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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

Tag: 読み切り小説 - 新しい順に表示されます。


Posted by 八少女 夕

【小説】禍のあとで – 大切な人たちのために

今日は「123456Hit 記念掌編」の第1弾をお送りします。あ、まだお1人分枠がありますので、リクエストのある方はどうぞ。

今日の小説は、山西サキさんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: 愛
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: サキさんの知っているキャラ
   コラボ希望キャラクター: サキさんの作品のキャラクターを最低1人
   時代: アフターコロナ。近未来(2~5年先?)
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 道頓堀



今だってわからないのに、アフターコロナの道頓堀なんて、皆目、予想がつかないのですけれど、書けとおっしゃるので仕方なく書いてみました。これ、いまから1年後にこうだったら困るかもしれません。笑い話になることを期待しつつ。

さて、登場人物です。実は、こちらで使うキャラクターはすぐに決まったのです。アフターコロナだと、近未来キャラのうち、もう生まれているのがぼちぼちいますので。使ったのは、いつもコンビで登場している2人組です。で、この2人と共演させるためにお借りするのはどなたがいいかなと迷ったあげく、この方にしました。

というのは、メインキャラの方の年齢設定が今ひとつわからなかったので。この方は3代くらいずっとストーリーの中にいらっしゃるので、どこかはかするだろうなと思ったんです。



大道芸人たち・外伝
禍のあとで – 大切な人たちのために


 やっぱり赤い街だ。拓人は、思った。青空を額縁のように彩る看板に赤やオレンジの利用率が高い。昨日のホールや泊まったホテルのある周辺はそうでもなかったので、彼は印象を間違って記憶していたのかと訝っていた。

 拓人が大阪を訪れるのは2度目だ。2年前は、父親のリサイタルだったので純粋にピアノを聴くために連れてこられたが、今年はどちらかというとシッターが見つからなかったので連れてこられた感がある。母親が従姉妹と一緒にジョイントコンサートをするのだ。その娘で拓人とは再従兄妹の関係にある真耶も、同じように連れて来られていたが、彼女の方は大阪が生まれて初めてだった。

 とはいえ真耶は、まだ6才だというのに妙に落ち着いていて、コンサートは当然のこと、新幹線でも街並みでもはしゃいだりしなかった。

 2人の母親たちは、今日はワークショップがあり観光につきあってくれる時間はない。ホテルで大人しく待たせるつもりだったのだが、夕方訪れる予定にしていたヴィンデミアトリックス家が観光をさせてから先に邸宅へと連れて行ってくれると申し出てくれたので、安心して仕事に専念しているというわけだ。

* * *


「私、歩くのが速すぎやしませんか、お2人とも」
香澄は、訊いた。黒磯香澄は、ヴィンデミアトリックス家で働いている。今日は、東京から来ているお客様の子供たちを観光させてから、邸宅につれていくいわばベビーシッターの役目を任されていた。

「大丈夫です。……だよな、真耶」
拓人は、香澄を挟んで反対側にいる真耶に訊いた。大きなマスクの下から彼女は「ええ」と、くぐもった声を出した。外出時に誰も彼もがマスクをするエチケットは、ようやく薄れてきたが、今日はかつての繁華街に行くのだから、預かる方としては徹底したいと、香澄が2人につけさせたのだ。もちろん彼女自身もしている。

 真耶は、道頓堀の繁華街を眺めながら、言った。
「……ここは、なんだか、テーマパークみたいなところね」

 真耶は、戸惑っていた。それはそうだろう。大きなタコや、ふぐや、カニがあちこちにあり、騒がしい音がしている。東京の繁華街で見るよりも看板が派手だ。

 平日の昼とはいえ、人通りは少ない。これではマスクも必要なさそうだ。かつての賑やかな道頓堀を知る香澄には不思議な光景だった。
「ここ、開店時間、遅いの?」
拓人は、香澄に訊いた。

 香澄は首を振った。
「いいえ。もう11時ですもの。例のロックダウンで閉店してしまったお店がたくさんあって、まだ次のテナントが決まっていないところが大半なのね」

 未知のウイルスのために、世界中で都市のロックダウンがされてから1年以上が経った。拓人の通っていた小学校も、しばらく登校禁止になった。現在はロックダウンをしている都市はないけれど、社会的距離を保ち感染を防ぐための政策は続いていて、2年前のような賑わいは世界中のどこにも戻っていない。

 拓人や真耶の住む東京も、かつては日本でももっとも賑わったと言われる繁華街の1つであるここも、押し合いへし合いといった混み方はもうしないらしい。見れば、シャッターを閉め切ったままの店がいくつもある。

「2年前は、人がいっぱいで、まっすぐ歩けなかったよ」
「そう。そういえば、ずっと外国人観光客が押し寄せていたのよね。それはまた、私には少し不思議な光景だったのだけれど」

 香澄は、2人に優しく話しかけた。
「お昼はどこにしましょうか。スイスホテルのラウンジがいいかしら」

 拓人は、露骨に不満を表明した。
「えー。せっかく道頓堀にいるのに、そんな洒落たとこに行くの? 東京と同じじゃないか」

「でも……」
香澄は少し困ったように、フリルのたくさんついた可愛らしい洋服を着た真耶を見た。大人しく文句も言わずに付いてきているけれど、この上品な少女は、B級グルメの店には行き慣れていないだろうし、嫌がるのではないかと思ったのだ。

 視線を感じた真耶は、香澄を見上げて言った。
「わたしのことなら、大丈夫。拓人、たこ焼きとお好み焼きを食べるって、新幹線からずっと言ってました。ね、拓人」
「うん。ママたち、うちで食べるのとおんなじようなものばっかり食べたがるんだもん。今を逃したら食べられないよ」

 香澄は笑いを堪えた。白いシャツに蝶ネクタイとグレーの半ズボン、上品そうな格好はさせられていても、彼はやんちゃ盛りの少年だ。マダムたちの好きそうな小洒落たカフェよりも、目の前の鉄板で繰り広げられるエンターテーメントが楽しいに決まっている。インパクトの強いコクと旨味たっぷりの庶民の味も、子供の舌には合うだろう。

 ヴィンデミアトリックス家に勤めて長いので、良家の食事がどんなものであるか香澄はよく知っている。それらは栄養に富み、美しく、繊細で、多くの文化と技術が凝縮されている。子女たちはそれらを日々口にすることで、外見だけでなく内面までも、一両日では真似のできない真の上流階級に育っていくのだろう。

 そうであっても、庶民の味の美味しさをよく知る香澄は、B級グルメを心ゆくまで楽しむ幸福もまた人生を豊かにすると思うのだ。せっかくだから、めったにない機会を2人にプレゼントしてあげたいと思った。

 普段なら決して許してもらえないだろう、たこ焼きの買い食いからはじめた。かつては長々と行列ができていた有名店もほんのわずか待つだけで購入することができる。たこ焼きだけでお腹いっぱいになっては本末転倒なので、香澄は一舟だけを買い、堀沿いの遊歩道にあるベンチに腰掛けた。

 真耶は、小さなハンドバッグにマスクをしまうと、レースのハンカチを取りだして、おしゃまに膝の上に置いた。その間にたこ焼きの1つはすでに拓人の口に放り込まれていた。香澄は慌てた。
「氣をつけて! 中はとても熱いから!」

 あまりの熱さに目を白黒する拓人を見て、女2人は思わず笑ってしまった。わずかに火傷をしたらしいけれど、それでも拓人の食欲は衰えなかったようで、嬉しそうに大きな3つを平らげた。香澄と真耶は2つずつを楽しんで食べた。香澄は、ここのたこ焼きが大好きだ。大きなタコのほどよい弾力。生地の外側はカリッとしているのに、中側の柔らかな味わい。ネギや鰹がソースと上手に混じって、ひと口ごとに幸福が口の中に広がる。子供の頃から、たこ焼きは彼女にとって「ハレの日」の食べ物だった。真耶もたこ焼きを氣に入ったようなので、香澄はほっとした。

「こんどはお好み焼きだね」
拓人の言葉に笑いながら、香澄は以前夫に連れて行ってもらった美味しいお好み焼き屋に2人を案内するため、法善寺横町の方へ向かう。

 橋を渡り、少し歩いていると、ギターと笛の音が響いてきて、真耶は足を止めた。異国風のメロディーがここらしくないと香澄は思った。見ると南米風の衣装をまとった2人の男と拓人たちと同年代の少女がいた。ギターとケーナを演奏する2人の大人は、背の高さが少し違うものの明らかに兄弟なのだろう、そっくりの見かけだ。傍らの少女は鈴で拍子を取っている。

 彼らは東洋人のようでもあるが、肌が浅黒くどこか悲しげな印象を与える。拓人と真耶は、少女の前に歩み寄った。

 2人の他に、その演奏に足を止めるものはほとんどいなかった。その空虚さと、ケーナの独特の息漏れと音色のせいで、曲調は決して悲しくないのだが、香澄はなんだか居たたまれない心持ちになった。

 真耶と拓人が熱心に聴いてくれるので、鈴を振っている少女は嬉しそうに笑った。その曲が終わると、子供たちは大きく拍手をした。ケーナとギターの大人たちは帽子をとって大きくお辞儀をした。

「すてきでした。南米のどちらからですか」
香澄が訊くとケーナの男がにっと笑った。
「ペルーのクスコですわ」

「あら。こちらにお長いんですか?」
香澄は驚いた。男の返事が、大阪弁のアクセントだったからだ。

「せや。ぼちぼち30年になんねん」
なんとも不思議な心地がする。民族衣装を着た外国人が外国なまりの大阪弁で話しているのを、東京から来た子供たちが不思議そうに見上げているシュールな絵柄だ。大道芸人だろうか。

「音楽家なの?」
拓人がストーレートに訊いた。ギターの方の男が、首を振って答えた。
「いや、その裏でペルー料理屋をやっているんだ」

「まあ。ここにペルー料理のお店が?」
香澄は思わず声を上げた。

「ええ。小さい店です。よかったら、どうぞ」
男は、ギターケースの中に入っていた紙を香澄に渡した。

「なあに?」
真耶がのぞき込む。

「チラシだ」
拓人が受け取って真耶に見せた。ランチタイムセットの案内だ。

 香澄は、どうしようかと思った。楽しみにしている拓人はお好み焼きを食べたいだろう。一方、真耶は同じ年頃の少女やいま聴いた音色、ひいてはペルーに興味を示している。ここで意見が分かれたら……。

 拓人は、真耶の方を見た。
「行きたい?」

 真耶は「お好み焼きはいいの?」と訊き返した。拓人は、にっと笑うとチラシを香澄に渡して、言った。
「ここに行っちゃダメ?」

 香澄は、ほっとして微笑んだ。
「行きましょうか。……子供たちの食べられる、辛くない料理もありますか?」

 ギターの男が頷いた。
「今日のランチセットは、ロモ・サルタードといって、醤油も入った日本人向けの味ですし、唐辛子は使っていません」

「よかったな。来てくれはる、いうとるよ」
ケーナの男が、少女に言い、彼女はうれしそうに微笑んだ。

 その店は、路地裏の地下にあり、狭かった。外から見ると、こんな所に店があるとはわからないぐらいだ。ランチタイムなのにここまで閑散としているのは、どんなものだろう。味はわからないが、店の感じは決して悪くない。店内は暗くならないように木目の壁で覆われ、机の上には刺繍された黄色いテーブルクロスがかかっていた。

 奥から女性がひょいと顔を出した。
「ママー!」
女の子がその女性に向かって飛んでいった。

 2人はスペイン語で何かを話し、女の子の母親が3人ににっこりと笑った。
「マイド。ドーゾ」

 演奏していた2人とくらべると、日本語は片言ではあるが、彼女も優しい笑顔で歓迎してくれた。ギターの男が、3人に水を運んできた。
「注文はどうしますか。ランチセットですか?」

 チラシの写真では、肉野菜炒めのように見えたので、3人ともランチセットを注文した。わりとすぐにでできたのは、牛肉の細切りとタマネギやピーマン、フライドポテトを炒めて、醤油やバルサミコ酢で味付けした料理だった。

「おいしいわね」
真耶は、あいかわらず上品に食べている。

 少女の母親が調理したのだろうか、家庭料理のような見かけだが、肉は軟らかいし、フライドポテトははサクッっとしていて、パプリカも上手に甘みが引き出されている。醤油とバルサミコ酢もしっかりからんでいて、舌の上でジュワッと旨味が広がる。これだけおいしい料理を出し、感じのいい店主たちの経営する店なのだからもっと繁盛してもいいはずだと香澄は思った。

 拓人は、四角錐に盛られたご飯を崩すのがもったいないようだ。
「ご飯が、ピラミッドみたいになってる」
「お、わかったかい。これは僕たちの故郷にあるピラミッドをイメージして盛っているんだよ」

 ギターの男が、テーブルの近くにやって来た。真耶の近くに立っている少女を膝にのせると、子供たちにもわかるように答えた。

「エジプトと関係あるの?」
「いや、ないと思うね。僕たちの言葉ではワカっていうんだ。神聖な場所って意味だよ」

「ペルーって遠いの?」
そう拓人が訊くと、女の子は「地球の反対側っていうけど、よく知らない」と言った。
「この子は、まだペルーに行ったことがないんだよ。ここで生まれたから」
父親が説明した。

「コロナが流行ったときに、帰らなかったの? 同じクラスのナンシーの家は、急いでアメリカに帰っちゃったよ」
拓人が訊いた。

 彼は首を振った。
「そう簡単にはいかなくてね。向こうには住むところもないし、この店をたたむのも簡単じゃない。それにこの子はここで生まれたから、向こうの学校にはついていけない。ここで踏ん張るしかなかったんだ」

 香澄は、この店をめぐる状況を理解した。国の仲間や観光客が来なくなり、外出の自粛の影響も大きく客足が途絶えたのだ。店内で待っているだけでは食べていけないほどに経営が苦しいのだろう。

 ケーナの男が出てきて、少女の父親に声をかけた。
「せっかくやから、何か演奏しよか、フアン。坊ちゃんと嬢ちゃん、何がええ? 『コンドルは飛んでいく』?」
奥のわずかに高くなって舞台のようにしてある所に座った。

 真耶が訊ねた。
「さっきの曲は、なんていうの?」

「ん? あれは、『Virgenes del Sol 太陽の処女たち』っていうんや。好きなんか?」
真耶は、頷いて訊き返した。
「たいようのおとめたちって、誰?」

 ファンが答える。
「昔、ペルーには僕たちの先祖の築いたインカという帝国があったんだ。そして、皇帝のいる都クスコには、全国から集められたきれいで賢い女の子たちが、織物を作ったり、お供えのお酒をつくったりしながら、神殿で太陽の神様に仕えたんだ。あの曲は、その女の子たちのための曲なんだよ」

 膝の上の少女は、大きな瞳を父親に向けた。祖先のインカの乙女たちを思わせる優しく澄んだ黒目がちの瞳。フアンは、娘をぎゅっと抱きしめて「頑張らなくちゃな……」と呟いた。

 香澄は、ひと気のない街並みのことを思った。興味を持って立ち寄った日本人、観光や出稼ぎで日本を訪れた外国人、それらの人々で賑やかだっただろう、かつてのこの店の様子を想像した。国に帰ることと、ここに残ることのどちらも楽ではない。苦渋に満ちた決断だったに違いない。客引きのため大道芸人のような真似をしてでも、この街のこの店で営業を続けるのは、守るべき大切な家族がいるからだ。

 みな頑張っているのだ。愛する家族や仲間たちを守るために。

「フアン~。来てや、弾くで~」
ケーナの男がしびれを切らしたらしい。
「わかったよ」

「ホセのおっちゃん、パパの従兄弟なの。一緒にクスコから来たんだって」
少女が、小さな声で説明してくれた。それから棚から鈴を3つ盛ってきて、2つをテーブルに置き、自分で1つ持った。

 拓人と真耶は、同時に鈴に手を伸ばして、駆けていく少女の後を追った。香澄は、2人のよく似たペルー人と、仲良く鈴を鳴らす子供たちが、仲良く演奏する姿を眺めながら、微笑んだ。

(初出:2020年6月 書き下ろし)

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Quena - Virgenes del Sol - Eduardo Garcia
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ 123456Hit

Posted by 八少女 夕

【小説】秋深邂逅

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第十弾、そしてラストの作品です。大海彩洋さんは、『オリキャラオフ会@豪華客船』の作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『2019オリキャラオフ会・scrivimo!2020】そして船は行く~方舟のピアニストたち~ 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じだと思いますが、今回はピアノとピアノ曲に関する愛をたっぷりと詰め込んで、「何でもあり」の豪華客船に乗せてくださいました。そもそも主要キャラたちが「そんなふうに集まるのは本編ではないでしょ」な状態に大集合しているのですけれど、加えてお友達のブログのそうそうたるメンバーも乗っちゃっている「オリキャラのオフ会」です。

うちのチャラいピアニストもちゃっかり加わってすごいピアノに触らせていただいているようですが、さすがにこのストーリーに直接絡むのは無理だわ……。うちオフ会参加メンバーはほとんど逃げたした後だしなあ……。

というわけで、単純なオマージュ作品を書いてみました。このお返しの方法は、TOM−Fさんの作品には何回かしたことがありますが、彩洋さんへのお返しでは初めてかも? 

「船旅」「四人の演奏」「一人の女の過去」あたりを踏襲してあります。歴史的事実と「聊斎志異」に出てくるとある怪異譚もちゃっかり絡めてありますが、加えて私の未公開(黒歴史ともいう)作品由来の嘘八百も混在しています。こちらもオリキャラのオフ会と同じくアトラクタBだということで、ご容赦ください。

読む上では関係ありませんが、使ったメインの四人は、先日のエッセイにちらりと語った「黒歴史で抹殺した神仙もの」のキャラクターたちです。つまりワイヤーワークで空飛ぶ仙人だと思っていただいて結構です。今回用意した通名は、ガーネット、翡翠、アクアマリン、紫水晶の中国名で、これは石好きな彩洋さんへのサービス(笑)


「scriviamo! 2020」について
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秋深邂逅
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 深まる秋の夜空に大きな月が煌々と輝いていた。出立より荒れ狂う波にひどく悩まされた航海で、このように凪いだ宵は初めてである。紅榴は箜篌くご を抱えて甲板に出た。遠く絹の道の最果てから伝わったとされる竪琴は、紅榴の指先を通し二十三本の弦から妙なる調べを繰り出す。

 紅榴と呼ばれるこの弾き手は、揚州出の高官という触れ込みである。まるで少年のように若く、ひどく赤みの強い髪を髷に結っているために露わになっている首がほっそりとしている。文人でありながら武術もなかなかの腕前である。大使と共に第一船に乗る晁衡大人からの推挙状を持っていたため、この船でも破格の扱いを受けている。なぜ本名ではなく紅榴と呼ばれるのか、また、どこで流暢な日本の言葉を身につけたのか、皆が訊いたが笑みを浮かべるのみで多くを語らなかった。

 蘇州黄泗浦を出て三日、遣唐使船四艘のうち二艘の姿は見えない。が、渡航が上手くいき阿児奈波に着けば消息も知れよう。

 紅榴のつま弾く箜篌の音は、近くを走行するもう一艘に届いているらしい。むせび泣く声がこちらにまで届いてくる。

「おそらく普照どのではないか。鑑真和上を日本にお連れできなかったことを嘆いておられるのだ」
顔を上げると、いつの間に側まで来たのか、翠玉が立っていた。紅榴は、「そうやもしれぬな」と口先だけで笑った。

 十九年の長きにわたり、日本で授戒を行うことのできる高僧を探し、苦労を重ねてきた普照にしてみれば、五度の失敗にもかかわらず、日本へ行こうとしてくれた鑑真を置いて日本へ帰らねばならぬことは耐えがたいに違いない。同じ志を持ち共に辛苦を耐えた栄叡は唐で客死し、鑑真和上と共に日本へと向かおうとした弟子の多くも波間に消えていった。ようやくやって来た遣唐使の船に鑑真を乗せることができたというのに、発覚を怖れた大使藤原清河が一行を降ろしてしまったのだ。

「ご存じないのはお氣の毒だが、あれだけ派手に嘆いてくれれば、清河殿は和上を密かにお連れしていることに氣付くまい。大伴様としてはありがたいのではないか」

 背の高く深緑の装束に身を固めた男は、持っていた縦長の包みを前に置いて紅榴の横に座った。絹の包みを取り去り現れたのは七弦琴だ。黒く漆塗りが施され金銀や螺鈿で装飾されている。

 翠玉と呼ばれるこの男もまた、謎に包まれている。太い眉の下に鋭い光を放つ切れ長の目を持つ剣士で、口髭の下の口元は一文字に結ばれ、長い髪は乱れ一つない。途中でこの船を襲った海賊どもを軽々と撃退したときですら、顔色一つ変えなかった。しかし、武門だけでなく風流にも通じているのか、七弦琴を嗜むらしい。紅榴は、この男と旧知の仲らしく現れた琴に驚きすらも示さなかった。

 二人が静かに演奏を繰り広げるところに現れたのは、二人の僧侶である。老いた一人は手に五絃琵琶を手にしている。

「これは海藍どの。あなたも加わっていただけますか」
翠玉は琴を少し引いて、僧の座る場所を作った。

「このような月夜に、ともにつま弾くことができるのは、願ってもないことでございます。仏のご加護ですな。ところで、こちらにおりますのは、私と同室で過ごしております常白殿です。鑑真和上と共に日本に向かわれるのです。紅榴どのの弾いておられた曲のことをお訊きしたいと仰せでしてな」

 紅榴は眉を上げて、壮年僧の顔を見た。思い詰めているのか、それとも怖ろしい思い出があるのか、わずかに震えている。

「先ほどそなたが弾いていた曲といえば……」
翠玉は、琴をつま弾いた。紅榴は、音色を絡ませながら答えた。
「……紫娘娘が我らに教えた曲だ」

「紫娘娘!」
常白の顔色は一層悪くなった。

「失礼ですが、あなた方は、どこかでその娘娘にお会いになったのですね」
その僧が震えながら訊くと、老僧海藍までがバチを手に合奏に加わった。
「その通り。そして、今そなたもな」

 船倉から誰かが簫笛を奏でながら上がってきた。淡い紫の薄物を纏った女だった。明るい月の光に照らされて、女の白い顔がくっきりと浮かび上がる。この世の者とも到底思えぬ美しさだ。

 演奏をしていた三人は、一様に手を止め、笛を吹く女に拱手礼をした。常白だけは、ガタガタと震えながらその場に立ちすくんでいた。

 女は吹き終えると緩やかに笛を放し、三人に一人一人深く抱拳揖礼をした。
「海藍上人、翠玉真人、そして、我が師、紅榴元君、お久しゅうございます」

「紫娘娘、頭をお上げください。あなたも、日本へと向かうおつもりとは存じ上げませんでした」
海藍が愉快な声で告げた。

「みなさまがこの船に乗られるのを知り、急ぎはせ参じました。お声がけいただけなかったことを、恨みに思いますわ」

 紅榴は箜篌をつま弾いた。
「そなたは泰山にて修行中と聞いた。我らが酔狂、鑑真和上の密航が発覚したときの安全弁の仕事などで邪魔するには忍びなかった」

「まあ。安全弁ですって?」
紫娘娘が大きく目を瞠る。

 翠玉が答えた。
「さよう。皇帝は、高僧鑑真を連れていくなら、道教を広めるのため道士も連れて行けと、難題を押しつけたそうだ。それで大使の清河殿は、皇帝からの正式な許可を得るのを諦めた。大伴古麻呂殿は、晁衡大人と謀り、一度降ろされた鑑真和上と弟子たちを密かにこの第二船に乗せた。それにあたり、我らは用心棒かつ役人に捕まった場合の申し開き用の道士として招聘されたというわけだ。ついでに日本の見学もできるしな」

 紫娘娘は鈴のような笑い声を上げた。
「でしたら尚更、お誘いくださらなくては。私はみなさまと違いかの蜻蛉洲あきつしま を見たことがないのでございます。加えて、この素晴らしき望月の宴に加わらせてくださらないなんて、あんまりですわ」

 そこまで言ってから、いまにも倒れんばかりに震えて立つ壮年僧を見て、艶やかに微笑んだ。
「私、紫石英と申します。どうぞお見知りおきを。……それとも」

 海を一陣の冷たい風が立った。紫娘娘の黒髪と薄絹がゆらりと泳ぎ、それに伴い牡丹の花のような芳香がただよった。
「紫葛巾と名乗った方が、よろしゅうございますか?」

 常白は、地面にひれ伏し叫んだ。
「許してくれぇ! 葛巾、許して……頼む、許してくれ……」 

 紫娘娘は、ひんやりとした眼差しを向けて立っていた。その口元にはうっすらと微笑みすら浮かべている。

 常白は、その顔を仰ぎ見る勇氣もないらしい。
「そなたを置いて逃げたのは、申し訳なかった。皇子さまに嫁ぐ予定の貴人と駆け落ちするなど、とんでもないことをしでかしてしまったと、恐ろしくてならなかったのだ」

 紅榴がおかしそうに口を開く。
「なるほど。娘娘を盗み出したあげく、破れ屋に置き去りにした日本からの進士受験生というのはこの男だったか」

 翠玉が、やはり口元だけで笑いながら琴をかき鳴らした。口を挟むつもりはないようだが、わざわざ唐までやってきた志も果たせず、見捨てた女の怒りを怖れて震える小人に呆れている様子が見て取れた。

「どうか祟らないでくれ。成仏して欲しい。……おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばら はらばりたや うん」
固く目を瞑り、真言を唱えて震えている。

 海藍上人は、笑いながら常白の肩をトントンと叩いた。
「心配せずとも良い。このお方は怨霊などではない。ここにいる紅榴どのの弟子にて我らが同志でもある。そなたごときに去られたぐらいで、命を落とすほど弱々しき女子ではない」

「ご上人、その言い様はあんまりでございます。あのとき私は悲しみと飢え苦しみで生きる望みを失っておりました。実際に通りかかった師がお救いくださらなければ、あのまま山中で朽ち果てていたはずでございます」
紫石英は、氷を吹くように告げて、ゆっくりとかつての愛しい男に近づいた。

「仏門に入ったのも、私の菩提を弔うためではありませんのでしょう」
「いや……その……」

「鑑真和上は、ご自身で費用を賄われてまで日本行きを決意しておられた」
海藍は、琵琶をかき鳴らす。

「渡航の禁を破ってまでな。……お側にいれば、日本に戻る機会に恵まれる」
紅榴が箜篌で加わり、翠玉も琴をつま弾きながら答えた。
「進士に受からず遣唐使船で大っぴらに帰国できぬ日本人には、唯一の手立てだろうな。元来望んでいなかった剃髪をしても」

 常白は、もはやきちんと立っていることもできなくて、紫娘娘から離れようとガタガタと震えながら船室の方へと這っていく。彼が退くと、彼女はゆっくりと歩みを進め、その距離はほとんど変わらない。月がゆっくりと歩むのと同じように、青白く浮かび上がった二人は移動していった。

 残った三人は、もう二人を見ることもなく和やかにそれぞれの楽器を構え、再び先ほどの曲を合奏し始めた。

 かつて二人が恋人同士であった唯一の満月に、微笑みながら共に奏でた曲が凪いだ海を渡っていく。もう一つの船で嘆く普照の泣き声と、許しを請う不実な常白のわめき声は、共に闇夜に消えていった。

 悲鳴と何かが階段を転げ落ちる大きな音がして、こちらの船の不快な声はピタリと止まった。船室の奥で、何事が起きたのかバタバタと駆け寄る音がしているが、紫娘娘は興味を失ったかのごとく身を翻し、合奏する三人の元へと戻ってきた。

 三人とも手は休めずに、女の方を見やった。紫娘娘は、ほんのわずかの微笑みを口に浮かべたが、何も言わずに簫笛を構えた。美しい音色が加わり、冴え渡る月は輝きを増したようだった。

 凪いだ地平線の彼方にわずかに黒い影が見える。鑑真和上が熱望した日本への玄関である阿児奈波は、もうさほど遠くないようだった。

(初出:2020年3月 書き下ろし)

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四人が弾いていた楽器は、正倉院に収められている楽器をもとに書いてみました。なお、現在の中国の五絃琵琶はバチを使わずに爪で弾くのですが、唐代はバチを使っていたということなので、その様に書きました。

当時の曲では全くないのですけれど、それぞれの楽器の音色を探しているうちに、この曲はどの楽器でも弾いている人が多いので、勝手に脳内イメージソングにしていました。「绿野仙踪」というのは「オズの魔法使い」って意味だそうです。同じ曲をあれこれ貼り付けても仕方ないので、ここでは笛バージョンを。

琵琶吟 又は《绿野仙踪》
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Category : scriviamo! 2020
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】青の彼方

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第九弾です。山西 左紀さんは、掌編で再びご参加くださいました。ありがとうございます!

 左紀さんの書いてくださった「青の向こう

今年二作目として書いてくださったのは「太陽風シンドローム」シリーズの新作で、「補陀落渡海」をモデルにした空想世界のお話のようです。

日本、もしくは関西では常識なのかもしれませんが、無知な私は「補陀落渡海」を知りませんでした。なんとこんな風習があったのですね。即身仏のことは知っていましたが、船で渡っていくんだ……。

さて。お返しの作品ですが、サキさんの作品を先に読んでくださることを前提に書きました。そして、サキさんの書き方、「詳しくは想像にお任せします」も踏襲しています。あ、「補陀落渡海」だと思って読むと「不可能」で終わってしまいますので、現実の地理での整合性確認(たとえば和歌山県からの出航などの限定)は、しない方がいいと思います。更にいうと、サキさんの作品の続きかどうかも、はっきりしていません。全然関係のない作品として読んでいただいてもOKです。案の定、オチもありません。


「scriviamo! 2020」について
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青の彼方
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 サゴヤシの林を抜けて海岸へたどり着くと、強烈な光で一瞬目が見えなくなったように感じる。

 アンジンは、海の彼方を眺めた。砂浜の上の白い波頭をアクセントにした透明な水が、やがて淡い緑色になり、それから濃く冷たい濃紺になり紺碧の大空と繋がる。押し寄せては消え去る波と、時おり訪れる海鳥以外は、何一つ変わらぬ光景だった。

 空に雲が現れると、やがてやってくる灰色の世界と嵐の予兆になるが、今日の所はその兆しもなかった。

 アンジンは、自分の所有するサゴヤシ十数本をゆっくりと確認した。半年前に亡くなった【おじい】から相続したこれらの木は、一人で生きていかなくてはならない彼女にとって生命線と言っても過言でなかった。

 アンジンは村の鼻つまみ者だ。若くもないし、美人でもない。身よりもなく【おじい】の身の回りの世話をする代わりに、寝食を恵んでもらって生き延びてきた。名前も「どこから来たのか得体の知れぬ犬」と誰かが毒づいたなごりでアンジンと呼ばれるが、産んでくれた母親がなんと名付けてくれたか、誰も知らない。

 サゴヤシを倒して収穫する時には、急いで参加し、根氣のいる濾過作業を買ってでては、持ち主にわずかなデンプンを分けてもらう。ゴマすりが上手だと蔑まれても、生きていくためには仕方ない。魚を捕まえて売ったり、サゴヤシ葉の繊維を織ってスカートや網を作り果物と交換してもらうこともある。

 みなし児は、この島では珍しい。いくつかの大きな集落に分かれているとはいえ、元を辿ればみな親戚のようなものだ。あちらの子はうちの従姉妹の子、隣の娘は母方の伯父と繋がりがある、そういった具合にたとえ両親が一度に亡くなったとしても、必ずどこかの家庭が引き取って身内として育ててくれる習わしだ。だがアンジンは本当にこの島に一人の身寄りも居ない存在だった。

 彼女は、両親と共に海の彼方から舟に乗ってたどり着いたそうだ。どこから来たのか知るものはない。両親はそれを語ることのないままこの世を去っており、赤ん坊の彼女だけが残されていた。だから、もちろん彼女も自分がどこから来たのか、両親がどのような言葉を話していたかも知らない。村で一番の偏屈者で嫌われていた【おじい】が引き取ってくれなかったらそのまま死んでいたはずだ。

 ケチで見栄っ張りな嫌われ者が、みなし児を引き取ることに、何か裏があるだろうと皆が陰口をきいた。おそらく赤ん坊を包んでいる珍しい布が欲しいのだろうと。この島では布を作ることはできないが、近隣の島との交易を通して裕福な家庭は布を所有し、主に壁に掛けていた。様々な色や柄があったが、黄色い布だけは手に入らないと言われていた。アンジンは、その黄色い布に包まれて発見されたのだ。

 【おじい】は、まったく親切なところはなく、彼女を徹底的にこき使った。少なくとも立って歩けるようになるまで、村の女たちにお前の世話をさせたのだからありがたいと思え、いつもそんな言い方をした。【おじい】が亡くなった時、アンジンがそれを悲しいと思うことはなかった。村の女たちは、淡々と小屋を片付けるアンジンを見て「恩知らず」と聞こえるように噂をした。

 そうは見えなくとも、本当のところ、アンジンはひどく不安だった。【おじい】の後継者としてサゴヤシや小屋を相続できなければ、今後どうやって生きていけばいいか皆目わからなかったからだ。幸い集落には【おじい】と近い親族は一人もおらず、かなり離れた集落に遠い親戚がいるだけだった。【おじい】のサゴヤシは大して多くない上にその親戚のサゴヤシ林からあまりにも離れていたため、彼らはアンジンが相続人となることに異を唱えなかった。

 この島では、他の人たちと同じやり方を踏襲する他に生きる手立てがない。サゴヤシを倒し、デンプンを漉し、果物を集め、魚を獲り、家の屋根を葺くことから、サゴヤシのスカートや釣り針を作ることまで全て集落のやり方に沿って行う。ルールに反して追放されれば、飢え死にするだけだ。

 アンジンの両親たちは、そんな世界とはかけ離れた世界から来たのだろう。浜辺に打ち上げられていた舟も、アンジンが包まれていた黄色い布も、この島で作ることはできない材質で作られていたという。

 彼女は、なぜ両親は美しい布を買うことのできるけっこうな生活を捨てて、こんな何もない島へと向かったのだろうと考えた。もし、その故郷に行くことができたら、そして、そこで大金持ちの跡継ぎとして迎えられたら、どんな幸せな人生を送れることだろうと、両親の決定を恨めしく考えたりもした。

 砂浜をカニがにじっていた。アンジンは駆け寄ると手にしていた木の棒で殴りつけた。砂浜にめり込んだため、カニは一度は難を逃れたが、アンジンは容赦なく何度も叩きつけ、ようやく獲物を掴まえた。殻が割れて中身の飛び出しかけた小さな赤黒いそれを背負った小さな籠に放り込むと、他に似たような獲物がいないか、用心深く見回した。

 波打ち際に何か太陽光を反射するものが見える。魚かもしれない。彼女は、急いで駆け寄った。

 それは魚ではなかった。けれど、アンジンにとってはもっと心惹かれるものだ。朱色の木棒。自然の木ではなく、艶やかに何かで色を塗ってある。似たような木の破片を【おじい】が持っていた。アンジンの両親が乗っていた舟の一部だったそうだ。

 アンジンたちが流れ着いてから三十年近くもここにあったはずはない。彼女は心臓が大きく高鳴るのを感じた。

 見回すと海岸のずっと東、岩場しかない湾に茶色い小舟が見えた。アンジンが手にしているのと同じ朱色の木の柱で飾られた内側に大きな男の背丈ほどの長さをした小さな木製船室がある。

 岩場にたどり着き、よく見ると、船室の入り口は乱暴な様で壊されていた。慎重に近づき、全く物音がしないのを確認してから、舟の下手まで歩いた。岩場に嵌まっているので動かないが、どこかに固定されている様子はなかった。またのぞき込み誰もいないのもわかった。

 舟の中には白っぽい薄く平たいものが何枚も散乱していた。そこには黒く文様が書き込まれている。果物の皮や動物の肉を干したものの残骸が散乱して腐敗しだしている。そのためか、ひどく嫌な臭いがしていた。

 けれど、そんなことよりも、アンジンにとって心惹かれるものが目に付いた。鮮やかな黄色い布だ。

 彼女は、急いで舟の中に入り込み、黄色い布を掴んだ。この舟がどこから来たのかはわからないが、自分のルーツと関係あるのだろうと思ったのだ。

 布を拾い上げてギョッとした。その布の床に触れていた部分の大半が赤黒く染まっていた。血だ。よく見ると、木の壁や天井も含めて、周り中に似たような赤黒いシミが見られた。打ち破られた出入り口といい、この舟の中では、ごく普通の乗り降りだけではない何かが起こったらしい。

 アンジンは、急いで舟から出ようとした。その性急な動きで船倉が傾き、ギィィと大きな音がした。波が打ち寄せ、舟は岩場から離れて海に浮いた。四つん這いになったアンジンは、無様に這いながら壊れた戸口を目指した。

 舟は、引き返す潮に乗せられて、静かに陸から離れていく。アンジンは声にならない悲鳴を上げながら陸の方を見た。

 見ると岩場に誰かが座っている。布でできた服を全身に纏い、頭に黄色い布を巻き付けている小柄な人物だ。男か女かもわからない。アンジンは助けを求めて必死で手元の黄色い布を振った。

 岩場に座っていた人物はそれに氣が付いた様子はなかった。ただじっと遠く水平線を見やっていた。遙か北の青く冷たい海の彼方を見つめて微動だにしなかった。


(初出:2020年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Fiore di neve

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第八弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の登場人物と私のところのキャラクターとのコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 TOM−Fさんの書いてくださった『惜春の天花 《scriviamo! 2020》』

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在連載中のフィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』では、難しい物理学の世界で真実を探るジャーナリストの奮闘を描いていらっしゃいます。

「scriviamo!」には皆勤してくださり、毎回趣向を凝らした名作でご参加くださっています。そして、毎回難しいんだ……。さて今回も名曲にちなんだ作品で、「なごり雪」をテーマにして書いてくださいました。(諸般の事情で、原曲が簡単に連想されないように改稿なさっています)で、私も雪にちなんだ名曲がいいかな……ということで中島美嘉の『雪の華』を選んでみました。ただし、もう一ひねり。イタリア語のカバー曲をモチーフにしたんですよ。

現実の北イタリアでは、現在こんなことはできないのですけれど、こちらは2020年の春ではないということで、ご理解くださいませ。


【参考】
世界が僕たちに不都合ならば
きみの笑顔がみたいから
その色鮮やかなひと口を -3 - 

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Fiore di neve
——Special thanks to Tom-F-san


 ふんわりと、よく見えないほど微かな白い粒が、ガラス窓の向こうに舞った。
「あ……」

 向かいに座るロメオも窓の外を見やる。湖の半ばに浮かぶサン・ジューリオ島が淡く霞んでいく。
「降り出したね」

 予報では昨夜から降るはずだったが、外れたと思っていた。二人とも傘は持っていないが、このくらいの雪ならホテルまで帰るのに問題はないだろう。

 夏には各地からの観光客で賑わうオルタ湖畔にも、この季節にはほとんど外国人の姿は見られない。珠理とロメオは、ミラノの喧噪から逃げだして穏やかな週末を過ごしていた。

 なごり雪……。珠理は、それに類するイタリア語はあったかしらと考えた。

 小さなカフェテリアで、二人はホットチョコレートの湯氣を挟んで座っていた。チョコレートをまるごと溶かしたような濃厚な飲み物を初めて見たとき、珠理は飲み終えられるのか不安になったが、いつの間にか冬になくてはならない風物詩になった。この飲み物もそろそろ季節はずれになる。

 店内には有線放送がかかっていて、一つの歌が終わったところだった。続けて流れてきたのは聞き覚えのある曲だ。イタリアンポップスでありながら、日本を思い出させる曲でもある。

 曲名は『Fiore di neve』。歌っているのはSonohraというグループ名の兄弟だが、中島美嘉の『雪の華』のカバーなのだ。

 ウインドウの向こうに舞っている雪片に合わせてかけたのではないだろうが、三月も半ば過ぎに雪の舞を眺めながらこれを聴くのは不思議な心地がする。

僕の腕の中で、君は花、雪の華のようだった

(Sonohra『Fiore di neve』より)



 おなじ「雪の華」について歌っていても、原曲と違ってこの歌は終わってしまった過去の愛について語りかける。

 イタリア語の言葉の選び方は日本語のそれとは違う。愛するという感情、言葉にするまでに胸の中で反芻する想いも、もしかしたら珠理の慣れているやり方とは違うのかもしれない。

僕らは魂の両輪、鷲の両翼、雪の涙だった。僕らは海の稲妻、二粒のアフリカの真珠、二滴の琥珀だった。僕らは剣のように四本の腕を絡ませた太陽の下に立つ木だった……

(Sonohra『Fiore di neve』より)



 少なくともロメオは、もう少し珠理にとって心地のいい、すなわち、もう少し日常生活に近い言葉を使う人だ。そのことを珠理は強く感じた。

 珠理は、ミラノに住んでいる。ロッコ・ソヴィーノ照明事務所でデザイナーとして働き始めて五年が経っていた。その前にいたドイツでも、そして、ソヴィーノの下で働き始めてからも、決して順調にキャリアを積んだとは言えなかったけれど、なんとかこの地に根を下ろし始めていると感じている。

 そう思えるようになったのは、ロメオがいてくれたからだ。イタリア人男性のイメージからはかけ離れている無口な彼だが、とても細やかに敬意をもって彼女を愛してくれる。珠理はかつて恋人だったオットーの、言動の一致しない不実な態度に傷つき恋愛関係を築くことに絶望していた。その彼女を職業的なコンプレックスも含めてすくい上げてくれたのは、ロメオの口数は少なくとも誠実で芯の通った愛し方だった。

 オットーがしょっちゅう投げてよこした愛の言葉は、ティッシュペーパーを丸めたように身がないものだった。だから、珠理は愛情表現と愛情は比例しないし、たとえ自分の中に確かな想いがあってもそれを表現することが必要だと思えなかった。

 けれど、口数が少ないのと、何も伝えないのは違う。珠理は、ロメオからそれを習った。

 夢破れてイタリアを去った珠理を、ロメオは日本まで追いかけてきてくれた。控えめで無口な彼が、行動だけで伝えてくれた大きなメッセージ。それは、何億もの言葉に勝った。一緒に朝食をとるだけの仲だった二人が、人生のパートナーという別の次元へ移るきっかけとなった出来事だ。

 彼は、それからも空虚な言葉を並べるようなことは決してしなかったけれど、静かに、でも確実に、珠理を大切に思っていることを表現した。言葉ではなくて態度で示すことの方が多かったけれど、その一つ一つが珠理にとっては、命の宿った本当の花のようだった。朝露の中で輝く薔薇のように。それとも真冬に艶やかに花開く椿のように。初夏の訪れに身を震わす花水木のように。

 口にしなければ、身をもって示さなければ、決して伝わらない想いを珠理は少しずつ表現するようになった。それは、彼女がこだわり続けてきた色の重なり、ほんのわずかの違いで表現する色の競演にとても似ていた。絵の具で色を重ねれば、濃くなりやがて黒くなってしまう。けれども、光は重ねれば重ねるほどに明るくなり、やがて白く昇華されていく。この雪片のように。お互いに重ねた愛情が、優しく明るさを増し、やがて純白になるのだ。その考え方は、珠理をとても幸福にした。

 はじめて『Fiore di neve』を聴いて違和感を感じたのは、甘い言葉にむしろ傷つけられていた時期だったからだ。だから彼女は歌詞を素直に受け入れることができなかった。舞台の台詞のように、心とは裏腹の演じられた文言に感じられたのだ。

 けれども、いま耳にする同じ歌をあの頃よりもずっと心地よく感じるのは、寡黙で温かいロメオから贈られた愛情のお陰だ。一つ一つの小さな愛の光線が重なり白く輝いていることを確信できるようになって、珠理は慣れなかった言葉の花束に、素直に耳を傾けられるようになったのだ。

 その一方で、原曲に歌われている素朴な幸福は、向かい合う二人の間にあるホットチョコレートの湯氣のようだ。掴むことは難しいけれど、そこに確実に存在している。温かく懐かしい。こうして眺める雪片は、なんと美しく優しいものなんだろう。

 舞う優しい雪片を眺めながら、何か大切なことを忘れているように思った。この温もりの向こうに、ガラスで隔てられた寒空に何かを置き忘れている。嗚咽を堪えているような、喉に何かが引っかかっているような感覚がする。それはとても遠くて、何がそんな感覚を引き起こすのか、珠理はどうしても思い出せなかった。

「雪に、インスピレーションを刺激された?」
その声に前を見ると、ロメオが優しく笑っていた。それで珠理は、またやってしまったのかと思った。何かを考えていると、つい他のことを忘れてしまうのだ。

「ごめんなさい。この曲や、色の重なりのことを考えていたの」
ロメオは頷いた。

 雪が少し小降りになったので、二人はホテルに戻ることにした。カフェテリアを出る時に、彼がガラス戸を引いて珠理を通してくれながら話を続けた。
「考えていたのは、前に話してくれた、千年前の服のルールのこと?」

 それを聴いて、珠理は驚いた。いつだったか平安時代の襲のことをロメオに説明したのだが、それを憶えていてくれたとは夢にも思わなかった。
「ロメオ、すごいわ。襲の話は、一度しかしなかったわよね」

「うん。でも、君が図鑑で見せてくれたその色の組み合わせ、とても印象に残っているんだ。自然の言葉との組み合わせや、僕たちの慣れている色使いと違う感覚に、君の色使いの原点を見たように感じたから」

 そういえば。珠理は脱いでいるコートを見た。ほとんど白に近い薄ベージュに純白の雪の結晶がふんわりと舞い落ちる。
「これは……『雪の襲』だわ」

 ロメオは首を傾げた。
「うん。雪だね……?」

「ごめんなさい。わかりにくいわよね。白と白を重ねる組み合わせのことを『雪の襲』または『氷の襲』って言うの。平安時代に書かれた長編小説『源氏物語』の中で、我が子の将来を思って別れることになった母親が、悲しみの中でこの組み合わせの衣装を纏っていた印象的なシーンもあるのよ」

「白と白の組み合わせ?」
ロメオは少し驚いたようだった。彼の感覚ではそれは「色の組み合わせ」とは言わないのだろう。単なる同色だから。白だけを纏うのは、イタリア人の彼にとってはおそらくローマ教皇の装いだ。冬や高潔さを伴う母の悲しみとは無縁だろう。親しんできた文化の違いは時に違う感覚を生み出す。

 珠理は、その時ようやく思い出した。色の襲について、こんな風に隣で話を聞いてくれた故郷の青年のことを。あれもまた春、この季節だった。呼び戻せずにもどかしい思いをした記憶が、屏風が開いていくように、鮮やかに珠理の前に現れた。

「雨宮くん……。『紅梅匂』の襲……。雪降る駅……」
何かを告げたがっていた青年の瞳が蘇る。ドイツへの移住を相談したときの彼の答え。いつも優しかった友人が、不意に見せた苛立ち。あれは……なんだったのだろう。

「わからないよ、僕には。どうして、ここではだめなのか。言葉も生活も、なにもかも違うのに、どうしてそんな遠い国に行くのか……」
彼の言葉が心に鮮やかに蘇る。

 珠理は、その青年との思い出をロメオに説明した。
「そんなことを軽々しく相談されても、困らせるだけよね。申し訳のないことをしたわ」

 ロメオは微かに笑って首を振った。
「違うと思うよ、それは」
「違うって?」
「彼は、ただ君に遠くへ行って欲しくなかったんだ、きっと。あの時の僕と同じに」

 珠理は驚いて彼を見た。雨宮君が? そんなこと、あるだろうか。大学の研究室でいつも一緒にいたのに、彼はそんな素振りを全く見せなかった。

 それから、彼の瞳の光を思い出した。珠理が自然の魅せる色の妙に我を忘れてしまった時、彼はいつも珠理を待ってくれていた。我に返り横を見ると、彼は珠理を見ていた。瞳に光を宿して。

 瞳は心を映す窓だ。……それをのぞき込む用意のある者には。あの日、珠理は彼の語らなかった言葉を読み取ることができなかった。今、ロメオの瞳を見つめて彼の想いを理解し、彼の温かい掌に彼女のそれを重ねられるようには。

 彼は、あれからどんな時間を過ごしたのだろうか。彼の心の言葉に応えることのできる誰かと出会い、幸せになったであろうか。そうであって欲しいと、心から願った。

 オルタ・サンジュリオ街の石畳に雪片が舞降り、静かに消えていく。積もることなく、冬は去っていくようだった。

(初出:2020年3月 書き下ろし)

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Fiore di neve - Sonohra


雪の華 - 中島美嘉
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Posted by 八少女 夕

【小説】露草の雨宿り

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第七弾です。limeさんは、素敵な掌編小説で参加してくださいました。ありがとうございます!

 limeさんの書いてくださった『どうってことない雨になれ』

limeさんは、繊細で哀しくも美しい描写の作品を書かれるブロガーさんです。小説においてはコンテストの常連受賞者であるだけでなく、イラストもとても上手で羨ましい限りです。現在は文章教室で本格的に勉強なさっていらっしゃるので、ブログでの作品発表は抑えていらっしゃいますが、投稿サイトのエブリスタでは代わらずにご活躍中です。

今回は、「傘」をテーマにしてお書きになった作品でご参加くださったので、私も「傘」と「つらい日常の(実際の解決はしていないけれど)心の方向転換」をテーマにごく短い話を書いてみました。はじめから謝っておきますが、とくに事件が起こるわけでも、素敵なオチがあるわけでもありません。


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露草の雨宿り
——Special thanks to lime-san


 ああ、この季節は憂鬱。雫は灰色の空を見上げた。大人になったら梅雨のない国に移住したい。ハワイはどうかな。いつも青空じゃないかしら。もちろん本氣で移住できるなんて思っていない。一介の高校生には遠すぎる夢だから。

 マッハスピードで掃除を終わらせ、急いで帰路についた。この様子だといつ降り出すかわからない。折りたたみ傘を持ってこなかったことを悔やんだ。

 家に帰るのが嬉しいわけではない。母親はいつも苛々している。主に同居している祖母、つまり彼女にとっては姑との不仲が原因だが、雫があまりできのいい娘でないことも彼女の不機嫌の焰に油を注いでいる。母は、いつも帰りが遅く休みの日も家にいない事が多い父親とも上手くいっていなくて口論ばかり、かといって父親や祖母が雫の味方になってくれるわけでもない。

 成績が低空飛行ゆえに、クラブ活動や課外活動をしたいと言い出すこともできず、たとえ許してもらえたとしても友だちがいないので、何に参加していいのかわからない。だから雫は帰宅部だ。授業が終われば、一人で帰る。部屋に籠もり、勉強をするか、図書館で借りた本を読む。今日の空のように灰色の日々ばかりで、これからもそんな日が続くようだ。

 英語の成績もろくでもない。でも、いつだったかテレビで見たような海外の生活を夢見てしまう。広い家。可愛いインテリアの個室。家族揃って、冗談を言いながらの食事。きれいな私服。沢山の友だちや優しいボーイフレンド。……転生でもしない限り叶いそうもない。

 下駄箱の所に、同じクラスの岡崎莉子と橋口エリカがしゃべりながら立っていた。
「先週発売されたミックスベリーフラペチーノ、ヤバくない?」
「うん。お小遣い、もらったし行ける。寄ってこ。あ、ルリも行こうよ!」
二人は、通りかかった別のクラスメートも誘った。

 靴を替えている雫を見て、三人は押し黙った。雫は、下唇を噛んで上履きを下駄箱に押し込むと、三人に挨拶もせずに立ち去った。

 クスクスと笑う三人の声が背中に刺さる。雫のことを笑っているのかどうかは定かではない。もしかしたら、被害妄想なのかもしれない。

 莉子たちはクラスの中心的存在だ。きれいに巻いた髪、上手なメイク、可愛いキャラ弁、最新流行の文房具やバッグ、スマホはいつも最新機種。どれも雫には無縁なあれこれを揃えている。

 クラスカーストの最上位にいるのが莉子たちなのか、それとも、来年は特進クラス間違いなしといわれている斉藤君をはじめとする優等生たちなのかは、微妙なところだ。でも、勉強も体育も可愛さもお小遣いの額も全てにおいてイマイチな雫が最下位に近いところにいるのは間違いない。

 なぜお父さんとお母さんは、せめて陽奈とか、夏海とか、そういう可愛くて明るい名前にしてくれなかったのかなあ。六月生まれだからって、雫なんて地味で湿っぽい。

 わかっている。莉子たちが微妙な顔をするのは、名前が地味なせいではない。お小遣いが少なくておしゃれなカフェに行けないせいでもない。そもそも彼女たちに誘われたこともない。上手く会話に加われない。さりげなくグループに入っていけない。でも、一人でいることが嬉しいわけでもない。

 あ、降り出した。雫は仕方なく走り出した。普段の通学路はやめて商店街へ向かう。アーケードの下は濡れずに済むから。

 水たまりを踏み込んでしまった。靴下に染みこむ惨めさ。母親の小言がもう聞こえ、こめかみの辺りがキリキリする。帰りたくない。

 買うつもりもないのに、果物屋や煎餅屋の前を行ったり来たりした。アーケードの天井を打つ雨音が大きくなる。

 後ろから聞き慣れた少女たちの声が響いてきた。莉子たちだ。そうか。なんとかフラペチーノって言っていたから、やはりここにくるのよね。家にも帰りたくなかったが、また彼女たちに笑われるのもごめんだった。駅に一番近い出口に向かうのを諦めて、その一つ手前の角を曲がる。

 一度も行ったことのないその一画には、日本茶を売っている店や、呉服屋、布団屋、金物屋などがあった。今どきのおしゃれとはほど遠い店の連続だから、クラスメイトは絶対に足を踏み入れない。

 莉子たちに氣付かれる前に……そう思って急いだせいかもしれない。出会い頭に店から出てきた誰かとぶつかってしまった。

「きゃっ」
「これは失礼」

 着物だ。最初にそう思った。ぶつかった男性は、藍色の和装だった。お父さんよりは若いけれど、お兄さんと呼ぶには失礼な感じだ。

「怪我はなかったかい?」
「いえ、まったく。よそ見していて、ごめんなさい」

 雫と同じくアーケードの出口に向かっているらしく、並んで歩くこととなった。出口が見えてきて、雫はため息をついた。ずいぶんと降っている。走ってもずぶ濡れになるだろう。

 男性は、雫の様子を見て傘がないことに氣付いたのだろう、紺の傘を広げて差し掛けてくれた。
「駅までかな? よかったらどうぞ」

 それは洋傘ではなかった。
「蛇の目傘!」

 思わず口走った雫に、彼は笑って答えた。
「いや、蛇の目ではないんだ」
「違うんですか?」
「蛇の目と同じ和傘だけれど、番傘というんだ」

「どこが違うんですか?」
「こちらは柄が竹でできている。蛇の目傘は、木の柄で持ち手に籐が巻いてある。それに……」
彼は、内側の骨の部分を指さした。
「蛇の目傘はこの部分に装飾が施してある。番傘はこのようにシンプルな作りなんだ」

 雫は傘をのぞき込んだ。普段使っている洋傘と較べるとずいぶん沢山の骨に支えられている。和傘を近くで見たのは初めてだった。
「これ、もしかして紙ですか?」
「そうだよ。和紙に油を染みこませて水をはじくようにしてあるんだ」
「きれいなブルー……。広げると淡い色になるんですね」
「草木染めでね、露草色っていうんだ。和紙なので光が透けて明るい色合いになるんだよ」

 雫は、駅までの数分間、ずっと傘を見上げていた。駅に着いたと氣がついたのは、男性が傘を閉じたからだ。

「ありがとうございました」
お礼を言った。男性は穏やかに笑った。
「どういたしまして」

 駅の階段を上がる様子がないので、ここに来る予定はなかったのに送ってくれたのかと思い至った。
「あの……すみませんでした」
「そこに用があったから、氣にしないでくれ」
駅前の和菓子屋を指さしている。もう一度頭を下げてから階段を上がった。改札に向かう前に、和菓子屋を見ると、傘立てに露草色の番傘を挿し、彼は店内に入っていくところだった。

 雫は、彼の職業を想像した。呉服屋さん、茶道や華道の師匠、和菓子屋の関係者、能楽師か日本舞踊の先生、それとも和傘屋さん?

 ほんの数分間、同じ傘の下にいただけだが、全く知らない世界にい迷い込んだようだ。ずっと憧れていた外国とは全く違うけれど、それよりももっと知らない世界だった。あそこは学校と駅の間、いつもどこか知らないところに行きたいと願いながら歩いていたところと十数メートルしか離れていないのに。

 電車の窓から眺めるいつもの光景に光が射してきた。雨は上がったのだ。雲間から柔らかい光が射してくる。

 雫は、次のにあの商店街に行ってたら、またあの一画へ行きあの人を探してみようと思った。番傘のことや、他のよく知らない日本文化のことを教えてもらおうと。

(初出:2020年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】合同デート

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第六弾です。ダメ子さんは、毎年恒例のバレンタインの話で参加してくださいました。ありがとうございます!

ダメ子さんの『お返し』

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化しているこのシリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。一年に二十四時間しか進まないのに、展開は早いこのシリーズ、今回はなんとお返しデート! モテくん、さすがモテる男は行動早っ。でも、デートにはモテくん来ないらしいので、相変わらずのメンバー……。


【参考】
私が書いた「今年こそは~バレンタイン大作戦」
ダメ子さんの描いてくださった「チョコレート」
ダメ子さんの描いてくださった「バレンタイン翌日」
私が書いた「恋のゆくえは大混戦」
ダメ子さんの「四角関係」
私が書いた「悩めるつーちゃん」

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合同デート - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 日曜の朝、私は決心した。なんとしてでもアーちゃんとチャラ先輩を二人っきりにする! そもそも、この大混戦になったのは、アーちゃんとチャラ先輩が二人っきりでちゃんと話をしていないからだ。いくら重度のあがり症とはいえ、休みの日に数時間二人っきりになったら、あの子だって、自分の想いを伝えられるだろう。

 事の起こりはバレンタインデーだ。中学の頃から憧れているバスケットボール部のチャラ先輩に、アーちゃんはようやく手作りチョコを手渡した……っていうのかな。まあ、手渡したのは事実。ところが、あがり症でちゃんと告白できなかったアーちゃんの不手際が誤解を生み、チャラ先輩はそれをモテ先輩へのチョコだと思って渡してしまったらしい。

 しかも、翌日に、改めて告白しようとしたアーちゃんに、先輩は「好きな人が誰かなんていわなくていいから」と言って去ってしまったそうな。「これってお断りってことだよね」とメソメソするアーちゃんに「誤解だと思う」とは伝えたものの、実際のところ私にもどっちなのかわからない。

 私はこの恋はお蔵入りかなともう半分諦めていたのだけれど、なんとあのモテ先輩が手作りチョコのお礼で五人で遊びに行くことを提案してくれたらしい。モテる人って、ここまでマメなのか。私にはそういう世界はわからない。まあ、でも、次の作品の参考にさせてもらおう。

 いや、私の萌えの話は、ここではどうでもいい。アーちゃんとチャラ先輩を二人っきりにする大作戦のほうが大事。

 幸いそつのなさそうなモテ先輩だけでなく、ムツリ先輩もかなり察しがよさそうなので、私が上手に誘導したら、その場から上手に消えてくれるに違いない。そして、その後、私は上手にアーちゃんたちの後をつけて、必要ならアシストする。

 私は、ワードローブを覗いた。うーん、何を着ようかな。適度に消えるとはいえ、しばらくはチャラ先輩の前にもいるわけだから、とにかくアーちゃんよりも目立つ服はダメだよね。もっさり系の服なんて、あるかな。

 あったけど、このパーカー付き部屋着はダメだよね。「ベニスに死す」展でつい買っちゃったヤツだけど、ビョルン・アンドレセンの顔写真プリントされているのって、やっぱり外には着ていけない。チャラ先輩はともかく、ムツリ先輩に軽蔑されそうだし。あ、ムツリ先輩に氣に入られたいとか、そういうんじゃない。ほら、その、私服が変な子とか噂になりたくないし。

 アーちゃん、かわいい系でいくだろうから、かわいくない感じの服にすればいいか。女捨てている感じだとこれかな、革ジャンとジーンズ。あ、この間買ったブーツ合わせちゃお。

 待ち合わせした駅前に行くと、アーちゃんはまだ来ていなかった。きっとギリギリまで何を着ていくかで迷っているんだろうな。あ。ムツリ先輩、いた。

 先輩は、私の服装をみて少し驚いたようだった。どうでもいいでしょう。私はどうせ付き添いだし。
「こんにちは。お誘いくださり、ありがとうございました。えーと、チャラ先輩とモテ先輩は……」

 そう言うと、ムツリ先輩は頭をかいた。
「チャラはトイレ行っている。モテは来ない。チャラには言っていないんだけど、始めから言われてた。その方がいいだろうからって」

 へえ。モテ先輩、よくわかっているんじゃない。って、ちょっと待って、ってことは、これはアーちゃんとチャラ先輩を二人きりにする絶好のチャンスなのでは? 私は、ムツリ先輩に近づいて宣言した。
「じゃあ、私たちもトンズラしましょう!」
「えっ?!」

 あ、いや、ムツリ先輩と二人でどっかに行こうって意味ではなくて!
「このまま、私たちが姿を現さなければ、あの二人のデートになるんですよ。そうなったら、さすがのアーちゃんでも、誤解を解けるかと! 私たちは、こっそり後をつけてアシストするんです」

「あー、そういうこと」
ムツリ先輩は、氣のない返事をした。名案だと思ったんだけれどなあ。

「わかった、じゃあ、隠れるか。って言っても、どこに」
ムツリ先輩と見回す。
「あ、あの駅ビルに大きい窓が。あそこから様子を見ましょう」

 私たちは、急いでその場を離れ、広場に面した駅ビルの中に入っていった。
「ところで、今日って、どこに行く予定なんですか?」

 ムツリ先輩は首を傾げた。
「チャラに任せたから知らないんだよな」
えー、チケットとか買ってあったりして。

 駅前広場を見下ろすウィンドウについて改札の方をみると、出てくるチャラ先輩が見えた。辺りを見回している。そして、私が予想したとおり、アーちゃんはこのビルの横の歩道橋を渡って現れた。おお、ピンクのワンピース。私には絶対に着られない甘い服。よく頑張った!

 しかし、二人きりで慌てているのか、ものすごく挙動不審だ。普段の私が集合五分前には必ず行くので、まさかいないとは予想もしていなかったに違いない。チャラ先輩は、スマホを手に取って操作している。

「あ。チャラからだ」
見ると、ムツリ先輩がスマホを見ている。

「今どこ、だって」
「私が遅れているので、拾って行くから先に行って欲しい、どこに行くか知らせろって返事してください」
「君、策士だね」

 ムツリ先輩は、メッセージを書き込む。すかさず電話がかかってきた。
「よう。俺? ええと、俺もトイレ行こうと思って。うん、つーちゃんからメール来た……いや、バックレないよ、行く行く。うん、アーちゃんにも言っておいてって。……わかった。じゃ、後で」

 改札前のチャラ先輩がアーちゃんに説明している。彼女はますます挙動不審の慌てぶりだ。何やってんのよ、せっかくチャンス作ってあげているのに。

「えーと。このビルの五階、サンジャン・カフェで待っているって」
ムツリ先輩が言った。
「ええっ。そんな普段っぽいチェーン店? どういうチョイスなんですか?!」
「っていうか、最上階の映画館にいこうとしているらしい。でも、俺たちが来るまで待つらしい」

 むむ。そういうことか。いずれにせよ、私が遅れている設定なので、見つからないようにどこかで時間を潰す必要があるわね。

 ムツリ先輩と私は、二人と鉢合わせしないように急いで階段を昇り六階に向かった。そこはフロアの半分がゲームセンターになっている。その奥にある催事場でしばらく時間を潰そうと横切っていった。

 ふと振り返ると、ムツリ先輩がプリクラゾーンのど真ん中で突っ立っている。ちょっと待って。まさかプリクラ撮りたいわけでもないでしょうに、なぜそんなところに引っかかるのよ。少し戻ると先輩はプリクラ機を見ているのではなく、その奥の誰もいないようなくらいゾーンを見ていた。

 のぞき込むと、どうやら格闘ゲームのコーナーらしい。ゲームセンターは友だちとワイワイ行くところなので、プリクラとか音ゲーとかは行くけれど、格ゲーはやったこともない。
「なんですか?」

「いや、今聞こえた音楽……」
そう言いながら、そちらに吸い寄せられていく先輩を追った。他の場所と較べて明らかに閑散としているコーナーの一番奥に、先輩のお目当てはあったらしい。

「げ、本当に『時空の忠臣蔵』だ……」
「なんですか、それ」
「え。ああ、四年くらい前にあちこちのゲーセンにあったんだけれど、マイナーですぐに入れ替えられちゃった格ゲーなんだ。ここにまだあったのか」

「えーと。好きだったんですか?」
「ああ、うん。出てくる敵とか設定にツッコミどころが多くて、やっていても飽きなかったというか……」

 へえ。どうツッコミどころが?
「ちょっと、やってみてくださいよ」
「え、いいの? じゃあ、ちょっとだけ」

 オープニングが流れ、元禄15年12月14日つまり討ち入りの当日、仲間とはぐれている早野勘平が吉良上野介の屋敷に急ぐことが告げられる。ところが、次から次へと邪魔が入ってなかなか屋敷まで進めないという設定らしい。

「ほら出た」
すぐに出てきた敵キャラ。でも、それはイノシシ。えー、人じゃないの?

「この辺はまだまともなんだよ。『仮名手本忠臣蔵』では勘平は猟師として暮らしていて、イノシシを撃とうとするエピソードもあるんだ」
へえ。先輩、詳しい。すごくない?

 その次に出てきた敵キャラは「義父を殺して金を奪った斧定九郎」というテロップが出た。先輩は慣れた様子でそのキャラも倒した。
「設定がおかしくなるのはこの後から」

 次のキャラは、打って変わり立派なお殿様っぽい服装だ。「何をしている」と言って出てきたけれど、名前を見ると浅野内匠頭って、えーっ、ご主人様じゃん。なのに戦うの? っていうか、この人が松の廊下事件を起こしたあげく切腹したから討ち入りに行くことになったんじゃなかったっけ? 

「よっしゃ。次」
ちゃっちゃと主君を倒した勘平は角を曲がる。次に出てきた腰元女キャラ。え。お軽って……それは恋人じゃ……。

 その後、将軍綱吉の愛犬や新井白石、桂昌院など変な敵と戦った後、なぜか将軍綱吉まで倒して先を急いで行く。なんなのこれ。

 そして、次の敵は、まさかの堀部安兵衛。ちょっと仲間と戦うってどうなのよ。ムツリ先輩は慣れた様子で堀部安兵衛との戦いを始める。えー、やるの?

「もう、つーちゃんったら!」
その声にギョッとして振り向くと、後ろにアーちゃんとチャラ先輩が立っていた。

 げっ。なんで? ムツリ先輩も予想外の事態に呆然として動きが止まった。その隙に、堀部安兵衛はあっさりと早野勘平を倒し、エンディングテーマが流れる。
「命を落とした早野勘平は、討ち入りに参加することは叶わなかった……」

 チャラ先輩はニヤニヤ笑っているが、アーちゃんは激怒に近い。
「もしかしたらここじゃないかって、先輩が言っていたけれど、私はそんなはずはないって思っていたのに!」
えーっと、謎の格ゲーに夢中になっていたら、けっこうな時間が過ぎていたらしい。

「あ、いや、ついてすぐにサンジャン・カフェに行こうと思ったんだけど……」
「じゃあ、なぜカフェより上の階にいるのよ! もう」
アーちゃんのいつものあがり症は、怒りでどこかへ行ってしまったらしい。

 チャラ先輩は、ムツリ先輩に近づくと言った。
「映画、始まっちゃったよ。次の回は夕方だけどどうする?」
「う。申し訳ない」

 私はアーちゃんに小声で訊いた。
「で。先輩と沢山お話できたの?」
誤解は解けてちゃんと告白できたんだろうか? 仲良く二人でここにいるって事は、そうだと願いたい。

「いっぱいしたけど、主につーちゃんたちが今どこにいるかって話よっ!」
ありゃりゃ、だめじゃない。策略、大失敗。

 結局、映画は次回にしようということになり、そのままゲームセンターで遊ぶことになった。氣を遣う私は、アーちゃんとチャラ先輩がプリクラで一緒に収まるように誘導する。まず男同士、女同士でさりげなく撮り、先輩方が微妙な顔をしているところに提案をした。
「私は、ムツリ先輩と撮りますから、先輩はアーちゃんと撮ってくださいね」 

 もとのあがり症に戻ってしまったので、喜んでいるのかはいまいちわからないけれど、とにかくあのプリクラはアーちゃんの宝物になるだろう。

 問題は私の方。ムツリ先輩とのプリクラ、どうしたらいいのかしら。無碍にしたら失礼だからちゃんと持って帰るけど、捨てるのもなんだし……でも、これずっととっておくのかしら、私。先輩はどうするんだろう。うーん、もっと可愛い服着ておけばよかったかな……。


(初出:2020年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】休まない相撲取り

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第五弾です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!

もぐらさんの朗読してくださった作品「相撲取りと貧乏神

もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。お一人、もしくはお二人で作品を朗読なさり、当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。いつもとても長くて本当にご迷惑をおかけしています。

今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品です。貧乏神のシリーズとはいえ、毎年、とてもハートフルなエンディングでお正月にふさわしい素敵な作品ばかりです。どうぞあちらで聴いてみてくださいね。

お返しですが、去年までは平安時代の「樋水龍神縁起 東国放浪記」の話を書いてきましたが、今年は趣向を変えて現代の話にしてみました。もぐらさんとも縁の深い『Bacchus』……ではなくて姉妹店(違う!)の『でおにゅそす』を舞台にしたストーリーです。


「いつかは寄ってね」をはじめから読むいつかは寄ってね


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休まない相撲取り
——Special thanks to Mogura-san


 引き戸が開いて客が入ってくるとき、いつもの二月なら寒い風のことでヤキモキするのだが、今年はあまり氣にならない。暖冬。涼子は思った。

「いらっしゃいませ」

 恰幅のいい若い青年が、いそいで扉を閉めてから、カウンターを見回した。

 東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。ママと呼ばれる涼子が切り盛りをするこの飲み屋は、二坪程度でカウンター席しかないが、そのアットホームさを好む常連客で毎夜そこそこ賑わっていた。

 涼子や常連たちに見つめられて、青年は戸惑ったように言った。
「坂本源蔵……は、来ていませんか」

「源さん?」
奥の席で出来上がっている西城が裏返った声で叫んだので、隣の橋本がどっと笑った。困った人ね、と言いたげに見つめてから、涼子が引き取った。
「ああ、甥御さんね。どうぞお座りになって。源さん、魚を受け取りに行ってくださったんだけれど、道が混んでいて少し遅れるんですって」

 源さんというのは、近所に住む元板前だ。『でおにゅそす』開店以来の常連の一人で、西城や橋本とも旧知の仲だ。もともとはただの客として通っていたのだが、付けを払う代わりにカウンターの中に入り、つまみを用意することが多いので『でおにゅそす』の半従業員のようになっていた。

 青年は、頭を下げて入り口に近い空いている席に座った。
「そうですか。はじめまして。小島津与志です」

 西城が大きな声を出した。
「源さんの甥っ子って、たしか関取だよなっ? 四股名で名乗れよう」

 すると、青年は下を向いて唇を噛みしめた。それから、顔を上げて小さい声で告げた。
稲佐浜毅いなさはまつよし といいますが、その、もうじき名乗れなくなるかも……」

 店内は、察して微妙な空氣が流れたが、すっかり酔っている西城には通じなかった。
「なんだい、もっと大きな声で言ってくれ。ひがーいしー、橋本やまぁ。にしぃ、西城がわぁ。はっけよい、のこった、のこったぁ!」

 涼子は、おしぼりを渡しながら言った。
「どうぞ。氣になさらないでね。西城さんは、もうずいぶん飲んでいらして」
「いえ。僕こそ」

 ガラッと引き戸が開き、待ち人が現れた。
「おう、津与志、来てたか。遅くなってすまん」

「源さん、ごめんなさいね。どうもありがとう」
涼子が言うと、源蔵は首を振りながら、上着を脱ぎ、前掛けをすると、クールボックスを抱えてそのままカウンターに入った。

「買ってきました。とくにサワラと平目、いいのが手に入りましたよ」
涼子に嬉しそうに言った後で、甥の方を向いた。
「津与志。今日は、少しゆっくりしていけ。親方には話してあるからな」

 大きな身体を縮めるようにして、小島青年は頷いた。源蔵は、涼子に説明した。
「こいつは、二年前は前頭四枚目まで番付を上げたんですが、膝の怪我でしばらく成績が低迷していましてね。悩んでいるようなので、ここに来いと。涼子ママに話を聞いてもらえと、しつこく言って、ようやく来たんですよ」

「甥御さん、源さんにとてもよく似ているわね」
涼子が言うと、源蔵は笑った。
「顔は、似てますがね。この子は、わしとは似ても似つかぬ真面目なタチでね。部屋の掃除も、ちゃんこ鍋の用意も、もちろん稽古も手を抜かずにやりまくって、コツコツと番付をあげてきた努力家なんですよ」

「へえ、じゃあ、やっぱり似ているんじゃないか。源さん、そう言うけど真面目を絵に描いたような板前だもんな」
橋本が言うと、涼子も他の常連たちも頷いた。

「その真面目さが、助けにならない時もある。石頭なのも、似ているのかな。壁にぶつかって、でも、横に避けたり、戻ったりするのが難しいみたいでね。わしが言っても、アレなんで、助言してやっていただけませんかね」
源蔵は、グラスにも全く手をつけずに下を向いている甥を眺めた。

「涼子ママに相談するの、いいんだよなあ。俺っちも、かかあのことも、娘の反抗期のことも、いっぱい助言もらったよなあ」
西城は、熱燗を空けながら大きな声を出した。

 橋本も続ける。
「そういえば、僕も、偏頭痛を治してもらいましたよね」
「あら、メガネの度が合っていないのかもって言っただけでしょう。治してくださったのは眼鏡屋さんよ」

「まあ、ママはわしや皆さんにとっての福の神みたいな存在だって事ですよ。津与志、だからお前もここでいい運をもらっていきなさい」
源蔵が言うと、青年は小さく頷いた。

「お怪我は、もういいの?」
涼子が訊くと、小島青年はいっそう暗い顔をした。

「完治する前に、すぐに稽古を始めるから治らないって、親方に言われただろう」
源蔵が言うと、青年は顔を上げた。
「でも、休場したらどんどん番付が下がるだけだ」

「あれ? コーショー制度は?」
西城が言った。酔っていても、話にはちゃんとついて行っているらしい。

「なんですか、それ?」
橋本が首を訊いた。

「ハッシー、わかってないなー。怪我で休場しても、復活したときには同じ地位から始められるんだよ。なっ!」

 青年は首を振った。
「いえ。確かにその制度はあったんですが、2003年に廃止されたんです。公傷が乱発されて休場する力士があまりにも多くなってしまったので。ですから、僕は怪我をした場所で途中休場しただけで休まずに出ているのですが、負けが込んでしまって。期待してくださった親方や先輩方にも申し訳なく、もう引退した方がいいのかと……」

「怪我をしているのに土俵に上がって、大丈夫なのかい?」
相撲に詳しくない橋本は、純粋な質問を投げる。西城が解説した。
「ぶちかましとか、突っ張りとか攻める手は、膝をかばいながらでも、わりといけちゃうんだよね。問題は、向こうが積極的に攻めてきたときに、踏ん張ったり上手に凌ぐのが難しいわけ」

「西城さん、詳しいのね」
涼子が言うと、嬉しそうに答えた。
「惚れ直した、涼子ママ? 熱燗、もう一本頼むよ」

 小島青年は、ビールをゴクンと飲み干した。源蔵が捌いたヒラメの昆布締めをキュウリの薄切りと一緒に小鉢に入れて、涼子は彼の前にそっと置いた。柚醤油の香りがほのかに漂う。

「どうして引退した方がいいとお思いになるの?」
涼子が訊いた。青年は、少し言葉に詰まった後で、答えた。
「幕下だと給料も出ませんし、ただの穀潰しです。周りの士氣にも影響するし、まるで貧乏神だなと……」

 涼子は、小さく笑った。
「幕下の方はたくさんいるでしょう。貧乏神は、そんなにいるかしら」
「……」

「相撲の世界は、勝負がとてもシビアでしょうけれど、それ以外のお仕事でも、必ずしも結果や利益を生み出している人たちだけではないと思うわ。でも、結果だけで、その方たちの価値が決まるわけではないと思うの」

 すると、西城や橋本も頭をぶんぶんと振って頷いた。
「俺っちもさぁ。どっちかっていうと日当たりのいい席に座らされているけどさあ。くさくさしたって仕方ないもんな。いる場所で、やれることをコツコツやるっきゃないだろ、なっ、ハッシー!」
橋本は、いきなり背中を叩かれて吹き出しそうになった。

 涼子はテキパキと皆の前の空いた皿を片付けて、新しい小皿を置いていく。小島青年は、伯父も含めて和氣あいあいとした『でおにゅそす』の一同を眩しそうに眺めた。

「焦る氣持ちは、よくわかるわ。私たちのような仕事と違って、スポーツは何十年もかけてのんびり結果を出せばいいというものではないでしょうから。でも、がむしゃらに頑張るか、そうでなければ辞めるか、その二つしか道がないのかしら。怪我が治れば、結果はむしろ出やすくなるのではなくて?」

 源蔵は、椎茸の肉詰めを皆の前に置いていきながら言った。
「行き詰まっているときには、自分のやり方を続けても道は見つからないぞ。急がば回れっていうだろう」

「俺っちたちも考えようぜ」
西城が赤い顔で大きな声を出した。涼子は取りなすように小島青年に言った。
「あなたもずっと考えていらっしゃるでしょうし、親方のご指導も受けていらっしゃるでしょうけれど、素人たちの突拍子もない意見ももしかしたら参考になるかもしれないわ」

「俺っちは思うんだよ。何よりも優先すべきは怪我の治療だろ。だから、稽古にしたって膝に負担のかかることはやめる」
「膝に負担のかからない稽古ってあるのか?」
「あるんじゃないかい? 柔軟体操みたいな稽古あったよな? 詳しくはわかんないけど、今までの稽古では沢山時間をかけられなかったことを、目一杯やっておくとかさ」

 小島青年は、はっとしたように頷いた。
「確かに、早く復帰することや部屋に貢献したい一心で、ぶつかり稽古や三番稽古を少しでも多くしようとしていたかもしれません」

「すみません。それなんですか?」
橋本が小さな声で訊く。橋本が解説する。
「三番稽古ってのは、力士同士で何度も取り組むやつで、ぶつかり稽古というのは、片方が目一杯攻めて、もう一方はそれを受け止めるヤツだ。どっちも膝には悪そうだよな」

「そういうのはしばらく休んだら、ダメなんですか」
「なんか一人でやるトレーニングあったよな。四股しこ とか鉄砲とかさ」
「あ。四股ってのは聞いたことあります。なんだっけ」
「ほら、取り組みの前にやってんじゃん、足を片っぽずつどーんと上げるヤツ」
「ああ、あれか」

「鉄砲ってのは、柱に向かって張り手みたいなのを繰り返すヤツだろ?」
小島青年は頷いた。
「その通りですが、腰を落としてすり足で片方ずつ足を寄せながらやりますので、全身運動にもなっています。どちらにしても全身の筋肉を鍛える大切な基礎で、本当はもっと沢山やった方がいいと思っていましたが、取り組み稽古ほどは熱心にしていなかったかもしれません。膝をかばいながらでも、できるんだから、本当はもっとやるべきだったんだ……」

「休場して、怪我の治療に専念すると言って、そういうのだけをやらせてもらえばいいんじゃないか?」
「そんで、部屋の役に立つのは、もっと他のことにするとかさ」
「他の事って?」
「うーん、ちゃんこ作り?」

「関取さんになったら、お料理当番はしないのでは?」
涼子が訊くと、小島青年は首を振った。
「いえ、負け越してしまったのでもう関取ではなくて幕下です。ちゃんこ番もあります」

「お。だったら、めちゃくちゃ美味い鍋を極めるとかさ。それこそ、源さんにコツを訊いてさ」
「ですよね。美味しいものを食べられれば、みんなハッピーだし」

 いつの間にか店中の客たちが、怪我で苦しむ若き力士の復帰プランと当面の部屋での身の振り方をああだこうだと論じていた。実際の大相撲の制度やトレーニング、生活のことなどのわかっていない人々の考えでなので、実際に機能するかどうかはわからない。皆アルコールが入っているので、氣が大きくなっていることも確かだ。それでも、引退することや、世話人・マネージャーなどへの転身などをせずに、もう一度関取に返り咲くことができそうだと、前向きな予想ばかりだ。

 作っていた吸い物を一通り客たちに出して、一息ついた源蔵がみると、甥は大きな身体を縮めるようにして下を見ていた。白木のカウンターに、ぽたりと一粒、何かが落ちた。涼子がすかさず差し出したおしぼりで、顔を拭いてから彼は顔を上げた。目は赤いが、悲しそうな様子ではなかった。

「僕は、自分では精一杯頑張っている、なのに報われていないと思っていました。でも、どうやら自分のやり方に固執して、引くに引けなくなっていただけのようです。皆さんに応援していただいて、空回りの努力は止めて、もう一度頑張ってみようと思いました。本当にありがとうございます」

 その言葉が聞きたかったんだ、と誰かが叫んだ。店内は青年の関取返り咲きを祈念して、盃が重ねられた。

 涼子と源蔵は瞳を合わせた。青年に憑いていたかもしれない貧乏神は、きっとどこかに去り、代わりに福の神と一緒に部屋に戻れそうだと微笑み合った。

(初出:2020年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】愛の駆け引き

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第四弾です。山西 左紀さんは、掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!

 左紀さんの書いてくださった「砂漠のバラ

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

今年書いてくださった作品は、「アリスシンドローム」シリーズの新作で、サキさん曰く「思い切って夕さんの作風には全く合いそうも無い作品」だそうです。サキさんらしさ全開の近未来SFの戦闘機パイロットのお話でした。

二人の超優秀な女性パイロットが、淡々と敵機を打ち落としていく様子、そのどちらかというとゲームと現実の境目がなくなっているような特別な感覚が、なんともいえない感情を呼び起こす作品です。

お返しの作品は、サキさんの作品とはまったく関係のない話です。ただし、サキさんの『砂漠のバラ』に触発されて書いた作品です。どこがどの部分に触発されたのかについては、読み手の自由な感想を左右したくないのでここでは触れません。


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愛の駆け引き
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 しつこく降り続けていた雨がおさまり、十日ぶりに太陽が輝いた。木漏れ日がキラキラと揺れている。彼女がここに住むようになってしばらくが経つ。生まれ故郷は岩沙漠だったので、揺れる木漏れ日の心地よさなどとは無縁だった。

 故郷が嫌いだったわけではない。単純に統計上の問題だ。彼女がよく口にする《狩り》の、もっと上品な言い方をするなら《生きるため必要なあれこれを得ること》や《愛の駆け引き》のチャンスを増やすには、この土地の方が向いているのだ。

 ミラは、生活を支える手段も、本能から来る快楽も、ロマンティックな感情も、全て一緒くたにしてしまうタイプの女だ。楽しくて、キモチよくて、さらに生活に必要なあれこれが手に入るならば、それにこしたことはない。上品さや貞節、それに誇りなとどいう言葉は彼女にとって大した重みを持っていない。

 《愛の駆け引き》は、なによりも好きだ。

 たとえば、あの角にいる若い男。若い子は大好き。柔らかい巻き毛を優しく撫でて、甘い吐息を吹きかけてあげたいの。

 ミラは、相手がどんな行動に出るのか注意深く観察した。経験豊かで魅力的な彼女を狙っているのはわかっている。小麦色の長い足、黒い瞳。積極的で美しいミラは、危険な魅力をたたえている。

 相手の容姿などには頓着しない。もっと重要なことがある。彼女を満足させることができる男を慎重に選ぶのだ。快楽を与えてくれる相手を。脳天がクラクラするほどの快感。

 沙漠にいたときの、記憶が蘇る。夕方の最後の光が突き刺した忘れられない瞬間に、ミラは最初の恋人と愛を交わしたのだ。たくましい男が、彼女を組み伏せた。抵抗する彼女を彼は縛り付けた。手の自由を奪われて、屈辱と怒りに我を忘れ、彼女は足を蹴り上げた。彼は笑いながら足を絡めて彼女を征服した。彼女の心に決して消えない焼き印を押しつけ、笑いながら消え去った。

 ひどい人、縛られた私を放置して、笑いながら逃げていった、ひどい人。絶対に許さない、死ぬほどの快楽を、私に教えたあの人。

 ミラは、ずっと一人だ。友だちと呼べる人はいない。誰かとなれ合ったり、つるんだりするのは性に合わない。誰かと一緒に食事をするのも嫌い。

 世のためになる仕事をするほど高尚ではない。子供の世話に心を尽くすような女がいるのも知っているけれど、ミラはさほど母性にあふれているタイプではない。純粋に、男と寝るのが好きなのだ。私の獲物、若い男に縛られて組み敷かれる、倒錯した愛の時間が欲しい。

 若い男が近づいてくる。嫌われないように、恥をかかされないように、慎重に、スマートに誘おうとしている。すべてわかっているのよ。

 愛の手練手管を知り尽くしているミラは、ゆっくりと振り向き、黒い瞳を潤ませた。そして、唇を突き出した。彼女の身につけた香水が、彼を惹きつける。フェロモンに満ちた薫り。さあ、いらっしゃい、私の可愛い坊や。少しだけ、隙を見せてあげる。あなたから行動を起こしたと、思わせてあげる。

 木漏れ日がキラキラと輝いた。

「あなたのことばかり考えてしまうの。どうしてかしら」
ミラは彼の柔らかい巻き毛をそっと撫でる。
「本当に? その……君みたいに綺麗で、もてそうな女性が、僕を選んでくれるなんて」

「私が怖いの?」
「うん……少し。僕、実は初めてなんだ」

 ミラは、優しく笑って彼の足に彼女の長い足を絡ませた。
「心配しないで。あなたの好きにしていいのよ。私の自由を奪って、アドバンテージを取るといいわ。それなら怖くないでしょう?」
「いいのかい? 君がそういうなら……」

 彼は、痛くしないように優しくミラの両腕を縛った。柔らかい絹のタッチで、縛られていく感覚にミラは恍惚となる。瞳の奥には沙漠の夕暮れが蘇る。おずおずとミラを抱きしめる男は、ああ幸せだと呟いた。

 ミラにも、絶頂の瞬間が訪れる。ああ、なんて素敵なの。いい子ね、私の坊や。可愛くて、柔らかくて、食べちゃいたいくらい。

 愛の昂揚で、相手の動きの止まった瞬間を、ミラは逃さなかった。躊躇せずに鋭い歯を彼の喉に突き立てた。驚き逃げようとする男を彼女は渾身の力で押さえつけた。弱々しく巻き付けてあった両腕の枷は、あっという間に断ち切った。

 ミラの身体の半分ほどしかない男は、力では彼女には敵わない。両腕にうまく糸を巻き付けなければ、彼女の動きを封じることはできないのだ。彼が生き延びるチャンスは、糸をきちんと巻き付けられなかったあの時に消えていた。

 彼は、まだひくついている。頭はもうミラの喉を通って胃の中に向かっているのに。可愛い子ね。とても美味しい、可愛い子。私の産む子蜘蛛たちの一部となって、世界に旅立っていきなさい。

 木漏れ日がキラキラと揺れている。今日は最高に美しい日だ。《狩り》が成功すると、とても氣分がいい。

 《愛の駆け引き》と食事を終えたミラは、彼女を縛ったまま逃げていった沙漠の恋人のことを考えた。彼に会いたいと願っているわけではない。彼を探して彷徨うような時間はない。子供たちが卵嚢から出て、世界へと拡散していくその後に、彼女に多くの時間がのこされているわけではないから。

 ただ、可能な限り幾度でも《愛の駆け引き》を繰り返し、恍惚の中で男を抱き寄せる、たくさんのミラたちで世界をいっぱいにするのだ。沙漠の突き刺すような夕陽に。優しい木漏れ日の輝く昼下がりに。

(初出:2020年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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ナーサリー・ウェブ・スパイダー(Pisaurina mira)は、北米およびカナダに生息するキシダグモ科の蜘蛛。オスはメスに捕食されないよう、メスを縛ってから交尾を行う習性がある。
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Posted by 八少女 夕

【小説】アダムと私の散々な休暇

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第二弾です。ポール・ブリッツさんは掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!

 ポールブリッツさんの書いてくださった「わたしの五日間

皆勤してくださっているポール・ブリッツさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。お名前の通り、電光石火で掌編を書かれるすごい方です。毎年ポールさんのくださるお題は手加減なしで難しいんですけれど、今年はオーソドックスな難しさですね。

書いてくださった作品、舞台はどこと明記されていませんので、私も「なんとなく」を匂わせつつ、明記はしませんでした。そして、次の舞台にした場所も読む方が読めば「そこでしょ」なのですが、敢えてどことは書きませんでした。すみません、ポールさん、「わたし」の居住地、そんなところにしてしまいました。

この掌編、軽く説明はしていますが、ポールさんの作品と続けて読んでいただくことを想定して書いてあります。


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アダムと私の散々な休暇
——Special thanks to Paul Blitz-san


 荷物を運び込んだポーターが、物欲しげな瞳で微笑んだので、仕方なく一番安い額面のお札を握らせた。自分で持ち運べば、払わずに済んだかもしれないけれど、鳥籠と荷物の両方をもって初めてのホテルで部屋を見つけて、カードキーを上手に使うのは難しい。

 もらうものをもらったので、さっさと踵を返したポーターにアダムがろくでもないことを叫び出す前に、急いで部屋の扉を閉めた。鳥籠を覆っていた布カバーを外すと、彼は「低脳ノ守銭奴メ!」と得意そうに叫んだ。

 私がこのオウムの世話を隣人や友人に頼めないのは、ひとえにアダムの口の悪さが尋常でないからだ。どうやっているのかわからないが、相手をもっともひどくこき下ろす言葉を選んで罵倒する芸当を、この鳥はいつの間にか身につけた。私が教え込んだことがないといくら言っても、きっと誰も信じてくれないだろう。

 アダムは、四年ほど前に当時の恋人に押しつけられた。特別養護施設で大往生した女性が飼っていたとかで、十一歳のオウムが残されたと。施設はその引取り先に困り、とある職員がその弟に泣きついた。「私が飼ってあげたいけれど、鳥アレルギーなんですもの」

 その弟こそが私のかつての恋人で、自宅に引き取ったけれど全く世話はしなかった。それどころか、まもなく他に女を作って逃げていった。残された私は、確かに彼のことを罵っていたけれど、その時に使ったのよりもずっとひどい罵声をアダムがどこで憶えたのか、どう考えてもわからない。

 とはいえ、たかが鳥だ。そんなに長い間のはずはないから、命あるうちは世話をしよう。そう高潔なる決意をして優しく微笑んだらコイツはバタバタと羽ばたきながら甲高く叫んだ。
「生憎ダナ! おうむノ寿命、五十年!」

 一人暮らしの女がペットを飼いだしたらお嫁に行けないと言うけれど、アダムみたいな鳥を飼っていたら、間違いなく恋人なんてできない。部屋まで送ってきてくれた優男が、甘い台詞を囁きいいムードになるとすかさず「ソイツノ腕時計、偽物! 金ナンテナイ!」などと叫ぶのだ。いや、私、金目当てでつきあっているわけじゃないってば。でも、相手は真っ赤になって震え、私の性格と思考回路がどのようなものかを勝手に結論づけて、連絡が途絶えるのだ。

 もしかして、コイツがいる限り、私は独り者ってこと?
「生憎ダナ! おうむノ寿命、五十年!」

 OK、当面ボーイフレンドのゲットは諦めよう。でも、休暇は諦めたくない。誰かにアダムの世話を頼むのは問題がありすぎるので、連れ歩くことになるけれど、それでも自宅にずっといるよりはマシだ。あんなところに冬の間中こもるなんて、死んでも嫌。っていうか、死んじゃう。

 私の住んでいる村は、そびえる雪山の麓にある。夏は涼しく爽やかで、早番の仕事が終わった後にテラスのリクライニングチェアでのんびり日光を楽しむことができる。自転車で森をめぐり辺りの村にいったり、緩やかな山を越えるハイキングも楽しい。肩に載せたアダムが、放牧されている牛や羊、それにリスやイタチに喧嘩を売るのを見るのも微笑ましい。夏は、村そのものがリゾートみたいなものだと思い込むこともできる。

 でも、冬は最悪。日は短いし、暗いし、寒いし、道はツルツルに凍るし。子供の頃に事故を起こしてから、ウィンタースポーツを禁じられてしまった私には、いい事なんて何もない。田舎過ぎてショッピングも楽しめないし。

 スキーリフトもない谷なので、冬は閑古鳥の村で、夜になると通りはゴーストタウンみたいに誰もいなくなる。そんな寒村だから、村で唯一のちゃんとしたホテルは、二ヶ月の長期休暇にして閉めてしまう。私が勤めている安宿は、隙間で稼ぐいい機会だからと開けているけれど、光熱費の無駄だと思う。

 でも、そんな宿にも常連がいる。その一人が、毎年この時期にやってくる外国人で、五泊して行く。村に店はないし、隣村にもスーパーや衣料品店、ガソリンスタンドくらいしかない。面白いものなんて何もないけれど、その客ときたら外出することもなく、部屋でパンとチーズをプランデーで流しこんでいるらしい。ワインじゃないのはなんだと思うけれど、その辺は好き好きだから別にいい。

 ルームサービスで、追加のパンとチーズを持って行くと、とろんとした目で顔を上げる。ブツブツ言っていて、妻がどうとか、終末期医療の看護がこうとか、論文がああとか、私には理解できないことばかり。

 私なら、こんな村、寒くて暗い冬の安宿なんて、一度来れば十分だと思うけれど、なぜかこの客は十五年も通っているらしい。私は去年の夏から雇われているので、この客に逢ったのは初めてだけど。

 十五年って、アダムと一緒、私がアダムと暮らした日々の三倍だ。そんなに長く冬のこんな村に通うなんて、本当にどうかしている。どうかしているといえば、我が家のアダムもその客がいた五日間は、いつもにましてけたたましかった。

 ドクターのくせに教授職に就かないのはいかがなものかとか、著作が一冊もないなんて恥ずかしいとか、意味不明なことをギャーギャーと騒ぐのだ。

「うるさいわね。私は博士号なんて持っていないし、持つつもりもないわよ! 本を書くとしたらイケメン俳優と結婚して、離婚して回想録を書くくらいでしょ。アンタがいたらどうせイケメン俳優と結婚なんてできないんだから、黙りなさいよ!」
仕事から帰って疲れているのに、オウムに理不尽なことで責められるのは勘弁ならない。

「これ以上、意味不明なことをいうと、フライドチキンにしちゃうわよ!」
そういうとアダムはキッと睨み言った。
「オレサマ、鶏ジャナイ!  フライドパロット!」
仰有るとおり。って、オウムに言い負かされてどうする。

 そんなこともあり、イライラと、冬由来の欲求不満が積み重なっていたが、その客がようやく帰ったので、私は休暇を取ることができた。

 もちろん、太陽を求めて南へと旅立つのだ。青い海、白い建物、地中海料理が私を待っている。あ、私とアダムを。

 荷物を解いて、一息ついてから、私はバーでウェルカムドリンクを飲むことにした。ほら、映画ではそういう所にハンサムな御曹司かなんかがいて、恋が始まったりするし。部屋に放置するのもなんなので、アダムの入った鳥籠をもって私はバーに向かった。

 鳥籠を置けるカウンターの一番端に陣取ると、バーテンダーにダイキリを頼んでバーの中を見回した。イチャイチャするハネムーンカップルや、ケチそうな観光客はいるものの、御曹司タイプはみかけない。そうはいかないか。がっかりしていると、アダムがバタバタと羽を動かした。
「犯罪者メ! かくてるニでーとどらっぐ入レタナ!」

 振り向くと、バーテンダーがダイキリのグラスを差し出そうとしているところだった。
「ちょっと! そんな言いがかりをつけるのは止めなさいよ!」

 そして、バーテンダーに「ごめんなさい」と謝って、グラス手を伸ばそうとすると、バーテンダーは少し慌ててグラスを引っ込めた。
「申し訳ありません。今、ハエが飛び込んでしまって、取り替えます」

 私の方からは、ハエは見えなかったけれど、親切な申し出に感謝した。これ以上アダムがろくでもないことを言わないことを祈りつつ。新しく作ってもらったダイキリは美味しかったけれど、周りの観光客に見られているのが恥ずかしくて、まだ見ぬ御曹司の登場を待つこともなくレストランに移動した。

 レストランでは、鳥を連れていることに難色を示されたけれど、交渉してテラス席ならいてもいいと許可をもらった。海に沈む夕陽の見える素晴らしい席で、ラッキーだと思った。ここまで来たんだから、地中海料理を堪能しないと。

 前菜は魚卵をペーストにしたタラモサラダ。羊の内臓などを煮込んだスープ、パツァス。スパイスのきいたミートボールのケフテデス。もうお腹いっぱいだけれど、どうしても食べ高かったブドウの葉っぱでご飯と挽肉を巻いたドルマデス。デザートは胡麻や果物を固めたハルヴァ。アシルティコの白ワインも美味しかったし、ヴィンサントのデザートワインもいい感じ!

「ソンナニ食ウナンテ正氣ノ沙汰ジャナイ!」
アダムの毒舌に「失礼ね、このくらい普通でしょ」と言おうとしたのだけれど、言えなかった。食べ過ぎのせいか、お腹が痛い。っていうか、激痛……。えー、なんで。あまりの痛さに汗が出てきて目の前が暗くなった。

* * *


 目が覚めたら、ベッドの上にいた、白衣の人たちが歩き回っている。首から提げた聴診器を見て、ああ、病院にいるのかと思った。記憶を辿って、あのレストランでお腹が痛くなり、そのまま倒れてしまったのかと思う。

 ここは旅先だったっけと思うと同時に、アダムはどうしたんだろうと考えたが、長く思案する必要はなかった。視界にはいないがけたたましい声が聞こえたからだ。
「イツマデ寝テイルンダ!」

「大丈夫ですか? わたしがわかりますか?」
視線を声のする方に向けると、男がのぞき込んでいた。服装から見ると看護師のようだ。どこかで聴いたような声だ、どこでだったかしら。

「どくたーナラ、本ヲ沢山出版シナサイヨ! 教授二ナリナサイヨ!」
ちょっと待って。またあの戯言が始まった。

「私は博士号なんて持っていないと、言ったでしょう、アダム!」
私が叫び返すと、目の前の看護師は静かに答えた。
「わたしは持っていますよ。あなたは宿屋でも同じ事を訊きましたよね」

 私は、ぼーっとした頭の奥で脳細胞に仕事をしろと叱咤激励し、ようやくこの男が数日前に職場の宿に滞在していたあのブランデーを飲んだくれていた男であることを思い出した。

 それから、別の事も思い出した。専門は終末医療だって答えたよね、この人!
「えええええっ。私、死ぬんですか?」

「人生百年時代! デモ、必ズ百歳ニナルトハ限ラナイ!」
アダム、黙って!

「ご心配なく。人間は例外なくみな死にますから」
淡々と男が答える横から、聴診器をつけた別の男性が遮った。
「こらこら、そんな答え方をしないように。心配しないでください。ここは救急病棟です。氣分はいかがですか」

 どうやら、救急病棟の当番でこの看護師がここにいるらしいとわかったので、ずいぶんと氣分がよくなった。もちろん、すぐには死なないと太鼓判を押してもらったわけではないのだけれど。

「古イおりーぶおいるニアタッタ、間抜ケ。寝テテモ治ルケレド、ココデハ高イ医療費フンダクラレル!」
アダムが、期待を裏切らぬ無礼さで騒ぎ出すと、親切そうな医者の額がひくついた。

「私たちは、医療はビジネスではなく、尊い仕事だと思っていますので、ご心配なく」
そう断言する隣で、看護師の顔が奇妙な具合に歪んだ。

 忙しそうに、医者が退室すると、看護師はかがみ込んで小さな声で言った。
「命拾いしたかもしれないな。ああ言われても不必要な処置をして高額請求できるような、肝っ玉は据わっていないんだ、あのセンセイは」

 私は、ギョッとしてつい数日前まで客だった看護師の顔を見た。
「本当……だったの?」

 彼はウィンクした。
「旅行健康保険は入っている?」
「ええ。っていうか、クレジットカードに付いているの」
「ならいい。確実に払えってもらえると確認できない旅行者は退院させてもらえないしね。ところで……」

 彼は、鳥籠の中のアダムを見て訊いた。
「この鳥は、エスパーかなにかかい?」

 私は、首を傾げた。
「ひどく口の悪いオウムですけれど、エスパーなんてことはないかと……」

 彼は、首を傾げたままだ。
「さっきの言葉、とても偶然と思えなくてね」
「さっきのって、ドクターや教授がどうのこうのって、アレですか?」
「ああ」

 それで思い出した。
「そういえば、我が家で同じようなことを言っていたのは、あなたの滞在中でしたね。でも、勤務先には連れて行きませんでしたから、あなたの言葉をおぼえたってことはあり得ないと思いますけれど」
「それじゃあ、ますます……不思議だな」

 無事に食あたりもおさまり、救急搬送や深夜医療の代金を保険が払うことを確約してくれたので、私とアダムは翌朝にはホテルに戻ってもいいと許可をもらえた。

 私の休暇は一晩を無駄にしただけで済んだし、親切な看護師……不思議な縁もあるお客さんでもある人と知り合えたし、そんなに悪い経験じゃなかったかも。

 私は、鳥籠をもって終末医療セクションに向かい、彼に美辞麗句を尽くしてお礼の言葉を述べた。こういう時に印象をよくしておくと、次に繋がるはずでしょう。毎年あの宿に泊まるくらいだから、私の住む村のことは結構好きなはずだし、これって運命かも。

 そう思っているのに、アダムはあいもかわらず看護師に向かって謎の非難を繰り返している。ちょっと、なんなのよ!

「十五年も聴かずに済んだのに、またこれを繰り返されるのはたまらないな」
小さな声で、看護師は呟いた。

 それで、私は納得した。これって、私のボーイフレンド未満の男性陣を追い払った罵声と同じなんだ。なんなのよ、こんなところに来てまで邪魔するとは。これじゃ、いつになったらボーイフレンドができるやら。

 アダムは、得意げに宣言した。
「生憎ダナ! おうむノ寿命、五十年!」

(初出:2020年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】お菓子天国をゆく

scriviamo!


「scriviamo! 2020」の第一弾です。ユズキさんは、プランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

ユズキさんは、小説の一次創作やオリジナルのコミックを発表、それにイラストライターとしても活躍なさっているブロガーさんです。現在代表作であるファンタジー長編『片翼の召喚士-ReWork-』の続編『片翼の召喚士-sequel-』、そして『アストリッド様と「行くわよ愉快な下僕たち!」』などを連載中です。そして大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストも描いてくださっています。

 今回はプランBで完全お任せということでしたので、どうしようかなあと悩みました。アスト様の世界も好きなのですけれど、まだ世界観をちゃんとわかっていないですし、(あ、アルケラの世界もちゃんと読み込めているかというとかなり不安ですけれど)、勝手にコラボはやはり何回かしていただいている皆さんにお願いしようかなと……。

今回メインでお借りしたのは、愛くるしいフロちゃんですが、仔犬ではなくて神様です。うちのレネが相変わらずぼーっとなっている【ALCHERA-片翼の召喚士-】世界のヒロイン、キュッリッキ嬢を護るために地上にいらしているのですけれど、おやつに目がないところがツボで、うちの甘い物好きと共演させたくなってしまったのです。ユズキさん、勝手なことを書きまして失礼しました。リッキーさんたちの活躍の舞台はこの惑星じゃないんですけれど、うちの連中のスペックが低過ぎてそちらに伺えないので、無理矢理ポルトガルに来ていただきました。


【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物



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大道芸人たち・外伝
お菓子天国をゆく
——Special thanks to Yuzuki san


 春のポルトガルは雨が多い。大道芸にはあまり向かないのだが、大道芸の祭典『La fiesta de los artistas callejeros』の準備で来たので、今回の渡航目的のメインではない。余った時間に偶然晴れていて稼げたら儲けもの程度の心づもりでやって来た。

 思いのほか珍しくよく晴れて今日は十分稼げたので満足だった。マグノリアの紫の花が満開になっていて、青空によく映える。白と青のタイル、アズレージョで飾られた教会の前には、若葉が萌え立つ街路樹が楽しそうにそよいでいた。

 稔は、街中の楽器店を回って、ようやく目当ての弦を見つけた。ギターラと呼ばれるポルトガルギターの弦ではないので、ポルトガル以外でも買えるのだが、これからミュンヘンに戻るまでは大きな都市に滞在しないので、できれば入手しておきたかった。途上でもかなり激しく弾くから、また切れるなんて事もあるしな。それに、ずいぶん安かったのは、有難いよな。そんな独り言を呟きつつ坂を下った。

 さてと。ブラン・ベックたちを拾って行かなきゃ。稔は、通りの洋服屋や靴屋は存在を無視し、土産物屋を覗くこともせずに、ショーウィンドウに菓子がズラリと並んでいるパステラリアのみをチェックした。ポルトガルでコーヒーを飲もうとする地元民は、カフェまたはパステラリアに行く。違いはパンや菓子などを売っているかどうかだ。パステラリアは「お菓子の博覧会」状態で、ポルトガル人の愛する卵黄を使ったお菓子のために全体的に黄色く見える。

 三軒目の入り口近くに、ニコニコ笑いながら菓子を選んでいるレネがいた。稔がガラスの扉を開けて中に入ると、太った店員がレネの言葉に従い茶色の袋に次から次へと菓子を放り込んでいる。ブラン・ベック、どんだけ食うんだよ。それ一個でも、めちゃくちゃ甘いぞ。

 稔に氣付いたレネは、すこし照れたように笑ったが、指示はまだ続いた。抱えるほどの大きさになったところで、ようやく会計するように頼んだ。

 稔は奥を覗いたが、他のメンバーは見当たらない。
「あれ。お蝶とテデスコは?」
「先に行って飲んでいるそうです」

 四人は小さなアパートを借りて滞在し、夜はいつも通り宴会をする予定だ。甘い物に興味があるのはレネだけなので、スイーツ選びに飽きて帰ってしまったのだろう。

「こんなにどうすんだよ。そんなに食えないだろ。酒に合わせるならタパスにすりゃあいいのに」

 レネは人差し指を振ってウィンクした。
「ヤスが教えてくれたんじゃないですか。お菓子は別腹です」

 お菓子は別腹という、謎の言い草は日本でしか市民権を得ていないのだが、レネの心にはヒットしたらしい。確かに彼はいくらご飯でお腹いっぱいになっても、スイーツは無限に食べられる特異な胃袋の持ち主だった。

 ポルトガルは、甘い物に目のないレネにとっては、天国のような国だ。パステラリアのショーケースは、彼にとって宝石箱のように見えるらしい。洗練されたディスプレイではない上、日本のケーキ屋のように見かけには凝っていないし、それぞれの名前も書いていない。店員も日本のケーキ屋の恭しい接客はしないが、ポルトガル語が堪能でなくても欲しいものを指さして手軽に買うことができる。

 マカオでエッグタルトとして有名になったパステル・デ・ナタはもちろん、シントラ名物のケイジャーダ、ライスケーキの一種ボロ・デ・アロース、ココナツで飾ったパン・デ・デウス、豆を使ったパステル・デ・フェイジャオン。ドイツで有名なベルリナーの黄味餡バージョンのボラ・デ・ベルリン。稔にわかるのはそのあたりだ。

 レネの知識は、さらにそれを凌駕していた。次々と未知の菓子を解説してくれる。
「名前がいいんですよ。ミモス・デ・フェイラは《修道女の甘やかし》。ケイジーニョス・ド・セウは《天国のミニチーズケーキ》、トラオン・レアルは《ロイヤルクッキー》、こっちは《黄味あん入りの宝箱》」

「お前、いつそんなにポルトガル語に詳しくなったんだよ」
「お菓子の名前しかわからないんですけれどね」

「俺もなんか買おうかな」
稔は、ショーケースを見回してから、甘みの少なそうな黒い菓子を一切れだけ買った。
「なんだろ、これ」

「《チョコレートのサラミ》って言うんですよ。ビスケットの欠片を少し柔らかめのダークチョコで固めてあるんですよね。美味しいですよ」
「ふ、ふーん」

 ようやく会計を終えて帰ることにした。レネは大量の菓子の入った袋を抱えているので、稔が扉を開けてやる。

 通りの向こうを白い長衣を着た男性と、空色のドレスを着たカップルが歩いて行くのが見えた。外国人を見慣れている稔でも凝視せずにいられないほど、美男美女だ。後ろを白い仔犬と黒い仔犬がとことこと付いていく。

 二人が仲睦まじく話している声が届いた。
「ねえ。メルヴィン。その教会の尖塔に昇ってみたいの」
「ああ、上からは街が隅々まで見渡せるでしょうね。エレベーターはないから、階段をかなり昇らなくてはなりませんが、大丈夫ですか?」

 レネは、ぼーっとその美少女に見とれていた。
「おい、ブラン・ベック。またかよ。めちゃくちゃ綺麗な子だけどさ。どう考えても、相思相愛のカップルだぜ」

 レネは抗議するように振り向いた。
「違いますよ。もちろん、綺麗だなあって見とれましたけど、それだけじゃないですよ。ほら、僕たち、あの女の子に一度逢ったことあるなって」

「どこで」
「モン・サン・ミッシェルで。ほら、見てくださいよ、二人の後ろにいるあの白い仔犬……ヴィルがしばらく連れていた迷い犬……」

 稔は首を振って遮った。
「おいおい。お前、大丈夫か? 飼い主の女の子までは憶えていないけど、あの白いのは、たしかにあの時の仔犬にそっくりだよ。だけどさ。あれから何年経っているんだよ。ずっと仔犬のままのはずないだろう」
「そうですよね。確かに……。それに、今度は二匹だし」

 そう言った後に、レネは首を傾げた。
「だったんですけれど……もう一匹、どこに行ったんだろう?」

 通りの向こう、目立つ美貌のカップルが教会の尖塔を見上げている足下には、かつてあのヴィルが珍しくかわいがった仔犬とそっくりな白い仔犬が座っている。だが、つい数秒前に一緒にいた黒い仔犬はいない。

 稔が、レネの肩を指でつんつんと叩いた。見るともう一つの指はレネの足下を示している。目で追うと、そこには……。
「ええっ!」

 飛び上がった、足下には青いつぶらな瞳を輝かせて、黒い仔犬が座っていた。親しみ深い口元を開けて、ちょこんと座る姿は実に愛らしい。かつてモン・サン・ミッシェルでヴィルが肩に載せていた白い仔犬と較べると、ずいぶんと丸々としているし、いかにも何かを期待している様子も大きく違う。

前足をレネのに置き、催促するように布地を引っ張った。
「え?」

 黒い仔犬が期待を込めて見つめる視線の先は、お菓子のあふれている紙袋のようだ。
「もしかして、お菓子が食べたいとか? まさかね」

「わざわざお前のところに来たって事は、そうかもしれないぞ。こんなに菓子買っているヤツ、他にはいないもんな」
そう言って、稔は自分の買った《チョコレートのサラミ》をパクパク食べた。

 黒い仔犬は「どうして僕にくれないの」とでも言いたげに、稔の足下に移動してぐるぐると動いた。
「お。悪い。でも、これはダメだよ。犬にはチョコは毒だろ?」

 仔犬は不満げに見上げていたが、さっさと切り替えてまたレネを見上げた。
「仕方ないですね。どれがいいかな」
レネがしゃがんで、お菓子の袋を開け、選ぼうとした。すると、黒い仔犬はまっすぐに袋に顔を突っ込んで食べ出した。

「ええっ! ちょっと、それは!」
ほんの一瞬のことだった。仔犬の頭は袋の中にすっぽりとハマり、躊躇せずに食べている音だけが聞こえる。

 二人ともあっけにとられていると、後ろから短い鳴き声がした。仔犬と言うよりは狼の遠吠えのようだ。いつの間にか白い方の仔犬が、レネたちの足下に来ている。

 黒い仔犬は、ぴたっと食べるのを止めた。白い仔犬は、黒い仔犬の尻尾を口にくわえて引っ張り、紙袋から頭を出させた。黒い仔犬の口元は、ありとあらゆるお菓子の破片がベッタリついている。黄味餡、アーモンド、ココナツラペ、ケーキの欠片。

「フローズヴィトニル! なにしてるの?!」
「申し訳ありません。もしかして、あなたのお菓子を食べてしまったのでは」
道の向こうにいた二人が、なにが起こったかを察して慌ててこちらに走ってきた。当の黒い仔犬は可愛い舌をペロリと見せて、愛くるしく一同を見上げる。

「いや、いいんです。それより、勝手にお菓子をあげてしまったりして、大丈夫でしょうか……」
レネがもじもじと、二人に答えている。

 稔は、またブラン・ベックのビョーキかよと呆れながら傍観することにした。黒い仔犬はどうやら白い仔犬に叱られているようだ。って、そんな風に見えるだけかもしれないけどさ。

「ごめんなさいなの。この子、ウチでいつもケーキとか食べさせてもらっているので、遠慮なく食べちゃって」
「弁償させていただきたいのですが、このくらいで足りますでしょうか」
背の高い青年もそつのない態度で頭を下げ、財布から何枚ものお札を取り出した。

「とんでもない。ポルトガルのお菓子はとてもリーズナブルですから、そんなにしません」
レネは、感謝して、20ユーロ札を一枚だけ受け取った。

 もう一度同じお菓子を買うために、レネがパステラリアへ足を向けると、黒い仔犬は当然のように自分も入ろうとしたので、二人と白い仔犬に止められた。稔は堪えきれなくなって爆笑した。なんなんだよ、この食い意地の張ったワンコは。

 でも、ブラン・ベックにとっても、この黒ちゃんにとっても、ここがお菓子天国なのは間違いないな。右も左もパステラリアだらけだし、十分楽しむがいいや。

 レネから譲り受けたかつてお菓子の入っていた袋にまた頭を突っ込んで残りのお菓子を平らげる黒い仔犬は、わかっているよと言いたげに、小さな尻尾を振って見せた。

(初出:2020年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】新しい年に希望を

「十二ヶ月の歌 2」のラスト、十二月分です。同時に今年最後に発表する小説となります。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十一月はABBAの “Happy New Year” にインスパイアされて書いた作品です。年末年始にはよく流される曲ですけれど、よく歌詞を読むと「ひたすらめでたい」曲ではないのですね。

縁起を担ぐ日本に限らず、どこでもクリスマスやお正月、それに各種のお祝い事にはネガティヴなことを言わないようにする傾向がありますけれど、暦上のどんな日であろうと「ちっともめでたくなんかない」日々を過ごしている人もいて、でも、それが文句を大声で言うほどではない、ということも。

今年最後の小説ですが、そんな中途半端な小市民たちが、暦の一区切りで氣持ちを新たにしたいと願っている姿で終わりにしたいと思いました。


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新しい年に希望を
Inspired from Inspired from “Happy New Year” by ABBA

 おせちの重箱は二段にした。三段にするとスカスカになってしまうから。一人で迎えるのだから、たくさん買ってもしかたない。一人に戻って以来、あれこれ切り詰めてきたので、デパートやスーパーで予約をしている立派なおせちを買う案は却下した。かといって、いくつものおせち料理を一人用に作るのも大変なので、スーパーで一口サイズのパックをあれこれ買って詰めることにした。お煮しめだけは自分で作る。スモークサーモンやローストビーフ、それに白ワインも買ってきて冷蔵庫にしまった。

 普段は買わない高級レトルトカレーや、コタツに籠もる時用にミカンも用意した。一人の年越しをとことん楽しむつもりだ。

 もともと本家で繰り広げられる親戚の集まりなどは苦手だったし、だから独り立ちすると同時に東京に出てきたのだ。帰らずにすむのはありがたい。普段なら「帰ってきなさいよ」と口うるさいお母さんをはじめ、今年は誰も帰ってこいとは言わない。それはそうだろう。

 従姉妹の絢香はダブルおめでたで、かねてからの願い通り大がかりな華燭の宴を開いた。伯父は代議士なので地域の名士が悉く参列して祝った。今も本家では彼女と初孫を中心にいつものように格式を重んじたお正月迎えに余念がないことだろう。

 去年は、私に注目が集まっていた。結婚して初めて夫だった志伸を連れて行ったお正月。かつては目立たなかった私が、東京でエリート官僚と結婚したというので、親戚のおば様方からちやほやされた。絢香は面白くなさそうにしていたが、彼女らしいやり方で注目を自分に向けることに成功した。

 とにかく今年の本家では夫婦となった志伸と絢香が、去年のことなど何もなかったかのように「めでたいお正月」を祝うのだから、私の登場など誰一人として期待はしていないだろう。これで二度とあの面倒くさい盆暮れの里帰りをしなくて済むようになったと思えば、そんなに悪いことではない。

 お金持ちやエリート官僚と結婚したかったわけじゃない。たまたま東京に出てきて大学で出会い、それ以来ずっと一緒にいて仲良く笑い転げた人が、いつの間にかそういう立場になっていただけ。私にとって志伸はいつも志伸だったから、私がその隣には相応しくなくなっていたことに、氣が付かなかった。

「どう謝ったらいいのかわからない」
彼は下唇を噛みしめた。彼女の方が将来に役に立つから乗り換えたわけではない、ほんの出来心のつもりだったのに、子供ができてしまったと。それが本心かどうかなんて確かめようはない。それにどちらにしてももう全て終わったのだ。志伸にとって私との未来は消えて、絢香と子供との未来ができた、それが現実なのだから。

 大学の仲間にとっても、親戚にとっても、私は「めでたさに水を差す存在」になったのが腹立たしくて、私は距離を置くようになった。

 チャイムが鳴った。誰だろう?

「リカ! いるぅ?」
声を聴いてすぐにわかった。佑輝だ。すぐに玄関に向かう。ドアを開けると、彼は綺麗なポーズで立っていた。紫のコートにピンクのフェイクファーを巻いた独特な出で立ちにギョッとする。

「どうしたの?」
「どうしたのって、アタシも仕事を納めたし、侘しい独り者同士で年越そうかなって」
佑輝はウィンクした。

 大学以来、ずっと仲間として楽しくつきあっていたけれど、私と志伸が結婚して以来、しばらく疎遠になったのは、なんとなく彼も志伸のことを好きだったのではないかと感じたからだ。新婚家庭にも他の仲間のように招べないでいた。だから、会うのは結婚式以来だ。

「入って、入って」
「お邪魔しまーす。あ、これ、冷蔵庫に入れてね」

 佑輝は、よく冷えたシャンペンを差し出した。2020と大きく書いてある。カウントダウン用か。白ワインの瓶の位置に入れた。冷えているワインは出してコタツのテーブルに置く。

「へえ。いい部屋じゃない。ここは、もらったの?」
佑輝はマンションの中を見回した。私は、いろいろとつまみを用意しながら答えた。
「もともとは共同名義だったんだけどね。従姉妹の実家がタワーマンション買ったの。だから、ここには私が続けて住んでもいいって。まあ、慰謝料みたいなものかな」

 乾杯をしてコタツに入ると、久しぶりに笑い転げながら近況を語った。そうだった。仲間で集まると、いつも腹筋が痙攣するくらい笑うことになるのだ。後から考えると何がそんなにおかしいのかわからないのだが。こんなに笑ったのは本当に久しぶりだ。

「でも、元氣そうでよかった。これでも心配していたのよ」
佑輝がニッと笑った。

 私は、頬杖をついて彼を見た。
「意外だったな」
「何が?」

「ほかの仲間、みんな志伸とは連絡取っているんでしょう。あれから飲み会にも私はお声が掛からなくなったし。だから、佑輝が心配してきてくれたの、驚いた」

 そういうと、佑輝はふくっと頬を膨らませた。
「アタシを見損なわないでよ」

 ワインが回ってきたみたいで、力も抜けてきた。私の存在が迷惑っていうなら、親戚も大学の仲間もいらない。一人のクリスマスも、年末年始も大したことではない。そんな風に肩に妙に力を入れて、離婚騒ぎから今日まで走ってきたのかもしれない。

「佑輝は、私よりも志伸と仲良かったじゃない?」
そういうと、佑輝は笑った。

「大学時代は、確かにそうだったわ。でもね、アタシは、判官贔屓なの。それに、リカの氣持ちがよくわかるのよね。悔しくても悲しくても、つい虚勢を張っちゃって、いいわよ、好きにしなさいよって言っちゃうのよ、アンタもアタシも。志伸みたいな、デキるくせにどこか抜けていて、みんなに愛されて、結局美味しいところを持っていく男に弱いのも一緒でしょう?」

 そうよね。一緒だ、確かに。
「本当はね。悔しかったし、凹んでいたのよね。でも、志伸があっちを選んだ以上、泣きわめいて大騒ぎしても、みっともなく見えるのは自分だけだし」
「アンタね。そういう時は、相手の女をビンタぐらいしても罰は当たらないわよ」

 絢香にビンタか。やっておけばよかったかな。それも、結婚式の当日に手形のついた顔にしたりして。
「佑輝は、みんなと二次会行ったんでしょう? 絢香のこと、どう思った?」

 佑輝は首を振った。
「そっか。志伸から耳に入るわけないわよね。みんな行くのを拒否したのよ。リカがかわいそうだって」

 私は、かなり驚いて佑輝の顔を見た。彼は、空になった私のグラスに淡々とワインを注いだ。
「そうだったんだ。親戚筋からは、立派な式だった、幸せそうな二人だったって話しか入ってこなかったから、てっきり……」

「仮にもお祝い事だから、表だって非難したりする人はいないと思うけれど、祝いに来ないってことも、ある種の意見表明でしょう。大学時代の志伸は、本当にいい男だったもの、あんなことしてすぐに幸せいっぱいになれるほど、志伸の感性が鈍ったとは信じたくないわね」

 佑輝の顔を見ながら、私は自分が現実を曲解していじけていたのではないかと訝った。自分だけが貧乏くじを引き、志伸は何一つ失わずに幸福を満喫しているのだと、どこかで考えていた。

「もっともみんなもね、志伸に制裁を加えようと示し合わせたわけじゃないのよ。それぞれがね、みんな集まるだろうから、せめて自分だけはリカの代わりに抗議してやりたいって考えたみたい。二次会、花嫁側の出席者ばかりで異様な感じだったって、後から幹事に恨み言いわれちゃったわ。身から出た錆でしょって突っぱねたけれどね」

 私ですら、それは氣の毒かもと思った。志伸はみんなとの絆を本当に大切に思っていたから。絢香との新しい人生と引き換えに失いかけているもののことを考えたのかもしれない。

 仲間との絆を彼は誇りに思っていた。おそらくそれは志伸にとって、絢香や伯父様、そして親戚たちの評価と違って、エリート官僚やお金のある後ろ盾を持つ存在であることよりも、ずっと価値のあることだったのだと。彼の二度目の結婚披露二次会は、新しい妻との幸福な門出であると同時に、そして築き上げてきた友情のごっそりと抜けた、苦さのある「人生最良の日」だったのだ。そして、それは今でも続いている。

 彼が、どんな思いで、私とではない年末年始を迎えているのだろうと想像した。絢香と子供を氣遣いながら、去年は私の親戚だった人たちの複雑な腹の底を想像しながら座っていることを考えた。いい氣味だとは思わなかった。

「ありがとね」
私は、佑輝の顔を見ながら、彼のグラスを満たした。

「何に対して?」
「今夜、来てくれて。それに、私のことを氣遣ってくれて。私、仲間うちではほとんど存在感なかったし、心配してもらっているなんて、全然知らなかった」

 彼は長いつけまつげを伏せた。
「アンタは確かに騒いだり、目立つタイプじゃなかったけれど、アタシはリカが仲間にいてくれて本当によかったと、当時から思っていたわよ」
「どうして?」

「アタシがカミングアウトしたときも、男装をやめて好きな服を着るようになった時も、アンタは変わらずに接してくれた。興味本位であれこれ詮索もしなかったし、恋バナにも当たり前みたいにつきあってくれた。他の仲間も、結局は受け入れてくれたけれど、リカが平然としているのを見ていなかったら、ドン引きされたままだったかもしれない」

 新宿二丁目の店に勤めている佑輝は、今日も私よりもずっと綺麗にメイクして、洒落たパンツスーツを着こなしている。そんな彼も大学一年の頃は、短髪でTシャツとジーンズという、どこにでもいる青年の格好をしていた。当時から綺麗なモチーフ入りのジーンズや小物を選び、動きや語尾なども独特だったからもしかしたらと皆感じていたが、噂に過ぎなかった。三年生になる頃、何のきっかけだったか忘れたけれど、あっさりとカミングアウトしてからは、服装も話し方もどんどん変わった。

 当時の私が、その佑輝の変化に戸惑わなかったといえば嘘になる。でも、大切な仲間の一人が、いいにくいことを打ち明けてくれたのに、嗤ったり無視したりするようなことはしたくなかった。そんな薄っぺらい友情じゃないという自負もあった。私は目立たず、仲間うちで一番どうでもいい存在だったから、そのことを佑輝が憶えていたのがむしろ驚きだった。

「そうか。私ね。みんな失ったと思っていたんだ。親戚は絢香を選ぶだろうし、みんなは今後も志伸とつきあいたいだろうし、私の居場所はどっちにもなくなったなって」

「ふふ。アタシの居場所ですらなくならなかったんだもの、大丈夫よ」

 そうか。私の居場所はなくならなかった。それに、たぶん志伸にとっても、離婚は私との関係以外の何かの終わりじゃないんだ。

 彼が、新しい友との絆を持つには、もしくはかつての仲間たちと昔のように笑い合えるようになるまでには、おそらく長い月日を必要とするだろう。

 でも、きっと彼は惜しまずに時間をかけて、仲間との絆を回復するだろう。そして、今の居たたまれなさは時間と共に薄まっていき、新しい彼の人生は「これでよかったんだ」と思えるものに変わっていくのだろう。私の人生がそうであるべきように。彼と一緒にやっていけなかったのは残念だけれど。

「ねえ、佑輝。来年の抱負をきかせて」
私は、彼のグラスを満たした。

 彼は少し勿体ぶって話し出した。
「そうね。アタシ、店を変わる予定なのよ。ちょっと世話になった人に頼まれてね」

「えっと、もしかしてママになるとか?」
「あはは。残念、チーママってところかしら」
「えー、それでもすごいじゃない。私も行ってもいい? それとも女は禁制?」

 佑輝は、艶やかに笑った。
「そういうおかしな垣根のない店にしたいって、立ち上げメンバーと話しているの。アンタも、ほかのみんなも、それに志伸も、来たい人はみんなウェルカム。アンタこそ、それじゃ来たくない?」

 私は首を振った。
「ううん。私か志伸かどっちかが遠慮しなくちゃいけないのは嫌。でも、私の方が先に常連になりたいなあ。で、やってきた志伸に、ああ、あなたも来たのねって、余裕で言いたい」

 佑輝は、ゲラゲラ笑った。
「いいプランじゃない。じゃあ、オープンから通ってもらうわよ」

 除夜の鐘が鳴り出した。おしゃべりに夢中になっているうちに紅白を見逃したらしい。私は、佑輝の持ってきてくれたシャンパンを冷蔵庫から取り出してきた。去年から一度も使っていなかったフルートグラスを戸棚から取り出す。これ、志伸が大切にしていたやつだ。「特別な日はこれで乾杯しないと」が口癖だった。今ごろこのグラスを置いてきてしまったことを考えているのかな。それとも伯父さんにお酌するのに忙しくて、そんなことは忘れているかしら。

 佑輝は、慣れた手つきでコルクを抜くと、綺麗にグラスを満たしてくれた。人生最低だと思った年は終わった。壊れてしまった関係も、見捨てられて惨めだと思っていた自己憐憫のループも、終わったこととして思い出ボックスに閉じ込めてしまおう。

「明けましておめでとう、佑輝、今年もよろしく!」
「おめでとう、リカ。いい年になりますように」

 そうだね。私も、佑輝も、仲間のみんなも、田舎のお父さんお母さんも、そして、私と年末年始を過ごしたくなかった人たちも。それぞれのよりよい未来に向けて、別々に歩いて行くのよね。みんなにとって、いい年になりますように。

(初出:2019年12月 書き下ろし)

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Abba - Happy New Year
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Posted by 八少女 夕

【小説】主よみもとに

「十二ヶ月の歌」の十一月分です。十月分に続いてですが、「霧の彼方から」の最終章をはじめてしまうと十二月になってしまうので。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十一月はBYU Vocal Pointの “Nearer, My God, to Thee” にインスパイアされて書いた作品です。作品中に出てくる賛美歌は世界中で歌われていますが、この歌もその一つです。一番よく歌われるのはお葬式という特殊な賛美歌です。

歌詞はむしろ喜びに満ちているような歌なのですが、トーンはどちらかというと悲壮です。このギャップに私はいつも引っかかっていました。これが、この話で伝えたかったことと重なりました。これは「悲壮な幸福」の話です。

今回のストーリーは、名前だけを変えてありますが、私小説です。私の話ではないのですけれど。

追記に動画と、歌詞、そして意味がわかるように私のつたない訳を添えました。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む



主よみもとに
Inspired from “Nearer, My God, to Thee” by BYU Vocal Point ft. BYU Men's Chorus

 私が海外に移住した時期と、シスター荻野が帰国したと母から聞いたのは、ほぼ同じ頃だったと思う。私の記憶の中のシスター荻野は、小柄なのにとてもエネルギッシュ、快活な女性だった。カトリックの小学校に通った私の身近には、白いくるぶしまである服を着て黒いベールを被ったシスターと呼ばれる修道女がたくさんいたので、彼女たちがどのような出来事をきっかけに修道の道に入ったのか、深く考えることがなかったように思う。

 純潔を保ち、神に仕える。ありとあらゆる私欲を、今の私にとっては決して罪ではない、例えば「欲しいものを好きなだけ所有する」「大笑いするためだけのエンターテーメントを観にいく」「誰かを好きになる」「同僚達と一緒にムカつく上司の噂を肴にして呑む」といったことのどれもができない生活に自ら志願して向かう、覚悟のある人たちの心持ちをほとんど考えていなかった。

 子供の頃の私にはわかっていなかった。たとえ善良な努力家であっても、世界に溢れる物質的または精神的な誘惑に抵抗し、世界とそこに生きる誰かのために己の人生を捧げることが、どれほど難しいことなのかを。

 シスター荻野は、そうした修道女の中でも格別で、驚くべき熱意と克己心を持ち、その人生を神に捧げる道を邁進し、行動に移した。ブラジルの貧民窟にある修道院に志願し赴任したのだ。

 子供の頃に考えていたほど、宗教の世界は徳と善良だけが支配する世界ではない。それは、他の宗教と同様にカトリックも例外とはならない。免罪符の販売に象徴された中世における腐敗とは違うかもしれないが、十三億もの信者を抱える大きな組織には、階級もあり、それに伴い莫大な資金の動きもある。権力争いもあれば、栄華もある。

 テレビに映り、みなに跪かれ、ジェット機で飛び回る有名な枢機卿もいれば、教会内での信者や他の聖職者を己の意のままにして満足する司祭もいる。また、オルガンの演奏者として名を成すもの、心ゆくまで学究にいそしむ学者型の聖職者もいる。学校の経営者として子供たちを厳しく導く修道女たちもいる。

 どの生き方が正しい、またはキリスト者として間違っていると、私が断じることはできない。真面目な信者とは口が裂けてもいえない俗物である私と違って、信仰と祈りによってその道に邁進している人たちは、それぞれに信念に従って正しいことをしているのだから。

 ただ、『選び取った苦難』の一点だけにこだわれば、現代においては、その道を選ぶキリスト者は少ない。

「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広く、その道は広々としており、そこを通って入る者は多いからだ。 命に至る門はなんと狭く、その道はなんと狭められていることか! それを見いだす者は少ない」(マタイによる福音7章13-14節)

 マタイの福音書で、有名な『山上の教え』の一つとしてイエス・キリストが語っている言葉を実践することは、非常に難しい。恵まれた世界に生を受けたにもかかわらず、自ら苦難に向かっていくことは非常な思い切りを必要とする。

 シスター荻野は、その道を選んだのだ。日本にいて、ごく普通の修道女として信仰に満ちた生活を送る事もできたのに、それでは自分にできる全てを差し出したことにはならないと、敢えて志願したのだ。

 彼女のことを思い出すとき、母が段ボールに詰めながら私に見せた古着やタオルのことが脳裏に蘇る。母は、シスターからの手紙を読み、支援物資を集め、教会を通してブラジルに送る担当を買って出た。
「こんなよれたバスタオルやTシャツは失礼かと思っていたんだけれど」

 私は目を丸くした。以前手伝った近所の教会バザーでは、新品に近い物以外は持ち寄ることはしない。売れないので結局主催者の邪魔になるからだ。その箱の中には、切って雑巾にでもした方がいいかと思うものもあった。
「色褪せた物どころか、穴の空いたものですら、有難いんですって」

 新品はおろか、こぎれいな中古品を買うことすらもできない人々が溢れているという事実は、どこか別の惑星の出来事のように、私の観念からシャットアウトされ続けてきた。けれど、その箱は、わずか一瞬ではあるが、その遠い世界のことを私に想起させた。貧しく誰かの支援なしには生きられない人たちの、出口のない苦しみをほんのわずかだけ想像して、氣の毒に思った。そして、その世界と日々向き合い、異国で神と人々に奉仕し続けるシスターについての尊敬の念を深くした。

 私にとっては、ほんのそれだけのことで、すぐに忘れ、いつもの飽食と怠惰な日々を過ごした。人生の全てを擲ち、貧しい異国の人々の救済のために捧げているシスター荻野のことは、それからしばらく忘れてしまっていた。

 そのシスター荻野が、帰国したと母から聞いたとき、はじめは休暇の帰国なのかと思った。
「まさか。自分の休暇のために使える飛行機代があったら、貧民街の方のために使ったでしょうね。上層部からほぼ命令に近い形で送り返されたんですって」
「どうして?」
「ずっと帰国していなかったし、健康状態がよくないので精密検査をしなさいってことだったみたい……」

「ご病氣なの?」
「ええ。検査の結果ドクター・ストップで、海外赴任は禁止されてしまったらしいわ。本来ならとっくに定年になってるお歳だし、あんなに尽くされたんだし、ゆっくり養生して楽に余生を送っていただきたいと思うけれど、ご本人はブラジルに戻りたいと本当に悔しそうで」

「それで、今どうしてらっしゃるの?」
私が訊くと母は「U市の祈りの家ですって」と答えた。それは、高齢の修道女だけが住んでいる家で、いわば修道女達の老人ホームのような位置づけの場所だった。

* * *


 次にシスター荻野の近況を耳にしたのは、週に一度していた母との国際電話でだった。鍼灸院に私の姉が行ったときに偶然出会ったというのだ。腰が曲がって歩くのもやっとだったらしい。

 それから、母は祈りの家にシスターを訪ね、歩くのもおぼつかないのに奉仕に加わろうとしていた様子を話してくれた。
「あんなに永いこと働きづめだったのだから、老後くらいはのんびりして欲しいと私たちは思うけれど、ご本人はまだ神様に尽くして働きたいのでしょうね」

「じゃあ、何か簡単な仕事をなさっているの?」
私が訊くと、母のトーンは暗くなった。今でも何かで奉仕したいと願うシスター荻野のことを、世話をしている若い修道女らが迷惑がってきつく当たっているようだと。

「意地悪をしているつもりではないんでしょうけれど、身体が動かないのに余計なことをするから仕事が増えると言わんばかりだったのよね。私たち古い信者や関係者は、シスターの素晴らしい働きのことを知っているけれど、若い人たちは昔のことなど知らないし、ご本人も謙遜して何もおっしゃらないみたいだったし」

 なんて悲しい老後なんだろうと私は思った。母もそう思ったらしく、時おり訪問して、話を聞いたり教えを受けていたようだ。次に私が日本に行くときは一緒に訪問しようかと話をしていたのだが、元氣だった母が急逝してしまい、その約束は果たされなかった。

* * *


 母の葬儀に際しては、急いで一週間だけ日本に帰国したので、シスター荻野の話題を姉としたのは、その次に日本に帰国したときだった。

「そういえば、お母さんと近いうちにシスター荻野の所に訪問したいって話したから、今から一人で行ってこようかしら」

 すると、姉は首を振った。
「行ってもわからないと思う。三ヶ月くらい前に、鍼灸院の先生に聞いたんだけれど、認知症が進んでしまって、誰のこともわからなくなってしまわれたんだって。それを聞いて私も訪問を諦めたの」

 どうして……。私は、シスター荻野の人生の苦難を思い、やりきれない心持ちになった。

 努力が必ず報われるわけではないことくらい知っている。でも、因果応報の法則から考えれば、あれほどまでに人のために尽くし、キリスト者としての理想的な生き方を続けてきた彼女には、笑顔と尊敬に囲まれた穏やかな老後が相応しいと思っていた。こんな人生の最終章は、あまりにも酷だ。

 亡くなった母の葬儀で聴いた「主よみもとに」の歌詞が心に響く。

主よ、みもとに 近づかん のぼるみちは 十字架に
ありともなど 悲しむべき  主よ、みもとに 近づかん

さすらうまに 日は暮れ   石のうえの かりねの
夢にもなおあめを望み 主よ、みもとに 近づかん

主のつかいは み空に  かようはし の うえより
招きぬれば いざ登りて  主よ、みもとに 近づかん

目覚めてのち まくらの  石をたてて めぐみを
いよよせつに 称えつつぞ  主よ、みもとに 近づかん

うつし世をば はなれて  あまがける日 きたらば
いよよちかく みもとにゆき  主のみかおを あおぎみん

(カトリック聖歌 658番 / 讃美歌 320番)


 葬儀では、たいてい歌うので、亡くなった人のための曲のように錯覚するが、これは生きている信者達がどのように生きて死を迎えるべきか思い新たにするための歌なのだ。

 キリスト教の、そしておそらくシスター荻野が考えていた幸福とは、おそらく私の感じる幸福とは違うのだと思う。現世での因果応報や、人々に認められて尊敬されることも、穏やかで健康な老後も、その他、私がそうだったらいいと願うよりよい人生の終わり方も、真のキリスト者の目指すべきものではないのだろう。

 幸福といえば、健康で衣食が満たされ、栄誉を授けられ、氣の合う仲間やお互いを大切に思う家族に恵まれるようなことをすぐに思い浮かべるが、キリスト教の教えではそれは真の幸福ではない。イエス・キリストが人類のために無実の罪で十字架の上で命を失ったように、使徒やそれに続く信者達が迫害に屈せず殉教したように、断固として教えの道に忠実に生きて命を捧げ、最後の審判で認められて天国に受け入れられることこそが幸福なのだ。

 もちろん過去から現在に至る多くの信者は、その様な生き方はできない。かなり善良な信者でも、良心に恥じない、つまり「盗まず」「殺さず」「姦淫せず」程度のさほど難しくない戒めを守り、時おり貧しい者を心にとめて慈善行為をしたり、時おり思い出したように祈りを唱えたりして、自らの至らなさに心を留めるのが精一杯だ。ついつい食べきれないほどの豪華な食事を食べてしまったり、恵まれた人たちを妬んでしまったり、嘘をついてしまったりと、小さな罪をも重ねつつ、それでもできることなら死んだら地獄には行きたくないと、都合のいい望みを抱く。

 そうした何億人もの「正しい信者になりたくてもなれない人びと」、聖書のいうところの広き門から入り楽に暮らす人々を見つつも、一線を画して真のキリスト者を目指すことは、厳しく孤独な道行きだ。生きているうちに尊敬され報われるのではなく、一人狭き門と険しい道を選び続け、惨めな生の終わりすらも神の国へ至る途上だと喜ぶのはなんと難しいことだろう。

 身体がボロボロになるまで働き、邪険に扱われ、お荷物と見なされていることを肌で感じ、働きたくても身体が動かなくなったことを嘆くシスターには、忘却は一つの救いなのかもしれない。一足先に旅立った母は言っていた。あの方こそ、神の国に迎えられるのに相応しいと。
 
 他の誰かが天国に行くのかは知らない。惜しまれて立派な葬儀で送り出された人のことも。けれども、ゆっくりと旅立とうとしているシスター荻野の行く先については、私は亡き母と同じ意見を持っている。

(初出:2019年11月 書き下ろし)

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Nearer, My God, to Thee | BYU Vocal Point ft. BYU Men's Chorus

歌詞と意訳

Nearer My God to Thee
主よ御許に近づかん

【ラテン語】
In articulo mortis
(死の瞬間には)
Caelitus mihi vires
(私の強さは天からもたらされる)
Deo adjuvante non timendum
(神は助けたまい、なんの怖れもない)
In perpetuum
(永遠に)
Dirige nos domine
(我らが主よ、導きたまえ)
Ad augusta per angusta
(狭き小径より至る いと高きところへ)
Sic itur ad astra
(そは星々へ至る道のごとし)
Excelsior
(さらなる高みへの)

Nearer, my God, to Thee, nearer to Thee!
(もっと近くへ、我が神よ、もっとあなたの近くへ)
E'en though it be a cross that raiseth me,
(たとえそれが私を十字架に架けるとも)
There let the way appear, steps unto Heav'n;
(天へと続く道と階段を現してください)
All that Thou sendest me, in mercy giv'n;
(全ては私に下され、天から与えられたもの)
Excelsior excelsior excelsior excelsior
(もっと もっと もっと もっと 更に高く)
Still all my song shall be, nearer, my God, to Thee.
(それでも全ての我が歌は、我が神よ、あなたの御許に)
Nearer, my God, to Thee, nearer to Thee!
(あなたの御許に、我が神よ、あなたの御許に)
Though like the wanderer, the sun gone down.
(さすらい人のごとく太陽は沈もうとも)
Darkness be over me, my rest a stone;
(暗闇が私を覆い、石の枕で休むこととなろうとも)
Excelsior excelsior excelsior excelsior
(もっと もっと もっと もっと さらなる高みへ)
Angels to beckon me nearer, my God, to Thee.
(天の使いが私を誘う あなたの御許に、我が神よ、あなたの御許に)
Nearer, my God to Thee, nearer to Thee.
(あなたの御許に、我が神よ、あなたの御許に)
Excelsior excelsior excelsior excelsior excelsior excelsior excelsior excelsior
(もっと もっと もっと もっと さらなる高みへ)
Or, if on joyful wing cleaving the sky,
(さもなくば 歓びの翼に乗り空を駈けるなら)
Sun, moon, and stars forgot, upward I'll fly.
(太陽、月、そして星を後に残し、私はさらに上へと飛ぶだろう)
Excelsior!
(さらなる高みへ!)





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Posted by 八少女 夕

【小説】走るその先には

「十二ヶ月の歌」の十月分です。十月はいろいろあって発表できなかったので、ここで。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十月はホイットニー・ヒューストンの “Run To You” にインスパイアされて書いた作品です。これまた超有名な曲ですので、歌詞やその和訳はネットにたくさん出回っています。

歌詞を聴いて(読んで)いただくと、何にインスパイアされたのかがわかると思います。この話も実話をモデルにして書いています。


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走るその先には
Inspired from “Run To You” by Whitney Houston

 最初にヴェルダの存在を意識したのは、いつだっただろうか。レオニーが最初にヘルツェン野犬保護センターでのボランティアに参加したのが二年前だったので、その時にはもう出会っていたのかもしれない。

 最初の年、レオニーは実に軽い心構えでそのプログラムに参加した。好きな動物と触れ合いながら、エキゾティックなイスタンブールの街を楽しめる、パッケージ旅行のようなものだと。

 でも、その考えが甘ったれたものだと、初日に思い知らされた。センターはレオニーと同郷の獣医フライシュマン女史が自費で立ち上げた。彼女は定年後の人生をトルコの放置されて傷ついた野犬たちの保護活動に捧げている。色艶の悪い顔は表情に乏しく、痩せた筋肉質の肌は日焼けで荒れていた。ギスギスとしているのは外見だけでなく、口のきき方も同じだった。だが、あの地獄を毎日続けていたら誰だって朗らかで自分の容姿に氣を配ることなんてできなくなるだろう。

 荷物を奥に置いて一息つく余裕もなく、レオニーはフライシュマン女史が棘を抜こうとしている大きな犬を共に押さえつけるように言われた。それは、後からわかったのだが、アバクシュというトルコの固有種の成犬で、白く豊かな体毛が特徴なのだが、黒っぽい犬だと思い込むほどにひどい汚れにまみれていた。

 痩せこけ、疥癬にまみれて、所々の露出した肌にウジ虫がたかり、さらにどこかの有刺鉄線に引っかかったのだろうか、目の近くに鉄の棘が深く刺さり化膿しかかっていた。ひどい目に遭い続けてきたのだろう、人間不信がひどく、センターのメンバーたちが保護したときも、処置を受けているときも吠え続けていた。

 それから、少しは人なつこさを残している小さな犬たちの世話でくれた一週間は、レオニーに動物保護の現実を思い知らせた。それは愛情に満ちた崇高な旅などではなく、人間の身勝手さと己の無力さに向き合うだけの日々だった。

 同じプログラムに参加した同郷のメンバーで、翌年の休暇もヘルツェン野犬保護センターへ行くことを決めたのはレオニー一人だった。
「思っていたよりも、骨があるようね」
フライシュマン女史は、そう言って初めて笑顔を見せてくれた。

 二年目に担当するように言われたのが、身体が大きい犬たちの世話だった。ヴェルダは、そのうちの一頭だった。トルコ固有種カンガールの血を引くと思われる雑種犬で、身体の多くの部分は白い短毛で覆われ、くるんと撒いた尾と鼻の頭が黒い。保護されたときは生後三ヶ月だったというが、すでにそこら辺の成犬より大きかった。唸ったりはしなかったが、檻の奥に張り付くようにうずくまり疑い深くレオニーを眺めていた。

「ヴェルダって、どういう状態で保護されたんですか?」
フライシュマン女史は、顔を曇らせて答えた。
「ひどい状況だったわ。母犬と一緒に放り出されたみたい。母犬は打ち据えられてあの子を含む三匹の子犬を抱きかかえるようにして冷たくなっていた。生きて保護されたのは二匹だけで、生き残ったのはヴェルダだけ」

「そうだったんですか。人なんか信用できないって思うのも無理ないのかな。じゃあ、名前は先生がつけたんですか?」
彼女は、奥で作業している青年エミルを示して答えた。
「これだけたくさんいると、私が考えつく名前にも限りがあるのよ。だから、この子の名前はエミルが考えてくれたの。近所の雌犬と同じなんですって、薔薇って意味らしいわ」

 ヴェルダは、食事を入れて檻の扉を閉めると、そろそろと近づいてきて喉につかえるかと思うほど急いで平らげた。
「心配しなくても、だれもあなたのご飯を取ったりしないよ、ヴェルダ」

 レオニーは、前回と違い三週間滞在したので、以前よりも犬たちと信頼関係を築くことに成功した。一週間目の終わりには、食事の用意や散歩だけでなく、多くの犬たちのブラッシングやシャンプーもできるようになったし、ヴェルダも匂いを嗅いで身体を撫でさせてくれるまでになった。尻尾を振って黒い鼻先をすり寄せてくる様子が愛しくて、レオニーはたくさんの言葉をかけながら心を込めて撫でた。

 次に来るのはまた一年後のつもりだったが、フライシュマン女史が人手不足に悩んでいるとメールをよこしたので、レオニーは半年後のクリスマスにも一週間だけまたセンターへ行った。

 夏に馴染んだ大型犬たちのほとんどは姿を消していた。怪我が治りきらなかったアバクシュ犬のように亡くなってしまった犬もいたし、幸い新しい飼い主に引き取られてセンターを去った犬たちもいた。

 ヴェルダは、まだいた。レオニーの姿を見ると狂ったように尻尾を振った。
「あなたの後任の子とは合わなかったのよね。スタッフにも時間もなかったから、かわいがってもらうこともなかったし。だからあなたに会えて嬉しいのよ」
フライシュマン女史は頷いた。

 センターは深刻な人手と資金の不足に悩んでいた。一週間の滞在中、レオニーは以前の三倍の数の犬たちを担当し、ヴェルダと遊ぶ時間はほとんどなかった。けれど、大きくなった白い犬は、哲学的な面持ちで、食事や散歩のために近づいてくるレオニーをじっと見つめ嬉しそうに尻尾を振って見せた。

「レオニー、お願いがあるの」
フライシュマン女史が、クリスマスケーキの一切れを手に彼女の側に座ったのは、レオニーが発つ二日前だった。

「なんでしょうか」
「ヴェルダの引取先がチューリヒの老婦人に決まったことは話したでしょう。その輸出許可関連の書類が、今日届いてね。急だけれど、あなたが帰る時に付き添って欲しいの。こちらから付添人のために航空券を買う余裕がないから。空港に私の知人が引き取りに来て先方に届けるので、多くの手間は取らせないわ」

 レオニーは、ヴェルダに家ができることにほっとすると同時に寂しさも感じた。新しい飼い主に愛情を注がれて、幸せになったらきっと私の事なんて忘れちゃうんだろうな、そんな風に思ったから。

 イスタンブールで、ヴェルダを連れて車に乗り込んだ。尻尾を振るレオニーに「一緒に行くんだよ。新しいお家に行くんだよ」と語りかけた。ヴェルダは、まるで意味がわかっているかのようにことさら激しく尻尾を振り笑顔を見せた。特別貨物室へ向かうヴェルダは不安そうだったのでやはり声をかけた。
「大丈夫。同じ飛行機に乗るから。チューリヒでまた逢おうね」

 チューリヒのクローテン空港で、ヴェルダを受け取ったとき、疲れていたのかぐったりしていたのが、レオニーを見てまたちぎれんばかりに尻尾を振って立ち上がったのが愛しくて、思わず駆け寄った。税関と検疫の長く煩雑な手続きも無事に終えて、綱をつけたヴェルダと一緒に到着ゲートを越えた。

 フライシュマン女史の言った通り、そこには迎えが来ていてそこでヴェルダと別れることになった。不審げに幾度も振り返りつつ連れられていくヴェルダをレオニーは涙ぐんで見送った。

* * *


 三ヶ月後にフライシュマン女史からもらったメールを読んでレオニーは驚いた。ヴェルダを引き取った老婦人が老人ホームに入ることになり、大型犬を飼い続けることができなくなったというのだ。費用や検疫手続きを考えるとトルコに送り返すのは現実的ではないが、このままではチューリヒの動物保護施設に送られ場合によっては安楽死になることもある、できれば新しい引取先を見つける手伝いをして欲しいというのだ。

 だったらはじめからトルコから大きな犬を引き取ったりしなければいいのに。あの檻の奥で絶望的に眺めていたヴェルダの表情を思い出して、レオニーの心は痛んだ。虐待で母親や兄妹を失い、ようやく慣れたセンターから遠くスイスまでやって来たというのにまた別のセンターに逆戻りで、さらに生きられる保証もないなんて。レオニーは憤慨した。

 レオニーは、急いでチューリヒに向かい、老婦人の話を聞きに行った。もう誰か引き取り手を見つけたのか、どのくらい時間の余裕があるのか知りたかった。

 レオニーを見たヴェルダは、狂ったように尻尾を振って近づいてきた。老婦人は、驚いて言った。
「まあ、こんなに喜びを表現することもあるのね。大人しいけれど感情に乏しい犬だと思っていたの。今まで飼った犬みたいに、人なつこいと引き取り手も見つけやすいのだけれど、この子のように相手を選ぶとなかなかね。それにこんなに大きいし」

 成犬になったヴェルダは、85センチもの体高になっていた。それにトルコでは牧羊犬として狼や熊にも立ち向かうといわれる勇猛さ故、子供のいる家庭では敬遠されるだろう。でも、それもわかっていて引き取ったはずなのに。

 これからヴェルダは、どれだけ長く家族が見つからない不安な状態を過ごすのだろう。新しい飼い主が見つからなければ、邪魔者扱いされてこんな故郷から遠く離れたところで命を落としてしまうのだろうか。

「私が引き取ります」
ほとんど何も考えずにレオニーは口にしていた。老婦人は驚いた。自分でも驚いたが、もう後には引けない。

 フライシュマン女史に報告したところ「おすすめじゃないわね」と言われた。関わる犬を全て引き取ることはできない、割り切ることも大切だと言うのだ。それはわかっている。でも、そうやって割り切って、後からまた嫌なニュースを耳にすることには我慢がならない。

 それにヴェルダが茶色の瞳を輝かせて見ていたのだ。尻尾を振り、大きく口を開いて。
「おいで、ヴェルダ。はじめから私が飼えばよかったんだよね。私の住む村は、散歩するところもたくさんある。だから一緒に行こう」

 白い大きな犬が、体当たりするように駈けてきた。まだ20キロくらいしかなかった頃によくしてきたように。50キロ近くになり、大きくてがっしりとした彼女の身体は、責任感の重さそのもののようだった。でも、きっと上手くいく。こんなに喜んでくれるんだもの。

 レオニーは、思いがけず大型犬と過ごすことになる、大きな生活の変化に向けて、あれこれと思いを巡らせた。

(初出:2019年10月 書き下ろし)

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もともとは、恋愛の歌なんですけれど……。



Whitney Houston - Run To You (Official Music Video)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】あなたを海に沈めたい

「十二ヶ月の歌」の九月分です。なぜ一ヶ月がこんなに早いんだろう……。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。九月は加藤登紀子の”難破船”にインスパイアされて書いた作品です。中森明菜が歌ってヒットしましたよね。私にとってもそのイメーシが強いのです。こちらは日本ではとても有名な曲ですので、聴いてみたい方、歌詞を知りたい方はWEBで検索してくださいね。

さて、もちろん原曲は、純粋な失恋の歌なのですけれど、私の中でこんなイメージがいつもつきまとっていました。


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あなたを海に沈めたい
Inspired from "難破船" by 加藤登紀子

 おかしな降り方の雨だった。
「今日降るなんて聞いていないよ!」「傘、もってこなかった」
人々は口々に文句を言いながら通り過ぎた。ぽつりほつりと降っていたのはほんのわずかの間だけで、すぐに熱帯雨林のスコールのような土砂降りになり、庇や地下鉄へと駆け込もうとする人々で街は急に騒がしくなった。

 唯依だけが、恨めしげに天を仰いだだけで、そのまま重い足取りで進んだ。何もかもが上手くいかなくなり、全てが裏目に出た。雨にひどく濡れるくらい、大して違いはない。むしろ、惨めなのは自分だけではないと思えて有難かった。

* * *


 マストはゆっくりと揺れていた。ほとんど無風だ。眩しい光と、たくさんの白が、勝の眼を射た。白い帆、白い船体、白いリクライニングチェア、そして、その上で背中を焼く茉莉奈の白いビキニ。彼は、船内に入り冷えたヴーヴ・クリコの瓶を冷蔵庫から取りだした。ポンと心地のいい音をさせて、コルクは青い大西洋に吸い込まれていった。

 セントジョージを目指すプライヴェート・セーリング。真の勝者だけがエンジョイできる娯楽だ。残業禁止だ、営業成績不振だと締め付けられながら、代わり映えのしない日々をあくせくと働く奴らが、生涯手にすることのできない時間をこうして楽しんでいる。彼は、ジャンペンを冷えたグラスに注ぎ、この幸福を彼にもたらした新妻に渡した。

「ああ、美味しい。ヴーヴ・クリコの味が一番好き。屋内のパーティで飲むのも悪くないけれど、こうして太陽の下で飲むのが一番よね」
茉莉奈は、にっこりと笑った。

「社の飲み会では、乾杯以外ほとんど口をつけなかったから、君はアルコールに弱いんだと思っていたよ」
「私、あの手の安っぽいビール、嫌いなの。そもそも、会社の飲み会なんて全く行きたくなかったわ」
「勤めも社長と会長に言われて、仕方なくだったのかい?」
「まあね」

 茉莉奈が社長の娘であることは、ずっと秘密にされていた。もちろん、どこかのお嬢様に違いないとは、入社してすぐから噂になったけれど。勝は、次期社長の座を狙って茉莉奈に近づいたわけではない。彼を振り向かせようと躍起になったのは彼女の方だった。華のある美人で、スタイルも抜群、しかも将来の出世が約束されているとわかっているのに袖にするほど勝も天邪鬼ではない。

 同期の佐藤が結婚したときにもらった休暇は二週間だった。ハネムーンはハワイで、芋洗いのような混雑したビーチでのスナップ写真を見せられた。勝と茉莉奈は、一ヶ月のハネムーン旅行を大いに楽しむことが出来る。大型セーリングヨットを貸し切り太陽を自分たちだけのものにするのだ。もちろん、帆を張ったり、航路を決めて安全に走行するのは二人のクルーの役目だが。

「経理課や総務課なんて、死んでもごめんよ。あんな地味な制服を着て週の大半を過ごすなんて。あんなつまらない仕事は、地味に働くほかない人がするものよ。……鈴木唯依さんとか」

 勝は眉を寄せた。
「……彼女と知り合いなのか?」

 茉莉奈は意味ありげに笑った。
「知り合いってほどじゃないわ。でも、狙った相手にアタックする前に恋人がいるかリサーチぐらい、誰だってするわよ。もしかして、知られていないと思ってた?」

 勝は、少し慌てた。
「君と二股をかけていたわけじゃない。その……フェードアウトしていた時に、君と知り合ったんだ」

 茉莉奈は、シャンパングラスを傾けて、答えた。
「知ってるわよ。彼女の担当の仕事が忙しくて、ずっと逢えなかったんでしょう? だって、そうなるように板東のおじさまにお願いしたんだもの」
「経理部長に? まさか」

「柿本英子って知ってる? 私の同期。板東のおじさまとつきあっているの。それをパパに告げ口されたら大変だと思ったんじゃないかしら、ちょっと冗談っぽくお願いしただけで、何も訊かずにあの子を仕事漬けにしてくれたわ。でも、誓ってもいいけれど、それ以上のことは何もしていないわよ。だって、一緒にいる時間さえあれば、あなたが私を選んでくれることはわかっていたもの」

 勝は取ってつけたように笑った。
「まったく君には勝てないな。言うとおりさ。僕は君の魅力に抗えなかった」

 油断していたと思った。唯依とつきあっていたことを茉莉奈に知られていたなんて。茉莉奈との二度目のデートにこぎ着け、自分の人生に新たなチャンスが巡ってきたことを確信してすぐに、唯依にメールで別れを告げた。彼女が納得せず大騒ぎになることを怖れていたが、物わかりのいいことが一番の美点だと常々思っていた通り、一度会ってできるだけ誠実に見えるように振る舞ったら、なんとかこじれずに別れることが出来た。

* * *


 熱帯雨林のように不快な湿氣を恨めしく思った。纏わり付き、この身を雁字がらめに捕らえているのは、勝への妄執なのだと思った。忘れることも出来ず、憎むことも出来ず、まだ、どうしようもなく彼を望む心を持て余していた。
 
 だが、今さら何が出来るというのだろう。加藤勝に捨てられてからもう半年以上が経っていたし、彼は会社中の祝福の中で社長令嬢と華燭の宴をあげてしまった。唯依とつきあっていたことすら、会社ではほとんど誰も知らず、興味も持っていない。彼の心も未来も彼女のものなのだ。それを納得できないでいるのは唯依たった一人なのだ。

 二人の女を天秤にかけ自分を捨てていった勝への怒りは、どこかへと押し込められていた。それ以上に、ただ、彼の元へ行き、泣きすがり、抱き留めてもらいたいという願いに支配されていた。

 二人がセーリングヨットを貸し切りにしてハネムーンを過ごしていると聞いたフロリダの海を心に描いた。自分とのハネムーンだったらどんなに素晴らしいことだろう。空を駈け、彼を探して飛び回った。白い大きな帆船。三角の二つのマスト。シャンペングラスを持った勝の姿を目にしたように思った。

 突然立ちくらみがして、唯依はその場にしゃがみ込んだ。

* * *


 突然、バンっという大きな音が頭上から聞こえた。間髪入れずに「きゃっ!」と茉莉奈が叫んだ。リクライニングチェアのすぐ脇に、落ちてきた何かが大きな音を立てた。
「やだっ。何?」

 勝が近寄ると、それは白い鳥だった。わずかにオレンジがかった顔と黒い羽根の先、ピンクのくちばしでびっくりするほど大きい。カモメってこんなに大きかったんだと驚いた。マストにぶつかったのだろうか。片方の翼だけをはためかせて暴れている。茉莉奈が怯えるので、とにかく抑えようと側に寄った。鳥の方は、捕まらないように、もっと大きな音を立てた。

「どうしました」
機関室の裏側で作業をしていたクルー、ラモン・アルバが寄ってきた。

「落ちてきたんだ。マストにぶつかったんじゃないかな」
勝は肩をすくめた。

「あっ。そ、その鳥は……怪我をしているのでは?」
「ああ、片方の翼を動かせないみたいだね。折れちゃったんじゃないかな」

「嫌だわ。早くどけてよ」
茉莉奈は、眉をひそめた。東京でも感染症を引き起こす菌が多いからと鳩の側に行くのを異様に嫌がる彼女が、こんな近くで暴れる野鳥に我慢できるはずはない。

 勝は側にあったクッションを手に取ると、叩くようにしてカモメを船首の脇に追いやった。

「おい! 何をするんだ!」
水夫が怒鳴ったので、勝はむしろ驚いて振り向いた。その勢いで暴れていた哀れな鳥は柵を越えて海へと姿を消してしまった。

 駆け寄ってきたラモンと共に首を伸ばすと、ロープにかろうじて引っかかっていた鳥は次の瞬間に海へと落ちていった。勝は腹に苦い思いがしたが、あえて平静を保って言った。
「かわいそうだが、どっちにしても長くは生きられないさ」

「かわいそうで済むか! 不吉極まりないことをするな」
「なんだって?」

 この男は、やたらと迷信深くて困ると彼は腹の中で呟いた。茉莉奈が船内にバナナを持ち込もうとしたときも「不吉だ」と怒ったし、勝が口笛を吹いたときにもすぐにやめさせた。

「どうしたんですか?!」
機関室から船長デニス・ザルツマンが顔を出した。

「なんでもないよ。カモメが落っこちてきて暴れたから、どけただけさ。海に落っこちてしまったみたいだな。どっちにしても折れた翼じゃ長生きできないだろう」

 ラモン・アルバは青ざめて首を振った。
「違います、船長。あれはカモメなんかじゃない。俺はこの目で見たんだ。アルバロトロスだったんだ!」

 アルバロトロス? なんだ? どの鳥だって、この際どうでもいいだろうに。勝は首を傾げた。

 デニスは、眉をひそめた。
「落ち着くんだ、ラモン。そんなわけないだろう。北大西洋にアホウドリアルバロトロス は生息していない」

「だから、こっちも慌てているんですよ。この俺が、アホウドリがわからないとでも?」
「そうは思わないが……ミスター・カトウ。カモメっておっしゃいましたが、どんな鳥でした?」

「白くて、このくらいの大きさで、顔がオレンジっぽくって、くちばしは淡いピンクだったかな……わざと殺したわけじゃない」
勝が言うと、あきらかに船長の顔色が変わった。
「まさか。……よりにもよって、アホウドリを殺したっていうのか?」

 勝と茉莉奈には、何が何だかわからなかった。まるで死んだのがカモメなら問題ないみたいな言い方だ。まあ、この辺りに生息していない鳥が現れたのは奇妙かもしれないが、たまたま飛んできただけかもしれないのに。

 ラモン・アルバは、震えて今にも泣き出しそうだ。船長は、そんなスペイン人に「しっかりしろ」と言って船内の用事を言いつけた。

 それから小さな声で勝に言った。
「帆船時代、船乗りたちはアホウドリを海で死んだ仲間の生まれ変わりと考え、殺せば呪いがかかると信じていたんですよ。今でももちろんアホウドリを殺すのはタブーです」

 勝はため息をついた。
「時代錯誤な迷信だ。今は、二十一世紀だというのに。大体他にもあの男は、バナナがとうとか、口笛がどうとか……」

 船長は、厳しい目を向けていった。
「つまり、あなたは船に乗るときのタブーをことごとく破り続けているというわけですね。ご自分の国でもそんなことばかりなさっていらっしゃるんですか?」

 勝は、居心地悪そうに視線を落とした。茉莉奈との結婚式は、もちろん大安だったし、スタッフや会社からの参列者にも服装や忌み言葉に氣を付けるよう徹底させた。茉莉奈にとって最高のウェディングになるように心を配ったのだ。

 デニスは、苦々しそうに言った。
「ここバミューダ海域が、他の海よりも危険だという噂は事実ではありません。いわゆるバミューダ・トライアングルで忽然と消えたと喧伝されている幽霊船ストーリーの多くはねつ造です。だが、海そのものが100%安全なわけではありません。私たち船の上で働くものは、常に最善を尽くし安全に旅が終わるように心がけています。その姿勢を馬鹿にするような態度は改めていただきたい」

「ねえ、勝。鳥のことなんかよりも、私、きもち悪い。もっと静かに走るように言ってよ」
茉莉奈の不機嫌な声が聞こえた。船酔いしがちなのだ。

 心なしか先ほどよりも船が大きく揺れている。勝は手すりにつかまった。船長は厳しい顔をして機関室に向かおうとした。

「何か、おかしいのか?」
勝の問いに、彼は行き先を指さした。

 地平線の彼方に、恐ろしい勢いで黒雲が広がっているのが見えた。勝は思わず叫んだ。
「チクショウ! 嵐になりそうじゃないか」
「いい加減にしろ! 海で悪態をつくな! まだわからないのか?!」

「いい加減にするのはどっちだ。こっちは客だぞ。そんなことを言っているヒマがあったら、嵐になる前にセントジョージに到着してみろ」

 デニスは、勝をにらみつけ叫んだ。
「お前らみたいなとことん不吉な客だと知っていたら、載せなかったよ。まさか、この上、誰かの恨みでも買っているんじゃないだろうな。つべこべ言わずに、あの金のかかりそうな女と船室で震えていろ。どんなに立派な船だろうと、どれだけ技術があろうと、嵐が直撃したらこの程度の船はひとたまりもないんだ!」

 おかしな降り方の雨だった。ぽつりほつりと降っていたのはほんのわずかの間だけで、すぐに熱帯雨林のスコールのような土砂降りになった。波はひどく高くなり、80メートルもある船が、木の葉のように上下に揺れた。

 デニスと、船室から出てきて青ざめながら作業をはじめたラモンの様子から、近づいてくる嵐は生命の危険すらある深刻なものだと勝にもわかった。船の揺れはもう立っているのが精一杯になってきた。とにかく茉莉奈を落ち着かせなくては。不安で泣き叫ぶ新妻の腕を取り、這うような形で彼は船室を目指した。

* * *


「どうしました? 大丈夫ですか?」
遠くから声が聞こえる。唯依は、それが自分にかけられていることを認識した。瞼を開けると、数人の親切そうな人たちが囲んでいた。心配そうにのぞき込んでいる。

 唯依は、目を上げた。いつもの通勤路だ。先ほどの雨が嘘のように、雲が消え去り強い陽光が濡れた服をじりじりと温めた。

「なんでもありません。少し立ちくらみがしたんです」
彼女は立ち上がった。

 ここは東京だ。心だけでも大西洋にいる彼を追いかけていけるなんて、そんなことがあるはずはない。彼と一緒に二人でバミューダ海の底へ沈んでしまいたいだなんて、馬鹿げた願いだ。

 思い惑い、半年以上も進む道を見つけられない自分は、難破船のようだと思った。

 だれにも顧みられない、ひとりぼっちの自分でも、人生はまだ続いていく。経理課の仕事は、自分に向いている。彼と社長令嬢の幸せな話を聞くのはつらいけれど、生活のためには黙って働き続けるしかない。もしかしたら、その平凡な日常こそが、自分をどこかの岸辺に連れて行ってくれるのかもしれないと願った。

(初出:2019年9月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】《ザンジバル》

「十二ヶ月の歌」の八月分です。今年も三分の二も終わりって……嘘だ。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。八月はフランスのシンガーソングライター、ディディエ・シュストラックの”ザンジバル”という歌にインスパイアされて書いた作品です。

私がこの曲を知った経緯はそのままこの小説に書いてあります。そして、1996年のアフリカ一人旅でも、本当にザンジバル島を訪れています。そして、ここを訪れたことが、現在、アフリカとは全く関係のないこの国に移住することになった小さなきっかけの一つになっているのです。だから、私の中でこの島は今でもものすごく特別な場所です。

観念的でこれといったオチのない話です。よかったら、先に(または同時に)曲を聴いてお読みください。なお、小説を飛ばして動画だけご覧になるのもいいかと思います。素晴らしい光景ですけれど、これ、いいところだけを上手に切り取った系の風景ではなく、本当にこういう島です。


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《ザンジバル》
Inspired from "Zanzibar" by Didier Sustrac

 明るいエメラルドグリーンの海がどこまでも広がっていた。白い砂浜には陽光が反射している。こんなに完璧なビーチだというのに、観光客の姿が少ない。いないわけではない。だが、八月と言えば世界中から夏の休暇で観光客が押し寄せるハイシーズンのはずだ。例えば、カナリア諸島やギリシャの島ではパラソルやビーチタオルが隙なく広げられて、砂浜も見えないほどだ。それなのにここでは、背景に自分たち以外は映っていない、まるで無人島のような写真を撮ることも簡単なほどわずかな観光客しかいないのだ。

 ようやくここにやって来た。初めてこの島のことを知ってから八年が経っていた。渋谷のCDショップで何げなく試聴したフランス語のアルバム。ディディエ・シュストラック。聞いたこともないアーティストだったけれど、心地よい声とリズムに心惹かれて、歌詞の意味もわからずに買い求めた。その最後に入っていた曲がアルバムのタイトルにもなっていた「Zanzibar」だった。

 日本語対訳を読みながら、この歌が実在のザンジバル島のことを歌いながら、同時に遠い憧れを語っていることを知った。でも、よく理解できない言葉がいくつかあった。「貿易風はささやく、”ランボー”と……」「わずかなアビシニアの魅力と、”アルチュール”の言葉」。何のことだろう? フランスの詩人ランボーのこと?

 それで、調べてみた。ザンジバルと関係のあるランボーのことを。それは本当に詩人アルチュール・ランボーの事だった。彼は、なくなる前年までの十年間を、アラビアのアデンと、アビシニア(現在のエチオピア)のハラルを往復して過ごした。そこからフランスの家族にあてた手紙で「ザンジバルへ行くつもりだ」と告げていたのだ。けれど、彼は実際には一度もザンジバル島に足を踏み入れなかった。

 彼は、アデンでフランス商人に雇われ、やがてハラールで武器商人となって暮らした。骨肉腫で右足を切断することになり、フランスに戻り亡くなった。

「あなたは、中国人?」
私は、驚いて手に持っていたカメラを取り落とすところだった。

 振り向くと、褐色肌のすらりとした女性が立っていた。アーモンド形の綺麗な瞳、化粧ではなくて自然のままに見えるのにまるで二日目の月のごとく完璧な形の眉。すらりとした鼻筋と口角の上がった厚めの唇。低めにまとめたストレートの黒髪は、とても長いのだろう大きなシニヨンとして艶やかに首の後ろを飾っている。鮮やかなセルリアンブルーの布を巻き付けたように見えるワンピースドレスが褐色の肌の美しさを引き立てていた。

 ここまで彫りが深くて目鼻立ちの整った女性は、『アフリカの角』の出身だろう。かの『シバの女王』やランボーの愛した《アビシニアの女》と同じく。

 ランボーは、アデンに住んでいた一時、アビシニア出身の恋人と住んでいた。手紙で金を無心していたフランスの母親にはひた隠しにしていたその女の存在は、雇い主の家政婦であったフランス人女性によってある程度詳しく証言されている。美しいキリスト教徒の娘と彼は睦まじく過ごしていたと。

「あなたは、中国人なの? それとも?」
現実の方の女性は、英語の質問を繰り返した。

「いいえ、私は日本人です」
私は、答えた。

「まあ、そうなの。日本にはいずれ行ってみたいと思っているのよ、素敵な国だって聞いているわ」
彼女は、微笑んだ。真っ白い歯ののぞく肉感的な唇には、女である私すらもドキドキする。

 私は自分の服装を見下ろして、情けなくなった。近所のコンビニに行くのすらもはばかられる格好だ。大学生時代からの習慣で、バックパックで安宿を泊まり歩くスタイル。捨てて帰る予定のヨレヨレのTシャツと、色のあせたジーンズ、それに履き古したスニーカーと折りたためるのが利点のベージュの帽子。タンザニアの空港では、さほど場違いだとは思わなかったし、スリや置き引きなどに狙われないためには、貧乏に見えた方がいいと思っていたが、この美しい海浜には全くそぐわない。

 彼女の装いは対照的だ。波のきらめきのように様々なトーンの青が混じり合う薄物のドレスは、ファッション誌の巻頭グラビアか、それともリゾートのパンフレットを飾るモデルのように、ビーチを完璧に変えている。もともとの美貌を選び抜いた服装で神々しいまでに昇華しているのだ。美を保つとは、どれほどの努力を必要とするのだろう。そして、それを厭わなかったわずかな人が、こうして「美こそが究極の善である」印象を世界に誇示することが出来るのだ。

「ザンジバルは、初めて?」
「はい。こんなに綺麗な海なのに、ほぼ独り占めってすごいことだなって感心していたところなんです」
「そうね。確かに観光客が押し寄せることは少ないわね。イエローカードが必要だからかしら」

 ザンジバル島は、タンザニアの一部だ。そしてタンザニアに入国するためには黄熱病の予防接種が必須だ。一週間程度のバカンスを頼むのに、わざわざ保健所を訪れて予防接種をしたがる観光客はあまりいないかもしれない。

「あの注射、死ぬほど痛かった。私も予約する前に知っていたら、来るのを考え直したかも。……あなたも予防接種をしてきたんですか?」
私が訊くと彼女は笑った。
「ここに来るためにする必要はないわ、もともとしているもの。私はエチオピアから来たのよ」
ああ、この女性は、本当に『アビシニアからきた麗人』だったのだ。

「あなたは、ここに来たのは初めてなのね。どうして来ようと思ったの?」
その質問に、私ははっとした。言われてみれば、それは少し珍しい選択だったのかもしれない。

 会社を辞めて、次の就職活動をするまでの一ヶ月に旅をしようと思ったのは、それほど珍しくはないだろう。学生時代にはユーレイルパスを利用して、ヨーロッパ横断の旅をしたし、オーストラリアにワーキングホリデーに行った友人もいる。サラリーマンの短い有休では決して行けない旅先でよく聞くのは、マチュピチュなどインカの遺跡を巡る旅、イースター島やナスカの地上絵やウユニ湖など少し遠いけれど有名なところだ。もしくは中国やアジアの多くの国を巡ったり、アメリカ横断、さらには資金問題はあるとはいえ世界一周も悪くない。

 ザンジバルに行くと言って、親や友人たちに口を揃えたように言われたのは「それはどこにある国?」だった。熱帯の島と答えれば、どうしてハワイやグアムではないのか、もしくは新婚旅行で有名なセイシェルやニューカレドニアならツアーがあると逆に提案もされた。

 この島に行きたいという思いを、日本の家族や友人に理解してもらえなかったのは、知名度から言って当然だと受け止めていたけれど、アフリカ出身のこの女性から見ても、極東からここを訪れるのは不思議なことらしい。

 私にとっては、いつの日かこの島を訪れるのは、当たり前のことだった。あの曲が、私の人生に囁きかけてからずっと。《ザンジバル》という名は、私にとって《シャングリラ》《ガンダーラ》《エルドラド》などと同じどこかにある理想郷になっていた。

「ある歌で、ここへの憧れを歌っていたんです。それに、詩人のアルチュール・ランボーも憧れていたと聞いて、一度来てみたいと思っていました」

 ランボーの名前を口にしたときに、彼女の表情にわずかな変化があった。あのエピソードを知っているのだろうと感じた。彼女から、かの《アビシニアの女》の子孫だと告白されるとしても、私は驚かないだろう。もちろん、彼女はそんなことを言い出したりはしなかった。

 その代わりに私の心が、アルチュール・ランボーがマルセイユで短い一生を終えた十九世紀末、まだ私自身が影も形もなかった頃に飛んでいた。ちょうどこの美しい女性のように、かの《アビシニアの女》が、この場に佇んでいたという幻覚、勝手な想像に心を遊ばせた。こんな風に。

「ザンジバル島に行きたいんだ。それから、船に乗って、もっと東へね。とにかく、何よりも大切なのは行くって意思だよ」

 でも、ザンジバルにこうして立っているのは、彼ではなくて私。
「どこでも、好きなところへ行ってしまえ。もう、僕はお前とは関係ないからな」
そう言われて、旅の半ばで放り出された、この私。

 彼は、「はみ出しもの」だとよく自嘲していた。若き日に、恩師との恋愛沙汰と発砲事件がスキャンダルになり、国での出世の見込みは絶たれたと言っていた。母親が心から望んだ、国内のきちんとした職場でコツコツと働くことが出来ず、ギリシャやカイロへ出稼ぎに行ってしまうのだと。

 アデンで一緒に暮らしていた頃、彼は時おりこんなことを口にした。
「フランスにお前を連れ帰ることはできないよ。結婚許可証をもらえる見込みはないしね」
「うちの母親や彼女の住んでいる村は、びっくりするほど旧弊で、お前を連れ帰ったりしたら大変なスキャンダルになるだろうよ」

 なぜそんなことを口にするのだろうと、私はいつも不思議に思った。遠く帰る必要もない国の許可証なんて、何の意味があるのだろう。ましてや、私は彼の国に行くつもりなんてこれっぽっちもなかったのに。

 今ならば、少しだけわかる。

 彼自身が、まっぴらだと言っていた彼の国と、その「常識的な生き方」から自由になっていなかったのだと。彼は、どこかで「まともな女と」「ちゃんとした家庭をもち」「いずれは国に帰る」と思っていたのだろう。

 ザンジバルへ行き、それから、どこだかよくわからない東の国へと向かうことなど、本当は「できない」と思っていたのだろう。

「お前は女だから」
「お前は教育も受けていないから」
「お前は海の風土に耐えられないだろうから」

 彼が、私をザンジバルにも、彼の故郷にも連れて行けない言い訳のように使った全てのフレーズは、彼自身が海の果ての未知の国へと行けないと思い込んだ理由だったのだ。彼は、十分に勇猛でなく、知識や経験が足りず、湿度や高温に耐えられない貧弱な身体であると、恥じていたのかもしれない。

 私は肌の色や、話す言葉の違いなどにはこだわらない。行きたいところにどんな風土病があるかや、そこの人々が自分を受け入れてくれるだろうかなどを怖れたりなどはしない。どこにいても病にかかることはあるし、生まれ故郷でいつも歓迎されていたわけではない。

 小さな舟を乗りついで、私はこの島へやって来た。鮮やかな花と、珍しい果物の溢れる島。遠浅の美しい海が守る島。ほんの少し前まで、かのムスリム商人たちが、大陸から欺して連れてきた人々を、遠い国に奴隷として売り払っていた港。

 私は「ヒッパロスの風」に乗り、アラビアへ、そしてもっと東へと進むだろう。私は風のように自由だ。何よりも彼と違うのは……私は生きているのだ。



「あなたは、アルチュールの夢見たユートピアを探しにここへ来たのね」
青いドレスの麗人が優しく囁いた。私は、現実に引き戻され、はっとしながら彼女を見た。謎めいた瞳には、どこか哀れみに似た光が灯っていた。

 突然、私は悟った。たどり着いたこの地について、はっきりと認識したのだ。

 遠浅の白い砂浜。エメラルドグリーンの海。バニラ、カルダモン、胡椒、グローブ、コーヒー、カカオ、オクラ。島の中程に南国のスパイスを宝物のごとく栽培する島。イランイランやブーゲンビリアの花が咲き乱れ、イスラム世界を思わせる装飾の扉で迎えるエキゾティックな家並み。夕日に映える椰子の林や、枝を天に広げるバオバブの大木。想像していた以上に美しく、観光客ずれもしていない、奇跡のような美しい島。

 けれど、ここは私の《ザンジバル》ではなかった。アルチュール・ランボーが生涯足を踏み入れなかった憧憬の島でもなかったし、ディディエ・シュストラックが誘い願った「物語の終わり」の地でもなかった。

 それは、この島が期待はずれであったからではなく、単純に、私がこんなに簡単にたどり着いてしまったからだ。飛行機を予約し、わずかな金額を振り込み、たった二度の乗り換えで二十四時間もかけずにこの地に降り立ってしまった。悩みも、苦しみも、別離も、挫折も経ずに、なんとなく心惹かれるという理由で、ここに来てしまったから。ユートピア、憧憬の島は、そんな形ではたどり着くことはできないのだ。

「確かにこの島に一度は来たかったし、それにとても素晴らしい島ですけれど……。でも、ユートピアではないですよね」

 彼女は、私の答えに共感したようだった。
「ユートピアは、辿りつくところではなくて、夢見て旅を続けるために存在する場所なのかもしれないわね」

 それから、私の後ろの方を見て、続けた。
「夫が来たわ。私たち、午後の便で帰るの。そろそろ空港に行かなくては。島を楽しんでね」

 会釈をして別れた彼女が向かう先には、レンタカーで待つ白人男性の姿があった。たぶん、移動の手段も、人種の違う二人の結婚も、アルチュール・ランボーの時代とは何もかも違うのだろう。愛の意味も、夢のあり方も。

 この美しい島は、もしかしたら私の想像したように《アビシニアの女》を目撃したかもしれない。そして、私を目撃し、何世紀も後に同じように夢の島を探して彷徨う誰かを目撃するだろう。

 私の《ザンジバル》を求める旅も続く。物語に終わりはないのだ。

(初出:2019年8月 書き下ろし)

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Didier Sustrac "Zanzibar"

この曲についてはあった方がいいかなと思うので歌詞と意訳をしばらく掲載します。
ただし、歌詞カードにあったものを丸写しは出来ないので、私自身が訳したものです。

Zanzibar
(D.Sustrac)

Il y a
L'azalée au mur
Et l'azur indigo
L'alizé qui murmure
Rimbaud

Rien qu'un zeste
D'Abyssinie
Et d'Arthur les mots
Ces voyelles à lire
Incognito

Viens, allons-nous-en
Au Zanzibar
Viens on a tous laissé quelque part
Un rêve, une île
Le bout d' histoire

Parfois
Ces parfums d'épices
A fleur de peau
Nous laissent le mystère d'une miss Afro

Allez, viens, allons-nous-en
Au Zanzibar
Viens on a tous laissé quelque part
Un rêve, une île
Le bout d' histoire

Allez, viens, allons-nous-en
Au Zanzibar
Viens on a tous laissé au hassard
Un bonheur qui ressemble
Au Zanzibar

ザンジバル

アザレアの生け垣と紺碧
貿易風は囁く
詩人ランボーの名前を

わずかなアビシニアの魅力と
アルチュールの言葉
そっと読むべき母音

行こう、ザンジバルへ
行こう、人はみな
夢や島や物語の終わりを
どこかに置き去っている

時にはスパイスの香りがする
肌の華は
僕たちにミス・アフロの謎を残していく

さあ行こう、ザンジバルへ
行こう、人はみな
夢や島や物語の終わりを
どこかに置き去っていく

さあ行こう、ザンジバルへ
一緒に行こう、誰でもザンジバルみたいな
幸福を置き忘れているんだ

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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ひなげしの姫君

「十二ヶ月の歌」の七月分です。もう七月も終わりに近づいているなんて!

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。七月はホセ・ラカジェの”アマポーラ”にインスパイアされて書いた作品です。夏になると、通勤路に野生のひなげしがたくさん咲くので、この曲を選んでみました。

そして、このストーリーは「アマポーラ」だけでなく、もう一つのひなげしに関するお伽噺も下敷きにしてあります。もともとはインドの民話のようです。「小さな子ネズミが魔法で美しい姫君に姿を変えてもらい王子様に見初められるのですが、正体がばれるのを怖れて慌て池に落ちて亡くなってしまう、その後美しいひなげしが池の周りに咲いた」というものです。

しかしながら、いつも通り私の話は、そこまでドラマティックには着地しません。


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ひなげしの姫君
Inspired from “Amapola” by Joseph Lacalle

 彼女は、桃色の頬と、ふっくらとした紅い唇を持った、魅力的な少女だった。同じ教室で机を並べていたときから、僕はいつだって彼女のことが大好きだった。ひなげしに喩えて謳ったあの曲のように、いつも心の中で「僕を愛しておくれよ」と語りかけていた。だから、クラスメートに知られないように、机の上にナイフで刻んだ名前、日記帳の中に綴った彼女の名前は、アマポーラだった。

 僕の求愛を、まるで相手にしてくれなかったアマポーラとは、卒業後に逢うチャンスもなくなってしまったけれど、僕の心の中には、いつも彼女がいたのだと思う。そりゃ、忘れていたことがなかったとは言えない。でも、たとえば、夏が来て赤いひなげしを目にすると、僕はいつも可憐なアマポーラのことを思い出して、そっと微笑んだのだ。

 彼女を、都で見かけたのは、本当に偶然だった。変わらずに綺麗だっただけでなく、びっくりするくらい垢抜けていて、その場で声をかけるのをためらってしまった。

 乗っていた黒塗りの馬車は、立派な紋章がついていて、横に乗っていた男は仰々しい山高帽を被っていた。そんなことってあるだろうか。あのアマポーラが、貴族と連れだって馬車に乗るなんて。どんなに綺麗だって、僕たちの階級の人間が、お高くとまった奴らとつきあうことなんてできないはずだ。でも、この僕が、アマポーラを見間違えたりなんかするものか。

 彼女とその立派な紳士が馬車を待たせ入った店に、僕も入った。それは、有名なコンディトライで、大理石の床、樫材の壁、シャンデリアや金飾りの鏡に囲まれたティールームで、濃厚なチョコレートを飲む奥方や葉巻をくゆらす紳士たちで賑わっていた。

 僕には、日給の半分もするようなコーヒーやケーキを楽しむ余裕はなかったが、売店で小さなチョコレートを注文しながら、世間話をした。
「それはそうと。表の馬車の紋章、つい最近見たはずなのにどこだか思い出せないんだ」

 店員は、にっこりと笑って答えた。
「エンセナーダ侯爵さまですよ。婚約なさったばかりで、よくこの店にいらしてくださるんです。ここで出会われたんですよ。誉れです」

「婚約者って、あの娘……?」
「お美しい方でしょう? 東方の王家の血を引くお嬢様で、ポストマニ様とおっしゃるんですよ」

 まさか! アマポーラに王家の血なんか一滴も入っていないどころか、東方の出身なんかじゃないことも、僕が誰よりも知っている。アマポーラの父方の爺さんは村のくず拾いだったし、母さんは皮剥ぎ職人の妹だった。

 僕は、礼を言ってチョコレートを受け取ると、氣取った包みを開けて、一つ口に含んだ。ゆっくりと滑らかに溶けるプラリネは、僕らが普段食べ慣れている混ぜ物入りのざらざらした板チョコとは別の食べ物のようだった。

 この店にしょっちゅう通っている、金持ちの奴らは僕とは関係のない雲の上の存在だ、いつもなんとなくそんなことを考えていた。アマポーラは、上手く混じっている。すごい玉の輿だな。僕はただの機械工だけれど、じきに侯爵夫人となるあの別嬪の幼なじみなんだって思うと、妙に誇らしかった。昔話をして、可憐なひなげしを捧げた話を憶えているだろうと笑い合いたかった。

 エンセナーダ侯爵ときたら、まるで世界に他の女がいないみたいに、じっとアマポーラのことばかり見つめて、その手を握りしめたりキスしたりばかりしているんだ。

 でも、彼女自身は、そこまで婚約者に夢中という風情ではなかった。店内を見回したり、ハンドバッグから取り出した小さな手鏡で自分の顔を確認したりしていた。カウンターで、見つめている僕には氣付いたんだろうか。笑いかけてくれることも、手を振ってくれることもなかったから、よくわからない。

 僕は、彼女が化粧室に向かうのを確認して、急いで後を追った。

 幸い、周りには誰もいなくて、僕は化粧室から出てきた彼女を小声で呼んだ。
「アマポーラ! 僕を憶えているかい?」

 彼女は、ひどくびっくりして周りを見回した。僕の姿を見て、ものすごく嫌な顔をした。それから、まるで聞こえなかったかのように反応もしないで去って行こうとしたので、僕は後を追いもう一度呼ぼうとした。

「しっ。やめてよ。どういうつもり?!」
彼女は、動きを止めると小さな声で言った。

 僕はつられてもっと小さな声になった。
「どうって、久しぶりだから。綺麗になったねって、言おうと思ったんだ」

「あんたなんかと知り合いだとわかったら大変なのよ、ペッピーノ、少しは遠慮しなさいよ。それとも私を強請ろうってわけ?」
「まさか!」
「だったら、あっちへ行ってちょうだい。私につきまとわないで。私は、ポストマニ姫ってことになっているんだから」

 僕が名付けたのと同じ、可憐でひなげしを思わせる真っ赤なワンピースを着た彼女は、僕を邪魔者みたいに追いやろうとした。それどころか、小さなビーズのハンドバッグから、僕の週給にもあたるような紙幣を三枚も取りだして、さも嫌そうに僕に押しつけたのだ。

「何のつもりだよ。僕は、金なんか……」
そう言いつのろうとしたとき、角から店の支配人が歩いてきた。
「どうなさいましたか、お嬢様。何か問題でも……」

「いいえ、何でもありません。馬車まで送ってくださいます?」
アマポーラは、外国人が話すみたいに、変な発音で支配人に言った。支配人は、僕の汚れた服装をじろりと見回すと、彼女につきまとうなと言いたげに僕をにらみつけると、彼女をガードするように侯爵の待つ馬車まで送っていった。

 彼女たちが去ると、支配人は戻ってきて、僕に慇懃無礼な様子で言った。
「申し訳ございませんが、お引き取りいただけませんか。チョコレートを購入なさりたいのなら、街のはずれに露店もございますし……」

 僕は、すっかり腹を立ててコンディトライを後にした。お前なんかに何がわかるんだって言うんだ。追い出したこの僕と姫君みたいに扱ったアマポーラは、同じ村の同じ学校で机を並べていたんだぞ。

 乞食に恵むみたいに、こんな金を渡すなんて、ひどいや。僕は、アマポーラにも腹を立た。このまま、この金を受け取ったら、僕は強請り野郎になってしまう。このまま黙って引き下がれるものか。

 僕は、駅前のバーのカウンターでエスプレッソを頼み、会計のついでにエンセナーダ侯爵とやらがどこに住んでいるのかを訊きだした。

「あんた都にはしばらく来なかったのかい? あの小高い丘の上、都のどこからでも見える『雲上城』を、侯爵が買って引っ越してきたときの騒ぎを知らないなんて」
「へえ? もともとは都にいなかったお貴族様なんだ」

「ああ、この国の方じゃないからね。海の向こうの大陸に、この国の三倍くらいある領地を持っていて、何でも持っている人なんだそうだ。引越の時には、たくさんのお宝や綺麗な調度を積んだ船が港にずらっと並び、それをお城に運び込むために二週間くらい毎日パレードみたいな行列が街道を進んだ。足りないのは、相応しい奥方様だけだと、みなが噂していたのだけれど、ついにお姫様と知り合ったらしいね」

 外国人なら、アマポーラがこの国の生まれか、東方の国の育ちか見破れなくても不思議はない。でも、街の奴らはわからないのだろうか。

 ふうふう言いながら、『雲上城』を目指して、急勾配の道を進んだ。丘と言うよりは小さな山みたいだ。都のど真ん中にあるのに緑豊かで、街の喧騒からは切り離されている。ほぼ毎日、馬車に揺られてあのコンディトライに通って、ホットチョコレートを飲むなんて、優雅な身分だなと思った。実家に戻れば、酒癖の悪い親父に怒鳴られながら鶏や豚の世話をしなくちゃならないだろうに。

 ようやく見えてきた門は、背丈の倍以上ある立派なものだった。真ん中に大きな黒い金属板で紋章が打ち出されている。先ほど見た馬車についていたのと同じだ。内側に守衛所があって黒い服を着た門番がやたらと胸を張って立っていた。

 僕は、そっと門に近づいた。門番は怪訝な顔で「何か用かね」と言った。
「友達がここにいるって聞いたんだ」
僕が言うと、門番は話にならないという顔つきをした。

 こいつも、あの支配人と同じだ。僕を見下して追い払おうとしている。
「僕が機械工だからって、馬鹿にするんだな。僕は、話があってきたんだ。悪いこともしていないし、嘘も言っていない。なのに、服装だけで僕のことを誰も真面目に受け取ってくれないなんてフェアじゃないよ!」

「だったら、ちゃんとした紹介状か、お屋敷のその人にここに来てあんたが友達だ言ってもらうんだな。こっちだって仕事なんだ、誰だかわからないヤツを入れるわけにはいかんよ」
門番の主張はもっともだった。僕は途方に暮れた。

「私の知人よ、入れてあげて」
声がしたので、門番も僕も驚いて顔を向けた。ひなげしの花そっくりの、ドレープのある朱色のスカートを着たアマポーラが立っていた。門番は、すぐに頭を下げて門を開けて僕を招き入れた。

 僕は、急いで中に入り、彼女に挨拶しようとした。けれど彼女は急いでその場を離れた。門番に会話を聞かれたくないんだろうと思って、僕は黙ってついていった。

 門からは全く見えなかったが、森林の小径を抜けると城の前に広がる大きな庭園に出た。丸い池にからくりの噴水が涼しげな水煙をほとばしっている。その池の周りにたくさんの大きなひなげしが植えられていて、優しく風に花びらをそよがせていた。

「あれじゃ、足りないって言うわけ?」
アマポーラは、低い声で言った。僕は、カッとなった。

「僕は、強請りに来たわけじゃない! それにこんなもの!」
コンディトライで渡された紙幣を取り出すと、彼女めがけて投げつけた。

「何するのよ」
「嘘で塗り固められたお姫様からの、汚い金なんて受け取れない」

 アマポーラは、下唇を噛みしめてから言った。
「やっと巡ってきたチャンスなのよ。洗濯女なんて死ぬまで働いても指輪一つ買うことが出来ないんだわ。あんな生活に戻りたくないの。邪魔をしないで」

 僕は言った。
「邪魔なんてしないさ。僕はそんなつもりで声をかけたんじゃない。久しぶりだったから、話をしたかっただけなんだ。物乞いか強請みたいに扱われて、そのまま立ち去れなかっただけだ。それで幸せになれるっていうなら、するがいいさ。僕には関係のないことだ」

 そう言って、僕は彼女の返事も待たずにまた門の方へ向かった。門番は、慇懃に頭を下げて僕を出してくれた。

* * *


 支配人に疎まれてコンディトライに行けなくなってしまったので、エンセナーダ侯爵に関するニュースを耳にしたのは半年以上後だった。あれから三ヶ月も経たないうちに、海の向こうの領地で大きな飢饉があり、不満を抱いた領民たちが革命騒ぎを起こしたのだそうだ。

 侯爵は、財産の大半を失い、『雲上城』を二束三文で売り払って海の向こうへ帰って行ったそうだ。最愛のポストマニ姫と華燭の宴をあげたのか、そして彼女が不運の侯爵に付き添ってかの国に向かったのか、誰も知らない。僕は、彼女はついていったりしなかったのではないかと思う。

 魔法の解けてしまった偽物の姫は、今どこにいるのだろう。少なくとも洗濯女に戻ったりはしていないだろう。馬鹿馬鹿しく高いホットチョコレートを優雅に飲むけっこうな生活を知ってしまったんだから。

 彼女は、またどこかの姫君のフリをして別の貴族や富豪の奥様におさまろうと、性懲りもなく計画を練っているだろう。可愛いアマポーラ。ちっぽけな少年に見向きもしなかったように、きっと君は貧乏な機械工を愛してくれたりなんかしない。でも、僕は、それでも君とまた再会することを願っているんだ。

(初出:2019年7月 書き下ろし)

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「アマポーラ」はいろいろな歌手が歌っていますが、私はこのポルトガルのカウンターテナーのバージョンが好きです。この方、「男」ですよ。



Nuno Guerreiro “Amapola”
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Posted by 八少女 夕

【小説】燃える雨

「十二ヶ月の歌」の六月分です。うかうかしていたら七月になってしまいますね。

月刊・Stella ステルラ 9月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。六月はAdeleの”Set Fire to the Rain”にインスパイアされて書いた作品です。

この曲も歌詞は特に書きません。ものすごく有名な曲ですし、ネットには日本語和訳が山のように転がっていますので。Adeleといったら、やはり失恋ソング……なので、オマージュして、そのまんまの失恋ストーリーを作ってみました。オチはないので、悪しからず。

六月といったら梅雨、といったら雨、という単純な思考で選んだ曲ですが、日本ではなく三月に遊びに行ったロンドンを舞台にしてみました。一年中、雨の降っている印象のある国ですね。


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燃える雨
Inspired from “Set Fire to the Rain” by Adele

 しばらく待って、やはり出て行くことを決めた。座っていたティールームの入り口には、濡れる前にと駆け込んできた客たちが、早く出て行って欲しいという視線を投げつけてくる。こんな時に、「それがどうした」と跳ね返して、粘れるような強い精神力をリサは持っていなかった。

 次々と入ってくる客たちの対応に追われている店員はなかなか勘定を済ませてくれなかった。ようやく戸口から出た時には、雨は更にひどくなっていて、冷たい風が吹き付けてくる。

「ちゃんと閉めてよ。隙間風が寒いじゃない!」
出てきたばかりの店から、不機嫌な注意を浴びせられ、リサはこの店には二度と来たくないと思った。かつては、あんなに好きだったのに。

 彼と大英博物館で数時間を過ごすと、いつも足が棒になった。世界中から訪れた観光客でごった返す博物館内のカフェではなく、少し歩いてこの店で休んだ。手作りのタルトやスコーン、丁寧に淹れた上質の紅茶、それらを楽しみながら見てきたばかりの博物館の展示に関する話題で盛り上がった。

 ある日は、古代アッシリアやエジプトの展示を中心に観て当時の王権の強大さや発掘品がイギリスに運ばれた経緯について語ったし、また別の日にはジャパニズム・ブームで集められた浮世絵や鎧などについて、リサの方が熱弁を振るった。

 違う日に別の展示の前で、この前と同じ人と偶然であった、そんなきっかけで始まった付き合いは、やがてティールームからパブへ、それから送ってもらったリサの部屋へと移動した。はじめから誘われたわけでもなければ、彼女がを狙って近づいたわけでもなかった。ごく普通に恋に落ちただけだ。彼は、自分のことを多く語らず、友人にもまだ紹介してもらっていなかったけれど、そうなるのにはまだ時間が掛かるのだと思っていた。

 一日で全てを経験できると教えられた天候の変わりやすさは同じでも、希望に満ちてこの街に遷ってきた十年前には、濡れるほどの雨が降ることは珍しいと言われていた。けれどここ数年は、傘を持っていないと憂鬱になるような降り方をすることが多い。

 彼女は、軒下から軒下へと小走りに伝いながら、ニュー・オックスフォード・ストリートを目指した。屋根つきのバス停に駆け込んで一息ついていると、目の前を一台のメルセデスが派手に水をかけていった。

 助手席に座っていたのは、あの令嬢だ。財閥の跡取りを父親に持ち、高級デパートのはしごをして時間を潰していると評判だった。料金を全く考えずに毎晩携帯電話で国際電話をかけまくっているという噂を伝えたら、彼は「金があるだけが取り柄の人間もいるさ。いちいちやっかむ必要はないよ」と笑った。

 でも、今は、やっかむ正当な理由ができたじゃない。彼女は、俯いて唇を噛んだ。メルセデスのボルドーがかったブラウンは、発売当時に人氣がなかったために非常に台数が少ない稀少カラーだ。彼が自慢にするだけあって、同じ車を見たことはまだ一度もない。だから、車を見ただけで運転席に彼が乗っていることをすぐに予想できた。通り過ぎる瞬間に彼の姿を目に留めて、リサは水たまりに注意して身を引くのを忘れた。

「忙しくてしばらく会えない」
その言葉と共に連絡が途絶えたのを、信じようとしていた。飽きられて捨てられたなんて、認めるのが苦しかった。

 電話をかけても出てもらえないことも、メールに返事がないことも、疑惑を大きくしたけれど、それでも決定的な言葉を投げつけられたわけではないと、自分を納得させ続けてきた。

 彼の言葉が、真実ではなかったと知るのも嫌だった。知らなければ、まだ夢を見て彼の誠実さを大人しく待ち続けることができたのだから。

 彼は知的だったし態度も優しかった。氣後れするほどの一流レストランに連れて行ってくれたわけではないけれど、食事をする時には決して吝嗇ではなかった。将来に関する約束などをしたわけではないから、欺されたということもできないだろう。

 どうしようもなく惹かれ、期待して、夢を見たのは彼女の方だった。令嬢などではないだけでなく、誇れる学歴も、輝かしいキャリアも、何一つ手にしたことがない。日々の生活に追われるだけの生活。

 彼を愛するようになり、何かを期待していなかったかといえば嘘になる。磨き抜かれた、一目で高価だとわかる内装のメルセデス。言葉遣いや服装からも、彼女よりもずっと上の社会に属している人だと感じていた。愛と未来の両方を彼が授けてくれることを願っていた。

 その虚しい期待は裏切られ、すげなく水たまりの飛沫を跳ねかけられた。助手席には、美しく彼のビジネスや人生にもっと有用な助けもできるあの令嬢が座り、リサは一人でここで濡れている。

 雨は、どんどん激しくなった。ドラムを叩くようにアスファルトを打つ。濡れている表面は、雨と風で凍るように冷たくなっている。けれど、彼女の内部は、ひどく熱くなっていった。もはや呼ぶことを許されない彼の名前を叫び、惨めな嘆きが届くように願っている。

 美しくない自分、富豪の娘ではない自分、愛されていない自分、顧みられずにびしょ濡れになった自分。そんな自分を戯れに弄び心を奪っていった男に向けていいはずの、怒りや憎しみはそこにはなかった。未だに抱擁を求めて、リサの心は美貌の令嬢を乗せた彼の車を追っている。

 雨と涙でにじむニュー・オックスフォード・ストリートの街灯を、もう見えなくなった車を探しながらリサは立ちすくんでいた。赤い二階建てバスが、静かに停まり、ドアが開いた。待っていた他の客を乗せると、動かない彼女に運転手が声をかけることなく、ドアは再び閉まった。

 バスが行ってしまうと彼女は、深いため息を一つだけついた。冷たく燃える雨に濡れたまま、トッテナムコートロード駅までの道のりを歩き出した。


(初出:2019年6月 書き下ろし)

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Adele - Set Fire To The Rain (Live at The Royal Albert Hall)
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Posted by 八少女 夕

【小説】君は僕にとって

「十二ヶ月の歌」の五月分です。もう五月ですものね。日本は、令和だし……。

月刊・Stella ステルラ 9月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。五月はJoe Cocker の”You are so beautiful”にインスパイアされて書いた作品です。

この曲も歌詞は特に書きません。というか、おそらく聴けば大体わかりますよね。

この曲は、というか、下に貼り付けたベビーフェイスによるカバーバージョンは、「ファインダーの向こうに」の頃からずっと、主人公ジョルジアを見守る兄マッテオ(および一部の男性キャラ)の想いのテーマソングでした。

今回は、現在連載中の(「ファインダーの向こうに」「郷愁の丘」の続編)「霧の彼方から」でもカバーしなかったジョルジアの結婚式のことを後日譚として紹介する試みです。そんな外伝ばかりいらんというお叱りもあるかと思いますが、今月はこれでお許しください。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む

【参考】
「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」

霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




君は僕にとって
Inspired from “You are so beautiful” by Joe Cocker

 つい先日までは、いつ雪が降ってもおかしくないほど寒い日もあったのに、五月に入った途端これほど暑くなるなんて。マッテオは、セントラルパークの樹木の青々とした若葉を眩しそうに見上げた。

 満開だった木蓮は、役目を終えたと判断したのか、はらはらとその花びらを散らしている。ここ数ヶ月は忙しくて、いつもは誰かとデートついでに必ず見る、日本から寄贈されたという格別華やかな桜の花も見そびれてしまったらしい。

「それでね、マッテオ。グレッグが説明してくれたんだけれど、英国で雨が降ったり止んだり忙しいのは、ブリテン島の位置と暖流のせいなんだって」
横を歩くアンジェリカが、一生懸命に覚えたての知識を披露してくれる。彼は、にっこりと笑って答えた。

「なるほど。まったく知らなかったよ。さすが彼は博士だね。それに、世界一きれいな知りたがり屋さん、教えてもらったことをちゃんと憶えて僕にも教えてくれるお前は、なんて賢いんだ。こんなにパーフェクトな姪を持って、僕は誰よりも幸せな男だな」

 アンジェリカは、少し考えてから言った。
「でも、マッテオ。この間からずいぶんと寂しそうよ。ジョルジアが、お嫁に行っちゃったのがショックなんでしょう?」

 マッテオは、かがみ込むと姪を強く抱きしめて答えた。
「それは寂しいよ。それに、今日、お前がアレッサンドラとロサンジェルスに帰ってしまうのも、泣きたくなるくらい寂しいさ。でも、ショックなんてことはないよ。どんな遠くに行ってしまっても、お前や、アレッサンドラや、ジョルジアが、それぞれに幸せであることが、僕の心からの願いなんだ」

 まだ九歳の姪が生まれるよりも前、妹のジョルジアが絶望の底にいた時のことを、マッテオは思った。子供の頃から見守り愛してきた大切な妹は、はじめて付き合った男に言葉の暴力で傷つけられ、しばらくクリニックに入院しなくてはならないほどのトラウマを負った。

 彼女を傷つけた男は、彼女の生まれつきの痣を目にして、こう言ったという。
「こんな醜い化け物を愛せる男などいるものか」

 その痣は、そして、それを目立たなくしようとして失敗した手術の痕は、一般的に言えば「美しい」と形容するようなものではない。それはマッテオも知っている。

 だが、彼女にトラウマを与えたその酷い言葉の全ては完全な間違いだ。世界中のメディアや一般のファンたち、それに評論家たちも「美の女神」と認めるスーパーモデル、もう一人の妹アレッサンドラに劣らず、マッテオにとってジョルジアは、例えようもなく美しく、彼女に対する愛は尽きることがない。

 母親に紹介された生まれたばかりのジョルジアを目にした六歳のあの日から、マッテオの想いは一度たりとも変わったことがない。……なんて可愛くて、美しくて、愛しい子なんだろう。

 生まれつきの痣や、その他の要因が重なり、次第にひどく内向的になったジョルジアを、マッテオは常に心にかけ、愛情を注いだ。少なくとも家族の前では、幸せに楽しくしていた妹の日常と人生の歓びを、一人の男の心ない振る舞いが滅茶苦茶にした。

 若くして成功し経済界に絶大な影響力を持つマッテオが、私怨で誰かの事業に口出しをしたのは、人生でたった一度だけだ。彼は、妹を捨て苦しめておきながら、平然としてマッテオと同じクラブに他の女を連れて出入りしていたその男の経済基盤と社会的信用を奪い、ニューヨークにいられなくした。おそらくジョルジアはそのことを、絶望の底にいた当時はもちろん今でも知らないだろう。

 それから十年近く、ごく普通に暮らしているかのように傍目には見えても、他人と関わることを怖れ、心を半分閉ざしたままの妹を見守り続けるのはたやすくはなかった。

 退院してしばらくは精神不安定な状態が続き、一年近く彼のペントハウスで暮らさせた。話しかけても反応しなかったり、突然泣き出したり、もしくは無意識に同じところを歩き回るなど奇妙な行動をすることもあった。

 異常行動がなくなり、パニック障害の発作もなくなってから、専属で働いている《アルファ・フォト・プレス》のスタジオで静物撮影の仕事から復帰した。少しずつ笑顔も見せるようになり、本人の希望するように一人暮らしをさせても大丈夫と思えるようになった。

 そして、マッテオが懇意にしている知り合いが大家であるフラットに住むことになったものの、どうしているか心配で毎週のように訪ねていったものだ。

 二度と傷つきたくないと怖れる想いと、それでも愛されたいとにじみ出る願い。何も言わなくても手に取るようにわかるが、兄としてのあふれる愛をどれほど注いでも、彼自身にはどうしてやることもできなかった。

 そのジョルジアが見つけたのは、彼にとっては地球の果てであるケニアでの幸せだった。

 努力家で真面目とはいえ、決して成功しているとは言えない動物学者。マッテオからの援助がなければ、経済的にも食べていくのがやっとらしい。ジョルジアのこれまで築いてきたキャリアを考えてもサバンナの真ん中へ行くことはプラスになるとは思えない。

 そんな相手との結婚ではあり、マッテオにとっては大切な妹がそんな地の果てに行ってしまうことは寂しくてならないことだが、それでも、彼は心からの祝福を添えて妹を送り出した。

 誰かを躊躇せずに愛する歓び、人生の片翼が存在することへの安堵、締め付けられていた孤独の枷からの解放、その全てを言葉では語らない妹の瞳の光や振る舞いから感じることができた。それ故マッテオは、彼女の決断が正しいものだと納得し、心から祝福することができたのだ。

 長い冬だった。樹木の枝に見える蕾は固く閉ざされ、まるで死んでしまって二度と開かれないのではないかとすら疑われた。それが、どうだろう。眩しいほどの新緑、わずか数日で、いや、数時間で、刻一刻と姿を変えながら晴れ渡った紺碧の空へとその瑞々しい若葉を伸ばしていく。

「そうかなあ。私ね。お嫁に行くとどうして旦那さんの国に引っ越さなくちゃ行けないのか納得いかないって、ジョルジアに言ったの」
アンジェリカが、真面目な顔つきで言った。マッテオは、面白く思った。

「ジョルジアは、なんて答えたんだい?」
「必ずしも旦那さんに合わせる必要はないって、言ったわ。でも、ジョルジアは旦那さんに合わせたんでしょ、って言ったの」
「それで?」

「グレッグは、ジョルジアがニューヨークで暮らしたいんじゃないかって、言ってくれたんだって。だから必要なら彼も引っ越しても構わないって。でも、それは無理だって、彼女が説得したんだって」
アンジェリカは、ジョルジアそっくりの口ぶりで説明した。

「グレッグ。写真はどこでも撮れるけれど、私の知る限り、ニューヨークには野生のシマウマはいないわよ」
ジョルジアらしいユーモアと愛情のこもった台詞を聞いて、マッテオは笑った。

 新居はケニア中部の《郷愁の丘》になったものの、《アルファ・フォト・プレス》との契約があるので、しばらくジョルジアは年に数ヶ月ニューヨークで過ごす。また、助成金の契約でグレッグが年に一度は必ずニューヨークに来ることになっているので、その時にはジョルジアの分の航空券も送るつもりだ。永久に会えなくなるわけではない。

 もう一人の妹、アンジェリカの母親であるアレッサンドラが、ロサンジェルスに家を買いニューヨークを離れた時も、また、三度目の結婚に伴い、年の半分以上をヨーロッパで暮らすことにした時も、寂しさはあったがその幸福な旅立ちを喜んで送りだしてきた。今度それができないはずはなかった。

「結婚パーティ素敵だったわよね。どうしてジョルジアはママみたいなウェデングドレスを着なかったの?」
アンジェリカは、マッテオの手に掌を滑り込ませて訊いた。マッテオは、微笑んで小さな掌を壊さないように優しく力を込めた。

 先月、ニューヨークのロングアイランドにある教会で行われた結婚式で、ジョルジアはアイボリーのシンプルなタイトワンピースを着た。

「派手なウェディングドレスを着るのは嫌だって言われたんだ。アレッサンドラに頼んで彼女の希望に合うようなワンピースを用意してもらったんだよ。その代わりに、彼女のリクエストにはなかった最高級の絹とレースを使ったけどね。きれいだっただろう? でも、パーティでは、どういうわけか直前に一度着たドレスに変更すると押し切られてしまったよ」

 結婚式の後に、彼女のフラットや職場に近い馴染みの大衆食堂《Sunrise Diner》で、家族の他に同僚や親しい友人たちを集めて披露パーティが行われた。その時に彼女は緑のシンプルなドレスを着た。

「ああ、その理由は知っているわ。ニューヨークに来る飛行機、私あの二人と一緒だったでしょ? あの中で、グレッグがあのドレスの話をしたの」
「ほう? どんな話?」

「あのね。グレッグは、ジョルジアがあれを着るんだと思い込んでいたんだって。どうしてあのドレスがいいのかって彼女が訊いたの。そしたら、こう答えたの。前にあのドレスを着た時に、本当は一緒にダンスをしたかったのにチャンスを逃したんだって。どうしてその時に言わなかったのかしらね。言えば、ジョルジアが断るはずはないのに。あの二人、あんなに仲がいいんだもの」

 マッテオは、なるほどと思った。それは、助成金の推薦をしてくれたレイチェル・ムーア博士がグレッグをマッテオに紹介するため連れてきたWWFのパーティだった。口添えするためにジョルジアもその緑のドレスを着てやってきたのだ。

 どういうわけだか、グレッグはパーティの序盤で退席してしまい、それを追ってジョルジアも帰ってしまった。だから、もちろんダンスをすることなどなかっただろう。あの時、レイチェルは言っていた。
「彼はジョルジアに夢中なの。残念ながら友達の枠は超えられていないみたいだけれど」

 つまり、彼はジョルジアに遠慮して肩や髪などに触れることもなかったのだろう。あの夜にあの美しい彼女の姿を見て、皆がダンスをする機会を生かして彼女をその腕に抱きたかったんだろうな。

「私なら、ドレスを着たら申し込まれなくても一人で踊っちゃうな。毎日着られるものじゃないし」
アンジェリカは、マッテオの思惑などお構いなしにおしゃまな発言をした。

 マッテオは、再び姪の目の高さにかがんで、その瞳をのぞき込んだ。
「心配しなくても、お前が大きくなったら、たくさんの男たちがダンスを申し込もうと行列を作るよ。その時には、僕にも一度くらい一緒に踊るチャンスをくれるだろう? 僕の大事な踊り子さん」

 アンジェリカは、とても嬉しそうに抱きついて答えた。
「もちろんよ。マッテオとは他の人の倍以上の曲を一緒に踊るわね」

 マッテオは、愛する姪を抱きしめた。もちろんその口約束が守られることはないだろうことは知っている。彼女が大きくなり、恋をしたら、一晩中でも好きな男と踊り続けたいと願うだろう。その時には、彼はただの「親しいマッテオ伯父さん」に変わってしまうのだと。そして、そう思わせる相手の存在を疎ましく思う権利は、彼にはないのだと。

 派手なことの嫌いなジョルジアと、同じように内氣なグレッグは、自身の結婚披露パーティだというのに、ほとんどの時間を店の片隅で過ごした。皆が楽しげ踊っている時もそうだった。だが花婿は、幾度も深い愛情を込めて花嫁を見つめていた。

 ずっとマッテオが思い続けていた言葉を、彼が心に思い浮かべていることを疑う余地はなかった。
「君は、誰よりも美しい。君は、僕にとって他の誰よりも素晴らしい」


 今日の新緑は、風に舞いながら萌え立っている。まるで歓びに震えているように。同じ色のドレスを纏った愛しい妹が、ようやく安心して身を委ねられる相手を見つけ、その腕の中で祝いのダンスを踊っていたほんのわずかの時間を思い出しながら、マッテオは姪と一緒にゆっくりと歩いて行った。

(初出:2019年5月 書き下ろし) 

新緑の森林 by マレーナさん
こちらはマレーナさんによるイラストACからのイラストで著作権はマレーナさんにあります。無断使用はお断りします。

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Babyface You Are so Beautiful

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Posted by 八少女 夕

【小説】郵便配達花嫁の子守歌

「十二ヶ月の歌」の三月分です。

月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。三月はロシア歌手ポリーナ・ガガリーナの“Колыбельная (Lullaby)”にインスパイアされて書いた作品です。

実は、この作品の元になるアイデアは、かなり前「マンハッタンの日本人」シリーズを書いていた頃に浮かんだのです。当時は、ブログのお友だちTOM−Fさんから、某ジャーナリスト様をお借りして好き勝手書いていたのですけれど、その延長で小説には関係ないけれどそのお方がどんな風にアメリカに来たのかなあなんて妄想もしていました。で、イメージは彼なのですけれど、さすがにTOM−Fさんも大困惑でしょうから、この作品では誰とは言わずに、似たような境遇の誰かとだけで書いてみました。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む




郵便配達花嫁の子守歌
Inspired from “Lullaby” by Polina Gagarina

 舳先に行くには、少しだけ勇氣が要った。重く垂れ込めた雲を抉るように、荒い波が執拗にその剣先で襲いかかっている。雨が降りそうで、いつまでも降らない午後。ヴェラはストールが風に飛ばされないように、ぎゅっと掴まねばならなかった。

 こんな悪天候に船外に出ようとする物好きはほとんどいなくて、たった一人、まだ少年と言ってもいいような若い男だけがカーキ色のコートの襟に首を埋め、ドアの側の壁にもたれかかっているだけだった。

 波の飛沫が、彼のしている安っぽい眼鏡にかかっていた。海の彼方を睨むように見つめている姿は、希望に満ちているとは言いがたい。でも、それは、自分が感じていることの投影でしかないのかもしれない。ヴェラはこの船に乗ったことが賢い判断だったのか、確信が持てなかった。この暗く荒れた海が、彼女の未来を予言していなければいい、そんな風に思っていた。

「あまり先には行かない方がいい。波にさらわれて落ちた人もいるそうだ」
その男はヴェラを見て英語で言った。

「この船で?」
「いや、この航海の話ではないよ。乗る前に聞いた」
「そう」

 この人は、どこの国から来たのだろう。少なくともヴェラと同じウクライナの出身ではなさそうだ。顔から判断すると、どこかバルカン半島の出身かもしれない。

 誰もがこの船に乗って、ここではない所へ向かおうとしているように感じてしまう。ある者は戦火から、ある者は貧困から、そしてある者は閉塞した社会やイデオロギーから、どこかにある光に満ちた国へと向かおうとしているのだ。

「あなたも、トリエステまでよね。イタリア旅行?」
ヴェラが訊くと、彼は「まさか」という顔をした。ヴェラも自身も、そう思っていたわけではない。彼は「服装なんかに構っている余裕はない」と誰でもわかる出で立ちだった。すり切れ色のあせたシャツ、くたびれたカーキ色のパンツ、底が抜けていないだけでもありがたいとでも言いたげな靴。

国連難民高等弁務官事務所UNHCR が、旅をお膳立てしてくれたんだ」

 ということはやはり……。
「あの紛争の? 逃げてきたの?」
「ああ」
「じゃあ、ご家族も、この船に?」

 彼は、首を振った。
「国境まで生きていられたのは、僕だけだった」

 ヴェラは、お悔やみの言葉を述べたが、彼は「いいよ」というように手を振った。
「これからは、イタリアに住むの?」
ヴェラが訊くと、彼は微かに笑った。
「いや、ローマから飛行機でUSへ行くよ。難民として受け入れてもらったんだ。君は?」

「偶然ね。私もアメリカへ行くの。もしかしたら、飛行機まで一緒かもしれないわね」
「君も難民?」
「違うわ。私『郵便配達の花嫁』なの」

 彼は首を傾げた。
「それは何?」
「国際結婚専用のお見合いシステムがあってね。テキサスの人と知り合ったの。それで、彼と結婚することを決めたの」

* * *


 ヴェラは、今日五本目の煙草に火をつけた。

 目の前のラム酒の空き瓶をうつろに眺める。新しい瓶を買いに行くと、月末まで食べるのに困る事実を思い出し顔をゆがめた。飲むことか、煙草か、もしくはその両方をやめれば、新しい靴下を買えるのにと、ぼんやりと考えた。

 そろそろ出かけなければ。教会の炊き出しに並べば、三日ぶりに温かい食事にありつける。彼女は、すり切れたコートを引っかけると、アパートメントから出た。

 隣の部屋からは、テレビの音が漏れている。ニュースを読む男のよく通る声が、地球温暖化の脅威について訴えかけている。正義と自信に満ちた温かい声。ヴェラは、煙草の火や煙も地球を蝕む害悪なのだろうかとぼんやりと考える。それとも、車も持たず、電氣も止められている貧しい暮らしは、表彰されるべき善行なのだろうか。どちらでもいい、こちらには世界の心配をする余裕などないのだ。

 空は暗く、今にも雨が降りそうなのに、いつまでも降らない。こんな天候の日はあの船旅のことを思い出してしまう。

 船の上で、下手な英語でお互いのことを話した。ヴェラは幸せな花嫁になることを、彼は自由で幸せな前途が待っていると願いながら、それまでのつらかった人生と、それでもあった、幸せな思い出を語り合った。ヴェラが民謡を歌うと、彼は今はなくなってしまった国に伝わるお伽噺を語ってくれた。

 船旅と、ローマまでの二等車での旅の間に、ヴェラにとってその若い男は、全く別の存在になっていた。はじめの安っぽい服装の何でもない男という印象から、優秀な頭脳と温かい心、それに悲劇や苦境に負けないユーモアすら失わずにいる、理想的な青年に代わっていた。

 しかし、彼とはローマで別れて以来、どこにいるかも知らない。同じ飛行機ではなかったし、こんなに何年も経ってから「今ごろどうしているだろうか」と考えるような相手になるとは、夢にも思っていなかった。

 テキサスに着いて、迎えに来た未来の夫には二十分で失望した。彼は、ヴェラを妻ではなく奴隷のように扱った。「高い費用がかかったんだから」それが夫の口癖で、昼は農場の仕事に追い立て、夜も疲れていようが意に介せず奉仕を要求した。

 ヴェラが自由になるまでには、八年もの間、夫の暴力と支配に耐えなくてはならなかった。隣人たちは、みな夫の味方だったし、一人での外出を許されなかったヴェラは、助けを求めることも出来なかったのだ。たまたま、夫がバーボンの飲み過ぎで前後不覚になった時に、彼女は家を逃げ出した。二百キロメートル離れた街で無銭飲食をして捕まり、ソーシャルワーカーの助けで保護されて離婚することが出来た。

 けれど、その後に幸せな人生が待っているわけではなかった。ずっと夫に閉じ込められたままだったので、英語も下手なままだったし、自立して生きるための手に職を身につけているわけでもなかった。彼女は、そのままどこにでもいる貧民の一人として、祖国にいた時と同じか、それ以下の立場に甘んじることになった。

 あの船に乗り、国を出た時に持っていたものの多くを彼女は失ってしまった。若さと、美貌と、祖国の家族や友人たち。戻る氣力も経済力もない。希望と、笑いもあの海に置いてきてしまったのだろうか。静かに、ゆっくりと無慈悲に諦めと老いに蝕まれていく彼女は、襤褸布のようなコートを纏い、地を這いながら生き続ける。

 船で出会った青年と、いつかどこかで再会できることを、どこかで願い続けている。彼が成功していて、自分をすくい上げてくれることを夢見ることもあれば、同じように地を這っている彼と再会し、傷をなめ合うことを期待することもある。

 それは、暗い情熱、生涯に一度もしたことのない恋に似た感情だった。重く垂れ込めた雲間から注がれた天使の梯子のわずかな光。荒い波のように繰り返す不運に高ぶる神経を尖らせたヴェラを、落ち着かせ優しく眠らせてくれる、たった一つの子守唄ララバイ だった。


 (初出:2019年3月 書き下ろし) 

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この曲は、もともとポリーナ・ガガリーナという歌手の曲なのですが、才能発掘番組でこの曲を歌って一躍有名になったアイーダ・ニコライチェクのバージョンが日本では有名なので、こちらの動画を貼り付けてあります。また、歌詞は原語では全くわからないので、いくつかの英訳版を比較して掴んだ意訳を下に書いておきますね。


Aida Nikolaychuk - Lullaby [HD English-Lyrics Remaster]

(歌詞の意訳)
私の心の中を覗いてみて
そして冬に「立ち去れ」と言って
風は吹くけれど、あなたが私を暖めていてくれる
まるで私に早春を運んできてくれるように

空の雲に頼んで
私たちに白い夢を運んでくれるように
夜は浮遊して、私たちはそれを追うのよ
神秘的な光の世界へと

私の中にある憂鬱を霧散させて欲しいの
それは私の魂を怯えさせているの

空の雲に頼んで……

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Posted by 八少女 夕

【小説】ジャカランダの並木道

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第十五弾、最後の作品です。けいさんは、英語の詩で参加してくださいました。ありがとうございます!

けいさんの書いてくださった『Solitaly walk 』

けいさんは、スイスから見て地球の反対側のオーストラリアにお住まいのブロガーさんです。同じ海外在住者として、勝手に親しみを持っている私です。私と同じように小説もお書きになるのですが、ここしばらくはお仕事に集中なさるそうです。そういう時期も大切です。でも、詩作の方はお続けになるとのこと、今回の作品もそのお一つですね。

さて、今回の書いてくださった作品の情景は、おそらくオーストラリアのものだと思うのですが、私の頭の中にはやはりアフリカで見た景色が広がったので、また「郷愁の丘」関係の外伝を書かせていただきました。けいさんの詩からインスパイアされたエピソードです。「郷愁の丘」の一番盛り上がっているラストシーンの辺りの時期の話ですが、主人公たちとはほとんど関係ありません。登場する女性は初登場です。この人のことも、ずっと書きたかったんですよね。



【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


「scriviamo! 2019」について
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



ジャカランダの並木道
——Special thanks to Kei-san


 その並木道は、妖精の国に迷い込んだのかと錯覚させるほど美しかった。藤色の鈴なりになった花が雲のように咲き乱れ、落ちた花びらは薄紫の絨毯となった。ほのかにアンバーのような、それとも蜂蜜のような香りが漂い、むせかえる。十月の風物詩、ジャカランダの開花だ。

 リンファは、日本には行ったことがないが、噂に聞く満開の桜に列島が湧く春というのはこんな感じなのではないかと考えた。

 乾期は終わったのだ。季節は動いていく。

 標高1500メートル、赤道直下のナイロビに暮らして十二年になるリンファは、また一年経ったのだなと思った。リンファがこのケニアの地に降り立ったのもやはり十月だった。

 角を曲がり、コロニアル風の建物がなくなって、高層ビルのある地区に入った。リンファは、背筋を伸ばして歩いて行く。東洋人の自分は、この街にはどうしてもそぐわないように感じてしまうから。リチャードのように、どこにいようと常に自分の街にいるという確信を持てたらどんなにいいだろう。

 リンファはナイロビにあるエージェントのスタッフとして働いている。世界各国からやってくる観光客のための個人旅行の手配もするし、ビジネスにおける行政との橋渡しなどもする。要は何でも屋だ。異様に顔の広いボスと、秘書兼会計兼スタッフのリンファの二人だけの小さな事務所だ。

 オフィスは三階にある。リフトはないので歩く。ここまで汗をかかずにやってきたとしても、必ずこの階段で汗をかいてしまうのが難だった。

「ただいま」
粗く息をつきながら言うと、受話器を置いたばかりのリチャードが明るく「お帰り」と言った。
「それで、君の同胞たちは、喜んで帰ったのかい?」

 リンファは、雇い主であり私生活においては恋人でもある、デリカシーのない赤毛の男を軽く睨んだ。リンファが空港まで送っていった相手は、彼女の同国人ではなかったのだ。
「同胞って、アジアってだけじゃない。あなたをドイツ人と一緒にするようなものだわ」

 リチャード・アシュレイは、「それがどうした」というように肩をすくめただけだった。彼には、少なくともオランダ人と、アメリカ人の血が四分の一ずつは混じっている。残りはイギリス系のケニア人と、ジンバブエからの移民の他に、もしかしたら本当にドイツ人の血も混じっているのかも知れない。彼は、自分のルーツに細かくこだわったりはしないのだ。

「とにかく、そこそこ満足して搭乗ゲートに向かってくれたわ。これからタンザニアにも行くらしいけれど、あっちでメチャクチャな目に遭えば、私たちへの感謝も少しは増加するかもしれないわね」
リンファは、冷蔵庫から冷やしておいた紅茶のポットを取り出すと、グラスに注いで一氣に飲んだ。

 それから、思い出したように言った。
「そういえば、空港で意外な人を見かけたわよ」
「誰?」
「ほら、例のアメリカの女流写真家。あなたとアウレリオが、わりと最近、あれこれ噂していたでしょ」

 リチャードは、関心を示してリンファの方に向き直った。
「ミズ・ジョルジア・カペッリかい? 空港で?」
「ええ。ついたばかりみたいだったわ。なんだか急いで鉄道駅に向かっていたわよ」

「そうか。今回は来るって知らせてくれなかったな。どうしてだろう。また撮影かな。とにかく、ヘンリーのやつに知らせてやろう。知っているか、あいつ、もう何年も彼女を追い回しているクセに、晩熟でいっこうに先に進めないんだぜ」

 リンファはリチャードの面白くてしかたないという顔を見て憤慨した。
「忘れたの? 今は、彼のお父様スコット博士がかなり危険な状態だってこと。ドクター・スコット・ジュニアを今からかうなんて最低だわ」

 誰もが、リチャードやその親友のアウレリオのように、器用に立ち回れるわけではない。前回、そのアメリカ人写真家がこの事務所を訪問した時、普段なら可能な限りナイロビに来たがらないヘンリー・スコットは電話でも済む用事なのにわざわざやってきた。リチャードがミズ・カペッリに馴れ馴れしく話しかけている間、辛抱強く話しかける機会を待っていたコミュニケーション下手な男を、リンファは部屋の隅から密かに応援していた。なんとか彼が再会の約束を取り付けたのを耳にした時には心の中でガッツポーズをしたのだが、それから一年半経っている。あまりの不器用さにリンファもため息がでるが、それでもリチャードに面白おかしく笑いの対象にされるのは氣の毒だ。

 リチャードは、彼女の剣幕に肩をすくめて言った。
「からかっているわけじゃないさ。ただの親切心だよ。でも、まあ、そうだな。後でアウレリオに電話して、義父殿の容態を訊いてからにするか」

 それから十日後に、リチャードは事務所の留守番をリンファに任せ、ツァボへと出かけていった。噂のスコット博士が亡くなり、葬儀に参列することになったためだ。アウレリオ・ブラスの義父というだけでなく、動物学の権威であるスコット博士とは、公私ともに様々な関わりがあったのだ。
 
 リンファはその二日間は一人で業務をこなした。珍しくトラブルが少なかったため、なんとか一人でもこなせたのは、天が自分に味方したのかもしれないと思った。もちろん、午前中の停電と、十一時からの水道のストップには辟易したが、少なくともクライアントが苦情の電話をしても通じなかったのだからラッキーの内に入るだろう。

 ようやくPCに電源を入れられる状態になったので、急いでいくつかの用事をこなした。一番大切だったのは今日中に発送しなくてはならない宛名ラベルの印刷だった。リンファの祖国あての小包に貼るためのラベルだ。かの国の郵便配達夫にはアルファベットを読めない者も多いので送り状には漢字のラベルをつけて欲しいと依頼されているのだ。

 次の停電が起こる前に、なんとしてでも印刷を終えてしまわないと。リンファは調子のあまりよくないプリンターをなだめながら、作業を続けた。なんとか予定していた枚数を印刷できそうだと胸をなで下ろした。

 国を離れて、遠い異国でこうして数々のトラブルと闘いながら日々を過ごす意味を考えることがある。何をしているのだろうと。両親は、もうリンファのことは諦めたという態度を見せた。他の娘たちのように結婚して孫の顔を見せてくれるわけでもなく、異国の成功者として故郷に錦を飾ってくれるわけでもない。リンファ自身、自分の中途半端さに、腹立つこともある。

 リチャードとの関係も同じように中途半端だ。共同経営者というほどに中心的な役割を果たしているとは思っていないが、それでも、こうして二日間でもなんとか彼の代理を務めることの出来る存在までになっている。でも、それを思うのは自分一人なのではないか。プライヴェートにおける関係も、八年以上も恋人という立場でいるにも関わらず、それ以上に進む氣配はない。

 それでも、リンファは昨日と変わらぬ日常を歩き続ける。他の道があるわけではない。

 階段を上ってくるよく知るリズムの足音に続き、鍵を回す音がして、リチャードが入ってきた。彼は、どさっと荷物をソファーに投げていつものように明るく「ただいま」と言った。

「お帰りなさい。ちょっと待って。このラベルの印刷、そろそろ終わるから」
プリンターの横に立ってそうリンファが告げると、リチャードは「いいよ」と手振りで示してソファーに座り寛いだ。

「携帯に電話が入って、そのラベルのことを訊かれたよ。グッドタイミングだったな」
「停電さえなければ、もうとっくに出来ていたのに」
「あっちのパッキング作業も停電で遅れているから問題ないだろ」

「バカみたいよね。なぜ水牛の角なんか輸入するのかしら。向こうにいくらだっているのに」
そうリンファが憤慨するとリチャードは笑った。
「ケニアから届いたってことが重要なんだよ。水牛の角ってことになっているけれど、本当はそうじゃないって信じてもらうためにね」

「え? 水牛の角じゃないって、まさか犀角や象牙じゃないでしょうね。見つかったらこっちも逮捕されるわよ」
「されっこないよ。本当に水牛の角だから。箱に書いてある通りさ。それをこの商品表示はカモフラージュのためですと、嘘ついて売るつもりなんだろう。どうするつもりかなんて、こっちは関係ないから、売ってくれと言われたら素直に手配するけれどね」

「そう」
リンファは、少し嫌な氣持になったが、いちいち角を立てたくなかった。リチャードは、まったく意に介さずに朗らかに言った。
「悪いけれど、終わったらそれ発送してきてくれるかい?」

「わかったわ。ところで、お葬式はどうだった? ムーア博士やマディたち、大丈夫だった?」
話題を変えたくて、リンファは訊いた。
「マディはけっこう泣いていたけれど、レイチェルは氣丈にしていたな。まあ、表向きには、ヘンリーが全部仕切っていたしね」

 レイチェル・ムーア博士は、表向きは亡きスコット博士の親しい友人ということになっていたが、実際には内縁の妻と言ってもいい間柄で、マディがスコット博士の愛娘であることは親しい者には周知の事実だった。ジェームス・スコット博士は最初の結婚に失敗してから二度と家庭を持とうとしなかったが、息子のヘンリー・スコット博士との距離のある付き合いは、部外者のリンファにも異常に思えるほどだった。おそらく葬儀に行ってはじめて彼に息子がいることを知った人も多いだろう。

「ドクター・スコット・ジュニアも、お氣の毒ね。こういう時だけ息子として矢面に立たされて。この間、意地悪くからかったりしなくてよかったわね」
リンファがそう言うと、リチャードは意味ありげに笑って首を振った。
「ふん。からかうまでもなかったよ。件のジョルジア・カペッリはヘンリーと一緒にいたんだ」

 郵便局へ行こうと、戸口に向かっていたリンファは、思わず足を止めた。
「え?」
「驚くだろ? こっちも仰天したのなんのって。アウレリオからあの二人は婚約したって聞いて、腰を抜かすかと思ったよ。まったくいつの間に」

 リンファは、階段を降りて表に出た。わずかに乱れた想いを封印するかのように、足早に通りを歩いた。

 何に動揺しているのか、自分でもよくわからなかった。よかったじゃない。ドクター・スコット・ジュニアがようやく幸せをつかんだんだもの。

 今日は、風が強い。後れ毛が舞っている。

 風に心揺らされても、やはり独り歩いて行くほかはない。ドクター・スコット・ジュニアが、彼の道を一歩一歩進めて、彼の幸福な停留所にたどり着いたように。リチャードが、リンファだけでなく氣の遠くなるほど多くの人びとと関わり合い、必要ないほど多くの言葉を用いながら、彼の人生を進めているように。

 この道を、異国の、決して楽ではない道を歩いて行く先に、何が待っているのかは、誰にもわからない。でも、歩いて行かなければ、どこにもたどり着けないのだ。

 強い日差しが、肌を突き刺すようだ。リンファは、額に手をやり、空を見上げた。ジャカランダの並木道は、鮮やかな新緑が育ちだしている。間もなくこの道を歩く時は直射日光のきつさを感じずに済むようになるだろう。

 花の時期は終わり、育った羽毛のような葉が季節が変わったことを宣言するように覆っていた。

(初出:2019年3月 書き下ろし)

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ジャカランダ

ジャカランダJacaranda mimosifoliaはノウゼンカズラ科キリモドキ属の高木。和名は「紫雲木」。中米原産だが、熱帯や亜熱帯の多くの国で栽培される。南アフリカ共和国プレトリアは春の十月に満開になるジャカランダで有名。
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Posted by 八少女 夕

【小説】能登の海

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第十三弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった 『天城越え 《scriviamo! 2019》』 

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』。ロー・ファンタジー大作『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』と、ハートフルな『この星空の向こうに』の両方の登場人物が集合し、物理学の世界で緊迫物語が展開しています。足りない頭ゆえ物理学の記述には既にすっかりついて行けていない私ですが、勝手に恋愛ものに読み替えて楽しませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も七回にわたり皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。

さて、『花心一会』のヒロインと今回書いてくださった作品に登場する破戒坊主が邂逅する作品を以前書かせていただいたことがありますが、今回書いてくださったのは、その時に名前を挙げた方がメインになっています。そしてですね。お相手役と『花心一会』のヒロインが邂逅するお話を、TOM−Fさんは2016年の「scriviamo!」で書いてくださっているんですよ。で、その時のお返しに書いた作品と、今回の破戒坊主は、こちらの小説ワールドで繋がっているものですから、つい、輪を完成したくなってしまったというわけです。

しかし、それだけではちょっといかがなものかと思いましたので、せめてTOM−Fさんの作品と対になるようにしました。TOM−Fさんの作品は誰もが知っている石川さゆりの「天城越え」とリンクする作品になっているので、わたしもそういう話にしようと思ったのですね。それで三曲ほど候補をあげて、その中でTOM−Fさんに選んでいただいた曲をモチーフにしました。

同じく石川さゆりによるご当地ソング「能登半島」です。

「樋水龍神縁起 東国放浪記」を読んでくださっている方には、とんでもないネタバレになっています。どうして私は、本編発表まで黙っていられないのか、まったく。ものすごく自己満足な作品になってしまっていますが、「樋水龍神縁起」はいつもこうですね、すみません。ご容赦くださいませ。


【参考】
「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む 「樋水龍神縁起 東国放浪記」

「scriviamo! 2019」について
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樋水龍神縁起 外伝
能登の海
——Special thanks to TOM-F san


 まだ夜も明けず暗いのに、行商人たちが騒がしく往来する湊の一角を抜けて、かや は先をよく見るために編笠を傾けた。手に持つ壺には尊い濱醤醢はまひしお が入っている。もっとも鮮度のいい最上の小鯛のみを使い、家に伝わる秘伝の製法にて調整した魚醤だ。本来ならば献上品としてすぐに大領の館へと運び込まれる品だが、粗末な壺に収めてこうして持ち歩いているのにはわけがある。

 萱は、足を停め振り返った。後ろを歩いていた連れも足を止めた。密やかに問いかける。
「まことに、行くつもり? どうしても留まるつもりはないの?」

 水干に被衣、つまり中級貴族の子息を模した装束の女が頷く。
「はい。萱ねえ様。どうしても」

 萱は、黙って頷くと、先を急いだ。作蔵の船はすぐにわかった。こんなとんでもないことを頼める船頭は、あの男を置いて他にはなかった。船には何人もの荒くれ者が乗っている。若くて美しく、世間知らずの娘が無防備に乗っていれば、羽咋の港に着く前に無事ではおられまい。

 作蔵は、清廉潔白とは言いかねる男だが、萱は彼に十分すぎる貸しがある。その妹である三根が少領の家で湯女として働いていた時に、うつけ息子に手込めにされそうになり逃げてきたのをかばってやったのだ。平民ではあるが濱醤醢の元締めである萱には、少領の家の者も手は出せず、それ以来、三根は萱の元で働いている。

 船の袂には、水夫たちに荷の運び込みを指示している頭一つ分大きな男の姿があった。
「作蔵」
萱の声に、作蔵はゆっくりと振り向くとニヤリと笑い、水夫たちを行かせてからこちらに歩いてきた。

「これは萱さま。まことにおいでになりましたな。三根から聴いております。では、そのお方が……」
「ええ。面倒をかけ申し訳ない。羽咋の港まで連れて行って欲しいのです」

「して、その後は?」
「港で降ろせばよいのです。後は、自らなんとかすると申している由」
「まことに? ここですら、お一人では船にも乗れないお方が?」

 その言葉に、萱はため息をつき、世間知らずの従姉妹の姿を眺めた。それから、意を決して作蔵に顔を向けた。
「羽咋に、誰か信頼できる助け手がいますか? この者を、何も言わずに数日寝泊まりさせてくれるような」

 作蔵は、ちらりと水干姿の娘を見て言った。
「わしの、わしと三根の伯父に頼んでみましょう。伯父は、わしとおなじく無骨な船頭だが、伯母は面倒見がよくて優しい。理由はわからぬが、その姫さんが誰とやらを待つ間くらい泊めてくれるでしょうよ。その……萱さま、わしにも少し頼み甲斐というものがあるならね」

 その多少ずる賢い笑いを見越したように、萱は懐から壺をとりだして作蔵の手に押しつけた。
「そなたが戻ってきて、この者がどうなったかを知らせてくれれば、後にまた三根にこれを渡そう」

 この貴重な醤醢は、闇で売りさばけば大きな利をこの男にもたらすはずだ。
「これはこれは。合点いたしました。では、お姫様、どうぞこちらへ。申し訳ないが、水夫たちに女子であることがわからぬよう、ひと言も口をきかぬようにお願いしますよ」

 深く頭を下げ、船に乗り屋形の中に姿を消した従姉妹を見送り、萱は立ちすくんだ。萱の被衣と黒髪は潮風にそよぎ、荒れる波に同調したようだった。水夫たちのかけ声が、波音に勝ると、船はギギギと重い音を立てて、夜明け前の北の海に漕ぎ出でた。

 なぜあのような便りを書いてしまったのだろう。萱は、不安に怯えながらつぶやいた。

* * *


 ふた月ほど前のことだった。萱のもとにとある公達とその連れがしばらく留まったのだ。途中で明らかになったのだが、その主人の方はかつては都で陰陽師をしていたのだが、語れぬ理由があり今は放浪の旅をしていた。

 それを、丹後国に住む従姉妹への手紙に書いたのは、とくに理由があったわけではない。面白がるだろうと、ただ、それだけを考えてのことだった。だが、彼女はこともあろうに屋敷を逃げ出してはるばる若狭小浜まで歩き、昨夜、萱の元に忍んできたのだ。

「なんということを。夏。そなたはもう大領渡辺様の姫君ではないですか。お屋敷のみなが必死で探しているはずです。すぐに誰かを走らせてお知らせしなくては」
「やめて、萱ねえ様。あたくしは、もうお父様の所には戻りません。お願いだから、渡辺屋敷には知らせないでください。安達様の元に参りたいのです」

 萱は、その陰陽師と夏姫が知り合っていたことを、昨夜初めて知ったのだ。

 夏の母親は、三根と同じように湯女として大領の屋敷で働いていたが、やがて密かに殿様の子を身ごもった。生まれた夏は長らく隠され、母親の死後は観音寺に預けられて育ったが、その美しさを見込まれ二年ほど前にお屋敷に移されたのだ。殿様は丹後守藤原様のご子息に差し上げるつもりで引き取ったと聞いている。

「そのお話は、もうなくなったの。お父様は、もうあたくしなんて要らないのです」
「なんですって?」

「藤原様は、この春にお屋敷に忍んでいらっしゃったの。でもね、手引きしたのは、妹の絢子の乳母の身内だったの。それで、わざわざ間違えたフリをして絢子の所にお連れしたの。北の方おかあさま だって、もちろんその方が嬉しかったでしょうね。実の娘が玉の輿に乗れるんですもの。もう三日夜餅も済んだのよ。だから、あたくしを引き取る必要なんてなかったの。そこそこの公達に婿になっていただければいいなんて言われているわ」

 夏は、さほどがっかりしていなかった。
「あたくしは、玉の輿に乗れなくて、かえって嬉しいのです。だって、お父様のお屋敷にいるだけで窮屈なのよ、どうしてもっと上のお殿様との暮らしに慣れると思うの? こうして萱ねえ様のお家にいると本当にほっとするわ。だから、ねえ様のお便りを読んですぐに決断したの」

「私が、いつ逃げ出して来いなんて書いたのですか」
「書いていないわ。でも、安達様が、ねえ様の所にいらっしゃるとわかったら、一刻も待っていられなかったの」

「あの陰陽師といつ知り合ったの?」
「昨年の夏、庭の柘植の大木に奇妙な物が浮かび上がって、あたくしが瘧のような病に悩まされるようになった時に、弥栄丸が連れてきてくれたの。本当にあっという間に、治してくださったのよ」

「まさか、そなたがあの二人を知っているなんて……。しかも、あの陰陽師に懸想してこんなとんでもないことをするなんて、夢にも思っていなかったわ」
萱は、頭を振った。

 夏は、両手をついて真剣に言った。
「わかっているわ、萱ねえ様。どんな愚かなことをやっているか。安達様は、あたくしのことなんか憶えていないかもしれない。憶えていても、相手にはしてくださらないでしょう。それでも、あたくしは、あの方にもう一度お目にかかりたいの。あの屋敷で、みなに疎まれつつ、誰か適当な婿をあてがわれるのがどうしてもいやだったの。それなら、あの方を追う旅の途上で朽ち果ててしまう方がいいの。お願いよ、屋敷には帰さないで。安達様を追わせてください」

 若狭国を抜け、北陸道をゆくと行っていた陰陽師と郎党を送り出して、ひと月以上が経っていた。今から陸路で追っても、そう簡単には追いつけないであろう。萱は、無謀な従姉妹を助け、追っ手の目をくらまし、彼女の望む道を行かせるために、海路を勧めた。

「夏。ねえ、約束しておくれ。もし、安達様を見つけられなかったら、もしくは、そなたの願いが叶わなかったら、必ずここに戻ってくると」
夏は、萱の言葉に頷いた。

 どのような想いで、この海を渡るのだろう。何もかもを捨て去り、ただひたすらに愛しい男を追うのは、どれほど心細いことだろう。そして、それと同時に、それはどれほど羨ましいことか。亡き父に代わり秘伝の醤醢づくりを背負う萱には、愛のために全てを捨て去り、男を追うような生き方は到底出来ない。

 日が昇り、水平線の彼方に夏を乗せた作蔵の船が消えても、萱はまだ波の高い海を見つめていた。夏は終わり、秋へと向かう。北の海は、行商人や漁師たちの日ごとの営みを包み込み、いくつもの波を打ち寄せていた。

* * *


 語り終えた老僧を軽く睨みながら、茅乃かやの は口を開いた。
「素敵なお話ですけれど、和尚様。それは、私の名前から思いついたでまかせのストーリーですの?」

 福浦港の小さな喫茶店で遊覧船を待っている茅乃の前で、奇妙な平安時代の話をした小柄な老人は、新堂沢永という。歳の頃はおそらく八十前後だが、矍鑠として千葉の寺から石川県まで一人でやってくるのも全く苦にならないらしい。

 茅乃は、福浦に住んで二十八年になる後家で、婚家の親戚筋に頼まれて独身時代に近所にあった浄土真宗の寺に連絡をした。その親戚筋の家では、なんとも奇妙な現象が続き途方に暮れていたのだが、沢永和尚は加持祈祷で大変有名だったのだ。

 無事祈祷を終え、奇妙な言動を繰り返していた青年が、嘘のように大人しくなりぐっすりと眠りについたので、家の者は頭を畳にこすりつけんばかりに礼を言い、和尚を金沢のホテルまで送ると言った。だが、和尚は、それを断り茅乃に案内を頼み福浦港に向かったのだ。
「遊覧船に乗りたいのですよ。有名な能登金剛を見たいのでね」

 そして、遊覧船を待つ間、風を避けるために入った喫茶店で、和尚は先ほどの話を語り終えたのだ。

「でまかせではありませんが、本当のことかどうかは、わしにも分かりませんな。人に聞いたのです」
「それは誰ですか?」

 和尚は、ゆっくりと微笑んだ。
「茅乃さん、あなたは輪廻転生を信じますか?」

 答えの代わりに問いが、しかも唐突な問いがなされたことに、茅乃は戸惑った。
「さあ、なんとも。そういうことを信じている人がいるというのは、知っていますけれど」

「わしのごく身近に、転生した記憶を失わなかったという者がおりましてね。その者が、千年前に経験したことを話してくれたことがあるのですよ。先ほどの話は、その中の一つでしてね」
和尚は、ニコニコとしていたが、それが冗談なのかどうか茅乃には判断できなかった。

「それで、その方はその萱さんか夏さんの生まれ変わりだとおっしゃったのですか?」
「いいえ。その陰陽師の方だそうです。後に、安達春昌と従者である次郎は、再び若狭に戻ってきて萱どのと話をしているのですな。わしは、彼の話してくれたことの多くを非常に興味を持って聴いておりました。そして、今日、ここ能登半島に来たので、どうしても夏姫の渡った羽咋の海をこの目で見てみたかったのですよ」

 茅乃は、和尚の穏やかな笑顔を見ながら、不意に強い悲しみに襲われた。和尚の言及している不思議な話をした男が誰であるか、思い当たったのだ。和尚は早くに妻を亡くし、男手一つで息子を育てた。その息子、新堂朗を茅乃は知っていた。彼女が高校生だった時に朗は小学生だったが、子供らしいところのない、物の分かった様子の、不思議な少年だった。

 茅乃は、結婚して千葉を離れ、成人した朗には一度も逢っていなかった。その朗が二年ほど前に島根県で行方不明になったという話を、千葉の母親から聞かされていた。茅乃には、和尚が辿ろうとしているのは、平安時代の若い姫君の軌跡でも、魚醤造りの元締めの想いでもなく、行方知れずになった息子の運命を理解したいという、悲しい想いなのではないかと思った。

「和尚様は、その方が羽咋にいるとお思いなのですか?」
茅乃は、訊いた。

 和尚は、穏やかに笑いながら答えた。
「どうでしょうな。いるとは言いませんが、いないとも言いませんな」
「そんな禅問答のようなことをおっしゃらないでください」

「これは申し訳ない。わしにも分からぬのですよ。どこにもいないのかも知れないし、どこにでもいるのかも知れない。そういうことです。例えば、このコーヒーの中にいるのかも知れません。だが、その様なことは、この際いいのです。ほら、ご覧なさい、遊覧船が来たようです。せっかくですから名勝能登金剛を楽しみましょう」
老人は、カラカラと笑いながら立ち上がり、伝票を持って会計へと歩いて行った。

(初出:2019年3月 書き下ろし)

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で。モチーフにした「能登半島」の動画を貼り付けておきます。


能登半島  石川さゆり
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】鈴に導かれて

「十二ヶ月の歌」の二月分です。「scriviamo!」開催中なんですが、いただいた作品へのお返しが全て終わっている(追記:昨夜サキさんから新たに一ついただきました)ので、こちらを発表しておくことにしました。三月分も書かないとまずいなあ。

月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。二月はユーミンの“ BLIZZARD”にインスパイアされて書いた作品です。これは歌詞も動画も省略しました。ご存じない方は、検索すればいくらでも出てきますので……。

原曲はみなさんご存じのように、冬の定番ラブソングで、かなり胸キュンなユーミンワールドです。この曲が効果的に使われた映画もありましたし。なのですが、私の作品では全く別の使い方をしてあります。昔からちょっと思っていたんですよね。「これって、胸キュンっていうか、かなり怖い状況じゃないかな」って。一つ間違えば遭難じゃないですか。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む




鈴に導かれて
Inspired from “BLIZZARD” by 松任谷由実

 思った通り、天候は変わってくれた。朝は晴れていたから、彼女は疑いもしなかっただろう。全て計算通りだとは。

 和馬はストックにつけた鈴を響くように鳴らした。かなり遠くから、答えるように鈴の音が聞こえてきた。辺りは、もうほとんど視界が消え去っている。横殴りの吹雪、もちろん誰もいない。あの時とそっくり同じだ。だが、恐怖と不安に震えていた、あの時の俺とは違う。さあ、来い、恭子。お前の人生の終着点へ。

 間もなく起こる妻の事故死が、彼に多額の生命保険金を約束してくれるはずだった。彼は、泣きながら説明するだろう。「天候が変わったので急いで下山しようとしたのですが、吹雪いていてコースを外れたことに氣がつきませんでした。視界がほとんどなかったので、彼女はあの岩が見えなかったのだと思います」

 その岩には、いま彼がもたれかかっている。千恵子が命を落としたのも、この岩に激突したからだった。もちろん、あの時は俺は何もしていない。吹雪になったのも偶然だった。

 あの事故があったのは、十年以上前だ。千恵子は、和馬の同窓生だった。二人が付き合っていることは、ほとんど誰も知らなかった。卒業後は東京で暮らすつもりだったし、田舎娘と小さくまとまるつもりは全くなかった。妊娠しているかもしれないと言われた時にはぞっとしたが、今は刺激をせずにまだ早すぎるからなどと言いくるめて中絶させようと思っていた。

 山は寒いし、スポーツをすることで、もしかしたら流産するかもしれないと考えたのは事実だ。だが、彼女をスキーに誘ったことにそれ以上の意図はなかった。今日とは全く違う。

 コースを外れたのもいつものことだった。和馬と千恵子は、子供の頃からこの山に通い詰めていたので、スキー客の来ない急斜面をいくつも知っていた。天候が変わりそうだったので、早く降りた方がいいからと、近道をしようといいだしたのは千恵子の方だった。

「降ってきちゃったね。やばいかな」
「急いだ方がいいよな」
「そうだよね。ねえ、ユーミンの歌みたいに鈴つけてよ。せっかくだもん。ほら、上の売店で買ったお守りの鈴」

 姿は見えなくても、ストックにつけた鈴の音を頼りに後を追う、そんな歌詞だったように思う。和馬は「追いかけられる」ことにうんざりしたが、そんな様子は見せずに鈴をストックにつけて滑り出した。

 彼女を、待つつもりはなかった。とにかく早く麓へ着きたかった。後ろから響く鈴の音がだんだんと小さくなり、彼は少しほっとした。何があろうとも、あいつから逃れなくては。結婚なんてことになるのは死んでもごめんだからな。俺の輝かしい人生は始まったばかりだというのに。

 自分のつけている鈴の音が、うるさかった。千恵子につけられたことも腹立たしかった。それをつけている限り、彼女から逃れられないとすら感じられたので、投げ捨てようと思い立ち止まった。

 そして、ぎょっとした。白い吹雪の煙幕に隠されてほとんど見えていなかったが、すぐ近くに大きな岩があった。こんなのにうっかり激突していたら死んでいたな。

 そう思いながらグローブを外して鈴を取り除こうとした。手がかじかんで、うまく外せない。鈴は大きく鳴った。呼応するように、鈴の音が近づいてきた。

「えっ?」
突然、視界に現れた千恵子が、そのまま岩に激突した。

 動かなくなった千恵子をそのままにして、和馬はその場を後にした。その時は逃げることしか考えていなかった。いろいろな責任から、失うものから、恐怖から。吹雪は、和馬がその場にいた痕跡を全て消してくれた。

 千恵子の遺体が見つかり、彼は同窓生として何食わぬ顔で葬儀に出かけた。彼女がなぜ一人であの雪山にいたのか、誰もしらなかったこと、妊娠もしていなければ、事件性も疑われていなかったことに安堵した。そして、あの日のことは、ずっと胸の内に秘めたまま、故郷を離れ東京で生きてきた。

 それが、この岩だ。

 和馬は、ことさら手を振り鈴を鳴らした。恭子、お前には悪いが、あの保険金がないと俺はもうにっちもさっちも行かないんだよ。そのために、大人しくて頭の回らない、お前みたいな退屈な女と結婚したんだからな。千恵子の事故は忘れたことがない。あれに俺が関係していたことは誰も知らない。だから、あれにヒントをもらったなんて誰にも証明できないだろう。完全犯罪。させてもらうぜ。

 彼は、結婚したばかりの妻を言いくるめ、保険をかけた。初めての年末年始を夫の生家で過ごすのもごく自然だ。そして、子供の頃から行き慣れたスキー場へ案内する。偶然・・ 天候が崩れる。視界の悪い中、下山して一人だけ事故に遭う。なんて悲劇。

 呼応する鈴の音が大きくなった。こだまして、二つも三つもあるように聞こえる。おかしいな。あの時は聞こえてすぐに千恵子がぶつかったのに。

 鈴の音だけが響いていたかと思うと、不意にあの時の千恵子の来ていたのと同じ黄色いスキーウェアが見えた。まさか! 恭子はピンクのスキーウェアなのに。

「いったでしょう? ユーミンの歌みたいにしようって。ブリザードは世界を包み、時間と距離も消してくれるのよ。二人を閉ざしてくれるの……」

 千恵子! まさか、幽霊が? 俺は、お前を殺そうとしたわけじゃないんだ。お前が勝手に死んだんだろう。やめろ、俺にとり憑くのはお門違いだ。

 和馬は、慌てて立ち上がり必死に逃げた。滅茶苦茶にストックを動かしとにかく麓へ急いだ。手元のストックについた鈴が大きく鳴る。焦りながら、そちらを見た一瞬、前方から注意がそれた。前をもう一度見た時には、迫り来る大きな岩は、もう目と鼻の先だった。

* * *


 夫の事故死から半年が経ち、恭子は久しぶりに友人との食事に出かけた。若くして未亡人になってしまった彼女の肩を抱いて、力づけようとした。

「スキー場で吹雪に遭うなんて本当に大変だったよね。でも、恭子が無事に下山できて本当によかったよ」
「前方は、ぜんぜん見えなかったんだけれどね。でも、ずっと彼のストックにつけていた鈴の音を頼りに進んでいたの。氣が付いたら麓のリフト乗り場にいたのよ」

「え。でも、ご主人が亡くなったところって……」
「そうなの。麓じゃなかったし、コースも外れたところだったの。でも、私はずっと鈴の音を頼りに下山したのよ。きっと私のために、亡くなった後も案内をしてくれたんじゃないかって、今でも思っているの」

 彼女は、そっと白いハンカチで目頭を押さえた。
「彼が、こんな風に亡くなるなんて、想像もしていなかったけれど、でも、まるでわかっていたみたいに、彼は私のためにいろいろしてくれていたの」

「たとえば?」
「例えば、生命保険。結婚したばかりだし、まだ若いからいらないんじゃないのって私は言ったんだけれど、彼がどうしてもって言って、お互いを受取人にした保険金に加入したの。おかげで、私は路頭に迷わずにすんだのよね」

「そうか。そのご主人を悲しませないためにも、恭子、早く立ち直ってね。あなたは若いんだし、人生はまだまだ続いていくんだから」
「うん。ありがとう、力づけてくれて。いつまでもメソメソはしていたら、彼も成仏できないものね。私、頑張るね」

 恭子は、あれからお守り代わりに常に身につけているキーホルダーの鈴を振って微笑んだ。

(初出:2019年2月 書き下ろし)
関連記事 (Category: 短編小説集・十二ヶ月の歌 2)
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Tag : 小説 読み切り小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】殻の名残

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第十弾です。limeさんは、素敵な掌編小説で参加してくださいました。ありがとうございます!

 limeさんの書いてくださった『やさしいゲイル』

limeさんは、繊細で哀しくも美しい描写の作品を書かれるブロガーさんです。小説において大賞での常連受賞者であるだけでなく、イラストもとても上手で羨ましい限りです。

これまでの「scriviamo!」には、イラストでご参加くださったのですが、今年は掌編小説でのご参加です。読んでうるっときてしまった、この優しくて悲しいお話は、こんなお約束のもとで書かれたそうです。

この掌編は、以前、
*誰かの誕生日
*必ず、常識的に「汚い」と思えるものを「美しく」描いた表現を入れる
*文字数は2000字以内。
という縛りを仲間内で作って、創作し合った作品です。


limeさんのお話に、余計な茶々を入れるのも嫌だったので、お返しは単純に、私もこの縛りにしたがって何かを書くことに決めました。

またしても、同じ世界観が出てきたのは、私がこだわっているからではなく、私の周りに自然科学に詳しい子供と園芸が趣味の母親というバターンが他にいなかったというだけです。



【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


「scriviamo! 2019」について
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



殻の名残
——Special thanks to lime-san


 少年は庭の一角でしゃがみ込んでいた。雨上がりの午後、優しい光に照らされて、母親が情熱を傾ける庭は、生き生きと美しく輝いていた。薔薇と芍薬は、互いに競いながら庭の女王の座を得るべく開き始めた蕾を戴き枝を伸ばしていた。

 菊のようなアストランティアや、黄色く控えめなハゴモグサは行儀よく並び、ネギの仲間であるアリウムも紫の丸い花を咲かせていた。アイリスの花にも丸い雨の雫が揺れている。彼は、ゆっくりと庭園を歩きながら、ひんやりとした清らかな空氣を吸い込んだ。

 家の奥からは、ティーンエイジャーたち特有の抑えの効かない笑い声が響いている。パーティはたけなわのようだった。再婚相手の娘であるナンシーの誕生会が行われることを母親は教えてくれなかった。パーティがあると知っていたら、理由をつけて一日遅く来たのに。彼は、誰からも話しかけられないでいる居心地の悪さを紛らわすために、一人庭に出た。

 彼は、中等教育を終えて、まもなく大学進学資格を得るAレベル試験の準備のためシックス・フォームの寄宿学校に入る。それまでいた寮にずっといることは出来ず、新しい寮にはまだは入れない。それで、この二週間をバースにある母親の再婚相手の家で過ごすことになった。

 十歳になるまで過ごしたケニアにわずかでも帰りたいと思ったが、その旅費を出して欲しいと父親に頼むことができなかった。寄宿学校の費用も決して安くはない。それを父親が出してくれなければ、彼はこの家に居候するしかない。到着して一日でもう疎外感を感じるこの家に。彼は、何かを期待するのはやめようと決心し、黙って応接間から歩み去った。

 庭の片隅、イチゴが赤くなり始めている一角も、雨の後にしっとりと濡れて瑞々しく輝いていた。彼は、ゆっくりと蠢く珍客を見つけて、観察をするためにしゃがみ込んだ。

 Limax maximus。レオパード・スラッグだ。オーガンジーのような半透明の柔らかい体に、豹のような文様が整然と並んでいる。三インチほどの長さで、緩やかに進んでいた。彼によって出来た影を感じるのか、ゆっくりと身を反らした。

 サバンナの俊敏な狩人である豹とは、似ても似つかぬ動きで、むしろ彼はその角の形状からユーモラスなキリンの姿を思い出して微笑んだ。

「ヘンリー!」
後ろからの声に驚いて彼は立ち上がった。
「母さん」

「あなたここで何をしているの? 皆さん、もうテーブルについているのよ」
彼は、困ったように下を向いた。
「僕が、いなくてもいいんじゃないかと思って。その、招待されたわけではないし」

「何を言っているの。いるのが分かつているのに、一人だけ別の食事をさせるわけにいかないでしょう。早く来なさい。いったいそこで何を見ているのよ」

 近づいてきた母親は、ようやく彼が観察していたものが見えたらしかった。
「まあ! ナメクジじゃない! さっさと殺して!」
 
 彼は、ショックを受けて一瞬ひるんだが、あえて口を開いた。
「庭の片隅で懸命に生きている生命だよ。殺すなんて」

「当たり前でしょう。汚い害虫だもの」
「虫じゃないし、汚い生き物なんてないよ。軟体動物門腹足綱は、陸に生息する巻き貝の一種だよ。サザエやアワビの遠い親戚だし、遠く辿れば真珠を作るアコヤガイや聖ヤコブの象徴ホタテガイとだって同じ祖先をもっているんだ」

「何をバカなことを言っているの。ナメクジは庭を荒らすし、危険な病氣を媒介するのは常識です。もう、役に立たない子ね。くだらない屁理屈ばかり言って実用的でないのは、あなたのお父さんそっくりだわ」

 母親は、近くの園芸小屋から塩の箱を持ってくると、あっという間にマダラコウラナメクジの上に撒いた。体を反らして苦しむ生き物から、彼は眼をそらした。

 母親は、その場に心を残している息子の手首を強引に引いて、彼女の自慢の家へと戻っていった。
「すぐに手を洗うのよ! 早くしなさい」

 塩をかけられたマダラコウラナメクジからは、どんどんと水分がしみ出した。艶やかだった豹斑を持つゼリー状の肌は溶けるように消えていった。そして、人のいなくなった美しい庭を午後の日差しがすっかり乾かす頃には、白い塩の山も水分と共に土に混ざりわからなくなった。

 マダラコウラナメクジのいた場所には、小さな白い楕円形のものが光っていた。真珠のように七色の光を反射するそれは、かの生き物が体の中に隠し持っていた、遠い先祖が巻き貝だった頃の殻の名残だった。

 女主人が長い時間をかけて作り上げた庭園には、醜いものや不都合なものなど何もなかった。彼女が丹精込めて育てた花や整然と美しく並ぶ樹木が、その完全な幸福を象徴するように、穏やかな風の中にそよいでいた。

(初出:2019年2月 書き下ろし)

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1959字。ギリギリでした……。

Limax maximus shell
参考: Limax maximus shell レオパード・スラッグの体内に埋もれている殻 
出典 wikimedia.org
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】あの日、庭苑で

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第九弾です。山西 左紀さんは、「絵夢の素敵な日常」シリーズの短編で参加してくださいました。ありがとうございます!

山西 左紀さんの『PX125』

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

ここ何年かは(私が先に書く)プランBでのご参加が続きましたが、今年はサキさんが先行で。そして、この作品は、サキさんのブログ33333ヒット記念作品として私のリクエストにお応えくださった作品でもあるのです。詳しくはサキさんのブログで作品を読んでいただくとして、これに対して何をお返ししようか、少し悩みました。

そして思い出したのが、この作品について、サキさんがちらっと「シンクロしている」と話してくださったことなんです。全くの偶然なんですが、私が「野菜を食べたら」という作品を発表したとき、とあるシチュエーションが、執筆中のサキさんの作品とシンクロしていたのですね。

というわけで、私からのお返しは、その「野菜を食べたら」で出てきたあの娘の話を書くことにしました。サキさんの作品で描かれた「仮面を被ったお嬢様」をテーマにしました。サキさんの方では仮面を取ろうとしていますが、こちらは被ろうとしています。「野菜を食べたら」のちょうど一年前でストーリーが始まります。


【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


「scriviamo! 2019」について
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「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



あの日、庭苑で
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 鏡に映るのは地味な服装に身を包んだ自分だった。黒にかなり寄ったグレイの生地は野暮ったかったし、小さな丸みを帯びた襟も全く好みではなかった。アンジェリカは、むしろ黒い糊の効いたシャツのシャープな襟を立てて着る方が好きだ。たとえモノトーンのシンプルな装いでも、アクセサリーの付け方ひとつ、選ぶ靴一つで、「さすがあのアレッサンドラ・ダンジェロの娘ね」と言わしめるだけのファッションセンスを彼女は持っていた。けれど、今日の服装は、その反対の印象を与えなくてはならない。アンジェリカ・ダ・シウバという娘が、雇い主の家族であることを、誰にも悟らせないようにしなくては。

 彼女は、持っていこうとしたアクセサリーを全て引き出しに戻すと、パタンと音を立てて閉じた。彼女の持っているアクセサリーは、貧しい十七歳が手にするような品物ではない。持っていることがわかってしまったら、盗んだと疑われるか、さもなければ経歴に疑問を持たれるだろう。

 アメリカで育ったブラジル移民の娘という経歴は、嘘ではない。そのブラジル移民が、誰もがその名前を知るサッカー選手であることは、伏せているが。母親は未だにファッションアイコンである元スーパーモデル。伯父は、健康食品会社の経営者である大富豪。母親の三度目の夫は、いつだったかの神聖ローマ帝国皇帝の血を引く貴族で、いくつかの城を所有している。その中で、もっとも辺鄙なところにあるために所有者ですらほとんど行かない城に、アンジェリカは夏期休暇中の仕事をしに行く。

「なぜ、ファルケナウにしたのかい? エッケンブルグなら勝手も知っているし、私も毎週のように足を運ぶから、安心だろう?」
母親の夫であるヴァルテンアドラー候家当主は心配そうに言った。

「だからよ、ルイス=ヴィルヘルム。あのお城で働く人たちはみな私が誰だか知っているもの。それに、あなたがちょくちょくやってきて私を甘やかしたら、私また給料泥棒になってしまうわ」
アンジェリカは言った。

 昨年は、ニューヨークのヘルサンジェル社で三週間働いたのだが、初日からCEOである伯父と顔なじみの経営陣たちに甘やかされて、まったくまともな仕事ができなかったのだ。

「でも、ファルケナウは本当の田舎で、息抜きのショッピングも出来ないよ。代々の城主が滅多に行かなかったから、使用人たちも代々地元の人たちが彼らなりのやり方を踏襲していてね」
「そういえば、ママも行ったことがないって言っていたわ」

「落ち着かないからなかなか足が向かなくてね。近くに空港もないので、往復に時間がかかるんだ。そうまでして行く理由も考えつかないしね」
ルイス=ヴィルヘルムは、困ったように言う。

「でも、あなたの息子は、あそこに住んでいるんでしょう?」
アンジェリカは、不思議に思って訊いた。

「そうだね。この春に引っ越したんだ。それこそもっと便利なエッケンブルグや他の城を勧めたんだが、仕事でチェコに行くことも多いので、あそこがいいと言うんだ。もっともいつまであそこに耐えられるか、私も様子を見ているよ」

 ルイス=ヴィルヘルムの最初の妻は、やはり彼と同じ階級の出身で、離婚後は息子を連れてベルリンに引っ越した。息子であるヨハン=バプテストはヴァルテンアドラー候家の跡継ぎとして、ルイス=ヴィルヘルムがドイツにいるときは側で時間を過ごすことがあった。

 アメリカの小学校に通い、卒業後はスイスの寄宿学校に入ったアンジェリカは、自身がルイス=ヴィルヘルムの城で時間を過ごすことが少なかったので、ヨハン=バプテストと顔を合わせたのは母と養父の結婚式を含めて二度だけだった。でも、その二度目のことは忘れないだろう。

* * *


 アンジェリカは九歳になったばかりだった。母親が、ドイツの貴族と結婚したのは前の年の年末だ。アンジェリカの学校があるので、ロサンジェルスの家での暮らしがベースになっていたが、アメリカに馴染めないルイス=ヴィルヘルムのために長期休暇の時は、ヨーロッパに戻るのが常だった。

 その夏は、一番大きくて由緒のあるエッケンブルグ城に滞在していた。ここは、ヴァルテンアドラー候家の本拠地で、かの神聖ローマ皇帝もここで生まれ育ったという。ここ十数年は、スイスのサンモリッツを本宅としているルイス=ヴィルヘルムも、ドイツでは大抵この城に滞在するのだ。

 育ったロサンゼルスの家は敷地が千二百平米あり、広くて豪華だ。その家に慣れていたアンジェリカでも、本物の城に滞在するのは初めてだった。城から門までも車でないと行けないし、その途中に鹿や雉などが生息しているというのも驚きだった。また城門から街までもやたらと時間がかかる。街からはどこでも小高い丘の上にあるエッケンブルグ城が見えて、それが南東の方角を知る目印だと言われた。

 城には同年代の子供はいなかった。ルイス=ヴィルヘルムの息子がやはり長期休暇のために滞在していると聞いていたけれど、十四歳のドイツ人の少年にとってアンジェリカは、仲良く遊ぶような存在ではないんだろうなと思った。

 半年前の結婚式の日に引き合わされたヨハン=バプテストは、敵意こそ示さなかったけれどアンジェリカの兄になってくれるつもりは毛頭ないようだった。今回も、アレッサンドラやアンジェリカと親しく付き合いたいという意思の全く感じ取れない形式的な挨拶だけをして城のどこかに引っ込んでしまった。彼は、父親に会えたこともさほど喜んでいるようには見えなかった。

 私なら久しぶりに会うパパには抱きつくのに。アンジェリカは、思った。ヨハン=バプテストとは、食事の時にしか会わなかったし、全く話しかけられることがなかったので、もしかして彼は英語がよくわからないのかしらと思った。

 アンジェリカに常に英語で話しかけてくれる城の使用人たちは数人で、彼女は特別に訴えかけたいことがなければ、意思が通じないくても、そのままにしていた。必要ならば、黒い服を着たシュミットさんやブレーメルおばさんを探すか、ママやルイス=ヴィルヘルムに訴えかければいいんだもの。

 彼女は、九歳にしては考えが大人びていた。パパとママは有名人だし、仕事が忙しいから、いつも一緒にいられなくてもしかたない。ルイス=ヴィルヘルムはママの二番目の夫だったあの意地悪な人と比べたらずっと感じがいい。別につらいこともない。だから問題は起こさないようにしようと。

 言葉が通じない人たちとは親しくなれなかった。友達もいないし、城の滞在も数日も経てば退屈になってきた。テレビゲームはないし、スマホに入っているゲームにも飽きてしまった。

 アンジェリカは、城の中を探検してみようと思った。ヨーロッパのお城に滞在する子供向けドラマで見たように、もしかしたら宝物のある洞窟なんかがあるかもしれないし。そういえば、ママはどこへ行ったんだろう。朝食の後、姿を見ていないな。

 アンジェリカは、絨毯が敷かれ歩幅が広く歩きにくい階段を降り、広間の裏側から庭園へと向かった。フランス式に剪定されたコニファーの間を通り過ぎようとしているときに、向こうからヨハン=バプテストが歩いてきた。

「ハロー、ヨハン=バプテスト」
「やあ、アンジェリカ、どこへ行くんだ?」
彼がドイツ語ではなくて、英語で問いかけたので、アンジェリカは意外に思った。話せるのかな。

「退屈なの。だから、お城を探検してみようと思って。あなたは、もう探検した?」
彼は、苦笑して首を振った。
「探検はしていないよ。別に、魔法使いや竜が隠れているような城じゃないしね」

「洞窟は?」
「グロットのことかい? あちらに見える噴水の裏側が、ちょっとした洞窟みたいな装飾になっているよ」
「宝物、隠してあるのかしら?」
アンジェリカが期待を込めて訊くと、彼は肩をすくめた。
「宝物があるとして、隠すとしてもあそこじゃないだろうね」

 彼は、アンジェリカと探検ごっこをしてくれるつもりは毛頭ない様子だった。とはいえ、すぐに立ち去りたそうな様子でもなかった。

「ママかルイス=ヴィルヘルムを見なかった?」
「さっき二人で、庭園の奥の方へ歩いて行ったよ。案内しようか?」
「ええ。お願い」

 フランス式庭園の終わりは、階段になっていて、降りていくと木陰の小径になっていた。そこには孔雀や雉の仲間が放し飼いになっていた。

「見て。あの鳥、判事さんのカツラみたいな頭よ」
「ああ、あれはキンケイっていうんだ。アジア原産だよ」
「あの尻尾が長いのは?」
「オナガドリ。日本の鶏だ」

「ヨハン=バプテスト、あなたとても詳しいのね」
「この城には何度も滞在しているから、さすがに憶えるよ」

「そうか。あなたもママとパパのところを往復しているのよね」
「今はそうでもない。寄宿学校に入って長期休暇の時にどちらかに帰るだけだ」

「帰るか……どっちも『帰る』だけど、どっちにも『行く』のよね」
アンジェリカの暗いつぶやきに、彼は足を止めて向き直った。妙な言いまわしだが、彼にはその正確な意味がすぐにわかった。
「どこか居心地が悪いのかい? ここの話? それともイギリスにいるお父さんの家?」

 アンジェリカは小さなため息をついた。
「居心地が悪いって程じゃないわ。パパはいつも大騒ぎして迎えてくれる。ママも帰るとぎゅっと抱きしめてくれる。でも、ソニアがね、パパの奥さんなんだけれど、うんざりって顔で私を見ることがあるの。そういう時に、マイクみたいに私のこと邪魔だと思っているんだろうなって、納得するようになってしまったの」

「マイクって、誰?」
「マイク・アッカーマン。前にママと結婚していた人」

 ヨハン=バプテストはなるほどという顔をした。マイク・アッカーマンはアメリカの著名なテレビ・モデレーターで、アレッサンドラ・ダンジェロとはわずか半年で離婚した。

「そのアッカーマンが、君を邪魔だっていったのかい?」
「ええ。お前はママが嫌いになったダメ男の子供だ。ママはリセットして新しい人生を始めたのに、子供だから放り出せないで迷惑している、ママも私のことを邪魔だと思っているって」
「アレッサンドラが、そんなことを言ったわけじゃないんだろう?」

「言わないわ。ママは、『マイクの言ったことは全然デタラメよ。ママとパパは離婚したけれど、どちらもあなたのことは深く愛しているわ。それは感じるでしょう?』って言ったわ。だから、そのことを疑っているわけじゃないけれど……」
「けれど?」

「あのね。マッテオ伯父さんがドールハウスを買い換えてくれた時にね。私、前の時にお氣に入りだった安楽椅子をとっておいたの。でも、新しいドールハウスには新しい家具があって、その椅子を入れるところがないの。それを見て、マイクが言っていたのは、こういうことなのかなって。古い家からきたものは、どんなに好きでも、あたらしい家には、上手く入らないんだなって」

 彼は心にもない否定を口にはしなかった。
「君は、その歳でずいぶんよく考えているんだな。驚いたよ」

 アンジェリカは肩をすくめて言った。
「でも、ママやルイス=ヴィルヘルムには言わないでね。大騒ぎして心配するもの」
「言わないさ」

 やがて、二人は少し開けた庭園に出た。そこには各種の薔薇が放射状に植えられていた。その中心には、つる薔薇で覆われた白い木の東屋があり、探していた二人が座っていた。

 ルイス=ヴィルヘルムは、最愛の妻の手を取り、じっと見つめながら楽しそうに語りかけていた。彼女は笑顔で答えて楽園のような光景を楽しんでいた。それは一幅の絵のように美しかった。夏の始まりの、輝かしい新緑と、深く艶やかな薔薇の花、多忙な美の女神である妻を穏やかで慎み深い夫が讃美している。おそらく誰にも邪魔をされたくないであろう、ほんのひとときの至福。

 アンジェリカは、黙ってしばらくその二人を見ていた。穏やかな風が吹き、薔薇の香りが満ちた。

「私、あっちの方を歩いてくるわね」
そう言って、背を向けたアンジェリカの背中は、小さな子供のようだった。そう思ってから、ヨハン=バプテストは、そうじゃないと思った。彼女はまだ九歳の子供なのだ。懸命に背伸びをして寂しさと戦っているけれど、大人びた台詞ほど、彼女は寂しさと折り合いをつけているわけではない。

 新しいドールハウスに上手く収まらない家具は、アンジェリカだけではなかった。彼には、アンジェリカの居心地の悪さがだれよりもわかった。彼は少女に近づくと、その手を握った。

 驚いて見上げる彼女に、彼は、慣れなくて難しかったけれど、可能な限り優しく笑いかけて言った。
「僕が、案内してあげる。あっちには、小さな滝があるし、昔、僕が海賊ごっこをした小屋がある。一緒に宝探しをしよう」

 アンジェリカは目を輝かせた。
「本当? あなた、海賊役するの? 私、さらわれたお姫様の役、やっていい?」
「いいとも。今日だけ、特別だよ」 

* * *


「アンジェリカ、本当に考え直すつもりはないのかい?」
「もちろんないわ。大丈夫よ、ルイス=ヴィルヘルム。そんなに心配しないで。私、これでもけっこうドイツ語が上手に話せるようになっているのよ。なんとかなると思うわ。どうしても耐えられないようなことがあったら電話だって出来るんだし、それに、ヨハン=バプテストもいるじゃない」

 そういうと、ルイス=ヴィルヘルムは少し困ったような顔をした。
「その、君はあいつと長らく会っていないだろう? その……あいつは、悪氣は全くないけれど、とても無愛想でな。君のような都会的な女の子の扱いも下手で、あまり上手にかばってくれないかもしれないぞ」 

 アンジェリカは、そっと微笑んだ。仏頂面のまま、一生懸命お姫様をさらう海賊の役をしてくれた少年の姿を思いだす。

「彼は、私のお芝居にきっと付き合ってくれるわ」
小さなスーツケースを軽々と持ち上げて、彼女は楽しそうに笑った。

(初出:2019年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】不思議な夢

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第八弾です。ユズキさんは、『大道芸人たち Artistas callejeros』の主人公の一人ヴィルの登場するコラボマンガを描いてくださいました。ありがとうございます!

 ユズキさんのブログの記事『scriviamo!2019はマンガを描きました 』
 ユズキさんの描いてくださった『コアラ先生は謎の男を拾っておもてなしをしました。

ユズキさんは、小説の一次創作や、オリジナルまたは二次創作としてのイラストも描かれるブロガーさんです。現在代表作であるファンタジー長編『ALCHERA-片翼の召喚士-』の、リライト版『片翼の召喚士-ReWork-』、そして『アストリッド様と「行くわよ愉快な下僕たち!」』を集中連載中です。

そして大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストを描いてくださっています。

 今回描いてくださったマンガは、『ALCHERA-片翼の召喚士-』の世界観、続編に出てくるキャラクターのコアラのトゥーリ族であるウコン先生がいち早くお披露目だそうです。コラボ相手に選んでくださった唐変木男ヴィルとユズキさんの作品とは縁が深くて、ヒロインのキュッリッキ嬢や、その守護神であるフェンリルとのコラボもさせていただきました。

で、今回はヴィルが異世界召喚されちゃって、もったいないおもてなしを受けているのに、なのに相変わらずの無表情&唐変木ぶりを発揮している、もう私にとってはツボ! なマンガだったのですが、ご希望は、このお話をヴィル視点で書いて欲しいとのことでした。というわけで、書きましたが、あ〜、ユズキさん、申し訳ありません。失礼の数々、ヴィルに代わって深くお詫びいたします。


【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物



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大道芸人たち・外伝
不思議な夢
——Special thanks to Yuzuki san


「ねえ、やっぱりちゃんとお医者様に診てもらった方がいいんじゃないの?」
蝶子の言葉にヴィルはムスッと答えた。
「こんなのは寝ていれば治る」

「なあ。健康保険をなんのために払ってんだよ。俺運転するぜ。ちょっと診てもらって抗生物質を出してもらうとかさ。なんなら、お尻にぶすっと注射でも打ってもらえば……」
「注射なんて死んでもごめんだ!」
そういうと、ドイツ人は布団をかぶって背を向けた。

 蝶子は、稔と顔を見合わせて肩をすくめると、仕方ないので部屋の外に出た。
「なぜあんなに意固地になるのかしら」
「さあな。ただの風邪なら確かに寝てりゃ治るけれど、あれ、インフルエンザじゃないのか? そういえば、テデスコが寝込むほど具合が悪くなったのって、もしかして初めてだな」

「普段の理屈っぽさはどこに行っちゃったのかしら。あそこまで非論理的になるなんて」
「テデスコ、もしかして注射が怖いのかもしれませんよ」
レネが言った。

 全くお手上げだった。エッシェンドルフの屋敷にいれば、ミュラーが医者の往診を頼んでくれるだろうが、旅先ではそういうわけにもいかない。
「しかたないわね。私、薬局に行って解熱剤でも買ってくる」

「じゃあ、俺たちは、買い出しに行くか」
稔が言うと、レネは頷き、三人はそっと宿を出て行った。

「注射なんて死んでもごめんだ」
ブツブツとつぶやくと、ヴィルはもう一度寝返りをうった。激しい頭痛がして、なかなか寝付けない。体が頑丈なのが取り柄なのに、一体どうしたというんだ。明日までに熱が下がるといいんだが。

* * *


 ほらみろ。少し寝ていたら、痛みは治まったし、熱ももうないようだ。医者なんかに行く必要はなかったな。

 ヴィルは、勝ち誇った思いで瞼を開けた。それから、何度か瞬きをした。安宿で寝ていたんじゃなかったのか? 何で俺は、ここに立っているんだろう。

 そもそも、その場所に見覚えがなかった。街の作りは、さほど奇妙ではなかった。若干カラフルすぎるように思うが、美しく計画された、清潔な町並みだ。しかし問題は、道行く人々が彼の馴染んでいるヨーロッパの人種と違うようなのだ。中には、彼自身と同じゲルマン系に見える人々もいる。たとえアジア系やアフリカ系の人間がいても、今時は珍しくない。だが、動物の頭をした人物が、服を着て直立二足歩行をしているのは普通ではない。

 狐がすれ違いざまに振り向いていった。連れだって歩いているのは大きな熊だ。そんなことがあってたまるか。

 つい数日前に、稔が話していたことを考えた。確か蚊が媒介するウィルスが脳炎を起こすので、日本では子供の頃に予防接種が義務づけられているとか。日本人に生まれなくてよかったと思っていたが、もしかして、先日の日本行きで蚊に刺されその脳炎にかかってしまったのだろうか。

 呆然としていると、服の一部を誰かが引っ張った。視線を下げて見ると、そこに服を着たコアラがいる。コアラだ。こんな間近にコアラを見たのは初めてだ。そう考えて、次に自嘲した。近くも何も俺はコアラを見たことなんかないじゃないか。あの時に、見そびれたんだから。小学五年生の遠足。夢にまで見たデュイスブルク動物園。

 服を着たコアラは、何かを話しかけている。残念ながら、何を言っているのかさっぱりわからない。どうやら悪意はなさそうだ、どちらかというと親切な話し方だ。

「悪いが、英語で話してくれないか」
言ってから、自分でもどうかしていると思った。オーストラリアにいるからといってコアラが英語を話すわけないだろう。オーストラリアのコアラは服は着なかったと思うが。

 そして、そのコアラは、英語に切り替えてくれることはなかった。どうやらヴィルが何を言っているのか、通じていないようだ。だが、彼は(オスだと思うのだが確かなところはわからない)、ヴィルをどこかに連れて行こうとしている。放っておいて欲しいと伝えようとしたが、考えてみればこのままここにいても問題が解決しそうにないので、とりあえずそのコアラについて行くことにした。

 ついてから、「最悪だ」と思った。どうやらそこは、あれほど行くことを拒否した診療所のようなところだったからだ。

「いや、俺はもう治ったので、心配しないでくれ。特に注射はごめんだ、絶対に断る」
幸いコアラは注射器を取り出すような氣配はなかったが、どうもこの消毒薬の匂いは落ち着かない。

 ヴィルは、子供の頃から病院や診療所が苦手だった。成長して、診療所は病を治療するところで、拷問するところではなく、怖れることは何もないのだとわかってからも、苦手意識は変わらなかった。それは、彼にとって苦々しいことだった。論理的でないとわかっているのに、感情が自分を支配しているのが腹立たしい。いい歳をして病院が怖いなどと認めるのは絶対に嫌だった。

 服を着て二足歩行をし、パイプを吹かし、人間に話しかける、非論理の極みであるコアラは、消毒薬の匂いのするこの診療所を我が物顔で歩き、診察椅子と思われるところに座れと促している。人間の医者にかかるのだってごめんなのに、どうしてコアラに診療されなくちゃいけないんだ。

「はっきりさせておきたいが、これは夢なんだろう。いわゆる明晰夢ってやつなんじゃないか。明晰夢なんてモノをみたことはこれまでに一度もないが、そもそも不眠症ぎみの俺は、ほとんど夢を見ないしな。もしこれが夢ではなかったら、俺は頭がイカれてしまったことになる。そうすると、それはそれであんたのフィールドだ。あんたが医者のコアラならな」

 コアラの方は、じっと真剣にヴィルの問いかけを聴いていたが、それがわかったわけではないらしい。かなり困った顔をしながら、何かを懸命に訴えていた。身振り手振りを推察するとなぜあそこにいたのだ、どこから来たのかと質問しているようだ。そんなこと、俺の方が訊きたい。ヴィルは途方に暮れて押し黙った。

 コアラは、どこかへと電話をした。電話も使うのか。そうだろうな、家や診療所を持っているくらいだ。電話くらいするだろう。ヴィルは妙な感慨を持った。

 直に、誰かが訪ねてきたので、コアラは玄関へ行き招き入れた。別のコアラが来るのかと思ったが、今度は人間だった。ヴィルは、これ幸いと英語を始め、ドイツ語やイタリア語、それに片言の日本語の単語なども含めて男に問いかけた。人間なんだから英語くらいわかるだろうと思った読みは外れた。その男は、コアラと同じ言葉を使っていた。ヴィルに触って、何かを調べていたようだったが、結局なんの解決にも至らずに帰って行った。

 これではっきりした。ここは、いつもいる旅先のどこかではない。俺の頭が高熱でおかしくなってしまったという疑いは晴れないが、それにしては恐怖を引き起こすような状況は(注射を除いては)起こりそうにもない。ということは、やはり明晰夢の一種なのだろう。ヴィルは、とにかく落ち着いて、目の覚めるのを待とうと思った。

 そもそも自分はなぜコアラの夢を見ているんだろうかと考えた。コアラが特別好きだと思ったことはない。そもそも、三十年以上生きてコアラに関わることはほとんどなかった。唯一あるとしたら……。

 小学五年生の時、ドイツ西部のデュイスブルクに遠足に行くことになっていた。オランダにほど近い街までは遠いので泊まりがけだった。デュイスブルク動物園はコアラの繁殖に力を入れていて、オーストラリア固有種を生まれて初めて見ることを子供たちは、みな楽しみにしていた。ヴィルもそうだった。

 だが、泊まりがけと聞き、ヴィルの父親は反対した。私生児として生まれたヴィルの音楽の才能に氣がついた父親は、週に一度ミュンヘンの屋敷にレッスンに来るよう命じた。厳しいレッスンと課題に追われる日々が続いた。例外は許さず、たかが動物園に行くためにレッスンを休むなどとんでもないというのが彼の主張だった。

 デュイスブルク行きの費用を、母親は出してくれなかった。それだけの経済的余裕はなかったし、レッスンに関することで父親に反対することも彼女は望まなかった。城のように豪奢な邸宅住む父親にとって、その費用ははした金以下だろうが、頼んでも無駄なことは訊くまでもなくわかっていた。

 ヴィルが諦めなくてはならなかったのは、デュイスブルク行きだけではなかった。サッカーの試合も、友人の家に泊まりに行くことも、年末のパーティも、どんな羽目外しも許してもらえなかった。彼は、父親の教えに従い、フルートとピアノの腕前をあげ、大学在学中にコンクールで優勝するほどに上達したが、後に反抗して音楽から離れ、演劇の道に入った。

 あの時に夢にまで見た、コアラをみること。それがこの夢の引き金だろうか。だったらなぜサッカーの試合観戦や、遠足の夢を見ないんだ。ヴィルは、首を傾げた。

 服を着たコアラは、彼を別の部屋、おそらくダイニングルームと思われる部屋へ連れて行き座らせた。それからにこやかに何かを告げると席を外した。

 何が起こるかはわからないが、危害を加えられることもないと思ったので、目が覚めたときに分析できるように、周りの状況を目に焼き付けておこうと思った。窓の外には、新緑が萌え盛っている。季節も違うらしいな。

 カチャカチャと音がして、コアラが部屋に戻ってきた。見ると磁器のティーセットを盆に載せている。質のいい薄い茶碗に、コアラは紅茶を注いだ。それをヴィルに勧めて飲めと促した。それから、次から次へと甘そうな菓子類を運んできた。

 おい、コアラはユーカリしか食べないはずじゃなかったか。いや、これまで見たあれこれと比べたら何を食べようがこの際さほど重要ではないのかもしれない。

 真っ白な生クリームの上に、色とりどりのベリーが載ったトルテ。カスタードクリームに季節のフルーツをこんもりと載せたタルト。カラメルソースの艶やかなカスタードプディング。イチゴにクリームのたっぷり載ったサンデー。チョコレートやナッツを使ったクッキーやショートブレッド。パルミエパイ、クッキー、スコーン、マカロン。

 ちょっと待て。なぜこんな大量の菓子を運んでくるんだ。何十人の客が集まるんだ? それにしては、ティーカップが二人分しかないが、どういうことなんだ。ヴィルは、言った。
「まさか、俺一人にこんなに食えって言うんじゃないだろうな。ブラン・ベックじゃあるまいし、こんなに甘いものばかり食えないぞ」

 彼の仲間の一人であるレネは、甘いものに眼がなく、一緒に日本に行ったときにもスイーツ・バイキングで一人だけ山のようにこういった菓子を頬張っていた。あの時ヴィルは、妙に薄いコーヒーのみを飲み、醒めた目で仲間を見ていた。最後に蝶子に押しつけられたエクレアを一つだけ食べたのだ。甘かったが、それなりに美味いと思った。

 ちらりと菓子を見た。一つくらいなら、食べてみてもいいのかもしれない。

 それから、急いで自分を戒めた。ダメだ、ダメだ。お伽噺のセオリーだと、こういう時に出されたモノを口にしてはいけないことになっているんだ。ただの夢なのに馬鹿馬鹿しいとは思うが、ここは用心して食わないのに限る。ブラン・ベックなら、問答無用で楽しく食うかもしれんが、俺はもう少し慎重なんだ。

 コアラは、親切そうに何かを訴えている。食え食えと言っているんだろう、見ればわかる。おや、なんだか泣いているようだ。俺が泣かせたんだろうか。

 その泣き顔を見ているうちに、ヴィルは子供の頃のことを思い出した。学校の行事に参加することがなくなり、クラッシック音楽の練習に明け暮れていたため、同級生からはお高くとまった子供だと敬遠され、彼は次第に孤立していった。デュイスブルク動物園に行かせてもらえず、悲しい想いでいたときも、それを打ち明け悲しみを吐露する友人がいなかった。彼は、誰の前でも泣くことが出来なくなった。

 そうか、俺は、ずっと泣きたかったんだ。つらい悲しいと、わかってほしいと、誰かに打ち明けたかったんだ。ずっとその相手がいなかったから、飲み込んでいたが、今の俺はもう一人じゃない。悲しみも、歓びも、共に分かち合える仲間がいるじゃないか。

 三人が楽しそうに甘いものを食べているときに、あれは俺の食べるものではないと、醒めた態度で見ていたが、一緒にワイワイと食べればよかったのかもしれない。だから、俺は、こんな夢を見ているのかもしれない。

 そう思った途端、急に晴れ晴れとした心持ちになった。周りが霞がかかったようにぼやけていく。そうか、俺は目醒めるんだな。元いたところへ、三人の元に帰れるんだ。

 彼は立ち上がると、コアラの医者に礼を言った。
Danke sehr.どうもありがとう

* * *


 目を覚ますと、少し暗くなっていた。やっぱり夢だったな。どのくらい寝ていたんだろう。ああ、本当に熱が下がったらしい、痛みもなくなっている。トイレに行くために起き上がり、多少ふらつきながらドアに向かった。

「え! 帰っていたの?」
ドアの向こうにいた蝶子が驚いた。

「何がだ? それはこっちの台詞だろう」
ヴィルは眉をひそめた。

「だって、薬を買って戻ってきたら、いなかったから。ねえ?」
蝶子が同意を求めると、稔とレネも真面目な顔で頷いた。

「よほど具合悪くなって一人で医者に行ったのかと思った。そこら辺は見て回ったけれど、倒れてもいなかったし、早く連絡をくれないかって話していたところだったんだぜ」
稔も口を尖らせた。

「もしかして、僕たちがいないと思っていただけで、本当は布団にくるまっていて見えなかっただけなんでしょうか?」
レネも首を傾げている。

 ヴィルは、トイレから戻ってくると、三人の座っているテーブルについた。それから、買いだしてきたと思われるクッキーの袋に手を伸ばすと、開けて食べた。

「どうしたの? まだ、熱があるの?!」
普段は自分から甘いものを食べないヴィルが、いきなりそんな行動に出たので蝶子はうろたえた。

「これも食べますか?」
レネは、おそるおそるマカロンも差し出した。

 悪くない。あんなにたくさんはいらんが、たまには甘いものもいい。ヴィルは、心配してくれる三人の顔を眺めながら思った。そして、先ほど見たシュールな夢について語った。

「馬鹿馬鹿しい夢だが、何か意味があるのかもしれないと思ったよ」
そう言って話を終えると、三人は顔を見合わせて、笑った。

「それって、異世界召喚ってヤツなんじゃないか」
稔が言った。ヴィルは、とことん馬鹿にした顔で応じた。

「いいなあ。もし僕がその場にいたら、全部少しずつ食べさせてもらったのになあ」
レネが言うと、蝶子は吹き出した。
「少しずつじゃなくて、完食したんじゃないかしら」

 ヴィルも同じことを思った。それから、「シャワーを浴びてくる」と立ち上がった。

「もういいの?」
「すっかり毒が抜けたよ。明日、予定通り移動も出来るさ。次の目的地、決めといてくれ」

 そう言うと、ドアへ向かう彼の後ろ姿に、稔が笑って言った。
「もう決まっているよ。デュイスブルクだろ」

 ヴィルが驚いて、振り向くと、蝶子とレネも笑って人差し指をあげて賛成の意を示していた。多数決が成立し、行き先が決まった。

(初出:2019年2月 書き下ろし)


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Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 世吉と鵺

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第七弾です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!

もぐらさんの朗読してくださった作品『主人思いの小僧と貧乏神』

もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。お一人、もしくはお二人で作品を朗読なさり、当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。いつもとても長くて本当にご迷惑をおかけしています。

今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品です。貧乏神のシリーズとはいえ、毎年、とてもハートフルなエンディングでお正月にふさわしい素敵な作品ばかりです。どうぞあちらで聴いてみてくださいね。

で、お返しですけれど、恒例の「樋水龍神縁起 東国放浪記」の話です。今回も窮鬼(貧乏神)の話題はほんのとっかかりだけですが、もぐらさんのお話のエッセンスを取り入れた話にしてみました。

平安時代の話なので、馴染みの少ない言葉がいくつか出てきますのでちょっとだけ解説しますと、出てくる「家狸」というのはいわゆる猫のことです。この当時、猫は民衆の間では狸の仲間だと思われていたようです。日本の在来の野生の猫をネズミを捕ることからペット化し始めた頃のようです。それとは別に遣唐使などと共に輸入されてきた猫もいました。それから、題名に出てくる「ぬえ」の方は、皆さんご存じですよね。想像上の生き物です。某映画のキャッチコピーを思い出した方は、私と同年代でしょうか。


【参考】
「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む 「樋水龍神縁起 東国放浪記」

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樋水龍神縁起 東国放浪記
世吉と鵺
——Special thanks to Mogura-san


 その村についたのは、もう暮れかかる頃だったので、次郎は何をおいてでもすぐに今夜の宿を探さねばならなかった。村はずれの小さな家でどこか泊めてくれる家がないかと訊くと、親切そうな女は困った顔をした。

「この家は狭く、とてもお二人をお泊めできるような部屋はございません」
確かにここは難しいだろうと思った。貧しい家はどこもそうだが、土を掘り床と壁と屋根を設置した竪穴式の家で、家族が身を寄せ合って眠るのが精一杯の広さしかないことが見て取れた。

 女は辺りを見回して言った。
「この先にもいくつか家はありますが、皆ほぼ同じような有り体でございます。例に漏れますのは、一番村の奥に住んでおります世吉よきち の家でございます。この者は、隣村の少領である佐竹様の右腕と言われる働き者で、親切なのでございますが……」

 次郎は首を傾げた。
「何か不都合があるのでしょうか」

「いえ。実は、この者の家には、化け物が棲んでいるのでございます。確かぬえ とやら申しました。天竺にいる虎のような体と、蛇になった尾を持ち、ヒューヒューと、氣味の悪い声で鳴くのだそうでございます。その様な家ですので、宿を請う者どころか、嫁すら迎えることが出来ないのでございます」

「そうですか。では次に泊まれるような家があるような村は」
「さようでございますね。隣村は難しいので、おそらく山道を十里ほど先に行く他はないかもしれません。ただ、もう暮れてまいりましたね。さて、どうすべきでしょうか」

 次郎は言った。
「我が主人は陰陽道に秀でられたお方ですので、多少の化け物など怖れることはないかと存じます」
「さようでございましたか! それならば、世吉も喜ぶことでしょう。誠にあの化け物さえいなければ、どんなにいいかと、村の皆で申しておったのでございます」

 次郎は、急いで主人である安達春昌の元に戻ると、女の話を伝えた。
「鵺?」
春昌は怪訝な顔をしたが、特に反対はせずに、その世吉の家へと馬を進めた。

 その家は、確かに村の他の家とは違い、決して大きくはないが茅葺き屋根の木造家屋だった。簡素な佇まいながらもきちんと掃き清められ、化け物が棲み憑いているような禍々しい氣は一切感じられなかった。

 もちろん次郎には、そういった普通の人には見えぬものはぼんやりと見えるだけで、主人のようにはっきりと見たり、判断をする知識があるわけではない。だが、主人が「心せよ」とも言わないところを見ると、いきなり化け物に襲われるようなことはないだろうと判断し、戸を叩いた。

「もうし、旅の者でございます。一晩の宿をお願いにまいりました」
その次郎の声に反応して、中から誰かが戸口へとやってきた。

 顔を出したのは、質素な身なりだが人好きのする顔をした小柄な青年であった。
「これは、珍しい。立派なお殿様のおなりですな。もちろん喜んでお泊めしたいのですが……その……村では何も申しておりませんでしたか」

 次郎は頷いた。
「伺っております。鵺という化け物が棲み憑いていると。まことでございますか」

 世吉は、困ったように言った。
「名前はわかりませぬが、異形のものがいるのはまことでございます。お氣になさらないのであれば、どうぞお上がりくださいませ」

「わが主は陰陽道に秀でておりますので、もしお望みでしたらお泊めいただくお礼に、その鵺の退治なども……」
次郎が小さい声で囁くと、世吉はぎょっとして春昌の顔を見た。

 それから困ったように言った。
「いえ、あれが窮鬼のようなものだとしても、仕方ないことと受け入れたのは私でございます。皆に追われて行く当てがなく氣の毒だったのです。私には生きるに足らぬ物はなく、これで構わぬと思っておりますので、どうぞあれをそのままにしておいていただければと思います」

 そう言うと、世吉は春昌と次郎を奥の部屋へと案内した。調度も整い、掃き清められた心地いい部屋で、嫁はなくとも世吉が家の中をきちんとしていることがわかった。化け物が突然遅いかかって来ることなどもなく、次郎は少し拍子抜けした。

 夕膳の支度をしてくると世吉が部屋から出て行ったので、次郎は家の脇につないだ馬の世話をするために再び戸口に向かった。すると、奥の部屋からヒューヒューという薄氣味悪い声が微かに響き、何かが拭き清められた廊下を静かに歩いてくる。

 次郎は肝を冷やして、急いで春昌のいる部屋に駆け戻ると大きな声で叫んだ。
「春昌様! 鵺が!」

 春昌は、落ち着いて次郎の飛び込んできた部屋の入り口を見た。それから、廊下から世吉が慌てて走ってくる音が聞こえた。
「どうか、そのものをお助けくださいませ!」

 世吉は、戸口で何か黒い生き物を抱えてひれ伏していた。怖れ伏していた次郎は、その世吉の言い方に驚いて顔を上げた。

「心配せずとも何もせぬ」
春昌は少しおかしさを堪えているような顔を見せた。

「春昌様?」
次郎は、春昌と鵺らしき生き物を抱える世吉の顔を代わる代わる眺めた。

「世吉どの。教えていただけないか。あなたがその生き物と暮らすようになつたいきさつを」
春昌の静かな声に、世吉は安堵し、生き物を放した。それは「ヒューヒュー」とわずかに喉から漏れるような音を出しながら、悠々と春昌の側に歩いてきた。

 次郎はその生き物を見て、少し拍子抜けした。確かに一度も見たことのない生き物だった。漆黒で、長い毛に覆われている。尾の長さは頭から尻までと同じくらい長く蛇のように蠢いていたが、蛇というよりは狐の尾に近いものだった。顔と体つきは屏風で見た虎に似ているが、全体の見かけは少し大きな町の裕福な家にて飼われる家狸ねこま に酷似していた。違うのは尾が長いことと、毛が非常に長いこと、それに大きいことだ。

「はい。このものは、私めがまだ少領である佐竹様の下人として、辺りを回っていたときに出会いました。とある裕福な家で、むち打たれていたのでございます。訊けば、どこからともなく来て棲み憑いたものの、それ以来、家運が傾き下人などが夜逃げをするようになったとのこと、法師さまに見ていただいたところ、このような生き物は見たことはないがおそらくは文献に見られる鵺であろうと。窮鬼のごとく、家運を悪くすると申します。されど、小さい体で息も絶え絶えに助けを求めている様を放っておくことはできず、お館ではなく、我が家でしたら殿様のご迷惑にはならぬであろうと、お許しをいただき連れ帰りました。それ以来三年ほど共にこうしておりますが、すっかりと慣れておりますし、たまに鼠なども狩ってくれます。たとえ運がよくなろうと、退治されてしまうのはあまりにも辛うございます」

 春昌は、ゴロゴロと喉を鳴らすその黒い生き物を撫でて言った。
「これは鵺ではない。唐猫からねこ だ」

 次郎は仰天してその大きな生き物を見た。唐猫と呼ばれる生き物ことは、以前に仕えていた媛巫女に聞いたことがあった。天竺の様々な法典を鼠より守るために遠く唐の国から船に乗せられてきた貴重な生き物だと。

「非常によく似た唐猫を御所で見たことがある。天子様がことのほかご寵愛で、絹の座布団で眠り、日々新しい鶏肉と乳粥で大切に養われていると聞いた」
春昌の言葉を耳にして、世吉は腰が抜けるかと思うほど驚いた。

「鼠を狩るのは当然だ。家狸ねこま が飼われるようになったのも鼠を狩るからだが、唐猫と家狸はもともと同じ種類の生き物だからな。何かの間違いで逃げ出し、親とはぐれてしまったのであろうが、その様なむごい目に遭わされたとは氣の毒に。家狸のごとく鳴くことが出来ず、鵺のような音を出すのは、おそらく喉が潰れてしまったのであろうな」

 唐猫は、悠々と世吉の元に戻ると膝に載りヒューヒューと息を漏らした。その愛猫を抱きしめながら世吉はつぶやいた。
「そうか。そんなに尊い生き物だとは知らずに、ずっとお前を窮鬼の仲間だと思っていた。申し訳のないことを」

「そうではない。禍々しくないと同様に、尊くもない。ただ、家狸ねこま と同じく、馬や牛とも同じく、けなげに生きる生き物だ。そして、世吉どの、そなたはその命を救い、窮鬼だと思いつつも懸命に世話をした。それをその猫は知っているからそなたと共にいるのだ」

「私は、このものを追い出すことも死なせることも出来ませんでした。もし窮鬼と共に生きるのであれば、人の数倍、身を粉にして働かねばと思っておりました」

 春昌は頷いた。
「その心がけが、そなたをただの下人から、少領どのの片腕と言われるまでの地位に就けたのであろう。言うなれば、そなたの唐猫からねこは、窮鬼ではなく恵比寿神に変わっていたのであろうな」

「はい。安達様、お教えくださいませ。私ごとき、身分の低い者がそのような珍しい生き物と暮らしていて、とがめられることはないのでしょうか。知らなかったとは言え、三年ほども共におりましたし、もし天子様の唐猫の仔などであったとしたら……」

 春昌は、怯える世吉に笑って言った。
「誰にも言わねばよい。法師は鵺と言ったのであろう。誰もが鵺を恐れて、その生き物を引き取りには来ない。そなたはその唐猫を鵺と呼び、寿命を迎えるまで大切にしてやるといい」

(初出:2019年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】迷える詩人

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第六弾です。前回に引き続き、ポール・ブリッツさんのご参加分。今年は十句の無季自由律俳句でご参加くださいました。

 ポールブリッツさんの「電波俳句十句

毎年ポールさんのくださるお題は難しいんですけれど、今年は更に悩まされました。毎年のお題と違うのは、今回の作品はかなりパーソナルな内容なのかなと思いまして、どう取り扱っていいのか。

ここで私が十句もパーソナルな内容の俳句をお返しすることは、誰も望んでいないと思うので、俳句に詠まれた内容を(一部は申し訳ないのですけれど、正確な意味がわからなかったのですが)、私なりに感じる創作者の共通の悩みのことを書いてみようかなと思いました。そして、書いてくださった十句にちなんで、十のよく知られたラテン語の箴言や格言を散りばめてみました。私が付け焼き刃で書く下手な俳句などでは却って失礼になると思ったので。

登場するのは、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」における「歩く傍観者」こと、(身元が判明する前の)主人公マックスです。ご存じない方も、彼が主人公だったことをお忘れの方も、全く問題ありません。この作品ではほとんど関係ありませんから。


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む
あらすじと登場人物

森の詩 Cantum Silvae 外伝

「scriviamo! 2019」について
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森の詩 Cantum Silvae 外伝
迷える詩人
——Special thanks to Paul Blitz-san


 穏やかな秋の午後、マックスは山道を急いでいた。まだ今宵の宿を見つけていないのだ。足下には絨毯のごとく大量の栗のイガが散らばっていた。

「痛っ」
マックスは、声を上げた。今日は、もう三度目だ。彼はまたしてもそれを踏んでしまったのだ。

 この地域は、特に風味豊かな栗を産することで有名だ。鬱蒼と茂る背の高い栗の木々は、村のそれぞれ家で管理している。教会と代官に納める分以外は、乾燥栗や、その粉末に加工されてヴェルドンはもとより、貿易によって運ばれ遠くセンヴリやカンタリア王国の宮廷でも食卓に上ることがあった。

 落ちているのはイガばかり、つまり、旅籠で本日の定食を頼めば、彼の足を刺したイガが抱いていた秋の味覚を口にすることが出来るはずなのだ。

 まずは栗を煎る香ばしい煙が、それからようやく小さな灰色の家々がマックスを出迎えた。彼は、歩きにくい粗い石畳の小径を進み、《牡鹿亭》と書かれたおそらくこの辺りで唯一の旅籠に足を踏み入れた。

 中には旅人らしい影は多くなかった。食事をしているのは、旅籠の亭主らも含めて四人ほどで、おそらく客は奥に一人で座る青年のみだろう。

「今宵の宿を頼みたいのだが」
そう尋ねると、亭主は立ち上がり、中へと招いた。古い栗の木を用いた寝台や机、とても小さな戸棚があるだけの簡素な部屋だったが、マックスは満足した。

「今すぐ来てくれれば、定食を出すが」
マックスは、頷いた。少し早すぎるとも思ったが、食いっぱぐれるよりはいい。

 食堂は狭いので、彼は先客の前に案内された。それは青ざめた顔をした痩せた青年で、銀色のタンブラーを右手で持っている。中には半分ほどのワインが入っている。その手がわずかに揺れているのを見て、マックスは「おや」と思った。

「ワインはいかがですか」
亭主がワインの入った水差しを持って近づいてきた。マックスは礼を言ってタンブラーを差し出した。マックスに注ぎ終えると、訊くまでもなくもう一人の客もタンブラーを差し出したので、そちらにもためらいながらも注いだ。

「そんなに飲んで、大丈夫か、アントー? 」
亭主の問いかけに、アントーと呼ばれた客はあざ笑うように言った。
「大丈夫じゃないさ。生まれてからこのかたずっと」

「それじゃ、わざわざ明日の頭痛や悪寒をあえて背負い込む必要はないんじゃないかい?」
余計なことと思いつつも、マックスは言ってみた。

 男は片眉を上げると、マックスにタンブラーを差し出して答えた。
「正にその通り! それでは、明日の頭痛と吐き氣に乾杯しよう、旅のお方」

 マックスは、盃を合わせて少し飲んだ。
「君は、この村にしばらく逗留しているのかい? 詳しいなら少し教えてくれないか」

 アントーは、口の端だけで笑いながら言った。
「何を知りたいのかね、旅のお方。俺は、確かにこの辺りのことに少しは詳しいさ。今は歓迎されず、長居をすることはないが、何といっても隣村で生まれ育ったのでね」

「そうなのか! 僕は、サッソ峠を超えてグランドロンヘと入るのは初めてなんだ。初雪が降る前に街道へと出たいんだが、どこを通ると一番いいだろうか」
「そうだな。俺なら、少し西へと向かいエッコ峠にするな」
「ずいぶんと遠回りなのにかい?」
「サッソ峠は、日が当たらないためか辺りはひどく貧しくてね。旅籠はないし、食べられるものや安心して休める場所も見つけにくい。ここを出てしばらくはひもじい思いをすることになるし、追い剥ぎにやられる可能性も多い。道は一本なので、迷うことはほとんどないと思うがね」

「じゃあ、君がここに居るのは、故郷に帰るためなのか?」
そうマックスが訊くと、アントーは引きつったような笑い方をした。

「俺は、二日ほど前に故郷の村へ行ったんだが、追い払われたんだよ。金の無心だけのために戻ってくるなってね。名をなして、豊かにならない限り、故郷にも帰れないのさ」
そう言うと、苦しそうにワインをあおった。

「故郷を離れてから、どこに居たんだい?」
「あちらこちらさ。宮廷で雇ってもらおうなんて野望は持っていないが、大きな町に行けば、詩人として名をなすことも出来るかもしれないってね」

「君は、詩人なのか」
「今は、ただの酔っ払いだ。言うだろう、『In vino veritas.(真実とはワインの中にある)』ってね」

 マックスは肩をすくめた。
「つまり、これから君は、本当のことをペラペラとしゃべってくれるというわけだね」

 アントーは、おやと言うようにマックスを見た。
「ラテン語がわかるってことは、お前さんは、ずいぶんと教育を受けているんだね、旅のお方」

「ほんの少しね」
マックスは、酔っ払っていないので、真実を吐き出してはいなかった。実際には、彼は当代で受けられる最高の教育を受けており、宮廷や貴族たちの家で教師として働くことで生計を立てていた。そして、この旅籠の主人らが生涯に一度も見たことがないほどの大金を質素な旅支度に隠し携えていたのだ。

「そうか。俺は、だが、ラテン語に詳しいというわけではない。さっきのはたまたま知っていただけだ。そもそも、まともな教育を受けることなど不可能だったしな。まともに食うものもない貧しい村で、詩人になりたいといったら、誰もが笑ったよ。ただ、親は喜んだ。小さな畑を二人の息子が引き継ぐのは不可能だったし、詩人になるなら村から出て行くに決まっているからな」

「そして、君はそうしたんだね」
「ああ、したとも。ヴォワーズ大司教領へ向かい、門前町で自慢の詩を朗々と歌うところから始めた。まさか、村でよりもひどい嘲笑に迎えられるとは思いもしないで」

「『Sedit qui timuit ne non succederet.』」
「なんだそれは?」
「ホラティウスの言葉だよ。『失敗を怖れ成功したくなかった者は、静かに座っていた』つまり、何もしない人間は失敗もしない代わりに成功することは絶対にないって意味だ。君は詩人になる努力を始めたんだろう」

 アントーは頷き、タンブラーから酒を飲み干すと、亭主に合図してお代わりを要求した。亭主は、先にマックスにスープを運んできた。わずかに茶色いクリームスープからはほのかに栗の香りがした。

 アントーは、酒をもらうと、低い声でブツブツと詩らしきものを唱えていたが、マックスにはほとんど聞き取れなかった。彼は、顔を上げてマックスに語りかけた。
「そうさ。でも、詩人を目指すのと詩人になるのは同じではなかった。大きな壁があった。みな俺の詩には、教養がないと言うんだ。韻は踏めていないし、故事も含めていないと。だけれども、どうしたらそんなことが出来る? 俺は、何も知らないし、習う相手もいないんだ。金もないし。なあ、旅のお方、詩人の資格とはなんなのだ?」

 マックスは同じホラティウスの言葉を思い出した。
「『天賦の才、人より優れた心、そして偉大な物事を表現する雄弁さを持っている人は、詩人の名誉を受ける権利がある(Ingenium cui sit, cui mens divinior, atque os magna sonaturum, des nominis hujus honorem)』ってね。雄弁さの部分は、技術的な問題もあるから学ぶ必要があるのかもしれないが、そもそも大切なのは何を表現したいかじゃないのかな」

 アントーは、顔を上げた。暗い想いにわずかな陽が差したかのように。
「表現したいこと……それならいくらでもある」

「こうもいうよ。『魂があるところに、歌がある(Ubi spiritus est cantus est)』僕は、全く詩人ではないから、知識があっても詩は作れない。詩を作りたいと想うことこそが、既に一つの才能なのではないかな」

「じゃあ、俺はまだ詩人でありたいと願い続けていてもいいのだろうか」
「もちろん、いいと思うさ。名をなして金持ちになるかどうかはわからないけれど、もともと金がないから詩人を目指してはいけないなんてことはない、そうだろう? もし、君さえよければ、僕に一つ聴かせてくれないかい?」

 アントーは、小さく頷くと、うつろな瞳を宙に泳がせ詠じた。
「少女が戸口で頼む 火のついた炭を分けてくれと
隣人は怠惰なのろまと罵り 戸を閉めた
冷えた家に戻った継母は 怒りにまかせて少女を叩き
彼女は叩かれた数を 腹の中で数えた」

 詩は、次の連へと進み、いくつもの傷跡を受けて謎の死を遂げた継母を置き去り、少女が街へと出て行く様子を述べた。少女は街で早々に男たちに売られて、悲惨な生活へと流されていくやるせない物語だった。マックスがこれまで聴いた詩と違うのは、確かにそのアントーの詩は韻律を全く無視しており、平坦な文章にしか聞こえなかったことだ。だが、物語そのものは、非常に興味深かった。

 亭主がやってきて、詩には全く感銘を受けた様子を見せずにアントーをじろりと睨んだ。
「おい、なんの役にも立たない物語でお客さんを悩ませるんじゃないぞ」

 青年詩人の声は小さくなり、語るのをやめてしまった。その様子を見て、マックスは、この近隣でのアントーの立場を思いやるせなくなった。

『何故笑っているのか。名前を変われば、物語はあなたのことを語っているのに(Quid rides? Mutato nomine et de te fabula narrator.)』
そう言ってやりたいと思ったが、それが却って故郷でのアントーの立場を悪くしてはならないと思い、黙った。

 亭主は、マックスの空になったスープ皿の椀を下げると、平たい麺にラグーをかけた料理を置いた。ラグーには煮込まれてバラバラになった肉が見えたが、塊はなかった。その代わりに大きな栗がいくつか見えた。

「スープはいかがでしたかい」
「ありがとう。美味しかったよ。栗が入っているんだね」
「へえ。そして、この麺にも栗の粉が練り込んでありやす」

 その麺を、マックスは一度も見たことがなかった。指ほどの長さに切れていて、グレーと茶色の中間の色をしている。少しざらりとした舌触りだが、もっちりとして弾力のある歯ごたえだ。
「土台になっているのは小麦ではないのかい?」
「ソバ粉、栗の粉、それにほんのわずか小麦でさ。この谷の名産としてお代官さまに献上する品目に入っておりやす」

 この地域は、小麦がよく育たなく、むしろソバの生育に適しているのであろう。ないものを憂えるのではなく、その土地だからこそ出来る物を強みに、人々が生き抜く様を、マックスはここでも感じた。
「『Aut Viam Inveniam Aut Faciam』と言うとおりだね」

「なんですかい、それは?」
「先ほどから、僕たちが話しているラテン語名言集のひとつさ。『私は道を見いだすか、さもなくば自ら道を作るだろう』っていう意味だよ。他の土地のように小麦を植えるのは難しいかもしれないが、栗にしろ、蕎麦にしろ、この谷だからこそよく育つ植物を利用して、他にはない強みを作った先人たちの知恵に感心しているのさ」

「そうなんですかね」
そういって亭主はまた下がった。

「自ら道を作るか……」
アントーが、つぶやいた。

「そうだ。君の詩も、おそらく道を作りかけている最中なのではないか?」
マックスは言った。

 アントーは、自信なさそうにマックスを見た。
「聴いてくれるのは、貧しい人たちばかりだ。金のある奴らは、俺の語りかけに立ち止まることをしない。それに神父がやってきてたしなめるんだ、善きことをした者が報われる物語を、きちんとした韻律で語れと。この世に善きことをした貧しい者が報われたことなど、俺は一度も見聞きしていない。そんな耳障りのいい絵空事を語るために詩人になりたかったわけじゃないんだ」

 マックスには、アントーの悩みの本質が見えてきた。韻律や故事などは習うことが出来よう。だが、彼が望むのは世の中の矛盾と不正義に対する告発を詩にすることなのだ。そして、それを望む限り金銭的な成功や名誉を得ることは難しいに違いない。

「僕には、君を助けてあげることが出来るかどうかはわからない。でも、名を成すことと、伝えたいことを同時に実現するのは、詩人に限らず難しい。君の物語に僕は心を動かされたから、受け入れられることは可能だと思う。でも、それが難しいのは確かだ。少なくとも韻律を学んで、体裁を整えれば、聴いてくれる者が増えるかもしれない。もしくは耳障りのいい詩で先にパトロンを作ってから、より伝えたい詩を詠じるという道もある」

 アントーは、しばらく黙ってマックスを見つめていた。
「お前さんは、まじめに聴いてくれるんだな。そうか、そうかもしれないな。今すぐに全てを実現しようとするから、上手くいかないのだろうか」

「新しいことをしようとすれば、時間はかかるだろう。『滴は岩に、力によってではなく、絶え間なく落ちることによって、穴をあける(Gutta cavat lapidem, non vi, sed saepe cadendo. )』って言うからな」

 アントーは、タンブラーを脇にどけて、真面目にマックスの顔を見つめた。
「体裁を整えるために韻律を学ぶか。だが、どこで、誰に……」

 マックスは、少し考えた。
「もし、またセンヴリに向かうつもりならば、マンツォーニ公の領地へと行くがいい。サン・ジョバンニ広場には、アレッキオという年老いた詩人がいる。彼とは、一年ほど親交を持っていたが、人の心のわかる立派な魂を持った男だ。彼にマックス・ティオフィロスに紹介されたといって教えを請うといい」

「ありがとう。是非そうするよ。なんとお礼を言っていいか」
「『苦難の中にいるものには、恐らく、よりよいものが続くであろう(Forsan miseros meliora sequentur.)』もしくは『過ぎ去った苦しみの思い出は、喜びに変わる(Jucunda memoria est praeteritorum malorum.)』っていうからね。君の志が実を結ぶことを応援させてもらうよ」 

 それからマックスは、懐から財布を出して、銀貨を一つ渡した。一つの詩に対する賞賛にしては高すぎる金額だったので、アントーはぎょっとして訊いた。
「どうして?」

「君の未だ世に認められていない才能にさ。『Magna voluisse magnum.』(全ては我が槍に至る - 偉大なことを欲したということが偉大である)、そう思って受け取るといい。僕に出来るのはここまでだ。このあとに運命が開かれるかどうかは、君次第だ」
マックスは言うと、彼自身のワインを飲み干して、青年の幸運を願った。
 
(初出:2019年1月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】日曜の朝はゆっくりと

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第五弾です。ポール・ブリッツさんは、今年も、二つ同時にご参加くださいましたが、まずはプランBの方です。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

ポールさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。毎年難しいお題を出すのを生きがいになさっていらっしゃるのでは、と思うのですが、どうでしょう(笑)

さて、まず先にBプランからのお返しですが、ポールさんは「自炊日記」という形で、一ヶ月間召し上がったものを記録していらっしゃるので、それにちなんだ作品を書いてみました。別になんてことのない短い話ですが、中に簡単なレシピが組み込んであります。

というわけで、お返しはこの作品と一切関係のないもので、単純に「中にレシピ的な記述が入っている作品で」お願いします。



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日曜の朝はゆっくりと
——Special thanks to Paul Blitz-san


 朝から何も食べていなかったので、真子はすこぶる機嫌が悪かった。正直言って、食べられるものであれば、コンビニのおにぎりだろうが、ファーストフードの最安値ハンバーガーでも構わなかった。

 でも、そんなことを言おうものなら、食文化への冒涜だとか、よい食事と少しの酒は精神への貢ぎものだとか、意味不明な言葉を並べ出す男がいる。だから、イライラをぐっと堪えて、その男の手がもう少し早く動くように誘導しなくてはならない。

 オーギュスタンは、面倒くさいタイプだ。真子のかつて勤めていた会社に、一筋縄ではいかない同僚がいた。忘年会に一人遅れ、乾杯の音頭をとる部長がしびれを切らして真子に様子を見てこいと言った。行ってみると余興に使うプリントを作っている。部長が苛ついているから早くしろと言ってもフォントが揃っていないと、それからやたらと時間をかけていた。オーギュスタンは、かなりその人に近い、空氣を読まずにこだわるタイプだ。元同僚と違ってフランス人なので仕方ないのだろうか。

 めくるめく情熱の夜を過ごして、幸せの絶頂にいるというのならば、このウルトラ悠長なブランチの準備に何も思わないかもしれない。だが、あいにく真子とオーギュスタンは、そのような色っぽい関係ではなかった。

 真子は、かつてかなり高給をもらっていたので、広くて綺麗な新築マンションを購入した。ところが、急に子会社に出向を命じられ、手取りが減ってしまい、ローンの返済が苦しくなってしまったのだ。売るのは条件が不利だったし、通勤に便利なこの住まいを手放すのも悔しかった。それで、空いている部屋を貸すべく同居人を募ったのだ。

 本当は女性の方が安全だと思っていたのだが、あいにくちょうどいい感じの女性はみつからない。あれこれ検討しているうちに、なぜかこの謎のフランス人男が同居することになってしまったのだ。言葉の心配をしたが、英語でなんとかなることがわかったので、お互いブロークンなままなんとか意思疎通を図っている。

 実は、それも彼と同居することにした理由の一つだ。日本人同士だと毎日ちゃんと会話をしないと氣がとがめるが、外国人なら「意思疎通が外国語で難しくて」と逃げられると思ったのだ。もっとも、彼が居るときには、どういうわけか会話に引きずり込まれてしまう。氣まずくなることもない。

 それに、フランス人と言えば、女を見ればすぐに口説くものなのかと思っていたが、おそらく彼も相手を選ぶのであろう、同居を始めて二ヶ月経つが、ただの一度もそのようなことはなかった。

 真子の方でも、それ以上の関係になりたいとはカケラも思っていない。今朝にしても、別にご飯を作ってもらわなくてもいいのだが、つい話の流れで作ってもらうことになった。トロいので自分で作るから台所を明け渡せと今さらいうのも剣呑だ。

 ガラスタンブラーに、彼は赤ワインを注いだ。よくカフェなどで水を入れてくれるDURALEX社のピカルディというコップだ。そして鼻歌を歌いながら真子に微笑んだ。
「君の健康に乾杯」

 真子は乾杯に応えるために、手元の水の入ったコップを持ち上げた。
「ありがと。でも、朝っぱらから、ワインなの?!」
「もう十時半だから、早すぎないさ」

 いや、まず朝ご飯を作ってから、そういうことをほざいて欲しいんですけれど!

 その真子の心の叫びを全く意に介さず、オーギュスタンは、窓辺に置いている小さなプランターに向かい、何かの草に見えるハーブを数本指でカットした。

「それは、何?」
「エストラゴンさ。日本人の使うヨモギと親戚にあたるハーブだよ。ギリシャでヒポクラテスが著作で触れているくらい、ヨーロッパでは歴史のあるハーブなんだ」

 なるほど。ああ、しまった。こんなことを訊くんじゃなかった。彼は、ワインを飲みながら、コンピュータに向かい、エストラゴンのことを書いたサイトを探して真子に見せてくれた。

 他にすることがないので、真子はエストラゴンについての長い説明を読んだ。

 その間に、オーギュスタンはエシャロットの皮を剥いて刻んだ。小さくつやのある薄紫の小タマネギ様の野菜は、タマネギに似ているけれど匂いはマイルドで甘みも少ない。エストラゴンやパセリもみじん切りにしている。赤ワインのボトルを開けたのでまた飲むのかと思ったら、小さな鍋に入れてそれでみじん切りにした野菜類を煮だした。

 塩胡椒してから、ぐつぐつと煮ている。
「さあ、しばらくかかるからおしゃべりしよう」

 なんですって!
「それ、何を作っているの?」
「ベアネーズソースだよ。白ワインで作る人もいるけれど、僕は赤ワイン派さ。アルコールは飛ぶから問題ないよ。十分くらい煮るから。とにかくきちんと煮詰めないと美味しくないからね」

 ものすごくいい香りが台所に充満している。これは間違いなく美味しいはず。かんしゃくを起こしてコンビニに菓子パンを買いに行ったりしたら、きっと生涯後悔する。でも、お腹がすいたなあ。

「食事をする度に、こんなに手をかけているの? 大変じゃない?」
真子は訊いた。

「せっかくの食事は、美味しく愉しくすべきだよ。それが可能ならね。高級な食材や、手間のかかる手順が必要だと言うんじゃないよ。でも、胃袋だけでなく、眼も舌も、心も喜ぶ様な食事こそが、本当の意味での豊かさだと思うよ。だから会話や、テーブルセッティングも、大事だ。それに少しのワインもね」

 彼は、ガラスタンブラーをもう一つ出してきて、真子の前に置くと、ワインの瓶を手に持って訊いた。
「飲む?」

「まだ昼前だし……」 
真子は、一度良心に従って水差しをみたが、このいい香りのブランチは、日常ではなくて「ハレ」だと思ったので、改めてワイン瓶を指さし頷いた。オーギュスタンは、にっこりと笑いワインを注いだ。

「人生は短いんだ。夜にアルコールを飲めない日もある。なのに、休日でも昼前は飲まないなんてルールで自分を縛っていると、もったいないよ」
「そうかもしれないけれど……。フランスって、みんなそうなの? それじゃ、下戸が生きにくいじゃない」

「飲みたくない人に強制したりするのは、犯罪だよ。酒は、節度を持って楽しく飲むべきさ。それに僕は、楽しみを分かち合いたいだけで、飲ませたいわけじゃないよ。いらないなら喜んで一人で平らげるさ」
 
 ふむ、そうか。そのポリシーは、いいかも。
「フランスでは、こんな凝った料理を作れる男性、多いの?」
「別に凝っていないよ、このくらい、誰だって作るだろう?」

 いや、私は作らないけど。真子は思った。ううむ、ということは、この料理はフランスでは大したことのない部類なのか。まだソースしか作っていないから何が出来るのかわからないけれど。

 オーギュスタンは、鍋の様子を見た。ずいぶんと煮詰まってきたようだ。火を止めて、少し冷ましている。それから小さな鍋に移して、卵黄を混ぜてから湯煎にかけた。オリーブオイルを少しずつ加え、マヨネーズのような状態になってから火を止めた。

 それから彼はパンを入れている戸棚から、マフィンを取り出して二組トーストした。粗熱がとれてから、柔らかくしておいたバターを塗り、ベアネーズソースも塗った。そして冷蔵庫から取り出したローストビーフを「そんなに」といいたくなるほどこんもりと載せるとまた少しベアネーズソースを塗り、ミルで挽いた海の塩、黒胡椒とエストラゴンを載せた。

「さあ、テーブルについて」
冷蔵庫から様々なハーブの入ったサラダ菜を取り出してきて大きめの黄色い皿に敷いた。そこにローストビーフマフィンを置いた。それだけで、そこらのカフェが逃げ出したくなるほどのおしゃれな一品になった。

 いつもと同じテーブルだし、台所だって変わっていない。なのにどうしてここまでおしゃれブランチになるんだろう。ソース以外は、本当に全く難しくなさそうなサンドイッチなのに。

「ああ、お腹すいた。でも、待った甲斐があったわ、本当に美味しそう」
どうぞ召し上がれボナペティ

 真子は、マフィンをしっかりと手に持つと、思い切ってかぶりついた。ベアネーズソースの濃厚な味いと香りが、口の中に広がる。
「このソース、本当に美味しい! これって、どこかで売っていないかなあ」
そう真子が言うと、彼は人差し指を振ってたしなめた。

「出来合のソースを、プラスチックの容器から絞るようなやり方では、この味わいは得られないさ。コンビニエンスストアでは手に入らないからこそ、作りがいがあるんだ」
「そうかもね」

 待たされた怒りは、どこかに吹き飛んでしまった。仕事と自宅の往復だけで疲弊し、何かに当たり散らしたいと思っていたイライラもいつの間にか消え去っていた。

 空腹を満たすためだけ以外の食事をしたのは、久しぶりだった。一杯の昼前の赤ワインと、自宅で食べるとびきり美味しいサンドイッチ。少しゆっくりすぎるほどに手間をかけた準備と、ゆったり味わうブランチタイム。それ以外に予定のない、何でもない時間。

 満たされない想いへの処方箋は、高い給料でもなければ、かっこいい彼氏でもなかった。新しいショッピングモールや話題のカフェに行くことでもなければ、スケジュール帳を予定で埋めることでもなかった。そうではなくて、反対に、今あるものの中でゆったりと時間を過ごすことなのかもしれない。

 ベアネーズソースを心ゆくまで味わいつつ、真子は自分で面倒くさい呼ばわりをした同居人に対して、「次は何を作ってくれるのかな」と虫のいいことをいつの間にか考えはじめた。

 その野望を知ってか知らずか、彼は満足げにサンドイッチを食べながら、またワインをグラスに満たした。

(初出:2019年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】野菜を食べたら

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第四弾です。canariaさんは、楽しい「薄い本(同人誌)」様の短編で参加してくださいました。ありがとうございます!

canariaさんの『scriviamo! 2019 参加作品』


canariaさんは、Nympheさんというもう一つのお名前で独特の世界観と研ぎすまされた美意識の結晶を小説・イラスト・動画などで総合芸術を創作なさるブロガーさんです。現在ブログでは、「千年相姦」を絶賛連載中で、同時に「侵蝕恋愛」も続々刊行、それにイラストのプロジェクトも同時進行と、大変精力的に活動なさっていらっしゃいます。無理にブログの友達になっていただいたのは、前の前のブログの時からですから、お付き合いは結構長いですよね。

さて、今回は昨年に続き、私の「ニューヨークの異邦人」シリーズに絡めた作品、同人誌による二次創作という体裁で遊んでくださいました。

妹Loveで大富豪な上、何をやるのか作者でも謎なマッテオ・ダンジェロが、「郷愁の丘」作品中でグレッグがジョルジアに書いて渡したスケッチをWWFでの商品化するために動いてしまったという笑える設定です。ま、そんなわけないだろうというツッコミはなしで。これ小説の世界ですから(笑)

というわけで、またしても外伝を書かせていただきました。ええと、ヒロインのジョルジアはお留守です。その代わりに、思いっきりネタバレな(というか本編では書く予定のなかった人たち)がゾロゾロ出てきています。どんな先の話だ……。ま、いっか。


【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


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野菜を食べたら
Special thanks to canaria-san


 ドアの前に立って、アンジェリカは大きく息を吸い込んだ。ジョルジアの言いつけたことを忘れたわけではない。でも、他にどうしようもないんだもの。

 思い切ってノックをした。
「グレッグ、ねえ。邪魔して悪いけれど……」

 その先を言う必要はなかった。バタバタと音がして、中からドアがガチャリと開いた。口髭に隠れてはいるけれど、慌てて口をパクパクさせている様子は、おかしい。
「す、すまない!」

「ジョルジアには言われていたの。あなたが論文執筆に集中しているときは、邪魔をしないで先にご飯を食べろって。でも、二人ともあなたを待つって言い張るし、それなのに、ラファエーレはお腹が空いてぐずり出すし。だから、ご飯を食べに来るか、そうじゃなかったら二人に直接もう食べろって言って欲しいの」

「もちろんすぐに行くよ。本当に申し訳ない、アンジェリカ。僕は、また時間をすっかり忘れてしまったんだ」
そう言うと、一度デスクに戻って、広がっていた資料にいくつか紙を挟んでから閉じて重ね、それから走るようにしてさっさと戻りかけているアンジェリカを追った。

 ダイニングテーブルの横で、老いた愛犬ルーシーを撫でながらうつろな瞳をしていた幼い少年が、アンジェリカの後ろから入ってきたグレッグを目に留めて歓声を上げた。
「パパがきた! エンリコ、ごはんだよ!」

 飛び上がり駆け寄ったラファエーレ少年を、抱き上げるとグレッグは「ごめんな」と言った。少年は父親にぎゅっと抱きついて、そのまま椅子まで運んでもらった。グレッグは、もう一人のもう少し年長の少年に目を移した。

 エンリコは、明らかに自分も大好きなグレッグ伯父さんに抱きつきたいという顔をしていた。しかし、彼はもう九歳で抱きつくには少し大きくなりすぎているし、さらにいうと、目の前にいるアンジェリカ・ダ・シウバに笑われるのは嫌だった。

 グレッグは、そのエンリコの側にやってきて、肩の辺りを優しくポンポンと叩くと「遅くなってごめんな」と謝った。彼は首を振って笑顔を見せた。赤ちゃんではないので、食卓に全員が揃うまで待つことは問題なかった。もちろん、自分の父親を待つのは話が別だ。アウレリオ・ブラスは、食事に間に合うように帰ってきたことなどない。それどころか、予定よりも数日遅れることもしょっちゅうだ。朝はマリンデイに行くと話していたのに、夕方になってミラノから電話をしてきたりする男なのだ。

 でも、グレッグは違う。彼は、小走りになって、こうやってテーブルについてくれる。研究に夢中になると時間を忘れてしまうのはいつものことだから、せっかく遊びに来たのにほとんど一緒の時間を過ごせないこともある。それでもエンリコは、大好きなグレッグにわがままを言って困らせたりはしたくなかった。

 グレッグは、エンリコの母親マディの腹違いの兄だ。ツァボ国立公園に近いサバンナの真ん中《郷愁の丘》と呼ばれるところに住んでいるので、エンリコの家からは早くても一時間以上かかる。でも、数年前までは、二週間に一度くらい、エンリコの祖母レイチェル・ムーア博士と研究のことを話しに来ていたので、エンリコは祖母の家でしょっちゅうグレッグ伯父さんと会うことが出来た。

 様子が変わってしまったのは、ラファエーレが生まれてからだ。それからは、仕事と育児に忙しくて、二人ともなかなかレイチェルのところにもマディのところにもやってこない。だから、エンリコは、休みになると自分から率先して《郷愁の丘》に数週間泊まりに行くようになった。

「ねえ、ちゃんと付け合わせの野菜も食べなさいよ。好き嫌いなく何でも食べるから安心してって言われたのになぁ」
お皿の上の肉はなくなったものの、野菜がいっこうに減らないことにヤキモキしたアンジェリカが促した。

 エンリコは口を尖らせた。
「ジョルジアが作る付け合わせは美味しいから、すぐなくなっちゃうんだよ」
「ママのごはん、とってもおいしい!」
小さなラファエーレも調子を合わせたので、グレッグが慌てた。

「君の作る食事も美味しいよ。実を言うと、君に料理が出来るなんて、思ってもいなかったんだ。まだ十八歳だし、それに……」
「甘やかされたお嬢さまだから?」
「いや、その……」

「そんなに真面目に困らないで、グレッグ。それに氣を遣ってくれなくてもいいのよ。だいたいね、エンリコ。私がジョルジアみたいに料理上手だったら、こんなところであなたのベビーシッターなんかしていないで、とっくにスターシェフになって稼いでいるわよ。まったく子供のくせに生意氣だわ、ジョルジア並みに美味しくないと完食しないなんて」

 二年前から、アンジェリカは夏休みには小遣い稼ぎに働こうと自分で決めた。小学校の頃から親しい友達は、ピザ屋やアイスクリーム屋などで働いていたし、いま在籍している寄宿学校の仲間もそれぞれの国に帰って、なんらかの季節の仕事をするかヴァカンスに出かけていた。

 アンジェリカは、ピザ屋でも何でもいいから外で働いてみたいと思ったけれど、皆にひどく反対された。いつ誘拐されるかわからないというのだ。

 アンジェリカのためには、百万ドル以上の身代金を要求をされても、即座に払おうとする人間が周りにやたらといる。スーパーモデルの母親アレッサンドラ・ダンジェロ、有名サッカー選手の父親レアンドロ・ダ・シウバ、城をいくつも持つ母親の再婚相手ヴァルテンアドラー候家当主ルイス=ヴィルヘルム。それに姪を溺愛する伯父でアメリカ有数の富豪マッテオ・ダンジェロ。

 だから、送迎なしではなかなか街には行けない。ピザ屋で働くなんて夢のまた夢だ。

 それで、泊まり込みで身内のところで働いてみたけれど、二年前のマッテオのところでは甘やかされすぎて自分でも給料泥棒だと思った。去年は、ルイス=ヴィルヘルムのドイツにある城の一つで働いてみたけれど、今度は使用人たちが真面目で厳格すぎて息が詰まる。出来ればあそこにはもう行きたくなかった。

 それを相談したら、ジョルジアが《郷愁の丘》に来てみたらどうかというのだ。ちょうど彼女は長期アメリカに行かなくてはならない時期で、マディのところにしばらくラファエーレを預けるか悩んでいるところだった。

「あなたが来てくれたら、私は安心して旅立てるわ。ラファエーレの遊び相手は泊まりに来るエンリコがしてくれるし、グレッグも可能な限り二人の面倒を見るから、さほど手はかからないと思うの。それに、ここには誘拐犯は絶対にやってこないって、あなたの両親も、それにルイス=ヴィルヘルムやマッテオも安心すると思うわ」

 《郷愁の丘》は、陸の孤島だった。誘拐犯は来ない代わりに、ショッピングも出来なければ、観光も出来なかった。ネットのつながりも悪いし、そこまでドライブというわけにもいかない。退屈ではあるが、居心地は抜群だった。叔母のジョルジアは、ほぼ入れ替わりでいなくなってしまったが、真面目で内氣で小言を言わないグレッグや、純朴で比較的従順な二人の少年との暮らしは悪くなかったし、サバンナで見る動物たち、広大な景色など、都会では体験できない刺激的な日々を満喫していた。

 エンリコとラファエーレは、テレビもなければゲーム機もないところで、遊んでいた。ルーシーを撫でながら、おそらく原始時代から大して変わっていないのであろうと思われるカジュアというゲームを何時間もしていることがあった。なぞなぞや積み木やブロック遊びに興じ、たくさんある百科事典を開いてみたり、グレッグが仕事をしていないときは絵を描いてもらっていた。

 今も、食事をしながら、エンリコは夕方に絵を描いてもらいたいとグレッグにねだっている。絵といっても彼が描くのは野生動物のスケッチなのだが、子供たちは彼の手にした鉛筆の先からシマウマや象やキリンが魔法のように現れるのを見るのが大好きだった。

「あ、絵といえばね! 忘れるところだったわ」
アンジェリカは、突然思い出して立ち上がり、自分が滞在している客間に入っていった。

 すぐに戻ってくると、アンジェリカはグレッグと子供たちに手にしたクリアファイルを見せた。
「あ」
グレッグは手を伸ばすと、それを嬉しそうに眺めた。彼にとってそれは思い出深いものだった。

 始めてジョルジアがこの《郷愁の丘》に来て、彼のスケッチを褒めてくれたのはもう十年以上前のことだ。その時に彼女に贈った絵を、彼女は額に入れてニューヨークの寝室に飾ってくれていた。二人が結婚してから、絵はこの《郷愁の丘》に戻ってきて、今も寝室にかかっている。

 今、アンジェリカが持ってきたクリアファイルは、その絵の一部分拡大を用いてある。ジョルジアの兄、マッテオがその絵を「WWFで商品化したい」と言い出したとき、始めは冗談だと思っていた。

 マッテオはWWFに多額の協賛金を寄付している会員だ。十年以上前にニューヨークで開催された野生動物の学会の最終日にWWF主催のパーティのことは忘れられない。レイチェルが彼女たちの研究のスポンサーである大富豪に紹介してくれるというので、嫌々出かけてったのだ。その篤志家マッテオ・ダンジェロこそが他ならぬジョルジアの兄とは夢にも思っていなかったのだが。

 ジョルジアがレイチェルと一緒に彼の地味な研究の意義を兄に力説してくれたお陰で、彼はマッテオに継続的な援助をしてもらうことが出来るようになった。それだけでなく、二人の結婚が決まってしばらくしてから、寝室にかかっている例の絵をWWFでの商品化するよう推薦してくれると言い出したのだ。

 その前後の数年にわたり、WWFでは無名の人物や子供たちの描いた野生動物のイラストや写真で、寄付金付き商品を作り販売していた。ポストカード、レターセット、鉛筆ケース、額入りのコピー絵、メモブロック、ミニタオル、エコロジーバック、それにアンジェリカが持ってきたようなクリアファイル。

 グレッグの絵も他の作者の絵と一緒に商品化され、一年間にわたり世界中で販売された。もっともアフリカで目にしたのは、「僕の親しい友人の絵が商品化されたんですよ」と誇らしげに配るリチャード・アシュレイの事務所でだけだったので、グレッグは実際のところそれがどれほど売れたのかを知らない。

「懐かしいものを……。アレッサンドラ、君のお母さんがくれたのかい?」
グレッグが訊くと、アンジェリカは首を振った。
「違うわ。これはね、ここに来る直前に、私がマドリッドで見つけたものなの」

「マドリッド? 君のお父さんのところでかい?」
レアンドロ・ダ・シウバは、現在はリーガ・エスパニョーラでの連覇を目指すチームに所属しているので、マドリッド在住だ。だから、アンジェリカはマドリッドに立ち寄ってから《郷愁の丘》のあるケニアへやってきた。

「パパの家にあったわけじゃないわ。実はマドリッドで『オタクの祭典』って催しをやっていたので、ちょっと顔を出してきたの」
「『オタクの祭典』ってなんだい?」

 グレッグは地の果てに住んでいる上、サブカルチャーなどにほとんど興味がない。日本発のマンガやアニメを特に愛好する人たちが世界各国で同人誌即売やコスチュームプレイを楽しむイベントを開催していることなど知るよしもない。

「あなたに詳しく説明したら、夜が明けちゃうわ。簡単に言うなら、コミックやアニメーションの愛好家がトリビュート作品を販売する展示会みたいなものかな。いろいろなジャンルのものがあって面白いのよ」

 グレッグだけでなく、並んでご飯を食べているラファエーレも、アンジェリカの座った席の隣で、いやいや野菜をつついていたエンリコも、さっぱりわからないという顔をして彼女を見ている。

 アンジェリカは、こほんと咳をして続けた。
「とにかく。とある作品のグッズがないかなと思って行ったんだけれど、行列で並んでいるときに、たまたまその隣のブースにね『Fleurage』っていう綺麗な名前のサイトがあって、氣になっていってみたの。そうしたらたぶん偶然だと思うけれど『郷愁の丘……』っていう作品を売っていて、日本語で読めなかったんだけどつい買っちゃったの。そしたら、特典だってこのクリアファイルをくれたのよ。例のWWFのファイルが今ごろ私の手元に来るっていうのも驚きだけれど、それが《郷愁の丘》に行くっていうのも、おもしろくない?」

 グレッグは、アンジェリカが差し出したクリアファイルを、感無量な様子でじっと見つめた。
「そうだね。本当に」

「そのシマウマの絵、グレッグが描いてくれる絵とそっくりだよ」
エンリコが不思議そうにのぞき込んだ。

「そうよ、だって、これ、グレッグの絵なんだもの」
アンジェリカが答えると、彼は『ええー!」っと、椅子から飛び降りて、ファイルを持っているグレッグの側に回った。

「いつこんな風になったの? 僕、知らないよ!」
「お前がまだ、ラファエーレよりも小さかった頃の話だからね。そうか、これは見たことなかったか」
「いいなあ。これがあったら、僕、学校に毎日持っていくのに。みんなに自慢して、それに……」

 エンリコは、クリアファイルをそっと撫でた。グレッグは困ったなという顔をして、甥の頭を撫でた。 
「残念ながら、リチャードが全部持って行ってしまって僕やマディのところにも残っていないし、今はもうどこにも売っていないんだ」

 アンジェリカは、肩をすくめた。こうなると思った。とにかくエンリコときたら、グレッグに関することは何もかも素晴らしいと思っているんだもの。私には、ちっとも理解できないけれど。

「いいわよ。そのつもりで取り出してきたし、これはエンリコにあげるわ。私の滞在中、付け合わせの野菜を一口も残さないって、約束できるならね」
エンリコは、駆け足で自分の席に戻り、喉が詰まるのではないかと思われるほどのスピードで野菜を平らげた。

 笑ってそれを見ているグレッグの横から、ラファエーレが小さな声を出した。
「ぼくも、もらえるの? おやさい、たべたよ」

 グレッグはまた困って、息子の頭を撫でた。
「お前は、まだ学校に行っていないし、あれをなんに使うんだ?」
「でも、おやさい、たべたよ」

 アンジェリカは、笑って答えた。
「大丈夫よ。マッテオのところに、あの時に発売されたものがみんなとってあるはずだもの。ラファエーレにはミニタオルがいいんじゃないかしら。すぐに送ってくれるように、連絡するから」

 ラファエーレは、すぐに笑顔になった。おそらくタオルが届く頃には、きっとこの子は何を欲しがったかも忘れているだろう。シマウマの絵など何百枚でも描いてくれる父親と、付け合わせを食べろと言う必要もないほど料理の上手な母親の両方の愛情を受けて楽しく日々を過ごすのだろうから。

 それでも、アンジェリカは早速マッテオにメールを書こうと思った。自分のアイデアで生まれた作品が、今ここでまたホットな話題になっていることを、大好きなマッテオ伯父さんがとても喜ぶだろうと思ったから。カペッリファミリーの結束は固いのだ。たとえアメリカ、ヨーロッパ、アフリカと違う大陸に住むことになっても。

(初出:2019年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】魚釣奇譚

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第三弾です。夢月亭清修さんは今年は、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

清修さんは、小説とバス釣りのことを綴られているブロガーさんです。サラリーマン家業の傍ら小説家としてブログの他に幻創文庫と幻創文芸文庫でも作品を発表なさっていて、とても広いジャンルを書いていらっしゃいます。それに魚釣りでは専門誌に寄稿なさるほど本格的に取り組んでいらっしゃいます。

「scriviamo!」では毎年全く違ったジャンルでご参加くださるのですが、今年はプランBをご希望です。


去年は大変ご迷惑をおかけしたこの企画、今回はプランBで参加させてください!
力入れて、がっつりお返しする所存です!

希望としましては、コラボではなくオリジナルが嬉しいです^^


ということですので、ご縁のある既存の作品に絡める作品はなし。完全なオリジナルで書くことにしました。どんなものにするか考えたのですが、ご本人のお書きになるジャンルがとても広いので、どうしようか途方に暮れました。結局、お好きなお魚と、それからほんの少しだけ「異世界」っぽい感じを絡めた作品を書いてみました。ただし、「異世界もの」というわけではありません。

他のプランBの方にも書きましたが、お返しはこれに絡めてもいいし、ぜんぜん関係のない作品でも構いません。


「scriviamo! 2019」について
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魚釣奇譚
——Special thanks to Mugetutei Seishu-san


 その湖は、電車がトンネルを抜けて最初のカーブを曲がった所に突然広がっていた。深い青緑の湖水は、風が全くないためか、周りの新緑を綺麗に映し出している。曲がりなりにもアウトレットと名のついている商業施設があるような街から、まだ15分も走っていないようなところに、こんな神秘的な湖があるとは夢にも思っていなかったので、亜美は思わず立ち上がった。

 アウトレットにろくなモノがなかったこともあるが、亜美はその街を闇雲に歩き回った。石畳の道は、少し合っていない靴を履いた彼女をひどく疲れさせた。だから、予定よりも早い電車に乗って戻ってきたのだ。

 往きにこの湖を見た記憶は全くなかった。反対の山側に座って、考え事をしていたせいだろうか。

 車内放送が次の駅がすぐであることを知らせた。この湖畔で停まるの? 彼女は少しだけ考えた。このまま電車に乗っていても、一時間後にあの何もない街のホテルについてしまう。だったら、この湖畔で少しだけ時間を過ごすのもいいかもしれない。

 五月になったばかりで、この北国では遅くやってきた春が、遅れを取り戻そうかとするごとく忙しく飛び回っていた。新緑の木々はぐんぐんと伸びて、あちこちで白や黄色の花が咲き誇っていた。陽が高くて、明るい光に満ちている。彼女は、ショルダーバッグをつかむと、立ち上がり出口に向かった。

 それは、湖畔の洒落たホテルの前に停まった。そのホテルの横から、湖へと出ることができる。ホテルにはテラスがあって、数人の客が湖を見ながらコーヒーを飲みつつ談笑していたが、湖に出るとそのざわめきは全く聞こえなくなった。

 不思議な静寂だった。わずかに霞みだした青緑の湖水を一艘の小舟が漂っている。灰色の服を着た小柄な男が釣り糸を垂れているのを亜美はようやく見て取った。釣り竿も、男も、舟も、湖も動かなかった。まるで時間が止まっているかのように。

01.05.2005 Le Prese


「君は、中国人? それとも日本人?」
すぐ近くから声がしたのでびっくりして振り返ると、すぐ後ろに青年と中年とどちらで形容していいかわからぬ男が立っていた。外国人にしてはあまり背が高くなく、濃い茶色の髪は短く服装もどこにでもあるような茶色いジャケットにジーンズ姿だ。

「日本人です」
「そうか、ずっとあの釣り舟を見ているけれど、珍しいかい?」

「ええと、そうですね。東京ではあまり見ないし……その、何もしないでぼーっとしているのって、本当に久しぶりで」
亜美は、戸惑いながら答えた。

「君たちは、本当に予定をいれて忙しくするのが好きだよね。僕の知っている何人かの日本人も来る度に今日は何をするのかって訊くよ。休みの時にまで動き回らなくてもいいと思うけれどね」
「はあ。でも、せっかく遠いヨーロッパまで来たんだし、いろいとやらなくちゃって思ってしまうんですよ」

 何を弁解しているんだろう、私。男は、肩をすくめて笑った。
「それで、ここで立っているのも、その『いろいろ』のひとつかい?」

「電車でここを通ったら、とても素敵だったんで降りてみたんです。こんなところに、こんな幻想的な湖があるって思ってもみなくて。あの舟も全然動かないし、不思議だなって」
「あれはトマ爺さんさ。彼は楽しんでいる。ようやく五月になって釣りが解禁になったからね」
「解禁?」
「ああ、ここでは釣りは五月しかしちゃいけないんだよ」

 ぴしゃんとわずかな音がして、トマ爺さんは何かを釣り上げたようだった。舟と湖面、そして、爺さんの釣り糸の先が揺れている。爺さんは、魚を箱にしまうと、次の餌をつけてまた湖に糸を垂らした。再び湖面は静かになった。

 男は訊いた。
「一人で旅行をしているのかい。日本人にしては珍しいね」

 亜美は頷いた。
「本当は、プレ・ハネムーンのつもりで予約したんですけれど、相手に二股かけられていたことがわかって。傷心の旅になりました」
「そうかい。それは氣の毒だったね。でも、結婚してからわかるよりはマシだろう」
「そうとも言えますね」

「見ていてごらん、だんだん大物が釣れるようになるから。トマ爺さんの釣り竿には魔法がかかっているんだって、人々は言うよ」
男が指さすと、確かに爺さんのは少し大きな二匹目を釣り上げたようだった。

「さあ、君の願いを言ってごらん。爺さんの魔法の釣り竿が大きな魚を仕留める度に、それは現実になっていくから」
男の言葉に、亜美はぎょっとして、その顔をまじまじと見つめた。冗談を言っているのかと思ったが、表情はごく真面目だった。

 そして、亜美はようやく思い当たった。どうして私はこの人とこんなにペラペラと話しているのだろう。ここまでいつも下手くそな英語でのコミュニケーションに苦労していたのに。もしかして、この湖も、あの釣り舟も、この男の人も、本当に魔法が関係しているんだろうか。

「信じられないみたいだね。こんな話は知っているかい? ロシアの民話だよ。あるところに貧しい漁師のおじいさんがいて、海で金色の魚を釣り上げた。その魚は人間の言葉を話し、海へ帰してくれたらどんな願いでも叶えてくれるという。おじいさんは、かわいそうに思い何ももらわずに放してやったが、家に帰ってその話をするとお婆さんは彼の無欲をなじった。壊れたたらいを示し、せめてそれを直してくれと頼んでくれればよかったのにと」

 亜美は、その話をどこかで聞いたことがあると思った。子供の頃に読んだ絵本だ。たしかプーシキンによる民話集を元にした本だったように思う。
「たしかそのおじいさんは海へ行ってそれを頼んだのでしたっけ」

「そうだ。そしてまた家に戻るとたらいは新品に変わっていた。おばあさんは、くだらないことを頼んだと悔しがり、新しい家を頼め、貴族になりたい、女王になって宮殿に住みたいと、次々とおじいさんに願いを言わせた。そして、金の魚はその全てを実現してくれた」

 亜美は、その話をどうしてこの男はするのだろうと訝った。でも、今いるここが、魔法にかけられた異次元であるのならば、この男の言うとおりに、素直に願い事を言ってみるべきではないかと感じた。

「私の願いも本当に言っていいんですか?」
「もちろん。願わなくては、何事も叶わないからね」

 亜美は、あれこれを考えた。そして、金の魚や魔法の釣り竿を怒らせないような些細な願いごとを口にしてみた。
「インスタで、100のハートマークが欲しいなあ」

 彼は、片眉を上げるとトマ爺さんの方を示した。
「撮ってアップしてごらん」

 亜美がスマートフォンを向けてシャッターを切ると、ちょうどトマ爺さんが魚を釣り上げている瞬間が撮れた。魚は大きく跳ね上がり、偶然とは言えこんなにいい写真が撮れたことは今まで一度もなかった。彼女が、その写真を早速アップすると、みるみる「いいね」のハートマークがついていき、数分以内に倍のフォロワーと108のハートマークがついてしまった。

 亜美は、驚いた。本当に魔法の釣り竿なのかと。今は二十一世紀なのに。

「さあ、次の願い事はなんだい?」
男は冷静に言った。

 亜美は先ほどよりもずっと慎重に考えた。結婚するつもりで退職してしまったが、破談になって出発前まで履歴書を書きまくってあちこちに送った。その一つでも色よい返事が来たら嬉しい。
「第一志望の会計事務所に就職できたら嬉しい」

 トマ爺さんの舟から、またぴしゃりという音がして、明らかにより大きな魚がかかった。男は頷いた。
「メールをチェックしてごらん」

 亜美が、メールを調べると、会計事務所からのメールが入っていた。
「来月から、働いて欲しいって! すごい、信じられないわ」

 男は表情を変えずに続けた。
「次の願いは何かね」

 願いは決まっていた。
「別れた彼よりも、優しくて、誠実で、有能で、かっこよくて、みんなが羨む彼氏が欲しいな」

 男は「やれやれ」という表情を見せたが、またしてもぴしゃんという音がした。するとスマートフォンからダイレクトメッセージの通知音が鳴った。

 亜美がスマートフォンを見ると、どうやら新しいフォロワーのようだったが、よく見るとそれは長い間ファンでしょっちゅう舞台を観にいっていた有名俳優からだった。
「素敵な写真だね。僕も釣りが大好きなんだ。君が僕を既にフォローしているって知って嬉しかった。相互フォローさせてもらったよ。これからもよろしくね。というより、もっと親しくなりたいから、DMしたんだけれどね。連絡を待っているよ」

 亜美はスマートフォンを取り落とすかと思うくらい驚いた。隣にいる男を見ると、「どうした」とでも言いたげな涼しい顔で立っていた。
「見てごらん」

 恐る恐るトマ爺さんの方を見ると、釣り上げた魚はすでに鮭サイズになっていた。こんな小さな湖にあんな魚がいるんだろうか。

「そろそろ大きさも限界だよ。もっと願いがあるなら慎重に頼むがいい」

 亜美は、急いであれこれ考えた。こんなラッキーは、二度とないだろう。何億円ものお金を頼むか、お城を頼むか、それとも……。そうだ。

「いっそのこと、あの魔法の釣り竿をもらえれば、いつでもどんな願いでも叶うんじゃないかしら」

 亜美がそう言った途端、男はとても悲しそうな顔をした。そして、黙ったまま亜美から離れていった。

「え?」
スマートフォンが震えたように思ったので、それを見るといきなり電源が落ちて画面が暗くなった。
「え、え?」

 亜美はまずスマートフォンの再起動ボタンを押して、電源を入れようとした。それから離れていった男に何か言おうとして顔を上げると、彼はどんなスピードで離れたのか、もうどこにもいなかった。動揺しながら湖のトマ爺さんの方を見ると、舟の上の爺さんは始めと同じように黙ってい釣りをしていたが、釣り上げたはずの大漁の魚はどこにも見えなかった。

 スマートフォンの起動を待つ間に、亜美の脳裏には、突如として子供の頃に読んだ「金色の魚」の絵本の結末が蘇った。女王になってもまだ満足しなかったおばあさんは、おじいさんに「金色の魚を家来にして海の支配者になりたい」と言い出したのだ。どんな欲張りな願いも叶えてあげた金色の魚は、さすがに呆れて海の中へ戻ってしまった。そして、お婆さんは元の貧しい家で壊れたたらいと一緒に待っていたそうだ。

 亜美は、自分の最後の言葉が、民話のお婆さんと同じだったことに氣がついた。再起動を終えたスマートフォンは、前と全く同じ状態だったが、トマ爺さんを映したインスタグラムの投稿はなかった。フォロワーも前と同じだったし、今朝ホテルを出て以来の新着メールもなかった。

 亜美は、肩を落としてまた駅へと歩いて行った。

(初出:2018年1月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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途中に写真があるように、この話は実際に私の見たある5月1日の光景から作りました。(もちろん、謎の男が話しかけてきたわけではありませんよ)モデルにした場所は、ベルニナ急行の終点ティラノにほど近いレ・プレーゼという場所です。このレ・プレーゼ湖は、一時間半もあればまわりをぐるっと歩ける程度の小さい湖です。
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Posted by 八少女 夕

【小説】アプリコット色の猫 2

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第二弾です。たらこさんは今年も、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

たらこさんは、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんで、「ひまわりシティーへようこそ!」を絶賛連載中です。

「scriviamo!」では毎年Bプランをご希望です。前回と前々回のお返し作品が、わずかに重なっていたので、なんとなくそこに留まってみました。今回書いたのは、最初の作品「アプリコット色の猫」の続きになります。(競馬好きの例のお客さんの話題がちょっとだけ出てくるのは、たらこさんの作品へのトリビュートです)

あ、毎年のことですが、お返しはこれに絡めてもいいし、ぜんぜん関係のない作品でも構いませんよ。


「scriviamo! 2019」について
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アプリコット色の猫 2
——Special thanks to Tarako-san


 いつになく暖かくなったので、お昼ご飯は林檎の木の下でお花見としゃれ込むことにした。姫子は、相棒である猫のマリッレの姿を探した。

 姫子は、ザルツカンマーグート、フシュル湖畔の小さな果樹園を経営している。……というと海外で成功した立派な日本人みたいに響くが、実際の所はすぐ近くでお城を改造したホテルを経営するケスラー夫妻にあれこれ面倒を見てもらいながら、お情けで暮らしているようなものだ。

 長い話は省くが、かつて人生のゲームオーバーぎりぎりまで行っていた姫子は、ウィーンでこの猫と知り合い、ここにたどり着いたのだ。マリッレは不思議な猫で、姫子には彼の言葉がテレパシーのように聞こえる……と思っている。彼の元の飼い主、ケスラーさんの亡くなったお父さんも、マリッレと会話が出来ると言っていたらしいが、その主張のせいで耄碌したと皆に思われてしまったらしいので、姫子はこの件は誰にも言っていない。姫子が日本語でマリッレに話しかけてもその意味がわからないので、まさか物事をいちいち猫に相談しているとは誰も思っていないようだ。

 マリッレは、明るいオレンジ色の毛をした雑種で、大きいつぶらな瞳と、ぶちっと途中で切れたような尻尾を持っている。姫子はマリッレを連れ帰ってきたので、ケスラー氏の遺言により果樹園と小屋を相続し、初めての冬を乗り切った所なのだ。

 湖はキラキラと輝いていて、空は高く晴れ渡っていた。湖の向こう側に見える山の雪が、たったの二日で見事になくなり、太陽が気持ちよく燦々と降り注いだ。そして、タンポポが牧場をあっという間に黄色に埋め尽くしたと思ったら、ついに林檎の花が次々とほころび始めたのだ。

 林檎の花は、底抜けに明るい女の子のようだ。うっすらとピンクのつぼみが、開くと真っ白になる。ミツバチたちが、必死に飛び回り、春の女王に挨拶して回る。姫子は、その林檎の木の下でお昼ご飯にするのだ。ケスラー夫人が届けてくれた焼きたてのバンとチーズ、それに小瓶に入れたレモネード。もちろん、マリッレのためにガラス瓶にクリームを入れ、薄切りハムも用意した。

「ねえ、マリッレ。この林檎、このままでいいの?」
「このままって、どういうこと?」
「ほら、花を間引きしたり、虫がつかないように一つ一つ袋で覆ったりするんじゃないの?」
姫子は都会育ちなので、その辺の知識はかなり怪しい。

「まさか。このままでいいんだよ。虫がついたって大したことないよ。味には変わりないし」
マリッレは、そう答えるとまたクリームを舐めることに集中した。こんな大切な仕事の最中に、何をバカなことをといわんばかりの態度。

 味には変わりないしって、そりゃ、猫にとってはどうでもいいかもしれないけれど、虫のついた林檎なんて売れないんじゃないかしら。まあ、無農薬って謳えばなんとかなるのかなあ。

 ぼんやりと考えながら、ごくっとレモネードを飲んだ。お日様がぽかぽかとあたって、暑いくらい。春がこんなに素敵だと思ったのは何年ぶりだろう。去年までは、奨学金を返済するために、昼は役所の仕事、夜はキャバクラのバイトに追われていた。あの生活が嘘みたいだ。

 ふと、影が差して太陽の光が遮られたので、姫子は瞼を開けてそちらを見た。いつの間にか、馬がそこにいた。乗っているのは隣人の「フレ姐」ことフェレーナだ。ケスラー氏の姪にあたる女性らしい。女性といっても、短髪にチェックのシャツ、ダボダボのデニムのオーバーオールに長靴、ファッションもへったくれもない農家の装いで、声を聴かない限り女性か男性か判断が難しい。

 フェレーナの名は、愛称としてフレーニーが一般的だ。名詞の後に「i」をつけて伸ばすのは、小さいまたは可愛いという意味合をもたせる指小辞で、つまりフレーニーとは「フェレーナちゃん」に近い呼びかけだ。だが、このフェレーナの場合、本人がそれを嫌がるので「フェレ」とだけ呼ぶ人が多い。服装はもとよりかなり男前な振る舞いなので、姫子は普段はフェレーナと呼び、心の中では「フレ姐」と呼んでいる。

「ピクニックか」
頭上からの声は、とても威圧的に響く。怒られているのかと思った姫子は、怯えて立ち上がった。けれど、「フレ姐」は、ひらりと馬から飛び降りると、バスケットをのぞき込んで言った。

「その美味そうなのはなんだ? レモネードか。少し振る舞っておくれよ」
「どうぞ」
姫子は、水用に持ってきていたもう一つのコップにレモネードを入れて差し出した。ついでにクラッカーとチーズも念のために手で示すと、「フレ姐」は嬉しそうに座って一緒に食べ出した。

「本当にこんな陽氣のいい午後は、あくせく働くのはもったいないよな。さっさと店じまいしてきてよかったよ」
「フレ姐」は、レモネードをごくごくと飲んだ。

「店じまい?」
姫子が首を傾げる。

「観光客相手の馬車巡りのことだよ」
クリームを舐め終わり、丁寧に顔を洗いながらマリッレが注釈を入れた。もちろん「フレ姐」には聞こえていないと思う。姫子の頭の中だけに響いてきているはずだ。

「うん。農場の世話だけじゃ心許ないだろ。だから、こいつに小さな馬車をつなげて、そこら辺を巡るんだ。けっこういい収入になるんだよ」
「ケスラーさんの古城ホテルのお客さん?」
「ま、それが主かな。送迎を兼ねて駅に行くと、ただの観光客も乗るけど」

 馬は、ぶるるとたてがみを震わせた。
「こいつも少しは休みたいよな。そこら辺の草、食わせてもいいかい?」
「もちろん」

 この馬ウイスキーは、「フレ姐」の愛馬だ。もともとは、マリッレと同様に亡くなったケスラーおじいさんの持ち物だったらしい。「フレ姐」は、ケスラーおじいさんとは血が繋がっていなくて、亡くなったお嬢さん、つまり今の当主ケスラーさんの姉の夫の連れ子だ。

 姫子がこの農場を譲り受けて住み込んだときに
「あんたが、噂の日本人だね。上手いことやったね。この果樹園、欲しかったのになあ」
といわれたので、姫子はぎょっとしたのだ。が、すぐに彼女はウィンクして言った。
「心配しなくていいよ。あたしには全くその権利はないんだ。それに、あたしはこのウイスキーをもらったんだ」

 ケスラーおじいさんは、このなんとも粗っぽい娘とウマがあったらしく、おじいさんがへそを曲げて亡くなるまでボロボロの果樹園小屋に住み込んでいたときも、よくやってきて一緒に酒盛りをしていたらしい。

 それが縁で、何頭かいる馬の世話を彼女に頼むようになり、遺言には死後も動物の世話は「フレ姐」の農場がするだけでなく、このウイスキーを譲ると書いてあったそうだ。「フレ姐」はウイスキーをとても大切にしている。しょっちゅうブラッシングしているので、毛はとてもつやつやだ。

「ウイスキーってなんて種類? まさかサラブレッド?」
姫子は訊いた。

「まさか! あっちは競走馬に使えるくらい軽いんだ。ウイスキーはどっしりしていて全然見かけが違うだろう。これはティンカーだよ。英語では、ええと、アイリッシュ・コブとかいうんじゃないかな。乗馬だけでなく農作業をしたり、馬車を牽いたりするんだ。大人しくて御しやすいから乗馬セラピーにも使われるんだよ」

「乗馬セラピーって何?」
「馬に乗ることで精神や神経を癒やすんだよ。注意欠陥多動性障害や自閉症の子供たち、ノイローゼや鬱病、それに多発性硬化症などの患者にも効果があるらしいよ」

 姫子は目を丸くした。所変われば、色々なセラピーがあるものなんだなあ。

「姫子は、馬に興味があるのか?」
「……どうかしら。さっきわかったと思うけれど、全然知らないの。生きている馬を見たのも動物園以外ではここが初めてだし……でも、ある男の人がいつも馬の話をしていたから……」
「なんだよ。ボーイフレンド?」

 姫子は大きく頭を振った。
「いや、そう言うんじゃなくて。もう二度と会うこともない人」
バイト先のキャバクラに来ていたお客さん、なんて言えない。そもそもキャバクラが何か説明しなくちゃいけないし、ものすごく面倒くさい。

「そんなこと言って、簡単に復縁したりするんだよな、女って。ま、いいや、こっちに来たら紹介してくれよ。馬に詳しいヤツなら、一緒に盛り上がれるだろうし」
そう言って、レモネードを飲み干すと「ありがとう」と「フレ姐」は立ち上がった。

 夢中になって草を食んでいるウィスキーを口笛一つで呼ぶと、ひらりと跨がり、あっという間に古城の方へと去って行った。

「凜々しくてかっこいいよねー」
そうつぶやくと、マリッレは「そう?」とでもいいだげに無視して、バスケットの中のハムに前足を伸ばした。
「姫子の周りに、凜々しくてかっこいい男も女も全然いなかっただけでしょ。あんな感じの農家なら、この辺にはどっさりいるよ」

「別に農家の男の人と知りあいたくて言ったわけじゃありません」
そう言って、姫子はタッパーウェアを開けて、細かく裂いたハムをタッパーウエアの蓋に載せてだしてやった。

(初出:2018年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】魔女の微笑み

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第一弾、最初の作品です。大海彩洋さんは、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。この「真シリーズ」は数代にわたる壮大な大河小説で、まだ私たちが目にしたのはほんの一部でしかないのですけれど、それだけでも引き込まれてしまう濃厚な世界。昨年、私はその舞台の聖地巡礼もしましたし、更に馴染み深く続きを読ませていただいているのです。

さて、お知り合いになってからは皆勤してくださっている「scriviamo!」ですが、今回はいつもと趣向を変えて、完全なお任せでということでした。悩んだのですが、今回の一本目ですし、こんな感じでサーブを投げてみることにしました。

以前、当ブログの77777Hitの時にリクエストを受けてこんな作品を書いたことがあります。

「薔薇の下に」

今回の短編には、上記の小説で書いた二人の人間が登場します。どちらも彩洋さんのオリキャラではないのですが、「真シリーズ」のとんでもない大物に絡めて書いた作品ですので、まあ、ほらね、絡んできてくれたら嬉しいなあ(ちらっ)という思惑が大ありで書いてあります。サーブ(しかもめちゃくちゃな)ですから、はっきり言ってオチはありません。ここに書いてあることでおしまいです。特に登場する三人のうち、視点のあるヴィーコ以外は、なんの裏設定もないので、「名前はこうだった」「実は●●だった」「実は全部知っていたのに知らないフリをしていた」など、ご自由に設定していただいてOKです。もちろん、全て無視して全く別のお話でも構いませんよ。お任せです。


【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」Infante 323 黄金の枷


「scriviamo! 2019」について
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魔女の微笑み
——Special thanks to Oomi Sayo san


 垂れ込めた雲から、わずかの間だけ光が差し込んだ。それはまるで、子供の頃に見た祭壇画の背景のようだった。

 彼の生まれ育った村は、ウーリ州の山奥にあり非常に聞き取りにくいドイツ語を話し、難しい顔をした大人たちがよそ者を監視しながら暮らしているようなところだった。イタリア語圏にルーツを持つ彼の家族がその村で生活するのはあまり快適とは言えなかった。彼は日曜日のミサで祭壇に描かれた聖母マリアとその背景の差し込む光に慰めと憧れを抱いていた。それが今の職業と暮らしに繋がる第一歩だったのかもしれない。

 ヴィーコ・トニオーラはヴァチカンのスイス衛兵伍長だ。四年前に二十歳でスイス衛兵に採用された。その前にスイスの兵役を全て終えている。つまり、彼は成人してからほとんど兵役に当たっている。今時のスイス人はもっと給料が多くて自由のある職業に就きたがるだろう。彼のように健康で体力があり、更に言えば村の中で唯一進学が可能と言われる頭脳も持っているのだから。だが、どういうわけか彼は、小学校の高学年の時から、将来はヴァチカンでスイス衛兵になりたいと思っていた。

 いつだったか見た、真っ白で広大なサン・ピエトロ大寺院、真っ青な空、その前に佇むカラフルな衣装を身に纏ったスイス衛兵。それが、辺境で鬱屈した村の日々とどれほど違った人生に思えたことだろう。

 規律に満ちた衛兵としての日々は、決して子供の頃に夢見ていた自由で輝かしい毎日と同じではなかったが、彼は現在の日々に一応は満足していた。時折、妙な任務を命じられること以外は。

 それは半年ほど前に始まった。ポルトガルからやってくるメネゼス氏という一見どうということもない人物を、目立たないように警護しながら、ヴァチカンのとある重要人物のもとに届けた。

 スイス衛兵はローマ教皇の警護だけでなく、世界各国からヴァチチカンを訪れる要人、国王夫妻や大統領などの警護にもあたるので、本来の任務から完全に離れているとは言えない。だが、そのポルトガル人は政府の要人でもなければ、さらにいうと本当の要人その人ではなくただの使者だった。上司は「竜の一族の使者」という言い方をした。そして、送り届けた先もヴァチカン宮殿ではなく、チェザーレ・ヴォルテラ氏の事務所だ。それから、時折大して重要とは思えない人物を目立たぬようにヴォルテラ氏の元に届けたり、偽名で予約されたレストランに向かい一人で食事をするなどという意味のわからない命令が下された。

 今朝もタウグヴァルダー大尉はヴィーコにすぐに空港へと向かうように命じた。例のポルトガル人が到着するというのだ。本来ならば、彼は夜勤明けでその朝から非番だったにも関わらず。他のことならば規則を口にして抵抗することも辞さないヴィーコだったが、この件に関してだけは反論が許されないであろう事がわかっていたので、疲れを隠して空港に出向いた。

 ディアゴ・メネゼス氏は、前回のように音もなく出迎えのヴィーコの近くまで現れ「ご苦労様です」とだけ言った。会話はほとんどなく、知り合いの誰にも氣付かれることがないほど密やかに、ヴォルテラ氏の事務所に送り届けた。ヴォルテラ氏の事務所にいつもいる紺の背広をきちんと着た男は、メネゼス氏を鄭重に迎え入れるとヴィーコに言った。
「ご苦労様でした。非番だそうですね。後ほど氏を空港までお送りするのは私がしますので、今日はどうぞお引き取りください」

 だったら、どうして始めからあなたが迎えに行かないんですか。その言葉をヴィーコは飲み込んだ。これまで引き受けた奇妙な任務に危険はなかったし、関わる全ての人は礼儀正しかった。それなのに、ヴィーコはいつも「逆らってはならない」という強迫観念を持ち続けてきた。それほど、この事務所の主の影響力は大きかった。その存在を世界中の誰もが知らないにも拘わらず。

 タウグヴァルダー大尉の物言いも、影響しているのだろう。アメリカ大統領が来ようが、常にテロの標的となっている王族の訪問を受けようが、夕食前の武具の手入れを命じるかのような調子で淡々と命令を下す大尉が、ヴォルテラ氏に関してだけは緊張しやけに神経質になる。何一つヴィーコにはわからなかった。説明するつもりなどないのだ。ヴィーコがその義務を果たすことを知っているから。

 わかるのは一つだ。本来の仕事、派手なユニフォームに身を包み、教皇と聖ペテロの座であるヴァチカンを守る任務は、儀礼的なものでしかない。彼が訓練しその手に持つ鉾槍ヘレバルデ が、銃撃やミサイル攻撃を防ぐための存在ではなく、その伝統的なスタイルの象徴でしかないように。

 実際に教皇とこの小さな国を守っているのは、ヴォルテラ氏の配下、懐に銃を隠し持った黒服のボディガードたち、世界中に張り巡らされた情報ネットワーク、銀行や政治の取引のごとく一般人の目には見えない交渉だ。教皇と全世界十三億のカトリック信者が敬虔に祈りを捧げている間も、目を光らせながら場合によっては冷酷になすべき事を行動に移しているのだろう。

 部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。ひどく疲れていたのだ。実際に、目が覚めると日は傾きだしていた。普段ならば、六日働いた後は、三日連続の休みが与えられるが、明日1月6日は主の公現エピファニアのため朝の十時のミサのために勤務しなくてはならない。ここで夜までぼんやりと寝ていたら、今夜眠れずに明日は寝不足になるだろう。

 ヴィーコは起き上がると私服に着替えて、テヴェレ川に沿って南へと歩いて行った。トラステヴェレにある馴染みのピッツェリアに行こうと思ったのだ。

 クリスマス市場の開催されているナヴォーナ広場の賑わいには比べる事も出来ないが、川沿いの地区にも屋台が出ていて、魔女ベファーナの人形や子供たちの枕元に置く菓子を売っていた。

 ベファーナの菓子の伝統は、おそらくサンタクロースのプレゼントの原型だ。

 ヴィーコの生まれ育ったドイツ系スイスでは12月6日に聖ニコラウスと従者シュムッツリイがやってくる。子供たちの一年の所業を裁定して、いい子にはナッツやミカンや菓子を渡し、悪い子はシュムッツリイが鞭で叩くことになっている。

 一方、イタリアではその一ヶ月後主の公現エピファニアの祝日にベファーナという魔女がやってきて、やはり子供たちの一年間の裁定をする。いい子の用意した靴下の中にお菓子が、悪い子のそれには炭が入っているらしい。実際にはどの子供たちも鞭で打たれたり、炭をもらうことはない。だが、ベファーナのお菓子には炭を象ったお菓子が必ず入る。どんな子供でも少しは悪いことをするからだろうか。

 そのドイツ語圏とイタリア語圏の二つの伝統が混じり合い、現在では世界中の子供たちがクリスマスの朝におもちゃなどのプレゼントをもらう習慣に変わってしまったのだろう。

 ヴィーコは、醜いけれど優しい目をしたベファーナの人形がたくさんぶら下がった屋台を眺めながら歩いて行った。すると、突然目の前で、屋台にあったたくさんの飾りと菓子の袋が崩れ落ちて散らばった。

「きゃっ」
その場にいた、若い女が短く叫んだ。コートの上から引っかけていたストールが、屋台の飾りに引っかかったらしい。

 ヴィーコは、散らばってもう少しで川に落ちそうになっている魔女の人形を二つ三つ拾って屋台に戻した。女は、それを見ると微笑んで「ありがとう」と言った。

 彼は初めてまともに女の顔を見た。顔が小さく、綺麗に整った眉と、長いまつげ、それにその下で煌めく淡い色の瞳が印象的な女だった。薄めの唇にしっかりと引かれた紅と強くカールした睫毛がひどく化粧の濃い女という印象を与える。彼女は、自分の失態に対して力を貸してくれたヴィーコに対して礼を言いつつも、助けられて当然という空氣を纏っていた。

「やれやれ。なんて散らかし方だ。ラウドミア。困った人だね、君は」
声のした方を振り向くと、そこには意外な人物がいた。ヴィーコは思わず「あ」と言って、男の顔をまじまじと見つめた。女性に話しかけていたのは、今朝、チェザーレ・ヴォルテラ氏の事務所の事務所にいたあの紺の背広を着た男だったのだ。男の方も、すぐにヴィーコに氣がついたようだった。

 ラウドミアと呼ばれた女性は、悪びれぬ様子で最後のベファーナ人形を雑に屋台に載せ「失礼」とおざなりに売り子に言うと、紺の服の男性に向かって肩をすくめた。
「もう片付けたわ。こういうのも幸運を運ぶものポルタ・フォルトゥーナ でしょう。来ていたなら、見ているだけでなくて一緒に拾ってくれればいいのに。あなたが私をこんなに待たせるのが悪いのよ」

 ヴィーコは、それでは、この女性はこの人の連れだったのかと思った。彼は、軽く頭を下げて言った。
「先ほどはどうも」

「あら、あなたたち、お互いに知っているの?」
女性は、二人の顔を交互に見つめた。今は茶色のコートに身を包んでいる男性は、表情を全く変えずに言った。
「ヴァチカン市国に入るものなら、嫌でもスイス衛兵とは顔なじみになるさ。どこへ行くのか毎回聞かれるしな」 

「ああ、スイス衛兵なのね」
 ラウドミアは、艶やかに笑った。ヴィーコは、今朝遭ったのは門ではないのにと思ったが、もしかしたらこの女性の前で「ヴォルテラ氏の事務所で」などという会話をしてはいけないのかと思った。

「スイス衛兵って、ヴァチカン市国の中だけにずっといるわけじゃないのね。どこへ行くの?」
「……。その先のピッツェリアに」

「あら、トラステヴェレの? 美味しい所を知っているならば、教えてくれない? この人が連れて行ってくれる店、いつも全然美味しくないんですもの」

 ヴィーコは戸惑って男性の顔を見た。デートの邪魔をするつもりはなかったし、さらにいうと一緒にいたら男性との会話に苦労するだろうと思ったのだ。彼の方から、一緒にいかなくていい口実を言ってくれることを期待していた。

 ところが男性はあっさり言った。
「お願いします」

 ヴィーコは、肩をすくめて二人を連れていつもの店へと行った。

 「テヴェレ川の向こう岸」を意味するトラステヴェレは、中世からの町並みが残る地区だ。ローマの下町といっていい。石畳の道が迷路のように入り組んでいて、その所々に観光客がなかなか見つけられないような小さなトラットリアやピッツェリアがある。

 ヴィーコがよくいくピッツェリアもその一つで、狭い店内は飾りけはないが、古い窯から出てくるパリッとしたピッツァが絶品で、少しでも遅く行くとなかなか座れない。

「まあ。こんな所に。行き方、忘れそうね」
ラウドミアは、小さな店内を珍しそうに見回した。ふんわりとした毛織りのコートを脱ぐと、金ラメを織り込んだ臙脂のワンピースが現れた。胸元が広く開いていて、白鉄鉱の細やかな細工で装飾された赤褐色に濁ったキャッツアイがかかっていた。ヴィーコはこの女性は、その道のプロフェッショナルなのかそうでないのかは判断できないけれど、いずれにしても「非常に高くつく」のだろうと思った。

「いずれにしても、君は店への行き方なんて記憶に留めたことはないだろう?」
「そうね。だから、あなたが、しっかり憶えておいてね」
おざなりに微笑みながら彼女は、その笑顔に対して感銘を受けた様子もない男に言った。

 見ると、男の方は先ほどのカチッとした背広ではなくグレーの開襟シャツ姿で、まるでどこにでもいる事務員のように見えた。少なくとも十三億人もの信者を抱える宗教の中枢部、秘密の通路を通って行かなければたどり着けないオフィスにいる人間には見えなかった。

「ねえ。時代がかった傭兵さん。教えてちょうだい。門を通る人を呼び止めたり、ミサの時に突っ立ってパパさまを警護する以外に、あなたたちは何をしているの?」
ラウドミアは、頬杖をついてヴィーコに語りかけた。

 ヴィーコは、ちらっと男を見たが、とくに反応を見せなかった。僕のことよりも、そっちを問い詰めた方がいいのに、そう思いつつ、職務に忠実で口の固いスイス衛兵は口を開いた。
「それだけですよ」

 もちろんそんなわけはないとわかっただろうが、ヴィーコが面白おかしく軍務について詳細を話してくれるタイプではないとわかったのだろう。彼女は、それ以上追求しなかった。

「実際に、鉾槍を捧げ持った僕たちは儀式用の装飾品みたいな存在だ。クレメンス七世の時代とはもう違うんですよ」
1527年に神聖ローマ帝国のカール五世によって引き起こされたローマ略奪で、教皇クレメンス七世を守るため果敢に戦い189人中147人が戦死した故事はスイス衛兵の誇りで、五月六日は今でも隊の祝日になっている。新しい衛兵の入隊式もこの日に行われる。

「そうは言えない」
男は、ヴィーコの眼をじっと見つめながら言った。
「確かに君たちの鉾槍は、大陸弾道ミサイルに対しては無力かもしれない。だが、十六世紀には既に大砲もあったんだからね。それでもスイス衛兵たちが、サンタンジェロ城へと向かうボルゴの通路イル・パセット でクレメンス七世を守り抜いたのは事実だろう」

「それは、そうですが……」
注文していたピッツァが出てきたので、ヴィーコは口ごもった。スイスで食べていたのと比べると、少し小ぶりで直径20センチほどだ。非常に薄く焼き上げた土台にトマトと水牛モツァレラ、アーティチョークと生ハム、それにルッコラが載っている。熱々に溶けたチーズとトマトは、ぱりっと膨らんだ額縁コルニチョーネ でせき止められていた。

 美味しいピッツァとは、シンプルだ。パリッとした台。額縁コルニチョーネ が割れたときにふわっと漂う良質の小麦粉の焼けた香り、新鮮なチーズや香ばしいオリーヴオイルが具材の味わいをしっかりと支える。どこにでもある材料で作るはずなのに、これだけの味に巡りあうのがどれほど難しいことか。

「まあ」
ラウドミアは、辛いサラミを使ったディアヴォラを注文していた。上手にナイフとフォークで切り分けて口に運ぶと、長い睫毛を閉じた。赤く染まったオリーヴオイルが真っ赤な唇で光っている。「悪魔ディアヴォラ 」を選んだのは意図的なのかとすら思う。その後すぐに見せた微笑みから判断すると、どうやらこの店は彼女のお氣に召したらしい。

 連れの男が選んだ水牛モツァレラとゴルゴンゾーラのピッツァ・ビアンカ、白とルッコラの緑だけが載ったピッツァはそれと対照的だった。また、彼はピッツァの味の魔力に全く感化された様子はなく、黙々と口にしながら話を続けた。
「時代は変わり、教会の存在意義も、信者のあり方も変わったし、これからも留まることはないだろう。だが、君がヴァチカンの門前で、教皇の傍らで、もしくはそれ以外の職務でしていることは、間違いなく君の志した『教皇と教会への奉仕』だ。違うか」

 その通りだと思った。上司がよく説くように、彼の職務に必要なのは忠誠心とひたすらな謙虚さだ。讃えられることや注目されることがなくても、静かに自分たちの任務を遂行する、誇りを持って。そうだ、引っかかっていたのはそこだ。

「僕は、単純に、誇りの拠り所を失いかけていたのかもしれません。本当に、僕たちの存在意義があるのかって」
「それは誰でも持つ疑問さ」
「あなたも?」

 男は黙ってわずかに微笑んだ。ラウドミアは、面白そうに頬杖をついて口を挟んだ。
「郵便局の仕分け係なんて、すぐにロボットに取って代わられるに違いない仕事だっていうのが、口癖だものね」

 ヴィーコは、それではこの女性に対しては郵便局勤務ということにしてあるのかと思い、かといって初めて知ったようなふりをするのも白々しいと思い黙っていた。女は妙な微笑みを浮かべてから、また幸せそうにピッツァを食べた。

 それに見覚えがあると思いしばし考えたヴィーコは、先ほどの魔女ベファーナの人形だと思い当たった。明日は主の公現エピファニア。誰がご褒美をもらうのか、また、誰が炭をもらうのか、とっくにわかっているような微笑みだった。

(初出:2019年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】好きなだけ泣くといいわ

今年最初の小説は、毎年書いている「十二ヶ月●●」シリーズです。今年は2013年にやったものと同じ「十二ヶ月の歌」にしました。それぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いていきます。一月はジュリー・ロンドンの「Cry Me A River」を基にした作品です。

月刊・Stella ステルラ 12、1月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


かなり有名な曲ですし、著作権的にわからないので訳は書きません。検索するといっぱいでてきますし。歌詞は、不実だった元恋人がやってきて泣いていると言うのに対して「私だって散々泣いたんだから、川のように泣くといいわ」と返すものです。

出てくる登場人物は、「ニューヨークの異邦人たち」シリーズのサブキャラたちです。今回登場しているのは、「ファインダーの向こうに」と「郷愁の丘」のヒロイン・ジョルジアの妹であるアレッサンドラと、その周辺の人物。元夫のレアンドロも別の外伝で既に登場済みですね。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む

【参考】
「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」




好きなだけ泣くといいわ
Inspired from “Cry Me A River” by Julie London

 丁寧に雪かきをしてあっても、石畳の間に残った雪が凍り付いていた。安全にドタドタと歩ける無粋なブーツを履いていなかったので、いつもよりもスピードを落として慎重に歩いた。アレッサンドラ・ダンジェロが、雪道で滑って転ぶなどという無様な姿を晒すことは、何があっても避けなくてはならない。

 スーパーモデルとしてだけではない。ヴァルテンアドラー候家当主プリンツ・ツア・ヴァルテンアドラー の称号を持つ男と結婚したため、現在の彼女にはそれにふさわしい品格が求められているのだ。
 
 娘のアンジェリカは、暖かい部屋でもうぐっすりと眠っているはずだ。父親のもとでの二週間の滞在を終えて、明後日またアレッサンドラと共にアメリカに帰るのだ。

 九歳になるアンジェリカは、アレッサンドラの最初の結婚で生まれた娘だ。その父親であるレアンドロ・ダ・シウバは、ブラジル出身のサッカー選手で、現在はイギリスのプレミアムリーグに属するチームで活躍している。娘を溺愛しているにもかかわらず、毎週のように会いに来ることが出来ないのは、そうした事情があるからだ。

 だから、学校の長期休暇には、アンジェリカが長い時間を父親と過ごすことに反対したりはしなかった。時おりイギリスまで娘を送り迎えする必要があってもだ。

 今回はレアンドロが、アレッサンドラと今の夫がヨーロッパでの多くの時間を過ごすスイス、サン・モリッツへと足を運んだ。そして、愛する娘との長く大げさな別れの儀式を繰り返した後に、滞在しているクルムホテルに戻った。

 そのまま、彼の鼻先でドアを閉めて、暖かい室内に戻ってもよかったのだ。なのに、どうした氣まぐれをおこしたのだろう。彼女は、前夫に誘われてクルムホテルへと行ったのだ。重厚なインテリアのエントランスの奥に、目立たないバーがある。別れてから五年経っている。アンジェリカの受け渡し以外の会話をしたのは本当に久しぶりだった。

 スイスという国に、有名人の多くが居を構える理由の一つに、この国の住民の有名人に対する態度がある。たとえ、いくら山の中とはいえ少し大きな街に出れば化粧品や香水の巨大な広告は目に入る。金色の絹のドレスを纏い挑戦的に微笑むアレッサンドラの顔はすぐに憶えるだろう。街を歩いていて「あ」という反応を見せる人はいくらでもいる。けれど、彼らはそのまま視線をそらし、何事もなかったかのように歩いて行く。カメラを取り出したり、通り過ぎてから戻ってきてサインをねだったりしない。

 ホテルの従業員たちも、バーにやってきたのがプレミアム・リーグで活躍する超有名選手と、離婚した超有名スーパーモデルだということを即座に見て取っただろうが、それとわかるような素振りは全く見せなかった。

 クルムホテルのバーで、たった一杯カクテルを飲み、一時間後に颯爽と立ち去った。タクシーを呼んでもらうこともなく、迎えをよこすように連絡することもせずに、彼女は一人歩いた。頭を冷やすために。

 別れた夫との会話が、彼女の頭に渦巻き、彼女を戸惑わせている。

 彼は、二人の共通の興味対象について話しだした。
「それで、お前がこちらで過ごす時間が増えているなら、いっそのことアンジェリカの学校もロサンジェルスにこだわる必要はないんじゃないか」
「そうね。でも、この辺りには英語で通える学校はないのよ。ルイス=ヴィルヘルムはフランス語圏には、今のところ行きたくないみたいだし。もう少し大きくなったら寄宿学校という案も考えないでもないけれど」

「そうか。マンチェスターの学校ってわけには……」
「いきません」
ぴしゃりと言われて、レアンドロは仕方ないなという顔をした。

「あなたは父親だし、意地悪で会わせないっていっているんじゃないわ。でも、離婚原因を作ったのも、毎週会えないほど遠くに行ったのも、あなたの選択でしょう。私を困らせないで」

「それは、わかっているさ。だから、あの子にもっと会いたくても我慢しているんだ。それに、その、俺の方もずっとイギリスに居続けるって決めたわけじゃないし。でも、アンジェリカとの時間はとても貴重だし、あの子に家庭のことで悲しい思いはさせたくないんだ」

 それを聞くと、アレッサンドラは片眉を上げた。キールの入ったグラスに光が反射している。その姿勢はお酒の宣伝の写真のように完璧で、レアンドロは改めて元妻がスーパーモデルであることを認識した。だが、彼女の口からは、コマーシャルのような心地よい台詞は出てこなかった。

「よくもそんなことを言うわね。で? ベビーシッターと結婚すれば、家でじっとあなたを待っていてくれる人と、アンジェリカと三人で幸せな家庭になるとでも思ったってわけ?」
「……それとこれとは……」

 レアンドロは三本目のブラーマ・ビールを頼んだ。よく冷えたグラスが置かれ、バーテンダーが注ごうとするのを手で制し、瓶を受け取るとそのままラッパ飲みをした。

「始めから結婚するつもりでソニアに手を出したわけじゃないさ」
「手を出してから、乗り換えようと決心したってわけね」
「そう具体的に思ったわけじゃない」

「でも、そうなのよね。私が、一日中テレビ・ショッピングでも見ながら、家の中であなたを待っていなかったから」
「つっかかんなよ。そりゃ、あの頃は確かにお前に腹を立てていたけど」

「けど、何よ。お望み通り、若くて家庭を守る妻を持ったんだから、私に因縁をつけるのはやめてよ。言っておくけれど、アンジェリカの親権は絶対に渡しませんから。あの女の元になんてぞっとするわ」
「わかっているよ。それにソニアは、その、口には出さないけれど、さほどアンジェリカを歓迎していないし……でも、お前だって、再婚したんだし、おあいこだろう」
「ふふん。あいにくだけど、ルイス=ヴィルヘルムは、アンジェリカを大切にしてくれているわよ」

「その前のヤツは」
「あの男のことを思い出させないで。あの結婚はそれこそ完全な間違いだったわ」

 アレッサンドラは、眉をしかめた。彼女の二度目の夫は、テレビなどで活躍するモデレーターだったが、表向きの人当たりの良さに反して、家庭では支配的で嫉妬深かった。また子供が嫌いで、アレッサンドラがいない時にアンジェリカに対して意地の悪い言動を繰り返していた。

 アンジェリカの様子がおかしいのに氣がついたアレッサンドラが、使用人の協力を得て現場を押さえた。結婚してから半年経っていなかった。一刻も早く離婚したかったため、離婚原因については他言しないという申し合わせをすることになっていた。いずれにしてもレアンドロにその件を詳しく話すわけにはいかない。あの男の愛娘への仕打ちを知ったら、後先を全く考えずに暴力を振るいに行きかねないからだ。

「そうか。二人目と簡単に別れたから、三人目ともすぐかもしれないと思ったけれどな」
「あなたには関係ないでしょう」

「別れるのか?」
「そんなこと言っていないわ。あなたには関係ないって言っているのよ。こぼれたミルクは元に戻らないって、ことわざ、知らないの?」
「お前は、いつもそうだよな。前を見て、闊歩していく。振り返って後悔したりなんかしない。それがお前らしさなんだけれどな」

 苛ついた様子を見せて、アレッサンドラは向き直った。
「ねえ、あなたは確かに私の娘の父親だけれど、私の再婚にあなたが口を出す権利があると思っているの? あの女と再婚したのはそっちが先でしょう?」

「わかっている。だけど、俺はお前と結婚した時ほど、ソニアと結婚する時に舞い上がっていたわけじゃない」
「なんですって?」

「その、半分は離婚したやけっぱちで、それに半分はソニアがかわいそうで……」
「かわいそう?」

「だって、そうだろう。お前は、離婚しようとしまいと、アレッサンドラ・ダンジェロだ。だが、ソニアは、俺に捨てられたらそのまま人生の敗者になってしまう。家庭を壊した性悪のベビーシッターってことでな。だから、俺は……」
「どうかしら」

 アレッサンドラは、多くは語らなかったが、元ベビーシッターが世間の評判を氣に病むような弱いタイプだと思っていないことは明白だった。レアンドロも、今は自分でも元妻と似たり寄ったりの意見を持っていた。

「でも、俺は今でも時々思うんだ。なぜあの時、あんな簡単にお前と離婚してしまったんだろうって」
「あなたは、自分が言ったことも憶えられないの? 私とは完全に終わりで、仕事を持つ女となんか二度と関係を持ちたくないとまで言ったのよ。不貞を働いたのは自分のくせに」

 レアンドロは、じっとアレッサンドラを見つめて、泣きそうな顔をした。
「俺は、拗ねていたんだ。子供みたいに。お前も歩み寄ってくれて、やり直せるんだって、心のどこかで期待していたんだ。アンジェリカのためだけに俺といるんじゃない、俺とずっと一緒にいたいと思ってくれているってね。その甘さのツケを今払っているんだ。申し訳なかったと思っているんだぜ。時折、俺たちの新婚時代を思い出して、こうなった情けなさに泣いたりしてさ」

「そんなあざとい口説きは、他の女にするのね。ごちそうさま、私帰るわ」
 
 アレッサンドラは、石畳を踏みしめながら、わめき散らしたい思いを必死で堪えた。泣きたいなら好きなだけ泣くといいわ。何よ、今さら。

 私がどれほど傷ついて苦しんで、泣いたと思うのよ。私は強くて振り返りもせずに前へと歩いていくですって。そうじゃない姿を世間には見せないだけよ。

 彼女は駅の近くまで降りてきた。タクシーに乗り込むと、今の家族の待つ家へと戻った。静かな一角にあるその邸宅からは、サン・モリッツの街明かりが星のようにきらめいて見える。外側はコンクリートの直線的な佇まいだが、中に入ると古い木材を多用した柔らかいインテリアがスイスらしい住まいだ。

 暖炉には暖かい火が燃えていて、ソファに座っていたルイス=ヴィルヘルムは、さっと立ち上がってアレッサンドラを迎えた。
「お帰り、寒くなかったかい。言ってくれれば迎えに行ったのに」

 1918年に多くの貴族が王位、大公位、侯爵位などを失った、その一人の末裔として、先祖伝来の宝石や城などと一緒にプライドも受け継いだはずなのに、ルイス=ヴィルヘルムにはどこか山間に走る子鹿のような臆病さがあった。優しく礼儀正しい彼は、アレッサンドラを熱烈に崇拝し、大切に扱う。彼女の仕事も、愛する娘もすべて受け入れ、尊重した。だから、アレッサンドラも、新しい夫を困らせないように、彼の家名に傷のつくような仕事は一切断り、品位を保ち、彼の信頼に応える妻であるように、新しい努力を重ねている。

 まだ二十一歳だったアレッサンドラが、若きレアンドロと出会い恋に落ちた時、品位などということは考えなかったし、努力もしなかった。そこにあったのは、火花のように燃え上がる熱い想いだけだった。世界が二人を祝福していると信じていたあの頃、豪華でクレイジーな結婚披露宴に酔いしれたこと、全てが単純で素晴らしかった。

 あれから十年以上の時が流れ、事情はずっと複雑になり、今夜の二人は同じ場所にいても、もう元の恋人同士には戻れない。アレッサンドラは、優しく抱きしめる夫をやはり優しく抱きしめ返しながら、窓の外を見た。レアンドロの滞在するホテルの辺り、サン・モリッツの街明かりが、泣いているように煌めくのを見て、そっと瞳を閉じた。

(初出:2019年1月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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こちらが原曲であるジュリー・ロンドンの「Cry Me A River」です。


Julie London - Cry Me A River

もっとも、私はこちらの方がこのストーリーにもっと近いと思っています。ハリウッドのショーっぽい歌。大好きなマイケル・ブーブレのバージョンです。


Michael Buble - Cry Me A River
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Tag : 小説 読み切り小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】追憶の花を載せて

今日は「十二ヶ月の情景」十二月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。100,000Hit記念企画のラストになります。

月刊・Stella ステルラ 10、11月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、ポール・ブリッツさんのリクエストにお応えして書きました。

12月、うちの鈴木くんと八少女さんのキャラクターを誰かコラボさせてください。いろいろと性格とか考えると、八少女さんの小説世界にからめられる人間が鈴木くんくらいしかいない(笑)

そろそろ鈴木くんも中学生なのでホームステイかなにかでヨーロッパへ旅行させてもいいでしょうしね(^^)


鈴木くんとは、こちらのポールさんの小説の主人公です。
恩田博士と生まれ変わりの機械たち

ヨーロッパへ来ていただく事も可能だったのですが、私のキャラが中学生がホームステイするような所にあまりいないなあ、ということで、日本を舞台にした掌編になりました。

ポール・ブリッツさんの元になった小説が、とてもいいお話なので、余計なことを書いてぶち壊したくないなと思い、もともとの設定を元に書きました。あー、と言うわけで、原作を未読の方はまずポールさんの作品を読んでから、こちらを読まれることを推奨いたします。

コラボさせたのは、昨年の「十二ヶ月のアクセサリー」シリーズの中で出てきた二人組です。


短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



追憶の花を載せて

 加奈はウィンドゥ・ディスプレイ越しに灰色の空を見上げた。今朝はかなり冷え込んでいる。もしかしたら雪が降るのかもしれない。

 恋人たちがイルミネーションの輝くロマンティックな街を歩く。洒落たレストランで乾杯をする。そんなクリスマスの過ごし方を加奈はしたことがない。恋人が出来れば、その時には……というような期待もない。なぜならば、加奈には既に生活を共にするパートナーがいるのだ。

 その麗二と加奈にとって、クリスマス・イブはかき入れ時だ。二人は『フラワー・スタジオ 華』という花屋の共同経営者なのだ。

 クリスマスはパーティや花束の注文が多く、二十五日からは忘年会や送別会、それにお正月迎えの花の注文で、文字通り食事をする暇もなくなる。一日が終わるとくたくたで、とてもその後にデートをするつもりにはなれない。

 ハードなのはそれだけではない。花屋というのは冬には過酷な職場だ。しもやけやあかぎれは日常茶飯事だし、ひんやりした店をつらく感じることも多い。バイト時代とは違って、二人で店を持つようになってからは、防寒着で店に出るようにしたし、定期的に暖かい室内での仕事や作業を交代でするようにしているけれど、それでも、なぜこんなに寒い思いをする仕事を選んでしまったんだろうとため息をつくこともある。

 それでも加奈は、この仕事が好きだった。二人とも初めて持った店である『フラワー・スタジオ 華』は、生業であると同時に夢の実現でもあった。この世知辛い世の中、いくつもの花屋が生まれては消えていくが、店の経営はなんとか軌道に乗り、持ちこたえて八周年を迎えようとしている。

 花を贈る人々、花を自宅に用意する人たちにはそれぞれの物語がある。その人生の重要なシーンに、麗二とともに関われることは、とても素敵だ、そう加奈は思っている。

 それに、この時期の客たちから聞くストーリーは、なかなかドラマに満ちて、加奈の趣味である同人誌の題材になってくれることも多い。

 モデルになった人たちは、自分の容姿や言動に似ている登場人物が、同人誌の世界で華麗にパフォーマンスをしていることはもちろん知らない。モデルにした人たちについては、完全な架空の人物よりも敬意を払い、重要で好意的な役割を与えていたけれど、さすがに伝える勇氣はない。

 一方、キャラクターへの愛情が湧き、モデルとなった客に対しても、より好意的に熱心に接客に当たることになる。その本末転倒な熱意にもかかわらず、その顧客がある時から二度と店にやってきてくれないこともある。同人誌の件が明るみに出たからではなく、単純に他の店を好んで行くようになったり、引っ越したり、亡くなったり、とにかく様々な理由からだ。

 そうした店にとっては過去となった顧客の好んだ花の組み合わせや、特別な理由で作ったアレンジは、加奈の心の中でそのお客さんたちに捧げた花束として残っている。その人たちの顔を思い浮かべる時に、いつも花があるのだ。

 麗二にその話をしたら、彼はそれに同意した。
「ああ、俺も花を一緒に思い浮かべるよ。もっとも、今よく来てくれるお客さんでもそうだけどな」

 加奈は、意外に思った。想像の中で花を散らしているのは、件の趣味を持っているがための、少し妙な妄想だと思っていたのだ。そうではなくて、どうやらこれは、花屋の職業病みたいなものなのかもしれない。

 そんなことをつらつらと考えつつ、レジの下に置いた小さなヒーターで手足を温めていたら、ドアが開いて、ベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」
そういいながら、入ってきた客を見て、加奈は「あら」と意外に思った。十代前半と思われる少年だったのだ。彼は、怖々と店の中をのぞき込み、「花くらい、毎週、買っています」というような風情はなかった。

 彼を見て、すぐに「対象外」と思った。同人誌のジャンルは、麗しい男性によるステージパフォーマンスで、ソフトなロマンスも含むが、加奈に言わせると「BL」ではない。少女マンガ以下のぬるい描写だからというのがその言い訳だが、そう言い張る加奈にも良心はある。モデルにするならやはり成年でないと。いくら妄想とはいえ、犯罪はいけない。ましてや相手はお客さんだ。

 そんな彼女の思惑を何も知らない少年は、店を一通り見回してから、助けを求めるようにこちらを見た。

「何かお探しですか」
加奈は少年が逃げ出したくならないように、できるだけさりげない調子で訊いた。

「ええと、花を」
それはそうだろう、ここは花屋だから。そう思ったけれど、そうは言えない。

「花束? アレンジ? それとも鉢植え? プレゼントですか?」
矢継ぎ早に質問を投げかける。目的がわかると、提案がしやすいのよね。

「お墓に供えようと思って。今は寒いから、すぐにダメになっちゃうのかな」
少年は、口ごもった。なんと。意外な目的だわ。

 ちょうどその時、バックヤードから麗二が出てきた。筋肉ムキムキな上に姿勢がいいので小柄な少年には威圧的なのかもしれないと一瞬心配したが、片手に持った小袋から裂きイカを取り出しては口に放り投げていて、威厳のカケラもない。っていうか、その接客態度は、ちょっと。

「あ、ちょうどいい所に。こちらのお客さん、お墓に供えるお花を探していらっしゃるんだけれど、切り花じゃない方がいいのかって、寒いから」

 麗二は、少し考えて頷いた。
「そうだな。菊などはわりと寒さに強いし、寒い方が暑いよりも持つとは思う。もっとも、ごく普通の仏花をここに買いに来たわけじゃないんだろう、きみ」

 そう訊くと、少年の顔はぱっと明るくなった。
「そうなんです。ぼくにとって、一番尊敬できる大切な人のお墓なので、お墓の近くで売っている、みんなと同じような花は、いやなんです。でも、みんなと違う花を供えて、ぼくのだけすぐにダメになったり、供えるべきでない常識はずれの花を持っていったなんて言われたりしたらよくないと思って」

 麗二は、少年に笑いかけた。
「そうか。基本的には、何を供えても構わない。でも、『常識がない』と後ろ指を指されるのが嫌なら、とげのある花と蔓のある花は、避けた方が無難だね。例えば薔薇なんかだよ」

「なるほど。そう言えば、お墓に薔薇が供えてあるのは、見たことがありません。ぼく、白い薔薇ならいいかなって思っていたんですけれど、それじゃダメですね」

「薔薇は寒さには弱いから、いずれにしても今はやめた方がいいだろうな。そういえば本物の薔薇じゃないけれど、クリスマスローズの鉢植えはどうかい? 寒さに強くて、この季節らしいし、文句を言われないような色のものが多いよ」
そう言って麗二は、薄いピンクや白の鉢植えを少年に見せた。 

 十二月に咲くクリスマスローズは、ヘレボルス属の中でもニゲルと呼ばれる植物だ。同じヘレボルス属のオリエンタリス も日本では「クリスマスローズ」の名前で売られているが、こちらの開花は春先になる。

 花びらに見える部分は、実は萼片がくへん なので、寒さの影響が少なく長持ちする。

「ああ、クリスマスローズは、花言葉もちょうどいいかもしれないわね」
加奈が言うと、少年はこちらを見た。
「なんていうんですか?」

「いろいろあるけれど、『慰め』や『追憶』って言葉が代表的かしら」
「それに、受験生や学者に贈る人もいるよな。『がく が落ちない』を『学が落ちない』って語呂合わせにしてさ」

「学者……。実は、供えたいお墓に眠っているのは、僕が一番尊敬している博士なんです」
「だったら、ちょうどいいな。多年草だから直植えして根付いたら、ずっと咲き続けるよ」
麗二は、咲きそろっている花の鉢をそっと揺らした。

「そうですか。じゃあ、それでお願いします」

「春先に咲くのがいいなら、ヘレボルス・オリエンタリスだけれど、今はまだ入荷していないな。今、欲しいなら、このニゲルだね。どんな色がいいのかな」
「その薄紫のをください。それから、春になったら咲くのも供えたいから、入荷したら教えてくれませんか」

「いいとも。じゃあ、ここに名前と連絡先を書いてくれるかい……ふむ、鈴木君っていうんだね。電話番号も……ああ、ありがとう」
麗二は、大人の自分よりもずっと上手な鈴木少年の字を感心して眺めた。

 大事に鉢植えを抱えて鈴木少年が出て行ってすぐに、また扉が開いて一人の老人が入ってきた。
「ああ、先生、こんにちは」
麗二は頭を下げた。

「今の男の子……」
先生と呼ばれた老人は、首をひねっていた。

「ご存じなんですか」
加奈が訊くと、はたと思い出したような表情をしてから、彼は笑顔を見せた。

「ああ、旧友の葬儀で遭った子だ。彼の最後の弟子といってもいいな。あの時は、確か小学生だったが、ずいぶん大きくなったな」

 ウィンドウから覗くと、少年は自転車の籠に鉢を大事そうに載せると、颯爽と漕いで去って行った。

「そうですか。一番尊敬している博士のお墓に供えるって言っていましたよ。その方のお墓じゃないでしょうか」
麗二は言った。

「だろうな。あいつを憶えていて、まだ慕ってくれることは、わたしは嬉しく思うよ。だが、あいつはどう言うかな。『追憶』なんてものは、老人に任せて、若者は前を向いて行けなんて、あまのじゃくなことを言うんじゃないかな。というのも、わたしもあいつの遺言に近いような言葉を聴いたんだ」

『ふり返っちゃだめだぞ、鈴木くん。ペダルをこげ、ひたすらこぐんだ!』

 加奈は、もう一度ウィンドウの外を見た。鈴木少年は、力いっぱいペダルを漕いで、寒空をものともせずに去って行った。籠の中のクリスマスローズも、寒さに負けずに花びらに見える白いがく をけなげに広げていた。

 たぶん彼は、追憶だけに生きたりはしていないだろう。恩師の願ったとおりに、未来に向かってひたすらペダルを漕いでいるのだ。でも、振り向かずに進むその先々に、きっと恩師がいる。彼は、繰り返し咲く冬にも強い花を、その恩師に見せるために植えるのだろう。

 『フラワー・スタジオ 華』で迎える八年目のクリスマス。私だって寒さに負けている場合じゃないよね.加奈は、麗二との夢であるこの店という花を何度でも咲かせるために、自分も未来に向かって力強くペダルを漕いでいこうと思った。

(初出:2018年12月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】その色鮮やかなひと口を -7 - 

今日は「十二ヶ月の情景」十一月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。今日は、まだ十月ですが、来週にすると、Stellaの締め切りに間に合わなくなるので、今日の発表です。

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今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。

11月17日、真の誕生日なんですよね~。テーマは「蠍座の女」、コラボ希望はバッカスの田中氏と思ったけれど、すでにlimeさんちの水色ちゃんとコラボ予定のようなので、出雲の石倉六角堂で。出雲なので、別の誰かさんたちが出没してもいいなぁ~(はじめちゃんとか。まりこさまとか。)


「真」とはご存じ彩洋さんの大河小説「相川真シリーズ」の主人公です。翌日11月18日は、実は今連載中の「大道芸人たち Artistas callejeros」のヒロイン蝶子の誕生日ですが、今回は絡めませんでした。「さそり座の女」ですけれど、あいつはヨーロッパにいるんですよ。「石倉六角堂」は松江ですし、蝶子はそんなにしょっちゅう日本には来ないので、無理がありすぎました。

で、はじめに謝っておきます。たくさんご要望があるんですけれど、全部はとてもカバーできませんでした。五千字ですよ! 出すだけなら出せますけれど、まとまった話にならなくなるし。というわけで、「石倉六角堂」までをカバーしました。そして、かなり無理矢理ですが彩洋さんの大事な真のお誕生日を絡ませました。でも、ご本人は出てきません。その代わり、以前この話で少しかすらせていただいた、あの方が登場です。


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【参考】
「その色鮮やかなひと口を」



その色鮮やかなひと口を -7 - 

 うわ、可愛い。怜子は思わずつぶやいた。ルドヴィコの作る和菓子は、いつも色鮮やかで、かつ、日本情緒にあふれるトーン、動物を象った練り切りなどは愛らしいのだが、今回はいつもにましてキュートだと思った。

 それは金魚を象っていた。単なる金魚ではなく、島根県の天然記念物にも指定されている『出雲なんきん』だ。土佐錦、地金とともに三大地金のうちの一つに数えられている、島根ゆかりの金魚だ。小さな頭部と背びれがないこと、それに四つ尾の特徴がある。

 既に江戸時代には、出雲地方で大切に飼育され、大名諸侯が愛でていた、歴史ある品種なのだ。不昧公の呼び名でおなじみの松江藩七代藩主松平治郷は、江戸時代の代表的な茶人でもあり、彼の作法流儀は不昧流として、現在に伝わっている風流人だが、彼もまた『出雲なんきん』をこよなく愛し「部屋の天井にガラスを張って泳がせて、月光で眺めた」という伝説すら残っている。

 今年はその不昧公の没後二百年であるため、島根県の多くで不昧公二百年祭として縁の催しが行われている。ルドヴィコの勤める『石倉六角堂』でも、不昧公ゆかりの伝統的な和菓子に加えて、二百年祭にふさわしい創作菓子を毎月発表していた。

 十二月の分を任されたルドヴィコは、怜子にアイデアがないか相談した。彼女が勧めたのが『出雲なんきん』を象ったお菓子だった。

 求肥は、上品な白で、所々朱色で美しく彩色してある。透けている餡は橙色の黄味餡。狭い目幅の特徴をよく捉えた丸い目がこちらを見ている。凝り性のルドヴィコは、試食用の『出雲なんきん』の柄を全て変えていた。

「おお、これは綺麗だ」
「ルドさんらしいわねぇ」
集まってきた職人たちや、販売員たちが口々に褒めて、手に取った。

「あ、奥様。お一つどうぞ」
怜子は、石倉夫人に朱色の部分の多い一つを手渡した。

 夫人は、一瞬その和菓子を眺めてから、わずかに不機嫌に思える口調で言った。
「いいえ、そちらのもっと白い方を頂戴」

「え。あ。はい」
怜子は素直に渡した。どうしたんだろう、そんなことをこれまで言ったことないのに。

「ルドちゃん。味は満点だけれど、つくる時はできるだけ白い部分を多くしなさいね。『出雲なんきん』は、他の金魚と違って白い部分が多い白勝ち更紗の体色が好まれるので、わざわざ梅酢を使ってより白くなるようにして育てるのよ」
穏やかに語る様子は、いつもの夫人だった。

 彼女が事務室に戻って言った後、義家が言った。
「あちゃー。サソリ女を思い出したんだな。桑原くわばら」

 怜子は、はっとした。

 それは、先週のある晩のことで、時間は遅く閉店間際だった。お店に、かなり酔っている女性が入ってきたのだ。大きめのサングラスと、真っ赤な口紅が少し蓮っ葉な印象を強めていた。
「ふふーん、ここなのね。来ちゃったわ」

 販売員は、和菓子に用はなさそうだと思っても一応「いらっしゃいませ」と言った。女性はハスキーな声で言い放った。
「あんたには用はないわ。せっちゃんを出してよ」

「……石倉のことでしょうか」
せっちゃんという名前で思い当たるのは、社長の石倉節夫以外にはいなかった。

「そうよ。あの人を出して。あたしの大事な人なの」
それを聞いていた店の人間は固まった。石倉夫人が厨房から出てきたからだ。

「申し訳ありませんが、主人は不在ですが、何のご用でしょうか」
石倉夫人が訊くと、女はゆっくりとサングラスを外して、そちらを見た。厚化粧だが、目の下の隈や目尻の皺は隠せていなかった。

「主人……ね。なんとなくわかっていたわ。やっぱり、そうだったのね。昨夜は、あたしの誕生日だったのよ。一緒に過ごす約束だったのに、いつまで経っても来ない。電話にも出ない。約束したのに、ひどいわ」
その年齢には鮮やかすぎる朱色のワンピースの開いた襟元に見える鎖骨が少し痛々しかった。

「奥さんがいる人ってわかったからって、はいそうですかって、忘れられるようなものじゃないわ。あたし、大人しく引き下がったりしないから。地獄までついていくつもりだって、せっちゃんに伝えてちょうだい。……あたし、こう見えても一途なの。ほら、歌にもさそりは一途な星座っていうじゃない、ははははは」

 その翌日、出てきた石倉社長は、いつもの朗らかな様子はどこへ行ったのか、すっかり消沈していた。数日ほどは夫人に口もきいてもらえなかったらしいが、ようやく元の朗らかな様子に戻った所を見ると、今回は許してもらえたらしいというのが、職人たちの一致した意見だった。

 その女性が来店した時は、怜子はその場にいなかったので、『出雲なんきん』の菓子から連想するとはまったく想像できなかった。でも、奥さま氣の毒だもの……。私だって、ルドヴィコが他の人にフリーだといって言い寄ったりしたら嫌。

「怜子さん。どうしたんですか? 怖い顔していますよ」
ルドヴィコにいわれてはっとした。

「ごめんなさい。あれ? それ、どうするの?」
彼は、店内試食用とは別にしてあった『出雲なんきん』を箱に詰めていた。それは販売を想定していたものよりも躍動感あるデザインで大きめに作ってあった。

「特注です。驚かないでください。怜子さんも知っているイタリア人が今から取りに来ます」

 怜子は首を傾げた。ルドヴィコを除けば、怜子の知っているイタリア人は、ルドヴィコの家族と、ミラノ在住の親友ロメオくらいだ。誰が日本に来たんだろう?

 自動ドアが開き、のれんの向こうから背の高い金髪の男性が入ってきた。女性店員たちがどよめいた。

 あ。雑誌の人だ! ヴォルなんとか家の御曹司で、同居人にすごい和食を作っているって人。かつて、この人の特集の載っている雑誌に、店のみんなでキャーキャー騒ぎ、男性陣の白い目を浴びたことを思い出した。なーんだ。そういう意味の知っている人か。

「こんにちは、いらっしゃいませ」
怜子は、使える数少ないイタリア語で言ってみた。他のアルバイトたちが羨ましそうにこちらを見ている。

 男性は、魅力的に微笑んだ。
「松江でイタリア語の歓待を受けるとは思いませんでした。嬉しいですね。お電話した大和です。マセットさんは、いらっしゃいますか」
「はい。厨房にいるので、呼んできますね」

 怜子が声をかけると、ルドヴィコは先ほどの箱を持って出てきた。
「こんにちは、大和さま」

 イタリア人同士なのに、何も日本語で会話しなくてもいいのに。どちらも、日本人と遜色のない完璧な発音だ。怜子は、つたないイタリア語で話したことを少しだけ後悔した。

「特注品で、四つでしたよね。こちらでよろしいでしょうか」
ルドヴィコは『出雲なんきん』が四匹、頭を突き合わせているように箱に詰めたものを大和氏に見せた。

「おお、これは綺麗だ。大使館でお目にかかったファルネーゼ特使が、松江に行くなら是非マセットさんの和菓子を食べてくださいと勧められた理由がわかりましたよ。これは、金魚ですよね……蠍ではなくて」

 その一言に、場の空氣は凍り付いた。幸いそこには、石倉夫人はいなかったが、石倉節夫社長が来ていた。先ほどの会話があったので、誰もがあの酔った女性のことを思い浮かべて彼の方を見ないように不自然な動きをした。もちろん、大和氏は何も氣付いていないであろう。

「ええ、これは『出雲なんきん』という島根特産の金魚を象りました。もしかして蠍に見えましたか?」
ルドヴィコが訊くと、大和氏は首を振った。

「いえ、もちろん蠍には見えません。ただ、たまたま今日、これを食べさせようとしている相手が、さそり座の生まれなのですよ。蠍にちなむものを探した関係で、朱いものを見ると何もかも蠍かもしれないと考えてしまって」

「そうでしたか。さそり座ということは、もしかして今日がお誕生日ですか?」
「ええ。そうです。彼とは、この後に出雲で待ち合わせ、誕生日を祝うつもりなのです。本人には内緒ですが、ちょっとした懐石料理の準備をしてありまして、その締めにこちらを出そうと思っています」

 例の雑誌のインタビューでも、同居人に凄い和食を作っているって話していたけれど、この人、懐石料理まで作っちゃうんだ。怜子は目を白黒させた。

「そうでしたか。蠍モチーフを探しておられたのですね。では、少々お待ちください」
そう言うと、ルドヴィコは箱から『出雲なんきん』を一つだけ取り出して厨房へ入っていった。そして、十分ほど経って出てきた時には、別の和菓子を手にしていた。

「あ、蠍……」
怜子は、思わずつぶやいた。『出雲なんきん』は透明度の高い求肥で包んでいたが、蠍の方はマットでどっしりとした練り切りだ。鋏と尾が躍り、今にも動き出しそうだ。

「一般には、あまり売れるモチーフではないですが、せっかく特注でいらしたのですから」
そうルドヴィコがいうと、大和氏は楽しそうに笑った。

「ああ、これは素晴らしい。松江中を探した蠍をこんな形で手に入れられるなんて。ありがとうございます。彼がどう反応するか楽しみです」
「どうぞ素敵なお誕生日を、とお伝えください」

 大和氏は、礼を言って代金を払うと、大事に『出雲なんきん』と『蠍』の入った箱を抱えて帰って行った。

「ルド公。ありがとうな。お前さん、機転が利くな」
「ありがとうございます、社長。蠍は朱一色ですし、形もさほど難しくなかったので」
「イタリア人っていうのは、大人になっても誕生日を盛大に祝うものなのか」

 ルドヴィコは、節夫ににっこりと笑いかけた。
「誕生日は、習慣になっているから祝うものではありませんよ」

 節夫は、わからない、という顔をした。ルドヴィコは、ニコニコしていた。
「義務や形式じゃないんです。その人のことを氣にかけている、誕生日も忘れていない、これからも仲良くしていきたい、その想いの表れなんです」

「そうか。どうも、そういうのは慣れなくてな。いつも一緒にいる相手だと、余計やりにくいんだよな」
「ストレートな表現は、一般的な日本人男性よりも一般的なイタリア人男性の方が得意かもしれません。そういう形がよりよいとは言いませんが、行動に出すと想いは伝わりやすいと思います」

 節夫は「そうか」と言って、何か考えていたが、閉店時間になると早々に帰って行った。普段のように店の若い連中を飲みに誘うこともなく。

* * *


「ただいま、帰った」
玄関の扉を開けると、節夫は少し大きな声で言った。奥の台所から妻の柚子が出てきた。

「お帰りなさい、どうしたの、こんなに早いなんて珍しい」
「まあな」
そう言うと、下げていたショッパーを持ち上げて渡した。

「あら、なあに?」
「そ、その、夕方、今日が誕生日で祝うっていうお客さんが来たんだ。それでちょっと思い出して」

 柚子がのぞき込むと、小さめのホールケーキが入っていた。和菓子屋の社長夫人として、ほとんど口には出さないが、柚子はチョコレートケーキが好きなのだ。節夫が買ってきたのは、チョコレートスポンジに、ガナッシュクリームを挟み、更にダークチョコレートでコーティングしたチョコレート尽くしのケーキだった。

「まあ。よく憶えていてくださったわね」
「誕生日だってことか」
「ええ。それに、ここのチョコレートケーキが好きなことも」
「まあな。お前は、あれが好きとか、これが欲しいとか滅多に言わないから、憶えやすいさ」
「他の女性と違って」

 きつい一刺しも忘れない。節夫は、思ったが口には出さなかった。さそり座の女は一人ではないのだ。

 柚子は、チョコレートケーキを冷蔵庫にしまい、手早く節夫の晩酌の用意をすると一緒に座った。彼女の態度は、まだ若干冷ややかだが、絶対に許さないと思っているならば、こんな風に一緒に座ってくれることはないだろう。

 四十年近い結婚生活、節夫は浮氣が発覚する度に謝り、関係を修復してきた。彼女は、どんなに怒り狂っていても「石倉六角堂」の営業に支障が出るような騒ぎを起こしたことはない。妻としてだけでなく、共同経営者として節夫にとって柚子以上の存在がいないことは、二人ともよくわかっているのだ。

 柚子は、しばらくするとチョコレートケーキをテーブルに運び、紅茶を淹れた。
「せっかくですもの。いただきましょう」
「おう」

 節夫は、ティーカップに口をつけた。ふと、柚子の視線を感じて「ん?」と訊いた。彼女は、楽しそうに笑って、『さそり座の女』の一節を口ずさんだ。
「紅茶がさめるわ さあどうぞ それには毒など入れないわ」

 むせそうになったが、節夫はなんとか飲み込んだ。まいったな。ご機嫌を直してもらう方法を、もう少しルド公に習わなくっちゃな。


(初出:2018年11月 書き下ろし)
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【小説】September rain

今日は「十二ヶ月の情景」九月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

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今日の小説は、山西先さんのリクエストにお応えして書きました。いやはや、難しいリクエストでした。

コラボの希望は「ヤキダマ」そして「コハク」です。ずうずうしくも2人ですがお許しください。
一応サキの了解は取っています。面白そうだからいいか、とのことでした。
リアルコハクは知りませんが、まぁ良いでしょう。
別々の作品のキャラですが、ヤキダマは現実世界にも設定がありますし、コハクは現実世界のキャラです。
2人共建築関係の仕事ですし、まだそんなに偉くはなってないようですが、世界を舞台に活躍している様子です。
年齢はヤキダマが少し上くらいでしょうか?

そしてテーマは「9月の雨」でお願いします。
私の年代ですと太田裕美ですね。

コラボ相手は完全にお任せです。


少し補足しますが、先さんは、既に発表した『春は出発のとき』のリクエストをくださったサキさんと二人三脚でブログを運営なさっています。サキさんと先さんはのお二人で左紀さんなんですけれど、リクエストをいただいた「コハク」や「ヤキダマ」というキャラクターとお話そのものを考えられたのはサキさんです。ですから、「了解を取った」ということなのでしょうが、かといって、私が今後の作品に差し支えるような重大な設定を作るわけにはいかないのは、他のコラボと同様です。

そして、建築士の「コハク」は、たしか『物書きエスの気まぐれプロット』シリーズのエスの友達ではなくて、その作品に出てくるキャラクターだったはず。(つまり左紀さんのブログには、サキさんの友達の「リアルコハク」、エスの友達の「コハク」、それにエスの作品のキャラ「コハク」と少なくとも三人の「コハク」が登場)、一方、「ヤキダマ」は『シスカ』と同じ架空世界に住んでいるのですが、私の所のキャラクターたちとのコラボや、『オリキャラのオフ会』では、現代の日本(やイタリア)に普通にいるという設定もあります。

そういうわけで、今回は、強引に『物書きエスの気まぐれプロット6』の中の『コハクの街』に出てくるコハク(シバガキ・コハク、漢字不明)と、『いつかまた・・・(オリキャラオフ会)』に出てくるヤキダマ(本名・三厩幸樹)が、「建築系の大学で知り合っていた友人だった」という強引な設定のもと、話を作りました。たぶん、サキさんの逆鱗に触れる設定ではないと思いたい……です。まずかったらおっしゃってください。


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September rain

 三厩幸樹みんまや こうき は、もと来た道を戻ることにした。これから友人を訪ねる予定なので、時間がたっぷりあるというわけではなかったのだが、先ほど見かけた光景をそのままにして置いたらずっと後悔するように思ったのだ。

 彼は迷った時に、こう考えるのが常だ。彼の妻にこの話をして、その判断に賛成してもらえるだろうかと。彼女に胸を張って報告できないようなことはしたくない。

 通り過ぎた角を二つほど戻ると、その女性はまだ同じ場所にいた。スーパーマーケットの入り口の近く、歩道に出ているので自動ドアが開くことはないが、庇に覆われることもない場所だ。冷たい雨が降りしきる中、手に持った傘を広げもせずに佇んでいる。

 よけいなお世話かもしれないけれど、でも、この後、自動車道に飛び込まれたりしたら困る。近づいてよく見ると、泣いているわけではないようだ。二十代後半だろうか、白いリネンのブラウスに、焦げ茶のタイトスカート。落ち着いた服装だが、個性にも乏しい。他の通行人が誰も立ち止まらないのは、その存在が大きく主張してこないからかもしれない。

 彼は、その場に数秒立って、声をかけるべきか思案した。濡れたまま、空を見上げるように立っていた女性は、それでも視界に入った彼の存在に氣がついたようで、彼の顔を見て不思議そうな顔をした。
「何か……」

 彼は、傘を差し掛けた。
「あ。いや、どうなさったのかと……。傘はお持ちのようなのに、濡れたまま立っていらしたので……」

 彼の指摘で初めて降雨に氣付いたかのごとく、彼女は「あ」と言ってから自分の傘を広げた。
「私ったら、ぼんやりして」
「あ、いや、何でもないならいいです……すみません」

 その女性は、少し慌てた。
「いいえ。その……氣にかけていただき、ありがとうございました。実を言うと、考え事、いえ、昔のつらかったことを思い出していました」

 彼は、返答に困ったが、歩いている方向がどうやら同じで、会話を打ち切るのは難しかった。
「そういうことは、ありますよね。でも、今日みたいに冷たい雨に濡れると、風邪をひきますよ」

「九月の雨は冷たくて……」
彼女は、小さな声で歌を口ずさんだ。
「?」

「あ、何でもないです。昭和の歌謡曲……だからご存じないですよね」
「ええと、聴いたことはありますよ。太田裕美でしたっけ。でも、あなたもこの歌がヒットした時に聴いた世代じゃないですよね」
彼が訊くと、寂しげな笑顔が返ってきた。

「大学生の時に、お付き合いしていた男性が教えてくれたんです。お父さんが大ファンだったそうで、家でカラオケをする時に、お母さんが歌わされるんだって、九月になるとよく口ずさんでいました」

「それで憶えてしまったんですね」
「ええ。その時は、昔の曲だな、歌詞も前時代的な価値観の、いかにも昭和な言葉選びだなって、彼と笑い合っていたんですけれど……」

「けれど?」
「その彼と、別れることになったのは九月でした。冷たい雨の中、濡れながら家に帰ったんです。歩きながらあの曲の歌詞を思い出して、涙が止まりませんでした。辛さから逃げるために東京に出て、別の仕事をして、少しは自立して、がむしゃらに働いて……。もう、忘れたと思っていました。でも、先ほど、ああ、九月の雨だって思い出したら、急に胸がいっぱいになってしまって」

「どんな歌詞でしたっけ」
彼は、間抜けな質問だと思いながらも、口にした。彼との個人的な思い出の方は、これ以上訊きづらかったから。

「失恋の歌です。かつては幸せだったのに、相手の心が離れてしまったのを感じながら、九月の雨に濡れている。昔から、秋って別れのシーズンだったんでしょうね」

 角まで歩くと、彼女は小さな惣菜屋を示した。
「私は、ここで。ご心配いただき、ありがとうございました」

「お買い物ですか」
彼が訊くと、彼女は首を振った。
「いいえ。ここに勤めているんです。素朴なものばかりですが、結構美味しいですよ。機会があったら寄ってくださいね」

 彼女は、お辞儀をして去って行った。傘を畳む後ろ姿は、柔らかかった。

 店にやってきて惣菜を購入していく客たちは、彼女の人生について思いを馳せることはないだろう。彼もまた、彼女が東京でどんな生活を送り、なぜ戻ってきたのか、そして、この街でかつて起きた恋と別れについて、何も具体的なことは知らない。

 彼が、過去も含めて全てを包み込みたいと願ったのは、結婚したばかりの妻だ。彼は、愛する人のつらい過去を変えることは出来ないが、日々の生活の中で笑顔と喜びを共有することは出来る。そして、これから起こりうるどんな困難にも共に立ち向かい、持てる全ての力で守っていきたいと思っている。

 今、わずかに言葉を交わした女性もまた、様々な思い出を抱え、人生の続きを家族や友人たちと歩いて行くのだろう。九月の雨に、いずれもっといい思い出ができるといいが。彼は、そんなことを考えつつ、先を急いだ。

* * *


「シバガキさん、チェックをお願いします」
涼二は、CADで作成した設計図を設計士の所に持っていった。若々しい彼女は、彼よりも年下に見えるが、この設計事務所の中ではすでにベテランの一人だ。下の名前は、なんだったか宝石みたいな綺麗なやつだったな……ああ、そうだ、コハク。

 ショートカットの髪をわずかに傾けながら、彼女は涼二の作成した図面をチェックしている。彼は、間違いが見つからないといいなと考えながら、彼女の向こう側の窓をぼんやりと眺めた。

 雨が降っている。ちくしょう。また予報が外れた。どうして傘を持っていない日に限って降るんだろう。
 
「あら。降ってきたわね。帰るまでに止むかしら」
彼女は、身震いすると窓の所へ行って閉めた。
「ずいぶん涼しくなったわよね。どちらかというと寒いくらい。九月って、もう秋の始まりなのよね」

 彼女の言葉に、涼二はそう言えば、九月の雨だったかと改めて思った。
「September rain rain……」

「ちょっと。小林君、なんなのよ、突然」
彼女は、涼二の突然の鼻歌に、目を丸くしている。

「すみません。つい、思い出してしまって」
「なんの歌?」
「あ。昔のヒット曲です」
「……くわしいのね。カラオケ?」

「ええ、まあ。家で、親父とお袋が喜んで歌っているのを見て育ちまして。もっとも、それを思い出したわけじゃないんですけれど」
「じゃあ、何を思いだしたのよ」

 涼二は、口を一文字に閉じて視線を落とした。彼女は、急いで付け加えた。
「あら。イヤなら言わなくてもいいのよ」

「あ、そういうわけではないです。……今まで、意識していなかったけれど、ずいぶんダメージを受けていたんだなと、今ようやく認識したんです」
「え?」

 涼二は、窓に背を向けて立った。窓には冷たい雨が伝わって落ちる。部屋の中には水滴は入ってきていないが、彼の背中には冷たさが流れているようだった。

「大学の時つきあっていた彼女がいたんです。彼女は短大で二年早く社会に出て、僕は甘えた学生だったな。今なら平日の夜中に突然呼び出したりしたら迷惑だってわかるけれど、あの時の僕は、配慮が足りなかったと思います。いろいろなことがすれ違って、それがいわゆる性格の不一致ってやつだと、思っていました」

 彼女はデスクに頬杖をついて聴いていた。
「それで?」

 彼は肩をすくめた。
「つまらない喧嘩をしたんです。二股をかけていると疑われて、カッとなって、売り言葉に買い言葉でした。しばらくしたら、謝ってくるだろう、くらいに思っていたんですけれど、それきりになってしまい、共通の知人から彼女が東京に転職してしまったと聞かされました。急に、周りの地面がなくなって、崖に一人で立っているようで。でも、その後は日常に戻って、けっこう上手くやっているつもりだったんです」

「もしかして、今でも引きずっているの?」
「どうでしょうね。あれから、何人かの女性と付き合い始めるくらいはしているんですけれど、全然続かないのは、もしかして、あの別れのせいかな。あの喧嘩も、こういう冷たい雨の日だったなあ。まさに『九月の雨』だ」

「そのお知り合いに訊いて、連絡してみれば。また付き合うとかそういうのでなくても、ほら、お互いに伝えられなかった言葉を、今なら上手に表現できて、その結果、苦い過去がいい思い出になるかもしれないし」

 明快な人だな。涼二は思った。
「そうできたらいいんですけれど、東京のどこにいるか、あいつも知らないんじゃないかな。彼女のご両親は、この街にいるから、いずれまた遭うことがあるかもしれませんが……。すみません、こんな話してしまって。図面を見ていただいているのに」

「いいのよ。どっちにしても、もうじき人が来る予定で、この図面のことは明日の朝話そうと思っていたし」
「そうですか。 お客さんですか?」
「いいえ、違うわ。同業者ってとこかな。大学時代に知り合ったの。彼は、大学院まで行って、今はK市の建築事務所で活躍しているのよ。今日、駅前に仕事で来るって聞いたので、久しぶりだからついでに寄ってねって言ってあったの。あ……来た!」

 彼女は立ち上がっで、窓の外を眺めた。涼二の知らない男性がこちらに向かってきた。
「小林君、悪いけれどエントランス、開けてくれる?」
時間外なので自動ドアはもう開かない。彼は、急いで入り口に向かった。

 入ってきた男性と、簡単な挨拶を交わした後、彼女は彼に涼二を紹介した。
「幸樹、こちらはうちの新人で小林涼二君。建築士目指して私たちの通った大学の夜間部に通っているの。小林君、こちらは、三厩幸樹さん。とても優秀な建築士よ」

 涼二は、「はじめまして」と手を伸ばしながら見上げた。柔和な顔立ちをした背の高い男性だ。

 彼女が三人分のコーヒーとクッキーを用意する間に、涼二は図面を片付けて、ミーティングの机に幸樹を案内した。先日彼女が手がけた音楽堂に入ったと熱心に話をする幸樹の専門的な見解に、涼二はなるほどと、目からうろこが落ちる思いで耳を傾けた。

 コーヒーが空になる頃、彼女は提案した。
「ねえ、小林君とこの後軽く飲みつつ、二級建築士試験についてのアドバイスをする予定なんだけれど、よかったら幸樹もどう? 空調設備や防災設備など、設備工学のことは、私よりも幸樹のほうがずっと精通しているし……」
と、言いかけてから、彼女ははっとして慌てて訊いた。
「あ、幸樹、新婚だったね。急いで帰らないと、可愛い奥様が心配する?」

 すると、幸樹は笑って言った。
「いや、『今日はコハクに会う』と言ったら『よろしく伝えてね。ゆっくりしてきて』と言われたよ。彼女も、北海道で知り合った友達と再会するとかで遅いらしいし」
涼二は、幸樹の話をもっと訊きたいと思っていたので、とても嬉しかった。

 場所を移した先は、駅ビルのスペイン料理屋だった。
「私ね。ちょうど今の小林君みたいに、建築事務所で働きながら資格試験の準備をしていた時に、自分の適性について悩んだことがあってね。それで、衝動的にスペインへ行ったことがあるの。それ以来、スペイン料理が大好きになっちゃったの。タパスは少しずつたくさん頼めてお酒のおつまみにいいし」

「へえ。シバガキさんが……。意外ですね」
彼女は、いつも颯爽としていて、迷いなどないタイプなのかと思っていた。

 自分に建築家としてやっていく才能があるか、涼二は不安に思う時があった。一度は諦めて普通の就職をした後で、もう一度夢に向かっての再チャレンジだ。年齢のこともあり、将来に不安がないと言ったら嘘になる。でも、その不安が自分だけのものではないと思うことは、大きな励みになる。

 彼女はいくつかのタパスを注文し、ベネデスの白ワインを、男性陣はビールの方が得意なので、セルベッサを頼んだ。

 チーズのオリーブオイル漬けや、スペイン風オムレツ、タコと青唐辛子のピンチョスなどが運ばれてきた。ウェイターの一瞬の戸惑いを察知した幸樹が黙って皿を動かして、テーブルに空間を作った。

 彼女はそれを涼二に示して言った。
「この人、こういう氣遣いが本当に上手なのよね。奥さんのサヤカさんも、感心していたわよ」

「え。彼女が、コハクにそんなことを?」
幸樹は、驚いた。

「彼女もあいかわらずなのね。とても感謝しているって、本人にはほとんど言わないんでしょう? 幸樹の奥さんってね、口数が少ないから、知らない人から見ると、ぶっきらぼうにも見えるんだけれど、とても繊細な感性を持った素敵な女性なのよ。ね、幸樹」
「ええ。まあ」

 涼二は、照れる幸樹を意外に思いつつ見ていた。新婚か。そりゃ、幸せだろうなあ。その途端、不意に自分のことを思い出して俯いた。あの時、彼女と別れていなければ、もしかしたら自分も今ごろは、こんな顔をしていたのかもしれないと。……参ったな。

「あ。小林君が暗くなっちゃった」
「シバガキさん、さっきの話のせいですよ。あ、いや、自分で話したんだから、自分のせいか……」
「九月の雨のせいでしょう」

「九月の雨?」
幸樹が妙な顔をした。

「そうなんです。さっき、シバガキさんに、昔、九月の雨の日に別れてしまった話をしていたんですよ」
涼二は、肩をすくめた。

「えっ……」
幸樹は、二度瞬きをして涼二を見た。

「どうしたの?」
彼女が訊くと、幸樹は、少し間を空けてから答えた。
「あ、いや。ここに来る前に、偶然会った人のことを、考えていたんだ」

「どんな人?」
彼女が訊くと、幸樹はまずセルベッサのグラスを空けた。そして、二人の顔を見てから、口を開いた。
「太田裕美の『九月の雨』って曲、知っているかい?」

(初出:2018年9月 書き下ろし)

※2019年11月25日 サキさんのご要望に従い、ヤキダマとコハクのお互いの呼び方を訂正しました。
※2019年11月26日 サキさんのご要望に従い、コハクからのコトリの呼び方を訂正しました。
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Posted by 八少女 夕

【小説】コンビニでスイカを

今日は「十二ヶ月の情景」八月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、けいさんのリクエストにお応えして書きました。

リクエスト月は8月でお願いします。
内容は、うちのキャラを適当に使って、一つ情景を描いていただけたら嬉しいです。


一番乗りでいただいたリクエストです。けいさんのところのキャラは、皆さん素敵なので悩みましたが、今まで一度もコラボしたことのない方にしようと、あれこれ探してみました。

けいさんの「怒涛の一週間」シリーズの三作目に当たる「セカンドチャンス」から、お二方にご登場願いました。実質コラボしていただいたのは、とある高校生(作品中ではまだ中学生でした)です。本編の中では、主人公の親友とその教え子という形で印象的に登場した二人ですけれど、もしかしたらいずれはこの二人が主役の作品が発表されるかも? 以前、ちらりと候補に挙がっていると記事を書いていらっしゃいましたよね。そんなお話も読みたいなーと願って、この二人にコラボをお願いすることにしました。あ、それに、舞台設定のために、もう一方も……。

けいさん、好き勝手書いちゃいましたが、すみません! 


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コンビニでスイカを

 私には、行きつけの店がある。……といっても、コンビニエンスストアだけれど。都心に近いのに緑の多い一角、道路の向こうの街路樹を眺める窓際の飲食コーナーの一番端に座るのが好き。

 オレンジジュースを買ってきて、問題集を広げる。クラスの女の子たちは、シアトル発の例のファーストフードに行っているけれど、なんとかラテを毎日飲んでいたら、私のお小遣いは一週間で尽きてしまう。話の合わないクラスメートに交じって居たたまれなく座ることに対する代償としては高すぎる。だから協調性がないって言われるのかな。

 冷たいオレンジジュース。風にそよぐ街路樹の青葉を眺めてぼーっとしていたら、知っている男性が窓の外を通っていった。私が通う塾の先生。すぐ後ろからついていくのは、青木先輩。去年までおなじ中学に通っていた有名人だ。

 少なくとも夏休みの前までは、彼は私のクラスの女の子たちの憧れの存在だった。背が高くて、スポーツマン。陸上部のエースだった。都大会で、100メートルと幅跳びで優勝。大会新記録と都中学新記録を同時に達成。関東大会と全国大会出場も決まっていた。高校のスポーツ推薦も決まっていたとか。

 でも、新学期になったらに、彼の起こした事件のことでみんなが大騒ぎしていた。どこかのコンビニで万引きをして捕まったって。部活はすぐに引退との名目で辞めさせられて、推薦も取り消されたらしい。

 それから、クラスの子たちの態度は180度変わった。以前はキャーキャー言っていたのに、今度はヒソヒソと眉をひそめて噂するようになった。当の青木先輩は、最初は少し背を丸くして、下を見ながら歩いていたけれど、二学期も後半になるとまたちゃんと前を向いて歩くようになった。

 その理由を、私はなんとなく知っている。先ほど、彼の前を歩いていた塾の先生。私の担当じゃないから、確かじゃないけれど、名前は確か阿部先生。私は、このウィンドウから二人が行ったり来たりするのを何度も見た。最初は先生が先輩を引っ張るようにして歩いていた。それから先輩はうなだれるようにして、その次には妙に嬉しそうについていった。

 学校でみんながヒソヒソ噂することや、受験しなくてはいけなくなったことは、先輩にとってとても大きなストレスだったと思う。きっとあの先生がいたから乗り越えられたのだろう。もっとも、のんびりそんなことを想像している場合ではないのよね。一年後の今、受験に立ち向かっているのはこっちだし。

 私は、推薦で一足先に高校入学を決められるほど成績はよくない。もちろんスポーツ推薦はあり得ない。運動音痴だし。目指している学校は、私にとっては背伸びもしているけれど、近所のおばさんたちを感心させるほどの難関校というわけでもない。

 オレンジジュースを飲みながら、私は問題集を解いた。なんのために受験をするのかな。義務教育は今年で終わる。みんな当たり前のように高校に行く。それに、成績がよかったら大学にも行くのだろう。お母さんは「頑張らないといい大学には入れないわよ」って言うけれど、まず高校に入らないと。

 高校に行ったら、何か楽しいことがあるのかな。それとも今みたいに、クラスメートたちに嫌われないように適度な距離を取りながら、いるのかいないのかわからない存在でありつづけるのかな。透明人間みたい。

 あれ、青木先輩が戻ってきた。なんだろう。

 自動ドアが開いて、先輩は入ってきた。もちろん私には氣付かない。っていうか、多分、先輩は私を知らない。

「要。どうしたんだ」
レジの所にいる店長が先輩に声をかけた。えー? 名前を呼び捨てって、身内なのかな。

「ちょっとね。先生ん家に寄ることになってさ。先生の友達も久しぶりに来るんだって。だから、なんか一緒に食えるもん買いに来た。アイスかな。それとも……」
「ここから先生のお宅までは少しあるだろう。溶けるぞ」
「そうだよねー」

 店長は、冷蔵ケースの方へ行きカットスイカを持ち上げた。
「これはどうだ。冷えているし、すぐに食べられる」
「いいね。えっと、398円か。二つ……小銭足りるかな」
「俺が払おう。息子がお世話になっているんだ」
「だめだよ。これは俺から先生への差し入れだもん。俺が買うの」

 先輩はレジでスイカのパックを二つ支払った。律儀なんだなあ。私は、首を伸ばしてそちらを見た。あ、スイカ、本当に美味しそう。途端に、青木先輩と目が合った。

「あれ」
「なんだ、要。知っている子か」
「うん。中学の一学年下の子だと思う。たしか塾も同じだったはず」」

 わ。先輩が、私の顔を知っていた。私は、ぺこりと頭を下げた。

「よう。勉強しているんだ。偉いね」
私は、先輩の近くまで歩いて行った。

「七時から塾なんです。まだ早いから」
「帰らないの?」
「家に帰ると、とんぼ返りしなくてはいけないし、うち、飲食店で夕方から親が忙しいし」

 店長が笑った。
「うちと同じだな、要」

 私は先輩に訊いた。
「店長さん、先輩の……?」
「うん。親父」

「わ。知りませんでした。すみません。山下由美です」
「いや、こちらこそ、まいどありがとうございます」

 一杯のジュースで一時間も粘る客って、ダメな常連客じゃないかなあ。私は少し赤くなる。
「私も、その美味しそうなスイカ買います」

 青木先輩が、ポケットからまた財布を取り出した。
「じゃ、それも俺がご馳走するよ」
「そ、そんな。悪いです」

「大丈夫だって。こんなに暑いのに、頑張って勉強しているんだろう。俺、去年、懲りたもん。暑いとぼーっとなって、もともとバカなのにもっと問題を間違えてさ。阿部先生にいつもの倍ヒントもらわないと解けなかった」

「でも、先輩、ちゃんと受験に成功して高校に行けたじゃないですか。私は頑張らないと。A判定出たことないし」
「俺だって、A判定も一度も出なかったよ」

 そうか、それでも受かる時には受かるのね。諦めずに頑張ろう。

 私は、先輩におごってもらったスイカのパックを開けて勧めた。店長がフォークを二つつけてくれた。先輩は、パックを私のいつも座る席まで持ってきてくれて隣に座り、嬉しそうに食べた。「おっ。甘い!」

「ごちそうさまです」
そう言って私も食べた。本当だ。甘い。

「スイカ食べたの、本当に久しぶり」
私はしみじみと味わいながら言った。先輩は驚いたようにこちらを見た。
「ええつ。何で? 夏って言えばスイカじゃん?」

「大きいから自分では買わないし、普段は、うちに帰っても一緒に食べる人いないし。あと、種を取るのが面倒くさいから、お母さんに買ってって頼んだことなかったんですよ」

 青木先輩は笑った。
「確かに面倒だけれどさ。種のないスイカって、なんだか物足りないよ」
言われてみると、本当だな。種を取ったり、ちょっと甘みの足りないところにがっかりしながら食べるのがスイカ。そうやって食べると、甘いところがより美味しくなるみたい。

 ってことは、何もせずに簡単に高校に行けるより、受験で苦労して入るほうがいいのかなあ。

「先輩。高校って楽しいですか」
私の唐突な質問に、先輩は首を傾げた。
「楽しいって言うのかなあ。前とそんなに変わらない。君は中学、楽しい?」

「全然。登校拒否したいと言うほど嫌じゃないんですけれど、あまり合わない同級生たちに嫌われないようにばかみたいに氣を遣っているんですよね。勉強もスポーツも得意じゃないから、学ぶ意味とか、達成感もあまりないし。こんなこというの贅沢かもしれないけれど」

「そうだなあ」
先輩は、よく知らない私の愚痴に、真剣に答えを探しているみたい。変なこと言って、まずかったかな。

「去年の夏休み、俺のやったこと、聞いているだろ」
えっと……。万引きの件かな? 今度は私が返答に困った。
「あまり詳しくは、知りません。推薦がダメになったって話は聞きましたけれど」

「そ。万引きの手口を研究して、できそうだから試してみたら捕まっちゃったんだ。自分のバカさ加減に呆れて、何もかも嫌になって死にたいって思ったよ」
「先輩が?」

「うん。でも、阿部先生が止めてくれて、セカンドチャンスをくれたんだ。俺に、どんなバカでもやり直しできるってわかるようにサポートしてくれたんだ。それに、そうやって先生に助けてもらいながら頑張っているうちに、うちの親だって、俺のことを要らないから放置していたんじゃないってなんとなくわかったし、こんな自分でも生きていれば何かの役に立てるかもしれないって思えるようになったんだ」

 私は、頬杖ついて、先輩の話に聞き入っていた。
「そうだったんですか」

 先輩は、大きく頷いて笑った。明るくて素敵な笑顔。
「うん。だから、メチャクチャ勉強して、今の高校に入った。正直言って、高校で学ぶことが何の役に立つのか、よくわからないし、すげー親友ってのともまだ出会えていないけれどさ。でも……」

「でも?」
「阿倍先生にとても仲のいい友達がいるんだ。本当に羨ましくなるくらいの親友。今日も来るんだよ。その人と先生、大学で知り合ったんだって。もし先生が高校に行っていなかったら、大学にも行けなかったし、そうしたら親友とも出会えなかったってことだろう? 出会いなんてどこにあるかもわからないし、未来のこともわからない。でも、今を頑張らないと、きっと未来のいいことはどっかにいってしまうんだ。そう思えば、なんだかなあって思う受験も頑張れるんじゃない?」

 そうか。いま頑張ったご褒美、ずっと後にもらえることもあるのかな。

「あ。スイカ、なくなっちゃった! ごめん」
青木先輩が、空になったパックを見て叫んだ。あ、本当にあっという間に食べちゃった。

「ごちそうさまでした。美味しかったです」
そろそろ塾に行かなくてはいけない時間だ。私は、問題集を鞄にしまって立ち上がった。
「お。行くのか。俺も、そろそろ行かなくちゃ。また今度な」

 店長の「またお越しください」という感じのいい挨拶に送られて、私は先輩と一緒にコンビニを出た。先輩は、阿部先生のお宅へと向かうので、角で別れた。頭を下げて見送ると、ビールやジュースやおつまみと一緒にスイカのパックの入った袋が嬉しそうに揺れている。

 先輩の言ったことを、じっくりと噛みしめた。数学も、英語も、今後何の役に立つのかなんてわからない。私が高校に行って、意味があるのかも。楽しいことやいいことが、どこで待っているのかわからないし、ただのクラスメイトじゃなくて、本当の意味での親友といえる人とどこで会えるのかも知らない。

 だからこそ、今やれることを一生懸命やるのが大事。うん。頑張ろう。先輩の高校、共学だったよね。志望校、今から変えたら先生に何か言われるかな。


(初出:2018年8月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -13- ミモザ

今日は「十二ヶ月の情景」七月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、limeさんのリクエストにお応えして書きました。

舞台は、バッカス。あの面々が出演。
そして、話のどこかに「水色ネコ」を混ぜてください^^
私のあのキャラじゃなくても構いません。単に、毛色が水色の猫だったらOK。
絵だったりアニメだったり、夢だったり幻だったりw


というご要望だったのですが、水色ネコと言ったら、私の中ではあのlimeさんの「水色ネコ」なんですよ。やはりコラボしたいじゃないですか。とはいえ、お酒飲んじゃだめな年齢! っていうか、それ以前の問題もあって、コラボは超難しい!

というわけで、実際にコラボしていただいたのは、その水色ネコくんと同居しているあのお方にしました。それでも、「耳」の問題があったんですけれど、それはなんとか無理矢理ごまかさせていただきました。大手町に、猫耳の男性来たら、ちょっと騒ぎになると思ったので(笑)

limeさんの「水色ネコ」は、あちらの常連の皆様はすぐにわかると思いますが、初めての方は、待ち受け画面の脳内イメージは、これですよー。こちらへ。私が作中で「待ち受け画面」にイメージしていたイラストです。


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「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -13- ミモザ

 その客は、少し不思議な雰囲氣を醸し出していた。深緑の麻シャツをすっきりと着こなし、背筋を伸ばし綺麗な歩き方をする。折り目正しい立ち居振る舞いなので、育ちのいい人なのだと思われるが、ワッチキャップを目深に被っていて、それを取ろうとしなかった。柔らかそうな黒い前髪と後ろから見えている髪はサラサラしているし、そもそもこの時季にキャップをつけているのは暑いだろう。ワッチキャップはやはり麻混の涼しそうなものだから、季節を考慮して用意したものだろう。きっと何か理由があるのだ、たとえば手術後の医療用途といった……。

 夏木は、カウンターの奥、彼が一番馴染んだ席で、新しい客を観察していた。店主の田中は、いつものようにごく自然に「いらっしゃいませ」と言った。

 今晩は、カウンターにあまり空きがなく、夏木は言われる前に隣に置いた鞄を除けた。田中は、申し訳なさそうに眼で合図してから、その客に席を勧めた。

「ありがとうございます」
若々しい青年だった。

 その向こう側には、幾人かの常連が座っていて、手元の冊子をみながら俳句の季語について話をしていた。
「ビールや、ラムネってところまでは、言われれば、そりゃ夏の季語だなってわかるよ。でも、ほら、ここにある『ねむの花』なんていわれても、ピンとこなくてさ」
「ねむって植物か?」
「たぶんな。花って言うからには」

 タンブラーを磨いて棚に戻しながら田中は微笑んだ。
「ピンクのインクを含ませた白い刷毛のような花を咲かせるんですよ」

「へえ。田中さん、物知りだね」
「じゃあさ、この、芭蕉布ってのはなんだい?」

「さあ、それは……」
田中が首を傾げるとワッチキャップを被った青年が穏やかに答えた。
「バナナの仲間である芭蕉の繊維で作る布で、沖縄や奄美大島の名産品です」

 一同が青年に尊敬の眼差しを向けた。彼は少しはにかんで付け加えた。
「僕は、時々、和装をするので知っていただけです。涼しくて夏向けの生地なんです」

「へえ。和装ですか。風流ですね」
夏木が言うと、彼は黙って肩をすくめた。

「どうぞ」
田中が、おしぼりとメニューを手渡し、フランスパンを軽くトーストしてトマトやバジルを載せたブルスケッタを置いた。

 青年は、メニューを開けてしばらく眺めたが、困ったように夏木の方を見て訊いた。
「僕は、あまりこういうお店に来たことがなくて。どんなカクテルが美味しいんでしょうか」

 夏木は苦笑いして、『ノン・アルコール』と書かれたページを示して答えた。
「僕は、ここ専門なんで、普通のカクテルに関してはそちらの田中さんに相談した方がいいかもしれません」

 彼は、頷いた。
「僕も、飲める方とは言えませんね。あまり強くなくてバーの初心者でもある客へのおすすめはありますか」

 田中は、にっこりと笑った。
「そうですね。苦手な味、例えば甘いものは好まないとか、苦みが強いのは嫌いだとか、おっしゃっていただけますか」

「そうですね。甘いものは嫌いではないのですが、ベタベタするほど甘いものよりは、爽やかな方がいいかな。何か、先ほど話に出ていた夏の季語にちなんだドリンクはありますか?」
緑のシャツを着た青年はいたずらっ子のように微笑んだ。

 田中は頷いた。
「ミモザというカクテルがあります。そういえばミモザも七月の季語ですね。カクテルとしてはオレンジジュースとシャンパンを半々で割った飲み物です。正式には『シャンパーニュ・ア・ロランジュ』というのですが、ミモザの花に色合いが似ているので、こちらの名前の方が有名です」

「おお、それは美味しそうですね。お願いします」

 ポンっという音をさせて開けた緑色の瓶から、黄金のシャンパンがフルート型のグラスに注がれる。幾千もの小さな泡が忙しく駆け回り、カウンターの光を反射して輝いた。田中は、絞りたてのカリフォルニア・オレンジのジュースをゆっくりと注ぎ、優しくステアしてオレンジスライスを飾って差し出した。

「へえ、綺麗なカクテルがあるんだねぇ」
俳句について話していた常連の一人が首を伸ばしてのぞき込んだ。

「面白いことに、本来ミモザというのはさきほど話題に出たねむの木のようなオジギソウ科の花を指す言葉だったのが、いつの間にか全く違う黄色い花を指すようになったようなんですよ。その話を聞くと、このカクテル自体もいつの間にか名前が変わったことを想起してしまいます」

「へえ、面白いね。俺も次はそれをもらおうかな」
もう一人も言った。田中は、彼にもミモザを作り、それから羨ましそうにしていた夏木にも、ノン・アルコールのスパークリングワインを使って作った。

 待っている間に、緑のシャツの青年が「失礼」と言って腰からスマートフォンを取り出した。どうやら誰かからメッセージが入ったようだ。礼儀正しく画面から眼をそらそうとした時に、待ち受け画面が眼に入ってしまった。

 水色のつなぎを着た、とても可愛い少年が身丈の半分ほどある雄鶏を抱えていた。瞳がくりくりとしていて、とても嬉しそうにこちらをのぞき込んでいる。つなぎは頭までフードですっぽりと覆うタイプなのだが、ぴょこんと耳の部分が立っていてまるで子猫のようだ。夏木は思わず微笑んだ。

 青年と目が合ってしまい、夏木は素直に謝った。
「すみません。見まいとしたんですけれど、あまりに可愛かったので、つい」

 そういうと青年はとても嬉しそうに笑った。
「いや、構いませんよ。可愛いでしょう。いたずらっ子なんですけれど、つい何でも許してしまうんです。最近メッセージを送る方法を覚えまして、時々こうして出先に連絡してくるんです」

 そういうと、また「失礼」といってから、メッセージに急いで返信した。
「一人で留守番させているんですけれど、寂しいのかな。急いで帰らないと、またいたずらするかな」

「オジギソウとミモザみたいに、混同されている植物って、まだありそうだよな」
青年の向こう側で俳句の話をしていた二人は、田中とその話題を続けていた。

「この本には月見草と待宵草も、同じマツヨイグサ属だけど、似ているので混同されるって書いてあるぞ。どちらも七月の季語だ」

「どんな花だっけ」
「ほら、ここに写真がある。なんでもない草だなあ」
「一重の花なんだな。まさに野の花だ。白いのが月見草で、待宵草は黄色いんだな。そういえば、昔そういう歌がなかったっけ」

「待~てど、暮らせ~ど、来~ぬ人を……」
「ああ、それそれ。あれ? 宵待草じゃないか」

 田中が、笑って続けた。
「竹久夢二の詩ですね。語感がいいので、あえて宵待草にしたそうですが、植物の名前としては待宵草が正しいのだそうですよ」

 その歌は、夏木も知っていた。
「待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ 今宵は月も 出ぬそうな」

 日暮れを待ちかねたように咲き始め、一晩ではかなく散る待宵草を、ひと夏のはかない恋をした自分に重ね合わせて作った詩だとか。

 夏木は、隣の青年がそわそわしだしたのを感じた。彼は、スマートフォンの待ち受け画面の少年を見ていた。にっこりと笑っているのに、瞳が悲しげにきらめいているように感じた。

 青年は、残りのミモザ、待宵草の色をしたカクテルを一氣に煽った。それから、田中に会計を頼むと、急いで荷物をまとめて出て行った。帰ってきた青年を、あの少年は大喜びで迎えるに違いない。

 待っている人が家にいるのっていいなあと、夏木は思いながら、もう一杯ノン・アルコールのミモザを注文した。

ミモザ(Mimosa)
標準的なレシピ
シャンパン : 1
オレンジジュース:1

作成方法: フルート型のシャンパン・グラスにシャンパンを注ぎ、オレンジ・ジュースで満たして、軽くステアする。



(初出:2018年7月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 100000Hit コラボ キリ番リクエスト 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】夏至の夜

今日は「十二ヶ月の情景」六月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 6、7月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。いただいたテーマは「夏至」です。(明日が夏至ですから、なんとしてでも今日発表したかったのです)

そして、【奇跡を売る店】シリーズで素敵な短編小説を書いてくださいました。


彩洋さんの書いてくださった 「【奇跡を売る店・短編】あの夏至の日、君と

コラボは、ここに出てくる登場人物の誰か、でいいでしょうか。このシリーズ、元々がパロディなので、適当にキャラを崩壊させていただいても何の問題もありません。如何様にも料理してくださいませ。
そして、舞台は、私がまだ見ぬ巨石・ストーンヘンジがいいかなぁ。あるいは夜のない北欧の夏至でも。


というご要望だったのですが、この中の誰かって、皆さん日本にいるし、ヨーロッパの夏至にいた方たちのうちお一人は、もうコラボできないし、結構悩みました。

それで、コラボしているような、全くしていないようなそんな話になりました。さらにいうと、ストーンヘンジは絡んでいますがメインではありません。キャラクターも読み切り用でおそらくもう二度と出てこないはず。若干「痛たたたた」といういたたまれない状況に立っています。「そうは問屋が卸さない」って感じでしょうか。

ちなみにリトアニア辺りだと、夏至でもまだ夜はあるようです。私の辺りで日没は21時半ぐらいですが、リガだと22時半ぐらいのよう。その短い夜に一瞬だけ咲くと言われる、生物学的には存在しない花。これが今回の小道具です。


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夏至の夜

 風が牧場の草をかき分けて遠くへと渡っていった。川から続く広い通りは、聖なるサークルへの最後の導きだ。ここまで来るのに三年の月日が経っていた。これほどかかったのは誤算だったが、なによりも長くつらい旅を乗り越えられたことに感謝しなくてはならないだろう。

 彼は、遠く常に雪に覆われた険しい山脈の麓からやってきた。この地に伝わる「癒やす石」の力を譲り受け、同じ道を帰らねばならない。主は彼の帰りを待ちながら、苦しい日々を過ごしているはずだ。もちろん、まだ彼が生きていれば。それを知る術はない。

 なんと長い一日だ。彼の故郷でもこの時期の日は長い。だが、この北の土地ではゆっくりと眠る暇もないほどに、夜が短くなる。通りを歩く旅人の姿が多い。みなこの日にここへ来ようと、集まってくるのであろう。聖なるサークルへと向かい、夜を徹して祈り、不思議な力を持った朝の光がサークルを通して現れるのを待つのだ。夏至祭りだ。

 彼は、サークルへ向かう巡礼者たちの間に、奇妙な姿を見た。純白の布を被った小柄な女だ。どのような技法であの布をあれほどに白くしたのだろう。布はつややかで柔らかそうだった。風にはためき時折身につけている装身具が現れた。紫水晶のネックレスと黄金の耳飾り。

 視線を感じたのか、女は振り向き彼を見た。浅黒い肌に大きな黒い瞳、謎めいた笑みをこちらに向けた。

* * *


 奈津子は反応に困っていることを顔に出さないようにするのに苦労した。目の前にいるのが中学生だったなら、「これが中二病か」と納得して面白かったかもしれない。また、妙齢の大人だったら、一種の尊敬心すら湧いてきたかもしれない。もし、自分の身内だったら「何言っているの」と一蹴することもできた。

 けれど、目の前で憂鬱そうな様子で先史時代のストーンヘンジの話をしているのは、基本的には自分とは縁もゆかりもない、二十歳も年下の日本人男性だった。そして、非常にまずいことに、妙にいい男だった。

 奈津子がこの青年と二人で旅することになった原因を作ったのは甥だ。それも唯一氣が合い、コンタクトを持ち続けてくれる可愛い身内だ。そもそも奈津子は甥の順と一緒にこの旅行をするつもりで休暇を取った。計画の途中で、「友人を連れて行ってもいいか」と訊かれたので「もちろんいいわよ」と答えた。甥が出発前日に「会社存続を左右する顧客への対応で、どうしても休暇を返上しなくてはならなくなった」とキャンセルしてきたので、初対面の若い青年とこうして旅をしているというわけだ。

 甥がわざわざこの青年を旅に誘った理由は、間もなくわかった。

 スイスに住む奈津子は、宗教行事の影に隠れた民俗信仰を訪ねることをライフワークにしていて、これまでも色々な祭りを見てきた。スペイン・アンダルシアのセマナサンタ、ファリャの火祭り、フランスのサン・マリ・ド・ラ・メールの黒い聖女サラを巡るジプシーの祭り、ヨーロッパ各地の個性豊かなカーニバル、チューリヒのゼックス・ロイテン、エンガディン地方のカランダ・マルツ。

 豊穣の女神マイアの祭りに起源があると言われる五月祭とその前夜のヴァルプルギスの夜や、太陽信仰と深い関係のある夏至や六月二十四日の聖ヨハネの祝日は、ヨーロッパ各地で様々な祭りがあり、奈津子にとって休みを取ることの多い時期だ。有名なイギリスのストーンヘンジの夏至のイベントも若い頃に体験していて、そのことを甥に話したこともある。甥の順とは、去年一緒にノルウェーの夏至祭を回った。

 今年の順との旅では、リトアニアの夏至祭を訪ねることにしていた。

 この時期のリガのホテルはとても高いだけでなく、かなり前からでも予約が取れないため、奈津子は車で五十分ほど郊外にある小さな宿を予約してあった。今日の午後、早く着いた奈津子が既にホテルにチェックインを済ませた。それから空港に一人でやってきた古森達也を迎えに行った。別の部屋とは言え、見知らぬ年上の女と一週間も過ごすことになって、さぞかし逃げ出したい心地になっているだろうと思っていたのだが、達也は礼儀正しい好青年でそんな態度は全く見せなかった。

 レンタカーでホテルに向かい始めてから、助手席に座った達也はどうしてこの旅に同行したいと順に頼んだのかを語り始めた。長年彼を悩ませている夢。夏至を祝うためにストーンヘンジに向かい、謎の女に出会うという一連のストーリーの繰り返し。それも、おそらく先史時代のようだった。

 そんな話を真剣に語られて、奈津子は戸惑った。

 そもそもストーンヘンジには、痛々しい思い出があった。二十年以上前のことだ。まだ、大学を卒業して間もなく、また、自分自身でも何を探していたのかよくわからなかった頃、奈津子も熱に浮かされたようにパワースポットといわれる場所を巡っていた。そして、夏至のストーンヘンジへ行ったのだ。

 太陽と過去の叡智が引き起こす自然現象を待つ巨石遺構は、エンターテーメントを求める人々で興ざめするほどごった返していた。そもそも、こうした祭りには一人で参加するものではない。一人でいると周りの盛り上がりにはついて行けず、楽しみも半減していた。

 当時はまだ今ほど外国語でのコミュニケーションに慣れていなかったので、奈津子は一週間近くまともな会話をしていなかった。そんな時に、明らかに日本人とわかる二人の壮年男性らを見かけて、もしかしたら会話に混ぜてもらえないかと近くまで寄っていったのだ。ヒールストーンの彼方から太陽が昇ったその騒ぎに乗じて、その二人に話しかけるつもりだった。

 だが、それは非常にまずいタイミングだった。奈津子は、一人の男性がもう一人に対して愛の告白をするのを耳にしてしまったのだ。いくら人恋しいからといって、このなんとも氣まずい中を平然と話しかけられるほど奈津子は人生に慣れていなかった。今から思えば、そこでふざけて話しかければあの二人のギクシャクした空氣の流れを変えられたのかもしれないが。

 あの時と違って、奈津子はいい年をしたおばちゃんになった。スイスで十年間以上一人で暮らし、言葉や度胸でも当時とは比べものにならない。そして、可愛い美青年が、妙な告白をしても、なんとか戸惑いは表に出さずに、会話を続けることもできた。

「だとしたら……どうしてストーンヘンジに行かずにここへ来たの?」
奈津子は単刀直入に訊いた。

 達也は頭をかいてつぶやいた。
「いや、あれは、夢の話ですから。変な話をしてしまって、すいません」

「いいえ、してもいいのよ。でも、どう答えたらいいのか、わからないのよ。それはあなたの前世の記憶だって思ってるの?」
「いや、そんなことは……。あれです、どっかのアニメか映画で観たのかもしれないです」

 奈津子は首を傾げた。
「さあ、知らないわ。あったとしても、私は浦島太郎で、日本のアニメや映画などにはずっと触れていないのよ。もっとも私、夏至のストーンヘンジにはいったことがあるのよ」
「知っています。順がそう言っていました。だから奈津子さんに逢ってみろと」

 一度もストーンヘンジに行ったことがないにしては、達也の話すストーンヘンジの様子は妙に具体的だった。誰でも見たことのある二つの石の上に大きな石で蓋がしてあるような形のトリリトンの話なら、行ったことがない人でも記憶に留めているかもしれない。だが、達也はヒールストーンの向こうから昇る朝日のことを口にしていた。

 ヒールストーンは周壁への出入り口のすぐ外側のアヴェニューの内部に立つ形の整えられていない赤い砂岩でできた巨石だ。サークルの中心から見て北東にあり、夏至の日に太陽はヒールストーンのある方向から出て、最初の光線が遺跡の中央に直接当たり、ヒールストーンの影はサークルに至る。

 普段の観光ではあまり話題にならないが、夏至のストーンヘンジでは、主役といってもいい石なのだ。

 それに、最近の学説では、夏至のストーンヘンジの祭りは天文学的な意味合いだけではなく、民俗的な、ヨーロッパの他の夏至祭りとも関連のある意味合いを持つともいわれている。すなわち男女の仲を取り持つ祭りというわけだ。馬蹄形に並べられたトリリトンとその周辺にあるヘンジは女性器を表すと考えられ、もともとは脇に小ぶりな岩が二つ置かれていたと考えられるヒールストーンの影が夏至にその遺跡に届くことが、性的な象徴として祝われていたというものだ。

「ヨーロッパの各地の夏至祭りでは、いわゆるメイポールのような柱を立てて、その周りで踊ったり、たき火を飛び越えたりして祝う習慣があるのね。そして、この日に将来の結婚相手を占う、あまりキリスト教的ではない呪いが、主に北ヨーロッパで行われているの。多くが縁結び的な役割を担っているのよね」

「大昔のストーンヘンジでも、そういう役割を担っていたということなんですか」
達也は真面目に訊いた。奈津子は肩をすくめた。
「なんとも言えないわ。そうかもしれないし、違うかもしれない。ブルーストーンに癒やしの力があった信じられていたというのも、推測に過ぎないし、ヒールストーンの影に性的な意味合いがあるというのも、勘ぐりすぎなのかもしれないし。現在の各地の夏至祭に縁結び的な側面があるというのは事実だけれど」

 薬草を摘み、三つ叉になったポールを囲み祝う。朝露を浴びる。そうした呪いの後、夢の中に未来の夫が現れるといった縁結び的信仰が共通してみられるのだ。

 とはいえ、奈津子には夏至祭りに縁結びの力があるとは思えなかった。なんせ二十年以上、何かとこの祭りに行っているのに、一向に御利益がないからだ。たまにいい男と一緒かと思えば、ここまで年下だと、期待するのも馬鹿みたいだ。

「夢の中に……ですか」
「枕の下にセイヨウオトギリソウを置いて眠ると、未来の夫が夢に現れるというような信仰ね」
「なるほど」
「この辺りでは、シダに夏至の夜にしか咲かない赤い花が咲くので、それを見つけて持ち帰るといいという言い伝えもあるのよ」
生物学的にはナンセンスだと言われている。そもそ胞子で増えるシダに花は咲かないから。

「なんですって?」
達也が大きな声を出した。奈津子はぎょっとした。

「どうしたのよ」
「いや、シダの赤い花っておっしゃったから」
「言ったけれど?」
「さっき、日没の直後くらいに見たように思ったんです」

 奈津子は車を停めた。今夜は、夏至祭りではない。祭りは大抵どこも聖ヨハネ祭である二十四日かその前夜である二十三日に行われるからだ。つまり、二日ほどゆっくりと観光をしてから祭りに行く予定だった。が、よく考えれば今夜こそが本来の夏至だ。そこで赤いシダの花を見たなどと言われては聞き捨てならない。

「どこで?」
「さきほど通った林ですよ。ここは一本道だから。このまま戻ったら見られると思いますけれど」

 馬鹿馬鹿しいと、このまま走り抜けてもよかったのだが、好奇心が勝った。それに、夏至らしい思い出になるではないか。無駄足だとしても、少しくらい戻っても問題はないだろう。ホテルはすぐそこだ。奈津子は素直に車をUターンさせた。

 その林は、さほど時間もかからずに、たどり着くことができた。十一時を過ぎてすでに暮れていて、どこにシダが群生しているのか見つけるのにもう少しかかった。けれど、最終的に車のライトが茂みをはっきりと映し出した。

「ほら、あそこに」
それは、本当に花と言えるのか、それともまだ開いていない葉が赤く見えているのか、奈津子には判断できなかった。けれども、それが花に見えるというのは本当だった。

「本当だわ。まるで花みたいね」

 赤い花を咲かせるシダを見つけたら、深紅の絹でそっと包み、決して立ち止まらずに家まで持ち帰らなくてはならない。そして、道を尋ねる旅人に出会っても、決して答えてはいけない。それはただの旅人ではないのだ……。奈津子は、赤いシダ花の伝説を思い出して身震いした。

 達也は、車から降りると、黙ってシダに手を伸ばした。奈津子は、心臓の鼓動が彼に聞こえるのではないかと怖れた。奇妙な組み合わせとは言え、夏至の夜に未婚の男女が、存在しないはずの伝説の植物を手にしようとしている。それは、常識や社会通念というものを超えて、何かを動かす力を持つのかもしれない。ストーンヘンジで、道ならぬ恋心を打ち明けたあの男が、もしかしたらこのような夏至の魔法に促されたように。

 達也は、シダを手折ると、奈津子には目もくれずに林の奥へと歩き出した。人里離れた林の奥を目指しているようだ。声を出してはならない。そう思う氣持ちとは逆に、どこかで冷静で現実的なもう一人の奈津子が「戻さないとまずい」と訴えていた。

 と、視界の奥に、見るべきでないものが入ってきた。白いマントのようなもので全身を覆った人。小柄だからおそらく女だろう。二十一世紀には全くふさわしくないドルイド僧のようなその姿に、奈津子は焦った。彫りの深い顔立ち、黄金の耳飾りと、紫水晶のネックレス。つい先ほど彼が描写したままの謎の女の姿。

 あれこそ、決して答えてはならない危険な旅人ではないのだろうか。達也は、ずっとその人物と無言で見つめ合っていた。どれほどの時間が経ったのかわからない。しびれを切らした奈津子は禁忌を破り、声をかけた。
「達也君。そっちへ行ってはダメよ。さあ、ここから離れて、ホテルに行きましょう」

 達也は、ビクッとしてこちらを振り向いた。奈津子は、手にしていたシダを全て手放させると、袖を引っ張るようにして、彼を歩かせ車に乗せた。彼は何度か振り向きつつも、やはり理性の命じるままに助手席に乗った。そのままホテルにつくまで、奈津子が何を訊いても全く口をきかず、ずっと考え込んでいた。

 翌朝、約束の朝食の席に降りてきた奈津子は、達也が伝言メモを残して消えてしまったのを知った。

 慌てて日本の順にメールを送ると、彼にもメールが入っていたそうだ。急に予定を変えることになり、一足先に帰国することになった。お詫びを順からも伝えて欲しいと。ホテルのフロント係によると、朝一番でチェックアウトしたらしい。隣には、異国風の女性が一緒にいたということだった。

へい、奈津っち。

ぶったまげたよ。達也がまさかいきなり国際結婚するとか、ありえなくね? つーか、俺が何度訪ねていっても、奈津っち一度だって女の子紹介してくれたことないのに、なんで達也にはそんなサービスするんだよ。てか、人の世話していないで、自分の相手は?

それにしてもすげー美人を連れてきたって、仲間内でも大騒ぎだぜ。この間ダメになった休暇の代わりに改めて休みをもらったので、冬休みには、そっち行くから、その時に話そうな。 順


 別に私がくっつけたわけじゃないわよ。甥からのメールを見ながら、奈津子はひどい疲れを感じた。あちこちを蹴飛ばしたい氣分だった。心配して損した。前世がどうのこうの、ストーンヘンジがなんとかかんとかいうから、夏至の揺らぎが見せる魔界に取り込まれたんじゃないかって、どっちが中二病かわからない不安を持っちゃったじゃない。

 彼はきっと、あの女性がどうしているのか氣になって、またあの林に行ったのだろう。そして、そのまま意氣投合して二人で旅することにしたのだろう。

 男女の仲を取り持つと言われる不思議な夜。確かに、ある種の人々には効果絶大らしい。たまたま自分だけそうでないからと言って、迷信扱いするのは間違っているのかもしれない。いや、語り部というのは、その手の恩恵は手にすることができないということなのか。

 奈津子は大きなため息を一つつくと、この件はもう忘れようと思った。そして、「冬に来るならクリスマスマーケットに付き合え」という趣旨のメールを、唯一なついてくれる甥っ子に書いた。


(初出:2018年6月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】キノコの問題

今日は「十二ヶ月の情景」五月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

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今日の小説は、canariaさんのリクエストにお応えして書きました。

テーマはずばり「マッテオ&セレスティンin千年森」です!

情景は森(千年森)で、ギリギリクリアかな?

キーワードと小物として
「セレスティンの金の腕時計」
「幻のキノコ」
「健康食品」
「アマゾンの奥地」
「猫パンチ」
希望です。

時代というか時系列は、マッテオ様たちの世界の現代軸でお願いしたいと思っています。
コラボキャラクターはクルルー&レフィナでお願いいたします。


「千年森」というのはcanariaさんの作品「千年相姦」に出てくる異世界の森、クルルーとレフィナはその主人公とヒロインです。

一方、マッテオ&セレスティンは、私の「ニューヨークの異邦人たち」シリーズ(現在連載中の「郷愁の丘」を含む)で出てくるサブキャラたちです。「郷愁の丘」の広いジョルジアの兄であるマッテオは、ウルトラ浮ついた女誑しセレブで、その秘書セレスティンはその上司には目もくれずいい男と付き合おうと頑張るけれど、かなりのダメンズ・ウォーカー。このドタバタコンビをcanariaさんの世界観に遊びに来させよという、かなり難しいご注文でした。

これだけ限定された内容なので、ものすごくひねった話は書けなかったのですけれど、まあ、そういうお遊びだと思ってお読みください。コラボって、楽しいなってことで。canariaさん、なんか、すみません……。



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【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」





「ニューヨークの異邦人たち」・番外編
キノコの問題


 覆い被さり、囲い込み、食べ尽くして吸収してしまうかと思うほど、深く濃い緑が印象的な森だった。鳥の羽ばたきと、虫の鳴き声、そしてどこにあるのかわからないせせらぎの水音が騒がしく感じられる。道のようなものはあるはずもなかった。ありきたりの神経の持ち主ならば、己が『招かれざる客』であることを謙虚に受け止め、回れ右をして命のあるうちに大人しくもと来た道を戻るはずだ。だが、今その『千年森』を進んでいる二人は、ありきたりの神経を持ち合わせていなかった。

「それで、あとどのくらいこの道を進めばいいんでしょうか」
若干機嫌の悪そうな声は女のものだ。都会派を自認する彼女は、おろしたての濃紺スウェード地のハイヒールを履いていて、一歩一歩進むたびに苛ついていると明確に知らせるトーンを交えてきたが、彼女の前を進んでいるその上司は、全くダメージを受けていないようだった。

「なに、もうそんなに遠くないはずだ。こんなに森も深くなったことだし、【幻のキノコ】がじゃんじゃん生えていそうじゃないか」
そう言って彼は振り返り、有名な『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』を見せたが、『アメリカで最も商才のある十人の実業家』に何度も選出された男としては、かなり無駄な行為だった。エリート男と結婚したがっている何十万人もいるニューヨーク在住の独身女のうちで、セレスティン・ウェーリーほど『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』に動かされない女はいないからだ。

「それはつまり、あなたは根拠も何もなく、こんな未開の森を進んでいると理解してもいいんでしょうか」
「そうさ、シリウス星のごとく熱く冷たいセレ。まさか誰もまだ知らない【幻のキノコ】の生えている場所が、カラー写真と解説つきの地図として出版されていたり、GPS位置情報として公開されているなんて思っていないだろうね」

 ヘルサンジェル社は、CEOであるマッテオが一代で大きくした。主力商品は健康食品で、広告に起用されたマッテオの妹であるスーパーモデル、アレッサンドラ・ダンジェロの完璧な容姿の宣伝効果でダイエット食品の売り上げはアメリカ一を誇る。社のベストセラー商品はいくらでもあるが、新たな商品開発はこうした企業の宿命だ。とはいえ、あるかどうかもわからないキノコを社長みずからが探すというのは珍しい。

 セレスティンは深いため息をついた。
「もうひとつだけ質問してもいいでしょうか」
「いいとも、知りたがりの綺麗なお嬢さん」

「あなた自らが、その【幻のキノコ】を探索なさるのは勝手ですけれど、どうして社長秘書に過ぎない私までが同行しないといけないのでしょうか。この靴、おろしたてのセルジオ・ロッシなんですよ!」

「まあまあ。世界一有能な秘書殿のためなら、五番街のセルジオ・ロッシをまるごと買い占めるからさ。ところで、今日の取引先とのランチで君が自分で言った台詞を憶えているかい?」
「もちろんですわ。とても美味しい松坂和牛でしたけれど、あんなに食べたら二キロは太ってしまいます。週末はジムで運動しなくちゃいけない、そう申し上げました」

「ここを歩くとジムなんかで退屈な運動をするよりもずっとカロリーを消費するよ。湿度が高いってことはサウナ効果も期待できるしね。それに、【幻のキノコ】は、カロリーを消費中の女性のオーラに反応して色を変えるそうだ。つまりこの緑一色の中で見つけやすくなるってことだ。ウインウインだろう?」

 セレスティンは、カロリーを消費する運動やサウナでのウェルネスに、テーラードジャケットとタイトスカートが向いていないことを上司に思い出させようと骨を折った。が、マッテオはそうした細部については意に介さなかった。
『とにかく今日この森に来られたことだけでもとてつもなく幸運なんだ。そうじゃなかったらアマゾンの奥地まで行かなきゃいけないところだったんだぜ」

「なぜですの?」
「『千年森』に至るルートは、いくつか伝説があってね。一番確実なのがブラジルとボリビアの国境近くにある原生林らしいんだが、あそこには七メートルくらいある古代ナマケモノの仲間が生存しているという噂があってさ。追われたらハイヒールで逃げるのは大変だろう?」

「それはその通りですわ。でも、カナダとの国境近くの町外れの廃墟がボリビアと繋がっている森への入り口になるなんてあり得ませんわ」
「あり得ないもへったくれも、僕たちは今まさにそこにいるんだ。まあ、堅いことを言わずに、ちょっとしたデートのつもりで行こうよ、大海原色の瞳を持つお嬢さん」

「いつも申し上げている通り、まっぴらごめんです。そもそも、今日はちゃんとしたデートの予定があったのに……ハーバード大卒で銀行頭取の息子なんですよ。ああ、連絡したいのにここ圏外じゃないですか」
「まあ、なんと言っても『千年森』だからね。安心したまえ。今日のが不発に終わっても、今後ハーバード大卒で頭取の息子である独身者と知り合う確率は……チャートにして説明した方がいいかい?」
「けっこうです!」

 ブリオーニのビスポークスーツにゴールドがかった絹茶のネクタイを締めた男とマーガレット・ハウエルのテーラードジャケットを来た女が森の奥深く【幻のキノコ】を探しているだけでも妙だが、話題もどう考えてもその場にふさわしいとは思えなかった。

 その侵入者の会話に耳を傾けつつ、物陰から辛抱強く観察している影があった。それは黒髪を持った美貌の少年で、二人のうちのどちらが彼の存在に氣付いてくれて、悲鳴を上げた瞬間に颯爽と飛びかかろうとひたすら待っていた。

 だが、都会生活が長く野生の勘のすっかり退化してしまったニンゲンどもは、いつまで経っても彼に氣付かなかった。それどころか、めちゃくちゃに歩き回っているにもかかわらず、どうやら最短距離で彼の大切な養い親のいるエリアに到達してしまいそうだった。

「お。見てみろよ。あの木陰、なんだか激しく蠢いているぞ」
マッテオが示した先を、セレスティンは真面目に見ていなかった。大切なハイヒールのかかとが何かぬるっとしたものを踏んだようなのだ。

「マッテオ。この森はどこを見ても木陰だらけで、蠢いているなんて珍しくもなんともありませんわ、それよりも……」
「でも、ほら。女神フレイヤの金髪を持つお嬢さん、木陰は珍しくなくても、木々と一緒に女性が蠢いているのはちょっと珍しいよ」

「なんだって!」
背後から叫びながら突然黒い影が飛び出してきたので、今度こそセレスティンとマッテオは驚いた。

「本当だ! レフィーったら! 僕がちょっと目を離すとすぐこれだ。発情の相手なら、この僕がいるって言うのに!」

 マッテオは、セレスティンに向かって訊いた。
「あれは、誰かな。男の子のようにも見えたけれど、猫耳みたいなものと、尻尾が見えたような……」

 セレスティンは、目をぱちくりさせて言った。
「猫耳に尻尾ですって。マッテオ、あなた頭がどうかなさったんじゃないですか。それよりも、いつから私たちの後ろにいたのかしら。やはり危険いっぱいじゃないですか、この森。これ以上、こんなところに居て、私のおろしたてのハイヒールに何かあったら困るわ。何か変なものを踏んじゃったみたいだし……」

 ところが、そのハイヒールの惨状に98パーセント以上の責任があるはずの彼女の上司は、その訴えをまるで聴いていなかった。
「ひゅー。こいつは、滅多に見ない別嬪さんだ」

 返事が期待したものと全く違ったので、真意を確認したくて顔を上げると、マッテオが意味したことがわかった。先ほど森と一緒に蠢いているとマッテオが指摘した誰かが、黒髪の少年に木陰から引きずり出されていた。深い緑の襤褸がはだけていて、白い肌や白銀に輝く髪が露わになっていた。あら、確かに、珍しいほどの美女だわ。いつも綺麗どころ囲まれているマッテオでも驚くでしょうね。

 マッテオは、美女を見たら口説くのが義務だとでもいうように、ずんずんと二人の元に歩いて行って、アメリカ合衆国ではかなり価値があると一般に思われている『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』をフルスロットルで繰り出した。

「こんにちは、麗しい森の精霊さん。この深くて神秘的な森には、人知れず永劫の時間を紡ぐ至宝が隠されているはずだと私の魂は訴えていたのですよ。美こそが神の叡智であり、すべてに勝る善なのですから、私があなたを崇拝し、その美しさを褒め称えることを許してくださいますよね」

 何やら揉めていたようだった森色の襤褸を着た美女と黒髪の少年は、この場の空氣を全く読まない男の登場にあっけにとられて黙った。相手に困惑されたくらいで、大人しく引き下がるような精神構造を持たないマッテオは、構わずに続けた。

「怪しいものではありません。僕は、マッテオ・ダンジェロといいます。アメリカ人です。この森で国籍というものが何らかの意味を持つなら、ですけれど。少なくとも佳人に恋い焦がれる心に国境はありません。あなたも、この森のように幾重にも巡らされた天鵞絨の天幕の後ろに引きこもっていてはなりません。どのような深林も恋の情熱の前では無力なのですから。あなたの名前を教えてくださいませんか。私が心から捧げる詩を口ずさめるように」

「てめぇ、何を馴れ馴れしく!」
黒髪の少年が我に返って敵意を剥き出しにした。襤褸を着た美女は、その少年をたしなめた。

「クルルー。客人にそのような口をきいてはならぬ」
「でも、レフィー。聖域であるこの森で神聖なあなたを口説くのがどんなに罰当たりか思い知らせないと」

「さっき、発情の相手がどうのこうのって自分でも言っていたのに」
セレスティンが、小さくツッコんだ。
「なんだとぉ」

 少年は、セレスティンの元に飛んできた。おや、こちらも美形だったわ。セレスティンは驚いた。緑色の宝石のような切れ長の瞳に、漆黒ではなくて所々トラのような模様の入った不思議な髪。綺麗だけれど、危険な匂いがプンプンするタイプの美少年だ。ツンとしていれば、いくらでも女が寄ってきそうだが、どういうわけか今の少年は取り乱して怒っていた。

 手元を素早く前後に動かして、こちらを小突いてくる。この動作は、ええと、ほら、あれ……猫パンチ。うわー、ありえない。美少年がやっちゃダメな動作でしょう。
「ちょっと、やめてよ。何取り乱しているの」
「レフィーの前で余計なこと、言うなよ」
「あのね。そうやって取り乱すと、知られたくないことがバレバレになるのよ。わかってるの?」

 二人がこそこそと会話を交わしている間、マッテオはさらに美女に愛の言葉の攻勢をかけていた。
「あんた、あいつを止めなくていいのか。目の前で他の女を口説くなんて、とんでもない恋人だな」
少年が怒っている。

「おあいにく様。あの人は、私の上司で、恋人じゃないの。それよりも、目下の問題は、私のハイヒール……。何を踏んじゃったのかしら」

 セレスティンが、足下を見ると、どういうわけかそこには真っ赤なキノコがうじゃうじゃと生えていた。しかも、怪しい蛍光色の水玉が沢山ついていて、それが点滅しているのだ。
「やだっ、何これ!」

 美女にクルルーと呼ばれた美少年は肩をすくめた。
「ああ、そのキノコね。ニンゲンの女に先の尖った靴で踏まれると増殖を始めるんだよね。ああ、こんなに増えちゃって面倒なことに……。レフィー、ちょっと! お取り込み中のところ悪いけれど、緊急事態みたいだよ」

 マッテオの口説き文句を半ば呆れて、半ば楽しむように聴いていた美女はこちらを振り向いた。そして、セレスティンとクルルーの周りにどんどん増殖している赤いキノコを見て、慌ててこちらに走ってきた。
「なんだ。おい! 何をやっているんだ」

 マッテオは、そのキノコを見て大喜びだった。
「なんてことだ。これこそ僕たちの求めていた【幻のキノコ】だよ! セレ、でかした!」

 だが、襤褸を着た美女の方は厳しい顔をした。
「何が【幻のキノコ】だ。これを増やすことも、持ち出すことも許さんぞ。やっかいなことになるからな。クルルー、その二人を森の外へ連れて行け。私はそのキノコの増殖を止めねばならぬ」

 クルルーが、ものすごい力を発揮してキノコで真っ赤になったエリアからマッテオとセレスティンを引き離すと、美女はそこへ立ち、続けて森の緑が同調するようにその場所に覆い被さった。そこで、美女が何をやっているのかはわからなかった。クルルー少年に引きずられて二人は森の端まで連れて行かれたからだ。

「これだからニンゲンをこの森に入れるのは反対なんだ。カナダ側にも巨大ナマケモノを配置しないとダメなんだろうか」
そういうと、少年は二人をドンと突き飛ばした。

 一瞬、世界がぐらりと歪んだかと思うと、二人の目の前から美少年クルルーと『千年森』は消えていた。それどころか、彼らが通ってきたはずのカナダとの国境近くの町から400マイル近く離れているマンハッタンのカフェに座っていた。

「え?」
騒がしかった鳥のざわめきの代わりに、忙しく注文をとるウェイターと客たちのやり取りが聞こえ、心を洗うようなせせらぎの代わりに、趣味の悪い電飾で飾られた噴水の調子の悪い水音が響いた。

「なんてことだ。ここまで飛ばされてしまったか。やるな。さすがは『千年森の主』だ」
マッテオは、残念そうに辺りを見回した。セレスティンは、まず手始めに自分の服装がまともな状態に戻っているかを確認したが、残念ながら汗だくでボロボロの様相は、『千年森』にいたときと変わっていなかった。

 でも、ニューヨークに戻ってくるまでの時間を短縮できたんだから、急いで家にもどれはデートまでに着替える時間があるかも! 彼女はお氣に入りの金の腕時計を眺めた。ギリギリ! でも、今すぐ行けば間に合うはず。

「セレ。君のハイヒールに、例のキノコ、ついていないかい?」
諦めきれないマッテオが訊いた。彼女は、大事なハイヒールにキノコがついていたら大変と見たが、『千年森の主』が何らかの魔法で取り除いたのか、あの赤いキノコは綺麗さっぱり消え失せていた。

 それに、あのクルルー少年の言葉によると、ハイヒールに近づけると、あのキノコはとんでもなく増殖してしまうはず。ついていなくて本当によかったってところかしら。

「残念ながら、ついていないみたいですわ、マッテオ。申し訳ないんですけれど、もうアフターファイブですし、私、失礼します。今から急げば、デートに間に合いますので」
そう言いながら、颯爽と立ち上がった。

「OK。楽しんでおいで。今日の残業分、明日はゆっくり出社するといい。やれやれ、僕は氣分直しにジョルジアを訪ねてご飯を作ってもらおうかな」

 セレスティンは、にっこりと微笑みながら立ち去った。途中でもう一度時間を確認するために金時計を見た。

 あら。この時計の文字盤、ルビーなんてついていたのかしら。

 この時計は、なくして困り果てていたところ、マッテオが見つけてくれて、さらに素晴らしい高級時計に変身させてくれたものだ。だから、見慣れていた前の安っぽい時計だった時についていなかったものがあっても不思議ではない。でも、確か、今朝はついていなかったと思うんだけれど。

 立ち止まってもう一度サファイアガラスの中の文字盤をよく見た。ルビーがキラリと光った。蛍光色みたいな色で。しかも動いているような。

 これ、ルビーじゃないわ。さっきのキノコ。この中に入り込んでしまったのかしら。

 セレスティンは先ほどの趣味の悪い噴水前のカフェに戻ろうとした。マッテオに見せないと。だが、どうもカフェが見つからないし、マッテオもいない。ううん、今から電話して戻ってきてもらってこれを見せるとなると、時間を食っちゃう。せっかくの頭取の息子とのデートが……。

 彼女は、そのやっかいなキノコは金時計に閉じ込めたまま、明日まで何も言わないことにした。どう考えても、今夜この時計がハイヒールで踏まれるような事態は起こらないはずだし、明日の朝に氣がついたことにしても問題ないと思う。

 彼女は、キノコの問題はとりあえず忘れることにして、今夜ハーバード大卒の男を逃さないために、彼の前でいかに頭の足りない金髪女の演技をすべきか、綿密にプランを練りだした。

(初出:2018年5月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】復活祭は生まれた街で

今日は「十二ヶ月の情景」四月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。先月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。まだリクエスト枠が二つ残っていますので、まだの方でご希望があればこちらからぞうぞ。

月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、GTさんのリクエストにお応えして書きました。ご希望は『夜のサーカス』の関連作品です。

『夜のサーカス』は、当ブログで2012年より連載した作品です。イタリアの架空のサーカス「チルクス・ノッテ」を舞台に個性的なメンバーの人間模様を描いた小説で、2014年に好評のうちに完結しました。話の中心になったのはブランコ乗りの少女ステラと謎の道化師ヨナタンです。GTさんは、この作品をお氣に召して、今回のリクエストでも選んでくださいました。

あまり奇をてらわずに、GTさんのお氣に入りのヒロイン・ステラを前面に出したストーリーを考えました。四月のご希望でしたので、復活祭(パスクァ)を題材にしました。妙に食いしん坊小説になっていますが、これは、作者の脳内がこれで詰まっている、という証ですね。




短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



【参考】
小説・夜のサーカス 外伝

「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物




夜のサーカス・外伝
復活祭は生まれた街で


 ついこの間まで、季節外れの雪が降っていたというのに、今日は随分と暖かい。着てきたジャケットが暑くて、脱いで腕に持った。横を歩いている彼がふっと笑った。ヨナタンって、いつも涼しげよね。暑くないのかしら。ステラは首をかしげた。

 教会の鐘が鳴り響いている。久しぶりだけにその音は格別大きかった。一昨日の聖金曜日にステラはヨナタンと一緒に彼女の生まれた町にやってきた。普段は大きな連休の時には興行する団長だが、さすがに聖金曜日から復活祭パスクァ にかけて興行するのは氣が咎めるらしい。あれでも一応カトリック教徒なのだ。さらにいうと、無理に興行して事故でもあったら、縁起担ぎにうるさい団員たちが彼の言うことを聞かなくなる。だから、聖金曜日から復活祭までは、興行を休むのだった。そのかわり、明日の天使の月曜日パスケッタからは再び仕事だ。

 ステラは、例年ならば一人でこの町に帰ってくるのだが、今年はヨナタンを伴った。彼は天涯孤独なので、復活祭でも帰る生家はないのだ。「嫌じゃなかったら、うちに来て復活祭を楽しんで」と誘うと「迷惑でないならぜひ」と言ってくれた。ステラはとても嬉しかった。

 ヨナタンと二人で遠出することは滅多になかった。電車やバスを乗り継ぐ時間、ずっと彼と一緒だった。車窓から指さして懐かしい山や川の名前を教えるのも楽しかったし、乗り換えの話をするのですらわくわくした。

 北イタリアのアペニン山脈の中腹にあるステラの故郷は、年間を通じてとても静かだ。かつてこの地を治めていたあまり裕福でなかった領主が残した城は、小さく観光客も滅多に来ないし、復活祭でも中世を彷彿とさせるパレードなどの大きな祭事はない。ごく普通のミサがあり、その後に家族でご馳走を食べるのだ。

 伝統を守る人たちは、聖金曜日から肉を食べない。教会も鐘を鳴らさずに、イエス・キリストの死を悼み、救世主を死なせてしまった人間の罪の深さを思う。そして、日曜日に主の復活を祝って鐘がなると、ご馳走をたらふく食べて祝うのだ。

 待ちに待った復活祭。何よりも楽しみなのは、ミサの後の午餐だ。その美味しいご馳走を誰にも文句を言わせずに、心ゆくまだ食べるために、いや、良心がとがめるのが嫌なので、ステラは町の人々に交じって復活のミサに預かる。ヨナタンがカトリックかどうかは聞いたことがないけれど、それに、普段は日曜日に教会に行ったりはしないからあまり熱心な信者ではないみたいだが、彼も特に文句は言わずについてきてミサの席に座っていた。

 そして、無事にミサが終わったので、二人はステラの家へと再び向かっているのだ。少し前を母親のマリが歩いている。彼女の経営するバルの常連たちに囲まれ、楽しく話をしながら。
「あの小さかったステラが、サーカスの花型になって帰ってくるとはね」
「しかも、ボーイフレンドを連れてきたよ」

 そんな噂話も聞こえてきて、ステラとヨナタンは顔を見合わせて小さく笑った。ステラの父親は、ずっと昔にいなくなってしまって、ステラはマリが女手一つで育てた。子守もいなかったので、多くの時間をマリのバルで過ごした。だから、常連のおじさんたちはみな親戚のような存在だった。

 そして、このバルの片隅で食事をしていたヨナタンと、六歳だったステラは出会ったのだ。だから、ステラにとってこの町は生まれ故郷というだけでなく、愛する人との運命の出会いの舞台でもあるのだ。彼とまたここにこうして来られたのがとても嬉しい。ああ、なんて素敵な春なのかしら!

 バルでもある家に着くと、常連たちと別れを告げて、マリは急いで中に入った。食事の用意があるから。ステラとヨナタンも、人びとと別れを告げて家に入る。すぐにマリの弟夫妻がやってくるから、食卓をきちんとしておかなくてはならない。ヨナタンも進んで手伝ってくれるので二人でテーブルセッティングをした。

 ステラの生まれた地方は、生ハムの生産で世界的に有名だ。だから、お祝いの食事は前菜には、プロシュットが色づけされた卵と一緒に並ぶ。アーティチョーク、アスパラガスといった春の野菜、復活祭にいつも作るチーズのトルタと一緒に食べる。生ハムを薔薇のように巻いてお皿に飾りつけながら、ステラはヨナタンが子供の頃にくれた運命の赤い薔薇のことを思い出していた。

 賑やかな笑い声と共にジョバンニとその妻のルチアが花を持って登場した。ステラの母親マリとジョバンニは仲のいい姉弟だが、夫妻はローマに住んでいるので会えるのは年に一度かそれ以下だ。愉快なジョバンニは、尋常でなく口数が多い。そしてルチアはいつも笑っている。二人が来るとマリの家には十人客が増えたかのように賑やかになる。ヨナタンが静かすぎるということもあるのだけれど。

 マリは、ヨナタンが用意してきたワインを開けてデキャンタに注いだ。アマローネ・デッラ・ヴァルポリチェッラだ。アマローネは葡萄を半年近く陰干しする特別な製法によって作られ、濃厚な味わいが特徴だ。値段が高く贈答用などに珍重されている。ヨナタンがこのワインを選んだのは、もう一つ理由があった。復活祭に縁が深いワインだからだ。

「『最後の晩餐』でイエス・キリストが飲んでいたのは現代のアマローネみたいなワインだった」ということになっているのだ。

 イエス・キリストが亡くなる前の晩に弟子たちと過ごした『最後の晩餐』は、レオナルド・ダ・ビンチの絵画でも有名だ。

「みな、この杯から飲みなさい。 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」
『マタイ福音書』にそう書かれていることから、キリスト教信者にとって赤ワインは特別の意味を持っている。

 研究によると、当時ローマで飲まれていたワインには、腐敗を防ぎ風味をつけるために、樹木の樹脂や様々のスパイスを加えて作っていたようだ。エルサレムの街の近くで発見されたイエスの時代と近いワインの壺にはスモーク・ワインや非常に暗い色のワインとの記載があった。非常に濃厚で重いタイプのワインが好まれた可能性がある。

 実際に「アマローネ」の歴史は古く、古代ローマ時代に「レチョート・デッラ・ヴァルポリチェッラ」という甘口ワインを作る過程で偶然できた糖分の少ないワインだ。本当に最後の晩餐で飲まれたワインに近い味わいなのかもしれない。

 いずれにしても、普段自宅用にはなかなか手の届かない高級ワインなので、初めて恋人の家を訪れる時のプレゼントとしては悪くないだろう。

 マリの用意した食事は、そのワインに恥じない美味しいものだった。

 プリモ・ピアットはステラの好きなタリアテッレ・アル・ラグー(ミートソース)。パスタのゆで具合に少しうるさいステラ自身がアルデンテに茹であげた。ラグーの香りがほわんと台所に広がり、ステラはテーブルに着くまで食べるのを我慢するのに苦労した。ヨナタンに食い意地が張りすぎていると思われるのが恥ずかしかったので、なんとかつまみ食いはせずに耐えた。

 ジョバンニは、すべての料理について涙を流さんばかりに感動して食べた。ステラは普段、彼の食事を作っているルチアが氣分を害さないか心配になったけれど、彼女は夫が何を言っても、まるでワライダケでも食べさせられたかのように笑っているのだった。

 セコンド・ピアットは仔羊のローストのバルサミコソースがけ。仔羊肉は固くなってしまうと美味しくない。切ったら中身がピンクになっているべきだ。ステラは、まだ上手く仔羊を調理できない。いつか、自分が奥さんになる時までには、上手に焼けるようにしたいと思っていた。

「あーあ、作り方を見ておくの忘れちゃった」
ステラがため息をつくと、ジョバンニが姪の心がけが素晴らしいと褒め称え、どういうわけかルチアがけたたましく笑った。ステラがうつむいているので、ヨナタンがそっと言った。
「チルクス・ノッテに戻ったら、折を見て一緒にダリオに教えてもらおう」

 ダリオは、チルクス・ノッテ専属の料理人だ。毎日とても美味しい食事を作ってくれるだけでなく、団員たちの相談にものってくれる優しい人だ。料理を習うなんて考えたこともなかったけれど、ヨナタンが一緒に習おうと言ってくれたのがとても嬉しくて、ステラもまたルチアのように楽しい心持ちになった。

 デザートは、鳩の形を象ったフルーツの砂糖漬けやレーズンをたっぷりと混ぜ込んだブリオッシュ生地のお菓子コロンバと、チョコレートの卵。この卵は、本当は子供たちがもらうもので、中から小さなおもちゃが出てくる。ステラは、もうおもちゃをほしがる年頃ではないけれど、子供時代へのノスタルジーで、自分で買ってきた。

 アマローネの瓶は空になり、お皿の上も綺麗に何もなくなった。マリとジョバンニとルチアが楽しく笑いながらリビングで語らっている。ステラは申し出て、ヨナタンと一緒に皿を洗った。こうやって二人で何かを作業できるのが嬉しくてたまらない。

“Natale con i tuoi. Pasqua con chi vuoi.”(クリスマスは家族と、復活祭は好きな人と)

 イタリアでは、こんな風に言うけれど、家族も好きな人も全部一緒に楽しめるのって、本当に素敵! ステラは、人生の春を思い切り楽しんだ。

(初出:2018年4月 書き下ろし)
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