【小説】郵便配達花嫁の子守歌
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。三月はロシア歌手ポリーナ・ガガリーナの“Колыбельная (Lullaby)”にインスパイアされて書いた作品です。
実は、この作品の元になるアイデアは、かなり前「マンハッタンの日本人」シリーズを書いていた頃に浮かんだのです。当時は、ブログのお友だちTOM−Fさんから、某ジャーナリスト様をお借りして好き勝手書いていたのですけれど、その延長で小説には関係ないけれどそのお方がどんな風にアメリカに来たのかなあなんて妄想もしていました。で、イメージは彼なのですけれど、さすがにTOM−Fさんも大困惑でしょうから、この作品では誰とは言わずに、似たような境遇の誰かとだけで書いてみました。

郵便配達花嫁の子守歌
Inspired from “Lullaby” by Polina Gagarina
舳先に行くには、少しだけ勇氣が要った。重く垂れ込めた雲を抉るように、荒い波が執拗にその剣先で襲いかかっている。雨が降りそうで、いつまでも降らない午後。ヴェラはストールが風に飛ばされないように、ぎゅっと掴まねばならなかった。
こんな悪天候に船外に出ようとする物好きはほとんどいなくて、たった一人、まだ少年と言ってもいいような若い男だけがカーキ色のコートの襟に首を埋め、ドアの側の壁にもたれかかっているだけだった。
波の飛沫が、彼のしている安っぽい眼鏡にかかっていた。海の彼方を睨むように見つめている姿は、希望に満ちているとは言いがたい。でも、それは、自分が感じていることの投影でしかないのかもしれない。ヴェラはこの船に乗ったことが賢い判断だったのか、確信が持てなかった。この暗く荒れた海が、彼女の未来を予言していなければいい、そんな風に思っていた。
「あまり先には行かない方がいい。波にさらわれて落ちた人もいるそうだ」
その男はヴェラを見て英語で言った。
「この船で?」
「いや、この航海の話ではないよ。乗る前に聞いた」
「そう」
この人は、どこの国から来たのだろう。少なくともヴェラと同じウクライナの出身ではなさそうだ。顔から判断すると、どこかバルカン半島の出身かもしれない。
誰もがこの船に乗って、ここではない所へ向かおうとしているように感じてしまう。ある者は戦火から、ある者は貧困から、そしてある者は閉塞した社会やイデオロギーから、どこかにある光に満ちた国へと向かおうとしているのだ。
「あなたも、トリエステまでよね。イタリア旅行?」
ヴェラが訊くと、彼は「まさか」という顔をした。ヴェラも自身も、そう思っていたわけではない。彼は「服装なんかに構っている余裕はない」と誰でもわかる出で立ちだった。すり切れ色のあせたシャツ、くたびれたカーキ色のパンツ、底が抜けていないだけでもありがたいとでも言いたげな靴。
「
ということはやはり……。
「あの紛争の? 逃げてきたの?」
「ああ」
「じゃあ、ご家族も、この船に?」
彼は、首を振った。
「国境まで生きていられたのは、僕だけだった」
ヴェラは、お悔やみの言葉を述べたが、彼は「いいよ」というように手を振った。
「これからは、イタリアに住むの?」
ヴェラが訊くと、彼は微かに笑った。
「いや、ローマから飛行機でUSへ行くよ。難民として受け入れてもらったんだ。君は?」
「偶然ね。私もアメリカへ行くの。もしかしたら、飛行機まで一緒かもしれないわね」
「君も難民?」
「違うわ。私『郵便配達の花嫁』なの」
彼は首を傾げた。
「それは何?」
「国際結婚専用のお見合いシステムがあってね。テキサスの人と知り合ったの。それで、彼と結婚することを決めたの」
ヴェラは、今日五本目の煙草に火をつけた。
目の前のラム酒の空き瓶をうつろに眺める。新しい瓶を買いに行くと、月末まで食べるのに困る事実を思い出し顔をゆがめた。飲むことか、煙草か、もしくはその両方をやめれば、新しい靴下を買えるのにと、ぼんやりと考えた。
そろそろ出かけなければ。教会の炊き出しに並べば、三日ぶりに温かい食事にありつける。彼女は、すり切れたコートを引っかけると、アパートメントから出た。
隣の部屋からは、テレビの音が漏れている。ニュースを読む男のよく通る声が、地球温暖化の脅威について訴えかけている。正義と自信に満ちた温かい声。ヴェラは、煙草の火や煙も地球を蝕む害悪なのだろうかとぼんやりと考える。それとも、車も持たず、電氣も止められている貧しい暮らしは、表彰されるべき善行なのだろうか。どちらでもいい、こちらには世界の心配をする余裕などないのだ。
空は暗く、今にも雨が降りそうなのに、いつまでも降らない。こんな天候の日はあの船旅のことを思い出してしまう。
船の上で、下手な英語でお互いのことを話した。ヴェラは幸せな花嫁になることを、彼は自由で幸せな前途が待っていると願いながら、それまでのつらかった人生と、それでもあった、幸せな思い出を語り合った。ヴェラが民謡を歌うと、彼は今はなくなってしまった国に伝わるお伽噺を語ってくれた。
船旅と、ローマまでの二等車での旅の間に、ヴェラにとってその若い男は、全く別の存在になっていた。はじめの安っぽい服装の何でもない男という印象から、優秀な頭脳と温かい心、それに悲劇や苦境に負けないユーモアすら失わずにいる、理想的な青年に代わっていた。
しかし、彼とはローマで別れて以来、どこにいるかも知らない。同じ飛行機ではなかったし、こんなに何年も経ってから「今ごろどうしているだろうか」と考えるような相手になるとは、夢にも思っていなかった。
テキサスに着いて、迎えに来た未来の夫には二十分で失望した。彼は、ヴェラを妻ではなく奴隷のように扱った。「高い費用がかかったんだから」それが夫の口癖で、昼は農場の仕事に追い立て、夜も疲れていようが意に介せず奉仕を要求した。
ヴェラが自由になるまでには、八年もの間、夫の暴力と支配に耐えなくてはならなかった。隣人たちは、みな夫の味方だったし、一人での外出を許されなかったヴェラは、助けを求めることも出来なかったのだ。たまたま、夫がバーボンの飲み過ぎで前後不覚になった時に、彼女は家を逃げ出した。二百キロメートル離れた街で無銭飲食をして捕まり、ソーシャルワーカーの助けで保護されて離婚することが出来た。
けれど、その後に幸せな人生が待っているわけではなかった。ずっと夫に閉じ込められたままだったので、英語も下手なままだったし、自立して生きるための手に職を身につけているわけでもなかった。彼女は、そのままどこにでもいる貧民の一人として、祖国にいた時と同じか、それ以下の立場に甘んじることになった。
あの船に乗り、国を出た時に持っていたものの多くを彼女は失ってしまった。若さと、美貌と、祖国の家族や友人たち。戻る氣力も経済力もない。希望と、笑いもあの海に置いてきてしまったのだろうか。静かに、ゆっくりと無慈悲に諦めと老いに蝕まれていく彼女は、襤褸布のようなコートを纏い、地を這いながら生き続ける。
船で出会った青年と、いつかどこかで再会できることを、どこかで願い続けている。彼が成功していて、自分をすくい上げてくれることを夢見ることもあれば、同じように地を這っている彼と再会し、傷をなめ合うことを期待することもある。
それは、暗い情熱、生涯に一度もしたことのない恋に似た感情だった。重く垂れ込めた雲間から注がれた天使の梯子のわずかな光。荒い波のように繰り返す不運に高ぶる神経を尖らせたヴェラを、落ち着かせ優しく眠らせてくれる、たった一つの
(初出:2019年3月 書き下ろし)
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【小説】鈴に導かれて
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。二月はユーミンの“ BLIZZARD”にインスパイアされて書いた作品です。これは歌詞も動画も省略しました。ご存じない方は、検索すればいくらでも出てきますので……。
原曲はみなさんご存じのように、冬の定番ラブソングで、かなり胸キュンなユーミンワールドです。この曲が効果的に使われた映画もありましたし。なのですが、私の作品では全く別の使い方をしてあります。昔からちょっと思っていたんですよね。「これって、胸キュンっていうか、かなり怖い状況じゃないかな」って。一つ間違えば遭難じゃないですか。

鈴に導かれて
Inspired from “BLIZZARD” by 松任谷由実
思った通り、天候は変わってくれた。朝は晴れていたから、彼女は疑いもしなかっただろう。全て計算通りだとは。
和馬はストックにつけた鈴を響くように鳴らした。かなり遠くから、答えるように鈴の音が聞こえてきた。辺りは、もうほとんど視界が消え去っている。横殴りの吹雪、もちろん誰もいない。あの時とそっくり同じだ。だが、恐怖と不安に震えていた、あの時の俺とは違う。さあ、来い、恭子。お前の人生の終着点へ。
間もなく起こる妻の事故死が、彼に多額の生命保険金を約束してくれるはずだった。彼は、泣きながら説明するだろう。「天候が変わったので急いで下山しようとしたのですが、吹雪いていてコースを外れたことに氣がつきませんでした。視界がほとんどなかったので、彼女はあの岩が見えなかったのだと思います」
その岩には、いま彼がもたれかかっている。千恵子が命を落としたのも、この岩に激突したからだった。もちろん、あの時は俺は何もしていない。吹雪になったのも偶然だった。
あの事故があったのは、十年以上前だ。千恵子は、和馬の同窓生だった。二人が付き合っていることは、ほとんど誰も知らなかった。卒業後は東京で暮らすつもりだったし、田舎娘と小さくまとまるつもりは全くなかった。妊娠しているかもしれないと言われた時にはぞっとしたが、今は刺激をせずにまだ早すぎるからなどと言いくるめて中絶させようと思っていた。
山は寒いし、スポーツをすることで、もしかしたら流産するかもしれないと考えたのは事実だ。だが、彼女をスキーに誘ったことにそれ以上の意図はなかった。今日とは全く違う。
コースを外れたのもいつものことだった。和馬と千恵子は、子供の頃からこの山に通い詰めていたので、スキー客の来ない急斜面をいくつも知っていた。天候が変わりそうだったので、早く降りた方がいいからと、近道をしようといいだしたのは千恵子の方だった。
「降ってきちゃったね。やばいかな」
「急いだ方がいいよな」
「そうだよね。ねえ、ユーミンの歌みたいに鈴つけてよ。せっかくだもん。ほら、上の売店で買ったお守りの鈴」
姿は見えなくても、ストックにつけた鈴の音を頼りに後を追う、そんな歌詞だったように思う。和馬は「追いかけられる」ことにうんざりしたが、そんな様子は見せずに鈴をストックにつけて滑り出した。
彼女を、待つつもりはなかった。とにかく早く麓へ着きたかった。後ろから響く鈴の音がだんだんと小さくなり、彼は少しほっとした。何があろうとも、あいつから逃れなくては。結婚なんてことになるのは死んでもごめんだからな。俺の輝かしい人生は始まったばかりだというのに。
自分のつけている鈴の音が、うるさかった。千恵子につけられたことも腹立たしかった。それをつけている限り、彼女から逃れられないとすら感じられたので、投げ捨てようと思い立ち止まった。
そして、ぎょっとした。白い吹雪の煙幕に隠されてほとんど見えていなかったが、すぐ近くに大きな岩があった。こんなのにうっかり激突していたら死んでいたな。
そう思いながらグローブを外して鈴を取り除こうとした。手がかじかんで、うまく外せない。鈴は大きく鳴った。呼応するように、鈴の音が近づいてきた。
「えっ?」
突然、視界に現れた千恵子が、そのまま岩に激突した。
動かなくなった千恵子をそのままにして、和馬はその場を後にした。その時は逃げることしか考えていなかった。いろいろな責任から、失うものから、恐怖から。吹雪は、和馬がその場にいた痕跡を全て消してくれた。
千恵子の遺体が見つかり、彼は同窓生として何食わぬ顔で葬儀に出かけた。彼女がなぜ一人であの雪山にいたのか、誰もしらなかったこと、妊娠もしていなければ、事件性も疑われていなかったことに安堵した。そして、あの日のことは、ずっと胸の内に秘めたまま、故郷を離れ東京で生きてきた。
それが、この岩だ。
和馬は、ことさら手を振り鈴を鳴らした。恭子、お前には悪いが、あの保険金がないと俺はもうにっちもさっちも行かないんだよ。そのために、大人しくて頭の回らない、お前みたいな退屈な女と結婚したんだからな。千恵子の事故は忘れたことがない。あれに俺が関係していたことは誰も知らない。だから、あれにヒントをもらったなんて誰にも証明できないだろう。完全犯罪。させてもらうぜ。
彼は、結婚したばかりの妻を言いくるめ、保険をかけた。初めての年末年始を夫の生家で過ごすのもごく自然だ。そして、子供の頃から行き慣れたスキー場へ案内する。
呼応する鈴の音が大きくなった。こだまして、二つも三つもあるように聞こえる。おかしいな。あの時は聞こえてすぐに千恵子がぶつかったのに。
鈴の音だけが響いていたかと思うと、不意にあの時の千恵子の来ていたのと同じ黄色いスキーウェアが見えた。まさか! 恭子はピンクのスキーウェアなのに。
「いったでしょう? ユーミンの歌みたいにしようって。ブリザードは世界を包み、時間と距離も消してくれるのよ。二人を閉ざしてくれるの……」
千恵子! まさか、幽霊が? 俺は、お前を殺そうとしたわけじゃないんだ。お前が勝手に死んだんだろう。やめろ、俺にとり憑くのはお門違いだ。
和馬は、慌てて立ち上がり必死に逃げた。滅茶苦茶にストックを動かしとにかく麓へ急いだ。手元のストックについた鈴が大きく鳴る。焦りながら、そちらを見た一瞬、前方から注意がそれた。前をもう一度見た時には、迫り来る大きな岩は、もう目と鼻の先だった。
夫の事故死から半年が経ち、恭子は久しぶりに友人との食事に出かけた。若くして未亡人になってしまった彼女の肩を抱いて、力づけようとした。
「スキー場で吹雪に遭うなんて本当に大変だったよね。でも、恭子が無事に下山できて本当によかったよ」
「前方は、ぜんぜん見えなかったんだけれどね。でも、ずっと彼のストックにつけていた鈴の音を頼りに進んでいたの。氣が付いたら麓のリフト乗り場にいたのよ」
「え。でも、ご主人が亡くなったところって……」
「そうなの。麓じゃなかったし、コースも外れたところだったの。でも、私はずっと鈴の音を頼りに下山したのよ。きっと私のために、亡くなった後も案内をしてくれたんじゃないかって、今でも思っているの」
彼女は、そっと白いハンカチで目頭を押さえた。
「彼が、こんな風に亡くなるなんて、想像もしていなかったけれど、でも、まるでわかっていたみたいに、彼は私のためにいろいろしてくれていたの」
「たとえば?」
「例えば、生命保険。結婚したばかりだし、まだ若いからいらないんじゃないのって私は言ったんだけれど、彼がどうしてもって言って、お互いを受取人にした保険金に加入したの。おかげで、私は路頭に迷わずにすんだのよね」
「そうか。そのご主人を悲しませないためにも、恭子、早く立ち直ってね。あなたは若いんだし、人生はまだまだ続いていくんだから」
「うん。ありがとう、力づけてくれて。いつまでもメソメソはしていたら、彼も成仏できないものね。私、頑張るね」
恭子は、あれからお守り代わりに常に身につけているキーホルダーの鈴を振って微笑んだ。
(初出:2019年2月 書き下ろし)
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【小説】好きなだけ泣くといいわ
かなり有名な曲ですし、著作権的にわからないので訳は書きません。検索するといっぱいでてきますし。歌詞は、不実だった元恋人がやってきて泣いていると言うのに対して「私だって散々泣いたんだから、川のように泣くといいわ」と返すものです。
出てくる登場人物は、「ニューヨークの異邦人たち」シリーズのサブキャラたちです。今回登場しているのは、「ファインダーの向こうに」と「郷愁の丘」のヒロイン・ジョルジアの妹であるアレッサンドラと、その周辺の人物。元夫のレアンドロも別の外伝で既に登場済みですね。

【参考】
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
好きなだけ泣くといいわ
Inspired from “Cry Me A River” by Julie London
丁寧に雪かきをしてあっても、石畳の間に残った雪が凍り付いていた。安全にドタドタと歩ける無粋なブーツを履いていなかったので、いつもよりもスピードを落として慎重に歩いた。アレッサンドラ・ダンジェロが、雪道で滑って転ぶなどという無様な姿を晒すことは、何があっても避けなくてはならない。
スーパーモデルとしてだけではない。
娘のアンジェリカは、暖かい部屋でもうぐっすりと眠っているはずだ。父親のもとでの二週間の滞在を終えて、明後日またアレッサンドラと共にアメリカに帰るのだ。
九歳になるアンジェリカは、アレッサンドラの最初の結婚で生まれた娘だ。その父親であるレアンドロ・ダ・シウバは、ブラジル出身のサッカー選手で、現在はイギリスのプレミアムリーグに属するチームで活躍している。娘を溺愛しているにもかかわらず、毎週のように会いに来ることが出来ないのは、そうした事情があるからだ。
だから、学校の長期休暇には、アンジェリカが長い時間を父親と過ごすことに反対したりはしなかった。時おりイギリスまで娘を送り迎えする必要があってもだ。
今回はレアンドロが、アレッサンドラと今の夫がヨーロッパでの多くの時間を過ごすスイス、サン・モリッツへと足を運んだ。そして、愛する娘との長く大げさな別れの儀式を繰り返した後に、滞在しているクルムホテルに戻った。
そのまま、彼の鼻先でドアを閉めて、暖かい室内に戻ってもよかったのだ。なのに、どうした氣まぐれをおこしたのだろう。彼女は、前夫に誘われてクルムホテルへと行ったのだ。重厚なインテリアのエントランスの奥に、目立たないバーがある。別れてから五年経っている。アンジェリカの受け渡し以外の会話をしたのは本当に久しぶりだった。
スイスという国に、有名人の多くが居を構える理由の一つに、この国の住民の有名人に対する態度がある。たとえ、いくら山の中とはいえ少し大きな街に出れば化粧品や香水の巨大な広告は目に入る。金色の絹のドレスを纏い挑戦的に微笑むアレッサンドラの顔はすぐに憶えるだろう。街を歩いていて「あ」という反応を見せる人はいくらでもいる。けれど、彼らはそのまま視線をそらし、何事もなかったかのように歩いて行く。カメラを取り出したり、通り過ぎてから戻ってきてサインをねだったりしない。
ホテルの従業員たちも、バーにやってきたのがプレミアム・リーグで活躍する超有名選手と、離婚した超有名スーパーモデルだということを即座に見て取っただろうが、それとわかるような素振りは全く見せなかった。
クルムホテルのバーで、たった一杯カクテルを飲み、一時間後に颯爽と立ち去った。タクシーを呼んでもらうこともなく、迎えをよこすように連絡することもせずに、彼女は一人歩いた。頭を冷やすために。
別れた夫との会話が、彼女の頭に渦巻き、彼女を戸惑わせている。
彼は、二人の共通の興味対象について話しだした。
「それで、お前がこちらで過ごす時間が増えているなら、いっそのことアンジェリカの学校もロサンジェルスにこだわる必要はないんじゃないか」
「そうね。でも、この辺りには英語で通える学校はないのよ。ルイス=ヴィルヘルムはフランス語圏には、今のところ行きたくないみたいだし。もう少し大きくなったら寄宿学校という案も考えないでもないけれど」
「そうか。マンチェスターの学校ってわけには……」
「いきません」
ぴしゃりと言われて、レアンドロは仕方ないなという顔をした。
「あなたは父親だし、意地悪で会わせないっていっているんじゃないわ。でも、離婚原因を作ったのも、毎週会えないほど遠くに行ったのも、あなたの選択でしょう。私を困らせないで」
「それは、わかっているさ。だから、あの子にもっと会いたくても我慢しているんだ。それに、その、俺の方もずっとイギリスに居続けるって決めたわけじゃないし。でも、アンジェリカとの時間はとても貴重だし、あの子に家庭のことで悲しい思いはさせたくないんだ」
それを聞くと、アレッサンドラは片眉を上げた。キールの入ったグラスに光が反射している。その姿勢はお酒の宣伝の写真のように完璧で、レアンドロは改めて元妻がスーパーモデルであることを認識した。だが、彼女の口からは、コマーシャルのような心地よい台詞は出てこなかった。
「よくもそんなことを言うわね。で? ベビーシッターと結婚すれば、家でじっとあなたを待っていてくれる人と、アンジェリカと三人で幸せな家庭になるとでも思ったってわけ?」
「……それとこれとは……」
レアンドロは三本目のブラーマ・ビールを頼んだ。よく冷えたグラスが置かれ、バーテンダーが注ごうとするのを手で制し、瓶を受け取るとそのままラッパ飲みをした。
「始めから結婚するつもりでソニアに手を出したわけじゃないさ」
「手を出してから、乗り換えようと決心したってわけね」
「そう具体的に思ったわけじゃない」
「でも、そうなのよね。私が、一日中テレビ・ショッピングでも見ながら、家の中であなたを待っていなかったから」
「つっかかんなよ。そりゃ、あの頃は確かにお前に腹を立てていたけど」
「けど、何よ。お望み通り、若くて家庭を守る妻を持ったんだから、私に因縁をつけるのはやめてよ。言っておくけれど、アンジェリカの親権は絶対に渡しませんから。あの女の元になんてぞっとするわ」
「わかっているよ。それにソニアは、その、口には出さないけれど、さほどアンジェリカを歓迎していないし……でも、お前だって、再婚したんだし、おあいこだろう」
「ふふん。あいにくだけど、ルイス=ヴィルヘルムは、アンジェリカを大切にしてくれているわよ」
「その前のヤツは」
「あの男のことを思い出させないで。あの結婚はそれこそ完全な間違いだったわ」
アレッサンドラは、眉をしかめた。彼女の二度目の夫は、テレビなどで活躍するモデレーターだったが、表向きの人当たりの良さに反して、家庭では支配的で嫉妬深かった。また子供が嫌いで、アレッサンドラがいない時にアンジェリカに対して意地の悪い言動を繰り返していた。
アンジェリカの様子がおかしいのに氣がついたアレッサンドラが、使用人の協力を得て現場を押さえた。結婚してから半年経っていなかった。一刻も早く離婚したかったため、離婚原因については他言しないという申し合わせをすることになっていた。いずれにしてもレアンドロにその件を詳しく話すわけにはいかない。あの男の愛娘への仕打ちを知ったら、後先を全く考えずに暴力を振るいに行きかねないからだ。
「そうか。二人目と簡単に別れたから、三人目ともすぐかもしれないと思ったけれどな」
「あなたには関係ないでしょう」
「別れるのか?」
「そんなこと言っていないわ。あなたには関係ないって言っているのよ。こぼれたミルクは元に戻らないって、ことわざ、知らないの?」
「お前は、いつもそうだよな。前を見て、闊歩していく。振り返って後悔したりなんかしない。それがお前らしさなんだけれどな」
苛ついた様子を見せて、アレッサンドラは向き直った。
「ねえ、あなたは確かに私の娘の父親だけれど、私の再婚にあなたが口を出す権利があると思っているの? あの女と再婚したのはそっちが先でしょう?」
「わかっている。だけど、俺はお前と結婚した時ほど、ソニアと結婚する時に舞い上がっていたわけじゃない」
「なんですって?」
「その、半分は離婚したやけっぱちで、それに半分はソニアがかわいそうで……」
「かわいそう?」
「だって、そうだろう。お前は、離婚しようとしまいと、アレッサンドラ・ダンジェロだ。だが、ソニアは、俺に捨てられたらそのまま人生の敗者になってしまう。家庭を壊した性悪のベビーシッターってことでな。だから、俺は……」
「どうかしら」
アレッサンドラは、多くは語らなかったが、元ベビーシッターが世間の評判を氣に病むような弱いタイプだと思っていないことは明白だった。レアンドロも、今は自分でも元妻と似たり寄ったりの意見を持っていた。
「でも、俺は今でも時々思うんだ。なぜあの時、あんな簡単にお前と離婚してしまったんだろうって」
「あなたは、自分が言ったことも憶えられないの? 私とは完全に終わりで、仕事を持つ女となんか二度と関係を持ちたくないとまで言ったのよ。不貞を働いたのは自分のくせに」
レアンドロは、じっとアレッサンドラを見つめて、泣きそうな顔をした。
「俺は、拗ねていたんだ。子供みたいに。お前も歩み寄ってくれて、やり直せるんだって、心のどこかで期待していたんだ。アンジェリカのためだけに俺といるんじゃない、俺とずっと一緒にいたいと思ってくれているってね。その甘さのツケを今払っているんだ。申し訳なかったと思っているんだぜ。時折、俺たちの新婚時代を思い出して、こうなった情けなさに泣いたりしてさ」
「そんなあざとい口説きは、他の女にするのね。ごちそうさま、私帰るわ」
アレッサンドラは、石畳を踏みしめながら、わめき散らしたい思いを必死で堪えた。泣きたいなら好きなだけ泣くといいわ。何よ、今さら。
私がどれほど傷ついて苦しんで、泣いたと思うのよ。私は強くて振り返りもせずに前へと歩いていくですって。そうじゃない姿を世間には見せないだけよ。
彼女は駅の近くまで降りてきた。タクシーに乗り込むと、今の家族の待つ家へと戻った。静かな一角にあるその邸宅からは、サン・モリッツの街明かりが星のようにきらめいて見える。外側はコンクリートの直線的な佇まいだが、中に入ると古い木材を多用した柔らかいインテリアがスイスらしい住まいだ。
暖炉には暖かい火が燃えていて、ソファに座っていたルイス=ヴィルヘルムは、さっと立ち上がってアレッサンドラを迎えた。
「お帰り、寒くなかったかい。言ってくれれば迎えに行ったのに」
1918年に多くの貴族が王位、大公位、侯爵位などを失った、その一人の末裔として、先祖伝来の宝石や城などと一緒にプライドも受け継いだはずなのに、ルイス=ヴィルヘルムにはどこか山間に走る子鹿のような臆病さがあった。優しく礼儀正しい彼は、アレッサンドラを熱烈に崇拝し、大切に扱う。彼女の仕事も、愛する娘もすべて受け入れ、尊重した。だから、アレッサンドラも、新しい夫を困らせないように、彼の家名に傷のつくような仕事は一切断り、品位を保ち、彼の信頼に応える妻であるように、新しい努力を重ねている。
まだ二十一歳だったアレッサンドラが、若きレアンドロと出会い恋に落ちた時、品位などということは考えなかったし、努力もしなかった。そこにあったのは、火花のように燃え上がる熱い想いだけだった。世界が二人を祝福していると信じていたあの頃、豪華でクレイジーな結婚披露宴に酔いしれたこと、全てが単純で素晴らしかった。
あれから十年以上の時が流れ、事情はずっと複雑になり、今夜の二人は同じ場所にいても、もう元の恋人同士には戻れない。アレッサンドラは、優しく抱きしめる夫をやはり優しく抱きしめ返しながら、窓の外を見た。レアンドロの滞在するホテルの辺り、サン・モリッツの街明かりが、泣いているように煌めくのを見て、そっと瞳を閉じた。
(初出:2019年1月 書き下ろし)
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【小説】追憶の花を載せて
今日の小説は、ポール・ブリッツさんのリクエストにお応えして書きました。
12月、うちの鈴木くんと八少女さんのキャラクターを誰かコラボさせてください。いろいろと性格とか考えると、八少女さんの小説世界にからめられる人間が鈴木くんくらいしかいない(笑)
そろそろ鈴木くんも中学生なのでホームステイかなにかでヨーロッパへ旅行させてもいいでしょうしね(^^)
鈴木くんとは、こちらのポールさんの小説の主人公です。
恩田博士と生まれ変わりの機械たち
ヨーロッパへ来ていただく事も可能だったのですが、私のキャラが中学生がホームステイするような所にあまりいないなあ、ということで、日本を舞台にした掌編になりました。
ポール・ブリッツさんの元になった小説が、とてもいいお話なので、余計なことを書いてぶち壊したくないなと思い、もともとの設定を元に書きました。あー、と言うわけで、原作を未読の方はまずポールさんの作品を読んでから、こちらを読まれることを推奨いたします。
コラボさせたのは、昨年の「十二ヶ月のアクセサリー」シリーズの中で出てきた二人組です。

追憶の花を載せて
加奈はウィンドゥ・ディスプレイ越しに灰色の空を見上げた。今朝はかなり冷え込んでいる。もしかしたら雪が降るのかもしれない。
恋人たちがイルミネーションの輝くロマンティックな街を歩く。洒落たレストランで乾杯をする。そんなクリスマスの過ごし方を加奈はしたことがない。恋人が出来れば、その時には……というような期待もない。なぜならば、加奈には既に生活を共にするパートナーがいるのだ。
その麗二と加奈にとって、クリスマス・イブはかき入れ時だ。二人は『フラワー・スタジオ 華』という花屋の共同経営者なのだ。
クリスマスはパーティや花束の注文が多く、二十五日からは忘年会や送別会、それにお正月迎えの花の注文で、文字通り食事をする暇もなくなる。一日が終わるとくたくたで、とてもその後にデートをするつもりにはなれない。
ハードなのはそれだけではない。花屋というのは冬には過酷な職場だ。しもやけやあかぎれは日常茶飯事だし、ひんやりした店をつらく感じることも多い。バイト時代とは違って、二人で店を持つようになってからは、防寒着で店に出るようにしたし、定期的に暖かい室内での仕事や作業を交代でするようにしているけれど、それでも、なぜこんなに寒い思いをする仕事を選んでしまったんだろうとため息をつくこともある。
それでも加奈は、この仕事が好きだった。二人とも初めて持った店である『フラワー・スタジオ 華』は、生業であると同時に夢の実現でもあった。この世知辛い世の中、いくつもの花屋が生まれては消えていくが、店の経営はなんとか軌道に乗り、持ちこたえて八周年を迎えようとしている。
花を贈る人々、花を自宅に用意する人たちにはそれぞれの物語がある。その人生の重要なシーンに、麗二とともに関われることは、とても素敵だ、そう加奈は思っている。
それに、この時期の客たちから聞くストーリーは、なかなかドラマに満ちて、加奈の趣味である同人誌の題材になってくれることも多い。
モデルになった人たちは、自分の容姿や言動に似ている登場人物が、同人誌の世界で華麗にパフォーマンスをしていることはもちろん知らない。モデルにした人たちについては、完全な架空の人物よりも敬意を払い、重要で好意的な役割を与えていたけれど、さすがに伝える勇氣はない。
一方、キャラクターへの愛情が湧き、モデルとなった客に対しても、より好意的に熱心に接客に当たることになる。その本末転倒な熱意にもかかわらず、その顧客がある時から二度と店にやってきてくれないこともある。同人誌の件が明るみに出たからではなく、単純に他の店を好んで行くようになったり、引っ越したり、亡くなったり、とにかく様々な理由からだ。
そうした店にとっては過去となった顧客の好んだ花の組み合わせや、特別な理由で作ったアレンジは、加奈の心の中でそのお客さんたちに捧げた花束として残っている。その人たちの顔を思い浮かべる時に、いつも花があるのだ。
麗二にその話をしたら、彼はそれに同意した。
「ああ、俺も花を一緒に思い浮かべるよ。もっとも、今よく来てくれるお客さんでもそうだけどな」
加奈は、意外に思った。想像の中で花を散らしているのは、件の趣味を持っているがための、少し妙な妄想だと思っていたのだ。そうではなくて、どうやらこれは、花屋の職業病みたいなものなのかもしれない。
そんなことをつらつらと考えつつ、レジの下に置いた小さなヒーターで手足を温めていたら、ドアが開いて、ベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
そういいながら、入ってきた客を見て、加奈は「あら」と意外に思った。十代前半と思われる少年だったのだ。彼は、怖々と店の中をのぞき込み、「花くらい、毎週、買っています」というような風情はなかった。
彼を見て、すぐに「対象外」と思った。同人誌のジャンルは、麗しい男性によるステージパフォーマンスで、ソフトなロマンスも含むが、加奈に言わせると「BL」ではない。少女マンガ以下のぬるい描写だからというのがその言い訳だが、そう言い張る加奈にも良心はある。モデルにするならやはり成年でないと。いくら妄想とはいえ、犯罪はいけない。ましてや相手はお客さんだ。
そんな彼女の思惑を何も知らない少年は、店を一通り見回してから、助けを求めるようにこちらを見た。
「何かお探しですか」
加奈は少年が逃げ出したくならないように、できるだけさりげない調子で訊いた。
「ええと、花を」
それはそうだろう、ここは花屋だから。そう思ったけれど、そうは言えない。
「花束? アレンジ? それとも鉢植え? プレゼントですか?」
矢継ぎ早に質問を投げかける。目的がわかると、提案がしやすいのよね。
「お墓に供えようと思って。今は寒いから、すぐにダメになっちゃうのかな」
少年は、口ごもった。なんと。意外な目的だわ。
ちょうどその時、バックヤードから麗二が出てきた。筋肉ムキムキな上に姿勢がいいので小柄な少年には威圧的なのかもしれないと一瞬心配したが、片手に持った小袋から裂きイカを取り出しては口に放り投げていて、威厳のカケラもない。っていうか、その接客態度は、ちょっと。
「あ、ちょうどいい所に。こちらのお客さん、お墓に供えるお花を探していらっしゃるんだけれど、切り花じゃない方がいいのかって、寒いから」
麗二は、少し考えて頷いた。
「そうだな。菊などはわりと寒さに強いし、寒い方が暑いよりも持つとは思う。もっとも、ごく普通の仏花をここに買いに来たわけじゃないんだろう、きみ」
そう訊くと、少年の顔はぱっと明るくなった。
「そうなんです。ぼくにとって、一番尊敬できる大切な人のお墓なので、お墓の近くで売っている、みんなと同じような花は、いやなんです。でも、みんなと違う花を供えて、ぼくのだけすぐにダメになったり、供えるべきでない常識はずれの花を持っていったなんて言われたりしたらよくないと思って」
麗二は、少年に笑いかけた。
「そうか。基本的には、何を供えても構わない。でも、『常識がない』と後ろ指を指されるのが嫌なら、とげのある花と蔓のある花は、避けた方が無難だね。例えば薔薇なんかだよ」
「なるほど。そう言えば、お墓に薔薇が供えてあるのは、見たことがありません。ぼく、白い薔薇ならいいかなって思っていたんですけれど、それじゃダメですね」
「薔薇は寒さには弱いから、いずれにしても今はやめた方がいいだろうな。そういえば本物の薔薇じゃないけれど、クリスマスローズの鉢植えはどうかい? 寒さに強くて、この季節らしいし、文句を言われないような色のものが多いよ」
そう言って麗二は、薄いピンクや白の鉢植えを少年に見せた。
十二月に咲くクリスマスローズは、ヘレボルス属の中でもニゲルと呼ばれる植物だ。同じヘレボルス属のオリエンタリス も日本では「クリスマスローズ」の名前で売られているが、こちらの開花は春先になる。
花びらに見える部分は、実は
「ああ、クリスマスローズは、花言葉もちょうどいいかもしれないわね」
加奈が言うと、少年はこちらを見た。
「なんていうんですか?」
「いろいろあるけれど、『慰め』や『追憶』って言葉が代表的かしら」
「それに、受験生や学者に贈る人もいるよな。『
「学者……。実は、供えたいお墓に眠っているのは、僕が一番尊敬している博士なんです」
「だったら、ちょうどいいな。多年草だから直植えして根付いたら、ずっと咲き続けるよ」
麗二は、咲きそろっている花の鉢をそっと揺らした。
「そうですか。じゃあ、それでお願いします」
「春先に咲くのがいいなら、ヘレボルス・オリエンタリスだけれど、今はまだ入荷していないな。今、欲しいなら、このニゲルだね。どんな色がいいのかな」
「その薄紫のをください。それから、春になったら咲くのも供えたいから、入荷したら教えてくれませんか」
「いいとも。じゃあ、ここに名前と連絡先を書いてくれるかい……ふむ、鈴木君っていうんだね。電話番号も……ああ、ありがとう」
麗二は、大人の自分よりもずっと上手な鈴木少年の字を感心して眺めた。
大事に鉢植えを抱えて鈴木少年が出て行ってすぐに、また扉が開いて一人の老人が入ってきた。
「ああ、先生、こんにちは」
麗二は頭を下げた。
「今の男の子……」
先生と呼ばれた老人は、首をひねっていた。
「ご存じなんですか」
加奈が訊くと、はたと思い出したような表情をしてから、彼は笑顔を見せた。
「ああ、旧友の葬儀で遭った子だ。彼の最後の弟子といってもいいな。あの時は、確か小学生だったが、ずいぶん大きくなったな」
ウィンドウから覗くと、少年は自転車の籠に鉢を大事そうに載せると、颯爽と漕いで去って行った。
「そうですか。一番尊敬している博士のお墓に供えるって言っていましたよ。その方のお墓じゃないでしょうか」
麗二は言った。
「だろうな。あいつを憶えていて、まだ慕ってくれることは、わたしは嬉しく思うよ。だが、あいつはどう言うかな。『追憶』なんてものは、老人に任せて、若者は前を向いて行けなんて、あまのじゃくなことを言うんじゃないかな。というのも、わたしもあいつの遺言に近いような言葉を聴いたんだ」
『ふり返っちゃだめだぞ、鈴木くん。ペダルをこげ、ひたすらこぐんだ!』
加奈は、もう一度ウィンドウの外を見た。鈴木少年は、力いっぱいペダルを漕いで、寒空をものともせずに去って行った。籠の中のクリスマスローズも、寒さに負けずに花びらに見える白い
たぶん彼は、追憶だけに生きたりはしていないだろう。恩師の願ったとおりに、未来に向かってひたすらペダルを漕いでいるのだ。でも、振り向かずに進むその先々に、きっと恩師がいる。彼は、繰り返し咲く冬にも強い花を、その恩師に見せるために植えるのだろう。
『フラワー・スタジオ 華』で迎える八年目のクリスマス。私だって寒さに負けている場合じゃないよね.加奈は、麗二との夢であるこの店という花を何度でも咲かせるために、自分も未来に向かって力強くペダルを漕いでいこうと思った。
(初出:2018年12月 書き下ろし)
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- 【小説】夏至の夜 (20.06.2018)
【小説】その色鮮やかなひと口を -7 -
今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。
11月17日、真の誕生日なんですよね~。テーマは「蠍座の女」、コラボ希望はバッカスの田中氏と思ったけれど、すでにlimeさんちの水色ちゃんとコラボ予定のようなので、出雲の石倉六角堂で。出雲なので、別の誰かさんたちが出没してもいいなぁ~(はじめちゃんとか。まりこさまとか。)
「真」とはご存じ彩洋さんの大河小説「相川真シリーズ」の主人公です。翌日11月18日は、実は今連載中の「大道芸人たち Artistas callejeros」のヒロイン蝶子の誕生日ですが、今回は絡めませんでした。「さそり座の女」ですけれど、あいつはヨーロッパにいるんですよ。「石倉六角堂」は松江ですし、蝶子はそんなにしょっちゅう日本には来ないので、無理がありすぎました。
で、はじめに謝っておきます。たくさんご要望があるんですけれど、全部はとてもカバーできませんでした。五千字ですよ! 出すだけなら出せますけれど、まとまった話にならなくなるし。というわけで、「石倉六角堂」までをカバーしました。そして、かなり無理矢理ですが彩洋さんの大事な真のお誕生日を絡ませました。でも、ご本人は出てきません。その代わり、以前この話で少しかすらせていただいた、あの方が登場です。

【参考】
「その色鮮やかなひと口を」
その色鮮やかなひと口を -7 -
うわ、可愛い。怜子は思わずつぶやいた。ルドヴィコの作る和菓子は、いつも色鮮やかで、かつ、日本情緒にあふれるトーン、動物を象った練り切りなどは愛らしいのだが、今回はいつもにましてキュートだと思った。
それは金魚を象っていた。単なる金魚ではなく、島根県の天然記念物にも指定されている『出雲なんきん』だ。土佐錦、地金とともに三大地金のうちの一つに数えられている、島根ゆかりの金魚だ。小さな頭部と背びれがないこと、それに四つ尾の特徴がある。
既に江戸時代には、出雲地方で大切に飼育され、大名諸侯が愛でていた、歴史ある品種なのだ。不昧公の呼び名でおなじみの松江藩七代藩主松平治郷は、江戸時代の代表的な茶人でもあり、彼の作法流儀は不昧流として、現在に伝わっている風流人だが、彼もまた『出雲なんきん』をこよなく愛し「部屋の天井にガラスを張って泳がせて、月光で眺めた」という伝説すら残っている。
今年はその不昧公の没後二百年であるため、島根県の多くで不昧公二百年祭として縁の催しが行われている。ルドヴィコの勤める『石倉六角堂』でも、不昧公ゆかりの伝統的な和菓子に加えて、二百年祭にふさわしい創作菓子を毎月発表していた。
十二月の分を任されたルドヴィコは、怜子にアイデアがないか相談した。彼女が勧めたのが『出雲なんきん』を象ったお菓子だった。
求肥は、上品な白で、所々朱色で美しく彩色してある。透けている餡は橙色の黄味餡。狭い目幅の特徴をよく捉えた丸い目がこちらを見ている。凝り性のルドヴィコは、試食用の『出雲なんきん』の柄を全て変えていた。
「おお、これは綺麗だ」
「ルドさんらしいわねぇ」
集まってきた職人たちや、販売員たちが口々に褒めて、手に取った。
「あ、奥様。お一つどうぞ」
怜子は、石倉夫人に朱色の部分の多い一つを手渡した。
夫人は、一瞬その和菓子を眺めてから、わずかに不機嫌に思える口調で言った。
「いいえ、そちらのもっと白い方を頂戴」
「え。あ。はい」
怜子は素直に渡した。どうしたんだろう、そんなことをこれまで言ったことないのに。
「ルドちゃん。味は満点だけれど、つくる時はできるだけ白い部分を多くしなさいね。『出雲なんきん』は、他の金魚と違って白い部分が多い白勝ち更紗の体色が好まれるので、わざわざ梅酢を使ってより白くなるようにして育てるのよ」
穏やかに語る様子は、いつもの夫人だった。
彼女が事務室に戻って言った後、義家が言った。
「あちゃー。サソリ女を思い出したんだな。桑原くわばら」
怜子は、はっとした。
それは、先週のある晩のことで、時間は遅く閉店間際だった。お店に、かなり酔っている女性が入ってきたのだ。大きめのサングラスと、真っ赤な口紅が少し蓮っ葉な印象を強めていた。
「ふふーん、ここなのね。来ちゃったわ」
販売員は、和菓子に用はなさそうだと思っても一応「いらっしゃいませ」と言った。女性はハスキーな声で言い放った。
「あんたには用はないわ。せっちゃんを出してよ」
「……石倉のことでしょうか」
せっちゃんという名前で思い当たるのは、社長の石倉節夫以外にはいなかった。
「そうよ。あの人を出して。あたしの大事な人なの」
それを聞いていた店の人間は固まった。石倉夫人が厨房から出てきたからだ。
「申し訳ありませんが、主人は不在ですが、何のご用でしょうか」
石倉夫人が訊くと、女はゆっくりとサングラスを外して、そちらを見た。厚化粧だが、目の下の隈や目尻の皺は隠せていなかった。
「主人……ね。なんとなくわかっていたわ。やっぱり、そうだったのね。昨夜は、あたしの誕生日だったのよ。一緒に過ごす約束だったのに、いつまで経っても来ない。電話にも出ない。約束したのに、ひどいわ」
その年齢には鮮やかすぎる朱色のワンピースの開いた襟元に見える鎖骨が少し痛々しかった。
「奥さんがいる人ってわかったからって、はいそうですかって、忘れられるようなものじゃないわ。あたし、大人しく引き下がったりしないから。地獄までついていくつもりだって、せっちゃんに伝えてちょうだい。……あたし、こう見えても一途なの。ほら、歌にもさそりは一途な星座っていうじゃない、ははははは」
その翌日、出てきた石倉社長は、いつもの朗らかな様子はどこへ行ったのか、すっかり消沈していた。数日ほどは夫人に口もきいてもらえなかったらしいが、ようやく元の朗らかな様子に戻った所を見ると、今回は許してもらえたらしいというのが、職人たちの一致した意見だった。
その女性が来店した時は、怜子はその場にいなかったので、『出雲なんきん』の菓子から連想するとはまったく想像できなかった。でも、奥さま氣の毒だもの……。私だって、ルドヴィコが他の人にフリーだといって言い寄ったりしたら嫌。
「怜子さん。どうしたんですか? 怖い顔していますよ」
ルドヴィコにいわれてはっとした。
「ごめんなさい。あれ? それ、どうするの?」
彼は、店内試食用とは別にしてあった『出雲なんきん』を箱に詰めていた。それは販売を想定していたものよりも躍動感あるデザインで大きめに作ってあった。
「特注です。驚かないでください。怜子さんも知っているイタリア人が今から取りに来ます」
怜子は首を傾げた。ルドヴィコを除けば、怜子の知っているイタリア人は、ルドヴィコの家族と、ミラノ在住の親友ロメオくらいだ。誰が日本に来たんだろう?
自動ドアが開き、のれんの向こうから背の高い金髪の男性が入ってきた。女性店員たちがどよめいた。
あ。雑誌の人だ! ヴォルなんとか家の御曹司で、同居人にすごい和食を作っているって人。かつて、この人の特集の載っている雑誌に、店のみんなでキャーキャー騒ぎ、男性陣の白い目を浴びたことを思い出した。なーんだ。そういう意味の知っている人か。
「こんにちは、いらっしゃいませ」
怜子は、使える数少ないイタリア語で言ってみた。他のアルバイトたちが羨ましそうにこちらを見ている。
男性は、魅力的に微笑んだ。
「松江でイタリア語の歓待を受けるとは思いませんでした。嬉しいですね。お電話した大和です。マセットさんは、いらっしゃいますか」
「はい。厨房にいるので、呼んできますね」
怜子が声をかけると、ルドヴィコは先ほどの箱を持って出てきた。
「こんにちは、大和さま」
イタリア人同士なのに、何も日本語で会話しなくてもいいのに。どちらも、日本人と遜色のない完璧な発音だ。怜子は、つたないイタリア語で話したことを少しだけ後悔した。
「特注品で、四つでしたよね。こちらでよろしいでしょうか」
ルドヴィコは『出雲なんきん』が四匹、頭を突き合わせているように箱に詰めたものを大和氏に見せた。
「おお、これは綺麗だ。大使館でお目にかかったファルネーゼ特使が、松江に行くなら是非マセットさんの和菓子を食べてくださいと勧められた理由がわかりましたよ。これは、金魚ですよね……蠍ではなくて」
その一言に、場の空氣は凍り付いた。幸いそこには、石倉夫人はいなかったが、石倉節夫社長が来ていた。先ほどの会話があったので、誰もがあの酔った女性のことを思い浮かべて彼の方を見ないように不自然な動きをした。もちろん、大和氏は何も氣付いていないであろう。
「ええ、これは『出雲なんきん』という島根特産の金魚を象りました。もしかして蠍に見えましたか?」
ルドヴィコが訊くと、大和氏は首を振った。
「いえ、もちろん蠍には見えません。ただ、たまたま今日、これを食べさせようとしている相手が、さそり座の生まれなのですよ。蠍にちなむものを探した関係で、朱いものを見ると何もかも蠍かもしれないと考えてしまって」
「そうでしたか。さそり座ということは、もしかして今日がお誕生日ですか?」
「ええ。そうです。彼とは、この後に出雲で待ち合わせ、誕生日を祝うつもりなのです。本人には内緒ですが、ちょっとした懐石料理の準備をしてありまして、その締めにこちらを出そうと思っています」
例の雑誌のインタビューでも、同居人に凄い和食を作っているって話していたけれど、この人、懐石料理まで作っちゃうんだ。怜子は目を白黒させた。
「そうでしたか。蠍モチーフを探しておられたのですね。では、少々お待ちください」
そう言うと、ルドヴィコは箱から『出雲なんきん』を一つだけ取り出して厨房へ入っていった。そして、十分ほど経って出てきた時には、別の和菓子を手にしていた。
「あ、蠍……」
怜子は、思わずつぶやいた。『出雲なんきん』は透明度の高い求肥で包んでいたが、蠍の方はマットでどっしりとした練り切りだ。鋏と尾が躍り、今にも動き出しそうだ。
「一般には、あまり売れるモチーフではないですが、せっかく特注でいらしたのですから」
そうルドヴィコがいうと、大和氏は楽しそうに笑った。
「ああ、これは素晴らしい。松江中を探した蠍をこんな形で手に入れられるなんて。ありがとうございます。彼がどう反応するか楽しみです」
「どうぞ素敵なお誕生日を、とお伝えください」
大和氏は、礼を言って代金を払うと、大事に『出雲なんきん』と『蠍』の入った箱を抱えて帰って行った。
「ルド公。ありがとうな。お前さん、機転が利くな」
「ありがとうございます、社長。蠍は朱一色ですし、形もさほど難しくなかったので」
「イタリア人っていうのは、大人になっても誕生日を盛大に祝うものなのか」
ルドヴィコは、節夫ににっこりと笑いかけた。
「誕生日は、習慣になっているから祝うものではありませんよ」
節夫は、わからない、という顔をした。ルドヴィコは、ニコニコしていた。
「義務や形式じゃないんです。その人のことを氣にかけている、誕生日も忘れていない、これからも仲良くしていきたい、その想いの表れなんです」
「そうか。どうも、そういうのは慣れなくてな。いつも一緒にいる相手だと、余計やりにくいんだよな」
「ストレートな表現は、一般的な日本人男性よりも一般的なイタリア人男性の方が得意かもしれません。そういう形がよりよいとは言いませんが、行動に出すと想いは伝わりやすいと思います」
節夫は「そうか」と言って、何か考えていたが、閉店時間になると早々に帰って行った。普段のように店の若い連中を飲みに誘うこともなく。
「ただいま、帰った」
玄関の扉を開けると、節夫は少し大きな声で言った。奥の台所から妻の柚子が出てきた。
「お帰りなさい、どうしたの、こんなに早いなんて珍しい」
「まあな」
そう言うと、下げていたショッパーを持ち上げて渡した。
「あら、なあに?」
「そ、その、夕方、今日が誕生日で祝うっていうお客さんが来たんだ。それでちょっと思い出して」
柚子がのぞき込むと、小さめのホールケーキが入っていた。和菓子屋の社長夫人として、ほとんど口には出さないが、柚子はチョコレートケーキが好きなのだ。節夫が買ってきたのは、チョコレートスポンジに、ガナッシュクリームを挟み、更にダークチョコレートでコーティングしたチョコレート尽くしのケーキだった。
「まあ。よく憶えていてくださったわね」
「誕生日だってことか」
「ええ。それに、ここのチョコレートケーキが好きなことも」
「まあな。お前は、あれが好きとか、これが欲しいとか滅多に言わないから、憶えやすいさ」
「他の女性と違って」
きつい一刺しも忘れない。節夫は、思ったが口には出さなかった。さそり座の女は一人ではないのだ。
柚子は、チョコレートケーキを冷蔵庫にしまい、手早く節夫の晩酌の用意をすると一緒に座った。彼女の態度は、まだ若干冷ややかだが、絶対に許さないと思っているならば、こんな風に一緒に座ってくれることはないだろう。
四十年近い結婚生活、節夫は浮氣が発覚する度に謝り、関係を修復してきた。彼女は、どんなに怒り狂っていても「石倉六角堂」の営業に支障が出るような騒ぎを起こしたことはない。妻としてだけでなく、共同経営者として節夫にとって柚子以上の存在がいないことは、二人ともよくわかっているのだ。
柚子は、しばらくするとチョコレートケーキをテーブルに運び、紅茶を淹れた。
「せっかくですもの。いただきましょう」
「おう」
節夫は、ティーカップに口をつけた。ふと、柚子の視線を感じて「ん?」と訊いた。彼女は、楽しそうに笑って、『さそり座の女』の一節を口ずさんだ。
「紅茶がさめるわ さあどうぞ それには毒など入れないわ」
むせそうになったが、節夫はなんとか飲み込んだ。まいったな。ご機嫌を直してもらう方法を、もう少しルド公に習わなくっちゃな。
(初出:2018年11月 書き下ろし)
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【小説】September rain
今日の小説は、山西先さんのリクエストにお応えして書きました。いやはや、難しいリクエストでした。
コラボの希望は「ヤキダマ」そして「コハク」です。ずうずうしくも2人ですがお許しください。
一応サキの了解は取っています。面白そうだからいいか、とのことでした。
リアルコハクは知りませんが、まぁ良いでしょう。
別々の作品のキャラですが、ヤキダマは現実世界にも設定がありますし、コハクは現実世界のキャラです。
2人共建築関係の仕事ですし、まだそんなに偉くはなってないようですが、世界を舞台に活躍している様子です。
年齢はヤキダマが少し上くらいでしょうか?
そしてテーマは「9月の雨」でお願いします。
私の年代ですと太田裕美ですね。
コラボ相手は完全にお任せです。
少し補足しますが、先さんは、既に発表した『春は出発のとき』のリクエストをくださったサキさんと二人三脚でブログを運営なさっています。サキさんと先さんはのお二人で左紀さんなんですけれど、リクエストをいただいた「コハク」や「ヤキダマ」というキャラクターとお話そのものを考えられたのはサキさんです。ですから、「了解を取った」ということなのでしょうが、かといって、私が今後の作品に差し支えるような重大な設定を作るわけにはいかないのは、他のコラボと同様です。
そして、建築士の「コハク」は、たしか『物書きエスの気まぐれプロット』シリーズのエスの友達ではなくて、その作品に出てくるキャラクターだったはず。(つまり左紀さんのブログには、サキさんの友達の「リアルコハク」、エスの友達の「コハク」、それにエスの作品のキャラ「コハク」と少なくとも三人の「コハク」が登場)、一方、「ヤキダマ」は『シスカ』と同じ架空世界に住んでいるのですが、私の所のキャラクターたちとのコラボや、『オリキャラのオフ会』では、現代の日本(やイタリア)に普通にいるという設定もあります。
そういうわけで、今回は、強引に『物書きエスの気まぐれプロット6』の中の『コハクの街』に出てくるコハク(シバガキ・コハク、漢字不明)と、『いつかまた・・・(オリキャラオフ会)』に出てくるヤキダマ(本名・三厩幸樹)が、「建築系の大学で知り合っていた友人だった」という強引な設定のもと、話を作りました。たぶん、サキさんの逆鱗に触れる設定ではないと思いたい……です。まずかったらおっしゃってください。

September rain
彼は迷った時に、こう考えるのが常だ。彼の妻にこの話をして、その判断に賛成してもらえるだろうかと。彼女に胸を張って報告できないようなことはしたくない。
通り過ぎた角を二つほど戻ると、その女性はまだ同じ場所にいた。スーパーマーケットの入り口の近く、歩道に出ているので自動ドアが開くことはないが、庇に覆われることもない場所だ。冷たい雨が降りしきる中、手に持った傘を広げもせずに佇んでいる。
よけいなお世話かもしれないけれど、でも、この後、自動車道に飛び込まれたりしたら困る。近づいてよく見ると、泣いているわけではないようだ。二十代後半だろうか、白いリネンのブラウスに、焦げ茶のタイトスカート。落ち着いた服装だが、個性にも乏しい。他の通行人が誰も立ち止まらないのは、その存在が大きく主張してこないからかもしれない。
彼は、その場に数秒立って、声をかけるべきか思案した。濡れたまま、空を見上げるように立っていた女性は、それでも視界に入った彼の存在に氣がついたようで、彼の顔を見て不思議そうな顔をした。
「何か……」
彼は、傘を差し掛けた。
「あ。いや、どうなさったのかと……。傘はお持ちのようなのに、濡れたまま立っていらしたので……」
彼の指摘で初めて降雨に氣付いたかのごとく、彼女は「あ」と言ってから自分の傘を広げた。
「私ったら、ぼんやりして」
「あ、いや、何でもないならいいです……すみません」
その女性は、少し慌てた。
「いいえ。その……氣にかけていただき、ありがとうございました。実を言うと、考え事、いえ、昔のつらかったことを思い出していました」
彼は、返答に困ったが、歩いている方向がどうやら同じで、会話を打ち切るのは難しかった。
「そういうことは、ありますよね。でも、今日みたいに冷たい雨に濡れると、風邪をひきますよ」
「九月の雨は冷たくて……」
彼女は、小さな声で歌を口ずさんだ。
「?」
「あ、何でもないです。昭和の歌謡曲……だからご存じないですよね」
「ええと、聴いたことはありますよ。太田裕美でしたっけ。でも、あなたもこの歌がヒットした時に聴いた世代じゃないですよね」
彼が訊くと、寂しげな笑顔が返ってきた。
「大学生の時に、お付き合いしていた男性が教えてくれたんです。お父さんが大ファンだったそうで、家でカラオケをする時に、お母さんが歌わされるんだって、九月になるとよく口ずさんでいました」
「それで憶えてしまったんですね」
「ええ。その時は、昔の曲だな、歌詞も前時代的な価値観の、いかにも昭和な言葉選びだなって、彼と笑い合っていたんですけれど……」
「けれど?」
「その彼と、別れることになったのは九月でした。冷たい雨の中、濡れながら家に帰ったんです。歩きながらあの曲の歌詞を思い出して、涙が止まりませんでした。辛さから逃げるために東京に出て、別の仕事をして、少しは自立して、がむしゃらに働いて……。もう、忘れたと思っていました。でも、先ほど、ああ、九月の雨だって思い出したら、急に胸がいっぱいになってしまって」
「どんな歌詞でしたっけ」
彼は、間抜けな質問だと思いながらも、口にした。彼との個人的な思い出の方は、これ以上訊きづらかったから。
「失恋の歌です。かつては幸せだったのに、相手の心が離れてしまったのを感じながら、九月の雨に濡れている。昔から、秋って別れのシーズンだったんでしょうね」
角まで歩くと、彼女は小さな惣菜屋を示した。
「私は、ここで。ご心配いただき、ありがとうございました」
「お買い物ですか」
彼が訊くと、彼女は首を振った。
「いいえ。ここに勤めているんです。素朴なものばかりですが、結構美味しいですよ。機会があったら寄ってくださいね」
彼女は、お辞儀をして去って行った。傘を畳む後ろ姿は、柔らかかった。
店にやってきて惣菜を購入していく客たちは、彼女の人生について思いを馳せることはないだろう。彼もまた、彼女が東京でどんな生活を送り、なぜ戻ってきたのか、そして、この街でかつて起きた恋と別れについて、何も具体的なことは知らない。
彼が、過去も含めて全てを包み込みたいと願ったのは、結婚したばかりの妻だ。彼は、愛する人のつらい過去を変えることは出来ないが、日々の生活の中で笑顔と喜びを共有することは出来る。そして、これから起こりうるどんな困難にも共に立ち向かい、持てる全ての力で守っていきたいと思っている。
今、わずかに言葉を交わした女性もまた、様々な思い出を抱え、人生の続きを家族や友人たちと歩いて行くのだろう。九月の雨に、いずれもっといい思い出ができるといいが。彼は、そんなことを考えつつ、先を急いだ。
「シバガキさん、チェックをお願いします」
涼二は、CADで作成した設計図を設計士の所に持っていった。若々しい彼女は、彼よりも年下に見えるが、この設計事務所の中ではすでにベテランの一人だ。下の名前は、なんだったか宝石みたいな綺麗なやつだったな……ああ、そうだ、コハク。
ショートカットの髪をわずかに傾けながら、彼女は涼二の作成した図面をチェックしている。彼は、間違いが見つからないといいなと考えながら、彼女の向こう側の窓をぼんやりと眺めた。
雨が降っている。ちくしょう。また予報が外れた。どうして傘を持っていない日に限って降るんだろう。
「あら。降ってきたわね。帰るまでに止むかしら」
彼女は、身震いすると窓の所へ行って閉めた。
「ずいぶん涼しくなったわよね。どちらかというと寒いくらい。九月って、もう秋の始まりなのよね」
彼女の言葉に、涼二はそう言えば、九月の雨だったかと改めて思った。
「September rain rain……」
「ちょっと。小林君、なんなのよ、突然」
彼女は、涼二の突然の鼻歌に、目を丸くしている。
「すみません。つい、思い出してしまって」
「なんの歌?」
「あ。昔のヒット曲です」
「……くわしいのね。カラオケ?」
「ええ、まあ。家で、親父とお袋が喜んで歌っているのを見て育ちまして。もっとも、それを思い出したわけじゃないんですけれど」
「じゃあ、何を思いだしたのよ」
涼二は、口を一文字に閉じて視線を落とした。彼女は、急いで付け加えた。
「あら。イヤなら言わなくてもいいのよ」
「あ、そういうわけではないです。……今まで、意識していなかったけれど、ずいぶんダメージを受けていたんだなと、今ようやく認識したんです」
「え?」
涼二は、窓に背を向けて立った。窓には冷たい雨が伝わって落ちる。部屋の中には水滴は入ってきていないが、彼の背中には冷たさが流れているようだった。
「大学の時つきあっていた彼女がいたんです。彼女は短大で二年早く社会に出て、僕は甘えた学生だったな。今なら平日の夜中に突然呼び出したりしたら迷惑だってわかるけれど、あの時の僕は、配慮が足りなかったと思います。いろいろなことがすれ違って、それがいわゆる性格の不一致ってやつだと、思っていました」
彼女はデスクに頬杖をついて聴いていた。
「それで?」
彼は肩をすくめた。
「つまらない喧嘩をしたんです。二股をかけていると疑われて、カッとなって、売り言葉に買い言葉でした。しばらくしたら、謝ってくるだろう、くらいに思っていたんですけれど、それきりになってしまい、共通の知人から彼女が東京に転職してしまったと聞かされました。急に、周りの地面がなくなって、崖に一人で立っているようで。でも、その後は日常に戻って、けっこう上手くやっているつもりだったんです」
「もしかして、今でも引きずっているの?」
「どうでしょうね。あれから、何人かの女性と付き合い始めるくらいはしているんですけれど、全然続かないのは、もしかして、あの別れのせいかな。あの喧嘩も、こういう冷たい雨の日だったなあ。まさに『九月の雨』だ」
「そのお知り合いに訊いて、連絡してみれば。また付き合うとかそういうのでなくても、ほら、お互いに伝えられなかった言葉を、今なら上手に表現できて、その結果、苦い過去がいい思い出になるかもしれないし」
明快な人だな。涼二は思った。
「そうできたらいいんですけれど、東京のどこにいるか、あいつも知らないんじゃないかな。彼女のご両親は、この街にいるから、いずれまた遭うことがあるかもしれませんが……。すみません、こんな話してしまって。図面を見ていただいているのに」
「いいのよ。どっちにしても、もうじき人が来る予定で、この図面のことは明日の朝話そうと思っていたし」
「そうですか。 お客さんですか?」
「いいえ、違うわ。同業者ってとこかな。大学時代に知り合ったの。彼は、大学院まで行って、今はK市の建築事務所で活躍しているのよ。今日、駅前に仕事で来るって聞いたので、久しぶりだからついでに寄ってねって言ってあったの。あ……来た!」
彼女は立ち上がっで、窓の外を眺めた。涼二の知らない男性がこちらに向かってきた。
「小林君、悪いけれどエントランス、開けてくれる?」
時間外なので自動ドアはもう開かない。彼は、急いで入り口に向かった。
入ってきた男性と、簡単な挨拶を交わした後、彼女は彼に涼二を紹介した。
「幸樹、こちらはうちの新人で小林涼二君。建築士目指して私たちの通った大学の夜間部に通っているの。小林君、こちらは、三厩幸樹さん。とても優秀な建築士よ」
涼二は、「はじめまして」と手を伸ばしながら見上げた。柔和な顔立ちをした背の高い男性だ。
彼女が三人分のコーヒーとクッキーを用意する間に、涼二は図面を片付けて、ミーティングの机に幸樹を案内した。先日彼女が手がけた音楽堂に入ったと熱心に話をする幸樹の専門的な見解に、涼二はなるほどと、目からうろこが落ちる思いで耳を傾けた。
コーヒーが空になる頃、彼女は提案した。
「ねえ、小林君とこの後軽く飲みつつ、二級建築士試験についてのアドバイスをする予定なんだけれど、よかったら幸樹もどう? 空調設備や防災設備など、設備工学のことは、私よりも幸樹のほうがずっと精通しているし……」
と、言いかけてから、彼女ははっとして慌てて訊いた。
「あ、幸樹、新婚だったね。急いで帰らないと、可愛い奥様が心配する?」
すると、幸樹は笑って言った。
「いや、『今日はコハクに会う』と言ったら『よろしく伝えてね。ゆっくりしてきて』と言われたよ。彼女も、北海道で知り合った友達と再会するとかで遅いらしいし」
涼二は、幸樹の話をもっと訊きたいと思っていたので、とても嬉しかった。
場所を移した先は、駅ビルのスペイン料理屋だった。
「私ね。ちょうど今の小林君みたいに、建築事務所で働きながら資格試験の準備をしていた時に、自分の適性について悩んだことがあってね。それで、衝動的にスペインへ行ったことがあるの。それ以来、スペイン料理が大好きになっちゃったの。タパスは少しずつたくさん頼めてお酒のおつまみにいいし」
「へえ。シバガキさんが……。意外ですね」
彼女は、いつも颯爽としていて、迷いなどないタイプなのかと思っていた。
自分に建築家としてやっていく才能があるか、涼二は不安に思う時があった。一度は諦めて普通の就職をした後で、もう一度夢に向かっての再チャレンジだ。年齢のこともあり、将来に不安がないと言ったら嘘になる。でも、その不安が自分だけのものではないと思うことは、大きな励みになる。
彼女はいくつかのタパスを注文し、ベネデスの白ワインを、男性陣はビールの方が得意なので、セルベッサを頼んだ。
チーズのオリーブオイル漬けや、スペイン風オムレツ、タコと青唐辛子のピンチョスなどが運ばれてきた。ウェイターの一瞬の戸惑いを察知した幸樹が黙って皿を動かして、テーブルに空間を作った。
彼女はそれを涼二に示して言った。
「この人、こういう氣遣いが本当に上手なのよね。奥さんのサヤカさんも、感心していたわよ」
「え。彼女が、コハクにそんなことを?」
幸樹は、驚いた。
「彼女もあいかわらずなのね。とても感謝しているって、本人にはほとんど言わないんでしょう? 幸樹の奥さんってね、口数が少ないから、知らない人から見ると、ぶっきらぼうにも見えるんだけれど、とても繊細な感性を持った素敵な女性なのよ。ね、幸樹」
「ええ。まあ」
涼二は、照れる幸樹を意外に思いつつ見ていた。新婚か。そりゃ、幸せだろうなあ。その途端、不意に自分のことを思い出して俯いた。あの時、彼女と別れていなければ、もしかしたら自分も今ごろは、こんな顔をしていたのかもしれないと。……参ったな。
「あ。小林君が暗くなっちゃった」
「シバガキさん、さっきの話のせいですよ。あ、いや、自分で話したんだから、自分のせいか……」
「九月の雨のせいでしょう」
「九月の雨?」
幸樹が妙な顔をした。
「そうなんです。さっき、シバガキさんに、昔、九月の雨の日に別れてしまった話をしていたんですよ」
涼二は、肩をすくめた。
「えっ……」
幸樹は、二度瞬きをして涼二を見た。
「どうしたの?」
彼女が訊くと、幸樹は、少し間を空けてから答えた。
「あ、いや。ここに来る前に、偶然会った人のことを、考えていたんだ」
「どんな人?」
彼女が訊くと、幸樹はまずセルベッサのグラスを空けた。そして、二人の顔を見てから、口を開いた。
「太田裕美の『九月の雨』って曲、知っているかい?」
(初出:2018年9月 書き下ろし)
※2019年11月25日 サキさんのご要望に従い、ヤキダマとコハクのお互いの呼び方を訂正しました。
※2019年11月26日 サキさんのご要望に従い、コハクからのコトリの呼び方を訂正しました。
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【小説】コンビニでスイカを
今日の小説は、けいさんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト月は8月でお願いします。
内容は、うちのキャラを適当に使って、一つ情景を描いていただけたら嬉しいです。
一番乗りでいただいたリクエストです。けいさんのところのキャラは、皆さん素敵なので悩みましたが、今まで一度もコラボしたことのない方にしようと、あれこれ探してみました。
けいさんの「怒涛の一週間」シリーズの三作目に当たる「セカンドチャンス」から、お二方にご登場願いました。実質コラボしていただいたのは、とある高校生(作品中ではまだ中学生でした)です。本編の中では、主人公の親友とその教え子という形で印象的に登場した二人ですけれど、もしかしたらいずれはこの二人が主役の作品が発表されるかも? 以前、ちらりと候補に挙がっていると記事を書いていらっしゃいましたよね。そんなお話も読みたいなーと願って、この二人にコラボをお願いすることにしました。あ、それに、舞台設定のために、もう一方も……。
けいさん、好き勝手書いちゃいましたが、すみません!

コンビニでスイカを
私には、行きつけの店がある。……といっても、コンビニエンスストアだけれど。都心に近いのに緑の多い一角、道路の向こうの街路樹を眺める窓際の飲食コーナーの一番端に座るのが好き。
オレンジジュースを買ってきて、問題集を広げる。クラスの女の子たちは、シアトル発の例のファーストフードに行っているけれど、なんとかラテを毎日飲んでいたら、私のお小遣いは一週間で尽きてしまう。話の合わないクラスメートに交じって居たたまれなく座ることに対する代償としては高すぎる。だから協調性がないって言われるのかな。
冷たいオレンジジュース。風にそよぐ街路樹の青葉を眺めてぼーっとしていたら、知っている男性が窓の外を通っていった。私が通う塾の先生。すぐ後ろからついていくのは、青木先輩。去年までおなじ中学に通っていた有名人だ。
少なくとも夏休みの前までは、彼は私のクラスの女の子たちの憧れの存在だった。背が高くて、スポーツマン。陸上部のエースだった。都大会で、100メートルと幅跳びで優勝。大会新記録と都中学新記録を同時に達成。関東大会と全国大会出場も決まっていた。高校のスポーツ推薦も決まっていたとか。
でも、新学期になったらに、彼の起こした事件のことでみんなが大騒ぎしていた。どこかのコンビニで万引きをして捕まったって。部活はすぐに引退との名目で辞めさせられて、推薦も取り消されたらしい。
それから、クラスの子たちの態度は180度変わった。以前はキャーキャー言っていたのに、今度はヒソヒソと眉をひそめて噂するようになった。当の青木先輩は、最初は少し背を丸くして、下を見ながら歩いていたけれど、二学期も後半になるとまたちゃんと前を向いて歩くようになった。
その理由を、私はなんとなく知っている。先ほど、彼の前を歩いていた塾の先生。私の担当じゃないから、確かじゃないけれど、名前は確か阿部先生。私は、このウィンドウから二人が行ったり来たりするのを何度も見た。最初は先生が先輩を引っ張るようにして歩いていた。それから先輩はうなだれるようにして、その次には妙に嬉しそうについていった。
学校でみんながヒソヒソ噂することや、受験しなくてはいけなくなったことは、先輩にとってとても大きなストレスだったと思う。きっとあの先生がいたから乗り越えられたのだろう。もっとも、のんびりそんなことを想像している場合ではないのよね。一年後の今、受験に立ち向かっているのはこっちだし。
私は、推薦で一足先に高校入学を決められるほど成績はよくない。もちろんスポーツ推薦はあり得ない。運動音痴だし。目指している学校は、私にとっては背伸びもしているけれど、近所のおばさんたちを感心させるほどの難関校というわけでもない。
オレンジジュースを飲みながら、私は問題集を解いた。なんのために受験をするのかな。義務教育は今年で終わる。みんな当たり前のように高校に行く。それに、成績がよかったら大学にも行くのだろう。お母さんは「頑張らないといい大学には入れないわよ」って言うけれど、まず高校に入らないと。
高校に行ったら、何か楽しいことがあるのかな。それとも今みたいに、クラスメートたちに嫌われないように適度な距離を取りながら、いるのかいないのかわからない存在でありつづけるのかな。透明人間みたい。
あれ、青木先輩が戻ってきた。なんだろう。
自動ドアが開いて、先輩は入ってきた。もちろん私には氣付かない。っていうか、多分、先輩は私を知らない。
「要。どうしたんだ」
レジの所にいる店長が先輩に声をかけた。えー? 名前を呼び捨てって、身内なのかな。
「ちょっとね。先生ん家に寄ることになってさ。先生の友達も久しぶりに来るんだって。だから、なんか一緒に食えるもん買いに来た。アイスかな。それとも……」
「ここから先生のお宅までは少しあるだろう。溶けるぞ」
「そうだよねー」
店長は、冷蔵ケースの方へ行きカットスイカを持ち上げた。
「これはどうだ。冷えているし、すぐに食べられる」
「いいね。えっと、398円か。二つ……小銭足りるかな」
「俺が払おう。息子がお世話になっているんだ」
「だめだよ。これは俺から先生への差し入れだもん。俺が買うの」
先輩はレジでスイカのパックを二つ支払った。律儀なんだなあ。私は、首を伸ばしてそちらを見た。あ、スイカ、本当に美味しそう。途端に、青木先輩と目が合った。
「あれ」
「なんだ、要。知っている子か」
「うん。中学の一学年下の子だと思う。たしか塾も同じだったはず」」
わ。先輩が、私の顔を知っていた。私は、ぺこりと頭を下げた。
「よう。勉強しているんだ。偉いね」
私は、先輩の近くまで歩いて行った。
「七時から塾なんです。まだ早いから」
「帰らないの?」
「家に帰ると、とんぼ返りしなくてはいけないし、うち、飲食店で夕方から親が忙しいし」
店長が笑った。
「うちと同じだな、要」
私は先輩に訊いた。
「店長さん、先輩の……?」
「うん。親父」
「わ。知りませんでした。すみません。山下由美です」
「いや、こちらこそ、まいどありがとうございます」
一杯のジュースで一時間も粘る客って、ダメな常連客じゃないかなあ。私は少し赤くなる。
「私も、その美味しそうなスイカ買います」
青木先輩が、ポケットからまた財布を取り出した。
「じゃ、それも俺がご馳走するよ」
「そ、そんな。悪いです」
「大丈夫だって。こんなに暑いのに、頑張って勉強しているんだろう。俺、去年、懲りたもん。暑いとぼーっとなって、もともとバカなのにもっと問題を間違えてさ。阿部先生にいつもの倍ヒントもらわないと解けなかった」
「でも、先輩、ちゃんと受験に成功して高校に行けたじゃないですか。私は頑張らないと。A判定出たことないし」
「俺だって、A判定も一度も出なかったよ」
そうか、それでも受かる時には受かるのね。諦めずに頑張ろう。
私は、先輩におごってもらったスイカのパックを開けて勧めた。店長がフォークを二つつけてくれた。先輩は、パックを私のいつも座る席まで持ってきてくれて隣に座り、嬉しそうに食べた。「おっ。甘い!」
「ごちそうさまです」
そう言って私も食べた。本当だ。甘い。
「スイカ食べたの、本当に久しぶり」
私はしみじみと味わいながら言った。先輩は驚いたようにこちらを見た。
「ええつ。何で? 夏って言えばスイカじゃん?」
「大きいから自分では買わないし、普段は、うちに帰っても一緒に食べる人いないし。あと、種を取るのが面倒くさいから、お母さんに買ってって頼んだことなかったんですよ」
青木先輩は笑った。
「確かに面倒だけれどさ。種のないスイカって、なんだか物足りないよ」
言われてみると、本当だな。種を取ったり、ちょっと甘みの足りないところにがっかりしながら食べるのがスイカ。そうやって食べると、甘いところがより美味しくなるみたい。
ってことは、何もせずに簡単に高校に行けるより、受験で苦労して入るほうがいいのかなあ。
「先輩。高校って楽しいですか」
私の唐突な質問に、先輩は首を傾げた。
「楽しいって言うのかなあ。前とそんなに変わらない。君は中学、楽しい?」
「全然。登校拒否したいと言うほど嫌じゃないんですけれど、あまり合わない同級生たちに嫌われないようにばかみたいに氣を遣っているんですよね。勉強もスポーツも得意じゃないから、学ぶ意味とか、達成感もあまりないし。こんなこというの贅沢かもしれないけれど」
「そうだなあ」
先輩は、よく知らない私の愚痴に、真剣に答えを探しているみたい。変なこと言って、まずかったかな。
「去年の夏休み、俺のやったこと、聞いているだろ」
えっと……。万引きの件かな? 今度は私が返答に困った。
「あまり詳しくは、知りません。推薦がダメになったって話は聞きましたけれど」
「そ。万引きの手口を研究して、できそうだから試してみたら捕まっちゃったんだ。自分のバカさ加減に呆れて、何もかも嫌になって死にたいって思ったよ」
「先輩が?」
「うん。でも、阿部先生が止めてくれて、セカンドチャンスをくれたんだ。俺に、どんなバカでもやり直しできるってわかるようにサポートしてくれたんだ。それに、そうやって先生に助けてもらいながら頑張っているうちに、うちの親だって、俺のことを要らないから放置していたんじゃないってなんとなくわかったし、こんな自分でも生きていれば何かの役に立てるかもしれないって思えるようになったんだ」
私は、頬杖ついて、先輩の話に聞き入っていた。
「そうだったんですか」
先輩は、大きく頷いて笑った。明るくて素敵な笑顔。
「うん。だから、メチャクチャ勉強して、今の高校に入った。正直言って、高校で学ぶことが何の役に立つのか、よくわからないし、すげー親友ってのともまだ出会えていないけれどさ。でも……」
「でも?」
「阿倍先生にとても仲のいい友達がいるんだ。本当に羨ましくなるくらいの親友。今日も来るんだよ。その人と先生、大学で知り合ったんだって。もし先生が高校に行っていなかったら、大学にも行けなかったし、そうしたら親友とも出会えなかったってことだろう? 出会いなんてどこにあるかもわからないし、未来のこともわからない。でも、今を頑張らないと、きっと未来のいいことはどっかにいってしまうんだ。そう思えば、なんだかなあって思う受験も頑張れるんじゃない?」
そうか。いま頑張ったご褒美、ずっと後にもらえることもあるのかな。
「あ。スイカ、なくなっちゃった! ごめん」
青木先輩が、空になったパックを見て叫んだ。あ、本当にあっという間に食べちゃった。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
そろそろ塾に行かなくてはいけない時間だ。私は、問題集を鞄にしまって立ち上がった。
「お。行くのか。俺も、そろそろ行かなくちゃ。また今度な」
店長の「またお越しください」という感じのいい挨拶に送られて、私は先輩と一緒にコンビニを出た。先輩は、阿部先生のお宅へと向かうので、角で別れた。頭を下げて見送ると、ビールやジュースやおつまみと一緒にスイカのパックの入った袋が嬉しそうに揺れている。
先輩の言ったことを、じっくりと噛みしめた。数学も、英語も、今後何の役に立つのかなんてわからない。私が高校に行って、意味があるのかも。楽しいことやいいことが、どこで待っているのかわからないし、ただのクラスメイトじゃなくて、本当の意味での親友といえる人とどこで会えるのかも知らない。
だからこそ、今やれることを一生懸命やるのが大事。うん。頑張ろう。先輩の高校、共学だったよね。志望校、今から変えたら先生に何か言われるかな。
(初出:2018年8月 書き下ろし)
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【小説】バッカスからの招待状 -13- ミモザ
今日の小説は、limeさんのリクエストにお応えして書きました。
舞台は、バッカス。あの面々が出演。
そして、話のどこかに「水色ネコ」を混ぜてください^^
私のあのキャラじゃなくても構いません。単に、毛色が水色の猫だったらOK。
絵だったりアニメだったり、夢だったり幻だったりw
というご要望だったのですが、水色ネコと言ったら、私の中ではあのlimeさんの「水色ネコ」なんですよ。やはりコラボしたいじゃないですか。とはいえ、お酒飲んじゃだめな年齢! っていうか、それ以前の問題もあって、コラボは超難しい!
というわけで、実際にコラボしていただいたのは、その水色ネコくんと同居しているあのお方にしました。それでも、「耳」の問題があったんですけれど、それはなんとか無理矢理ごまかさせていただきました。大手町に、猫耳の男性来たら、ちょっと騒ぎになると思ったので(笑)
limeさんの「水色ネコ」は、あちらの常連の皆様はすぐにわかると思いますが、初めての方は、待ち受け画面の脳内イメージは、これですよー。こちらへ。私が作中で「待ち受け画面」にイメージしていたイラストです。

![]() | 「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む |
バッカスからの招待状 -13- ミモザ
その客は、少し不思議な雰囲氣を醸し出していた。深緑の麻シャツをすっきりと着こなし、背筋を伸ばし綺麗な歩き方をする。折り目正しい立ち居振る舞いなので、育ちのいい人なのだと思われるが、ワッチキャップを目深に被っていて、それを取ろうとしなかった。柔らかそうな黒い前髪と後ろから見えている髪はサラサラしているし、そもそもこの時季にキャップをつけているのは暑いだろう。ワッチキャップはやはり麻混の涼しそうなものだから、季節を考慮して用意したものだろう。きっと何か理由があるのだ、たとえば手術後の医療用途といった……。
夏木は、カウンターの奥、彼が一番馴染んだ席で、新しい客を観察していた。店主の田中は、いつものようにごく自然に「いらっしゃいませ」と言った。
今晩は、カウンターにあまり空きがなく、夏木は言われる前に隣に置いた鞄を除けた。田中は、申し訳なさそうに眼で合図してから、その客に席を勧めた。
「ありがとうございます」
若々しい青年だった。
その向こう側には、幾人かの常連が座っていて、手元の冊子をみながら俳句の季語について話をしていた。
「ビールや、ラムネってところまでは、言われれば、そりゃ夏の季語だなってわかるよ。でも、ほら、ここにある『ねむの花』なんていわれても、ピンとこなくてさ」
「ねむって植物か?」
「たぶんな。花って言うからには」
タンブラーを磨いて棚に戻しながら田中は微笑んだ。
「ピンクのインクを含ませた白い刷毛のような花を咲かせるんですよ」
「へえ。田中さん、物知りだね」
「じゃあさ、この、芭蕉布ってのはなんだい?」
「さあ、それは……」
田中が首を傾げるとワッチキャップを被った青年が穏やかに答えた。
「バナナの仲間である芭蕉の繊維で作る布で、沖縄や奄美大島の名産品です」
一同が青年に尊敬の眼差しを向けた。彼は少しはにかんで付け加えた。
「僕は、時々、和装をするので知っていただけです。涼しくて夏向けの生地なんです」
「へえ。和装ですか。風流ですね」
夏木が言うと、彼は黙って肩をすくめた。
「どうぞ」
田中が、おしぼりとメニューを手渡し、フランスパンを軽くトーストしてトマトやバジルを載せたブルスケッタを置いた。
青年は、メニューを開けてしばらく眺めたが、困ったように夏木の方を見て訊いた。
「僕は、あまりこういうお店に来たことがなくて。どんなカクテルが美味しいんでしょうか」
夏木は苦笑いして、『ノン・アルコール』と書かれたページを示して答えた。
「僕は、ここ専門なんで、普通のカクテルに関してはそちらの田中さんに相談した方がいいかもしれません」
彼は、頷いた。
「僕も、飲める方とは言えませんね。あまり強くなくてバーの初心者でもある客へのおすすめはありますか」
田中は、にっこりと笑った。
「そうですね。苦手な味、例えば甘いものは好まないとか、苦みが強いのは嫌いだとか、おっしゃっていただけますか」
「そうですね。甘いものは嫌いではないのですが、ベタベタするほど甘いものよりは、爽やかな方がいいかな。何か、先ほど話に出ていた夏の季語にちなんだドリンクはありますか?」
緑のシャツを着た青年はいたずらっ子のように微笑んだ。
田中は頷いた。
「ミモザというカクテルがあります。そういえばミモザも七月の季語ですね。カクテルとしてはオレンジジュースとシャンパンを半々で割った飲み物です。正式には『シャンパーニュ・ア・ロランジュ』というのですが、ミモザの花に色合いが似ているので、こちらの名前の方が有名です」
「おお、それは美味しそうですね。お願いします」
ポンっという音をさせて開けた緑色の瓶から、黄金のシャンパンがフルート型のグラスに注がれる。幾千もの小さな泡が忙しく駆け回り、カウンターの光を反射して輝いた。田中は、絞りたてのカリフォルニア・オレンジのジュースをゆっくりと注ぎ、優しくステアしてオレンジスライスを飾って差し出した。
「へえ、綺麗なカクテルがあるんだねぇ」
俳句について話していた常連の一人が首を伸ばしてのぞき込んだ。
「面白いことに、本来ミモザというのはさきほど話題に出たねむの木のようなオジギソウ科の花を指す言葉だったのが、いつの間にか全く違う黄色い花を指すようになったようなんですよ。その話を聞くと、このカクテル自体もいつの間にか名前が変わったことを想起してしまいます」
「へえ、面白いね。俺も次はそれをもらおうかな」
もう一人も言った。田中は、彼にもミモザを作り、それから羨ましそうにしていた夏木にも、ノン・アルコールのスパークリングワインを使って作った。
待っている間に、緑のシャツの青年が「失礼」と言って腰からスマートフォンを取り出した。どうやら誰かからメッセージが入ったようだ。礼儀正しく画面から眼をそらそうとした時に、待ち受け画面が眼に入ってしまった。
水色のつなぎを着た、とても可愛い少年が身丈の半分ほどある雄鶏を抱えていた。瞳がくりくりとしていて、とても嬉しそうにこちらをのぞき込んでいる。つなぎは頭までフードですっぽりと覆うタイプなのだが、ぴょこんと耳の部分が立っていてまるで子猫のようだ。夏木は思わず微笑んだ。
青年と目が合ってしまい、夏木は素直に謝った。
「すみません。見まいとしたんですけれど、あまりに可愛かったので、つい」
そういうと青年はとても嬉しそうに笑った。
「いや、構いませんよ。可愛いでしょう。いたずらっ子なんですけれど、つい何でも許してしまうんです。最近メッセージを送る方法を覚えまして、時々こうして出先に連絡してくるんです」
そういうと、また「失礼」といってから、メッセージに急いで返信した。
「一人で留守番させているんですけれど、寂しいのかな。急いで帰らないと、またいたずらするかな」
「オジギソウとミモザみたいに、混同されている植物って、まだありそうだよな」
青年の向こう側で俳句の話をしていた二人は、田中とその話題を続けていた。
「この本には月見草と待宵草も、同じマツヨイグサ属だけど、似ているので混同されるって書いてあるぞ。どちらも七月の季語だ」
「どんな花だっけ」
「ほら、ここに写真がある。なんでもない草だなあ」
「一重の花なんだな。まさに野の花だ。白いのが月見草で、待宵草は黄色いんだな。そういえば、昔そういう歌がなかったっけ」
「待~てど、暮らせ~ど、来~ぬ人を……」
「ああ、それそれ。あれ? 宵待草じゃないか」
田中が、笑って続けた。
「竹久夢二の詩ですね。語感がいいので、あえて宵待草にしたそうですが、植物の名前としては待宵草が正しいのだそうですよ」
その歌は、夏木も知っていた。
「待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ 今宵は月も 出ぬそうな」
日暮れを待ちかねたように咲き始め、一晩ではかなく散る待宵草を、ひと夏のはかない恋をした自分に重ね合わせて作った詩だとか。
夏木は、隣の青年がそわそわしだしたのを感じた。彼は、スマートフォンの待ち受け画面の少年を見ていた。にっこりと笑っているのに、瞳が悲しげにきらめいているように感じた。
青年は、残りのミモザ、待宵草の色をしたカクテルを一氣に煽った。それから、田中に会計を頼むと、急いで荷物をまとめて出て行った。帰ってきた青年を、あの少年は大喜びで迎えるに違いない。
待っている人が家にいるのっていいなあと、夏木は思いながら、もう一杯ノン・アルコールのミモザを注文した。
ミモザ(Mimosa)
標準的なレシピ
シャンパン : 1
オレンジジュース:1
作成方法: フルート型のシャンパン・グラスにシャンパンを注ぎ、オレンジ・ジュースで満たして、軽くステアする。
(初出:2018年7月 書き下ろし)
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【小説】夏至の夜
今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。いただいたテーマは「夏至」です。(明日が夏至ですから、なんとしてでも今日発表したかったのです)
そして、【奇跡を売る店】シリーズで素敵な短編小説を書いてくださいました。
彩洋さんの書いてくださった 「【奇跡を売る店・短編】あの夏至の日、君と 」
コラボは、ここに出てくる登場人物の誰か、でいいでしょうか。このシリーズ、元々がパロディなので、適当にキャラを崩壊させていただいても何の問題もありません。如何様にも料理してくださいませ。
そして、舞台は、私がまだ見ぬ巨石・ストーンヘンジがいいかなぁ。あるいは夜のない北欧の夏至でも。
というご要望だったのですが、この中の誰かって、皆さん日本にいるし、ヨーロッパの夏至にいた方たちのうちお一人は、もうコラボできないし、結構悩みました。
それで、コラボしているような、全くしていないようなそんな話になりました。さらにいうと、ストーンヘンジは絡んでいますがメインではありません。キャラクターも読み切り用でおそらくもう二度と出てこないはず。若干「痛たたたた」といういたたまれない状況に立っています。「そうは問屋が卸さない」って感じでしょうか。
ちなみにリトアニア辺りだと、夏至でもまだ夜はあるようです。私の辺りで日没は21時半ぐらいですが、リガだと22時半ぐらいのよう。その短い夜に一瞬だけ咲くと言われる、生物学的には存在しない花。これが今回の小道具です。

夏至の夜
風が牧場の草をかき分けて遠くへと渡っていった。川から続く広い通りは、聖なるサークルへの最後の導きだ。ここまで来るのに三年の月日が経っていた。これほどかかったのは誤算だったが、なによりも長くつらい旅を乗り越えられたことに感謝しなくてはならないだろう。
彼は、遠く常に雪に覆われた険しい山脈の麓からやってきた。この地に伝わる「癒やす石」の力を譲り受け、同じ道を帰らねばならない。主は彼の帰りを待ちながら、苦しい日々を過ごしているはずだ。もちろん、まだ彼が生きていれば。それを知る術はない。
なんと長い一日だ。彼の故郷でもこの時期の日は長い。だが、この北の土地ではゆっくりと眠る暇もないほどに、夜が短くなる。通りを歩く旅人の姿が多い。みなこの日にここへ来ようと、集まってくるのであろう。聖なるサークルへと向かい、夜を徹して祈り、不思議な力を持った朝の光がサークルを通して現れるのを待つのだ。夏至祭りだ。
彼は、サークルへ向かう巡礼者たちの間に、奇妙な姿を見た。純白の布を被った小柄な女だ。どのような技法であの布をあれほどに白くしたのだろう。布はつややかで柔らかそうだった。風にはためき時折身につけている装身具が現れた。紫水晶のネックレスと黄金の耳飾り。
視線を感じたのか、女は振り向き彼を見た。浅黒い肌に大きな黒い瞳、謎めいた笑みをこちらに向けた。
奈津子は反応に困っていることを顔に出さないようにするのに苦労した。目の前にいるのが中学生だったなら、「これが中二病か」と納得して面白かったかもしれない。また、妙齢の大人だったら、一種の尊敬心すら湧いてきたかもしれない。もし、自分の身内だったら「何言っているの」と一蹴することもできた。
けれど、目の前で憂鬱そうな様子で先史時代のストーンヘンジの話をしているのは、基本的には自分とは縁もゆかりもない、二十歳も年下の日本人男性だった。そして、非常にまずいことに、妙にいい男だった。
奈津子がこの青年と二人で旅することになった原因を作ったのは甥だ。それも唯一氣が合い、コンタクトを持ち続けてくれる可愛い身内だ。そもそも奈津子は甥の順と一緒にこの旅行をするつもりで休暇を取った。計画の途中で、「友人を連れて行ってもいいか」と訊かれたので「もちろんいいわよ」と答えた。甥が出発前日に「会社存続を左右する顧客への対応で、どうしても休暇を返上しなくてはならなくなった」とキャンセルしてきたので、初対面の若い青年とこうして旅をしているというわけだ。
甥がわざわざこの青年を旅に誘った理由は、間もなくわかった。
スイスに住む奈津子は、宗教行事の影に隠れた民俗信仰を訪ねることをライフワークにしていて、これまでも色々な祭りを見てきた。スペイン・アンダルシアのセマナサンタ、ファリャの火祭り、フランスのサン・マリ・ド・ラ・メールの黒い聖女サラを巡るジプシーの祭り、ヨーロッパ各地の個性豊かなカーニバル、チューリヒのゼックス・ロイテン、エンガディン地方のカランダ・マルツ。
豊穣の女神マイアの祭りに起源があると言われる五月祭とその前夜のヴァルプルギスの夜や、太陽信仰と深い関係のある夏至や六月二十四日の聖ヨハネの祝日は、ヨーロッパ各地で様々な祭りがあり、奈津子にとって休みを取ることの多い時期だ。有名なイギリスのストーンヘンジの夏至のイベントも若い頃に体験していて、そのことを甥に話したこともある。甥の順とは、去年一緒にノルウェーの夏至祭を回った。
今年の順との旅では、リトアニアの夏至祭を訪ねることにしていた。
この時期のリガのホテルはとても高いだけでなく、かなり前からでも予約が取れないため、奈津子は車で五十分ほど郊外にある小さな宿を予約してあった。今日の午後、早く着いた奈津子が既にホテルにチェックインを済ませた。それから空港に一人でやってきた古森達也を迎えに行った。別の部屋とは言え、見知らぬ年上の女と一週間も過ごすことになって、さぞかし逃げ出したい心地になっているだろうと思っていたのだが、達也は礼儀正しい好青年でそんな態度は全く見せなかった。
レンタカーでホテルに向かい始めてから、助手席に座った達也はどうしてこの旅に同行したいと順に頼んだのかを語り始めた。長年彼を悩ませている夢。夏至を祝うためにストーンヘンジに向かい、謎の女に出会うという一連のストーリーの繰り返し。それも、おそらく先史時代のようだった。
そんな話を真剣に語られて、奈津子は戸惑った。
そもそもストーンヘンジには、痛々しい思い出があった。二十年以上前のことだ。まだ、大学を卒業して間もなく、また、自分自身でも何を探していたのかよくわからなかった頃、奈津子も熱に浮かされたようにパワースポットといわれる場所を巡っていた。そして、夏至のストーンヘンジへ行ったのだ。
太陽と過去の叡智が引き起こす自然現象を待つ巨石遺構は、エンターテーメントを求める人々で興ざめするほどごった返していた。そもそも、こうした祭りには一人で参加するものではない。一人でいると周りの盛り上がりにはついて行けず、楽しみも半減していた。
当時はまだ今ほど外国語でのコミュニケーションに慣れていなかったので、奈津子は一週間近くまともな会話をしていなかった。そんな時に、明らかに日本人とわかる二人の壮年男性らを見かけて、もしかしたら会話に混ぜてもらえないかと近くまで寄っていったのだ。ヒールストーンの彼方から太陽が昇ったその騒ぎに乗じて、その二人に話しかけるつもりだった。
だが、それは非常にまずいタイミングだった。奈津子は、一人の男性がもう一人に対して愛の告白をするのを耳にしてしまったのだ。いくら人恋しいからといって、このなんとも氣まずい中を平然と話しかけられるほど奈津子は人生に慣れていなかった。今から思えば、そこでふざけて話しかければあの二人のギクシャクした空氣の流れを変えられたのかもしれないが。
あの時と違って、奈津子はいい年をしたおばちゃんになった。スイスで十年間以上一人で暮らし、言葉や度胸でも当時とは比べものにならない。そして、可愛い美青年が、妙な告白をしても、なんとか戸惑いは表に出さずに、会話を続けることもできた。
「だとしたら……どうしてストーンヘンジに行かずにここへ来たの?」
奈津子は単刀直入に訊いた。
達也は頭をかいてつぶやいた。
「いや、あれは、夢の話ですから。変な話をしてしまって、すいません」
「いいえ、してもいいのよ。でも、どう答えたらいいのか、わからないのよ。それはあなたの前世の記憶だって思ってるの?」
「いや、そんなことは……。あれです、どっかのアニメか映画で観たのかもしれないです」
奈津子は首を傾げた。
「さあ、知らないわ。あったとしても、私は浦島太郎で、日本のアニメや映画などにはずっと触れていないのよ。もっとも私、夏至のストーンヘンジにはいったことがあるのよ」
「知っています。順がそう言っていました。だから奈津子さんに逢ってみろと」
一度もストーンヘンジに行ったことがないにしては、達也の話すストーンヘンジの様子は妙に具体的だった。誰でも見たことのある二つの石の上に大きな石で蓋がしてあるような形のトリリトンの話なら、行ったことがない人でも記憶に留めているかもしれない。だが、達也はヒールストーンの向こうから昇る朝日のことを口にしていた。
ヒールストーンは周壁への出入り口のすぐ外側のアヴェニューの内部に立つ形の整えられていない赤い砂岩でできた巨石だ。サークルの中心から見て北東にあり、夏至の日に太陽はヒールストーンのある方向から出て、最初の光線が遺跡の中央に直接当たり、ヒールストーンの影はサークルに至る。
普段の観光ではあまり話題にならないが、夏至のストーンヘンジでは、主役といってもいい石なのだ。
それに、最近の学説では、夏至のストーンヘンジの祭りは天文学的な意味合いだけではなく、民俗的な、ヨーロッパの他の夏至祭りとも関連のある意味合いを持つともいわれている。すなわち男女の仲を取り持つ祭りというわけだ。馬蹄形に並べられたトリリトンとその周辺にあるヘンジは女性器を表すと考えられ、もともとは脇に小ぶりな岩が二つ置かれていたと考えられるヒールストーンの影が夏至にその遺跡に届くことが、性的な象徴として祝われていたというものだ。
「ヨーロッパの各地の夏至祭りでは、いわゆるメイポールのような柱を立てて、その周りで踊ったり、たき火を飛び越えたりして祝う習慣があるのね。そして、この日に将来の結婚相手を占う、あまりキリスト教的ではない呪いが、主に北ヨーロッパで行われているの。多くが縁結び的な役割を担っているのよね」
「大昔のストーンヘンジでも、そういう役割を担っていたということなんですか」
達也は真面目に訊いた。奈津子は肩をすくめた。
「なんとも言えないわ。そうかもしれないし、違うかもしれない。ブルーストーンに癒やしの力があった信じられていたというのも、推測に過ぎないし、ヒールストーンの影に性的な意味合いがあるというのも、勘ぐりすぎなのかもしれないし。現在の各地の夏至祭に縁結び的な側面があるというのは事実だけれど」
薬草を摘み、三つ叉になったポールを囲み祝う。朝露を浴びる。そうした呪いの後、夢の中に未来の夫が現れるといった縁結び的信仰が共通してみられるのだ。
とはいえ、奈津子には夏至祭りに縁結びの力があるとは思えなかった。なんせ二十年以上、何かとこの祭りに行っているのに、一向に御利益がないからだ。たまにいい男と一緒かと思えば、ここまで年下だと、期待するのも馬鹿みたいだ。
「夢の中に……ですか」
「枕の下にセイヨウオトギリソウを置いて眠ると、未来の夫が夢に現れるというような信仰ね」
「なるほど」
「この辺りでは、シダに夏至の夜にしか咲かない赤い花が咲くので、それを見つけて持ち帰るといいという言い伝えもあるのよ」
生物学的にはナンセンスだと言われている。そもそも胞子で増えるシダに花は咲かないから。
「なんですって?」
達也が大きな声を出した。奈津子はぎょっとした。
「どうしたのよ」
「いや、シダの赤い花っておっしゃったから」
「言ったけれど?」
「さっき、日没の直後くらいに見たように思ったんです」
奈津子は車を停めた。今夜は、夏至祭りではない。祭りは大抵どこも聖ヨハネ祭である二十四日かその前夜である二十三日に行われるからだ。つまり、二日ほどゆっくりと観光をしてから祭りに行く予定だった。が、よく考えれば今夜こそが本来の夏至だ。そこで赤いシダの花を見たなどと言われては聞き捨てならない。
「どこで?」
「さきほど通った林ですよ。ここは一本道だから。このまま戻ったら見られると思いますけれど」
馬鹿馬鹿しいと、このまま走り抜けてもよかったのだが、好奇心が勝った。それに、夏至らしい思い出になるではないか。無駄足だとしても、少しくらい戻っても問題はないだろう。ホテルはすぐそこだ。奈津子は素直に車をUターンさせた。
その林は、さほど時間もかからずに、たどり着くことができた。十一時を過ぎてすでに暮れていて、どこにシダが群生しているのか見つけるのにもう少しかかった。けれど、最終的に車のライトが茂みをはっきりと映し出した。
「ほら、あそこに」
それは、本当に花と言えるのか、それともまだ開いていない葉が赤く見えているのか、奈津子には判断できなかった。けれども、それが花に見えるというのは本当だった。
「本当だわ。まるで花みたいね」
赤い花を咲かせるシダを見つけたら、深紅の絹でそっと包み、決して立ち止まらずに家まで持ち帰らなくてはならない。そして、道を尋ねる旅人に出会っても、決して答えてはいけない。それはただの旅人ではないのだ……。奈津子は、赤いシダ花の伝説を思い出して身震いした。
達也は、車から降りると、黙ってシダに手を伸ばした。奈津子は、心臓の鼓動が彼に聞こえるのではないかと怖れた。奇妙な組み合わせとは言え、夏至の夜に未婚の男女が、存在しないはずの伝説の植物を手にしようとしている。それは、常識や社会通念というものを超えて、何かを動かす力を持つのかもしれない。ストーンヘンジで、道ならぬ恋心を打ち明けたあの男が、もしかしたらこのような夏至の魔法に促されたように。
達也は、シダを手折ると、奈津子には目もくれずに林の奥へと歩き出した。人里離れた林の奥を目指しているようだ。声を出してはならない。そう思う氣持ちとは逆に、どこかで冷静で現実的なもう一人の奈津子が「戻さないとまずい」と訴えていた。
と、視界の奥に、見るべきでないものが入ってきた。白いマントのようなもので全身を覆った人。小柄だからおそらく女だろう。二十一世紀には全くふさわしくないドルイド僧のようなその姿に、奈津子は焦った。彫りの深い顔立ち、黄金の耳飾りと、紫水晶のネックレス。つい先ほど彼が描写したままの謎の女の姿。
あれこそ、決して答えてはならない危険な旅人ではないのだろうか。達也は、ずっとその人物と無言で見つめ合っていた。どれほどの時間が経ったのかわからない。しびれを切らした奈津子は禁忌を破り、声をかけた。
「達也君。そっちへ行ってはダメよ。さあ、ここから離れて、ホテルに行きましょう」
達也は、ビクッとしてこちらを振り向いた。奈津子は、手にしていたシダを全て手放させると、袖を引っ張るようにして、彼を歩かせ車に乗せた。彼は何度か振り向きつつも、やはり理性の命じるままに助手席に乗った。そのままホテルにつくまで、奈津子が何を訊いても全く口をきかず、ずっと考え込んでいた。
翌朝、約束の朝食の席に降りてきた奈津子は、達也が伝言メモを残して消えてしまったのを知った。
慌てて日本の順にメールを送ると、彼にもメールが入っていたそうだ。急に予定を変えることになり、一足先に帰国することになった。お詫びを順からも伝えて欲しいと。ホテルのフロント係によると、朝一番でチェックアウトしたらしい。隣には、異国風の女性が一緒にいたということだった。
へい、奈津っち。
ぶったまげたよ。達也がまさかいきなり国際結婚するとか、ありえなくね? つーか、俺が何度訪ねていっても、奈津っち一度だって女の子紹介してくれたことないのに、なんで達也にはそんなサービスするんだよ。てか、人の世話していないで、自分の相手は?
それにしてもすげー美人を連れてきたって、仲間内でも大騒ぎだぜ。この間ダメになった休暇の代わりに改めて休みをもらったので、冬休みには、そっち行くから、その時に話そうな。 順
別に私がくっつけたわけじゃないわよ。甥からのメールを見ながら、奈津子はひどい疲れを感じた。あちこちを蹴飛ばしたい氣分だった。心配して損した。前世がどうのこうの、ストーンヘンジがなんとかかんとかいうから、夏至の揺らぎが見せる魔界に取り込まれたんじゃないかって、どっちが中二病かわからない不安を持っちゃったじゃない。
彼はきっと、あの女性がどうしているのか氣になって、またあの林に行ったのだろう。そして、そのまま意氣投合して二人で旅することにしたのだろう。
男女の仲を取り持つと言われる不思議な夜。確かに、ある種の人々には効果絶大らしい。たまたま自分だけそうでないからと言って、迷信扱いするのは間違っているのかもしれない。いや、語り部というのは、その手の恩恵は手にすることができないということなのか。
奈津子は大きなため息を一つつくと、この件はもう忘れようと思った。そして、「冬に来るならクリスマスマーケットに付き合え」という趣旨のメールを、唯一なついてくれる甥っ子に書いた。
(初出:2018年6月 書き下ろし)
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【小説】キノコの問題
今日の小説は、canariaさんのリクエストにお応えして書きました。
テーマはずばり「マッテオ&セレスティンin千年森」です!
情景は森(千年森)で、ギリギリクリアかな?
キーワードと小物として
「セレスティンの金の腕時計」
「幻のキノコ」
「健康食品」
「アマゾンの奥地」
「猫パンチ」
希望です。
時代というか時系列は、マッテオ様たちの世界の現代軸でお願いしたいと思っています。
コラボキャラクターはクルルー&レフィナでお願いいたします。
「千年森」というのはcanariaさんの作品「千年相姦」に出てくる異世界の森、クルルーとレフィナはその主人公とヒロインです。
一方、マッテオ&セレスティンは、私の「ニューヨークの異邦人たち」シリーズ(現在連載中の「郷愁の丘」を含む)で出てくるサブキャラたちです。「郷愁の丘」の広いジョルジアの兄であるマッテオは、ウルトラ浮ついた女誑しセレブで、その秘書セレスティンはその上司には目もくれずいい男と付き合おうと頑張るけれど、かなりのダメンズ・ウォーカー。このドタバタコンビをcanariaさんの世界観に遊びに来させよという、かなり難しいご注文でした。
これだけ限定された内容なので、ものすごくひねった話は書けなかったのですけれど、まあ、そういうお遊びだと思ってお読みください。コラボって、楽しいなってことで。canariaさん、なんか、すみません……。

【参考】
![]() | 「郷愁の丘」を読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
「ニューヨークの異邦人たち」・番外編
キノコの問題
覆い被さり、囲い込み、食べ尽くして吸収してしまうかと思うほど、深く濃い緑が印象的な森だった。鳥の羽ばたきと、虫の鳴き声、そしてどこにあるのかわからないせせらぎの水音が騒がしく感じられる。道のようなものはあるはずもなかった。ありきたりの神経の持ち主ならば、己が『招かれざる客』であることを謙虚に受け止め、回れ右をして命のあるうちに大人しくもと来た道を戻るはずだ。だが、今その『千年森』を進んでいる二人は、ありきたりの神経を持ち合わせていなかった。
「それで、あとどのくらいこの道を進めばいいんでしょうか」
若干機嫌の悪そうな声は女のものだ。都会派を自認する彼女は、おろしたての濃紺スウェード地のハイヒールを履いていて、一歩一歩進むたびに苛ついていると明確に知らせるトーンを交えてきたが、彼女の前を進んでいるその上司は、全くダメージを受けていないようだった。
「なに、もうそんなに遠くないはずだ。こんなに森も深くなったことだし、【幻のキノコ】がじゃんじゃん生えていそうじゃないか」
そう言って彼は振り返り、有名な『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』を見せたが、『アメリカで最も商才のある十人の実業家』に何度も選出された男としては、かなり無駄な行為だった。エリート男と結婚したがっている何十万人もいるニューヨーク在住の独身女のうちで、セレスティン・ウェーリーほど『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』に動かされない女はいないからだ。
「それはつまり、あなたは根拠も何もなく、こんな未開の森を進んでいると理解してもいいんでしょうか」
「そうさ、シリウス星のごとく熱く冷たいセレ。まさか誰もまだ知らない【幻のキノコ】の生えている場所が、カラー写真と解説つきの地図として出版されていたり、GPS位置情報として公開されているなんて思っていないだろうね」
ヘルサンジェル社は、CEOであるマッテオが一代で大きくした。主力商品は健康食品で、広告に起用されたマッテオの妹であるスーパーモデル、アレッサンドラ・ダンジェロの完璧な容姿の宣伝効果でダイエット食品の売り上げはアメリカ一を誇る。社のベストセラー商品はいくらでもあるが、新たな商品開発はこうした企業の宿命だ。とはいえ、あるかどうかもわからないキノコを社長みずからが探すというのは珍しい。
セレスティンは深いため息をついた。
「もうひとつだけ質問してもいいでしょうか」
「いいとも、知りたがりの綺麗なお嬢さん」
「あなた自らが、その【幻のキノコ】を探索なさるのは勝手ですけれど、どうして社長秘書に過ぎない私までが同行しないといけないのでしょうか。この靴、おろしたてのセルジオ・ロッシなんですよ!」
「まあまあ。世界一有能な秘書殿のためなら、五番街のセルジオ・ロッシをまるごと買い占めるからさ。ところで、今日の取引先とのランチで君が自分で言った台詞を憶えているかい?」
「もちろんですわ。とても美味しい松坂和牛でしたけれど、あんなに食べたら二キロは太ってしまいます。週末はジムで運動しなくちゃいけない、そう申し上げました」
「ここを歩くとジムなんかで退屈な運動をするよりもずっとカロリーを消費するよ。湿度が高いってことはサウナ効果も期待できるしね。それに、【幻のキノコ】は、カロリーを消費中の女性のオーラに反応して色を変えるそうだ。つまりこの緑一色の中で見つけやすくなるってことだ。ウインウインだろう?」
セレスティンは、カロリーを消費する運動やサウナでのウェルネスに、テーラードジャケットとタイトスカートが向いていないことを上司に思い出させようと骨を折った。が、マッテオはそうした細部については意に介さなかった。
『とにかく今日この森に来られたことだけでもとてつもなく幸運なんだ。そうじゃなかったらアマゾンの奥地まで行かなきゃいけないところだったんだぜ」
「なぜですの?」
「『千年森』に至るルートは、いくつか伝説があってね。一番確実なのがブラジルとボリビアの国境近くにある原生林らしいんだが、あそこには七メートルくらいある古代ナマケモノの仲間が生存しているという噂があってさ。追われたらハイヒールで逃げるのは大変だろう?」
「それはその通りですわ。でも、カナダとの国境近くの町外れの廃墟がボリビアと繋がっている森への入り口になるなんてあり得ませんわ」
「あり得ないもへったくれも、僕たちは今まさにそこにいるんだ。まあ、堅いことを言わずに、ちょっとしたデートのつもりで行こうよ、大海原色の瞳を持つお嬢さん」
「いつも申し上げている通り、まっぴらごめんです。そもそも、今日はちゃんとしたデートの予定があったのに……ハーバード大卒で銀行頭取の息子なんですよ。ああ、連絡したいのにここ圏外じゃないですか」
「まあ、なんと言っても『千年森』だからね。安心したまえ。今日のが不発に終わっても、今後ハーバード大卒で頭取の息子である独身者と知り合う確率は……チャートにして説明した方がいいかい?」
「けっこうです!」
ブリオーニのビスポークスーツにゴールドがかった絹茶のネクタイを締めた男とマーガレット・ハウエルのテーラードジャケットを来た女が森の奥深く【幻のキノコ】を探しているだけでも妙だが、話題もどう考えてもその場にふさわしいとは思えなかった。
その侵入者の会話に耳を傾けつつ、物陰から辛抱強く観察している影があった。それは黒髪を持った美貌の少年で、二人のうちのどちらが彼の存在に氣付いてくれて、悲鳴を上げた瞬間に颯爽と飛びかかろうとひたすら待っていた。
だが、都会生活が長く野生の勘のすっかり退化してしまったニンゲンどもは、いつまで経っても彼に氣付かなかった。それどころか、めちゃくちゃに歩き回っているにもかかわらず、どうやら最短距離で彼の大切な養い親のいるエリアに到達してしまいそうだった。
「お。見てみろよ。あの木陰、なんだか激しく蠢いているぞ」
マッテオが示した先を、セレスティンは真面目に見ていなかった。大切なハイヒールのかかとが何かぬるっとしたものを踏んだようなのだ。
「マッテオ。この森はどこを見ても木陰だらけで、蠢いているなんて珍しくもなんともありませんわ、それよりも……」
「でも、ほら。女神フレイヤの金髪を持つお嬢さん、木陰は珍しくなくても、木々と一緒に女性が蠢いているのはちょっと珍しいよ」
「なんだって!」
背後から叫びながら突然黒い影が飛び出してきたので、今度こそセレスティンとマッテオは驚いた。
「本当だ! レフィーったら! 僕がちょっと目を離すとすぐこれだ。発情の相手なら、この僕がいるって言うのに!」
マッテオは、セレスティンに向かって訊いた。
「あれは、誰かな。男の子のようにも見えたけれど、猫耳みたいなものと、尻尾が見えたような……」
セレスティンは、目をぱちくりさせて言った。
「猫耳に尻尾ですって。マッテオ、あなた頭がどうかなさったんじゃないですか。それよりも、いつから私たちの後ろにいたのかしら。やはり危険いっぱいじゃないですか、この森。これ以上、こんなところに居て、私のおろしたてのハイヒールに何かあったら困るわ。何か変なものを踏んじゃったみたいだし……」
ところが、そのハイヒールの惨状に98パーセント以上の責任があるはずの彼女の上司は、その訴えをまるで聴いていなかった。
「ひゅー。こいつは、滅多に見ない別嬪さんだ」
返事が期待したものと全く違ったので、真意を確認したくて顔を上げると、マッテオが意味したことがわかった。先ほど森と一緒に蠢いているとマッテオが指摘した誰かが、黒髪の少年に木陰から引きずり出されていた。深い緑の襤褸がはだけていて、白い肌や白銀に輝く髪が露わになっていた。あら、確かに、珍しいほどの美女だわ。いつも綺麗どころ囲まれているマッテオでも驚くでしょうね。
マッテオは、美女を見たら口説くのが義務だとでもいうように、ずんずんと二人の元に歩いて行って、アメリカ合衆国ではかなり価値があると一般に思われている『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』をフルスロットルで繰り出した。
「こんにちは、麗しい森の精霊さん。この深くて神秘的な森には、人知れず永劫の時間を紡ぐ至宝が隠されているはずだと私の魂は訴えていたのですよ。美こそが神の叡智であり、すべてに勝る善なのですから、私があなたを崇拝し、その美しさを褒め称えることを許してくださいますよね」
何やら揉めていたようだった森色の襤褸を着た美女と黒髪の少年は、この場の空氣を全く読まない男の登場にあっけにとられて黙った。相手に困惑されたくらいで、大人しく引き下がるような精神構造を持たないマッテオは、構わずに続けた。
「怪しいものではありません。僕は、マッテオ・ダンジェロといいます。アメリカ人です。この森で国籍というものが何らかの意味を持つなら、ですけれど。少なくとも佳人に恋い焦がれる心に国境はありません。あなたも、この森のように幾重にも巡らされた天鵞絨の天幕の後ろに引きこもっていてはなりません。どのような深林も恋の情熱の前では無力なのですから。あなたの名前を教えてくださいませんか。私が心から捧げる詩を口ずさめるように」
「てめぇ、何を馴れ馴れしく!」
黒髪の少年が我に返って敵意を剥き出しにした。襤褸を着た美女は、その少年をたしなめた。
「クルルー。客人にそのような口をきいてはならぬ」
「でも、レフィー。聖域であるこの森で神聖なあなたを口説くのがどんなに罰当たりか思い知らせないと」
「さっき、発情の相手がどうのこうのって自分でも言っていたのに」
セレスティンが、小さくツッコんだ。
「なんだとぉ」
少年は、セレスティンの元に飛んできた。おや、こちらも美形だったわ。セレスティンは驚いた。緑色の宝石のような切れ長の瞳に、漆黒ではなくて所々トラのような模様の入った不思議な髪。綺麗だけれど、危険な匂いがプンプンするタイプの美少年だ。ツンとしていれば、いくらでも女が寄ってきそうだが、どういうわけか今の少年は取り乱して怒っていた。
手元を素早く前後に動かして、こちらを小突いてくる。この動作は、ええと、ほら、あれ……猫パンチ。うわー、ありえない。美少年がやっちゃダメな動作でしょう。
「ちょっと、やめてよ。何取り乱しているの」
「レフィーの前で余計なこと、言うなよ」
「あのね。そうやって取り乱すと、知られたくないことがバレバレになるのよ。わかってるの?」
二人がこそこそと会話を交わしている間、マッテオはさらに美女に愛の言葉の攻勢をかけていた。
「あんた、あいつを止めなくていいのか。目の前で他の女を口説くなんて、とんでもない恋人だな」
少年が怒っている。
「おあいにく様。あの人は、私の上司で、恋人じゃないの。それよりも、目下の問題は、私のハイヒール……。何を踏んじゃったのかしら」
セレスティンが、足下を見ると、どういうわけかそこには真っ赤なキノコがうじゃうじゃと生えていた。しかも、怪しい蛍光色の水玉が沢山ついていて、それが点滅しているのだ。
「やだっ、何これ!」
美女にクルルーと呼ばれた美少年は肩をすくめた。
「ああ、そのキノコね。ニンゲンの女に先の尖った靴で踏まれると増殖を始めるんだよね。ああ、こんなに増えちゃって面倒なことに……。レフィー、ちょっと! お取り込み中のところ悪いけれど、緊急事態みたいだよ」
マッテオの口説き文句を半ば呆れて、半ば楽しむように聴いていた美女はこちらを振り向いた。そして、セレスティンとクルルーの周りにどんどん増殖している赤いキノコを見て、慌ててこちらに走ってきた。
「なんだ。おい! 何をやっているんだ」
マッテオは、そのキノコを見て大喜びだった。
「なんてことだ。これこそ僕たちの求めていた【幻のキノコ】だよ! セレ、でかした!」
だが、襤褸を着た美女の方は厳しい顔をした。
「何が【幻のキノコ】だ。これを増やすことも、持ち出すことも許さんぞ。やっかいなことになるからな。クルルー、その二人を森の外へ連れて行け。私はそのキノコの増殖を止めねばならぬ」
クルルーが、ものすごい力を発揮してキノコで真っ赤になったエリアからマッテオとセレスティンを引き離すと、美女はそこへ立ち、続けて森の緑が同調するようにその場所に覆い被さった。そこで、美女が何をやっているのかはわからなかった。クルルー少年に引きずられて二人は森の端まで連れて行かれたからだ。
「これだからニンゲンをこの森に入れるのは反対なんだ。カナダ側にも巨大ナマケモノを配置しないとダメなんだろうか」
そういうと、少年は二人をドンと突き飛ばした。
一瞬、世界がぐらりと歪んだかと思うと、二人の目の前から美少年クルルーと『千年森』は消えていた。それどころか、彼らが通ってきたはずのカナダとの国境近くの町から400マイル近く離れているマンハッタンのカフェに座っていた。
「え?」
騒がしかった鳥のざわめきの代わりに、忙しく注文をとるウェイターと客たちのやり取りが聞こえ、心を洗うようなせせらぎの代わりに、趣味の悪い電飾で飾られた噴水の調子の悪い水音が響いた。
「なんてことだ。ここまで飛ばされてしまったか。やるな。さすがは『千年森の主』だ」
マッテオは、残念そうに辺りを見回した。セレスティンは、まず手始めに自分の服装がまともな状態に戻っているかを確認したが、残念ながら汗だくでボロボロの様相は、『千年森』にいたときと変わっていなかった。
でも、ニューヨークに戻ってくるまでの時間を短縮できたんだから、急いで家にもどれはデートまでに着替える時間があるかも! 彼女はお氣に入りの金の腕時計を眺めた。ギリギリ! でも、今すぐ行けば間に合うはず。
「セレ。君のハイヒールに、例のキノコ、ついていないかい?」
諦めきれないマッテオが訊いた。彼女は、大事なハイヒールにキノコがついていたら大変と見たが、『千年森の主』が何らかの魔法で取り除いたのか、あの赤いキノコは綺麗さっぱり消え失せていた。
それに、あのクルルー少年の言葉によると、ハイヒールに近づけると、あのキノコはとんでもなく増殖してしまうはず。ついていなくて本当によかったってところかしら。
「残念ながら、ついていないみたいですわ、マッテオ。申し訳ないんですけれど、もうアフターファイブですし、私、失礼します。今から急げば、デートに間に合いますので」
そう言いながら、颯爽と立ち上がった。
「OK。楽しんでおいで。今日の残業分、明日はゆっくり出社するといい。やれやれ、僕は氣分直しにジョルジアを訪ねてご飯を作ってもらおうかな」
セレスティンは、にっこりと微笑みながら立ち去った。途中でもう一度時間を確認するために金時計を見た。
あら。この時計の文字盤、ルビーなんてついていたのかしら。
この時計は、なくして困り果てていたところ、マッテオが見つけてくれて、さらに素晴らしい高級時計に変身させてくれたものだ。だから、見慣れていた前の安っぽい時計だった時についていなかったものがあっても不思議ではない。でも、確か、今朝はついていなかったと思うんだけれど。
立ち止まってもう一度サファイアガラスの中の文字盤をよく見た。ルビーがキラリと光った。蛍光色みたいな色で。しかも動いているような。
これ、ルビーじゃないわ。さっきのキノコ。この中に入り込んでしまったのかしら。
セレスティンは先ほどの趣味の悪い噴水前のカフェに戻ろうとした。マッテオに見せないと。だが、どうもカフェが見つからないし、マッテオもいない。ううん、今から電話して戻ってきてもらってこれを見せるとなると、時間を食っちゃう。せっかくの頭取の息子とのデートが……。
彼女は、そのやっかいなキノコは金時計に閉じ込めたまま、明日まで何も言わないことにした。どう考えても、今夜この時計がハイヒールで踏まれるような事態は起こらないはずだし、明日の朝に氣がついたことにしても問題ないと思う。
彼女は、キノコの問題はとりあえず忘れることにして、今夜ハーバード大卒の男を逃さないために、彼の前でいかに頭の足りない金髪女の演技をすべきか、綿密にプランを練りだした。
(初出:2018年5月 書き下ろし)
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【小説】復活祭は生まれた街で
今日の小説は、GTさんのリクエストにお応えして書きました。ご希望は『夜のサーカス』の関連作品です。
『夜のサーカス』は、当ブログで2012年より連載した作品です。イタリアの架空のサーカス「チルクス・ノッテ」を舞台に個性的なメンバーの人間模様を描いた小説で、2014年に好評のうちに完結しました。話の中心になったのはブランコ乗りの少女ステラと謎の道化師ヨナタンです。GTさんは、この作品をお氣に召して、今回のリクエストでも選んでくださいました。
あまり奇をてらわずに、GTさんのお氣に入りのヒロイン・ステラを前面に出したストーリーを考えました。四月のご希望でしたので、復活祭(パスクァ)を題材にしました。妙に食いしん坊小説になっていますが、これは、作者の脳内がこれで詰まっている、という証ですね。

【参考】
小説・夜のサーカス 外伝
![]() | 「夜のサーカス」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
夜のサーカス・外伝
復活祭は生まれた街で
ついこの間まで、季節外れの雪が降っていたというのに、今日は随分と暖かい。着てきたジャケットが暑くて、脱いで腕に持った。横を歩いている彼がふっと笑った。ヨナタンって、いつも涼しげよね。暑くないのかしら。ステラは首をかしげた。
教会の鐘が鳴り響いている。久しぶりだけにその音は格別大きかった。一昨日の聖金曜日にステラはヨナタンと一緒に彼女の生まれた町にやってきた。普段は大きな連休の時には興行する団長だが、さすがに聖金曜日から
ステラは、例年ならば一人でこの町に帰ってくるのだが、今年はヨナタンを伴った。彼は天涯孤独なので、復活祭でも帰る生家はないのだ。「嫌じゃなかったら、うちに来て復活祭を楽しんで」と誘うと「迷惑でないならぜひ」と言ってくれた。ステラはとても嬉しかった。
ヨナタンと二人で遠出することは滅多になかった。電車やバスを乗り継ぐ時間、ずっと彼と一緒だった。車窓から指さして懐かしい山や川の名前を教えるのも楽しかったし、乗り換えの話をするのですらわくわくした。
北イタリアのアペニン山脈の中腹にあるステラの故郷は、年間を通じてとても静かだ。かつてこの地を治めていたあまり裕福でなかった領主が残した城は、小さく観光客も滅多に来ないし、復活祭でも中世を彷彿とさせるパレードなどの大きな祭事はない。ごく普通のミサがあり、その後に家族でご馳走を食べるのだ。
伝統を守る人たちは、聖金曜日から肉を食べない。教会も鐘を鳴らさずに、イエス・キリストの死を悼み、救世主を死なせてしまった人間の罪の深さを思う。そして、日曜日に主の復活を祝って鐘がなると、ご馳走をたらふく食べて祝うのだ。
待ちに待った復活祭。何よりも楽しみなのは、ミサの後の午餐だ。その美味しいご馳走を誰にも文句を言わせずに、心ゆくまだ食べるために、いや、良心がとがめるのが嫌なので、ステラは町の人々に交じって復活のミサに預かる。ヨナタンがカトリックかどうかは聞いたことがないけれど、それに、普段は日曜日に教会に行ったりはしないからあまり熱心な信者ではないみたいだが、彼も特に文句は言わずについてきてミサの席に座っていた。
そして、無事にミサが終わったので、二人はステラの家へと再び向かっているのだ。少し前を母親のマリが歩いている。彼女の経営するバルの常連たちに囲まれ、楽しく話をしながら。
「あの小さかったステラが、サーカスの花型になって帰ってくるとはね」
「しかも、ボーイフレンドを連れてきたよ」
そんな噂話も聞こえてきて、ステラとヨナタンは顔を見合わせて小さく笑った。ステラの父親は、ずっと昔にいなくなってしまって、ステラはマリが女手一つで育てた。子守もいなかったので、多くの時間をマリのバルで過ごした。だから、常連のおじさんたちはみな親戚のような存在だった。
そして、このバルの片隅で食事をしていたヨナタンと、六歳だったステラは出会ったのだ。だから、ステラにとってこの町は生まれ故郷というだけでなく、愛する人との運命の出会いの舞台でもあるのだ。彼とまたここにこうして来られたのがとても嬉しい。ああ、なんて素敵な春なのかしら!
バルでもある家に着くと、常連たちと別れを告げて、マリは急いで中に入った。食事の用意があるから。ステラとヨナタンも、人びとと別れを告げて家に入る。すぐにマリの弟夫妻がやってくるから、食卓をきちんとしておかなくてはならない。ヨナタンも進んで手伝ってくれるので二人でテーブルセッティングをした。
ステラの生まれた地方は、生ハムの生産で世界的に有名だ。だから、お祝いの食事は前菜には、プロシュットが色づけされた卵と一緒に並ぶ。アーティチョーク、アスパラガスといった春の野菜、復活祭にいつも作るチーズのトルタと一緒に食べる。生ハムを薔薇のように巻いてお皿に飾りつけながら、ステラはヨナタンが子供の頃にくれた運命の赤い薔薇のことを思い出していた。
賑やかな笑い声と共にジョバンニとその妻のルチアが花を持って登場した。ステラの母親マリとジョバンニは仲のいい姉弟だが、夫妻はローマに住んでいるので会えるのは年に一度かそれ以下だ。愉快なジョバンニは、尋常でなく口数が多い。そしてルチアはいつも笑っている。二人が来るとマリの家には十人客が増えたかのように賑やかになる。ヨナタンが静かすぎるということもあるのだけれど。
マリは、ヨナタンが用意してきたワインを開けてデキャンタに注いだ。アマローネ・デッラ・ヴァルポリチェッラだ。アマローネは葡萄を半年近く陰干しする特別な製法によって作られ、濃厚な味わいが特徴だ。値段が高く贈答用などに珍重されている。ヨナタンがこのワインを選んだのは、もう一つ理由があった。復活祭に縁が深いワインだからだ。
「『最後の晩餐』でイエス・キリストが飲んでいたのは現代のアマローネみたいなワインだった」ということになっているのだ。
イエス・キリストが亡くなる前の晩に弟子たちと過ごした『最後の晩餐』は、レオナルド・ダ・ビンチの絵画でも有名だ。
「みな、この杯から飲みなさい。 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」
『マタイ福音書』にそう書かれていることから、キリスト教信者にとって赤ワインは特別の意味を持っている。
研究によると、当時ローマで飲まれていたワインには、腐敗を防ぎ風味をつけるために、樹木の樹脂や様々のスパイスを加えて作っていたようだ。エルサレムの街の近くで発見されたイエスの時代と近いワインの壺にはスモーク・ワインや非常に暗い色のワインとの記載があった。非常に濃厚で重いタイプのワインが好まれた可能性がある。
実際に「アマローネ」の歴史は古く、古代ローマ時代に「レチョート・デッラ・ヴァルポリチェッラ」という甘口ワインを作る過程で偶然できた糖分の少ないワインだ。本当に最後の晩餐で飲まれたワインに近い味わいなのかもしれない。
いずれにしても、普段自宅用にはなかなか手の届かない高級ワインなので、初めて恋人の家を訪れる時のプレゼントとしては悪くないだろう。
マリの用意した食事は、そのワインに恥じない美味しいものだった。
プリモ・ピアットはステラの好きなタリアテッレ・アル・ラグー(ミートソース)。パスタのゆで具合に少しうるさいステラ自身がアルデンテに茹であげた。ラグーの香りがほわんと台所に広がり、ステラはテーブルに着くまで食べるのを我慢するのに苦労した。ヨナタンに食い意地が張りすぎていると思われるのが恥ずかしかったので、なんとかつまみ食いはせずに耐えた。
ジョバンニは、すべての料理について涙を流さんばかりに感動して食べた。ステラは普段、彼の食事を作っているルチアが氣分を害さないか心配になったけれど、彼女は夫が何を言っても、まるでワライダケでも食べさせられたかのように笑っているのだった。
セコンド・ピアットは仔羊のローストのバルサミコソースがけ。仔羊肉は固くなってしまうと美味しくない。切ったら中身がピンクになっているべきだ。ステラは、まだ上手く仔羊を調理できない。いつか、自分が奥さんになる時までには、上手に焼けるようにしたいと思っていた。
「あーあ、作り方を見ておくの忘れちゃった」
ステラがため息をつくと、ジョバンニが姪の心がけが素晴らしいと褒め称え、どういうわけかルチアがけたたましく笑った。ステラがうつむいているので、ヨナタンがそっと言った。
「チルクス・ノッテに戻ったら、折を見て一緒にダリオに教えてもらおう」
ダリオは、チルクス・ノッテ専属の料理人だ。毎日とても美味しい食事を作ってくれるだけでなく、団員たちの相談にものってくれる優しい人だ。料理を習うなんて考えたこともなかったけれど、ヨナタンが一緒に習おうと言ってくれたのがとても嬉しくて、ステラもまたルチアのように楽しい心持ちになった。
デザートは、鳩の形を象ったフルーツの砂糖漬けやレーズンをたっぷりと混ぜ込んだブリオッシュ生地のお菓子コロンバと、チョコレートの卵。この卵は、本当は子供たちがもらうもので、中から小さなおもちゃが出てくる。ステラは、もうおもちゃをほしがる年頃ではないけれど、子供時代へのノスタルジーで、自分で買ってきた。
アマローネの瓶は空になり、お皿の上も綺麗に何もなくなった。マリとジョバンニとルチアが楽しく笑いながらリビングで語らっている。ステラは申し出て、ヨナタンと一緒に皿を洗った。こうやって二人で何かを作業できるのが嬉しくてたまらない。
“Natale con i tuoi. Pasqua con chi vuoi.”(クリスマスは家族と、復活祭は好きな人と)
イタリアでは、こんな風に言うけれど、家族も好きな人も全部一緒に楽しめるのって、本当に素敵! ステラは、人生の春を思い切り楽しんだ。
(初出:2018年4月 書き下ろし)
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【小説】春は出発のとき
今日の小説は、山西左紀さんのリクエストにお応えして書きました。
コラボ希望のサキのところのキャラはミクとジョゼ。
テーマは「十二か月の情景」に相応しいものを設定して、
2人の結婚式の様子をストレートに書いてください。
次第はすべてはお任せします。
ジョゼというのは、もともと2014年の「scriviamo!」で書いた『追跡』という小説で初登場し、左紀さんの所の絵夢やミクと出会った小学生でした。後に、『黄金の枷』本編でヒロイン・マイアの幼馴染として使い、同時に左紀さんの所のミクとの共演を繰り返すうちにいつの間にかカップルになってしまいました。で、前回左紀さんはプロポーズの成功まで書いてくださったのです。結婚式を書くようにとの仰せに従って今回の作品を書きました。
ポルトガルの結婚式というのはこんな感じが多いようです。ブライズメイドたちがお米を投げたり、花嫁が教会の出口でスパークリングワインを飲む、というのは実際に目撃しました。その時の花嫁は、グラスを後ろ向きに投げて壊していました。
いちおう『黄金の枷』の外伝という位置づけにしてありますので、そっちを読んでいらっしゃらない方には「?」な記述もあるかもしれませんが、その場合はその記述をスルーして、結婚式をお楽しみください。ついでにいろいろとコラボの間にばら撒いたネタを回収しています。どうしても氣になるという方は、下のリンクやサキさんと大海彩洋さんの関連作品をお読みください(笑)
サキさんのお誕生日には、少し早いのですけれど、これからPやGの街へと旅立たれるということなので、前祝いとして今、発表させていただきます。サキさん、先さん、そしてママさん、良い旅を。

【参考】
小説・黄金の枷 外伝
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
黄金の枷・外伝
春は出発のとき
アーモンドの花が風に揺れている。エレクトラ・フェレイラは、Gの町のとある家への道を急いだ。若草色のドレスは新調したもの、七人の
もう一人の姉のマイアは、花婿と子供の時に一緒に学んだ仲で、本来ならばもっとこの結婚式の花嫁介添人にふさわしかったのだろうが、残念ながら式に参列することができない。そもそも幼馴染のジョゼが結婚することを知らない可能性が高い。なんせエレクトラ自身が数カ月以上もマイアと連絡がとれないのだ。
花嫁介添人の多くを花婿の知り合いがつとめるのは珍しいが、花嫁は外国人でこの国での友人や親戚がさほど多くない。一方、花婿の方は「俺を招ばなかったら許さない」と言い張る輩が百人以上いるような交友関係に、先祖代々この土地に根付いていたので親戚縁者がこれまたやたらと多い。
ジョゼを落とそうと頑張っていたことを考えると、この役目を受けるのはどうかと思ったが、もう氣にしていないことを示すにはいい機会だと思う。それに、この二日間、街中からジョゼの友人たちが入れ替わり立ち替わりやってくるのだ。どんないい出会いが待っているかわかったものじゃない。行かないなんてもったいない。
ジョゼの結婚式は、マイアの結婚式とはだいぶ様相が違っていて、この国ではわりと普通の結婚式だ。つまりたくさんの招待客や親戚演者が集まり、二日間にわたってパーティをするのだ。
マイアの結婚式には友人たちを集めてのアペリティフやパーティもなかったし、宴会場でのフルコースもなかった。
今回の結婚式は、そんな妙な式ではなかった。式はPの町にあるサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われる。ここは、マイアがあの謎のドラガォンの当主と結婚した教会で、それが偶然なのかどうかはわからなかった。
でも、エレクトラは直接教会にはいかない。介添人は花嫁の自宅に集合するのだ。花嫁であるミク・エストレーラには両親がいなくて、ティーンの頃にGの町に住む祖母に引き取られたのだそうだ。現在、歌手である彼女は主にドイツで活躍しているので、この国に帰ってくるときは祖母の家に滞在している。集まるのはその祖母の家なのだ。
「遅かったわね! どうしたの」
セレーノとジョゼの二人の女友だちはもう着いていて、エレクトラに手を振った。花嫁の三人の女友達ともすっかり仲良くなって一緒にカクテルを飲んでいた。
「美容院で思ったよりも時間がかかっちゃったの。私が最後?」
皆が頷いた。落ち着いた赤紫のツインピースを着たアジアの顔をした婦人が笑顔で出迎えてくれた。この人がお祖母さんなの? お母さんでもおかしくないくらい若く見える!
「はじめまして、フェレイラさんね。今日はどうぞよろしく。軽くビュッフェを用意しているからぜひ召し上がってね」
中に入ると真っ白な花嫁衣装に身を包んだ今日の主役が座っていた。長く裾の広がったプリンセスラインのドレスは、わりと小さめの家の中で動き回るとあちこちの物とぶつかる危険がある。それで、彼女は動かない様に厳命されていた。
それでも、はにかみながら笑顔を見せて立ち上がると、自分のために来てくれたことへの礼を述べた。
「エレクトラ・フェレイラさんよね。初めまして。今日はどうぞよろしくお願いします」
エレクトラは、にっこり笑って挨拶した。
「はじめまして。介添人に選んでくれて、どうもありがとう。まあ、なんて綺麗なのかしら。ジョゼはきっと惚れ直すと思うわ」
ミクはぽっと頬を染めた。初々しいなあ。たしかジョゼよりもけっこう年上だって聞いていたけれど、そんな風に見えないし、お似合いだなあ。エレクトラは感心した。っていうか、こんなところで感心しているから、負けちゃうんだよね。
遅くなったので、あまりたくさん食べている暇もなく教会に向かうことになったが、ミクの祖母の作ったタパスはどれもとても美味しかった。あとでたくさん食べることになるから、ここでお腹いっぱいになっちゃマズいし、遅れてきて正解だったかな。エレクトラは舌を出した。
教会には、参列者がたくさん待っていた。それに白いスーツを着せられて所在なく待っているジョゼも。
代わる代わるジョゼと
つまり、エレクトラのよく知らない顔は、花嫁の招待した人たちなのだろう。ドイツ語で話している数名の男女がいた。おそらくミクが出演しているオペラ関係の人たちだろう。それに、ミクの祖母が急いで挨拶に向かった先にいる日本人女性。綺麗な人だけれどだれかな。
「あ、あの人、知っている?」
セレーノが話しかけてきた。
「ううん。お姉ちゃん、あの人知っているの?」
「ええ。偶然ね。日本のヴィンデミアトリックスって大財閥のお嬢さんだよ。ジョゼとミクが知り合うきっかけになった人なんだって」
「へえ。すごい人と知り合いなんだね。あっちのドイツ人は、オペラの人でしょ」
「そうだよ。ミュンヘンの劇団の演出家だって、ガイテルさんって言ったっけ。憮然としているでしょ?」
「え。そうだね。なんかあまり嬉しそうでもないよね」
「そうだよ。あなたと同じ、失恋組だからね」
「セレーノ。私はもう……」
「まあまあ。強がらなくてもいいってば」
ミクを乗せた車がやってきた。あれ。ジョゼが迎えに行っちゃった。教会の中で、お父さんが花嫁を連れてくるのを待つわけじゃないんだ。エレクトラの疑問を見透かしたようにセレーノが囁いた。
「ミクのお父さんは亡くなっているの。身内に父親役を頼めるような人は叔父さんしかいないらしいけれど、なんか事情があって頼みたくないみたいだよ。だから、二人で入口から一緒に祭壇まで歩いて行くんだって。あなた、遅刻したからそういう事情を聞きそびれたのよ」
ジョゼは、ミクの花嫁姿に見とれているようだった。確かに綺麗な花嫁だよね。ドレスはとろんとしたシルクサテン、華やかな上に高級感もある。ジョゼと研修で訪れた日本で見たけれど、日本のシルクって長い伝統があるんだよね。大きく広がった裾、後ろが少し長くなっていて楕円形に広がるようになっている。
ヴェールはそれほど長くなくて、あっさりしているから、ミクの笑顔がはっきりと見える。そして、百人以上集まっている参列者たちを見て目を丸くした。これからは、これだけのジョゼの友達たちと付き合っていくことになることを、実感しているってところかしら。
さあ、私たちは
そして、これからのひたすら食べる宴会の戦略も立てなくちゃ。宴会場でアペリティフがあり、揚げ物やフルーツ、それにチーズやハムなどがでるけれど、そこでたくさん食べすぎるとフルコースが入らなくなってしまう。二時からの着席宴会は五時ぐらいまでだけれど、一度帰ってからまた集まって、ビュッフェ。ダンスをして真夜中にケーキカットをするまでずっと飲んで食べてが続くのだ。
大人たちはそれで帰るけれど、私たち若者は朝まで騒ぐのが通例。
しかも、明日もある。普通は二日目は親戚だけだけれど、ミクのところに親戚が少ないので私たちも招待されている。つまり明日もフルコース。たぶん、明後日からダイエットしないと大変なことになっちゃう。明日はGの町にある日本料理店でやるっていうから、とても楽しみ。
サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会の向かいは緑滴る憩いの公園になっている。その前に一台の黒塗りの車が入ってきたが、道往く人々や参列者たちは、ちょうど花嫁と花婿が現れた教会のファサードに注目していて、その車がゆっくりと停車したことに氣付くものは少なかった。
挙式で司祭の手伝いをしていた、神学生マヌエル・ロドリゲスは、目立たぬように通りを横切り、黒塗りの車のところへやってきた。待っていた運転手が扉を開けた。6ドアのグランド・リムジンには向かい合った四つの席があり、彼は素早く中に入り既に座っている二人の女性の向かいに座った。
「ご足労でした、マヌエル。式は無事に終わったようね」
向かって右側に座っていた黒髪の貴婦人がにっこりと微笑んだ。
「はい、ドンナ・アントニア、そして、ドンナ・マイア」
ドンナ・アントニアと呼ばれた黒髪の貴婦人の右隣に、少し背の低い女性が座っていた。そして、嬉しそうに窓から幸せそうなカップルの姿を眺めた。
「あの人が、ジョゼの言っていた人ね。うまくいって、本当によかった。ああ、セレーノとエレクトラもいるわ」
マイアは、妹たちが
「ドンナ・アントニア、本当にありがとうございます。あなたが言ってくださらなかったら、こうして二人の結婚式を見ることはできなかったでしょうから」
マイアが言うと、アントニアは首を振った。
「アントニアでいいって、言ったでしょう。あなたはもう私の義妹なのよ。あなたの友達が結婚するたびに出てくるわけにはいかないけれど、今回はたまたまこんな近くで結婚したし、マヌエルが教えてくれたんですもの。あの青年にはライサの件で助けてもらったし、私もトレースももう一度お礼がしたかったの」
マヌエルは、アントニアの視線の先に眼を移した。彼の座っている隣の席に大きな包みが二つ置いてある。
「では、こちらが……」
その言葉に、二人の女性は頷いた。アントニアが続ける。
「これがマイアとトレースからのプレゼントで、こちらが私から。あの花嫁さんにトレースが作ったのは、とても上品な桜色のパンプスよ。妬ましくなるくらい素敵だったわよね、マイア」
「うふふ。あなたがそういえば、23は作ってくれると思いますけれど……」
「そんな時間は、全然ないじゃない。あの忙しい合間にあの青年の靴も作ったのよね」
「ジョゼは、23の靴の大ファンだから、きっと大事にすると思うわ」
マヌエルは、なるほどと思った。この大きい箱には、靴が二足入っているのだ。知る人ぞ知る幻の靴職人の作った、究極のオーダーメード。まさか、ドラガォンの当主その人が作ったとは二人共思いもしないだろう。
「もう一つの箱にはボトルが入っているので、扱いに注意するように言って渡してくださいね」
アントニアは言った。
マヌエルは「かしこまりました」と言った。運転手が再びドアを開けた。彼はプレゼントを大切に抱えてベントレーから降りた。
「なんのボトルにしたのですか」
「1960年のクラッシック・ヴィンテージのポートワインよ」
そう聞こえた時に、ドアが閉まり二人の会話は聞こえなくなった。
何と幸運な二人だ、今日華燭の宴を迎えたカップルは。マヌエルは密かに笑った。
百人以上の友人たちの暖かい祝福、家族の愛情、仕事仲間も駆けつけ、イタリアのとある名家からも特別な祝いが届いている。それだけでなく、ドラガォンの当主たちからもこの祝福だ。こんな婚礼は、滅多にないな。
二人は教会の入口で参列者たちの拍手と歓声の中、笑顔でスパークリングワインを飲み干していた。そして、これから続く幸せな日々、ひとまずは、これから二日間続く食べて飲んで踊ってのハードな披露宴に手を携えて立ち向かいはじめた。
(初出:2018年3月 書き下ろし)
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【小説】君と過ごす素敵な朝
今日の小説は、ユズキさんの30000Hit記念キリ番リクエストに応募して描いていただいたイラストに合わせて書いてみました。

このイラストの著作権はユズキさんにあります。無断転用は固くお断りします。
お願いしたのは「大道芸人たち Artistas callejeros」の主人公の一人レネとその恋人のヤスミンです。せっかくなので、この幸せな情景は幸せな日に合わせて発表したくなりました。

【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は当ブログで連載している長編小説です。第一部は完結済みで、第二部のチャプター1を公開しています。興味のある方は下のリンクからどうぞ
![]() | 「大道芸人たち 第一部」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
大道芸人たち・外伝
君と過ごす素敵な朝
柔らかい光が窓から差し込むようになった。外を歩くにはまだ分厚いコートが必要だけれど、昼の長さは日に日に増えてきて、春が近づいていることを知らせてくれる。
昨夜の狂騒が嘘のように静かな朝、いつもよりもゆったりとした時間を過ごすことができてヤスミンは嬉しかった。
昨夜は、『
今日は『灰の水曜日』。ヤスミンが子供の頃に行った教会の礼拝では、灰を信者の額につけて「人は灰から生まれて灰に帰る」と聖職者に言われた。この儀式はカトリックはどこでも、プロテスタントでもルター派などではやるらしいが、ティーンになってからは教会に全然通わなくなったヤスミンは、あまり儀式に興味はなかった。わかっていることは、キリスト教では本来、この日から復活祭前の四十日間の潔斎が始まることだ。「本来」というのは、今どき四十日間、肉をまったく口にしないドイツ人には滅多に会えないからだ。
でも、「それだけ長い間、節制をしいられるならその前に飲んで食べて騒ごう」という趣旨で生まれた祝祭『
『
石畳を音を立てて歩き回り、飲んで食べて騒ぐ宵。冬の憂鬱を吹き飛ばすいつもの楽しみだけれど、今年は格別楽しかった。レネが来ていたから。
レネは、以前よりはミュンヘンにいることが多くなったとはいえ、この時期にドイツにいることは少なかった。なんといってもドイツの冬は大道芸には厳しすぎるのだ。彼は、南フランスのブドウ農家の息子で、家業を手伝う時期以外は、仲間とヨーロッパ中を旅する生活をしている。
レネと出会ったのは、一年ほど前だ。彼女は美容師として働く傍ら、劇団『カーター・マレーシュ』のボランティアをしていて、元団員のヴィルを父親の元から逃す協力を依頼してきた彼らと意氣投合したのだ。
そのヴィルは結局亡くなった父親の跡を継いだので、大道芸人の仲間たち《Artistas callejeros》はミュンヘンの館に滞在することが多くなった。そういう時には、レネは必ずヤスミンの住むアウグスブルグに寄って一緒に時間を過ごしてくれる。二人が会える機会はたくさんないけれど、その分、密度の濃い実りある時間を過ごしていた。
ヤスミンが目を覚ましたのは、よく通る犬の鳴き声が響いたからだ。夢の中で、彼女はそれをレネの歌声に似ていると思った。彼は大道芸やステージの時以外は、恥ずかしがって滅多に歌わないのだが、子供の時から教会の聖歌隊に加わっていたとかで、とても明るい素敵なテノールなのだ。
起き上がって、ぼんやりと「ああ、あれはハチだ」と思った。この一週間、旅行に出かけた友人から預かっている飼い犬だ。それから、不意に思い出した。今朝はハチだけでなく、レネも一緒にいることを。あら、彼はどこ?
「しっ。静かに。ヤスミンが起きてしまうよ」
レネは、覚えたてのドイツ語で犬に語りかけていた。キッチンに入っていこうとしていたヤスミンは、彼の優しさと尻尾をふって応えるハチの愛らしさに嬉しくなって微笑んだ。
「おはよう、レネ。おはよう、ハチ」
ハチは思い切り尻尾を振って見せたが、レネの顔もそれに劣らず喜びに満ちていた。残念ながらフランス人には振る尻尾がなかったのだが。
「おはよう。ヤスミン。すぐに朝ごはんができるよ」
「いい匂いね。朝食を作ってもらうなんてなん年ぶりかしら」
煎りたてのコーヒーと卵料理の湯氣、それに焼きたてのパンの香ばしさ。
「君の口に合うといいな。あ、コーヒーは熱いから、氣をつけて。君はブラックだったよね」
レネは二つのマグカップを持ってきた。自分の分は砂糖とミルクがたっぷり入っている。ヤスミンが不思議に思う事の一つに、レネは甘いものに目がないのだが、全く太らないのだ。どうなっているんだろう。
「あ、フォークが出てないね。ごめん、ちょっと待ってて」
そう言うレネに彼女は言った。
「フォークなんてなくて大丈夫よ。パンに挟んじゃうもの。それより冷めないうちに食べましょう」
レネは「うん」と言ってちらっとあと一つしかない椅子を眺めた。その視線を追ってヤスミンは思わず吹き出した。いつの間にかハチが椅子に座っているのだ。
「ダメよ、ハチ。レネがいない時は、特別にそこに座ってもいけれど、今は遠慮して。そこはレネの特等席なんだから」
ヤスミンに言われて、ハチは大人しく降りた。レネは嬉しくなった。ヤスミンのホームの特等席に座れているのだ。
「ハチって、変わった名前だね」
彼は、犬を見つめた。賢しこそうな中型犬だ。
「日本の名前みたいよ。どういう意味なのかわからないけれど。飼い主は、しばらく日本で暮らしていて、去年こちらに帰ってきたの。それで、向こうで飼っていた犬と別れたくなかったから連れてきたんですって。とっても飼い主に忠実な賢い種類らしいわ」
「へえ。そうなんだ。パピヨンに意味を訊いておくよ。僕、犬は大好きなんだ。アビニヨンの両親の家でもずっと犬を飼っていたからね」
「自分で飼いたいと思う?」
ヤスミンは訊いた。
「飼えるものならね。今の生活だと難しいけれど」
彼は肩をすくめた。
「私も犬は好きよ。でも、こんな街中のアパートメントじゃダメよね。広い庭があって、犬が走り回れるような環境のところに住んでみたいなあ」
レネの頭の中では、実家の葡萄園の広い敷地をヤスミンとハチが駆け回っている。完全なる希望的観測による光景だ。
その妄想のために彼がしばらく黙っていたので、彼女はその間に窓際に目を移した。置かれた花瓶にピンクのチューリップの花束が活けられている。あれ? 昨日まではなかったのに、どこから来たの?
「これ、どうしたの?」
レネは、我に返った。そして、彼女が花のことを言っているのがわかると、嬉しそうに笑った。
「さっきパンと一緒に買ってきたんだ。今日はどうしても君に贈りたかったから」
「今日?」
彼女は首をかしげた。昨夜が『
「やだ。今日は二月十四日だったわ」
ローマの時代にまでその起源を遡る恋人たちの誓いの日なのだ。ヤスミンはすっかり忘れていたけれど。
「その通り! 『聖ヴァレンタイン・デー』、おめでとう」
「ありがとう。レネ。この日にあなたといられるのって、本当にラッキーよね」
彼は、恥ずかしそうに言った。
「君に会える時は、いつも聖ヴァレンタイン・デーみたいな氣がするけれどね」
「そういう風に言ってくれるレネ、大好きよ!」
ヤスミンは、彼の頬にキスをした。
真っ赤になっている彼をみて、ハチは「ワン!」と日本風に吠えて、尻尾を振った。
(初出:2018年2月 書き下ろし)
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【小説】バッカスからの招待状 -12- カーディナル
今回は、今年最後の「Stella」参加作品で、かつボージョレ・ヌーヴォーの解禁に近い頃の発刊ということなので、ボージョレのワインとクリスマス(キリストの誕生日)にちなんだカクテルを題材に選んでみました。
なお、細かいことが氣になる方のモヤモヤをはじめから晴らすためにここに書かせていただきますが、一般に日本で発音されている「ボジョレー・ヌーボー」ともう一つ「ボージョレ・ヌーヴォー」の二つの単語を混在して記述しています。違いは、バーテンダーの田中は、本来のフランス語の発音を口にしているので「ボージョレ」「ヌーヴォー」で、客たちは日本語として一般的な「ボジョレー・ヌーボー」と口にしているという設定です。
なお、「Stella」に「バッカスからの招待状」で参加するのは、今回でお終いにしようと思っています。この作品を終わりにするというわけではなく、来年からは、「十二ヶ月の〇〇」シリーズと「Stella」参加作品を兼ねる方向で行こうと思っています。というわけで、「バッカスからの招待状」は、「scriviamo!」やキリ番など折々にリクエストしてくだされば、頑張って書きます。ご理解のほど、よろしくお願いします。
![]() | 「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む |
![]() | 「いつかは寄ってね」をはじめからまとめて読む |
バッカスからの招待状 -12-
カーディナル
麻里亜は、偶然その店を見つけた。できるだけ人目につかないところで飲みたくて、会社の同僚たちがいつも向かう道と反対側を東京駅に向かって歩いた。
そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにあった。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれていた。
仕事で失敗したことは、仕方ない。そんなことは年中あることだ。巷がボジョレー・ヌーボーの解禁で騒いでいるのも毎年のことで、目くじらをたてることでもない。フランスを忌々しい国だと思っているのは単なる逆恨みだということも麻里亜はきちんと自覚していた。
要するに失恋しただけのことだ。ライバルが神様ではどうやっても勝ち目はない。まったく。
「いらっしゃいませ」
少し重めのドアを開けると、丁寧な挨拶の声がした。
カウンターの四十くらいの年齢のオールバックの男性が挨拶をした。落ち着いた声だ。冷たくも親し過ぎもしない、入りやすい応対だった。麻里亜はほっとした。カウンターにサラリーマンと思われる客が数名、少し離れた奥のテーブル席には話し込んでいるカップルがいた。
「一人なんですが」
「カウンターと奥のお席とどちらがよろしいですか」
麻里亜は、ほかの客たちと少し離れた入り口に近いカウンター席をちらっと見た。察したバーテンダーが「こちらですね」と言ってくれたので、ホッとしてコートを脱いだ。
彼女が落ちついて座るのを待ってから、バーテンダーは微笑んでいるような柔らかい口元で「どうぞ」とおしぼりを渡してくれた。続いて渡されたメニューをゆっくりと開いた。
「田中さん、そういえば今日はボジョレー・ヌーボーの解禁日だったよね。せっかくだから飲みたいけれど、僕、ワインはあまり詳しくないんだよね。どうなの?」
カウンターの真ん中に座って居る洒落たスーツの男性が訊いた。
「近藤さんは、葡萄ジュースにしておいた方がいいんじゃないの」
もっと奥の席のロマンスグレーの客が笑った。
「あ、ひどいなあ。たしかにサラトガは強すぎたけれど、ワイン一杯くらいなら、大丈夫ですよ」
近藤は頭をかいた。
バーテンダーの田中は、にっこりと微笑みながら、別になった白いメニューを近藤に手渡した。
「今年はヴィラージュ・ヌーヴォーでは、ドミニク・ローランのものと、ルイ・ラト、そしてルイ・ジャドのものをご用意しています。ヨーロッパの天候がワイン向けではなかったので全体に収穫量が少なく入手が困難でした。また、ヌーヴォーではないのですが、特に優れたワインを生産している村でできたクリュ・ボージョレも別にメニューに載せています。こちらはとても良い出来ですよ」
ボジョレー・ヌーボーなんて嫌い。格別美味しいわけでもないのに、毎年みんなで大騒ぎして。フランスもブルゴーニュも嫌い。放っておいてもみんなが押しかける場所なんだから、わざわざ私の目に触れるところで宣伝しないでほしい。それにイエス・キリストだって。毎年世界中の人が誕生日をお祝いしてくれる人氣者なんだから、わざわざ極東の仏教国から私の大事な人を連れて行かなくてもいいじゃない。……わかっている。何もかも私の逆恨みだって。でも……。
麻里亜は、首を伸ばして近藤が検討しているその白いメニューを見た。嫌いといいつつ、やはり氣になるのだ。彼はまもなくブルゴーニュへと旅立つ。どこまでも葡萄畑の続く村に住むと言っていたから、来年はきっとこうしたワインを飲むことになるのだろう。
「よろしかったら、こちらもご覧になりますか」
氣づいた田中が、その白いメニューを麻里亜にも渡してくれた。彼女は困ったように言った。
「私、あまりお酒は詳しくないんです。それに、ワインだけはあまり飲まなくって。ヌーボーとか、ヴィラージュって、何が違うんですか」
ロマンスグレーが聞きつけて笑った。
「お。よく質問してくれた! 僕もそれを知りたかったんだ」
田中は、いくつかのボトルをカウンターに置いた。
「そもそもボージョレというのはフランス、ソーヌ=エ=ロワール県とローヌ県にまたがるボージョレ地方で生産されているブルゴーニュワインの一種です。このこれ以外のコミューンで作られたワインはボージョレと名乗ることは許されていません。ヌーヴォーというのは新しいという意味で、新酒、つまり今年収穫された葡萄で作られたお酒です。通常ワインは秋の初めに葡萄を収穫して、発酵させた後にゆっくりと熟成させ、翌春に出荷するものですが、その年のワインの出来を確認するためにマセラシオン・カルボニックという特別な方法で三週間ほどで発酵させて作るのです。こうやって作られたボージョレワインは初めてを意味するプリムールという規格となります。一般に言われているヌーヴォーとは、こちらにあたります。ボージョレのプリムールの出荷日は、十一月の第三木曜日と決まっているので、毎年解禁日が話題になるのですね」
「今年ってことは、あまり発酵していないってことだろう。だから僕でも一杯くらいなら問題ないと思うんだ。でも、クリュ・ボジョレーにヌーボーはないのか。それは知らなかったな」
近藤が、ほかの人より詳しいよという雰囲氣を撒き散らしながら言った。
ロマンスグレーは「また近藤さんがはじまった」という顔をしてから田中に訊いた。
「クリュ・ボジョレーってのは何かってところから頼むよ」
「はい。ボージョレ地方の96村の中でもとくに高品質の葡萄で作る46の村で作られる高品質のワインはボージョレ・ヴィラージュと言って区別します。このプリムールつまり新酒は、ボージョレ・ヴィラージュ・ヌーヴォーと言います。ボージョレ・ヴィラージュの中でも更に限定された地域22の村で作られるワインを特にクリュ・ボージョレと言います。このクリュ・ボージョレには、プリムールという規格が適用されないことになっているので、たとえ今年出来たお酒でもヌーヴォーとは呼ばないというわけです。でも、高品質のボージョレ・ワインであることには変わりはありません。むしろ他のボージョレよりもいいワインである故に稀少でかつ値段も張るのです」
田中の説明は、わかりやすいのだけれど、結局何を頼むべきか麻里亜にはわからなくなってしまった。
「私は、解禁日には興味がないからヌーボーじゃなくて良いわ。でも、せっかくだからボジョレーワインを使って、飲みやすいカクテルを作ってもらえませんか」
田中は優しく笑った。
「かしこまりました。例えば、カーディナルはいかがでしょうか」
「カーディナル?」
麻里亜はメニューを見た。
「はい。白ワインとカシスリキュールで作るキールというカクテルを赤ワインに変えたバリエーションです。特にボージョレワインを使うのが本格的だとおっしゃる方もあります。色が濃い赤になりますので、枢機卿を意味するカーディナルと呼ばれているのです」
麻里亜は、はっとした。
「枢機卿って、カトリックのお坊さんよね」
「そうですね。教皇に次ぐ高位の聖職者ですね。赤いマントや帽子を身につける決まりがあるそうです」
彼女は力なく笑った。
「実は、私の幼馴染が、カトリックの助祭になったの。もうじきフランスのブルゴーニュ地方に赴任するんですって。偶然とは思えないから、それを作っていただこうかしら」
田中は、頷いて、よく冷やしてあるクレーム・ド・カシスの瓶を取り出した。
「はい。割合は如何なさいますか。カシスリキュールの割合が多くなるほど甘めになります」
「ワインらしさがわかるようにしていただけますか」
「かしこまりました」
彼はクリュ・ボージョレであるサン・タムールとクレーム・ド・カシスを九対一の割合にして用意した。ヌーヴォーほど軽くはなく、キールを用意するときほど冷えてはいない。カクテル通の客であれば、文句が来るかもしれない作り方だった。
けれど、麻里亜のわずかに憂いに満ちた表情から、彼は彼女が「そうあるべきカクテル」ではないものを注文したのだろうと感じた。洒落た見かけや、解禁日の話題性ではなく、手の届かないところへ行ってしまう人を想うためのもっと深い飲み物を。
「美味しい。昔、一度だけボジョレー・ヌーボーを飲んだことがあるんだけれど、全然美味しいって思わなかったの。全然違うのね」
「こちらは、ヌーヴォーとは違う醸造法で作り、熟成に五年ほどかけています。愛の聖人という意味なんです。本来はカクテルにはしないワインですが、おそらく、これが一番ふさわしいのではないかと思いました」
麻里亜の目元に光るものがあった。が、それは田中以外には誰も氣づかないわずかなものだった。
紅く深い色を彼女は見つめた。カーディナル。私には遠い世界でも、彼には馴染みのある名前なんだろうな。
他の人に笑われても、決して曲げなかった彼の信念を理解しようと思った。詳しいことはわからなくても、彼の子供の頃から変わらない高い理想と志を応援しようと思った。秘めていた自分の想いの行き場がなくなったことを苦しむこともやめようと思った。
「愛の聖人か。赤はハートの色だものね。私、キリスト教も、ブルゴーニュも、ボジョレーも、みんな嫌いになるところだったけれど、おかげでカーディナルが、一番好きなカクテルになりそう」
麻里亜は、今晩ここにきてよかったと、しみじみと思った。
カーディナル(Cardinal)
標準的なレシピ
赤ワイン : 4~ 9
カシス・リキュール:1
作成方法: ワイン・グラスに、赤ワインとカシス・リキュールを注ぎ、軽くステアする。
ゴブレットの縁から静かにグレナディン・シロップを注ぎ、底に沈める。
(初出:2016年11月 書き下ろし)
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【小説】バッカスからの招待状 -9- サラトガ
今回は、珍しく「ちょっと嫌われ者」の客が登場します。まあ、店主の田中にとってはどんな人でもお客様ですが。なぜか夏木が準レギュラー化しているなあ。それにバーの小説なのに、下戸のキャラばかりってどんなものでしょう。
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バッカスからの招待状 -9-
サラトガ
「今日は、いつものとは違う物を飲んでみたいな。田中さん、何でもいいからみつくろってくれないかな。お願いします」
夏木がそう言うと、田中はにっこりと笑った。
「かしこまりました。久しぶりのおまかせですね」
大手町の隠れ家のような小さなバー『Bacchus』は、アルコールを全く受け付けない体質の夏木が唯一通っている店だ。店主でもあるバーテンダーの田中がいつも上手にノン・アルコールのカクテルを作ってくれる上、肴も美味しくカウンターに座る他の客との当たり障りのない交流も居心地がいいのだ。たった一人、あの男を除いて。この店は大好きなんだけれど、あの客だけは会いたくないんだよな。
その客とはこの二月くらいから時々顔を合わせるようになった。
「いらっしゃいませ、近藤さん」
田中の声にはっとする。どうやら嫌な予感が的中したようだ。
「こんばんは、マスター。あれ、今日も先生が来ているね」
先生というのは夏木の事だ。夏木は教師でもなければ、医師でもないし、弁護士でもない。なのに、この近藤という男はいつも夏木をからかってそう呼ぶのだ。夏木が眼鏡をかけて、あまりオシャレではないコンサバなスーツを着、きまじめな様子でいるのが今っぽくないからというのが理由のようだった。
近藤のスーツは、おそらくアルマーニだろう。やけに目立つ赤と黒のネクタイを締めて、尖ってピカピカに艶の出た靴を履いた脚を大袈裟に組むのだが、夏木は心の中で「お前はジョージ・クルーニーじゃないんだから、そんなカッコをしてもマフィアのチンピラにしか見えないぞ」と呟いた。もちろん口に出して言う勇氣はない。
「今日は、あのかわいいすみれちゃんと待ち合わせじゃないのかな。頑張ってアタックしないと、愛想を尽かされちゃうんじゃないかな」
放っておいてくれ、夏木は思ったが、田中を困らせたくなかったので喧嘩腰に口をきくのは控えた。
近藤の話し方は早口で神経質だ。何がどうというのではないが、聴いているとイライラする。それに田中と他の客が話している時に、話しかけられてもいないのに割って入り、話題に関連した自分の知っている知識をこれでもかと披露する。そのせいでせっかくの話題の流れがおかしな事になってしまう事もある。どうしてもその話題をしたい訳ではなくても、話の腰を折られると面白くはない。
「マスター、僕のボトル、まだ空じゃないよね。いつものサラトガを作ってくれよ」
夏木が乗ってこないので興味を失ったように、近藤は田中に注文した。自分をからかう他に、夏木がこの男を氣にいらないもう一つの理由は、彼が田中を小僧のように扱う事だった。なんだよ、この上から目線。彼は心の中で毒づいた。
田中は、いつものように穏やかに「かしこまりました」と言って、近藤の自筆で書かれたタグのついたブランデーのボトルを手にとり、規定量の酒をシェーカーに入れた。近藤は優越感に満ちた表情で夏木を見た。ボトルキープをしている自分はあんたとは違うんだよ。もしくは、ブランデーベースの強いカクテルを飲める自分はどうだい。そんな風に言われたようで、夏木は意味もなく腹が立った。
「お待たせしました」
近藤の前に、パイナップルスライスの飾られたカクテル・グラスが置かれた。
「これこれ。やはりバーにきたからにはサラトガを頼まないとね。このカクテルはバーテンダーの腕の差が出るよ」
それから、夏木の方を見て言った。
「先生もどうです? なんなら、僕のブランデーをごちそうしますよ」
夏木がアルコールを一滴も飲めないのを知っていての嫌味だ。彼はついに抗議しようと憤怒の表情を浮かべて近藤の方に向き直った。
その不穏な空氣を察知した田中が、先に言った。
「夏木さんも、サラトガの名前のついたカクテルを既に注文なさっていらっしゃいます」
夏木はぎょっとした。いくら悔しくても、女性にも飲める軽いカクテルですら飲めない彼だ。強い事で有名なサラトガは舐める事だって出来ないだろう。
近藤も意外そうに田中の顔を見た。
「サラトガを先生が?」
田中はコリンズ・グラスに砕いた氷を満たした。カクテル・グラスでないところから、少なくともサラトガは出てこないとわかって、夏木は安堵した。田中が夏木の飲めないものを出すはずがないと思い直し、彼は黙って出てくるものを待つ事にした。
田中はライムを取り出して絞ったもの、シュガー・シロップに続き、グラスにジンジャーエールを注いだ。そして、軽くステアしてから夏木の前に出した。
「お待たせしました。サラトガ・クーラーです」
クラッシュド・アイスはなくカクテル・グラスに入っているサラトガの方が色は濃いが、似た色合いのドリンクが並んだ。全く中身は違うけれど、どちらも丁寧に作られたカクテルで、全く遜色はないと主張していた。
夏木は感謝して一口飲んだ。
「ああ。これは美味い。また新しい味を開拓できて嬉しいよ、田中さん」
嬉しそうに飲む夏木の姿を見ながら、近藤はどういうわけかその晩は静かだった。十五分ほど黙ってカクテル・グラスを傾けていたが、料金を払うと「じゃあ。また」と言って去っていった。
夏木は田中が片付けているカクテル・グラスを見て驚いた。
「あれ。ほとんど残っている」
「あの人、いつもそうだよね」
少し離れたところに座っている他の常連が口を挟んだ。
「わざわざポトル・キープまでしているわりに、全然飲まないんだから、本当はお酒は弱いんじゃないかなあ。無理してサラトガなんて頼まなくてもいいのに、何でこだわっているのかなあ」
夏木は近藤が不愉快でいつも先に帰ってしまうので、知らなかった。田中は何も言わなかったが、それが本当に近藤がカクテルを飲み終わった事がないことを証言した形になった。
「近藤さん、こんばんは。今日はお早いですね」
田中は、いつもよりもずっと早い時間にやってきた近藤にいつもの態度で歓迎した。今日の服装は、いつも通りのアルマーニのスーツではあるが、水色の大人しいネクタイだし、靴がオーソドックスなビジネスシューズだった。それだけでも印象が随分と変わる。さらによく見ると、髪を固めていた整髪料を変えたのか、艶やかにしっかりと固まっていた髪型が、わりとソフトになっている。
「うん。予定が変わって、時間が空いたんだ」
普段より大人しい様子の彼に、田中はどう対応していいのか迷った。だが、まずはいつも通りに対応する事にした。おしぼりを渡しながら訊いた。
「今日は、いかがなさいますか」
「いつものサラトガを……」
そう言いかけてから、近藤は言葉を切って、少し考えているようだった。田中はいつもとの違いを感じて結論を急がせないように待った。
近藤は、顔を上げて言った。
「この間の、先生が飲んでいた方のサラトガを飲んでみていいかな」
「サラトガ・クーラーですね。かしこまりました」
田中は、なるほど風向きが本当に変わってきたんだなと思いつつ、コリンズ・グラスを取り出した。
目の前に出てきたサラトガ・クーラーを一口飲んで、近藤はほっとひと息ついた。
「ああ。美味しいなあ。もっと前に、これを知っていたらよかったな」
「お氣に召して何よりです。本当はクーラーというのはアルコール飲料を炭酸で割ったものにつけられる名前ですが、こちらは完全なノンアルコールです。組み合わせが全く違うサラトガと同じ名前がついている由来も定説はないようです」
近藤は、しばらく黙っていたがやがて言った。
「僕はね、もうわかっていると思うけれど、本当はアルコールにとても弱い体質なんだ。でも、ずっとそうじゃないフリをしてきた。飲めるのに飲めないフリはそんなに簡単にはバレないけれど、飲めないのに強いフリをしても無駄だよね。でも、マスターは、一度も他の人の前でそれを言わないでくれたよね。ありがとう」
「アルコールに弱い事は恥でも何でもなくて、体質ですから無理すべきではないのですが、そうはいかないときもありますよね」
「うん。でも、正直に言ってしまった方が、ずっと楽に生きられるんだよね。僕は、先生を妬んでいたんだろうな」
「どうしてですか?」
「最初にここで彼を見たとき、例のすみれちゃんと楽しそうに飲んでいたんだよ。僕は、ここじゃないバーで、女性にカクテルをごちそうしたりして、親しくなろうと何度も頑張ったけれど、うまくいかないんだ。最初はカッコいい名前のカクテルや、服装に感心していてくれた子たちも、僕が飲めなくて、ただの平社員で、カッコいい都心のマンションにも住んでいない事がわかると去っていく」
それからグラスを持ち上げて爽やかなドリンクを照明に透かして揺らした。
「サラトガは、大学生の時に好きだった女の子が教えてくれたカクテルなんだ。彼女はもう働いていて、職場の出来る先輩が大人はこういうのを飲むんだって言ったらしくてね。サラトガというのは勝利の象徴だって。僕は、それから十年近くもその見えない大人の男に肩を並べなくてはと思っていたみたいだ。そうじゃないのに賢くてカッコいいヤツを装っていた。この間、マスターと先生の息のあったやり取りを見ていて、自分の目指していた大人像は間違っていて薄っぺらだったんだなと感じたよ」
田中は、生ハムと黄桃のオリーブオイル和えをそっと近藤の前に出した。
「カクテルの名前の由来というのは、はっきりしているものもありますが、なぜそう呼ばれているのか説が分かれるものもあるんです。私に言えるのは、サラトガはブランデーの味のお好きな人のためのカクテルだということです。名前も、原材料も、どれが最高という事はありませんので、それぞれの方がご自身の好みに従ってお好きなものを注文なさるのが一番だと思っています」
「そうだよね。だから、もう背伸びするのはやめることにしたんだ。長い時間をかけて髪をセットするのも、窮屈な靴を履くのもやめてみたんだ。そうしたら、さっき約束していた子にイメージが違うと振られてしまったんだけれど」
田中はぎょっとした。これは相当落ち込んでいるんじゃないだろうか。だが、近藤は笑った。
「心配しないで、マスター。僕は自分でも驚いているんだけれど、ほっとしているんだ。彼女は、とてもスタイリッシュで美人で目立つ人で、成功したエリートがいかにも好みそうなタイプだけれど、ご機嫌を取るのがとても難しくて僕にはひどいストレスだったんだ。振られて楽になったよ。負け惜しみと思うかもしれないけれど、本当なんだ」
彼は、空になったグラスを持ち上げた。
「もう一杯、もらえるかな」
田中は微笑んで頷いた。それぞれ好みのドリンクが違うように、最良の生き方も人によって違う。自分に合ったものが何であるかがわかれば、過ごす時間もずっと楽しいものになる。この店で逢う度に不穏な空氣になっていた夏木と近藤も、意外にも仲がよくなっていくのかもしれないと思った。
サラトガ(Saratoga)
標準的なレシピ
ブランデー = 60ml
マラスキーノ・リキュール = 2dash
アンゴスチュラ・ビターズ = 2dash
炭酸水 = 微量
作成方法: ブランデー、マラスキー・ノリキュール、アンゴスチュラ・ビターズをシェークし、カクテル・グラスに注ぎ、極少量の炭酸水を加えて、パイナップル・スライスを飾る。
サラトガ・クーラー(Saratoga Cooler)
標準的なレシピ
ライム・ジュース = 20ml
シュガー・シロップ = 1tsp
ジンジャー・エール = 適量
作成方法: クラッシュド・アイスを入れたコリンズ・グラスに、ライム・ジュースとシュガー・シロップを注ぎ、ジンジャー・エールでグラスを満たした後、軽くステアする。
(初出:2017年5月 書き下ろし)
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しばらくスペシャルバージョンが続きましたが、また田中はいつものオブザーバーに戻りました。今回の話は、ちょっと古い歌をモチーフにしたストーリーです。あの曲、ある年齢以上の皆さんは、きっとご存知ですよね(笑)
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バッカスからの招待状 -8-
テキーラ・サンライズ
その二人が入って来た時に、田中に長年酒場で働いている者の勘が働いた。険悪な顔はしていないし、会話がないわけでもなかった。だが、二人の間には不自然な空間があった。まるでお互いの間にアクリルの壁を置いているように。
大手町のビル街にひっそりと隠れるように営業している『Bacchus』には、一見の客よりも常連の方が多い。だが、この二人に見覚えはなかった。おそらく予定していた店が満席で闇雲に歩き回って見つけたのだろう。
店などはどうでもいいのだ。未来に大切にしたくなる思い出を作るつもりはないのだろうから。どうやって嫌な想いをせずに、不愉快な話題を終わらせることができるか、それだけに意識を集中しているのだろう。
二人は、奥のテーブル席に座った。田中は、話が進まないうちに急いで注文を取りに行った。彼らも話を聞かれたくはないだろうから。
「カリブ海っぽい、強いカクテルありますか」
女が田中に訊くと、男は眉をひそめたが何も言わなかった。
「そうですね。テキーラ・サンライズはいかがでしょうか。赤とオレンジの日の出のように見えるカクテルです」
「それにして。氣分は日の入りだけれど……」
「僕はオールドの水割りをお願いします」
男は女のコメントへの感想も、田中との会話をも拒否するような強い調子で注文した。田中は頷いて引き下がり、注文の品とポテトチップスを入れたボウルをできるだけ急いで持っていくとその場を離れた。
亜佐美はオレンジジュースの底に沈んでいる赤いグレナディンシロップを覗き込んだ。ゴブレットはわずかに汗をかき始めている。かき混ぜてそのきれいな層を壊すのを惜しむように、彼女はそっとストローを持ち上げてオレンジジュースだけをわずかに飲んだ。
「こうやってあなたと飲むのも今日でおしまいだね」
和彦は、先ほど田中に見せたのと同じような不愉快な表情を一瞬見せてから、自分の苛立ちを押さえ込むようにして答えた。
「あの財務省男との結婚を決めたのは、お前だろう」
「……ごめんね。私、もう疲れちゃったんだ」
「何に?」
「あなたを信じて待ち続けることに」
和彦は、握りこぶしに力を込めた。だが、その行為は何の解決にも結びつかなかった。
「僕が夢をあきらめても、財務省に今から入れるわけじゃない。お前に広尾の奥様ライフを約束するなんて無理だ。それどころか結婚する余裕すらない」
「私が楽な人生を選んだなんて思わないで。急に小学生の継母になるんだよ。あの子は全然懐きそうにないし、お姑さんもプライド高そうだから、大変そう」
「なぜそこまでして結婚したがるんだよ」
亜佐美は黙り込んだ。必要とされたということが嬉しかったのかもしれない。それとも、プロポーズの件を言えば、和彦が引き止めてくれると思いたかったのかもしれない。彼は不快そうにはしたけれど引き止めなかった。
「カリブ海、行きたかったな」
「なぜ過去形にするんだ。これからだって行けるだろう」
彼女は、瞼を閉じた。あなたと行きたかったんだよ。それに、もう憶えていないかな。まだ高校生だった頃ユーミンの『真夏の夜の夢』が大ヒットして、一緒に話したじゃない。こんな芝居がかった別れ話するわけないよねって。なのに私は、こんなに長く夢見続けたあなたとの関係にピリオドを打って、まるであの歌詞と同じような最後のデートをしているんだね。
サンライズじゃない。サンセット。私の人生の、真夏の夜の夢はおしまい。
二人は長くは留まらなかった。亜佐美がテキーラ・サンライズを飲み終わった頃には、水割りのグラスも空になった。そして、支払いを済ませると二人は田中の店から消えていった。
おや。田中は意外な思いで入ってきた二人を見つめた。常連たちのように細かいことを憶えていたわけではないが、不快な様子で出て行く客はあまりいないので、印象に残っていた。おそらく二度と来ないであろうと予想していたのだが、いい意味で裏切られた。
「間違いない。この店だよな」
「そうね。6年経ってもまったく変わっていないわね」
二人の表情はずっと穏やかになっていた。男の方には白髪が増え、カジュアルなジャケットの色合いも落ち着いていたが、以前よりも自信に満ちた様子が見て取れた。
女の方は、6年前とは違って全身黒衣だった。落ち着いて人妻らしい振舞いになっていた。
「カウンターいいですか」
男が訊いたので田中は「どこでもお好きな席にどうぞ」と答えた。
「どうぞ」
おしぼりとメニューを渡すと、女はおしぼりだけを受け取った。
「またテキーラ・サンライズをいただくわ」
それで田中は、この二人が別れ話をしていたカップルだったと思い出した。
「僕も同じ物を」
彼もまたメニューを受け取らなかった。
「それで、いつ発つの?」
「来週。落ち着いたら連絡先を報せるよ。メールでいいかい?」
「ええ。ドミニカ共和国かぁ。本当に和彦がカリブ海に行く夢を叶えるなんてね。医療機器会社に就職したって年賀状もらった時には諦めたんだと思っていたわ」
「理想と現実は違ってね。ODAって、場所やプロジェクトにもよりけりだけれど、政治家やゼネコンが癒着して、あっちのためになるどころか害にしかならない援助もあってさ。それで発想を変えて本音と建前が一致する民間企業の側から関わることにしたんだ」
「夢を諦めなかったあなたの粘り勝ちね。おめでとう」
「お前に振られてから、背水の陣みたいなつもりになっていたからな。それにしても驚いたな。お前の旦那が亡くなっていたなんて」
田中はその言葉を耳にして一瞬手を止めたが、動揺を顔に出すようなことはしなかった。亜佐美は下を向いて目を伏せたが、すぐに顔を上げた。
「そろそろ半年になるの。冷たいと思うかもしれないけれど、泣いているヒマなんかなかったから、かなり早く立ち直ったわ」
「まだ若いのに、何があったんだ?」
亜佐美は、田中がタンブラーを2つ置く間は黙っていたが、特に声のトーンを落とさずに言った。
「急性アルコール中毒。いろいろ重なったのよね。部下の女の子と遊んだつもりでいたら、リストカットされちゃってそれが表沙汰になったの。上層部はさわぐし、お姑さんともぶつかったの。それで、彼女が田舎に帰ってしまってからすこし心を病んでしまったのね」
「マジかよ」
「受験も大学も、財務省に入ってからもずっとトントン拍子で来た人でしょう。挫折したことがなかったから、ストレスに耐えられなかったみたい。和彦みたいに紆余曲折を経てきたほうが、しなやかで強くなるんじゃないかな」
「それは褒めてないぞ。ともかく、お前も大変だったんじゃないか?」
「そうでもないわ。事情が事情だけに、みな同情的でね。お姑さんもすっかり丸くなってしまったし、奈那子も……」
「それは?」
「ああ、彼の娘。もうすぐ大学に入学するのよ。早いわね」
「えっと、亜佐美が続けて面倒見るのか?」
「面倒見るっていうか、これまで家族だったし、これまで通りよ」
「その子の母親もいるんだろう?」
「母親が引き取らなかったから、慌てて再婚したんじゃない。今さら引き取るわけないでしょ。最初はぎこちなかったけれど、わりと上手くいっているのよ、私たち。継母と継子って言うより戦友みたいな感じかな。思春期でしょ、父親が若い女にうつつを抜かしていたのも許せなかったみたい」
「お前は?」
「う~ん。傷つかなかったといえば嘘になるけれど、でもねぇ」
亜佐美はタンブラーの中の朝焼け色をじっと眺めた。
「あの人、あんな風に人を好きになったの、初めてだったみたい。ずっと親に言われた通りの優等生レールを進んできて、初めてわけもわからずに感情に振り回されてしまったの。それをみていたら、かわいそうだなと思ったの。別れてくれと言われたら、出て行ってもいいとまで思っていたんだけどね」
和彦は呆れたように亜佐美を眺めた。
「おまえ、それは妻としては変だぞ」
「わかっているわよ。奈那子にもそう言われたわ。でも、今日私があなたと会っているのも、あの子にとっては不潔なんだろうな」
「いや、今日の俺たちは、ただ飲んでいるだけじゃないか」
「それでもよ。でも、いいの。奈那子に嫌われても、未亡人らしくないって世間の非難を受けても、あなたが日本を離れる前にどうしてももう一度逢いたかった。逢って、おめでとうって言いたかったの」
「これからどうするんだ?」
和彦はためらいがちに訊いた。
亜佐美は、ようやくストローに口を付けた。それから、笑顔を見せた。
「奈那子が下宿先に引越したら、あの家を売却して身の丈にあった部屋に遷ろうと思うの。奈那子の将来にいる分はちゃんと貯金してね。それから、仕事を見つけなきゃ。何もしないでいるには、いくらなんでもまだ若すぎるしね」
和彦は、決心したように言った。
「ドミニカ共和国に来るって選択肢も考慮に入れられる?」
亜佐美は驚いて彼を見た。
「本氣?」
彼は肩をすくめた。
「たった今の思いつきだけど、問題あるか? 奈那子ちゃんに嫌われるかな」
亜佐美は、タンブラーをじっと見つめた。あまり長いこと何も言わなかったので、和彦だけでなく、成り行きかから全てを聞く事になってしまった田中まではらはらした。
「新しい陽はまた昇るんだね」
彼女はそういうと、瞳を閉じてカクテルを飲んだ。
「今さら焦る必要もないでしょう? 一度、ドミニカ共和国に遊びにいくわね。カリブ海を眺めながら、またこのカクテルを飲みましょう。その時にまだ氣が変わっていなかったら、また提案して」
亜佐美の言葉に、和彦は明るい笑顔を見せた。
田中は、安心してグレナディン・シロップの瓶を棚に戻した。
テキーラ・サンライズ (Tequila Sunrise)
標準的なレシピ
テキーラ - 45ml
オレンジ・ジュース - 適量
グレナディン・シロップ - 2tsp
作成方法: テキーラ、オレンジ・ジュースをゴブレットに注ぎ、軽くステアする。
ゴブレットの縁から静かにグレナディン・シロップを注ぎ、底に沈める。
(初出:2017年2月 書き下ろし)
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今回は、それと同時にもぐらさんの主催する「クリスマス・パーティ」に参加しようと思い、クリスマスバージョンで短めのものを書いてみました。(でも、あそこ用には長すぎるかなあ……うるうる)
スペシャルなので、主要人物がみな出てきて、さらに田中本人に関係のある話になっています。次回から、また彼はオブザーバーに戻ります。(たぶん)
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バッカスからの招待状 -7-
アイリッシュ・アフタヌーン
「こんばんは、田中さん、それに夏木さん」
大手町のとあるビルの地下にある小さなバー『Bacchus』のドアを開けて、久保すみれはいつも自分が座るカウンターの席が空いていることを確認してにっこりした。
「久保さん、いらっしゃいませ」
虹のような光沢のある小さな赤い球で飾られたクリスマスツリーの向こうから、田中の落ち着いた声がいつものようにすみれを迎えてくれる。
店主でバーテンダーでもある彼が歓迎してくれるのは客商売だから普通だろうが、それであっても嬉しかった。ここはすみれにとって最初で唯一の「馴染みのバー」なのだ。
カウンターの奥にいつも座っている客、夏木敏也のことは、この店から遠くないビルに勤めていること以外は何も知らない。すみれが『Bacchus』に来る日と決めている火曜日には、かなりの確率で来ているので、たいてい隣に座ってなんということはない話をする『Bacchus仲間』になっていた。そして彼は、すみれが来るまで鞄を隣の席に置いて、他の人にとられてしまわないようにしてくれているようだ。
彼女は、バッグから小さな包みを2つ取り出した。
「来週は、もうクリスマスなんて信じられる? わたし、今年何をしたのかなあ。ともあれ、ここに一年間通えたのは、居心地をよくしてくれたお二人のおかげなので、これ、どうぞ」
「私にですか。ありがとうございます」
「僕にもかい?」
田中に続き、夏木は嬉しそうに包みを開けた。
それはとあるブランドのハンカチーフで表裏の柄が違うのが特徴だった。それだけでなく形態安定でアイロンがけも楽だ。すみれは、この二人のどちらも独身であることを耳にしていたからこれを選んだ。
「へえ。こんな洒落て便利なハンカチがあるんだ。嬉しいなあ」
紺地に赤と白い細い縞が入り、裏は赤と白の縞が入っている。夏木はそれをヒラヒラさせながら喜んだ。
田中も浅葱色に白と紫の縞の入っているハンカチを有難く押し頂いた。大切に仕舞っているところに、ドアが開いたので、三人はそちらを向いた。薔薇のような紅いコートを着た、すみれがこれまで一度も見たことのない女性が立っていた。
「涼ちゃん!」
田中は、もう少しでハンカチの入った箱を落とすところだった。
田中が客に対して、さん付け以外で呼びかけたのを聞いたことのなかったすみれはとても驚いた。女性がにっこりと笑って「久しぶりね、佑二さん」と言ったので、思わず夏木と顔を見合わせた。
「どうしたんだ、お店は?」
田中は、すみれの横の席を女性に薦めた。彼女は颯爽とコートを脱いで入口のハンガーにかけてから、その席にやってきた。
「表の道で水道管の工事中に何か予想外のことが起こってしまったんですって。それで今夜は水道が使えなくなってしまって臨時休業。こんな稼ぎ時に、困っちゃう。でも、せっかく夜がフリーになったから、お邪魔しようと思ったのよ。何年ぶりかしら」
それから夏木とすみれに、微笑んで会釈をした。
田中は、女性におしぼりを渡しながら二人に言った。
「こちらは伊藤涼子さん。昔からの知り合いで、今は神田にお店を出す同業者なんです。涼ちゃん、こちらは夏木さんと久保さん、よくいらしてくださるお客様」
『知り合い』にしては親しそうだなと思ったけれど、そんなことを詮索するのは失礼だろうと思って、すみれは別のことを訊いた。
「神田のお店ですか?」
「はい。同業者といっても、こちらのような立派なお店ではなくて、二坪ほどの小さな和風の飲み屋なんです。『でおにゅそす』と言います。お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りくださいね」
すみれはこの『Bacchus』に来るまでバーに足を踏み入れたこともなかったが、和風の飲み屋はさらに遠い世界だった。大人の世界に足を踏み入れられるかと思うと、嬉しくて大きく頷いた。夏木も嬉しそうに頷いた。
彼らの様子を微笑ましく見てから、田中は涼子に訊いた。
「何を飲みたい? あの頃と同じ、ウイスキー・ソーダ?」
涼子は懐かしそうに微笑みながら答えた。
「それも悪くないけれど、外がとても寒かったから、よけい冷えそう。よかったら、ウイスキーを使って、何か冬らしい体の温まる飲み物を作ってくださらない?」
ほんの少し考えてから、田中は何かを思いついたように微笑んだ。
「アイリッシュ・アフタヌーンにしようか。暖かい紅茶をつかった飲み物だよ」
涼子だけでなく、すみれと夏木も興味深そうに田中を見た。彼はカウンターに緑色のラベルのタラモアデュー・ウイスキーを置いた。
「ウイスキーの中では、市場に出回っている量は少ないんだが、このアイリッシュ・ウイスキーは飲みやすいんだ。憶えているかわからないけれど、君にあのとき出したウイスキー・ソーダは、これで作ったんだ」
彼は紅茶を作ると、ウイスキーとアマレット、そしてグレナデンリキュールをグラスに入れてから香りが飛ばないようにそっと注ぎ、シナモンスティックを添えて涼子に出した。
「へえ。これがアイリッシュ・アフタヌーンっていうカクテルなの?」
すみれは身を乗り出して訊いた。
田中は笑って言った。
「便宜上、アイリッシュ・アフタヌーン、もしくはアイリッシュ・アフタヌーンティーと呼んでいますが、アイルランドでは特別な名前もないくらいありふれたの飲み物のようですよ」
「焼酎のお湯割みたいなものかな」
夏木もすみれごしに香り高い紅茶を覗き込んだ。
「お二人もこれになさいますか? 久保さんにはすこし薄くして」
田中が訊くと、二人は大きく頷いた。
田中は、すみれ用にはアルコールをずっと減らしたものを、アルコールを受け付けない体質の夏木にはグレナデンシロップを入れたものを出した。夏木の前に出てきたのは甘い紅茶でしかないのだが、女性二人のところから漂う香りで一緒に飲んでいる氣分が味わえる。
三人が湯氣を立てるグラスを持ち上げて乾杯をするのを眺めながら、田中は若かった頃のことを思い出していた。
いま夏木が座っている位置に、涼子の姉、田中の婚約者だった紀代子がいた。開店準備をしていた午後に三人でなんということもない話をしていた。涼子はウイスキー・ソーダを傾けながらよく笑った。
紀代子が黙って彼の元を去って、姿を消してしまってから、氣がつくと二十年以上が経っている。あの幸せだった時間も、それに続いた虚しく苦しかった日々も、ガラス瓶の中に封じ込められたかのように止まって、彼の心の奥にずっと眠っていた。彼は仕事に打ち込むことで、その思い出に背を向けてきた。
久しぶりに紀代子のことを考えても、以前のような突き刺すような痛みもやりきれない悲しみも、もう襲っては来なかった。
そういえば、涼子の姿を見たのもあの歳の暮れ以来だ。そんなに歳をとったようには見えないけれど、彼女も尖った感じがなくなり、柔らかく深みのある大人の女性になった。
彼は、タラモアデュー・ウイスキーの瓶をきゅっと閉めてから、棚に戻した。他の瓶の間に何げなく納まったその瓶は、照明の光を受けて煌めいた。毎年この季節になると飾るクリスマスツリーの赤い球にも、照明は同じ光を投げかけている。彼の城であるこの店は、平和なクリスマスと年末を迎えようとしていた。温かいカクテルから漂うまろやかな香りの中で。
彼は、ひとつ小さく息を吸い込んだ。いつもの接客する店主の心持ちに戻ると、彼の大切な客たちをもてなすために振り向いた。
アイリッシュ・アフタヌーン(Irish Afternoon)
アマレット:20ml
グレナデンリキュール:10ml
アイリッシュ・ウイスキー:20ml
シナモンスティック:1本
暖かい紅茶:適量
作成方法: アイリッシュ・ウイスキーとグレナデンリキュールとアマレットをグラスに入れた後、香りが飛ばないようにゆっくりと暖かい紅茶を入れて混ぜ合わせる。
(初出:2016年11月 書き下ろし)
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【小説】バッカスからの招待状 -6- ナイト・スカイ・フィズ
そして、前の記事でもお伝えしたように、今回は記念すべき「Stella」の創刊5周年記念号です。主催者のスカイさんは、このお祝いにみんなで同じテーマで書く企画を用意してくださいました。お題は「夜空」です。というわけで、急遽「夜空」をイメージした話を書いてみました。
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バッカスからの招待状 -6-
ナイト・スカイ・フィズ
「こんばんは、夏木さん」
今日は少し早いな、そう思いながら田中は微笑んだ。
夏木敏也は片手をあげて、最近いつも座るカウンターの一番奥に座った。
大手町にあるバー『Bacchus』は、氣をつけていないと見過ごしてしまうような小さな看板しかだしていない。来る客の多くは常連で、しかも一人で来る客が多い。夏木もその一人だ。全くアルコールの飲めない彼は、バーに来る必要などないのだが、この店の居心地はよくて、バーテンダーで店主の田中佑二にノンアルコールのカクテルをあれこれ作ってもらっている。
彼は最近、火曜日に来ることが多い。理由は、その隣の席にあるのだろう。田中は思ったが余計なことはいわなかった。
夏木は空いている隣の席に鞄を置いた。
「今日は、久保さん、来ないんだものね」
火曜日には、たいてい久保すみれがこの店にやってくる。先日サマー・デライトをごちそうして以来、すみれは夏木を見かけると隣にやってきて、一緒にノンアルコールか、アルコール度数の低いカクテルを一杯だけ楽しんで、少し喋って帰っていく。特に約束をしているわけではないし、色っぽい展開にもなりそうもないが、夏木は火曜日を楽しみにしていた。
「お友だちと一緒に『シャトー・マルゴー』のスカイラウンジでのディナーに行くっておっしゃっていましたね」
田中は、夏木の前にハムとリコッタチーズのペーストを載せたクラッカーを出しながら言った。
「誕生日の前祝いだったっけ。最近の女の子たちは、羽振りがいいよね。『シャトー・マルゴー』のフランス料理なんて、僕は一生縁がないんじゃないかな」
夏木はメニューのノンアルコールカクテルを検討しながら言った。
「お友だちが抽選で当てたとおっしゃっていましたよ」
「そうか。だから、あの店で食事ができるのはきっと最初で最後のチャンスだって喜んでいたんだな。まあ、そうだろうな。あんなに高い店なのに、予約が一年後までいっぱいだなんて、不況なんて嘘だ」
カランと音がして、扉が開いた。田中と夏木は同時に驚いた顔をした。
「久保さん!」
すみれは、少し下唇を突き出しながら、肩をすくめて入ってきた。
「聞いてよ。本当にひどいんだから」
「『シャトー・マルゴー』は今夜じゃなかったっけ?」
夏木は、鞄をどかしてすみれの席を作った。彼女は、まっすぐにそこに向かって座り、田中からおしぼりを受け取った。
「間違いなく今夜だったわよ。それが、今日になって急に残業だからいけなくなった、ごめんなさいって言われたの」
「それは氣の毒だったな。でも、一人でフランス料理はキツいだろう?」
「本当に残業だったら別に怒らないわ。でも、さっきたまたま彼女がずっと憧れていた外商の彼とその同僚が話しているのを聞いてしまったの。彼女ったら、一緒に予約していた子が残業でいけなくなったから一緒に『シャトー・マルゴー』のディナーに行ってほしいって頼んだらしいの。私は、ダシに使われただけでなく、嘘で約束を反古にされたのよ。もう、女の友情は本当にハムより薄いんだから!」
田中と夏木は思わず顔を見合わせた。すみれは半分泣きそうな顔をして田中に言った。
「これは飲まずにいられないわ。そうでしょう?」
「お誕生日の前祝いなんですよね。お氣の毒に」
田中が言うと、すみれは大きく頷いた。
「そうなの。あの満天の星空みたいな素敵な部屋で、ディナーができると思ったのに。この歳だし誕生日を祝ってもらわないと嫌だってわけじゃないけれど、ここまで期待した後だと、本当にがっかり」
夏木は肩を落とすすみれを見て言った。
「そんなに氣落ちするなって。代わりに今日は僕がおごるから、田中さんに美味しいお酒と肴でお腹いっぱいにしてもらえよ」
すみれは心底驚いて夏木を見た。
「そんなつもりで騒いだんじゃないのよ!」
「でも、誕生日の前祝いだろう? 『シャトー・マルゴー』でごちそうするのは僕には無理だけれど、ここならたぶん大丈夫だよ。田中さん、そうだよね」
懇願するような顔をしたのがおかしくて、田中とすみれは同時に笑い出した。
「じゃあ、夏木さんのお誕生日には私が同じようにご馳走するって条件で、遠慮なく。田中さん、いいですか?」
「わかりました。では、可能な限り久保さんと夏木さんのお氣に召しそうなものをご用意しましょう。まずはお飲物をお作りしましょう。これは私にごちそうさせてください。何がよろしいですか。本当に強いお酒ですか?」
すみれは笑って首を振った。
「本当に? 嬉しい。ううん、強いのはダメ。酔っぱらったら、せっかくのコースの味がわからなくなってしまうもの。私でも大丈夫ぐらいので、何か特別なカクテルはあるかしら」
「そうですね。では、せっかくですから夜空をイメージしたカクテルをお作りしましょう。ヴァイオレット・フィズはご存知ですか?」
すみれは首を振った。田中は、一本の瓶を二人の前に置いた。
「これは柑橘系の果実で作り、ニオイスミレの花などで香りを付けたリキュールでパルフェ・タムールと言います。フランス語で完全なる愛という意味があるんですよ。ヴァイオレット・フィズはこのボルス・パルフェ・タムールにレモンジュースと炭酸水などを合わせたカクテルです。スミレを思わせる紫色のカクテルなんです」
すみれの名前にかけての選択か。なるほどなと夏木は感心した。けれど、田中はその瓶を棚に戻し、別の瓶を取り出した。
「でも、今日はちょっと趣向を変えてみましょう」
「それを使わないの?」
「こちらもパルフェ・タムールです。でも、先ほどのボルス・パルフェ・タムールと違って、このマリー・ブリザール・パルフェ・タムールは色が青いのです」
青いリキュールにシロップとレモンジュースをシェイクしてよく冷えたグラスに注いだ。そして、炭酸水を静かに注ぐと、その泡が青い液体の中でまるで星空のように煌めきだした。
「久保さんのための満天の星空をイメージして作りました。夜空をグラスの中に。ナイト・スカイ・フィズをどうぞ」
「そして、これもパルフェ・タムールだからスミレの香りなのね! 田中さん、ありがとう。それに、夏木さんも!」
すみれは嬉しそうにナイト・スカイ・フィズを覗き込んだ。
夏木はその美しい夜空を模したカクテルを羨ましそうに眺めた。自分も一緒に飲めたらどんなにいいだろう。でも、リキュールが入っているなら無理だよな。
そう思っていると、そっくりの飲み物が彼の目の前に置かれた。
「あれ?」
田中は笑って言った。
「こちらはパルフェ・タムールの代わりにブルーキュラソー・シロップと巨峰ジュースで作りました。スミレの香りはしませんが、やはり柑橘系のカクテルです。いかがですか」
田中はそんな二人を微笑ましく眺めながら、コースに匹敵するどんな肴を組み合わせようかと頭の中をフル回転させた。
ヴァイオレット・フィズ(Violet Fizz)
パルフェ・タムール - 45ml
シロップ - 1tsp
レモンジュース 20ml
炭酸水
作成方法: 炭酸水以外をシェイクしてグラスに注ぎ、炭酸水で満たす。
(初出:2016年10月 書き下ろし)
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バッカスからの招待状 -5-
サマー・デライト
ドアを開けると、時間は遅くなかったのにもうカウンター席はほとんど埋まっていた。一番奥の席が二つ空いていたので、彼はホッとした顔をした。
「夏木さん、いらっしゃいませ」
バーテンダーの田中はいつものように穏やかに言った。
「あそこの席、座ってもいいかい?」
夏木敏也はほとんど聴き取れない小さい声で訊いた。「どうぞ」と薦められると、ほっとしたように奥の席に腰掛けた。
大手町のビル街の地下にあるバー『Bacchus』は、氣をつけていないと見過ごしてしまう。だが、居心地がよく、肴も美味しいので、常連たちが心地いいと思う程度にいつも賑わっていた。
「今日は何になさいますか」
田中が熱いおしぼりを手渡しながら訊いた。
「この間のをまた飲みたいな」
夏木は、言ってしまってから、しまったと思った。昨日の今日じゃあるまいし、「この間の」などと言ってわかるはずはない。だが、彼はそのカクテルの名前を憶えていなかった。
「あ~、僕の名前と関係のあるカクテルだったと思うんだけれど」
「サマー・デライトですね」
田中は困った様子もなく言った。
田中は、常連客の嗜好や一人一人の語った内容を驚くほどよく憶えている。だが、夏木の場合は記憶するのも簡単だろう。彼はバーの常連客としては珍しいタイプだった。一滴のアルコールも飲めないのだ。
彼は少し俯いて、それから口角をあげた。彼は、ここに受け入れられてもらっていると感じた。
酒を飲めないのは体質でどうしようもない。だが、世の中には訓練や根性でその体質を変えられると信じている輩も多い。「付き合い悪いな」「つまらないヤツだ」「契約が取れないのは飲みニケーションが足りないからだ」そんな言葉を発したものに悪氣はなくても、それは少しずつ飲めない者の心を蝕んでいく。肩身が狭く、飲み会や宴会という言葉が嫌になる。
そして、どれほど憧れていても、「馴染みのバー」などを持つことは出来ない、ずっと夏木はそう思っていた。ある上司にここに連れて来てもらうまでは。
「お前が飲めないのはわかっているよ。でも、あそこは肴も上手いし、田中さんならウーロン茶だけでも嫌な顔はしないさ」
そして、『Bacchus』の落ち着いた佇まいがすっかり氣に入ってしまった夏木は、それから一人でも来るようになったのだ。はじめはウーロン茶などをオーダーしていたが、隣に座った女性がオーダーしていたのを聞いて、ノン・アルコールカクテルがあることを知った。
「田中さん、僕にも何か作ってくださいよ」
その言葉に、田中の顔が輝いたのがわかった。居酒屋や宴会では絶対に飲めない、それぞれの好みに合わせたカクテル。それは客の憧れであると同時に、バーを切り盛りするバーテンダーの誇りでもあるのだ。
どの店に行っても肩身が狭くて、本来この場所にいるべきではないと感じていた夏木は、ようやく「この店から歓迎される客になれる」と秘かに喜んだ。
カランと音がして、セミロングの髪の毛をポニーテールにした若い女性が入って来た。
「ああ、久保さん、いらっしゃいませ」
田中の挨拶で、常連なのだなとわかった。彼女は、カウンターを見回して、夏木の隣の席が空いているのを目に留めた。
「夏木さん、お隣、いいですか?」
田中に訊かれて、彼は「もちろん」と頷き、アタッシュケースを隣の椅子からどけて自分の背中の位置に置いた。
久保すみれは、会釈しながらやってきて、慣れた様子で田中からおしぼりを受け取った。
「この時間なのに、満席なのね。座れてよかった」
「ほんの三十分前までは、ガラガラだったんですよ。何になさいますか」
すみれは、メニューを受け取ると検討しだしたが、目移りしてなかなか決まらないようだった。
「お待たせしました」
田中は、夏木の前にタンブラーを置いた。淡いオレンジ色が爽やかな印象だ。彼は、田中に会釈をして、一口飲んだ。
ライムの香りに続いて、炭酸の泡が喉をくすぐる。それからゆっくりと微かにグレナディンシロップの甘さが訪れる。
そう、これこれ。甘さをライムジュースと炭酸で抑えてあって、とても爽やかだ。本当に「夏の歓び」だな。
オレンジスライスが飾ってあると、いかにも女性用カクテルのように甘ったるく見えてしまうが、グリーンライムである所が心にくい。グラスの形もシンプルなタンブラーなのがいい。幸せだなあ。
それから、隣からの視線に氣が付き、少し顔を赤らめた。別にノン・アルコールだと大きく書いてあるわけではないけれど。
「それ、美味しいですか?」
「え。はい、とても」
「私、お酒強くないんだけれど、飲めると思います?」
夏木は大きく頷いて、それから田中を見た。田中は、メニューの一部を示して優しく言った。
「久保さん、大丈夫です。このカクテルは、サマー・デライトです」
すみれは、その説明を見て、ノン・アルコールの記述に氣がついた。にっこり笑って「それを私にもお願いします」と言った。
夏木は嬉しくなった。酒が飲めないことは、悪いことだとは思っていないが、多くの人の前で「こいつ飲めないんだ」と言われるのは好きではなかった。田中は、始めに来たとき以外、そのことに言及しない。だから、カウンターの他の客たちは、夏木が飲めないことにも氣がついていないだろう。そもそも、彼らは誰かが飲めないことになど興味はないのだ。
田中も、酒に強くないこの女性も、飲めない者の居心地の悪さを知っていて、それに氣を遣ってくれる。この店が心地いいのは、そういうほんの少しの優しさを備えた人が集まっているからなのだろう。
「わぁ、本当に美味しい。いいカクテルを知っちゃった」
すみれは嬉しそうに飲んだ。
「せっかくのご縁ですから、このカクテルは僕にごちそうさせてください」
夏木は言った。すみれは驚いた。
「そんな、悪いです」
「いや、本当に一杯だけ。僕、これまでカクテルをごちそうするなんて洒落たシチュエーションになったことがないんですよ。一度、やってみたかったんです」
ノン・アルコールだから、酔わせてどうとやらは100%無理だけれど。心の中で笑いながら続けた。
すみれは笑った。
「まあ、じゃあ、喜んで。ちなみに、私もバーで男性におごってもらうのは、生まれて初めてです。こういうのって楽しいですね」
サマー・デライト (Summer Delight)
標準的なレシピ
ライム・ジュース = 30ml
グレナデン・シロップ = 15ml
シュガー・シロップ = 2tsp
炭酸水 = 適量
作り方
炭酸水以外の材料をシェークし、氷を入れたタンブラーに注ぎ、炭酸水で満たす。
(初出:2016年8月 書き下ろし)
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宣告という形で愛する23と一緒に暮らすことになったマイア。自分に触れようともしない彼の態度に傷ついて一夜を過ごしました。彼の真意はどこにあるのでしょうか。
最終シーンのイメージBGMは前回の記事で歌詞とともにご紹介しましたが、サブタイトルとなっている雪の朝のイメージBGMがあります。後書きとともに追記でご紹介しています。
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Infante 323 黄金の枷(25)雪の朝
パチパチと何かが爆ぜる音で目が醒めた。隣に23はいなかった。起き上がって最初に目に入ったのは、暖炉の中で赤く燃えている焔だった。火をおこしたんだ。今朝はそんなに寒いのかな。
彼女は23の姿を探した。広い部屋のずっと先にいた。いつもの服を着て髪をきちんと結った彼は窓の向こうを見ていた。はらはらと舞い落ちる雪が静かに鉄格子の上に積もっている。
この街を彩る赤茶色の屋根はすべて雪に覆われて、静かに眠っているようだった。いつもは騒がしく朝を告げるカモメたちも、震えて羽の間に頭を埋めているだろう。楽しいこと、つらいこと、歓び、悲しみ、そのすべてを紡ぐ活氣ある街を覆うように、雪は静かに降り積もっていた。
23は黙って窓の外を見ていた。その姿がはじめて彼に逢ったあの日の記憶に繋がった。彼はあの日も格子の向こうの世界を見ていた。彼には出て行けない世界の輝かしい美しさと、そこを自由に飛び回るカモメたちの羽ばたきを眺めていた。生け垣の向こうから入ってきて言いたいことをいいながら帰って行くマイアを、鍵を開けて鉄格子の中へと入ってくる召使いたちが用事を終えて出て行くのを、この館から離れて街の中を自由に動く姉の姿を見ていた。その心持ちがどんなものだか、マイアは今はじめて思い至った。
マイアにとって、ドラガォンの館に入ってくることも、23の居住区に入ることもつらいことではなかった。ここ鉄格子に区切られた空間は、彼女にとって一度たりとも牢獄ではなかった。昨日まで自由に出入りできた職場の一区画だったからではない。自分が鍵をかけられて閉じこめられる存在となってもつらくはなかった。その理由を突然彼女は悟った。
それは、ここにいつも23がいたからだ。ここは彼の空間、マイアがもっと近づきたかった愛しい男の住まいだった。
けれど、23にとって、そんな甘い意味はどこにもなかったのだ。彼はいつも牢獄の中で一人で孤独と戦ってきたのだ。マイアが仕事を選び、買い物を楽しみ、自由に散策しながら、パスポートがもらえない、船に乗れないと文句を言っていた間、彼はそれよりもずっと強い悲しみと戦ってきたのだ。存在することを否定され、名前ももらえず、心を込めて働いても認められることもなく。
彼はいつもこうやって窓の外を眺めてきたのだろう。そして、その後に、誰かが自由に動き回り、世界を快適に旅して回ることのできる、あの素晴らしい靴を作るために暗い地下の工房へと降りて行くのだろう。今すぐ駆け寄って抱きしめたいと思うと同時に、そんなことをしてはいけないと思った。彼が雪と、全てを包む込む大いなる存在、父なる神と対峙しているこの神聖な時間を邪魔してはならないのだと思った。
頬に熱いものが伝う。23、23、23……。痛いよ、心が痛い。あなたのために何をしてあげたらいいんだろう。
「起きたのか」
振り向いた23はマイアが泣いていることに氣がついた。
「どうした」
「……」
「閉じこめられたのがつらいのか?」
マイアは激しく頭を振った。
彼は大きくため息をついてベッドに戻ってきた。それから彼女の頬に手を当てて、その瞳を覗き込んだ。瞳には初めて会った時と同じ暗い光が浮かんでいた。
「泣かれるとこたえる。嫌なのはわかっているが一年だけ我慢してくれ」
「何を?」
「俺と一緒にいることを。心配するな、何もしないから」
「イヤだなんて……。どうして何もしないの? 私じゃ全くその氣にならない?」
23は首を振った。
「無理矢理に俺の自由にして苦しめたくない。お前の意志も訊かずに決めたことは悪かった。でも、信じてくれ。お前のためにこうしたんだ」
マイアは自分も手を伸ばして23の頬にかかる髪に触れた。
「私のためって?」
彼はマイアの手の上に自らの手を重ねた。彼女の心臓はまた強く速く動いた。23の声がすぐ近くで響く。
「一年経っても子供ができなければ、お前は用無しとみなされて、ここを出て行くことができる。そうなったらライサと同じように腕輪も外してもらえる。パスポートももらえるし、どこにでも好きな所に行って、どの星のある男にも邪魔されずに愛する男と結婚することもできる。お前が夢みていた自由を手に出来るんだ」
「どうして? どうして自由にしてくれるの?」
マイアがそう訊くと、23は泣きそうな顔をした。
「わからないのか。誰よりも大切だから。もう一度逢いたいとずっと願っていた。このままずっと側に居られたらと思っていた。だが、俺の望みと好きな男がいて自由を夢みているお前の幸せとは相容れないだろう。だから、俺がお前のためにしてやれることは、これしかないんだ」
マイアは震えた。この人は、何を言っているんだろう。
「一年経ったら、あなたも一緒にここを出て行けるの?」
23は黙って首を振った。口元は微笑んでいたが、その瞳は十二年前のあの日と同じように泣いていた。
「だったら、そんなの、私の夢でも幸せでもないよ……そんな自由なんかいらない。あなたのいない所には、どこにも行きたくないよ」
「マイア」
「一年だけなんてイヤだよ。あなたがここに居続けるなら、ずっとここに、あなたの側にいたい」
23はようやくマイアの言っていることが理解できたようだった。震えながら両手をマイアの頬に当てた。
「俺でも、いいのか」
「『でもいい』じゃないよ。あなたがいいの。好きな人ってあなたのことだもの。他の人じゃだめなの」
彼は泣きそうな顔のまま笑った。
「生まれてくる子供たちも孫たちもみな《星のある子供たち》になるぞ」
「星があっても、悪いことだけじゃなかったもの。腕輪をしていたから、私は23の側に来られたんだよ。生まれてきたから、私たち出会えたんだよ。そう思わない?」
答える代りに23はマイアを強く抱きしめた。彼女はそのぬくもりに酔った。
春が来た。風に散らされたアーモンドの花びらが緩やかに舞う河沿いを、古い自転車が走って行く。
黒い巻き毛を後ろで束ねた少し猫背の青年が、風を起こしながらペダルを漕いでいる。
その後ろに、茶色の髪をなびかせた若い娘が乗っている。青年の腰に腕をまわし、しっかりと抱きついて、D河の煌めく波紋を眺めている。
カモメを追い越し、路面電車のベルと車輪のきしみを耳にして、自転車は大西洋をのぞむフォスへとさしかかる。
波が岩場に打ちつけて、白いレースのように花ひらいて砕け散る。繰り返す波。海のそよ風。カモメの鳴き声。クリーム色のプロムナードに辿りつくと、青年は自転車を止めた。
二人は自転車から降りて海を眺めた。どちらからともなく差し出した手を繋ぎ、波のシンフォニーに耳を傾けた。
言葉はいらなかった。パスポートや船も必要なかった。お互いが切望していた約束の土地は重ねた手のひらの中にあった。枷だった金の腕輪は、いつの間にか絆の徴に変わっていた。
(初出:2016年5月 書き下ろし)
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【小説】Infante 323 黄金の枷(24)宣告
いつまでも完結しないと思っていたこの小説、今回と次回の2回で完結です。つまり、今回はストーリーとして(ようやく)クライマックス。もしかしたらドン引きする展開かもしれませんが、まあ、もともと、そういう話だし……。(開き直り)
もちろんマイアは、今回こうなってもまだよくわかっていません(笑)お花畑脳は強い。ま、23も五十歩百歩ですが。
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Infante 323 黄金の枷(24)宣告
その晩は、アマリアとマイア、それから三か月の監視期間を終えて復帰したばかりのミゲルが給仕に当たっていた。いつもの晩餐だったが、前菜とスープが終わり、アマリアとマイアがメインコースを取りに行っている時にそれは起こった。二人がキッチンから戻ってきた時に、テーブルでガチャンという音がした。
二人が戸口から中を見ると、24が水の入ったグラスを手ではねつけたらしい。水を注いでいたミゲルはショックを隠せないでいた。座っていた他の三人も驚きの表情を見せた。24はミゲルを睨みつけた。
「お前には給仕されたくない。薄汚い策略家め」
マティルダの件だと、マイアは氣がついた。先を越して、自分に挨拶もなく結婚したことが許せなかったのだろう。メネゼスがそっとミゲルの袖を引き、他の三人に水を入れるように目で指示すると、24の前のグラスを黙って片付けてから別のグラスを差し出した。メネゼスは皿を持っている二人にも、お出ししろと目で合図した。アマリアがドンナ・マヌエラと23の皿を持っていて、マイアはドン・アルフォンソと24の皿だった。
「何がハネムーンだ」
まだ腹の虫のおさまりかねる様子で24が続けた。
「よせ。ミゲルに当たるな」
23が嗜めた。すると24は今度は23を攻撃しだした。
「お前がまた裏で糸を引いたんだろう」
「なんだと」
「僕の子供が出来ないように、念の入った邪魔をしやがって。自分が檻から出られるチャンスをつぶされたくないんだろう」
「いいがかりだ」
「お前がアントニアを焚き付けて、ライサをここから強引に連れ出したのを僕が知らないとでも思っているのか。僕の子供を殺した上、ライサを精神異常にしたてやがって」
ドン・アルフォンソが黙っていなかった。
「24。ライサの診断は二人の精神科医が行った。それにあれは自然流産だった。どちらも23が関われるはずがなかったことだ。言っていいことと悪いことがあるぞ」
「どうだか。そいつは昔からずっと陰険だった。みっともない姿で誰からも相手にされないからって、僕を逆恨みして邪魔ばかりする。僕と女の仲を裂く暇があったら、一人でもいいから女を口説けばいいんだ」
マイアは怒りに震えつつも、黙ってドン・アルフォンソの前に皿を置き、それから、皿を頭から叩き付けたい衝動を堪えつつ24の前にも皿を置いた。その表情を24は横から見て、にやっと笑い、再び23に絡んだ。
「女の口説き方や連れ込み方も知らないんだろう。どうやるか実践で教えてやろうか。例えば、お前のお氣にいりのこの女なんかどう?」
そういって、離れようとしていたマイアの右手首をつかんだ。彼女ははっとして身を引こうとしたが、24はいつもの調子では考えられないほどの力で引っ張り、立ち上がると反対の腕でマイアを抱きかかえるようにした。
ドンナ・マヌエラが眉をひそめた。
「メウ・クワトロ、いい加減になさい」
「なぜです、母上。僕には赤い星を持つどんな娘でも自由にする先祖伝来の権利があるはずですよ。ほら、例の宣告をすればいいんでしょう。《碧い星を》ってやつ。やってみようかな」
あざ笑うような24の挑発に唇を噛んで黙っていた23は、突然席を立ち口を開いた。その口から聞こえてきたのは、普段使うものとは似ても似つかぬ古い時代の言葉だった。
「《碧い星を四つ持つ竜の直系たる者が命ずる。紅い星一つを持つ娘、マイア・フェレイラよ、余のもとに来たりて竜の血脈を繋げ》」
沈黙が食堂を覆った。24は顔色を変え、マイアの手首をつかんだまま自分の席に座り込んだ。マイアは何が起こったのかわからず23と24、それから呆然とする人びとの顔を見た。
ドン・アルフォンソが最初に反応した。23が使ったのと同じ、古い時代の言葉だった。
「《碧い星を五つ持つ竜の直系たる余は、碧い星を四つ持つインファンテ323、そなたの命令を承認する。竜の一族の義務を遂行せよ。紅い星一つを持つ娘、マイア・フェレイラよ、インファンテ323に従え。そなたには一年の猶予が与えられた》」
それから24の方を向き普段の調子に戻って言った。
「24、その手を離せ。今後その娘に触れることは許されない」
24は忌々しそうに、つかんでいたマイアの手首を離した。それと同時に彫像のように固まっていた召使いたちもほうっと息をついて動き出した。ドンナ・マヌエラがメネゼスの方を見て頷いた。
メネゼスは、アマリアとミゲルに向かって言った。
「アマリア、マイアの荷物をまとめるのを手伝ってくれ。準備ができたらミゲル、お前が運ぶのだ。その前にジョアナの所に行き、ほかの者を給仕によこすように伝えてほしい」
23が黙って自分の居住区に帰ってしまい、食事も給仕も中断して皆が急に動き出したので、何が起こったのかわからないマイアは慌てた。
「あの……いったい、何が……。私の荷物をまとめろってどういうことですか?」
アマリアがマイアの腕をつかんで強引に食堂から連れ出した。
「何、どうなったの?」
「しっ。これからあなたは23の所にいくのよ」
「何のために?」
「子供を作るためよ」
「えええっ?」
「23がしたのは、正式の宣告よ。私も生まれてはじめて聞いたわ。とにかくあれをされたら、星を持つ女に拒否権はないの。詳しくは本人に話してもらいなさい」
マイアはミゲルに連れられて23の居住区に入った。
23は三階の寝室の外れにあるライティングデスクの前に腰掛けて両手で顔を覆っていた。彼女の荷物を寝室に運び込むと、ちらっとマイアを眺めてからミゲルは出て行った。
マイアは所在なく立ち尽くしていた。二階に降りて行ったミゲルが格子を閉じて鍵をかけた音がした。その金属質の音はこれまで感じたこともないほど大きく、外界から遮断されたことを思い知らされた。
「23……」
後悔しているんだ。マイアは23のうちひしがれた様子がつらかった。子供を作るためとアマリアに言われた時、希望を持った自分が情けなかった。そうだよね。そんなわけないって、知っていたはずなのに。23が好きなのは、ドンナ・アントニアだって……。
「ごめんね……」
ぽつりとマイアが言うと、彼はようやく顔を起こして彼女の方を見た。
「すまなかった。お前の意志を無視した」
それからマイアの荷物をちらっと見ると、ため息をついていった。
「明日にでもしまう場所を決めよう。足りないもの、必要なものは、言えば館が購入してくれる。今日は遅いからもう寝てくれ」
寝ろって言われても、一つしかないから、ここのことだよね。何度もベッドメイキングをした大きなベッドを見て、マイアは躊躇した。これからずっとここで。でも、イヤなんだろうな、私とじゃ……。
とはいえ、突っ立っているわけにもいかなかったので、マイアは黙って洗面所に行くと顔を洗って歯を磨き、寝間着に着替えてすごすごとベッドに向かい、端のできるだけ邪魔にならない所に紛れこんだ。暗い部屋の中に鉄格子の嵌まった窓から月明かりが射し込んでいた。その光はライティングデスクに肘を持たせかけてうつむいている23を照らし出していた。彼の背中はいつもよりもずっと丸く見えた。マイアは布団の中で声を殺して泣いた。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。ベッドが軋んだのでマイアは目を覚ました。大きなベッドの反対側に23がいた。月は大きく移動して、ベッドの上に光を投げかけていた。マイアが少し身を起こすと、23がこちらを向いた。
「起こしてしまったか」
「うん……。あの……そんな端じゃなくてもっと真ん中で眠れば?」
23は笑って首を振った。
「お前こそ、落ちそうなくらい端にいるじゃないか」
「だって、悪いかなと思って」
「悪いもへったくれもない、俺がお前に強制したんだろう」
「ちがうよ。24から守ってくれたんだよね。ごめんね。ドンナ・アントニアに誤解されるよね」
23は、わからないという風にマイアを見つめた。
「どうしてそこでアントニアが出てくるんだ」
「だって、私とじゃなくて、ドンナ・アントニアと一緒になりたかったでしょう?」
「お前、何を勘違いしているんだ。アントニアと俺がどうこうなるわけないだろう」
「愛し合っているんじゃないの?」
23はゲラゲラ笑った。マイアには何がおかしいのかわからなかった。
「道理でアントニアが来る度にあわてて出て行ったわけだ。誰もお前に言わなかったのか?」
「何を?」
「アントニアは俺たちの姉だよ」
「!」
それから困ったように言った。
「そんなに怯えるな。襲ったりしないから安心して寝ろ」
「怯えていないよ。それに、邪魔にならないようにするから、そんなに落ち込まないで」
23は笑って手を伸ばしマイアの頭をそっと撫で「おやすみ」と言った。それから背を向けた。月の光に浮かぶ彼の丸い背中を見ながらマイアはまた悲しくなって布団をかぶった。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(23)遺言
前回、いきなり当主アルフォンソと《監視人たち》の代表である執事メネゼスに抜け出してしまっている事がバレてしまった23。もちろんそのことは23もマイアもまだ知りません。
今回は、「追憶のフーガ - ローマにて」という番外編を発表した時に「え? これは誰と誰の事?」とみなさんに訊かれた件が明らかになります。
本編は今回を含めてあと三回で完結です。いろいろとヤキモキさせていますが、まだ続きます(笑)
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Infante 323 黄金の枷(23)遺言
マイアはいつものように三階と二階の掃除を手早く済ませて靴工房に降りてきた。彼はエスプレッソマシンの前に立っていた。
「おはよう。23」
「おはよう。新しいブレンドが届いたんだ。飲んでみるか?」
「うん。ありがとう」
その時、二階で鉄格子が解錠される音がした。二人で同時に見上げる。体重を億劫に左右に傾けるこの音は、ドン・アルフォンソの歩き方だとすぐにわかった。
「おはよう。アルフォンソ。珍しいな、どうしたんだ? 今、上がっていく」
23は階段の途中まで行った。彼の兄は、ここまで来るだけで既に息を切らしかけていた。
「いや、下に行く」
当主は手すりにつかまりながらゆっくりと降りてきた。マイアは掃除用具と掃除機をまとめて、急いで出て行こうとした。アルフォンソはそのマイアをちらりと見ると手を振った。
「マイア、わざわざ席を外す必要はない。そのまま仕事を続けていろ」
「え。あ、はい。メウ・セニョール」
マイアは心配そうに23を見たが、23も兄の意図がわからずただ肩をすくめた。マイアは少し離れたところに行って掃除を始めた。
「今日の氣分はいいのか。こんなに歩いて大丈夫か」
23は椅子に腰を下ろして息を整えているアルフォンソに、水を持っていった。当主はコップを弱々しくつかみゆっくりと水を飲んだ。それから黒いベルベットの上着の胸ポケットから白いハンカチを取り出して、その紫色の顔を拭いた。
「ありがとう。今朝はいつもよりいいんだ。お前とこうして話をできるうちに来たかった」
「話をしたいなら、食事のときでもいいし、俺がお前の部屋まで行ってもよかったのに。メネゼスがついて来れば逃げる心配もないだろう」
アルフォンソは弟の顔をじっと見つめてから言った。
「逃げる心配なんてしていない。俺は、お前に食事のときの軽い会話をしたかったわけじゃない。それに、できればメネゼスも、母上も、それから24もいない時に話したかったんだ」
なのに私はいてもいいのかな。マイアは余計困った。聴かない方がいいように思うけれど、でも氣になってしまう。
「アルフォンソ。コーヒー飲むか」
「いや、いい。水をもう一杯くれ」
23は水をくんで兄の前に置くと、その正面に椅子を置いて座った。アルフォンソはもう一度額を拭くと、椅子の背に凭せ掛けていた身を起こして、弟の顔をじっと見た。
「二つ、頼みがある。口がきけなくなってからでは遅いので、聴いてほしい」
「聴くよ」
「一つめは、クリスティーナのことだ。彼女とは先日話をした。俺がいなくなった後、どうしたいかと」
「彼女はなんと?」
「代わりの人間が見つかったら、出て行きたいと言っていた」
「そうか」
「腕輪を外し、ライサにしたように生活に困らないようにしてやってほしい。だれか別の人間を見つけて幸せに生き続ける努力をすると約束させた」
「アルフォンソ。クリスティーナと結婚しないのか」
23は言った。マイアははっとした。クリスティーナとドン・アルフォンソがそういう関係だとは夢にも思わなかった。アルフォンソは笑った。
「そんなことをしたら俺が死んだ後、彼女がお前の妻になるんだぞ。お前がアルフォンソになるのだから」
マイアの手の動きは停まった。23は意に介した様子も見せなかった。
「心配するな。名前だけの夫だ。お前に選ばれた女には俺は手を出せない。監視もたっぷりつく。わかっているだろう」
「その心配をしているわけじゃない。それに名前だけの当主夫人の座など、クリスティーナは望んでいない。お前を俺たちの犠牲にすることも考えてはいない」
アルフォンソは水を飲んだ。それからいっこうに掃除を進めていないマイアをちらりと見てから、再び23に視線を戻して笑った。
「23。お前とアントニアは変なところがそっくりだ。人のことばかり慮って、自分の幸福を簡単にゴミ箱に放り込もうとする」
23は視線を落とした。
「こんな風に生まれてきた俺には、選択の余地がない。簡単にはいかないんだ。わかっているだろう」
マイアはやっぱり席を外せばよかったと思った。聞きたくない。アルフォンソはマイアの動揺はもちろん、23の言葉にも動じた様子はなかった。
「お前がお前自身と過去のインファンテたち、もしくは《星のある子供たち》の受けた苦しみから、ドラガォンに対して肯定的な想いを抱けないことは理解できる。当然だ。俺も二人の大切な弟たちを苦しめ、救えなかった自分に満足しているわけではない。だが、遠からずお前は俺に代わってこの巨大なシステムを統べていかなくてはならなくなる。大きな権能がお前の手に握られることになる」
「アルフォンソ」
アルフォンソは、しっかりとした目つきで弟を見つめた。
「とても大切なことを言っておく。ドラガォンは複雑なシステムで、厳しく、当主であっても基本事項の変更は一切許されないが、それを動かしているのは血肉の通った人間だ。過去に於いても、そして、今でもだ」
23は冷笑した。アルフォンソはため息を一つついてから、懐を探って書類の束を取り出して23に渡した。
「これは?」
「読んでみろ。そうしたらわかる」
なんだろう。マイアは覗いてみたい欲求に駆られたが、我慢して埃とりに専念した。
「ほう……。よく調べたな」
23は冷静に紙を繰っていた。アルフォンソは愉快そうに口の端をほころばせた。
「いい仕事をしているだろう? 間違いないか」
「ほぼ、全部……、いや、サン・ジョアンの前夜祭の報告はないな」
アルフォンソは大きく笑った。
「そりゃあ、その日くらいは《監視人たち》も仕事を忘れて楽しみたいだろう」
マイアはぎょっとした。
「《監視人たち》を悪く思うな。彼らは忠実に仕事をこなしているだけだ」
「わかっている。彼らに恨みがあるわけじゃない。どうするつもりだ。マイアを罰するのはやめてくれないか。あいつは俺の望みを叶えてくれただけなんだ」
そうじゃない。やめて、23を罰しないで。何も悪いことをしていないのに。マイアははたきを握りしめて二人の方を見ていた。当主は首を振った。
「もちろん、罰したりしないさ。お前もだ。お前が見つけた出入り口は、たぶんこれまでも何人ものインファンテたちが使って、わずかな自由を楽しんだんだろうよ。そして、《監視人たち》や歴代の当主も、外にいるはずのないインファンテを見かけても、あえて星の数は確認せずに、《星のある子供たち》の一人としてごく普通に監視報告してきたんだろう。システムと掟は厳しくても、人の心はどこかに暖かさがあり、呼吸する余地を残してくれる。だから、心を閉ざすな。ドラガォンは、運命は、お前やアントニアの敵じゃない」
23は少し意外そうに兄の顔を見ていた。アルフォンソは弟の顔をしっかりと見返した。
「俺は当主であると同時にお前の兄だ。お前が新しい当主としての責任を果たしてくれることを期待すると同時に、お前の幸福を心から願っている。そして、それは両立できるだろう。運命に逆らって苦しむな。お前がこのシステムを嫌って、血脈を繋ぐのを拒否しても、システムを止めることはできない。今のドラガォンは狂っていると思うだろう。三人の若い娘が苦しんだ。一人は命を絶った。俺にはそれは止められなかった。だが、お前には止められる」
「アルフォンソ。24は俺にとっても弟なんだ」
「24を罰しろと言っているんじゃない。だが、お前が血脈を繋げば、この館に未婚の娘を雇う必要はなくなる、そうだろう?」
「……」
「システムに対する怒りにこだわるな。望む相手を娶り、愛し、子供を慈しみ、あたりまえの幸せな家族を作れ。それが、今の歪んだドラガォンとそのシステムを暖かい血の通った人びとの集まりに変えるんだ。俺が新しい当主としてお前に望む二つめはそれだ」
アルフォンソは、23の返事を待たずにゆっくりと立ち上がった。
「もう、いく。少し休まなくては。たぶん、こんな風に話せるのは、もうそんなにはないと思う。聴いてくれてありがとう」
23は唇を固く結んだまま、兄を見送っていたが、ふと氣がついて手元の書類を返そうとした。
「お前が持っていていい。どうせ、もうしばらくしたら、その手の書類を持ってメネゼスが日参するようになるぞ」
アルフォンソが笑った。
それからマイアの方を見て言った。
「この街で23をつれて歩くのは構わないが、電車は少しやりすぎだったぞ。レベル3で黒服を出動させた娘はここ一年でお前だけだ」
マイアは夏の休暇中のスペイン行きの電車のことだとすぐにわかって、頭を下げた。23は、その二人の様子を見て、もう一度書類を繰って、その報告書を見つけた。それを読んでいる彼の表情は暗かった。マイアはあんなことをしなければよかったと悲しくなった。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(22)推定相続人
前回、いきなり当主の健康問題がクローズアップされましたけれど、こう繋がるために必要だったのでした。
今回は、主役の二人は出てきません。たまには、ぐるぐる抜きで。
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Infante 323 黄金の枷(22)推定相続人
ペドロ・ソアレスは緊張の面持ちでドラガォンの館の書斎に入った。迎え入れたアントニオ・メネゼスは彼の従兄弟で子供の頃から親しんでいた。《監視人たち》の家系の中でも、代々中枢組織に加わるメンバーを生み出している名門一族の出身者として、ペドロも若いころから黒服のメンバーに加わってきた。そのペドロですら、ドラガォンの館に来る時には少々緊張した。メネゼスは館の執事であるだけでなく、《監視人たち》の中枢組織の上に君臨するドラガォンの当主ドン・アルフォンソとの橋渡しをする特別な存在だった。
「それで、ペドロ?」
「ちょっと、氣になるケースがあるので耳に入れておいた方がいいと思って。これだ」
ペドロはアタッシュケースから書類の束を取り出して従兄弟に手渡した。メネゼスは不審な顔で紙の束の上の縁を見た。一枚だけ「レベル3」を意味するオレンジに染まっているが後は全て白かった。ドラガォンの館への報告義務があるのは黄色い縁のレベル2からだ。
「この一枚を除いて全てレベル1の報告だな。これが?」
「すべて一人の娘の報告だが、氣になる点がいくつかあってな」
メネゼスは一番上の書類を見て、名前を確認し、片眉を上げた。マイア・フェレイラ。
「氣になる点とは?」
「まず、その娘はここで働いている。それにしては目撃される頻度が多いんだ」
「休暇の他に、奥様の用事等でしばしば外出させている。外で見かけても不思議はない」
「二点め。この娘は、ある男とよく会っている」
「なんだと?」
「三つめ。これが最後でもっとも奇妙な点だが、その男は何人かの《監視人たち》の報告でやはり《星のある子供たち》であることがわかっているが、該当する人物が我々のデータに登録されていないのだ」
メネゼスは真剣な面持ちで書類を繰り、その人物の外見描写を見つけて自分の目を疑った。
「まさか! そんなはずは……」
「アントニオ?」
吹き出す汗を懐から取り出したハンカチで拭くと、息を整えてからメネゼスは黒服の従兄弟に言った。
「報告をありがとう、ペドロ。私からドン・アルフォンソに話をしよう。こちらから連絡があるまで、これまで通り監視と報告を頼む」
ペドロは訝しげに頷いて、それから頭を一つ下げて退出した。
メネゼスは再び、書類を見た。疑う余地はない。この特徴のある風貌はセニョール323だ。だが、どうやって。メネゼスはドン・アルフォンソのショックを考えて、まずドンナ・マヌエラに話すことも考えたが、思い直して当主の部屋に向かった。
「どうした。変な顔をしているが」
メネゼスがいつも感心することに、ドン・アルフォンソはひと目でこちらの心理状態を見抜いてしまう。メネゼスは執事として自分の表情や動揺を極力見せないように訓練し、多くの人間からは感情を持たない人間と評されていることを誇りにすら思っていたが、この当主だけには考えを隠すことができなかった。
「ご報告しなくてはならないことがあります。もしかするとあなたの心臓に負担を掛けてしまうようなことなのですが、メウ・セニョール」
「そうか。言ってみろ」
メネゼスはさきほどペドロ・ソアレスに受けた報告をかいつまんで話した。
「外に出ていると? どうやって」
「わかりません。マイアと一緒に出ているわけでないのは間違いありません」
メネゼスが驚いたことに、彼の主人は大してショックを受けた様子を見せなかった。
「この館には、そもそも秘密の脱出口がいくらでもあるからな。あいつの居住区にあってもおかしくない」
わずかにがっかりしているように見えた。
「マイアに外出する用事を言いつけられるのはたいてい奥様なのです。ご存知なのかもしれません。どういたしましょうか。表立って出入り口を塞ぐとなると、セニョール323のご機嫌を損ねて面倒なことになる可能性もありますが」
「あいつはマイアと一緒に何かを企んでいるのか? 例えば、誰かと接触して逃亡を画策しているような兆候があるのか」
紫がかった顔が、一層疲れて見えた。
「報告されている限り、彼らは特に誰とも接触をしていません。というよりも、観光客が行くような所に行って、街を見学しているようなのです」
彼はそれを聞いて意外そうに眉を上げた。
「それから?」
「カフェに入ったり、安食堂で食事をしたり……」
「……それは、つまり、デートみたいなものか?」
「そう申し上げても構わないでしょう」
メネゼスは報告書を当主に渡した。彼はしばらく読んでいたが、その内容に苦笑した。大聖堂、ドン・ルイス一世橋、カステル・デ・ケージョ、ボルサ宮殿、サン・フランシスコ教会、ワイン倉庫街、セラルヴェス現代美術庭園。観光案内書を読んでいるみたいだ。
「ほっておけ。母にも何も言わなくていい。いつも通り《監視人たち》が見ていればそれでいい」
「メウ・セニョール。いいのですか」
「なあ、メネゼス。23が外の世界に興味を持つのはいいことだ。いきなり外へ出るように強制されてからでは遅すぎる。そうだろう」
執事は主人の顔をじっと見つめた。ドン・アルフォンソは覚悟しているのだと思った。心臓発作の間隔はどんどん狭まっている。そうでなくても彼の脆い心臓は彼に結婚をすることも世継ぎを作ることも許さないだろう。
もしドン・アルフォンソが亡くなれば、自動的に23は新しいドン・アルフォンソとしてメネゼスの主人になる。そうでないのは、ドン・アルフォンソの存命中に23か24により男子が生まれ、ドン・アルフォンソの長男として届けられた場合だけだ。
24はライサ・モタも含めてすでに三人の女を自由にしていた。妊娠の兆候があったのは二人だったがどちらの女も子供を産むことはなかった。ライサは流産だったが、もう一人の娘は子供を道連れに命を絶った。
最初に彼が手を出した娘は食事の時に逃げだそうとし、面目を失った24が放り出したので数日で逃れられた。が、それに懲りた彼は次に恋愛関係となった娘を居住区に閉じこめて格子の外に出さなくなった。召使いたちが入ってくる時には常に側にいて、助けを求められないようにした。
死を選んだ娘の時には原因がうやむやになったが、流産の処置時に心を病んでいることが明らかになったライサの証言で、24が娘たちを彼のひどいサディズムの餌食にしていたことが明らかになった。ライサは肉体的にはすぐに回復したが、心的障害と使われていた薬物の副作用が残った。日常生活が営めるようになるまで、長い期間の治療が必要だった。
ライサの件は、事前に防げたはずだと、館にいる多くの人間が考えていた。その罪悪感は彼らに重くのしかかっていた。それでも、ドラガォンには世継ぎの誕生が優先課題であるため、痛ましい結果が繰り返されるのを止めることができない。館の若い娘は短い間隔で入れ替わり、新しく入る娘たちには過去に起こったことが伏せられている。
事情を知っている誰もが23が状況を変えてくれることを待っていた。だが、23は黙々と靴を作るだけでドラガォンの意志には無関心だった。閉じこめられ、脊椎後湾に対する手術もしてもらえず、抵抗を押さえつけられた彼はドラガォンを憎んでいるのだとメネゼスは思っていた。アルフォンソの方はもう少し楽観的に考えていたが、それでも23に協力的になるよう強制することは難しかった。
「23はずっと内に籠っていただろう。太陽からも顔を背けて、誰とも関わろうとせずに。《監視人たち》も俺たちも外に出て行こうとする者を止めることはできても、籠城している者を引きずり出すことはできない。あいつが自分の意志で出てきたのはいいことだ。あの娘が来て以来、23は変わってきている。家族以外のものと会話もできなかったのに、他の使用人たちとも口をきけるようになり、信頼関係を築きはじめている。あいつだけでなくドラガォンにとっても必要な変化だと思わないか」
「おっしゃる通りです」
アルフォンソは椅子にはまった体を大儀そうに動かして立ち上がった。ゆっくりと窓辺に向かいD河の上を渡ってゆくカモメを目で追った。
「俺はね、メネゼス、23が失敗を怖れて開きたくても開けなかった扉を、あの突拍子もない娘が片っ端から開けているんだと思っているよ。母もそれがわかっているから黙っているのだろう」
「承知いたしました。では、仰せのままに」
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今回の話は、主人公二人のこととはあまり関係がないように思われると思います。ないと言ったらないんですけれどね。でも、入れるとしたらこの位置しかなかったのです。
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Infante 323 黄金の枷(21)発作
「23、ねえ」
マイアは、階段を降りてくる23を見かけたので走り寄り、小さな声で鉄格子越しに呼んだ。
「なんだ」
「マリアからハガキが来たの。カサブランカですって!」
23はマイアが渡したアラビアンナイトの舞台のような室内の写真の絵はがきを読んだ。
「ライサも旅を楽しんでいるようだな」
「ライサ、本当によくなって帰ることができたのね。豪華客船で世界一周かあ。高そう……」
「ドラガォンがスポンサーなら、心配することはないだろう」
「ふ~ん」
「お前も行きたいか?」
「そりゃね。でも、ライサはつらい目に遭ったから、なんでしょう? 私つらい目に遭っていないもの」
23は笑って、ハガキを返した。船旅もいいけれど、23とこうして逢っている方がいいな。マイアは思った。
工房に降りて行こうとする23に手を振って、仕事に戻るためにバックヤードへと向かった。正面玄関を横切ると、ちょうど入ってきた男が声を掛けた。
「マイア!」
マイアは振り返った。
「サントス先生!」
ホームドクターで、この館に勤める時にも世話になったサントス医師だった。
「すっかり、それらしくなったな。もう仕事には慣れたんだろう?」
「はい。その節は、紹介状をありがとうございました」
「自信を持って薦められる時に書く紹介状はなんでもないさ。君の事は子供の頃からよく知っているからね」
サントス医師は、誰かを待っているようだった。
「今日はどうなさったんですか?」
「ドン・アルフォンソがまた発作を起こされたんでね。先ほどの検査の結果、入院する必要はないんだが、しばらくは医師がつめているほうがいいというので、今日から私がしばらく泊ることになったんだ」
そう話している時に、マリオがスーツケースを持って玄関から入ってきた。
「お車は駐車場の方へと移動いたしました。鍵をお返しします」
上の方から、ジョアナも降りてきた。
「先生。お部屋の準備もできました。マリオ、そのままご案内して。マイア、ちょうどいい所にいたわね。先生のお部屋にタオルを多めにお持ちして」
「はい」
マイアは急いでバックヤードに戻った。今月は三度目だ。ドン・アルフォンソはここのところよく心臓発作を起こす。以前もそういう事があったけれど二ヶ月に一度ぐらいだった。朝食や昼食の時にわずかな階段を昇り降りするのも、以前よりもつらそうに見える。ドンナ・マヌエラがとても心配しているのが手に取るようにわかる。マイアも不安だった。
タオルを抱えて、ドン・アルフォンソの部屋の斜め前にある客間に向かった。ノックをした時に、ドン・アルフォンソの部屋の方から当の医師の声が聞こえてきた。
「少しお休みになれましたか」
しわがれた当主の声も聞こえた。
「ああ、先生、もうしわけない。わざわざ……」
とても弱々しい声だった。
「セニョール。起き上がってはいけません。脈を拝見いたしましょう」
マイアは暗い顔で、医師の泊まる部屋に入り、バスルームにタオルを置いてから退出した。
ドン・アルフォンソの部屋の掃除を担当することもなくあまり接点がなかったので、給仕の時に見かけるだけだったが、当主ははじめに思ったよりもずっと親切だと知っていた。太っていつも大儀そうな見かけとは違い、周りをよく観て心を配り、必要な時にはすぐに決断を下すことのできるドン・アルフォンソに敬意を持ちはじめていた所だった。だから、発作に襲われて苦しんでいると聞くとやはり心配になり氣の毒だと思った。
バックヤードに戻るために二階を通った。ドンナ・マヌエラが23の鉄格子の鍵を開けているのが目に入り、マイアは黙って頭を下げた。
女主人は会釈を返し、マイアが立ち去った後もしばらくその後ろ姿を眺めていたが、やがてドアを閉めると階段を降り、彼女の次男の姿を探した。
「母上?」
23は彼女の暗い顔を目にすると、ミシンを止めた。マヌエラは眉間に苦悩の深い皺をよせてしばらく目を瞑っていた。やがてその固く閉じられた瞼から、涙がこぼれだした。
「どうなさったのです」
「また発作で……」
「アルフォンソは、入院したのですか」
「いいえ。先ほど戻ってきました。サントス先生がしばらく詰めてくださるそうです。病院で検査の結果を言い渡されました。発作の波が治まれば、落ち着くでしょうといわれましたが……」
「が?」
「覚悟してほしいと……」
「そんなに悪いのですか」
「生まれた時に、二十歳まで生きられないだろうと言われました。ずっと覚悟はしていたつもりでした。でも……」
彼女は本人や使用人の前では堪えていた涙を抑えられなくなり、23にすがって震えた。彼は目を閉じ、母親の背中をさすった。
「医者のいう事が必ずしも当たらないのは、それで証明されたではないですか。希望を捨てないでください」
「メウ・トレース。許してちょうだい。こんな時ばかり……」
「母上。お氣になさらないでください。俺はもう子供じゃない。あなたがどれほど多くのことに心を悩まされているかわかっています」
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【小説】Infante 323 黄金の枷(20)船旅
ここで話はドラガォンの館を離れて、ずっとライサ・モタを心配して探していた妹のマリアに視点が移っています。マリアは、連絡のない姉のことを調べてくれるようにマイアに頼んだ後、そのマイアとも連絡がとれなくなりやきもきしていました。
ライサ・モタのことは、この小説ではもう出てきません。彼女の物語は、この小説の続編である「Filigrana 金細工の心」に譲ります。そして、そちらはまだ執筆中です。
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Infante 323 黄金の枷(20)船旅
潮風がここちよい。サングラスを額の上に持ち上げて、マリア・モタは遠ざかるPの街を振り返った。アラビダ橋は堂々とその姿を横たえ、離れていく船に別れを惜しんでいるように見えた。豪華客船の最上階デッキ、バルコニーつきの客室は広い上、ガヤガヤとした他の乗客たちにリクライニングシートをとられてしまう心配もなかった。
マリアは、リクライニングシートに横たわっているライサを見た。身につけている華やかなサマーワンピースは、先ほど船内のブティックで入手したものだが、姉を本来の美貌にふさわしい艶やかな美女に変えていた。
「ブティックなんて、そんな贅沢は……」
尻込みをするライサの腕をマリアは強くつかんだ。
「贅沢も何も、この船にあるものは全て何もかも客室の値段に含まれているんですって。部屋の鍵カードを提示したらそう言われたの。服をもらってももらわなくても払ってくれた人には同じなんだって。だから、ねっ」
いったい、どうしてこんな高価な船旅を、しかも二人分も用意してくれたんだろう。マリアは思ったが、疑問はとりあえず横に置いておくことにした。このチャンスを逃したらこんないい思いをするチャンスは生涯めぐって来ないだろう。とにかくこの100日間は旅を楽しむのに専念することにした。
あれはほんの一週間前のことだった。マリアは、姉が突然帰って来たので驚いた。黒塗りの車が、家の玄関前に停まり、運転手が出てきて扉を開けた。ライサは小さなバックを一つ抱えていた。男が頷くと出てきて、小さく頭を下げた。
「ライサ!」
マリアは玄関から慌てて飛び出して、一年半以上も連絡の途絶えていた姉を抱きしめた。その間に車は静かに出発して角を曲がっていった。
ライサはマリアが何を訊いても答えなかった。
「誓約があって話せないの」
それはいつも通りのことだった。彼女がドラガォンの館で勤めだしてから、二ヶ月ごとに休暇で帰ってくる度にしつこいほど聞かされた言葉だった。けれど、こんなに長い間連絡もなく、また、再び勤めに戻るとも言わずに帰って来たというのにそんな話があるだろうか。
「館でマイア・フェレイラって子に逢わなかった? 姉さんを心配して、館に勤めだしたんだけれど」
ライサは、一瞬怯えたような顔をした。
「私、しばらくお館じゃなくて、ボアヴィスタ通りの別宅にいたの。だから、あなたの友達には会っていないわ」
「そこには誰が住んでいるの?」
ライサは答えなかった。ただ遠い目をした。懐かしむような、愛おしむような表情だった。意外に思った。ドラガォンの館のことを聞いたときと、反応が全く違ったからだ。
「黄金の腕輪、どうしたの?」
「外してもらったの。もうしなくていいんですって」
ライサはかつてそうであった以上に自信がなさそうに目を伏せてものを語った。マリアには理解できなかった。ライサの美しさは世界を恣にできるとは言わないが、少なくとも自分が彼女ほど美しかったら人生がもっと簡単になったと常々思っていた。それなのに、ライサときたら、それが罪であるかのようにびくびくと怯えて伏し目がちだった。
二年半ほど前に知り合ったマイアも少し似た雰囲氣を持っていた。ライサほどではないが、人付き合いが下手で、上手くいかないことがあると簡単にあきらめてしまうようだった。二人に共通していたのは、ミステリアスな黄金の腕輪をしていることだった。
「この腕輪をしている限りどうにもならないの。子供の頃からずっとそうだった」
マイアは寂しそうに語った。マリアはライサの妹として、友人の無力感をもどかしくも理解することができた。
そのマイアにマリアは姉の安否を確かめてほしいと頼んだ。けれど、マイアがドラガォンの館に勤めだして以来、彼女と話すことはできなくなった。休暇で帰って来ているなら連絡してくれると思っていたのだが、もしかしたらマイアも誓約に縛られてマリアに連絡できないでいるのかもしれない。
マリアは七月にマイアからのメッセージをもらっていた。何の特徴もない白い紙が一枚入った封筒がマリア宛に送られてきた。その表書きはマイアの字とは似ても似つかない、おそらく男性が書いたものだった。差出人名はなくて、消印はPの街からだった。中にはマイアの字で書かれたメッセージが入っていた。とても慎重な内容で、マイアが誰かに知られるのを極度に怖れているのがわかった。
「親愛なるマリア。そう遠からずあなたは待ち人を迎えることでしょう。どうか、いまはこれ以上何もしないで待っていてください。私たちがこれ以上何もしないことが、一番の近道なのです。どうか私を信じてください。M.F」
ライサがマイアに逢っていないのだったら、どうしてライサのことがマイアにわかったのだろう。それに、あの館では一体何が起こったのだろう。現在マイアはどうしているのだろう。マリアはマイアの妹に連絡を取ってみようかと思ったが、ライサと同様に誓約がどうのこうのと言われそうなので、電話はやめて、実家当てに簡単にはがきを書くことにした。
「親愛なるマイア。あなたと半年以上逢っていないわね。姉のライサも我が家に戻ってきたの。次の休暇で戻ってきたら、一緒にご飯でも食べない? これを読んだら連絡をちょうだいね。あなたのマリア」
マリアは、ハガキを書き終えると、切手をとりに自分の部屋へと行き、一分もかからずにリビングに戻ってきた。そして、デスクに置いたはずのハガキを探した。
「ない……」
窓際のソファに腰掛けて外を見ているライサに訊こうと目を移すと、彼女の手の中に切り裂かれて紙吹雪のようになったハガキが見えた。
「ライサ……?」
「ごめんなさいね、マリア。でも、私、ドラガォンの館に関わりのある人とは逢いたくないの。まったく関わりたくないの」
「何かつらいことがあったのね」
「訊かないで。思い出させたりしないで」
ライサは下を向いて涙をこぼした。それでマリアはそれ以上訊くことができなかった。
それから奇妙なことが起こった。ライサは二人分の巨大客船での世界一周旅行のチケットを受け取った。それに、パスポートだけでなく、これまで一度も作ることのできなかったはずのクレジットカードも送られてきた。それは黒い特別なカードで、銀行に勤めているマリアも存在は知っていてもいままで一度も見たことのなかったプレミアムカードだった。そもそも自分で望んで発行してもらえるものではなく、さらにいうなら年会費だけでマリアの月収の三倍を軽く超える。
「どうしたの、これ?」
「わからないわ。もしパスポートがもらえたら海外旅行をしてみたいって言ったんだけれど……」
「このチケット、二人分あるわよ。誰と行くつもり?」
「誰って……。誰と行ったらいいのかしら。マリア、あなたと行けたら一番安心なんだけれど、仕事、休めないわよね……」
マリアは丸一日考えて、旅の間に無給の休暇をもらえないかと上司に切り出した。彼はその場では非常に渋い顔をして、そうしたいのであれば、退職してもらうしかないし、引き継ぎのこともあるので一週間後に出発するのは不可能だと言った。マリアはかなり落胆して、仕事に戻った。
夕方にマリアは再び上司に呼び出された。
「君の希望を全て叶えることに決定した。そのかわり今週末までに可能な限りの引き継ぎを終了してほしい。定常業務は全て他の人間に振り分けるので心配しないように」
「いったいどうなったんですか?」
「それはこっちが訊きたいよ。頭取からの直接の指示らしい」
昨夜八時に銀行の従業員口から退出するまで、マリアはノンストップで働くことになった。食事時間も10分しかとらなかった。荷造りもまともにできなかった。実際の所、持ってきたのはパスポートとチケットと自分の財布、それに慌てて詰めた多少の着替えだけだった。カメラも双眼鏡も、それどころかサングラスすらも忘れてきたのだが、カメラを売っている売店で、「このチケットの場合は代金をお支払いいただく必要はございません」と言われたのだ。
マリアはすぐに客室に戻り、ライサを連れてブティックに向かった。ライサを変身させて、自分もサングラスやほしかった白いジャケットを手に入れた。
ライサが体験したことは何だったのだろう。それを贖うのにこれほどの贅沢を許すとは。知りたいと思う氣もちは変わらない。けれど、いま必要なのは、ライサにつらかったことを思い出させることではなく、忘れるさせるために一緒に楽しむことだろう。
マリアはドラガォンの館にいる友のことを考えた。マイアの字はしっかりとしていた。ライサのように苦しんだりしていないでほしいと願った。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(19)幸せなマティルダ
マイアの休暇は終わり、またドラガォンの館での仕事の日々がはじまりました。彼女にとっては、仕事というより、誰かさんに逢えるルンルンな日々という方が近そうですが。前回、とても近くなった二人ですが、ここでもっと近くなるなんて親切な作者ではありません。ジェットコースターは、登ったらまた落ちる、これ鉄則ですものね。何の話だ。
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Infante 323 黄金の枷(19)幸せなマティルダ
一週間ぶりの制服とエプロンにマイアは身の引き締まる思いがした。昨夜戻ってくるとマティルダが満面の笑顔で迎えてくれた。自分のベッドとマグカップも「おかえり」と言ってくれているように感じた。厨房で朝番のメンバーと一緒にいつものコーヒーと菓子パンの朝食をとった。皆が口々に「おかえり」と言ってくれたのが嬉しかった。
朝食の給仕の時に、ドン・アルフォンソが「お」という顔をしてくれたのも、ドンナ・マヌエラが微笑んでくれたのも、嬉しかったが、何よりも待ち望んでいたのは、掃除をするために23の居住区に入って行くことだった。といっても、彼に逢うのは丸一日と数時間ぶりだったが。
23はマイアの顔を見るとなんでもないように「おはよう」と言って、エスプレッソマシーンに向かった。工房の奥にある木の丸テーブル。マイアはいつもの椅子に座った。何も言わないのに、マイア好みの砂糖とミルクが入った大きいカップがそっと前に置かれる。
「礼拝では怪しまれなかった?」
マイアが訊くと彼は微笑んで首を振った。
サン・ジョアンの前夜祭での昂揚した想いが甦る。彼の腕の中にいたことや、頬にされた親愛のキス。まるで夢の中の事のようだけれど、あれは紛れもない事実だった。それに、こうして向かい合って座っている事も。
彼は休暇前と全く変わらない。いや、違う。ひげを剃った。数日に一度彼が無精髭を剃ると、急に年相応の若さになる。数日経てばまたいつものようになる。剃っても剃らなくても、彼は彼だと思った。あ、23が一昨日言った事と同じ。髪を縛っていてもおろしていても、私は私。
23は周りを見回してから、小さい声でライサの件について話しだした。
「まだしばらくかかるだろうけれど、心配せずに探さずに待っていてほしいというようなメッセージをライサの妹にうまく渡せないか」
マイアは頷いて考えた。
「私がマリアと直接逢うのはダメよね」
「それはやめてくれ。監視しているやつらにすぐにわかってしまう」
「じゃあ、23がマリアに会うのは?」
「お前、頭がおかしくなったのか。マークされているマリアと逢ったりしたら、俺が外に出ていることがすぐにわかってしまうじゃないか」
当然だった。マイアは顔を赤くした。
「マリアがマークされているなら、ドンナ・アントニアが逢いに行くのも危険すぎるわよね」
23が頷いた。
「あ、こうしよう。ジョゼに頼むのよ」
「ジョゼ?」
「私の幼なじみ。マジェスティック・カフェでウェイターをしているの。私が行くと、話しかけてきちゃうから誰か他の人に言ってもらう必要があるけれど、誰かが客として彼にチップを渡す時にマリア宛の小さいメモを渡せば、きっと上手にマリアに届けてくれるわ。彼はモタ家とは接点がないし、監視されていないと思うの」
「そのジョゼは信用できるのか」
「もちろん」
「そうは見えなくても《監視人たち》に属しているかもしれない」
「そんなことないと思うな」
「なぜ」
「だって、《監視人たち》はこの街にいて《星のある子供たち》を監視していなくちゃいけないんでしょ。一家でスイスに出稼ぎに行ったりする?」
「しない。海外で暮らしていたと言うなら、《監視人たち》の一家ではないな」
「大丈夫よ。私の名前がなくても、字だけで私からだってわかるはずだし、頭の回転がいいから余計なことをしないでやってくれるわ」
「ずいぶん親しいんだな」
「えっ? だって、子供のときからの友達だから」
「そうか。だったら、そのジョゼに頼む手紙を書け。アントニアにマジェスティックに行ってくれるように頼むよ」
23はそういうと、テーブルをすっと離れて作業机に向かうと、置いてあった靴を手に取った。それからマイアの方を見もせずに、靴の裏に釘を打ちはじめた。その激しい音にマイアはびくっとした。
彼が不機嫌になったような氣がした。やきもちを焼いたみたいに。けれどマイアは、それは自分がそうあってほしいと願っているだけで、もう用が終わったので仕事に戻っただけかもしれないとも考え直した。ドンナ・アントニアの姿が浮かんで、彼女はまた悲しくなった。
秋になった。ライサがどのくらいよくなったか、時々23が教えてくれていたが、マイアに最終的なことがわかったのは、ある日曜日の午餐の給仕をしている時だった。普段は明るく冗談ばかり言っている24が、笑顔も見せずにドン・アルフォンソに問いただしたのだ。
「ライサはいつ戻る」
「もう戻らない。腕輪を外された」
ドン・アルフォンソは今日のメニューを読み上げるのと変わらない口調で答えた。一緒に給仕していたホセ・ルイスとアマリアがはっとした様子を見せた。マイアは水を注いでまわっている時で、ちょうど座っている全員の顔が見回せる位置にいた。23は表情を変えなかった。ドンナ・マヌエラは視線を落とした。この二人は知っていたのだなと、マイアは思った。24は大きくショックを受けているようだった。明らかに知らされていなかったのだ。
「病が癒えたら戻るって言ったじゃないか。あれは嘘だったのか。僕とライサは合意の上で一緒になり、それで妊娠したんだぞ。腕輪を外される理由なんかないだろう」
ドン・アルフォンソは右手を上げて、24の言葉を遮った。
「24。ライサの治療は完全には終わっていない。医者が長期にわたってお前との接触を禁止している以上、腕輪をしている意味はもうない。彼女は家に帰る」
「僕との接触を禁止? なぜ。流産は僕のせいじゃない」
ドン・アルフォンソは黙って24を見た。普段、ものも言わずに食べてばかりいる当主の姿ばかり見ていたマイアは、彼がこれほど威厳のある強い目つきをできるとは思ってもいなかった。彼は何も言わなかった。マイアは23から聞いていたから知っていたけれど、24がライサに心的外傷を与えた忌むべき行為のことは、たぶん使用人たちには公にされていないのだろう。しかし、マイアはホセ・ルイスもアマリアもそれを知っているのだと感じた。
24は多少変わった感覚はしているが、非常に無害な青年に見えた。容姿を誇り、ナルシストで自分のセリフに酔ったような言動をし、デザインや詩作にはその言動と合わない凡才ぶりを見せるので、どちらかというと愛すべき好青年の印象を与えるのだ。だが、いったん密室に籠ると医者が接触を禁止するほどの強いトラウマを与えるようなことをする。そしてそれを悪いとも思っていないような口ぶりだ。ドン・アルフォンソが黙って非難しているのはそれなのだと思った。24はこの日はそれ以上は言い募らなかった。
けれどマイアには、それから24が変わったように思えた。掃除の時に居住区に入ると、今までのように朗らかに話しかけたりせずに、黙ってテレビゲームに興じていることが多くなった。それに、それまでは戸棚にしかなかったポルノ雑誌などが堂々と放り出されていることもあった。仕事部屋は何週間も入った形跡すらなく、同じデザイン画が放置されて埃をかぶりだしていた。
氣のせいかもしれないが、マイアに対して距離をとっているように感じられることがあった。24の居住区の掃除は必ず二人一組なので、アマリアと行くか、マティルダと一緒なのだが、マイアにはほとんど話しかけない。私が警戒していること、顔に出ちゃっているのかな。それとも、私が23のところにばかり話しに行くので、ご機嫌が悪いのかな。その一方で、以前にも増して、マティルダに優しく話しかけることが多くなったように思われた。
「なんか変よね?」
掃除用具を持って、バックヤードに戻りながら、マティルダが首を傾げた。
マイアは足を止めた。
「何が?」
「24よ。妙に猫なで声なんだけれど、なんでだろう。前はそんなことなかったのにな」
「あ、私もそう思った。氣のせいじゃなかったんだね」
「うん。23も親切になったし、変なことばっかりよね。ま、いいか」
ライサに何があったかをマティルダに伝えて氣をつけるように言った方がいいのかと迷ったが、それを口にしたら自分がなぜ知っているかを話さなくてはならない。まわり回って23とドンナ・アントニアに迷惑をかけるように思った。23は、24とライサはもともとは恋仲だったと言った。つまり、ライサも24と一緒にいることを強要されたわけではないのだろう。マティルダがミゲルのことを好きな以上、そんなに危険はないように思う。それとも23にだけは言っておいた方がいいのかな。
「さっきから何を考え込んでいるんだ?」
想いに沈んでいたマイアははっとした。晩餐の給仕の最中だった。メインコースの皿を下げてデザートをとりに厨房へ向かう道すがら同じく当番にあたっていたミゲルが訊いたのだ。
「うわ。ごめん。また何か失敗した?」
マイアはドキドキしたがミゲルは笑って首を振った。
「それもわからないほど真剣に考え込んでいたのか。よく失敗しなかったな。大丈夫か」
マイアはそうか、ミゲルに話せばいいのかと思った。
「うん、ちょっと氣になることがあるの」
「何? 僕は訊かない方がいいこと?」
「あら、そんなことないよ。実はね。ここしばらく24の様子が前と違って見えるのよね」
ミゲルは意味ありげに笑って言った。
「それ、23の間違いじゃないのか」
そう言われてマイアは少し赤くなったが、ここで話をそらされている場合ではない。
「え。いや、それもそうかな。でも、いま氣になっているのは24」
「どう違っているんだ?」
「うん。なんかマティルダにご執心って感じなのよね……」
「なんだって」
ミゲルの声の調子ががらりと変わった。そうよ、そうこなくちゃ。マイアは心の中でつぶやいた。よく考えてみれば、ミゲルはライサが流産をしてから館を離れた時期にもこの館にいたのだ。たとえ詳細は知らされていないとしても、ライサが24に受けた仕打ちについては薄々わかっているはずだ。ミゲルとマティルダは仲がいいのだから、きっと彼から忠告をしてくれるはず。
ミゲルはマイアのようにぐずぐず考えたりしていなかった。その日の仕事が終わるともう行動に移したらしかった。というのはシャワーを浴びてマイアが部屋に戻ってくると、マティルダが半ば踊りながらマイアに抱きついてきたのだ。
「マイア、マイア、ありがとう!」
何がなんだかわからずマイアはマティルダの顔を見て、首を傾げた。
「なんのこと?」
「ミゲルがプロポーズしてくれたの!」
「えええっ! よかったじゃない! おめでとう」
「うん。突然だからびっくりしたの。だから、どうしてって訊いたら、マイアが24の事を話してくれて、氣が氣でなくなったって」
マティルダはライサの事を知らないからミゲルが何を心配しているのがわからず、単純に24に心移りするのではないかと思われたのだと信じていた。けれどマイアは何も言わないでおこうと思った。二人が結婚するなら、きっとミゲルがいずれは話すだろう。
「明日ね。二人でドン・アルフォンソのところに行くことにしたの」
「ドン・アルフォンソ?」
「そうよ。ほら、許可を得ないといけないでしょ」
「そうなんだ」
「そうよ。そうしたら、マイアとはしばらくお別れだな」
「え? どうして?」
マティルダは笑って説明してくれた。
「《星のある子供たち》が一緒になるときは、一年間《監視人たち》の監視下で暮らさなくちゃいけないの。《監視人たち》と同じ屋根の下に住んで、外出時もずっとついてくるのよ。そうやって《星のある子供たち》以外の子供ができないようにするのね。もっともその間に妊娠したらまた普通の生活に戻れるんだって」
あ。そういえば、ライサも24の所に閉じこめられたんだったっけ。そうか、本当に徹底して《星のある子供たち》だけの血脈を守ろうとしているのね。
「この部屋、マイアが独り占めできるよ」
マティルダは笑ったが、マイアは首を振った。
「独り占めなんてできなくていい。あなたがいなくなると寂しいよ」
マティルダは、マイアをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう。でも、友達をやめるわけじゃないから。ねえ、マイア。結婚式の証人になってよ」
マイアは心からびっくりした。
「私なんかがなっていいの?」
「私なんか、なんて自分を卑しめる事を言っちゃダメ。マイアは私の大好きな、とても大切な友達だよ」
そのマティルダの言葉を聞いて、マイアは涙をこぼした。
ドン・アルフォンソは二人の結婚をすぐに承認した。本来ならば二人は未知の《監視人たち》の家庭に住むことになるのだが、ミゲルの養父母が《監視人たち》の一族のため、ミゲルの生家に住むことになった。三ヶ月間だけ完全監視下におかれるが、その後はまずはミゲルだけ通いで仕事に復帰する事になった。遅くとも一年の監視期間が終わればマティルダもまた戻ってくると聞いてマイアは嬉しくなった。
マイアは早速23に報告に行った。結婚式の証人を務めるなんて生まれてはじめてだ。
「自分のことみたいに嬉しい」
「ん?」
「彼女、夢みていたんだもの。仕方なしに腕輪のあるもの同士で子供を作るんじゃなくて、本当に好きな人と結ばれるのが一番だって。マティルダ、ずっとミゲルのことを想っていたの。私、心から応援していたの。片想いのつらさ、よくわかるから」
「お前も、片想いしたことがあるのか」
「……」
本人に言われても困る……。マイアは黙ってうつむいた。
「すまない。訊くべきじゃなかった」
「ううん、いいの。その人ね、私にはどうやっても手の届かない人で、お似合いの恋人もいるの。だから、もうずいぶん前に諦めたんだ」
23のは口を一文字に結んでマイアを見た。いつか海を見ながら話したときのように、言葉を探しているようだった。無理して慰めてくれなくてもいい。こんなことであなたを困らせたくないよ。
「大丈夫だよ、心配しないで。私ね、一人でも大丈夫だと思う。そういうタイプなんだよ、きっと」
「伝えなくていいのか」
やっと言葉を見つけたように、彼は言った。マイアは首を振った。
「好きになってもらえないのに、そんなことを言ったら距離を置かれちゃうでしょう。数少ない大事な友達の一人だから、そんなことをして失いたくないの」
23はカップをもって立ち上がった。エスプレッソマシーンの前でしばらく佇んでいた。マイアには彼の表情が見えなかった。少し間を置いて低く小さいつぶやきが聞こえた。
「その感情は、よくわかるよ」
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【小説】Infante 323 黄金の枷(18)サン・ジョアンの前夜祭
マイアの休暇のお話のラストです。最終回を除くと、「ここを発表せずには死ねない」級に盛り上がっているのが今回だと思います。祭りに抜け出してくることを提案し、「来ない」と言っていた23に、諦められないマイアは、「それでも待っている」と伝えて、休暇に入りました。さて、その当日、マイアは、待ち合わせの場所で彼を待っています。
![]() | 「Infante 323 黄金の枷」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
Infante 323 黄金の枷(18)サン・ジョアンの前夜祭
6月23日、約束した夜九時の数分前に、マイアは例のコーヒー店へ行った。23は来ていなかった。冬でもないのにイタリア風ホットチョコレートを頼み、表が眺められる窓際の席に座った。通りはいつもよりずっと人通りが多かった。すでに酒を飲んで騒いでいる人たちも多く、陽氣な声と、人いきれでいつもの街が全く違って見える。
マイアは去年の祭りのことを思い出した。幼なじみのジョゼが仕切って同世代の仲間たちがカフェ・グアラニの前で待ち合わせた。同年代の友達とあまり交流のないマイアは大抵の集まりで忘れられてしまうのだが、ジョゼは必ず声を掛けてくれた。
そのジョゼも今年は祭りに参加できない。かきいれ時なので休みが取れないからだ。だから、マイアはこの日が休暇に当たることを誰にも言わなかった。それに、もしかしたら23が来てくれるかもしれないと望みを捨てきれなかった。
祭りに行くために約束をしている人たちが、入ってきては次々と出て行った。マイアは次第に目の前が曇ってくるのを感じた。
23が自分の想いを知っているのだと思った。そして、遠回しに拒否しているのだと。「インファンテだなんて、そんな高望みしていないわよ」と言ったマティルダの声が甦った。
わかっている。でも、苦しいよ。
カップは空になった。もう帰らなくちゃ。一人でサン・ジョアンの祭りにはいられない。そんな虚しいことをする者はいない。けれど、マイアは立ち上がれなかった。もう少し、真っ暗になってしまうまで。
酔って半分できあがった集団がまた大量に入ってきた。中で待っていた女たちが大きくブーイングして、カフェはとてつもなくうるさくなった。ものすごく混んできたので、今度こそ立ち去ろうとカップに使い終わった紙ナフキンを丸めて突っ込んだ。すると人びとの間をすり抜けてきた誰かがストンと前の席に座った。
顔を上げると、それは23だった。
「遅れてすまなかった」
「23……来てくれたの」
「お前が待っているのに来ないわけないだろう。こんなに混んでいると知っていたら、もっと早く出たんだが」
6月23日に外に出たのははじめてで、この日の街の混み方を予想もしなかったのだろう。マイアは嬉しくて、しばらく何も言えなかったが、氣を取り直して訊いた。
「コーヒー? それとも?」
ここのコーヒーよりも、彼が工房で淹れてくれるコーヒーの方が美味しいんだけどね……。
「お前は何を飲んだんだ?」
23は空になったカップを覗き込んだ。
「夏に飲むものじゃないけど、イタリア風ホットチョコレート」
そう言って、壁の写真を指差した。生クリームがたっぷりと載っているカップの写真に23は肩をすくめた。
「甘そうだな。でも、一度は試してみてもいいかな」
マイアは笑って、トレーを持ってカウンターに向かい、二人分オーダーして持ってきた。それを見て23は眉をひそめた。
「二杯も飲めるのか?」
「いいの。今日は特別」
23は肩をすくめて何も言わなかった。生クリームを混ぜ込んでから甘くてトロリとしたチョコレートを飲む彼を、マイアは感無量で見つめた。
たった6日間逢っていなかっただけだ。彼にとっては何でもなかったに違いない。口を開けば「逢いたくてしかたなかった」と言ってしまいそうだった。絶対に言っちゃダメ。
しばらく黙って二人でホットチョコレートを飲んでいる間に、多くの人びとが出て行って、カフェは再び静かと言わないまでもお互いの声が聴き取れる程度にはなった。
23はほっと息をついて、マイアの瞳をじっとみつめて口を開いた。
「今日、アントニアがライサの様子を知らせてくれた」
「え?」
23は頷いた。
「ライサの状態はかなり良くなっているそうだ」
「本当に? よかった」
「誓約が守れる程度に回復したら、たぶん腕輪を外されて家族の元に戻れるだろう」
マイアはそれを信じた。直接ライサに逢ったわけではないが、23はドンナ・アントニアを信じている。23が好きになるような人なのだ。嘘をついたりするはずはないとマイアは思った。
「お前が館に戻ったら、《監視人たち》にわからないようにライサの妹に連絡する方法を考えよう」
マイアはそれを聞いて笑顔になった。
「うん」
「みんな出て行ったな」
23はあたりを見回した。マイアは壁の時計を見た。
「ここはもうじき閉店かな。露店は一晩中開いているし、今晩はずっと開いているお店もあるんだけれど」
「じゃあ、俺たちも行くか」
往来は人でごった返していた。アリアドス通りや、もっと小さい通り、至る所にパラソルが出ていて、スイートバジルが薫っている。人びとは道の脇で売っているイワシや肉のグリルを食べ、ビールやワインをあおっている。ダンサーたちを引き連れた山車が練り歩き、人びとは楽しそうに歌って騒いでいる。
「髪、下ろしているの初めてだな」
23が言った。マイアは頬を染めて頷いた。
「お休みだから。ねえ、縛っているのと、どっちがいい?」
23は何でもないように言った。
「どっちでも、お前はお前だ」
それって、どっちもいいってことかな。それともどうでもいいってことかな。マイアには追求することはできなかった。
グリルの煙があたりを白くしていく。リベイラの近くでは、焔を中に閉じこめた紙風船を氣球のように飛ばしている。23が珍しそうに狂騒の街を眺めている。普段は真面目に働くPの街の人びとが、今宵だけは何もかも忘れて騒ぐのだ。明朝、サン・ジョアンの祭日が明けるまで。
「あれは何だ?」
多くの人びと、子供はほとんどが持っている、プラスチック製のハンマーを見て23が訊いた。
「ああ、あれ? 今日は無礼講でね、知らない人でも、あれで叩いていいの。でも、ハンマーを持っていない限り叩かれないから大丈夫だよ」
本当はもっと説明をすべきだったのだが、マイアはお腹が空いていて心ここに在らずだった。
「ねぇ、ちょっと待ってて。イワシ買ってくるね」
そういって斜め前の売店に入っていった。
その場に立って辺りを見回していた23は、石壁にもたれかかっている一人の老婆が球形の紫の花を売っているのを見た。彼女は23を手招きしたが、例によって現金を持っていない彼は首を振った。
「金はいらないよ。今夜を過ぎたらもう用無しになる花だ。あんたの彼女の分と二つ持ってお行き」
「これはなんだ?」
「知らないのかい? ニンニクの花さ」
23は礼を言って二本の花を受け取った。
熱々のイワシを持ってパラソルの下に場所を確保したマイアの所に戻り、23はマイアにニンニクの花を手渡そうとした。それを見てマイアはぎょっとした。
「えっ。それは、まずい!」
周りのプラスチックのハンマーを持った集団が目を輝かせてこちらに向かってきた。それは襲撃と言ってもよかった。マイアはニンニクの花を仕舞わせようと彼のもとに飛んできた。その二人をめがけてハンマー軍団は大笑いしながら走ってくる。23はとっさにマイアを抱きしめた。
ピコンピコンという音がして、大量のハンマーが23を叩いた。けれど、それは大して痛くなかったし、人びとも攻撃というよりは楽しみながら叩いていた。そして、大人も子供も笑いながら去って行く。
23はマイアを離した。
「すまなかった」
何か勘違いしていたようだとひどく戸惑っている。
マイアは、心臓が壊れてしまったのではないかと思った。大きく波打ち、その鼓動は彼に聞こえてしまったに違いないと思った。彼の腕が外されても、まだ呆然として彼のシャツのひだをつかんでいた。
我に返って慌てて手を離すと、真っ赤になって下を向いた。
「ご、ごめんね。びっくりしちゃって……」
その間も、後ろを通りかかる人がピコン、ピコンと23を叩いていく。振り返ると彼らは親指を立てて意味有りげに笑っている。23の戸惑っている様子にマイアはすまない氣持ちになった。もっとちゃんと説明しておけばよかった。
「ニンニクの花もハンマーと一緒なの……。もともとはこれで顔を撫でていたんだって。そうすることでお互いに息災でいられるようにって祈ったんだね」
「そうか。それで、あれを持った途端、皆が襲ってきたんだ」
23はニンニクの花をテーブルの中央、パラソルの支柱の所に挟んだ。二つ並んだ丸くて藤色の花が仲良く寄り添っているように見えた。マイアはまだドキドキしていた。
「守ってくれて、どうもありがとう」
彼は困った顔をした。
「この程度じゃ守った内には入らない。おもちゃのハンマーの集団だ」
「それでもすごく嬉しかったよ。今まで、誰にもこんな風に守ってもらった事なかったし」
23は手を伸ばして、風で頬にかかったマイアの髪をそっと梳いて言った。
「お前が館にいる限り、俺に可能な限り守ってやる」
「……」
泣きそうになった。彼はマイアが館に来てから本当にいつも守ってくれた。彼がいなかったら、仕事では無防備に失敗して回って他の人に怒られただろうし、ライサのことを訊き回ってすぐに追い出されただろう。それに何があったかを知らずに24に近づいて、ライサと同じような目に遭ったかもしれない。
23と、彼の作る靴は似ている。シンプルで飾りは何もないけれど、ぴったりと寄り添い優しい。一度履いたらもう他の靴を履く事など考えられない。
館にいる限り、そう彼は言った。いつまでいられるのだろう。いつまで彼は一人でいてくれるのだろう。私はいつまで想いの痛みに耐えられるのだろう。何度も諦めようとしたけれど、それは不可能で、それどころか毎日もっと惹かれていく。一日一日が新しい思い出になり、この街の風景の上に積もっていく。
真夜中が近づくとマイアは23をドン・ルイス一世橋が見える所へ連れて行った。0時になると花火が上がるのだ。かなりの穴場だと思っていたが、かなりたくさんの人が来ていた。プラスチックのハンマーがピコピコいって、人びとは陽氣に笑っていたが、最初の大きな花火が上がると、歓声とともにみな花火を楽しんだ。
腹の底まで響くような轟音とともに花火は炸裂し、夜空を彩ってからD河へと落ちて行く。赤、青、緑、そしてマグネシウムの強烈な白。一段、二段、三段と、大きくなる花の輪が、これでもかと咲き誇る。そして、消えたはずのその場所から、黄金の煌めきが舞う。
「きれい……」
「ああ、本当に綺麗だな。見られてよかった」
「この花火、はじめて?」
「ああ、俺の窓からは見えないんだ。いつも音と空の色が変わるのだけを見ていた。お前に誘ってもらわなかったら、きっと生涯見なかったかもしれないな」
マイアは23を見た。嬉しそうに目を細めて空を見上げるその横顔を。ただの友達だと思われていてもいい。ドンナ・アントニアにはしてあげられないことを、こうして彼の喜ぶことを、どんなことでもしてあげたいと思った。23は、マイアの方を見て笑った。
花火が終わったが、人びとが解散する氣配はない。
「彼らは帰らないのか?」
「え。今晩は、みんな夜通しよ。あのね。夜が明けて最初の朝露が降りるまで外にいると、それからの一年間、健康で幸せでいられるんだって。夜明けと同時にD河でラベロ舟のレガッタもやるんだよ。23、朝までいられる?」
朝までと言ったとき、彼はマイアの顔をまともに見た。マイアはしまったと思った。来てくれたことで、それに先ほど守ってくれたことで舞い上がっていたのだ。
彼は静かに首を振った。
「サン・ジョアンの祭日は夜明けとともに礼拝があるんだ。イワシ臭くなって徹夜明けの疲れた顔をしているわけにはいかない。母やアントニアに感づかれてしまう」
彼の口からドンナ・アントニアの名が出て熱く脈打っていたマイアの心臓の鼓動は弱まっていった。
「お前も明後日の早朝から出勤だろう。今夜更かししない方がいい、そうだろう?」
「うん。そうだね……」
シンデレラの魔法は解けちゃった。マイアは悲しくなった。やっぱり私はほんの少し友達に近いだけの使用人なんだな。
「今夜はありがとう。家はどこなんだ?」
「え、レプーブリカ通り」
「送るよ」
「いいよ。遠くないし、一人でも帰れる」
「だめだ。こんな深夜で、酔っている人もたくさんいる」
マイアはつま先を見つめた。23の作ってくれた、マイアをいつも柔らかく包んでいる靴が目に入った。
「23、本当に紳士だね……。そんなに優しくされると、私、誤解しちゃうよ」
「何を」
「王子様に守ってもらってる、お姫様みたいなつもりになっちゃう」
「馬鹿なことを言うな」
馬鹿なことか……。お姫様じゃなくて召使いだものね……。
「俺は王子様なんかじゃないって、言っただろう」
逆方向へと向かっていく楽しそうな人たちとすれ違いながら、二人は言葉少なに歩いた。公園の角を曲がり、狭い小路に押し合いへし合いするように建つ古い家々の一つの前でマイアは立ち止まった。「ここ」と濃い緑のタイルの家を示した。23は街灯に照らされた錆びたバルコニーを見上げた。ドラガォンの館に住む彼にはどんなあばら屋に見えているのだろうと思った。
「おやすみ。また明後日、いや、もう、明日か」
「おやすみなさい。今晩はありがとう」
彼は「礼を言うのはこっちだ」と言ってから、急に顔を寄せて、マイアの頬にそっとキスをした。唇よりも彼の髭の感触が肌に残った。彼の髪からはイワシと花火の火薬の匂いがした。
振り返りもせずに去っていく背の丸い後ろ姿を、彼女は見えなくなるまで目で追っていた。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(17)遠出
マイアの休暇のお話の二つ目です。二ヶ月ごとに一週間の休暇をもらえるドラガォンの館の従業員たち。でも、その間も「館で見聞きした事は部外者には話してはいけない」という誓約に縛られています。そして、恋するマイアには、23に逢えない事もまた苦痛である模様。どうやら少し迷走しているようです。
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Infante 323 黄金の枷(17)遠出
マイアはとほとぼと街を彷徨い、観光客が楽しく談笑するリベイラに辿りついた。ベンチに足を投げ出して座る。ドラガォンの館に勤めだす正にその日に期待に満ちて河を眺めた同じベンチだった。
何もかもが二ヶ月前とは違っていた。マイアの心のほとんどを占めているのは23だった。掃除も洗濯も給仕も、それから自由時間にする靴のスケッチも、窓から眺めるD河の夕景もすべてが23と繋がっていた。リベイラの眺め、フォスの海岸、大聖堂へ至る坂道、Gの街へと渡る橋、ワイン倉庫街。生まれてからずっと愛し続けてきた街の思い出は、いつの間にか何もかも彼との思い出に変わっていた。
けれど、その思い出にはどんな未来も約束もなかった。どこかで自分が抱き続けている脆く儚い幻想を見せつけられたようだった。二ヶ月前までずっと一人で見続けてきた街だ。そして、未来も一人で見続けることになるのだと感じた。
彼があの美しい人と真に結ばれるとき、もう私と一緒に街を眺めることはなくなるだろう。マイアは心の中で呟いた。
上手く人とつきあえなかったこれまでの自分のことを思い出した。これまで23以外に、こんなに早く親しく話せるようになった人はいなかった。こんなに長く特別に思ってきた存在もなかった。これから、彼を忘れられるほど心に寄り添える人と出会えるとは想像もできない。
私はきっと生涯一人ぼっちだ。友達としか思ってくれない人を黙って想い続けていくしかないんだ。マイアはD河の上を渡っていくカモメの鳴き声を聞きながら両手で目を覆った。今、彼とのつながりは心地よく彼女を包み続けていてくれる靴だけだった。
時間はたっぷりあった。自宅にいる時間が長いと、家族や同じ通りの隣人たちに「勤めはどうだ」「どんなところだ」と質問攻めにあう。街へと逃げだすしかなかった。
ずっとやってみたかったことがあった。アリアドス通りのカフェ・グアラニの外に座って、道ゆく人びとを眺めること。ソフトクリーム屋に勤めていた時には、注文することは到底無理だった、レアチーズケーキとポートワインのセットを頼むこと。
マイアの銀行預金はこれまで一度もなかったような残高になっていた。「ドラガォンの館」に住み込みで働いているので、それまで使っていた食事や衣装代にあたる金額が丸々残っていたし、外と連絡を取ることが禁止されているので携帯電話やネットの接続も解約していた。社会保障と保険は全て「ドラガォンの館」が払っていてくれて、毎月の給料がほぼそのままそっくりと残っていた。
この二ヶ月でマイアが遣ったお金は、外出のついでに23と街で逢った時に払ったコーヒー代と貸自転車代が全てだった。
レアチーズケーキとポートワインは確かに美味しかった。繊細な甘さと、バターのしみ込んだ台のさくっとした歯ごたえ。喉を通っていくポートワインの濃い甘さ。ウェイターたちの氣さくな笑顔、道往く人々の姿、全てが想像していた以上に素晴らしかった。けれどマイアは一人だった。本当は23とここに座りたかった。彼に逢いたかった。
でも……。彼はこんなところでのんきにケーキを食べるよりも、きっとボアヴィスタ通りに行くことを夢みているのだろう。《監視人たち》がいっぱいで行くわけにはいかない、ドンナ・アントニアの住む場所。わかっている。私、何をやっているんだろう。マイアは手の甲で涙を拭った。いつまでもテラスに座っているわけにはいかず、マイアは会計をして立ち上がった。
貸自転車屋に向かい、あの黒い自転車を借りた。マイアは前回よりもずっと軽いペダルを狂ったように漕いで、あっという間にフォスに来てしまった。止まらずに、赤い巨大な網のオブジェのあるラウンドアバウトを通り抜け、隣の市であるMに入った。マイアは今まで一度もMまで来たことがなかった。Pの対岸であるGに入ることは禁止されていなかった。だからPと地続きのMに入ることは大きい問題になるとは思えなかった。
けれど、父親は家族で出かける時に、絶対にPの街から出ようとしなかった。Mはもともと漁師の街で、美味しい魚を食べさせるレストランが軒を並べている。妹たちは一度ならずともMへと行きたがった。父親は車を持っていたし、そんなに大変な遠出でもなかった。けれど、彼はいつもこんな風に言った。
「ブラガ通りに新しいレストランが出来たんだそうだ。そっちに行ってみないか」
休暇で戻ってきたマイアを妹たちは明るく迎えてくれた。彼女たちにとってマイアは何も変わらぬ姉のままだった。けれど、二人がMのレストランに行ったと話していた時、夏の休暇でスウェーデンに行くと語ってくれた時、マイアは黄金の腕輪をした姉が家からいなくなったことは、二人にとってきっと幸せなことだったのだろうと感じた。彼女たちも、父親も、さぞ迷惑していただろう。マイアがこの街に閉じこめられて出て行けないのは、彼らには何の関係もないことだ。それなのにマイアの手前、彼女たちもまた多くのことを諦めてきたのだ。
Mの街はこれからもどうしても行きたくてしかたないというところではなかった。魚の匂いはしたが、ケーキを食べたばかりのマイアは一人でレストランに入るつもりになれなかった。マイアは自転車にまたがって、Pの街に戻った。Mに行ったけれど、何も起こらなかった。マイアはふと考えた。だったら、電車に乗って、一瞬だけスペインに行ってくるのはどうだろう。
D河を遡る船旅は始めからパスポート提示を求められるので、マイアには不可能だ。でも、サン・ベント駅から電車に乗るだけなら、切符を自動販売機で購入すればパスポートのことは誰も訊かないだろう。スペインまで行って、何をするというわけではなく、ただ、足を踏み入れてそのまま戻ってくる。やってみよう。
翌朝、マイアはジーンズにTシャツ、それにハンドバックという軽装で、サン・ベント駅に向かった。旅立つためではなく、旅立つ人を眺め、それから装飾の美しさを眺めるためにこれまで何度も訪れていた美しい駅。二万枚のアズレージョでぎっしりと覆われた構内の連廊ををマイアは見上げた。セウタ攻略時のエンリケ航海王子は雄々しく軍隊に指令を出している。マイアも武者震いをして冒険に向かった。
切符は問題なく買えたし、電車に乗り込み窓際に陣取っても何も起こらず電車は静かに出発した。マイアは嬉しくなってD河の流れに目をやった。子供の時にどれほど望んでも行けなかった遠足のルート。船ではなくて電車だが、見えている光景にきっと大きな違いはない。
渓谷の両側は緑色の葡萄畑に彩られていた。濃い緑は艶のある葉で、淡い緑は実りはじめたまだ小さな実。わずかに赤っぽい地面の上に、印象的な縞模様が描かれている。風に揺られてそよぐと葡萄の葉が一斉に踊っているように見えた。空は青く、D河の緑の水が反射して煌めいた。
この葡萄が、ワインになる。世界中へ送られて食卓を賑わす。そして、その同じワインは「ドラガォンの館」にも運び込まれ、マイアたちが給仕している食卓のクリスタルグラスに注がれる。ドンナ・マヌエラが、ドン・アルフォンソが、24が、そして23が楽しみながら飲むのだ。彼の庭で一緒に食事をした時に、お互いに微笑みながら乾杯したのもここで穫れた葡萄で出来たワインだった。
ああ、まただ。何もかも、想いのすべてが彼へと戻っていってしまう。
マイアはふと視線を感じたように思った。窓から目を離して通路側を見ると、男が一人座っていた。作業着風のジャケットと白いTシャツに灰色のパンツ姿で、帽子をかぶっている。特に目立つ特徴のない男性だった。彼はマイアを見ている様子でもなかったので、マイアは再び窓に目を戻した。
いくつか駅を過ぎた。しばらく忘れていたが、マイアは再び視線を感じたように思い、もう一度斜め前の席に目を移した。その男はまだそこにいた。《監視人たち》の一人ではないかと思った。それとも、それを氣にしすぎて視線を感じるように思うんだろうか。マイアは意を決して、別車両に移った。もし男が《監視人たち》の一人なら、ついてくるだろうと思ったのだ。男はついて来なかった。けれど、マイアの斜め前に、別の男が座った。やはり全く目立たない服装の男だった。
マイアは不安になった。ちょうど電車は県境へとさしかかっていた。国を離れたこともないが、県の外に出たことも一度もなかった。もし、《監視人たち》が私を追っているとしたらどうなるんだろう。ううん。ミゲルは《監視人たち》は絶対に危害を加えたりはしない、ただ見ているだけだって言ってた。だから、そんなに心配しなくても……。
次の駅に着いてドアが開くと、斜め前にいた男は降りて行った。そして入れ違いに黒いスーツを着た男が二人が入ってきた。そして、やはり斜め前の席に黙って座った。マイアは震えた。母親が亡くなった時に腕輪を回収しにきた男たち、マイアの腕輪がきつくなった時に取り替えにきた男たちと同じ服装だった。これは偶然でも思い過ごしでもない。観察していた人たちから連絡を受けて、本部から呼ばれてきたんだろうか。
マイアは、国外逃亡と見なされて黒服の男たちに止められたらどうなるのだろうかと思った。連行されて、どこかに閉じこめられるのだろうか。そうなったらその後はどうなるんだろう。「ドラガォンの館」に戻れなくなるのかもしれない。そうでなくてもこの休暇中の自由は制限されるかもしれない。サン・ジョアンの前夜祭にもし、23が来てくれる氣になって、私が行けなかったら……。それはダメ! アナウンスが次の駅に着くことを報せた。マイアは急いで立ち上がった。
ドアが開くと、マイアはホームに降りた。黒服の男たちも一緒に降りた。彼らはマイアにはひと言も語りかけなかったが、マイアが階段を降りて反対側のホームへと向かうと、隠れる様子もなくついてきた。寂れた駅で、ホームにはマイアと黒服の男たちしかいなかった。次の上りの電車が来るまでには30分近くあった。マイアは落ち着きなく、ワインや葡萄の焼き菓子やキーホールダーなどが並ぶ売店をぶらぶらして時を過ごした。
電車が来た。マイアが乗り込むと、男たちも後ろから乗ってきて、マイアが腰掛けた席の斜め前に座った。二人は話もしなければ、何かをしている様子もなかった。マイアは窓の外を眺めた。どうしてもスペインに行きたかったわけではない。《監視人たち》の存在が、夢物語ではなかったこと、本当に自分が監視されているのだということがはっきりしても、それほどつらくはなかった。
23に自分が言った言葉を思い出した。
「叶わない夢なんて見てもしかたない」
あの時は、ほんの少しやせ我慢して口にした言葉だった。けれど、実際に県外に出てスペインを目指し、それを中断した今、それは違う意味を持ってマイアの中に響いた。遠くへ行く夢を諦めたのではない。スペインに足を踏み入れるよりもずっと大切なことができたのだ。23とサン・ジョアンの前夜祭にいくこと。また「ドラガォンの館」に戻り、23と逢うこと。想いが通じるかや、どんな未来が待っているかは関係なかった。
電車はいくつかの駅を通り過ぎた。窓から目を離し、斜め前の席を見た。いつのまにか黒服の二人はいなくなっており、先ほどの下り電車から降りた目立たない服装の男が座って新聞を読んでいた。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(16)休暇
長時間で土日の勤務もあり、さらに普段は許可なしでは館の外へも出られない生活をしているドラガォンの館の召使いたちには、二ヶ月に一度、一週間の休暇が与えられます。勤めだして二ヶ月。マイアもはじめての休暇をもらいます。このマイアの休暇の話は、今回を含めて三回にわけてお届けします。
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Infante 323 黄金の枷(16)休暇
「マイア、木曜日から一週間の休暇です。25日の朝からまた仕事なので、24日の夕方には戻ってきてください」
ジョアナに言われてマイアはびっくりした。
「休暇? でも、あれは二ヶ月経たないといただけないのでは?」
ジョアナは笑った。
「ええ、そうですよ。忘れたみたいですが、あなたは昨日で二ヶ月ちょうど働いたのですよ。慣れないことばかりだったでしょうが、よく頑張りました」
マイアはジョアナにほめてもらって嬉しくなった。もう二ヶ月経ったなんて、思いもしなかった。
「マイア、しつこいようだけれど、誓約を忘れないようにお願いしますね」
「はい」
洗濯物を取りにいくついでに、23に休暇のことを報告した。
「ずいぶん急だな。ああ、そうか。もう二ヶ月経ったんだな」
「うん。私も、びっくりしているよ」
「家族に会うのも久しぶりだろう。よかったな」
「うん。休暇の間、何をしようかなあ、考えてもいなかった」
23は笑った。マイアはふと思いついて意氣込んでいった。
「ねえ。23、休暇だったら、館に帰る時間を氣にしないでいいから、いつもより遠い所にも行けるよ。どこかに行かない?」
23は、マイアを見たが、すぐに首を振った。
「休暇中はたぶんお前の家の近くの《監視人たち》が観察をするだろう。怪しまれるような行動は避けた方がいい」
言われてみればその通りだった。マイアはひどくガッカリした。23は失望しているようには見えなかった。それまで作っていた靴を脇にどけると、作業台の引き出しから型紙を探し出した。忙しそうだなとマイアは思った。洗濯物の籠を持って退散することになった。落ち込んだように去っていくマイアの後ろ姿を、23はじっと見つめていた。
休暇の前日、掃除当番だったので三階と二階を急いで終わらせて工房に降りて行くと、23はいつものように作業をしていた。私が明日からいなくても、なんでもないんだろうな。埃をはたきながら、マイアは靴を仕上げている23の横顔を眺めた。
掃除機かけが終わり、コードをしまいながら、これが終わったらさようならを言わなきゃと思っていた。たった一週間なのに、私も大袈裟だな。
「できた」
その声でマイアは、顔を上げた。23はマイアに焦げ茶色のバルモラルタイプのウォーキングシューズを見せた。
「お前のだ」
「え?」
「休暇中は、街をたくさん歩くだろう。パンプスよりもこっちの方がいい」
「……。わざわざ、作ってくれたの?」
「パンプスを大切にしてくれているから。ほら、履いてみろ」
マイアは嬉しくて涙をこぼす寸前だった。膝まづいて調整をしてくれている、23の丸い背中をじっと見ていた。
「なあ、マイア」
23は革ひもを縛りながら言った。
「何?」
「俺は、俺のことを信じて今はマリアに何も言わないと約束してくれたお前のことを信じている」
ライサのことだ。メネゼスさんやジョアナが心配しているのも、そのことだ。
「23。わたし、約束を一度も破ったことがないほどいい子じゃないけれど、あなたとの約束だけは死んでも守るよ。マリアには休暇のことは言わないし、逢いにも行かない。だから、心配しないで」
23はマイアを見上げて微笑んだ。
「ありがとう。お前にだけは言っておく。ライサはボアヴィスタ通りにいる。アントニアの家だ」
「23……」
「あそこには《監視人たち》がうじゃうじゃいるはずだ」
「大丈夫だよ。わたし、あんな高級住宅街にいく用事は何もないもの。ウロウロしたりしない。教えてくれてありがとう」
立ち上がった23は、マイアの頭をぽんと叩いた。
「せっかくの休みだ。仕事のことは忘れて楽しんで来い」
忘れられるわけないじゃない。マイアは23を見つめた。
「6月24日、サン・ジョアンの日までか。いい時期に休みをもらったな。天候に恵まれるといいな」
マイアは飛び上がった。すっかり忘れていた。そうだ、サン・ジョアンの日!
「ねえ、23、前夜祭、行った事ないんでしょう? この街に住んでいてあれを見ないのはもったいないよ。それだけは一緒に行こうよ」
23は、しばらく答えなかった。即答しない所を見ると、心を動かされているのだろう。毎年のあの騒ぎは、鉄格子の窓の向こうから聞こえていて、行きたいと思っているに決まっている。一年に一度しかないのだ。一緒に行こうよ、行くって言って。
彼の瞳に諦めの色が灯った。それから静かに首を振った。マイアはその感情をよく知っていた。左手に金の腕輪をしている者が親しんでいる想い。「試しもしないで諦めるな」という人たちはわからないのだ。小さい子供の頃から、どれほど抵抗し、それが無駄だったと思い知らされ、多くのことを諦めさせられてきたかを。マイアはうつむいた。それでも諦めきれなかった。
「最初に待ち合わせたあのカフェに、夜の九時に行くから。もし、氣が変わったら来て、ね」
23は微笑んだ。
「いい休暇を」
朝早く、マティルダに短い別れを告げて、ドラガォンの館を出た。坂を上って、父親と妹たちの暮らす懐かしい我が家に戻った。
レプーブリカ通りは間口の狭い家がぎっしりと並ぶ区画で、マイアの父親と二人の妹とが三階のアパートメントに暮らしている。書店に勤める父親の給料は決して高くない。妹のセレーノは菓子屋に勤め、エレクトラはお茶の専門店で働いている。どちらもあまり給料は高くなく、独立してアパートメントに住むのは難しい。ギリギリ四部屋あるこの小さい空間で肩を寄せあって暮らすのが当然のように思っていた。
ドラガォンの館でマイアに割り当てられた部屋は、個室ですらなかったが、高い天井、広い室内、シンプルだけれどどっしりとした家具、そして窓から見渡せるD河の眺めがあり、マイアにはとても心地が良かった。それに召使いたちが仕事や休憩をするバックヤード、料理人たちの手伝いをする時におしゃべりもする厨房といる場所があちこちにあった。さらにマイアはこの家で三家族が暮らしているのよりもずっと広い空間に一人で住んでいる23の居住区に入り浸っていた。それに慣れた二ヶ月の後に我が家に戻ってみると、全てが狭苦しく、何よりも自分の存在がその空間をさらに圧迫しているように感じるのだった。
誓約はマイアを苦しめた。これまで父親と妹たちに隠しごとをしたことはなかった。する必要もなかった。《星のある子供たち》であることで、この家庭に負担をかけていると感じていたマイアは、いつも彼らに誠実であろうと努めてきた。それなのに今回だけは何も言うことができない。彼らがどんな仕事をしているのか、どんな所かと訊くのはとても自然なことなのに。
「何も話してはいけないの」
そう答えることで自分がとても冷たくて嫌な人間になったように感じる。これまでよりもずっと、腕輪が自分と家族の間の壁を作っているように感じた。
それだけではなかった。心の大部分を占めている悩みをマイアは妹たちに話して軽くすることができなかった。23その人が誓約で話すことを禁じられている事項の中に含まれるだけではなく、見込みがなくてもどうすることもできない今の状態を明るく前向きな妹たちに話すことができないのだ。進めと言われても、退けと言われても、自分が壊れてしまいそうだった。
妹たちと父親は優しいのに居場所がない。マイアは少し前に23と行った河向こうのワイン倉庫街を思い出していた。
河に面してたくさんの倉庫兼試飲所があった。たくさんの観光客が行き来して、にぎやかな一画だ。パラソルの下では人びとがポートワインとタパスを楽しんでいた。次々と到着するバスから降りてきた人びとは、試飲と購入のために大きなワイナリーへと吸い込まれていく。マイアには見慣れたGの街の観光街だった。けれど23にはそうではなかった。小さな鱈のコロッケが三つ載った小さな皿とSuper Bockビール。屋敷でクラウディオたちが作る洗練された料理とは正反対の庶民の楽しみが23には珍しそうだった。鋭く突き刺すような強い陽射しの中、23の笑顔も白くかすんでいるように思えた。
どうしてそちらに行ったのか憶えていないが、その後二人は一つ山側の通りを歩いた。そこは河沿いの賑やかな通りと正反対で、ほとんど誰も歩いていなかった。白い壁が強い陽射しを反射していた。前を歩く23の白いシャツ。丸い背中。マイアの心は急に締め付けられた。彼は壁に溶け込んでいなくなってしまいそうだった。
「待って。ねぇ、待って」
23は振り向いた。
「どうした?」
いつもの彼だった。ちゃんとした存在感があった。マイアは大きく息をした。
「なんでもない」
「何でもないようには見えないが」
マイアは肩を落とした。
「……消えちゃうかと思ったの」
それを聞いて23は笑った。
「消えたりしないさ」
消えそうだったのは、自分の方なのかもしれないとマイアは思った。あの午後に二人は一緒にいた。マイアとあそこにいた23はインファンテではなかったし、ドンナ・アントニアの恋人でもなかった。今、彼は元の居場所に戻り、物理的にも心も遠く離れていた。マイアはもとの世界にいる。ずっと当然だったレプーブリカ通りの小さなアパート暮らし。マイアにふさわしい狭い空間。それでいて拭うことのできない《星のある子供たち》であることの違和感。私はこの世界に一人ぼっち。マイアは言葉にして思った。マイアが浮かれていた23との時間は、叶わない夢、実体のない蜃気楼なのだと思った。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(15)海のそよ風
知られずに館の外に出られることがわかった23を、マイアは外出の度に誘い出します。現金を持つ事のできない彼と、お金がないとできない経験を一緒にして回るのです。二人の時間、秘密の共有、それに、自分だけが彼のためにしてあげられる事、マイアの一途な想いはまだ空回りぎみですが、23も十分に楽しんでいる模様。今回は徒歩では行けないほどの遠出に挑戦します。
そういえば、今回書いた、キリスト教騎士団の話やドラガォンが誰の血を守っているのかについての噂などは、本当はここで読者を「ええ〜!」と驚かせるような箇所だったのですが、すでに外伝でガンガン似たような事を書いてしまっていて、きっと皆さん「今さら」ですよね。
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Infante 323 黄金の枷(15)海のそよ風
マイアは鉛筆を削った。愛用のハガキサイズの画用紙を取り出して窓辺に座った。椅子に置いた靴を丁寧に写生していく。丸みを帯びたシェイプ。革の柔らかさを感じられるように艶を表現していく。大好きなパンプス。この素晴らしい靴を履き、幸せな人は他にもいるが、それを作った職人を個人的に知っている持ち主はほとんどいない。
出来上がったスケッチを持ってマイアは23の工房に入っていった。
「見て。23」
彼は驚いた。
「お前が描いたのか?」
「うん。どう?」
「こんな才能があるとは思わなかったな。称賛に値するよ」
マイアは意氣込んだ。
「これから、23の作る靴、私にスケッチさせて」
「なぜ?」
「だって、靴は納品されたら、ここからなくなっちゃうでしょう? あなたが作った靴の記録を残したいの。公式には誰も知らなくても、あなたがこんなに素晴らしい靴を作っていたって証を残そう。いいでしょう?」
23は驚いた顔のまま黙っていたが、しばらくすると目を細めて微笑んだ。
「ありがとう。マイア」
マイアは、嬉しかった。私にも何かができる。ドンナ・アントニアのように存在だけで彼を幸福にすることはできないけれど。彼が自分のことを誇りに思える何かを残すことができる。
「ところで、なぜエプロンをしていないんだ?」
23は訊いた。
「あ、奥様に用事を頼まれて、これから街に出かけるの。カステロ・サン・ジョアンの側にあるお友だちのお家に花を届けるんですって」
「それは、確か河口のあたりだな?」
「うん。あ、23、あっちの方も行った事ある?」
「いや。さすがにそこまで遠くには足は伸ばしていない。徒歩だとかなり時間がかかるしな」
マイアは目を輝かせた。
「じゃあ、抜け出して一緒に行こうよ。路面電車に乗ったらすぐだよ」
23は首を振った。
「乗り物は出入り口でコントロールがあるだろう。近いから場合によっては腕輪の星の数も見える。運転手が《監視人たち》だったら確実に見つかってしまう」
彼の言うことはもっともだったが、それで諦めるのは残念だった。海を見た事がないなんて。
「海、見たくない?」
「見たいよ」
マイアは少し考えた。いい案が浮かんだ。
「わかった。じゃあ、私が自転車を借りるよ」
「自転車?」
「うん。ボルサ宮殿の先の河岸で待っていて。一緒に行こう」
マイアは花屋で花束を受け取ると、リベイラに向かった。そのあたりにある貸し自転車屋を知っていた。その店は主に観光客用に営業しているのだが、置いている自転車のタイプが古いので、よほどのことがない限り出払わない。
前に籠がついていて、後ろの荷台にもう一人座れるタイプの自転車は二つ残っていた。
「君なら、こっちの小さい方だね」
店主は言った。マイアは少し考えた。23は私と同じくらいの身長だから、これでいいのか。あれ、そもそも、23は自転車に乗れるんだろうか。
自転車で河岸を少し進むと、ベンチに座っている23が簡単に見つかった。すーっと前に乗りつけたマイアを興味深そうに見ていた。
「なるほど」
ああ、この口ぶりでは、やっぱり乗れるはずはないよね。マイアは納得して後ろの荷台を示した。
「ここに座って。私に掴まっててね」
そういっている横を二人乗りをした少年たちがすっと通り過ぎていった。それを見て納得した23は荷台に座るとマイアの腰に手を回して掴まった。マイアは赤くなった。掴まれと自分で言ったのだから、そうなるに決まっているのに、この状況をまるで考えていなかった。アイロンのかけ方を習った時よりも近い。
D河はカステロ・サン・ジョアンの側で大西洋に流れ込む。聖ニコラス教会の近くからレトロな路面電車が河沿いに走っている。その脇は自転車用に整備された道になっていて、カステロ・サン・ジョアン、ブラジル通りを通ってカステル・デ・ケージョまで行くことができる。その一帯は河口を意味するフォスと呼ばれている。
カステル・サン・ジョアンに着くと、マイアは自転車と23を残して、急いで花を届けにいった。ドンナ・マヌエラの友人の家の近くまで二人で行くと、《監視人たち》の目につくかもしれないと考えたからだ。出てきたのは優しそうな婦人で、よかったら上がってコーヒーでも飲まないかと訊かれたが、「勤務中ですので」と断って急いで城塞ヘと戻った。
戻ると23が一人で自転車に乗る練習をしていた。まだふらついているが、なかなか筋がいいとマイアは思った。私のときは、何日間もかかったのに。
「23、すごいね。次に遠出する時にはきっともう乗れるよ」
彼は得意そうに笑った。
再びマイアが運転して、もう少し先まで走った。左手に漁をしている小舟がたくさん見えてきて、それから砂浜や岩で覆われた海岸が続く。人びとは釣りをしたり、ジョギングをしたりして、海にキラキラと反射する眩しい光を楽しんでいる。
「ほら。これが海。波がすごいでしょう?」
「ああ、本当だ。こんな風に打ち寄せるんだ」
生まれてはじめて海を見た時のことを、マイアは憶えていない。繰り返す波の満ち引き、大きな音、湿った風、潮の薫り、果てしなく続く水平線。はじめて見た時はさぞかし驚いたのだろうと思う。23はテレビやネット上の写真でしか海を知らなかった。どれだけ違って感じられるのだろう。
しばらく行くとクリーム色のパーゴラ柱廊が見えてきた。海を眺めるバルコニーのようだ。
「ここは?」
「素敵でしょう。とてもロマンティックなので、恋人たちのデートスポットなの。いつも一人で来ていたから、いつかはきっとって思っていたわ」
彼がほんの少しきつく掴まったように感じて、マイアは心が痛くなった。勘違いしちゃダメ、この人にはドンナ・アントニアがいるんだもの。本当に恋人同士としてここにいられたら、どんなにいいだろう。自転車に乗っているからではなくて、ただ抱きしめてもらうのって、どんなきもちだろう。
マイアはもう少し先で自転車を停めた。海を見渡すカフェがあって、その脇に砂浜へと降りる階段があった。23は少し沈んでいく感触に慣れるまで砂の上を慎重に歩いた。マイアは波打ち際まで来ると、裸足になった。23も同じようにした。波が足元の砂を運び去っていく、そして二人をも運び去ろうとする感覚をしばらく楽しんだ。
23の方を見て笑いかけた時に、その後ろ、波止場にはためいている二つの旗に氣がついた。一つは赤と緑の国旗で、もう一つはやはりこの国でどこでも見られる白地に赤い十字の旗だった。その視線を追って、やはり旗を見た23は「どうかしたのか」と言いたげにマイアの顔を見た。
「あの十字、お屋敷の門の所にもついているわよね。竜の持っている盾の中に。ドラガォンって、王家かなにかと関係あるの?」
23は笑って首を振った。
「この国では、王家とは関係なくあの十字を多用しているよ。あれが何を意味するシンボルなのかは知っているだろう?」
「大統領がああいう勲章を付けているわよね。サッカー連盟のマーク、ホテル、それに空軍も……。でも、もともとはキリスト教の何かよね」
「そうだ。キリスト騎士団のシンボルだ。大統領は共和国の元首であると同時にキリスト騎士団の総長でもある」
「キリスト騎士団ってそもそも何?」
「もともとは1119年に創設されたテンプル騎士団だ。第一回十字軍が終了した後、エルサレムへの巡礼者を保護するために創設された騎士修道会だが、巡礼者のために現在で言うトラベラーズチェックのようなものを発行する財務機関として力を持った」
「それで?」
「富めるものはさらに富み、だよ。テンプル騎士団は多くの人びとや国家の債権者になっていた。十四世紀のはじめにフランス国王は最大の債権者であるテンプル騎士団に借金を返す代わりにその財産を没収してしまおうと思ったのさ。そして、フランス人の教皇と結託してテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーを反キリスト・悪魔崇拝の異端に仕立てて生きたまま火あぶりにして処刑した。そして、その資産を自分たちの息のかかった聖ヨハネ騎士団に移すように命令したんだ」
「そんな、勝手な……。みんな、フランス王の言うなりになったの?」
「いや、ならなかった。当時の教皇クレメンス五世もフランスに加担したていたから、テンプル騎士団はローマ教皇庁により弾圧禁止されたが、ドイツでは裁判で証拠不十分のため無罪とされたし、スペインでも弾圧はされなかった。教皇の決定に真っ向から反対したのが、わが国の国王ディニス一世で、逮捕を拒否しキリスト騎士団の名前のもと存続を認め、資産と財産を継承する権利を次の教皇ヨハネス二十二世に交渉して認められたんだ。だから、現在でも教皇庁では聖ヨハネ騎士団の後継であるマルタ騎士団を親任しているのに対し、わが国ではキリスト騎士団を支持し、王制がなくなった今でも大統領が総長となってテンプル騎士団の伝統を引き継いでいるんだ」
「わからない。その騎士団の伝統を守る事が、二十一世紀の今でもそんなに大切なの?」
「守っているのは伝統だけじゃないんだ。多くの人の関心の中心にあるのはむしろその莫大な資産なんだよ」
「あ」
「キリスト騎士団の指導者となったエンリケ航海王子は、その経済的バックアップのもと大航海時代の幕を開いた。わが国が植民地としたブラジルで発見された黄金は、わが国を富ませた。その栄華の名残は、この街に残る豪奢な建物に見られるだろう?」
「……」
「さて。この街に大きな館を構え、働きもしないで豪奢な生活を続ける一族がいる。街の中に数百人の黄金の腕輪をした人間がいて、それを監視するためだけに二万人近い人間が配置されている。そのとんでもない人件費をまかなう財力はなんだと思う?」
「まさか……」
「テンプル騎士団が解体された後、キリスト騎士団に受け継がれた資産と財産はほんの一部だった。フランスや教皇庁が没収した財産もそんなに多くはなかった。では消えてしまった莫大な財産はどこに行ってしまったんだろうか。フリーメーソンなどの秘密結社に受け継がれたとも言われているし、確かな事は今でもわからない。だが、俺たちをここで飼うためだけのために遣われる恐るべき経費を考えるとき、テンプル騎士団の財産の多くを受け継いだのがドラガォンだと考えても不思議ではないと思う」
「だとしたら、ドラガォンが受け継ごうとしている血脈って言うのは、もしかして……」
「お前の示唆している人が誰かわかるよ。どうだろうな。その可能性がないわけじゃない。真偽のほどは別として、神の子であると定義されている特別な一人の男の子孫を守り続けていると信じている人間がいても不思議ではない。だが、別の仮説もある」
「別の仮説?」
「この地には、もともとケルト人が住んでいたんだ。そして、この街の象徴でもある竜はケルト人の神獣だ。だから、ケルトの伝説の英雄か王の子孫を守り続けているのかもしれない。たとえばアーサー王、ユーサー・ペンドラゴン……」
「23はインファンテなのに、誰の子孫か教えてもらっていないの?」
「もちろん、いない。俺はスペアであると同時に危険分子だからな。トップシークレットを明かしてもらえるような立場にはない。知っているとしたら、アルフォンソか、《監視人たち》の中枢組織だけだろう。それに誰だろうと、それは名目に過ぎない。本人の遺体でもない限り、本当に直系なのかは誰にも証明できないのだから」
23はいつものように突然話題を変えた。
「ここによく来るのか?」
「ええ。前はよく来たわ。悲しいことやつらいことがあると、ここに来て海を眺めたの。繰り返す波をずっと見ていると、ちっちゃなことはいいかな、って思えてくるの。そして、叶わない夢のことを考えていた」
「それは?」
23がマイアの横顔をじっと見つめた。彼女は沖をゆっくりと進む大きな船を指差した。
「いつか腕輪を外してもらって、自由になったら、ああいう船に乗ってね。どこか遠くに行きたいって」
マイアがまっすぐに伸ばした左の手首には黄金の腕輪が光っていた。彼女は23の顔を見て無理に笑おうとした。
「叶わない夢なんて、見てもしかたないわよね」
彼はしばらく答えなかった。マイアを見つめ、それから打ち寄せては砕ける波に視線を遷した。何かを言おうと、何度か口を開きけれど言わなかった。
マイアには彼の背中が一層丸く見えた。彼にとって残酷なことを言ってしまったのだと感じた。自由になりたいのは彼も同じ、それどころか、ずっと痛烈に願っているのだろうから。
悲しくなって謝ろうと思った時に、マイアをもう一度見てはっきりと言った。
「夢は夢だ。願い続けていれば叶うこともある。お前は星一つだから、チャンスはある」
でも、私は叶わない別の夢を抱いてしまったんだけれど。マイアは心の中でつぶやいた。
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王子様扱いだけれど、囚人でもある主人公23は、誰にも知られずにこっそりとPの街に行っていました。「すわ、なにか陰謀が?」と先読みをなさる読者の皆さんが脱力するような展開かもしれませんが、ひと時の自由を楽しんでいただけのようです。現金を持っていない上、人見知りも激しいんじゃ、外で何もできませんよね。前回、その秘密をヒロインであるマイアと共有することになったんですが、こちらもお花畑脳なので、陰謀とは無縁のようです。
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Infante 323 黄金の枷(14)喫茶店
マイアが朝食の給仕をしている時にドンナ・マヌエラがメネゼスに言った。
「手紙をサントス先生の奥様に直接渡してほしいんだけれど、今日、誰か外に行く時間があるかしら」
「もちろんでございます。マイア、お前はサントス先生や奥様に面識があったのだったな。ちょうどいい、ジョアナに伝えておくので、セニョール323のお住まいの清掃が終わったら、外出の準備をして奥様の居間に伺うように」
「はい」
せっかく街に行くのだったらと、ジョアナからもいくつかの細かい用事を頼まれた。メネゼスは23の作った靴を、いつもの靴店に届けてほしいと言った。久しぶりに街に行けるだけでなく、外で休憩してもいいと言われたのででマイアはすっかり嬉しくなった。
食堂の後片付けが終わってから、掃除のために23の工房に降りて行った。あの嵐の日以来、二人にはしばらく大きな秘密があった。彼の背中の傷が悪くなっていないか確認して消毒したのだ。ほとんど治り、もう絆創膏も消毒の必要もないと伝えたときの彼の笑顔は嬉しかったが、この秘密がなくなってしまうのは残念だった。共犯関係は絆のように感じられたから。
口に出せない想いが悲しくて時々落ち込むのは同じだっけれど、秘密を共有するようになってからは、一々失敗はしない程度に平静を保てるようになっていた。
ドンナ・アントニアが23に逢いに来るとき、その美しい笑顔を眺めてマイアはいつも複雑な氣持ちになった。この方なら世界中のどんな貴公子のハートだって射止められるだろう。それなのに靴職人をしているこの館に閉じこめられた青年を選んだのだ。お金やスティタスや容姿ではなくて、ただ純粋に惹かれる、マイアは説明のつかない想いのことを知っている。二人が惹かれあうのも当然だと思った。そしてだからこそマイアは悲しくなる。ドンナ・アントニアが登場するだけで、友達として、秘密の共犯者としてわずかに近づいた彼の視界から、彼女は完全に消え去ってしまうのだと感じるから。
彼女が帰る時にも、マイアはやはり複雑な想いを持った。私だったら、檻に閉じこめられて出て行けない彼のもとをあんな風に颯爽と去ったりしないのに。ずっと彼のもとにいて慰めてあげるのに。彼のために、彼を幸せにし続けられる麗人にもっと長い時間を使ってほしいと願う。それでいて、これ以上彼の心を占めないでほしいとも願う。23は懇願したり、嘆息したりはしない。ただ去っていくドンナ・アントニアの背中をじっと見ているだけだ。ドンナ・アントニアのために鍵を開けて、それから再び閉めるとき、マイアは23の心を思って泣きたくなる。そのマイアを見て、彼は氣にするなと言いたげに微かに笑う。だから、マイアはこの瞬間が大嫌いだった。
マイアが掃除で23の居住区に入る時は、できるだけ早く鍵を開けて鍵を閉める。彼にその瞬間を見られたくないから。
「おはよう、23」
「おはよう、マイア」
彼はすっと立ち上がって、エスプレッソマシンのもとに向かった。掃除の度に二人でコーヒーを飲むのはすでにあたり前のことになっていた。何も言わなくても大きいカップに淹れたコーヒーに砂糖を一つとたくさんのミルクが入って出てくる。だから、マイアは掃除を始める前に23としばらくおしゃべりをすることになっていた。
「今日はね、このあと街にお使いにいくことになっているの。奥様のお手紙を届けて、ジョアナの用事もあるけど、23の靴もお店に届けるんだって」
23は「ほう」と言ってコーヒーを飲んだ。
「二足あるんだが、持てるか」
「もちろんよ。あなたの靴がショーウィンドウに並ぶのを見られるの、嬉しいな」
「店主のビエラにいつもありがとうと伝えてくれ」
「うん」
自分だけ街に行けるのは申し訳ないなと思った。彼は出て行けないのに。
突然あの嵐の日の事を思い出した。彼は出て行けるんだ。私以外誰も知らないけれど!
マイアは囁いた。
「ねえ。23、抜け出せるんだよね。抜け出しておいでよ。街で休憩していいって言われたの。喫茶店に一緒に行かない?」
「……」
「イヤ?」
「いや、そんなことはない。考えたこともなかったんだ。目立たない所で、確実に辿りつける所を知っているか?」
マイアはアリアドス通りを下り、ドン・ペドロ四世の銅像を見上げた。あ、頭の上にカモメがとまっている。ウキウキする想いが止まらない。手紙を届けた時に、サントス夫人に「とても嬉しそうね」と言われてしまった。それから、ジョアナに頼まれて入った店で修理の終わった帽子を受け取るときも、はじめてなのに売り子がニコニコ対応してくれたので自分の表情が弛みっぱなしらしいとわかった。
はじめてのデートをする時って、こんな感じなのかな。本当のデートじゃないけれど、でも嬉しい。ねえ、誰か聞いて。私、23と待ち合わせしているんだよ。
あの嵐の日、秘密の外出中に破れて汚れたシャツの処分に彼は途方にくれていた。それを上手に切り刻み、掃除機のゴミパックの中に隠して処分することに成功した。あれ以来、信頼してくれることになったのだろうな。そんな風に思った。
リベルダーデ広場を抜けて、坂を上りきった突き当たりに小さいチェーンの喫茶店がある。暖かい黄色い壁紙と茶色い木の桟やテーブルと椅子が落ち着いた店だった。入ると23はもう来ていた。落ち着かなそうに座っている。マイアが入ってくるとホッとしたように笑った。
「ちゃんと伝えてきたよ。ビエラさん、ものすごく嬉しそうだった。誰かお客さんに電話してた。いますぐ受け取りにくるそうですって言ってた。すぐ売れちゃうって、本当なんだね」
23は黙って微笑んだ。瞳に誇らしそうな光が浮かんでいる。
「注文してくるね。何が飲みたい?」
壁にいくつかのメニューが大きい写真で貼られている。23は自分の真横にあるカプチーノの写真を指差した。
マイアは二人分のカプチーノをカウンターで頼んでトレーに載せてテーブルに運んだ。
店内にはボサ・ノヴァがかかっている。23は珍しそうに耳を傾けていた。マイアは23の境遇が氣の毒になった。あんなにいい仕事をしても彼はこの喫茶店に入るだけのお金すら手にすることができない。秘密の出入り口がなければ、生涯あの館の中に閉じこめられたままだ。そもそもあの背中だって、ビタミンD不足、日光浴が足りなかったからに違いない。なんであんなひどい目に遭わなきゃいけないんだろう。
「ねえ。私、作ってくれた靴の料金を払うよ。そうしたら、23は自分の自由になるお金が少しでもできるじゃない?」
だが、23は首を振った。
「氣もちだけ受け取っておくよ。このままの方がいい。もしかしたらとっくに《監視人たち》に見つかって報告されているかもしれない。だが、俺に制限があって、館に戻らざるを得ない状況のままだったら泳がせ続けてくれるかもしれない。俺にとってはあの出入り口を塞がれないことは何よりも重要なんだ」
「そっか。そうだね。でも、私は何かお礼をしたかったんだ」
「それはもうしてくれたよ」
「何を?」
「こうして、一人ではできなかった体験をさせてくれていること」
マイアはほんの少し恥じて心の中でつぶやいた。これは、私がしたかったことだもの……。
「お礼か。ライサもそう言っていた……」
「ライサが?」
マイアはびっくりした。23が自分からライサのことを話すのははじめてだった。これまではマイアがしつこく訊いたので嫌々答えてくれていたのだ。
「いつだったか、彼女がワインを注ぐときに失敗を繰り返したことがあったんだ。ジョアナに厳しく叱られてね。二度と繰り返すなと言われたらしい。それがストレスになって次の時に、またこぼした。たまたま誰も見ていなかったから、俺が急に動いたと言ってかばった。まともに話をしたこともない俺に助けてもらったのがよほど意外だったのか、次の掃除の時にお礼をしたいと言ってきた」
「それで?」
「必要ない、落ち着いてワインを注げと言った。あの娘と話をしたのは多分それが最初で最後だったな。それから失敗はしなくなったし」
マイアは頬杖をついて聴いていた。ぶっきらぼうだけれど優しいあなたらしい話だね。
「誰かが応援していてくれるのって、とても心強いもの。きっとライサは嬉しかったんだよ。わかるな」
「そうかもしれないな」
23はコーヒーを飲んだ。
ライサのこと、今が訊くチャンスかもしれない。マイアは思った。今なら館の人が聴いている心配もない。
「一つだけ教えて。ライサは事故にあったの?」
マイアの問いに23は答えなかった。けれどその暗い表情と目をまともに見てくれない視線に、マイアはライサに何かが起こったのだと思った。彼はしばらく躊躇していたが、やがて口を開いた。
「ここに来る前に、健康診断を受けさせられただろう」
「ええ。なんだかとても大仰な」
マイアは顔を赤くしてうつむいた。23はそのマイアの様子にはさほど興味がなさそうだった。
「館で働くお前たちに期待されているのは、もちろん任された仕事をきちんとすることだ。だが、《星のある子供たち》である以上、常に別の期待もかかっている。潜在的配偶者と出会い《星のある子供たち》を産みだすことだ。健康診断はその可能性のない者を排除するためにあるし、現実に館では多くのカップルが生まれて人員がよく入れ替わっている」
「……もしかして、ライサは……」
23はマイアの問いを無視して続けた。
「青い星を持つ者は、赤い星を持つ娘に正式の宣告をすることで新しい《星のある子供たち》を作ることを強制することが出来る。かつてはそれは当然のことだった。だが、現代の男女同権や基本的人権の発想をもっている大抵の男は、嫌がる女に強制することはまずない。普通は同意を得るんだ。だが、そうでなかった場合、もしくは、同意は得たものの不本意な扱いを受けた場合、男の許を去ることは一年のあいだ許されない。その間、女にとって残酷な運命が襲うこともある。だがシステムはそれを抑止しない。竜の血脈をつなぐことが何にもまして優先するからだ」
「ライサは……」
「ライサは死んでいないし、肉体はどこも傷ついていない」
23はマイアの目を見て言った。彼女は証拠もないのに彼がそういっただけで一度安堵した。しかし、23が先ほどの話をした意図がつかめなくて不安になった。
「彼女はもともとは恋をした相手と一緒になったはずだった。だがその男は二つの顔を持っていた。甘い言葉で融かされた心が、恐怖に凍るのに時間はかからなかった。逃げたくても、それは許されなかった。そして、男の子供を身籠った。だが幸いというべきか、子供がきちんと胎内で育たなかった。ドラガォンにとっての最優先は子供だから、例外的に男のもとを離れて入院する事ができたんだ。そして、その時に心に大きな傷を受けていることがわかった。簡単に癒すことのできない傷だ」
マイアはようやく理解した。きっとライサの心は壊れてしまったのだろう。だから彼女はもう館にいられなかった。でも秘密を守るために、家族には彼女の居場所も状態も隠されている。でも、ライサを妊娠させ心に傷を負わせた青い星の男は一体誰なんだろう。館にいる男のほとんどが腕輪をしているのでマイアには想像もつかなかった。だが、23はもう少し踏み込んだ。
「どんな理由があるにせよ、こんな風に閉じこめられた生活をしていると大きな影響が出る。俺の場合は、体に出たが、必ずしもそういう形でひずみが表れるわけではない」
23の言っている意味が、はっきりとはわからなかった。けれど、閉じこめられたという言葉で朧げながら彼の示唆している人物のことが脳裏に浮かんだ。
「24のこと……?」
彼は否定しなかった。マイアは青くなった。コーヒーを飲み干してから彼は付け加えた。
「あいつには氣をつけろ」
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それでですね。長いこと「出していいのか?」とためらっていた、例のシーンが来ちゃいました。いや、「入浴小説」ブログじゃないんですが、今月は多いですね。しかも、今回はいまいちシャレになっていません。でも、Stellaに出せるぐらいですし、大したことは起きませんので、過激な描写を期待されても困りますが。
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Infante 323 黄金の枷(13)秘密
その日、誰も朝から23の姿を見ていなかった。
館の他の部分から23と24の住む格子の向こうを見る時、二階の居間しか見えない。厳重に管理されている鍵を使って二人の居住区へと入った者だけが一階と三階へ行き、二人が何をしているのか確認することができる。
マイアはまず三階、それから二階を掃除して、それから一階にいるものと思って工房に来たが、23はいなかった。
外は激しいにわか雨で稲妻が工房を青白く浮かび上がらせた。
突然、後ろから小さな声がした。
「マイア……」
彼女が振り向くと、そこにはずぶ濡れになった23がいて、人差し指を口に当てた。マイアはそっと彼に近づくと「どうしたの」と訊いた。
「頼みがある。誰にも氣づかれないように三階に行きたいんだ。それに、その後にもしてもらいたいことがある」
23はひどく濡れているだけでなく泥だらけで、その動きは怪我をしているように見えた。
マイアは頷くと、埃を払うフリをして二階の居間へ行き、格子の向こうには誰もいないのを確認して、階段の下の23にそっと合図をした。彼は靴を脱ぎ、音もなく上がってきて、三階へと消えた。マイアは素早く自分も三階に上がった。23はマイアの手を取って浴室に入り鍵をかけた。
「どうしたの。中庭にいたの?」
轟く雷鳴が館を震わせた。23はマイアの瞳をじっと見つめながら小さい声で言った。
「……。外にいたんだ」
「え?」
23はバスタブに湯を張りはじめた。そしてマイアの耳に囁くように説明しだした。黒い髪から雫が滴っている。
「工房の奥に昔の脱出用に使われていたらしい、知られていない出入り口があるんだ。偶然見つけて、時々、誰にも見つからないように街に行っていた。もし、俺が外に出ていたことがわかったら、それを塞がれてしまう。お願いだ、この服を誰にも知られないように処分してほしい」
「急な雨だったものね。でも、どうして傘を買わなかったの? 雨の時は観光客用に店頭にでていたでしょう」
23は首を振った。
「金を持っていないんだ」
マイアは理解して、頷いた。それから、戸棚にしまってある彼の服や下着、タオルを取りに行くために浴室からそっと出た。
狂ったように降る大粒の雨が窓に打ちつける激しい音がしていた。そして、稲妻が青白い閃光で部屋を照らし、窓の外の鉄格子をくっきりと浮かび上がらせた。平和な日常を打ち破る瞬間だと感じた。怖れよりもむしろ心が昂揚していた。
秘密を打ち明けてくれたことが嬉しかった。23が、変わってきたというのはバックヤードで皆が言っていた。以前は使用人とは必要な事以外ほとんど話さなかったというのに、フィリペやミゲルとは時おり話し込むまで親しくなっていた。彼が皆に好かれていくのは嬉しかったが、自分だけ親しくしてもらっているのではなかったのかと、ほんの少し寂しかった。でも、こんなに大きな秘密は誰にでも話すわけはない。信頼されているのだ。
クローゼットから衣類を素早く取り出した。フワフワのタオルと、かなり上手にアイロン掛けできたと自慢したいシャツを抱えて、再び浴室に飛び込んだ。そしてぎょっとしたことには、すでに23はバスタブに入っていた。
な、何なの、この人。乙女の前で平然とお風呂に入るなんて! 泡がいっぱいで、また彼が入口に背を向けていたので何も見ずに済んだのが幸いだったが、時間とともに泡は消えてしまうだろう。真っ赤になってバスタブに背を向けると、汚れ破れてすらいる服を抱えた。
「タオルと下着と服、ここに置いたから。こっちの服はちゃんと見つからないように処分するから心配しないで……」
慌てて出て行こうとするマイアに23は後ろから声を掛けた。
「待ってくれ、背中を見てほしい」
はっとして振り向き彼の背中を見た。といっても、半分はカールした髪に隠れていた。マイアはバスタブに近づくと、そっとその髪をずらして、はっと息を飲んだ。赤く擦れて血がにじんでいた。背骨が変形して盛り上がってしまっている部分だった。その瘤のような背中を見て、マイアは自分がずっと勘違いしていたことを知った。ただの習慣的な猫背などではなかった。医学に疎いマイアは正式な病名を知らなかったが、くる病による脊椎後湾症だった。
「急いでいたので無理に狭い塀の間を通ったんだ。擦ってしまって、痛みがある。血が出るような怪我か?」
「うん。でも、お医者様に見せなきゃいけないほどの大怪我ではないから安心して。しみると思うけれど、消毒しておけば自然に治ると思う」
「そうか、よかった」
「化膿するかもしれないから、まずお湯だけで綺麗にするね」
マイアは清潔なハンドタオルを洗面台の温水で濡らして、丁寧に擦り傷をそっと洗った。彼の指示に従い、棚の中にあった消毒用アルコールで拭いてから絆創膏を貼った。「終わったよ」と言って泥と血で汚れた衣類を持って離れようとすると、背を向けたままひとり言のような小さな声で彼は言った。
「髪も洗ってくれるって、約束したじゃないか……」
マイアは驚いて振り向いた。
「憶えていたの……?」
彼の背中はもっと丸くなったように見えた。後ろを向いたままだったので表情は見えなかった。
「忘れる訳はないだろう」
「私、あの翌日に約束通り、石鹸持ってきたんだよ。でも、メネゼスさんにみつかっちゃった」
そう言うと、23は振り返った。
「知ってる。その戸棚、開けてごらん」
彼女が洗面台の化粧戸棚を開けると、白いアラバスター製の石鹸箱が一つ入っていた。ふたを開けるとほとんど使い切ったようなすみれ色の石鹸が見えた。
「これ……」
「父が俺を罰するためにあそこに閉じこめた。でも、あの翌日に俺を心配した母が予定より早く館に戻してしまったんだ。何度も、わざと悪いことをしてあそこに閉じこめられるようにしたが、お前は二度と来なかった」
「来たくても来れなかったんだよ」
「わかってる。ずいぶん後になって、母が教えてくれた。お前の家族にも迷惑をかけたんだろう。すまない」
「23が悪いんじゃない。私がメネゼスさんに見つかるようなヘマさえしなかったら……」
彼は小さく笑った。
「ちゃんと約束通り、洗っただろう」
「こんなに素敵なバスルームがあるのに、なんであんなに汚くしていたの?」
マイアは父親のアパートメントの三部屋分よりも広い空間を見回した。扇形のバスタブは子供のころのマイア三姉妹が一緒に水浴びしても問題がないくらい広い。
「臍を曲げていたんだ。召使いもアントニアもみな24のことばかり褒めそやして面白くなかったんだろうな。それに噂されているのを聞いてしまって以来、背中を見られるのがイヤで風呂には入りたくなかった」
マイアははっとした。たくさんの召使いに囲まれるこの暮らしで、産まれた時から召使いに世話をされてきた彼にとっては、使用人に肌を晒して入浴すること恥ではなかった。それよりもむしろ他の人と明らかに違う背中のゆがみを見られることの方を嫌っていたのだ。彼が使用人たちと関わろうとしないでいつも一人でいたのも、噂されてひどく傷ついたからに違いない。
氣味悪がったり馬鹿にしたりしていないと、それどころか、背中がどうあっても好きだと思う心は全く変わらないと、できることならば言葉にして伝えたかった。友達としてならば、いや、使用人としてならば、それを言えたかもしれない。でも、マイアにとって23はもうただの友達でもご主人様でもなかった。
いま以上に彼に近づくことはできなかった。空間と時間で量れば彼はとても近くにいた。けれどいくら近づいても、何も知らなかった友だちから何もかも心得ている使用人へとシフトしていくだけだ。ジョアナのように何もかも任せられる、けれど家族でも女でもない存在になってしまう。ドンナ・アントニアのような存在とは違うのだ。せめて十二年前にもっと親しくなれていたら。マイアは唇を噛んだ。
けれど、先ほどの23の言葉を思い出して打ちひしがれた。あの頃、23はもうドンナ・アントニアを知っていたのだ。今ほど親しくなかった、むしろ当時はドンナ・アントニアと24の方が親しかったような口ぶりだったけれど、きっとだからこそ、当時から彼はあの美しい女性のことを見つめ続けていたに違いない。あの時に誰にも見つからずに、しつこく逢いに来れていたとしても、きっと今と変わりはなかっただろう。
同じ金の腕輪を嵌めている。あのトリンダーデで逢った老婆も、マティルダも、この腕輪を嵌めている者は親戚だと言った。でも、私はボアヴィスタ通りに住む、ドンナの称号を持つ、そして誰もが振り返る美しい女性として生まれて来なかった。バックヤードに並んでいる、召使いたちの一人にしかなれなかった。背中を見て嗤った、彼の苦手な人たちの一人。
「背中、見ちゃってごめんね」
「服の上からだって隠せないんだ。抵抗しても状況は変えられない。これが自分なんだって受け入れるしかない」
「髪、今からでもよければ、洗うよ」
マイアがそう言うと、23はしばらく何も言わなかった。彼女はどうしたらいいのかわからなくて黙って立ち尽くしていた。やがて彼は後ろを向いたままシャンプーを差し出してきた。
マイアは23の浸かっているバスタブの湯で手を湿らせて、シャンプーを泡立てた。石鹸と同じ爽やかな香りが広がった。余計なものを見ないで済むように彼の頭だけを見ながらそっと髪を洗った。
――髪も洗ってあげるね。十歳の少女の言葉は軽かった。それは庭の敷石を洗うことや縫いぐるみをきれいにするのと変わらなかった。その何げなくしてしまった約束を果たしているマイアは、誰よりも大切な人の頭に触れている。彼の命と想いを抱く特別な器。はじめて触れる彼の頭皮と黒髪。泡に輝く幾千もの虹。十歳のマイアだったら笑い声を上げて楽しく洗ったに違いない。社会階層の差も、恋も、何も知らなかった頃だったから。今は、ものも言わずにできるだけ優しく丁寧に指先を動かすだけだ。体中から溢れ出そうになる想いを堪えながら。こんなに近くにいるのに届かない、届けてはいけない想い。これが私のサウダージ。想うのを止められるならばとっくにそうしている。
激しく高鳴る心臓の鼓動が彼の耳に聞こえているのではないかと思った。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(12)礼拝
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Infante 323 黄金の枷(12)礼拝
マイアはパジャマに着替えて、窓からD河の対岸に浮かび上がるワイン倉庫街の明かりを眺めつつ、髪を梳かしていた。最後の赤い光を投げて大西洋の果てに太陽が沈んだ後、D河には人影が絶えたGの街の寂しい青い光が映る。サマータイムの設定のせいで、この時期の日暮れは九時近かった。週に二日ほど早めに仕事が上がるので、マイアは部屋の窓から陽が暮れていくのをじっくりと楽しむことが出来た。遅番はマティルダと交代なので、マイアが夕陽を見るのはいつも一人だった。心の中で彼女は、これよりもずっと下の位置、あの使われていない石造りの小屋の裏手の大きな石の上に座っていた。少年だった23が後ろから話しかけていた。
夕陽って、こんなに悲しかったのかな。マイアはひとり言をつぶやく。答えてくれる少年はもういない。夕陽の代わりに、太陽のように輝かしい彼の女神を夢みて待ちわびているのだろう。
バタバタと音がして、マティルダが戻ってきたのがわかった。マイアは振り返った。
「お疲れさま。遅かったのね」
「あ、仕事は三十分くらい前に終わったんだけれど、キッチンで遅番チームでお喋りしてたの」
マティルダはベッドの上にバフッと腰掛けると、パンプスを投げ捨てるように脱いでから大きく伸びをした。
「その話題だけれどね。今日は、本当に驚いたわ」
「何に驚いたの?」
「23よ。夕方にね、私、冷蔵庫の補充に行ったの。いつもよりトニックウォーターの減りが速いし、コーヒーも少なくなっているから、もう少したくさん注文しておきましょうかって訊いたらね」
マイアはドキッとした。例の美味しいトニックウォーターやコーヒーを減らすのに貢献しているのは間違いなく自分だ。
「そう訊いたら?」
「お前もコーヒーを飲むかって。天地がひっくり返ったかと思ったわよ」
「なんで?」
「だって、23よ。掃除や給仕の時のありがとうしか言われたことなくって、本当に取りつく島もなかったのに」
今度はマイアが驚く番だった。十二年前のことがあるから、多少は他の人より氣軽に話しかけてもらっているとは思っていたが、まさか本当にアマリアが言ったようにほぼ無言だなんて思ってもいなかったのだ。
「で、淹れてもらったんでしょう」
「ええ。もちろん。もしかしたら一生に一度かもしれないと思ったから」
「美味しかったでしょう」
「マイア、もう飲んだことあるの?」
「うん。何度も。いつも淹れてくれるよ」
「ええ~っ!」
う、この調子じゃ、ポートワインのトニックウォーター割のことは言わない方がいいわね。
「23、どうしちゃったんだろう。さっき、フィリペも首を傾げていたよ」
「何に?」
「靴の踵がすり減っているって指摘してくれて、その場で修理してくれたんだって。しかも、その間、椅子に座ってろって、コーヒーまで出してくれたって。明日はピンクの雪が降るかもと言ってたもの」
「でも、23は私がここに来たときから、親切でいい人だったよ」
「ええっ?」
そんなに驚くなんて心外だなあ。マイアはマティルダの23のイメージに戸惑っていた。
「もしかしたら、マイアの影響じゃないの?」
「私の? ううん。私、何もしていないよ」
「まあ、マイアが何かできるとは思っていないけれど。そうすると、あれかな。ドンナ・アントニアが言ったのかしら。使用人ともっと仲良くしなさいって」
それは大いにありえることだと思った。だから、私にも親切にしてくれたのかな。やだな、なんでガッカリしているんだろう、私。マイアはちらっと23の寝室の窓を眺めた。灯が漏れて鉄格子がくっきりと浮かび上がっていた。手前の窓に人影が映っていた。23だ。やっぱりGの街を見ているんだろうか。あの日に同じ夕景を眺めたように。マイアはもう夜景を見ていなかった。動かない人影を見つめていた。
日曜日の朝は、礼拝堂でミサがある。礼拝堂といっても、別の建物ではない。食堂の後ろの廊下を奥に進み、インファンテたちの居住区と反対側にもうひとつの中庭がある。そのむこうが礼拝堂だった。
祭壇の後ろは二つのアーチに囲まれた二つの薔薇窓と合計十二の縦長のステンドグラスで、朝の光が祭壇を青や赤に染めてとても美しかった。いつもやってくるボルゲス司教はサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会に所属している。彼の左手首にも金の腕輪が見えたので、それが彼がここにやってくる理由なのだと思った。オルガニストも毎週同じだった。向かって左側の二階ギャラリーにはパイプオルガンがある。二階の右側のギャラリーに23と24が座る。
内陣にある貴賓席にはドン・アルフォンソとドンナ・マヌエラが座る。使用人たちは全て身廊に座り、マイアは一番後ろに座った。
ドンナ・アントニアがある日曜日にやって来た時には案内されてドンナ・マヌエラの横に座った。その時にはじめて、マイアは二階の23と24はどうして貴賓席に座らないのだろうと思った。そもそも二人の態度はよくないとまでは言えないまでも、あまり褒められたものではなかった。24はしょっちゅう服装を直していたし、23はオルガンやステンドグラスの方を見ているばかりで司教の話をまともに聞いていないように見えた。ドンナ・マヌエラやドンナ・アントニアが信仰ぶかい様子で祈りを捧げているのを斜めに見ていた。
月曜日に23の居住区の掃除にあたっていた。全部終わったところでマイアは仕事をしている彼に訊いた。
「司教様に怒られたことない?」
「なんだ? 薮から棒に」
「ごミサのとき、23も24も不真面目だなと思って」
「ああ、そのことか。怒られないさ」
彼はあっさりと認めた。
「真面目に受けるのが嫌だからいつも二階にいるの?」
「そうじゃないよ。インファンテはいつもあそこなんだ」
「ご主人様なのに?」
「神の国の迷える子羊じゃないから、本当はミサなんか出なくてもいいんだ。だがそんな事を言うと母が騒ぐからな」
「みんな子羊だよ。私みたいな平民だってそうなんでしょう」
「お前は教会の大事な子羊さ。俺たちは違う。だから、祈ったりしないし、天国に行こうとも考えない」
「祈れば誰でも行けるんじゃないの。神父さんはいつもそう言うよ」
「洗礼も受けていないのに?」
「え?」
「言っただろう。俺たちは存在していないんだ。教会のいうところの天国にはそんな奴らの椅子はない」
考え込んでしまったマイアを見て、23は笑った。
「そんなに深刻になるな。お前が思うほど絶望的な思想を持ってはいないし、無神論者でもない」
彼女はよくわからないという顔をした。
「俺はカトリック教会や形式をありがたがっていない。教会はドラガォンと同じように人間の作った一つのシステムだ。人間のやることだからあきらかに矛盾したこともする。例えば、この街で最も豪華な教会はなんだ?」
マイアは少し考えてから答えた。
「サン・フランシスコ教会かな」
ボルサ宮殿の隣にあるその教会は、豪華な内装で有名だ。
「その通りだ。聖フランシスコの名前を戴いているからには、もともとは清貧を尊ぶ思想のもとに建てられたはずだろう。それが、貴族が自分の先祖の墓を競って壮麗にしたがり、ブラジルから運んできた黄金をこれでもかと貼付けて、世界でも有数の金ぴかの教会にしてしまった。そうなってからこれが神の威光だといわれても、素直にそうですかとは思えないだろう」
マイアは頷いた。確かにそうかも。
「神を信じていないわけではない。だが、教会のいう事、聖書に書かれていることが全て正しいとは思えない。教会も聖書も、それにキリスト教共同体も、人間の手によって作られたものだ。そんなものに意味はないしありがたがる必要もない。この館のなかにある礼拝堂も同じだ」
「それでも、23。私は日曜日の礼拝ごとに祈るよ」
「何を」
「この平和で幸せな日常が続きますようにって」
23は笑って、頷いた。
「お前らしい祈りだな。俺の分も祈っておいてくれ」
「うん」
マイアは昼食の準備のために出て行った。23はその後ろ姿をしばらく目で追っていた。
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さて、今回はマイアに視点が戻ってきています。このストーリーのちょうど半分くらいまで来ています。(まだそんなにあるのかという話はさておき)
いつだったか、cambrouseさんと盛り上がったサンドイッチを食べるシーン、ようやく登場です。それから、外伝でちらりと出てきた四角い石の話、元ネタはここでした。(その元ネタはさらにありますが)
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Infante 323 黄金の枷(11)作業
「マイア、午後からはセニョール323の所へ行くように。靴型を整理してわかりやすくしまいたいので手伝ってほしいと仰せだ」
メネゼスに言われて、マイアは喜んだ様子が顔に出ないようにするのに苦労した。
「前からやりたかったんだ。一人だとどのくらいかかるかわからないので、始められなかった」
23は淡々と言う。そうだよね。浮かれているのは、私だけだよね。マイアは恥ずかしくなった。23が逢って幸せになるのは、逢いたくて待っているのはドンナ・アントニアだものね。唇を噛んだ。それから無理矢理笑顔を作った。少なくとも今は一緒にいられるもの。たとえ単なる仕事でも。
マイアが靴型に書かれている番号と氏名、ついているメモの内容を読み上げ、23はそれを銀の小さいノートブック型コンピュータにそれを入力していく。それが済むと、マイアは箱に靴型を納めていった。しばらく作業すると23はコーヒーを淹れてくれ、しばらく休憩した。夕方までやったが、靴型の山は三分の二くらいになっただけだった。23はメネゼスに翌日もマイアを借りていいかと訊いた。その晩マイアはあまり嬉しそうで、マティルダに「どうしたの」と訊かれてしまった。
翌日マイアはまず、食堂で朝食の給仕をした後に、23の三階と二階の掃除をフルスピードで終わらせて、工房に降りてきた。
「掃除は終わったよ。昨日の続き、もうできるよ。今日、一日かかるよね、きっと」
「そうだな。時間が惜しいので昼食を作って運んでもらうことにしたが、お前の分も頼もう。それでいいか?」
「もちろん」
二人は慣れた様子で靴型をしまっていった。靴型の山はゆっくりと丘になっていった。
昼食時間になると、マイアはキッチンに行った。クラウディオが用意してあったバスケットを渡してくれた。中には二人分のクラブハウスサンドイッチが入っていた。美味しそうな香りの漂うバスケットを抱えて工房に降りて行くと、23は中庭にテーブルを出しているところだった。花が咲き乱れて美しい。
「お庭で食べるの? ピクニックみたいね」
はしゃぐマイアを見て23は笑った。
「何を飲みたい? ポートワインの白があるが、飲めるか?」
「え。飲めるけど勤務中に酔うと怒られるかな……。あ、もし炭酸飲料があるなら、それで割ってもいい?」
「炭酸飲料か……。スプライトはないが、これでもいいか?」
それはマイアが一度も見たことのないトニックウォーターだった。Fever Treeのものだ。普通のトニックウォーターと較べてマイルドで、さらに23がレモンを浮かべてくれたので、マイアがいつも飲んでいた白ワインの炭酸割と較べてずっと繊細でおいしかった。
マイアは中庭を見回した。ブーゲンビリア、ジャスミン、アラマンダ、ヒメヒマワリ、紫陽花、一重のつる薔薇、デルフィニウム、ナスタチウム。アイビーやベンジャミン、今は季節ではないので花はないが、ライラックやニワトコ、それに椿の樹がひしめいていた。一見思うがままに繁らせているかのようだが、実はよく考えられて配置・管理されていることがわかった。暗すぎず、けれどもテーブルに座る時、そして暑い午後に散歩をする時にも、直射日光に晒されないように優しい日陰を作り出していた。
「この庭、すてきだね。専門の庭師がいるの?」
「普段はフィリペがみてくれている。あいつは代々庭師の家で生まれたんだ。年に二度、あいつの父親と家族がやってきて剪定してくれる」
「24の所と全く違う庭なんだね。自分の好きなようにさせてくれるんだ」
「あいつの所はどんな庭なんだ?」
マイアは、あ、と思った。そうか。23と24はお互いの居住区にいくことは出来ないんだ。
「あっちは、フランス風っていうのかなあ。幾何学的に剪定されていて、左右対称。お花は園芸品種っぽい高そうな薔薇がメインで、どれも色ごとに決まった所に植わっているし、しかも時々、総取っ替えされている。どれも向こうまで見渡せるくらい低い植物だけなんだよ」
「そうか。あいつらしいな。そういう庭の方が好きか?」
「わたし? ううん。ああいうのも綺麗だけれど、こっちのほうがいいな。花も樹も、のびのびとしてるもの。それに、たくさん秘密が隠れていそうで、飽きないし」
ガーデンテーブルの上に置かれたワイングラスの中で踊る氷とレモン。チキンとレタスとトマトがたっぷり入った作りたてのクラブハウスサンドイッチ。
「美味しいね」
幸せそうに食べるマイアを見て、23は笑った。
「笑わないでよ。こんなしゃれたランチ、食べる機会はほとんどないんだから」
「そんなに氣にいったなら、時々、昼飯つきの作業をしてもらうことにするよ」
マイアがあまり嬉しそうな顔をしたものだから、彼は大笑いした。
食事が終わるとマイアは23と一緒に中庭を散歩した。ジャスミンの薫りがシャワーのように降った。夏がやってくる。マイアが想像もしなかった美しい季節。世界がこれほどまでに輝くとは信じられない。いつもと同じ太陽、同じ大氣、同じ若葉なのに。わずかな風のそよぎが、柔らかい新緑への光の反射が、彼女の心を震わせる。
彼に逢う度にたくさん笑って、感受性を鈍らせていた卑屈な心の錆が落ちた。幾晩も人知れず流した泪に洗われて、彼女の魂は剥き出しになった。マイアの心は、世界のどんなわずかな刺激にも豊かに反応するようになっていた。そして、この魅惑的な世界へと誘う彼と一緒にいられるわずかな時が愛おしかった。
歩いているうちに足元で何かがカツンとなった。マイアが見ると土の中に四角い石が埋まっていた。
「あれ」
23はそっとマイアの肩に手をあてて、マイアの足がその石から離れるようにした。石の上には何かが書かれている。マイアが読もうとした時に、23が口にした。
「《Et in Arcadia ego》」
「ラテン語?」
「ああ」
「あの、あそこにもあったよね」
「どこだ?」
「ほら。私たちが出会った、あの小屋の裏手。小さい石があって、こういうラテン語が彫られていたと思うんだけれど」
「そうかもしれない。実際のところ、この街とおそらく近辺の郊外にすくなくとも321は作られたはずだから」
「321? 」
23は屈んで、碑文の上をそっと撫でた。マイアは少し不安になって一緒に屈み、23の横顔を覗き込んだ。
「どういう意味なの?」
「《そして、私はアルカディアにすらいる》」
「アルカディアって?」
「古代ギリシャの理想郷のことだ」
「じゃあ、私ってだれ?」
23はマイアの方を見て言った。
「死だよ」
マイアはぎょっとして先ほど自分が踏んだ所を手で触れた。
「いいんだ。この下にあるのは存在しなかったものだから」
マイアにははっきりとわかった。この下にはインファンテの誰かが眠っているのだ。存在しなかったことになっているので、葬儀もしてもらえなければ墓標すらも立ててもらえなかった321人のうちの誰かが。そして、今ここにいる23も死んだら同じようにされるのだと。
「……なぜ?」
「誰かが冗談半分に、この有名な句を刻んだんだろうな。そして、それが伝統になってしまったんだ。街の礎の一つに、忘れられた屋敷の片隅に、この碑文の彫られた石があり、その下には人骨が埋められていることもある。だが、それについて言及されることはない」
「冗談半分ってどういうこと?」
「このラテン語の文字を並べ替えるとどうなるかわかるか?」
「並べ替える?」
「アナグラムだよ。《I tego arcana dei》」
「意味は?」
「《私は神の秘密を埋めた》」
「神の秘密……」
「こんな文句を刻んでも、ほとんどの人間は氣にもとめない。新しい家を建てる時にはブルドーザーがひっくり返していく何でもない石だ」
23は口の端を歪めた。その表情は、いつもの23とは違って、24がよく見せる冷笑にそっくりだった。二人が兄弟であること、もしくは同じインファンテであることを思い知らされるような嘲笑。シニカルで享楽的に生きる24とは全く違う性格のはずなのに、ちょっとした横顔がこんなにも似ていることにマイアはぞっとした。けれど、23が馬鹿にしてあざ笑っているのは、使用人たちでも、この碑文を考えた人たちでもなくて、彼自身なのだと感じてマイアはとても悲しくなった。そうじゃない。あなたにそんなふうでいてほしくないよ。自分自身を好きになってもらいたいよ。
「23。もし、街でこの石の碑文を見つけたら、私、ちゃんときれいにするから。花を周りに植えるから」
「花?」
「うん。三色すみれを植えるから。下に眠っている人たちが寂しくないように」
それを聞いて23は少し表情を緩めた。それから訊いた。
「なぜ三色すみれなんだ?」
マイアは言葉に詰まった。それは、23と出会ってもう腕輪をしているたった一人のおかしな子供じゃないと勇氣づけられた時に見た花だった。あの日以来、三色すみれはマイアの一番好きな花になっていた。けれど下手な事を言うと、23に自分の想いを悟られてしまうのではないかと怖れた。それでなんでもないように言った。
「私、すみれが好きなの」
彼はほっとしたように優しく笑うと答えた。
「すみれは俺も好きだ。ところで、そろそろ作業に戻ろうか」
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さて、今回はドンナ・マヌエラの回想が主になります。この小説では最後の章まで主人公の意志や想いがほとんど出てきません。この章では、例外的に母親の回想という形で少年だった頃の23の言葉がたくさん出てきます。館の中における人間関係で、23が少し特殊な閉じこもり方をしている理由のいくつかがここで明らかになります。
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Infante 323 黄金の枷(10)アヴェ・マリア
「ミニャ・セニョーラ(奥様)。ジョアナから報告がありました。マイアはやはりライサのことを訊き回っているようです」
石のように無表情で報告するメネゼスをマヌエラはちらりと見た。けれど、特に動揺した様子は見せなかった。
「それなら、以前も言ったようにかえって好都合でしょう? ここにいる限りライサの家族とは連絡が取れないんですから」
「しかし二ヶ月経ったら、休暇を与えなくてはなりません。この屋敷に留めることは不可能です。それとも、それまでに宣告を受けるとお考えですか?」
「まさか」
「それでは、いかがなさいますか」
「もうしばらく様子を見て、必要なら私から話をします。どうかそっとしておいてください」
「かしこまりました、ミニャ・セニョーラ」
メネゼスが下がると、マヌエラは机の引き出しから紙挟みを取り出して開き、一番上にあるマイアの書類を取り上げて眺めた。メネゼスが二人の応募者がいるとこの書類を持ってきた時のことを思い出した。
「一人はミカエラ・アバディス、星三つの娘です。もう一人がサントス先生の推薦してきたマイア・フェレイラという娘です」
「あなたはどちらが適任だと思うの」
「二人とも召使いとしての経験はありません。経歴からするとフェレイラの方が教えやすいと思いますし、サントス先生の推薦なら申し分ないのですが……」
「何か問題が?」
「はい、《監視人たち》側からの報告書によりますと、どうやらライサ・モタの妹と知り合いのようなのです」
「そう……」
マイアの書類をもう一度眺めたマヌエラは、はっと息を飲んだ。マイア・フェレイラ……、サントス先生の推薦……。それから記憶を遡って年齢を逆算した。この子は、あの時の……。
「メネゼス。私、このフェレイラという娘を雇おうと思うんだけれど」
「ミニャ・セニョーラ? いいのですか?」
「この館にいれば、監視も行き届くしちょうどいいんじゃないかしら。それに、憶えている? この子は、あの石鹸を持ってきた子でしょう」
メネゼスもはっとした。それから、女主人の意図がわかったので、深々と頭を下げた。
彼女はメネゼスの出て行ったドアをしばらく見ていた。そして、書類を強く握りしめていたことに氣がつき、手を離すとゆっくりと手のひらを動かして作ってしまった皺を伸ばした。マイアの名前のところで手を止めて、その名をなぞった。
十二年前、それは突然始まった。洗濯を担当する召使いが報告にやってきた。23が「寝ている間に下着を汚してしまった」と戸惑っていると。声変わりも始まっていたし、アルフォンソが先に同じようになったので、マヌエラには23も思春期が始まったのか程度にしか思えなかったのだが、夫であるカルルシュは青ざめた。「ついにその時が来てしまったか」
それから、館では大きな変化があった。現在24の居住区となっている所に住んでいたカルルシュの弟、インファンテ322がボアヴィスタ通りの別邸宅に遷ることになった。そして、誰も住んでいなかった隣の居住区に23の部屋にあった全てが移され、十四歳になったばかりの少年は鉄格子の向こうに閉じこめられた。
23はそれまでずっと手のかからない子供だった。少々内向的だとは思っていたが、彼女は心配もしていなかった。病氣がちだった夫と心臓疾患を抱えるアルフォンソ、甘える末っ子の24に忙殺されていたマヌエラには、その時間もなかった。閉じこめられたくないという子供の氣もちは痛いほどわかったが、父親である当主のカルルシュにすらどうすることも出来ない伝統だと言われ、そのことを考えるのはやめていた。直に背中が痛い、体が重いと訴えた彼を、誰もが鉄格子から出たいがための仮病だと決めつけた。それから高熱が出て、医者がやってきてくる病だと診断するまで、誰も彼の訴えを真面目に取り合わなかった。
その時には脊椎後湾はずいぶんと進んでいた。もともと内向的で外に出たがらなかったために日光不足でビタミンDが不足していたのだ。閉じこめられてさらに日照量が減ったことも大きく作用した。マヌエラはそんなことになるまで我が子の状態に氣がつかなかったことに愕然とした。そして、さらにもっと厳しい現実を突きつけられることになった。インファンテは法律上は存在していないので、入院も手術もできなかったのだ。もし、アルフォンソが健康であったなら、彼の名前で手術することが出来たかもしれない。だが、アルフォンソは一ヶ月と開けずに入退院を繰り返していた。
悪いことが続いた。脊椎後湾に対する使用人の心ない噂話を23は耳にしてしまった。いずれは自分も同じ待遇になると夢にも思わなかった24が格子の向こうの兄をあざ笑い、背中に関する意地の悪い言葉を投げつけた。叱責はこれらの再発は防いでも、既に発せられてしまった言葉を取り消すことは出来なかった。傷ついた23は体を見せることを嫌がり、風呂に入らなくなった。医師に処方されたサプリメントを勝手に過剰摂取して副作用の嘔吐と高熱にも苦しんだ。
部屋をめちゃめちゃにし、教師の命じた課題をやらなくなり、これまで言ったことのない悪い言葉を遣い、食事の時に出してもらえると頻繁に24と取っ組み合いのけんかをして皿やコップを壊した。手を焼いた父親のカルルシュは、23が問題を起こす度に暗くて寒い元倉庫に閉じこめた。マヌエラが懇願して出来るだけ早く館に戻してもらったが、彼の蛮行はひどくなる一方だった。
その23が急に風呂にだけは入るようになった。以前は当たり前だった使用人の手伝いを一切拒否し、一人で長いこと入っているとジョアナから聞き、マヌエラは様子を見に行くことにした。
そっと浴室のドアを開けて覗くと、23は肌が赤くなるほど強く体をこすり、嗚咽を漏らしながら髪を洗っていた。
「ちゃんと洗っているのに、こないじゃないか……」
マヌエラはそのつぶやきを聞いてすぐに理解した。二週間ほど前にメネゼスから報告を受けていた少女のことだと。生け垣から忍び込み、見つけたメネゼスが即座につまみ出したという少女は、元倉庫の裏手で23を探していたらしい。
「ごめんなさい。勝手に忍び込んだりして。でも、泥棒じゃないんです。夕陽を観に来て、友達になった子がいるんです」
「いい加減なことをいうな。ここに子供なんかいない」
「嘘じゃないわ。あそこの窓の所にいたもの」
なんてことだ。それでは、彼に逢ってしまったのか。メネゼスは心の中で舌打をした。
少女はポケットから重そうに紫色の石鹸を取り出した。それは小さな少女の両手からはみ出すほど大きかった。
「これ、あの子に持ってきてあげるって約束したんです。逢わせてもらえないなら、あの子に渡してください」
メネゼスはその時になって初めて少女の左手首に腕輪がついているのに氣がついた。助かった。《星のある子供たち》の一人ならすぐに素性がわかる。
「よろしい。渡してあげるが、誰からと伝えなくてはならない。お前の名前は」
「マイア。マイア・フェレイラです」
「もう二度と忍び込んだりしないと約束できるか」
「……。はい」
メネゼスの連絡を受けて、《監視人たち》の本部はすぐに動いた。マイアの家族はナウ・ヴィトーリア通りに引越すことになった。街の東端にある地区で子供の足でドラガォンの館まで歩くのは不可能だ。そして生け垣はもう誰も忍び込めないようにすぐに修復された。
侵入者はドラガォンにとっては排除すべき邪魔者に過ぎなかったし、マヌエラ自身もその報告を受けた時にそれが息子を悲しませることになるとは夢にも思っていなかった。23は新しい使用人にひどく人見知りをするので、知らない子供と友達になりたがるなどとは思っていなかったから。けれど、彼は少女を待っていた。
彼女はドアを開けて、バスルームへ入っていった。彼ははっとして動きを止めた。濡れるのも構わず、マヌエラは息子を抱きしめて泣いた。
「あの子はね。お前がイヤで来ないんじゃないの。お前に会いに来たのに、メネゼスに見つかってしまって、近づけないように遠くヘ引越させられてしまったの。メウ・トレース、お前のきもちをわかっていなかった私を許してちょうだい」
その夕方、彼は大きなすみれ色の石鹸を母の手から受け取った。それは、彼の手にもずっしりと重かった。彼は壊れやすいガラス細工に触れるようにそっとなでた。
「どんな子だったの?」
「健康そうだった。笑顔がかわいかった。軽やかに走っている姿は鹿みたいだった。あの夕陽の光景が好きで、こんな姿の俺にもイヤな顔をしなかった」
「あなたの初恋ね」
「そんなんじゃないよ!」
そういってから、声を荒げたことを後悔して項垂れた。
「……友達ができると思ったんだ。本に書いてあるみたいに……」
それを聞いて、マヌエラはようやく思い至った。外に出ることのない三兄弟には友達がいない。自分には禁じられなかったが故に、そこまで渇望したことのない友という存在を、持つことが許されなかった23がどれほど必要としていたのかを。
彼は格子のはまった窓から暮れていくD河を眺めながらぽつりと言った。
「ねえ、母上。教えてよ。どうしてなんだろう」
「メウ・トレース?」
「動物みたいに檻に入れられて。せっかくできた友達も遠ざけられて。父上もメネゼスも禁止するか罰するばかり。いつでもいい子じゃないのはアルフォンソや24だって同じなのに、どうして俺だけみんなに嫌われるんだろう」
マヌエラは驚いて言った。
「何を言うの。誰もお前のことを嫌ったりしていないわ。理不尽なことだけれど、これは全てドラガォンの伝統で……」
23はその言葉を遮った。
「母上。無理して慰めないでよ。俺を見るみんなの表情を見ればわかるんだ。話し方や、時間のとり方だって違う。アルフォンソは宿題をしないで寝ていてもいいし、24は悪戯をしてもみんなに可愛がられる。母上もアントニアも24と話す時はいつも笑顔だよ。でも、俺のことは動物が噛みつかないか心配するみたいに見るんだ」
「メウ・トレース、違うの、私は閉じこめられたお前が不憫で……」
「いいよ。困らせるようなことを言ってごめんなさい。もう言わないよ」
兄であるアルフォンソはプリンシピであるが故に閉じこめられることはなかった。弟の24は23と同じ運命にあったが、まだその時期に来ていなかった。だがそれを説明した所で彼の心の傷が癒えるわけではなかった。アルフォンソは心臓病のため常にいたわられ、24は天性の甘え上手で屋敷の全ての大人たちに愛されていた。内向的で打ち解けない23に対しては、部屋の隅でひとり本を読んでいる姿に安心して、あえて話しかけたり一緒の時間を過ごそうとする人はほとんどなかった。マヌエラ自身も。
そのことに一人で心を悩ませてきた少年は、閉じこめられたことで自己否定のループにはまり込んでいた。父親と兄の健康状態は深刻だったが、彼の症状は生命には関わらないという理由で放置され、それが自分の価値が低いからだと思うようになっていた。友達がいないことに加え、嫌われることを怖れて悩みを誰にも話せなくなっていた。マヌエラはずっと子供たちを等しく愛していると自信を持っていたし、全ての子供たちのことを理解していると信じていた。本当は何もわかっていなかったのだ。
息子の誤解を解こうとするマヌエラにそれ以上言わせまいと23は話題を変えた。
「あの子はGの街に引越したの?」
「いいえ。河や海からは離れた所よ」
「じゃあ、もうD河に沈む夕陽は見られないの?」
「見られないでしょうね……」
「そんなの、ひどいよ! 元に戻してあげてよ」
マヌエラは23の剣幕にたじろいだ。
「メウ・トレース。あの子のお父さんは新しい職場で働きだしたし、あの子と妹たちはもう新しい学校に通っているの。《監視人たち》の中枢部が動いてしまったら、もう物事は簡単には動かせないの。かわいそうだけれど、私にもお父様にももうどうすることもできないの」
23はひどく項垂れた。
「俺が話しかけたりしたから……」
その少女が二度と来られないと理解してから、23は一切問題を起こさなくなった。悪い言葉を口にしたり、24と取っ組み合いのけんかをすることもなくなった。あのひどい反抗が、再びあの小屋に閉じこめてもらうための彼なりの努力だったことを知ってマヌエラの心はひどく痛んだ。友達がほしいという言葉を二度と口にすることもなかった。檻から出してほしいと頼むこともなくなった。
「ようやくわかってくれたか」
カルルシュは申しわけなさそうに息子を抱きしめた。23は表情を変えずに黙り込んでいた。
あれから十二年が経った。23がマヌエラの人生に苦悩を投げかけたのは、後にも先にもあの時だけだった。けれど彼女にはわかっていた。息子の抱えている問題が解決したわけではないことを。むしろそれが深く潜っていってしまったことを。友達という名のわかりあえる誰かを求めて怯えながら伸ばした手を、握り返してくれようとした小さな手を無情に取り除かれてしまったがために、もう二度と伸ばそうとすらしなくなってしまった。
牢獄のような鉄格子の向こうから、ギターラの音色が響いてきた。ほとんど誰とも関わろうとしない23が唯一見せる感情の発露、それがギターラを爪弾くことだった。いま弾いているのは「シューベルトのアヴェ・マリア」とも呼ばれる「エレンの歌第三番」。「アヴェ・マリア」マヌエラはつぶやいた。私はあなたに祈ります。どうか私の試みが、あの子を再び傷つけたりしないようにお守りください。
ドラガォンと《監視人たち》が当主、プリンシピ、インファンテたちに求めているものは単純で明確だった。「竜の血脈」を繋ぐ子孫を作り出すこと。相手が誰でも構わなければ、それによって本人が幸せかどうかも関係なかった。たぶんメネゼスが彼女の意志を後押ししてくれたのも同じ理由からに違いない。
けれど、母が我が子に望むのは機械的な伝統などではなかった。そんな冷たい伝統につぶされてしまいそうな魂に、真の幸福をつかませてやりたいという願いだった。マイア・フェレイラが自分の意志でここを目指していることを知った時に、彼女は決心したのだ。振り子を動かす最初の力を加えてやろうと。あの時から止まってしまっている23の魂の時計を再び脈打たせてやるために。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(9)ドンナ・アントニア
今回、ようやく重要人物が全部揃いました。ドンナ・アントニアはダブル・ヒロイン制で書くことを予定しているこの三部作の最後の小説『Filigrana 金細工の心』のヒロインの一人です。……なんですけれど。読んでくださっている方からブーイングが上がりそう。
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Infante 323 黄金の枷(9)ドンナ・アントニア
マイアはピカピカになったバスルームを満足げに見回した。流しの二つの金色の水栓は曇りなく輝いていたし、鏡にも浴槽やタイルにも水滴一つ残っていなかった。オーク製の浴槽プラットフォームは丁寧に水拭きした。二面の壁から扇形に広がっている大きな浴槽の縁にオークと大理石を使った石鹸台があり、そこに白い石鹸がぽつんと載っていた。ああ、これの香りだ。マイアは23の側を通る時、それから洗濯物を扱う時に感じるほのかで爽やかな香りの源を発見した。開けたばかりらしくREAL SABOARIAという刻印が読めた。「本物の石鹸工場」かあ。どう考えても最高級品に決まっているのに飾りっけが全くないんだなあ。この居住区そのままね。
23の居住区の掃除は、24の所と較べて楽だった。散らかるほどのものを持っていなかったし、使ったものを掃除をする召使いの迷惑にならないように、自分で片付けているからだった。例外が靴工房で、ここだけは大量の靴型や革や道具があり乱雑というわけではないが、多くの物があって本人に言われない限り不可侵エリアのため、ほこりをかぶっている所もあった。
掃除にやってくる他の召使いたちは23とほとんど口をきいたこともなかったので、「今日は工房の方の埃をとってほしい」と言われたこともなかったらしいのだが、マイアは掃除の度に工房に降りてきて何かと話しかけるので頼みやすいらしかった。
「悪いが、そこの革置き場もやってくれないか」
「もちろん!」
前回は23が黙々と靴を叩いている音を聴きながら、丸めて立ててある革を少しずつ取り出して、掃除をしていった。自分が役に立っているのは誇らしかったし、終わると23がコーヒーを淹れてくれたのも嬉しかった。
それにしても、23の所の掃除をする時にどうしてこんなにウキウキするのだろう。三階と二階の掃除が終わり、一階の掃除をするために降りていく。仕事をしている彼が顔を上げて笑顔を見せるその瞬間、話しかけると手を休めて答えてくれること、普通の掃除が終わりもう少し話したいのになと思っていると別の用事を頼んでくれてもう少し側にいられること、そのすべてが何とも言えない歓びを伴っていた。
逢えなかった十二年間、マイアはずっと23のことを大切な仲間だと思っていた。腕輪を嵌めさせられている理不尽さを分かち合えるたった一人の大事な友達だと。ガッカリすることがある度に、心の中であの汚いけれど悲しい目をした少年に話しかけてきた。他の誰にわかってもらえなくても23だけはわかってくれると。それでいて、これは空想の中の友達に過ぎないのだと思ってもいた。たった一度会っただけの自分のことを憶えていてくれるかも怪しいと思っていた。トリンダーデの占いをする女に、青い宝石が四つ付いている腕輪をしているのはインファンテだと教えられてから、その想いはますます強くなった。召使いと贅沢に囲まれて、みすぼらしい女の子と話したことなど忘れてしまっているだろうと。
だから、23がちゃんと憶えていてくれたこと、あの時と同じように友達として話しかけてくれたことがとても嬉しかった。仕事のことを教えてくれ、靴を作ってくれ、それに、ライサのことを聞き回って館のなかで窮地に追いこまれるのを心配してくれた。空想の友達ではなくて、実在する大事な存在だった。ライサのことを心配する氣持ちもわかってくれると確信できた。たとえ言う事を禁じられているとしても。
この日はミシン周りを頼まれた。部品ひとつひとつを布で拭きながら、マイアは考え込んでいた。23の方を振り返りつつ、彼女はここしばらく言おうか悩んでいた問いを口にした。
「ねえ。ライサのこと、どうあっても、教えてくれないの?」
23は型紙を裁断する手を止めて、マイアの方をまともに見た。マイアは慎重にしなくてはならない作業の邪魔をしたことに氣がついて慌てた。
「あ、ごめんなさい」
それについては何も言わずに23は続けた。
「お前、俺のことを信用できるのか」
「え?」
「俺がお前を納得させるためだけに、でたらめを教えると思わないのか?」
「思わないよ」
「何故」
マイアにはその質問は想像もできなかった。マイアは23を100%信用していた。それは理屈ではなかった。十二年間話しかけ続けてきたたった一人の頼れる友達、23はその心の友が現実の人間としてそこになっている存在だったから。けれど、23にそう訊かれてマイアはその近さは自分だけが感じているものなのかと戸惑った。
「なぜって……。だって、あなたはいい人だもの。見ていればわかるよ。でたらめを言う人なら、とっくに言ったでしょう? それに、下手に嗅ぎ回ると追い出されるって忠告もしてくれたじゃない」
23はため息をついた。
「今は何も言えない」
「今は……?」
「約束する。言えるようになったら、教えてやる。だから、今は何もせずに待ってくれないか」
マイアはほっと息をついた。やっぱり、味方をしてくれるんだ。それだけでもよかった。でも……。
「でも、ライサが無事なのか、心配なの」
「わかっている。そのことは心配しなくていい。お前と同じようにライサのことを氣にかけている味方の所にいる。危険はない」
「本当に?」
「ああ、でも、お前やライサの妹が下手に動き回ったり探したりすると、《監視人たち》が彼女を別の所に遷す可能性がある。そうなったら、俺の所には情報も入らなくなるし安全の保証もできなくなるんだ」
マイアはしばらく下を向いて唇を噛んでいたが、やがて顔を上げた。
「わかった。私、あなたを信じる。そのかわり……」
「わかっている。時が来たら、必ず話す」
そう言って、彼は型紙裁断の作業に戻った。
掃除を済ませ、鉄格子に鍵をかけているところにメネゼスがやってきた。
「ああ、ちょうどよかった。セニョール323のところへ行って奥様の伝言を伝えてきなさい」
「なんと?」
「ドンナ・アントニアがおいでで、いま母屋三階の居間で奥様とお話中なのだ。セニョール323を呼んでくるようにと仰せだ」
「わかりました」
「よいか、伝言して鍵を開けるだけではなく、必ず居間までご一緒するように」
つまり、籠の鳥が逃げださないように注意しろって言っているわけね。マイアは心の中でつぶやいた。
マイアは再び鍵を開け閉めしてから、工房に降りて行き23を呼んだ。
「ドンナ・アントニアとおっしゃる方がお見えで、奥様の居間でお待ちだそうです。どうぞおいで下さいって」
23は肩をすくめた。
「いま手が離せないんだ。後でここに来るように、彼女に伝えてくれ」
彼女は頷くと、ドンナ・マヌエラの使っている居間へと向かった。城と言っても構わないこの大きな館で、当主であるドン・アルフォンソとその母親であるドンナ・マヌエラの生活空間である母屋の三階は、ジョアナとクリスティーナが掃除を担当していたので、マイアはあまり慣れていなかった。絨毯の敷かれた廊下にも十六世紀の中国の壺や、金箔の貼られた額に入った大きな風景画などがあり、床や壁に使われている石も高価な大理石だった。マイアは落ち着かない心持ちで居間へと急ぎ扉をノックした。
「ミニャ・セニョーラ。失礼します」
「どうぞ、お入りなさい」
コーヒーをサーブしていたメネゼスが少し驚いた顔をした。セニョール323はどうしたのだと顔が訴えていた。マイアは恐縮しながら言った。
「伝言を申し上げたのですが、『いま手が離せないので、後でここに来てほしい』と仰せでした」
ドンナ・マヌエラの隣に座っていた女性が声を立てて笑った。マイアははっとした。黒髪を高く結い上げているほっそりとした若い婦人で、赤と黒の鋭利なシルエットのワンピースを優雅に着こなしていた。黒い眉は細い三日月型に整えられていてきりっとしているが、水色の瞳がより柔らかな印象に変えている。マイアが今まで見たことのある女性の中でおそらく一番美しい完璧な容貌の持ち主だった。
「それなら今から行きましょう。案内してくださる?」
すっと立ち上がったその動きはとても優雅だった。マイアが見上げるほどに背が高いのは、履いている赤いハイヒールのせいでもあった。
メネゼスがマイアに言った。
「ご案内しなさい。ドンナ・アントニアがお出になる時までお前は扉のところで待機していなさい」
マイアは頷いた。
案内するまでもなく、ドンナ・アントニアは慣れた足取りで23の居住区に向かった。
「あなた、はじめてよね。新しく入ったの?」
「はい。フェレイラと申します」
「そう、よろしくね」
鍵を開けて扉を開くと、彼女は勝手知ったる様子で工房へ降りて行った。マイアは扉に再び鍵をかけた。ドンナ・アントニアが23に対してドンナ・マヌエラと同じように「メウ・トレース」と呼びかけた。
「待ちかねてたかしら?」
「わかりきったことを訊くな。アントニア」
23の親しげな声。二人は庭に行ってしまったらしく、後の会話は聞こえなかった。だが、しばらくするとギターラの音色が聞こえてきた。
その曲はマイアも知っていた。映画「青い年」のテーマ曲だ。彼がこんなに強い情念を込めて弾くなんて想像もしなかった。普段、マイアに小言を言ったり、靴を作っている23とは別人のようだった。澄んだ迷いのない音色だった。冬のドン・ルイス一世橋のてっぺんから眺めたPの街のようにくっきりとした美しさだった。はっきりとした言葉遣いの一つひとつ、飾りけのない装い、孤高の佇まいが音色と重なる。マイアは鉄格子をつかんだ。切なく美しい旋律に心が痛くなる。けれど、彼はただ一人の観客、ドンナ・アントニアのために弾いているのだ。
曲が終わってからしばらくしても、マイアは鉄格子に額を押し付けてギターラの余韻を感じ続けていた。どうしてこんなに苦しいんだろう。
二人の声が近づいてきた。階下の階段の近くにまで来ている。柔らかいドンナ・アントニアのささやきと、23の低いつぶやきがわずかに聞こえてくる。マイアはあわてて、まっすぐに立ち直した。二人は別れを惜しんでいるようだった。
「メウ・トレース。キスをしてくれないの?」
それからしばらくの間、二人の声が途絶えた。マイアはうつむいた。……そうだったんだ。体の中心、とても深いところに大きな石を抱えているようだった。
ずっとわからないフリをしてきた。けれど、とても重くなってしまい、もはやなかったことには出来なくなっていた。人を好きになるのって、こういうことだったんだ。「お父さんや妹たちが好き」「パステイス・デ・ナタは大好きだからいくつでも食べられる」「とてもきれいなこの街が好き」マイアが当たり前のように遣ってきた言葉と同じ「好き」だから、きっと甘くて楽しくて幸せな感情なのだと思っていた。全く違う。息ができない。締め付けられて動くことも出来ない。
直に二人は階段を上がってきて、鉄格子の前に立った。マイアは、鍵をまわしてドンナ・アントニアのために扉を開けた。その時にとてもきつく握りしめていたために手のひらに赤く鍵の痕がついてしまっていることに氣がついた。再び鍵をかけた時、23と目が合った。彼の表情には大きな変化は見られなかったが、悲しい瞳をしていると思った。
マイアは晩餐の給仕にもあたっていた。普段は朝食と午餐の給仕のみだが、ホセ・ルイスとクリスティーナが休暇なのだ。一緒に給仕を担当したフィリペとマティルダ、それにメネゼスはハラハラすることになった。マイアは水をつぐグラスとヴィーニョ・ヴェルデを注ぐグラスを間違えたし、野菜のスープをよそう時に皿に添えた自分の手にかけて火傷をしそうになった。ドン・アルフォンソに「今日はどうした」と指摘されて平謝りしたが、
一日が終わると、マイアはくたくただった。
「今日はどうしたの、マイア」
マティルダが部屋に戻ってから訊いた。
「なんでもない。でも、たくさん失敗しちゃった」
「どこか具合が悪いんじゃない?」
うん。胸が苦しい。マイアは無理に笑った。
「さっきまで、胃が痛かったの。でも、もう大丈夫。今日は、ドンナ・アントニアがいらしたり、奥様の居間に一人で行ったりと、はじめてのことが多かったから、疲れちゃったのかも」
「あら、ドンナ・アントニアにお逢いしたのね。いいなあ。私、あの方にものすごく憧れているのよね。お優しかったでしょう?」
「ええ、とても」
「ドンナ・アントニアは本当の貴婦人よね。ああいう方を見ると、やっぱりクラスってあるんだと思うわ」
マティルダが夢みるように言った。
「よくいらっしゃるの?」
「そうね。二週間に一度くらいかしら。もっと頻繁にいらっしゃることもあるけれど」
「遠くにお住まいなの?」
「いいえ。ボアヴィスタ通りのお屋敷ですって」
ボアヴィスタ通りはPの街でもっとも長い通りで、古い城塞カステロ・デ・ケージョまで続いている。有数の豪邸が建ち並ぶ場所だ。マイアが肩をすくめたのを見てマティルダは左手首の腕輪を見せて笑った。
「どっかに同じ血が流れていると言っても、えらい違いよね」
マイアは23のことを浮浪者の子供だと思っていた。でもそんなことはどうでもいい、あの子とはいい友達になれる。だって、私たちには同じ金の腕輪が嵌まっているから。彼がインファンテだったと知るまで、彼女はずっとそう思っていた。この館の中で腕輪は特別なものではなかった。23には腕輪をしていない人間の方がずっと珍しい存在なのだ。ドンナ・アントニアの手首にも金の腕輪は輝いていた。輝いていたのは腕輪だけではなかった。どちらかというと貧しい家庭で育ったマイアだからこそ、「女」と「貴婦人」の違いがわかる。名前だけの問題ではなかった。マティルダの言う通りだった。
あきらめなくてはいけない。あきらめるのは得意のはず。子供の頃から慣らされてきたもの。マイアは窓の外を眺めた。大きな月がD河の上に映っていた。23のために、この館に来たんじゃないもの。ライサのことに心を集中させよう。
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この作品を作る時に注意したのは、社会的に特殊な状況で育った人間を、自分の(社会的な)常識をもとにした行動をさせてはならないということでした。人間関係には適切な距離(空間上でも、感覚でも)がありますよね。その距離感は幼少の頃からの社会生活の中で培われるものなので、その社会生活を禁じられた人間はそれがよくわからないはずだと思ったのです。主人公が他人とまともに話もしなかったかと思えば、「いきなりそれか」になってしまうのは、そういうわけです。で、もちろんヒロインは大混乱。
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Infante 323 黄金の枷(8)小言
マイアは考え事をしながらベッドメイキングをしていた。来たばかりの頃は、インファンテたちの巨大なベッドを整えるのは何よりも苦手な仕事だった。数日に一度シーツ類を完全にとりかえる時はまだいいのだが、一度眠った後のずれた布団やシーツでのベッドメイキングがうまくいかなかった。
初日に24のところをアマリアがやっているのを見た時には簡単に見えたのに、23のところで一人でやったら変になってしまった。24のベッドと違って、23はかなり行儀よく寝ているように見えたにも関わらず。
次に行った時には、23が待ち構えていた。
「いったいどうやったらあんなベッドメイキングになるんだ」
目の前でやらされて、ずれていたシーツをそのままマットレスの下に押し込もうとしたのを、まず止められた。
「そんな横着があるか。一度全部出して、上下左右をきちんとひっぱって中心線を整えてから押し込むんだ」
23が実践してみせる方法を、確かにアマリアもやっていたように思う。23が続けてやってみせたのはその折り方だった。きちんと角を揃えて折り込まれたシーツはマットレスの下にきれいに収まった。
目の前で動く23の姿を見て、マイアは変だなと思った。背中が丸いのだ。不自然に猫背に思える。いや、正確に言うと、変だなと思ったのはこれがはじめてではなかった。二日前、一階を掃除していた時にも思った。23は晴れている日は、休憩する度に中庭に出て行くのだが、上を見上げているのにまだ猫背に見えていた。しかし、わざわざ指摘すべきことにも思えなかったので、黙っていた。訊きたいことは他にあったのだ。
「なんで23、私たちの仕事のやり方みんな知っているの?」
「そりゃ、子供の頃からずっと目にしているからな。十六歳で靴の仕事を始めるまでは、毎日ヒマだったんだ」
「新しく入ってくる召使いに、いつもこうやって指導しているの?」
「するわけないだろう。お前みたいにめちゃくちゃな新人ははじめてだ」
う。そうなんだ。マティルダは始めから上手にできたのかな。それにライサも。23はライサとはどんなことを話したんだろう。
今日、23の指導の甲斐あってすっかり上手になったベッドメイキングをしながら考えていたのはライサのことだった。マイアはライサに一度も逢ったことがなかった。マリアが「いつか引き合わせるわ」と言っていたが、それは実現しなかった。ライサは二ヶ月働くと一週間帰れるのだと話していたという。「ドラガォンの館」と就労契約を結んだ時に、マイアもメネゼスから同じ事を言われていた。実際に、同僚たちは順番に休暇を取っていて、間もなくアマリアが出かけるところだった。
ライサが休暇で戻ってきた時に、あえてマイアと逢いたがらなかったことの理由は想像できる。マリアは「お館であったことは一切話しちゃいけないって何も話してくれない」と言っていた。誓約に縛られて何も言わないつもりだったのだろう。でも、わざわざ引き合わされた金の腕輪をした娘に、黙りを決め込むのは難しい。だからライサはマリアの提案を断ったのだろう。
ライサが最後に休暇で戻ってきたのは一年ほど前だった。もともと休暇以外でライサと連絡を取ることは不可能だったし、次にいつ帰ってくるという約束をして「ドラガォンの館」ヘと戻っていったわけではない。そうであっても一年も音沙汰がないのにマリアと家族に心配するなというのも無理な話だろう。帰って来ない理由を聞くために館に連絡しても「お話しすることはありません」と言われるだけだった。
そのうちに「ドラガォンの館」が再び使用人を探しているという話が耳に入ってきた。マリアは銀行に勤めているのだが、それでもとにかく応募しようとした。けれど、ライサの推薦状を書いてくれたホームドクターに、私にも推薦状を書いてほしいと掛け合ったところ、即座に断られた。
「あそこは腕輪をしていることが就職の最低条件なんだよ」
その話をマリアから聞いたマイアは自分の腕輪を見た。そしてマリアに言ったのだ。
「じゃあ、私が応募する。腕輪しているもの」
23は「ライサのことをおおっぴらに嗅ぎ回るな」とマイアに忠告した。はじめはそれしか言ってくれなかったが、一昨日再び訊いたら、ライサがここで働いていたことはあっさりと認めた。いつまでここにいたのかとなおも問いつめると「一年くらい前だ」と答えた。今はどこにいるのかと訊くと「俺が答えると思っているのか」と訊き返された。思ってるから訊いているんだけれどな。
ベッドメイキングが終わり、掃除機をかけ、バスルームもきれいにした。もともと散らかっていないから楽だとはいえ、やはり慣れたのだ。ずっと早く、上手に掃除ができるようになっていた。少しでも上手になると、23はきちんと褒めてくれた。それが嬉しくてマイアは言われたことをこなそうと努力した。一人ではこんなに早くいろいろなことが出来るようにならなかった。
取り替えて洗濯室へと持っていくはずのシーツを抱えたマイアを24が呼び止めた。
「駒鳥の羽ばたきに関する詩を作った所なんだ。朗読するから聴かないか」
またか。マイアは困ったなと思った。24の作る詩は前衛的すぎて、どう感想を述べていいのかわからないのだ。しかも、詩の話をしていたはずなのに、いつの間にか話題が服装のことに移っていたり、デザイン自慢にすり替わっていたりするのだ。しかし、24の仕事であるデザインと来たら、見事なまでに個性がない。つまり「インファンテは名をなすような仕事はしてはならない」と23の言っていた条件を立派に具現しているのだが、口が裂けてもそんなことはいえない。
それにもましてマイアが苦手なのは、24がドン・アルフォンソや23の容姿を馬鹿にすることだった。ドン・アルフォンソは太っているけれど、心臓が悪くてスポーツはできないからだし、23はマイアにはちっとも醜くなかった。むしろ自分が美しいと言われたことがほとんどなかったために、美貌を鼻にかけている24に反感を持った。相槌は死んでも打ちたくないけれど、かといって反論するのも面倒だった。なんといっても、24もまたご主人様なのだから。
そんなわけで、彼女は24が苦手になっていた。アマリアやマティルダのように上手にかわすことができなくて、マイアが戸惑っていると、そこに彼女がいるのを察知した23が「フェレイラ!」と怒りぎみに工房から上がってきた。
「あ、メウ・セニョール、なんでしょうか」
「なんだ、24と話をしているのか。失礼。終わったらこっちにも寄れ。いう事がある」
そういって、三階に上がっていってしまった。
「すみません、メウ・セニョール。またお小言を頂戴するみたいです。ちょっと行ってきます」
逃げだす口実を見つけたマイアはこれ幸いと24に言い訳をした。彼は肩をすくめた。
「君も大変だね、新人ちゃん。いいよ、行っておいで」
23のところに入っていき、恐る恐る三階の踊り場から寝室を覗き込むと、昨日マイアがアイロンがけをした白いシャツを二枚、両手にもって仁王立ちしていた。
「なんだこのアイロンがけは。変な皺がいっぱいついているじゃないか」
マイアは口を尖らせた。
「だって。こんなに襞のたくさんあるシャツ、アイロン掛けたことないんだもの」
23は呆れた顔をした。それからマイアの抱えているシーツの山を眺めて言った。
「それをさっさと洗濯室に持っていけ。それから、そっちの仕事が終わったら、アイロン台を持ってここにもう一度来い」
「え?」
「こんなひどいアイロン掛けを見たら母は卒倒するぞ。特訓してやる」
洗濯室に行って、その事を言うとその場にいたクリスティーナとジョアンは顔を見合わせてから、どっと笑った。
「ここはもういいから、すぐにアイロン台を持っていってらっしゃい」
クリスティーナは目元の涙を拭っている。そんなに笑わなくても……。そこまでひどいのかなあ、マイアは首を傾げつつ、アイロン台とアイロンを抱えて、再び23の居住区に行った。
「霧吹きはどこだ」
「あ。忘れてきちゃった」
「しょうがないな」
23は工房に行って、霧吹きを調達してきた。
「やってみろ」
「うん」
マイアは、シャツをアイロン台に載せて霧を吹きかけた。
「近すぎる。一部分だけびしょ濡れだ」
「あ、そうか」
「ちょっと待て。いきなり身頃から掛けるヤツがあるか」
はじめから指摘が相次ぐ。
「どこから掛けるの?」
「細かいところから。襟や袖口だ」
23は一つひとつ丁寧に説明した。襟を裏返し、端を引っ張りながらアイロンを滑らせる。皺の伸びた状態で表に返して、再び霧吹きで湿らせてから表の襟にアイロンを掛けると、ねじれもなく綺麗になる。袖口も同じ要領だが、マイアがボタンをかけたまま掛けようとしたのでまた止められた。
袖を掛けることになった。裏返し、袖下の縫い目を両手で押さえてから伸ばし、手で皺を伸ばす。袖口から肩の方向にゆっくりとかけていく。
「そうだ。少し先を浮かせるように。アイロンは揺らさないでまっすぐに動かせ。おい、左できちんと押さえないと」
突然、23はマイアの後ろに回った。左手で彼女の左手に重ねて肩山をきちんと押さえさせ、アイロンを誘導するように柄を持つマイアの右手にがっちりとした手のひらを重ねた。
「ほら、この左手でわずかに引っ張るようにして持つんだ」
声はマイアの右耳のすぐ後ろからした。背中は彼には触れていないのにわずかに暖かさを感じた。靴の型を取ってもらった時と同じだった。彼は淡々と説明をしているだけなのに、マイアは心臓が飛び出しそうなほど強い鼓動を感じている。まるで後ろから抱きすくめられているみたいだ。左手首の二つの腕輪が触れて小さい音がした。
アイロンどころではなくなってしまい、上手く力が入らない。アイロンをほとんど動かしていないのを感じ取った23はため息をついた。
「お前、ちゃんと覚える氣はあるのか」
「あ、ごめんなさい」
マイアは恥じた。わざわざ教えてくれているのに、ドキドキしている場合じゃなかった。ポンポン言われるのはほんの少し腹立たしいが、23の言っていることは一々理にかなっている。
午後にバックヤードに休憩にいくと、アマリアとマティルダはマイアが23にアイロンの特訓を受けたことをもう知っていた。クリスティーナが腹を抱えながら話してくれたのだと言う。
「で、どうだった?」
マティルダは絞りたてのオレンジジュースを飲みながら訊いた。
「あ、うん。みっちり絞られた。教えてもらった通りにやったら、嘘みたいに綺麗に仕上がったよ」
二人は顔を見合わせてから笑った。それからアマリアが不思議そうに言った。
「あの方はこれまで誰もそばに近づけなかったし、掃除やアイロンのことで誰かに小言を言うなんて事はほとんどなかったのにね」
「私、そんなに役立たずなんだ」
「そんなことないけれど、あの方が叱ってくださるからあなたは助かっているのよ」
「え? なんで?」
「だって、私たちのときは、ジョアナやメネゼスさんからこっぴどく叱られて、よく泣かされたもの。誰も手取り足取り教えてくれなかったから何度も怒られたし」
マティルダがぺろっと舌を出した。
そういえば、ジョアナやメネゼスに叱られたことはまだなかったし、ドンナ・マヌエラの叱責を受けたこともなかった。23に言われっぱなしのマイアを見て、かなり手加減してくれているようだった。23に叱られるのがあまり嫌でなくなっていることは、アマリアたちには言えなかった。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(7)靴
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Infante 323 黄金の枷(7)靴
「失礼します。洗濯物いただきにきました」
その午後、マイアはマティルダと一緒に洗濯当番に当たっていた。まず二人で24の所に行き、大量の衣類を集めた。23の方も持てそうだったので、その居住区に入っていった。
階段を下りていこうとすると、23が作業を中断して自ら昇ってきた。
「フェレイラ、その前に、ちょっと来い。今日の掃除、なってないぞ」
厳しい声でマイアを三階の方に行くように促した。
「ええと、どこがまずかったんでしょうか、メウ・セニョール」
「いろいろ言いたいことはあるが、まずはバスルームだ」
マティルダは目で「先に行くね」と合図したので頷き、マイアは23に続いて昇っていった。
バスルームに来ると洗面台を指差した。
「水滴が残っているし、付け根の所が拭けていない。このままにしておくと痕になるんだ。どうやって拭いたんだ、再現してみろ」
「ええと」
マイアは23に渡されたタオルで今朝やったとおりに蛇口をひと通り拭った。
「それじゃ付け根は触ってもいないじゃないか。よこせ」
そういって蛇口の周りにタオルを巻き付けて左右に交互に引っぱり付け根を磨いた。
「あ、そうか」
納得したマイアが言われた通りにやっている時に小声で言った。
「ライサのことをおおっぴらに嗅ぎ回るな。すぐに追い出されるぞ」
マイアは振り向いて彼を見た。23は人差し指を口に当てていた。
「知っているのね」
23は知っているとも知らないとも言わなかった。その時にはもうマイアの足下を見ていた。
「お前、いつも変な歩き方しているな」
「え?」
「歩く時になぜそんなにバタバタしているんだ。その靴、履き慣れていないのか」
「しょうがないでしょう。普段はもっと楽な靴だけど、このお館ではパンプスを履かなくちゃいけないんだもの。男の人にはわからないと思うけど、パンプスで歩くのって痛いんだから」
「見せてみろ」
マイアは素直に片方脱いでみせた。その靴を見て、23は眉をしかめた。三センチヒールのソールが真っ平らな安物の靴だった。
次の朝にアマリアが掃除に入った時に、23は後でマイアに来るように伝言した。
「また何かを怒られるのかなあ」
マイアは首を傾げながら行った。居住区に入り声をかけると彼は下から呼んだ。
「来たか。こっちに降りて来い」
工房に行くと、23は作業をやめて床に置いた小さな箱の上に座った。その前には水を張ったバケツ、粘土に見える物を入れた箱が二つあった。さらにその前には椅子があってマイアにそこに座るように言った。彼女は怖々座った。
「靴下を脱いで足を出せ」
「え? 両方?」
「まずは右だけ」
言われるままに椅子に座り、右の靴と靴下を脱いだ。彼はその足首とかかとを両手で持って粘土の上に移動させた。
「まず力を抜いて。俺が動かせるように。そう、この形のまま、ゆっくり下に降ろして……」
マイアの足は粘土にわずかに沈んだ。型を取っているのだ。
粘土からマイアの右足をそっと引き上げると粘土を自分の後ろに移動させてバケツをマイアの前に動かし、粘土で汚れた足をそっと洗った。
昨日からのきつい言葉や態度とは裏腹に、マイアの足を扱う23の手はとても丁寧で優しかった。冷たい粘土の感触、そっと洗ってくれる彼の手指にドキドキした。心臓がきゅうとねじられたようだった。
「あの……何をしているの」
23はなんでもないようにマイアの顔を見上げた。
「お前の靴を作る。そんなひどい靴を履いていたら、直に足がおかしくなる」
そう言って、タオルで彼女の右足を拭くと、左足も同じように型を取った。
「まあ、なんてうらやましい」
キッチンでジャガイモの皮を剥いている時に、その話をしたらアマリアは驚いて言った。
「ご主人様だから?」
マイアが訊くとアマリアは首を振った。
「それもそうだけれど、それよりも、作っていただく靴よ」
「?」
「23の作られる靴の一部はね、ノーブランドで街のちょっと有名な老舗の靴屋で売られているのだけれど、常連が待ち構えていて店頭に出すとすぐに売り切れてしまうの。それ以外はイタリアの有名デザイナーの所に送られて、そこでマークが刻印されてメイド・イン・イタリーのデザイナーブランドシューズになるのよ。評判が良いのでここ数年はそれぞれの靴型に合わせたオーダーメードの注文がほとんどなんだけれど、聞いたところによるとイタリアでの末端価格は1000ユーロを超しているらしいわ」
「ええ~」
「どんな成り行きで作っていただくことになったの?」
「……。私の靴がひどすぎて許せないって」
アマリアは思わず吹き出した。
次に掃除に入った時に見ると、23はパンプスを作っていた。
「これ、お前のだぞ」
たくさんの注文品を横においてマイアの靴を作ってくれているので「いいの」と訊くと23は笑った。
「俺たちインファンテは経済的には、働かなくてもいいんだ。でも、何もしていないでブラブラしていると腐るから働くことを奨励されている。そんな理由での仕事なので、絶対的な納期は設定されていない。どうしても俺の作る靴がほしいヤツは、待つしかない。だれもその靴職人がどこにいるのか知らないし、その職人を急がせることはできない。ドイツ人や日本人のようにせっかちな奴らが理由を訊くと、受け答えをするヤツはこう答える。イヤなら他の靴屋に行きなってね」
楽しそうに靴を仕上げている彼を眺めながら、マイアは近くに寄った。
「ねえ。23、訊いてもいい?」
「何を」
「どうして番号の名前なの?」
23は顔を上げてマイアを見た。特に怒っているようにも見えなかったので、彼女はほっとした。
「番号の名前じゃない、番号なんだ。名前はない」
「23って名前じゃないの?」
「323というのはインファンテの通番だ。といってもインファンテ1がどの時代のどの当主の子だったかはわからない。いつ生まれていつ死んだかもわからないし、1の前に同じ境遇の人間がいたかどうかも知られていない。単に1から数えて323人めが俺というだけだ。ドラガォンのインファンテに関する記録は一切ないんだ。それに伝統的に名前はつけない」
「どうして?」
「存在していないから」
マイアは口を尖らせた。
「存在しているよ。ここにいるじゃない」
23は道具を横において、立ち上がるとエスプレッソマシンの所へ行ってコーヒーをセットした。シューッという音がして、コーヒーがカップに注がれた。マイアは23が二つ目のコーヒーを淹れるのを黙って見ていた。答えたくないのかな。けれど、彼はコーヒーをテーブルに置いて、目でマイアに座るように指示した。勤務中なんだけどな、そう思いながらもマイアは素直に座った。
「俺たちはね。番号で呼ばれてきた324人の男たちは、歴代当主のスペアなんだ」
「スペア?」
「食堂に飾ってある系図、変だと思わなかったか?」
「え?」
「何代になるのかも数えられないような長い間、ずっと直系の男子一人だけが続いている。兄弟姉妹もなければ、配偶者の名前もない。自然じゃないと思わないか」
そう言われれば確かに。普通の家系図はもっと広がり、当主になるものは時々遡ったり、傍系に移ったりするのに、ドラガォンの家系図はずっと一本だけだった。
「当主の最初の男子は名付けられて星五つのプリンシペとなる。そして父親が死んだら当主になる。だが、その当主が子供を残す前に死んでしまったら? もしくはあちこちに、似たような相続権を持つ男子が散らばって争いだしたら? この家系が途絶えてしまうかもしれない。そのリスクを最小限にするためにプリンシペに完全に入れ替われるようなスペアを用意しているんだ。その子たちは同じ父親の血を引いているので、直系に間違いはない。もし当主が跡継ぎとなるプリンシペを作る前に死んだら、同世代のスペアと入れ替える。インファンテには生まれた順に番号がついていて、機械的に繰り上げるだけだ。争いも起きようがない。インファンテが当主やプリンシペの名前を引き継ぎ、その人間として生きるんだ」
「でも、そんなの変だよ。普通の家みたいに、次男、三男として普通に生きていてもお兄さんが亡くなった跡を継げるじゃない」
「そうだね。でも、他の家と違うことがある。この家系で何よりも大切なのは血脈を途絶えさせないことだ。それぞれの人間がどんなことを成し遂げるか、どんな人生を生きるかよりも、子孫を残すことの方が重要なんだ。いや、それだけが重要なんだ」
「あの家系図の最初の人の血を残しているの? 何者なの?」
「あの人じゃないよ。あれはたった五百年前の人じゃないか」
「たった……」
「あれは《監視人たち》のシステムも《星のある子供たち》の腕輪もちゃんと整い、この館ができた時の当主だ」
「じゃあ、一体誰の血脈なの?」
「知らない。それに、それはもう重要じゃない」
「なんで?」
「そんなことに関係なくシステムが作動しているからだ。誰の子孫だろうと関係なく、《星のある子供たち》には腕輪が嵌められ、この街から出て行けないように閉じこめられるんだ」
「濃い血脈を途絶えさせないためだけに?」
「そうだ」
それから突然話題を変えた。
「このコーヒー、どうだ?」
「え。すごく美味しい。とてもいい香り。ここで挽いているの?」
「ああ、専門店から取り寄せてもらったんだ。このブレンドに辿りついたのは最近なんだ」
「どうして?」
「一人で飲んでいるとなかなか減らないんだ」
マイアは不思議に思った。あれ、だっていま私と飲んでるのに。マティルダたちとは飲まないのかな。
「もしかして勤務中にこんなことしてちゃいけないのかしら」
「俺に頼まれて手伝っていたと言えばいいさ」
出来上がった靴は、マイアがそれまで履いていたよりも一センチヒールが高いにも関わらず、どこも痛くなかった。足全体がぴったりと包み込まれ、土踏まずもぴったりと寄り添った。履いて立ったその瞬間だけでなく、歩いた時の全ての動きに靴はついてきた。
「23、すごいよ、この靴。パンプスなのに、どこも痛くない。歩いてもぴったりついてくる」
「しばらく履いていると、馴染んでくる。そうしたらもう一度調整しよう」
「ねえ、23。どうして靴を作ることになったの?」
「ん?」
「靴が好きだったの?」
「はじめから好きだったわけじゃない。習える仕事の中で、一番興味があったから。変か?」
「うん。お金持ちの子息が習う仕事のイメージと違う」
「どんな仕事がイメージ通りなんだ?」
「作家とか。音楽家、評論家、それに、画家やデザイナー」
23は口先だけで笑った。
「そりゃ、全部ダメだ」
「ダメって?」
「この作品はだれが作ったのだろうと、疑問を持たせるようなものを作ることは許されていない」
「あ……」
「ラジオの部品を組立てる。服を縫う。プラリネを作る。それらを作るには時間と手間がかかり、誰かが完成させたことは意識していても、誰がやっているかは考えないだろう? 俺たちに許されているのはそういう仕事だ。叔父の322はニワトリの形をした木彫りのコルク飾りに彩色をしている。24は観光客用のTシャツや絵はがきをデザインしている。そして俺は靴を作る」
その午後いつものように働いて、マイアは23が作ってくれた靴にとても驚いた。前の靴と全く違うのは履いた感触だけではなかった。今までは夜になると足が痛くて悲鳴を上げていたのに、まったく疲れていなかった。
マイアは翌日の朝、礼を言うために工房に降りて行った。すると驚いたことに、二足目の靴ができていた。
「どうして二つも?」
23は呆れた顔をした。
「靴は毎日続けて履くな。ちゃんと休ませるんだ」
マイアは23に言われるまでもなく、毎晩靴の手入れをした。こんな風に靴を大事に思ったことはなかった。靴が歩き方や姿勢、ひいては生き方にまで影響を及ぼすような存在なのだとはじめて理解した。
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Infante 323 黄金の枷(6)《監視人たち》
マイアはついに意を決して、ライサのことをマティルダに訊いてみた。簡単に教えてくれるとは思わなかったが、開け広げで人好きのする彼女とは、すっかり仲良くなっていたし、案外あっさり教えてくれるかもしれないと思ったのだ。だが、マティルダの答えは単純明快だった。
「ライサ? 知らないな。私ここに来てからまだ半年だもの。アマリアに訊いてみれば? 彼女は十年以上勤めているし」
それもそうか。マイアは頷いた。
翌日、洗濯室でアマリアに訊いた。それは明らかに不意打ちだったらしい。いつもの穏やかで優しい表情が戸惑い、伏し目がちになった。マイアはアマリアが何かを知っていることを確信した。
「その……」
けれど、アマリアが答える前に、ジョアナが通りかかった。つかつかと二人の所に歩み寄ってきて厳しい顔を向けた。
「マイア。仕事に関係のない質問をしてはなりません」
「……すみません」
「ここに来たのは働くため? それとも探偵ごっこをするため?」
マイアは下を向いて黙り込んだ。
「誓約を忘れないように」
それだけ言って、再び去っていった。アマリアを見るとほんの少しだけ表情を緩めて洗濯機に衣類を入れはじめた。一切話はせずに。
アマリアには教えてもらえないんだな、と思ってがっかりした。ジョアナが教えてくれないのは当然のこととして、もう一人いる召使いのクリスティーナも、主にジョアナと組んで母屋の方の掃除を担当しているので、話をしたことが少なく質問はしにくかった。男の使用人たちとも仕事上の会話しかしたことがない。まず親しくなる所からはじめなくちゃダメか。長期戦になっちゃう。ああ、前途多難だなあ。
友達を作る。マイアが一番苦手なことだった。マティルダはマイアが努力する必要もなくあっという間に親しくなってくれたので問題はなかったが、誰ともこう上手くいくとは思えない。そう言えば、いつもそうだった。友達といえる仲になれた人は、いつも向こうから声を掛けて近づいてきてくれたのだ。幼なじみのジョゼも、マリア・モタも。それも親友もしくは心友と言えるほどではなかった。ジョゼにはマイアよりも親しい友達が何百人もいるだろうし、マリアもマイア個人というよりも姉のライサとの共通点に興味をおぼえて話しかけてくれたのだから。マティルダも同室でなければ親しくなることはできなかっただろう。
マイアにとってのたった一人の心友は、十二年前に出会った少年の幻影だった。悲しいこと、理不尽なことがあると、いつも心の中で話しかけてきた。23はその少年その人で、マイアを忘れずに話しかけてくれたけれど、心の友達であり続けた少年とは同じではない。一緒にすべきではないと、自分に言い聞かせていた。
仕事が終わって部屋に戻ってくるとマティルダはベッドに腰掛けて雑誌をめくっていた。彼女はいつも機嫌が良くて楽しそうだった。人間関係で悩んだことなど皆無のように見えたし、物事の飲み込みが早くて、どんな仕事でもこなせそうだった。そういえば、どうして召使いの仕事をしようと思ったんだろう。
「ねえ。マティルダ。あなたはどうしてここで働こうと思ったの?」
「え……」
「あ、訊いちゃダメだった?」
「そんなことないけれど、ちょっと恥ずかしい」
「どうして?」
マティルダはウィンクをした。
「パパとママみたいな恋愛結婚をしたかったのよね」
「?」
マイアがまったくわかっていない様子なので、マティルダはおかしそうに笑った。それから、丁寧に説明してくれた。
「パパとママはここで知り合ったの。ほら、私が《星のある子供たち》でない人と恋愛結婚をするとなると、その前に星のある男と子供を作らなくちゃいけないじゃない? だったらはじめから星のある相手と恋愛がしたくて。でも、街にいるとそんなに星のある相手に遭えないでしょ?」
「本当に、そうなんだ」
「何が?」
「星のある子供を生まないかぎり、誰とも結婚できないって」
「うん。それはそうよ。過去にいろいろな人が抵抗したらしいけれど、成功したって話は聞いたことがないなあ」
マイアはそれじゃ私には生涯無理だなと思った。男の人と親しくなることなんてこれまで全然なかった。街中にあれだけたくさんの男性がいたにも関わらず。同年代の仲間たちが集まる時に、数合わせのように混ぜてもらう時にも、周りにいくらでもカップルができたが、マイアは空氣のような存在に終始することになった。そんな体たらくなのだから、街では全然見たこともない、つまりほんのわずかの数しかいない腕輪をしている男性とそんな関係になるなんて不可能だ。
あ、だからマティルダはここに働きにきたんだっけ。確かにここには結構な数の腕輪をしている男性がいるもんね。
「そうなんだ。それで、半年経って、いい人見つかった?」
「ふふふ。まあね。片想いなんだけれど」
「誰?」
「わかると思うけどな。かっこいいから」
「かっこいいって、もしかして、24?」
そうマイアが言うと、マティルダは大きく首を振った。
「よしてよ! インファンテだなんて、そんな高望みしていないわよ」
「あ、だったら……。誰だろう?」
「ミ・ゲ・ル。かっこいいと思わない?」
「あ、うん、そうね。背が高くて印象的よね」
「う~ん、マイアがライバルにならないといいな」
「え。私は、そんな、別に。マティルダ、あなたアタックしたの?」
「まあね。振られたわけじゃないけど、なんか煮え切らないのよね」
悪いこと訊いちゃったみたい。マイアは慌てて話題を変えた。
「ところでさ。外にいたら、星のある子供なんて産めるわけないと思わない? 今まで腕輪をしている人、外で一度も遭ったことないよ?」
「ん? 《監視人たち》がオーガナイズしてくれるらしいわよ。私はそういうのがイヤでここに来たんだけれど」
「《監視人たち》って何?」
マティルダは目を丸くした。そんな質問は想像もしていなかったらしい。
「知らないの?」
「うん。監視しているって人がいるって話は聞いたことある。みんな、お父さんかお母さんにそういう話、教えてもらうんだよね」
マティルダは納得した顔をした。
「マイアのお母様、小さい時に亡くなったのよね。それじゃ、一度誰かにちゃんと説明してもらわなくちゃね」
それから立ち上がってマイアの腕を取った。
「そういう話こそ、ミゲルに訊くのがベストよ」
と言って、マイアを部屋から連れ出した。マイアは何がなんだかわからなかったがついていくことにした。
「ミゲル。ちょっと、ちょっと」
マティルダは小部屋で燭台を磨いていたミゲルをの所に行って話しかけた。
「なんだ?」
「マイアったら《監視人たち》のこと、全く知らないみたいなの。説明してあげてよ」
ミゲルは目を丸くした。
「は? しょうがないなあ。ま、いいや、教えてやるか。《監視人たち》と呼ばれる人たちがいるんだよ」
「腕輪を付けたり外したりする黒服の男たち?」
「あ? そうだよ。でも、それは中枢部にいる特別な人たちさ。大多数の《監視人たち》は普通の人たちと同じ格好をしているし、腕輪みたいな目印もないから、誰が《監視人たち》なのか僕たちにはわからない」
「どうやって《監視人たち》になるの?」
「親から子供に引き継がれるんだ。そういう一族があるのさ」
「でも、同じ人がいつも見ていたら、あの人かってわからない?」
「一人が特定の一人を常時監視しているわけではないから、尾行みたいな事はしない。歩いている時にたまたますれ違った人が、こちらを観察しているかどうかなんてわからないだろう? この街にはたくさんいて、腕輪をした《星のある子供たち》を見かけると、観察して上に報告するんだ」
「そんなにたくさんいるの?」
「《星のある子供たち》よりずっと多いはずだ。詳しい数は知らないけれど、一万人か二万人くらいいるんじゃないか」
「《星のある子供たち》ってどのくらいいるの?」
マイアは小さな声でマティルダに訊いた。
「え? 数百人くらいじゃない? ミゲル、違う?」
「多分そのくらいだと僕も思うな」
「その中枢部っていうのはどこにあるの?」
マティルダはミゲルに問いかけた。彼は首を振った。
「知らない。下っ端はほとんど誰も知らないんじゃないか。もちろんドン・アルフォンソやドンナ・マヌエラは知っているはずだ。それにメネゼスさんや運転手のマリオは星を持たない者なのにここに勤めているということは《監視人たち》組織の中枢に属するのだと思う。だから彼らは知っていると思うよ。訊いても教えてくれるはずはないけどね」
「なぜあなたは《監視人たち》のことをよく知っているの?」
マイアが訊くと、ミゲルはマティルダと顔を見合わせて笑った。それから彼は答えた。
「僕が預けられたのが《監視人たち》の一家だったからさ」
「え?」
「僕の両親にはどちらにも星のない恋人がいて、結婚するためにとにかく子供を作ってしまいたかったんだそうだ。そのためだけだから、試験管で。で、どちらも生まれてきた僕を引き取りたがらなくてね」
マイアは淡々と語るミゲルの様子に驚いた。
「傷ついたって、状況は変わらないさ。そういう定めで生まれてきたなら、受け入れるしかないだろう?」
「その……親がいない星のある子供は、みな《監視人たち》の所に引き取られるの?」
「皆じゃないけれど、当然、《監視人たち》の目の届く所に置かれる。一つには養父母に星のある子供が虐待されてないか監視するためでもある。もう一つは適齢期になったときに勝手に《星のある子供たち》同士でない子供を作られたりしないように」
「じゃあ、私の家の近くにも《監視人たち》がいるのかな」
マイアはどの家族だろうと考えたが、全く思いつかなかった。
「マイアもお母さんが亡くなっているのよね」
マティルダがミゲルに補足をした。
ミゲルは断言した。
「なら住んでいるところから三ブロック以内にいたはずだ。街にも常に配置されている。カフェで仲間とおしゃべりに興じていたり、新聞を読みながらビールを飲んでいたりするけれど、近くに《星のある子供たち》が通りかかれば、細かく観察して必要があれば報告しているんだ。でも、別に困ったことはないだろう? 普通の《監視人たち》は無害なんだ」
「有害な《監視人たち》もいるの?」
マティルダが訊いた。
「有害っていうのは語弊があるな。《星のある子供たち》の行動にはレベルがあるんだ。街で普通に生活しているのはレベル1。通勤を見かけたとか、喫茶店でコーヒーを飲んでいたとかさ。日常的に繰り返される場合は、報告書を作る必要すらない。レベル2は腕輪をしていない特定の異性とグループでよく逢っているとか、境遇を家族以外に話して助けを求めたりしている場合とかさ。こんなことでも、《監視人たち》は報告するだけで何もしないんだ。ただ、レベル3以上になると、中枢部から黒服が派遣されてくる。彼らは行動がレベル4に達した時には実力行使で止めることを許されているんだ」
「レベル4って?」
「この国から逃げだしたり、腕輪のことを街の外の人間に話したり、《星のある子供たち》と子供を作る前にそれ以外の異性と性的関係を持ったりすること」
マイアはため息をついた。結局そういうことなんだ。
マティルダは、その話題には飽きたらしく、別の質問をした。
「ところで、どうしてミゲルはここで働こうと思ったの?」
ミゲルは肩をすくめた。
「星のある女を紹介するのをやめてほしかったからさ」
「?」
マイアは首を傾げた。マティルダとミゲルは顔を見合わせた。これも知らないのかと無言で確認しているようだった。
「星のある女と子供を作れと言われても、そこら辺にはいないから作れないじゃないか。だから、《監視人たち》が上手く星のある二人が上手く出会うように操作するんだ」
「たとえば?」
「コンサートのチケットに当選しましたとかさ。誰かからサッカーの当日券をもらったりなんてこともある。そうやって普段いかない所にいくと、偶然隣に腕輪をした女が座っていたりするのさ」
「あ!」
マイアは小さく叫んだ。
「心当たりあるだろ?」
「うん。応募もしていなかったコンサートの抽選に当たったって、送られてきた……」
「で?」
「えっと。人のいる所、苦手だから行かなかった」
それを聞いて、ミゲルとマティルダは楽しそうに笑った。
「とにかく、この女はちょっと違うなと、手を出さないでいると、次々そういうアプローチが来てさ。そうやって操作されているみたいなのが嫌だったんだよ。ここで働くとなると、星のある女との出会いもへったくれもないから、その手のアプローチはなくなるんだ。自分で探したいし」
そういって、ミゲルはちらりとマティルダを見た。マティルダは天井の方を見上げて素知らぬ顔をした。マイアは、なんだ、ミゲルの方も十分に脈ありじゃないと思った。マティルダのために上手くいくといいなと思った。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(5)占いをする女
そういえば、この小説ようやく全て書き上げました。まだ若干直す所が出てくるかもしれないですが、並行して外伝の方に入ろうかなと思っています。
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Infante 323 黄金の枷(5)占いをする女
マイアがライサ・モタの妹であるマリアと知り合ったのは、二年ほど前だった。
マイアはカサ・ダ・ムジカという大ホールに行った。クラッシックのコンサートに定期的に行っている知人が急用が入ったのでとチケットを譲ってくれたからだった。マイアはクラッシック音楽を聴く趣味はなくて、しかもその時の演目は現代音楽でちっとも興味がなかったのだが、美しいと評判のこのホールそのものに入ってみたかった。
この国の伝統的建築を好きなマイアは現代建築が嫌いだった。カーサ・ダ・ムジカは、Pの街を代表する現代建築で、四角い白い箱をあちこち削り取って放置したように見える。その様式が周りの街とは相容れないため、バスで横を通る時にマイアはいつも顔をしかめていた。けれど、一度でもそこへ行ったことのある人は「美しい」と絶賛するのだ。だから、マイアも機会があったらその中に入ってみたいと思っていた。
そして、人びとの言っていたことは間違いではなかった。黄色や白い壁にガラスの間しきり、光と遊ぶように設けられたいくつものガラスのオブジェや、平行でない直線に形成された空間と階段が続く。緩やかな曲線を描く平面が光と遊び、内部に様々な陰影を作り出している。それは労力を削ぎ取るためではなく、伝統という枠を取り払いながらも、機能が遊びや美しさと共存することを示した魅惑的な空間だった。マイアは心が開放されるのを感じた。光の射し込んでくるガラスの窓を見上げてしばらく動かずに立ちすくんでいた。
「とてもきれいよね」
そういって話しかけてきたのがマリア・モタだった。赤い鮮やかなジャケットを身につけてブルネットが所々混じる綺麗な金髪をラフにシニヨンにしていた。マイアは戸惑いながらも頷いた。学校を出たばかりで、公式の場に一人で行くことも少なかったマイアは、コンサートホールに一人でいるというだけで、少し冒険をしている氣分だった。一方のマリアは堂々としていてとても眩しく感じた。実際にはマリアの年齢はマイアと一つしか離れていなかった。
マリアに誘われて、マイアはホール内にあるレストランへと行った。マリアは白ワインを炭酸飲料で割るように頼み、マイアも同じものを試して、それを機会にその飲み物の虜になった。人付き合いが苦手でなかなか新しい友だちのできないマイアが、マリアに対して警戒を持たずに新しい友だちになれたのは、カーサ・ダ・ムジカの非日常性のおかげだったのかもしれない。
その日、マリアは何も言わなかったが、彼女は出会ったその日からマイアの金の腕輪に氣がついていた。というよりは、たぶんそれでマイアに声を掛けたのだ。
「姉のライサもその腕輪をしているの。姉以外でそれをしている人、はじめて見たから、どうしても声を掛けたくなってしまって」
マリアは何回目かにあった時にそう告白した。
「お姉さんは、いまどこに?」
「ドラガォンの館で働いている。たまに帰ってくるけれど。今度帰って来たら、マイアと友達になったって話すわね」
ドラガォンの館と聞いて、マイアはどきりとした。子供の頃の思い出が甦った。あの建物の中には、あの悲しい瞳をした少年が今もいるんだろうか。それとも、とっくに追い出されてどこかに行ってしまったんだろうか。わかっていることは一つだった。あの館は昔から変わらずにあの美しい街の夕闇をのぞみ続けている。
「ねえ。マリアのお母さんもこの腕輪しているの?」
マイアは氣になっていたことを訊いてみた。自分の境遇がやはり同じ腕輪をしていた亡き母親と関係があるのかわかると思ったから。
「いいえ。どうして?」
「私の母はしていたの。そうか、それとは関係ないのかな」
「わからないわ。だって、ライサはパパともママとも血がつながっていないもの」
「え?」
「養女なの。でも、腕輪のことを知りたいなら、いい人を知っているわ」
マリアは地下鉄のトリンダーデ駅の近くへと連れて行った。銀行や郵便局など大きくて立派な建物のある裏手に細い路地があった。バルコニーに洗濯物が翻るカラフルだが古いタイルに彩られた細い建物が身を寄せあうように建っている。時おりショウウィンドウがあって、金物屋や洗濯屋それに肉屋などが見えた。マリアは脇目も振らずにその奥の小さな何の看板も出ていない入り口に入って行った。カラフルな布切れがかかっているので表からは家の中は見えないようになっている。表は日差しが強くて汗ばむほどだったが、家の中はとても涼しかった。
「何か用かい」
下の方から声がした。暗闇に目が慣れていなかったマイアは目を凝らした。マイアが座っている老婆を見つけたのと、マリアが声を掛けたのがほぼ同時だった。
「こんにちは。以前《星のある子供たち》の一人である私の姉が訪ねて来たことがあるんだけれど、憶えているかしら」
老婆はゆっくりとマリアを見たが、首を振った。
「私は何も憶えていないよ。世界の深淵を覗き見るために、占いをするだけさ」
マリアは老婆のもってまわったいい方に慣れているらしくマイアの左腕をつかむとぐいと老婆の顔の前に金の腕輪を見せつけた。老婆はまったく動じたふうもなく、ただ頭の上のショールを少しずらして顔を隠そうとした。その時にマイアには老婆の左腕にも赤い星のついた金の腕輪が嵌まっているのがわかった。マイアは急いで言った。
「あの……。この腕輪のことについて、教えていただけないでしょうか」
老婆はマイアの戸惑ったような瞳を覗き込むと言った。
「お前さん、母親は?」
「私が七歳の時に他界しました」
「それでその歳だというのに何も知らないわけだね」
「はい」
それから老婆はマリアを指してマイアに言った。
「腕輪を買い取るようなことはしていないよ。この娘と帰りなさい。そして、一人の時にまた来るんだね。お前の悩みについて占ってやることもできるだろう」
マリアには聞かせたくないという意味だと思った。だから二人は大人しく帰り、翌日にマイアは一人出直してきた。
「おや、赤い星を持つ子がまた来たのかね」
「先日、IDカードの申請に行ったんです」
「IDカードとはなんだね」
「身分を証明してくれる小さなカードです。クレジットカードを作ろうとしたり、大きい企業に勤めようとすると必ず提示を求められるんです。それにそれを持っていれば、パスポートなしのヨーロッパ旅行もできるんです」
「それで」
「書類が不備だっていうんです。もう五回も行ったんです。言われた通りに書類を用意して。行く度に違う不備を指摘して申請を受理してくれないんです」
「役所とはそういうところだろう」
「でも……いつも私だけそうなるんです。同じことを妹たちのために申請すると大丈夫なんです。子供の時からずっとそうでした。パスポートも作ってもらえない、自動車の仮免ももらえない。絶対に変です」
「それで」
「この腕輪のせいなんじゃないかと思って」
「お前さん、頭は確かかね。腕輪なんてただの装飾品を見てお役所が意地悪をしているとでも」
はぐらかす老婆を見てマイアは悲しくなってきた。この老婆は同じ腕輪をしている。亡くなった母親のことを訊いた時に、マイアが知っていなくてはならないことを知らないことを指摘した。だったら教えてくれてもいいのに。
涙を浮かべたマイアを見て、老婆は人差し指を口に当てるとそっと座るように指示した。それからどこからかロウソクを取り出してくると火をつけて、表の扉を閉めにいった。暗闇の中、ロウソクの炎だけがオレンジ色に浮かび上がった。
「お前さんの母親の星はいくつだったか憶えているかい」
「二つでした。これとまったく同じ腕輪で赤い石だけ一つ多かったんです」
「そうかい。すると、お前の父親は青い星ひとつだったんだね」
老婆は何でもないように言った。マイアにはさっぱり意味が分からなかった。
「この腕輪はだね。この街に住む、特別な血筋の子供であることを示す証なんだよ。こういうことは、ある程度の年齢になったら親がわかるように説明するものなんだがね。中にはお前さんや、お前さんを連れてきたあの娘の姉のように、話してくれる人間が一人もいないってこともあるわな」
「誰の血筋なんですか」
「知らないよ。知っている人間がいるかどうかも怪しいね。だが、これを付けているということは、私とお前さんはどこかで血がつながっているということだ」
「なぜ腕輪を付けなくちゃいけないんですか」
「その血筋を絶やさないようにするためさ。しかもできるだけ濃いままね」
「?」
「青い星の腕輪を持つ男は、赤い星を持つ女のうち一人以上を選び自分の子供を産むように強制できる。そのかわり星のある子供を得る前に《星のある子供たち》でない女と交わることや、一度他の星を持つ男に選ばれた女に触れることは許されない。そして生まれた子供は親の星と同じか少ないものとなる。両親の星の組み合わせによって子供の星の数が決まるんだ。星をもつ女は星を持つ男の子供を一人でも産めば、その男のもとを去ることが許される。もちろん、その男と一緒にいたければいても構わないがね。《星のある子供たち》を生まないかぎり腕輪をしていない男との結婚は許されない。《星のある子供たち》はどこにいるかが管理され、この街から出て行くことは許されない」
「赤い星一つでも?」
「そうだとも。だが、二つ以上の星を持つ者たちと違う点もある。他の《星のある子供たち》の腕輪は生涯外してもらえないが、星一つの場合は役目が終わった時点で外してもらえるのさ。パスポートだのIDカードだのももらえるようになる。それに相手が青い星ひとつだった場合には、子供は《星のある子供たち》にはならない。そこまで薄くなった血は不要ってことだ」
「でも、今は二十一世紀なのに、なんでそんなおかしなことが続いているの? 本人たちがみんなでイヤだって言えば……」
「イヤなんて言えないようになっているのさ。《星のある子供たち》は監視されている。その義務を遂行するように、それだけを忠実に守るように定められた星を持たない人たちもいるんだよ。《監視人たち》っていうんだ。彼らのトップには大きな権力が与えられていて、連絡が来るとすぐ問題を修正に来るのさ」
マイアは母親の葬式の前にやってきた黒服の男たちを思い出した。同じような男たちは、マイアが十三歳の時にもやってきた。
マイアの記憶にあるかぎり常に付いていた金の腕輪は、マイアの成長とともにきつくなってきた。ある時からはその締め付けが痛くて我慢できなくなってきたので、家庭医であるサントスのところにいって訴えた。するとサントス医師はどこかに電話をした。すぐに2人組の黒服の男たちがやってきて、マイアの腕輪を外し、ひと回り大きいものに嵌め替えて帰って行った。
「お前の申請書類を毎回却下しているのも同じ人たちだ。この街から出て行かないように。それも法的には問題がないように巧妙にね。私たち《星のある子供たち》は、どこに《監視人たち》がいて、誰が監視しているのかを知ることはできない。確かなのは、常に監視されているってことさ。私たちがこうして話しているのもきっと知られているだろう」
「いいんですか」
「別にお前さんの海外逃亡の算段をしているわけじゃないからね。私はただ、本来ならお前さんの母親が伝えるべきだったことを話しているだけさ。悪いことは何もしていない」
「竜の血脈の源は、あそこだよ。ドラガォンの館。あそこの代々の当主は青い星を五つ持っているのさ」
マイアははっとした。あの少年の腕輪には青い石が四つ付いていた。
「青い石が四つ付いているのは?」
老婆は少し驚いたようにマイアの顔を見た。
「そりゃ、インファンテだよ」
「インファンテ?」
「当主の子供か、兄弟だ。そこらへんで逢うはずはないんだが。お前さん、どこかで逢ったのかい?」
マイアはあわてて首を振った。
「いいえ、そういうわけじゃないんです」
一年以上も前の老婆の言葉が甦る。23と24はつまり、ドン・アルフォンソの弟なのだ。でも、なぜ数字の名前なんだろう。マイアは訝った。
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Infante 323 黄金の枷(4)居住区
翌朝、マイアはアマリアと一緒に24の部屋の掃除に行くと言われた。朝食の給仕はマティルダ担当の日だった。
「どうして? 一人で四人分だと大変じゃないの?」
「ううん、食堂で朝食をとられるのはお二人だけよ」
「二人?」
「うん。ドン・アルフォンソとドンナ・マヌエラ。24はベッドで食べたいとかで寝室に運ばせているの。お昼は氣まぐれね。食堂に来ることもあるし、運ばせることもあるし」
「23は?」
「あの方はね、必要がない限り、出てこないのよね。朝もお昼も工房でとられるの。私たちは毎朝焼きたてのパンをお届けして、コーヒーやハムやチーズやジャムなど用意してほしいと言われた物を時々補充するだけ。対照的なご兄弟なのよね。24は全てのことに仕えてもらうのが好きで、23は必要以上に構われるのが嫌いなの」
「ふ~ん」
「じゃ、私いくわね。マイアは、24の所の掃除か、大変だと思うけれど頑張ってね」
マティルダはウィンクして部屋から出て行った。大変? マイアは首を傾げながら用具置き場で待つアマリアの所に急いだ。
「行きましょうか」
アマリアは掃除用具を用意して待っていた。自ら一番重い掃除機を持とうとしたので、マイアがそれを制して持つと「ありがとう」とにっこり笑った。
アマリアはまずマイアを鍵の置き場に連れて行った。
「こちらが23の所の鍵で、こちらが24。ドン・アルフォンソ、ドンナ・マヌエラ、それからメネゼスさんはそれぞれご自分でこの鍵を持っていらっしゃるけれど、他の人たちがあそこへ入る時にはここから鍵を持っていくの。必ずここにサインして、使ったらすぐに戻すこと。戻ったらまたサインしてね」
「はい」
「居住区に入ったら、すぐに内側から鍵をかけること」
「はい……」
なぜ鍵をかけなくちゃいけないのですか。その根本的な質問をしていいのかわからずマイアが戸惑っているのをアマリアは見て取った。
「あなたの訊きたいことはわかるわ。ご主人様と呼んでおきながら、囚人みたいに扱うのはなぜかって思うでしょう?」
マイアは頷いた。
「理由は私にもわからないの。でも、鍵をかけるのは、あそこに住む方が私たちの目を離した隙に逃げだしたりしないため。私たちは一階や三階で仕事をすることもあるけれど、あそこはとても広いので、どこにいらっしゃるのか把握できないことが多いのよ」
アマリアが連れて行った24の居住区は、大きな鉄格子と鍵のかかった入口がある以外は、インファンテ(王子)と呼ばれる人の住まいにふさわしい豪奢で贅沢な空間だった。上下三階に及び、三階は寝室と浴室、二階は居室で一階には高価な応接家具と書斎、中庭に出ることができた。広い庭には美しい花が咲き乱れ、洒落たガーデン・テーブルと椅子が置かれていた。
「このつくりは、ドン・アルフォンソやドンナ・マヌエラのお住まいとほとんど一緒よ」
アマリアはまず一階の応接室を片付けだした。ここは24が実質的に居間として使ってるらしく、大きな壁掛けディスプレイとスピーカーが設置されていた。その正面には白い革のソファセットと大理石のローテーブルが置かれていた。そして、衣類、雑誌、新聞、ゲーム機と思われるいくつもの機械、CD、DVD、たくさんのリモートコントロールなど、何もかもが出しっぱなしになっていた。マイアはアマリアがそれらを手際よくあるべき所へと収めていった後を拭き掃除をしながら追っていった。それから乾拭きと掃除機がけをした。庭と反対側の奥には小さなスポーツジムのようにトレーニングマシンのたくさん置かれた部屋があり、そこも片付けて掃除をした。
アマリアがどかした物を元に戻している間に、マイアはまだ手を付けていない書斎の中を覗き込んだ。テーブルの上にはデザイン用の筆記用具、マスキングテープ、製図用品などが見えた。素人ながらも絵を描くマイアは、その高価な用具一式を羨ましげに眺めた。もっとも机の上にあるデザイン画は、よく街の土産物屋で見かけるTシャツの図柄のように見えた。
「こちらは24の仕事場。大切な物があるので、ここは言われない限りノータッチでいいの」
アマリアがマイアの袖を引っ張った。マイアは頷いて、後に続いて二階の居間の掃除に移った。
二階は、一階ほどは使っていないらしく、掃除はかなり楽だった。拭き掃除をしている時に、何かを規則的に叩くような音が聞こえてきた。マイアは何だろうと思って、辺りを見回した。アマリアがそれに氣がついて微笑んだ。
「23の所から聞こえてくるのよ。靴をお作りになっていらっしゃるの」
「靴?」
「ええ、あの方は靴職人なの。24がデザイナー」
「働いていらっしゃるんですか?」
「ええ。そういう伝統なの」
変わった伝統だ。ご主人様が、働くんだ……。しかも、靴職人? マイアは首を傾げた。
マティルダが大変よとウィンクした意味が分かったのは、三階の掃除に入った時だった。階段を上がると、踊り場となっていて正面にドアがあった。
「おはようございます、メウ・セニョール。失礼してもよろしいでしょうか」
アマリアが礼儀正しくノックすると中から24の声がした。
「ああ、掃除に来たんだね」
ドアが開いて、24が顔を出した。イギリス風の千鳥格子のハンタースーツを着ている。建物の中にいるのに、どうしてこの人鳥打ち帽なんかかぶっているんだろうか。マイアは思った。
「おや、新入りちゃんも来たのか。なんて名前だったっけ」
「フェレイラ、マイア・フェレイラです、メウ・セニョール」
「そう、茶色い瞳が森の奥の神秘的で氣高い樫の樹を思わせるよ。僕は下に行って、新入りちゃんを歓迎する詩でも書こうかな。掃除が済んだら呼んでよ」
そう言って、かなり上機嫌で階段を降りていった。マイアは面食らって無言だったが、その様子を見てアマリアは必死で笑いをかみ殺した。
広い寝室だった。二メートルごとに、合計で五つの窓があった。全てに鉄格子が嵌まっているが、光が射し込んで明るかった。窓のない方の奥にドアがあり、そちらがバスルームだった。手前には作り付けになった大きなクローゼットがあり、八つのうち二つは扉が開いていて中から大量の衣類が見えていた。
床、キングサイズのベッド、ライティングデスクの前の椅子、ソファなど至る所に清潔に見える衣類が散らばっていた。
「今日お召しになる物を決める前に迷われたのね」
手慣れた様子でアマリアは服を拾いだすと、きちんと畳んだりハンガーにかけたりしてクローゼットに仕舞っていった。その時に中の様子を見てマイアは開いた口が塞がらなかった。デパートの洋服売場じゃあるまいし、こんなにどうするんだろう。
二人はどんどんと片付けていったが、言われた所を開けようとして、マイアは間違って隣の扉を開けてしまった。
「ひっ」
マイアは慌ててそこを閉めてアマリアの顔を見た。アマリアは中身を知っていたらしく、何も言わずに、肩をすくめた。それは手錠や革の鞭、ラテックス製のスーツにひと目でそれとわかる電動製品など、初な娘には刺激が強すぎる怪しげなコレクションの数々だった。
アマリアは全くそれには言及せずに、片付けを終えると、ベッドメイキングをマイアに教え、拭き掃除と掃除機かけ、さらにバスルームの掃除も一緒にした。いくつものガラスの大きな瓶に入ったバスソルトとバスキューブや巨大な香水瓶、ありとあらゆるブランドもののシャンプーとリンスなどがひしめいているバスルームの片付けと掃除もかなりの時間を要した。これで午前中はほぼ終わってしまう。24の居住区の毎日の掃除に二人の召使いが配置されている理由がわかった。
その日は、そのまま二人で洗濯をすることになっていたので、掃除中にあらゆる場所から集めてきた何日分かの洗濯物を持って居住区を後にした。マイアは洗濯室に入ってからアマリアに訊いた。
「あのものすごい量のお洋服、全部お一人のものなんですか」
アマリアはおかしそうに答えた。
「あれでも、少なくなった方なのよ。三年前までこの五倍くらいあって……」
「なんですって?」
「ある日、どうしてもあるジレをお召しになりたくてね。でも、見つからなくて」
「それで?」
「五日間、ぶっ通しでお探しになったの。そして、癇癪を起こされて……ほとんどのお衣装を一度処分されてしまわれたの。今あそこにあるのは、それから増えた分」
マイアはびっくりして目を丸くした。
「23の方は?」
「あの方は逆の意味で極端よね」
「というと?」
「同じ服しかお召しにならないの。もちろん毎日取り替えていらっしゃるけれど、デザインは全く一緒。とある職人が手作りしているところに定期的に注文するの。判で押したように。生活もそうよ。とても規則正しくて、きちんとしていらっしゃるけれど、とても距離を置かれていらしてね。お掃除中も全く話しかけてこられないし、難しい注文もなさらない。私たち召使いは楽だけれど、十年以上勤めていて、まだ五分以上続けて会話をしたこともないのも、なんだかねぇ」
そうなんだ。マイアはかつての少年の姿を思い出した。前はずいぶん氣さくに話しかけたのに、偏屈な人嫌いになっちゃったのかな
「23の所のお掃除は?」
「今日は、マティルダ。朝食の給仕の当番が、その後にすることになっているけれど、もう終わったと思うわ。明日はあなたね。今日のことを考えたら、嘘みたいに簡単だから安心して。散らかっているのは靴工房だけだけれど、あそこはノータッチでいいし、それ以外の所はきちんとしていて、すぐに終わるわ」
マイアは頷いた。
24の昨日着ていたジャケットをみていたアマリアはため息をついた。
「やだ、これ、本格的に染み抜きしなくちゃだめだわ。すぐにやらないと。マイア、一緒に行ってあげるつもりだったけれど手が離せなくなっちゃったから、一人で23の所に行って洗濯物を受け取ってきてちょうだい。あの方は受け取りにきましたと言えば無言でくださるだけだと思うから面倒はないわ」
マイアはアマリアから鍵を受け取ると23の居住区に向かって鉄の扉を開けた。言われたようにすぐに内側から鍵を閉めると小さい声で23を呼んだ。
「メウ・セニョール。洗濯物をいただけますか」
階下でしていた何かを打つような音が止むと、下から23が上がってきた。緑色のエプロンをしている。
「お前か」
「はい」
「悪いが、手が汚れているんだ、こっちにあるから取りにきてくれ」
「はい、メウ・セニョール」
一緒に下に降りて行こうとマイアが続くと、23は階段の途中で振り返って嫌な顔をした。
「おい。そんな風に呼ぶな」
アマリアの嘘つき。無言じゃないじゃない。
「え。なんと呼べばいいんですか」
「23」
「そんな風に呼んだら、ジョアナにもメネゼスさんにも怒られます」
「誰か他の人間がいる時はご主人様でも何とでも呼べ。だが、誰もいない時はやめてくれ」
「でも……理由を訊いてもいいですか」
「理由も何も、前はそんな風には話さなかったじゃないか、マイア」
マイアは彼が突然名前で呼んだのではっとした。この館に来てから、まだ一度も23とは話をしていなかったから、前と言うのは十二年前のあの時の事を言っているのだとわかった。
「……。私があの時の子だって、わかっていたの?」
「あまり変わっていないからな」
う……。どうせ、大人っぽく育っていませんよ……。
「確かに、あの時は図々しく友達みたいに話しかけたけれど、今は召使いだから立場をわきまえないとまずいでしょう?」
「俺はそんなに偉くないんだ。お前は召使いかもしれないが、俺だって一介の靴職人だ」
アマリアやマティルダが「必要以上に構われるのが嫌い」と言っていたのを、人嫌いという意味に取っていたけれど、もしかして王子様扱いが嫌なのかしら。
「本当にそんな風に呼んでもいいの?」
「よくなきゃ、わざわざ言わないよ。呼んでみろ。そうしたら次からはそんなに難しくないから」
「……。わかった……23」
ついに言ってしまった。すると彼は屈託なく笑った。あの時の笑顔と同じだった。マイアは彼の姿はすっかり大人になってしまっても、中身はあまり変わっていなかったのだと思った。
一階には、24の部屋にあったような応接家具やスポーツルームはなかった。巻いてある革が立ててある一画や、靴底などがたくさん積まれている棚、大量の靴型がぶら下がっている壁があった。奥には、鑿やハサミなどの工具、いくつもの糊のポット、ミシンが置かれている作業台があった。
「すごい。本当に靴工房だ」
「そりゃそうだよ。何だと思っていたんだ」
「え。だって、24の所は、あまり本格的にやっているって感じじゃなかったから、趣味の延長線なのかと……」
マイアはかなり失礼な事を言っていることに氣がついて口を押さえた。23は笑った。
「洗濯物は、そこにある。いつもそこに置いておくので、必要な時はここに取りにきてくれ」
彼の指差した所をみると、そこは小さなキッチンのようになっていて、シンクと小さい冷蔵庫と二つの丸い電気コンロがあった。小さい木の丸テーブルと椅子があり、その奥にラタン製の大きな籠があった。開けてみると、確かに彼が着ているのとまったく同じ服が三セットほど入っていた。マイアは籠ごと抱えて階段にむかった。
「これ、持っていくね。後でまた空の籠、持ってくるから」
そういうと、23は「ありがとう」といって作業台に戻った。抱えている籠からほのかにあの石鹸のような香りがした。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(3)午餐
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Infante 323 黄金の枷(3)午餐
あれから十二年が経っていた。自分も二十二歳になっているのだから、彼が少年のままであるはずはないと知っていたが、考えているのと目にするのは違った。あの時と同じなのは髪の色と瞳の色だけだった。その髪もジプシーの子供のように汚れて梳かしもせずにいた当時とは違って、たぶん肩ぐらいまであるだろう巻き毛をきっちりと後ろで縛っていた。太い眉、どちからというとがっちりとした顔の輪郭、そしてわずかに生やしている無精髭が、華奢で壊れそうだった悲しげな少年とは大きく違っていた。横を通るとき、わずかな香りがした。それは高級な石鹸か控えめな香水のようだった。
向かいに座っている24ことInfante 324は全く対照的な男性だった。まず背がずっと高い。体型もすらりとしている。三人の中で一番ドンナ・マヌエラに似ていて、青い瞳が印象的で端正な顔立ちだ。短い金髪を綺麗に撫で付けている。23は黒いパンツに白いひだの多いバンドカラーのドレスシャツというあっさりとした姿なのに較べて、24はいかにもイタリアのデザイナーものと思われるグレーのジャケットにピンク地に白い襟のカジュアルワイシャツを着崩して、ポケットにピンクのネッカチーフを入れていた。香水はアラミスのようだ。すこし量が多過ぎる。
二人が席に座ると、メネゼスが目で合図をし、アマリアがマイアの袖を引いた。前菜をバックヤードにとりに行くのだ。メネゼスが食前酒を注いでいた。
キッチンでマイアは目をぱちくりさせた。用意された四つの前菜の皿は同じ大きさだったが、盛られているチコリとスモークサーモンの量が全く違ったのだ。ミゲルがごく普通の量の皿と少量のを一つずつ持ち、残りのやたら多く盛られた皿と少ない皿を目で示した。
「こちらはドン・アルフォンソに、それからそちらの少量のは23にお出しして」
マイアはドン・アルフォンソの皿からチコリが落ちてしまうのではないかと心配しながら運んだ。なんとか無事に食堂まで運び、教えられた通りに出した。「どうぞ、メウ・セニョール(ご主人様)」と言うと、しゃがれた声で「ありがとう」と答えるのが聞こえた。フォークを持つのすら億劫に見え、その紫がかった顔はあきらかに健康を害しているように見えるのに、食欲は旺盛だった。
23にも「どうぞ、メウ・セニョール」と皿を出した。同じように「ありがとう」と言われた。低くて深い声だった。ドン・アルフォンソのようにすぐには食べず、しばらく冷えた白ワインを飲みながら、ドンナ・マヌエラと24の会話に耳を傾けていた。
「母上、今日のミサで使われた詩篇ですが、少々退屈でしたね」
「メウ・クワトロ、どういう意味ですか」
「『主は大いなる神で大いにほめたたえられるべきです。その大いなることは測りしることができません』繰り返しの文言ばかりですよ。僕だったら、もっと詩的な言葉を挟むなあ」
「メウ・クワトロ。聖書にけちをつけるような不遜なことは言うべきではありません」
「わかっていますよ、母上。単に僕の詩心がうずくのです。言葉は軽やかで美しいべきではありませんか。詩ならばなおさらです。その響きに心が飛べるようでなくては」
24の話し方は、まるで舞台でセリフを語る俳優のようだった。よく響くテノールのような声、朗々としてどう話し、どう振る舞えば注目が集まるのかを熟知していた。マイアは瞬きしながらふたりの会話に耳を傾けていたが、ふとミゲルが目で合図をしているのに氣がついた。いつの間にか、ドン・アルフォンソの皿も、23の皿も空になっていた。当主の皿はドレッシングやチコリが少し残っていたが、23の皿はパンで綺麗に拭われていた。そして、白ワインに戻っていた。マイアは二人の皿とカトラリーを下げた。
キッチンにミゲルと一緒に戻った。見ると24の皿は半分以上が残してあった。
「なぜ24のお皿も少量にしないの?」
「してほしいと言われないかぎり、勝手に少量にはできないさ。奥様と23はご要望で少なくしてあるんだ。あの二人は絶対に残さないな」
「へえ」
マイアはつぶやいた。
続いて食堂ではポットに入った野菜のスープがサーブされた。その間に、マイアとミゲルは再びキッチンに向かった。頃合いを見て用意された鴨のローストはいい香りをさせていた。ポートワインのソースが艶やかだ。ドンナ・マヌエラの皿は肉と付け合せの両方が少なめで、23のは今回は24と同じ量だった。ドン・アルフォンソのは倍量で、そんなに食べるからあんなに太るんだなとマイアは納得した。
鴨がサーブされた時に、23はドウロの赤を飲んでいた。マイアを見上げて何かを言いたそうにしていたが、ただ「ありがとう」とだけ言った。マイアは私を憶えていたのかなと考えたが、いずれにしてもあれは秘密だった。ここでおおっぴらに確認できるようなことではなかった。
十二年前、十歳だったマイアは時おりドラガォンの館の庭に忍び込んで夕陽を眺めていた。偶然知り合った少年は23と名乗った。そんな馬鹿な名前があるわけないと思っていたが、彼は嘘を言っていたわけではなかった。翌日も彼に逢うために忍び込んだのだが、あの冷えた石造りの家に彼はいなかった。それどころか、彼がぶら下がるようにして話しかけてきた足元の鉄格子のついた小さな窓から呼んでいるうちに、黒服の執事、今日メネゼスと紹介されたその人にみつかってしまったのだ。
それから、一週間も経たないうちにマイアの父親は引越すことになった。あまりにも突然のことでマイアも妹たちも不満を表明したが父は「しかたないんだ」というばかりだった。今の彼女にはわかっている。あの館にマイアがもう近づかないように、あの黒服の男たちが父親に引っ越しを強制したのだと。数年前に、再びレプーブリカ通りに住むようになってから、マイアは再びドラガォンの館に来てみたが、その時にはマイアが忍び込んだ生け垣はきちんとした塀になっていて犬一匹でも入り込めないようになっていた。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(2)腕輪をした子供たち
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Infante 323 黄金の枷(2)腕輪をした子供たち
十歳だったマイアは泣きながら細い路地を歩いた。坂の多いこの街の、華やかな川岸とは対照的な灰色の小路だ。宿無したちのぬくもりが残っているような、抜け殻のように見えるボロボロの毛布が、壁のくぼみに見えていた。そこは小便臭い一角で、マイアは息を殺して足速に通り過ぎる所だった。でも、今日はそこに辿りついた事すらも氣がつかなかった。
左の手首にしっかりと巻き付いた金の腕輪を外したかった。全てはその腕輪のせいで、それさえ外せたなら何もかも妹たちと同じようになれるのならどんなにいいだろう。けれど、マイアにはもうわかっていた。それは腕輪のせいではなかった。マイア自身が妹たちとは違っていて、その違いをはっきりとわかるようにするためにこの腕輪を付けられているのだと。
マイアの母親、やはり金の腕輪をしていたテレサが亡くなったのは三年前だった。マイアが忘れられないのは、葬儀の前に黒い服を着た男たちが来て、母親の黄金の腕輪を外した事だった。その腕輪は誰にも外せないと言われていたのに、かちゃっと言う音がして外れた。マイアは男たちに自分の腕輪も見せた。
「これもはずして」
男たちは笑いもせずに言った。
「まだ、だめだよ」
「でも、妹たちはしていないよ」
「その通りだ。妹たちは星を持たない子、君は紅い星を一つ持つ子なんだ」
男たちのいう意味はよくわからなかった。でも、マイアの手首にぴったりとついた腕輪には赤い透き通った石が一つついていた。亡くなった母親の腕輪には同じ石が二つ付いていた。
母親が生きていた頃、マイアにわかる妹たちとの違いはそれだけだった。それから三年経って、父親の態度が変わったのではない。父親はマイアと妹たちとに違った愛情を注いだわけではなかった。たとえマイアだけが彼の本当の娘ではなかったとしても。けれども、彼はマイアにわかりやすく説明する事ができなかった。
――なぜ、マイアだけ学校の遠足に行ってはいけないのか。
――なぜ、マイアだけ船に乗ってはいけないのか。
――なぜ、マイアだけ金の腕輪をしなくてはいけないのか。
納得できるような理由は誰も言ってくれない。葡萄畑の広がるのどかな渓谷。D河を遡る遊覧船に乗って明日級友と妹たちを含む学校の生徒は遠足に行く。隣国との国境を超えるので、子供たちは皆パスポートを用意させられた。二年前に行けなかったマイアは、今度こそ行けると喜んでいた。それなのに、妹たちが手にして見せあっているパスポートを、マイアだけがまたもらえなかったのだ。
「ごめんな。マイア。父さんが提出した書類に間違いがあったらしいんだ。それでお前の申請書だけ戻ってきてしまったんだよ」
マイアは泣きながら街を歩いた。海からの風がマイアの頬に触れて通り過ぎていく。カモメは高く鳴いて飛んでいく。理不尽な事ばかりだ。
暗くて冷えた石造りの壁。明かりの入ってくる窓には彼の手首ほどもある太い鉄格子が嵌まっている。彼はその錆臭い格子をつかんで外を見た。停まっていたカモメがさっと飛び立った。どこまでも続く赤茶けた屋根の上を悠々と飛んでいく。彼の目はその飛翔をずっと追っていたが、やがて格子をつかんでいるみっともなくやせこけた自分の手に視線を移した。左の手首にぴったりと嵌まった金の腕輪だけが、キラキラと美しく輝いていた。D河の向こうを目指してゆっくりと沈んで行く太陽の投げかけた光が、腕輪にあたり鋭く目を射た。彼は格子に額を押し付けて瞳を閉じた。
マイアは坂道を上りきった。車や人びとが行き交い、華やかなショウウィンドウが賑わう歴史地区の裏手に、D河とその岸辺の街並に夕陽のあたる素晴らしい光景が広がっている。ここは貧民街の側でもあるが、どういうわけか街でも一二を争う素晴らしい館が建っていて、その裏庭に紛れ込むと夕景を独り占めできるのだった。
その館が誰のものであるのか、幼いマイアはよく知らなかった。父親は「ドラガォンの館」と言っていた。門の所に大きな竜の紋章がついているからだ。竜はこの街の古い紋章でもあるので、マイアはこの館は昔の王族の誰かが住んでいるのだろうなと思っていた。テレビで観るようにまだ王様が治めている国もあるが、この国は共和制でもう王様はいない。だから大きな「ドラガォンの館」が何のためにあるのか、マイアにはよくわからなかった。
彼女は四つん這いになって、生け垣の間の小さな穴を通って、館の裏庭に侵入した。生け垣のレンギョウは本来なら子供が入れるほど間を空けずに植えられているのだが、ここだけは二本の木が下の方で腐り、それを覆い隠すように隣の木の枝が繁っていて大人の目線からは死角になった入口になっていた。ここを見つけたのは秋だった。自分だけの秘密。見つかれば二度とあの光景を独り占めできないことはわかっていた。
緑と黄色のトンネルを通って下草のある所に出た。手のすぐ近くに草が花ひらいていた。三色すみれだ。マイアはまた少し悲しい顔をした。

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。
花弁の一番上だけ、他の花びらと異なっている。父親の出稼ぎ先であるスイスで生まれ育ったジョゼが言った。
「この花ってさ。ドイツ語だと継母ちゃんっていうんだぜ」
「どうして?」
「ほら、みろよ。同じ花の中に、三つは華やかで上だけ地味な花びらだろ。この派手なのがいい服を来た継母とその実の娘たちで、地味でみんなと違っているのが継子なんだってさ」
ジョゼはマイアのことを当てつけて言ったわけではない。彼は転校してきたばかりで、マイアの家庭の事情には疎かった。それに彼女は継母にいじめられている継子ではなかった。妹たちとは同じ母親から生まれたし、実子でないからと言って父親に差別されたりいじめられたりしたこともなかった。単純に母親が死んでから、マイアの周りには腕輪をしている人間が一人もいなくて、それがマイアを苦しめていただけだった。
マイアは三色すみれを引き抜いてレンギョウの繁みに投げ込んだ。花に罪はないのはわかっていたが、理不尽に憤るまさにこの夕方に彼女の前に生えていたのがその花の不運だった。
彼女は涙を拭うと、忍び足で裏手の方へと向かった。空はオレンジ色に暮れだしている。カモメたちの鳴き声も騒がしくなってきた。きっと今日はとても綺麗な夕陽が観られるに違いない。明日の船旅には行けないのだ。明日だけではない。きっとマイアはずっと船に乗せてもらえないだろう。どこまでも続く悠々たるD河を遡って、それとも、大きな汽船に乗って、いつかどこか遠くに行きたい。一人で夕闇に輝くPの街を眺めるとき、マイアはいつもそう願った。
大きく豪華な館の側を通る時は、見つからないように慎重に通り抜けた。けれどしばらく行くと、ほとんど手入れもされていない一角があり、みっともない石造りの小屋が立っていた。きっと昔は使用人の住居だったのだろう。けれど今は廃屋になっているようだった。その石の壁に沿って進み、小屋の裏側に出ると、思った通り空は真っ赤だった。そしてD河も腕輪の黄金のようにキラキラと輝いていた。
「わあ……」
マイアは自分の特等席と決めている放置されている大理石の一つに腰掛けると、足をぶらぶらさせた。
「お前、誰だ?」
突然声がしたので、マイアは飛び上がった。
怖々後ろを振り返ると建物の下の方に小さな窓があった。錆びた鉄格子が嵌まっている。誰もいないと思っていたのに、しかも薄暗い地下室のような所に誰かいる。その声からすると子供のようだった。マイアはそっと目を凝らして中を覗き込み、それから顔をしかめた。浮浪者の子供かしら。黒いボサボサの髪はずっと洗っていないようだったし、薄汚れた服や肌から何とも言えない悪臭を漂わせていたのだ。
「お前、誰だ」
その少年は問いを繰り返した。マイアは闖入者であったが、その少年を同じように侵入して閉じこめられた浮浪者だと思ったので、謝ろうというつもりはなくなった。
「夕陽を観に来たの。泥棒じゃないわ」
少年は「そんなことを訊いているわけじゃないのに」という顔をしたが、マイアが立ち去ろうとすると慌てて言った。
「夕陽を観てから帰れよ。これからもっと綺麗になるぜ」
マイアはそういわれると、余裕ある氣もちになって、つんとすまして自分の定位置に座った。けれど、そうすると少年に背を向けることになったので、一分もすると落ち着かなくなって、少年の方を振り返った。
「なんで、そこにいるの?」
「いなきゃいけないから」
少年は口を尖らせた。マイアよりもずいぶんと年上のようだった。もう中等学校に行くぐらいだろうか。でも、こんなに臭くて汚い子がクラスにいたらみんな迷惑だろうなと思った。
「ここに来たのははじめてじゃないんだろう?」
少年が訊くと、マイアはこくんと頷いた。
「今まで誰もここにいなかったし、見つからなかったの」
それから二人は黙って夕陽を眺めていた。カモメが何羽も連なって、水面に近づいたり高く舞ったりしている。樽を運ぶ小舟ラベロがゆっくりと行き来している。鉄製の美しいドン・ルイス一世橋が夕陽に照らされていた。あたりが少しずつ涼しくなっていき、憤っていたマイアの心が少しずつ落ち着いてきた。この街は美しい。泣きたくなるほど美しい。遠足に行けなくて、一日一人でいられる時間ができたのだから、また街を探検しようかな。
「俺、誰にも言わないから、また来いよ」
少年は突然言った。マイアははっとして鉄格子の中を再び見た。そして、格子をつかむ彼の左手首に黄金の腕輪があるのに氣がついた。
「あ」
マイアの視線で彼は格子から彼の左手首をさっと隠したが、同時にマイアの左手首にある同じ腕輪を眼にして目を見開いた。
「腕輪……」
マイアはそっと少年の方に近づいて自分の左手を差し出して彼によく見えるようにした。すると彼もまた、その手首をマイアに見せた。それはまったく同じ黄金の腕輪だったが、彼の方には青い石が四つついていた。マイアはつぶやいた。
「腕輪している子、はじめて見た……」
それを聞くと少年は口元を歪めた。
「たくさんいるんだよ。普段は見ないけれどね」
「この腕輪のこと、知っているの?」
少年は黙って頷いた。とても悲しそうだったので、マイアはきっと彼も腕輪を外したくて苦しんでいるのだと思った。
「教えてくれる?」
彼は唇を噛んで少しだけ考えていたが、やがて言った。
「……長くなるよ」
マイアははっとした。いつもよりも遅くなっている。
「それはダメ。今日はもう帰らなきゃ。でも、また来たら教えてくれる?」
「またっていつ? 明日?」
マイアは目を見開いてから頷いた。
「うん、いいよ。明日は一日暇だから、昼から来られるよ」
それから少し眉をひそめて続けた。
「明日来るとき、大きな石けん、もってきてあげる。あなた、汚すぎるもの」
少年の顔は真っ赤になった。マイアは悪い事を言ったかなと思い取り繕うように言った。
「あたし、マイア。あなたは?」
少年は小さい声で言った。
「23」
「……」
マイアは馬鹿にされたのだと思った。そんな名前があるわけないでしょう。腹が立ったので、さよならも言わずに大股で歩み去った。少年は懇願するように後ろから言った。
「明日、来るだろう? ちゃんと洗うから……」
マイアは戸惑って、後ろを振り返った。格子にぶらさがるようにこちらを見ている少年の目はとても悲しそうだった。その目を知っていると、マイアは思った。左手首の腕輪が目に入った。思い直して、小さく頷いた。
「うん。たらいも持ってくるね。髪を洗うの、手伝ってあげる」
彼が笑ったので、嬉しくなってマイアも笑った。小さく手を振ると、彼女は建物の角を曲がって急いで出口である生け垣へと急いだ。辺りはどんどん暗くなっている。早く帰らないとお父さんが心配する。家出したと思われちゃう。
生け垣の所でかがむと別の三色すみれが目に入った。先ほどみたいには悲しくなかった。色の薄いすみれの花弁は、もう自分だけではない。あの汚い子とはきっといい友達になれるだろうな。そうだ、家にあるとても大きいすみれの香りの石けんを持ってきてあげよう。マイアは、そう思った。
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【小説】Infante 323 黄金の枷(1)ドラガォンの館
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Infante 323 黄金の枷(1)ドラガォンの館
カモメが飛んでいた。翼を畳んでいる時には想像もしないほど大きな鳥だ。ベンチに腰掛けてD河を見ているマイアの上を悠々と、西の方へ、つまり、大西洋の方へと飛んでいった。河にはかつてはワインの樽を運んでいた、現在は主に観光客用に浮かべられている暗い色の舟ラベロがゆったりと進んでいる。リベイラと呼ばれる河岸には色とりどりの美しい建物が建ち並び、その前にはレストランが用意したテーブルと椅子、そして強い陽射しから観光客たちを守る大きなパラソルがたくさん並んでいた。
世界中からこの美しい街を眺めにたくさんの観光客がやってくる。ヨーロッパからはもとより、南北アメリカから、アジアから、それにアフリカからも。ポルトガル語、スペイン語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、それにマイアにはまったくわからないアジアの言葉で、人びとはこの美しい眺めを賞賛していた。河の上を、そしてカモメたちのはるかに上をジェット機が飛んでいく。マイアは大きく一つ息をつく。ハガキサイズのスケッチブックには、対岸のワイン倉庫街が水彩色鉛筆で精彩に描き込まれていた。このベンチに座って絵筆を走らせながら、次々と入れ替わる観光客たちの休暇の空氣に触れるのが好きだった。マイア自身はパリにもロンドンにもリオ・デ・ジャネイロにも行けないだろう。
子供の頃は理不尽に悩んだこともある。けれど、今は「そういうものだ」と納得している。それに、テレビで見るパリやローマだって、この街ほど美しいとは思えない。ここに生まれて、この美しい光景を見て生きることはそんなに悪いことではないと思う。それに……。
マイアはこの河をのぞむとても美しい光景を知っていた。夕闇に河がオレンジ色に染まり街が柔らかい色に染められていく時間を俯瞰できる素晴らしい場所。子供だったマイアが見つけた。けれどその光景は誰にでも公開されているわけではなかったので、マイアは十年以上眼にしていなかった。もう機会はないかとあきらめていたが、今日から再び見ることができる。彼女の胸は期待に高鳴った。
教会の鐘の音が響いた。マイアは立ち上がって、隣に置いていた鞄を肩にかけた。
「そろそろ時間ね。行かなきゃ」
坂を上る。この街Pは起伏が激しい。タイルに彩られた建物がたくさん立ち並ぶ。この道は旅行者用の土産物を売る店ばかりだ。駅の近くを左折して、さらに道を登っていく。鞄屋、台所用品屋、地元民用のカフェ、金物屋などを通り過ぎる。観光客と住民と車が忙しく通り過ぎる街でも忙しい一角だ。大きな教会のある広場に出た。そこを左へ曲がると、急に人通りが少なくなる。迷路のような小路はもう上り坂ではなかった。陽射しも届かず少し涼しくなった。マイアは息を整えながら歩いていく。
間口の狭い建物が途切れた。その代わりに長い塀と生け垣に囲まれた大きな建物が見えてきた。城と呼んでも構わないほどの大きな建物が堂々と建っている。「ドラガォンの館(パラチオ・ド・ドラガォン)」だった。マイアは大きく息をつくと正面玄関の大きな門の前に立った。それは重厚な鉄製で、絡まる唐草文様に囲まれ大きい二頭の竜が向かい合っていた。彼女は呼び鈴を押した。
背の高い男が出てきて、マイアを中に迎え入れた。マイアは正面玄関ではなくて、脇の出入り口の方に連れて行かれた。黒いスーツを着た壮年の男と、召使いの服装を着た女が待っていた。
「マイア・フェレイラです。お世話になります」
マイアが頭を下げると二人は頷いた。
「私はアントニオ・メネゼス。この館の執事を勤めています。こちらは召使い頭のジョアナ・ダ・シルヴァです。サントス先生からの紹介状を持ってきたと思いますが」
マイアは二人に頭を下げると。荷物から紹介状を取り出してメネゼスに渡した。その時に、この人に物を渡すのは二度目だと思った。きっと忘れているだろうけれど……。
メネゼスは紹介状に目を通すと頷いてジョアナにそれを渡した。それからマイアに向かって言った。
「腕輪を見せていただきましょうか」
マイアは左の手首についている、金の腕輪を見せた。その腕輪は表面にたくさん浮き彫りがあり少しゴツゴツとした手触りだった。内側に一つだけ赤い透き通った石が付いていた。何の石かは知らない。それはマイアが買ったものではなく、好きで付けているものでもなかった。それどころか彼女には決して外せないのだ。確認されている間、紹介状を見ているジョアナに目を移すと彼女の左手首にも同じ腕輪が付いていた。この館で召使いをするものは全員この腕輪をしているのだという。
「では、一番大切なことだが、ここで誓約をしてもらおう」
そういってマイアに聖書を差し出して右手を載せるように示した。彼女は頷いて言う通りにした。
「私に続きなさい。《私、紅い星を一つ持つマイア・フェレイラは誓約します》」
「《私、紅い星を一つ持つマイア・フェレイラは誓約します》」
「《この館の中で見聞きしたことは、館の外の人間には一切語りません》」
「《この館の中で見聞きしたことは、館の外の人間には一切語りません》」
「よろしい。中に入りなさい。ジョアナ、彼女を案内してください」
「わかりました、メネゼスさん。ついていらっしゃい」
マイアはメネゼスに再び頭を下げると、荷物を抱え直して召使い頭に従った。
「ダ・シルヴァさん、どうぞよろしくお願いします」
女はマイアの言葉に振り返るとニコリともせずに言った。
「私のことは皆と同じようにジョアナと呼んでください。使用人はメネゼスさんを除いて全員ファーストネームで呼び合っています。あなたのこともこれからマイアと呼びます」
「はい」
マイアは小さくなった。
石の狭い階段には燭台に見えるランプがついていた。冷たい音を立てて昇りながらジョアナは続けた。
「こちらの当主はドン・アルフォンソとおっしゃいます。『メウ・セニョール(ご主人様)』とお呼びするように。そして、母上のドンナ・マヌエラには『ミニャ・セニョーラ(奥様)』と呼びかけてください」
マイアは小さく「はい」と答えた。
階段を上がると少し広い所に出た。ジョアナはパンパンと手を叩いた。すぐにあちらこちらから召使いたちが集まってきた。黒いワンピースに白いエプロンを身につけた召使いの女が三人いた。それに黒いズボンの上に白いマオカラーの上着を着た男たちが四人、料理人の服を着た男性が二人いた。
「紹介します。本日から働くことになったマイアです。マティルダ、あなたの部屋と同室になるのでよろしく」
ジョアナが紹介した。一番左にいた金髪の若い召使いがにっこり笑ってマイアに手を振った。ジョアナはマティルダをひと睨みしたが小言は言わなかった。そして、もう少し年長の女に言った。
「アマリア、マティルダだけでは心もとないので、少し面倒を見てあげてください」
黒髪の少しふくよかな女性が頷いてからマイアに笑いかけた。マイアは仲間が優しそうだったのでホッとした。
ジョアナは続けて全員の名前を言った。門を開けてくれた背の高い男性がミゲルという名前なのは憶えた。あとはジョアン、ホセ・ルイス……。さすがに全ては憶えられない。でも、一つだけはっきりしたことがある。ライサ・モタという名の女性が紹介された中にいなかったこと。予想はしていたけれど……。マイアは唇を噛んだ。
紹介が終わると、マティルダについて自分の部屋に行くことになった。
「よろしくね」
そう言って笑いかけてくるマティルダが明るくて人懐っこい性格のようでマイアは嬉しかった。マイア自身ははじめての人と打ち解けるのにとても時間がかかる方だった。新しい環境に立ち向かうのも苦手だった。学校を卒業してから勤めていたのは小さなソフトクリーム専門店で、そこをやめて新しい環境に行きたいと思ったことはなかったが、店が潰れてしまったので新しい職を探す他はなかった。召使いとして働くなどこれまで考えたことは一度もなかったが、この職に応募したのは二つの理由があった。
一つは子供の頃の思い出だった。マイアはかつてこっそりこの屋敷の敷地に忍び込んだことがあった。好奇心からだったが、そこで忘れられない美しい夕景に出会った。それから一人の少年とも。十二年経ってもそのことが氣になっていた。
もう一つは、もっと大きな理由だった。友人マリアの姉で、ここに勤めていたライサ・モタが家族と連絡を絶ってから一年近くが経っていた。ライサに何があったのかマリアは知りたくて自らこの仕事に応募したがチャンスはなかった。腕輪をしてなかったから。その話を聞いたときにマイアはこの仕事に応募することを決めたのだ。腕輪をしていることは、常にマイアの人生を邪魔してきた。そのことが事態を有利にしてくれたことなど、今まで一度もなかった。けれど今回は違う。給料もソフトクリーム屋の二倍以上だった。そして、マリアの代わりにライサのことを調べることもできる。マイアはこれからのことを考えて武者震いした。
三階の一番奥にマティルダとマイアの部屋があった。下の階のような石の床ではなくて、茶色のタイルが敷き詰めてあり、壁も淡いクリーム色の落ち着く部屋だった。窓に面した通路をはさんで、白いカバーのかかったシングルのベッド、茶色い木製の戸棚、机と椅子が一つずつ対称的に置かれていた。
「こっちがあなたのコーナーね」
マティルダは窓に向かって左側のベッドを指して言うと、さっと窓のカーテンを開けた。
「わあ!」
思わずマイアは窓に駆け寄って外を見た。D河に面していたのだ。子供の頃に忍び込んで眺めていたのはこの光景だった。ずっと下の方にある河べりまでこの街の特徴である赤茶色の屋根がずっと続いている。夕陽の時間はもっと素晴らしい眺めになるに違いない。
「うふふ。絶景でしょ? 私たちの部屋の特権なのよ」
マティルダがウィンクした。
身を乗り出していたマイアは建物の反対側、ずっと大きくせり出した翼を見た。マイアたちの窓と違って、そちらの窓にはいかめしい鉄格子がはまっている。泥棒よけかな? でも、ここ、こんなに高いのに。
「マティルダ、あっちの建物はなに?」
「ん? ああ、あっちはご主人様たちの居住区。あれは24のところかな、いや、こっち側だから23のところだわね」
「……23」
妙な顔をしているマイアをマティルダはおかしそうに笑った。
「あはは、わからないわよね。正確にはインファンテ323と324。番号だから敬称はつけなくていいの。でも呼びかけるときはちゃんと『メウ・セニョール(ご主人様)』っていうのよ。今日は午餐のある日だから、その時にきっと紹介されるわ」
召使いの制服である黒いワンピースとエプロンに着替え、マイアはマティルダに連れられて再び二階に行き、アマリアから仕事の指導を受けた。掃除、洗濯、調理の手伝いに給仕と、様々な仕事があったが、今日は主人たちへの紹介も含めて昼食の給仕を手伝うことになっていた。ひと通りの説明と皿を運ぶ簡単な訓練を受けた後、マイアはアマリアとミゲルに連れられて母屋の食堂に向かった。
飾りも少なく質素だったバックヤードと比較して、母屋は豪華絢爛と言ってよかった。シャンデリアが煌めいていて、同じ石造りの壁もずっと明るく見えた。家具の類いは重厚で、足もとには臙脂の大きな絨毯が敷かれていた。
階段の踊り場には大きな花瓶にマイアが名前も知らないカラフルで珍しい花が生けられていた。食堂はもっと大きくて華やかな装飾で満ちていた。マイアの背丈ほどもある花瓶や、引き出しがたくさんある珍しい戸棚、大きな花の絵や風景画、巨大な燭台。壁には系図とみられる金の字で年月日と名前がずらりと書かれた黒い板が掲げられていた。たくさんの物があったが、それが氣にならないほど広く天井も高かった。
マイアたちは大きなテーブルに四人分の食器をセットしていった。準備が終わると執事のメネゼスが確認してからミゲルに目配せをした。ミゲルは主人たちにテーブルの準備ができたことを報せに出て行った。
シャラシャラという衣擦れの音ともに、婦人が入ってきた。光沢のあるわずかに緑がかった紺の絹ドレスを身にまとい、茶色に近い金髪をシニヨンでまとめていた。亡くなったマイアの母親と同世代と思われる、灰色の瞳と優しい口元の印象的なとても美しい貴婦人だった。マイアはこの方が「奥様」であるドンナ・マヌエラなのだと嬉しくなった。
彼女がメネゼスの引いた椅子に腰掛けると同時に、重い足取りで入ってきた者があった。マイアは息を飲んだ。その太った男は、紫がかった顔をしていた。ドンナ・マヌエラよりもずっと若そうだが、目の下に、目の幅と同じくらいの隈があり、その色は顔よりもさらに紫がかっていた。階段を上がってきたのか、ひどく激しい息づかいをしている。メネゼスが一番奥の椅子を引いて座らせた。それでマイアは、彼こそが当主のドン・アルフォンソだと知った。
メネゼスは大きな鍵を二つアマリアに渡した。アマリアがかしこまってそれを受け取ると、マイアについてくるように目配せをし食堂をでた。広間と廊下を挟んだ反対がわにある大きな鉄格子が見えた。それはこの屋敷には全く不釣り合いで、まるで牢獄のように見えた。しかし、その鉄格子の奥は広間や食堂と同じように豪華な調度が置いてあった。アマリアはひとつの扉のように見える鉄格子の方に歩いていき、鍵を開けて扉をギイと開いた。それから、十メートルくらい離れた別の鉄格子の扉の方にも行って、もう一つの鍵で扉を開けた。マイアがよく見ると、その二つの鉄格子の間には厚い壁があり、お互いには行き来できないようになっていた。
「お食事の時間でございます」
アマリアが言ってしばらくすると、一つの鉄格子の向こうでは上の方から、もう一つは下の方から誰かが歩いてきた。上から来たのは背が高くて短い金髪を綺麗に撫で付けた美青年だった。下から上がってきたのは黒い巻き毛を後ろで縛り少し無精髭を生やした背の低い青年だった。二人はそれぞれの扉から出ると食堂の方に歩いていき、一人は北の席に、もう一人は南の席に座った。
23……。紹介されるまでもなく、マイアにはどちらがインファンテ323と呼ばれている青年なのかがわかった。南の方に座った黒髪の青年がじっとみつめているマイアを不思議そうに見た。メネゼスの声がした。
「お食事の前に、新しく入りました召使いを紹介させていただきます。マイア・フェレイラです」
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【小説】夜のサーカスと夕陽色の大団円
永らくみなさんをヤキモキさせてきたヨナタンの謎は全て明らかになり、ステラとの恋の顛末も行方が定まり、そしてサーカスは今まで通り興行を続けていきます。これまで応援してくださったみなさまに篤く御礼申し上げます。
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夜のサーカスと夕陽色の大団円
彼は、狭いアントネッラの居住室に所狭しと立つ人びとをゆっくりと見回し、静かに言った。
「あの船に乗っていたのは、確かに僕です。けれど、アデレールブルグ伯爵ではありません。ゲオルク・フォン・アデレールブルグ、ピッチーノは城で病死しました。僕はイェルク・ミュラーです」
皆は驚きにざわめいた。
「ちょ、ちょっと待って……。どういうこと?」
「説明してくれるかね。君がイェルク・ミュラーとはどういうことかね? 披露パーティにいたのは君だろう?」
「はい。僕はピッチーノ、ゲオルクの代わりにアデレールブルグの表向きの城主になるように教育を受けたのです」
「なんてことだ」
「じゃあ、使用人の証言していた若様は確かにあなただけれど一つ歳下のイェルクで、小さい若様が実は年長のゲオルクだったというの?」
アントネッラが訪ねた。
「はい。彼の成長は、とても遅くて、たぶんもうあの姿以上には育たなかったのだと思います」
「それで、いったい何が起こったんだ?」
《イル・ロスポ》の問いはこの場の全員を代表したものだった。ヨナタン、いやイェルクと名乗った青年ははっきりと答えた。
「簡単です。ゲオルクが城で亡くなった後、僕が自分で湖に飛び込んだんです。だからヨナタン・ボッシュは冤罪です」
一同ざわめいた。
「どういうことかね」
「ツィンマーマンは、邪魔な僕をどうあっても殺すつもりだった。アデレールブルグ夫人はその兄に逆らうことができなかった。ボッシュは、死ぬしかなかった僕に生きるチャンスをくれたんです」
十二年前の六月だった。夜闇にまぎれて連行されたイェルク少年は絶望していた。アデレールブルグ夫人にも見捨てられた。車に乗せられ右にヨナタン・ボッシュ、左にもう一人のツィンマーマンの手下が拳銃を持って座っていた。扉を閉める時にツィンマーマンは言った。
「お前が下手なことをすると、両親が死ぬ。黙って、そいつらの言う通りにするんだ。助けを求めたりして大騒ぎになったら、わかっているな」
ボーデン湖・ナイトクルーズの船に乗り込んだのは、体をぴったりと寄せて目立たぬように拳銃を押し付けたヨナタン・ボッシュ一人だった。二人は予約してあった船室に入った。
「おい小僧。何を考えている」
「僕は結局のところ殺されるんだろう」
「実はボスにはそう命じられた。お前さんもよく知っているように、ボスは手下だろうと容赦はしない冷血漢だ。しくじればしっぽを切るためにこっちが殺られるんだ」
「僕の父さんと母さんはこのことを知っているのか」
「どうかね。どっちにしても、もうこの世にはいないだろうな」
「どうして……」
「お前さんの両親は欲を出したんだ。ボスをゆすった。ボスは身の安全のためならどんなことでもする。だからお前を助けてほしいと言う妹の必死の願いもはねつけた」
イェルク少年は、唇を噛んだ。金に目のくらんだ両親と、その両親から離れて聖母子のような親子とともに暮らしたがった自分とは、同じ穴の狢だった。
「ドロテアは、弱い女だ。自分の力で兄を止めることもできなければ、全てを捨てて警察に行く勇氣もない。だから賭けをしたのだ」
「賭け?」
「俺だよ。俺はドロテアと同じ学校に通っていた。ずっとドロテアに憧れていた。彼女がアデレールブルグ伯爵と結婚した後も、ずっと彼女を慕って、側にいたくて、それでボスの手下になった。その彼女が危険を冒して俺に頼んだんだ。どんなことでもする、だから、どうにかしてパリアッチオの命を助けてやってくれってね」
イェルクは、震えた。
「俺は、ただドロテアのために、バレたら確実にボスに殺られる危険を冒すことにしたんだ。いいか。これからのことは、俺とドロテアの両方の命がかかっているんだ、よく聞け」
少年はボッシュが何を言いだしたのか最初は理解できなかった。ボッシュは小さな携帯酸素ボンベを渡した。
「この後、お前はもう死にたいとか大袈裟に騒ぎながら、俺の制止を振り切ってこの湖に飛び込め。ボスのプランでは、氣を失っているところを俺が人に見られないように突き落とす手はずになっているんだが、とにかくできるだけ目につくように錯乱したフリをして飛び込め。このボンベがあればたぶん岸までは何とかなるはずだ。そして人に見られないように消えろ。どこか遠くに行くんだ。いいか。生きていることを誰にも知られるな。もし、お前が誰かに生きたまま助けられれば、俺も、ドロテアも終わりだ」
チルクス・ノッテの連中も、アントネッラとシュタインマイヤー氏も黙ってイェルク青年の話を聞いていた。
「泳ぎついたのはリンダウでした。人目につかないように隠れて電車に乗り、無賃乗車がバレないようにところどころで乗り換えて、辿りついたのがミラノの近くでした。空腹で動けなくなっているところを団長が拾ってくれたんです」
「そうだったのか。では君が人の命がかかっていると言ったのは、ドロテア・アデレールブルグ夫人とヨナタン・ボッシュのことだったのだね」
「はい」
「確かにあのツィンマーマンなら、自分に害が及びそうになったら手下や実の妹ですら手にかけるだろうな。現にボッシュの逮捕後も知らぬ存ぜぬで通している。自分の政治力を利用してボッシュ一人にミュラー一家殺害の件を押し付けるつもりだろう」
「つまり……」
アントネッラがつぶやいた。
「ツィンマーマンは叔父として当主ゲオルクの後見人となったものの、そもそも伯爵には成人になっても統治能力がないことがはっきりしていた。当主の座を狙っているアデレールブルグの分家にそれを知られる前に身代わりとしてイェルク・ミュラーを引き取り、すり替えて傀儡当主にしようとした、ってことね」
シュタインマイヤー氏が続ける。
「そうだ。ところが、肝心のゲオルクが成人となる前に病死してしまったので、計画を変更してアデレールブルグを財団にして理事長に納まることに成功した。そうなるとそれまでのペテンの全容を知っているミュラー夫妻とイェルクが邪魔になった」
「なんて勝手な……」
マッダレーナがつぶやく。
「そう。だが、もともとは手切れ金ぐらいで済ませるつもりだったんだろうね。だが、ミュラー夫妻は、イェルクが当主になって生涯困らない金が手に入るのを期待していた。はした金では納得できずに強請ってしまったんだろう。それが命取りになった……」
「それだけではありません」
青年は静かに言った。
「ゲオルクの死後、アデレールブルグ財団を設立し初代理事長をツィンマーマンとするあの遺言状にサインしたのは、僕だったんです。それまでのすべての伯爵のサインも」
「そうか。それが明らかになったら、彼はすべてを失う。ミュラー夫妻はそれを知っていた」
シュタインマイヤー氏が深く頷いた。
ヨナタンは項垂れていた。彼は天使のようなピッチーノとは違っていた。ミハエル・ツィンマーマンのペテンに自らの意志で加担した。下品で暴力的な両親の元を離れ、アデレールブルグ城で、優しいドロテアとゲオルクと一緒に幸せに暮らしたかった。それが曲がったことだとわかっていても、生涯若様のフリをしようとしていた。
「ツィンマーマンは、すべてをボッシュに押し付けて知らぬ存ぜぬを通し、好き勝手を続けるつもりだ。我々は、手をこまねいているわけにはいかない。あいつを逮捕して立件するためには、どうしても君の証言が必要だ。君も公文書偽造の罪には問われるかもしれないが、情状酌量されるようこの私が全力を尽くす。だから、協力してくれるね、ミュラーくん」
「はい。僕の存在がもうアデレールブルグ夫人を困らせることがなく、ボッシュを冤罪から救えるなら……」
「ありがとう。そして、アントネッラ、バッシさん、それにサーカスの皆さんも、未解決事件に対する大いなる協力にドイツ連邦とドイツ警察を代表して心から感謝する」
シュタインマイヤー氏は、ミュラー青年の肩をそっと叩いた。
仲間たちは彼らがずっとヨナタンと呼んでいた青年を見た。名のない道化師は、悲運の王子様ではなく、運命に翻弄されてきた一人のドイツ人だった。思いもしなかった結末に誰もが言葉少なくなっていた。サーカスの一同は、そのまま《イル・ロスポ》のトラックに乗ってテントに帰ることになった。ヨナタンはしばらくアントネッラとシュタインマイヤー氏と今後のことを話していたが、やがて塔から降りてやってきた。
「ステラ、早く乗って」
マッテオの言葉に、ステラはヨナタンを氣にしながら頷く。
「ヨナタン?」
ヨナタンはじっとステラを見ていたがやがて言った。
「僕は、コモ湖沿いに歩いて帰るよ。ステラ、よかったら君も一緒に」
ステラは黙って頷いた。ああ、さよならを言われるんだなと思うと泣きたくなった。すべて自分が引き起こしたことだった。
マッテオが不満を表明して降りようとするのをブルーノが黙って羽交い締めにし、マッダレーナはトラックの扉を閉め、《イル・ロスポ》に出発するように頼んだ。
トラックが去ると、ヨナタンはゆっくりと歩き出した。ステラは半歩遅れてその後に続いた。二人は黙ったまましばらくコモ湖の波を眺めながら進んだ。
「ヨナタン……。いいえ、あの、イェルク……さん」
ステラはぎこちなく呼びかけた。
「ヨナタンでいいよ」
彼は振り向いて言った。ステラが意外に思ったことに、彼は前と同じ柔和な暖かい表情をしていた。関わりを拒否していた頑な佇まいがほどけて消え去っていた。
「あの、怒っていないの? 私のしたこと……」
ヨナタンは首を振った。
「怒っていない。僕の方が、頑なすぎたんだ。そんな必要はなかったのに」
「でも、行ってしまうんでしょう? もう、道化師のふりをして隠れている必要はなくなったし、パスポートも……」
彼は小さく笑った。
「新しいパスポートの名前欄にヨナタンも入れて欲しいと頼んだんだ。ミドルネームでいいならと言われたよ。ドイツのパスポートがあればイタリアの滞在許可はいらないんだ」
彼女の心臓は早鐘のように鳴った。小さな希望の焔が再び胸の奥から熾るのを感じた。
「じゃあ、これからもチルクス・ノッテにいてくれるの?」
彼の頷く姿を見て、ステラの笑顔が花開いた。歓びは体中から光り輝くように溢れ出た。ヨナタンはこれほど美しいと思った事はないと心の中でつぶやいた。
ステラは夕陽に照らされている青年の横顔をじっとみつめた。彼女は今までとは全く違う彼の瞳の輝きを見つけた。ステラ自身が持つ内側から放つきらめきと同じ光だった。生き生きとして強い想いがあふれていた。彼は正面に向き直って彼女の両手を握った。
「僕はずっとただの動く屍体だった。息をして機能していても、心も魂もどこか暗い部屋に置き去ったままだった。君がその小さな手で扉を叩いてくれた。その輝きで暗闇から戻ってくる道を示してくれた。もう一度、生きて、夢を見て、愛し、愛されたいと思わせてくれた」
静かな暖かい声がステラの胸にしみ込んでいく。
「君は僕に名前までくれた。もう一度生きて存在する人間にしてくれた。お返しに僕が君にしてあげられる事はあるんだろうか」
ステラは涙をいっぱい溜めて、愛する青年を見上げた。
「そばにいて。ずっと好きでいさせて。他には何もいらないから」
彼は深く頷くと、愛おしげに彼女の前髪を梳いて、それからゆっくりとそこに口づけをした。願いは叶ったのだ。おとぎ話はようやく本当になったのだ。二つのシルエットはひとつになって、コモ湖の夕陽に紅く染まった。
ステラを探して、湖畔に行こうとするマッテオをマルコとエミーリオが必死で止めていた。
「だめだって」
「いま行くのは、嫌がらせですよっ」
「なんだと。うるさい。これから僕は堂々とステラに求愛に行くんだ。これでヤツとは五分五分だからな」
マルコは頭を振った。
「どこが、五分五分なんですかっ。もうちょっと現実ってものを把握したほうがっ」
「うるせぇっ。ステラを想う氣持ちは誰にも負けないんだっ」
そう騒ぐマッテオの肩をぽんぽんと叩くものがあった。振り向くと、それはロマーノだった。
「よくわかるよ、マッテオ。私もたった今、12年分の愛を失った所なんだ。どうだね。愛を失ったもの同士、慰めあわないかね」
マッテオは青くなって、首を振った。
「ふざけんなよ、この、セクハラ親父! 僕はヘテロだって何度言ったらわかるんだ!」
「まあまあ、そういうセリフは、一度試してから言いなさい」
「勘弁してくれっ」
マッテオは、すたこらと逃げ出した。マルコとエミーリオは楽しそうに笑った。
色とりどりの電球がもの哀しく照らすテントに、風がはらはらと紙吹雪を散らす。テントの中には光が満ちている。美しく官能的なマッダレーナの鞭に合わせてヴァロローゾはたてがみを振るわせながら勇猛に火の輪をくぐる。ブルーノのたくましい躯が観客たちの目を釘付けにする。ルイージは一歩一歩確実に天上の綱を渡ってゆき、マッテオは華麗な大車輪で喝采を浴びる。ロマーノの率いる馬たちは舞台に風を呼び起こす。
道化師が白いボールをいくつも操り、人々を爆笑の渦に巻き込む。常連の観客たちは、いつにも増して、この日のチルクス・ノッテで愉快で幸福な氣持ちになっている事に驚く。エアリアル・ティシューに躯を絡めて登場したステラは、その歓びをさらに増幅する。この一瞬を生きることの美しさを、舞台の上と観客席の垣根を越えた想いの躍動を具現する。暗闇の中に輝く、生命の営みの勝利。地上に舞い降りた楽園、それが今夜のチルクス・ノッテだった。
それが、今夜も満員のチルクス・ノッテだった。
(初出:2014年4月 書き下ろし)
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