喜び、そして、壺焼き職人も喜ぶ。どちらが尊い宝物なのかなあとね。そう思ったら、再び大きい壺を買って、余生を倹約して暮らすよりも、誰かと一緒に使うことをしてみたいと考えて帰ってきたんだ。いま、その帰りなんだよ」

「そして、今、またここで、さつまいもと出会ったというわけですね」
雅美が言うと、彼は頷いた。

「ああ。このハイボールは、美味いな。自分で作った味とは雲泥の差だ。それに、このさつまいもによく合う」
彼は、しみじみと言った。

「恐れ入ります。さつまいもとレモンの相性はいいです。シルクスイート種が甘いので、おそらく普通のハイボールよりも、レモンハイボールの方が合うのではないかと思っています」
田中が言った。

「そうね。この組み合わせ、とても氣に入ったわ。ハイボールって、そちらの方もおっしゃったように、うちでも作れるからと頼んだことなかったけれど、こんなに違うなら、今度からちょくちょく頼むことにするわ」
雅美が言った。

 男は、言った。
「そちらの方か……。僕は竹内と言います。僕も『ちょくちょく頼む』ような客になりたいからね」

「それはありがとうございます、竹内さん。今後ともどうぞごひいきにお願いします」
田中が頭を下げた。
 
 やがて、他の客らも入ってきて、『Bacchus』はいつもの様相に戻っていった。田中は忙しく客の注文にこたえている。雅美は、カウンターをはさんだ竹内とは会話ができなくなったが、時おりグラスを持ち上げて微笑み合った。

 竹内の眉間の皺は、はじめに思ったほどは深くなくなっている。自分がそれに慣れてしまったのか、それとも彼の心にあった暗い谷がそれほどでもなくなったのか、雅美には判断できなかった。

 1つわかることがある。彼の新しい壺は常滑焼ではなくて、この『Bacchus』のように心地よく人びとの集う場所になるのだろうと。

レモンハイボール(Lemon Highball)
標準的なレシピ

ウイスキー - 45ml
炭酸水 - 105ml
1/8カットレモン - 1個

作り方
タンブラーにレモンを絞り入れ、そのまま実も入れる。氷とウイスキーを注ぎ、冷やしたソーダで満たし、軽くステアする。



(初出:2023年2月 書き下ろし)
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