【小説】バッカスからの招待状 -4- オールド・ファッションド
scriviamo!の第七弾です。もぐらさんは、 雫石鉄也さんという方のお作りになった作品の朗読という形で参加してくださいました。
もぐらさんの朗読してくださった『ボトルキープ』
原作 雫石鉄也さんの「ボトルキープ」
もぐらさんは、創作ブロガーの作品を朗読をなさっているブロガーさんです。昨年の終わりぐらいにリンクを辿っていらしてくださってから、長編を含む作品を読んでくださっているありがたい読者様でもあるのですが、うちの作品の中で一番最初に読むことにしてくださったのが、この「バッカスからの招待状」シリーズです。
珍しいものから読んでくださるなと思っていたのですが、実は雫石さんのお書きになるバー『海神』を扱ったシリーズの大ファンでいらっしゃることから、この作品に興味をおぼえてくださったということなのです。
今回朗読してくださったのは、その『海神』とマスターの鏑木氏が初登場した作品だそうで、ご縁のある作品のチョイスに感激しています。
ですから、お返しにはやはり『Bacchus』の田中を登場させるしかないでしょう。参加作品「ボトルキープ」にトリビュートしたストーリーになっています。もぐらさん、雫石さん、そして鏑木さま。本当にありがとうございました。
参考:
バッカスからの招待状
いつかは寄ってね
君の話をきかせてほしい
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バッカスからの招待状 -4-
オールド・ファッションド
——Special thanks to Mogura san & Shizukuishi san
そのバーは大手町にあった。昼はビジネスマンで忙しいけれど、飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく書かれている。『Bacchus』と。
店主であるバーテンダーの田中佑二は、今夜も開店準備に余念がない。バブルの頃は、何人かのバーテンダーを雇わないと回らないほど忙しかったこともあるが、今は繁忙期以外は一人でやっている。大手町だから家賃も相当かかるが、幸いそこそこの固定客がいるのでなんとか続けていられる。
「いらっしゃい」
今日最初の客だと顔を向けた。意外な人物が立っていたので戸惑った。
「これは……。庄治さんの奥様。こんばんは」
健康そうではあるが、既に七十歳にはなっているだろう。厳格な表情をして地味な服装なので同年代の女性よりさらに老けて見える。
彼女は、『Bacchus』の客ではなかった。どちらかというとこの店の売上にブレーキをかける役目を果たしていた。つまり、彼女の夫がここで飲むのを嫌がり、必至で阻止していたのだ。しかし、それもずいぶん昔のことだ。庄治が顔を見せなくなってから三年は経つだろうか。
「こんばんは。まだ開店していないなら、外で待ちますけれど」
「いいえ。どうぞお好きな席へ」
老婦人は、キョロキョロと見回してから、一度奥の席に行きかけたが、戻ってきてカウンターの田中の前に座った。
「ご主人様とお待ち合わせですか?」
彼が訊くと、笑って首を振った。
「それは無理よ。先月、四十九日の法要を済ませたのよ」
田中は驚いた。
「それは存じ上げませんでした。ご愁傷様です」
「ありがとう。もちろん知らなくて当然よね。私が知らせなかったんですもの。あの人、ドクターストップがかかって飲みには行けなくなった後、他のお店には行きたいとは言わなかったのに、ここにだけはまた行きたがっていたの」
それから、田中の差し出したおしぼりを受け取って、上品に手を拭くと、メニューを怖々開いた。しばらく眺めていたが、閉じて言った。
「ごめんなさいね。私、こういうお店で飲んだことがなくて、わからないの。あの人はどんなものを頼んでいたのかしら」
「ご主人様は、いつもバーボンでした。フォア・ローゼスがお氣に入りでボトルをキープなさっていらっしゃいました」
そういうと、後に並んだ棚から、三分の二ほど入っているボトルを一つ取って、彼女に見せた。
ここでは、キープのボトルには、本人にタグの名前を書いてもらう。亡くなった夫の筆跡を見て、彼女の眉が歪んだ。
「私のこと、嫌な女だと思っていらしたでしょう。いつも早く帰って来いと電話で大騒ぎして。それにここまで来て連れ帰ったこともありましたよね」
「庄治さんのご健康をお考えになってのことだったのでしょう」
「ええ。そうね。でも、こんなに早くいなくなってしまうのなら、あの人が幸せと思うことを自由にさせてあげればよかったって思うの。今日ね、たまたまギリシャ神話の本を目にしてね、あの人が、もう一度『Bacchus』に行きたいなと言った言葉を思い出して。供養代わりに来てみようかなと思ったのよ。歓迎されないかもしれないけれど」
「とんでもない。おいでいただけて嬉しいです」
田中は、心から言った。
彼女は、ふっと笑うと、ボトルを指して訊いた。
「このお酒、飲んでみてもいいかしら。これって確かとても強いのよね。ほんの少ししか飲めないと思うけれど」
田中は少し困った。バーボンには明示された賞味期限はないが、開封後はやはり一年くらいで飲みきった方が美味しい。かといって、キープされたボトルを勝手に捨てるわけにはいかないので、全く訪れなくなった客のボトルはそのまま置いてある。
田中はそのことを告げてから、別のフォアローゼスの瓶を取り出した。
「ですから、お飲みになるのは新しい方にしてください。もちろん、別にお代は頂戴しませんので」
庄治夫人は、首を振った。
「まずくなっていてもいいから、あの人のボトルのお酒を飲みたいわ。私でも飲めるように少し軽くなるようなアレンジをしてくれませんか」
田中は頷いた。
「わかりました」
ボトルを開けて、香りをかいだ。幸い品質はほとんど低下していないようだ。これならと思い、オールド・ファッションド・グラスに手を伸ばした。
「オールド・ファッションドというカクテルがございます。砂糖やオレンジなどを使っていて、それと混ぜながらご自分でお好きな加減の味に変えて飲みます。いかかですか」
老婦人はじっと田中を見つめた。
「お酒はそんなに飲みなれていないので、全部飲めないかもしれないけれど」
「強すぎて無理だと思ったら遠慮なく残してください。ノンアルコールのカクテルもお作りできますから」
田中の言葉に安心したように彼女は頷いた。
田中はグラスに角砂糖を入れた。カランと音がする。アロマチック・ビターズを数滴しみ込ませてからたくさん氷を入れた。それからフォアローゼスを規定よりもかなり少なめに入れて、スライスオレンジとマラスキーノ・チェリーを飾った。レシピにはないが、絞りたてのオレンジジュースを小さいピッチャーに入れて横に添えた。
庄治夫人は、怖々とマドラーでかき混ぜながらそのカクテルを飲んでみたが、首を傾げてから添えてあるオレンジジュースを全て注ぎ込み、それから安心して少しずつ飲みだした。
「これ、あなたの受け売りだったのかしら」
田中は、彼女の言う意味が分からずに首を傾げた。老婦人は笑いながら続けた。
「いつだったかしら、いつもお酒ばかり外で飲んでと文句を言ったら、美味しいんだぞ飲んでみろと頂き物のウィスキーを私に飲ませようとした事があるの。それが水を入れても、強いだけで全く美味しくなくて。そうしたらこれならどうだって、オレンジジュースを加えてくれたのよ。そうしたら結構美味しかったの。悔しかったから、美味しいなんて言ってあげなかったけれど」
彼女は、目の前のフォアローゼスの瓶のタグに愛おしげに触れた。
「美味しいわねって、ひと言を言ってあげれば、私が大騒ぎしなくても帰って来たのかもしれないわね。それに、一緒にここに来ようと言ってくれたのかもしれないわ。もう遅いけれど」
それからタグを持ち上げて田中に訊いた。
「もし、これを捨てるなら、私が持ちかえってもいいかしら」
「もちろんです。庄治さん、大変お喜びになると思います」
長居をせずに彼女が帰った後、田中は庄治の残していったボトルを眺めた。キープしたまま二度とこなくなった客のボトルを置いておくのは場所塞ぎだ。だが、客との大切な約束のように思って彼はなんとか場所を作ってきた。
タグを未亡人に返して、このボトルをキーブしておく意味はなくなった。彼は寂しさと、約束を果たせたというホッとした想いを同時に噛み締めていた。庄治夫人から聞いた墓は、彼の自宅からさほど遠くなかった。今度の休みには、このボトルをもって墓参りに行こうと思った。
オールド・ファッションド(Old Fashioned)
標準的なレシピ
バーボン・ウイスキー 45ml
アロマチック・ビターズ 2dashes
角砂糖 1個
スライス・オレンジ
マラスキーノ・チェリー
作成方法: オールド・ファッションド・グラスに角砂糖を入れ、アロマチック・ビターズを振りかけて滲みこませる。氷を入れ、ウイスキーを注ぎ、スライス・オレンジ、マラスキーノ・チェリーを飾る。
(初出:2016年1月 書き下ろし)
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この66666Hit企画は、六名の方から出していただいた名詞をそれぞれ一つ以上使うというルールがあります。今回、使った名詞は順不同で「バンコク」「桃の缶詰」「名探偵」「エリカ」「進化論」「にんじん」「WEB」の七つです。使うのに四苦八苦している様子もお楽しみください(笑)
参考:
バッカスからの招待状
いつかは寄ってね
君の話をきかせてほしい
バッカスからの招待状 -3- ベリーニ
大手町は、典型的なビル街なので、秋も深まると風が冷たく身にしみる。加奈子は意地を張らずに冬物を出してくるべきだったと後悔しながら、東京駅を目指して歩いていた。ふと、横を見ると、見覚えのある看板がある。『Bacchus』。隆に連れてきてもらったことのあるバーだ。あいつには珍しく、センスのある店のチョイスだったわよね。重いショルダーバッグの紐が肩に食い込んでいる。あいつのせいだ。加奈子は、駅に直行するのは止めて、その店に入るためにビルの中に入っていった。
「いらっしゃい」
時間が早かったらしく、まだそんなに混んでいなかった。バーテンダーの田中が、加奈子の顔を見て少し笑顔になる。憶えていてくれたのかしら。
「こんばんは、鈴木さん。木村さんとお待ち合わせですか」
あら、本当にあいつと来たことを憶えていたんだわ。しかも私の苗字まで。
「いいえ。一人よ。隆とは、いま別れてきたところ。彼、明日バンコクに行くの。朝早いから帰るって」
「出張ですか?」
「ううん、転勤だって。私もつい一昨日聞いたのよ。ヒドいと思わない?」
木村隆とは、つき合っているのかいないのか、微妙な関係だった。加奈子の感覚では、一ヶ月に一度くらい連絡が来て、ご飯を食べたりする程度の仲をつき合っているとは言わない。告白されたこともないし、加奈子も隆のことは嫌いではないが、自分から告白をして白黒をはっきりさせるほど夢中になっている訳ではないので、そのままだ。
突然電話がかかってきて「これから逢おうよ」などと言われる。例えば、夜の九時半に。はじめはそれなりにお洒落をして待ち合わせ場所に向かったりしたが、家の近くのファミリーレストランや赤提灯にばかり連れて行くので、そのうちに普段着で赴くようになった。一応、簡単なメイクだけはしている。これまでしなくなったら、女として終わりだと思うので。
そんな彼が、連れて来た中では、洒落ていると思えた唯一の場所が、ここ『Bacchus』だった。
「なんで、あなたがこんな素敵な店を知っているの?」
「え? いつもと違う?」
「全然違うわよ」
「そうかな。僕は、流行やインテリアの善し悪しなんかはあまりわからなくて、お店の人が感じのいいところに何度も行くんだよ。ここは、会社の先輩に一度連れてきてもらったことがあるんだけれど、田中さん、すごくいい人だろう?」
そう、それは彼の言う通りだった。彼の連れて行く全ての店は、必ず感じがいい店員か、面白いタイプの店主がいて、彼は必ず彼らと楽しくコミュニケーションをとるのだった。そして、加奈子は、彼や彼の連れて行く店で出会う人びとと、楽しい時間を過ごすのが好きだった。
だから、本当につき合っているのかどうか、彼が加奈子のことを好きなのかどうかにはあまりこだわらずに、彼の誘いは出来る限り断らないようにしてきた。洒落た店や、高価なプレゼント、それにロマンティックなシチュエーションなども、彼とは無縁だと納得してきた。それに、加奈子自身も、さほどファッショナブルではないし、目立つ美人という訳でもない。そういうフィールドで勝負しなくていいのは氣持ちが楽だと思っていた。
「でも、今回はあんまりだと思う。見てよ、これ」
そういうと、大きなショルダーバッグのジッパーを開けて、田中に大手町界隈を歩く時には通常持ち運ぶことはない品物を示した。
にんじん、芽の出掛かっているジャガイモ、中身が出てこないようにビニール袋で巻いてある使いかけのオリーブ油、やはり開封済みの角砂糖、そして何故か五つほどの桃の缶詰。
「これは?」
田中が訊く。
「バンコクに送る荷物には入れられなかったけれど、もったいないから使ってほしいって。そのために呼び出したのよ! 転勤も引越も教えなかったクセに」
彼はいつでもそうだ。加奈子は、「普通ならこう」ということに出来るだけこだわらないようにしているつもりだが、彼の言動は彼女の予想をはるかに越えている。
「前に、誕生日を祝ってくれると言うから、プレゼントはなくてもいいけれど、せめて花でも持ってこいと言ったら、何を持ってきたと思う? エリカの鉢植えよ、エリカ! 薔薇を持ってこいとは言わないけれど、あんな荒野に咲く地味な花を持ってこなくたって」
田中は、笑い出さないように堪えた。
「確かに珍しい選択ですが、何か理由がおありになったのではありませんか」
「訊いたわよ。そしたらなんて答えたと思う? 『手間がかからないだろう』ですって。蘭みたいな花を贈ってもどうせ私は枯らすだろうと思ってんのよ、あの男は!」
それだけではなくて、別に誕生日プレゼントももらった。『名探偵登場』というパロディ映画のDVD。全然ロマンティックじゃないし、唐突だ。でも、面白かった。実は、昔テレビ放映された時に観たことがあって、結構好きだった。
世間の常識からはずれているけれど、私との波長はそんなにズレていない。そう思っていた。加奈子は、そんな自分の直感を大事にしているつもりだった。でも、それが間違っていたのかとがっかりしてしまう。
こんなにたくさんの桃の缶詰、いったいどうしろって言うのよ。桃なんてそんなにたくさん食べるものじゃないし、これを見る度に、私はあいつに振り回された訳のわからない日々を思い出すことになるじゃないのよ!
でも、あいつはよく知っているのだ。あいつと同じく、私も食べ物を無駄に出来ない。邪魔だから捨てるなんて論外だ。あいつが私にこれを託したのは、私が全部食べるとわかっているから。もう!
「ねえ。これで、ベリーニを作って」
彼女はカウンターに黄桃の缶詰を一つ置いた。
田中は、加奈子の瞳と、缶詰を交互に見ていたが、やがて静かに言った。
「困りましたね」
「どうして? 缶詰なんかじゃカクテルは作れないってこと?」
「もちろんカクテルは作れます。ただ、ベリーニは、黄桃ではなくて白桃で作らなくてはならないんですよ」
「どうして?」
「イタリアの画家ジョヴァンニ・ベリーニの描くピンクにインスパイアされて作られたカクテルなんです。黄桃ではピンクにはなりませんからね。少しお待ちください」
そう言うと、彼はバックヤードへ行き、二分ほどで小さなボールを手に戻ってきた。薄桃色のシャーベットのように見える。
「何それ?」
「白桃のピューレです。夏場は、新鮮な白桃でお作りしていますが、冬でもベリーニをお飲みになりたいという方は意外と多いので、冷凍したものを常備しているのですよ」
田中は、グレナディンシロップを使わなかった。その赤の力を借りれば、もっとはっきりした可愛らしいピンクに染まるのだが、それでは白桃の味と香りが台無しになってしまう。規定よりも少ないガムシロップをほんの少しだけ加えてグラスに注いだ後、しっかりと冷やされていたイタリア・ヴェネト州産の辛口プロセッコを注いで出した。
「うわ……」
加奈子は、ひと口飲んだ後、そう言ってしばらく黙り込んだ。
桃の優しい香りがまず広がった。それから、華やかで爽やかな甘さが続いた。それを包む、プロセッコのくすぐるような泡と大人のほろ苦さ。その組み合わせは絶妙だった。本家ヴェネチアのベリーニとは違うのかもしれないが、特別な白桃の味と香りがこのカクテルを唯一無二の味にしていた。想像していたよりもずっと美味しくて、そのことに衝撃を受けて口もきけなくなってしまった。それから、もう二口ほど飲んで、ベリーニを堪能した。
「田中さん、ごめんね」
「何がですか?」
「缶詰でベリーニを作れなんて言って。とても較べようがないものになっちゃうところだったわ。これ、ただの桃じゃないんでしょう?」
彼は、控えめに笑った。
「山梨のとあるご夫婦が作っていらっしゃる桃です。格別甘くて香り高いんです。たくさんは作れないので、大きいスーパーなどでは買えないんですが、あるお客様のご紹介で、入手できるようになったんです。お氣に召されましたか?」
「もちろん。ますます缶詰の桃が邪魔に思えてきちゃった」
「そんなことはありませんよ。少々、お待ちください」
田中は、加奈子の黄桃の缶詰を開けると、桃を取り出してシロップを切った。ひと口サイズに切り、モツァレラチーズ、プチトマトも一口大にカットして、生ハム、塩こしょうとオリーブオイルで軽く和えた。白いお皿に形よく盛り、パセリを添えて彼女の前に出した。
「ええっ。こんな短時間で、こんなお洒落なおつまみが?」
「この色ですからベリーニにはなりませんが、缶詰の黄桃も捨てたものじゃないでしょう?」
「そうね……」
加奈子は、生ハムの塩けと抜群に合う黄桃を口に運んだ。隆と一緒に食べたたくさんの食事を思い出しながら。結構楽しかったんだよなあ、あいつとの時間。
「私、振られたのかなあ」
加奈子は、ぽつりと言った。
「え?」
田中は、グラスを磨く手を止めて、加奈子を凝視した。
「いや、そもそも彼は、私とつき合っているつもりは全然なかったってことなのかしら。転勤になったことも、引越すことも何も言ってくれなくて、持っていけない食糧の処理係として、ようやく思い出す程度の存在だったのかな」
田中は、口元を緩めて言った。
「木村さんのコミュニケーションの方法は、確かに独特ですけれど……」
「慰めてくれなくてもいいのよ、田中さん。私……」
田中は、首を振った。
「ようやく出会えたんだって、おっしゃっていましたよ」
「?」
「はじめてご一緒にいらした翌日に、またいらっしゃいましてね。『昨日連れてきた子、いい子だろう』って。木村さんがこの店に女性をお連れになったことは一度もなかったので、それを申し上げました。そうしたら『ここに連れてこられるほど長くつき合えた子は、これまで一人もいなかったんだ』と」
加奈子は、フォークを皿の端に置いた。
「それで?」
「『どんな話をしても、ちゃんと聞いてくれる。バンバン反論もするけれど、聞いてくれなきゃ意見なんかでないだろ』って。それに、『どんなあか抜けない店に行っても、僕が美味いと思う料理は、必ずとても幸せそうに食べてくれるんだ。マメに連絡できなくても怒らないし、服装がどうの、流行がどうのってことも言わない。だから、とてもリラックスしてつき合えるんだ』と、おっしゃってました」
加奈子は、ベリーニのグラスの滴を手で拭った。そうか。けっこう評価していてくれたんだ。それに、あれでつき合っているつもりだったんだ。
「しょうがないわね。あれじゃ、そんな風に思っているなんて伝わらないじゃない。明日にでも、メールを送って説教しなくっちゃ」
「木村さんの言動は、聞いただけだと、なかなか理解されないでしょうけれど、鈴木さん、あなたを含めて彼の周りにいる方は、みな彼のことをとても大切に思っている。素敵な彼の価値のわかる方が集まってくるのでしょうね。チャールズ・ダーウィンがこんな事を言っていますよ。『人間関係は、人の価値を測る最も適切な物差しである(注1)』って」
「へえ。それって、あの『進化論』のダーウィン?」
「ええ。そうです」
「田中さん、すごい。教養があるのね」
「とんでもない。格言集は、面白いのでよく読むんですよ。元々は、お客さんにいろいろと教えていただいたんですけれどね。あ、今は、WEBでいくらでも調べられますよ」
「へぇ~。家に帰ったら調べてみようかな」
「ダーウィンは他にも、私たちのような職業の者には言わないでほしかった名言を残していますよ」
「なんて?」
「『酔っ払ってしまったサルは、もう二度とブランデーに手をつけようとしない。人間よりずっと賢い(注2)』んだそうです」
加奈子は、楽しそうに笑った。そうかもね。でも今夜はそれでも、あの訳のわからない男のことを思い出しながら、この優しいベリーニに酔いたいな。
ベリーニ(BELLINI)
レシピの一例
プロセッコ 12cl
白桃のピュレ 4cl
ガムシロップまたはグレナディンシロップ 小さじ1杯
作成方法: グラスに白桃のピュレとシロップを入れ、よく冷えたプロセッコを注ぐ
(注1)A man's friendships are one of the best measures of his worth. - Charles Darwin
(注2)An American monkey, after getting drunk on brandy, would never touch it again, and thus is much wiser than most men. - Charles Darwin
(初出:2015年11月 書き下ろし)
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バッカスからの招待状 -2-
ゴールデン・ドリーム
開店直後のバーに入るのは本番前の舞台を覗くような、少しだけ優越感に浸れる瞬間だ。
「いらっしゃい」
ドアを開けた時に響いてきた変わらぬ声。懐かしさが込みあげた。
「これは、これは。高橋さんじゃないですか」
バーテンダーは声を弾ませた。高橋一は嬉しそうに頷いた。
「四半世紀ぶりだね。田中さん」
「お元氣そうで」
「田中さんも。この店が続いていて嬉しいよ」
かつてはジャズがかかっている事が多かった店だが、今日は静かなピアノ曲がかかっていて、柔らかい間接照明がメロディに合わせて揺れているように感じた。一は磨き込まれたカウンターのマホガニーを愛おしむように撫でてから、かつて自分の席と決めていた位置に座った。
「広瀬さん、いえ、奥さまはお元氣でいらっしゃいますか」
「ああ、今晩ここに来ると言ったら、悔しがっていたよ。田中さんに是非よろしくって」
「ありがとうございます。次回はぜひご一緒に。本日は、何になさいますか」
一は嬉しそうに下を向いて笑ってから言った。
「やっぱり、山崎だよね、ここに来たら。十二年を頼む。あと、つまみは連れが来てからで」
「お連れさまですか」
「デートなんだ」
田中はびっくりした。高橋一はかつての客で、広瀬摩利子と結婚して島根県に移住するまでここでよく待ち合わせていた。その時の二人の様子からは、一が摩利子以外の女性とデートをするなんてありえないように思えたのだが。
「妻公認でデートできる二人のうちの一人だよ」
一はウィンクした。
ドアが開いて、ぱたぱたと誰かが入ってきた。
「わ、遅れちゃった、お父さん、ごめんなさい!」
それを聞いて田中は納得して微笑んだ。一はさっと手を上げて合図した。
「田中さん、これ、俺の娘です。瑠水っていいます。この店にはまだヒヨッコすぎて似合わないけれど、どうぞよろしくお願いします」
父親に紹介されて、瑠水は田中に向かってぺこっと頭を下げた。
「はじめまして」
それから瑠水は父親の横、かつては摩利子がよく腰掛けていた椅子に座った。
「ここ、落ち着く素敵なお店ね。もっと前に教えてくれたら、よかったのに」
そういって、店内を見回した。一は「そうだな」と相槌を打ったあと、田中に肩をすくめて説明した。
「こいつ、つい最近まで東京にいたんだけれど、残念ながらまた島根にもどってくることになっちゃったんですよ」
田中は微笑んで、ささみをトマテ・セッキのオリーブオイル漬けなどで和えたものをそっと二人の前に出した。
「何をお飲みになりますか」
瑠水は、首を傾げてからカウンターにあったメニューを開いた。カクテルはあまり詳しくない。そういうものが出てくる店ではいつも連れて行ってくれた結城拓人が提案してくれたものを飲んだ。
「あ。この曲……」
瑠水はメニューから目を上げて、流れてくるピアノ曲に耳を傾けた。
「ああ、シューマンのトロイメライですね」
田中はグラスをピカピカに磨き上げながら言った。瑠水は口を一文字に結んで頷いた。結城さん、これも弾いてくれたっけ。もう過去の事になってしまった。夢のように遠い。
「あの……何か夢に関するカクテルって、ありますか?」
瑠水が訊くと、田中と一は目を見合わせて微笑んだ。
「そうですね。例えばゴールデン・ドリームはいかがでしょうか。リキュールベースで柑橘系と生クリームがデザートのようなカクテルで、お好きな女性が多いですよ」
「あ、では、それをお願いします」
瑠水は結城拓人の事を考えていた。とても優しい人だった。拓人に出会った時、瑠水は出雲にいる真樹に報われない片想いをしていると思っていた。拓人は遊びの恋しかしないと聞いていたので大切にしてくれるなんて思いもしなかった。瑠水は拓人のピアノを聴きたかった。あの優しい音色に包まれて、真樹を想う痛みを和らげてほしかった。
あれは、拓人のマンションに二度目に行ったときの事だ。彼は瑠水が一番喜ぶ事を知っていた。東京の夜景が拓人の背後の全面ガラスに見えた。それは潤んで泣いているようだった。彼の音はその悲しむ世界を落ち着かせるように柔らかく響いた。
「この曲は?」
瑠水が訊くと、拓人は弾き続けながらそっと言った。
「ロベルト・シューマンの『トロイメライ』、聴いた事はあるだろう?」
「ええ。優しい、心の落ち着く旋律ですね」
「ああ。ドイツ語で夢想とか白昼夢って意味だけれど、僕には他のイメージが浮かぶんだ」
「それは?」
「ドイツ語で肉屋の事をメツゲライ、乳製品屋をモルケライっていうんだ、その連想で僕にはトロイメライと言われるとなんとなく夢を売っている店ってイメージが広がってしまうんだ」
拓人はその羽毛のような髪を少し揺すらせていたずらっ子のように笑った。
どんな店なんだろうと瑠水も思った。でも、いま思えば、拓人自身が瑠水に夢をくれたのだった。彼が教えてくれたのだ。真樹が扉を叩いてくれるのを半ばあきらめつつ待つのではなくて、強く確信を持って愛し続ける事を。瑠水の立ち止まったままだった背中を、彼とその音楽がそっと優しく押してくれたのだ。それから一度に開かれた扉。瑠水は願い続けていた真樹のいる人生を手にする事ができた。そして、大切な自然と世界のために働く一歩も踏み出す事ができた。
「それで。みなさんへのご挨拶は終わったのか」
一が訊いた。
「ええ。急だったから、異動までに逢えなかった人も多かったし。でも、ちゃんと言ってきた。お父さんも、ごめんね。無理に引っ越しの手伝いに来させちゃって」
「俺はいいよ。それより、相談もなく決めたと早百合が激怒していたぞ」
「わかってる。でも、お姉ちゃんに相談すると反対されるから……」
瑠水は下を向いた。一が瑠水の頭を撫でた。それだけで、瑠水は父親が自分の紆余曲折を否定せずに見守り、決定を後押ししてくれている事を感じた。母親の摩利子も暖かく迎えてくれた。樋水村の人びとも、樋水川も、龍王神社も、全てがあるがままの自分を受け入れてくれている事を感じた。そして、真樹も。
東京で何があったを真樹は訊かなかった。ただ変わらずに愛してくれた。瑠水は自分の行動が、受身な態度が、多くの人たちを傷つけた事を少しずつ理解していた。だから、その分も自分がつかんだ幸せをずっと大切にしようと思った。
「お父さん、ありがとう」
「ん? なんだいきなり」
「シンと結婚するなんていきなり言って、びっくりしたでしょう?」
「う~ん、どうだろう。俺は、お前がシン君と逢った頃から、きっとこうなるんじゃないかと思っていたからなあ」
田中が納得した顔で、瑠水の前にカクテルグラスをそっと置いた。淡いクリーム色、細かい泡が聞こえないほどの小さな音を出していた。ひと口含むと、柔らかい甘さが舌に広がった。爽やかな香りとともに飲み込むと、わずかにガリアーノリキュールの苦さが引き締めた。泣いていた東京の夜景、瑠水を許して受け入れてくれたピアノを弾く人の嘆き。
「お父さん。心配かけた分、これから一生懸命、親孝行するね」
瑠水が言うと、一はもう一度、娘の頭を撫でた。
「俺やお母さんの事はいいんだよ。シン君を大事にして、幸せになれ。お前たちが島根で所帯を持ってくれて、俺は嬉しいよ。住むのはシン君の工場のある出雲にするのか、それともお前の勤める松江?」
「えっと、間をとって宍道あたりにしようかと思っているんだけれど。明後日お社に結婚式の相談に行くんだけどね、シンが今日電話したら武内先生が住む所の事でも話があるっておっしゃっていたんだって。もしかしたら別の所を紹介してくれるのかもしれない」
一は「えっ」と言う顔をした。妻の摩利子なら「あのタヌキ宮司、何を企んでいるのかしら」とでも、いうところだ。
でもなあ、シン君と結局は一緒になったし、俺たちがヤキモキした所でどうしようもないよなあ。
瑠水は神妙な顔をしてクリーム色のカクテルを飲んでいた。優しい色をした酒は、親子のつかの間の時間を優しく包んでいる。一が東京で飲むならぜひここに行きたいと言ったわけがわかったような氣がした。拓人が弾いてくれた『トロイメライ』のように、心を落ち着かせてくれる柔らかさがある。ああ、「夢を売ってくれる店」って、こういう所なのかもしれないな。
ゴールデン・ドリーム(Golden dream)
標準的なレシピ
ガリアーノ - 20ml
コアントロー - 20ml
オレンジ・ジュース - 20ml
生クリーム - 10ml
作成方法: シェイク
(初出:2014年4月 書き下ろし)
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ヴァルキュリアの恋人たち
弓形にカーブを描く大理石の階段を降りて、燕尾服の紳士はバーへと入っていった。シャンデリアの輝くホールとはうってかわり、柔らかい間接照明は臙脂色の絨毯をわずかに照らしていた。彼はほっと息をつくとバーテンダーにダブルのウィスキーを頼んだ。
氷に揺らめく虹を揺らしながら、彼は女の事を考えていた。まだ若く血氣盛んだった頃、パリの高級クラブで知り合った。ファナ・デ・クェスタ。黒髪につややかな虹がでていた。紺碧の瞳で彼の心臓を突き刺した。長い指先が彼のグラスを奪い、それを脇に追いやると、ゆっくりと濃い紅の唇を近づけてきた。結婚し、子供に恵まれ、平穏な日々を過ごしている子爵を時おり熱病のように苦しめる灼熱の幻影。あの女のためだけに駆け上った階段だった。事業も、社交界での地位も、慈善も、立ち居振る舞いでさえも。
「ほ。これはド・ロシュフール子爵殿。こんなところでお会いするとはね」
その声に横を向くとマイケル・ハーストがスツールに身を半分持たせかけてコーラを飲んでいた。あいかわらず時と場所をわきまえない野蛮人だ。とっくりのセーターを来たアメリカ人に子爵は眉をしかめた。
「君は幸いにも大西洋の向こうに帰ったのだと思っていたが」
「ちょっと違うな。あんたのご先祖の国の外人部隊にしばらく世話になっていたんだよ。砂漠でひと暴れさせてもらったよ」
子爵は露骨に眉をしかめると、このような男と知り合いと思われるのは恥だと言わんばかりにグラスを傾けた。グラスの中の氷山にウィスキーが再び虹を作る。
アメリカ人は子爵の迷惑な様子を氣に留めた様子もなくさらに話しかけた。
「あんたも、呼び出されたのか」
子爵ははっとしてハーストを見た。では、この男も? あの女の名が刻まれた招待状を手にしてから半月、何も手につかなかった。マラリアに罹ったかのようにあの頃の事を思い出していた。そして、これは自分だけに送られたのだと、あの女が自分だけと再び逢いたがっているのだと浮かれていたのだ。
アメリカ人もじっと白い招待状を見つめていた。忘れもしない女の筆跡。出会った夜の事は生涯忘れないだろう。ブロンクスには全く似つかわしくない女だったので、あのバーに入ってきた瞬間、全員が眼をむいた。黒のストライプがシャープに入った白いスーツに身を固め、まっすぐにハーストの方に歩いてきた。豊かな赤毛が肩に流れ、緑色の瞳がきらりと輝いた。
「あなたがマイク・ハーストね。噂に違わずいい男じゃない」
「あんたは誰だ。なぜ俺の名前を知っている」
「私はファナ・デ・クェスタ。私のために闘ってくれる強い男を探しているの」
それ以来、ハーストはアメリカに帰っていない。
「ワーグナーの『ヴァルキューレ』か。かつての男どもを集合させるには、いかにもアイツらしい場を選んだじゃないか」
そういうと、ハーストはバーに入ってきた黒い三つ揃いを着た二人の男たちを目で示した。
「イザーク・ベルンシュタイン。それに、戸田雪彦。とんでもないメンバーが揃ったな」
世界的富豪と、ハリウッドで活躍する日本人俳優。この四人に共通する項目はただ一つだった。かつてファナ・デ・クェスタの恋人であった事。
「やっぱり、あなたたちも招ばれましたか」
戸田の流暢な英語がバーに響く。ハーストの発音とは対照的なイギリス英語だ。ファナ・デ・クェスタの姿がタブロイド紙に載ったのは、この日本人がアカデミー賞の授賞式にパートナーとして連れて行ったからだった。その時にはブロンズ色の髪で、瞳の色は暗かった。それでも、男たちにはすぐにファナだとわかった。決して忘れられないエキゾティックな美貌。
戸田雪彦もファナに取り憑かれて人生が変わった一人だった。役によって自在に英語の発音を変え、楽器の演奏もアクションも官能も全て完璧にこなす東洋の俳優として役の依頼が次々と舞い込むようになったその時期に、いつも側にいたのはあの女だった。
だが、彼のアカデミー賞の受賞を機にファナはアメリカを去り、次に目撃されたのはドイツでだった。大富豪イザーク・ベルンシュタインの新しいパートナーとして。誰もが今度は彼女が金に群がったのかと思った。だが、そうではなかった。彼はファナとともにいた三年で、もとの資産を三十倍にした。それは、世界中のかなりの国の国家資産を超える額だった。
ファナが去る時に恋人たちに求めるのは、栄光でも金でもなかった。
「あなたは私を自由にしなくてはならないわ」
いくら年を経ても、全く変わらぬ美しい笑みを残し、ある日彼女は去って行く。懇願し、脅迫しても彼女はとどまらない。止める事は出来ず、行き先を突き止める事も出来なかった。彼女自身の意志で表の社会に再び現われてくるまでは。
ベルンシュタインは、白い厚紙の招待状を落ち着きなくひっくり返す。子爵はこの男も再び熱病に苦しめられているのだなと思う。アメリカ人や日本人も同じだろう。
「おかしいと思わないか。ファナは八年前に、あの女に殺されたはずでは……」
ベルンシュタインが声を潜める。
「あの女というのは、私の事かしら」
そこに立っていたのは、深紅の輝くスパンコールで覆われたドレスを着て、漆黒の髪を高く結い上げた女、エトヴェシュ・アレクサンドラだった。そう、この中ではファナの最後の恋人。ハンガリーの裕福な商人の妻だが、当時から夫と共に住む事もなく世界中を旅していた。
「期待を裏切って悪いけれど、私は人を殺した事もないし、最後に逢った時ファナは生きていたわ」
「では今どこに」
四人の男が同時に発言した。
アレクサンドラは真っ赤な口元を妖艶に歪め、頭を振った。
「知らないわ。でも、今宵わかる事でしょう。私たちにこのオペラの招待状を送りつけてきたんだから」
ファナ・デ・クェスタ。いくつもの顔を持つ謎の女だった。本当の髪と瞳の色を知るものもいなかった。完璧なプロポーションが天からの贈り物なのか医学の粋を極めたものなのかも。誰もそんな事は氣に留めていなかった。ただ彼女がいるだけで世界が変わった。男を、そして女をも、成功と野心へと駆り立てる、魔のヴァルキュリア。その栄光を極めているときに必ず姿を消してしまう不思議な女だった。姿は消えても、一度彼女を知ったものは、生涯その毒牙から自由になる事は出来ない。
ベルンシュタインがシャンパンをオーダーした。
「クリスタルでしょうか?」
バーテンダーが訊いた。
「ブリュット・プルミエにしてくれ。グラスは五つだ」
ルイ・ロデレールの最高級シャンパンなど飲んだ事のないハーストは下品にも口笛を吹いて子爵に睨まれた。
「我らが女神に」
クリスタルグラスが尖った音を響かせる。五人はお互いに瞳を見つめあいながら、かの女のために乾杯した。黄金の泡が踊る。甘美なキュヴェが過ぎ去りし時のようにほんのひととき喉を酔わせる。ワーグナーの無限旋律のごとく終わりのない心の迷宮の中の一服。
開演を知らせる鐘の重い響きがする。五人はゆっくりと顔を見合わせる。どんな芝居が始まるのか誰にもわからない。だが、彼らは『ヴァルキューレ』の招待を拒む事は出来ない。シャンデリアの煌めく巨大なホールを抜け、螺旋状にカーブした大理石の階段を昇り、オーケストラの調音が響く大ホールへと向かって行った。
(初出:2013年6月 書き下ろし)
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【小説】バッカスからの招待状 -1- ブラッディ・マリー
で、この「神話系お題シリーズ」でみんなで書こうよ的な話がございまして、よかったらみなさんも勝手に書いてくださいね〜。
バッカスからの招待状 -1-
ブラッディ・マリー
「いらっしゃい」
いつもの彼の声がする。落ち着いているけれど、冷たくはない。かといって、親しいという印象は与えない。そう、空氣のような存在だ。そのバーは大手町の近くにあった。昼はビジネスマンで忙しいけれど、飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく書かれている。『Bacchus』と。
奥に時おり見る男性客が一人。まだ時間が早いから空いている。すみれはほっとして、一番のお氣に入りの席に座った。カウンターの真ん中から二つほど入り口より。バーテンダーで店主の田中の横顔が自然に眺められる位置だ。
といっても、田中に恋をしているのでその横顔を眺めたいというような理由ではない。正面切って座るとずっと話をし続けなくてはならないとストレスになるし、離れすぎると構ってもらえない、その中間の一番心地いい感覚を得られるのが、この席なのだった。田中の年齢は40を少し過ぎたところだろうか。きれいにオールバックに撫で付けた髪、線が細い体つきに合わない濃い眉、いつも微笑んでいるような口元。いつもと変わらない事がすみれの精神安定剤になるような風貌だ。
すみれは元来ひとりでバーに来るような女ではない。それどころか、一人でレストランに行くことが出来るようになったのも最近だった。それをするようになったのは、彼女への対抗心からだった。
広瀬摩利子。元同僚だ。すみれにこのバーを教えてくれたのも実は摩利子だった。
「久保さん、今日はお早いですね」
田中が程よい具合に温かいおしぼりを渡してくれた。この瞬間がとても好きだ。馴染みのバーでバーテンに名前を呼んでもらう私。まるで出来るキャリアウーマンになったみたい。本当はお茶くみコピー取りに毛が生えた程度なんだけれど。
「そうね。残業がなかったから」
以前は、残業なぞほとんどなかったので、恥ずかしくてファーストフードで一時間くらい潰してから来たものだが、最近は本当に残業が増えてきたので、こういうセリフも板についてきたように思える。といっても、そんな事を思っている時点で本当のキャリアウーマンじゃないんだろうけれど。
摩利子はそんな事を氣にしたりはしなかった。彼女は、人からどう思われるかびくびくしたりする事がなかった。とても綺麗で人目をひいた。会社で身に付けている制服でも、どこがどうというのかわからないけれど他の女の子たちよりあか抜けて見えたし、私服に至っては追随を許さなかった。日本人がそんな色遣いをするのはどうかというような派手な服をよく着ていたが、それがまたよく似合った。
三ヶ月ほど前のあの日もそうだった。蘭の地紋の入った黒いシルクのタイトなワンピースに若草色のボレロ、マラカイトの大振りな珠を贅沢に使ったネックレスをしていた。ハイヒールは濃い緑の7センチ。たまたまこの界隈を歩いていて遇っただけなのだが、50メートル先からすぐにわかった。
すみれは摩利子と同期だったがさほど親しいわけではなかった。そもそも摩利子と親しい女なんかいるんだろうか。もしくは彼女が親しくしたがる女なんかいないかもしれない、そう思っていた。皆と会話しなくてはいけない時には、自然とグループの中にいたし話題の中心にいる事も多かった。でも、グループが男女混合になっている時には99%の確率で男性としか会話していなかった。「男狂い」「尻軽女」「カマキリ」いろいろな陰口をいう人たちがいた。もう少しソフトに言うと「恋多き女」ってところ。
すみれは入社後すぐの同期会のカラオケで摩利子と隣になり、「東大君」とあだ名されていた銀縁眼鏡の同期との会話から、彼女の意外と理知的な手法を観察して感心した。「東大君」の右側には彼を狙う別の同期の女が張り付いていたのだが、よせばいいのに「東大君」に大学での専門の事を訊いたりして、素粒子の最新研究について語られて目を泳がせていた。この「東大君」は場の空氣を読んで適当に会話を打ち切るという事が出来ないタチらしく、他の人たちが無視して別の話をしている間も誰にも全く理解の出来ない用語を飛ばしていた。その収拾のつかなくなった会話を摩利子が引き受けたのだ。
「ってことは、たとえばそのヒッグス粒子ってのは、アイドルにまとわりつくファンみたいなものってこと?」
「え。そうだな。有名になるとますますファンがまとわりついて身動きが取れなくなる。そうするとさらにファンが寄ってくる。そういえば似てるかも」
「ふふん。じゃあ『東大君』に群がる女も似たようなものかもね。どんどん寄ってきて、身動きが取れなくなってるでしょ」
自分がモテる対象だと自尊心をくすぐってもらって、「東大君」はちょっと嬉しそうになった。同期でも一番の綺麗どころである摩利子が隣に座っているし、しかも自分を狙うヒッグス粒子の一人だと告白したみたいなものだ、と思ったらしい。実際のヒッグス粒子は反対側に座っていたのだが、摩利子は場をしらけさせる素粒子論をやめさせる事が出来たので満足していたようだった。実際に、摩利子はその晩「東大君」をお持ち帰りしたらしいのだが、夢中になった「東大君」の方が簡単に振られてしまったらしい。
入社当時の話はどうでもいい。三ヶ月前に、この大手町で摩利子にバッタリと出会った話に戻らなきゃ。すみれは記憶を揺り戻した。
「あら、久保さんじゃない。こんな所で会うなんて」
広瀬摩利子に名前を憶えてもらっていたということに少し驚いた。
「こんばんは。外出して直帰なんだけれど、大手町まで歩けば定期が使えるから。広瀬さんは?」
「ここで、彼と待ち合わせしているの」
ああ、そうか。当然って感じよね。でも、こんな、何もなさそうなところで……。その思いが顔に出たのか、摩利子はクスッと笑った。
「ここは彼の職場に近いのよ。それに……」
少し言いよどんでから、ニッコリと笑って続けた。
「久保さんになら、教えてあげてもいいかな。ここにね。滅多な人には教えたくない隠れ家みたいなバーがあるのよ」
言葉の魔法の使える女だった。「久保さんになら」と言われただけで、自分がほかの同僚たちとは違うと言ってもらえているみたいに。すみれのように大衆に埋没しがちな女にとって、この手の言葉は麻薬みたいなものだった。
その店がこの『Bacchus』だった。
「彼が教えてくれたの。もともとは彼も尊敬する会社の先輩に連れてきてもらったらしいんだけれどね。ほら、いかにもただの会社って表構のビルの地下に、こんなバーがあるようには思えないでしょ? でも、知る人ぞ知る名店なのよ」
「ああ、広瀬さん、いらっしゃい」
入っていった時に、バーテンの田中が親しげに声を掛けたその様子に、軽く嫉妬した。馴染みのバーのある自立した美女。同じ年に入社したのに、どうしてここまで違っちゃうんだろう。すみれは小さくため息をついた。
「一は?」
摩利子が訊くと田中は笑って答えた。
「いまお電話がありましたよ。高橋さん、少し遅くなるそうです」
「そう、ちょうどいいわ」
そう言って、摩利子はカウンターの田中の前に座ると横の席をすみれにすすめて言った。
「偶然の出会いに乾杯しましょうよ」
二人が座ると、田中はアボガドとエビのカクテルソース和えの小皿をすっと出した。カクテルの事など詳しくなくてメニューを見ながら慌てるすみれを見てクスッと笑った摩利子は、田中にマティーニを注文した。
「ジンを少し多めに。でも、ドライ・マティーニにならないくらいで」
かなり無理な注文だが、田中は口先だけで笑いながら摩利子が満足する完璧な「ややドライ・マティーニ」を出してやった。
すみれにはその注文がとても素敵に聞こえたので小さな声で続けた。
「じゃあ、私も。でも、ジンを少なめに……」
田中と摩利子が同時に吹き出した。
それから三十分ほどして、摩利子の彼が姿を見せた。とても意外だった。摩利子は羽振りのいい男や見かけの突出していい男ばかりをあさっていると評判だったのに、その男ときたら背が低くて、なんだか四角い感じのごく普通の青年だったのだ。摩利子の彼とは信じられないほどに洋服のセンスも変で、しかも安物のように見えた。けれど、どういうわけだか初対面だというのに心が和んでくる不思議な魅力を持っていた。そして、その青年と話す摩利子は、未だかつて見た事がないほど生き生きとして幸せそうに見えたのだ。へえ。まるで別の人みたい。摩利子という人物は、すみれが思っているよりかなり奥が深そうだった。デートの邪魔をしたくはなかったので、すみれは早々に別れを告げて帰る事にした。
この秘密の店を知って、摩利子とも少し親しくなれるかも、そんな思いを持って帰ったすみれに、次の衝撃が待っていた。摩利子が寿退社をして東京から離れる事になったのだ。あの四角い青年と結婚するんだあ。広瀬さん、なかなかやるじゃない。でも、もう会えなくなっちゃうのは残念だなあ。
それから、すみれは時々一人で『Bacchus』を訪れるようになった。同じカウンター席に座り、カクテルを一杯注文する。小さいつまみも出してもらう。隣の青年が田中に今日あった事を話すときにそっと耳を傾ける。いい事があった時には、自分の話も田中に聴いてもらう。
かつては、勤務中も、それからフリーの時間も、誰か親しい友達と一緒でないとならないかのような焦りを持っていた。実際には、あまり友達もいなくて一人でいる事が多かったのだが、それを楽しむまでには至らなかった。それが、このバーに来るようになってから、すみれは一人を楽しめるようになってきた。摩利子のように「恋多き女」になりたいわけではないが、すみれはどこかで摩利子の超然とした生き方に憧れているところがあった。そして、それは彼女の彼女の体型や装いではなくて態度から生まれてくるのだという事を少しずつ理解していたのだった。
今日も、お氣に入りの席にすっと座ると、もう逢えなくなってしまったかつての同僚に敬意を込めて「忌々しい摩利子」と脳内翻訳している赤いカクテルを颯爽と注文した。
「ブラッディ・マリーをお願い。ウォッカを少し……」
強くと言ってみたいけれどどうしようと口ごもっていると、田中が優しく微笑んで言葉を継いだ。
「はい。少し、弱くしましょうね」
う〜ん、ちょっと悔しい、でも心地いい店なのよね、ここ。
ブラッディ・マリー (Bloody Mary)
標準的なレシピ
ウォッカ - 45 ml
カット・レモン - 1/6個
トマト・ジュース - 適量
作成方法: ビルド
(初出:2013年5月 書き下ろし)
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お題で遊べる?
「イカロスの末裔」って 題名だけが降ってきた…
きっと、ここから素敵な掌編にしてくださると思うんですけれど。(お待ちしています)
で、それからこっちにもいろいろと降ってくるようになってしまいました。神話ものの題名のみ。ストーリーなし。ウゾさんのと違って、文学的な薫りはゼロ。なんか下世話なストーリーになりそうなのばっかり。ちょっと開示してみましょう。
「バッカスからの招待状」 → これは、たぶん「大道芸人たち」系(笑)
「アフロディテーの夢想」
「ヴァルキュリアの恋人たち」 → この二つは、ハー○クイン・ロマンスのよう。
「ユグドラシルの暗い影」 → どうしようって言うんだろう。
「テュールの帰還」 → マニアック過ぎ? でも「マルスの帰還」よりは語感がいいような。
「アリアドネの憂鬱」 → 昔書いた話に使えるかも。
「ヴァルハラ炎上」 → 吉原じゃないんだから……。
「ロキの恋」 → 勘弁して。
こうやって考えると、いつも悩みまくりの題名つけが嘘みたいだなあ。問題は、いま書いているものには、どれも全く使えないって事なんだけれど。
上の題名からストーリーが浮かんだ方は、どうぞご自由にお書きくださいませ。
5/22 追記
「みんなで書きましょう」話が持ち上がってます。といっても、とくにルールはなくて、お題を使って、掌編や詩やイラストを創作して、ブログに発表するだけ。でも、よろしかったらタグつけてStellaにも、提出しちゃいましょう。せっかくですからこの記事のコメントにいただいた他のお題もここに追加しておきます。
大もとのウゾさんのお題「イカロスの末裔」
ぴゃす〜さんのお題「ワルキューレの気功」「ニーベンルンゲンの鼻輪」
ぴゃす〜さんの実在のお題「鍋奉行おーでぃーん」
イマ乃イノマさんのお題「トールの涙」
山西左紀さんの実在のお題「アルテミス達の午後」
この他、神話っぽい単語が入っていればなんでもOKです!
もちろん神話は題名だけでOKです。
ちなみに、実はブログ開設直後に私が発表した「夜のエッダ」なんて作品もございます。
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【小説】夜のエッダ
ヴァルハラは光に覆われ、若草の匂いがあたりを満たしていた。いつもは宴にわく宮も今日はひっそりと静まり返っている。時折、フリッグ女神のすすり泣きやオーディン主神の漏らす溜め息、そして多くの神々や戦士が声をひそめて悲しげに語り合うのが聞こえた。ナンナはヴァドゲルミル河の岸辺に座り込み河の流れをうつろに眺めていた。光輝く神バルドルが死んでから一日が経った。バルドルはもう眼を開けない。ヤドリ木の小さな枝に貫かれて、珠の肌から真紅の血筋を滴らせ…。
ナンナは、バルドルの妃のナンナ女神は悲しみと、そして渦巻くほかの複雑な思いの中でヴァドゲルミルの流れに視線を任せていた。つと、魚の影が黒く走った。ナンナは怯えた。そして若草が力強く萌える岸辺の上に倒れ伏した。
オーディンの最愛の息子は光輝く清浄の神バルドルであり、彼はいつもヴァルハラにいて平和で満ち足りた日々を過ごしていたものだったが、最愛の娘はヴァドゲルミルの下流、人間界との接点、つまり戦場に身をおいていた。その名をブリュンヒルドといい、彼女がヴァルハラへ行くのは戦死した勇者をその宮へ送る時、つまりヴァルキューレとしてのつとめを果たす時だけであった。
ヴァルキューレたちはブリュンヒルドを女王と戴き、そして戦場に座る一人の神のもとに集まっていた。その神はオーディンとフリッグの間よりバルドルの双子の片割れとして生まれ出た。名をホズという。世界樹ユグドラシルが根付いてより倒れるまでこれほど似ぬ双子はなかったし、ないであろう。バルドルは光輝く金髪を柔らかに靡かせ、大空のような明るいブルーの瞳と薔薇色の唇を持ち、若い娘たちは彼の永遠の若さと美しさを讚え、恋し止まなかった。
一方、ホズは漆黒のまっすぐで細い髪を持ち、痩せて背は高く、瞼は開じられていた。ホズは生れながらにして物を見る能力を奪われた存在であった。彼は眼で物を見ることがない。だからこそ、運命を司る彼の役目は全うされていた。彼は常に戦場に座り、ヴァルキューレたちを遣わしては、死を迎えた勇士たちを舟に乗せヴァルハラへ送り込ませていた。彼自身は決して自らヴァルハラへ赴くことはなかった。彼はある意味で招かれざる客であったからだ。
ホズは口数の少ない内省的な性格だった。ヴァルキューレ達はほとんど彼と言葉を交わしたことがなかった。が、ブリュンヒルドだけは別だった。この勝ち気で美しいヴァルキューレの女王は沢山いる兄弟の中でもっともこの孤独な兄に親しみをもっていた。生まれたばかりの時からブリュンヒルドはこの兄の側にいたがった。ヴァルハラの神々に敬遠されてここで育つホズのもとに連れられて来た日、彼女はヴァルハラに帰るのを拒否し、それ以来二人でここで成長したのだった。これが、ブリュンヒルドがヴァルキューレとなったきっかけである。
ここには沢山のヴァルキューレ達がいたが、ヴァルキューレとなったきっかけは様々だった。女だてらに武装し戦って死んだためになった者、軍神の娘として生まれた者、それからナンナのように戦場に捨てられていたのを拾われてなった者もいた。ナンナを拾ったのは、ほかならぬブリュンヒルドだった。ナンナにとってブリュンヒルドは文字通り母親がわりだった。そのせいかナンナは他のヴァルキューレ達にくらべてホズのことも親しみをもっていた。
「まあ、雲雀が飛んでいきますわ」
ナンナは無邪気にホズの足許に座り込んで大空を見上げた。一年の半分以上が夜のこの国でやっと訪れる遅い春がナンナの最も好きな季節だった。ホズはかすかに微笑んで耳を澄ました。戦の合間のわずかなひとときだった。
「眩しいわ。フィヨルドに春の陽がキラキラ反射して…。何もかも新しくなる感じですわ」
「冬の間のおまえとは別人のようだな、ナンナ」
「ええ、だってあたし、冬は嫌いですの。寒くて、暗いんですもの」
ホズは雲雀の飛び去った方向へ顔を向けた。ナンナの明るい笑い声が空気に満ち、あたりが柔らかい光に埋まり、ホズの表情も和らいだ。
ブリュンヒルドはそんな二人を見て微笑んだ。ナンナは日に日に美しくなっていった。盲いたホズには、そのことはわからなかったが、ブリュンヒルドはいつの頃からか孤独なホズを慰められる唯一の希望としてナンナを見るようになっていった。
ブリュンヒルドがナンナにそうした期待を持つようになったのにはひとつの理由があった。ブリュンヒルドはヴァルキューレの女王にもはや自らがふさわしくないこと、近くここを追われて去るだろうことを予感していたのだった。
すべてはこのあいだの戦の時に変わってしまったのだった。あの時に会った一人の勇者とブリュンヒルドは一目で恋に落ちた。ブリュンヒルドは初めてホズの紡いだ運命に逆らった。ホズは勇者シグルドをオーディンのもとへ送るつもりだったのだ。だが、ブリュンヒルドはこの美しく逞しく勇敢な青年をすぐに死なせてしまうことが出来なかった。今まで一度だってそんなことはなかったのに。ヴァドゲルミルの舟に乗せる時にすばやくシグルドを列からはずし助けてしまったことは、どう考えてもヴァルキューレの女王の行為としてはふさわしくなかった。たとえまだ誰も気付いていないにしても。
「ナンナ」
ひとり舟に乗り、ブリュンヒルドはナンナを呼んだ。ナンナは無邪気に育て親の言葉に耳を傾けた。ブリュンヒルドは意を決して一気に話した。
「私はこれからヴァルハラヘ行きます。もう帰ってこれないと思うからあなたにお願いするわ。ホズのことを。あの人は私がいなくなったらあなたしか心を開ける人がいないの。私はそのことだけが心残りなの」
ナンナはあまりの驚きに一瞬言葉を失ったが、すぐに我にかえると説明を求めた。
「何故もう帰れないんですか。何があったのですか。ホズ様は知ってるんですか」
「誰もまだ知らないわ。何があったかはすぐにわかるわ。私はもうここにはいられないの。だから、お願いよ、ホズのこと。あなたにしか頼めないんだから」
その間に舟は静かにヴァドゲルミル河を滑りだす。ナンナは必死で追い掛けたが、それがブリュンヒルドの姿を見た最後になってしまった。
オーディンは最愛の娘の行状を烈火の如く怒った。フリッグ女神をはじめ皆が慌ててその怒りを沈めようとしたが、すべて徒労に終わった。オーディンはブリュンヒルドをスカティの森の城に閉じ込めて眠らせた。周りに火を廻らせ本当の勇者でなければそこへ辿り着けないようにしてしまった。
オーディンは、しかし、その勇者こそシグルドであることを知っていた。そのため、シグルドは名馬のグラニや名刀のグラムを手に入れることが出来たのだった。そのままうまくいけぱ、ブリュンヒルドは限りある命の間ではあるが、人間の娘としてあれほど望んだシグルドの妻となることが出来るはずだったのだ。
ヴァルハラでオーディンの意志にすら反して起こる不吉な運命にはいつも一人の神が関係していた。戯れから産まれし者…。巨人と神の血をひく大いなるはみ出し者と人は言う。なぜ神々を憎み禍いを呼ぶのかわからない。だが彼が来ると小さなヴァルハラの住人たちは蜘蛛の子のように散って行く。
「ロキが来た…!」
ロキは不可解だ。神々に禍をなすかと思えば、巨人達に立ち向かう神々の大いなる助け手となる。奸計に長け腰軽く、柔軟にして反逆者。醜い言葉はその口から泉のように湧き出る。
「ロキが来た…!」
バルドルは少し身を固くしながらこの招かれざる客を見た。ロキはバルドルを見ると、その整ってはいるが狡猾そうな顔を歪めて近付いて来た。
「これはこれは美しくも幸運に満ちたバルドル殿!今日は更にご機嫌麗しく!」
バルドルはこの厄介者の傍を早く離れたほうが得策だと知りつつも、尻尾をまいて逃げ出したなどと後で吹聴されるのだけはご免だと考えていた。
「君も元気みたいだね」
「こりや驚いた。世界の中心にいるバルドル殿がこのロキの健康を気遣うとはね。明日はこのヴァルハラに槍の雨が降りまさあ」
「相変らず口が悪いね。少しまともに人づきあいが出来ないのかな」
「人づきあいをおまえさんに指導されたくないね。なんせおまえさんは、あの誰とでも寝る売女のフレイヤに付き纏っていい返事を貰えないそうじやないか」
「驚いたな。何故おまえがそんなことを知っている。それにフレイヤを売女よぱわりするのは聞き捨てならないな。おまえと同じ巨人族出身じゃないか。もっとも比べ物にならないぐらい美しいがな。あれだけの女が人妻なのは惜しいものだ」
「人妻だろうと今までバルドル殿が気にしたことがありましたかね。バルドルに愛されれば女は尻尾を振る。フリッグのお気に入りの息子の行状に口を挟む命知らずはいない。バルドル殿はやりたい放題。まあ、あの唐変木の巨人にはそこらへんの予備知識はないから決闘ぐらいは覚悟するんですな。トールあたりに大袈裟な武器でも借りとくといいんじゃないですかね」
「物騒なことを言うなよ。そんなことを勧めるぐらいなら、もう少しましな提案をしてみろ。うまくあの別嬪との逢引を取りもってくれよ」
「さあねえ。夫もスカタンなら妻の方も顔ほど洗練されてないからね。それよりももっと耳寄りな情報があるんだがね。おまえさんが飛びつきそうなね」
「フレイヤより耳寄りな話があるもんか」
ロキは含み笑いをした。バルドルは背中に魚が走ったようにゾッとした。誰もがこんなロキの顔を見たことがある訳ではなかった。その時バルドルは、ロキの奸計にのせられて自滅した多くのヴァルハラの住人のことを思い出した。だが、バルドルは自分は他の誰とも違うと思い直した。天下のバルドルともあろう者が、チャンスを前にロキ如きを恐れて思うがままにならないなんて、どうして我慢ができよう!
「聞こうじやないか。それでおまえの条件は何なんだ」
「そうして俺の条件を訊いてしまったからには、もう後戻りはできないんだよ、バルドル」
「ああ、いいとも。何でも言ってみろ。そのかわりフレイヤとの逢引よりもつまらないことだったらおまえの首をへし折ってやる」
ロキはゆっくりと息を吸ってから左手をさしだした。バルドルは不審げに覗き込みおもわず息を飲んだ。ロキの左手の中には割れた鏡の破片があり、そこにはフレイヤに瓜二つの美女がほほえんでいた。バルドルにもそれがフレイヤではないことはすぐにわかった。フレイヤならば、そんなはにかんだ微笑みを見せるはずはなかったからだ。
「これは誰だ…」
「お気に召したかね」
「誰かと聞いてるんだ」
「これこそ真の美の女神、フレイヤ、あの売女のいかにも無垢な双子の妹だ」
「まさか。フレイヤに双子の妹が?」
「双子は不吉。その昔このロキ様に双子の片割れを戦場に捨ててくるように命じた神がいた。歴史は廻るもの、再び同じことを命じたのは今度はこのロキ様の親族の巨人様だった。だからこのロキ様はただ捨てるのではなく、不幸の種になるように同じ場所に捨ててきたのさ。そして乙女は知られる事なく美しく育ち、時は満ちた。さてロキがこんな情報を流すのを、まさか好意だとは思うまいね」
「もちろんだとも。何が目的だ」
「ひとつは、これからもちだす交換条件。もうひとつはあの売女が地団駄ふむ顔が見たいから」
「いいだろう。条件を言え。女の居所を教えてくれたら適えてやる」
「おまえの捕われの妹のブリュンヒルドをある王子が欲しがっている。運命をまげてその望みを適えてやるのだ」
「なっ…!」
バルドルの想像していた条件よりはるかに重大な交換条件だった。確かにオーディンの怒りを受けてヴァルハラからの永久追放を受けるこんな裏切りをやり果せるのは溺愛されているバルドルをおいて他にはいなかった。それを思った時、バルドルは優位に立ったと感じ、ロキヘの警戒をといた。このロキにだってバルドル様のご機嫌を取りながらお願いしなくてはいけないことがあるのか!
「ふん。なんとかしてやろう。じやあ女の居所を教えてもらおうか」
「名前はナンナ。おまえが大っ嫌いな兄の所にいるよ」
ロキは残念ながら、バルドルが思っているよりもすっと邪悪な計画を練っていたのだった。だが、幸運といえるのか、バルドルは最後までそのことに気付くことはなかった。ただ、ロキが思いも寄らず彼の兄ホズのことを口にした時、ふと、恐怖が彼の心に溢れた。バルドルはそれを幼少時の恐ろしい体験、思い出したくもない悪夢のせいだと思った。
たった一回、バルドルはホズに会った事がある。母の反対を恐れこっそりと戦場に来てみた幼い神はそこではじめて皆に打ち捨てられた兄に会った。双子だということが信じられない程自分とは異なった外見をしていたが、ブリュンヒルドが傍に座っていたためにすぐにわかった。ブリュンヒルドが惹かれた訳も同時にわかった。孤独な少年神は、バルドルがまだ子供時代の幸せを満喫していたのと同じ年月しか生きていなかったにも関らず、既に老人の心をもっていた。しかも、それでいながら体のまわりにみなぎる緊張とエネルギー、深い思慮、諦めとそれに対抗する竜のような黒い想いを絡ませ、それを沈黙というもっとも難しい表現方法で表すことのできる不思議な子供だった。
バルドルは子供らしい残酷さで彼に近付き、しなくてもいい事をいくつも彼の兄にした。ホズよりもブリュンヒルドがバルドルにくってかかり、ホズはむしろ憤る小さな妹を止めるのに必死にならなくてはならなかった。バルドルはついに真剣に腹をたて言ってはならない兄の肉体的欠陥に触れた。
「おまえのその見えない目が腐っているか見てやらあ。澄ました瞼を開けてみろ!」
そして、その日以来、バルドルは少しは用心深くなり、その証拠に念願の乙女の居場所を聞いて身震いした。七十匹の龍に守られた城に居ると言われてもこれほどの警戒はしなかったであろう。だが、結局はバルドルは生来の無鉄砲さを矯正する事などできない性質だった。そしてそれが愛すべきバルドルの魅力を更に増していたこともまた事実だった!
スカティの城で炎の林の中に眠っているブリュンヒルドは夢を見ていた。ブリュンヒルドは暗闇の中を走っていた。松明を掲げまっすぐに。だれも走り続けるブリュンヒルドを止めることができない。愛しいシグルドの手が触れ、見知らぬ男の手も触れたが、彼女は止まらなかった。それからニヤニヤと笑うロキの前を通り過ぎ、父のオーディンの見つめる前も彼女は行き過ぎた。そして静かなさざ波の音が聞こえてきた時、ふいにブリュンヒルドはこれが夢で、かつて自分が実際に見た事の再現だと気がついた。
(いったいどこで…?)
だが、それはちょうど目が覚める一時の鮮明な夢の記憶。ブリュンヒルドは、急に展開していく「人間の姫」としての短くも忙しい人生の幕開けに忙殺され、記憶を辿る暇をもたなかった。
開いた瞼の向こうにいたのは、誰でもないシグルドだった。シグルドの頬は紅潮し、ブリュンヒルドをみつめる眸には熱い想いがたぎっていた。それは燃えさかるまわりの炎だけのせいではなかった。ブリュンヒルドは、自分の恋の勝利に酔いしれた。自分もまた同じ眸を恋人に向けて。
ブリュンヒルドは熱いシグルドの腕にしっかりと包まれて城を出た。微かな記憶の中で知っている美しい馬が、城の外で待っていた。シグルドは、この天からの授かりもののグラニが自分以外の人間にこんなに親しげに近付くのを初めて見たので、驚くと同時に、自分が得た姫の尊さを更に強く実感した。それゆえ、名刀のグラムや名馬グラニと同じぐらい神聖で大切なこの姫を、その場で抱き締めて壊してしまいそうなほどの激情で想っていながらも、正式な婚礼を前に自分のものにすることを戒めた。
シグルドの国に着くまでには半月以上の旅が必要だった。毎晩、同じ天幕の同じ褥に横たわるブリュンヒルドの臈長けてしなやかな姿に、そしてシグルドを想うブリュンビルドの激しく本能的な苦しみに、シグルドは気も狂わんばかりの誘惑を感じたが、辛うじて、鞘から抜いて眩いばかりの光を放つグラムを二人の間に置くことによって耐え続けた。
「あれを見るがよい。あれがシグルドだ。ブリュンヒルドと生きるためには命すら惜しまぬ勇士。我々が手を貸そうとしているグンナルなど足許にも及ばぬ。さて、バルドル殿はどうやってあの二人を引き離し、約束を果たしてくれるのかな」
ロキは冷たく笑った。バルドルは、ただグンナルを美しく見せるといった簡単なことで事が運ぶはずもないのを見て取った。まもなく二人はグンナルの城へ到達する。なんとしてもここで二人を別れさせ、グンナルに約束の妻を与えねばならなかった。
「シグルドを殺してしまったらどうだろう」
バルドルの提案をロキははなから馬鹿にした。
「おまえさんは妹が人間になったからといって性格が変わるとでも言うのかね。厄介なのはあの女の誇り高くも強い性格なんだという事がどうして分からないのかねえ。ブリュンヒルドはシグルドが死んだらただ自害するだけさ」
「おまえの言う通りだな。さて、どうするか」
「もっと残酷な手を考えないとだめだ。ブリュンヒルドがグンナルと結婚するとしたら、彼女の強い意志で、そうさな、復響に燃えてでもしてもらうのだな」
「なんだって」
「シグルドヘの復讐ならぱするだろう?」
「シグルドの裏切りか。おまえらしい卑怯な手口だな、ロキ」
「手を下すのはおまえさんだよ、バルドル殿」
「いいだろう。シグルドが妹を裏切るようにしてみよう。どちらにしても今のあの男はブリュンヒルドを裏切るぐらいならオーディンにすら立ち向かいそうなほどに妹にいかれている。ちょうど私がナンナに夢中なように(だから、このバルドルの想いの方を私が優先しても悪いことはあるまい)。てっとり早いのは、妹の存在を一瞬でもこの男が忘れてしまえばいいのだ。そして、その前に美しい姫を差し出す。シグルドは、その姫と結婚してしまう」
「おあつらえ向きにだね、バルドル殿。ちょうどいい姫がいる。グンナルの妹で噂に高く誇り高い美女だ。名前は、グドルーン」
「では、この作戦はきっとうまくいく。なんせ忘却はこの私の得意技だ」
シグルドはグンナルの城につき、城主に一夜の宿を求めた。グンナルは、夢にまで見た美女がシグルドの後ろから顔を出したのを見て、何が何でも策略を成功させたいと願った。いささか身分にふさわしくない陰謀ではあったがそんな事はもはや少しも気にならなかった。シグルドとブリュンヒルドは何も知らすに運命の城に入った。
ロキはグンナルの母親に姿を変えて、バルドルの作った忘却の薬のたっぷり入った酒を寛ぐシグルドのもとに運んでいった。
「わざわざ恐れ入ります」
「お疲れが十分に癒えるよう、薬草を処方しております。どうぞ苦くとも一気にお飲み干しくださいませ」
そして、ロキはシグルドが薬を飲みほすのを確認すると満足して出て行った。
それから不思議なことがおこった。どういう訳かシグルドはブリュンヒルドに恋したこと、彼女を手に入れ自らの妻にしようとしたことをすっかりと忘れてしまった。シグルドはグンナルのためにかわりにブリュンヒルドを火の中から救い出し、そしてグンナルに渡したと思うようになってしまったのであった。そして、グドルーンと恋に落ち、あっという間に婚約をしてしまった。
ブリュンヒルドの方はなぜこの城に来てから、シグルドが一度も自分に会いに来てくれないのか、そして一夜の宿のはずがいつまでここに足止めされるのだろうと訝っていた。すると信じられないことにグンナルの妹グドルーンとシグルドが婚礼をあげるという話が聞こえてきた。
「そんな馬鹿なことがあるものか。あの人が一生を誓ったのはこの私。私は信じないわ。これは何かの誑かしに違いないもの」
ブリュンヒルドは部屋の扉を閉ざし、毎日求婚に来るグンナルに会おうともしなかった。
そうこうするうちに、シグルドとグドルーンの婚礼の夜になった。ブリュンヒルドは客人として上座に座らされ、朝からの盛大な祝いを青ざめて見ていた。花婿と何度か顔をあわせたが、あれほど自分を愛しているという確信のあった以前のシグルドとはうってかわり、ブリュンヒルドに対して挨拶する彼の表情からは、敬意以上の何かを感じることはできなかった。
(そんなはずはないわ。これは何かの間違いよ)
婚礼の宴がお開きになり、花嫁と花婿が新床をともにする時間になっても、ブリュンヒルドはひとりつぶやき統けた。涙を飲み込みながら、自室の冷たい褥で幾度も寝返りをうつうちに、ふいに部屋の外に誰かいることに気付いた。ブリュンヒルドはシグルドだと思った。あの婚礼はまやかしだったのだ。そして、彼はやはり私のものだったのだと。扉を開けるとそこには、シグルドの姿をした者が立っていた。ブリュンビルドはすぐに彼を部屋へ招き入れ、一夜を共にした。
朝になれば、術が解けてグンナルは元の姿に戻るだろう。すべてが首尾よくいったのを見届けて、バルドルは安心してナンナを口説くため戦場へ行った。灰色の戦場が薔薇色になるとはこの事だ。
はじめてナンナを見た時のバルドルもそうだったが、ナンナも、バルドルの様に美しい姿を見た事がなく、しかも、その神々しい人が自分に微笑みながら話しかけてきたので驚きたじろいで、どうしていいのかわからず、それでも今までの世界とすべてが変わってしまった。
(あんな方がこの世界にいらしたなんて…!)
バルドルの名を開いた時、ナンナは更に驚いた。
(あの方がバルドルさま!ヴァルハラで一番尊くて皆に愛されているという、あのバルドルさま。ああそうよ。どうしてすぐにわからなかったのかしら。私がこんなにもあの方の事ばかり考えるようになってしまう前にどうして身分違いを諦められる様に、バルドルさまと気付けなかったのかしら)
「ナンナ。このごろ何かを想い悩んでいるね」
はっとして意識を戻すと、ナンナはいつものようにホズの足許に座っていたのだった。ホズの言葉は優しく暖かかったが、いくら無邪気なナンナでもこれぱかりはホズに相談するという訳にはいかなかった。
バルドルは何度もナンナの元にやって来た。そのたびにナンナはこの戦場に春が訪れ始めるあの心地良さを味わった。バルドルなしで今まで生きてこられたことが不思議でならなかった。そして、その想いが強ければ強いほど、ホズに対する後ろめたさも色濃くなっていくのであった。
「僕には妃がいない。今までそんな事を考えたこともなかった」
バルドルはナンナに話しかけた。ナンナは不安げにバルドルをみつめた。なんて美しいのだろう。なんとしてでも妻として貰いたい。
「君しか考えられないんだ。ヴァルハラに来て僕と暮らしてほしい」
ナンナの頬は紅潮し、幸せとそれからその後に押し寄せてきた複雑な想いが交錯し、しばらくは何も言えなかった。半時ほど経ってやっと言った。
「わたし、あなた様の妻になれるほどの者でもないし、それにここを離れるわけにも…」
「何を言っているんだ、僕と結婚するのがいやなのか?」
ナンナは激しく頭を振った。大粒の涙が白い頬を伝わった。
「ヴァルキューレの代わりなんていくらでもいる。僕の妻になってほしいのは君だけだ。問題があるなら教えてくれ。僕がなんとかする」
「ブリュンヒルド様に頼まれたんです。ホズ様の傍にいるようにって」
「ブリュンヒルド…!ホズ!」
バルドルは慄然とした。バルドルはホズを恐れていた。徹底的にホズの側に立つブリュンヒルドに忌々しさを感じていた。だからといって仮にも妹をあんな風に苦しめていいはずがないことも心の隅で知っていた。いま図らずもナンナの口から出た二人の名前にバルドルは逆上した。
「ホズの傍になんかいてはいけない!あいつの恐ろしさを君は知らないんだ!」
「恐ろしくなんかないですわ。人づきあいは苦手ですけれど、優しくていい方ですわ」
「君はわかっていない。どうしてもわかりたければ教えてやる。あいつに頼んでみろ。目を見せてくれってね。そうすれば君は二度とあいつのもとで暮らす気になんかならないだろうから」
ナンナはバルドルが何を言っているのかわからなかった。
「いやああああ!!!!」
錯乱したナンナをホズはなんとか宥めようとした。
ホズは瞼を開けて目を見せてくれと言うナンナの申し出に乗り気でなかった。子供の頃バルドルを激しく恐れさせた何かをナンナもまた見るのではないかと思ったからだった。
ホズにはわからなかった。母親に自分を捨てさせ、皆に疎まれる何が自分の目にあるのか。だが、ナンナはきかなかった。ナンナがここのところ変わってしまった事をホズは寂しく感じていた。だが、ナンナは生き生きとし、幸せそうで、ホズはナンナの願いを適えてやりたかった。できる事なら何であれ。
しかし、ナンナもまた、バルドルと同じ反応を見せ、ふらつき、怯え、激しく身を捩るとホズの腕から逃げ出した。
「いやああああ。助けて!いや!近よらないで!」
ホズはもうナンナに触れる事ができなかった。こんな風に拒絶されて、他に何ができるだろうか。ナンナは駆け出し、その先に待つバルドルの胸に駆け込んだ。
ヴァルハラで空前の婚礼の宴が催されている間、ヴァドゲルミルの下流に一人座っているホズの前を小さな舟が通った。その舟にのっていたのは、死出の装束に胸を血に染めたブリュンヒルドだった。
「ホズ…。黄泉へ行く前に一度あなたに会いたかった」
「何故おまえが死出の旅に…?」
「私は、裏切られ謀られたの。愛する人の腕で死んでもいいとまで思ったのに、目が覚めた時にいたのはあの人ではなかった。わたしはグンナルの妻にならなくてはならなかった。それでも心の隅にシグルドを持つ事に苦しんでいたある日、グドルーンからグンナルとシグルドの二人にだまされていたことを知らされた。だから私は復響のために夫を峻してシグルドを殺させたけれど、私にも恥はあるし、シグルドのいない世界に生き延びるほど未練もない。自ら命を断ちました。
でも死んでから私が誰だったのか思い出したの。わたしはオーディンの娘、あなたの妹ブリュンヒルド。それで気がついたの。父は私を罰するためにこんな苛酷な運命を用意するような人ではないわ。何かの悪意を持つ誰かが運命をねじ曲げたのよ。
私はあなたが心配だった。無事なあなたを見る事が出来てうれしいけれど、あなたは寂しそうだわ。ヴァルハラは随分と騒がしいみたいだし、何かあったの?」
ホズはブリュンヒルドのいない間に起こった事を簡単に話した。
「ナンナは、それきり戻らなかった。ナンナに何かをして欲しかったわけではない。ただ、傍にいてくれる事が慰めだった。息づかいを感じ、あの笑い声を聞き、静かに話をして一日が過ぎていく、当り前の日々がただ続いて欲しかっただけだ。ナンナは一体何を見たのだろう。あんなに頑固なまでに望んだ私の瞼の奥に何を見て恐れたのだろうか」
ホズはブリュンヒルドに向けて瞼を開いた。彼の妹がその深淵を見たのは二度目だった。ブリュンヒルドは、はじめから恐れたりはしなかった。ホズは他の人々のように瞼の向こうに眼を持っていなかった。ただ、深く深い暗闇が、永遠ともいえる深淵がその窓の向こうに続いているのだった。
「あの子には耐えられなかったのよ。この深い闇の中で孤独に向き合う事に。バルドルもそうだった。誰ひとりこの世でこの闇から逃れることはできないのに」
「おまえには何が見える、ブリュンヒルド」
「わたしは私自身を見たわ」
スカティの森の城で見た最後の夢を思い出しながらブリュンヒルドは言った。
「暗闇の中を自分の松明だけを掲げて一人で走っていく自分の姿を見たわ。シグルドもグンナルも父もロキでさえも影響することはできても私を止めることはできなかった。私自身を動かしていたのは私ひとりだった。そして、これから私は黄泉の国でシグルドをつかまえる。もう二度と離れないつもり。それでよかったのだと思っているわ。あなたの事は心残りだけれど、でも、あなたがいなくなったら、運命がきちんと紡ぎだされなくなってしまうもの。あなたを連れては行けないわ」
「自分自身を知ることもできない私の紡きだす運命など、むしろなくなっていってしまえばいい。規則や決まり事に縛られることなく、大きな混沌の中の複雑な絡み合いの中で導き出される自然の成り行きこそが、本当の運命というものなのではないのか」
「それでも、混沌があなたを飲み込むまでは、あなたは仕事を続けなくてはならないのだわ。私はシグルドを救うことで運命の流れを変えたつもりだったけれど、結局シグルドをこの手に掛けた。これもすべて紡がれた運命の流れに沿った事なのかもしれないわ」
ゆっくりとブリュンヒルドの舟は岸を離れていった。声は小さくなり、さざ波の音だけしか聞えなくなり、ホズはまた自分の持つ暗闇と同じ孤独の中に一人残された。誰もいなかった。
バルドルは幸せになったつもりでも、そうではなかった。ナンナはいつも怯えていた。ブリュンヒルドの死が伝えられた。ロキは姿を見せなかった。これほどまでにヴァルハラは平和で皆がバルドルとナンナの結婚を祝ったが、バルドルの気分は沈んでいた。母のフリッグ女神が、沈んでいるバルドルの様子を見兼ねて訊いても、バルドルは本当の悩みを口にすることはできなかった。
(俺には妹を永遠の黄泉の国に送り込む気持ちなんか、本当にこれっぽっちもなかったのに!)
「どう考えてもおかしいですよ。バルドル。悩みがあるならば、どうかこの母に教えておくれ」
「それは…」
バルドルは、嫌々ながら作り話をした。自分が殺されて死んでしまう夢を見て心が晴れないのだと。夢なんか気にするなどいう軽い返事を期待して。しかし、フリッグはこの夢を重大な示唆だと考えて早速このことはヴァルハラ中の一大事件となってしまった。
「全ての火、水、鉄及びあらゆる金属、石、大地、樹、病気、獣、鳥、毒、蛇にバルドルには指一本触れない事を誓わせよう」
フリッグの言葉の通り、万物は誓い、バルドルに対し決して害を加える事ができなくなった。それでもまだ沈んでいるバルドルを慰めるため、ヴァルハラの住人は誰からともなく、何にも傷付かないバルドルに対して切りつけたり、射かけたり、石を投げたりする遊びが行なわれた。バルドルは怪我ひとつ負うことはなかった。
「ほら、ご覧。推もおまえを殺したりはできないんだよ。みんなから誓いを取り付けたんだからね」
フリッグがさも嬉しそうに言った時、それを間いていた見慣れぬ女がそっと言った。
「本当に全てのものから誓いを取り付ける事なんてできたのですか」
「ああ、そうだよ。そういえば、ヴァルハラの西に生えてたヤドリ木だけはあまりに若くてその必要もなかったから誓いはとってないけどね」
そういってフリッグもまたバルドルの的あてゲームに興じだした。女は、素早くその場を離れるとロキの姿に戻り、早速そのヤドリ木を引っこ抜きに行った。それからその若木を丁寧に削って小さな小さな矢を作った。
「何故おまえさんは、ヴァルハラの楽しい遊びに加わらないのかい」
ロキはヴァドゲルミルの岸辺にひとり座るホズに近付いた。ホズはロキの方に顔を向けたが、黙っていた。
「ヴァルハラでは、バルドル殿の不死を祝って大騒ぎだ。誰もその妹が人間として不運の死を遂げたことに気もとめずにね」
「バルドルがブリュンヒルドの死に関ったわけではあるまい」
「おやおや。運命を司るホズ殿のご意見とも思えないね。バルドル殿は関係してるとも。花嫁を手に入れる為に妹をグンナル如きに売ってしまったんだから。だけど、そんな事はもはや何の助けにもなるまいね。万物はバルドルを傷付けない。もうあの神を裁く事はできないんだから」
「おまえの言う通りだ、ロキ。バルドルは幸せに生きていけぱいい」
「だからおまえさんもこんなところで想いにふけっていないで、遊びに加わったらどうかね」
「私は、ヴァルハラでは歓迎されないし、投げるものも何もない。第一、何かを投げようにもバルドルが見えないよ」
「このロキですら加われる遊びなのに、兄のおまえが加わらないなんて!バルドルへの敬意を示したまえよ、ホズ。投げるものなんか何でもいいんだ」
ロキはホズをヴァルハラへ案内すると、先程の矢を持たせて言った。
「いいか、こっちの方向だ。そうそう、いいぞ」
ヴァルハラは神々の笑い声に満ちていた。冗談を言いつつ遊びを楽しむバルドルの若く張りのある声。フリッグの弾んだ喜びの声。ホズは、ブリュンヒルドの事を思った。ナンナの笑い声の事を思い出した。そして、一瞬だけ、はじめてバルドルの事を憎いと思った。そして、小さなヤドリ木の矢がバルドルの心臓めがけてホズの手を離れた時、暗闇の中を混沌が自分めがけて覆いかぶさって来るのを感じた。
ナンナはヴァドゲルミル河の岸辺に座り込み、河の流れをうつろに眺めていた。バルドルがホズの投げた矢に一瞬にして命を奪われ、ロキが高笑いして逃げ去り、そしてホズも又、バルドル殺しの犯人として生を奪われてしまった今、ナンナの世界は何ひとつなくなってしまった。つと、魚の影が黒く走った。ナンナはその黒さにホズの目の奥にあった独りぼっちの自分を思い出した。あの時、崩れそうな自分を抱き締めて支えてくれたバルドルは、もはやいなかった。ブリュンヒルドもホズも。そして自分で産み出してしまった孤独に耐えられずに、ナンナは倒れ伏して二度と起きる事はなかった。ナンナもまた混沌に食われてしまったのだった。
(初出 :1996年8月 書き下ろし)
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