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Tag: 読み切り小説 - 新しい順に表示されます。


Posted by 八少女 夕

【小説】傷つけない刀

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第10弾、ラストの作品です。大海彩洋さんは、「学園七不思議シリーズ」の作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『【奇跡の予感・ブルームーン~バッカスからの招待状・返歌~】 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、大和竹流ことジョルジョ・ヴォルテラが『Bacchus』に降臨です。当ブログの150000Hit記念掌編でリクエストにお応えして「学園七不思議シリーズ」の高校生トリオを大手町のバーに放り込むというけしからん作品を書いたのですが、そこで某山猫くんが「けんかして仲直りしたい」と思い悩んでいるというような話を書いてしまったんですね。今回の彩洋さんのお話は、そのアンサー小説でした。

お返しどうしようか悩んだ末、『Bacchus』で書くことは特に何もないなあということで、登場人物が被っている「いつかは寄ってね」で書くことにしました。

彩洋さんのお話や、あの方々には全く関係のない話ですが、いちおう彩洋さんの作品のあるモチーフだけいただいてきました。あとは飲んでいるだけ?


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傷つけない刀
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 つむじ風が道の上の花びらを回しているのを見ながら、すみれは今年の桜も終わったな、とぼんやり思った。毎年、年度初めはバタバタしていていつもの仲間との花見を企画し忘れてしまう。ま、夏木さんたちも忙しいわよね。言い訳のように考えた。

 すみれは、神田駅の行き慣れた地下鉄出口の階段を昇った。今日は第2木曜日。月に1度の『でおにゅそす』の日なのだ。

 久保すみれ、夏木敏也、近藤雅弘の3人は、もともとは大手町のバー『Bacchus』の常連だ。といっても、3人ともアルコールに弱く、ほかの店ではなかなか楽しめないといった方がいい。

 その3人が神田の和風飲み屋に定期的に行くようになったのも『Bacchus』つながりなのだ。『でおにゅそす』は、『Bacchus』で知り合った伊藤涼子の店だ。

 和風の飲み屋に憧れているけれど、なかなか行く機会がないし、1人では入りにくいというすみれにつきあって、夏木と近藤が行くようになり、いつのまにか『Bacchus』が店を閉める第2木曜日は常連がこぞって『でおにゅそす』に行く習慣となった。

 東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと建っている。2坪程度でカウンター席しかないが、開店してから5年ほどの間にそこそこの固定客が付き、暖かい家庭的な雰囲氣で満ちている。

「こんばんは」
すみれは、引き戸を開けてのぞき込んだ。

「いらっしゃいませ、久保さん」
涼子が微笑んで迎える。今日の装いは薄緑に花筏柄の小紋だ。名古屋帯はグレー。落ち着いていて素敵だなあ。すみれは思った。

「今日も、わたしが最初ね」
夏木と近藤は、だいたい7時頃に来ることが多い。もう来慣れたすみれは、2人がくるまで涼子や、この店の常連たちとおしゃべりしながら楽しく待つことができるようになっていた。

 その時、奥の席に座っている男が目に入った。よく座っている常連の西城ではなくて若い男性だ。

 変わった格好だなあ……。すみれは思った。ひと言でいうと紺ベースの和装だ。ただし普通の和装ではない。神田では男性の和装も珍しくないのだが、少なくとも伝統的な和装という感じではない。何が違うんだろう。羽織みたいなのに飾りみたいなのがついていること? モダン? かぶき者? アイドルの衣装で和風テイストを取り入れたものにも似ている。

 あれかな、秋葉原近いから、何かのコスプレかな。

 とはいえ、コスプレとは断言しにくい理由の1つが、その服がいい感じに褪色してしかも擦れた感じなのだ。また、化繊にありがちな光沢がなく、非常に落ち着いた風合い。うーん、謎。

 カウンターの中から、涼子がその男性の前につきだしの小皿を置いた。
「お飲み物はいかがなさいますか」

「ぬる燗にいい酒はなにがありますか」
彼は品書きは見なかった。
「そうですね。栃木の『開華』純米や、宮城の『浦霞』山廃大吟醸、それから今だけ島根の『玉櫻』生酛きもと純米を入れています」

 涼子が答えると彼の表情は、ぱっと明るくなった。
「ああ、桜の季節ですからね、それをいただきましょう」
「かしこまりました」

 それから涼子はすみれの方を見た。興味津々にやり取りを聞いていたすみれは少し赤くなった。
「久保さんは、今日はどうなさいますか?」

 ここでウーロン茶というのは情けないけれど、さすがに私にもぬる燗を下さいとは言えない。全く飲めないというわけではないけれど、飲み終えられるか微妙だし。

「もしかして、『玉櫻』少し試してみたいですか?」
モゴモゴしているすみれを見て、涼子が少し笑った。

 すみれは大きく首を縦に振った。
「本当は、いつものウーロンハイをお願いするつもりだったけれど……。ちょっと羨ましくなっちゃって。でも、頼んでもひと口くらいしか飲めないし……」

 すると、男性がわずかに笑って言った。
「じゃあ、彼女にお猪口を。僕の徳利から試すといい」

「そんな、申し訳ないです! わたしがお支払いします!」
そういうすみれに、彼は笑って手を振った。
「そんな無粋なことはさせないよ。さあ、どうぞ。桜の縁だ」

 すみれは涼子に出してもらった猪口に、ぬる燗の『玉櫻』を満たしてもらった。
「ありがとうございます」

 彼は猪口をわずかに持ち上げた。よくわからないけれど、和装でこういう仕草って、5割増しカッコよく見えるなあ。
「じつは、ぬる燗って初めて飲むんです。それ用のお酒があることも今日知りました」

「まあ、そうなの。専用というわけではないのだけれど、例えば大吟醸などは香りのバランスが崩れてしまうのでお冷やの方が適していると一般にはいわれているわ。ぬる燗、つまり40度くらいに温めると香りが引き立つし、味わいも豊かに感じられるので、それを楽しめるお酒が好まれるの。たとえば、生酛きもと系酒母を使った、生酛や山廃というタイプのお酒ね」

 和装の男性が続ける。
「生酛系酒母っていうのはだね。酒蔵に自然に生息する乳酸菌を酒簿の中で増殖させて作るんだ。時間と手間がかかるので、生酛系酒母で作られているのは、すべての日本酒の1割にすぎない。酒母の中の米をすりつぶし、米を溶けやすくする山卸という昔ながらの手作業も行うのはそのうちの2割、つまり全体の2%。君がいま飲んでいるのがその生酛なんだよ」

 そういう特別な日本酒を飲んでいるとは!

「なるほど。確かに、香りはとてもシャープだけれど、突き刺すような味はしない。とても美味しいです。旨味っていうんでしょうか、複雑な味がするように感じます」

「自然の乳酸が生み出すまろやかな酸味、コクのある複雑な味わいだね。それから、余韻を感じないかい?」
「はい。これまでに飲んだ日本酒よりも、長く美味しさが続いている感じです」

「『押し味』っていうんだ。これを楽しむのにぬる燗は適しているんだね」

 すみれは、面白そうに猪口の中をのぞき込んだ。
「効率よりも、味のこだわりを選んだってことですよね。でも、その価値をわかって飲まないともったいないってことですよね」

「美味いとわかれば、それで十分なんじゃないか?」
男性も、涼子も笑った。

「うーん。もっとたくさん飲める体質だったらいいなあ。これ、本当に美味しいもの。たとえると、切れ味のいいナイフに見えるけど、怪我はしない感じ?」

 そうすみれが言った途端、男性はぎょっとしたようにすみれを見た。

 これまでの朗らかな微笑みとあまりに違う表情だったので、すみれも涼子も戸惑った。

「あの……なにかまずいこと言いましたか?」
そうすみれが訊くと、男性ははっとして、バツの悪そうな顔をした。

「いえ、とんでもない。ただ、少し驚いたんだ。僕のことを見透かされたのかと思ってね」

 涼子は、2人の前に鰆の西京焼きの皿を出しながら訊いた。
「と、おっしゃると?」

 男性は、少し考えている感じだった。
「……どのくらい一般に知られている話か……。薬研藤四郎やげんとうしろうって短刀のこと、知っているかい?」

 すみれも涼子も即座に首を振った。男性は、「そうか」と笑った。
「鎌倉時代中期の粟田口派に属する吉光という刀工がいてね。この吉光の通称が藤四郎っていうんだ。徳川吉宗が作成させた『享保名物帳』という名刀のリストで天下三作に選ばれた名工で、特に短刀の妙手として有名なんだ」

 2人が話についてきているかを確認するため、彼は少し間をとった。2人は頷いた。
「そういうわけで藤四郎と名のつく有名な短刀はたいていこの粟田口吉光作なんだが、薬研藤四郎は少々変わったエピソードを持つ刀なんだ」

「どんなエピソードですか?」
すみれが訊く。

「薬研というのは、薬をすりつぶす鉄製の道具なんだが、それに突き刺さってしまうほどの切れ味なのに、持ち主だけは傷つけないという不思議なエピソードがあるんだ」
「ええ?」

「室町時代の大名畠山政長が明応の政変に負けて自害しようとしたときに、この短刀を用いたのだが、3回突き立てても刃が腹に突き刺さない。なんと切れ味の悪い刀だと怒って放り投げたところ、そのまま薬研を貫いてしまったというんだ。それで、鉄を突き通す切れ味なのに主君は傷つけない不思議な怪刀として知られるようになったというわけだ」

「へえ。そんな刀があるんですね。たしかに、切れ味はいいのに、怪我はしないって言葉に当てはまりますね」
すみれは、目を丸くした。

「その刀は畠山家の子孫に受け継がれたのですか?」
涼子が訊く。

 男性は首を振った。
「いや。足利将軍家に伝わり、足利義輝殺害後、織田信長に献上された。信長は名刀のコレクターでね。中でも薬研藤四郎はお氣に入りだったらしく本能寺の変の折にも所持していたと言われているんだ。ただ、その後は豊臣秀吉や徳川家が所持したとの説もあるが、信頼できる証拠もない。つまり、本能寺の変以後は行方不明といってもいいんだ」

「ええと、つまりあなたは、トレジャーハンターということでしょうか」
すみれは恐る恐る訊いた。

 男性は笑って首を振った。
「いや、そうではない。僕は刀鍛冶でね。ちょっと薬研藤四郎にも縁があるんだ」

「ええ? 刀鍛冶って、刀を作るお仕事ですよね! すごい。あ、だからその和装なんですね」

「はは。この服装で仕事をしているわけではないさ」
そう笑って、彼は『玉櫻』をもう1提注文した。

 その時、引き戸が開いて、夏木が近藤と一緒に入ってきた。
「久保さん、涼子さんも、こんばんは」
「いらっしゃいませ、夏木さん、近藤さん」

「あ、途中で会ったんですね」
すみれが訊くと近藤が頷いた。
「神田駅でね。あ、20分くらいでオルガさんも来るって、連絡来たよ」
オルガ・バララエーヴァも『Bacchus』の常連だ。

 夏木はすみれの前の鰆の皿や猪口を見て訊いた。
「かなり待たせたかな?」
「いいえ、それほど待っていませんよ。とても面白い話を聞いていたんです。生酛きもとの日本酒と、薬研藤四郎っていう刀。ね、涼子さん?」
すみれは、涼子に同意を求めた。

 涼子は頷いたが、他のことに氣を取られていた。小さな店のカウンターはほぼいっぱいになっている。直に他の常連も来るだろうし、もう1人来るとしたら、座る場所をなんとかしないといけない。

 刀鍛冶の男性は、酒を飲み干すと立ち上がった。徳利の下に十分すぎる代金が置かれている。
「また来るよ」
「まあ、ありがとうございます。あ、おつりは……」
「とっておいて」

「追い出したみたいになっちゃったな」
彼が出て行った後、夏木が困ったように言った。

「薬研藤四郎とのご縁がなにか、訊きそびれちゃったわ」
すみれが口を尖らせた。

「何それ?」
近藤が出てきたビールを飲みながら訊いた。

「鉄の道具に突き刺さるくらい鋭い刀なのに、持ち主は傷つけない不思議な刀なんですって。織田信長が持っていたんだけど本能寺の変で行方不明になったとか」
涼子が説明した。

「カッコいい和装だったなあ」
夏木がポツリと言った。
「刀鍛冶さんなんですって。でも、剣士でも通りそうよね」
すみれが教えた。

「常連さん?」
夏木は涼子に訊いた。

「いいえ。今日初めていらしたお客様よ」
涼子は、彼の置いていった代金を手に持ったまま、不思議そうな顔をして戸口を見つめた。

「どうかしたんですか?」
すみれは涼子の手元を見ながら訊いた。

「十分すぎるほど置いていってくださったんだけれど、一番下にこのコインが……」
そう言って見せたのは見たことがない古銭だった。

「なになに? 和同開珎?」
すみれが訊くと、近藤が呆れた声を出して涼子に言った。
「そんなわけないだろうに。ちょっといいですか?」

「うーん。天正……通宝かな?」
かなり黒くなっているが銀貨のようだ。夏木がスマートフォンで検索する。
「ああ、室町時代のお金みたいだね。それにしては状態がいいみたいだけど。ネットにある写真のは、もっとボロボロだよ」
「コスプレ用の再現貨幣?」
「最近のコスプレってそんな芸の細かいことするのか?」
「……というか、なぜこれを置いていったんだろう?」

 近藤がぼそっと言った。
「あの人、その刀匠藤四郎の幽霊で、行方不明の短刀を探していたりして」

 皆がぎょっとして近藤を見た。彼は慌てて言った。
「いや、冗談だから!」

 夏木はため息をついた。すみれは、考え深そうに言った。
「う〜ん。もしかしたら、本当にそういうことなのかも。もしくは、あの人が薬研藤四郎っていう刀の妖精とか。そうでもおかしくない佇まいだったのよね」

 夏木と近藤は、すみれが飲み慣れない日本酒で酔っているなと判断して目配せした。 

(初出:2024年4月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】瑶池蟠桃

「scriviamo!」は終わっていないのですが、今日の小説は、植物をテーマに小さなストーリーを散りばめていく『12か月の植物』の3月分です。4月になっちゃったのであわてて。

3月のテーマは『桃』です。

桃源郷という言葉もあるように中国の楽園は西にあって桃の花が咲き乱れているというイメージ。アンズや桃はヒマラヤ原産ともいわれていて、パキスタンにある標高2500mのフンザ地方は現代の桃源郷といわれるほどアンズの栽培が盛んだそうです。しかもここの人たちは長寿で有名で、アンズの種を常食することが健康で長寿の秘訣なのかもといわれています。中国で語り継がれた不老長寿の仙桃伝説はこうした事実と関係があるのかも。

ところで、もともとは黒歴史から借用したこの仙人ものも、もう4作目。そろそろカテゴリー作るべきかしら。


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瑶池蟠桃

 河岸の向こうは、見渡す限り桃の花が咲いており、まるで薄紅色の雲のようだった。

 宋子墨は、丁氏にもらった呪符を確認した。この川にたどり着くまでに6枚を使い果たしており、残りの1枚で勅旨を為し遂げ長安に戻れるだろうかと思った。

 傾城傾国の美女と謳われた李夫人が病に倒れ、帰らぬ人となってから、皇帝は塞ぎ込むようになった。道士に妙薬を作らせ長寿を実現しようとしたが、それを燃やした煙の中に亡き夫人の姿を見てからは、病や死を怖れるようになった。

 西の果てに崑崙山あり。その高みに太妙天紫府化気西華金母元君、つまり西王母として知られる最高位の女仙の住む瑶池があると言われている。

 子墨は、李氏の遠い縁者として官位を得たが、李一族の栄華は心許ない状態にあった。早くに両親を亡くし、叔父の厄介になって育ったので居心地は悪く、一刻も早く出世したいと願っていた。

 共に育った叔父の娘、宋木蘭とは心を通わせていたが、もちろん同じ氏族での恋は許されるはずもなく、娘を皇帝の後宮に送り込もうとしている叔父の逆鱗に触れることがないように忍ぶしかなかった。

 生きて帰れるかもわからない西域崑崙山への旅、あるかどうかもわからぬ不老長寿の妙薬の探索を引き受けたのは、そうした事情があった。

 皇帝の重用する道士たちは、誰ひとりとしてこんな地の果てまで旅したことはなかったし、都中を駆け回って探した名のある道士たちも崑崙山のことは文献でしか見たことがないと言った。

 だが、勅旨を拝受してしまった以上、野獣に襲われようとも西の果てまで行かないわけにはいかなかった。手がかりもないまま、西へと向かったが、天水にたどり着いたとき、宿屋で知り合った不思議な道士がいた。

 まだその時は、立派な旅支度でたくさんの部下もいたので、静かで立派な宿屋に泊まることができていた。それゆえか、子墨の一行の他には、その若い道士しか泊まっておらず、夕食の時に話をする機会があったのだ。

「2月の末までに鄯善に入れば、普段はたどり着けぬ瑶池への道をみつけられるだろう。というのは、蟠桃会を目指してたくさんの神仙たちが集まってくるからだ。仙人たちを追い、満開の桃の花を見つけることができれば、王母娘娘のいる神泉苑は遠くないだろう」

 3月3日は西王母の誕辰であり、この日には神仙が瑶池に集まり蟠桃会を開催するといわれている。

 その不思議な道士は丁と名乗った。そして、子墨が自分の役割を話すべきか迷っている間に、子墨の素性から、勅旨の詳細まですべて言いあてられてしまったのだ。それで、子墨はこの道士は、これまでに会った道士たちとは違い、おそらく神仙であろうと思った。

 丁氏は、子墨の顔を見ながら言った。
「勅旨を捨てて逃げ出せば、そなたを監視している部下らによって命を失うだろう。このまま進めば、そなたの命は助かるが、部下らを失うだろう。そなたがこの旅を終えることができるように、呪符を書いてやろう。部下には見せぬように」

 そして、その言葉通りとなった。武威、酒泉と西に行くに従い、部下たちが1人またひとりと減っていったのだ。ある者は食あたりで残り、ある者は強盗と闘い、またある者は同行者同士の喧嘩で共倒れとなった。そして、楼蘭とも呼ばれる鄯善に着いた時には、彼は身の回りの世話をする下男すらも失い文字通りひとりとなっていた。

 丁氏にもらった呪符は旅のあいだ、何度も彼の命を救った。強盗に襲われて副官が血の海の中で息絶えていたときも、子墨は切れた衣服の下で呪符がすっぱりと切られていただけで済んだし、渡し舟に穴が開いてが転覆しかけたときにも呪符がいつの間にか穴を塞いでいた。6枚の呪符はそのように役割を終えて使い物にならなくなった。

 いま彼は丁氏が話していた満開の桃花の土地に到達しようとしていた。2日ほど前から、彼は空を飛ぶ神仙を幾度も目にした。言われていなければ鳥と見間違えてしまっただろうが、西王母の住む瑶池を探して、常に空を見上げていたので、奇妙なほど同じ方角へと飛ぶ影を見逃さなかった。

 その方角は、まるで死の砂漠とそれに続く恐れの渓谷に向かっているようだったので、同じ方向に進もうとする旅人はいなかった。だが、丁氏の言葉を信じて1日進むと、突然水流豊かな川と、その向こうに桃の花が咲き乱れる不思議な土地が目に入ってきたのだ。

 渡し守は物言わぬ老人で、向こう岸に着くまで全く彼を見なかったし、彼が降りるとあっという間に岸を離れた。
「あ……。帰りの舟はいつ……」

 こちらを全く見ずに去って行く渡し守をしばらく見ていたが、あきらめて振り向くと、いつ近づいたのか至近距離に3人が立っていた。真ん中にいるのは赤い服を着て焰のような色の髪をした女で、右にはやたらと頭の長い老人、左の黒鉄の鎧で武装した男が雷のような大声を出した。
「お前は何者で、何の用だ」

 彼は、ひれ伏して勅旨を差し出した。
「長安の都から参りました宋子墨と申します。太妙天紫府化気西華金母元君にわが皇帝へ不老長寿の妙薬を御下賜くださるようお願いに伺いました」

 長旅と途中で起こったいくつもの不愉快な出来事により立派だった箱は壊れ、剥き出しになった勅旨は汚れボロボロになっていた。ごく普通の役人などに見せれば、間違いなく偽物としてうち捨てられてしまうだろう。

 武装した男は、勅旨を受け取ると頭の長い老人に渡した。老人は開いてから頷き、女に向かって恭しく訊いた。
「確かに皇帝劉徹からの書状でございます」

 武装した男が不満げに遮った。
「しかしながら、このような小者を使いに出すなど王母娘娘を軽んじているのではありませぬか」

 老人もそれには同意見らしく、女を顧みた。
「いかがなさいますか、紅榴元君」

 紅榴は、じっと子墨を見つめて言った。
「勅旨だけではないな。強力な呪符も持っている。それに、この者を取り巻いている守護の呪術は、翠玉がかけたものであろう」

 老人ははっとして頷き、子墨の周りをじろじろと見て回った。
「いかにも。翠玉真人ならではですな。最低限の細さと長さなのに、このように隙の無い呪詛返し、久しぶりにこの目で見ましたわい。これを知らずにこの者を襲ったら、さぞひどい目に遭うのでしょうな」

「おい。お前、翠玉真人の知り合いか!」
武装した男が大声を出した。

「わかりませぬ。天水の宿屋で知り合い、これらの呪符をくださった丁氏と名乗られた道士にここまでの道を教えていただきました」
ひれ伏しながら、子墨は考えていた。では、あの丁氏が、皇帝が必死に探していた神仙、翠玉真人だったのかと。

 紅榴はさっと袖を振った。
「通してやれ」

「よろしいのですか。他の日ならともかく、本日は蟠桃会だというのに」
武装した男がまた大きな声を出した。

「翠玉が手助けしたと奏上すれば、王母娘娘もお許しくださるだろう。なんせ翠玉に仙道の手解きをしたのは娘娘なのだから」
「なんと! そうでしたか」
2人はそれを知らなかったようで、驚きかしこまった。

「ただし、神泉苑に入れる前に、もう少しましな格好にさせてやれ」
紅榴は笑った。

 子墨は、土の上に頭をこすりつけた。

 3月3日に開催される蟠桃会については、子墨も聞いたことがある。天界の瑶池に住む西王母は大きな桃園を持っている。そこには、平たく甘い蟠桃が実る3600本の桃の木がある。手前の1200本は3000年に1度熟し、これを食べた者は仙人になれ、中ほどの1200本は6000年に1度熟し、これを食べた者は長生不老が得られ、奥の1200本は9000年に1度熟し、これを食べた者は天地のあらん限り生き永らえるといわれている。

 3月3日には、西王母の誕辰を祝う宴会があり、高貴な神々や神仙たちが集う。7人の女仙が蟠桃園をまわって収穫した貴重な仙桃が客に配られ、共に食すという。もし、その言い伝えが真実ならば、その仙桃をひとつでも持ち帰れば皇帝の命を果たしたことになる。

 子墨は3人に続いて、花盛りの桃の苑を歩いていった。どの木も今が盛りと咲き誇っており、仙桃などは見当たらない。

 山のように仙桃があれば、1つ分けてもらえるのではないかと期待もできるが、人間の住むところと同じように、3月に桃はならないのかもしれない。そう思ってキョロキョロしていると、木々の間をときおり仙女たちが進んでいくのが見えた。そして、その1人が目に入ると子墨は思わず叫んだ。
「木蘭!」

 兄妹のごとく共に育った従妹がかなり離れた木の下で働いており、彼は案内する3人を離れて木蘭のところに向かおうとした。

「そなたは何がしたいのだ、宋子墨」
紅榴が静かに、けれど威厳のある声で彼を止めた。
「王母娘娘に、その勅旨を渡したいのか。許しを得ずに仙桃を盗み出したいのか。それとも、あの見習いと逃げ出したいのか」

 子墨は、立ち止まり振り返った。ずっと黙っていたのに、彼の思っていたことはすべて紅榴にはわかっていたようだ。

「木蘭は、後宮に入ったのだとばかり……」
子墨は、再び少女の方へ顔を向けた。

「そう。そなたの従妹は後宮に送られた。だが、そなたはどうすることもできないと諦めたのではなかったか。手っ取り早く出世をするために、西域の旅を決めたのもそなたであろう」

 その通りだ。彼は恥じて下を向いた。せっかくこの女仙が西王母に会わせてくれるというのに、無為にするわけにはいかない。

 紅榴と2人の随仙は、桃林を通り過ぎ、立派な宮殿に入っていった。奥には見たこともないくらい広い大広間があり、その奥に黄金の衣装を纏った女神が座っていた。紅榴らは跪いた。子墨もあわててそれに倣った。

 紅榴が西王母に語りかけた。
「王母娘娘にご挨拶いたします」
「立ってよろしい」
「感謝します」

「そこに連れてきた人間は誰ですか」
「皇帝劉徹からの書状を持ってきた使者でございます。翠玉真人が手助けをしたようですので、追い返しませんでした」
「なるほど。書状をこちらに」

 勅旨が西王母に手渡され、女神は表情を変えることもなく、それを読んだ。
「老いず、死ぬこともなくなる妙薬がほしいと。それに値すると思っているのであろうか。紅姑、憶えておるか、あれは人間の時で1年ほど前のことであったか、共に長安に行ったのは」

 紅榴は、頷いた。
「はい、娘娘。かの皇帝が7日7晩にわたり道士たちに自らの長寿を願う祈祷を奉じさせたので、休めない道士たちを憐れまれて、降臨なされました。そして、蟠桃を皇帝に授けましたね」

 子墨は驚いた。そんな大がかりな祈祷をさせていたことを知らなかったからだ。だが、よく考えると、子墨が都を出立してからすでに2年が経っていた。
「それでは、皇帝はすでに不老長寿の仙桃を賜ったということですか」

 紅榴は頷いた。
「然り。だが、不老長寿の身になったわけではない」

「なぜでございますか?」
子墨は、さらに驚いた。西王母が自ら出向いて仙桃を賜ったのに、それで不老長寿にならなかったのでは、彼がここに来たことも全くの徒労だろう。

「絢爛たる輿に乗ったり、虎にまたがったりして行ったわけではない。どこにでもいる貧しい老女の装いで近づき、5つの仙桃を与えたのだ」
西王母が笑った。

「そして皇帝劉徹は、それを尊ばなかった。仙桃も傷のあるつまらぬ果実だと判断し、後宮の軽んじられている娘たちに与えてしまった。そなたが、先ほど見た少女もその1人だ」

 紅榴の言葉を聞いて、子墨は地面に両手をつき震えた。
「それでは、木蘭は知らずに化仙してしまったと……」

 紅榴は答えた。
「不老不死になったわけではないが、神通力を身につけた。自らの意思で後宮を抜け出した者、家族の元に戻った者、それから、仙姑としての修行を望んだ者がいる。だが、あの皇帝は目が曇り、仙桃を捨ててしまったことも、後宮の少女たちが消えてしまったことすら氣がついていないのだ」

「それでも勅旨を携え、長い旅に堪えてきたそなたの辛苦を思えば、このまま追い返すは氣の毒。本日は、みなに誕辰を祝ってもらう日、そなたに慶びを分けてやろう」
その西王母の言葉が終わらぬうちに、子墨の目の前に蟠桃が1つ現れた。

「翠玉の目に叶った者ならば、あの皇帝よりはこの蟠桃の価値がわかるであろう。この果実をどう使うかはそなた次第。都に持ち帰り皇帝に献上するもよし、不老長寿の桃として売り大金を手にするもよし、みずから食して仙道に進むもよし」

 思いも掛けない言葉をかけられて、子墨は戸惑った。両手の中に皇帝すら切望する貴重な仙桃がある。それを自らの自由にしていいなどということは考えたことすらなかった。自分に仙人になる可能性があることも1度たりとも考えたことはなかった。

 西王母の前から退出し、紅榴に案内されて再び桃の林を歩いた。仙女はわずかに笑って言った。
「仙道は、険しく難しい。能力に溺れて善行と修行を忘るれば、たやすく闇の底に沈む。身を清く保ち、人の脆さを許し、慈愛の心を持ち続けることではじめて堕ちずに進むことができる。それが難しいと思うならば、楽な方の道を奨めるぞ」

 子墨は、手元の仙桃をじっと見つめた。思っていた輝くような果物ではなく、どこにでもあるような小さな蟠桃だった。このような苦難の旅の末に入手した宝物には全く見えない。誰かに売りつけようとも、市場にある桃の値段以上の金を出す者はいないだろう。

 皇帝に献上しても、そこら辺の市場で買ってきたものだと疑われて、相手にされないか、もしくは詐欺師と糾弾されて命を落とすやもしれぬ。そうでなくても、無事に長安まで戻れる保証すらない。

 下男すらいなくなってしまった今、ひとり長安まで戻ることすら困難に思えた。

 しかし、だからといって安易に仙桃を食べることも空恐ろしく思われる。

 ふと、遠目に見た木蘭のことを思い出した。彼女が仙女となりこの瑶池に住んでいるというならば、僕も……。いや、そんな理由で、仙道に入る者がいるだろうか。紅榴仙姑が言っていたような、厳しい道に進む覚悟は全くないのに。

 いつの間にか彼は先ほどの河岸に立っていた。無口な渡し守が、当たり前のごとくそこに立っている。

 彼は、紅榴の方を向いて頭を下げた。
「ご案内いただきありがとうございました。……どうするか、帰り道に考えてみたいと思います」

 紅榴は、笑って言った。
「それはいい。その桃は人間の時間で30年ほどは腐らないので、じっくりと考えよ」

 舟は河岸を離れた。満開の桃の苑が遠ざかる。子墨は、答えのない問いをひたすら繰り返しながら、澄んだ青空を見つめた。

 不老長寿を願った皇帝劉徹は、後元2年69歳で崩御し孝武皇帝という諱が贈られた。後世には前漢の最大版図を築いた武帝として知られている。

 宋子墨の行方を史書は伝えていない。唐代に海藍上人として名を知られることになった神仙は同じ宋子墨という名であると伝わっているが、同一人物かどうかも不明である。 

(初出:2024年4月 書き下ろし)
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Category : 短編小説集・12か月の植物
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】西の塔にて

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第9弾です。山西 左紀さんは、連載作品でご参加くださいました。ありがとうございます!

 山西 左紀さんの『白火盗 第四話』

左紀さんの今年の2作品目は、ことしの1つめの参加作品と同じ『白火盗』からです。

というわけで、お返しの作品はこちらも前回のお返しで使った世界観をそのまま使うことにしました。サキさんの使われたあるシチュエーションもつかっていますが、それ以外はまったく関係のない話です。ご了承ください。

コメントで「オットーを身代わりにしてハンス=レギナルドは、どこに逐電していたのか」とのご意見を何名からかいただいたので、その答えを(笑)


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西の塔にて
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 暗い城内を歩くとき、床石が硬い音をたてる。彼は眉をひそめた。

 普段彼が住む城塞では、石材よりも木材が多用されている。辺境であり、石材を運ぶのに必要な人足や石工が足りないこともあるが、何よりも王都ヴェルドンにはない膨大な木材の供給源があるからだ。

 常に雪を抱く《ケールム・アルバ》の麓はどこまでも続く森林であり、あまりにも広大で比するものがないゆえに単に森を表す《シルヴァ》と呼ばれている。

 辺境伯とは名ばかり、彼が治めることになった土地は、ほぼ未開の地だった。だが、少なくとも彼は王都ヴェルドンにいてその任に就いたときからそのことをよく理解していた。国王がこの困難な任務に彼を選んだのは、ただ単に彼を氣に入っていたからだけではない。

 彼は、尊い家系に生まれたひ弱な貴族ではなかった。遠くルーヴラン王国に属する地方領で馬丁として少年時代を過ごした。

 彼が騎士に叙任され異国の王に仕えるようになるまでには、それだけで吟遊詩人が一生困らぬほどの長い物語になる紆余曲折があったのだが、彼が祖国を去った原因についてはたったひと言で済む。領主バギュ・グリ候の令嬢が遁走した咎を追わされたくなかったからだ。

 彼女は、彼のかつての主人であり、初恋の相手でもあり、型破りな男姫ヴィラーゴで、ジプシーに加わり遁走する迷惑極まりない女で、しかも恋焦がれて止まない愛人でもあった。

 王都ヴェルドンの城の中を、奇妙な服装で深夜歩き回ることになったのは、まさしくその男姫ヴィラーゴのためだった。

 それでも、一昨夜の国王との会話がなければ、こんな危険な行動には出なかっただろう。

 国王の婚儀のために領地から集まった諸侯たちは、婚儀の前夜に特別の宴でもてなされた。彼が諸侯の1人としてもてなされるのは初めてであり、以前のように近くで親しく話をする機会はないと思っていた。

 実際、彼の席は国王からは遠く、その席順を見たヴァリエラ公爵は満足そうに笑った。出自の怪しい異国人が国王に重用されることに大きな警戒心を剥き出しにしていたからだ。

 彼は、もう以前とは違うのだと思った。フルーヴルーウー辺境伯としての爵位と領地、有り余る野心と才覚を向ける新しい活躍の場と引き換えに、彼は国王との奇妙なほどに近かった絆を失ったのだと。

 だが、深夜が過ぎ、諸侯たちの多くが酔い潰れた時刻に、彼は国王がわざわざ彼の元に歩いてくるのを見た。

 国王レオポルドは、不思議な人物だ。背の低さも、醜悪に近いほどの面立ちも、1度たりとも彼に嫌悪感を抱かせなかった。その強い眼光は、どのようなときも変わらない。そして、蠟燭と牛脂灯の鈍い灯の中でも、歩み来る彼の姿からは力強いエーテルが放たれているように感じられた。

 彼の隣で先ほどまで浴びるように飲んでいたノルム伯は、酔い潰れて祝卓に突っ伏していたが、ついに椅子からずり落ちて床に転がった。国王は、その寝姿をちらりと見てから、空いた椅子を引いて彼の隣に座った。

「そう。久しぶりだがあいかわらずだな、ハンス=レギナルド。ノルム伯と変わらぬほど飲んでいたようだが、顔色ひとつ変えぬとは」
「恐れ入ります。陛下こそ、もっとたくさんの祝杯をあげておいででしたが……」

 レオポルドは、緊張して立つ給仕に目で指図をして、2つの杯を満たさせた。

「おや。その袖か。フルーヴルーウー流とやらは」
国王は愉快そうにハンス=レギナルドの胴着の袖を見た。肩の膨らんだ部分を1度絞った位置から、長い袖が装飾用についているが、非実用的なためハンス=レギナルドは、これを縦に切って縫製させ下の胴着の袖を同色の糸で刺繍させたものを露出させた。

 これが宮廷の貴婦人たちの間で評判となり、彼が領地に赴任してヴェルドンの宮廷から去った後も大流行した。お堅いヴァリエラ公が風紀の乱れを懸念して進言したため、しばらく禁令が出たほどだ。

 ハンス=レギナルドは、諸侯たちに睨まれようと氣にも留めず、好きな礼装で今夜の宴に参加した。国王もそのフルーヴルーウー辺境伯の振る舞いを可笑しく思い楽しんでいる。2年会わなかったとはいえ、国王との信頼関係は揺るいでいない。

「この度は、誠におめでとうございます」
「うむ。よく来た。こんな折りでもなければ、そなたは戻らんだろうから、楽しみにしていたぞ」

 2人は杯を重ねて強い酒を飲み干した。給仕はあわてて2人の杯に蜜酒を注ぐ。ハンス=レギナルドは、かつてのように軽口を叩いた。
「それにしても、実に殺風景な祝宴でございますな。華が欠けております。……それも無理もないこと、今宵までは花嫁様も、高貴なる乙女の皆様も、敵国の姫ぎみ。しかし、婚礼がお済みになった明日には、みなさま方をご紹介いただけますか」

 それをいった途端、国王の顔は曇り小さな声でつぶやいた。
「いや。ブランシュルーヴを西の塔からは出さぬつもりだ」

 ハンス=レギナルドは、心底驚いた。
「それはいったいどういうわけで? なにかあちらの策謀でも?」

「そうではない。ただ、あれの姿をどのような男にも見せたくないのだ。あれの手を望み、欲しがろうとする男にとって、盗み取るのはさほど難しいことではあるまい」
そういうと、レオポルドは拳を強く握りしめた。

 ハンス=レギナルドは、不思議そうに彼の主人であり親友でもある男を眺めた。
「強い自信と求心力をもつあなた様を、王妃様がそこまで臆病にしたとは驚きましたね。陛下はかのイーラウ嬢をはじめお美しいご婦人方をいくらでもご覧になり、手に入れていらっしゃったではないですか」

 レオポルドは、小馬鹿にするように笑った。
「イーラウだと? 比較対象にもならん。あれは……ブランシュルーヴはまったく違うのだ。美しい造形が豪奢な布で着飾っているだけではない。まるで太陽のように強い光を放ち、すべてが霞む。もうこの世に、他の女など存在しないかのようだ」

 ハンス=レギナルドは「ほう」といって頷いた。
「しかし、姫はルーヴランの女官であった4人の高貴なる乙女たちをお連れになってのお輿入れと伺いました。おそらくは、4人とも陛下の愛妾とさせ、グランドロンとルーヴランの絆をより強固なものにするために……」

 その4人については、家名だけが伝わっていた。ヴァレーズ伯、マール・アム・サレア領主、アールヴァイル伯に加えて、彼の出身地であるバギュ・グリ候の令嬢たちだ。

 バギュ・グリ令嬢については、愛妾アデライドの連れ子クロティルデだろうと予想していた。バギュ・グリ候テオドールには候子マクシミリアンと候女ジュリアの他に子はなく、かのジュリアはジプシーと共に出奔して行方不明になっていたからである。

 国王は、4人の高貴なる乙女のことを促されて、鼻で笑った。
「あの女たちを愛妾に? なんの冗談だ。わざわざ王妃の不興を買えと? そもそも、どんな女たちかすら、憶えておらぬ。……いや、もちろん、1人は別だ。だが、いずれにしろそのような対象ではない。氣味が悪い女でな」

「氣味が悪い? 高貴なるご令嬢が?」
ハンス=レギナルドは、いままで国王が女にそのような評価を下したのを訊いたことがなかったので意外に思って訊いた。

「ああ。奇妙なことに、ブランシュルーヴがもっとも信頼しているのが、その女でな……そうだ。バギュ・グリは、そなたの出身地ではなかったか? 候女を知らないか? 美しいが、夜に蠢く獣みたいに残忍な顔つきをした姫だぞ」

 ハンス=レギナルドは、それから彼がどんな受け答えをしたかすら憶えていない。それはクロティルデではあり得ない。親のいうことには一切逆らわない、清楚で退屈な少女が、たった数年でそのような女に変貌するはずはない。

 ハンス=レギナルドの人生で、国王が描写したような特性を持つ女は、たった1人だった。そこにいるはずのない女、しかしながら紛れもないバギュ・グリ候女、男姫ヴィラーゴジュリアその人だ。

 西の塔には、いつもの3倍の護衛兵がいて、見つからずに通過することはできない。彼らは「どのような男も決して通してはならない」と厳命されている。

 だから、彼は修道女の服装を身につけてきた。彼にこの服を貸してくれた修道女は、あいにく見かけほどは慎ましくない。夫亡き後、修道院に入ったものの、彼の誘惑に軽々と応じ、彼がグランドロン王国の騎士となるのに十分な金銭的支援を申し出てくれた女だ。

 暗いとはいえ、女の服装だけで易々と地階の護衛を騙すことができたのは、彼の類い稀な美貌の恩恵だろう。護衛たちは、美しく清楚に見える修道女に戸惑い、問いかけることもなく彼を通してしまった。わずかな手振りをしただけで、《沈黙の誓い》を守っている慎ましい修道女だと勝手に判断してくれた。

 だが、難しいのはこれからだ。地階の護衛たちは新しく、まだ彼の顔をよく憶えていなかった。だが、上の階に行くたびに護衛の騎士は古参で忠誠心に篤い者らが固めるであろう。

 西の塔には、中心に円形階段があり、下からいくつかの広間と部屋が用意されている。最上階はもちろん王と王妃が休む広間と寝室だが、彼はそこに行くつもりはない。しかし、4人の高貴なる乙女たちがどこに部屋を与えられているのかまでは調べられなかった。

 バギュ・グリ候女がもっとも王妃の信頼が厚いというのならば、最上階に一番近い場所が妥当であろう。そこまでたどり着けるであろうか。

 円形階段を上がると2人の騎士が大きい木造の扉を守って立っていた。扉は開き、中の侍女が騎士の1人と話している。もう1人の騎士がこちらに向かって大股で歩いてきた。
「止まれ。お前は何者だ!」

 またしても《沈黙の誓い》の手振りで押し切れるだろうか、そう思ったとき、女が言った。
「お待ちください。その方は、伯女様のためにわたくしが呼んだのです。失礼の無きように」

「それは失礼いたしました。どうぞ」
2人の騎士は最敬礼をして、ハンス=レギナルドを通した。

 女は素早く彼を扉の内側へと連れ込むと、すぐに扉を閉めた。そして、声をひそめて囁いた。
「ハンス=レギナルド様! いったいここで何をなさっているの?」

 顔を見ると、それは宮廷騎士時代によく通っていた侍女だった。
「マルガレーテ! 君は今、ここに勤めているのかい?」
「ええ。アールヴァイル伯女様のお世話をおおせつかっているの。ハンス=レギナルド様こそ、いったいどうなさったの……」

 ハンス=レギナルドはみなまで言わせなかった。
「それは本当か。高貴なる乙女の皆様……いやバギュ・グリ候女様はこの部屋の奥に?」

「そんなわけあるでしょうか。ここはわたしたち侍女がご用事の準備をするための部屋で、候女様は王妃様のひとつ下、他の3人の姫様方はその下の階にご滞在なさっているわ。まさか、候女様のご寝所をお訪ねになるおつもりでしたの?」

 彼は、あっさり認めていいものか迷って口をつぐんだ。
「どんな事情があるかわかりませんけれど、今あそこに忍び込むなんて、正氣の沙汰ではありませんわ。いつ王様がお訪ねになるかもわかりませんのに……」

「なんだって? 候女様たちのところに陛下が? 昨日婚儀をすまされたばかりだというのに?」
氣色ばむハンス=レギナルドを見て、マルガレーテはよくわかったと言いたげな顔をした。

「まあ、ご心配にはおよびませんわ。王様だけでなく王妃様もご一緒にですもの。王妃様はこの西の塔から一歩も出られないので、大切なご友人たちを訪れるくらいの自由は王様もお許しになったのですわ。でも、王妃様とわずかの間でも離れたくない王様は、一緒に行かれるのです」

 ハンス=レギナルドは、上を見上げて「やれやれ」と言った。
「ところで、なんとか護衛兵に見つからないように候女様の部屋に行く方法はないかな」

 マルガレーテは、わずかに口を尖らせて言った。
「……つまり、わたくしが手引きするんですか。ご褒美はなんですの?」

 彼は、悪びれずに笑みを見せた。
「明日、水仙の咲く庭園の東屋で会おうよ。フルーヴルーウーの緑の水晶を知っているかい? 君が身につけたら綺麗だろうな」

 彼女は、「仕方のない方ね」と肩をすくめ、侍女しか使わない裏階段へと彼を案内した。

 細い螺旋階段を3階層ぶん登ってから、廊下を進む。かなり遠くに、この階への侵入者や客人を阻む護衛兵たちの立つ戸口が見えた。マルガレーテは口元に人差し指をあてて、奥の大きな樫の扉を示した。

「どうなっても知りませんからね。わたくしは仕事に戻らなくては」
そう耳元で囁くと、急いで元の道を戻って去って行った。

 ハンス=レギナルドは、意を決したように樫の扉に向かい、静かに扉を開けた。鍵はかかっていない。さっと入ると扉を閉めた。

 侵入者に氣づき声を上げられても困るので、小さな声で呼んだ。
「ジュリア様」

 その途端、奥から声がした。
「ほら。いったとおりであろう。余の勝ちだ、ブランシュルーヴ」

「まあ。なんてことでしょう。あなた様の部下は、皆こんな風に考えなしに行動するのですか、陛下」
涼しやかな女の声が響く。

「そなたの国の候女も負けず劣らず考えなしだと思うが、ちがうか?」
愉快そうなその声の持ち主はよく知っている。

 目をこらすと、奥の緞帳の影に国王レオポルドと、濃いヴェールで顔面を隠した高貴な服装の女性、おそらくブランシュルーヴ王妃が座っている。

「なんという格好だ。そなた、いつ修道院に入ったのだ。……まあ、女のなりも、それなりに似合うな」
レオポルドは蠟燭を掲げて、ハンス=レギナルドを見たのでその顔が目に入った。かなり呆れた表情をしている。

 暗闇の中で目をこらしてあたりを見ると、マルガレーテと同じような侍女の服装をした女が2人ほど横たわっている。王と王妃の前だというのに。

「ここはバギュ・グリ候女様のお部屋では……」
ハンス=レギナルドは、衝撃からやっとのことで立ち直り、それだけ口にした。

「一昨日と昨日のそなたの様子から、絶対に今宵来るとわかっていたぞ。それで王妃と賭けをしたのだ。王妃は、わざわざ捕まりに来る愚かな家臣がいるなど信じられぬ様子だったがな。それで、一緒に来て確認しようとしたら、なんと肝心な候女までいない。……いつのまにか別の場所で逢い引きの手配をしていたのかと呆れていたところだ」

 ハンス=レギナルドは、肩を落とした。ジュリアが抜け出した。もしかしたら、彼を探しに出かけたのかもしれない。すぐに戻りたいが、国王夫妻に侵入が露見したこの状態で、無事に西の塔を出られるとも思えない。

「わたくしの負けですわ。でも、陛下。この西の塔は、簡単に出たり入ったりできるのですね」
王妃は楽しそうにいった。

 レオポルドは、彼に訊いた。
「そんなに簡単だったのか?」

 ハンス=レギナルドは、首を振った。
「たまたま顔を知った衛兵がおりませんでしたので。《沈黙の誓い》の手振りで、声を出さずに済んだことも幸運でございました」
罪に問われるにしてもマルガレーテの協力のことは、なんとか隠したままにしておきたい。

「それにしても、候女様がここを抜け出せるとは思ってもいませんでした」
横たわっている侍女たちを見ながら彼はつぶやいた。

「この侍女らと余たちが朝までぐっすり眠っているあいだに、何食わぬ顔で戻っているつもりだったのではないか?」
王が笑いながら答えたので、ハンス=レギナルドはぎょっとして2人を見た。

「わたくし付きの侍女たちもだらしなく寝入っていますよ。わたくしたちには、その手の薬が効かないことは、ジュリアったら知らなかったのね」
王妃も楽しそうに笑う。

 ハンス=レギナルドは、深いため息をついた。ジュリアならばジプシー由来の得体の知れない薬を持っていても不思議はない。だが、異国に着いたばかりの身で、王と王妃にまで薬を盛るとは無謀すぎる。命がいくつあっても足りない。

「まあいい。今回のことは、そなたとの因縁に関連がありそうな上、王妃が候女がそのような女であることは織り込み済みで、それでも側に置き続けているという以上、余も騒ぎ立てるつもりはない。だから、衛兵たちを呼ばなかったのだ。だが、それだからこそ、こそこそバギュ・グリ候女に逢いに来た理由については、話してもらうぞ」

 意外な成り行きに、ハンス=レギナルドが返答を整理しようと考えていると、レオポルドはそれを待たずに王妃の方を向いた。
「……ブランシュルーヴ、そなたは候女から何か聞いておるのか?」

 王妃は、ヴェールの向こうから鈴のような笑い声を響かせた。
「いいえ。あれは、他の女官たちのようにはいきません。質問しても答えたいことにしか答えませんし、こちらの思うとおりに動かすことはできません。こちらが訊かなくても悩みや昔話を語りたがる女はいますが、ジュリアはそのような者でもありません。……それでいて、たまに語る経験譚ときたら、どんな物語よりもおもしろいのですわ」

「その中に、美貌の騎士の話はなかったのか?」
国王が愉快そうに訊くと王妃は首を振った。
「いいえ。でも、美貌の馬丁の話はありました。女とみたらすべて手を出す手のつけられない好色家なのに、彼女の身持ちの悪さについて説教をしてくる男……身に覚えがありますか? フルーヴルーウー辺境伯どの」

 ハンス=レギナルドは、憮然として答えた。
「ございますし、わたくしのことでしょうが、女のすべてではございません。それは、陛下が保証してくださるでしょう」

 国王は笑った。
「たしかにすべてではないな。だが、数が多いことはまちがいない。なあ、ハンス=レギナルド、そなたにいい報せがあるぞ」

「この首と胴体が離れずに済むという報せ以上のよきものでしょうか」
彼にも軽口を叩く余裕が戻ってきた。

「場合によってだがな。どうやら、候女もまた、そなたがこのヴェルドン宮廷にいることを知ってから浮き足立っていたというのだ。そうであろう、ブランシュルーヴ?」

 夫の問いかけに王妃もまた笑って答えた。
「はい。昨日の婚儀で、廷臣の皆様にご紹介いただいた時以来、ジュリアはずっと上の空でした。もちろん、他のものには氣づかせませんでしたが。あの時は、フルーヴルーウー伯爵殿と、それともその部下のヴォルフペルツ殿のどちらがジュリアを動揺させたのかわからなかったのですけれど、今夜はっきりしました」

 レオポルドは、ハンス=レギナルドに言った。
「さて、せっかくだから、このままここで候女が戻るのを待とうではないか」

 ハンス=レギナルドは、眉をひそめた。
「ジュリア様は、動揺して許しを請うようなことはなさらないかとおもいますが」

「そうだろうな。だが、そなたが領地に帰る前に、上手く話をまとめてやる機会はもうなさそうなのでな。そなた、そろそろ伯爵夫人がほしいところであろう?」
レオポルドは愉快そうに言った。

「懲罰ではなく、そのような恩寵をいただく理由がわかりませんが」
ハンス=レギナルドは、困惑していった。

「そなたが王妃に色目を使わなければそれでいいのだ」
国王は冗談とも本氣ともわかりかねることを言った。

「そなたがこの国に来て、騎士となり、武功を立て、ついには辺境伯にまでなったのも数奇な人生であったが、バギュ・グリ候女もまた波乱に満ちた境遇を経てこのブランシュルーヴに仕えることになり、この国にたどり着いたのだ。このまま再会せずに終わるのは天の意思にも反すると余は思うのだ、そうではないか?」

そう言って近づいてきた国王は、彼の修道女の服装を掴みながら笑った。
「もっとも、これではあまり絵になる再会とも思えんがな」

(初出:2024年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】王女さまと黒猫が入れ替わったお話

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第8弾です。もぐらさんは、オリジナル作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

もぐらさんが書いて朗読してくださった作品「第714回 貧乏神様と福の神様のとりかえっこ」

もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。

今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品群です。貧乏神のシリーズとはいえ、毎年、とてもハートフルなエンディングでお正月にふさわしい素敵な作品ばかりです。

今年の作品は貧乏神さんと福の神さんが取り替えっこするというお話です。もぐらさんのところの神様たちは、とても親しみやすくて、お互いを羨んでないものねだりをしつつも、自分の元の立場が悪くなかったことも学んで楽しく戻っていきました。

さて、お返しの作品は、いつもは『Bacchus』か『樋水龍神縁起 東国放浪記』のお話で作ることが多いのですが、今回はまったく違う、西洋のお伽噺風ファンタジーで作ってみました。もぐらさんのところのお2人と違って、入れ替わる2人も、他の登場人物もかなり残念なタイプですが、そこはわたしの作品だからみなさんご存じですよね。


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王女さまと黒猫が入れ替わったお話
——Special thanks to Mogura san


 ある日、王女は西の塔に赴きました。

 この塔はゲオルク・ケミアスという名の魔術師が、真夏でも大きな鍋を火にかけて、氣味の悪い薬品をあれこれと混ぜて錬金術に励んでいます。

 王女が入ってきたというのに、ひれ伏すどころか振り向きもせずに、鍋の中身を見つめてブツブツ何かをつぶやいています。

 鍋の脇には、少年がいて魔術師に言われるままに大きな棒で鍋の中身をかき混ぜていました。

 「ケミアス、おまえに命令があります」
王女は、精一杯の威厳を込めて言いました。

 ケミアスは、嫌そうに振り向くとおざなりに頭を揺らしました。
「これは殿下、ごきげんよろしゅう」

「いいこと。聞きなさい。命令があるのよ」
王女は声を張り上げました。魔術師は、しかたなく王女の方に向き直ります。
「なんでございますか」

「わたしを猫にしてちょうだい」
王女は、言いました。ケミアスは、一瞬だけぽかんと口を開けて王女を見つめましたが、すぐに頭を振りました。
「それはできません」

「なんですって。おまえは、この国で一番の魔術師で、この西の塔で錬金術とやらの研究をするのに多額の費用を使っているじゃないの。それなのに、王女であるわたしの命令を拒否するつもり?」

 魔術師は、まず少年に向かって「ヨハン、手を休めるな」と言ってから王女に向き直りました。
「そもそも、なにゆえ猫になられたいのですか」

 王女は、ここぞとばかりにまくし立てました。
「朝から文法や修辞学に弁証法と、たいくつな講義を聴く毎日がウンザリ! 算術や幾何学なんて何を言っているのかわからない。ようやく終わったかと思ったら、ダンスに刺繍に糸紡ぎよ。猫は、食べて寝て遊んでいるだけだもの、そっちの方がいいに決まっているわ」

 魔術師は、頷きました。
「それはお氣の毒です。ただ、あなた様は、王様と王妃様のただひとりのお世継ぎ。食べて寝て遊んでいる猫になられては、みなが困ります。王様もお許しにならないでしょう。わたくしめを雇っているのは王様ゆえ、王様の命令以外のことはできかねます。女王様になってから命令なさいまし」

 王女は、ひどく腹を立てていたので、叫びました。
「わたしが女王になったら、おまえの首をちょん切るように命令するわ」

 王女が出ていって、静かになったので魔術師ケミアスは「やれやれ」と言って仕事を続けた。ヨハン少年は心配そうに言いました。

「お師匠様。あんなに怒らせていいのですか」
「できないものは、できないのだ。あきらめてもらうしかないだろう」

「お師匠様の力でもできないのですか?」
弟子の納得いかない顔を見て、魔術師は言いました。
「よいか。王女殿下はわしと同じくらいの背丈があり、この盥20杯分ほどの重さだ。それを盥1、2杯ほどの猫に変えたとして、残りはどこに消えるというのだ。捨てればいいのか」

 弟子はなるほどと思いました。錬金術も無から黄金を作り出すのではなく、さまざまな金属や無機物を溶かしたりかき混ぜたりすることで、もともとの物質と同じ質量の金を作ろうとしています。

「心配するな。殿下も女王になったら、猫になったり魔術師の首を切ったりするより重要なことがあるとわかるであろう。わしは、王様に呼ばれているので、執務室に行ってくる。おまえは、しっかりと鍋をかき混ぜておくのだぞ」
そういうと師匠は、塔から出ていきました。

 ヨハンは、師匠ケミアスほど楽観的ではありませんでした。王女が女王になる頃には自分が魔術師として首をちょん切られる立場に置かれるのではないかと思ったのです。不安に思いながら、鍋の中身をかき混ぜていました。

「もうし。お頼みします。あなたが魔術師ケミアスさんですか」
入り口から小さな声がしたので、振り向くとそこに小さな黒猫がいました。

 ヨハンは、猫が口をきいたので驚きましたが、偉大なる師匠の名誉のために大きく首を振りました。
「ちがいます。ぼくは弟子です」

「そうですか。むしろ、そのほうが好都合……いや、なんでもありません。ひとつ、頼みをきいてくれませんか」
猫はもったいぶって言いました。

「頼みとはなんですか?」
「なに、ちょいと魔法を使って、わたしを人間に変えてほしいんですよ」

 ヨハンは、驚きました。師匠にもできないことを、どうして彼ができるというのでしょうか。
「それは無理というものです。そもそもなぜ人間になりたいのですか?」

「ああ、想像してみてくださいよ。わたしは、王女さまと王妃さまの部屋を行ったり来たりして過ごしているのですがね。2人とも、キラキラする首飾りやら、色とりどりの羽根飾りを山のように持っているのですよ。しかも、それらを毎日使いもしないのに、毎週のように行商人から新しいのを届けさせているのです。あれらすべてにじゃれついたら楽しいじゃないですか。それに、肉や魚が次々と出てくる晩餐! 2時間もかけて楽しめるんですよ。すてきじゃありませんか」

 ヨハンは、晩餐のあたりは少し羨ましいと思いましたが、羽根飾りにじゃれつくとはどういう意味なのかがよくわかりません。一生懸命に師匠の真似をして言いました。
「人間はあなたの20倍ほどの重さがあるのです。足りない分は、どこから持ってくるというのですか。無理を言わないでください」

 猫は、ニヤリと笑いました。
「大丈夫ですよ。さきほど王女さまが癇癪を起こして言っていました。どうしても猫になりたいってね。ってことは、わたしと王女様を取り替えれば、過不足はありませんよね」

 いまひとつ頭がまわっていないヨハンは、そういうものなのかなと思いました。錬金術に詳しいとは言いがたいのですが、それで王女さまと猫が満足し、師匠の首がちょん切られないのならいい解決策だと思いました。

「そうかもしれないね。でも、いったいどうやったらきみと王女さまを取り替えられるんだろう」

 猫は、これは好都合とほくそ笑みました。ヨハンが、まっとうに考えだしたり、魔術師が戻ってきては大変と、いそいで魔術師の書見台に飛び乗ると、写本のページを器用にめくって、目的のページを見つけ出しました。

 そうです。この猫は、魔術に精通していました。お城に来る前は、年老いた魔女の元に住んでいたからです。

「ほら、これですよ。このページです。必要な薬草は、こことあそこの瓶に入っています。あとはトカゲの尻尾に、その鍋の中の液体を40滴。そして、この呪文をつぶやいて混ぜればいいんです」

 ヨハンは、自分で魔法薬の調合などしたことがなかったのですが、猫に馬鹿にされると思って、言われるがままに薬を用意しました。

 猫は、作ってもらった薬を瓶に詰めて首にぶら下げてもらいました。
「助かりました。恩に着ますよ」
そういうと、嬉しそうに出ていきました。

 やがて、魔術師ケミアスが戻ってきましたが、ヨハンはなんとなく猫のことは言わない方がいいと思って黙っていました。

 さて、猫は薬を持って王女の寝室に向かいました。
「王女さま、王女さま」

 王女は、魔術師にわがままを聞いてもらえなかったので、癇癪を起こして泣き疲れ、寝台に突っ伏していましたが、聴き慣れない声に驚いて周りを見回しました。すると、いつもの黒猫がじっとこちらを見ていました。

「わたしに話しかけたのは、おまえ?」
「そうですよ。魔法の薬をもらってきました。わたしと一緒にこの薬を飲むと、あなた様は猫になれますよ」

 王女もヨハンに劣らず思慮が浅かったので、猫がしゃべっていることや、魔術師ケミアスに言われたことも全く考えずに、よろこんでその薬を猫と分け合いました。

 さすが王国一の魔術師ケミアスの持っている写本と薬剤の効果は素晴らしく、王女と猫は姿が入れ替わり、誰が見ても氣がつかないほどでした。

 もっとも違いがわからないのは容姿だけでした。召使いたちは、王女がタペストリーで爪を研ぎ、蝶に飛びかかったので困ったように目配せし合っていました。

 また黒猫の世話係は、猫が急に餌を食べなくなってしまったので、王妃から叱責を受けるのではないかとヒヤヒヤしていました。

 それから3日後のことでした。王女と黒猫が、西の塔の魔術師ケミアスを訪ねてきました。

「これは、これは。黒猫の姿をした王女殿下に、殿下の姿をした黒猫殿。何のご用ですかな」
ケミアスは、横目でチラリと弟子ヨハンを眺めつつ、うなだれている1人と1匹に話しかけました。

 ヨハンは、3日前に自分のしたことをもう忘れかけていたのですが、当の王女と猫が訪ねてきただけでなく、師匠が入れ替わった1人と1匹の正しい中身を言いあてたことに仰天し、叱られるのだと思ってうなだれました。

 黒猫の姿をした王女が叫びました。
「どうか元の姿に戻してくださいな! あの薬を作れたんだから、元に戻す薬も作れるのでしょう?」

 ケミアスは片眉を大きく上げました。
「はて。あの薬とは何の話でしょうか」

 王女の姿をした黒猫が上目づかいをしながら小さい声で言いました。
「あの……あの写本にあった、体を取り替える魔法の薬で……その、ちょっと……ヨハンさんにお願いして……」

 魔術師は、コソコソとドアの方に向かっているヨハンを捕まえると、静かな低い声で訊きました。
「ヨハン。薬を作って渡したのか」

「お許しください。黒猫さんの言うとおりです。その本にあるように調合したら簡単にできてしまったので……お2人が入れ替わって満足したら、お師匠様の首もちょん切られないし、みなが幸せになると思ったのです」

 魔術師は、大きなため息をつきました。王女の奇行を案ずる城内の噂で王女と黒猫が入れ替わったことは、わかっていました。この魔術を可能にする材料は、その辺りには転がっていません。誰かが忍び込んで薬剤を盗み出したりしているとしたら由々しき問題だったのですが、黒猫とヨハンの仕業とわかったので、心の中で安堵していました。

 ケミアスは王女と黒猫の方を見て訊きました。
「それで、お二方は望んだ姿になったのに、どうして元に戻りたいのですか」

 黒猫の姿をした王女が言いました。
「生肉と生魚ばかり出てくるんだもの。食べられないわ。それに、ゆっくり寝ていると、犬が来て追い回すの。それどころか、ネズミが穴から出てきて前足をかじったのよ。あまりにも怖くて氣絶するかと思ったわ」

 魔術師は王女の姿をした黒猫の方を見ました。
「あなたも戻りたいのですか。王女殿下としての暮らしはお氣に召しませんでしたか」

「宝石や羽根飾りで遊ぶ時間なんて全くありませんからね。やれダンスだ、やれ行儀作法だと苦痛なことを押しつけられてウンザリです」

 魔術師は、王女の豪奢なドレスがあちこち裂けて、髪もひどく乱れているのを目の端で捕らえました。

「ヨハン。おまえが入れ替えたのだから、元に戻すのもおまえがやるか?」
ケミアスは、弟子に問いかけました。ヨハンは思いきり首を横に振ります。

 魔術師は、大きいため息をつくと、とても怖い顔をして王女と猫の両方に言いました。
「もし2度とこのようなことを望まないとお約束くださるならば、戻して差し上げます。約束できない場合は、残念ながら生涯その姿のままです」

 震え上がった王女と猫は声を揃えて言いました。
「「約束します」」

 重々しく頷くと、ケミアスは何やらブツブツと呪文をつぶやきながら、さまざまな薬草といくつかの鉱物をすりつぶしたものを、ドロっとしたスープに混ぜました。それを2つの器に入れると、1つには黒猫のに、もう1つには王女に渡しました。
「さあ、こちらを飲んでください」

 王女と黒猫は、いそいでそれぞれの薬を飲み干しました。ヨハンはこわごわと、何が起こるのか見ていました。

 1人と1匹は「うーん」と蹲ると、しばらく黙っていましたが、やがてのったりと顔を上げました。猫は猫らしく背中を丸めて伸びをし、王女はお姫様らしい動きで辺りを見回し、それから、はっとしたように嬉しそうな表情になりました。

「ああ、やっとこの姿に戻れたわ。まあ、なんてひどいかぎ裂きなのかしら、このドレス、氣に入っていたのに」
王女は、優雅に立ち上がります。

「なーぅ。体が軽い! こうでなくっちゃ」
そう言って、黒猫は書見台から棚の上へと飛び移りながら叫びました。

 王女は、先ほどまでのしおらしい態度はどこへやら、魔術師に言いました。
「こんなことになったのは、あなたの弟子教育が今ひとつだったせいでしょ。このドレスの損害だって、どうしてくれるの?」

 ヨハンは青くなりましたが、ケミアスは全く動じませんでした。
「その理屈では、王女殿下がこのようなことをなさった教育の責任を、王様にとっていただくために、これから謁見を願い出てもいいわけですね?」

 王女は真っ青になりました。王は非常に厳格な性格だったからです。
「お願い! 父上様には言いつけないで!」

「女王陛下になったおりに、首をちょん切ると脅された件についても?」
「そんなこと、しないから、それも言わないで! お願い!」

 王女が出て行った後、コッソリと出ていこうとする黒猫の襟足を、魔術師はつかみ持ち上げました。
「待ちなさい。君は、ただの黒猫ではないようだね」

 黒猫は観念してうなだれました。
「わたしは、薪の上で燃やされるのでしょうか」

 ヨハンは、ぎょっとして師匠と黒猫を代わる代わる見ました。

「それは君も嫌だろうね。わしも弟子が巻き添えになって火あぶりの刑に処されるのは、後味が悪いのでね。……君が今後はわしの監視下で大人しく働くなら、王様に寛大な処置をお願いしてみるがね」

 黒猫は大きく頷きました。ヨハンは、自分が一緒に罰せられて火あぶりにされるなんて思ってもいなかったので、びっくりしましたが安心して笑顔になりました。

 魔術師は、そんなヨハンを見ながら、のんきだなと思いました。どう考えても黒猫の方が優秀な弟子になりそうだったからです。

 ともあれ、黒猫はこの日から魔術師ケミアスに引き取られました。かなり抜けているヨハンと、調子のよすぎる黒猫は、お互いを補い合いながら修行に励み、のちにヨハンは、素晴らしい使い魔を持つ大魔術師として名を馳せたそうです。本当のところはわかりませんが。

(初出:2024年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】もう存在しない熱海へ

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第7弾です。TOM-Fさんは、紀行文風小説でご参加いただきました。ありがとうございます!

 TOM−Fさんの書いてくださった「『鉄道行人~pilgrims of railway~』 第二話

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。

「scriviamo!」には皆勤してくださり、毎回趣向を凝らした名作でご参加くださっています。今回書いてくださった作品は、『乗り鉄』としての知識と経験をフルに生かした紀行文的な小説、2022年の「scriviamo!」に参加してくださったシリーズの2作目です。つい先日、国内鉄道全線完乗という偉業を成し遂げられたというTOM−Fさんにとってとても思い入れのある作品ではないかと感じています。

鉄道会社、鉄道ファン、そして、日常の利用者それぞれに想いと意見があって、それぞれの言い分にはどれも納得・理解、または共感できるし、正解のようなものはないのだと思うのです。

美しい文章と描写で表現したTOM−Fさんの作品を読んで感じた、それらのあれこれを何とか自分なりの感情にまとめようとしたのですが、結局その三者をどこかに置き去りにして、自分と鉄道のノスタルジーだけを強調する作品ができてしまいました。

不毛でオチはない作品ですが、日本中の鉄道に乗りまくったTOM−Fさんなら「知っている!」とおっしゃられるはずの古いネタがあれこれあるかと思います。


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もう存在しない熱海へ
——Special thanks to TOM−F-san


 灰色の通路を降りていく。ここはいつも工事中だと思う。以前はそれを嘲笑したものだが、いまはむしろそのことにホッとする。変わらないものがあることはいい。

 横浜駅で東急東横線からJR東海道線に乗り換えるのは何回目だろう。

 記憶にある限り、ここはいつもひとりで乗り換えた。幼いとき、母に連れられて乗ったのは新幹線だったから菊名駅で乗り換えて新横浜駅に向かった。高校生になって以降、ひとり旅で東海道本線に乗ったのは、もちろんそれが経済的だったからだが、他にも理由があった。

 熱海の祖母の家に向かう道中、わたしはいつもひとりだった。たぶん、そのひとりの時間を少しでも引き延ばしたかったのだと思う。

 わたしの子供時代は、自然災害や戦火から逃げ惑う世界の氣の毒な子供たちどころか、日本にもいくらでもいる苦労人たちと比較しても、十分すぎるほどに恵まれていた。にもかかわらず、わたしは幸せではなく、無力な未成年であることに苦しみ、早く自由な大人になりたいとひそかに願い続けていた。

 それでいて、道を踏み外すほどの勇氣も無かったので、平凡で灰色の日常がただ過ぎ去るのを待っていた。学校の長期休暇に、少ないお小遣いを持って、熱海の祖母のところに遊びに行くことが、ほぼ唯一の心ときめく大冒険だった。

 新幹線が30分で走りすぎる道のりを、鈍行列車は80分以上もかけて行く。その時間をあの頃のわたしはひたすら楽しんだ。

 今日のわたしは、ないとわかっているものを探すために、同じ路線に乗る。

 ホームに上がる前に、駅弁を買うために売店に立ち寄る。探している駅弁は今日もない。

 そんなに難しい注文ではない。ただのお好み弁当だ。幕の内風にいくつかのおかずが詰まっていた。魚のフライ、卵焼き、ひき肉と筍の和え物、唐揚げ。

 以前はいつ行っても同じようなお弁当があったのに、いまは流行らないのだろうか。だから、次に食べたいシウマイ弁当を買う。少なくともこれはまだ存在することが嬉しい。

 昔はあったプラスチック容器、ポリ茶瓶に入ったお茶はどこにもないので、しかたなくペットボトルのお茶も購入する。

 すべてはこの調子だ。あの頃を探して見つけられない。

 ホームに入ってくる東海道本線は銀の車体に緑とオレンジの線が入っている。オレンジ地に上下が緑だった113系に乗れるはずはないのだ。でも、わたしはいつもそれを期待している。

 かつてはいつ乗ってもボックスタイプの座席があったけれど、いまは通勤列車風の長椅子座席が多い。ボックスタイプでないと駅弁が食べにくい。それで、やむを得ずグリーン券を購入する。グリーン車ならば長椅子ではないし、それに、東京駅からでなくとも座れる可能性が高い。

 到着を待つあいだ、近くのホームで電車が到着し、防護柵が開閉する度に、さまざまな電子音でのアラームが鳴り響き、心地よく爽やかで特徴のない女性の声で録音されたアナウンスが響く。そして、それに何人もの男性のアナウンスが被る。

 つまり、駅は常になんらかの音声が鳴り響いている。そうだ、これが日本の都会だった。わたしは苦笑いする。記憶の中にこの引っ切りなしに畳みかける音声はない。もしかしたら、当時もそうだったのかもしれないが、当時のわたしにはノイズキャンセル機能が備わっていたのかもしれない。

 憶えている音声は、鳥の声、蝉の合唱など、自然の音ばかりだ。

 平日、通勤時間帯でもないので、グリーン車の停車位置で待っている客は少ない。また、東海道本線は必ず横浜駅で停車するからなのか、防護柵も設置されていない。

 静かに到着した列車は、速やかに出発する。わたしは、せっかくなので2階席に上がる。海を見たかったので進行方向左側を探した。窓際に1人で座ることができてホッとした。思った以上に空いている。

 きれいな青空の下、電車は静かに走っている。まるで新幹線のようだ。電光掲示板、滑らかな女性のアナウンス、英語も続く。

 グリーン車の内装は、展望を考えた窓や、リクライニングもできるシート、そして、頭上にライトがついていたり、折りたたみテーブルがあるところなど、至れり尽くせりで飛行機のようだ。

 昔座った青いビロウドの四角い対面型ボックス席は、当時ですらレトロめいていた。足元の暖房が熱すぎるほどで、たまにシートが焼けているんじゃないかと思うような特別の香りがしたものだ。

 隔世の感があるが、それも当然のことだ。もう何十年も前なのだから。

 窓の外には都会らしい街並みから住宅街に変わって、さまざまな光景が流れていく。

 日本で初めて長距離電車に乗った外国人は、大都市間に郊外といえる景色がないことに驚いたと口を揃える。たとえば東京と横浜のあいだに、田んぼや牧草地だけの光景などはない。ひたすら都市部としかいいようのない建築物のみの光景が続く。

 とはいえ、よく注意して見ると、その光景は決して同じではない。横浜駅を出て大船あたりまでくると、線路から家までの距離はずっと遠くなってくるし、途中駅で待つ人びとの姿も明らかにまばらになっていく。街ごとの人口密度が大きく違うのだろう。

 相模川を越えると、住宅街が姿を消す。青空の下、白い工場や倉庫群が灌木に混じって見える。平塚に到着するというアナウンスが聞こえた。

 あまりのんびり車窓を眺めていると食べ損ねるので、駅弁を開ける。

 ほかの幕の内風弁当ではなく、シウマイ弁当を選んだ理由の1つが木箱だ。このほのかな木の香りに、格別ノスタルジーがある。それに、プラスチック製容器で食べるよりもご飯が美味しく感じる。

 大磯駅を過ぎた辺りから、待ちわびていた太平洋が遠くに見え始める。

 高校生のわたしが、通る度に心躍らせた光景だ。普段の生活圏からは東京湾だってめったに目にする機会はなかったけれど、熱海行きで見える海は、わたしにとって特別だった。汚れていない海の青さは、紛れもなく旅をしているのだと実感させてくれる。

 太平洋は変わらなかった。空よりも一段深い青でどこまでも広がっている。平らで、穏やかだ。

 電車は淡々と進む。二宮、国府津、鴨宮。鈍行に乗らなければ、存在すらも知らない街だけれど、わたしがかつて、1つ1つ心躍らせていた駅名だ。お城で有名な小田原。それから、早川、根府川、真鶴、そして湯河原まで来ればもう次は熱海だ。

 時おり通り過ぎる家の庭木に、取り損ねたミカンが見える。それも、懐かしい光景の1つだ。

 遠く霞んでいるのは初島だろうか。そう思った途端、小さい頃の思い出が蘇る。

 1度だけ母に連れられて行った。母は、決して安くはないフェリーの運賃を払って姉とわたしをわざわざ連れて行ってくれたのだろうが、岩場で見たフナムシにキャーキャーと怯え大騒ぎしたことしか憶えていない。

 何もない島という印象しかなかったのだが、今では、首都圏から一番近いリゾートアイランドとして、グルメスポットやマリンスポーツの拠点、アドベンチャー施設などのあるお洒落で明るい島を売りにしているようだ。

 熱海自体も、高校生のわたしがひとりで歩き回った街とは違っている。

 かつて温泉保養地として名を馳せた熱海は、バブル崩壊後に衰退して1度は侘しいシャッター街になってしまった。それを憂えた地元の人たちの努力と、若者たちを中心とした観光客への新たなマーケティングで、今はまた別の賑わいを見せるようになった。

 2000年前後の、ひどく廃れた街の様子には心を痛めたが、現在の若者で賑わうスポット、行列のできるグルメ店の様子を見ると、やはり別の意味での違和感を感じる。ここは、わたしが知っていた頃と同じ街ではないのだと思い知らされるのだ。

 なにもかもが変わってしまった。熱海も、わたしも、家族も。

 バブル期の訪れる前の、街全体が温泉リゾートか巨大な老人ホームの様相を示していた一時期に、わたしは熱海に通っていた。

 たくさんの高齢者向け分譲マンションがあり、引退した人びとが住んでいた。それぞれの部屋に住みながら、ロビーがあって管理人や看護師が常駐し、食堂や大浴場などで交流する、ゆるい共同生活をしていた。

 そのすべてが、もの珍しくて好ましかった。当時はまだ若くて元氣だった祖母が、山歩きに趣味の陶芸にと1人暮らしを楽しんでいた様子が、わたしの熱海への憧れにつながったのだと思う。

 祖母と部屋で遊び、小さなコンロで焼いた磯辺餅を食べ、屋上から海上花火大会を見た。温泉浴場にゆっくりと浸かり、近隣の山道を散策した。

 東京では見かけない運賃後払いのバスで街の中心に出かけると、大きなホテル裏手の配管から温泉の香りが漂っていた。

 商店街は、少し古くさく感じられる店が多かった。そう、あれは紛うことなき昭和の時代だった。

 街の中心にヤオハンというスーパーマーケットがあった。ひとりで行ったときには、普段は添加物が多いと買ってもらえなかった廉価な3個入りプリンを買ってひとりですべて食べた。

 もっと幼い頃は、母と姉と一緒に最上階のレストランに行った。なんでもない冷やし中華も、熱海で食べているというだけで特別美味しいと感じていた。

 そのヤオハンがなくなってしまったのは、最近のことではない。流通業界の再編は、地方都市では早かった。

 今でも当時食べていたいくつかの憧れの食べ物は、例えば東京で入手することができるのだろうが、それはきっとあの時のように美味しくはないのだろう。あの頃の熱海ではないのだから。

 大好きだった祖母はもうこの世にはなく、彼女が熱海で住んでいた高齢者向け分譲マンションの部屋もとっくに売却された。

 あの頃息苦しくてしかたなかった、逃げ出したくてたまらなかった学校と生活は遠い記憶の彼方に沈み、父母ももうこの世にはいない。姉もわたしも家庭を持ち、実家すらもうなくて、わたしは日本に帰る場のない存在になってしまった。

 わたしは異国に住み、生活費を稼ぎ、したくないことをせずに済む自由を手に入れた。所有する車のキーを回し、アクセルを踏むだけで、実家と熱海を隔てるのと同じ100キロメートルを容易に移動することができる。

 何十万円に相当するチケットを購入し、1万キロメートル離れた日本に里帰りして、思い出の地を訪ねたいからという理由でこうして電車に乗ることに誰の許可も必要としない。

 あれほど逃げ出したかった世界から、完全な自由を得たはずなのに、思い出すのはあの頃のことばかりだ。

 どこにも行けなかった、悲しくて情けなかったあの頃には、今はどれほど望んでも会えなくなってしまった人たちが当たり前のように存在していた。

 ひとりになりたくてしかたなかったあの頃には、もう2度と会えなくなってしまった人たちの面影を探しながら日本を彷徨う未来があるとは想像すらしなかった。

 わたしは、いまの、現代的でおしゃれな店に背を向ける。そして、楽しそうな観光客たちが向かわない、海岸の果てに立った。

 波の音が、あの頃と同じように繰り返す。

 東海道本線を走っていた113系の車体や、暖房の効きすぎたビロード張ボックス席や、ポリ茶瓶に入ったお茶や、ヤオハンや、昭和らしい街角の存在しなくなってしまった熱海に、かつてと同じように押し寄せる。

 わたしが思い出を共有した人がまったくいない海岸。

 おそらく未来のいつか、わたしがこの世に存在しなくなっても、この波はまったく変わらないだろう。

 帰りは、新幹線で帰ろう。わたしは、熱海駅に向かいながら考える。ただでさえ失われた世界に感傷的なわたしが、夕闇の差し込む東海道本線の郷愁に80分以上も堪えられるとは思えないから。
 
(初出:2024年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】ケファの墓標

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第6弾です。ポール・ブリッツさんは掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!

ポール・ブリッツさんの書いてくださった 『城』

ポール・ブリッツさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や哲学論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。毎年ポールさんのくださるお題は手加減なしで難しいんですけれど、今年もまためちゃくちゃ難しかったです。

ポールさんがくださったお題は、ジャンルとしてはファンタジーとなっていましたが、読む方によってものすごく解釈が分かれそうな作品です。ロールシャッハテストみたいな?

今日発表する作品は、ポールさんの作品の中から、いくつかのキーワードをいただいて再編成して書きました。ポールさんが意図なさったお話とはかけ離れているとはわかっているんですが、あえてこんな風に書いてみました。


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ケファの墓標
——Special thanks to Paul Blitz-san


 テベレ川の向こうがゆっくりとオレンジ色に染まっていく。遠くアペニン山脈の稜線が空とオレンジに染まるローマの街を分けている。

 ローマの街を一望する高さ88メートルのジャニコロの丘は、下町トラステヴェレ地区の近くにある。その素晴らしい光景は、古くから詩人や画家たちに愛された。かつてヤーヌスの神殿があったことにちなんで名付けられたといわれるが、現代この丘ででもっとも注目を集めているのは、ガリバルディ広場に立つジュゼッペ・ガリバルディの堂々たる銅像だ。

 この丘の中腹に、わたしの目指している建物がある。サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会だ。この場所は、イエス・キリストの12使徒の筆頭であったシモン・ペテロの殉教地といわれている。

 眺めのよい広場から素晴らしい展望が広がる。南東には、サンタ・マリーア・イン・パルミス教会、通称ドミネ・クォ・ヴァディス教会があるはずだ。

 カトリックの伝承では、ローマでの迫害から逃れようとしたシモン・ペテロが、ここで天に帰ったはずのイエス・キリストと遭ったとされている。

主よ、どこへ行かれるのですかDomine, quo vadis ?」
そう問うペテロにイエスは答えた。
「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ行く」
自分の命を惜しんだことを恥じたペテロは、ローマに戻り殉教したという。

 これは2世紀末に小アジアで書かれた『ペテロ行伝』に書かれているエピソードであるが、信憑性については疑問視されている。この教会の建てられた場所が、もともとはローマの再来の神レディクルム神への祭儀に関連しており、シモン・ペテロが引き返したこととの連想で、異教を信じる人びとを取り込む目的に使われた可能性が高い。

 だが、現代イタリアや、世界宗教の1つとなったキリスト教を信じる人びとのあいだでは、そうした背景そのものはもうどうでもいいことなのかもしれない。

 遠くシリア属州ゴラン平原で生まれた漁師ヨハナンの子シメオン(シモン)はガリラヤの地、湖でナザレのイェーシュア(イエス)に従い弟子となった。彼を救済者メシアと信じ、その信仰を告白した。その時に彼は『ケファ 』という二つ名をもらった。

そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ である。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

マタイによる福音書16章15-19



 ローマカトリックの初代教皇とされる聖ペテロのシンボルが鍵なのは、この記述に基づいている。存命中から十二使徒のリーダー的存在かつ原始キリスト教団の中心的存在でもあったが、同時に人間くさい面も併せ持っていた。

 イエスが捕らえられ裁判にかけられたとき、彼は他の使徒たち同様に逃走した。そして、「あなたはあのイエスの仲間だ」と言われ、彼は3度までそれを否定した。そして、「鶏が2度鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」というイエスの言葉を思い出して泣いた。

 神の子に天国の鍵を預かるまでに信頼された弟子にしては、非常に脆い心と態度であるが、むしろこれこそが人の本質であり、それでも最後には勇氣を振り絞って信仰の道を全うしたことが、崇敬の念を集めているのかもしれない。

 ジャニコロの丘に建つサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会も、ローマの多くの教会同様、多くの美術作品で装飾されている。教会が閉まる時間が迫っているので、巨匠の作品をじっくり観察するのはあきらめて、ここに来た目当ての建物を目指す。

 ブラマンテのテンピエット。教会の中庭に、ルネサンスの建築家ドナト・ブラマンテが建てた殉教者記念礼拝堂だ。

 古代神殿に似た柱に支えられたドーム屋根が載った建築は、盛期ルネサンス建築の最高傑作と讃えられると同時に、アンドレア・パッラーディオに継承されて、その後のあらゆるドーム型建築の基本になった記念すべき建造物だ。

 建物の中心、聖ペテロ像の前に格子状の覆いのついた小さな穴があり、地下のクリプタが見えるようになっている。こここそが聖ペトロが逆さ十字架に架けられたと信じられている位置だ。

 ほんとうかどうか、確かめる術はない。それどころか聖ペテロがローマで死亡したことを示す歴史文書も存在しない。

 わたしは、ただ、自分と同じように弱くて、幾度も迷った人物が、背負うにはあまりにも重い重責を載せるケファとしての運命を受け入れたことに、敬意を示すためにこの地を訪れたのだ。

 中世以来ここは聖ペテロの磔刑の跡地として巡礼者を集めていた。小さな土塁でしかなかった土地に、スペインのカトリック両王フェルディナンド2世とイザベラは、1480年から1500年頃にかけて、サン・ピエトロ・イン・モントリオ修道院を建てさせた。

 わたしは、いろいろなことを考えながらモザイクに彩られた緑色の円を眺めた。

 陰氣な顔をした係員が、「時間だ」と言った。18時まではまだ2分ほどあるが、早く帰りたいのだろう。わたしは、頷いて出口に向かった。

 あたりはすっかり暗くなっていた。夜鳴き鳥が、静寂を破る。松のあいだを風が渡っていく。肌寒い。

 ガリバルディ広場へ戻り、ホテルのあるロヴェレ広場を目指して115番バスに乗った。

 バスは空いていて、わたしの他には前方に若い観光客が1人座っているだけだった。

 ロヴェレ広場に着く少し前に、その観光客は「おお」といってスマートフォンを構えた。

 左側にサン・ピエトロ大聖堂の大きなドームが見えている。いうまでもなくローマ・カトリック教会の総本山、バチカン市国にあるキリスト教最大の教会建築だ。
「うわ。やっぱりすごいな。なんて立派な建築なんだろう!」

 その言葉にわたしは複雑な想いを抱いた。
 
 聖ペテロの墓所があったとしてやはり信仰を集めていた場所に、最初の聖堂が建築されたのは4世紀である。この場所が本当に聖ペテロの墓であったかどうかは考古学的には立証されていない。ここにはかつて皇帝ネロの競技場があって、64年の大火の罪を背負わされたキリスト教徒たちが見世物として処刑されたとされている。大聖堂の地下にアウグストゥス時代のコインを奉献された墓所が出土しているので、少なくともここが初期キリスト教徒たちの信仰の対象地であったことは間違いない。

 地下墓所の祭壇跡の真上に、教皇の祭壇が位置し、この場所が初代教皇とみなされる聖ペテロの墓所であると全世界に宣言している。

 初代大聖堂は、ヨーロッパ最大の教会堂ではあっても、当時のキリスト教総本山たる主席教会堂ではなく1つの巡礼記念教会堂にすぎなかった。

 だが、ブラマンテが2代目サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命されたときは、すでに600年以上にわたり首席教会堂となっていた。

 ブラマンテは大きなドームを戴く回転対称にこだわったギリシャ十字形の集中式プラン大聖堂をデザインしたが、アーチと内陣部分が完成した時点で死去した。

 彼の死後に仕事を引き継いだ主任建築家らは、それぞれ完成を待たずに亡くなり、大聖堂の計画プランもその都度変更された。

 ミケランジェロが主任建築家となって、再びブラマンテのギリシャ十字集中式プランに戻し、のちにファサードが追加された以外は現在でも見られるサン・ピエトロ大聖堂の姿になった。

 その建築の最中にも、キリスト教会そのものが大きな転換期を迎えていた。贖宥状販売は、サン・ピエトロ大聖堂の建設のための大きな財源となっていた。それはマルティン・ルターが批判して宗教改革、ひいてはプロテスタント教会の成立を促した。また、1527年ドイツ王かつスペイン王であるカール5世によるローマ略奪がおきるなど、カトリックの権威と永遠の都だったはずのローマは斜陽の状態にあった。

 財政難と政争の中で、幾度も中断されたあげく、ほぼ現在見られるサン・ピエトロ大聖堂が完成したのは1680年だった。

 高さ25.5mのオベリスクを中心としたサン・ピエトロ広場、教皇が祝福を与えるバルコニーのある2階構造のファサード、観光客が 「スタンダール症候群」なる強迫観念の精神状態になるほど詰め込まれた膨大な芸術作品、持てる権力と財力を誇示するかのような内陣の青銅製大天蓋など、サン・ピエトロ大聖堂の威容を語るには言葉が尽きない。

 それは美しく壮大で感嘆の声を呼び起こす。けれど、その建物は、2000年前に信者たちが迫害を怖れながらも心を込めて祈っていた場とは、あまりにも違う存在になってしまった。 

 それを建てる際には、たくさんの贖宥状が売られ、ルネサンスの聖職者たちは豪奢な宮殿で放埒な生活を送り、石材を流用するために古代遺跡をも破壊した。神の代理人を名乗る教皇が庶子を儲けてその影響力を利用し我が子に一国を治めさせるような不品行が公然と行われていた。

 イエス・キリストがケファの上に建てた教会は、天国の鍵を預けられて自分の弱さを悔やみ泣きながらローマに戻り殉教したシメオンの墓は、そのような威容と豪奢を必要としたのだろうか。

あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。

マタイによる福音書23章27-28



 わたしはサン・ピエトロ大聖堂を眺めながら心の中でつぶやいた。
「2000年前に、ケファがあった……」

 すると前の席にいた観光客が怪訝な顔をしてこちらを見つめた。

 どうやらわたしは、モノローグを心の中にしまっては置けずに、音に出してしまったらしい。恥ずかしい想いをごまかすために、窓の外のローマを眺めた。

(初出:2024年2月 書き下ろし)



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ジャニコロの丘と言ったら、誰がなんといおうとこの曲なんですよ。わたしには。


Respighi - Pines of Rome  Karajan Berlin Philharmonic
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Posted by 八少女 夕

【小説】緑の至宝

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第5弾です。津路 志士朗さんは、もう1つ掌編で参加してくださいました。ありがとうございます!

 津路 志士朗さんの『魔法の呪文にも色々ある件について。』

志士朗さんの2つめの参加作品は、『揃いも揃ってクラスメイトの癖が強い。』の北条くんほか高校生たちのお話です。

下記のCプランのお題を組み込んで書いてくださいました。

今年の課題は
*ご自分の既出のオリキャラを一人以上登場させる
 メインキャラ or 脇役かは不問
 キャラクターであれば人どころか生命体でなくてもOK
*季節は「秋」
*身の回りの品物を1つ以上登場させる
*交通手段に関する記述を1つ以上登場させる


こちらも直接絡むのは難しかったので、「呪文(この作品ではマントラ)」をテーマに作品を書いてみました。「魔法の呪文」に読めないこともないですが、その辺りはわたしの作品なので「単なる偶然か、科学的にどうにか説明のできる事象なのかも?」にとどめてあります。

ちなみに、こちらに出てくる神様だかなんだかわからない存在は、実はこの作品で登場させたことがあります。


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緑の至宝
——Special thanks to Shishiro-san


 ライナスは、鋭い目つきで辺りを見回した。少なくとも4人の男たちにドハティ卿を載せる輿を担がせる予定だったが、現地人たちの抵抗で用意することができなかった。それで、アーナヴが簡易椅子を背負う形になり、前を見られない卿は機嫌が悪い。だが、他に方法はない。目指す寺院は、車が入れるような所ではなく、車椅子すら通れないような足元の悪い隘路の先にある。

 夜明け前に出発しなくてはならないので、夜行性の野生生物に出くわす危険もあるが、ここ数日の高温を考えれば卿の健康にはいい。アーンドラ・プラデーシュ州は、デカン高原に位置するハイデラバードとは違う。真夏ではないのに、日中は40度近くまで上がり、湿度も高い。南東インドは、体調のよくない高齢者に心地いい氣候ではない。しかし、卿は自分で行くと言い張った。

 ライナス自身もこの近辺に足を踏み入れるのは初めてだ。子供の頃にハイデラバードに住んでいたため、簡単なテルグ語を理解できる彼は、それが決め手でドハティ卿の側近に取り立てられた。青年期にイギリスに戻って以来、インドにもヒンズー教寺院にも縁の無い生活をしてきた。そう、興味はほとんどない。インド人の女にもだ。

 ハリシャに近づき、心にもない愛の言葉で懐柔したのは、もちろん例のマハーマーユーリー寺院に到達するための足がかりがほしかったからだ。結局、ハリシャの父親アーナヴが卿を背負い寺院まで案内することを考えれば、ライナスの企みは成功したといってもいいだろう。

 欲しいものを手に入れた後は、黙ってインドを去る。ハリシャもアーナヴも追ってくることはできない。それを見越して、ライナスは彼に関する情報はすべて虚偽のものを伝えてある。

 秘密主義のドハティ卿が、ライナスに手の内を晒してくれたのは、数ヶ月前のことだった。東インド会社時代にこの地にいた4代前のドハティ卿の妻、レディ・アイリーンが残した日記にこの地とマハーマーユーリー寺院のことが書かれていた。

 1860年代、ゴールコンダ・ダイヤモンドで有名なコルール鉱山が操業していた最後の時期だ。ドハティ卿があれだけの財をなしたのは、おそらくゴールコンダ・ダイヤモンドの恩恵があったのだろうとライナスは想像している。

 王冠に取り付けられた《コ・イ・ヌール》や呪われた青ダイヤとして有名な《ホープ・ダイヤモンド》など宝飾史に残る名ダイヤモンドの多くがコルール鉱山で産出されたと考えられている。

 いまや、枯渇し廃鉱され過去のものとなってしまったコルール鉱山だが、レディ・アイリーンの時代にはまだ重要視されていた。

この村のマハーマーユーリー寺院については、暗号のように書くことにとどめます。親切なラージュに連れられて、わたしは早朝に川の向こうにたどり着きました。ああ、なんということでしょう。未開の地と思われているこの奥に、わたし達など及びもつかぬ世界が存在したのです。わたしは、この目で見たことを夫にすら言うことはできません。もしこれが知られたら、海の向こうからおそろしい勢いで何もわからぬハイエナたちが押し寄せてきて、すべてをめちゃくちゃにしてしまうことでしょう


 ドハティ卿は、レディ・アイリーンの日記の1ページを指し示して、ライナスの反応を待った。

「これは……」
「そうだ。彼女は、このとき療養のため別邸に滞在していた。ハイデラバードに残っていた夫には、何を見つけたのか伝えなかったのだろう。そうでなければ、もっときちんとした形で我が家に伝わっているはずだからね」

「では、あなたはレディ・アイリーンの見つけたものを探しすためにアーンドラ・プラデーシュに行くおつもりなのですね」
「そうだ。コルール鉱山ではなく、クリシュナ川沿いの小さなこの村に行って、マハーマーユーリー寺院とやらを見つけねばならぬ。しかも今年中に」

「なぜ今年なのですか」
ライナスは首を傾げた。この古い日記の記述を、卿はずっと知っていて、80歳近くになるまで探しに行かなかったのだ。40年ほど前なら、関節痛で100歩も歩けないなどということもなく、体力的にもずっと楽だっただろうに。

 ドハティ卿は、日記の別のページを開けて見せた。

ああ、どうか170年後のわたしの子孫が、この日記を読んでくれますように。その時代の人びとが今よりも精神的に円熟し、マハーマーユーリーの《緑の至宝》の真の価値を見いだせますように。そうでなければ、さらに170年待たなくてはならないでしょう


 ライナスは、考えつつ言った。
「170年に1度だけ。つまり、何らかの周期でこの《緑の至宝》とやらが現れる、見つけやすくなるということなんですかね」

 卿は頷いた。
「おそらくそうだろう。その隠された秘宝が現れるのが、今年というわけだ」
「《緑の至宝》とは、宝石でしょうか」
「おそらく緑のダイヤモンドだろう」
「ダイヤモンド?! エメラルドや翡翠ではなくて?」
 
「他の地域ならエメラルドなどもあり得るが、コルール鉱山のすぐ近くで他の石とは考えられないな。きさま、《ドレスデン・グリーン》は知っているだろう」

 卿の言葉にライナスははっとした。世界的に有名な珍しい緑のダイヤモンド。
「あれもゴールコンダ・ダイヤモンドなのですか。年代的にブラジル産なのかと……」

「インド由来だとする資料はなく推測の域は出ないが、ゴールコンダ・ダイヤモンドだと推測する根拠はある」
「それは?」

 卿は得意そうに語った。
「中がほとんど無傷で、窒素のほとんど混じらない透明度の高いタイプIIaなんだよ。41カラットもあるのに。IIaダイヤモンドは、すべてのダイヤモンドの1%未満しかないんだ。そして、それはゴールコンダ・ダイヤモンドの特徴なのだ」

 ライナスは息を飲んだ。
「では、あなたは、レディ・アイリーンがそのマハーマーユーリー寺院で《ドレスデン・グリーン》クラスのグリーン・ダイヤモンドを見つけられたとお考えなのですね」

「わしはそう考えている。マハーマーユーリーは孔雀を神格化した女神だから、緑色の宝石が奉納されている可能性は高い。盗難よけか神事かの理由で、170年に1度しか顕現しない仕掛けをされていたのを偶然彼女は目にしたのだろう。だが、彼女は、それを持ち帰ることはできなかった。だから、子孫にわかるように日記にそれを示唆したのだろう」

 それから数ヶ月が過ぎた。先にインド入りしたライナスは、首尾よく村の娘ハリシャと懇ろになり、村に定住したがる善良な外国人の演技を続けた。森の奥に地図に載っていないマハーマユーリー寺院があることも確認した。マハーマユーリーの祭があることを知り、その日に合わせてドハティ卿が先祖の足跡を追う金持ちとしてやって来た。

「なぜほかの男たちは、このご老人を運ぶのを断ったんだ」
ライナスは、アーナヴに訊いた。暗い足元を照らすために額につけたハロゲンライトが、アーナヴの浅黒い横顔を浮かび上がらせたが、背中にドハティ卿を背負う重みに俯きながら歩く男の表情はよくわからない。
「あの寺院は観光名所ではない。とくに今朝は……」

 ライナスは、森に先ほどまでは聞こえなかった鳥の囀りが始まったので、見回した。
「君1人で背負ってもらうことになったのは氣の毒だが、他に案内してくれる村人がいなかったのは予想外だったよ。……夜明け前に間に合うと思うか?」

「ええ。もう、そう遠くありません」
アーナヴの言葉の通り、直に川のせせらぎが聞こえてきて、木々が途切れる場所に出た。そこに見えている地平線近くはわずかに薄紫色に変わりだしている。吊り橋があり、アーナヴに続いて渡った。

 それから5分も歩かないうちに、不意に森は途切れ、何もない村しかない地域には不釣り合いなほど大きな石造寺院が現れた。一緒についてきたドハティ卿の部下や医者らが口々に驚きの声を上げた。

 その寺院は、苔やつる性の植物に覆われ、決していい状態とは言えないが、巨大な一枚岩を削り出して作ったと思われる楼閣にはたくさんの彫刻が施されている。

 アーナヴは、そっと腰を落とし、ドハティ卿を降ろした。ドハティ卿はようやく目指したマハーマーユーリー寺院を自らの目で見ることができた。
「これが!! さあ、中に入るぞ」

 だが、アーナヴは、どういうわけか寺院の正面にではなく、今やって来たばかりの川の方向に向いて、跪き頭を地面にこすりつけた。

「何をしているのだ。この寺院の中に、神像があるのではないのか?」
ライナスが訊き、アーナヴは答える。
「はい。しかし、今の時期は神像ではなく、マハーマーユーリーご本人に敬意を示すのが正しいのです。ハリシャは説明しませんでしたか?」

「ハリシャは、今朝寺院にいけば《緑の至宝》を目にするでしょうと言っていたが……。神像に緑のダイヤモンドがついているのではないのか?」
ライナスは、言葉をきちんと理解していなかったのか不安になった。

 アーナヴは不思議そうに見た。
「緑のダイヤモンド? いいえ。《緑の至宝》はダイヤモンドではありません」

「ダイヤモンドではない?!」
ライナスが大きな声を出し、ドハティ卿は、英語に通訳するように命じた。

「ダイヤモンドではないとしたら、《緑の至宝》とはなんなのだ!」
ドハティ卿は、急いで暗い寺院の中に入っていき、目をこらした。寺院の中は、緑色のつる性植物で覆われている。その奥に非常に大きい神像、孔雀の羽を広げた装飾の神像があった。

 ドハティ卿が、ライナスとアーニヴに説明を求めようと再び入り口に向かったとき、夜明けが輝きだした。

 そして、真っ赤に燃え立つ地平線を背に、誰かが歩いてくるのが見えた。

「ハリシャ?!」
ライナスは、アーニヴの娘、今のところは自分の恋人と目されている女の名を叫んだ。しかし、近づいてくるその人物は、純朴な村娘その人ではなかった。

 美しい顔は、女のようでも男のようでもあった。体つきも華奢ではあるが、女性らしい膨らみやくびれはない。そして、わずかにではあるが自身から光を発しているように見える。それともそれは夜明けの特別な光と朝靄が見せる幻影だろうか。

 アーニヴは、自分の娘には決してしないような態度でひれ伏した。その人物は、緑色の光沢のある布を身に纏っている。そして、ゆっくりと孔雀の派手な尾羽が後ろに広がった。いや、それも目の錯覚かもしれない。そのような装飾の服を着ているだけなのかもしれないのだ。

 近づいてくるその人物のはるか後ろには、一緒にここに来るのを拒んだ村人たちが続いていた。怪我をしている者や、長らく病で寝込んでいた老女までが行列をなしていた。

 孔雀の羽根飾りをつけた人物と村人たちは、ドハティ卿の一行が目に入らないかのように通り過ぎて、寺院の中に入った。それに続くアーニヴの姿で我に返ったライナスは、ドハティ卿に手を貸し、一緒に寺院の中に入っていった。

 寺院の中にも朝日が入り、中の様子がよく見えるようになっていた。緑の服装の人物が、神像に背を向けて立った。神像と人物の背丈はまったく一緒で、神像の姿は完璧に隠れ、緑の服の人物がちょうどマハーマーユーリー神像そのもののように見えた。

 やがて、その人物は朗々とマントラを唱えだした。孔雀の尾羽は震えてさらに広がって見えた。

 寺院の高い天井は、その声を反響させた。

「こ、この声は……」
ドハティ卿は、ライナスを見た。

「マントラですね。サンスクリット語の呪文のようなものです」
ライナスは小声で説明した。

「だが……この残響はいったい……」
普段は威圧的で居丈高なドハティ卿が、珍しく不安そうな様相で寺院の中を見回している。

「インド人は、マントラの振動が、人の意識やエネルギーに直接的に作用すると信じているそうで……もちろんわたしはそんなことは信じていなかったのですが……」
ライナスもまた、意味はわからないものの、寺院内に満ちる力強い音響に脅威を感じている。

 やがて、村人たちが唱和しはじめた。寺院内はもっと大きな響きに満ちた。

 長い残響が消えると、寺院内は静寂に包まれた。そして、ライナスは寺院の外に激しい雨が降っていることに氣がついた。その雨は、まるで滝のようで、イギリス人たちは顔を見合わせた。

 雨は長く続かず、また突然に止んだ。太陽の光が森の木々に残った雫に反射して輝いている。村人たちは、喜んで寺院から出て行った。

 ライナスは、先ほどまで足を引きずっていた男や、弱々しく歩いていた老女が、颯爽と歩いていることに氣がついた。驚いてドハティ卿をみると、彼もまた背が伸び、10歳以上も若返ったかのように足を動かしている。

「どういうことだ。痛みが全くない……」
卿は首を傾げている。同行していた医者が驚いて駆け寄った。
「まさか! あの関節の状態で、そんな風に歩けるはずはないのに……」

 ライナスは、驚いて孔雀の羽をつけたあの人物を見ようとした。だが、そこには石の神像があるだけで、あの美しい人物は影も形もなかった。

「孔雀は毒蛇を食べます。マハーマーユーリーは、毒蛇や病などあらゆる災難を取り除くのです」
アーニヴが、ライナスの困惑した顔を見て言った。

「あれは、一体だれなのだ。ハリシャに似ていたが、お前の親族なのか?」
ライナスが訊くと、アーニヴは首を振った。

「私の親族ですって? とんでもない。あの方が170年に1度しか現れない《緑の至宝》マハーマーユーリーです。病を癒やし、雨を降らせ、毒や災難を取り除きます。それだけでなくかのマントラは人間の3つの毒である欲・怒り・愚かさを滅して安楽をもたらしてくれるのです」

 ライナスは、動揺しつつもアーニヴの言葉をなんとかドハティ卿一行に通訳した。  

 ドハティ卿は、帰りの道のりを1人で歩いていった。医者は、ずっと首を傾げ続けていた。ライナスは、別のことで首を傾げている。卿がダイヤモンドのことを忘れてしまったかのように、何も口にしないことだ。

 レディ・アイリーンの日記について、ライナスは考えた。170年前に療養中だった彼女もまた、当時の村人たちと共に、あの不思議なマントラによって癒やされたのだろうか。

 村人たちの後ろに続いて橋を渡っているとき、向こう側にまたあのマハーマーユーリーの姿が見えた。もっとよく見るために人びとの間から覗くと、そこにいたのは緑色のサリーを着たハリシャだった。

 まるで若返ったような老女に近づき、嬉しそうに微笑み祝うハリシャは、朝日の中で輝いているように見える。その姿は、170年に1度しか現れない不思議な存在に劣らぬほど、神秘的で美しい。数日後にはライナスが置いて去ろうとしていた未開地の田舎娘は、もうどこにもいなかった。

 ライナスに氣がついたハリシャは、謎めいた微笑みを見せた。彼は、レディ・アイリーンの日記に書かれていた言葉をもう1度噛みしめた。
「《緑の至宝》の真の価値を見いだせますように」

(初出:2024年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】彼女と話をしてみたら

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第4弾です。津路 志士朗さんは、掌編で参加してくださいました。ありがとうございます!

 津路 志士朗さんの『紅葉、色づくまで。』

志士朗さんは、オリジナル小説と庭とご家族との微笑ましい日々を綴られる創作系ブロガーさんです。代表作の『エミオ神社の子獅子さん』や、現在連載中の『揃いも揃ってクラスメイトの癖が強い。』など、とてもよく練られた設定の独自の世界を、軽妙な文体で展開なさっています。あと、執筆がとても早いのは驚くばかりです。

今年書いてくださった作品の1つめは、子獅子さんシリーズの世界からの掌編です。本編でのメインの咲零神社の子獅子さんたちではなくて、智知神社の子虎さんを主役にしたすてきなお話です。また、下記のCプランのお題も組み込んでくださいました。

今年の課題は
*ご自分の既出のオリキャラを一人以上登場させる
 メインキャラ or 脇役かは不問
 キャラクターであれば人どころか生命体でなくてもOK
*季節は「秋」
*身の回りの品物を1つ以上登場させる
*交通手段に関する記述を1つ以上登場させる


お返しの作品をどうしようか悩んだのですが、あちらのお話はきちんと収束していますし、無理に絡む余地はなさそう。また、わたしの世界には霊獣もいませんので、どうしようかと迷った結果「毛色」だけをいただいてくることにしました。

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彼女と話をしてみたら
——Special thanks to Shishiro-san


 ああ、カボチャのサラダ、始まったんだ。これ美味しいのよね。三智子は微笑んだ。商品が入れ替わって秋らしくなった。

 洋風惣菜を扱う店でパートをはじめてそろそろ1年だ。教わるばかりだった去年が懐かしい。今は新人パートやバイトの指導を任されることも多くなってきた。

「浜崎さん、そろそろポテトサラダがなくなるから、奥の冷蔵庫から出してきてください」
三智子は、暇そうに立っている浜崎京子に声をかけた。普段なら三智子自身が取りにいくのだが、ちょうどサラダ3種詰め合わせセットのラップかけの作業中だった。

 お弁当を買いに来るOLや、昼食の惣菜を探しに来る客たちが増える11時半までに、オープン冷蔵ケースに商品を並べる必要がある。

 京子は、露骨に嫌な顔をした。
「あたしに指図するんですか。社員でもないのに」

 三智子は、うわ、面倒くさいこと言い出した……と思った。川口主任は、いま会議中でいないし、同じパートに指図されるのが嫌なら、自分で考えて動けばいいのに。

 しかたないので、1度作業を中止して、自分で取りに行こうとしたところ、ポテトサラダの皿を持って、奥から松田エリ子が出てきた。
「わたし、持ってきましたぁ。あ、おはようございまーす」

 エリ子は、先月入った学生バイトだ。若干時間にルーズなのか5分程度遅刻することがよくある。今日は20分遅れだ。

「松田さん。前から言おうと思っていたけれど、あなた、社会人としての自覚はないの?」
京子がさっそく、説教をはじめようとしたが、幸い客が来たので、続かなかった。

「まだ社会人じゃないし~」
 小さく言ってぺろっと舌を出すエリ子に、三智子はとにかく対面ケースのポテトサラダの皿を下げて新しい皿と取り換えるように目で促した。遅刻の説教は、あとで社員がするだろう。いまは時間が惜しい。

 エリ子は、悪びれない。ハキハキして覚えもいいし、三智子にとっては京子よりも一緒に働きやすい。

 忙しい昼の時間を無事にやり過ごして、ようやくひと息つくと、エリ子が言った。
「あ、時間だ。休憩いただきまぁす」

 京子が、咎めた。
「ちょっと。遅くきたんだし、休憩は遠慮しなさいよ。ねぇ、主任、そう思いません?」

 社員の川口主任は、「いやぁ、いまどき、そういうわけにも……」ともごもご言うだけだ。

 エリ子は氣にせずに、行ってしまった。京子は不満たらたらだ。
「主任は甘すぎます。遅刻の常習だけじゃなくて、あの髪の色だって!」

 エリ子の髪は青い。黒髪に青い光沢がある程度ではなく、2回はブリーチをしてかなり鮮やかなコバルトブルーに染めてある。

 三智子は、黙って洗い物を終えると、炊事手袋とダスターを定位置に干して、川口主任と京子の方を見た。
「じゃ、お先に失礼します」

 今日は早番だったので、これで定時だ。川口主任は時計を見て「あ。そうだね」と言った。京子はこちらも見ずに「お疲れ様」と言った。

 バックヤードに向かっていると、後ろから川口主任が追いかけてきて声をかけた。
「吉川くん、ちょっと悪いんだけどさ」

「はい、なんでしょう?」
三智子が振り返ると、彼は声をひそめた。
「社員食堂を通るだろう? 松田くんに、遅刻のこと、ちょっと注意してくれないかなあ」

 川口主任は、いつもこんな感じだ。それはパートじゃなくて社員の仕事だと思うんだけどなあ。

 社員食堂はそこそこ賑わっていたが、エリ子はすぐに見つかった。窓際のカウンター席でスマホを見ている。

「松田さん」
声をかけると、エリ子は振り返った。三智子を見ると軽く手を振った。
「吉川さん。あがりですか」

「ええ。隣、いい?」
「どうぞ」

「飲み物、買ってくるわ。松田さんはどう? ご馳走するわよ」
「わ。いいんですか? じゃあ、サイダーにしようっかな」

 三智子は、荷物をエリ子の隣の椅子に置いて、アイスコーヒーとサイダーを買ってきた。

「はい。どうぞ」
トレーをカウンターに置くと、エリ子はペコッと頭を下げた。
「サンキューですっ。サイダー、久しぶりだな」

 三智子は、どうやって話をしようか、考えながら言った。
「もう慣れた?」

「うーん。そうですね。楽しくなってきました。接客業はじめてだし、続くか心配だったんだけど」
「あら。ハキハキ接客しているから、初めてだとは思わなかったわ」
「うち、商店街の食器屋で、子供の頃から親の接客見てたし。吉川さんは? ここ、長いんですよね?」

 三智子は首を振った。
「いいえ。1年ちょっとよ」
「え~? そうなんですか。なんでも知っているし、ずっとここにいるのかと思ってた」

 エリ子は、人なつっこく笑った。三智子は肩をすくめた。
「川口主任が赴任していらっしゃるちょっと前だったの。だから、いろいろ訊かれて、古株みたいに見えちゃうのかも」
「あ。だから浜崎さんがキーキーいうのかぁ」

 京子の三智子に対するトゲのある態度は、エリ子にも丸わかりだったようだ。

「さっき、遅延証明は吉川さんに渡した方がいいのか、それとも主任を待つ方がいいかって訊いたら、吉川さんは社員じゃないってものすごい剣幕だったんですよ。前言ってたけど、浜崎さん、ここの本社に内定決まっていたのに辞退したんですって。入社していたら、吉川さんどころか、川口主任よりも自分の方が偉かったのにって。でも、そんなイフの話したってしょうがないですよね」

 あら。そうだったのね。もしかして、それで……。

 浜崎京子がパートとして入りたての頃に、強引にSNSの連絡先交換させられた。以来、たまに流れてくる彼女のストーリーに、まるで彼女が本社の企画担当でもあるような口調の短文と共に職場の催事が登場していることに首を傾げていた。

 結婚して退職する前は全国展開の有名デパートで企画を担当していたと言っていたから、その頃の思い出をオーバーラップさせて書いているのかと思っていたけれど、もしかして、本人の思いの中では、今でも大手デパートの正社員のままなのかもしれない。

 そんなことを考えていたが、不意にエリ子の言った別のことに思い至って、驚いた。三智子はあわててサイダーを飲むエリ子の方に向き直った。
「ちょっと待って。遅延証明って言った? それって今日の遅刻の原因なの?」

 エリ子は不思議そうに見た。
「そうですよ。電車停まっちゃって。いつもの寝坊と違うから、来てすぐに浜崎さんに遅延証明をどうするのか訊いたんです。そしたらタイムカードのところに挿しておけばいいって。違うんですか?」

 三智子は返答に困った。遅延証明だけの問題ならそれは間違っているとは言えない。でも、遅れた原因をきちんと言ったのに、それが三智子と川口主任に伝わらなかったのは、知っていてわざと黙っていた京子のせいだ。でも、ここでそれを言えば同じパートの悪口を言っているようになってしまう。

「遅延証明に関しては、それで間違っていないんだけれど、この休憩終わったら、口頭でもう1度主任に理由を話した方がいいわ。……伝わっていなかったから」
そう言うと、エリ子は「あ」という顔をした。
「もしかして川口主任から遅刻の件でお説教するように言われたとかですか?」

 三智子は曖昧に笑って頷いた。エリ子はストローを振り回して言った。
「そっか~、浜崎さんにだけ言ったのが間違いだったか。ま、いつも遅刻しているし、お説教されても不当じゃないですよね」

 三智子は、わかっているんだと心の中で思った。
「学校の授業だと、遅刻しても叱られて済むくらいだけれど、仕事の時は、そうはいかないの。でも、松田さんが自分でわかって直そうとしているなら、うるさく言うつもりはないわ」

 エリ子は頷いた。
「努力しまーす。吉川さん、人間できていますよね。いろいろ決めつけて怒ったりしないし」

「そんなことないわ。今日の遅刻の理由、訊かなかったのは先入観あったからよ。それは謝らなきゃ」
「ははは。でも、だからって浜崎さんみたいに意地悪したりしないし、やっぱ人間できてますよ。……あと、話わかるだろうなって思ったのは、髪の色。きれいに染めてるし」

 三智子は、「え?」とエリ子の顔を見た。本心からそう思って言っているらしいとわかると、苦笑していった。
「これ、お洒落のために染めているんじゃないの。わたし、若白髪の家系でね……」

 三智子は40代なのに頭髪の3分の1以上が白い。あまりにも目立つので、白髪染めをしないわけにはいかない。ただ、3週間に1度と高頻度で染めるので肌にいいヘナとインディゴで植物染めをしている。

「そうなんですか? いっぱいメッシュ入れていてかっこいいなあって思っていたんですよ」

 三智子は苦笑した。ヘナ染めはブリーチ後の化学染料使用とは違って、黒髪の色は変わらない。その結果、黒髪とヘナとインディゴの相互作用による焦げ茶色、そして、インディゴが上手く入らなかったためにオレンジっぽい色の部分も残り、3色が何となく入り交じっている。

「あら、ありがとう。メッシュにしているわけでなくて、自分で染めているから、ムラになっているだけなんだけれどね。松田さんは、美容院で染めているんでしょう、それ?」

 エリ子は首を振った。
「セルフブリーチですよ。でも、自分でじゃなくて、美容師目指しているルームメイトがやってくれているんです。練習と実験を兼ねて。このブルーは、めっちゃお氣に入りなんです。お堅いとこ就職したらできなくなっちゃうから、今のうちにいろんな色を楽しみたいんですよね」

 三智子は感心した。
「先のことも考えてやっているのね。確かにバイトなら許されても就職したらできないことも多いんでしょうね」
「そうなんですよね。みんな同じ格好させて、違いなくさせて面接とか、何の意味があるのかって思うけど、文句言ってもしょうがないし。ま、でも、不自由はあっても、そのときどきに楽しいことを見つけるつもりなんで、今は、今にしかできないファッションを楽しみます」

 三智子は、自分よりずっと若いこのバイトの女の子に対して、一見問題のある言動にもかかわらず、常に好意を持ち続けている根源がはっきりわかったような氣がした。

 この子は、自分のやりたいこと、大切にしたいことがはっきりわかっているのだ。好きなことを存分にしていれば、卑屈になったり、反対に人を攻撃したりする暇なんかないのだろう。

 三智子は微笑んで立ち上がった。
「ええ。それには賛成だわ。……安心した。じゃ、今日の電車遅延のこと、ちゃんと主任に伝えるのよ」

 エリ子も立ち上がった。
「はーい。ごちそうさまでした。わ、早く戻らなきゃ!」 

 ちょっと立ち上がってから、また振り向いて言った。
「白髪染め必要になったら、吉川さんみたいにしようかな~」

 三智子は笑った。
「必要になるのはずっと先でしょう。まだそんなこと考えなくていいのよ」

 若い子と話すことはめったにないけれど、いいものね。帰宅はいつもより少し遅くなったけれど、三智子の足取りは軽かった。 

(初出:2024年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】毒蛇

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第3弾です。山西 左紀さんは、連載作品の最新話でご参加くださいました。ありがとうございます!

 山西 左紀さんの『白火盗 第五話』

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

今年書いてくださった作品は、左紀さんにとってはじめての時代小説「白火盗」の新作です。独自設定のもと、不思議な力を持つヒロインと、彼女にひかれる浪人の物語です。

お返しの作品は、もちろん左紀さんのお話の本編には絡めませんので、まったく関係のない話です。いちおう、お返しとして書きましたので「時代物(でも中世ヨーロッパ)」で、とあるシチュエーションだけまるまるいただいて書いてみました。

世界観は、現在連載中の『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』のものですが、現在のストーリーとはまったく関係ありませんので、連載を読んでくださっている方も、未読の方も、前作をお読みになった方も等しく「?」となる話です。登場するオットーという人物は、これまで1度も出てきていません。それ以外の人物は、連載中の作品の主要登場人物の先祖です。


【参考】
《男姫》ジュリアとハンス=レギナルドについてはこちら
【断片小説】森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走より
Virago Julia by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。

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毒蛇
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 オットーは、腕を組んで窓の方を見た。特に見たい物があるわけではなく、暗い部屋の中ではどうしても月明かりの差し込む窓に視線が向く。

 王都ヴェルドンの地を踏んだのは、2年ぶりだ。国王自身の婚礼がなければ、フルーヴルーウー辺境伯ハンス=レギナルドは、あと10年でも戻らなかったかもしれない。

 オットーは、「これまでに存在せず、今後も現れないであろう美しさ」と噂される花嫁、隣国ルーヴランのブランシュルーヴ王女にも、彼女が連れてきたという華やかな美女たちにも興味はなかったが、2年ぶりに国王に声をかけてもらい満足だった。

 それは異様な婚礼であった。花嫁とルーヴランから連れてきた4人の高貴なる乙女たちは、婚礼前だけでなく、婚姻の儀においても、その後のお披露目の宴でも濃いヴェールを外すことを許されなかった。

 それどころか、国王レオポルドは、新王妃を王城の王妃の間に住まわせることを拒んだのだ。本来、敵国から嫁いでくる花嫁を儀礼的に婚姻まで滞在させる西の塔に、そのまま厳しい見張りと共に置き、自らも塔で寝泊まりするようになった。

 はじめは、敵国による奇襲を警戒しているのではないかと噂した貴族たちも、やがて国王の怖れが自らの安全にはないことを理解しだした。彼は、新妻をほかの男に奪われることをなんとしてでも避けようとしているのだと。

 王朝史上もっとも大きな版図を拡大し、勇猛豪胆で、求心力のある国王には、決して拭えない大きな劣等意識がある。

 レオポルドは、異様に背が低く、オットーが立ち上がればその胸よりも下に頭が来る。また、細い目と低めの鼻に比べて口が大きい。敵国では《短軀王》または《醜王》と陰口を叩かれている。そうしたあだ名や容姿が劣ることを国王自身が氣に病んでいることは、側に仕える臣下たちはみな知っていた。

 おそらく、レオポルドが家臣としては誰よりも信頼する一方で、新妻の心を奪う可能性の存在としてもっとも警戒しているのがフルーヴルーウー辺境伯ハンス=レギナルドだろう。

 オットーの生まれ故郷ノルムは、グランドロン王国の北端にあるが、現在仕えているフルーヴルーウー辺境伯の領地は最南端にある。

 辺境伯爵領とは名前ばかり、実態は険しい山嶺《ケールム・アルバ》と広大な森《シルヴァ》の未開地だ。獰猛な動物と野蛮な周辺民の他には足を踏み入れる者もわずかしかいない。だが、《ケールム・アルバ》の南に広がるセンヴリ王国との交易や領土争いを有利にするためには、どうしても街道の整備をする必要がある。王国版図の拡大を目指すレオポルドが、着手した大事業だ。

 新たに設立されたフルーヴルーウー辺境伯爵領の領主となったのは、グランドロン王国ヴェルドン宮廷では特異な存在であった騎士ハンス=レギナルドだった。

 おそらく隣国ルーヴランの出身だと思われるこの男は、深い謎に包まれている。氣味が悪いほど整った容姿について、よくない噂をする者までいる。とある高貴な女が悪魔と交わって生まれた私生児だとか、いかがわしい男娼出身に違いないとか、ともかくその容姿について好意的な噂は聞いたことがない。とはいえ、女たちは噂には頓着せず、わずかでもこの男を振り向かせようとスダリウム布に高価な贈り物を忍ばせて手渡す。

 かつてのオットーは、他の騎士たち同様、この美丈夫に反感に近い感情しか持っていなかった。だがその自分に、国王はフルーヴルーウー伯爵の臣下になれと命じてきたのだ。2年前のことだった。

「このハンス=レギナルドの命令は、すなわち余の命令だ」
王は、オットーに言った。王の命令が絶対であるオットーは、かしこまって拝命した。

 ハンス=レギナルドを未開地に送り出したことを「厄介払い」と陰口を叩く者もいた。だが、そうではないことをオットーは知っている。オットーをはじめとする有力な騎士たちを何人も彼の助力になるようフルーヴルーウー辺境伯領へと送り出したのは、それだけこの事業が重要だからだ。憎み疎ましく思う男を、その要として選ぶはずがない。

 新たな主君は、レオポルドのようにわかりやすい尊崇は集めていなかった。国王の素早い決断と思慮深さ、辺りを払う威厳、忠臣をねぎらう公平な態度など、生まれながらの為政者として安定したありように心酔してきたオットーには、フルーヴルーウー辺境伯は奇異ですらあった。

 彼は、上に立つ者として育ってこなかったのだろう。命じることよりも自らが動こうとすることの方が多かった。恥や怖れを知らない。

 だが、不思議な魅力もある。部下たちの強みをよく見抜き、それぞれの得意な分野で活躍させる。異国の令嬢をたらし込み、軽率にも閨に連れ込むようなこともするが、諫言を口にしようとする部下に、悪びれもせずに女を通して手に入れたばかりの相手国の城門の鍵を渡してみせる。

 敵に奇襲をかける際の大胆不敵な発想や、寒く不快な野営でもへこたれぬ態度を見て、やがて臣下たちも新しい主君を認め、素直に従うようになった。

 とはいえ、フルーヴルーウー辺境伯の女に対する不品行ならびに女に対する影響力が衰えていないことは日の目を見るよりも明らかだったので、猜疑心にかられた国王は彼をはじめとする婚礼に集まった各地の有力貴族たちに、見張りの厳しい客間をあてがったのだろう。

 今宵のオットーは、そのハンス=レギナルドの戻りを待っていた。

 深夜に部屋を抜け出すと言いだした時には、ふざけているのかと思った。

「心配しなくとも王妃に興味があるんじゃないよ」
ハンス=レギナルドは笑って言った。王と共に西の塔にいるブランシュルーヴ王妃に夜這いをかけることは不可能だろうから、オットーもその心配はしていないが。

「じゃあ、お出かけはおやめになるべきではありませんか。ご婦人方は領地にもたくさんおられます」
オットーは控えめに言った。

「どうしても確認しなくてはいけないことがあるのだ。王妃が連れてきた4人の高貴なる乙女たちの名を聞いたか?」
主の言葉に、オットーは首を傾げた。
「ヴァレーズ、マール、アールヴァイル……それにバギュ・グリのご令嬢でしたか?」

 ハンス=レギナルドは頷いた。
「そうだ。あり得ない名前がある」
「とおっしゃると?」

 オットーの質問をハンス=レギナルドは無視した。
「確かめなくてはならない」

 そう言って密やかに出ていった部屋の主は、予定の時間を過ぎても戻ってこない。見回りの騎士の問いかけに代返をすること3度。それ以外はすることもない。寝台で寝てもいいと言われていたが、「狼の皮を被る者ウルフヘジン 」の名をもらったことのある誇り高いノルムの戦士は、主君を待つ間にだらしなく眠りこけたりはしないものだ。

 彼の本来の名はオホトヘレといい、かつては存在したノルム国の高貴なる戦士の家系に生まれた。ノルム王ウィグラフに仕えていたが、王の甥スウェルティングによるクーデターに際して捕らえられ、奴隷としてタイファのカリフに売られた30人の戦士たちの1人だった。

 グランドロン王国が対タイファ戦の戦利品として受け取った宝物・賠償類の中に、ただ1人生き残った彼が含まれており、レオポルド1世に氣に入られて奴隷の身分から解放され、騎士に取り立てられた。その時に名をグランドロン風にオットーと改めた。

 それだけでなく、かつての主君を殺した簒奪王スウェルティングと戦い、ノルムをグランドロン領に編入したレオポルドは、憎きスウェルティング処刑の際に、オットーに刃を握らせてくれた。騙され両親と妹を殺されたオットーが復讐を誓っていることを考慮してくれたのだ。

 それ以来、オットーはノルムの戦士としてではなく、グランドロン王の騎士として生きることに心を決めた。

 オットーは、レオポルド自身から「クサリヘビオッター 」というあだ名をもらった。攻撃が執念深く、敵を倒すまで決してあきらめない。また、昼よりも夜の奇襲で真価を発揮するところが、怖れられる毒蛇を想起させるというのだ。または、単に近い音を用いた言葉遊びかもしれない。実際にオッターという響きは、彼の実名の響きに近かった。

 窓に月がさしかかり、やがて消えた。見回りももう回ってこない。明け方になるまでは静かなままだろう。いつになったら主は戻ってくるのだろうか。

 扉の向こうにわずかな物音がした。そして、小さなノックが聞こえた。すぐに扉を開けた。

 するりと入ってきたのは、ハンス=レギナルドではなかった。黒く長い髪、挑みかけるように鋭い双眸を持つ女だ。

 戸惑うオットーにかまわず、女は後ろ手で扉を閉めると小さい声で訊いた。
「ハンス=レギナルドはどこ?」

「いま、こちらにはいらっしゃいません……あなた様は?」

 女は、オットーの方をチラリと斜めから覗くように見ると、馬鹿にしたような顔をして質問を無視した。
「そう。……あいつ、あいかわらずお盛んなのね」

 そういうと、寝台にドカッと腰掛けた。
「それで、お前はハンス=レギナルドの部下なの?」

「はい。わたくしめは騎士オットー・ヴォルフペルツと申します。お見知りおきを」
オットーは、型破りな女の様子に内心驚きつつも、礼儀正しく膝をつき挨拶をした。女はそれを立って受けるどころか、手を差し出すことすらしない。

「あいつが伯爵ねぇ」
そう言うと、窓の外を眺めて、足を組みその膝で頬杖をついた。

 オットーは、尋ね人がいなくても帰る様相のない女に戸惑った。暗闇の中とはいえ、その衣擦れと焚きしめた香から、侍女や下女などではないことはわかる。そのような女性と密室に2人でいることはあまり好ましくない。国王が警戒したのは自分ではないと思いたいが、見回りに見つかったらただでは済まないだろう。

 それに、主が戻ってきたら、この状況をどう思うだろうか。できれば、この部屋から出て行きたいが、主の代わりに見回りに返答する務めがある以上、そうもいかない。

 半刻ほど、お互いに口もきかずにそうしていた。やがて女は寝台に横になった。暗い部屋の中、表情などは見えないが、静かな衣擦れと均整のとれた肢体がゆっくりと動く様子に、オットーは思わず息を飲んだ。

「ここでお休みになるのですか」
のどが渇いたのか、声が枯れてうわずる。

「そうよ。何度も出向くほど暇じゃないからね」
女の声には、含み笑いが混じっている。衣帯を緩め膝を動かしているのを見て、急いで後ろを向いた。よく見えているわけではないが、騎士たる者、貴婦人の寛ぐ姿を淫らな目で凝視していると思われてはならない。

 この女が誰だかわからないが、フルーヴルーウー辺境伯とただならぬ仲であることは間違いないだろう。あらぬ疑いをかけられると、陛下の命令を全うできなくなる。また、見回りの者が近くにいる時に、大声でも出されたら、もっと大変なことになる。オットーは、女などいないかのように過ごそうと心に決めた。

 長い夜だった。あれほど歩みの早かった月は、その動きを止めてしまったかのようだ。時おり女の寝息と衣擦れと共に、焚きしめられた香が漂ってくる。オットーは、まとわり付く魔力に取り込まれぬように身を硬くした。

 ハンス=レギナルドは帰ってこない。オットーは壁の方を向いて小さな腰掛けの上でひたすら事態が変わるのを待っていた。

 自らの首がガクッと落ちかけるのに反応して、はっと起きた。いつの間にかウトウトしていたらしい。あたりは白みかけており、窓の向こうは赤紫色になっていた。

 含み笑いが聞こえたので、思わず振り向くと、女が寝台の上に起き上がっていた。明るくなったことで、女の姿がはっきりと見えた。

 白く透き通る肌。黒曜石のように輝く瞳。血のように紅い唇。ぞっとするほど美しい女だ。一瞬だけ「これまでに存在せず、今後も現れないであろう美しさ」の持ち主かと疑ったが、すぐに思い直した。ブランシュルーヴ王女は日の光のような金髪のはずだ。見るからに上等の布地と手入れされた手肌を見て、もしかするとこの女は、王妃に傅く4人の高貴なる乙女の1人ではないかと思った。

 ということは、主君ハンス=レギナルドが確かめたいと言っていたのは、この女の事なのかもしれない。だが、高貴な乙女たちはみな錚々たる家系の姫君ばかりだ。男の部屋を訪ねて勝手に寝たりするだろうか。

 身につけているのは寝室で着るような黒の薄物で、そんな姿で王城内をうろつき回っているとは信じられなかった。

 彼は、急いで女から眼をそらした。すると、寝台の上、足元にいくつかの衣類が無造作に置かれているのが見えた。

 オットーの戸惑いを見透かしたかのように、女はあけすけな笑い方をした。
「お前は意氣地なしね」

 彼は、度肝を抜かれた。そして、心外な思いを堪えて返答した。
「わたくしめは、ハンス=レギナルド様の臣下にて、騎士でございます」

 彼女は、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「人生は誰かが勝手に決めた手順に従ったり、他の者に遠慮して我慢するには、あまりにも短すぎるわ」

 女は恥じらう様子もなく、灰色の上着を身につけ、よく儀杖官が身につけるような黒い切れ込みのある立派な外套を鷹揚に羽織った。長い髪を器用に捻って角頭巾の中に押し込んだ。なるほど、見回りの兵士とすれ違っても、これならば高位の男と思われるだろう。

 その時、向こうから石の床を踏む金属的な足音が響いてきた。見回りだ。
「おはようございます。異常はございませんか、フルーヴルーウー伯爵様」

 オットーは、昨夜と同じように答えた。
「異常は無い。見回りご苦労である」

「はっ」
見回りは、次の部屋に向けて去って行った。

 女は、その足音が聞こえなくなると、扉を開けて、辺りを素早く見回した。
「ジュリアは待ちくたびれたと、ハンス=レギナルドに伝えるのよ、毒蛇オッター
女は笑った。血のように紅い唇が妖艶に広がる。そして、まだ暗い城内に消えていった。

 どっちが毒蛇だ。背筋に冷たい汗が流れた。

(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】一緒に剪定しよう

今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の植物』1月分です。今年は、植物をテーマに小さなストーリーを散りばめていくつもりです。

トップバッターは、『12か月のアクセサリー』の時に初登場させた花屋を経営する筋肉ムキムキ男&腐女子のカップルです。そして、植物は五葉松の盆栽です。

ずいぶん昔になりますが、東京で松の盆栽が展示されていました。樹齢を見たら500年でした! あの小さな鉢の中にそれだけの時間と、世話をした多くの人びとの歴史が詰まっているのですね。


短編小説集『12か月の植物』をまとめて読む 短編小説集『12か月の植物』をまとめて読む

【参考】
麗しき人に美しき花を
追憶の花を載せて



一緒に剪定しよう

 加奈は、剪定バサミを持ったまま、20分も右から左から眺めていた。テーブルの上にはかなり立派な盆栽がデンと置かれている。
「困ったなあ……」

「なんだよ。まだ悩んでんのか?」
ドアが開き、配達から帰ってきた麗二が笑った。

「うーん。やっぱ、わたし、この手の才能ないみたい。どうしたらいいのかわかんないよ」
加奈は、剪定バサミを置くと、盆栽をテーブルから持ち上げて部屋の片隅にある棚に持っていった。

「ちっちっち」
麗二が指を振って、加奈を止めた。

「なに?」
「五葉松は日当たりのいいところに置かなくっちゃダメだとさ」
麗二はスマホで調べながら言った。

「そっか。……わたし自信ないなあ。この松、近いうちに枯らしちゃいそう」
加奈はため息をついた。なんとなく枯れてきているような氣もする。

 大叔父が急逝したあと、子供のいない彼の遺産は、彼の兄弟姉妹またはその直系子孫が相続人となることになった。加奈の祖母は彼の妹だったが既に物故者だったので、加奈の母親が相続人の1人となった。結局、8人の相続人がいて、彼の住んでいた家を片付けて売りに出し、最終的に均等に分けたのだが、そこで1つの問題が発生した。大叔父の大切にしていた盆栽を受け取ることを全相続人が渋ったのである。

「そりゃあ、確かにわたしは園芸関係の仕事に就いているわよ。でも、盆栽とフラワーアレンジメントって、歌舞伎とバレエくらい違うのに!」

 娘の加奈が『フラワー・スタジオ 華』の共同経営者の1人だという理由で、その盆栽をほかの相続人から押しつけられた母親は、即日それを持って来てまくし立てた。
「ほら、わたしはサボテンも枯らすタイプでしょう。あの五葉松は樹齢30年以上なんですって。叔父さん、手塩にかけて育てたみたい。そういわれたら、すぐに枯らすわけにいかないじゃない。頼むわあ。ま、あなたがダメでも、麗二くんなら何とかしてくれるんじゃないかしら」

 加奈の公私ともにパートナーである麗二は「緑の親指」の持ち主で、どんなに難しい花でも咲かせる事が出来るし、部屋の隅で捨てられるのを待つばかりになっていた弱った鉢植えもいつの間にかピンピンにする事が出来る。

 だが、その彼ですら言った。
「盆栽はなあ。皆目わからないよ。根っこをコントロールすることで大きくなるのを抑えるってことくらいはわかるけど、やったことないもんなあ」

 困ったことに、大叔父は盆栽を育てるセンスがあったと見えて、受け取ったのは見事な仕立ての五葉松だった。龍のように波打ちつつもどっしりとした立ち上がり、正面から見たときのバランスのいい枝振り、丁寧に施された剪定、苔を押し上げる根のしっかりした張り、それに幹を故意に枯らした舎利のつけ方も絶妙だ。

「ま、これは枝が伸びてきたり育ったらどうにかすればいいのであって、今すぐ手を入れなくちゃいけないものじゃないだろ? その間に少し勉強すれば?」
麗二は、その枝振りをのぞき込みながら言った。

「そうよねぇ」
そういいつつ、店のショーウインドーの1つに置いたその盆栽は違和感を放っている。今はお正月氣分が残っているからいいものの、フラワーアレンジメントの店先に盆栽がある必要はない。バレンタインデー特集の時にはこのウインドーが必要になる。かといって、2階の自宅スペースのベランダは北側であまり日が当たらない。

「あれ」
麗二の声で顔を上げると、加奈もショーウインドーの向こうを行ったり来たりしている男性に氣がついた。杖をつきながらゆっくりと歩いているのだが、目は件の盆栽に釘付けだ。

 1度も見たことのない男性で、眉間に深く皺を寄せていて、声をかけたら怒鳴られるんじゃないかと思うような厳しい表情だ。麗二は、それでも果敢に入り口に向かいドアを開けた。
「いらっしゃいませ。よかったら中にどうぞ。寒いですし」

「いや。用があるわけじゃない」
男性はぶっきらぼうに答えて、立ち去ろうとした。

 その時だった。角を曲がってきた少女が大きな声を出した。
「お祖父ちゃん!」

 その子を見て、今度は加奈が声を出した。
「莉子ちゃん!」

「こんにちは、加奈お姉ちゃん。……あ、お祖父ちゃん、待って!」
少女は立ち去ろうとする男性のそばに行き、そのジャケットを掴んで引き留めた。

 麗二は訊いた。
「知ってる子?」
 加奈は頷いた。
「うん。従兄弟の子なんだけど。あちらの男性はどなたかしら」

「ねえ。この盆栽、見に来たんだよね。莉子と一緒に来てよ」
少女は、去ろうとする男性を必死で引き留めている。

 麗二は、2人の所に行って朗らかに言った。
「どうぞお入りください。盆栽のことなら、なおさらです。実は、俺たちも困っていることがありまして」

 男性は、立ち去りそうにしていた態度を変えて、じろりと麗二を見た。
「あんたは花屋だろう。何を困るっていうんだ」

「花は扱いますが、盆栽は畑違いなんですよ。もしかして、お客様こそお詳しいのではありませんか?」
そう言うと、莉子が大きく頷いた。
「そうだよ。お祖父ちゃん、いっぱい盆栽育てているじゃない! 誰よりも詳しいよ」

 加奈は驚いて、莉子に訊いた。
「本当? 達夫くん……莉子ちゃんのパパは、盆栽を育てられる人はいないって……。だから、しかたなくうちが受け取ったのよ」

 男性は、ぷいっと横を向き言った。
「そりゃ、わしの趣味なんぞ知らんだろう。我が家に来たこともないんだから」

「とにかくお入りください。お茶でも一緒にどうぞ」
麗二が言うと、今度は意外と素直に入ってきた。

 加奈がカウンターに場所を作って、男性と莉子を座らせている間に、麗二は奥に入ってお茶と羊羹を持ってきた。

 男性は、小さな声で「ありがとう」と言って飲んだ。
「失礼した。わしは、島崎隆生といいまして、酒田麻美の父親、この莉子の祖父です」

「高川加奈です。こちらは、パートナーの華田麗二です」
加奈は、自己紹介した。島崎氏は黙って頷き、お茶を飲んだ。

 莉子は嬉しそうに羊羹を食べながらはなした。
「昨日ね。酒田のじいじが亡くなって、松の盆栽が加奈ちゃんのところに行ったこと、莉子がお祖父ちゃんに話したの。そしたら、なぜママが引き取らなかったんだって、お祖父ちゃんと喧嘩になっちゃったの。お正月なのに」

 加奈は不思議に思った。酒田老人の葬儀には従兄弟の達夫だけでなくその妻で莉子の母親である麻美もいて、皆で盆栽を押しつけ合っていたのを知っていたのに、ひと言も口をきかなかったからだ。そういえば、父親なのであろうこの男性と麻美は面差しが似ている。

 莉子は、加奈に説明した。
「あのね、お祖父ちゃんの家に行っていること、パパには内緒なの」

 島崎氏は、ため息をついて口を開いた。
「お恥ずかしいことですが、わしは娘の結婚に反対して、挨拶に来ると言った婿を拒否したんです。それで、娘夫婦と10年近く関係を絶っていました。もっとも妻と娘はずっと外で会っていたようですが。それがわかって、2年くらい前から、娘とこの莉子が婿に隠れて会いに来るようになりましてね」

 なるほど。だから、麻美さんはお父さんが盆栽に詳しいことは口に出せなかったのか。

「この盆栽、とても立派ですが、俺ら素人の手には終えないのではないかと心配しているんです。島崎さんは、どう思われますか」
麗二が訊くと、島崎氏は五葉松をじっと見た。

「そりゃあ、簡単じゃないだろうな。……そもそもこの五葉松は、わしが種から育てたんじゃ」
それを聞いて、3人とも驚いた。

「ええ? お祖父ちゃんが?! じゃ、どうして酒田のじいじのところに?」
莉子は、加奈と麗二の想いを代弁した。

「実は先日なくなった酒田さんのひとり息子は、わしの友人でね。自分も盆栽を育ててみたいというので、ほどよく育っていたこれを譲ったんだ。友人はそれから5年もしないうちに事故で亡くなり、盆栽がどうなったかも知らなかったんだ。お父上がそのまま育ててくださっていたんだな」

 島崎氏は、立ち上がって五葉松に近づき、四方八方から眺めた。
「見事な枝振りだ。この最初の立ち上がりまで育てるのにとても苦労したんだが、それを生かすようにした上の幹の曲げ方も、どの方向から見ても素晴らしい。バランスの取れた半懸崖に仕立てようとしたんだな」

「ようとしている……って、できなかったの?」
莉子が立ち上がって一緒に眺めた。

「いや、できたさ。でも、この枝をごらん。せっかく長く伸ばした一の枝の先が枯れかけている。このまま放って置くとこの枝全体が枯れてしまう」
一番下の枝先だけ茶色く変色しているのが、加奈も麗二も氣になっていた。莉子は首を傾げてのぞき込む。

「直せないの?」
「そうだな。剪定して、新芽の勢いが増してくれば、もとのような樹形に近づけられるかもしれないな。うまく行くかどうかはやってみなければわからんが」

「今できる?」
「今、木は眠っているんじゃよ。やるとしたら春かな」

 それから、加奈と麗二の方を見て訊いた。
「あんたらが、やるかね?」

 2人は同時に首を振った。
「無理です。何をどうしていいのか、わかりません。この盆栽、お渡ししてもいいでしょうか」
加奈は正直に言った。

 島崎氏は、少し黙っていたが、首を振った。
「それはよくない。ここまで歳を重ねて上手く整った盆栽は、市場では高値で取引されているんじゃよ。婿は、あんたがこれを受け取ることには反対しなかったかもしれんが、わしのところに行くとなったら黙ってはいないだろう。そもそも、それではこの子がわしと会っていることもわかってしまうしな」

 麗二は言った。
「そうですか? 俺はこれを機に、普通に会えるようになる方がいいと思いますよ」

 加奈は驚いて麗二を見た。島崎氏も、麗二の顔を黙ってみている。

「そうだよ。お祖父ちゃんは、莉子のお祖父ちゃんだもの。なんでパパに黙って会わなくちゃいけないの?」
「そ、それはだな……」
「莉子が、パパに頼むよ。お祖父ちゃんと仲直りしてって」

 島崎氏の戸惑いを見ている限り、どうしても仲直りをしたくないわけでもないらしい。加奈の知る従兄弟の達夫も、10年以上も恨みを募らせるようなタイプではない。もしかしたらこの舅と婿は、単に仲直りの機会を逃したままお互いに困っているだけかもしれない。

「じゃあ、こうしましょう。この盆栽は莉子ちゃんにあげます。莉子ちゃんなら酒田の大叔父の遺品を受け取る権利もありますし、達夫くんも文句はないでしょう。そして、お母さんの麻美さんから相談を受けたという形で、島崎さんが一緒に育てることにしてくだされば万事解決じゃありませんか?」

 加奈の提案に、島崎氏はモゴモゴと口の中で何かを言っていたが、頭を下げた。莉子は大喜びだ。
「わーい。莉子、お祖父ちゃんと一緒にこの木の面倒みたい!」

 麗二も頷いた。わるくない解決策だと思っているのだろう。ここ『フラワー・スタジオ 華』では手に余る盆栽は、ふさわしい人のもとに旅立ち、1度は離ればなれになった家族を結びつける仕事までしてくれるようだ。

 日本でもっともおめでたい植物だものね。加奈は立派な五葉松を見つめてにっこりと笑った。

(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】西の塔にて

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第9弾です。山西 左紀さんは、連載作品でご参加くださいました。ありがとうございます!

 山西 左紀さんの『白火盗 第四話』

左紀さんの今年の2作品目は、ことしの1つめの参加作品と同じ『白火盗』からです。

というわけで、お返しの作品はこちらも前回のお返しで使った世界観をそのまま使うことにしました。サキさんの使われたあるシチュエーションもつかっていますが、それ以外はまったく関係のない話です。ご了承ください。

コメントで「オットーを身代わりにしてハンス=レギナルドは、どこに逐電していたのか」とのご意見を何名からかいただいたので、その答えを(笑)


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西の塔にて
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 暗い城内を歩くとき、床石が硬い音をたてる。彼は眉をひそめた。

 普段彼が住む城塞では、石材よりも木材が多用されている。辺境であり、石材を運ぶのに必要な人足や石工が足りないこともあるが、何よりも王都ヴェルドンにはない膨大な木材の供給源があるからだ。

 常に雪を抱く《ケールム・アルバ》の麓はどこまでも続く森林であり、あまりにも広大で比するものがないゆえに単に森を表す《シルヴァ》と呼ばれている。

 辺境伯とは名ばかり、彼が治めることになった土地は、ほぼ未開の地だった。だが、少なくとも彼は王都ヴェルドンにいてその任に就いたときからそのことをよく理解していた。国王がこの困難な任務に彼を選んだのは、ただ単に彼を氣に入っていたからだけではない。

 彼は、尊い家系に生まれたひ弱な貴族ではなかった。遠くルーヴラン王国に属する地方領で馬丁として少年時代を過ごした。

 彼が騎士に叙任され異国の王に仕えるようになるまでには、それだけで吟遊詩人が一生困らぬほどの長い物語になる紆余曲折があったのだが、彼が祖国を去った原因についてはたったひと言で済む。領主バギュ・グリ候の令嬢が遁走した咎を追わされたくなかったからだ。

 彼女は、彼のかつての主人であり、初恋の相手でもあり、型破りな男姫ヴィラーゴで、ジプシーに加わり遁走する迷惑極まりない女で、しかも恋焦がれて止まない愛人でもあった。

 王都ヴェルドンの城の中を、奇妙な服装で深夜歩き回ることになったのは、まさしくその男姫ヴィラーゴのためだった。

 それでも、一昨夜の国王との会話がなければ、こんな危険な行動には出なかっただろう。

 国王の婚儀のために領地から集まった諸侯たちは、婚儀の前夜に特別の宴でもてなされた。彼が諸侯の1人としてもてなされるのは初めてであり、以前のように近くで親しく話をする機会はないと思っていた。

 実際、彼の席は国王からは遠く、その席順を見たヴァリエラ公爵は満足そうに笑った。出自の怪しい異国人が国王に重用されることに大きな警戒心を剥き出しにしていたからだ。

 彼は、もう以前とは違うのだと思った。フルーヴルーウー辺境伯としての爵位と領地、有り余る野心と才覚を向ける新しい活躍の場と引き換えに、彼は国王との奇妙なほどに近かった絆を失ったのだと。

 だが、深夜が過ぎ、諸侯たちの多くが酔い潰れた時刻に、彼は国王がわざわざ彼の元に歩いてくるのを見た。

 国王レオポルドは、不思議な人物だ。背の低さも、醜悪に近いほどの面立ちも、1度たりとも彼に嫌悪感を抱かせなかった。その強い眼光は、どのようなときも変わらない。そして、蠟燭と牛脂灯の鈍い灯の中でも、歩み来る彼の姿からは力強いエーテルが放たれているように感じられた。

 彼の隣で先ほどまで浴びるように飲んでいたノルム伯は、酔い潰れて祝卓に突っ伏していたが、ついに椅子からずり落ちて床に転がった。国王は、その寝姿をちらりと見てから、空いた椅子を引いて彼の隣に座った。

「そう。久しぶりだがあいかわらずだな、ハンス=レギナルド。ノルム伯と変わらぬほど飲んでいたようだが、顔色ひとつ変えぬとは」
「恐れ入ります。陛下こそ、もっとたくさんの祝杯をあげておいででしたが……」

 レオポルドは、緊張して立つ給仕に目で指図をして、2つの杯を満たさせた。

「おや。その袖か。フルーヴルーウー流とやらは」
国王は愉快そうにハンス=レギナルドの胴着の袖を見た。肩の膨らんだ部分を1度絞った位置から、長い袖が装飾用についているが、非実用的なためハンス=レギナルドは、これを縦に切って縫製させ下の胴着の袖を同色の糸で刺繍させたものを露出させた。

 これが宮廷の貴婦人たちの間で評判となり、彼が領地に赴任してヴェルドンの宮廷から去った後も大流行した。お堅いヴァリエラ公が風紀の乱れを懸念して進言したため、しばらく禁令が出たほどだ。

 ハンス=レギナルドは、諸侯たちに睨まれようと氣にも留めず、好きな礼装で今夜の宴に参加した。国王もそのフルーヴルーウー辺境伯の振る舞いを可笑しく思い楽しんでいる。2年会わなかったとはいえ、国王との信頼関係は揺るいでいない。

「この度は、誠におめでとうございます」
「うむ。よく来た。こんな折りでもなければ、そなたは戻らんだろうから、楽しみにしていたぞ」

 2人は杯を重ねて強い酒を飲み干した。給仕はあわてて2人の杯に蜜酒を注ぐ。ハンス=レギナルドは、かつてのように軽口を叩いた。
「それにしても、実に殺風景な祝宴でございますな。華が欠けております。……それも無理もないこと、今宵までは花嫁様も、高貴なる乙女の皆様も、敵国の姫ぎみ。しかし、婚礼がお済みになった明日には、みなさま方をご紹介いただけますか」

 それをいった途端、国王の顔は曇り小さな声でつぶやいた。
「いや。ブランシュルーヴを西の塔からは出さぬつもりだ」

 ハンス=レギナルドは、心底驚いた。
「それはいったいどういうわけで? なにかあちらの策謀でも?」

「そうではない。ただ、あれの姿をどのような男にも見せたくないのだ。あれの手を望み、欲しがろうとする男にとって、盗み取るのはさほど難しいことではあるまい」
そういうと、レオポルドは拳を強く握りしめた。

 ハンス=レギナルドは、不思議そうに彼の主人であり親友でもある男を眺めた。
「強い自信と求心力をもつあなた様を、王妃様がそこまで臆病にしたとは驚きましたね。陛下はかのイーラウ嬢をはじめお美しいご婦人方をいくらでもご覧になり、手に入れていらっしゃったではないですか」

 レオポルドは、小馬鹿にするように笑った。
「イーラウだと? 比較対象にもならん。あれは……ブランシュルーヴはまったく違うのだ。美しい造形が豪奢な布で着飾っているだけではない。まるで太陽のように強い光を放ち、すべてが霞む。もうこの世に、他の女など存在しないかのようだ」

 ハンス=レギナルドは「ほう」といって頷いた。
「しかし、姫はルーヴランの女官であった4人の高貴なる乙女たちをお連れになってのお輿入れと伺いました。おそらくは、4人とも陛下の愛妾とさせ、グランドロンとルーヴランの絆をより強固なものにするために……」

 その4人については、家名だけが伝わっていた。ヴァレーズ伯、マール・アム・サレア領主、アールヴァイル伯に加えて、彼の出身地であるバギュ・グリ候の令嬢たちだ。

 バギュ・グリ令嬢については、愛妾アデライドの連れ子クロティルデだろうと予想していた。バギュ・グリ候テオドールには候子マクシミリアンと候女ジュリアの他に子はなく、かのジュリアはジプシーと共に出奔して行方不明になっていたからである。

 国王は、4人の高貴なる乙女のことを促されて、鼻で笑った。
「あの女たちを愛妾に? なんの冗談だ。わざわざ王妃の不興を買えと? そもそも、どんな女たちかすら、憶えておらぬ。……いや、もちろん、1人は別だ。だが、いずれにしろそのような対象ではない。氣味が悪い女でな」

「氣味が悪い? 高貴なるご令嬢が?」
ハンス=レギナルドは、いままで国王が女にそのような評価を下したのを訊いたことがなかったので意外に思って訊いた。

「ああ。奇妙なことに、ブランシュルーヴがもっとも信頼しているのが、その女でな……そうだ。バギュ・グリは、そなたの出身地ではなかったか? 候女を知らないか? 美しいが、夜に蠢く獣みたいに残忍な顔つきをした姫だぞ」

 ハンス=レギナルドは、それから彼がどんな受け答えをしたかすら憶えていない。それはクロティルデではあり得ない。親のいうことには一切逆らわない、清楚で退屈な少女が、たった数年でそのような女に変貌するはずはない。

 ハンス=レギナルドの人生で、国王が描写したような特性を持つ女は、たった1人だった。そこにいるはずのない女、しかしながら紛れもないバギュ・グリ候女、男姫ヴィラーゴジュリアその人だ。

 西の塔には、いつもの3倍の護衛兵がいて、見つからずに通過することはできない。彼らは「どのような男も決して通してはならない」と厳命されている。

 だから、彼は修道女の服装を身につけてきた。彼にこの服を貸してくれた修道女は、あいにく見かけほどは慎ましくない。夫亡き後、修道院に入ったものの、彼の誘惑に軽々と応じ、彼がグランドロン王国の騎士となるのに十分な金銭的支援を申し出てくれた女だ。

 暗いとはいえ、女の服装だけで易々と地階の護衛を騙すことができたのは、彼の類い稀な美貌の恩恵だろう。護衛たちは、美しく清楚に見える修道女に戸惑い、問いかけることもなく彼を通してしまった。わずかな手振りをしただけで、《沈黙の誓い》を守っている慎ましい修道女だと勝手に判断してくれた。

 だが、難しいのはこれからだ。地階の護衛たちは新しく、まだ彼の顔をよく憶えていなかった。だが、上の階に行くたびに護衛の騎士は古参で忠誠心に篤い者らが固めるであろう。

 西の塔には、中心に円形階段があり、下からいくつかの広間と部屋が用意されている。最上階はもちろん王と王妃が休む広間と寝室だが、彼はそこに行くつもりはない。しかし、4人の高貴なる乙女たちがどこに部屋を与えられているのかまでは調べられなかった。

 バギュ・グリ候女がもっとも王妃の信頼が厚いというのならば、最上階に一番近い場所が妥当であろう。そこまでたどり着けるであろうか。

 円形階段を上がると2人の騎士が大きい木造の扉を守って立っていた。扉は開き、中の侍女が騎士の1人と話している。もう1人の騎士がこちらに向かって大股で歩いてきた。
「止まれ。お前は何者だ!」

 またしても《沈黙の誓い》の手振りで押し切れるだろうか、そう思ったとき、女が言った。
「お待ちください。その方は、伯女様のためにわたくしが呼んだのです。失礼の無きように」

「それは失礼いたしました。どうぞ」
2人の騎士は最敬礼をして、ハンス=レギナルドを通した。

 女は素早く彼を扉の内側へと連れ込むと、すぐに扉を閉めた。そして、声をひそめて囁いた。
「ハンス=レギナルド様! いったいここで何をなさっているの?」

 顔を見ると、それは宮廷騎士時代によく通っていた侍女だった。
「マルガレーテ! 君は今、ここに勤めているのかい?」
「ええ。アールヴァイル伯女様のお世話をおおせつかっているの。ハンス=レギナルド様こそ、いったいどうなさったの……」

 ハンス=レギナルドはみなまで言わせなかった。
「それは本当か。高貴なる乙女の皆様……いやバギュ・グリ候女様はこの部屋の奥に?」

「そんなわけあるでしょうか。ここはわたしたち侍女がご用事の準備をするための部屋で、候女様は王妃様のひとつ下、他の3人の姫様方はその下の階にご滞在なさっているわ。まさか、候女様のご寝所をお訪ねになるおつもりでしたの?」

 彼は、あっさり認めていいものか迷って口をつぐんだ。
「どんな事情があるかわかりませんけれど、今あそこに忍び込むなんて、正氣の沙汰ではありませんわ。いつ王様がお訪ねになるかもわかりませんのに……」

「なんだって? 候女様たちのところに陛下が? 昨日婚儀をすまされたばかりだというのに?」
氣色ばむハンス=レギナルドを見て、マルガレーテはよくわかったと言いたげな顔をした。

「まあ、ご心配にはおよびませんわ。王様だけでなく王妃様もご一緒にですもの。王妃様はこの西の塔から一歩も出られないので、大切なご友人たちを訪れるくらいの自由は王様もお許しになったのですわ。でも、王妃様とわずかの間でも離れたくない王様は、一緒に行かれるのです」

 ハンス=レギナルドは、上を見上げて「やれやれ」と言った。
「ところで、なんとか護衛兵に見つからないように候女様の部屋に行く方法はないかな」

 マルガレーテは、わずかに口を尖らせて言った。
「……つまり、わたくしが手引きするんですか。ご褒美はなんですの?」

 彼は、悪びれずに笑みを見せた。
「明日、水仙の咲く庭園の東屋で会おうよ。フルーヴルーウーの緑の水晶を知っているかい? 君が身につけたら綺麗だろうな」

 彼女は、「仕方のない方ね」と肩をすくめ、侍女しか使わない裏階段へと彼を案内した。

 細い螺旋階段を3階層ぶん登ってから、廊下を進む。かなり遠くに、この階への侵入者や客人を阻む護衛兵たちの立つ戸口が見えた。マルガレーテは口元に人差し指をあてて、奥の大きな樫の扉を示した。

「どうなっても知りませんからね。わたくしは仕事に戻らなくては」
そう耳元で囁くと、急いで元の道を戻って去って行った。

 ハンス=レギナルドは、意を決したように樫の扉に向かい、静かに扉を開けた。鍵はかかっていない。さっと入ると扉を閉めた。

 侵入者に氣づき声を上げられても困るので、小さな声で呼んだ。
「ジュリア様」

 その途端、奥から声がした。
「ほら。いったとおりであろう。余の勝ちだ、ブランシュルーヴ」

「まあ。なんてことでしょう。あなた様の部下は、皆こんな風に考えなしに行動するのですか、陛下」
涼しやかな女の声が響く。

「そなたの国の候女も負けず劣らず考えなしだと思うが、ちがうか?」
愉快そうなその声の持ち主はよく知っている。

 目をこらすと、奥の緞帳の影に国王レオポルドと、濃いヴェールで顔面を隠した高貴な服装の女性、おそらくブランシュルーヴ王妃が座っている。

「なんという格好だ。そなた、いつ修道院に入ったのだ。……まあ、女のなりも、それなりに似合うな」
レオポルドは蠟燭を掲げて、ハンス=レギナルドを見たのでその顔が目に入った。かなり呆れた表情をしている。

 暗闇の中で目をこらしてあたりを見ると、マルガレーテと同じような侍女の服装をした女が2人ほど横たわっている。王と王妃の前だというのに。

「ここはバギュ・グリ候女様のお部屋では……」
ハンス=レギナルドは、衝撃からやっとのことで立ち直り、それだけ口にした。

「一昨日と昨日のそなたの様子から、絶対に今宵来るとわかっていたぞ。それで王妃と賭けをしたのだ。王妃は、わざわざ捕まりに来る愚かな家臣がいるなど信じられぬ様子だったがな。それで、一緒に来て確認しようとしたら、なんと肝心な候女までいない。……いつのまにか別の場所で逢い引きの手配をしていたのかと呆れていたところだ」

 ハンス=レギナルドは、肩を落とした。ジュリアが抜け出した。もしかしたら、彼を探しに出かけたのかもしれない。すぐに戻りたいが、国王夫妻に侵入が露見したこの状態で、無事に西の塔を出られるとも思えない。

「わたくしの負けですわ。でも、陛下。この西の塔は、簡単に出たり入ったりできるのですね」
王妃は楽しそうにいった。

 レオポルドは、彼に訊いた。
「そんなに簡単だったのか?」

 ハンス=レギナルドは、首を振った。
「たまたま顔を知った衛兵がおりませんでしたので。《沈黙の誓い》の手振りで、声を出さずに済んだことも幸運でございました」
罪に問われるにしてもマルガレーテの協力のことは、なんとか隠したままにしておきたい。

「それにしても、候女様がここを抜け出せるとは思ってもいませんでした」
横たわっている侍女たちを見ながら彼はつぶやいた。

「この侍女らと余たちが朝までぐっすり眠っているあいだに、何食わぬ顔で戻っているつもりだったのではないか?」
王が笑いながら答えたので、ハンス=レギナルドはぎょっとして2人を見た。

「わたくし付きの侍女たちもだらしなく寝入っていますよ。わたくしたちには、その手の薬が効かないことは、ジュリアったら知らなかったのね」
王妃も楽しそうに笑う。

 ハンス=レギナルドは、深いため息をついた。ジュリアならばジプシー由来の得体の知れない薬を持っていても不思議はない。だが、異国に着いたばかりの身で、王と王妃にまで薬を盛るとは無謀すぎる。命がいくつあっても足りない。

「まあいい。今回のことは、そなたとの因縁に関連がありそうな上、王妃が候女がそのような女であることは織り込み済みで、それでも側に置き続けているという以上、余も騒ぎ立てるつもりはない。だから、衛兵たちを呼ばなかったのだ。だが、それだからこそ、こそこそバギュ・グリ候女に逢いに来た理由については、話してもらうぞ」

 意外な成り行きに、ハンス=レギナルドが返答を整理しようと考えていると、レオポルドはそれを待たずに王妃の方を向いた。
「……ブランシュルーヴ、そなたは候女から何か聞いておるのか?」

 王妃は、ヴェールの向こうから鈴のような笑い声を響かせた。
「いいえ。あれは、他の女官たちのようにはいきません。質問しても答えたいことにしか答えませんし、こちらの思うとおりに動かすことはできません。こちらが訊かなくても悩みや昔話を語りたがる女はいますが、ジュリアはそのような者でもありません。……それでいて、たまに語る経験譚ときたら、どんな物語よりもおもしろいのですわ」

「その中に、美貌の騎士の話はなかったのか?」
国王が愉快そうに訊くと王妃は首を振った。
「いいえ。でも、美貌の馬丁の話はありました。女とみたらすべて手を出す手のつけられない好色家なのに、彼女の身持ちの悪さについて説教をしてくる男……身に覚えがありますか? フルーヴルーウー辺境伯どの」

 ハンス=レギナルドは、憮然として答えた。
「ございますし、わたくしのことでしょうが、女のすべてではございません。それは、陛下が保証してくださるでしょう」

 国王は笑った。
「たしかにすべてではないな。だが、数が多いことはまちがいない。なあ、ハンス=レギナルド、そなたにいい報せがあるぞ」

「この首と胴体が離れずに済むという報せ以上のよきものでしょうか」
彼にも軽口を叩く余裕が戻ってきた。

「場合によってだがな。どうやら、候女もまた、そなたがこのヴェルドン宮廷にいることを知ってから浮き足立っていたというのだ。そうであろう、ブランシュルーヴ?」

 夫の問いかけに王妃もまた笑って答えた。
「はい。昨日の婚儀で、廷臣の皆様にご紹介いただいた時以来、ジュリアはずっと上の空でした。もちろん、他のものには氣づかせませんでしたが。あの時は、フルーヴルーウー伯爵殿と、それともその部下のヴォルフペルツ殿のどちらがジュリアを動揺させたのかわからなかったのですけれど、今夜はっきりしました」

 レオポルドは、ハンス=レギナルドに言った。
「さて、せっかくだから、このままここで候女が戻るのを待とうではないか」

 ハンス=レギナルドは、眉をひそめた。
「ジュリア様は、動揺して許しを請うようなことはなさらないかとおもいますが」

「そうだろうな。だが、そなたが領地に帰る前に、上手く話をまとめてやる機会はもうなさそうなのでな。そなた、そろそろ伯爵夫人がほしいところであろう?」
レオポルドは愉快そうに言った。

「懲罰ではなく、そのような恩寵をいただく理由がわかりませんが」
ハンス=レギナルドは、困惑していった。

「そなたが王妃に色目を使わなければそれでいいのだ」
国王は冗談とも本氣ともわかりかねることを言った。

「そなたがこの国に来て、騎士となり、武功を立て、ついには辺境伯にまでなったのも数奇な人生であったが、バギュ・グリ候女もまた波乱に満ちた境遇を経てこのブランシュルーヴに仕えることになり、この国にたどり着いたのだ。このまま再会せずに終わるのは天の意思にも反すると余は思うのだ、そうではないか?」

そう言って近づいてきた国王は、彼の修道女の服装を掴みながら笑った。
「もっとも、これではあまり絵になる再会とも思えんがな」

(初出:2024年3月 書き下ろし)

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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】アーちゃん、がんばる

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第2弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化している『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。

さて、前回、ダメ子さんやミエちゃんまで引っ張り出してさらにカオスにしてしまったアーちゃんの再告白計画、まだ続いています。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私が書いた『やっかいなことになる予感』
ダメ子さんの『疑惑』
私が書いた『再告白計画、またはさらなるカオス』
ダメ子さんの『カオス』

私の作品は以下のリンクからまとめ読みできます。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ

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アーちゃん、がんばる
——Special thanks to Dameko-san<


 深呼吸して、事態を整理して考えよう。こんなカオスの元凶は、そもそもチャラ先輩がめちゃくちゃ鈍いってことよね。アーちゃんが、バレンタインで告白しようとした相手が、自分だとまだわかっていない。

 もちろん、それに加えて、アーちゃんの告白のしかたが、絶望的にはっきりしないってことも問題なんだけど。

 でも、しかたないじゃない? アーちゃんは極度のあがり症。好きなチャラ先輩を前にして、はっきりくっきり「好きです。つきあってください」とか言えるぐらいなら、そもそも中学の時に伝わってたはず。

 でも、わたしとムツリ先輩が、影ながらこんなにサポートしているのに、ここまで伝わらないって、どういうこと?!

 というわけで、アーちゃんに再告白してもらうべく、ムツリ先輩も巻き込んで段取りをつけていたら、あいかわらず誤解したまんまのチャラ先輩ったら、クラスの女の先輩たちの協力まで要請して、モテ先輩を呼び出しちゃった。いや、だから、初めっからモテ先輩は関係ないっていうのに……。

「ねえ、つーちゃん。チャラ先輩、告白は重いって……。やっぱり先輩が言っていたみたいに『自然に、なんとなくいい感じになる』ってほうがよくない? そしたら、わたし、また告白しなくて済むし……」
アーちゃんが、めちゃくちゃ氣弱なことを言う。

 いや、普通のケースなら、それでいいのよ。でも、チャラ先輩はきっと、お祖父さんになるまでアーちゃんはモテ先輩が好きだと思い続けるよ。

「なんとなくも、へったくれもないわよ。それに、たとえ告白しないとしても、せっかくクッキー作ってきたんでしょ? チャラ先輩に食べてもらえたら嬉しくない?」

 わたしの言葉に、アーちゃんはけなげに頷く。
「うん。昨晩、3時までかかって4回も作り直した。見かけも味もこれまでの最高傑作だし、食べてもらいたい」

 わたしは、驚いた。めっちゃ氣合い入れて作ってた。
「じゃあ、渡そう」
「うん。……あ、こっちはね。2回目と3回目にできた作品。ハートのが割れちゃったり、アイシングが下手になっちゃったの。でも、味は美味しいはずだから、つーちゃんにあげるね」

「わあ、ありがとう。後でいただくね……それでね、思うんだけど」
「なあに?」
「多迷先輩にメモは渡さないでってお願いしたから、たぶん来ないとは思うんだけど、もし万が一、その場にモテ先輩が登場すると、また話がこんがらがるでしょ?」
「う……うん。そうだね」

 わたしは、重々しく言った。
「だから、モテ先輩が絶対に来ないところで渡そう」
「え? どういうこと?」

「だから、モテ先輩に来てくださいってお願いした用務員室の裏手から、すごく遠いところ……たとえばテニスコートの裏にチャラ先輩を連れ出すから、そこでアーちゃんがそのクッキーを渡すの。そしたら、さすがのチャラ先輩でも自分あてだとわかるでしょ?」

「え。でも、そしたら間違えて呼び出された、モテ先輩は?」
アーちゃん、けっこう義理堅く心配している。

「そっちは、クラスメイトの多迷先輩が、何とかしてくれると思う。あと、愛瀬先輩もいたし……心配なら、わたしかムツリ先輩が様子を見にいくから」

 アーちゃんは頷いた。
「わかった。でも、チャラ先輩も、あっちに行っちゃうんじゃない?」

「そこは、わたしとムツリ先輩で、なんとかしてテニスコートの方に行くように仕向けるから。とにかくアーちゃんは、クッキーを渡す準備をして、テニスコートの裏に行っていて!」

 わたしは、いそいでスマートフォンを取りだした。

 そうなんだよなあ。このドタバタで、ムツリ先輩といろいろ連絡を取り合うことがあって、結局、わたしはムツリ先輩の連絡先ゲットしちゃったのよね……。アーちゃん、チャラ先輩の連絡帳に載ったら死ぬほど嬉しいとか言っていたから、わたしがムツリ先輩と連絡先交換したこと、言い出しにくいんだけど……。ま、チャラ先輩の連絡先じゃないからいいか。

「あ、先輩。すみません。いまアーちゃんと話していて決めたんですけれど、モテ先輩のいないところで告白するのがベストだと思うんで、うまくチャラ先輩をテニスコート裏につれて行ってくださいませんか?」

 電話の向こうのムツリ先輩は少し口ごもった。どうやらそばにチャラ先輩がいるみたい。
「あ~、そうか。えーと、どうしよっか」

「場所変更って言って、上手にチャラ先輩だけ連れてきてください。モテ先輩の方は、上級生の女の先輩方がなんとかするでしょう、きっと」
「ああ、そう。わかった」

 ムツリ先輩は、口数少ないけど、話のわかりがよくて助かる。じゃ、わたしもテニスコートに向かおうっと。

 ふと見ると、用務員室の方にモテ先輩が歩いて行っている。そして、後ろから心配している感じで多迷先輩もついて行っている。あれれれれ。行かなくていいってひと言いえばいいのに??? そして、愛瀬先輩の姿も見えるな。あっちはあっちでちょっとカオスな感じなのかも。

 ま、いっか。とりあえず、アーちゃんの方を見届けよう。

 テニスコートの裏に着くと、向こうからムツリ先輩がチャラ先輩と話ながら近づいてきた。あ。無事に連れてきてくれたんだ。……アーちゃんは?

 テニスの用品入れ小屋の影から、アーちゃんが突進してきた。手にはちゃんとクッキーを持っている。察したムツリ先輩は、そっとチャラ先輩のそばを離れて、こっちに向かってきた。

「やあ。こっち来ちゃったけど、モテの方は大丈夫?」
ムツリ先輩は小さい声で訊いた。

「それが、どうも用務員室の方にやっぱり向かっていました。多迷先輩と愛瀬先輩が追っていましたけれど……多迷先輩にメモは渡さなくてもいいと伝えたので、フォローしてくれるかなと」

 ムツリ先輩は少し考えた
「うーん。どうかな。あの子、アーちゃんとは違うタイプであがり症じゃないんだろうけど、あまりはっきりと言わないかもなあ」
「え~。フォローしないとダメですかね」
「うーん。愛瀬くんもいるのか。……こじれたりして」

 そんなことを話している間に、アーちゃんがチャラ先輩にクッキーを渡しているのが見えた。おお、ばっちり渡した。これでチャラ先輩も氣がつくかしら。バレンタインのチョコが自分あてだったって。

 アーちゃんが告白しているっぽいのを見守りつつ、わたしはムツリ先輩にももらったクッキー包みの1つを渡す。
「あ。これ、アーちゃんからお裾分けです。失敗作らしいんですが……味は美味しいそうです」
「へえ。ありがとう」

「なんだよ。モテに直接渡せないのか? また渡してほしいとか?」
向こうからチャラ先輩の大きな声が聞こえて、わたしはずっこけた。え~、まだわかんないかな。

「そ、そ、うじゃなくて……こ、これは、モテ先輩じゃなくて……その……チャラ先輩、食べてください!」

 チャラ先輩は、首を傾げている。そうよ、考えて! アーちゃんが告白したいのは、チャラ先輩、あなたなんだから。

「大丈夫そうですね。ムツリ先輩、私たちはお邪魔虫だから去りましょう。モテ先輩の方に行って、謝った方がいいかもしれないし」

 わたしが言うと、ムツリ先輩はやる氣なさそうな様子で答えた。
「う〜ん……多迷さんがそつなく話を収めている……ってことはないだろうな。愛瀬さんもいるのかあ。……面倒な感じだなあ」

 ムツリ先輩ったら。
「だったら、なおさら行かなきゃ。さ、先輩、行きますよ!」

 わたしが先輩を引っ張って用務員室の方へ向かおうとしていると、遠く後ろからチャラ先輩の声が聞こえた。

「ああ、ムツリとつーちゃんもこのクッキー持ってんな。もしかして、これって友チョコならぬ、友クッキー?」

 わたしは、ムツリ先輩と顔を見合わせた。絶望的な氣分になったことは言うまでもない。アーちゃん、お願いだから、もうちょっと頑張って、それを否定して!

(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】おせっかいなファボーニオと仔犬のマルコ

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の最初の作品です。ユズキさんは、アニメ絵本作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 ユズキさんの『scriviamo! 2024参加作品 絵本 けだまヒヨコちゃん』

ユズキさんは、小説の一次創作やオリジナルのコミックを発表、それにイラストライターとしても活躍なさっているブロガーさんです。現在代表作であるファンタジー長編『片翼の召喚士-ReWork-』の続編『片翼の召喚士-sequel-』をはじめ、たくさんの小説やマンガを発表される一方、イラストACでのイラストの提供もなさっています。そして大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストも描いてくださっています。

ご自分でもおっしゃってましたが、「scriviamo!」にご参加くださる度に、まったく新しい表現方法を模索してくださるのです。今回のアニメ絵本もたくさんの新しいアプリの使い方を勉強しているとおっしゃっていたのですが、この短期間でこんな完成度になるのですね! こちらの動画、音声にもこだわりがあるので、ぜひ音声を聞ける環境でご覧くださいね。

さて。お返しですが、「既存の相互作品のパロディじゃないもの」とのリクエストでしたので、今回のユズキさんの絵本の内容を踏襲する形で作りました。わたしの作品にだけ出てくる風神ですが、ローマ神話の風神の名前を使いました。対応するギリシャ神話(例えば西風ゼピュロス)の方が有名なのですが、イメージに引きずられないようにマイナーなローマ神話を使いました。そして、実は「ファボーニオ」とは、わたしの住むスイスでもイタリア語圏で「フェーン現象」のことを指す現役の言葉なのです。そして、時おりまだ冬なのに急に小春日和にしてしまうこのストーリーと似ているところのある風です。


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おせっかいなファボーニオと仔犬のマルコ
——Special thanks to Yuzuki-san


 その日、農場のおかみさんは、あまり機嫌がよくありませんでした。洗濯物を干しているときに、ガチョウが脱走していることに氣がついたのです。汗だくになってようやく捕まえて戻ってくると、雌牛が洗濯物に鼻をこすりつけていました。洗濯はやり直しです。

「フィンダス! ガチョウが逃げ出さないように見張っていておくれ!」
おかみさんは、猫に頼みました。彼はご自慢の毛皮をなめるのに忙しく、ガチョウの小屋には目もくれません。

「じゃあ、マーサや。お前がガチョウを見張っておくれ」
おかみさんは、ビーグルの母犬に頼みました。

 マーサは、すでにニワトリたちを見守るように、農場主のアルバーノさんに命じられていたのですが、おかみさんの機嫌がとても悪いので脱走好きのガチョウを優先して追いかけるほかはないと思いました。

 そこでマーサは、仔犬のマルコに声をかけました。
「いい子だね、坊や。あたしの代わりにニワトリたちの面倒を見ておくれ。彼女たちからお願いされたら、助けてあげるんだよ」

 マルコは、とても小さいビーグルですが、けなげに頷いていいました。
「わかったよ。ボク、鶏小屋に行ってくるね!」

 それは、とても暖かい午後のことでした。あまりにも暖かいので、遠く山では洞窟の扉をきっちりと閉ざして寝ていた熊までが、寝過ごしたのではないかと、ちらっと外をのぞき見したほどでした。

 でも、熊が寝過ごしたのではありません。まだ2月だったのです。

 風神ヴェンティの長男である北風アキローンは、ここのところとても忙しく働いていました。

 冷たくて強い息をブウブウと吹きつけられた湖畔のプラタナスたちには、真横に伸びる剣先のような氷柱が育ちました。道はつるつるに凍って、人間たちが冬の間に遊ぶスケートリンクのようになってしまいました。

 それから、山のてっぺんの雲をものすごい勢いで凍らせたので、どこもかしこも大雪が降りました。あまりにもたくさん雪が積もったので、鹿たちや野ウサギたちは、まったく餌を見つけることができなくなってしまいました。それを見て、アキローンは「どうだ、まいったか」とご機嫌でした。

 アキローンはたいそう満足して「さて、ずいぶんと働いたからつかれたぞ」と雪のお布団をかけて横になりました。とても疲れていたので、すぐに大きないびきをかいてぐっすりと眠ってしまいました。

 お腹のすいた動物たちがメソメソしているのを見て、かわいそうだと思ったのは、アキローンの弟である西風ファボーニオでした。

 ファボーニオは、本当はいま休暇中です。彼の仕事は、春の訪れを世界に知らせることです。植物と花を揺り起こして、世界に豊穣をもたらすには、いまは少し早すぎます。

 でも、ファボーニオは、親切な性格でした。どちらかというと、おせっかいだったのです。困っている動物たちを放っておくことはできません。それで、兄がぐっすり眠っている隙を狙って暖かい風を次から次へと送り込みました。

 たくさん積もっていた雪がどんどん溶けて、小川に流れ込みました。真っ白だった大地には若草が生えて、スノードロップやクロッカスはあわてて葉を延ばしはじめました。

 雪の下で眠っていた木々も、若芽を膨らましはじめたので、動物たちは喜んで新鮮な葉っぱを食べました。

 さて、ファボーニオが、そうやって辺りを早すぎる春にしていると、ちょうど目の下にこぢんまりとしたアルバーノさんの農場があることに氣がつきました。

 農場には、牛、ヤギ、ガチョウ、そして、たくさんのニワトリと、彼らを守るビーグル犬がいます。

 ファボーニオが、そっと農場に降りていくと、ビーグル犬のマーサが尻尾を振って近寄ってきました。
「こんにちは。ファボーニオさん。今年はずいぶん早いですね」

「おや。マーサ、久しぶりだね。元氣そうでなによりだ。何をしているんだい?」
「ご覧の通り、ガチョウと追いかけっこです。放浪の旅に出るんだってきかないんです」
「それは大変だね。でも、たしかに放浪の旅はすてきだよ。よかったら、君もやってみるといい。ところで、君には息子がいたんじゃなかったかい?」
「ええ。あの子は今、鶏小屋にいますよ」
「そうか。じゃあ、ちょっと寄って挨拶してこよう」

 ファボーニオは、そういうとガチョウを追いかけているマーサと別れて、鶏小屋の方に向かいました。

 いました。去年見たときは、豆粒のようだった仔犬のマルコは、ずっと大きくなっていました。といっても、歩き方はひょこひょことしていますし、小さな前足はふっくらとして、まるで綿毛のようです。

 綿毛といえば、鶏小屋には小さなヒヨコたちと、優しい雌鶏たちの綿毛がフワフワと舞っていました。

 ヒヨコたちは、はじめての春の予感に大喜びで小さい翼をパタパタさせてしきりにピヨピヨ鳴いて走り出していましたし、お母さん雌鶏は、大忙しで子供たちを追っていたからです。

「ファボーニオさん! ボクを憶えている? マルコですよぉ」
マルコは、ファボーニオが鶏小屋に入ってくると急いで近寄ってきました。
「もちろん、憶えているさ。大きくなったね。もう立派な番犬だね」

 マルコは、ファボーニオに褒めてもらったのが嬉しくてしかたありません。
「そうだよ。ボクね、きょうね、ニワトリさんたちの当番! ほら見て! みんながパタパタしたから、こんなにかわいい毛玉できたよ」

 ファボーニオは、マルコの示す方を見ました。そこには、雌鶏さんの白い羽毛と、ヒヨコたちの黄色い羽毛が集まってできた、ふわふわの毛玉がありました。マルコの小さな毛がちょうどつむじに生えた毛のような位置にあるので、まるで小さな小さなヒヨコに見えます。

「ああ、これはかわいいな。小さい『けだまヒヨコ』だね」
ファボーニオが言いました。

 本当に、そこに『けだまヒヨコ』が誕生しました。クリーム色のふわふわの毛玉に、にょきっと生えた白と茶色つむじの毛。小さなつぶらな瞳とかわいいくちばしを持った『けだまヒヨコちゃん』は、ふわふわと漂いながら、あたりの様子を眺めました。

 雌鶏お母さんも、ヒヨコちゃんたちも『けだまヒヨコちゃん』の誕生に大喜びで翼をパタパタして叫びました。
「おめでとう! かわいい『けだまヒヨコちゃん』」
「ぼくがお兄ちゃんだよ!」
「あたしはお姉ちゃんよ」

 優しい家族に囲まれて『けだまヒヨコちゃん』は嬉しくなりました。そして、ファボーニオの背に乗って農場を眺めました。
「ねえ。ここがわたしのお家なの?」

「そうだよ。ここが、君のお家だ。あそこにいるのが農場主のアルバーノさん。洗濯物を干しているのはおかみさん。大きな農場だろう? 雌鶏お母さんは優しいし、ヒヨコのお兄さんやお姉さんは、君のいい遊び相手になるだろう」
ファボーニオの言葉に、『けだまヒヨコちゃん』は嬉しそうに頷きました。

「あたし、農場の外も見てみたい。あそこの大きいのはなあに?」
「あれは山だよ」
「じゃあ、あっちの青いのはなあに?」
「あれは湖だ」
「カラフルなあそこは?」
「あれは牧草地だよ。牛やヤギたちが、あそこの草と花を食べるんだ。やあ、花がたくさん咲き出したな。……ちょっと早すぎたけれど、みな喜んでいるからいいだろう」

 そうやって、『けだまヒヨコちゃん』を背中に乗せて、ファボーニオは山や湖の上を通り過ぎて、農場周りの美しい自然を見せてあげました。

 ファボーニオの暖かい吐息に触れると、まだ残っていた雪はことごとく消え、小川はキラキラとした水で満ち、水車もカラカラと回り始めます。草原には、若草がぐんぐん伸びました。眠っていた花たちは、大きく伸びをして、頭を振ると閉じていた花びらを開きはじめます。黄色、ピンク、赤、紫、青と鮮やかな花が咲いていく様子に、『けだまヒヨコちゃん』は目を見開いて喜びました。

 ちょうどその時、眠っていた北風アキローンは、目を醒ましました。
「おや。なんだか騒がしいぞ」

 寝ぼけたまま、顔を上げて辺りを見回していましたが、目に入ってきた光景にびっくりしました。
「どうなっているのだ! 雪はどこへ消えた。氷柱がなぜなくなっている? ワシの芸術作品である樹氷の林がなくなっただけではなく、なぜ新芽が芽吹いているのだ!」

 あわてて辺りを見回すと、楽しそうに飛び回っている弟ファボーニオの姿が目に入りました。

「あの馬鹿者! まだ2月なのに何をしているのだ。父上に知られたら、ワシまで大目玉を食らうじゃないか。なんとかしなくては」

 アキローンは急斜面のてっぺんから助走をつけました。ゴロゴロと雪下ろしの遠雷を響かせて、農場や湖のある里の方へ真っ黒な雲のマントを纏って吹き降りていきました。

 分厚いその外套は氷の粒でできていましたが、里はファボーニオが走り回りとても暖かくなっていたため、すべて溶けて冷たい雨になりました。

 その大雨は『けだまヒヨコちゃん』にも降り注ぎました。ふわふわの毛玉ならばファボーニオの背中に載ることができましたが、水を含んで重くなってしまったら、もう空を飛ぶことはできません。

「えーん。落ちちゃった」
『けだまヒヨコちゃん』はしくしく泣きました。

 ファボーニオは、『けだまヒヨコちゃん』を助けたくてもどうすることもできません。それどころか怒り狂った兄アキローンが追いかけてくるので、逃げ回るのに必死です。

 逃げている最中に、農場からこちらに駆けてくるビーグル犬の仔犬マルコが見えました。そこでファボーニオはマルコに叫びました。
「ちょうどいいところに。『けだまヒヨコちゃん』は、あそこの花畑にいる。悪いけど、面倒を見てやっておくれ。ぼくはこれで失礼するよ。春にまた会おう!」

 そう言って、ファボーニオは急いで西のねぐらへと帰って行きました。

 マルコは、アキローンが降らせる冷たい雨をものともせずに、短い足を必死に動かして花畑に急ぎました。『けだまヒヨコちゃん』は濡れてすっかり小さくなっていましたが、たくさんの花たちも冷たい雨を避けて頭を下げていたので、何とか見つけることができました。

 アキローンがファボーニオを追いかけて行ってしまったので、冷たい雨は止みました。でも、『けだまヒヨコちゃん』は、どうしていいのかわからず泣くばかりです。

 マルコは、そっと『けだまヒヨコちゃん』の近くに寄って小さな鼻を近づけました。『けだまヒヨコちゃん』は驚いて泣き止みました。

「心配しないで、『けだまヒヨコちゃん』。ボクのあたまのうえに、のせてあげる」

 小さな『けだまヒヨコちゃん』は、マルコのことを知りませんでしたが、とても優しい顔の仔犬だったので、すぐに信頼して頷きました。マルコは頭を下げ、『けだまヒヨコちゃん』はその上によじ登りました。

 マルコは短い4本の足を交互に動かして、トコトコと歩きます。速くは進めませんが、振り落とされたりしないので『けだまヒヨコちゃん』には、その方が安全でした。

 このこいぬさん、どこに行くんだろう? 『けだまヒヨコちゃん』は考えました。マルコが行き先を訊かなかったし、言わなかったからです。

 でも、それはすぐにわかりました。マルコは、まっすぐにアルバーノさんの農場に帰ったのです。

「あ、『けだまヒヨコちゃん』が帰ってきたよ!」
「『けだまヒヨコちゃん』だ!」

 門のところに、たくさんの動物たちが待っていました。雌鶏のお母さん、ヒヨコのお兄ちゃんとお姉ちゃんたち。牛、ヤギ、ガチョウ、そして、猫のフィンダスとマルコのお母さんであるビーグル犬マーサが迎えてくれました。

「おかえりなさい、『けだまヒヨコちゃん』」
温かい歓迎に、『けだまヒヨコちゃん』は喜んで大きな声で答えました。
「ただいま」

 そして、自分を迎えに来てくれた仔犬も、同じ農場の仲間だとわかってもっと嬉しくなりました。そして、マルコに抱きついてお礼を言いました。

 立派に務めを果たして帰ってきた息子を、マーサは優しく舐めて讃えました。

 マルコは、マーサに訊きました。
「西風ファボーニオさんは、どこへ行っちゃったの?」

 マーサは笑って答えました。
「北風アキローンさまに追われて、山へ帰ってしまったよ。でも、あとひと月もしたら、また何食わぬ顔で戻っていらっしゃるでしょうよ。その時にまたたくさんお話をするといいよ」

 マルコは大きく頷きました。
「ボク、大きくなったら、ファボーニオさんみたいにあちこち行きたいな。『けだまヒヨコちゃん』と一緒に放浪の旅に出ようかな」

 マーサは、ガチョウみたいなことを言うんじゃありません、という小言を飲み込みました。マルコが大きくなったら、きっともう少し分別がつくだろうと思ったからです。

 アルバーノさんの農場に、春はもうすぐそこまで来ているようでした。

(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -19- モスコミュール

今年最初の小説は「150000Hit 記念掌編」の第3弾をお送りします。

今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: 大人の世界をのぞき見?
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: 『バッカスからの招待状』
   コラボ希望キャラクター: ハリポタ高校生トリオ(3人ともでもひとりでも)
   使わなくてはならないキーワード、小物など: お祝い



ハリポタ高校生トリオというのは彩洋さんのところの『学園七不思議シリーズ』の相川真くん、富山享志くん、杉下萌衣ちゃんというティーンエイジャーたちのことで、彩洋さんのところの長編大河『相川真シリーズ』の番外というのか、プチ・パラレルワールドというのか、まあ本人たちなんだろうけれど、ちょっと毛色が違う作品群という理解でいいんですよね? (わかっていないまま書くなと怒られそう。ごめんなさい!)

で、未成年を大手町のバーにという無理めのリクエストに頭を抱え、どっちにしてもこのバーは下戸ばっかりだし「ま、いっか」とストレートに全員放り込ませていただきました。案内役は下戸代表で夏木です。

最後、謎の着地をしていますが、なんとなく真はこういうイメージで仲直りしたいのは彩洋さんのところの例のあの人、というわたしの妄想が入っております。いや、あの方がティーン相手に喧嘩するのかという話はさておき。


「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -19- モスコミュール

 普段は四角四面なビジネスの街という印象を与える大手町も、正月飾りつけがあちこちに見え、さらには正月休みでまだ開いていないビルの寂しい感じがかえって新春らしさを醸し出している。夏木にとってはもう新春ではない。正式な仕事始めに先駆けて、サポートで急遽呼び出されてしまったからだ。

 とはいえ、通常の営業時間よりずっと早くに解放されたので、まだ明るいうちに東京駅に向かって歩いているのだった。

「やっているかな。いや、田中さんもまだ正月休みだよな……」
ブツブツ言いながらも、多少は期待して、彼の唯一の行きつけの店に向かう。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 階段を降りて見ると、幸い看板に灯がついている。おお、やっている。夏木は足早になった。同時に変わった光景に戸惑った。

 店の入り口前にどう見ても未成年と思われる3人がウロウロとしていた。少女が1人と、2人の少年。中学生ではないかもしれないが高校生としては幼いようにも感じる。

「どうする?」
「どうするって、入るしかないじゃない?」
「いや、でも、ここ本格的すぎてさ。もっとチェーン店みたいなノリで入れるとこないの?」
「本格的じゃないと、質問できないでしょ。バイトの人とかじゃだめだもの」

 尻込みしているのはみるからに上質な服を着ている活発そうな少年。リーダーシップを取っているのは腕に1冊の本を抱えている少女。そして、もう1人のきれいな少年はあらぬ方を見ながら黙って立っていた。

 夏木が通ろうか迷っている様子に氣がついたのは、その少年だった。言い合っている2人にぼそっと言った。
「通りたいみたいだ」

 2人は、同時に夏木を見て言った。
「「すみません」」

「いや、全然。この店に入るか、まよっているのかい?」
夏木が訊くと、少女が頷いた。メガネの奥に理知的かつ、いたずらっ子のような光のある瞳が印象的だ。

「そうなんです。冬休みの自由研究で、ちょっと訊きたいことがあって、でも、入りやすそうなお店はみんな閉まっているし、私たち夜遅くに繁華街に行くわけにもいかないし……。ようやくここ、開いているのを見つけたんだけれど、ちょっと敷居が高くて」

 夏木は頷いた。自由研究か。お酒を飲もうってわけでもないなら連れて行ってもいいかな。
「この店のマスターは親切でとてもいい人だから、心配要らないよ。大人の世界をのぞき見るには最適かもね。一緒においで」

 そう言って、カランと音を立てて扉を開いた。
「明けましておめでとう、田中さん」

 カウンターの中から、田中は驚いたようにこちらを見た。
「夏木さん。おめでとうございます。初出勤でしたか?」

「まあね。本当は明後日からだったんだけれど、急遽ね。せっかくだから田中さんと新年祝いでもできたらいいなと思ってさ。開いていてよかった。今年もどうぞよろしく」
「こちらこそどうぞよろしくお願いします。……そちらのみなさんは?」

 夏木が答える前に、少年の1人が大きな声で言った。
「こんにちは。僕は富山享志です。こちらは杉下萌衣と相川真です。どうぞよろしく」

「ちょっと級長! 別にフルネームで自己紹介するところじゃないんじゃ……」
萌衣が小さくツッコんだ。

「それはどうも、富山さん、杉下さん、そして相川さん、ようこそ。夏木さんのお知り合いですか?」
田中が訊くと夏木は首を振った。
「いや。そこで入ろうかどうか迷っていたみたいで。なんだか自由研究の質問があるみたいで」

 萌衣が大きく頷いて『花言葉・宝石言葉・カクテル言葉辞典』という本をカウンターの中の田中に見せた。
「そうなんです。わたし、この本にある言葉と、実際のお店でそれが実際に使われているかを調査しています」

「そうですか。どうぞおかけください」
田中に言われて、夏木はいつものカウンターの奥の席に、3人はカウンターの正面に並んで座った。

 田中におしぼりを出してもらいながら夏木は言った。
「へえ。花言葉は知っていたけれど、カクテル言葉なんてあるんだ?」

 田中は頷いた。
「花言葉のように、一般的ではありませんが、ありますね」

「それって誰が決めるんですか? カクテル協会みたいな組織でもあるんですか?」
萌衣が訊くと、田中は首を振った。
「はっきりとした由来はわかっていません。20世紀初頭に禁酒法でアメリカを去ったバーテンダーたちがヨーロッパでカクテル文化を広める最中に、花言葉など間接的な表現を好む文化と結びついて生まれたと言われています」

「お。ちゃんと教えてくれている」
享志が言う。萌衣は軽く睨むと小声で言った。
「茶化していないで、ちゃんとメモ取って!」

 萌衣は、田中に向かって質問歩続けた。
「じゃあ、1つのカクテルにきっちりと決まった言葉があるってわけではないのですか」

 田中は首を振った。
「だいたいこのカクテルの言葉はこれ、と決まってはいますが、場合によっては2つ3つの違う言葉が使われることもあります。たとえばブルームーンというカクテルには『完全なる愛』『叶わぬ恋』『出来ない相談』『奇跡の予感』といった、まったく違った意味の言葉があります」

 夏木はいつものサマー・デライトを飲みながら訊いた。
「へえ。ブルームーンってどんなカクテル?」

「ジンベースで、パルフェタムールとレモンジュースを使った紫色のショート・カクテルです」
田中が答え、3人にはウーロン茶を出した。

「ブルームーン……ありえないこと」
真がぼそっと口にした。

 田中は頷いた。
「そこから『叶わぬ恋』『出来ない相談』の言葉が生まれたのでしょうね」

 享志は首を傾げる。
「青い月がなんでありえないのかな?」

 萌衣が小声で答える。
「同じ月に2度満月がやって来ることをブルームーンって言うの。めったにないことだから、ありえないことをブルームーンって言うようになったのよ」
「あっそう。なるほどなー」

「えっと。それじゃ、このカクテルを頼むのは、こういう意味っていう例はありますか」
享志が訊くと、田中は少し考えた。

「そうですね。お酒の特徴と一致していてわかりやすいとなると、たとえばウィスキー入りのウィンナーコーヒーであるアイリッシュコーヒーという熱いカクテルがありますが『暖めて』というカクテル言葉です。それにウオッカベースのキス・オブ・ファイアというカクテルには『情熱的な恋』というカクテル言葉がついています」

「わかりにくいのだと?」
夏木も興味津々だ。

「そうですね。赤ワインとレモンジュースを使ったアメリカン・レモネードというカクテルには『忘れられない』というカクテル言葉がついていますが、これは知らずに想像するのは難しいですよね。また、アプリコット・ブランデーとアブサンを使ったイエロー・パロットというカクテルには『騙されないわ』というかなりはっきりとした意味あいの言葉がついていますが、そもそもこのドリンクをご存じの方の方が少ないのでカクテル言葉まで予想のつく方は珍しいかもしれません」

 ずっと黙っていた真が口を開いた。
「何か、仲直りの意味のあるカクテルって……」

 享志がぎょっとして、振り向いた。
「なんだよ。相川。誰かと仲直り、したいの?」
「……」
真はそっぽを向いて答えない。

「あーあ。級長ったら、自分以外に相川くんが氣にしている友だちがいるのイヤなんでしょ」
「そんなんじゃないよ。僕は、力になれたらって思っただけさ。ま、誰かは確かに氣になるけどさ。だって僕たち、喧嘩していないし」

 真はまったく答えるつもりがないのか黙ってカウンターのライトを見ていた。田中はその時に真の特徴的な瞳に氣がついた。左右で色が違ったのだ。

「そうですね。モスコミュールをご存じですか。ウオッカとジンジャービアで作るカクテルです。『喧嘩をしたらその日のうちに仲直りをする』というカクテル言葉がついています」

「さすが田中さん、よく知っているんだなあ」
夏木がサマー・デライトを飲むと、萌衣がそれを見て訊いた。
「そのドリンクは?」

 夏木は苦笑いした。
「これはノンアルコールカクテルだから、カクテル言葉はないんじゃないかな」

「えっ。ノンアルコールでカクテル作ってもらえるんですか! わたしも飲んでみたい……あ、でも、お小遣いじゃ無理かなあ」
萌衣が肩を落とすと、享志がニッと笑って財布を取り出した。
「まかせてくれ。ことしもお年玉大尽なんだ、僕。せっかくだからここで3人分のノンアルコールカクテル作ってもらって飲もうぜ」

「え~! ほんと? いいの? 嬉しい。さすが級長ったらお坊ちゃま!」
「ありがとう」
萌衣と真がそれぞれに礼を言う。

 田中は、少し憂いのある顔をして心ここにあらずな様子の真を見ながら言った。
「ノンアルコールのモスコミュールをお作りしましょうか」

 真は、はっとして田中の顔を見た。そして、かき消えるような声で答えた。
「お願いします」

 田中は、夏木を見て言った。
「近藤さんがよく飲まれるサラトガ・クーラーと同じレシピなんです」

 けれど、サラトガ・クーラーの時とは違って、モスコミュールと同じキンキンに冷えた銅のミュールカップに注いだ。

 夏木は、乾杯をして飲む少年少女を微笑ましく見つめていた。田中も同じように見つめながら、相川少年が心に秘めている人物との仲直りが無事にできることを祈った。

モスコミュール(Moscow Mule)
標準的なレシピ

ウオッカ - 45ml
ジンジャービア - 120ml
ライムジュース - 10ml

作り方
「ミュールカップ」とも呼ばれる銅製のマグカップ、またはロックグラスにウォッカとジンジャービアを入れる。ライム・ジュースを加え、混ぜ合わせる。
スライスしたライムを飾る。



(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】毒蛇

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第3弾です。山西 左紀さんは、連載作品の最新話でご参加くださいました。ありがとうございます!

 山西 左紀さんの『白火盗 第五話』

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

今年書いてくださった作品は、左紀さんにとってはじめての時代小説「白火盗」の新作です。独自設定のもと、不思議な力を持つヒロインと、彼女にひかれる浪人の物語です。

お返しの作品は、もちろん左紀さんのお話の本編には絡めませんので、まったく関係のない話です。いちおう、お返しとして書きましたので「時代物(でも中世ヨーロッパ)」で、とあるシチュエーションだけまるまるいただいて書いてみました。

世界観は、現在連載中の『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』のものですが、現在のストーリーとはまったく関係ありませんので、連載を読んでくださっている方も、未読の方も、前作をお読みになった方も等しく「?」となる話です。登場するオットーという人物は、これまで1度も出てきていません。それ以外の人物は、連載中の作品の主要登場人物の先祖です。


【参考】
《男姫》ジュリアとハンス=レギナルドについてはこちら
【断片小説】森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走より
Virago Julia by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。

「scriviamo! 2024」について
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毒蛇
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 オットーは、腕を組んで窓の方を見た。特に見たい物があるわけではなく、暗い部屋の中ではどうしても月明かりの差し込む窓に視線が向く。

 王都ヴェルドンの地を踏んだのは、2年ぶりだ。国王自身の婚礼がなければ、フルーヴルーウー辺境伯ハンス=レギナルドは、あと10年でも戻らなかったかもしれない。

 オットーは、「これまでに存在せず、今後も現れないであろう美しさ」と噂される花嫁、隣国ルーヴランのブランシュルーヴ王女にも、彼女が連れてきたという華やかな美女たちにも興味はなかったが、2年ぶりに国王に声をかけてもらい満足だった。

 それは異様な婚礼であった。花嫁とルーヴランから連れてきた4人の高貴なる乙女たちは、婚礼前だけでなく、婚姻の儀においても、その後のお披露目の宴でも濃いヴェールを外すことを許されなかった。

 それどころか、国王レオポルドは、新王妃を王城の王妃の間に住まわせることを拒んだのだ。本来、敵国から嫁いでくる花嫁を儀礼的に婚姻まで滞在させる西の塔に、そのまま厳しい見張りと共に置き、自らも塔で寝泊まりするようになった。

 はじめは、敵国による奇襲を警戒しているのではないかと噂した貴族たちも、やがて国王の怖れが自らの安全にはないことを理解しだした。彼は、新妻をほかの男に奪われることをなんとしてでも避けようとしているのだと。

 王朝史上もっとも大きな版図を拡大し、勇猛豪胆で、求心力のある国王には、決して拭えない大きな劣等意識がある。

 レオポルドは、異様に背が低く、オットーが立ち上がればその胸よりも下に頭が来る。また、細い目と低めの鼻に比べて口が大きい。敵国では《短軀王》または《醜王》と陰口を叩かれている。そうしたあだ名や容姿が劣ることを国王自身が氣に病んでいることは、側に仕える臣下たちはみな知っていた。

 おそらく、レオポルドが家臣としては誰よりも信頼する一方で、新妻の心を奪う可能性の存在としてもっとも警戒しているのがフルーヴルーウー辺境伯ハンス=レギナルドだろう。

 オットーの生まれ故郷ノルムは、グランドロン王国の北端にあるが、現在仕えているフルーヴルーウー辺境伯の領地は最南端にある。

 辺境伯爵領とは名前ばかり、実態は険しい山嶺《ケールム・アルバ》と広大な森《シルヴァ》の未開地だ。獰猛な動物と野蛮な周辺民の他には足を踏み入れる者もわずかしかいない。だが、《ケールム・アルバ》の南に広がるセンヴリ王国との交易や領土争いを有利にするためには、どうしても街道の整備をする必要がある。王国版図の拡大を目指すレオポルドが、着手した大事業だ。

 新たに設立されたフルーヴルーウー辺境伯爵領の領主となったのは、グランドロン王国ヴェルドン宮廷では特異な存在であった騎士ハンス=レギナルドだった。

 おそらく隣国ルーヴランの出身だと思われるこの男は、深い謎に包まれている。氣味が悪いほど整った容姿について、よくない噂をする者までいる。とある高貴な女が悪魔と交わって生まれた私生児だとか、いかがわしい男娼出身に違いないとか、ともかくその容姿について好意的な噂は聞いたことがない。とはいえ、女たちは噂には頓着せず、わずかでもこの男を振り向かせようとスダリウム布に高価な贈り物を忍ばせて手渡す。

 かつてのオットーは、他の騎士たち同様、この美丈夫に反感に近い感情しか持っていなかった。だがその自分に、国王はフルーヴルーウー伯爵の臣下になれと命じてきたのだ。2年前のことだった。

「このハンス=レギナルドの命令は、すなわち余の命令だ」
王は、オットーに言った。王の命令が絶対であるオットーは、かしこまって拝命した。

 ハンス=レギナルドを未開地に送り出したことを「厄介払い」と陰口を叩く者もいた。だが、そうではないことをオットーは知っている。オットーをはじめとする有力な騎士たちを何人も彼の助力になるようフルーヴルーウー辺境伯領へと送り出したのは、それだけこの事業が重要だからだ。憎み疎ましく思う男を、その要として選ぶはずがない。

 新たな主君は、レオポルドのようにわかりやすい尊崇は集めていなかった。国王の素早い決断と思慮深さ、辺りを払う威厳、忠臣をねぎらう公平な態度など、生まれながらの為政者として安定したありように心酔してきたオットーには、フルーヴルーウー辺境伯は奇異ですらあった。

 彼は、上に立つ者として育ってこなかったのだろう。命じることよりも自らが動こうとすることの方が多かった。恥や怖れを知らない。

 だが、不思議な魅力もある。部下たちの強みをよく見抜き、それぞれの得意な分野で活躍させる。異国の令嬢をたらし込み、軽率にも閨に連れ込むようなこともするが、諫言を口にしようとする部下に、悪びれもせずに女を通して手に入れたばかりの相手国の城門の鍵を渡してみせる。

 敵に奇襲をかける際の大胆不敵な発想や、寒く不快な野営でもへこたれぬ態度を見て、やがて臣下たちも新しい主君を認め、素直に従うようになった。

 とはいえ、フルーヴルーウー辺境伯の女に対する不品行ならびに女に対する影響力が衰えていないことは日の目を見るよりも明らかだったので、猜疑心にかられた国王は彼をはじめとする婚礼に集まった各地の有力貴族たちに、見張りの厳しい客間をあてがったのだろう。

 今宵のオットーは、そのハンス=レギナルドの戻りを待っていた。

 深夜に部屋を抜け出すと言いだした時には、ふざけているのかと思った。

「心配しなくとも王妃に興味があるんじゃないよ」
ハンス=レギナルドは笑って言った。王と共に西の塔にいるブランシュルーヴ王妃に夜這いをかけることは不可能だろうから、オットーもその心配はしていないが。

「じゃあ、お出かけはおやめになるべきではありませんか。ご婦人方は領地にもたくさんおられます」
オットーは控えめに言った。

「どうしても確認しなくてはいけないことがあるのだ。王妃が連れてきた4人の高貴なる乙女たちの名を聞いたか?」
主の言葉に、オットーは首を傾げた。
「ヴァレーズ、マール、アールヴァイル……それにバギュ・グリのご令嬢でしたか?」

 ハンス=レギナルドは頷いた。
「そうだ。あり得ない名前がある」
「とおっしゃると?」

 オットーの質問をハンス=レギナルドは無視した。
「確かめなくてはならない」

 そう言って密やかに出ていった部屋の主は、予定の時間を過ぎても戻ってこない。見回りの騎士の問いかけに代返をすること3度。それ以外はすることもない。寝台で寝てもいいと言われていたが、「狼の皮を被る者ウルフヘジン 」の名をもらったことのある誇り高いノルムの戦士は、主君を待つ間にだらしなく眠りこけたりはしないものだ。

 彼の本来の名はオホトヘレといい、かつては存在したノルム国の高貴なる戦士の家系に生まれた。ノルム王ウィグラフに仕えていたが、王の甥スウェルティングによるクーデターに際して捕らえられ、奴隷としてタイファのカリフに売られた30人の戦士たちの1人だった。

 グランドロン王国が対タイファ戦の戦利品として受け取った宝物・賠償類の中に、ただ1人生き残った彼が含まれており、レオポルド1世に氣に入られて奴隷の身分から解放され、騎士に取り立てられた。その時に名をグランドロン風にオットーと改めた。

 それだけでなく、かつての主君を殺した簒奪王スウェルティングと戦い、ノルムをグランドロン領に編入したレオポルドは、憎きスウェルティング処刑の際に、オットーに刃を握らせてくれた。騙され両親と妹を殺されたオットーが復讐を誓っていることを考慮してくれたのだ。

 それ以来、オットーはノルムの戦士としてではなく、グランドロン王の騎士として生きることに心を決めた。

 オットーは、レオポルド自身から「クサリヘビオッター 」というあだ名をもらった。攻撃が執念深く、敵を倒すまで決してあきらめない。また、昼よりも夜の奇襲で真価を発揮するところが、怖れられる毒蛇を想起させるというのだ。または、単に近い音を用いた言葉遊びかもしれない。実際にオッターという響きは、彼の実名の響きに近かった。

 窓に月がさしかかり、やがて消えた。見回りももう回ってこない。明け方になるまでは静かなままだろう。いつになったら主は戻ってくるのだろうか。

 扉の向こうにわずかな物音がした。そして、小さなノックが聞こえた。すぐに扉を開けた。

 するりと入ってきたのは、ハンス=レギナルドではなかった。黒く長い髪、挑みかけるように鋭い双眸を持つ女だ。

 戸惑うオットーにかまわず、女は後ろ手で扉を閉めると小さい声で訊いた。
「ハンス=レギナルドはどこ?」

「いま、こちらにはいらっしゃいません……あなた様は?」

 女は、オットーの方をチラリと斜めから覗くように見ると、馬鹿にしたような顔をして質問を無視した。
「そう。……あいつ、あいかわらずお盛んなのね」

 そういうと、寝台にドカッと腰掛けた。
「それで、お前はハンス=レギナルドの部下なの?」

「はい。わたくしめは騎士オットー・ヴォルフペルツと申します。お見知りおきを」
オットーは、型破りな女の様子に内心驚きつつも、礼儀正しく膝をつき挨拶をした。女はそれを立って受けるどころか、手を差し出すことすらしない。

「あいつが伯爵ねぇ」
そう言うと、窓の外を眺めて、足を組みその膝で頬杖をついた。

 オットーは、尋ね人がいなくても帰る様相のない女に戸惑った。暗闇の中とはいえ、その衣擦れと焚きしめた香から、侍女や下女などではないことはわかる。そのような女性と密室に2人でいることはあまり好ましくない。国王が警戒したのは自分ではないと思いたいが、見回りに見つかったらただでは済まないだろう。

 それに、主が戻ってきたら、この状況をどう思うだろうか。できれば、この部屋から出て行きたいが、主の代わりに見回りに返答する務めがある以上、そうもいかない。

 半刻ほど、お互いに口もきかずにそうしていた。やがて女は寝台に横になった。暗い部屋の中、表情などは見えないが、静かな衣擦れと均整のとれた肢体がゆっくりと動く様子に、オットーは思わず息を飲んだ。

「ここでお休みになるのですか」
のどが渇いたのか、声が枯れてうわずる。

「そうよ。何度も出向くほど暇じゃないからね」
女の声には、含み笑いが混じっている。衣帯を緩め膝を動かしているのを見て、急いで後ろを向いた。よく見えているわけではないが、騎士たる者、貴婦人の寛ぐ姿を淫らな目で凝視していると思われてはならない。

 この女が誰だかわからないが、フルーヴルーウー辺境伯とただならぬ仲であることは間違いないだろう。あらぬ疑いをかけられると、陛下の命令を全うできなくなる。また、見回りの者が近くにいる時に、大声でも出されたら、もっと大変なことになる。オットーは、女などいないかのように過ごそうと心に決めた。

 長い夜だった。あれほど歩みの早かった月は、その動きを止めてしまったかのようだ。時おり女の寝息と衣擦れと共に、焚きしめられた香が漂ってくる。オットーは、まとわり付く魔力に取り込まれぬように身を硬くした。

 ハンス=レギナルドは帰ってこない。オットーは壁の方を向いて小さな腰掛けの上でひたすら事態が変わるのを待っていた。

 自らの首がガクッと落ちかけるのに反応して、はっと起きた。いつの間にかウトウトしていたらしい。あたりは白みかけており、窓の向こうは赤紫色になっていた。

 含み笑いが聞こえたので、思わず振り向くと、女が寝台の上に起き上がっていた。明るくなったことで、女の姿がはっきりと見えた。

 白く透き通る肌。黒曜石のように輝く瞳。血のように紅い唇。ぞっとするほど美しい女だ。一瞬だけ「これまでに存在せず、今後も現れないであろう美しさ」の持ち主かと疑ったが、すぐに思い直した。ブランシュルーヴ王女は日の光のような金髪のはずだ。見るからに上等の布地と手入れされた手肌を見て、もしかするとこの女は、王妃に傅く4人の高貴なる乙女の1人ではないかと思った。

 ということは、主君ハンス=レギナルドが確かめたいと言っていたのは、この女の事なのかもしれない。だが、高貴な乙女たちはみな錚々たる家系の姫君ばかりだ。男の部屋を訪ねて勝手に寝たりするだろうか。

 身につけているのは寝室で着るような黒の薄物で、そんな姿で王城内をうろつき回っているとは信じられなかった。

 彼は、急いで女から眼をそらした。すると、寝台の上、足元にいくつかの衣類が無造作に置かれているのが見えた。

 オットーの戸惑いを見透かしたかのように、女はあけすけな笑い方をした。
「お前は意氣地なしね」

 彼は、度肝を抜かれた。そして、心外な思いを堪えて返答した。
「わたくしめは、ハンス=レギナルド様の臣下にて、騎士でございます」

 彼女は、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「人生は誰かが勝手に決めた手順に従ったり、他の者に遠慮して我慢するには、あまりにも短すぎるわ」

 女は恥じらう様子もなく、灰色の上着を身につけ、よく儀杖官が身につけるような黒い切れ込みのある立派な外套を鷹揚に羽織った。長い髪を器用に捻って角頭巾の中に押し込んだ。なるほど、見回りの兵士とすれ違っても、これならば高位の男と思われるだろう。

 その時、向こうから石の床を踏む金属的な足音が響いてきた。見回りだ。
「おはようございます。異常はございませんか、フルーヴルーウー伯爵様」

 オットーは、昨夜と同じように答えた。
「異常は無い。見回りご苦労である」

「はっ」
見回りは、次の部屋に向けて去って行った。

 女は、その足音が聞こえなくなると、扉を開けて、辺りを素早く見回した。
「ジュリアは待ちくたびれたと、ハンス=レギナルドに伝えるのよ、毒蛇オッター
女は笑った。血のように紅い唇が妖艶に広がる。そして、まだ暗い城内に消えていった。

 どっちが毒蛇だ。背筋に冷たい汗が流れた。

(初出:2024年1月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】君との約束 ― まほろばの道

今年最初の小説は「150000Hit 記念掌編」の第2弾をお送りします。

今日の小説は、山西 サキさんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: リフレッシュ
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: 「君との約束」の世界
   コラボ希望キャラクター: コトリとヤキダマ
   使わなくてはならないキーワード、小物など: Ninja 650R



さて、『君との約束』シリーズは、もともと50000Hit記念リクエスト掌編から生まれ、後にオリキャラのオフ会でたくさんの皆さんとの共作でちょっとだけ名を知られたカップル正志と千絵の話です。(ま、オフ会では中世から参加した某2名が目立つ美味しいところをみんな持っていきましたが、それはさておき)

そのオフ会で知り合ったサキさんのところのコトリ、そしてそのお連れあいであるヤキダマを訪ねに東京から関西へと向かう、という粗筋を考えました。で、まっすぐ神戸に行けばいいものの、なぜか奈良で寄り道をすることに。こんな話になりました。

日本では新年早々の大きな災害で、亡くなられた方のご冥福を祈り、被災された方に対し心からお見舞い申し上げます。1日も早い復興を願い、この掌編で描いたような平和で美しい日本の風景を楽しむことのできる日が来ますよう祈念いたします。


【参考】
君との約束 — 北海道へ行こう
君との約束 — あの湖の青さのように




君との約束 ― まほろばの道

 あ、ここ、たしか修学旅行で来たよな。正志はひとり言を言った。朱色の屋根が幾重にも重なる塔に見覚えがあった。奈良県桜井市にある多武峯談山神社の十三重塔は定慧和尚が白鳳7年に父藤原鎌足の供養のために創建した塔婆で1532年に再建されているとはいえ、木造十三重塔としては現在世界唯一の貴重な建造物だ。

 東京を朝8時に出発して新東名高速、名阪国道を通り奈良に向かった。途中、清水のパーキングエリアで少し早めの昼食を取った。というのはここは天氣がよければ富士山が見えるPAで、今日のように晴れ渡った日には寄らない手はないと思ったからだ。

 案の定、千絵は大きく見える富士山の姿を見て大感激していた。天氣ばかりは計画できないので、こうしたチャンスは大いに利用したい。また、立ち寄る場所を臨機応変に変更できるのは、バイクや車で旅する利点だ。

 基本的に季節にふさわしい天候の方が好きだが、これだけ長く風を切って走るとなると、やはり「異常気象」と呼ばれる暖かさはありがたい。泊まりが必要になるほどの遠出は久しぶりだ。

 きっかけは千絵がめずらしく正月明けに連休をもらったことだった。看護師である彼女は、年末の通常勤務の他に、どうしてもクリスマスに彼氏と過ごしたいという後輩のために休日とならない夜勤明け勤務をし、さらに病欠となった同僚の代わりに休日を代わったため、1月にまとまった休みが取れることになったのだ。

 正志は、すぐに休みを申請した。勤続10年のリフレッシュ休暇の取得期限は2月末に迫っていたし、千絵と一緒に旅行に行ける機会は逃したくない。

 1月だから、はじめは電車か飛行機でどこかに行くつもりだった。でも、千絵が言ったのだ。
「せっかくのKawasaki、磨いているだけでいいの?」

 そういわれると、なんとしてでもバイクで行きたくなってしまう。

 正志の愛車はKawasaki ER-6n、通称Ninja 650Rだ。かつて2006年版の黒に乗っていたのだが、マンションを購入するときに手放した。それから、千絵に出会い、結婚を考えるようになり、金銭的に再びバイクに乗るのはかなり先だと思っていたのだが、なんと結婚祝いとして再び同じバイクを受け取ることになった。

 同じといっても、2006年版ER-6fは手に入らず、2代目は2009年版ER-6nでNinja 650Rの名前を持つ最後の機種だ。カワサキ・グリーンが鮮やかで、正志は1代目に劣らず氣に入っている。

 とはいえ、かつてのように好き勝手にツーリングに行く時間と精神的な余裕はなくて、珍しく2人の休みがあったときに近場にでかける以外は、マンションの地下駐車場でピカピカに磨くばかりだった。

 行き先は関西に決めた。2人の思い出の土地は北海道だけれど、1月に北に向かうのはあり得ない。そして、せっかく3泊する時間があるならば、少し遠くへ行きたい。

「コトリさんのところに行って整備してもらうのはどう?」
千絵の提案は、実は正志も頭の片隅で考えていたアイデアだった。

 コトリこと三厩彩香みんやま さやかは、千絵と2度目に北海道にいったときに知り合った。神戸『コンステレーション』というバイクのショップの店長で、結婚祝いのNinja 650Rを手配して整備してくれたのもコトリだった。

「そうだな。直接会ってお礼も言いたかったし、行くか」
奈良経由で神戸に向かい、帰りに京都に寄って帰ることにした。

 東京でルートを見ているときに、千絵が「あ、多武峯……」と小さくつぶやいた。正志は訊いた。奈良市内からは少し離れている。
「この神社、何か特別な思い入れがあるのか?」

「ううん。修学旅行で行ったなあって……この神社の前のホテルに泊まったの」
「じゃあ、1日目はそこを予約するか」

 実際に来てみたら、正志も修学旅行で来ていたところだった。
「名前はすっかり忘れていたけど、来たら思い出した」

「一緒には来ていないけれど、思い出は共有しているのって、面白いわね」
千絵は微笑んだ。

 そして、翌日は神戸に移動する日だったが、千絵に誘われるままに早起きして彼女がやはり修学旅行で周ったという明日香村を走って周ることにした。

 石舞台古墳、酒船石、吉備姫王墓にある猿石など名前と場所は忘れていたものの正志自身も確かに1度は見た記憶がある。
「修学旅行で巡るところって、意外と同じなのかもなあ」

 せっかく明日香村まで来たのだから、展望スポットとして有名な甘樫丘に昇ることにした。南東側は明日香村を、北から南西は奈良盆地を一望できる。

 小さめの駐車場には、数台の車の他に、バイクとスクーターが並んで駐車してあった。HONDA PCX150もスクーターとしては大きめのだが、Ducatiと並ぶと小ぶりに見える。2台とも神戸ナンバーなので、一緒に来ているのかもしれない。

 正志は首を傾げた。
「このDucatiさ……コトリさんのと同じだよな」

 千絵は首を傾げた。北海道で見たのは確かに大きな赤いバイクだったが、車種まで覚えてはいなかった。正志は数年前とはいえコトリが乗っていたのがDucati Monster 696であることは忘れていなかった。

「おや。コトリのことをご存じですか?」
後ろから声が聞こえて、正志と千絵はぎょっとして振り向いた。

 階段で降りてきた背の高い姿勢のいい青年が立っていた。感じのいい理知的な顔立ちで、まっすぐにスクーターに近づいてきて、シートを開けて中から小さな双眼鏡を取りだした。
「あった。やっぱり持ってきていたんだ」

「あの……。コトリさんも、ここに?」
正志が訊くと、青年はそばに停めたNinja 650Rを見て「あ」と言った。

「そうか。東京からコトリを訪ねに来るといっていた……」
それを聞いて正志は頭を下げて言った。
「そうです。俺は山口正志、こっちは妻の千絵です。……ということはあなたは……」

 青年もわずかに笑って頭を下げた。
「僕は三厩幸樹みんまや こうき、コトリこと彩香さやかの夫です」

「そうですか! はじめまして。お目にかかれるのは今晩、神戸でだと思っていましたが」
正志が言うと、千絵も目を丸くした。
「なんて偶然でしょう」

 幸樹はすこし目を泳がせた。
「偶然って言うか……。まあ、行きましょう。上にコトリがいますから、彼女が説明するでしょう」

 彼に誘われて、2人は丘を登っていった。歩道はコンクリートになっていて迷うこともなく登っていける。道の左右にはたくさんの木々が植わっている。広葉樹なのでこの時期は葉を落としていて青空と太陽の光が直接3人の上に広がり、登り坂であることもあってぽかぽかとして心地よい。

「ここが蘇我蝦夷の屋敷があったところらしいですよ」
「へえ。礎石が残っているんですね」
そんな話をしながら川原展望台と看板が示す方向に5分ほど登ると、開けた場が見えてきた。

「ヤキダマ! ずいぶんかかったけど、どうしたの? あれ?」
声のする方を見ると、コトリこと彩香がいた。幸樹だけでなく正志と千絵が一緒に登ってきたので目を丸くしている。

「本当にコトリさんがいる! 驚きましたよ」
正志も手を振って話しかけた。

「双眼鏡だけじゃなく、山口さんたちも見つけたからね。お連れしたよ」
幸樹は少し得意そうに言った。

 彩香はおかっぱの髪を揺らしながら少し降りてきた。それから嬉しそうにまず千絵と、それから正志と握手した。
「北海道以来だものね。懐かしい」

 それから幸樹の方を見ながら少し勝ち誇ったように言った。
「ほらね。やっぱり遭えたじゃないか」

「まあね。偶然とは言え、君が正しかったよ」
幸樹は答えた。

「っていうと?」
正志が訊くと、彩香はにっこり笑った。
「今日、多武峯から明日香村経由で神戸まで来るって言っていたでしょう。ルートは限られているから、わたしたちもこっちに向かったら途中で遭えるかもしれないって言ったら、ヤキダマはスケジュールも知らないのにそんなの無理だって言ったんだ」

「遭えるわけはないと思ったけれど、飛鳥路をドライブするのもいいと思ったから一緒に来たんだよね。まさか本当に遭うとはな」
幸樹は頭をかいた。

「この辺りにはよく来るんですか?」
千絵が訊くと、彩香は幸樹は顔を見合わせてから答えた。
「いや……明日香村に2人で来たのは初めてだよね」

 4人は話しながら頂上を目指して歩いた。
「ER-6nの具合はどう? 東京から奈良までは、けっこうあったから疲れた?」
彩香が訊くと、正志は首を振った。
「いや。パワーがあって氣持ちよく走れたよ。都内だと止まってばかりだけど、足つきもいいので楽だし。あと、カウルに防風効果があるんだな」

「千絵さんは? 長くて大変だった?」
訊かれて千絵は首を振った。
「もちろんちょっとお尻は痛くなったけれど、正志くんがよく休憩入れてくれたから。それに、後ろに座っていても風景が見えるのは嬉しかったわ」

 彩香は頷いた
「後部座席が少し高くなっているからね」

 よく整備された道なので難なく登っていけるが、10分ほどして頂上に着いたときには体が温まっていた。

「大丈夫?」
正志は小さい声で千絵に訊いた。普段、清涼飲料水の営業で坂道の多い道なども歩き回る正志にとっては大したことはないが、いちおう女性なので千絵にはきついかなと思ったのだ。

「大丈夫よ。病院ではけっこう歩き回るし、体も使うから、意外と丈夫なの」
千絵は、息を整えてから、笑った。

 見ると彩香はさほど息も上がっていない。どちらかというと幸樹の方が大変そうだ。
「ヤキダマったら、もう疲れたの?」
「疲れたってほどじゃないけど……僕はデスクワークだし……」
4人は笑った。
 
 それでも頂上の絶景には皆が見とれた。
「すばらしい眺めね!」

 西側には葛城山系が、よく見えている。
「あのラクダのこぶみたいな山は、どこなのかしら」
千絵が訊き、正志は案内板と見比べる。
「えーっと……」

「あれは二上山」
彩香が答えた。

「お、さすがに詳しいな。じゃ、その手前の台形の山は?」
幸樹が訊くと、彩香は即答した。
「あれは畝傍山。あっちが耳成山、それから天香久山」
指先は右に向かう。

「大和三山が一望の下だな」
幸樹が言うと、彩香が言った。
「大和三山っていうんだ?」
「うん。僕は山の名前は知っていても、この辺は全然走っていないし実際にどれだかは知らないんだよな」

「あれがかの天香久山かあ」
正志が大きな声を出した。

 千絵は考え深げに答えた。
「『大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山……』」

 正志が目を丸くした。
「何それ?」

 幸樹が答えた。
「舒明天皇の歌だね。『……登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は』って続くんだ。ちょうどこんな感じで見ていたのかもしれないね」

「おお、2人とも教養あるな。俺もこれなら覚えているぞ〜。『春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山』」

 幸樹は頷いた。
「持統天皇か。百人一首、そういえばしばらくやっていないな」

 彩香は言った。
「じゃあ、今晩、やる? お正月らしいしね」

 そう言われて、正志は思い出した。
「そういえば、新年の挨拶していなかった。あけましておめでとう。今年もどうぞよろしく」
「「「どうぞよろしく」」」

 4人は笑った。素晴らしい大和路の景色を堪能したあと、3台のマシン、Ducati Monster 696、HONDA PCX150、そしてKawasaki Ninja 650Rは一路、神戸を目指して「国のまほろば」たる大和路を駆け抜け、新春のドライブを楽しんだ。

 かつて、修学旅行でバラバラに思い出を作った大和路が、この『まほろばの道』を共に走ることで1つの思い出の地になっていく。そんな考えを正志は我ながら「いいな」と思った。

大和は 国のまほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和し うるわし

古事記・中巻 倭建命



(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】アーちゃん、がんばる

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scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第2弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化している『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。

さて、前回、ダメ子さんやミエちゃんまで引っ張り出してさらにカオスにしてしまったアーちゃんの再告白計画、まだ続いています。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私が書いた『やっかいなことになる予感』
ダメ子さんの『疑惑』
私が書いた『再告白計画、またはさらなるカオス』
ダメ子さんの『カオス』

私の作品は以下のリンクからまとめ読みできます。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ

「scriviamo! 2024」について
「scriviamo! 2024」の作品を全部読む
「scriviamo! 2023」の作品を全部読む
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



アーちゃん、がんばる
——Special thanks to Dameko-san<


 深呼吸して、事態を整理して考えよう。こんなカオスの元凶は、そもそもチャラ先輩がめちゃくちゃ鈍いってことよね。アーちゃんが、バレンタインで告白しようとした相手が、自分だとまだわかっていない。

 もちろん、それに加えて、アーちゃんの告白のしかたが、絶望的にはっきりしないってことも問題なんだけど。

 でも、しかたないじゃない? アーちゃんは極度のあがり症。好きなチャラ先輩を前にして、はっきりくっきり「好きです。つきあってください」とか言えるぐらいなら、そもそも中学の時に伝わってたはず。

 でも、わたしとムツリ先輩が、影ながらこんなにサポートしているのに、ここまで伝わらないって、どういうこと?!

 というわけで、アーちゃんに再告白してもらうべく、ムツリ先輩も巻き込んで段取りをつけていたら、あいかわらず誤解したまんまのチャラ先輩ったら、クラスの女の先輩たちの協力まで要請して、モテ先輩を呼び出しちゃった。いや、だから、初めっからモテ先輩は関係ないっていうのに……。

「ねえ、つーちゃん。チャラ先輩、告白は重いって……。やっぱり先輩が言っていたみたいに『自然に、なんとなくいい感じになる』ってほうがよくない? そしたら、わたし、また告白しなくて済むし……」
アーちゃんが、めちゃくちゃ氣弱なことを言う。

 いや、普通のケースなら、それでいいのよ。でも、チャラ先輩はきっと、お祖父さんになるまでアーちゃんはモテ先輩が好きだと思い続けるよ。

「なんとなくも、へったくれもないわよ。それに、たとえ告白しないとしても、せっかくクッキー作ってきたんでしょ? チャラ先輩に食べてもらえたら嬉しくない?」

 わたしの言葉に、アーちゃんはけなげに頷く。
「うん。昨晩、3時までかかって4回も作り直した。見かけも味もこれまでの最高傑作だし、食べてもらいたい」

 わたしは、驚いた。めっちゃ氣合い入れて作ってた。
「じゃあ、渡そう」
「うん。……あ、こっちはね。2回目と3回目にできた作品。ハートのが割れちゃったり、アイシングが下手になっちゃったの。でも、味は美味しいはずだから、つーちゃんにあげるね」

「わあ、ありがとう。後でいただくね……それでね、思うんだけど」
「なあに?」
「多迷先輩にメモは渡さないでってお願いしたから、たぶん来ないとは思うんだけど、もし万が一、その場にモテ先輩が登場すると、また話がこんがらがるでしょ?」
「う……うん。そうだね」

 わたしは、重々しく言った。
「だから、モテ先輩が絶対に来ないところで渡そう」
「え? どういうこと?」

「だから、モテ先輩に来てくださいってお願いした用務員室の裏手から、すごく遠いところ……たとえばテニスコートの裏にチャラ先輩を連れ出すから、そこでアーちゃんがそのクッキーを渡すの。そしたら、さすがのチャラ先輩でも自分あてだとわかるでしょ?」

「え。でも、そしたら間違えて呼び出された、モテ先輩は?」
アーちゃん、けっこう義理堅く心配している。

「そっちは、クラスメイトの多迷先輩が、何とかしてくれると思う。あと、愛瀬先輩もいたし……心配なら、わたしかムツリ先輩が様子を見にいくから」

 アーちゃんは頷いた。
「わかった。でも、チャラ先輩も、あっちに行っちゃうんじゃない?」

「そこは、わたしとムツリ先輩で、なんとかしてテニスコートの方に行くように仕向けるから。とにかくアーちゃんは、クッキーを渡す準備をして、テニスコートの裏に行っていて!」

 わたしは、いそいでスマートフォンを取りだした。

 そうなんだよなあ。このドタバタで、ムツリ先輩といろいろ連絡を取り合うことがあって、結局、わたしはムツリ先輩の連絡先ゲットしちゃったのよね……。アーちゃん、チャラ先輩の連絡帳に載ったら死ぬほど嬉しいとか言っていたから、わたしがムツリ先輩と連絡先交換したこと、言い出しにくいんだけど……。ま、チャラ先輩の連絡先じゃないからいいか。

「あ、先輩。すみません。いまアーちゃんと話していて決めたんですけれど、モテ先輩のいないところで告白するのがベストだと思うんで、うまくチャラ先輩をテニスコート裏につれて行ってくださいませんか?」

 電話の向こうのムツリ先輩は少し口ごもった。どうやらそばにチャラ先輩がいるみたい。
「あ~、そうか。えーと、どうしよっか」

「場所変更って言って、上手にチャラ先輩だけ連れてきてください。モテ先輩の方は、上級生の女の先輩方がなんとかするでしょう、きっと」
「ああ、そう。わかった」

 ムツリ先輩は、口数少ないけど、話のわかりがよくて助かる。じゃ、わたしもテニスコートに向かおうっと。

 ふと見ると、用務員室の方にモテ先輩が歩いて行っている。そして、後ろから心配している感じで多迷先輩もついて行っている。あれれれれ。行かなくていいってひと言いえばいいのに??? そして、愛瀬先輩の姿も見えるな。あっちはあっちでちょっとカオスな感じなのかも。

 ま、いっか。とりあえず、アーちゃんの方を見届けよう。

 テニスコートの裏に着くと、向こうからムツリ先輩がチャラ先輩と話ながら近づいてきた。あ。無事に連れてきてくれたんだ。……アーちゃんは?

 テニスの用品入れ小屋の影から、アーちゃんが突進してきた。手にはちゃんとクッキーを持っている。察したムツリ先輩は、そっとチャラ先輩のそばを離れて、こっちに向かってきた。

「やあ。こっち来ちゃったけど、モテの方は大丈夫?」
ムツリ先輩は小さい声で訊いた。

「それが、どうも用務員室の方にやっぱり向かっていました。多迷先輩と愛瀬先輩が追っていましたけれど……多迷先輩にメモは渡さなくてもいいと伝えたので、フォローしてくれるかなと」

 ムツリ先輩は少し考えた
「うーん。どうかな。あの子、アーちゃんとは違うタイプであがり症じゃないんだろうけど、あまりはっきりと言わないかもなあ」
「え~。フォローしないとダメですかね」
「うーん。愛瀬くんもいるのか。……こじれたりして」

 そんなことを話している間に、アーちゃんがチャラ先輩にクッキーを渡しているのが見えた。おお、ばっちり渡した。これでチャラ先輩も氣がつくかしら。バレンタインのチョコが自分あてだったって。

 アーちゃんが告白しているっぽいのを見守りつつ、わたしはムツリ先輩にももらったクッキー包みの1つを渡す。
「あ。これ、アーちゃんからお裾分けです。失敗作らしいんですが……味は美味しいそうです」
「へえ。ありがとう」

「なんだよ。モテに直接渡せないのか? また渡してほしいとか?」
向こうからチャラ先輩の大きな声が聞こえて、わたしはずっこけた。え~、まだわかんないかな。

「そ、そ、うじゃなくて……こ、これは、モテ先輩じゃなくて……その……チャラ先輩、食べてください!」

 チャラ先輩は、首を傾げている。そうよ、考えて! アーちゃんが告白したいのは、チャラ先輩、あなたなんだから。

「大丈夫そうですね。ムツリ先輩、私たちはお邪魔虫だから去りましょう。モテ先輩の方に行って、謝った方がいいかもしれないし」

 わたしが言うと、ムツリ先輩はやる氣なさそうな様子で答えた。
「う〜ん……多迷さんがそつなく話を収めている……ってことはないだろうな。愛瀬さんもいるのかあ。……面倒な感じだなあ」

 ムツリ先輩ったら。
「だったら、なおさら行かなきゃ。さ、先輩、行きますよ!」

 わたしが先輩を引っ張って用務員室の方へ向かおうとしていると、遠く後ろからチャラ先輩の声が聞こえた。

「ああ、ムツリとつーちゃんもこのクッキー持ってんな。もしかして、これって友チョコならぬ、友クッキー?」

 わたしは、ムツリ先輩と顔を見合わせた。絶望的な氣分になったことは言うまでもない。アーちゃん、お願いだから、もうちょっと頑張って、それを否定して!

(初出:2024年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】傷つけない刀

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2024」の第10弾、ラストの作品です。大海彩洋さんは、「学園七不思議シリーズ」の作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『【奇跡の予感・ブルームーン~バッカスからの招待状・返歌~】 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、大和竹流ことジョルジョ・ヴォルテラが『Bacchus』に降臨です。当ブログの150000Hit記念掌編でリクエストにお応えして「学園七不思議シリーズ」の高校生トリオを大手町のバーに放り込むというけしからん作品を書いたのですが、そこで某山猫くんが「けんかして仲直りしたい」と思い悩んでいるというような話を書いてしまったんですね。今回の彩洋さんのお話は、そのアンサー小説でした。

お返しどうしようか悩んだ末、『Bacchus』で書くことは特に何もないなあということで、登場人物が被っている「いつかは寄ってね」で書くことにしました。

彩洋さんのお話や、あの方々には全く関係のない話ですが、いちおう彩洋さんの作品のあるモチーフだけいただいてきました。あとは飲んでいるだけ?


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傷つけない刀
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 つむじ風が道の上の花びらを回しているのを見ながら、すみれは今年の桜も終わったな、とぼんやり思った。毎年、年度初めはバタバタしていていつもの仲間との花見を企画し忘れてしまう。ま、夏木さんたちも忙しいわよね。言い訳のように考えた。

 すみれは、神田駅の行き慣れた地下鉄出口の階段を昇った。今日は第2木曜日。月に1度の『でおにゅそす』の日なのだ。

 久保すみれ、夏木敏也、近藤雅弘の3人は、もともとは大手町のバー『Bacchus』の常連だ。といっても、3人ともアルコールに弱く、ほかの店ではなかなか楽しめないといった方がいい。

 その3人が神田の和風飲み屋に定期的に行くようになったのも『Bacchus』つながりなのだ。『でおにゅそす』は、『Bacchus』で知り合った伊藤涼子の店だ。

 和風の飲み屋に憧れているけれど、なかなか行く機会がないし、1人では入りにくいというすみれにつきあって、夏木と近藤が行くようになり、いつのまにか『Bacchus』が店を閉める第2木曜日は常連がこぞって『でおにゅそす』に行く習慣となった。

 東京は神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと建っている。2坪程度でカウンター席しかないが、開店してから5年ほどの間にそこそこの固定客が付き、暖かい家庭的な雰囲氣で満ちている。

「こんばんは」
すみれは、引き戸を開けてのぞき込んだ。

「いらっしゃいませ、久保さん」
涼子が微笑んで迎える。今日の装いは薄緑に花筏柄の小紋だ。名古屋帯はグレー。落ち着いていて素敵だなあ。すみれは思った。

「今日も、わたしが最初ね」
夏木と近藤は、だいたい7時頃に来ることが多い。もう来慣れたすみれは、2人がくるまで涼子や、この店の常連たちとおしゃべりしながら楽しく待つことができるようになっていた。

 その時、奥の席に座っている男が目に入った。よく座っている常連の西城ではなくて若い男性だ。

 変わった格好だなあ……。すみれは思った。ひと言でいうと紺ベースの和装だ。ただし普通の和装ではない。神田では男性の和装も珍しくないのだが、少なくとも伝統的な和装という感じではない。何が違うんだろう。羽織みたいなのに飾りみたいなのがついていること? モダン? かぶき者? アイドルの衣装で和風テイストを取り入れたものにも似ている。

 あれかな、秋葉原近いから、何かのコスプレかな。

 とはいえ、コスプレとは断言しにくい理由の1つが、その服がいい感じに褪色してしかも擦れた感じなのだ。また、化繊にありがちな光沢がなく、非常に落ち着いた風合い。うーん、謎。

 カウンターの中から、涼子がその男性の前につきだしの小皿を置いた。
「お飲み物はいかがなさいますか」

「ぬる燗にいい酒はなにがありますか」
彼は品書きは見なかった。
「そうですね。栃木の『開華』純米や、宮城の『浦霞』山廃大吟醸、それから今だけ島根の『玉櫻』生酛きもと純米を入れています」

 涼子が答えると彼の表情は、ぱっと明るくなった。
「ああ、桜の季節ですからね、それをいただきましょう」
「かしこまりました」

 それから涼子はすみれの方を見た。興味津々にやり取りを聞いていたすみれは少し赤くなった。
「久保さんは、今日はどうなさいますか?」

 ここでウーロン茶というのは情けないけれど、さすがに私にもぬる燗を下さいとは言えない。全く飲めないというわけではないけれど、飲み終えられるか微妙だし。

「もしかして、『玉櫻』少し試してみたいですか?」
モゴモゴしているすみれを見て、涼子が少し笑った。

 すみれは大きく首を縦に振った。
「本当は、いつものウーロンハイをお願いするつもりだったけれど……。ちょっと羨ましくなっちゃって。でも、頼んでもひと口くらいしか飲めないし……」

 すると、男性がわずかに笑って言った。
「じゃあ、彼女にお猪口を。僕の徳利から試すといい」

「そんな、申し訳ないです! わたしがお支払いします!」
そういうすみれに、彼は笑って手を振った。
「そんな無粋なことはさせないよ。さあ、どうぞ。桜の縁だ」

 すみれは涼子に出してもらった猪口に、ぬる燗の『玉櫻』を満たしてもらった。
「ありがとうございます」

 彼は猪口をわずかに持ち上げた。よくわからないけれど、和装でこういう仕草って、5割増しカッコよく見えるなあ。
「じつは、ぬる燗って初めて飲むんです。それ用のお酒があることも今日知りました」

「まあ、そうなの。専用というわけではないのだけれど、例えば大吟醸などは香りのバランスが崩れてしまうのでお冷やの方が適していると一般にはいわれているわ。ぬる燗、つまり40度くらいに温めると香りが引き立つし、味わいも豊かに感じられるので、それを楽しめるお酒が好まれるの。たとえば、生酛きもと系酒母を使った、生酛や山廃というタイプのお酒ね」

 和装の男性が続ける。
「生酛系酒母っていうのはだね。酒蔵に自然に生息する乳酸菌を酒簿の中で増殖させて作るんだ。時間と手間がかかるので、生酛系酒母で作られているのは、すべての日本酒の1割にすぎない。酒母の中の米をすりつぶし、米を溶けやすくする山卸という昔ながらの手作業も行うのはそのうちの2割、つまり全体の2%。君がいま飲んでいるのがその生酛なんだよ」

 そういう特別な日本酒を飲んでいるとは!

「なるほど。確かに、香りはとてもシャープだけれど、突き刺すような味はしない。とても美味しいです。旨味っていうんでしょうか、複雑な味がするように感じます」

「自然の乳酸が生み出すまろやかな酸味、コクのある複雑な味わいだね。それから、余韻を感じないかい?」
「はい。これまでに飲んだ日本酒よりも、長く美味しさが続いている感じです」

「『押し味』っていうんだ。これを楽しむのにぬる燗は適しているんだね」

 すみれは、面白そうに猪口の中をのぞき込んだ。
「効率よりも、味のこだわりを選んだってことですよね。でも、その価値をわかって飲まないともったいないってことですよね」

「美味いとわかれば、それで十分なんじゃないか?」
男性も、涼子も笑った。

「うーん。もっとたくさん飲める体質だったらいいなあ。これ、本当に美味しいもの。たとえると、切れ味のいいナイフに見えるけど、怪我はしない感じ?」

 そうすみれが言った途端、男性はぎょっとしたようにすみれを見た。

 これまでの朗らかな微笑みとあまりに違う表情だったので、すみれも涼子も戸惑った。

「あの……なにかまずいこと言いましたか?」
そうすみれが訊くと、男性ははっとして、バツの悪そうな顔をした。

「いえ、とんでもない。ただ、少し驚いたんだ。僕のことを見透かされたのかと思ってね」

 涼子は、2人の前に鰆の西京焼きの皿を出しながら訊いた。
「と、おっしゃると?」

 男性は、少し考えている感じだった。
「……どのくらい一般に知られている話か……。薬研藤四郎やげんとうしろうって短刀のこと、知っているかい?」

 すみれも涼子も即座に首を振った。男性は、「そうか」と笑った。
「鎌倉時代中期の粟田口派に属する吉光という刀工がいてね。この吉光の通称が藤四郎っていうんだ。徳川吉宗が作成させた『享保名物帳』という名刀のリストで天下三作に選ばれた名工で、特に短刀の妙手として有名なんだ」

 2人が話についてきているかを確認するため、彼は少し間をとった。2人は頷いた。
「そういうわけで藤四郎と名のつく有名な短刀はたいていこの粟田口吉光作なんだが、薬研藤四郎は少々変わったエピソードを持つ刀なんだ」

「どんなエピソードですか?」
すみれが訊く。

「薬研というのは、薬をすりつぶす鉄製の道具なんだが、それに突き刺さってしまうほどの切れ味なのに、持ち主だけは傷つけないという不思議なエピソードがあるんだ」
「ええ?」

「室町時代の大名畠山政長が明応の政変に負けて自害しようとしたときに、この短刀を用いたのだが、3回突き立てても刃が腹に突き刺さない。なんと切れ味の悪い刀だと怒って放り投げたところ、そのまま薬研を貫いてしまったというんだ。それで、鉄を突き通す切れ味なのに主君は傷つけない不思議な怪刀として知られるようになったというわけだ」

「へえ。そんな刀があるんですね。たしかに、切れ味はいいのに、怪我はしないって言葉に当てはまりますね」
すみれは、目を丸くした。

「その刀は畠山家の子孫に受け継がれたのですか?」
涼子が訊く。

 男性は首を振った。
「いや。足利将軍家に伝わり、足利義輝殺害後、織田信長に献上された。信長は名刀のコレクターでね。中でも薬研藤四郎はお氣に入りだったらしく本能寺の変の折にも所持していたと言われているんだ。ただ、その後は豊臣秀吉や徳川家が所持したとの説もあるが、信頼できる証拠もない。つまり、本能寺の変以後は行方不明といってもいいんだ」

「ええと、つまりあなたは、トレジャーハンターということでしょうか」
すみれは恐る恐る訊いた。

 男性は笑って首を振った。
「いや、そうではない。僕は刀鍛冶でね。ちょっと薬研藤四郎にも縁があるんだ」

「ええ? 刀鍛冶って、刀を作るお仕事ですよね! すごい。あ、だからその和装なんですね」

「はは。この服装で仕事をしているわけではないさ」
そう笑って、彼は『玉櫻』をもう1提注文した。

 その時、引き戸が開いて、夏木が近藤と一緒に入ってきた。
「久保さん、涼子さんも、こんばんは」
「いらっしゃいませ、夏木さん、近藤さん」

「あ、途中で会ったんですね」
すみれが訊くと近藤が頷いた。
「神田駅でね。あ、20分くらいでオルガさんも来るって、連絡来たよ」
オルガ・バララエーヴァも『Bacchus』の常連だ。

 夏木はすみれの前の鰆の皿や猪口を見て訊いた。
「かなり待たせたかな?」
「いいえ、それほど待っていませんよ。とても面白い話を聞いていたんです。生酛きもとの日本酒と、薬研藤四郎っていう刀。ね、涼子さん?」
すみれは、涼子に同意を求めた。

 涼子は頷いたが、他のことに氣を取られていた。小さな店のカウンターはほぼいっぱいになっている。直に他の常連も来るだろうし、もう1人来るとしたら、座る場所をなんとかしないといけない。

 刀鍛冶の男性は、酒を飲み干すと立ち上がった。徳利の下に十分すぎる代金が置かれている。
「また来るよ」
「まあ、ありがとうございます。あ、おつりは……」
「とっておいて」

「追い出したみたいになっちゃったな」
彼が出て行った後、夏木が困ったように言った。

「薬研藤四郎とのご縁がなにか、訊きそびれちゃったわ」
すみれが口を尖らせた。

「何それ?」
近藤が出てきたビールを飲みながら訊いた。

「鉄の道具に突き刺さるくらい鋭い刀なのに、持ち主は傷つけない不思議な刀なんですって。織田信長が持っていたんだけど本能寺の変で行方不明になったとか」
涼子が説明した。

「カッコいい和装だったなあ」
夏木がポツリと言った。
「刀鍛冶さんなんですって。でも、剣士でも通りそうよね」
すみれが教えた。

「常連さん?」
夏木は涼子に訊いた。

「いいえ。今日初めていらしたお客様よ」
涼子は、彼の置いていった代金を手に持ったまま、不思議そうな顔をして戸口を見つめた。

「どうかしたんですか?」
すみれは涼子の手元を見ながら訊いた。

「十分すぎるほど置いていってくださったんだけれど、一番下にこのコインが……」
そう言って見せたのは見たことがない古銭だった。

「なになに? 和同開珎?」
すみれが訊くと、近藤が呆れた声を出して涼子に言った。
「そんなわけないだろうに。ちょっといいですか?」

「うーん。天正……通宝かな?」
かなり黒くなっているが銀貨のようだ。夏木がスマートフォンで検索する。
「ああ、室町時代のお金みたいだね。それにしては状態がいいみたいだけど。ネットにある写真のは、もっとボロボロだよ」
「コスプレ用の再現貨幣?」
「最近のコスプレってそんな芸の細かいことするのか?」
「……というか、なぜこれを置いていったんだろう?」

 近藤がぼそっと言った。
「あの人、その刀匠藤四郎の幽霊で、行方不明の短刀を探していたりして」

 皆がぎょっとして近藤を見た。彼は慌てて言った。
「いや、冗談だから!」

 夏木はため息をついた。すみれは、考え深そうに言った。
「う〜ん。もしかしたら、本当にそういうことなのかも。もしくは、あの人が薬研藤四郎っていう刀の妖精とか。そうでもおかしくない佇まいだったのよね」

 夏木と近藤は、すみれが飲み慣れない日本酒で酔っているなと判断して目配せした。 

(初出:2024年4月 書き下ろし)

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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】一陽来復

今年最後の小説は、『12か月の建築』12月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、パッラーディオ式建築です。16世紀の天才建築家アンドレア・パッラーディオの建築に触発された西欧にたくさんある建築で、おそらく名前は知らなくてもこの形式の建築はどなたでも1度は目にしたことがあるはずです。

建築をテーマにした小説集を書くにあたって、トリは絶対にこれにすると決めていました。現在のスイスで新しく建てられる建築は、残念ながらこの小説の主人公の選択とは真逆なのですが、ヨーロッパにはまだこの手の建築を愛して大切にする文化もあります。こうしたムーブメントはお金もかかるし、自分ではどうしようもないのですが、せめて小説で援護射撃をしたいと願いながら書きました。


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一陽来復

 ヴィオラはグラッソ・ホテルのポーチに立って、メレーラ谷を眺めた。その向こうの山々は、雪に覆われた鋭い剣先のようで、短い冬の太陽を反射して堂々とそびえ立っている。

 ポーチはローマの神殿を思わせる4本のイオニア式柱が支えるポルティコで、車寄せの機能も果たしている。わずかに茶色がかったサーモンピンクの壁と白い柱は、汚れが目立つという理由でヴェルナーが反対したが、この色でなくてはならないと確信していた。

 曾祖父レオナルド・グラッソが、故郷であるメレーラ村に建てたグラッソ・ホテルは、本来250メートルほど低い位置にあった村の中心地から離れていた。高速道路が開通する前で、どの車も村を通ったが、通りがかりの宿泊客が門を叩くのは、村のもう少し安い旅籠ばかりだった。

 村の中心から離れているというばかりでなく、その外観が「きっと宿泊料はとてつもなく高いに違いない」と思わせたのだろう。曾祖父と祖父の時代から経営は決して楽ではなかった。後を継いだ父と叔父もあまり商才はなかった。

 10年前に父が、そして昨年叔父が亡くなると、ヴィオラはホテル経営に関しての決断を迫られた。

 彼女に、改築と大手ホテルチェーンとの提携を持ちかけてきたのが、叔父の妻の連れ子でマネージメントにも永く関わってきたヴェルナーだった。
「今の流行はグレーの打ちっぱなしか、黒い御影石の、現代建築だよ。建て直すなら今しかない、そうだろ?」

 曾祖父がグラッソ・ホテルを建ててから、来年で100周年だ。つまり来年からは、歴史的建築物に認定され、大きな外見の変更は州の許可無くは不可能になる。

「こんな前時代な外見のホテル、誰が泊まろうと思うってんだ。ローマの神殿じゃあるまいし」
ヴェルナーは、焦っていたようだった。

 ヴィオラは、その彼の言い方に引っかかった。確かにポーチの柱、そして、その上に飾りとしてついている三角形の装飾にローマ神殿で見るニンフたちの群像のような浮き彫りが見える。けれど、それが古くさいという印象はまったく与えていない。

 むしろ70年代のインテリアや、周囲から浮いてしまう奇妙な形の建築、あるいは、一時期やたらと流行った白木を外壁に貼る建築が経年で黒ずんでいる様子などに比べると、100年近く前の建築でも普遍的な美しさを保っているように感じる。

「パッラーディオ式建築というのだよ」
子供の頃に祖父が教えてくれたのだが、どうしてもその言葉が思い出せなかった。それを思い出したきっかけは、カール・ジェンキンスの弦楽オーケストラのための作品『パッラーディオ』だった。どこかで聞いたタイトルだと思って調べたら、ルネサンス期の建築家にちなんでいるという。

 アンドレア・パッラーディオは16世紀イタリア・パドヴァ生まれの建築家だ。本名はアンドレーア・ディ・ピエトロ・デッラ・ゴンドーラ。彫刻家や絵描きが建築も手がけたのとは異なり、平面図を基本にして空間を設計した最初の専業建築家ともいわれる。ローマ時代の建築を取り入れたルネサンス建築は華やかで美しいだけでなく機能的で景観にも調和している。彼自身が設計した建築はすべて北イタリアにあるが、その影響は計り知れず、18世紀以降の英米の新古典主義建築家に多大な影響を与え、パラディアン・スタイルとして西欧の多くの大邸宅や公共機関の建築に取り入れられて現在まで残っている。

 ドリス式の柱、ロッジア、ドームなどイタリア・ルネサンス建築の基本的要素を継承しつつも、パッラーディオはそれらを洗練・簡素化してみせた。ローマ建築の装飾的要素も、建物の場所と機能とに適した革新的に取り入れている。

 もっとも有名なヴィチェンツァ郊外の『ラ・ロトンダ』は、円形ドームを備え、正方形のすべてのファサードに同じポルティコとイオニア式の円柱で支えられた三角形のペディメントが備えられた完全に対称的な建物だ。そして、それは敷地内や内部装飾が素晴らしいというだけではなく、ヴィチェンツァの景色と調和している。

 パッラーディオと彼の建築について調べだしてから、ヴィオラは曾祖父が非常なこだわりを持ってホテル・グラッソを建てたことに氣がついた。

 メレーラ村の中心地から離れたところに建てたのは、土地が安かったからではない。それは周りに他の建物がなく、独自の景観を保てるからだった。

 残念ながら、この村は山間にあり、ヴィチェンツァのようにどこまでも広がる農村地帯を見晴らせるわけではない。だから、『ラ・ロトンダ』のように4面すべてを同じファサードにする必要もなかった。

 とはいえ、100年前に曾祖父が思いもしていなかった事が起こった。

 人びとが当時よりもたくさんの電氣を必要とするようになり、水力発電のためにダムが建設されることになったのだ。そして、メレーラ村の中心地が人造湖の底に沈むことになった。

 反対運動があった十数年の後、多くの村人は多額の補償金を得てもっと便利な都会に移り住むことを選択した。最後まで反対していた村人たちは、補償金の他に、谷の反対側、以前よりも日当たりのいい200メートル標高の高い位置に、先祖代々の家や教会を移設することを約束させ、移住が完了した。

 ヴェルナーは、新しくできる新メレーラ村の近くに、都会的なフィットネス・リゾートを建てるべきだと強く主張した。同じ村に所属している以上、移築が必要となった場合、ヴィオラにも補償金を得る権利があった。それを元手に大改築をしろというのだ。
「僕の友人が、その手の設計を手がけているんだ。『カジノ&スパ・リゾート サンモリッツ』を知っているだろう? あのチームにいたんだぜ。あそこみたいな大理石だと高くつくけど、いまはわりと高級に見える模造石材も揃っているって言ったよ」

 そのリゾートは、10年ほど前に有名になったからよく憶えている。変形した台形を組み合わせた斬新な設計で、外壁すべてに黒い大理石を使おうとして論争の元になった。つまり景観に合わないというのだ。結局、外壁は白大理石に変更され、その代わりに内部が星空をイメージした黒いパネルで覆われた。カジノやブティックを備えたスパ・リゾートとして当時はよくホテル特集に取りあげられていたが、最近ではあまりいい噂を耳にしない。

 世界中からプライヴェート・ジェットで大富豪が集まるサンモリッツですら、そうしたリゾート施設の営業は厳しいということだ。ましてや、近くに空港や大きな列車駅もないメレーラ村に奇抜なリゾートホテルを建てて営業が軌道に乗るだろうか。

 ヴィオラが悩んでいると、ヴェルナーはこうも言った。
「彼なら、大きいホテルチェーンとの繋がりもあるよ。なんならチェーンの傘下に入ればいいんじゃないか?」

 ヴィオラは、ヴェルナーの顔をまじまじと見た。あたりのいい言葉の裏に、安易に経営の舵取りをして儲けたいという強欲さが浮かんでいた。

「ちょっと考えさせて」
ヴィオラはそう言って、その日は話を打ち切った。

 その時は、まだ眼下に間もなく湖に沈むメレーラ村が見えていた。

 12月のメレーラ渓谷は3時間ほどしか陽が射さない。だから、たいてい11月から12月半ばまでホテルは休業する。スキー場が開く時期でもあり、クリスマスシーズンに忘年会食の予約が入るので、その日から再び開業したが、平日で予約客は、2組ほどしかなかった。

 どうしたらいいんだろう。ヴェルナーの言うとおり、大手ホテルチェーンが経営に参画し、リゾートホテルとして宣伝してもらえば、いまより経営は楽かもしれない。でも、そうなったら、残るのはせいぜいグラッソ・ホテルという名前だけだ。曾祖父の愛したホテルはどこにもなくなってしまう。

 ヴェルナーは創業者レオナルド・グラッソもその息子のマルコ・グラッソも知らない。叔父がヴェルナーの母親と再婚したのは祖父マルコが亡くなった後だったし、そもそも叔父自身も10年前父が亡くなるまではメレーラ村にはほとんど足を踏み入れなかった。

 曾祖父や祖父がヴェルナーの提案を聞いたら真っ赤になって怒るだろう。心から愛したグラッソ・ホテルが、チェーン・ホテルの真っ赤なネオンサインで覆われる。そして、ルネッサンス式の均衡と調和とはなんの関係もない、台形を組み合わせた模造石材または曲線コンクリート外壁の建物にする。それは創業者親子にとっては冒涜に過ぎない破壊だろう。でも、経営に失敗したら、結果は同じになる。私がそうするか、どこかの外資がするかの違いしかない。

「どうしましたか」
声がしたので振り向くと、先ほどチェックインしたばかりの宿泊客ヨルディ氏が立っていた。彼は、昔から常連で、1年に1度、この時期に泊まりに来る。ヴィオラが経営者となってからは、はじめての滞在だ。

 ポルティコにはもう陽光はない。急激に寒くなっている中、ここに居続けると風邪をひくかもしれない。

「いえ。すみません。少し考え事をしていました。ロビーでアペリティフなどはいかがですか」
ヴィオラが訊くと、ヨルディ氏は笑って「そうですな」と言ってから、目を谷の向こう側の山に向けた。

「あなたのひいおじいさんも、よくここであちらを見ていましたね」
「曾祖父をご存じでしたか?!」

 ヨルディ氏は頷いた。
「ええ。かなりご高齢でしたから、もちろんもう引退なさっていらっしゃいましたが、現役の頃と同じようにホテルを歩き回り、隅々にまで氣を配られておられました。花瓶の花がしおれていれば抜き取り、新聞が乱雑に置かれていれば整えて。そして、私のような若造の客にも丁寧に話しかけてくれましたね。ここに来るのが楽しみでした」

 ヴィオラは目を細めた。曾祖父には直接教わらなかったが、祖父が口を酸っぱくして教えてくれたことは、曾祖父からのグラッソ・ホテルの伝統だったのだ。
「それで、毎年いらしてくださるのですね」

 ヨルディ氏は、頷いた。
「そうですな。それもあります。近年は、どのホテルもたいそう機能的になっていて、人びとの入れ替わりも激しい。毎年変わらずに会話を交わせるような場所はめっきり減りました。レストランで食事をしても、給仕をする人以外は顔も見せないのが普通になってしまいました。でも、ここは違う。私はあなたの曾おじいさん、お祖父さん、お父さん、叔父さん、そしてあなたと知り合い、滞在中に何度も話をし、食事の時も話しかけてくれ、そうしてとても親しく心地よく滞在させてもらっている。それが、ここに来る一番の理由であることは確かです。ただ……」

「ただ?」
ヴィオラが訊き返すと、ヨルディ氏は少し悪戯っぽい笑顔を見せた。

「私が冬に来る理由をご存じですか?」

「いいえ。夏には、南の方に行かれるのがお好きなのかと思っておりました」
ヴィオラが答えると彼は首を振った。

「実は、以前は必ず夏の休暇に泊まりに来ていたのですよ。でも、ある日、あなたの曾お祖父さんが教えてくれたのです」
そう言って彼は、向かいの山嶺を指さした。

 ヴィオラがその視線を追うと、『二剣岳』と呼ばれている雪冠を被った山頂があった。

「冬至の朝、あの2つの剣先の間から昇る朝日の光が、まっすぐこのホテルの正面に当たるのだと。そうなるように正確にこのホテルを建てたのだそうです。ですから、私は、毎年太陽の誕生日である冬至に、その朝陽の差し込むこのポルティコに佇むことにしたのですよ」

 ヴィオラは言葉を発することができなかった。ただ、老ヨルディ氏の穏やかな微笑みを見た。

 彼女は曾祖父からのメッセージを受け取ったように思った。経営がうまく行くかどうかはわからない。彼女の代でホテルを潰してしまうかもしれない。けれど、100周年までこの位置に残すことさえできれば、あとは歴史的建築物に認定されたグラッソ・ホテルは、国に守られてずっと冬至の一陽来復を受け続けることができる。

 そう心を決めたヴィオラを、ヴェルナーは翻意させることはできなかった。移築をしなかったグラッソ・ホテルは、補償金を得ることはなかった。だが、人造湖に沈むメレーラ村の話は、ニュースとなったし、村人たちが建物の移築を待つ間の仮住まいとしての特需もあり、ここ10年なかったほどの増収があった。ヴェルナーは去ったが、ほかの従業員たちはみな残ってくれた。

 そして、人造湖ができて初めての冬至がやってくる。

 暗いうちにロビーに降りてきたヴィオラは、正面の扉を開けた。日の出の少し前に、階段がきしみ、年老いているがしっかりとした足取りでヨルディ氏が降りてきたのがわかった。

 ポルティコの前には、昨年までとまったく違った光景が広がっている。

 メレーラ渓谷に新しく生まれたメレーラ湖は暗闇の中で静かに横たわっている。その湖を臨み堂々と建つグラッソ・ホテルは、次第に紫から紅色へと変わりゆく空と、雪を戴き厳しくも冷たくそびえる山嶺の荘厳さと見事に調和している。

 『二剣岳』から一筋の強い光が差し込み、それはちょうど正面玄関に立つヨルディ氏の後ろ姿を輝かせて、ヴィオラのもとにも届いた。ロビーが突如として白く輝き、優美な階段の奥まで明るく華やかな光に満ちた。

 曾祖父の作りだした理想の建築は、この光の魔法に誇らしげに顔を向けている。柱も桟も花台も、その他すべての細部にいたるまで、丹精込めて作り出されたグラッソ・ホテルは、100年経とうとも色褪せない美しさを放っていた。

 ゆっくりと正面玄関を出てポルティコに立つと、ヨルディ氏が振り向き微笑んだ。

 湖は青く輝き、グラッソ・ホテルの茶色がかったサーモンピンクの壁と白い柱を際立たせている。凍てつく空氣の中、ここにこの建物があるべき理由を静かに提示してくる。

 これでよかったんだわ。厨房や部屋係が仕事を始める音が、聞こえてきた。輝きをもう1度目に留めて、ヴィオラは仕事を続けるべくロビーへと戻った。

(初出:2023年12月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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パッラーディオの傑作と言われる『ラ・ロトンダ』に関する動画です。

Villa Almerico Capra "La Rotonda" - Vicenza - 4K

それから、私がパッラーディオについて調べるきっかけをくれた曲です。こちらも有名ですよね。

Jenkins: Palladio - 1. Allegretto (arr. for Strings Orchestra)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】流星に願いを

今日は「150000Hit 記念掌編」の第1弾をお送りします。『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』が終わっていないんですが、ちょっと日付的にどうしてもこちらを先に発表したかったのです。

今日の小説は、TOM−Fさんのリクエストにお応えして書きました。


リクエスト内容
   テーマ: 旅、人生
   私のオリキャラ、もしくは作品世界: 『樋水龍神縁起』から
   コラボ希望キャラクター: TOM−Fさんのオリキャラ誰でも
   使わなくてはならないキーワード、小物など: 「15万」「過ぎてた」



さて、『樋水龍神縁起』シリーズは、別館に隔離してある『樋水龍神縁起』本編の他、『樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero』や『樋水龍神縁起 東国放浪記』など平安時代から近未来までいろいろとキャラがいるのですけれど、今回は先にTOM−Fさんのどちらのオリキャラをお借りするかを決めてから、対応する作品を決めることにしました。候補としては橘花内親王と智之ちゃんまで絞って、最終的に智之ちゃんを再びお借りすることにしました。

じつは、123456Hitの時にも同じことをしているのですが、お借りするだけお借りして、名前が出てきていません。でも、智之ちゃんのつもりです。TOM−Fさん、すみません。そして、こちらのキャラは、うちのブログで最弱のヘタレとして読者の皆様を響めかせた、彼奴でございます。

で、お詫びなんですが、いまいちテーマにちゃんとはまっていません。ちょびっとだけかすっていますけれど……。


【参考】
「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物



樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero・外伝
流星に願いを


 急いでいるときの階段というのは、どうしてこんなに急勾配に感じるんだろう。ローヒールでよかったと思いながら、瑠水は地下鉄口から地下街を目指して走った。本来目指しているのは銀行で地上階なのだが、横断歩道がかなり先までないので地下街を通らなくてはならない。

 出かけたときにはちゃんと憶えていたのに、あれこれ用事をしているうちにすっかり忘れていた。予約してあったクリスマス限定のバッグを取りに行くように、姉の早百合に頼まれていたのだ。でも、15万円もの大金を持ち歩くのがイヤだったので、代金は最寄り駅についてからATMで引き出すつもりだった。

 そして、氣がついたらあと5分でATMコーナーが閉まってしまう時間になっていた。
「やだやだ。間に合って! コンビニで出すとものすごい手数料だし……」

 地下道も何年経っても慣れない。まるで迷路で、急げば急ぐほど目的地から離れて行くみたいだ。瑠水は案内板を見るために上ばかりを見上げながら走った。

「きゃっ!」
「わっ」
ようやく見つけた銀行のある地上出口を駆け上がっているときに、降りてきた男性とぶつかってしまった。瑠水はペコペコと謝り、引き続き銀行を目指して走った。

 時間は過ぎていて銀行ATMのシャッターはしまりかけていたが、瑠水が謝りながら駆け込むと、係員が待ってくれた。無事に1万円札を15枚引き出して外に出ると、さっきぶつかった男性が立っていた。

「これ、落としましたよ」

 見るとアパートの鍵だ。緑の勾玉の左右に赤と白のビーズをあしらったキーホルダーがついている。
「あ、本当だ。すみません、わざわざまた昇ってきてくださったんですね」

 男性は、笑った。
「また降りていらっしゃるかわかりませんでしたし」

 そう言われて、瑠水はこれからバッグを受け取りに行く店への道のりがわからなくなってしまったことに氣がついた。さっきいたところと同じ通りのはずだけれど……。

「ありがとうございます。えっと……」
バッグから早百合にもらった店からのハガキを取りだして辺りを見回した。

「ああ。その店、これから僕も行くところです」
そういうと、男性は同じハガキを内ポケットから取りだして見せた。

 瑠水はホッとして、その青年と一緒にまた地下街に降りていった。

「本当にいろいろとすみません。住んでけっこう経つのに、行き慣れないところはいまだに迷ってばかりで」
瑠水が言うと、青年も笑った。
「僕はめったに上京しないので、もっとわかっていませんよ」

「どちらにお住まいなんですか」
「京都です。研修で上京したんですが、東京に行くならこのハガキと引き換えの香水をもらってこいと命じられて……」
道理でハガキには女性の宛名が見えたわけだ。瑠水は頷いた。

 早百合がバッグを今日瑠水に頼んで引き取りに行かせたのも、特別プレゼントの限定瓶に入った香水が目当てだ。
「人氣なんですね。私も姉に頼まれたので来ましたが、普段はブランド店にはほとんど足を踏み入れないんです」

 瑠水は、青年と一緒に笑った。
 
 その青年は、とくに愛想良くしているようには見えないのに、どこか人を安心させる佇まいで、直感で親切な人だとわかった。研修と言ってもスーツ姿ではなくてカジュアルなセーターにグレーのジャケット・コートを着ている。サラリーマンではなさそうだ。

 歩いている途中で青年の携帯が鳴った。彼は律儀にも「失礼」と言って取った。
「もしもし? ああ、観月。……うん。そうなんだ。また研修で上京してきたから……。うん、もう終わった。明日の夕方の新幹線だから、時間はあるよ。……わかった。じゃ、そっち予定がはっきりしたら、また電話してくれ。うん、僕はいつでも大丈夫だから」

 通話が終わると、彼はもう1度瑠水に失礼を詫びた。瑠水は首を振った。
「いえ、とんでもない。お友だちとのご予定があるのでは?」

「いいえ。今のは高校時代の友人なんです。彼女は高校の途中で東京に引っ越して。さっき久しぶりに会いたいなと思いついて、メールを送ってみたんですよ。急なことだから、今から明日の予定を調整してくれているぐらいなので、今夜は大丈夫です」

 瑠水は、あれと思った。ということは、香水を欲しがっている女性とは別の人なのかしら。

 彼は颯爽と地下街を通り抜け、目的地のある地下鉄出口を軽やかに昇った。自分一人だったら、銀行からこの通りまで、こんなに簡単には来られなかっただろう。

 それはまるで瑠水の人生のようだ。故郷では、地下道、たくさんの店やしゃれたカフェ、まっすぐ歩けないほどたくさんの人びととは無縁だった。そしてだからこそ、瑠水は迷うこともなかった。

 東京に来てからの瑠水は、今日のランチを何にするか、同じ目的地にどの経路で行くべきか、そして、通りを隔てた銀行へと向かう事にすら、いつも迷っている。

 大人になれば、進学すれば、賢くなり、世界の理も明らかとなり、堂々と自信を持って生きていけると思っていたけれど、そうではなかった。

 隣を歩く青年は、東京に住んでいるわけでもないのに地下街に迷うこともなく歩いていく。どこへ向かっていけばいいのかわからないまま、右往左往している私は、たぶん都会暮らしには向いていないんだろうな。でも、ここで就職してしまったし……。そうやって自分を納得させているうちに、生活も時間もどんどんと樋水のあの日々からは離れていく。懐かしい人も、会いたくても会えない人も……。

 12月の都心はどこもイルミネーションが美しい。冷えた空氣と人びとの吐く白い息のせいで、点灯したままの電球もわずかに瞬いて見える。
「きれい……。天の河みたいですね」

 青年は不思議そうに瑠水を見た。少し戸惑って訊いた。
「私、なにかおかしな事、いいました?」

「いや、まったく……。そうじゃなくて、僕、それにさっき電話していた相手も、実は天文部だったんです。だから、天の川はものすごく身近な話題なんですが、あなたの口からその言葉から出たので、すこし驚いてしまって」

 瑠水は、少し俯いて笑った。
「そうですか。東京ってあまり星見えないから、そういう発想は珍しいかもしれませんね。……私、とても田舎の出身なんです」

 青年は、すこし悪戯っぽい笑顔を見せた。
「当てましょうか。……島根県?」

「どうしてわかったんですか?」
瑠水は心底驚いた。

「種明かしをしましょうか。さっき拾ったキーホールダーです。出雲大社に旅したときに、似ているのを見かけたんです」
「まあ。ええ。これは美保岐玉を模したキーホールダーです」

 ふっくらとした碧めのうの勾玉に、白めのうの珠と赤めのうの細長いビーズをあしらった飾りは、出雲国造代替わりの際に宮中に献上されることでも有名な健康と長寿を祈念する宝物だ。

 奥出雲、樋水龍王神社の参道にある家で生まれ育った瑠水にとって、出雲式勾玉や美保岐玉はとても身近な存在だったけれど、それが日本全国の常識でないことは、東京に来てから学んでいた。だから、この青年がそれを目にしただけですぐに島根県の特産品だと見抜いた目の良さに、とても驚いた。

 そのことを話そうかと思ったときには、2人はもう目的のブランド店の前に来ていた。

 その店はいつも夜でも煌々と灯がついて、入るのにも氣後れしてしまう晴れがましい佇まいだった。入っていく人たちは、みなブランドものの服をきっちりと着こなして、恭しく頭を下げる店員たちにも慣れている風情だ。

 瑠水は、この青年が一緒に来てくれてよかったと思った。自分一人だったら、入ると決意するまでに数分かかったに違いない。

 虹色のラメを纏った白いプラスチック製の樅の枝が、店の至る所を飾っている。昼間のように明るい店内には、スポットライトを浴びて高価なアクセサリーや、とても高いバッグなどが並んでいる。たくさんのカップルがいて、クリスマスシーズンの店内はとても混んでいた。

 早百合に頼まれたバッグを受け取り、限定ボトルの香水プレゼントも無事手に入れた。隣のカウンターを見ると、青年も同じプレゼントを無事に手にしたようだ。見ると、アイボリーのハンカチも購入していた。この店には意外なほど清楚な感じの1枚だ。ブランドのロゴはついているが、布と同色の刺繍でほとんど目立たない。

 店を一緒に出て、また地下鉄口へ向かう途中、瑠水は青年に話しかけた。
「とても素敵なハンカチを見つけられましたね」

 彼は、笑った。
「そう思いますか?」

「ええ。あのお店の商品って、ものすごくロゴの主張が強いので、あんなにさりげないハンカチがあるとは思いませんでした。香水に添えてプレゼントですか?」
瑠水は訊いてから、あ、よけいなこと訊いちゃったかなと反省した。

 青年は首を振った。
「いや、これは明日逢う友人に。クリスマスプレゼントで、相手の負担にならないようなものを探していたところで、ちょうどいいかなと思って」

 瑠水は、少しだけ遠い目をして、それから笑って首を傾げた。
「ちょっと想像してしまいました」

「何を?」
青年は、何がなんだかわからないという顔をしていた。

「素敵な高校時代を過ごされたんだろうなあって。そのハンカチが似合うような方と天文部で一緒に星を眺めて……。とてもロマンチックだなって」

 彼は笑った。
「確かに、彼女はこのハンカチが似合うような清楚な感じです。でも、芯は意外なほど強い。同じ部に、まったく別のタイプの女の子もいて、僕は2人に押されっぱなしだったな。でも、本当に楽しかった。今でもよく思い出します」

「その方も遠くに?」
「ええ。今はニューヨークです。次に会えるのはいつだろうなあ」

 瑠水は、少しだけ俯いた。楽しかった高校時代。いつも一緒にいた人。奥出雲の四季を一緒に駆け抜けた思い出。次に会う機会を自分で壊してしまったこと。

「どうなさいましたか?」
青年に訊かれて、瑠水は首を振った。
「なんでもないんです。京都やニューヨークでも、こことおなじような星空が見えるんでしょうか」

 彼は頷いた。
「若干の緯度の違いや時差はありますが、同じ北半球ですから。でも、一番見にくいのはここ東京じゃないかなあ。どこもかしこもネオンで明るいですから」

「明日会うお友だち、残念がっていらっしゃいますか」
「いや、残念がったりせずに行動しますね。同時天体観測をするときは、自宅ではなくて山間部の方に行くみたいです。今月も14日夜に兵庫・京都・東京でふたご座流星群を同時観測するつもりなんですよ」

「その日に流星がいっぱい見られるんですか?」
「ええ。願い事があるならチャンスですよ」
彼は笑った。

 地下鉄駅で、青年と別れた。彼は最後まで親切で礼儀正しく、方向音痴の瑠水が正しい路線の改札にたどり着くまで送ってくれた。

 早百合の家に向かう道すがら、瑠水はネオンが明るい東京の空を見つめた。この空のどこかで、14日の夜に流星がたくさん流れる。島根にいるシンの上にも懐かしい星空がひろがっているんだろうか。

「願い事があるならチャンスですよ」
あの青年は言った。

 口にするどころか、考えることもつらいほどの大きな願いがある。

 幸福そのものだった高校時代。暖かい家族と、大好きなお社と、そして、シンのバイクに乗せてもらって駆け回った奥出雲の四季。水底の皇子様とお媛様に同調したかのような至福の風。

 あの日々に帰りたい。

 12月の風は冷たく瑠水の頬を刺した。かつてと全く変わらぬ広大な天の河は、都会のネオンで見えなくなっている。けれど、それは同じように横たわり、瑠水とすべての人びとの上で静かに瞬いた。

(初出:2023年12月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】雷鳴の鳥

今日の小説は『12か月の建築』9月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、アフリカのジンバブエにある『グレート・ジンバブエ遺跡』です。私は1996年に、じっさいにこの遺跡を訪れています。

登場する人物は、いまのジンバブエがまだローデシアと呼ばれていた時代に実在した研究者たちです。


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雷鳴の鳥

 その鳥の小柄な身体には見合わぬ巨大な巣は、ついに屋根で覆われた。それから、シュモクドリは、人間の男性が載っても壊れないほどの強度ある巣の機能面だけでは満足せずに、2メートル以上もある目立つ巣をありとあらゆる装飾品で覆い始めた。カラフルな鳥の羽、草食動物たちから抜け落ちた角、ヘビの抜け殻、骨、イボ猪の牙、ヤマアラシの棘などが運ばれた。

 それらは、呪術師ウイッチドクター の呪具と似通っている。これがシュモクドリが魔法を使う存在だと信じられる根拠の1つとなっている。現地の言葉で『インプンドゥル』すなわち『雷鳴の鳥』と呼ばれる霊鳥は一般的にこのシュモクドリのことだと信じられている。

 伝説上の霊鳥は、白と黒の背の高い鳥で、魅力的な男性または女性に姿を変えることもできるし、生命にとって欠かすことのできない雨と水を呼び寄せる。実際のシュモクドリ(Scopus umbretta)は、ペリカン目シュモクドリ科シュモクドリ属の茶色い鳥だ。全長56~58センチ。カラスと変わらない。その名の通り、頭の後ろの飾り羽が少し突き出ていてハンマーのようだ。オスとメスには見かけ上の違いは比較的少なく、共同で非効率の極みと思えるほどの巨大な巣を作る。

 アフリカのサハラ以南、マダガスカル、アラビア半島南西部の浅い水瀬のあるあらゆる湿地帯に生息する。ペアで保持するテリトリーに留まり、渡りのように大きく移動することは少ない。繁殖しているかどうかに関わらず、年間3個から5個の巣を作り、そのうちの1つだけで雛を育てる。

 雛たちの多くは1年以上は生きられないが、生き延びた成鳥は時には20年も生きる。

 水辺に佇み、空の彼方を見つめるとき、人びとは呪術師たる雷鳴の鳥インプンドゥルが嵐を呼んでいるのだという。

 人を怖れず、マングローブ、水田、貯水池などにも巣を作り住むが、彼らを捕まえたり巣を壊して追い払おうとする者は少ない。雷鳴の鳥インプンドゥルの祟りで家に雷が落ちるような危険は冒さない。またこの鳥は南アフリカでは雨乞い師を意味するNjakaと呼ばれている。雨の前に大きな声で鳴くからだ。

* * *


 その遺構は、はるか昔にその地に建てられた脅威だった。1800年代にこの地を「未開の地」として蹂躙しにやって来た白人たちは、アフリカ大陸の南に巨大な遺跡を見いだした。1867年にドイツの狩猟家アダム・レンダーが「発見した」と言われる遺跡群は、実際にはすでに16世紀のポルトガル人たちによって記録されている。

 現地のショナ語でそれは「Zimbabwe ジンバブエ」と呼ばれていた。ポルトガル人ベガドは「裁判所を意味する」と報告しているが、現在ではこの言葉の意味については2つの説が有力である。「石の家」を意味するというものと、「尊敬される家々」という言葉に由来しているというものだ。鉄器時代の現地の人びとは、記録する文字を用いなかったので、当事者たちによる正確な由来を書いた文献は見つかっていない。

 この遺跡は、単なる「家々」という言葉で表現できるような規模ではない。最盛期には18000人が住んでいたと推測される、その驚くべきスケールと精密さが、逆に過去の偉大な創建者たちを本来賞賛を受けるべき名誉から遠ざけた。

 キャスリーンは、彼女の上司であるガルトルード・ケイトン=トンプソンが見せてくれた手紙を読んでため息をついた。それは、彼女たちの緻密で丁寧な論証に対して単に否定的だというだけでなく、明からさまな憎悪に満ちていた。ガルトルードは、「ナンセンスな内容だわ」と投げ出した。

 ローデシアをめぐる社会の目は、三重の意味で偏見に支配されていた。白色人種は黒色人種より優れているので植民地支配が正しいのだという立ち位置。オリエントやギリシャなどの過去の優れた文明文化が、彼ら白色人種たちに受け継がれているという曲解。そして、男性の仕事が女性のそれよりも常に優れているという驕り。ケイトン=トンプソン調査団が提示した報告は、そのすべてを根幹から揺るがす内容だった。

 1928年に英国アカデミーにローデシア、ムティリクウェ湖近くの遺跡の期限を調査するために招待されたケイトン=トンプソンは、この分野ではまだ珍しかった女性考古学者だ。第1次世界大戦中に海運省に勤務し、パリ講和会議にも出席したことのある彼女は、その後ロンドン大学で学び始め、マルタ島、エジプトなどの発掘調査で経験を積んだ後に、このアフリカ南部の謎の遺跡調査を依頼されたのだ。

 すでに19世紀にジェームズ・セオドア・ベントらによって発掘調査は行われていたが、この遺跡の起源についての全く誤った仮説を証明するためだけの杜撰な調査で、考古学者の間からも疑問が出ていたのだ。

 彼らの主張は簡単にいうとこうだった。
「下等なアフリカ人に、このような偉大な建築が可能なはずはない。これは過去の偉大な中近東の遺構に違いない」

 ソロモン王を訪ねたシバの女王国はここであった、もしくは、古代フェニキア人またはユダヤ人が築いた、アラビア人たちの黄金鉱山だったというような主張だ。

 20世紀初頭にデイヴィッド・ランダル・マッキーヴァーの調査では、それまでの調査隊が「取るに足りぬゴミ」として放置していた、現地人が現在も使うのとほぼ同じタイプの土器や、石造建築物の構造の調査から遺跡はショナ人など現地住民の手によるものだと結論づけたが、当時の権威たちはそれを認めなかった。

 こうした中で再調査を依頼されたケイトン=トンプソンが編成したのは、写真撮影で協力参加したキャスリーンを含め全員が女性の調査隊だった。これは、全く前例のないことだった。ケイトン=トンプソンは現代でも村人が使用している陶器やテラス造りの壁といった構造と比較することで、マッキーヴァー説を強く支持する調査結果を発表した。

 彼女が、他の調査隊と違ったのは、『谷の遺跡ヴァレー・コンプレックス』と『大囲壁グレート・エンクロージャー』について緻密なトレンチ調査を行い、層位学的研究法の見地から最下層までの層位と遺物を対応させた実測図とデータを提示して、後の研究者がデータを検証できるような報告書を作成するように努めたことだ。

 データが語っている。これはソロモン王の時代の遺跡ではない。アラビア人たち西アジアの人びとが建設したものでもない。後の放射性炭素年代測定でも、この遺跡は12世紀から15世紀に建設されたものであることが証明されている。

 遺跡は50以上の円形または楕円形の建造物の集合体で、3つに分けて分類されている。北側の自然丘陵を利用して作られた通称『丘上遺跡ヒル・コンプレックス』、その南部に広がる『谷の遺跡ヴァレー・コンプレックス』、そして巨大な楕円形の外壁をもった『大囲壁グレート・エンクロージャー』だ。

 何よりも「原住民には作れない」と偏見の対象となったのは、『グレート・エンクロージャー』で、1万5千トン以上の花崗岩を用い、漆喰などは使わずに精巧に積み上げてある。長径は89m、外壁の周囲の長さは244m、高さは11mで、外壁の基部の厚さは6mに達する。東側には高さ9mを超える円錐形の塔がそびえ立ち、おそらく祭祀的空間であったと考えられている。

 『ヴァレー・コンプレックス』は、首長の妻子たちの住居跡地だと考えられている。円形の壁を持つ住居が通路で結ばれた構造だ。鉄製のゴング、大量の食器や燭台、ビーズ、銅、子安貝などで作られた装飾品、犂や斧、儀礼用の青銅製槍などの他、中国製の陶磁器、西アジア製のガラス瓶まで出土しており、まだヨーロッパ人たちが大航海時代を迎える前に、彼らが遠隔地交易との豊富な金属加工で大いに栄えていた証拠となっている。

 『ヒル・コンプレックス』の東エンクロージャーには石組みのテラスが敷かれ、祭祀に関連する遺物が出土した。中でも最も重要だったのは、6体の滑石製の鳥彫像だ。似たものが『ヴァレー・コンプレックス』からも出土している。ショナ族の世界観では、鳥は天の霊界と地の俗界を往き来して仲介する使者であり、呪術師はその力を借りて雨乞いなどの儀式を行うために鳥を象った彫像を作ったと考えられている。

 キャスリーンは、『ヒル・コンプレックス』で作業をしていたときに、何度も襲ってきた雷雨のことを考えた。遠くに稲妻が煌めくと、次第に灰色の雲が青空を覆い隠していく。

 雷鳴の鳥インプンドゥルたるシュモクドリが甲高く鳴いて嵐を呼んでいる。

 西エンクロージャーは自然の巨石を利用し、花崗岩ブロックのと合わせて直径30メートル、高さ7メートルの巨大な建物に仕立てている。雷雨の激しさを知るキャスリーンは、急いでこの首長の政治統治の場だったと思われる建物に入っていくが、恐ろしげに首をすくめる。

 15世紀から今まで絶対に落ちてこなかったのだから、絶対に安全だとわかっていても、屋根となっている自然巨岩の危うげなバランスに強迫観念を感じてしまうのだ。だが、痛いほどに打ちつけるアフリカの夕立に打たれるよりは、ひとときこの岩の下で息をひそめる方がマシだった。

 すぐ近くで出土したジンバブエ・バードの黒く滑らかな立ち姿を思い浮かべた。なんという鳥を模した像なのか、キャスリーンもケイトン=トンプソンもはっきりとはわからない。ショナ族にとって重要なトーテムであるチャプング(ダルマワシ)またはフングウェ(サンショクウミワシ)だと考えられているが、どれも決め手に欠ける。

 そういえば手伝いに来ていた現地人ンゴニは雷鳴の鳥インプンドゥルではないかと言っていた。なんでもない姿をした格別強くもないシュモクドリだが、「鳥の中の王」と見做されているからだ。キャスリーンも、アフリカの各地でそう見做されていることについては知っている。
 
 大変な努力を持って作り上げられたシュモクドリの巣は、彼らだけが使うわけではない。空き家の巣はチョウゲンボウやワシミミズクなどほかの鳥たちや、ネズミやなど他の動物たちも利用する。中でもクロワシミミズクは巨大で怖れられ敬われている鳥だが、シュモクドリの巣の上に陣取り1日を過ごす姿が「猛禽が宮殿を守っている」とみなされ、「雷鳴の鳥インプンドゥルこそが実は鳥の中の王だからだ」という言い伝えを強化している。

 不思議な鳥だ。雨を呼び、稲妻を司る雷鳴の鳥インプンドゥル。巨大な巣を作り上げるシュモクドリ。理由も理解も、そして、首長たちが崇めた神像のモデルとしての地位も、もしかしたら彼らには必要ではないのかもしれない

* * *


 キャスリーン・ケニオンは1950年代にパレスチナ東部エリコの発掘調査を主導し20世紀でもっとも影響力のある考古学者と呼ばれるまでになった。後にオックスフォードのセントヒューズ大学長を務め、大英帝国勲章のデイムに除された。

 一方、グレート・ジンバブエ遺跡を発掘したときの上司であったガルトルード・ケイトン=トンプソンも、1934年に女性として初めてリバーズ賞を受賞し、1944年に王立人類学研究所の副所長にも選出された。46年にはハクスリー賞を受賞した。さらには東アフリカの英国歴史考古学学校の創設メンバーとなり、評議会の委員を10年間務めた後、名誉フェローに任命された。

 ローデシア時代は、偏見と政治的圧力により覆い隠された「グレート・ジンバブエ=アフリカ人建設説」は、脱植民地化独立運動の後、ジンバブエ共和国が成立すると「未だに謎に包まれている」という公式見解は取り消され、正式に認められるようになった。

 過去の偉大な建築物は、新しい国の精神的な支えの中心となり、国名もここから取られた。そして国旗にはジンバブエ・バードの1つが国のシンボルとしてデザインされた。それと同時に、この遺構を示す言葉は、「偉大な」という意味を込めて「グレート・ジンバブエ」と呼び区別されることになった。1986年にはユネスコ世界遺産に登録された。

 ローデシア時代の偏見と悪意に満ちた発掘調査のために、多くの部分が破壊・遺棄されたグレート・ジンバブエ遺跡の発掘調査はいまだに進められ、考古学的証拠や最近の調査結果により歴史的背景などについても少しずつ解明が進められている。

 古い権威と悪意のヴェールが取り除かれ、アフリカ第2の巨大遺跡グレート・ジンバブエ、1000年前のショナ族たちの栄光は陽の目を浴びた。一方、シュモクドリが巨大な巣作りに偏執的なほどの情熱を傾ける謎は、いまだに解明されていない。

(初出:2023年9月 書き下ろし)

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Great Zimbabwe National Monument (UNESCO/NHK)


Hamerkop
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】地の底から

今日の小説は『12か月の建築』8月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、トルコはカッパドキアにある古代の巨大地下都市デリンクユです。当時はそういう名前ではなかったとどこかで読んだので古い名前を使いました。

これは、実際にこういうことがあったという裏付けのある話ではありません。デリンクユのことを調べている間に、「これってどうやって暮らしていたんだろう」と想像が膨らみ、いつのまにか生まれてきてしまった話です。


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地の底から

 水面に月明かりが揺らめいている。セルマは静かに桶を浸した。痛いほどの冷たさを感じた。日中に外に出れば、怯えるほどの熱風に晒されるはずだが、この地底はアナトリア高原の厳しい夏とは無縁だ。少なくとも彼女はもう何か月も地上へは行っていない。

 セルマは、地下都市マラコペアの最下層に小さな部屋を与えられている。その役目を果たす時以外に彼女と関わろうとする者は非常に少ない。時おり、好奇心に駆られて話しかけてくる人はいる。しばらくの交流があり、やがて家族や友人たちに止められ、後ろめたそうに去って行く。いま、時おり訪れてくるファディルもいつかはそうなるのだろう。

 セルマは『水番』だ。地下都市マラコペアの最下層には地下水の泉がある。10以上ある同じような泉は、すべての階層の家族の命を支えている。この地下都市と地下通路で繋がっているほかの地下都市もまた、同じつくりになっている。この井戸は地上と地下の双方の住民のため使われており、地下都市にとっては、水汲みの井戸としてだけでなく、通氣口にもなっている。外界から空氣と光が差し込む唯一の場所だ。

 泉の周りに、入り組んだ細い通路や階段につながれた居住区が、互い違いに上下に存在する迷路のような構造になっており、セルマの暮らす最下層は地下8階にあたる。

 セルマや、他の井戸に住む『水番』は、上から降りてくる桶に水を汲み、それが引き上げられる前に少しだけ水を飲んでみせる。それが『水番』の勤めだ。外敵によって井戸に毒が投げ込まれれば、それは地下都市で生きるすべての家族の死を意味する。だから、『水番』が必要なのだ。

 地下都市マラコペアがいつ建設されたか、詳しいことは誰も知らない。主イエス・キリストが生まれる何百年も前の時代にヒッタイト人またはフリギア人が建設したという者もいるし、ペルシャ人たちは伝説のペルシャ王イマが建設した地下宮殿がここだと主張しているらしい。いずれにしても、大昔のことだ。

 キリスト教が急速に広がると同時に、それを問題視するローマ帝国では迫害も始まった。聖ステパノが最初に殉教してから120年ほど経った今、迫害を避けて移動してきた信者たちの多くがこのアナトリア高原の地下都市マラコペアにたどり着いた。

 もともとの地下都市の壁は硬くしっかりとしていたが、その奥の空氣に触れる前の火山岩層は脆く容易に掘り進められることがわかった。それで、人びとは単にここに隠れ住むだけではなく、地下都市を拡張させ、狭い通路と防御のための大人5人分ほどの重さのある引き扉を用意した。それどころか、敵が通ると背後に回り通路を閉じて行き止まりの空間に誘導する罠までも作った。

 住居だけでなく調理場、倉庫、家畜小屋、会堂、そして長らく地上へと戻ることのできないときのための墓所までが用意されている。

 祈りを捧げる信徒たちの歌声がわずかに響いてきた。ひときわ美しい声は『聖女』ペトロネッラだ。聖堂と呼ばれる十字型をした広い空間に彼らは集い、敬虔な祈りを捧げる。この地下都市に潜む数百家族のうち、明け方の礼拝で聖堂に常に集うのは司祭ヒエロニムスを中心とした数十人だけだ。

 ファディルは、その重要な人びとの1人だ。若く力強く、新しい通路を掘るための設計を任されている有能な若者で、いずれは有力な指導者の1人となるだろう。まだ独身で、青年たちの住居区画に住んでいる。

 井戸の1つ上の階層で水汲み窓に問題があったのを機に、セルマの仕事場兼居住場にやって来たが、それをきっかけにときどき話をするようになった。

 蔑まれる異教徒のセルマに対する公正な態度。朗らかで誠実な人柄、若々しく精悍な佇まい。セルマが密かに想いをよせるようになるのに時間はかからなかった。

 もちろん、願いが叶うことはないだろう。彼は『聖女』ペトロネッラの崇拝者のひとりだし、そうでなくても異教徒と関係を持つことは、彼や彼を取り立てた司祭ヒエロニムスの立場を悪くするだけだ。

 司祭ヒエロニムスは、何人かいる司祭たちの中では穏健派だ。同じ地下都市に潜む異教徒たちとの関わりを禁止しようとする厳格派たちをやんわりと抑えて、その必要性を唱えた。掘り進む通路を完成させるためには純粋な信者たちだけでは倍の時間がかかる。それに、現在『水番』となっているのは、みな異教徒たちだ。なぜなら、同じ信者の中に、理論的に犠牲者となりうる存在を出すわけにはいかないから。

 セルマの村とその周辺の地域は、ローマ帝国の税制に反対して壊滅させられた。生き延びるためには、キリスト教徒たちの力を借りて、この地下都市に住まわせてもらう他はなかった。男たちは人足となり、一部の女たちはキリスト教に帰依して共同体の一部になった。そうしなかった子供のいない女は、竈番になったり、『水番』になった。

 キリスト教徒たちは、異教徒たちを半ば奴隷化していることを信仰という名の大義名分で覆った。後ろためさを交流しないことでなかったものにしている。厳格派の司祭たちを支持する裕福な信徒たちは、『水番』や人足たちは、無料で安全と食糧を享受しているのだから彼らの奉仕を受け取るのは当然なのだと主張していた。

 久しぶりに穏健派の司祭であるヒエロニムスが、教会の中心となってからは、こうした異教徒たちへの冷たい扱いは、減ってきているかもしれない。

 ヒエロニムスを中心に……もしかすると本当の求心力を持っているのは、ペトロネッラなのかもしれない。

 セルマは、『聖女』ペトロネッラの整った清冽な横顔を思い浮かべた。聖ペトロの血を引く高貴な生まれだと、人びとがひれ伏し敬愛する若い女が、かつてエラという名で、セルマと同じ村でハシシの製造で身を立てていた少女だったと知る者はほとんどいない。

 ファディルは、セルマの言葉を信じなかった。
「言っていいことと悪いことがあるぞ。彼女は高潔で穢れなき魂そのままの顔かたちをしている。セルマ、妬みは君自身のためにならないよ」

 妬みか……。そうかもしれない。一番低い階層に、もっとも地上から遠い洞穴空間に潜み、賛美歌を聴いている。けれど、信徒たちのように、神の国の訪れを待っているわけではない。いつの日かローマ帝国の怒りを氣にせずに暮らせる日まで生き延びたい、それだけだ。

 桶に水を汲む度に、複雑な想いが渦巻く。地上を避けて地下都市マラコペアに隠るのは、教えを認めず迫害する人たちがいるからだ。毒を投げ入れるとしたら、それは教えを迫害する為政者の手の者たちであろう。だから、毒で死ぬとしたら殺害者はローマ帝国の手の者だ。

 それでも……。司祭ヒエロニムスも、『聖女』ペトロネッラも、他の信徒たち、そう、ファディルですら、毒を入れられた水で彼らの代わりに死ぬのは『水番』だとわかってその役目をさせているのだ。

 桶が降りてくる度に、数分後にも生き延びられていることを願いながら水を飲む。ここに来て以来、願いが叶わなかったことはまだない。だが、その幸運が続かなった同胞もいることを知っている。隣の泉で2か月前に起こった騒ぎの時には、しばらくセルマの泉に投げ込まれる桶の数がずっと増えた。

 あれ以来、信者たちは、食事の度に生命を賭けることを課されている『水番』たちともっと距離をとるようになった。誰が隣の泉に毒を入れたのか、本当に地上から投げ入れられたのか、それとも中に忍び込んだ敵がいるのではないかと、誰もが疑心暗鬼になった。そして、より疑われたのはやはり異教徒の住人たちだった。

 それぞれの井戸は離れており、人ひとりが身をかがめてやっと通れる狭い複雑な通路を通ってしか行き来できない。桶が投げ込まれたときにその場にいなくてはならない『水番』たちは、他の井戸へと向かうような時間的余裕はない。だから、セルマはほかの『水番』たちが、何を想っているかを確かめることはできない。全員が未だ生きているのかすら知らないのだ。

 地上には通じていない泉が1つだけある。地下都市マラコペアの中央にあり、聖堂の奥、普段は人びとが足を向けない墓所の先で、位の高い聖職者や有力者だけがその場所を知りいざという時のために守っている。すべての泉に毒が投げ入れられて飲み水が使い物にならなくなった場合のためだ。

 神とイエス・キリストを信じ、運命を共にする信仰共同体とはいえ、完全にすべての人びとを信じているわけではないのだ。2万人が暮らすことのできる巨大地下都市網、常に新しく掘り続けられる通路、信仰共同体の中の新たな上下関係が、また別の不信を呼び起こしている。

 異教徒たるセルマは、聖堂だけでなく他の人びとの部屋、ワインセラー、食堂などを訪れることは許されていない。

 共有スペースとなっている調理場を訪れることは許されている。床に埋められたタンドール竈で調理する調理場は、泉からさほど離れていない場所にそれぞれ設けられている。煙突から漏れる煙が外界から見えないように、調理は夜間だけに限られる。できたての肉やパンは、まず聖職者に、それから裕福な家族たちと順番に提供される。セルマはもう誰も訪れなくなった明け方に、そっと調理場を訪れ、黙って食事をする。

 司祭ヒエロニムスが聖書を朗読しているのを耳にしたのは、食事を終えて居住区に帰ろうとしたときだった。

 賛美歌の音色と、厳かな雰囲氣に心惹かれ、ロウソクの光を頼りに普段は向かわぬ聖堂への通路を通った。聖堂は地下都市の中でもっとも大きな空間を占めている。十字型をしており、天井や壁に壁画までが施されている。セルマはそっと聖堂脇の戸口の陰に座った。

もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。

(ローマ人への手紙 14章15-17)



 尊敬する『聖女』ペトロネッラの周りに集まる若い婦人たちや、彼女を賞賛しその手を望むファディルと若者たちは、その聖句に神妙に頷いているが、彼らは知らないのだ。

 セルマの生まれ故郷がまだローマ帝国に対して反旗を翻す前のことだ。地域には広大な麻畑が広がっていた。過酷な夏にも涼しく心地よい上質な衣服や丈夫な縄を作るのに重宝された作物だが、葉や花を燃すことで酩酊効果があることも知られていた。

 貧しい村人たちは、パイプ用の樹脂を作成して、秘密裏に売り現金収入を得ていた。セルマと同じ村の娘エラも、パイプ用樹脂を作り売っていた。美しくあまたの男性に対する影響力を自覚していた彼女は、ローマからの差配人の誘いを断らなかった。ローマでは珍味として珍重されるヤマネ肉をご馳走してやると言われて彼と何度も逢ったのだ。そして、差配は、何度かめの訪問の時に、村で麻の樹脂を作成して密売していることに氣がついた。

 差配人は、その地域の不正をローマに進言することで出世した。セルマの村だけでなく近隣の50ほどの村が争いに巻き込まれた。

 村が、ローマとの争いで荒廃し、彼女を崇拝していたたくさんの若い男たちが命を落としていたとき、エラは差配人によってとっくに安全な南部地域に逃されていた。それから、彼女の身に何があったのか、セルマも他の生き残った村人も知らない。再び彼女が姿を現したとき、そこにいたのは若い男を籠絡してほしいものを手に入れていたエラではなく、愛と慈しみに満ちたキリスト教徒の鏡のような『聖女』ペトロネッラだった。

 彼女を知る者はもうほとんどいない。そして、何を言おうと、『聖女』に狂信的な忠誠を誓う信者たちは、異教徒のセルマたちの言葉など一顧だにしない。エラは、それをよく知っている。美しい面に慈しみに満ちた微笑みをたたえて、妄言を語る異教徒すらを許す信仰深き態度を演じてみせる。

「あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない」
そう告げる聖書の言葉を、エラはどのような思いで聴いているのだろう。彼女が炙ったヤマネ肉と引き換えにして捨てた故郷の村はもうない。戦って死んでいった崇拝者たちも、人足として、あるいは『水番』として蔑まれつつ、時には命を失う不条理に耐えて生き延びるかつての同郷者たちを、偽りの特権の座から眺めるのはどんな心持ちなのだろう。

 聖堂の中心、司祭と共に会衆に向かって立っているエラは、戸口に潜むセルマに氣づき、挑戦するかのような冷たい視線を向けた。他の信者たち、司祭ヒエロニムスも氣づかぬほどのわずかな時、まったく違う立場になってしまったかつての同郷者たちは、瞳を交わした。

 司祭ヒエロニムスが、聖餐を記念する聖句を唱え出すと、『聖女』ペトロネッラは我にかえり、祭壇の脇に置かれた水差しを手に取った。その中のワインは、司祭ヒエロニムスが祝福することで聖水となったと信者たちにありがたがられている水から作られた。一方で、その水をセルマが汲んだおり、毒が入っていないか確かめた行為は考慮され感謝されることもない。

 ファディルが聖なるパンを捧げ持ち、水差しを持つ『聖女』ペトロネッラと並んで司祭の待つ祭壇へと運んでいった。ヒエロニムスの唱う聖句に合わせて信者たちが唱和する祈りの響きが聖堂に満ちた。悲しいほどに美しいハーモニーが、地底の聖域に響き渡る。

 信徒たちは、迫害にも負けぬ清らかな心と互いに対する善行という正しさを拠り所に、『聖女』と共に天国に入る鍵を手に入れようとしている。彼らが今や日々口にするすべての食物や飲み物に入る水に込められた、セルマの苦い想いは氣づかれることすらない。
 
(初出:2023年8月 書き下ろし)

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Respighi: Pini di Roma, P. 141 - II. Pini presso una catacomba

私にとっての「ローマ時代のキリスト教迫害」のイメージといったら、誰がなんといおうともこの曲なんですよ。今回の作品はこの曲のイメージから何となく生まれてきたものです。
* * *

デリンクユについて興味をお持ちの方は、こちらがわかりやすくて興味深かったです。

デリンクユ:かつて2万人が生活していた地下都市とは
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Posted by 八少女 夕

【小説】花咲く街角で

今日の小説は『12か月の建築』7月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。先週もこのシリーズでしたが、ここで発表しておかないと、また1月ずれちゃいそうなので。決してどっかの小説のヒロイン登場を勿体ぶっているわけではありません(笑)

今月のテーマは、フランスアルザス地方の家です。

実はですね。私の曾々祖母の故郷はストラスブールでして、かつて彼女の痕跡を捜しに旅をしたことがあるのです。こんな世界に住んでいたのかと感動してしまいました。それほどにこのアルザス地方は印象に残る場所でした。

今回の掌編の裏テーマは「人生の楽しみ方」です。忙しく真面目に生きているだけで、何かを忘れがちなのは私も同じ。ある人たちは、人生の楽しみ方をよく知っているように思います。


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花咲く街角で

 カスタード色のルノーからは、どこかオイルの焦げるような匂いがしている。ティボーからお香みたいな独特の香りがするのと同じで、エリカはすでに慣れてしまっていた。

 車にはほとんど興味が無くて、ポルシェとアルファロメオを間違えたことすらあるエリカはいまだにいま乗っているオンボロ車の車種が定かではない。ティボーは「カトルシュボ」と言っていたような氣はするが。少なくともティボー自身の名前は憶えたのだから、それでよしとしてほしい。

 ブリキのおもちゃのような車内装飾。赤い縞のシートは、今どきの車のように運転席と助手席が完全には独立していない。ティボーが右手を下に延ばすとき、はじめエリカは足にでも触られるのではないかと身構えたが、何のことはない、その位置にギアがあるだけだった。

 地平線まで続く葡萄畑からは、硫黄の香りが漂ってくる。昨夜の通り雨を輝かす朝の光が葡萄畑をわたる風とともにルノーの中を通り過ぎていく。泣きたくなるくらいの美しさだ。

 アルザスワイン街道をいつかは通ってみたいとは思っていたけれど、まさかこんな形で通ることになるとは思わなかった。朝からワインをがぶ飲みして、オンボロ車を運転する、首に変な入れ墨のあるちょっとジャンキーっぽい見知らぬ男に連れられて、エリカは『人生の延長試合』をはじめたところだ。

 コツコツと真面目に生きてきたつもりだった。小さな貿易会社の事務員として10年働き、慎ましく生活してきた。来年には5年同棲した男と結婚して、新婚旅行もするつもりだった。でも、なぜかその男と、職場でエリカが一番仲がよかったはずの同僚が「おめでた婚」をすることになっていた。しかも、大切に貯めた結婚資金の大半はいつの間にか消えて、エリカが彼に「貢いでいた」ことになっていた。

 それがわかってからしばらくの事は、もう思い出したくもない。半分自棄で身辺整理をして逃げ出してきた。新婚旅行に行くならと憧れていたコルマールで、人生を終えてやれと鼻息荒く飛び出してきた。その旅費ぐらいは残っていたから。

 そして、パリからTGVに乗ってコルマールまで着いた。噂に違わぬ素敵な街並みだったけれど、楽しそうな観光客たちを横に、「人生を終える場所」など見つからなかった。エリカは、華やかな町の中心部から離れ、ホテルの小さなバーでワインを飲みながらメソメソと泣いていた。

 その時に、隣でパスティスを飲んでいたのがティボーだった。
「なんで泣いているんだ?」

 エリカは、拙い英語で自分の悲劇を語ってみた。思ったほどの同情を得られた氣はしなかった。

 ティボーは、まるで「そんなことはフランスでは日常茶飯事だ」とでも言いたげな態度で頷き言った。
「せっかくこんないい時期にここに来たんだから、そんなにすぐに『おしまい』にすることはないよ。ワイン街道はみたのか? コルマール以外の村は?」

 エリカは、若干ムッとしながら「まだ」と答えた。ティボーは、にやっと笑って言った。
「じゃあ、明日からは『人生の延長試合』だ。ワイン街道で、アルザスワインをたらふく飲んで、それからもっと小さな村を見にいこう」

 これまでのエリカだったら、こんな怪しい男の誘いには乗らない。騙されてお金を巻き上げられるか、それに類したろくでもない事が待っていそうだ。でも、「死ぬに死ねない」状況で、さらにいうと帰国しても仕事も帰る場所もない現状では「その手の犯罪に巻き込まれるのもアリか」と思ってしまったのだ。

 そして、エリカはそのホテルを今朝チェックアウトして、このオンボロ車の助手席に座ることにしたのだ。小さな荷物は、後部座席にぽつんと載った。

「あなたって、何している人? 引退するって年齢じゃなさそうだけど」
エリカは、疑問に思っていたことを口にした。見かけから推察するに40代くらいに見える。もう少し上の世代に多いヒッピー的な長髪を後ろで結んでいる。入れ墨はサンスクリット語のようだけれど、どんな意味か訊くのはやめた。白人がクールだと思って入れる漢字タトゥーは、漢字文化圏の者が見ると情けないモノが多いので、サンスクリット語だけが例外ではないと思うから。

「俺? 詩人……かな。ま、他にもいろいろやっているけれどね」
うわ。やっぱり、ヤバそうな人かも。……ま、いっか。たかったり、騙したりしようにも、私にはほとんど何も残っていないし。

 なだらかな丘陵をいくつか登って、ルノーは小さな看板の出ている葡萄畑の傍らで停まった。ティボーは、懐から小さなビニール袋を取りだして、中に入っている紙で煙草の粉を巻いて火を点けた。

 ああ、この香りだ。エリカは納得した。お香のようだと思ったのは、巻き煙草か。くたびれたアロハシャツに綿の7分丈パンツ、黒いビーチサンダル。肩の力の抜けた人だ。

 葡萄農家と少し話すと、葡萄棚で日陰になった石のテーブルとベンチに案内された。白ワインといくつかのチーズにクラッカーが出てきた。

「さあ、乾杯しよう」
ティボーは笑った。

「もうお酒? まだ9時にもなっていないのに」
エリカが言うと、ティボーと農園の女将は不思議そうな顔をした。

「朝と、夜で何が違うんだい?」
言われてみると、なぜ朝だと飲まないのか、よくわからない。ましてや人生を終わらせるつもり、もしくは『人生の延長試合』を生きているエリカには、さして重要な禁忌とは思えなかった。ええい、飲んじゃえ。

 飲みやすい白だ。甘すぎず、渋さもない。いくらでもいけそう。このカマンベールみたいなのとよく合うし。しかも、このバケット、パリッパリだ。美味しいなあ。こんなにきれいな場所でワインを飲んだ事って、これまでになかったかもしれない。誰かのグラスが空じゃないかと心配する必要もないし、ただ自分だけが楽しむためのワイン。最高だわ。

「ほら。まだ先は長いから、酔っ払いすぎないように。もう行くよ」
1杯だけ飲むと、意外にもティボーはさっさと立ち上がった。

 そして、ようやくエリカは氣がついたのだが、ティボーは『アルザスワイン街道』を通り、この先のいくつもの農園でさまざまなワインを飲み比べさせてくれるつもりらしい。

 フランス北東部を、北はマーレンハイムから南はタンまでヴォージュ山脈の麓の市町村を結ぶ170キロメートルを『アルザスワイン街道』と呼んでいる。アルザスワインの1000にものぼる生産者がこの地域にあり、試飲をしたり生産者から直接買ったりすることができる。

 そして、それだけでなく途中で通る村がいちいち美しい。

 壁の骨組みを木で造り、その間に石やレンガを入れて漆喰で固める「木骨造り」という中世ドイツの影響を色濃く残した様式の家々はカラフルな壁と飾られた花と相まっておとぎの国のようにかわいい。

 世界中にも伝統的な家屋を一部だけ残した歴史地区などはあるけれども、『アルザスワイン街道』は170キロメートルにわたり、通る村のほぼすべてがこのような様式の家で建てられているのだ。

 エリカは、ずっとコルマールやいくつかの有名な村の一部だけが、このような美しい外観なのだと思っていたので、とても驚いた。

「ああ、ここでコーヒーを飲まなくちゃ」
そう言ってティボーはなんでもないパン屋の前で車を停めた。

おはようモルゲ 、ティボー」
パン屋の女将が挨拶する。

「やあ。パン・オ・ショコラはあるかい?」
ティボーの問いに、女将はショーケースを自慢げに見せた。

 店の片隅の丸テーブルで、紙ナフキンで包んだだけのパン・オ・ショコラとコーヒーを渡された。何十もの層となった生地がサクッとした歯触りで口の中に広がる。固すぎず、でも、クリームではない板チョコがたっぷり入っている。
「うわ。ちょっと待って。これ、本当に美味しい……」

 店には次々と客が入ってきて、お互いに挨拶しながら他愛のないことを話している。ティボーともみな知り合いらしく、次々と会話が弾んでいた。ドイツ語に近い不思議な言葉、アルザス方言だ。

 たった1杯のコーヒーと、1つのパンを食べている間に、世界がいきなり社交的で優しくなったかのようだ。ここに逃げ出してくる前の生活では、休憩時間とはスマホをチェックしてトイレに行くぐらいの時間だった。この国に到着してからも、パリでは観光客に対しての事務的で冷たい扱いを受けていたように思う。

「コーヒータイムも、悪くないだろ?」
ティボーは、そんなエリカの考えを見透かしたかのようにウインクした。

 また車に乗って、葡萄畑の間を走っているときに、エリカは言った。
「私ね、朝からワインなんて飲んじゃいけないって思っていたけれど、そういうばコーヒータイムもコーヒーを飲むだけでみんなでおしゃべりすることは避けていたかも」

「どうして?」
「どうしてかしら。もちろん仕事中には決まった時間以上に休んじゃいけない決まりはあると思うんだけれど、休みの日は関係ないはずよね。でも、そういうものだと思い込んでいたのかも」

「今朝の時間の過ごし方はどう? 心地よい? それとも居心地悪い?」
ティボーは助手席のエリカを見て訊いた。

「新鮮で、そうね。とても心地よい驚きだと思うわ。午前中って、人生って、こんな風に楽しんでいいのかって」
「それならよかった」

 午前中に、ティボーに連れられて3軒の農家で白ワインを楽しんだ。太陽が高く上がるにつれて氣温はぐんぐんと上がり、アルコールはどんどん蒸発していった。1杯につき50ccもないとはいえ、運転するティボーがこんなに飲んでいるのは合法なのかどうか怪しい。だが、さすがフランス人というのか全く酔った感じはない。

「さあ。昼食の時間だ」
コルマールよりも南のエギスハイムに着いたとき、ティボーは言った。

 エリカは、言った。
「お昼は、私が払うわ」

 朝からエリカは1銭も払っていない。何度か財布を取り出したが、ティボーに人さし指を振って断られてしまったのだ。

 ティボーは、片眉をあげてニヤッと笑った。
「それは無理だな。レストランじゃないからね」

 どういうこと? ティボーは、観光客たちのように車を城壁の外の駐車場には停めず中に進めて村人が停めている駐車場に停めた。

 そして勝手知ったる足取りで小さな小路を進み、クリーム色の壁の家の外階段を登って行った。茶色い木のドアを解錠して中に入っていった。
「ようこそ。我が家へ」

 エリカは目を丸くした。ティボーの住む家?!

 外壁はクリーム色だったが、内壁は白かった。外壁と同じなのは木骨が台形に張り巡らされていることで、同じ色の古い木材の柱、同じくらい古そうな丸い木のテーブルと椅子、備え付けの家具類だった。天井も同じ木材で、丸いランプは取り付けてあるが、それ以外は「中世からこのまま」と言われても信じてしまいそうな佇まいだ。

 よく見るとキッチンにはガスコンロやオーブンもあるし、冷蔵庫もあるのだが、その冷蔵庫もどこのアンティークなんだろうと思うような古い50年代風外観で、先ほどまで乗っていたルノーを彷彿とさせた。

「まあ、座って」
そう言うと、部屋の片隅に置かれたレトロなラジオのスイッチを入れた。サクソフォンが心地よいラウンジ・ジャズがわずかな雑音とともに部屋に満ちる。

 それから、レモンを入れた緑の重いガラスコップを持ってきて、そこにミネラルウォーターを注いだ。

 彼はラジオに合わせて鼻歌を歌いながら、冷蔵庫から食材を取りだして木製のキッチン台に並べた。

「えーと、何か手伝えること、ある?」
エリカが訊くと、彼は「そうだね」と言って、テーブルに洗ってあるチシャを持ってきた。
「これを、このお皿に載せて」
「こんな感じ?」
「うん。それでいい」

 彼は、何かのパテをそのチシャの上に載せて、上からバルサミコ酢をかけた。それから、テーブルに冷えたワインボトルとグラスを持ってきた。
「ゲヴュルツトラミネールだよ。ちょっと癖のある料理に合うんだ。だから、前菜は鴨のパテにした」

 ティボーはグレーのテーブルマット、布ナフキン、カトラリーレストなどを慣れた手つきでセットしていき、あっという間にレストランのようなセッティングにしてしまった。

 グラスに琥珀色のゲヴュルツトラミネールが注がれた。なんともいえないフルーティーな香りがする。
「これ、何か薬草でも入っているの?」
「いや、そういう品種の葡萄なんだ」

 引き締まった辛口で、ワイン自体に強いアロマがあり癖が強いのだが、香辛料のきいた鴨のパテに驚くほどよく合う。
「意外ね。喧嘩しそうなのに、こんなに合うなんて」

 そして、もう1つ意外だったのは、ティボーが料理上手だったことだ。パテの次に、スズキの香草焼きをあっという間に作り、茹でポテトとほうれん草まで添えてあった。切るときに幸福な香りを漂わせたパリパリのバゲットは小さな籠の中で待っている。今度のワインはリースリング。
「もしかして、料理人でもあるの?」

 ティボーは、笑った。
「若い時にセネガルやモロッコを旅して回ったんだ。その時にそういう仕事をしたこともある。でも、それとは関係なく、食べるのは好きなんだ。毎回の食事は大いに楽しまないとね」

 エリカは、前に食事を楽しんだのはいつだったかと考えた。3回きちんと食べることは心がけていたつもりだったけれど、それは楽しかっただろうか。今朝、ホテルで出てきた朝食ですら「タダなのにもったいないから」食べたような氣がする。

 ティボーは、「デザートはテラスで食べよう」と言った。石の階段を登って、裏の庭側に小さなテラスがある。そこからはどこまでも続く葡萄畑を一望することができた。すぐ近くの建物の屋根に、コウノトリが巣を作り、カタカタと音を立てている。

 ビターオレンジのシャーベットに、エスプレッソコーヒー。とても簡単なデザートだけれど、こうやってゆったりと食べると本当に美味しいなあ。

「日本で使う漢字でね、忙しいって字は心を亡くすって書くの。私、もしかしてずっと心をなくしたまま生活していたのかもしれない」

 ひとり言のようなエリカの言葉に、ティボーは微笑んだ。
「今日、心を取り戻した?」

「わからないけれど、少なくとも何もかもがきれいで、美味しくて、楽しい。久しぶりだなあ、こういう氣持ち」

 空のグラスに、リースリングが新しく注がれる。窓枠から入ってくる優しい陽の光がグラスに反射する。
「じゃあ、わかるまで、ゆっくりと探せばいいよ」

「そうできたらいいけれど、お金もほぼ使い切っちゃったし、そうもいかないわよね」
エリカは、現実的に答えた。

「中途半端にあるからお金は足りないって感じるんだよ。全くなくても、実は何とかなるものさ」
「でも、今夜泊まるホテル代すら足りないかもしれないのよ」
「ほらね。ホテルに泊まろうと考えるから足りないのさ。……この階の部屋は空いているから使うといいよ」

 エリカは目を白黒させた。
「なんで? 知り合いでもなんでもない人をただで泊めても、あなたにメリット何もないじゃない?」

 ティボーは、肩をすくめた。
「僕は、世界中で、知り合いでもなんでもない人たちにしばらく住まわせてもらったし、助けてもらったよ。誰もメリットがあるないなんて言わなかった。誰かが困っていたら手を差し伸べて、楽しく時間を過ごせれば、それでいいんじゃないかな。それじゃ君の氣が引けて困るなら、家事を手伝ってくれればいいし、この村にしばらくいれば、簡単な仕事くらいは見つかるだろうし」

 エリカは、疑い深く食い下がった。
「でも、私、フランスの滞在許可もないし」

 ティボーは、ウインクした。
「そんなことは、いま氣にしなくてもいいんだよ。お金のことも。まずは、よく寝て、食べて、飲んで楽しむ事が先だ。それ以上のことは、あとからついてくる。いまは、この1杯を全力で楽しむんだ」

 エリカは、少し考えた上で、ワイングラスを持ち上げた。確かに、昨日あれだけ悩んだけれど「人生の終わらせ方」は見つからなかった。それよりも、無茶苦茶な『人生の延長試合』を続ける方が、なんとかなりそうな予感がする。

 生き方を少し変えてみたら、強敵みたいに思っていた人生とも、うまく折り合っていけるのかもかもしれない。

(初出:2023年7月 書き下ろし)

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Die schönsten Weindörfer im Elsass - Eguisheim an der Weinstrasse - Alsace
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Posted by 八少女 夕

【小説】水の祭典

今日の小説は『12か月の建築』6月分です。7月になってしまいましたけれど……すみません。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、オーストリアはザルツブルグにある『ヘルブルン宮殿』の『水の庭園(Wasserspiele)』です。

ザルツブルグに夏に行かれる方は、滞在を1日延ばしてでも行く価値がありますよ。私はザルツブルグには2度ほど行ったのですけれど、一番印象に残っているのは今は亡き母と回ったこのヘルブルン宮殿です。

今回のストーリーの2人はこちらの作品で登場させた既存のキャラクターです。顛末はこの作品にも触れていますので、前作は読まなくても全く構いません。


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水の祭典

 暑い。昨日は爽やかな初夏らしい、結婚式にはぴったりの天候だったけれど、今日はうって変わって、強い日差しに焼かれて焦げちゃいそう。

 ケイトは、隣を歩くブライアンのポロシャツ姿をチラリと見た。スーツでない彼を見るのは、もしかして初めてかもしれない。

 ブライアン・スミスは、昨日華燭の宴をあげたダニエル・スミスの兄だ。ということは、昨日からケイトの親友であるトレイシーの義兄になったということだ。

 よりにもよって、結婚式をオーストリアのザルツブルグで挙げたのは、トレイシーがザルツブルグで生まれ育ったからだ。でも、婚約パーティーはロスでしたから、ケイトがザルツブルグに招待されるとは思っていなかった。

「ねえ、トレイシー。大切なあなたの門出だもの、もちろん喜んで駆けつけたいのよ。でも、私、この間パリに行ったときにけっこうな貯金を使ってしまったし、正直言って経済的に厳しいの」

 そう言ったケイトにトレイシーはウインクして答えた。
「心配しないでよ、ケイト。あなたの旅費は、もちろんご招待よ。忘れているかもしれないけれど、あなたが私たちの恋のキューピットなのよ。それに、あなた、ブライアンのガールフレンドとして、スミス家の一員みたいなものじゃない?」

 ケイトは、後半の誤解にあわてて、前半の提案へのリアクションをし忘れた。
「私たち、そんな関係じゃないわよ?! 聞いていないの?」

「だって、デートしているんでしょ?」
トレイシーに訊かれて、ケイトは首を傾げた。
「デートなのかな? たしかに何回か誘われて食事には行ったわ。でも、別にそれ以上の進展はないし、女友達の1人なんじゃないかしら? ニューヨークにはちゃんとした恋人がいるかも」

 トレイシーは、ため息をついた。
「まだ、そんなところなの? ダニーには、あなたの話ばかりしているみたいなのに」

 ケイトは、ますます首を傾げた。ブライアンとは、話していてとても楽しい。ヘルサンジェル社の重役というアメリカン・ドリームの頂点にいるような存在のはずなのだが、時おり、その辺の中小事務所で働く平社員ではないかと思われるような空氣を醸し出す人だ。

 いつだったか、それが不思議で訊いたときに、彼は笑って頷いた。
「もともと僕は友達の仕事を手伝っていただけの、ふつうの労働者だったんだよ。だけど、その友達の進める事業がとんでもなく成功して、会社がやたらと大きくなってしまったんだ」

 ヘルサンジェル社は、健康食品を扱う大企業だが、その最高経営責任者であるマッテオ・ダンジェロと、広告に起用されたスーパーモデルである妹アレッサンドラ・ダンジェロのイメージが強すぎる。マッテオの華やかな生活は、有名人たちとの数々の浮名を含めてセレブのゴシップ誌にしょっちゅう紹介されている。

 一方で、最高総務責任者が誰であるかは、ゴシップ誌しか見ないような人たちはまず知らない。そして、それが、いまケイトの隣を歩いているブライアンなのだ。

 かつて、トレイシーからの頼まれごとが縁で、たまたまパリの空港でブライアンと知り合ったケイトだが、彼がロサンゼルスに来るときに食事に誘われるという付き合いが1年ほど続いている。つまりまだ両手で数えられるほどだ。

 彼が本当はもっとロスに来ているのか、または他の女性とも会っているのかも、ケイトは知らない。それを知る権利があるとも思っていない。まさか、トレイシーが言うように、彼が自分に夢中だなんて思うほどうぬぼれているわけではない。

「今日は、どこに行くの?」
ケイトはブライアンに訊いた。新婚夫婦の邪魔をするわけにはいかないし、トレイシーのオーストリアの友達とは親しくないので、自由時間を過ごすのはなんとなくブライアンと2人ということになった。

「トレイシーおすすめのヘルブルン宮殿だよ。今日みたいに暑い日にはぴったりだと思う」
ブライアンは言った。

 旧市街から見えている高台のホーエンザルツブルク城や、庭園のきれいなミラベル宮殿は挙式の前日にトレイシーやダニーの家族と一緒に見学したのだが、他にも宮殿があるとは知らなかった。
「たくさん宮殿があるのね」
「夏の離宮だそうだ。だから少し離れているんだね」

「誰の離宮? ハブスブルグ家の王様?」
「いや、ザルツブルグがオーストリアになったのは19世紀で、それまではドイツ支配下の大司教領だったんだ。だから、ヘルブルン宮殿を建てたのも大司教ってことになるね」
「お坊さんが、そんなにお金持っているの?」
「大司教といっても領主だし、それに、このマルクス・ジティクスって大司教はホーエンエムス伯だからもともと貴族だ。いまの宗教家のイメージとはちょっと違うんだろう」

 夏の離宮というからには、涼しい高地にでもあるのかしら。ケイトはブライアンに連れられるまま、市バスに乗った。かなり遠くなのかと思ったら、30分もかからずに目的地に着いたようだ。
「ここ?」

 なんでもないバス停かと思ったら、道の向こうに黄色い壁があり、「ヘルブルン宮殿入り口はこちら」という矢印が見えた。さすが宮殿の塀だけあって、そこから入り口まで暑い中かなり歩いたが、そこからは美しい庭園だったので、外を歩くときのような日差しの暴力は感じなかった。

「大丈夫? もう疲れてしまったかな。先に休むかい?」
ブライアンに訊かれて、ケイトは首を振った。いくら何でもそれほどヤワではない。
「いいえ。大丈夫よ。暑いけれど、もう夏ですものね。ああ、広い。こんなに大きな敷地のお城だったら、ザルツブルグの旧市街には入りきらないわよね」

 ブライアンは、目を細めて「そうだね」とケイトに笑いかけた。それから、ケイトが手にしているカメラを見て言った。
「それ、しまった方がいいかもしれないな。これを使って」

 彼が、ポケットからビニール袋を2つ3つ取りだして渡してきたので、ケイトは首を傾げた。
「これ、どうするの?」

「濡れたら困る電子機器があったら、それで保護しておいた方がいい」
ブライアンはそう言って、彼のスマートフォンもビニール袋で包んでポケットにしまい直した。

 ケイトは、これまでいくつかの噴水のある庭園を訪れたことがあるが、スマートフォンやカメラをビニール袋にしまうようなことはしなかった。ブライアンって、意外と大袈裟な人なのかしら?

 グループツアーの集合アナウンスがあり、「行こう」と言うブライアンに続いてケイトはグループに合流すべく進んだ。

 そして、案内人は宮殿の中ではなく一同を庭園へと導いた。

 さまざまな大理石の彫刻で飾られた広大な人工池が涼しげな水音をたてている。緑色の水には黒い大きな魚や鴨が泳いでいる。宮殿を向こうに見渡す池の傍らにオレンジの壁とさまざまな彫刻で飾られたローマ劇場と石テーブルや椅子のある広場があり、案内人はまずそこで止まった。

「ようこそ、ヘルブルン宮殿の水の庭園へ! 今日は、とても暑いのであなたたちはまさにぴったりの場所を訪れたというわけです。さまざまな噴水をお目にかける前に、『諸侯のテーブル』にお座りいただき、この庭園の歴史について簡単にご説明しましょう」
案内人はそう言って、参加者たちをテーブルの周りある8つの椅子にそれぞれ座らせた。

「この宮殿は、大司教マルクス・ジティクス・フォン・ホーエンエムスの依頼で、1613年から15年にかけてイタリアの建築家サンティーノ・ソラーリの設計で建設されました。後期ゴシック様式の素晴らしい建築の妙については、後の宮殿内ツアーでご説明するとして、まずは世界的に有名なこの庭園の仕掛け噴水についてお話ししましょう」

 案内人は、にっこりと笑って一同を見回した。
「実は、大司教マルクス・ジティクスは、ちょっと人の悪いところがあったようで、宮殿を訪れる客をびしょ濡れにして、驚き慌てるさまを眺める趣味があったようなのです……こんなふうに」

 そう言った途端、8人が座った席の真後ろの石畳から水が噴き出して、水のカーテンができた。
「きゃあっ」
実際には、動かなければ濡れないような絶妙の位置に水は噴き出しているのだが、びっくりして立ち上がった観光客はあっという間に濡れてしまった。

 ケイトも思わず身をひねって倒れそうになったが、さっとブライアンが腕を伸ばして庇ってくれたので、難を逃れた。

「ありがとう。あら、代わりに濡れてしまったのね、ごめんなさい」
ブライアンの腕と、ポロシャツの袖が濡れている。

「大したことはない。すぐに乾くよ。……次の仕掛けでもっと濡れるかもしれないけれど……」

 ケイトは、笑って訊いた。
「こういう風になるって、知っていたの?」
「具体的には知らなかったけれど、濡れる可能性があるとトレイシーが教えてくれたんだ」

 子供たちは喜んで、自ら水の中に飛び込んでいっている。大人たちは首をすくめて、水が止まるのを待った。無事に止まったので、席を立ち少し離れたが、とある観光客がしくみはどうなっているのかよく見ようと覗くと、今度は座っていた椅子からも噴水が噴き出して、その男はびしょ濡れになった。これらの不意打ちで、仕掛け噴水ツアーの観客たちはみな笑顔になり、一瞬で打ち解けた。

「この仕掛け噴水は、当時のシステムのままで、電動ポンプなどは一切使用されていません。世界的にももっともよく保存されたルネッサンス後期の技術の粋を、お楽しみください」

 園内に立ち並ぶ彫像たちは、よく見るとふざけた表情を持つものが多く、あかんべーをしているように見えるものもある。よく見るとその口の中には管があり、どうやらこれも噴水となっているようだ。

 続いて案内された人工鍾乳洞グロットには、水の中を動き回る龍やイルカ、舌を出し入れする悪魔像など、現代ではテーマパークでよく見られるような仕掛けがそこここにあった。

 ここでも、油断しているのをいいことに、高いところ、低いところから客たちが通り過ぎるのを狙ってピュッピュと水が吹き出してくる。

 外に出れば、先ほどは何もないと思っていた通路には水のアーチができており、ブライアンとケイトも笑いながらもはや濡れることを避けずに通り過ぎた。

 ギリシャ神話を題材にしたさまざまな仕掛けのある洞窟を通り、案内されたのは巨大なドールハウスのような機械劇場だ。3階建ての建物にオルゴール仕掛けのごとく現れる精巧な仕掛け人形たちが、圧巻だ。偉そうな男が頷き、労働者たちは樽を転がし、兵隊たちが行進し、熊は引き回されている。そして、やはり水力で自動演奏されるオルガンが楽しげな音楽を奏でる。

「見て。あそこ、踊っているわ」
「本当だ。そしてここでは、屠殺場面かな?」
ケイトとブライアンは、これらのバラエティ豊かな仕掛けのすべてが、全く電氣を使わない水力だけのカラクリだということにあらためて驚いた。

 そして、最後に案内されたのは、噴水の水圧で王冠が浮く仕掛け噴水だ。はじめはゆっくり持ち上げて、さほど高くなかったので油断していると、突然ものすごいスピードではるか頭上まで持ち上がる。水と光の相乗効果でとても幻想的で印象深い。

 洞窟の外に出ると、またしてもあちこちから水が飛んでくる。宮殿にかかっている鹿の頭部に至っては、角からも口からも四方八方に水が飛んでくる。

 ケイトは、こんな風にきゃあきゃあ言って楽しんだのは、本当に久しぶりだと思った。子供の時以来かもしれない。普段は礼儀正しくて物静かなブライアンも、大笑いして楽しんでいる。ふと氣がつくと、物理的に距離が近づいてしまった。

 バスを降りてこの宮殿まで歩いていたときには、2人の間にはもう1人が入れるくらいの距離があったのに、今はとても近くを歩いている。そして、それがとても自然に感じられた。

 これまでは、2人の仲をトレイシーに指摘されたら、いつも全否定していたけれど、もしかしたら私たちって本当にそういう仲になるのかも。

 そう思って、なんとなくブライアンの顔を見たら、彼もこちらを見て微笑んでいた。あちこち濡れて、少々情けない身だしなみになっているにもかかわらず、そんな彼がいつもよりも格好良く見えて、思わずケイトは顔を赤らめた。
 
(初出:2023年7月 書き下ろし)

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非常に興味深いシステムですので、よかったらこちらでご覧ください。直訳調ですが、日本語の字幕もつけられますよ。


Austria's 400-year-old gravity fountains still work perfectly
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Posted by 八少女 夕

【小説】心の幾何学

今日の小説は『12か月の建築』5月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、モロッコの『リアド』とそれを彩るモザイク『ゼリージュ』です。

実は、モロッコはアフリカ大陸内のスペイン領セウタに行ったときに、半日ツアーで行ったことがあるだけなのです。なので、美しいリアド滞在はまだ未体験。めちゃくちゃ憧れているんですけれどね。


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心の幾何学

 ナナはスークを急いで横切った。この市場には、これまでに5度ほどしか訪れたことがない。観光客が土産物を探すマラケシュのスークなどと違い、観光客のさほど多くないこの町は、地元民の生活に即した品物のみが置かれ、大半が屋根のない露天だ。足下の乾いた埃っぽい土が舞い上がり、そこここに放置されたゴミを踏まずに進むことと、スリに注意することで神経をすり減らす。

 ベルナールが言うように、リアドに隠っていればいいのかもしれない。何かあったら、彼に対処してもらわなくてはならない。彼はため息をつきながら「だから、言っただろう」と子供を諭すように言うのだろう。

 でも、今日は『彼』に食事を振る舞うつもりなのだ。それにザタールがないなんて、あり得ないもの。ナナは、買ったスパイスを抱えて急いで帰路についた。

 ザタールはモロッコの万能ふりかけと言うべきミックススパイスで、塩、タイムの一種、白ごま、スーマックという赤い果実を乾燥させた粉などが入っている。肉を素焼きの壺で長時間煮込んだタンジーヤの付け合わせとして添えるパンはプレーンでもいいのだが、ナナはザタールをかけてから焼いたものが一番合うと思っていた。

 埃っぽく、灰色で、異国情緒もへったくれもない街角を、なんとか迷わずに進み、ナナはくたびれたピンクの壁がつづく一画の一番奥に向かった。それから、重い扉についた手の形をした取っ手を操作しながら解錠した。

 それまでの世界と、まったく違う光景が広がる。柔らかな円やくびれたカーブが優美なアーチ。透明ガラスと装飾が幻想的な陰影を作り出すランプ。細かい紋様のモザイクタイル。そして、金銀の刺繍で彩られた鮮やかな布の襞が織りなすオリエンタルな影。

 東京で過ごした子供の頃に読んだ「アラビアンナイト」の絵本にあった王宮さながらだ。フランスで知り合ったベルナールが「モロッコで暮らさないか」と誘ってきたときに想像していた世界そのものだ。

 大きな中庭を持つ古い邸宅を改装した宿泊施設として、日本をはじめとして世界の観光客にも人氣なリアドは、もともとはアラビア語で「邸宅」を意味する言葉だった。その意味で、ここもまたリアドには違いない。

 12世紀から15世紀に、レコンキスタが進むイベリア半島から逃げてきた有力者たちが建てたアンダルスとモロッコの建築様式が融合した邸宅の多くは、21世紀には観光客向けのエキゾチックな宿泊施設として生まれ変わった。

 このリアドも、かつてはそのブームに乗ろうと、水回りをはじめとして宿泊施設らしく改修されたが、マラケシュやフェズのように観光に適した町ではなかったので経営に行き詰まったらしい。ベルナールは、二束三文で売りに出されていたのを見つけたと自慢げに語った。

「僕はね。このリアドを完璧な状態に修復して『千夜一夜物語』の世界を再現したいんだ」

 パティオには、星形の噴水が置かれ、棕櫚やバナナの木が美しい木陰を作っている。2階はバルコニーがパティオを囲むようにあり、5つのテイストの違う部屋があった。

 ナナが使っている部屋は、ターコイズ・ブルーをテーマにした部屋で、とりわけバスルームの壁とタイルが美しかった。

 ベルナールに、モロッコ移住を提案されたとき、ナナは彼とここに住むのだと思っていた。実際には、常にここに住んでいるのはナナ1人で、ベルナールは年に2か月ほど滞在する以外は、月に3日ほど訪れるだけだった。

 パリにあるモロッコのインテリアを売る店は繁盛しており、彼はこれまで通りに2国を行き来して暮らすのだろう。

 彼が、電話で話している姿を見て、彼は離婚もしていなければ、ナナを正式なパートナーにしようとも思っていないことを知ってしまった。これは、日本でいうお妾さんにマンションを買い与えるのと変わらない事なのだと氣がつき、がっかりした。

 それは、日本で母親が受けていた扱いと同じだった。私生児だから、ハーフだからと受けた仕打ちには負けたくなかった。だから、フランスに渡り自分の力で生きていこうとした。けれども、フランスではナナは今度はアジア人として扱われた。1人前の仕事をさせてもらえなかったのは、人種差別のせいだとは思いたくなかったけれど、実力が無いと認めるのも悲しかった。しかも、結局、自分もまた愛人として囲われることになってしまった。

 日本やフランスに戻って、地を這うような生活をしながら独りで生きていく決意はまだつかない。このアラビアンナイトのような美しい鳥籠と、その外に広がる厳しい現実の世界の対比はナナを億劫にする。

 細やかな刺繍の施されたフクシアピンクのバブーシュを履く。ただのスリッパと違い、足にぴったりと寄り添う滑らかな革のひんやりとした肌触りが好きだ。足下には星や千鳥のように見えるタイルが敷き詰められている。何も知らなければただの床だが、ゼリージュ細工の仕事を知るナナは、足を踏み出すごとに畏敬の思いを抱き歩く。

 コンコンという、規則正しい音がする。ナナは、音のする方へと向かった。ホールの隅で、『彼』が働いている。ゼリージュ職人であるアリーだ。

 細かくカットしたタイルを組み合わせて、幾何学模様のモザイクを作り出す装飾をゼリージュと呼ぶ。古くからイスラム圏で広く使われていたゼリージュは、その膨大な手間から現在ではほぼモロッコだけに継承されている。

 白、黒、青、緑、黄、赤、茶の釉薬を塗って焼いた伝統的なタイルを、360種ほどもあるという決められた形に割っていく。組み合わせるときに、他のタイルとのあいだに隙間が出来ないように、それぞれを完璧な形にしていかなくてはならない。それは氣の遠くなるような作業だ。

 アリーは、そうした技術を継承した職人だ。ベルナールの依頼で、この邸宅の装飾を修復するために時おり通ってくる。

 ナナが、話をすることが一番多いのが、このアリーだ。掃除を請け負うファティマや、グロッサリーを搬入してくれるハッサンとも定期的に顔を合わすのだが、この2人は英語もフランス語も話さないため話し相手にはならない。

 ナナは、パティオの奥に設けられた木陰の読書スペースで本を読んで過ごすことが多い。日本にいたときには積ん読になっていた多くのシリーズものは、この木陰で何回か読破した。

「それは、中国語?」
そう訊かれて、顔を上げたのが、アリーとの最初のコンタクトだった。訛りはあるがフランス語だ。

「いいえ。日本語よ」
「ああ、君は日本人なのか」
「半分ね。でも、東京で生まれ育ったの。読むならフランス語よりも日本語が楽なのよ」
「そう。面白いね。本当に縦に読んでいくんだ。ああ、右から左に進むんだね」
「そうよ。アラビア語もそうよね」
「まあね。横方向にだけど」

 たわいない話だが、ベルナール以外の人と、ごく普通の会話をするのは久しぶりだった。単語だけでようやく意思疎通をするだけのファティマたち。買い物の時にフランス語が達者な売り子と話すこともあるが、ぼんやりしていると高いものを売りつけられたりスリに狙われたりするので世間話に興じることはほとんどない。

 アリーは、それ以来、籠の中の鳥のように暮らすナナにとってこの世界に向けたたった一つの窓のような存在だ。何かを売りつけるためではなく、雇用主として阿るわけでもなく、ただその空間と時間を共有する相手として接してくれる。そんな彼と話す時間を、ナナは心待ちにしている。

 それは、不思議な感覚だ。

 パリにいたとき、ナナはベルナールとの逢瀬を渇望していた。彼の妻よりも、ずっと彼を愛していると思っていたし、モロッコ行きを決めたときには愛の勝利に酔いしれた。4つ星ホテルの空調の効いた部屋での情交も、このリアドで格別に選んだターコイズ・ブルーの居室での睦みごとも、ベルナールとの強い想いと絆の当然の帰結だと感じていた。

 でも、いつの間にかベルナールに1日でも多く滞在してほしいという願いはなくなっていた。嫌いになったわけではないし、離婚するつもりがないことに対して怒っているわけでもない。ただ、彼の存在が、日々どんどんと希薄になっていくだけだ。

 ベルナールがやって来て、滞在するとき、ナナは彼を精一杯もてなす。店員が上得意客をもてなすように。覚えたモロッコ風の料理は、ベルナールを満腹にした。赤い部屋、オレンジの部屋、緑の部屋で楼閣に住む娼婦のように、彼を悦ばせた。それは、『アラビアンナイト』の世界に住まわせてくれる主人に対するナナの義務だと感じていた。

 そして、彼が去ると、ナナはどこか安堵している。再びひとりに戻ったことに。そして、中庭に響く静かな水音の向こうから聞こえてくるゼリージュ・タイルを作る規則正しい音に、心が震えるのだ。

 小さなタイルが組み合わされる。それは単なる装飾やパズルあそびではなく、自然を手本とした幾何学の魔法だ。シンメトリカルに広がる多様性。シンプルと複雑さの絶妙な組み合わせ。そして水の揺らめきや木漏れ日の揺らぎまでが計算され尽くしたかのように美しさを倍増する。

 大量生産があたりまえのこの時代においても、ゼリージュのタイルはすべて手作業で作られる。粘土を乾かし、釉薬を塗って焼いたタイルを1つ1つ蚤を使って小さなパーツに切り取っていく。ごく普通のセラミックタイルの300倍もの値段がすることに驚愕する人も多いが、この手作業を目で見たら納得するだろう。

 ゼリージュのタイルを使ったインテリアは、パリでは金持ちの贅沢だが、ここモロッコでは1000年以上も受け継がれてきた伝統であり、創造主たる神への讃美と感謝でもある。イスラム世界のほとんどで失われてしまったこの伝統を、モロッコのゼリージュ職人たちは黙々と受け継いできた。

 アリーの茶色い手が、なんでもないようにタイルを組み合わせ、それを固定していく。繊細な作業をしているようには見えないのに、出来上がったタイルの組み合わせは完璧だ。それは、自然の造形と似ている。1つ1つは好き勝手に育っているように見えるのに、光景となった時にはすべてのパーツがきちんと収まるべきところに収まり、調和し、美しく、畏敬を呼び起こす。

 ナナは、彼が働いているときには黙ってそれを見つめる。息を殺し、身動ぎもせずに、世界のパーツが正しい位置に納まっていくのを待つ。

 学生の時、図書館で「千夜一夜物語」の訳文を読んだことがある。后であるシェーラザードが1001夜にわたって夫である暴君に話をすることになったきっかけは、もともとシャフリヤール王の后が奴隷と浮気をしていたからだった。王の后となったのに、浮氣なんかしなければいいのにとその時は単純に思ったけれど、いまならその后たちに少し同情することができる。

 ここのように美しい、それとも、もっと煌びやかな王宮に閉じ込められた后は、ハーレムを戯れに巡回する夫君がいつやって来るのかも知らない日々を過ごしていたのではないだろうか。ちょうどナナにとってのベルナールと同じだ。そして、王は自分は自由に複数の女性を楽しみつつ、后が他の男に抱かれているのを見たら憤り、その首をはねた。そして、女性不信から生娘と結婚しては翌日に殺すということを繰り返したのだ。

 ナナは、絶えず聞こえている水音と、棕櫚の枝を揺らす風を感じながら、ひたすら働くアリーの手元を見ていた。アリーとの間に、后と奴隷との間に起こったような展開はない。おそらくアリーはナナに対して女性としての興味は持っていないだろう。ナナにしても、この感情をどう捉えるべきなのか、はっきりとした定義はできない。

 わかっていることは、今のナナにとって、訪れに心躍るのはもうベルナールではなくなっているという事実だ。

 アリーが仕事の合間の休息をとるとき、ナナは淹れたての甘いミントティーを持っていく。銀のティーポットから金彩の施された小さなガラスの器に熱いお茶を注ぐ。このポットの取っ手は素手で持つのは難しい。最初の時に、鍋つかみを持ってきてあたふたしていたら、アリーは笑って代わりに注いでくれた。それ以来、お茶を注ぐのはアリーだ。

 そういえば、正しいモロッコ風ミントティーの淹れ方を教えてくれたのもアリーだった。初めて持っていった午後、一口飲んでから黒目がちの瞳をナナに向けた。
「これ、どうやって淹れた?」

 ナナはポットを指さして答えた。
「お茶っ葉とミントを入れて、熱湯を注いだの」

 アリーは、彼女をキッチンに連れて行った。そして、正しい手順を見せてくれた。

 まずポットに茶葉を入れる。1人用ポットなら小さじ2杯。もう少し大きいポットは3杯だ。そこにやかんの熱湯をグラス1杯分だけ注ぎ、すぐにグラスに戻す。かなり濃いお茶だ。
「これはお茶のスピリットだから、あとでまた使う」

そして、浸る程度の熱湯を再びポットに入れるけれど、そのお茶は捨ててしまう。これを2度行う。
「これで苦みを取るんだ」

 そして、そこに大量のミント、小さじ大盛り3杯の砂糖、そして、とっておいた「お茶のスピリット」を入れてからお湯を注ぎ、それを中火にかける。そうやってお茶とミントをしっかりと煮出す。

 出来上がったお茶の底に砂糖が固まっているように思われたので、スプーンでかき混ぜようとしたら再び笑われた。
「こうするんだよ」

 彼は、そのままグラスにお茶を注いだ。少しずつポットを持ち上げ、最終的にはかなり高いところからお茶を注いでいる。そして、グラスに入ったお茶を再びポットに戻す。これを何度も繰り返すことで中の砂糖は均一に混じるらしい。

 それ以来、ナナは正しいモロッコ式ミントティーアツァイ・マグリビ を作るようになった。最初は抵抗があって砂糖を少なめにしていたけれど、アリーと一緒に飲むために彼に習った量を入れるようにしてみたら、苦みとのバランスがよくその強烈な甘さにも慣れてしまった。高いところからお茶を注ぐのでミントの香りが辺りに広がる。

 添えたデーツをかじりながら、しばらくさまざまなことを話して過ごす。
「日本でもお茶を飲むんだろう?」
「ええ。でも、お砂糖は入れないのよ」
「へえ」
「それに、いいお茶は、60℃ぐらいの温度で淹れて、苦みを出さないようにするの」

 同じ植物を使っていても、ミントティーと玉露は、まったく違う飲み物だ。ナナにとって障子と畳のある部屋で居住まいを正して飲む玉露は、もうとても遠い飲み物になってしまった。色鮮やかなゼリージュと中庭の棕櫚や椰子の木、噴水の水音と木漏れ日の中で飲むミントティーこそが、いまのナナの現実そのものだ。

 ティーグラスを持つアリーの茶色い手を見ながら、ナナはこの午後が永久に続けばいいのにと願う。共にいたい相手がベルナールでないことに思い至り、心の中で自分を嗤う。

 ベルナールにとって『千夜一夜物語』の具現であるリアド。経年で崩れていた細部を修復する魔法をかけに来るアリー。甘言と欺瞞の満ちた華やかな籠の中で王への忠誠を失った后の物語。人の心もまた小さなパーツで織りなされるモザイクだ。

 金彩の輝くグラスには今日もまた、なんと名付ければいいのかわからない強烈な甘さと苦さが満ちている。

(初出:2023年5月 書き下ろし)

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せっかくなのでゼリージュの作り方を紹介した動画を貼り付けておきますね。


FROM CLAY TO MOSAICS
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Posted by 八少女 夕

【小説】漆喰が乾かぬうちに

今日の小説は『12か月の建築』3月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、スイス・エンガディン地方の典型的な壁面装飾スグラフィットです。本文でも説明がありますが、もっと詳しく知りたい方は追記をご覧ください。

あまり説明臭くなるので書きませんでしたが、スイスの若者は進路がだいたい16歳前後で別れます。大学進学を目指す限られた子供たちをのぞき、義務教育を終えた子供たちは職業訓練を始めます。週に数日働いて少なめのお給料をもらうと同時に、週の残りの日は学校に行くというスタイルを数年続けると、職業訓練終了の証書がもらえて一人前の働き手として就職できるというしくみになっています。


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漆喰が乾かぬうちに

 ウルスラは、誰と帰路についたのだろう。テオは砂と石灰をかき混ぜながら考えた。3月も終わりに近づいたとはいえ、高地エンガディンの屋外は肌寒い。

 だが、作業をするには適した日だ。数日にわたり晴れていなければならない。けれど、夏のように日差しが強すぎれば、漆喰は早く乾きすぎる。スグラフィットの外壁は、現在では高価な贅沢であり、失敗は許されない。職人見習いであるテオに、「今日は休みたい」と、申し出ることなど許されるはずはない。

 昨夜は、村の若者たちが集まって過ごした。それは、テオにとっては、楽しかった子供時代のフィナーレのようなものだった。

 3月1日には、伝統的な祭『チャランダマルツ』がある。かつての新年であった3月1日に、子供たちが首から提げたカウベルを鳴らしながら、冬の悪魔を追い払いつつ村を練り歩く。

 現在では成人とは18歳と法律で決まっているけれど、かつては堅信式を境に子供時代が終わり、長ズボンをはいて大人の仲間入りをした。その伝統は、今でも残っていて、例えば飲酒や運転免許の取得などは法律上の成人を待つけれど、祭の参加での「大人」と「子供」の境は、堅信式を行う16歳前後に置かれている。

 それは皆が一緒に通った村の学校を卒業して、それぞれの職業訓練を始める時期とも一致している。

 去年の8月からスグラフィット塗装者としての職業訓練を始めたテオにとって、今年の『チャランダマルツ』は、最年長者、すなわち「参加する子供たち」として最後の年だった。

 テオと同い年の8人が子供たちの代表として、村役場と打ち合わせを重ね、馬車を手配し、行列のルートを下見し、打ち上げ会場の準備もした。祭の最中は、小さい子供たちの面倒を見るのも上級生の役割だ。行列に遅れていないか、カウベルのベルトを上手くはめられない子供はいないか、合唱のときにきちんと並ベているか、確認して手伝ってやる。

 祭が終わった後は、小学校の講堂を使ってダンスパーティーもした。テオは、音響係として、楽しいダンスで子供たちが楽しむのを見届けた。

 昨夜は、8人の代表たちが集まって、打ち上げをした。それぞれが、はじめて夜遅くまで外出することを許され、14歳から許可されているビールで乾杯した。ハンスやチャッチェンは金曜日だからとベロベロになるまで飲んでいたが、テオは2杯ほどしか飲まなかった。今日、朝から働かなくてはならなかったからだ。

 それで、11時には1人で家に帰った。本当はウルスラを送って行きたかった。

 音響係だった3月1日のパーティーでは、ダンスに誘いたくてもできなかったから、せめて昨夜の打ち上げでは近くに座って、今より親密になりたいと思った。けれど、それも上手くいかなかった。酔っ払ったハンスとチャッチェンが大声でがなり立てるので、静かに話をすることなど不可能だったのだ。

 ウルスラのことが氣になりだしたのは、去年の春だった。それまでは、ただの幼なじみで、子供の頃からいつも同じクラスにいた1人の少女に過ぎなかった。

 テオは、1つ上の学年にいたゾエにずっと夢中だった。ゾエは華やかな少女で、タレントのクラウディア・シフによく似ていて、化粧やファッションも近かった。卒業後は村を離れて州都に行ってしまった。モデルとしてカレンダーで水着姿を披露するんだと噂が広がり、小さな村では大騒ぎになった。

 テオは、スグラフィット塗装者としての職業訓練を始めるか、それとも他のもっと一般的な手工業を修行するために、州都に行くか迷っていた。ゾエが村を離れるとわかったときに、心の天秤は大きく州都に傾いた。

 スグラフィットは16世紀ルネサンス期のイタリアで、そして後にドイツなどでも流行した壁の装飾技法で、2層の対照的な色の漆喰を塗り重ね、表面の方の層が完全に乾く前に掻き落として絵柄を浮き出す。スイスではグラウビュンデン州のエンガディン地方を中心に17世紀の半ば頃よりこの技法による壁面装飾を施した家が作られるようになった。

 アルプス山脈の狭い谷の奥、今でこそ世界中の富豪たちがこぞって別荘をもつようになった地域も、かつてはヨーロッパの中でも富の集中が起こりにくい、比較的貧しい地域だった。

 ヨーロッパの多くの都市部で建てられた石材を豪華に彫り込んだ装飾などは、この地域ではあまり見られない。それでも、素っ氣ない単色の壁ではなく、立体的に見える飾りを施したのだ。

 角に凹凸のある意思を配置したかのように見える装飾、幾何学紋様と植物を組み合わせた窓枠、または立派な紋章や神話的世界を表現した絵巻風の飾りなど、それぞれが工夫を凝らした美しい家が建てられた。

 モチーフは違っても、2層の色が共通しているので村全体のバランスが取れていて美しい。ペンキによる壁画と違い、スグラフィットで描かれた壁面装飾は、200年、時には300年も劣化することなく持つ。

 だが、この装飾はフレスコ画と同じで、現場で職人が作業することによってしか生まれない。工場での大量生産はできないし、天候や氣温にも左右される、職人たちの経験と勘が物を言う世界だ。どの業界でも同じだが手工業の世界は常に後継者問題に悩まされている。

 テオは、子供の頃から見慣れていたこの美しい技法の継承者としてこの谷で生きるか、それとも若者らしい自由を満喫できる他の仕事を探すかで揺れていた。最終的には、親方やスグラフィットの未来を案じる村の大人たちが半ば説得するような形で、彼の決意を固めさせた。州都に行ったゾエがよくない仲間と交際して学校をやめたらしいという噂もテオの心境に変化をもたらした。

 スグラフィット塗装者としての職業訓練が決まった後、同級生の間では少しずつ親密さに変化が出てきた。テオはずっと村に残る。ハンスやチャッチェンは、サンモリッツで職業訓練を受けることが決まり、アンナは州立高校に進学する。

 同級生の中で、一番目立たない地味な存在だったウルスラは、村のホテルで職業訓練をすることが決まり、週に2日の学校の日はテオと一緒に隣の村に行く。ほとんど話をすることもなかったのだが、それをきっかけに『チャランダマルツ』の準備でもよく話をするようになった。口数は少ないけれど、頼んだことは必ずしてくれるし、どんなに面倒なことを頼んでも文句を言うことがなかった。

 3月1日の『チャランダマルツ』が終わってから、1か月近くテオは奇妙な感覚を感じていた。忙しくて煩わしかったはずの『チャランダマルツ』の準備が終わり、同級生たちと会うことがなくなった。仕事と学校だけの日々。時に親方に叱られながらも、漆喰の準備や工房で引っ掻く技法の訓練をしていた。

 学校に行く日は、なんとなくウルスラの姿を探した。でも、先々週、彼女は風邪をひいて学校を休んだし、その後は学校が1週間の休暇になった。その間に、彼は落胆している自分を見つけて、驚いた。

 だから、打ち上げで彼女に会うのが楽しみだった。ウルスラは、元氣になってそこにいたけれど、アンナやバルバラと話をしていて、またはテオがほかの人に話しかけられていてほとんど話ができなかった。

 明日が早いからと、彼だけ帰るときに、ウルスラが何かを言いたそうにしていたのをテオは見たように思った。もしかしたら自分の思い過ごしかもしれないけれど……。テオは、少し落ち込んでいた。

「おい、テオ。聞いているのか」
親方が、呼んでいた。

「えっ。すみません」
テオは、親方が見ている手元を自分も見た。

「お前、配分間違えていないか。いくら何でも色が濃すぎるぞ」
確かにそれはほとんど真っ黒だった。
「すみません」

「昨夜は遅くまで飲んでいたのか」
親方は訊いた。小さい村のことだ。同級生が打ち上げをする話は、簡単に大人たちに伝わってしまう。

「いえ。11時には帰りました」
でも、このざまだ。テオはうなだれた。

「まあ、まだ塗っていないんだから、取り返しはつくさ。だがな。こういうときのやり直しには、長年の勘が必要なんだ。まだお前には無理だな。どけ」
そう言って、親方は石灰の粉を持ってテオが作っていた塗装混合物の色調整を始めた。

 石灰と砂、そして樽で保存されている秘伝の石灰クリームが適切な割合で混ざり、完璧な硬さの下地が用意されていく。

「さあ、行くぞ」
親方は、大きいバケツを持って村の中心へと向かった。泉のある広場の近くに今日の現場はある。壁面全部ではなくて、門構えの修復だ。

 不要な部分に漆喰がかからないように、プラスチックのフォイルとマスキングテープで保護をしていく。それから、バケツに入っている濃い灰色の漆喰を丁寧に塗っていく。

 午前中は瞬く間に過ぎた。幸い、漆喰は時間内にきれいに塗られた。午後の太陽が、かなり濃い灰色をゆっくりと乾かしていくだろう。今日と明日は雨が降らないだろうから、理想の色合いになるはずだ。

「さあ、少し遅くなったが飯の時間だ。帰っていいぞ」
バケツや塗装道具を工房に運び込んだところで、親方が言った。親方の自宅は工房の上で、女将さんが用意したスープの香りが漂っている。

「あ。今日は、うちには誰もいないんで……」
テオはパン屋でサンドイッチでも買うつもりで来た。

「なんだ。この時間にはもうサンドイッチは残っていないかもしれないぞ。うちで食っていくか?」
「いえ。だったらそこら辺で何かを食べます」

 テオは、頭を下げて工房から出た。もう1度村の中心部に戻ると、意を決してホテルのレストランに入っていった。

「あら。テオ!」
声に振り向くと、そうだったらいいなと想像していたとおり、ウルスラがいた。

「やあ。君も今日、出勤だったんだね」
彼が訊くと、ウルスラは頷いた。

「土日休みの仕事じゃないし……。でも、幸い今日は遅番だったの。テオは昼休み?」
ウルスラは不思議そうに訊いた。ランチタイムにテオがここに来たのは初めてだったから。

「うん。今日は、母さんが家にいないから、パン屋でサンドイッチを買うつもりだったんだけど、ちょっと遅くなっちゃったんだ。……スープかなんか、あるかな?」

 スープなら、さほど高くないだろう。そう思ってテオはテーブルに座った。ウルスラは、メニューを持ってきた。
「今日のスープは、春ネギのクリームスープよ。あと、お昼ごはん代わりなら、グラウビュンデン風大麦スープかしら?」

 テオは頷いて、メニューをウルスラに返した。
「腹持ちがいいからね。じゃあ、大麦スープを頼むよ。あと、ビールは……仕事中だからダメだな」

「じゃあ、リヴェラ?」
そう訊くウルスラに、彼は嬉しそうに頷いた。乳清から作られたノンアルコールドリンク、リヴェラはスイスではポピュラーだけれど、同級生の多くはコカコーラを好んだ。でも、テオがコーラではなくてリヴェラをいつも頼むことを彼女は憶えていたのだ。

 柔らかい春の陽光が差し込む窓辺に立つ彼女の栗色の髪の毛は艶やかに光っていた。民族衣装風のユニフォームも控えめなウルスラにはよく似合う。彼女は、リヴェラと、それからスープにつけるには少し多めのパンを運んできてくれた。

「昨夜は、遅かったのかい?」
テオが訊いた。

「12時ぐらいだったわ。みんなは、もう1軒行くって言ったけれど、私は帰ったの」
ウルスラは笑った。

「誰かに送ってもらった?」
すこしドキドキしながら訊くと、彼女は首を振った。
「まさか。男の子たち、あの調子で飲み続けて、自分面倒も見られなさそうだったわよ」

「そうか。じゃあ、僕がもう少し残って、送ってあげればよかったな」
そういうと、ウルスラは笑った。
「こんなに近いし、こんな田舎の村に危険があるわけないでしょう。……でも、そうね、次があったら送ってもらうわ。テオは、ひどく酔っ払ったりしないから安心だもの」

 ウルスラは、他の客たちの給仕があり、長居をせずに去って行った。それでもテオは幸福になって、大麦スープが運ばれてくるのを待った。

 テオは、先ほど塗ったばかりの塗装のことを考えた。下地の灰色が乾いたら、上から真っ白の漆喰を塗り重ねる。その漆喰が完全に乾く前に、金属で引っ掻くことで灰色の紋様が浮かび上がる。そうして出来上がるスグラフィットは、地味だけれども何世紀もの風雨に耐える美しい装飾になる。

 チューリヒや、ベルリンやミラノ、パリにあるような面白いことは何も起こらない村の日々は、退屈かもしれない。でも、スイスの他の州では見られない特別な風景と伝統を過去から受け継いで未来に受け渡す役目は、そうした大都会ではできないだろう。

 ウルスラが、スープを運んできた。素朴な田舎料理の湯氣が柔らかく彼女の周りを漂っている。村に残って、ここで生きていくことを選んだのは大正解みたいだ。

 テオは、今日塗った漆喰が乾く前に、彼女をデートに誘おうと決意した。

(初出:2023年3月 書き下ろし)

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スグラフィットについては、かつてこういう記事を執筆しました。

それからチャランダマルツについても記事を書いています。
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ウサギの郵便

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第10弾、ラストの作品です。大海彩洋さんは、大河ドラマの第二世代である「ピアニスト慎一」シリーズの作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『【ピアニスト慎一シリーズ】光ある方へ 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じの通りです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一のお話を別の人物の視点から語ってくださいました。私も大好きなラフマニノフのピアノ協奏曲第3番をメインモチーフに書いてくださった重厚な作品です。

お返しどうしようか悩んだのですけれど、今回は彩洋さんの作品とも、ラフマニノフはもちろんのことクラシック音楽とも関係のない作品にしてみました。いや、ラフマニノフの2番をメインモチーフに作品書いた、めちゃくちゃチャラいピアニストとか出している場合じゃないだろうと思ったんですよ。

かすっているのは「亡くなった人からの手紙」だけです。あまりにも遠いので、どこが彩洋さんの作品へのお返しなのかとお思いでしょうが、個人的に、私の今の心情的に、これがお返しです。


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ウサギの郵便
——Special thanks to Oomi Sayo-san


 家具が全てなくなり、がらんとした窓の向こうに、まだ眠っている庭が見えた。施設の中で割り振られたこの部屋は、偶然にも外に小さな薔薇園とハーブ園があって、生涯にわたって庭仕事を愛してきた母親の最後の住処としてはこれ以上望めない僥倖だと喜んだのが昨日のことのようだ。

 彼女は、この部屋に2年半住んだ。たった1週間前には、カリンはここをこんな風に片付けるとは思いもしなかった。このように空っぽの部屋を見るのは2度目で、その時は、誰か親族が一定の期間住んだ痕跡を消し去る作業をしたことを想うことはなかった。思ったよりも早く施設に空き室が出たことを単純に喜んだだけだ。

 父親が亡くなってから10年以上住んだ4部屋もあるフラットでの1人暮らしが難しくなり、2年ほど訪問看護の世話になった後、母親は自らの意思で老人施設に入ることを決めた。トイレとシャワーのついた部屋は、キッチンや冷蔵庫・洗濯機などはないものの、備え付きのベッドとテーブルや椅子・ウォークインクロゼットの他に、小さな家具や装飾品などを運び込むことが許されていて、それぞれが小さいながらも自分のプライベートな生活を楽しむことができた。

 とはいえ、それまでの暮らしで持っていたたくさんの家具や衣装、寝具、家電などの多くを処分することになった。カリンと、遠くで暮らす姉や弟が受け継いだものもあるが、亡くなった父の遺品を始め多くの品物をその時点で処分することになった。

 カリンが受け取ったのは、高価な食器や花瓶などの日用品が大半で、カリン自身が子供の頃に使っていたものなどの大半は処分してもらった。

「これは? 持っていきたいんじゃないの?」
カリンは、その記憶をたどる。その時に母親が見せてきたのは大きいウサギのぬいぐるみだった。郵便屋の制服を着てバッグを斜めがけにしているもので、子供のときの一番のお氣に入りだった。

「やだ。こんなの、まだとってあったの?」
「だって、あなたがとても大切にしていたんだもの。捨てられないわ」
「それは子供の頃だもの。心置きなく捨てちゃっていいわよ。それとも、私がセカンドハンドショップに持っていく?」

 そういうと、母親は残念そうに眺めていたがこう言った。
「喜ぶかもしれない女の子を知っているから、要るか訊いてみるわ」

 カリンは、それを覚えていたらいいけど、という言葉を飲み込んだ。足腰だけでなく、記憶力が衰え始めたために1人暮らしが困難になって施設に入ることになったのだが、それを指摘するのは残酷すぎる。それに、カリン自身の忙しい生活の中で、徒歩で10分以内の距離とはいえ常に観察し続けることは不可能だったので、ようやく施設に行くことを決意してくれてホッとしていたことへの後ろめたさもあった。

 ほぼ毎日のように様子を見にいっていた1人暮らしの頃と比較して、施設に入ってからはずっと楽になった。それでも、毎週、必ず訪問しているのは自分だけで、年に2回ほどしか訪問しない姉と弟についてズルいという想いを持つときもあったし、記憶を失って同じ言葉を繰り返す母親に苛つきぎみに返答してしまうことに落ち込むこともあった。

 たった1週間ほど前まで、それは終わりの見えない日常だった。それが突然に亡くなり、そんな風に解放されることは望んでいなかったと枕を涙で濡らす日々だ。

 思い出すのは、ここ数週間に交わした会話のあれこれだ。

「もうじき春が来るといいわ」
彼女は、訪れる度に同じことを口にした。そう言ったことを、20分後には憶えていなかった。

 昔は春が近づくと「もうじきカリンちゃんのお誕生日ね」と言っていた母親。成人してからはカリン自体が4月に楽しみにするのは復活祭の連休であって自分の誕生日には興味を示さなくなった。それでも、毎年祝っていてくれた母親が、物忘れがひどくなってからはそれも言わなくなった。

 彼女が春を待つ理由はなんだろう。私の誕生日は憶えていないし、でも復活祭は待っているのかしら。

「もうじき春が来るといいわ」
何度もそう告げる母親に、カリンはうんざりしたように答えた。
「そもそも冬なんか来なかったようなものじゃない」

 今年の冬はとても暖かかったので、1月にはヘーゼルナッツの花が咲いてしまったし、ダフネの花もクリスマスの頃からずっとダラダラと咲いていた。

 それでも母親は、窓の外を見ながら言った。
「でも、まだ外で散歩するには早いもの。春になったら……」

 カリンは、それで申しわけのない心持ちになって少し柔らかい言葉を使わなくてはと思った。

 母親がかつてのように外を出歩けないのは、寒い冬のせいではなくて、歩くのがおぼつかなくなっていたからだ。足がむくみ、それを改善するためにと、施設のケアマネージャーの指示で足には強めに圧力バンドが巻き付けられ、それの痛みと暑さで、彼女は以前にも増して室内で座って過ごすようになっていた。

 本を読み、編み物をする。施設の中で与えられた部屋の空間は十分すぎるほどに広いし、彼女はまったく不満を漏らさないけれど、だからといって彼女が幸せの絶頂にいると勝手に判断するべきではなかった。

 カリンはそれらの、たった2週間ほど前に心の中にあった逡巡を思い出して涙を流した。母親を大切に思う氣持ちと、苛立ちとを何度も行き来していたあの日々に、母親はその場に、この世界にカリンと共にいたのだ。

 今は、こんなに春めいている午後に、それをひたすら待っていた母親のいない部屋に立っている。

 家具を自宅の屋根裏へ運び、残っていた衣類や小さな電化製品などをセカンドハンドショップに引き取ってもらい、ほぼ何もなくなった部屋は、掃除をしてゴミと残りの小さな私物を運び出して、ケアマネジャーと確認するだけになっている。

 庭に通じるガラス戸を開けると、まだ眠っている庭の脇に、母親が鳥用に吊していたボール状の餌が見えた。そして、その横に小さなプラスチックの卵がつるしてあった。イースターエッグを吊すにはまだ早かったのにね。カリンは、また少し涙ぐんだ。イースターを待っていたんだね。

 ノックが聞こえたので、カリンは目許を拭って振り向いた。そこには、ケアスタッフのユニフォームを着た女性が立っていた。

「リエン……」
カリンは、その女性を知っていた。かつて母親の住んでいたフラットの隣人だったベトナム人だ。

「心からお悔やみ申し上げます。一昨日ベトナムから帰ってきて、昨日出勤したらマルグリットが亡くなったって聞いて、私ショックで」
リエンは、涙ぐんでいた。

「どうもありがとう。あなた、ここで働いていたのね。知らなかったわ」
カリンが言うと、リエンは頷いた。
「マイが学校に入ったので、去年の秋から働き始めたんです」

 カリンは頷いた。それから、不思議そうにリエンが手に抱えている袋からのぞいているものを見た。リエンは、頷いて中からウサギのぬいぐるみを取りだした。

「これ、マルグリットが、ここに入るときにマイにくれたぬいぐるみなんですけれど……」
「ええ。これ、昔は私のものだったの。母は、あのとき誰かにあげたいと言っていたけれど、マイのことだったのね」

「そうだったんですね。その、それで……」
リエンは袋からウサギのぬいぐるみを出すと、ウサギがしている郵便鞄のボタンを外して中を見せた。

「あ……」
そこには小さな封筒が入っていた。リエンは、それを取りだしてカリンに渡した。

「ごめんなさい。これに氣がついたのは、2か月前なんです。でも、ウサギをもらってから2年も経っているし、次に出勤するときにマルグリットに返せばいいかと思って、そのままベトナムに帰省しました。でも、昨日訃報を聞いて……。これはマイに宛てた手紙じゃないので、お返しした方がいいと思いました」

 カリンは震える手で封筒を開けて、手紙を読んだ。

カリンちゃん、7歳のお誕生日おめでとう。
あなたの健やかな成長と幸せを祈って、このウサギを贈ります。
ウサギのように元氣よく飛び回ってください。
好奇心いっぱいに世界を嗅ぎまわってください。
たくさん食べて、ぐっすり眠ってください。
そして、悲しいことや辛いことがあっても、次の朝にはすっかり消えてしまいますように。

パパとママより


 カリンは、リエンの前だということも忘れて泣いた。母親は、ぬいぐるみの鞄にこの手紙を入れたままにしていることを忘れて、ウサギをマイにあげたのだろう。

 カリン自身はこの手紙の存在は全く憶えていなかった。子供の頃は意味がよくわからなかっただろうし、わかっていたとしても今ほどの重みは感じなかっただろう。

 リエンは、号泣するカリンの背中をしばらく撫でていたが、やがて言った。
「このカードだけじゃなくて、もしかしたらこのウサギも、今のあなたに必要なんじゃないかと思って、持ってきました」

「だって、マイが悲しむんじゃないかしら?」
「いいえ。マイはほかにもたくさんぬいぐるみを持っていますから、大丈夫です」

 カリンは、礼を言ってウサギを受け取った。リエンが去った後、しばらく部屋の中で座っていた。

 自分の子供が成人するような年齢になって、大きなぬいぐるみを抱えることになるとは思わなかったけれど、今はたしかにこの温もりが必要だった。

 ぬいぐるみに顔を埋めると、長いこと忘れていた今はない実家の絨毯に転がったときと同じ香りがした。まだ子供で、自分も両親もこの世からいなくなるようなことが、まったく脳裏になかった幸福な時代。
 
 大切な人がいなくなり、何もなくなったがらんどうの部屋に、ウサギの郵便屋が遅くなった郵便を届けに来た。

 想いも絆も消えていない。ただ、遠く離れただけだ。これから幾度の春を、あなたなしで迎えることになるのだろう。その度に、私はこの手紙を読んではウサギを抱きしめるのだろう。

 カリンは、葬儀の日にうたった賛美歌を口ずさみながら、部屋の中に夕陽が入ってくるのを眺めていた。

また会あう日まで、
また会あう日まで、
神の守り
汝が身を離れざれ。

「賛美歌 405 かみとともにいまして」より



(初出:2023年3月 書き下ろし)

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Gott mit euch, bis wir uns wiedersehn
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Posted by 八少女 夕

【小説】藤林家の事情

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第9弾です。

山西 左紀さんは、もう1つ掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!


山西左紀さんの書いてくださった「ドットビズ  隣の天使」

今年2本目の作品は、「隣の天使」シリーズの1つです。といっても過去の作品とは直接関係がないようです。賭け事が大好きで世間的に見ると若干問題があるような行動の兄ちゃんと、世間の評価なんて全く意に介さない自分軸のはっきりした女の子の風変わりな関係が面白い作品でした。

この作品に直接絡む要素はなさそうでしたので、今回は単純に「周りが見ている関係は、本人たちにはどうでもいい」をテーマにちょっとあり得ない世界を書いてみました。


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藤林家の事情
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 暖かくなると、女たちも噂話の度に凍えなくて済む。今日のようにポカポカしているとなおさらだ。
「見てみて。山田さんのところの……」
「あ。本当だ、いい目の保養になるわねぇ」

 彼女たちが眺めているのは、半年ほど前に7階に越してきた若い男性だ。こざっぱりとした身なりで、すらりと背が高く、非常に整った顔立ちをしている。

「俳優なんですって」
「ああ、そういう感じね~。テレビには出ていなさそうだけど……」
「まあ、テレビでよく見るくらい売れていたら、ああいう方とは住まないわよね」

 意地の悪いクスクス笑い。それが半分やっかみだとわかっていても、彼女たちは山田淑子へ辛辣な評価をしてしまうのだった。彼らが引っ越してきた当初、同じマンションの住人たちの多くは2人が親子、まはた祖母と孫なのだと勘違いしていた。

 それを確認する、婉曲表現を交えた挨拶に、淑子はにこやかに答えたのだ。
「いいえ。ヒロキは私のパートナーですのよ」

 噂は瞬く間にマンション中に広まった。7階はもっとも広く日当たりのいい部屋のある階で、値段も高い。そこを建設中に2軒購入し、壁を取り去って大きな1軒にした人がいた。投資目的で買ったのか、しばらくは誰も入居しなかった。そこに入居してきたのが、そんな曰く付きカップルだったので、なおさら噂話の格好の餌食となったのだ。

 買い物の袋を持っているのは、常に「売れない俳優」ヒロキだ。淑子だけで外出する姿はあまり目撃されない。たいていヒロキが一歩下がって付き添っている。

 淑子の服装は、同年代の女性を考えると派手めだというのが、近所の女たちの評価だ。趣味が悪いというわけではない。だが、例えば紫だと薄紫などよりもはっきりとした京紫を使うし、柄も小花柄などは好まず、市松やウロコ柄、麻の葉といった幾何学紋様をアレンジしたものが多い。

「いやぁね、自分を客観視できないって。それに、あんなに若くて素敵な男性がお金目当て以外の理由で自分を選ぶとでも思っているのかしら」
「ほんっとよね。さっきも外でね、あの人、ちょっと派手めのお姉さんに因縁つけて追い返していたわよ」
「ああ、あれ、イケメンくんが連絡先きかれていたからよ。そりゃあ、真っ青になって追い払うでしょうね。おかしいわぁ」

* * *


「坊。何度申し上げたらわかるんですか。今年の減点はすでに6点ですよ。平均点がこのざまだと、来年も本家には戻れませんが、それでいいんですか」
部屋に戻ると、淑子は詰問をはじめた。

「ごめんよ、篠山。先週現れたばかりだし、またくノ一で接触してくるとは思わず油断しちゃったんだよ」

 この青年、山田ヒロキとは、世を欺く仮の名で、本名は藤林光之助という。忍法藤林家の跡取りであり、当主弦一郎の長男である。

 藤林家のしきたりとして、跡取りは都で一定期間の修行をしてはじめて認められることとなっている。修行期間中には、見聞を広め、当主にふさわしい知見を得ると同時に、仮想敵からの接触に正しく対処し、『三十三の宝』といわれる仮の宝物を1つでも多く守り抜くことが期待されている。

 つまり、やがて当主となる人物の修行と、全国の一族郎党に跡取りが当主としてふさわしい才覚の持ち主であることを明らかにするためのシステムである。『三十三の宝』を1つ1つ自力で取得した後に、それを修行期間中守り抜く事が要求される。

 一方、全国の一族郎党にとっては、修行中の跡取りが手にした『三十三の宝』を奪取することで、個人としての才能が認められ本家での要職につく絶好の機会であり、腕に覚えのある忍びが次々に跡取りの周囲に集まってくる。

 顔だけはいいものの、かなりぼんくら若様である光之助は、物理的攻撃だけでなく、すでに数回のハニートラップに引っかかっており、修行を始めて2年のうちに『三十三の宝』の9品を失っていた。

 また、年間の平均減点が10点を下回ることがなく、このままでは跡取りとして本家に戻れる可能性が限りなくゼロに近いと思われたので、急遽今年からお付きが変更となり、分家の篠山がサポートにつくことになったのだ。

 篠山を引っ張り出したということは、すなわち実権を握る前当主俊之丞が孫息子に対して絶望的な見解を持っていることを意味している。

 俊之丞は、忍び界では藤林家きっての名当主として知られていた。

 40年ほど前の跡取り修行期間は最低限の2年のみ、失点はたったの2点だった。歴代当主の総合失点がおおむね10点前後であることを鑑みると、それだけでも有能なことは証明されているが、『三十三の宝』も奪われたのはたったの1品だった。

 そして、奪ったのは他ならぬ篠山だった。

 藤林で篠山に何かを命じることできるのは、前当主俊之丞とその妻の壱子だけだと言われている。『鬼の篠山』と言われた亡き夫ですら、彼女の納得しない事を強制することは不可能だった。現当主である光之助の父親、弦一郎も篠山に連絡をするときは書状のみ、失礼だというので電話をかけることはしない。

「明日は、合羽橋に行きます。手順は、おわかりですね」
篠山は、光之助が冷蔵庫にしまおうとした薄切り肉のパックを目にも留まらぬ速さで奪った。ぼうっと顔を見てくる若者をじろりと睨むと、卵を取りだし、調理台の方に移動した。

「ええっと、なんか小刀を受け取るんだったっけ?」
光之助は、父親弦一郎から送られてきた指示の巻物を広げながら、ところで合羽橋ってどこだっけなどと情けないことを考えていた。

「韮山の雪割れ花入れ、です。なんのことだかおわかりですよね」
まず、炒り卵、それから甘辛く味をつけた薄切り肉にさっと火を入れて、絹さや、甘酢生姜とともに丼にしたものを食卓に運ぶ。

 ぼーっと座っている光之助は、首を傾げた。
「花入れってことは、陶器かな?」

 篠山が、さっと何かを投げた。頬杖をついている光之助の右手1センチのところで風を切って曲がると、それは回転して箸置きの上にきちんとおさまった。竹の箸だ。

「怖っ。怪我したらどうすんだよ」
「これっぽっちを避けられずに当主になれるとお思いですか。それに何度言ったらわかるんですか。ボーッと座っていないで、食膳を用意なさい」

 光之助は、とりあえず頭を下げた。
「すみません」

 子供の頃から甘やかされた彼は、いまだに怠惰な行動を取ってしまうが、これまでのお付きと違い篠山に楯突くと後でどれほどキツく指導されるかこの半年で十分に学習していた。

 手早く用意されたお吸い物も食卓に運び、自分も座ると篠山は冷たく光之助の無知を指摘した。
「韮山の雪割れといったら竹に決まっているんですよ。明日、行っていただくのは竹製品の専門店です」

「そんなもんまで『三十三の宝』に入っているんだ。竹の花入れなんてゴミみたいなもんじゃん」
「ゴミ……。千利休の愛用品ですが」
「えっ?」

「とにかく今回の品は小さくて奪いやすいので、十分に注意してください。受け取りに時間をかけすぎないこと。また、前回みたいに必要以上にキョロキョロしないことをおすすめします」

 光之助は、前回の失敗を反省しているようには見えなかった。篠山はため息をつきながら青年を見た。惚れ惚れするような美しい所作で吸い物の椀を手にしている。忍びとしては入門したての7歳児よりも使えない男だが、役者としての資質は十分すぎるほどにある。本人をよく知らなければ、「ものすごくできる男」「信じられないほどの切れ者」と勘違いさせるだけの立ち居振る舞いはできるのだ。

 これまでのお付きや身の回りの世話をしてきた者たちが、教育に失敗してきたのは、ひとえにこの青年の外見と中身のギャップに慣れることができず、結局は甘やかすことになったからだった。

 残念ながら、藤林家の当主たるものは、台本を覚えて堂々と振る舞えればいいというものではないので、俊之丞は篠山に頭を下げることになった。

 表向きは、跡取り修行中の光之助の世話をする老女という体裁を取っているが、実際には外で行動するときの警護ならびに任務のサポートに加えて、屋内では忍びとしての再訓練も行っていた。

* * *


 合羽橋は浅草と上野の中間に位置する問屋街の通称であり、さまざまな調理器具、食器、食品サンプルなど料理に関するものはなんでも購入できると評判で観光客にも人氣がある。専門店の数は170を超えると言われる。中には江戸時代からの老舗もあり、さらにその中の一部は藤林の系列一族が経営していた。

 竹製品専門店「林田竹製品総合店」の店主である林田もまた藤林の出身である。隣の食料サンプル店のポップな店構えに押されて、小さな竹製品専門店があることすら氣づかれないことが多いが、高齢の店主と地味な従業員ならびにパートの女性だけで回すのは難しそうなほど、店は奥に深く大量の商品を扱っている。

 光之助は指示書の通り、クレーマーを装って店主の林田と直接話すことになっていた。だが、パートの女性がやたらとにこやかに対応するので、うまく店主を呼び出すところまでたどりつかない。

 しかたなく篠山は店の影から吹き矢を使い、竹製の楊枝を光之助の尻めがけて拭いた。
「いででっ!」

 篠山の睨みに氣がついた光之助は、しかたなく再びクレーマーらしく振る舞い始めた。
「なんだよ。こんなところに楊枝が刺さったぞ。怪我するじゃないか。店主を呼んでこい」

 パートに呼ばれて奥から出てきた林田は、光之助の様子を見て、いかにも実直な老店主のように振る舞っていたが、そばに立っている篠山を見てぎょっとした。跡取り光之助が韮山の雪割れ花入れを受け取りに来ることは知っていたが、だれが付き人となっているかを知らなかったのだ。林田は、篠山の顔を知っている数少ない忍びの1人で、当然ながらすべての失態が当主に伝わることも即座に予測できた。

 急に用心深く奥に案内すると、従業員とパートにわざわざ用事を言いつけて奥に来られないようにした。篠山は、林田と光之助の入った部屋と、店の中間位置に立ち、花入れの受け渡しに邪魔が入らないように見張った。

「今後、氣をつけてくれよ!」
クレーマーの負け惜しみのような捨て台詞を言って光之助が出てきた。林田は光之助ではなく、篠山の顔を見ながらヘコヘコとお辞儀をして見送った。

 店を出る直前に、例のパート女性がにこやかに近づいてきた。
「またどうぞお越しくださいませぇ」

 その手が不自然に光之助の鞄に近づくのを察知して、篠山は再び吹き矢で楊枝を飛ばした。
「うっ」

 光之助は、もうここに奪取者が待っていたことに驚愕したようだが、篠山に目で促され、しかたなく店の外に出た。

 マンションに戻るまで、サラリーマン風の忍び2人と、女子大生を装ったくノ一を撃退せねばならなかった。光之助のあまりの警戒心のなさに呆れつつ、篠山はその夜再びこんこんと説教した。あいかわらず反省した様子は見られない。

「篠山って、若い頃からお祖父ちゃんと仲良かったの?」
光之助は前々からの疑問をぶつけた。

「俊ちゃんとは、入門以来ずっと一緒に訓練してきましたよ」
「へえ。その頃から、お祖父ちゃんは無双だったの? あれ、それとも篠山の亡くなった旦那さんの方が強かったんだっけ?」

 それを聞くと、篠山はふんっと鼻で嗤った。
「一番強かったのは、俊ちゃんでも、篠山でもありませんでしたよ。私が2番、2人はその下でした、常に」

「ええっ。そんな話、初めて聞いたよ。で、誰がもっとも強かったの?」
光之助は、身を乗りだした。

「壱ちゃんですよ」
あたりまえでしょうと言わんばかりに篠山は答えた。

「お祖母ちゃん?! まさか。だって、あの人、箸より重いものは持てないみたいな風情じゃないか」
光之助は腰を抜かさんばかりに驚いた。

「壱ちゃんは、どうしても俊ちゃんと結婚したかったので、俊ちゃんの好みに合わせた振る舞いをしているだけで、本当はわが一族で一番強いんですよ。俊ちゃんも、壱ちゃんが化けていることは重々承知で、当主として一族をまとめるのに壱ちゃんの協力がどうしても必要だったから騙されたフリをしていたんだと思いますよ」

 光之助は、少し口を尖らせていった。
「なーんだ。じゃあ、僕だってこんなに苦労して修行しなくても、できるお嫁さんをもらって、何とかしてもらう方がよくない?」

 篠山は、頭を抱えた。
「いいですか。くノ一は裏方にされることに慣れています。それは男の忍びも同じで、表だった成功は必ずしも求めません。でも、その分仕える相手に対してはシビアなんですよ。顔だけよくてもあなたみたいな無能に、壱ちゃんクラスのくノ一が惚れ込むわけないでしょう」

 光之助は、わずかに目を宙に泳がせた。周りにいくらでもいるくノ一たちは、そういえば誰も彼に惚れてくれなかった。近づいてくるのはハニートラップばかり。ま、でも、もしかしたら全国のどこかには、そういう物好きもいるかも知れないよなあ。

 坊は明らかにわかっていないようだと目の端で捉えた篠山は、今後を思って深いため息をついた。

(初出:2023年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】モンマルトルに帰りて

scriviamo!


今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第8弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった 『ソリチュード ~La Route semée d’étoiles~』 

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、古事記と日本書紀に見える衣通姫伝説を下敷きにした古代ミステリー『挿頭の花 -衣通姫伝説外伝- 』。もともとの記紀にある人物がみなさんアレなので、もちろんものすごい展開なのですが、そのシチュエーションの中で胸キュンの純愛を織り込むという離れ業に感心しながらドキドキ読ませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。

さて、『花心一会』ワールドの若い(むしろ若すぎる)家元誕生の成り行きが明かされた今回のお話、ストーリーからいったら当然のことながら華道に対する知識がとても大切なポイントになっているのですよ。お返しを書き始めて困ったのがこれでした。私、全然わかっていない……。

なのにあえて火中の栗を拾いにいってしまいました。以前ヒロインの方のお家元がたった1人のために生ける『花心一会』をなさる様子を勝手に書かせていただいたことがあるのですが、今回はお母様にも無理やりです。ああ、玉砕しそうな予感。でも、レネがメインだから、逃げ切れるかな……。うう、ごめんなさい。


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【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物

大道芸人たち・外伝




大道芸人たち・外伝
モンマルトルに帰りて
——Special thanks to TOM−F-san


「やっぱり迷惑なんじゃないかなあ……」
「いや、連絡したときにはそんな感じじゃなかったって」

 ここに来るまでに、3回は繰り返した問答を、レネと稔はもう1度した。稔は、つい1週間ほど前に訪れたアトリエの呼び鈴を鳴らした。

 中から現れた水無瀬愛里紗みなせありさは、涼しやかな微笑みで2人を中に招き入れた。

 今日の装いは落ち着いた紫の絞り小紋に、蒲公英の柄が微笑ましい濃い緑の名古屋帯。この色の組み合わせは早蕨襲、春を感じさせる。そうか。もう3月になったんだっけ。

「お忙しいのに、無理なお願いを聞き遂げてくださり感謝します。彼が、電話で話したレネ・ロウレンヴィルです」
「マダム・ミナセ、はじめまして。どうぞよろしく」
「どうぞよろしく。そんなに恐縮しないでくださいね」

 そこは、パリの真ん中にあるというのに、東京以上に日本を感じさせる空間だ。

 日本ブームがヨーロッパに広がってから、各地でそれらしい和室を目にしてきたが、畳が正方形だったり、障子の桟が白く塗られた合板だったりと、どこか「なんちゃって」感を否めない和室が多かった。そうした和室は、スーパーで売られる「SUSHI」と同じ香りがした。サーモンとアボカド、またはやけに鮮やかなトビコの安っぽさを眺める度に、「日本はそこまで近くはない」と感じ、かつ自分の方が日本を知っているのだとつまらない自負心を満足させるのだ。

 だが、このアトリエには、稔が逆立ちしても叶わない日本文化の真髄が感じられた。

 小上がりの座敷には、きちんとした炉が切られている。窓はわざわざ円窓にしてある。

 この部屋を維持するのがいかに大変か、稔はよく知っている。日本にいれば電話一本で畳屋が来てくれるし、障子が破けてもホームセンターに行けば簡単に新しい障子紙を購入できる。梅や桃、桜や椿などもさほど苦労せずに入手できるだろう。極上の茶や主菓子も同様だ。

 だが、ヨーロッパで、これだけの完璧な日本を維持するのは、並大抵のことではない。もちろんパリは大都会なので、日本人のネットワークを使えばそれは可能だろう。でも、この人は、日本人会などで同国人と固まっているタイプには見えない。まあ、俺には関係ないけれど……。

 煎茶とともに小ぶりの大福餅が出てきた。和菓子の大好きなレネの顔が喜びに輝いたのを見て、稔は「本題を忘れるなよ」の意味を込めて肘で小さくつついた。

「それで、私に作ってほしいというのは?」
本題は、彼女の方から切り出してくれた。

「先日、ここにお伺いした日に、水無瀬さんのことを特別な人のための特別な花を生けるプロだって説明したんです。そしたら、彼が花をお願いできないかって……。ただ、俺はうまく訳せなくて英語でフラワーアレンジメントって言ってしまったので、生け花との違いも説明していただけると助かります」
そう言って稔は、レネに顔で続きを促した。

「ある女性のためにブーケかアレンジメントを作っていただけませんか」
レネが頼んだとき、愛里紗の顔にはなんとも微妙な表情が浮かんだ。おそらくそれは、この異国で先入観と無知に彼女の華道がフラワーアレンジメントと混同されたときの一瞬の抵抗なのかもしれないと、稔は思った。

 愛里紗は、けれど、レネの頼みを簡単に断るようなことはしなかった。
「大切な女性への花なのかしら?」

「はい」
稔は「ふうん」という顔をした。ヤスミンはここに来ていないとはいえ、義理堅く一途なブラン・ベックがわざわざ特別な花をねぇ。

「承るかどうかを決める前に、どんな目的なのかを訊いても差し支えないかしら?」
愛里紗は、英語で話し続けている。レネとだったらフランス語で会話した方が早いだろうに、稔が同席しているのでそうしているのだろう。

「もちろんです。僕はここにいるヤスたちと出会って大道芸人として暮らし出す前は、ここパリで暮らしていました。その時に出会った女性です」
レネはゆっくりと語り出した。

 レネにとって、パリの日々にはつらい記憶が多い。手品師の専門学校を終えて希望を持って花の都に上がってきたものの、ショーの花型になるどころかまともな稼ぎを得ることすら難しかった。

 モンマルトル界隈のナイトクラブを転々として、はじめはホールスタッフと変わらぬ扱いを受けた。ようやく前座としてマジックショーを披露できるようになるまでは数年かかり、その間にもいろいろな人に利用されたり出し抜かれたりしながら、いつかは手品だけで食べていける日を夢見て暮らしていた。

 恋もした。もともとはホールスタッフとして勤めだしたジョセフィーヌが、レネのアシスタントとして一緒にショーに出演することになってからは、彼女に夢中になった。

 ええっ。その女かよ。稔は話を聞きながらぎょっとした。そいつ、ライバルに寝取られた同棲相手だろ?

「お花を贈りたいのは、その方?」
愛里紗が、口をはさむと、レネは首を振った。

「違います。彼女に、僕は夢中だったけれど、ジョセフィーヌはこの街で僕の味方になってくれた人ではなかった。それはエマだけだったと、今になって思うんです」

「エマ?」
稔は思わず訊いた。一度も聞いたことのない名前だったから。

 レネは、頷いて彼のパリでの物語を続けた。

 ムーラン・ルージュをはさんで、レネの勤めるナイトクラブとちょうど反対ぐらいの距離に小さい煙草屋があった。そこには店の染みのような小さな老婆がいて、いつもなにかに対して文句を言っていた。

「この頃の政治家ってのはなってないね。きれいな顔をして偽善的なことを口にすればまた当選するとでも思っているのかね」
「あんたの横柄な態度になぜこのあたしが我慢しなくちゃいけないのさ。嫌なら2度とこの店に足を踏み入れなければ良いだろ」
「あんたは母国がサッカーに負けたからって、周り中に当たり散らす権利なんかないんだよ」
「禁煙がトレンドだって? ひとの商売の衰退をわざわざ告げに来るとはいいご身分だね」

 それがエマだった。

 レネは煙草の類いは何も嗜まないので、この店に入るときはチョコレートを買うときだけだった。他の店にはない故郷プロヴァンスの小さな工場で作っている銘柄がこの店にはあったのだ。

 レネにとって忘れられない思い出がある。

 それは、パリを去った夏のことだ。ナイトクラブからクビを言い渡されたレネは、とぼとぼと帰り道を歩きながら、故郷の懐かしいチョコレートで心を慰めようとエマの煙草屋に入った。

 レネは、思わず涙をこぼした。今日の午後、買い物から帰ってアパルトマンのドアを開けたら、なぜか同じナイトクラブで働くラウールが、ジョセフィーヌとベッドの上にいた。それだけでもショックなのに、出勤した途端にオーナーから彼のマジックショーは、今後ラウールとジョセフィーヌがやるのでお前はもう来なくてもいいと宣告されてしまったのだ。

 自分の要領がよくないことはわかっていた。ラウールが優れた容姿で客たちから人氣があることもわかっていた。でも、真面目に精一杯生きてきたのに、こんな風に何もかも取りあげられたのかと思うと、やるせなくて涙が止まらない。

 エマは「商売の邪魔になるから泣くな」などとはいわなかった。レネが落ち着くまで待って、話を聞いてくれた。今になって思えば、この街で、レネが自分の弱さや悲しみを吐露できたのは、これが初めてだった。

「あの雌狐なら、そのくらいのことをしても不思議じゃないと思うね。だから何度もいっただろ。あの娘には温かい血が流れていないって。あんたがこのチョコを勧めたとき、小馬鹿にしてそっちの大量生産のチョコをわざわざ買ったことがあったよね。人の思い出を踏みにじるようなヤツは、どんなに見かけがよくても中身は爬虫類と一緒だ」

 レネは、それを聞いてよけい強く泣いた。ジョセフィーヌが、彼の故郷のあらゆる物を馬鹿にしていたことを思いだした。見下されていたのは彼の生まれ故郷ではなくて、彼自身でもあったのだと思うと情けなくて逃げたしたかった。

「仕事も恋人もなくなって、僕はどうしたらいいんだろう」
また1からこの街で手品をやらせてくれる場を探すかと思うと、レネは心から途方に暮れた。

 エマは冷徹にも思える調子で言い放った。
「そもそもこの街はあんたみたいな弱くて純なヤツには向いていないんだよ。ここを離れるのが一番だ」

 レネは言葉を失った。ようやくパリに慣れてきたと思ったのに。少し間を置くと、おずおずと言った。
「でも、どこにいったら……?」

 エマは、少し温かく思える調子に変えてゆっくりと言った。
「南へお行き。あんたの故郷のプロヴァンスでも、もっと南の地中海でも、どこでもいい。ただし、ニースみたいなスノッブでおかしな人間の集まるところに行っちゃダメだ。広くて、大地に足をつけて人びとが助け合いながら生きている土地に行くんだ。最初にいったところにはいなくても、どこかには必ずいる。それを探すんだね。あんたの正直で優しい心持ちを大切にしてくれる輩がね。それを見つけたら、それがあんたのいるべき土地さ」

 稔は、思わずレネの顔を見た。レネは、稔の目を見返して、はにかみながら笑った。

「その通りになったのね」
愛里紗が問う。

「はい。僕は、コルシカでこのヤスに会いました。それから、他の生涯の友達にも」

 エマの直接的でお節介なアドバイスが、あの時レネをコルシカ島に向かわせた。悲しみに押し潰れることなく、新しい人生を探すための必要な背中のひと押しをしてくれたのは、店の染みのような小さな老婆だった。

「わかったわ。その方へ捧げるお花、ぜひ私に作らせてちょうだい」
愛里紗が微笑んだ。

「ありがとうございます、マダム」
レネが前のめりで礼を言う。

「でも、1つだけ確認したいの。西洋で作るいわゆるフラワーアレンジメントは、全方向から見られることを意識して作るものだけれど、日本の生け花というのは、たった一つの方向から見ることを想定してデザインするものなの。その方がどのように受け取るかのシチュエーションは決まっていたら教えてほしいわ」
愛里紗が訊くと、レネははっとして、1度下を見てからふたたび愛里紗の目を見据えた。

「正面は……どういえばいいのか。墓石の上に載せるので……。彼女はモンマルトル墓地に眠っているそうですから」
その言葉に、稔と愛里紗が同時に息を飲んだ。

* * *


「エマ・マリー・プレボワ ここに眠る」
小さな墓石は、必死で探さないと見過ごしてしまいそうだった。エドガー・ドガ、モーリス・ユトリロ、エミール・ゾラ、アレクサンドル・デュマといった錚々たる有名人の墓は大きく立派だが、そのモンマルトル墓地には、地域の一般人も埋葬される。

 まだ、春といっても早いので、陽光は弱く柔らかい。周りの木々には膨らんだ芽はあるが若葉が現れるにはまだしばらくかかるだろう。

「お。来た来た」
稔が手を振ると、かなり向こうから蝶子とヴィルがこちらに向かってくる。

「ごめん。私たちが先につくぐらいだと思ったのに」
「探していた墓は、見つかったのか? ランパルだっけ?」
「ええ。せっかくここに来るんなら、お詣りしたくてね」

 フルートの名手であったジャン・ピエール・ランパルも、モンマルトル墓地に眠っている。そういえば、ブラン・ベックはハイネの墓の場所を探していたから、後でそこに行くんだろうな、と思った。

「それが、例の日本人に作ってもらった花か」
ヴィルが珍しく明らかに感銘を受けたとわかる顔つきで訊いたので、稔はそうだろうなと思った。

 レネは頷いた。手にしているのは半球型に盛られた、花かごだった。といっても花器として使われている籠は苔山で覆われほとんど見えない工夫がしてあり、まるで何もないところに偶然にも木や草花が育ったかのように見える。

 1度左に向かってから弓なりに右に向かう盆栽のような枝振りの木はミモザだ。黄色い花が力強く明るく咲いている。そして、根元に絶妙なバランスでいけられたのは、フランス人のこよなく愛する『田舎風シャンペトルブーケ』でよく使われるカヤ、ユーカリ、コバングサなどだ。それらとともに、薄紫と若緑の野の花を思わせる花々が絶妙なバランスで配置されている。

 レネがその籠を墓石の上に置くと、まるで彼女の墓から草花が遅い春を待てずに萌えだしたかに見えた。

「すごいわね。ここまでフランスっぽい素材だけを使っているのに、これはフラワーアレンジメントじゃなくって華道だってわかるように作れるものなのね……」
蝶子が感心してつぶやいた。

 亡き人を悼む草花は弱い風にそよいでいる。

 レネは、眼鏡を取ると涙を拭った。エマの声が蘇ってくる。
「くよくよするんじゃないよ。あんたが悪いんじゃない。今のめぐり合わせとの相性が悪いだけさ。あんたにふさわしい居場所はきっとあるからね」

(初出:2023年3月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】仙女の弟子と八宝茶

scriviamo!


今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第7弾です。津路 志士朗さんは、オリジナル掌編で参加してくださいました。ありがとうございます!

志士朗さんが書いてくださった「女神の登場はアールグレイの香りと共に。」

志士朗さんは、オリジナル小説と庭とご家族との微笑ましい日々を綴られる創作系ブロガーさんです。代表作の『エミオ神社の子獅子さん』がつい先日完結したばかりです。派生した郵便屋さんのシリーズで何度かあそばせていただいていますよね。

今回書いてくださった作品は、スーパーダーリンならぬスーパーハニーをテーマにしたハードボイルド。とても楽しい作品で一氣に読んでしまいました。

お返しですが、あちらの作品には絡めそうもないので、全く別の作品を書いてみました。テーマは志士朗さんの作品同様スーパーハニーです。ただし、中国のお話、お茶ももちろん中国のもの。下敷きにした怪談は「聊斎志異」からとってあります。


「scriviamo! 2023」について
「scriviamo! 2023」の作品を全部読む
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【参考】
今回の作品とは直接関係はないのですが、今回登場した紅榴を含む空飛ぶ仙人たちの登場する話はこちらです。
秋深邂逅
水上名月




仙女の弟子と八宝茶
——Special thanks to Shishiro-san


 朱洪然は福健のある村に住む若者で、童試の準備をしているが、後ろ盾もなく、また際だった頭脳もないため受かる見込みはない。妻の陳昭花は家事、畑仕事に加えて、近所の道士の手伝いまでして朱を支えていた。

 いつものように朱が昼から酒などを飲みながら、桃の花を眺めて唸っていた。
「桃の灼灼たる其の華……」

 陳氏は部屋をきれいに拭きながらその声を耳にしたので、通り過ぎるときに訂正した。
「桃の夭夭たる 灼灼たり其の華 之の子于き帰ぐ 其の室家に宜し」

 それを聞くと、朱は顔を真っ赤にして怒り、盃を投げ捨てると「こんな邪魔の入るところで勉強はできない」と叫び、出て行ってしまった。妻の陳氏の方が優秀だという近所の噂に苛ついていたからである。

 田舎ゆえ、近所に知られずに昼から酒などを嗜める店はない。やむを得ず、どこかで茶でも飲もうと道をずんずんと進んだ。

 しばらく行くと村のはずれにこれまで見かけなかった茶屋があった。新しい幟がはためいているが、誰も入っていないようだ。朱は中を覗いた。

「おいでなさいませ」
出てきたのは、皺だらけの老婆で、あけすけなニヤニヤ笑いをしている。

「ここは茶屋か。何か飲ませろ」
横柄に朱が命じると、婆はもみ手をしてから茶を持ってきた。

 それは、水の出入りのない沼のようなドロドロの黒緑色をしており、生臭い。朱は、茶碗を投げ捨てると、つばを吐きかけて地団駄を踏んだ。
「こんなひどい茶が飲めるか。なんのつもりだ!」

 婆が、茶碗を拾ってブツブツ言っていると、奥から衣擦れがして女が出てきた。立ち去りかけていた朱は、思わず立ち止まってそちらを見た。

 それは沈魚落雁または閉月羞花とはかくやと思われる美女だった。烏の濡れ羽のような漆黒の髪を長くたなびかせ、すらりとした優雅な柳腰をくねらせて茶を運んできた。

「このお茶をお飲みになりませんか。とても喉が渇いているんでしょう? あたくしが、手ずから飲ませてさし上げましてよ」

 婆の持ってきた茶とほとんど変わらないものだったにもかかわらず、朱は女に飲ませてもらえるのが嬉しくて、座って頷いた。

「この茶は水莽草すいぼうそうのお茶なんです。お勉強に明け暮れている貴方なら、何のお茶かわかりますわよね」
女は嬉しそうに笑うと、なんのことかわからないでいる朱の口にまずくて苦い茶を流し込んだ。

 女は、代金も取らずに朱を送り出した。ぼうっとしたまま家に戻った朱は、玄関でそのまま倒れてしまった。

老公あなた、いかがなさいましたか」
妻の陳氏が、あわてて出てきた。

「なんだかわからんが、水莽茶とやらを飲んでから、具合が悪い」
そういうと、そのまま息を引き取ってしまった。

 陳氏は、朱と違い水莽草が何を意味するのか知っていたので驚いた。

 この毒草を食べて死ぬと水莽鬼という幽霊になってしまい、他の水莽鬼が現れないと成仏できない。それで、水莽鬼は生きている人に水莽草を食べさせようと手を尽くすのである。

 陳氏は、急ぎ夫の亡骸を寝かせると、鬼にならないように御札を貼り、急ぎ馴染みの道士の元に急いだ。

「どうした、小昭花」
慌てて入ってきた陳氏を見て、道士は訊いた。

 かなり赤みの強い髪をしたこの人物は、数年前からこの庵に住み修行をしていることになっている。身の回りの世話に通う陳昭花の他には付き合いもないので知られていないが、実は単なる道士ではなく天仙女である。

「紅榴師、どうぞお助けくださいませ。夫が水莽鬼にされてしまいます」

 紅榴は、片眉を上げた。
「村はずれの水莽鬼に化かされたのか。お前のような立派な妻がいるのに、全くなっていないな、あの者は。もう、見限ってもよいのではないか」

「そうおっしゃいますが、それでもわが夫でございます。なんとかお助けいただけないでしょうか」
昭花は床に額をこすりつけて願った。

「しかたない。あの男を助けてやりたいとはみじんも思わぬが、お前が氣の毒ゆえ助けてやろう」

 そう告げると紅榴は陳昭花に墨書きの札をいくつか授けた。深く抱拳揖礼をしてから札を受け取った昭花は、そのまま夫の元に戻ろうと戸口を出ようとした。

「待ちなさい。これも持っていくとよい。あちらが茶で人を取り込むのならば、こちらも茶で対抗せねばな」
紅榴は、笑うと最新の愛弟子に包みを授けた。

* * *


 陳昭花が家に戻ると、そこは瘴氣で満ちていた。見ると家の中には夫の亡骸だけではなく、老婆と若い女の幽鬼がいる。殺した男を水莽鬼に変えようと長い爪で朱の亡骸の上を引っ掻いていた。

 見れば、昭花が貼った鬼除け札はほとんど剥がされている。紫の顔をした夫も、胸をかきむしり御札を剥がそうとしていた。

「悪鬼ども。わが夫より離れよ」
昭花は剣を構え、鬼女たちに斬りかかる。

「こざかしい女め。人間の分際で我らに敵うと思うのか」
老女は、白髪を逆立て、血走った目に蛇のような舌をちらつかせて長い爪で昭花の喉を切り裂こうと飛びかかってきた。

 昭花は、紅榴元君の元で何年も修行しただけあり、軽々とそれを避けて後ろに飛び上がった。

 師が授けた封印の札を投げつけると、それは若い鬼女の口を塞ぎ、瘴氣が漏れてこなくなった。瘴氣は鬼女自身にも仇をなす毒を持つらしく、若い鬼女の動きが止まった。

 昭花は、老女にも御札を投げつけたが、こちらは長い爪でビリビリに裂いてしまった。老婆は高らかに笑うと、昭花に向かって飛びかかってきた。

「ぎぇ!」
瞬時に振り下ろされた昭花の剣が鬼婆の長い爪を切り取った。それこそがこの幽鬼の瘴氣の源であったので、瞬く間に老婆は干からびて、干し魚に変化して床に落ちた、

「おのれ、母上に何をする!」
ようやく御札を取り去って自由になった若い美女だった鬼が、姿を変えた。漆黒の髪は束になって持ち上がり、それぞれが毒蛇に変わった。口は耳まで広がり、獣のような牙がいくつも剥き出しになった。

 見るも恐ろしい鬼女だったが、昭花は臆さずに剣を構え、襲いかかってくる毒蛇を一匹ずつ切り落としていった。

 最後の蛇が落ちると、鬼女も断末魔のうめきをあげながら足下に倒れ、そのまま薄氣味悪い染みを残して消え去った。

 昭花が夫を見ると、紫色の顔をした水莽鬼として蘇った朱は、ガタガタと震えながら妻を見ていた。

老公あなた、これでもこの女の方がよろしゅうございますか」
昭花が訊くと、朱は首を横に何度も振った。

「美しい女だと思ったのに、あんなバケモノはごめんだ。助けてくれ。そんな物騒なもので、俺を斬らないでくれ」

「さようでございますか。では、私の淹れるお茶を飲んでくださいますか」
昭花は、水莽鬼としての瘴氣すら醸し出せぬ夫に詰め寄った。

「先ほどの茶みたいな、まずいものは飲みたくない」
朱はうそぶいた。

 夫の言い分には全く耳を貸さず、昭花は紅榴にもらった包みを開けて中の茶をとりだした。湯の中に入れると、それは白い菊のような花、龍眼、クコの実のほか、貴重な薬草を惜しげなく使った八宝茶だった。

 昭花に助けられて、その茶を飲んだ朱は、激しい咳をした。そして、水莽草の塊が口から飛び出してきた。蛇のように蠢くそれを、昭花は剣ですかさず斬った。

 しばらくすると、朱の顔色は普通の肌色に戻ってきて、そのまま彼は失神してしまった。直に大きないびきをかきだしたので、昭花には夫が人として息を吹き返したことがわかった。

 悪鬼どもの屍体や水莽草の残骸を片付け、部屋を浄めていると、どこからともなく紅榴が入って来た。

 大いびきをかいて寝ている朱を呆れたように眺めると、ため息をついていった。
「小昭花。そろそろこの男に愛想を尽かしてもいいのではないか。妾は間もなく泰山に戻る心づもりだ。そなたが望むなら連れて行くぞ。向こうで心ゆくまで修行して化仙するとよい」

 昭花は、師の言葉を噛みしめていたが、やがて言った。
「たいへん心惹かれるお言葉ですが、今しばらく夫に従うつもりでございます。また次にこのようなことがございましたら、その時は私も人としての契に縁がなかったと諦め、修行に励みたいと存じます」

 紅榴は頷いた。
「ならばしかたない。では、次にこの男が問題を起こしたら、潔く捨てて妾のもとに来るのだぞ。お前には見どころがあるからな」

 そのことがあってから数ヶ月は、朱が柄にもなく試験の準備に心を入れたと噂になった。だが、その後、酒に酔って村長の妻に言い寄ったためにひどく打ち据えられてから牢に入れられた。

 朱が半年後に牢から出てきたときには、家に妻の陳氏はいなかった。きれいに浄められた家には女が住んでいた痕跡は残っていなかった。朱の物を持ちだした様子はなく、金目のものも一切なくなっていなかった。

 卓の上には、いま淹れたばかりのような熱い八宝茶があった。陳氏の行方を知るものはいない。

(初出:2023年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】黒い貴婦人

今日の小説は『12か月の建築』2月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマ建築は、カンボジアのコー・ケー遺跡です。同じクメール王朝による遺跡群ではアンコール・ワットやアンコール・トムの方が有名なのですが、もう少し見捨てられた感の強いマイナーな遺跡を探してここにたどり着きました。もちろんフィクションです。お間違いのなきよう。(そんなの当然って?)

なお、後半に登場したアメリカ人傭兵は『ヴァルキュリアの恋人たち』シリーズで『ブロンクスの類人猿』よばわりされている人ですが、まあ、誰でもよかったので出しただけで意味はありません。それにこの話もまたしてもオチなしです。すみません。


短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む 短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む




黒い貴婦人

 香木の燻された煙が、湿った空氣に溶け込んでいく。ひどい頭痛のように感じられるのは、実際には痛みではなく、途絶えずに鳴り響く蝉の声だ。リュック・バルニエ博士は、ことさら神妙な顔をして老女を見つめた。

 スレイチャハと呼ばれるこの醜い女は、シヴァ寺院の神官のような役割をしている。他の村民たちの絶対的な信頼を受け、この女が頭を縦に振らなければ、リュックの計画している保護計画を進めることは不可能だ。

 村の長老と占い師の中間のような立場なのだろうが、中世フランスであれば、真っ先に薪の上に載せられて火をつけられたであろうと、リュックは表情に出さないように努めながら考えた。

 ヒンドゥー教に改宗するつもりはまったくないが、それでも村民たちとともに煙をくゆらす細い香木を捧げ、リュックは恭しくスレイチャハに寺院の内部に散乱する神像の破片を持ち出すことの許可を願い出た。

 コー・ケー遺跡は、カンボジアの一大観光地シェムリアップの北東120キロメートルに位置する遺跡群だ。80平方キロメートル以上の保護域の中に180を超える聖域が発見されている。そのうち、観光客が立ち入ることを許可されているのは20ほど、残りは深い熱帯雨林に埋もれ実態もいまだつまびらかになっていない。森には地雷の危険もあり調査は遅々として進まない。

 10世紀の終わりにたった16年ほどクメール王朝の都とされたこの地は、当時はチョック・ガルヤ、またはリンガプーラと呼ばれていた。リンガは男性器を意味する石柱でシヴァ神の象徴だ。コー・ケーはアンコール遺跡群と違い、仏教と習合していない純粋なヒンドゥー教寺院だ。アンコール王朝7代目の王ジャヤーヴァルマン4世が出身地に遷都し、息子のハルシャーヴァルマン2世と共にこの地にヒンドゥー教を中心とする王都を作った。

 アンコール王朝は、遺跡に見られる穏やかな微笑みとは相容れぬ王位簒奪と混乱の繰り返しで成り立っていた。簒奪者は実力で王位を手にすると、前国王の王妃や王女と結婚することでその正当性を主張したが、その度に己の実力を誇示し威光を確実なものとするために壮大な寺院を中心とした華麗な王都を建設した。

 コー・ケー遺跡もまた、かつてはヒンドゥー教世界の乳海を模した巨大な貯水池バライ「ラハール」周りに世界の中心である須弥山を模した巨大なピラミッドを持つプラサット・トム寺院をはじめとして、数多くの壮大な寺院を配置し、「ラハール」の水を使った灌漑農業で栄えていたという。

 だが、再び遷都されて王権が届かなくなった後は、次第に廃れて忘れられていった。盗掘や、自然の驚異による破壊だけでなく、15世紀以降にシャム王朝に併合されてからの破壊、また、西欧諸国の植民地時代の美術品の無計画な持ち出しによって、遺跡はかつての詳細な状態がわからないまでに荒廃した。

 彼らの祖先が大切に守ってきた寺院は仏教を信じる異国出身の王に破壊され、大切な神像もハイエナのような西洋人たちに持ち出され、狂信的なクメール・ルージュに打ち壊された。そして、荒廃した寺院の中を熱帯の植物たちが根や枝を蛇のようにくねらせて打ち砕いていく。

 コー・ケー遺跡に限らず、カンボジアのクメール王朝による遺跡には謎が多い。これほど壮大で精巧な遺跡を短期間で作るには高度な技術者と多くの建設に関わった人間がいるはずだ。一説によると当時は35万人もの人びとが現在のアンコール遺跡群のあったあたりに住んでいたはずだという。

 だが、そうした高度な文明の担い手たちは、どこへいってしまったのだろう。

 ここコー・ケー遺跡でも、神々を拝む人びとは、神殿を覆い尽くす熱帯雨林の浸蝕から彼らの神像や神殿を守ることができない。つい最近まで内戦があり、文化遺産の保護どころか治安維持すらままならぬ状態だったカンボジアでは、政府とともに保護活動を進めているのは「アンコール世界遺産国際管理運営委員会」を中心とした国際的な支援チームだ。

 リュックは、子供の頃にアンコール・ワットを紹介するテレビ番組でクメール王朝のことを知った。そして、残された仏像や王の肖像の微笑みに魅せられた。なんと謎めいた美しい微笑みだろう。それが今日の専門へと導いたのだ。これらの遺跡を破壊から守り、謎を解き明かしたい。若き学者として、彼は志を持ってこの地に赴任した。

 西欧の先進的な技術とメソッドは、自分の情熱とともに、きっとこの国の文化遺産をあるべき姿に戻すのに役立つ。そう考えて彼は仕事に臨んだ。だが、実際に赴任してみて、彼の尊い仕事がさほど簡単に進まないことや、ものごとがそれほど単純ではないことにも氣づきはじめた。

 クラチャップ寺院やクラハム寺院の修復のためには、一度倒壊した神像を搬出して工房で修復する必要がある。だが、世界遺産保護プロジェクトが国の許可を得て遺跡の一部を移動させることは、住民たちにとっては神を盗み出すことと見做されることもある。

 リュックは、スレイチャハや村民たちがよそ者を信頼していないことを感じていた。遺跡を守りかつての威容を再現するための修復だと説明しても、信頼できない。かつて、彼らの神は「国を支配する者」によって否定され完膚なきまでに破壊された。熱帯雨林には多くの地雷が埋められ、人びとはいまだに恐怖と背中合わせで生きている。

 スレイチャハは、平たく潰したような口調で呪文を唱え、丁寧に細い香木をリンガに備えた。それは根元から折れてしまっており、台座であった部分にもたせかけるように安置してある。

 ニエン・クマウ寺院。その名は『黒い貴婦人』を意味する。塔の表面がおそらくは山火事で焼かれて黒くなっていることに由来するといわれている。だが、もしかしたら山火事ではなくてクメール・ルージュ撲滅の焦土作戦で焰に晒された結果なのかもしれない。

 リュックが、コー・ケー遺跡の調査に初めて参加したとき、前任の調査員は「ここは奇跡的に破壊を免れた」と説明した。だが、本尊であるリンガがこのように無惨な状態になっているのを「破壊を免れた」と表現することには疑問が残る。

 このリンガを修復のために搬送することが最終目的だが、今日のところは散在する神像の破片の搬出に同意してもらい、信頼関係を築きたい。それに同意してもらうのもまた一苦労だ。

 既に政府の主導する学術保護チームがプラサット・ダムレイやその他の遺跡群から瓦礫と区別もつかずにいた女神像やヤマ神像などを搬出し見事に復元したのだが、それらは現在博物館で展示され、倒壊を待つようなコー・ケー遺跡には戻されていない。その意味を理解してくれる住民たちもいるが、少なくともスレイチャハとその信奉者たちは、西洋人たちが政府と結託して彼らの神を盗み出していると感じているようだ。

 ものすごいスピードで育つガジュマルやその他の植物、氣の遠くなるような湿氣、どこにあるかわからない地雷の数々。彼らの祖先の作った文化遺産を守るためには、早急に修復が必要だ。スレイチャハらが忌み嫌う観光客たちは、そのための費用を生み出す金の卵でもあり、修復した神像をクーラーの完備した博物館で展示することにも意味がある。そう伝えても、彼女らは決して納得しない。

「それで、次の修復ですが……」
片言のクメール語を使い、スレイチャハに話しかけようとすると、老女はそんな声などどこにもしなかったかのごとく無視した。そして、後ろの方を見て「トゥバゥン」と言った。

 すると、信奉者である男たちを搔き分けてひとりの女が寺院の中に入ってきた。リュックは息を飲んだ。この辺りの村で、今まで1度も見たことのなかった女だ。若く、漆黒の美しい髪を後ろに長く伸ばしており、金糸の多い紫の上着と黒い長いスカートをはいている。そのスリットからしなやかで長い足が歩く度にリュックの眼を射る。

 観光客に清涼飲料水を売りつけたり、村で農作業に明け暮れている類いの垢抜けない女とは明らかに一線を画している娘だ。娘から目を離せないでいるリュックを見て、スレイチャハは意地悪な微笑みを見せた。

「トゥバゥン。このフランスの学者さんはお疲れのようだ。あちらでもてなしてやっておくれ」
スレイチャハが言うと、娘はひと言も口をきかずにリュックの手を取り、その場から連れ出した。香木の香りがきつく、頭が割れるように痛い。

 寺院から出た途端、蝉の鳴き声が倍ほどの音量で降り注ぐ。蒸し暑さと、日差しの暴力にリュックは目眩を感じた。

 娘は、彼を半ば崩れた寺院の中に誘った。彼女に勧められるままに、崩れた石の1つに腰掛けて目を閉じた。彼女からは、スレイチャハが焚きしめていたのと同じ香木の強い匂いがしている。そして、その吐息が異様なほどに近くにあるのを感じて困惑した。

「その昔、『黒い貴婦人ニエン・クマウ』と呼ばれた王女が、この地に封じ込められたのです」
娘が囁いたのはフランス語だと氣づいたのはしばらくしてからだった。リュックは、それすらもわからぬほどに混乱していた。

「そこで暮らすうちに、この地の出身の高僧ケオの噂を聞き、この世の悲喜についての教えを請うために彼の庵を訪ねました。そして、師に敬意を表するためにごく近くに寄ったので、師の身体のすべてくまなく知ることになりました」

 リュックはぎょっとして女の顔を見た。具合が悪く相づちもまともに打てていなかったので、自分が何かを聞き違えたのかと思ったのだ。

 トゥバゥンの顔は、不自然なほどにリュックの近くにあった。瞳は暗闇の中で漆黒に見える。艶やかな黒髪は、『黒い貴婦人』の容貌がこうではなかったのかと思わせる。

「そう。そして、ケオ師は還俗し、ニエン・クマウ王女と塔の中でいつまでも愛し合ったのです」
そう囁くと、トゥバゥンはリュックの理性をいとも簡単に崩壊させてみせた。

 さして遠くない寺院で村民たちが祈りを捧げていることも、彼が仕事上で大切な交渉の途中であることも、リュックは半分以上忘れ去っていた。頭はまったく働かない。暑さと湿氣にやられたのか、それともまとわり付くような薫りの香木に何か仕掛けがあるのか。

* * *


「おい。バルニエ博士。おいったら」

 氣がつくと、リュックは1人、寺院の瓦礫の上に横たわっていた。懐中電灯の光が眩しくて思わず手のひらで遮った。

「大丈夫か。宿舎で騒ぎになってんだけどよ」
ゆっくりと起き上がりながら、リュックは呻いた。

 声の主がわかった。マイケル・ハーストだ。単なる宿舎の護衛としてだけでなく、地雷除去の経験もあるというので重宝されているアメリカ人傭兵だ。

 辺りはすっかり暗くなっていて、蝉の声はもう聞こえない。代わりにカンタンの鳴き声がやかましい。

 懐中電灯の灯に目が慣れてハーストの表情が見えた。いぶかしがっているようだ。視線を追うと、自分の上半身のボタンはすべて外され、胸が完全に露出している。視線をおろすと下半身はかろうじて露出を免れていた。いったい、どうなったんだ……。

「……。女は……?」
リュックは、辺りを見回した。ハーストは、目を細めて「やれやれ」という表情を見せた。

「ったく、あんたたちフランス人は、あいかわらずお盛んだな。こんなにボロいけどさ、ここは、一応あいつらの寺院なんだぜ。わかってんのか」

「いや、そういうんじゃない」
あわてて否定してみせた。

「はいはい」
ハーストは、リュックの弁解をまったく信じていないようだ。

「熱中症か、それとも、あの香木に酔ったのか。とにかく、午後から記憶がないんだ。……もしかして、大変な騒ぎになっているのか?」
リュックは、立ち上がるとシャツのボタンをはめて身支度をした。

「大変ってほどじゃないけどさ。あんたが、あの婆さんと交渉に行くと息巻いて出て行ってからちっとも帰ってこないから、何かあったんじゃないかって。女を買うなら、宿舎に戻ってから普通に村に行けよ。こんなところで夜に迷って、地雷だらけの密林に迷い込んだらバラバラになるぞ」

 女としけ込んだと断定されてしまい、心外だったがそれ以上反論するつもりにもなれなかった。本当にそういうつもりではなかったのか、自分でも定かではない。

 あの女、トゥバゥンは何者だったのだろう。あれだけのフランス語を話す女なら、本来通訳として皆に知られているはずだ。だが、見たことも聞いたこともなかった。まるで女の話していた『黒い貴婦人ニエン・クマウ』の幽霊が現れたかのようだ。

 リュックは、ふらつきながら寺院から出て宿舎に帰ろうと歩き出した。

「違う。こっちだ」
マイケル・ハーストに首元を掴まれた。

「俺が来なかったら、本当に明日になる前に死体になっていたかもな。何週間いようと、熱帯雨林に慣れたつもりにはなるな」
リュックは、ぞっとして周りを見回した。

 ガジュマルが絡みつき、今にも崩れそうな寺院が目に入った。月明かりの中で、木々は昼よりもずっと邪悪に見えた。根は蠢き、絡みつき、その力で人間の作りだした文明という名の驕りを簡単に壊していく。

 リュックは、スレイチャハとの交渉について考えた。具合が悪かったとはいえ、彼女の神事を途中で放り出して礼を尽くさなかった。また、あの女とのことを騒がれたらプロジェクト全体も止まってしまうかもしれない。いずれにしても、彼の立場は今朝までと較べてかなり危うくなっている。

 神像の微笑が浮かび上がって見えた。それは、子供の頃にテレビで見たときのような穏やかで柔和な表情ではなかった。ガジュマルの根でじわじわと締め付ける密林の笑い声がどこからか響いてくるようだった。

(初出:2023年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -18- レモンハイボール

scriviamo!


今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第6弾です。もぐらさんは、オリジナル作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

もぐらさんが書いて朗読してくださった作品「第663回 大事な壺」

もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。いつもとても長くて本当にご迷惑をおかけしています。

今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品群です。貧乏神のシリーズとはいえ、毎年、とてもハートフルなエンディングでお正月にふさわしい素敵な作品ばかりです。

今年の作品はケチな爺さんと、貧乏神さんのいろいろと考えさせられるお話。お返しは考えましたが、今回は強引に『Bacchus』に持ってきました。もぐらさんが最初にうちに来てくださり、朗読してくださるようになったのが、『Bacchus』でしたよね。

お酒はレモンハイボールですが、今回の話の主役は、大きな壺とサツマイモです。

それと、本当にどうでもいいことですが、今回登場する客のひとりは、この作品で既出です。ちゃっかり常連になっていた模様。


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バッカスからの招待状 -18- レモンハイボール
——Special thanks to Mogura san


 日本橋の得意先との商談が終わったのはかなり遅かった。直帰になったので、雅美は久しぶりに大手町に足を向けた。『Bacchus』には、しばらく行っていなかった。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 バーテンダーでもある店主田中の人柄を慕い、多くの常連が集う居心地のいい店で、雅美も田中だけでなく彼らにも忘れられない頻度で足を運んでいた。

 早い時間なので、まだ混んではない。田中と直接会話を楽しめるカウンター席は常連たちに人氣なので、かなり早く埋まってしまうのだが先客が1人だけだ。

「柴田さん、いらっしゃいませ」
いつものように田中が氣さくに歓迎してくれるのが嬉しい。雅美は、コートを脱いで一番奥のカウンター席に座った。

 反対側、つまりもっとも入り口に近い席には、初老の男が座っている。質は悪くないのだろうが、今ではほとんど見かけなくなった分厚い肩パッドのスーツはあまり身体に合っていない。金色の時計をしているのだが、服装に対して目立ちすぎる。

 雅美にとっては初めて見る顔だ。1度目にしたら忘れないだろう。人間の眉間って、こんなに深く皺を刻めるものなんだ……。雅美は、少し驚いた。

 その男は、口をへの字に結び、不機嫌そうにメニューを見ていた。仕事で時おりこういう表情の顧客がいる。すべてのことが氣に入らない。どんなに丁寧に対応しても必ずクレームになる。2度と来ないでくれていいのにと思うが、どこでも相手にされないのが寂しいのか、結局、散々文句を言ったのにまた連絡してくるのだ。

 少なくとも現在は、自分の顧客ではないことを、雅美は嬉しく思った。田中さんに難癖つけないといいけど。

「どれがいいのかわからないな。洋風のバーにはまず行かないからな」
男は、メニューをめくりつつ、ため息をついた。

「どんなお酒がお好みですか。ビール、ワインなどもございますが」
田中が訊くと、男は不機嫌そうな顔で、でも、とくに怒っているとは感じられない口調で答えた。
「せっかくバーに来たんだし、いつもと同じビールを飲んでもしかたないだろう。カクテルか……。なんだか、わからない名前が多いが……これは聞いたことがある……ハイボール」

 雅美は、ああ、ハイボールってここでは頼んだことなかったかも、そう思った。

「なんだ、ウイスキーの炭酸割りのことなのか。自分でもできそうだが、奇をてらったものを飲んでまずいよりも、味の予想がつくのがいいかもしれないな」

 男は、ブツブツと言葉を飲み込んでいる。雅美は、少し反省しながら見ていた。クレーマータイプだと決めつけていたが、いたって普通の客だ。

 田中は雅美にもおしぼりとメニューを持ってきた。既に彼女の心の8割がたはハイボールに向いている。
「田中さんが作るなら、ハイボールもありきたりじゃないように思うの。お願いしようかしら」

 そういうと、田中は微笑んだ。
「ウイスキーでお作りしますか。銘柄のご希望はございますか?」

「田中さんおすすめのウイスキーがいいわ。ちょっと爽やかな感じにできますか?」
「はい。では、レモンハイボールにしましょうか?」
「ええ。お願いするわ」

 そのやり取りを聞いていた初老の男性は言った。
「僕にも、そのレモンハイボールをお願いできるかな」

「かしこまりました」

「おつまみは何がいいかなあ。あ、さつまいものサラダがある! こういうの好きなのよねぇ。お願いするわ」
「かしこまりました」

 初老の男は「さつまいも……」と言った。

 あれ。眉間の皺がもっと濃くなった。あれ以上眉をしかめられるとは思わなかったわ……。雅美は、心の中でつぶやいた。

 田中も、そちらの方には、声をかけていいか迷っている様子だ。2つのグラス・タンブラーに、大きい氷を入れてから、すぐにはハイボールを作らずに、さつまいものサラダの方を用意し、雅美の前に置いた。

 それから、タンブラーの中で氷を回すように動かした。

「何をしているの?」
雅美が訊くと、田中は笑った。

「タンブラーを冷やしているのです」
「ええ? 氷を入れるのに?」

「アルコールと他のものが混ざるときには希釈熱という熱が発生して、温度が上がるんです。ハイボールの場合、これによって炭酸が抜け、氷もすぐに溶けてぼんやりとした味になってしまいます。それを避けるためにできるだけ温度が上がりにくくするわけです」
「なるほどねぇ」

 氷と溶けた水を1度捨ててから、あらためて氷を入れて、レモンを搾って入れ、ウイスキーを注いだ。田中は再びグラスを揺らし、ウイスキーの温度を下げた。それから、冷えたソーダ水を注ぐと、炭酸が飛ばないようにほんのわずかだけかき混ぜた。

 田中がカクテルを作る姿を見るのは楽しい。1つ1つの手順に意味があり、それが手早く魔法のごとくに実行に移されていく。そして、出来上がった見た目にも美しいドリンクが、照明の真下、自分の前に置かれるときには、いつもドキドキする。
 
 さつまいものサラダは思っていた以上に甘く、しっかりとした味が感じられた。
「美味しい。これ、特別なさつまいもですか?」

「茨城のお客様が、薦めてくださったんです。シルクスイートという甘めの品種です」

 それを聞いて、初老の男は、なんとも言えない顔をした。先ほどまでは怒っていたようだったのが、今度は泣き出しそうだ。

 ハイボールを彼の前に置いた田中は、その様子に氣づいたのか「どうなさいましたか」と訊いた。

 初老の男は、首を振ってから言った。
「いゃ、なんでもない。……シルクスイート……。これもなにかの縁なのかねぇ……。僕にも、そのサラダをくださいませんか」

 それから、田中と雅美の2人に向かっていった。
「なにか因縁めいたことなんでね、お2人に聞いてもらおうかな」

 田中と雅美は思わず顔を見合わせた。男は構わずに話し出した。
「題して『黄金の壺』ってところかな」

「壺……ですか?」
「ああ。だが、ホフマンの小説じゃないよ」
 そう言われても、雅美には何のことだかわからない。

「ホフマンにそんな題名の小説がありましたね」
田中は知っていたらしい。

「おお、知っていたのか。さすが教養があるねぇ。ともかく、そんな話じゃないけれど、まあ、黄金の詰まった壺と、それに魅入られた困った人間の成り行きというところは、まあ、違っていないかもしれないね」

 黄金の壺とさつまいもの関係はわからないけれど、面白そうなので、会話の相づちは田中に任せて、雅美は黙って頷いた。

「今から30年近く前の話なんだけどね。僕は、火事でほとんどの家財を失ってしまったんだ」
「それは大変でしたね」

「ああ。うちは、もともとカツカツだったけれど、田舎の旧家でね。蔵もあったんだよ。その奥に置いた壺に親父の代から、いや、もしかしたら、その前の代からか、当主がコソコソと貯めた金やら、貴金属やらを隠していたんだ」

「壺にですか?」
「ああ。妻には言わずにね。それで、女を買いたいときや、その他の妻には言いにくい金の使い方をするときには、そこから使っていくんだと親父に教わったものさ」

 男もへそくりするんだ。雅美は、心の中でつぶやいた。

「僕は、元来、倹約するタチでね。親父に言われたとおりに、自分もかなりの金品をその壺に隠していたんだが、自分で使ったことは1度もなかったんだよ。なんだかせっかく貯めたのに勿体ないと思ってね」

 ああ、わかった。この人、クレーマー体質なのではなくて、要するにケチなタイプだ。雅美は、納得した。

「そうですか。それならば、かなりたくさん貯まったでしょうね」
「まあね。でも、件の火事があってね」
「それで、すべて失ってしまったと?」

「そうじゃないんだ。すべて燃えてしまったとしたら、むしろよかったかもしれない。でも、火事の後、すっとんで蔵に行き、壺の安全を確かめたのを見られたのかねぇ。火事で母屋のほとんどが焼けてしまっただけでなく、その後しばらくして、その壺が忽然となくなってしまったんだ」

「壺、丸ごとですか?」
思わず雅美が言うと、彼は頷いた。
「壺と言っても、小さな物じゃない。胸のあたりまである巨大な壺だ」

「そんなに大きな壺だったんですか」
田中も驚いたようだ。

 男は頷いた。
「常滑焼っていってね。その手の大型の壺は昔から米や野菜を貯蔵するために使われてきたものなんだよ。冷蔵庫が普及してからは、ほとんど誰も使わなくなって作るところも限られているけどね。今は、無形文化財に指定される職人さん1人だけが作っているっていうなあ」

「その壺を誰かに持って行かれてしまったんですね」
田中が、氣の毒そうに言った。雅美は訊いた。
「トラックかなんかで、運び出したのかしら」

「うん……。どうだろうねぇ。あとで、あまり遠くない空き地で、たくさんの破片が見つかったので、なんとも言えないんだ。……実は、妻がなくなった後に、遺品から盗まれたはずの古い紙幣が見つかってね」

「え?」
雅美は、驚いた。田中もボトルを棚に戻す手を止めて男の顔を見た。

「それで当時の日記などを見たら、それは妻がやったことだと書いてあったんだ。ずっと金がないと、苦労を強いられてきたのに、夫がこんなに隠し持っていたことが許せないと。金がほしくてやったわけではないと書いてあった。実際に少なくとも僕がしまった現代のお札や、以前見たことのある貴金属はすべてそのままだったし、古い紙幣もまったく手をつけていなかったようだ」

 火事で家財をなくし大変だったときに、隠し持った大金をまったく使わずに、夫を責めることもなく、自分のやったことを告白することもなく、ただ、黙っていた妻の複雑な心境を考えて、雅美は手もとのハイボールのグラスを見つめた。

「妻の死後にそれらが出てきて、僕は先祖からの伝統をまた元通りにしようと、常滑焼の壺を買い求めようと思ったんだ」
「常滑って、愛知県ですよね?」
「ああ。だから電話で連絡したら……しばらく時間がかかる。岐阜県の焼き芋屋用に、たくさん注文が入っているからって言うんだ」

「焼き芋?」
「そう。それで、焼き芋屋がなぜあの壺を必要としているのか、見にいってみたんだ」

 岐阜県の大垣市では近年とあるフードプロデューサーの広めた「つぼ焼き芋」が人氣だ。石焼き芋は直火で焼くが、「つぼ焼き芋」は常滑焼の大きい壺の底に炭火を熾し、壺の首あたりに吊してある籠に芋を入れる。底から上がってきた炭火の熱が巨大な壺の中で循環し、焦げることなくじっくりと均一に熱が通る。60度から70度で1時間半から2時間かけて、さつまいものデンプンは麦芽糖に変わり、甘みが増していく。

「食べてみたんだ。そしたら、信じられないくらい甘くて、美味しかった。日によって種類を変えているらしいんだが、僕が食べたのはまさにシルクスイートでね」
「そうだったんですか。それはすごい偶然ですね」

「ああ。客がたくさん来て、みな喜んで買っていた。辺りは、かなり賑やかでね。焼き芋が地域の町おこしになっていたよ。そのフードプロデューサーはその『つぼ焼き芋』を独占もできたのに、周りの同業者にも勧めて一緒にこの焼き芋を広めたんだね。考えさせられたんだよ」
出てきたさつまいものサラダを食べながら、彼は言った。

「僕は、自分の宝物を壺に隠すことしか考えていなかった。その中身を活かすことも、妻と楽しむこともしなかった。また同じ壺を買って、見つかったお宝を再びしまっても、同じことの繰り返しだ。でも、あの焼き芋屋の芋は違う。金色に輝いて、ほくほくとして暖かい。店主が喜び、客が喜び、同業者が喜び、そして、壺焼き職人も喜ぶ。どちらが尊い宝物なのかなあとね。そう思ったら、再び大きい壺を買って、余生を倹約して暮らすよりも、誰かと一緒に使うことをしてみたいと考えて帰ってきたんだ。いま、その帰りなんだよ」

「そして、今、またここで、さつまいもと出会ったというわけですね」
雅美が言うと、彼は頷いた。

「ああ。このハイボールは、美味いな。自分で作った味とは雲泥の差だ。それに、このさつまいもによく合う」
彼は、しみじみと言った。

「恐れ入ります。さつまいもとレモンの相性はいいです。シルクスイート種が甘いので、おそらく普通のハイボールよりも、レモンハイボールの方が合うのではないかと思っています」
田中が言った。

「そうね。この組み合わせ、とても氣に入ったわ。ハイボールって、そちらの方もおっしゃったように、うちでも作れるからと頼んだことなかったけれど、こんなに違うなら、今度からちょくちょく頼むことにするわ」
雅美が言った。

 男は、言った。
「そちらの方か……。僕は竹内と言います。僕も『ちょくちょく頼む』ような客になりたいからね」

「それはありがとうございます、竹内さん。今後ともどうぞごひいきにお願いします」
田中が頭を下げた。
 
 やがて、他の客らも入ってきて、『Bacchus』はいつもの様相に戻っていった。田中は忙しく客の注文にこたえている。雅美は、カウンターをはさんだ竹内とは会話ができなくなったが、時おりグラスを持ち上げて微笑み合った。

 竹内の眉間の皺は、はじめに思ったほどは深くなくなっている。自分がそれに慣れてしまったのか、それとも彼の心にあった暗い谷がそれほどでもなくなったのか、雅美には判断できなかった。

 1つわかることがある。彼の新しい壺は常滑焼ではなくて、この『Bacchus』のように心地よく人びとの集う場所になるのだろうと。

レモンハイボール(Lemon Highball)
標準的なレシピ

ウイスキー - 45ml
炭酸水 - 105ml
1/8カットレモン - 1個

作り方
タンブラーにレモンを絞り入れ、そのまま実も入れる。氷とウイスキーを注ぎ、冷やしたソーダで満たし、軽くステアする。



(初出:2023年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】ミストラル Mistral

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第5弾です。

山西 左紀さんも、プランCでご参加くださいました。ありがとうございます! プランCは、私が指定した題に沿って書いてくださる参加方法です。


山西左紀さんの書いてくださった「モンサオ(monção)」

今年の課題は
以下の課題に沿ったものを150字から5000字の範囲で書いてください。また、イラストやマンガでの表現もOKです。
*ご自分の既出のオリキャラを一人以上登場させる
 メインキャラ or 脇役かは不問
 キャラクターであれば人どころか生命体でなくてもOK
*季節は「冬」
*建築物を1つ以上登場させる
*「大切な存在」(人・動物・趣味など何でもOK)に関する記述を1つ以上登場させる


山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

左紀さんが書いてくださったのは、私の『黄金の枷』シリーズとも縁の深いミクやジョゼの登場するお話でした。

お返しをどうしようか悩んだんですけれど、今回のサキさんのお話に直接絡むのはちょっと危険なのでやめました。だって、ミクの昔の知りあいですよ。ミクの方が何を考えているかは知らないし、勝手に過去を作るわけにもいかないし。

なので、左紀さんの書いてくださったお話を骨格にしたまったく別の話を書いてみました。あちらの飛行機は夜行列車に、そして季節風はミストラルという風に……。そしてせっかく夜行列車を描くなら、長いことイメージとして使いたかった曲があって、それも混ぜ込んであります。


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ミストラル Mistral
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 雨のパリは煙って見えた。夏であれば、天候など氣にしない。いずれにしてもオステルリッツ駅まではメトロで行くし、たとえ悪天候だろうと出張に陽光は必要ないのだ。

 だが、冬の雨は身に堪える。雪のように美しくもなければ、仕事が遅れる言い訳にすらなってくれない。

 ファビアンは、20時半に駅に着いた。出発までは20分ある。彼にしては早く着いた方だ。コンパートメントのあるワゴンを探すのに手間取るだろうと思ったからだ。

 構内は天井のガラス窓に雨が打ち付けられて、電車のモーター音に混じりとてもうるさかった。頭端式ホームの並び、色とりどりの車両が並んでいる。オレンジ色に照らされた夜の駅は、いつも必要もない悲しみに近い感傷を呼び起こす。

 探している列車は、機関車牽引のアンテルシテ・ド・ニュイ5773、ニース行きだ。

 かつてTGVの普及とともに夜行列車は次々と削減された。が、ニース路線などの場合、6時間弱の乗車時間を過ごしたがる乗客は少なく、かえって格安の航空便に客を奪われる結果となった。

 ここに来て夜行列車を復活する動きが出てきているのは、環境に優しい移動方法をSNCFが推奨したいからという建前になってきているが、おそらく他国における夜行列車ビジネスの成功を見ての動きだろう。

 実際にファビアンも、ニースで中途半端な1泊するなら、夜行列車で早朝に着く方を選んだ。一連の復活した夜行列車のうちで、最初に運行が始まったのが、このICN 5773、パリ-ニース路線だ。

 この路線は、かつてかの『青列車トラン・ブル』が走っていた区間だが、ファビアンにとっては、『ミストラル号』の印象が強い。なぜなら彼自身が子供の頃に乗車したからだ。

 それは特別な夏だった。6歳だったファビアンは両親に連れられてニースへのバカンスに行った。乗ったのは1等車のみの豪華列車『ミストラル号』。全車にエアコンが完備され、食堂車はもちろんのこと、バーや秘書室、書籍の販売スペース、美容室なども揃っている贅沢な列車だった。後から知ったのだが、1982年、それは『ミストラル号』の走った最後の夏だった。

 今から思えば、父親にとっては精一杯の背伸びだったのだろう。そんなに豪華なバカンスはその年だけで、それどころか数年後には事業に失敗した父親が破産したため、学校を卒業するまで家族バカンスの思い出はない。

 乗り合わせている他の乗客たちは、みな裕福であることが子供のファビアンでもよくわかった。着ている服が違ったし、夕食前にバーに行くか値段をひそひそと語り合っていた両親と違い、メニューすら見ずに無造作にシャンパンを注文していた。

 両親との態度の違いは、ファビアンに階級の差というものを悟らせた。バーに隣接された売店スペースでコミックや興味深い図鑑、そして、オモチャなどを目にしても、ねだることがためらわれた。

 今でも憶えているのは、バー『アルックス』で楽しそうに語る大人たちから離れて、ブティックに立っていた少女と、その母親だ。少女は、スモモ色のやたらとフリルの多いワンピースを着て、髪に同じ色のリボンをつけていた。母親の方は対照的に非常にシンプルなシルクワンピースを着ていた。目の覚めるようなマラカイトグリーンで、ピンヒールも同じ色だった。

 その少女の母親の姿を見て感じた衝撃がなんであるか理解できなかった。『ミストラルの淑女ダーメ・デュ・ミストラル』。自分の母親や同世代の女性とはまったく違って見えた。単純に美しいとは違う存在。今ならたとえば「妖艶」といった単語で表現するのかもしれない。だが、当時のファビアンは、幼すぎた。

 彼女の姿が『ミストラル号』の思い出を、特別なものにしている。ファビアンは、ICN 5773の凡庸なクシェットに腰掛けて思った。同室者が1人だけのコンパートメントはどこか息苦しかった。

 ファビアンは、廊下に出て自動販売機を探して歩いた。隣の車両はクシェットではなく、個室のようだ。廊下を足早に通り過ぎようとすると、中から出てきた男性とぶつかりそうになった。

「ファビアンじゃないか!」
その男は、驚いたことに大学の同窓生だった。
「ドミニク! 驚いたな。君もニースに?」

 同じ教授のクラスでファビアンがもっとも苦手としていたのがドミニク・バダンテールだった。裕福な銀行家の息子で、常に高価なブランドものを身につけ、ポルシェを乗り回していた。苦労して学費を捻出したファビアンは、ドミニクと取り巻きがよく行くクラブには一度も行かなかった。だから、授業以外で彼と会ったことはない。もう四半世紀も前の話だ。

「ああ。君、まさかこんな時期にバカンスじゃないだろう?」
「いや、仕事だ。君も?」

 ドミニクは笑って首を振った。その時、ドミニクの隣の寝台の扉が開いて女性が出てきた。
「ドミニク? お知り合い?」

 ファビアンは、その女性を見て、息を飲んだ。まさか! 『ミストラルの淑女ダーメ・デュ・ミストラル』。

 だが、もちろん彼女ではなかった。とてもよく似ているが、ファビアンと変わらないくらいの年齢と思われる女性だ。オールドオーキッドのシックなツーピースが艶やかな栗色の髪とよく似合っている。

 ドミニクは彼女の栗色の巻き毛に触れてから肩を抱き、言った。
「ああ、大学の時の友人だ。ファビアン・ジョフレ。たしか行政書士だったよな。ファビアン、彼女はロズリーヌ、ロズリーヌ・ラ・サール。来年にはマダム・バダンテールになるんだよな」

 ファビアンは、ということはドミニクは離婚したのかと考えた。確か大学を卒業してすぐに、学内でも有名だった美女と派手な結婚式を挙げたと友人づてに聞いたのだが……。

「ジョフレさんですか。どうぞよろしく」
「こちらこそ、どうぞよろしく」

「いまファビアンに、どうしてニースに行くのかって話をしていたんだ。いい家が売りに出されたんで、一緒に見にいくんだよな。夏のあいだ過ごすとしたら、君が女主人として切り回すことになるだろうしね」

 ドミニクが、髪にキスをしたりしながら、話しかける間、彼女はファビアンの目を氣にして、居心地悪そうにしている。

「ちゃんとした食堂車でもあれば、ちょっとワインでもといいたいところだけれど、この列車にはないんだよな」
ドミニクは言った。

 親しい友人であれば、彼のコンパートメントに誘ってくれるだろうが、そういう仲でもないので、ファビアンは自動販売機のところにいくのでと話して、2人に別れを告げた。

 ファビアンは、背中の向こうで2人が夜の挨拶をしてそれぞれの部屋に戻るのを聞いた。同じ部屋で過ごすことはないようだ。ずいぶんと他人行儀な婚約者たちだな。

 だが、そのことに彼はどこかほっとしていた。彼女が、ほかでもないあのドミニクに心酔している姿は見たくない。それが正直な想いだ。

 ファビアンは、自動販売機の前でしばらく選びもせずに立っていた。

 ニースに向かうこのなんでもない夜行列車は、すでにファビアンにとって特別な世界に変わりつつあった。彼にとって特別な『ミストラルの淑女ダーメ・デュ・ミストラル』によく似た女性が乗っている。

 ロズリーヌ・ラ・サール。小さい薔薇か。ふいに思い出した。『ミストラルの淑女ダーメ・デュ・ミストラル』は、たしか娘に「私の小さな薔薇マ・プティト・ローズ 」と呼びかけていた。

 まさか、そんなことがあるだろうか。あの時の少女なのか。

 ファビアンは、長いあいだ自動販売機の前で『ミストラル号』でのことを考えた。母親の容姿は細かく憶えているのに、少女の顔はあまりよく憶えていない。ただ、ブティックで交わした言葉は忘れていない。

「ミストラルは冷たい風よ」

 ミストラルは、ローヌ川沿いに、リヨン湾まで吹き込んでいく風を指す。低気圧がティレニア海もしくはジェノバ湾にあり、高気圧がアゾレスから中部フランスに進んでくるときに吹く。非常に乾燥した冷たい強風で、それによって湖畔などでは氷柱が横向きにできることもある。

 あの時は夏だったので、それを意識することはなかった。だが、今、冷たい冬のローヌ川に添って地中海へと進むこの列車は、痛いほどの冷たい風を呼び起こしているはずだ。

 どれほど自動販売機の前に立ちすくんでいたのか。ファビアンは結局何も買わずに、自分のコンパートメントの方へと戻りだした。個室のあるワゴンに来ると、妙に寒い。みるとラ・サール嬢が1人窓辺に立っており、窓を開けていた。

 ドミニクは寝てしまったのだろうか。どうして彼女は、窓を開けて立っているんだろうか。

「どうしたんですか」
ファビアンは小さい声で訊いた。

「見て、星よ」
ロズリーヌが指さした。

 いつの間にか雲1つない夜空が広がっていた。汚れた車窓を開けたその向こうに、冷たく瞬く星空が見える。だが、吹き込む風の冷たさに、まともに目を開けているのは難しい。
「ええ。美しいですね。でも、寒くありませんか?」

「ミストラルは冷たい風よ」
彼女は言った。

 ファビアンは、言葉を失い、ただ彼女を見つめた。その凝視が尋常ではないと感じたのか、ロズリーヌは、不思議そうに見つめ返した。

 突如として、車両はトンネルに入りひどい騒音がファビアンの思考を止めた。車内灯の作りだした写像が窓に映る。ガラスの向こうにいるのは『ミストラルの淑女ダーメ・デュ・ミストラル』だ。美しく妖艶な存在しない女。

 長いトンネルが過ぎ去るまで、奇妙な時間が流れた。お互いに窓ガラスに映る姿を黙って見つめている。どうしようもなく冷たい風が非情に強く廊下を走っていく。

 世界は再び広がり、星空と遠くに見える街の灯、ずっと控えめになった車輪の音が、2人を現実の世界に戻した。

 ファビアンは「風邪をひきますよ」と言った。頷いた彼女が腕を窓に伸ばしたので、彼はすぐに手伝い窓を閉めた。

「ありがとう」
ロズリーヌは、小さく答えた。

「82年の夏、『ミストラル号』でニースに行きませんでしたか?」
ファビアンは、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 それを知ってどうするというのだろう。『ミストラル号』は、もうない。彼は中年のくたびれた行政書士で、『ミストラルの淑女ダーメ・デュ・ミストラル』とは無縁に生きていかなくてはならない。

「おやすみなさい」
彼は、彼のクシェットに向けて歩み去った。

 振り返りたい衝動が身体を貫いた。そうすれば、世界が変わるのだと、妙に強い確信が彼にそうするように囁いた。

 しかし、彼は常識に従い、そのまま自分のワゴンに向かう扉を開けて歩み去った。

(初出:2023年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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Sting & Chris Botti La Belle Dame Sans Regrets Full HD

このMVの列車はたぶんオリエント・エクスプレスです。ま、ミストラルもワゴン・リ社の車両を使っていたとということなので、単なるイメージで。しかし、「ったく、これだからフランス人は……」というような映像ですね……。
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Posted by 八少女 夕

【小説】教祖の御札

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第4弾です。

ポール・ブリッツさんは掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!


ポール・ブリッツさんの書いてくださった 『ひたり』

ポール・ブリッツさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。毎年ポールさんのくださるお題は手加減なしで難しいんですけれど、今年もまためちゃくちゃ難しかったです。

ポールさんがくださったお題は、ホラーのショートショートです。このお話の解釈は人によって違うと思いますし、ましてやポールさんが意図なさったお話も、私のお返し掌編とはかけ離れているんではないかと思います。

とはいえ、せっかくなので私なりにつなげてみるとどうなるかにトライしました。オリジナルの記述とできるだけ違わないように考えたので設定にいろいろと無理がありますが、そこはご容赦ください。


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教祖の御札
——Special thanks to Paul Blitz-san


 部室の窓から道の向こうを見ると、落ち武者が立っていた。幽霊を見ることは珍しくないけれど、江戸時代からの筋金入りは、まず見ない。

 私は、落ち武者のそばに行くのが嫌で、裏門から帰ることを決めて、下駄箱に向かった。同じクラリネットの篠田理恵がブツブツと文句を言いつつ校門の方に向かう。
「コンクール優勝なんて、絶対に無理じゃん。ほんとうにあの顧問、頭おかしいんじゃないの」

 理恵にはあの落ち武者は見えないんだろう、そのまま横を通り過ぎた。落ち武者は、理恵に興味を持ったようで、そのまま理恵の後ろについていった。

「……なんかヤバいかも」
私は、理恵と後ろを歩く落ち武者の姿を見ながら震えていた。

「何がヤバいって?」
声がしたので振り向くと、そこには桜木東也が立っていた。

 彼は、クラスメートだ。私や理恵と同じ吹奏楽部に入ったのは最近で、しかも何の楽器も吹けない。顧問からは足手まとい扱いで、邪険にされている。なぜ入部したのか、他の部員は首を傾げている。でも、私は知っている。彼は理恵が好きなのだ。

「えっと、その……理恵に……いや、なんでもない」
ただの友人にだって、友達に落ち武者がついているとは言えない。普通の人には見えないのだから。ましてや理恵を好きな男の子に、そんなことを言うほど無神経ではない。

「篠田くんに、なにかが憑いているのかい?」
東也が訊いた。

「え。いや、その……」
「隠さないでいいよ。君が芳野教祖のお嬢さんだということは、僕知っているし」

 桜木くん、うちの信者だったんだ! 私は驚いた。

 新興宗教「御札満願教」の教祖の娘であることを百合子は高校ではひた隠しにしてきた。宗教法人は星の数ほどあるし、自慢すべきことでも恥じるべきことでもないが、たまたま弱いながらも霊能力を持って生まれてきた百合子からしてみると、自分の父親をはじめとして教団幹部はみな霊能力がゼロで、彼らのやっている教団のあれこれは単なる事業にすぎないことに氣がついていたからだ。

「なあ、君ならお父さんに頼んで、霊験あらたかな御札を用意できるんだろう?」
東也は熱心に言った。

 うわあ、この人、マジで御札のことを信じているよ。あれは、単なる墨書きの紙だよ。さっき、パパの書き損じを面白がって理恵にも1枚あげたけれど、それでも落ち武者が憑いていくぐらい霊験ゼロだよ。それを1枚20万円で売っているのはどうかと思うけどさ。私は、目を宙に浮かせた。

「あ〜、理恵なら、大したことないと思うから、心配しなくてもいいよ。もしなんかあったら、もちろん、私からパパに頼むから……、ね」

 私は、東也を宥めてから裏門から帰った。それから毎日のように、理恵の件で御札を用意しろと責め立てられることになるとも知らずに。

* * *


 急に寒くなったので、新しい防寒肌着をおろしたけれど、それでも効果がないほどの寒さだ。原田はマフラーを巻き直して雪の降り始めた通りを歩いた。

 教団にノルマとして課された御札の量が倍になったので、いつものように電話して信徒に売りつけるだけでは捌けない。飛び込みで販売する必要がある。

 教祖が交代してから半年、ノルマは厳しくなる一方だ。先代の作った御札は間違いなく悪霊退散の効力があると証言する信者が多く、連れられて入信も多かったのだが、先代が亡くなったときに指名したと言い張る今の教祖芳野泰睦は、どうやらまともな霊能力も無さそうだ。いずれにしても原田には何も見えないし感じ取れないので、糾弾するつもりもない。

 今日は定期的に御札を買ってくれる信者の家に行ってみよう。原田は、とぼとぼと歩いた。

「こんにちは。原田です」
つとめて明るく声をかけると、中から女が出てきた。

「ごめんなさい。今日は家に上げられないわ」
原田は、頷いた。この家は、まだ夫が入信していない。名簿上は既に信徒になっているが、それは本人には内緒だ。原田としては、この女が定期的に御札を購入して夫や子供たちも信徒としてカウントすることに署名してくれればそれで十分だと思っていた。

「大丈夫です。こちらも先を急ぎますので。それで、新たにありがたい御札が届きまして……」
原田が鞄から大きめの封筒を取りだしていると、女は小さい声で遮った。

「ねえ、原田さん。前に購入させていただいた御札なんだけど……」
「なんですか?」
「家内安全、交通安全、学業成就、3ついただいたけれど……」

女は、とても言いにくそうにしていたが、やがて意を決したように原田の顔を見て口を開いた。

「あれから逆のことばかりが起こるのよ。夫と姑との喧嘩は絶えないし、天井は落っこちてくるし、舅は当て逃げに遭うし、娘は留年よ」

 原田は思わず息を呑んだ。これで今週3度目だ。教祖の御札を買うと効果がないどころか真逆の災禍に見舞われると、多くの信者が思い始め、クレームが増えている。

「信心が揺らいでいることを試されているのかもしれませんよ」
こういうときに、原田はこう脅すように教育されている。巧みに責任を回避して、新たな御札を2枚ほど売りつけることに成功したが、原田の中の疑問も膨らむばかりだ。

 女の家の戸が閉まると、原田は鞄からまだ100枚ほど残っている御札入りの封筒のうち、1つを取りだして眺めた。
「交通安全……かあ。きたねえ字だな。でも、ただの和紙に書かれた墨書きだ。効力がないのは別として、少なくともこれで事故が起きるわけないだろう」

 原田は、昼頃に教団に戻って集めた金を出納係に渡した。それから、タクシー会社に出勤した。彼の本業はタクシーの運転手だ。これから深夜までタクシーで市内を巡回し、場合によっては客の悩みを聞きつけては「御札満願教」に勧誘する日々だ。

 20時頃には、市内の塾に立ち寄り、教祖の娘である百合子を届ける役目もある。

「お嬢さん。お待たせしました」
塾の前に立っていた百合子は「どうも」といって後部座席に座った。それから、変な目つきで助手席を見た。

「どうかなさいましたか?」
原田が訊くと「……うん」と言って眼をそらした。

「原田さん、今日、父さんの御札、直接、手に取った?」
しばらくして百合子が訊いた。

「え? ええ。1枚だけ。交通安全の御札でしたけれど、なぜですか?」
原田は訊いたが、百合子は答えなかった。それから、急に「止めて」と言った。

「どうなさったんですか?」
「なんでもないの。悪いけど、私、歩いて帰る。今日はありがとう」
 
* * *


 百合子は、昨日起こったことを考えながら歩いていた。父にもらった悪霊退散の札の封筒を、桜木東也に渡した。

 理恵がずっと休んでいること、誰かに後をつけられているとノイローゼになっているという級友の話を聞いて、とにかく御札を用意しろとうるさかったのだ。それが何の効力も無いことを知りつつも、信者である東也の圧力には耐えられず、百合子は父親に御札を1枚もらえないかと頼み込んだのだ。

「ありがとう。僕、届けてくるよ。これがきっかけで篠田くんと知り合えるかもしれないし」

 そう言って、東也は封筒から御札を取りだし、まじまじと眺めていた。
「でも、これ、交通安全って書いてあるよ?」

 百合子は驚いた。
「なんですって? 悪霊退散って頼んだのに、パパったら、取り違えたのね。明日、今度こそちゃんとしたのを持ってくるから。それは、桜木くんにあげるわ。持っていても悪くないでしょ?」

 東也は笑った。
「もちろん。ありがたい御札には違いないからね。」

 歩き去って行く東也の後ろを、どこからともなく現れた虚無僧姿の男が歩いて行くのが見えた。なんで?

 そして、今朝、学校に来てみたらクラスは大騒ぎだった。昨夜、桜木東也が交通事故で亡くなったと。

 一方、篠田理恵は、すっかり元気な様子で普通に登校してきていた。百合子は、その理恵の両脇に虚無僧と東也の2人が立っているのを見た。落ち武者はいなかったので不思議に思っていたが、理恵がお寺の住職にお祓いしてもらったと言っていた。そうか、ちゃんとお祓いしてもらったんだね。また、くっついているけど。

 東也は、百合子のことなど目に入っていないようだった。虚無僧に負けないように、必死で理恵にまとわり付いていた。

 それからの数時間、百合子は生きた心地もしなかった。塾でも、勉強はまったく頭に入らなかった。ようやく終わり帰って寝ようと思ったら、今度は迎えにきたタクシー運転手の原田にも異変が起こっていた。

 百合子は、原田のタクシーには座っていられなかった。助手席にはのっぺらぼうの花魁が座っていた。
 
 今までほとんど見たことのなかった江戸時代のお化けをやたらと目撃するようになったことと、父親の書いた御札とは関係ないと思いたい。でも、これだけ重なると氣分がよくない。

 桜木くんも、理恵も、パパの御札を開いて直接手に取った後から、あの幽霊たちに魅入られたし。原田さんまで、「交通安全」の御札を手に取ったなんて言うし。

 原田さん、大丈夫かなあ。うちじゃなくてちゃんとした霊能者にお祓いしてもらうように、言った方がいいかなあ。そうか、理恵に紹介してもらおう。明日忘れずに頼まなくちゃ。

 また雪が降ってきた。雪に慣れない都会の運転手たちが、ノーマルタイヤでもスピードを変えない危険な運転をしている。百合子は、家路を急いだ。

(初出:2023年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】童の家渡り

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第3弾です。

かじぺたさんは、引き続きもう1つの記事でも参加してくださいました。ありがとうございます!


かじぺたさんの書いてくださった記事 「波乱万丈の年末年始R4→R5しょの6『かじぺたは2度まろぶ』」

参加していただいた記事は、実際に起こった事件についてなのですが……。実はかじぺたさんは、この年末、大変なお怪我をなさっていたのでした。そして、そんな状態でも、まったく休まずに年末年始を働きづめで過ごされていらっしゃるんですよ! 水槽の水替えって、どういうことですか?! 私なら、全て放棄して寝ていますよ〜。とにかく引き続きお大事に。

さて、お返しですが、前回同様、かじぺたさんお宅風の『黒い折り鶴事件の家』で作ってもよかったのですが、ちょっと趣向を変えて江戸時代の宿場町を舞台に江戸ファンタジー(なのか?)を書いてみました。かじぺたさんのお怪我が「禍転じて福となる」ことを祈りながら。ブログ上のおつきあいですのでお名前などは、もちろん存じ上げませんので登場人物の名前などはかじぺたさんご本人やご家族とはもちろん関係ありませんのであしからず。

なお、今回のストーリーも、先にかじぺたさんの記事を読まれることを推奨いたします。そうしないと意味不明かも……。


「scriviamo! 2023」について
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童の家渡り
——Special thanks to Kajipeta san


 小とよは、なまこ壁が続く通りをとぼとぼと歩いていた。小さな身体ながら彼女は、八福屋に八代にわたり棲みつき、大名屋敷の御用商人になるまで吉祥をもたらしてきた。

 先月新しく当主となった虎左衛門は「座敷童ごときに供え物をするなぞ勿体ない」と言いだして、塩せんべいの代わりにネズミ捕り餅を置いたので、しばらく屋敷を出ることにした。

 座敷童が自ら玄関を出ていくと、よろしくないことが起こるのが常だ。

 小とよが、玄関を跨いで表に出た途端、季節でもないのに庭の五代松に落雷があり、そこから出火した。

 虎左衛門が心を入れ替えて小とよに塩せんべいを供えるつもりになったかどうか、今となっては知りようもない。屋敷がなくなってしまったので、小とよはもう戻れないのだ。

 年の瀬、あと二晩で年が明けるというのに、小とよは宿無し妖怪として通りを彷徨うことになったのだった。

 ここは宿場町として栄えていて、特にこの通りは大きい屋敷が多い。一つ後ろの通りは、染め屋や織り屋など職人たちが小さな家を構えている。立派な武家屋敷からさほど遠くないところに、武家の家人や奉公人たちの家が立ち並ぶ一角もある。

 小とよは、どこにいったらいいのかわからなかった。ある程度の名のある屋敷には既に別の座敷童がいるし、そうでない屋敷には恐ろしい犬や半分猫又になりかけている飼い猫などがいて、入っていく氣にさせない。

 夜も更けて、小とよは宿場を行ったり来たりしながら歩いていた。人通りは絶えて久しくなっていたが、月が真上に来た頃、1人のおなごが武家屋敷の界隈から出てきた。

 服装からみると、武家の内儀のようだ。1人で出歩いているところをみると大名の奥方といった大層な身分ではないのだろう。こんな時間に珍しい。小さな提灯を持っているが、月明かりも十分にある。晩酌でもしたのであろうか、鼻歌などを歌いながら楽しそうに歩いていた。

 と、後ろから蹄の音がして、馬が走ってきた。内儀はそれを避けようと脇に寄ったが、馬は狂ったように走ってきたので間に合いそうもなかった。

「危ない!」
小とよは力の限り、彼女をなまこ壁の方へと押した。その力で均衡を保てなくなった内儀は倒れた。その横を馬はものすごい勢いで駆け抜けていった。

 馬の上には、武家らしき男が乗っていたが、内儀の難儀に目もくれずに立ち去った。お国の一大事で一刻を争うのかもしれぬが、このような振る舞いは天が許さぬぞ。小とよは消えてゆく土ぼこりの向こうを睨んだ。

「これ、ご内儀。いかがなされました」
小とよは、内儀に話しかけたが、その声は届いていないようだった。無理はない。小とよの姿が見えて声が聞こえるのは、通常、数えで七つくらいまでなのだ。

「いたたたた。これはちょっと、ひどくひねってしまったみたいだねぇ……」
内儀は、つらそうに立ち上がると、なまこ壁に掴まりながらもと来た道を戻りはじめた。

 見ると、先ほどまで掲げていた提灯が落ちている。
「あの……、これ……」

 聞こえていないので振り返ることもない。小とよは提灯を手にすると内儀の後ろに続いた。彼女が怪我をしたのは、自分にも関係あることであるし、いずれにせよ他に行く宛てもない。

 ついた家は、大名屋敷ではないが、小さくもない。徒士あたりの武士の家であろう。小とよの考えたとおりだった。

「お梶! いかがしたか」
中から、出てきた壮年の男が、内儀の様子に慌てた。

「ご心配かけて、申しわけございません。急な早馬を避けようとしたところ、なにかに躓いたらしく転んでしまいまして」
お梶は、痛みを堪えて話した。

「いま思い出しましたが、転んだおりに手にしていた提灯を取り落としてしまったようでございます。取りに戻りませんと……火事にでもなったら大変でございますし」

 お梶がいうと、主人は小とよが戸口にそっと置いた提灯に目をやって言った。
「そこにあるそれではないのか」

「おやまあ。まことに。どうしたことかしら」
「そなた、自分で持ってきたのであろう。それも忘れるほど痛いのだな、さあ、入って。手当をせねばな」

 なかなかいい感じの夫婦ではないか。小とよは考えた。主人は偉ぶることもなく内儀をいたわり、お梶の方もあの早馬のひどい仕打ちをなじることもない。相当痛そうではあるが、優しい主人に肩を貸され、無事に奥に戻った。

 入っていいと言われたわけではないが、これまでも許可を得て入った家はなかったことであるし、小とよはそのままその家に上がった。

 玄関の両脇に小さな犬が二頭座って、小とよを眺めているが、二頭共にこの世の者ではないらしく吠えることもなく尻尾を振って小とよを歓迎した。

「このような年の暮れに、ご面倒をおかけしてしまい、もうしわけございません」
お梶の声が聞こえてくる。小とよは、奥の方を目指して歩いた。二頭の犬も、小とよに続いて歩いてきた。

 寝所に座らされたお梶は左足を主人に見せている。刻一刻と腫れがひどくなっている。見ると右の頬まで腫れている。二頭の犬はその足元に駆け寄り、一頭は頬を、一頭は女主人の腫れた足を必死でなめた。

「心配するでない。明日はお真佐が戻るではないか。家のことはあの子がやってくれるであろう」
「でも、せっかくの参勤が終わり戻ってくるのに働かせるのは氣の毒ですわ」

 なるほど。娘も女中勤めでもしているのか、大名とともに江戸から戻ってくるのだな。せっかく揃っての正月だというのに、怪我とは氣の毒に。これは何としてでもこの一家に何やら福を呼び込まねば。

 小とよは、自分にできることはないかと家の中を歩き回った。しかし、童の小とよは宵っ張りには慣れておらず、座敷であっさりと眠り込み、氣がつくと朝を迎えていた。

 目が覚めたのは、勝手口からの声が聞こえたからだ。
「おとと様、おかか様。真佐が戻りました」

 途端に、家の奥からバタバタとした音が聞こえた。
「お真佐、お帰り!」

 目をこすりながら、小とよが座敷を出て、勝手口の方へと歩いていると足を引きずりながら急いで出てきたお梶と正面衝突してしまった。小とよの方は蹲って事なきを得たものの、既に昨夜からの痛みを堪えて無理に歩いていたお梶の方は、すぐに体勢を崩し、柱に激突して倒れてしまった。

 ものすごい音を聞いて、娘のお真佐も飛んできたし、奥から主人も小走りで出てきた。
「おかか様!」
「お梶!」

 お梶は二度目の激痛にしばらく声も出せずに耐えていた。二頭の犬があわてて駆け回り、二人に介抱されてお梶がまた寝所に向かうのを、小とよは震えながら見ていた。

 一度ならず二度までも転んだのは、かなり自分のせいに近い。もちろん小とよがそれを望んだわけではないのだが、あまりといってはあまりだ。

 しかも、よく見るとお梶が派手に転んだあたりに眼鏡が落ちている。前にいた八福屋では主の虎左衛門が舶来の貴重品として嬉々として使っていたので、小とよもこれが大切なものだとわかった。ギャマンにヒビは入っていないが、額当てが曲がってしまっている。

 小とよは、その眼鏡をもってそっと寝所に行き、文机にそっと置いた。

 二人に介抱されている間も、お梶の顔は打撲のために新しく腫れてきて、昨日打ったと思われる腕には大きな青あざが広がっていた。

 小とよは、玄関口に行って、やるせなく往来を見回した。頼りになる鬼神でも歩いていれば、助けを求めようと思ったのだ。

 年末で、忙しいのは人ばかりではない。福の神たちも今年の仕事納めと、年明けの初詣の時にきちんと座にいられるように忙しなく動き回っているのだ。

 跳ねている白兎を見つけて、小とよは急いで呼んだ。
「いいところに、白兎さん、ちょっと止まってください」

 来る年の干支としていつも以上に多忙の白兎は、「それどころではない」という風情で一度は通り過ぎたが、思い直したのか「しかたないな」と振り返ってやって来た。

「おや。座敷童の小とよか。あんた八福屋にいたんじゃなかったっけ?」
「それが、八福屋に邪険にされて、ちょっと出たの。そしたら、お屋敷が燃えちゃって、昨日からここに来たんです」

「へえ。八福屋はずっと羽振りがよかったけど、あんたのおかげだと知らなかったのかねぇ。……ところで、困っている様子だけど、どうしたんだい?」

 小とよは、今とばかりに昨夜からのお梶の不運について訴えた。
「助けてあげたかったのに、かえっていっぱい怪我をさせてしまったみたいで、心苦しいの。ねえ、白兎さん、少彦名命さまにお取り次ぎしてくれない? 少しでも早く治していただきたいのよう」

 白兎も、さすがにお梶が氣の毒だと思ったのか、頷いた。
「わかったよ。この家の者は日頃の行いもいいと聞いているからね。今日、お願いしてみるよ。あと、眼鏡が壊れたといったね。そっちは玉祖命さまの管轄だから、伝えておこう」

 神様へのお願いが上手くいったので、小とよは安心して家の中に戻った。 

 少彦名命さまは、医薬と健康だけでなく、酒造りと温泉療法も司る。それらにたくさん触れれば、治りも早くなるだろう。小とよは、すぐに風呂場に向かい、心を込めて掃除をすると、温泉の水を運んできて風呂桶を満たした。

 それから、台所に向かうとお供え用に用意してあるお正月用のお酒を極上のものに移し替えた。これで、少彦名命さまをお迎えする準備は万全。ついでに、お梶がこのお風呂に浸かって、このお酒でお正月を祝えば、きっと少彦名命さまの霊験あらたかとなるだろう。

 玉祖命さまは、眼鏡の神様であるだけでなく、三種の神器である八尺瓊勾玉を作った宝玉の守り神。こちらにも、この家の者たちが見守っていただけるように、供物を用意しておこう。

 見ると、お梶はきれいな物が好きなのか、さまざまな輝石や貝殻などを飾っている。ちょうどいいので、それらをピカピカに磨いてお正月に備えた。

 二匹の人には見えない犬たちは、一生懸命働く小とよを不思議そうに眺めていたが、立派な神様たちをお迎えするためだと氣がついたのか、一緒になって準備を手伝ってくれた。

 奥では、痛みを堪え腰掛けたまま用事を果たすお梶と、その母親の代わりに帰宅後すぐに張り切って働く娘のお真佐、そして、参勤交代から戻った主たちの御用に忙しく立ち向かう主人がそれぞれに、よりよき年迎えのために動き回っていた。

 小とよは、なんとなく入ってきた家ではあるが、とても心地よい家だと思い、このままこの家に居着くことに決めた。来たる歳が、この家の皆にとって福に満ちたものとなるために、精一杯働こうと心を決めた。

(初出:2023年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】黒猫タンゴの願い

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第2弾です。

かじぺたさんは、別ブログの記事で参加してくださいました。ありがとうございます!


かじぺたさんの書いてくださった記事 『2023年1月10日の夢』

かじぺたさんは、旅のこと、日々のご飯のこと、ご家族のことなどを、楽しいエピソードを綴るブロガーさんで、その好奇心のおう盛な上、そして何事にも全力投球で望まれる方です。いつも更新していらっしゃる2つのブログはよく訪問しているのですが、美味しそうなごはん、仲良しなご家族の様子、お友だちとの交流、すてきなDIYなどなど、すごいなあと感心しています。ご自分やご家族のお怪我やご病気の時にもまったく手抜きをなさらない姿勢にいつも爪の垢を煎じて飲みたいと思うのですが、思うだけできっと真似は出来ないでしょう。

そのかじぺたさんが去年はとてもおつらそうで悲しかったのですが、5年前に愛犬のエドさまをなくされた上、去年のこの時期にアーサーくんも虹の橋を渡ってしまわれたのですよね。

じつは、今回のお返しには、このエドさまとアーサーくんをイメージした2匹のコーギー犬をお借りして登場させています。2017年の「scriviamo!」でのお返し作品に出したうちのキャラと少しだけ縁がありそうな記事を書いてくださったので、そのままその世界観を踏襲して作りました。かじぺたさん、内容に少しでもお氣を悪くなさったら書き直しますのでおっしゃってくださいね。

なお、今回のストーリーは、先にかじぺたさんの記事を読まれることを推奨いたします。そうしないと意味不明かも……。


【参考】
今回のストーリーで触れられている『黒色同盟』と『黒い折り鶴事件』については、ここで読めます。読まなくても大丈夫なように書いてはありますが……。
『黒色同盟、ついに立ち上がる』

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黒猫タンゴの願い
——Special thanks to Kajipeta san


 黒蜘蛛のブラック・ウィドー、そして黒鳥のオディールは眉間に皺を寄せてひそひそと話をしていた。といっても2人、いや2匹とも全身完膚なきまでに黒いので、寄せた皺が定着してしまうのではないかと心配する必要はない。このストーリーの本題とはまったく関係のないことだが、レディたちにとってこれ以上に重要なことはない。

 額の皺の次に2匹の心配の種となっているのが、黒猫のタンゴである。3匹とも『黒色同盟』の初期からのメンバーで、種の違いを超えた絆がある。例えばオディールはそこらへんの湖に浮かぶ白鳥には挨拶を返す程度の親しさしか持たないが、ブラック・ウィドーとは徹夜で恋バナをすることもある。

 『黒色同盟』というのは、体色が黒い動物たちの互助組合のようなもので主に「黒いからといって排除されたり嫌われたりする理不尽について」定例会議を行い、事例の共有と対策を話し合っている。

 さて、タンゴである。タンゴは誇り高き黒猫だ。真っ黒のつややかな毛並みが自慢。もちろん前足や後足などに白足袋を履いているような中途半端な黒さではなく、中世のヨーロッパにでもいたら真っ先に魔女裁判で薪の上に置かれたような完全な黒さだ。

 子供の頃に、飼い主の車の前を横切ったら、その午後に飼い主が一旦停止違反でその月に何度目かの違反切符をくらいそのまま免停になってしまったという理由で里子に出された。新しい飼い主が密かに猫虐待を趣味としていることがわかったので、人間界に見切りをつけて自立し、それ以来、野良猫としてこの街に暮らしている。

 みかんと温泉などで有名な、比較的温暖な県に暮らしているので冬の野宿も何とかなった。また、漁港も近いので干し魚などをちょろまかす機会にも恵まれた。追いかけてくる人間に追いつかれないようによく走るので運動不足とも無縁。飼い猫だった頃よりもずっと健康的に暮らしていると、淡々と語っていた。

 そのタンゴが、塞ぎ込んでいる。

 『黒色同盟』の定例会議に出てこなかったので、心配して探しにいくと、宝物であり唯一の財産ともいえるアジの干物を抱えてメソメソと泣いていたのだ。

「なに、いったいどうしたの?」
オディールが訊くと、小さな声でタンゴは答えた。
「鯛、ブリ、牡蠣、焼き肉……」

 オディールと、ブラック・ウィドーは顔を見合わせてから笑った。
「何よぅ。食い意地張って、寝ぼけているだけ?!」
「もう。起きてよ!」

 するとタンゴはキッとなっていった。
「寝ぼけてなんかいないよ。寝ていないもん」

「じゃあ、どうしたっていうのよ」
オディールが訊くと、タンゴは再びメソメソしながら言った。

「暖かいお家で、焼き肉&お刺身パーティーしていたんだよう。コタツもあるんだよう。僕も中に入れてもらって、パーティーに加わりたいって思ったんだけど、夜には僕って目立たないじゃないか。だから、氣づいてもらえなかったんだ」

 ブラック・ウィドーは「ふん」と鼻を鳴らした。
「大人しく、玄関の前で待っていたって、開けてくれる人間なんかいないのは百も承知でしょ。勝手に入り込むのよ」

 オディールは異議を唱えた。
「あんたのサイズなら、それも可能だろうけど、タンゴが入り込んだらバレて追い出されるに決まっているじゃない。そりゃ刺身のひと切れをくすねるくらいはいけるかもしれないけど、コタツで丸くなるのは無理でしょ」

 タンゴはさらにメソメソした。
「そうなんだ。あの家は動物に優しいんだけど、でも、さすがに不法侵入者にコタツを提供するわけはないよ」

「さっきから、具体的な家のことを言っているみたいだけど、どこの家なのよ」
オディールが優しく訊いた。

「あの家だよ。ほら、『黒い折り鶴事件』の家」
タンゴがしょんぼりと答えた。

「あら。あの家ねぇ」
ブラック・ウィドーも「なるほど」と頷いた。『黒い折り鶴事件』とは、以前に『黒色同盟』が抗議行動をしようと押しかけた家である。きっかけはタンゴが通りかかって、「たくさんの折り鶴から黒い鶴だけ排除しようとしている、また差別だ」と早とちりしたからなのだが、結局黒い折り鶴は「かわいい」と飾ってもらえるという厚遇を得ていることがわかり、『黒色同盟』が喜びでお祭り騒ぎになったのだ。

「あの家なら、2匹のコーギーがいたはずでしょ。彼らに手引きしてもらえないの?」
オディールが首をひねった。

「2匹とも、虹の橋の向こうに引っ越したんだ」
「ええっ、いつ?」
2匹とも知らなかったので大層驚いた。

「えーっと、5年前と去年。どっちも今ごろだったっけ……あれ?」
タンゴが顔を上げて考え込んだ。

「どうしたっていうのよ」
オディールは羽をばたつかせた。

「うん。そういえば年上の方、たしか今日が祥月命日だ。来ているかも」

 虹の橋の向こうに引っ越した動物たちは、お盆、お彼岸、キリスト教圏だと11月の死者の日、それに祥月命日には休暇をもらい、こちらに遊びに来ることが多い。残念ながらヒトには見えないことが多いのだが、動物たちは普通に会うし、会話を交わすこともある。

「あの家なら、来ているんじゃない? 行ってみたら?」
2匹に後押しされて、タンゴは『黒い折り鶴事件』の家に足を運んだ。

 見るとコーギーはしっかり来ていた。命日ではないがもう1匹も仲良く休暇を取って遊びに来たらしかった。久しぶりの我が家で楽しく寛ぎ、飼い主たちに甘えまくっているようだ。

 ガラス戸の外からタンゴがじっと眺めると、氣づいた年上のコーギーが近づいてきた。
「どうした、黒猫の坊や。ひさしぶりだな」

「ぼ、僕、相談があって……。今日なら、ここに来ているかもって思ったから」
「ほう。言ってごらん? 見ての通り、ヒトにはあまり氣づいてもらえないから、出来ることは限られているけどね」
その言葉を聴いて、もう1匹も面白そうだと近づいてきた。

 タンゴは、彼の問題を話した。年末に美味しそうなパーティーを見て、入れてもらいたいとここに座っていたこと。でも、真っ黒で氣づいてもらえなかったこと。ペットだったときに邪険にされてばかりいたので、どうやってヒトに仲良くしてもらえるか知らないことなどだ。

「そうか。君はここの家の家族になりたいのかい?」
「そこまでは望んでいないけど、格別寒い夜には、入れてもらえたらいいなとか、刺身の端っことか、まだ肉のついている骨を分けてくれたら嬉しいなとか。あと、たまには、なでなでも……」

「ああ、ああいうの、いいよねぇ」
若いコーギーはうっとりと同意した。

 年上のコーギーは、ふむと頷いた。
「なるほどねぇ。僕たちがこっちに住んでいたときなら、連れて行って紹介も出来たけれど、いまだとそれは難しいな」
「そ、そうですよね」

「僕たち、ときどきやるけどね。勝手に入り込んで食べたり、寛いだり」
若いコーギーが言うと、年上コーギーが言った。
「それは無理だろ。この坊やは、まだこっちの世界の住人だ。夢の中に自由に移動なんて……あ、まてよ!」

 年上コーギーは何か思いついたようだった。若いコーギーは尻尾を振って期待の瞳を向ける。タンゴもじっと年上コーギーの言葉を待った。

 年上コーギーは、しばらく何かをシミュレーションしていたようだったが、やがて満足げに頷くと重々しく言った。
「彼女の夢にしよう。幸いモノトーンの猫たちの思い出がたくさんあるからね」

「というと?」
タンゴは訊いた。

「僕たちや虹の橋の向こうに住んでいる仲間が、こっちに里帰りをしてもヒトには見えないことが多いんだけれど、夢の中ではお互いに見えるし、会話をすることも可能なんだよ」

 年上コーギーがそう言うと、若いコーギーが口をはさんだ。
「でも、ヒト、起きるとすぐに忘れちゃうじゃないか」

 タンゴはそうなのかと少しガッカリした。それを慰めるように年上コーギーは微笑んだ。
「だから、メインのメッセージがよく伝わるように、もしくは、多少違った風に記憶されても、後の現実世界で起こったときに氣づきやすいような印象を残すことが大切なんだよ」

「へえ。どうするの、どうするの?」
若いコーギーは尻尾を振って、年上コーギーとタンゴの周りをグルグルと周った。

「彼女の昔の友達たちに協力してもらうのさ。黒っぽい猫たちに、次々と家の中に入っていってもらう。そうすると、彼女の印象の中には『黒い猫の友達を、家に上げるのも悪くない』ってメッセージが残るだろう? そして、次に君がここに来たときに、そのメッセージがぼんやりからはっきりに切り替わるんだ」

 タンゴは、年上コーギーを尊敬の目で見上げた。若いコーギーは尻尾を振ったまま訊いた。
「その夢、僕たちも一緒に行く?」

「いや、その夢には入っていかない方がいいな。僕たちが行くと、メッセージが正しく伝わらないだろう? 『コーギーを家に上げるのが悪くない』は夢で伝えなくてもわかっているし、僕たちが加わったらそもそも『会いたいよ』って意味だと印象に残ってしまうからね。僕たちは、別の日にあらためて逢いに行こう」

 若いコーギーは頷いた。タンゴは、親切なコーギーたちにお礼を言って、またねぐらに戻っていった。

 夢でのメッセージが上手く伝わったら、いつかタンゴも魚のあらを食べさせてもらったり、コタツ布団の上で休ませてもらったりする日も来るかもしれない。

 そう考えるだけで、1月だというのに春が近づいてきたかのようにポカポカとした心地になってきた。今日はあの親切なコーギーたちのために福寿草の花と、お宝のアジの干物を供えようと思った。

(初出:2023年1月 書き下ろし)
関連記事 (Category: scriviamo! 2023)
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Category : scriviamo! 2023
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】再告白計画、またはさらなるカオス

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第1弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化している『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。

最近、つーちゃん&ムツリくんの方に関心が向かいがちなので、強引にアーちゃんの恋路に話題を戻そうとしましたが、なんだかもっとカオスになってしまいました。あはははは。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私が書いた『やっかいなことになる予感』
ダメ子さんの『疑惑』

私の作品は以下のリンクからまとめ読みできます。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ

「scriviamo! 2023」について
「scriviamo! 2023」の作品を全部読む
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



再告白計画、またはさらなるカオス - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 びっくりした。どこかに行ったかと思ったら、帰ってきたアーちゃんが、とんでもないことを言い出すんだもの。

「ねえ、つーちゃん。もしかして、ムツリ先輩に強引に迫られちゃったの?」

 私は一瞬絶句。氣を取り直してこういうのが精一杯だった。
「何わけのわからないこといっているの? そんなわけないでしょ」

「でも、つーちゃん、ずっとため息ついているよ。何かあったのかなって」
そう言われて、ドキッとした。私、ため息なんてついていたっけ。

「そ、そうかな? それに、どこからムツリ先輩……?」
ダメだこりゃ。我ながら狼狽えすぎ。これじゃ、誤解されてもしかたないかも。アーちゃんは、ますます疑い深い顔になっている。違うってば。

 そもそも「モテ先輩の彼女になるためにチャラ先輩を使って暗躍している」という噂が広まって、アーちゃんが女の先輩たちに睨まれている件をなんとかしようとして、ムツリ先輩に相談をしたかったんじゃないのよ。すっかり忘れてた。

 だって、ムツリ先輩、あの大人っぽい女の人と特別な関係みたいだったし。いや、だから、私にはまったく関係のないことだけど。

 私のことなんか、どうでもいいのよ。それよりもアーちゃんの件を何とかしないと。好きなのはモテ先輩じゃなくて、チャラ先輩だって、女の先輩方に認識してもらわないとこれから面倒だよ。

 そう言おうとして、アーちゃんを見ると、なんか様子が違う。妙に嬉しそうだ。目が合うと、はにかんで笑った。
「さっき、チャラ先輩と普通にお話しできちゃった。名前も憶えてもらったし、嬉しいな。つーちゃんが助けてくれたから、ここまで親しくなれたんだもの。私もつーちゃんのために頑張るよ」

 私は、慌てて断った。
「私の推しは日本にはいないから、頑張るのは難しいよ。氣持ちだけで十分。ありがとう」

 こう言われたら、やっぱりアーちゃんのために頑張らなくちゃ。改めて作戦を練らなくちゃ。

「ねえ。アーちゃん。やっぱり、チャラ先輩の誤解をちゃんと解いた方がいいと思うんだ」
そういうと、アーちゃんはぱっと顔を赤らめて言った。

「それは、私もそう思うけど、どうしたらいいかわからないんだもの。来年のバレンタインデーまで待ってもいいかなあ」

 そんな悠長なことを言っていたら、モテ先輩大好きな先輩たちに袋だたきにされちゃうよ。

「1年も待つ必要なんてないよ。なんなら明日にでもまたお菓子作ってきなよ。『作ったので、お裾分けです』とかなんとか言ってさ。そこで『なぜ』って訊かれたら、『バレンタインのチョコもチャラ先輩宛だったんです』って言えるじゃない」

 アーちゃんは、きょとんとしていた。どうやら今の中途半端な仲の良さでも悪くないと思っているらしい。モテ先輩好きの皆さんからの悪評については氣づいていないみたい。とはいえ、私が強引に勧めたので、明日はクッキーを作ってくるみたい。

 というわけで、私はムツリ先輩を探して、再告白のためのお膳立ての協力を仰ぐことにした。やっぱり、教室みたいな目立つところではあがり症のアーちゃんが告白できるわけはないし、目立たないところに連れ出してもらう必要がある。

 またバスケ部にでもいるんだろうと、部室の方に歩いていったら無事にムツリ先輩を発見した。

『先輩。ちょうどいいところに。ちょっとアーちゃんのことでお願いが……」
「俺に? うん、なに?」

「このままじゃ、アーちゃん、モテ先輩のファンの先輩たちに睨まれてバスケ部でも立場が悪くなりそうですよね。だから、この辺で再告白させて、話をすっきりさせようかと」

「あー、なるほどね」
「で、明日、彼女がクッキーを焼いてくるってことにしたんですけれど、先輩を目立たないところに引っ張ってきてくれないかと……」
「あ。そういうことか。明日の放課後?」

「なになに、仲良く相談? 聞こえちゃったぞ」
その声にぎょっとして振り向くと、なんと当のチャラ先輩が後ろにいた。いつの間に。忍者か。

「えっと。つまり、その……」
慌てる私に、チャラ先輩は「みなまで言うな」という顔で続けた。

「それは、俺もいい案だと思うよ。もう1度モテの野郎にはっきりと告白するってのはさ。でも、俺たち男が告白場所まで行けと言っても、あいつ、簡単には行かなそうだろ。ちょっと策を練らないとなぁ。あ、思いついたぞ!」

 そう言うと、チャラ先輩は校門に向かって歩いている1人の先輩を呼び止めた。
「おーい。いいところに、なあ、ちょっと!」

 その人はおかっぱ頭の小柄な女性だ。たしかムツリ先輩と同じクラスだったような。

「まずい。チャラが暴走している」
ムツリ先輩が困ったように、チャラ先輩の後を追ったので、私もついていった。チャラ先輩は帰宅しようとしているその先輩と話し始めている。

「なあ。君さ。モテの隣の席じゃん、名前、なんだっけ、えーと」
「多迷さんだろ」
ムツリ先輩が小さな声で指摘する。

「そうそう。あのさ。明日の夕礼の直前にさ、モテにメモを渡してくれないかな。あいつに告白したい子がいるんだよ。俺たちが言っても素直には来てくれないと思うけど、普段、関わりの少ない多迷さんからメモをもらったら、モテもつべこべ言わずに来てくれると思うんだ」

 多迷先輩は、先ほどからなんだか慌てた様子で、ほとんどはっきりとした返答を返していない。アーちゃんとは違うタイプだけれど、コミュニケーションが上手ではなさそう。

 私とムツリ先輩は、無言でうなずき合った。こうなったら、この状況を利用させてもらおう。

 あとで、この多迷先輩に事情を説明して、そのメモはモテ先輩には渡さないようにしてもらおう。そして、ムツリ先輩には、告白を遠くで見守ると称してチャラ先輩をここに連れてきてもらい、ここでアーちゃんに告白させる。うん。それでいこう。

 多迷先輩は、チャラ先輩に押し切られて何かモゴモゴ言っている。大丈夫、その役目、やらずに済むから。

 そんなやり取りをしている時に、また別の先輩が通りかかった。わりと明るめの髪をしたこの人は、知ってる。たしか愛瀬ミエ先輩。前、モテ先輩とつきあっているって噂になっていたような……。

「ダメ子っちじゃん。楽しそうに、なにしているの? 私も混ぜて」
「お。君も協力したい? 実は、俺たちの後輩の子がさ。明日モテのやつに告白するのを多迷くんに協力してもらうことになったんだよ」

「おい、チャラ……その子さ、たしか……」
ムツリ先輩も、噂は知っていたみたいだけど、チャラ先輩は知らないのかな? あらあら、多迷先輩も焦っているし、愛瀬先輩はその多迷先輩を見て涙目になっているみたい。

 ああ、ちゃちゃっと告白し直しで話がおさまるかと思いきや、また別のカオスが起き始めているかも。明日が思いやられるよ。

(初出:2023年1月 書き下ろし)

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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】再告白計画、またはさらなるカオス

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第1弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化している『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。

最近、つーちゃん&ムツリくんの方に関心が向かいがちなので、強引にアーちゃんの恋路に話題を戻そうとしましたが、なんだかもっとカオスになってしまいました。あはははは。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私が書いた『やっかいなことになる予感』
ダメ子さんの『疑惑』

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 びっくりした。どこかに行ったかと思ったら、帰ってきたアーちゃんが、とんでもないことを言い出すんだもの。

「ねえ、つーちゃん。もしかして、ムツリ先輩に強引に迫られちゃったの?」

 私は一瞬絶句。氣を取り直してこういうのが精一杯だった。
「何わけのわからないこといっているの? そんなわけないでしょ」

「でも、つーちゃん、ずっとため息ついているよ。何かあったのかなって」
そう言われて、ドキッとした。私、ため息なんてついていたっけ。

「そ、そうかな? それに、どこからムツリ先輩……?」
ダメだこりゃ。我ながら狼狽えすぎ。これじゃ、誤解されてもしかたないかも。アーちゃんは、ますます疑い深い顔になっている。違うってば。

 そもそも「モテ先輩の彼女になるためにチャラ先輩を使って暗躍している」という噂が広まって、アーちゃんが女の先輩たちに睨まれている件をなんとかしようとして、ムツリ先輩に相談をしたかったんじゃないのよ。すっかり忘れてた。

 だって、ムツリ先輩、あの大人っぽい女の人と特別な関係みたいだったし。いや、だから、私にはまったく関係のないことだけど。

 私のことなんか、どうでもいいのよ。それよりもアーちゃんの件を何とかしないと。好きなのはモテ先輩じゃなくて、チャラ先輩だって、女の先輩方に認識してもらわないとこれから面倒だよ。

 そう言おうとして、アーちゃんを見ると、なんか様子が違う。妙に嬉しそうだ。目が合うと、はにかんで笑った。
「さっき、チャラ先輩と普通にお話しできちゃった。名前も憶えてもらったし、嬉しいな。つーちゃんが助けてくれたから、ここまで親しくなれたんだもの。私もつーちゃんのために頑張るよ」

 私は、慌てて断った。
「私の推しは日本にはいないから、頑張るのは難しいよ。氣持ちだけで十分。ありがとう」

 こう言われたら、やっぱりアーちゃんのために頑張らなくちゃ。改めて作戦を練らなくちゃ。

「ねえ。アーちゃん。やっぱり、チャラ先輩の誤解をちゃんと解いた方がいいと思うんだ」
そういうと、アーちゃんはぱっと顔を赤らめて言った。

「それは、私もそう思うけど、どうしたらいいかわからないんだもの。来年のバレンタインデーまで待ってもいいかなあ」

 そんな悠長なことを言っていたら、モテ先輩大好きな先輩たちに袋だたきにされちゃうよ。

「1年も待つ必要なんてないよ。なんなら明日にでもまたお菓子作ってきなよ。『作ったので、お裾分けです』とかなんとか言ってさ。そこで『なぜ』って訊かれたら、『バレンタインのチョコもチャラ先輩宛だったんです』って言えるじゃない」

 アーちゃんは、きょとんとしていた。どうやら今の中途半端な仲の良さでも悪くないと思っているらしい。モテ先輩好きの皆さんからの悪評については氣づいていないみたい。とはいえ、私が強引に勧めたので、明日はクッキーを作ってくるみたい。

 というわけで、私はムツリ先輩を探して、再告白のためのお膳立ての協力を仰ぐことにした。やっぱり、教室みたいな目立つところではあがり症のアーちゃんが告白できるわけはないし、目立たないところに連れ出してもらう必要がある。

 またバスケ部にでもいるんだろうと、部室の方に歩いていったら無事にムツリ先輩を発見した。

『先輩。ちょうどいいところに。ちょっとアーちゃんのことでお願いが……」
「俺に? うん、なに?」

「このままじゃ、アーちゃん、モテ先輩のファンの先輩たちに睨まれてバスケ部でも立場が悪くなりそうですよね。だから、この辺で再告白させて、話をすっきりさせようかと」

「あー、なるほどね」
「で、明日、彼女がクッキーを焼いてくるってことにしたんですけれど、先輩を目立たないところに引っ張ってきてくれないかと……」
「あ。そういうことか。明日の放課後?」

「なになに、仲良く相談? 聞こえちゃったぞ」
その声にぎょっとして振り向くと、なんと当のチャラ先輩が後ろにいた。いつの間に。忍者か。

「えっと。つまり、その……」
慌てる私に、チャラ先輩は「みなまで言うな」という顔で続けた。

「それは、俺もいい案だと思うよ。もう1度モテの野郎にはっきりと告白するってのはさ。でも、俺たち男が告白場所まで行けと言っても、あいつ、簡単には行かなそうだろ。ちょっと策を練らないとなぁ。あ、思いついたぞ!」

 そう言うと、チャラ先輩は校門に向かって歩いている1人の先輩を呼び止めた。
「おーい。いいところに、なあ、ちょっと!」

 その人はおかっぱ頭の小柄な女性だ。たしかムツリ先輩と同じクラスだったような。

「まずい。チャラが暴走している」
ムツリ先輩が困ったように、チャラ先輩の後を追ったので、私もついていった。チャラ先輩は帰宅しようとしているその先輩と話し始めている。

「なあ。君さ。モテの隣の席じゃん、名前、なんだっけ、えーと」
「多迷さんだろ」
ムツリ先輩が小さな声で指摘する。

「そうそう。あのさ。明日の夕礼の直前にさ、モテにメモを渡してくれないかな。あいつに告白したい子がいるんだよ。俺たちが言っても素直には来てくれないと思うけど、普段、関わりの少ない多迷さんからメモをもらったら、モテもつべこべ言わずに来てくれると思うんだ」

 多迷先輩は、先ほどからなんだか慌てた様子で、ほとんどはっきりとした返答を返していない。アーちゃんとは違うタイプだけれど、コミュニケーションが上手ではなさそう。

 私とムツリ先輩は、無言でうなずき合った。こうなったら、この状況を利用させてもらおう。

 あとで、この多迷先輩に事情を説明して、そのメモはモテ先輩には渡さないようにしてもらおう。そして、ムツリ先輩には、告白を遠くで見守ると称してチャラ先輩をここに連れてきてもらい、ここでアーちゃんに告白させる。うん。それでいこう。

 多迷先輩は、チャラ先輩に押し切られて何かモゴモゴ言っている。大丈夫、その役目、やらずに済むから。

 そんなやり取りをしている時に、また別の先輩が通りかかった。わりと明るめの髪をしたこの人は、知ってる。たしか愛瀬ミエ先輩。前、モテ先輩とつきあっているって噂になっていたような……。

「ダメ子っちじゃん。楽しそうに、なにしているの? 私も混ぜて」
「お。君も協力したい? 実は、俺たちの後輩の子がさ。明日モテのやつに告白するのを多迷くんに協力してもらうことになったんだよ」

「おい、チャラ……その子さ、たしか……」
ムツリ先輩も、噂は知っていたみたいだけど、チャラ先輩は知らないのかな? あらあら、多迷先輩も焦っているし、愛瀬先輩はその多迷先輩を見て涙目になっているみたい。

 ああ、ちゃちゃっと告白し直しで話がおさまるかと思いきや、また別のカオスが起き始めているかも。明日が思いやられるよ。

(初出:2023年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】そして、1000年後にも

今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の建築』1月分です。今年は、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめていくつもりです。

トップバッターは、今年もこのブログでもっとも馴染みのあるグルーブArtistas callejerosです。テーマの建築は、ポン・デュ・ガールです。南フランス、ガルドン川に架かるローマ時代の水道橋です。

このストーリーは本編とはまったく関係がないので、本編をご存じない方でも問題なく読めます。あえて説明するならヨーロッパを大道芸をしながら旅している4人組です。


短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む 短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む

【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物




大道芸人たち・外伝
そして、1000年後にも


 陽光は柔らかく暖かいものの、弱々しい。ブドウの木はまだ眠っているようだし、地面の草の色もまだ生命の喜びを主張しては来ない。何よりも浮かれたバカンスを満喫する車とすれ違うことがまったくない。南仏の田舎道は、慎ましくひっそりとしている。

 だが、国道100号線を走るこちらの車の内側がシンと静まりかえっているかといえば、そんなことはない。今日ハンドルを握るのはヴィルだ。助手席にはフランス語の標識に即座に反応できるという理由でレネが座ったが、そもそも迷うほどの分岐はほとんどなかった。

 日本人2人組は、道を間違えてはならないという緊張もないためか、時に歌い、時に笑い、そうでなければ、ひきりなしに喋り続けていた。

「そういえば、今日のお昼に食べたあの料理、なんて名前だったかしら?」
レネの母親シュザンヌが作る料理は、素朴ながらどれも大変美味しいのだが、今日の昼食はいつもよりもさらに手がかかっていた。ひき肉を薄切り肉で包み、さらにベーコンでぐるりと取り巻いてからたこ糸で縛ってブイヨンで蒸し煮にしてあった。ワインにもよくあって、蝶子は氣に入ったらしい。

「メリー・ポピンズみたいな料理名だったよな?」
稔が適当なことを口にする。蝶子は呆れて軽く睨んだ。絶対に違うでしょう。

「ポーピエットですよ」
レネが振り返って言った。
「今日のは仔牛肉で作っていましたが、白身魚で包んだり、中身を野菜にしたり、いろいろなバリエーションがあるんですよ。煮るだけじゃなくて、焼いたり揚げたりすることもありますし」

「ああ、それそれ。美味かったよな。それに、あのチョコレートプリンも絶品だったよなあ」
普段あまり甘いものに興味を示さない稔がしみじみと言った。

 バルセロナのモンテス氏の店での仕事を終えて、イタリアへと移る隙間時間に、4人はアヴィニョンのレネの両親を訪ねた。例のごとく大量のご馳走で歓待され、レネの父親のピエールとかなりのワイン瓶を空にした。それで、4人は今夜も大量に飲むであろうパスティスやその他の酒瓶、それに食糧を仕入れに行くことにした。そして、ついでに『ポン・デュ・ガール』に足を伸ばすことにしたのだ。

 『ポン・デュ・ガール』は、ローマ時代に築かれたガルドン川に架かる水道橋だ。高さ49メートル、長さ275メートルのこの橋は、ローマ帝国の高度な土木技術が結集した名橋だ。レネの両親の家から30分少し車を走らせれば着くと聞いて、蝶子が買い出しのついでに行きたがったのだ。
 
 世界遺産にも登録されたためか、駐車場と備えたビジターセンターがあり、そこで入場料を払う仕組みになっていた。ミュージアムの入館料も含んでいるので、橋を渡るだけにしては若干高いが、歴史的建造物の維持に必要なことは理解できる。

 4人は、ミュージアムを観るかどうかは保留にして、とりあえず橋を見にいくことにした。センターを越えてしばらく歩くと行く手に橋が見えてくる。深い青空をバックに堂々と横たわるシルエットは思った以上に大きかった。

 さらに近づくとその大きさはこちらを圧倒するばかりになる。黄色い石灰岩の巨石1つ1つを正確に切り出して積み上げている。これを、クレーンもない時代に作ったことに驚きを隠せない。

「こんなに高くて立派な橋を作ることになったのはどうして?」

「今のニームにあったローマの都市で水が不足して、ユゼスから水を引くことになったんです。それで、この川を渡る必要ができたんだそうです」

 アヴィニョンの東にある水源地ユゼスから、ネマウスス、現在のニームまで水を引くためにはいくつもの難関があった。ユゼスとネマウススの間には高低差が12メートルしかなかったので、1キロメートルごとに平均34センチという傾斜を正確に計算し、時に地表を走らせ、時に地中を走らせつつも、幅1.2メートル、深さ1.8メートルの水路を全行程に統一させた。越えられぬ山を通すためにセルナックのトンネルが掘られた。そして、最大の難関がこの渓谷だった。ローマ人は、この難関を奇跡ともいえる建造物を使って克服したのだ。それが、ポン・デュ・ガールだった。

 その3層のアーチ構造は、強度を保ちながら少ない材料で橋を高くする合理的な設計だ。それぞれのアーチは同じサイズに揃えられ、部分の石の大きさも統一されている。プレハブで建物を作るように、同じ大きさの部品を大量に作り一氣に建築する方法によって、ポン・デュ・ガールはわずか5年で完成したという。

 3層構造と文字で読むと大したことがなく感じられても、実際に目にするとその大きさには圧倒される。49メートルとは、14階建てのビルに匹敵する高さなのだ。1つ6トンもの石を4万個も積み上げたのは、最上階を走る幅1メートルあまりの水路のためだが、その下を歩く人びとにも大きな助けとなり、ローマの土木技術の正確さと、当時の帝国の栄光を2000年経った今も伝えるのだ。

 4人を含める観光客が自由に歩き回れるのは、19世紀にナポレオン3世が修復し加えられた最下アーチ上の拡張部分だ。ごく普通の橋であれば、ずいぶん広くて堂々としていると感じるのであろうが、古代ローマ時代の大きく太い橋脚がそびえ立つので、小さな部分のように錯覚してしまう。

 水道のある上部は、予約をしたガイド付きツアーの客のみ上がれる。1日の人数制限もあり、思いついて行けるような所でもないらしい。

「子供の時に一度登りましたが、足がガクガクしました」
「ここも、高所恐怖症の人には十分怖いかもしれないわね」

 眼下を流れるガルドン川は、紺碧というのがふさわしい深い青の水だ。周りの白っぽい岩石とのコントラストが美しい。 

 常に穏やかな流れではないガルドン川は、時には大きな濁流となって地域を脅かすこともあった。ポン・デュ・ガールが、長い歴史の中で修復・補強されながらも、現在もこのように立派に経っていることには畏怖すら感じる。それは、大きな水圧にも耐えるよう計算し尽くされた古代ローマの土木技術の賜だ。

「他の地域に大きな被害をもたらした2002年のガルドン川の増水と氾濫でも、この橋はびくともしなかったんですよ」
レネは、説明する。

「水道としての役割はとっくになくなりましたが、橋としては今でも現役ですし、それに、夏には、ここでピクニックをする人がたくさんいるんですよ。2000年前の建造物ですが、人びとの生活や楽しみからかけ離れていない存在なんです」

 もちろん、1月はピクニックには寒く、河岸でたくさんの人が寛いでいるわけではなかった。

 駐車場方向に戻る途中に、古いオリーブの木が目に入った。レネが3人をそちらに連れて行った。

「ずいぶん古い木ね」
蝶子がいうと、レネは片目を瞑った。

「単なる古い木じゃありません。樹齢1000年を越えているんです」
「ええっ?」

 傍らに石碑がおいてある。その石碑自体が古くて半ば崩れたようになっているので、言われるまでそれが石碑だと氣がつかなかった。

Je suis né en l'an 908.
Je mesure 5 m de circonférence de tronc , 15 m de circonférence souche.
J'ai vécu, mon passé , jusqu'en 1985 dans une région aride et froide d'Espagne.
Le conseil général du Gard, passionné par mon âge et mon histoire m'a adopté avec deux de mes congénères.
J'ai été planté le 23 septembre 1988.
Je suis fier de participer au décor prestigieux et naturel du Pont du Gard.


「『私は908年に生まれました。幹周りは5m、株の周りは15mです。1985年までスペインの乾燥した寒い地方に住んでいました。私の年齢と経歴に魅了されたガールの総評議会は、私を2人の同胞とともに養子として迎え入れ、1988年9月23日にここに植樹しました。ポン・デュ・ガールの格調高い自然環境の一端を担えることを誇りに思います』」
レネが、碑文を訳した。

「908年って、日本だと平安時代かしら?」
「確かそうだろ。ほら、菅原道真が遣唐使を廃止したのが894年だったよな」
「ヤスったら、よくそんな年号覚えているわね」
「平安時代だと、『鳴くよウグイス』とそれ以外は何も覚えちゃいないけどな」

 4人はオリーブの木と、向こうに見えているポン・デュ・ガールを眺めた。

「こういうのからすると、俺たちの経験してきた数十年なんてのはほんの一瞬なんだろうなあ」
稔がしみじみと言った。

「そうね。人間というのは、ずいぶんとジタバタする生き物だって思っているかもしれないわね」
蝶子は、老木の周りを歩いて風にそよぐ枝を見上げた。

「新たな技術で何かを築き上げては、戦争をして壊しまくる。豊かになったり、貧しくなったり忙しいヤツらだと思うかもな」
ヴィルはポン・デュ・ガールの方を見て言った。

「僕が子供の頃と較べても観光客や地元民の様相は変わったけれど、この樹々とポン・デュ・ガールは全く変わらない。ただひたすら存在するって、それだけですごいことだと思いますよ」

 人間がそれほど長く生きられないことはわかっている。いま、自分たちが親しんでいるほとんどの物質や文化も、1000年後には姿形もなくなっていることだろう。

 それでも、何かは過去から残り、未来へと受け継がれていく。この古木やポン・デュ・ガールのように。

「1000年後のやつらも、同じようなことを思うのかなあ」
稔はポツリと言った。

「残っていたら、きっと思うわよ」
蝶子がいうと、レネは心配そうに言った。
「残りますかねぇ」

「俺は、現代の人類がよけいなことをしなければ、残ると思うな」
ヴィルは言った。

 4人は、彼らと同じ時間ならびにその後の時間を生きる人類が、素晴らしい過去の遺産や生命を尊重し続けるように心から願いながら、再びレネの実家に戻っていった。

(初出:2023年1月 書き下ろし)

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Pont du Gard, France - World Heritage Journeys
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