【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(23)川の氾濫
身分を隠したまま、候女エレオノーラの再教育係になった一行は、トリネア侯爵家の離宮に遷ることになりました。他の人びとに見られずに、トリネア候国の内情について知ることのできる絶好の機会ですが、もちろん身バレの危険性とも隣り合わせですね。さて、今回は、その教育が始まる前に起こってしまった、とあるハプニングの回です。
そういえば、この川流れのシーン、どこが元ネタだっけとずっと考えていたのですが、ようやく思い出しました。「信じられぬ旅」(ディズニー映画『三匹荒野を行く』の原作ですね)で、シャム猫が流されたシーンでした(笑)
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(23)川の氾濫
翌朝エレオノーラは使用人たちに滞在の準備をさせるからといって、一足先に去って行った。
午後に、5人は支度を済ませて離宮に向けて出発した。昨夜に激しい雨が降ったため、修道院周りの道はひどくぬかるんでいた。
川に向かって進んでいると、見慣れた一団が野営していた。
「やあやあ、みなさん。こんな所でお目にかかるとは奇遇ですな」
もみ手で近づいてくる南シルヴァ傭兵団の副団長レンゾの姿を認め、マックスとレオポルドは急いで視線を交わした。
「てっきり城下町の高級旅籠にでも泊まっておられるかと思いきや、あの修道院にいらっしゃったんで? 物騒じゃありませんかい? 護衛が必要なら、いくらでもお力になりますぜ」
大声で騒ぐので、他の団員たちも一行に氣がついて近づいてきた。
「いらん」
憮然としてレオポルドがいうと、レンゾは「おお、こわい」と言って、一歩下がった。本当に怖がっているようには全く見えず、むしろ面白がっている。
「で、どちらに向かわれるんで? 城下町への道は、あっちですぜ」
レンゾの問いに、一行はうんざりした。
「どこであろうと、お前の知ったことではない。いいか、我々は貴族ではないことになっているんだ。まとわりつくな」
それでも付いてこようとするレンゾたちを振り切ろうと、一行は馬の歩みを早めた。
「おい。待て、そんなに急ぐな」
少し遠くで見ていた、例の女傭兵フィリパが何かを告げようとしているのがわかった。だが、ガヤガヤさわぐ近くの男たちと馬の蹄の音、それからぬかるんで歩きにくい道にもっと氣を取られた。
渡ろうとしている川はさほど大きくはない。ただし、昨夜の雨のせいか、かなりの濁流が大きな音を立てている。ずいぶんと増水しているようだ。
目指している渡り場所は、なんと『死者の板橋』であった。
グランドロンでもかなり細い小川などによく架かっているのだが、葬儀の時に死者を載せて運んだ板に、その死者の名前を刻み小川に架けることがある。人びとがその橋を通る度に、死者の魂のために祈る習わしがあり、そうすることで死者は早く煉獄から脱出することができる。つまり、ある程度の財力のある死者の親族がこのような『死者の板橋』を架けさせるのだが、このように流れの速い時にはもう少ししっかりとした橋の方が安全だ。
マックスは、一瞬どうすべきか迷った。流れが穏やかになるのを待つ方がいいのだが、そうすればうるさい傭兵団に囲まれてしまう。
「行こう。あの候女だって、さっさと渡ったんだろうから」
レオポルドが言った。
マックスは頷いた。まず渡るのは自分だ。橋に何かあっても、レオポルドの安全は確保できる。同じ馬に乗るラウラに囁いた。
「降りて渡る方がいい」
ラウラは頷き、2人は馬から降りた。橋板に申しわけ程度につけられた欄干に、ラウラは両手で、マックスは馬の手綱を握っていない片手で掴まりながら、慎重に歩いた。轟音を立てる濁流と、頼りない板橋のきしみが恐ろしかったが、なんとか渡りきった。
それを確認した後でレオポルドが渡った。フリッツは「馬は私が」と言ったが、レオポルドは「急げ」と言って断り、マックスと同じように渡った。レオポルドが渡るときに、橋板はひどくたわみ、不快な音を立てた。
渡りきった、レオポルドは振り向いてフリッツに叫んだ。
「氣をつけろ。この橋は……」
「やめろ! その橋は!」
後ろから馳けてきたフィリパが叫んでいるが、その時にはフリッツとアニーは既に橋を渡りだしていた。
フリッツと馬が向こう岸に着くのと同時に、メリッという音がして、橋が折れた。まだ渡りきっていなかったアニーは投げ出され、フリッツは手を伸ばしたが馬を抑えていたために届かなかった。
濁流はものすごい勢いでアニーを押し流し、あっという間にその姿を見えなくした。
「アニー!」
ラウラは取り乱し、すぐに川に入ろうとしたが、マックスが必死で止めた。
「だめだ、君も流される!」
動転してもがきながら泣くラウラをマックスが止めている間に、レオポルドはフリッツに命じた。
「すぐに探しに行け」
すぐに下流に身体が向いたものの、フリッツは立ち止まって言った。
「私はお側を離れるわけには……」
「自分の面倒はみる」
「しかし……」
「いいから行け!」
本人も氣が急いているが、染みついた義務感の方にも絡め取られているフリッツは、すぐに対岸の傭兵たちを見て頭を下げた。
「どうかしばしこのお方をお守りください」
対岸にたどり着いた傭兵たちは、橋の崩壊を見て蜂の巣をつついたように騒いでいたが、フリッツ・ヘルマンが頭を下げると一様にこちらを見た。
先ほど冷たくあしらわれたレンゾは白い目をしていた。
「なんだよ、これまで散々邪険にしておきながら、ずいぶんとご都合のいいことで。さっき『まとわりつくな』って言いやがったのは、どこのどちらさんでしたっけ」
フリッツの窮状に助け船を出したのはフィリパだった。
「いいのか。流されたあの娘は、あたし達が仕事を得られるように口添えしてくれたあの馬丁マウロの妹だぞ」
後からやって来た首領のブルーノは、それを聞くと大きな声で言った。
「なんだって。……そうか、そういうことなら話は別だ。俺たちは恩知らずじゃねぇ。ヘルマンの旦那、行きな。『旦那様』の護衛は俺たちに任せろ」
フリッツは、頭を下げて馬にまたがると、急いで下流に向かって馳けて行った。
ブルーノたちは、長い縄の一方の端をレオボルドのいる方の岸に投げてよこした。マックスと協力してそれを木にくくり付けさせると、『死者の板橋』が渡してあったいくつかの大岩を足場にしつつ縄で伝いながら5人ほどが、こちらに渡ってきた。
「さて。じゃあ、行き先まで護衛して行きやしょう。あ~、ちなみに俺たちは先払いでお願いしてるんですがね」
レンゾは、悪びれもせずに要求してきた。
レオポルドが指示するまでもなく、マックスは財布を開けて砂金を渡した。レンゾは愛想よく受け取った。
「へへへ。こりゃあ、どうも」
レオポルドはフィリパに向かって言った。
「すまないが、フリッツ1人では困ることがあるやもしれぬので、様子を見にいって必要なら手助けをしてもらいたい」
「わかった」
フィリパは、マックスから別の砂金を受け取ると、下流に向かって走っていった。
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【小説】雷鳴の鳥
今月のテーマは、アフリカのジンバブエにある『グレート・ジンバブエ遺跡』です。私は1996年に、じっさいにこの遺跡を訪れています。
登場する人物は、いまのジンバブエがまだローデシアと呼ばれていた時代に実在した研究者たちです。

雷鳴の鳥
その鳥の小柄な身体には見合わぬ巨大な巣は、ついに屋根で覆われた。それから、シュモクドリは、人間の男性が載っても壊れないほどの強度ある巣の機能面だけでは満足せずに、2メートル以上もある目立つ巣をありとあらゆる装飾品で覆い始めた。カラフルな鳥の羽、草食動物たちから抜け落ちた角、ヘビの抜け殻、骨、イボ猪の牙、ヤマアラシの棘などが運ばれた。
それらは、
伝説上の霊鳥は、白と黒の背の高い鳥で、魅力的な男性または女性に姿を変えることもできるし、生命にとって欠かすことのできない雨と水を呼び寄せる。実際のシュモクドリ(Scopus umbretta)は、ペリカン目シュモクドリ科シュモクドリ属の茶色い鳥だ。全長56~58センチ。カラスと変わらない。その名の通り、頭の後ろの飾り羽が少し突き出ていてハンマーのようだ。オスとメスには見かけ上の違いは比較的少なく、共同で非効率の極みと思えるほどの巨大な巣を作る。
アフリカのサハラ以南、マダガスカル、アラビア半島南西部の浅い水瀬のあるあらゆる湿地帯に生息する。ペアで保持するテリトリーに留まり、渡りのように大きく移動することは少ない。繁殖しているかどうかに関わらず、年間3個から5個の巣を作り、そのうちの1つだけで雛を育てる。
雛たちの多くは1年以上は生きられないが、生き延びた成鳥は時には20年も生きる。
水辺に佇み、空の彼方を見つめるとき、人びとは呪術師たる
人を怖れず、マングローブ、水田、貯水池などにも巣を作り住むが、彼らを捕まえたり巣を壊して追い払おうとする者は少ない。
その遺構は、はるか昔にその地に建てられた脅威だった。1800年代にこの地を「未開の地」として蹂躙しにやって来た白人たちは、アフリカ大陸の南に巨大な遺跡を見いだした。1867年にドイツの狩猟家アダム・レンダーが「発見した」と言われる遺跡群は、実際にはすでに16世紀のポルトガル人たちによって記録されている。
現地のショナ語でそれは「Zimbabwe ジンバブエ」と呼ばれていた。ポルトガル人ベガドは「裁判所を意味する」と報告しているが、現在ではこの言葉の意味については2つの説が有力である。「石の家」を意味するというものと、「尊敬される家々」という言葉に由来しているというものだ。鉄器時代の現地の人びとは、記録する文字を用いなかったので、当事者たちによる正確な由来を書いた文献は見つかっていない。
この遺跡は、単なる「家々」という言葉で表現できるような規模ではない。最盛期には18000人が住んでいたと推測される、その驚くべきスケールと精密さが、逆に過去の偉大な創建者たちを本来賞賛を受けるべき名誉から遠ざけた。
キャスリーンは、彼女の上司であるガルトルード・ケイトン=トンプソンが見せてくれた手紙を読んでため息をついた。それは、彼女たちの緻密で丁寧な論証に対して単に否定的だというだけでなく、明からさまな憎悪に満ちていた。ガルトルードは、「ナンセンスな内容だわ」と投げ出した。
ローデシアをめぐる社会の目は、三重の意味で偏見に支配されていた。白色人種は黒色人種より優れているので植民地支配が正しいのだという立ち位置。オリエントやギリシャなどの過去の優れた文明文化が、彼ら白色人種たちに受け継がれているという曲解。そして、男性の仕事が女性のそれよりも常に優れているという驕り。ケイトン=トンプソン調査団が提示した報告は、そのすべてを根幹から揺るがす内容だった。
1928年に英国アカデミーにローデシア、ムティリクウェ湖近くの遺跡の期限を調査するために招待されたケイトン=トンプソンは、この分野ではまだ珍しかった女性考古学者だ。第1次世界大戦中に海運省に勤務し、パリ講和会議にも出席したことのある彼女は、その後ロンドン大学で学び始め、マルタ島、エジプトなどの発掘調査で経験を積んだ後に、このアフリカ南部の謎の遺跡調査を依頼されたのだ。
すでに19世紀にジェームズ・セオドア・ベントらによって発掘調査は行われていたが、この遺跡の起源についての全く誤った仮説を証明するためだけの杜撰な調査で、考古学者の間からも疑問が出ていたのだ。
彼らの主張は簡単にいうとこうだった。
「下等なアフリカ人に、このような偉大な建築が可能なはずはない。これは過去の偉大な中近東の遺構に違いない」
ソロモン王を訪ねたシバの女王国はここであった、もしくは、古代フェニキア人またはユダヤ人が築いた、アラビア人たちの黄金鉱山だったというような主張だ。
20世紀初頭にデイヴィッド・ランダル・マッキーヴァーの調査では、それまでの調査隊が「取るに足りぬゴミ」として放置していた、現地人が現在も使うのとほぼ同じタイプの土器や、石造建築物の構造の調査から遺跡はショナ人など現地住民の手によるものだと結論づけたが、当時の権威たちはそれを認めなかった。
こうした中で再調査を依頼されたケイトン=トンプソンが編成したのは、写真撮影で協力参加したキャスリーンを含め全員が女性の調査隊だった。これは、全く前例のないことだった。ケイトン=トンプソンは現代でも村人が使用している陶器やテラス造りの壁といった構造と比較することで、マッキーヴァー説を強く支持する調査結果を発表した。
彼女が、他の調査隊と違ったのは、『
データが語っている。これはソロモン王の時代の遺跡ではない。アラビア人たち西アジアの人びとが建設したものでもない。後の放射性炭素年代測定でも、この遺跡は12世紀から15世紀に建設されたものであることが証明されている。
遺跡は50以上の円形または楕円形の建造物の集合体で、3つに分けて分類されている。北側の自然丘陵を利用して作られた通称『
何よりも「原住民には作れない」と偏見の対象となったのは、『グレート・エンクロージャー』で、1万5千トン以上の花崗岩を用い、漆喰などは使わずに精巧に積み上げてある。長径は89m、外壁の周囲の長さは244m、高さは11mで、外壁の基部の厚さは6mに達する。東側には高さ9mを超える円錐形の塔がそびえ立ち、おそらく祭祀的空間であったと考えられている。
『ヴァレー・コンプレックス』は、首長の妻子たちの住居跡地だと考えられている。円形の壁を持つ住居が通路で結ばれた構造だ。鉄製のゴング、大量の食器や燭台、ビーズ、銅、子安貝などで作られた装飾品、犂や斧、儀礼用の青銅製槍などの他、中国製の陶磁器、西アジア製のガラス瓶まで出土しており、まだヨーロッパ人たちが大航海時代を迎える前に、彼らが遠隔地交易との豊富な金属加工で大いに栄えていた証拠となっている。
『ヒル・コンプレックス』の東エンクロージャーには石組みのテラスが敷かれ、祭祀に関連する遺物が出土した。中でも最も重要だったのは、6体の滑石製の鳥彫像だ。似たものが『ヴァレー・コンプレックス』からも出土している。ショナ族の世界観では、鳥は天の霊界と地の俗界を往き来して仲介する使者であり、呪術師はその力を借りて雨乞いなどの儀式を行うために鳥を象った彫像を作ったと考えられている。
キャスリーンは、『ヒル・コンプレックス』で作業をしていたときに、何度も襲ってきた雷雨のことを考えた。遠くに稲妻が煌めくと、次第に灰色の雲が青空を覆い隠していく。
西エンクロージャーは自然の巨石を利用し、花崗岩ブロックのと合わせて直径30メートル、高さ7メートルの巨大な建物に仕立てている。雷雨の激しさを知るキャスリーンは、急いでこの首長の政治統治の場だったと思われる建物に入っていくが、恐ろしげに首をすくめる。
15世紀から今まで絶対に落ちてこなかったのだから、絶対に安全だとわかっていても、屋根となっている自然巨岩の危うげなバランスに強迫観念を感じてしまうのだ。だが、痛いほどに打ちつけるアフリカの夕立に打たれるよりは、ひとときこの岩の下で息をひそめる方がマシだった。
すぐ近くで出土したジンバブエ・バードの黒く滑らかな立ち姿を思い浮かべた。なんという鳥を模した像なのか、キャスリーンもケイトン=トンプソンもはっきりとはわからない。ショナ族にとって重要なトーテムであるチャプング(ダルマワシ)またはフングウェ(サンショクウミワシ)だと考えられているが、どれも決め手に欠ける。
そういえば手伝いに来ていた現地人ンゴニは
大変な努力を持って作り上げられたシュモクドリの巣は、彼らだけが使うわけではない。空き家の巣はチョウゲンボウやワシミミズクなどほかの鳥たちや、ネズミやなど他の動物たちも利用する。中でもクロワシミミズクは巨大で怖れられ敬われている鳥だが、シュモクドリの巣の上に陣取り1日を過ごす姿が「猛禽が宮殿を守っている」とみなされ、「
不思議な鳥だ。雨を呼び、稲妻を司る
キャスリーン・ケニオンは1950年代にパレスチナ東部エリコの発掘調査を主導し20世紀でもっとも影響力のある考古学者と呼ばれるまでになった。後にオックスフォードのセントヒューズ大学長を務め、大英帝国勲章のデイムに除された。
一方、グレート・ジンバブエ遺跡を発掘したときの上司であったガルトルード・ケイトン=トンプソンも、1934年に女性として初めてリバーズ賞を受賞し、1944年に王立人類学研究所の副所長にも選出された。46年にはハクスリー賞を受賞した。さらには東アフリカの英国歴史考古学学校の創設メンバーとなり、評議会の委員を10年間務めた後、名誉フェローに任命された。
ローデシア時代は、偏見と政治的圧力により覆い隠された「グレート・ジンバブエ=アフリカ人建設説」は、脱植民地化独立運動の後、ジンバブエ共和国が成立すると「未だに謎に包まれている」という公式見解は取り消され、正式に認められるようになった。
過去の偉大な建築物は、新しい国の精神的な支えの中心となり、国名もここから取られた。そして国旗にはジンバブエ・バードの1つが国のシンボルとしてデザインされた。それと同時に、この遺構を示す言葉は、「偉大な」という意味を込めて「グレート・ジンバブエ」と呼び区別されることになった。1986年にはユネスコ世界遺産に登録された。
ローデシア時代の偏見と悪意に満ちた発掘調査のために、多くの部分が破壊・遺棄されたグレート・ジンバブエ遺跡の発掘調査はいまだに進められ、考古学的証拠や最近の調査結果により歴史的背景などについても少しずつ解明が進められている。
古い権威と悪意のヴェールが取り除かれ、アフリカ第2の巨大遺跡グレート・ジンバブエ、1000年前のショナ族たちの栄光は陽の目を浴びた。一方、シュモクドリが巨大な巣作りに偏執的なほどの情熱を傾ける謎は、いまだに解明されていない。
(初出:2023年9月 書き下ろし)
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縁談相手であるレオポルドがそこにいることも知らず、《学友》経験者であるラウラに礼儀作法とグランドロンについて特訓してほしいと頼んだエレオノーラ。確かにここにいるメンバーは、適任です。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(22)男姫からの依頼 -3-
ラウラは、ようやく理解した。確かに今から礼儀作法を教える宮廷教師を探し、一般論から教えを請うていたら、レオポルドの来訪には間に合わないだろう。ラウラならば、そうした場で何が求められるか、効率よく判断して必要そうなものだけを集中して教えることもできるだろう。とはいえ……。
「それは、私の一存では引き受けかねます」
そう言ってラウラはレオポルドの方を見た。エレオノーラは、ラウラの視線を追って、後ろに立っているレオポルドとマックスを見た。
エレオノーラは、ラウラの主人である商人の元に大股で歩み寄り、真っ正面から見据えて訊いた。
「秘書殿の奥方を2週間ほど貸してはくれぬか。私はまだたくさんの権限は持たぬ身だが、それでもそなたの商売に最大の便宜を図ることを約束しよう」
レオポルドは、若干面食らったようにがさつな姫君を眺めていたが、急に笑い出して、ふてぶてしく答えた。
「わかりました。せっかくなので、私の秘書もお使いください。実は、このマックスは宮廷教師の資格を持っております。グランドロン語や古典の話題、歴史などについては、彼が役に立つでしょう。かくいう私も商業や政情についての知識を多少なりともお伝えできるでしょう」
今度はラウラとマックスが驚く番だった。断ると思っていたからだ。ラウラは、エレオノーラに同情していたので、数日だけでも協力できないか頼むつもりでいたが、必要なかったようだ。
エレオノーラも若干面食らったようだが、ほっとしたようで嬉しそうな顔を見せた。
「それはかたじけない。心から感謝する。報酬についてだが……」
レオポルドは、それを遮った。
「報酬などは必要ございません。ただし……」
「ただし?」
「その教育期間、静かで、他の人びとが出入りしない場を用意していただきたい。それから、これだけ我々の時間と手間をかけるからには、その国王陛下との謁見とやらで『身代わりを立てずに済む』程度の成果は出していただきたいですな」
それを聞いて、後ろに立っていたラウラは息を飲んだ。これは明らかに、例の偽王女事件に関するレオポルドの嫌みだ。ついでに言えば、マリア=フェリシア姫の教育に当たっていたマックスに対する当てつけでもある。ラウラは、そっと唇を引き締めて、わずか挑戦的にレオポルドを見た。
部屋に戻ると、マックスは小さな声でレオポルドに詰め寄った。
「いいんですか……」
「ああ、むしろ都合がいいのだ。貴族用の旅籠よりはマシとはいえ、この修道院に居続けたら、いつ我々を知っている貴族たちに出くわすかわからん。それに、トリネアや城下町の様子は見て回ることはできるが、さすがに城内には入れないから、どう情報収集しようかと思っていたんだ。あの娘の特訓に関われば、あの娘や家族のことだけでなく、トリネアの情勢も政治に対する考え方も自然に聞き出せるしな」
「私どもの本当の身分がわからぬように、話を合わせておく必要があるかと存じますが」
「ああ、そうだな。マックス、遍歴教師だった時にラウラと出会ったことにすれば自然だろう。とにかく、我々が一丸となって協力するということにしよう」
「仰せの通りに。15日間もずっと近くにいて、バレても知りませんよ」
「そこは、上手くやれ」
マーテル・アニェーゼは、この計画を聞いて喜んだ。エレオノーラの数少ない理解者として陰に日向に支えてきたものの、エレオノーラが貴婦人としての振る舞いを身につけないまま女侯爵になることを強く案じていたからだ。本人が初めて学ぶことを決意したのと、ちょうどその時にふさわしい教師役と知り合えたことを神の恩寵と感謝した。
それゆえ、彼女はすぐに必要な準備をしてくれた。まず、侯爵に手紙を書いた。誰の言うこともきかない候女が唯一敬意を持って交流する存在であるマーテル・アニェーゼは、侯爵夫妻から何度も再教育に関する相談を受けていた。
手紙には、エレオノーラがはじめて自らの意思で再教育を受けたがっていること、そのやる氣を削がないのがとても重要であることを書き、時間が無いので再教育に関しては任せてほしいこと、静かな環境を確保するため、表向き候女は伝染性の季節性疾患に罹ってしばらくトリネア城には戻れないことにしてほしいと願った。
侯爵からの返事はすぐに来た。『候女を離宮で【静養】させるように』と書いてあり『何卒よしなにお願いする』と書かれていた。
件の離宮は、修道院から見て谷の向かい側にある。かつては夏の避暑用に建てられたが、亡くなった候子フランチェスコが長らく静養に使っていたため、ここ2年ほどは使われていない。立地からいっても、トリネア城に出入りする貴族たちに見られる必要がない点からいっても理想的な場所だった。
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今回、ようやく残念な姫からの依頼内容が明かされます。エレオノーラは、ラウラにあることの白羽の矢を立てていました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(22)男姫からの依頼 -2-
エルナンド・インファンテ・デ・カンタリアは、レオポルド自身とも親戚関係にある。レオポルドがまだ王位に就く前なのでかなり昔になるが、母親のところに贈られてきたカンタリア王家の肖像で見たことがあった。下唇が前方に突き出た特徴的なその顔つきで、レオポルドの母親とも似ていた。
同様に氣性が激しく残虐なことを厭わないのは母親個人の性格だと思っていたが、もしかするとカンタリア王家ではさほど珍しいことでもないのかもしれない。
同じカンタリア王家の血を継いでいるとはいえ、フリッツが指摘したとおり、エレオノーラにはそのような特徴はなかった。エルナンド王子とその騎士たちの振る舞いに我慢がならないと震えている。
「つまり、逃げ出して、嵐が過ぎるのを待つというわけですか?」
レオポルドは、挑発するように話しかけた。マックスは「あまりお楽しみになりすぎませんように」と目で制したが、レオポルドは氣にしていない。
エレオノーラは、そう言われて悔しそうな顔をしたが、それから肩を落として俯いた。
「そういうわけにはいかない。縁談はこれからもいくらでも来る。隠れて済む問題じゃない。兄様が生きていた頃なら、それで済んだけれど、今の私は未来の女侯爵だ。……そもそも縁談は、いま2つ重なっているんだ」
「2つ?」
「ああ。実は、2週間後には、グランドロンの国王も来るんだ」
エレオノーラは肩を落とした。
「なんと」
レオポルドがわざとらしい驚き方で言うと、マックスだけでなくフリッツも「いい加減にしてください」という顔で見た。
考え事に沈んでいたエレオノーラは、その3人の様相には氣がついていなかったが、意を決したように静かに座っているラウラの方に歩み寄った。
「ラウラ。あなたは、ルーヴラン人だよね」
「はい」
「その……。その左手首……」
ラウラは、はっとして左手首を見た。いまはきちんとスダリウム布で覆われて傷跡は見えていないが、一同はここに着いた日にこの布を巻き直すところをエレオノーラがじっと見つめていたのを覚えていた。
エレオノーラは、単刀直入に言った。
「もしかしてどこか貴族の《学友》だったことがあるんじゃないか?」
ラウラは、一瞬怯んだ。他にこのような傷をもつ説得力のある経歴は思いつかない。ルーヴランに平民出身の《学友》経験者はたくさんいるし、ここは肯定してしまった方がいいと思った。
「はい。ある貴族のお屋敷で勤めていたことがあります」
「やっぱり、そうか。ひどい習わしだ。」
「《学友》のことを詳しくご存じで、驚きました」
「《中海》周辺はセンヴリ王国に属していても、ルーヴランの文化をありがたがる国が多くて、実はここトリネアも同じことをしているんだ。トゥリオの左手首、見たかどうかわからないけど、やっぱりいくつかの傷があるよ。……彼は、兄様の《学友》だったんだ。幸い、兄様はとても優秀で、トゥリオが鞭打たれることは本当に稀だったけどね」
ラウラは、わずかに驚いた。《学友》の制度を取り入れる国や貴族の家庭は増えていることは知っていたが、マリア=フェリシア姫が好んだように、自分の代わりに受けさせる罰として鞭打ちを取り入れているのはごくわずかだと思っていたからだ。まさかこのトリネア候国が、そのわずかな例だったとは。
「ということは、姫様にも……」
「ああ、私にもいた。ほんの1年ほどだったけれどね。……ラウラ、そなたにたっての願いがあるんだ」
エレオノーラは、ラウラの前に座った。
「私は、子供の時に学ぶことを拒否した。私が愚かな間違いをすると、代わりに私の《学友》ペネロペがひどく鞭打たれた。私はそれに耐えられなかった」
ラウラは息を飲んだ。エレオノーラはしばらく口をつぐんだが、やがて続けて言った。
「本当は、ペネロペが鞭打たれずに済むように、私が完璧に振る舞えばよかったんだ。でも、そんなことは到底できないと思った。実際に無理だったんだ。だから、私はすべてを投げ打って、絶対に教育を受けないと決めたんだ。教育係も、乳母も、もちろん父上や母上、そして兄上、その他の誰も彼もが、説得しようとしたけれど、私は揺るがなかった」
「《学友》なしで教育を受けることは許されなかったのですか?」
ラウラが訊いた。
エレオノーラは、首を振った。
「乳母や兄上がその妥協策を提案してくれたんだ。でも、カミーロ・コレッティ、ペネロペを養女にして《学友》として差し出した廷臣なんだが、彼からの抗議が激しくて、それは受け入れられないって言われたんだ。それで、私は意固地になって一切の教育を徹底的に拒否したんだ。教師が来たら部屋にこもるか逃げ出した。日々の周りの人びとの忠告はすべて耳を閉ざして聞き入れなかった」
ラウラは、複雑な思いでエレオノーラの言葉を聞いていた。この候女の頑固な振る舞いは、子供じみていて愚かだった。そんなことをしても、トリネア候国の姫君という立場は変えられるものではなく、自分の立場が悪くなるだけだ。けれど、実際に当時のエレオノーラは子供だったのだ。ほかにどうすることができただろう。幼かった彼女は、たった1人の少女を守るために必死だったのだ。その優しさにラウラは深く心打たれていた。
静かな部屋に、エレオノーラの声が響いた。
「そして、最後には父上も、母上も諦めた。侯爵になるのは優秀な兄様がいるし、私はいずれこの修道院にでも押し込めるつもりだったんだろう。私も、トリネアの汚点として隠されて生きるんだなと氣楽に考えていた。……でも、兄様が亡くなって、すべての事情が変わってしまった」
たとえ最低な姫君であろうと、トリネア候国を背負って行かざるを得なくなったのだ。
「さっき、城を出る前に父上に宣言してきた。グランドロン王の訪問の時に表に出るって。本当は、父上は私が病氣だとか適当なことを言って、この話をうやむやにするつもりでいたんだ」
ラウラは、息を飲んだ。そっと目でレオポルドを追うと、後ろから身振りで「続けさせろ」と指示している。ラウラは、慎重に言葉を選んだ。
「それは、あなた様が、このご縁談をすすめたいとのお考えに変わったという意味ですか?」
エレオノーラは、大きく笑った。
「進められるわけはないだろう。断られるに決まっている。でも、そう宣言すれば、少なくとも、それまでの間に他の縁談を進めることはできないだろう。2週間もすればあの野蛮な王子はいなくなるだろうし」
「まあ」
ラウラは返答に困った。エレオノーラ自身は、同じ国王から2度も縁談を断られるという恥辱に対して、とくに氣にもしていないようだ。
「とはいえ、いまの作法で、私がグランドロン王の前に出ることを、父上や母上も戸惑っておられる。当然だけれど……」
ラウラは、よけいに返答に困ったが、賢明にも真剣な顔で黙って続きを待つという手法をとった。
エレオノーラは、ラウラの左手首を取って、そのスダリウム布にそっと手を当てた。
「じつは、そなたに会ってその傷に氣づいたときから、決めていたんだ。どんなことをしても助けてもらおうって。報酬はいくらでも出す、聞いてくれないか」
「私に?」
ラウラは、驚いてエレオノーラの顔をまじまじと見つめた。エレオノーラの後ろで、レオポルドとマックスが、やはり驚いて顔を見合わせている。
「そうだ。15日後に、グランドロン国王がこのトリネアにやって来る。そして、城で謁見と歓迎の会が開かれる。私がそれに出席して、取り繕うことができるぐらいまでに、行儀作法とグランドロンのことを教えてくれないか?」
エレオノーラは真剣だった。
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- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(22)男姫からの依頼 -1- (30.08.2023)
- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(21)修道院 -2- (23.08.2023)
- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(21)修道院 -1- (16.08.2023)
- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(20)人狼騒ぎ -3- (02.08.2023)
【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(22)男姫からの依頼 -1-
首尾よく修道院で宿泊するチャンスを掴んだレオポルド一行。今回は、我らがヒロイン(?)のどこが残念なのか、具体的に明かされます。本当に残念なんですよ、この人。
さて、説明を忘れていましたが、修道院長マーテル・アニェーゼのマーテルとは院長に与えられる敬称です。日本でもごく普通の尼僧がシスターと呼ばれるのに対して修道院長がマザーと呼ばれますよね。この敬称を設定するときにイタリア語にしようかとも思ったのですが、中世だしラテン語風にマーテルにしておきました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(22)男姫からの依頼 -1-
レオポルドが聖キアーラ修道院に半ば強引に滞在しようとしたのは、トリネア候国の事情に明るそうなマーテル・アニェーゼと親しくなり、候国や候女についての情報を得るつもりだったからだ。ところが、一行をここに連れてきた男装の娘こそが、よりにもよって縁談の相手である候女エレオノーラだった。
夕食の時に現れた彼女は、まだ少年の服装をしたままだったし、女性らしい振る舞いや口調になることもなかった。マーテル・アニェーゼをはじめとした修道女たちや下男たちも、この姫君の変わった振る舞いに慣れているらしく、そのままにしていた。
アニーは、長らくルーヴの王宮で侍女として働いていたので、貴婦人の模範とまで謳われたラウラだけでなく、王族や貴族の奥方や姫君の立ち居振る舞いを近しく目にしてきた。
おしゃべりで会話の内容に問題があった伯爵夫人や、いろいろな香水を混ぜすぎて同席した貴人たちを戸惑わせた令嬢はいたものの、本当に貴族なのか疑うような行儀作法の侯爵令嬢が存在するとは考えたこともなかった。
語学や政治情勢、歴史、詩作などでは、宮廷教師だったマックスを悩ませるほど劣等生だったマリア=フェリシア姫ですら食卓では、そこそこの振る舞いができた。
だが、エレオノーラの振る舞いには、そのアニーですら時おり目を疑いたくなった。スープを食べるときに音を立てていたし、肉を触った指をフィンガーボールで洗う前に杯に触れてベタベタにしていた。極めつけは肉汁が口についたときに、置かれているリネンではなくテーブルクロスで口を拭いていた。
ラウラは顔色一つ変えずに、やはりまるで何も見なかったように振る舞う尼僧たちと会話をしていたが、レオポルドは時おり目を宙に泳がせていたし、マックスとフリッツは不自然なほど違う方向を見ていたので、やはり衝撃的だったのだろうとアニーは思った。
アニーは、もしかして来月を待たずにグランドロン国王は帰るかもしれないと考えた。マリア=フェリシア姫よりひどい結婚相手なんてこの世には存在しないと思っていたけれど、この姫君はあまりといえばあまりだ。
だが、アニーの予想に反して、レオポルドは翌日もトリネア城下町を去りたがる氣配を見せなかった。それどころか、港を訪れたり、市場を回ったりしながら、トリネア城下町を見て回った。確かに、候女と結婚しなくてもトリネア候国のことを近しく目で見る機会そのものは、そうそうはないのだから、急いで帰る必要もないのかもしれない。
「ずいぶん若い修道院長だと思っていたが、あの女は相当の切れ者だな」
アニーは、港から修道院に戻る道すがら、レオポルドがマックスと話しているのを聞いていた。
「そうですね。それに、薬草についても医学者なみに博学で驚きました」
グランドロン王国一の賢者であるディミトリオスの弟子だったマックスが驚くというからには、並みならぬ知識を持っているのだろうとアニーは考えた。
「有力とはいえ家臣のベルナルディ家が、あそこまでの教育をほどこせるのに、なぜ候女がああなのか、どう考えてもわからぬ」
レオポルドが小さな声でつぶやいた。
修道院に戻ると、その候女が再び来ていた。もう二度と会うこともないだろうと思っていたので、一行は驚いた。奥で治療中と聞いた、例の人狼を騙っていた男トゥリオの様子を見に来たのだろうか。
「私もしばらくここに泊めてもらうことにしたんだ」
エレオノーラは言った。
「そんなに何度もお城を抜け出してよろしいのですか?」
ラウラが訊くと、エレオノーラは「今日はあそこにいたくなかったんだ。……あんなのと縁談を推し進められるのはまっぴらだ」とつぶやいた。
「恐れながら、誰との縁談ですか?」
もしや自分との縁談の件かと好奇心に駆られてレオポルドが訊くと、エレオノーラは「カンタリアの王子だよ」と答えた。
聞き捨てならないな、カンタリアの王子がたった今トリネア候国を訪れているのか。これは詳しく話を聞き出す必要がありそうだ。
レオポルドは、エレオノーラに近づいた。
「カンタリアの王子とおっしゃいましたか?」
「ああ。私の母親は、カンタリア王の従姉妹なんだ。カンタリアの第2王子のエルナンドっていうのが、ルーヴラン王国目指して旅をしているらしいんだけれど、その途中に母上に挨拶するってことで立ち寄っているんだ」
エレオノーラは、身震いをした。
あからさまな嫌悪の表情を見せるのがおかしくて、レオポルドは訊いた。
「あなた様にとっても親戚なのに、会えて嬉しくないのですか?」
エレオノーラは口を尖らせた。
「嬉しいもんか。そなただってあの野蛮な男たちを目にしたらうんざりするに決まっている。あいつら、まともに立てないくらいに酔って、中庭に母上から贈られた豚を連れてきてその場で殺したんだ。腸を切り開いて、馬鹿笑いしていたんだぞ」
ラウラだけでなく、レオポルドとマックスも顔を見合わせて眉をひそめた。それは国によって作法が違うといって済まされる程度の無作法ではない。
「王子様がたはその作法で、ルーヴ王宮に行くつもりなのですか。それはさぞ……」
レオポルドは、ことさら取り澄ましたルーヴランの貴族たちがさぞ驚くだろうと、残りの言葉を飲み込んだ。
「なのに、母上ったら、あの王子は第2王子だから、結婚すれば婿入りしてくれる。氣に入られるように振る舞えなんて言うんだ。だから、急いで逃げ出してきたんだ」
マックスとレオポルドは、再び顔を見合わせた。
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ジューリオと名乗り男装をしている娘の案内で聖キアーラ女子修道院についた一行は、訳ありの男トゥリオとジューリオを助けた縁で、茶菓のもてなしを受けました。
今回は、思いがけない成り行きに渡りに舟と食いつくレオポルドたちが、その語にジューリオの正体に氣がつくことになります。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(21)修道院 -2-
マーテル・アニェーゼは、さまざまな焼き菓子を一同の前に置き、薬草入りの白ワインをすすめた。
「城下町に滞在なさるご予定ですか」
「はい。安全で心地のいい宿をいくつかご存じでしょうか」
マックスが訊いた。
「そうですね。この近くにもいくつかございますが、あの森の村人たちとかち合わないようにとなると、かなり町の中心まで行く必要がございますね」
修道院長は考えながら答えた。
ジューリオは、その会話を遮るように突然言った。
「ねえ。マーテル。いっそのこと、この人たちをここに泊めてくれないか? ここなら安全だし」
「まあ。でも、よろしいのですか? その……あなた様の……」
修道院長は、困ったように口淀んだ。
「少年のフリをしている女だとわかってしまう……と?」
レオポルドが言うと、2人は驚いたように見た。一行の誰も驚いていないので、どうやらとっくにわかっていたようだと、マーテルは肩をすくめた。
「もし懸念がそれだけだというのなら、今から城下町の中心まで行き、まともな旅籠を探すのも骨が折れるので、お言葉に甘えさせていただけるだろうか」
レオポルドは、マーテル・アニェーゼともう少し話をする機会を逃すつもりはない。
「そうですね。ここは修道院でございますので、申しわけございませんが、殿方様のお部屋と、奥方様のお部屋に分けさせていただきます。また、夕刻の祈りの時間には門の錠を締めさせていただきますので、あまり遅くまでの外出はできません。それでもよろしゅうございますか」
「もちろん異存は無い」
マーテル・アニェーゼは頷いた。
「それでは、どうぞ、ゆっくりとご滞在くださいませ」
レオポルドは、頭を下げた。
「ご親切に感謝します。もちろん相応のお代は支払わせていただくので、私の秘書であるこちらのマックスに申しつけていただきたい」
「私どもは旅籠ではございませんのでお代はいただきませんが、もちろんいくばくかでも寄進をいただければ幸いです。それでは、皆様のお部屋を用意いたしましょう」
マーテル・アニェーゼが立ち上がると、ジューリオも立ちラウラとアニーの横に立った。
「わたしも、今日はここに泊まるんだ。あなたたちの部屋には私が案内しよう」
「エレオノーラ様」
マーテル・アニェーゼは咎めるような声を出した。
「いいじゃないか、マーテル。ここでの私は下人みたいなものだろう」
「冗談はおやめください、姫様。それに、今日のあなた様は、お祈りのためにここに泊まるお許しをお父様からいただいたんじゃありませんか。トゥリオ殿の看病とお客様のお世話は私どもがしますので、あなた様は大人しくなさっていてください」
一同は、黙ってジューリオ、正しくはエレオノーラというらしい男装の姫を見た。
当人は、ため息をついて答えた。
「わかった。じゃあ、この人たちの世話は任せた。何といってもこの人たちは、私の、つまりトリネアの恩人だしな」
レオポルドとフリッツは、戸惑ったように目配せをしあった。
案内された部屋に入った途端、レオポルドはフリッツに詰め寄った。
「おい。まさか、あれがトリネア候女だっていうじゃないだろうな」
マックスも、「やっぱりそうなのか」と思った。
聖キアーラ修道院長マーテル・アニェーゼは、トリネアの有力貴族ベルナルディ家の出身だ。その彼女が尊い姫のように扱っているということは、あんななりをしていてもかなりの家柄の令嬢なのは間違いない。加えて、かの男姫は自分たち一行のことを「トリネアの恩人」と言った。
フリッツは、困ったように答えた。
「残念ながら、その可能性は高そうです。姫君の正式なお名前は、エレオノーラ・ベアトリーチェ ・ダ・トリネアでしたよね。そのうえ院長は姫様と呼んでいましたし。まあ、他に姫様と呼ばれる同名の女性がいる可能性もあるわけですが」
レオポルドは頭を抱えた。
「あれはないだろう。あんな粗忽な姫なんて見たことがないぞ。勘弁してくれ」
「1つだけ、陛下の出された条件に合ったところもありますよ」
フリッツは、慰めるように言った。
「何だ」
「御母后様とはまったく似たところがございません」
マックスは思わず吹き出しそうになったのをそっぽを向いてこらえ、レオボルドに睨まれた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(21)修道院 -1-
人狼と思われていた男トゥリオを救ったため、村人たちに報復される可能性のある道を避け、一行はジューリオと名乗った少年の案内で聖キアーラ女子修道院へと向かっています。レオポルドは本来の身分と名前を隠したまま修道院長マーテル・アニェーゼと知り合えると目論んでいます。
この修道院ならびにマーテル・アニェーゼは一度外伝でも登場しましたが、モデルは中世ドイツのヒルデガルト・フォン・ビンゲンです。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(21)修道院 -1-
森の道は、半刻ほど登り坂のままだった。それからわずかに下り勾配となった。足下が崩れやすいので、1歩ごとの時間がそれまでよりもかかった。道幅が広く、歩きやすくなってしばらくしてから、かなり大きい灰色の建物が木々の合間から見えてきた。
「あれがその修道院か」
レオポルドが訊いた。
「ああ、そうだ。すぐに着く」
ジューリオはそう答えたが、実際に壁面にたどり着くまでは半刻ほどかかった。ここの道もかなりの傾斜で下り、歩みは再びゆっくりとなった。木々は広葉樹ばかりとなり、若葉の色もずっと明るい黄緑で、明るく感じられた。
ようやく森から出て、石畳にも似た石盤が土の合間に敷かれた道を修道院の壁に沿ってしばらく歩いたところでジューリオは停まった。
「ほら、そこが裏門だ」
生い茂る蔦に隠れるように裏木戸があった。ジューリオは、辺りを確かめながら裏木戸を開けて、一行を塀の内側に入れた。
「ちょっとここで待っていてくれ」
そう言って、ジューリオは建物の中へと向かった。5人とトゥリオはその場に残った。
「なんだあれは」
レオポルドが眉をひそめて言った。フリッツが肩をすくめた。
「伝説の男姫でしょうか」
「《男姫》ユーリアは絶世の美女だったって話じゃないか。こっちは単なるちんちくりんだぞ」
レオポルドは吐き出すように言った。
それを聴いて、アニーが驚いてラウラに耳打ちした。
「あの方、女性なんですか?」
「そうみたい。でも、ここで大きな声でその話はしない方がいいわ」
ラウラはトゥリオを目で示しながら答えた。
しばらくすると、ジューリオが3人の尼僧と戻ってきた。背の高い女性には明らかに他の2人とは異なる威厳があった。彼女は一行に頭を下げると、レオポルドに話しかけた。
「当修道院の院長でございます。この度はとんだ災難でございました。この2人をお助けくださったとのこと、私からも御礼申し上げます。どうぞ中でしばしお休みくださいませ」
レオポルドは、頭を下げた。
「それはご親切にありがとうございます。お言葉に甘えて、すこし休息させていただきます」
尼僧たちは、下男たちを手配しトゥリオを手当てするため奥に連れて行った。レオポルドたちは、そのまま中庭へと案内され、そこで茶菓のもてなしを受けた。院長マーテル・アニェーゼとジューリオも一緒に座った。
塀に囲まれた大きな修道院は、俗世間から隔離されていることもあり、小さな城のような様相を示している。広い庭園にはたくさんの野菜とともに薬草になる植物がたくさん植えられ、蜂が忙しく蜜を集め、鶏も歩き回っていた。
修道女たちが心を込めて作ったパンや菓子の甘い香りが漂い、夏の熱い日差しを葡萄棚が遮る庭園での休息は非常に心地よかった。
「ラウラ様……」
アニーがそっと立ち上がりラウラの左に回った。見ると左手首に巻いたスダリウムが外れかけている。馬から下りるときにずれたのだろう。赤い皮膚の傷跡が見えていた。
ラウラがルーヴランでマリア=フェリシア姫の《学友》として代わりに罰を受けていた頃は、この傷が癒える間もなく次の鞭が当てられたものだが、グランドロンに来てからそのようなことはなくなり、傷は完全に塞がっている。だが、その痛々しい跡はもう消えることがないので、王都やフルーヴルーウー城では金糸の縫い取りのついた厚手の覆いをしている。だが、それは平民に相応しいものでもなく現在の服装にも合わないので、この旅の間は白いスダリウム布で簡単に覆うようにしていた。
アニーが、スダリウムを結び直している時に、ジューリオはその様子をじっと見つめていた。
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【小説】地の底から
今月のテーマは、トルコはカッパドキアにある古代の巨大地下都市デリンクユです。当時はそういう名前ではなかったとどこかで読んだので古い名前を使いました。
これは、実際にこういうことがあったという裏付けのある話ではありません。デリンクユのことを調べている間に、「これってどうやって暮らしていたんだろう」と想像が膨らみ、いつのまにか生まれてきてしまった話です。

地の底から
水面に月明かりが揺らめいている。セルマは静かに桶を浸した。痛いほどの冷たさを感じた。日中に外に出れば、怯えるほどの熱風に晒されるはずだが、この地底はアナトリア高原の厳しい夏とは無縁だ。少なくとも彼女はもう何か月も地上へは行っていない。
セルマは、地下都市マラコペアの最下層に小さな部屋を与えられている。その役目を果たす時以外に彼女と関わろうとする者は非常に少ない。時おり、好奇心に駆られて話しかけてくる人はいる。しばらくの交流があり、やがて家族や友人たちに止められ、後ろめたそうに去って行く。いま、時おり訪れてくるファディルもいつかはそうなるのだろう。
セルマは『水番』だ。地下都市マラコペアの最下層には地下水の泉がある。10以上ある同じような泉は、すべての階層の家族の命を支えている。この地下都市と地下通路で繋がっているほかの地下都市もまた、同じつくりになっている。この井戸は地上と地下の双方の住民のため使われており、地下都市にとっては、水汲みの井戸としてだけでなく、通氣口にもなっている。外界から空氣と光が差し込む唯一の場所だ。
泉の周りに、入り組んだ細い通路や階段につながれた居住区が、互い違いに上下に存在する迷路のような構造になっており、セルマの暮らす最下層は地下8階にあたる。
セルマや、他の井戸に住む『水番』は、上から降りてくる桶に水を汲み、それが引き上げられる前に少しだけ水を飲んでみせる。それが『水番』の勤めだ。外敵によって井戸に毒が投げ込まれれば、それは地下都市で生きるすべての家族の死を意味する。だから、『水番』が必要なのだ。
地下都市マラコペアがいつ建設されたか、詳しいことは誰も知らない。主イエス・キリストが生まれる何百年も前の時代にヒッタイト人またはフリギア人が建設したという者もいるし、ペルシャ人たちは伝説のペルシャ王イマが建設した地下宮殿がここだと主張しているらしい。いずれにしても、大昔のことだ。
キリスト教が急速に広がると同時に、それを問題視するローマ帝国では迫害も始まった。聖ステパノが最初に殉教してから120年ほど経った今、迫害を避けて移動してきた信者たちの多くがこのアナトリア高原の地下都市マラコペアにたどり着いた。
もともとの地下都市の壁は硬くしっかりとしていたが、その奥の空氣に触れる前の火山岩層は脆く容易に掘り進められることがわかった。それで、人びとは単にここに隠れ住むだけではなく、地下都市を拡張させ、狭い通路と防御のための大人5人分ほどの重さのある引き扉を用意した。それどころか、敵が通ると背後に回り通路を閉じて行き止まりの空間に誘導する罠までも作った。
住居だけでなく調理場、倉庫、家畜小屋、会堂、そして長らく地上へと戻ることのできないときのための墓所までが用意されている。
祈りを捧げる信徒たちの歌声がわずかに響いてきた。ひときわ美しい声は『聖女』ペトロネッラだ。聖堂と呼ばれる十字型をした広い空間に彼らは集い、敬虔な祈りを捧げる。この地下都市に潜む数百家族のうち、明け方の礼拝で聖堂に常に集うのは司祭ヒエロニムスを中心とした数十人だけだ。
ファディルは、その重要な人びとの1人だ。若く力強く、新しい通路を掘るための設計を任されている有能な若者で、いずれは有力な指導者の1人となるだろう。まだ独身で、青年たちの住居区画に住んでいる。
井戸の1つ上の階層で水汲み窓に問題があったのを機に、セルマの仕事場兼居住場にやって来たが、それをきっかけにときどき話をするようになった。
蔑まれる異教徒のセルマに対する公正な態度。朗らかで誠実な人柄、若々しく精悍な佇まい。セルマが密かに想いをよせるようになるのに時間はかからなかった。
もちろん、願いが叶うことはないだろう。彼は『聖女』ペトロネッラの崇拝者のひとりだし、そうでなくても異教徒と関係を持つことは、彼や彼を取り立てた司祭ヒエロニムスの立場を悪くするだけだ。
司祭ヒエロニムスは、何人かいる司祭たちの中では穏健派だ。同じ地下都市に潜む異教徒たちとの関わりを禁止しようとする厳格派たちをやんわりと抑えて、その必要性を唱えた。掘り進む通路を完成させるためには純粋な信者たちだけでは倍の時間がかかる。それに、現在『水番』となっているのは、みな異教徒たちだ。なぜなら、同じ信者の中に、理論的に犠牲者となりうる存在を出すわけにはいかないから。
セルマの村とその周辺の地域は、ローマ帝国の税制に反対して壊滅させられた。生き延びるためには、キリスト教徒たちの力を借りて、この地下都市に住まわせてもらう他はなかった。男たちは人足となり、一部の女たちはキリスト教に帰依して共同体の一部になった。そうしなかった子供のいない女は、竈番になったり、『水番』になった。
キリスト教徒たちは、異教徒たちを半ば奴隷化していることを信仰という名の大義名分で覆った。後ろためさを交流しないことでなかったものにしている。厳格派の司祭たちを支持する裕福な信徒たちは、『水番』や人足たちは、無料で安全と食糧を享受しているのだから彼らの奉仕を受け取るのは当然なのだと主張していた。
久しぶりに穏健派の司祭であるヒエロニムスが、教会の中心となってからは、こうした異教徒たちへの冷たい扱いは、減ってきているかもしれない。
ヒエロニムスを中心に……もしかすると本当の求心力を持っているのは、ペトロネッラなのかもしれない。
セルマは、『聖女』ペトロネッラの整った清冽な横顔を思い浮かべた。聖ペトロの血を引く高貴な生まれだと、人びとがひれ伏し敬愛する若い女が、かつてエラという名で、セルマと同じ村でハシシの製造で身を立てていた少女だったと知る者はほとんどいない。
ファディルは、セルマの言葉を信じなかった。
「言っていいことと悪いことがあるぞ。彼女は高潔で穢れなき魂そのままの顔かたちをしている。セルマ、妬みは君自身のためにならないよ」
妬みか……。そうかもしれない。一番低い階層に、もっとも地上から遠い洞穴空間に潜み、賛美歌を聴いている。けれど、信徒たちのように、神の国の訪れを待っているわけではない。いつの日かローマ帝国の怒りを氣にせずに暮らせる日まで生き延びたい、それだけだ。
桶に水を汲む度に、複雑な想いが渦巻く。地上を避けて地下都市マラコペアに隠るのは、教えを認めず迫害する人たちがいるからだ。毒を投げ入れるとしたら、それは教えを迫害する為政者の手の者たちであろう。だから、毒で死ぬとしたら殺害者はローマ帝国の手の者だ。
それでも……。司祭ヒエロニムスも、『聖女』ペトロネッラも、他の信徒たち、そう、ファディルですら、毒を入れられた水で彼らの代わりに死ぬのは『水番』だとわかってその役目をさせているのだ。
桶が降りてくる度に、数分後にも生き延びられていることを願いながら水を飲む。ここに来て以来、願いが叶わなかったことはまだない。だが、その幸運が続かなった同胞もいることを知っている。隣の泉で2か月前に起こった騒ぎの時には、しばらくセルマの泉に投げ込まれる桶の数がずっと増えた。
あれ以来、信者たちは、食事の度に生命を賭けることを課されている『水番』たちともっと距離をとるようになった。誰が隣の泉に毒を入れたのか、本当に地上から投げ入れられたのか、それとも中に忍び込んだ敵がいるのではないかと、誰もが疑心暗鬼になった。そして、より疑われたのはやはり異教徒の住人たちだった。
それぞれの井戸は離れており、人ひとりが身をかがめてやっと通れる狭い複雑な通路を通ってしか行き来できない。桶が投げ込まれたときにその場にいなくてはならない『水番』たちは、他の井戸へと向かうような時間的余裕はない。だから、セルマはほかの『水番』たちが、何を想っているかを確かめることはできない。全員が未だ生きているのかすら知らないのだ。
地上には通じていない泉が1つだけある。地下都市マラコペアの中央にあり、聖堂の奥、普段は人びとが足を向けない墓所の先で、位の高い聖職者や有力者だけがその場所を知りいざという時のために守っている。すべての泉に毒が投げ入れられて飲み水が使い物にならなくなった場合のためだ。
神とイエス・キリストを信じ、運命を共にする信仰共同体とはいえ、完全にすべての人びとを信じているわけではないのだ。2万人が暮らすことのできる巨大地下都市網、常に新しく掘り続けられる通路、信仰共同体の中の新たな上下関係が、また別の不信を呼び起こしている。
異教徒たるセルマは、聖堂だけでなく他の人びとの部屋、ワインセラー、食堂などを訪れることは許されていない。
共有スペースとなっている調理場を訪れることは許されている。床に埋められたタンドール竈で調理する調理場は、泉からさほど離れていない場所にそれぞれ設けられている。煙突から漏れる煙が外界から見えないように、調理は夜間だけに限られる。できたての肉やパンは、まず聖職者に、それから裕福な家族たちと順番に提供される。セルマはもう誰も訪れなくなった明け方に、そっと調理場を訪れ、黙って食事をする。
司祭ヒエロニムスが聖書を朗読しているのを耳にしたのは、食事を終えて居住区に帰ろうとしたときだった。
賛美歌の音色と、厳かな雰囲氣に心惹かれ、ロウソクの光を頼りに普段は向かわぬ聖堂への通路を通った。聖堂は地下都市の中でもっとも大きな空間を占めている。十字型をしており、天井や壁に壁画までが施されている。セルマはそっと聖堂脇の戸口の陰に座った。
もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。
(ローマ人への手紙 14章15-17)
尊敬する『聖女』ペトロネッラの周りに集まる若い婦人たちや、彼女を賞賛しその手を望むファディルと若者たちは、その聖句に神妙に頷いているが、彼らは知らないのだ。
セルマの生まれ故郷がまだローマ帝国に対して反旗を翻す前のことだ。地域には広大な麻畑が広がっていた。過酷な夏にも涼しく心地よい上質な衣服や丈夫な縄を作るのに重宝された作物だが、葉や花を燃すことで酩酊効果があることも知られていた。
貧しい村人たちは、パイプ用の樹脂を作成して、秘密裏に売り現金収入を得ていた。セルマと同じ村の娘エラも、パイプ用樹脂を作り売っていた。美しくあまたの男性に対する影響力を自覚していた彼女は、ローマからの差配人の誘いを断らなかった。ローマでは珍味として珍重されるヤマネ肉をご馳走してやると言われて彼と何度も逢ったのだ。そして、差配は、何度かめの訪問の時に、村で麻の樹脂を作成して密売していることに氣がついた。
差配人は、その地域の不正をローマに進言することで出世した。セルマの村だけでなく近隣の50ほどの村が争いに巻き込まれた。
村が、ローマとの争いで荒廃し、彼女を崇拝していたたくさんの若い男たちが命を落としていたとき、エラは差配人によってとっくに安全な南部地域に逃されていた。それから、彼女の身に何があったのか、セルマも他の生き残った村人も知らない。再び彼女が姿を現したとき、そこにいたのは若い男を籠絡してほしいものを手に入れていたエラではなく、愛と慈しみに満ちたキリスト教徒の鏡のような『聖女』ペトロネッラだった。
彼女を知る者はもうほとんどいない。そして、何を言おうと、『聖女』に狂信的な忠誠を誓う信者たちは、異教徒のセルマたちの言葉など一顧だにしない。エラは、それをよく知っている。美しい面に慈しみに満ちた微笑みをたたえて、妄言を語る異教徒すらを許す信仰深き態度を演じてみせる。
「あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない」
そう告げる聖書の言葉を、エラはどのような思いで聴いているのだろう。彼女が炙ったヤマネ肉と引き換えにして捨てた故郷の村はもうない。戦って死んでいった崇拝者たちも、人足として、あるいは『水番』として蔑まれつつ、時には命を失う不条理に耐えて生き延びるかつての同郷者たちを、偽りの特権の座から眺めるのはどんな心持ちなのだろう。
聖堂の中心、司祭と共に会衆に向かって立っているエラは、戸口に潜むセルマに氣づき、挑戦するかのような冷たい視線を向けた。他の信者たち、司祭ヒエロニムスも氣づかぬほどのわずかな時、まったく違う立場になってしまったかつての同郷者たちは、瞳を交わした。
司祭ヒエロニムスが、聖餐を記念する聖句を唱え出すと、『聖女』ペトロネッラは我にかえり、祭壇の脇に置かれた水差しを手に取った。その中のワインは、司祭ヒエロニムスが祝福することで聖水となったと信者たちにありがたがられている水から作られた。一方で、その水をセルマが汲んだおり、毒が入っていないか確かめた行為は考慮され感謝されることもない。
ファディルが聖なるパンを捧げ持ち、水差しを持つ『聖女』ペトロネッラと並んで司祭の待つ祭壇へと運んでいった。ヒエロニムスの唱う聖句に合わせて信者たちが唱和する祈りの響きが聖堂に満ちた。悲しいほどに美しいハーモニーが、地底の聖域に響き渡る。
信徒たちは、迫害にも負けぬ清らかな心と互いに対する善行という正しさを拠り所に、『聖女』と共に天国に入る鍵を手に入れようとしている。彼らが今や日々口にするすべての食物や飲み物に入る水に込められた、セルマの苦い想いは氣づかれることすらない。
(初出:2023年8月 書き下ろし)
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人狼を罠にかけてリンチしようとしている村人に、無謀にも立ち向かっていく少年を放っておけずレオポルド、マックス、そしてフリッツの3人は様子を見にいきました。(あいかわらず前作の主人公たる約1名は全く役に立っていませんが……)
かつて外伝で登場させたことのあるこの少年の格好をした人物は、歴史上の
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(20)人狼騒ぎ -3-
一番威勢のいい男が棒を振り上げて少年に向かって振り下ろした。ダガ剣がそれを受け止め、意外にもあっさりと男を後ろにはね返した。
「手加減してやったのに、この野郎!」
他の男たちも次々と少年に襲いかかる。そこそこ剣の腕前はあるようだが、多勢に無勢で明らかに少年の分が悪い。
少年に跳ね返された棒が1つ、マックスたち3人の近くに飛んできた。レオポルドは徐にそれを拾うと、一番近くの男の後頭部にそれを投げつけた。
「いてっ。何すんだ!」
振り返った男は、他にも3人の男がいるのにはじめて氣がついた。
「何だお前ら。人狼の味方かよ!」
レオポルドに向かって男が突進してきたので、すぐにフリッツが剣を抜いた。
「やり過ぎるなよ」
レオポルドの言葉に答えながら、フリッツは既に応戦していた。
「わかっていますよ」
6人の村人たちは、少年ひとりならともかく、鍛え抜かれたフリッツとレオポルドに敵うわけもなく、数分以内に全員が棒を失った。
「ちくしょう。1度退散だ。応援を呼んでこようぜ」
ひとりの男の声を合図に、6人ともほうほうの体で逃げ出していった。
少年は、急いで落とし穴に向かい、魚網をどけて中の汚い男に手を差し伸べた。
「トゥリオ! 探したぞ」
「申しわけございません」
物乞いでもこんなにひどい格好をしているものは珍しいと思うほどの男だが、驚いたことにきちんとした言葉遣いをした。
マックスは、急いで落とし穴に向かい、手を差し出して少年と一緒にその男を引っ張り出した。見ると男は足をくじいたのかまともには歩けない。
「あなた様にこのような危険を冒させてしまいました。到底許されることではございません」
「何を言う。もちろん助けるとも。兄上やペネロペが生きていたら、きっと同じようにしたはずだ」
少年と男の会話を聞いていると、どうやらこの男は人狼などではないだけでなく、ある程度の身分ある屋敷の家人のようだ。レオポルドたちは目配せをしあった。
「加勢していただき助かった。礼を言う」
少年は、3人に頭を下げた。トゥリオと呼ばれた汚い男もまた頭を下げた。
「大したことはしていない。だが、あいつらが戻ってくるまでに、ここを離れた方がいいな」
レオポルドが答えた。
「迷惑をかけて申し訳ない。そなたたちは旅人か」
少年は、訊いた。
「ああ、トリネア城下町まで行く予定だが……」
マックスが答えると、少年は首を振った。
「それはよくないな。この道を行くとあいつらの村を通ってしまう。私が別の道を案内しよう」
それで、一行は急いで馬に荷物を載せた。歩けないトゥリオはフリッツの馬に乗せ、一行は少年と一緒に歩いた。
「私はジューリオという。ここにいるトゥリオは追われている知人なのだが、この森に隠れていることを知り、救出に来たのだ。1人では助けられないところだった。そなたたちの加勢に、心から礼を言う」
「私は商人で、デュランという。そなた1人で立ち向かうのは無謀だったな」
レオポルドが言うと、ジューリオは俯いた。
「わかっている。相手の人数が多すぎた。でも、あのままにしていたらこの男は殺されてしまっていただろう」
「そうかもしれんな。……もっとも、遠吠えをしたり、羊をかみ殺したりしたというなら、公に裁いてもらっても同じことになった可能性もあるな」
レオポルドが言うと、ジューリオは色をなした。
「トゥリオがそんなことをするはずはない。人狼ではないんだから。目撃者なんてあてになるものか」
トゥリオは、申し訳なさそうに口をはさんだ。
「羊をかみ殺したりはできませんが、遠吠えの真似事はしました。村の子供たちが、面白半分に近寄ってきたことがありまして……」
一同は、馬上の怪我人を見つめた。ジューリオは呆れていった。
「じゃあ、人狼の噂が広まったのは、お前自身のせいなのか?」
「はい。もうしわけございません」
「たまたま近くに本物の狼が出たのも噂を広めることになったのかもしれませんね」
マックスがつぶやいた。
ジューリオはため息をついた。
「おかげでお前の居場所の予想はついたけれど……。でも、運が悪かったら、向こうが先にお前を見つけてしまったかもしれないんだぞ」
トゥリオは頭を下げた。レオポルドと顔を見合わせてから、マックスは訊いた。
「向こう?」
ジューリオは答えた。
「このトゥリオに人殺しの罪をなすりつけて亡き者にしようとしたヤツらだ。でも、それが誰だかはっきりしないので、このまま彼を連れ帰ることはまだできないんだ」
レオポルドは訊いた。
「じゃあ、そなたはいま、どこに向かっているのだ?」
「トリネア城下町の外、聖キアーラ会修道院に行く。院長は私の知りあいなので、トゥリオのことも匿ってくれるはずだ」
聖キアーラ修道院と聞いて、レオポルドとマックスは顔を見合わせた。かつてトリネア候女との縁談を持ち込んだのは、他ならぬ聖キアーラ女子修道院長のマーテル・アニェーゼだった。
身分を隠したままマーテル・アニェーゼやその近くの尼僧たちと知りあいになれるとは、トリネア事情を知るのに望んでも得られぬ好機だ。
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村の男たちが座っている円卓というのは、私の住むスイスやその他のドイツ語圏ではいまだによく見かけます。ドイツ語ではStammtischといって、ようするに常連たちがいつも集まる席です。特殊なパーティーやクラブ的に説明されていることが多いのですが、少なくとも小さな村では、会員権が必要とか、必ず決まったことをしているというわけではなく、ただ飲んでいるだけということも多いです。ここでは、そうした村の男たちがいつも集まって飲んだくれる場所をイメージして書きました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(20)人狼騒ぎ -2-
静かに食事をするレオポルド一行や、その隣の席の少年とは対照的に、円卓の男たちはアクア・ヴィタの盃を重ねるのに忙しく、食事は遅れ氣味だった。
「それで、どうやって捕まえるって?」
「それ、昨日説明しなかったか? いいか、よく聴けよ。ヤツはいつもこの店の余り物を狙って裏手にやって来る。で、俺様が昨日のうちに落とし穴を仕掛けておいたんだ。今はジュゼッペが見張っている。もしヤツがかかったら、俺たち全員で行って、投石して、傷ついたら殴って息の根を止める」
「飛びかかってこないのか?」
「ジュゼッペが上手くやったら、魚網を上からかけて、穴から出られないようにしているはずさ」
ラウラは、カタンという音がしたので隣の席を見た。例の少年は、ゴブレットをテーブルに置いたようだ。握りしめている手がわずかに震えている。
ラウラの視線を追ってマックスも少年を観た。フリッツもその視線を追う。少年は、思うところがあるようで、円卓の男たちの騒ぎを険しい表情で見ていた。だが強い酒を重ねながら騒ぐ男たちは少年の様子には氣がついていなかった。
「人狼だ!」
裏手から男が叫んだのが聞こえた。
円卓の男たちは、一斉に立ち上がって騒いだ。
「人狼がかかったぞ! 急げ」
「よし、行くぞ!」
男たちは、脱いでいた上衣を急いで身につけ、隅に立てかけてあった棒をそれぞれが手に取り出かける支度をした。
その間に、例の少年が静かに立ち上がり、黙って戸口から出て行った。少年の腰には細いダガ剣が刺さっていた。見るとテーブルの上にいつの間に用意したのか代金が置いてある。どうやらはじめからこの捕り物に加わろうと機を待っていたらしい。
「あいつらを阻むつもりかもしれないな」
レオポルドは小声で言った。あの視線の険しさは、人狼退治の男たちに賛同しているとは考えられなかった。だが、どう考えてもあの華奢な少年が、屈強な村人たちに敵うとは思えない。
レオポルドは、マックスに視線で支払いをするように促した。それを予想していたマックスは、懐から財布を取り出し、十分だと思われる金額をテーブルに置いた。
「巻き込まれない方がいいんじゃないですか」
フリッツが制する。ちらりとラウラの方を見てレオポルドは好奇心と危険を天秤にかけていた。
それを見て取ったラウラが言った。
「あの方を助けたいのなら、急ぎませんと……」
男たちが出て行って、店は急に静かになっていた。
「奥方様たちは、ここで待っているように」
レオポルドがそういうと、ラウラは素直に頷きアニーと共にその場に残った。荷物もあるし、馬もまだつながれたままだ。
レオポルドとマックス、そしてフリッツは、男たちの後を追って店の裏手に向かった。
かなり近くまで行くと、助けを請う男の声が聞こえた。
「やめてくれ」
「いまさら命乞いしても遅いぞ、人狼め」
「満月まで生かしておいたら俺たちを襲うつもりだろう」
数人の男たちは魚網で押さえつけ、他の男たちは殴りつけるための大きめの石を探している。
「やめろ!」
声がして、先ほどの少年が飛び出してきた。
「何だ?!」
男たちは、驚いて動きを止めた。
「やめてくれと言っているじゃないか。本当に人狼かどうかもわからないのに、裁判にもかけずに殺すつもりなのか」
少年は急いで落とし穴の近くに寄った。
「ふざけるな。こいつが人狼なのは、なんども目撃されていて確かなんだよ。遠吠えだって何人もが聞いているんだ」
「先月から、俺たちの羊がこいつに裂き殺されているんだ。満月が来る前に退治しなかったら、また被害が広がるだろうが」
男たちは、手に石を持って落とし穴の方に投げようとしている。
「やるなと言っているだろう!」
少年は、ダガ剣を構えて男たちと落とし穴の間に割って入った。
「何だ、お前。邪魔するならガキだからって許さないぞ」
男たちは石を捨てて、棒を構えた。
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ボレッタなる村での民泊を経て、ついに一行は目的地トリネア城下町が見えるところまでやって来ました。今回更新分に出てくる蒸留酒のモデルはグラッパです。当時、ワインが高価だったというのはモデルとなった中世ヨーロッパでも同じで、実際にイタリア語圏の庶民は残り滓に水を加えたヴィナーチェを飲んでいたようです。めちゃくちゃ強いお酒を「命の水」などと名付けるのはヨーロッパ各地ではよくあることなので、ここではそれを真似して名付けてみました。
今回、さりげなーくずっと出てこなかったあの人が登場しています。ま、もう誰も待っていないでしょうが……。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(20)人狼騒ぎ -1-
翌朝、一行はウーゴとその妻のもてなしに感謝して、ボレッタを後にした。ここまで来ると街道と森の中の「民の道」はほぼ並行となる。
街道といっても四輪馬車がようやく1台通れる程度のものだが、それでもトリネア城下町までのわずかな距離に2度も通行料を払う必要のある砦がある。馬車に乗らない貧しい旅人たちはその街道に沿って森の中を行った。その踏み分けられた場所が非公式の道となり、「民の道」と呼ばれていた。
マックスは人目につきにくいのでこの道を選んだが、実際には強い日差しを防ぐ快適な道である上に、平坦で楽な道のりだった。
「城下町はそろそろでしょうか」
フリッツが訊く。
「そうですね。あと半刻もすれば、《中海の真珠》を一望できる丘に到達します。今日はいい天氣ですから、実に印象深い光景を目にすることができるでしょう」
マックスは振り向いて微笑んだ。
トリネア侯爵領の中心であるトリネア城下町は、《中海の真珠》と讃えられている。丸いキューポラが印象的な堂々とした大聖堂と、ほぼ同じ大きさの城を中心に、こぢんまりとした印象ながら均整のとれた美しさで有名だった。
海から訪れるトリネアも格別美しいが、陸路でトリネアを訪れる者は、街道の谷道で突然現れる「見晴らしの丘」からの眺めに一様に心打たれる。それは、「民の道」から出て、その丘に立った一行にも同じく強い印象をもたらした。
「なんてきれいなところなの!」
アニーが思わず口にして、あわてて口を押さえた。自分だけがそんなことを言ってはしたないと思ったのだ。
けれど、それを恥じる必要はなかった。言葉も出ないほどにラウラはその光景に心打たれていたし、レオポルドも、それどころかフリッツまでもその絶景に言葉を失っていた。
レオポルドがそれまで見たことのある海は、戦で見た
沖は深く濃い青で、港に近づくにつれて明るい青ととも緑ともつかぬ色となる。その水面を、陽光が燦々と降り注ぎ、波の動きとともにキラキラと輝いていた。繰り返す波のリズムに合わせて白い波頭が踊る。
温暖で陽光に満ちた土地には、色鮮やかな花々が咲き乱れ、異国を思わせる南洋の樹木の間に白レンガの壁と赤茶けた屋根の家々が立ち並ぶ。
海を見ることも初めてであったラウラとアニーは、その美しさに心打たれ顔を輝かした。マックスは一同の反応に満足したように頷くと、再び「民の道」に戻り、トリネア城下町に向けて下りだした。
城下町にほど近い麓の小さな村に、かつてマックスが入ったことのある旅籠兼居酒屋があった。なかなか美味しい料理をわずかな料金で食べられたことを思いだした彼は昼食をとろうと中をのぞいた。
まだ正午にはなっていないこともあり、5人分の席はかろうじて空いている。奥から女将が愛想よく声をかけてきた。
「ようこそ、4人ですかい?」
「いや、馬をつないでいる者がいる。全部で5人だ。昼食、いいかい?」
「もちろんです。こちらへどうぞ」
案内された奥の席は、L字型の長椅子で5人から6人座ることが可能だった。
入り口近くには円卓があり、大声で話す男たちが5人ほど座って食事をしていた。女将や給女は冗談を含む軽口で対応していたので、おそらく常連なのであろう。
奥のマックスたちが案内された席と反対側に、2人用の席に1人で座る華奢な少年がいて、何か考え事をしているような様子でワインを口に運んでいた。長めの髪を後ろで縛り、濃い紅色のトゥニカを着ている。この地域ではカミシアと呼ばれる簡素なシュミーズに、非常短く露出の多いコタルディと呼ばれる上衣を身につけている若者が多いので、太ももの近くまで隠れるトゥニカ姿は少し古風に見えた。
少年がじっと見つめている先は、大きな声で話す円卓の村人たちだ。
「今日こそ、絶対に捕まえてやる」
「満月になる前に捕まえなきゃな」
「おう。あのふてぶてしいウチのカカアが、すっかり怯えているんだ。ここでいいところを見せてやらなくちゃ」
昼間だというのに、男たちは
ワインは貧しい庶民には高価すぎる飲み物で、ワインの残り滓に水を加えたヴィナーチェが一般的であった。物珍しさからレオポルドはイゾラヴェンナに泊まった夜に1度だけ頼んだことがあったが、顔をしかめて何とか飲み干し、2度と頼もうとしなかった。
一方で、このヴィナーチェを蒸留した強い酒は、ものすごく強いのだが深い味わいのある良酒で、ワインそのものよりも美味い。だが、昼に酔い潰れるわけにはいかないし、間もなくトリネア城下町が近づいており言動には注意しなくてはならない自覚もあるのでもちろん一行はアクア・ヴィタを頼んだりはしなかった。
この店に置いている薬草を加えたワインはなかなかの味で、裕福な商人を装っているレオポルドは、ヴィナーチェではなくこのワインを飲むことが出来たことに満足していたが、目立つ事を避け何度も頼むようなことはしなかった。
料理は、マックスの記憶と違わず美味で、わずかな肉であったが一緒に煮込んだ豆や栗がしっかりと腹を満たした。
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【小説】花咲く街角で
今月のテーマは、フランスアルザス地方の家です。
実はですね。私の曾々祖母の故郷はストラスブールでして、かつて彼女の痕跡を捜しに旅をしたことがあるのです。こんな世界に住んでいたのかと感動してしまいました。それほどにこのアルザス地方は印象に残る場所でした。
今回の掌編の裏テーマは「人生の楽しみ方」です。忙しく真面目に生きているだけで、何かを忘れがちなのは私も同じ。ある人たちは、人生の楽しみ方をよく知っているように思います。

花咲く街角で
カスタード色のルノーからは、どこかオイルの焦げるような匂いがしている。ティボーからお香みたいな独特の香りがするのと同じで、エリカはすでに慣れてしまっていた。
車にはほとんど興味が無くて、ポルシェとアルファロメオを間違えたことすらあるエリカはいまだにいま乗っているオンボロ車の車種が定かではない。ティボーは「カトルシュボ」と言っていたような氣はするが。少なくともティボー自身の名前は憶えたのだから、それでよしとしてほしい。
ブリキのおもちゃのような車内装飾。赤い縞のシートは、今どきの車のように運転席と助手席が完全には独立していない。ティボーが右手を下に延ばすとき、はじめエリカは足にでも触られるのではないかと身構えたが、何のことはない、その位置にギアがあるだけだった。
地平線まで続く葡萄畑からは、硫黄の香りが漂ってくる。昨夜の通り雨を輝かす朝の光が葡萄畑をわたる風とともにルノーの中を通り過ぎていく。泣きたくなるくらいの美しさだ。
アルザスワイン街道をいつかは通ってみたいとは思っていたけれど、まさかこんな形で通ることになるとは思わなかった。朝からワインをがぶ飲みして、オンボロ車を運転する、首に変な入れ墨のあるちょっとジャンキーっぽい見知らぬ男に連れられて、エリカは『人生の延長試合』をはじめたところだ。
コツコツと真面目に生きてきたつもりだった。小さな貿易会社の事務員として10年働き、慎ましく生活してきた。来年には5年同棲した男と結婚して、新婚旅行もするつもりだった。でも、なぜかその男と、職場でエリカが一番仲がよかったはずの同僚が「おめでた婚」をすることになっていた。しかも、大切に貯めた結婚資金の大半はいつの間にか消えて、エリカが彼に「貢いでいた」ことになっていた。
それがわかってからしばらくの事は、もう思い出したくもない。半分自棄で身辺整理をして逃げ出してきた。新婚旅行に行くならと憧れていたコルマールで、人生を終えてやれと鼻息荒く飛び出してきた。その旅費ぐらいは残っていたから。
そして、パリからTGVに乗ってコルマールまで着いた。噂に違わぬ素敵な街並みだったけれど、楽しそうな観光客たちを横に、「人生を終える場所」など見つからなかった。エリカは、華やかな町の中心部から離れ、ホテルの小さなバーでワインを飲みながらメソメソと泣いていた。
その時に、隣でパスティスを飲んでいたのがティボーだった。
「なんで泣いているんだ?」
エリカは、拙い英語で自分の悲劇を語ってみた。思ったほどの同情を得られた氣はしなかった。
ティボーは、まるで「そんなことはフランスでは日常茶飯事だ」とでも言いたげな態度で頷き言った。
「せっかくこんないい時期にここに来たんだから、そんなにすぐに『おしまい』にすることはないよ。ワイン街道はみたのか? コルマール以外の村は?」
エリカは、若干ムッとしながら「まだ」と答えた。ティボーは、にやっと笑って言った。
「じゃあ、明日からは『人生の延長試合』だ。ワイン街道で、アルザスワインをたらふく飲んで、それからもっと小さな村を見にいこう」
これまでのエリカだったら、こんな怪しい男の誘いには乗らない。騙されてお金を巻き上げられるか、それに類したろくでもない事が待っていそうだ。でも、「死ぬに死ねない」状況で、さらにいうと帰国しても仕事も帰る場所もない現状では「その手の犯罪に巻き込まれるのもアリか」と思ってしまったのだ。
そして、エリカはそのホテルを今朝チェックアウトして、このオンボロ車の助手席に座ることにしたのだ。小さな荷物は、後部座席にぽつんと載った。
「あなたって、何している人? 引退するって年齢じゃなさそうだけど」
エリカは、疑問に思っていたことを口にした。見かけから推察するに40代くらいに見える。もう少し上の世代に多いヒッピー的な長髪を後ろで結んでいる。入れ墨はサンスクリット語のようだけれど、どんな意味か訊くのはやめた。白人がクールだと思って入れる漢字タトゥーは、漢字文化圏の者が見ると情けないモノが多いので、サンスクリット語だけが例外ではないと思うから。
「俺? 詩人……かな。ま、他にもいろいろやっているけれどね」
うわ。やっぱり、ヤバそうな人かも。……ま、いっか。たかったり、騙したりしようにも、私にはほとんど何も残っていないし。
なだらかな丘陵をいくつか登って、ルノーは小さな看板の出ている葡萄畑の傍らで停まった。ティボーは、懐から小さなビニール袋を取りだして、中に入っている紙で煙草の粉を巻いて火を点けた。
ああ、この香りだ。エリカは納得した。お香のようだと思ったのは、巻き煙草か。くたびれたアロハシャツに綿の7分丈パンツ、黒いビーチサンダル。肩の力の抜けた人だ。
葡萄農家と少し話すと、葡萄棚で日陰になった石のテーブルとベンチに案内された。白ワインといくつかのチーズにクラッカーが出てきた。
「さあ、乾杯しよう」
ティボーは笑った。
「もうお酒? まだ9時にもなっていないのに」
エリカが言うと、ティボーと農園の女将は不思議そうな顔をした。
「朝と、夜で何が違うんだい?」
言われてみると、なぜ朝だと飲まないのか、よくわからない。ましてや人生を終わらせるつもり、もしくは『人生の延長試合』を生きているエリカには、さして重要な禁忌とは思えなかった。ええい、飲んじゃえ。
飲みやすい白だ。甘すぎず、渋さもない。いくらでもいけそう。このカマンベールみたいなのとよく合うし。しかも、このバケット、パリッパリだ。美味しいなあ。こんなにきれいな場所でワインを飲んだ事って、これまでになかったかもしれない。誰かのグラスが空じゃないかと心配する必要もないし、ただ自分だけが楽しむためのワイン。最高だわ。
「ほら。まだ先は長いから、酔っ払いすぎないように。もう行くよ」
1杯だけ飲むと、意外にもティボーはさっさと立ち上がった。
そして、ようやくエリカは氣がついたのだが、ティボーは『アルザスワイン街道』を通り、この先のいくつもの農園でさまざまなワインを飲み比べさせてくれるつもりらしい。
フランス北東部を、北はマーレンハイムから南はタンまでヴォージュ山脈の麓の市町村を結ぶ170キロメートルを『アルザスワイン街道』と呼んでいる。アルザスワインの1000にものぼる生産者がこの地域にあり、試飲をしたり生産者から直接買ったりすることができる。
そして、それだけでなく途中で通る村がいちいち美しい。
壁の骨組みを木で造り、その間に石やレンガを入れて漆喰で固める「木骨造り」という中世ドイツの影響を色濃く残した様式の家々はカラフルな壁と飾られた花と相まっておとぎの国のようにかわいい。
世界中にも伝統的な家屋を一部だけ残した歴史地区などはあるけれども、『アルザスワイン街道』は170キロメートルにわたり、通る村のほぼすべてがこのような様式の家で建てられているのだ。
エリカは、ずっとコルマールやいくつかの有名な村の一部だけが、このような美しい外観なのだと思っていたので、とても驚いた。
「ああ、ここでコーヒーを飲まなくちゃ」
そう言ってティボーはなんでもないパン屋の前で車を停めた。
「
パン屋の女将が挨拶する。
「やあ。パン・オ・ショコラはあるかい?」
ティボーの問いに、女将はショーケースを自慢げに見せた。
店の片隅の丸テーブルで、紙ナフキンで包んだだけのパン・オ・ショコラとコーヒーを渡された。何十もの層となった生地がサクッとした歯触りで口の中に広がる。固すぎず、でも、クリームではない板チョコがたっぷり入っている。
「うわ。ちょっと待って。これ、本当に美味しい……」
店には次々と客が入ってきて、お互いに挨拶しながら他愛のないことを話している。ティボーともみな知り合いらしく、次々と会話が弾んでいた。ドイツ語に近い不思議な言葉、アルザス方言だ。
たった1杯のコーヒーと、1つのパンを食べている間に、世界がいきなり社交的で優しくなったかのようだ。ここに逃げ出してくる前の生活では、休憩時間とはスマホをチェックしてトイレに行くぐらいの時間だった。この国に到着してからも、パリでは観光客に対しての事務的で冷たい扱いを受けていたように思う。
「コーヒータイムも、悪くないだろ?」
ティボーは、そんなエリカの考えを見透かしたかのようにウインクした。
また車に乗って、葡萄畑の間を走っているときに、エリカは言った。
「私ね、朝からワインなんて飲んじゃいけないって思っていたけれど、そういうばコーヒータイムもコーヒーを飲むだけでみんなでおしゃべりすることは避けていたかも」
「どうして?」
「どうしてかしら。もちろん仕事中には決まった時間以上に休んじゃいけない決まりはあると思うんだけれど、休みの日は関係ないはずよね。でも、そういうものだと思い込んでいたのかも」
「今朝の時間の過ごし方はどう? 心地よい? それとも居心地悪い?」
ティボーは助手席のエリカを見て訊いた。
「新鮮で、そうね。とても心地よい驚きだと思うわ。午前中って、人生って、こんな風に楽しんでいいのかって」
「それならよかった」
午前中に、ティボーに連れられて3軒の農家で白ワインを楽しんだ。太陽が高く上がるにつれて氣温はぐんぐんと上がり、アルコールはどんどん蒸発していった。1杯につき50ccもないとはいえ、運転するティボーがこんなに飲んでいるのは合法なのかどうか怪しい。だが、さすがフランス人というのか全く酔った感じはない。
「さあ。昼食の時間だ」
コルマールよりも南のエギスハイムに着いたとき、ティボーは言った。
エリカは、言った。
「お昼は、私が払うわ」
朝からエリカは1銭も払っていない。何度か財布を取り出したが、ティボーに人さし指を振って断られてしまったのだ。
ティボーは、片眉をあげてニヤッと笑った。
「それは無理だな。レストランじゃないからね」
どういうこと? ティボーは、観光客たちのように車を城壁の外の駐車場には停めず中に進めて村人が停めている駐車場に停めた。
そして勝手知ったる足取りで小さな小路を進み、クリーム色の壁の家の外階段を登って行った。茶色い木のドアを解錠して中に入っていった。
「ようこそ。我が家へ」
エリカは目を丸くした。ティボーの住む家?!
外壁はクリーム色だったが、内壁は白かった。外壁と同じなのは木骨が台形に張り巡らされていることで、同じ色の古い木材の柱、同じくらい古そうな丸い木のテーブルと椅子、備え付けの家具類だった。天井も同じ木材で、丸いランプは取り付けてあるが、それ以外は「中世からこのまま」と言われても信じてしまいそうな佇まいだ。
よく見るとキッチンにはガスコンロやオーブンもあるし、冷蔵庫もあるのだが、その冷蔵庫もどこのアンティークなんだろうと思うような古い50年代風外観で、先ほどまで乗っていたルノーを彷彿とさせた。
「まあ、座って」
そう言うと、部屋の片隅に置かれたレトロなラジオのスイッチを入れた。サクソフォンが心地よいラウンジ・ジャズがわずかな雑音とともに部屋に満ちる。
それから、レモンを入れた緑の重いガラスコップを持ってきて、そこにミネラルウォーターを注いだ。
彼はラジオに合わせて鼻歌を歌いながら、冷蔵庫から食材を取りだして木製のキッチン台に並べた。
「えーと、何か手伝えること、ある?」
エリカが訊くと、彼は「そうだね」と言って、テーブルに洗ってあるチシャを持ってきた。
「これを、このお皿に載せて」
「こんな感じ?」
「うん。それでいい」
彼は、何かのパテをそのチシャの上に載せて、上からバルサミコ酢をかけた。それから、テーブルに冷えたワインボトルとグラスを持ってきた。
「ゲヴュルツトラミネールだよ。ちょっと癖のある料理に合うんだ。だから、前菜は鴨のパテにした」
ティボーはグレーのテーブルマット、布ナフキン、カトラリーレストなどを慣れた手つきでセットしていき、あっという間にレストランのようなセッティングにしてしまった。
グラスに琥珀色のゲヴュルツトラミネールが注がれた。なんともいえないフルーティーな香りがする。
「これ、何か薬草でも入っているの?」
「いや、そういう品種の葡萄なんだ」
引き締まった辛口で、ワイン自体に強いアロマがあり癖が強いのだが、香辛料のきいた鴨のパテに驚くほどよく合う。
「意外ね。喧嘩しそうなのに、こんなに合うなんて」
そして、もう1つ意外だったのは、ティボーが料理上手だったことだ。パテの次に、スズキの香草焼きをあっという間に作り、茹でポテトとほうれん草まで添えてあった。切るときに幸福な香りを漂わせたパリパリのバゲットは小さな籠の中で待っている。今度のワインはリースリング。
「もしかして、料理人でもあるの?」
ティボーは、笑った。
「若い時にセネガルやモロッコを旅して回ったんだ。その時にそういう仕事をしたこともある。でも、それとは関係なく、食べるのは好きなんだ。毎回の食事は大いに楽しまないとね」
エリカは、前に食事を楽しんだのはいつだったかと考えた。3回きちんと食べることは心がけていたつもりだったけれど、それは楽しかっただろうか。今朝、ホテルで出てきた朝食ですら「タダなのにもったいないから」食べたような氣がする。
ティボーは、「デザートはテラスで食べよう」と言った。石の階段を登って、裏の庭側に小さなテラスがある。そこからはどこまでも続く葡萄畑を一望することができた。すぐ近くの建物の屋根に、コウノトリが巣を作り、カタカタと音を立てている。
ビターオレンジのシャーベットに、エスプレッソコーヒー。とても簡単なデザートだけれど、こうやってゆったりと食べると本当に美味しいなあ。
「日本で使う漢字でね、忙しいって字は心を亡くすって書くの。私、もしかしてずっと心をなくしたまま生活していたのかもしれない」
ひとり言のようなエリカの言葉に、ティボーは微笑んだ。
「今日、心を取り戻した?」
「わからないけれど、少なくとも何もかもがきれいで、美味しくて、楽しい。久しぶりだなあ、こういう氣持ち」
空のグラスに、リースリングが新しく注がれる。窓枠から入ってくる優しい陽の光がグラスに反射する。
「じゃあ、わかるまで、ゆっくりと探せばいいよ」
「そうできたらいいけれど、お金もほぼ使い切っちゃったし、そうもいかないわよね」
エリカは、現実的に答えた。
「中途半端にあるからお金は足りないって感じるんだよ。全くなくても、実は何とかなるものさ」
「でも、今夜泊まるホテル代すら足りないかもしれないのよ」
「ほらね。ホテルに泊まろうと考えるから足りないのさ。……この階の部屋は空いているから使うといいよ」
エリカは目を白黒させた。
「なんで? 知り合いでもなんでもない人をただで泊めても、あなたにメリット何もないじゃない?」
ティボーは、肩をすくめた。
「僕は、世界中で、知り合いでもなんでもない人たちにしばらく住まわせてもらったし、助けてもらったよ。誰もメリットがあるないなんて言わなかった。誰かが困っていたら手を差し伸べて、楽しく時間を過ごせれば、それでいいんじゃないかな。それじゃ君の氣が引けて困るなら、家事を手伝ってくれればいいし、この村にしばらくいれば、簡単な仕事くらいは見つかるだろうし」
エリカは、疑い深く食い下がった。
「でも、私、フランスの滞在許可もないし」
ティボーは、ウインクした。
「そんなことは、いま氣にしなくてもいいんだよ。お金のことも。まずは、よく寝て、食べて、飲んで楽しむ事が先だ。それ以上のことは、あとからついてくる。いまは、この1杯を全力で楽しむんだ」
エリカは、少し考えた上で、ワイングラスを持ち上げた。確かに、昨日あれだけ悩んだけれど「人生の終わらせ方」は見つからなかった。それよりも、無茶苦茶な『人生の延長試合』を続ける方が、なんとかなりそうな予感がする。
生き方を少し変えてみたら、強敵みたいに思っていた人生とも、うまく折り合っていけるのかもかもしれない。
(初出:2023年7月 書き下ろし)
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【小説】水の祭典
今月のテーマは、オーストリアはザルツブルグにある『ヘルブルン宮殿』の『水の庭園(Wasserspiele)』です。
ザルツブルグに夏に行かれる方は、滞在を1日延ばしてでも行く価値がありますよ。私はザルツブルグには2度ほど行ったのですけれど、一番印象に残っているのは今は亡き母と回ったこのヘルブルン宮殿です。
今回のストーリーの2人はこちらの作品で登場させた既存のキャラクターです。顛末はこの作品にも触れていますので、前作は読まなくても全く構いません。

水の祭典
暑い。昨日は爽やかな初夏らしい、結婚式にはぴったりの天候だったけれど、今日はうって変わって、強い日差しに焼かれて焦げちゃいそう。
ケイトは、隣を歩くブライアンのポロシャツ姿をチラリと見た。スーツでない彼を見るのは、もしかして初めてかもしれない。
ブライアン・スミスは、昨日華燭の宴をあげたダニエル・スミスの兄だ。ということは、昨日からケイトの親友であるトレイシーの義兄になったということだ。
よりにもよって、結婚式をオーストリアのザルツブルグで挙げたのは、トレイシーがザルツブルグで生まれ育ったからだ。でも、婚約パーティーはロスでしたから、ケイトがザルツブルグに招待されるとは思っていなかった。
「ねえ、トレイシー。大切なあなたの門出だもの、もちろん喜んで駆けつけたいのよ。でも、私、この間パリに行ったときにけっこうな貯金を使ってしまったし、正直言って経済的に厳しいの」
そう言ったケイトにトレイシーはウインクして答えた。
「心配しないでよ、ケイト。あなたの旅費は、もちろんご招待よ。忘れているかもしれないけれど、あなたが私たちの恋のキューピットなのよ。それに、あなた、ブライアンのガールフレンドとして、スミス家の一員みたいなものじゃない?」
ケイトは、後半の誤解にあわてて、前半の提案へのリアクションをし忘れた。
「私たち、そんな関係じゃないわよ?! 聞いていないの?」
「だって、デートしているんでしょ?」
トレイシーに訊かれて、ケイトは首を傾げた。
「デートなのかな? たしかに何回か誘われて食事には行ったわ。でも、別にそれ以上の進展はないし、女友達の1人なんじゃないかしら? ニューヨークにはちゃんとした恋人がいるかも」
トレイシーは、ため息をついた。
「まだ、そんなところなの? ダニーには、あなたの話ばかりしているみたいなのに」
ケイトは、ますます首を傾げた。ブライアンとは、話していてとても楽しい。ヘルサンジェル社の重役というアメリカン・ドリームの頂点にいるような存在のはずなのだが、時おり、その辺の中小事務所で働く平社員ではないかと思われるような空氣を醸し出す人だ。
いつだったか、それが不思議で訊いたときに、彼は笑って頷いた。
「もともと僕は友達の仕事を手伝っていただけの、ふつうの労働者だったんだよ。だけど、その友達の進める事業がとんでもなく成功して、会社がやたらと大きくなってしまったんだ」
ヘルサンジェル社は、健康食品を扱う大企業だが、その最高経営責任者であるマッテオ・ダンジェロと、広告に起用されたスーパーモデルである妹アレッサンドラ・ダンジェロのイメージが強すぎる。マッテオの華やかな生活は、有名人たちとの数々の浮名を含めてセレブのゴシップ誌にしょっちゅう紹介されている。
一方で、最高総務責任者が誰であるかは、ゴシップ誌しか見ないような人たちはまず知らない。そして、それが、いまケイトの隣を歩いているブライアンなのだ。
かつて、トレイシーからの頼まれ後ごとが縁で、たまたまパリの空港でブライアンと知り合ったケイトだが、彼がロサンゼルスに来るときに食事に誘われるという付き合いが1年ほど続いている。つまりまだ両手で数えられるほどだ。
彼が本当はもっとロスに来ているのか、または他の女性とも会っているのかも、ケイトは知らない。それを知る権利があるとも思っていない。まさか、トレイシーが言うように、彼が自分に夢中だなんて思うほどうぬぼれているわけではない。
「今日は、どこに行くの?」
ケイトはブライアンに訊いた。新婚夫婦の邪魔をするわけにはいかないし、トレイシーのオーストリアの友達とは親しくないので、自由時間を過ごすのはなんとなくブライアンと2人ということになった。
「トレイシーおすすめのヘルブルン宮殿だよ。今日みたいに暑い日にはぴったりだと思う」
ブライアンは言った。
旧市街から見えている高台のホーエンザルツブルク城や、庭園のきれいなミラベル宮殿は挙式の前日にトレイシーやダニーの家族と一緒に見学したのだが、他にも宮殿があるとは知らなかった。
「たくさん宮殿があるのね」
「夏の離宮だそうだ。だから少し離れているんだね」
「誰の離宮? ハブスブルグ家の王様?」
「いや、ザルツブルグがオーストリアになったのは19世紀で、それまではドイツ支配下の大司教領だったんだ。だから、ヘルブルン宮殿を建てたのも大司教ってことになるね」
「お坊さんが、そんなにお金持っているの?」
「大司教といっても領主だし、それに、このマルクス・ジティクスって大司教はホーエンエムス伯だからもともと貴族だ。いまの宗教家のイメージとはちょっと違うんだろう」
夏の離宮というからには、涼しい高地にでもあるのかしら。ケイトはブライアンに連れられるまま、市バスに乗った。かなり遠くなのかと思ったら、30分もかからずに目的地に着いたようだ。
「ここ?」
なんでもないバス停かと思ったら、道の向こうに黄色い壁があり、「ヘルブルン宮殿入り口はこちら」という矢印が見えた。さすが宮殿の塀だけあって、そこから入り口まで暑い中かなり歩いたが、そこからは美しい庭園だったので、外を歩くときのような日差しの暴力は感じなかった。
「大丈夫? もう疲れてしまったかな。先に休むかい?」
ブライアンに訊かれて、ケイトは首を振った。いくら何でもそれほどヤワではない。
「いいえ。大丈夫よ。暑いけれど、もう夏ですものね。ああ、広い。こんなに大きな敷地のお城だったら、ザルツブルグの旧市街には入りきらないわよね」
ブライアンは、目を細めて「そうだね」とケイトに笑いかけた。それから、ケイトが手にしているカメラを見て言った。
「それ、しまった方がいいかもしれないな。これを使って」
彼が、ポケットからビニール袋を2つ3つ取りだして渡してきたので、ケイトは首を傾げた。
「これ、どうするの?」
「濡れたら困る電子機器があったら、それで保護しておいた方がいい」
ブライアンはそう言って、彼のスマートフォンもビニール袋で包んでポケットにしまい直した。
ケイトは、これまでいくつかの噴水のある庭園を訪れたことがあるが、スマートフォンやカメラをビニール袋にしまうようなことはしなかった。ブライアンって、意外と大袈裟な人なのかしら?
グループツアーの集合アナウンスがあり、「行こう」と言うブライアンに続いてケイトはグループに合流すべく進んだ。
そして、案内人は宮殿の中ではなく一同を庭園へと導いた。
さまざまな大理石の彫刻で飾られた広大な人工池が涼しげな水音をたてている。緑色の水には黒い大きな魚や鴨が泳いでいる。宮殿を向こうに見渡す池の傍らにオレンジの壁とさまざまな彫刻で飾られたローマ劇場と石テーブルや椅子のある広場があり、案内人はまずそこで止まった。
「ようこそ、ヘルブルン宮殿の水の庭園へ! 今日は、とても暑いのであなたたちはまさにぴったりの場所を訪れたというわけです。さまざまな噴水をお目にかける前に、『諸侯のテーブル』にお座りいただき、この庭園の歴史について簡単にご説明しましょう」
案内人はそう言って、参加者たちをテーブルの周りある8つの椅子にそれぞれ座らせた。
「この宮殿は、大司教マルクス・ジティクス・フォン・ホーエンエムスの依頼で、1613年から15年にかけてイタリアの建築家サンティーノ・ソラーリの設計で建設されました。後期ゴシック様式の素晴らしい建築の妙については、後の宮殿内ツアーでご説明するとして、まずは世界的に有名なこの庭園の仕掛け噴水についてお話ししましょう」
案内人は、にっこりと笑って一同を見回した。
「実は、大司教マルクス・ジティクスは、ちょっと人の悪いところがあったようで、宮殿を訪れる客をびしょ濡れにして、驚き慌てるさまを眺める趣味があったようなのです……こんなふうに」
そう言った途端、8人が座った席の真後ろの石畳から水が噴き出して、水のカーテンができた。
「きゃあっ」
実際には、動かなければ濡れないような絶妙の位置に水は噴き出しているのだが、びっくりして立ち上がった観光客はあっという間に濡れてしまった。
ケイトも思わず身をひねって倒れそうになったが、さっとブライアンが腕を伸ばして庇ってくれたので、難を逃れた。
「ありがとう。あら、代わりに濡れてしまったのね、ごめんなさい」
ブライアンの腕と、ポロシャツの袖が濡れている。
「大したことはない。すぐに乾くよ。……次の仕掛けでもっと濡れるかもしれないけれど……」
ケイトは、笑って訊いた。
「こういう風になるって、知っていたの?」
「具体的には知らなかったけれど、濡れる可能性があるとトレイシーが教えてくれたんだ」
子供たちは喜んで、自ら水の中に飛び込んでいっている。大人たちは首をすくめて、水が止まるのを待った。無事に止まったので、席を立ち少し離れたが、とある観光客がしくみはどうなっているのかよく見ようと覗くと、今度は座っていた椅子からも噴水が噴き出して、その男はびしょ濡れになった。これらの不意打ちで、仕掛け噴水ツアーの観客たちはみな笑顔になり、一瞬で打ち解けた。
「この仕掛け噴水は、当時のシステムのままで、電動ポンプなどは一切使用されていません。世界的にももっともよく保存されたルネッサンス後期の技術の粋を、お楽しみください」
園内に立ち並ぶ彫像たちは、よく見るとふざけた表情を持つものが多く、あかんべーをしているように見えるものもある。よく見るとその口の中には管があり、どうやらこれも噴水となっているようだ。
続いて案内された
ここでも、油断しているのをいいことに、高いところ、低いところから客たちが通り過ぎるのを狙ってピュッピュと水が吹き出してくる。
外に出れば、先ほどは何もないと思っていた通路には水のアーチができており、ブライアンとケイトも笑いながらもはや濡れることを避けずに通り過ぎた。
ギリシャ神話を題材にしたさまざまな仕掛けのある洞窟を通り、案内されたのは巨大なドールハウスのような機械劇場だ。3階建ての建物にオルゴール仕掛けのごとく現れる精巧な仕掛け人形たちが、圧巻だ。偉そうな男が頷き、労働者たちは樽を転がし、兵隊たちが行進し、熊は引き回されている。そして、やはり水力で自動演奏されるオルガンが楽しげな音楽を奏でる。
「見て。あそこ、踊っているわ」
「本当だ。そしてここでは、屠殺場面かな?」
ケイトとブライアンは、これらのバラエティ豊かな仕掛けのすべてが、全く電氣を使わない水力だけのカラクリだということにあらためて驚いた。
そして、最後に案内されたのは、噴水の水圧で王冠が浮く仕掛け噴水だ。はじめはゆっくり持ち上げて、さほど高くなかったので油断していると、突然ものすごいスピードではるか頭上まで持ち上がる。水と光の相乗効果でとても幻想的で印象深い。
洞窟の外に出ると、またしてもあちこちから水が飛んでくる。宮殿にかかっている鹿の頭部に至っては、角からも口からも四方八方に水が飛んでくる。
ケイトは、こんな風にきゃあきゃあ言って楽しんだのは、本当に久しぶりだと思った。子供の時以来かもしれない。普段は礼儀正しくて物静かなブライアンも、大笑いして楽しんでいる。ふと氣がつくと、物理的に距離が近づいてしまった。
バスを降りてこの宮殿まで歩いていたときには、2人の間にはもう1人が入れるくらいの距離があったのに、今はとても近くを歩いている。そして、それがとても自然に感じられた。
これまでは、2人の仲をトレイシーに指摘されたら、いつも全否定していたけれど、もしかしたら私たちって本当にそういう仲になるのかも。
そう思って、なんとなくブライアンの顔を見たら、彼もこちらを見て微笑んでいた。あちこち濡れて、少々情けない身だしなみになっているにもかかわらず、そんな彼がいつもよりも格好良く見えて、思わずケイトは顔を赤らめた。
(初出:2023年7月 書き下ろし)
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(19)荒れた村 -3-
予想と違い妙に荒れている村ボレッタで、ウーゴという男の家に泊まることになった一行ですが、ここで村から人びとがいなくなった事情が語られます。
この物語でカンタリアと呼ぶ国のモデルはスペインです。その南のタイファ諸国とは、イベリア半島のムスリム諸国を指していると考えていただいて結構です。
この物語では、主要な舞台となった地域にはすべて架空の名前(例・グランドロン王国の王都ヴェルドン)を与えていますが、それ以外の場所に関しては、できるだけ実在した名称の別名を使うようにしています。例えば『聖地ヒエロソリュマ』とありますが、これはエルサレムのラテン語読みです。
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【参考】
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(19)荒れた村 -3-
食事の時に、マックスは村の様子の変化についてウーゴに訊ねた。
「4年前とずいぶん様相が違っているようですが、いったいどうしたのですか」
彼は、ため息をついて答えた。
「レコンキスタですよ」
サラセン人に支配されている聖地ヒエロソリュマを奪還すべく十字軍の遠征が始まったのはレオポルドの曾祖父の時代だった。当時は多くの騎士が生死をかけたものだが、やがて参加者の動機が崇高とは言いがたいものに変わった。つまり、現地での略奪が横行しただけではなく、犯罪者が刑罰から逃れるために従軍する事が一般化してしまい、一般的に罪人の集まりと認識されるまでになってしまった。
教皇庁自体が十字軍を非難するようになったこともあり、今ではグランドロンでも、ルーヴランまたはセンヴリでも国策としての十字軍遠征は進めていない。
しかし、同じ半島内にサラセン人たちのタイファ諸国があるカンタリア王国では、いまだに「憎きサラセン人から国土を取り戻せ」との号令のもと
「ここはセンヴリ王国に属していると思っていましたが……」
マックスは慎重に言った。
非常に繊細な話題だった。レオポルドが自分の目で確認したいと言っていたことの1つに、どれだけカンタリア王国の影響が強いかというトリネア政治情勢があった。
ウーゴは肩をすくめた。
「もちろん、トリネア候はセンヴリ王に忠誠を誓っていますよ。奥方様がカンタリアのご出身だからと言って、カンタリアのために領民を供出したりはしません。……そういうことではなくて、その……、つまりですね」
歯切れが悪いウーゴを、その妻がつついた。
「別にあんたが悪いんじゃないんだし、言ってしまってもいいんじゃないの?」
「そうだな、お前の言うとおりだ。……つまりですね。15年ほど前に村の若者の1人がカンタリアに出稼ぎに行ったんですが、数年前に大層な金持ちになって帰ってきたのです」
ウーゴが語り出した。
「それは、レコンキスタでひと旗あげたということですか?」
マックスが確認した。
カンタリア半島南部のタイファ諸国にはサラセン人たちの美しい宮殿があり、その壮麗なことはグランドロンにも噂が届いていた。隅々まで色鮮やかなタイルと幾何学紋様の装飾で飾られ、絹と宝石で着飾った美しい女たちが黄金の茶道具を運んでくるというのだ。
「そうです。そして、彼はファゲッタに立派な屋敷を建てましてね。それを見た村の多くの男たちが、競ってカンタリアへと行ってしまったのです」
ウーゴは言った。
「だが、老人や女子供はどうしたのだ? 彼らもまたカンタリアへと向かったのか?」
レオポルドが疑問を呈した。
「いいえ。でも、働き手がいなくなり、栗を拾うだけでは生活が成り立たなくなったので、彼らの多くは子供を連れてトリネア城下町やイゾラヴェンナ、ファゲッタなどに遷りました。村に活氣がなくなったので、カンタリアに行かなかった者たちも、村から離れるものが出てきました。今では、この村に住んでいるのは10軒ほどです」
「トリネアでは、村人たちが自由に住む場所を変えられるのですね」
ラウラが訊くと、ウーゴの妻は首を振った。
「いいえ。もちろん自由民もいましたが、カンタリアに向かった男たちの多くは自由民ではなかったのです。ただ、この一帯を管理なさっているのはパゾリーニ家の方なので、いわゆる『事務手数料』をたくさん払いさえすれば管轄内の好きなところに家を建てたり、家業を変えたりすることも可能なのです」
マックスとレオポルドは、そっと目配せをした。グランドロン王都ヴェルドンの周辺はいうに及ばず、かつて代官であったゴーシュ子爵による腐敗がかなり進んでいたフルーヴルーウー辺境伯領ですら、ここまで身分制度がなし崩しになっていることはなかった。
トリネア候国に限らず、センヴリ王国に属する国々では、こうした制度の形骸化が激しいことを、マックスはこれまでの旅の経験で、レオポルドは伝聞で訊いていたが、まさか村がひとつ荒廃するほどだとは思っていなかった。
トリネア候国は侯爵家とその親族の他に、家令を務めるベルナルディ家や、オルダーニ家あるいはパゾリーニ家などの有力貴族の力が拮抗している。また、侯爵夫人の出身地であるカンタリア王国の影響も強い。港に強い興味があるとはいえ、グランドロン王家にとって、未来の女侯爵との縁談が賢い選択なのかどうか、十分に吟味する必要がありそうだと、2人は目で語り合っていた。
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早くトリネア城下町に着きたいがために、ファゲッタという少し大きな村では泊まらずに、森を越えたところにあるはずのボレッタを目指している一行ですが、いざついてみたら若干様子が予想と違ったようです。
今回の記述で栗の話が出てきますが、これはモデルにしたブレガリア谷やキアヴェンナ谷の名産品なのです。ただし、実際のスイスイタリア国境地帯とは違い、このストーリー上の地理では、地中海をモデルにした《中海》は《ケールム・アルバ》の麓まで食い込んでいる設定なので、一行は既にトリネア城下町までは馬で1日くらいの辺りまで来ています。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(19)荒れた村 -2-
ブナの森は深かったが、かなり広くなってきている川沿いに進んでいるために迷うことはなかった。やがて、栗の木が多くなってきた。栗の木はブナの木よりも明確に管理がされる。そのため村からの出入りも多く、道として踏み分けられている部分も広い。マックスの記憶によるとボレッタ村はもう遠くない。
「おかしいな。ずいぶんと荒れている」
栗のイガがたくさん落ちているが、中身が入ったままだ。この時期に栗の実は早すぎるので、去年のものだろう。大半は動物や虫たちに食い荒らされ、中には芽を出したものもあるがうまく根付かずに枯れている。
栗は腹持ちがよく保存性も高い。貴族のように豊かな食材をふんだんに食べられない庶民にとって栗は大切な食材だ。もちろんグランドロン王国の領土の大半では栗は栽培できないが、センヴリ王国やルーヴラン王国の南部、そしてカンタリア王国では栗が非常に重宝されていた。その栗が、このように放置されることは考えにくい。
村に入ると、やはり様子がおかしかった。もう日が傾きかけているのに多くの家の煙突から煙が出ていない。そうした家々の周りには雑草が生い茂り、人が住んでいないように思われた。
5人は注意深くあたりを観察しながら、村の中心に向かった。かつては数軒の旅籠がある村だったが、広場にも煙突に煙が上がっている家は少なく、旅籠の看板を掲げている家は見つからなかった。
しかし、これからトリネア城下町に向かうには遅くなりすぎる。これまではレオポルドの安全のために避けていたことだが、民家に泊めてもらうことを考えなくてはならなかった。
いくつかの煙の出ている家の中でも、庭がきちんとしていて塀なども崩れていない大きめの家をあたると、3軒目に5人を泊めてもいい家が見つかった。
レオポルドは民家に泊まったことなどはなかったが、子供の頃から出入りしていた王都郊外の村で、靴屋のトマスの家などに入ったことがあるので、今夜どのような部屋に泊まるのかの想像はできた。
トマスの家には、家族全員で眠る大きめのベッドが1つあるのみで、それも藁の上にシーツを引いただけだった。家財といっても食卓、ベンチ、長持ちくらいしかなかった。
長持ちには衣服、薄手の陶器、パン、塩などをしまっていた。衣服も粗末な毛、麻の生地、山羊や羊の毛皮で作ったもので、今、レオポルドたちが着ているような色鮮やかに染織した織物などは持たず、粗末ながらも晴れ着にしているわずかに上等な服やベルトなども親から子供に引き継いで大切にしていた。
5人を家に上げてくれたウーゴ夫婦の服装は、そうしたレオポルドが個人的に知っている貧しい人びとのそれよりはわずかによく、生成りの肌着の上に色褪せて灰色がかった青い上衣を着ている。
家は、入ってみると2軒分であった。つまりかつては別の家族が住んでいた方の家を旅籠代わりにした旅人を泊めているらしい。調度は古いが、そこそこ清潔で心地のいい部屋が2つあてがわれた。大きい部屋の方に男性3人が、小さい部屋にラウラとアニーが泊まることにして、荷を解くと母屋の食堂に集まった。
旅籠ではないので、立派な食事は期待していなかったが、ワインやパンも出てきた。そして肉を調理する匂いもしてきたので、マックスはホッとした。遍歴教師時代には、空豆かエンドウ豆と薄い粥だけの食事でも満足しなくてはならないことが何度かあったが、その時は変装した国王の付き添いではなかった。
肉は乾燥して味の凝縮された栗とともに煮込まれたもので、旅籠で提供される食事に負けぬほど美味しかった。客たちの讃辞に機嫌をよくした主人ウーゴは、奥から再びワインを持ってきて機嫌良く一行をもてなした。
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今回の記述では、モデルにした地域の名産品を使ってみました。「子豚キノコ」とはご存じポルチーニ茸のことです。ドイツ語では「シュタインピルツェ」すなわち「石のキノコ」と呼ばれています。ミラノ風リゾットを作るときにはいつも入れます。キノコの旨味って、格別ですよね。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(19)荒れた村 -1-
イゾラヴェンナを出て、旅の目的地であるトリネアまでの道中は狭い谷の小さい村々を通りながら進む。グランドロン王国に属する北側ほどの傾斜はなく旅は比較的楽で、ほぼ常に馬に乗って進むことが出来ていた。
「トリネア城下町にはいつ着くんだ?」
レオポルドは前を進むマックスに訊いた。
「そうですね。すぐ先のファゲッタで泊まれば明後日になりますが、きょう頑張って、もう少し先まで行けば、明日の昼にはトリネア港が遠くから眺められると思います」
マックスが考えつつ言った。
「もし奥方様らが疲れていなければ、『頑張る』のはどうだ?」
レオポルドが言うと、フリッツが言いかぶせた。
「ファゲッタの先にも、まともな旅籠がありますか」
「そうですね。最後の通ったのは4年ほど前ですが、『子豚キノコの森』と呼ばれるブナの大きな森を越えた所にボレッタという比較的大きい村がありました」
マックスが言うと、フリッツは安心したように頷いた。
「まだ先まで行っても大丈夫かい?」
マックスは、小さな声でラウラに訊いた。アニーの都合をフリッツが訊くとは思えなかったので、先まで進むかどうかはラウラにかかっている。
「もちろん私は構いません」
男性陣ほど騎乗に慣れているわけではないが、これまでの道中に較べれば今日の旅は楽だった。アニーもさほど疲れていないだろうし、騎馬に耐えられなくなったら彼女はさっさと降りて歩く方を選ぶだろう。旅の間に、アニーはフリッツに対してかなりはっきりと意思表示をするようになっていた。
それで、一行はファゲッタでは短い休息をとっただけで出発し、ブナの森に入っていった。
「『子豚キノコ』とはなんだ?」
レオポルドが訊いた。
マックスは、大きなブナの木の根元に生えている茶色い暈の茸を指した。
「それですよ」
「なんだ『石のキノコ』ではないか。それとも違うのか?」
レオポルドが訊いた。
「いえ。同じです。センヴリ語では『子豚キノコ』というのです」
「もうこんなに大きくなっている! やはりこちらの方が暖かいので、ずいぶん早いですね」
アニーは、子供の頃を思い出しながら驚いて言った。彼女の出身地であるヴァレーズでは、この時期に森に入っても、まだここまで大きくなっていなかった。
「お前、キノコに詳しいな」
フリッツが言ったので、アニーははっとした。貧しい民たちは、当然のように森番の目を盗んで茸を採っていたが、それは違法だった。
「た、たまたまです」
慌てるアニーに、特に氣づいたような様子もなくフリッツは続けて訊いた。
「家では、どうやって食っていたんだ?」
「え? 普通に、焼いたり、煮たり……」
聴いていた他の3人は、思わず笑った。この答えで、日常的に茸採集していたのが確定してしまった。誘導されたのがわかったアニーはむくれ、フリッツの方は上機嫌だった。
民衆が森で密かに狩りをしたり、木の実や茸を集めたりすることは、レオポルドやマックスにとってはすでに「しかたないこと」になっていた。
違法な狩りや採集は野生動物に襲われる危険とも隣り合わせでそれに対する保護もない危険な行為だ。それでも、せざるを得ないのは年貢や賦役による負担が多く、貧しく生活が苦しいからだ。
レオポルドとマックスは、ラウラに懇願されるまでもなく、そうした民の1人であったアニーを責める氣にはまったくならなかった。
為政者としては、民が餓死し年貢や賦役が途絶えるよりは、彼らが生き延びるために目の届かないところで法を破っている方が、都合がいいのもたしかだ。
森は広大で、木の実や茸は豊富にある。茸だけでなく、ナラやブナの実も豚など家畜の飼料にするだけでなく、不作の時は平民たち自身が食糧とすることもあった。
そうした事情を、マックスは放浪の旅で、アニーは生活を通して知ったが、王太子として不自由なく育ったレオポルドはもちろん、王都で育ったラウラやフリッツも知らなかった。
正規の教育は体系的で広範にわたった知識と近視眼的ではない物事の見方を可能にするが、世界は机上の理論通りには動いていない。旅の間の小さな見聞や、会話は、この世が王城で見える整った姿だけではなく、複雑で深淵な層が重なり合ってできあがっていることを教えてくれる。
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今回の話は、阿部謹也氏の著作にあったエピソードを下敷きにしています。完全に同じではありませんが、当時は国による障害年金のような仕組みはなく、それぞれの共同体の相互扶助や教会などがそうした役目を担っていたようです。制度の悪用とまではいきませんが、グレーゾーンを上手に使って厄介払いをされてしまった男の話です。ただし、どうあるのが本当にその人のためになるのかは、なかなか結論が出しにくいことなのかもしれません。それは現代でも同じかも。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(18)身体のきかない職人 -2-
そして、職人たちやマックスらに挨拶することもなく、部屋の奥にある腰掛けを目指して歩いた。それは非常にゆっくりとした動きで、杖にすがるようにして交互に足を踏み出していた。しかも杖をしっかりと握れているのは左手だけで、右手はだらんと垂れ下がり、座る際、テーブルに躓いたときにも右手でとっさに支えることができない体であった。
話をやめて男の様子を眺めていた職人たちの1人が、声をかけた。
「お前さん、どうしたんだ? 峠越えの途中で事故にでも遭ったのか?」
痩せた男は、こちらを見て、自分が注目されていることに氣がついた。そして、虚ろな目をして首を振った。
「いや。2年前に故郷をでたときから、ずっとこうなんだ」
男の言葉には、強いノードランド訛りがある。グランドロン王国の最北に位置する領国で、先王の代までルーヴラン王国に属していたので、職人たちは今でもルーヴラン語の影響の強い方言で話す。
「なんだって? その手足でグランドロン王国を横断してきたってのかい?」
「そうだ」
マックスは、おかしいなと思った。服装から考えると指物師のようだが、これでは仕事を得ることはできないだろう。親方資格を得るのに十分な修行ができないのであれば、苦労して遍歴をする意味はない。
職人たちも同じ疑問を持ったらしい。
「そんな状態で、遍歴を? なんで療養しないんだ?」
男は、悲しげに答えた。
「3年療養したんだ。でも、まったくよくなる見込みがなくって、組合はもう療養費を払いたくなかったんだろう。資格証明を作ってきて、遍歴に出させられてしまったんだ」
意味のわからなかったラウラが、そっとマックスの顔を見た。他の3人も同じような目つきで見ていたので、彼は小さな声で説明した。
「事故や病で働けなくなった職人たちの療養にかかる費用は、居住地の同業組合が負担する決まりになっているんです。でも、遍歴中の滞在費用や路銀支給は、行く先々の同業組合持ちですからね」
「親方になるための修行をしないとわかっているのに、遍歴のための資格証明を出すのはどんなものだ」
レオポルドが小さい声で訊いた。
「それを禁じる法律がない限り、違法ではないですが……」
マックスは、今回の件は自分の領地で起きた問題ではないので、わずかに余裕がある。一方、レオポルドは困ったような顔をしていた。
違法な税の搾取や、農業改善策のように、国政や法に関わる問題であれば目くじらを立てる必要があるが、少なくとも資格証明書が本当に故郷の組合で発行されたものならば、この男がここに数日泊まり、次の街への路銀を受け取ることは違法ではない。
この男が故郷に留まる限り、同業組合にはその生活と療養費を負担する義務があり、それを知る他の救済機関は支払いを肩代わりすることはないだろう。彼が生活に必要な金を手にすることができるのは、組合の望んだとおり異国を遍歴することだけなのだ。
ラウラは、かつてルーヴの貧民街で見た、死を待つばかりの貧しい人びとのことを考えた。当時のルーヴラン宰相イグナーツ・ザッカは低い声で告げたものだ。
「仕事のないものには、手遅れになる前に仕事を与えなくてはならない。食べるものを買えなくなってからでは遅いのだ。貧しさは悲惨さを呼ぶ」
あの足で旅をさせるなんて氣の毒だ、街にそのまま住まわせてあげた方がいい、そう言うのは簡単だ。だが、収入が途絶え、食べるものを手に入れられなくなれば、この男はあの貧民街の人びとと同じような身になるだろう。
「そちらのみなさん、そんなに憐れんだ目をなさらんでください。これでも、いつかは遍歴の旅に出て、他の国々を見てみたいと思っていた、かつての夢は叶ったんですから」
痩せた男は、ラウラたちのテーブルを見て、ぎこちなく笑った。
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今回から、現代風に言うと「国境を越えて異国に入った」状態になりました。フルーヴルーウー峠の南側はセンヴリ王国の支配下になります。モデルにしたのはアルプス越えをしてイタリアに入るルートですね。ここからは、センヴリ王国の支配下であるだけでなく、直接の領主はトリネア侯爵ということになります。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(18)身体のきかない職人 -1-
その日は、昨夜の寒さが嘘のように暖かく、イゾラヴェンナに到着した頃にはむしろ暑いといってもよいほどだった。《ケールム・アルバ》を越えてトリネア侯爵領に入った途端、フルーヴルーウー辺境伯領ではほとんど感じなかった湿度を感じるようになった。イゾラヴェンナは、標高でいえばフルーヴルーウー城下町よりも高いのだが、太陽の光はずっと強く感じられ、男も女も誰ひとりとして外套などは身につけず、袖をまくり上げて歩いている。
ギンバイカやオリーブ、そしてマンネンロウなど、《ケールム・アルバ》の北側では見られない植物がそこここに見られた。また、見上げるほど大きな栗の木がたくさんあり、緑色のイガがたわわに実っている。
イゾラヴェンナは、トリネア侯爵領では3番目に大きな街だ。大聖堂の立派な塔をはるか彼方からも見ることができた。
マックスは、貴族などが好む豪奢な旅籠のある大聖堂の近くを避け、トリネアの街に向かう街道にほど近い西側の地域に向かった。そこは職人たちの住む地域で、靴屋、毛織物工、染物屋、鉄工、石工、塗装工などの工場兼住居の他、同職組合の事務方を兼ねる特殊宿泊施設もいくつかあった。
開業可能な親方資格を取得するために、どの職業であっても職人たちは少なくとも3年以上の遍歴をしなくてはならない。その遍歴の間、生まれ故郷には足を踏み入れてはならず、故郷からの経済援助も得てはならないことになっている。
その代わりグランドロン、センヴリ、ルーヴラン各王国内の各組合は、同職組合からの正式な資格証明書を提示されれば、たとえその街での修業受入れ先を用意できない場合でも、2泊の宿と飲食ならびに次の街までの路銀を提供しなくてはいけないこととなっていた。
イゾラヴェンナの職人街は、各地から集まる遍歴職人たちの宿泊先を職業組合ごとに手配するのではなく、いくつかの組合が共同で大きめの宿泊施設を経営していた。この施設が満室でない場合は、組合に所属していない旅人も有料で宿泊することが可能だった。
既知の貴族たちと鉢合わせする可能性を避けるためだけではなく、あまり接点を持つことのない手工業者の世界を見てみたいというレオポルドの希望を叶えるため、マックスはこの宿泊施設または近隣の旅籠に泊まるつもりで案内した。
幸い宿泊施設はさほど混んでいなかったため、5人の宿泊を受け入れてくれた。ただし、男女同室を許可していなかったので、男性3人、女性2人に分かれて宿泊することになった。
ラウラと同室だと知らされてアニーは傍目からもよくわかる喜びようだった。その様子を見たフリッツはムッとした様相だった。
「なんだ。さんざん不平を言っておきながら『妻』と離れるのはいやなのか」
レオポルドが意外そうに訊くと、フリッツはさらに心外だという表情をした。
「そんなわけないでしょう。まるでいままで私があの娘にちょっかいを出していたかのような言い方をしないでください」
「ちょっかいを出すくらいの面白みがあればちょっとはマシな……」
「何とおっしゃいましたか」
「いや、なんでもない」
主従のやり取りを聞いていたマックスは、顔を背けて奇妙な咳をした。見ると笑いを堪えているようだ。
食事までの時間、一同は食堂に隣接されている居間で寛いでいた。その居間にはいくつかの丸テーブルとひじ掛け椅子が置かれていて、5人ほどの職人たちが意見交換をしていた。それぞれは異なった職業のようだが、それぞれの通ってきた地域についての情報は参考になるらしく盛んに質問し合っている。
「ヴォワーズ大司教領? いや、あそこは、毛織物工だけでなくて、今いかなる遍歴職人をも受け入れていないと聞いたぞ」
「本当か? ヴァスティエラは疫病で組合自体が閉鎖されたっていうし、センヴリ王国内で受け入れ先を探すのは難しくなってきたな」
「こうなったら、グランドロンに戻った方がいいのかもしれないぞ」
「とりあえずトリネアで探してみてダメならまた北上するか」
「トリネアからなら、そのままルーヴランに入るのもありかな」
職人たちの話を聞いていたマックスは、ラウラが戸口に視線を向けていることに氣がついた。その視線の先には、1人の痩せた男がひとりで立っていた。
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【小説】心の幾何学
今月のテーマは、モロッコの『リアド』とそれを彩るモザイク『ゼリージュ』です。
実は、モロッコはアフリカ大陸内のスペイン領セウタに行ったときに、半日ツアーで行ったことがあるだけなのです。なので、美しいリアド滞在はまだ未体験。めちゃくちゃ憧れているんですけれどね。

心の幾何学
ナナはスークを急いで横切った。この市場には、これまでに5度ほどしか訪れたことがない。観光客が土産物を探すマラケシュのスークなどと違い、観光客のさほど多くないこの町は、地元民の生活に即した品物のみが置かれ、大半が屋根のない露天だ。足下の乾いた埃っぽい土が舞い上がり、そこここに放置されたゴミを踏まずに進むことと、スリに注意することで神経をすり減らす。
ベルナールが言うように、リアドに隠っていればいいのかもしれない。何かあったら、彼に対処してもらわなくてはならない。彼はため息をつきながら「だから、言っただろう」と子供を諭すように言うのだろう。
でも、今日は『彼』に食事を振る舞うつもりなのだ。それにザタールがないなんて、あり得ないもの。ナナは、買ったスパイスを抱えて急いで帰路についた。
ザタールはモロッコの万能ふりかけと言うべきミックススパイスで、塩、タイムの一種、白ごま、スーマックという赤い果実を乾燥させた粉などが入っている。肉を素焼きの壺で長時間煮込んだタンジーヤの付け合わせとして添えるパンはプレーンでもいいのだが、ナナはザタールをかけてから焼いたものが一番合うと思っていた。
埃っぽく、灰色で、異国情緒もへったくれもない街角を、なんとか迷わずに進み、ナナはくたびれたピンクの壁がつづく一画の一番奥に向かった。それから、重い扉についた手の形をした取っ手を操作しながら解錠した。
それまでの世界と、まったく違う光景が広がる。柔らかな円やくびれたカーブが優美なアーチ。透明ガラスと装飾が幻想的な陰影を作り出すランプ。細かい紋様のモザイクタイル。そして、金銀の刺繍で彩られた鮮やかな布の襞が織りなすオリエンタルな影。
東京で過ごした子供の頃に読んだ「アラビアンナイト」の絵本にあった王宮さながらだ。フランスで知り合ったベルナールが「モロッコで暮らさないか」と誘ってきたときに想像していた世界そのものだ。
大きな中庭を持つ古い邸宅を改装した宿泊施設として、日本をはじめとして世界の観光客にも人氣なリアドは、もともとはアラビア語で「邸宅」を意味する言葉だった。その意味で、ここもまたリアドには違いない。
12世紀から15世紀に、レコンキスタが進むイベリア半島から逃げてきた有力者たちが建てたアンダルスとモロッコの建築様式が融合した邸宅の多くは、21世紀には観光客向けのエキゾチックな宿泊施設として生まれ変わった。
このリアドも、かつてはそのブームに乗ろうと、水回りをはじめとして宿泊施設らしく改修されたが、マラケシュやフェズのように観光に適した町ではなかったので経営に行き詰まったらしい。ベルナールは、二束三文で売りに出されていたのを見つけたと自慢げに語った。
「僕はね。このリアドを完璧な状態に修復して『千夜一夜物語』の世界を再現したいんだ」
パティオには、星形の噴水が置かれ、棕櫚やバナナの木が美しい木陰を作っている。2階はバルコニーがパティオを囲むようにあり、5つのテイストの違う部屋があった。
ナナが使っている部屋は、ターコイズ・ブルーをテーマにした部屋で、とりわけバスルームの壁とタイルが美しかった。
ベルナールに、モロッコ移住を提案されたとき、ナナは彼とここに住むのだと思っていた。実際には、常にここに住んでいるのはナナ1人で、ベルナールは年に2か月ほど滞在する以外は、月に3日ほど訪れるだけだった。
パリにあるモロッコのインテリアを売る店は繁盛しており、彼はこれまで通りに2国を行き来して暮らすのだろう。
彼が、電話で話している姿を見て、彼は離婚もしていなければ、ナナを正式なパートナーにしようとも思っていないことを知ってしまった。これは、日本でいうお妾さんにマンションを買い与えるのと変わらない事なのだと氣がつき、がっかりした。
それは、日本で母親が受けていた扱いと同じだった。私生児だから、ハーフだからと受けた仕打ちには負けたくなかった。だから、フランスに渡り自分の力で生きていこうとした。けれども、フランスではナナは今度はアジア人として扱われた。1人前の仕事をさせてもらえなかったのは、人種差別のせいだとは思いたくなかったけれど、実力が無いと認めるのも悲しかった。しかも、結局、自分もまた愛人として囲われることになってしまった。
日本やフランスに戻って、地を這うような生活をしながら独りで生きていく決意はまだつかない。このアラビアンナイトのような美しい鳥籠と、その外に広がる厳しい現実の世界の対比はナナを億劫にする。
細やかな刺繍の施されたフクシアピンクのバブーシュを履く。ただのスリッパと違い、足にぴったりと寄り添う滑らかな革のひんやりとした肌触りが好きだ。足下には星や千鳥のように見えるタイルが敷き詰められている。何も知らなければただの床だが、ゼリージュ細工の仕事を知るナナは、足を踏み出すごとに畏敬の思いを抱き歩く。
コンコンという、規則正しい音がする。ナナは、音のする方へと向かった。ホールの隅で、『彼』が働いている。ゼリージュ職人であるアリーだ。
細かくカットしたタイルを組み合わせて、幾何学模様のモザイクを作り出す装飾をゼリージュと呼ぶ。古くからイスラム圏で広く使われていたゼリージュは、その膨大な手間から現在ではほぼモロッコだけに継承されている。
白、黒、青、緑、黄、赤、茶の釉薬を塗って焼いた伝統的なタイルを、360種ほどもあるという決められた形に割っていく。組み合わせるときに、他のタイルとのあいだに隙間が出来ないように、それぞれを完璧な形にしていかなくてはならない。それは氣の遠くなるような作業だ。
アリーは、そうした技術を継承した職人だ。ベルナールの依頼で、この邸宅の装飾を修復するために時おり通ってくる。
ナナが、話をすることが一番多いのが、このアリーだ。掃除を請け負うファティマや、グロッサリーを搬入してくれるハッサンとも定期的に顔を合わすのだが、この2人は英語もフランス語も話さないため話し相手にはならない。
ナナは、パティオの奥に設けられた木陰の読書スペースで本を読んで過ごすことが多い。日本にいたときには積ん読になっていた多くのシリーズものは、この木陰で何回か読破した。
「それは、中国語?」
そう訊かれて、顔を上げたのが、アリーとの最初のコンタクトだった。訛りはあるがフランス語だ。
「いいえ。日本語よ」
「ああ、君は日本人なのか」
「半分ね。でも、東京で生まれ育ったの。読むならフランス語よりも日本語が楽なのよ」
「そう。面白いね。本当に縦に読んでいくんだ。ああ、右から左に進むんだね」
「そうよ。アラビア語もそうよね」
「まあね。横方向にだけど」
たわいない話だが、ベルナール以外の人と、ごく普通の会話をするのは久しぶりだった。単語だけでようやく意思疎通をするだけのファティマたち。買い物の時にフランス語が達者な売り子と話すこともあるが、ぼんやりしていると高いものを売りつけられたりスリに狙われたりするので世間話に興じることはほとんどない。
アリーは、それ以来、籠の中の鳥のように暮らすナナにとってこの世界に向けたたった一つの窓のような存在だ。何かを売りつけるためではなく、雇用主として阿るわけでもなく、ただその空間と時間を共有する相手として接してくれる。そんな彼と話す時間を、ナナは心待ちにしている。
それは、不思議な感覚だ。
パリにいたとき、ナナはベルナールとの逢瀬を渇望していた。彼の妻よりも、ずっと彼を愛していると思っていたし、モロッコ行きを決めたときには愛の勝利に酔いしれた。4つ星ホテルの空調の効いた部屋での情交も、このリアドで格別に選んだターコイズ・ブルーの居室での睦みごとも、ベルナールとの強い想いと絆の当然の帰結だと感じていた。
でも、いつの間にかベルナールに1日でも多く滞在してほしいという願いはなくなっていた。嫌いになったわけではないし、離婚するつもりがないことに対して怒っているわけでもない。ただ、彼の存在が、日々どんどんと希薄になっていくだけだ。
ベルナールがやって来て、滞在するとき、ナナは彼を精一杯もてなす。店員が上得意客をもてなすように。覚えたモロッコ風の料理は、ベルナールを満腹にした。赤い部屋、オレンジの部屋、緑の部屋で楼閣に住む娼婦のように、彼を悦ばせた。それは、『アラビアンナイト』の世界に住まわせてくれる主人に対するナナの義務だと感じていた。
そして、彼が去ると、ナナはどこか安堵している。再びひとりに戻ったことに。そして、中庭に響く静かな水音の向こうから聞こえてくるゼリージュ・タイルを作る規則正しい音に、心が震えるのだ。
小さなタイルが組み合わされる。それは単なる装飾やパズルあそびではなく、自然を手本とした幾何学の魔法だ。シンメトリカルに広がる多様性。シンプルと複雑さの絶妙な組み合わせ。そして水の揺らめきや木漏れ日の揺らぎまでが計算され尽くしたかのように美しさを倍増する。
大量生産があたりまえのこの時代においても、ゼリージュのタイルはすべて手作業で作られる。粘土を乾かし、釉薬を塗って焼いたタイルを1つ1つ蚤を使って小さなパーツに切り取っていく。ごく普通のセラミックタイルの300倍もの値段がすることに驚愕する人も多いが、この手作業を目で見たら納得するだろう。
ゼリージュのタイルを使ったインテリアは、パリでは金持ちの贅沢だが、ここモロッコでは1000年以上も受け継がれてきた伝統であり、創造主たる神への讃美と感謝でもある。イスラム世界のほとんどで失われてしまったこの伝統を、モロッコのゼリージュ職人たちは黙々と受け継いできた。
アリーの茶色い手が、なんでもないようにタイルを組み合わせ、それを固定していく。繊細な作業をしているようには見えないのに、出来上がったタイルの組み合わせは完璧だ。それは、自然の造形と似ている。1つ1つは好き勝手に育っているように見えるのに、光景となった時にはすべてのパーツがきちんと収まるべきところに収まり、調和し、美しく、畏敬を呼び起こす。
ナナは、彼が働いているときには黙ってそれを見つめる。息を殺し、身動ぎもせずに、世界のパーツが正しい位置に納まっていくのを待つ。
学生の時、図書館で「千夜一夜物語」の訳文を読んだことがある。后であるシェーラザードが1001夜にわたって夫である暴君に話をすることになったきっかけは、もともとシャフリヤール王の后が奴隷と浮気をしていたからだった。王の后となったのに、浮氣なんかしなければいいのにとその時は単純に思ったけれど、いまならその后たちに少し同情することができる。
ここのように美しい、それとも、もっと煌びやかな王宮に閉じ込められた后は、ハーレムを戯れに巡回する夫君がいつやって来るのかも知らない日々を過ごしていたのではないだろうか。ちょうどナナにとってのベルナールと同じだ。そして、王は自分は自由に複数の女性を楽しみつつ、后が他の男に抱かれているのを見たら憤り、その首をはねた。そして、女性不信から生娘と結婚しては翌日に殺すということを繰り返したのだ。
ナナは、絶えず聞こえている水音と、棕櫚の枝を揺らす風を感じながら、ひたすら働くアリーの手元を見ていた。アリーとの間に、后と奴隷との間に起こったような展開はない。おそらくアリーはナナに対して女性としての興味は持っていないだろう。ナナにしても、この感情をどう捉えるべきなのか、はっきりとした定義はできない。
わかっていることは、今のナナにとって、訪れに心躍るのはもうベルナールではなくなっているという事実だ。
アリーが仕事の合間の休息をとるとき、ナナは淹れたての甘いミントティーを持っていく。銀のティーポットから金彩の施された小さなガラスの器に熱いお茶を注ぐ。このポットの取っ手は素手で持つのは難しい。最初の時に、鍋つかみを持ってきてあたふたしていたら、アリーは笑って代わりに注いでくれた。それ以来、お茶を注ぐのはアリーだ。
そういえば、正しいモロッコ風ミントティーの淹れ方を教えてくれたのもアリーだった。初めて持っていった午後、一口飲んでから黒目がちの瞳をナナに向けた。
「これ、どうやって淹れた?」
ナナはポットを指さして答えた。
「お茶っ葉とミントを入れて、熱湯を注いだの」
アリーは、彼女をキッチンに連れて行った。そして、正しい手順を見せてくれた。
まずポットに茶葉を入れる。1人用ポットなら小さじ2杯。もう少し大きいポットは3杯だ。そこにやかんの熱湯をグラス1杯分だけ注ぎ、すぐにグラスに戻す。かなり濃いお茶だ。
「これはお茶のスピリットだから、あとでまた使う」
そして、浸る程度の熱湯を再びポットに入れるけれど、そのお茶は捨ててしまう。これを2度行う。
「これで苦みを取るんだ」
そして、そこに大量のミント、小さじ大盛り3杯の砂糖、そして、とっておいた「お茶のスピリット」を入れてからお湯を注ぎ、それを中火にかける。そうやってお茶とミントをしっかりと煮出す。
出来上がったお茶の底に砂糖が固まっているように思われたので、スプーンでかき混ぜようとしたら再び笑われた。
「こうするんだよ」
彼は、そのままグラスにお茶を注いだ。少しずつポットを持ち上げ、最終的にはかなり高いところからお茶を注いでいる。そして、グラスに入ったお茶を再びポットに戻す。これを何度も繰り返すことで中の砂糖は均一に混じるらしい。
それ以来、ナナは正しい
添えたデーツをかじりながら、しばらくさまざまなことを話して過ごす。
「日本でもお茶を飲むんだろう?」
「ええ。でも、お砂糖は入れないのよ」
「へえ」
「それに、いいお茶は、60℃ぐらいの温度で淹れて、苦みを出さないようにするの」
同じ植物を使っていても、ミントティーと玉露は、まったく違う飲み物だ。ナナにとって障子と畳のある部屋で居住まいを正して飲む玉露は、もうとても遠い飲み物になってしまった。色鮮やかなゼリージュと中庭の棕櫚や椰子の木、噴水の水音と木漏れ日の中で飲むミントティーこそが、いまのナナの現実そのものだ。
ティーグラスを持つアリーの茶色い手を見ながら、ナナはこの午後が永久に続けばいいのにと願う。共にいたい相手がベルナールでないことに思い至り、心の中で自分を嗤う。
ベルナールにとって『千夜一夜物語』の具現であるリアド。経年で崩れていた細部を修復する魔法をかけに来るアリー。甘言と欺瞞の満ちた華やかな籠の中で王への忠誠を失った后の物語。人の心もまた小さなパーツで織りなされるモザイクだ。
金彩の輝くグラスには今日もまた、なんと名付ければいいのかわからない強烈な甘さと苦さが満ちている。
(初出:2023年5月 書き下ろし)
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(17)峠の宿泊施設にて -2-
睡眠と食事のために立ち寄った峠のホスピスには、一行の正体を知る南シルヴァ傭兵団が滞在していました。幸いものわかりのいい女傭兵以外はまだ寝ていて出くわさなかったので、無事に秋からの仕事とのバーターで口止めをしたマックス。
今回は、全員との再会になります。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(17)峠の宿泊施設にて -2-
一同は昼までぐっすりと眠った。アニーは、フリッツに起こされた。
「いつまで寝ているつもりだ。お前が最後だぞ」
「えっ。申しわけございません、ラウラさま!」
アニーは寝ぼけて女主人に謝り、またフリッツに叱られた。
「こら。お前のご主人様は、『デュランさま』だろう」
支度をして食堂に降りていくと、ほかの客たちは既に食卓に着席していた。
「おお。こっち、こっちへどうぞ、『旦那様』」
ことさら大きな声で呼んだのは、あの南シルヴァ傭兵団の首領ブルーノだ。フィリパがしっかりと言い含めたらしく、「陛下」だの「伯爵様」などという発言は控えてくれている。
見れば、彼らの用意した5つの席以外は埋まっているので、そこに座らざるを得ないらしい。ブルーノの隣にマックス、副首領レンゾの隣にフリッツが座り、その間にレオポルドが座った。向かいにラウラとアニーが座ったが、それでラウラはフィリパの隣になった。
それとほぼ同時に、食事が運ばれてきた。
また、リネン類は清潔なものを使うように徹底され、利用者も食事前に手洗いをするように要求されるなど可能な限り疫病の巣窟にならないような工夫がされていた。干し肉、チーズ、フルーツなどに続き、豆のスープが提供される。
「なんだよ。またこのワインかよ。普通のワインはないのか」
レンゾが大きな声を出した。アロエの果肉入りワインは抗菌作用があり、聖騎士団も健康のためによく飲んだものだが、世間一般ではあまり受け入れられていない。
「ここにはこれしかないんだ。文句を言うな」
フィリパが低い声で言った。
いずれにしても、傭兵団の男たちは、味などわからないのではないかと言うほど大量に飲んで大騒ぎをしている。昼間だというのに、売春婦相手に卑猥な冗談をいう者もいて、アニーは思わず下を見て顔を赤らめた。
そうとうな喧噪の中、ブルーノはマックスに比較的小さな声で問うた。
「で、旦那がたは何しにここに?」
「なんでもないさ。ちょっとした酔狂だ」
「そんなわけないでしょう。ここの下男に聞きましたが、トリネアまで向かわれるらしいですね」
あのおしゃべり下男め。マックスは思った。
「君たちこそ、センヴリには仕事で行くのか?」
「そうなんですよ。実は、来月トリネアに枢機卿猊下がいらっしゃるんでね。幸い秋までは時間があるんで、行ってみようかと。ご自分では身を守れない坊さんたちの周りには、いつもいい仕事が転がっているんでね。顔つなぎができないかってわけでさ」
ブルーノが上機嫌で言うと、レンゾが慌てた顔をした。
マックスは、わずかに軽蔑のこもった目をして言った。
「つまり、枢機卿が割のいい仕事をくれたら、他に決まった仕事は放り出すってことかい」
すると、ブルーノは大笑いした。
「まさか。旦那、俺たちはそんな不義理はしませんぜ。決まった仕事は、きっちりやるんだ。だがねぇ。そういう態度なのは俺たちの方だけでね」
マックスが、わからないという顔をすると、フィリパが後を継いで説明をした。
「貴族の方々は、口約束はいくらでも反故にできるとお考えの方が多いんですよ。採用されなかったり、クビにされたりして、全員路頭に迷うような危険は侵せません。ゆえに大きな仕事については二手に分かれ半分の人員でこなします。そして、残りの半分は別の小さな仕事をこなしたり、新しいコネを探して積極的に売り込みに回るというわけです」
なるほど。マックスは頷いた。騎士たちと違い、傭兵団は使い捨てにしても構わないと思う領主たちは多い。彼らは平民どころか周辺民扱いであり、名誉なども重んじられない。本人たちも、尊重されることなどは期待しておらず、それゆえ報酬にしか興味がなく、忠誠心などはない。
だが、多くの似たような傭兵団の中でも、南シルヴァ傭兵団の評判は比較的よかった。要求する報酬は高いが、実力があることも知られており、従軍した戦いではほぼ負け知らずだった。
フィリパは、もの言いたげな口調で続けた。
「幸い、つい昨日のことですが、アテにしていた仕事のうちの1つは、確実にもらえる算段がつきました。それが始まるまでに全員でトリネアへ行き教皇庁に顔の利くようにしようと今朝決めたのです」
マックスは、軽くフィリパを睨み返した。『商人デュラン一行』の正体を吹聴しないでいてくれることを盾に脅されたようなものだからだ。
「ところで、5人だけで『買い付けの旅』をするなんて物騒じゃないですかい。よかったら、俺たちが護衛しますぜ」
レンゾがこれまた意味ありげにいった。
「君らの申し出はありがたいが、我々には護衛としてこのフリッツもついているし、私自身も、それなりに鍛えているんだ。身軽に旅をしたいので、ついてこられるのは遠慮したい」
商人デュランことレオポルドはきっぱりと断った。
いい金づるになると期待していたレンゾは、少しがっかりしたようだったが、すぐに氣持ちを切り替えて大いに飲み始めた。
一方、『商人デュラン一行』は、さっさと食事を済ませると、イゾラヴェンナに向けて出発した。
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めちゃくちゃ寒い思いをした一行は、峠のホスピスでひと休みすることにしました。
そういえば、架空世界での話を書くときに、氣にしているのが度量衡の名称です。例えばメートル法は使わないようにしています。それだけで嘘っぽくなりますから。とはいえ、完全に架空の用語を散りばめると、読む方はそのスケールが想像できなくなります。なので、「なんとなくそれっぽい」用語を作り出すようにしています。この辺はあまりこだわらずにスルーしていただくとありがたいです。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(17)峠の宿泊施設にて -1-
1時間ほど歩いて、一行はフルーヴルーウー峠にたどり着いた。グランドロン側は2本の道がこの峠の3
巨大な山嶺である《ケールム・アルバ》を越える峠は東西にいくつもあるが、通年低地から全行程にわたり2頭だての馬に牽かせた4輪馬車が通れるのはフルーヴルーウー城下町からこのフルーヴルーウー峠を越えてセンヴリ王国のイゾラヴェンナに至る俗にいう《フルーヴルーウー街道》だけである。
たとえばルーヴラン王国のタタム峠は大きく宿泊施設も立派だが、王都ルーヴと結ぶ街道の中央に非常に狭く危険な《悪道峡谷》があり、荷をロバに載せ替え2日ほどかけて通る必要があった。一方、2輪馬車であれば通れるアセスタ峠は雪深く10月末から4月末までは通れない。
《ケールム・アルバ》にあるほぼすべての峠には、公的な
昨夜ほぼ眠れなかったため、マックスの提案で半日だけ宿泊用の部屋を借りて休み、昼食を食べてからイゾラヴェンナに向けて降りていくことにしていた。
その手続きをマックスがしている間、フリッツを除く3人は食堂で暖かい茶を飲んでいた。誰が聞いているかわからないので、お互いに何も言わずにいたが、しっかりと温まった食堂は心地よく、ほっとしていた。
フリッツは馬の世話をする下人たちに心付けを渡すために馬小屋にいた。下男の1人とともに彼が宿泊施設に向かうとき、旅立ちの支度を済ませた男とすれ違った。
フリッツは、その男の顔を覚えていた。おとといの旅籠でのことだ。旅籠の女将がその客が泊まることを拒否したのだ。服装をみればかなり裕福だと思われるのに、女将は「今夜はいっぱいで」と言っていた。だが、どう考えても宿には十分な余裕があり、断る前に女将がレオポルド一行をちらりと見たことから、何か理由があるのだろうと思っていた。
下男が男を振り返り、軽蔑を意味する舌打ちをしたのでフリッツは「なんだ?」と訊いた。下男は、はっとふり返り不躾な振る舞いを詫びてから言った。
「いまの男、立派な旦那様のように振る舞っていますが、ヴォワーズで刑吏としてしこたま儲けたヤツですよ。昨夜は傭兵団は泊まるわ、刑吏が来るわで、周辺民だらけでございました。旦那様がたが今朝到着したのは、むしろ幸運だったかもしれませんよ」
それゆえ、商人や農民などの単なる平民だけでなく、刑吏・傭兵・売春婦・異教徒など周辺民として蔑まれていた人びとでも分け隔て無く宿泊することができるようになっていた。
もちろん全行程を馬車で行くような貴族たちは、はじめからこの簡易な宿泊施設で一夜を過ごすことは予定していないが、馬の世話や休憩で立ち寄るため、平民たちとは区切られた若干豪華な食堂も用意されていた。
「傭兵団といったね。彼らはもう発ったのか?」
フリッツは、嫌な予感がして下男に訊いた。
「とんでもございません。ヤツら、昨夜遅くまで飲んで騒いでいましたからね。まだグースカ眠っています。なにやら、秋からはこの近くで仕事をするかもしれないとかで、ずいぶんと態度が大きく辟易しました。売春婦なども同行しているようで、目を覆いたくなるような醜態を晒しましてね。給仕の者たちはうんざりしておりました」
下男と別れて廊下を進むと、マックスが見覚えのある女傭兵と小声で話している場を見えた。フリッツは、泊まっていたのはやはりあの南シルヴァ傭兵団だったかと思った。彼を見るとマックスは「ああ」と手を挙げた。
女はフリッツを見ると「やあ」と言い、マックスに「じゃ」と言って立ち去った。
「頼むよ」
「わかった。ちゃんと皆に口止めしておく。その代わり、頼んだよ」
フリッツは、マックスのところに歩いていき、言った。
「あの女は、たしか……」
「フィリパというんだ。そこで出くわしたときには仰天したけど、いたのが話のわかるあの女だけで助かったよ。他の男たちは酔い潰れてまだ寝ているらしい。僕たちの本当の身分について仲間たちに口止めをして欲しいと頼んだ。秋からの仕事と引き換えなので、上手くやってくれるだろう。おかげで騎士ゴッドリーを説得しなくちゃいけなくなったよ」
マックスが手配したのは、5人で1つの部屋だった。単に仮眠をするだけだし、フリッツが警護上の心配をしなくても済むだろうと考えたからだ。部屋は簡素だが清潔で、マックスは、後で管理人に領地から慰労と賞賛を伝えようと思った。
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【小説】やまとんちゅ、かーらやーに住む
今月のテーマは、沖縄県八重山地方の『かーらやー』(古民家)です。
石垣島には大学を卒業する年に1度だけ行きました。正直言って、あの美しい海と竹富島観光のことしか記憶にないのですけれど、今回の作品を書くためにあれこれ調べていたら興味深い事がたくさんあって「ずいぶんと勿体ないことをしたな」と反省しました。
当時印象に強く残っているのは、「石垣の近くに寄りすぎるな、ハブが潜んでいるかもしれないから」と言われたことです。今回、ハブに関する話が出てくるのも、その時の印象に引きずられているのかも。この話もオチはありません、あしからず。

やまとんちゅ、かーらやーに住む
赤茶の瓦に
沙織は、静かに縁側に座った。縁側からは海は見えない。外壁には門のようなものはなく、代わりに門の奥に石垣と同じ素材で作られた
沙織の前夫である亮太だったら、ここに住むことには大反対しただろう。彼は名護市内のマンション暮らしにすら耐えられなかった。
そもそも沖縄県移住を提案して沙織を連れてきたのは亮太だった。そして、離婚とともに彼が内地に戻る時に、沙織が東京に帰ろうとしないことにひどく驚いていた。
「まさか、こんな所に住み続けるつもりか?」
亮太にとって、沖縄移住はリゾート滞在の延長線だった。移住に伴う多くの問題を対処できるか、彼は考えてもいなかったらしい。
半年にわたる強烈な湿氣、次々と襲い来る台風、賃金水準は低いのに、物価は東京並みどころか場合によっては高くつく。和食を食べられる店が少なく、面白いエンターテーメントも少ない。それらは、東京で少しネット検索すればわかることだったのに、亮太は本当に行き当たりばったりで移住を決めたのだ。
だが、沙織もまた沖縄について亮太よりもわかっていたわけではない。東京を離れて美しい海のあるリゾート地で暮らせるのだと喜んでいたのだ。
子供のいない若い夫婦として共稼ぎをしているが、沙織自身は移住で職探しをする必要はなかった。必要だったのはネット環境だけで、移住先の名護市でも問題なく仕事をすることができた。問題は亮太の方で、リゾートホテルで働く事のできた1年はよかったが、そのホテルが倒産してからはいくつかの仕事を渡り歩いた。
仕事が変わる度に亮太はすさみ、沖縄に対する不満も積もっていった。
少し遠くに飲みに行きたくても電車がないので行けない、お風呂に追い炊き機能がついていない、通販でものを頼むと送料が高すぎる、塩害で車が錆びた、治安が悪くヤンキーが多いなど、最後の方は毎日不満ばかり言っていた。沙織はそんな亮太にうんざりしていた。
彼の浮氣が発覚した時に、沙織はすぐに離婚したいと言った。やり直したくなるほどの情が残っていなかった。亮太は「お前がそんなだから、他の女に安らぎを求めたくなったんだ」と言った。沙織の収入なしに賃料が払えなかったので、彼は東京に戻ることを決めた。
沙織は反対に、沖縄本島を離れ石垣島に移住した。本土と較べて不便だし、人びとは閉鎖的だと忠告してくれる人もいたが、沙織はもともと引っ込み思案でエンターテーメントや物質的な便利さはさほど必要としないタイプだったので氣にしなかった。
最初は石垣市に住んだが、1年ほど前に縁あって島の北寄り集落にある古民家を格安で借りるチャンスに恵まれた。
折からの古民家ブームで、心地よく住める家はとてつもなく高い賃料だというのが常識となっている。けれど、沙織には偶然が味方した。
亮太と離婚して戻した旧姓の宮里は、沖縄によくある姓だったので、あきらかに
そしてもう1つは、沙織が亮太のように東京の生き方に固執しないで、島の人たちのやり方を受け入れ、仲間に入れてくれないことに関しては氣にせずに放置することができたからだ。しま言葉は永久にわからないだろうし、完全に島民として扱ってもらえることもないだろう。
それで十分なのだ。
この家に住まわせてくれるのも、大家が沙織のことを格別に思ってというわけではない。この家に、仏壇があるからだ。
先祖崇拝の風習の残る沖縄では仏壇のある家は小さくても本家の扱いだ。普段は沖縄本島や、市街地のある島の南部にそれぞれ住んでいても、旧暦の正月やお盆には家族がその家に集まる。しかし、普段は誰も住まない家は傷む。湿氣の多い沖縄はことさら家が傷みやすい。
沙織は、石垣市のアパートに住んでいたときに、大家に自分の生まれた『かーらやー』に住むのはどうかと打診された。家賃はとても安い。トイレと風呂が母屋にはないがそれも氣にならない。
沖縄の他の多くの古民家と同じように、この家の南側には、床の間のある一番座と仏間のある二番座がある。北側の裏座はプライヴェートな居住空間だ。日差しが入りにくいので日中でも少し暗いのだが、夏の蒸し暑い中でも比較的快適に暮らせる。
名護のマンションや石垣市のアパートと比較して、この古民家はずっと過ごしやすい。琉球瓦は熱を反射し、断熱効果が高い。また丸い形と平たい形をした2種類の瓦を組み合わせ漆喰で固めてあるので雨漏りは一切せず台風の強風にも強い。木造家屋にこの特殊な屋根を組み合わせた平屋は、古くても頑丈で快適なのだ。
年に数回、大家の家族が集まり、一番座と二番座で宴会をする。沙織はしばらく参加してもいいし、その時だけどこかに旅行することもある。最近のお氣に入りの過ごし方は、高価なリゾートホテルに滞在し、ビーチを眺めながらカクテルを飲むことだ。
それ以外は、誰にも邪魔されることなくこの家で静かに暮らしている。近くにスーパーマーケットの類いはないので、必要に応じて10日に1度くらい南部の市街地に買い出しに行く。
仕事をするために通信だけは整っていないと困るのだが、幸い光通信が通っている地域で、初期工事費を自分で持つと申し出たら、大家はあっさりと導入を許可してくれた。それどころか工事費も持ってくれたのだ。「息子たちが大賛成だというのでね」と。
庭にはバナナの木が植わっているし、小さな畑もあって、沙織は生まれて初めて家庭菜園にも挑戦してみた。と、いっても自給自足を目指しているわけではなく、台風が続いてスーパーの棚が空になるときや、買い物に行くのが面倒なときに足しになればいいか程度の動機からだ。本土ではあまり見ない島野菜の方が手間がかからずに育つ。タマナーとも言われるシャキシャキしたキャベツ、スターフルーツみたいな変わった見た目のうりずん豆、エンツァイと呼ばれる空心菜、失敗の少ない島オクラなどの他、スーパーで買ってきて食べた豆苗やネギの残った苗部分を再生するのにも使っている。
オシャレな服を買うような店はないが、そもそもリゾートホテルに行くときでもないとしゃれた服は必要ないので、新しく服を買う必要性も感じない。映画館や美術館などもないのだが、デートをする相手もいないので、特にそうした施設が必要にはならない。こんなライフスタイルであることを見抜いたので、大家もこの家に住むことを提案してきたのかもしれない。
休みの日には、朝から散歩をするような氣軽さで海へと歩いていく。赤・黄・ピンクのハイビスカス。濃いピンクのブーゲンビリア、パパイヤやバナナの木。近所には、あたりまえのように南国の植物が植わっている。石垣やシーサーは青空に映えて、南国にいるんだなあとしみじみと幸せを感じる。
今日はいつもと違い、4月なのに夏のような日差しだったので、昼に帰ることはやめて、1日をゆっくりと海辺で過ごした。夕焼けにオレンジに染まった家々や南洋の花を楽しみながら歩く帰路は、いつもとは違う美しさだ。
「ぱんな」
声がしたので振り返ると、背の高い男が沙織に話しかけていた。
「えっと……」
沙織の口調から、方言がわからないとわかったようで、男は言い直した。
「そっちに行かないでください。ハブの目撃情報があったので確認しているんです」
沙織は驚いた。4月なのにもうハブ?
「ええっ。スプレー、まだ買っていない……」
自宅に出てきた時の対策として、噴射するタイプの駆除スプレーを去年は大家が持ってきてくれたのだが、まだ一度もでたことがない上、まだ4月なので今年は油断して自分で用意するのを忘れていたのだ。
男は、不思議そうに彼女を見てから訊いた。
「もしかして、この近くに住んでいるんですか?」
「ええ。この道の突き当たりの比嘉さんのお家を借りています。石垣は対策補修されていますが、
男は、振り返って坂の上を見た。
「あそこですよね。街灯が正面を照らしているので、まず大丈夫でしょう。でも、心配だったら、あとで駆除スプレーをお届けしましょうか」
沙織は、大きく頷いた。
「そうしていただけたら、助かります。すみません」
男は、笑った。
「氣にしないでください。じゃあ、お家まで一緒に行きましょう、私の後ろを歩いてきてください」
沙織は、頭を下げた。ハブ駆除の専門家だろうか。夕方とはいえまだけっこう暑いのに、長袖長ズボンの作業着で全身をしっかり覆っている。
手には捕獲器を持っているし、この人といるならハブが出てきてもなんとかしてくれそう。でも、もし現れても悲鳴を上げて蛇を刺激しないようにしなくちゃ。沙織の緊張がわかったのか、男は再び笑った。
「そんなに怖がらなくても道の真ん中を歩いていれば大丈夫ですよ。まだ十分明るいですし、向こうから出てくることはほとんどないでしょう」
「はい。もともと東京育ちで、それに一昨年までは市街地に住んでいたので、慣れていなくって。ハブがでることがちょっと怖いんです」
家の前に来たので、少しホッとしながらいうと、男は頷いた。
「そのぐらいの方がいいんです。サトウキビ畑に入っていこうとしたり、夜にふらふらで歩くような油断をすると、ちょっと危険ですから。じゃあ、後でスプレー、お届けします。車の中にあるので、20分くらいですね」
沙織が頭を下げて、確認をしつつ歩いていく男を見送っていると、隣家の伊良部のお婆さんが出てきた。
「
「くよなーら、伊良部さん」
まだ伊良部おばぁと呼ぶ勇氣は出ない。
伊良部おばぁは首を伸ばして、道を観察しながら去って行く男の後ろ姿を見た。
「おや。……もうハブがでたんだね。暑かったからねぇ」
「あ、ご存じの方ですか」
「向かいの平良やんの孫だよ。昇っていうんだ。他の兄弟はやまなぐーだったけど、あの子だけはまいふなーだったでなー」
沙織が「?」という顔を見せたので、彼女は「
伊良部おばぁは、慣れない標準語を探しながら、ゆっくりと話した。
「だっからよー、あの子は、やまとぅ言葉で『大人しい』だったかね。でも、肚が座っているから、ハブが襲ってきてもなんでもなく捕まえる。あの調子で嫁さんも捕まえられればいいのに、そうはいかないみたいだねぇ。わー、どうばぁ?」
沙織は、滅相もないと首を振った。離婚のことは面倒なので話していない。だから、いい歳してこんなところでグズグズしている晩熟娘だと思われているのかもしれない。
「そんな……あちらに失礼ですし……」
伊良部おばぁは、はははと笑った。この程度のことを真に受けるなとでも言いたげだ。どうもまだ会話の受け流しはうまく出来ない。
「あ、ほれ、これはたくさん作ったチャンプルーよ、
「あ。いつもありがとうございます」
今日も、いただいちゃった。島豆腐チャンプルー。沙織が作るのと格段違ったものは入っていないのに、伊良部おばぁが持ってきてくれるお惣菜は、なぜだかとっても美味しいのだ。
沙織は、ハブのこともすっかり忘れて米を洗い出した。日が暮れて辺りは暗くなった。東京では見たことがなかったほどの満天の星空が、『かーらやー』の赤瓦の上に広がっているはずだ。この家にたどり着くまでの、いくつかの住まいを思い出して、ここほど心地がいいと感じた場所はなかったなと微笑んだ。
「すみません」
一番座の方から声が聞こえる。あ。さっきの人だ。スプレー缶、持ってきてくれたんだ。
先ほどの男が、生真面目な様子で立っていた。手には駆除スプレーを持っている。
「すみません。本当に助かります。おいくらですか」
沙織が訊くと、彼は首を振った。
「お代はけっこうです。万が一、使うことがあったら、ここの名刺の代表に連絡してください」
市の環境課の名刺で先ほど伊良部おばぁが言っていたとおり平良昇という名が印刷されていた。頭を軽く下げると、昇は去って行った。
ハブ捕獲の専門家とは別に親しくならなくてもいいんだけれど、市のお役人がああいう感じで仕事熱心なのは好感が持てるなあと、沙織は考えた。
伊良部おばぁのチャンプルーは、どうしてこんなにごはんが進むんだろう。豚肉の風味だけでなく今日は島タケノコも入っていて香り豊かな上歯ごたえも楽しい。
母屋にはないトイレやお風呂、玄関も入り口の鍵もない『かーらやー』にいつの間にか故郷のようになれてしまったのと同様、八重山の味にもすっかり馴染んだ。台風と湿氣に悩まされ虫とハブに怯えることはあっても、美しい海と満天の星、南国の花や果物のあふれる島の暮らしは、とても心地よい。
きっとこのままこの島に住み続けるんだろうな。沙織はぼんやりと考えながら、チャンプルーを口に運んだ。
(初出:2023年4月 書き下ろし)
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この旅の中間地点であるフルーヴルーウー峠まであとわずかというところで、一同は悪天候に見舞われました。雨宿りをした小屋で結局ひと晩過ごすことになり、8月とは思えぬ寒さに震えています。
前作の連載を終え、このメンバーで旅をする続編を書こうと思いついたときから、このシーンは入れようと考えていました。
スイスに住むようになって印象的だったことの1つに「アルプス山脈は、ヒマラヤ山脈などとは違い、みな氣軽にハイキングやマウンテンバイクで越えてしまうこと」がありました。その一方で、峠程度といっても標高がそれなりにあるので、夏でも寒いのです。この感覚は、初めて旅をする面々には体験してもらわねばと思っていました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(16)凍える宵 -4-
「外套も、そろそろ乾いている。必要ならこれも着るといいでしょう」
フリッツは、それぞれに外套を渡した。
ラウラに外套を羽織らせてアニーが腰掛けると、ラウラは自分の膝の上にかかっている上掛けを彼女の膝にも載せた。
「そんな、ラウラさま。私なんかに……」
「アニー。いまの私は、あなたと同じく平民なのよ。一緒に暖まりましょう」
そのさまを微笑ましく眺めてから、レオポルドたちは、この山越えについて話を始めた。
「後悔なさっておられるのでは?」
フリッツが単刀直入に訊いた。平民のフリなどをしなければ、少なくとも雨になど濡れない馬車で峠の宿泊施設にたどり着いたはずだ。
レオポルドは肩をすくめた。
「戦で野営もしたではないか」
「あのときは、陛下用の寝台をお持ちしましたよね」
「わかっているさ」
それに戦の野営とはいえ、国王が寒さに震えるようなことはなかった。それだけ、ついてきた臣下や従者たちが、彼のために心を砕いたということだ。彼のための毛皮の敷物、寝具、簡易囲炉裏などが彼の天幕に用意されていた。『裕福な商人デュラン』が持てるようなものではなく、今回の旅でレオポルドが期待していたものでもない。
レオポルドは言った。
「ふかふかの寝床に包まれて眠ることだけを望むなら、フリッツやモラたちの言うとおりに王らしい旅をしていればいいのだ」
マックスは答えた。
「わざとこのような厳しいところにお連れしたわけではありませんが、民の中には眠れないほど寒い夜を過ごしたり、薄い粥以外食べられない人たちも珍しくありません。目で見るだけではなく、実際に肌で感じることも、陛下のおっしゃっていたさまざまな階級を知る1つの手立てとなるように思います」
レオポルドも、一同も頷いた。地図上で行程を考えるのと、今日の昼に登ったような道を実際に行くのは違う。冬にまともな暖房もない小屋で凍える民の話も聞いたことはあるが、実際に自分たちが眠れぬほど寒い思いをするのは話が別だ。
同時に貴族としての煌びやかな服を着たままで市井の人びとの本音を聞くことも難しい。この数日間、レオポルドはこれまで目にし耳にしてきたこととは異なる民の生活を体感してきた。
「そなたが見てきたものを、この短い旅ですべて見られると思っているわけではない。だが、少なくともまったく想像もつかないのと、わずかでも経験するのでは違う。そうだろう?」
「そうですね。例えば、我々にとってこの夜はたった1晩の経験に過ぎませんが、この生活しか知らぬ民がいると想像できるのは、為政者たる我々にとって悪いことではないですね」
ラウラが訊いた。
「ここは、夏でもいつもこんなに寒いのですか」
マックスは頷く。
「朝晩は、常にヴェルドンの真冬くらいに寒くなる。日中、陽が射せば照り返してかなり暑くなるけれど、悪天候の時は8月でも雪が降ることもある」
これほど粗末な設備にもかかわらず、馬用にも屋根のある小屋が用意してあったのは、夏でも寒すぎる夜のせいだった。
結局、5人は少しウトウトしただけで、深く眠ることはなかった。このままここに留まるよりも、夜明けとともに出発し、峠の宿泊施設で暖を取り、きちんとした食事を摂ることをマックスは奨め、4人はそれに同意した。
雷雨は夜更けに止み、雲のなくなった空には何万という星が輝いていた。明るい白と紫、そして紺色が混じる《乳の河》が強い光を放っているようだった。
東の空は少しずつ色を変え、稜線が赤く光り出す。湿氣が霧のように溜まっている。そこにやがて橙色から黄色へと色を変えていく光が見えて、太陽が上がってきた。
その神々しい光を見てから、5人は峠への道を歩き出した。分岐点まで戻ると、辺りはすっかり明るくなり、すっかり濡れた下草が宝石のごとく輝いているのを見て、昨夜の雨の激しさを思い起こした。
朝焼けに十字架のシルエットが浮かび上がっている。下方に見える昨日通り過ぎた湖が赤と金に輝いている。ピーピーと動物の声が響いている。マックスが岩の合間を指さした。
「マルモルティーレだ」
リスに似ているが仔猫くらいに大きく丸々と太った動物が岩の中に急いで飛び込み身を隠す。その横を鷹が通り過ぎていく。
「なんて可愛いの! 初めて見たわ」
アニーがマルモルティーレをよく見ようと身をよじった。
「おい。突然そんな風に暴れると、落馬するぞ」
フリッツが強引に彼女の姿勢を正した。
「なんてことを! 私は幼児じゃないんですから、女性らしく扱ってくださらないと」
「幼児とどこが違うんだ。慎ましく座ってもいられん癖に」
レオポルドとマックスは「またじゃれ合っている」といいたげに顔を見合わせた。
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- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(16)凍える宵 -1- (05.04.2023)
【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(16)凍える宵 -3-
この旅の中間地点であるフルーヴルーウー峠まであとわずかというところで、一同は悪天候に見舞われました。今回の記述は実際に中世ヨーロッパの山越えがこうだったというわけではなく、私の知っているいくつかの知識を組み合わせての創作が入っています。
この国に来てから、中世から前世紀までのさまざまな風物を近しく目にする機会に恵まれました。お城の豪華な調度などはネットなどでいくらでも調べられる時代になりましたが、貧しく面白そうでもない市井の人びとの暮らしの痕跡は、ネットや急いだ旅行などではなかなか見聞することが出来ないので、偶然目にしたり話を聞いたりしたときには、いつ使えるかわからなくても、できるだけ写真を撮ったり書き留めておくようにしています。今回はそんな情報が少し役に立ちました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(16)凍える宵 -3-
マックスは馬を止め、方向を転換した。
「どうするのだ」
レオポルドが訊くと、先ほどの分岐点を指さした。
「このまま峠まで行くのは無理です。雨宿りをしましょう」
分岐点の脇から岩にほぼ隠れている細い道を進んだ。そこは珍しく低木がいくつかある場所で、奥が見えていなかったが、しばらく行くと開けた平らな場所が見えてきた。滝にほど近く、粗末な小屋が3つほど並ぶ場所があった。
1つは馬小屋で、残りの2つは人用の小屋になっていた。馬をつなぐと、5人は1つの小屋に入っていった。
天井の低い小屋には誰もいなかった。寝台や腰掛けになりそうな台がいくつか並ぶ以外は、調度らしい家具もほとんどないが、火をおこす場所はある。
マックスは、木の窓覆いを開けて、とりあえず内部に光を入れた。激しい雨は、ますますひどくなっており、稲光が時おりあたりを明るくする以外は、辺りを天幕のように降水が覆っていた。このまま進まずに済んだことをラウラはホッとして辺りを見回した。でも、ここは誰かの所有なのだろうか。
マックスが言った。
「誰でもここに入ることは許可されているんだ」
「ラウラさま。このままではお風邪をひきます」
アニーが、ラウラに近づき外套を脱がせようとした。
「大丈夫よ、アニー。1人でできるわ。それよりも陛下の方を」
「外套くらい、ひとりで脱げなくてどうする。……といっても、どこで乾かすのがいいだろう」
レオポルドが、外套を手に持ち見回した。
「お待ちください」
マックスは既に火をおこす準備に入っている。フリッツは、3頭の馬にくくり付けてあった荷物を1つずつ小屋に運び入れている。
小屋の外に積んであった薪を暖炉にくべ、隅に山のようにまとめてある藁を少し置くと、マックスは火をおこした。アニーは暖炉脇の杭にそれぞれの濡れた外套を引っかけた。
「ここは簡易宿泊所のようなものか」
全員がひと息ついて火の周りに座ると、レオポルドが訊いた。
「はい。旅籠や峠の宿泊施設や修道院と違い、人はいませんが緊急の場合に旅人が寝泊まりすること、薪や藁を使うことは許可されています。ただし、追い剥ぎなどには自分で対処しなくちゃいけないんですが」
「ということは、今夜はここで寝るんですね」
フリッツが確認した。
「すぐに雨が止めば、峠の宿泊施設まで行けますが、このまま夜半までこの調子であれば、ここで1泊するしかないでしょうね」
激しい雷雨は、全く止む様子はない。大きな雷鳴のとどろきに、アニーは耳を押さえて小さな悲鳴を上げた。ラウラはそっとそんな彼女の肩を抱いて力づけた。
他の旅人がやって来てもいいように、フリッツの運び込んだ荷物は隅の1カ所にまとめ、暖炉からさほど遠くないところに、寝床を作ることになった。
入り口近くの隅に山になっている藁を何回かに分けて運び、1人眠れる程度の小山にすると、その上にやはり隅にまとめてあった布をかけた。旅籠のリネンのように使う度に清潔に洗濯することを期待することは全くできないが、少なくとも藁の上で直接眠るよりは快適になるはずだ。いずれにしてもこの寒さの中眠るとしたら、いま身につけている服装のまま横になることになるので、旅籠の寝具と比較する必要はなかった。
「今はとても冷たく感じるかもしれないが、藁は人の湿氣で温度が上がるので、眠っているうちに少しは暖かくなると思う。といっても、快適な夜は期待しないでくれ」
マックスが、アニーとラウラに説明した。
夜半を過ぎても雨は衰えることなく降り続け、一行は持参したパンに干し肉とチーズの夕食を取った。レオポルドとラウラ、そしてアニーは少し赤ワインを飲んだが、フリッツとマックスは飲まなかった。
「今夜は、2人交代で火の晩をします。ぐっすり眠るわけにはいきませんからね」
深夜、マックスがフリッツと静かに交代し、熾火を動かしていると、レオポルドが起き上がってきた。
「どうなさいましたか。お休みになれませんか。藁の積み方を少し変えましょうか」
フリッツが訊くと、レオポルドは首を振ってやはり囁き声で返した。
「いや、寝床の快適さが問題というわけではない。単に目が覚めたのでな」
ガサッと音がしたので振り向くと、ラウラとアニーが共に起き上がっていた。
「そんなにうるさくしてしまいましたか」
フリッツが申し訳なさそうに言うと、女性陣は共に首を振った。
「うるさかったわけではありません。ずっと半分起きたままでした。その……」
ラウラが言いよどむと、アニーがはっきりと言った。
「ラウラさま。お寒いのでしょう。私の上掛けを……」
マックスが暖炉の前に場所を作っていった。
「陛下、皆も、こちらに来て少し暖をとるといいでしょう」
全員が、それぞれ上掛けを羽織り、火の周りに集まった。暖炉の上に置かれた鍋には湯が沸いていた。アニーがそれぞれに暖かい湯飲みを渡した。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(16)凍える宵 -2-
今回の記述の大半は、中世に関する文献から得た知識だけではなく、現代の私がアルプス山脈を越えるときに見聞きしたものをアレンジしてあります。(完全に同じというわけではありません。《ケールム・アルバ》はあくまで中世ヨーロッパ風の架空の場所です)
4つの石のピラミッドは、中世では実際に道標の役割を果たしていたそうですが、現代では使われていません。現在はきちんと道標があるか、もしくは赤白の旗のようなマークがその代わりに見られます。
樹木が生えなくなるのは、およそ標高2000メートルです。ここまで来ると峠まであと少しですね。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(16)凍える宵 -2-
「陛下の馬の手綱も、私が」
フリッツは言ったが、レオポルドとマックスに視線で制された。道は狭く、2頭の馬に挟まりフリッツが歩くような幅ではない。
一番前をマックスが、続いてラウラとアニーが、その後ろをレオポルド、最後は背後を守りながらフリッツが歩くことになった。
マックスが言ったとおり、しばらく険しい道を歩くと、草むらと言っていい平坦な野が現れた。再び馬に乗って進んだが、半刻もしないうちに、ふたたび険しい岩道を進むことになった。
それぞれが太い枝を杖がわりにして歩いた。転んだり、躓いたりしないためにも必要だったが、蛇などに噛まれるのを避けるためにも必要だった。
「危険な蛇と、そうでない蛇の簡単な見分け方を知っているかい?」
マックスに訊かれて、ラウラは少し考えた。
「頭の形や柄でしょうか?」
レオポルドとフリッツは顔を見合わせて、肩をすくめた。蛇に噛まれる危険のあるところを長く歩くのは初めてだ。
「基本はそうだ。怖れなくてはならないのはクサリヘビの仲間のアスピ蛇、つぎに十字クサリヘビだが、実は、これらの毒蛇にそっくりな大人しい蛇もいる。正確には目の形でたいてい見分けることが出来るんだ。縦に細長い目をしていたら、それは真に危険な毒蛇だ」
マックスは、遍歴教師らしく説明した。
それはもちろん興味深いのだが、現在自分が噛まれるかもしれないという恐怖を減らしてくれる情報ではなかったので、アニーが思わず声を上げた。
「でも、目の形なんかわかるほど近くに行ったら……!」
マックスは、杖代わりの枝で、前方の草むらや岩を派手に叩きながら言った。
「その通りだよ、アニー。だからこうやって、かなり前から大きな振動を与えて、蛇が危険を感じるほどこちらに近づかないようにしているんだよ」
それから、アニーが必死になって大きな音を立てながら進むので、一同は笑った。
やがて、そうした深い草むらは少なくなり、馬に乗って進める地域が増えてきた。以前はフリッツと同じ馬に乗ることを嫌がっていたアニーが、大喜びで馬に乗ろうとしたので、一同は再び笑った。
途中で、マックスは再び砕石が多い急傾斜の道を選んだが、もっと楽そうな谷川の草むらを見て、フリッツがなぜそちらの道を選ばないのか訊いた。
「どう見ても楽そうな道に、まったく人が踏み分けた後がないのが分かりますか」
「はい。なぜでしょうか」
マックスは先に見える川の湾曲を指さしながら説明した。
「これは、危険な道だからですよ。おそらくあちらは沼になっています。旅人は、できるだけ楽な道を行こうとし、その思いをくじかれて戻ることを繰り返して、行ってはならない道を見分ける術を学ぶのです。これをご覧なさい」
険しい岩道の手前に4つの石が小さなピラミッド状に積み上げられている。
「これは、ここを通る旅人たちからの奨めです。ここには道標のようなものはありませんが、同じ旅をした先人たちからのメッセージが、次のこの道を通る者たちを正しい道に導いてくれるのですよ」
前よりもいっそう肌寒くなってきていた。見ると、広葉樹は一切なくなり、針葉樹もまばらになってきていた。風が冷たくなり、渓谷のあちこちの日陰に雪の名残が見えるようになった。
朝は晴れ渡っていたのに今はかき曇り、うっすらと霧がかっている。マックスはつぶやいた。
「ああ、これはまずいな。峠の宿泊施設にたどり着く前に、ひどく降られるかもしれない」
「あの先だろう? おそらく夕方には着くのではないか? 曇っているだけであるし」
レオポルドが訊く。
「運がよければ、さほど濡れずに宿泊施設に着くでしょうが、難しいかもしれません。途中で雨宿りできる場所もありますから、行けるだけ進んでみましょう」
マックスは答えた。
馬に乗っているとはいえ、走らせることは出来なかった。道は崩れやすい大きめの石砕で埋まっている。ついに木は1本も無くなり、非常に短い下草と崩れた岩が広がる地域に来た。川は片足を反対側に置いたまま渡れるほどの細いものが、木の根のようにあちこちに広がるだけになった。
マックスは、途中で岩の奥に進む道との分岐点で止まった。馬の足下にある小さな石ピラミッドを見ていたが、天を仰ぐとそのまま峠までの道を進んだ。曇り空はさらに重く暗くなっており、先ほどまで吹いていた風はどういうわけかピタリと止んでいた。
それからしばらくして、雨が降ってきた。再び風が吹いてきたが、先ほどのものよりも冷たく強い風だった。皆はマントを深く被ったが、雨宿りをする木陰がないので、冷たい雨がマントに染みてくるまでにはさほど時間がかからなかった。雨ははじめから非常に強く、雲の色から見て、すぐに止むようにも思えない。雷鳴がつんざくような音を上げ、ラウラは思わず首をすくめて震えた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(16)凍える宵 -1-
お忘れの方も多いかと思いますので軽く説明をすると、国王レオポルドとフルーヴルーウー辺境伯マックス(+おまけ)の一行は、険しい山脈《ケールム・アルバ》を越えて、南側のセンヴリ王国に属するトリネア候国へとの平民のフリをしたお忍びの旅をしています。
今回は、もっとも厳しい山越えの話です。《ケールム・アルバ》のモデルはアルプス山脈。夏とはいえ時間と天候によっては、歌いながらハイキングをするような旅ではなくなります。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(16)凍える宵 -1-
幸い、その後に泊まった2軒の宿では、フルーヴルーウー辺境伯の内政に関わる問題やグランドロン王国の根幹を揺るがすような噂話をする旅人たちとの交流はなく、『裕福な商人デュランとお付きの一行』は、順調に旅をして南へと向かっていた。
既にサレア河の扇状地と呼べる低地は過ぎ、森と小さな峡谷を交互に通りながら少しずつ高度が上がっていることを、一行は肌で感じていた。視界が広がり、谷を臨めば今朝去ったばかりの村が遥か眼下に見える。日中でも外套を脱ぐことは少なくなってきた。道に石畳が敷かれていることはかなり稀になり、それどころか土の均された道は村の近くにしかなくなった。
そもそもマックスが1人旅をしていた遍歴教師時代には、フルーヴルーウー峠と城下町の間に3泊もしたことはなかった。今回は国王が生まれて初めての庶民に化けた旅をしており、更には旅慣れていない女性が2人も同行している。それで、できるだけ疲れが出ないよう、さらには道中の村やサレア河上流に多い風光明媚な渓谷や滝などを見ながらゆっくりと《ケールム・アルバ》を登っていた。
ダヴォサレアの村を過ぎて最初の辻につくと、マックスは馬から下りた。辻とはいえ、目の前には、岩で出来た階段に近いものが草むらから顔を出している道とはいいにくい光景が続いている。
「この先の山道はとても狭く、崖の傾斜が急でとても馬に乗ったままは越えられない。つらいだろうけれど、しばらくは徒歩で行くしかない」
フリッツは、眉をひそめて言った。
「まさか、峠まで徒歩なのですか」
もちろん彼自身が嫌なのではなく、レオポルドの疲労と安全を案じてのことだ。
マックスは首を振った。
「ずっとではありません。ですが、おそらく徒歩で行く距離は、馬に乗れるそれ以上になります。時間でいったら、ずっと徒歩ばかりという氣がするでしょうね。引き返し、《フルーヴルーウー街道》を行きますか」
《フルーヴルーウー街道》は、馬車に乗ったままフルーヴルーウー峠を越えられる公道だ。幾箇所もある城塞にて通行税を払う必要があるので、資金に余裕のない平民たちは大きな荷がない限り、宿場だけは通るがそれ以外は整備されていない森や谷間の自然道、一般に《野道》と呼ばれるルートを通った。
もちろんレオポルドには十分すぎる資金の余裕はあるが、数ある城塞で《フルーヴルーウー街道》を行く高貴な旅人たちに逢い、どこで正体を知る相手に出くわすかわからないため、あえてはじめから《野道》を進んでいた。
レオポルドは、フリッツを制した。
「この道が厳しいのは百も承知で、平民の行く《野道》を来たがったのはこちらだ。だが……」
レオポルドは、馬上のラウラをちらりと見て言葉を濁した。彼女がつらければ、引き返すことも考えねばならないとの想いが顔に表れている。
ラウラは、マックスの方に手を伸ばし、降りる意思を見せた。マックスは、彼女を地面に下ろしてやった。アニーも急いでフリッツと共に馬から下りた。
ラウラは、レオポルドに頭を下げた。
「身の程をわきまえず無理についてきたことで、お心を煩わせてしまい申しわけございません。女である私とアニーがいることで、旅にたくさんの不自由が生じていること、日々感じお詫びのしようもございません」
馬から下りて、レオポルドは言った。
「頭を上げなさい。謝られるような不自由はまだなにも受けておらぬ。そなたたちが絶対に耐えられぬ道だと思えば、マックスは元からこの道は選ばなかったであろう。どうだ、マックス」
マックスは頷いた。
「先日見た傭兵団に従軍している女たちを見ただろう。彼女たちも年に数回、この道を往復しているのだ。今は夏で足下の危険も少ない。多少、速度を緩めれば、君たちが越えられないはずはないと思う」
ラウラは、マックスの方を見て言った。
「より時間がかかってしまうこともお詫びしなくてはなりませんわ。私が伝聞で満足しなかったために、陛下やあなたを足止めしてしまうことになるのでしょう」
マックスは首を振った。
「謝らなくていい。それに、僕は出発前とは違う意見を持っている。君がここまでの道程で感じてきたことは、僕からの伝聞で知ったことはまったく違うものだろう。この旅で、世界のすべてを見聞きすることはできないけれど、それでも君が、世間や、それに僕という人間を理解するために、この旅は必要だったと思うよ」
「それでは行くか。我々男は馬の手綱を引くので、奥方さまたちは、自分の足下に責任を持ってついてくるように」
レオポルドが、おどけた様子で言った。
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【小説】漆喰が乾かぬうちに
今月のテーマは、スイス・エンガディン地方の典型的な壁面装飾スグラフィットです。本文でも説明がありますが、もっと詳しく知りたい方は追記をご覧ください。
あまり説明臭くなるので書きませんでしたが、スイスの若者は進路がだいたい16歳前後で別れます。大学進学を目指す限られた子供たちをのぞき、義務教育を終えた子供たちは職業訓練を始めます。週に数日働いて少なめのお給料をもらうと同時に、週の残りの日は学校に行くというスタイルを数年続けると、職業訓練終了の証書がもらえて一人前の働き手として就職できるというしくみになっています。

漆喰が乾かぬうちに
ウルスラは、誰と帰路についたのだろう。テオは砂と石灰をかき混ぜながら考えた。3月も終わりに近づいたとはいえ、高地エンガディンの屋外は肌寒い。
だが、作業をするには適した日だ。数日にわたり晴れていなければならない。けれど、夏のように日差しが強すぎれば、漆喰は早く乾きすぎる。スグラフィットの外壁は、現在では高価な贅沢であり、失敗は許されない。職人見習いであるテオに、「今日は休みたい」と、申し出ることなど許されるはずはない。
昨夜は、村の若者たちが集まって過ごした。それは、テオにとっては、楽しかった子供時代のフィナーレのようなものだった。
3月1日には、伝統的な祭『チャランダマルツ』がある。かつての新年であった3月1日に、子供たちが首から提げたカウベルを鳴らしながら、冬の悪魔を追い払いつつ村を練り歩く。
現在では成人とは18歳と法律で決まっているけれど、かつては堅信式を境に子供時代が終わり、長ズボンをはいて大人の仲間入りをした。その伝統は、今でも残っていて、例えば飲酒や運転免許の取得などは法律上の成人を待つけれど、祭の参加での「大人」と「子供」の境は、堅信式を行う16歳前後に置かれている。
それは皆が一緒に通った村の学校を卒業して、それぞれの職業訓練を始める時期とも一致している。
去年の8月からスグラフィット塗装者としての職業訓練を始めたテオにとって、今年の『チャランダマルツ』は、最年長者、すなわち「参加する子供たち」として最後の年だった。
テオと同い年の8人が子供たちの代表として、村役場と打ち合わせを重ね、馬車を手配し、行列のルートを下見し、打ち上げ会場の準備もした。祭の最中は、小さい子供たちの面倒を見るのも上級生の役割だ。行列に遅れていないか、カウベルのベルトを上手くはめられない子供はいないか、合唱のときにきちんと並ベているか、確認して手伝ってやる。
祭が終わった後は、小学校の講堂を使ってダンスパーティーもした。テオは、音響係として、楽しいダンスで子供たちが楽しむのを見届けた。
昨夜は、8人の代表たちが集まって、打ち上げをした。それぞれが、はじめて夜遅くまで外出することを許され、14歳から許可されているビールで乾杯した。ハンスやチャッチェンは金曜日だからとベロベロになるまで飲んでいたが、テオは2杯ほどしか飲まなかった。今日、朝から働かなくてはならなかったからだ。
それで、11時には1人で家に帰った。本当はウルスラを送って行きたかった。
音響係だった3月1日のパーティーでは、ダンスに誘いたくてもできなかったから、せめて昨夜の打ち上げでは近くに座って、今より親密になりたいと思った。けれど、それも上手くいかなかった。酔っ払ったハンスとチャッチェンが大声でがなり立てるので、静かに話をすることなど不可能だったのだ。
ウルスラのことが氣になりだしたのは、去年の春だった。それまでは、ただの幼なじみで、子供の頃からいつも同じクラスにいた1人の少女に過ぎなかった。
テオは、1つ上の学年にいたゾエにずっと夢中だった。ゾエは華やかな少女で、タレントのクラウディア・シフによく似ていて、化粧やファッションも近かった。卒業後は村を離れて州都に行ってしまった。モデルとしてカレンダーで水着姿を披露するんだと噂が広がり、小さな村では大騒ぎになった。
テオは、スグラフィット塗装者としての職業訓練を始めるか、それとも他のもっと一般的な手工業を修行するために、州都に行くか迷っていた。ゾエが村を離れるとわかったときに、心の天秤は大きく州都に傾いた。
スグラフィットは16世紀ルネサンス期のイタリアで、そして後にドイツなどでも流行した壁の装飾技法で、2層の対照的な色の漆喰を塗り重ね、表面の方の層が完全に乾く前に掻き落として絵柄を浮き出す。スイスではグラウビュンデン州のエンガディン地方を中心に17世紀の半ば頃よりこの技法による壁面装飾を施した家が作られるようになった。
アルプス山脈の狭い谷の奥、今でこそ世界中の富豪たちがこぞって別荘をもつようになった地域も、かつてはヨーロッパの中でも富の集中が起こりにくい、比較的貧しい地域だった。
ヨーロッパの多くの都市部で建てられた石材を豪華に彫り込んだ装飾などは、この地域ではあまり見られない。それでも、素っ氣ない単色の壁ではなく、立体的に見える飾りを施したのだ。
角に凹凸のある意思を配置したかのように見える装飾、幾何学紋様と植物を組み合わせた窓枠、または立派な紋章や神話的世界を表現した絵巻風の飾りなど、それぞれが工夫を凝らした美しい家が建てられた。
モチーフは違っても、2層の色が共通しているので村全体のバランスが取れていて美しい。ペンキによる壁画と違い、スグラフィットで描かれた壁面装飾は、200年、時には300年も劣化することなく持つ。
だが、この装飾はフレスコ画と同じで、現場で職人が作業することによってしか生まれない。工場での大量生産はできないし、天候や氣温にも左右される、職人たちの経験と勘が物を言う世界だ。どの業界でも同じだが手工業の世界は常に後継者問題に悩まされている。
テオは、子供の頃から見慣れていたこの美しい技法の継承者としてこの谷で生きるか、それとも若者らしい自由を満喫できる他の仕事を探すかで揺れていた。最終的には、親方やスグラフィットの未来を案じる村の大人たちが半ば説得するような形で、彼の決意を固めさせた。州都に行ったゾエがよくない仲間と交際して学校をやめたらしいという噂もテオの心境に変化をもたらした。
スグラフィット塗装者としての職業訓練が決まった後、同級生の間では少しずつ親密さに変化が出てきた。テオはずっと村に残る。ハンスやチャッチェンは、サンモリッツで職業訓練を受けることが決まり、アンナは州立高校に進学する。
同級生の中で、一番目立たない地味な存在だったウルスラは、村のホテルで職業訓練をすることが決まり、週に2日の学校の日はテオと一緒に隣の村に行く。ほとんど話をすることもなかったのだが、それをきっかけに『チャランダマルツ』の準備でもよく話をするようになった。口数は少ないけれど、頼んだことは必ずしてくれるし、どんなに面倒なことを頼んでも文句を言うことがなかった。
3月1日の『チャランダマルツ』が終わってから、1か月近くテオは奇妙な感覚を感じていた。忙しくて煩わしかったはずの『チャランダマルツ』の準備が終わり、同級生たちと会うことがなくなった。仕事と学校だけの日々。時に親方に叱られながらも、漆喰の準備や工房で引っ掻く技法の訓練をしていた。
学校に行く日は、なんとなくウルスラの姿を探した。でも、先々週、彼女は風邪をひいて学校を休んだし、その後は学校が1週間の休暇になった。その間に、彼は落胆している自分を見つけて、驚いた。
だから、打ち上げで彼女に会うのが楽しみだった。ウルスラは、元氣になってそこにいたけれど、アンナやバルバラと話をしていて、またはテオがほかの人に話しかけられていてほとんど話ができなかった。
明日が早いからと、彼だけ帰るときに、ウルスラが何かを言いたそうにしていたのをテオは見たように思った。もしかしたら自分の思い過ごしかもしれないけれど……。テオは、少し落ち込んでいた。
「おい、テオ。聞いているのか」
親方が、呼んでいた。
「えっ。すみません」
テオは、親方が見ている手元を自分も見た。
「お前、配分間違えていないか。いくら何でも色が濃すぎるぞ」
確かにそれはほとんど真っ黒だった。
「すみません」
「昨夜は遅くまで飲んでいたのか」
親方は訊いた。小さい村のことだ。同級生が打ち上げをする話は、簡単に大人たちに伝わってしまう。
「いえ。11時には帰りました」
でも、このざまだ。テオはうなだれた。
「まあ、まだ塗っていないんだから、取り返しはつくさ。だがな。こういうときのやり直しには、長年の勘が必要なんだ。まだお前には無理だな。どけ」
そう言って、親方は石灰の粉を持ってテオが作っていた塗装混合物の色調整を始めた。
石灰と砂、そして樽で保存されている秘伝の石灰クリームが適切な割合で混ざり、完璧な硬さの下地が用意されていく。
「さあ、行くぞ」
親方は、大きいバケツを持って村の中心へと向かった。泉のある広場の近くに今日の現場はある。壁面全部ではなくて、門構えの修復だ。
不要な部分に漆喰がかからないように、プラスチックのフォイルとマスキングテープで保護をしていく。それから、バケツに入っている濃い灰色の漆喰を丁寧に塗っていく。
午前中は瞬く間に過ぎた。幸い、漆喰は時間内にきれいに塗られた。午後の太陽が、かなり濃い灰色をゆっくりと乾かしていくだろう。今日と明日は雨が降らないだろうから、理想の色合いになるはずだ。
「さあ、少し遅くなったが飯の時間だ。帰っていいぞ」
バケツや塗装道具を工房に運び込んだところで、親方が言った。親方の自宅は工房の上で、女将さんが用意したスープの香りが漂っている。
「あ。今日は、うちには誰もいないんで……」
テオはパン屋でサンドイッチでも買うつもりで来た。
「なんだ。この時間にはもうサンドイッチは残っていないかもしれないぞ。うちで食っていくか?」
「いえ。だったらそこら辺で何かを食べます」
テオは、頭を下げて工房から出た。もう1度村の中心部に戻ると、意を決してホテルのレストランに入っていった。
「あら。テオ!」
声に振り向くと、そうだったらいいなと想像していたとおり、ウルスラがいた。
「やあ。君も今日、出勤だったんだね」
彼が訊くと、ウルスラは頷いた。
「土日休みの仕事じゃないし……。でも、幸い今日は遅番だったの。テオは昼休み?」
ウルスラは不思議そうに訊いた。ランチタイムにテオがここに来たのは初めてだったから。
「うん。今日は、母さんが家にいないから、パン屋でサンドイッチを買うつもりだったんだけど、ちょっと遅くなっちゃったんだ。……スープかなんか、あるかな?」
スープなら、さほど高くないだろう。そう思ってテオはテーブルに座った。ウルスラは、メニューを持ってきた。
「今日のスープは、春ネギのクリームスープよ。あと、お昼ごはん代わりなら、グラウビュンデン風大麦スープかしら?」
テオは頷いて、メニューをウルスラに返した。
「腹持ちがいいからね。じゃあ、大麦スープを頼むよ。あと、ビールは……仕事中だからダメだな」
「じゃあ、リヴェラ?」
そう訊くウルスラに、彼は嬉しそうに頷いた。乳清から作られたノンアルコールドリンク、リヴェラはスイスではポピュラーだけれど、同級生の多くはコカコーラを好んだ。でも、テオがコーラではなくてリヴェラをいつも頼むことを彼女は憶えていたのだ。
柔らかい春の陽光が差し込む窓辺に立つ彼女の栗色の髪の毛は艶やかに光っていた。民族衣装風のユニフォームも控えめなウルスラにはよく似合う。彼女は、リヴェラと、それからスープにつけるには少し多めのパンを運んできてくれた。
「昨夜は、遅かったのかい?」
テオが訊いた。
「12時ぐらいだったわ。みんなは、もう1軒行くって言ったけれど、私は帰ったの」
ウルスラは笑った。
「誰かに送ってもらった?」
すこしドキドキしながら訊くと、彼女は首を振った。
「まさか。男の子たち、あの調子で飲み続けて、自分面倒も見られなさそうだったわよ」
「そうか。じゃあ、僕がもう少し残って、送ってあげればよかったな」
そういうと、ウルスラは笑った。
「こんなに近いし、こんな田舎の村に危険があるわけないでしょう。……でも、そうね、次があったら送ってもらうわ。テオは、ひどく酔っ払ったりしないから安心だもの」
ウルスラは、他の客たちの給仕があり、長居をせずに去って行った。それでもテオは幸福になって、大麦スープが運ばれてくるのを待った。
テオは、先ほど塗ったばかりの塗装のことを考えた。下地の灰色が乾いたら、上から真っ白の漆喰を塗り重ねる。その漆喰が完全に乾く前に、金属で引っ掻くことで灰色の紋様が浮かび上がる。そうして出来上がるスグラフィットは、地味だけれども何世紀もの風雨に耐える美しい装飾になる。
チューリヒや、ベルリンやミラノ、パリにあるような面白いことは何も起こらない村の日々は、退屈かもしれない。でも、スイスの他の州では見られない特別な風景と伝統を過去から受け継いで未来に受け渡す役目は、そうした大都会ではできないだろう。
ウルスラが、スープを運んできた。素朴な田舎料理の湯氣が柔らかく彼女の周りを漂っている。村に残って、ここで生きていくことを選んだのは大正解みたいだ。
テオは、今日塗った漆喰が乾く前に、彼女をデートに誘おうと決意した。
(初出:2023年3月 書き下ろし)
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【小説】ウサギの郵便
今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第10弾、ラストの作品です。大海彩洋さんは、大河ドラマの第二世代である「ピアニスト慎一」シリーズの作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
大海彩洋さんの書いてくださった『【ピアニスト慎一シリーズ】光ある方へ 』
大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じの通りです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一のお話を別の人物の視点から語ってくださいました。私も大好きなラフマニノフのピアノ協奏曲第3番をメインモチーフに書いてくださった重厚な作品です。
お返しどうしようか悩んだのですけれど、今回は彩洋さんの作品とも、ラフマニノフはもちろんのことクラシック音楽とも関係のない作品にしてみました。いや、ラフマニノフの2番をメインモチーフに作品書いた、めちゃくちゃチャラいピアニストとか出している場合じゃないだろうと思ったんですよ。
かすっているのは「亡くなった人からの手紙」だけです。あまりにも遠いので、どこが彩洋さんの作品へのお返しなのかとお思いでしょうが、個人的に、私の今の心情的に、これがお返しです。
「scriviamo! 2023」について
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ウサギの郵便
——Special thanks to Yamanishi Saki-san
家具が全てなくなり、がらんとした窓の向こうに、まだ眠っている庭が見えた。施設の中で割り振られたこの部屋は、偶然にも外に小さな薔薇園とハーブ園があって、生涯にわたって庭仕事を愛してきた母親の最後の住処としてはこれ以上望めない僥倖だと喜んだのが昨日のことのようだ。
彼女は、この部屋に2年半住んだ。たった1週間前には、カリンはここをこんな風に片付けるとは思いもしなかった。このように空っぽの部屋を見るのは2度目で、その時は、誰か親族が一定の期間住んだ痕跡を消し去る作業をしたことを想うことはなかった。思ったよりも早く施設に空き室が出たことを単純に喜んだだけだ。
父親が亡くなってから10年以上住んだ4部屋もあるフラットでの1人暮らしが難しくなり、2年ほど訪問看護の世話になった後、母親は自らの意思で老人施設に入ることを決めた。トイレとシャワーのついた部屋は、キッチンや冷蔵庫・洗濯機などはないものの、備え付きのベッドとテーブルや椅子・ウォークインクロゼットの他に、小さな家具や装飾品などを運び込むことが許されていて、それぞれが小さいながらも自分のプライベートな生活を楽しむことができた。
とはいえ、それまでの暮らしで持っていたたくさんの家具や衣装、寝具、家電などの多くを処分することになった。カリンと、遠くで暮らす姉や弟が受け継いだものもあるが、亡くなった父の遺品を始め多くの品物をその時点で処分することになった。
カリンが受け取ったのは、高価な食器や花瓶などの日用品が大半で、カリン自身が子供の頃に使っていたものなどの大半は処分してもらった。
「これは? 持っていきたいんじゃないの?」
カリンは、その記憶をたどる。その時に母親が見せてきたのは大きいウサギのぬいぐるみだった。郵便屋の制服を着てバッグを斜めがけにしているもので、子供のときの一番のお氣に入りだった。
「やだ。こんなの、まだとってあったの?」
「だって、あなたがとても大切にしていたんだもの。捨てられないわ」
「それは子供の頃だもの。心置きなく捨てちゃっていいわよ。それとも、私がセカンドハンドショップに持っていく?」
そういうと、母親は残念そうに眺めていたがこう言った。
「喜ぶかもしれない女の子を知っているから、要るか訊いてみるわ」
カリンは、それを覚えていたらいいけど、という言葉を飲み込んだ。足腰だけでなく、記憶力が衰え始めたために1人暮らしが困難になって施設に入ることになったのだが、それを指摘するのは残酷すぎる。それに、カリン自身の忙しい生活の中で、徒歩で10分以内の距離とはいえ常に観察し続けることは不可能だったので、ようやく施設に行くことを決意してくれてホッとしていたことへの後ろめたさもあった。
ほぼ毎日のように様子を見にいっていた1人暮らしの頃と比較して、施設に入ってからはずっと楽になった。それでも、毎週、必ず訪問しているのは自分だけで、年に2回ほどしか訪問しない姉と弟についてズルいという想いを持つときもあったし、記憶を失って同じ言葉を繰り返す母親に苛つきぎみに返答してしまうことに落ち込むこともあった。
たった1週間ほど前まで、それは終わりの見えない日常だった。それが突然に亡くなり、そんな風に解放されることは望んでいなかったと枕を涙で濡らす日々だ。
思い出すのは、ここ数週間に交わした会話のあれこれだ。
「もうじき春が来るといいわ」
彼女は、訪れる度に同じことを口にした。そう言ったことを、20分後には憶えていなかった。
昔は春が近づくと「もうじきカリンちゃんのお誕生日ね」と言っていた母親。成人してからはカリン自体が4月に楽しみにするのは復活祭の連休であって自分の誕生日には興味を示さなくなった。それでも、毎年祝っていてくれた母親が、物忘れがひどくなってからはそれも言わなくなった。
彼女が春を待つ理由はなんだろう。私の誕生日は憶えていないし、でも復活祭は待っているのかしら。
「もうじき春が来るといいわ」
何度もそう告げる母親に、カリンはうんざりしたように答えた。
「そもそも冬なんか来なかったようなものじゃない」
今年の冬はとても暖かかったので、1月にはヘーゼルナッツの花が咲いてしまったし、ダフネの花もクリスマスの頃からずっとダラダラと咲いていた。
それでも母親は、窓の外を見ながら言った。
「でも、まだ外で散歩するには早いもの。春になったら……」
カリンは、それで申しわけのない心持ちになって少し柔らかい言葉を使わなくてはと思った。
母親がかつてのように外を出歩けないのは、寒い冬のせいではなくて、歩くのがおぼつかなくなっていたからだ。足がむくみ、それを改善するためにと、施設のケアマネージャーの指示で足には強めに圧力バンドが巻き付けられ、それの痛みと暑さで、彼女は以前にも増して室内で座って過ごすようになっていた。
本を読み、編み物をする。施設の中で与えられた部屋の空間は十分すぎるほどに広いし、彼女はまったく不満を漏らさないけれど、だからといって彼女が幸せの絶頂にいると勝手に判断するべきではなかった。
カリンはそれらの、たった2週間ほど前に心の中にあった逡巡を思い出して涙を流した。母親を大切に思う氣持ちと、苛立ちとを何度も行き来していたあの日々に、母親はその場に、この世界にカリンと共にいたのだ。
今は、こんなに春めいている午後に、それをひたすら待っていた母親のいない部屋に立っている。
家具を自宅の屋根裏へ運び、残っていた衣類や小さな電化製品などをセカンドハンドショップに引き取ってもらい、ほぼ何もなくなった部屋は、掃除をしてゴミと残りの小さな私物を運び出して、ケアマネジャーと確認するだけになっている。
庭に通じるガラス戸を開けると、まだ眠っている庭の脇に、母親が鳥用に吊していたボール状の餌が見えた。そして、その横に小さなプラスチックの卵がつるしてあった。イースターエッグを吊すにはまだ早かったのにね。カリンは、また少し涙ぐんだ。イースターを待っていたんだね。
ノックが聞こえたので、カリンは目許を拭って振り向いた。そこには、ケアスタッフのユニフォームを着た女性が立っていた。
「リエン……」
カリンは、その女性を知っていた。かつて母親の住んでいたフラットの隣人だったベトナム人だ。
「心からお悔やみ申し上げます。一昨日ベトナムから帰ってきて、昨日出勤したらマルグリットが亡くなったって聞いて、私ショックで」
リエンは、涙ぐんでいた。
「どうもありがとう。あなた、ここで働いていたのね。知らなかったわ」
カリンが言うと、リエンは頷いた。
「マイが学校に入ったので、去年の秋から働き始めたんです」
カリンは頷いた。それから、不思議そうにリエンが手に抱えている袋からのぞいているものを見た。リエンは、頷いて中からウサギのぬいぐるみを取りだした。
「これ、マルグリットが、ここに入るときにマイにくれたぬいぐるみなんですけれど……」
「ええ。これ、昔は私のものだったの。母は、あのとき誰かにあげたいと言っていたけれど、マイのことだったのね」
「そうだったんですね。その、それで……」
リエンは袋からウサギのぬいぐるみを出すと、ウサギがしている郵便鞄のボタンを外して中を見せた。
「あ……」
そこには小さな封筒が入っていた。リエンは、それを取りだしてカリンに渡した。
「ごめんなさい。これに氣がついたのは、2か月前なんです。でも、ウサギをもらってから2年も経っているし、次に出勤するときにマルグリットに返せばいいかと思って、そのままベトナムに帰省しました。でも、昨日訃報を聞いて……。これはマイに宛てた手紙じゃないので、お返しした方がいいと思いました」
カリンは震える手で封筒を開けて、手紙を読んだ。
カリンちゃん、7歳のお誕生日おめでとう。
あなたの健やかな成長と幸せを祈って、このウサギを贈ります。
ウサギのように元氣よく飛び回ってください。
好奇心いっぱいに世界を嗅ぎまわってください。
たくさん食べて、ぐっすり眠ってください。
そして、悲しいことや辛いことがあっても、次の朝にはすっかり消えてしまいますように。パパとママより
カリンは、リエンの前だということも忘れて泣いた。母親は、ぬいぐるみの鞄にこの手紙を入れたままにしていることを忘れて、ウサギをマイにあげたのだろう。
カリン自身はこの手紙の存在は全く憶えていなかった。子供の頃は意味がよくわからなかっただろうし、わかっていたとしても今ほどの重みは感じなかっただろう。
リエンは、号泣するカリンの背中をしばらく撫でていたが、やがて言った。
「このカードだけじゃなくて、もしかしたらこのウサギも、今のあなたに必要なんじゃないかと思って、持ってきました」
「だって、マイが悲しむんじゃないかしら?」
「いいえ。マイはほかにもたくさんぬいぐるみを持っていますから、大丈夫です」
カリンは、礼を言ってウサギを受け取った。リエンが去った後、しばらく部屋の中で座っていた。
自分の子供が成人するような年齢になって、大きなぬいぐるみを抱えることになるとは思わなかったけれど、今はたしかにこの温もりが必要だった。
ぬいぐるみに顔を埋めると、長いこと忘れていた今はない実家の絨毯に転がったときと同じ香りがした。まだ子供で、自分も両親もこの世からいなくなるようなことが、まったく脳裏になかった幸福な時代。
大切な人がいなくなり、何もなくなったがらんどうの部屋に、ウサギの郵便屋が遅くなった郵便を届けに来た。
想いも絆も消えていない。ただ、遠く離れただけだ。これから幾度の春を、あなたなしで迎えることになるのだろう。その度に、私はこの手紙を読んではウサギを抱きしめるのだろう。
カリンは、葬儀の日にうたった賛美歌を口ずさみながら、部屋の中に夕陽が入ってくるのを眺めていた。
また会あう日まで、
また会あう日まで、
神の守り
汝が身を離れざれ。「賛美歌 405 かみとともにいまして」より
(初出:2023年3月 書き下ろし)
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【小説】藤林家の事情
今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第9弾です。
山西 左紀さんは、もう1つ掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!
山西左紀さんの書いてくださった「ドットビズ 隣の天使」
今年2本目の作品は、「隣の天使」シリーズの1つです。といっても過去の作品とは直接関係がないようです。賭け事が大好きで世間的に見ると若干問題があるような行動の兄ちゃんと、世間の評価なんて全く意に介さない自分軸のはっきりした女の子の風変わりな関係が面白い作品でした。
この作品に直接絡む要素はなさそうでしたので、今回は単純に「周りが見ている関係は、本人たちにはどうでもいい」をテーマにちょっとあり得ない世界を書いてみました。
「scriviamo! 2023」について
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藤林家の事情
——Special thanks to Yamanishi Saki-san
暖かくなると、女たちも噂話の度に凍えなくて済む。今日のようにポカポカしているとなおさらだ。
「見てみて。山田さんのところの……」
「あ。本当だ、いい目の保養になるわねぇ」
彼女たちが眺めているのは、半年ほど前に7階に越してきた若い男性だ。こざっぱりとした身なりで、すらりと背が高く、非常に整った顔立ちをしている。
「俳優なんですって」
「ああ、そういう感じね~。テレビには出ていなさそうだけど……」
「まあ、テレビでよく見るくらい売れていたら、ああいう方とは住まないわよね」
意地の悪いクスクス笑い。それが半分やっかみだとわかっていても、彼女たちは山田淑子へ辛辣な評価をしてしまうのだった。彼らが引っ越してきた当初、同じマンションの住人たちの多くは2人が親子、まはた祖母と孫なのだと勘違いしていた。
それを確認する、婉曲表現を交えた挨拶に、淑子はにこやかに答えたのだ。
「いいえ。ヒロキは私のパートナーですのよ」
噂は瞬く間にマンション中に広まった。7階はもっとも広く日当たりのいい部屋のある階で、値段も高い。そこを建設中に2軒購入し、壁を取り去って大きな1軒にした人がいた。投資目的で買ったのか、しばらくは誰も入居しなかった。そこに入居してきたのが、そんな曰く付きカップルだったので、なおさら噂話の格好の餌食となったのだ。
買い物の袋を持っているのは、常に「売れない俳優」ヒロキだ。淑子だけで外出する姿はあまり目撃されない。たいていヒロキが一歩下がって付き添っている。
淑子の服装は、同年代の女性を考えると派手めだというのが、近所の女たちの評価だ。趣味が悪いというわけではない。だが、例えば紫だと薄紫などよりもはっきりとした京紫を使うし、柄も小花柄などは好まず、市松やウロコ柄、麻の葉といった幾何学紋様をアレンジしたものが多い。
「いやぁね、自分を客観視できないって。それに、あんなに若くて素敵な男性がお金目当て以外の理由で自分を選ぶとでも思っているのかしら」
「ほんっとよね。さっきも外でね、あの人、ちょっと派手めのお姉さんに因縁つけて追い返していたわよ」
「ああ、あれ、イケメンくんが連絡先きかれていたからよ。そりゃあ、真っ青になって追い払うでしょうね。おかしいわぁ」
「坊。何度申し上げたらわかるんですか。今年の減点はすでに6点ですよ。平均点がこのざまだと、来年も本家には戻れませんが、それでいいんですか」
部屋に戻ると、淑子は詰問をはじめた。
「ごめんよ、篠山。先週現れたばかりだし、またくノ一で接触してくるとは思わず油断しちゃったんだよ」
この青年、山田ヒロキとは、世を欺く仮の名で、本名は藤林光之助という。忍法藤林家の跡取りであり、当主弦一郎の長男である。
藤林家のしきたりとして、跡取りは都で一定期間の修行をしてはじめて認められることとなっている。修行期間中には、見聞を広め、当主にふさわしい知見を得ると同時に、仮想敵からの接触に正しく対処し、『三十三の宝』といわれる仮の宝物を1つでも多く守り抜くことが期待されている。
つまり、やがて当主となる人物の修行と、全国の一族郎党に跡取りが当主としてふさわしい才覚の持ち主であることを明らかにするためのシステムである。『三十三の宝』を1つ1つ自力で取得した後に、それを修行期間中守り抜く事が要求される。
一方、全国の一族郎党にとっては、修行中の跡取りが手にした『三十三の宝』を奪取することで、個人としての才能が認められ本家での要職につく絶好の機会であり、腕に覚えのある忍びが次々に跡取りの周囲に集まってくる。
顔だけはいいものの、かなりぼんくら若様である光之助は、物理的攻撃だけでなく、すでに数回のハニートラップに引っかかっており、修行を始めて2年のうちに『三十三の宝』の9品を失っていた。
また、年間の平均減点が10点を下回ることがなく、このままでは跡取りとして本家に戻れる可能性が限りなくゼロに近いと思われたので、急遽今年からお付きが変更となり、分家の篠山がサポートにつくことになったのだ。
篠山を引っ張り出したということは、すなわち実権を握る前当主俊之丞が孫息子に対して絶望的な見解を持っていることを意味している。
俊之丞は、忍び界では藤林家きっての名当主として知られていた。
40年ほど前の跡取り修行期間は最低限の2年のみ、失点はたったの2点だった。歴代当主の総合失点がおおむね10点前後であることを鑑みると、それだけでも有能なことは証明されているが、『三十三の宝』も奪われたのはたったの1品だった。
そして、奪ったのは他ならぬ篠山だった。
藤林で篠山に何かを命じることできるのは、前当主俊之丞とその妻の壱子だけだと言われている。『鬼の篠山』と言われた亡き夫ですら、彼女の納得しない事を強制することは不可能だった。現当主である光之助の父親、弦一郎も篠山に連絡をするときは書状のみ、失礼だというので電話をかけることはしない。
「明日は、合羽橋に行きます。手順は、おわかりですね」
篠山は、光之助が冷蔵庫にしまおうとした薄切り肉のパックを目にも留まらぬ速さで奪った。ぼうっと顔を見てくる若者をじろりと睨むと、卵を取りだし、調理台の方に移動した。
「ええっと、なんか小刀を受け取るんだったっけ?」
光之助は、父親弦一郎から送られてきた指示の巻物を広げながら、ところで合羽橋ってどこだっけなどと情けないことを考えていた。
「韮山の雪割れ花入れ、です。なんのことだかおわかりですよね」
まず、炒り卵、それから甘辛く味をつけた薄切り肉にさっと火を入れて、絹さや、甘酢生姜とともに丼にしたものを食卓に運ぶ。
ぼーっと座っている光之助は、首を傾げた。
「花入れってことは、陶器かな?」
篠山が、さっと何かを投げた。頬杖をついている光之助の右手1センチのところで風を切って曲がると、それは回転して箸置きの上にきちんとおさまった。竹の箸だ。
「怖っ。怪我したらどうすんだよ」
「これっぽっちを避けられずに当主になれるとお思いですか。それに何度言ったらわかるんですか。ボーッと座っていないで、食膳を用意なさい」
光之助は、とりあえず頭を下げた。
「すみません」
子供の頃から甘やかされた彼は、いまだに怠惰な行動を取ってしまうが、これまでのお付きと違い篠山に楯突くと後でどれほどキツく指導されるかこの半年で十分に学習していた。
手早く用意されたお吸い物も食卓に運び、自分も座ると篠山は冷たく光之助の無知を指摘した。
「韮山の雪割れといったら竹に決まっているんですよ。明日、行っていただくのは竹製品の専門店です」
「そんなもんまで『三十三の宝』に入っているんだ。竹の花入れなんてゴミみたいなもんじゃん」
「ゴミ……。千利休の愛用品ですが」
「えっ?」
「とにかく今回の品は小さくて奪いやすいので、十分に注意してください。受け取りに時間をかけすぎないこと。また、前回みたいに必要以上にキョロキョロしないことをおすすめします」
光之助は、前回の失敗を反省しているようには見えなかった。篠山はため息をつきながら青年を見た。惚れ惚れするような美しい所作で吸い物の椀を手にしている。忍びとしては入門したての7歳児よりも使えない男だが、役者としての資質は十分すぎるほどにある。本人をよく知らなければ、「ものすごくできる男」「信じられないほどの切れ者」と勘違いさせるだけの立ち居振る舞いはできるのだ。
これまでのお付きや身の回りの世話をしてきた者たちが、教育に失敗してきたのは、ひとえにこの青年の外見と中身のギャップに慣れることができず、結局は甘やかすことになったからだった。
残念ながら、藤林家の当主たるものは、台本を覚えて堂々と振る舞えればいいというものではないので、俊之丞は篠山に頭を下げることになった。
表向きは、跡取り修行中の光之助の世話をする老女という体裁を取っているが、実際には外で行動するときの警護ならびに任務のサポートに加えて、屋内では忍びとしての再訓練も行っていた。
合羽橋は浅草と上野の中間に位置する問屋街の通称であり、さまざまな調理器具、食器、食品サンプルなど料理に関するものはなんでも購入できると評判で観光客にも人氣がある。専門店の数は170を超えると言われる。中には江戸時代からの老舗もあり、さらにその中の一部は藤林の系列一族が経営していた。
竹製品専門店「林田竹製品総合店」の店主である林田もまた藤林の出身である。隣の食料サンプル店のポップな店構えに押されて、小さな竹製品専門店があることすら氣づかれないことが多いが、高齢の店主と地味な従業員ならびにパートの女性だけで回すのは難しそうなほど、店は奥に深く大量の商品を扱っている。
光之助は指示書の通り、クレーマーを装って店主の林田と直接話すことになっていた。だが、パートの女性がやたらとにこやかに対応するので、うまく店主を呼び出すところまでたどりつかない。
しかたなく篠山は店の影から吹き矢を使い、竹製の楊枝を光之助の尻めがけて拭いた。
「いででっ!」
篠山の睨みに氣がついた光之助は、しかたなく再びクレーマーらしく振る舞い始めた。
「なんだよ。こんなところに楊枝が刺さったぞ。怪我するじゃないか。店主を呼んでこい」
パートに呼ばれて奥から出てきた林田は、光之助の様子を見て、いかにも実直な老店主のように振る舞っていたが、そばに立っている篠山を見てぎょっとした。跡取り光之助が韮山の雪割れ花入れを受け取りに来ることは知っていたが、だれが付き人となっているかを知らなかったのだ。林田は、篠山の顔を知っている数少ない忍びの1人で、当然ながらすべての失態が当主に伝わることも即座に予測できた。
急に用心深く奥に案内すると、従業員とパートにわざわざ用事を言いつけて奥に来られないようにした。篠山は、林田と光之助の入った部屋と、店の中間位置に立ち、花入れの受け渡しに邪魔が入らないように見張った。
「今後、氣をつけてくれよ!」
クレーマーの負け惜しみのような捨て台詞を言って光之助が出てきた。林田は光之助ではなく、篠山の顔を見ながらヘコヘコとお辞儀をして見送った。
店を出る直前に、例のパート女性がにこやかに近づいてきた。
「またどうぞお越しくださいませぇ」
その手が不自然に光之助の鞄に近づくのを察知して、篠山は再び吹き矢で楊枝を飛ばした。
「うっ」
光之助は、もうここに奪取者が待っていたことに驚愕したようだが、篠山に目で促され、しかたなく店の外に出た。
マンションに戻るまで、サラリーマン風の忍び2人と、女子大生を装ったくノ一を撃退せねばならなかった。光之助のあまりの警戒心のなさに呆れつつ、篠山はその夜再びこんこんと説教した。あいかわらず反省した様子は見られない。
「篠山って、若い頃からお祖父ちゃんと仲良かったの?」
光之助は前々からの疑問をぶつけた。
「俊ちゃんとは、入門以来ずっと一緒に訓練してきましたよ」
「へえ。その頃から、お祖父ちゃんは無双だったの? あれ、それとも篠山の亡くなった旦那さんの方が強かったんだっけ?」
それを聞くと、篠山はふんっと鼻で嗤った。
「一番強かったのは、俊ちゃんでも、篠山でもありませんでしたよ。私が2番、2人はその下でした、常に」
「ええっ。そんな話、初めて聞いたよ。で、誰がもっとも強かったの?」
光之助は、身を乗りだした。
「壱ちゃんですよ」
あたりまえでしょうと言わんばかりに篠山は答えた。
「お祖母ちゃん?! まさか。だって、あの人、箸より重いものは持てないみたいな風情じゃないか」
光之助は腰を抜かさんばかりに驚いた。
「壱ちゃんは、どうしても俊ちゃんと結婚したかったので、俊ちゃんの好みに合わせた振る舞いをしているだけで、本当はわが一族で一番強いんですよ。俊ちゃんも、壱ちゃんが化けていることは重々承知で、当主として一族をまとめるのに壱ちゃんの協力がどうしても必要だったから騙されたフリをしていたんだと思いますよ」
光之助は、少し口を尖らせていった。
「なーんだ。じゃあ、僕だってこんなに苦労して修行しなくても、できるお嫁さんをもらって、何とかしてもらう方がよくない?」
篠山は、頭を抱えた。
「いいですか。くノ一は裏方にされることに慣れています。それは男の忍びも同じで、表だった成功は必ずしも求めません。でも、その分仕える相手に対してはシビアなんですよ。顔だけよくてもあなたみたいな無能に、壱ちゃんクラスのくノ一が惚れ込むわけないでしょう」
光之助は、わずかに目を宙に泳がせた。周りにいくらでもいるくノ一たちは、そういえば誰も彼に惚れてくれなかった。近づいてくるのはハニートラップばかり。ま、でも、もしかしたら全国のどこかには、そういう物好きもいるかも知れないよなあ。
坊は明らかにわかっていないようだと目の端で捉えた篠山は、今後を思って深いため息をついた。
(初出:2023年3月 書き下ろし)
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【小説】モンマルトルに帰りて
今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第8弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
TOM-Fさんの書いてくださった 『ソリチュード ~La Route semée d’étoiles~』
TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、古事記と日本書紀に見える衣通姫伝説を下敷きにした古代ミステリー『挿頭の花 -衣通姫伝説外伝- 』。もともとの記紀にある人物がみなさんアレなので、もちろんものすごい展開なのですが、そのシチュエーションの中で胸キュンの純愛を織り込むという離れ業に感心しながらドキドキ読ませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。
さて、『花心一会』ワールドの若い(むしろ若すぎる)家元誕生の成り行きが明かされた今回のお話、ストーリーからいったら当然のことながら華道に対する知識がとても大切なポイントになっているのですよ。お返しを書き始めて困ったのがこれでした。私、全然わかっていない……。
なのにあえて火中の栗を拾いにいってしまいました。以前ヒロインの方のお家元がたった1人のために生ける『花心一会』をなさる様子を勝手に書かせていただいたことがあるのですが、今回はお母様にも無理やりです。ああ、玉砕しそうな予感。でも、レネがメインだから、逃げ切れるかな……。うう、ごめんなさい。
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【参考】
![]() | 「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結) あらすじと登場人物 |
![]() | 「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部 あらすじと登場人物 |
大道芸人たち・外伝
大道芸人たち・外伝
モンマルトルに帰りて
——Special thanks to TOM−F-san
「やっぱり迷惑なんじゃないかなあ……」
「いや、連絡したときにはそんな感じじゃなかったって」
ここに来るまでに、3回は繰り返した問答を、レネと稔はもう1度した。稔は、つい1週間ほど前に訪れたアトリエの呼び鈴を鳴らした。
中から現れた
今日の装いは落ち着いた紫の絞り小紋に、蒲公英の柄が微笑ましい濃い緑の名古屋帯。この色の組み合わせは早蕨襲、春を感じさせる。そうか。もう3月になったんだっけ。
「お忙しいのに、無理なお願いを聞き遂げてくださり感謝します。彼が、電話で話したレネ・ロウレンヴィルです」
「マダム・ミナセ、はじめまして。どうぞよろしく」
「どうぞよろしく。そんなに恐縮しないでくださいね」
そこは、パリの真ん中にあるというのに、東京以上に日本を感じさせる空間だ。
日本ブームがヨーロッパに広がってから、各地でそれらしい和室を目にしてきたが、畳が正方形だったり、障子の桟が白く塗られた合板だったりと、どこか「なんちゃって」感を否めない和室が多かった。そうした和室は、スーパーで売られる「SUSHI」と同じ香りがした。サーモンとアボカド、またはやけに鮮やかなトビコの安っぽさを眺める度に、「日本はそこまで近くはない」と感じ、かつ自分の方が日本を知っているのだとつまらない自負心を満足させるのだ。
だが、このアトリエには、稔が逆立ちしても叶わない日本文化の真髄が感じられた。
小上がりの座敷には、きちんとした炉が切られている。窓はわざわざ円窓にしてある。
この部屋を維持するのがいかに大変か、稔はよく知っている。日本にいれば電話一本で畳屋が来てくれるし、障子が破けてもホームセンターに行けば簡単に新しい障子紙を購入できる。梅や桃、桜や椿などもさほど苦労せずに入手できるだろう。極上の茶や主菓子も同様だ。
だが、ヨーロッパで、これだけの完璧な日本を維持するのは、並大抵のことではない。もちろんパリは大都会なので、日本人のネットワークを使えばそれは可能だろう。でも、この人は、日本人会などで同国人と固まっているタイプには見えない。まあ、俺には関係ないけれど……。
煎茶とともに小ぶりの大福餅が出てきた。和菓子の大好きなレネの顔が喜びに輝いたのを見て、稔は「本題を忘れるなよ」の意味を込めて肘で小さくつついた。
「それで、私に作ってほしいというのは?」
本題は、彼女の方から切り出してくれた。
「先日、ここにお伺いした日に、水無瀬さんのことを特別な人のための特別な花を生けるプロだって説明したんです。そしたら、彼が花をお願いできないかって……。ただ、俺はうまく訳せなくて英語でフラワーアレンジメントって言ってしまったので、生け花との違いも説明していただけると助かります」
そう言って稔は、レネに顔で続きを促した。
「ある女性のためにブーケかアレンジメントを作っていただけませんか」
レネが頼んだとき、愛里紗の顔にはなんとも微妙な表情が浮かんだ。おそらくそれは、この異国で先入観と無知に彼女の華道がフラワーアレンジメントと混同されたときの一瞬の抵抗なのかもしれないと、稔は思った。
愛里紗は、けれど、レネの頼みを簡単に断るようなことはしなかった。
「大切な女性への花なのかしら?」
「はい」
稔は「ふうん」という顔をした。ヤスミンはここに来ていないとはいえ、義理堅く一途なブラン・ベックがわざわざ特別な花をねぇ。
「承るかどうかを決める前に、どんな目的なのかを訊いても差し支えないかしら?」
愛里紗は、英語で話し続けている。レネとだったらフランス語で会話した方が早いだろうに、稔が同席しているのでそうしているのだろう。
「もちろんです。僕はここにいるヤスたちと出会って大道芸人として暮らし出す前は、ここパリで暮らしていました。その時に出会った女性です」
レネはゆっくりと語り出した。
レネにとって、パリの日々にはつらい記憶が多い。手品師の専門学校を終えて希望を持って花の都に上がってきたものの、ショーの花型になるどころかまともな稼ぎを得ることすら難しかった。
モンマルトル界隈のナイトクラブを転々として、はじめはホールスタッフと変わらぬ扱いを受けた。ようやく前座としてマジックショーを披露できるようになるまでは数年かかり、その間にもいろいろな人に利用されたり出し抜かれたりしながら、いつかは手品だけで食べていける日を夢見て暮らしていた。
恋もした。もともとはホールスタッフとして勤めだしたジョセフィーヌが、レネのアシスタントとして一緒にショーに出演することになってからは、彼女に夢中になった。
ええっ。その女かよ。稔は話を聞きながらぎょっとした。そいつ、ライバルに寝取られた同棲相手だろ?
「お花を贈りたいのは、その方?」
愛里紗が、口をはさむと、レネは首を振った。
「違います。彼女に、僕は夢中だったけれど、ジョセフィーヌはこの街で僕の味方になってくれた人ではなかった。それはエマだけだったと、今になって思うんです」
「エマ?」
稔は思わず訊いた。一度も聞いたことのない名前だったから。
レネは、頷いて彼のパリでの物語を続けた。
ムーラン・ルージュをはさんで、レネの勤めるナイトクラブとちょうど反対ぐらいの距離に小さい煙草屋があった。そこには店の染みのような小さな老婆がいて、いつもなにかに対して文句を言っていた。
「この頃の政治家ってのはなってないね。きれいな顔をして偽善的なことを口にすればまた当選するとでも思っているのかね」
「あんたの横柄な態度になぜこのあたしが我慢しなくちゃいけないのさ。嫌なら2度とこの店に足を踏み入れなければ良いだろ」
「あんたは母国がサッカーに負けたからって、周り中に当たり散らす権利なんかないんだよ」
「禁煙がトレンドだって? ひとの商売の衰退をわざわざ告げに来るとはいいご身分だね」
それがエマだった。
レネは煙草の類いは何も嗜まないので、この店に入るときはチョコレートを買うときだけだった。他の店にはない故郷プロヴァンスの小さな工場で作っている銘柄がこの店にはあったのだ。
レネにとって忘れられない思い出がある。
それは、パリを去った夏のことだ。ナイトクラブからクビを言い渡されたレネは、とぼとぼと帰り道を歩きながら、故郷の懐かしいチョコレートで心を慰めようとエマの煙草屋に入った。
レネは、思わず涙をこぼした。今日の午後、買い物から帰ってアパルトマンのドアを開けたら、なぜか同じナイトクラブで働くラウールが、ジョセフィーヌとベッドの上にいた。それだけでもショックなのに、出勤した途端にオーナーから彼のマジックショーは、今後ラウールとジョセフィーヌがやるのでお前はもう来なくてもいいと宣告されてしまったのだ。
自分の要領がよくないことはわかっていた。ラウールが優れた容姿で客たちから人氣があることもわかっていた。でも、真面目に精一杯生きてきたのに、こんな風に何もかも取りあげられたのかと思うと、やるせなくて涙が止まらない。
エマは「商売の邪魔になるから泣くな」などとはいわなかった。レネが落ち着くまで待って、話を聞いてくれた。今になって思えば、この街で、レネが自分の弱さや悲しみを吐露できたのは、これが初めてだった。
「あの雌狐なら、そのくらいのことをしても不思議じゃないと思うね。だから何度もいっただろ。あの娘には温かい血が流れていないって。あんたがこのチョコを勧めたとき、小馬鹿にしてそっちの大量生産のチョコをわざわざ買ったことがあったよね。人の思い出を踏みにじるようなヤツは、どんなに見かけがよくても中身は爬虫類と一緒だ」
レネは、それを聞いてよけい強く泣いた。ジョセフィーヌが、彼の故郷のあらゆる物を馬鹿にしていたことを思いだした。見下されていたのは彼の生まれ故郷ではなくて、彼自身でもあったのだと思うと情けなくて逃げたしたかった。
「仕事も恋人もなくなって、僕はどうしたらいいんだろう」
また1からこの街で手品をやらせてくれる場を探すかと思うと、レネは心から途方に暮れた。
エマは冷徹にも思える調子で言い放った。
「そもそもこの街はあんたみたいな弱くて純なヤツには向いていないんだよ。ここを離れるのが一番だ」
レネは言葉を失った。ようやくパリに慣れてきたと思ったのに。少し間を置くと、おずおずと言った。
「でも、どこにいったら……?」
エマは、少し温かく思える調子に変えてゆっくりと言った。
「南へお行き。あんたの故郷のプロヴァンスでも、もっと南の地中海でも、どこでもいい。ただし、ニースみたいなスノッブでおかしな人間の集まるところに行っちゃダメだ。広くて、大地に足をつけて人びとが助け合いながら生きている土地に行くんだ。最初にいったところにはいなくても、どこかには必ずいる。それを探すんだね。あんたの正直で優しい心持ちを大切にしてくれる輩がね。それを見つけたら、それがあんたのいるべき土地さ」
稔は、思わずレネの顔を見た。レネは、稔の目を見返して、はにかみながら笑った。
「その通りになったのね」
愛里紗が問う。
「はい。僕は、コルシカでこのヤスに会いました。それから、他の生涯の友達にも」
エマの直接的でお節介なアドバイスが、あの時レネをコルシカ島に向かわせた。悲しみに押し潰れることなく、新しい人生を探すための必要な背中のひと押しをしてくれたのは、店の染みのような小さな老婆だった。
「わかったわ。その方へ捧げるお花、ぜひ私に作らせてちょうだい」
愛里紗が微笑んだ。
「ありがとうございます、マダム」
レネが前のめりで礼を言う。
「でも、1つだけ確認したいの。西洋で作るいわゆるフラワーアレンジメントは、全方向から見られることを意識して作るものだけれど、日本の生け花というのは、たった一つの方向から見ることを想定してデザインするものなの。その方がどのように受け取るかのシチュエーションは決まっていたら教えてほしいわ」
愛里紗が訊くと、レネははっとして、1度下を見てからふたたび愛里紗の目を見据えた。
「正面は……どういえばいいのか。墓石の上に載せるので……。彼女はモンマルトル墓地に眠っているそうですから」
その言葉に、稔と愛里紗が同時に息を飲んだ。
「エマ・マリー・プレボワ ここに眠る」
小さな墓石は、必死で探さないと見過ごしてしまいそうだった。エドガー・ドガ、モーリス・ユトリロ、エミール・ゾラ、アレクサンドル・デュマといった錚々たる有名人の墓は大きく立派だが、そのモンマルトル墓地には、地域の一般人も埋葬される。
まだ、春といっても早いので、陽光は弱く柔らかい。周りの木々には膨らんだ芽はあるが若葉が現れるにはまだしばらくかかるだろう。
「お。来た来た」
稔が手を振ると、かなり向こうから蝶子とヴィルがこちらに向かってくる。
「ごめん。私たちが先につくぐらいだと思ったのに」
「探していた墓は、見つかったのか? ランパルだっけ?」
「ええ。せっかくここに来るんなら、お詣りしたくてね」
フルートの名手であったジャン・ピエール・ランパルも、モンマルトル墓地に眠っている。そういえば、ブラン・ベックはハイネの墓の場所を探していたから、後でそこに行くんだろうな、と思った。
「それが、例の日本人に作ってもらった花か」
ヴィルが珍しく明らかに感銘を受けたとわかる顔つきで訊いたので、稔はそうだろうなと思った。
レネは頷いた。手にしているのは半球型に盛られた、花かごだった。といっても花器として使われている籠は苔山で覆われほとんど見えない工夫がしてあり、まるで何もないところに偶然にも木や草花が育ったかのように見える。
1度左に向かってから弓なりに右に向かう盆栽のような枝振りの木はミモザだ。黄色い花が力強く明るく咲いている。そして、根元に絶妙なバランスでいけられたのは、フランス人のこよなく愛する『
レネがその籠を墓石の上に置くと、まるで彼女の墓から草花が遅い春を待てずに萌えだしたかに見えた。
「すごいわね。ここまでフランスっぽい素材だけを使っているのに、これはフラワーアレンジメントじゃなくって華道だってわかるように作れるものなのね……」
蝶子が感心してつぶやいた。
亡き人を悼む草花は弱い風にそよいでいる。
レネは、眼鏡を取ると涙を拭った。エマの声が蘇ってくる。
「くよくよするんじゃないよ。あんたが悪いんじゃない。今のめぐり合わせとの相性が悪いだけさ。あんたにふさわしい居場所はきっとあるからね」
(初出:2023年3月 書き下ろし)
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【小説】仙女の弟子と八宝茶
今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第7弾です。津路 志士朗さんは、オリジナル掌編で参加してくださいました。ありがとうございます!
志士朗さんが書いてくださった「女神の登場はアールグレイの香りと共に。」
志士朗さんは、オリジナル小説と庭とご家族との微笑ましい日々を綴られる創作系ブロガーさんです。代表作の『エミオ神社の子獅子さん』がつい先日完結したばかりです。派生した郵便屋さんのシリーズで何度かあそばせていただいていますよね。
今回書いてくださった作品は、スーパーダーリンならぬスーパーハニーをテーマにしたハードボイルド。とても楽しい作品で一氣に読んでしまいました。
お返しですが、あちらの作品には絡めそうもないので、全く別の作品を書いてみました。テーマは志士朗さんの作品同様スーパーハニーです。ただし、中国のお話、お茶ももちろん中国のもの。下敷きにした怪談は「聊斎志異」からとってあります。
「scriviamo! 2023」について
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【参考】
今回の作品とは直接関係はないのですが、今回登場した紅榴を含む空飛ぶ仙人たちの登場する話はこちらです。
秋深邂逅
水上名月
仙女の弟子と八宝茶
——Special thanks to Shishiro-san
朱洪然は福健のある村に住む若者で、童試の準備をしているが、後ろ盾もなく、また際だった頭脳もないため受かる見込みはない。妻の陳昭花は家事、畑仕事に加えて、近所の道士の手伝いまでして朱を支えていた。
いつものように朱が昼から酒などを飲みながら、桃の花を眺めて唸っていた。
「桃の灼灼たる其の華……」
陳氏は部屋をきれいに拭きながらその声を耳にしたので、通り過ぎるときに訂正した。
「桃の夭夭たる 灼灼たり其の華 之の子于き帰ぐ 其の室家に宜し」
それを聞くと、朱は顔を真っ赤にして怒り、盃を投げ捨てると「こんな邪魔の入るところで勉強はできない」と叫び、出て行ってしまった。妻の陳氏の方が優秀だという近所の噂に苛ついていたからである。
田舎ゆえ、近所に知られずに昼から酒などを嗜める店はない。やむを得ず、どこかで茶でも飲もうと道をずんずんと進んだ。
しばらく行くと村のはずれにこれまで見かけなかった茶屋があった。新しい幟がはためいているが、誰も入っていないようだ。朱は中を覗いた。
「おいでなさいませ」
出てきたのは、皺だらけの老婆で、あけすけなニヤニヤ笑いをしている。
「ここは茶屋か。何か飲ませろ」
横柄に朱が命じると、婆はもみ手をしてから茶を持ってきた。
それは、水の出入りのない沼のようなドロドロの黒緑色をしており、生臭い。朱は、茶碗を投げ捨てると、つばを吐きかけて地団駄を踏んだ。
「こんなひどい茶が飲めるか。なんのつもりだ!」
婆が、茶碗を拾ってブツブツ言っていると、奥から衣擦れがして女が出てきた。立ち去りかけていた朱は、思わず立ち止まってそちらを見た。
それは沈魚落雁または閉月羞花とはかくやと思われる美女だった。烏の濡れ羽のような漆黒の髪を長くたなびかせ、すらりとした優雅な柳腰をくねらせて茶を運んできた。
「このお茶をお飲みになりませんか。とても喉が渇いているんでしょう? あたくしが、手ずから飲ませてさし上げましてよ」
婆の持ってきた茶とほとんど変わらないものだったにもかかわらず、朱は女に飲ませてもらえるのが嬉しくて、座って頷いた。
「この茶は
女は嬉しそうに笑うと、なんのことかわからないでいる朱の口にまずくて苦い茶を流し込んだ。
女は、代金も取らずに朱を送り出した。ぼうっとしたまま家に戻った朱は、玄関でそのまま倒れてしまった。
「
妻の陳氏が、あわてて出てきた。
「なんだかわからんが、水莽茶とやらを飲んでから、具合が悪い」
そういうと、そのまま息を引き取ってしまった。
陳氏は、朱と違い水莽草が何を意味するのか知っていたので驚いた。
この毒草を食べて死ぬと水莽鬼という幽霊になってしまい、他の水莽鬼が現れないと成仏できない。それで、水莽鬼は生きている人に水莽草を食べさせようと手を尽くすのである。
陳氏は、急ぎ夫の亡骸を寝かせると、鬼にならないように御札を貼り、急ぎ馴染みの道士の元に急いだ。
「どうした、小昭花」
慌てて入ってきた陳氏を見て、道士は訊いた。
かなり赤みの強い髪をしたこの人物は、数年前からこの庵に住み修行をしていることになっている。身の回りの世話に通う陳昭花の他には付き合いもないので知られていないが、実は単なる道士ではなく天仙女である。
「紅榴師、どうぞお助けくださいませ。夫が水莽鬼にされてしまいます」
紅榴は、片眉を上げた。
「村はずれの水莽鬼に化かされたのか。お前のような立派な妻がいるのに、全くなっていないな、あの者は。もう、見限ってもよいのではないか」
「そうおっしゃいますが、それでもわが夫でございます。なんとかお助けいただけないでしょうか」
昭花は床に額をこすりつけて願った。
「しかたない。あの男を助けてやりたいとはみじんも思わぬが、お前が氣の毒ゆえ助けてやろう」
そう告げると紅榴は陳昭花に墨書きの札をいくつか授けた。深く抱拳揖礼をしてから札を受け取った昭花は、そのまま夫の元に戻ろうと戸口を出ようとした。
「待ちなさい。これも持っていくとよい。あちらが茶で人を取り込むのならば、こちらも茶で対抗せねばな」
紅榴は、笑うと最新の愛弟子に包みを授けた。
陳昭花が家に戻ると、そこは瘴氣で満ちていた。見ると家の中には夫の亡骸だけではなく、老婆と若い女の幽鬼がいる。殺した男を水莽鬼に変えようと長い爪で朱の亡骸の上を引っ掻いていた。
見れば、昭花が貼った鬼除け札はほとんど剥がされている。紫の顔をした夫も、胸をかきむしり御札を剥がそうとしていた。
「悪鬼ども。わが夫より離れよ」
昭花は剣を構え、鬼女たちに斬りかかる。
「こざかしい女め。人間の分際で我らに敵うと思うのか」
老女は、白髪を逆立て、血走った目に蛇のような舌をちらつかせて長い爪で昭花の喉を切り裂こうと飛びかかってきた。
昭花は、紅榴元君の元で何年も修行しただけあり、軽々とそれを避けて後ろに飛び上がった。
師が授けた封印の札を投げつけると、それは若い鬼女の口を塞ぎ、瘴氣が漏れてこなくなった。瘴氣は鬼女自身にも仇をなす毒を持つらしく、若い鬼女の動きが止まった。
昭花は、老女にも御札を投げつけたが、こちらは長い爪でビリビリに裂いてしまった。老婆は高らかに笑うと、昭花に向かって飛びかかってきた。
「ぎぇ!」
瞬時に振り下ろされた昭花の剣が鬼婆の長い爪を切り取った。それこそがこの幽鬼の瘴氣の源であったので、瞬く間に老婆は干からびて、干し魚に変化して床に落ちた、
「おのれ、母上に何をする!」
ようやく御札を取り去って自由になった若い美女だった鬼が、姿を変えた。漆黒の髪は束になって持ち上がり、それぞれが毒蛇に変わった。口は耳まで広がり、獣のような牙がいくつも剥き出しになった。
見るも恐ろしい鬼女だったが、昭花は臆さずに剣を構え、襲いかかってくる毒蛇を一匹ずつ切り落としていった。
最後の蛇が落ちると、鬼女も断末魔のうめきをあげながら足下に倒れ、そのまま薄氣味悪い染みを残して消え去った。
昭花が夫を見ると、紫色の顔をした水莽鬼として蘇った朱は、ガタガタと震えながら妻を見ていた。
「
昭花が訊くと、朱は首を横に何度も振った。
「美しい女だと思ったのに、あんなバケモノはごめんだ。助けてくれ。そんな物騒なもので、俺を斬らないでくれ」
「さようでございますか。では、私の淹れるお茶を飲んでくださいますか」
昭花は、水莽鬼としての瘴氣すら醸し出せぬ夫に詰め寄った。
「先ほどの茶みたいな、まずいものは飲みたくない」
朱はうそぶいた。
夫の言い分には全く耳を貸さず、昭花は紅榴にもらった包みを開けて中の茶をとりだした。湯の中に入れると、それは白い菊のような花、龍眼、クコの実のほか、貴重な薬草を惜しげなく使った八宝茶だった。
昭花に助けられて、その茶を飲んだ朱は、激しい咳をした。そして、水莽草の塊が口から飛び出してきた。蛇のように蠢くそれを、昭花は剣ですかさず斬った。
しばらくすると、朱の顔色は普通の肌色に戻ってきて、そのまま彼は失神してしまった。直に大きないびきをかきだしたので、昭花には夫が人として息を吹き返したことがわかった。
悪鬼どもの屍体や水莽草の残骸を片付け、部屋を浄めていると、どこからともなく紅榴が入って来た。
大いびきをかいて寝ている朱を呆れたように眺めると、ため息をついていった。
「小昭花。そろそろこの男に愛想を尽かしてもいいのではないか。妾は間もなく泰山に戻る心づもりだ。そなたが望むなら連れて行くぞ。向こうで心ゆくまで修行して化仙するとよい」
昭花は、師の言葉を噛みしめていたが、やがて言った。
「たいへん心惹かれるお言葉ですが、今しばらく夫に従うつもりでございます。また次にこのようなことがございましたら、その時は私も人としての契に縁がなかったと諦め、修行に励みたいと存じます」
紅榴は頷いた。
「ならばしかたない。では、次にこの男が問題を起こしたら、潔く捨てて妾のもとに来るのだぞ。お前には見どころがあるからな」
そのことがあってから数ヶ月は、朱が柄にもなく試験の準備に心を入れたと噂になった。だが、その後、酒に酔って村長の妻に言い寄ったためにひどく打ち据えられてから牢に入れられた。
朱が半年後に牢から出てきたときには、家に妻の陳氏はいなかった。きれいに浄められた家には女が住んでいた痕跡は残っていなかった。朱の物を持ちだした様子はなく、金目のものも一切なくなっていなかった。
卓の上には、いま淹れたばかりのような熱い八宝茶があった。陳氏の行方を知るものはいない。
(初出:2023年3月 書き下ろし)
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【小説】黒い貴婦人
今月のテーマ建築は、カンボジアのコー・ケー遺跡です。同じクメール王朝による遺跡群ではアンコール・ワットやアンコール・トムの方が有名なのですが、もう少し見捨てられた感の強いマイナーな遺跡を探してここにたどり着きました。もちろんフィクションです。お間違いのなきよう。(そんなの当然って?)
なお、後半に登場したアメリカ人傭兵は『ヴァルキュリアの恋人たち』シリーズで『ブロンクスの類人猿』よばわりされている人ですが、まあ、誰でもよかったので出しただけで意味はありません。それにこの話もまたしてもオチなしです。すみません。

黒い貴婦人
香木の燻された煙が、湿った空氣に溶け込んでいく。ひどい頭痛のように感じられるのは、実際には痛みではなく、途絶えずに鳴り響く蝉の声だ。リュック・バルニエ博士は、ことさら神妙な顔をして老女を見つめた。
スレイチャハと呼ばれるこの醜い女は、シヴァ寺院の神官のような役割をしている。他の村民たちの絶対的な信頼を受け、この女が頭を縦に振らなければ、リュックの計画している保護計画を進めることは不可能だ。
村の長老と占い師の中間のような立場なのだろうが、中世フランスであれば、真っ先に薪の上に載せられて火をつけられたであろうと、リュックは表情に出さないように努めながら考えた。
ヒンドゥー教に改宗するつもりはまったくないが、それでも村民たちとともに煙をくゆらす細い香木を捧げ、リュックは恭しくスレイチャハに寺院の内部に散乱する神像の破片を持ち出すことの許可を願い出た。
コー・ケー遺跡は、カンボジアの一大観光地シェムリアップの北東120キロメートルに位置する遺跡群だ。80平方キロメートル以上の保護域の中に180を超える聖域が発見されている。そのうち、観光客が立ち入ることを許可されているのは20ほど、残りは深い熱帯雨林に埋もれ実態もいまだつまびらかになっていない。森には地雷の危険もあり調査は遅々として進まない。
10世紀の終わりにたった16年ほどクメール王朝の都とされたこの地は、当時はチョック・ガルヤ、またはリンガプーラと呼ばれていた。リンガは男性器を意味する石柱でシヴァ神の象徴だ。コー・ケーはアンコール遺跡群と違い、仏教と習合していない純粋なヒンドゥー教寺院だ。アンコール王朝7代目の王ジャヤーヴァルマン4世が出身地に遷都し、息子のハルシャーヴァルマン2世と共にこの地にヒンドゥー教を中心とする王都を作った。
アンコール王朝は、遺跡に見られる穏やかな微笑みとは相容れぬ王位簒奪と混乱の繰り返しで成り立っていた。簒奪者は実力で王位を手にすると、前国王の王妃や王女と結婚することでその正当性を主張したが、その度に己の実力を誇示し威光を確実なものとするために壮大な寺院を中心とした華麗な王都を建設した。
コー・ケー遺跡もまた、かつてはヒンドゥー教世界の乳海を模した巨大な
だが、再び遷都されて王権が届かなくなった後は、次第に廃れて忘れられていった。盗掘や、自然の驚異による破壊だけでなく、15世紀以降にシャム王朝に併合されてからの破壊、また、西欧諸国の植民地時代の美術品の無計画な持ち出しによって、遺跡はかつての詳細な状態がわからないまでに荒廃した。
彼らの祖先が大切に守ってきた寺院は仏教を信じる異国出身の王に破壊され、大切な神像もハイエナのような西洋人たちに持ち出され、狂信的なクメール・ルージュに打ち壊された。そして、荒廃した寺院の中を熱帯の植物たちが根や枝を蛇のようにくねらせて打ち砕いていく。
コー・ケー遺跡に限らず、カンボジアのクメール王朝による遺跡には謎が多い。これほど壮大で精巧な遺跡を短期間で作るには高度な技術者と多くの建設に関わった人間がいるはずだ。一説によると当時は35万人もの人びとが現在のアンコール遺跡群のあったあたりに住んでいたはずだという。
だが、そうした高度な文明の担い手たちは、どこへいってしまったのだろう。
ここコー・ケー遺跡でも、神々を拝む人びとは、神殿を覆い尽くす熱帯雨林の浸蝕から彼らの神像や神殿を守ることができない。つい最近まで内戦があり、文化遺産の保護どころか治安維持すらままならぬ状態だったカンボジアでは、政府とともに保護活動を進めているのは「アンコール世界遺産国際管理運営委員会」を中心とした国際的な支援チームだ。
リュックは、子供の頃にアンコール・ワットを紹介するテレビ番組でクメール王朝のことを知った。そして、残された仏像や王の肖像の微笑みに魅せられた。なんと謎めいた美しい微笑みだろう。それが今日の専門へと導いたのだ。これらの遺跡を破壊から守り、謎を解き明かしたい。若き学者として、彼は志を持ってこの地に赴任した。
西欧の先進的な技術とメソッドは、自分の情熱とともに、きっとこの国の文化遺産をあるべき姿に戻すのに役立つ。そう考えて彼は仕事に臨んだ。だが、実際に赴任してみて、彼の尊い仕事がさほど簡単に進まないことや、ものごとがそれほど単純ではないことにも氣づきはじめた。
クラチャップ寺院やクラハム寺院の修復のためには、一度倒壊した神像を搬出して工房で修復する必要がある。だが、世界遺産保護プロジェクトが国の許可を得て遺跡の一部を移動させることは、住民たちにとっては神を盗み出すことと見做されることもある。
リュックは、スレイチャハや村民たちがよそ者を信頼していないことを感じていた。遺跡を守りかつての威容を再現するための修復だと説明しても、信頼できない。かつて、彼らの神は「国を支配する者」によって否定され完膚なきまでに破壊された。熱帯雨林には多くの地雷が埋められ、人びとはいまだに恐怖と背中合わせで生きている。
スレイチャハは、平たく潰したような口調で呪文を唱え、丁寧に細い香木をリンガに備えた。それは根元から折れてしまっており、台座であった部分にもたせかけるように安置してある。
ニエン・クマウ寺院。その名は『黒い貴婦人』を意味する。塔の表面がおそらくは山火事で焼かれて黒くなっていることに由来するといわれている。だが、もしかしたら山火事ではなくてクメール・ルージュ撲滅の焦土作戦で焰に晒された結果なのかもしれない。
リュックが、コー・ケー遺跡の調査に初めて参加したとき、前任の調査員は「ここは奇跡的に破壊を免れた」と説明した。だが、本尊であるリンガがこのように無惨な状態になっているのを「破壊を免れた」と表現することには疑問が残る。
このリンガを修復のために搬送することが最終目的だが、今日のところは散在する神像の破片の搬出に同意してもらい、信頼関係を築きたい。それに同意してもらうのもまた一苦労だ。
既に政府の主導する学術保護チームがプラサット・ダムレイやその他の遺跡群から瓦礫と区別もつかずにいた女神像やヤマ神像などを搬出し見事に復元したのだが、それらは現在博物館で展示され、倒壊を待つようなコー・ケー遺跡には戻されていない。その意味を理解してくれる住民たちもいるが、少なくともスレイチャハとその信奉者たちは、西洋人たちが政府と結託して彼らの神を盗み出していると感じているようだ。
ものすごいスピードで育つガジュマルやその他の植物、氣の遠くなるような湿氣、どこにあるかわからない地雷の数々。彼らの祖先の作った文化遺産を守るためには、早急に修復が必要だ。スレイチャハらが忌み嫌う観光客たちは、そのための費用を生み出す金の卵でもあり、修復した神像をクーラーの完備した博物館で展示することにも意味がある。そう伝えても、彼女らは決して納得しない。
「それで、次の修復ですが……」
片言のクメール語を使い、スレイチャハに話しかけようとすると、老女はそんな声などどこにもしなかったかのごとく無視した。そして、後ろの方を見て「トゥバゥン」と言った。
すると、信奉者である男たちを搔き分けてひとりの女が寺院の中に入ってきた。リュックは息を飲んだ。この辺りの村で、今まで1度も見たことのなかった女だ。若く、漆黒の美しい髪を後ろに長く伸ばしており、金糸の多い紫の上着と黒い長いスカートをはいている。そのスリットからしなやかで長い足が歩く度にリュックの眼を射る。
観光客に清涼飲料水を売りつけたり、村で農作業に明け暮れている類いの垢抜けない女とは明らかに一線を画している娘だ。娘から目を離せないでいるリュックを見て、スレイチャハは意地悪な微笑みを見せた。
「トゥバゥン。このフランスの学者さんはお疲れのようだ。あちらでもてなしてやっておくれ」
スレイチャハが言うと、娘はひと言も口をきかずにリュックの手を取り、その場から連れ出した。香木の香りがきつく、頭が割れるように痛い。
寺院から出た途端、蝉の鳴き声が倍ほどの音量で降り注ぐ。蒸し暑さと、日差しの暴力にリュックは目眩を感じた。
娘は、彼を半ば崩れた寺院の中に誘った。彼女に勧められるままに、崩れた石の1つに腰掛けて目を閉じた。彼女からは、スレイチャハが焚きしめていたのと同じ香木の強い匂いがしている。そして、その吐息が異様なほどに近くにあるのを感じて困惑した。
「その昔、『
娘が囁いたのはフランス語だと氣づいたのはしばらくしてからだった。リュックは、それすらもわからぬほどに混乱していた。
「そこで暮らすうちに、この地の出身の高僧ケオの噂を聞き、この世の悲喜についての教えを請うために彼の庵を訪ねました。そして、師に敬意を表するためにごく近くに寄ったので、師の身体のすべてくまなく知ることになりました」
リュックはぎょっとして女の顔を見た。具合が悪く相づちもまともに打てていなかったので、自分が何かを聞き違えたのかと思ったのだ。
トゥバゥンの顔は、不自然なほどにリュックの近くにあった。瞳は暗闇の中で漆黒に見える。艶やかな黒髪は、『黒い貴婦人』の容貌がこうではなかったのかと思わせる。
「そう。そして、ケオ師は還俗し、ニエン・クマウ王女と塔の中でいつまでも愛し合ったのです」
そう囁くと、トゥバゥンはリュックの理性をいとも簡単に崩壊させてみせた。
さして遠くない寺院で村民たちが祈りを捧げていることも、彼が仕事上で大切な交渉の途中であることも、リュックは半分以上忘れ去っていた。頭はまったく働かない。暑さと湿氣にやられたのか、それともまとわり付くような薫りの香木に何か仕掛けがあるのか。
「おい。バルニエ博士。おいったら」
氣がつくと、リュックは1人、寺院の瓦礫の上に横たわっていた。懐中電灯の光が眩しくて思わず手のひらで遮った。
「大丈夫か。宿舎で騒ぎになってんだけどよ」
ゆっくりと起き上がりながら、リュックは呻いた。
声の主がわかった。マイケル・ハーストだ。単なる宿舎の護衛としてだけでなく、地雷除去の経験もあるというので重宝されているアメリカ人傭兵だ。
辺りはすっかり暗くなっていて、蝉の声はもう聞こえない。代わりにカンタンの鳴き声がやかましい。
懐中電灯の灯に目が慣れてハーストの表情が見えた。いぶかしがっているようだ。視線を追うと、自分の上半身のボタンはすべて外され、胸が完全に露出している。視線をおろすと下半身はかろうじて露出を免れていた。いったい、どうなったんだ……。
「……。女は……?」
リュックは、辺りを見回した。ハーストは、目を細めて「やれやれ」という表情を見せた。
「ったく、あんたたちフランス人は、あいかわらずお盛んだな。こんなにボロいけどさ、ここは、一応あいつらの寺院なんだぜ。わかってんのか」
「いや、そういうんじゃない」
あわてて否定してみせた。
「はいはい」
ハーストは、リュックの弁解をまったく信じていないようだ。
「熱中症か、それとも、あの香木に酔ったのか。とにかく、午後から記憶がないんだ。……もしかして、大変な騒ぎになっているのか?」
リュックは、立ち上がるとシャツのボタンをはめて身支度をした。
「大変ってほどじゃないけどさ。あんたが、あの婆さんと交渉に行くと息巻いて出て行ってからちっとも帰ってこないから、何かあったんじゃないかって。女を買うなら、宿舎に戻ってから普通に村に行けよ。こんなところで夜に迷って、地雷だらけの密林に迷い込んだらバラバラになるぞ」
女としけ込んだと断定されてしまい、心外だったがそれ以上反論するつもりにもなれなかった。本当にそういうつもりではなかったのか、自分でも定かではない。
あの女、トゥバゥンは何者だったのだろう。あれだけのフランス語を話す女なら、本来通訳として皆に知られているはずだ。だが、見たことも聞いたこともなかった。まるで女の話していた『
リュックは、ふらつきながら寺院から出て宿舎に帰ろうと歩き出した。
「違う。こっちだ」
マイケル・ハーストに首元を掴まれた。
「俺が来なかったら、本当に明日になる前に死体になっていたかもな。何週間いようと、熱帯雨林に慣れたつもりにはなるな」
リュックは、ぞっとして周りを見回した。
ガジュマルが絡みつき、今にも崩れそうな寺院が目に入った。月明かりの中で、木々は昼よりもずっと邪悪に見えた。根は蠢き、絡みつき、その力で人間の作りだした文明という名の驕りを簡単に壊していく。
リュックは、スレイチャハとの交渉について考えた。具合が悪かったとはいえ、彼女の神事を途中で放り出して礼を尽くさなかった。また、あの女とのことを騒がれたらプロジェクト全体も止まってしまうかもしれない。いずれにしても、彼の立場は今朝までと較べてかなり危うくなっている。
神像の微笑が浮かび上がって見えた。それは、子供の頃にテレビで見たときのような穏やかで柔和な表情ではなかった。ガジュマルの根でじわじわと締め付ける密林の笑い声がどこからか響いてくるようだった。
(初出:2023年2月 書き下ろし)
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【小説】バッカスからの招待状 -18- レモンハイボール
今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第6弾です。もぐらさんは、オリジナル作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
もぐらさんが書いて朗読してくださった作品「第663回 大事な壺」
もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。いつもとても長くて本当にご迷惑をおかけしています。
今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品群です。貧乏神のシリーズとはいえ、毎年、とてもハートフルなエンディングでお正月にふさわしい素敵な作品ばかりです。
今年の作品はケチな爺さんと、貧乏神さんのいろいろと考えさせられるお話。お返しは考えましたが、今回は強引に『Bacchus』に持ってきました。もぐらさんが最初にうちに来てくださり、朗読してくださるようになったのが、『Bacchus』でしたよね。
お酒はレモンハイボールですが、今回の話の主役は、大きな壺とサツマイモです。
それと、本当にどうでもいいことですが、今回登場する客のひとりは、この作品で既出です。ちゃっかり常連になっていた模様。
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バッカスからの招待状 -18- レモンハイボール
——Special thanks to Mogura san
日本橋の得意先との商談が終わったのはかなり遅かった。直帰になったので、雅美は久しぶりに大手町に足を向けた。『Bacchus』には、しばらく行っていなかった。
そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。
バーテンダーでもある店主田中の人柄を慕い、多くの常連が集う居心地のいい店で、雅美も田中だけでなく彼らにも忘れられない頻度で足を運んでいた。
早い時間なので、まだ混んではない。田中と直接会話を楽しめるカウンター席は常連たちに人氣なので、かなり早く埋まってしまうのだが先客が1人だけだ。
「柴田さん、いらっしゃいませ」
いつものように田中が氣さくに歓迎してくれるのが嬉しい。雅美は、コートを脱いで一番奥のカウンター席に座った。
反対側、つまりもっとも入り口に近い席には、初老の男が座っている。質は悪くないのだろうが、今ではほとんど見かけなくなった分厚い肩パッドのスーツはあまり身体に合っていない。金色の時計をしているのだが、服装に対して目立ちすぎる。
雅美にとっては初めて見る顔だ。1度目にしたら忘れないだろう。人間の眉間って、こんなに深く皺を刻めるものなんだ……。雅美は、少し驚いた。
その男は、口をへの字に結び、不機嫌そうにメニューを見ていた。仕事で時おりこういう表情の顧客がいる。すべてのことが氣に入らない。どんなに丁寧に対応しても必ずクレームになる。2度と来ないでくれていいのにと思うが、どこでも相手にされないのが寂しいのか、結局、散々文句を言ったのにまた連絡してくるのだ。
少なくとも現在は、自分の顧客ではないことを、雅美は嬉しく思った。田中さんに難癖つけないといいけど。
「どれがいいのかわからないな。洋風のバーにはまず行かないからな」
男は、メニューをめくりつつ、ため息をついた。
「どんなお酒がお好みですか。ビール、ワインなどもございますが」
田中が訊くと、男は不機嫌そうな顔で、でも、とくに怒っているとは感じられない口調で答えた。
「せっかくバーに来たんだし、いつもと同じビールを飲んでもしかたないだろう。カクテルか……。なんだか、わからない名前が多いが……これは聞いたことがある……ハイボール」
雅美は、ああ、ハイボールってここでは頼んだことなかったかも、そう思った。
「なんだ、ウイスキーの炭酸割りのことなのか。自分でもできそうだが、奇をてらったものを飲んでまずいよりも、味の予想がつくのがいいかもしれないな」
男は、ブツブツと言葉を飲み込んでいる。雅美は、少し反省しながら見ていた。クレーマータイプだと決めつけていたが、いたって普通の客だ。
田中は雅美にもおしぼりとメニューを持ってきた。既に彼女の心の8割がたはハイボールに向いている。
「田中さんが作るなら、ハイボールもありきたりじゃないように思うの。お願いしようかしら」
そういうと、田中は微笑んだ。
「ウイスキーでお作りしますか。銘柄のご希望はございますか?」
「田中さんおすすめのウイスキーがいいわ。ちょっと爽やかな感じにできますか?」
「はい。では、レモンハイボールにしましょうか?」
「ええ。お願いするわ」
そのやり取りを聞いていた初老の男性は言った。
「僕にも、そのレモンハイボールをお願いできるかな」
「かしこまりました」
「おつまみは何がいいかなあ。あ、さつまいものサラダがある! こういうの好きなのよねぇ。お願いするわ」
「かしこまりました」
初老の男は「さつまいも……」と言った。
あれ。眉間の皺がもっと濃くなった。あれ以上眉をしかめられるとは思わなかったわ……。雅美は、心の中でつぶやいた。
田中も、そちらの方には、声をかけていいか迷っている様子だ。2つのグラス・タンブラーに、大きい氷を入れてから、すぐにはハイボールを作らずに、さつまいものサラダの方を用意し、雅美の前に置いた。
それから、タンブラーの中で氷を回すように動かした。
「何をしているの?」
雅美が訊くと、田中は笑った。
「タンブラーを冷やしているのです」
「ええ? 氷を入れるのに?」
「アルコールと他のものが混ざるときには希釈熱という熱が発生して、温度が上がるんです。ハイボールの場合、これによって炭酸が抜け、氷もすぐに溶けてぼんやりとした味になってしまいます。それを避けるためにできるだけ温度が上がりにくくするわけです」
「なるほどねぇ」
氷と溶けた水を1度捨ててから、あらためて氷を入れて、レモンを搾って入れ、ウイスキーを注いだ。田中は再びグラスを揺らし、ウイスキーの温度を下げた。それから、冷えたソーダ水を注ぐと、炭酸が飛ばないようにほんのわずかだけかき混ぜた。
田中がカクテルを作る姿を見るのは楽しい。1つ1つの手順に意味があり、それが手早く魔法のごとくに実行に移されていく。そして、出来上がった見た目にも美しいドリンクが、照明の真下、自分の前に置かれるときには、いつもドキドキする。
さつまいものサラダは思っていた以上に甘く、しっかりとした味が感じられた。
「美味しい。これ、特別なさつまいもですか?」
「茨城のお客様が、薦めてくださったんです。シルクスイートという甘めの品種です」
それを聞いて、初老の男は、なんとも言えない顔をした。先ほどまでは怒っていたようだったのが、今度は泣き出しそうだ。
ハイボールを彼の前に置いた田中は、その様子に氣づいたのか「どうなさいましたか」と訊いた。
初老の男は、首を振ってから言った。
「いゃ、なんでもない。……シルクスイート……。これもなにかの縁なのかねぇ……。僕にも、そのサラダをくださいませんか」
それから、田中と雅美の2人に向かっていった。
「なにか因縁めいたことなんでね、お2人に聞いてもらおうかな」
田中と雅美は思わず顔を見合わせた。男は構わずに話し出した。
「題して『黄金の壺』ってところかな」
「壺……ですか?」
「ああ。だが、ホフマンの小説じゃないよ」
そう言われても、雅美には何のことだかわからない。
「ホフマンにそんな題名の小説がありましたね」
田中は知っていたらしい。
「おお、知っていたのか。さすが教養があるねぇ。ともかく、そんな話じゃないけれど、まあ、黄金の詰まった壺と、それに魅入られた困った人間の成り行きというところは、まあ、違っていないかもしれないね」
黄金の壺とさつまいもの関係はわからないけれど、面白そうなので、会話の相づちは田中に任せて、雅美は黙って頷いた。
「今から30年近く前の話なんだけどね。僕は、火事でほとんどの家財を失ってしまったんだ」
「それは大変でしたね」
「ああ。うちは、もともとカツカツだったけれど、田舎の旧家でね。蔵もあったんだよ。その奥に置いた壺に親父の代から、いや、もしかしたら、その前の代からか、当主がコソコソと貯めた金やら、貴金属やらを隠していたんだ」
「壺にですか?」
「ああ。妻には言わずにね。それで、女を買いたいときや、その他の妻には言いにくい金の使い方をするときには、そこから使っていくんだと親父に教わったものさ」
男もへそくりするんだ。雅美は、心の中でつぶやいた。
「僕は、元来、倹約するタチでね。親父に言われたとおりに、自分もかなりの金品をその壺に隠していたんだが、自分で使ったことは1度もなかったんだよ。なんだかせっかく貯めたのに勿体ないと思ってね」
ああ、わかった。この人、クレーマー体質なのではなくて、要するにケチなタイプだ。雅美は、納得した。
「そうですか。それならば、かなりたくさん貯まったでしょうね」
「まあね。でも、件の火事があってね」
「それで、すべて失ってしまったと?」
「そうじゃないんだ。すべて燃えてしまったとしたら、むしろよかったかもしれない。でも、火事の後、すっとんで蔵に行き、壺の安全を確かめたのを見られたのかねぇ。火事で母屋のほとんどが焼けてしまっただけでなく、その後しばらくして、その壺が忽然となくなってしまったんだ」
「壺、丸ごとですか?」
思わず雅美が言うと、彼は頷いた。
「壺と言っても、小さな物じゃない。胸のあたりまである巨大な壺だ」
「そんなに大きな壺だったんですか」
田中も驚いたようだ。
男は頷いた。
「常滑焼っていってね。その手の大型の壺は昔から米や野菜を貯蔵するために使われてきたものなんだよ。冷蔵庫が普及してからは、ほとんど誰も使わなくなって作るところも限られているけどね。今は、無形文化財に指定される職人さん1人だけが作っているっていうなあ」
「その壺を誰かに持って行かれてしまったんですね」
田中が、氣の毒そうに言った。雅美は訊いた。
「トラックかなんかで、運び出したのかしら」
「うん……。どうだろうねぇ。あとで、あまり遠くない空き地で、たくさんの破片が見つかったので、なんとも言えないんだ。……実は、妻がなくなった後に、遺品から盗まれたはずの古い紙幣が見つかってね」
「え?」
雅美は、驚いた。田中もボトルを棚に戻す手を止めて男の顔を見た。
「それで当時の日記などを見たら、それは妻がやったことだと書いてあったんだ。ずっと金がないと、苦労を強いられてきたのに、夫がこんなに隠し持っていたことが許せないと。金がほしくてやったわけではないと書いてあった。実際に少なくとも僕がしまった現代のお札や、以前見たことのある貴金属はすべてそのままだったし、古い紙幣もまったく手をつけていなかったようだ」
火事で家財をなくし大変だったときに、隠し持った大金をまったく使わずに、夫を責めることもなく、自分のやったことを告白することもなく、ただ、黙っていた妻の複雑な心境を考えて、雅美は手もとのハイボールのグラスを見つめた。
「妻の死後にそれらが出てきて、僕は先祖からの伝統をまた元通りにしようと、常滑焼の壺を買い求めようと思ったんだ」
「常滑って、愛知県ですよね?」
「ああ。だから電話で連絡したら……しばらく時間がかかる。岐阜県の焼き芋屋用に、たくさん注文が入っているからって言うんだ」
「焼き芋?」
「そう。それで、焼き芋屋がなぜあの壺を必要としているのか、見にいってみたんだ」
岐阜県の大垣市では近年とあるフードプロデューサーの広めた「つぼ焼き芋」が人氣だ。石焼き芋は直火で焼くが、「つぼ焼き芋」は常滑焼の大きい壺の底に炭火を熾し、壺の首あたりに吊してある籠に芋を入れる。底から上がってきた炭火の熱が巨大な壺の中で循環し、焦げることなくじっくりと均一に熱が通る。60度から70度で1時間半から2時間かけて、さつまいものデンプンは麦芽糖に変わり、甘みが増していく。
「食べてみたんだ。そしたら、信じられないくらい甘くて、美味しかった。日によって種類を変えているらしいんだが、僕が食べたのはまさにシルクスイートでね」
「そうだったんですか。それはすごい偶然ですね」
「ああ。客がたくさん来て、みな喜んで買っていた。辺りは、かなり賑やかでね。焼き芋が地域の町おこしになっていたよ。そのフードプロデューサーはその『つぼ焼き芋』を独占もできたのに、周りの同業者にも勧めて一緒にこの焼き芋を広めたんだね。考えさせられたんだよ」
出てきたさつまいものサラダを食べながら、彼は言った。
「僕は、自分の宝物を壺に隠すことしか考えていなかった。その中身を活かすことも、妻と楽しむこともしなかった。また同じ壺を買って、見つかったお宝を再びしまっても、同じことの繰り返しだ。でも、あの焼き芋屋の芋は違う。金色に輝いて、ほくほくとして暖かい。店主が喜び、客が喜び、同業者が喜び、そして、壺焼き職人も喜ぶ。どちらが尊い宝物なのかなあとね。そう思ったら、再び大きい壺を買って、余生を倹約して暮らすよりも、誰かと一緒に使うことをしてみたいと考えて帰ってきたんだ。いま、その帰りなんだよ」
「そして、今、またここで、さつまいもと出会ったというわけですね」
雅美が言うと、彼は頷いた。
「ああ。このハイボールは、美味いな。自分で作った味とは雲泥の差だ。それに、このさつまいもによく合う」
彼は、しみじみと言った。
「恐れ入ります。さつまいもとレモンの相性はいいです。シルクスイート種が甘いので、おそらく普通のハイボールよりも、レモンハイボールの方が合うのではないかと思っています」
田中が言った。
「そうね。この組み合わせ、とても氣に入ったわ。ハイボールって、そちらの方もおっしゃったように、うちでも作れるからと頼んだことなかったけれど、こんなに違うなら、今度からちょくちょく頼むことにするわ」
雅美が言った。
男は、言った。
「そちらの方か……。僕は竹内と言います。僕も『ちょくちょく頼む』ような客になりたいからね」
「それはありがとうございます、竹内さん。今後ともどうぞごひいきにお願いします」
田中が頭を下げた。
やがて、他の客らも入ってきて、『Bacchus』はいつもの様相に戻っていった。田中は忙しく客の注文にこたえている。雅美は、カウンターをはさんだ竹内とは会話ができなくなったが、時おりグラスを持ち上げて微笑み合った。
竹内の眉間の皺は、はじめに思ったほどは深くなくなっている。自分がそれに慣れてしまったのか、それとも彼の心にあった暗い谷がそれほどでもなくなったのか、雅美には判断できなかった。
1つわかることがある。彼の新しい壺は常滑焼ではなくて、この『Bacchus』のように心地よく人びとの集う場所になるのだろうと。
レモンハイボール(Lemon Highball)
標準的なレシピ
ウイスキー - 45ml
炭酸水 - 105ml
1/8カットレモン - 1個
作り方
タンブラーにレモンを絞り入れ、そのまま実も入れる。氷とウイスキーを注ぎ、冷やしたソーダで満たし、軽くステアする。
(初出:2023年2月 書き下ろし)
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今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第5弾です。
山西 左紀さんも、プランCでご参加くださいました。ありがとうございます! プランCは、私が指定した題に沿って書いてくださる参加方法です。
山西左紀さんの書いてくださった「モンサオ(monção)」
今年の課題は
以下の課題に沿ったものを150字から5000字の範囲で書いてください。また、イラストやマンガでの表現もOKです。
*ご自分の既出のオリキャラを一人以上登場させる
メインキャラ or 脇役かは不問
キャラクターであれば人どころか生命体でなくてもOK
*季節は「冬」
*建築物を1つ以上登場させる
*「大切な存在」(人・動物・趣味など何でもOK)に関する記述を1つ以上登場させる
山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。
左紀さんが書いてくださったのは、私の『黄金の枷』シリーズとも縁の深いミクやジョゼの登場するお話でした。
お返しをどうしようか悩んだんですけれど、今回のサキさんのお話に直接絡むのはちょっと危険なのでやめました。だって、ミクの昔の知りあいですよ。ミクの方が何を考えているかは知らないし、勝手に過去を作るわけにもいかないし。
なので、左紀さんの書いてくださったお話を骨格にしたまったく別の話を書いてみました。あちらの飛行機は夜行列車に、そして季節風はミストラルという風に……。そしてせっかく夜行列車を描くなら、長いことイメージとして使いたかった曲があって、それも混ぜ込んであります。
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ミストラル Mistral
——Special thanks to Yamanishi Saki-san
雨のパリは煙って見えた。夏であれば、天候など氣にしない。いずれにしてもオステルリッツ駅まではメトロで行くし、たとえ悪天候だろうと出張に陽光は必要ないのだ。
だが、冬の雨は身に堪える。雪のように美しくもなければ、仕事が遅れる言い訳にすらなってくれない。
ファビアンは、20時半に駅に着いた。出発までは20分ある。彼にしては早く着いた方だ。コンパートメントのあるワゴンを探すのに手間取るだろうと思ったからだ。
構内は天井のガラス窓に雨が打ち付けられて、電車のモーター音に混じりとてもうるさかった。頭端式ホームの並び、色とりどりの車両が並んでいる。オレンジ色に照らされた夜の駅は、いつも必要もない悲しみに近い感傷を呼び起こす。
探している列車は、機関車牽引のアンテルシテ・ド・ニュイ5773、ニース行きだ。
かつてTGVの普及とともに夜行列車は次々と削減された。が、ニース路線などの場合、6時間弱の乗車時間を過ごしたがる乗客は少なく、かえって格安の航空便に客を奪われる結果となった。
ここに来て夜行列車を復活する動きが出てきているのは、環境に優しい移動方法をSNCFが推奨したいからという建前になってきているが、おそらく他国における夜行列車ビジネスの成功を見ての動きだろう。
実際にファビアンも、ニースで中途半端な1泊するなら、夜行列車で早朝に着く方を選んだ。一連の復活した夜行列車のうちで、最初に運行が始まったのが、このICN 5773、パリ-ニース路線だ。
この路線は、かつてかの『
それは特別な夏だった。6歳だったファビアンは両親に連れられてニースへのバカンスに行った。乗ったのは1等車のみの豪華列車『ミストラル号』。全車にエアコンが完備され、食堂車はもちろんのこと、バーや秘書室、書籍の販売スペース、美容室なども揃っている贅沢な列車だった。後から知ったのだが、1982年、それは『ミストラル号』の走った最後の夏だった。
今から思えば、父親にとっては精一杯の背伸びだったのだろう。そんなに豪華なバカンスはその年だけで、それどころか数年後には事業に失敗した父親が破産したため、学校を卒業するまで家族バカンスの思い出はない。
乗り合わせている他の乗客たちは、みな裕福であることが子供のファビアンでもよくわかった。着ている服が違ったし、夕食前にバーに行くか値段をひそひそと語り合っていた両親と違い、メニューすら見ずに無造作にシャンパンを注文していた。
両親との態度の違いは、ファビアンに階級の差というものを悟らせた。バーに隣接された売店スペースでコミックや興味深い図鑑、そして、オモチャなどを目にしても、ねだることがためらわれた。
今でも憶えているのは、バー『アルックス』で楽しそうに語る大人たちから離れて、ブティックに立っていた少女と、その母親だ。少女は、スモモ色のやたらとフリルの多いワンピースを着て、髪に同じ色のリボンをつけていた。母親の方は対照的に非常にシンプルなシルクワンピースを着ていた。目の覚めるようなマラカイトグリーンで、ピンヒールも同じ色だった。
その少女の母親の姿を見て感じた衝撃がなんであるか理解できなかった。『
彼女の姿が『ミストラル号』の思い出を、特別なものにしている。ファビアンは、ICN 5773の凡庸なクシェットに腰掛けて思った。同室者が1人だけのコンパートメントはどこか息苦しかった。
ファビアンは、廊下に出て自動販売機を探して歩いた。隣の車両はクシェットではなく、個室のようだ。廊下を足早に通り過ぎようとすると、中から出てきた男性とぶつかりそうになった。
「ファビアンじゃないか!」
その男は、驚いたことに大学の同窓生だった。
「ドミニク! 驚いたな。君もニースに?」
同じ教授のクラスでファビアンがもっとも苦手としていたのがドミニク・バダンテールだった。裕福な銀行家の息子で、常に高価なブランドものを身につけ、ポルシェを乗り回していた。苦労して学費を捻出したファビアンは、ドミニクと取り巻きがよく行くクラブには一度も行かなかった。だから、授業以外で彼と会ったことはない。もう四半世紀も前の話だ。
「ああ。君、まさかこんな時期にバカンスじゃないだろう?」
「いや、仕事だ。君も?」
ドミニクは笑って首を振った。その時、ドミニクの隣の寝台の扉が開いて女性が出てきた。
「ドミニク? お知り合い?」
ファビアンは、その女性を見て、息を飲んだ。まさか! 『
だが、もちろん彼女ではなかった。とてもよく似ているが、ファビアンと変わらないくらいの年齢と思われる女性だ。オールドオーキッドのシックなツーピースが艶やかな栗色の髪とよく似合っている。
ドミニクは彼女の栗色の巻き毛に触れてから肩を抱き、言った。
「ああ、大学の時の友人だ。ファビアン・ジョフレ。たしか行政書士だったよな。ファビアン、彼女はロズリーヌ、ロズリーヌ・ラ・サール。来年にはマダム・バダンテールになるんだよな」
ファビアンは、ということはドミニクは離婚したのかと考えた。確か大学を卒業してすぐに、学内でも有名だった美女と派手な結婚式を挙げたと友人づてに聞いたのだが……。
「ジョフレさんですか。どうぞよろしく」
「こちらこそ、どうぞよろしく」
「いまファビアンに、どうしてニースに行くのかって話をしていたんだ。いい家が売りに出されたんで、一緒に見にいくんだよな。夏のあいだ過ごすとしたら、君が女主人として切り回すことになるだろうしね」
ドミニクが、髪にキスをしたりしながら、話しかける間、彼女はファビアンの目を氣にして、居心地悪そうにしている。
「ちゃんとした食堂車でもあれば、ちょっとワインでもといいたいところだけれど、この列車にはないんだよな」
ドミニクは言った。
親しい友人であれば、彼のコンパートメントに誘ってくれるだろうが、そういう仲でもないので、ファビアンは自動販売機のところにいくのでと話して、2人に別れを告げた。
ファビアンは、背中の向こうで2人が夜の挨拶をしてそれぞれの部屋に戻るのを聞いた。同じ部屋で過ごすことはないようだ。ずいぶんと他人行儀な婚約者たちだな。
だが、そのことに彼はどこかほっとしていた。彼女が、ほかでもないあのドミニクに心酔している姿は見たくない。それが正直な想いだ。
ファビアンは、自動販売機の前でしばらく選びもせずに立っていた。
ニースに向かうこのなんでもない夜行列車は、すでにファビアンにとって特別な世界に変わりつつあった。彼にとって特別な『
ロズリーヌ・ラ・サール。小さい薔薇か。ふいに思い出した。『
まさか、そんなことがあるだろうか。あの時の少女なのか。
ファビアンは、長いあいだ自動販売機の前で『ミストラル号』でのことを考えた。母親の容姿は細かく憶えているのに、少女の顔はあまりよく憶えていない。ただ、ブティックで交わした言葉は忘れていない。
「ミストラルは冷たい風よ」
ミストラルは、ローヌ川沿いに、リヨン湾まで吹き込んでいく風を指す。低気圧がティレニア海もしくはジェノバ湾にあり、高気圧がアゾレスから中部フランスに進んでくるときに吹く。非常に乾燥した冷たい強風で、それによって湖畔などでは氷柱が横向きにできることもある。
あの時は夏だったので、それを意識することはなかった。だが、今、冷たい冬のローヌ川に添って地中海へと進むこの列車は、痛いほどの冷たい風を呼び起こしているはずだ。
どれほど自動販売機の前に立ちすくんでいたのか。ファビアンは結局何も買わずに、自分のコンパートメントの方へと戻りだした。個室のあるワゴンに来ると、妙に寒い。みるとラ・サール嬢が1人窓辺に立っており、窓を開けていた。
ドミニクは寝てしまったのだろうか。どうして彼女は、窓を開けて立っているんだろうか。
「どうしたんですか」
ファビアンは小さい声で訊いた。
「見て、星よ」
ロズリーヌが指さした。
いつの間にか雲1つない夜空が広がっていた。汚れた車窓を開けたその向こうに、冷たく瞬く星空が見える。だが、吹き込む風の冷たさに、まともに目を開けているのは難しい。
「ええ。美しいですね。でも、寒くありませんか?」
「ミストラルは冷たい風よ」
彼女は言った。
ファビアンは、言葉を失い、ただ彼女を見つめた。その凝視が尋常ではないと感じたのか、ロズリーヌは、不思議そうに見つめ返した。
突如として、車両はトンネルに入りひどい騒音がファビアンの思考を止めた。車内灯の作りだした写像が窓に映る。ガラスの向こうにいるのは『
長いトンネルが過ぎ去るまで、奇妙な時間が流れた。お互いに窓ガラスに映る姿を黙って見つめている。どうしようもなく冷たい風が非情に強く廊下を走っていく。
世界は再び広がり、星空と遠くに見える街の灯、ずっと控えめになった車輪の音が、2人を現実の世界に戻した。
ファビアンは「風邪をひきますよ」と言った。頷いた彼女が腕を窓に伸ばしたので、彼はすぐに手伝い窓を閉めた。
「ありがとう」
ロズリーヌは、小さく答えた。
「82年の夏、『ミストラル号』でニースに行きませんでしたか?」
ファビアンは、言いかけた言葉を飲み込んだ。
それを知ってどうするというのだろう。『ミストラル号』は、もうない。彼は中年のくたびれた行政書士で、『
「おやすみなさい」
彼は、彼のクシェットに向けて歩み去った。
振り返りたい衝動が身体を貫いた。そうすれば、世界が変わるのだと、妙に強い確信が彼にそうするように囁いた。
しかし、彼は常識に従い、そのまま自分のワゴンに向かう扉を開けて歩み去った。
(初出:2023年2月 書き下ろし)
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【小説】教祖の御札
今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第4弾です。
ポール・ブリッツさんは掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!
ポール・ブリッツさんの書いてくださった 『ひたり』
ポール・ブリッツさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。毎年ポールさんのくださるお題は手加減なしで難しいんですけれど、今年もまためちゃくちゃ難しかったです。
ポールさんがくださったお題は、ホラーのショートショートです。このお話の解釈は人によって違うと思いますし、ましてやポールさんが意図なさったお話も、私のお返し掌編とはかけ離れているんではないかと思います。
とはいえ、せっかくなので私なりにつなげてみるとどうなるかにトライしました。オリジナルの記述とできるだけ違わないように考えたので設定にいろいろと無理がありますが、そこはご容赦ください。
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教祖の御札
——Special thanks to Paul Blitz-san
部室の窓から道の向こうを見ると、落ち武者が立っていた。幽霊を見ることは珍しくないけれど、江戸時代からの筋金入りは、まず見ない。
私は、落ち武者のそばに行くのが嫌で、裏門から帰ることを決めて、下駄箱に向かった。同じクラリネットの篠田理恵がブツブツと文句を言いつつ校門の方に向かう。
「コンクール優勝なんて、絶対に無理じゃん。ほんとうにあの顧問、頭おかしいんじゃないの」
理恵にはあの落ち武者は見えないんだろう、そのまま横を通り過ぎた。落ち武者は、理恵に興味を持ったようで、そのまま理恵の後ろについていった。
「……なんかヤバいかも」
私は、理恵と後ろを歩く落ち武者の姿を見ながら震えていた。
「何がヤバいって?」
声がしたので振り向くと、そこには桜木東也が立っていた。
彼は、クラスメートだ。私や理恵と同じ吹奏楽部に入ったのは最近で、しかも何の楽器も吹けない。顧問からは足手まとい扱いで、邪険にされている。なぜ入部したのか、他の部員は首を傾げている。でも、私は知っている。彼は理恵が好きなのだ。
「えっと、その……理恵に……いや、なんでもない」
ただの友人にだって、友達に落ち武者がついているとは言えない。普通の人には見えないのだから。ましてや理恵を好きな男の子に、そんなことを言うほど無神経ではない。
「篠田くんに、なにかが憑いているのかい?」
東也が訊いた。
「え。いや、その……」
「隠さないでいいよ。君が芳野教祖のお嬢さんだということは、僕知っているし」
桜木くん、うちの信者だったんだ! 私は驚いた。
新興宗教「御札満願教」の教祖の娘であることを百合子は高校ではひた隠しにしてきた。宗教法人は星の数ほどあるし、自慢すべきことでも恥じるべきことでもないが、たまたま弱いながらも霊能力を持って生まれてきた百合子からしてみると、自分の父親をはじめとして教団幹部はみな霊能力がゼロで、彼らのやっている教団のあれこれは単なる事業にすぎないことに氣がついていたからだ。
「なあ、君ならお父さんに頼んで、霊験あらたかな御札を用意できるんだろう?」
東也は熱心に言った。
うわあ、この人、マジで御札のことを信じているよ。あれは、単なる墨書きの紙だよ。さっき、パパの書き損じを面白がって理恵にも1枚あげたけれど、それでも落ち武者が憑いていくぐらい霊験ゼロだよ。それを1枚20万円で売っているのはどうかと思うけどさ。私は、目を宙に浮かせた。
「あ〜、理恵なら、大したことないと思うから、心配しなくてもいいよ。もしなんかあったら、もちろん、私からパパに頼むから……、ね」
私は、東也を宥めてから裏門から帰った。それから毎日のように、理恵の件で御札を用意しろと責め立てられることになるとも知らずに。
急に寒くなったので、新しい防寒肌着をおろしたけれど、それでも効果がないほどの寒さだ。原田はマフラーを巻き直して雪の降り始めた通りを歩いた。
教団にノルマとして課された御札の量が倍になったので、いつものように電話して信徒に売りつけるだけでは捌けない。飛び込みで販売する必要がある。
教祖が交代してから半年、ノルマは厳しくなる一方だ。先代の作った御札は間違いなく悪霊退散の効力があると証言する信者が多く、連れられて入信も多かったのだが、先代が亡くなったときに指名したと言い張る今の教祖芳野泰睦は、どうやらまともな霊能力も無さそうだ。いずれにしても原田には何も見えないし感じ取れないので、糾弾するつもりもない。
今日は定期的に御札を買ってくれる信者の家に行ってみよう。原田は、とぼとぼと歩いた。
「こんにちは。原田です」
つとめて明るく声をかけると、中から女が出てきた。
「ごめんなさい。今日は家に上げられないわ」
原田は、頷いた。この家は、まだ夫が入信していない。名簿上は既に信徒になっているが、それは本人には内緒だ。原田としては、この女が定期的に御札を購入して夫や子供たちも信徒としてカウントすることに署名してくれればそれで十分だと思っていた。
「大丈夫です。こちらも先を急ぎますので。それで、新たにありがたい御札が届きまして……」
原田が鞄から大きめの封筒を取りだしていると、女は小さい声で遮った。
「ねえ、原田さん。前に購入させていただいた御札なんだけど……」
「なんですか?」
「家内安全、交通安全、学業成就、3ついただいたけれど……」
女は、とても言いにくそうにしていたが、やがて意を決したように原田の顔を見て口を開いた。
「あれから逆のことばかりが起こるのよ。夫と姑との喧嘩は絶えないし、天井は落っこちてくるし、舅は当て逃げに遭うし、娘は留年よ」
原田は思わず息を呑んだ。これで今週3度目だ。教祖の御札を買うと効果がないどころか真逆の災禍に見舞われると、多くの信者が思い始め、クレームが増えている。
「信心が揺らいでいることを試されているのかもしれませんよ」
こういうときに、原田はこう脅すように教育されている。巧みに責任を回避して、新たな御札を2枚ほど売りつけることに成功したが、原田の中の疑問も膨らむばかりだ。
女の家の戸が閉まると、原田は鞄からまだ100枚ほど残っている御札入りの封筒のうち、1つを取りだして眺めた。
「交通安全……かあ。きたねえ字だな。でも、ただの和紙に書かれた墨書きだ。効力がないのは別として、少なくともこれで事故が起きるわけないだろう」
原田は、昼頃に教団に戻って集めた金を出納係に渡した。それから、タクシー会社に出勤した。彼の本業はタクシーの運転手だ。これから深夜までタクシーで市内を巡回し、場合によっては客の悩みを聞きつけては「御札満願教」に勧誘する日々だ。
20時頃には、市内の塾に立ち寄り、教祖の娘である百合子を届ける役目もある。
「お嬢さん。お待たせしました」
塾の前に立っていた百合子は「どうも」といって後部座席に座った。それから、変な目つきで助手席を見た。
「どうかなさいましたか?」
原田が訊くと「……うん」と言って眼をそらした。
「原田さん、今日、父さんの御札、直接、手に取った?」
しばらくして百合子が訊いた。
「え? ええ。1枚だけ。交通安全の御札でしたけれど、なぜですか?」
原田は訊いたが、百合子は答えなかった。それから、急に「止めて」と言った。
「どうなさったんですか?」
「なんでもないの。悪いけど、私、歩いて帰る。今日はありがとう」
百合子は、昨日起こったことを考えながら歩いていた。父にもらった悪霊退散の札の封筒を、桜木東也に渡した。
理恵がずっと休んでいること、誰かに後をつけられているとノイローゼになっているという級友の話を聞いて、とにかく御札を用意しろとうるさかったのだ。それが何の効力も無いことを知りつつも、信者である東也の圧力には耐えられず、百合子は父親に御札を1枚もらえないかと頼み込んだのだ。
「ありがとう。僕、届けてくるよ。これがきっかけで篠田くんと知り合えるかもしれないし」
そう言って、東也は封筒から御札を取りだし、まじまじと眺めていた。
「でも、これ、交通安全って書いてあるよ?」
百合子は驚いた。
「なんですって? 悪霊退散って頼んだのに、パパったら、取り違えたのね。明日、今度こそちゃんとしたのを持ってくるから。それは、桜木くんにあげるわ。持っていても悪くないでしょ?」
東也は笑った。
「もちろん。ありがたい御札には違いないからね。」
歩き去って行く東也の後ろを、どこからともなく現れた虚無僧姿の男が歩いて行くのが見えた。なんで?
そして、今朝、学校に来てみたらクラスは大騒ぎだった。昨夜、桜木東也が交通事故で亡くなったと。
一方、篠田理恵は、すっかり元気な様子で普通に登校してきていた。百合子は、その理恵の両脇に虚無僧と東也の2人が立っているのを見た。落ち武者はいなかったので不思議に思っていたが、理恵がお寺の住職にお祓いしてもらったと言っていた。そうか、ちゃんとお祓いしてもらったんだね。また、くっついているけど。
東也は、百合子のことなど目に入っていないようだった。虚無僧に負けないように、必死で理恵にまとわり付いていた。
それからの数時間、百合子は生きた心地もしなかった。塾でも、勉強はまったく頭に入らなかった。ようやく終わり帰って寝ようと思ったら、今度は迎えにきたタクシー運転手の原田にも異変が起こっていた。
百合子は、原田のタクシーには座っていられなかった。助手席にはのっぺらぼうの花魁が座っていた。
今までほとんど見たことのなかった江戸時代のお化けをやたらと目撃するようになったことと、父親の書いた御札とは関係ないと思いたい。でも、これだけ重なると氣分がよくない。
桜木くんも、理恵も、パパの御札を開いて直接手に取った後から、あの幽霊たちに魅入られたし。原田さんまで、「交通安全」の御札を手に取ったなんて言うし。
原田さん、大丈夫かなあ。うちじゃなくてちゃんとした霊能者にお祓いしてもらうように、言った方がいいかなあ。そうか、理恵に紹介してもらおう。明日忘れずに頼まなくちゃ。
また雪が降ってきた。雪に慣れない都会の運転手たちが、ノーマルタイヤでもスピードを変えない危険な運転をしている。百合子は、家路を急いだ。
(初出:2023年2月 書き下ろし)
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【小説】童の家渡り
今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第3弾です。
かじぺたさんは、引き続きもう1つの記事でも参加してくださいました。ありがとうございます!
かじぺたさんの書いてくださった記事 「波乱万丈の年末年始R4→R5しょの6『かじぺたは2度まろぶ』」
参加していただいた記事は、実際に起こった事件についてなのですが……。実はかじぺたさんは、この年末、大変なお怪我をなさっていたのでした。そして、そんな状態でも、まったく休まずに年末年始を働きづめで過ごされていらっしゃるんですよ! 水槽の水替えって、どういうことですか?! 私なら、全て放棄して寝ていますよ〜。とにかく引き続きお大事に。
さて、お返しですが、前回同様、かじぺたさんお宅風の『黒い折り鶴事件の家』で作ってもよかったのですが、ちょっと趣向を変えて江戸時代の宿場町を舞台に江戸ファンタジー(なのか?)を書いてみました。かじぺたさんのお怪我が「禍転じて福となる」ことを祈りながら。ブログ上のおつきあいですのでお名前などは、もちろん存じ上げませんので登場人物の名前などはかじぺたさんご本人やご家族とはもちろん関係ありませんのであしからず。
なお、今回のストーリーも、先にかじぺたさんの記事を読まれることを推奨いたします。そうしないと意味不明かも……。
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童の家渡り
——Special thanks to Kajipeta san
小とよは、なまこ壁が続く通りをとぼとぼと歩いていた。小さな身体ながら彼女は、八福屋に八代にわたり棲みつき、大名屋敷の御用商人になるまで吉祥をもたらしてきた。
先月新しく当主となった虎左衛門は「座敷童ごときに供え物をするなぞ勿体ない」と言いだして、塩せんべいの代わりにネズミ捕り餅を置いたので、しばらく屋敷を出ることにした。
座敷童が自ら玄関を出ていくと、よろしくないことが起こるのが常だ。
小とよが、玄関を跨いで表に出た途端、季節でもないのに庭の五代松に落雷があり、そこから出火した。
虎左衛門が心を入れ替えて小とよに塩せんべいを供えるつもりになったかどうか、今となっては知りようもない。屋敷がなくなってしまったので、小とよはもう戻れないのだ。
年の瀬、あと二晩で年が明けるというのに、小とよは宿無し妖怪として通りを彷徨うことになったのだった。
ここは宿場町として栄えていて、特にこの通りは大きい屋敷が多い。一つ後ろの通りは、染め屋や織り屋など職人たちが小さな家を構えている。立派な武家屋敷からさほど遠くないところに、武家の家人や奉公人たちの家が立ち並ぶ一角もある。
小とよは、どこにいったらいいのかわからなかった。ある程度の名のある屋敷には既に別の座敷童がいるし、そうでない屋敷には恐ろしい犬や半分猫又になりかけている飼い猫などがいて、入っていく氣にさせない。
夜も更けて、小とよは宿場を行ったり来たりしながら歩いていた。人通りは絶えて久しくなっていたが、月が真上に来た頃、1人のおなごが武家屋敷の界隈から出てきた。
服装からみると、武家の内儀のようだ。1人で出歩いているところをみると大名の奥方といった大層な身分ではないのだろう。こんな時間に珍しい。小さな提灯を持っているが、月明かりも十分にある。晩酌でもしたのであろうか、鼻歌などを歌いながら楽しそうに歩いていた。
と、後ろから蹄の音がして、馬が走ってきた。内儀はそれを避けようと脇に寄ったが、馬は狂ったように走ってきたので間に合いそうもなかった。
「危ない!」
小とよは力の限り、彼女をなまこ壁の方へと押した。その力で均衡を保てなくなった内儀は倒れた。その横を馬はものすごい勢いで駆け抜けていった。
馬の上には、武家らしき男が乗っていたが、内儀の難儀に目もくれずに立ち去った。お国の一大事で一刻を争うのかもしれぬが、このような振る舞いは天が許さぬぞ。小とよは消えてゆく土ぼこりの向こうを睨んだ。
「これ、ご内儀。いかがなされました」
小とよは、内儀に話しかけたが、その声は届いていないようだった。無理はない。小とよの姿が見えて声が聞こえるのは、通常、数えで七つくらいまでなのだ。
「いたたたた。これはちょっと、ひどくひねってしまったみたいだねぇ……」
内儀は、つらそうに立ち上がると、なまこ壁に掴まりながらもと来た道を戻りはじめた。
見ると、先ほどまで掲げていた提灯が落ちている。
「あの……、これ……」
聞こえていないので振り返ることもない。小とよは提灯を手にすると内儀の後ろに続いた。彼女が怪我をしたのは、自分にも関係あることであるし、いずれにせよ他に行く宛てもない。
ついた家は、大名屋敷ではないが、小さくもない。徒士あたりの武士の家であろう。小とよの考えたとおりだった。
「お梶! いかがしたか」
中から、出てきた壮年の男が、内儀の様子に慌てた。
「ご心配かけて、申しわけございません。急な早馬を避けようとしたところ、なにかに躓いたらしく転んでしまいまして」
お梶は、痛みを堪えて話した。
「いま思い出しましたが、転んだおりに手にしていた提灯を取り落としてしまったようでございます。取りに戻りませんと……火事にでもなったら大変でございますし」
お梶がいうと、主人は小とよが戸口にそっと置いた提灯に目をやって言った。
「そこにあるそれではないのか」
「おやまあ。まことに。どうしたことかしら」
「そなた、自分で持ってきたのであろう。それも忘れるほど痛いのだな、さあ、入って。手当をせねばな」
なかなかいい感じの夫婦ではないか。小とよは考えた。主人は偉ぶることもなく内儀をいたわり、お梶の方もあの早馬のひどい仕打ちをなじることもない。相当痛そうではあるが、優しい主人に肩を貸され、無事に奥に戻った。
入っていいと言われたわけではないが、これまでも許可を得て入った家はなかったことであるし、小とよはそのままその家に上がった。
玄関の両脇に小さな犬が二頭座って、小とよを眺めているが、二頭共にこの世の者ではないらしく吠えることもなく尻尾を振って小とよを歓迎した。
「このような年の暮れに、ご面倒をおかけしてしまい、もうしわけございません」
お梶の声が聞こえてくる。小とよは、奥の方を目指して歩いた。二頭の犬も、小とよに続いて歩いてきた。
寝所に座らされたお梶は左足を主人に見せている。刻一刻と腫れがひどくなっている。見ると右の頬まで腫れている。二頭の犬はその足元に駆け寄り、一頭は頬を、一頭は女主人の腫れた足を必死でなめた。
「心配するでない。明日はお真佐が戻るではないか。家のことはあの子がやってくれるであろう」
「でも、せっかくの参勤が終わり戻ってくるのに働かせるのは氣の毒ですわ」
なるほど。娘も女中勤めでもしているのか、大名とともに江戸から戻ってくるのだな。せっかく揃っての正月だというのに、怪我とは氣の毒に。これは何としてでもこの一家に何やら福を呼び込まねば。
小とよは、自分にできることはないかと家の中を歩き回った。しかし、童の小とよは宵っ張りには慣れておらず、座敷であっさりと眠り込み、氣がつくと朝を迎えていた。
目が覚めたのは、勝手口からの声が聞こえたからだ。
「おとと様、おかか様。真佐が戻りました」
途端に、家の奥からバタバタとした音が聞こえた。
「お真佐、お帰り!」
目をこすりながら、小とよが座敷を出て、勝手口の方へと歩いていると足を引きずりながら急いで出てきたお梶と正面衝突してしまった。小とよの方は蹲って事なきを得たものの、既に昨夜からの痛みを堪えて無理に歩いていたお梶の方は、すぐに体勢を崩し、柱に激突して倒れてしまった。
ものすごい音を聞いて、娘のお真佐も飛んできたし、奥から主人も小走りで出てきた。
「おかか様!」
「お梶!」
お梶は二度目の激痛にしばらく声も出せずに耐えていた。二頭の犬があわてて駆け回り、二人に介抱されてお梶がまた寝所に向かうのを、小とよは震えながら見ていた。
一度ならず二度までも転んだのは、かなり自分のせいに近い。もちろん小とよがそれを望んだわけではないのだが、あまりといってはあまりだ。
しかも、よく見るとお梶が派手に転んだあたりに眼鏡が落ちている。前にいた八福屋では主の虎左衛門が舶来の貴重品として嬉々として使っていたので、小とよもこれが大切なものだとわかった。ギャマンにヒビは入っていないが、額当てが曲がってしまっている。
小とよは、その眼鏡をもってそっと寝所に行き、文机にそっと置いた。
二人に介抱されている間も、お梶の顔は打撲のために新しく腫れてきて、昨日打ったと思われる腕には大きな青あざが広がっていた。
小とよは、玄関口に行って、やるせなく往来を見回した。頼りになる鬼神でも歩いていれば、助けを求めようと思ったのだ。
年末で、忙しいのは人ばかりではない。福の神たちも今年の仕事納めと、年明けの初詣の時にきちんと座にいられるように忙しなく動き回っているのだ。
跳ねている白兎を見つけて、小とよは急いで呼んだ。
「いいところに、白兎さん、ちょっと止まってください」
来る年の干支としていつも以上に多忙の白兎は、「それどころではない」という風情で一度は通り過ぎたが、思い直したのか「しかたないな」と振り返ってやって来た。
「おや。座敷童の小とよか。あんた八福屋にいたんじゃなかったっけ?」
「それが、八福屋に邪険にされて、ちょっと出たの。そしたら、お屋敷が燃えちゃって、昨日からここに来たんです」
「へえ。八福屋はずっと羽振りがよかったけど、あんたのおかげだと知らなかったのかねぇ。……ところで、困っている様子だけど、どうしたんだい?」
小とよは、今とばかりに昨夜からのお梶の不運について訴えた。
「助けてあげたかったのに、かえっていっぱい怪我をさせてしまったみたいで、心苦しいの。ねえ、白兎さん、少彦名命さまにお取り次ぎしてくれない? 少しでも早く治していただきたいのよう」
白兎も、さすがにお梶が氣の毒だと思ったのか、頷いた。
「わかったよ。この家の者は日頃の行いもいいと聞いているからね。今日、お願いしてみるよ。あと、眼鏡が壊れたといったね。そっちは玉祖命さまの管轄だから、伝えておこう」
神様へのお願いが上手くいったので、小とよは安心して家の中に戻った。
少彦名命さまは、医薬と健康だけでなく、酒造りと温泉療法も司る。それらにたくさん触れれば、治りも早くなるだろう。小とよは、すぐに風呂場に向かい、心を込めて掃除をすると、温泉の水を運んできて風呂桶を満たした。
それから、台所に向かうとお供え用に用意してあるお正月用のお酒を極上のものに移し替えた。これで、少彦名命さまをお迎えする準備は万全。ついでに、お梶がこのお風呂に浸かって、このお酒でお正月を祝えば、きっと少彦名命さまの霊験あらたかとなるだろう。
玉祖命さまは、眼鏡の神様であるだけでなく、三種の神器である八尺瓊勾玉を作った宝玉の守り神。こちらにも、この家の者たちが見守っていただけるように、供物を用意しておこう。
見ると、お梶はきれいな物が好きなのか、さまざまな輝石や貝殻などを飾っている。ちょうどいいので、それらをピカピカに磨いてお正月に備えた。
二匹の人には見えない犬たちは、一生懸命働く小とよを不思議そうに眺めていたが、立派な神様たちをお迎えするためだと氣がついたのか、一緒になって準備を手伝ってくれた。
奥では、痛みを堪え腰掛けたまま用事を果たすお梶と、その母親の代わりに帰宅後すぐに張り切って働く娘のお真佐、そして、参勤交代から戻った主たちの御用に忙しく立ち向かう主人がそれぞれに、よりよき年迎えのために動き回っていた。
小とよは、なんとなく入ってきた家ではあるが、とても心地よい家だと思い、このままこの家に居着くことに決めた。来たる歳が、この家の皆にとって福に満ちたものとなるために、精一杯働こうと心を決めた。
(初出:2023年1月 書き下ろし)
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- 【小説】黒猫タンゴの願い (18.01.2023)
- 【小説】再告白計画、またはさらなるカオス (11.01.2023)
- scriviamo! 2023のお報せ (25.12.2022)
【小説】黒猫タンゴの願い
今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第2弾です。
かじぺたさんは、別ブログの記事で参加してくださいました。ありがとうございます!
かじぺたさんの書いてくださった記事 『2023年1月10日の夢』
かじぺたさんは、旅のこと、日々のご飯のこと、ご家族のことなどを、楽しいエピソードを綴るブロガーさんで、その好奇心のおう盛な上、そして何事にも全力投球で望まれる方です。いつも更新していらっしゃる2つのブログはよく訪問しているのですが、美味しそうなごはん、仲良しなご家族の様子、お友だちとの交流、すてきなDIYなどなど、すごいなあと感心しています。ご自分やご家族のお怪我やご病気の時にもまったく手抜きをなさらない姿勢にいつも爪の垢を煎じて飲みたいと思うのですが、思うだけできっと真似は出来ないでしょう。
そのかじぺたさんが去年はとてもおつらそうで悲しかったのですが、5年前に愛犬のエドさまをなくされた上、去年のこの時期にアーサーくんも虹の橋を渡ってしまわれたのですよね。
じつは、今回のお返しには、このエドさまとアーサーくんをイメージした2匹のコーギー犬をお借りして登場させています。2017年の「scriviamo!」でのお返し作品に出したうちのキャラと少しだけ縁がありそうな記事を書いてくださったので、そのままその世界観を踏襲して作りました。かじぺたさん、内容に少しでもお氣を悪くなさったら書き直しますのでおっしゃってくださいね。
なお、今回のストーリーは、先にかじぺたさんの記事を読まれることを推奨いたします。そうしないと意味不明かも……。
【参考】
今回のストーリーで触れられている『黒色同盟』と『黒い折り鶴事件』については、ここで読めます。読まなくても大丈夫なように書いてはありますが……。
『黒色同盟、ついに立ち上がる』
「scriviamo! 2023」について
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黒猫タンゴの願い
——Special thanks to Kajipeta san
黒蜘蛛のブラック・ウィドー、そして黒鳥のオディールは眉間に皺を寄せてひそひそと話をしていた。といっても2人、いや2匹とも全身完膚なきまでに黒いので、寄せた皺が定着してしまうのではないかと心配する必要はない。このストーリーの本題とはまったく関係のないことだが、レディたちにとってこれ以上に重要なことはない。
額の皺の次に2匹の心配の種となっているのが、黒猫のタンゴである。3匹とも『黒色同盟』の初期からのメンバーで、種の違いを超えた絆がある。例えばオディールはそこらへんの湖に浮かぶ白鳥には挨拶を返す程度の親しさしか持たないが、ブラック・ウィドーとは徹夜で恋バナをすることもある。
『黒色同盟』というのは、体色が黒い動物たちの互助組合のようなもので主に「黒いからといって排除されたり嫌われたりする理不尽について」定例会議を行い、事例の共有と対策を話し合っている。
さて、タンゴである。タンゴは誇り高き黒猫だ。真っ黒のつややかな毛並みが自慢。もちろん前足や後足などに白足袋を履いているような中途半端な黒さではなく、中世のヨーロッパにでもいたら真っ先に魔女裁判で薪の上に置かれたような完全な黒さだ。
子供の頃に、飼い主の車の前を横切ったら、その午後に飼い主が一旦停止違反でその月に何度目かの違反切符をくらいそのまま免停になってしまったという理由で里子に出された。新しい飼い主が密かに猫虐待を趣味としていることがわかったので、人間界に見切りをつけて自立し、それ以来、野良猫としてこの街に暮らしている。
みかんと温泉などで有名な、比較的温暖な県に暮らしているので冬の野宿も何とかなった。また、漁港も近いので干し魚などをちょろまかす機会にも恵まれた。追いかけてくる人間に追いつかれないようによく走るので運動不足とも無縁。飼い猫だった頃よりもずっと健康的に暮らしていると、淡々と語っていた。
そのタンゴが、塞ぎ込んでいる。
『黒色同盟』の定例会議に出てこなかったので、心配して探しにいくと、宝物であり唯一の財産ともいえるアジの干物を抱えてメソメソと泣いていたのだ。
「なに、いったいどうしたの?」
オディールが訊くと、小さな声でタンゴは答えた。
「鯛、ブリ、牡蠣、焼き肉……」
オディールと、ブラック・ウィドーは顔を見合わせてから笑った。
「何よぅ。食い意地張って、寝ぼけているだけ?!」
「もう。起きてよ!」
するとタンゴはキッとなっていった。
「寝ぼけてなんかいないよ。寝ていないもん」
「じゃあ、どうしたっていうのよ」
オディールが訊くと、タンゴは再びメソメソしながら言った。
「暖かいお家で、焼き肉&お刺身パーティーしていたんだよう。コタツもあるんだよう。僕も中に入れてもらって、パーティーに加わりたいって思ったんだけど、夜には僕って目立たないじゃないか。だから、氣づいてもらえなかったんだ」
ブラック・ウィドーは「ふん」と鼻を鳴らした。
「大人しく、玄関の前で待っていたって、開けてくれる人間なんかいないのは百も承知でしょ。勝手に入り込むのよ」
オディールは異議を唱えた。
「あんたのサイズなら、それも可能だろうけど、タンゴが入り込んだらバレて追い出されるに決まっているじゃない。そりゃ刺身のひと切れをくすねるくらいはいけるかもしれないけど、コタツで丸くなるのは無理でしょ」
タンゴはさらにメソメソした。
「そうなんだ。あの家は動物に優しいんだけど、でも、さすがに不法侵入者にコタツを提供するわけはないよ」
「さっきから、具体的な家のことを言っているみたいだけど、どこの家なのよ」
オディールが優しく訊いた。
「あの家だよ。ほら、『黒い折り鶴事件』の家」
タンゴがしょんぼりと答えた。
「あら。あの家ねぇ」
ブラック・ウィドーも「なるほど」と頷いた。『黒い折り鶴事件』とは、以前に『黒色同盟』が抗議行動をしようと押しかけた家である。きっかけはタンゴが通りかかって、「たくさんの折り鶴から黒い鶴だけ排除しようとしている、また差別だ」と早とちりしたからなのだが、結局黒い折り鶴は「かわいい」と飾ってもらえるという厚遇を得ていることがわかり、『黒色同盟』が喜びでお祭り騒ぎになったのだ。
「あの家なら、2匹のコーギーがいたはずでしょ。彼らに手引きしてもらえないの?」
オディールが首をひねった。
「2匹とも、虹の橋の向こうに引っ越したんだ」
「ええっ、いつ?」
2匹とも知らなかったので大層驚いた。
「えーっと、5年前と去年。どっちも今ごろだったっけ……あれ?」
タンゴが顔を上げて考え込んだ。
「どうしたっていうのよ」
オディールは羽をばたつかせた。
「うん。そういえば年上の方、たしか今日が祥月命日だ。来ているかも」
虹の橋の向こうに引っ越した動物たちは、お盆、お彼岸、キリスト教圏だと11月の死者の日、それに祥月命日には休暇をもらい、こちらに遊びに来ることが多い。残念ながらヒトには見えないことが多いのだが、動物たちは普通に会うし、会話を交わすこともある。
「あの家なら、来ているんじゃない? 行ってみたら?」
2匹に後押しされて、タンゴは『黒い折り鶴事件』の家に足を運んだ。
見るとコーギーはしっかり来ていた。命日ではないがもう1匹も仲良く休暇を取って遊びに来たらしかった。久しぶりの我が家で楽しく寛ぎ、飼い主たちに甘えまくっているようだ。
ガラス戸の外からタンゴがじっと眺めると、氣づいた年上のコーギーが近づいてきた。
「どうした、黒猫の坊や。ひさしぶりだな」
「ぼ、僕、相談があって……。今日なら、ここに来ているかもって思ったから」
「ほう。言ってごらん? 見ての通り、ヒトにはあまり氣づいてもらえないから、出来ることは限られているけどね」
その言葉を聴いて、もう1匹も面白そうだと近づいてきた。
タンゴは、彼の問題を話した。年末に美味しそうなパーティーを見て、入れてもらいたいとここに座っていたこと。でも、真っ黒で氣づいてもらえなかったこと。ペットだったときに邪険にされてばかりいたので、どうやってヒトに仲良くしてもらえるか知らないことなどだ。
「そうか。君はここの家の家族になりたいのかい?」
「そこまでは望んでいないけど、格別寒い夜には、入れてもらえたらいいなとか、刺身の端っことか、まだ肉のついている骨を分けてくれたら嬉しいなとか。あと、たまには、なでなでも……」
「ああ、ああいうの、いいよねぇ」
若いコーギーはうっとりと同意した。
年上のコーギーは、ふむと頷いた。
「なるほどねぇ。僕たちがこっちに住んでいたときなら、連れて行って紹介も出来たけれど、いまだとそれは難しいな」
「そ、そうですよね」
「僕たち、ときどきやるけどね。勝手に入り込んで食べたり、寛いだり」
若いコーギーが言うと、年上コーギーが言った。
「それは無理だろ。この坊やは、まだこっちの世界の住人だ。夢の中に自由に移動なんて……あ、まてよ!」
年上コーギーは何か思いついたようだった。若いコーギーは尻尾を振って期待の瞳を向ける。タンゴもじっと年上コーギーの言葉を待った。
年上コーギーは、しばらく何かをシミュレーションしていたようだったが、やがて満足げに頷くと重々しく言った。
「彼女の夢にしよう。幸いモノトーンの猫たちの思い出がたくさんあるからね」
「というと?」
タンゴは訊いた。
「僕たちや虹の橋の向こうに住んでいる仲間が、こっちに里帰りをしてもヒトには見えないことが多いんだけれど、夢の中ではお互いに見えるし、会話をすることも可能なんだよ」
年上コーギーがそう言うと、若いコーギーが口をはさんだ。
「でも、ヒト、起きるとすぐに忘れちゃうじゃないか」
タンゴはそうなのかと少しガッカリした。それを慰めるように年上コーギーは微笑んだ。
「だから、メインのメッセージがよく伝わるように、もしくは、多少違った風に記憶されても、後の現実世界で起こったときに氣づきやすいような印象を残すことが大切なんだよ」
「へえ。どうするの、どうするの?」
若いコーギーは尻尾を振って、年上コーギーとタンゴの周りをグルグルと周った。
「彼女の昔の友達たちに協力してもらうのさ。黒っぽい猫たちに、次々と家の中に入っていってもらう。そうすると、彼女の印象の中には『黒い猫の友達を、家に上げるのも悪くない』ってメッセージが残るだろう? そして、次に君がここに来たときに、そのメッセージがぼんやりからはっきりに切り替わるんだ」
タンゴは、年上コーギーを尊敬の目で見上げた。若いコーギーは尻尾を振ったまま訊いた。
「その夢、僕たちも一緒に行く?」
「いや、その夢には入っていかない方がいいな。僕たちが行くと、メッセージが正しく伝わらないだろう? 『コーギーを家に上げるのが悪くない』は夢で伝えなくてもわかっているし、僕たちが加わったらそもそも『会いたいよ』って意味だと印象に残ってしまうからね。僕たちは、別の日にあらためて逢いに行こう」
若いコーギーは頷いた。タンゴは、親切なコーギーたちにお礼を言って、またねぐらに戻っていった。
夢でのメッセージが上手く伝わったら、いつかタンゴも魚のあらを食べさせてもらったり、コタツ布団の上で休ませてもらったりする日も来るかもしれない。
そう考えるだけで、1月だというのに春が近づいてきたかのようにポカポカとした心地になってきた。今日はあの親切なコーギーたちのために福寿草の花と、お宝のアジの干物を供えようと思った。
(初出:2023年1月 書き下ろし)
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【小説】再告白計画、またはさらなるカオス
今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第1弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。
ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。
さて、「scriviamo!」では恒例化している『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。
最近、つーちゃん&ムツリくんの方に関心が向かいがちなので、強引にアーちゃんの恋路に話題を戻そうとしましたが、なんだかもっとカオスになってしまいました。あはははは。
【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私が書いた『やっかいなことになる予感』
ダメ子さんの『疑惑』
私の作品は以下のリンクからまとめ読みできます。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ
「scriviamo! 2023」について
「scriviamo! 2023」の作品を全部読む
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
再告白計画、またはさらなるカオス - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san
びっくりした。どこかに行ったかと思ったら、帰ってきたアーちゃんが、とんでもないことを言い出すんだもの。
「ねえ、つーちゃん。もしかして、ムツリ先輩に強引に迫られちゃったの?」
私は一瞬絶句。氣を取り直してこういうのが精一杯だった。
「何わけのわからないこといっているの? そんなわけないでしょ」
「でも、つーちゃん、ずっとため息ついているよ。何かあったのかなって」
そう言われて、ドキッとした。私、ため息なんてついていたっけ。
「そ、そうかな? それに、どこからムツリ先輩……?」
ダメだこりゃ。我ながら狼狽えすぎ。これじゃ、誤解されてもしかたないかも。アーちゃんは、ますます疑い深い顔になっている。違うってば。
そもそも「モテ先輩の彼女になるためにチャラ先輩を使って暗躍している」という噂が広まって、アーちゃんが女の先輩たちに睨まれている件をなんとかしようとして、ムツリ先輩に相談をしたかったんじゃないのよ。すっかり忘れてた。
だって、ムツリ先輩、あの大人っぽい女の人と特別な関係みたいだったし。いや、だから、私にはまったく関係のないことだけど。
私のことなんか、どうでもいいのよ。それよりもアーちゃんの件を何とかしないと。好きなのはモテ先輩じゃなくて、チャラ先輩だって、女の先輩方に認識してもらわないとこれから面倒だよ。
そう言おうとして、アーちゃんを見ると、なんか様子が違う。妙に嬉しそうだ。目が合うと、はにかんで笑った。
「さっき、チャラ先輩と普通にお話しできちゃった。名前も憶えてもらったし、嬉しいな。つーちゃんが助けてくれたから、ここまで親しくなれたんだもの。私もつーちゃんのために頑張るよ」
私は、慌てて断った。
「私の推しは日本にはいないから、頑張るのは難しいよ。氣持ちだけで十分。ありがとう」
こう言われたら、やっぱりアーちゃんのために頑張らなくちゃ。改めて作戦を練らなくちゃ。
「ねえ。アーちゃん。やっぱり、チャラ先輩の誤解をちゃんと解いた方がいいと思うんだ」
そういうと、アーちゃんはぱっと顔を赤らめて言った。
「それは、私もそう思うけど、どうしたらいいかわからないんだもの。来年のバレンタインデーまで待ってもいいかなあ」
そんな悠長なことを言っていたら、モテ先輩大好きな先輩たちに袋だたきにされちゃうよ。
「1年も待つ必要なんてないよ。なんなら明日にでもまたお菓子作ってきなよ。『作ったので、お裾分けです』とかなんとか言ってさ。そこで『なぜ』って訊かれたら、『バレンタインのチョコもチャラ先輩宛だったんです』って言えるじゃない」
アーちゃんは、きょとんとしていた。どうやら今の中途半端な仲の良さでも悪くないと思っているらしい。モテ先輩好きの皆さんからの悪評については氣づいていないみたい。とはいえ、私が強引に勧めたので、明日はクッキーを作ってくるみたい。
というわけで、私はムツリ先輩を探して、再告白のためのお膳立ての協力を仰ぐことにした。やっぱり、教室みたいな目立つところではあがり症のアーちゃんが告白できるわけはないし、目立たないところに連れ出してもらう必要がある。
またバスケ部にでもいるんだろうと、部室の方に歩いていったら無事にムツリ先輩を発見した。
『先輩。ちょうどいいところに。ちょっとアーちゃんのことでお願いが……」
「俺に? うん、なに?」
「このままじゃ、アーちゃん、モテ先輩のファンの先輩たちに睨まれてバスケ部でも立場が悪くなりそうですよね。だから、この辺で再告白させて、話をすっきりさせようかと」
「あー、なるほどね」
「で、明日、彼女がクッキーを焼いてくるってことにしたんですけれど、先輩を目立たないところに引っ張ってきてくれないかと……」
「あ。そういうことか。明日の放課後?」
「なになに、仲良く相談? 聞こえちゃったぞ」
その声にぎょっとして振り向くと、なんと当のチャラ先輩が後ろにいた。いつの間に。忍者か。
「えっと。つまり、その……」
慌てる私に、チャラ先輩は「みなまで言うな」という顔で続けた。
「それは、俺もいい案だと思うよ。もう1度モテの野郎にはっきりと告白するってのはさ。でも、俺たち男が告白場所まで行けと言っても、あいつ、簡単には行かなそうだろ。ちょっと策を練らないとなぁ。あ、思いついたぞ!」
そう言うと、チャラ先輩は校門に向かって歩いている1人の先輩を呼び止めた。
「おーい。いいところに、なあ、ちょっと!」
その人はおかっぱ頭の小柄な女性だ。たしかムツリ先輩と同じクラスだったような。
「まずい。チャラが暴走している」
ムツリ先輩が困ったように、チャラ先輩の後を追ったので、私もついていった。チャラ先輩は帰宅しようとしているその先輩と話し始めている。
「なあ。君さ。モテの隣の席じゃん、名前、なんだっけ、えーと」
「多迷さんだろ」
ムツリ先輩が小さな声で指摘する。
「そうそう。あのさ。明日の夕礼の直前にさ、モテにメモを渡してくれないかな。あいつに告白したい子がいるんだよ。俺たちが言っても素直には来てくれないと思うけど、普段、関わりの少ない多迷さんからメモをもらったら、モテもつべこべ言わずに来てくれると思うんだ」
多迷先輩は、先ほどからなんだか慌てた様子で、ほとんどはっきりとした返答を返していない。アーちゃんとは違うタイプだけれど、コミュニケーションが上手ではなさそう。
私とムツリ先輩は、無言でうなずき合った。こうなったら、この状況を利用させてもらおう。
あとで、この多迷先輩に事情を説明して、そのメモはモテ先輩には渡さないようにしてもらおう。そして、ムツリ先輩には、告白を遠くで見守ると称してチャラ先輩をここに連れてきてもらい、ここでアーちゃんに告白させる。うん。それでいこう。
多迷先輩は、チャラ先輩に押し切られて何かモゴモゴ言っている。大丈夫、その役目、やらずに済むから。
そんなやり取りをしている時に、また別の先輩が通りかかった。わりと明るめの髪をしたこの人は、知ってる。たしか愛瀬ミエ先輩。前、モテ先輩とつきあっているって噂になっていたような……。
「ダメ子っちじゃん。楽しそうに、なにしているの? 私も混ぜて」
「お。君も協力したい? 実は、俺たちの後輩の子がさ。明日モテのやつに告白するのを多迷くんに協力してもらうことになったんだよ」
「おい、チャラ……その子さ、たしか……」
ムツリ先輩も、噂は知っていたみたいだけど、チャラ先輩は知らないのかな? あらあら、多迷先輩も焦っているし、愛瀬先輩はその多迷先輩を見て涙目になっているみたい。
ああ、ちゃちゃっと告白し直しで話がおさまるかと思いきや、また別のカオスが起き始めているかも。明日が思いやられるよ。
(初出:2023年1月 書き下ろし)
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【小説】再告白計画、またはさらなるカオス
今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第1弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。
ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。
さて、「scriviamo!」では恒例化している『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。
最近、つーちゃん&ムツリくんの方に関心が向かいがちなので、強引にアーちゃんの恋路に話題を戻そうとしましたが、なんだかもっとカオスになってしまいました。あはははは。
【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私が書いた『やっかいなことになる予感』
ダメ子さんの『疑惑』
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「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
再告白計画、またはさらなるカオス - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san
びっくりした。どこかに行ったかと思ったら、帰ってきたアーちゃんが、とんでもないことを言い出すんだもの。
「ねえ、つーちゃん。もしかして、ムツリ先輩に強引に迫られちゃったの?」
私は一瞬絶句。氣を取り直してこういうのが精一杯だった。
「何わけのわからないこといっているの? そんなわけないでしょ」
「でも、つーちゃん、ずっとため息ついているよ。何かあったのかなって」
そう言われて、ドキッとした。私、ため息なんてついていたっけ。
「そ、そうかな? それに、どこからムツリ先輩……?」
ダメだこりゃ。我ながら狼狽えすぎ。これじゃ、誤解されてもしかたないかも。アーちゃんは、ますます疑い深い顔になっている。違うってば。
そもそも「モテ先輩の彼女になるためにチャラ先輩を使って暗躍している」という噂が広まって、アーちゃんが女の先輩たちに睨まれている件をなんとかしようとして、ムツリ先輩に相談をしたかったんじゃないのよ。すっかり忘れてた。
だって、ムツリ先輩、あの大人っぽい女の人と特別な関係みたいだったし。いや、だから、私にはまったく関係のないことだけど。
私のことなんか、どうでもいいのよ。それよりもアーちゃんの件を何とかしないと。好きなのはモテ先輩じゃなくて、チャラ先輩だって、女の先輩方に認識してもらわないとこれから面倒だよ。
そう言おうとして、アーちゃんを見ると、なんか様子が違う。妙に嬉しそうだ。目が合うと、はにかんで笑った。
「さっき、チャラ先輩と普通にお話しできちゃった。名前も憶えてもらったし、嬉しいな。つーちゃんが助けてくれたから、ここまで親しくなれたんだもの。私もつーちゃんのために頑張るよ」
私は、慌てて断った。
「私の推しは日本にはいないから、頑張るのは難しいよ。氣持ちだけで十分。ありがとう」
こう言われたら、やっぱりアーちゃんのために頑張らなくちゃ。改めて作戦を練らなくちゃ。
「ねえ。アーちゃん。やっぱり、チャラ先輩の誤解をちゃんと解いた方がいいと思うんだ」
そういうと、アーちゃんはぱっと顔を赤らめて言った。
「それは、私もそう思うけど、どうしたらいいかわからないんだもの。来年のバレンタインデーまで待ってもいいかなあ」
そんな悠長なことを言っていたら、モテ先輩大好きな先輩たちに袋だたきにされちゃうよ。
「1年も待つ必要なんてないよ。なんなら明日にでもまたお菓子作ってきなよ。『作ったので、お裾分けです』とかなんとか言ってさ。そこで『なぜ』って訊かれたら、『バレンタインのチョコもチャラ先輩宛だったんです』って言えるじゃない」
アーちゃんは、きょとんとしていた。どうやら今の中途半端な仲の良さでも悪くないと思っているらしい。モテ先輩好きの皆さんからの悪評については氣づいていないみたい。とはいえ、私が強引に勧めたので、明日はクッキーを作ってくるみたい。
というわけで、私はムツリ先輩を探して、再告白のためのお膳立ての協力を仰ぐことにした。やっぱり、教室みたいな目立つところではあがり症のアーちゃんが告白できるわけはないし、目立たないところに連れ出してもらう必要がある。
またバスケ部にでもいるんだろうと、部室の方に歩いていったら無事にムツリ先輩を発見した。
『先輩。ちょうどいいところに。ちょっとアーちゃんのことでお願いが……」
「俺に? うん、なに?」
「このままじゃ、アーちゃん、モテ先輩のファンの先輩たちに睨まれてバスケ部でも立場が悪くなりそうですよね。だから、この辺で再告白させて、話をすっきりさせようかと」
「あー、なるほどね」
「で、明日、彼女がクッキーを焼いてくるってことにしたんですけれど、先輩を目立たないところに引っ張ってきてくれないかと……」
「あ。そういうことか。明日の放課後?」
「なになに、仲良く相談? 聞こえちゃったぞ」
その声にぎょっとして振り向くと、なんと当のチャラ先輩が後ろにいた。いつの間に。忍者か。
「えっと。つまり、その……」
慌てる私に、チャラ先輩は「みなまで言うな」という顔で続けた。
「それは、俺もいい案だと思うよ。もう1度モテの野郎にはっきりと告白するってのはさ。でも、俺たち男が告白場所まで行けと言っても、あいつ、簡単には行かなそうだろ。ちょっと策を練らないとなぁ。あ、思いついたぞ!」
そう言うと、チャラ先輩は校門に向かって歩いている1人の先輩を呼び止めた。
「おーい。いいところに、なあ、ちょっと!」
その人はおかっぱ頭の小柄な女性だ。たしかムツリ先輩と同じクラスだったような。
「まずい。チャラが暴走している」
ムツリ先輩が困ったように、チャラ先輩の後を追ったので、私もついていった。チャラ先輩は帰宅しようとしているその先輩と話し始めている。
「なあ。君さ。モテの隣の席じゃん、名前、なんだっけ、えーと」
「多迷さんだろ」
ムツリ先輩が小さな声で指摘する。
「そうそう。あのさ。明日の夕礼の直前にさ、モテにメモを渡してくれないかな。あいつに告白したい子がいるんだよ。俺たちが言っても素直には来てくれないと思うけど、普段、関わりの少ない多迷さんからメモをもらったら、モテもつべこべ言わずに来てくれると思うんだ」
多迷先輩は、先ほどからなんだか慌てた様子で、ほとんどはっきりとした返答を返していない。アーちゃんとは違うタイプだけれど、コミュニケーションが上手ではなさそう。
私とムツリ先輩は、無言でうなずき合った。こうなったら、この状況を利用させてもらおう。
あとで、この多迷先輩に事情を説明して、そのメモはモテ先輩には渡さないようにしてもらおう。そして、ムツリ先輩には、告白を遠くで見守ると称してチャラ先輩をここに連れてきてもらい、ここでアーちゃんに告白させる。うん。それでいこう。
多迷先輩は、チャラ先輩に押し切られて何かモゴモゴ言っている。大丈夫、その役目、やらずに済むから。
そんなやり取りをしている時に、また別の先輩が通りかかった。わりと明るめの髪をしたこの人は、知ってる。たしか愛瀬ミエ先輩。前、モテ先輩とつきあっているって噂になっていたような……。
「ダメ子っちじゃん。楽しそうに、なにしているの? 私も混ぜて」
「お。君も協力したい? 実は、俺たちの後輩の子がさ。明日モテのやつに告白するのを多迷くんに協力してもらうことになったんだよ」
「おい、チャラ……その子さ、たしか……」
ムツリ先輩も、噂は知っていたみたいだけど、チャラ先輩は知らないのかな? あらあら、多迷先輩も焦っているし、愛瀬先輩はその多迷先輩を見て涙目になっているみたい。
ああ、ちゃちゃっと告白し直しで話がおさまるかと思いきや、また別のカオスが起き始めているかも。明日が思いやられるよ。
(初出:2023年1月 書き下ろし)
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【小説】鐘の音
今回の選んだのは、楽器というのはちょっと無理があるのですが、教会の鐘です。ヨーロッパの生活にとって、腕時計やスマホが普及した現代ですらかなり大切な存在なのですけれど、今回の作品の舞台に選んだ中世(実はここはフルーヴルーウー城下町。でも、マックスが領主様ではないです)ではもっと重要な存在でした。
ここに出てくる2人は、まだ未発表の私の妄想にだけある作品のカップルなのですが、12月分のためにイメージしていた『Carol of the Bells 』の世界観にちょうどはまったので、出してしまいました。かなり自己満足な世界観が炸裂していますが、お氣になさらずに。そして、これが今年発表する最後の小説になります。

鐘の音
鐘が鳴り響いている。その音は、屋内では考えられぬほどの力強い響きで降り注いでくる。そして、世界に語りかける。教会に集え、神を褒め称えよ、強き者も、弱き者も、すべてを救う神の御子を待ち望めと。
水飲み泉は街道に向かう門にほど近い町外れの一角にある。レーアは六角形の1つの面に背中をもたせかけて蹲っていた。
そこは、半年ほど前に彼女が高熱で倒れ、死にかけた場所だ。あの時と同じく、今の彼女にはどこにも居場所がなかった。
熱はないけれど、今度は真冬だった。昼でも冷たかった風が、日が暮れてからは切るように彼女を苛みはじめた。
昨夜を過ごしたアーケードは、風から守られていた。寒くて眠ることはできなかったが、動けなくなるほどのつらさではなかった。今朝、あそこから追い出されたときに、城壁の中でもう1度見かけたら棒で打ち据えると脅された。
昨夜、2日前に雇い入れられたばかりの屋敷で主に夜伽を強要され、逃れるためにレーアがついた嘘は功を奏した。
「私に触れない方がいいです。私は、犬の血を浴びました」
犬を殺すこと。それは、もっとも忌み嫌われる行為で、その血に触れた者に触れることも、同じ禁忌を犯したと見做され社会から抹殺される。
好色でも蚤のような心臓しか持たない男は、慌ててレーアを自由にしたが、すぐに屋敷から追い出された。たった2日で、彼女は仕事と住まいの両方を失った。
それ以前、夏から彼女がいた所は、暖かかった。《周辺民》と呼ばれる、忌み嫌われる人びとが住む一角で、貧しい人びとが住む小さく狭い家々がひしめく地域に、森に面した裏口を持つ奥深い仕事場を備えた比較的広い建物だった。
行き倒れていたレーアをその家に連れて行き、看病をして半年も住まわせてくれたジャンは、革なめし職人だった。この仕事に就く者は《周辺民》からも敬遠される。それは、もっとも禁忌とされたある種の動物の血液に直接触れるだけでなく、強い臭いを放つ溶液や糞尿で皮を煮るその工程が迷惑がられたからだ。
しかし、レーアは数日間は高熱で朦朧としていたので、誰に助けられたか意識していなかった。縁もゆかりもない病人の世話をし、根氣よくスープを飲ませ、回復した後も家事を引き受ける以外の見返りも求めずにそのまま住まわせてくれた人に対して、嫌悪感を持つことないまま、彼と親しくなった。
それは、本来なら教会がしてくれるはずの庇護だった。だが、それを待っていたら彼女は助からなかっただろう。たぶん、今いるこの水飲み泉の傍らで、とっくに息絶えていたはずだ。
ジャンが彼女を抱きおこした時も、教会の鐘は鳴り響いていた。それは日曜日で人びとが夕べの祈りを捧げるために賛美歌を歌っているのが聞こえた。
「おい。どうしたんだ」
レーアは、「水を」と頼んだ。
泉から汲んだ水を飲ませてくれた後で、彼は訊いた。
「家は、どこだ」
レーアは、首を振った。高熱で朦朧としていたけれど、どこにも行くあてがないことは忘れていなかった。ジャンは、彼女をそのままにはせずに、抱きかかえて自分の家に連れて行った。自分の寝床に寝かせて、1週間以上も看病してくれた。
それからの半年間は、レーアにとって幸福そのものだった。物心ついたときから義父とその後添いに奴隷のようにこき使われてきた彼女には、《周辺民》として忌み嫌われる人びとの中で生きることなどなんともなかった。
鐘は、こんなにも大きな音で鳴るものだっただろうか。誰も通らなくなった寂しい通りに、それは雨のように降り注いだ。
やがて、その響きは、いつの間にかこの半年間に聞いた、彼の言葉となった。
「お前、なんて名前だ」
「水、もっと飲むか?」
「腹、空いていないか?」
「こっちに来て、暖まれ」
煌びやかな教会の装飾や神父ら、立派な日曜日の衣装に身を包んだ紳士たちは、レーアには冷たかった。そうではなくて、忌み嫌われ、すえた臭いをさせて、教会墓地に埋めることすら拒否される、社会の隅に追いやられた存在が、彼女にとっての福音だった。
ジャンは、ぶっきらぼうだが優しかった。彼女は、生まれて初めて家事に対しての礼を言われた。作った食事は「美味い」と賛辞をもらった。冷たい泉で洗濯をすることも、大量の繕い物をすることも、ねぎらいや感謝の言葉をもらったことで、笑顔でできるようになった。対等に話をして、笑い合うことも、彼女には新鮮だった。誰かを好きになったのも初めてだった。
鐘は、容赦なく、彼女の聞きたくなかった言葉も思い出させた。
「行くな、マリア。……戻ってこい」
夜中に聞いた、起きているときには、決して悟らせなかった彼の願いは、レーアの儚い希望を打ち砕いた。
出て行きたいと望んだわけではない。けれど、彼の心の奥に住み続ける女性の影に、レーアは悟ったのだ。ここも、私の居場所ではないのだと。いずれ出て行くように言い渡される前に、ひとりで生きていく手立てを見つけなくてはならないと。
洗濯の時に逢う近所の女の1人タマラが、中央広場に店を構える商人の屋敷で洗濯女としての仕事を紹介してくれた。すぐに住み込みで来てくれと言われて、少し困った。こんなにすぐに、ジャンの元から去りたかったわけではなかったから。
ジャンは、タマラからその話を聞いて、ひどく怒った。それは、まったく想像もしなかった反応だった。レーアは、弁解もこれまでの感謝も口にすることを許されないまま、ジャンの家からたたき出された。
でも、その屋敷からもたった2日で追い出され、レーアは再び宿無しになった。
夏に、高熱に朦朧としながらこの街にたどり着いたとき、この水飲み泉に蹲っていたのは、少なくとも水を飲むことができたからだ。でも、今はもうこの泉では水を飲むことはできない。凍るから水が抜かれている。
なぜ、いつまでもここにいるのだろう。寒さを除けることも、水を飲むこともできない。あるのは、出会いの思い出だけだ。鐘と風の音を聴きながら、彼の声を思い出して、夜を過ごすのだろう。そして、きっと朝には目覚めることもないだろう。
それで、弔いでもまた鐘を鳴らすことを思い出した。
この世は、幸せに生まれついた豊かな者と、そうでない者とがいるが、誰にとっても等しく訪れるのが死だ。だから、レーアはこの音を聴くことを許されているのかもしれない。天が彼女に与えてくれる、分け隔てのない恵みがこれなのかと、彼女は聞きながら考えた。
だとしたら、彼の言葉を思い出しながら、どんな階層に生まれようとも変わりのない世界に行くのは、悪くない。
「……おい、ってば。聞こえないのか?」
こんな言葉、言われたことはなかったような。レーアは、ぼんやりと虚ろな瞳を上げた。影が星空を遮っている。
「……ジャン?」
かすれた声で訊くと、影はかがんで、彼の瞳が見えた。
「ここで何しているんだ?」
「……何も」
彼は、しばらく黙っていたが、拗ねたような声で言った。
「せっかくタマラが、俺のところに居たことを隠しておいてくれたのに、台無しにして追い出されたんだってな」
「ええ」
レーアは、そのまま彼の瞳を見つめていた。彼は、かまわず続けた。
「行くところがないなら、なんで帰ってこない。革なめしの所にいるより、凍え死にたいのか」
思いもよらない言葉にレーアは、首を振った。
「違う……。だって、2度と来るなって……」
ジャンは、ため息をついた。
「……そういえば、そんなこと言ったっけな。真に受けるな。とにかく、うちに来い。死ぬよりはいいだろ」
彼はそう言うと、踵を返して歩き出した。レーアがついてくるとわかりきっているように。
彼女は、立ち上がろうとして、そのまま前に倒れた。冷え切ってこわばった足は、まったく言うことをきかなかった。
彼は、振り向くと、戻ってきて「どうした」と訊いた。レーアが立てないのがわかると、「つかまれ」と言って彼女を抱き上げた。
「ごめんなさい」
うなだれる彼女に彼は答えた。
「せっかく助けたのに、ここで死なれたら腹が立つだろ。同じところだぞ」
鐘はまだ鳴り響いていた。風は同じように吹いていたが、それは彼女の命を終わらせるためではなく、鐘の音を遠くに届ける天の使いのみわざと変わっていた。
レーアは、ぐったりと頭を広い胸の中に埋めた。忘れがたい、あのどこか脳内を刺激する臭いがした。
かつてわずかに不快だった、それこそが革なめし職人をもっとも卑しい人びととして社会の片隅に追いやる独特の臭いを、レーアはこの上なく信頼できて安堵のできる徴として嗅いだ。
「前よりもずいぶん重くなったな」
息が少し切れているが、あいかわらずの皮肉が彼女を安堵させる。真剣な顔つきで怒鳴られ追い出されたときから止まらなかった悲しみが、風に散らされて消えていく。
鐘が鳴り響く。すべての人びとの上に。世間からも、教会からも見捨てられた、凍える2人の上にもこだまする。
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカによる福音書 2: 13-14(新共同訳)
(初出:2022年1月 書き下ろし)
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【小説】熾し葡萄酒
東京神田の路地裏にひっそり佇む小さな飲み屋『でおにゅそす』を営む涼子の若かりし頃の思い出の話。ミュンヘンのクリスマス市は、1度行ったことがあります。ミュンヘンに限らず、この時期のドイツ語圏では、スイスも含めて夜の戸外でグリューワインを飲む機会がたくさんあります。こちらも人たちにとって、冷えわたる雪景色の中でグリューワインを飲むのは、特別なノスタルジーを呼び起こす行為のようです。
そして、涼子にとっても、別の意味でグリューワインは特別な飲み物のようです。皆さん、メリークリスマス!
![]() | いつかは寄ってね |
熾し葡萄酒
涼子は、昼のように明るい広場を眺めた。スタンドがぎっしりと並び、白熱灯のランプで他よりも少し暖かそうに見える。星形の大きなクリスマス飾りや、煌めくクリスマスツリー用のオーナメントがところ狭しと並んでいる。しっかりと防寒した人びとがマフラーの間から吐く息は、白く濁り、白熱灯に照らされて霧のようにゆらりと立ち上って見えた。
商社に勤めて3年、涼子はずっと憧れていたドイツのクリスマス市を観るためにミュンヘンに来た。初めてのひとり旅は少し心細かったけれど、それを口にすれば誰も彼もやめろと言うので無理してなんでもないフリをして出発した。
去年の冬に、田中佑二にグリューワインの話を聞いてから、いつかここに来たいという願いを温めていた。佑二は、姉である紀代子のパートナーだ。まだ結婚していないけれど、一緒に住んでいる。大手町にある『Bacchus』という小さなバーを経営している青年だ。
両親がこの縁組みに大反対だったので、紀代子は駆け落ち同然で家を出た。涼子は、時おりこっそり『Bacchus』に通って、2人と連絡を取り合っていた。姉はアルバイトで家計を支えながら、佑二の夢である『Bacchus』の経営にも協力している。だから、ひとり旅が寂しいといっても同行を頼めるような状態にはなかった。
大手銀行に勤めている涼子の彼は、年末年始にしか休めない。でも、それではクリスマスマーケットには遅い。来年は、もしかしたら涼子自身の結婚の話が出たりして、クリスマス前に休暇を取ることはできないかもしれない。だったら、1人でもいいから行ってみよう。
それに……。涼子は、なんとなく彼と一緒にここには来たくなかった。
グリューワインの話は田中佑二に結びついている。静かな語り口、紀代子と見つめ合う優しい時間、それに騒がしい流行に踊らされない『Bacchus』店主としての姿。
バブルに踊る世間一般とは違う『Bacchus』という小さな世界は、涼子にとって神域のようなもので、浮かれた雑誌から引用したようなことばかりを言う交際相手を踏み入れさせたいとは1度も思わなかった。それと同じように、この旅もどちらかというとひとりで来たかったのだ。
チェックインを済ませたら、外はもう真っ暗だった。ミュンヘンの夜の訪れは東京よりも早いようだ。涼子は、空腹を感じなかった。だから、レストランにも行かず、クリスマス市を求めてホテルを出た。
ミュンヘンにはこの時期、市内にいくつものマーケットが建つ。ホテルのロビーで教えてもらった小さめの市までは徒歩で5分もかからなかった。歩いたのは短い時間だったのに、切るような寒さが頬を刺した。涼子はマフラーを立てて首をすくめた。
人びとが立ち止まり、白く息を吐きながら大声で話しているスタンドがある。人びとの手元を見ると、陶製のマグカップを包み込んでいる。あれがグリューワインに違いない。
涼子はスタンドに向かい、自分の注文していい順番を待った。ワインの香りが漂っている。
売り子が威勢よく「こんばんは」と言った。涼子はたどたどしく「こんばんは」とカタカナのドイツ語で答えて、グリューワインを注文した。
「普通のでいいのかい?」
ドイツ語ではらちがあかないと思ったのだろう、英語で質問が飛んできた。
普通以外のがあるとは知らなかったけれど、あれこれやり取りする自信が無かったので、頷いた。
赤いマグカップに、夜なので黒く見える濃いワインが湯氣を立てている。手袋を通して温かさが伝わってきた。ワインの香りに加えて、香辛料とわずかな甘い香りがする。ひと口、含むと柑橘類の香りが同時に喉を通っていった。
「グリューっていうのはドイツ語で、赤々と燃えるっていう意味らしいよ。たとえば、炭が真っ赤に燃えている時にもグリューって言葉を使うんだ」
出発前に『Bacchus』に行ったとき、佑二はカウンターにグリューワインを置いてそう言った。
グリューワインは、赤ワインにシナモンや八角、グローブなどのスパイスを加えて熱したものを漉し、はちみつやオレンジを加えて作る。『Bacchus』ではガラスのティーグラスに入って出してくれるので、ワインの深く濃い紅や輪切りのオレンジが綺麗に見えた。
「でも、本当に熱々に、つまり沸騰させるような加温をしてはいけないんだ。アルコールが飛んでしまうからね」
佑二の言葉が蘇る。手の中に収まった赤い陶器の中身は、佑二が作ってくれたグリューワインよりもスパイスが強くアルコール分もきつい尖った味だった。
でも、心地よく温められた『Bacchus』と違い、この寒さの中では微妙な味わいよりも、強いアルコール分で身体を温めることが優先されるような氣がした。
人びとは、他では見ないほど大きな声で話し合っている。ドイツ人でも酔ってくるとこうなるのかと、不思議な思いで眺めた。そういえば、甘くて美味しくてもグリューワインをたくさん飲むのは危険だと、ホテルの従業員に言われた。
涼子は、黙ってマグカップを手で包み、グリューワインを飲んだ。『Bacchus』で飲んだものとは違う味なのに、思い出すのはあのティーグラスの中身と、それを作ってくれた人だ。
お酒のことに興味を持って調べるようになったのも、料理が好きになってあれこれ試すようになったのも、見知らぬ人との会話をただ楽しめるようになったのも、『Bacchus』に通ってからの変化だ。
旅立ってから、1度もつきあっている彼のことを考えていなかった。悪い人ではないのに、何かかみ合わないことをいつも感じていた。それが何かを涼子はきちんと考えたことがなかった。告白されてつきあうことにしたけれど、彼が涼子のことを愛しているとは思えなかった。見かけや、勤め先、服装などが彼の脳内マニュアルに合致しているだけのような印象が強かった。
そして、そのことに涼子は傷ついたことすらなかった。彼といる時はいつも「完璧なデートマニュアル」をプログラムされたロボットと行動しているような感覚に襲われた。マニュアル通りの間隔でデートの誘いが来るので一緒に出かける。会話はそつはないけれど、特に面白くもない。彼の興味対象をもっと深く知りたいと思ったことはない。
子供じゃないし、熱烈な恋愛をして結婚しなくちゃいけないなんて思っていないけれど、でも、きっとこれは何か間違ったことをしている。涼子は、グリューワインを飲みながら思った。
比較する相手が姉のパートナーだというのも大いに間違っている。そう……。つまり私は、佑二さんのことを好きみたい。認めないように抵抗していただけで、本当はもうずっと前から。紀代ちゃんの彼で、義兄になる人だってわかっていたのに……。
ため息は白く凍り、温かいワインの中に溶けていく。オレンジとシナモンのエキゾチックな香りが、涼子の想いに混じって凍てつくドイツの師走に消えていった。
「涼子ママ、何を飲んでいるの?」
常連の橋本が、不思議そうにのぞき込んだ。
神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。2坪程度でカウンター席しかないこの小さな店を、涼子が持ってからまもなく7年になる。和風の飲み屋で、涼子はいつも和服で店に立っているし、普段はワインもメニューにはない。
「これ? グリューワインよ。スパイスをドイツに行かれた方からいただいたので、懐かしくて作ってみたの」
涼子は、微笑んだ。
「へえ。珍しいね。アルコールはワインよりも弱いのかな?」
橋本は興味を持ったようだ。
「これは、ワインはほんの少し、代わりに葡萄ジュースを混ぜて作ったから弱いわよ。私が酔っ払うわけにいかないもの。でも、本来はワインよりも弱くはならないの。人によっては強いお酒も入れたりするので、ワインよりもアルコールは多いこともあるんですって」
「さすが涼子ママ、詳しいねぇ。僕も飲んでみたいな。メニューにはないけど注文できるのかい?」
「ええ。もちろん。ちゃんとワインだけで作りましょうか?」
涼子は、20年以上前のミュンヘンの夜のことを思い出していた。あの時と、今はどれほど違っていることだろう。
両親が姉である紀代子と田中佑二との結婚に反対したのは、「普通の勤め人の方がいい」という固定観念からだったが、涼子自身も自分は一部上場企業に勤め続けやがて誰かと結婚すべきだという価値観にまだ囚われていた。
そのこだわりを、あれから1つ1つ脱ぎ捨ててきた。今は、ひとりでこの小さな店だけを頼りに暮らすようになった。慎ましくも自分らしく生きられるようになった。
クリスマスを意識して着ているとはいえ、黒地の小紋は実はヒイラギではなくて南天だ。合わせた名古屋帯は深緑に雪片のモチーフ。こうした遊び心も、あの頃は生み出す余裕がなかった。
会社勤めのわずかな休みに無理してガイドブックを頼りに行ったクリスマス市。形だけつきあっていたような人に、別れを告げてこれまで続く独身としての道を歩き出したのもあの年末だった。
田中佑二を好きなことは変わらない。想いが伝わっていないこともあの頃と同じだ。
紀代子が理由も告げずに日本から立ち去ってしまった後、残された佑二や涼子の家族の心には大きな空白が空いた。でも、その空白と時間が、涼子の愁いをも取り去ってしまった。紀代子に対する後ろめたさも氷砂糖が熱い飲み物に溶けるように消えていった。
誰の恋人、誰の結婚相手、共通の未来といった概念は、もう涼子の中では意味をなしていなかった。ただ、じっくりと樽の中で寝かせた良質のワインのように、そして、焰がおさまり静かに紅く熾る炭火のように、ずっと静かに存在し続ける確かな想いになったのだ。
ミュンヘンで手渡されたマグカップの代わりに、釉薬のかかった素焼きの湯飲みに、涼子はグリューワインを注いだ。
温もりが両手にも伝わる。味は佑二の作ってくれたグリューワインに近づけただろうか。
冬は嫌いじゃない。涼子は、カウンターにグリューワインを置き、静かに微笑んだ。
(初出:2022年12月 書き下ろし)
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(15)タイユ徴収 -2-
食事の時に隣に座った農民らのヒソヒソ話を小耳にはさみ、黙っていられないレオポルドは話しかけてしまいました。
今年の『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』の更新は、これでおわり、しばらくお休みです。旅の続きは来年、お楽しみに。遅くとも3月には連載を再開すると思いますが、例年の企画「scriviamo!」への参加者が少ない場合には、早々に再開するかもしれません。
![]() | このブログではじめからまとめて読む あらすじと登場人物 |
【参考】
![]() | このブログではじめからまとめて読む あらすじと登場人物 |
森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(15)タイユ徴収 -2-
農民は、こちらを見て「ああ、旅の商人か」という顔をした。
「いろいろさ。ゴーシュさまが定めた城壁修理タイユは8年前に始まった。修理なんか、もう全然していないのにさ。それに、大聖堂の鐘を修理するタイユはベッケム大司教様に払わなくちゃならねえ」
「一昨年始まった、森林管理官への御料猪の保護のためのタイユってのもわけわかんないよな」
それは、マックスも初耳だった。
「なんですか、それは?」
「密猟から猪を守るためのタイユだそうで。でも、それがなくちゃ猪の密猟を防げないというなら、その前に森林管理官はお給料もらって何してたんだって話だよな」
農民たちは、肩をすくめた。
「払えといわれたら、俺たちには払う以外の選択はないけれど、ただでさえ現金収入は少ないのに、どんどん勝手にタイユを新設されて、貴族の方々は何も払わなくてもいいなんて納得がいかないよな」
「旦那さんのお国では、ここまでタイユは求められないんですかい?」
レオポルドは、肩をすくめた。もちろん国王である彼にはタイユ支払いを求めるものなど1人もいないが、いまは旅する商人デュランとしての答えなくてはならない。
「十分払うものはあるが、すくなくとも違法な徴収は、ビタ1文たりとも払う用意は無いな」
「違法な徴収ですって?」
農民たちが驚いた顔をする。宿の女将も目を丸くしている。
「そうだ。マックス、お前はどう思う?」
話を振られて、マックスは肩をすくめた。
「一昨年始まった猪保護タイユは確実に違法ですね。森林保護官がタイユを徴収する権利は4年前からないはずですから。それに壁の修理が終わっているならば、タイユ徴収要件は完了しているので、今後の支払いをする必要はないですね。教会の鐘の修理も、そもそも10の1税の中から出すべきものでしょう」
農民たちはすっかり身を乗りだして、レオポルドたちの座る席の周りに集まってきた。
「それは、そうお偉いさんに言えば、払わなくて済むようになるものなんですかい?」
「きちんとした根拠もなくそれだけ言っても、罰せられるだけじゃないですか」
フリッツが小さな声で、騒ぎの元になったレオポルドに釘を刺した。
「この者たちに法的根拠の説明ができると思うか」
レオポルドが訊くと、マックスは首を振った。
「なにか書状でもない限り、どうしようもないでしょうね」
レオポルドは、ちらっとマックスの横に座るラウラの顔を見た。不要な課税に苦しめられている農民たちの困窮に心を痛めた様子で、訴えるような目つきで夫と国王の顔を代わる代わる眺めている。
「しかたないな。マックス、私に代わって書状を書いてやってくれ」
マックスは「はい」と言って、荷物から羊皮紙とペンを探して持ってきた。レオポルドと相談しつつ、タイユの起源、4年前の国王レオポルド2世による「徴収代行権の販売禁止令」に触れ、領主フルーヴルーウー辺境伯マクシミリアン3世が直接設定するタイユ以外の徴収は違法であること、引き続きタイユを求める場合は領主からの本年発行された日付入りタイユ継続命令書を提示する必要があることを書状にしたためた。
「と、まあ、こういう書状を作成して該当徴収者に提出すれば、それ以上取り立てに来ることはできなくなるでしょうね」
農民たち、宿屋の女将らは大いに喜び、商人デュランの一行には、それまでとは明らかに異なる良質の酒が運ばれてきた。農民たちは大きな声で歌いながら、デュランたちの席を囲み、遅くまで酒を酌み交わした。
夕食の後、一行は「主人の用事を果たすために」全員が商人デュランの客室に向かった。同じ階にまだ誰もいないことを確認してから扉を閉め、マックスは小さな声でレオポルドに文句を言った。
「まさか宿泊する度に、わが領の内政に干渉して回るおつもりじゃないでしょうね」
レオポルドは片眉を上げた。
「そなたからでは言いだしにくそうだったから、きっかけを与えてやっただけではないか。そなたが自分で判断して話の方向を決められるようにもしてやったしな」
「違法は違法ですから、あのままにはしておけませんよ。でも、いちいちこんなことをしていたら、あの商人の一行は何ものだと疑いを持たれますよ。自重してください」
レオポルドは「おお恐い」とでも言いたげな素振りをした。
「わかった、わかった。よほどのことでもなければ、口はださんさ。なんだ、そなたも、フリッツも。全く信用していないという目だぞ」
「いいですか。私がこの旅のお手伝いをしなければ、陛下はこの先、野垂れ死にですよ」
マックスが、多少強めに言った。
「そうか。それでは、そなたがグランドロン王として戴冠するというわけだな」
レオポルドは勝ち誇ったように言った。
「絶対にごめんです!」
マックスは身震いをした。見ているラウラとアニーは笑いを堪えるのに必死だ。フリッツも、あらぬ方向を見ている。
「だいたい、いくら陛下や廷臣の皆様、それにバギュ・グリ候が認めたといっても、まだ私を馬の骨と思っている、各国のグランドロン王位継承権を持つ方々は多いですよ。私なんかが戴冠するという噂が流れたら、カンタリアのご親戚あたりが横やりして王位を要求してくるんじゃないですか」
マックスが言うと、レオポルドは苦々しい顔つきになった。
「あの国には、死んでも王位を渡すものか」
フリッツは、そういうレオポルドにとどめを刺した。
「そうお思いなら、こういう酔狂はそこそこにして、さっさとお世継ぎをお作りください」
その晩、部屋に戻り商人デュランの秘書から、本来のマックスに戻って、彼はラウラに小さな声でつぶやいた。
「やれやれ。この旅の間に、自らうちの領地の収入を全て途絶えさせるようなことにしないといいが」
ラウラは笑った。
「全体としての徴税は減っても、きちんと理のある税は残り、そちらが元通り領主の金庫に入るようになれば、フルーヴルーウーやグランドロン王国にはむしろ得となる変更なのではないでしょうか」
マックスは頷いた。
「そうだな。これまで徴収代行権を買い取って私腹を肥やしていた連中は怒るだろうな。ベッケム大司教も……ひどく怒るだろうな。これはなんとしてでもトリネアで教皇庁と近しくなる必要があるな」
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(15)タイユ徴収 -1-
城を出てはじめての旅籠にたどり着きました。この物語に出てくる各地域、は中世ヨーロッパの架空の王国として記述していますが、フルーヴルーウー辺境伯領に関しては私の住んでいる地域をモデルにして記述しています。なので、ヴェルドンを中心とする他のグランドロン王国の地名や言語がドイツ語風なのと比較して、イタリア語やロマンシュ語などのラテン語系言語の影響が強くなってきています。
今回のテーマにした「タイユ」という税については、ドイツ語での名称がわからなかったのですが、スイスではフランス語の単語をそのまま取り入れてしまうことも多く、この際、グランドロンでもルーヴラン風の単語がそのまま用いられているという設定にしてみました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(15)タイユ徴収 -1-
マックスとフリッツが選んだ旅籠は、プント・カプラという村にあった。小さな城塞の麓にあり、ヤギの彫刻を施した木の橋が村の入り口にあった。
貴族などが泊まる豪奢な宿はかなり先のボーニュという街にある。この辺りの村々では、それぞれ旅籠が1軒はあったが、泊まるのは平民だ。プント・カプラの旅籠は適度に目立たず、その一方で3頭の馬が目立たぬように馬小屋に置ける。そこそこ清潔なうえ、飢え死にしないだけの料理も出そうだ。
「裕福な商人ならこの程度の宿に泊まるのが適当でしょう。もちろんボーニュの『白鷲亭』まで行ってもいいのですが」
マックスが訊くと、レオポルドは首を振った。
「知っている顔に出くわす可能性を減らすには、こちらの方がいいのだろう。そちらの奥方さまが嫌でなければな」
話を振られたラウラはにっこりと笑った。
「商人の従者の妻ですもの、あまり立派な旅籠は氣後れしますわ」
旅籠の女将は、立派な商人の一行と見ると、丁寧に挨拶をし、3つの部屋をあてがった。一番上等の部屋はもちろん「旦那様」ことデュランが、そして従者マックス夫妻と護衛フリッツ夫妻は1つ下の階の部屋に案内された。
部屋に案内されると、フリッツはすぐに小さな声で言った。
「心配しなくても、私は陛下の部屋で護衛をする」
アニーは、口を尖らせていった。
「そんな心配はまったくしていません」
フリッツは、たとえ同じ部屋で眠ることになっても、こんな子供に誰が手を出すかという顔をして上の階の「旦那様」の部屋に向かった。
「ラウラさま。伯爵さま。お召し物などを出しましょう」
ラウラたちの泊まる部屋にやって来たアニーに、困った顔をしたマックスが小さな声で忠告した。
「ダメだよ、アニー。こういう場では、君がお世話をするのは、旦那様であるデュランの方だ。僕たちは、自分で服を着たり、着替えをたたんだりするんだ。いいね」
レオポルドは、村の旅籠に泊まるのは初めてだったので、面白がっていた。フルーヴルーウー辺境伯領に着くまでも、ヘルマン家の馬車に乗り身分を偽って来たものの、当然ながら貴族の泊まるきちんとした旅籠をフリッツが選んで泊まったのだ。当然ながらその時は宿屋の女中たちが甲斐甲斐しく世話をするような扱いを受けたのだが、今回は荷物を運んでくれた以外は放置され、一番いい部屋といいながらもかなり狭いことや、用意されたリネン類も新しくないことがもの珍しく楽しそうだった。
マックスにとっては、遍歴教師時代にかつて泊まったことのあるあらゆる宿泊施設の中でも、かなりいい部類に入る旅籠だが、国王の酔狂に合わせるだけでなく2人の女性の安全も考えると、このくらいが落としどころだと判断した。フリッツも、その点は納得していた。彼にとっては国王の安全が重要で、旅籠の入り口や部屋の作りなども確認の上、マックスの判断の正しさを確認してむしろ安堵していた。
旅籠の1階は、居酒屋兼食堂になっており、まとめて出される定食を食べることになった。まず最初に出されるのはパンだ。もちろんフルーヴルーウー城で出てきたような香ばしいものではなく、今朝の、もしかしたら昨日焼いたものかもしれない固いものだ。他に食べるものもないので、それを食べながら、周りの客たちの話題に耳を傾ける。
「なあ。今年のタイユはどうなると思う?」
隣にいた農民たちが、薄いワインを口に運びながら、ヒソヒソと話し合っている。その話題が耳に入ると、マックスはレオポルドと無言で視線を合わせた。
「ゴーシュさまは、毎年、理由をつけては新しいタイユを創設してきたけれど、失脚なされた後、あれらがどうなったかは聞いていないんだよなあ」
タイユというのは、一種の軍事特殊税のことである。
農民は土地を耕し、収穫や食肉、乳製品または羊毛などの成果物で生計を立てていたが、その収入の中から支払わねばならぬ義務も多かった。土地は領主のものであったので、地代として貨幣により支払うか成果物を治めるいわゆる年貢があった。支払うべき年貢は成果物によって率が異なり、穀物や野菜は5%程度であったが、たとえば収益の大きい葡萄畑では15%もの年貢が求められた。
また、教会は収入の1割を要求するいわゆる1/10税を課した。このほかにパンを作るための粉ひきを独占する水車小屋に対する支払い、パン焼き窯の使用料など税には数えられていないが日々の生活で支払いを避けられない支出も多かった。
そうしたたくさんの支払い義務の他に、「地域社会の安全」などを理由に、個別の事情ごとに支払いを求められる、軍事特殊税があった。はじめにルーヴラン王国で始められた制度でタイユと呼ばれた。他の国も次々と導入したので、グランドロン王国でもタイユと呼ばれている。
表向きは、軍費を補うための税であったので、実際に従軍する軍を抱える貴族階級と教会関係は免除され、実質的に平民を対象とした人頭税の一種になっていた。当初は、戦争や紛争の度に一時的に定められて徴収されるものであったのだが、後に徴収を代行する貴族階級が領主から「徴収代行権」を買い取り、それから好き勝手に率を定めて徴収するという単なる貴族や教会による金儲け手段に変わった面があり、レオポルドが国王の地位に就いてから改革に乗りだした。すなわち、グランドロン王国では「徴収代行権の販売」は4年ほど前から禁止されていた。
「毎年、新しいタイユを設定? 誰になんのタイユを納めることになったんだね?」
レオポルドが、その農民に話しかけたので、マックスはぎょっとした顔をした。
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【小説】モンマルトルに帰りて
今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第8弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
TOM-Fさんの書いてくださった 『ソリチュード ~La Route semée d’étoiles~』
TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、古事記と日本書紀に見える衣通姫伝説を下敷きにした古代ミステリー『挿頭の花 -衣通姫伝説外伝- 』。もともとの記紀にある人物がみなさんアレなので、もちろんものすごい展開なのですが、そのシチュエーションの中で胸キュンの純愛を織り込むという離れ業に感心しながらドキドキ読ませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。
さて、『花心一会』ワールドの若い(むしろ若すぎる)家元誕生の成り行きが明かされた今回のお話、ストーリーからいったら当然のことながら華道に対する知識がとても大切なポイントになっているのですよ。お返しを書き始めて困ったのがこれでした。私、全然わかっていない……。
なのにあえて火中の栗を拾いにいってしまいました。以前ヒロインの方のお家元がたった1人のために生ける『花心一会』をなさる様子を勝手に書かせていただいたことがあるのですが、今回はお母様にも無理やりです。ああ、玉砕しそうな予感。でも、レネがメインだから、逃げ切れるかな……。うう、ごめんなさい。
「scriviamo! 2023」について
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【参考】
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大道芸人たち・外伝
大道芸人たち・外伝
モンマルトルに帰りて
——Special thanks to TOM−F-san
「やっぱり迷惑なんじゃないかなあ……」
「いや、連絡したときにはそんな感じじゃなかったって」
ここに来るまでに、3回は繰り返した問答を、レネと稔はもう1度した。稔は、つい1週間ほど前に訪れたアトリエの呼び鈴を鳴らした。
中から現れた
今日の装いは落ち着いた紫の絞り小紋に、蒲公英の柄が微笑ましい濃い緑の名古屋帯。この色の組み合わせは早蕨襲、春を感じさせる。そうか。もう3月になったんだっけ。
「お忙しいのに、無理なお願いを聞き遂げてくださり感謝します。彼が、電話で話したレネ・ロウレンヴィルです」
「マダム・ミナセ、はじめまして。どうぞよろしく」
「どうぞよろしく。そんなに恐縮しないでくださいね」
そこは、パリの真ん中にあるというのに、東京以上に日本を感じさせる空間だ。
日本ブームがヨーロッパに広がってから、各地でそれらしい和室を目にしてきたが、畳が正方形だったり、障子の桟が白く塗られた合板だったりと、どこか「なんちゃって」感を否めない和室が多かった。そうした和室は、スーパーで売られる「SUSHI」と同じ香りがした。サーモンとアボカド、またはやけに鮮やかなトビコの安っぽさを眺める度に、「日本はそこまで近くはない」と感じ、かつ自分の方が日本を知っているのだとつまらない自負心を満足させるのだ。
だが、このアトリエには、稔が逆立ちしても叶わない日本文化の真髄が感じられた。
小上がりの座敷には、きちんとした炉が切られている。窓はわざわざ円窓にしてある。
この部屋を維持するのがいかに大変か、稔はよく知っている。日本にいれば電話一本で畳屋が来てくれるし、障子が破けてもホームセンターに行けば簡単に新しい障子紙を購入できる。梅や桃、桜や椿などもさほど苦労せずに入手できるだろう。極上の茶や主菓子も同様だ。
だが、ヨーロッパで、これだけの完璧な日本を維持するのは、並大抵のことではない。もちろんパリは大都会なので、日本人のネットワークを使えばそれは可能だろう。でも、この人は、日本人会などで同国人と固まっているタイプには見えない。まあ、俺には関係ないけれど……。
煎茶とともに小ぶりの大福餅が出てきた。和菓子の大好きなレネの顔が喜びに輝いたのを見て、稔は「本題を忘れるなよ」の意味を込めて肘で小さくつついた。
「それで、私に作ってほしいというのは?」
本題は、彼女の方から切り出してくれた。
「先日、ここにお伺いした日に、水無瀬さんのことを特別な人のための特別な花を生けるプロだって説明したんです。そしたら、彼が花をお願いできないかって……。ただ、俺はうまく訳せなくて英語でフラワーアレンジメントって言ってしまったので、生け花との違いも説明していただけると助かります」
そう言って稔は、レネに顔で続きを促した。
「ある女性のためにブーケかアレンジメントを作っていただけませんか」
レネが頼んだとき、愛里紗の顔にはなんとも微妙な表情が浮かんだ。おそらくそれは、この異国で先入観と無知に彼女の華道がフラワーアレンジメントと混同されたときの一瞬の抵抗なのかもしれないと、稔は思った。
愛里紗は、けれど、レネの頼みを簡単に断るようなことはしなかった。
「大切な女性への花なのかしら?」
「はい」
稔は「ふうん」という顔をした。ヤスミンはここに来ていないとはいえ、義理堅く一途なブラン・ベックがわざわざ特別な花をねぇ。
「承るかどうかを決める前に、どんな目的なのかを訊いても差し支えないかしら?」
愛里紗は、英語で話し続けている。レネとだったらフランス語で会話した方が早いだろうに、稔が同席しているのでそうしているのだろう。
「もちろんです。僕はここにいるヤスたちと出会って大道芸人として暮らし出す前は、ここパリで暮らしていました。その時に出会った女性です」
レネはゆっくりと語り出した。
レネにとって、パリの日々にはつらい記憶が多い。手品師の専門学校を終えて希望を持って花の都に上がってきたものの、ショーの花型になるどころかまともな稼ぎを得ることすら難しかった。
モンマルトル界隈のナイトクラブを転々として、はじめはホールスタッフと変わらぬ扱いを受けた。ようやく前座としてマジックショーを披露できるようになるまでは数年かかり、その間にもいろいろな人に利用されたり出し抜かれたりしながら、いつかは手品だけで食べていける日を夢見て暮らしていた。
恋もした。もともとはホールスタッフとして勤めだしたジョセフィーヌが、レネのアシスタントとして一緒にショーに出演することになってからは、彼女に夢中になった。
ええっ。その女かよ。稔は話を聞きながらぎょっとした。そいつ、ライバルに寝取られた同棲相手だろ?
「お花を贈りたいのは、その方?」
愛里紗が、口をはさむと、レネは首を振った。
「違います。彼女に、僕は夢中だったけれど、ジョセフィーヌはこの街で僕の味方になってくれた人ではなかった。それはエマだけだったと、今になって思うんです」
「エマ?」
稔は思わず訊いた。一度も聞いたことのない名前だったから。
レネは、頷いて彼のパリでの物語を続けた。
ムーラン・ルージュをはさんで、レネの勤めるナイトクラブとちょうど反対ぐらいの距離に小さい煙草屋があった。そこには店の染みのような小さな老婆がいて、いつもなにかに対して文句を言っていた。
「この頃の政治家ってのはなってないね。きれいな顔をして偽善的なことを口にすればまた当選するとでも思っているのかね」
「あんたの横柄な態度になぜこのあたしが我慢しなくちゃいけないのさ。嫌なら2度とこの店に足を踏み入れなければ良いだろ」
「あんたは母国がサッカーに負けたからって、周り中に当たり散らす権利なんかないんだよ」
「禁煙がトレンドだって? ひとの商売の衰退をわざわざ告げに来るとはいいご身分だね」
それがエマだった。
レネは煙草の類いは何も嗜まないので、この店に入るときはチョコレートを買うときだけだった。他の店にはない故郷プロヴァンスの小さな工場で作っている銘柄がこの店にはあったのだ。
レネにとって忘れられない思い出がある。
それは、パリを去った夏のことだ。ナイトクラブからクビを言い渡されたレネは、とぼとぼと帰り道を歩きながら、故郷の懐かしいチョコレートで心を慰めようとエマの煙草屋に入った。
レネは、思わず涙をこぼした。今日の午後、買い物から帰ってアパルトマンのドアを開けたら、なぜか同じナイトクラブで働くラウールが、ジョセフィーヌとベッドの上にいた。それだけでもショックなのに、出勤した途端にオーナーから彼のマジックショーは、今後ラウールとジョセフィーヌがやるのでお前はもう来なくてもいいと宣告されてしまったのだ。
自分の要領がよくないことはわかっていた。ラウールが優れた容姿で客たちから人氣があることもわかっていた。でも、真面目に精一杯生きてきたのに、こんな風に何もかも取りあげられたのかと思うと、やるせなくて涙が止まらない。
エマは「商売の邪魔になるから泣くな」などとはいわなかった。レネが落ち着くまで待って、話を聞いてくれた。今になって思えば、この街で、レネが自分の弱さや悲しみを吐露できたのは、これが初めてだった。
「あの雌狐なら、そのくらいのことをしても不思議じゃないと思うね。だから何度もいっただろ。あの娘には温かい血が流れていないって。あんたがこのチョコを勧めたとき、小馬鹿にしてそっちの大量生産のチョコをわざわざ買ったことがあったよね。人の思い出を踏みにじるようなヤツは、どんなに見かけがよくても中身は爬虫類と一緒だ」
レネは、それを聞いてよけい強く泣いた。ジョセフィーヌが、彼の故郷のあらゆる物を馬鹿にしていたことを思いだした。見下されていたのは彼の生まれ故郷ではなくて、彼自身でもあったのだと思うと情けなくて逃げたしたかった。
「仕事も恋人もなくなって、僕はどうしたらいいんだろう」
また1からこの街で手品をやらせてくれる場を探すかと思うと、レネは心から途方に暮れた。
エマは冷徹にも思える調子で言い放った。
「そもそもこの街はあんたみたいな弱くて純なヤツには向いていないんだよ。ここを離れるのが一番だ」
レネは言葉を失った。ようやくパリに慣れてきたと思ったのに。少し間を置くと、おずおずと言った。
「でも、どこにいったら……?」
エマは、少し温かく思える調子に変えてゆっくりと言った。
「南へお行き。あんたの故郷のプロヴァンスでも、もっと南の地中海でも、どこでもいい。ただし、ニースみたいなスノッブでおかしな人間の集まるところに行っちゃダメだ。広くて、大地に足をつけて人びとが助け合いながら生きている土地に行くんだ。最初にいったところにはいなくても、どこかには必ずいる。それを探すんだね。あんたの正直で優しい心持ちを大切にしてくれる輩がね。それを見つけたら、それがあんたのいるべき土地さ」
稔は、思わずレネの顔を見た。レネは、稔の目を見返して、はにかみながら笑った。
「その通りになったのね」
愛里紗が問う。
「はい。僕は、コルシカでこのヤスに会いました。それから、他の生涯の友達にも」
エマの直接的でお節介なアドバイスが、あの時レネをコルシカ島に向かわせた。悲しみに押し潰れることなく、新しい人生を探すための必要な背中のひと押しをしてくれたのは、店の染みのような小さな老婆だった。
「わかったわ。その方へ捧げるお花、ぜひ私に作らせてちょうだい」
愛里紗が微笑んだ。
「ありがとうございます、マダム」
レネが前のめりで礼を言う。
「でも、1つだけ確認したいの。西洋で作るいわゆるフラワーアレンジメントは、全方向から見られることを意識して作るものだけれど、日本の生け花というのは、たった一つの方向から見ることを想定してデザインするものなの。その方がどのように受け取るかのシチュエーションは決まっていたら教えてほしいわ」
愛里紗が訊くと、レネははっとして、1度下を見てからふたたび愛里紗の目を見据えた。
「正面は……どういえばいいのか。墓石の上に載せるので……。彼女はモンマルトル墓地に眠っているそうですから」
その言葉に、稔と愛里紗が同時に息を飲んだ。
「エマ・マリー・プレボワ ここに眠る」
小さな墓石は、必死で探さないと見過ごしてしまいそうだった。エドガー・ドガ、モーリス・ユトリロ、エミール・ゾラ、アレクサンドル・デュマといった錚々たる有名人の墓は大きく立派だが、そのモンマルトル墓地には、地域の一般人も埋葬される。
まだ、春といっても早いので、陽光は弱く柔らかい。周りの木々には膨らんだ芽はあるが若葉が現れるにはまだしばらくかかるだろう。
「お。来た来た」
稔が手を振ると、かなり向こうから蝶子とヴィルがこちらに向かってくる。
「ごめん。私たちが先につくぐらいだと思ったのに」
「探していた墓は、見つかったのか? ランパルだっけ?」
「ええ。せっかくここに来るんなら、お詣りしたくてね」
フルートの名手であったジャン・ピエール・ランパルも、モンマルトル墓地に眠っている。そういえば、ブラン・ベックはハイネの墓の場所を探していたから、後でそこに行くんだろうな、と思った。
「それが、例の日本人に作ってもらった花か」
ヴィルが珍しく明らかに感銘を受けたとわかる顔つきで訊いたので、稔はそうだろうなと思った。
レネは頷いた。手にしているのは半球型に盛られた、花かごだった。といっても花器として使われている籠は苔山で覆われほとんど見えない工夫がしてあり、まるで何もないところに偶然にも木や草花が育ったかのように見える。
1度左に向かってから弓なりに右に向かう盆栽のような枝振りの木はミモザだ。黄色い花が力強く明るく咲いている。そして、根元に絶妙なバランスでいけられたのは、フランス人のこよなく愛する『
レネがその籠を墓石の上に置くと、まるで彼女の墓から草花が遅い春を待てずに萌えだしたかに見えた。
「すごいわね。ここまでフランスっぽい素材だけを使っているのに、これはフラワーアレンジメントじゃなくって華道だってわかるように作れるものなのね……」
蝶子が感心してつぶやいた。
亡き人を悼む草花は弱い風にそよいでいる。
レネは、眼鏡を取ると涙を拭った。エマの声が蘇ってくる。
「くよくよするんじゃないよ。あんたが悪いんじゃない。今のめぐり合わせとの相性が悪いだけさ。あんたにふさわしい居場所はきっとあるからね」
(初出:2023年3月 書き下ろし)
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今回のテーマは農業です。王都ヴェルドン近郊の農地と、山岳地帯のフルーヴルーウー辺境伯の農地はかなり差があるもよう。現代社会ではトラクターや電動犂などが、どんな土地でもなどがしっかりと耕してくれますが、中世は立地によって先進農具が簡単に普及できる場所とそうでないところがあったようです。また、農地の規模も地域差があったのでしょうね。今でもスイスの農地はわりとこぢんまりとしています。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(14)鉄の犂
このまま森の中だけを進んで山頂まで行くのかと思っていた一行は、突如としてごく普通の農村にたどり着いたので一様に驚いた様相だった。
「なんだ。まだこんな平地だったのか」
レオポルドは、さっそく馬にまたがりマックスに話しかけた。
「ええ。そうです。フルーヴルーウー城下町から街道をそのまま通って進んでもここにたどり着きます。ほら、あの後ろに見えている非常に狭い渓谷を通ってくる道です」
マックスは後方を指さした。
「わざわざ傾斜の激しい森の道を選んだ理由もおありになるのでしょう?」
フリッツが訊くと、マックスは肩をすくめた。
「あの道は、たいていの人が使うんですよ。『
それを聞いて、一同は納得した。このあたりまでくると旅人はそう多くない。よほどのことがない限り顔を知るものとすれ違うことはなさそうだ。
王都ヴェルドンや、フルーヴルーウーまでの道すがら馬車の窓より見学したグランドロンの農地の数々と違い、農村はかなり狭く小規模に見える。それは、フルーヴルーウー辺境伯領やその他の《ケールム・アルバ》の麓にある村々は、渓谷地のわずかな空間に広がるからだ。
丘陵地に向かって農地は緩やかに傾斜している。果樹が植えられ家畜を放牧している地域が多い。家畜は下草を食んでは、果樹の木陰の下で休んでいるが、これが土地を休ませ新たな肥料を与えることになるのだ。
穀物、豆類や野菜、そして放牧による三圃農業は傾斜した山岳地方に合っていると聞いていたが、実際にそのさまを目にしてラウラはなるほどと思った。
「規模は小さいけれど、だいたいの作物は育つのですね」
ラウラが訪ねると、同じ馬の後ろに乗っているマックスは頷いた。
「このあたりはまだ小麦も育つんだ。もう少し高度が上がると、小麦は難しくなる。そうなると放牧が中心になる。フェーンという南からの風が多い地域では葡萄が栽培できて収入も増えるが、それは限られた例外だな」
アニーも、初めての光景にキョロキョロと見回していた。同乗しているフリッツが小さく言った。
「おい。転げ落ちるなよ」
「落ちるわけないでしょう!」
「どうだか」
「アニー」
「フリッツ」
ラウラとレオポルドが、ほぼ同時にたしなめたので、2人は黙った。
ずっと上流にあるためマール・アム・サレアなどで見るほどの大河ではないが、現在一行が遡っているのは間違いなくサレア河だ。
蛇行する川はよくその進路を変え、かつて川が流れていた土地には山からの肥沃な土砂が溜まり、そこを農民たちは耕していた。
泥の多い場所らしく、農民たちは馬ではなく牛につなげた木製の犂を使っている。
「ここでは今どき木製の犂を使っているのか?」
レオポルドが少し驚いたように言った。
温暖で肥沃なセンヴリ王国では、土が軽めなのでいまだに木製の犂を使っているというが、重く湿った土質の多いグランドロン王国では先代王の奨めた政策で、既に鉄製の重量犂が普及したと老師に教わっていたからだ。
「ええ。ここではまだ鉄製の重量犂は使っていないようですね。まあ、この規模を耕すのに高価な重量犂を購入する者はいないかもしれませんね」
マックスは考え深げに言った。
「それでも、鉄製の道具を使う利点はあるのでしょうか」
ラウラがそっと訊いた。
「そうだね。深く耕し、さらに草を混ぜてひっくり返すことであの沼地のような湿った土を乾かしてふかふかの耕地に変えられるはずだ。それによって疫病も減らせるだろうね」
マックスは、答えた。
農民を氣の毒そうに見やるラウラを見て、レオポルドはマックスに言った。
「そなた鉄製農具の共同使用やら普及に努めんのか」
「領主として鉄製重量犂を安く供給しろ、ですか。そうしたいところですが、財源を確保しないとなあ……」
マックスは、困ったようにあれこれと可能な財源を口にしたが、どれも決定的とは言えない。
「わかった、わかった。じゃあ、余も協力しよう」
「お。予算をくださいますか」
「他の領地からもよこせと言われるに決まっているので金はやれんが、鉄製農具を安く供給するなら課税を軽くする勅令ってのはどうだ」
既に先王の時代に鉄製農具を導入してしまった領地は、恩恵を受けないが少なくとも税が増えるわけではないので文句は言わないだろう。
「そうですね。それによってフルーヴルーウー辺境伯領全体の生産効率が増え、年貢も増えれば、結果的に王国としても減らした分の課税も取り返すことができると」
マックスは、鍛冶屋組合への鉄製重量犂の発注や地域ごとの共同購入のしくみ作りについて長いことレオポルドと話し合っていた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(13)森の道 -1-
レオポルドの計画にマックスも乗り、結局フリッツ、ラウラ、アニーの5人でトリネアまで身分を隠して旅をすることになりました。
今回からは、具体的な旅がしばらく続きます。一体いつになったらトリネアにつくんだろうか……。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(13)森の道 -1-
マックスから旅立ちの話を聞かされたフルーヴルーウー城家令のモラは、いつもの冷静さを失うほどの驚きを見せた。ただの旅ではなく平民のなりをして馬や徒歩で《ケールム・アルバ》の険しい山道を行くというからだ。
フリッツに国王の計画を聞かされた護衛の兵士たちも、はじめは信じることができなかった。彼らは、国王がヘルマン家の馬車で身分を隠して旅してきただけでも酔狂だと思っており、よもやそれ以上のことを企んでいたとは夢にも思っていなかったのだ。
「よいか。そなたたちは、余がまだこの城にいるかのように振る舞っていればいい。誰かが訪ねてきたら、余とフルーヴルーウー伯爵夫妻は夏風邪で伏せっているとでも答えておけ」
周りの反対と心配をかわし、一行は出発の準備をした。国王、辺境伯夫妻としての豪華な衣装を脱ぎ、それぞれが用意させた平民の服を用意した。レオポルドは裕福な商人デュランとなり、その秘書マックス、護衛兼従者フリッツ、そして、それぞれの妻とともにトリネアへ買い付けに向かっているということにした。
フリッツとアニーは初めは夫婦の設定に難色を示した。
「いくら何でもこんな子供みたいな娘を妻というのは嘘っぽくありませんか」
「私は、ラウラさまの女中ってことにすればいいじゃないですか」
レオポルドは鼻で嗤った。
「自分で服も着られない高貴な奥方さまが、商人の秘書と結婚するわけないだろう。それに、お前もだフリッツ。うるさいことを言うなら、ここに残ってもいいんだぞ」
フリッツとアニーは顔を見合わせてから、仕方なくその役柄を受け入れた。
「陛下も、その口調をまず改めてください。余なんて言う商人はいませんからね」
マックスに言われて、レオポルドもしばらく商人らしい口調の練習をしていた。
そうして、ようやく商人デュランの一行は、旅に出発した。マウロは当然ながらレオポルドとマックスがいつもの愛馬を連れていくものと思っていたが、マックスは笑った。
「悪いが城下町で平民に買える手頃な馬を3頭調達してきてくれ。こんな立派な馬を連れていたら、いくら変装していても目につきすぎる。来月まで陛下の馬の世話は頼んだぞ。どっちにしても空の馬車とともにトリネアに来てもらうことになるしな」
護衛兼従者夫妻ということになっているフリッツとアニーが乗馬するのはおかしいのだが、荷物を運ばせるためにもう1頭いるといえば奇妙に思われることはないだろうとマックスは3頭で行くことを提案した。誰も見ていない行程では全員が乗っている方が速く進めるという利点もあった。
「この馬で、《ケールム・アルバ》を越えてトリネアまで行けるんですか?」
フリッツは、痩せて年老いた馬を見て首を傾げた。
「弱ってきたら、途中の村で払い下げてまた似たような馬を買って乗り継ぐんですよ」
マックスは、かつての旅でいつもそうしてきた。荷物も可能な限り少なくして、必要なものは旅の途上や目的地で買いそろえる。
ラウラが大量の服を持って行くと言い出さなかったのはさいわいだった。馬に背負わせるとはいえ、刺繍入りのビロード胴着などはひどく重いし、ヴェールやさまざまな装身具の類いも非常にかさばる。
ラウラはアニーに助言を求め、さっぱりとしたリネンの中着と汚れの目立たない長袖の上着を用意した。換えは1着のみで普段つけている左腕の覆いの代わりもスダリウム布だけにして他の用途にも使えるようにした。
マックスは、全員にしっかりとした毛織物のケープ付きの長衣も持って行くように言った。
「いまは十分暑く感じられますが、夏とはいえ山の上の朝晩はとてつもなく寒くなりますから、重ねて着られるように準備してください」
こうして、旅の準備を終えた一行は、心配そうに見送る家来たちにひとときの別れを告げて山へと足を向けた。
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【小説】バッカスからの招待状 -17- バラライカ
今回の選んだのは、ロシアの弦楽器バラライカです。舞台はおなじみ大手町のバー『Bacchus』です。
白状します。ロシアの楽器を選んだのはわざとではありません。楽器の名前のカクテル、バラライカしか見つからなかったのです。でも、少なくともこの店ではどんな世界情勢であっても皆が平和にお酒を飲んでいてほしいと思い、あえて火中の栗を拾うことにしました。

【参考】
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バッカスからの招待状 -17- バラライカ
開店直後にその女性が入ってきたとき、いつものように「いらっしゃいませ」と口にしながら、田中は通じるだろうかと懸念した。彼女は背が高く、金髪で青い目をしている。氷の彫像のように、まったく表情筋を動かさないので、田中には日本語が通じるのかどうかの判断ができなかった。
そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。
今夜は水曜日、バーテンダーであり店主でもある田中が1人の日だ。東京駅から遠くないので、外国人の客が来ないわけではないが、立地が立地だけに誰にもつれられずに1人で入ってくることは珍しい。田中も簡単な英語は話せるが、流暢というほどではない。他の言語であれば全く話せない。
「もう開店していますか」
イントネーションは違うものの、普通の日本語だった。そうとう話せるようだ。
「はい。お好きな席にどうぞ」
田中は、カウンター席とテーブル席を示した。彼女は、カウンター席の真ん中に座った。
「どうぞ」
「ありがとう」
田中の差し出したおしぼりを、わずかに頭をかしげながら受け取る。
カランと音をさせて、次の客が入ってきた。
「こんばんは。近藤さん」
「やあ、マスター。あれ、1番乗りじゃなかったか」
モデルか女優のような金髪美女を見て、彼は一瞬固まった。常にイタリアのブランドとすぐにわかるスーツに個性的な色のネクタイをしている近藤は、この店の常連の中でもとくに言動がキザだ。いつもなら、近藤がよく座る席に腰掛けている一見客に、何かいわなくても良さそうなひと言を口にするのだが、今日は調子が出ないようだ。
「僕も、今日はカウンターにしようかな」
などと言いながら、女性の右横を1つ空けた席に腰掛けた。「今日は」もなにも、常にカウンターに腰掛けているのだからおかしな発言だが、慣れない外国人客がいて調子が狂っているのか、それとも女性に話しかけるきっかけなのかわからず、田中は様子を見ることにした。
「メニューをどうぞ」
田中が日本語だけで話しかけて、彼女が「ありがとう」と受け取ったのを見て、近藤は少しホッとしたようだった。
「近藤さんも、メニューをどうぞ」
「ああ、うん。いつものをまずもらおうかな。おつまみは、今日は何がいいかな」
「サラトガ・クーラーですね。かしこまりました。まずはこちらを」
田中は、つきだし代わりにサーモンとイクラのディル和えをそっと近藤の前に置いた。そして、女性の前に置く前に訊いた。
「お魚は召し上がれますか」
女性は、わずかに目を細めて答えた。
「ええ。もちろん。イクラは子供の頃から食べ慣れているもの」
「どちらのお国ですか?」
近藤がすかさず訊くと、女性は顔も向けずに「ロシアよ」と答えた。
なるほど、と田中は心の中でつぶやいた。このご時世、とくに本人に咎はなくとも、出身国を口にするだけで不快な対応をされることもあるのだろうと。
もっとも女性も、さすがにつっけんどんすぎると思ったのか、しっかりと顔を向けて言い直した。
「ヴォルガ河のほとり、ニジニ・ノヴゴロドから来たの」
田中は、それが広いロシアのどこにあるのか知らなかったが、近藤にはそうではなかったらしい。
「聖都キーテジからですか?」
これには、女性も驚いたらしい。それまで能面のようだった顔面が表情豊かになった。
「どうして知っているの? もちろんキーテジではないけれど、スヴェトロヤール湖の近くの出身なのよ」
近藤の顔に、はっきりとした余裕が表れて、いつものように少しキザっぽい口調で答えた。
「たまたま最近、リムスキー=コルサコフのオペラの評論を書いたんでね。田中マスター、キーテジってのはね、ロシアに伝わる、伝説の見えない都市なんだよ」
「そうなんですか。そのオペラは、その都市が舞台なのですね」
田中が訊くと、2人は同時に頷いた。
「キーテジに関する伝説と、別のフェヴローニヤという聖女伝説を組み合わせて1つのオペラにしたの」
女性が説明すると、近藤が続ける。
「色彩的な素晴らしいオーケストレーションに、民族楽器のバラライカを組み合わせた傑作なんだ」
「バラライカ……ですか」
田中がなるほど、というようにつぶやいた。
「あれ。マスター、バラライカを知っているんだ。すごいねぇ。けっこうマイナーな楽器だけど」
近藤が少し驚いたというように黒縁眼鏡の奥の目を細めた。女性も頷いている。
バラライカは、ロシアの民族楽器だ。三角錐形の共鳴胴を持つ弦楽器で、子供が抱えられるくらい小さな物から、大人の身長を超えるほど大きいものもある。カエデやトウヒを使った現代の楽器は澄んだ美しい音色を出す。
「いえ。楽器に詳しいのではなくて、その名前をもらったカクテルがあるんですよ」
田中は笑った。
「ああ、そうよね」
女性が笑う。
「へえ。どんなカクテル?」
近藤が訊く。
「サイドカーのバリエーションです。ベースがウォッカになっています」
田中が答える。
「久しぶりに飲んでみたいわ。それをお願いできる?」
女性が微笑んだ。
「かしこまりました」
田中はストリチナヤ・プレミアム・ウォッカの瓶を取り出した。高品質なピュアウォッカだ。ホワイトキュラソーとレモンジュースをシェイクして作るバラライカは、さっぱりした味わいが肝なので、特に希望を言われない限りはピュアウォッカで作る。
「バラライカが、ロシアの代表的な楽器として重宝されるようになったのは、わりと最近だって知っていた?」
女性は頬杖をついて訊いた。
「いつ頃ですか」
しっかりとシェイクしながら、田中が訊く。
「19世紀。それまでは旅芸人たちが使い安価だったことから、価値のない楽器とみなされていて、喧嘩の時に殴るのに使われていることもあったらしいわ」
田中は驚きの表情を見せた。
近藤が後を続けた。
「ペテルブルグの商人ワシーリー・アンドレーエフが楽器をもっと響くように改良して、オーケストラを編成し、その良さを知らしめることに成功したんだよね。それに、ニコライ・リムスキー=コルサコフが、『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』で用いるなどして、あの済んだ美しい音が世界に知れ渡ったと」
女性は、田中が「どうぞ」と前に置いた白いカクテルを見ながら言った。
「それに、なんといっても映画『ドクトル・ジバコ』ね」
「『ララのテーマ』! あれ抜きには語れないな」
近藤も同意する。
「このカクテルも、あの映画のヒットともに知られるようになったといわれています」
田中は、2人に微笑んだ。
「マスター、おすすめの肴は何かな。せっかくだから今晩はロシア繋がりで行きたいんだけど」
近藤が訊く。
「そうですね。塩漬けニシンをライ麦パンに載せたカナペ、角切り野菜をマヨネーズで和えたロシアンサラダなどでしょうか。ああ、そうだ、近藤さん、ビーツは召し上がれますか」
「うん。食べるよ」
「では、ピクルスを仕込んであるので、それをクリームチーズで和えたものはいかがですか」
近藤は頷いた。
「どれもいいね。みんなもらおう。……ええと、あなたは? 田中さんの作る肴はどれも美味しいですよ。よかったらご馳走します」
女性は、微笑んだ。
「聞いているだけでホームシックになりそう。じゃあ、喜んでご馳走になります」
それから、田中と近藤の顔を交互に見て言った。
「こちらのお店、お客さんを名前で呼んでいるのね。いいわねぇ」
「田中マスターは、お名前を言うとすぐに覚えてくれますよ。僕、2回目に来たのは2か月くらい経ってからだったんだけど、覚えてくれていたんで感激したんだよね」
「恐れ入ります」
女性はチャーミングに笑って言った。
「じゃあ、私もテストしようかしら。私、オルガ・バララエーヴァっていうの。次回、忘れずに呼んでね」
近藤が少し口をとがらした。
「それ、それほど難しくないじゃないですか」
「どうして?」
「だって、いまバラライカの話題をしたばかりで……」
「ああ、そうよね」
3人は笑った。
そうこうしているうちに、他の客も入ってきた。近藤とオルガに感化されたのか、その晩は、ウォッカ・ベースのカクテルを頼む客や、ロシア風のおつまみを見て珍しそうに注文する客が続き、なぜか「ロシア・ナイト」のようになってしまった。
リムスキー=コルサコフの『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』で題材にしたのは、異民族との戦いでこの世から姿を消してしまった中世の偉大な都市と、その犠牲になった人びとたちの物語だ。
オペラは、現世での栄華や民族間の戦いの虚しさを伝えようとしている。オルガの生まれ育ったスヴェトロヤール湖畔に聖なる街キーテジは、今も存在すると伝えられている。なくなったのではなくて、ただ見えなくなったのだと。
伝説によると、白い石の城壁、黄金の屋根を持ついくつもの教会や修道院、素晴らしい装飾を施した
戦いも悲しみも存在しなくなる最後の審判の日に、キーテジは再びその姿を現すようになるとヴォルガの人びとの間に伝えられている。
静かな宵に湖畔に立てば水の中に見えざる街が映し出されることがあるという。そして、夜更けに愁いに満ちた鐘の音がかすかに聞こえてくるのだと。
それは、バラライカの音色のように澄んでいるのだろうか。その幻影は、爽やかだけれども実は強いカクテルのように、すぐに人を酔わせるのだろうか。
戦いも悲しみもまだ満ちているこの世で、少なくとも今宵この店の中では、どの客たちも平和を願いつつ楽しんで欲しいと、田中は願った。
バラライカ(Balalaika)
標準的なレシピ
ウォッカ - 30ml
ホワイト・キュラソー - 15ml
レモンジュース - 15ml
作り方
材料をシェイクしてカクテル・グラスに注ぐ。
(初出:2022年11月 書き下ろし)
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(12)計画 -2-
さて、人払いをして自分の婚活について話し出したレオポルド。まともな政治の話をしているようで、実はまたしても何かを企んでいました。
そして、『
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(12)計画 -2-
「ルーヴランの時もそうだったが、グランドロン王が行列をなしてやってきたら、向こうは当然取り繕ってよい面しか見せないようにするだろう? トリネア港や市場なども本来の姿を見るのは難しい。ましてや候や姫と家臣の関係などはまずわからない。加えてヴェールをして取り澄ました当の姫が、蓋を開けてみたらわが母上そっくりの高慢ちきだったりしたら最悪だ」
「おっしゃる通りですね」
レオポルドは身を乗り出した。
「そこでだ。余は一足先に行って、自らの目でトリネアをとくと見聞したいのだ」
一同、思わず驚きの声を漏らした。
フルーヴルーウーに到着するまでの旅だけではなく、またしても身分を隠しての旅を画策していたとは。しかも、このことを腹心であるフリッツ・ヘルマン大尉にまで隠していたらしい。もちろん予め口にしていたら、フリッツはこれほど早くここに来ることを全力で止めただろう。
マックスは言った。
「陛下。お氣持ちはわかりますが、そういう情報集めは配下の方におまかせになった方がいいのでは」
「誰に」
「例えば、ヘルマン大尉は信頼のおける部下ではないですか」
「私は陛下のお側を離れるわけには参りません。ただでさえいつもよりも護衛が少ないのですから」
フリッツは仏頂面で口を挟んだ。
レオポルドは「ほらみろ」と言わんばかりに頷いた。
「今回は人まかせにはしたくないのだ。ところで、余が道連れとして一番適任だと思うのはそなただ。そなたは平民としての旅に慣れている。一方、遍歴の教師としての資格を示せば、ある程度の貴族の家庭にも上手く入り込むことができる。さまざまな階級を少しずつこの目で見ることは余のかねてからの願いだったのだ。それに、どうだ。そなたもまた少し旅がしたいのではないか」
マックスは、そう言われると嫌とは言えない。フルーヴルーウー辺境伯としての扱いと仕事にはようやく慣れてきたが、自由に世界を旅して回った遍歴教師時代の暮らしが懐かしくてたまらないのも事実だ。この機会を逃せば次いつ旅が出来るかわからない。
「そうですね。陛下のたっての仰せを無下にするわけにはいきませんかね」
ヘルマン大尉は、よくも簡単に寝返ったなという顔をした。
マックスは抜け目なく続けた。
「枢機卿との面会に立ち会えれば、ベッケム大司教への牽制になりますよね。そもそも聖バルバラの聖遺物について教皇庁の見解を文書としていただければ、後々の問題にもならないだろうなあ。謁見の際に、陛下の信頼篤い廷臣として同席し、そちらの話題をお許しいただけるなら、平民としての旅のご指南くらいはいくらでも」
「そなたも、かなりの狐だな」
マックスまでがこのように行くと言い出してはもはやヘルマン大尉に止めることは不可能だった。
「では、私は部下たちに支度を……」
「待て。ゾロゾロ着いてこられるのは困る。やたらと護衛のいる平民一行なんてあるわけないだろう」
レオポルドが言うと、ヘルマン大尉はムキになって答えた。
「陛下が何とおっしゃろうと、私だけでもお伴いたします。これだけは譲れません」
「では、お前だけ来い。ただし、ひと言でも『陛下』などと言ったらその場に置いていくからな」
レオポルドは、諦めたように言った。
「私も一緒に参ります」
これまでずっと黙っていたラウラが突然言った。
男たちはぎょっとして彼女を見た。
「何だって?」
「私も、皆様と一緒に参ります。トリネアまで」
ラウラは、子供に言い聞かせるようにはっきりと、しかし、有無を言わせぬトーンで言った。
レオポルドはその声色をよく知っていた。書類に署名をもらうまでは後に引かぬと決意しているときの宮廷奥取締副官たるフルーヴルーウー辺境伯爵夫人はいつもこうだ。
夫であるフルーヴルーウー辺境伯の方は、ラウラにこのように迫られたことはあまりないのか、意外そうに驚きながら反対意見を述べ始めた。
「でも、ラウラ。僕たちは身分を隠していくんだ。貴族などは一顧だにしない安宿に泊まらなくてはならないし、馬車ではなくて馬に乗らなくてはならない。そんな旅は城の中で育った君にはつらいだろう。それに、僕は君の身に危険が及ばないかとても心配だ」
「旦那様。私は、ルーヴの貧しい肉屋で子供時代を過ごしたのですよ。安宿ぐらい何でもありませんわ」
ラウラはきっぱりと首を振った。
「でも、徒歩で《ケールム・アルバ》を越えていくんだよ。とてもきつい旅だ。トリネアを見たいのならば、どちらにしても陛下の訪問の行列を装った空の馬車が行くのだから、それと一緒に来た方がいい」
「今日が何の日かお忘れになっていませんか」
「え?」
「
マックスはぎょっとした顔をし、成り行きを見守っていたレオポルドは破顔して笑い出した。
「そなたの負けだ、マックス。奥方さまは何が何でも我々と一緒に旅をしたいらしい」
ラウラは微笑んだ。
「森を越えて、いつか遠くへ旅をしてみたい。あなたと同じようにいろいろな世界を見て回りたい。ずっと夢だったんですもの。どうぞ私もお連れください。お邪魔にならないようにいたしますから」
アニーが叫んだ。
「では、私も参ります! 殿方には、ラウラさまのお世話はできませんもの」
ヘルマン大尉は、ムッとしたようにアニーを見たが、貴婦人の世話は出来ないことは間違いなかったので反論しなかった。
「これ以上、同行者が増えると困るから早く話を進めよう。準備が整い次第、ここを発つぞ」
レオポルドは、ため息をついた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(12)計画 -1-
フルーヴルーウー辺境伯領だけに伝わる奇祭『
ご機嫌な国王レオポルドは、王都から連れてきた護衛兵たちに「祭を見にいってもいいぞ」と言い出しました。ようやくこの作品の本題にたどり着きました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(12)計画 -1-
「そなたも行きたいか」
国王に訊かれてフリッツは、首を振った。
「この城の皆も祭を楽しみたいんじゃないのか」
フリッツの疑わしげな視線を避けるように、レオポルドはマックスに話を振った。マックスもヘルマン大尉と似た微妙な表情をした。
家令モラは、困ったような顔でマックスを見た。
「そうおっしゃられましても、護衛兵の皆様がこの場を離れるのならば、城の警護の騎士の方でお守りしませんと……。もし、ご用事がとくにございませんでしたら、お言葉に甘えて料理人や召使い、侍女たちは交代で場を外させていただきますが……」
「僕たちの用事は就寝時間まで氣にしないでくれ。ラウラ、いいだろう?」
「もちろんですわ」
レオポルドは、たたみかけた。
「そなたたちが心配しないで済むよう、余たちはまとめて客間にこもっているから、騎士たちも交代で十分だぞ。安心して行ってこい」
結局、レオポルドの滞在する客間に、マックス、ラウラ、フリッツ、そして給仕たちの代わりに飲み物などの要望を聞くためにアニーが残り、扉の外に2人の騎士を残しただけで、他の皆は城内の持ち場に戻るか、交代で祭のために外出していった。
モラや騎士たちの足音が聞こえなくなり、かなり静かになると、マックスはレオポルドの方を向いた。
「何を企んでいらっしゃいますか」
「なんのことだ」
「体よく人払いをしたんでしょう」
「よくわかったな。じつは、そなたたちに話があるのだ」
レオポルドは、客間の中央にある円卓を目で促した。マックス、ラウラがまずその場に座り、まだ立っていたフリッツもレオポルドが椅子を引いて座るように示すと、肩をすくめて従った。レオポルドは、トーンを落として口を開いた。
「いまトリネアで福者マリアンナの列聖審査が進んでいるのを知っているな」
「はい」
「で、余は来月トリネアに行くと伝えてあるのだ」
つながりの見えないマックスは、首をかしげた。察したヘルマン大尉が補足した。
「来月の聖母の祝日に教皇庁からアンブロージア枢機卿が列聖審査でトリネアを訪問するのです。陛下は枢機卿と謁見したいので、その予定に合わせてトリネア候を訪問したいと打診したのです。候女様との縁談だけで訪問を打診すれば断られる可能性も高かったので、苦肉の策です」
「それほど信心深かったとは知りませんでした」
「信心深いとはいえんが、それなりにはな。だが、金まみれの坊主どもに平伏すつもりはないぞ。むしろ、勝手にはさせんと、折に触れて牽制しなくてはならない相手だ」
レオポルドは、杯を傾けつつ答えた。
「その件に関しては、私もなんとかしないと……」
マックスは、ため息をつく。
「どうしたのだ?」
マックスは、先日の市場の場所代の件と、ベッケム大司教との確執が起きかけていることを語った。
「ともかく、教会だけでなくベッケム家が後ろに控えているんで、押さえつけるだけだと、後々面倒なことになりかねないんですよ」
「ベッケム家か。ルーヴランのキツネだからなあ、あの家は」
「そうなんですよ。それに、へそを曲げられると聖バルバラの聖遺物の公開を取りやめるなどの嫌がらせもしてきそうなんですよね。でも、こちらにいるうちにある程度の合意点を見つけておかないと、こちらがいないのをいいことにますます増長するだろうしなあ」
すっかり領地の問題に没頭しているマックスに、レオポルドはトーンを変えて言い放った。
「その話は、いや、他の件も、さっさとカタをつけてくれ。できれば、今週中に」
「なぜですか?」
「トリネアの件で、そなたの力を借りたいのだ」
「でも、あちらに行くのは来月ですよね?」
「その前に少し時間がほしいのだ」
「どのくらいですか?」
「うむ。時と場合によってだが、謁見までの総ての時間を借りることになるやも……なんといっても戴冠して以来初めての休暇を取ったことだしな」
「なんですって?!」
一同は身を乗り出した。いままで静観していたフリッツ・ヘルマンもぎょっとして身を乗りだした。
レオポルドは、手をひらひらとさせて、落ち着くように促した。それからにやっと笑うと、杯を飲み干した。
「今回はわが国から持ち込んだ縁談なのだが、トリネア候国というのは微妙な国でな」
「とおっしゃると」
「センヴリ王国に属しているが、何代にもわたる血縁でカンタリア王国とのつながりがとても強いのだ。候妃は現カンタリア王の従妹だし、現に4年前に候女と余の縁談は母上の取り巻きの差し金だったはずだ」
「だから、話もよく聴かずにお断りになったんじゃないですか」
ヘルマン大尉が口を挟むと、レオポルドは肩をすくめた。
「当時は、トリネアの世継ぎじゃなかっただろう。余の得るものは何もなかったではないか」
「陛下は、このお話に慎重になりたいと、そういうことなのですか?」
マックスが訊いた。
「そうだ。実を言えばトリネア港は喉から手が出るほど欲しい。冬にも流氷の煩いのない港をグランドロンは持っていないからな」
《中央海》に面したトリネア港は古くから《真珠の港》と歌われている。風光明媚なだけでなく、その港の価値が特産物の真珠にたとえられるのだ。水深が充分にあるにもかかわらず波が起きにくい穏やかな湾に抱かれている。また、背後にある《ケールム・アルバ》が天然の要塞となっており、良港を望む各国からの侵略を防いでいる。
「とはいえ、それだけで話を進めるのは早計だ。トリネアが余が思っている以上にカンタリア寄りであると、グランドロンの宮廷に災いを呼ぶことになるかもしれん。余は、話を進める前によく見極めておきたいのだ。前回みたいに騙されるのも困るのでな」
マックスは、肩をすくめただけで何も言わなかった。本人の望みではなかったとは言え、ルーヴランの奸計の中心的役割を果たしたラウラがその場にいるからだ。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(11)祭 -1-
「(3)辺境伯領 -1-」の回でも一度語られていますが、今回は、マックスの領地に伝わる祭の話です。
祝祭は単なる伝統やそもそもの目的に則ったものであるだけでなく、その時代を生きる人びとにとっての長くモノトーンな生活における息抜きであり、ガス抜きでもあります。いろいろな事情はあっても、こうした祝祭にケチをつけたり、廃止させたりするような圧力は短期的には目的を達成できても、長期的にはひずみを生みいい結果を呼ばないというのが、私の持論です。今回は、その想いを軽く作品に込めてみました。
ところで、このシリーズの話をはじめからご存じない方には、仰天するような型破りな姫君の話が出てきます。主人公のひとりマックスのご先祖さまです。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(11)祭 -1-
国王の滞在中に、フルーヴルーウーの城下町では『
異装をした人びとによる祭は、フルーヴルーウー辺境伯だけではなく、グランドロン王国中、いや、それ以外のさまざまな国で見られる。センヴリ王国の水の都イムメルジアでの色とりどりの仮面をつけた人びとによる謝肉祭の行列は冬の風物詩であるし、年末には牡牛の頭部の皮を被った男たちが練り歩くカンタリア王国のタロ・デル・ディアボロ祭がある。
フルーヴルーウーの『男姫祭』が奇祭と呼ばれる理由の1つは、他の多くの祭りと異なり中心的役割を果たすのが女性だということだ。
この祭の由来ともなっている
国王の座を争うことができるほど由緒あるバギュ・グリ侯爵家の姫君として生を受けながら、男装して市井に出入りしていたジュリアは、自らの馬丁であったハンス=レギナルドと恋に落ちたあげく、ジプシーに加わり出奔した。その後、ルーヴランのブランシュルーヴ王女の専用女官になって、王女のグランドロン王との婚姻の際にヴェルドンに共にやって来た。そして、既にグランドロン王レオポルド1世に取り立てられフルーヴルーウー辺境伯となっていたハンス=レギナルドと結ばれた。その数奇な人生を、ルーヴランでもグランドロンでも民衆はたいそう好み、名のある吟遊詩人たちがいくつもの歌を捧げた。
夏のフルーヴルーウー城下町で開催される『男姫祭』は、女性たちが領主夫人から賤民にいたるまでことごとく男装をすることで有名である。つまり男姫ジュリアの故事にちなむ祭であり、グランドロンの他の多くの祭と違い宗教的裏付けが全くない。それどころか代々の大司教は、この祭を嘆かわしい伝統として糾弾しており、領主に廃止の勧告を度々行っていたほどである。
教会が何よりも問題視したのは、女性たちが男装することではなく、その日に女たちが亭主にどんなわがままでも命じることが許されていて、亭主どもはそれを拒否できない習わしだ。
聖書には「あなたは夫に従い、彼はあなたを治めるであろう」と神の言葉が記されているのに、1日とはいえ女が夫に従わせるのは許しがたい、そう大司教は説いた。だが、年に1度の楽しみを取りあげられたら女房らがどのように怒り狂うかわかっているフルーヴルーウーの領主や男たちは、代々の大司教たちの言葉に耳を貸すことはなかった。
祭には初めて参加するラウラも、家令モラの助言を受けて代々のフルーヴルーウー伯爵夫人たちに倣った男装をしていた。
「おやおや。わが奥方は素晴らしく女性らしいと常々と思っていたけれど、今日はまるで男姫ジュリアもかくやという凜々しさだね」
マックスは、感心してラウラを上から下まで吟味した。男装とはいえ、品を失わないように上着には短いシュルコではなく、膝丈までしっかり隠れるペリソンを着用している。艶のある青灰色の生地は、強い主張はしないのに敬意を払わずにいられない高雅な佇まいを演出していた。
レオポルドは、男姫由来の祭があるとだけしか聞いておらず、ラウラや侍女たちが男装をしているのを見て驚いたようだった。
「『男姫祭』とは、そういう祭なのか?」
「はい。城下町すべての女たちが、それぞれ男性の衣装をまとい、行列をするんですよ」
マックスは、そう説明したが、もう1つの厄介な伝統については口にしなかった。この場にいる女性たちの中には、その伝統を忘れている者もいるかもしれない。余計なことを口にして彼女たちの夫に不利な状況をあえて作り出すこともないだろう。マックス自身もその夫たちのうちの1人に他ならない。
「奥方さま。そろそろお時間でございます」
モラが、呼びに来た。ラウラは、レオポルドとマックスに挨拶をしてから退出した。
「僕たちも、行きましょう」
マックスは、レオポルドや護衛兵と共に馬で城下町へ降りていった。
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