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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(13)婚儀

『Filigrana 金細工の心』の13回目「婚儀」です。

といっても、めでたい描写はほぼゼロです。ドラガォンの当主の婚儀って、カルルシュとマヌエラ以来ですが、前回も今回もどこかに「まったくめでたくない」人がいて、それでも婚儀を急いで行うのは、そうすることで相手の女性を居住区監禁から解放するためだったりします。今回、婚儀に参列してはいるものの、むしろ墓参のような面持ちで座っているクリスティーナに関しては、ずいぶん前に外伝を書きました。あれは、このシーンを受けての話でした。

さて、そのあれこれからも蚊帳の外にいるのがインファンテたち。それでも列席は強制されています。今回は、いつもの更新字数よりも長いのですが、2回にわけるほどではなかったのでそのままアップしました。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(13)婚儀

 サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会は、決して小さな教会ではないが、目を引くほど大きな教会でもない。おそらくこの街を観光目的で訪れる多くの外国人は、その名前すらも知らないだろう。ましてや、平日に多くの参列者もなく行われている結婚式に興味を示す人もない。

 非常に『ドラガォンの館』に近く、司教をはじめほとんどの関係者が《監視人たち》の家系で占められているとはいえ、当主の結婚式をこの教会で行った前例は過去に2件ほどしかない。だが、当主夫人となるドンナ・マイアの義父とその娘たちは、《星のある子供たち》ではない。彼らを招待するとなれば、『ドラガォンの館』の礼拝堂での挙式は不可能だった。

 家族にしてみれば、彼女が半年ほど音信不通になっていたこともあり、さまざまな不安を持っていた。知らせもしないで結婚したといわれれば、不審に思い不要な騒ぎを起こす心配もある。それで挙式には養父一家を招待し、ドンナ・マイアに本当に結婚の意思があることを見せる方がいいだろうというのが中枢組織幹部の判断だった。もちろん、当分家族には会えないことを知っている花嫁もひと目ぐらいは会いたいだろう。

 教会の内部は、白壁と灰色の柱を基調とした質素な作りで、金箔で飾った聖壇以外には目立つ装飾もない。ましてや、足下の大理石が一部新しくなり、そこにラテン語の碑文が彫られていることに目を留める者はほとんどない。だが、今日の結婚式に関わる一族にとって、その四角い大理石は非常に大きな意味を持っていた。《Et in Arcadia ego》。碑文にはそれだけ掘られている。

 本日、結婚式を挙げるのは、ドラガォンの当主だ。当主がどのような容姿を持つ者なのかを知る者はほとんどいない。ましてや、その住まいである『ドラガォンの館』に誰が住んでいるのかを正確に知る者も限られている。中には、生まれてきたことも、亡くなったことも、全く記録に残らぬまま、この世から姿を消す者もいる。

 彼は、アントニアに聞いていたその四角い石の置かれた位置を遠目に眺めた。すぐ横に座っているのが、クリスティーナ・アルヴェスなる女性なのだろう。まもなく腕輪を外されて自由になるという彼女が、再び訪れることができるように、アルフォンソはこの教会に埋められた。

 アルフォンソを最後に見たのも、やはりこの教会だった。彼の父親ドン・カルルシュの葬儀だ。今日と同じように2階のギャラリーに案内された彼は、今日のマヌエラやアントニアが占める、1階の最前列に座るアルフォンソを遠く眺めただけだった。内外からの有力者が参列していたが、だの葬儀ミサが行われただけで、故人との別れや親族のあいさつもなかった。参列者もみなそれを理解しており、ミサが終わった後は黙って立ち去った。

 彼もまた、閉じられた棺と、ヴェールで顔の隠れているマヌエラやアントニア、そしてあまり具合のよくなさそうなアルフォンソに近寄ることもないまま、また車に乗せられて『ボアヴィスタ通りの館』に戻った。

 これが最後かもしれないとは、特に思っていなかったが、再び会うことがあるとも期待していなかった。『ボアヴィスタ通りの館』に遷ってから、カルルシュの家族はそれほどに遠い存在になっていた。アントニアひとりを除いて。

 あの葬儀で2階のギャラリーに座らされたインファンテは3人だった。そのうちの1人は、今日は当主として1階で祭壇の前にいる。もう1人の、『ドラガォンの館』の居住区に残されているのは、いま彼の隣に座っている24だけだ。

 その24が、ペドロ・ソアレスに伴われてギャラリーに上がってきた時、彼はわずかに緊張した思いで見やった。5年前の葬儀の時には、決して感じなかった緊張感。それまでは、奇妙なほど彼自身に似ているとはいえ、全く思い入れのない誰かでしかなかった。かつて存在してもしなくても変わらなかったこの青年は、今は彼がよく知るライサを傷つけた加害者なのだ。

 彼は、不快感が表情に現れないように、骨を折った。その彼の努力に氣付いた様子もなく、24は階下の結婚式を食い入るように見つめていた。

 2階のギャラリーからは、そもそも花婿と花嫁の顔は見えない。彼にとってそれは大して重要なことではない。以前、見ることになったカルルシュとマヌエラの結婚式のように、激情を呼び起こす要素も、関心や好奇心すら彼は抱いていなかった。

 彼は隣に座る従甥が、まるでかつての自分のように憎しみを込めた表情で身を乗りだすのを訝りながら見つめた。マイアという娘に入れあげていたのは23だけで、24の方は未だにライサに執着しているというのが、アントニアから聞いた話だったが、だとしたらなぜ24がこの挙式にこんな表情をするのだろう。

 24は、彼の視線に氣がつき、ゆっくりと彼の方を見た。わずかに間を置いてから、囁くように言った。
「パパ。僕とあなたが、こうしてあいつに正統なる権利を奪われているのを見るのは悔しくないの」

 彼は、その言葉の意味を理解するのに苦労した。
「何の話だ」

 24は、確信に満ちた様子で、顔を寄せさらに声をひそめて続けた。
「あなたは、ママに僕を孕ませた。鉄格子の中に、ママを呼び寄せて。ママは、あなたに抱かれてどんな歓びの声を上げたの。あなたは、何度ママを突いて、僕をママの子宮に送り込んだの」

 彼は、衝撃を受けたが、すぐに従甥の想像の根拠を理解した。それほどに、2人の容姿は似通っていたからだ。彼は、ため息をつくと、囁き返した。
「大した想像力だ。立派な作家になれるぞ。私とマヌエラが逢い引きをできるほど、ドラガォンの《監視人たち》はぼんくらではない。お前と私が似ているのはただの隔世遺伝のいたずらだ」

「恥ずかしがる事も、隠す事もないよ、パパ。ママは、本当はあなたのものだもの。正統なドラガォンの世継ぎであるあなたの。あそこにいるあいつがママを犯して、奪ったんだ。そして、あいつは、僕から、正統なプリンシペから当主の座と自由とライサをかすめとった。花嫁だって。またしてもママを犯すんだ。そして、あいつの汚い精液をママの中に……」

 突如として22が立ち上がったので、控えていた8人の黒服《監視人たち》が身構えた。だが彼は、ベドロ・ソアレスに合図をすると、自分と24の間に座るように言った。もうたくさんだった。

 なぜこれほど壊れるまで、誰も氣がつかなかったんだ。24の精神は、父親と23、それに母親とライサを区別できなくなるほどに歪んでいる。ライサは、この狂った男と何ヶ月も監獄に閉じこめられ、傷めつけられたのか。彼の心は痛んだ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(12)『プレリュード』 -1-

『Filigrana 金細工の心』の12回目「『プレリュード』」です。

今回も冒頭と終わり以外は回想なのですが、わりと最近の話です。第1作『Infante 323 黄金の枷 』をお読みくださった方は、どこの話をしているのかすぐにおわかりになると思います。あの時、外野はこんな風にヤキモキしていた……という話でもあります。

この話も少し長いので2回にわけます。



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Filigrana 金細工の心(12)『プレリュード』 -1-

 季節外れの雪が窓の外を覆った。陽が差してきている。春の雪は儚い。午後には全て消えてしまうだろう。そう思いながら、彼は、冬のはじめの雪の朝のことを思い出していた。

* * *


 その朝、彼がシロティの『前奏曲』を弾いている所に、電話を終えたアントニアが黙って入ってきた。彼は、いつものように曲が終わるまでは振り向かなかった。弾き終えた後も、完全な沈黙が支配していたので、ようやくおかしいと思って彼は振り向いたのだった。
「どうした、アントニア。ドラガォンへ行くのか」

 彼女は、何とも言えない顔をしていた。嬉しそうでもなければ、悲劇的でもなかった。
「行くべきかどうか、わからないわ」

「なぜ」
彼が訊くと、彼女は戸惑いながらソファに腰掛けて、上目遣いに彼を見た。それを彼に告げるのが賢いことなのか訝るように。彼は、特に答えを急がせなかった。だが、新たに曲を弾こうとしなかったので、アントニアは観念して口を開いた。

「トレースが、宣告をしたんですって」

 彼は、黙って姪の顔を見た。不意に、彼の人生を変えてしまった恐ろしい瞬間の記憶が、彼の体の中を通り過ぎた。けれど、それは一瞬のことで、彼自身がショックを受けたと悟られることはなかったはずだ。それから、冷静になって考えた。あの23が、宣告だって? なぜそんなことを。

 アントニアは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「昨夜の晩餐で、クワトロがトレースに口論を仕掛けたんですって。あの子が、トレースと一番仲良くしている例のマイアって子に宣告するとほのめかしたので、その場でトレースが……」

 そういうわけか。彼は、頷いた。

「それで」
「1晩経って、どうなったのか、まだわかっていないみたいで」
「正餐の時間になればわかるだろう。それとも、好奇心丸出しでお前が乗り込んでいくつもりか」
「そんなことできるわけないでしょう。あの子に拒絶されたら、トレースはどうなっちゃうのかしら。前よりもひどく引きこもってしまうかも」

「何がどうなろうと、娘は1年間は23の所にいるんだろう。一緒に暮らしているうちに、情も移るだろう。24みたいなことをしなければ」
「トレースがそんなことをするわけはないわ」
「なぜわかる。24があんなことをしたも、お前は最初は信じなかったじゃないか」

 アントニアは、黙ってうつむいた。叔父の言葉は正しかった。

 24は、ライサやその前に一緒になった女性を居住区内の1室に閉じ込め、他の誰かと会話をしないようにしていた。居住区の中は広く、出入り以外の多くのことについてインファンテ自身の裁量が優先されている。入室が禁じられた空間に押し込められ薬物も用いられれば、娘が被害に遭っていることを察知して助け出すことは容易ではなかった。

 ライサのSOSを察知したのは、反対側の居住区にいた23だった。24が窓を閉め忘れ、偶然に彼女の意識が戻った時に、助けを求める声を23が耳にしたことが発端だった。彼は唯一親しく話のできるアントニアに相談したが、はじめは彼女もそれを何かの間違いだろうと決めつけた。多少芝居がかったところはあるが、明るく愛らしい弟がそんなことをするとはとても信じられなかったのだ。

 24に怖ろしい2つ目の顔があることがわかるまでには、さらにひと月以上かかった。ライサが流産をし、処置が必要になったのだ。24はインファンテの存在を世間から隠すことを示唆して、巧みに居住区内での看護を主張したが、23の話を思い出したアントニアからの進言を受けたアルフォンソは、彼女を入院させた。数ヶ月もの間、精神を病むほどの虐待が見過ごされていたことが明らかになり、ドラガォンの中枢部はおののいた。

 ライサは、『ボアヴィスタの館』預かりとなり、1年以上の療養を経てから、腕輪を外されて実家に戻った。こんなことは2度とあってはならないことだが、絶対になくなるとは誰にも言えない。狡猾に歪んでしまった24もまた、非情なシステムの被害者なのだから。

 同じように意思に反して閉じ込められた23が、やはり精神をゆがめられていることも、多いにあり得ることだ。が、ライサの件にいち早く氣づき、彼女に助力を求めたその本人が、同じようなことをするとは思えなかった。それに、アントニアは『ドラガォンの館』でマイアに逢っていた。彼女の勘が正しければ、あれは弟の片想いではなかったはずだ。アントニアは、それ以上語らなかったが、表情はそう主張していた。

 彼は、訝りながら再び『前奏曲』を弾き始めた。アントニアが、傍らに立ち彼の指使いを眺めている。彼は、先ほどと同じように弾こうと意識しながら、そうではないことを感じている。ロシアの作曲家アレクサンドル・シロティがバッハの平均律から前奏曲をアレンジしたロ短調の作品で、原曲よりも憂いを感じる曲ながら、彼は淡々と弾くスタイルを好んでいた。だが、先ほどのニュースが彼の胸の中に、大きな石をそっと置いたようだ。

 ピアノの傍らに立つアントニア。憂いが表現上のものでしかなかった頃、同じ位置に立っていたのはマヌエラだった。30年前の宣告が、彼の人生を変えた。彼の人生は、あの日に終わったのだと思っていた。それ以後は、意義もなく、ただ生きながらえているだけだと。彼女が、別の人生を目指し強い意志と活力で歩み去った後、彼は彼女への想いを音にすまいと心を砕いた。それに成功したかどうか、彼にはわからない。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -2-

『Filigrana 金細工の心』の11回目「『Canto de Amor』」の後半をお送りします。

アントニアが17歳(つまり23は16歳ですね)の頃の回想の続きですね。23のギターラ、『愛の歌』という有名な曲を聴いて、「恋をしたこと、ある?」と訊いたのが前回の更新でした。



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Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -2-

 アントニアの問いに、弟は黙り込んだ。彼女ははっとして、瞼を上げた。自分のことにばかり意識がいっていたが、いつもひとりでいる23には、酷な質問をしてしまったのかと思ったのだ。

 だが、弟は、彼女をしばらく見つめた後で、意外な返事を返してきた。

「恋なのか、わからない」
「わからないって、どういうこと?」
「友だちのことを、とても大切に想っているだけなのかもしれない。よく夢にも出てくる」

「夢? 普段見かけるんじゃなくて?」
「この屋敷の中にはいない」
「いない? 想像の女の子? それとも雑誌や映像で見ただれか?」
「そんなんじゃない。それに、どうでもいいだろう? 俺は、ドラガォンが命じたままにここにいるし、何もしていない。そんなことを聞き出すために、わざわざ入ってきたのか?」

「そうじゃないわ。でも、ギターラの響きが、とても優しいだけでなくとても悲しく響いたから。私の心を代弁してくれるみたいで、もっと聴きたくて」
「……。恋に悩んでいるのは、お前なのか?」

 23にストレートに訊かれて、アントニアは戸惑った。ほとんど口もきいたことのない弟と、こんな話をするとは思ってもいなかったから。けれど、今、抱えきれないほどにまで膨れ上がっている彼女の重荷を分かち合ってもらえるのは、この弟しかいないとどこかで直感が告げていた。それで、ため息をつくと頷いた。

「あなたと違って、私はもっと自由なのに、どうしてこんなことになってしまったのかしら……」
「こんなこと? 《星のある子供たち》じゃない男?」
23が訊いた。アントニアは、彼が何を言っているのか一瞬わからなかった。けれど、すぐに彼の推測が至極まともだと氣がついた。

「だったら、まだよかったんだけれど」
「なぜ? 《星のある子供たち》なら、ドラガォンがいくらでも後押ししてくれるだろう? お前は、この館でも外でも好きな所に行けるんだし。それとも父上や母上が反対するような男なのか?」

 アントニアは、顔を手で覆い、震えだした。反対どころの次元ではない。彼は、近親者であるだけではない。母親のかつての恋人であり、憎みながらも今でも一途に想っている男なのだ。両親どころか、誰に打ち明ける事もできない。誰かに助力を求める事もできない。

「すまなかった。立ち入りすぎた」
23の謝罪を聞いて、彼女ははっと顔を上げた。弟は、恥じ入るように顔を背けていた。

 アントニアは、彼を混乱させてしまったのだと思った。こんな所に入り込んできて恋の話などをすれば、彼は話を聴いてもらいたいのかと思った事だろう。それなのに、何も言おうとしなくて、かえって彼に罪悪感を植え付けてしまったと。彼は、家族に頼られて、打ち明け話をされた事などなかっただろうから。

「そうじゃないの。ごめんなさい。私にもわからない。でも、わかってもらえるのはあなただけだと思ったの」
「24ではなくて? あんなに仲がいいのに」

 アントニアは、首を振った。
「あの子は、とても明るくていい子だけれど……」
「?」
「時々思うの。あの子は、私の事には興味がないんじゃないかって」
「なぜ?」

「あの子自身の幸福と楽しみに直結していない事には、すぐ興味を失ってしまうのね。話していても、急に話がそれてしまったり、そんなことよりって言われてしまったりするの。だから、深い事、哲学的な事、どうしようもない事などは、あの子に話しても、何の答えも返ってこないの」

 23は、肯定も否定もしなかったが、そのことで彼もそう思っているのだとわかった。
「アルフォンソは?」
「彼はダメよ。いつどんな形で、お母様やお父様、それにメネゼスたちに伝わってしまうかわからないし。それに、彼には話を聴く時間なんてないもの」

 彼は、自嘲するように笑った。確かに23は、いつも1人だから秘密が漏れる心配もないし、時間もたくさんあった。

「でも、だからここに来たわけじゃないわ。同じ音だと思ったから」
「何と?」
「叔父さまの出す音と」

 23は、瞳を閉じた。そして、記憶をたどっていた。
「よく階段に隠れて聴いた。すごい音だった。胸がかきむしられるみたいだった。近くに寄って、もっと聴かせてほしかった」
「そうなの?」

 アントニアを上目遣いに見ながら、彼は言った。
「お前が羨ましかった。彼にピアノを教えてもらっていたことが」

「どうして自分にも教えてほしいって言わなかったの?」
「もっと聴かせてほしいと言って断られた。だから、それ以上近づけなかった」

「私も、ものすごく邪険にされて、断られたわよ。でも、めげずにしつこく押し掛けたの。彼は根負けしたんだと思うわ」
「そうか。俺もそういう図々しさを持てばよかったんだな。もう、遅いけれど」

 23の言っている意味が、アントニアにはわかった。彼女は、『ボアヴィスタ通りの館』に押し掛けて行って、またピアノを習う事ができる。けれど、23はここからは出られないのだ。新しい世代のインファンテが同じように閉じこめられる日まで。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -1-

『Filigrana 金細工の心』の11回目「『Canto de Amor』」をお送りします。

自分でも反省しているんですが、この作品、時系列が前後に動きすぎ。起点は1つなんですけれど、多くのエピソードが過去の回想でなり立っているせいで、読者の方を振り回すことになってしまいました。で、今回発表する部分もそうで、アントニアがまだ少女だった頃の話です。彼女が頑固にピアノを弾き続けて泣いたエピソードと、成人となりちゃっかり22との同居を決定した時期の間の話です。

長めなので2回に切りました。



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Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -1-

 11年前のことだった。24が閉じ込められた年の初め。彼女は、その時17歳だった。まだ『ドラガォンの館』に住んでいた若きアントニアは、ギターラの響きに誘われて、しばらく23の居住区の前に立っていた。

 彼が、かつての叔父のように、格子の向こうに閉じこめられてから2年近くが経っていた。もともと家族にも使用人にも打ち解けなかった23は、閉じこめられその抵抗を封じられた事でさらに自分の殻に閉じこもるようになっていた。アントニアは、出してほしいと必死に訴えていた彼への助けになろうとしなかった事への後ろめたさもあって、晩餐で見かける時もほとんど目を合わさないようにしていた。

 ただ、愛すべき弟24が彼を茶化した発言をした時だけは、隣で静かに嗜めた。24は、天使のように笑って「ごめん、もうしないよ」と言うので、彼女はその愛らしさにすぐに許してしまった。それに彼女は、24も第2次性徴期がきたら23と同じ運命になる事を知っていたので秘かに心を痛めていたのだ。

 23が家族の中で1人だけ隔離されている事への心の痛みは、その時には緩和されるだろうと考えていた。けれどその数年間が、心を開く相手もいない23にとってどれほど過酷な地獄だったのか思い至るには、当時のアントニアはまだ若すぎた。23が表現しているのは、彼女が心惹かれていた叔父の言葉にしない叫びと同じものだという事にようやく氣がついたばかり、そんな時期だったのだ。

 家族の中で、22に近づけるのは、アントニア1人だった。それも、彼が望んだからではなく、彼女の強引な好意の押し付けに屈する形で、彼女が側にいる事を許可した、それだけだった。叔父が館にいた時に無理にピアノのレッスンを受けさせた延長線で、アントニアは週に2度か3度、『ボアヴィスタ通りの館』へ通っていた。

 『ドラガォンの館』から出たにも関わらず、彼女から解放されなかった事を彼が嘆息したのか、それとも使用人以外の家族との縁が切れなかった事にホッとしたのか、叔父の乏しい表情から読みとる事はできなかった。だが、アントニアが2つの館を行き来して、その消息を伝える事は、叔父に会う事を拒否されている両親たちを安堵させた。22のわずかな変化、健康状態、それにどのような暮らしをしているのか、彼らは《監視人たち》や召使いからの報告以外でも知る事ができたから。

 だが、アントニアは、自分の行動があやふやであった己の心を、引き返せないところまで押し進めてしまった事を感じていた。ある種の同情、弟を救えなかった事に対する贖罪、両親と叔父との確執への好奇心、それら全てを超越する感情に彼女が堕ちていったのは、正にこの時期だったのだ。

 思えば、子供の頃から惹き付けられていたのはやはり、格子の向こうから響いてくる楽の音だった。いま、弟が響かせている、強く心に訴える叫びのような音色だった。この子はいつからこれほどの音を出すようになったのだろう。アントニアは訝った。ギターラを習いはじめてまだ1年と少ししか経っていないはずだ。

「ドンナ・アントニア?」
振り向くと、そこに立っていたのはジョアナだった。
「お入りになりますか?」

 彼女は、1度首を振った。けれど、思い返したように、ジョアナを見つめて言った。
「ええ。お願いするわ」
ジョアナは、黙って鍵を取りに行くと解錠してアントニアを入れた。それから再び鍵を閉めて頷いた。彼女は小さく礼をすると、階下へと降りて行った。

 ギターラの響きは、近づくことでずっと大きく華やかになった。けれど、そのどこかに隠しようのない痛みが溢れている。インファンテだから。もちろん、それだけではないだろう。だが、特殊な境遇は彼の想いを研ぎすました。1人で世界と折り合いを付けることを、彼に強要した。それがこの響きをもたらすのだと感じた。

 彼女は、まるで初めて見た知らない人のような心持ちで弟を見た。子供の頃は、それでも一緒に遊んだことがあったように思う。ただ、彼女はいつも愛らしく甘えてくる24と一緒に居て、ほとんど会話もしようとしないもう1人の弟のことは、考えることすらまれだった。

 音が止まった。23はアントニアを見ていた。訝っているのだろう。彼女自身にもよくわからなかった。どうしてここに来ようと思ったのか。
「続けて……」

 彼は黙って続きを弾きだした。それは、シューベルトの『エレンの歌第三番』、『シューベルトのアヴェ・マリア』として知られる曲だった。叔父のヴァイオリンと合わせるために、アントニアが『ボアヴィスタ通りの館』でのレッスンに通いだして直に習った曲だ。難しくない伴奏にも関わらず、叔父は簡単には満足してくれず、彼女は悔しさに何度も泣いた。だが、最終的にお互いに満足のいく演奏をした時、彼が初めてアントニアに笑いかけてくれた思い出の曲でもあった。口元をほころばす程度と言った方が正しいわずかなものであったけれど。

 弾き終わっても、彼女がものも言わずに瞳を閉じていたので、しばらく間をあけてから彼は最近よく練習していた『Canto de Amor(愛の歌)』を弾きはじめた。アントニアが自分に用があるのではないらしいと判断したのだ。

 けれど、短いその曲が終わると彼女は、目を瞑ったまま言った。
「恋をしたこと、ある?」

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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23が弾いていた曲はこちら。

Carlos Paredes - Canto de Amor

こちらは、ギターラバージョンが見つからなかったのでクラッシックギターバージョンで。

Ave Maria - Schubert (Michael Lucarelli, Classical guitar)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(10)迷宮

昨年末に一時休止した『Filigrana 金細工の心』の連載再開、10回目「迷宮」をお送りします。

はじめにお断りしておきますが、今回の更新、おそらく読んでくださる方にはドン引きされると思います。だから、開示をダラダラ引き延ばしていたわけではないんですけれど……。第1作のヒロイン、マイアはお子様だったのでこういう展開は全くなかったんですけれどねぇ。



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あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(10)迷宮

 わずかな軋みが、彼の前頭葉に刻み付けられている。それは過去に確かに耳にしたものであるが、記憶の音なのかそれとも現在響いているものなのか、彼は確認したくなかった。

 あの時、アントニアは19歳だった。彼女がいつからその悪夢に迷い込んでしまったのか、彼は知らない。ただ、その夜、彼はその軋みで目を覚ました。好奇心など起こすべきではなかった。使用人たちが全て去り、誰もいないこの館の夜の時間、それから3千以上の夜を、いや、これからどれほどになるかわからぬ夜を、許されぬ幻影に苦しめられると知っていたら、彼は何も聞かなかったことにしてそのまま眠りについただろう。

 どこからか聴こえてくるのかを想像することは容易かった。若い娘にも生命の営みに関する衝動があることくらい知っていたし、そのままにしておけばよかったのだ。けれど、彼は足音を忍ばせて、彼女の部屋の前まで行ってしまった。そして、漏れてくる彼女の悩ましい声を耳にしてしまったのだ。アントニアは、彼を呼んでいた。

 その衝撃に、彼はしばし立ちすくんだ。それから、黙って踵を返した。だが、アントニアの部屋から漏れてくる声は突然止んだ。

 その夜のことを彼は口にしなかった。アントニアも話題にしなかった。けれど、それを秘め事にしてしまって以来、2人の間には従叔父と従姪の関係だけではなく、後ろめたく苦しい感情が常に流れることになった。彼は、アントニアが彼に対して何を願っているのかを知ってしまった。そしてアントニアは、それが一時の夢物語であるとも、新たに愛する男が出来たとも語る事はなかった。それどころか、次から次へと《監視人たち》が持ってくる、青い星を持つ貴公子たちとの出会いを片っ端から断った。

 彼の夢を支配していたのは、それまでマヌエラ1人だった。人生の中で唯一手が届きそうだった女神。彼女を腕の中に抱き、その柔らかい唇を夢中で吸った記憶、肌に触れることもなく、欲望を受け入れてもらうこともなかった彼女との愛の営みの続きを、彼は夢の中で幾度も続けた。

 格子の向こうから横目で眺めた彼女の腹が、少しずつ膨らんでいった時、彼は憎しみと嫉妬に苦しみながらも、夢で続けている彼の愛の衝動が彼女を孕ませているという想いからも自由になれなかった。アントニアは、そうして生まれてきたマヌエラの娘だった。現実には、憎み続けたカルルシュの血を引いた女であり、その一方で、彼の幻影の中での彼自身の娘でもあった。

 だが、その夜から、彼の夢は乱れた。彼の女神は、彼の愛し続けたマヌエラは、その柔らかい金髪と灰色の瞳で優しく彼を愛撫していたはずなのに、時には黒髪で彼を締め付け、挑むようにその水色の瞳で覗き込む。それがマヌエラではないと意識にのぼっても、彼はその夢から離れることができなかった。

 目が覚め、汗を拭き、シャワーで穢らわしい夢を洗い流す。普通に立って生活している時には、彼の夢はこのようにおぞましい罠は仕掛けてこなかった。目の前にいる美しい娘は常に彼の従姪であり、愛する女の娘だった。たとえ、彼を見つめるアントニアの水色の瞳に、叔父に対する愛をはるかに超えた強い想いを感じても、彼の心は動かなかった。

 それは、アントニアが若いからではなかった。その事を今の彼は、痛いほどわかっている。マヌエラ1人を憎みつつも変わらずに愛しているからでもない。ひとつの愛を信じる事のできた数ヶ月前に彼は戻りたかった。

 カルルシュがこの世を去った後も、彼がマヌエラを愛しその手を求める事は許されなかった。黄金の腕輪を嵌めていない男であれば、彼女の2人目の夫となる事が許されるが、彼はインファンテだった。そして、マヌエラだけでなく、どの黄金の腕輪を付けた女も、たった1人の《星のある子供たち》である男としか関係を持つ事を許されない。それが宣告1つで子供を産む事を強制され続ける悲劇から《星のある子供たち》である女を守るドラガォンの掟だった。

 彼が望めば、おそらくドラガォンはありとあらゆる彼の好みそうな《星のある子供たち》である女たちを彼に引き合わせただろう。そして、彼は、カルルシュの実の父親がそうしたように、次々と無垢な娘を楽しんでは放り出す事も許されたはずだ。だが、彼はそれを望まなかった。マヌエラにこだわったまま、1人でこの歳まで過ごした。血脈をつなぐ事を拒み、ただの1人の女にも触れようとしなかった。

 それなのに、マヌエラを失って以来はじめて興味を持ち、心と体の両方を得たいと願った娘もまた、1度《星のある子供たち》に選ばれた、彼が触れてはならない女だった。しかも、我が子であってもおかしくないアントニアよりもさらに若かった。

 ライサ・モタに惹かれている事に氣づいた時、彼はひどく混乱した。それが単なる欲情の対象ではなく、恋をしているのだと認めざるを得なくなったので、身勝手で残酷な己れに身震いした。彼のアントニアの想いに応えるつもりのないことに使ってきた理由は、全く意味をなさなかった。
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【小説】皇帝のガラクタと姫

今日の小説は『12か月の店』の3月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『ウィーンの森』です。静岡県の小さな街にあるウィーン風のこだわりカフェ、ということになっている店です。この話、もともとはシリーズ化する予定は皆無だったのですけれど、猫又がやって来たあたりからなんとなく使い勝手がよくなって時おり登場していますね。


短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
「ウィーンの森」シリーズ



皇帝のガラクタと姫

 ひらひらと白い花片が舞っていくのを、真美は目で追った。あれはなんだろう。桜にしては早いから、桃かしら。

 子供の時に住んでいたこの地域は温暖で光に満ちている。以前から抱いていた真美の印象は、久しぶりにこの街で暮らしてさらに強くなった。東京も思っているほど寒くなかったのかもしれない。こまかく氣温を記録していたわけではない。けれど、真美が通っていたオフィスはビル風が強いと有名なところで冬の厳しさは格別だったし、春の訪れも花見の頃まではあまり感じなかった。

 結婚し住むことになった駅前のカフェの周りには高いビルはない。周りに柑橘類を植えている邸宅が多く、柔らかい陽光と実の暖色が近所一帯を視覚的に温めてくれている。カフェの裏手には白樺の林があり、その四季折々の表情も見飽きない。

 土曜日。いつもより少し寝坊をしてしまったので、わずかに後ろめたく思いつつ、布団を干した。護は、もちろんとっくに起きて、開店準備をしているはずだ。真美が昨夜遅くまで月曜日のプレゼン資料を作成していたのを知っているので、起こさずにそっと店にいったのだろう。

 つきあうことになってから、お互いに結婚の意思があることまではわりと早く明確になったのだが、それから具体的な話を決めるときに若干もたついた。護はこの店『ウィーンの森』の店長としての仕事をほぼ生きがいのように感じていたが、真美が東京の商社で任されていた仕事にやり甲斐を感じていることもよく理解していてくれた。

 実際に、真美は長距離通勤や単身赴任なども考えたが、最終的には退職して近くで再就職をする道を選んだ。『ウィーンの森』のスタッフとして働くという考えもあったのだが、護は反対した。それはいつでもできることだし、365日24時間ずっと一緒に居るよりも、お互いに自分の空間と時間、そして知りあいを持つほうがいいと。

 真美はなるほどと思った。この土地と店をずっと続けている護はともかく、17歳で東京に移住した真美にこの街の人々との付き合いはほとんどない。自分の世界を持ち、見聞を広めるのは大切なことだ。

 そんなわけで、真美は県内の少し大きな街の不動産会社に勤めている。土日は護の店を手伝うことも多いが、「休みの日はゆっくりしろ」と言ってくれるので、こちらは重役出勤になってしまうことが多い。

 洗濯や部屋の掃除をひと通り済ませてから階下に降りていった。コーヒーだけでなく、甘いケーキを焼くような香りがしている。店内を見回すと、いつも入り浸る近所のご老人たちの他、買い物帰りのようなご婦人方が楽しく話していた。

 そして、窓際に1人、非常に目立つ服装の女性が座っている。薄紫色のワンピースを白いレースとリボンが覆いつくしている。髪はきれいにセットされた縦ロールでヘアーバンドのように濃淡さまざまの紫の造花と白いレースが彩っている。あれは確か「姫ロリィタ」というジャンルの服装じゃないかしら。真美は思った。

 東京の原宿あたりにいれば、さほど珍しい服装ではないが、このあたりで電車に乗ればかなり注目の的になるだろう。だが、ウィーンのカフェをコンセプトにしたこの店ではそれなりに絵になる。

 白樺の木立に面した広い窓から入ってくる柔らかい陽光が彼女のワンピースや艶やかな髪に注がれ、おそらく化繊であろう衣服の人工的な輝きをもっと柔らかな印象に変えている。カフェのインテリア、柱や床も家具も濃い茶色だ。護は、エスプレッソメーカーからから食器に至るまで本場で使われているのと遜色のないこだわりの店作りをしていた。おそらくそれが彼女がここにやって来た理由でもあるのだろう。

 でも、1人なんだろうか。こういう人たちって、集まってお茶会をしたりするんだと思っていた。真美は、護がその女性のところに何かを運んでいくのを眺めた。

「お待たせいたしました。メランジェとカイザーシュマーレンです」
女性は、目の前に置かれた皿を見て硬直した。それから震える手で置かれたフォークとナイフに手を伸ばし掛けたので、護は軽く頭を下げて「どうぞごゆっくり」と言った。

 カウンターに戻って来ようとする護は、真美に氣がついて軽く笑った。真美も小さく「遅くなってごめん」と言った。ところがその言葉を遮るように、窓際の女性が「待ってください」と声をかけた。

 護は、戻って「いかがなさいましたか」と訊いた。

「あの、これ、どうしてこんなに崩れているんですか」
女性は、わずかに批難するようなトーンで言った。真美は遠くからだがその皿を見て、彼女の苦情ももっともだと思った。皿の上には、パンケーキをぐちゃぐちゃに潰したような欠片がたくさん置かれ、それに粉砂糖がかけられている。その横にガラスの器に入った赤い実のソースが添えられていた。

 護は、慌てた様子もなく答えた。
「カイザーシュマーレンをご注文なさるのは初めてですか?」
「はい」
「そうですか。シュマーレンというのは、ガラクタ、めちゃくちゃなものといった意味で、焼いたパンケーキを、あえてスプーンで崩して作るお菓子なのです」

 それを聞くと、女性ははっとして、恥じるように下を向いた。
「そうだったんですか。ごめんなさい、失礼なことを言って……」

 護は首を振った。
「見た目が特殊で、お客様のようなお申し出が多いので、あえてメニューには載せず、口頭でご注文いただいたお客様だけにお出ししているのです。どちらでこのメニューのことを耳になさいましたか」

 女性は、しばらく下を向いていたが、やがて顔を上げてから少し悲しそうに答えた。
「友だち……いいえ、知りあいに言われたんです。私にふさわしいお菓子があるからって」

 店内はシーンとしていた。おしゃべりに明け暮れていたご婦人方も、興味津々で成り行きを伺っている。

「私、ずっと友だちがいなくて。同級生たちと話も合わなくて。こういう服が好きって言ったら、みんな遠巻きにするようになってしまって。だから、普段は、この趣味のことは言わずに、ネットで同じ趣味の仲間を探したんです。でも、みんな都会にいて。行けない私はお茶会の話題にもついていけないんです。今日は、みんなウィーン風のカフェでお茶会をするっていうので、せめてここで同じように過ごそうと思って、どんなお菓子がいいかって訊いたら、これをすすめられて……」

 ウィーンのカフェっぽいお菓子といえば有名なザッハートルテやシフォンケーキ、若干マニアックだけれどピンクのプチケーキ・プンシュクラプフェンなどを思い浮かべるけれど、カイザーシュマーレンなどというデザートは初耳だった。真美は、そのネット上の「姫ロリィタ」仲間たちの意図がわからず戸惑った。

「遠くても、ようやく趣味の合う友だちができたと思っていました。年齢も離れているみたいだけれど、それでも受け入れてもらっているのかと。でも、私、歓迎されていなかったみたい」
それだけ言うと、彼女は悲しそうにカイザーシュマーレンを見つめた。

 護は、小さく首を振って答えた。
「そういうおつもりで薦めてくださったのではないかもしれませんよ」

 女性は不思議そうに護を見た。彼は、続けた。
「カイザーシュマーレンのカイザーとは、皇帝という意味なんです。このデザートの由来にはいくつか説があるのですが、一番有名なのは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が氣に入ったからというものなんです。あの、シシィの愛称で知られるエリーザベトを皇后にした皇帝です。オーストリアでは、同様にしてつくられるシュマーレンの中でももっとも洗練されたデザートとして愛されています」

 彼女は、皿の中をじっと見つめた。明るいパステルイエローが粉砂糖の中から顔を見せ、甘い香りが漂ってきている。遠くで眺めながら真美はあれを食べてみたいと思った。

「ひと口だけでも召し上がってみてください。ウィーンでは何軒ものカフェでそれぞれのカイザーシュマーレンを食べましたが、こちらはそのどこにも負けない味だと自負している自信作です。日本の方の舌に合うように生地の甘さを控えめにして、ソースの方で甘さを調節できるようにしてあります」

 護の言葉に小さく頷くと、彼女はそっとフォークとナイフを手に取った。
「あ……」
小さい欠片はナイフを使うまでもなかった。それぞれは切るほど大きくないし、見た目は脆そうでもカラメリゼがきいているのでフォークからこぼれ落ちることもない。

 ひと口食べてみた彼女は少し顔を赤らめた。
「おいしい……」

 それから護を見て頭を下げた。
「食べもしないで、文句を言ってごめんなさい。とても美味しいし、それに、他のお菓子のように、食べるときに服を汚さないか、きれいに食べられるか心配しなくていいデザートなんですね」

 護は頷いた。
「お氣に召して嬉しいです。どうぞごゆっくり」

 カウンターに戻ってくる護を、ご婦人方が止めた。
「ねえ。私たちもあれを食べてみたいんだけれど」

 カウンターに戻ってきた護は真美に卵を出してくれと頼んだ。真美は、テキパキと冷蔵庫から卵を取りだした。

「そういえば、ザッハートルテ、大好きだけれど、フォークだけで切るのはけっこう難儀よね、かなり固いし」
真美が言うと、護は頷いた。
「君は、苦労していたよな、たしか」

 そういえば初めて食べたのはここ、高校生の時のことだ。ナイフを使わない横着をしてケーキの小片を飛ばしてしまった。そして、ジーンズにアプリコットジャムがベッタリとついた。真美は当時も今も、この店ではラフな格好しかしないので特に問題はなかったが、あんな素敵な格好をしていたら、そんな失敗は怖いだろうと思った。

 女性の着ている紫のワンピースもそうだが、「姫ロリィタ」のワンピースにはボリュームパニエが必須で、座るとスカートが机の真下まで広がることになる。加えてたくさんのレースやリボンがついているので、その分普通の服装よりもスカートを汚すことも多いのだろう。その点、カイザーシュマーレンならずっと食べやすいだろう。

「真美、これを頼む」
護は、できあがったカイザーシュマーレンを2つカウンターに置いた。それから自分も2皿持ち、ご婦人方のところに持って行く。真美はその皿を一緒に運びながら厨房奥に小さな皿が残っているのを見た。ひと言も口にしなかったのに味見用を用意してくれたのだろう。そんなに物欲しげな顔をしていたかしら。 

 はじめて食べたカイザーシュマーレン。中はふんわり外はカリッとして美味しい。真美はフレンチトーストなどを茶色く色づかせるのが好きだがいつも焦がして苦くしてしまう。こんな風にカリッとするまで焼くのは、単にレシピを見て作るだけでなく、かなり研究を重ねて作り込んだはずだと思った。

「真美。そんなに喜んでくれるのは嬉しいけれど、顔が緩みすぎだぞ」
厨房で堪能していると、そういいながら護は、コーヒーを淹れてくれた。

 食べ終わってから店内を見ると、ご婦人方が窓際の女性に話しかけていた。
「あなたのその服、とても綺麗ね。手作りなの?」
「えっと……。買ったものに少し自分で手を加えています。レースやリボンなどを……」
「まあ、そうなの。とても素敵よ」
「へえ。自分でなんて偉いわね。うちの娘は家庭科の宿題すら全部わたし任せなのよ。材料は、手芸用品のお店で買うのかしら」

 女性は、困ったように言った。
「私、この前引っ越してきたばかりで、この辺りのお店は知らないんです。前いたところは、大きい手芸屋さんも知っていたんですけれど……」
「あら。隣の駅だけれど、とても充実していて安いお店を知っているわよ。ちょっとまって、地図を書いてあげる」

 ほんの30分前までは完全に浮いていた「姫ロリィタ」ルックの女性は、すっかりご婦人方に可愛がられている。そして、彼女自身も打ち解けて自然な笑顔を見せるようになった。ご婦人方だけでなく、別の席のご老人グループも、見てはいけないものを怖々みるような態度はなくなり、遠くから見守っていた。

「このお店、そういうお衣装にはぴったりよね」
「はい。こういう素敵なカフェ、東京みたいな大都会じゃないとないんだと思っていました」
「うふふ。インテリアも、メニューも、店長がこだわっているからねぇ。本場ウィーンにいるみたいでしょう?」
「せっかくだから、写真を撮ってあげるわよ。同じ趣味のお友達に自慢するといいわ」

 真美はカウンターの後ろで護と顔を見合わせて笑った。この店は、彼の思い入れと研究の成果であると同時に、こうしてお客さんたちが支えてくれるので続けられているのだと思う。都会にあればもっとたくさんの人が足を運んでくれるかもしれないが、こんな風に客同士が楽しく触れ合うこともそうそうないだろう。

 ご老人方やご婦人方に続き、きっとこの「姫ロリィタ」ルックの女性も常連になってくれるだろう。もしかしたら、彼女が同じ趣味の人たちを連れてくるかもしれない。真美は、カイザーシュマーレンを正式にメニューに入れることを、護に提案しようと思った。

(初出:2021年3月 書き下ろし)

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カイザーシュマーレン、もっとぐちゃぐちゃのも散見しますが、だいたいこんな感じのお菓子です。
Kaiserschmarrn groß
Kobako, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】皇帝のガラクタと姫

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日の小説は『12か月の店』の3月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『ウィーンの森』です。静岡県の小さな街にあるウィーン風のこだわりカフェ、ということになっている店です。この話、もともとはシリーズ化する予定は皆無だったのですけれど、猫又がやって来たあたりからなんとなく使い勝手がよくなって時おり登場していますね。


短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
「ウィーンの森」シリーズ



皇帝のガラクタと姫

 ひらひらと白い花片が舞っていくのを、真美は目で追った。あれはなんだろう。桜にしては早いから、桃かしら。

 子供の時に住んでいたこの地域は温暖で光に満ちている。以前から抱いていた真美の印象は、久しぶりにこの街で暮らしてさらに強くなった。東京も思っているほど寒くなかったのかもしれない。こまかく氣温を記録していたわけではない。けれど、真美が通っていたオフィスはビル風が強いと有名なところで冬の厳しさは格別だったし、春の訪れも花見の頃まではあまり感じなかった。

 結婚し住むことになった駅前のカフェの周りには高いビルはない。周りに柑橘類を植えている邸宅が多く、柔らかい陽光と実の暖色が近所一帯を視覚的に温めてくれている。カフェの裏手には白樺の林があり、その四季折々の表情も見飽きない。

 土曜日。いつもより少し寝坊をしてしまったので、わずかに後ろめたく思いつつ、布団を干した。護は、もちろんとっくに起きて、開店準備をしているはずだ。真美が昨夜遅くまで月曜日のプレゼン資料を作成していたのを知っているので、起こさずにそっと店にいったのだろう。

 つきあうことになってから、お互いに結婚の意思があることまではわりと早く明確になったのだが、それから具体的な話を決めるときに若干もたついた。護はこの店『ウィーンの森』の店長としての仕事をほぼ生きがいのように感じていたが、真美が東京の商社で任されていた仕事にやり甲斐を感じていることもよく理解していてくれた。

 実際に、真美は長距離通勤や単身赴任なども考えたが、最終的には退職して近くで再就職をする道を選んだ。『ウィーンの森』のスタッフとして働くという考えもあったのだが、護は反対した。それはいつでもできることだし、365日24時間ずっと一緒に居るよりも、お互いに自分の空間と時間、そして知りあいを持つほうがいいと。

 真美はなるほどと思った。この土地と店をずっと続けている護はともかく、17歳で東京に移住した真美にこの街の人々との付き合いはほとんどない。自分の世界を持ち、見聞を広めるのは大切なことだ。

 そんなわけで、真美は県内の少し大きな街の不動産会社に勤めている。土日は護の店を手伝うことも多いが、「休みの日はゆっくりしろ」と言ってくれるので、こちらは重役出勤になってしまうことが多い。

 洗濯や部屋の掃除をひと通り済ませてから階下に降りていった。コーヒーだけでなく、甘いケーキを焼くような香りがしている。店内を見回すと、いつも入り浸る近所のご老人たちの他、買い物帰りのようなご婦人方が楽しく話していた。

 そして、窓際に1人、非常に目立つ服装の女性が座っている。薄紫色のワンピースを白いレースとリボンが覆いつくしている。髪はきれいにセットされた縦ロールでヘアーバンドのように濃淡さまざまの紫の造花と白いレースが彩っている。あれは確か「姫ロリィタ」というジャンルの服装じゃないかしら。真美は思った。

 東京の原宿あたりにいれば、さほど珍しい服装ではないが、このあたりで電車に乗ればかなり注目の的になるだろう。だが、ウィーンのカフェをコンセプトにしたこの店ではそれなりに絵になる。

 白樺の木立に面した広い窓から入ってくる柔らかい陽光が彼女のワンピースや艶やかな髪に注がれ、おそらく化繊であろう衣服の人工的な輝きをもっと柔らかな印象に変えている。カフェのインテリア、柱や床も家具も濃い茶色だ。護は、エスプレッソメーカーからから食器に至るまで本場で使われているのと遜色のないこだわりの店作りをしていた。おそらくそれが彼女がここにやって来た理由でもあるのだろう。

 でも、1人なんだろうか。こういう人たちって、集まってお茶会をしたりするんだと思っていた。真美は、護がその女性のところに何かを運んでいくのを眺めた。

「お待たせいたしました。メランジェとカイザーシュマーレンです」
女性は、目の前に置かれた皿を見て硬直した。それから震える手で置かれたフォークとナイフに手を伸ばし掛けたので、護は軽く頭を下げて「どうぞごゆっくり」と言った。

 カウンターに戻って来ようとする護は、真美に氣がついて軽く笑った。真美も小さく「遅くなってごめん」と言った。ところがその言葉を遮るように、窓際の女性が「待ってください」と声をかけた。

 護は、戻って「いかがなさいましたか」と訊いた。

「あの、これ、どうしてこんなに崩れているんですか」
女性は、わずかに批難するようなトーンで言った。真美は遠くからだがその皿を見て、彼女の苦情ももっともだと思った。皿の上には、パンケーキをぐちゃぐちゃに潰したような欠片がたくさん置かれ、それに粉砂糖がかけられている。その横にガラスの器に入った赤い実のソースが添えられていた。

 護は、慌てた様子もなく答えた。
「カイザーシュマーレンをご注文なさるのは初めてですか?」
「はい」
「そうですか。シュマーレンというのは、ガラクタ、めちゃくちゃなものといった意味で、焼いたパンケーキを、あえてスプーンで崩して作るお菓子なのです」

 それを聞くと、女性ははっとして、恥じるように下を向いた。
「そうだったんですか。ごめんなさい、失礼なことを言って……」

 護は首を振った。
「見た目が特殊で、お客様のようなお申し出が多いので、あえてメニューには載せず、口頭でご注文いただいたお客様だけにお出ししているのです。どちらでこのメニューのことを耳になさいましたか」

 女性は、しばらく下を向いていたが、やがて顔を上げてから少し悲しそうに答えた。
「友だち……いいえ、知りあいに言われたんです。私にふさわしいお菓子があるからって」

 店内はシーンとしていた。おしゃべりに明け暮れていたご婦人方も、興味津々で成り行きを伺っている。

「私、ずっと友だちがいなくて。同級生たちと話も合わなくて。こういう服が好きって言ったら、みんな遠巻きにするようになってしまって。だから、普段は、この趣味のことは言わずに、ネットで同じ趣味の仲間を探したんです。でも、みんな都会にいて。行けない私はお茶会の話題にもついていけないんです。今日は、みんなウィーン風のカフェでお茶会をするっていうので、せめてここで同じように過ごそうと思って、どんなお菓子がいいかって訊いたら、これをすすめられて……」

 ウィーンのカフェっぽいお菓子といえば有名なザッハートルテやシフォンケーキ、若干マニアックだけれどピンクのプチケーキ・プンシュクラプフェンなどを思い浮かべるけれど、カイザーシュマーレンなどというデザートは初耳だった。真美は、そのネット上の「姫ロリィタ」仲間たちの意図がわからず戸惑った。

「遠くても、ようやく趣味の合う友だちができたと思っていました。年齢も離れているみたいだけれど、それでも受け入れてもらっているのかと。でも、私、歓迎されていなかったみたい」
それだけ言うと、彼女は悲しそうにカイザーシュマーレンを見つめた。

 護は、小さく首を振って答えた。
「そういうおつもりで薦めてくださったのではないかもしれませんよ」

 女性は不思議そうに護を見た。彼は、続けた。
「カイザーシュマーレンのカイザーとは、皇帝という意味なんです。このデザートの由来にはいくつか説があるのですが、一番有名なのは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が氣に入ったからというものなんです。あの、シシィの愛称で知られるエリーザベトを皇后にした皇帝です。オーストリアでは、同様にしてつくられるシュマーレンの中でももっとも洗練されたデザートとして愛されています」

 彼女は、皿の中をじっと見つめた。明るいパステルイエローが粉砂糖の中から顔を見せ、甘い香りが漂ってきている。遠くで眺めながら真美はあれを食べてみたいと思った。

「ひと口だけでも召し上がってみてください。ウィーンでは何軒ものカフェでそれぞれのカイザーシュマーレンを食べましたが、こちらはそのどこにも負けない味だと自負している自信作です。日本の方の舌に合うように生地の甘さを控えめにして、ソースの方で甘さを調節できるようにしてあります」

 護の言葉に小さく頷くと、彼女はそっとフォークとナイフを手に取った。
「あ……」
小さい欠片はナイフを使うまでもなかった。それぞれは切るほど大きくないし、見た目は脆そうでもカラメリゼがきいているのでフォークからこぼれ落ちることもない。

 ひと口食べてみた彼女は少し顔を赤らめた。
「おいしい……」

 それから護を見て頭を下げた。
「食べもしないで、文句を言ってごめんなさい。とても美味しいし、それに、他のお菓子のように、食べるときに服を汚さないか、きれいに食べられるか心配しなくていいデザートなんですね」

 護は頷いた。
「お氣に召して嬉しいです。どうぞごゆっくり」

 カウンターに戻ってくる護を、ご婦人方が止めた。
「ねえ。私たちもあれを食べてみたいんだけれど」

 カウンターに戻ってきた護は真美に卵を出してくれと頼んだ。真美は、テキパキと冷蔵庫から卵を取りだした。

「そういえば、ザッハートルテ、大好きだけれど、フォークだけで切るのはけっこう難儀よね、かなり固いし」
真美が言うと、護は頷いた。
「君は、苦労していたよな、たしか」

 そういえば初めて食べたのはここ、高校生の時のことだ。ナイフを使わない横着をしてケーキの小片を飛ばしてしまった。そして、ジーンズにアプリコットジャムがベッタリとついた。真美は当時も今も、この店ではラフな格好しかしないので特に問題はなかったが、あんな素敵な格好をしていたら、そんな失敗は怖いだろうと思った。

 女性の着ている紫のワンピースもそうだが、「姫ロリィタ」のワンピースにはボリュームパニエが必須で、座るとスカートが机の真下まで広がることになる。加えてたくさんのレースやリボンがついているので、その分普通の服装よりもスカートを汚すことも多いのだろう。その点、カイザーシュマーレンならずっと食べやすいだろう。

「真美、これを頼む」
護は、できあがったカイザーシュマーレンを2つカウンターに置いた。それから自分も2皿持ち、ご婦人方のところに持って行く。真美はその皿を一緒に運びながら厨房奥に小さな皿が残っているのを見た。ひと言も口にしなかったのに味見用を用意してくれたのだろう。そんなに物欲しげな顔をしていたかしら。 

 はじめて食べたカイザーシュマーレン。中はふんわり外はカリッとして美味しい。真美はフレンチトーストなどを茶色く色づかせるのが好きだがいつも焦がして苦くしてしまう。こんな風にカリッとするまで焼くのは、単にレシピを見て作るだけでなく、かなり研究を重ねて作り込んだはずだと思った。

「真美。そんなに喜んでくれるのは嬉しいけれど、顔が緩みすぎだぞ」
厨房で堪能していると、そういいながら護は、コーヒーを淹れてくれた。

 食べ終わってから店内を見ると、ご婦人方が窓際の女性に話しかけていた。
「あなたのその服、とても綺麗ね。手作りなの?」
「えっと……。買ったものに少し自分で手を加えています。レースやリボンなどを……」
「まあ、そうなの。とても素敵よ」
「へえ。自分でなんて偉いわね。うちの娘は家庭科の宿題すら全部わたし任せなのよ。材料は、手芸用品のお店で買うのかしら」

 女性は、困ったように言った。
「私、この前引っ越してきたばかりで、この辺りのお店は知らないんです。前いたところは、大きい手芸屋さんも知っていたんですけれど……」
「あら。隣の駅だけれど、とても充実していて安いお店を知っているわよ。ちょっとまって、地図を書いてあげる」

 ほんの30分前までは完全に浮いていた「姫ロリィタ」ルックの女性は、すっかりご婦人方に可愛がられている。そして、彼女自身も打ち解けて自然な笑顔を見せるようになった。ご婦人方だけでなく、別の席のご老人グループも、見てはいけないものを怖々みるような態度はなくなり、遠くから見守っていた。

「このお店、そういうお衣装にはぴったりよね」
「はい。こういう素敵なカフェ、東京みたいな大都会じゃないとないんだと思っていました」
「うふふ。インテリアも、メニューも、店長がこだわっているからねぇ。本場ウィーンにいるみたいでしょう?」
「せっかくだから、写真を撮ってあげるわよ。同じ趣味のお友達に自慢するといいわ」

 真美はカウンターの後ろで護と顔を見合わせて笑った。この店は、彼の思い入れと研究の成果であると同時に、こうしてお客さんたちが支えてくれるので続けられているのだと思う。都会にあればもっとたくさんの人が足を運んでくれるかもしれないが、こんな風に客同士が楽しく触れ合うこともそうそうないだろう。

 ご老人方やご婦人方に続き、きっとこの「姫ロリィタ」ルックの女性も常連になってくれるだろう。もしかしたら、彼女が同じ趣味の人たちを連れてくるかもしれない。真美は、カイザーシュマーレンを正式にメニューに入れることを、護に提案しようと思った。

(初出:2021年3月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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カイザーシュマーレン、もっとぐちゃぐちゃのも散見しますが、だいたいこんな感じのお菓子です。
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Posted by 八少女 夕

【小説】冬のパラダイス

今日の小説は『12か月の店』の2月分です。もう3月ですけれど。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は『ニューヨークの異邦人たち』シリーズのたまり場《Sunrise Diner》です。もちろん働いているのはおなじみキャシー。そして、出てくるコンビはケニアで新婚生活をはじめたあの人たちです。


短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

霧の彼方から「霧の彼方から」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」外伝集「ニューヨークの異邦人たち」




冬のパラダイス

 寒波のひどい朝は、出勤がとても憂鬱になるものだが、来てよかったとキャシーは思った。懐かしい友人が朝から訪ねてきてくれたのだ。
「びっくり。いつ着いたの? しばらく滞在?」

 ドアを開けてジョルジアを通してから入るグレッグの姿を見て、ずいぶんと夫らしくなったなとキャシーは思った。以前は、何をするのにもジョルジアの機嫌を損なわないかおどおどしているようなところがあったのだが、半年の新婚生活でジョルジアが自分の妻であることに慣れたのだろう。

 ジョルジアは、手慣れた様子でコートをハンガーに掛けながら答えた。
「6時に着いたのよ。荷物だけ置いて、まっすぐここに来たの」

 ニューヨーク、ロングアイランドのクイーンズとの境界のすぐ側の海岸を臨んで、大衆食堂《Sunrise Diner》がある。キャシーが新装開店のスタッフとしてこの店に勤めだして、3年半が経った。開店してすぐに朝食を食べる常連になってくれたジョルジアは、当時は近所に住んでいた。

 感じはいいのに、めったに口もきかず、いつもカウンターに1人で座っていた彼女が、他の常連たちと打ち解けだして、自然と輪の中に入っていけるようになるまで、しばらく時間が必要だった。それが、どうしたことだろう、1年後の秋に「アフリカで知り合った友人」を突然連れてきたかと思ったら、その1年後には、彼と結婚して、ケニアに移住すると言い出した。

 常連たちは、そのニュースを聞いてもひどくは驚かなかった。もちろん、キャシーも。むしろ、なぜあれから1年も「ただの友人」だと言い張っていたのか、みな理解できなかったのだ。

 4月の結婚式は、彼女の家族のたっての希望でニューヨークで行われたが、大きなホテルを貸し切りたいという兄の意向に断固反対して彼女たちがパーティー会場に選んだのが《Sunrise Diner》だった。家族の他、常連や、ジョルジアが専属フォトグラファーとして働く《アルファ・フォト・プレス》の社員たちが集まり、盛大かつアットホームなパーティーだった。

 キャシーはもちろん、夫のボブも招待された。アメリカ有数の富豪であるマッテオ・ダンジェロと、もとスーパーモデルのアレッサンドラ・ダンジェロのデュエットに合わせて、ダンスを踊るなどという経験は、そうそうできるものではない。もっとも、主役の2人は盛り上がりすぎに居心地が悪かったのか、パーティーの後半からは会場の隅に大人しく座っていたので、後から常連たちの語り草になった。

 その後、すぐに2人はケニアで新生活をはじめたのだが、ジョルジアはニューヨークでの住まいを完全には引き払わなかった。《アルファ・フォト・プレス》との契約で年に数ヶ月はニューヨーク暮らしをする必要があるので、同じフラットの、少し小さな部屋に引っ越して、渡米中の住まいを確保したのだ。

 また、グレッグも援助をしてもらっているプロジェクトの報告のため、年に1度ニューヨークに報告に行く契約を結んでいる。つまりこの夫婦は少なくとも年に1度ニューヨークに揃ってやってくるのだ。

 今どき報告なんてEメールで何でも済ませられるのだから、その契約は、引っ込み思案な2人をニューヨークまで引っ張り出したいマッテオ・ダンジェロの策略なのだろうとキャシーは思っている。そして、その第1回目が今回の渡米なのだろう。
 
「あら。手編み?」
キャシーは、グレッグがカウンターに置いた手袋に目を留めた。それは、グレーの毛糸をベースに、黄色や赤や緑の文様が編み込まれた、ゴム編みの大きなものだ。機械編みかもしれないと思うくらいに目はきちんと揃っているが、最近ではめったに見ない田舎っぽいデザインだ。彼のオーソドックスでシックなコートとマッチしていないし、ジョルジアやその家族が、こんな野暮ったい物を贈ることはないだろう。

 実際に、ジョルジアが外した手袋は、茶色いヌメ革に黒い革のラインが走っているもので、ダンジェロ兄妹の家族らしい洒落たチョイスだ。

 グレッグは「ああ」とだけ答えた。
「お母様の手編みなのよね」
ジョルジアが言い添えたので、キャシーはなるほどと思った。

「学生の頃にもらったんだ。アフリカに引っ越してから、1度もこの手の手袋を使う必要がなかったから、ここに虫食いの穴があった」
彼は右手袋の内側を見せた。確かに、繕った跡が見える。手袋のいらない生活ね。数年に1度、1週間ほどニューヨークに来るためだけならば、確かに新しいのを買う必要もないだろう。

「冬のニューヨークは初めてなの?」
キャシーが訊くと、グレッグは頷いた。
「ジョルジアから聞いていたから覚悟していたけれど、とても寒いね」

「僕が初めてここに来たときも、やっぱり冬だったけれど、あまりの寒さに仰天したものですよ」
いつもの窓際の席ではなく、やはりカウンターに座ったクライヴが言った。彼のイギリス的な美意識、つまりカウンターなどではなく、テーブル席で優雅に紅茶を飲む習慣も、今日のウインドー越しに襲ってくる冷氣には勝てなかったらしい。

 キャシーは黙って、ヴィクトリア朝のブルーウィロー・ティーポットに、安物のティーバッグをポンと入れた。このポットは、クライヴが店長を務めている骨董店から持ち込んで預けているのだ。彼のためにいちいち茶葉を用意してやることはないが、少なくともポットを熱湯で温めたり、沸騰させたお湯を入れてやるくらいのことはしている。そして、他の客とは違い、同柄のカップとソーサーに淹れて悦に入っているクライヴの伝票に「紅茶1」とかき込むのだ。

「で、新婚さんたちのご注文は?」
キャシーは、ジョルジアたちに顔を向けた。ジョルジアは、もう心に決めていたようで即答した。
「ホットチョコレート。『キャシー・スペシャル』で。こんなに寒いんですもの」

「それは、どんな飲み物?」
グレッグは、用心深く訊いた。かつて、キャシーに奨められて、とんでもない大きさのチョコレートサンデーが運ばれてきた衝撃を忘れていないのだろう。

「チリペッパーが入っているの。辛いのが苦手じゃなければ、いけると思う」
キャシーはウインクした。ジョルジアが続けた。
「とっても体が温まるのよ」

「じゃあ、僕にもそれをおねがいします」
グレッグが言った。

「はーい」
キャシーは、テキパキとチョコレートを用意した。

 オープンした当時、この《Sunrise Diner》で出すホットチョコレートは、粉末ココアに熱湯を入れる薄めのものだった。だが、常連にどういうわけだかヨーロッパからの移民の割合が多く、しかも、ホットチョコレートに関してはひと言もふた言もある輩が多かったおかげで、もう1つのホットチョコレートがメニューに登場することになった。ダーク系の固形チョコレートを刻んだものに熱いお湯と加熱したミルクを混ぜて作る、フランスやイタリアタイプだ。

 さらに、常連たちがあれこれと改良に腐心した結果、チリペッパー入りの《Sunrise Diner》特製ホットチョコレートが誕生したというわけだ。いまでも粉末ココア式のホットチョコレートもメニューにあるのだが、注文が入るのは圧倒的に『特製』だった。そして、常連はたいてい『キャシー・スペシャル』とそれを呼ぶのだ。

 グレッグは、厚手のカップが目の前に置かれるのをじっと眺めた。彼の知っている粉末ココア製の飲み物と違い、それは真っ黒なクリームのように見えた。キャシーはスチーマーで加熱したミルクをその上からかけてドリンクを完成した。隣でジョルジアがミルクとチョコレートをかき混ぜて飲みやすい粘度にしているのをまねてから、湯氣の上がるカップをそっと口元に運んだ。

 もっと辛いのかと思ったが、チョコレートの甘い味だけを感じた。だが飲んでいるうちに、だんだん喉元にヒリヒリとした刺激が訪れてくる。それに氣がつく頃には、体がもうぽかぽかしている。
「なるほど。確かに、暖まるね」

「初めて来たときには、ぞっとしましたよ。なんだってこんな寒いところが大都会になったんだろうって」
クライヴは、紅茶を優雅に飲みながら言った。ケニアで育ったグレッグにしてみたら、ロンドンだって、十分に寒かったのだが、クライヴにとっては、大きな違いがあるらしい。

「早く春になって欲しい?」
ジョルジアが問いかけると、クライヴは大きく頷いた。

「ちょっと待ってよ。それは困るわ。冬を待ちかねていた人だって、ここにちゃんといるんですから」
キャシーが口を尖らせた。

 首を傾げるグレッグに、ジョルジアがそっと解説をした。
「キャシーは、アイススケートが好きなの。フィギュアの選手も顔負けってくらい、とても上手いのよ」

 キャシーは、肩をすくめた。
「ま、いまだにウォールマン・リンクで滑りながら、スカウトが来るのを待っている身だけどね」

 それは冗談なんだろうか、それとも本当に? グレッグは、どう反応していいのかわからなかったので、チョコレートのカップを口元に持っていき、チリペッパーの刺激を待つことにした。

「アリシア=ミホにも教えているの?」
ジョルジアが訊いた。キャシーの娘アリシア=ミホは、そろそろ5歳になる。彼女は母親の顔になり、重々しく頷いた。
「うん。ようやく1人で滑れるようになったの。滑るのが楽しくなってきた頃かな。もっとも動物園の方が好きみたいだけど」

「きみの子供時代とは違ってかい?」
クライヴが訊くと、キャシーは「そうねぇ」と考えた。

「私が子供の時は、動物園どころかウォールマン・リンクにも入れなかったもの。ママはシングルマザーで時間もお金もなかったしね。で、私は凍った家の近くの池で1人で滑っていたなあ。動物園とか、暖かい家でするゲームとか、そういう別の選択肢はなかったのよね。ま、おかげでスケートに夢中になれたんだから、それはそれでよかったのかも」

「こんなに寒いのに、そんなにしてまでよく滑ったねぇ」
クライヴは、ぞっとするという顔をして、紅茶を飲み干した。

「滑っていると、ワクワクしてくるの。スピンしているうちに、嫌なことも忘れちゃう。新しい技に成功したときは、天に昇る心地よ。こればっかりは子供の頃から変わらないなあ。それにね、スケートリンクと違って、ただの池はめちゃくちゃ寒くないと危険で滑れないの。だから、毎年もっともっと寒くしてって神様におねがいしたなあ」

「なんてお願いをするんですか! だから、こんなに寒いんじゃないでしょうね!」
クライヴの抗議に、その場の皆が楽しく笑った。

「寒くなると、嬉しくて、踊り出しちゃうけどなあ。冬のニューヨークは、パラダイスだよ」
キャシーは、譲らなかった。

「キャシーが、あんなに冬が好きなんて、意外だったな」
外に出てから、グレッグはつぶやいた。アフリカから来た彼には、この寒さはこたえるだろうなとジョルジアは思った。

 ジョルジア自身は、さほど冬は好きではない。スケートはもちろん、スキーにもほとんど行ったことがないから、長すぎる秋や、早すぎる春に文句を言いたくなったことなど1度もない。とはいえ、例えばクリスマスに30℃近くあるというのも、落ち着かない。また『キャシー・スペシャル』は、やはりとびきり寒い日に飲むほうがしっくりくる。

 海を見たいと言ったのはジョルジアだった。まだ低く弱い日差しが作り出す光を見たかったのだ。

 そして、彼女は、街路樹の枝に育った氷の結晶が煌めくのをそのままにはできなかった。しばらく時間を忘れてシャッターを切った。グレッグは、大人しく彼女が満足するまで待った。

「もういいのかい?」
振り向いて申し訳なさそうに見つめた彼女に、彼は微笑みながら問いかけた。

「ごめんなさい。つい夢中になってしまって」
「いいんだよ。ほんの5分くらいじゃないか。僕が君を忘れてしまった時間に比べたら……」
「あの時は、こんなに寒くなかったわ」

 暖かいフラットに戻ろうと歩き出したとき、ジョルジアは困ったように辺りを見回した。
「どうしたんだい?」
グレッグも、止まった。

「手袋。どこに落としたのかしら」
右手の手袋が見つからない。

「最後に見たのはどこかい?」
「《Sunrise Diner》で2つ揃っていたのは憶えているんだけれど」
「じゃあ、通った道を戻ろう。落ちているかもしれないし」
「そうね」
「せっかくだし『キャシー・スペシャル』をもう1杯飲もうよ」

 シャッターを押しているときには感じなかった冷たさが急に指を襲ってきた。ポケットがないデザインのコートは大失敗だったわ。彼女は所在なさげにストールに手を絡めた。

 グレッグは、近づいてくるとそっと彼女の凍えた手を握った。ウールの手袋が暖かく指先を包んだが、それがそのまま彼のコートのポケットにするりと収まった。ジョルジアは、必然的にとても近くなった彼の顔を見上げた。はにかんだ彼の瞳が、こんなことをしてもいいのかと確認するようにこちらを見ている。彼女は、微笑んだ。

 キャシー、あなたのいう通りね。冬のニューヨークは、パラダイスだわ。

(初出:2021年3月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 約定

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第9弾、ラストの作品です。TOM-Fさんは、「天文部シリーズ」シリーズの掌編でご参加いただきました。ありがとうございます!


 TOM−Fさんの書いてくださった「この星空の向こうに Sign04.ライラ・アークライト オブ ザ  スカイ

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』は、無事完結、現在は次の長編に向けて、準備中とのこと楽しみですね。

「scriviamo!」には皆勤してくださり、毎回趣向を凝らした名作でご参加くださっています。そして、毎回めちゃくちゃ難しいのですけれど、今年の難しさは例年と違うところにありまして……。最愛のキャラの渾身のエピソードでご参加なのですよ。いや、他にも大切なキャラでご参加くださったことは多々あるのですけれど、今回の作品は最愛のキャラをここまで痛めつけるかという、TOM−FさんのドSぶりを遺憾なく発揮されていて、いや、これに適当なキャラでお茶を濁すお返しはナシでしょう……みたいな。

それで、こちらも最愛キャラ(の前世だけど)を持ってくることにしました。しかも、同じくらい虐めている……ええと、いや、そうでもないか。しかし、TOM−Fさんがご自分の作品について「イタい」とおっしゃっている以上に、めっちゃイタい仕上がりになっています。あと、男が病で死んじゃうのと、男が死んだ女に囚われているのもあちらの作品と同じ。

いや、合わせてそう書いたのではなく、もともとそういう構想でして。今回のこれ、バリバリの本編で、しかも終わりから2番目くらいのところにあるべき話をいきなり書いてしまいました。ええ、TOM−Fさんのお話を読んでから「いきなり(ほぼ)最終回」を書くことにしたんです。

最終回の手前ですから、主要キャラたちの行く末が全バレです。ここまでとんでもないネタバレはさすがに普段はしませんが、この話に限ってははじめから主人公が野垂れ死にすることを公表しているので、これでいいかなと。この話、いずれ途中を書いたら、記事の順番を調整してこれがちゃんとおしまいの方に来るようにしたいと思っています。でも、ほら、もう書かないかも知れませんしね〜。(根の国のシーンが大変そうで筆が進まないという説も)


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樋水龍神縁起 東国放浪記
約定
——Special thanks to TOM−F-san


 開け放たれた鳥居障子の向こうに垂れ込めた雲が見えた。萱は、平伏する次郎から眼をそらし、その雲間より逃れた一条の光が、若狭の海に差して煌めくのを眺めた。
 
 安達春昌の忠実な従者である次郎が、ひとりでこの若狭を訪れるということが意味することは一つだった。久しぶりに次郎の顔を見て喜んだ三根もまた、その意を解して泣きながら萱に伝えに来た。

 訊けば、春昌はここ数年東国を彷徨い、伊勢の近くで流行り病で亡くなったという。廃寺の境内に主人を埋め、次郎は生まれ故郷の奥出雲へ戻る途上であった。

 かつて春昌は、いま次郎が座る位置のすぐ後ろの廂板間に座っていた。あれは何年前のことだろう。昨日のことのように鮮やかに脳裏をよぎるが、昔語りになってしまった。

「わざわざ報せにきてくれたこと、礼を申します。春昌様は、何かおっしゃられたのか」
萱は、頭を上げるように言ってから問うた。次郎は、わざわざ人払いを願い出た。何か伝えることがあるのだろう。

「お隠れになる二日ほど前のことでございました。こちらでお世話になったことを語られたとき、こうおっしゃいました。『誓いは果たしたと、萱どのに伝えてほしい』と」

 萱は、こみ上げるものを押さえつけた。神罰に全てを捨てて彷徨うかつての陰陽師を、それまで以上に苦しめることになった約定を、萱もまた忘れたことはなかった。これからも生き続ける限り忘れないだろう。

* * *


 それは、あの月夜のことだった。春昌は廂の板間に座り、若狭の海に揺れる月影を眺めていた。次郎は三根のもとに行き、佐代や岩次も下がり、萱はひとり春昌の杯を満たしていた。

 献上品となる濱醤醢を造る『室菱』の元締めとして、女だてらに重責を担う萱は、長らくふさわしき婿取りを期待され続けてきた。父に婿になることを所望された若衆が海難に遭い、間もなく父も急死したため、図らずも若くして元締めになった萱には、これまで婿探しをしている時間などなかった。

 何年か前より子細ありげな貧しい公達、安達春昌とその従者次郎が滞在するようになって以来、古くからの使用人たちはこの公達と萱との縁組みを期待するようになった。特に、萱の従妹である夏姫を巻き込んだ怪異を、春昌がみごとに祓い、かつて殿上すら許されていた陰陽師であったことが知れると、彼らの期待はさらに強くなった。それどころか若狭小浜の商い人たちも、もはやそれが決まったことのように噂するようになっていた。

 ところが、当人同士が話を進める兆しを全く見せないので、業を煮やした使用人たちがあえて場を離れ、次郎を主人から引き離して、春昌と萱がふたりきりになるよう骨を折っていたのである。

 萱は、彼らの願いは十分に承知していたものの、そのようなことは到底あるまいと心を定めていた。他の者らは、春昌と樋水龍王神社の御巫瑠璃媛の死にまつわる因果を知らなかったし、萱と播州屋惣太との深い因縁を春昌が承知していることも氣づいていなかったのである。

 萱と春昌はもはや、釣り合う似合いの男女、もしくは惚れた腫れたの始まりを探り合うがごとき浅い仲ではなかった。影患いの果てに生成りとなった惣太の妻に萱代わりに祟られた夏を救うため、萱は春昌と共に、根の国を訪れることとなった。ふたりはそこでこの世ならぬものと対峙した。そして、そこで不本意ながら、もっとも知られたくない心の一番奥にある悼みを晒すことになってしまった。

 十六夜の月は穏やかに輝き、若狭の海はいつになく凪いでいた。微かな風が、春昌の鬢からこぼれた髪をそよがせている。根の国で亡者に囲まれ二度と現し世に戻れぬことを覚悟したとき、彼は萱を守らんと全霊を尽くし半ば鬼と化した。その彼の姿は夢のように遠く想われた。

 彼は、萱が生涯をかけて愛し求めた男ではない。そして、彼にとってたったひとりの宿命の女は萱などではない。彼が奥出雲の地で禁忌を犯し、そのために名聞はなれ彷徨い生きていることも知っている。けれども、そうした全ての情状は現し世にのみ存り、根の国の在り様とは何ひとつ関わりなきことであった。萱は、神意も天罰も愛欲も恩讐も全て手放し、ただ彼と共に、かの黄金に輝く七色の光の中に溶け込んで消えていきたかった。

 こうして現し世に舞い戻り、またそれぞれの情状を抱えた者に分かれて座っていることに、違和感が拭えない。夢の続きのごとく、合うさきるよそ事に思える。春昌様も、同じように感じておられるのであろうか。萱は、穏やかな彼の横顔を見ながら考えた。それとも、この方にとって、あのような神事象の見聞は、明暮のことなのやもしれぬ。

 誰よりも近く、誰よりも頼りになると感じられた男が、現し世ではこれほどに遠く感じられる。身分と立場が、そして、お互いの持つ深い業と過去が、ふたりの間に大きな楔を打ち込んでいる『室菱』の者らにも、おそらく春昌を知り尽くした次郎にも見えてはいない、まがう事なき隔たりを萱は感じている。この男とひとつになれるのは、あの七色の光の中でだけなのだと。

 ふたりとも、言葉にしてその様な語りは何もしない。ただ、周りの期待には応えられないことを、お互いが誰よりもわかっていた。怖ろしいほどに穏やかな月夜だった。

「そういえば、弥栄丸から便りがございました。来月、夏と共にこちらに参るそうでございます。ふたりとも一日も早く春昌様にお目にかかって御礼を申し上げたいと、心はやっている様子でした」
萱は、丹後の屋敷に戻っている夏の様子を知らせた。あのふたりが夫婦になることを夏の父親もついに許したらしい。

 春昌は、夏の話をするときにいつも見せる幼子を愛おしむような微笑みを見せて答えた。
「夏どのがこちらに戻られる頃には、私はもう居りませぬ。よろしくお伝えください」
「どうしてですか」
「月が明ける前に、出立する心づもりでおります」

 これから冬になるというのに、なぜいま苦しい旅に出ようとするのだろう。
「春昌様。春をお待ちください。これからの山越えはおつらいでしょう」

 彼は、顔を向けて萱に冷たい一瞥を与えた。ひどい冷氣が下りたかと思うほど空氣が変わった。春昌の全身が例の青紫の氣焰に覆われていた。
「だから行くのだ。ここで心地よい冬を過ごしたりせぬように」

 はじめてその氣焰を感じたとき、萱は何か禍々しきものに触れたのかと、ひどく怖れたものだ。だが、彼女はもうそれに恐れを感じることはなかった。それは、癒やされることのない痛みと彼自身すらを許さない己の怒りが生み出す彼の業そのものだからだ。彼女は、彼の心の痛みに耐えかねて、思わずその掌を彼に向けた。

 すると、不思議なことが起こった。あの根の国で見たのと同じ、彼女自身の黄色い氣焰が掌で暖かい色に輝きぶつかった彼の氣焰の色を変えたのだ。

 萱は長いこと、自らの氣焰も含めて、この世ではないものを見ることをやめていた。自分にはその様なことはできないのだと思っていた。かつて媛巫女瑠璃に、樋水龍王神の御前に連れて行かれたときも、偉大なる巫女の権能が彼女に特別なものを見せたのだと思い込んでいた。

 だが、それは、萱自身の『見える者』としての力だった。春昌と共に訪れた根の国で、彼女は再び樋水龍王神の御姿を拝し、禍つ神を浄める媛巫女に比肩する伎倆を手にしたのだ。

 全ては収まるべきところに収まった。萱は現し世に戻り、商いには不要なその特別な力はもう使うこともないと思っていた。

 それなのに、なんということであろう。かつて己をあれほど怖れおののかせたあの氣焰を、自ら触れるだけで消している。

 掌はまだ服の上にも達していないが、萱の掌から溢れる暖黄色の光は、春昌の外側に纏いつく青紫の氣焰を、触れたところから次々と春の若萌え草のような明るく心地よい氣に変えていった。

 だが春昌は、萱がしようとしていることを見て取ると、身を引き、苦しそうに顔をゆがめて言った。
「やめてくれ、浄めるな。頼む」

 萱は、動きを止め、わずかに後方へ下がった。青紫の氣の焰はまだ春昌の周りに燃えていた。若緑に変わりだしていた氣も、やがて再びその青紫に打ち消されて消えていった。

「すまぬ」
春昌は、絞り出すように言った。
「無駄なのだ。一刻、すべてを浄めても、またこの業が勝る。奥田の秘め蓮の池も、権現の瀧も、若狭姫大神の神水も、どうすることもできなかった。私が生き続ける限り、これは消えはせぬ」

「春昌様」
「夏どのを救うためには、そなたの力を借りる他はなかった。だが、そなたの眠れる力をあのような形で目覚めさせたのは、忌むべき咎だ。ましてや、そなたをこの呪われた業に巻き込むわけにはいかぬ。呪われ黄泉へ引きずり込まれるべきはこの身だったのだ。媛巫女ではない。憐れな次郎でもない。そして、そなたでもないのだ」

「想ってはならぬ方を想うことが呪われた業ならば、この身はとうに奈落に落ちております」
萱は、わずかに震えながらも、はっきりと口にした。

 惣太の妻を恨みの鬼にし、影患いに追い込んでしまったのは、他でもない自らの業だ。たとえ全てが終わった今となっても、神罰を受けることはなくとも、その事実を変えることはできない。

 春昌は、わずかに顔の険しさを緩めた。否定しないことが、彼が萱の言い分を認めていることを示している。

「春昌様。苦しまれるあなた様を、同じ浄めの力を持つ私の元へと導かれたのは、媛巫女様だとお思いになりませぬか」

 夏のように、三根のように、すべてを投げ打ち想いのままに慕う相手の胸に飛び込むことは、萱にはできない。自らが媛巫女に立ち替わる存在だとうぬぼれているわけでもない。だが、せめて一刻でもかまわない。私にできることをさせてくださいませ。萱は祈るように春昌を見つめた。

「媛巫女の真似事はそなたの本分ではない。その様なことを度々すれば、すぐに周りにこの世ならぬものが集い、身動きが取れなくなる。心を煩わさずに、そなたの定めを生きよ」
「そして、あなた様おひとりで、全ての苦しみを背負われるおつもりですか。せめて、ここにおられる間だけでも、重荷を下ろして楽におなりくださいませ」

 春昌は、月から視線を移し萱を見た。
「楽になどならなくていいのだ。ここで安らぎを得るのも過ちだ。私は赦しの道を探しているわけではないのだから」

 揺るぎのない強い光を放つ瞳を見て、彼女はこの男が彷徨いながら探しているものが何かを理解してしまった。嘆きせめぐその魂は、もはやなんの希望をも持っていなかった。

 萱は彼を救うことができない。彼の願いはひとつだけなのだ。呪われた身を横たえ二度と目覚めぬこと。罪に穢れた屍を受け入れてくれる土地神を探すこと。

「そのようなことを、おっしゃらないでくださいませ」
絶望に打ちひしがれて、萱は伏した。

 彼は女の涙には揺るがなかった。一刻も早くここを去ろうとするのは、大きくなりすぎた萱との縁を断ち切るためなのだ。

「萱どの。そなたは、私と次郎に善く尽くしてくれた。その恩に報いることのできるものを私は何ひとつ持たぬ。だが、もし、私の力でそなたの恩に報いることができるのならば、どんなことでも願い出てほしい」

 萱はたったひとつの願い事をした。それが、春昌が果たしたという約定だった。

* * *


 萱は、紙に包まれた一房の髪を手に取った。別れ際に見た彼の髪にこれほど白いものは目立っていなかった。伊勢にたどり着くまでに、どれほどの新たな苦しみを抱いたのであろう。目の前の次郎もまた、少し歳をとった。だが、故郷へ戻る彼の氣焔には、以前よりも朗らかで暖かいものがにじみ出ている。

「次郎どの。春昌様のお言葉をお伝えくださり、誠にありがとう存じます。また、大切なご遺髪をお譲りいただき、謝するにふさわしき言葉もございません」

 次郎は、声を詰まらせながら、萱の心を慮った言葉を綴った。この春昌と媛巫女に忠実な侍者が、わざわざ伝えに来たのだから、春昌が我が身を忘れなかったのもまことであろうと思った。次郎や、他の者が思っているのとは違うとはいえ、確かに彼と萱は特別な縁で結ばれていた。

 そして、次郎もまた、この若狭で、長く苦しい旅に値する縁を見いだしたのだろう。
「次郎どの。あなた様と三根のこと、私に一切遠慮をなさらぬように。三根の恩義はもう十分に返してもらいました。どこへ行こうとあの者の心のままです」

 次郎は、萱に許しを願い出る時機を迷っていたのであろう。顔を真っ赤にして、また畳に何度も頭をこすりつけた。

 遠からず、次郎は新しい旅の道連れと、奥出雲への旅路に出るであろう。たち止まり根を張ることも、赦され安らかに生きることもない、終わりの見えなかった旅は終わろうとしている。誤って大切な媛巫女を死なせた苦しみは、彼の主人が全て背負い、伊勢の弔うものもない廃寺で朽ちていこうとしている。

 次郎が下がった後、萱はかの板間に座り、春昌の遺髪を今ひとたび見つめた。それはすでに魂なき物であった。青紫の氣焔も、若緑のそれも、もはや感じることはなかった。彼の願い、せめぎ苦しんでいた魂の渇望は、ようやく成就したのだ。萱が言霊で縛り付けた、長い苦しみの果てに。

 萱が彼に願ったのはたった一つだった。
「生き続けてくださいませ。決して自尽はなさらないでくださいませ」

 彼は、萱の残酷な願いを了承した。流行り病で命を落とすまで、彷徨い生き続けた。そして、いま萱は、彼のいない現し世に虚しくひとり立っている。

 忙しく働く使用人たちの声が耳に入る。萱は、遺髪の包まれた紙をそっと胸元にしまうと、立ち上がり表へと向かう。もう一度若狭の海を振り仰いでから襖戸を閉めた。

(初出:2021年3月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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月夜の語らいのイメージ曲は、萱のキャラクター紹介でも貼り付けたのですけれど、せっかくなのでもう一度。

上妻宏光 風林火山~月冴ゆ夜~

おまけです。次郎の帰りの旅のイメージソングを。「君」の意味がいくつかあったりして。

あの頃へ / 安全地帯
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】もち太とすあまと郵便屋さんとノビルのお話

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第6弾です。津路 志士朗さんはイラストと掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!

 志士朗さんの書いてくださった「もち太とすあま。

志士朗さんは、オリジナル小説と庭とご家族との微笑ましい日々を綴られる創作系ブロガーさんです。大海彩洋さん主催の「オリキャラのオフ会」でお友達になっていただき、昨年から、「scriviamo!」にもご参加いただいています。

書いてくださった作品は、可愛らしい2匹のハスキー犬に関するイラストで、一緒に発表してくださった掌編によると、こちらは志士朗さんがメインで執筆なさっていらっしゃる「子獅子さん」シリーズの作中作のキャラクターのようです。

そして、2匹のハスキー犬で思い出すのが、「オリキャラのオフ会」で登場した動けるし話せるぬいぐるみたち。そんなあれこれを考えながら、お返しを考えてみました。

志士朗さんの作品の中に、作中作『もち太とすあま。』の第2作の執筆が待たれているということでしたので、もし、これが書かれたとしたらどんな感じかな〜、と思ったのが今回の作品です。志士朗さん、もし、「こういうんじゃないんだよ」と思われたとしたら、ただの二次創作ということで、軽く無視していただければと思います。


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もち太とすあまと郵便屋さんとノビルのお話
——Special thanks to Shishiro-san


 お日様がぴかぴかとあたりを照らしました。ジメジメとした梅雨が終わったのです。春のはじめには怖々と辺りをうかがっていた木々の新しい葉っぱは、先を争うかのようにぐんぐんと伸びるようになりました。

 いくつかの道路を越えていくと、大きな草原と林が広がっています。優しい小川も太陽の光を反射して笑うように流れていきます。鳥たちも、すいすいと楽しそうに空を駆けていました。

 そんな心地よい午後に、2匹のハスキー犬が、ときに前を行き、ときに後ろになりながら、坂道を歩いていました。

 1匹は、青い首輪をして少し大きく、もう1匹は赤い首輪をした小さい仔。2匹とも、お餅のように白くてふっくらとしており、お揃いのアクアマリンのようにきれいな水色の瞳をしていました。

「すあま! そんなに急いで行くなよ。転んだりすると、危ないだろ」
大きい方の犬は、叫びました。このハスキー犬は、もち太という名前でした。

「もち兄が、グズグズしているんだよ。そんなんじゃ、夏が行っちゃうよ。ツバメみたいにぴゅーっと飛ばなくちゃ。ウサギみたいにぴょんぴょん跳ねなくちゃ」
小さいすあまは、兄の言うことなどまったく聞こうとしません。

 もち太は、必死で走ってすあまに追いつくと、首の後ろをぱっと咥えました。突然、宙に浮いたすあまは、びっくりして足をバタバタ動かしました。

 すると目の前を、銀色の何かがシャーっと通り過ぎました。自転車です。あと1秒遅かったら、すあまはぺっちゃんこになっていたかもしれません。もち太は、すあまをそーっと地面に下ろしてから怖い顔を作って言いました。
「危ないだろう、すあま。道に飛び出したりしたら。自転車も急には止まれないんだ」

「ひとりでも、ちゃんと止まれたよ! すあまは赤ちゃんじゃないんだ! もち兄ったら」
すあまは、ちっとも反省していません。

 2匹は、それからは少し慎重にいくつかの道を渡り、草原を横切って林の入り口までやってきました。

「あ。郵便屋さんだ」
もち太は、1人で散歩をしている男性に目を留めて叫びました。

 郵便屋さんは、いつももち太の家に手紙や小包を届けてくれる優しいおじさんです。ときどき美味しいおやつもくれるので、すあまもおじさんを見ると喜んで駆けていきました。

 郵便屋さんは、山菜採りをしているようです。この辺りには、おいしい山菜がたくさん生えているのです。
「おお、こんなところにノビルが生えているよ。これは美味しそうだ」

 野蒜は今が花盛りのようです。白い星のような花びらの先は、紫がかったピンクで彩られています。中心の額は鮮やかな若緑です。すっくと立つ茎から、暗赤色のムカゴを突き抜けるように、可憐な花がいくつも飛び出して咲き誇っていました。

 郵便屋さんは、野蒜を摘み取って、持っている籠にポンポンと入れていました。
「どれどれ、1つ試してみるかな」
地下茎の皮をきれいに剥くと、真っ白い鱗茎が顔を出しました。郵便屋さんは、それを生のまま口に放り込んで、シャリシャリと食べてから、これは美味しいと微笑みました。

「すあまもたべたい」
それを見ていたすあまが、言いました。

 郵便屋さんは、ギョッとして大きく首を振りました。
「ダメだよ。絶対に食べちゃダメだ」

「ずるい、美味しいものを独り占めしようとしている」
「違うよ。君たちはこれは食べられないんだ」

 もち太は、あれ、でも、郵便屋さんはいま食べていたよね、そう思いましたが、すあまも同じことを思ったようです。

「食べられるもん。さっき、美味しいって言ったじゃない。すあま、草食べられる。おうちでエン麦も食べているもん。これは、きれいな花。お店で売っているすあまとおんなじ、白とピンク!」
そういうと、すあまは野蒜の花をぱくっと食べてしまいました。

「やめろ!」
「ダメだ!」
もち太と、郵便屋さんが同時に叫びましたが、間に合いませんでした。

 もぐもぐと口を動かしたすあま、顔をゆがめました。
「なんだこれ、ぜんぜん美味しくないや。エン麦のほうが100倍美味しいよ」
そういうと、口の中から、残った草をぺっと吐き出しました。

「まったく食べなかっただろうね。それとも少し飲み込んでしまったのかい?」
郵便屋さんは、真剣にすあまの顔をのぞき込みました。すあまは、急に世界が回り出したように感じで怖くなりました。それに、どういうわけかだんだんお腹が痛くなってきたのです。

 もち太は、すあまの具合が悪そうになってきたので心配してその顔をなめました。すあまは、先ほどまでの生意氣な態度はどこへやら、その場にうずくまってシクシク泣き出しました。でも、お腹はどんどん痛くなってくるのです。

「もち兄~っ!! お腹が痛いよう。助けてよう」
転がって苦しむすあまをみて、真っ青になったもち太は、グルグルと周囲を回りました。でも、どうしたらいいのかわかりません。もち太はお医者様ではないのです。

「ああ、食べてしまったんだな。これはよくない、何とかしなくちゃいけないな」
郵便屋さんは、しゃがみ込んですあまのお腹に手を当てようとしました。

 もち太は、自分で身を守ることもできないすあまを守ろうと、郵便屋さんとの間に入り込んで唸りました。

 郵便屋さんは、優しく言いました。
「ひどいことはしないよ。でも、一刻も早くノビルをこの子の体から取り出さないといけない。いい子だから信用してそこを退いておくれ」

「なんで?」
もち太は、唸るのをやめて郵便屋さんの顔を見ました。

「君たち、犬にとってネギの仲間は毒なんだよ」
「それは知っているよ。すあまは、ネギは食べていないよ」
「うん。でも、ノビルはネギの仲間なんだ」

 もち太は、真っ青になりました。すあまが苦しがっているのは、毒を食べてしまったからなのです。

「大丈夫。俺がここにいたのは、この子にとってラッキーだったんだよ」
郵便屋さんは、そういうと痛がっているすあまのお腹のあたりを優しくさすりました。するとどうしたことでしょう、すあまの真っ白なお腹に銀杏ほどの小さな盛り上がりがいくつも見えてきたかと思ったら、それが小さな5ミリほどの暗赤色をした粒に変わり、ポンポンとはじけて郵便屋さんの掌におさまりました。

 すあまのお腹の痛みは、すうっと消えていき、ハスキーは思わず咳き込みました。

「すあま!」
心配するもち太の声に、すあまは瞼をあけました。アクアマリンのように透き通った瞳がもち太を見て微笑みました。
「もち兄、お腹痛いの、治った!」

「やあ、これは立派なムカゴだな。無事に全部取れたようだね。じゃあ、これはもらっていくよ」

 すあまは、ぴょんと横に飛び退きました。先ほどの痛みはすっかり消えていました。もち太は、元氣になったすあまを見て、尻尾がちぎれんばかりに振って喜びました。

「すあま! 郵便屋さんにお礼を言いなさい。治してくれたんだよ」
もち太は言いましたが、その時にはすあまはもう先まで駆けだしていました。飛び回れるようになったのが嬉しくて仕方ないようです。

 もち太は、郵便屋さんにぺこりとお辞儀をすると、いそいですあまを追いかけました。1人で行かせておくと、また何かやらかすかもしれないからです。

 郵便屋さんは、「夏を楽しみなさい」と手を振って見送ってくれました。

 もち太は、すあまを追って駆けていきました。草原には、白、黄色、紫と、色とりどりの小さな花がたくさん咲いています。

 自分も、すあまも、健康で走り回れることは、なんて素晴らしいのでしょう。ことしの夏も、去年のように美しくて楽しいものになりそうです。

 でも、どうして。あんなに苦しんでいたすあまが、郵便屋さんがお腹にちょっと触れただけで、簡単に治っちゃったんだろう。もち太は、走りながらチラッと考えました。あれは、なにかの魔法なのかも。でも、そうだとしたら、どうしてあの人は郵便屋さんなんて、しているんだろうなあ。僕なら、魔法が使えたら世界旅行をして、美味しいものを食べ歩くけれどなあ。

 もち太は、すあまよりも大きくて賢いハスキー犬でしたが、どう考えても答えを見つけることはできませんでした。でも、答えがみつからなくても不都合はなかったので、じきに忘れてしまいました。

 すあまといると、もっと急いで考えなくてはいけないことがたくさんありました。いまも、見つけたばかりのヒキガエルに飛びかかろうとしているすあまを止めるために、もち太はふたたび全力疾走をしなくてはなりませんでした。

(初出:2021年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】忘れられた運び屋

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第5弾です。山西 左紀さんは、「プランC」の小説でご参加くださいました。ありがとうございます!

プランCは、「課題方式」で、指定の課題に沿ったものを150字から5000字の範囲で書いていただくものです。くわしくはこちら
をご確認ください。

 左紀さんの書いてくださった「BLUE HOLE

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

今年書いてくださった作品は、「新世界から」シリーズの新作です。

サキさんによると2人のヒロインが活躍するお話ということですが、今回登場した方がたがおそらくその2人だと思います。もっとも、まだ全体像が見えていないので読み違いかもしれません。

サキさんは、作品から人物を使ってほしかったようなのですが、ご参加くださった作品は本編ですし、下手に触ると大切な設定などをおかしくしてしまう可能性もありますので、障らない方がいいと判断しました。というわけで、お返しの作品は、サキさんの作品とはまったく関係のない話です。ただし、サキさんの『BLUE HOLE』をトレースして、組み立てました。そして、いろいろな部分を対照的にしています。

思わせぶりに出てくる「ファナ・デ・クェスタと関係のあった人々」というのは、ときどき使っているそれらしい人々です。わざわざ読む必要はありませんが、氣になった方用に一応リンクも張っておきます。(そろそろ専用カテゴリーが必要かしら……)

それと、今回はサキさんに合わせて「プランC」の要件を満たした作品にし、加えてサキさんへのお返しなので、頑張って苦手なメカ系の記述にもトライしました。全然わからないことなので、その辺は笑ってスルーしてくださると嬉しいです。


【参考】
ヴァルキュリアの恋人たち
ヨコハマの奇妙な午後
紅い羽根を持つ青い鳥

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忘れられた運び屋
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 帰りに『ハングリーライオン』に寄ろう。久しぶりに首都に足を踏み入れたんだし。あそこのチキンサンドは好きだ。ティーネは、目の前の男が思考を読んだら怒りそうなことを考えた。

「聞いているのかね、エルネスティーネ・クラインベック。君の名誉回復に関する大切な話なんだが」
ムワゼ司令官はもとから苦い薬草を奥歯ですりつぶしているような奇妙な顔つきをしているが、ことさら苛ついた様相でたたみかけた。

「詳しく聞く必要はないかと思いますが。私をクビにできて大喜びだった、反白人派のみなさんを敵に回してまで何を今さら」
「反対勢力を説得して君を取り立ててやったこの私の顔に泥を塗ったのは君だろう」

 それは、間違いとも言えなかった。白人でしかも女のティーネが空軍のパイロットに抜擢されたとき、誰もが驚いた。独立してから30年、分離差別政策時代を知る世代は、今でも白人の起用には反対する。ティーネがその地位に就いたのは、ムワゼ司令官の推薦と説得工作があってこそだった。もちろん、彼女はそれに応える働きもした。

「別に軍規に背いたわけでもないのに」
「海外で、傷害未遂。しかも、低俗な雑誌にばっちり写真まで撮られて。庇いようもないだろう」

 それも、その通り。私は、あの時、あの2人に復讐できればあとはどうでもいいと思っていた。私を捨てて、あの女に走ったイザーク・ベルンシュタイン。なのに、かすり傷さえ負わせることができなかった。それどころかあの男は、今では世界有数の大富豪だ。おそらく、この近辺の数カ国の国家資産を軽く超えるほどに。

 そして、あの女は、たった3年でイザークのもとを去った。ファナ・デ・クェスタ。男を栄光に導く女神と持ち上げられて、好き勝手なことをしていたが、数年後に同棲していた女に殺されたと聞いた。私が、地位とイザークを失う復讐を企てる必要なんて全くなかったのだ。

「仕事は、どうだね」
ムワゼは、意地の悪い微笑を浮かべた。
「順調です」 
「ペンギンの糞を輸送することがかね」

 現在ティーネは、堆積グアノの採掘と販売をする会社に雇われている。顧客への輸送や散布を請け負うのだ。
「グアノは最高の肥料ですよ」

「19世紀のね。化学肥料に地位を譲って久しいだろう」
「いいえ。天然肥料ブームで価値が見いだされているんですよ」

 もちろん、これはかつて彼女の描いていた未来図にはない生計の立て方だ。空軍初の白人女性パイロットとしてのキャリア。もしくは、大富豪の妻としての生活。かつてはその選択に揺れた。どちらも今では遠い過去の話だ。

「君を呼んだのはほかでもない。君に運んでほしいものがあるのだ。貨物輸送に見せかけてね」
「空軍機でできない闇の仕事ですか。お断りします。そんな義理もないですし」
「人聞きの悪い言い方はやめてもらおう。この仕事を引き受けてくれれば、君の書類上の退役理由を書き換える用意もあるのだぞ」
「でも、元の地位に戻してくれるわけじゃないんでしょう」
「それは無理だ。が、少なくとも今後の再就職は大いに楽になると思うが?」
「そんな程度の旨みで、危険はおかせません」
ティーネは、踵を返すと出口に向かった。

「ファナ・デ・クェスタを出し抜くためだと言っても?」
彼女の動きが止まった。

 振り向くと、ムワゼはヒキガエルのような嫌な笑顔を浮かべている。ほら、食いついた、とでもいいたげだ。

「失礼します」
ティーネは、怒鳴ると走って退出した。チキンサンドを食べたらさっさと帰ろう。

 チキンを扱う『ハングリーライオン』は、ティーネの好きなファーストフードチェーンだが、いま住んでいるリューデリッツにはない。彼女は、バーガーにフライドポテトとコールスロー、それにチキンウィングもオーダーした。

 席に着いた途端、失敗したと思った。斜め前に、ロベルト・クレイが座ったのだ。
「やあ、ミス・クラインベック。久しぶりだね」

「あなたに会うと知っていたら、ここには入らなかったわ」
「どこに入っても同じだよ。そこに入ったからね」

 ティーネは、憎々しげにジャーナリストを睨んだ。
「つけていたの」
「まあね。とある情報筋からのネタで、ムワゼを張っていたら、君がやって来たんでね」

「おあいにく様。私は何のネタも持っていないわよ。何か頼まれる前に断ってきたから」
「そう言いなさんなって。こっちは、君が来たことで確信を持ったよ。なんせ君がファナ・デ・クェスタやイザーク・ベルンシュタインに私怨を持っているのは誰でも知っていることだしね」

「あなたにも私怨を持っているわよ」
ティーネが失職した直接の原因は、この男がドイツでの事件を写真入りで大きく報じた記事だ。

 クレイは、ぐっと身を寄せて囁いた。
「じゃあ、お詫びに教えるよ。ムワゼが出し抜こうとしているのは、そのイザーク・ベルンシュタインと一緒に世界の鉱山を買い占めている奴らなんだぜ」

 ティーネは、鼻で笑いながらバーガーにかぶりついた。
「ねえ。訊いてもいないのに、こんな公の場でそんな話をするなんて、頭がおかしいんじゃないの?」

「まあね。しかたないな。手の内を晒すよ。俺が追っているのはムワゼじゃない」
クレイは、ふてぶてしい様相を引っ込めて、真剣な顔つきで言った。ティーネは、まともにジャーナリストの顔を見た。

「イザーク・ベルンシュタインとその仲間たちだ。つまり、数年前から例のファナ・デ・クェスタと関係のあった奴らがつるんで何かをやっているんだ。俺がこの国に来たのも、実は君を探しに来たんだ。ベルンシュタインと親しい仲だった君の協力がいるんだ。その代わり、君は恨みを晴らすチャンスを手にする。悪い話じゃないだろう?」

「ムワゼもあなたも、なぜ私がいまだに復讐したがっていると思うのかしら」
「だって、君は未来も地位も失っただろう? 追放後の君の足取りがつかめなくて苦労したよ。つまり、まともな仕事に就けなくなったってことだろう?」
「失礼ね。ちゃんと働いているわよ。乗っているのはセスナ172Bだけど」
「でも、この国初の空軍女性バイロットとは比べものにならない、そうじゃないか?」
「うるさい」

 ティーネは、腹を立てながらチキンバーガーを食べ終えた。コーラは小さいのにしておけばよかった。一刻も早く、ここから去りたい。

 ムワゼやこの男に言われるまでもない。オンボロセスナでペンギンの糞を運ぶ仕事をするためにパイロットになったわけじゃない。

* * *


 岩沙漠は、時間によって違う顔つきをする。今は氣難しい老いた賢者のようだ。暗い橙色の地面は、水を吸い尽くしあざ笑う。ぽつんと転がる岩の一面に強烈な日差しが照りつけ、その反対側には影が恨みを抱くようにうずくまる。

 かつての沼地を通り過ぎるときにティーネは、やるせない心持ちになる。そこには、何百年も前に枯れ果てた木がカラカラに乾燥したまま立ちすくんでいる。セスナ172Bは、ひどい騒音をまき散らしながらその上を過ぎていく。

 慣れて眉をひそめることはなくなったが、今日の音はことさらひどい。目視できるからいいものの、姿勢指示器もまともに作動しない。

 今朝、2つある点火マグネトーのうち1つしか点灯しないと文句を言ったときも、整備士のカボベは露骨に嫌な顔をした。戻ったら、「まともに整備をする氣がないなら、給料も払わせない」と言ってやろう。もっとも彼女の訴えを、雇い主が支持してくれるか心許なかった。

 海が近くなってきた。眼下ではウェルウィッチアが緑灰色の奇妙な葉をくねらせているはずだ。1年に10センチほど、たった2枚の葉を延ばし、1000年以上も生き続けると言われる。中には2000歳にもなる個体もある。

 この沙漠を飛ぶとき、ティーネにはどこでどんな生活や仕事をするかなど、どうでもいいことに思える。ウェルウィッチアにとっての成功とは、ただ生き延びること。灼熱の太陽をあざ笑うかのように、栄光を極めた文明が廃れて忘却の彼方に追いやられるのを横目で眺めながら、それは美しさも儚さも切り捨てて、葉を伸ばしていく。

 空港に着陸すると、カボベはまだ来ていなかった。彼に定刻という概念がないのはもう諦めた。それに今は夏だ。遅刻が増えるのはしかたない。だが、整備くらいはまともにやってもらわなくてはならない。メッセージを書いてコックピットに貼り付けることにした。

「間に合った。今度もついていたな」
カボベのとは違うイントネーションに、顔をあげて眺めると、ロベルト・クレイが機体の脇に立っていた。風に煽られてカールしたブルネットの髪がひどく乱れている。

「どうやって、ここを……」
ティーネは、サングラスを外してまじまじとジャーナリストを眺めた。

「セスナ172Bって言っていただろう。現役で飛んでいる機を調べた。辿ったら君の現在の雇用主がわかったよ。ムワゼ氏に訊く方が早かったかもしれないが、君とのつながりは後々切り札になるかもしれないので、軍には隠しておきたくてね」

 ボストンバッグとジャケットを肩にかけて立ち去ろうとするティーネを、クレイは追い並んで歩き出した。
「私に纏わり付いても時間の無駄よ」
「まあまあ。そんなにカッカするなよ」

 駐車場に着いたら、今度は車がなかった。誰よ、あんなオンボロ車を盗んだヤツは!

「送りましょうか、姫君」
ニヤニヤ笑うクレイの顔に、グアノを塗りたくる想像で氣を紛らわせながら、ティーネは彼の車に乗った。別に高級車ではないが、エアーコンディショナーもカーナビも搭載されているまともな車だ。盗るんなら、こっちにすればいいのに。

 大西洋沿いに道はリューデリッツへ向かう。いつもの場所に通りかかる。ペンギンたちがひしめいているのが見える。彼女は勝手に窓を開けた。クレイは、嫌な顔をしたが、そのままにさせておいた。潮風が海藻とグアノになる前の排泄物の不快な香りを運んでくる。ゴツゴツと岩だらけの黒く醜い海岸線。

「ねえ、知っている? なぜあの海岸が、あんな真っ黒の醜い岩に覆われていてまともなビーチがないのか」
「さあ。このあたりに火山でもあったかな?」

「違うわ。もともとはちゃんとしたビーチだったんですって。でも19世紀のはじめにダイヤモンドが見つかって、それを掘り出すのに砂浜が邪魔になったの。取り除いた後、ダイヤモンドは枯渇し、グアノ採掘も下火になり、この町には基幹産業がなくなってしまった。今では近隣のゴーストタウンを観光名所にして、生き延びるほかはないのよ。なんて皮肉なのかしら」

「それは、一時の怒りにとらわれて栄光から滑り落ちた君自身への皮肉かい」
「それが人に協力を頼む態度なの?」
「まあ、いいから見ろよ」

 クレイは、ジャケットの内ポケットから写真を出して、ティーネに渡した。望遠で撮ったらしい男女が映っている。ラフなミリタリージャケットとジーンズ姿のたくましい男と、女優のように美しく艶やかな装いの女。

「誰、これ?」
「イザーク・ベルンシュタインの手足となって動いている2人だ。どちらもファナ・デ・クェスタと関係があった。マイケル・ハーストは米国人で傭兵上がり。そして、ファナ殺害を噂されているハンガリー人エトヴェシュ・アレクサンドラ」

「この女が? どうして、捕まりもせずにイザークとつるんでいるのよ」
「死体がないし、被害届もない。犯罪が起こった証拠がないんだ、捕まえようがないさ。だが、その女は今でも日の当たるところで贅沢に生きながら、君を捨てたベルンシュタインと何かを企んでいるんだぜ。君は、本当に何の興味もないのか」

 ティーネは、下唇を噛んだ。グアノの運び屋。盗まれた車。不快な香りを送り続ける海風。動かない点火マグネトー。壊れた姿勢指示器。あざ笑う司令官の口元。ダイヤモンドが採り尽くされ忘れられた街。絶滅を待つばかりのペンギンたち。
「わかったわ。話を聞く」

 答えながら、微かな記憶に残るウェルウィッチアを思い浮かべた。

(初出:2021年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】ショーワのジュンコ

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第4弾です。つぶあんさんは今年も、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

つぶあんさん(たらこさん)は、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんで、「ひまわりシティーへようこそ!」を連載中です。しばらくさまざまな事情でブログをお休みでしたが、つい前日復帰なさいました。

「scriviamo!」ではいつもBプランをご希望です。1月末ということで、締め切りまで1か月しかないので、他の方の作品より一足早く発表させていただきます。サキさん、志士朗さん、ごめんなさい!

さて、今回はたらこさんの「ひまわりシティーへようこそ!」からお2人の大事なキャラクターと共演させていただきました。殺し屋デスと茶々じいのお2人です。設定やキャラなどを壊さないように氣をつけたつもりですが、何か問題があったらおっしゃってくださいね。そして、この後は全くのお任せです。任務は遂行しないでいただいて全く構いません(笑)

さて、今回の作品、もし書いてある意味が全てわかったら、あなたも「昭和」です。そういう小説にしてみました。

【27.03.2021 追記】
たらこさんが お返し作品を書いてくださいました。そして、素敵なジュンコのイラストも!
ありがとうございました。

たらこさんの書いてくださった 「ショーワのジュンコ
ショーワのジュンコ by たらこさん
このイラストの著作権はつぶあんさん(たらこさん)にあります。許可のない使用は固くお断りします。


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ショーワのジュンコ
——Special thanks to Tsubuan-san


 郵便配達夫が、2度ベルを鳴らして、電報を持ってきた。父は、何度言っても携帯電話も電子メールも持とうとしない。なので、急ぎの用事は電報を使う。

シンダイシャキボウ アスアサカラルスバンニコイ イリグチデハキモノヌゲ


 なんとまあ、物騒な。電報で殺人依頼。死んだ医者ってことは、あの隣のいけすかない医院のジジイをついにやっちゃえってことなのね。でも、もう少し計画的にできないのかしら。普通、明日の晩に、完全犯罪をしろと電報で娘に命じる?

 アタシはジュンコ。「ひまわりシティー」郊外の、名もない村に住んでいるの。父は、少し変わった人で、通っていた純喫茶の看板を見てアタシの名前を決めたんですって。純喫茶って、知っている? エッチなことはしない喫茶店のことで、シャガールっぽい絵が掛かっていて、シャンデリアのぶら下がっている店内に、レコードでヴィヴァルデイの『春』がかかっている系統と思ってくれればいいわ。ナウなヤングはあまり行かないタイプの店よね。

 そんなことは、どうでもいいのよ。ジジイといっても、相手は男性。抵抗でもされたら私に押さえつけるのは難しい。ってことは、殺し屋でも雇わないとダメよね。

 アタシは、『ひまわりシティー・イエローページ』をめくった。殺し屋の電話番号なんて載っているかしら? あった。インド人もびっくり。探してみるものね。

 早速、ダイヤルしようとして、やめた。自宅からかけたら、足ついちゃうかもしれないし。とりあえず、駅まで行き、公衆電話からテレカででかける。
「もしもし 殺し屋のデスさんのお宅ですか?」

 相手が、電話の向こうで渋い声を出している。もしかするとゴルゴ13みたいな、いい男なのかもしれない。
「ちょっと、明日の晩におねがいしたいことがあるんです」

 殺し屋に電話をするのは、さすがのアタシでも初めてだ。そこをしっかりと強調しておかないと。
「え〜っと、ジュンコといいます。うら若い乙女です。初体験なので、どうおねがいしたらいいのか、いろいろと教えていただきたいんですけれど」
「そうですか。そういうことでしたら、もちろん喜んで。待ち合わせはどうしましょうか」

 ランデブーするみたいな言い方ね。でも、電報の情報を伝えなくちゃいけないし、ちょっと変装して行きましょうか。

 実年齢より若く見えるように、普段はあまり着ない服をチョイスした。膝小僧が出るくらいのキュロットに、赤いとっくりのセーター、それから、緑色の光るジャンパー。余裕のヨッちゃんで、高校生くらいには見えるでしょ。

 デスが指定してきたのは「ひまわりシティー」の『茶々』。渋いお爺さんマスターがひとりで切り盛りしている。殺し屋っぽい人は、まだ来ていないようだ。アタシは、マスターに待ち合わせであることを告げてから、窓際の目立たない席に腰掛けた。

 入ってきたのは、アイスホッケーのマスクをつけている、めちゃんこ怪しい男だ。店内をぐるっと見回して、アタシと一瞬目が合ったのにマスターに言った。
「待ち合わせなんだ。待たせてもらう」

「あちらのお客様が、先ほどからお待ちですが」
「いや、若い女の子と約束したから」
何その言い草! アタシが若くないっていうの?! 激おこぷんぷん丸。

「あの、デスさんですよね。お仕事の依頼をしたジュンコです」
「え。あなたがジュンコさん? しかも、仕事? 初体験なんていうから、てっきり……」
「なんですって?」
「いや、なんでもないです」

 アタシは、ジジイ医者の家を教え、依頼人が隣人である父とわからないように言葉を選びながら明日の晩に実行すべきであることを告げた。

「なぜ明日の晩限定なんですか?」
この殺し屋、シュールな格好の割には常識的な質問をしてくる。

「それは、依頼人からの電報にそうあるからなんです。明日朝から留守、晩に来いって。それから、入り口では着物を脱ぐって注意書きがあります。罠に氣をつけてください」
「着物を脱ぐ? ストリップをしろと?」
「ええ」

 デスは、首を傾げた。
「とりあえず、前金として、報酬の半分をいただきましょうか。ま、氣の乗らないときは遂行しないこともあるんですけれどね」
「え? その場合、前金はどうなるんですか?」
「お返ししたくてもね……。住所氏名、口座などを教えてくだされば、払い込みますけれどね〜」
デスはせせら笑っている。こちらが身元を明かさないことを知っているからだ。トサカにくる。
 
「そんなひどい。お金を持ってドロンされても、泣き寝入りなんて、涙がちょちょぎれちゃう」
ハンケチをとりだして泣く真似をした。

 2人分のコーヒーを運んできたマスターが言った。
「どうなさいましたか。あなたのように美しい人を泣かせるなんて、こちらのお客さんは罪な方ですね」

 まあ、なんて胸キュンのナイスガイなのかしら。「君の瞳に乾杯」なんてセリフを言うのはこういうタイプの人なのね。ウブなアタシはイチコロだわ。

 少し浮上したアタシは、暑くなったのでジャンパーを脱いだ。するとデスの目がアタシのボインな胸元に釘付けになった。ふふん、着痩せするタイプのアタシ、けっこうグラマーなのよ、これでも。

「じゃ、こちらの氣が乗らずに任務を遂行しない場合は、来週またここで待ち合わせるってのはどうでしょう」
デスの声色がずいぶんと変わっている。おかげでこちらもツンとした態度で喫茶店を後にすることができた。
「おねがいしますね」

 さて、ちゃんと殺しの依頼が済んだことを、父に報告するためにアタシは実家に向かった。

「おう来たか」
土間の奥で盆栽をいじっていた父は、アタシの顔を見ると、まず嬉しそうな顔をしたが、すぐに険しい顔になって続けた。
「わざわざ書いたのに、なぜ外で履き物を脱がないんだ」

「なんですって?」
「書いただろう、電報に。入り口で履き物を脱げって。先週からここは土間じゃなくしたんだ。土足は困るんだよ」

「履き物を脱げ? お隣の医者宅で着物を脱ぐんじゃなくて?」
「なんの話だ。隣の藪医者の話なんか誰もしておらん。それより、切符はどこだ。駅の窓口は混んでいたか?」

「切符? 駅? なんの話?」
アタシは呆然とした。

「ちゃんと電報に書いただろう、寝台車希望って。明日からの旅行の話に決まっているだろう」
ちょっとタンマ。何それ? 話がピーマン。

 アタシは、もう1度、父の送ってきた電報を取りだした。

シンダイシャキボウ アスアサカラルスバンニコイ イリグチデハキモノヌゲ


父は、それを取りあげて音読する。
「寝台車希望。明日、朝から留守番に来い。入り口で履き物脱げ。火を見るより明らかだろう。何が問題なんだ」

 なるへそ。考えてみれば、電報で明晩に隣人を殺せなんて、書くわけないか。とほほ。さて、殺し屋どうしよう。今から、あの男をキャンセルするの? あんな高ビーな態度で、出てこなければよかった。チョベリバ。

(初出:2021年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】赤いドアの向こう

今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の店』1月分です。

今年は、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめていくつもりです。

トップバッターは、2019年の『十二ヶ月の歌 2』の12月の掌編『新しい年に希望を』で登場したチームです。今回出てくる志伸とリカに何があったのかは、今回は全く出てきませんが、氣になる方は前作をどうぞ。


短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む



赤いドアの向こう

 店の名前は合っている。赤い看板には先の尖った猫耳みたいな絵とともに『Bar カラカル』と書いてある。なんだか想像していた店とは違うみたいだ。亮太は首を傾げた。

 彼の直属の上司が、本省に寄ってから直帰したのだが、終業間際に起こった案件で明日の朝に再び本省に出向くことになった。それで、家の近い亮太が書類を届けることになった。自宅まで行くのかと思ったら、用事があるからとこの店を指定してくれたので、途中下車で済んだのだ。

 亮太は、周りを見回した。駅から直通の、アーケードになった商店街は、乾物屋だの、瀬戸物屋だの、あまりおしゃれじゃない靴ばかり売っている店だの、下町の風情に満ちていた。少なくとも、あの濱野さんが下車するような駅には思えない。あの人なら、霞ヶ関の近辺か、六本木か、じゃなかったらご自宅に近い品川駅あたりか。

 亮太は、濱野志伸に憧れていた。本省では同期の中で一番に課長補佐になったというし、今年から出先機関としてきている県庁でも見かけよし、将来性よし、そして性格よしと、近年にないスーパーエリートとして女子職員の人氣を一身に集めている。彼女たちにいわせると唯一の欠点は、妻子持ちだということぐらいだそうだ。亮太には、その辺りのことはどうでもいいのだが、彼と一緒に仕事をしてきたこの8か月、仕事にやり甲斐を感じていた。

 亮太は、地元でこの駅前商店街のようなロケーションにはむしろなじみがあった。東京にもこういう場所があるんだなと、思った。新年の飾りは、松の内を過ぎて最初の瑞々しさと華やかさを失い、なんなとく惰性でそこに存在している。

 普段は特に感じないけれど、彼はその疲れた日常を苦々しく思う。年末のように疲弊することに理があるときは感じないのだが、つい1週間ほど前に新調されたばかりのはずの世界がこうだと、彼はわずかな失望を感じるのだ。それは、彼の周りの世界が全くリセットされておらず、彼もやはり以前と同じく3流の人生を歩き続けることを認識させられるからだ。いわゆる「ガラスの天井」の存在も、彼の思いを沈ませる。

 努力はしたけれど、希望した大学には入れなかった。卒業後、就職難のこのご時世で、それでも県庁に勤められることになったのはラッキーだけれど、有能でもなく、要領もよくないので、同期の中でも出世が早いとはいいがたい。つまり、濱野志伸とは正逆の存在だ。志伸は、それ以前の本省から来た課長とちがって、亮太を軽んじたり、人前で叱責したりすることはなく、たとえ数年の仮の職場でも熱心に仕事に取り組むだけでなく、部下の亮太が少しでも要領よく仕事ができるように時間をかけて教えてくれた。憧れたり感謝こそすれ、妬むような理由は何もない。

 それでも、ときどき、亮太は滅入るのだ。人間がみな同じなんて嘘だ。出来の違う人もいるし、世界の違う人だっている。志伸は、銀座や六本木などが似つかわしく、亮太は地元商店街が似合う、そんな人間なのだと。

 ともかく、この書類を渡さなくては。亮太は入り口を探した。

 階段を降りていくと、ドアの向こうはずいぶんと盛況のようだった。ドアの両脇に、たくさんのフラワーアレンジメントが飾ってある。亮太は『Bar カラカル』と書かれた真っ赤な扉をぐっと押す。

 中は、風船や紙テープで飾り立てられていて『祝・一周年』の横断幕が見えた。さほど広くない店内とはいえ、この早い時間なのにそこそこ混んでいる。

「いらっしゃーい」
派手な装いをした野太い声の男たちが、一斉に声をかけた。亮太は、再びギョッとした。なんだよ、ここ。

 亮太の戸惑った様子に目を留めた、客と思われる女性と並んで座っていた手前の男が立ち上がり近づいてきた。フルメイクをして、紫色のスパンコールのトップスを着こなしている。
「ウチは、初めてかしら」

「あ、あの……。今日、上司に言われて、書類を届けに……濱野志伸さんは……」
奥を覗くが、まだ来ていないようだ。男は、大きな口を開けて笑った。
「ああ、志伸ね。まだ来ていないわ。そこに座ってちょうだいよ」

「あら、佑輝。志伸が来るの?」
男と一緒に座っていた女性が訊いた。
「みたいね。1周年パーティーをすると言ったときには、来るとも来ないとも言っていなかったけれど。リカ、志伸とは久しぶりでしょ?」

 リカと呼ばれた女性は、鼻で笑ってから言った。
「そうね。感動の再会。じゃあ、このペースじゃダメだわ。もっと今のうちにガンガン飲んでおかなきゃ」

 亮太は、彼女がシャンパングラスを持ち上げてあっという間に空にしてしまったので驚いた。佑輝は、リカのグラスを満たした。リカは、亮太を手招きした。
「ここ、まだ座れるわよ。どうぞ」

 ゲイバー……なのかな、ここ。ほとんど男性客ばかりみたいだけれど、こんな風に馴染んでいる女性ってすごいな。怖々店内を見回している様子に、佑輝とリカは顔を見合わせて笑った。

「濱野さん……よくいらっしゃるんですか」
ゲイバー通いかあ。憧れの人のイメージがずいぶんと変わりそうだ。濱野志伸は、忘年会や新年会でも羽目を外さず、早く帰る。まだ乳飲み子のお子さんがいて、奥さんに負担をかけないように不必要な飲み会は避けているという噂を聞いていたのだ。

 そのトーンに氣がついたのか、佑輝はきれいに描いた眉を上げた。
「よく来るっていったら、ここにいるリカの方が常連よね。アタシたち、大学の同期なの」

 亮太は、はっとして色眼鏡で物事を決めつけかけた自分を恥じた。そうか、お友達なんだ。じゃあ、らしくない所でも行くよね。

 ドアが開いた。向こうに立っていたのは、濱野志伸だった。
「あ、濱野さん。お疲れ様です」

 だが、彼は亮太ではなくて、その横を見て硬直していた。
「リカ……」

 リカは、シャンパングラスを持ち上げた。
「久しぶり。元氣そうね」

 佑輝が、さっと近くに寄って「いらっしゃい」とコートを脱がせた。
「リカと、ここで遇うのは初めてだったわね。最近、2人ともよく来てくれているのに、今日まで遇わなかった方がびっくりよ」

 はっとしたように、志伸は佑輝に視線を戻し、持っていたショッパーを渡した。
「1周年、おめでとう」

「あら。クリュッグ、グランキュヴェ。どうもありがとう、嬉しいわ」
クリュッグのシャンパンは、『シャンパンの帝王』とも呼ばれ、豊かで芳醇な香りが特徴だが、値段も高い。亮太は、聞いたことはあるが、実物を見るのは生まれて初めてだった。さすが濱野さん。贈り物もゴージャスなんだなあ。

 佑輝は、押し戴くと、ちらっとリカを見て微笑んだ。

 リカは、ふっと笑った。
「まさか、被るとはねぇ。他の子たちもみんなこれだったりして」

「そんなわけないでしょ。他の子たちは、ドン・ペリ以外の銘柄を知っているかどうかも怪しいじゃない」
「ふふふ。そうかも。私も、志伸に教わって知ったの。でも、佑輝が、これを好きだって知ったのは、このお店に通い出してからよね。1年ってあっという間よね」

 それからリカは、戸惑ったように立ちすくむ志伸に声をかけた。
「この席にいらっしゃいよ。こちら、あなたをお待ちよ」

 それで、志伸ははっとして、亮太に軽く会釈をした。
「牧くん、すまなかったね。わざわざ寄ってくれてありがとう」

 亮太は、急いで書類を志伸に渡して頭を下げた。
「いえ。この駅は沿線なので、僕も助かりました」

「あら。じゃあ、これからどうぞごひいきに」
早速の営業に、亮太は戸惑いながら頷いた。

「さ、牧さんっていうの? これ、どうぞ」
佑輝がシャンパングラスを亮太に渡した。わあ、これって、さっきのめっちゃ高いシャンパンだったりして……。

 志伸は、硬い表情のまま、リカに会釈をした。
「元氣か」

 リカは、わずかにツンとしたさまを見せて「おかげさまで」と言った。その後で、ほんの少しだけ親しみやすい笑顔に切り替えて言った。
「日常が戻ってきている感じ。もうずいぶん経つし。そっちは、どう?」
「うん、それなりに忙しくしている。この店に来るのも久しぶりになってしまったし」

「そうよね。今晩、来てくれなかったら、どうしてやろうって思っていたわよ」
佑輝は笑った。

「他の子たちも、そろそろ来るんじゃない?」
リカが訊くと、佑輝は「たぶんね」と笑った。

 リカは、佑輝に顔を近づけて、楽しそうに笑う。志伸は、硬い表情をしたまま、グラスの泡を見ていた。亮太は、そんな志伸の様子をじっと眺めた。

 濱野志伸は、県庁での飲み会でもそういうところがあった。本省と違って、一時的にいるだけだから、距離をもって接しているのかと思っていたが、私的な集まりでもそうなのかと、少し驚いた。リカさんと、この女装の佑輝さんは、めちゃくちゃ砕けた付き合いをしているみたいなのに。

 リカさん、濱野さんと訳ありっぽいけれど、どうなんだろう。いや、さっき、決めつけはマズいって学習したばかりじゃないか。でも、なんかあまり長居しない方がよさそう。

「えっと、そろそろ失礼します。ごちそうさまでした。このお代は……」
亮太がいうと、志伸が手で制した。
「それは、僕が。今晩は、本当にありがとう」
 
「またのお越しをお待ちしていまぁす」
佑輝が、コートを着せてくれた。

「あの人、家に連れてきたことないわよね。新しい部下なの?」
リカが訊いている。ふうん。亮太は、まだちゃっかりと聞き耳を立てている。家に連れてきたことないって……ことは元カノかなんかなんだろうなあ。

 志伸は、淡々と答えた。
「ああ。4月から、僕は県庁に出向しているんだ」
「あら、そうなの。今のおうち天王洲でしょう? 遠いんじゃない?」
「1時間弱ぐらいかな。まあ、引っ越すほどは遠くないし……」

 それに、きっと2、3年くらいで本省に帰るんだろうし。亮太は心の中で先を続けた。

「じゃ、牧さん。またのお越しをお待ちしているわね〜」
佑輝の野太いのにやけに色っぽい声に送られて、亮太は店の外に出て階段を昇った。

 新年早々、なんかすごいところに来ちゃったなあ。亮太は、先ほど通り過ぎた鄙びた商店街を通り過ぎながら、ずいぶん時間が過ぎて何もかもが変わってしまったかのように感じた。実際には30分も経っていないのに。

 濱野志伸も、30分前に亮太が憧れていた超エリートとは少し違っている。ドラァグクイーンみたいな人と仲良くして鄙びた町のゲイバーに通っていたり、居心地悪そうに元カノみたいな人に押されている姿は、それまでの本省から来た世界の違うスーパー上司像と相容れない。

 何があったかなんて訊くのは無粋だろうなあ。もっとも、ここに通ったら、そのうちにわかったりするのかも。いやいや、何を考えているんだ、僕は。

 亮太は、志伸が意外とこの鄙びた商店街とマッチしているのかもしれないと思いながら、わずかにウキウキしたまま、駅に向かった。

(初出:2021年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】償物の呪

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第3弾です。ポール・ブリッツさんは掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!

 ポール・ブリッツさんの書いてくださった『陶芸家からのラブレター 』

ポール・ブリッツさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。お名前の通り、電光石火で掌編を書かれるすごい方です。毎年ポールさんのくださるお題は手加減なしで難しいんですけれど、今年も例に漏れず。

ポールさんが書いてくださったのは、陶芸家の作品を、本来とは違う目的で愛好している人が主人公のお話です。正面から挑んでも、力量が違い負け犬の遠吠えみたいになりますので、またしても若干ずらした感じでお答えすることにしました。あちらのちょっと変わった用途に対して、制作者が本来的な意味での憤怒を持つのではなく、ずれた慌て方をする作品を書いてみました。

この掌編、一応の起承転結はありますが、ポールさんの作品と続けて読んでいただくことを想定して書いてあります。


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償物あがもの の呪
——Special thanks to Paul Blitz-san


 彼女は、発送伝票を印刷し終わると、それぞれの荷物に貼り付けた。さて。これを発送すれば今週の業務はおしまいだ。瀬戸物の入った荷物は重い。この作業を彼女はことさら嫌った。

 彼女が、この工房を開き、絵皿を販売するようになってから数年が経っていた。そもそも彼女は陶磁器を作ったり、絵付けをしたりすることなどまったく好きではない。彼女の作品には、それなりのファンがいて、この工房の賃貸料をまかなえる程度の収入を約束してくれていた。しかし、もし誰も買ってくれないとしても、彼女が食べるに困るということはない。

 彼女は台車に発送する荷物を載せると、工房の外へ出た。戸締まりをすると、そのままワゴン車まで進み、荷物と台車を積み込む。運送会社に頼めば、引き取りに来てくれるのはわかっているが、この国の運送会社は、仕事が丁寧すぎて途中で破損する可能性はほとんどゼロになってしまう。彼女の粗雑な持ち運びと運転ならば、もしかしたら少しは割れてくれるかもしれない。

 運送会社でカウンターに向かうと、いつもの受付の女性が「また来たわね」という顔をした。「そんな粗雑な扱いをしない方がいいですよ」と忠告をすることももうない。黙って、受け取った荷物に「割れ物注意」のステッカーをベタベタ貼り、壊れないように丁寧にカウンター裏に運ぶと、営業用のスマイルを見せた。
「確かに承りました。破損の苦情が来た場合は、いつものようにそちらの工房に連絡させていただきますね」

「おねがいします」

 それから受付の女性は、カウンターの下から紙袋を2つ取りだした。中には、開封された梱包材に包まれている絵皿の破片がのぞいている。
「それから、こちらは、破損していたということで先方に引き取りに行った分です。受け取りのサインと……」
女性は、納得のいっていない顔つきで言いよどんだ。

 彼女は、用意してあった紙幣をカウンターに置いた。
「あ、はい。引き取り送料2回分の代金でしょう、いつも通り領収書を出してください」
「はい。いつも、すみません」

 配送中の事故での破損は普通ならクレームの来る案件だが、この客だけは、なぜか嬉々として破損品を受け取り、さらにはかかった費用まで肩代わりしてくれるのだ。変な客だ。だが、上得意には違いないので、言われたとおりに領収書を用意して、紙袋と一緒に手渡した。

「じゃあ、今度の配送もどうぞよろしくね」
彼女は、そう答えるとワゴン車に戻り、工房と反対側の街の端を目指して運転した。家が途絶え、しばらく林の中を走った後に、再び開けた場所に出た。そこには林と後方の山を借景に、立派に佇まいの屋敷が建っていた。

 彼女は裏手に車を停めると、2つの紙袋を下げて、玄関に向かった。呼び鈴を押し待つと、すぐに使用人が出てきて屋敷の中に招き入れられた。

 時を経た梁や床が黒光りしている邸内は、いつもひんやりとしている。彼女は、いつものように、客間に通された。骨董品の皿、それに土偶や鏡などが、きちんと飾られている。彼女は、一番入り口に近い場所に飾られている柿右衛門は新しいものだなと、ぼんやりと思った。一見どこも壊れたようには見えないが、斜めにヒビが走っており、1時の方向に爪の大きさくらいの欠けがある。

「待たせたね、保食うけもち
そういって入ってきたのは、彼女のスポンサーだ。黒地に白と灰色の竹の描かれた着物は、ちょっと見ただけでは小紋に思えるが、肩の縫い目の柄合わせを見れば訪問着なのだとわかる。暗い臙脂の帯を低い位置で締めている。

「いえ。ご無沙汰しました、倉稲うかの 様。また、いくつか持って参りました」

 倉稲という名前が、本名なのかどうか、彼女は知らない。本来自分がウケモチなんて名前ではないのと同様に、この女もまた全く違う名前なのだろうと、彼女は考えている。そんなことはどうでもいいのだ。彼女が関心を持っているのは、口座に振り込んでもらう金だけだ。それも、割れた絵皿と引き換えに。

 配送途中で割れていたとクレームを受け取り替えた絵皿2枚。紙袋から取りだしてローテーブルの上に置くと、倉稲うかの は「ほう」といいながら微笑んだ。

「これはいい具合に割れていいるね。素晴らしい。もちろんこちらで引き取らせてもらうよ」
「いつもありがとうございます」

 割れた皿を欲しがる理由に興味がないといったら嘘になる。だが、余計な好奇心を警戒されて、こんなに割のいい収入源を失うような愚行は避けたい。

「ふふ。ところで、以前も同じことを訊いたと思うが」
「なんでしょうか」
「此方の工房で作っている作品のうち、割れた物は全て私の所に持ち込んでできているんだろうね」

「全てかどうかは……」
「なんだって」
「配送途中で壊れた物は、クレームが来ますから間違いなく回収してこちらにお持ちしますが、例えば、購入者が何年も経ってから割ったものなどは、わざわざ知らせてはきませんから……」

「ああ、そういうものはいいのだ。1年も経てば、掛けたしゅ は解ける。それに、こちらは、進行状況の確認と此方への支払いのために回収しているだけで、此方の知らぬところで誤差程度の枚数が割れていたとしても、不都合はない」
彼女は、好奇心を抑えきれなかった。なんの進行状況?

 倉稲うかの は謎めいた微笑をみせて言った。
「知りたそうだな。まあ、いいだろう。此方の作品に償物あがもの の呪をかけさせてもらっているのだからな。少しは知る権利もあるだろう。此方、土偶は知っておるか?」

「え? あ、古墳などから出てくるアレですか? 知ってますけど」
「ふ。では、土偶の90パーセント以上が、故意に壊されていることは?」
「そうなんですか? 知りませんでした」
「現在でも地方によって行われている葬儀での『茶碗割り』と同じで、故人にとってこの世での生活や権威の象徴だった物を壊して埋めることで、故人とこの世とを分かつための呪いまじない をかけるのだよ」
「はあ」

 それと、うちの工房の壊れた作品とにどんな関係があるんだろう。彼女は、首を傾げた。倉稲うかの は薄い笑いを浮かべて続けた。

「実は、分かつことができるのは、死人とこの世だけではなくてな」
「え?」
保食うけもちとは、どこから来た名前かしっておるか?」
「いいえ」
話が飛んで見えない。彼女は首を傾げる。

保食神うけもちのかみ は、『日本書紀』に登場する食物の女神だ。月読尊を口から吐き出した海の幸と山の幸でもてなしていたが、それを盗み見て汚いと怒った月読尊に殺されてしまった。そのバラバラになった体から、牛馬、粟、蚕、稲などの穀物が生まれた。日本だけでなく、世界中に見られるハイヌウェレ型と呼ばれる食物起源神話だな」

 彼女は、倉稲うかの の顔を、まじまじと眺めた。顔をじっくりと眺めたことなどなかったように思う。美しいが年齢不詳で、口元以外はほとんど動かない、奇妙な顔だ。彼女を見つめる瞳孔は、まるで爬虫類のように縦長だ。彼女は捕食者に狙われた小さなネズミのように硬直し、女主人の言葉の続きを待った。

「ハイヌウェレ神話は、古い記憶なのだよ。かつて我々が行ったこの惑星の環境操作のね。この星には人類が増えすぎた。ただの食糧対策ではもう対応できないほどにね。だから、我々はもう1度大変革を行うことに決めたのさ。今、世界中で我々の仲間が、同じように準備を始めている。償物あがもの の呪をかけた絵皿を一定数割った時に、異次元の扉が一斉に開き、全ての穀物や豆類、野菜など以前我々の用意した植物の成長エネルギーが回収される。そして、代わりに我々の星で家畜を養うのに使われる高カロリー飼料を生産する菌が大地にばらまかれるのさ」

 彼女は、目を丸くした。この人は、なんかおかしなことを言っている。お米もパンもなくなって、野菜もなくなるってこと?

「で、でも、どうしてわざわざ私なんかの店でそれをやる必要が? あなたたちが皿を作って割ればずっと簡単なのに」
「この手の変更は、ちょっと法的に繊細でね。いくら粗野な原住民の飼料とはいっても、銀河系間発展途上文明保護法に抵触すると後で面倒なのだよ。だから、製作と破壊はその星の住人にやってもらう必要があるのさ」

 彼女は、ガタガタと震えだした。
「あ、あの……。もし、それが本当だとして……」

「本当だとも。これを此方に告げたのは、そろそろ準備が整うからさ。必要な絵皿の破壊は、まあ、全世界であと200枚というところか……。此方も食べたい料理があるなら早く食べておくのだな。新システムに移行した後は、稲だの小麦だのは2度と育たなくなるし、野菜もあっという間に店から消えるからな」

 私は、それまで、そんなことに協力していたの? 彼女は、顔面蒼白となったまま倉稲うかの の屋敷を退出した。これ以上、うちの店の皿を割らせたりしてはいけない。1枚だって。

 彼女は、自分の作品をしょっちゅう買ってくれるお得意様の青年を思い出した。つい2日ほど前にも、その客は皿を買って帰った。でも、いつも大事に手で持ち帰るものだから、お得意様サービスのフリをして、粗雑に包んだあれを何か美辞麗句を連ねた手紙と共に送りつけたはずだ。

 あのお皿と、ここ1年ほどの間に毎週のように買ってもらったお皿を、なんとしてでも取り戻さなくちゃ! 万が一にでも、あの人がお皿を割ったりしないように!

(初出:2021年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】酒場のピアニスト

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第2弾です。大海彩洋さんは、当ブログの『黄金の枷』シリーズとのコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『【ピアニスト慎一シリーズ】Voltaste~あなたが帰ってきてくれて~ 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じだと思いますが、ピアノもその一つで、実際にご自分でも演奏なさるのです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一がPの街にお越しくださいました。そして、23がちゃっかりそのピアノを聴かせていただいたり、誰かさんに至っては、慎一御大にお遊び用のカラオケを用意させるというような申し訳ない事態になっています。ひえ〜。

お返し、どうしようか悩んだのですけれど、インファンテやインファンタが直接慎一たちに絡むのは、かなり難しいこともあり(とくに慎一、ただの日本人じゃなくてヴォルテラ家絡みですしねえ)、ちらっと名前だけ出てきた方を使わせていただくことにしました。時系列では、ちょうど連載中の『Filigrana 金細工の心』とだいたい同じ頃、つまり彩洋さんの書いてくださった作品の「8年前」から1、2年経ったくらいの頃でしょうか。

そして、それだけでなく、彩洋さんの作品へのオマージュの意味を込めて、ショパンの曲をあえて使ってみました。そのキャラ、彩洋さんの作品にサラッと書いてあった感じではショパン・コンクールを目指したかった……みたいな感じだったので。

さて。もう1人のキャラは、連載中の『Filigrana 金細工の心』の未登場重要キャラです。またやっちゃった。どうして私は、隠しておけないんだろう……。ま、いっか、別にものすごい秘密ってわけじゃないし。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物


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酒場のピアニスト
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 電話を終えると、チコはゆっくりと歩き出した。Pの街は久しぶりだ。以前来たときよりも観光客向けの洒落た店が多くなっている。そうなると途端に値段がチコ向きではなくなる。彼は、裏通りに入って、見かけは単純だが、そこそこ美味しくて彼の財布に優しい類いの店を探した。

 どこからかファドが聞こえてくる。観光客向けのショーらしい。看板が目に入った。ファドとメニューのセットの値段が、派手な黄色で走っている。それを眺めながら通り過ぎようとして、もう少しで誰かとぶつかりそうになった。

「失礼」
チコが謝ると、青年は「いいえ、こちらこそ」とブツブツ言いながら、ファドのレストランに入っていった。扉を押すときに左手首に金の細い腕輪が光った。

 金メッキの腕輪など珍しくもなんともないが、チコはとっさに彼の《悲しみの姫君》のことを思い出した。チコは、厳密には彼女が金の腕輪をしているのを見たことはない。彼女が腕輪の話をしたことも、1度もない。腕輪の話をしたのは、彼女の妹、チコたちの仲間から《陽氣な姫君》とあだ名をつけられたマリアだ。

「みて、ライサの左手首」
潮風に髪をなびかせながら、マリアはそっとチコに囁いた。オケの同僚であるオットーやジュリアたちと、姉妹の特別船室に招かれて、小さなパーティーのようなことを繰り返していたある夕暮れのことだった。

 一介のクラリネット吹きであるチコが、特別船室に足を踏み入れることなど、本来なら考えられないのだが、華やかな社交に尻込みして部屋から出たがらないライサのために、姉の唯一興味を持った楽団のメンバーたちをオフの晩にマリアが招き入れるようになったのだ。

 女性の装身具などには全く詳しくないチコは、言われるまでまったく目に留めたこともなかったのだが、ライサの左手首には何かで線を引いたような細い痕があった。
「あれね。腕輪の痕なの。日焼けせずに残った肌の色」

 おかしなことを言うなと思った。腕時計をしなくなった人に、そういう痕が残ることは知っているけれど、しばらくすればそこもまた日に焼けて目立たなくなるものだろう。マリアはそんなチコの考えを見過ごしたかのように微かに笑ってから続けた。
「私の記憶にある限り、常にライサには金の腕輪がつけられていたの。子供の頃からずっと」
「つけられていた? つけていたじゃなくて?」

 マリアは、じっとチコを見て、区切るようにはっきりと言った。
「つけられていたの。金具もないし、自分では、絶対に取れない腕輪よ。ねえ、チコ。どうして私たちがこんな豪華客船で旅をできるのか、知りたいって言ったわね。私も知らないけれど、でも、1つだけはっきりしていることがあるの。それは、あの腕輪をつけたり外したりできる人たちが、払ってくれたのよ」

「ライサは、それが誰だか知っているんじゃないかい? 自分の事だろうし」
「もちろん、知っていると思うわ。でも、あの子は絶対に言わない。言わせたところで、あの子が救われるわけでもないの。でもね、チコ」
「うん?」
「外してもらった腕輪は、まだあの子を縛っているんじゃないかなって」
「それは、つまり?」
「あの子は、はじめてパスポートをもらったの。クレジットカードも。こんな豪華客船の特別船室で、世界中の珍しいものを見て回って、美味しいものを食べて、好きなものを買える立場にいるの。でも、彼女の心は、Pの街の、私の知らないどこかに置き去りになっているみたい」

「彼女が、とても淋しそうなのは、わかるよ。僕に、『グラン・パルティータ』を吹いてほしいって頼んだとき、たぶん彼女は何かを思い出して、その場所を懐かしんでいるんだろうなと思ったし」

 その場所は、おそらくこのPの街にあるのだろう。3か月の船旅の後、姉妹はこの街に戻った。マリアは元働いていた銀行でバリバリと活躍しているらしい。ライサが今どうしているかは……。チコは、そこまで考えてわずかに微笑んだ。明日、彼女と会える。その時に、いろいろな話をしよう。

 豪華客船の楽団メンバーの仕事は、本来旅の好きだったチコには合っている。もちろん、学校を出たばかりの頃は、室内楽や交響曲だけでなく、ビッグバンドの真似事やジャズまでもまとめてやることになるとは思わなかったけれど、最近は、それもさほど嫌だとは思わなくなっている。

 長い航海が嫌だと思ったことはこれまではなかったけれど、今回だけは別だった。この国から遠く離れているうちに、ライサが新しい人生をはじめて、彼のことなど記憶の果てに押し流してしまうんじゃないかと思っていたから。でも、マリアのあの口ぶりでは、ライサはいまだに引っ込み思案で、友だちらしい友だちも作らずにいるらしい。僕にももしかしたらチャンスがあるかもしれない。

 近くに寄ったついでというのは、口実だときっとマリアにはバレているんだろう。でも、そんなこと構うものか。

 彼は、そんなことを考えながら、数軒先に見つけた手頃そうな店で食事をすることにした。テーブルワインと前菜の干し鱈のコロッケパステイス・デ・バカリャウを食べているとドアが開いて、誰かが入ってきた。チコは、はっとした。それは先ほどぶつかった青年だったからだ。

「よう。ダリオ。今日は出番の日かい」
奥からオヤジが声をかけた。

「ああ。ファド・ショーが中止になったから、急遽弾いてほしいって。おじさん、僕にもメニュー、おねがいします」
そう答えると、ダリオと呼ばれた青年は、狭い店内のチコの斜め前に座り、軽く会釈をした。

「ああ、同業者でしたか。僕、クラリネットなんです。あなたは、ええと」
チコが、声をかけると青年は「ピアノを弾きます」と小さく答えた。

「あそこ、ちょっと高そうでしたが、飲み物だけで入るのって、無理かな」
そう訊くと、青年は首を振った。
「ファドの日じゃないし、文句は言われないですよ。そもそも、セットメニューは、英語しか読めない観光客用ですし」

 それから、肉の煮豆添えが出てくるまでの間、2人は軽く話をした。
「じゃあ、以前はあの交響楽団にいたんですね。子供の頃テレビでチャイコフスキーの協奏曲第一番を見ましたよ。大人になったら、ああいう舞台で弾きたいって、弟に大言壮語していたっけ」
ダリオは、少し遠くを見るように言った。

 観光客や酔客相手に演奏する、日銭稼ぎのピアニストであることを恥じているんだろうか。大きな交響楽団をバックにソリストとして活躍するほどのピアニストになるのは、大変な努力の他に大きな才能も必要だ。才能と幸運の女神は、誰にでも微笑むわけではないことを、チコ自身もよく知っている。
「子供の頃は、僕もずいぶん大きな口を叩いていましたよ」

 ダリオは、多くを語らずに食事を終えた。チコは、ダリオと一緒に、先ほどの店にいった。暗い店内は、ファドでないせいかさほど観光客がおらず、かなり空いていた。チコは、セルベッサを頼んで、ピアノの近くに座った。

 ダリオは、センチメンタルな典型的なバーのジャズピアノ曲を弾いていた。客たちは聴いているのかいないのかわからない態度で、ピアニストの存在は忘れられている。チコは、ダリオが手首を動かす度に、ライトを受けて腕輪が光るのをぼんやりと眺めていた。

 彼が夢見ていた音楽と、これは大きな違いがあるのかもしれない。誰もが夢中になって聴くソリストと、存在すらも忘れられる心地よいムード音楽。主役は、食べて飲んでいる客たちの時間。目の前に揺れて暗闇に浮かび上がるロウソクの焰。セルベッサのグラスに走る水滴。

 チコの仕事も、あまりそれと変わらないときもある。それでも、船の上のシアターで行う演奏会の時は、熱心に聴いてくれる客がいる。ライサのように、彼らの音色が聴きたくて通ってくれた人がいる。ダリオは、どんなことを思いながらこの仕事を続けているんだろう。

 しばらく、ムードジャズを弾いていた彼は、ちらっとチコを見ると、ゆっくりと短調の曲を弾き出した。あ、ショパンだ。なんだっけ、これは。あ、ノクターンの6番か。映画『ディア・ハンター』で演奏されていたから、強引に映画に出てきた音楽ですと言い張ることもできるけれど、きっとこれは僕がいるからクラシック音楽を弾いてくれたんだろうな。

 彼の感情を抑えた指使いが、静かに旋律を奏でる。装飾音も少なく、単純な右手の響きが繰り返される。数あるノクターンの中でも演奏される機会が少ないのは、演奏会などで弾くには華やかさが足りないからなのかもしれない。暗闇の中で焰を揺らすのに、これほど似合うことを、チコは初めて知った。

 氣がつくと、騒いでいた客たちは黙って、ダリオの演奏に耳を傾けていた。ダリオは、後半でわずかに強い想いを込めて何かを訴えかけたが、転調してからはまるで諦めるかのようにコーラル風の旋律を波のように繰り返しながら引いていった。焰も惑うのをやめた。

 曲が終わった後の休止。チコは、手を叩いた。それに他の客たちもわずかに続いたが、ダリオがわずかに頷いてすぐに再びムードジャズに戻ると、また忘れたようにおしゃべりに興じた。

 彼が、ピアノの譜面台を倒して立ち上がったときも、それに目を留める客は多くなかった。チコは、再び手を叩くと、ダリオを彼の前に座らせた。
「素晴らしかったよ。とくに、ショパン。君、さっきはずいぶん謙遜していたんじゃないかい?」

 ダリオは、はにかんだ笑いを見せると答えた。
「そんなことはないよ。でも、ありがとう。聴いてくれる人がいるっていうのは、嬉しいものだな」
「今からでも遅くないから、就職活動をしたらどうかな? 少なくとも僕の乗っている船でだったら、ソリストとして活躍できると思うよ。他にも……」

 チコの言葉を、ダリオは遮った。
「いいんだ。ちょっと事情があって、僕はこの街を離れられないし、ここの仕事も、わりと氣に入っているんだ。次に、この街に来るときには、また聴きに来ておくれよ」

 チコは、「そうか」と頷いた。明日逢うことになっているライサの、《悲しみの姫君》の微笑みを思い出した。何かを諦めたかのような瞳。揺れる焰の向こうでダリオはセルベッサを飲み干した。金の腕輪がまた煌めいた。


(初出:2021年1月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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さて、これが出てきたショパンのノクターン6番です。


Frederic Chopin- Nocturne no. 6 op. 15 no. 3 in G Minor

そういえば、彩洋さんの作品には、以前書かせていただいた某チャラ男も登場しているのですけれど、今度こやつでも遊びたいなあ。ま、大道芸人たちのほうが馴染みがいいのでそっちにしたいのだけれど、実はちょっとタイムトリップなので、(ヴィルはいままだ幼児)いずれまた別の機会に!
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】つーちゃん、プレゼントに悩む

scriviamo!


今年最初の小説は、「scriviamo! 2021」の第1弾です。ダメ子さんは、プランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化しているこのシリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。1年に24時間しか進まないのに、展開は早いこのシリーズ、今回、先行で書かせていただきましたが、実は24時間なんて進んでいません。合同デートのその夜の話です。どうなるんでしょうねぇ。っていうか、もともとのメインキャラ、アーちゃんを置き去りにしているかも……。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』

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つーちゃん、プレゼントに悩む - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 私は、帰宅してからずっとネットの前に陣取っている。それまでの検索履歴は、ずっと麗しい外国人モデルばかり、私のまったくお金のかからないパーフェクトな趣味に関するものだけだったのに。あ、「薄い本」つまり同人誌を作るための諸々のコストは別だけれど。

 なのに、この私が現存する(そりゃ外国人モデルだって現存しているだろうけれど、2.5次元の世界にいるから現存しないも同然だ)日本人男子学生のために、ネットショップを巡回する羽目になるとは!

 私は、ムツリ先輩が少しは喜びそうな、でも、仰々しくない、ついでにいうと動機を誤解されない程度のプレゼントを購入するというミッションを抱えている。

 今日のデートは、いや、私のデートではなくて、アーちゃんとチャラ先輩のデートに私とムツリ先輩が同行しただけだけれど、私たちの思うような方向にはなかなか行かなかった。どういうわけか、私とムツリ先輩がゲームセンターに迷い込んでしまい、『時空の忠臣蔵』っていうシュールなゲームに興じていたので、映画を見そびれてしまったのだ。

 で、その後、プリクラを撮ったり、他のゲームをしたりして、4人で色氣もへったくれもない午後を過ごした。

 ふとみたら、クレーンゲーム・コーナーがあって、ぬいぐるみがこちらを見ていた。お。これって、アーちゃんを喜ばせるチャンスをでは? そう思った私は、中でも特にカワイイぬいぐるみが入っている台のところで騒いでみた。
「きゃー、アーちゃん、これかわいいよね。欲しくない?」
アーちゃんの部屋に、こういうファンシーなぬいぐるみがそこそこ置いてあるのはリサーチ済みだ。

「うん。かわいいね。あれ? つーちゃんも、これ欲しいの?」
怪訝な顔をするアーちゃん。それも当然。そもそも私はぬいぐるみには興味はない。ロシアのイケメンの方がずっといい。そこは、スルーして「きゃー、欲しい」とだけ言っていればいいものを。

 チャラ先輩とムツリ先輩も近づいてきて、「ほお」という顔をした。
「よし。ムツリ、俺たちで取ってあげようぜ」

 げ。私はいらないよ! とはいえ、言い出しっぺなので今更いらないとも言いにくい。ああ、チャラ先輩がクレーンゲーム上手で、ムツリ先輩は下手だといいなあ。

 でも、現実はそんなに都合よくは運ばなかった。2人ともクレーンゲームはさほど得意とはなさそうだった。もちろん私がやったらもっと下手だったはず。問題は、2人ともけっこう課金しちゃったこと。もちろん、チャラ先輩の取ったピンクのウサギは、順当にアーちゃんが手にした。なんか空氣を読まないチャラ先輩は、最初私にくれようとしたんだけれど、私は急いでこう言ったのだ。
「わ。このウサギ、今日のアーちゃんの服とぴったり!」

 まだ取れていないムツリ先輩に「もういいから他のことをしませんか」と言いそびれたのは、そのやり取りがあったからだ。アーちゃんは、チャラ先輩からもらったウサギを大事に抱きしめていた。結局、直にムツリ先輩が取った緑の亀をもらうことになったのは私だった。

アーちゃんとつーちゃん by ダメ子さん
ダメ子さんからイラストをいただいてきました。このイラストの著作権はダメ子さんにあります。

 不要な課金をさせてしまった以上、なんかのお返しをしなくては、私の氣が済まない。ただでさえお茶代とかもお2人が出してくれたしなあ。っていうか、チャラ先輩とアーちゃん、そろそろ勝手にデキて、2人でデートしてくれないかなあ。

 さて。私は、ムツリ先輩の好みなんて、全然知らない。まあ、どんなチョコが好きかは、安売りチョコの交換をしたので知っているけれど、さすがにアレってわけにはいかない。

 こんな短い間に、何度もプレゼントのやり取りをしていると、周りだけでなくムツリ先輩にも誤解されそうだし、何か「これは儀礼的なお返しですから」って感じのするプレゼントってないかなあ。私は、3次元にはとことん縁のない女なので、こういうときにどうしたらいいのかがさっぱりわからない。

 ネット巡回を繰り返していると、スマホがメッセージの到来を告げる。あ、アーちゃんだ。

「つーちゃん、今日はつきあってくれて、どうもありがとう。大好きなチャラ先輩と。お茶して、一緒にゲームして、夢のような午後でした。チャラ先輩に取ってもらったウサちゃん、宝物だよぅ」

 って、その文面を、そのままチャラ先輩に送って、次につなげるのよ! って、3次元に縁のない私が、なんでこんなツッコミをしているんだか。私は、急いで返信を書く。
「それそれ。その文面をチャラ先輩に送って、ウサちゃんのお礼をさせてくださいって、1対1のデートにつなげるのよ!」

「ええっ。そんなの、無理! つーちゃんは、ムツリ先輩と、そうやってデートするの?!」
なんなのよ、この文面は。
「するわけないでしょ。私は、形だけのお礼の物品を渡して終わり。アーちゃんは、ちゃんとかわいく、先につなげてよ!」

「でも、でも! わ、私、デートなんてしたことないし、つーちゃんがいないと、どうしていいかわかんない!」
おいおい。私だってそんなことわかんないし、そもそも、そんなんじゃ生涯おつきあいなんてできないじゃない。
「大丈夫だって。今日だって、しばらくチャラ先輩と2人きりでお茶していたじゃない。アレの続きだと思えば……」

 だいたい私は、パニクるアーちゃんにつきあっているヒマはないのだ。さくっとムツリ先輩へのプレゼントの件を片付けて、美形の2.5次元を眺める日常に復帰しなくちゃいけないんだから。

 うーん、何がいいかなあ。ムツリ先輩はバスケ部だから、なにかバスケットボール関係のもの? タオルとかはどうかな。スポーツブランドの……わっ、けっこう高い。かといって、お風呂で使うみたいなもの贈るのも微妙。

 バスケ関係の書籍は……。「上手くなるためのトレーニング100」かあ。これじゃ、バスケが下手だと宣言しているようなもんか。ダメだ、これは地雷。

 面白グッズは……。バスケットボール柄のマウスパッドか。こういうのいらないよね。ほら、心にヒットして愛用されても困るし、反対にいらないモノをあげても迷惑なだけだし。

 何か、消え物ないかなあ。引越のあいさつでいう、ティッシュみたいな。誰もが必要だけれど、でも、すぐに使い切って、なくなってくれるもの。

 あっ、これは? Shoe Cleaning Wipesだって。靴のクリーナー? 携帯用の個別包装で12個セット。値段もまあまあお手頃で、クレーンゲームで使った分くらいだよね。これなら使ってなくなるし、色氣はゼロな感じだし、決定。

 私は、商品をポチって、お母さんにクレジットカードの入力を頼んだ。

「なにこれ?」
「バスケットボールの靴をきれいにするお手拭きみたいなもん?」
「あなた、バスケットボール部に入ったの?」
「ううん、帰宅部のままだよ」
「ああ、じゃあ、アーちゃんへのプレゼント? にしては、可愛くない真っ黒な商品ね」

 お母さんにいろいろ詮索されても面倒なので、この手の商品にファンシーなものはないのだとだけいって、金額分のお小遣いを渡し、なんとか購入にこぎ着けた。ああ、面倒くさい。やっぱり2.5次元を眺めている方がずっと楽だわ。

 商品がうちについて、それをさりげなくラッピングして、さらに変な感じにならないようにサラッとムツリ先輩に渡すのかあ。なんだか、障害物競走をしているみたい、はあ。

 私が、悩みまくっているのも知らず、その間もアーちゃんから、これからどうしたらいいのかを問い合わせるメッセージが、どんどんと貯まっていた。

(初出:2021年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 約定

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scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第9弾、ラストの作品です。TOM-Fさんは、「天文部シリーズ」シリーズの掌編でご参加いただきました。ありがとうございます!


 TOM−Fさんの書いてくださった「この星空の向こうに Sign04.ライラ・アークライト オブ ザ  スカイ

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』は、無事完結、現在は次の長編に向けて、準備中とのこと楽しみですね。

「scriviamo!」には皆勤してくださり、毎回趣向を凝らした名作でご参加くださっています。そして、毎回めちゃくちゃ難しいのですけれど、今年の難しさは例年と違うところにありまして……。最愛のキャラの渾身のエピソードでご参加なのですよ。いや、他にも大切なキャラでご参加くださったことは多々あるのですけれど、今回の作品は最愛のキャラをここまで痛めつけるかという、TOM−FさんのドSぶりを遺憾なく発揮されていて、いや、これに適当なキャラでお茶を濁すお返しはナシでしょう……みたいな。

それで、こちらも最愛キャラ(の前世だけど)を持ってくることにしました。しかも、同じくらい虐めている……ええと、いや、そうでもないか。しかし、TOM−Fさんがご自分の作品について「イタい」とおっしゃっている以上に、めっちゃイタい仕上がりになっています。あと、男が病で死んじゃうのと、男が死んだ女に囚われているのもあちらの作品と同じ。

いや、合わせてそう書いたのではなく、もともとそういう構想でして。今回のこれ、バリバリの本編で、しかも終わりから2番目くらいのところにあるべき話をいきなり書いてしまいました。ええ、TOM−Fさんのお話を読んでから「いきなり(ほぼ)最終回」を書くことにしたんです。

最終回の手前ですから、主要キャラたちの行く末が全バレです。ここまでとんでもないネタバレはさすがに普段はしませんが、この話に限ってははじめから主人公が野垂れ死にすることを公表しているので、これでいいかなと。この話、いずれ途中を書いたら、記事の順番を調整してこれがちゃんとおしまいの方に来るようにしたいと思っています。でも、ほら、もう書かないかも知れませんしね〜。(根の国のシーンが大変そうで筆が進まないという説も)


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樋水龍神縁起 東国放浪記
約定
——Special thanks to TOM−F-san


 開け放たれた鳥居障子の向こうに垂れ込めた雲が見えた。萱は、平伏する次郎から眼をそらし、その雲間より逃れた一条の光が、若狭の海に差して煌めくのを眺めた。
 
 安達春昌の忠実な従者である次郎が、ひとりでこの若狭を訪れるということが意味することは一つだった。久しぶりに次郎の顔を見て喜んだ三根もまた、その意を解して泣きながら萱に伝えに来た。

 訊けば、春昌はここ数年東国を彷徨い、伊勢の近くで流行り病で亡くなったという。廃寺の境内に主人を埋め、次郎は生まれ故郷の奥出雲へ戻る途上であった。

 かつて春昌は、いま次郎が座る位置のすぐ後ろの廂板間に座っていた。あれは何年前のことだろう。昨日のことのように鮮やかに脳裏をよぎるが、昔語りになってしまった。

「わざわざ報せにきてくれたこと、礼を申します。春昌様は、何かおっしゃられたのか」
萱は、頭を上げるように言ってから問うた。次郎は、わざわざ人払いを願い出た。何か伝えることがあるのだろう。

「お隠れになる二日ほど前のことでございました。こちらでお世話になったことを語られたとき、こうおっしゃいました。『誓いは果たしたと、萱どのに伝えてほしい』と」

 萱は、こみ上げるものを押さえつけた。神罰に全てを捨てて彷徨うかつての陰陽師を、それまで以上に苦しめることになった約定を、萱もまた忘れたことはなかった。これからも生き続ける限り忘れないだろう。

* * *


 それは、あの月夜のことだった。春昌は廂の板間に座り、若狭の海に揺れる月影を眺めていた。次郎は三根のもとに行き、佐代や岩次も下がり、萱はひとり春昌の杯を満たしていた。

 献上品となる濱醤醢を造る『室菱』の元締めとして、女だてらに重責を担う萱は、長らくふさわしき婿取りを期待され続けてきた。父に婿になることを所望された若衆が海難に遭い、間もなく父も急死したため、図らずも若くして元締めになった萱には、これまで婿探しをしている時間などなかった。

 何年か前より子細ありげな貧しい公達、安達春昌とその従者次郎が滞在するようになって以来、古くからの使用人たちはこの公達と萱との縁組みを期待するようになった。特に、萱の従妹である夏姫を巻き込んだ怪異を、春昌がみごとに祓い、かつて殿上すら許されていた陰陽師であったことが知れると、彼らの期待はさらに強くなった。それどころか若狭小浜の商い人たちも、もはやそれが決まったことのように噂するようになっていた。

 ところが、当人同士が話を進める兆しを全く見せないので、業を煮やした使用人たちがあえて場を離れ、次郎を主人から引き離して、春昌と萱がふたりきりになるよう骨を折っていたのである。

 萱は、彼らの願いは十分に承知していたものの、そのようなことは到底あるまいと心を定めていた。他の者らは、春昌と樋水龍王神社の御巫瑠璃媛の死にまつわる因果を知らなかったし、萱と播州屋惣太との深い因縁を春昌が承知していることも氣づいていなかったのである。

 萱と春昌はもはや、釣り合う似合いの男女、もしくは惚れた腫れたの始まりを探り合うがごとき浅い仲ではなかった。影患いの果てに生成りとなった惣太の妻に萱代わりに祟られた夏を救うため、萱は春昌と共に、根の国を訪れることとなった。ふたりはそこでこの世ならぬものと対峙した。そして、そこで不本意ながら、もっとも知られたくない心の一番奥にある悼みを晒すことになってしまった。

 十六夜の月は穏やかに輝き、若狭の海はいつになく凪いでいた。微かな風が、春昌の鬢からこぼれた髪をそよがせている。根の国で亡者に囲まれ二度と現し世に戻れぬことを覚悟したとき、彼は萱を守らんと全霊を尽くし半ば鬼と化した。その彼の姿は夢のように遠く想われた。

 彼は、萱が生涯をかけて愛し求めた男ではない。そして、彼にとってたったひとりの宿命の女は萱などではない。彼が奥出雲の地で禁忌を犯し、そのために名聞はなれ彷徨い生きていることも知っている。けれども、そうした全ての情状は現し世にのみ存り、根の国の在り様とは何ひとつ関わりなきことであった。萱は、神意も天罰も愛欲も恩讐も全て手放し、ただ彼と共に、かの黄金に輝く七色の光の中に溶け込んで消えていきたかった。

 こうして現し世に舞い戻り、またそれぞれの情状を抱えた者に分かれて座っていることに、違和感が拭えない。夢の続きのごとく、合うさきるよそ事に思える。春昌様も、同じように感じておられるのであろうか。萱は、穏やかな彼の横顔を見ながら考えた。それとも、この方にとって、あのような神事象の見聞は、明暮のことなのやもしれぬ。

 誰よりも近く、誰よりも頼りになると感じられた男が、現し世ではこれほどに遠く感じられる。身分と立場が、そして、お互いの持つ深い業と過去が、ふたりの間に大きな楔を打ち込んでいる『室菱』の者らにも、おそらく春昌を知り尽くした次郎にも見えてはいない、まがう事なき隔たりを萱は感じている。この男とひとつになれるのは、あの七色の光の中でだけなのだと。

 ふたりとも、言葉にしてその様な語りは何もしない。ただ、周りの期待には応えられないことを、お互いが誰よりもわかっていた。怖ろしいほどに穏やかな月夜だった。

「そういえば、弥栄丸から便りがございました。来月、夏と共にこちらに参るそうでございます。ふたりとも一日も早く春昌様にお目にかかって御礼を申し上げたいと、心はやっている様子でした」
萱は、丹後の屋敷に戻っている夏の様子を知らせた。あのふたりが夫婦になることを夏の父親もついに許したらしい。

 春昌は、夏の話をするときにいつも見せる幼子を愛おしむような微笑みを見せて答えた。
「夏どのがこちらに戻られる頃には、私はもう居りませぬ。よろしくお伝えください」
「どうしてですか」
「月が明ける前に、出立する心づもりでおります」

 これから冬になるというのに、なぜいま苦しい旅に出ようとするのだろう。
「春昌様。春をお待ちください。これからの山越えはおつらいでしょう」

 彼は、顔を向けて萱に冷たい一瞥を与えた。ひどい冷氣が下りたかと思うほど空氣が変わった。春昌の全身が例の青紫の氣焰に覆われていた。
「だから行くのだ。ここで心地よい冬を過ごしたりせぬように」

 はじめてその氣焰を感じたとき、萱は何か禍々しきものに触れたのかと、ひどく怖れたものだ。だが、彼女はもうそれに恐れを感じることはなかった。それは、癒やされることのない痛みと彼自身すらを許さない己の怒りが生み出す彼の業そのものだからだ。彼女は、彼の心の痛みに耐えかねて、思わずその掌を彼に向けた。

 すると、不思議なことが起こった。あの根の国で見たのと同じ、彼女自身の黄色い氣焰が掌で暖かい色に輝きぶつかった彼の氣焰の色を変えたのだ。

 萱は長いこと、自らの氣焰も含めて、この世ではないものを見ることをやめていた。自分にはその様なことはできないのだと思っていた。かつて媛巫女瑠璃に、樋水龍王神の御前に連れて行かれたときも、偉大なる巫女の権能が彼女に特別なものを見せたのだと思い込んでいた。

 だが、それは、萱自身の『見える者』としての力だった。春昌と共に訪れた根の国で、彼女は再び樋水龍王神の御姿を拝し、禍つ神を浄める媛巫女に比肩する伎倆を手にしたのだ。

 全ては収まるべきところに収まった。萱は現し世に戻り、商いには不要なその特別な力はもう使うこともないと思っていた。

 それなのに、なんということであろう。かつて己をあれほど怖れおののかせたあの氣焰を、自ら触れるだけで消している。

 掌はまだ服の上にも達していないが、萱の掌から溢れる暖黄色の光は、春昌の外側に纏いつく青紫の氣焰を、触れたところから次々と春の若萌え草のような明るく心地よい氣に変えていった。

 だが春昌は、萱がしようとしていることを見て取ると、身を引き、苦しそうに顔をゆがめて言った。
「やめてくれ、浄めるな。頼む」

 萱は、動きを止め、わずかに後方へ下がった。青紫の氣の焰はまだ春昌の周りに燃えていた。若緑に変わりだしていた氣も、やがて再びその青紫に打ち消されて消えていった。

「すまぬ」
春昌は、絞り出すように言った。
「無駄なのだ。一刻、すべてを浄めても、またこの業が勝る。奥田の秘め蓮の池も、権現の瀧も、若狭姫大神の神水も、どうすることもできなかった。私が生き続ける限り、これは消えはせぬ」

「春昌様」
「夏どのを救うためには、そなたの力を借りる他はなかった。だが、そなたの眠れる力をあのような形で目覚めさせたのは、忌むべき咎だ。ましてや、そなたをこの呪われた業に巻き込むわけにはいかぬ。呪われ黄泉へ引きずり込まれるべきはこの身だったのだ。媛巫女ではない。憐れな次郎でもない。そして、そなたでもないのだ」

「想ってはならぬ方を想うことが呪われた業ならば、この身はとうに奈落に落ちております」
萱は、わずかに震えながらも、はっきりと口にした。

 惣太の妻を恨みの鬼にし、影患いに追い込んでしまったのは、他でもない自らの業だ。たとえ全てが終わった今となっても、神罰を受けることはなくとも、その事実を変えることはできない。

 春昌は、わずかに顔の険しさを緩めた。否定しないことが、彼が萱の言い分を認めていることを示している。

「春昌様。苦しまれるあなた様を、同じ浄めの力を持つ私の元へと導かれたのは、媛巫女様だとお思いになりませぬか」

 夏のように、三根のように、すべてを投げ打ち想いのままに慕う相手の胸に飛び込むことは、萱にはできない。自らが媛巫女に立ち替わる存在だとうぬぼれているわけでもない。だが、せめて一刻でもかまわない。私にできることをさせてくださいませ。萱は祈るように春昌を見つめた。

「媛巫女の真似事はそなたの本分ではない。その様なことを度々すれば、すぐに周りにこの世ならぬものが集い、身動きが取れなくなる。心を煩わさずに、そなたの定めを生きよ」
「そして、あなた様おひとりで、全ての苦しみを背負われるおつもりですか。せめて、ここにおられる間だけでも、重荷を下ろして楽におなりくださいませ」

 春昌は、月から視線を移し萱を見た。
「楽になどならなくていいのだ。ここで安らぎを得るのも過ちだ。私は赦しの道を探しているわけではないのだから」

 揺るぎのない強い光を放つ瞳を見て、彼女はこの男が彷徨いながら探しているものが何かを理解してしまった。嘆きせめぐその魂は、もはやなんの希望をも持っていなかった。

 萱は彼を救うことができない。彼の願いはひとつだけなのだ。呪われた身を横たえ二度と目覚めぬこと。罪に穢れた屍を受け入れてくれる土地神を探すこと。

「そのようなことを、おっしゃらないでくださいませ」
絶望に打ちひしがれて、萱は伏した。

 彼は女の涙には揺るがなかった。一刻も早くここを去ろうとするのは、大きくなりすぎた萱との縁を断ち切るためなのだ。

「萱どの。そなたは、私と次郎に善く尽くしてくれた。その恩に報いることのできるものを私は何ひとつ持たぬ。だが、もし、私の力でそなたの恩に報いることができるのならば、どんなことでも願い出てほしい」

 萱はたったひとつの願い事をした。それが、春昌が果たしたという約定だった。

* * *


 萱は、紙に包まれた一房の髪を手に取った。別れ際に見た彼の髪にこれほど白いものは目立っていなかった。伊勢にたどり着くまでに、どれほどの新たな苦しみを抱いたのであろう。目の前の次郎もまた、少し歳をとった。だが、故郷へ戻る彼の氣焔には、以前よりも朗らかで暖かいものがにじみ出ている。

「次郎どの。春昌様のお言葉をお伝えくださり、誠にありがとう存じます。また、大切なご遺髪をお譲りいただき、謝するにふさわしき言葉もございません」

 次郎は、声を詰まらせながら、萱の心を慮った言葉を綴った。この春昌と媛巫女に忠実な侍者が、わざわざ伝えに来たのだから、春昌が我が身を忘れなかったのもまことであろうと思った。次郎や、他の者が思っているのとは違うとはいえ、確かに彼と萱は特別な縁で結ばれていた。

 そして、次郎もまた、この若狭で、長く苦しい旅に値する縁を見いだしたのだろう。
「次郎どの。あなた様と三根のこと、私に一切遠慮をなさらぬように。三根の恩義はもう十分に返してもらいました。どこへ行こうとあの者の心のままです」

 次郎は、萱に許しを願い出る時機を迷っていたのであろう。顔を真っ赤にして、また畳に何度も頭をこすりつけた。

 遠からず、次郎は新しい旅の道連れと、奥出雲への旅路に出るであろう。たち止まり根を張ることも、赦され安らかに生きることもない、終わりの見えなかった旅は終わろうとしている。誤って大切な媛巫女を死なせた苦しみは、彼の主人が全て背負い、伊勢の弔うものもない廃寺で朽ちていこうとしている。

 次郎が下がった後、萱はかの板間に座り、春昌の遺髪を今ひとたび見つめた。それはすでに魂なき物であった。青紫の氣焔も、若緑のそれも、もはや感じることはなかった。彼の願い、せめぎ苦しんでいた魂の渇望は、ようやく成就したのだ。萱が言霊で縛り付けた、長い苦しみの果てに。

 萱が彼に願ったのはたった一つだった。
「生き続けてくださいませ。決して自尽はなさらないでくださいませ」

 彼は、萱の残酷な願いを了承した。流行り病で命を落とすまで、彷徨い生き続けた。そして、いま萱は、彼のいない現し世に虚しくひとり立っている。

 忙しく働く使用人たちの声が耳に入る。萱は、遺髪の包まれた紙をそっと胸元にしまうと、立ち上がり表へと向かう。もう一度若狭の海を振り仰いでから襖戸を閉めた。

(初出:2021年3月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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月夜の語らいのイメージ曲は、萱のキャラクター紹介でも貼り付けたのですけれど、せっかくなのでもう一度。

上妻宏光 風林火山~月冴ゆ夜~

おまけです。次郎の帰りの旅のイメージソングを。「君」の意味がいくつかあったりして。

あの頃へ / 安全地帯
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Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと重苦しい日々

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第8弾です。山西 左紀さんは、今年2回目、「物書きエスの気まぐれプロット」シリーズの掌編でご参加いただきました。ありがとうございます!


 左紀さんの書いてくださった「エスの夜遊び

ご存じの方も多いかと思いますが、サキさんの「物書きエスの気まぐれプロット」にときどき登場させていただいている「マリア」というハンドルネームの友人は、当方の作品『夜のサーカス』の登場人物です。本名アントネッラというドイツ&イタリア・ハーフの中年女性で、コモ湖畔のヴィラで一風変わった暮らし方をしている人物という設定です。

サキさんが、エス関連で「scriviamo!」にご参加くださるときは、アントネッラ系でお返しするのが半ばお約束になっていますので、今回もそのパターンでお送りします。また、メカメカのお得意なサキさんがボカロの曲をモチーフに書いてくださいましたので、こちらも1つ音楽をモチーフにして書くことにしました。イタリア語の歌ですので、追記に動画と意訳ですがだいたいの意味を載せておきました。この曲、コロナに合わせて作られた曲ではありません。が、妙に符合しているので使ってみました。

……で。例によって、オチもないんですけれど、すみません!


【参考】

「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物

夜のサーカス 外伝

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夜のサーカスと重苦しい日々
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 アントネッラは、受話器を置くと深いため息をついた。コモ湖を臨むアプリコット色のヴィラ。彼女は、その本来は屋根裏にあたるかつての物見塔を居室兼仕事場として使っている。

 古めかしいダイヤル式の黒電話が彼女の仕事道具だ。数年前に、アナログの電話はこれからは通じなくなるので、デジタルの電話を導入しろと電話会社に言われたのだが、この電話機でないとどうもうまく仕事ができないので、結局パルス信号をトーン信号にする変換器を取り付けてもらい、無理に使い続けている。

 アントネッラは電話相談員だ。かつては大きな電話相談協会で仕事をしていたが、どうしても彼女だけに相談したいという限られた顧客がいて、このヴィラに遷る時に独立したのだ。そう、回線費用は高い。つまり相談料は安くない。けれど、なによりも「誰にも知られない」ということに重きをおくVIPたちには費用はどうでもいいことだった。

 彼女の顧客の多くは、実のところ相談をしているのではなかった。アドバイスを必要としているわけでもなかった。彼らはとにかく抱えている秘密を口に出したいだけで、アントネッラは高い相談料と引き換えにひたすら耳を傾けるのだ。

 しかし、ここしばらくの相談は、滅入るものが多い。それまでは、人の悩みも秘密も千差万別だったのだが、今はそうではない。ドイツからの相談も、イタリア国内からの相談も、基本的には同じ内容だ。家から出られない。旅行に行けない。レストランにすら行けない。閉じ込められた家庭内で不協和音が響く。隠しておきたい秘密の趣味をパートナーに知られないように、もう何か月も密かなる趣味に時間を使うことができない。

 受話器を置いて、アントネッラはため息をつく。少なくとも彼女は、閉じ込められた家庭でパートナーとの不協和音に苦しむことはない。家族などいないのだから。

 彼女の趣味である小説書きも、ロックダウンで遮られることはない。彼女に必要なのは、狭い机の上にドンと置かれた古いブラウン管ディスプレイとキーボードを備えた、古いコンピュータのテキストエディタだけだ。イタリア有数の保養地の湖畔にあるだけあって、燦々と降り注ぐ陽光もきもちよく、彼女の状況はさほど悪くない。

 だが、それでも顧客たちの不平と、先行きの不安とが、彼女を滅入らせる。そして、もともと出かけることをさほど必要としていなかったにもかかわらず、禁じられた外出が彼女にも小さな苛立ちとして降り積もっていた。

 日々の感染者数や死者を確認することもやめた。医療行政としてはその数字は大切なことだろう。だが、アントネッラにとっては、数値がどうでも同じなのだ。人口十万人あたり何人が感染して亡くなるかは確率と統計という形で提示される。だが、アントネッラ本人にとっては、病にかかるか、かからないか、もしくは、外に出られるか、できないか、それぞれ二者択一の問題だ。そして、いま以上に氣の滅入る情報を得ても、人生はよくならない。

 人びとのバラエティーに飛んだ生き様を、アレンジして小説のプロットにすることを、彼女はずっと楽しんでいたが、ここ数ヶ月はそれもちっとも楽しくなかった。自分がうんざりするものを、読まされる方はもっとつらいだろう。この世界の多くの人々が同じことにうんざりしているなんて、アントネッラの始まったばかりとはとてもいえない人生でも、初めてのことだった。

 アントネッラは、窓を開けた。まだ春というには肌寒すぎるが、コモ湖に反射する陽光は少しずつ明るさを増している。マキネットがコポコポと音を立て、エスプレッソの深い香りがあたりを満たしてくるのを、アントネッラは大人しく待った。

 いま流行のプラスチックカプセルに収まったコーヒーを放り込んでボタンを押すマシンを購入すれば、あっという間に1杯分のエスプレッソを飲めることはわかっている。そういえばあのマシンを宣伝しているハリウッドスターは、やはりコモ湖に大邸宅を持っている。はじめは鼻で嗤っていた隣人たちの多くも、粉だらけのエスプレッソメーカーが不調をきたして、何度目かの修理をすることになったあげくに、結局あのタイプのマシンを使うようになったらしい。

 アントネッラは、揺るがなかった。赤と黒に光る合成樹脂のボディーを見るだけで虫唾が走るのだ。たとえ実際に口にするエスプレッソの味に毎回揺らぎがあろうとも、ふきこぼして本来する必要のない掃除をすることになっても、頑なに銀のマキネットを愛用していた。

 同様に、ずいぶんと昔から使っているラジオも、つまみを回してチューニングをするタイプのものだ。どちらにしろ送信側がデジタルになってしまっているのだから、受信側もボタンひとつで他局に変えられるデジタル式のラジオにする方がいいと、ここを訪れる多くの人が忠告する。だが、アントネッラは、まだそうするつもりになれなかった。

 ラジオのスイッチを入れると、やはりつまみが少しずれていた。わずかに調整をしていつもの放送局を選ぶ。早口で情報を伝えるDJが語り終えぬ間に、イントロが流れてきた。これは、誰の曲だったかしらと、ぼんやりと考えていた。だが、男性の声が聞こえてきて、すぐにわかった。ティツィアーノ・フェッロ。聞き間違えようのない声だ。

 とくに低音は、不思議なざらざらとしたノイズが入る。正確な音程と伸びやかなヴォーカルに纏わり付くざらつき。好きか嫌いかを超えて、決して忘れられない声は、幾億もの遺伝子の組み合わせから偶然誕生した彼だけが持つ声帯の恩寵だ。

 ああ、そうか。アントネッラは、ひとり頷いた。彼女の友人であるエスに聴かせてもらった、ボーカロイドの歌のことを思い出したのだ。日本語だったので、歌詞はわからなかった。エスは意訳してくれたが、その真意までははっきり伝えられないだろう。アップテンポのビートのきいた曲で、失恋しつつもいまだに2人の未来を紡ごうと語りかけているらしいのだが、その様な感情は歌詞なしには伝わってこなかった。「これは宇宙ステーションで昼食のメニューを読み上げている内容」と言われたとしても、言葉のわからないアントネッラには「そうなのか」としか思えない。

 どんな音楽を好むかは、人それぞれだ。アントネッラ本人は、あまり夢中にならなかったが、父親の故郷であるドイツでは、かつて電子音楽グループのKRAFTWERKが一世を風靡した。1960年代にシンセサイザーを用いた前衛的なロックは、現在とは比べものにならぬ大きな衝撃を音楽界に与えた。彼らの斬新さと主張を理解できないほどアントネッラは旧弊した人物でもなかった。

 エスが人間の声よりも、ボーカロイドを好む理由は知らない。アントネッラの若かった頃に友人のひとりがそうだったように「シンセサイザーの音が近未来的でときめく」というような理由ではないだろう。若い世代にとってコンピューターやボーカロイドは未来ではなく、既に現実なのだから。ボイストレーニングや息継ぎなどの肉体的な制限もなければ、スタジオやギャラなどの制約もない、自由と平等さが好きなのかもしれない。それとも彼女にとって歌は楽器の一種で人間の個性は邪魔なのかもしれない。

 アントネッラが聴きたい声は、機械や機械を模して感情を押し殺した発声ではなく、その反対のところにあるものだった。

 彼女が関心を持ち書き続けている小説は、空想世界で繰り広げられる超人的な展開や斬新なアイデアよりも、むしろありきたりの自分の生活ベースに近いものを題材にしている。

 音楽や詩も、やはり生活に近いものを好む。宇宙や深海よりも地上にあるものに関心が強い。悪魔的な破壊を叫ぶヘビーメタルや、環境問題を訴えるクラウトロックよりも、カップルの間に生じる感情を歌うイタリアンポップスに心地よさを感じるのだ。

 いま耳にしているティツィアーノ・フェッロの歌は、そうしたアントネッラが馴染んでいるジャンルの音楽だった。

 人類最高ではないが、機械はもちろん、他の誰かでも決して真似のできない特別な声。感情の理解できる抑揚は、時に揺らぎ歪む。それは決して高低や大小だけではなく、2度と再現できない毎回異なる波形の中で作り出すものだ。年齢によって深くなることもあれば、やがては衰えて再現できなくなる、一瞬の発露。

 ボタンひとつで、まったく同じ正しい味が再現されるエスプレッソマシンに失敗はないが、何年も使い込んだマキネッタから注がれる粉のざらつくエスプレッソのような、複雑な苦みや旨味もない。それは待たされる時間や、数々の試行錯誤や失敗がスパイスとなって作り出す味だから。

 それにしても、いま聞こえてきている曲の内容は、先ほどの電話相談の続きのようだ。閉じ込められた鬱屈が、本来ならば支え合うはずの2人を疲弊させている。この曲は、確か数年前に発表されたものだから、現状を意識して書かれたわけではない。人々の悩みは、結局、似たようなものだということだろうか。

 世界の未来を憂えるのでもなく、社会正義を歌うのでも、手に入らない儚い愛を夢見るのでもなく、うまく処理できない重苦しい現実を見つめている。病に苦しんでいるわけでもなく、大きな破局がきているわけでもないが、世界中の多くの家庭の中で立ちこめている暗雲そのもののようだ。
 
 彼女の見慣れていた世界は、いつ、もう少し朗らかになるのだろうか。あとどのくらい、仲間たちと笑い合ってワインを傾ける程度の楽しみすらも許されない日々が続くのだろうか。

 冬の真ん中で、「明日春になってほしい」と望んでもどうにもならぬように、人々も苛立ちや重苦しさをなだめつつ、状況が変わっていくのを待つしかないのかもしれない。ボタンひとつで新しい世界に入り込むことができない代わりに、忍耐強く苦難を乗り越えた先には、なんでもない安物のワインや、あくびが出そうな電話相談ですら最高に素晴らしく思える日々が来るのかもしれない。

(初出:2021年2月 書き下ろし)

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Tiziano Ferroは多くの歌手とこの曲を歌っているのですが、こちらの動画は、Giorgiaとのデュエットバージョン。
歌詞が動画に出てくるので選んでみました。

Giorgia - Il conforto (Lyric Video) ft. Tiziano Ferro

歌詞のだいたいの意味はこんな感じです。


もしこの街が眠らないなら
私たちは2人きり
逃げられないように
私はドアをロックして鍵をあなたに渡した。

いま、私ははっきりと感じている。
ぴったり寄り添うこととと、近くにいることの違いを
それはあなたの動き方にあらわれる
この砂漠の天幕の中で

たぶん7月からの雨のせい
あるいは世界が涙を爆発させているから
もしかしたら何ヶ月も外出してないから?
あなたは疲れているのか、単に笑顔を使い切っただけなのか
両手で心の重さを量るには勇気がいる
目隠しされた目で背を向けた空を見る
忍耐、我が家、繋がり、そして、あなたの安らぎ
それは私に関係があるはず
それはなにか私に関係のあるはずのこと

もしこの街が混乱しているなら
あなたたちは2人きり
逃げられないように
私の目を閉じて、あなたに鍵を渡した
今、私にははっきりとわかっている
空間としての距離と、よそよそしさの違いが

たぶん7月からの雨のせい
あるいは世界が涙を爆発させているから
何ヶ月も外出してないから?
疲れているのか、単に笑顔を使い切っただけなのか
両手で心の重さを量るには勇気がいる
目隠しされた目で背を向けた空を見る
忍耐、我が家、勇気、そして、あなたの安らぎ
それは私に関係があるはず
それはなにか私に関係のあるはずのこと

たぶん夏の雨のせい
それとも天から私たちを見下ろす神のみわざ
何ヶ月も外出してないから?
疲れているのか、単に息をするだけで精一杯なのか
両手で心の重さを量るには蜃気楼が必要
どれほどの安らぎが、あなたと関係あるのか
どれほどの安らぎが、あなたと関係あるのか
両手で心の重さを量るには勇気がいる
そして、多くの、多くの、多すぎる愛を量るのも



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Posted by 八少女 夕

【小説】酒場のピアニスト

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第2弾です。大海彩洋さんは、当ブログの『黄金の枷』シリーズとのコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『【ピアニスト慎一シリーズ】Voltaste~あなたが帰ってきてくれて~ 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じだと思いますが、ピアノもその一つで、実際にご自分でも演奏なさるのです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一がPの街にお越しくださいました。そして、23がちゃっかりそのピアノを聴かせていただいたり、誰かさんに至っては、慎一御大にお遊び用のカラオケを用意させるというような申し訳ない事態になっています。ひえ〜。

お返し、どうしようか悩んだのですけれど、インファンテやインファンタが直接慎一たちに絡むのは、かなり難しいこともあり(とくに慎一、ただの日本人じゃなくてヴォルテラ家絡みですしねえ)、ちらっと名前だけ出てきた方を使わせていただくことにしました。時系列では、ちょうど連載中の『Filigrana 金細工の心』とだいたい同じ頃、つまり彩洋さんの書いてくださった作品の「8年前」から1、2年経ったくらいの頃でしょうか。

そして、それだけでなく、彩洋さんの作品へのオマージュの意味を込めて、ショパンの曲をあえて使ってみました。そのキャラ、彩洋さんの作品にサラッと書いてあった感じではショパン・コンクールを目指したかった……みたいな感じだったので。

さて。もう1人のキャラは、連載中の『Filigrana 金細工の心』の未登場重要キャラです。またやっちゃった。どうして私は、隠しておけないんだろう……。ま、いっか、別にものすごい秘密ってわけじゃないし。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2021」について
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酒場のピアニスト
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 電話を終えると、チコはゆっくりと歩き出した。Pの街は久しぶりだ。以前来たときよりも観光客向けの洒落た店が多くなっている。そうなると途端に値段がチコ向きではなくなる。彼は、裏通りに入って、見かけは単純だが、そこそこ美味しくて彼の財布に優しい類いの店を探した。

 どこからかファドが聞こえてくる。観光客向けのショーらしい。看板が目に入った。ファドとメニューのセットの値段が、派手な黄色で走っている。それを眺めながら通り過ぎようとして、もう少しで誰かとぶつかりそうになった。

「失礼」
チコが謝ると、青年は「いいえ、こちらこそ」とブツブツ言いながら、ファドのレストランに入っていった。扉を押すときに左手首に金の細い腕輪が光った。

 金メッキの腕輪など珍しくもなんともないが、チコはとっさに彼の《悲しみの姫君》のことを思い出した。チコは、厳密には彼女が金の腕輪をしているのを見たことはない。彼女が腕輪の話をしたことも、1度もない。腕輪の話をしたのは、彼女の妹、チコたちの仲間から《陽氣な姫君》とあだ名をつけられたマリアだ。

「みて、ライサの左手首」
潮風に髪をなびかせながら、マリアはそっとチコに囁いた。オケの同僚であるオットーやジュリアたちと、姉妹の特別船室に招かれて、小さなパーティーのようなことを繰り返していたある夕暮れのことだった。

 一介のクラリネット吹きであるチコが、特別船室に足を踏み入れることなど、本来なら考えられないのだが、華やかな社交に尻込みして部屋から出たがらないライサのために、姉の唯一興味を持った楽団のメンバーたちをオフの晩にマリアが招き入れるようになったのだ。

 女性の装身具などには全く詳しくないチコは、言われるまでまったく目に留めたこともなかったのだが、ライサの左手首には何かで線を引いたような細い痕があった。
「あれね。腕輪の痕なの。日焼けせずに残った肌の色」

 おかしなことを言うなと思った。腕時計をしなくなった人に、そういう痕が残ることは知っているけれど、しばらくすればそこもまた日に焼けて目立たなくなるものだろう。マリアはそんなチコの考えを見過ごしたかのように微かに笑ってから続けた。
「私の記憶にある限り、常にライサには金の腕輪がつけられていたの。子供の頃からずっと」
「つけられていた? つけていたじゃなくて?」

 マリアは、じっとチコを見て、区切るようにはっきりと言った。
「つけられていたの。金具もないし、自分では、絶対に取れない腕輪よ。ねえ、チコ。どうして私たちがこんな豪華客船で旅をできるのか、知りたいって言ったわね。私も知らないけれど、でも、1つだけはっきりしていることがあるの。それは、あの腕輪をつけたり外したりできる人たちが、払ってくれたのよ」

「ライサは、それが誰だか知っているんじゃないかい? 自分の事だろうし」
「もちろん、知っていると思うわ。でも、あの子は絶対に言わない。言わせたところで、あの子が救われるわけでもないの。でもね、チコ」
「うん?」
「外してもらった腕輪は、まだあの子を縛っているんじゃないかなって」
「それは、つまり?」
「あの子は、はじめてパスポートをもらったの。クレジットカードも。こんな豪華客船の特別船室で、世界中の珍しいものを見て回って、美味しいものを食べて、好きなものを買える立場にいるの。でも、彼女の心は、Pの街の、私の知らないどこかに置き去りになっているみたい」

「彼女が、とても淋しそうなのは、わかるよ。僕に、『グラン・パルティータ』を吹いてほしいって頼んだとき、たぶん彼女は何かを思い出して、その場所を懐かしんでいるんだろうなと思ったし」

 その場所は、おそらくこのPの街にあるのだろう。3か月の船旅の後、姉妹はこの街に戻った。マリアは元働いていた銀行でバリバリと活躍しているらしい。ライサが今どうしているかは……。チコは、そこまで考えてわずかに微笑んだ。明日、彼女と会える。その時に、いろいろな話をしよう。

 豪華客船の楽団メンバーの仕事は、本来旅の好きだったチコには合っている。もちろん、学校を出たばかりの頃は、室内楽や交響曲だけでなく、ビッグバンドの真似事やジャズまでもまとめてやることになるとは思わなかったけれど、最近は、それもさほど嫌だとは思わなくなっている。

 長い航海が嫌だと思ったことはこれまではなかったけれど、今回だけは別だった。この国から遠く離れているうちに、ライサが新しい人生をはじめて、彼のことなど記憶の果てに押し流してしまうんじゃないかと思っていたから。でも、マリアのあの口ぶりでは、ライサはいまだに引っ込み思案で、友だちらしい友だちも作らずにいるらしい。僕にももしかしたらチャンスがあるかもしれない。

 近くに寄ったついでというのは、口実だときっとマリアにはバレているんだろう。でも、そんなこと構うものか。

 彼は、そんなことを考えながら、数軒先に見つけた手頃そうな店で食事をすることにした。テーブルワインと前菜の干し鱈のコロッケパステイス・デ・バカリャウを食べているとドアが開いて、誰かが入ってきた。チコは、はっとした。それは先ほどぶつかった青年だったからだ。

「よう。ダリオ。今日は出番の日かい」
奥からオヤジが声をかけた。

「ああ。ファド・ショーが中止になったから、急遽弾いてほしいって。おじさん、僕にもメニュー、おねがいします」
そう答えると、ダリオと呼ばれた青年は、狭い店内のチコの斜め前に座り、軽く会釈をした。

「ああ、同業者でしたか。僕、クラリネットなんです。あなたは、ええと」
チコが、声をかけると青年は「ピアノを弾きます」と小さく答えた。

「あそこ、ちょっと高そうでしたが、飲み物だけで入るのって、無理かな」
そう訊くと、青年は首を振った。
「ファドの日じゃないし、文句は言われないですよ。そもそも、セットメニューは、英語しか読めない観光客用ですし」

 それから、肉の煮豆添えが出てくるまでの間、2人は軽く話をした。
「じゃあ、以前はあの交響楽団にいたんですね。子供の頃テレビでチャイコフスキーの協奏曲第一番を見ましたよ。大人になったら、ああいう舞台で弾きたいって、弟に大言壮語していたっけ」
ダリオは、少し遠くを見るように言った。

 観光客や酔客相手に演奏する、日銭稼ぎのピアニストであることを恥じているんだろうか。大きな交響楽団をバックにソリストとして活躍するほどのピアニストになるのは、大変な努力の他に大きな才能も必要だ。才能と幸運の女神は、誰にでも微笑むわけではないことを、チコ自身もよく知っている。
「子供の頃は、僕もずいぶん大きな口を叩いていましたよ」

 ダリオは、多くを語らずに食事を終えた。チコは、ダリオと一緒に、先ほどの店にいった。暗い店内は、ファドでないせいかさほど観光客がおらず、かなり空いていた。チコは、セルベッサを頼んで、ピアノの近くに座った。

 ダリオは、センチメンタルな典型的なバーのジャズピアノ曲を弾いていた。客たちは聴いているのかいないのかわからない態度で、ピアニストの存在は忘れられている。チコは、ダリオが手首を動かす度に、ライトを受けて腕輪が光るのをぼんやりと眺めていた。

 彼が夢見ていた音楽と、これは大きな違いがあるのかもしれない。誰もが夢中になって聴くソリストと、存在すらも忘れられる心地よいムード音楽。主役は、食べて飲んでいる客たちの時間。目の前に揺れて暗闇に浮かび上がるロウソクの焰。セルベッサのグラスに走る水滴。

 チコの仕事も、あまりそれと変わらないときもある。それでも、船の上のシアターで行う演奏会の時は、熱心に聴いてくれる客がいる。ライサのように、彼らの音色が聴きたくて通ってくれた人がいる。ダリオは、どんなことを思いながらこの仕事を続けているんだろう。

 しばらく、ムードジャズを弾いていた彼は、ちらっとチコを見ると、ゆっくりと短調の曲を弾き出した。あ、ショパンだ。なんだっけ、これは。あ、ノクターンの6番か。映画『ディア・ハンター』で演奏されていたから、強引に映画に出てきた音楽ですと言い張ることもできるけれど、きっとこれは僕がいるからクラシック音楽を弾いてくれたんだろうな。

 彼の感情を抑えた指使いが、静かに旋律を奏でる。装飾音も少なく、単純な右手の響きが繰り返される。数あるノクターンの中でも演奏される機会が少ないのは、演奏会などで弾くには華やかさが足りないからなのかもしれない。暗闇の中で焰を揺らすのに、これほど似合うことを、チコは初めて知った。

 氣がつくと、騒いでいた客たちは黙って、ダリオの演奏に耳を傾けていた。ダリオは、後半でわずかに強い想いを込めて何かを訴えかけたが、転調してからはまるで諦めるかのようにコーラル風の旋律を波のように繰り返しながら引いていった。焰も惑うのをやめた。

 曲が終わった後の休止。チコは、手を叩いた。それに他の客たちもわずかに続いたが、ダリオがわずかに頷いてすぐに再びムードジャズに戻ると、また忘れたようにおしゃべりに興じた。

 彼が、ピアノの譜面台を倒して立ち上がったときも、それに目を留める客は多くなかった。チコは、再び手を叩くと、ダリオを彼の前に座らせた。
「素晴らしかったよ。とくに、ショパン。君、さっきはずいぶん謙遜していたんじゃないかい?」

 ダリオは、はにかんだ笑いを見せると答えた。
「そんなことはないよ。でも、ありがとう。聴いてくれる人がいるっていうのは、嬉しいものだな」
「今からでも遅くないから、就職活動をしたらどうかな? 少なくとも僕の乗っている船でだったら、ソリストとして活躍できると思うよ。他にも……」

 チコの言葉を、ダリオは遮った。
「いいんだ。ちょっと事情があって、僕はこの街を離れられないし、ここの仕事も、わりと氣に入っているんだ。次に、この街に来るときには、また聴きに来ておくれよ」

 チコは、「そうか」と頷いた。明日逢うことになっているライサの、《悲しみの姫君》の微笑みを思い出した。何かを諦めたかのような瞳。揺れる焰の向こうでダリオはセルベッサを飲み干した。金の腕輪がまた煌めいた。


(初出:2021年1月 書き下ろし)

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さて、これが出てきたショパンのノクターン6番です。


Frederic Chopin- Nocturne no. 6 op. 15 no. 3 in G Minor

そういえば、彩洋さんの作品には、以前書かせていただいた某チャラ男も登場しているのですけれど、今度こやつでも遊びたいなあ。ま、大道芸人たちのほうが馴染みがいいのでそっちにしたいのだけれど、実はちょっとタイムトリップなので、(ヴィルはいままだ幼児)いずれまた別の機会に!
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -3-

『Filigrana 金細工の心』の9回目「哭くアルペジオ」の最後です。

このエピソード、最初はハノンの音階だけを使って書いたのですけれど、後にツェルニー50番の最終曲が一番イメージに合ったので、変更しました。ピアノ曲としての難易度はものすごく難しいというわけではないようですが、それでも簡単じゃなさそうですよね。あ、音大受験レベルだそうです。ということは、アントニアのレベルもそのくらいってことかな?

さて、今年の小説更新は、これが最後です。今年も最後まで読んでくださり、どうもありがとうございました!



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -3-

 頭が重い。最後の記憶をたぐり寄せ、暗くなるまで眠り続けていたことを理解した。彼は、ゆっくりと身を起こし、服装を整えた。なんてことだ。もう9時過ぎだ。そんなに寝てしまったのか。だが、あのツェルニーは?

 部屋を出ると、すぐにモラエスが上がってきた。
「メウ・セニョール。お目覚めですか」

「アントニアはまだいるのか」
「はい」
「まさか、あれからずっと弾き続けているのか」
「はい」
「なぜ止めなかった」
「お止めいたしました。それに、あなた様がお休みになっていらっしゃることも申し上げましたが……」

 頑としてやめなかった。そういうことか。
「食事はどうしたんだ」
「いらないとおっしゃいました。ドロレスはまだおりますので、すぐに用意させますが」

 彼は、立ち止まり、この屋敷のすべての使用人が振り回されていたことに思い至った。
「すまない。アントニアに何か簡単なものを頼む」

 それから、彼はサロンに向かい、扉を開けた。アルペジオは、一瞬やんだが、すぐに続けられた。長時間弾き続けたせいで、彼女の姿勢は崩れ、震えていた。しかし、それはもう彼女が「たかが練習曲」と名付けていたものとはかけ離れ、苦しみや慟哭を表現する音色になっていた。彼女の顔は泣いていなかったが、音色は哭き叫んでいた。囚われ決して出て行くことのできない絶望を載せて弾いた彼自身の音色に負けないほど強く想いを訴えかけていた。

「もういい。アントニア。十分だ」
彼女は、ゆっくりと手を動かすのをやめた。彼はピアノに近づいた。青ざめた少女の顔を見た。頬に涙の筋が見える。先ほどまでの我の強さは引き、表情には哀しみだけが強く表れていた。

 彼は、初めてきちんとこの少女の顔を見たと思った。カルルシュとマヌエラからそれぞれ受け継いだ形質ではなく。彼らへの怒りと憎しみゆえに目を背け続けてきた、2人とは同一ではない1人の人間の顔を初めて見つめた。もう4年も近くで見てきたのに、まったく氣がついていなかったのだが、この娘はとても美しいのだと初めて認識した。

「……よくなった。次回から『月光』をはじめよう。今日は、もう十分だ」
「はい」
予想に反して素直に返事をしたので、彼は内心ほっとした。

「もうこんな時間だ。ドロレスが、簡単なものを用意してくれるから食べなさい。その間に『ドラガォンの館』から運転手に迎えに来てもらうように手配しよう」
彼がそう言うと、アントニアは困ったように言った。

「今晩は、カヴァコは非番なの。明日早朝になんとかって司教を空港へ迎えに行くから」
入ってきたモラエスは、食堂の準備が整ったことを告げ、アントニアの言葉を引き継いだ。
「至急、他の者を手配させます。この時間ですから、非番の者はもう酒を飲んでしまっているかもしれません。少々お時間をいただきます」

「別に、地下鉄に乗って帰ってもいいのよ」
「とんでもありません。そういうわけには」
 
 彼は、モラエスとアントニアのやり取りを聴いて嘆息した。この館や『ドラガォンの館』の敷地内に入る許可のある者は限られている。現在ここにいる者で運転免許証を取得できるのは《監視人たち》の黒服であるモラエス1人だ。しかし、モラエスにはインファンテである彼を監視する義務がありすぐにここから離れることはできない。インファンタであるアントニアを1人地下鉄で帰すわけにもいかないので、使用人の誰かが同行し、またここに戻ることになるのだろう。彼の午睡のせいで、どんどん話が複雑になっている。

「アントニア。お前は、今晩帰宅しなくては困るのか」
彼は訊いた。

「いいえ。明日の午後に戻れば十分だけれど……」
アントニアは意外そうに答えた。

「では、モラエス。今夜はこの館に泊める手配をしてくれ。部屋ならいくらでも余っているのだから」
彼がそう告げると、モラエスは安堵の表情を見せ、アントニアは先ほどの様子が嘘のように喜びを見せた。

 食堂には、2人分の食事が用意された。2人は向かい合って座った。モラエスがヴィーニョ・ヴェルデの瓶を持って近づいてきたとき、彼はいつものように頷き、グラスに注いでもらうのを待った。それから、自分1人ではないことを思いだし戸惑ったように訊いた。
「酒はもう許されているのか」

 アントニアは、首を振った。
麦酒セルベッサ は許されたけれど、ワインは16歳になるまでダメなの。あと半年待たなくちゃ」

 彼は、モラエスに顔で指図した。モラエスは、彼女に好みの飲み物を訊いた。

 すべてのやり取りが、彼にとっては初めての経験だった。カルルシュがマヌエラに宣告してから、彼はずっと1人で食事をしてきた。召使いたちの形式的な質問に答えることはあっても、共に食事をしたり館に滞在したりする者のために、彼が判断をする必要は1度もなかった。

 詳細はすべて使用人たちがよくわかっている。どのような料理を出すか、どの部屋を準備しどう必要なものを揃えるか、彼が考える必要はない。アントニアの滞在を『ドラガォンの館』に報告することも言うまでもなくモラエスがやってくれる。だが、それでも、現在この館の主人に当たる存在が自分なのだと、彼は初めて認識した。それは、囚われ人でしかなかった2週間前とどれほど違った立場だろうか。

 アントニアの全身から喜びがあふれていた。先ほどの絶望的な音色との強烈な対比だった。どれほど冷たくあしらわれても、彼女は諦めなかった。『ドラガォンの館』では居住区に押しかけ、この館にも押しかけた。しかし、彼女に入り込めるのは、ピアノの前に座るときだけで、レッスンやスケジュール以外の話題をしたこともなかった。

 また、両親やなくなった祖父がどれほど辛抱強く待ち、正餐に出てくるように頼んでも決して同席することのなかった叔父が、はじめて一緒に食事をした相手が自分なのだという誇りも感じ取れた。

 それからアントニアは、時おり『ボアヴィスタ通りの館』に泊まるようになった。たとえば、近くのカーサ・デ・ムジカで演奏会があったのでという理由で、今日は泊まるというような連絡があった。『ドラガォンの館』も遠くないのだからそんな必要は全くないのだが、この館は彼の持ち物ではないので、とくに異は唱えなかった。

 そのような時には、当然のように一緒に食事をするようになった。当主夫妻は、彼らと完全な断絶状態にある彼とごく普通の関係を保てる存在に娘がなったことを歓迎し、彼女の『ボアヴィスタ通りの館』滞在を決して止めなかった。

 18歳になり、Pの街にある6つの屋敷のうちのどこに住むか選択の自由を与えられたインファンタ・アントニアが、この屋敷に住むことを選んだときも、誰1人として驚かなかったし反対もしなかった。それは、彼自身も同じだった。

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そういえば、紹介していなかったですね。下の動画がツェルニー50番作品740です。
一応、最終曲から再生するようにしてありますが、興味のある方ははじめから聞くことも可能。


Czerny Carl - The Art of Finger Dexterity 50 Studies for Piano op. 740 complete
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -2-

『Filigrana 金細工の心』の9回目「哭くアルペジオ」の2回目です。

22は12年前、彼が新しい住まい『ボアヴィスタ通りの館』に遷されて半月ほど経ったある日のことを思い返しています。

しつこさに根負けして、それまで4年ほど、彼がピアノを教えていた、カルルシュとマヌエラの娘アントニア。ようやく逃れられたとホッとしていたのに、彼女は諦めていなかったようです。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -2-

 2週間前に、この役割は終わったはずだった。彼はこの『ボアヴィスタ通りの館』に移されたのだ。

 24年間も居住区に閉じ込められたあげくに、用済みとばかりに追いやられることには腹が立った。だが、自由に外には出られなくとも鉄格子の嵌まっていない住まいはありがたく、彼は心穏やかに暮らすつもりだった。少なくともあの一家にもう会わずに済むことが何よりも嬉しかった。

 それなのに、この午後、アントニアはこの館にまでやって来て、レッスンを続けると宣言した。彼は苛立った。

「私はもう、お前たちとは関わりたくない。これまでは、同じ屋根の下にいたのでしかたなく見てやったが、これからは違う。ピアノを続けたければ、他の教師を呼ぶようにお前の両親に頼め」

「他の先生なんてまっぴらよ。私は叔父様に習いたいの。叔父様より上手な《星のある子供たち》なんていないもの」

「教師なんて誰でもいいだろう。その程度で」
彼は、生意氣なアントニアのプライドを壊すためにあえて見下した態度をとった。

 彼女は、めげなかった。持ってきた楽譜を取り出すと、厚かましくも彼のピアノの譜面台にそれを置いた。
「ベートーヴェンの『月光』を弾きたいの」

「弾けるか。まずはまともに音階が弾けるようになってからいえ」
「ハノンの音階も、ツェルニーも、十分やったでしょう。そろそろ、ちゃんとした曲を教えてください」

 その言い方が、彼の癇に障った。
「音階や練習曲と馬鹿にしているが、お前のは、聞くに堪えない」
「そんなはずないわ。つっかえたことはないし、ちゃんと練習しているもの」

「つっかえないだけでは、音楽とは言えない。お前は片手でも完璧に弾けていない。両手では言うに及ばずだ。5分も弾かないうちに、もう手首が揺れてくるし、速さを変えるとどんどん崩れる。調を自在に変えることもできない。生意氣なことを言って好き勝手に弾きたいなら、ペコペコしてくれる他の教師に頼めばいいだろう」

「やるわ。ちゃんと練習しますから、これからも教えて。毎週、ここに来て習ってもいいでしょう? ハノンの40番、次までに完璧になるように、練習してきますから」

 彼は、怒りで震えた。強情な娘だ。私はお前たちになんか、関わりたくないといっているのに。
「無駄だ。ハノンだけじゃない。ツェルニー50番がまともになるまでは、絶対に教えない。帰れ」
「帰らないわ。今ここで弾きます。聴いていて教えてください」

「ふざけるな。お前の氣まぐれになんか付き合えるか。お前は、才能も心もないあの2人の娘だ。いくら教えたって、お前がまともに弾ける日など来ない。弾きたければ、勝手に弾け。満足したら帰れ」

 腹立ち紛れに言い放ち、彼は部屋を出た。

 彼女がハノンの40番の音階練習を順番に始めたのが聞こえたが、背を向けて自室に向かった。数十分でなんとかなるような課題ではない。自分でも意地の悪いことをいっていると思った。

 アントニアの弾く音階は、2階の彼の自室にも響き続けた。彼は、不正確で乱れのある指使いを聴き取り、鼻で笑った。完璧どころか、我慢ができる程度の演奏すらできないだろう。

 あの2人のただひとりの娘として、そして、ドラガォンのインファンタとして甘やかされてきた娘だ。完全に無視されることなど1度もなかったに違いない。20分も弾けば、モラエスあたりがやめるように提案し、すごすごと帰って行くだろう。

 彼は、手に入れたばかりの小説を読み始めた。午後の間に読み終えるだろう。文字を追うが、内容がいつものように頭には入ってこない。4分の1ほど進んだところで、彼は小説を読み続けるのを諦めて、栞を挟み本棚に戻した。

 アントニアは、まだしつこく弾き続けている。指使いがずいぶんと安定してきている。だが、まだまだ、到底満足できる状態ではない。彼は立ち上がり、本棚から画集を選び、またアームチェアに戻った。

 時おり、聞こえてくる音が途切れた。モラエスと話しているのだろう。彼は、階下で動きがあるのではないかと期待するが、やがて再び新しい練習曲が聞こえてくる。

 なんてしつこい女だ。彼は、自分がそうではないようなことを考えたことに対して自嘲する。

 彼もまた、頑固だった。音をあくまでも無視し続けた。

 夕方になれば、諦めてドラガォンに帰るだろう。これ以上、こうしてただ音階を聴いているのは耐えがたい。ひどい苛立ちと頭痛を抑えるため、バスルームにある戸棚へ向かい、めったに使わない鎮静剤を取りだした。これを飲んで寝てしまえば、もうあの音階に悩まされることもなくなる。私が寝ている間にあの娘は帰り、もう2度と煩わされることはなくなるだろう。

 彼は、薬を水で流し込み、ベッドに横たわった。
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【小説】Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -1-

『Filigrana 金細工の心』の9回目です。少し長いので3回にわけますが、その1回目。

カルルシュとマヌエラ夫妻をはじめ、家族に無視を決め込んでいた22がなぜその娘アントニアと同居することになったか、その過程が語られる章です。

前半は、現在の話ですが、その後は12年前の、彼が『ボアヴィスタ通りの館』に遷されて半月ほど経った頃の話になります。実は、第1作で主人公23とヒロインのマイアが初めて出会ったのも、ほぼ同じ頃でした。『ドラガォンの館』で人々が抵抗を続ける23への対応に頭を悩ませている頃、アントニアもまたこんなことをやっていたというわけです。



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Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -1-

 彼の1日は、規則正しく紡がれる。この館に遷されてから、召使いに起こされたことは1度もない。彼はひとりでに目を覚ます。部屋に併設されたバスルームで身支度をする。そして、自室の窓辺でヴァイオリンを奏でるか、サロンのピアノの前に座り朝の演奏を楽しむ。そして、召使いが朝食の用意ができたと呼びに来るときには、ほぼ必ず窓から外を眺めていた。

 朝食には、コーヒーと半トーストマイア・トラーダ の他に、日替わりで菓子が置かれる。これは、10年前よりアントニアの指示で用意されるようになったものだ。彼を喜ばせようと、彼女や使用人が心を砕いていることを知っていたが、彼は改めて礼を言ったり、嬉しそうに食べたりはしない。もちろん残したことは1度もなかった。

 午前中に『バルセロスの雄鶏』の彩色作業をし、午後はピアノかヴァイオリンを練習する。『ドラガォンの館』にいたティーンエイジャーの頃には、週に1度教師が呼ばれていたが、現在は1人で練習するだけだ。はじめは必ず音階や指運びの練習曲から始める。それもゆっくりと丁寧に弾く。引っかかったり、おかしな音色のするときは、いつもに増して練習を繰り返す。完璧に弾けないうちは、決して取りかかっている曲に移ったりしない。それは少年の頃から変わらぬ彼の練習スタイルだった。

 その練習中には、よく12年前のことが頭をよぎる。わずかな痛みが心を刺す。そんな必要はないのだと思っても、それは変わらない。同じ館に住み、彼に笑顔と信頼を向けている娘を憎むことができなくなった、彼にとっての転換期のことを、彼は忘れたことがない。現在、自分がたどる音階に、あの日の哭き叫ぶ響きが重なる。

* * *


 目が覚めたとき、ツェルニー740の50番が聞こえていた。哭きながら走りまわる右手と、暗い音で突き上げるように訴えかける左手。越えられない壁の前で、それでも諦めずに登ろうとする者の悲痛な叫びだ。

 彼は起き上がり、辺りがすっかり暗くなっていることに驚いた。重い頭。思考が未だはっきりしない。電灯を探り当て、明かりをつける。時計を見た。21時。

 午後に起こったことを思い出した。アントニアの口答えに彼が癇癪を起こしたことも。

 そもそも、アントニアは厚かましい押しかけ弟子だった。2週間前まで『ドラガォンの館』の居住区に住んでいた彼は、既に4年もの間、嫌々ながら彼女にピアノを教えていた。

 当主カルルシュとマヌエラ、その4人の子供たちは、同じ屋根の下に住んでいた。だが、彼らとの関わりを一切拒否した彼は、ただの1度も正餐に同席しなかった。年に3度、クリスマス、復活祭、聖ジョアンの祝日の礼拝だけは、ほぼ強要されるような形で礼拝堂に行き、2階のギャラリーに座った。

 4人の子供たちは、見る度に大きくなっていた。アントニアはことさら目立った。たった1人の女子だったから。遠目でしか見なかったが、カルルシュそっくりの漆黒の髪が忌々しく、関わりたくなかった。

 子供たちのうち、長子のアルフォンソと24は、ただの1度も近寄ってこなかった。23は、1度だけヴァイオリンを聴くために居住区の外で立っていたことがあるが、彼が冷たくあしらったので、2度とは近づいてこなかった。

 だが、アントニアだけは違った。彼がピアノを弾いているときに、ジョアナに鍵を開けさせて居住区に入り、1階にまでやって来たのだ。もちろん彼は追い返そうとした。だが、彼女は「聴きたいの」一点張りで出て行こうとしなかった。

 それが何度か繰り返され、彼は無視を決め込むことにした。下手に騒ぎ立てて、カルルシュやマヌエラまで居住区に入ってこられては迷惑だったから。

 ところが、1か月ほど経った頃、メネゼスが彼に新たな問題を持ち込んできた。アントニアが彼からピアノを習いたいと希望しているというのだ。他の教師を雇えと断ったが、アントニアはしつこかった。それで、彼は引き受けた。必要以上に厳しく当たれば、甘やかされた娘などすぐに音を上げてやめるだろうと思ったからだ。それが4年も続いてしまった。

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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(8)扉

『Filigrana 金細工の心』の8回目です。

このブログで発表している他の小説(例えば『大道芸人たち Artistas callejeros』など)でも、時おり語られますが、ヨーロッパのお菓子は、大きくて異様に甘いものが多いです。その中では、ポルトガルのお菓子は、大きさも甘さもわりと私好みのものが多いのですけれど、たまに「うわ。またこんなのに当たってしまった」というくらい激甘ものもあります。ただ、「蓼食う虫も好き好き」で歯がきしむほど甘いのが好きな人もいますから。

さて、以前ライサ視点の記述で、22が甘党であることがぼんやりと示されていましたが、ここでついにはっきりと出てきます。めっちゃ甘党。でも、素直ではないんです、この人。



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Filigrana 金細工の心(8)扉

 レイテ・クレームが彼の前に置かれた。濃厚なカスタードクリームの上をパリッとカラメル化した砂糖で覆ったこのデザートを彼は好んだ。

 目の前のアントニアが微笑むと、彼は「そんなに喜んでいるわけではない」という顔をわざと作った。

 アントニアが共に暮らしだすまで、代々の料理人たちは、彼の嗜好がわからなくて氣を揉んだものだ。彼は、食事に文句を付けるようなことは1度もなかった。実のところ、そんなことが許されていると思ったこともなかったのだ。

 20歳の時から、20年近く彼は1人で食事をしてきた。『ドラガォンの館』で格子の向こうに閉じこめられていた頃、そこから出られるのは、食堂で家族と共にする正餐の時だけだったが、あの日から彼はその場に同席するのを拒み通した。……カルルシュがマヌエラに宣告し、彼の幸福の蕾をむしり取ってしまったあの日。絶望に嘆いていたはずの、彼と人生を共にすると誓った女が、あっさり抵抗をやめてカルルシュの愛を受け入れてしまったあの日から。当主としての務めとはいえ、その全てを当然のごとく許した実父への失望と恨みが彼を蝕んだのもあの日からだった。

 カルルシュとマヌエラ、そして当主として父親が上品に食事をする場になど、何があろうとも同席したくなかった。彼の椅子の空虚さが、彼の抗議の証だった。だが、彼がその場に現れずとも、ドラガォンは何1つ滞りなく動いた。

 正餐には、やがてカルルシュとマヌエラの子供たちが加わるようになり、召使いたちもその場に彼がいないことに慣れてしまった。口に出さぬ彼の怒りと憤りが、絶望と憎しみに変わり、ただ時が流れた。

 毎回、召使いたちに呼ばれ出て行かずにいると、しばらくしてから召使いたちがやってきて、居住区の中にテーブルを整えた。彼はその召使いたちが持ってきた食事を食べた。1人で。

 機械的に「ありがとう」とは言ったが、味を好んだかどうかは1度も伝えたことがなかった。子供の頃も、厳格な父親に躾けられて、出されたものを残さないように、よけいな口はきかず静かに食べるようにしていたので、それが当然になっていた。

 『ボアヴィスタ通りの館』に遷ってからも、室内ではなく食堂で食べるようになったこと以外は何も変わらなかった。アントニアが食卓に同席するようになってからも、彼女が使用人たちと料理について話すのを他人ごとのように聞いているだけだった。

 だが、アントニアと暮らすようになってから数ヶ月経った頃、料理人のドロレス・トラードが失敗を繰り返したことがあった。後から聞けば彼女は人間関係で悩みを抱えていたらしいのだが、塩や砂糖の量を間違えた料理が週に何度も出された。

 その日、アントニアはレイテ・クレームをひと匙だけ口に入れると、給仕をしていた召使いに下げるように言った。
「さっきの鴨肉のソースが塩辛すぎたのは野菜で中和できたけれど、これは我慢できないわ」
砂糖が通常の倍は入っている。こんな甘いものを食べられるわけないじゃない。彼女の表情が語っている。

 召使いが恐縮して、彼が食べている器をも下げようとした。彼は、思わず皿を引いて、持っていかれないように器を守った。
「叔父さま。無理して召し上がる必要はないのよ。こんな甘いものを」
アントニアが言った。

 その時に、彼は初めて意識したのだ。彼はいつものレイテ・クレームよりもこの極甘味の方が好きであることを。

「私は、これでいい」
召使いとアントニアは顔を見合わせた。それから、彼女が恐る恐る訊いた。
「叔父さま、その味がお好きなの?」

 彼は、答えなかった。子供の頃、彼は食事について好みを口にすることを許されなかった。自分好みの味にわざわざ調理してくれることがあるなど、考えたこともなかった。自分の運命を呪い、食堂へ出て行かなくなってから、運ばれる食事は命を長らえるために供給される餌のような存在になった。彼は食事に喜びも怒りも何も感じなかった。そのことに、誰かが関心を持つとも思えなかった。

 だが、いま口にしているクリームを取り下げられるのは残念だった。甘くて濃厚な味。

 そのわずかな意思表示は、アントニアと使用人達に初めての希望の光を灯したらしかった。一切問題は起こさない代わりに、決して心を開かないインファンテ。何をすることで彼を喜ばせていいのか途方に暮れていた彼らは、ようやく彼の表情を変えさせることができたのだ。

 アントニアは、それから彼を喜ばせるために様々な菓子を買ってくるようになった。そして、彼はその誘惑に抵抗できなかった。こんなことで飼い慣らされてたまるかと思いながらも、手に取ってしまう。彼女は菓子に合うコーヒーや茶、それにヴィーニョ・ド・ポルトを絶妙に選んで微笑んだ。

 彼女は直に、虚勢を張っている彼のわずかな喜びの表情を、正確に見分けられるようになってしまった。そして、菓子だけではなく、食事で何を彼が好むのか、身につける物で何を心地よいと思っているのかを、彼に代わって館の使用人達に告げる役割を果たすようになった。

 それだけではなかった。ずっと1人で奏でるしかなかった彼の慰め、音楽においても彼女はますます彼の期待していなかった位置にたどり着きあった。

「お前がまともに弾ける日など来ない」
12年前に彼女のレッスンに苛立って冷たく言い放った彼自身の言葉を、彼が撤回しなくてはならないと思いだしてどのくらい経ったであろう。彼は、未だに謝罪と賞賛の言葉を口にしていなかった。「悪くない」程度の言葉を口にするのが精一杯だ。だが、彼女はその言葉に満足して微笑む。彼のヴァイオリンの伴奏をすることをこの上なく喜ぶ。
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【小説】Filigrana 金細工の心(7)薔薇色

『Filigrana 金細工の心』の7回目です。ようやく本題って感じです。時系列も、もともとの「いま」に戻ってきました。プロローグの直後ですね。

いつもは大体2000字前後で切るんですが、うまく切れなかったのでこの章はそのままアップしました。



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Filigrana 金細工の心(7)薔薇色

 彼は、外の光景をひと通り眺めてから窓辺を離れると、戸棚から段ボール箱を取り出した。中には、雄鶏の形をした小さな木製の板がぎっしりと入っていた。2階の陽のあたる角部屋を、彼は仕事部屋として使っていた。

 仕事。それが厳密には義務でないことを彼はよく知っている。彼に納期を告げる者はいなかった。1日に、週に、またはひと月に、どれだけの作業をこなすべきかを指示するものもいなかった。現在『ドラガォンの館』に住むインファンテがそうしているように、手を付けないままに放置できることもわかっていた。

 朝食の後に、定量の『バルセロスの雄鶏』を彩色するのは、35年近く欠かした事のない習慣だった。『バルセロスの雄鶏』は、カラフルに模様が塗られた雄鶏で、この国の最もポピュラーな土産物のひとつだ。大小様々の陶製の置物の他に、キーホールダー、マグネット、ワインのコルク栓の飾り、爪楊枝入れ、栓抜きなどにもなっている。この柄をモチーフにしたエプロンやテーブルセンター、布巾なども国中の土産物屋で売られている。

 多くは安価で、買って帰る旅人たちは、これを誰が彩色しているかなど意にも介さない。外国で低賃金の人びとの手で彩色されているか、どこかの村で内職されているか、そんなところだろうとぼんやりと思っているだろう。そして実際にもそうなのだが、少なくともそのうちのわずかは、この街で最も裕福な人びとが住むボアヴィス通りの、とりわけ立派な館の2階で作られているのだった。

 特に意味はないのだが、いつもの習慣で、本日の作業で作り上げようとする個数の未彩色の雄鶏を1つひとつ並べる。机の端から端まで、等間隔できっちりと。今日は木片だが、時にそれは陶器であることもある。だが、作家ものとなる大きい陶器の作業をすることはない。サインをすることも、「この職人のことを知りたい」と思わせるような作品を作ることも許されていないから。

 どのような色を塗るかの指示はない。彼が作るもので一番多いのは、典型的な黒地のものだが、今日は薔薇色の絵の具を取り出してきた。赤いとさかと区別がつかなくなるほど濃い色にしてはならない。彼は慎重に白を混ぜて色を作っていった。黄色いくちばし、足元はセルリアンブルーにしてみようと思った。赤いハートの模様、囲む白い点線、『バルセロスの雄鶏』には多くのパターンはない。その中でも彼は、自分の好みの色で様々な商品を生み出すのが好きだった。模様の一つひとつを機械のように、誰も検品をしたりはしないと知っていても、完璧に塗っていく。

 35年の月日は、正確な時間管理を可能にしていた。彼はいま予め並べた木片が『バルセロスの雄鶏』のキーホールダーとなるまでの時間を正確に予想する事ができた。午前中に全ての作業を終えると、着替えて昼食に向かうだろう。街から戻ってきたアントニアが、今日のニュースを告げてくれるに違いない。

 手は休まずに作業を続けるが、彼の心は時にその場を離れて自由に泳いだ。今日は、数ヶ月前までは同じように職人としての仕事をしていた甥の1人に意識が向かった。その男、インファンテ323は、実際には彼の甥ではなかった。兄カルルシュは、正確には彼の従兄であったから、甥とされている23も、正確には従甥じゅうせい だった。彼はこの青年に特別な親しみを持っていた。

 それはとても奇妙な事だった。この青年の弟インファンテ324の方がずっと彼自身に似ていて、23はむしろ彼が憎み続けたその父親によく似ていた。実際に、カルルシュの子供たちが幼かった頃は、23にひときわ厳しい視線を向けていた。だが、皮肉なもので、時とともに、3兄弟の中でこの青年がおそらく誰よりも彼の事を理解し、魂同士の共感を持つ事ができる存在だと感じるようになった。

「ギターラを習うって言っていたわ」
この館に勝手に足繁く通っていたティーンエイジャーの頃のアントニアが、23もまた音楽を奏でる同志になったと伝えた時に、彼は驚かなかった。むしろ今まで習いたいと言えなかったのかと驚いたくらいだ。

「あの子は、どこかあなたに似ているのかもしれないわね、叔父さま」
アントニアの言葉に、彼は皮肉っぽく笑ったが、どこかで彼女言葉は正しいのだと心が告げていた。

 23は靴職人だった。

 ある時、アントニアが1足の靴を持ってきた。彼の衣類や靴は、ふだん使用人が用意しておくので、新しいものが納品された時に意識する事はない。ましてやドラガォンの使用人がアントニアに預けて持ってこさせる事など考えられなかった。
「どうしたんだ」

 アントニアは、満面の笑顔でその靴を彼の前に置き「叔父さま、ぜひ履いてみて」と言った。履いてみて驚いた。いつもの靴に較べて革が柔らかく、もう1ヶ月以上も履いている靴のようにぴったりとフィットした。これまで履いていた靴も、熟練した親方が彼の足型に合わせて丁寧に作っていたのだから、それ以上と即座に感じられる靴があるなど考えた事もなかった。

「ビエラさんの所に行って、あなたの足型を受け取ってきたの。そして、トレースに作ってもらったの。どう? 履き心地よくない?」
「23だって?」
その時に彼は、甥が仕事に関しても彼と同じ姿勢でいる事を知ったのだ。そして、彼には才能があった。

 だが、彼は今、靴を作ることはほとんどないであろう。当主でもないアントニアが、あれだけの多く代わりを務めなくてはならないほど、ドラガォンの当主のこなすべき仕事は多い。亡くなった兄に代わって《ドン・アルフォンソ》となった青年には、靴を作る時間はほとんど残されていないはずだ。さらに言えば、ギターラを爪弾く時間はさらにないであろう。残念な事だ。彼は思った。

 不思議だった。彼の心にある青年への嫉妬、痛みは彼が想像したほど大きくは育たなかった。もっと羨んでもおかしくないはずだ。同じインファンテとしてこの世に生を受けたにも関わらず、23は彼がどれほど望んでも手にする事ができず、これからもできないであろう全てを手に入れた。名前と、自身の意志で館の外に出る自由と、愛する女と。だが、その事実は、彼の心をさほど波立たせなかった。あれほど兄を憎んだのと同じ自分とは思えぬ程、彼の心は静かになっていた。

 アントニア。彼は、心の中でつぶやいた。彼女がいなかったら、私は今でも悶え苦しんでいただろう。カルルシュへの憎しみと、マヌエラへの愛憎と、己の運命の厭わしさに。独りで音を奏でる事への怒りと、心を込めて仕事をしても報われないことの虚しさに焼かれていた事だろう。1人で食事をし、使用人たちに冷淡に接し、誰からも好かれない己のことを乾いた心で嘲笑っていただろう。

 アントニア。お前が私の心を解放したのだ。だが、私はお前の望むものを与えてやる事ができない。

 彼は薔薇色の木片を眺めながら、心の中で呟いた。そして、不意に、その色が昨日のアントニアの口紅の色であった事に思い当たった。新しく付けていたそれにいち早く氣づいていながら、彼女の期待している讃辞をわざとかけてやらなかったことが、彼の心をわずかに締め付けた。
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【小説】Filigrana 金細工の心(6)インファンテ -2-

『Filigrana 金細工の心』の6回目の後半です。主人公22が「できすぎ坊ちゃん」として生きることをやめ、引きこもりになってしまった日々のことを書いた章です。『Infante 323 黄金の枷 』の主人公23の視点で書かれた外伝『格子の向こうの響き』で、メチャクチャ感じ悪い態度で出てきた当時、彼はこんな状態でした。



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Filigrana 金細工の心(6)インファンテ -2-

 だが、理想と現実は同じではなかった。彼と入れ違いに居住区を出て、『ガレリア・ド・パリ通りの館』に遷されたインファンテ321とは、その後2度ほどしか会わなかったが、12歳のあの日に告げられたことは、何度も心をよぎった。自らの存在意義について。カルルシュとの立場の違いについて。

 彼は、高潔に、雄々しく生きようと努力した。何が起ころうと、カルルシュに当たったりするものかと。たとえ、やっていることが何の役に立たなくても、自暴自棄になったり、苛立ちを見せたりすることはすまいと。

 彼は、20歳になるまで、表向きはその態度を貫き、父親からも、カルルシュからも、召使いからも、尊敬と愛情を勝ち得たと信じ、心の中の虚しさを押し殺してしっかりと立っていた。その誇りと矜恃は、彼の表面に少しずつ漆喰のように層を作り、鎧となり彼自身を支えていた。

 音楽は、彼の心に翼を与えた。音色は、ドラガォンの宿命とは一切無縁なものとして彼の心を解放した。ピアノとヴァイオリンの音色は、彼の心の悩みや苦しみの細やかな襞までをも隠さずに、館の中を自由に駆け巡った。彼は、そうやって存在しない者として生きることを受け入れようとした。

 そして、彼はマヌエラに出会った。

 栗色に近い落ち着きのある金髪、明るい灰色の瞳、利発で優しい印象の微笑み。彼がそれまで夢想した、いかなる空想上の女神よりも美しい女性だった。そして、彼女は聡かった。その柔らかい印象に反して、自らの足で立ち人生の舵をとり、前進していくことを望む強い人だった。彼の魂に触れ、その高潔さをたたえ、さらに押さえつけている虚しさを理解し、彼の心の叫びである音色を聴き取る感性も持っていた。

 初めての恋に彼は夢中になった。そして、彼女と生きることが、理不尽な運命への埋め合わせとして天から与えられた人生の最後のピースなのだと思った。

 暖かい愛と知的な語らいのある生活、これまでに手にしたことのない満足があれば、彼は名もなく、名声も得られず、自らは何の決定も下すことのできない人生であっても、カルルシュのもとにあるドラガォンを支える存在しない1人として捧げることができると思った。もしかしたら、2人の愛の中で生まれてくる子供が、やがてドラガォンを率いていく存在になるのならば、その未来のために尽くすことも悪くないと思えた。それは、私情を滅しシステムのためにひたすら尽くす当主として生きる厳格な父親の意にも沿うのだと。

 だが、例の宣告が、全てを変えてしまった。彼を支え続けてきた理想のインファンテの石膏をも崩壊させてしまった。

 母親の体から出てくるまでの数日の違いで、彼の願う全てを手にしたカルルシュが、マヌエラをも横取りした。ドラガォンの掟を盾に、システムの厳格な運用を悪用して、彼女の心を得る努力もしないで。そのずるいやり方を、父親やシステムだけでなく、マヌエラ自身までが肯定した。

 憤りと嫉妬と憎しみに支配され、彼ではなくカルルシュに味方した全ての人間を恨み拒絶した。それは例外なく、彼の周りの全ての人間だった。『ドラガォンの館』には、システムよりも彼を優先してくれる、肉親も恋人も友人も、ただの一人もいなかったのだ。

 彼のそれまでの蓄積した想い、自分の中にあった不満と怒りは、溶岩のように流れ出て留まるところを知らなかった。

 彼は、それまで進んで被っていた全ての仮面を脱ぎ去った。彼はもう、理想のインファンテを演じることができなかった。システムへの復讐のため、システムにとって好ましくない態度をとり続けた。

 正餐には顔を出さず、父親やカルルシュ、そして《監視人たち》中枢部の黒服たちを無視し、誰かを選んで《星のある子供たち》の父親となることも拒んだ。文句を言われないよう、『バルセロスの雄鶏』を彩色する作業だけはこなし、居住区内に用意される食事を食べ、音楽を奏で、本を読み、ひとり日々を過ごした。

 そうやって月日が流れ、彼は結局思い知ることになった。彼が背を向けても、ドラガォンのシステムには何の影響もなかった。彼が支えなくても、父親ドン・ペドロの当主時代は当然のこと、その死後、カルルシュが当主になった後も、何ひとつ不都合がなかったのだ。

 カルルシュが当主になった時に、大きな混乱が起こるだろうと思っていた。無能で、優柔不断、虚弱なカルルシュに当主の役目がまともに務まるはずはないと、彼は思っていた。カルルシュを見下す母親ドンナ・ルシアに嫌悪感を持っていたはずなのに、彼自身が同じことを感じていたのだ。

 だが、ドラガォンは、ドン・ペドロがいた時と変わらずに存在した。以前から誰も彼には中枢で何が起こっているかを知らせてはくれなかったが、代替わりしてからもそれは同じだった。ひときわ優秀なマヌエラとアントニオ・メネゼスがカルルシュを助けていることは予想できた。それがわかっていても、何の問題も起こらないこと、「もし当主が彼でなければ」という反応が全く感じられないことに、密かに傷ついていた。

 時は過ぎた。もう誰も彼に何ひとつ期待をしなくなった。正餐のテーブルにつかなくなった彼の存在は、やがて忘れ去られた。ドン・ペドロの空いた席にはカルルシュが座り、やがて当主夫妻の4人の子供たちがそのテーブルを埋めた。新しく勤め始めた召使いたちは、かつての『理想的なインファンテ』を知らない。無表情に彼の居住区の掃除をし、1人で食べるテーブルの用意と給仕だけをする存在になった。

 彼は、自分で閉じこもったとはいえ、ひどい疎外感に苦しんだ。父親も、他の誰もが、背を向けた彼を責めもしなければ、困った様子もなく、何ひとつ彼に願ってこなかった。虚弱体質のはずのカルルシュが、当主としての務めを果たしただけでなく、4人もの子供をこの世に送り出したからだ。彼は、インファンテ321が言った「たった1つの存在意義」すら放棄した。それが、彼自身を蝕むとも思い至らずに。

 彼は、彼自身の行為で、当主のスペアから、生まれてくる必要すらなかった者に成り下がってしまった。

 瞳を閉じて、彼はひとり言をつぶやいた。カルルシュに全てを奪われたわけではない。初めから、彼など存在してもしなくても同じだったのだと。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(6)インファンテ -1-

『Filigrana 金細工の心』の6回目の前半です。前回まで、第1作『Infante 323 黄金の枷 』ヒロイン視点のプロローグ、長いライサ・モタの回想シーンと、主人公以外の人間の視点で綴られてきましたが、ようやく本人視点が登場します。

第2作『Usurpador 簒奪者』では、22視点の話は出てこなかったと思うのですが、外から見た彼の「できすぎ」っぷりに胡散臭いと感じられた読者が多かったように思います。この章では、「できすぎの坊ちゃん」として振る舞っていた彼が、激怒の末に引きこもりになってしまった過程が、綴られています。この章は、実はもっと後に置いてあったのですが、別に秘密にするようなことでもないので、先に持ってくることにしました。次週との2回にわけています。



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Filigrana 金細工の心(6)インファンテ -1-

 彼が初めて自らの進む道、つまりインファンテであることについてはっきりと意識したのは、12歳のある午後だった。まだ、彼と同い年の兄であるカルルシュとの間には大きな待遇の差はなかった。学ぶ時も食事をする時も、いつも一緒であり、彼にとってそれは当然のことだった。彼はドイスと呼ばれ、それが個人名とは違う番号の一部でしかないことを意識することはなかった。

 午餐や晩餐できちんと身支度して、両親、カルルシュと共に、食堂の立派なテーブルの前に座る時、わざわざ呼び出されてから現れて着席する者たちの存在も、特に自分の運命と関連付けて考えることはなかった。

 屋敷の中には、鉄格子で締め切られた居住区があり、そこにある男と、そして多くの場合、女が1人ともに住んでいた。女は1年経つといなくなり、またしばらく経つと別の女が同じ立場になる。会話をすることもなく、その場で食事をし、食後には召使いたちに付き添われて、また鉄格子の向こうへと戻っていった。

 その男は、たいてい席に着く前からもう酔っており、だらしない姿勢で椅子にもたれかかりながら杯を掲げて満たすように要求した。厳格な彼の両親は、男をほぼ無視して食事を進めた。その異質な男こそが、インファンテ321、つまり、当主ドン・ペドロのスペアとしてこの世に生を受けた男だった。

 その男と、選ばれてしかたなく居住区で暮らすことになった女とは、正餐に呼び出されても出てこないことがあった。2階の格子戸を開けて、召使いたちが正餐の時間だと呼び出すと、男は3階の寝室からろれつの回らない大声で「いま、いいところだからよ」と叫び、下品な笑い声を響かせた。その報告を耳にすると、ドン・ペドロは顔色も変えずに、ソアレスに目で指示を与え、執事は2人抜きで給仕をはじめた。正餐を食べ損ねた2人には、後ほど食事が運ばれることになっていた。

 その男こそが、カルルシュの本当の父親だと、いつだったか彼の母親ドンナ・ルシアが口走ったことがある。するとドン・ペドロは、厳しい目つきだけで妻をたしなめた。

 彼は、だらしなく粗暴なその男に、嫌悪感を持っていた。そして、男からも好意を持たれていないことを肌で感じていた。
「お高くとまってやがらあ。てめえは、立派な当主の跡継ぎだと思い込んでいるってわけだ」

 男は、彼のことをよくあざ笑った。何がそんなに彼を面白がらせているのか、幼かった頃の彼にはよく理解できなかった。

 だが、12歳のあの日、21は格子の向こうから彼を呼び止めて、彼の運命を告げたのだ。

 彼は、いつもよりもさらにひどく酔っていた。母親はこの男のことを「わがままな酔っ払い」としてあからさまな嫌悪感を示していた。だが、彼はそれをあからさまに態度に表すことは紳士的でないと自分を律していた。単純に関わらないようにしていただけだ。

「おい。おいったら。まだ、お高くとまってんのかよ。俺を見下しているみたいだが、お前、わかってねえな。お前は、俺と同じなんだぞ」

 彼は、はじめて足を止めて、まともに格子の向こうの男を見た。彼には純粋に理解できなかったのた。彼のどこがこの男と同じだというのだろう。だけが本当の父親かどうかは、彼にとってはそれまで重要なトピックではなかった。そうであっても、関係なく、彼はこの館で召使いたちに傅かれる者としての責任と誇りを持った者として、父親ドン・ペドロからの教えに従ってきたし、厳格な父親や執事のソアレス、そして、幾人かの教師たちを満足させる振る舞いと成果を常に出していた。眉をひそめられ、ため息をつかれるばかりの存在のこの男と、どこが同じなのか、全くわからなかった。

「興味が出たか」
「おっしゃる意味がわかりません」

 21は、大きくのけぞって笑った。杯を持つ手と反対の手で格子にしがみつかなければ、まっすぐ立っていられないほどにふらつき、頬と鼻の先は異様なほどに赤い。そして、濁った白目の細い瞳を細めて、彼の方をじっと見た。
「なんだ。やっぱり教えてもらってねえのか」
「何をですか」

「次に、この檻の中に閉じ込められるのは、お前さんだってことだよ」
21の言葉に、彼は深く息を飲み込み、意味をよく理解しようとした。それがどのくらいの時間だったのか、彼は憶えていない。だが、時間は、酔っ払った男には大した問題ではなかったらしい。

 彼は、その間にさまざまなことを考えた。21という男の呼び名に、彼の22という呼び名。父親とカルルシュの填めている腕輪に1つ多い青い石。何度か耳にした「あれだけの才能がおありなのに、なんてもったいない」という囁き。

 男は、その彼の思考を追うかのように、また、時には前を行きながら、彼はやがて格子の中に閉じ込められるインファンテだということを、杯の中の琥珀色の液体を喉に流し込む合間に語った。彼は、館の中にいる大人たちに確かめるまでもなく、この男が語っていることは真実なのだということを悟った。

 全てに合点がいった。なぜ母親がカルルシュを目の敵にするのか、カルルシュのできが悪い時になぜ他の人たちがそれと比較して彼を憐れむのか。それまでどう考えても理解できなかったことに、彼は答えを見いだした。わずか数日の誕生日の差で、才覚や適性などは関係なく、彼とカルルシュの運命は決まったのだ。

「……で、どうだ。そろそろ夢精でも始まるんじゃねえのか」

 彼は、ある種の嫌悪感を抱いて、21を見つめた。酔った男は、また高笑いをして、だらしなく緩んだ口元から臭い息を漏らしながら顔を近づけてきた。
「高尚なお坊ちゃんよ。俺を見下すのは勝手だがよ。お得意らしい法学も、ラテン語も、お前には必要ないんだよ。お前に求められているのは、俺がやっていることだけだ。女をベッドに引きずり込み、本能の赴くままにやりまくること。それだけさ、俺やお前の存在意義は」

 そんなはずはない。自らの生まれてきた意味が、そんなことだけにあるなんて。彼は心の中で叫んだ。僕は、たとえ同じ運命だとしても、あの人のようになるものか。

 彼は、自分が閉じ込められる運命に、雄々しく立ち向かおうとした。彼が、生まれてきた日に対して責任がないように、カルルシュにもその責任はない。彼を心から慕い信頼を寄せるカルルシュを、格子の向こうからでも支えられるように、きちんと勉強を続け、召使いたちに仕えてもらうに足る尊敬を勝ち得る『メウ・セニョール』になろうと決心した。

 だから、1年後に第2次性徴があらわれて、2週間後に居住区に遷るのだとドン・ペドロに告げられた時も、冷静に受け止めた。その時に、ショックを受けたのは、何も知らなかったカルルシュだった。
「まさか! なぜ、ドイスが閉じ込められるのですか?!」

 そのナイーヴな問いかけに、ドンナ・ルシアはもう我慢ができなかった。女主人としての誇りも務めも忘れ、憎しみを露わにしてカルルシュを罵倒した。ドン・ペドロは、珍しく声歩荒げて妻を叱った。母親のヒステリーは、閉じ込められる当事者である彼をむしろ冷静にした。彼の心の準備はできていた。実の母親でありながら、ドンナ・ルシアの感情的な態度を、彼は好きではなかった。カルルシュに対する理不尽な叱咤にも、彼への身びいきが原因だと感じて、かえって嫌悪感を持っていた。

 彼は、母親を反面教師にし、父親のように冷静で有能な、人の上に立つのにふさわしい人間になろうと固く決意していた。何が起ころうと、紳士的にきちんと振る舞い、このようなことに声を荒げたりすまいと。

 だから、母親が、深夜にカルルシュを殺害するためにその寝室に忍び込んだこと、すぐに露見して遠ざけられた時にも、ショックを受けこそすれ、父親の決定に納得していた。それどころか、今後、たとえ格子の向こうで生きることになっても、これまで以上にカルルシュを支えて生きていこうと決心したぐらいなのだ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】辛の崎

今日は「123456Hit 記念掌編」の第5弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、ダメ子さんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: 成長
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: 高橋瑠水
   コラボ希望キャラクター: ダメ子さんのオリキャラ
   時代: 現代
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 大人の女性


ダメ子さんのところからは、定番でダメ家3姉妹をお借りしました。特に、今回はダメ奈お姉さまに女子大生らしい知識を披露していただくことにしました。

さて、リクエスト内容から考えると、たぶんちょっと違ったイメージの作品を期待なさっていらっしゃるんじゃないかと思うんですよね。でも、あえてこんな感じにしてみました。それと、今回は大阪から離れてみました(笑)


【参考】
「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物



樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero・外伝
辛の崎


 澄んだ深い青だった。どこまでも続く日本海は息を呑むほど美しい。
「こんな見晴らしのいいところがあったのね」
瑠水は、真樹を振り返った。

「登った甲斐があっただろう?」
彼は、笑いかけた。
 
 駐車場にYAMAHAを停めて、10分ほど登ったところに石見大崎鼻灯台はあった。坂道や階段が続いたので、瑠水は少し息切れしている。真樹は2人分のヘルメットとバイクスーツの上着を持って来たにもかかわらず、息が上がった様子もないので、瑠水は少しだけ悔しかった。

 瑠水は、真樹とタンデムで出かけるようになってから、いろいろなところに連れて行ってもらっている。かつては、住む奥出雲樋水村と、出雲にある高校をバスで往復するだけだった。道草をしているときにたまたま知り合った生馬真樹は、誰もいないところでクラシック音楽鑑賞をする瑠水の周りにはいなかったタイプの友だちだ。バイクに乗せてもらい、クラシック音楽を聴くのが大好きになった瑠水は、よく週末に一緒に出かけるようになった。

「次はどこへ行くの?」
先々週、瑠水はまた連れて行ってもらえると期待して訊いた。すると彼は、少し困ったように答えた。
「少し遠くへ行こうと思っているんだ。お前も来たいなら、ご両親の許可がいるな」
「泊まり?」

 彼はギョッとした顔をしてから言った。
「まさか! 100キロちょっとだから、日帰りだよ。でも、朝はいつもより早く迎えに来るよ」

 暗くなる前に帰ってくる約束をして、瑠水は今日のドライブについてくることができた。江津市に足を踏み入れるのは初めてだった。

「すみませ〜ん」
後ろからの声に振り向くと、3人の女性たちが登ってきていた。
「灯台、今日登れますか?」

「いや。灯台の中は、灯台記念日にしか公開しないから」
真樹が答えると、どうやら都会からわざわざやって来た3人はがっかりしたようだった。

「もう、リサーチ不足だよ。ここまで来たのに」
3人は姉妹のようだ。顔がとてもよく似ている。一番年上に見える女性が言った。

「でも、灯台に登らなくても、ここからの眺めもなかなかだよ」
灯台の足下のテラスからは、絶景が広がっている。真樹と瑠水は、3人が景色を堪能できるように少し脇にのいた。3人は礼を言って景色を見ながら写真を撮った。

「ここ、バイカーには有名なの?」
瑠水は、真樹に訊いた。
「どうだろうな。ものすごく有名ってわけではないかもしれないな」
「こんなに絶景なのに? じゃあ、どうやって知ったの?」

 彼は笑った。
「去年の12月に、その先の都野津つのづ 柿本神社に仲間内でお詣りに来たんだ。その時にこの灯台のこと聞いて、一度バイクの季節に行ってみたいなと思ったんだよ」

「こんな遠くにお詣りにきたの?」
「そうだね。歳によって違うけれど、ときどき高津柿本神社にも行くよ」

 全国に存在する柿本人麿命を祀る柿本神社の本社とされる高津柿本神社は、ここよりさらに100キロほど西に行った益田市にある。  

「わざわざ柿本神社にお詣りするのね」
「うん。人丸さんには火防の御利益もあるから、ときどき仲間でお詣りするんだ」
真樹は消防士だ。

「防火の神様なの?」
「うん。『人麿ひとまる 』が『火止まる』に通じるから」

「柿本人麻呂って、益田市にいたの? それともここ?」
瑠水は、そもそもいつの人だったかしら、などと考えながら訊いた。

「さあ。俺はあまり古典には詳しくないからな」

 すると、先ほどから2人の会話が氣になっていた風情の、3人姉妹の次女と思われる女性が、ためらいがちにこちらを見た。
「えっと……石見の国府があったのは浜田市だそうです。7世紀のことだから、はっきりとわかっているわけではないんですが」

「お姉ちゃん! 知っているの!」
瑠水と同い年くらいのおかっぱの女性が小さな声で言った。
「ええ。大学の古典の授業で、わりと最近、柿本人麻呂についてやったんだもの。それで、ここに来てみたくなって……」

「そうなんですか」
「さっきお話に出ていた都野津柿本神社は、人麻呂と奥さんの依羅娘子よさみのおとめ が暮らしていたという伝承があるそうです。そして、万葉集に収められている長歌に出てくる辛の崎からのさき も、ここだという説が最有力なんです」

「辛の崎?」
首を傾げる瑠水に、真樹は笑った。島根県人なのに、都会の女子大生に何もかも教えてもらっているのがおかしかった。

 高官としてその名が史書に残っていない柿本人麻呂は、政治犯として死罪になったのではないかという説もある謎の人物である。しかし、史書に名前はなくとも、その歌が後世に与えた影響は無視できず、歌聖と呼ばれ『万葉集』には、80首も採用されている。後には、正一位が贈位され「歌の神」となった。

 その人麻呂が残した多くの万葉歌の中で、ひときわ叙情的で格調高い石見相聞歌は、石見の地で最後の妻になったといわれる依羅娘子よさみのおとめとの間に交わされたもので、日本の和歌史上、初めて個の叙情を歌ったものと言われている。そして、江津周辺の地名がいつくか歌枕として詠みこまれている。

「駐車場に歌碑があっただろう? あれは、ここがその辛の崎だという説を発表した万葉学者の揮毫きごう だそうだ」

 角障經 石見之海乃 言佐敝久 辛乃埼有 伊久里尓曽
  つのさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる 海石にぞ
 深海松生流 荒礒尓曽 玉藻者生流
  深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふる
 (石見の海の辛の崎にある海の岩には、海草が生い茂り、荒磯にも藻が生い茂っている)


「そうなの。ってことは、柿本人麻呂とその奥さんも、この光景を見たかもしれないわね」

 3人の女性たちが、礼儀正しくあいさつをして去って行った後、瑠水は、もう1度テラスの先に進み、柿本人麻呂が見たと思われる光景を堪能した。

「屋上山こと宝神山。高角山こと鳥の星山。そして、角の浦に、角の里」
柵にかけられた案内板と実際の光景を見比べていブツブツ言っている様子を、真樹は楽しそうに見守った。

「ああ、本当にきれいね。あんな遠くまで真っ青な海が続いているのね」
「そうだな。あの時代には、旅をするのは大変だったろうし、その度に今生の別れかもしれないって思ったんだろうね」

「え。そういう歌なの?」
「そうだよ。上京するときに、奥さんとの別れを惜しんだ歌、それに、逢えずに亡くなった人麻呂を思う彼女の歌も『万葉集』にはおさめられているんだってさ」
「そうなの。昔は、大変だったのね。100キロくらい、バイクで簡単に日帰りできる時代に生まれてよかったわね」

 そう言って無邪氣に笑う瑠水に、真樹は本当にその通りだと思って頷いた。

* * *


 また灯台までの坂道を登るのは、思いのほか骨が折れた。あの日はなんともなかった10分程度の登り坂を、真樹は30分ほどかけた。事故で上手く動かなくなった左足を引きずりながら歩いたせいでもあるが、おそらくそれだけではなかった。あの日の眩しい思い出を噛みしめていたからだろう。

 いい陽氣で、空は高い。海は凪ぎ、優しい風が吹いている。

 あの日、俺は瑠水といつまでも側に居ると、心のどこかで思っていた。成長するのは瑠水で、自分はそれを待っているだけだと思っていた。たとえ日常生活で、いくらかの物理的な距離が間に置かれても、愛車 XT500で飛ばせば、簡単にその距離を縮めることができると思っていた。

 彼は、もう消防士ではなく、「火止まる」御利益を求めて柿本神社にお詣りすることはなくなった。そして、瑠水は遠い東京にいる。遠出をするのに親の許可が必要だった高校生ではなく、自立した大人の女性としてひとり立ち、自身の人生を進めていることだろう。

 事故が起きたとき、彼の人生は終わったと思った。瑠水が彼を拒否して東京に去ったショックが、事故を引き起こした不注意の要因だったことは否めない。だが、それで彼女の人生を縛り付けることはしたくなかった。だから、彼は瑠水にはなにも知らせなかった。

 そして、本当にそれっきりになってしまった。彼女にとっては、もう終わったことなのだろう。たぶん、俺にとっても……。なのに、まだ忘れられないとは不甲斐なさ過ぎる。あの3年間に捕らえられ、失ったものを思い続ける、成長しないのは自分の方だったらしい。そう思いつつも、ここに来て思い出すのは、やはりあの日のことだ。

ただ の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ(万2-225)
(直接お逢いすることはかなわないでしょう。せめて石川のあたりに雲が立ち渡っておくれ。それを見ながらあの人を偲びましょう)


 都に着いていくことのできなかった依羅娘子が人麻呂を想い嘆く歌を読んだとき、人麻呂とは違い自分には逢いに行ってやる手段も氣概もあると思っていた。まさか、自分の方が、遠く東京にいる瑠水を想い、その山が退けば彼女のいる地を望めるのではないかと願うとは考えもしなかった。しかも、相聞歌にもなりはしない、ただの未練だ。

 時代や科学技術だけでは、越えられないものがある。それは、万葉の時代も今も同じなのだ。そして、人の心もまた、千年ほどでは簡単には変わらない。

 柿本人麻呂の詠んだ石見の海を眺めながら、彼は間もなくやってくるまたしても1人の冬を思い立ち尽くした。

この道の 八十隈やそくま ごとに よろず たび かへり見すれど いやとほ に 里はさか りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひしな えて 偲ふらむ 妹がかど 見む なびけこの山(「万葉集」巻2 131 より)
この道の曲がり角、曲がり角ごとに幾度も振り返って見るけれど、いよいよ遠く、妻のいる里は離れてしまった。 いよいよ高く、山も越えて来てしまった。 妻は今頃は夏草が日差しを受けて萎(しお)れるように思い嘆いて、私を慕っているだろう。 その妻のいる家の門を遥かに見たい、なびき去れ、この山よ。



(初出:2020年10月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』-2-

『Filigrana 金細工の心』の5回目『グラン・パルティータ』の2回目です。ライサの回想シーンは、まだ続いています。

これまで22の演奏を聴くだけだったのが、この日を境にCD鑑賞などにも同席するようになりました。今回出てきたモーツァルトの『グラン・パルティータ』は、後々再び出てくる曲です。私は、この曲を数年前まで知らなかったのですが、このストーリーの構想を立てていた頃に『クラシック100曲オムニバス』的なアルバムで聴き、使うことを思いつきました。

さて、少し長かったのですが、次回でライサの回想シーンは終了です。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』 -2-

 普段の彼は、昼食の後はいつも1人でヴァイオリンかピアノの練習をする。ライサは部屋に戻って本を読みながらその音に浸った。午後も遅くなると、それまで部分的に練習していた曲を通しで弾き、その後に完成している曲をいくつも弾く。ライサはその頃にそっとサロンに近づくのが常だった。ドアの近くで立っているのを察した彼に呼ばれて、彼女はピアノの正面にあるソファに腰掛ける。

 だが、その日は昼食後にすぐにサロンに行くことになった。モラエスとルシアがアームチェアの前のローテーブルにコーヒーの準備を始めた。勧められて彼女はそこに座った。彼は、ガラス棚からCDを1枚取りだしてモラエスに渡し、それから、ライサの斜め横のアームチェアに腰掛けた。

 ライサの体に強い緊張が走った。彼とここまで接近したことはまだなかった。初めて会った深夜に24と取り違えたのは、月光ではっきりと見えなかったからでもあったが、明らかに他人だと分かっていても思い出さずにいられないほど、彼は彼女にトラウマを与えた男に似ている。今のライサには、加齢による変化、感情の表し方、周りの人との関わり方の違いをはっきりと見て取れる。それでも、彼女は体は意思に反してこわばった。

 彼は、ライサの反応を見て取ったが、何も言わなかった。モラエスがかけたCDが音を立てだした。

 ピアノかヴァイオリンの曲を聴くのだと思っていたが、それは管楽器の音で始まった。ライサは、目を見開いて彼を見た。彼は、その反応の変化に満足したようで、また以前と同じような口元だけの微笑を見せた。
「セレナード第10番 変ロ長調『グラン・パルティータ』というんだ。管楽合奏曲だよ。第6版のケッヘル目録では370aだが、初版のK361で表されることの方が多い作品だ」

 彼は、目を瞑り聴いていた。彼女が『ドラガォンの館』で働いていた頃、24は甘い言葉を囁きながらいつも彼女との距離を縮めようとした。それがあの恐怖の始まりだった。けれど、いま傍らにいるもう1人の、とてもよく似たインファンテは、彼女の存在を無視しているのではないが、何かを意図して近づいてくるという印象を一切与えなかった。自分の事も、ライサのことも何も語らず、ただ『グラン・パルティータ』に没頭している彼の様子に、ライサの緊張は少しずつほぐれていった。
 
 その日から、時おりサロンで同じように彼と食後の時間を過ごすようになった。夕方に彼自身の演奏を聴かせてもらう時には、黙って聴くのみだった。演奏後に彼と交わす会話も短く、曲目や作曲者の意図以外のことを話すことはなかった。だが、食後の時間は、性質が違う。彼が選ぶ曲は、ヴァイオリンやピアノが主役となる曲ばかりではなかった。たとえば管弦楽曲のように。

「ピアノやヴァイオリンの曲よりも、管弦楽の曲がお好きなんですか?」
ライサが聴くと、彼は「どちらも好きさ」と言ってからわずかに自嘲的な笑みを見せた。
「ただ、こちらは破れし夢へのノスタルジーというところかな」
「破れし夢?」

 彼は、CDのジャケットを見ながら言った。
「聴くだけでなく、演奏してみたい。その想いはピアノとヴァイオリンに留まらなかった。だが、1人で弾ける曲には限りがある。20代のはじめに、シューベルトの『ます』の5重奏に挑戦したことがある。ヴィオラとチェロまでは、なんとかそれらしく弾けるようになったので、パートごとに録音して合わせてみた。だが、上手くいかなかったんだ」

「どうしてですか?」
「演奏というのは、メトロノームのように、正確に速さを刻んでするものではないんだ。何人かが同時に息を合わせてこそ合奏が成り立つ。だが、私は5人に別れることはできないんだ」

 彼は、インファンテだった。Pの街の中で演奏家たちと合奏することも、不特定多数の人間と知り合いになることも許されていなかった。金銭的には、どんな贅沢でも要求できたが、それでも、世間的には『存在しない者』として生きる他はなかった。

「今は、だいぶマシになった。ピアノの2重奏も可能になり、ヴァイオリン・ソナタで伴奏をしてもらうこともできるようになった」 
ドンナ・アントニアのことだろうと、ライサは思った。

 かつて彼には、伴奏者も、観客もいなかったのだろう。心を揺さぶる美しいメロディーも、情熱ほとばしる弓遣いも、虚空に消えていただけだと思うと、ライサの心は痛んだ。彼女にとって苦しみしかなかったあの鉄格子で閉ざされた空間に、彼もまた閉じ込められていたのだ。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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K. 361 Mozart Serenade No. 10 in B-flat major, III Adagio
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』-1-

『Filigrana 金細工の心』の5回目です。

まだ「(2)悪夢」で始まったライサの回想シーン、まだ続いています。最初の構想では、このライサの回想は、もっと後に出すつもりだったのですが、むしろこの方が事情がはっきりするのと、前作とのつながりが強いのでこうなりました。長いので切ったんですけれど、サブタイトルの曲、モーツァルトの『グラン・パルティータ』は、まだ出てきませんね。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』 -1-

 1ヶ月ほどの間に、彼女は、ドアを離れて彼が奨めるソファに座ることができるようになった。食事の時にも、怯えてカトラリーを取り落とすこともなくなった。彼は彼女が1つひとつの段階を経ていくのに満足し、まずは皮肉に満ちた微笑を、それから少しずつ優しい笑顔を見せるようになった。その表情の変化は、ライサの彼に対する忠誠と思慕に拍車をかけた。

 逃げ惑いながら、ピアノの音を目指して走る目覚め以外に、まるで夢を見ていなかったかのように心地よく目覚めることもあった。そんな時でも、音色は常に彼女を光に導いてくれた。彼は、朝食前には練習中の曲ではなく完成し弾き慣れた曲だけを演奏する習慣があった。数日前に耳にして、彼女が特に好きだと口にした曲を、改めて弾いてくれることもあった。

 そんな時に、彼女は急いで起き上がり、シンチアたちの助けを借りずに洗面所へ向かい、急いで身支度をした。朝食の席に行き、彼とドンナ・アントニアのいる、明るい窓辺の席に座ることを思うと心が躍るのだ。

 まだ、うまく自分を表現することができず、俯きがちながらも、ライサの表情から怯えや恐怖が薄れ、信頼と安堵が戻ってきていることをアントニアは喜んだ。彼女は、ライサを刺激しないように、『ドラガォンの館』の話は一切しなかった。聞きたくない男のこと、思い出させるあの場所のことを、ライサは聞かずに済んだ。

 過去にあったすべてと、ライサは切り離されていた。それ以外の人生などなかったかのように、『ボアヴィスタ通りの館』の暮らしだけが、彼女を包んでいた。

 アントニアは、朝食が終わるとどこかに行くことが多かった。そんな時は、彼女は快活に言った。
「また後で会いましょう、ライサ」

 同じ言葉と笑顔が、彼女を安心させた。午前中は、シンチアやルシアの仕事を見ながら過ごしたり、アントニアが用意してくれた本などを読んで過ごすことが多かった。アントニアが戻らないときは、彼と2人で昼食を取る。彼は口数が少なく、アントニアのようにライサの答えやすい話題を振るような努力はしなかった。けれど、ワインの好みを訊いたり、アントニアの渡した本の内容に触れたり、ごく自然に会話をするようになった。

「メウ・セニョール。今朝の曲について教えてくださいませんか」
ライサの問いに、彼はわずかに笑って答えた。
「あれはモーツァルトだよ。ピアノソナタ ハ長調K545 だ。おそらくクラッシック音楽に全く興味がなくても1度はどこかできいたことがあるだろうな」

 その通りで、コンサートなどに行ったことがないライサでも、珍しくよく知っている曲だった。
「K545って、何を表す番号ですか?」

「ああ、ケッヘル番号といってね。モーツァルトの作品を、作曲された順に整理してつけた認識番号だ。19世紀のオーストリア生まれの音楽学者ケッヘルが作品の散逸を防ぐために整理したんだ。当時は、作曲者が自分で通し番号をつけるという概念そのものがなくてね。寡作な作曲者なら演奏記録などで後からでも調べられるだろうが、モーツァルトは多作だったから、後少しでも遅ければ、目録作りは不可能だったろうね」

「じゃあ、あの曲は545曲目なんですね」
「いや、そうではないだろうな。後の研究によってケッヘル番号は何度か改訂されていてね。たとえば最初のK1とした作品の前に後ほど4曲ほどみつかったので、K1a,、K1b、という具合に補助アルファベットをつけて表示することになった。それに、後から偽作だったことが分かった曲もみつかったので、ケッヘル番号だけで何曲目と判断することは難しいだろうな」

 それから、口の端だけで微かに笑うと言った。
「同じことを訊くんだな」

「え?」
ライサは、彼がどこか遠くを見るような目つきをしていることに氣がついた。だが、それは一瞬のことで、すぐに彼はそばに控えているモラエスに合図をした。

「はい。メウ・セニョール」
「今日のコーヒーは、サロンの方に運んでくれ」
「かしこまりました。デザートもそちらにお持ちしますか」
「いや。それはここでいい」

 モラエスは、ルシアに合図をし、彼女は2つのナタス・ド・セウを運んできた。
「ええと、確かこちらが……」
そういいながら、自信なさげにルシアは1つのグラスをライサの前に置いた。もう1つのグラスを前に、彼はルシアにいつものように礼を言った。同じデザートなのに、なぜルシアはあんなことを言ったのだろう。ライサは不思議に思った。

 ひと口スプーンを口に入れて、ライサは驚いた。この館で出されるデザートはいつもとても美味しいのだが、今日のデザートは衝撃的に甘かった。砂糖の量を間違えたのかと思うほどだ。思わず、彼の方を見ると、若干不思議そうにグラスを眺めていたが、何も言わずにそのままデザートを食べていた。

 ライサは、ルシアが置くべきデザートをとり違えたのだと思った。おそらく彼が食べるデザートだけが、通常のものより甘いのだ。彼女は、なんとか最後までそのデザートを食べ終えた。普段よりもずっとコーヒーが恋しかった。

「サロンに来なさい。コーヒーを飲みながら、モーツァルトを聴こう」
彼は立ち上がった。ライサは、コーヒーと聞いて迷わずそれに従った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(4)時間

『Filigrana 金細工の心』の4回目です。

まだ「(2)悪夢」で始まったライサの回想シーンが続いています。前回の更新へいただいたコメントで氣がついたのですが、このストーリー時間軸がやたらと前後するので混乱しますよね。これは、前作『Infante 323 黄金の枷 』でマイアが《ドラガォンの館》にやってくるよりもわずかに前くらいの時点です。妹マリアは1年近く連絡の取れないライサを心配し、代わりにマイアが勤めて素人探偵をしようとしたのが、あの話の導入でした。こんなことになっていたというわけです。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(4)時間

 理性と心は、同じ車につけられた両輪であったが、時にちぐはぐな動きをする。彼女を悪夢から救い出す、光であり命綱である響きを生み出す、彼女にとっては神からの使いにも等しい存在である人は、彼女の悪夢の源に似た姿形を持っていた。彼女は響きに近づきたかったが、全身がそれを拒んだ。すらりとした長身、明るい茶色の髪、森の奥の泉を思わせる青い瞳を、ライサは心底怖れた。

 彼は、容姿が似ているだけで、24とは明らかに違う人間だった。ずっと歳をとっていることだけではなかった。24のように自らの容姿のことに頓着しなかった。品のいいものを身につけていたが、最新流行の服を無制限に買わせることはなかったし、鏡の前で長時間過ごすこともなかった。芝居がかった動きも見せなかったし、何が言いたいのかさっぱりわからぬ詩を延々と朗読することもなかった。

 ムラのある性格の24と違って、几帳面で毎日のスケジュールは機械仕掛けのように正確だった。ライサは彼のピアノかヴァイオリンの響きで目を覚ました。朝食の後、彼は作業室と呼ばれる南の部屋で民芸品『バルセロスの雄鶏』に彩色する。昼食後は、音楽を聴くか、読書をするか、もしくはピアノかヴァイオリンを練習していた。

 24のように、甘い言葉で話しかけてくることもなかった。それどころか、ライサに近づこうともしなかった。初めて彼の姿を見た、あの深夜の翌朝、アントニアが彼女の手をとって、はじめて朝食の席に伴ったその時だけ、彼は大きな感情の変化を見せた。息を飲み、それからわずかに震えたように思った。けれど、それから彼は、大きく息をしてから何でもなかったかのように押し黙り、食事に集中した。

 近づこうとしたのは、ライサの方だった。アントニアが外出し、使用人たちも忙しく側にいない時、居間から聴こえてくるピアノの音色に惹かれて、何度も階段を降りた。それから、半分開かれているドアにもたれて、音色に耳を傾けた。音色は心に染み入ってきた。皮膚を通して、彼女の中へと入り込み、内側から光で満たした。彼女の中に巣食う穢れてただれた赤黒い細胞は、その光を注がれて透き通っていった。

 彼女は、ここにいて、この音に満たされていれば安心なのだと感じた。生まれたばかりの雛が、最初に目にした存在を親と信じて無条件についていくように、ライサの心は、光を求めて彼の奏でる音色を追った。その音に導かれてライサは目覚め、午後は希望に満ちて空を飛び、そして夕べの憩いを得た。

 それなのに、食事のたびに、彼の前に出ると身がすくむようだった。彼女を苦しめた男とは明らかに違う人なのに、その姿を見ると体中が凍り付く。青い瞳が向けられると、手が震えてカトラリーを何度も取り落とした。

「心配しないで。あなたは、こちらに戻ってきつつあるのよ」
アントニアが、そんなライサに優しく言った。

「あなたは、叔父さまのことを怖れないようになるわ。もう頭では理解しているでしょう、叔父さまは信用のできる素晴らしい人だと。あなたの意志とは無関係に反応してしまう体が、あなたのその考えに同意できるようになるまで、もう少しかかるかもしれない。でも、きっと時間の問題よ。あなたもそう思うでしょう?」

「ミニャ・セニョーラ。セニョールは、私の態度を不快に思っていらっしゃるんじゃないでしょうか。私、別室で食事しても……」
「だめよ。ライサ。これは、あなたの治療の一環なの。あなたを夢の世界に戻すわけには行かないの。わかるでしょう。叔父さまにはちゃんと伝えてあるから大丈夫よ」

 ライサは混乱していた。彼女にとって何よりも大切な存在、彼女の安全を約束してくれるその人には、どうしても嫌われたくなかった。不快にもさせたくなかった。尊敬し、感謝していることを伝えたかった。けれど、恐怖はいまだに彼女を支配していて、悪夢もまだ彼女を襲い続けていた。彼女が1度は愛し、共に幸せになれると信じた男が、豹変して彼女を襲った時の、それから、幾度となく恐怖に悶えて助けを求め続けた苦しみは彼女を縛り続けていた。

 彼女は、居間に続くドアにもたれかかり、ピアノの音色に耳を傾けながら、もっとこの音に近づきたいという強い願いと、恐ろしい悪魔の側からすぐにでも逃げだしたい衝動に引き裂かれながら震えていた。

 ゆっくりと両手を止めて、最後の和音の響きが消えるまでたっぷり5秒は使った後で、彼ははじめてライサに話しかけた。
「聴きたいのならば、入ってきなさい」

 その声は、不思議な力に満ちていた。美辞麗句を重ねに重ねた、24の空虚な言葉遣いと違い、装飾も何もないまっすぐな言葉だった。そして、それは命令形だった。ライサは『セニョール』の、彼女の主人であるインファンテの権能ある言葉に、逆らうことはできなかった。震えながらドアを押して中に入り、背を向けたドアにへばりつくように立って、彼を見た。

 青い瞳が、静かに怯えているライサを捉えた。彼はため息を1つつくと、鍵盤に目を戻し、ゆっくりとショパンを弾いた。

 それが、何度も繰り返されるうちに、彼女は、居間に入っていけるようになった。ライサの体を支配している頑固な恐怖もまた、この居間で音楽を奏でる男は、近づいても来なければ、彼女に危害を加えたりもしないことを渋々と認めて、彼女を自由にしだした。
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Posted by 八少女 夕

とりあえず末代 2 馬とおじさん

今日は「123456Hit 記念掌編」の第4弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、limeさんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: ときめき
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: 誰か
   コラボ希望キャラクター: limeさんのオリキャラ
   時代: 現代
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 馬


limeさんのところには魅力的なオリキャラがたくさんいるのですけれど、迷ったあげくにこちらの作品から(よりにもよってその人を!)お借りすることにしました。この方、大好きなんですもの。
 『凍える星』おまけ漫画『NAGI』−『寒い夜だから』

で、私の方のキャラも、limeさんにご縁のある子たちを連れてきました。「scriviamo! 2018」で、limeさんのお題から生み出した「とりあえず末代」という作品から中学生悠斗と猫又の《雪のお方》です。



とりあえず末代 2 馬とおじさん

『リュックにゃんこ』 by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。


 この夏休み、僕の最大のイベントは、もちろんはじめての大阪ひとり旅だ。ひとり旅……のつもりだったけれど、例によってお目付役が同行している。静岡の従姉を訪ねるのと違って、頼れる人もいないところに行くのだから心配なのは分かるけれど、クラスメートたちの中には、ひとりで飛行機に乗った子だっているのにな。ともあれ、猫又は人じゃないし、ひとり旅だということにしておこう。

 僕は、伊藤悠斗。旧家というほどではないけれど、少なくとも元禄時代から続いている伊藤家の長男だ。家系図もないのになぜそんなことが分かるかというと、伊藤家の跡取りには猫又が取り憑いているからだ。

 一見、白い仔猫にみえる《雪のお方》は、元禄の初めにご先祖の伊勢屋で飼われていたそうだ。20歳まで生きて無事に猫又になったんだけれど、跡取り長吉に祝言をあげるという口約束を反故にされて、怒りのあまり「末代まで取り憑いてやる」って誓いを立てちゃったんだって。で、僕は当面、伊藤家の末代なので《雪のお方》にロックオンされているってわけ。

「妾はそろそろお役御免になりたいのじゃが、伊藤家断絶まではなんともならぬ」
そういいながら、僕たちが絶対に切らさないように用意させられているイタリア産の最高級エクストラ・ヴァージン・オリーブオイルをなめるのだ。

 僕が大阪に行くことになったきっかけはこうだ。夏休みの宿題の1つに「したことのない戸外活動」がある。アルバイトやボランティア、それに旅行などをして、その経験をリポートするのだ。「ひとり旅」そのものは、もうやってしまっていたので、何かいい夏休み限定の経験がないかなとインターネットで探していたら、目に入ってきたのが乗馬スクールを運営しているとある財団のサイトだった。体験乗馬プランというのがあって、覗いてみたら「1日1名さま限定、体験乗馬ご招待」と書いてある。当たると思わずに申し込んだのだけれど、まんまと当選してしまったというわけ。

 事後報告で父さんと母さんに、大阪行きを懇願したら、許可して旅費を出してくれる条件として、《雪のお方》に監督してもらうことと言い渡されてしまった。僕も《雪のお方》との旅行は好きだからいいけれど。

「そろそろ着くかな」
僕は、車窓を見た。東海道新幹線のぞみ号にひとりで乗っているのって、まるで夢みたいだ。残念なのは、あっという間だったこと。だって、《雪のお方》が周りの人の注目を集めすぎて、話しかけられてばかりいたんだもの。

 新横浜で新幹線に乗り込んで以来、《雪のお方》ったら、しょっちゅう駅弁の箱に前足をかけて、指示をする。

 自宅だったら「その唐揚げを妾が毒味して進ぜよう」とかはっきりと口にするんだけれど、今は仔猫のフリをしているので「みゃーみゃー」とかわいらしくいうだけだ。
「えっと、この佃煮? 卵焼き? それとも、唐揚げ?」
なんて質問を、僕が反応を確かめつつしていると、隣や前後の人が満面の笑みで話しかけてくる。
「まあ、かわいい猫ちゃんねえ」

 その人たちからちゃっかり魚やシウマイをせしめた上に、名古屋で入れ替わった隣の人からは、天むすと松阪牛まで手に入れた《雪のお方》の人誑しっぷりには感心する。おかげで、僕、越すに越されぬ大井川も、うなぎの浜名湖も、木曽義仲ゆかりの木曽川も、ついうっかり見そびれちゃったじゃないか。

 もうじき着くと分かったのはその2人目のお隣さんが慌ただしく支度をして降りていったからだ。
「おお、あっという間に着いたね。じゃあね、悠斗くんと雪ちゃん」

 人好きのするおじさんで、まん丸の顔にちょんとついた鼻がちょっぴり赤い。僕が、今回のひとり旅についてする説明をずっと優しく聞いてくれた。体験コースのパンフレットを見せたら、どうやって行けば新大阪駅から馬場に楽にたどり着けるかの説明までしてくれた。

 おじさんの去った駅の表示板を見ると、なんと京都だった。ええっ! 僕まだお弁当食べ終えていないのに。そのお弁当は、すっかりベジタリアンモードになっていた。《雪のお方》が動物系タンパク質をことごとく食べてしまったからだ。ねえ、猫又は何も食べなくてもいいって、普段は油しかなめないのに、なんで? 首を傾げながら、食べ終えると、降りるために荷物をまとめた。

 泊まるホテルは、新大阪駅のすぐそば。父さんがいうには、大阪の中心の梅田は迷路みたいになっていて絶対に迷うから、子供が荷物を持ってウロウロするのは無理らしい。それに、明日の体験乗馬をさせてくれる馬場は豊中市にあって、梅田とは反対側なんだって。僕は、わりとすぐにホテルにたどり着きチェックインをした。荷物を置いたらすぐに遊びに行きたい。

「明日の準備をしてから遊びに行く方がいいのではないか」
《雪のお方》は、荷物を置いてすぐに出ようとした僕に釘を刺した。
「大丈夫だよ。手袋はこのリュックに入っているし、後は何もいらないもの。それよりも早く行かないと暗くなっちゃうよ」
両親との約束で、出歩くのは日暮れまでと決まっているのだ。

 《雪のお方》は慣れたものでリュックの外側のポケットに自分からおさまった。僕はカードキーをポケットにしまい、颯爽と市内に向かう。大阪メトロ御堂筋線。大変って言うけれど、普通に乗れるじゃん。僕は余裕で新大阪駅を後にした。

 梅田には5分くらいでついた。道頓堀に行きたいのだからなんばに直接行けばいいのだけれど、スマホのケーブルを買いたくて家電量販店が駅前にあるという梅田で途中下車したのだ。持ってきたケーブルは、新幹線の中で《雪のお方》のお方がじゃれついて傷つけてしまった。

 どの改札から出ればいいのかわからなかったけれど、とにかく一番近いところを出たら、『ホワイティうめだ』というところに行き着いた。家電量販店の場所を訊いたら「ここからだと難しいねぇ。北出口から出ればよかったのに」と言われてしまった。いったん百貨店を経由手して大阪駅にでて、連絡橋口というのを目指すのがいいかもしれないとアドバイスを受けた。

 それにしても、商店街には美味しそうな店がたくさん並んでいる。駅弁を食べ終えたばかりだから我慢しようと思ったら、《雪のお方》が「みゃーみゃー」と騒ぎ出した。やっぱり食べたいのか。無視して百貨店の中に入った。

 なんだかメチャクチャいい匂いがしてきたと思ったら、あの『552』ってナンバーのついているお店だった。新幹線で持ち帰るのは難しそうだし、ホテルに持ち込むには勇気のいる匂いだし、食べたくてもずっと我慢していたのだ。ところが、そこは販売しているだけでなくイートインコーナーまである。そういうわけで、《雪のお方》だけでなく僕も我慢ができなくなってしまった。

 晩ご飯は、ここに決定だ。焼きそばに、豚まんとしゅうまいをつけて食べることにする。あれ、《雪のお方》は、昼もシウマイ食べたっけ、まあ、いいか。猫がカウンターでさらに手を伸ばしていたら、もちろん注目の的になる。

「おや、猫ちゃんかいな」
飲食店にペットを連れ込んじゃだめって怒られるかな。そう身構えたけれど、お店のお兄さんは、笑って言った。
「ほんまはアカンのやけど、カワイイ猫は正義っていうしな。見なかったことにするわ」
《雪のお方》は小さな声で「なかなか見どころのある若人じゃ」と呟いた。

 そんな風に寄り道をしていたので、家電量販店に行くべく連絡橋に出たら、なんともう暮れかかっていた。しまった。約束の夕暮れになってしまったので、道頓堀に行くのは無理だ。夕ご飯も食べちゃったから、いいけれど。結局、ケーブルだけを購入してすごすごとホテルに戻ることになった。

 そして、朝が来た。スマホに保存しておいた地図を頼りに、昨日乗った御堂筋線を反対方向にちゃんと乗り、僕は体験乗馬に間に合うように馬場にたどり着いた。

 入園の窓口で名前を言うと、お姉さんがこう言った。
「はい。では、お送りした確認書をお願いします」
ああ、そうだった。それは、チラシと一緒にリュックのこのポケットに入れたはず……あれ?

 昨日、新幹線の中でも見たし、絶対にあるはずなのに、どうしてないんだろう。まさか、ホテルに置いてきたってこと? でも、スーツケースに移したりしていないのに、どうして?

「明日の準備をした方がいいのではと、言ったであろう」
そう言いたげな目で、《雪のお方》はじっと見つめ、係員の女の人も怪訝な顔で見つめている。僕は真っ赤になって、リュックの中身を1つ1つ取り出しながら確認書を探した。

「ああ、いた、いた。伊藤悠斗くん!」
後ろから、声がして僕たちは全員そちらを見た。

 そこにいたのは、昨日、京都で降りていったまん丸顔のおじさんだ。あれ、なんでここに?

 おじさんは、白いハンカチで額をふくと、背広の内ポケットから、4つに折りたたんだ白い紙を取りだして、僕に渡した。
「これが、昨日持っていた紙袋に入っていたんだ。きっと、ここのチラシを見せてくれたときにでも落ちて紛れちゃったんじゃないかな」

 それは、いま必死で探していた『体験乗馬ご招待当選確認書』だった。そういえば、このおじさんと話したり、チラシを見せたり、《雪のお方》が唐揚げに手を出しているのを止めたり、あれこれ同時にやっていたような。
「ありがとうございます。届けに、わざわざここまで来てくれたんですか?!」

 おじさんは、にこにこ笑いながら頷いた。
「昨日のうちに届けに行けたらよかったんだけれど、京都から帰ったのが遅くてね。それも、ちょっと部長に誘われて飲んでから帰ったもんだから、入っていたこと知らないまま寝ちゃったらしい。母さん……いや、うちの奥さんが名古屋みやげの袋に入っていた、これ今日だけれど大丈夫なのかって、見せてくれたのでびっくりして持ってきたんだ。どっちにしても今日は午後からの出勤だし」

「わあ、ありがとうございます。僕、もうちょっとで体験乗馬できなくなるところでした」
「時間もあるし、せっかくだから、迷惑でなかったら、悠斗くんと雪ちゃんの乗馬、見ていこうかな」
おじさんは、にこにこして売り場でお財布を取り出した。やり取りを見ていた売り場のお姉さんは手を振った。
「あ、保護者等の方、1名までは見学無料なので、そのままどうぞ」

 おじさんと一緒に園内に入ると、早速貸してくれる装具を合わせるところに連れて行かれた。ヘルメット、ブーツ、それにエアバッグベストを身につけて、これから乗馬するんだって氣分が盛り上がってくる。僕のリュックと《雪のお方》は、おじさんが一緒にベンチで見ていてくれることに。そういえば、《雪のお方》をどうするか考えないでここまで来ちゃった。

 それから馬にご対面。
「今日、悠斗くんが乗るのは、アキノコスモス号です。あいさつしてください」

 茶色い馬はとても優しい目をしている。馬が突然お辞儀をしたので僕も深くお辞儀をした。そうしたら、歯を出してはっきりと笑った。それから鼻先を前方に出してきて、あっという間に僕の鼻にタッチしてしまった。
「あらあら、ご機嫌ね。いきなり首やお腹を触ったりすると、嫌がられるので、まずはゆっくり手の甲でさっき触れた鼻先を撫でてみて」
 
 僕は、しばらくアキノコスモス号を撫でて、それから助けてもらって背中に乗せてもらった。わ、高い! アキノコスモス号は急に頭を低く下げた。見ると目の前に《雪のお方》が来ている。
「え。来ちゃったの!」

 《雪のお方》はすまして、小さな声で「みゃー」と馬に話しかけた。馬はすっと頭をもっと低く下げ、その瞬間に《雪のお方》は馬の頭に飛び乗った。係員のお姉さんはびっくりして「まあ」と言った。そして、結局《雪のお方》ったら、僕の体験レッスンの間中、ずっとそこに居続けたんだ。

 レッスンは楽しくてあっという間だった。係員のお姉さんがついていてくれてだけれど、僕はアキノコスモス号と一緒に歩いたり、停まったりできるようになった。それどころか、ベンチのおじさんに手を振る余裕もできた。

 昼前にレッスンが終わり、降りておじさんのところに向かうと、おじさんはニコニコ笑って僕のスマートフォンで撮ってくれた写真をあれこれ見せた。
「この写真、おじさんももらってもいいかな。悠斗くんも、雪ちゃんも、馬さんもみなこっちを向いていてかわいいんだ。母さんに見せたいし」
「もちろん。おじさん、LINEかメール教えてくれる?」

 おじさんは、LINEのアドレス交換のやり方を知らなかったけれど、アプリは入っていた(奥さんからのメッセージだけがたくさん入っていた)ので、奥さん以外で初めてのLINE友達になり、写真を送った。ついでにおじさんが《雪のお方》を抱っこしているところの写真も撮って送ってみた。

「やあ、うれしいね。これね、おじさんの初めてのスマホなんだ。せっかくだから、いい写真でいっぱいにしたくてね。魂の非常食のつもりで」
「なんですか、それ?」

 おじさんは、はっとして、それから恥ずかしそうに頭をかいた。
「そうだよね、わけがわからないよね。請け売りなんだ。母さんは、よく宝塚歌劇団に行くんだけれど、『贔屓に逢うトキメキは、魂のご飯』っていって、贔屓の写真をたくさんスマホに保存しているんだ。で、魂の非常食っていって見せてくれるんだ」

 へ、へえ……。
「そういうものなのかなって思ってたけれど、昨日、悠斗くんに雪ちゃんと遊ばせてもらったら、そのことがようやくわかったよ。ちょっとの時間だったけれど、疲れも取れてすっかり癒やされてね」

 その後、おじさんと一緒にお昼ご飯を食べることになった。昨夜は何を食べたのかという話になったので、『552』のイートインコーナーの話をしたら、嬉しそうに目を細めた。
「それはいいところを見つけたね。その場で食べられる店はほとんどないんだ。おじさんは、いつも持ち帰りだな」

 翌日、僕はおじさんに教えてもらった『552』のチルドパックをお土産に買って、帰りの新幹線に乗り込んだ。

「それでは、帰路に食せないではないか」
《雪のお方》は少し不満げだけれど、おじさんが教えてくれたように、ホカホカのヤツを持ち込むと、車両いっぱいに匂いが広がってめっちゃ恥ずかしかったはず。それに、家に帰ったら冷め切っちゃうだろうし。

 僕は、車窓を流れて後ろに去って行く関西地方を見ながら、おじさんの言っていたことを考えた。『贔屓に逢うトキメキは、魂のご飯』かあ。アキノコスモス号の優しい茶色い目を思い出す。うん。あれもトキメキだな。学校や塾の勉強や、将来のこと、それに日々のあれこれを考えるとため息が出ちゃうこともあるけれど、あの茶色い瞳や背中で感じた爽やかな風を思い出すと、2年間くらい頑張れそうな氣がする。それに……どのクラスメートの家にだって、猫又が住んでいて話を聞いてくれるなんてことはないんだ。それを思うと、《雪のお方》がいてくれるのも、きっと僕には絶大な魂のご飯だよなあ。

「少しはわかったか」
《雪のお方》ったら、エスパーかよ!

「あのおじさんも、僕たちのレッスン見ていて癒やされたって言っていたよね。ストレスたまっているのかなあ」
「どうじゃろうな。贔屓にしょっちゅう逢っているのだから、魂は腹一杯なのではあるまいか」
僕は、《雪のお方》が何のことを言っているのかわからない。

「奥方のことを話すときに、もともと細い目がなくなるほどに目尻を下げていたではないか。あれは、昨日も『552』を手土産に買って帰ったに相違ない」

 そうか。そういうことか。僕も、いつか魂のご飯っていうくらい大事な奥さんに会えるのかなあ。そう考えていると、《雪のお方》は少しだけ嫌な顔をした。
「お前、またいずれ結婚をしようなどど考えておるな。腰を据えて伊藤家の末代になろうという考えはないのか、まったく」

(初出:2020年9月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(3)出逢い

『Filigrana 金細工の心』の3回目です。

追記に動画を貼り付けておきましたが、今回主人公が弾いているベートーヴェンのピアノ曲『ロンド・ア・カプリッチョ ト長調』は奇妙な俗称がついています。『失われた小銭への怒り』と。これはベートーヴェン自身が付けたわけではないのですが、本来の題名よりもずっと有名になっています。そして、とても難曲なのだそうです。

少なくとも今回のシチュエーションで弾くような曲とは思えませんが、当の奏者はかなり皮肉っぽい性格。アントニアは「なぜこれをいま弾く」と心の中で突っ込んでいたに違いありません。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(3)出逢い

 ライサは追われ、必死で逃げていた。いつもの悪夢、血まみれの赤ん坊、そして、笑いながら彼女を犯す狂った金髪の男から。目が醒めて、暗闇の中に放り出された。彼女は、光と音を探した。それは夜で、彼女の求めるものはどこにもなかった。

 ピアノが聞こえなければ、彼女は安心できなかった。シンチアやルシアなど使用人たちもいなかった。ピアノの聞こえるところ、光の見えるところまで、彼女は逃げなくてはならなかった。彼女は、パニックに襲われ、ベッドから抜け出した。1度も出た事のない部屋から出て、階段を転げるようにして降りた。

 いくつかのドアを開けて周り、ようやく探しているものを見つけた。サロンの真ん中に、グランドピアノがあり、月光に浮かび上がっていた。彼女はそれに近づき蓋を開けて、めちゃくちゃに鍵盤を押した。みじめな不協和音が響くだけで、彼女を悪夢から救い出す、あの響きは創り出せなかった。

「こんな時間に、何をしている」
男の声がした。ライサが振り向くと、月の光の中に男が立っていた。明るい月の光に照らされて、柔らかく光沢のある髪が見えた。背の高いすっきりとした体格も。

 ライサは悲鳴を上げた。彼女が怖れている悪夢の男がここまで追いかけてきた。陽の光で見てもよく似ている2人を、暗闇の中で錯乱したライサが見分けられるはずはなかった。

「いや! やめて! 助けて!」
「私は、何もしない。落ち着きなさい」

 混乱したライサは、部屋の隅へと向かい泣き叫んだ。男の後ろから何人かの人々と共に飛び込んできた女性が側に駆け寄った。
「ライサ!」

 アントニアだった。現実の世界にいるはずの、彼女に安全を約束してくれる女性。ライサは、彼女に抱きついて泣き叫んだ。
「いや! 助けて! ピアノが聞こえない! ピアノが!」

 アントニアは、男に向かって叫んだ。
「叔父さま、何かを弾いてちょうだい」
「なんだって?」
「何でもいいから、弾いて! お願い!」

 彼は憮然とすると、ライサが倒した椅子を起こして座り、月の光の中で弾きだした。ベートーヴェンのピアノ曲『ロンド・ア・カプリッチョ ト長調』だ。このシチュエーションには唐突な、明るく軽快な曲だが、俗に『失われた小銭への怒り』と呼ばれているので、夜中にたたき起された上に野獣扱いをされた事への抗議も含まれているのかもしれないとアントニアは思った。

 アントニアの腕の中で、ライサは自分の耳を疑った。流れるようなトリル。力強く自信に満ちた連打。目の前で演奏されているのは、まさに彼女の望んでいた響きだった。ピアノの弾き手、ライサをいつも安全な現実の世界へ連れて行ってくれていた人物は、アントニアではなかった。この男だったのだ。

 やがて、それが誰だかわかった。彼女にトラウマを与えたインファンテ324ではなく、その叔父のインファンテ322、アントニアとともにこの館に住んでいる、もう一人の「メウ・セニョール」なのだと。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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Beethoven - Rondo 'Die wut  über den verlorenen groschen'
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(2)悪夢

『Filigrana 金細工の心』の2回目です。

ええと。この回はR18指定すべきかなと思う内容なので、読みたくないという方はお氣を付けください。とはいえ、この記述をしないで書くのは、ぼんやりした話になってしまうので、あえてこうなりました。前作では、23がマイアにソフトに語るという形で説明した24のやっていたことが、少し具体的に記述されます。

ここまで具体的な描写は、今後ほとんどないと思いますので、ご安心を。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(2)悪夢

「……ママ。ママ。かわいそうなママ……。あいつがあなたを苦しめているんだね」
その声はすぐ近くで聴こえた。終わりのない悪夢は彼女を休ませなかった。疼痛よりも針が近づいてくるその瞬間が怖かった。ベッドに縛り付けている手錠に電流を近づけてくる時の、狂った笑顔が恐ろしかった。どれほど懇願しても、絶対に逆らわないと誓っても彼は信用しなかった。声が出ないようにかまされた猿ぐつわに手をやり「このなめらかな肌に食い込む枷が美しい」と囁いた。

 乳房をねじ上げられ、苦痛に歪む顔を見て、青い瞳は輝いた。それから彼は欲望のままに、抵抗できない彼女に覆い被さり激しく腰を動かして囁いた。
「ああ、ママ。かわいそうな、ママ。あなたは、あいつに犯されて、苦しんでいる。いますぐに、僕があなたを救ってあげる。こうして、あなたの中からあいつの穢れた体液を搔き出してあげる……僕の存在で満たしてあげる……」

 その声が、次第に大きくなると、彼女の膨れ上がった腹がめきめきと割けて、中から血まみれの赤ん坊が顔を出した。口が裂けて、尖ったギザギザの歯を見せて奇声を発した。彼女は声にならない悲鳴をあげた。

 いつの間にか彼女は自由になっていて、必死で逃げた。暗闇の中、足が縺れ、何度も怪物につかまりそうになり、滑る足元によろけながら、彼女は走った。どこからか、ピアノの音色が響いてきた。彼女は、音のする方へと走る。そこへ辿りつければ、彼女は怪物から逃れられるのだと、そう信じて走った。

 彼女はベッドから起き上がった。体中が強張り、震えていた。喘息の発作のように激しく呼吸をしていた。ピアノの音色はしていなかった。

 汗でネグリジェは、ぐっしょりと濡れていた。ドアがノックされて、妹マリアの声が聞こえた。
「ライサ? どうかした? うなされていたみたいだけれど……」

 ライサは、息を継ぐと答えた。
「……夢を見たの。ごめんなさい、大丈夫」
「そう。わかったわ。おやすみなさい」

 マリアの足音が去り、隣の部屋のドアが閉められたのとを聞くと、ライサは首の付け根に手をやり、汗を拭った。夢……。夢だとわかるようになるまでにどれほどの時間が流れたか、彼女の記憶は欠けていた。ピアノの音色が彼女の救いとなったのもいつだったか憶えていない。

 あの悪夢は、かつては現実だった。彼女が愛し、自身で望んで一緒になった男が、もう1つの顔を見せたとき、その悪夢が始まったのだ。それがあまりにも長く続き、救いが見えなかったので、彼女の精神は現実と夢の境界を失った。肉体の痛みと精神の痛みは交錯してねじれた。胎内の奥深くに挿入された電動の器具が、彼女に快楽を強要しても、彼女には苦痛との違いを感じ取れなくなった。薬品が彼女の現実を壊した。昼と夜は逆転し、愛と憎しみも入れ替わった。

 悪夢は、常に彼女を襲い続け、それが終わる希望など持っていなかった。けれど、そのピアノの音が聴こえるようになって以来、明らかに何かが変わっていた。悪夢にインターバルが訪れるようになっていた。誰かが、優しく彼女の肌や髪を洗っていた。女性の明るい笑い声が近くですることもあった。食事に味がする。時には熱く、ライサは吐き出した。それを誰かが片付け、優しく口元を拭いてくれていた。それが悪夢の男とあまりにも違うのでライサは混乱した。

 やがて、彼女はベッドに座り、誰かが彼女に食事をさせてくれていることに氣がついた。そこはとても居心地がよかった。誰もが優しく、彼女を傷つけたりしなかった。どこからか、ピアノやヴァイオリンの音色がしていた。それを耳にしながら、ライサはここは安全な世界だとゆっくりと理解したのだ。

 それから、ある女性がよくベッドの側に座るようになった。その女性の落ち着いた声は、ライサには心地よく響いた。言葉の意味が分かるまでにはやはり長くかかった。長い心地のいい夢を見ているようだった。ゆっくりと、ぼやけていた画像のピントが合っていくように、ライサはその女性のいる心地いい夢が現実なのだとようやく信じられるようになった。その頃から、その女性にどこかで逢った事があるように思いだした。

「ライサ。今朝の氣分はどう?」
女性は、穏やかに訊く。親しげで優しい。それが自分の名前だと、ある朝、突然わかった。この人は、私に問いかけているのだ。そう思って、ライサは女性の顔を見た。彼女の表情が、つかの間、驚きに変わり、それから笑顔になった。
「ライサ?」

「あなたは……誰?」
ライサは、声を絞り出した。かすれていた。自分の声なのだと、後からわかるほど現実味がなかった。いや、しようと思った事が、できる事、声を出し質問したら、その通りに聞こえた事が驚きだった。

 女性は、微笑んだまま答えた。
「アントニアよ」

 アントニア? 知っている誰かの名前。どこで聞いたのだろう。アントニア。……ドンナ・アントニア……。

 突然、世界が回りだした。石造りの重厚な建物、どっしりとした家具、輝くシャンデリア。『ドラガォンの館』に集う、高貴なる一族。そして、恐ろしい悪夢。震えて泣き出しそうになるライサに、女性ははっとして、それから首を振った。
「心配しないで。あなたは、もう安全な所にいるの」

 その言葉が、ライサを現実に戻した。「安全な場所にいる」心で確認したがっていた言葉を、彼女が口にした。
「ここは……ここはどこ?」

 ライサが、『ドラガォンの館』から連れ出されて、アントニアの住む『ボアヴィスタ通りの館』で療養していることを理解するまでにはまだしばらくかかった。彼女の精神の混乱は、それほどに根深かった。だが、やがて彼女は、朝になり目が醒めると、必ず同じ場所にいて、悪夢が襲いかかってこなくなるという事を信じられるようになった。怖いのは夜眠っているときだけだった。そして、彼女を朝の安全な世界に導いてくれるピアノの音は、『ボアヴィスタ通りの館』で実際に奏でられているのを知る事となった。

 ライサは、ずっと同じ部屋にいた。彼女を世話してくれる使用人が、シンチアという名前で、ライサ自身と同じくドラガォンに雇われている存在である事も理解できるようになった。時々もっと若いルシアという女性が代わる事もあった。ライサは、自分でスプーンやフォークを持って食事をしたり、タオルで顔や手を拭く事もできるようになった。1人で浴室を使えるようになるまでは、もう少しかかったが、やがて、密室に1人でいても、眠らない限り悪夢は襲ってこない事が理解できるようになった。

 階下から聞こえてくるヴァイオリンとピアノの2重奏についてシンチアに質問した。
「ああ、あれはメウ・セニョールのヴァイオリンにドンナ・アントニアが伴奏なさっているのですよ」

「メウ・セニョール?」
その響きに彼女が怯えているのを見て、シンチアは、急いで言った。
「ドンナ・アントニアの叔父上です。亡くなられたドン・カルルシュの弟の Infante322です」

 それが24ではないとわかって、彼女は安堵した。それから、あのピアノを弾いていたのは、ドンナ・アントニアだったのねとひとり言をつぶやいた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】プレリュード

今日の掌編は、『黄金の枷』シリーズの外伝です。連載を開始したばかりの『Filigrana 金細工の心』とも関わりの強い作品なのですが、視点が(よくわかっていない)マイアで進むので、外伝として本編からは外しました。『Filigrana 金細工の心』本編で後にこの話で使われた曲がもう1度使われます。

【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」『Infante 323 黄金の枷 』
『Usurpador 簒奪者』を読む『Usurpador 簒奪者』
『Filigrana 金細工の心』を読む『Filigrana 金細工の心』




黄金の枷・外伝
プレリュード


 マイアは、いつものように白いブラウスに黒い絹のサーキュラースカートを身につけた。どんな服でも自由に注文していいと言われ、通信販売のカタログをいくつも渡してもらったのだが、以前買っていたようなTシャツやチノパンなどを買うのはためらわれた。そんな服を午餐や晩餐に着ていくことはできなかったし、23と話をするためにいつドンナ・マヌエラやメネゼスたちが入ってくるかわからなかったので、居住区内用の服も体には楽だけれども見た目はカジュアルすぎないものを選んで買ってもらった。

 いま着ている服は、宣告を受けた翌朝に23がその日の晩餐に間に合うようにメネゼスに用意させた2着のうちの1つだった。白いフリルの多いブラウスと、似ているけれど僅かに違うふくらはぎ丈の全円スカートで、どんな状況でも、たとえマイアが上流社会の振舞に慣れていなくても、違和感なく馴染めるスタイルだった。

 その初めての晩餐で、マイアは23がいつも座る席の隣に案内された。前日までは給仕する立場だったのが、してもらう立場に変わっていた。メネゼスが椅子を引き「どうぞ」と言った。23の顔を見ると、黙って頷いたのでマイアは小さく会釈して座った。

 あの食事では、誰も特別なことを言わなかったが、みながマイアの様子に注目していた。突然の宣告で23の居住区に閉じこめられた彼女がどんな反応をするのか誰も予想がつかなかった。ショックを受け、泣き叫び助けを懇願しても不思議はないとみな思っていた。それはこの館では既に何度か繰り返された光景だった。

 マイアが何をするのにも23の顔を伺い、それに対して彼がそっと小さくアドバイスすると、彼女が黙って頷く。時おり嬉しそうに23の方を見て笑いかけたりしているのを見て、心配していた家族や使用人は一様に安堵した様子を見せた。特に、ドンナ・マヌエラは食事が終わると、わざわざマイアの側にやってきて、両手で彼女の手を包み優しく「ありがとう」と言った。マイアは何に対してそう言われているのか全くわからなかった。

 唯一違う反応を見せたのが24だった。23のことを全く嫌がっていない、むしろ一緒にいられるのが嬉しくてたまらない様子のマイアを見て「なぜ」と言った。24が一緒に一夜を過ごした娘たちは、そんな反応は絶対に見せなかった。必ず一晩にして24への愛は消え去り、怯えながら逃げ惑うようになったからだ。

 その日から、ドラガォンの家族が集まる時には、必ずマイアも同席することとなった。毎日の晩餐、日曜日の午餐、それにその前に行われる礼拝にも、マイアはこれまでの召使いたちの場所ではなく、ご主人様の1人である23の隣に座ることになった。そして、そうした機会に身につけるべき服で悩みたくなかったので、マイアは23がそうするように、新たに用意してもらう服も全て白いブラウスと黒いスカートにしてもらった。そうすれば23のいつも着ている服と釣り合うし、難しいことを考えずに済むからだ。

 日曜日の礼拝と午餐に、ボアヴィスタ通りに住んでいるドンナ・アントニアがやってくるときは、午餐の後に家族がサロンに集まり団らんをする習慣があった。召使いだった頃のマイアは、このサロンでの団らんの場に居合わせたことはなかった。

 母屋3階にあるサロンは、マイアにとってなじみが薄く畏怖すら感じる空間だった。もちろん、本来ならばインファンテの居住区であっても親しみやすさを感じる要素はないのだが、23がラフに接してくれたお陰で屋敷の中でもっとも寛げる一角になっていた。しかし、ドンナ・マヌエラやドン・アルフォンソの部屋の掃除をすることもなかったマイアにとって、母屋3階はよほどのことがない限り足を踏み入れない場所になっていた。

 宣告後、居住区の中で暮らすことになったマイアは、鍵を開けられて呼ばれたときだけ居住区からでることができた。23と一緒に居られるだけで幸福なマイアにとっては、特に差し障りがなかったが、23はマイア1人を居住区に残すことを嫌がった。一家団らんの場に行って何をすればいいのかはわからなかったが、ただ座っていればいいのだと言われて、黙ってついていった。

 おそらくそれは、館の中の多くの人間を安堵させたことだろう。少なくともこちらの居住区では、人知れず娘が長期にわたる虐待を受けたりはしていないことが、誰の目にも明らかだったのだから。

 サロンは広く明るい部屋で、寄せ木張りの床の上に非常に大きな絨毯の敷かれている。年代物に違いない大きなシノワーズの壺や、金箔飾りの施された黒檀の調度が置かれている。この集まりには、メネゼスの他、ジョアナとクリスティーナが同席するのが常だった。

 瑠璃色と金の装飾を施したコーヒーセットが置かれ、マイアは割ったりしたくないなと思いながら邪魔をしないように座るのだった。

 23とマイアが部屋に入ってきたとき、既にドンナ・マヌエラとドンナ・アントニア、そして、2人に挟まれて24がゆったりと座っていた。彼は、午餐の時とは違う服を着ていた。午餐の時は、クリーム色の光沢のあるシャツにグレーのベストを合わせたスタイルだったが、今は昔の人が着ていたようなスイカ色のフロックコート姿だ。時代めいているとはいえ、豪奢なひじ掛け椅子に座っている彼は、場違いという印象を全く与えなかった。落ち着いた菖蒲色のロングドレスを身に纏っているドンナ・マヌエラや、赤紫に黒で縁取りされたスペンサージャケットと対のタイトスカートを見事に着こなしているドンナ・アントニアに挟まれているからかもしれない。

 この部屋に置かれているアームチェアはヴィクトリアン・スタイルで、重厚なマホガニーに装飾華美にならないギリギリの装飾が施されている。おそらく何百年単位で使われているものだろうが、定期的にメンテナンスを施されているのだろう、どの家具もつい先日納品されたものと変わらない状態を保っている。

 マイアは、高そうな椅子に座ることにもまだ慣れていない。そっとサーキュラースカートを広げ、メネゼスに案内された席に怖々と座った。

 23とマイアが入ってきたのを全く意に介さずに、得意の詩作について蕩々と述べていた24だったが、最後にドン・アルフォンソがゆっくりと入ってきて座ると、嬉しそうに立ち上がって言った。

「やあ、兄さん。やっと来ましたね。僕が、生み出した最高傑作、すぐにでも聴いてもらわなくちゃ。ビリヤードのピンク球と釣りブレード針のさる環に関する形而上学的考察に基づく詩なんです」

 ドン・アルフォンソは、全員にコーヒーや茶菓が行き渡っているのを見て取ると、メネゼスに合図をして立っているジョアナやクリスティーナが背後で座れるように配慮をしてから、待ちわびている24に聴いている者には意味がさっぱりわからない詩の暗唱を許可した。

 24の詩を聴くのはこれが初めてではなかったけれど、今回の詩は格別に意味不明だった。そもそもマイアはビリヤードもしたことがないし、釣りの方はさらに興味がなかった。だが、たとえその両方に詳しい者が聴いても、この詩の内容に共感することは難しいだろう。少なくとも韻の踏み方が完璧なのは、マイアでもわかった。新参者の分際であくびをするわけにはいかないので、マイアは23と一緒に街に出かけた日のことを考えて時間をやり過ごした。

 ようやく暗唱が終わったらしい。母親であるドンナ・マヌエラがにこやかに微笑みながら言った。
「お前の詩作に対する情熱は、非凡な才能を開花させたのね。釣り具が美しく思える描写を初めて知りましたよ、メウ・クワトロ」

 氣をよくした24が、ではもう1つと言い出すのを察知したドン・アルフォンソは、急いでドンナ・アントニアに話しかけた。
「アントニア。今日は、お前も何か聴かせてくれるのだろう?」

 マイアは思わずほっとした表情をしたが、横にいた23に氣付かれてそっと肘でつつかれた。ドンナ・アントニアは、微笑みながら立った。
「むしろ私は、トレースに聴かせてもらうことを期待してきたんだけれど」

「ギターラは持ってきていない」
23は短く答えた。23が何かを弾き、それをドンナ・マヌエラが褒めたりしたら、また24が対抗意識で新しい詩を吟じ出したりするかもしれない。だったら、ここでは弾かないでほしいと、マイアは密かに願った。

 ドンナ・アントニアは、それ以上特に23のギターラには触れずに、グランド・ピアノに向かった。
「じゃあ。ここしばらくずっと練習していた曲を……バッハの平均律を元に書かれたシロティの『前奏曲』よ」

 彼女は、ゆっくりと弾き始めた。マイアは、ドンナ・アントニアはピアノを弾けるんだと感心した。思えば、この女性のことを私は何も知らないんだなと思った。ずっと23の恋人だと思い込んでいて、姉だということも知らなかった。ようやく知ったことといえば、成人してから『ボアヴィスタ通りの館』に移り住んでいるが、近年はドンナ・マヌエラに代わって、ドラガォンの対外的な仕事をこなしていることぐらいだった。

 ドン・アルフォンソや23と同じ黒髪は、亡くなったドン・カルルシュ譲りだという。とても美しいが、柔らかい印象の強いドンナ・マヌエラにはほとんど似たところがなかった。
「顔もドン・カルルシュに似ているの?」
マイアが訊くと、23は笑った。
「まさか。俺が父上そっくりなんだ」

 マイアは、ピアノを弾くドンナ・アントニアの横顔を眺めた。いつも快活で華やかな彼女が、どことなく違って見える。静かな旋律が囁きかけるように始まったが、少しずつクレッシェンドをして近づいてきたように感じた。その旋律は再びディクレッシェンドして、遠ざかった。

 右手の旋律は同じように繰り返したが、左手が先ほどとは違いずっと強く分散和音を奏でた。それは、まるでずっとそこにいたけれど視界に入っていなかった誰かが、急にいることに氣付いたときのようだった。

 娘の演奏を聴いているドンナ・マヌエラは、先ほど息子の詩を褒めたときのような柔らかな微笑みを浮かべていなかった。瞳は、娘を通してもっと遠くの別のものを見つめていた。そして娘の紡ぎ出す音色から、憂いと痛みを聴き取っているようだった。マイアの知らない誰かが、ドンナ・アントニアの陰でピアノを弾いている。誰も口にしようとしない重い存在が、サロンに満ちていた。

 短い曲はすぐに終わった。最後の和音が空中に解け、ドンナ・アントニアが静かに手を鍵盤から離して静寂に沈んだ。

 サロンの空氣は先ほどとは全く変わっていた。24だけが派手な拍手をし、ドンナ・アントニアはいつもの快活な笑顔を見せて椅子に戻ってきた。ドンナ・マヌエラも柔らかい微笑を取り戻していたが、マイアはみなの瞳の中に憂いが残っているように感じた。平和な午後の語らいはいつも通り2時間ほど続いた。そして、暇乞いをしてドンナ・アントニアが館を去ると同時に、マイアたちも居住区に戻った。

 あれは何だったんだろう。マイアは、先を歩く23の背中を見ながら考えた。訊いたら教えてくれると思うけれど、軽々しく訊かない方がいいのかも。

 23は、いつもと違って静かなマイアの様子を変に思ったのか、振り向いた。
「どうした?」

 マイアは、笑って首を振った。
「なんでもない。ねぇ、23。さっきリクエストできなかったから、今からギターラ、弾いて」

(初出:2020年8月 書き下ろし)

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Emil Gilels plays the Prelude in B minor (Bach / Siloti)
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -14- ジュピター

今日は「123456Hit 記念掌編」の第3弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、TOM−Fさんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: 絆
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: 『樋水龍神縁起』シリーズの女性キャラ
   コラボ希望キャラクター: 『天文部シリーズ』から智之ちゃん
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 木星往還船



ええと。わかっています。『樋水龍神縁起』だって言ってんのに、なんで『Bacchus』なんだよって。ええ。でも、『Bacchus』はそもそも『樋水龍神縁起』のスピンオフなのですよ。というわけで、「木星往還船」を使わなくちゃいけなかったので、紆余曲折の末こうなりました。あ、ちゃんと一番大物の女性キャラ出しているので、お許しください。(あの作品も、ヒロインはサブキャラに食われていたんだよなあ……いつものことだけど)

智之ちゃん、名前は出てきていませんが、ご本人のつもりです。三鷹にいるのは詩織ちゃんのつもりです。TOM−Fさん、なんか設定おかしかったらごめんなさい!


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -14- ジュピター

「いらっしゃいませ。……広瀬さん、いえ、今は高橋さん! ようこそ」
全く変わらない心地よい歓迎に、摩利子は思わず満面の笑みを浮かべた。

「お久しぶり、田中さん。早すぎたかしら?」
「いいえ。どうぞ、いつものお席へ」

 いつも座っていたカウンター席をなつかしく見やった。一番奥に1人だけ若い青年が座っていた。やはり、いま来たばかりのようで、おしぼりで手を拭きながら渡されたメニューを検討していた。

 久しぶりに東京を訪れた摩利子は、新幹線で帰り日中の6時間以上を車窓を眺めているよりも、サンライズ出雲で寝ている間に島根県に帰ることを選んだ。そこでできた時間を利用して午後いっぱいをブティック巡りに費やした。そして、大手町まで移動して出発までの時間を懐かしいなじみの店で過ごすことにした。
 
 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 かつて彼女は、今は夫になり奥出雲で彼女の帰りを待っている高橋一と、この店をよく訪れた。仕事が早く終わる摩利子が一の仕事が終わるのを待つ間、いつもこの席に座りマティーニを注文した。
「ジンを少し多めに。でも、ドライ・マティーニにならないくらいで」

 店主であり、バーテンダーでもある田中佑二は、にっこりと微笑みながら摩利子が満足する完璧な「ややドライ・マティーニ」を作ってくれた。結婚して東京を離れてから、飲食店を開業、さらに母親となり、なかなか東京には出てこられない日々が続き、この店を訪れるのは実に10年ぶりだったが、田中は全く変わらずに歓迎してくれた。それがとても嬉しい。

「今日は、お里帰りですか」
「うふふ。用事のついでにね。これから寝台で島根に帰るの」
「高橋さんは、お元氣でいらっしゃいますか」
「ええ。さっき電話して『Bacchus』に行くっていったら、田中さんにくれぐれもよろしくって言われたわ」
「それはありがたいことです。どうぞよろしくお伝えください」
「ええ」

 カウンター席の青年は、常連然とした摩利子と田中の会話を興味深そうに聞いている。

「今日は、何になさいますか。マティーニでしょうか」
メニューを開こうともしない摩利子に、田中は訊いた。彼女は、少し考えてから答えた。
「そうね。懐かしい田中さんのマティーニ、大好きだけれど、今日はほんの少しだけ甘くロマンティックな味にして欲しい氣分なの。夜行電車の向こうに星空が広がるイメージで」

 田中は、おや、という顔をしたがすぐに微笑んで、いった。
「それでは、メニューには書いてありませんが、ジュピターはいかがですか。マティーニと同じくドライジンとドライヴェルモットを基調としていますが、スミレのリキュール、パルフェ・タムールとオレンジジュースをスプーン1杯分加えてつくるのです」

 摩利子は、へえ、と嬉しそうに頷いた。

「ジュピター!」
カウンターの端に腰掛けている例の青年が大きな声を出した。

 摩利子と田中は、同時に青年のほうを見た。彼は、話に割り込んだことを恥じたように、戸惑っている。摩利子はかつて職場の同期の男の9割に告白をさせたと有名になった、自信に満ちた笑顔をその青年に向けた。

「ジュピターって、カクテル、初めて聞いたわ。あなたも?」
それは「会話に加わっても構わない」というサインで、それを受け取った青年は、ほっとしたように2人に向けて言葉を発した。

「はい。僕も……その、すみません、大きな声を出してしまって。今日1日、高校時代の天文部のことを考えていたので、ジュピターって言葉に反応してしまって……」
「まあ。天文部。私はまた、なんとかっていう女性歌手のファンなのかと……。ほら、『ジュピター』って曲があったじゃない? もしくは、なんとかってマンガもあったわよね」

「マンガですか?」
田中が、シェーカーに酒を入れながら訊いた。
「ええ。なんだっけ、プラなんとかっていう、木星に行く宇宙船の話」

「『プラネテス』木星往還船を描いたSFですね。NHKでアニメにもなりました。2070年代、宇宙開発が進み、人類が火星に実験居住施設を建設していて、木星や土星に有人探査を計画している、そういう設定の話でした」
青年が言った。

「さすがによく知っているのね。木星って、現実にも探査が進んでいるはずよね、確か。人間は乗っていたかしら?」
「いえ、無人探査です。現在は何度も周回して木星を詳細に観測するジュノーのミッションが進行中です」

「どうして降り立たないの?」
「木星の表面は固体じゃないし、常時台風が吹き荒れているようなものなんです。そもそも、ジュノーあそこまで近づくことも、長時間にならないように緻密に計算されているんです。強い放射線の影響で機器に影響が出ないように」

「放射線?」
「ええ。木星からはものすごく強い放射線がでているんです」
「そうなの?」

「では、木星の近くまで旅行するのも難しそうですか?」
田中に訊かれて、青年は笑った。
「今の技術では難しいですね。木星には衛星もあるし、たとえばエウロパには表面の分厚い氷の下に豊かな液体の海があって間欠泉と思われるものも観測されているんですが、木星に近すぎて放射線問題をクリアできないでしょう。一方、カリストくらい離れればマシのように思いますが、こちらには液体の水はないようです」
「そうなんですか。技術が進化すれば宇宙進出もできるというような単純な話ではないのですね」

「それに、たとえ、寒さや放射線の問題がなかったとしても、ちょっと遠いんですよ。僕たちが海外旅行を楽しむような氣軽さでは行けないと思います」
「どのくらい遠いの?」
「太陽から地球までを1天文単位っていうんですけれど、太陽から木星まではだいたいその5倍くらいあります。なので単純に一番近いときでも、太陽までの4倍ちょっとあります。以前計算したことがありますが、時速300キロの新幹線で行くとすると230年以上。時速2000キロのコンコルドで35年、時速2万キロのスペースシャトルで3年半ぐらいです。もっともその間も木星は動いているので、この通りというわけにはいきませんけれど」

「片道でそんな距離なのね」
「燃料、ずいぶんと必要なんでしょうね」
「そうですね。僕にチケットが払えないのは、間違いなさそうです」

 シェークを終えた田中が、カクテルグラスを摩利子の前に置いた。ほんのりとスミレの香りがする紫のカクテル。
「まあ、きれいね。それに……オレンジジュースのお陰なのかしら、爽やかな味になるのね」
「パルフェ・タムールは、柑橘系の果実をベースにしたリキュールですから、その味も感じられるのではないですか」

「それ、アルコールは強いですか?」
青年が訊いた。
「そうですね。マティーニのバリエーションなので、マティーニがお飲みになれれば……」
田中は言った。

 摩利子は、ということはこの客は初めてここに来たのだなと思った。何度かやって来た客がどのくらいの酒を飲めるのかを、田中はすぐに憶えてしまうのだ。

「せっかくですから、僕もその『ジュピター』をお願いします」
田中は微笑んで、再び同じボトルをカウンターに置いた。

 摩利子は、話を木星に戻した。
「じゃあ、スペースシャトルが格安航空券なみにダンピングされたら、木星往復ツアーなんてできちゃうかしらね。7年間、ほとんど車窓が変わらなそうでなんだけど」

 青年は、首を傾げた。
「どうだろう。7年で往復できるとしても、その時間、地球では、他の人たちが別の時間を過ごしていて、帰ってきたら浦島太郎みたいな想いを味わうんじゃないかな」

 摩利子は、にっこりと微笑んだ。
「7年なんて、あっという間よ。待っている人たちは、待っているわ」

田中が、そっと『ジュピター』を青年の前に置いた。青年は軽く会釈をして、紫のドリンクを見ながら続けた。
「『去る者日々に疎し』っていいますよね」

「そうねぇ。側に居て同じ経験を続けていないだけで疎くなってしまうのって、それだけの関係なんじゃないかしら。ほら、私、そんなにしょっちゅうは来られないけれど、『Bacchus』と田中さんは、私たち夫婦にとってとても大切なままだもの」
「恐れ入ります」

「それは……そうだけれど。星空だけを観ながら時間を止めたような旅をしている人と、その間もたくさんの他の経験をしている人との間に、認識の差が生まれてくることはないのかなって。離れている間に、どんどんお互いの知らない時間と経験が積み重なって、なんていうんだろう、他の誰かたちとは絶対的に違うと僕は感じている『何か』が、相手たちの中では薄れていくのかもしれない、なんて考えることがあるんですよ」

「それは木星旅行の話じゃなくて、現実の話?」
「まあ、そうです。高校の時に、いつも一緒だった仲間たちのことを考えています」

 摩利子は、なるほど、という顔をした。それからわずかに間をとってから言った。
「私たちね。私たち夫婦も、それに、ここにいる田中さんも……たぶん、もう帰ってこないだろう人を待っているの」
「え?」

 田中は、何も言わずに頷き、後ろにある棚を一瞥した。キープされたボトルのうち、定期的に埃がつかないようにとりだしているが、2度と飲まれないものがあった。彼は一番端にある山崎のボトルを見ていた。

 青年は、具体的にはわからないが、2人が示唆している人物の身に何かが起こったのだろうなと考えながら聞いていた。摩利子は、それ以上具体的なことは言わずに続けた。

「絆って、ほら、一時やたらと軽く使われたでしょう? だから、手垢がついた言い回しになってしまったけれど、でも、きっと、そういう時間や空間の違いがどれだけ大きくなっても変わらない、口にすることもはばかられる強いつながりのことをいうんだと思うわ」

 青年は「そうかもしれませんね」と、カクテルグラスを傾けた。わずかに頷きながら、確かに自分の中にある『絆』を確認しているようだった。

「僕は、高校まで兵庫県にいたんですけれど、それから京都に出てそれからずっとです。高校の時の仲間も、アメリカに行ったり、東京に出たり、みなバラバラになったけれど……確かにまだ消えていないな」

「あら。じゃあ、こちらに住んでいるわけじゃないのね」
「ええ。昨日から泊まりがけで研修があり東京に来ました。今日夕方の新幹線で帰るはずだったんですけれど、こちらには滅多に来ないし、明日は日曜日なので、先ほど思い立ってステーションホテルに部屋を取ったんです」

「そう。じゃあ、この店に来たのは、もしかして偶然?」
「はい」
「あなた、とてもラッキーな人ね。知らずにここを見つけるなんて」

 青年は、顔を上げて2人を見た。それから、頷いた。
「本当だ。ここに来て、話をして、そして『ジュピター』を飲んで。すごくラッキーだったな」

 それから、何かを思いついたように晴れやかに訊いた。
「あの、三鷹って、ここから近いんでしょうか」
「三鷹? 多摩のほうでしょう。山の中じゃなかった? 子供の頃、遠足に行った記憶があるわ」

 摩利子の言葉を田中が引き継いだ。
「確かに多摩ですけれど、山の中ってことはありませんよ。東京駅で中央線の快速に乗れば30分少しで着くのではないでしょうか」

 2人は、この青年が明日、『絆』を確かめ合う相手に連絡することを脳裏に浮かべながら微笑んだ。


ジュピター(Jupiter)
標準的なレシピ
ドライジン : 45ml
ドライヴェルモット: 20ml
パルフェ・タムール: 小さじ1
オレンジジュース: 小さじ1

作成方法: アイスカクテルシェーカーでシェイクし、カクテルグラスに注ぐ。



(初出:2020年8月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(1)新しい腕輪

今日から『Filigrana 金細工の心』の連載を開始します。本当は、123456Hitのリクエストをすべて発表してからと思っていたのですが、大人の事情で(単に書き終わらなかっただけ)こちらを先に上げます。

第2作『Usurpador 簒奪者』は主に30年ほど前の事情を取りあげていましたが、この作品は、第1作『Infante 323 黄金の枷 』の直接の続編という位置づけです。ただし、前作のヒロインだったマイアは、今回の記述を最後にヒロインの座を明け渡し、表舞台から引っ込みます。最後なので、サービス(誰への?)で、沐浴シーンです(笑)



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(1)新しい腕輪

 その夜、23の髪を洗っている時にマイアがふざけて突然腕を出した。23はとっさにそれをよけて脇にどいた。バスタブに落ちそうになったマイアを支えようとして、結果として23は大量の湯を跳ねさせてしまい、服を着たままのマイアはびしょ濡れになった。2人は顔を合わせて愉快に笑った。
「着替えてくるね」

 23は泡だらけの髪を指して「このまま?」と訊いた。
「だって、このままじゃ風邪引いちゃう」
マイアが重くまとわりつく服を見せると、23はマイアの腕を引っ張った。
「お前も一緒に入ればいいじゃないか」

 マイアは顔を真っ赤にして「えっ」と言った。彼にはマイアが今さら恥ずかしがる理由が全くわからないようだった。最終的に彼女も23のいう事に理を見出して、「後ろを向いていてね」と念を押してから、濡れた服を脱いで広いバスタブの23の横にそっと滑り込んだ。

「お風呂、2人で入るの、はじめてだね」
マイアがいうと、彼は彼女の肩に腕をまわしてそっと顔を近づけてきた。
「そういえばそうか」

 いつもよりずっと長くなってしまった入浴を終えて、その後、びしょびしょになっていた浴槽の周りを2人で笑いながらピカピカにしてから、ベッドに横になったのは11時近かった。

 23の胸にもたれかかるように眠っていたマイアは、彼が身を起こすのを感じて目を覚ました。
「どうしたの。私、重かった?」と目をこすりながら訊いた。

 23はマイアの唇に人差し指を置いて、それから部屋のずっと先にあるドアに向けて声を掛けた。
「何があった」

 するとドアの向こうからメネゼスの声がした。
「このような時間に誠に申しわけございません、メウ・セニョール。大変恐れ入りますが、至急お越しいただきたいのです」

「すぐに支度するので、待ってくれ」
そう言うと、23はベッドから出ると服を着て、ドアの方に向かった。途中で引き返してくるとマイアに言った。
「待たずに寝ていていい。遅くなるかもしれないから」

 それから耳に口を近づけてメネゼスに聞こえないように言った。
「寝間着は着ておいた方がいいぞ」

 マイアは真っ赤になって頷いた。23が出て行き、2人の足跡が階下へと消えていってから、マイアは急いで寝間着を着た。それからシーツをかぶりながら考えた。こんな時間にどうしたんだろう。今までこんなこと1度もなかったのに。窓の鉄格子から月の光が射し込んでいた。寝ていいと言われたけれど氣になるな。彼女は寝返りを打った。

 それでも、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目が覚めたのは、階段を上がってくる2人の足音を聞いたからだ。
「朝、またお迎えに参ります」
「お前は何時に起きるんだ?」
「いつも通り5時に」
「では、6時に起こしにきてくれ」
「かしこまりました、メウ・セニョール」

「それから、朝一番で24とアントニアに知らせるように」
「かしこまりました」
「クリスティーナはしばらく業務から外してやってくれ。必要ならマイアに手伝いを」
「かしこまりました。朝、ミゲルに連絡をしてマティルダにも手伝いにきてもらうように手配いたします」
「そうしてくれ」
「おやすみなさいませ、メウ・セニョール」

 ドアが開き、23がしっかりした足取りで入ってきた。マイアは23の側のサイドテーブルの電灯をつけた。時計の文字盤が見えた。針は2時半を指していた。
「どうしたの」

 23は口を一文字に閉じたまま、サイドテーブルに鍵の束を置いた。マイアはびっくりした。彼が鍵を持つことを許されたことはなかったから。このような鍵の束をメネゼスがいつも使っていた。

 不安そうに見上げるマイアをじっと見つめると、23は服を着たまま突然ベッドに載ってきてマイアの胸に顔を埋めた。マイアは、えっ、こんな時間にするの、寝間着を着ろと自分で言ったのに、と思ったが、彼はそのまま肩をふるわせていた。やがて絞り出すような声が漏れてきた。
「アルフォンソ……アルフォンソ……」

 寝間着に涙が沁みた。マイアにも何があったのかわかった。ドン・アルフォンソが亡くなったのだ。とっさに彼女の右肩をつかんでいる23の左手首を見た。黄金の腕輪の手の甲の側、これまで何の飾りもなかった所に1つ青い石が増えていた。

 マイアは鍵の束の意味を理解した。23は、たった今ドン・アルフォンソになったのだと。
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Posted by 八少女 夕

Filigrana 金細工の心 あらすじと登場人物

この作品は、ポルトガルのポルトをモデルにした街のとある館を舞台に進む小説群『黄金の枷』シリーズの第3作です。

【あらすじ】
 黄金の腕輪をはめた一族ドラガォン。当主の娘インファンタとして生まれたアントニアは、別宅に共に住む叔父との平穏な暮らしに波風が立ちはじめていることを感じる。

【登場人物】(年齢と説明は第1話時点でのもの)
◆ドンナ・アントニア(28歳)
 本作品のヒロイン。『ボアヴィスタ通りの館』に住む美貌の貴婦人。漆黒のまっすぐな長髪で印象的な水色の瞳を持つ。

◆Infante 322 [22][ドイス](50歳)
 本作品の主人公。『ドラガォンの館』の先代当主ドン・カルルシュの弟(実は従弟)でアントニアの叔父。『ボアヴィスタ通りの館』に軟禁状態となっている。雄鶏の形をした民芸品に彩色をする職人でもある。明るい茶色の髪に白髪が交じりだしている。海のような青い瞳。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを弾くことができる。

◆ライサ・モタ(26歳)
 『ドラガォンの館』に少なくとも2年ほど前まで召使いとして勤めていたが、現在は腕輪を外されて実家に戻されている。長い金髪と緑の瞳。優しく氣が弱い。かなり目立つ美人。若いころのドンナ・マヌエラと酷似している。

◆フランシスコ・ピニェイロ[チコ] (31歳)
 豪華客船で働くクラリネット奏者。縮れた短い黒髪と黒い瞳。

◆ドンナ・マヌエラ(51歳)
 『ドラガォンの館』の女主人。前当主ドン・カルルシュの妻で、ドン・アルフォンソやアントニアたちの母親。ブルネットに近い金髪にグレーの瞳が美しい貴婦人。

◆ドン・アルフォンソ = Infante 323 [23][トレース] (27歳)
 『ドラガォンの館』で格子の中に閉じこめられていたが、兄のアルフォンソの死に伴い、彼に代わって『ドラガォンの館』の当主となった。靴職人でもある。黒髪の巻き毛と濃茶の瞳を持つ。幼少期の脊椎港湾症により背が丸い。

◆マイア・フェレイラ(23歳)
 ドン・アルフォンソ(もと23)の婚約者。茶色くカールした長い髪。

◆ドン・アルフォンソ(享年29歳)
 重い心臓病で亡くなった『ドラガォンの館』のもと当主。アントニアたちの兄。

◆Infante 324 [24][クワトロ](25歳)
 金髪碧眼で背が高い美青年。『ドラガォンの館』で「ご主人様(meu senhor)」という呼びかけも含め、当主ドン・アルフォンソと全てにおいて同じ扱いを受けているが、常時鉄格子の向こうに閉じこめられている。口数が多くキザで芝居がかった言動をする。非常な洒落者。

◆アントニオ・メネゼス(55歳)
 『ドラガォンの館』の執事で、使用人を管理する。厳しく『ドラガォンの館』の掟に忠実。

◆ジョアナ・ダ・シルヴァ(50歳)
 『ドラガォンの館』の召使いの中で最年長であり、召使いの長でもある女性。厳しいが暖かい目で若い召使いたちをまとめる。

◆ペドロ・ソアレス
 《監視人たち》の中枢組織に属する青年。メネゼスの従兄弟。

◆マリア・モタ(25歳)
 ライサの血のつながらない妹。ブルネットが所々混じる金髪。茶色い瞳。

◆『ボアヴィスタ通りの館』の使用人
 ディニス・モラエス(34歳) - 《監視人たち》の一族出身
 チアゴ・マトス(24歳)
 シンチア・ロドリゲス(31歳)
 ルシア・ゴンサルヴィス(25歳)
 ドロレス・トラード(38歳) - 料理人

◆『ドラガォンの館』の使用人
アマリア・コスタ(35歳)
マティルダ・コエロ=メンデス(26歳)
ミゲル・メンデス=コエロ(29歳)
ジョアン・マルチェネイロ(25歳)
ホセ・ルイス・ペレイラ(28歳)
フィリペ・バプティスタ(32歳)
クラウディオ・ダ・ガマ(46歳) - 料理人
アンドレ・ブラス(37歳) - 料理人
マリオ・カヴァコ(39歳) - 運転手

【外伝の登場人物】
◆コンスタンサ・ヴィエイラ (本名クリスティーナ・アルヴェス)(30歳)
亡くなった前ドン・アルフォンソの恋人だった女性。1度腕輪を外されたが、事情があり腕輪をとりもどし、コンスタンサの名前で生活する。現在は中枢部として『ドラガォンの館』内外で働いている。

◆マヌエル・ロドリゲス(29歳)
《監視人たち》出身の修道士見習い。ヴァチカンでエルカーノ枢機卿の秘書を務めたこともある。現在はGの街の小さな教会に勤めつつ、ドラガォンの中枢部の仕事にも関わっている。クリスティーナを崇拝しているお調子者。

◆ジョゼ
マイアの幼なじみの青年。

◆エレクトラ・フェレイラ
マイアの妹のひとり。もうひとりの妹の名前はセレーノ。

◆ヴィーコ・トニオーラ
3世代前のストーリーに登場するスイス人。ヴァチカン市国でスイス衛兵として働く伍長。


【用語解説】
◆Filigrana(フィリグラーナ)
 ポルトガルの伝統工芸品で、非常に細い金銀の針金や小玉を使用して細工された貴金属品。様々な形状があるが純金製でハートの形をしたものが有名。聖遺物箱の装飾に用いられたり、民族衣装の装飾にもされる。ポルトガルでは娘の嫁入り道具として時間をかけてフィリグラーナを買い集めるという。

◆Infante
 スペイン語やポルトガル語で国王の長子(Príncipe)以外の男子をさす言葉。日本語では「王子」または「親王」と訳される。この作品では『ドラガォンの館』に幽閉状態になっている(または、幽閉状態になっていた)男性のこと。命名されることなく通番で呼ばれる。

◆黄金の腕輪
 この作品に出てくる登場人物の多くが左手首に嵌めている腕輪。本人には外すことができない。男性の付けている腕輪には青い石が、女性のものには赤い石がついている。その石の数は持ち主によって違う。ドン・アルフォンソは五つ、22と24及びアントニアは4つ、マイアは1つ。腕輪を付けている人間は《星のある子供たち》(Os Portadores da Estrela)と総称される。

◆《監視人たち》(Os Observadores)
 Pの街で普通に暮らしているが、《星のある子供たち》を監視して報告いる人たち。中枢組織があり、《星のある子供たち》が起こした問題があれば解決し修正している。

◆モデルとなった場所について
 作品のモデルはポルトガルのポルトとその対岸のガイア、ドウロ河である。それぞれ作品上ではPの街、Gの街、D河というように表記されている。また「ドラガォン(Dragãon)」はポルトガル語で竜の意味だが、ポルト市の象徴である。この作品は私によるフィクションで、現実のポルト市には『ドラガォンの館』も黄金の腕輪を付けられた一族も存在しないため、あえて頭文字で表記することにした。

この作品はフィクションです。実在の街、人物などとは関係ありません。

【プロモーション動画】

使用環境によって、何回か再生ボタンを押すか、全画面にしないと再生できない場合があるようです。その場合はこちら




【関連作品】
「Infante 323 黄金の枷」『Infante 323 黄金の枷 』をはじめから読む
あらすじと登場人物
『Usurpador 簒奪者』を読む『Usurpador 簒奪者』をはじめから読む
あらすじと登場人物
『黄金の枷』外伝

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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】賢者の石

今日は「123456Hit 記念掌編」の第2弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: 旅
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: レオポルドⅡ・フォン・グラウリンゲン
   コラボ希望キャラクター: マコト
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 賢者の石


中世ヨーロッパをモデルにした架空世界を舞台にしているレオポルドと、彩洋さんのメイン大河小説の主役……から派生した別キャラのコラボということで、舞台も時代ももちろん被っていません。オリキャラのオフ会でメチャクチャやらせたので、そのくらいどうって事ない……といってはそれまでですが、一応(?)オフ会ではないということで、どちらが動くかということを考えたのですよ。

しかし、「賢者の石」と言われたら、現代(または昭和)日本ではないかな、と思ってこちらの世界にいらしていただきました。しかし、あくまでこちらの世界観から見たマコトですので、彩洋さんの所でのようにしゃべったりしません。しゃべっているあれこれは、ファンのみなさんが各自アテレコしていただければよいかなと(笑)

さて、設定したのは、本編の2年くらい前ですね。マックスが旅に出たちょっと後です。ま、全然関係ありませんけれど。

そして、もうしわけないのですが、またしてもオチなしです。


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む
あらすじと登場人物

森の詩 Cantum Silvae 外伝



森の詩 Cantum Silvae・外伝
賢者の石


 ことが済むと、彼は長らく横たわっていたりはしなかった。高級娼館《青き鱗粉》を経営するヴェロニカは彼の好みを知り尽くしているので、送り込む女の容貌に遜色はない。この女も唇が厚く、肌は柔らかく、肉づきのいいタイプだが、ほかに氣にかかることのある彼にとっては、今のところどうでもいいことだった。

「ヴェロニカには、また連絡すると伝えてくれ」
それだけ言うと、彼はさっさと上着を羽織り、政務室に向かった。

 私室の警護をしていた者から連絡が入ったのか、政務室で召使いに軽い飲み物を持ってくるように言いつけたのと入れ違いに、ヘルマン大尉が入ってきた。
「フリッツ。きたか」

「それはこちらのセリフです、陛下。午後はずっとあの女とお過ごしになるはずでは?」
フリッツ・ヘルマンは、グランドロン王である彼の警護責任者である。乳母の一番歳下の弟であるため、子供の頃から彼の剣術の相手として身近に育った。腹の底のわからぬ貴族の子弟などと違い、彼にとっては数少ない信頼を置く人物だ。人には言えぬ話題も、彼には安心して相談できた。

「午後はずっと、と言ったのは、ジジイどもに他の予定を入れられぬためだ。悪いが、老師のところに行くんでな。うるさい連中に見つからないように付いてきてくれ」

 ヘルマン大尉は首を傾げた。国王であるレオポルドが護衛なしに城の外に出ることは、彼としてはもちろん許しがたい。とはいえ、この君主は、いくらヘルマン大尉が口を酸っぱくして説いても、全く意に介さず、勝手に城を抜け出す常習犯だ。わざわざ自分についてこいという理由がわからない。

「着替えた方がいいのでしょうか」
戸惑うヘルマン大尉に、レオポルドは首を振った。
「いや。そのままでいい。お前の用事だというフリをして、馬車を出してくれ」
「ははあ。なるほど」

 若き国王は、彼の教育を担当していた老ディミトリオスに、何か内密の頼み事があるのだ。それも、周りの人間にどうしても知られたくない。何だろう?

 彼は、宮廷の裏口に馬車の用意をさせると、政務室の扉の外に部下を配置し、午後いっぱいは誰が来ても取り次がぬようにと言いつけてから出かけた。政務室の奥の隠し扉から抜け出してきたレオポルドは、裏口にもう来ており、ヘルマン大尉と馬車に乗った。外套のフードを目深に被っているので、御者はまさか国王その人を乗せているとは氣がついていない。

「賢者どのは、ご存じなのですか?」
「こちらから行くとは言っていないが、おそらく待ち構えているだろう。ヴェロニカを通じて、連絡をよこすくらいだからな」

「なんですと?!」
ヘルマン大尉は仰天した。堅物で有名な賢者ディミトリオスが、《青き鱗粉》のマダム・ベフロアを通じて連絡をよこしたことなど、これまで1度もなかったからだ。

「あの女が、わざわざ言ったんだからな。老賢者ディミトリオスさまが、猫を飼いだしたと」
「猫? それが何か」

 レオポルドは、ふふんと、鼻を鳴らした。
「わからぬか。《ヘルメス・トリスメギストスの叡智》とでも言えば、わかるか」
「皆目わかりません」
ヘルマン大尉は憮然として、主君の顔を見た。

「まあ、いい。話をするのはいずれにせよ余だからな」
レオポルドは至極上機嫌だ。

 老賢者テオ・ディミトリオスの屋敷は、王城からさほど離れていない城下町のはずれにある。王太子時代から彼の教えを受けていたレオポルドは、表向きはまだその屋敷を訪れたことはないことになっている。だが、彼は時おり貴族の子息デュランと名乗って王城を抜け出しており、そのついでに何度か老師の屋敷を訪問したことがあった。

 ディミトリオスは、非常に白く長い髪とひげを持つ老人で、何歳になるのかよく知られていない。市井では、不老不死になる薬を飲んで生き続けているとうわさするものもあるが、もしそれが本当ならばこれほど年老いた姿のはずはないだろうと、ヘルマン大尉は密かに思った。背は曲がり、近年はよく手先が震えるようになっているが、鷲のような眼光は健在で、頭脳の働きも一向に衰えていないようだ。

 先王の病死に伴い、王位を継承したばかりのレオポルドは、相談役としてかつての師を厚遇していた。屋敷には、常時数名の弟子が生活を共にしている。弟子といっても、ヘルマン大尉の父親の世代の男たちばかりだ。

 ヘルマン大尉は玄関先で突然の訪問を詫び、出てきた召使いに取り次いでもらった。国王のもっとも信頼する腹心の部下として、彼はすぐに丁重に迎え入れられ、応接室に案内された。飲み物が用意され、召使いと入れ違いに老賢者が入ってきた。扉がきっちりと閉められるのを確認してから、老師はフードの男に非難めいた言葉をかけた。
「いったい、どういうお戯れですかな、陛下」

 レオポルドは、笑って外套を脱ぐと老師に軽くあいさつをした。
「ヴェロニカの送ってきた女が言ったのだ。猫を入手したとか。『アレ』を試すのではないかと思ってな」

「はて。妙ですな。我が屋敷のどの者が娼館にいったのやら。時に『アレ』とは何のことでございましょう」
「しらばっくれずともよい。《賢者の石》だ。硫黄や水銀が足りないのなら、余が用意させるぞ」

 老賢者は、露骨に嫌な顔をした。
「突然お見えになったかと思えば、また酔狂なことを」

 その時、扉の向こうでかすかにカリカリと音がした。
「おや、ちょうどいい。向こうから来たみたいですな」
老賢者は、わずかに扉を開けると、「みゃー」という声と共に、なにやら小さな毛玉が飛び込んできた。

 それは、赤っぽい茶トラの仔猫で、老賢者の足下に直進してきて、その長いローブにじゃれついた。ヘルマン大尉は、笑いそうになるのを堪えるために、横を向き暖炉の上にある醜いしゃれこうべを眺めた。

「なんだ。こんなに小さな猫か。これじゃ、指輪ほどの金しかできないではないか」
レオポルドがいぶかしげに言った。

「あなた様は、どうしても錬金術から離れられないようですな。私めは、この猫をその様な理由でここに置いているわけではありませぬ。それは単なる迷い猫でございます」

「錬金術?!」
ヘルマン大尉は、仰天して思わず口に出してしまった。

「そうだ。フリッツ、そなたはそもそも錬金術について何を知っている?」
「えー、魔術で金を作ることですか?」

 国王と賢者は2人とも非難の目つきを向けた。老賢者はため息をついた。
「ヘルマン大尉。学問は、魔術ではございませんぞ」

 ヘルマン大尉は恥じ入った。彼にとって、老師の行っている学問と、魔術の境目は今ひとつ曖昧なのだが、その様なことを口にできる雰囲氣ではない。

「まあまあ、少しわかるように説明してやってくれ」
「かしこまりました。そもそも、錬金術は、この世の仕組みを解き明かそうとする試みです。古人の知恵によれば、世界のすべては火、氣、水、土の四つの元素より成り立っていますが、これらもまた唯一の物質《プリマ・マテリア》に、湿もしくは乾、熱もしくは冷の4つの性質が与えらてできていると、考えられています。すなわち、《プリマ・マテリア》に正しい性質を与えることさえできれば、どのような物質でも作り出すことができるのです。我々が追い求めているのは、その真実、純粋なる《プリマ・マテリア》を見つけ出し、自在にどのような物質をも作り出すことのできる手法です」

「はあ」
よくわからない。ヘルマン大尉はちらりと考えた。

「こういうことだ。そこの土塊から、土塊たらしめている性質を取り除き、鋼の性質を与えてやるだけで、鉱山にも行かずに名剣ができるとしたら、便利ではないか」
なるほど。でも、やはり魔術そのものではないか。

「で、老師は、それがおできになるのですか」
「まさか」

「なんだ。いいところまでいっているのではないのか?」
レオポルドは、自分の足下に寄ってきた仔猫を拾い上げて、どかっと椅子に腰掛けた。仔猫は国王の上着の袖の装飾が面白いようで、揺らしながらパンチを繰り返している。

「物質を《プリマ・マテリア》に戻し、そして別の性質を与える《賢者の石》は、その辺に転がっているものではありませんでしてな。残念ながら」
老師は、にっこりと微笑んだ。それは全く残念そうに響かない言い方だったので、レオポルドはもちろんヘルマン大尉ですら信じられなかった。

「そなたが口にしたのだぞ。生きた猫に水と硫黄と水銀と塩を適正量飲み込ませ、その体の中で黄金を精製させる方法を試した錬金術師がいたと」
仔猫と戯れながら、レオポルドが言った。

「事実を申したまでです。私めが同じことをするとは申し上げておりませんぞ。それでは、陛下。その仔猫に硫黄と水銀を飲ませたいとお思いで?」
老賢者が問うと、国王はピタリと動きを止めた。仔猫は愛らしい2色の瞳を向けて、遊んでくれる長髪のおじさんを見上げている。

「ううむ。この仔猫か。それは……」
レオポルドは、愛らしい仔猫にすっかり骨抜きにされたようだ。

「なぜ猫にその様な物質を飲ませるのでございますか?」
ヘルマン大尉は、恐る恐る訊いた。

「《賢者の石》といわれる物質にはいくつかの説がございましてな。言葉の通り石の形状をしているという者もあれば、赤い粉だと言う者もあります。また万物融化液アルカエスト という、液体だという説もございます。この万物融化液はすべての物質を溶かすのですが、問題はそれを入れる容れ物も物質でしてな」

「あ。溶けてしまいますね」
「さよう。たとえそれを見つけても保管するどころか、捨てることすらできないのですよ。地面も、海も、すべて溶けてしまいますから」
「それで?」

「それで、この世で万物融化液に一番近いが、外界に危険のない存在として注目されたのが猫だったというわけです」
「は?」
「猫は、地を這い、空を飛び、森にも山にも人家にも自在に棲む。愛らしさを持つと同時に、魔女の手先ともなる。ごく普通の動物でありつつ、液体のようにどこにでも入り込むことができる。誰がいい始めたことかはわかりませぬが、猫を《賢者の石》そのものとみなし、その体内で精の製を試す錬金術師が現れたというわけです」

「では、賢者殿は、その様な説は信じていらっしゃらないわけですね」
「今のところ、敢えて猫を死なせる物質を飲ませるつもりはございません」

 レオポルドは「ふん」と鼻を鳴らした。
「この余や、そなたの弟子に毒を飲ませることは躊躇しなかったのにな」

「それは、あなた様の御身のためですよ。その証に、あなた様はそこでピンピンして猫を撫でておられる。sola dosis facit venenum…服用量が異なれば毒とは申せませぬ」
賢者も負けていない。

「そういえば、余とともに毒になるギリギリの物質をあれこれと飲まされた、そなたの弟子はどこに行ったのだ。まさか飲ませすぎて死なせたのではあるまいな」
「とんでもございません。少なくともここを発った時は、あなた様以上に健康でしたよ」

「ほう。出て行ったのか」
「はい、半年ほど前のことでございます。陛下にお仕えする前に、世を見て見聞を深めたいと申しまして」
「まったく、羨ましいことだ。余も政務や軍務などに煩わされずに、自由に旅をしてみたい」

 老賢者は、ムッとして言った。
「お言葉ですが、陛下。他国の諸王は、あなた様のように勝手に領内を出歩いたりなさりませんぞ。あなた様の自由な『領内視察』を可能にするために、ここらおいでの大尉ほか一部の臣下がどれほど手を尽くしているか、よくお考えくださいませ」
「わかった、わかった」

 ヘルマン大尉も黙ってはいなかった。
「それに、他の方よりも自由に旅もなさっているではありませんか。先日、使者で済ませることもできたのに、わざわざマレーシャル公国まで姫君に会いに行かれましたし……」

「ふふん、あそこには、行っておいてよかっただろう。母上の強引な勧めに従って結婚していたら、今ごろお前たちは贅沢にしか興味のないあの氣まぐれ女に振り回されていたぞ。絵姿と家格の釣り合いだけで決めるのは余の性分に合わない。父上が不幸な結婚生活を強いられたのも、そんな横着をしたからだしな」

 ヘルマン大尉は、主君の発した他国の姫や実母である王太后への失礼な発言は聞かなかったことにした。

 国王レオポルドの花嫁選びは難航している。彼が好みにうるさく、ことごとく断るからだ。だが、花嫁候補への挨拶という口実で彼が隣国に足を運び、その土地の特産や富み具合、地形の強みや弱み、住民の気質、国境警備の状況などを予め伝えられている情報とすりあわせていることも知っていたので、王太后や城の老家臣たちのように、国王の判断を責めるような愚行もしなかった。

 息抜きに城下に遊びに行き、また、暗君のごとく娼館の女たちとふざけているようで、彼は貴族たちとつきあうだけでは得られない市井の人々の生きた言葉に触れている。ヘルマン大尉をはじめとする腹心の臣下たちも、表向きの仕事だけでなく主君の手足となるように陰に日向に動き回り、レオポルドがつきあっている妙な連中をむやみに追い払ったりしないようにしていた。

 しかし、この猫は、どうなんだろう。黄金を作り出す《賢者の石》でないのは確かなようだが。
「陛下、この仔猫、お氣に召されたのであれば、王城に召し出しましょうか」

 レオポルドは、驚いて大尉を見た。
「いや、そんなことは考えてもいなかったぞ。そもそも、老師、そなたが猫を飼うのははじめてではないか?」

「私が望んで連れてきたわけではございませぬ。召使いが家の前で保護したのでございます」
「そうか。ネズミ捕りくらいには役立つかもしれんな」
「それはちと疑問が残りますな。なんせ、ネズミとの戦いで負けて、助けを求めてきたのが、拾うきっかけになったとのことでございますし……」

 自らの不名誉な戦歴が話題になっていると認識しているのか、仔猫はなにやら勇ましい様子で机の上に登ったが、暖炉の上に置いてある髑髏をみつけると、あわてて飛び降り、レオポルドの上着に頭をこすりつけた。
「なんだ、ネズミに負けた上に、動きもしない髑髏に怯えているのか。その調子では、魔女のお付きなどにはなれんぞ」
そう言うと、国王は椅子から立ち上がった。

「陛下、本当にこの猫をお連れになりますか?」
賢者の問いに、彼は首を振った。
「いや、その猫と四六時中遊んでいるようだと、このヘルマン大尉らやジジイどもが氣を揉むからな。仔猫よ、次に来るとき、また遊んでやるから、それまでにネズミくらい狩れるようになっておけ」
彼は、小さな頭をもう一度撫でた。

「そんなにしょっちゅう王城を抜け出されるのは困ります。それに、この猫も、ネズミ捕りの練習をするほどヒマではないかもしれませんぞ」
「ふん。そうか。では、もう少し遊んでから帰るか」

 陛下。そろそろお城に帰っていただかないと、空の政務室を守っている私の部下たちが困るのですが……。ヘルマン大尉は、仔猫と戯れる国王を見ながらため息をついた。確かに水銀やら硫黄やらを飲ませるには、残念なほど愛らしい仔猫だった。おかしな錬金術が流行ることがないように祈りつつ、彼は午後いっぱい猫と遊ぶ君主を辛抱強く待ち続けた。

(初出:2020年7月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ リクエスト 123456Hit

Posted by 八少女 夕

【小説】禍のあとで – 大切な人たちのために

今日は「123456Hit 記念掌編」の第1弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、山西サキさんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: 愛
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: サキさんの知っているキャラ
   コラボ希望キャラクター: サキさんの作品のキャラクターを最低1人
   時代: アフターコロナ。近未来(2~5年先?)
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 道頓堀



今だってわからないのに、アフターコロナの道頓堀なんて、皆目、予想がつかないのですけれど、書けとおっしゃるので仕方なく書いてみました。これ、いまから1年後にこうだったら困るかもしれません。笑い話になることを期待しつつ。

さて、登場人物です。実は、こちらで使うキャラクターはすぐに決まったのです。アフターコロナだと、近未来キャラのうち、もう生まれているのがぼちぼちいますので。使ったのは、いつもコンビで登場している2人組です。で、この2人と共演させるためにお借りするのはどなたがいいかなと迷ったあげく、この方にしました。

というのは、メインキャラの方の年齢設定が今ひとつわからなかったので。この方は3代くらいずっとストーリーの中にいらっしゃるので、どこかはかするだろうなと思ったんです。



大道芸人たち・外伝
禍のあとで – 大切な人たちのために


 やっぱり赤い街だ。拓人は、思った。青空を額縁のように彩る看板に赤やオレンジの利用率が高い。昨日のホールや泊まったホテルのある周辺はそうでもなかったので、彼は印象を間違って記憶していたのかと訝っていた。

 拓人が大阪を訪れるのは2度目だ。2年前は、父親のリサイタルだったので純粋にピアノを聴くために連れてこられたが、今年はどちらかというとシッターが見つからなかったので連れてこられた感がある。母親が従姉妹と一緒にジョイントコンサートをするのだ。その娘で拓人とは再従兄妹の関係にある真耶も、同じように連れて来られていたが、彼女の方は大阪が生まれて初めてだった。

 とはいえ真耶は、まだ6才だというのに妙に落ち着いていて、コンサートは当然のこと、新幹線でも街並みでもはしゃいだりしなかった。

 2人の母親たちは、今日はワークショップがあり観光につきあってくれる時間はない。ホテルで大人しく待たせるつもりだったのだが、夕方訪れる予定にしていたヴィンデミアトリックス家が観光をさせてから先に邸宅へと連れて行ってくれると申し出てくれたので、安心して仕事に専念しているというわけだ。

* * *


「私、歩くのが速すぎやしませんか、お2人とも」
香澄は、訊いた。黒磯香澄は、ヴィンデミアトリックス家で働いている。今日は、東京から来ているお客様の子供たちを観光させてから、邸宅につれていくいわばベビーシッターの役目を任されていた。

「大丈夫です。……だよな、真耶」
拓人は、香澄を挟んで反対側にいる真耶に訊いた。大きなマスクの下から彼女は「ええ」と、くぐもった声を出した。外出時に誰も彼もがマスクをするエチケットは、ようやく薄れてきたが、今日はかつての繁華街に行くのだから、預かる方としては徹底したいと、香澄が2人につけさせたのだ。もちろん彼女自身もしている。

 真耶は、道頓堀の繁華街を眺めながら、言った。
「……ここは、なんだか、テーマパークみたいなところね」

 真耶は、戸惑っていた。それはそうだろう。大きなタコや、ふぐや、カニがあちこちにあり、騒がしい音がしている。東京の繁華街で見るよりも看板が派手だ。

 平日の昼とはいえ、人通りは少ない。これではマスクも必要なさそうだ。かつての賑やかな道頓堀を知る香澄には不思議な光景だった。
「ここ、開店時間、遅いの?」
拓人は、香澄に訊いた。

 香澄は首を振った。
「いいえ。もう11時ですもの。例のロックダウンで閉店してしまったお店がたくさんあって、まだ次のテナントが決まっていないところが大半なのね」

 未知のウイルスのために、世界中で都市のロックダウンがされてから1年以上が経った。拓人の通っていた小学校も、しばらく登校禁止になった。現在はロックダウンをしている都市はないけれど、社会的距離を保ち感染を防ぐための政策は続いていて、2年前のような賑わいは世界中のどこにも戻っていない。

 拓人や真耶の住む東京も、かつては日本でももっとも賑わったと言われる繁華街の1つであるここも、押し合いへし合いといった混み方はもうしないらしい。見れば、シャッターを閉め切ったままの店がいくつもある。

「2年前は、人がいっぱいで、まっすぐ歩けなかったよ」
「そう。そういえば、ずっと外国人観光客が押し寄せていたのよね。それはまた、私には少し不思議な光景だったのだけれど」

 香澄は、2人に優しく話しかけた。
「お昼はどこにしましょうか。スイスホテルのラウンジがいいかしら」

 拓人は、露骨に不満を表明した。
「えー。せっかく道頓堀にいるのに、そんな洒落たとこに行くの? 東京と同じじゃないか」

「でも……」
香澄は少し困ったように、フリルのたくさんついた可愛らしい洋服を着た真耶を見た。大人しく文句も言わずに付いてきているけれど、この上品な少女は、B級グルメの店には行き慣れていないだろうし、嫌がるのではないかと思ったのだ。

 視線を感じた真耶は、香澄を見上げて言った。
「わたしのことなら、大丈夫。拓人、たこ焼きとお好み焼きを食べるって、新幹線からずっと言ってました。ね、拓人」
「うん。ママたち、うちで食べるのとおんなじようなものばっかり食べたがるんだもん。今を逃したら食べられないよ」

 香澄は笑いを堪えた。白いシャツに蝶ネクタイとグレーの半ズボン、上品そうな格好はさせられていても、彼はやんちゃ盛りの少年だ。マダムたちの好きそうな小洒落たカフェよりも、目の前の鉄板で繰り広げられるエンターテーメントが楽しいに決まっている。インパクトの強いコクと旨味たっぷりの庶民の味も、子供の舌には合うだろう。

 ヴィンデミアトリックス家に勤めて長いので、良家の食事がどんなものであるか香澄はよく知っている。それらは栄養に富み、美しく、繊細で、多くの文化と技術が凝縮されている。子女たちはそれらを日々口にすることで、外見だけでなく内面までも、一両日では真似のできない真の上流階級に育っていくのだろう。

 そうであっても、庶民の味の美味しさをよく知る香澄は、B級グルメを心ゆくまで楽しむ幸福もまた人生を豊かにすると思うのだ。せっかくだから、めったにない機会を2人にプレゼントしてあげたいと思った。

 普段なら決して許してもらえないだろう、たこ焼きの買い食いからはじめた。かつては長々と行列ができていた有名店もほんのわずか待つだけで購入することができる。たこ焼きだけでお腹いっぱいになっては本末転倒なので、香澄は一舟だけを買い、堀沿いの遊歩道にあるベンチに腰掛けた。

 真耶は、小さなハンドバッグにマスクをしまうと、レースのハンカチを取りだして、おしゃまに膝の上に置いた。その間にたこ焼きの1つはすでに拓人の口に放り込まれていた。香澄は慌てた。
「氣をつけて! 中はとても熱いから!」

 あまりの熱さに目を白黒する拓人を見て、女2人は思わず笑ってしまった。わずかに火傷をしたらしいけれど、それでも拓人の食欲は衰えなかったようで、嬉しそうに大きな3つを平らげた。香澄と真耶は2つずつを楽しんで食べた。香澄は、ここのたこ焼きが大好きだ。大きなタコのほどよい弾力。生地の外側はカリッとしているのに、中側の柔らかな味わい。ネギや鰹がソースと上手に混じって、ひと口ごとに幸福が口の中に広がる。子供の頃から、たこ焼きは彼女にとって「ハレの日」の食べ物だった。真耶もたこ焼きを氣に入ったようなので、香澄はほっとした。

「こんどはお好み焼きだね」
拓人の言葉に笑いながら、香澄は以前夫に連れて行ってもらった美味しいお好み焼き屋に2人を案内するため、法善寺横町の方へ向かう。

 橋を渡り、少し歩いていると、ギターと笛の音が響いてきて、真耶は足を止めた。異国風のメロディーがここらしくないと香澄は思った。見ると南米風の衣装をまとった2人の男と拓人たちと同年代の少女がいた。ギターとケーナを演奏する2人の大人は、背の高さが少し違うものの明らかに兄弟なのだろう、そっくりの見かけだ。傍らの少女は鈴で拍子を取っている。

 彼らは東洋人のようでもあるが、肌が浅黒くどこか悲しげな印象を与える。拓人と真耶は、少女の前に歩み寄った。

 2人の他に、その演奏に足を止めるものはほとんどいなかった。その空虚さと、ケーナの独特の息漏れと音色のせいで、曲調は決して悲しくないのだが、香澄はなんだか居たたまれない心持ちになった。

 真耶と拓人が熱心に聴いてくれるので、鈴を振っている少女は嬉しそうに笑った。その曲が終わると、子供たちは大きく拍手をした。ケーナとギターの大人たちは帽子をとって大きくお辞儀をした。

「すてきでした。南米のどちらからですか」
香澄が訊くとケーナの男がにっと笑った。
「ペルーのクスコですわ」

「あら。こちらにお長いんですか?」
香澄は驚いた。男の返事が、大阪弁のアクセントだったからだ。

「せや。ぼちぼち30年になんねん」
なんとも不思議な心地がする。民族衣装を着た外国人が外国なまりの大阪弁で話しているのを、東京から来た子供たちが不思議そうに見上げているシュールな絵柄だ。大道芸人だろうか。

「音楽家なの?」
拓人がストーレートに訊いた。ギターの方の男が、首を振って答えた。
「いや、その裏でペルー料理屋をやっているんだ」

「まあ。ここにペルー料理のお店が?」
香澄は思わず声を上げた。

「ええ。小さい店です。よかったら、どうぞ」
男は、ギターケースの中に入っていた紙を香澄に渡した。

「なあに?」
真耶がのぞき込む。

「チラシだ」
拓人が受け取って真耶に見せた。ランチタイムセットの案内だ。

 香澄は、どうしようかと思った。楽しみにしている拓人はお好み焼きを食べたいだろう。一方、真耶は同じ年頃の少女やいま聴いた音色、ひいてはペルーに興味を示している。ここで意見が分かれたら……。

 拓人は、真耶の方を見た。
「行きたい?」

 真耶は「お好み焼きはいいの?」と訊き返した。拓人は、にっと笑うとチラシを香澄に渡して、言った。
「ここに行っちゃダメ?」

 香澄は、ほっとして微笑んだ。
「行きましょうか。……子供たちの食べられる、辛くない料理もありますか?」

 ギターの男が頷いた。
「今日のランチセットは、ロモ・サルタードといって、醤油も入った日本人向けの味ですし、唐辛子は使っていません」

「よかったな。来てくれはる、いうとるよ」
ケーナの男が、少女に言い、彼女はうれしそうに微笑んだ。

 その店は、路地裏の地下にあり、狭かった。外から見ると、こんな所に店があるとはわからないぐらいだ。ランチタイムなのにここまで閑散としているのは、どんなものだろう。味はわからないが、店の感じは決して悪くない。店内は暗くならないように木目の壁で覆われ、机の上には刺繍された黄色いテーブルクロスがかかっていた。

 奥から女性がひょいと顔を出した。
「ママー!」
女の子がその女性に向かって飛んでいった。

 2人はスペイン語で何かを話し、女の子の母親が3人ににっこりと笑った。
「マイド。ドーゾ」

 演奏していた2人とくらべると、日本語は片言ではあるが、彼女も優しい笑顔で歓迎してくれた。ギターの男が、3人に水を運んできた。
「注文はどうしますか。ランチセットですか?」

 チラシの写真では、肉野菜炒めのように見えたので、3人ともランチセットを注文した。わりとすぐにでできたのは、牛肉の細切りとタマネギやピーマン、フライドポテトを炒めて、醤油やバルサミコ酢で味付けした料理だった。

「おいしいわね」
真耶は、あいかわらず上品に食べている。

 少女の母親が調理したのだろうか、家庭料理のような見かけだが、肉は軟らかいし、フライドポテトははサクッっとしていて、パプリカも上手に甘みが引き出されている。醤油とバルサミコ酢もしっかりからんでいて、舌の上でジュワッと旨味が広がる。これだけおいしい料理を出し、感じのいい店主たちの経営する店なのだからもっと繁盛してもいいはずだと香澄は思った。

 拓人は、四角錐に盛られたご飯を崩すのがもったいないようだ。
「ご飯が、ピラミッドみたいになってる」
「お、わかったかい。これは僕たちの故郷にあるピラミッドをイメージして盛っているんだよ」

 ギターの男が、テーブルの近くにやって来た。真耶の近くに立っている少女を膝にのせると、子供たちにもわかるように答えた。

「エジプトと関係あるの?」
「いや、ないと思うね。僕たちの言葉ではワカっていうんだ。神聖な場所って意味だよ」

「ペルーって遠いの?」
そう拓人が訊くと、女の子は「地球の反対側っていうけど、よく知らない」と言った。
「この子は、まだペルーに行ったことがないんだよ。ここで生まれたから」
父親が説明した。

「コロナが流行ったときに、帰らなかったの? 同じクラスのナンシーの家は、急いでアメリカに帰っちゃったよ」
拓人が訊いた。

 彼は首を振った。
「そう簡単にはいかなくてね。向こうには住むところもないし、この店をたたむのも簡単じゃない。それにこの子はここで生まれたから、向こうの学校にはついていけない。ここで踏ん張るしかなかったんだ」

 香澄は、この店をめぐる状況を理解した。国の仲間や観光客が来なくなり、外出の自粛の影響も大きく客足が途絶えたのだ。店内で待っているだけでは食べていけないほどに経営が苦しいのだろう。

 ケーナの男が出てきて、少女の父親に声をかけた。
「せっかくやから、何か演奏しよか、フアン。坊ちゃんと嬢ちゃん、何がええ? 『コンドルは飛んでいく』?」
奥のわずかに高くなって舞台のようにしてある所に座った。

 真耶が訊ねた。
「さっきの曲は、なんていうの?」

「ん? あれは、『Virgenes del Sol 太陽の処女たち』っていうんや。好きなんか?」
真耶は、頷いて訊き返した。
「たいようのおとめたちって、誰?」

 ファンが答える。
「昔、ペルーには僕たちの先祖の築いたインカという帝国があったんだ。そして、皇帝のいる都クスコには、全国から集められたきれいで賢い女の子たちが、織物を作ったり、お供えのお酒をつくったりしながら、神殿で太陽の神様に仕えたんだ。あの曲は、その女の子たちのための曲なんだよ」

 膝の上の少女は、大きな瞳を父親に向けた。祖先のインカの乙女たちを思わせる優しく澄んだ黒目がちの瞳。フアンは、娘をぎゅっと抱きしめて「頑張らなくちゃな……」と呟いた。

 香澄は、ひと気のない街並みのことを思った。興味を持って立ち寄った日本人、観光や出稼ぎで日本を訪れた外国人、それらの人々で賑やかだっただろう、かつてのこの店の様子を想像した。国に帰ることと、ここに残ることのどちらも楽ではない。苦渋に満ちた決断だったに違いない。客引きのため大道芸人のような真似をしてでも、この街のこの店で営業を続けるのは、守るべき大切な家族がいるからだ。

 みな頑張っているのだ。愛する家族や仲間たちを守るために。

「フアン~。来てや、弾くで~」
ケーナの男がしびれを切らしたらしい。
「わかったよ」

「ホセのおっちゃん、パパの従兄弟なの。一緒にクスコから来たんだって」
少女が、小さな声で説明してくれた。それから棚から鈴を3つ盛ってきて、2つをテーブルに置き、自分で1つ持った。

 拓人と真耶は、同時に鈴に手を伸ばして、駆けていく少女の後を追った。香澄は、2人のよく似たペルー人と、仲良く鈴を鳴らす子供たちが、仲良く演奏する姿を眺めながら、微笑んだ。

(初出:2020年6月 書き下ろし)

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Quena - Virgenes del Sol - Eduardo Garcia
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Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ(6)永遠の光の中へ

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の6作目です。

第6曲は『Lux Aeterna』使われている言語はラテン語です。


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心の黎明をめぐるあれこれ
(6)永遠の光の中へ
 related to “Lux Aeterna’


 第6曲 “Lux Aeterna’は、このような歌詞だ。

Lux aeterna luceat eis domine
Requiem aeterna dona eis domine
主よ、永遠の光が彼らの上を照らしますように
主よ、彼らに永遠の安息を与えて下さい



 これはキリスト教の『レクイエム(死者のためのミサ)』典礼文の聖体拝領唱 (Communio)の一部と入祭唱 (Introitus)の一部だ。単純に、この曲を耳にするだけでは、これが『レクイエム』の一部だと想像するのは難しい。しかも、とくに悲しさを感じさせないメロディになっているので、余計にそう思う。

 しかし、私と『レクイエム』の関わりを考えるのに、この曲の淡々としたあり方は妙な符号を感じる。

 最初に『レクイエム』を耳にしたのはいつだろう。何のための曲か理解しながら聴いたのは3歳ぐらいだったろう。モーツァルトの『レクイエム』だった。

 両親ともにクラッシック音楽畑の家庭に育った私は、歌謡曲よりも早くにクラッシック音楽を耳にする、若干風変わりな育ち方をした。自分では記憶にないが、童謡と同じ氣軽さでワーグナーやベートーヴェンを口ずさんでいたらしい。

 さて、父が何度も繰り返しかけて、強烈な印象を私に残したモーツァルトの『レクイエム』は、ヘルマン・シェルヘン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団による1959年録音だった。なぜこれほど細かいことがわかっているかというと、数年前にそのLPレコードを実家で発見したのだ。持ち帰りたかったが、LPでは聴けないので、写真だけ撮り同じ録音をiTunesストアからダウンロードした。

 このLPが幼かった私に大きな印象を残した要因の1つは、そのカバージャケットだ。おそらく本当に亡くなった誰かの青ざめた足の裏と白い布のアップという、大胆な写真が使われていた。2年前にiTunesでダウンロードした方は、もちろんそのように衝撃的な写真は使われていない。

 私の父が一時期狂ったようにこの曲ばかりをかけていた理由と、おそらく私が3才の頃だっただろうと推測するのは、その頃に私の弟が夭逝したからだ。享年3ヶ月だった弟を初めて見たのは、棺の中で花に囲まれている姿だったので、私には生きていた弟を亡くしたという実感は現在に至るまで薄い。もちろん両親にとってそれは全く違ったことだろう。今は3人ともあちら側にいる。私は、親への悼みを通して、両親の弟に対する想い、痛みや悲しみを感じる。

 子供の頃に私が聴いていた『レクイエム』も同様に、父母の感じ方と、私の感じ方とでは全く違ったものであったろう。私は、『レクイエム』と実際の身内の死が結びついていなかったのだ。そして、純粋に音楽としてモーツァルトの『レクイエム』を好きだった。
 
 そのような一風変わったなじみ方をしたせいか、私はごく普通のクラッシック音楽愛好家と比較しても『レクイエム』をよく聴いている。つまり、「お葬式の音楽」という物忌み感が薄かったように思う。なぜ過去形なのかというと、母が亡くなって以来は、どちらかというと本来の意味での鎮魂ミサ曲として聴くようになったからだ。

 誰もがクラッシック音楽やキリスト教の葬儀に詳しいとは限らないので、簡単に説明を入れるが、『レクイエム』とは「安息を」という意味のラテン語である。カトリック教会で「死者のためのミサ(死者の安息を神に願うミサ)」に使われるラテン語の典礼文が、この言葉で始まるのだ。そして、ミサは、言葉で唱えるほか合唱曲として演奏する形もあり、クラッシック音楽でいう『レクイエム』は、この典礼音楽のことをいう。グレゴリオ聖歌をはじめとして、多くの曲が存在するが、有名なのがモーツァルト、ヴェルディ、フォーレの3作品である。

 日本では、ヴェルディの『レクイエム』から『怒りの日(Dies irae)』が映画の主題歌に使われたのをご存じの方も多いかもしれない。私が聴くのは、やはり圧倒的にモーツァルトの作品で、次にフォーレ。ヴェルディは、通しで聴いたことがないかもしれない。これは個人の好みの問題もあるが、そもそもヴェルディの作品は教会で『死者のミサ』のために演奏されることが少ないのだ。オーケストレーションがドラマティックすぎて葬儀に向かないからかもしれない。

 このブログによく書くように、私は音楽を聴きながら小説のアイデアを膨らませていくことが多い。そして、2つの『レクイエム』の『入祭唱とキリエ』が、『樋水龍神縁起』の重要シーンの発想の源になった。モーツァルトが本編、そしてフォーレが続編である『樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero』の、それぞれ瀧壺に潜るシーンである。

 死を意識せずに書いたかといえば嘘になるのだが、この2つのシーンはどちらも死と生の境界が非常に曖昧な世界を舞台にしている。

 私たちの日常では、死と生はコンピュータ演算で言えば1と0と同じくらい明確に分かれ、曖昧であることはあり得ない。たとえば、私が両親や弟とこの世で再会することは100%ない。けれど、『樋水龍神縁起』でなんとか表現しようとした世界、人間の叡智の及ばぬレベルの世界では、生と死がまったく同じものとみなされている。それは、キリスト教会で説かれる世界観ではなく、東洋哲学を元にした、けれど宗教に囚われない精神世界の話だ。私は、このエッセイで何度か述べている『般若心経』の解釈からこの世界観を作り出した。そこでは生と死だけではなく、聖と俗、男と女、過去と未来、愛と憎、有と無など全ての相反するものが1つとなる。

 その世界に向かうときに私がイメージしている曲が、どちらも『レクイエム』だったのは、私にとってその世界が死に近かったからではなく、私の原体験により『レクイエム』が死よりもそのどちらでもない世界に近かったからだ。弟は死でも生でもない世界に属していた。耳にしていたメロディも同様だった。その世界は、暗闇と光の両方を持っている。外界から光の届かない深い瀧壺に現実ともつかぬ黄金と虹色の光が溢れている。

 その世界観は、私自身がどのように世界を理解しているかの集大成でもある。私は一応カトリック信者の名簿に載っている信者だが、その思想はローマ法王庁の教示には全くしたがっていない。私が理解している「神」とは、キリスト教信者が信じ、そしてまた、彼らは認めなくとも、その他の宗教を信じる者たちも信じている至高の存在である。

 その存在は、私たちに都合よくは存在しない。免罪符や壺を買ったり、票集めに協力することで不老不死にしてくれたり死後に快適な場所を確保してくれるような存在ではない。人類だけに特権を与え、他の存在を破壊することを許可するような存在でもない。

 私がいまよりも幸福になれるか、楽な死を迎えられるかは、全く保証されていない。たとえ「あの世」があるにしても、私が他の誰かよりも有利になるように、いま現在できることは、ない。

 私が「この世」で、少しでも良く生きようとするのは、ポイントを集めて来世で何かの特典と交換するためではない。単純に、私は「この世」で後から後悔したくないから、つまり、自分の精神を良く保つためにだけ、信条にしたがって日々の生活を営んでいるだけだ。

 私がこの宗教観らしきものにたどり着いてから、そろそろ20年ほどになる。正しいかどうかはわからないし、誰かに勧めようとも思わない。ただ、私はそう考えて生きている。

 とはいえ、私が日常生活で本当に達観して生きているかと問われれば、それは違う。母が逝ったのは『樋水龍神縁起』を書いてから7年も経っていた2018年だが、大きなショックを受け嘆き悲しんだ。思想をもって感情を制御できるというものではない。

 同じ敷地内に住む大家の飼っていた犬や猫たちが寿命でこの世を去ったときですら、悲しくて辛かった。そういうものなのだろう。

 死に関することだけではない。日々の生活で理不尽な目に遭ったり、不愉快な思いをすれば、そのことで大いに感情を乱される。私はそれでいいと思う。悲しみや怒りに左右される分、喜びや楽しみの感情も私にはあり、それを思想に遮られることなくおおいに享受することができるのだから。

 私が2度と会うことのできなくなった人たち、両親や弟、祖父母、親戚、恩師、隣人、それに、短い寿命を駆け抜けていってしまった犬や猫たちの魂、ただの物質以上の何かであらしめていた心ある存在は、どこへ行ったのだろう。

 生と死の境のなくなる、暗闇と光が同じものとなるどこかで、個であることをやめたのだろうか。少なくとも彼らは、金銭や今日の食べるものの心配、成績不振、年金不足、戦争や地球温暖化、いつ終わるともしれぬ病魔の影などに煩わされることのない、安息の中にいる。

 いつか私もまた、同じ光の中に去っていくことを考える。それでいて、「それは今日ではなさそうだ」と根拠もなく考えている。まだ、夕食の献立に頭を悩ませ、つまらないことに腹を立て、安物買いで銭を失い、平和で美しい田舎の光景に感動し、小市民としての日常を繰り返すことだろう。

(初出:2020年6月 書き下ろし) 

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Lux Aeterna
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【小説】Usurpador 簒奪者(11)燃えて消えゆく想い

『Usurpador 簒奪者』の最終回です。

また大きく時が動いて、マヌエラは我が子アルフォンソの病床にいます。全ての目撃者であるジョアナは、マヌエラたちと自分たちの運命が変わった若かりし日々のことについて記憶をたどります。

30年前に起こったことの物語はこれでおしまいですが、この話の因縁が第1作『Infante 323 黄金の枷 』の直接の続編でもある第3作『Filigrana 金細工の心』に引き継がれます。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(11)燃えて消えゆく想い

 濃紺のゴブラン織りカーテンを締め切ってあるせいで、部屋はことさら暗く思われた。横たわる当主の具合が悪く、サントス医師は、しばらく泊まり込むことになるだろう。すぐ隣の部屋の準備を済ませた後、ジョアナは静かに戻り、控えめに報告を済ませた。

 当主ドン・アルフォンソの顔色はいつもに増して悪く、食事のために起き上がることも出来なかった。それでも、彼はジョアナに礼を言うことを忘れなかった。その声は、聞き取れないほどにわずかなものだったが、彼が生まれた時からこの館で働き見守り続けてきた彼女にはよくわかった。

 当主は、ベッドの脇に座る母親ドンナ・マヌエラに微笑みかけて、話の続きに戻った。
「父上が亡くなった日の事を思いだすのですよ」

 マヌエラは、瞳を閉じた。ジョアナも、その日のことはよく憶えている。わずか5年ほど前のことだ。現当主と同じく身体の弱かった前当主は、同じように暗くカーテンを締め切った部屋でこの世を去った。

 周りに揃った家族たち1人1人に、思いやりのこもった声をかけていた臨終のカルルシュは、しかし、意識が混濁すると、ずっと口にしなかった想いを漏らした。

「ドイス……。ドイス……。おもちゃも、絵本も……全部あげる……。だから、もう1度、笑ってよ……」

 その心の叫びは、臨終に立ち会うことを拒んだ22には伝わらなかった。

 カルルシュを支えて生きることを選び、結婚し、4人の子供の母親となったマヌエラを、22は裏切り者と罵倒し、2度と目を合わせようとしなかった。17年後、23が居住区に遷るのと入れ違いに『ボアヴィスタ通りの館』に遷されてからは、ジョアナが22と顔を合わせることはほとんどなくなった。

 5年前、臨終のカルルシュのうわごとを耳にしたマヌエラは、いつものように娘のアントニアに伝言を頼むのではなく自ら『ボアヴィスタ通りの館』へ出かけ、22にこの部屋にきてくれるように懇願した。だが、彼女は虚しく1人で戻ってきた。

 溝はあまりにも深く、時は無力だった。双子のように仲良く育った2人の少年は、もう2度とかつてように笑い合うことはなかった。

 マヌエラは、その時のことを思い出したのだろう、聞き取れないほどの微かな声で言った。
「かわいそうなドイス……。かわいそうなカルルシュ」

 それから我が子の頬にそっと手を触れて続けた。
「それに、かわいそうなアルフォンソ、かわいそうなクリスティーナ……」

 ジョアナは、はっとして心を現実に戻した。非情なドラガォンの掟に遮られ、愛し合った2人が結ばれることの出来ない例は、22とマヌエラだけではなかった。

 アルフォンソは間もなくくるであろう死を覚悟し、愛し合った娘と結婚しなかった。やがて代わりに当主アルフォンソとして生きることになる弟23に、決して触れることの出来ない妻を残さないように。新しい当主が自ら選んだ妻との間にドラガォンの《5つの青い星を持つ子》を残すこと。それはこの部屋にいる全て、ジョアナ自身を含めて、掟によって黄金の枷に囚われた《星のある子供たち》が、自らの想いを諦めてもサポートしなくてならないドラガォンの悲願だ。

「母上。私は幸せでしたよ。クリスティーナも、きっとこれから幸せをつかんでくれることでしょう」
当主は肩で苦しそうに息をしながらも、穏やかな口調で微笑みかけた。
「アルフォンソ」

 マヌエラの背中を、ジョアナは見つめた。肩が震えていたが、彼女は取り乱すようなことはしなかった。ジョアナもまた、黙ってその場に立ちすくんだ。彼女の覚悟も、目の前の間もなくこの世を去ろうとしている若い当主がこの世に生まれたあの日にもう出来たのだ。

* * *


「ジョアナ。これはなんだ」
アントニオの手には、ジョアナの日記があった。昨晩、マヌエラの出産を控室で待ちながら書いていたのを、ドタバタでつい置きっぱなしにしてしまった。氣づいて朝一番で取りに来たが、その時にはもうなかったのだ。

「読んだの?」
「ああ。誰のものだかわからなかったからね。最初の方、誰が書いたかわかるまで読ませてもらった」
「そう」

 受け取ろうと手を伸ばしたジョアナに対し、アントニオは首を振った。
「申し訳ないが、これをそのまま返すわけにはいかない」

「どうして?」
「君は誓約を忘れたのか」

 ジョアナは首を傾げた。誓約が何かぐらいはわかっている。ここで起こったことを、外の人間に話したことは1度もないし、この日記を外の人間に見せるつもりも全くなかった。
「誓約を破ったりしていないわ。これは純粋な日記よ。個人的なものだし、いけないの?」

 アントニオは頷いた。
「君が、これをよその人間に見せたりするような人でないことはよくわかっている。でも、君はたった数時間でもこれのことを忘れていたね。同じことが君の家で起こるかもしれない。それが起こってしまってからでは遅いんだ」
「持って帰ったりしないと言っても?」

「この館の中で存在を忘れることも許されないんだ。君は、この中にインファンテの存在について触れている。この記録を後世に残すことは許されない。たとえ、この館の中であっても」

 アントニオが、どこまで読んだかジョアナにはわからなかった。彼女の彼に対する想い、フェルナンドの死、マヌエラをめぐるカルルシュとドイスの葛藤、すべてを次の世代の《星のある子供たち》と《監視人たち》にも知られずに置かなくてはならないことは、ジョアナにもわかった。

 彼女は、この館の中で時間を過ごし、多くを目撃し、体験し、大切なものを得て、そして別の大切なものを失った。彼女は歳を重ねたのだ。それは記録してはならないものだった。アントニオは、いつものように落ち着いた低い声で言った。
「すべてを君の心の中に留めておくがいい。それは、誰にも禁じることはできない」

 ジョアナは頷いた。薪の燃えている暖炉に視線を移した。
「燃やしてちょうだい」

 アントニオも頷くと、彼女の手をその日記に添えさせた。彼女は力を込めて、それを火の中へと放り込む彼の手助けをした。

(初出:2020年6月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(10)決意

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

「うっかり」のせいで、自分の意思とは関係なくカルルシュの相手になってしまったマヌエラ。もともとは強制だった現実を、彼女は自分の意思で選び取ることになります。

現実に同じことがあるとして、たった2日でコロッと相手を変えるかと思う方があるかもしれませんね。私が思うに、マヌエラは始めから揺れていたのだと思います。人生には、あるものを得るために他方はどうしても捨てなくてはいけない場面があります。宣告は、どちらを選んでも後悔しただろう彼女に、一方の道に迷いなく進ませるための、大義名分を与えたのかもしれません。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(10)決意

 宣告されたマヌエラが、掟に従い居住区に閉じ込められて2晩が過ぎた。はじめの晩にカルルシュが自死を試みた。一命は取り留めたものの、常に医師や召使いたちが行き来し続けていた。マヌエラは、特別に運び込んでもらった簡易寝台で夜を明かし、医師たちの指示に従い、弱っているカルルシュの世話をしてすごした。
 
 鎮静剤によって眠りつづける彼を見て、マヌエラは複雑な想いに囚われていた。愛する男との未来を奪った彼への怒りや憎しみがないと言ったら嘘になる。けれども、彼が後悔し償いのために迷わず命を差し出したことは、彼女の怒りや悲しみの焰に大量の雨を降らせてわずかな熾り火にまで鎮火させてしまっていた。

 それに、マヌエラは心底疲れていた。宣告から自殺騒ぎが立て続けに起き、居住区には常に誰かがバタバタと出入りしていた。本来ならば、宣告で意思に反した決定を強制された彼女を、館中の人々が氣を遣うはずだろうが、緊急事態でそのことは忘れ去られていた。ここから出ることの許されない彼女のために、朝昼晩の食事が運び込まれるが、それをゆっくり食べるような状況ではなかった。そもそも食欲もほとんどなかった。

 厚い壁に遮られた隣の居住区には、22がいるはずだったが、その兆しは何も感じられなかった。彼が大きな声を出しで抵抗したのは、彼女がここに閉じ込められるまでの事だった。その後に彼女は、常に誰かが忙しく出入りしている居住区の2階の出入り口には行かなかったし、そうでもしなければやはり居住区に閉じ込められている22と話すことは不可能だった。

 3階の小さな部屋で用意された食事を終えると、彼女はカルルシュが横たわる寝室に戻り、ベッドの近くの小さな椅子に座った。その椅子は医師たちの邪魔にならないように、かなり後ろの壁際にあり、そこで彼女は痛み止めで朦朧としたカルルシュの顔を眺めていた。

 やってくる召使いたち、監視人たち、そしてサントス医師や看護師たちは、これまでと同じようにカルルシュに丁寧に言葉をかけ、世話をしていたが、誰もがぎこちなかった。

 マヌエラは、そのぎこちなさをよく知っていた。これまでも、ここまであからさまではなかったが、誰もがカルルシュに対してある種の距離を持って接していた。どこかに「ここにいるべきではない相手」に仕方なく接している風情があった。マヌエラは、カルルシュがずつと感じてきた疎外感を、この2日ほど強く身をもって感じたことはなかった。たった2日でも、直接自分とは関係がないにもかかわらずこれほどまでに居たたまれない立場に、彼は当事者として20年も立っていたのだ。

 簒奪者ウーズルパドール ……。本来の跡継ぎの座を奪った、望まれぬ星5つの存在。うつろな瞳で天井を見ているカルルシュは、これまでたった1人しかいなかった味方、すなわち彼自身にも見放されてしまった。

 そして、サントス医師の指示で、その日彼はベッドの上に起き上がり午後を過ごした。うつむきサントス医師の言葉を聞いていたが、「何かありましたら、マヌエラに伝えてください」という言葉で、はっとした。壁際に疲れた表情で座っている彼女を見つけ、申し訳なさげに項垂れた。

 彼が起き上がっていることを聞いたのだろうか、騒動以来はじめて当主ドン・ペドロが居住区に入ってきて、いつもの威圧的な佇まいでカルルシュを見下ろした。その眼差しには、いつもの厳しさだけでなく、あからさまな憎しみもこもっていた。当主が、怒りを収めていないどころか、2日前よりももっと腹を立てていることがマヌエラにも伝わってきた。

「22にお前の遺書のことを話してきた」
ドン・ペドロは、カルルシュを冷たく見つめ言い放った。マヌエラは震えながら立った。

 カルルシュが残した遺書を、彼女は読んでいなかった。首を吊ろうとした彼を支えて助けを呼び、そのまま大騒ぎの中で震えている間に、その遺書は然るべき相手の手に渡ったらしい。この2日の間に、伝え聞く情報でおおよその内容は耳に入っていた。彼は命と引き換えに、彼が望まずに奪ってしまった全てを22に返したかったのだ。

 だが、その遺書すらも、ドン・ペドロをひどく怒らせているらしい。

「22はこう言った。『全てなんてありえない。ドラガォンの掟では、私は2度とマヌエラに触れられない。あの男が死んで、私がプリンシペに代わったとしても、私が血脈を繋ぐなんて期待されては困ります。私はあなたたちドラガォンには絶対に協力しない。血脈を繋ぎたければあなたたちでなんとかするんですね』」

 カルルシュは黙っていた。苛立ちを募らせてペドロは吐き捨てた。
「いいか。お前は自分の引き起こしたことの責任をとるんだ。その女でも、他の女でもかまわん。必要なら医学の手を借りてもいい。血脈を繋げ。他に何もできなくても、そのくらいはできるだろう。それさえ済ませれば、死ぬなりなんなり、好きにするがいい」

 なんてひどい……。マヌエラは、ドン・ペドロの非情さに震えた。自分を道具扱いされたことよりも、ただひたすらカルルシュへの彼の冷たい態度にショックを受けた。

 マヌエラはカルルシュの顔を見た。青ざめて、その瞳にはいっぱいの涙がたまっていたが、育ての父親が腹立ち紛れに部屋の扉を叩き付けるように閉めて出て行っても、反論もせず、泣きわめくこともなく下唇をかみしめていた。

 ゆっくりと身を起こすと、まだ立ち竦んだまま彼を見ているマヌエラの視線から身を隠すように背を向けた。
「嘲笑ってくれ」

 彼女は、言葉を見つけられなかった。瞳を閉じて、わき上がってくる悲しみと憐憫を持て余した。

「長く生き過ぎたんだ。こんなことをひきおこす前に、出来損ないはさっさと死んでいればよかったんだ。謝罪なんか何の役にもたたないのはわかっている。だから、もし、それで君の氣が済むなら、僕が死ぬまで憎んで、罵倒して、嘲笑ってくれ」

 肩を落として震えるその姿は、マヌエラの心を締め付けた。

 カルルシュは、このシステムの被害者だ。彼は、マヌエラと22にだけはひどいことをしたかもしれないが、それ以外の全ては、彼に何の責任もない。彼を追い詰め、命を差し出そうとしても許さずに責め立てるドン・ペドロと周りの人々は、彼を苦しめるドラガォンのシステムそのものだ。マヌエラに将来の職業を諦めさせ、22の才能を腐らせる巨大で非情なシステム。いま目の前で震えているカルルシュは、権力に潰されかけている弱者だ。法の下の正義を学びたかった彼女には、それは許せることではなかった。いや、それに抵抗しないことで、自分も加害側に加担してしまうことが許せなかった。

 彼女は彼の横にそっと腰かけると、その手をとって自分の唇の所に導いた。彼は訝しげに涙に濡れた瞳を向けた。

 マヌエラは静かに語りかけた。
「そんなことはしないわ、カルルシュ。あなたは1人じゃない。私があなたの味方になるから」

「マヌエラ?」
「あなたの運命の重みも、ドイスやドン・ペドロから受ける憎しみも、私と分け合いましょう」

 彼は戸惑って、言葉を飲み込んだ。マヌエラは彼の喉に巻かれた包帯にそっと手をやり、哀れみに満ちた優しさでその溝をなぞった。

「どうして……。憎んでも憎みきれないだろう?」

「憎んでも、もう私たちは他の道には行けないのよ。憎みながらここににいても、お互いにつらいだけだわ。それに、こんなに追いつめられたあなたを、高みの見物をしながら嘲笑うなんてどうしてできるの。先に生まれてきたのも、体が弱いのも、あなたのせいじゃないのに。どうしてあなただけが全てを背負わなくてはならないの。どうしてあなただけが、皆に見捨てられなくてはならないの。そんなの悲しすぎるでしょう」
「マヌエラ……僕を哀れんでくれるのか」

 マヌエラは微笑んで彼をそっと抱きしめた。彼は堪えきれず、声を上げて泣き出した。
「負けずに生きて。つらい時は、一緒に泣きましょう。私に助けられることは、なんでもするわ。叱られる時にも、一緒にいてあげるから」

 カルルシュは、泣きながらマヌエラを抱きしめた。

 彼女は心の中でつぶやいた。ドイス、許して。私はこの人の力になりたい。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(9)宣告

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

さて、このストーリーのメインとなる事件を語る回です。「そんなアホなことで……」と呆れるかもしれませんが、カルルシュの「うっかり」で何人かの運命が変わってしまいました。

サブタイトルになっている「宣告」について、前作未読の方のために少しだけ説明しますが、この作品群に出てくる《星のある子供たち》といわれる腕輪を填めた人々には、特別な掟があり、そのうちの一つに「《星のある子供たち》である男は、まだ誰にも選ばれていない《星のある子供たち》の女に、立会人の前で正式の文言による宣告をすることで、自分と一緒になることを強制できる」というものがあるのです。

前作の主人公23がヒロインであるマイアに発動したのもその正式な宣告でした。これは非人間的なので、現代では滅多に起こらないことになっています。ところが、この親子ときたら2代続けて宣告することになってしまったのでした。23は他に方法がなかったとは言え、それをしてしまったことでめっちゃ落ち込んでいました。なんせ母親に起こったことは、ある意味で、この一族のトラウマになっていましたし……。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(9)宣告

 息苦しさに目を覚ました。暗闇の中に白い顔が浮かび上がった。眠っていた彼の上に、重みをかけてのしかかっていた。目を血走らせ、眉を吊り上げた、その凄惨な顔の女はドンナ・ルシアだった。同時に、その女の腕が自分の首にかかって締め付けているのもわかった。声は出ず、脳の周りにはち切れそうになった血管が集まり痛いほどに膨らんでいるのもどうする事も出来なかった。

 なぜ、それほどまでに、僕が憎いのですか、母上。霞んでいく瞳、苦しくて恐ろしくて、抵抗する事も出来なかった。

 カルルシュは、目を覚ました。13歳だったあの夜の夢を見た理由がわかった。首に痛みが残っている。脳の周りの痛みも、頭痛として残っている。ベッドの上にいて、サントス医師の顔が見えた。

「ご加減はいかがですか。メウ・セニョール」
「……死に損ねたのか」
「マヌエラが、すぐにあなた様を支えてくれたのですよ。そうでなければ、危ない所でした」

 サントス医師の視線を追って顔を僅かに動かすと、ソファでぐったりとして顔を覆っているマヌエラが見えた。薄れていく意識の向こうで、彼女の悲鳴を聴いたのは間違いではなかったのだと思った。

* * *


 22がマヌエラと愛し合っていることは、もはや公然の秘密だった。誰もがその日は近いと感じていた。彼らが当主ドン・ペドロに一緒になる許しを請い、インファンテ322の居住区がもはや独房ではなく、共に格子の向こうで暮らすことを望んだマヌエラとの愛の巣になる瞬間。

 そして、事実、彼は昨日の午餐が終わったときに、立ち去ろうとする父親ドン・ペドロを呼び止めたのだ。彼は、マヌエラに近づきその手を優しく取ると、当主に許しを請うために近づいた。

 カルルシュにとっては、死の宣告にも等しい瞬間だった。ドイスに、青い星を持つ男に選ばれたその瞬間から、赤い星を持つマヌエラは永久に、やはり青い星を持つカルルシュには手の届かないところへと行く。どれほど愛しても、事態が変わろうとも、絶対に覆すことの出来ない掟だ。

 もう2度と、夢を見る事も許されない。自分が求愛して受け入れてもらう夢も、それから同じように繰り返した彼女に宣告で強制する夢も。夜の暗闇の中で何度も繰り返した虚しい宣告の言葉ももう使うチャンスがなくなるのだ。

「《碧い星を5つ持つ竜の直系たる者が命ずる。紅い星2つを持つ娘、マヌエラ・サントスよ、余のもとに来たりて竜の血脈を繋げ》」

 いつものひとり言のつもりだった。だが、彼は、3人が信じられないと言う顔をしながらこちらを眺めているのを見た。いったいどうしたんだろう。いつも僕の事なんか誰も見ないのに。

「嘘だろう……?」
22の顔が激しい憎悪に歪んだ。何かを続けて言おうとしているのを、彼の父親が制止した。それから、息子に負けないくらい憎しみのこもった目をしながら、低く妙に静かな声で言った。

「《碧い星を5つ持つ竜の直系たる余は、碧い星を5つ持つドン・カルルシュ、そなたの命令を承認する。竜の一族の義務を遂行せよ。紅い星2つを持つ娘、マヌエラ・サントスよ、ドン・カルルシュに従え。そなたには1年の猶予が与えられた》」

 その時にカルルシュは、ようやく自分が本当に宣告をしてしまっていた事に氣がついた。あたりは白く遠ざかり、騒ぎが何も聞こえなくなって周りが回っているようだった。当のマヌエラの絶望に満ちた眼も、他の召使いたちの驚愕に満ちた顔も、彼に飛びかかろうとする22をアントニオが必死で止める姿も、まるで現実ではないように存在していた。

「なぜなんだ!」
22は暴れながら叫んでいた。
「まだ足りないのか! 名前も、人生も、夢まで取り上げて、それでもまだ足りないのか!」

 カルルシュは、その言葉で我に返った。ドン・ペドロの合図で、ソアレスはマヌエラの腕を取って食堂から連れ出そうとした。それを見て22は絶叫した。
「離せ、アントニオ! 父上! あなたには心というものがないのか! マヌエラ、マヌエラ!」

「ドイス……」
マヌエラも泣きながら、無理矢理に格子の向こうへ押し込められる22に向かって手を伸ばした。

「父上……。私はなんてことを……」
カルルシュは椅子に崩れ落ちるように座り込むと、テーブルに突っ伏した。

ペドロはその息子を厳しく見つめた。
「撤回はできない。お前の義務を遂行しろ」

* * *


 もっと早くに死んでいれば、あの時、彼を殺めようとした母親、いや、彼が母親だと信じていた女性が失敗していなければよかったのにと、彼は瞳を閉じた。

 我が子である22をインファンテの宿命から救い出すために、彼女は手を穢そうと決心した。だが、その行為は、彼女の夫であるドン・ペドロに氣づかれてしまい、完遂する事が出来なかった。そして、彼は自分の妻を退けなければならなかった。プリンシペであるカルルシュに手を掛けようとした、ドラガォンで考えられる限り最も重い罪を犯した女は、当主夫人でありながら許されるはずはなかった。

 僕は、ドイスからすべてを奪ったのだ。名前も、立場も、未来も、母親も、そして愛する女まで。

 ドイスが大切だった。つらい館での子供時代で、ドイスだけが僕の光だった。それなのに、僕はドイスの人生と心を殺してしまった。ほんのわずかの不注意で、するはずではなかった宣告をしてしまった。

 マヌエラは、22のとは別の居住区に閉じ込められた。そして、1年経つか、妊娠するか、それともカルルシュと正式に結婚するまでそこから出ることを許されなくなった。彼もまた、その居住区で寝泊まりすることになり、夜になるとそこへと案内された。顔を覆って泣いているマヌエラの横を通った。

 彼は、短く遺書をしたためた。自分が死ねば、ドイスは本来手にすべきだったものを全て取り戻すことが出来る。ドラガォンも相応しい跡継ぎの帰還を喜ぶだろうと。

 それから、バスルームへ向かうとタオルをシャワーヘッド掛けに結びつけ、小さな椅子の上に立つと輪に首を通した。怖かった。目をつぶって勢いをつけて椅子を倒した。苦しくて痛くて激しく後悔したが、すぐに意識がなくなった。

 そして、あの悪夢の後、目が覚めた。絶望の中にいながらも、あの音を聞いて駆けつけたマヌエラが彼の命を救ってくれたのだ。彼は、瞳を閉じた。

 マヌエラがいてくれたら、人生が変わると、1人ではなくなると、思っていた。そんな事はすべきじゃなかった。1人でいるべきだったんだ。たぶん、みんなの幸せのためには、僕はもともと生まれてくるべきではなかった。なのに、どうして死ぬ事も出来ないんだろう。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(8)太陽と影

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

ようやくタイトルになっている「簒奪者」が、本文に出てきました。カルルシュの大きなコンプレックス、彼を生涯苦しめた言葉です。才能がないのに上に立たざるを得ない者と、才能があるのに何一つすることを許されない者。たった数日の誕生の違いで道が分かれてしまったことが、本来ならばお互いを思いやって仲良く生きられた兄弟の関係を壊してしまうことになります。

マヌエラは、その目撃者であると同時に、二人が和解できなくなってしまった要因そのものになっていきます。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(8)太陽と影

 その間に、22との近さほどではないものの、マヌエラはカルルシュとも親しい言葉を交わすようになっていた。始めは、単に法学に関するヒントを話すぐらいだったのが、天候の話や、彼女の家族の話、それに好きな食事の話など他愛もない話題についての雑談もするようになった。

 よく叱責を受けて、項垂れている彼が、短い会話の後で僅かでもリラックスして笑顔を見せることを、マヌエラは嬉しく思っていた。

 その朝もドン・ペドロは、カルルシュにレポートを突き返した。
「いいか。カーネーション革命が無血に終わり素晴らしい、などという文言は、単なる感想文に過ぎない。そんなことはどうでもいいのだ。肝心なのは、40年間続いた独裁体制が終焉に至った社会的背景だ。このレポートには、植民地戦争やソビエトやキューバからの独立支援について何も触れていないではないか。書き直すように」

 項垂れて部屋に戻ったカルルシュは、いくつかの歴史書や百科事典を書斎に持ち込んだ。マヌエラが、掃除にやって来た時に、彼は書斎の机の上に何冊もの分厚い本を広げて、あちこちメモをとっていた。小さな文字で書かれたメモは散乱し、彼は、本をひっくり返しながら、書いたばかりのメモを探した。

「失礼します」
邪魔にならないように、小さな声で断ると、彼は驚いて立ち上がった。その時に一枚のメモが宙に浮き、それをとろうとした彼が反対に本にぶつかり、バタバタとあらゆるものが床に落ちた。百科事典、歴史書、レポート用紙、メモ用紙、その全てがごちゃごちゃに地面に伏せた。

 マヌエラは、彼を助けるために近くに寄り、まずは貴重な本が傷んでないか確認しながら閉じて机に置いた。その間に彼は散乱した紙類を集めた。

「ごめんなさい、私が来なければ……」
彼はあわてて首を振り、レポート用紙やメモを机の上に置き、マヌエラの邪魔にならないように書斎から出た。
「いや。違う。僕こそ、申し訳ない。こんなに散らかしてしまうなんて……ここをきれいにしなくちゃいけないんだよね。どうぞ、終わらせてくれ」

 彼女は、つとめて平静を保ち、手早く書斎の埃取りと拭き掃除を終わらせた。机の上のレポート用紙は、教師の入れたコメントで真っ赤になっており、ちらりと見えたメモ用紙の内容は、彼にドン・ペドロの叱責内容があまり頭に入っていないことを思わせる頼りない走り書きだった。

 訊かれてもいないのに、何かを言ってはいけない。マヌエラは、見なかったことにして仕事を終え、書斎から出た。
「お待たせしてごめんなさい。終わったので、どうぞ」

 彼は、もの言いたげな瞳で彼女を見た。
「革命……。かつて王国があって、独裁政治になって、それから、革命があった……。なのに、ここ竜のシステムはそのままだ。ここにも革命があればいいのに。……そうでなかったら、相応しくない者を排除してくれればいいのに」

 マヌエラは、言葉に詰まった。プリンシペである彼が、やがて当主になる立場の人が、いうべきではない言葉だ。けれども、それを指摘して何になるだろう。彼自身がそれを誰よりもよくわかっている。ドラガォンのシステムには革命どころか、引退も譲位もない。彼は教育からも叱責からも逃れられない。そして、やがては教育などという生易しいシミュレーションではなく、現実の荒波に耐えなければならない立場にいる。心身共に弱く、覚悟も定まらない、俯きがちな青年が。
 
 ため息をもらすと、彼は少し離れた所へ動き、小さな声でつぶやいた。
「僕のこと、みんながなんと呼んでいるか知っているか」
「いいえ」

簒奪者オ・ウーズルパドール
「どうして、そんな……」
少なくともマヌエラは、誰かがそんな風に呼んだのを一度も聞いたことがなかった。

「僕の本当の父親は、『ガレリア・ド・パリ通りの館』にいるInfante321だ、彼が戯れに愛し、後に憎んだ女が僕の本当の母親だ。彼女と、母上、いやドイスの母親はほとんど同時に身籠り、ドイスの出産予定日の方が一ヶ月以上早かった。それなのに、僕の方が先に生まれた。本当のプリンシぺを押しのけてずる賢くこの地位を手に入れた」
「……でも、あなたはしようと思ってしたわけじゃないでしょう」

「もちろん。でも、父上は、我が子をインファンテにしてしまった憎むべき存在の僕を、長男として引き取らなければならなかったし、この僕に責任を持って教育をしなくてはならないんだ。それだけじゃない。口にしなくても誰もが思っている。ドイスの方がずっと当主になるにふさわしいって」
「そんな……」

「君だって思うだろう? 同じ頃に、同じ血の濃さで生まれてきたのに、彼は……そう、彼はまるで太陽みたいだ。本人そのものに力があって全てを惹きつけ輝いている。その存在を誰もが待ち望み、ありがたく思う。その一方で、僕ときたら……」
「あなたは、月なの?」

 カルルシュは、首を振った。とても悲しそうに。
「いいや、僕は月じゃない。あんなに輝かしくて美しい存在じゃない。僕はきっと、月か、地球か、とにかく何かの影みたいなものだ。僕がおかしな所に立つせいで彼の姿が見えなくなる。それで、誰もがわかるんだ。ドイスは素晴らしい。『メウ・セニョール』と呼ばれて傅かれるのに相応しい、上に立つべき人間だって」

 嫌みや恨みなどの混じっていない、純粋な言い方だった。他人事にも聞こえて、マヌエラは戸惑った。カルルシュは、彼女の言外の判断を感じたのか、とってつけたように笑顔を見せた。

「わかっているんだ。彼じゃなくて、僕こそあれこれできなくちゃダメな立場だってことは。でも、他に言いようがないんだ。彼は素晴らしい。頭脳や才能、それに容姿だけじゃなくて、人格も。この館にやって来て彼のことを知れば、誰でも一週間もかからずにそれをわかる。僕は、そんな彼を20年も知っているんだ」

「双子のように一緒に育ったんですよね」
マヌエラは、慎重に言葉を選んだ。彼は、少し悲しそうに笑った。
「そう、空間と時間的にはね。いつも一緒だった。幼い頃は、おなじおもちゃで遊び、同じ絵本を読み、一緒に絵を描いた。あの頃から、失敗をするのはいつも僕で、でも、彼はいつも、叱られる時でさえ一緒にいてくれた。ピアノだって……」

「ピアノ?」
「ああ。最初にピアノを習ったのは僕の方だったんだ。22が、ヴァイオリンを習い始めていて、僕も何かやりたいって。彼が、あっという間にヴァイオリンを弾けるようになったので、楽器なんて簡単だと思ったんだろうな。でも、全然上手く弾けない。先生が苛々するくらいに。1人で練習していると、見かねた22が一緒につきあってくれた。そうしたら、あっという間に彼のピアノが上手になってしまったんだ」

 それでも、カルルシュは、努力を続ければいずれは自分にも素晴らしい演奏ができると思い、楽譜を譜面台に広げて新しい曲に挑もうとした。隣に立っていた22は、初めて見た譜面にもかかわらず、メロディを口ずさんだ。

「どうしてそんなことができるんだって訊いたんだ。五線譜の上にまばらに広がる音符は真っ黒な模様で、僕にはメロディは全然浮かばなかったから。そしたら、見ればそのまま音が浮かぶっていうんだ。僕は、右手と左手と同時にかって訊き返した。そしたらもちろんって言った。そして、持っている交響曲の譜面を見せてくれて、オーケストラの全てのパートが、譜面を見れば聴こえるって……」

 マヌエラは驚いた。指揮者や作曲者が、そういうことができるのは知っていたけれど、楽器を習い始めたばかりの少年にそんなことができるとは思いもしなかったからだ。

 カルルシュは、力なく笑った。
「それで、さすがの僕も才能の違いを痛感してね。音楽は諦めた……いや、音楽も……かな」

 こんなに何もかも差をつけられてしまうことに、彼は怒りも嫉妬もおぼえないのだろうか。マヌエラは複雑な想いでカルルシュを見た。彼は、思い出に浸るように考えていた。

「彼に、何一つ敵わないことは、悲しくなかった。それは僕にとって当然のことだったんだ。母上が……」
「お母様?」
8年ほど前に館から去ったと聞かされたかのドンナ・ルシアのことだろう。

「いつも言っていた。ドイスはお前なんかとは違うと。記憶にある最初から、いつも。僕が何か意に染まぬことをしてしまうと、母上はとてもきつく叱った。罰だと言ってたくさんの書き取りをさせられたり、おやつを禁止されたりした。でも、つらくて泣いていると、いつも慰めてくれて、おやつを分けてくれたのはドイスだった」

 ようやく彼女には、納得がいった。カルルシュにとって、22は妬むべきライバルではなくて、憧れ頼るべき唯一の存在だったのだ。

「ごめん。こんな事を言っても君を困らせるだけだよね。忘れてくれ」

 マヌエラは、悲しみでいっぱいになって、カルルシュのそばに近づいた。
「ねえ。みんなじゃないわ。少なくとも私は、あなたがどれだけ努力をして、苦しんでいるか、わかっている。努力しても結果が出なくて辛い氣持ちも、わかっているわ」

 それを聞いて、カルルシュは顔を上げた。マヌエラの同情の浮かんだ顔をじっと見つめて、それから視線を落とした。
「ありがとう。ドイス以外で、そんな風に言ってくれたのは君1人だ」

 赤みの増した彼の頬を彼女は見つめた。彼は、しばらく戸惑っていたが、やがて言いにくそうに口を開いた。
「マヌエラ……、あの、もし、僕が……君と……」

 そこまで言われて、彼女は彼が愛を告白しようとしていることを察した。彼にまで想われていることに狼狽えた。22との距離を縮めたときのような、単純な嬉しさとは全く違っていた。彼女は、視線を落とした。

 断ったら、もし自分が22と生きることを決めたこと、そして間もなくそれが現実となることを告げたら、彼はもっと傷つくだろうととっさに思った。だから、言わないでほしいと願った。

 常に貶められてきたカルルシュはそれを敏感に感じ取ったのであろう。ひどく傷ついた顔をして口ごもった。
「ごめん。なんでもない。忘れてくれ」

 マヌエラは苦しくて泣きたくなった。心が引き裂かれるようだった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(7)選択

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

この『黄金の枷』世界観でドラガォンに関する一連の掟は、かなり厳しく決まっています。前作や外伝の発表時、何度か読者から「そうはいっても、お目こぼししてくれるんじゃない?」的な質問をいただいたことがあります。基本的には、「お目こぼし」させないための役職が《監視人たち》なのですけれど、何回か出てきている「システムの例外」は矛盾ではないかと疑問に思われている方があるかもなあ、と思っていました。(第一作で出てきたライサ・モタや、外伝で語られたクリスティーナ・アルヴェスなどです)

じつは許される「例外」にも厳格な決まりがあり、今回はその内容について語られます。ちなみに、『ドラガォンの館』に出入りできるのは、誓約に縛られた《星のある子供たち》と《監視人たち》中枢システムの人だけという決まりがあるので、腕輪を外された人は、街から自由に出て行ける代わりに館には入れなくなります。



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あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(7)選択

 簡単に決められることではなかった。彼女の前の道は2つに分かれていて、大きく離れていく。けれども、道を選べるのは彼女1人だ。彼は違う道を選ぶことはできない。

 もし、法学に進む道があったのならば、あるいは彼を忘れようと努めたかもしれない。だが、その道は既に絶たれている。そして、ドラガォンで主たる役目を果たせるかもしれないという曖昧な願いには、法学ほどの強い引力はなかった。

 一方で、ドラガォンで中心的な役割を果たすことになるとしたら、22がどんな様子であるのかは常に耳に入ってくる。彼が絶望して苦しむことも、反対に誰か他の女性と幸せを掴むことも、マヌエラは聞きたくなかった。それは彼女の決断が引き起こす不愉快な結果だ。

 いま想像できる範囲で、後悔しない選択は、1つしかない。22と同じ檻の中に自ら入り、彼を孤独と虚無から救い出すこと。

 だが、マヌエラがその覚悟を22に伝える前に、『ドラガォンの館』には緊張が走った。召使いとして働いていたフェルナンド・ゴンサーガが亡くなったのだ。

 ドン・ペドロは厳しい顔で幹部と話し合い、執事ソアレスも緊張した面持ちで同僚の死に動揺する使用人たちを励ましつつも仕事に支障が出ないように指図を出した。

 フェルナンドの死の衝撃は大きく、館には重い空氣が漂っていた。フェルナンドに選ばれた状態だったジョアナは、館でソアレスからそのいまわしいニュースを知らされた。いつも朗らかだった彼女は、ほとんど笑わなくなったが、氣丈にも仕事を休むようなことはしなかった。もう1人の当事者であるアントニオ・メネゼスも、いつも通り冷静に仕事をこなしている。

 事件があってすぐは、マヌエラは居住区で掃除の当番にならなかった。次の機会に、彼女は彼の演奏を聴くことなく立ち去ろうとした。
「もういかなくちゃ。この後、ジョアナと洗濯室でしみ抜きをすることになっているの」

 ピアノの前に座っていた22は立ち上がって側に来た。
「いつも長くここにいて、叱られたのか?」

「そうじゃないけれど……ジョアナには、あんなことがあったばかりだし、私が浮かれているのは酷じゃないかと思って」
彼女は、この事件に誰よりもショックを受けているジョアナを励まし支えたかった。

「マヌエラ。待ってくれ」
階段を上がろうとする彼女を22は呼び止めた。振り向いた彼女の近くに彼は来て、いつもよりも距離を縮めて立った。

「聴いてほしい。前回、君を急かすようなことを言ってしまったので、氣になっていたんだ。君が、親友であるジョアナの氣持ちを慮ることはよくわかる。僕とのことを考えるのは、彼女の心の整理ができてからでも全く構わない。それに、君が中枢部で働きたいというなら、思う存分力を発揮させてやりたいとも思う。なんなら、やりたいことを全てやり終えた後でも、10年や20年後になってしまっても、いいんだ。それでも僕は、いつまでも君を待ちたい」
「……ドイス」

 マヌエラは、彼を見上げた。言葉が見つからず、胸が熱くなった。見つめ合い、お互いの心を読むと、彼は顔を近づけてきて彼女は瞳を閉じた。初めての口づけは、優しくて柔らかかった。甘く切なかった。

 唇が離れた後、恥ずかしくて彼女は下を向いたけれど、自然に笑顔がこぼれた。
「10年だなんて……私自身が、そんなに待てそうもないわ」

 彼は、不安そうだった表情を変えて瞳を輝かせた。
「そういってもらえると期待していたわけではないんだが、そうだとしたらありがたいな。それだけで生きる張りがでるよ。希望に満ちていると、奏でるだけでなく、学ぶことにも、力が漲るんだ。それどころか、雄鶏に色を塗るのすら、素晴らしくてしかたないことに思えるよ」

 彼の笑顔があまりに眩しかったので、マヌエラはもう1度、そして自分からキスをした。そして、彼の手を取って見上げた。
「フェルナンドのことがあって、言いにくくなってしまったんだけれど、私ね、お許しをもらえたらいつでも、この格子のこちら側に来たいって、あなたに伝えるつもりだったの」

 それから、2人は当主であるドン・ペドロに許可を得るタイミングについて具体的に話し合うようになった。

* * *


 2人は、3ヶ月ほど待った。その間に、もちろんマヌエラは召使いとしての仕事をこなした。ジョアナが再び笑顔を見せるようになり、さらには自分からマヌエラに2人の仲がどうなっているのか質問をしてきたので、彼女は素直に22と自分の意向を知らせた。

 ジョアナは、マヌエラに抱きついて言った。
「大変な決意だと思うけれど、きっとあなたなら後悔せずにやっていくと思うわ。私、あなたを応援する。幸せになって」

 マヌエラは、涙を浮かべながら頷いた。
「あなたにそう言ってもらえるのは、本当に嬉しいわ」

「だったら、どうしてそんな大切なことを教えてくれないのよ」
ジョアナは、ほんの少し拗ねたように訊いた。

「それは……とても酷な立場に立たされたあなたに、浮かれたことを言うのが心苦しかったの」
仕方なく答えたマヌエラに、ジョアナはわずかに笑って言った。

「予想していたとおりだわ、マヌエラ。私に遠慮しているんじゃないかって、氣になっていたの。そんなことしないでね。私、アントニオにもそう言ったくらいなんだから」
「なんですって?」

 ドラガォンには、誰にも動かすことのできない掟がいくつかあった。ジョアナは、その1つにより、《星のある子供たち》だけでなく、他の誰とも永久に一緒にはなれない。ジョアナが《星のある子供たち》を産み出したらすぐに一緒になるはずだつたアントニオにも、その機会はなくなった。けれど、2人が愛し合っていることは、前と変わらないのだ。

 ジョアナは、下唇を噛みしめて僅かに黙ったが、しっかりと頭をもたげてマヌエラを見た。それからはっきりとした笑顔を見せて言った。
「彼に言ったの。責任を感じて1人で居続けたりしないでって。あなたの人生の邪魔はしたくない、私が側で見ていると奥さんを探せないなら、私がここを辞めてもいいって」

「まあ、ジョアナったら。それで?」
ジョアナは言葉を探していたが、しばらくするとゆっくりと語り出した。
「そもそもはね、彼にシステムの例外の話をされたの」

「例外って?」
「滅多に起こらないことだけれど、ドラガォンのシステムを維持するために、大きな犠牲を払わされた《星のある子供たち》がでると、例外として扱って救済してくれることがあるって」

「まあ。あなたにはその資格があるんじゃない? だって、あなたは何も悪いことをしていないのに、義務を果たすことができなくなったんですもの」
マヌエラは期待に満ちて訊いた。けれど、ジョアナ自身はさほど嬉しそうではなかった。

「でも、その救済方法は、一つしかないの」
「どんな?」
「腕輪を外してくれるんだって」

 マヌエラは押し黙った。けれど、すぐに思い直して微笑みかけた。
「もう、ここにいられなくなるのは残念だけれど、でも、《星のある子供たち》の掟の外におかれれば、腕輪をしていない誰とでも結婚できるでしょう? アントニオとだって」

 ジョアナは悲しそうに笑った。
「アントニオが、そんなことすると思う? あの人はもう《鍵を持つ者》なのよ。私の腕輪を外す決定だってできる。けれど、彼がその私と結婚したら、ドラガォンのシステムに私情で介入したことになってしまう。他の人なら、もしかしたらそういうことをするかもしれない。でも、あの人はそんなことは死んでもしない。自らが自由にした娘と結婚することなんて絶対にないわ」

 マヌエラは、頷いた。ジョアナは正しい。アントニオ・メネゼスは、絶対に私情を挟んだりはしない人だ。誰よりもシステムに忠実で自分に厳しい。

「だから、私は腕輪を外さないでって頼んだの。私はむしろここで、彼の側で働きたい。そう思った。でも、それから思ったのよ。私がここでずっと物欲しそうに見ていたら、彼にとって迷惑になるのかもしれないって。むしろいなくなってほしいのかなって。だから、あなたにとって私が出ていく方がいいなら、ここから去る、って言ったの」

「それで?」
「彼は、少しでも長く一緒に働きたいって」

 マヌエラは、アントニオらしい選択だと思った。そして、ジョアナも。夫婦にはなれなくても、仕事を通してずっと一緒に居ようとしているのだろう。そんな人生もあるのかもしれない。マヌエラもまた、22と共に格子の向こうで多くの人とは違う人生を歩もうとしている。そうなった後も、自分の人生は続き、一歩一歩進んでいくことになるのだと思った。親友ジョアナと同じように。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(6)希望

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

前作『Infante 323 黄金の枷 』や外伝で登場したときの22が、とても感じが悪かったのと、今回のストーリー(30年前)の彼ができすぎキャラなので、前作からの読者のみなさまがかなり警戒しておられるご様子。このストーリーは、どうして彼があんな感じの悪い人になってしまったのか、そんな人を主人公に据えて第3作『Filigrana 金細工の心』はどうすんだ、ということを説明するための作品といっていいでしょう。

というわけで、今回からの3回は、少し冗長ですが、書かねばならない章でした。ええ、筆が進まず結局一番最後になったこの3つです。

今回の22の考え方ですが、前作の23とかなり似ています。もっとも、はっきりと誤解のないように口にしている22とくらべて、23の方は何も言わないので話が長くなった、という説もありますね。コミュニケーションは大事。



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Usurpador 簒奪者(6)希望

 4月も終わりになると一斉に芽吹いた新緑が、街を鮮やかにする。この館から決して出て行くことのできない青年が、背筋を伸ばして立ちすくむ窓辺からも、日々変わっていく世界の様子が見てとれる。

 冬に窓から眺めた街は、陰鬱な憂いを見せた。赤茶けた瓦は僅かに黒ずみ、時おり格子の外側に停まるカモメも、膨らませた羽毛に顔を埋めて暖かい室内に入れない不条理にムスッとした顔つきで耐えていた。だが、太陽の馬車はひたすら空をめぐり、日の長さをどんどんと伸ばした。屋根瓦の合間から深緑が萌え立つようになると、世界は心地よく緩み、朗らかな笑顔を振りまくようになった。

 そんな風に、2人でいるときの22もまた、冬とは明らかに違う朗らかな笑顔を見せるようになっていた。

 視線が交わった僅かな瞬間の戸惑いが、微かな笑みに変わり、それから確信が瞳に表れた。優しいメロディと礼儀正しく親しみある言葉が、もっと情熱的な音と健康的で爽やかな語らいになった。マヌエラは、その彼に恋をしているのだと、はっきりと感じるようになっていた。それも一方的ではなく、慕う相手に想われていることを確信して有頂天になった。

 そして、それに伴い、ある種の非生産的な人生を意識するようになっていた。マヌエラの母親は家庭に入ったときに、それまでしていた歯科助手の仕事を辞めたのだという。もともと辞めたかったから悔いはなかったと聞かされたが、私なら仕事を辞めなくてはならないなら、結婚なんかしたくないなと子供心に考えた。それからも、誰かのために自分の築き上げてきたものを全て引き換えにすることなど、考えることがなかった。

 インファンテである22は、当主のスペアとしての人生を送る。ドン・ペドロとカルルシュがこの世からいなくならなければ、ドラガォンで主たる役割を果たすことはない。彼は木彫りの雄鶏を彩色する仕事をしているが、それだけだ。それ以外に求められるのは、いや、そもそも真に求められているのは、子孫を作ることだけだ。

 彼に選ばれるということは、結婚ですらない。彼は法的には存在していないのだ。彼女自身が、彼といる間、やはり存在しないも同然になる。もし子を産めば、我が子だけはドラガォンの血脈の中で意味を持つが、それは存在しない者たちの手柄とはならない。22の愛を受け入れること、それは、文字通り愛のために人生を捧げること、つまり、それ以外の全てを諦めることなのだ。

 彼と合意した赤い星を持つ娘は、最低1年間を居住区で共に暮らし、彼の子供を産むことを期待される。もしその娘が、何らかの志を持ち成し遂げたいと望むならば、たとえば、この館にやって来た時のマヌエラ自身のように、中枢システムに属して知識や能力を存分に生かした役割を果たしたいと望むのならば、自らインファンテの元を去らなくてはならない。

 少なくとも1人の子供を産むか、もしくは1年経っても妊娠しなければ、赤い星を持つ娘は青い星を持つ男の元を自由意志で出て行くことが許される。それが、関係を強制されることもある女たちへのシステム上の救済措置になっていた。

 けれど、彼女にそれができるだろうか。ありとあらゆる才能を持ちながら、生涯を黄金の枷の中に閉じ込められて過ごす孤高の青年、彼女が惹かれてやまない男を捨て、自分だけが外へと歩み去ることが。彼の、1年以上かかってようやく見せるようになった輝くばかりの笑顔と、幸福に舞い踊る音楽の翼をまとめてゴミ箱に放り込むようなことが。

 22は、事を急ごうとしなかった。彼は、自分の立場を誰よりもよくわかっていた。父親である当主の許可を得てマヌエラの手を正式に求めること、彼女のたった1人の青い星を持つ相手となることを切望していたが、彼と共にいる限り彼女もまた檻の中にいなくてはならないことを知っていた。彼女の才能と、この館に来た理由を理解しているからこそ、それを諦めさせることの残酷さを知っていた。

 彼は、それまでにいた他のインファンテ、たとえばカルルシュの父親321のように、1年ごとに新しい女と寝たいと考えるような人ではなかった。彼はマヌエラと生涯を共にしたいと口にした。それが彼女のそれまでの望みを絶つからこそ、彼は慎重にマヌエラの意思が固まるのを待つつもりだと言った。それゆえ彼は、人前でマヌエラを愛している素振りを見せなかった。たとえ、館の多くの者がそれに氣付いていても。

 彼は、居住区の掃除のために彼女がやってくる僅かな時間にだけ、その想いを伝えた。優しい語らいと情熱のメロディ、楽しい会話と、わずかな触れ合い。

* * *


 しばらく経った別の午後、彼は、乾かすために机に並べられていた木彫りの雄鶏を、1つ1つ仕切りで区切られた段ボールの箱に収めていた。伝統的にインファンテは、目立たない手仕事を持っている。いつの頃からそうなったかを誰も知らない。おそらくは、有り余る時間を過ごすために誰かが始めたことなのだろう。彼の仕事は几帳面で、ムラがなく、それでいてよく見ると遊び心のある絶妙の色使いと模様を用いていた。

 それらが詰められた箱は、夕方までに居住区の入り口近くの小さなテーブルに置かれる。あまり時を置かずして、召使いがそれをバックヤードへと持って行き、配送の準備を整える。街のいくつかの土産物屋で観光客たちがそれらを手にして購入していく。その木製の雄鶏たちが、どんな運命を辿るのか知るものはない。リビングルームの片隅で他の土産物に混じり埃を被るのかもしれない。もしくは、大して注意を払われることもなくフリーマーケットに出品されるのかもしれない。

 22は、黙々と彼の小さな作品たちをしまい込んでいく。
「氣に入って、大切にとっておく人だって、きっといると思うわ」
マヌエラの言葉に彼は「中にはね」と、肩をすくめた。

「この仕事をするよりも、読書や音楽にもっと時間を割きたいの?」
その問いを耳にすると、彼は意外そうにマヌエラを見て、それから首を振った。

「いや。この仕事を週に何時間しなくてはならないといった決まりはないんだ。実際のところ、全くやらなくても何も言われないだろうな。だが、少なくともこれは、本当に僕がやるべき数少ない義務の一つなんだ。学問や、音楽はそうじゃない」
「そんな……」

「これを彩色するとき、思うんだ。これが現実だと。僕は、誰も知らない存在すら氣に留めない彩色職人、父やカルルシュとは違うと」
「そんなことないわ。あなたは、システム上は名前を持たないけれど、私たちにとって間違いなく必要なひとよ。あなたは有能なだけでなく、人柄もよくて、皆に慕われている。私たち使用人だけじゃないわ。ドン・ペドロも、そしてドン・カルルシュも、あなたのことを誰よりも頼りにしているみたい」

 その言葉を聴くと、彼は黙ってマヌエラを見た。それから立ち上がり、格子の嵌まった大きい窓の前まで歩いた。しばらく背を向けて窓の外を眺めていた。彼女が、この話を始めるべきではなかったのかと思いだした頃、彼は背を向けたまま言った。

「僕が13歳になるまで、この隣の居住区には21が住んでいた。彼は、コルクで小物を作る職人だったらしいけれど、僕は彼が作品を作ったのを見たことは1度もない。いつもひどく酔っていて、誰かれ構わず罵倒していた。それを非難されると、笑いながら周りに迷惑をかけるのを楽しんでいると豪語するような人だった」
「楽しむ?」

 彼は、振り向いた。彼の後ろから差し込む日差しがつよく、その表情がよく見えなかったので、マヌエラは不安になった。

「そう、よくそう言っていた。でも、僕自身が居住区に住むようになってから、彼のことを少し理解できたような氣がする。本当に楽しんでいたんじゃない、彼はひどく不幸だったのだと」
「ドイス……」

「僕は、彼のようになりたくないし、なるつもりもない。でも、僕は皆に頼られるような立派な存在でもない。父も、カルルシュも、僕に好意を寄せてくれるのは知っている。僕も期待に応えたいと思う。だが、ここに入る前に周りの世界に抱いていたのと同じ感情を持ち続けることは、とても難しいんだ。どこかで、もう1人の自分が冷たく言っている。僕の何がわかるんだ、彼らは、ここで暮らしたことなんてないんだ、何を学ぼうとその知識を用いる場のない、将来に夢や希望を抱くこともできない虚しさは、彼らにはわからないってね」

 マヌエラは、彼の言葉に何かを答えようとしなかった。彼の言うとおりだ。ずっと多くのものを手にしている彼女が言えることはない。彼女がこの居住区から出ることを許されなくなるまでは。

「僕らインファンテは、その成り立ちから、どうしたって孤独に苛まされるようにできている。だが、システムを変えることができない以上、折り合いをつけて生きていくしかない。結局、どの男たちも似たような解決策を求めたみたいだ……残念ながら叔父の21に選ばれた赤い星を持つ10人以上の女性たちは、全員が彼のもとを去ることを選んだけれど、その前にいた320に選ばれた女性は彼が亡くなるまでずっと一緒に居たと聞いている。その話は、僕にとって希望の光なんだ」

 彼女は、真剣に頷いた。軽々しく、自分がそうなると言ってはいけない。でも、きっと私はそうするだろう。彼女は、心の中で呟いた。彼は、笑顔に戻って言った。

「許してくれ。君を困らせるためにこんなことを言ったんじゃない。むしろ反対だ。僕は、君と幸せになりたいと願っている。その一方で、君にもずっと幸せでいて欲しいし、後悔して欲しくないんだ。だから、この格子のこちら側が何を意味するのか、隠したくなかった。結論を急がないで、よく考えてくれ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(5)弱き者

『Usurpador 簒奪者』の続きです。今回と次回のエピソードは本来同じサブタイトルで書いていたものなのですが、あまりにも長いので、2つの章に分けました。

前作『Infante 323 黄金の枷 』で、母親のいないマイアのことを氣にかけて何かと世話をしてくれていたドラガォンの主治医、若かりし日サントス医師がちらりと登場しています。この方、実はマヌエラの又従兄弟でした。今回のエピソードとは全然関係ないのですが。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(5)弱き者

 掃除のためにカルルシュの部屋を一人訪れる時、マヌエラはどこか暗い心持ちになることが多かった。22の居住区を訪れる心地よさとは反対だった。

 朝食の席で、彼は当主に叱責されることが多かった。理由は、他愛もないことばかりだ。コーヒーをこぼしたり、服にジャムを飛ばしたりのこともあったし、家庭教師の報告に書かれた情けない試験結果のこともあった。厳格なドン・ペドロが、おそらくカルルシュのために義としている厳しい教育なのかもしれないが、萎縮したプリンシペはさらなる失敗を重ねるばかりだった。

 一週間前に叱咤されたことが、改善されないことにドン・ペドロは苛立ちを見せる。それを自覚しているのか、彼は当主の叱責に項垂れるばかりだ。加えて、身体の弱いカルルシュは無理がきかず、教師の訪問が中断されることも度々あった。

 とくに氣管支が弱く、わずかな急な天候の移りかわりや夜更かしなどが続くと、風邪を引いたり熱を出すことも多かった。ドン・ペドロは「またか」といいたげな様相で、カルルシュの喘息のような発作にも心配を見せなかった。

 彼が体調を崩すと、よほど重い症状でない限りジョアキン・サントス医師が呼ばれてきた。彼は、ドン・ペドロの主治医である老サントス医師の長男でありマヌエラの又従兄弟にあたる。ジョアキンは、手慣れた様子で吸入剤を用意し、丁寧に彼を診察していた。カルルシュは、申し訳なさそうに体を縮こめ、涙を浮かべて身を任せていた。

 学業のさらなる遅れに焦るのか、まだ完全に熱が下がっていないのに起き上がって課題に取り組んでいることもあった。

「メウ・セニョール。氣管支喘息はアレルギーやウィルス感染だけでなく、ストレスからも引き起こされると考えられているのですよ。お体をいたわることも大切ですが、ストレスをため込まないようにすることもお忘れにならないでください。お一人で抱え込まずに、親しい方とお茶でも飲んでゆったりと話される時間をお持ちください」

 ジョアキンは、彼に諭した。必要なタオルなどを持参してその場にいたマヌエラは、医師のアドバイスを聞きながら心の中で(誰と)と呟いた。カルルシュには、自由時間に楽しく語り合う友人などいない。ドン・ペドロの厳しい教育に着いていくことの難しい彼にとって、ストレスを減らすことも難しいだろう。そして、彼は脱落することも、逃げ出すことも許されない立場にいる。

 そして、起き上がり歩けるようになれば、朝食や午餐の席でドン・ペドロに厳しく叱責を受ける日々が待っている。マヌエラは、給仕をしながら、彼の苦難の再開を感じて氣を揉んだ。

 三日ぶりに床を離れた彼は、覇氣のない疲れた表情で朝食の席に座った。ソアレスとその朝の朝食当番のマヌエラは、ドン・ペドロとカルルシュ二人の給仕に当たった。

 22の居住区からは、新しいソナタを練習する音が響いていた。彼が朝食を居住区で簡単に済ませるようになった理由がそれだ。執事と召使いに給仕され、当主たちとのんびりと朝食を取れば簡単に一時間ほど経ってしまう。彼はむしろその時間をピアノの練習に充てたがった。その成果は、マヌエラが掃除にやってくる日のメロディとなるのだから。

 ドン・ペドロは、22が習慣を変えたことに、何も言わなかった。彼は、屋敷のどのような小さなこともソアレスやその他の腹心から報告を受け、若い世代の様子にも十分に目を留めていたが、22の生活態度に対して意見を言うことはほとんどなかった。22は、午餐や晩餐、または礼拝などにはきちんとした服装で、落ち着いた態度で臨席し、家庭教師や音楽教師からは絶賛されていたし、使用人たちとの関係も良好で問題を一切起こさなかったからだ。

 当主が、カルルシュに厳しくあたる様を目にするのは、あまり心地よいものではない。だが、マヌエラは認めなければならなかった。ドン・ペドロは、理に適わぬことでカルルシュを叱責したことはただの一度もなかった。語氣に苛立ちを込める前に、彼は少なくとも二度はカルルシュに同じことを冷静に指摘している。既に「ああ、次に同じ間違いをすれば、ドン・カルルシュは叱られる」とマヌエラにも予想ができるようになっていた。

 法務関係の課題に関しては、法学を学びたかったマヌエラにもわかるトピックが多かった。今朝、彼が叱られているのは、先週の初めやり直しを命じられた法務に関する課題だ。

「カルルシュ、いいか。お前が弁護士や裁判官として人前に立つことはない。だが、ドラガォンが関わる多くの重要決定事項にはお前が決裁を下さねばならないことばかりだ。契約書を作成するのもお前ではないが、裁決をするのはお前だ。法の強行規定と任意規定の差がわからぬような者に、その役割が果たせると思うのか?」

 朝食の皿を下げながら、マヌエラはカルルシュと目が合わないようにした。当主は、家庭教師から預かった彼の課題である書類をたたき付けるようにして返した。
「午餐の前に、まともな契約書らしい体裁に書き直せ。もちろん、数学の課題も遅れずに出すように。22の課題は、どちらもとっくに終わっているんだぞ」

 朝食の給仕が終わるとすぐに、彼女はカルルシュの部屋の掃除に向かった。ノックに答えはなかったので、中に入ると人影はなかった。

 あらかたの拭き掃除を終えてマヌエラが彼の書斎に続くドアを念のためにノックをして開けると、彼は中にいて先ほどの書類を見ながら真剣な面持ちで考えている所だった。
「失礼しました。また、後で伺います」

 カルルシュは赤い顔をしてパッと立ち上がり、彼の足元に書類は散らばった。
「あっ」
二人はあわてて、書類を拾うためにかがんだ。

 彼のすぐ近くで、目が合うと、彼はさらに赤くなり、その後に項垂れてだまって書類を集めた。
「すまない。一生懸命に考えていて……いや、違う、さっき叱られたのを見られたのが恥ずかしくて、君が掃除に来たのに返事もしなかったんだ」
「メウ・セニョール……」

 マヌエラは、彼をそっとしておくために去ろうかと思ったが、何か言いたそうな彼が助けを求めているように感じたので、思い切って言ってみた。

「あの……、先ほどのドン・ペドロのお話ですけれど……。強行規定とは、たとえば独占禁止法による規制や売買契約における消費者側のクーリング・オフ権など、契約がどうであろうと法律上動かせない規定のことで、任意規定は、たとえば商品引き渡しと支払いの順番のように、両者の合意や契約内容で変更してもいい規定です。だから、どの部分が強行規定に抵触しているのかだけ見つけられれば、修正すべき所もおわかりになるのでは?」

 彼は非常に驚いた様子で、彼女の顔を見た。
「申し訳ありません。出過ぎたことを……」

 彼は慌てて言った。
「いや、違うんだ。ありがとう。本当にどこをどうしていいのかわからなくて、でも、誰に訊いていいのかもわからなかったんだ」

 彼女は、頭を下げてから、ハタキかけを始めた。彼は、そのマヌエラについてきて話しかけた。
「昔は、困っていると22がこっそり教えてくれた。だから、こんな僕でもなんとかやっていけたんだ。でも、22が居住区に移ってからは、そんな風に教えてくれる人がいなくなってしまって」

「お役に立てて光栄です。でも、たまたま知っていたことですので……」
「君みたいな優秀な人は、召使いとして働いているのはもったいないな。きっと、すぐに中枢システムにいくんだろうな」

 マヌエラは、思わず足を止めた。すぐにここを離れて……?

 そうであって欲しいと、彼女はずっと願っていたはずだった。それなのに、その言葉を聴いたときに「ここから離れるのは嫌だ」という想いが頭をもたげた。心のどこかに流れているピアノの旋律と共に。

「その……。もし、またこういうことがあったら、また君に助言をお願いしてもいいだろうか」
カルルシュは、消え入りそうな声で訊いた。

「もちろんです。お手伝いできることがありましたら、いつでも」

 彼が書き直した課題は、完璧なものとはいえなかったようだが、それでも午餐の後にそれを読んだドン・ペドロは彼の努力と改善を認めてさらなる改善点を静かに口にした。向かいに座る22も微笑んで頷くのを見て、カルルシュは頬を紅潮させた。

 ちょうどマヌエラが「どうぞ」と目の前に運んできたコーヒーを置くと、彼は顔を上げて万感の思いを込めて「ありがとう」と言った。

 それから、カルルシュは、マヌエラの顔を見ると緊張を解くようになった。

(読者からのご指摘に基づき強行規定の例を訂正しました)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(4)《鍵を持つ者》

『Usurpador 簒奪者』の続きです。このエピソードについては『Usurpador 簒奪者』に入れるか、それとも外伝として独立させるか迷ったのですけれど、外伝にするには重いし、かといって独立した話として語ると、まとめて読む方が混乱すると思うので、同時代というくくりでこの作品に埋め込むことにしました。

前作『Infante 323 黄金の枷 』で、脇役として出てきた二人の人物に関する話です。この二人の話が、メインとして語られるのは、おそらくこれが最初で最後だと思います。読者に知らせなくてもいいかなとは思ったのですけれど、システムに閉じ込められて重たいことをやっているのは、当主一家だけではないという例としてお読みいただければと思います。

少し長いですが、前回同様この「Usurpador 簒奪者」に関しては長々と連載するつもりはないので、まとめて発表しています。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(4)《鍵を持つ者》

 若葉が次々と芽吹きだした四月。大西洋からの風が道往く人々の上着やスカーフを無為に揺らした。それは、まるでギターラを戯れにかき鳴らすようだった。

 フェルナンド・ゴンザーガは、サントス医師の診療所に行くためにアリアドス大通りを渡った。思い詰めた暗い顔をし、手のひらをぎゅっと握りしめていた。

 彼が愛した娘は、彼の求婚を拒絶した。その理由を彼はよく知っていた。ジョアナ・ダ・シルヴァには愛する男がいた。そして、その男アントニオ・メネゼスもまたジョアナを愛していた。だが、彼らはすぐに一緒になる事はできなかった。《星のある子供たち》であるジョアナは同じ《星のある子供たち》である男との子供を産まない限りは《監視人たち》一族の男とは結婚できないのだ。

「だったら、まず俺と一緒になって子供を作れよ」
彼は、言い募った。一年間共に暮らし、子供も出来れば、あるいはジョアナの心が自分に向く事もあるかもしれないと思ったのだ。

――女なんて、寝てしまえば簡単になびく。お前の母さんもそうだった。
彼にそう言ったのは、フェルナンドの父親だ。もともとは子供を作るまでとの約束で一緒になった彼の両親は、結局現在に至るまで結婚生活を続けている。

 しかし、ジョアナは首を振った。
「それは無理だわ。あなたの事を私もアントニオも知っている。たとえ私が子供を産んでからあなたの元を去ったとしても、同じ職場で働く彼とあなたと私の間にはわだかまりが残ってしまう。そうでしょう? 私は、《監視人たち》中枢組織に頼んで、人工授精を望む《星のある子供たち》の男性を紹介してもらうわ」

 それは、フェルナンドにはもっとつらい言葉だった。もし彼女の人工授精の相手が決まってしまえば、彼のチャンスは永久に潰える。《星のある子供たち》である女は、たった一人の《星のある子供たち》の男としかペアになれないから。どんな事があってもジョアナを諦める事の出来ないフェルナンドにはたった一つしか道がなかった。

 彼自身が人工授精の精子提供者となり、ジョアナの相手であるたった一人の《星のある子供たち》の座を確保する事。彼は、それをジョアナに申し出た。拒否反応を示す彼女に、もし断るなら宣告をすると脅迫じみた言葉まで使って、ようやく賛同を取り付けた。だが、彼女が子供を身籠り出産するまでの時間を確保しただけで、フェルナンドにとっての苦悩は終わらなかった。

 《星のある子供たち》である男は《星のある子供たち》である女に子供を産ませる事を強制できる。けれども、女はその男の元を去る権利を持つ。ジョアナは子供を産みさえすれば自由になり、アントニオと家庭を作るだろう。アントニオ・メネゼスは、いずれバジリオ・ソアレスの跡をついで、ドラガォンの執事になり、《監視人たち》中枢組織の最重要ポストにつく。前途洋々の未来があり、彼の愛するジョアナと彼自身の子供をも奪っていく。フェルナンドの絶望は深かった。

 現在は彼のパートナーであるジョアナをアントニオに渡さないようにする方法は、一つしかなかった。人工授精を始まらせない事。もちろん《監視人たち》組織は、いくら彼がぐずぐずしても彼に精子採取を急がせるだろう。あの組織は《星のある子供たち》を作り出す事にしか興味はないのだから。

 フェルナンドの足は、サントス医師の診療所に向かわず、大聖堂の方へと進んだ。そして、その先には大きく美しいドン・ルイス一世橋が堂々たる姿を横たえていた。空は青く、カモメが悠々と飛び回り、河にはボートがゆっくりと進んでいた。人びとが街の美しさを楽しみ、幸せを謳歌していた。

* * *


 アントニオ・メネゼスは、警察での諸手続きを終わらせると、哭き叫ぶフェルナンドの母親とじっと悲しみを堪えている父親の待つ病院へと向かった。検死が終わり次第、フェルナンド・ゴンザーガの遺体は自宅に帰ることになっていた。なぜと問う両親に、執事であるバジリオ・ソアレスはどのような説明をしたのだろうと思った。

 警察では、事故と自殺どちらの可能性も捨てきれないと言われた。遺書はなく、目撃者もいなかった。人工授精の第一回目の精子採取のためにサントス医師の診療所に向かう代わりに、どのような理由で彼がドン・ルイス一世橋から河に転落したのか知る手段はなかった。

 アントニオにも、何が起こったのかはわかっていなかった。わかっているのは、少なくともフェルナンドが望んでいた事が一つだけは叶ったことだ。ジョアナ・ダ・シルヴァは、もう誰かと一緒になる事は出来ない。彼女がフェルナンドとの人工授精を一年間にわたり試行することは、永久に不可能になってしまったからだ。手続き上すでにフェルナンドに「選ばれて」しまったジョアナは、もう他の《星のある子供たち》の男に「選ばれる」ことも出来ない。

 フェルナンドが、ジョアナを彼に渡さないためだけに命を断ったとは思いたくなかった。彼とジョアナが彼を追いつめたのだと考えるのは苦しかった。だが、いずれにしても何もかも遅すぎた。

* * *


 アントニオ・メネゼスは、渡された鍵の束をじっと見つめた。

「重いだろう」
執事バジリオ・ソアレスは、口元を歪めるだけのいつもの笑い方をした。

 それは鍵の数から考えると実に重かった。十に満たない鍵が、丸い輪でまとめられている簡素な鍵束だ。見かけは古めかしいレバータンブラー錠用の鉄鋳物風棒鍵だが、実際にはスイスのメーカーに特別に作らせたディンプル錠が組み合わされており、さらに紛失や盗難に備えて内部発信機や自動溶解システムが組み込まれている最先端の鍵だ。だが、その鍵を常時持つという事実に比べれば、実際の重量など大したことではなかった。

 この鍵束と同じものを常時携帯することが許されているのは、他にはドラガォンの当主と執事だけだった。この鍵束を持つということは、緊急時にはドラガォンの運営に関する全てを独断で決定できるということであり、その権能の規模は、おそらく世界で数人のみが可能な非常に強大なものだった。

 だが、世界の他の権能者とドラガォンの支配者たちには決定的な差があった。他のものは、その力を誇示し、財力を用い、己の名声を高め、世界に広く知られる外向きの発展があるが、ドラガォンの使命は、誰からも存在を注目されぬよう、その存在を隠しながら存続を図ることにあった。

 アントニオは《監視人たち》の家系の中でも、ソアレス家同様に、多くの《鍵を持つ者》を生み出してきたメネゼス家の直系男子として、生まれた時から特殊教育を受けてきた。《監視人たち》の家系に生まれた者の中で、黒服を身に纏い特別な任務に当たる者たちは百人ほどだ。その中でもドラガォンの当主と話をしたことがある者は三十人に満たない。

 《監視人たち》が黒服を纏うようになると、ドラガォンの中枢的存在として一目置かれるようになる一方、もはや他の生き方は一切許されなくなる。黄金の腕輪をした《星のある子供たち》は、この世から隠されている存在だったが、黒服を着た《監視人たち》は、自らを滅し《星のある子供たち》を命に代えて守る役割を担っていた。

 アントニオは、黒服を着て働くべく育てられた。彼の個性は、その任務と人生に適していた。彼を知る多くの人間は「あの男が何を考えているのかわからない」と感じるだろう。彼は私的感情を滅多に表に出さない子供だった。そして、成人した今もそれは変わらない。「冷たい男」ともよく評された。そのことを、彼の家族や上司は喜んだ。《鍵を持つ者》の後継者として、これほど好ましい資質はないのだから。

 彼は、鍵束の重みを噛み締めた。
「まだ早すぎませんか」
黒服を着た《監視人たち》の中枢組織の最上位に就く証を、わずか二十五歳の若者が手にした前例は聞いたことがなかった。

 ソアレスは、いつもの口元を歪める微笑を見せた。
「検査の結果が出たのだよ」

 ソアレスが言及しているのは、先日彼が病院で受けた精密検査のことだろう。
「どれほど意志が固くても、病には勝てぬ。私はまもなくこの重要な努めを果たすことができなくなるだろう。それまでに、お前に全てを託さねばならない。今はまだいい。ドン・ペドロが適切な判断を下し、この巨大なシステムの舵取りを続けてくださる。だが……」

 ソアレスが眉を顰める原因は、己れの病にあるのではないことは確かだった。そうではなくて、次のドラガォンの当主の世代になったときのことを考えているのだ。そして、その時に自分はもはやどんな支えにもなれないことを歯噛みしたい想いで考えているのだ。

「よいか、アントニオ。私はお前に、決して外せない枷をかけた。《星のある子供たち》ですらも固辞したくなる辛い役目だ。時にお前は、安らかに眠れぬかもしれぬ。その手が白いまま墓に入ることも叶わぬかもしれぬ。だが、それでもお前はこのシステムに忠実であらねばならぬ。それがお前の宿命さだめだ」

 アントニオは、バシリオ・ソアレスがその宿命を受け入れてきたことを知っていた。当主に代わりその手を穢したであろうことも知っていた。穢したとまでは行かずとも、「心のない冷たい男」と謗られたことが幾度もあることも知っていた。たとえば、ドンナ・ルシアが、プリンシペに手をかけようとした罪でこの館から追われた時も、我が子から引き離されることを恐れて許しを乞う女主人の懇願に、彼は眉ひとつ動かさなかった。ソアレスは揺るがなかった。彼は掟に忠実に振る舞い、その役目を果たした。

 掟の前には、どの《星のある子供たち》も《監視人たち》も平等だった。たとえ、その一人に対して個人的な好意を持っていても、あるいは不快感を持っていても、それを理由に掟を曲げることは許されない。《鍵を持つ者》であるならばなおさらだ。我が子が閉じ込められるのを指示し、罪を犯した妻を遠ざけ、その怒りと悲しみと憎しみを受け止めながら、何事もなかったかのように当主としての日々の仕事を続けたドン・ペドロも、やはり《鍵を持つ者》だった。彼の前の当主たちも、ソアレスの前の執事たちも全て同じ厳格さで、このシステムを守り続けてきた。

「ところで、アントニオ。少し個人的なことに立ち入っても構わないか」
「なんでしょうか」

「先日、ドン・ペドロと話をしている時に、お前の話題になったのだ。お前は《鍵を持つ者》としては非常に若いが、メネゼス家の男子として若すぎるということはない。つまり、その……」

 アントニオは「またか」と心の中で思ったが、顔色一つ変えなかった。
「つまり結婚して跡取りをつくらないのか、ということでしょうか」
「そうだ」
ソアレスはあっさりと認めた。

「ソアレスさん。私の系統でなくとも、ジョアンとペドロの中にメネゼス家の血は流れています」
アントニオは、必要もないことをあえて口にした。バシリオ・ソアレスの妻ローザ・マリアは、アントニオの父の妹だった。バシリオの長男ジョアンはすでに《監視人たち》中枢部で幹部として働いており、歳の離れた次男のペドロも特別教育を受けいずれは兄に続くであろう。

「それは、わかっている。《星のある子供たち》と違って、我々《監視人たち》の家名が途絶えることは、さほど大きい問題ではないし、子孫を残す努力を強制されるわけではない。だが、アントニオ。ドン・ペドロは心配しておられるのだ。お前が、あの娘の件の責任を取ろうとしているのではないかと」

 アントニオは、わずかに眉をひそめた。
「責任。どうやって」

「そうだ。フェルナンド・ゴンザーガの死に、誰にも責任を取ることはできない。そして、ジョアナ・ダ・シルヴァが掟の迷宮から抜け出せなくなったことも。だから、お前がその宿命に付き合う必要はないのだ」

 アントニオは、普段決して見せない反抗心の籠もった鋭い目つきでソアレスを見た。

 彼には、世界中の他の全ての女と結婚する権利が残されていた。彼の人生がそれで終わったわけでもなかった。だが、彼は決して出る事の出来ない黄金の枷に囚われた愛する女を見捨てて、自分だけ忘れる道を選ぶことはできなかった。フェルナンドは、彼にも決して外せない枷を掛けてこの世を去ったのだ。

「《星のある子供たち》に対して、掟に従うように強制する役目を私は果たします。ジョアナが生涯一人でいなくてはならない掟も。私が彼女に別の幸福を見せつけることが、ドラガォンのためになるとは思えません」
「では、やはり彼女のためにお前は生涯独身を通すつもりなのか」

 彼は答えなかった。ただ、重い鍵束を受け取り、《鍵を持つ者》としての使命を生き始めた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(3)ため息

しばらく空きましたが、『Usurpador 簒奪者』の続きです。また前回更新で記述したシーンから再び過去に戻っています。マヌエラがドラガォンの館に勤めだした二十歳前後の話です。

この『黄金の枷』シリーズの設定、とくに「ドラガォンの館」や《星のある子供たち》または《監視人たち》の説明はあまりにも長くなるので、前作『Infante 323 黄金の枷 』をお読みになっているという前提で書き進めています。この作品から読み始めた方には非常識と感じられることがたくさんあるかと思いますが、そういう設定だということでご了承ください。

今回もいつもなら二回に分ける長さなのですけれど、この「Usurpador 簒奪者」に関しては長々と連載するつもりはないので、まとめて発表しています。



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あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(3)ため息

 マヌエラがドラガォンの館に勤めるようになって一年が経った。サントス家に生まれた娘として、それは義務に近かった。この地には、一般には知られていない特別な一族が住んでいる。その左手に自ら外すことのできぬ黄金の腕輪をはめた《星のある子供たち》。己の名声や偉業を押し殺し、ひたすら過去の誰かの血脈を守るためだけの存在。

 サントス家は、ドラガォンの館に当主として君臨する《青い星を五つ持つ者》の血を色濃く受け継いだいくつかの名家の一つだ。絶対的に守らねばならぬ秘密を抱えた館に関わる多くの職務をになっている家に生まれた宿命は、彼女の意思の入り込む余地を与えなかった。マヌエラは法学を学ぶことを願っていたが、その夢を諦めてドラガォンの館で召使いの職に就くように説得された。

 反抗することはできた。けれど、彼女は知りすぎていた。いくら学問を究めても、彼女はその知識を真に社会のために役立てることは許されないのだ。名のある法律家になり、この街を出て行くことは不可能だ。そして、外部の人間になぜ他の街や海外に行ってはならないかを説明することすら許されていない。その様な存在がこの世に存在することを、知らせてはならないのだ。

 この街に生まれ、黄金の腕輪をはめ、《監視人たち》に見守れながら生きる存在であることを、そして、直接的にも間接的にも《星のある子供たち》と《監視人たち》の双方を統べる立場として、血脈を守る役割を果たしてきた先祖たちの努力を子守歌のように聴かされて育ったのだ。

 彼女は、サントス家の娘としての本分を果たすことを承諾した。召使いとして勤めるといっても、文字通りの役割だけが期待されるわけではない。それはドラガォンのシステムを維持する人材グループの一人となる事を意味した。《星のある子供たち》と《監視人たち》双方を統べる中枢システムに属する人々は、次代を担う人材を慎重に選び、教育し、そして、お互いに知り合わせる。選ばれた《星のある子供たち》と《監視人たち》は、共に働き、時に婚姻を通して絆を深めながら、システムを維持し続ける。

 この館から出ることのほとんどない当主の直系子孫たちは、館の中にいる存在の中から配偶者を選ぶ。マヌエラの曾祖母や大伯母は、当主の娘であるインファンタだったし、前々当主夫人ドンナ・カミラはサントス家の出だった。

 彼女は、しかし、結婚相手を見つけるためにこの館で働こうと思ったことはない。むしろ法学を諦めたのに値する責任ある職務を担う可能性に期待してこの館に足を踏み入れた。召使いの仕事が不満だったわけではないが、それだけで終わることは、彼女の自尊心を傷つける。

 同僚に彼女と同じような志を持って勤めている者は多くなかった。おそらく執事バジリオ・ソアレスが信頼するアントニオ・メネゼス、そしてその他の数人だけだろう。だから、インファンテ22の聡明さと自己克己が余計にマヌエラの目を引いた。

 22は「当主後継者のスペア」としての人生を送るには、無駄な優秀さを備えていた。冷静沈着で、物覚えが早い。立ち居振る舞いも洗練され、使用人や《監視人たち》中枢部からの人望も篤かった。

 同い年の兄であるカルルシュは、身体が弱く動きも鈍重だった。二人が並んで比較されるような場面は少ないが、一日に一度ある午餐か晩餐では、当主であるドン・ペドロを挟み二人が向かい合うので、使用人達にもその二人の差がよくわかる。

 ルネサンスの彫刻家達が好んだような端正な顔立ちと綺麗になびいた明るい茶色の髪をもつ22は、質のいいスーツを品良く着こなし、背筋を伸ばして完璧なマナーで食事をする。

 一方のカルルシュは、黒くもつれた髪と眉が濃く厳つい風貌を持ち、俯きがちで姿勢がよくないので、あまり背が高くないのにもっと小さく見える。落ち着きがなく、水をこぼしたり肉をうまく切れずにソースを皿の外にこぼしてしまったりするのは、いつも彼の方だった。

 ドン・ペドロは、その席で様々な話題を口にした。この国や世界の時事問題のこともあるし、先の大戦やその前後にこの国を襲ったファシズムに関する話題のこともあった。ローマ時代のカタコンベに関する話題のこともあったし、先史時代のブリテン島の遺跡で見つかった装飾品について話すこともあった。

 どんな話題になっても22は、当意即妙に話題をつないだ。父親の興味のあることについてよく知っているだけでなく、本人も興味を持ってあらかじめ多くの本を読んでいることがわかる。建築についても、医療についても、法律についても、彼は多くに興味を示し、知らないことがあるとすぐに文献を取り寄せて読み、次の午餐では父親を驚かせるような視点で話題を広げることもあった。

 一方のカルルシュは、ドン・ペドロに話題を振られても長く話題を続けることはできなかった。彼もまた真面目に話題についていこうとしているのだが、ドン・ペドロと22が熱心に討論をはじめると、もはやその流れについていくことができずに黙ってナイフとフォークを動かしていることが多かった。

 跡継ぎとして、ドン・ペドロや《監視人たち》中枢組織のメンバーから期待をかけられていることを自覚している彼は、次回は話題についていこうと22に薦められた本を読み始めるのだが、そもそも家庭教師から言い渡された課題すらもなかなか終えることができない要領の悪さで、それ以外に本を読了する時間などはほとんど残っていない。マヌエラ達が掃除に入ると、前回と置く場所が変わっていない本の山にハタキがけをしなくてはならないことが多かった。

 22の方は、課題も読書も難なく終えて、さらに彼自身の一番好きな行為に多くの時間を割くことすらできた。彼の居住区の一階には、黒く艶やかに光るグランド・ピアノが置かれ、彼はそこに腰掛けて好きな曲を心ゆくまで練習するのだった。

 マヌエラはその朝一階のはたきをかけ終えて、隅から拭き掃除を始めた。階段を降りて22が現れ、マヌエラに氣付くことなくグランドピアノの屋根を開けて譜面台を起こした。しかし、彼は譜面を置くことをせずにそのまま何か曲を弾き出した。短くて優しい曲だった。邪魔になるかと思い、マヌエラが二階の掃除に移動しようとすると、氣付いた彼は演奏を止めた。
「いたのか。すまない、もう終わって出て行ったのだと……」

「いえ、私こそ。先に上からやります」
マヌエラが言うと、彼は首を振った。
「そのまま続けていいよ。掃除機をかけるときは言ってくれ。退散するから」

 そう言うと、棚から楽譜を持ってきて、練習を始めた。右手の練習、左手の練習、同時にゆっくりとしたテンポで、それからより自然なテンポで。ピアノなど全く弾けないマヌエラにも、その曲が決して簡単ではないことだけはわかった。

 彼の元には、週に一度教師がやってくる。厳めしい顔つきをした老人で、左の手首の腕輪を持ち上げるのも大儀な様子だ。自分が弾いてみせることはほとんどなく、歌うように指示しながらレッスンをつけていた。22が格別優秀な生徒であることは、召使い同士の噂で知っていた。もし、彼が、いや、《星のある子供たち》として生まれていなければ、ピアニストとして名を成すこともできたであろうと。

 もし、ただの《星のある子供たち》であったなら、彼は有り余る才能をどう使ったのだろうか。この街を離れることも、著名な楽団と共演することもできないピアニスト。いや、それどころか、彼は裁判官にも、大学教授にも、優秀な経営者にもなれる頭脳と要領の良さを兼ね備えている。けれども、マヌエラが法学の道を諦めたように、彼もまた『市井の目立たぬ誰か』以上の存在になることは許されないであろう。ここドラガォンで何らかの役割を果たす以外には。

 けれど、彼はドラガォンで中心的な役割を果たすことも許されていなかった。存在しない者として、その頭脳と才能を、単なる趣味に費やすことしか許されていなかった。

 にもかかわらず、彼の奏でる音は、なんと美しいことだろう! トリルの一つ一つは朗らかで優しく、静かに響かせる和音からは世界の深淵が顔を覗かせる。

 手を動かさずに、聴いているマヌエラを見て、彼は微笑んだ。彼女は恥じて、慌てて仕事を続けた。

「ピアノ曲は、好きかい?」
彼は訊いた。

「ええ。クラッシック音楽には、あまり詳しくないのですが、聴くのは好きです。光景が目に浮かぶようですね」

 彼は、意外そうに彼女を見ると「そうか」と言った。先ほどの笑顔よりもずっと柔らかい、嬉しそうな表情だった。
「じゃあ、次に君が来るときは、通しで何かを弾けるように準備しておこう。今日は、そろそろ掃除機をかけたいだろうから、僕は退散するよ」
そう言って彼は二階に上がっていった。

 約束通り、次に彼の居住区を掃除するときに、彼ははじめから一階で待っていて、マヌエラに美しいメロディを聴かせてくれた。それどころか、マヌエラが掃除に来るときには、次第にそのミニコンサートが決まりのようになっていった。彼は、曲が終わると曲名を教えてくれた。ショパンだったり、ベートーヴェンだったりした。優しく可憐な曲もあれば、おどけた楽しい曲の時もあった。半年もするうちに、マヌエラは彼の演奏を聴いただけで、誰の作曲か推測ができるほどにピアノ曲に詳しくなってきた。

 ある春の日に、22が弾いて聴かせた曲をマヌエラはことのほか氣に入った。彼女は、はじめの頃のように仕事をしながらかしこまって聴くことはなくなっていた。

「リストだよ。『三つの演奏会用エチュード』という作品の中の一曲さ」
「エチュードって?」
「練習曲のことだ」

「これが? こんなにロマンティックで素敵な曲が練習曲なの?」
「リストは皮肉っぽい人だったんじゃないかな。一般には『ため息』と呼ばれている曲なんだ」

 それは、ほんとうにため息をつきたくなる美しい曲だった。仕事中である事も忘れて、ピアノの脇に進み、鍵盤に触れられるほど近くに立って彼の演奏に聴き入った。流れるような左手から生み出される細やかな音が、心の中を優しく撫でていく。右手の落ち着いた動きが、何か確かなものを語っている。それから、右と左の手は、役割を交代しながら優しく、戯れながらマヌエラの周りを踊った。その中に微かにとても真剣な想いが紛れ込む。

 この人は、本物なのだと思った。繊細な黄金の糸で出来た輝かしいハートを、この暗い石造りの牢獄にいながら、決して曇らせる事なく燃やし続けている希有な人なのだと。たとえシステムが彼の存在を否定しようとも、誰にもそんなことはできない。生まれた順番や運命も、彼の心を砕くことも錆びさせることもできない。

 格子の嵌まった窓から漏れてくる陽の光が、端正な横顔を浮かび上がらせる。明るい茶色の艶やかな髪の上で、メロディに合わせて踊りを踊る。この美しい時間を止める事が出来たらどんなにいいだろうと思った。

 余韻とともに曲が終わっても、二人ともしばらく動かなかった。マヌエラがため息とともに彼を見ると、彼もその青い瞳を向けてきた。それが、二人の秘めやかな関係の始まりだった。

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Claudio Arrau Liszt Trois Etudes de Concert S.144 III Un Sospiro
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Posted by 八少女 夕

【小説】秋深邂逅

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第十弾、そしてラストの作品です。大海彩洋さんは、『オリキャラオフ会@豪華客船』の作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『2019オリキャラオフ会・scrivimo!2020】そして船は行く~方舟のピアニストたち~ 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じだと思いますが、今回はピアノとピアノ曲に関する愛をたっぷりと詰め込んで、「何でもあり」の豪華客船に乗せてくださいました。そもそも主要キャラたちが「そんなふうに集まるのは本編ではないでしょ」な状態に大集合しているのですけれど、加えてお友達のブログのそうそうたるメンバーも乗っちゃっている「オリキャラのオフ会」です。

うちのチャラいピアニストもちゃっかり加わってすごいピアノに触らせていただいているようですが、さすがにこのストーリーに直接絡むのは無理だわ……。うちオフ会参加メンバーはほとんど逃げたした後だしなあ……。

というわけで、単純なオマージュ作品を書いてみました。このお返しの方法は、TOM−Fさんの作品には何回かしたことがありますが、彩洋さんへのお返しでは初めてかも? 

「船旅」「四人の演奏」「一人の女の過去」あたりを踏襲してあります。歴史的事実と「聊斎志異」に出てくるとある怪異譚もちゃっかり絡めてありますが、加えて私の未公開(黒歴史ともいう)作品由来の嘘八百も混在しています。こちらもオリキャラのオフ会と同じくアトラクタBだということで、ご容赦ください。

読む上では関係ありませんが、使ったメインの四人は、先日のエッセイにちらりと語った「黒歴史で抹殺した神仙もの」のキャラクターたちです。つまりワイヤーワークで空飛ぶ仙人だと思っていただいて結構です。今回用意した通名は、ガーネット、翡翠、アクアマリン、紫水晶の中国名で、これは石好きな彩洋さんへのサービス(笑)


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秋深邂逅
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 深まる秋の夜空に大きな月が煌々と輝いていた。出立より荒れ狂う波にひどく悩まされた航海で、このように凪いだ宵は初めてである。紅榴は箜篌くご を抱えて甲板に出た。遠く絹の道の最果てから伝わったとされる竪琴は、紅榴の指先を通し二十三本の弦から妙なる調べを繰り出す。

 紅榴と呼ばれるこの弾き手は、揚州出の高官という触れ込みである。まるで少年のように若く、ひどく赤みの強い髪を髷に結っているために露わになっている首がほっそりとしている。文人でありながら武術もなかなかの腕前である。大使と共に第一船に乗る晁衡大人からの推挙状を持っていたため、この船でも破格の扱いを受けている。なぜ本名ではなく紅榴と呼ばれるのか、また、どこで流暢な日本の言葉を身につけたのか、皆が訊いたが笑みを浮かべるのみで多くを語らなかった。

 蘇州黄泗浦を出て三日、遣唐使船四艘のうち二艘の姿は見えない。が、渡航が上手くいき阿児奈波に着けば消息も知れよう。

 紅榴のつま弾く箜篌の音は、近くを走行するもう一艘に届いているらしい。むせび泣く声がこちらにまで届いてくる。

「おそらく普照どのではないか。鑑真和上を日本にお連れできなかったことを嘆いておられるのだ」
顔を上げると、いつの間に側まで来たのか、翠玉が立っていた。紅榴は、「そうやもしれぬな」と口先だけで笑った。

 十九年の長きにわたり、日本で授戒を行うことのできる高僧を探し、苦労を重ねてきた普照にしてみれば、五度の失敗にもかかわらず、日本へ行こうとしてくれた鑑真を置いて日本へ帰らねばならぬことは耐えがたいに違いない。同じ志を持ち共に辛苦を耐えた栄叡は唐で客死し、鑑真和上と共に日本へと向かおうとした弟子の多くも波間に消えていった。ようやくやって来た遣唐使の船に鑑真を乗せることができたというのに、発覚を怖れた大使藤原清河が一行を降ろしてしまったのだ。

「ご存じないのはお氣の毒だが、あれだけ派手に嘆いてくれれば、清河殿は和上を密かにお連れしていることに氣付くまい。大伴様としてはありがたいのではないか」

 背の高く深緑の装束に身を固めた男は、持っていた縦長の包みを前に置いて紅榴の横に座った。絹の包みを取り去り現れたのは七弦琴だ。黒く漆塗りが施され金銀や螺鈿で装飾されている。

 翠玉と呼ばれるこの男もまた、謎に包まれている。太い眉の下に鋭い光を放つ切れ長の目を持つ剣士で、口髭の下の口元は一文字に結ばれ、長い髪は乱れ一つない。途中でこの船を襲った海賊どもを軽々と撃退したときですら、顔色一つ変えなかった。しかし、武門だけでなく風流にも通じているのか、七弦琴を嗜むらしい。紅榴は、この男と旧知の仲らしく現れた琴に驚きすらも示さなかった。

 二人が静かに演奏を繰り広げるところに現れたのは、二人の僧侶である。老いた一人は手に五絃琵琶を手にしている。

「これは海藍どの。あなたも加わっていただけますか」
翠玉は琴を少し引いて、僧の座る場所を作った。

「このような月夜に、ともにつま弾くことができるのは、願ってもないことでございます。仏のご加護ですな。ところで、こちらにおりますのは、私と同室で過ごしております常白殿です。鑑真和上と共に日本に向かわれるのです。紅榴どのの弾いておられた曲のことをお訊きしたいと仰せでしてな」

 紅榴は眉を上げて、壮年僧の顔を見た。思い詰めているのか、それとも怖ろしい思い出があるのか、わずかに震えている。

「先ほどそなたが弾いていた曲といえば……」
翠玉は、琴をつま弾いた。紅榴は、音色を絡ませながら答えた。
「……紫娘娘が我らに教えた曲だ」

「紫娘娘!」
常白の顔色は一層悪くなった。

「失礼ですが、あなた方は、どこかでその娘娘にお会いになったのですね」
その僧が震えながら訊くと、老僧海藍までがバチを手に合奏に加わった。
「その通り。そして、今そなたもな」

 船倉から誰かが簫笛を奏でながら上がってきた。淡い紫の薄物を纏った女だった。明るい月の光に照らされて、女の白い顔がくっきりと浮かび上がる。この世の者とも到底思えぬ美しさだ。

 演奏をしていた三人は、一様に手を止め、笛を吹く女に拱手礼をした。常白だけは、ガタガタと震えながらその場に立ちすくんでいた。

 女は吹き終えると緩やかに笛を放し、三人に一人一人深く抱拳揖礼をした。
「海藍上人、翠玉真人、そして、我が師、紅榴元君、お久しゅうございます」

「紫娘娘、頭をお上げください。あなたも、日本へと向かうおつもりとは存じ上げませんでした」
海藍が愉快な声で告げた。

「みなさまがこの船に乗られるのを知り、急ぎはせ参じました。お声がけいただけなかったことを、恨みに思いますわ」

 紅榴は箜篌をつま弾いた。
「そなたは泰山にて修行中と聞いた。我らが酔狂、鑑真和上の密航が発覚したときの安全弁の仕事などで邪魔するには忍びなかった」

「まあ。安全弁ですって?」
紫娘娘が大きく目を瞠る。

 翠玉が答えた。
「さよう。皇帝は、高僧鑑真を連れていくなら、道教を広めるのため道士も連れて行けと、難題を押しつけたそうだ。それで大使の清河殿は、皇帝からの正式な許可を得るのを諦めた。大伴古麻呂殿は、晁衡大人と謀り、一度降ろされた鑑真和上と弟子たちを密かにこの第二船に乗せた。それにあたり、我らは用心棒かつ役人に捕まった場合の申し開き用の道士として招聘されたというわけだ。ついでに日本の見学もできるしな」

 紫娘娘は鈴のような笑い声を上げた。
「でしたら尚更、お誘いくださらなくては。私はみなさまと違いかの蜻蛉洲あきつしま を見たことがないのでございます。加えて、この素晴らしき望月の宴に加わらせてくださらないなんて、あんまりですわ」

 そこまで言ってから、いまにも倒れんばかりに震えて立つ壮年僧を見て、艶やかに微笑んだ。
「私、紫石英と申します。どうぞお見知りおきを。……それとも」

 海を一陣の冷たい風が立った。紫娘娘の黒髪と薄絹がゆらりと泳ぎ、それに伴い牡丹の花のような芳香がただよった。
「紫葛巾と名乗った方が、よろしゅうございますか?」

 常白は、地面にひれ伏し叫んだ。
「許してくれぇ! 葛巾、許して……頼む、許してくれ……」 

 紫娘娘は、ひんやりとした眼差しを向けて立っていた。その口元にはうっすらと微笑みすら浮かべている。

 常白は、その顔を仰ぎ見る勇氣もないらしい。
「そなたを置いて逃げたのは、申し訳なかった。皇子さまに嫁ぐ予定の貴人と駆け落ちするなど、とんでもないことをしでかしてしまったと、恐ろしくてならなかったのだ」

 紅榴がおかしそうに口を開く。
「なるほど。娘娘を盗み出したあげく、破れ屋に置き去りにした日本からの進士受験生というのはこの男だったか」

 翠玉が、やはり口元だけで笑いながら琴をかき鳴らした。口を挟むつもりはないようだが、わざわざ唐までやってきた志も果たせず、見捨てた女の怒りを怖れて震える小人に呆れている様子が見て取れた。

「どうか祟らないでくれ。成仏して欲しい。……おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばら はらばりたや うん」
固く目を瞑り、真言を唱えて震えている。

 海藍上人は、笑いながら常白の肩をトントンと叩いた。
「心配せずとも良い。このお方は怨霊などではない。ここにいる紅榴どのの弟子にて我らが同志でもある。そなたごときに去られたぐらいで、命を落とすほど弱々しき女子ではない」

「ご上人、その言い様はあんまりでございます。あのとき私は悲しみと飢え苦しみで生きる望みを失っておりました。実際に通りかかった師がお救いくださらなければ、あのまま山中で朽ち果てていたはずでございます」
紫石英は、氷を吹くように告げて、ゆっくりとかつての愛しい男に近づいた。

「仏門に入ったのも、私の菩提を弔うためではありませんのでしょう」
「いや……その……」

「鑑真和上は、ご自身で費用を賄われてまで日本行きを決意しておられた」
海藍は、琵琶をかき鳴らす。

「渡航の禁を破ってまでな。……お側にいれば、日本に戻る機会に恵まれる」
紅榴が箜篌で加わり、翠玉も琴をつま弾きながら答えた。
「進士に受からず遣唐使船で大っぴらに帰国できぬ日本人には、唯一の手立てだろうな。元来望んでいなかった剃髪をしても」

 常白は、もはやきちんと立っていることもできなくて、紫娘娘から離れようとガタガタと震えながら船室の方へと這っていく。彼が退くと、彼女はゆっくりと歩みを進め、その距離はほとんど変わらない。月がゆっくりと歩むのと同じように、青白く浮かび上がった二人は移動していった。

 残った三人は、もう二人を見ることもなく和やかにそれぞれの楽器を構え、再び先ほどの曲を合奏し始めた。

 かつて二人が恋人同士であった唯一の満月に、微笑みながら共に奏でた曲が凪いだ海を渡っていく。もう一つの船で嘆く普照の泣き声と、許しを請う不実な常白のわめき声は、共に闇夜に消えていった。

 悲鳴と何かが階段を転げ落ちる大きな音がして、こちらの船の不快な声はピタリと止まった。船室の奥で、何事が起きたのかバタバタと駆け寄る音がしているが、紫娘娘は興味を失ったかのごとく身を翻し、合奏する三人の元へと戻ってきた。