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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

Tag: 読み切り小説 - 新しい順に表示されます。


Posted by 八少女 夕

【小説】《ザンジバル》

「十二ヶ月の歌」の八月分です。今年も三分の二も終わりって……嘘だ。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。八月はフランスのシンガーソングライター、ディディエ・シュストラックの”ザンジバル”という歌にインスパイアされて書いた作品です。

私がこの曲を知った経緯はそのままこの小説に書いてあります。そして、1996年のアフリカ一人旅でも、本当にザンジバル島を訪れています。そして、ここを訪れたことが、現在、アフリカとは全く関係のないこの国に移住することになった小さなきっかけの一つになっているのです。だから、私の中でこの島は今でもものすごく特別な場所です。

観念的でこれといったオチのない話です。よかったら、先に(または同時に)曲を聴いてお読みください。なお、小説を飛ばして動画だけご覧になるのもいいかと思います。素晴らしい光景ですけれど、これ、いいところだけを上手に切り取った系の風景ではなく、本当にこういう島です。


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《ザンジバル》
Inspired from "Zanzibar" by Didier Sustrac

 明るいエメラルドグリーンの海がどこまでも広がっていた。白い砂浜には陽光が反射している。こんなに完璧なビーチだというのに、観光客の姿が少ない。いないわけではない。だが、八月と言えば世界中から夏の休暇で観光客が押し寄せるハイシーズンのはずだ。例えば、カナリア諸島やギリシャの島ではパラソルやビーチタオルが隙なく広げられて、砂浜も見えないほどだ。それなのにここでは、背景に自分たち以外は映っていない、まるで無人島のような写真を撮ることも簡単なほどわずかな観光客しかいないのだ。

 ようやくここにやって来た。初めてこの島のことを知ってから八年が経っていた。渋谷のCDショップで何げなく試聴したフランス語のアルバム。ディディエ・シュストラック。聞いたこともないアーティストだったけれど、心地よい声とリズムに心惹かれて、歌詞の意味もわからずに買い求めた。その最後に入っていた曲がアルバムのタイトルにもなっていた「Zanzibar」だった。

 日本語対訳を読みながら、この歌が実在のザンジバル島のことを歌いながら、同時に遠い憧れを語っていることを知った。でも、よく理解できない言葉がいくつかあった。「貿易風はささやく、”ランボー”と……」「わずかなアビシニアの魅力と、”アルチュール”の言葉」。何のことだろう? フランスの詩人ランボーのこと?

 それで、調べてみた。ザンジバルと関係のあるランボーのことを。それは本当に詩人アルチュール・ランボーの事だった。彼は、なくなる前年までの十年間を、アラビアのアデンと、アビシニア(現在のエチオピア)のハラルを往復して過ごした。そこからフランスの家族にあてた手紙で「ザンジバルへ行くつもりだ」と告げていたのだ。けれど、彼は実際には一度もザンジバル島に足を踏み入れなかった。

 彼は、アデンでフランス商人に雇われ、やがてハラールで武器商人となって暮らした。骨肉腫で右足を切断することになり、フランスに戻り亡くなった。

「あなたは、中国人?」
私は、驚いて手に持っていたカメラを取り落とすところだった。

 振り向くと、褐色肌のすらりとした女性が立っていた。アーモンド形の綺麗な瞳、化粧ではなくて自然のままに見えるのにまるで二日目の月のごとく完璧な形の眉。すらりとした鼻筋と口角の上がった厚めの唇。低めにまとめたストレートの黒髪は、とても長いのだろう大きなシニヨンとして艶やかに首の後ろを飾っている。鮮やかなセルリアンブルーの布を巻き付けたように見えるワンピースドレスが褐色の肌の美しさを引き立てていた。

 ここまで彫りが深くて目鼻立ちの整った女性は、『アフリカの角』の出身だろう。かの『シバの女王』やランボーの愛した《アビシニアの女》と同じく。

 ランボーは、アデンに住んでいた一時、アビシニア出身の恋人と住んでいた。手紙で金を無心していたフランスの母親にはひた隠しにしていたその女の存在は、雇い主の家政婦であったフランス人女性によってある程度詳しく証言されている。美しいキリスト教徒の娘と彼は睦まじく過ごしていたと。

「あなたは、中国人なの? それとも?」
現実の方の女性は、英語の質問を繰り返した。

「いいえ、私は日本人です」
私は、答えた。

「まあ、そうなの。日本にはいずれ行ってみたいと思っているのよ、素敵な国だって聞いているわ」
彼女は、微笑んだ。真っ白い歯ののぞく肉感的な唇には、女である私すらもドキドキする。

 私は自分の服装を見下ろして、情けなくなった。近所のコンビニに行くのすらもはばかられる格好だ。大学生時代からの習慣で、バックパックで安宿を泊まり歩くスタイル。捨てて帰る予定のヨレヨレのTシャツと、色のあせたジーンズ、それに履き古したスニーカーと折りたためるのが利点のベージュの帽子。タンザニアの空港では、さほど場違いだとは思わなかったし、スリや置き引きなどに狙われないためには、貧乏に見えた方がいいと思っていたが、この美しい海浜には全くそぐわない。

 彼女の装いは対照的だ。波のきらめきのように様々なトーンの青が混じり合う薄物のドレスは、ファッション誌の巻頭グラビアか、それともリゾートのパンフレットを飾るモデルのように、ビーチを完璧に変えている。もともとの美貌を選び抜いた服装で神々しいまでに昇華しているのだ。美を保つとは、どれほどの努力を必要とするのだろう。そして、それを厭わなかったわずかな人が、こうして「美こそが究極の善である」印象を世界に誇示することが出来るのだ。

「ザンジバルは、初めて?」
「はい。こんなに綺麗な海なのに、ほぼ独り占めってすごいことだなって感心していたところなんです」
「そうね。確かに観光客が押し寄せることは少ないわね。イエローカードが必要だからかしら」

 ザンジバル島は、タンザニアの一部だ。そしてタンザニアに入国するためには黄熱病の予防接種が必須だ。一週間程度のバカンスを頼むのに、わざわざ保健所を訪れて予防接種をしたがる観光客はあまりいないかもしれない。

「あの注射、死ぬほど痛かった。私も予約する前に知っていたら、来るのを考え直したかも。……あなたも予防接種をしてきたんですか?」
私が訊くと彼女は笑った。
「ここに来るためにする必要はないわ、もともとしているもの。私はエチオピアから来たのよ」
ああ、この女性は、本当に『アビシニアからきた麗人』だったのだ。

「あなたは、ここに来たのは初めてなのね。どうして来ようと思ったの?」
その質問に、私ははっとした。言われてみれば、それは少し珍しい選択だったのかもしれない。

 会社を辞めて、次の就職活動をするまでの一ヶ月に旅をしようと思ったのは、それほど珍しくはないだろう。学生時代にはユーレイルパスを利用して、ヨーロッパ横断の旅をしたし、オーストラリアにワーキングホリデーに行った友人もいる。サラリーマンの短い有休では決して行けない旅先でよく聞くのは、マチュピチュなどインカの遺跡を巡る旅、イースター島やナスカの地上絵やウユニ湖など少し遠いけれど有名なところだ。もしくは中国やアジアの多くの国を巡ったり、アメリカ横断、さらには資金問題はあるとはいえ世界一周も悪くない。

 ザンジバルに行くと言って、親や友人たちに口を揃えたように言われたのは「それはどこにある国?」だった。熱帯の島と答えれば、どうしてハワイやグアムではないのか、もしくは新婚旅行で有名なセイシェルやニューカレドニアならツアーがあると逆に提案もされた。

 この島に行きたいという思いを、日本の家族や友人に理解してもらえなかったのは、知名度から言って当然だと受け止めていたけれど、アフリカ出身のこの女性から見ても、極東からここを訪れるのは不思議なことらしい。

 私にとっては、いつの日かこの島を訪れるのは、当たり前のことだった。あの曲が、私の人生に囁きかけてからずっと。《ザンジバル》という名は、私にとって《シャングリラ》《ガンダーラ》《エルドラド》などと同じどこかにある理想郷になっていた。

「ある歌で、ここへの憧れを歌っていたんです。それに、詩人のアルチュール・ランボーも憧れていたと聞いて、一度来てみたいと思っていました」

 ランボーの名前を口にしたときに、彼女の表情にわずかな変化があった。あのエピソードを知っているのだろうと感じた。彼女から、かの《アビシニアの女》の子孫だと告白されるとしても、私は驚かないだろう。もちろん、彼女はそんなことを言い出したりはしなかった。

 その代わりに私の心が、アルチュール・ランボーがマルセイユで短い一生を終えた十九世紀末、まだ私自身が影も形もなかった頃に飛んでいた。ちょうどこの美しい女性のように、かの《アビシニアの女》が、この場に佇んでいたという幻覚、勝手な想像に心を遊ばせた。こんな風に。

「ザンジバル島に行きたいんだ。それから、船に乗って、もっと東へね。とにかく、何よりも大切なのは行くって意思だよ」

 でも、ザンジバルにこうして立っているのは、彼ではなくて私。
「どこでも、好きなところへ行ってしまえ。もう、僕はお前とは関係ないからな」
そう言われて、旅の半ばで放り出された、この私。

 彼は、「はみ出しもの」だとよく自嘲していた。若き日に、恩師との恋愛沙汰と発砲事件がスキャンダルになり、国での出世の見込みは絶たれたと言っていた。母親が心から望んだ、国内のきちんとした職場でコツコツと働くことが出来ず、ギリシャやカイロへ出稼ぎに行ってしまうのだと。

 アデンで一緒に暮らしていた頃、彼は時おりこんなことを口にした。
「フランスにお前を連れ帰ることはできないよ。結婚許可証をもらえる見込みはないしね」
「うちの母親や彼女の住んでいる村は、びっくりするほど旧弊で、お前を連れ帰ったりしたら大変なスキャンダルになるだろうよ」

 なぜそんなことを口にするのだろうと、私はいつも不思議に思った。遠く帰る必要もない国の許可証なんて、何の意味があるのだろう。ましてや、私は彼の国に行くつもりなんてこれっぽっちもなかったのに。

 今ならば、少しだけわかる。

 彼自身が、まっぴらだと言っていた彼の国と、その「常識的な生き方」から自由になっていなかったのだと。彼は、どこかで「まともな女と」「ちゃんとした家庭をもち」「いずれは国に帰る」と思っていたのだろう。

 ザンジバルへ行き、それから、どこだかよくわからない東の国へと向かうことなど、本当は「できない」と思っていたのだろう。

「お前は女だから」
「お前は教育も受けていないから」
「お前は海の風土に耐えられないだろうから」

 彼が、私をザンジバルにも、彼の故郷にも連れて行けない言い訳のように使った全てのフレーズは、彼自身が海の果ての未知の国へと行けないと思い込んだ理由だったのだ。彼は、十分に勇猛でなく、知識や経験が足りず、湿度や高温に耐えられない貧弱な身体であると、恥じていたのかもしれない。

 私は肌の色や、話す言葉の違いなどにはこだわらない。行きたいところにどんな風土病があるかや、そこの人々が自分を受け入れてくれるだろうかなどを怖れたりなどはしない。どこにいても病にかかることはあるし、生まれ故郷でいつも歓迎されていたわけではない。

 小さな舟を乗りついで、私はこの島へやって来た。鮮やかな花と、珍しい果物の溢れる島。遠浅の美しい海が守る島。ほんの少し前まで、かのムスリム商人たちが、大陸から欺して連れてきた人々を、遠い国に奴隷として売り払っていた港。

 私は「ヒッパロスの風」に乗り、アラビアへ、そしてもっと東へと進むだろう。私は風のように自由だ。何よりも彼と違うのは……私は生きているのだ。



「あなたは、アルチュールの夢見たユートピアを探しにここへ来たのね」
青いドレスの麗人が優しく囁いた。私は、現実に引き戻され、はっとしながら彼女を見た。謎めいた瞳には、どこか哀れみに似た光が灯っていた。

 突然、私は悟った。たどり着いたこの地について、はっきりと認識したのだ。

 遠浅の白い砂浜。エメラルドグリーンの海。バニラ、カルダモン、胡椒、グローブ、コーヒー、カカオ、オクラ。島の中程に南国のスパイスを宝物のごとく栽培する島。イランイランやブーゲンビリアの花が咲き乱れ、イスラム世界を思わせる装飾の扉で迎えるエキゾティックな家並み。夕日に映える椰子の林や、枝を天に広げるバオバブの大木。想像していた以上に美しく、観光客ずれもしていない、奇跡のような美しい島。

 けれど、ここは私の《ザンジバル》ではなかった。アルチュール・ランボーが生涯足を踏み入れなかった憧憬の島でもなかったし、ディディエ・シュストラックが誘い願った「物語の終わり」の地でもなかった。

 それは、この島が期待はずれであったからではなく、単純に、私がこんなに簡単にたどり着いてしまったからだ。飛行機を予約し、わずかな金額を振り込み、たった二度の乗り換えで二十四時間もかけずにこの地に降り立ってしまった。悩みも、苦しみも、別離も、挫折も経ずに、なんとなく心惹かれるという理由で、ここに来てしまったから。ユートピア、憧憬の島は、そんな形ではたどり着くことはできないのだ。

「確かにこの島に一度は来たかったし、それにとても素晴らしい島ですけれど……。でも、ユートピアではないですよね」

 彼女は、私の答えに共感したようだった。
「ユートピアは、辿りつくところではなくて、夢見て旅を続けるために存在する場所なのかもしれないわね」

 それから、私の後ろの方を見て、続けた。
「夫が来たわ。私たち、午後の便で帰るの。そろそろ空港に行かなくては。島を楽しんでね」

 会釈をして別れた彼女が向かう先には、レンタカーで待つ白人男性の姿があった。たぶん、移動の手段も、人種の違う二人の結婚も、アルチュール・ランボーの時代とは何もかも違うのだろう。愛の意味も、夢のあり方も。

 この美しい島は、もしかしたら私の想像したように《アビシニアの女》を目撃したかもしれない。そして、私を目撃し、何世紀も後に同じように夢の島を探して彷徨う誰かを目撃するだろう。

 私の《ザンジバル》を求める旅も続く。物語に終わりはないのだ。

(初出:2019年8月 書き下ろし)

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Didier Sustrac "Zanzibar"

この曲についてはあった方がいいかなと思うので歌詞と意訳をしばらく掲載します。
ただし、歌詞カードにあったものを丸写しは出来ないので、私自身が訳したものです。

Zanzibar
(D.Sustrac)

Il y a
L'azalée au mur
Et l'azur indigo
L'alizé qui murmure
Rimbaud

Rien qu'un zeste
D'Abyssinie
Et d'Arthur les mots
Ces voyelles à lire
Incognito

Viens, allons-nous-en
Au Zanzibar
Viens on a tous laissé quelque part
Un rêve, une île
Le bout d' histoire

Parfois
Ces parfums d'épices
A fleur de peau
Nous laissent le mystère d'une miss Afro

Allez, viens, allons-nous-en
Au Zanzibar
Viens on a tous laissé quelque part
Un rêve, une île
Le bout d' histoire

Allez, viens, allons-nous-en
Au Zanzibar
Viens on a tous laissé au hassard
Un bonheur qui ressemble
Au Zanzibar

ザンジバル

アザレアの生け垣と紺碧
貿易風は囁く
詩人ランボーの名前を

わずかなアビシニアの魅力と
アルチュールの言葉
そっと読むべき母音

行こう、ザンジバルへ
行こう、人はみな
夢や島や物語の終わりを
どこかに置き去っている

時にはスパイスの香りがする
肌の華は
僕たちにミス・アフロの謎を残していく

さあ行こう、ザンジバルへ
行こう、人はみな
夢や島や物語の終わりを
どこかに置き去っていく

さあ行こう、ザンジバルへ
一緒に行こう、誰でもザンジバルみたいな
幸福を置き忘れているんだ

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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ひなげしの姫君

「十二ヶ月の歌」の七月分です。もう七月も終わりに近づいているなんて!

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。七月はホセ・ラカジェの”アマポーラ”にインスパイアされて書いた作品です。夏になると、通勤路に野生のひなげしがたくさん咲くので、この曲を選んでみました。

そして、このストーリーは「アマポーラ」だけでなく、もう一つのひなげしに関するお伽噺も下敷きにしてあります。もともとはインドの民話のようです。「小さな子ネズミが魔法で美しい姫君に姿を変えてもらい王子様に見初められるのですが、正体がばれるのを怖れて慌て池に落ちて亡くなってしまう、その後美しいひなげしが池の周りに咲いた」というものです。

しかしながら、いつも通り私の話は、そこまでドラマティックには着地しません。


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ひなげしの姫君
Inspired from “Amapola” by Joseph Lacalle

 彼女は、桃色の頬と、ふっくらとした紅い唇を持った、魅力的な少女だった。同じ教室で机を並べていたときから、僕はいつだって彼女のことが大好きだった。ひなげしに喩えて謳ったあの曲のように、いつも心の中で「僕を愛しておくれよ」と語りかけていた。だから、クラスメートに知られないように、机の上にナイフで刻んだ名前、日記帳の中に綴った彼女の名前は、アマポーラだった。

 僕の求愛を、まるで相手にしてくれなかったアマポーラとは、卒業後に逢うチャンスもなくなってしまったけれど、僕の心の中には、いつも彼女がいたのだと思う。そりゃ、忘れていたことがなかったとは言えない。でも、たとえば、夏が来て赤いひなげしを目にすると、僕はいつも可憐なアマポーラのことを思い出して、そっと微笑んだのだ。

 彼女を、都で見かけたのは、本当に偶然だった。変わらずに綺麗だっただけでなく、びっくりするくらい垢抜けていて、その場で声をかけるのをためらってしまった。

 乗っていた黒塗りの馬車は、立派な紋章がついていて、横に乗っていた男は仰々しい山高帽を被っていた。そんなことってあるだろうか。あのアマポーラが、貴族と連れだって馬車に乗るなんて。どんなに綺麗だって、僕たちの階級の人間が、お高くとまった奴らとつきあうことなんてできないはずだ。でも、この僕が、アマポーラを見間違えたりなんかするものか。

 彼女とその立派な紳士が馬車を待たせ入った店に、僕も入った。それは、有名なコンディトライで、大理石の床、樫材の壁、シャンデリアや金飾りの鏡に囲まれたティールームで、濃厚なチョコレートを飲む奥方や葉巻をくゆらす紳士たちで賑わっていた。

 僕には、日給の半分もするようなコーヒーやケーキを楽しむ余裕はなかったが、売店で小さなチョコレートを注文しながら、世間話をした。
「それはそうと。表の馬車の紋章、つい最近見たはずなのにどこだか思い出せないんだ」

 店員は、にっこりと笑って答えた。
「エンセナーダ侯爵さまですよ。婚約なさったばかりで、よくこの店にいらしてくださるんです。ここで出会われたんですよ。誉れです」

「婚約者って、あの娘……?」
「お美しい方でしょう? 東方の王家の血を引くお嬢様で、ポストマニ様とおっしゃるんですよ」

 まさか! アマポーラに王家の血なんか一滴も入っていないどころか、東方の出身なんかじゃないことも、僕が誰よりも知っている。アマポーラの父方の爺さんは村のくず拾いだったし、母さんは皮剥ぎ職人の妹だった。

 僕は、礼を言ってチョコレートを受け取ると、氣取った包みを開けて、一つ口に含んだ。ゆっくりと滑らかに溶けるプラリネは、僕らが普段食べ慣れている混ぜ物入りのざらざらした板チョコとは別の食べ物のようだった。

 この店にしょっちゅう通っている、金持ちの奴らは僕とは関係のない雲の上の存在だ、いつもなんとなくそんなことを考えていた。アマポーラは、上手く混じっている。すごい玉の輿だな。僕はただの機械工だけれど、じきに侯爵夫人となるあの別嬪の幼なじみなんだって思うと、妙に誇らしかった。昔話をして、可憐なひなげしを捧げた話を憶えているだろうと笑い合いたかった。

 エンセナーダ侯爵ときたら、まるで世界に他の女がいないみたいに、じっとアマポーラのことばかり見つめて、その手を握りしめたりキスしたりばかりしているんだ。

 でも、彼女自身は、そこまで婚約者に夢中という風情ではなかった。店内を見回したり、ハンドバッグから取り出した小さな手鏡で自分の顔を確認したりしていた。カウンターで、見つめている僕には氣付いたんだろうか。笑いかけてくれることも、手を振ってくれることもなかったから、よくわからない。

 僕は、彼女が化粧室に向かうのを確認して、急いで後を追った。

 幸い、周りには誰もいなくて、僕は化粧室から出てきた彼女を小声で呼んだ。
「アマポーラ! 僕を憶えているかい?」

 彼女は、ひどくびっくりして周りを見回した。僕の姿を見て、ものすごく嫌な顔をした。それから、まるで聞こえなかったかのように反応もしないで去って行こうとしたので、僕は後を追いもう一度呼ぼうとした。

「しっ。やめてよ。どういうつもり?!」
彼女は、動きを止めると小さな声で言った。

 僕はつられてもっと小さな声になった。
「どうって、久しぶりだから。綺麗になったねって、言おうと思ったんだ」

「あんたなんかと知り合いだとわかったら大変なのよ、ペッピーノ、少しは遠慮しなさいよ。それとも私を強請ろうってわけ?」
「まさか!」
「だったら、あっちへ行ってちょうだい。私につきまとわないで。私は、ポストマニ姫ってことになっているんだから」

 僕が名付けたのと同じ、可憐でひなげしを思わせる真っ赤なワンピースを着た彼女は、僕を邪魔者みたいに追いやろうとした。それどころか、小さなビーズのハンドバッグから、僕の週給にもあたるような紙幣を三枚も取りだして、さも嫌そうに僕に押しつけたのだ。

「何のつもりだよ。僕は、金なんか……」
そう言いつのろうとしたとき、角から店の支配人が歩いてきた。
「どうなさいましたか、お嬢様。何か問題でも……」

「いいえ、何でもありません。馬車まで送ってくださいます?」
アマポーラは、外国人が話すみたいに、変な発音で支配人に言った。支配人は、僕の汚れた服装をじろりと見回すと、彼女につきまとうなと言いたげに僕をにらみつけると、彼女をガードするように侯爵の待つ馬車まで送っていった。

 彼女たちが去ると、支配人は戻ってきて、僕に慇懃無礼な様子で言った。
「申し訳ございませんが、お引き取りいただけませんか。チョコレートを購入なさりたいのなら、街のはずれに露店もございますし……」

 僕は、すっかり腹を立ててコンディトライを後にした。お前なんかに何がわかるんだって言うんだ。追い出したこの僕と姫君みたいに扱ったアマポーラは、同じ村の同じ学校で机を並べていたんだぞ。

 乞食に恵むみたいに、こんな金を渡すなんて、ひどいや。僕は、アマポーラにも腹を立た。このまま、この金を受け取ったら、僕は強請り野郎になってしまう。このまま黙って引き下がれるものか。

 僕は、駅前のバーのカウンターでエスプレッソを頼み、会計のついでにエンセナーダ侯爵とやらがどこに住んでいるのかを訊きだした。

「あんた都にはしばらく来なかったのかい? あの小高い丘の上、都のどこからでも見える『雲上城』を、侯爵が買って引っ越してきたときの騒ぎを知らないなんて」
「へえ? もともとは都にいなかったお貴族様なんだ」

「ああ、この国の方じゃないからね。海の向こうの大陸に、この国の三倍くらいある領地を持っていて、何でも持っている人なんだそうだ。引越の時には、たくさんのお宝や綺麗な調度を積んだ船が港にずらっと並び、それをお城に運び込むために二週間くらい毎日パレードみたいな行列が街道を進んだ。足りないのは、相応しい奥方様だけだと、みなが噂していたのだけれど、ついにお姫様と知り合ったらしいね」

 外国人なら、アマポーラがこの国の生まれか、東方の国の育ちか見破れなくても不思議はない。でも、街の奴らはわからないのだろうか。

 ふうふう言いながら、『雲上城』を目指して、急勾配の道を進んだ。丘と言うよりは小さな山みたいだ。都のど真ん中にあるのに緑豊かで、街の喧騒からは切り離されている。ほぼ毎日、馬車に揺られてあのコンディトライに通って、ホットチョコレートを飲むなんて、優雅な身分だなと思った。実家に戻れば、酒癖の悪い親父に怒鳴られながら鶏や豚の世話をしなくちゃならないだろうに。

 ようやく見えてきた門は、背丈の倍以上ある立派なものだった。真ん中に大きな黒い金属板で紋章が打ち出されている。先ほど見た馬車についていたのと同じだ。内側に守衛所があって黒い服を着た門番がやたらと胸を張って立っていた。

 僕は、そっと門に近づいた。門番は怪訝な顔で「何か用かね」と言った。
「友達がここにいるって聞いたんだ」
僕が言うと、門番は話にならないという顔つきをした。

 こいつも、あの支配人と同じだ。僕を見下して追い払おうとしている。
「僕が機械工だからって、馬鹿にするんだな。僕は、話があってきたんだ。悪いこともしていないし、嘘も言っていない。なのに、服装だけで僕のことを誰も真面目に受け取ってくれないなんてフェアじゃないよ!」

「だったら、ちゃんとした紹介状か、お屋敷のその人にここに来てあんたが友達だ言ってもらうんだな。こっちだって仕事なんだ、誰だかわからないヤツを入れるわけにはいかんよ」
門番の主張はもっともだった。僕は途方に暮れた。

「私の知人よ、入れてあげて」
声がしたので、門番も僕も驚いて顔を向けた。ひなげしの花そっくりの、ドレープのある朱色のスカートを着たアマポーラが立っていた。門番は、すぐに頭を下げて門を開けて僕を招き入れた。

 僕は、急いで中に入り、彼女に挨拶しようとした。けれど彼女は急いでその場を離れた。門番に会話を聞かれたくないんだろうと思って、僕は黙ってついていった。

 門からは全く見えなかったが、森林の小径を抜けると城の前に広がる大きな庭園に出た。丸い池にからくりの噴水が涼しげな水煙をほとばしっている。その池の周りにたくさんの大きなひなげしが植えられていて、優しく風に花びらをそよがせていた。

「あれじゃ、足りないって言うわけ?」
アマポーラは、低い声で言った。僕は、カッとなった。

「僕は、強請りに来たわけじゃない! それにこんなもの!」
コンディトライで渡された紙幣を取り出すと、彼女めがけて投げつけた。

「何するのよ」
「嘘で塗り固められたお姫様からの、汚い金なんて受け取れない」

 アマポーラは、下唇を噛みしめてから言った。
「やっと巡ってきたチャンスなのよ。洗濯女なんて死ぬまで働いても指輪一つ買うことが出来ないんだわ。あんな生活に戻りたくないの。邪魔をしないで」

 僕は言った。
「邪魔なんてしないさ。僕はそんなつもりで声をかけたんじゃない。久しぶりだったから、話をしたかっただけなんだ。物乞いか強請みたいに扱われて、そのまま立ち去れなかっただけだ。それで幸せになれるっていうなら、するがいいさ。僕には関係のないことだ」

 そう言って、僕は彼女の返事も待たずにまた門の方へ向かった。門番は、慇懃に頭を下げて僕を出してくれた。

* * *


 支配人に疎まれてコンディトライに行けなくなってしまったので、エンセナーダ侯爵に関するニュースを耳にしたのは半年以上後だった。あれから三ヶ月も経たないうちに、海の向こうの領地で大きな飢饉があり、不満を抱いた領民たちが革命騒ぎを起こしたのだそうだ。

 侯爵は、財産の大半を失い、『雲上城』を二束三文で売り払って海の向こうへ帰って行ったそうだ。最愛のポストマニ姫と華燭の宴をあげたのか、そして彼女が不運の侯爵に付き添ってかの国に向かったのか、誰も知らない。僕は、彼女はついていったりしなかったのではないかと思う。

 魔法の解けてしまった偽物の姫は、今どこにいるのだろう。少なくとも洗濯女に戻ったりはしていないだろう。馬鹿馬鹿しく高いホットチョコレートを優雅に飲むけっこうな生活を知ってしまったんだから。

 彼女は、またどこかの姫君のフリをして別の貴族や富豪の奥様におさまろうと、性懲りもなく計画を練っているだろう。可愛いアマポーラ。ちっぽけな少年に見向きもしなかったように、きっと君は貧乏な機械工を愛してくれたりなんかしない。でも、僕は、それでも君とまた再会することを願っているんだ。

(初出:2019年7月 書き下ろし)

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「アマポーラ」はいろいろな歌手が歌っていますが、私はこのポルトガルのカウンターテナーのバージョンが好きです。この方、「男」ですよ。



Nuno Guerreiro “Amapola”
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Posted by 八少女 夕

【小説】燃える雨

「十二ヶ月の歌」の六月分です。うかうかしていたら七月になってしまいますね。

月刊・Stella ステルラ 9月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。六月はAdeleの”Set Fire to the Rain”にインスパイアされて書いた作品です。

この曲も歌詞は特に書きません。ものすごく有名な曲ですし、ネットには日本語和訳が山のように転がっていますので。Adeleといったら、やはり失恋ソング……なので、オマージュして、そのまんまの失恋ストーリーを作ってみました。オチはないので、悪しからず。

六月といったら梅雨、といったら雨、という単純な思考で選んだ曲ですが、日本ではなく三月に遊びに行ったロンドンを舞台にしてみました。一年中、雨の降っている印象のある国ですね。


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燃える雨
Inspired from “Set Fire to the Rain” by Adele

 しばらく待って、やはり出て行くことを決めた。座っていたティールームの入り口には、濡れる前にと駆け込んできた客たちが、早く出て行って欲しいという視線を投げつけてくる。こんな時に、「それがどうした」と跳ね返して、粘れるような強い精神力をリサは持っていなかった。

 次々と入ってくる客たちの対応に追われている店員はなかなか勘定を済ませてくれなかった。ようやく戸口から出た時には、雨は更にひどくなっていて、冷たい風が吹き付けてくる。

「ちゃんと閉めてよ。隙間風が寒いじゃない!」
出てきたばかりの店から、不機嫌な注意を浴びせられ、リサはこの店には二度と来たくないと思った。かつては、あんなに好きだったのに。

 彼と大英博物館で数時間を過ごすと、いつも足が棒になった。世界中から訪れた観光客でごった返す博物館内のカフェではなく、少し歩いてこの店で休んだ。手作りのタルトやスコーン、丁寧に淹れた上質の紅茶、それらを楽しみながら見てきたばかりの博物館の展示に関する話題で盛り上がった。

 ある日は、古代アッシリアやエジプトの展示を中心に観て当時の王権の強大さや発掘品がイギリスに運ばれた経緯について語ったし、また別の日にはジャパニズム・ブームで集められた浮世絵や鎧などについて、リサの方が熱弁を振るった。

 違う日に別の展示の前で、この前と同じ人と偶然であった、そんなきっかけで始まった付き合いは、やがてティールームからパブへ、それから送ってもらったリサの部屋へと移動した。はじめから誘われたわけでもなければ、彼女がを狙って近づいたわけでもなかった。ごく普通に恋に落ちただけだ。彼は、自分のことを多く語らず、友人にもまだ紹介してもらっていなかったけれど、そうなるのにはまだ時間が掛かるのだと思っていた。

 一日で全てを経験できると教えられた天候の変わりやすさは同じでも、希望に満ちてこの街に遷ってきた十年前には、濡れるほどの雨が降ることは珍しいと言われていた。けれどここ数年は、傘を持っていないと憂鬱になるような降り方をすることが多い。

 彼女は、軒下から軒下へと小走りに伝いながら、ニュー・オックスフォード・ストリートを目指した。屋根つきのバス停に駆け込んで一息ついていると、目の前を一台のメルセデスが派手に水をかけていった。

 助手席に座っていたのは、あの令嬢だ。財閥の跡取りを父親に持ち、高級デパートのはしごをして時間を潰していると評判だった。料金を全く考えずに毎晩携帯電話で国際電話をかけまくっているという噂を伝えたら、彼は「金があるだけが取り柄の人間もいるさ。いちいちやっかむ必要はないよ」と笑った。

 でも、今は、やっかむ正当な理由ができたじゃない。彼女は、俯いて唇を噛んだ。メルセデスのボルドーがかったブラウンは、発売当時に人氣がなかったために非常に台数が少ない稀少カラーだ。彼が自慢にするだけあって、同じ車を見たことはまだ一度もない。だから、車を見ただけで運転席に彼が乗っていることをすぐに予想できた。通り過ぎる瞬間に彼の姿を目に留めて、リサは水たまりに注意して身を引くのを忘れた。

「忙しくてしばらく会えない」
その言葉と共に連絡が途絶えたのを、信じようとしていた。飽きられて捨てられたなんて、認めるのが苦しかった。

 電話をかけても出てもらえないことも、メールに返事がないことも、疑惑を大きくしたけれど、それでも決定的な言葉を投げつけられたわけではないと、自分を納得させ続けてきた。

 彼の言葉が、真実ではなかったと知るのも嫌だった。知らなければ、まだ夢を見て彼の誠実さを大人しく待ち続けることができたのだから。

 彼は知的だったし態度も優しかった。氣後れするほどの一流レストランに連れて行ってくれたわけではないけれど、食事をする時には決して吝嗇ではなかった。将来に関する約束などをしたわけではないから、欺されたということもできないだろう。

 どうしようもなく惹かれ、期待して、夢を見たのは彼女の方だった。令嬢などではないだけでなく、誇れる学歴も、輝かしいキャリアも、何一つ手にしたことがない。日々の生活に追われるだけの生活。

 彼を愛するようになり、何かを期待していなかったかといえば嘘になる。磨き抜かれた、一目で高価だとわかる内装のメルセデス。言葉遣いや服装からも、彼女よりもずっと上の社会に属している人だと感じていた。愛と未来の両方を彼が授けてくれることを願っていた。

 その虚しい期待は裏切られ、すげなく水たまりの飛沫を跳ねかけられた。助手席には、美しく彼のビジネスや人生にもっと有用な助けもできるあの令嬢が座り、リサは一人でここで濡れている。

 雨は、どんどん激しくなった。ドラムを叩くようにアスファルトを打つ。濡れている表面は、雨と風で凍るように冷たくなっている。けれど、彼女の内部は、ひどく熱くなっていった。もはや呼ぶことを許されない彼の名前を叫び、惨めな嘆きが届くように願っている。

 美しくない自分、富豪の娘ではない自分、愛されていない自分、顧みられずにびしょ濡れになった自分。そんな自分を戯れに弄び心を奪っていった男に向けていいはずの、怒りや憎しみはそこにはなかった。未だに抱擁を求めて、リサの心は美貌の令嬢を乗せた彼の車を追っている。

 雨と涙でにじむニュー・オックスフォード・ストリートの街灯を、もう見えなくなった車を探しながらリサは立ちすくんでいた。赤い二階建てバスが、静かに停まり、ドアが開いた。待っていた他の客を乗せると、動かない彼女に運転手が声をかけることなく、ドアは再び閉まった。

 バスが行ってしまうと彼女は、深いため息を一つだけついた。冷たく燃える雨に濡れたまま、トッテナムコートロード駅までの道のりを歩き出した。


(初出:2019年6月 書き下ろし)

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Adele - Set Fire To The Rain (Live at The Royal Albert Hall)
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Posted by 八少女 夕

【小説】君は僕にとって

「十二ヶ月の歌」の五月分です。もう五月ですものね。日本は、令和だし……。

月刊・Stella ステルラ 9月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。五月はJoe Cocker の”You are so beautiful”にインスパイアされて書いた作品です。

この曲も歌詞は特に書きません。というか、おそらく聴けば大体わかりますよね。

この曲は、というか、下に貼り付けたベビーフェイスによるカバーバージョンは、「ファインダーの向こうに」の頃からずっと、主人公ジョルジアを見守る兄マッテオ(および一部の男性キャラ)の想いのテーマソングでした。

今回は、現在連載中の(「ファインダーの向こうに」「郷愁の丘」の続編)「霧の彼方から」でもカバーしなかったジョルジアの結婚式のことを後日譚として紹介する試みです。そんな外伝ばかりいらんというお叱りもあるかと思いますが、今月はこれでお許しください。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む

【参考】
「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」

霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




君は僕にとって
Inspired from “You are so beautiful” by Joe Cocker

 つい先日までは、いつ雪が降ってもおかしくないほど寒い日もあったのに、五月に入った途端これほど暑くなるなんて。マッテオは、セントラルパークの樹木の青々とした若葉を眩しそうに見上げた。

 満開だった木蓮は、役目を終えたと判断したのか、はらはらとその花びらを散らしている。ここ数ヶ月は忙しくて、いつもは誰かとデートついでに必ず見る、日本から寄贈されたという格別華やかな桜の花も見そびれてしまったらしい。

「それでね、マッテオ。グレッグが説明してくれたんだけれど、英国で雨が降ったり止んだり忙しいのは、ブリテン島の位置と暖流のせいなんだって」
横を歩くアンジェリカが、一生懸命に覚えたての知識を披露してくれる。彼は、にっこりと笑って答えた。

「なるほど。まったく知らなかったよ。さすが彼は博士だね。それに、世界一きれいな知りたがり屋さん、教えてもらったことをちゃんと憶えて僕にも教えてくれるお前は、なんて賢いんだ。こんなにパーフェクトな姪を持って、僕は誰よりも幸せな男だな」

 アンジェリカは、少し考えてから言った。
「でも、マッテオ。この間からずいぶんと寂しそうよ。ジョルジアが、お嫁に行っちゃったのがショックなんでしょう?」

 マッテオは、かがみ込むと姪を強く抱きしめて答えた。
「それは寂しいよ。それに、今日、お前がアレッサンドラとロサンジェルスに帰ってしまうのも、泣きたくなるくらい寂しいさ。でも、ショックなんてことはないよ。どんな遠くに行ってしまっても、お前や、アレッサンドラや、ジョルジアが、それぞれに幸せであることが、僕の心からの願いなんだ」

 まだ九歳の姪が生まれるよりも前、妹のジョルジアが絶望の底にいた時のことを、マッテオは思った。子供の頃から見守り愛してきた大切な妹は、はじめて付き合った男に言葉の暴力で傷つけられ、しばらくクリニックに入院しなくてはならないほどのトラウマを負った。

 彼女を傷つけた男は、彼女の生まれつきの痣を目にして、こう言ったという。
「こんな醜い化け物を愛せる男などいるものか」

 その痣は、そして、それを目立たなくしようとして失敗した手術の痕は、一般的に言えば「美しい」と形容するようなものではない。それはマッテオも知っている。

 だが、彼女にトラウマを与えたその酷い言葉の全ては完全な間違いだ。世界中のメディアや一般のファンたち、それに評論家たちも「美の女神」と認めるスーパーモデル、もう一人の妹アレッサンドラに劣らず、マッテオにとってジョルジアは、例えようもなく美しく、彼女に対する愛は尽きることがない。

 母親に紹介された生まれたばかりのジョルジアを目にした六歳のあの日から、マッテオの想いは一度たりとも変わったことがない。……なんて可愛くて、美しくて、愛しい子なんだろう。

 生まれつきの痣や、その他の要因が重なり、次第にひどく内向的になったジョルジアを、マッテオは常に心にかけ、愛情を注いだ。少なくとも家族の前では、幸せに楽しくしていた妹の日常と人生の歓びを、一人の男の心ない振る舞いが滅茶苦茶にした。

 若くして成功し経済界に絶大な影響力を持つマッテオが、私怨で誰かの事業に口出しをしたのは、人生でたった一度だけだ。彼は、妹を捨て苦しめておきながら、平然としてマッテオと同じクラブに他の女を連れて出入りしていたその男の経済基盤と社会的信用を奪い、ニューヨークにいられなくした。おそらくジョルジアはそのことを、絶望の底にいた当時はもちろん今でも知らないだろう。

 それから十年近く、ごく普通に暮らしているかのように傍目には見えても、他人と関わることを怖れ、心を半分閉ざしたままの妹を見守り続けるのはたやすくはなかった。

 退院してしばらくは精神不安定な状態が続き、一年近く彼のペントハウスで暮らさせた。話しかけても反応しなかったり、突然泣き出したり、もしくは無意識に同じところを歩き回るなど奇妙な行動をすることもあった。

 異常行動がなくなり、パニック障害の発作もなくなってから、専属で働いている《アルファ・フォト・プレス》のスタジオで静物撮影の仕事から復帰した。少しずつ笑顔も見せるようになり、本人の希望するように一人暮らしをさせても大丈夫と思えるようになった。

 そして、マッテオが懇意にしている知り合いが大家であるフラットに住むことになったものの、どうしているか心配で毎週のように訪ねていったものだ。

 二度と傷つきたくないと怖れる想いと、それでも愛されたいとにじみ出る願い。何も言わなくても手に取るようにわかるが、兄としてのあふれる愛をどれほど注いでも、彼自身にはどうしてやることもできなかった。

 そのジョルジアが見つけたのは、彼にとっては地球の果てであるケニアでの幸せだった。

 努力家で真面目とはいえ、決して成功しているとは言えない動物学者。マッテオからの援助がなければ、経済的にも食べていくのがやっとらしい。ジョルジアのこれまで築いてきたキャリアを考えてもサバンナの真ん中へ行くことはプラスになるとは思えない。

 そんな相手との結婚ではあり、マッテオにとっては大切な妹がそんな地の果てに行ってしまうことは寂しくてならないことだが、それでも、彼は心からの祝福を添えて妹を送り出した。

 誰かを躊躇せずに愛する歓び、人生の片翼が存在することへの安堵、締め付けられていた孤独の枷からの解放、その全てを言葉では語らない妹の瞳の光や振る舞いから感じることができた。それ故マッテオは、彼女の決断が正しいものだと納得し、心から祝福することができたのだ。

 長い冬だった。樹木の枝に見える蕾は固く閉ざされ、まるで死んでしまって二度と開かれないのではないかとすら疑われた。それが、どうだろう。眩しいほどの新緑、わずか数日で、いや、数時間で、刻一刻と姿を変えながら晴れ渡った紺碧の空へとその瑞々しい若葉を伸ばしていく。

「そうかなあ。私ね。お嫁に行くとどうして旦那さんの国に引っ越さなくちゃ行けないのか納得いかないって、ジョルジアに言ったの」
アンジェリカが、真面目な顔つきで言った。マッテオは、面白く思った。

「ジョルジアは、なんて答えたんだい?」
「必ずしも旦那さんに合わせる必要はないって、言ったわ。でも、ジョルジアは旦那さんに合わせたんでしょ、って言ったの」
「それで?」

「グレッグは、ジョルジアがニューヨークで暮らしたいんじゃないかって、言ってくれたんだって。だから必要なら彼も引っ越しても構わないって。でも、それは無理だって、彼女が説得したんだって」
アンジェリカは、ジョルジアそっくりの口ぶりで説明した。

「グレッグ。写真はどこでも撮れるけれど、私の知る限り、ニューヨークには野生のシマウマはいないわよ」
ジョルジアらしいユーモアと愛情のこもった台詞を聞いて、マッテオは笑った。

 新居はケニア中部の《郷愁の丘》になったものの、《アルファ・フォト・プレス》との契約があるので、しばらくジョルジアは年に数ヶ月ニューヨークで過ごす。また、助成金の契約でグレッグが年に一度は必ずニューヨークに来ることになっているので、その時にはジョルジアの分の航空券も送るつもりだ。永久に会えなくなるわけではない。

 もう一人の妹、アンジェリカの母親であるアレッサンドラが、ロサンジェルスに家を買いニューヨークを離れた時も、また、三度目の結婚に伴い、年の半分以上をヨーロッパで暮らすことにした時も、寂しさはあったがその幸福な旅立ちを喜んで送りだしてきた。今度それができないはずはなかった。

「結婚パーティ素敵だったわよね。どうしてジョルジアはママみたいなウェデングドレスを着なかったの?」
アンジェリカは、マッテオの手に掌を滑り込ませて訊いた。マッテオは、微笑んで小さな掌を壊さないように優しく力を込めた。

 先月、ニューヨークのロングアイランドにある教会で行われた結婚式で、ジョルジアはアイボリーのシンプルなタイトワンピースを着た。

「派手なウェディングドレスを着るのは嫌だって言われたんだ。アレッサンドラに頼んで彼女の希望に合うようなワンピースを用意してもらったんだよ。その代わりに、彼女のリクエストにはなかった最高級の絹とレースを使ったけどね。きれいだっただろう? でも、パーティでは、どういうわけか直前に一度着たドレスに変更すると押し切られてしまったよ」

 結婚式の後に、彼女のフラットや職場に近い馴染みの大衆食堂《Sunrise Diner》で、家族の他に同僚や親しい友人たちを集めて披露パーティが行われた。その時に彼女は緑のシンプルなドレスを着た。

「ああ、その理由は知っているわ。ニューヨークに来る飛行機、私あの二人と一緒だったでしょ? あの中で、グレッグがあのドレスの話をしたの」
「ほう? どんな話?」

「あのね。グレッグは、ジョルジアがあれを着るんだと思い込んでいたんだって。どうしてあのドレスがいいのかって彼女が訊いたの。そしたら、こう答えたの。前にあのドレスを着た時に、本当は一緒にダンスをしたかったのにチャンスを逃したんだって。どうしてその時に言わなかったのかしらね。言えば、ジョルジアが断るはずはないのに。あの二人、あんなに仲がいいんだもの」

 マッテオは、なるほどと思った。それは、助成金の推薦をしてくれたレイチェル・ムーア博士がグレッグをマッテオに紹介するため連れてきたWWFのパーティだった。口添えするためにジョルジアもその緑のドレスを着てやってきたのだ。

 どういうわけだか、グレッグはパーティの序盤で退席してしまい、それを追ってジョルジアも帰ってしまった。だから、もちろんダンスをすることなどなかっただろう。あの時、レイチェルは言っていた。
「彼はジョルジアに夢中なの。残念ながら友達の枠は超えられていないみたいだけれど」

 つまり、彼はジョルジアに遠慮して肩や髪などに触れることもなかったのだろう。あの夜にあの美しい彼女の姿を見て、皆がダンスをする機会を生かして彼女をその腕に抱きたかったんだろうな。

「私なら、ドレスを着たら申し込まれなくても一人で踊っちゃうな。毎日着られるものじゃないし」
アンジェリカは、マッテオの思惑などお構いなしにおしゃまな発言をした。

 マッテオは、再び姪の目の高さにかがんで、その瞳をのぞき込んだ。
「心配しなくても、お前が大きくなったら、たくさんの男たちがダンスを申し込もうと行列を作るよ。その時には、僕にも一度くらい一緒に踊るチャンスをくれるだろう? 僕の大事な踊り子さん」

 アンジェリカは、とても嬉しそうに抱きついて答えた。
「もちろんよ。マッテオとは他の人の倍以上の曲を一緒に踊るわね」

 マッテオは、愛する姪を抱きしめた。もちろんその口約束が守られることはないだろうことは知っている。彼女が大きくなり、恋をしたら、一晩中でも好きな男と踊り続けたいと願うだろう。その時には、彼はただの「親しいマッテオ伯父さん」に変わってしまうのだと。そして、そう思わせる相手の存在を疎ましく思う権利は、彼にはないのだと。

 派手なことの嫌いなジョルジアと、同じように内氣なグレッグは、自身の結婚披露パーティだというのに、ほとんどの時間を店の片隅で過ごした。皆が楽しげ踊っている時もそうだった。だが花婿は、幾度も深い愛情を込めて花嫁を見つめていた。

 ずっとマッテオが思い続けていた言葉を、彼が心に思い浮かべていることを疑う余地はなかった。
「君は、誰よりも美しい。君は、僕にとって他の誰よりも素晴らしい」


 今日の新緑は、風に舞いながら萌え立っている。まるで歓びに震えているように。同じ色のドレスを纏った愛しい妹が、ようやく安心して身を委ねられる相手を見つけ、その腕の中で祝いのダンスを踊っていたほんのわずかの時間を思い出しながら、マッテオは姪と一緒にゆっくりと歩いて行った。

(初出:2019年5月 書き下ろし) 

新緑の森林 by マレーナさん
こちらはマレーナさんによるイラストACからのイラストで著作権はマレーナさんにあります。無断使用はお断りします。

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Babyface You Are so Beautiful

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Posted by 八少女 夕

【小説】郵便配達花嫁の子守歌

「十二ヶ月の歌」の三月分です。

月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。三月はロシア歌手ポリーナ・ガガリーナの“Колыбельная (Lullaby)”にインスパイアされて書いた作品です。

実は、この作品の元になるアイデアは、かなり前「マンハッタンの日本人」シリーズを書いていた頃に浮かんだのです。当時は、ブログのお友だちTOM−Fさんから、某ジャーナリスト様をお借りして好き勝手書いていたのですけれど、その延長で小説には関係ないけれどそのお方がどんな風にアメリカに来たのかなあなんて妄想もしていました。で、イメージは彼なのですけれど、さすがにTOM−Fさんも大困惑でしょうから、この作品では誰とは言わずに、似たような境遇の誰かとだけで書いてみました。


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郵便配達花嫁の子守歌
Inspired from “Lullaby” by Polina Gagarina

 舳先に行くには、少しだけ勇氣が要った。重く垂れ込めた雲を抉るように、荒い波が執拗にその剣先で襲いかかっている。雨が降りそうで、いつまでも降らない午後。ヴェラはストールが風に飛ばされないように、ぎゅっと掴まねばならなかった。

 こんな悪天候に船外に出ようとする物好きはほとんどいなくて、たった一人、まだ少年と言ってもいいような若い男だけがカーキ色のコートの襟に首を埋め、ドアの側の壁にもたれかかっているだけだった。

 波の飛沫が、彼のしている安っぽい眼鏡にかかっていた。海の彼方を睨むように見つめている姿は、希望に満ちているとは言いがたい。でも、それは、自分が感じていることの投影でしかないのかもしれない。ヴェラはこの船に乗ったことが賢い判断だったのか、確信が持てなかった。この暗く荒れた海が、彼女の未来を予言していなければいい、そんな風に思っていた。

「あまり先には行かない方がいい。波にさらわれて落ちた人もいるそうだ」
その男はヴェラを見て英語で言った。

「この船で?」
「いや、この航海の話ではないよ。乗る前に聞いた」
「そう」

 この人は、どこの国から来たのだろう。少なくともヴェラと同じウクライナの出身ではなさそうだ。顔から判断すると、どこかバルカン半島の出身かもしれない。

 誰もがこの船に乗って、ここではない所へ向かおうとしているように感じてしまう。ある者は戦火から、ある者は貧困から、そしてある者は閉塞した社会やイデオロギーから、どこかにある光に満ちた国へと向かおうとしているのだ。

「あなたも、トリエステまでよね。イタリア旅行?」
ヴェラが訊くと、彼は「まさか」という顔をした。ヴェラも自身も、そう思っていたわけではない。彼は「服装なんかに構っている余裕はない」と誰でもわかる出で立ちだった。すり切れ色のあせたシャツ、くたびれたカーキ色のパンツ、底が抜けていないだけでもありがたいとでも言いたげな靴。

国連難民高等弁務官事務所UNHCR が、旅をお膳立てしてくれたんだ」

 ということはやはり……。
「あの紛争の? 逃げてきたの?」
「ああ」
「じゃあ、ご家族も、この船に?」

 彼は、首を振った。
「国境まで生きていられたのは、僕だけだった」

 ヴェラは、お悔やみの言葉を述べたが、彼は「いいよ」というように手を振った。
「これからは、イタリアに住むの?」
ヴェラが訊くと、彼は微かに笑った。
「いや、ローマから飛行機でUSへ行くよ。難民として受け入れてもらったんだ。君は?」

「偶然ね。私もアメリカへ行くの。もしかしたら、飛行機まで一緒かもしれないわね」
「君も難民?」
「違うわ。私『郵便配達の花嫁』なの」

 彼は首を傾げた。
「それは何?」
「国際結婚専用のお見合いシステムがあってね。テキサスの人と知り合ったの。それで、彼と結婚することを決めたの」

* * *


 ヴェラは、今日五本目の煙草に火をつけた。

 目の前のラム酒の空き瓶をうつろに眺める。新しい瓶を買いに行くと、月末まで食べるのに困る事実を思い出し顔をゆがめた。飲むことか、煙草か、もしくはその両方をやめれば、新しい靴下を買えるのにと、ぼんやりと考えた。

 そろそろ出かけなければ。教会の炊き出しに並べば、三日ぶりに温かい食事にありつける。彼女は、すり切れたコートを引っかけると、アパートメントから出た。

 隣の部屋からは、テレビの音が漏れている。ニュースを読む男のよく通る声が、地球温暖化の脅威について訴えかけている。正義と自信に満ちた温かい声。ヴェラは、煙草の火や煙も地球を蝕む害悪なのだろうかとぼんやりと考える。それとも、車も持たず、電氣も止められている貧しい暮らしは、表彰されるべき善行なのだろうか。どちらでもいい、こちらには世界の心配をする余裕などないのだ。

 空は暗く、今にも雨が降りそうなのに、いつまでも降らない。こんな天候の日はあの船旅のことを思い出してしまう。

 船の上で、下手な英語でお互いのことを話した。ヴェラは幸せな花嫁になることを、彼は自由で幸せな前途が待っていると願いながら、それまでのつらかった人生と、それでもあった、幸せな思い出を語り合った。ヴェラが民謡を歌うと、彼は今はなくなってしまった国に伝わるお伽噺を語ってくれた。

 船旅と、ローマまでの二等車での旅の間に、ヴェラにとってその若い男は、全く別の存在になっていた。はじめの安っぽい服装の何でもない男という印象から、優秀な頭脳と温かい心、それに悲劇や苦境に負けないユーモアすら失わずにいる、理想的な青年に代わっていた。

 しかし、彼とはローマで別れて以来、どこにいるかも知らない。同じ飛行機ではなかったし、こんなに何年も経ってから「今ごろどうしているだろうか」と考えるような相手になるとは、夢にも思っていなかった。

 テキサスに着いて、迎えに来た未来の夫には二十分で失望した。彼は、ヴェラを妻ではなく奴隷のように扱った。「高い費用がかかったんだから」それが夫の口癖で、昼は農場の仕事に追い立て、夜も疲れていようが意に介せず奉仕を要求した。

 ヴェラが自由になるまでには、八年もの間、夫の暴力と支配に耐えなくてはならなかった。隣人たちは、みな夫の味方だったし、一人での外出を許されなかったヴェラは、助けを求めることも出来なかったのだ。たまたま、夫がバーボンの飲み過ぎで前後不覚になった時に、彼女は家を逃げ出した。二百キロメートル離れた街で無銭飲食をして捕まり、ソーシャルワーカーの助けで保護されて離婚することが出来た。

 けれど、その後に幸せな人生が待っているわけではなかった。ずっと夫に閉じ込められたままだったので、英語も下手なままだったし、自立して生きるための手に職を身につけているわけでもなかった。彼女は、そのままどこにでもいる貧民の一人として、祖国にいた時と同じか、それ以下の立場に甘んじることになった。

 あの船に乗り、国を出た時に持っていたものの多くを彼女は失ってしまった。若さと、美貌と、祖国の家族や友人たち。戻る氣力も経済力もない。希望と、笑いもあの海に置いてきてしまったのだろうか。静かに、ゆっくりと無慈悲に諦めと老いに蝕まれていく彼女は、襤褸布のようなコートを纏い、地を這いながら生き続ける。

 船で出会った青年と、いつかどこかで再会できることを、どこかで願い続けている。彼が成功していて、自分をすくい上げてくれることを夢見ることもあれば、同じように地を這っている彼と再会し、傷をなめ合うことを期待することもある。

 それは、暗い情熱、生涯に一度もしたことのない恋に似た感情だった。重く垂れ込めた雲間から注がれた天使の梯子のわずかな光。荒い波のように繰り返す不運に高ぶる神経を尖らせたヴェラを、落ち着かせ優しく眠らせてくれる、たった一つの子守唄ララバイ だった。


 (初出:2019年3月 書き下ろし) 

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この曲は、もともとポリーナ・ガガリーナという歌手の曲なのですが、才能発掘番組でこの曲を歌って一躍有名になったアイーダ・ニコライチェクのバージョンが日本では有名なので、こちらの動画を貼り付けてあります。また、歌詞は原語では全くわからないので、いくつかの英訳版を比較して掴んだ意訳を下に書いておきますね。


Aida Nikolaychuk - Lullaby [HD English-Lyrics Remaster]

(歌詞の意訳)
私の心の中を覗いてみて
そして冬に「立ち去れ」と言って
風は吹くけれど、あなたが私を暖めていてくれる
まるで私に早春を運んできてくれるように

空の雲に頼んで
私たちに白い夢を運んでくれるように
夜は浮遊して、私たちはそれを追うのよ
神秘的な光の世界へと

私の中にある憂鬱を霧散させて欲しいの
それは私の魂を怯えさせているの

空の雲に頼んで……

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Posted by 八少女 夕

【小説】ジャカランダの並木道

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第十五弾、最後の作品です。けいさんは、英語の詩で参加してくださいました。ありがとうございます!

けいさんの書いてくださった『Solitaly walk 』

けいさんは、スイスから見て地球の反対側のオーストラリアにお住まいのブロガーさんです。同じ海外在住者として、勝手に親しみを持っている私です。私と同じように小説もお書きになるのですが、ここしばらくはお仕事に集中なさるそうです。そういう時期も大切です。でも、詩作の方はお続けになるとのこと、今回の作品もそのお一つですね。

さて、今回の書いてくださった作品の情景は、おそらくオーストラリアのものだと思うのですが、私の頭の中にはやはりアフリカで見た景色が広がったので、また「郷愁の丘」関係の外伝を書かせていただきました。けいさんの詩からインスパイアされたエピソードです。「郷愁の丘」の一番盛り上がっているラストシーンの辺りの時期の話ですが、主人公たちとはほとんど関係ありません。登場する女性は初登場です。この人のことも、ずっと書きたかったんですよね。



【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


「scriviamo! 2019」について
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



ジャカランダの並木道
——Special thanks to Kei-san


 その並木道は、妖精の国に迷い込んだのかと錯覚させるほど美しかった。藤色の鈴なりになった花が雲のように咲き乱れ、落ちた花びらは薄紫の絨毯となった。ほのかにアンバーのような、それとも蜂蜜のような香りが漂い、むせかえる。十月の風物詩、ジャカランダの開花だ。

 リンファは、日本には行ったことがないが、噂に聞く満開の桜に列島が湧く春というのはこんな感じなのではないかと考えた。

 乾期は終わったのだ。季節は動いていく。

 標高1500メートル、赤道直下のナイロビに暮らして十二年になるリンファは、また一年経ったのだなと思った。リンファがこのケニアの地に降り立ったのもやはり十月だった。

 角を曲がり、コロニアル風の建物がなくなって、高層ビルのある地区に入った。リンファは、背筋を伸ばして歩いて行く。東洋人の自分は、この街にはどうしてもそぐわないように感じてしまうから。リチャードのように、どこにいようと常に自分の街にいるという確信を持てたらどんなにいいだろう。

 リンファはナイロビにあるエージェントのスタッフとして働いている。世界各国からやってくる観光客のための個人旅行の手配もするし、ビジネスにおける行政との橋渡しなどもする。要は何でも屋だ。異様に顔の広いボスと、秘書兼会計兼スタッフのリンファの二人だけの小さな事務所だ。

 オフィスは三階にある。リフトはないので歩く。ここまで汗をかかずにやってきたとしても、必ずこの階段で汗をかいてしまうのが難だった。

「ただいま」
粗く息をつきながら言うと、受話器を置いたばかりのリチャードが明るく「お帰り」と言った。
「それで、君の同胞たちは、喜んで帰ったのかい?」

 リンファは、雇い主であり私生活においては恋人でもある、デリカシーのない赤毛の男を軽く睨んだ。リンファが空港まで送っていった相手は、彼女の同国人ではなかったのだ。
「同胞って、アジアってだけじゃない。あなたをドイツ人と一緒にするようなものだわ」

 リチャード・アシュレイは、「それがどうした」というように肩をすくめただけだった。彼には、少なくともオランダ人と、アメリカ人の血が四分の一ずつは混じっている。残りはイギリス系のケニア人と、ジンバブエからの移民の他に、もしかしたら本当にドイツ人の血も混じっているのかも知れない。彼は、自分のルーツに細かくこだわったりはしないのだ。

「とにかく、そこそこ満足して搭乗ゲートに向かってくれたわ。これからタンザニアにも行くらしいけれど、あっちでメチャクチャな目に遭えば、私たちへの感謝も少しは増加するかもしれないわね」
リンファは、冷蔵庫から冷やしておいた紅茶のポットを取り出すと、グラスに注いで一氣に飲んだ。

 それから、思い出したように言った。
「そういえば、空港で意外な人を見かけたわよ」
「誰?」
「ほら、例のアメリカの女流写真家。あなたとアウレリオが、わりと最近、あれこれ噂していたでしょ」

 リチャードは、関心を示してリンファの方に向き直った。
「ミズ・ジョルジア・カペッリかい? 空港で?」
「ええ。ついたばかりみたいだったわ。なんだか急いで鉄道駅に向かっていたわよ」

「そうか。今回は来るって知らせてくれなかったな。どうしてだろう。また撮影かな。とにかく、ヘンリーのやつに知らせてやろう。知っているか、あいつ、もう何年も彼女を追い回しているクセに、晩熟でいっこうに先に進めないんだぜ」

 リンファはリチャードの面白くてしかたないという顔を見て憤慨した。
「忘れたの? 今は、彼のお父様スコット博士がかなり危険な状態だってこと。ドクター・スコット・ジュニアを今からかうなんて最低だわ」

 誰もが、リチャードやその親友のアウレリオのように、器用に立ち回れるわけではない。前回、そのアメリカ人写真家がこの事務所を訪問した時、普段なら可能な限りナイロビに来たがらないヘンリー・スコットは電話でも済む用事なのにわざわざやってきた。リチャードがミズ・カペッリに馴れ馴れしく話しかけている間、辛抱強く話しかける機会を待っていたコミュニケーション下手な男を、リンファは部屋の隅から密かに応援していた。なんとか彼が再会の約束を取り付けたのを耳にした時には心の中でガッツポーズをしたのだが、それから一年半経っている。あまりの不器用さにリンファもため息がでるが、それでもリチャードに面白おかしく笑いの対象にされるのは氣の毒だ。

 リチャードは、彼女の剣幕に肩をすくめて言った。
「からかっているわけじゃないさ。ただの親切心だよ。でも、まあ、そうだな。後でアウレリオに電話して、義父殿の容態を訊いてからにするか」

 それから十日後に、リチャードは事務所の留守番をリンファに任せ、ツァボへと出かけていった。噂のスコット博士が亡くなり、葬儀に参列することになったためだ。アウレリオ・ブラスの義父というだけでなく、動物学の権威であるスコット博士とは、公私ともに様々な関わりがあったのだ。
 
 リンファはその二日間は一人で業務をこなした。珍しくトラブルが少なかったため、なんとか一人でもこなせたのは、天が自分に味方したのかもしれないと思った。もちろん、午前中の停電と、十一時からの水道のストップには辟易したが、少なくともクライアントが苦情の電話をしても通じなかったのだからラッキーの内に入るだろう。

 ようやくPCに電源を入れられる状態になったので、急いでいくつかの用事をこなした。一番大切だったのは今日中に発送しなくてはならない宛名ラベルの印刷だった。リンファの祖国あての小包に貼るためのラベルだ。かの国の郵便配達夫にはアルファベットを読めない者も多いので送り状には漢字のラベルをつけて欲しいと依頼されているのだ。

 次の停電が起こる前に、なんとしてでも印刷を終えてしまわないと。リンファは調子のあまりよくないプリンターをなだめながら、作業を続けた。なんとか予定していた枚数を印刷できそうだと胸をなで下ろした。

 国を離れて、遠い異国でこうして数々のトラブルと闘いながら日々を過ごす意味を考えることがある。何をしているのだろうと。両親は、もうリンファのことは諦めたという態度を見せた。他の娘たちのように結婚して孫の顔を見せてくれるわけでもなく、異国の成功者として故郷に錦を飾ってくれるわけでもない。リンファ自身、自分の中途半端さに、腹立つこともある。

 リチャードとの関係も同じように中途半端だ。共同経営者というほどに中心的な役割を果たしているとは思っていないが、それでも、こうして二日間でもなんとか彼の代理を務めることの出来る存在までになっている。でも、それを思うのは自分一人なのではないか。プライヴェートにおける関係も、八年以上も恋人という立場でいるにも関わらず、それ以上に進む氣配はない。

 それでも、リンファは昨日と変わらぬ日常を歩き続ける。他の道があるわけではない。

 階段を上ってくるよく知るリズムの足音に続き、鍵を回す音がして、リチャードが入ってきた。彼は、どさっと荷物をソファーに投げていつものように明るく「ただいま」と言った。

「お帰りなさい。ちょっと待って。このラベルの印刷、そろそろ終わるから」
プリンターの横に立ってそうリンファが告げると、リチャードは「いいよ」と手振りで示してソファーに座り寛いだ。

「携帯に電話が入って、そのラベルのことを訊かれたよ。グッドタイミングだったな」
「停電さえなければ、もうとっくに出来ていたのに」
「あっちのパッキング作業も停電で遅れているから問題ないだろ」

「バカみたいよね。なぜ水牛の角なんか輸入するのかしら。向こうにいくらだっているのに」
そうリンファが憤慨するとリチャードは笑った。
「ケニアから届いたってことが重要なんだよ。水牛の角ってことになっているけれど、本当はそうじゃないって信じてもらうためにね」

「え? 水牛の角じゃないって、まさか犀角や象牙じゃないでしょうね。見つかったらこっちも逮捕されるわよ」
「されっこないよ。本当に水牛の角だから。箱に書いてある通りさ。それをこの商品表示はカモフラージュのためですと、嘘ついて売るつもりなんだろう。どうするつもりかなんて、こっちは関係ないから、売ってくれと言われたら素直に手配するけれどね」

「そう」
リンファは、少し嫌な氣持になったが、いちいち角を立てたくなかった。リチャードは、まったく意に介さずに朗らかに言った。
「悪いけれど、終わったらそれ発送してきてくれるかい?」

「わかったわ。ところで、お葬式はどうだった? ムーア博士やマディたち、大丈夫だった?」
話題を変えたくて、リンファは訊いた。
「マディはけっこう泣いていたけれど、レイチェルは氣丈にしていたな。まあ、表向きには、ヘンリーが全部仕切っていたしね」

 レイチェル・ムーア博士は、表向きは亡きスコット博士の親しい友人ということになっていたが、実際には内縁の妻と言ってもいい間柄で、マディがスコット博士の愛娘であることは親しい者には周知の事実だった。ジェームス・スコット博士は最初の結婚に失敗してから二度と家庭を持とうとしなかったが、息子のヘンリー・スコット博士との距離のある付き合いは、部外者のリンファにも異常に思えるほどだった。おそらく葬儀に行ってはじめて彼に息子がいることを知った人も多いだろう。

「ドクター・スコット・ジュニアも、お氣の毒ね。こういう時だけ息子として矢面に立たされて。この間、意地悪くからかったりしなくてよかったわね」
リンファがそう言うと、リチャードは意味ありげに笑って首を振った。
「ふん。からかうまでもなかったよ。件のジョルジア・カペッリはヘンリーと一緒にいたんだ」

 郵便局へ行こうと、戸口に向かっていたリンファは、思わず足を止めた。
「え?」
「驚くだろ? こっちも仰天したのなんのって。アウレリオからあの二人は婚約したって聞いて、腰を抜かすかと思ったよ。まったくいつの間に」

 リンファは、階段を降りて表に出た。わずかに乱れた想いを封印するかのように、足早に通りを歩いた。

 何に動揺しているのか、自分でもよくわからなかった。よかったじゃない。ドクター・スコット・ジュニアがようやく幸せをつかんだんだもの。

 今日は、風が強い。後れ毛が舞っている。

 風に心揺らされても、やはり独り歩いて行くほかはない。ドクター・スコット・ジュニアが、彼の道を一歩一歩進めて、彼の幸福な停留所にたどり着いたように。リチャードが、リンファだけでなく氣の遠くなるほど多くの人びとと関わり合い、必要ないほど多くの言葉を用いながら、彼の人生を進めているように。

 この道を、異国の、決して楽ではない道を歩いて行く先に、何が待っているのかは、誰にもわからない。でも、歩いて行かなければ、どこにもたどり着けないのだ。

 強い日差しが、肌を突き刺すようだ。リンファは、額に手をやり、空を見上げた。ジャカランダの並木道は、鮮やかな新緑が育ちだしている。間もなくこの道を歩く時は直射日光のきつさを感じずに済むようになるだろう。

 花の時期は終わり、育った羽毛のような葉が季節が変わったことを宣言するように覆っていた。

(初出:2019年3月 書き下ろし)

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ジャカランダ

ジャカランダJacaranda mimosifoliaはノウゼンカズラ科キリモドキ属の高木。和名は「紫雲木」。中米原産だが、熱帯や亜熱帯の多くの国で栽培される。南アフリカ共和国プレトリアは春の十月に満開になるジャカランダで有名。
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】能登の海

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第十三弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった 『天城越え 《scriviamo! 2019》』 

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』。ロー・ファンタジー大作『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』と、ハートフルな『この星空の向こうに』の両方の登場人物が集合し、物理学の世界で緊迫物語が展開しています。足りない頭ゆえ物理学の記述には既にすっかりついて行けていない私ですが、勝手に恋愛ものに読み替えて楽しませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も七回にわたり皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。

さて、『花心一会』のヒロインと今回書いてくださった作品に登場する破戒坊主が邂逅する作品を以前書かせていただいたことがありますが、今回書いてくださったのは、その時に名前を挙げた方がメインになっています。そしてですね。お相手役と『花心一会』のヒロインが邂逅するお話を、TOM−Fさんは2016年の「scriviamo!」で書いてくださっているんですよ。で、その時のお返しに書いた作品と、今回の破戒坊主は、こちらの小説ワールドで繋がっているものですから、つい、輪を完成したくなってしまったというわけです。

しかし、それだけではちょっといかがなものかと思いましたので、せめてTOM−Fさんの作品と対になるようにしました。TOM−Fさんの作品は誰もが知っている石川さゆりの「天城越え」とリンクする作品になっているので、わたしもそういう話にしようと思ったのですね。それで三曲ほど候補をあげて、その中でTOM−Fさんに選んでいただいた曲をモチーフにしました。

同じく石川さゆりによるご当地ソング「能登半島」です。

「樋水龍神縁起 東国放浪記」を読んでくださっている方には、とんでもないネタバレになっています。どうして私は、本編発表まで黙っていられないのか、まったく。ものすごく自己満足な作品になってしまっていますが、「樋水龍神縁起」はいつもこうですね、すみません。ご容赦くださいませ。


【参考】
「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む 「樋水龍神縁起 東国放浪記」

「scriviamo! 2019」について
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
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樋水龍神縁起 外伝
能登の海
——Special thanks to TOM-F san


 まだ夜も明けず暗いのに、行商人たちが騒がしく往来する湊の一角を抜けて、かや は先をよく見るために編笠を傾けた。手に持つ壺には尊い濱醤醢はまひしお が入っている。もっとも鮮度のいい最上の小鯛のみを使い、家に伝わる秘伝の製法にて調整した魚醤だ。本来ならば献上品としてすぐに大領の館へと運び込まれる品だが、粗末な壺に収めてこうして持ち歩いているのにはわけがある。

 萱は、足を停め振り返った。後ろを歩いていた連れも足を止めた。密やかに問いかける。
「まことに、行くつもり? どうしても留まるつもりはないの?」

 水干に被衣、つまり中級貴族の子息を模した装束の女が頷く。
「はい。萱ねえ様。どうしても」

 萱は、黙って頷くと、先を急いだ。作蔵の船はすぐにわかった。こんなとんでもないことを頼める船頭は、あの男を置いて他にはなかった。船には何人もの荒くれ者が乗っている。若くて美しく、世間知らずの娘が無防備に乗っていれば、羽咋の港に着く前に無事ではおられまい。

 作蔵は、清廉潔白とは言いかねる男だが、萱は彼に十分すぎる貸しがある。その妹である三根が少領の家で湯女として働いていた時に、うつけ息子に手込めにされそうになり逃げてきたのをかばってやったのだ。平民ではあるが濱醤醢の元締めである萱には、少領の家の者も手は出せず、それ以来、三根は萱の元で働いている。

 船の袂には、水夫たちに荷の運び込みを指示している頭一つ分大きな男の姿があった。
「作蔵」
萱の声に、作蔵はゆっくりと振り向くとニヤリと笑い、水夫たちを行かせてからこちらに歩いてきた。

「これは萱さま。まことにおいでになりましたな。三根から聴いております。では、そのお方が……」
「ええ。面倒をかけ申し訳ない。羽咋の港まで連れて行って欲しいのです」

「して、その後は?」
「港で降ろせばよいのです。後は、自らなんとかすると申している由」
「まことに? ここですら、お一人では船にも乗れないお方が?」

 その言葉に、萱はため息をつき、世間知らずの従姉妹の姿を眺めた。それから、意を決して作蔵に顔を向けた。
「羽咋に、誰か信頼できる助け手がいますか? この者を、何も言わずに数日寝泊まりさせてくれるような」

 作蔵は、ちらりと水干姿の娘を見て言った。
「わしの、わしと三根の伯父に頼んでみましょう。伯父は、わしとおなじく無骨な船頭だが、伯母は面倒見がよくて優しい。理由はわからぬが、その姫さんが誰とやらを待つ間くらい泊めてくれるでしょうよ。その……萱さま、わしにも少し頼み甲斐というものがあるならね」

 その多少ずる賢い笑いを見越したように、萱は懐から壺をとりだして作蔵の手に押しつけた。
「そなたが戻ってきて、この者がどうなったかを知らせてくれれば、後にまた三根にこれを渡そう」

 この貴重な醤醢は、闇で売りさばけば大きな利をこの男にもたらすはずだ。
「これはこれは。合点いたしました。では、お姫様、どうぞこちらへ。申し訳ないが、水夫たちに女子であることがわからぬよう、ひと言も口をきかぬようにお願いしますよ」

 深く頭を下げ、船に乗り屋形の中に姿を消した従姉妹を見送り、萱は立ちすくんだ。萱の被衣と黒髪は潮風にそよぎ、荒れる波に同調したようだった。水夫たちのかけ声が、波音に勝ると、船はギギギと重い音を立てて、夜明け前の北の海に漕ぎ出でた。

 なぜあのような便りを書いてしまったのだろう。萱は、不安に怯えながらつぶやいた。

* * *


 ふた月ほど前のことだった。萱のもとにとある公達とその連れがしばらく留まったのだ。途中で明らかになったのだが、その主人の方はかつては都で陰陽師をしていたのだが、語れぬ理由があり今は放浪の旅をしていた。

 それを、丹後国に住む従姉妹への手紙に書いたのは、とくに理由があったわけではない。面白がるだろうと、ただ、それだけを考えてのことだった。だが、彼女はこともあろうに屋敷を逃げ出してはるばる若狭小浜まで歩き、昨夜、萱の元に忍んできたのだ。

「なんということを。夏。そなたはもう大領渡辺様の姫君ではないですか。お屋敷のみなが必死で探しているはずです。すぐに誰かを走らせてお知らせしなくては」
「やめて、萱ねえ様。あたくしは、もうお父様の所には戻りません。お願いだから、渡辺屋敷には知らせないでください。安達様の元に参りたいのです」

 萱は、その陰陽師と夏姫が知り合っていたことを、昨夜初めて知ったのだ。

 夏の母親は、三根と同じように湯女として大領の屋敷で働いていたが、やがて密かに殿様の子を身ごもった。生まれた夏は長らく隠され、母親の死後は観音寺に預けられて育ったが、その美しさを見込まれ二年ほど前にお屋敷に移されたのだ。殿様は丹後守藤原様のご子息に差し上げるつもりで引き取ったと聞いている。

「そのお話は、もうなくなったの。お父様は、もうあたくしなんて要らないのです」
「なんですって?」

「藤原様は、この春にお屋敷に忍んでいらっしゃったの。でもね、手引きしたのは、妹の絢子の乳母の身内だったの。それで、わざわざ間違えたフリをして絢子の所にお連れしたの。北の方おかあさま だって、もちろんその方が嬉しかったでしょうね。実の娘が玉の輿に乗れるんですもの。もう三日夜餅も済んだのよ。だから、あたくしを引き取る必要なんてなかったの。そこそこの公達に婿になっていただければいいなんて言われているわ」

 夏は、さほどがっかりしていなかった。
「あたくしは、玉の輿に乗れなくて、かえって嬉しいのです。だって、お父様のお屋敷にいるだけで窮屈なのよ、どうしてもっと上のお殿様との暮らしに慣れると思うの? こうして萱ねえ様のお家にいると本当にほっとするわ。だから、ねえ様のお便りを読んですぐに決断したの」

「私が、いつ逃げ出して来いなんて書いたのですか」
「書いていないわ。でも、安達様が、ねえ様の所にいらっしゃるとわかったら、一刻も待っていられなかったの」

「あの陰陽師といつ知り合ったの?」
「昨年の夏、庭の柘植の大木に奇妙な物が浮かび上がって、あたくしが瘧のような病に悩まされるようになった時に、弥栄丸が連れてきてくれたの。本当にあっという間に、治してくださったのよ」

「まさか、そなたがあの二人を知っているなんて……。しかも、あの陰陽師に懸想してこんなとんでもないことをするなんて、夢にも思っていなかったわ」
萱は、頭を振った。

 夏は、両手をついて真剣に言った。
「わかっているわ、萱ねえ様。どんな愚かなことをやっているか。安達様は、あたくしのことなんか憶えていないかもしれない。憶えていても、相手にはしてくださらないでしょう。それでも、あたくしは、あの方にもう一度お目にかかりたいの。あの屋敷で、みなに疎まれつつ、誰か適当な婿をあてがわれるのがどうしてもいやだったの。それなら、あの方を追う旅の途上で朽ち果ててしまう方がいいの。お願いよ、屋敷には帰さないで。安達様を追わせてください」

 若狭国を抜け、北陸道をゆくと行っていた陰陽師と郎党を送り出して、ひと月以上が経っていた。今から陸路で追っても、そう簡単には追いつけないであろう。萱は、無謀な従姉妹を助け、追っ手の目をくらまし、彼女の望む道を行かせるために、海路を勧めた。

「夏。ねえ、約束しておくれ。もし、安達様を見つけられなかったら、もしくは、そなたの願いが叶わなかったら、必ずここに戻ってくると」
夏は、萱の言葉に頷いた。

 どのような想いで、この海を渡るのだろう。何もかもを捨て去り、ただひたすらに愛しい男を追うのは、どれほど心細いことだろう。そして、それと同時に、それはどれほど羨ましいことか。亡き父に代わり秘伝の醤醢づくりを背負う萱には、愛のために全てを捨て去り、男を追うような生き方は到底出来ない。

 日が昇り、水平線の彼方に夏を乗せた作蔵の船が消えても、萱はまだ波の高い海を見つめていた。夏は終わり、秋へと向かう。北の海は、行商人や漁師たちの日ごとの営みを包み込み、いくつもの波を打ち寄せていた。

* * *


 語り終えた老僧を軽く睨みながら、茅乃かやの は口を開いた。
「素敵なお話ですけれど、和尚様。それは、私の名前から思いついたでまかせのストーリーですの?」

 福浦港の小さな喫茶店で遊覧船を待っている茅乃の前で、奇妙な平安時代の話をした小柄な老人は、新堂沢永という。歳の頃はおそらく八十前後だが、矍鑠として千葉の寺から石川県まで一人でやってくるのも全く苦にならないらしい。

 茅乃は、福浦に住んで二十八年になる後家で、婚家の親戚筋に頼まれて独身時代に近所にあった浄土真宗の寺に連絡をした。その親戚筋の家では、なんとも奇妙な現象が続き途方に暮れていたのだが、沢永和尚は加持祈祷で大変有名だったのだ。

 無事祈祷を終え、奇妙な言動を繰り返していた青年が、嘘のように大人しくなりぐっすりと眠りについたので、家の者は頭を畳にこすりつけんばかりに礼を言い、和尚を金沢のホテルまで送ると言った。だが、和尚は、それを断り茅乃に案内を頼み福浦港に向かったのだ。
「遊覧船に乗りたいのですよ。有名な能登金剛を見たいのでね」

 そして、遊覧船を待つ間、風を避けるために入った喫茶店で、和尚は先ほどの話を語り終えたのだ。

「でまかせではありませんが、本当のことかどうかは、わしにも分かりませんな。人に聞いたのです」
「それは誰ですか?」

 和尚は、ゆっくりと微笑んだ。
「茅乃さん、あなたは輪廻転生を信じますか?」

 答えの代わりに問いが、しかも唐突な問いがなされたことに、茅乃は戸惑った。
「さあ、なんとも。そういうことを信じている人がいるというのは、知っていますけれど」

「わしのごく身近に、転生した記憶を失わなかったという者がおりましてね。その者が、千年前に経験したことを話してくれたことがあるのですよ。先ほどの話は、その中の一つでしてね」
和尚は、ニコニコとしていたが、それが冗談なのかどうか茅乃には判断できなかった。

「それで、その方はその萱さんか夏さんの生まれ変わりだとおっしゃったのですか?」
「いいえ。その陰陽師の方だそうです。後に、安達春昌と従者である次郎は、再び若狭に戻ってきて萱どのと話をしているのですな。わしは、彼の話してくれたことの多くを非常に興味を持って聴いておりました。そして、今日、ここ能登半島に来たので、どうしても夏姫の渡った羽咋の海をこの目で見てみたかったのですよ」

 茅乃は、和尚の穏やかな笑顔を見ながら、不意に強い悲しみに襲われた。和尚の言及している不思議な話をした男が誰であるか、思い当たったのだ。和尚は早くに妻を亡くし、男手一つで息子を育てた。その息子、新堂朗を茅乃は知っていた。彼女が高校生だった時に朗は小学生だったが、子供らしいところのない、物の分かった様子の、不思議な少年だった。

 茅乃は、結婚して千葉を離れ、成人した朗には一度も逢っていなかった。その朗が二年ほど前に島根県で行方不明になったという話を、千葉の母親から聞かされていた。茅乃には、和尚が辿ろうとしているのは、平安時代の若い姫君の軌跡でも、魚醤造りの元締めの想いでもなく、行方知れずになった息子の運命を理解したいという、悲しい想いなのではないかと思った。

「和尚様は、その方が羽咋にいるとお思いなのですか?」
茅乃は、訊いた。

 和尚は、穏やかに笑いながら答えた。
「どうでしょうな。いるとは言いませんが、いないとも言いませんな」
「そんな禅問答のようなことをおっしゃらないでください」

「これは申し訳ない。わしにも分からぬのですよ。どこにもいないのかも知れないし、どこにでもいるのかも知れない。そういうことです。例えば、このコーヒーの中にいるのかも知れません。だが、その様なことは、この際いいのです。ほら、ご覧なさい、遊覧船が来たようです。せっかくですから名勝能登金剛を楽しみましょう」
老人は、カラカラと笑いながら立ち上がり、伝票を持って会計へと歩いて行った。

(初出:2019年3月 書き下ろし)

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で。モチーフにした「能登半島」の動画を貼り付けておきます。


能登半島  石川さゆり
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Posted by 八少女 夕

【小説】鈴に導かれて

「十二ヶ月の歌」の二月分です。「scriviamo!」開催中なんですが、いただいた作品へのお返しが全て終わっている(追記:昨夜サキさんから新たに一ついただきました)ので、こちらを発表しておくことにしました。三月分も書かないとまずいなあ。

月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。二月はユーミンの“ BLIZZARD”にインスパイアされて書いた作品です。これは歌詞も動画も省略しました。ご存じない方は、検索すればいくらでも出てきますので……。

原曲はみなさんご存じのように、冬の定番ラブソングで、かなり胸キュンなユーミンワールドです。この曲が効果的に使われた映画もありましたし。なのですが、私の作品では全く別の使い方をしてあります。昔からちょっと思っていたんですよね。「これって、胸キュンっていうか、かなり怖い状況じゃないかな」って。一つ間違えば遭難じゃないですか。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む




鈴に導かれて
Inspired from “BLIZZARD” by 松任谷由実

 思った通り、天候は変わってくれた。朝は晴れていたから、彼女は疑いもしなかっただろう。全て計算通りだとは。

 和馬はストックにつけた鈴を響くように鳴らした。かなり遠くから、答えるように鈴の音が聞こえてきた。辺りは、もうほとんど視界が消え去っている。横殴りの吹雪、もちろん誰もいない。あの時とそっくり同じだ。だが、恐怖と不安に震えていた、あの時の俺とは違う。さあ、来い、恭子。お前の人生の終着点へ。

 間もなく起こる妻の事故死が、彼に多額の生命保険金を約束してくれるはずだった。彼は、泣きながら説明するだろう。「天候が変わったので急いで下山しようとしたのですが、吹雪いていてコースを外れたことに氣がつきませんでした。視界がほとんどなかったので、彼女はあの岩が見えなかったのだと思います」

 その岩には、いま彼がもたれかかっている。千恵子が命を落としたのも、この岩に激突したからだった。もちろん、あの時は俺は何もしていない。吹雪になったのも偶然だった。

 あの事故があったのは、十年以上前だ。千恵子は、和馬の同窓生だった。二人が付き合っていることは、ほとんど誰も知らなかった。卒業後は東京で暮らすつもりだったし、田舎娘と小さくまとまるつもりは全くなかった。妊娠しているかもしれないと言われた時にはぞっとしたが、今は刺激をせずにまだ早すぎるからなどと言いくるめて中絶させようと思っていた。

 山は寒いし、スポーツをすることで、もしかしたら流産するかもしれないと考えたのは事実だ。だが、彼女をスキーに誘ったことにそれ以上の意図はなかった。今日とは全く違う。

 コースを外れたのもいつものことだった。和馬と千恵子は、子供の頃からこの山に通い詰めていたので、スキー客の来ない急斜面をいくつも知っていた。天候が変わりそうだったので、早く降りた方がいいからと、近道をしようといいだしたのは千恵子の方だった。

「降ってきちゃったね。やばいかな」
「急いだ方がいいよな」
「そうだよね。ねえ、ユーミンの歌みたいに鈴つけてよ。せっかくだもん。ほら、上の売店で買ったお守りの鈴」

 姿は見えなくても、ストックにつけた鈴の音を頼りに後を追う、そんな歌詞だったように思う。和馬は「追いかけられる」ことにうんざりしたが、そんな様子は見せずに鈴をストックにつけて滑り出した。

 彼女を、待つつもりはなかった。とにかく早く麓へ着きたかった。後ろから響く鈴の音がだんだんと小さくなり、彼は少しほっとした。何があろうとも、あいつから逃れなくては。結婚なんてことになるのは死んでもごめんだからな。俺の輝かしい人生は始まったばかりだというのに。

 自分のつけている鈴の音が、うるさかった。千恵子につけられたことも腹立たしかった。それをつけている限り、彼女から逃れられないとすら感じられたので、投げ捨てようと思い立ち止まった。

 そして、ぎょっとした。白い吹雪の煙幕に隠されてほとんど見えていなかったが、すぐ近くに大きな岩があった。こんなのにうっかり激突していたら死んでいたな。

 そう思いながらグローブを外して鈴を取り除こうとした。手がかじかんで、うまく外せない。鈴は大きく鳴った。呼応するように、鈴の音が近づいてきた。

「えっ?」
突然、視界に現れた千恵子が、そのまま岩に激突した。

 動かなくなった千恵子をそのままにして、和馬はその場を後にした。その時は逃げることしか考えていなかった。いろいろな責任から、失うものから、恐怖から。吹雪は、和馬がその場にいた痕跡を全て消してくれた。

 千恵子の遺体が見つかり、彼は同窓生として何食わぬ顔で葬儀に出かけた。彼女がなぜ一人であの雪山にいたのか、誰もしらなかったこと、妊娠もしていなければ、事件性も疑われていなかったことに安堵した。そして、あの日のことは、ずっと胸の内に秘めたまま、故郷を離れ東京で生きてきた。

 それが、この岩だ。

 和馬は、ことさら手を振り鈴を鳴らした。恭子、お前には悪いが、あの保険金がないと俺はもうにっちもさっちも行かないんだよ。そのために、大人しくて頭の回らない、お前みたいな退屈な女と結婚したんだからな。千恵子の事故は忘れたことがない。あれに俺が関係していたことは誰も知らない。だから、あれにヒントをもらったなんて誰にも証明できないだろう。完全犯罪。させてもらうぜ。

 彼は、結婚したばかりの妻を言いくるめ、保険をかけた。初めての年末年始を夫の生家で過ごすのもごく自然だ。そして、子供の頃から行き慣れたスキー場へ案内する。偶然・・ 天候が崩れる。視界の悪い中、下山して一人だけ事故に遭う。なんて悲劇。

 呼応する鈴の音が大きくなった。こだまして、二つも三つもあるように聞こえる。おかしいな。あの時は聞こえてすぐに千恵子がぶつかったのに。

 鈴の音だけが響いていたかと思うと、不意にあの時の千恵子の来ていたのと同じ黄色いスキーウェアが見えた。まさか! 恭子はピンクのスキーウェアなのに。

「いったでしょう? ユーミンの歌みたいにしようって。ブリザードは世界を包み、時間と距離も消してくれるのよ。二人を閉ざしてくれるの……」

 千恵子! まさか、幽霊が? 俺は、お前を殺そうとしたわけじゃないんだ。お前が勝手に死んだんだろう。やめろ、俺にとり憑くのはお門違いだ。

 和馬は、慌てて立ち上がり必死に逃げた。滅茶苦茶にストックを動かしとにかく麓へ急いだ。手元のストックについた鈴が大きく鳴る。焦りながら、そちらを見た一瞬、前方から注意がそれた。前をもう一度見た時には、迫り来る大きな岩は、もう目と鼻の先だった。

* * *


 夫の事故死から半年が経ち、恭子は久しぶりに友人との食事に出かけた。若くして未亡人になってしまった彼女の肩を抱いて、力づけようとした。

「スキー場で吹雪に遭うなんて本当に大変だったよね。でも、恭子が無事に下山できて本当によかったよ」
「前方は、ぜんぜん見えなかったんだけれどね。でも、ずっと彼のストックにつけていた鈴の音を頼りに進んでいたの。氣が付いたら麓のリフト乗り場にいたのよ」

「え。でも、ご主人が亡くなったところって……」
「そうなの。麓じゃなかったし、コースも外れたところだったの。でも、私はずっと鈴の音を頼りに下山したのよ。きっと私のために、亡くなった後も案内をしてくれたんじゃないかって、今でも思っているの」

 彼女は、そっと白いハンカチで目頭を押さえた。
「彼が、こんな風に亡くなるなんて、想像もしていなかったけれど、でも、まるでわかっていたみたいに、彼は私のためにいろいろしてくれていたの」

「たとえば?」
「例えば、生命保険。結婚したばかりだし、まだ若いからいらないんじゃないのって私は言ったんだけれど、彼がどうしてもって言って、お互いを受取人にした保険金に加入したの。おかげで、私は路頭に迷わずにすんだのよね」

「そうか。そのご主人を悲しませないためにも、恭子、早く立ち直ってね。あなたは若いんだし、人生はまだまだ続いていくんだから」
「うん。ありがとう、力づけてくれて。いつまでもメソメソはしていたら、彼も成仏できないものね。私、頑張るね」

 恭子は、あれからお守り代わりに常に身につけているキーホルダーの鈴を振って微笑んだ。

(初出:2019年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】殻の名残

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第十弾です。limeさんは、素敵な掌編小説で参加してくださいました。ありがとうございます!

 limeさんの書いてくださった『やさしいゲイル』

limeさんは、繊細で哀しくも美しい描写の作品を書かれるブロガーさんです。小説において大賞での常連受賞者であるだけでなく、イラストもとても上手で羨ましい限りです。

これまでの「scriviamo!」には、イラストでご参加くださったのですが、今年は掌編小説でのご参加です。読んでうるっときてしまった、この優しくて悲しいお話は、こんなお約束のもとで書かれたそうです。

この掌編は、以前、
*誰かの誕生日
*必ず、常識的に「汚い」と思えるものを「美しく」描いた表現を入れる
*文字数は2000字以内。
という縛りを仲間内で作って、創作し合った作品です。


limeさんのお話に、余計な茶々を入れるのも嫌だったので、お返しは単純に、私もこの縛りにしたがって何かを書くことに決めました。

またしても、同じ世界観が出てきたのは、私がこだわっているからではなく、私の周りに自然科学に詳しい子供と園芸が趣味の母親というバターンが他にいなかったというだけです。



【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


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殻の名残
——Special thanks to lime-san


 少年は庭の一角でしゃがみ込んでいた。雨上がりの午後、優しい光に照らされて、母親が情熱を傾ける庭は、生き生きと美しく輝いていた。薔薇と芍薬は、互いに競いながら庭の女王の座を得るべく開き始めた蕾を戴き枝を伸ばしていた。

 菊のようなアストランティアや、黄色く控えめなハゴモグサは行儀よく並び、ネギの仲間であるアリウムも紫の丸い花を咲かせていた。アイリスの花にも丸い雨の雫が揺れている。彼は、ゆっくりと庭園を歩きながら、ひんやりとした清らかな空氣を吸い込んだ。

 家の奥からは、ティーンエイジャーたち特有の抑えの効かない笑い声が響いている。パーティはたけなわのようだった。再婚相手の娘であるナンシーの誕生会が行われることを母親は教えてくれなかった。パーティがあると知っていたら、理由をつけて一日遅く来たのに。彼は、誰からも話しかけられないでいる居心地の悪さを紛らわすために、一人庭に出た。

 彼は、中等教育を終えて、まもなく大学進学資格を得るAレベル試験の準備のためシックス・フォームの寄宿学校に入る。それまでいた寮にずっといることは出来ず、新しい寮にはまだは入れない。それで、この二週間をバースにある母親の再婚相手の家で過ごすことになった。

 十歳になるまで過ごしたケニアにわずかでも帰りたいと思ったが、その旅費を出して欲しいと父親に頼むことができなかった。寄宿学校の費用も決して安くはない。それを父親が出してくれなければ、彼はこの家に居候するしかない。到着して一日でもう疎外感を感じるこの家に。彼は、何かを期待するのはやめようと決心し、黙って応接間から歩み去った。

 庭の片隅、イチゴが赤くなり始めている一角も、雨の後にしっとりと濡れて瑞々しく輝いていた。彼は、ゆっくりと蠢く珍客を見つけて、観察をするためにしゃがみ込んだ。

 Limax maximus。レオパード・スラッグだ。オーガンジーのような半透明の柔らかい体に、豹のような文様が整然と並んでいる。三インチほどの長さで、緩やかに進んでいた。彼によって出来た影を感じるのか、ゆっくりと身を反らした。

 サバンナの俊敏な狩人である豹とは、似ても似つかぬ動きで、むしろ彼はその角の形状からユーモラスなキリンの姿を思い出して微笑んだ。

「ヘンリー!」
後ろからの声に驚いて彼は立ち上がった。
「母さん」

「あなたここで何をしているの? 皆さん、もうテーブルについているのよ」
彼は、困ったように下を向いた。
「僕が、いなくてもいいんじゃないかと思って。その、招待されたわけではないし」

「何を言っているの。いるのが分かつているのに、一人だけ別の食事をさせるわけにいかないでしょう。早く来なさい。いったいそこで何を見ているのよ」

 近づいてきた母親は、ようやく彼が観察していたものが見えたらしかった。
「まあ! ナメクジじゃない! さっさと殺して!」
 
 彼は、ショックを受けて一瞬ひるんだが、あえて口を開いた。
「庭の片隅で懸命に生きている生命だよ。殺すなんて」

「当たり前でしょう。汚い害虫だもの」
「虫じゃないし、汚い生き物なんてないよ。軟体動物門腹足綱は、陸に生息する巻き貝の一種だよ。サザエやアワビの遠い親戚だし、遠く辿れば真珠を作るアコヤガイや聖ヤコブの象徴ホタテガイとだって同じ祖先をもっているんだ」

「何をバカなことを言っているの。ナメクジは庭を荒らすし、危険な病氣を媒介するのは常識です。もう、役に立たない子ね。くだらない屁理屈ばかり言って実用的でないのは、あなたのお父さんそっくりだわ」

 母親は、近くの園芸小屋から塩の箱を持ってくると、あっという間にマダラコウラナメクジの上に撒いた。体を反らして苦しむ生き物から、彼は眼をそらした。

 母親は、その場に心を残している息子の手首を強引に引いて、彼女の自慢の家へと戻っていった。
「すぐに手を洗うのよ! 早くしなさい」

 塩をかけられたマダラコウラナメクジからは、どんどんと水分がしみ出した。艶やかだった豹斑を持つゼリー状の肌は溶けるように消えていった。そして、人のいなくなった美しい庭を午後の日差しがすっかり乾かす頃には、白い塩の山も水分と共に土に混ざりわからなくなった。

 マダラコウラナメクジのいた場所には、小さな白い楕円形のものが光っていた。真珠のように七色の光を反射するそれは、かの生き物が体の中に隠し持っていた、遠い先祖が巻き貝だった頃の殻の名残だった。

 女主人が長い時間をかけて作り上げた庭園には、醜いものや不都合なものなど何もなかった。彼女が丹精込めて育てた花や整然と美しく並ぶ樹木が、その完全な幸福を象徴するように、穏やかな風の中にそよいでいた。

(初出:2019年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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1959字。ギリギリでした……。

Limax maximus shell
参考: Limax maximus shell レオパード・スラッグの体内に埋もれている殻 
出典 wikimedia.org
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】あの日、庭苑で

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第九弾です。山西 左紀さんは、「絵夢の素敵な日常」シリーズの短編で参加してくださいました。ありがとうございます!

山西 左紀さんの『PX125』

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

ここ何年かは(私が先に書く)プランBでのご参加が続きましたが、今年はサキさんが先行で。そして、この作品は、サキさんのブログ33333ヒット記念作品として私のリクエストにお応えくださった作品でもあるのです。詳しくはサキさんのブログで作品を読んでいただくとして、これに対して何をお返ししようか、少し悩みました。

そして思い出したのが、この作品について、サキさんがちらっと「シンクロしている」と話してくださったことなんです。全くの偶然なんですが、私が「野菜を食べたら」という作品を発表したとき、とあるシチュエーションが、執筆中のサキさんの作品とシンクロしていたのですね。

というわけで、私からのお返しは、その「野菜を食べたら」で出てきたあの娘の話を書くことにしました。サキさんの作品で描かれた「仮面を被ったお嬢様」をテーマにしました。サキさんの方では仮面を取ろうとしていますが、こちらは被ろうとしています。「野菜を食べたら」のちょうど一年前でストーリーが始まります。


【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

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あの日、庭苑で
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 鏡に映るのは地味な服装に身を包んだ自分だった。黒にかなり寄ったグレイの生地は野暮ったかったし、小さな丸みを帯びた襟も全く好みではなかった。アンジェリカは、むしろ黒い糊の効いたシャツのシャープな襟を立てて着る方が好きだ。たとえモノトーンのシンプルな装いでも、アクセサリーの付け方ひとつ、選ぶ靴一つで、「さすがあのアレッサンドラ・ダンジェロの娘ね」と言わしめるだけのファッションセンスを彼女は持っていた。けれど、今日の服装は、その反対の印象を与えなくてはならない。アンジェリカ・ダ・シウバという娘が、雇い主の家族であることを、誰にも悟らせないようにしなくては。

 彼女は、持っていこうとしたアクセサリーを全て引き出しに戻すと、パタンと音を立てて閉じた。彼女の持っているアクセサリーは、貧しい十七歳が手にするような品物ではない。持っていることがわかってしまったら、盗んだと疑われるか、さもなければ経歴に疑問を持たれるだろう。

 アメリカで育ったブラジル移民の娘という経歴は、嘘ではない。そのブラジル移民が、誰もがその名前を知るサッカー選手であることは、伏せているが。母親は未だにファッションアイコンである元スーパーモデル。伯父は、健康食品会社の経営者である大富豪。母親の三度目の夫は、いつだったかの神聖ローマ帝国皇帝の血を引く貴族で、いくつかの城を所有している。その中で、もっとも辺鄙なところにあるために所有者ですらほとんど行かない城に、アンジェリカは夏期休暇中の仕事をしに行く。

「なぜ、ファルケナウにしたのかい? エッケンブルグなら勝手も知っているし、私も毎週のように足を運ぶから、安心だろう?」
母親の夫であるヴァルテンアドラー候家当主は心配そうに言った。

「だからよ、ルイス=ヴィルヘルム。あのお城で働く人たちはみな私が誰だか知っているもの。それに、あなたがちょくちょくやってきて私を甘やかしたら、私また給料泥棒になってしまうわ」
アンジェリカは言った。

 昨年は、ニューヨークのヘルサンジェル社で三週間働いたのだが、初日からCEOである伯父と顔なじみの経営陣たちに甘やかされて、まったくまともな仕事ができなかったのだ。

「でも、ファルケナウは本当の田舎で、息抜きのショッピングも出来ないよ。代々の城主が滅多に行かなかったから、使用人たちも代々地元の人たちが彼らなりのやり方を踏襲していてね」
「そういえば、ママも行ったことがないって言っていたわ」

「落ち着かないからなかなか足が向かなくてね。近くに空港もないので、往復に時間がかかるんだ。そうまでして行く理由も考えつかないしね」
ルイス=ヴィルヘルムは、困ったように言う。

「でも、あなたの息子は、あそこに住んでいるんでしょう?」
アンジェリカは、不思議に思って訊いた。

「そうだね。この春に引っ越したんだ。それこそもっと便利なエッケンブルグや他の城を勧めたんだが、仕事でチェコに行くことも多いので、あそこがいいと言うんだ。もっともいつまであそこに耐えられるか、私も様子を見ているよ」

 ルイス=ヴィルヘルムの最初の妻は、やはり彼と同じ階級の出身で、離婚後は息子を連れてベルリンに引っ越した。息子であるヨハン=バプテストはヴァルテンアドラー候家の跡継ぎとして、ルイス=ヴィルヘルムがドイツにいるときは側で時間を過ごすことがあった。

 アメリカの小学校に通い、卒業後はスイスの寄宿学校に入ったアンジェリカは、自身がルイス=ヴィルヘルムの城で時間を過ごすことが少なかったので、ヨハン=バプテストと顔を合わせたのは母と養父の結婚式を含めて二度だけだった。でも、その二度目のことは忘れないだろう。

* * *


 アンジェリカは九歳になったばかりだった。母親が、ドイツの貴族と結婚したのは前の年の年末だ。アンジェリカの学校があるので、ロサンジェルスの家での暮らしがベースになっていたが、アメリカに馴染めないルイス=ヴィルヘルムのために長期休暇の時は、ヨーロッパに戻るのが常だった。

 その夏は、一番大きくて由緒のあるエッケンブルグ城に滞在していた。ここは、ヴァルテンアドラー候家の本拠地で、かの神聖ローマ皇帝もここで生まれ育ったという。ここ十数年は、スイスのサンモリッツを本宅としているルイス=ヴィルヘルムも、ドイツでは大抵この城に滞在するのだ。

 育ったロサンゼルスの家は敷地が千二百平米あり、広くて豪華だ。その家に慣れていたアンジェリカでも、本物の城に滞在するのは初めてだった。城から門までも車でないと行けないし、その途中に鹿や雉などが生息しているというのも驚きだった。また城門から街までもやたらと時間がかかる。街からはどこでも小高い丘の上にあるエッケンブルグ城が見えて、それが南東の方角を知る目印だと言われた。

 城には同年代の子供はいなかった。ルイス=ヴィルヘルムの息子がやはり長期休暇のために滞在していると聞いていたけれど、十四歳のドイツ人の少年にとってアンジェリカは、仲良く遊ぶような存在ではないんだろうなと思った。

 半年前の結婚式の日に引き合わされたヨハン=バプテストは、敵意こそ示さなかったけれどアンジェリカの兄になってくれるつもりは毛頭ないようだった。今回も、アレッサンドラやアンジェリカと親しく付き合いたいという意思の全く感じ取れない形式的な挨拶だけをして城のどこかに引っ込んでしまった。彼は、父親に会えたこともさほど喜んでいるようには見えなかった。

 私なら久しぶりに会うパパには抱きつくのに。アンジェリカは、思った。ヨハン=バプテストとは、食事の時にしか会わなかったし、全く話しかけられることがなかったので、もしかして彼は英語がよくわからないのかしらと思った。

 アンジェリカに常に英語で話しかけてくれる城の使用人たちは数人で、彼女は特別に訴えかけたいことがなければ、意思が通じないくても、そのままにしていた。必要ならば、黒い服を着たシュミットさんやブレーメルおばさんを探すか、ママやルイス=ヴィルヘルムに訴えかければいいんだもの。

 彼女は、九歳にしては考えが大人びていた。パパとママは有名人だし、仕事が忙しいから、いつも一緒にいられなくてもしかたない。ルイス=ヴィルヘルムはママの二番目の夫だったあの意地悪な人と比べたらずっと感じがいい。別につらいこともない。だから問題は起こさないようにしようと。

 言葉が通じない人たちとは親しくなれなかった。友達もいないし、城の滞在も数日も経てば退屈になってきた。テレビゲームはないし、スマホに入っているゲームにも飽きてしまった。

 アンジェリカは、城の中を探検してみようと思った。ヨーロッパのお城に滞在する子供向けドラマで見たように、もしかしたら宝物のある洞窟なんかがあるかもしれないし。そういえば、ママはどこへ行ったんだろう。朝食の後、姿を見ていないな。

 アンジェリカは、絨毯が敷かれ歩幅が広く歩きにくい階段を降り、広間の裏側から庭園へと向かった。フランス式に剪定されたコニファーの間を通り過ぎようとしているときに、向こうからヨハン=バプテストが歩いてきた。

「ハロー、ヨハン=バプテスト」
「やあ、アンジェリカ、どこへ行くんだ?」
彼がドイツ語ではなくて、英語で問いかけたので、アンジェリカは意外に思った。話せるのかな。

「退屈なの。だから、お城を探検してみようと思って。あなたは、もう探検した?」
彼は、苦笑して首を振った。
「探検はしていないよ。別に、魔法使いや竜が隠れているような城じゃないしね」

「洞窟は?」
「グロットのことかい? あちらに見える噴水の裏側が、ちょっとした洞窟みたいな装飾になっているよ」
「宝物、隠してあるのかしら?」
アンジェリカが期待を込めて訊くと、彼は肩をすくめた。
「宝物があるとして、隠すとしてもあそこじゃないだろうね」

 彼は、アンジェリカと探検ごっこをしてくれるつもりは毛頭ない様子だった。とはいえ、すぐに立ち去りたそうな様子でもなかった。

「ママかルイス=ヴィルヘルムを見なかった?」
「さっき二人で、庭園の奥の方へ歩いて行ったよ。案内しようか?」
「ええ。お願い」

 フランス式庭園の終わりは、階段になっていて、降りていくと木陰の小径になっていた。そこには孔雀や雉の仲間が放し飼いになっていた。

「見て。あの鳥、判事さんのカツラみたいな頭よ」
「ああ、あれはキンケイっていうんだ。アジア原産だよ」
「あの尻尾が長いのは?」
「オナガドリ。日本の鶏だ」

「ヨハン=バプテスト、あなたとても詳しいのね」
「この城には何度も滞在しているから、さすがに憶えるよ」

「そうか。あなたもママとパパのところを往復しているのよね」
「今はそうでもない。寄宿学校に入って長期休暇の時にどちらかに帰るだけだ」

「帰るか……どっちも『帰る』だけど、どっちにも『行く』のよね」
アンジェリカの暗いつぶやきに、彼は足を止めて向き直った。妙な言いまわしだが、彼にはその正確な意味がすぐにわかった。
「どこか居心地が悪いのかい? ここの話? それともイギリスにいるお父さんの家?」

 アンジェリカは小さなため息をついた。
「居心地が悪いって程じゃないわ。パパはいつも大騒ぎして迎えてくれる。ママも帰るとぎゅっと抱きしめてくれる。でも、ソニアがね、パパの奥さんなんだけれど、うんざりって顔で私を見ることがあるの。そういう時に、マイクみたいに私のこと邪魔だと思っているんだろうなって、納得するようになってしまったの」

「マイクって、誰?」
「マイク・アッカーマン。前にママと結婚していた人」

 ヨハン=バプテストはなるほどという顔をした。マイク・アッカーマンはアメリカの著名なテレビ・モデレーターで、アレッサンドラ・ダンジェロとはわずか半年で離婚した。

「そのアッカーマンが、君を邪魔だっていったのかい?」
「ええ。お前はママが嫌いになったダメ男の子供だ。ママはリセットして新しい人生を始めたのに、子供だから放り出せないで迷惑している、ママも私のことを邪魔だと思っているって」
「アレッサンドラが、そんなことを言ったわけじゃないんだろう?」

「言わないわ。ママは、『マイクの言ったことは全然デタラメよ。ママとパパは離婚したけれど、どちらもあなたのことは深く愛しているわ。それは感じるでしょう?』って言ったわ。だから、そのことを疑っているわけじゃないけれど……」
「けれど?」

「あのね。マッテオ伯父さんがドールハウスを買い換えてくれた時にね。私、前の時にお氣に入りだった安楽椅子をとっておいたの。でも、新しいドールハウスには新しい家具があって、その椅子を入れるところがないの。それを見て、マイクが言っていたのは、こういうことなのかなって。古い家からきたものは、どんなに好きでも、あたらしい家には、上手く入らないんだなって」

 彼は心にもない否定を口にはしなかった。
「君は、その歳でずいぶんよく考えているんだな。驚いたよ」

 アンジェリカは肩をすくめて言った。
「でも、ママやルイス=ヴィルヘルムには言わないでね。大騒ぎして心配するもの」
「言わないさ」

 やがて、二人は少し開けた庭園に出た。そこには各種の薔薇が放射状に植えられていた。その中心には、つる薔薇で覆われた白い木の東屋があり、探していた二人が座っていた。

 ルイス=ヴィルヘルムは、最愛の妻の手を取り、じっと見つめながら楽しそうに語りかけていた。彼女は笑顔で答えて楽園のような光景を楽しんでいた。それは一幅の絵のように美しかった。夏の始まりの、輝かしい新緑と、深く艶やかな薔薇の花、多忙な美の女神である妻を穏やかで慎み深い夫が讃美している。おそらく誰にも邪魔をされたくないであろう、ほんのひとときの至福。

 アンジェリカは、黙ってしばらくその二人を見ていた。穏やかな風が吹き、薔薇の香りが満ちた。

「私、あっちの方を歩いてくるわね」
そう言って、背を向けたアンジェリカの背中は、小さな子供のようだった。そう思ってから、ヨハン=バプテストは、そうじゃないと思った。彼女はまだ九歳の子供なのだ。懸命に背伸びをして寂しさと戦っているけれど、大人びた台詞ほど、彼女は寂しさと折り合いをつけているわけではない。

 新しいドールハウスに上手く収まらない家具は、アンジェリカだけではなかった。彼には、アンジェリカの居心地の悪さがだれよりもわかった。彼は少女に近づくと、その手を握った。

 驚いて見上げる彼女に、彼は、慣れなくて難しかったけれど、可能な限り優しく笑いかけて言った。
「僕が、案内してあげる。あっちには、小さな滝があるし、昔、僕が海賊ごっこをした小屋がある。一緒に宝探しをしよう」

 アンジェリカは目を輝かせた。
「本当? あなた、海賊役するの? 私、さらわれたお姫様の役、やっていい?」
「いいとも。今日だけ、特別だよ」 

* * *


「アンジェリカ、本当に考え直すつもりはないのかい?」
「もちろんないわ。大丈夫よ、ルイス=ヴィルヘルム。そんなに心配しないで。私、これでもけっこうドイツ語が上手に話せるようになっているのよ。なんとかなると思うわ。どうしても耐えられないようなことがあったら電話だって出来るんだし、それに、ヨハン=バプテストもいるじゃない」

 そういうと、ルイス=ヴィルヘルムは少し困ったような顔をした。
「その、君はあいつと長らく会っていないだろう? その……あいつは、悪氣は全くないけれど、とても無愛想でな。君のような都会的な女の子の扱いも下手で、あまり上手にかばってくれないかもしれないぞ」 

 アンジェリカは、そっと微笑んだ。仏頂面のまま、一生懸命お姫様をさらう海賊の役をしてくれた少年の姿を思いだす。

「彼は、私のお芝居にきっと付き合ってくれるわ」
小さなスーツケースを軽々と持ち上げて、彼女は楽しそうに笑った。

(初出:2019年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】不思議な夢

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第八弾です。ユズキさんは、『大道芸人たち Artistas callejeros』の主人公の一人ヴィルの登場するコラボマンガを描いてくださいました。ありがとうございます!

 ユズキさんのブログの記事『scriviamo!2019はマンガを描きました 』
 ユズキさんの描いてくださった『コアラ先生は謎の男を拾っておもてなしをしました。

ユズキさんは、小説の一次創作や、オリジナルまたは二次創作としてのイラストも描かれるブロガーさんです。現在代表作であるファンタジー長編『ALCHERA-片翼の召喚士-』の、リライト版『片翼の召喚士-ReWork-』、そして『アストリッド様と「行くわよ愉快な下僕たち!」』を集中連載中です。

そして大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストを描いてくださっています。

 今回描いてくださったマンガは、『ALCHERA-片翼の召喚士-』の世界観、続編に出てくるキャラクターのコアラのトゥーリ族であるウコン先生がいち早くお披露目だそうです。コラボ相手に選んでくださった唐変木男ヴィルとユズキさんの作品とは縁が深くて、ヒロインのキュッリッキ嬢や、その守護神であるフェンリルとのコラボもさせていただきました。

で、今回はヴィルが異世界召喚されちゃって、もったいないおもてなしを受けているのに、なのに相変わらずの無表情&唐変木ぶりを発揮している、もう私にとってはツボ! なマンガだったのですが、ご希望は、このお話をヴィル視点で書いて欲しいとのことでした。というわけで、書きましたが、あ〜、ユズキさん、申し訳ありません。失礼の数々、ヴィルに代わって深くお詫びいたします。


【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物



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大道芸人たち・外伝
不思議な夢
——Special thanks to Yuzuki san


「ねえ、やっぱりちゃんとお医者様に診てもらった方がいいんじゃないの?」
蝶子の言葉にヴィルはムスッと答えた。
「こんなのは寝ていれば治る」

「なあ。健康保険をなんのために払ってんだよ。俺運転するぜ。ちょっと診てもらって抗生物質を出してもらうとかさ。なんなら、お尻にぶすっと注射でも打ってもらえば……」
「注射なんて死んでもごめんだ!」
そういうと、ドイツ人は布団をかぶって背を向けた。

 蝶子は、稔と顔を見合わせて肩をすくめると、仕方ないので部屋の外に出た。
「なぜあんなに意固地になるのかしら」
「さあな。ただの風邪なら確かに寝てりゃ治るけれど、あれ、インフルエンザじゃないのか? そういえば、テデスコが寝込むほど具合が悪くなったのって、もしかして初めてだな」

「普段の理屈っぽさはどこに行っちゃったのかしら。あそこまで非論理的になるなんて」
「テデスコ、もしかして注射が怖いのかもしれませんよ」
レネが言った。

 全くお手上げだった。エッシェンドルフの屋敷にいれば、ミュラーが医者の往診を頼んでくれるだろうが、旅先ではそういうわけにもいかない。
「しかたないわね。私、薬局に行って解熱剤でも買ってくる」

「じゃあ、俺たちは、買い出しに行くか」
稔が言うと、レネは頷き、三人はそっと宿を出て行った。

「注射なんて死んでもごめんだ」
ブツブツとつぶやくと、ヴィルはもう一度寝返りをうった。激しい頭痛がして、なかなか寝付けない。体が頑丈なのが取り柄なのに、一体どうしたというんだ。明日までに熱が下がるといいんだが。

* * *


 ほらみろ。少し寝ていたら、痛みは治まったし、熱ももうないようだ。医者なんかに行く必要はなかったな。

 ヴィルは、勝ち誇った思いで瞼を開けた。それから、何度か瞬きをした。安宿で寝ていたんじゃなかったのか? 何で俺は、ここに立っているんだろう。

 そもそも、その場所に見覚えがなかった。街の作りは、さほど奇妙ではなかった。若干カラフルすぎるように思うが、美しく計画された、清潔な町並みだ。しかし問題は、道行く人々が彼の馴染んでいるヨーロッパの人種と違うようなのだ。中には、彼自身と同じゲルマン系に見える人々もいる。たとえアジア系やアフリカ系の人間がいても、今時は珍しくない。だが、動物の頭をした人物が、服を着て直立二足歩行をしているのは普通ではない。

 狐がすれ違いざまに振り向いていった。連れだって歩いているのは大きな熊だ。そんなことがあってたまるか。

 つい数日前に、稔が話していたことを考えた。確か蚊が媒介するウィルスが脳炎を起こすので、日本では子供の頃に予防接種が義務づけられているとか。日本人に生まれなくてよかったと思っていたが、もしかして、先日の日本行きで蚊に刺されその脳炎にかかってしまったのだろうか。

 呆然としていると、服の一部を誰かが引っ張った。視線を下げて見ると、そこに服を着たコアラがいる。コアラだ。こんな間近にコアラを見たのは初めてだ。そう考えて、次に自嘲した。近くも何も俺はコアラを見たことなんかないじゃないか。あの時に、見そびれたんだから。小学五年生の遠足。夢にまで見たデュイスブルク動物園。

 服を着たコアラは、何かを話しかけている。残念ながら、何を言っているのかさっぱりわからない。どうやら悪意はなさそうだ、どちらかというと親切な話し方だ。

「悪いが、英語で話してくれないか」
言ってから、自分でもどうかしていると思った。オーストラリアにいるからといってコアラが英語を話すわけないだろう。オーストラリアのコアラは服は着なかったと思うが。

 そして、そのコアラは、英語に切り替えてくれることはなかった。どうやらヴィルが何を言っているのか、通じていないようだ。だが、彼は(オスだと思うのだが確かなところはわからない)、ヴィルをどこかに連れて行こうとしている。放っておいて欲しいと伝えようとしたが、考えてみればこのままここにいても問題が解決しそうにないので、とりあえずそのコアラについて行くことにした。

 ついてから、「最悪だ」と思った。どうやらそこは、あれほど行くことを拒否した診療所のようなところだったからだ。

「いや、俺はもう治ったので、心配しないでくれ。特に注射はごめんだ、絶対に断る」
幸いコアラは注射器を取り出すような氣配はなかったが、どうもこの消毒薬の匂いは落ち着かない。

 ヴィルは、子供の頃から病院や診療所が苦手だった。成長して、診療所は病を治療するところで、拷問するところではなく、怖れることは何もないのだとわかってからも、苦手意識は変わらなかった。それは、彼にとって苦々しいことだった。論理的でないとわかっているのに、感情が自分を支配しているのが腹立たしい。いい歳をして病院が怖いなどと認めるのは絶対に嫌だった。

 服を着て二足歩行をし、パイプを吹かし、人間に話しかける、非論理の極みであるコアラは、消毒薬の匂いのするこの診療所を我が物顔で歩き、診察椅子と思われるところに座れと促している。人間の医者にかかるのだってごめんなのに、どうしてコアラに診療されなくちゃいけないんだ。

「はっきりさせておきたいが、これは夢なんだろう。いわゆる明晰夢ってやつなんじゃないか。明晰夢なんてモノをみたことはこれまでに一度もないが、そもそも不眠症ぎみの俺は、ほとんど夢を見ないしな。もしこれが夢ではなかったら、俺は頭がイカれてしまったことになる。そうすると、それはそれであんたのフィールドだ。あんたが医者のコアラならな」

 コアラの方は、じっと真剣にヴィルの問いかけを聴いていたが、それがわかったわけではないらしい。かなり困った顔をしながら、何かを懸命に訴えていた。身振り手振りを推察するとなぜあそこにいたのだ、どこから来たのかと質問しているようだ。そんなこと、俺の方が訊きたい。ヴィルは途方に暮れて押し黙った。

 コアラは、どこかへと電話をした。電話も使うのか。そうだろうな、家や診療所を持っているくらいだ。電話くらいするだろう。ヴィルは妙な感慨を持った。

 直に、誰かが訪ねてきたので、コアラは玄関へ行き招き入れた。別のコアラが来るのかと思ったが、今度は人間だった。ヴィルは、これ幸いと英語を始め、ドイツ語やイタリア語、それに片言の日本語の単語なども含めて男に問いかけた。人間なんだから英語くらいわかるだろうと思った読みは外れた。その男は、コアラと同じ言葉を使っていた。ヴィルに触って、何かを調べていたようだったが、結局なんの解決にも至らずに帰って行った。

 これではっきりした。ここは、いつもいる旅先のどこかではない。俺の頭が高熱でおかしくなってしまったという疑いは晴れないが、それにしては恐怖を引き起こすような状況は(注射を除いては)起こりそうにもない。ということは、やはり明晰夢の一種なのだろう。ヴィルは、とにかく落ち着いて、目の覚めるのを待とうと思った。

 そもそも自分はなぜコアラの夢を見ているんだろうかと考えた。コアラが特別好きだと思ったことはない。そもそも、三十年以上生きてコアラに関わることはほとんどなかった。唯一あるとしたら……。

 小学五年生の時、ドイツ西部のデュイスブルクに遠足に行くことになっていた。オランダにほど近い街までは遠いので泊まりがけだった。デュイスブルク動物園はコアラの繁殖に力を入れていて、オーストラリア固有種を生まれて初めて見ることを子供たちは、みな楽しみにしていた。ヴィルもそうだった。

 だが、泊まりがけと聞き、ヴィルの父親は反対した。私生児として生まれたヴィルの音楽の才能に氣がついた父親は、週に一度ミュンヘンの屋敷にレッスンに来るよう命じた。厳しいレッスンと課題に追われる日々が続いた。例外は許さず、たかが動物園に行くためにレッスンを休むなどとんでもないというのが彼の主張だった。

 デュイスブルク行きの費用を、母親は出してくれなかった。それだけの経済的余裕はなかったし、レッスンに関することで父親に反対することも彼女は望まなかった。城のように豪奢な邸宅住む父親にとって、その費用ははした金以下だろうが、頼んでも無駄なことは訊くまでもなくわかっていた。

 ヴィルが諦めなくてはならなかったのは、デュイスブルク行きだけではなかった。サッカーの試合も、友人の家に泊まりに行くことも、年末のパーティも、どんな羽目外しも許してもらえなかった。彼は、父親の教えに従い、フルートとピアノの腕前をあげ、大学在学中にコンクールで優勝するほどに上達したが、後に反抗して音楽から離れ、演劇の道に入った。

 あの時に夢にまで見た、コアラをみること。それがこの夢の引き金だろうか。だったらなぜサッカーの試合観戦や、遠足の夢を見ないんだ。ヴィルは、首を傾げた。

 服を着たコアラは、彼を別の部屋、おそらくダイニングルームと思われる部屋へ連れて行き座らせた。それからにこやかに何かを告げると席を外した。

 何が起こるかはわからないが、危害を加えられることもないと思ったので、目が覚めたときに分析できるように、周りの状況を目に焼き付けておこうと思った。窓の外には、新緑が萌え盛っている。季節も違うらしいな。

 カチャカチャと音がして、コアラが部屋に戻ってきた。見ると磁器のティーセットを盆に載せている。質のいい薄い茶碗に、コアラは紅茶を注いだ。それをヴィルに勧めて飲めと促した。それから、次から次へと甘そうな菓子類を運んできた。

 おい、コアラはユーカリしか食べないはずじゃなかったか。いや、これまで見たあれこれと比べたら何を食べようがこの際さほど重要ではないのかもしれない。

 真っ白な生クリームの上に、色とりどりのベリーが載ったトルテ。カスタードクリームに季節のフルーツをこんもりと載せたタルト。カラメルソースの艶やかなカスタードプディング。イチゴにクリームのたっぷり載ったサンデー。チョコレートやナッツを使ったクッキーやショートブレッド。パルミエパイ、クッキー、スコーン、マカロン。

 ちょっと待て。なぜこんな大量の菓子を運んでくるんだ。何十人の客が集まるんだ? それにしては、ティーカップが二人分しかないが、どういうことなんだ。ヴィルは、言った。
「まさか、俺一人にこんなに食えって言うんじゃないだろうな。ブラン・ベックじゃあるまいし、こんなに甘いものばかり食えないぞ」

 彼の仲間の一人であるレネは、甘いものに眼がなく、一緒に日本に行ったときにもスイーツ・バイキングで一人だけ山のようにこういった菓子を頬張っていた。あの時ヴィルは、妙に薄いコーヒーのみを飲み、醒めた目で仲間を見ていた。最後に蝶子に押しつけられたエクレアを一つだけ食べたのだ。甘かったが、それなりに美味いと思った。

 ちらりと菓子を見た。一つくらいなら、食べてみてもいいのかもしれない。

 それから、急いで自分を戒めた。ダメだ、ダメだ。お伽噺のセオリーだと、こういう時に出されたモノを口にしてはいけないことになっているんだ。ただの夢なのに馬鹿馬鹿しいとは思うが、ここは用心して食わないのに限る。ブラン・ベックなら、問答無用で楽しく食うかもしれんが、俺はもう少し慎重なんだ。

 コアラは、親切そうに何かを訴えている。食え食えと言っているんだろう、見ればわかる。おや、なんだか泣いているようだ。俺が泣かせたんだろうか。

 その泣き顔を見ているうちに、ヴィルは子供の頃のことを思い出した。学校の行事に参加することがなくなり、クラッシック音楽の練習に明け暮れていたため、同級生からはお高くとまった子供だと敬遠され、彼は次第に孤立していった。デュイスブルク動物園に行かせてもらえず、悲しい想いでいたときも、それを打ち明け悲しみを吐露する友人がいなかった。彼は、誰の前でも泣くことが出来なくなった。

 そうか、俺は、ずっと泣きたかったんだ。つらい悲しいと、わかってほしいと、誰かに打ち明けたかったんだ。ずっとその相手がいなかったから、飲み込んでいたが、今の俺はもう一人じゃない。悲しみも、歓びも、共に分かち合える仲間がいるじゃないか。

 三人が楽しそうに甘いものを食べているときに、あれは俺の食べるものではないと、醒めた態度で見ていたが、一緒にワイワイと食べればよかったのかもしれない。だから、俺は、こんな夢を見ているのかもしれない。

 そう思った途端、急に晴れ晴れとした心持ちになった。周りが霞がかかったようにぼやけていく。そうか、俺は目醒めるんだな。元いたところへ、三人の元に帰れるんだ。

 彼は立ち上がると、コアラの医者に礼を言った。
Danke sehr.どうもありがとう

* * *


 目を覚ますと、少し暗くなっていた。やっぱり夢だったな。どのくらい寝ていたんだろう。ああ、本当に熱が下がったらしい、痛みもなくなっている。トイレに行くために起き上がり、多少ふらつきながらドアに向かった。

「え! 帰っていたの?」
ドアの向こうにいた蝶子が驚いた。

「何がだ? それはこっちの台詞だろう」
ヴィルは眉をひそめた。

「だって、薬を買って戻ってきたら、いなかったから。ねえ?」
蝶子が同意を求めると、稔とレネも真面目な顔で頷いた。

「よほど具合悪くなって一人で医者に行ったのかと思った。そこら辺は見て回ったけれど、倒れてもいなかったし、早く連絡をくれないかって話していたところだったんだぜ」
稔も口を尖らせた。

「もしかして、僕たちがいないと思っていただけで、本当は布団にくるまっていて見えなかっただけなんでしょうか?」
レネも首を傾げている。

 ヴィルは、トイレから戻ってくると、三人の座っているテーブルについた。それから、買いだしてきたと思われるクッキーの袋に手を伸ばすと、開けて食べた。

「どうしたの? まだ、熱があるの?!」
普段は自分から甘いものを食べないヴィルが、いきなりそんな行動に出たので蝶子はうろたえた。

「これも食べますか?」
レネは、おそるおそるマカロンも差し出した。

 悪くない。あんなにたくさんはいらんが、たまには甘いものもいい。ヴィルは、心配してくれる三人の顔を眺めながら思った。そして、先ほど見たシュールな夢について語った。

「馬鹿馬鹿しい夢だが、何か意味があるのかもしれないと思ったよ」
そう言って話を終えると、三人は顔を見合わせて、笑った。

「それって、異世界召喚ってヤツなんじゃないか」
稔が言った。ヴィルは、とことん馬鹿にした顔で応じた。

「いいなあ。もし僕がその場にいたら、全部少しずつ食べさせてもらったのになあ」
レネが言うと、蝶子は吹き出した。
「少しずつじゃなくて、完食したんじゃないかしら」

 ヴィルも同じことを思った。それから、「シャワーを浴びてくる」と立ち上がった。

「もういいの?」
「すっかり毒が抜けたよ。明日、予定通り移動も出来るさ。次の目的地、決めといてくれ」

 そう言うと、ドアへ向かう彼の後ろ姿に、稔が笑って言った。
「もう決まっているよ。デュイスブルクだろ」

 ヴィルが驚いて、振り向くと、蝶子とレネも笑って人差し指をあげて賛成の意を示していた。多数決が成立し、行き先が決まった。

(初出:2019年2月 書き下ろし)


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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 世吉と鵺

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第七弾です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!

もぐらさんの朗読してくださった作品『主人思いの小僧と貧乏神』

もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。お一人、もしくはお二人で作品を朗読なさり、当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。いつもとても長くて本当にご迷惑をおかけしています。

今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品です。貧乏神のシリーズとはいえ、毎年、とてもハートフルなエンディングでお正月にふさわしい素敵な作品ばかりです。どうぞあちらで聴いてみてくださいね。

で、お返しですけれど、恒例の「樋水龍神縁起 東国放浪記」の話です。今回も窮鬼(貧乏神)の話題はほんのとっかかりだけですが、もぐらさんのお話のエッセンスを取り入れた話にしてみました。

平安時代の話なので、馴染みの少ない言葉がいくつか出てきますのでちょっとだけ解説しますと、出てくる「家狸」というのはいわゆる猫のことです。この当時、猫は民衆の間では狸の仲間だと思われていたようです。日本の在来の野生の猫をネズミを捕ることからペット化し始めた頃のようです。それとは別に遣唐使などと共に輸入されてきた猫もいました。それから、題名に出てくる「ぬえ」の方は、皆さんご存じですよね。想像上の生き物です。某映画のキャッチコピーを思い出した方は、私と同年代でしょうか。


【参考】
「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む 「樋水龍神縁起 東国放浪記」

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樋水龍神縁起 東国放浪記
世吉と鵺
——Special thanks to Mogura-san


 その村についたのは、もう暮れかかる頃だったので、次郎は何をおいてでもすぐに今夜の宿を探さねばならなかった。村はずれの小さな家でどこか泊めてくれる家がないかと訊くと、親切そうな女は困った顔をした。

「この家は狭く、とてもお二人をお泊めできるような部屋はございません」
確かにここは難しいだろうと思った。貧しい家はどこもそうだが、土を掘り床と壁と屋根を設置した竪穴式の家で、家族が身を寄せ合って眠るのが精一杯の広さしかないことが見て取れた。

 女は辺りを見回して言った。
「この先にもいくつか家はありますが、皆ほぼ同じような有り体でございます。例に漏れますのは、一番村の奥に住んでおります世吉よきち の家でございます。この者は、隣村の少領である佐竹様の右腕と言われる働き者で、親切なのでございますが……」

 次郎は首を傾げた。
「何か不都合があるのでしょうか」

「いえ。実は、この者の家には、化け物が棲んでいるのでございます。確かぬえ とやら申しました。天竺にいる虎のような体と、蛇になった尾を持ち、ヒューヒューと、氣味の悪い声で鳴くのだそうでございます。その様な家ですので、宿を請う者どころか、嫁すら迎えることが出来ないのでございます」

「そうですか。では次に泊まれるような家があるような村は」
「さようでございますね。隣村は難しいので、おそらく山道を十里ほど先に行く他はないかもしれません。ただ、もう暮れてまいりましたね。さて、どうすべきでしょうか」

 次郎は言った。
「我が主人は陰陽道に秀でられたお方ですので、多少の化け物など怖れることはないかと存じます」
「さようでございましたか! それならば、世吉も喜ぶことでしょう。誠にあの化け物さえいなければ、どんなにいいかと、村の皆で申しておったのでございます」

 次郎は、急いで主人である安達春昌の元に戻ると、女の話を伝えた。
「鵺?」
春昌は怪訝な顔をしたが、特に反対はせずに、その世吉の家へと馬を進めた。

 その家は、確かに村の他の家とは違い、決して大きくはないが茅葺き屋根の木造家屋だった。簡素な佇まいながらもきちんと掃き清められ、化け物が棲み憑いているような禍々しい氣は一切感じられなかった。

 もちろん次郎には、そういった普通の人には見えぬものはぼんやりと見えるだけで、主人のようにはっきりと見たり、判断をする知識があるわけではない。だが、主人が「心せよ」とも言わないところを見ると、いきなり化け物に襲われるようなことはないだろうと判断し、戸を叩いた。

「もうし、旅の者でございます。一晩の宿をお願いにまいりました」
その次郎の声に反応して、中から誰かが戸口へとやってきた。

 顔を出したのは、質素な身なりだが人好きのする顔をした小柄な青年であった。
「これは、珍しい。立派なお殿様のおなりですな。もちろん喜んでお泊めしたいのですが……その……村では何も申しておりませんでしたか」

 次郎は頷いた。
「伺っております。鵺という化け物が棲み憑いていると。まことでございますか」

 世吉は、困ったように言った。
「名前はわかりませぬが、異形のものがいるのはまことでございます。お氣になさらないのであれば、どうぞお上がりくださいませ」

「わが主は陰陽道に秀でておりますので、もしお望みでしたらお泊めいただくお礼に、その鵺の退治なども……」
次郎が小さい声で囁くと、世吉はぎょっとして春昌の顔を見た。

 それから困ったように言った。
「いえ、あれが窮鬼のようなものだとしても、仕方ないことと受け入れたのは私でございます。皆に追われて行く当てがなく氣の毒だったのです。私には生きるに足らぬ物はなく、これで構わぬと思っておりますので、どうぞあれをそのままにしておいていただければと思います」

 そう言うと、世吉は春昌と次郎を奥の部屋へと案内した。調度も整い、掃き清められた心地いい部屋で、嫁はなくとも世吉が家の中をきちんとしていることがわかった。化け物が突然遅いかかって来ることなどもなく、次郎は少し拍子抜けした。

 夕膳の支度をしてくると世吉が部屋から出て行ったので、次郎は家の脇につないだ馬の世話をするために再び戸口に向かった。すると、奥の部屋からヒューヒューという薄氣味悪い声が微かに響き、何かが拭き清められた廊下を静かに歩いてくる。

 次郎は肝を冷やして、急いで春昌のいる部屋に駆け戻ると大きな声で叫んだ。
「春昌様! 鵺が!」

 春昌は、落ち着いて次郎の飛び込んできた部屋の入り口を見た。それから、廊下から世吉が慌てて走ってくる音が聞こえた。
「どうか、そのものをお助けくださいませ!」

 世吉は、戸口で何か黒い生き物を抱えてひれ伏していた。怖れ伏していた次郎は、その世吉の言い方に驚いて顔を上げた。

「心配せずとも何もせぬ」
春昌は少しおかしさを堪えているような顔を見せた。

「春昌様?」
次郎は、春昌と鵺らしき生き物を抱える世吉の顔を代わる代わる眺めた。

「世吉どの。教えていただけないか。あなたがその生き物と暮らすようになつたいきさつを」
春昌の静かな声に、世吉は安堵し、生き物を放した。それは「ヒューヒュー」とわずかに喉から漏れるような音を出しながら、悠々と春昌の側に歩いてきた。

 次郎はその生き物を見て、少し拍子抜けした。確かに一度も見たことのない生き物だった。漆黒で、長い毛に覆われている。尾の長さは頭から尻までと同じくらい長く蛇のように蠢いていたが、蛇というよりは狐の尾に近いものだった。顔と体つきは屏風で見た虎に似ているが、全体の見かけは少し大きな町の裕福な家にて飼われる家狸ねこま に酷似していた。違うのは尾が長いことと、毛が非常に長いこと、それに大きいことだ。

「はい。このものは、私めがまだ少領である佐竹様の下人として、辺りを回っていたときに出会いました。とある裕福な家で、むち打たれていたのでございます。訊けば、どこからともなく来て棲み憑いたものの、それ以来、家運が傾き下人などが夜逃げをするようになったとのこと、法師さまに見ていただいたところ、このような生き物は見たことはないがおそらくは文献に見られる鵺であろうと。窮鬼のごとく、家運を悪くすると申します。されど、小さい体で息も絶え絶えに助けを求めている様を放っておくことはできず、お館ではなく、我が家でしたら殿様のご迷惑にはならぬであろうと、お許しをいただき連れ帰りました。それ以来三年ほど共にこうしておりますが、すっかりと慣れておりますし、たまに鼠なども狩ってくれます。たとえ運がよくなろうと、退治されてしまうのはあまりにも辛うございます」

 春昌は、ゴロゴロと喉を鳴らすその黒い生き物を撫でて言った。
「これは鵺ではない。唐猫からねこ だ」

 次郎は仰天してその大きな生き物を見た。唐猫と呼ばれる生き物ことは、以前に仕えていた媛巫女に聞いたことがあった。天竺の様々な法典を鼠より守るために遠く唐の国から船に乗せられてきた貴重な生き物だと。

「非常によく似た唐猫を御所で見たことがある。天子様がことのほかご寵愛で、絹の座布団で眠り、日々新しい鶏肉と乳粥で大切に養われていると聞いた」
春昌の言葉を耳にして、世吉は腰が抜けるかと思うほど驚いた。

「鼠を狩るのは当然だ。家狸ねこま が飼われるようになったのも鼠を狩るからだが、唐猫と家狸はもともと同じ種類の生き物だからな。何かの間違いで逃げ出し、親とはぐれてしまったのであろうが、その様なむごい目に遭わされたとは氣の毒に。家狸のごとく鳴くことが出来ず、鵺のような音を出すのは、おそらく喉が潰れてしまったのであろうな」

 唐猫は、悠々と世吉の元に戻ると膝に載りヒューヒューと息を漏らした。その愛猫を抱きしめながら世吉はつぶやいた。
「そうか。そんなに尊い生き物だとは知らずに、ずっとお前を窮鬼の仲間だと思っていた。申し訳のないことを」

「そうではない。禍々しくないと同様に、尊くもない。ただ、家狸ねこま と同じく、馬や牛とも同じく、けなげに生きる生き物だ。そして、世吉どの、そなたはその命を救い、窮鬼だと思いつつも懸命に世話をした。それをその猫は知っているからそなたと共にいるのだ」

「私は、このものを追い出すことも死なせることも出来ませんでした。もし窮鬼と共に生きるのであれば、人の数倍、身を粉にして働かねばと思っておりました」

 春昌は頷いた。
「その心がけが、そなたをただの下人から、少領どのの片腕と言われるまでの地位に就けたのであろう。言うなれば、そなたの唐猫からねこは、窮鬼ではなく恵比寿神に変わっていたのであろうな」

「はい。安達様、お教えくださいませ。私ごとき、身分の低い者がそのような珍しい生き物と暮らしていて、とがめられることはないのでしょうか。知らなかったとは言え、三年ほども共におりましたし、もし天子様の唐猫の仔などであったとしたら……」

 春昌は、怯える世吉に笑って言った。
「誰にも言わねばよい。法師は鵺と言ったのであろう。誰もが鵺を恐れて、その生き物を引き取りには来ない。そなたはその唐猫を鵺と呼び、寿命を迎えるまで大切にしてやるといい」

(初出:2019年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】迷える詩人

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第六弾です。前回に引き続き、ポール・ブリッツさんのご参加分。今年は十句の無季自由律俳句でご参加くださいました。

 ポールブリッツさんの「電波俳句十句

毎年ポールさんのくださるお題は難しいんですけれど、今年は更に悩まされました。毎年のお題と違うのは、今回の作品はかなりパーソナルな内容なのかなと思いまして、どう取り扱っていいのか。

ここで私が十句もパーソナルな内容の俳句をお返しすることは、誰も望んでいないと思うので、俳句に詠まれた内容を(一部は申し訳ないのですけれど、正確な意味がわからなかったのですが)、私なりに感じる創作者の共通の悩みのことを書いてみようかなと思いました。そして、書いてくださった十句にちなんで、十のよく知られたラテン語の箴言や格言を散りばめてみました。私が付け焼き刃で書く下手な俳句などでは却って失礼になると思ったので。

登場するのは、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」における「歩く傍観者」こと、(身元が判明する前の)主人公マックスです。ご存じない方も、彼が主人公だったことをお忘れの方も、全く問題ありません。この作品ではほとんど関係ありませんから。


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む
あらすじと登場人物

森の詩 Cantum Silvae 外伝

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森の詩 Cantum Silvae 外伝
迷える詩人
——Special thanks to Paul Blitz-san


 穏やかな秋の午後、マックスは山道を急いでいた。まだ今宵の宿を見つけていないのだ。足下には絨毯のごとく大量の栗のイガが散らばっていた。

「痛っ」
マックスは、声を上げた。今日は、もう三度目だ。彼はまたしてもそれを踏んでしまったのだ。

 この地域は、特に風味豊かな栗を産することで有名だ。鬱蒼と茂る背の高い栗の木々は、村のそれぞれ家で管理している。教会と代官に納める分以外は、乾燥栗や、その粉末に加工されてヴェルドンはもとより、貿易によって運ばれ遠くセンヴリやカンタリア王国の宮廷でも食卓に上ることがあった。

 落ちているのはイガばかり、つまり、旅籠で本日の定食を頼めば、彼の足を刺したイガが抱いていた秋の味覚を口にすることが出来るはずなのだ。

 まずは栗を煎る香ばしい煙が、それからようやく小さな灰色の家々がマックスを出迎えた。彼は、歩きにくい粗い石畳の小径を進み、《牡鹿亭》と書かれたおそらくこの辺りで唯一の旅籠に足を踏み入れた。

 中には旅人らしい影は多くなかった。食事をしているのは、旅籠の亭主らも含めて四人ほどで、おそらく客は奥に一人で座る青年のみだろう。

「今宵の宿を頼みたいのだが」
そう尋ねると、亭主は立ち上がり、中へと招いた。古い栗の木を用いた寝台や机、とても小さな戸棚があるだけの簡素な部屋だったが、マックスは満足した。

「今すぐ来てくれれば、定食を出すが」
マックスは、頷いた。少し早すぎるとも思ったが、食いっぱぐれるよりはいい。

 食堂は狭いので、彼は先客の前に案内された。それは青ざめた顔をした痩せた青年で、銀色のタンブラーを右手で持っている。中には半分ほどのワインが入っている。その手がわずかに揺れているのを見て、マックスは「おや」と思った。

「ワインはいかがですか」
亭主がワインの入った水差しを持って近づいてきた。マックスは礼を言ってタンブラーを差し出した。マックスに注ぎ終えると、訊くまでもなくもう一人の客もタンブラーを差し出したので、そちらにもためらいながらも注いだ。

「そんなに飲んで、大丈夫か、アントー? 」
亭主の問いかけに、アントーと呼ばれた客はあざ笑うように言った。
「大丈夫じゃないさ。生まれてからこのかたずっと」

「それじゃ、わざわざ明日の頭痛や悪寒をあえて背負い込む必要はないんじゃないかい?」
余計なことと思いつつも、マックスは言ってみた。

 男は片眉を上げると、マックスにタンブラーを差し出して答えた。
「正にその通り! それでは、明日の頭痛と吐き氣に乾杯しよう、旅のお方」

 マックスは、盃を合わせて少し飲んだ。
「君は、この村にしばらく逗留しているのかい? 詳しいなら少し教えてくれないか」

 アントーは、口の端だけで笑いながら言った。
「何を知りたいのかね、旅のお方。俺は、確かにこの辺りのことに少しは詳しいさ。今は歓迎されず、長居をすることはないが、何といっても隣村で生まれ育ったのでね」

「そうなのか! 僕は、サッソ峠を超えてグランドロンヘと入るのは初めてなんだ。初雪が降る前に街道へと出たいんだが、どこを通ると一番いいだろうか」
「そうだな。俺なら、少し西へと向かいエッコ峠にするな」
「ずいぶんと遠回りなのにかい?」
「サッソ峠は、日が当たらないためか辺りはひどく貧しくてね。旅籠はないし、食べられるものや安心して休める場所も見つけにくい。ここを出てしばらくはひもじい思いをすることになるし、追い剥ぎにやられる可能性も多い。道は一本なので、迷うことはほとんどないと思うがね」

「じゃあ、君がここに居るのは、故郷に帰るためなのか?」
そうマックスが訊くと、アントーは引きつったような笑い方をした。

「俺は、二日ほど前に故郷の村へ行ったんだが、追い払われたんだよ。金の無心だけのために戻ってくるなってね。名をなして、豊かにならない限り、故郷にも帰れないのさ」
そう言うと、苦しそうにワインをあおった。

「故郷を離れてから、どこに居たんだい?」
「あちらこちらさ。宮廷で雇ってもらおうなんて野望は持っていないが、大きな町に行けば、詩人として名をなすことも出来るかもしれないってね」

「君は、詩人なのか」
「今は、ただの酔っ払いだ。言うだろう、『In vino veritas.(真実とはワインの中にある)』ってね」

 マックスは肩をすくめた。
「つまり、これから君は、本当のことをペラペラとしゃべってくれるというわけだね」

 アントーは、おやと言うようにマックスを見た。
「ラテン語がわかるってことは、お前さんは、ずいぶんと教育を受けているんだね、旅のお方」

「ほんの少しね」
マックスは、酔っ払っていないので、真実を吐き出してはいなかった。実際には、彼は当代で受けられる最高の教育を受けており、宮廷や貴族たちの家で教師として働くことで生計を立てていた。そして、この旅籠の主人らが生涯に一度も見たことがないほどの大金を質素な旅支度に隠し携えていたのだ。

「そうか。俺は、だが、ラテン語に詳しいというわけではない。さっきのはたまたま知っていただけだ。そもそも、まともな教育を受けることなど不可能だったしな。まともに食うものもない貧しい村で、詩人になりたいといったら、誰もが笑ったよ。ただ、親は喜んだ。小さな畑を二人の息子が引き継ぐのは不可能だったし、詩人になるなら村から出て行くに決まっているからな」

「そして、君はそうしたんだね」
「ああ、したとも。ヴォワーズ大司教領へ向かい、門前町で自慢の詩を朗々と歌うところから始めた。まさか、村でよりもひどい嘲笑に迎えられるとは思いもしないで」

「『Sedit qui timuit ne non succederet.』」
「なんだそれは?」
「ホラティウスの言葉だよ。『失敗を怖れ成功したくなかった者は、静かに座っていた』つまり、何もしない人間は失敗もしない代わりに成功することは絶対にないって意味だ。君は詩人になる努力を始めたんだろう」

 アントーは頷き、タンブラーから酒を飲み干すと、亭主に合図してお代わりを要求した。亭主は、先にマックスにスープを運んできた。わずかに茶色いクリームスープからはほのかに栗の香りがした。

 アントーは、酒をもらうと、低い声でブツブツと詩らしきものを唱えていたが、マックスにはほとんど聞き取れなかった。彼は、顔を上げてマックスに語りかけた。
「そうさ。でも、詩人を目指すのと詩人になるのは同じではなかった。大きな壁があった。みな俺の詩には、教養がないと言うんだ。韻は踏めていないし、故事も含めていないと。だけれども、どうしたらそんなことが出来る? 俺は、何も知らないし、習う相手もいないんだ。金もないし。なあ、旅のお方、詩人の資格とはなんなのだ?」

 マックスは同じホラティウスの言葉を思い出した。
「『天賦の才、人より優れた心、そして偉大な物事を表現する雄弁さを持っている人は、詩人の名誉を受ける権利がある(Ingenium cui sit, cui mens divinior, atque os magna sonaturum, des nominis hujus honorem)』ってね。雄弁さの部分は、技術的な問題もあるから学ぶ必要があるのかもしれないが、そもそも大切なのは何を表現したいかじゃないのかな」

 アントーは、顔を上げた。暗い想いにわずかな陽が差したかのように。
「表現したいこと……それならいくらでもある」

「こうもいうよ。『魂があるところに、歌がある(Ubi spiritus est cantus est)』僕は、全く詩人ではないから、知識があっても詩は作れない。詩を作りたいと想うことこそが、既に一つの才能なのではないかな」

「じゃあ、俺はまだ詩人でありたいと願い続けていてもいいのだろうか」
「もちろん、いいと思うさ。名をなして金持ちになるかどうかはわからないけれど、もともと金がないから詩人を目指してはいけないなんてことはない、そうだろう? もし、君さえよければ、僕に一つ聴かせてくれないかい?」

 アントーは、小さく頷くと、うつろな瞳を宙に泳がせ詠じた。
「少女が戸口で頼む 火のついた炭を分けてくれと
隣人は怠惰なのろまと罵り 戸を閉めた
冷えた家に戻った継母は 怒りにまかせて少女を叩き
彼女は叩かれた数を 腹の中で数えた」

 詩は、次の連へと進み、いくつもの傷跡を受けて謎の死を遂げた継母を置き去り、少女が街へと出て行く様子を述べた。少女は街で早々に男たちに売られて、悲惨な生活へと流されていくやるせない物語だった。マックスがこれまで聴いた詩と違うのは、確かにそのアントーの詩は韻律を全く無視しており、平坦な文章にしか聞こえなかったことだ。だが、物語そのものは、非常に興味深かった。

 亭主がやってきて、詩には全く感銘を受けた様子を見せずにアントーをじろりと睨んだ。
「おい、なんの役にも立たない物語でお客さんを悩ませるんじゃないぞ」

 青年詩人の声は小さくなり、語るのをやめてしまった。その様子を見て、マックスは、この近隣でのアントーの立場を思いやるせなくなった。

『何故笑っているのか。名前を変われば、物語はあなたのことを語っているのに(Quid rides? Mutato nomine et de te fabula narrator.)』
そう言ってやりたいと思ったが、それが却って故郷でのアントーの立場を悪くしてはならないと思い、黙った。

 亭主は、マックスの空になったスープ皿の椀を下げると、平たい麺にラグーをかけた料理を置いた。ラグーには煮込まれてバラバラになった肉が見えたが、塊はなかった。その代わりに大きな栗がいくつか見えた。

「スープはいかがでしたかい」
「ありがとう。美味しかったよ。栗が入っているんだね」
「へえ。そして、この麺にも栗の粉が練り込んでありやす」

 その麺を、マックスは一度も見たことがなかった。指ほどの長さに切れていて、グレーと茶色の中間の色をしている。少しざらりとした舌触りだが、もっちりとして弾力のある歯ごたえだ。
「土台になっているのは小麦ではないのかい?」
「ソバ粉、栗の粉、それにほんのわずか小麦でさ。この谷の名産としてお代官さまに献上する品目に入っておりやす」

 この地域は、小麦がよく育たなく、むしろソバの生育に適しているのであろう。ないものを憂えるのではなく、その土地だからこそ出来る物を強みに、人々が生き抜く様を、マックスはここでも感じた。
「『Aut Viam Inveniam Aut Faciam』と言うとおりだね」

「なんですかい、それは?」
「先ほどから、僕たちが話しているラテン語名言集のひとつさ。『私は道を見いだすか、さもなくば自ら道を作るだろう』っていう意味だよ。他の土地のように小麦を植えるのは難しいかもしれないが、栗にしろ、蕎麦にしろ、この谷だからこそよく育つ植物を利用して、他にはない強みを作った先人たちの知恵に感心しているのさ」

「そうなんですかね」
そういって亭主はまた下がった。

「自ら道を作るか……」
アントーが、つぶやいた。

「そうだ。君の詩も、おそらく道を作りかけている最中なのではないか?」
マックスは言った。

 アントーは、自信なさそうにマックスを見た。
「聴いてくれるのは、貧しい人たちばかりだ。金のある奴らは、俺の語りかけに立ち止まることをしない。それに神父がやってきてたしなめるんだ、善きことをした者が報われる物語を、きちんとした韻律で語れと。この世に善きことをした貧しい者が報われたことなど、俺は一度も見聞きしていない。そんな耳障りのいい絵空事を語るために詩人になりたかったわけじゃないんだ」

 マックスには、アントーの悩みの本質が見えてきた。韻律や故事などは習うことが出来よう。だが、彼が望むのは世の中の矛盾と不正義に対する告発を詩にすることなのだ。そして、それを望む限り金銭的な成功や名誉を得ることは難しいに違いない。

「僕には、君を助けてあげることが出来るかどうかはわからない。でも、名を成すことと、伝えたいことを同時に実現するのは、詩人に限らず難しい。君の物語に僕は心を動かされたから、受け入れられることは可能だと思う。でも、それが難しいのは確かだ。少なくとも韻律を学んで、体裁を整えれば、聴いてくれる者が増えるかもしれない。もしくは耳障りのいい詩で先にパトロンを作ってから、より伝えたい詩を詠じるという道もある」

 アントーは、しばらく黙ってマックスを見つめていた。
「お前さんは、まじめに聴いてくれるんだな。そうか、そうかもしれないな。今すぐに全てを実現しようとするから、上手くいかないのだろうか」

「新しいことをしようとすれば、時間はかかるだろう。『滴は岩に、力によってではなく、絶え間なく落ちることによって、穴をあける(Gutta cavat lapidem, non vi, sed saepe cadendo. )』って言うからな」

 アントーは、タンブラーを脇にどけて、真面目にマックスの顔を見つめた。
「体裁を整えるために韻律を学ぶか。だが、どこで、誰に……」

 マックスは、少し考えた。
「もし、またセンヴリに向かうつもりならば、マンツォーニ公の領地へと行くがいい。サン・ジョバンニ広場には、アレッキオという年老いた詩人がいる。彼とは、一年ほど親交を持っていたが、人の心のわかる立派な魂を持った男だ。彼にマックス・ティオフィロスに紹介されたといって教えを請うといい」

「ありがとう。是非そうするよ。なんとお礼を言っていいか」
「『苦難の中にいるものには、恐らく、よりよいものが続くであろう(Forsan miseros meliora sequentur.)』もしくは『過ぎ去った苦しみの思い出は、喜びに変わる(Jucunda memoria est praeteritorum malorum.)』っていうからね。君の志が実を結ぶことを応援させてもらうよ」 

 それからマックスは、懐から財布を出して、銀貨を一つ渡した。一つの詩に対する賞賛にしては高すぎる金額だったので、アントーはぎょっとして訊いた。
「どうして?」

「君の未だ世に認められていない才能にさ。『Magna voluisse magnum.』(全ては我が槍に至る - 偉大なことを欲したということが偉大である)、そう思って受け取るといい。僕に出来るのはここまでだ。このあとに運命が開かれるかどうかは、君次第だ」
マックスは言うと、彼自身のワインを飲み干して、青年の幸運を願った。
 
(初出:2019年1月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】日曜の朝はゆっくりと

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第五弾です。ポール・ブリッツさんは、今年も、二つ同時にご参加くださいましたが、まずはプランBの方です。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

ポールさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。毎年難しいお題を出すのを生きがいになさっていらっしゃるのでは、と思うのですが、どうでしょう(笑)

さて、まず先にBプランからのお返しですが、ポールさんは「自炊日記」という形で、一ヶ月間召し上がったものを記録していらっしゃるので、それにちなんだ作品を書いてみました。別になんてことのない短い話ですが、中に簡単なレシピが組み込んであります。

というわけで、お返しはこの作品と一切関係のないもので、単純に「中にレシピ的な記述が入っている作品で」お願いします。



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日曜の朝はゆっくりと
——Special thanks to Paul Blitz-san


 朝から何も食べていなかったので、真子はすこぶる機嫌が悪かった。正直言って、食べられるものであれば、コンビニのおにぎりだろうが、ファーストフードの最安値ハンバーガーでも構わなかった。

 でも、そんなことを言おうものなら、食文化への冒涜だとか、よい食事と少しの酒は精神への貢ぎものだとか、意味不明な言葉を並べ出す男がいる。だから、イライラをぐっと堪えて、その男の手がもう少し早く動くように誘導しなくてはならない。

 オーギュスタンは、面倒くさいタイプだ。真子のかつて勤めていた会社に、一筋縄ではいかない同僚がいた。忘年会に一人遅れ、乾杯の音頭をとる部長がしびれを切らして真子に様子を見てこいと言った。行ってみると余興に使うプリントを作っている。部長が苛ついているから早くしろと言ってもフォントが揃っていないと、それからやたらと時間をかけていた。オーギュスタンは、かなりその人に近い、空氣を読まずにこだわるタイプだ。元同僚と違ってフランス人なので仕方ないのだろうか。

 めくるめく情熱の夜を過ごして、幸せの絶頂にいるというのならば、このウルトラ悠長なブランチの準備に何も思わないかもしれない。だが、あいにく真子とオーギュスタンは、そのような色っぽい関係ではなかった。

 真子は、かつてかなり高給をもらっていたので、広くて綺麗な新築マンションを購入した。ところが、急に子会社に出向を命じられ、手取りが減ってしまい、ローンの返済が苦しくなってしまったのだ。売るのは条件が不利だったし、通勤に便利なこの住まいを手放すのも悔しかった。それで、空いている部屋を貸すべく同居人を募ったのだ。

 本当は女性の方が安全だと思っていたのだが、あいにくちょうどいい感じの女性はみつからない。あれこれ検討しているうちに、なぜかこの謎のフランス人男が同居することになってしまったのだ。言葉の心配をしたが、英語でなんとかなることがわかったので、お互いブロークンなままなんとか意思疎通を図っている。

 実は、それも彼と同居することにした理由の一つだ。日本人同士だと毎日ちゃんと会話をしないと氣がとがめるが、外国人なら「意思疎通が外国語で難しくて」と逃げられると思ったのだ。もっとも、彼が居るときには、どういうわけか会話に引きずり込まれてしまう。氣まずくなることもない。

 それに、フランス人と言えば、女を見ればすぐに口説くものなのかと思っていたが、おそらく彼も相手を選ぶのであろう、同居を始めて二ヶ月経つが、ただの一度もそのようなことはなかった。

 真子の方でも、それ以上の関係になりたいとはカケラも思っていない。今朝にしても、別にご飯を作ってもらわなくてもいいのだが、つい話の流れで作ってもらうことになった。トロいので自分で作るから台所を明け渡せと今さらいうのも剣呑だ。

 ガラスタンブラーに、彼は赤ワインを注いだ。よくカフェなどで水を入れてくれるDURALEX社のピカルディというコップだ。そして鼻歌を歌いながら真子に微笑んだ。
「君の健康に乾杯」

 真子は乾杯に応えるために、手元の水の入ったコップを持ち上げた。
「ありがと。でも、朝っぱらから、ワインなの?!」
「もう十時半だから、早すぎないさ」

 いや、まず朝ご飯を作ってから、そういうことをほざいて欲しいんですけれど!

 その真子の心の叫びを全く意に介さず、オーギュスタンは、窓辺に置いている小さなプランターに向かい、何かの草に見えるハーブを数本指でカットした。

「それは、何?」
「エストラゴンさ。日本人の使うヨモギと親戚にあたるハーブだよ。ギリシャでヒポクラテスが著作で触れているくらい、ヨーロッパでは歴史のあるハーブなんだ」

 なるほど。ああ、しまった。こんなことを訊くんじゃなかった。彼は、ワインを飲みながら、コンピュータに向かい、エストラゴンのことを書いたサイトを探して真子に見せてくれた。

 他にすることがないので、真子はエストラゴンについての長い説明を読んだ。

 その間に、オーギュスタンはエシャロットの皮を剥いて刻んだ。小さくつやのある薄紫の小タマネギ様の野菜は、タマネギに似ているけれど匂いはマイルドで甘みも少ない。エストラゴンやパセリもみじん切りにしている。赤ワインのボトルを開けたのでまた飲むのかと思ったら、小さな鍋に入れてそれでみじん切りにした野菜類を煮だした。

 塩胡椒してから、ぐつぐつと煮ている。
「さあ、しばらくかかるからおしゃべりしよう」

 なんですって!
「それ、何を作っているの?」
「ベアネーズソースだよ。白ワインで作る人もいるけれど、僕は赤ワイン派さ。アルコールは飛ぶから問題ないよ。十分くらい煮るから。とにかくきちんと煮詰めないと美味しくないからね」

 ものすごくいい香りが台所に充満している。これは間違いなく美味しいはず。かんしゃくを起こしてコンビニに菓子パンを買いに行ったりしたら、きっと生涯後悔する。でも、お腹がすいたなあ。

「食事をする度に、こんなに手をかけているの? 大変じゃない?」
真子は訊いた。

「せっかくの食事は、美味しく愉しくすべきだよ。それが可能ならね。高級な食材や、手間のかかる手順が必要だと言うんじゃないよ。でも、胃袋だけでなく、眼も舌も、心も喜ぶ様な食事こそが、本当の意味での豊かさだと思うよ。だから会話や、テーブルセッティングも、大事だ。それに少しのワインもね」

 彼は、ガラスタンブラーをもう一つ出してきて、真子の前に置くと、ワインの瓶を手に持って訊いた。
「飲む?」

「まだ昼前だし……」 
真子は、一度良心に従って水差しをみたが、このいい香りのブランチは、日常ではなくて「ハレ」だと思ったので、改めてワイン瓶を指さし頷いた。オーギュスタンは、にっこりと笑いワインを注いだ。

「人生は短いんだ。夜にアルコールを飲めない日もある。なのに、休日でも昼前は飲まないなんてルールで自分を縛っていると、もったいないよ」
「そうかもしれないけれど……。フランスって、みんなそうなの? それじゃ、下戸が生きにくいじゃない」

「飲みたくない人に強制したりするのは、犯罪だよ。酒は、節度を持って楽しく飲むべきさ。それに僕は、楽しみを分かち合いたいだけで、飲ませたいわけじゃないよ。いらないなら喜んで一人で平らげるさ」
 
 ふむ、そうか。そのポリシーは、いいかも。
「フランスでは、こんな凝った料理を作れる男性、多いの?」
「別に凝っていないよ、このくらい、誰だって作るだろう?」

 いや、私は作らないけど。真子は思った。ううむ、ということは、この料理はフランスでは大したことのない部類なのか。まだソースしか作っていないから何が出来るのかわからないけれど。

 オーギュスタンは、鍋の様子を見た。ずいぶんと煮詰まってきたようだ。火を止めて、少し冷ましている。それから小さな鍋に移して、卵黄を混ぜてから湯煎にかけた。オリーブオイルを少しずつ加え、マヨネーズのような状態になってから火を止めた。

 それから彼はパンを入れている戸棚から、マフィンを取り出して二組トーストした。粗熱がとれてから、柔らかくしておいたバターを塗り、ベアネーズソースも塗った。そして冷蔵庫から取り出したローストビーフを「そんなに」といいたくなるほどこんもりと載せるとまた少しベアネーズソースを塗り、ミルで挽いた海の塩、黒胡椒とエストラゴンを載せた。

「さあ、テーブルについて」
冷蔵庫から様々なハーブの入ったサラダ菜を取り出してきて大きめの黄色い皿に敷いた。そこにローストビーフマフィンを置いた。それだけで、そこらのカフェが逃げ出したくなるほどのおしゃれな一品になった。

 いつもと同じテーブルだし、台所だって変わっていない。なのにどうしてここまでおしゃれブランチになるんだろう。ソース以外は、本当に全く難しくなさそうなサンドイッチなのに。

「ああ、お腹すいた。でも、待った甲斐があったわ、本当に美味しそう」
どうぞ召し上がれボナペティ

 真子は、マフィンをしっかりと手に持つと、思い切ってかぶりついた。ベアネーズソースの濃厚な味いと香りが、口の中に広がる。
「このソース、本当に美味しい! これって、どこかで売っていないかなあ」
そう真子が言うと、彼は人差し指を振ってたしなめた。

「出来合のソースを、プラスチックの容器から絞るようなやり方では、この味わいは得られないさ。コンビニエンスストアでは手に入らないからこそ、作りがいがあるんだ」
「そうかもね」

 待たされた怒りは、どこかに吹き飛んでしまった。仕事と自宅の往復だけで疲弊し、何かに当たり散らしたいと思っていたイライラもいつの間にか消え去っていた。

 空腹を満たすためだけ以外の食事をしたのは、久しぶりだった。一杯の昼前の赤ワインと、自宅で食べるとびきり美味しいサンドイッチ。少しゆっくりすぎるほどに手間をかけた準備と、ゆったり味わうブランチタイム。それ以外に予定のない、何でもない時間。

 満たされない想いへの処方箋は、高い給料でもなければ、かっこいい彼氏でもなかった。新しいショッピングモールや話題のカフェに行くことでもなければ、スケジュール帳を予定で埋めることでもなかった。そうではなくて、反対に、今あるものの中でゆったりと時間を過ごすことなのかもしれない。

 ベアネーズソースを心ゆくまで味わいつつ、真子は自分で面倒くさい呼ばわりをした同居人に対して、「次は何を作ってくれるのかな」と虫のいいことをいつの間にか考えはじめた。

 その野望を知ってか知らずか、彼は満足げにサンドイッチを食べながら、またワインをグラスに満たした。

(初出:2019年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】野菜を食べたら

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第四弾です。canariaさんは、楽しい「薄い本(同人誌)」様の短編で参加してくださいました。ありがとうございます!

canariaさんの『scriviamo! 2019 参加作品』


canariaさんは、Nympheさんというもう一つのお名前で独特の世界観と研ぎすまされた美意識の結晶を小説・イラスト・動画などで総合芸術を創作なさるブロガーさんです。現在ブログでは、「千年相姦」を絶賛連載中で、同時に「侵蝕恋愛」も続々刊行、それにイラストのプロジェクトも同時進行と、大変精力的に活動なさっていらっしゃいます。無理にブログの友達になっていただいたのは、前の前のブログの時からですから、お付き合いは結構長いですよね。

さて、今回は昨年に続き、私の「ニューヨークの異邦人」シリーズに絡めた作品、同人誌による二次創作という体裁で遊んでくださいました。

妹Loveで大富豪な上、何をやるのか作者でも謎なマッテオ・ダンジェロが、「郷愁の丘」作品中でグレッグがジョルジアに書いて渡したスケッチをWWFでの商品化するために動いてしまったという笑える設定です。ま、そんなわけないだろうというツッコミはなしで。これ小説の世界ですから(笑)

というわけで、またしても外伝を書かせていただきました。ええと、ヒロインのジョルジアはお留守です。その代わりに、思いっきりネタバレな(というか本編では書く予定のなかった人たち)がゾロゾロ出てきています。どんな先の話だ……。ま、いっか。


【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


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野菜を食べたら
Special thanks to canaria-san


 ドアの前に立って、アンジェリカは大きく息を吸い込んだ。ジョルジアの言いつけたことを忘れたわけではない。でも、他にどうしようもないんだもの。

 思い切ってノックをした。
「グレッグ、ねえ。邪魔して悪いけれど……」

 その先を言う必要はなかった。バタバタと音がして、中からドアがガチャリと開いた。口髭に隠れてはいるけれど、慌てて口をパクパクさせている様子は、おかしい。
「す、すまない!」

「ジョルジアには言われていたの。あなたが論文執筆に集中しているときは、邪魔をしないで先にご飯を食べろって。でも、二人ともあなたを待つって言い張るし、それなのに、ラファエーレはお腹が空いてぐずり出すし。だから、ご飯を食べに来るか、そうじゃなかったら二人に直接もう食べろって言って欲しいの」

「もちろんすぐに行くよ。本当に申し訳ない、アンジェリカ。僕は、また時間をすっかり忘れてしまったんだ」
そう言うと、一度デスクに戻って、広がっていた資料にいくつか紙を挟んでから閉じて重ね、それから走るようにしてさっさと戻りかけているアンジェリカを追った。

 ダイニングテーブルの横で、老いた愛犬ルーシーを撫でながらうつろな瞳をしていた幼い少年が、アンジェリカの後ろから入ってきたグレッグを目に留めて歓声を上げた。
「パパがきた! エンリコ、ごはんだよ!」

 飛び上がり駆け寄ったラファエーレ少年を、抱き上げるとグレッグは「ごめんな」と言った。少年は父親にぎゅっと抱きついて、そのまま椅子まで運んでもらった。グレッグは、もう一人のもう少し年長の少年に目を移した。

 エンリコは、明らかに自分も大好きなグレッグ伯父さんに抱きつきたいという顔をしていた。しかし、彼はもう九歳で抱きつくには少し大きくなりすぎているし、さらにいうと、目の前にいるアンジェリカ・ダ・シウバに笑われるのは嫌だった。

 グレッグは、そのエンリコの側にやってきて、肩の辺りを優しくポンポンと叩くと「遅くなってごめんな」と謝った。彼は首を振って笑顔を見せた。赤ちゃんではないので、食卓に全員が揃うまで待つことは問題なかった。もちろん、自分の父親を待つのは話が別だ。アウレリオ・ブラスは、食事に間に合うように帰ってきたことなどない。それどころか、予定よりも数日遅れることもしょっちゅうだ。朝はマリンデイに行くと話していたのに、夕方になってミラノから電話をしてきたりする男なのだ。

 でも、グレッグは違う。彼は、小走りになって、こうやってテーブルについてくれる。研究に夢中になると時間を忘れてしまうのはいつものことだから、せっかく遊びに来たのにほとんど一緒の時間を過ごせないこともある。それでもエンリコは、大好きなグレッグにわがままを言って困らせたりはしたくなかった。

 グレッグは、エンリコの母親マディの腹違いの兄だ。ツァボ国立公園に近いサバンナの真ん中《郷愁の丘》と呼ばれるところに住んでいるので、エンリコの家からは早くても一時間以上かかる。でも、数年前までは、二週間に一度くらい、エンリコの祖母レイチェル・ムーア博士と研究のことを話しに来ていたので、エンリコは祖母の家でしょっちゅうグレッグ伯父さんと会うことが出来た。

 様子が変わってしまったのは、ラファエーレが生まれてからだ。それからは、仕事と育児に忙しくて、二人ともなかなかレイチェルのところにもマディのところにもやってこない。だから、エンリコは、休みになると自分から率先して《郷愁の丘》に数週間泊まりに行くようになった。

「ねえ、ちゃんと付け合わせの野菜も食べなさいよ。好き嫌いなく何でも食べるから安心してって言われたのになぁ」
お皿の上の肉はなくなったものの、野菜がいっこうに減らないことにヤキモキしたアンジェリカが促した。

 エンリコは口を尖らせた。
「ジョルジアが作る付け合わせは美味しいから、すぐなくなっちゃうんだよ」
「ママのごはん、とってもおいしい!」
小さなラファエーレも調子を合わせたので、グレッグが慌てた。

「君の作る食事も美味しいよ。実を言うと、君に料理が出来るなんて、思ってもいなかったんだ。まだ十八歳だし、それに……」
「甘やかされたお嬢さまだから?」
「いや、その……」

「そんなに真面目に困らないで、グレッグ。それに氣を遣ってくれなくてもいいのよ。だいたいね、エンリコ。私がジョルジアみたいに料理上手だったら、こんなところであなたのベビーシッターなんかしていないで、とっくにスターシェフになって稼いでいるわよ。まったく子供のくせに生意氣だわ、ジョルジア並みに美味しくないと完食しないなんて」

 二年前から、アンジェリカは夏休みには小遣い稼ぎに働こうと自分で決めた。小学校の頃から親しい友達は、ピザ屋やアイスクリーム屋などで働いていたし、いま在籍している寄宿学校の仲間もそれぞれの国に帰って、なんらかの季節の仕事をするかヴァカンスに出かけていた。

 アンジェリカは、ピザ屋でも何でもいいから外で働いてみたいと思ったけれど、皆にひどく反対された。いつ誘拐されるかわからないというのだ。

 アンジェリカのためには、百万ドル以上の身代金を要求をされても、即座に払おうとする人間が周りにやたらといる。スーパーモデルの母親アレッサンドラ・ダンジェロ、有名サッカー選手の父親レアンドロ・ダ・シウバ、城をいくつも持つ母親の再婚相手ヴァルテンアドラー候家当主ルイス=ヴィルヘルム。それに姪を溺愛する伯父でアメリカ有数の富豪マッテオ・ダンジェロ。

 だから、送迎なしではなかなか街には行けない。ピザ屋で働くなんて夢のまた夢だ。

 それで、泊まり込みで身内のところで働いてみたけれど、二年前のマッテオのところでは甘やかされすぎて自分でも給料泥棒だと思った。去年は、ルイス=ヴィルヘルムのドイツにある城の一つで働いてみたけれど、今度は使用人たちが真面目で厳格すぎて息が詰まる。出来ればあそこにはもう行きたくなかった。

 それを相談したら、ジョルジアが《郷愁の丘》に来てみたらどうかというのだ。ちょうど彼女は長期アメリカに行かなくてはならない時期で、マディのところにしばらくラファエーレを預けるか悩んでいるところだった。

「あなたが来てくれたら、私は安心して旅立てるわ。ラファエーレの遊び相手は泊まりに来るエンリコがしてくれるし、グレッグも可能な限り二人の面倒を見るから、さほど手はかからないと思うの。それに、ここには誘拐犯は絶対にやってこないって、あなたの両親も、それにルイス=ヴィルヘルムやマッテオも安心すると思うわ」

 《郷愁の丘》は、陸の孤島だった。誘拐犯は来ない代わりに、ショッピングも出来なければ、観光も出来なかった。ネットのつながりも悪いし、そこまでドライブというわけにもいかない。退屈ではあるが、居心地は抜群だった。叔母のジョルジアは、ほぼ入れ替わりでいなくなってしまったが、真面目で内氣で小言を言わないグレッグや、純朴で比較的従順な二人の少年との暮らしは悪くなかったし、サバンナで見る動物たち、広大な景色など、都会では体験できない刺激的な日々を満喫していた。

 エンリコとラファエーレは、テレビもなければゲーム機もないところで、遊んでいた。ルーシーを撫でながら、おそらく原始時代から大して変わっていないのであろうと思われるカジュアというゲームを何時間もしていることがあった。なぞなぞや積み木やブロック遊びに興じ、たくさんある百科事典を開いてみたり、グレッグが仕事をしていないときは絵を描いてもらっていた。

 今も、食事をしながら、エンリコは夕方に絵を描いてもらいたいとグレッグにねだっている。絵といっても彼が描くのは野生動物のスケッチなのだが、子供たちは彼の手にした鉛筆の先からシマウマや象やキリンが魔法のように現れるのを見るのが大好きだった。

「あ、絵といえばね! 忘れるところだったわ」
アンジェリカは、突然思い出して立ち上がり、自分が滞在している客間に入っていった。

 すぐに戻ってくると、アンジェリカはグレッグと子供たちに手にしたクリアファイルを見せた。
「あ」
グレッグは手を伸ばすと、それを嬉しそうに眺めた。彼にとってそれは思い出深いものだった。

 始めてジョルジアがこの《郷愁の丘》に来て、彼のスケッチを褒めてくれたのはもう十年以上前のことだ。その時に彼女に贈った絵を、彼女は額に入れてニューヨークの寝室に飾ってくれていた。二人が結婚してから、絵はこの《郷愁の丘》に戻ってきて、今も寝室にかかっている。

 今、アンジェリカが持ってきたクリアファイルは、その絵の一部分拡大を用いてある。ジョルジアの兄、マッテオがその絵を「WWFで商品化したい」と言い出したとき、始めは冗談だと思っていた。

 マッテオはWWFに多額の協賛金を寄付している会員だ。十年以上前にニューヨークで開催された野生動物の学会の最終日にWWF主催のパーティのことは忘れられない。レイチェルが彼女たちの研究のスポンサーである大富豪に紹介してくれるというので、嫌々出かけてったのだ。その篤志家マッテオ・ダンジェロこそが他ならぬジョルジアの兄とは夢にも思っていなかったのだが。

 ジョルジアがレイチェルと一緒に彼の地味な研究の意義を兄に力説してくれたお陰で、彼はマッテオに継続的な援助をしてもらうことが出来るようになった。それだけでなく、二人の結婚が決まってしばらくしてから、寝室にかかっている例の絵をWWFでの商品化するよう推薦してくれると言い出したのだ。

 その前後の数年にわたり、WWFでは無名の人物や子供たちの描いた野生動物のイラストや写真で、寄付金付き商品を作り販売していた。ポストカード、レターセット、鉛筆ケース、額入りのコピー絵、メモブロック、ミニタオル、エコロジーバック、それにアンジェリカが持ってきたようなクリアファイル。

 グレッグの絵も他の作者の絵と一緒に商品化され、一年間にわたり世界中で販売された。もっともアフリカで目にしたのは、「僕の親しい友人の絵が商品化されたんですよ」と誇らしげに配るリチャード・アシュレイの事務所でだけだったので、グレッグは実際のところそれがどれほど売れたのかを知らない。

「懐かしいものを……。アレッサンドラ、君のお母さんがくれたのかい?」
グレッグが訊くと、アンジェリカは首を振った。
「違うわ。これはね、ここに来る直前に、私がマドリッドで見つけたものなの」

「マドリッド? 君のお父さんのところでかい?」
レアンドロ・ダ・シウバは、現在はリーガ・エスパニョーラでの連覇を目指すチームに所属しているので、マドリッド在住だ。だから、アンジェリカはマドリッドに立ち寄ってから《郷愁の丘》のあるケニアへやってきた。

「パパの家にあったわけじゃないわ。実はマドリッドで『オタクの祭典』って催しをやっていたので、ちょっと顔を出してきたの」
「『オタクの祭典』ってなんだい?」

 グレッグは地の果てに住んでいる上、サブカルチャーなどにほとんど興味がない。日本発のマンガやアニメを特に愛好する人たちが世界各国で同人誌即売やコスチュームプレイを楽しむイベントを開催していることなど知るよしもない。

「あなたに詳しく説明したら、夜が明けちゃうわ。簡単に言うなら、コミックやアニメーションの愛好家がトリビュート作品を販売する展示会みたいなものかな。いろいろなジャンルのものがあって面白いのよ」

 グレッグだけでなく、並んでご飯を食べているラファエーレも、アンジェリカの座った席の隣で、いやいや野菜をつついていたエンリコも、さっぱりわからないという顔をして彼女を見ている。

 アンジェリカは、こほんと咳をして続けた。
「とにかく。とある作品のグッズがないかなと思って行ったんだけれど、行列で並んでいるときに、たまたまその隣のブースにね『Fleurage』っていう綺麗な名前のサイトがあって、氣になっていってみたの。そうしたらたぶん偶然だと思うけれど『郷愁の丘……』っていう作品を売っていて、日本語で読めなかったんだけどつい買っちゃったの。そしたら、特典だってこのクリアファイルをくれたのよ。例のWWFのファイルが今ごろ私の手元に来るっていうのも驚きだけれど、それが《郷愁の丘》に行くっていうのも、おもしろくない?」

 グレッグは、アンジェリカが差し出したクリアファイルを、感無量な様子でじっと見つめた。
「そうだね。本当に」

「そのシマウマの絵、グレッグが描いてくれる絵とそっくりだよ」
エンリコが不思議そうにのぞき込んだ。

「そうよ、だって、これ、グレッグの絵なんだもの」
アンジェリカが答えると、彼は『ええー!」っと、椅子から飛び降りて、ファイルを持っているグレッグの側に回った。

「いつこんな風になったの? 僕、知らないよ!」
「お前がまだ、ラファエーレよりも小さかった頃の話だからね。そうか、これは見たことなかったか」
「いいなあ。これがあったら、僕、学校に毎日持っていくのに。みんなに自慢して、それに……」

 エンリコは、クリアファイルをそっと撫でた。グレッグは困ったなという顔をして、甥の頭を撫でた。 
「残念ながら、リチャードが全部持って行ってしまって僕やマディのところにも残っていないし、今はもうどこにも売っていないんだ」

 アンジェリカは、肩をすくめた。こうなると思った。とにかくエンリコときたら、グレッグに関することは何もかも素晴らしいと思っているんだもの。私には、ちっとも理解できないけれど。

「いいわよ。そのつもりで取り出してきたし、これはエンリコにあげるわ。私の滞在中、付け合わせの野菜を一口も残さないって、約束できるならね」
エンリコは、駆け足で自分の席に戻り、喉が詰まるのではないかと思われるほどのスピードで野菜を平らげた。

 笑ってそれを見ているグレッグの横から、ラファエーレが小さな声を出した。
「ぼくも、もらえるの? おやさい、たべたよ」

 グレッグはまた困って、息子の頭を撫でた。
「お前は、まだ学校に行っていないし、あれをなんに使うんだ?」
「でも、おやさい、たべたよ」

 アンジェリカは、笑って答えた。
「大丈夫よ。マッテオのところに、あの時に発売されたものがみんなとってあるはずだもの。ラファエーレにはミニタオルがいいんじゃないかしら。すぐに送ってくれるように、連絡するから」

 ラファエーレは、すぐに笑顔になった。おそらくタオルが届く頃には、きっとこの子は何を欲しがったかも忘れているだろう。シマウマの絵など何百枚でも描いてくれる父親と、付け合わせを食べろと言う必要もないほど料理の上手な母親の両方の愛情を受けて楽しく日々を過ごすのだろうから。

 それでも、アンジェリカは早速マッテオにメールを書こうと思った。自分のアイデアで生まれた作品が、今ここでまたホットな話題になっていることを、大好きなマッテオ伯父さんがとても喜ぶだろうと思ったから。カペッリファミリーの結束は固いのだ。たとえアメリカ、ヨーロッパ、アフリカと違う大陸に住むことになっても。

(初出:2019年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】魚釣奇譚

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第三弾です。夢月亭清修さんは今年は、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

清修さんは、小説とバス釣りのことを綴られているブロガーさんです。サラリーマン家業の傍ら小説家としてブログの他に幻創文庫と幻創文芸文庫でも作品を発表なさっていて、とても広いジャンルを書いていらっしゃいます。それに魚釣りでは専門誌に寄稿なさるほど本格的に取り組んでいらっしゃいます。

「scriviamo!」では毎年全く違ったジャンルでご参加くださるのですが、今年はプランBをご希望です。


去年は大変ご迷惑をおかけしたこの企画、今回はプランBで参加させてください!
力入れて、がっつりお返しする所存です!

希望としましては、コラボではなくオリジナルが嬉しいです^^


ということですので、ご縁のある既存の作品に絡める作品はなし。完全なオリジナルで書くことにしました。どんなものにするか考えたのですが、ご本人のお書きになるジャンルがとても広いので、どうしようか途方に暮れました。結局、お好きなお魚と、それからほんの少しだけ「異世界」っぽい感じを絡めた作品を書いてみました。ただし、「異世界もの」というわけではありません。

他のプランBの方にも書きましたが、お返しはこれに絡めてもいいし、ぜんぜん関係のない作品でも構いません。


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魚釣奇譚
——Special thanks to Mugetutei Seishu-san


 その湖は、電車がトンネルを抜けて最初のカーブを曲がった所に突然広がっていた。深い青緑の湖水は、風が全くないためか、周りの新緑を綺麗に映し出している。曲がりなりにもアウトレットと名のついている商業施設があるような街から、まだ15分も走っていないようなところに、こんな神秘的な湖があるとは夢にも思っていなかったので、亜美は思わず立ち上がった。

 アウトレットにろくなモノがなかったこともあるが、亜美はその街を闇雲に歩き回った。石畳の道は、少し合っていない靴を履いた彼女をひどく疲れさせた。だから、予定よりも早い電車に乗って戻ってきたのだ。

 往きにこの湖を見た記憶は全くなかった。反対の山側に座って、考え事をしていたせいだろうか。

 車内放送が次の駅がすぐであることを知らせた。この湖畔で停まるの? 彼女は少しだけ考えた。このまま電車に乗っていても、一時間後にあの何もない街のホテルについてしまう。だったら、この湖畔で少しだけ時間を過ごすのもいいかもしれない。

 五月になったばかりで、この北国では遅くやってきた春が、遅れを取り戻そうかとするごとく忙しく飛び回っていた。新緑の木々はぐんぐんと伸びて、あちこちで白や黄色の花が咲き誇っていた。陽が高くて、明るい光に満ちている。彼女は、ショルダーバッグをつかむと、立ち上がり出口に向かった。

 それは、湖畔の洒落たホテルの前に停まった。そのホテルの横から、湖へと出ることができる。ホテルにはテラスがあって、数人の客が湖を見ながらコーヒーを飲みつつ談笑していたが、湖に出るとそのざわめきは全く聞こえなくなった。

 不思議な静寂だった。わずかに霞みだした青緑の湖水を一艘の小舟が漂っている。灰色の服を着た小柄な男が釣り糸を垂れているのを亜美はようやく見て取った。釣り竿も、男も、舟も、湖も動かなかった。まるで時間が止まっているかのように。

01.05.2005 Le Prese


「君は、中国人? それとも日本人?」
すぐ近くから声がしたのでびっくりして振り返ると、すぐ後ろに青年と中年とどちらで形容していいかわからぬ男が立っていた。外国人にしてはあまり背が高くなく、濃い茶色の髪は短く服装もどこにでもあるような茶色いジャケットにジーンズ姿だ。

「日本人です」
「そうか、ずっとあの釣り舟を見ているけれど、珍しいかい?」

「ええと、そうですね。東京ではあまり見ないし……その、何もしないでぼーっとしているのって、本当に久しぶりで」
亜美は、戸惑いながら答えた。

「君たちは、本当に予定をいれて忙しくするのが好きだよね。僕の知っている何人かの日本人も来る度に今日は何をするのかって訊くよ。休みの時にまで動き回らなくてもいいと思うけれどね」
「はあ。でも、せっかく遠いヨーロッパまで来たんだし、いろいとやらなくちゃって思ってしまうんですよ」

 何を弁解しているんだろう、私。男は、肩をすくめて笑った。
「それで、ここで立っているのも、その『いろいろ』のひとつかい?」

「電車でここを通ったら、とても素敵だったんで降りてみたんです。こんなところに、こんな幻想的な湖があるって思ってもみなくて。あの舟も全然動かないし、不思議だなって」
「あれはトマ爺さんさ。彼は楽しんでいる。ようやく五月になって釣りが解禁になったからね」
「解禁?」
「ああ、ここでは釣りは五月しかしちゃいけないんだよ」

 ぴしゃんとわずかな音がして、トマ爺さんは何かを釣り上げたようだった。舟と湖面、そして、爺さんの釣り糸の先が揺れている。爺さんは、魚を箱にしまうと、次の餌をつけてまた湖に糸を垂らした。再び湖面は静かになった。

 男は訊いた。
「一人で旅行をしているのかい。日本人にしては珍しいね」

 亜美は頷いた。
「本当は、プレ・ハネムーンのつもりで予約したんですけれど、相手に二股かけられていたことがわかって。傷心の旅になりました」
「そうかい。それは氣の毒だったね。でも、結婚してからわかるよりはマシだろう」
「そうとも言えますね」

「見ていてごらん、だんだん大物が釣れるようになるから。トマ爺さんの釣り竿には魔法がかかっているんだって、人々は言うよ」
男が指さすと、確かに爺さんのは少し大きな二匹目を釣り上げたようだった。

「さあ、君の願いを言ってごらん。爺さんの魔法の釣り竿が大きな魚を仕留める度に、それは現実になっていくから」
男の言葉に、亜美はぎょっとして、その顔をまじまじと見つめた。冗談を言っているのかと思ったが、表情はごく真面目だった。

 そして、亜美はようやく思い当たった。どうして私はこの人とこんなにペラペラと話しているのだろう。ここまでいつも下手くそな英語でのコミュニケーションに苦労していたのに。もしかして、この湖も、あの釣り舟も、この男の人も、本当に魔法が関係しているんだろうか。

「信じられないみたいだね。こんな話は知っているかい? ロシアの民話だよ。あるところに貧しい漁師のおじいさんがいて、海で金色の魚を釣り上げた。その魚は人間の言葉を話し、海へ帰してくれたらどんな願いでも叶えてくれるという。おじいさんは、かわいそうに思い何ももらわずに放してやったが、家に帰ってその話をするとお婆さんは彼の無欲をなじった。壊れたたらいを示し、せめてそれを直してくれと頼んでくれればよかったのにと」

 亜美は、その話をどこかで聞いたことがあると思った。子供の頃に読んだ絵本だ。たしかプーシキンによる民話集を元にした本だったように思う。
「たしかそのおじいさんは海へ行ってそれを頼んだのでしたっけ」

「そうだ。そしてまた家に戻るとたらいは新品に変わっていた。おばあさんは、くだらないことを頼んだと悔しがり、新しい家を頼め、貴族になりたい、女王になって宮殿に住みたいと、次々とおじいさんに願いを言わせた。そして、金の魚はその全てを実現してくれた」

 亜美は、その話をどうしてこの男はするのだろうと訝った。でも、今いるここが、魔法にかけられた異次元であるのならば、この男の言うとおりに、素直に願い事を言ってみるべきではないかと感じた。

「私の願いも本当に言っていいんですか?」
「もちろん。願わなくては、何事も叶わないからね」

 亜美は、あれこれを考えた。そして、金の魚や魔法の釣り竿を怒らせないような些細な願いごとを口にしてみた。
「インスタで、100のハートマークが欲しいなあ」

 彼は、片眉を上げるとトマ爺さんの方を示した。
「撮ってアップしてごらん」

 亜美がスマートフォンを向けてシャッターを切ると、ちょうどトマ爺さんが魚を釣り上げている瞬間が撮れた。魚は大きく跳ね上がり、偶然とは言えこんなにいい写真が撮れたことは今まで一度もなかった。彼女が、その写真を早速アップすると、みるみる「いいね」のハートマークがついていき、数分以内に倍のフォロワーと108のハートマークがついてしまった。

 亜美は、驚いた。本当に魔法の釣り竿なのかと。今は二十一世紀なのに。

「さあ、次の願い事はなんだい?」
男は冷静に言った。

 亜美は先ほどよりもずっと慎重に考えた。結婚するつもりで退職してしまったが、破談になって出発前まで履歴書を書きまくってあちこちに送った。その一つでも色よい返事が来たら嬉しい。
「第一志望の会計事務所に就職できたら嬉しい」

 トマ爺さんの舟から、またぴしゃりという音がして、明らかにより大きな魚がかかった。男は頷いた。
「メールをチェックしてごらん」

 亜美が、メールを調べると、会計事務所からのメールが入っていた。
「来月から、働いて欲しいって! すごい、信じられないわ」

 男は表情を変えずに続けた。
「次の願いは何かね」

 願いは決まっていた。
「別れた彼よりも、優しくて、誠実で、有能で、かっこよくて、みんなが羨む彼氏が欲しいな」

 男は「やれやれ」という表情を見せたが、またしてもぴしゃんという音がした。するとスマートフォンからダイレクトメッセージの通知音が鳴った。

 亜美がスマートフォンを見ると、どうやら新しいフォロワーのようだったが、よく見るとそれは長い間ファンでしょっちゅう舞台を観にいっていた有名俳優からだった。
「素敵な写真だね。僕も釣りが大好きなんだ。君が僕を既にフォローしているって知って嬉しかった。相互フォローさせてもらったよ。これからもよろしくね。というより、もっと親しくなりたいから、DMしたんだけれどね。連絡を待っているよ」

 亜美はスマートフォンを取り落とすかと思うくらい驚いた。隣にいる男を見ると、「どうした」とでも言いたげな涼しい顔で立っていた。
「見てごらん」

 恐る恐るトマ爺さんの方を見ると、釣り上げた魚はすでに鮭サイズになっていた。こんな小さな湖にあんな魚がいるんだろうか。

「そろそろ大きさも限界だよ。もっと願いがあるなら慎重に頼むがいい」

 亜美は、急いであれこれ考えた。こんなラッキーは、二度とないだろう。何億円ものお金を頼むか、お城を頼むか、それとも……。そうだ。

「いっそのこと、あの魔法の釣り竿をもらえれば、いつでもどんな願いでも叶うんじゃないかしら」

 亜美がそう言った途端、男はとても悲しそうな顔をした。そして、黙ったまま亜美から離れていった。

「え?」
スマートフォンが震えたように思ったので、それを見るといきなり電源が落ちて画面が暗くなった。
「え、え?」

 亜美はまずスマートフォンの再起動ボタンを押して、電源を入れようとした。それから離れていった男に何か言おうとして顔を上げると、彼はどんなスピードで離れたのか、もうどこにもいなかった。動揺しながら湖のトマ爺さんの方を見ると、舟の上の爺さんは始めと同じように黙ってい釣りをしていたが、釣り上げたはずの大漁の魚はどこにも見えなかった。

 スマートフォンの起動を待つ間に、亜美の脳裏には、突如として子供の頃に読んだ「金色の魚」の絵本の結末が蘇った。女王になってもまだ満足しなかったおばあさんは、おじいさんに「金色の魚を家来にして海の支配者になりたい」と言い出したのだ。どんな欲張りな願いも叶えてあげた金色の魚は、さすがに呆れて海の中へ戻ってしまった。そして、お婆さんは元の貧しい家で壊れたたらいと一緒に待っていたそうだ。

 亜美は、自分の最後の言葉が、民話のお婆さんと同じだったことに氣がついた。再起動を終えたスマートフォンは、前と全く同じ状態だったが、トマ爺さんを映したインスタグラムの投稿はなかった。フォロワーも前と同じだったし、今朝ホテルを出て以来の新着メールもなかった。

 亜美は、肩を落としてまた駅へと歩いて行った。

(初出:2018年1月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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途中に写真があるように、この話は実際に私の見たある5月1日の光景から作りました。(もちろん、謎の男が話しかけてきたわけではありませんよ)モデルにした場所は、ベルニナ急行の終点ティラノにほど近いレ・プレーゼという場所です。このレ・プレーゼ湖は、一時間半もあればまわりをぐるっと歩ける程度の小さい湖です。
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】アプリコット色の猫 2

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第二弾です。たらこさんは今年も、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

たらこさんは、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんで、「ひまわりシティーへようこそ!」を絶賛連載中です。

「scriviamo!」では毎年Bプランをご希望です。前回と前々回のお返し作品が、わずかに重なっていたので、なんとなくそこに留まってみました。今回書いたのは、最初の作品「アプリコット色の猫」の続きになります。(競馬好きの例のお客さんの話題がちょっとだけ出てくるのは、たらこさんの作品へのトリビュートです)

あ、毎年のことですが、お返しはこれに絡めてもいいし、ぜんぜん関係のない作品でも構いませんよ。


「scriviamo! 2019」について
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アプリコット色の猫 2
——Special thanks to Tarako-san


 いつになく暖かくなったので、お昼ご飯は林檎の木の下でお花見としゃれ込むことにした。姫子は、相棒である猫のマリッレの姿を探した。

 姫子は、ザルツカンマーグート、フシュル湖畔の小さな果樹園を経営している。……というと海外で成功した立派な日本人みたいに響くが、実際の所はすぐ近くでお城を改造したホテルを経営するケスラー夫妻にあれこれ面倒を見てもらいながら、お情けで暮らしているようなものだ。

 長い話は省くが、かつて人生のゲームオーバーぎりぎりまで行っていた姫子は、ウィーンでこの猫と知り合い、ここにたどり着いたのだ。マリッレは不思議な猫で、姫子には彼の言葉がテレパシーのように聞こえる……と思っている。彼の元の飼い主、ケスラーさんの亡くなったお父さんも、マリッレと会話が出来ると言っていたらしいが、その主張のせいで耄碌したと皆に思われてしまったらしいので、姫子はこの件は誰にも言っていない。姫子が日本語でマリッレに話しかけてもその意味がわからないので、まさか物事をいちいち猫に相談しているとは誰も思っていないようだ。

 マリッレは、明るいオレンジ色の毛をした雑種で、大きいつぶらな瞳と、ぶちっと途中で切れたような尻尾を持っている。姫子はマリッレを連れ帰ってきたので、ケスラー氏の遺言により果樹園と小屋を相続し、初めての冬を乗り切った所なのだ。

 湖はキラキラと輝いていて、空は高く晴れ渡っていた。湖の向こう側に見える山の雪が、たったの二日で見事になくなり、太陽が気持ちよく燦々と降り注いだ。そして、タンポポが牧場をあっという間に黄色に埋め尽くしたと思ったら、ついに林檎の花が次々とほころび始めたのだ。

 林檎の花は、底抜けに明るい女の子のようだ。うっすらとピンクのつぼみが、開くと真っ白になる。ミツバチたちが、必死に飛び回り、春の女王に挨拶して回る。姫子は、その林檎の木の下でお昼ご飯にするのだ。ケスラー夫人が届けてくれた焼きたてのバンとチーズ、それに小瓶に入れたレモネード。もちろん、マリッレのためにガラス瓶にクリームを入れ、薄切りハムも用意した。

「ねえ、マリッレ。この林檎、このままでいいの?」
「このままって、どういうこと?」
「ほら、花を間引きしたり、虫がつかないように一つ一つ袋で覆ったりするんじゃないの?」
姫子は都会育ちなので、その辺の知識はかなり怪しい。

「まさか。このままでいいんだよ。虫がついたって大したことないよ。味には変わりないし」
マリッレは、そう答えるとまたクリームを舐めることに集中した。こんな大切な仕事の最中に、何をバカなことをといわんばかりの態度。

 味には変わりないしって、そりゃ、猫にとってはどうでもいいかもしれないけれど、虫のついた林檎なんて売れないんじゃないかしら。まあ、無農薬って謳えばなんとかなるのかなあ。

 ぼんやりと考えながら、ごくっとレモネードを飲んだ。お日様がぽかぽかとあたって、暑いくらい。春がこんなに素敵だと思ったのは何年ぶりだろう。去年までは、奨学金を返済するために、昼は役所の仕事、夜はキャバクラのバイトに追われていた。あの生活が嘘みたいだ。

 ふと、影が差して太陽の光が遮られたので、姫子は瞼を開けてそちらを見た。いつの間にか、馬がそこにいた。乗っているのは隣人の「フレ姐」ことフェレーナだ。ケスラー氏の姪にあたる女性らしい。女性といっても、短髪にチェックのシャツ、ダボダボのデニムのオーバーオールに長靴、ファッションもへったくれもない農家の装いで、声を聴かない限り女性か男性か判断が難しい。

 フェレーナの名は、愛称としてフレーニーが一般的だ。名詞の後に「i」をつけて伸ばすのは、小さいまたは可愛いという意味合をもたせる指小辞で、つまりフレーニーとは「フェレーナちゃん」に近い呼びかけだ。だが、このフェレーナの場合、本人がそれを嫌がるので「フェレ」とだけ呼ぶ人が多い。服装はもとよりかなり男前な振る舞いなので、姫子は普段はフェレーナと呼び、心の中では「フレ姐」と呼んでいる。

「ピクニックか」
頭上からの声は、とても威圧的に響く。怒られているのかと思った姫子は、怯えて立ち上がった。けれど、「フレ姐」は、ひらりと馬から飛び降りると、バスケットをのぞき込んで言った。

「その美味そうなのはなんだ? レモネードか。少し振る舞っておくれよ」
「どうぞ」
姫子は、水用に持ってきていたもう一つのコップにレモネードを入れて差し出した。ついでにクラッカーとチーズも念のために手で示すと、「フレ姐」は嬉しそうに座って一緒に食べ出した。

「本当にこんな陽氣のいい午後は、あくせく働くのはもったいないよな。さっさと店じまいしてきてよかったよ」
「フレ姐」は、レモネードをごくごくと飲んだ。

「店じまい?」
姫子が首を傾げる。

「観光客相手の馬車巡りのことだよ」
クリームを舐め終わり、丁寧に顔を洗いながらマリッレが注釈を入れた。もちろん「フレ姐」には聞こえていないと思う。姫子の頭の中だけに響いてきているはずだ。

「うん。農場の世話だけじゃ心許ないだろ。だから、こいつに小さな馬車をつなげて、そこら辺を巡るんだ。けっこういい収入になるんだよ」
「ケスラーさんの古城ホテルのお客さん?」
「ま、それが主かな。送迎を兼ねて駅に行くと、ただの観光客も乗るけど」

 馬は、ぶるるとたてがみを震わせた。
「こいつも少しは休みたいよな。そこら辺の草、食わせてもいいかい?」
「もちろん」

 この馬ウイスキーは、「フレ姐」の愛馬だ。もともとは、マリッレと同様に亡くなったケスラーおじいさんの持ち物だったらしい。「フレ姐」は、ケスラーおじいさんとは血が繋がっていなくて、亡くなったお嬢さん、つまり今の当主ケスラーさんの姉の夫の連れ子だ。

 姫子がこの農場を譲り受けて住み込んだときに
「あんたが、噂の日本人だね。上手いことやったね。この果樹園、欲しかったのになあ」
といわれたので、姫子はぎょっとしたのだ。が、すぐに彼女はウィンクして言った。
「心配しなくていいよ。あたしには全くその権利はないんだ。それに、あたしはこのウイスキーをもらったんだ」

 ケスラーおじいさんは、このなんとも粗っぽい娘とウマがあったらしく、おじいさんがへそを曲げて亡くなるまでボロボロの果樹園小屋に住み込んでいたときも、よくやってきて一緒に酒盛りをしていたらしい。

 それが縁で、何頭かいる馬の世話を彼女に頼むようになり、遺言には死後も動物の世話は「フレ姐」の農場がするだけでなく、このウイスキーを譲ると書いてあったそうだ。「フレ姐」はウイスキーをとても大切にしている。しょっちゅうブラッシングしているので、毛はとてもつやつやだ。

「ウイスキーってなんて種類? まさかサラブレッド?」
姫子は訊いた。

「まさか! あっちは競走馬に使えるくらい軽いんだ。ウイスキーはどっしりしていて全然見かけが違うだろう。これはティンカーだよ。英語では、ええと、アイリッシュ・コブとかいうんじゃないかな。乗馬だけでなく農作業をしたり、馬車を牽いたりするんだ。大人しくて御しやすいから乗馬セラピーにも使われるんだよ」

「乗馬セラピーって何?」
「馬に乗ることで精神や神経を癒やすんだよ。注意欠陥多動性障害や自閉症の子供たち、ノイローゼや鬱病、それに多発性硬化症などの患者にも効果があるらしいよ」

 姫子は目を丸くした。所変われば、色々なセラピーがあるものなんだなあ。

「姫子は、馬に興味があるのか?」
「……どうかしら。さっきわかったと思うけれど、全然知らないの。生きている馬を見たのも動物園以外ではここが初めてだし……でも、ある男の人がいつも馬の話をしていたから……」
「なんだよ。ボーイフレンド?」

 姫子は大きく頭を振った。
「いや、そう言うんじゃなくて。もう二度と会うこともない人」
バイト先のキャバクラに来ていたお客さん、なんて言えない。そもそもキャバクラが何か説明しなくちゃいけないし、ものすごく面倒くさい。

「そんなこと言って、簡単に復縁したりするんだよな、女って。ま、いいや、こっちに来たら紹介してくれよ。馬に詳しいヤツなら、一緒に盛り上がれるだろうし」
そう言って、レモネードを飲み干すと「ありがとう」と「フレ姐」は立ち上がった。

 夢中になって草を食んでいるウィスキーを口笛一つで呼ぶと、ひらりと跨がり、あっという間に古城の方へと去って行った。

「凜々しくてかっこいいよねー」
そうつぶやくと、マリッレは「そう?」とでもいいだげに無視して、バスケットの中のハムに前足を伸ばした。
「姫子の周りに、凜々しくてかっこいい男も女も全然いなかっただけでしょ。あんな感じの農家なら、この辺にはどっさりいるよ」

「別に農家の男の人と知りあいたくて言ったわけじゃありません」
そう言って、姫子はタッパーウェアを開けて、細かく裂いたハムをタッパーウエアの蓋に載せてだしてやった。

(初出:2018年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】魔女の微笑み

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第一弾、最初の作品です。大海彩洋さんは、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。この「真シリーズ」は数代にわたる壮大な大河小説で、まだ私たちが目にしたのはほんの一部でしかないのですけれど、それだけでも引き込まれてしまう濃厚な世界。昨年、私はその舞台の聖地巡礼もしましたし、更に馴染み深く続きを読ませていただいているのです。

さて、お知り合いになってからは皆勤してくださっている「scriviamo!」ですが、今回はいつもと趣向を変えて、完全なお任せでということでした。悩んだのですが、今回の一本目ですし、こんな感じでサーブを投げてみることにしました。

以前、当ブログの77777Hitの時にリクエストを受けてこんな作品を書いたことがあります。

「薔薇の下に」

今回の短編には、上記の小説で書いた二人の人間が登場します。どちらも彩洋さんのオリキャラではないのですが、「真シリーズ」のとんでもない大物に絡めて書いた作品ですので、まあ、ほらね、絡んできてくれたら嬉しいなあ(ちらっ)という思惑が大ありで書いてあります。サーブ(しかもめちゃくちゃな)ですから、はっきり言ってオチはありません。ここに書いてあることでおしまいです。特に登場する三人のうち、視点のあるヴィーコ以外は、なんの裏設定もないので、「名前はこうだった」「実は●●だった」「実は全部知っていたのに知らないフリをしていた」など、ご自由に設定していただいてOKです。もちろん、全て無視して全く別のお話でも構いませんよ。お任せです。


【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」Infante 323 黄金の枷


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魔女の微笑み
——Special thanks to Oomi Sayo san


 垂れ込めた雲から、わずかの間だけ光が差し込んだ。それはまるで、子供の頃に見た祭壇画の背景のようだった。

 彼の生まれ育った村は、ウーリ州の山奥にあり非常に聞き取りにくいドイツ語を話し、難しい顔をした大人たちがよそ者を監視しながら暮らしているようなところだった。イタリア語圏にルーツを持つ彼の家族がその村で生活するのはあまり快適とは言えなかった。彼は日曜日のミサで祭壇に描かれた聖母マリアとその背景の差し込む光に慰めと憧れを抱いていた。それが今の職業と暮らしに繋がる第一歩だったのかもしれない。

 ヴィーコ・トニオーラはヴァチカンのスイス衛兵伍長だ。四年前に二十歳でスイス衛兵に採用された。その前にスイスの兵役を全て終えている。つまり、彼は成人してからほとんど兵役に当たっている。今時のスイス人はもっと給料が多くて自由のある職業に就きたがるだろう。彼のように健康で体力があり、更に言えば村の中で唯一進学が可能と言われる頭脳も持っているのだから。だが、どういうわけか彼は、小学校の高学年の時から、将来はヴァチカンでスイス衛兵になりたいと思っていた。

 いつだったか見た、真っ白で広大なサン・ピエトロ大寺院、真っ青な空、その前に佇むカラフルな衣装を身に纏ったスイス衛兵。それが、辺境で鬱屈した村の日々とどれほど違った人生に思えたことだろう。

 規律に満ちた衛兵としての日々は、決して子供の頃に夢見ていた自由で輝かしい毎日と同じではなかったが、彼は現在の日々に一応は満足していた。時折、妙な任務を命じられること以外は。

 それは半年ほど前に始まった。ポルトガルからやってくるメネゼス氏という一見どうということもない人物を、目立たないように警護しながら、ヴァチカンのとある重要人物のもとに届けた。

 スイス衛兵はローマ教皇の警護だけでなく、世界各国からヴァチチカンを訪れる要人、国王夫妻や大統領などの警護にもあたるので、本来の任務から完全に離れているとは言えない。だが、そのポルトガル人は政府の要人でもなければ、さらにいうと本当の要人その人ではなくただの使者だった。上司は「竜の一族の使者」という言い方をした。そして、送り届けた先もヴァチカン宮殿ではなく、チェザーレ・ヴォルテラ氏の事務所だ。それから、時折大して重要とは思えない人物を目立たぬようにヴォルテラ氏の元に届けたり、偽名で予約されたレストランに向かい一人で食事をするなどという意味のわからない命令が下された。

 今朝もタウグヴァルダー大尉はヴィーコにすぐに空港へと向かうように命じた。例のポルトガル人が到着するというのだ。本来ならば、彼は夜勤明けでその朝から非番だったにも関わらず。他のことならば規則を口にして抵抗することも辞さないヴィーコだったが、この件に関してだけは反論が許されないであろう事がわかっていたので、疲れを隠して空港に出向いた。

 ディアゴ・メネゼス氏は、前回のように音もなく出迎えのヴィーコの近くまで現れ「ご苦労様です」とだけ言った。会話はほとんどなく、知り合いの誰にも氣付かれることがないほど密やかに、ヴォルテラ氏の事務所に送り届けた。ヴォルテラ氏の事務所にいつもいる紺の背広をきちんと着た男は、メネゼス氏を鄭重に迎え入れるとヴィーコに言った。
「ご苦労様でした。非番だそうですね。後ほど氏を空港までお送りするのは私がしますので、今日はどうぞお引き取りください」

 だったら、どうして始めからあなたが迎えに行かないんですか。その言葉をヴィーコは飲み込んだ。これまで引き受けた奇妙な任務に危険はなかったし、関わる全ての人は礼儀正しかった。それなのに、ヴィーコはいつも「逆らってはならない」という強迫観念を持ち続けてきた。それほど、この事務所の主の影響力は大きかった。その存在を世界中の誰もが知らないにも拘わらず。

 タウグヴァルダー大尉の物言いも、影響しているのだろう。アメリカ大統領が来ようが、常にテロの標的となっている王族の訪問を受けようが、夕食前の武具の手入れを命じるかのような調子で淡々と命令を下す大尉が、ヴォルテラ氏に関してだけは緊張しやけに神経質になる。何一つヴィーコにはわからなかった。説明するつもりなどないのだ。ヴィーコがその義務を果たすことを知っているから。

 わかるのは一つだ。本来の仕事、派手なユニフォームに身を包み、教皇と聖ペテロの座であるヴァチカンを守る任務は、儀礼的なものでしかない。彼が訓練しその手に持つ鉾槍ヘレバルデ が、銃撃やミサイル攻撃を防ぐための存在ではなく、その伝統的なスタイルの象徴でしかないように。

 実際に教皇とこの小さな国を守っているのは、ヴォルテラ氏の配下、懐に銃を隠し持った黒服のボディガードたち、世界中に張り巡らされた情報ネットワーク、銀行や政治の取引のごとく一般人の目には見えない交渉だ。教皇と全世界十三億のカトリック信者が経験に祈りを捧げている間も、目を光らせながら場合によっては冷酷になすべき事を行動に移しているのだろう。

 部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。ひどく疲れていたのだ。実際に、目が覚めると日は傾きだしていた。普段ならば、六日働いた後は、三日連続の休みが与えられるが、明日1月6日は主の公現エピファニアのため朝の十時のミサのために勤務しなくてはならない。ここで夜までぼんやりと寝ていたら、今夜眠れずに明日は寝不足になるだろう。

 ヴィーコは起き上がると私服に着替えて、テヴェレ川に沿って南へと歩いて行った。トラステヴェレにある馴染みのピッツェリアに行こうと思ったのだ。

 クリスマス市場の開催されているナヴォーナ広場の賑わいには比べる事も出来ないが、川沿いの地区にも屋台が出ていて、魔女ベファーナの人形や子供たちの枕元に置く菓子を売っていた。

 ベファーナの菓子の伝統は、おそらくサンタクロースのプレゼントの原型だ。

 ヴィーコの生まれ育ったドイツ系スイスでは12月6日に聖ニコラウスと従者シュムッツリイがやってくる。子供たちの一年の所業を裁定して、いい子にはナッツやミカンや菓子を渡し、悪い子はシュムッツリイが鞭で叩くことになっている。

 一方、イタリアではその一ヶ月後主の公現エピファニアの祝日にベファーナという魔女がやってきて、やはり子供たちの一年間の裁定をする。いい子の用意した靴下の中にお菓子が、悪い子のそれには炭が入っているらしい。実際にはどの子供たちも鞭で打たれたり、炭をもらうことはない。だが、ベファーナのお菓子には炭を象ったお菓子が必ず入る。どんな子供でも少しは悪いことをするからだろうか。

 そのドイツ語圏とイタリア語圏の二つの伝統が混じり合い、現在では世界中の子供たちがクリスマスの朝におもちゃなどのプレゼントをもらう習慣に変わってしまったのだろう。

 ヴィーコは、醜いけれど優しい目をしたベファーナの人形がたくさんぶら下がった屋台を眺めながら歩いて行った。すると、突然目の前で、屋台にあったたくさんの飾りと菓子の袋が崩れ落ちて散らばった。

「きゃっ」
その場にいた、若い女が短く叫んだ。コートの上から引っかけていたストールが、屋台の飾りに引っかかったらしい。

 ヴィーコは、散らばってもう少しで川に落ちそうになっている魔女の人形を二つ三つ拾って屋台に戻した。女は、それを見ると微笑んで「ありがとう」と言った。

 彼は初めてまともに女の顔を見た。顔が小さく、綺麗に整った眉と、長いまつげ、それにその下で煌めく淡い色の瞳が印象的な女だった。薄めの唇にしっかりと引かれた紅と強くカールした睫毛がひどく化粧の濃い女という印象を与える。彼女は、自分の失態に対して力を貸してくれたヴィーコに対して礼を言いつつも、助けられて当然という空氣を纏っていた。

「やれやれ。なんて散らかし方だ。ラウドミア。困った人だね、君は」
声のした方を振り向くと、そこには意外な人物がいた。ヴィーコは思わず「あ」と言って、男の顔をまじまじと見つめた。女性に話しかけていたのは、今朝、チェザーレ・ヴォルテラ氏の事務所の事務所にいたあの紺の背広を着た男だったのだ。男の方も、すぐにヴィーコに氣がついたようだった。

 ラウドミアと呼ばれた女性は、悪びれぬ様子で最後のベファーナ人形を雑に屋台に載せ「失礼」とおざなりに売り子に言うと、紺の服の男性に向かって肩をすくめた。
「もう片付けたわ。こういうのも幸運を運ぶものポルタ・フォルトゥーナ でしょう。来ていたなら、見ているだけでなくて一緒に拾ってくれればいいのに。あなたが私をこんなに待たせるのが悪いのよ」

 ヴィーコは、それでは、この女性はこの人の連れだったのかと思った。彼は、軽く頭を下げて言った。
「先ほどはどうも」

「あら、あなたたち、お互いに知っているの?」
女性は、二人の顔を交互に見つめた。今は茶色のコートに身を包んでいる男性は、表情を全く変えずに言った。
「ヴァチカン市国に入るものなら、嫌でもスイス衛兵とは顔なじみになるさ。どこへ行くのか毎回聞かれるしな」 

「ああ、スイス衛兵なのね」
 ラウドミアは、艶やかに笑った。ヴィーコは、今朝遭ったのは門ではないのにと思ったが、もしかしたらこの女性の前で「ヴォルテラ氏の事務所で」などという会話をしてはいけないのかと思った。

「スイス衛兵って、ヴァチカン市国の中だけにずっといるわけじゃないのね。どこへ行くの?」
「……。その先のピッツェリアに」

「あら、トラステヴェレの? 美味しい所を知っているならば、教えてくれない? この人が連れて行ってくれる店、いつも全然美味しくないんですもの」

 ヴィーコは戸惑って男性の顔を見た。デートの邪魔をするつもりはなかったし、さらにいうと一緒にいたら男性との会話に苦労するだろうと思ったのだ。彼の方から、一緒にいかなくていい口実を言ってくれることを期待していた。

 ところが男性はあっさり言った。
「お願いします」

 ヴィーコは、肩をすくめて二人を連れていつもの店へと行った。

 「テヴェレ川の向こう岸」を意味するトラステヴェレは、中世からの町並みが残る地区だ。ローマの下町といっていい。石畳の道が迷路のように入り組んでいて、その所々に観光客がなかなか見つけられないような小さなトラットリアやピッツェリアがある。

 ヴィーコがよくいくピッツェリアもその一つで、狭い店内は飾りけはないが、古い窯から出てくるパリッとしたピッツァが絶品で、少しでも遅く行くとなかなか座れない。

「まあ。こんな所に。行き方、忘れそうね」
ラウドミアは、小さな店内を珍しそうに見回した。ふんわりとした毛織りのコートを脱ぐと、金ラメを織り込んだ臙脂のワンピースが現れた。胸元が広く開いていて、白鉄鉱の細やかな細工で装飾された赤褐色に濁ったキャッツアイがかかっていた。ヴィーコはこの女性は、その道のプロフェッショナルなのかそうでないのかは判断できないけれど、いずれにしても「非常に高くつく」のだろうと思った。

「いずれにしても、君は店への行き方なんて記憶に留めたことはないだろう?」
「そうね。だから、あなたが、しっかり憶えておいてね」
おざなりに微笑みながら彼女は、その笑顔に対して感銘を受けた様子もない男に言った。

 見ると、男の方は先ほどのカチッとした背広ではなくグレーの開襟シャツ姿で、まるでどこにでもいる事務員のように見えた。少なくとも十三億人もの信者を抱える宗教の中枢部、秘密の通路を通って行かなければたどり着けないオフィスにいる人間には見えなかった。

「ねえ。時代がかった傭兵さん。教えてちょうだい。門を通る人を呼び止めたり、ミサの時に突っ立ってパパさまを警護する以外に、あなたたちは何をしているの?」
ラウドミアは、頬杖をついてヴィーコに語りかけた。

 ヴィーコは、ちらっと男を見たが、とくに反応を見せなかった。僕のことよりも、そっちを問い詰めた方がいいのに、そう思いつつ、職務に忠実で口の固いスイス衛兵は口を開いた。
「それだけですよ」

 もちろんそんなわけはないとわかっただろうが、ヴィーコが面白おかしく軍務について詳細を話してくれるタイプではないとわかったのだろう。彼女は、それ以上追求しなかった。

「実際に、鉾槍を捧げ持った僕たちは儀式用の装飾品みたいな存在だ。クレメンス七世の時代とはもう違うんですよ」
1527年に神聖ローマ帝国のカール五世によって引き起こされたローマ略奪で、教皇クレメンス七世を守るため果敢に戦い189人中147人が戦死した故事はスイス衛兵の誇りで、五月六日は今でも隊の祝日になっている。新しい衛兵の入隊式もこの日に行われる。

「そうは言えない」
男は、ヴィーコの眼をじっと見つめながら言った。
「確かに君たちの鉾槍は、大陸弾道ミサイルに対しては無力かもしれない。だが、十六世紀には既に大砲もあったんだからね。それでもスイス衛兵たちが、サンタンジェロ城へと向かうボルゴの通路イル・パセット でクレメンス七世を守り抜いたのは事実だろう」

「それは、そうですが……」
注文していたピッツァが出てきたので、ヴィーコは口ごもった。スイスで食べていたのと比べると、少し小ぶりで直径20センチほどだ。非常に薄く焼き上げた土台にトマトと水牛モツァレラ、アーティチョークと生ハム、それにルッコラが載っている。熱々に溶けたチーズとトマトは、ぱりっと膨らんだ額縁コルニチョーネ でせき止められていた。

 美味しいピッツァとは、シンプルだ。パリッとした台。額縁コルニチョーネ が割れたときにふわっと漂う良質の小麦粉の焼けた香り、新鮮なチーズや香ばしいオリーヴオイルが具材の味わいをしっかりと支える。どこにでもある材料で作るはずなのに、これだけの味に巡りあうのがどれほど難しいことか。

「まあ」
ラウドミアは、辛いサラミを使ったディアヴォラを注文していた。上手にナイフとフォークで切り分けて口に運ぶと、長い睫毛を閉じた。赤く染まったオリーヴオイルが真っ赤な唇で光っている。「悪魔ディアヴォラ 」を選んだのは意図的なのかとすら思う。その後すぐに見せた微笑みから判断すると、どうやらこの店は彼女のお氣に召したらしい。

 連れの男が選んだ水牛モツァレラとゴルゴンゾーラのピッツァ・ビアンカ、白とルッコラの緑だけが載ったピッツァはそれと対照的だった。また、彼はピッツァの味の魔力に全く感化された様子はなく、黙々と口にしながら話を続けた。
「時代は変わり、教会の存在意義も、信者のあり方も変わったし、これからも留まることはないだろう。だが、君がヴァチカンの門前で、教皇の傍らで、もしくはそれ以外の職務でしていることは、間違いなく君の志した『教皇と教会への奉仕』だ。違うか」

 その通りだと思った。上司がよく説くように、彼の職務に必要なのは忠誠心とひたすらな謙虚さだ。讃えられることや注目されることがなくても、静かに自分たちの任務を遂行する、誇りを持って。そうだ、引っかかっていたのはそこだ。

「僕は、単純に、誇りの拠り所を失いかけていたのかもしれません。本当に、僕たちの存在意義があるのかって」
「それは誰でも持つ疑問さ」
「あなたも?」

 男は黙ってわずかに微笑んだ。ラウドミアは、面白そうに頬杖をついて口を挟んだ。
「郵便局の仕分け係なんて、すぐにロボットに取って代わられるに違いない仕事だっていうのが、口癖だものね」

 ヴィーコは、それではこの女性に対しては郵便局勤務ということにしてあるのかと思い、かといって初めて知ったようなふりをするのも白々しいと思い黙っていた。女は妙な微笑みを浮かべてから、また幸せそうにピッツァを食べた。

 それに見覚えがあると思いしばし考えたヴィーコは、先ほどの魔女ベファーナの人形だと思い当たった。明日は主の公現エピファニア。誰がご褒美をもらうのか、また、誰が炭をもらうのか、とっくにわかっているような微笑みだった。

(初出:2019年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】好きなだけ泣くといいわ

今年最初の小説は、毎年書いている「十二ヶ月●●」シリーズです。今年は2013年にやったものと同じ「十二ヶ月の歌」にしました。それぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いていきます。一月はジュリー・ロンドンの「Cry Me A River」を基にした作品です。

月刊・Stella ステルラ 12、1月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


かなり有名な曲ですし、著作権的にわからないので訳は書きません。検索するといっぱいでてきますし。歌詞は、不実だった元恋人がやってきて泣いていると言うのに対して「私だって散々泣いたんだから、川のように泣くといいわ」と返すものです。

出てくる登場人物は、「ニューヨークの異邦人たち」シリーズのサブキャラたちです。今回登場しているのは、「ファインダーの向こうに」と「郷愁の丘」のヒロイン・ジョルジアの妹であるアレッサンドラと、その周辺の人物。元夫のレアンドロも別の外伝で既に登場済みですね。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む

【参考】
「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」




好きなだけ泣くといいわ
Inspired from “Cry Me A River” by Julie London

 丁寧に雪かきをしてあっても、石畳の間に残った雪が凍り付いていた。安全にドタドタと歩ける無粋なブーツを履いていなかったので、いつもよりもスピードを落として慎重に歩いた。アレッサンドラ・ダンジェロが、雪道で滑って転ぶなどという無様な姿を晒すことは、何があっても避けなくてはならない。

 スーパーモデルとしてだけではない。ヴァルテンアドラー候家当主プリンツ・ツア・ヴァルテンアドラー の称号を持つ男と結婚したため、現在の彼女にはそれにふさわしい品格が求められているのだ。
 
 娘のアンジェリカは、暖かい部屋でもうぐっすりと眠っているはずだ。父親のもとでの二週間の滞在を終えて、明後日またアレッサンドラと共にアメリカに帰るのだ。

 九歳になるアンジェリカは、アレッサンドラの最初の結婚で生まれた娘だ。その父親であるレアンドロ・ダ・シウバは、ブラジル出身のサッカー選手で、現在はイギリスのプレミアムリーグに属するチームで活躍している。娘を溺愛しているにもかかわらず、毎週のように会いに来ることが出来ないのは、そうした事情があるからだ。

 だから、学校の長期休暇には、アンジェリカが長い時間を父親と過ごすことに反対したりはしなかった。時おりイギリスまで娘を送り迎えする必要があってもだ。

 今回はレアンドロが、アレッサンドラと今の夫がヨーロッパでの多くの時間を過ごすスイス、サン・モリッツへと足を運んだ。そして、愛する娘との長く大げさな別れの儀式を繰り返した後に、滞在しているクルムホテルに戻った。

 そのまま、彼の鼻先でドアを閉めて、暖かい室内に戻ってもよかったのだ。なのに、どうした氣まぐれをおこしたのだろう。彼女は、前夫に誘われてクルムホテルへと行ったのだ。重厚なインテリアのエントランスの奥に、目立たないバーがある。別れてから五年経っている。アンジェリカの受け渡し以外の会話をしたのは本当に久しぶりだった。

 スイスという国に、有名人の多くが居を構える理由の一つに、この国の住民の有名人に対する態度がある。たとえ、いくら山の中とはいえ少し大きな街に出れば化粧品や香水の巨大な広告は目に入る。金色の絹のドレスを纏い挑戦的に微笑むアレッサンドラの顔はすぐに憶えるだろう。街を歩いていて「あ」という反応を見せる人はいくらでもいる。けれど、彼らはそのまま視線をそらし、何事もなかったかのように歩いて行く。カメラを取り出したり、通り過ぎてから戻ってきてサインをねだったりしない。

 ホテルの従業員たちも、バーにやってきたのがプレミアム・リーグで活躍する超有名選手と、離婚した超有名スーパーモデルだということを即座に見て取っただろうが、それとわかるような素振りは全く見せなかった。

 クルムホテルのバーで、たった一杯カクテルを飲み、一時間後に颯爽と立ち去った。タクシーを呼んでもらうこともなく、迎えをよこすように連絡することもせずに、彼女は一人歩いた。頭を冷やすために。

 別れた夫との会話が、彼女の頭に渦巻き、彼女を戸惑わせている。

 彼は、二人の共通の興味対象について話しだした。
「それで、お前がこちらで過ごす時間が増えているなら、いっそのことアンジェリカの学校もロサンジェルスにこだわる必要はないんじゃないか」
「そうね。でも、この辺りには英語で通える学校はないのよ。ルイス=ヴィルヘルムはフランス語圏には、今のところ行きたくないみたいだし。もう少し大きくなったら寄宿学校という案も考えないでもないけれど」

「そうか。マンチェスターの学校ってわけには……」
「いきません」
ぴしゃりと言われて、レアンドロは仕方ないなという顔をした。

「あなたは父親だし、意地悪で会わせないっていっているんじゃないわ。でも、離婚原因を作ったのも、毎週会えないほど遠くに行ったのも、あなたの選択でしょう。私を困らせないで」

「それは、わかっているさ。だから、あの子にもっと会いたくても我慢しているんだ。それに、その、俺の方もずっとイギリスに居続けるって決めたわけじゃないし。でも、アンジェリカとの時間はとても貴重だし、あの子に家庭のことで悲しい思いはさせたくないんだ」

 それを聞くと、アレッサンドラは片眉を上げた。キールの入ったグラスに光が反射している。その姿勢はお酒の宣伝の写真のように完璧で、レアンドロは改めて元妻がスーパーモデルであることを認識した。だが、彼女の口からは、コマーシャルのような心地よい台詞は出てこなかった。

「よくもそんなことを言うわね。で? ベビーシッターと結婚すれば、家でじっとあなたを待っていてくれる人と、アンジェリカと三人で幸せな家庭になるとでも思ったってわけ?」
「……それとこれとは……」

 レアンドロは三本目のブラーマ・ビールを頼んだ。よく冷えたグラスが置かれ、バーテンダーが注ごうとするのを手で制し、瓶を受け取るとそのままラッパ飲みをした。

「始めから結婚するつもりでソニアに手を出したわけじゃないさ」
「手を出してから、乗り換えようと決心したってわけね」
「そう具体的に思ったわけじゃない」

「でも、そうなのよね。私が、一日中テレビ・ショッピングでも見ながら、家の中であなたを待っていなかったから」
「つっかかんなよ。そりゃ、あの頃は確かにお前に腹を立てていたけど」

「けど、何よ。お望み通り、若くて家庭を守る妻を持ったんだから、私に因縁をつけるのはやめてよ。言っておくけれど、アンジェリカの親権は絶対に渡しませんから。あの女の元になんてぞっとするわ」
「わかっているよ。それにソニアは、その、口には出さないけれど、さほどアンジェリカを歓迎していないし……でも、お前だって、再婚したんだし、おあいこだろう」
「ふふん。あいにくだけど、ルイス=ヴィルヘルムは、アンジェリカを大切にしてくれているわよ」

「その前のヤツは」
「あの男のことを思い出させないで。あの結婚はそれこそ完全な間違いだったわ」

 アレッサンドラは、眉をしかめた。彼女の二度目の夫は、テレビなどで活躍するモデレーターだったが、表向きの人当たりの良さに反して、家庭では支配的で嫉妬深かった。また子供が嫌いで、アレッサンドラがいない時にアンジェリカに対して意地の悪い言動を繰り返していた。

 アンジェリカの様子がおかしいのに氣がついたアレッサンドラが、使用人の協力を得て現場を押さえた。結婚してから半年経っていなかった。一刻も早く離婚したかったため、離婚原因については他言しないという申し合わせをすることになっていた。いずれにしてもレアンドロにその件を詳しく話すわけにはいかない。あの男の愛娘への仕打ちを知ったら、後先を全く考えずに暴力を振るいに行きかねないからだ。

「そうか。二人目と簡単に別れたから、三人目ともすぐかもしれないと思ったけれどな」
「あなたには関係ないでしょう」

「別れるのか?」
「そんなこと言っていないわ。あなたには関係ないって言っているのよ。こぼれたミルクは元に戻らないって、ことわざ、知らないの?」
「お前は、いつもそうだよな。前を見て、闊歩していく。振り返って後悔したりなんかしない。それがお前らしさなんだけれどな」

 苛ついた様子を見せて、アレッサンドラは向き直った。
「ねえ、あなたは確かに私の娘の父親だけれど、私の再婚にあなたが口を出す権利があると思っているの? あの女と再婚したのはそっちが先でしょう?」

「わかっている。だけど、俺はお前と結婚した時ほど、ソニアと結婚する時に舞い上がっていたわけじゃない」
「なんですって?」

「その、半分は離婚したやけっぱちで、それに半分はソニアがかわいそうで……」
「かわいそう?」

「だって、そうだろう。お前は、離婚しようとしまいと、アレッサンドラ・ダンジェロだ。だが、ソニアは、俺に捨てられたらそのまま人生の敗者になってしまう。家庭を壊した性悪のベビーシッターってことでな。だから、俺は……」
「どうかしら」

 アレッサンドラは、多くは語らなかったが、元ベビーシッターが世間の評判を氣に病むような弱いタイプだと思っていないことは明白だった。レアンドロも、今は自分でも元妻と似たり寄ったりの意見を持っていた。

「でも、俺は今でも時々思うんだ。なぜあの時、あんな簡単にお前と離婚してしまったんだろうって」
「あなたは、自分が言ったことも憶えられないの? 私とは完全に終わりで、仕事を持つ女となんか二度と関係を持ちたくないとまで言ったのよ。不貞を働いたのは自分のくせに」

 レアンドロは、じっとアレッサンドラを見つめて、泣きそうな顔をした。
「俺は、拗ねていたんだ。子供みたいに。お前も歩み寄ってくれて、やり直せるんだって、心のどこかで期待していたんだ。アンジェリカのためだけに俺といるんじゃない、俺とずっと一緒にいたいと思ってくれているってね。その甘さのツケを今払っているんだ。申し訳なかったと思っているんだぜ。時折、俺たちの新婚時代を思い出して、こうなった情けなさに泣いたりしてさ」

「そんなあざとい口説きは、他の女にするのね。ごちそうさま、私帰るわ」
 
 アレッサンドラは、石畳を踏みしめながら、わめき散らしたい思いを必死で堪えた。泣きたいなら好きなだけ泣くといいわ。何よ、今さら。

 私がどれほど傷ついて苦しんで、泣いたと思うのよ。私は強くて振り返りもせずに前へと歩いていくですって。そうじゃない姿を世間には見せないだけよ。

 彼女は駅の近くまで降りてきた。タクシーに乗り込むと、今の家族の待つ家へと戻った。静かな一角にあるその邸宅からは、サン・モリッツの街明かりが星のようにきらめいて見える。外側はコンクリートの直線的な佇まいだが、中に入ると古い木材を多用した柔らかいインテリアがスイスらしい住まいだ。

 暖炉には暖かい火が燃えていて、ソファに座っていたルイス=ヴィルヘルムは、さっと立ち上がってアレッサンドラを迎えた。
「お帰り、寒くなかったかい。言ってくれれば迎えに行ったのに」

 1918年に多くの貴族が王位、大公位、侯爵位などを失った、その一人の末裔として、先祖伝来の宝石や城などと一緒にプライドも受け継いだはずなのに、ルイス=ヴィルヘルムにはどこか山間に走る子鹿のような臆病さがあった。優しく礼儀正しい彼は、アレッサンドラを熱烈に崇拝し、大切に扱う。彼女の仕事も、愛する娘もすべて受け入れ、尊重した。だから、アレッサンドラも、新しい夫を困らせないように、彼の家名に傷のつくような仕事は一切断り、品位を保ち、彼の信頼に応える妻であるように、新しい努力を重ねている。

 まだ二十一歳だったアレッサンドラが、若きレアンドロと出会い恋に落ちた時、品位などということは考えなかったし、努力もしなかった。そこにあったのは、火花のように燃え上がる熱い想いだけだった。世界が二人を祝福していると信じていたあの頃、豪華でクレイジーな結婚披露宴に酔いしれたこと、全てが単純で素晴らしかった。

 あれから十年以上の時が流れ、事情はずっと複雑になり、今夜の二人は同じ場所にいても、もう元の恋人同士には戻れない。アレッサンドラは、優しく抱きしめる夫をやはり優しく抱きしめ返しながら、窓の外を見た。レアンドロの滞在するホテルの辺り、サン・モリッツの街明かりが、泣いているように煌めくのを見て、そっと瞳を閉じた。

(初出:2019年1月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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こちらが原曲であるジュリー・ロンドンの「Cry Me A River」です。


Julie London - Cry Me A River

もっとも、私はこちらの方がこのストーリーにもっと近いと思っています。ハリウッドのショーっぽい歌。大好きなマイケル・ブーブレのバージョンです。


Michael Buble - Cry Me A River
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Posted by 八少女 夕

【小説】追憶の花を載せて

今日は「十二ヶ月の情景」十二月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。100,000Hit記念企画のラストになります。

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今日の小説は、ポール・ブリッツさんのリクエストにお応えして書きました。

12月、うちの鈴木くんと八少女さんのキャラクターを誰かコラボさせてください。いろいろと性格とか考えると、八少女さんの小説世界にからめられる人間が鈴木くんくらいしかいない(笑)

そろそろ鈴木くんも中学生なのでホームステイかなにかでヨーロッパへ旅行させてもいいでしょうしね(^^)


鈴木くんとは、こちらのポールさんの小説の主人公です。
恩田博士と生まれ変わりの機械たち

ヨーロッパへ来ていただく事も可能だったのですが、私のキャラが中学生がホームステイするような所にあまりいないなあ、ということで、日本を舞台にした掌編になりました。

ポール・ブリッツさんの元になった小説が、とてもいいお話なので、余計なことを書いてぶち壊したくないなと思い、もともとの設定を元に書きました。あー、と言うわけで、原作を未読の方はまずポールさんの作品を読んでから、こちらを読まれることを推奨いたします。

コラボさせたのは、昨年の「十二ヶ月のアクセサリー」シリーズの中で出てきた二人組です。


短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



追憶の花を載せて

 加奈はウィンドゥ・ディスプレイ越しに灰色の空を見上げた。今朝はかなり冷え込んでいる。もしかしたら雪が降るのかもしれない。

 恋人たちがイルミネーションの輝くロマンティックな街を歩く。洒落たレストランで乾杯をする。そんなクリスマスの過ごし方を加奈はしたことがない。恋人が出来れば、その時には……というような期待もない。なぜならば、加奈には既に生活を共にするパートナーがいるのだ。

 その麗二と加奈にとって、クリスマス・イブはかき入れ時だ。二人は『フラワー・スタジオ 華』という花屋の共同経営者なのだ。

 クリスマスはパーティや花束の注文が多く、二十五日からは忘年会や送別会、それにお正月迎えの花の注文で、文字通り食事をする暇もなくなる。一日が終わるとくたくたで、とてもその後にデートをするつもりにはなれない。

 ハードなのはそれだけではない。花屋というのは冬には過酷な職場だ。しもやけやあかぎれは日常茶飯事だし、ひんやりした店をつらく感じることも多い。バイト時代とは違って、二人で店を持つようになってからは、防寒着で店に出るようにしたし、定期的に暖かい室内での仕事や作業を交代でするようにしているけれど、それでも、なぜこんなに寒い思いをする仕事を選んでしまったんだろうとため息をつくこともある。

 それでも加奈は、この仕事が好きだった。二人とも初めて持った店である『フラワー・スタジオ 華』は、生業であると同時に夢の実現でもあった。この世知辛い世の中、いくつもの花屋が生まれては消えていくが、店の経営はなんとか軌道に乗り、持ちこたえて八周年を迎えようとしている。

 花を贈る人々、花を自宅に用意する人たちにはそれぞれの物語がある。その人生の重要なシーンに、麗二とともに関われることは、とても素敵だ、そう加奈は思っている。

 それに、この時期の客たちから聞くストーリーは、なかなかドラマに満ちて、加奈の趣味である同人誌の題材になってくれることも多い。

 モデルになった人たちは、自分の容姿や言動に似ている登場人物が、同人誌の世界で華麗にパフォーマンスをしていることはもちろん知らない。モデルにした人たちについては、完全な架空の人物よりも敬意を払い、重要で好意的な役割を与えていたけれど、さすがに伝える勇氣はない。

 一方、キャラクターへの愛情が湧き、モデルとなった客に対しても、より好意的に熱心に接客に当たることになる。その本末転倒な熱意にもかかわらず、その顧客がある時から二度と店にやってきてくれないこともある。同人誌の件が明るみに出たからではなく、単純に他の店を好んで行くようになったり、引っ越したり、亡くなったり、とにかく様々な理由からだ。

 そうした店にとっては過去となった顧客の好んだ花の組み合わせや、特別な理由で作ったアレンジは、加奈の心の中でそのお客さんたちに捧げた花束として残っている。その人たちの顔を思い浮かべる時に、いつも花があるのだ。

 麗二にその話をしたら、彼はそれに同意した。
「ああ、俺も花を一緒に思い浮かべるよ。もっとも、今よく来てくれるお客さんでもそうだけどな」

 加奈は、意外に思った。想像の中で花を散らしているのは、件の趣味を持っているがための、少し妙な妄想だと思っていたのだ。そうではなくて、どうやらこれは、花屋の職業病みたいなものなのかもしれない。

 そんなことをつらつらと考えつつ、レジの下に置いた小さなヒーターで手足を温めていたら、ドアが開いて、ベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」
そういいながら、入ってきた客を見て、加奈は「あら」と意外に思った。十代前半と思われる少年だったのだ。彼は、怖々と店の中をのぞき込み、「花くらい、毎週、買っています」というような風情はなかった。

 彼を見て、すぐに「対象外」と思った。同人誌のジャンルは、麗しい男性によるステージパフォーマンスで、ソフトなロマンスも含むが、加奈に言わせると「BL」ではない。少女マンガ以下のぬるい描写だからというのがその言い訳だが、そう言い張る加奈にも良心はある。モデルにするならやはり成年でないと。いくら妄想とはいえ、犯罪はいけない。ましてや相手はお客さんだ。

 そんな彼女の思惑を何も知らない少年は、店を一通り見回してから、助けを求めるようにこちらを見た。

「何かお探しですか」
加奈は少年が逃げ出したくならないように、できるだけさりげない調子で訊いた。

「ええと、花を」
それはそうだろう、ここは花屋だから。そう思ったけれど、そうは言えない。

「花束? アレンジ? それとも鉢植え? プレゼントですか?」
矢継ぎ早に質問を投げかける。目的がわかると、提案がしやすいのよね。

「お墓に供えようと思って。今は寒いから、すぐにダメになっちゃうのかな」
少年は、口ごもった。なんと。意外な目的だわ。

 ちょうどその時、バックヤードから麗二が出てきた。筋肉ムキムキな上に姿勢がいいので小柄な少年には威圧的なのかもしれないと一瞬心配したが、片手に持った小袋から裂きイカを取り出しては口に放り投げていて、威厳のカケラもない。っていうか、その接客態度は、ちょっと。

「あ、ちょうどいい所に。こちらのお客さん、お墓に供えるお花を探していらっしゃるんだけれど、切り花じゃない方がいいのかって、寒いから」

 麗二は、少し考えて頷いた。
「そうだな。菊などはわりと寒さに強いし、寒い方が暑いよりも持つとは思う。もっとも、ごく普通の仏花をここに買いに来たわけじゃないんだろう、きみ」

 そう訊くと、少年の顔はぱっと明るくなった。
「そうなんです。ぼくにとって、一番尊敬できる大切な人のお墓なので、お墓の近くで売っている、みんなと同じような花は、いやなんです。でも、みんなと違う花を供えて、ぼくのだけすぐにダメになったり、供えるべきでない常識はずれの花を持っていったなんて言われたりしたらよくないと思って」

 麗二は、少年に笑いかけた。
「そうか。基本的には、何を供えても構わない。でも、『常識がない』と後ろ指を指されるのが嫌なら、とげのある花と蔓のある花は、避けた方が無難だね。例えば薔薇なんかだよ」

「なるほど。そう言えば、お墓に薔薇が供えてあるのは、見たことがありません。ぼく、白い薔薇ならいいかなって思っていたんですけれど、それじゃダメですね」

「薔薇は寒さには弱いから、いずれにしても今はやめた方がいいだろうな。そういえば本物の薔薇じゃないけれど、クリスマスローズの鉢植えはどうかい? 寒さに強くて、この季節らしいし、文句を言われないような色のものが多いよ」
そう言って麗二は、薄いピンクや白の鉢植えを少年に見せた。 

 十二月に咲くクリスマスローズは、ヘレボルス属の中でもニゲルと呼ばれる植物だ。同じヘレボルス属のオリエンタリス も日本では「クリスマスローズ」の名前で売られているが、こちらの開花は春先になる。

 花びらに見える部分は、実は萼片がくへん なので、寒さの影響が少なく長持ちする。

「ああ、クリスマスローズは、花言葉もちょうどいいかもしれないわね」
加奈が言うと、少年はこちらを見た。
「なんていうんですか?」

「いろいろあるけれど、『慰め』や『追憶』って言葉が代表的かしら」
「それに、受験生や学者に贈る人もいるよな。『がく が落ちない』を『学が落ちない』って語呂合わせにしてさ」

「学者……。実は、供えたいお墓に眠っているのは、僕が一番尊敬している博士なんです」
「だったら、ちょうどいいな。多年草だから直植えして根付いたら、ずっと咲き続けるよ」
麗二は、咲きそろっている花の鉢をそっと揺らした。

「そうですか。じゃあ、それでお願いします」

「春先に咲くのがいいなら、ヘレボルス・オリエンタリスだけれど、今はまだ入荷していないな。今、欲しいなら、このニゲルだね。どんな色がいいのかな」
「その薄紫のをください。それから、春になったら咲くのも供えたいから、入荷したら教えてくれませんか」

「いいとも。じゃあ、ここに名前と連絡先を書いてくれるかい……ふむ、鈴木君っていうんだね。電話番号も……ああ、ありがとう」
麗二は、大人の自分よりもずっと上手な鈴木少年の字を感心して眺めた。

 大事に鉢植えを抱えて鈴木少年が出て行ってすぐに、また扉が開いて一人の老人が入ってきた。
「ああ、先生、こんにちは」
麗二は頭を下げた。

「今の男の子……」
先生と呼ばれた老人は、首をひねっていた。

「ご存じなんですか」
加奈が訊くと、はたと思い出したような表情をしてから、彼は笑顔を見せた。

「ああ、旧友の葬儀で遭った子だ。彼の最後の弟子といってもいいな。あの時は、確か小学生だったが、ずいぶん大きくなったな」

 ウィンドウから覗くと、少年は自転車の籠に鉢を大事そうに載せると、颯爽と漕いで去って行った。

「そうですか。一番尊敬している博士のお墓に供えるって言っていましたよ。その方のお墓じゃないでしょうか」
麗二は言った。

「だろうな。あいつを憶えていて、まだ慕ってくれることは、わたしは嬉しく思うよ。だが、あいつはどう言うかな。『追憶』なんてものは、老人に任せて、若者は前を向いて行けなんて、あまのじゃくなことを言うんじゃないかな。というのも、わたしもあいつの遺言に近いような言葉を聴いたんだ」

『ふり返っちゃだめだぞ、鈴木くん。ペダルをこげ、ひたすらこぐんだ!』

 加奈は、もう一度ウィンドウの外を見た。鈴木少年は、力いっぱいペダルを漕いで、寒空をものともせずに去って行った。籠の中のクリスマスローズも、寒さに負けずに花びらに見える白いがく をけなげに広げていた。

 たぶん彼は、追憶だけに生きたりはしていないだろう。恩師の願ったとおりに、未来に向かってひたすらペダルを漕いでいるのだ。でも、振り向かずに進むその先々に、きっと恩師がいる。彼は、繰り返し咲く冬にも強い花を、その恩師に見せるために植えるのだろう。

 『フラワー・スタジオ 華』で迎える八年目のクリスマス。私だって寒さに負けている場合じゃないよね.加奈は、麗二との夢であるこの店という花を何度でも咲かせるために、自分も未来に向かって力強くペダルを漕いでいこうと思った。

(初出:2018年12月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 100000Hit コラボ 月刊・Stella キリ番リクエスト

Posted by 八少女 夕

【小説】その色鮮やかなひと口を -7 - 

今日は「十二ヶ月の情景」十一月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。今日は、まだ十月ですが、来週にすると、Stellaの締め切りに間に合わなくなるので、今日の発表です。

月刊・Stella ステルラ 10、11月号参加 オムニバス小説 stella white12
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今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。

11月17日、真の誕生日なんですよね~。テーマは「蠍座の女」、コラボ希望はバッカスの田中氏と思ったけれど、すでにlimeさんちの水色ちゃんとコラボ予定のようなので、出雲の石倉六角堂で。出雲なので、別の誰かさんたちが出没してもいいなぁ~(はじめちゃんとか。まりこさまとか。)


「真」とはご存じ彩洋さんの大河小説「相川真シリーズ」の主人公です。翌日11月18日は、実は今連載中の「大道芸人たち Artistas callejeros」のヒロイン蝶子の誕生日ですが、今回は絡めませんでした。「さそり座の女」ですけれど、あいつはヨーロッパにいるんですよ。「石倉六角堂」は松江ですし、蝶子はそんなにしょっちゅう日本には来ないので、無理がありすぎました。

で、はじめに謝っておきます。たくさんご要望があるんですけれど、全部はとてもカバーできませんでした。五千字ですよ! 出すだけなら出せますけれど、まとまった話にならなくなるし。というわけで、「石倉六角堂」までをカバーしました。そして、かなり無理矢理ですが彩洋さんの大事な真のお誕生日を絡ませました。でも、ご本人は出てきません。その代わり、以前この話で少しかすらせていただいた、あの方が登場です。


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【参考】
「その色鮮やかなひと口を」



その色鮮やかなひと口を -7 - 

 うわ、可愛い。怜子は思わずつぶやいた。ルドヴィコの作る和菓子は、いつも色鮮やかで、かつ、日本情緒にあふれるトーン、動物を象った練り切りなどは愛らしいのだが、今回はいつもにましてキュートだと思った。

 それは金魚を象っていた。単なる金魚ではなく、島根県の天然記念物にも指定されている『出雲なんきん』だ。土佐錦、地金とともに三大地金のうちの一つに数えられている、島根ゆかりの金魚だ。小さな頭部と背びれがないこと、それに四つ尾の特徴がある。

 既に江戸時代には、出雲地方で大切に飼育され、大名諸侯が愛でていた、歴史ある品種なのだ。不昧公の呼び名でおなじみの松江藩七代藩主松平治郷は、江戸時代の代表的な茶人でもあり、彼の作法流儀は不昧流として、現在に伝わっている風流人だが、彼もまた『出雲なんきん』をこよなく愛し「部屋の天井にガラスを張って泳がせて、月光で眺めた」という伝説すら残っている。

 今年はその不昧公の没後二百年であるため、島根県の多くで不昧公二百年祭として縁の催しが行われている。ルドヴィコの勤める『石倉六角堂』でも、不昧公ゆかりの伝統的な和菓子に加えて、二百年祭にふさわしい創作菓子を毎月発表していた。

 十二月の分を任されたルドヴィコは、怜子にアイデアがないか相談した。彼女が勧めたのが『出雲なんきん』を象ったお菓子だった。

 求肥は、上品な白で、所々朱色で美しく彩色してある。透けている餡は橙色の黄味餡。狭い目幅の特徴をよく捉えた丸い目がこちらを見ている。凝り性のルドヴィコは、試食用の『出雲なんきん』の柄を全て変えていた。

「おお、これは綺麗だ」
「ルドさんらしいわねぇ」
集まってきた職人たちや、販売員たちが口々に褒めて、手に取った。

「あ、奥様。お一つどうぞ」
怜子は、石倉夫人に朱色の部分の多い一つを手渡した。

 夫人は、一瞬その和菓子を眺めてから、わずかに不機嫌に思える口調で言った。
「いいえ、そちらのもっと白い方を頂戴」

「え。あ。はい」
怜子は素直に渡した。どうしたんだろう、そんなことをこれまで言ったことないのに。

「ルドちゃん。味は満点だけれど、つくる時はできるだけ白い部分を多くしなさいね。『出雲なんきん』は、他の金魚と違って白い部分が多い白勝ち更紗の体色が好まれるので、わざわざ梅酢を使ってより白くなるようにして育てるのよ」
穏やかに語る様子は、いつもの夫人だった。

 彼女が事務室に戻って言った後、義家が言った。
「あちゃー。サソリ女を思い出したんだな。桑原くわばら」

 怜子は、はっとした。

 それは、先週のある晩のことで、時間は遅く閉店間際だった。お店に、かなり酔っている女性が入ってきたのだ。大きめのサングラスと、真っ赤な口紅が少し蓮っ葉な印象を強めていた。
「ふふーん、ここなのね。来ちゃったわ」

 販売員は、和菓子に用はなさそうだと思っても一応「いらっしゃいませ」と言った。女性はハスキーな声で言い放った。
「あんたには用はないわ。せっちゃんを出してよ」

「……石倉のことでしょうか」
せっちゃんという名前で思い当たるのは、社長の石倉節夫以外にはいなかった。

「そうよ。あの人を出して。あたしの大事な人なの」
それを聞いていた店の人間は固まった。石倉夫人が厨房から出てきたからだ。

「申し訳ありませんが、主人は不在ですが、何のご用でしょうか」
石倉夫人が訊くと、女はゆっくりとサングラスを外して、そちらを見た。厚化粧だが、目の下の隈や目尻の皺は隠せていなかった。

「主人……ね。なんとなくわかっていたわ。やっぱり、そうだったのね。昨夜は、あたしの誕生日だったのよ。一緒に過ごす約束だったのに、いつまで経っても来ない。電話にも出ない。約束したのに、ひどいわ」
その年齢には鮮やかすぎる朱色のワンピースの開いた襟元に見える鎖骨が少し痛々しかった。

「奥さんがいる人ってわかったからって、はいそうですかって、忘れられるようなものじゃないわ。あたし、大人しく引き下がったりしないから。地獄までついていくつもりだって、せっちゃんに伝えてちょうだい。……あたし、こう見えても一途なの。ほら、歌にもさそりは一途な星座っていうじゃない、ははははは」

 その翌日、出てきた石倉社長は、いつもの朗らかな様子はどこへ行ったのか、すっかり消沈していた。数日ほどは夫人に口もきいてもらえなかったらしいが、ようやく元の朗らかな様子に戻った所を見ると、今回は許してもらえたらしいというのが、職人たちの一致した意見だった。

 その女性が来店した時は、怜子はその場にいなかったので、『出雲なんきん』の菓子から連想するとはまったく想像できなかった。でも、奥さま氣の毒だもの……。私だって、ルドヴィコが他の人にフリーだといって言い寄ったりしたら嫌。

「怜子さん。どうしたんですか? 怖い顔していますよ」
ルドヴィコにいわれてはっとした。

「ごめんなさい。あれ? それ、どうするの?」
彼は、店内試食用とは別にしてあった『出雲なんきん』を箱に詰めていた。それは販売を想定していたものよりも躍動感あるデザインで大きめに作ってあった。

「特注です。驚かないでください。怜子さんも知っているイタリア人が今から取りに来ます」

 怜子は首を傾げた。ルドヴィコを除けば、怜子の知っているイタリア人は、ルドヴィコの家族と、ミラノ在住の親友ロメオくらいだ。誰が日本に来たんだろう?

 自動ドアが開き、のれんの向こうから背の高い金髪の男性が入ってきた。女性店員たちがどよめいた。

 あ。雑誌の人だ! ヴォルなんとか家の御曹司で、同居人にすごい和食を作っているって人。かつて、この人の特集の載っている雑誌に、店のみんなでキャーキャー騒ぎ、男性陣の白い目を浴びたことを思い出した。なーんだ。そういう意味の知っている人か。

「こんにちは、いらっしゃいませ」
怜子は、使える数少ないイタリア語で言ってみた。他のアルバイトたちが羨ましそうにこちらを見ている。

 男性は、魅力的に微笑んだ。
「松江でイタリア語の歓待を受けるとは思いませんでした。嬉しいですね。お電話した大和です。マセットさんは、いらっしゃいますか」
「はい。厨房にいるので、呼んできますね」

 怜子が声をかけると、ルドヴィコは先ほどの箱を持って出てきた。
「こんにちは、大和さま」

 イタリア人同士なのに、何も日本語で会話しなくてもいいのに。どちらも、日本人と遜色のない完璧な発音だ。怜子は、つたないイタリア語で話したことを少しだけ後悔した。

「特注品で、四つでしたよね。こちらでよろしいでしょうか」
ルドヴィコは『出雲なんきん』が四匹、頭を突き合わせているように箱に詰めたものを大和氏に見せた。

「おお、これは綺麗だ。大使館でお目にかかったファルネーゼ特使が、松江に行くなら是非マセットさんの和菓子を食べてくださいと勧められた理由がわかりましたよ。これは、金魚ですよね……蠍ではなくて」

 その一言に、場の空氣は凍り付いた。幸いそこには、石倉夫人はいなかったが、石倉節夫社長が来ていた。先ほどの会話があったので、誰もがあの酔った女性のことを思い浮かべて彼の方を見ないように不自然な動きをした。もちろん、大和氏は何も氣付いていないであろう。

「ええ、これは『出雲なんきん』という島根特産の金魚を象りました。もしかして蠍に見えましたか?」
ルドヴィコが訊くと、大和氏は首を振った。

「いえ、もちろん蠍には見えません。ただ、たまたま今日、これを食べさせようとしている相手が、さそり座の生まれなのですよ。蠍にちなむものを探した関係で、朱いものを見ると何もかも蠍かもしれないと考えてしまって」

「そうでしたか。さそり座ということは、もしかして今日がお誕生日ですか?」
「ええ。そうです。彼とは、この後に出雲で待ち合わせ、誕生日を祝うつもりなのです。本人には内緒ですが、ちょっとした懐石料理の準備をしてありまして、その締めにこちらを出そうと思っています」

 例の雑誌のインタビューでも、同居人に凄い和食を作っているって話していたけれど、この人、懐石料理まで作っちゃうんだ。怜子は目を白黒させた。

「そうでしたか。蠍モチーフを探しておられたのですね。では、少々お待ちください」
そう言うと、ルドヴィコは箱から『出雲なんきん』を一つだけ取り出して厨房へ入っていった。そして、十分ほど経って出てきた時には、別の和菓子を手にしていた。

「あ、蠍……」
怜子は、思わずつぶやいた。『出雲なんきん』は透明度の高い求肥で包んでいたが、蠍の方はマットでどっしりとした練り切りだ。鋏と尾が躍り、今にも動き出しそうだ。

「一般には、あまり売れるモチーフではないですが、せっかく特注でいらしたのですから」
そうルドヴィコがいうと、大和氏は楽しそうに笑った。

「ああ、これは素晴らしい。松江中を探した蠍をこんな形で手に入れられるなんて。ありがとうございます。彼がどう反応するか楽しみです」
「どうぞ素敵なお誕生日を、とお伝えください」

 大和氏は、礼を言って代金を払うと、大事に『出雲なんきん』と『蠍』の入った箱を抱えて帰って行った。

「ルド公。ありがとうな。お前さん、機転が利くな」
「ありがとうございます、社長。蠍は朱一色ですし、形もさほど難しくなかったので」
「イタリア人っていうのは、大人になっても誕生日を盛大に祝うものなのか」

 ルドヴィコは、節夫ににっこりと笑いかけた。
「誕生日は、習慣になっているから祝うものではありませんよ」

 節夫は、わからない、という顔をした。ルドヴィコは、ニコニコしていた。
「義務や形式じゃないんです。その人のことを氣にかけている、誕生日も忘れていない、これからも仲良くしていきたい、その想いの表れなんです」

「そうか。どうも、そういうのは慣れなくてな。いつも一緒にいる相手だと、余計やりにくいんだよな」
「ストレートな表現は、一般的な日本人男性よりも一般的なイタリア人男性の方が得意かもしれません。そういう形がよりよいとは言いませんが、行動に出すと想いは伝わりやすいと思います」

 節夫は「そうか」と言って、何か考えていたが、閉店時間になると早々に帰って行った。普段のように店の若い連中を飲みに誘うこともなく。

* * *


「ただいま、帰った」
玄関の扉を開けると、節夫は少し大きな声で言った。奥の台所から妻の柚子が出てきた。

「お帰りなさい、どうしたの、こんなに早いなんて珍しい」
「まあな」
そう言うと、下げていたショッパーを持ち上げて渡した。

「あら、なあに?」
「そ、その、夕方、今日が誕生日で祝うっていうお客さんが来たんだ。それでちょっと思い出して」

 柚子がのぞき込むと、小さめのホールケーキが入っていた。和菓子屋の社長夫人として、ほとんど口には出さないが、柚子はチョコレートケーキが好きなのだ。節夫が買ってきたのは、チョコレートスポンジに、ガナッシュクリームを挟み、更にダークチョコレートでコーティングしたチョコレート尽くしのケーキだった。

「まあ。よく憶えていてくださったわね」
「誕生日だってことか」
「ええ。それに、ここのチョコレートケーキが好きなことも」
「まあな。お前は、あれが好きとか、これが欲しいとか滅多に言わないから、憶えやすいさ」
「他の女性と違って」

 きつい一刺しも忘れない。節夫は、思ったが口には出さなかった。さそり座の女は一人ではないのだ。

 柚子は、チョコレートケーキを冷蔵庫にしまい、手早く節夫の晩酌の用意をすると一緒に座った。彼女の態度は、まだ若干冷ややかだが、絶対に許さないと思っているならば、こんな風に一緒に座ってくれることはないだろう。

 四十年近い結婚生活、節夫は浮氣が発覚する度に謝り、関係を修復してきた。彼女は、どんなに怒り狂っていても「石倉六角堂」の営業に支障が出るような騒ぎを起こしたことはない。妻としてだけでなく、共同経営者として節夫にとって柚子以上の存在がいないことは、二人ともよくわかっているのだ。

 柚子は、しばらくするとチョコレートケーキをテーブルに運び、紅茶を淹れた。
「せっかくですもの。いただきましょう」
「おう」

 節夫は、ティーカップに口をつけた。ふと、柚子の視線を感じて「ん?」と訊いた。彼女は、楽しそうに笑って、『さそり座の女』の一節を口ずさんだ。
「紅茶がさめるわ さあどうぞ それには毒など入れないわ」

 むせそうになったが、節夫はなんとか飲み込んだ。まいったな。ご機嫌を直してもらう方法を、もう少しルド公に習わなくっちゃな。


(初出:2018年11月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】コンビニでスイカを

今日は「十二ヶ月の情景」八月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、けいさんのリクエストにお応えして書きました。

リクエスト月は8月でお願いします。
内容は、うちのキャラを適当に使って、一つ情景を描いていただけたら嬉しいです。


一番乗りでいただいたリクエストです。けいさんのところのキャラは、皆さん素敵なので悩みましたが、今まで一度もコラボしたことのない方にしようと、あれこれ探してみました。

けいさんの「怒涛の一週間」シリーズの三作目に当たる「セカンドチャンス」から、お二方にご登場願いました。実質コラボしていただいたのは、とある高校生(作品中ではまだ中学生でした)です。本編の中では、主人公の親友とその教え子という形で印象的に登場した二人ですけれど、もしかしたらいずれはこの二人が主役の作品が発表されるかも? 以前、ちらりと候補に挙がっていると記事を書いていらっしゃいましたよね。そんなお話も読みたいなーと願って、この二人にコラボをお願いすることにしました。あ、それに、舞台設定のために、もう一方も……。

けいさん、好き勝手書いちゃいましたが、すみません! 


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コンビニでスイカを

 私には、行きつけの店がある。……といっても、コンビニエンスストアだけれど。都心に近いのに緑の多い一角、道路の向こうの街路樹を眺める窓際の飲食コーナーの一番端に座るのが好き。

 オレンジジュースを買ってきて、問題集を広げる。クラスの女の子たちは、シアトル発の例のファーストフードに行っているけれど、なんとかラテを毎日飲んでいたら、私のお小遣いは一週間で尽きてしまう。話の合わないクラスメートに交じって居たたまれなく座ることに対する代償としては高すぎる。だから協調性がないって言われるのかな。

 冷たいオレンジジュース。風にそよぐ街路樹の青葉を眺めてぼーっとしていたら、知っている男性が窓の外を通っていった。私が通う塾の先生。すぐ後ろからついていくのは、青木先輩。去年までおなじ中学に通っていた有名人だ。

 少なくとも夏休みの前までは、彼は私のクラスの女の子たちの憧れの存在だった。背が高くて、スポーツマン。陸上部のエースだった。都大会で、100メートルと幅跳びで優勝。大会新記録と都中学新記録を同時に達成。関東大会と全国大会出場も決まっていた。高校のスポーツ推薦も決まっていたとか。

 でも、新学期になったらに、彼の起こした事件のことでみんなが大騒ぎしていた。どこかのコンビニで万引きをして捕まったって。部活はすぐに引退との名目で辞めさせられて、推薦も取り消されたらしい。

 それから、クラスの子たちの態度は180度変わった。以前はキャーキャー言っていたのに、今度はヒソヒソと眉をひそめて噂するようになった。当の青木先輩は、最初は少し背を丸くして、下を見ながら歩いていたけれど、二学期も後半になるとまたちゃんと前を向いて歩くようになった。

 その理由を、私はなんとなく知っている。先ほど、彼の前を歩いていた塾の先生。私の担当じゃないから、確かじゃないけれど、名前は確か阿部先生。私は、このウィンドウから二人が行ったり来たりするのを何度も見た。最初は先生が先輩を引っ張るようにして歩いていた。それから先輩はうなだれるようにして、その次には妙に嬉しそうについていった。

 学校でみんながヒソヒソ噂することや、受験しなくてはいけなくなったことは、先輩にとってとても大きなストレスだったと思う。きっとあの先生がいたから乗り越えられたのだろう。もっとも、のんびりそんなことを想像している場合ではないのよね。一年後の今、受験に立ち向かっているのはこっちだし。

 私は、推薦で一足先に高校入学を決められるほど成績はよくない。もちろんスポーツ推薦はあり得ない。運動音痴だし。目指している学校は、私にとっては背伸びもしているけれど、近所のおばさんたちを感心させるほどの難関校というわけでもない。

 オレンジジュースを飲みながら、私は問題集を解いた。なんのために受験をするのかな。義務教育は今年で終わる。みんな当たり前のように高校に行く。それに、成績がよかったら大学にも行くのだろう。お母さんは「頑張らないといい大学には入れないわよ」って言うけれど、まず高校に入らないと。

 高校に行ったら、何か楽しいことがあるのかな。それとも今みたいに、クラスメートたちに嫌われないように適度な距離を取りながら、いるのかいないのかわからない存在でありつづけるのかな。透明人間みたい。

 あれ、青木先輩が戻ってきた。なんだろう。

 自動ドアが開いて、先輩は入ってきた。もちろん私には氣付かない。っていうか、多分、先輩は私を知らない。

「要。どうしたんだ」
レジの所にいる店長が先輩に声をかけた。えー? 名前を呼び捨てって、身内なのかな。

「ちょっとね。先生ん家に寄ることになってさ。先生の友達も久しぶりに来るんだって。だから、なんか一緒に食えるもん買いに来た。アイスかな。それとも……」
「ここから先生のお宅までは少しあるだろう。溶けるぞ」
「そうだよねー」

 店長は、冷蔵ケースの方へ行きカットスイカを持ち上げた。
「これはどうだ。冷えているし、すぐに食べられる」
「いいね。えっと、398円か。二つ……小銭足りるかな」
「俺が払おう。息子がお世話になっているんだ」
「だめだよ。これは俺から先生への差し入れだもん。俺が買うの」

 先輩はレジでスイカのパックを二つ支払った。律儀なんだなあ。私は、首を伸ばしてそちらを見た。あ、スイカ、本当に美味しそう。途端に、青木先輩と目が合った。

「あれ」
「なんだ、要。知っている子か」
「うん。中学の一学年下の子だと思う。たしか塾も同じだったはず」」

 わ。先輩が、私の顔を知っていた。私は、ぺこりと頭を下げた。

「よう。勉強しているんだ。偉いね」
私は、先輩の近くまで歩いて行った。

「七時から塾なんです。まだ早いから」
「帰らないの?」
「家に帰ると、とんぼ返りしなくてはいけないし、うち、飲食店で夕方から親が忙しいし」

 店長が笑った。
「うちと同じだな、要」

 私は先輩に訊いた。
「店長さん、先輩の……?」
「うん。親父」

「わ。知りませんでした。すみません。山下由美です」
「いや、こちらこそ、まいどありがとうございます」

 一杯のジュースで一時間も粘る客って、ダメな常連客じゃないかなあ。私は少し赤くなる。
「私も、その美味しそうなスイカ買います」

 青木先輩が、ポケットからまた財布を取り出した。
「じゃ、それも俺がご馳走するよ」
「そ、そんな。悪いです」

「大丈夫だって。こんなに暑いのに、頑張って勉強しているんだろう。俺、去年、懲りたもん。暑いとぼーっとなって、もともとバカなのにもっと問題を間違えてさ。阿部先生にいつもの倍ヒントもらわないと解けなかった」

「でも、先輩、ちゃんと受験に成功して高校に行けたじゃないですか。私は頑張らないと。A判定出たことないし」
「俺だって、A判定も一度も出なかったよ」

 そうか、それでも受かる時には受かるのね。諦めずに頑張ろう。

 私は、先輩におごってもらったスイカのパックを開けて勧めた。店長がフォークを二つつけてくれた。先輩は、パックを私のいつも座る席まで持ってきてくれて隣に座り、嬉しそうに食べた。「おっ。甘い!」

「ごちそうさまです」
そう言って私も食べた。本当だ。甘い。

「スイカ食べたの、本当に久しぶり」
私はしみじみと味わいながら言った。先輩は驚いたようにこちらを見た。
「ええつ。何で? 夏って言えばスイカじゃん?」

「大きいから自分では買わないし、普段は、うちに帰っても一緒に食べる人いないし。あと、種を取るのが面倒くさいから、お母さんに買ってって頼んだことなかったんですよ」

 青木先輩は笑った。
「確かに面倒だけれどさ。種のないスイカって、なんだか物足りないよ」
言われてみると、本当だな。種を取ったり、ちょっと甘みの足りないところにがっかりしながら食べるのがスイカ。そうやって食べると、甘いところがより美味しくなるみたい。

 ってことは、何もせずに簡単に高校に行けるより、受験で苦労して入るほうがいいのかなあ。

「先輩。高校って楽しいですか」
私の唐突な質問に、先輩は首を傾げた。
「楽しいって言うのかなあ。前とそんなに変わらない。君は中学、楽しい?」

「全然。登校拒否したいと言うほど嫌じゃないんですけれど、あまり合わない同級生たちに嫌われないようにばかみたいに氣を遣っているんですよね。勉強もスポーツも得意じゃないから、学ぶ意味とか、達成感もあまりないし。こんなこというの贅沢かもしれないけれど」

「そうだなあ」
先輩は、よく知らない私の愚痴に、真剣に答えを探しているみたい。変なこと言って、まずかったかな。

「去年の夏休み、俺のやったこと、聞いているだろ」
えっと……。万引きの件かな? 今度は私が返答に困った。
「あまり詳しくは、知りません。推薦がダメになったって話は聞きましたけれど」

「そ。万引きの手口を研究して、できそうだから試してみたら捕まっちゃったんだ。自分のバカさ加減に呆れて、何もかも嫌になって死にたいって思ったよ」
「先輩が?」

「うん。でも、阿部先生が止めてくれて、セカンドチャンスをくれたんだ。俺に、どんなバカでもやり直しできるってわかるようにサポートしてくれたんだ。それに、そうやって先生に助けてもらいながら頑張っているうちに、うちの親だって、俺のことを要らないから放置していたんじゃないってなんとなくわかったし、こんな自分でも生きていれば何かの役に立てるかもしれないって思えるようになったんだ」

 私は、頬杖ついて、先輩の話に聞き入っていた。
「そうだったんですか」

 先輩は、大きく頷いて笑った。明るくて素敵な笑顔。
「うん。だから、メチャクチャ勉強して、今の高校に入った。正直言って、高校で学ぶことが何の役に立つのか、よくわからないし、すげー親友ってのともまだ出会えていないけれどさ。でも……」

「でも?」
「阿倍先生にとても仲のいい友達がいるんだ。本当に羨ましくなるくらいの親友。今日も来るんだよ。その人と先生、大学で知り合ったんだって。もし先生が高校に行っていなかったら、大学にも行けなかったし、そうしたら親友とも出会えなかったってことだろう? 出会いなんてどこにあるかもわからないし、未来のこともわからない。でも、今を頑張らないと、きっと未来のいいことはどっかにいってしまうんだ。そう思えば、なんだかなあって思う受験も頑張れるんじゃない?」

 そうか。いま頑張ったご褒美、ずっと後にもらえることもあるのかな。

「あ。スイカ、なくなっちゃった! ごめん」
青木先輩が、空になったパックを見て叫んだ。あ、本当にあっという間に食べちゃった。

「ごちそうさまでした。美味しかったです」
そろそろ塾に行かなくてはいけない時間だ。私は、問題集を鞄にしまって立ち上がった。
「お。行くのか。俺も、そろそろ行かなくちゃ。また今度な」

 店長の「またお越しください」という感じのいい挨拶に送られて、私は先輩と一緒にコンビニを出た。先輩は、阿部先生のお宅へと向かうので、角で別れた。頭を下げて見送ると、ビールやジュースやおつまみと一緒にスイカのパックの入った袋が嬉しそうに揺れている。

 先輩の言ったことを、じっくりと噛みしめた。数学も、英語も、今後何の役に立つのかなんてわからない。私が高校に行って、意味があるのかも。楽しいことやいいことが、どこで待っているのかわからないし、ただのクラスメイトじゃなくて、本当の意味での親友といえる人とどこで会えるのかも知らない。

 だからこそ、今やれることを一生懸命やるのが大事。うん。頑張ろう。先輩の高校、共学だったよね。志望校、今から変えたら先生に何か言われるかな。


(初出:2018年8月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -13- ミモザ

今日は「十二ヶ月の情景」七月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、limeさんのリクエストにお応えして書きました。

舞台は、バッカス。あの面々が出演。
そして、話のどこかに「水色ネコ」を混ぜてください^^
私のあのキャラじゃなくても構いません。単に、毛色が水色の猫だったらOK。
絵だったりアニメだったり、夢だったり幻だったりw


というご要望だったのですが、水色ネコと言ったら、私の中ではあのlimeさんの「水色ネコ」なんですよ。やはりコラボしたいじゃないですか。とはいえ、お酒飲んじゃだめな年齢! っていうか、それ以前の問題もあって、コラボは超難しい!

というわけで、実際にコラボしていただいたのは、その水色ネコくんと同居しているあのお方にしました。それでも、「耳」の問題があったんですけれど、それはなんとか無理矢理ごまかさせていただきました。大手町に、猫耳の男性来たら、ちょっと騒ぎになると思ったので(笑)

limeさんの「水色ネコ」は、あちらの常連の皆様はすぐにわかると思いますが、初めての方は、待ち受け画面の脳内イメージは、これですよー。こちらへ。私が作中で「待ち受け画面」にイメージしていたイラストです。


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「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -13- ミモザ

 その客は、少し不思議な雰囲氣を醸し出していた。深緑の麻シャツをすっきりと着こなし、背筋を伸ばし綺麗な歩き方をする。折り目正しい立ち居振る舞いなので、育ちのいい人なのだと思われるが、ワッチキャップを目深に被っていて、それを取ろうとしなかった。柔らかそうな黒い前髪と後ろから見えている髪はサラサラしているし、そもそもこの時季にキャップをつけているのは暑いだろう。ワッチキャップはやはり麻混の涼しそうなものだから、季節を考慮して用意したものだろう。きっと何か理由があるのだ、たとえば手術後の医療用途といった……。

 夏木は、カウンターの奥、彼が一番馴染んだ席で、新しい客を観察していた。店主の田中は、いつものようにごく自然に「いらっしゃいませ」と言った。

 今晩は、カウンターにあまり空きがなく、夏木は言われる前に隣に置いた鞄を除けた。田中は、申し訳なさそうに眼で合図してから、その客に席を勧めた。

「ありがとうございます」
若々しい青年だった。

 その向こう側には、幾人かの常連が座っていて、手元の冊子をみながら俳句の季語について話をしていた。
「ビールや、ラムネってところまでは、言われれば、そりゃ夏の季語だなってわかるよ。でも、ほら、ここにある『ねむの花』なんていわれても、ピンとこなくてさ」
「ねむって植物か?」
「たぶんな。花って言うからには」

 タンブラーを磨いて棚に戻しながら田中は微笑んだ。
「ピンクのインクを含ませた白い刷毛のような花を咲かせるんですよ」

「へえ。田中さん、物知りだね」
「じゃあさ、この、芭蕉布ってのはなんだい?」

「さあ、それは……」
田中が首を傾げるとワッチキャップを被った青年が穏やかに答えた。
「バナナの仲間である芭蕉の繊維で作る布で、沖縄や奄美大島の名産品です」

 一同が青年に尊敬の眼差しを向けた。彼は少しはにかんで付け加えた。
「僕は、時々、和装をするので知っていただけです。涼しくて夏向けの生地なんです」

「へえ。和装ですか。風流ですね」
夏木が言うと、彼は黙って肩をすくめた。

「どうぞ」
田中が、おしぼりとメニューを手渡し、フランスパンを軽くトーストしてトマトやバジルを載せたブルスケッタを置いた。

 青年は、メニューを開けてしばらく眺めたが、困ったように夏木の方を見て訊いた。
「僕は、あまりこういうお店に来たことがなくて。どんなカクテルが美味しいんでしょうか」

 夏木は苦笑いして、『ノン・アルコール』と書かれたページを示して答えた。
「僕は、ここ専門なんで、普通のカクテルに関してはそちらの田中さんに相談した方がいいかもしれません」

 彼は、頷いた。
「僕も、飲める方とは言えませんね。あまり強くなくてバーの初心者でもある客へのおすすめはありますか」

 田中は、にっこりと笑った。
「そうですね。苦手な味、例えば甘いものは好まないとか、苦みが強いのは嫌いだとか、おっしゃっていただけますか」

「そうですね。甘いものは嫌いではないのですが、ベタベタするほど甘いものよりは、爽やかな方がいいかな。何か、先ほど話に出ていた夏の季語にちなんだドリンクはありますか?」
緑のシャツを着た青年はいたずらっ子のように微笑んだ。

 田中は頷いた。
「ミモザというカクテルがあります。そういえばミモザも七月の季語ですね。カクテルとしてはオレンジジュースとシャンパンを半々で割った飲み物です。正式には『シャンパーニュ・ア・ロランジュ』というのですが、ミモザの花に色合いが似ているので、こちらの名前の方が有名です」

「おお、それは美味しそうですね。お願いします」

 ポンっという音をさせて開けた緑色の瓶から、黄金のシャンパンがフルート型のグラスに注がれる。幾千もの小さな泡が忙しく駆け回り、カウンターの光を反射して輝いた。田中は、絞りたてのカリフォルニア・オレンジのジュースをゆっくりと注ぎ、優しくステアしてオレンジスライスを飾って差し出した。

「へえ、綺麗なカクテルがあるんだねぇ」
俳句について話していた常連の一人が首を伸ばしてのぞき込んだ。

「面白いことに、本来ミモザというのはさきほど話題に出たねむの木のようなオジギソウ科の花を指す言葉だったのが、いつの間にか全く違う黄色い花を指すようになったようなんですよ。その話を聞くと、このカクテル自体もいつの間にか名前が変わったことを想起してしまいます」

「へえ、面白いね。俺も次はそれをもらおうかな」
もう一人も言った。田中は、彼にもミモザを作り、それから羨ましそうにしていた夏木にも、ノン・アルコールのスパークリングワインを使って作った。

 待っている間に、緑のシャツの青年が「失礼」と言って腰からスマートフォンを取り出した。どうやら誰かからメッセージが入ったようだ。礼儀正しく画面から眼をそらそうとした時に、待ち受け画面が眼に入ってしまった。

 水色のつなぎを着た、とても可愛い少年が身丈の半分ほどある雄鶏を抱えていた。瞳がくりくりとしていて、とても嬉しそうにこちらをのぞき込んでいる。つなぎは頭までフードですっぽりと覆うタイプなのだが、ぴょこんと耳の部分が立っていてまるで子猫のようだ。夏木は思わず微笑んだ。

 青年と目が合ってしまい、夏木は素直に謝った。
「すみません。見まいとしたんですけれど、あまりに可愛かったので、つい」

 そういうと青年はとても嬉しそうに笑った。
「いや、構いませんよ。可愛いでしょう。いたずらっ子なんですけれど、つい何でも許してしまうんです。最近メッセージを送る方法を覚えまして、時々こうして出先に連絡してくるんです」

 そういうと、また「失礼」といってから、メッセージに急いで返信した。
「一人で留守番させているんですけれど、寂しいのかな。急いで帰らないと、またいたずらするかな」

「オジギソウとミモザみたいに、混同されている植物って、まだありそうだよな」
青年の向こう側で俳句の話をしていた二人は、田中とその話題を続けていた。

「この本には月見草と待宵草も、同じマツヨイグサ属だけど、似ているので混同されるって書いてあるぞ。どちらも七月の季語だ」

「どんな花だっけ」
「ほら、ここに写真がある。なんでもない草だなあ」
「一重の花なんだな。まさに野の花だ。白いのが月見草で、待宵草は黄色いんだな。そういえば、昔そういう歌がなかったっけ」

「待~てど、暮らせ~ど、来~ぬ人を……」
「ああ、それそれ。あれ? 宵待草じゃないか」

 田中が、笑って続けた。
「竹久夢二の詩ですね。語感がいいので、あえて宵待草にしたそうですが、植物の名前としては待宵草が正しいのだそうですよ」

 その歌は、夏木も知っていた。
「待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ 今宵は月も 出ぬそうな」

 日暮れを待ちかねたように咲き始め、一晩ではかなく散る待宵草を、ひと夏のはかない恋をした自分に重ね合わせて作った詩だとか。

 夏木は、隣の青年がそわそわしだしたのを感じた。彼は、スマートフォンの待ち受け画面の少年を見ていた。にっこりと笑っているのに、瞳が悲しげにきらめいているように感じた。

 青年は、残りのミモザ、待宵草の色をしたカクテルを一氣に煽った。それから、田中に会計を頼むと、急いで荷物をまとめて出て行った。帰ってきた青年を、あの少年は大喜びで迎えるに違いない。

 待っている人が家にいるのっていいなあと、夏木は思いながら、もう一杯ノン・アルコールのミモザを注文した。

ミモザ(Mimosa)
標準的なレシピ
シャンパン : 1
オレンジジュース:1

作成方法: フルート型のシャンパン・グラスにシャンパンを注ぎ、オレンジ・ジュースで満たして、軽くステアする。



(初出:2018年7月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 100000Hit コラボ キリ番リクエスト 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】夏至の夜

今日は「十二ヶ月の情景」六月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 6、7月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。いただいたテーマは「夏至」です。(明日が夏至ですから、なんとしてでも今日発表したかったのです)

そして、【奇跡を売る店】シリーズで素敵な短編小説を書いてくださいました。


彩洋さんの書いてくださった 「【奇跡を売る店・短編】あの夏至の日、君と

コラボは、ここに出てくる登場人物の誰か、でいいでしょうか。このシリーズ、元々がパロディなので、適当にキャラを崩壊させていただいても何の問題もありません。如何様にも料理してくださいませ。
そして、舞台は、私がまだ見ぬ巨石・ストーンヘンジがいいかなぁ。あるいは夜のない北欧の夏至でも。


というご要望だったのですが、この中の誰かって、皆さん日本にいるし、ヨーロッパの夏至にいた方たちのうちお一人は、もうコラボできないし、結構悩みました。

それで、コラボしているような、全くしていないようなそんな話になりました。さらにいうと、ストーンヘンジは絡んでいますがメインではありません。キャラクターも読み切り用でおそらくもう二度と出てこないはず。若干「痛たたたた」といういたたまれない状況に立っています。「そうは問屋が卸さない」って感じでしょうか。

ちなみにリトアニア辺りだと、夏至でもまだ夜はあるようです。私の辺りで日没は21時半ぐらいですが、リガだと22時半ぐらいのよう。その短い夜に一瞬だけ咲くと言われる、生物学的には存在しない花。これが今回の小道具です。


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夏至の夜

 風が牧場の草をかき分けて遠くへと渡っていった。川から続く広い通りは、聖なるサークルへの最後の導きだ。ここまで来るのに三年の月日が経っていた。これほどかかったのは誤算だったが、なによりも長くつらい旅を乗り越えられたことに感謝しなくてはならないだろう。

 彼は、遠く常に雪に覆われた険しい山脈の麓からやってきた。この地に伝わる「癒やす石」の力を譲り受け、同じ道を帰らねばならない。主は彼の帰りを待ちながら、苦しい日々を過ごしているはずだ。もちろん、まだ彼が生きていれば。それを知る術はない。

 なんと長い一日だ。彼の故郷でもこの時期の日は長い。だが、この北の土地ではゆっくりと眠る暇もないほどに、夜が短くなる。通りを歩く旅人の姿が多い。みなこの日にここへ来ようと、集まってくるのであろう。聖なるサークルへと向かい、夜を徹して祈り、不思議な力を持った朝の光がサークルを通して現れるのを待つのだ。夏至祭りだ。

 彼は、サークルへ向かう巡礼者たちの間に、奇妙な姿を見た。純白の布を被った小柄な女だ。どのような技法であの布をあれほどに白くしたのだろう。布はつややかで柔らかそうだった。風にはためき時折身につけている装身具が現れた。紫水晶のネックレスと黄金の耳飾り。

 視線を感じたのか、女は振り向き彼を見た。浅黒い肌に大きな黒い瞳、謎めいた笑みをこちらに向けた。

* * *


 奈津子は反応に困っていることを顔に出さないようにするのに苦労した。目の前にいるのが中学生だったなら、「これが中二病か」と納得して面白かったかもしれない。また、妙齢の大人だったら、一種の尊敬心すら湧いてきたかもしれない。もし、自分の身内だったら「何言っているの」と一蹴することもできた。

 けれど、目の前で憂鬱そうな様子で先史時代のストーンヘンジの話をしているのは、基本的には自分とは縁もゆかりもない、二十歳も年下の日本人男性だった。そして、非常にまずいことに、妙にいい男だった。

 奈津子がこの青年と二人で旅することになった原因を作ったのは甥だ。それも唯一氣が合い、コンタクトを持ち続けてくれる可愛い身内だ。そもそも奈津子は甥の順と一緒にこの旅行をするつもりで休暇を取った。計画の途中で、「友人を連れて行ってもいいか」と訊かれたので「もちろんいいわよ」と答えた。甥が出発前日に「会社存続を左右する顧客への対応で、どうしても休暇を返上しなくてはならなくなった」とキャンセルしてきたので、初対面の若い青年とこうして旅をしているというわけだ。

 甥がわざわざこの青年を旅に誘った理由は、間もなくわかった。

 スイスに住む奈津子は、宗教行事の影に隠れた民俗信仰を訪ねることをライフワークにしていて、これまでも色々な祭りを見てきた。スペイン・アンダルシアのセマナサンタ、ファリャの火祭り、フランスのサン・マリ・ド・ラ・メールの黒い聖女サラを巡るジプシーの祭り、ヨーロッパ各地の個性豊かなカーニバル、チューリヒのゼックス・ロイテン、エンガディン地方のカランダ・マルツ。

 豊穣の女神マイアの祭りに起源があると言われる五月祭とその前夜のヴァルプルギスの夜や、太陽信仰と深い関係のある夏至や六月二十四日の聖ヨハネの祝日は、ヨーロッパ各地で様々な祭りがあり、奈津子にとって休みを取ることの多い時期だ。有名なイギリスのストーンヘンジの夏至のイベントも若い頃に体験していて、そのことを甥に話したこともある。甥の順とは、去年一緒にノルウェーの夏至祭を回った。

 今年の順との旅では、リトアニアの夏至祭を訪ねることにしていた。

 この時期のリガのホテルはとても高いだけでなく、かなり前からでも予約が取れないため、奈津子は車で五十分ほど郊外にある小さな宿を予約してあった。今日の午後、早く着いた奈津子が既にホテルにチェックインを済ませた。それから空港に一人でやってきた古森達也を迎えに行った。別の部屋とは言え、見知らぬ年上の女と一週間も過ごすことになって、さぞかし逃げ出したい心地になっているだろうと思っていたのだが、達也は礼儀正しい好青年でそんな態度は全く見せなかった。

 レンタカーでホテルに向かい始めてから、助手席に座った達也はどうしてこの旅に同行したいと順に頼んだのかを語り始めた。長年彼を悩ませている夢。夏至を祝うためにストーンヘンジに向かい、謎の女に出会うという一連のストーリーの繰り返し。それも、おそらく先史時代のようだった。

 そんな話を真剣に語られて、奈津子は戸惑った。

 そもそもストーンヘンジには、痛々しい思い出があった。二十年以上前のことだ。まだ、大学を卒業して間もなく、また、自分自身でも何を探していたのかよくわからなかった頃、奈津子も熱に浮かされたようにパワースポットといわれる場所を巡っていた。そして、夏至のストーンヘンジへ行ったのだ。

 太陽と過去の叡智が引き起こす自然現象を待つ巨石遺構は、エンターテーメントを求める人々で興ざめするほどごった返していた。そもそも、こうした祭りには一人で参加するものではない。一人でいると周りの盛り上がりにはついて行けず、楽しみも半減していた。

 当時はまだ今ほど外国語でのコミュニケーションに慣れていなかったので、奈津子は一週間近くまともな会話をしていなかった。そんな時に、明らかに日本人とわかる二人の壮年男性らを見かけて、もしかしたら会話に混ぜてもらえないかと近くまで寄っていったのだ。ヒールストーンの彼方から太陽が昇ったその騒ぎに乗じて、その二人に話しかけるつもりだった。

 だが、それは非常にまずいタイミングだった。奈津子は、一人の男性がもう一人に対して愛の告白をするのを耳にしてしまったのだ。いくら人恋しいからといって、このなんとも氣まずい中を平然と話しかけられるほど奈津子は人生に慣れていなかった。今から思えば、そこでふざけて話しかければあの二人のギクシャクした空氣の流れを変えられたのかもしれないが。

 あの時と違って、奈津子はいい年をしたおばちゃんになった。スイスで十年間以上一人で暮らし、言葉や度胸でも当時とは比べものにならない。そして、可愛い美青年が、妙な告白をしても、なんとか戸惑いは表に出さずに、会話を続けることもできた。

「だとしたら……どうしてストーンヘンジに行かずにここへ来たの?」
奈津子は単刀直入に訊いた。

 達也は頭をかいてつぶやいた。
「いや、あれは、夢の話ですから。変な話をしてしまって、すいません」

「いいえ、してもいいのよ。でも、どう答えたらいいのか、わからないのよ。それはあなたの前世の記憶だって思ってるの?」
「いや、そんなことは……。あれです、どっかのアニメか映画で観たのかもしれないです」

 奈津子は首を傾げた。
「さあ、知らないわ。あったとしても、私は浦島太郎で、日本のアニメや映画などにはずっと触れていないのよ。もっとも私、夏至のストーンヘンジにはいったことがあるのよ」
「知っています。順がそう言っていました。だから奈津子さんに逢ってみろと」

 一度もストーンヘンジに行ったことがないにしては、達也の話すストーンヘンジの様子は妙に具体的だった。誰でも見たことのある二つの石の上に大きな石で蓋がしてあるような形のトリリトンの話なら、行ったことがない人でも記憶に留めているかもしれない。だが、達也はヒールストーンの向こうから昇る朝日のことを口にしていた。

 ヒールストーンは周壁への出入り口のすぐ外側のアヴェニューの内部に立つ形の整えられていない赤い砂岩でできた巨石だ。サークルの中心から見て北東にあり、夏至の日に太陽はヒールストーンのある方向から出て、最初の光線が遺跡の中央に直接当たり、ヒールストーンの影はサークルに至る。

 普段の観光ではあまり話題にならないが、夏至のストーンヘンジでは、主役といってもいい石なのだ。

 それに、最近の学説では、夏至のストーンヘンジの祭りは天文学的な意味合いだけではなく、民俗的な、ヨーロッパの他の夏至祭りとも関連のある意味合いを持つともいわれている。すなわち男女の仲を取り持つ祭りというわけだ。馬蹄形に並べられたトリリトンとその周辺にあるヘンジは女性器を表すと考えられ、もともとは脇に小ぶりな岩が二つ置かれていたと考えられるヒールストーンの影が夏至にその遺跡に届くことが、性的な象徴として祝われていたというものだ。

「ヨーロッパの各地の夏至祭りでは、いわゆるメイポールのような柱を立てて、その周りで踊ったり、たき火を飛び越えたりして祝う習慣があるのね。そして、この日に将来の結婚相手を占う、あまりキリスト教的ではない呪いが、主に北ヨーロッパで行われているの。多くが縁結び的な役割を担っているのよね」

「大昔のストーンヘンジでも、そういう役割を担っていたということなんですか」
達也は真面目に訊いた。奈津子は肩をすくめた。
「なんとも言えないわ。そうかもしれないし、違うかもしれない。ブルーストーンに癒やしの力があった信じられていたというのも、推測に過ぎないし、ヒールストーンの影に性的な意味合いがあるというのも、勘ぐりすぎなのかもしれないし。現在の各地の夏至祭に縁結び的な側面があるというのは事実だけれど」

 薬草を摘み、三つ叉になったポールを囲み祝う。朝露を浴びる。そうした呪いの後、夢の中に未来の夫が現れるといった縁結び的信仰が共通してみられるのだ。

 とはいえ、奈津子には夏至祭りに縁結びの力があるとは思えなかった。なんせ二十年以上、何かとこの祭りに行っているのに、一向に御利益がないからだ。たまにいい男と一緒かと思えば、ここまで年下だと、期待するのも馬鹿みたいだ。

「夢の中に……ですか」
「枕の下にセイヨウオトギリソウを置いて眠ると、未来の夫が夢に現れるというような信仰ね」
「なるほど」
「この辺りでは、シダに夏至の夜にしか咲かない赤い花が咲くので、それを見つけて持ち帰るといいという言い伝えもあるのよ」
生物学的にはナンセンスだと言われている。そもそ胞子で増えるシダに花は咲かないから。

「なんですって?」
達也が大きな声を出した。奈津子はぎょっとした。

「どうしたのよ」
「いや、シダの赤い花っておっしゃったから」
「言ったけれど?」
「さっき、日没の直後くらいに見たように思ったんです」

 奈津子は車を停めた。今夜は、夏至祭りではない。祭りは大抵どこも聖ヨハネ祭である二十四日かその前夜である二十三日に行われるからだ。つまり、二日ほどゆっくりと観光をしてから祭りに行く予定だった。が、よく考えれば今夜こそが本来の夏至だ。そこで赤いシダの花を見たなどと言われては聞き捨てならない。

「どこで?」
「さきほど通った林ですよ。ここは一本道だから。このまま戻ったら見られると思いますけれど」

 馬鹿馬鹿しいと、このまま走り抜けてもよかったのだが、好奇心が勝った。それに、夏至らしい思い出になるではないか。無駄足だとしても、少しくらい戻っても問題はないだろう。ホテルはすぐそこだ。奈津子は素直に車をUターンさせた。

 その林は、さほど時間もかからずに、たどり着くことができた。十一時を過ぎてすでに暮れていて、どこにシダが群生しているのか見つけるのにもう少しかかった。けれど、最終的に車のライトが茂みをはっきりと映し出した。

「ほら、あそこに」
それは、本当に花と言えるのか、それともまだ開いていない葉が赤く見えているのか、奈津子には判断できなかった。けれども、それが花に見えるというのは本当だった。

「本当だわ。まるで花みたいね」

 赤い花を咲かせるシダを見つけたら、深紅の絹でそっと包み、決して立ち止まらずに家まで持ち帰らなくてはならない。そして、道を尋ねる旅人に出会っても、決して答えてはいけない。それはただの旅人ではないのだ……。奈津子は、赤いシダ花の伝説を思い出して身震いした。

 達也は、車から降りると、黙ってシダに手を伸ばした。奈津子は、心臓の鼓動が彼に聞こえるのではないかと怖れた。奇妙な組み合わせとは言え、夏至の夜に未婚の男女が、存在しないはずの伝説の植物を手にしようとしている。それは、常識や社会通念というものを超えて、何かを動かす力を持つのかもしれない。ストーンヘンジで、道ならぬ恋心を打ち明けたあの男が、もしかしたらこのような夏至の魔法に促されたように。

 達也は、シダを手折ると、奈津子には目もくれずに林の奥へと歩き出した。人里離れた林の奥を目指しているようだ。声を出してはならない。そう思う氣持ちとは逆に、どこかで冷静で現実的なもう一人の奈津子が「戻さないとまずい」と訴えていた。

 と、視界の奥に、見るべきでないものが入ってきた。白いマントのようなもので全身を覆った人。小柄だからおそらく女だろう。二十一世紀には全くふさわしくないドルイド僧のようなその姿に、奈津子は焦った。彫りの深い顔立ち、黄金の耳飾りと、紫水晶のネックレス。つい先ほど彼が描写したままの謎の女の姿。

 あれこそ、決して答えてはならない危険な旅人ではないのだろうか。達也は、ずっとその人物と無言で見つめ合っていた。どれほどの時間が経ったのかわからない。しびれを切らした奈津子は禁忌を破り、声をかけた。
「達也君。そっちへ行ってはダメよ。さあ、ここから離れて、ホテルに行きましょう」

 達也は、ビクッとしてこちらを振り向いた。奈津子は、手にしていたシダを全て手放させると、袖を引っ張るようにして、彼を歩かせ車に乗せた。彼は何度か振り向きつつも、やはり理性の命じるままに助手席に乗った。そのままホテルにつくまで、奈津子が何を訊いても全く口をきかず、ずっと考え込んでいた。

 翌朝、約束の朝食の席に降りてきた奈津子は、達也が伝言メモを残して消えてしまったのを知った。

 慌てて日本の順にメールを送ると、彼にもメールが入っていたそうだ。急に予定を変えることになり、一足先に帰国することになった。お詫びを順からも伝えて欲しいと。ホテルのフロント係によると、朝一番でチェックアウトしたらしい。隣には、異国風の女性が一緒にいたということだった。

へい、奈津っち。

ぶったまげたよ。達也がまさかいきなり国際結婚するとか、ありえなくね? つーか、俺が何度訪ねていっても、奈津っち一度だって女の子紹介してくれたことないのに、なんで達也にはそんなサービスするんだよ。てか、人の世話していないで、自分の相手は?

それにしてもすげー美人を連れてきたって、仲間内でも大騒ぎだぜ。この間ダメになった休暇の代わりに改めて休みをもらったので、冬休みには、そっち行くから、その時に話そうな。 順


 別に私がくっつけたわけじゃないわよ。甥からのメールを見ながら、奈津子はひどい疲れを感じた。あちこちを蹴飛ばしたい氣分だった。心配して損した。前世がどうのこうの、ストーンヘンジがなんとかかんとかいうから、夏至の揺らぎが見せる魔界に取り込まれたんじゃないかって、どっちが中二病かわからない不安を持っちゃったじゃない。

 彼はきっと、あの女性がどうしているのか氣になって、またあの林に行ったのだろう。そして、そのまま意氣投合して二人で旅することにしたのだろう。

 男女の仲を取り持つと言われる不思議な夜。確かに、ある種の人々には効果絶大らしい。たまたま自分だけそうでないからと言って、迷信扱いするのは間違っているのかもしれない。いや、語り部というのは、その手の恩恵は手にすることができないということなのか。

 奈津子は大きなため息を一つつくと、この件はもう忘れようと思った。そして、「冬に来るならクリスマスマーケットに付き合え」という趣旨のメールを、唯一なついてくれる甥っ子に書いた。


(初出:2018年6月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】キノコの問題

今日は「十二ヶ月の情景」五月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

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今日の小説は、canariaさんのリクエストにお応えして書きました。

テーマはずばり「マッテオ&セレスティンin千年森」です!

情景は森(千年森)で、ギリギリクリアかな?

キーワードと小物として
「セレスティンの金の腕時計」
「幻のキノコ」
「健康食品」
「アマゾンの奥地」
「猫パンチ」
希望です。

時代というか時系列は、マッテオ様たちの世界の現代軸でお願いしたいと思っています。
コラボキャラクターはクルルー&レフィナでお願いいたします。


「千年森」というのはcanariaさんの作品「千年相姦」に出てくる異世界の森、クルルーとレフィナはその主人公とヒロインです。

一方、マッテオ&セレスティンは、私の「ニューヨークの異邦人たち」シリーズ(現在連載中の「郷愁の丘」を含む)で出てくるサブキャラたちです。「郷愁の丘」の広いジョルジアの兄であるマッテオは、ウルトラ浮ついた女誑しセレブで、その秘書セレスティンはその上司には目もくれずいい男と付き合おうと頑張るけれど、かなりのダメンズ・ウォーカー。このドタバタコンビをcanariaさんの世界観に遊びに来させよという、かなり難しいご注文でした。

これだけ限定された内容なので、ものすごくひねった話は書けなかったのですけれど、まあ、そういうお遊びだと思ってお読みください。コラボって、楽しいなってことで。canariaさん、なんか、すみません……。



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【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」





「ニューヨークの異邦人たち」・番外編
キノコの問題


 覆い被さり、囲い込み、食べ尽くして吸収してしまうかと思うほど、深く濃い緑が印象的な森だった。鳥の羽ばたきと、虫の鳴き声、そしてどこにあるのかわからないせせらぎの水音が騒がしく感じられる。道のようなものはあるはずもなかった。ありきたりの神経の持ち主ならば、己が『招かれざる客』であることを謙虚に受け止め、回れ右をして命のあるうちに大人しくもと来た道を戻るはずだ。だが、今その『千年森』を進んでいる二人は、ありきたりの神経を持ち合わせていなかった。

「それで、あとどのくらいこの道を進めばいいんでしょうか」
若干機嫌の悪そうな声は女のものだ。都会派を自認する彼女は、おろしたての濃紺スウェード地のハイヒールを履いていて、一歩一歩進むたびに苛ついていると明確に知らせるトーンを交えてきたが、彼女の前を進んでいるその上司は、全くダメージを受けていないようだった。

「なに、もうそんなに遠くないはずだ。こんなに森も深くなったことだし、【幻のキノコ】がじゃんじゃん生えていそうじゃないか」
そう言って彼は振り返り、有名な『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』を見せたが、『アメリカで最も商才のある十人の実業家』に何度も選出された男としては、かなり無駄な行為だった。エリート男と結婚したがっている何十万人もいるニューヨーク在住の独身女のうちで、セレスティン・ウェーリーほど『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』に動かされない女はいないからだ。

「それはつまり、あなたは根拠も何もなく、こんな未開の森を進んでいると理解してもいいんでしょうか」
「そうさ、シリウス星のごとく熱く冷たいセレ。まさか誰もまだ知らない【幻のキノコ】の生えている場所が、カラー写真と解説つきの地図として出版されていたり、GPS位置情報として公開されているなんて思っていないだろうね」

 ヘルサンジェル社は、CEOであるマッテオが一代で大きくした。主力商品は健康食品で、広告に起用されたマッテオの妹であるスーパーモデル、アレッサンドラ・ダンジェロの完璧な容姿の宣伝効果でダイエット食品の売り上げはアメリカ一を誇る。社のベストセラー商品はいくらでもあるが、新たな商品開発はこうした企業の宿命だ。とはいえ、あるかどうかもわからないキノコを社長みずからが探すというのは珍しい。

 セレスティンは深いため息をついた。
「もうひとつだけ質問してもいいでしょうか」
「いいとも、知りたがりの綺麗なお嬢さん」

「あなた自らが、その【幻のキノコ】を探索なさるのは勝手ですけれど、どうして社長秘書に過ぎない私までが同行しないといけないのでしょうか。この靴、おろしたてのセルジオ・ロッシなんですよ!」

「まあまあ。世界一有能な秘書殿のためなら、五番街のセルジオ・ロッシをまるごと買い占めるからさ。ところで、今日の取引先とのランチで君が自分で言った台詞を憶えているかい?」
「もちろんですわ。とても美味しい松坂和牛でしたけれど、あんなに食べたら二キロは太ってしまいます。週末はジムで運動しなくちゃいけない、そう申し上げました」

「ここを歩くとジムなんかで退屈な運動をするよりもずっとカロリーを消費するよ。湿度が高いってことはサウナ効果も期待できるしね。それに、【幻のキノコ】は、カロリーを消費中の女性のオーラに反応して色を変えるそうだ。つまりこの緑一色の中で見つけやすくなるってことだ。ウインウインだろう?」

 セレスティンは、カロリーを消費する運動やサウナでのウェルネスに、テーラードジャケットとタイトスカートが向いていないことを上司に思い出させようと骨を折った。が、マッテオはそうした細部については意に介さなかった。
『とにかく今日この森に来られたことだけでもとてつもなく幸運なんだ。そうじゃなかったらアマゾンの奥地まで行かなきゃいけないところだったんだぜ」

「なぜですの?」
「『千年森』に至るルートは、いくつか伝説があってね。一番確実なのがブラジルとボリビアの国境近くにある原生林らしいんだが、あそこには七メートルくらいある古代ナマケモノの仲間が生存しているという噂があってさ。追われたらハイヒールで逃げるのは大変だろう?」

「それはその通りですわ。でも、カナダとの国境近くの町外れの廃墟がボリビアと繋がっている森への入り口になるなんてあり得ませんわ」
「あり得ないもへったくれも、僕たちは今まさにそこにいるんだ。まあ、堅いことを言わずに、ちょっとしたデートのつもりで行こうよ、大海原色の瞳を持つお嬢さん」

「いつも申し上げている通り、まっぴらごめんです。そもそも、今日はちゃんとしたデートの予定があったのに……ハーバード大卒で銀行頭取の息子なんですよ。ああ、連絡したいのにここ圏外じゃないですか」
「まあ、なんと言っても『千年森』だからね。安心したまえ。今日のが不発に終わっても、今後ハーバード大卒で頭取の息子である独身者と知り合う確率は……チャートにして説明した方がいいかい?」
「けっこうです!」

 ブリオーニのビスポークスーツにゴールドがかった絹茶のネクタイを締めた男とマーガレット・ハウエルのテーラードジャケットを来た女が森の奥深く【幻のキノコ】を探しているだけでも妙だが、話題もどう考えてもその場にふさわしいとは思えなかった。

 その侵入者の会話に耳を傾けつつ、物陰から辛抱強く観察している影があった。それは黒髪を持った美貌の少年で、二人のうちのどちらが彼の存在に氣付いてくれて、悲鳴を上げた瞬間に颯爽と飛びかかろうとひたすら待っていた。

 だが、都会生活が長く野生の勘のすっかり退化してしまったニンゲンどもは、いつまで経っても彼に氣付かなかった。それどころか、めちゃくちゃに歩き回っているにもかかわらず、どうやら最短距離で彼の大切な養い親のいるエリアに到達してしまいそうだった。

「お。見てみろよ。あの木陰、なんだか激しく蠢いているぞ」
マッテオが示した先を、セレスティンは真面目に見ていなかった。大切なハイヒールのかかとが何かぬるっとしたものを踏んだようなのだ。

「マッテオ。この森はどこを見ても木陰だらけで、蠢いているなんて珍しくもなんともありませんわ、それよりも……」
「でも、ほら。女神フレイヤの金髪を持つお嬢さん、木陰は珍しくなくても、木々と一緒に女性が蠢いているのはちょっと珍しいよ」

「なんだって!」
背後から叫びながら突然黒い影が飛び出してきたので、今度こそセレスティンとマッテオは驚いた。

「本当だ! レフィーったら! 僕がちょっと目を離すとすぐこれだ。発情の相手なら、この僕がいるって言うのに!」

 マッテオは、セレスティンに向かって訊いた。
「あれは、誰かな。男の子のようにも見えたけれど、猫耳みたいなものと、尻尾が見えたような……」

 セレスティンは、目をぱちくりさせて言った。
「猫耳に尻尾ですって。マッテオ、あなた頭がどうかなさったんじゃないですか。それよりも、いつから私たちの後ろにいたのかしら。やはり危険いっぱいじゃないですか、この森。これ以上、こんなところに居て、私のおろしたてのハイヒールに何かあったら困るわ。何か変なものを踏んじゃったみたいだし……」

 ところが、そのハイヒールの惨状に98パーセント以上の責任があるはずの彼女の上司は、その訴えをまるで聴いていなかった。
「ひゅー。こいつは、滅多に見ない別嬪さんだ」

 返事が期待したものと全く違ったので、真意を確認したくて顔を上げると、マッテオが意味したことがわかった。先ほど森と一緒に蠢いているとマッテオが指摘した誰かが、黒髪の少年に木陰から引きずり出されていた。深い緑の襤褸がはだけていて、白い肌や白銀に輝く髪が露わになっていた。あら、確かに、珍しいほどの美女だわ。いつも綺麗どころ囲まれているマッテオでも驚くでしょうね。

 マッテオは、美女を見たら口説くのが義務だとでもいうように、ずんずんと二人の元に歩いて行って、アメリカ合衆国ではかなり価値があると一般に思われている『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』をフルスロットルで繰り出した。

「こんにちは、麗しい森の精霊さん。この深くて神秘的な森には、人知れず永劫の時間を紡ぐ至宝が隠されているはずだと私の魂は訴えていたのですよ。美こそが神の叡智であり、すべてに勝る善なのですから、私があなたを崇拝し、その美しさを褒め称えることを許してくださいますよね」

 何やら揉めていたようだった森色の襤褸を着た美女と黒髪の少年は、この場の空氣を全く読まない男の登場にあっけにとられて黙った。相手に困惑されたくらいで、大人しく引き下がるような精神構造を持たないマッテオは、構わずに続けた。

「怪しいものではありません。僕は、マッテオ・ダンジェロといいます。アメリカ人です。この森で国籍というものが何らかの意味を持つなら、ですけれど。少なくとも佳人に恋い焦がれる心に国境はありません。あなたも、この森のように幾重にも巡らされた天鵞絨の天幕の後ろに引きこもっていてはなりません。どのような深林も恋の情熱の前では無力なのですから。あなたの名前を教えてくださいませんか。私が心から捧げる詩を口ずさめるように」

「てめぇ、何を馴れ馴れしく!」
黒髪の少年が我に返って敵意を剥き出しにした。襤褸を着た美女は、その少年をたしなめた。

「クルルー。客人にそのような口をきいてはならぬ」
「でも、レフィー。聖域であるこの森で神聖なあなたを口説くのがどんなに罰当たりか思い知らせないと」

「さっき、発情の相手がどうのこうのって自分でも言っていたのに」
セレスティンが、小さくツッコんだ。
「なんだとぉ」

 少年は、セレスティンの元に飛んできた。おや、こちらも美形だったわ。セレスティンは驚いた。緑色の宝石のような切れ長の瞳に、漆黒ではなくて所々トラのような模様の入った不思議な髪。綺麗だけれど、危険な匂いがプンプンするタイプの美少年だ。ツンとしていれば、いくらでも女が寄ってきそうだが、どういうわけか今の少年は取り乱して怒っていた。

 手元を素早く前後に動かして、こちらを小突いてくる。この動作は、ええと、ほら、あれ……猫パンチ。うわー、ありえない。美少年がやっちゃダメな動作でしょう。
「ちょっと、やめてよ。何取り乱しているの」
「レフィーの前で余計なこと、言うなよ」
「あのね。そうやって取り乱すと、知られたくないことがバレバレになるのよ。わかってるの?」

 二人がこそこそと会話を交わしている間、マッテオはさらに美女に愛の言葉の攻勢をかけていた。
「あんた、あいつを止めなくていいのか。目の前で他の女を口説くなんて、とんでもない恋人だな」
少年が怒っている。

「おあいにく様。あの人は、私の上司で、恋人じゃないの。それよりも、目下の問題は、私のハイヒール……。何を踏んじゃったのかしら」

 セレスティンが、足下を見ると、どういうわけかそこには真っ赤なキノコがうじゃうじゃと生えていた。しかも、怪しい蛍光色の水玉が沢山ついていて、それが点滅しているのだ。
「やだっ、何これ!」

 美女にクルルーと呼ばれた美少年は肩をすくめた。
「ああ、そのキノコね。ニンゲンの女に先の尖った靴で踏まれると増殖を始めるんだよね。ああ、こんなに増えちゃって面倒なことに……。レフィー、ちょっと! お取り込み中のところ悪いけれど、緊急事態みたいだよ」

 マッテオの口説き文句を半ば呆れて、半ば楽しむように聴いていた美女はこちらを振り向いた。そして、セレスティンとクルルーの周りにどんどん増殖している赤いキノコを見て、慌ててこちらに走ってきた。
「なんだ。おい! 何をやっているんだ」

 マッテオは、そのキノコを見て大喜びだった。
「なんてことだ。これこそ僕たちの求めていた【幻のキノコ】だよ! セレ、でかした!」

 だが、襤褸を着た美女の方は厳しい顔をした。
「何が【幻のキノコ】だ。これを増やすことも、持ち出すことも許さんぞ。やっかいなことになるからな。クルルー、その二人を森の外へ連れて行け。私はそのキノコの増殖を止めねばならぬ」

 クルルーが、ものすごい力を発揮してキノコで真っ赤になったエリアからマッテオとセレスティンを引き離すと、美女はそこへ立ち、続けて森の緑が同調するようにその場所に覆い被さった。そこで、美女が何をやっているのかはわからなかった。クルルー少年に引きずられて二人は森の端まで連れて行かれたからだ。

「これだからニンゲンをこの森に入れるのは反対なんだ。カナダ側にも巨大ナマケモノを配置しないとダメなんだろうか」
そういうと、少年は二人をドンと突き飛ばした。

 一瞬、世界がぐらりと歪んだかと思うと、二人の目の前から美少年クルルーと『千年森』は消えていた。それどころか、彼らが通ってきたはずのカナダとの国境近くの町から400マイル近く離れているマンハッタンのカフェに座っていた。

「え?」
騒がしかった鳥のざわめきの代わりに、忙しく注文をとるウェイターと客たちのやり取りが聞こえ、心を洗うようなせせらぎの代わりに、趣味の悪い電飾で飾られた噴水の調子の悪い水音が響いた。

「なんてことだ。ここまで飛ばされてしまったか。やるな。さすがは『千年森の主』だ」
マッテオは、残念そうに辺りを見回した。セレスティンは、まず手始めに自分の服装がまともな状態に戻っているかを確認したが、残念ながら汗だくでボロボロの様相は、『千年森』にいたときと変わっていなかった。

 でも、ニューヨークに戻ってくるまでの時間を短縮できたんだから、急いで家にもどれはデートまでに着替える時間があるかも! 彼女はお氣に入りの金の腕時計を眺めた。ギリギリ! でも、今すぐ行けば間に合うはず。

「セレ。君のハイヒールに、例のキノコ、ついていないかい?」
諦めきれないマッテオが訊いた。彼女は、大事なハイヒールにキノコがついていたら大変と見たが、『千年森の主』が何らかの魔法で取り除いたのか、あの赤いキノコは綺麗さっぱり消え失せていた。

 それに、あのクルルー少年の言葉によると、ハイヒールに近づけると、あのキノコはとんでもなく増殖してしまうはず。ついていなくて本当によかったってところかしら。

「残念ながら、ついていないみたいですわ、マッテオ。申し訳ないんですけれど、もうアフターファイブですし、私、失礼します。今から急げば、デートに間に合いますので」
そう言いながら、颯爽と立ち上がった。

「OK。楽しんでおいで。今日の残業分、明日はゆっくり出社するといい。やれやれ、僕は氣分直しにジョルジアを訪ねてご飯を作ってもらおうかな」

 セレスティンは、にっこりと微笑みながら立ち去った。途中でもう一度時間を確認するために金時計を見た。

 あら。この時計の文字盤、ルビーなんてついていたのかしら。

 この時計は、なくして困り果てていたところ、マッテオが見つけてくれて、さらに素晴らしい高級時計に変身させてくれたものだ。だから、見慣れていた前の安っぽい時計だった時についていなかったものがあっても不思議ではない。でも、確か、今朝はついていなかったと思うんだけれど。

 立ち止まってもう一度サファイアガラスの中の文字盤をよく見た。ルビーがキラリと光った。蛍光色みたいな色で。しかも動いているような。

 これ、ルビーじゃないわ。さっきのキノコ。この中に入り込んでしまったのかしら。

 セレスティンは先ほどの趣味の悪い噴水前のカフェに戻ろうとした。マッテオに見せないと。だが、どうもカフェが見つからないし、マッテオもいない。ううん、今から電話して戻ってきてもらってこれを見せるとなると、時間を食っちゃう。せっかくの頭取の息子とのデートが……。

 彼女は、そのやっかいなキノコは金時計に閉じ込めたまま、明日まで何も言わないことにした。どう考えても、今夜この時計がハイヒールで踏まれるような事態は起こらないはずだし、明日の朝に氣がついたことにしても問題ないと思う。

 彼女は、キノコの問題はとりあえず忘れることにして、今夜ハーバード大卒の男を逃さないために、彼の前でいかに頭の足りない金髪女の演技をすべきか、綿密にプランを練りだした。

(初出:2018年5月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】復活祭は生まれた街で

今日は「十二ヶ月の情景」四月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。先月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。まだリクエスト枠が二つ残っていますので、まだの方でご希望があればこちらからぞうぞ。

月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、GTさんのリクエストにお応えして書きました。ご希望は『夜のサーカス』の関連作品です。

『夜のサーカス』は、当ブログで2012年より連載した作品です。イタリアの架空のサーカス「チルクス・ノッテ」を舞台に個性的なメンバーの人間模様を描いた小説で、2014年に好評のうちに完結しました。話の中心になったのはブランコ乗りの少女ステラと謎の道化師ヨナタンです。GTさんは、この作品をお氣に召して、今回のリクエストでも選んでくださいました。

あまり奇をてらわずに、GTさんのお氣に入りのヒロイン・ステラを前面に出したストーリーを考えました。四月のご希望でしたので、復活祭(パスクァ)を題材にしました。妙に食いしん坊小説になっていますが、これは、作者の脳内がこれで詰まっている、という証ですね。




短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



【参考】
小説・夜のサーカス 外伝

「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物




夜のサーカス・外伝
復活祭は生まれた街で


 ついこの間まで、季節外れの雪が降っていたというのに、今日は随分と暖かい。着てきたジャケットが暑くて、脱いで腕に持った。横を歩いている彼がふっと笑った。ヨナタンって、いつも涼しげよね。暑くないのかしら。ステラは首をかしげた。

 教会の鐘が鳴り響いている。久しぶりだけにその音は格別大きかった。一昨日の聖金曜日にステラはヨナタンと一緒に彼女の生まれた町にやってきた。普段は大きな連休の時には興行する団長だが、さすがに聖金曜日から復活祭パスクァ にかけて興行するのは氣が咎めるらしい。あれでも一応カトリック教徒なのだ。さらにいうと、無理に興行して事故でもあったら、縁起担ぎにうるさい団員たちが彼の言うことを聞かなくなる。だから、聖金曜日から復活祭までは、興行を休むのだった。そのかわり、明日の天使の月曜日パスケッタからは再び仕事だ。

 ステラは、例年ならば一人でこの町に帰ってくるのだが、今年はヨナタンを伴った。彼は天涯孤独なので、復活祭でも帰る生家はないのだ。「嫌じゃなかったら、うちに来て復活祭を楽しんで」と誘うと「迷惑でないならぜひ」と言ってくれた。ステラはとても嬉しかった。

 ヨナタンと二人で遠出することは滅多になかった。電車やバスを乗り継ぐ時間、ずっと彼と一緒だった。車窓から指さして懐かしい山や川の名前を教えるのも楽しかったし、乗り換えの話をするのですらわくわくした。

 北イタリアのアペニン山脈の中腹にあるステラの故郷は、年間を通じてとても静かだ。かつてこの地を治めていたあまり裕福でなかった領主が残した城は、小さく観光客も滅多に来ないし、復活祭でも中世を彷彿とさせるパレードなどの大きな祭事はない。ごく普通のミサがあり、その後に家族でご馳走を食べるのだ。

 伝統を守る人たちは、聖金曜日から肉を食べない。教会も鐘を鳴らさずに、イエス・キリストの死を悼み、救世主を死なせてしまった人間の罪の深さを思う。そして、日曜日に主の復活を祝って鐘がなると、ご馳走をたらふく食べて祝うのだ。

 待ちに待った復活祭。何よりも楽しみなのは、ミサの後の午餐だ。その美味しいご馳走を誰にも文句を言わせずに、心ゆくまだ食べるために、いや、良心がとがめるのが嫌なので、ステラは町の人々に交じって復活のミサに預かる。ヨナタンがカトリックかどうかは聞いたことがないけれど、それに、普段は日曜日に教会に行ったりはしないからあまり熱心な信者ではないみたいだが、彼も特に文句は言わずについてきてミサの席に座っていた。

 そして、無事にミサが終わったので、二人はステラの家へと再び向かっているのだ。少し前を母親のマリが歩いている。彼女の経営するバルの常連たちに囲まれ、楽しく話をしながら。
「あの小さかったステラが、サーカスの花型になって帰ってくるとはね」
「しかも、ボーイフレンドを連れてきたよ」

 そんな噂話も聞こえてきて、ステラとヨナタンは顔を見合わせて小さく笑った。ステラの父親は、ずっと昔にいなくなってしまって、ステラはマリが女手一つで育てた。子守もいなかったので、多くの時間をマリのバルで過ごした。だから、常連のおじさんたちはみな親戚のような存在だった。

 そして、このバルの片隅で食事をしていたヨナタンと、六歳だったステラは出会ったのだ。だから、ステラにとってこの町は生まれ故郷というだけでなく、愛する人との運命の出会いの舞台でもあるのだ。彼とまたここにこうして来られたのがとても嬉しい。ああ、なんて素敵な春なのかしら!

 バルでもある家に着くと、常連たちと別れを告げて、マリは急いで中に入った。食事の用意があるから。ステラとヨナタンも、人びとと別れを告げて家に入る。すぐにマリの弟夫妻がやってくるから、食卓をきちんとしておかなくてはならない。ヨナタンも進んで手伝ってくれるので二人でテーブルセッティングをした。

 ステラの生まれた地方は、生ハムの生産で世界的に有名だ。だから、お祝いの食事は前菜には、プロシュットが色づけされた卵と一緒に並ぶ。アーティチョーク、アスパラガスといった春の野菜、復活祭にいつも作るチーズのトルタと一緒に食べる。生ハムを薔薇のように巻いてお皿に飾りつけながら、ステラはヨナタンが子供の頃にくれた運命の赤い薔薇のことを思い出していた。

 賑やかな笑い声と共にジョバンニとその妻のルチアが花を持って登場した。ステラの母親マリとジョバンニは仲のいい姉弟だが、夫妻はローマに住んでいるので会えるのは年に一度かそれ以下だ。愉快なジョバンニは、尋常でなく口数が多い。そしてルチアはいつも笑っている。二人が来るとマリの家には十人客が増えたかのように賑やかになる。ヨナタンが静かすぎるということもあるのだけれど。

 マリは、ヨナタンが用意してきたワインを開けてデキャンタに注いだ。アマローネ・デッラ・ヴァルポリチェッラだ。アマローネは葡萄を半年近く陰干しする特別な製法によって作られ、濃厚な味わいが特徴だ。値段が高く贈答用などに珍重されている。ヨナタンがこのワインを選んだのは、もう一つ理由があった。復活祭に縁が深いワインだからだ。

「『最後の晩餐』でイエス・キリストが飲んでいたのは現代のアマローネみたいなワインだった」ということになっているのだ。

 イエス・キリストが亡くなる前の晩に弟子たちと過ごした『最後の晩餐』は、レオナルド・ダ・ビンチの絵画でも有名だ。

「みな、この杯から飲みなさい。 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」
『マタイ福音書』にそう書かれていることから、キリスト教信者にとって赤ワインは特別の意味を持っている。

 研究によると、当時ローマで飲まれていたワインには、腐敗を防ぎ風味をつけるために、樹木の樹脂や様々のスパイスを加えて作っていたようだ。エルサレムの街の近くで発見されたイエスの時代と近いワインの壺にはスモーク・ワインや非常に暗い色のワインとの記載があった。非常に濃厚で重いタイプのワインが好まれた可能性がある。

 実際に「アマローネ」の歴史は古く、古代ローマ時代に「レチョート・デッラ・ヴァルポリチェッラ」という甘口ワインを作る過程で偶然できた糖分の少ないワインだ。本当に最後の晩餐で飲まれたワインに近い味わいなのかもしれない。

 いずれにしても、普段自宅用にはなかなか手の届かない高級ワインなので、初めて恋人の家を訪れる時のプレゼントとしては悪くないだろう。

 マリの用意した食事は、そのワインに恥じない美味しいものだった。

 プリモ・ピアットはステラの好きなタリアテッレ・アル・ラグー(ミートソース)。パスタのゆで具合に少しうるさいステラ自身がアルデンテに茹であげた。ラグーの香りがほわんと台所に広がり、ステラはテーブルに着くまで食べるのを我慢するのに苦労した。ヨナタンに食い意地が張りすぎていると思われるのが恥ずかしかったので、なんとかつまみ食いはせずに耐えた。

 ジョバンニは、すべての料理について涙を流さんばかりに感動して食べた。ステラは普段、彼の食事を作っているルチアが氣分を害さないか心配になったけれど、彼女は夫が何を言っても、まるでワライダケでも食べさせられたかのように笑っているのだった。

 セコンド・ピアットは仔羊のローストのバルサミコソースがけ。仔羊肉は固くなってしまうと美味しくない。切ったら中身がピンクになっているべきだ。ステラは、まだ上手く仔羊を調理できない。いつか、自分が奥さんになる時までには、上手に焼けるようにしたいと思っていた。

「あーあ、作り方を見ておくの忘れちゃった」
ステラがため息をつくと、ジョバンニが姪の心がけが素晴らしいと褒め称え、どういうわけかルチアがけたたましく笑った。ステラがうつむいているので、ヨナタンがそっと言った。
「チルクス・ノッテに戻ったら、折を見て一緒にダリオに教えてもらおう」

 ダリオは、チルクス・ノッテ専属の料理人だ。毎日とても美味しい食事を作ってくれるだけでなく、団員たちの相談にものってくれる優しい人だ。料理を習うなんて考えたこともなかったけれど、ヨナタンが一緒に習おうと言ってくれたのがとても嬉しくて、ステラもまたルチアのように楽しい心持ちになった。

 デザートは、鳩の形を象ったフルーツの砂糖漬けやレーズンをたっぷりと混ぜ込んだブリオッシュ生地のお菓子コロンバと、チョコレートの卵。この卵は、本当は子供たちがもらうもので、中から小さなおもちゃが出てくる。ステラは、もうおもちゃをほしがる年頃ではないけれど、子供時代へのノスタルジーで、自分で買ってきた。

 アマローネの瓶は空になり、お皿の上も綺麗に何もなくなった。マリとジョバンニとルチアが楽しく笑いながらリビングで語らっている。ステラは申し出て、ヨナタンと一緒に皿を洗った。こうやって二人で何かを作業できるのが嬉しくてたまらない。

“Natale con i tuoi. Pasqua con chi vuoi.”(クリスマスは家族と、復活祭は好きな人と)

 イタリアでは、こんな風に言うけれど、家族も好きな人も全部一緒に楽しめるのって、本当に素敵! ステラは、人生の春を思い切り楽しんだ。

(初出:2018年4月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Once Upon a Time ...

この作品は2018年のエイプリルフール企画です。念のため。

今日の小説は、西部劇ものです。先日テレビで「ウェスタン(原題:C'era una volta il West、英題:Once Upon a Time in the West)」を観まして、ちょっとああいうのを書いてみたいなあと思ってしまったわけです。といっても、知識が足りないので、それっぽく、短めに……。



Once Upon a Time ...

 乾ききった風が、赤茶けた粉塵を撒き散らしながら通っていった。回転草タンブルウィードが虚しく転がっていく。見渡す限りの荒野を、一頭の馬がけだるい足取りで進んできた。

 風は、いっそう無情に吹く。馬上の男は口許に咥えている小枝をぷっと吹き出した。それは土埃や他の小枝とともに、カラカラと音を立てて荒野へと消えて行った。

ウェスタン

 灼熱の日差しがようやく遮られた。ぽつんと立つ酒場だ。あるいはここなら……。男は、カウボーイハットの下から、そのハシバミ色の瞳を見せて看板を見上げた。そっと腰の辺りに手を伸ばす。彼の愛用のガンは、きちんとホルダーに収まっていて、早撃ちの瞬間を待っているようだった。

 外からでも中の騒がしさを聴き取ることができた。この辺りでは唯一の酒場だ。この様子では、荒くれ者も多いだろう。

酒場

「悪いが、少し待っていてくれ」
彼は愛馬に低い声で話しかけると、柵に繋いだ。そしてスイング・ドアを押して、暗い店内に入って行った。

 客たちの注目が一度に彼に集まった。よそ者を歓迎するつもりはないらしい。古い木の床はミシッと不必要に大きい音を立てた。男たちはざわつく。

 彼は、まっすぐにバーへと進んだ。小柄で険しい目つきの店主がじっと彼を見つめる。バーに立っているがたいの大きい男の前にグラスを置くと、ジロリと彼を眺めた。
「注文はなんだ」

酒場の男

 彼は臆せずにしっかりと店主を見つめて言った。
「ミルクをもらおうか」

 店内が騒ついた。
「聞いたか」
「なんて注文だ」

 隣に立っていた男が、あからさまに振り向く。男は、これからいつもの侮蔑が始まるのかと身構えて男を睨み返した。

酒場

「あんた、よそ者だな」
「そうだが。それが何か」

「この店ではそんな注文はご法度だ」

 彼はムッとした。
「ノンアルコールを飲んで何が悪い」

「そうじゃねえよ」
荒くれ者たちが近寄ってきた。酒場に緊張が走る。

「ちゃんと種類とフレーバーを言わないとさ」
「そうそう。ミルクだけじゃ、どの家畜の乳かわかんないでしょ」

「え?」
男は隣の男の手許にあるグラスに初めて眼を向けた。

「これは、北海道の三歳の雌から絞ったジャージー牛乳に、とよのか苺を混ぜたイチゴミルク」
「しぼりたてのヤギの乳のストレートも、けっこういけるよ」
「おやっさんも忙しいんだから、ちゃんと事前リサーチして、注文方法を覚えてくれないとさ」

 店の奥から、次々と新しい注文が聞こえた。
「おやっさん。『白雪姫と七人の小人のときめきハンバーグセット』をひとつ!」
「俺は『やさしい人魚姫に捧げるエビドリア』!」

 なんだよ、この奇妙な店は! 男は、後ずさりをしてスイング・ドアから転がり出ると、愛馬に跨って這々の体で逃げ出して行った。

「あれ、なんで行っちゃったんだろう。こんなに感じのいい店って、滅多にないのに。よそ者って店の選り好みがうるさすぎるよね」
「ま、いいじゃん。この先80マイルくらい行けば、しょっちゅう喧嘩している、荒れた酒場にたどり着くだろうし」

 立派な体格をした荒くれ者のような街の男たちは、おやっさんの作るファンシーな食事とこの辺りの酒場ではなかなか味わえない特製ドリンクを楽しみつつ、仲良く午後を過ごした。


(初出:2018年4月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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というわけで、今年のエイプリルフール用の掌編小説でした。毎年のことで、もうだまされる人もいないと思うので、だまそうというつもりも全くなく……。単純に、西部劇のお約束『ミルクをもらおうか』『ミルクだと、笑わせんじゃねぇ』で遊んでみたかったんです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】春は出発のとき

今日は「十二ヶ月の情景」三月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。今月以降は、みなさまからのリクエストに基づき作品を書いていきます。まだリクエスト枠が二つ残っていますので、まだの方でご希望があればこちらからぞうぞ。

月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、山西左紀さんのリクエストにお応えして書きました。

コラボ希望のサキのところのキャラはミクとジョゼ。
テーマは「十二か月の情景」に相応しいものを設定して、
2人の結婚式の様子をストレートに書いてください。
次第はすべてはお任せします。



ジョゼというのは、もともと2014年の「scriviamo!」で書いた『追跡』という小説で初登場し、左紀さんの所の絵夢やミクと出会った小学生でした。後に、『黄金の枷』本編でヒロイン・マイアの幼馴染として使い、同時に左紀さんの所のミクとの共演を繰り返すうちにいつの間にかカップルになってしまいました。で、前回左紀さんはプロポーズの成功まで書いてくださったのです。結婚式を書くようにとの仰せに従って今回の作品を書きました。

ポルトガルの結婚式というのはこんな感じが多いようです。ブライズメイドたちがお米を投げたり、花嫁が教会の出口でスパークリングワインを飲む、というのは実際に目撃しました。その時の花嫁は、グラスを後ろ向きに投げて壊していました。

いちおう『黄金の枷』の外伝という位置づけにしてありますので、そっちを読んでいらっしゃらない方には「?」な記述もあるかもしれませんが、その場合はその記述をスルーして、結婚式をお楽しみください。ついでにいろいろとコラボの間にばら撒いたネタを回収しています。どうしても氣になるという方は、下のリンクやサキさんと大海彩洋さんの関連作品をお読みください(笑)

サキさんのお誕生日には、少し早いのですけれど、これからPやGの街へと旅立たれるということなので、前祝いとして今、発表させていただきます。サキさん、先さん、そしてママさん、良い旅を。


短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



【参考】
小説・黄金の枷 外伝
「Infante 323 黄金の枷」Infante 323 黄金の枷




黄金の枷・外伝
春は出発のとき


 アーモンドの花が風に揺れている。エレクトラ・フェレイラは、Gの町のとある家への道を急いだ。若草色のドレスは新調したもの、七人の花嫁介添人マドリーニャスは、結婚式のテーマカラーであるグリーン系のドレスを着るのだ。一つ年上の姉セレーノは少し落ち着いた松葉色のドレスを選んだ。

 もう一人の姉のマイアは、花婿と子供の時に一緒に学んだ仲で、本来ならばもっとこの結婚式の花嫁介添人にふさわしかったのだろうが、残念ながら式に参列することができない。そもそも幼馴染のジョゼが結婚することを知らない可能性が高い。なんせエレクトラ自身が数カ月以上もマイアと連絡がとれないのだ。

 花嫁介添人の多くを花婿の知り合いがつとめるのは珍しいが、花嫁は外国人でこの国での友人や親戚がさほど多くない。一方、花婿の方は「俺を招ばなかったら許さない」と言い張る輩が百人以上いるような交友関係に、先祖代々この土地に根付いていたので親戚縁者がこれまたやたらと多い。花婿の友人パドリーニョスを務める男たちの数を考えると花嫁介添人マドリーニャスの水増しは必要だった。

 ジョゼを落とそうと頑張っていたことを考えると、この役目を受けるのはどうかと思ったが、もう氣にしていないことを示すにはいい機会だと思う。それに、この二日間、街中からジョゼの友人たちが入れ替わり立ち替わりやってくるのだ。どんないい出会いが待っているかわかったものじゃない。行かないなんてもったいない。

 ジョゼの結婚式は、マイアの結婚式とはだいぶ様相が違っていて、この国ではわりと普通の結婚式だ。つまりたくさんの招待客や親戚演者が集まり、二日間にわたってパーティをするのだ。

 マイアの結婚式には友人たちを集めてのアペリティフやパーティもなかったし、宴会場でのフルコースもなかった。花嫁介添人マドリーニャス花婿の友人パドリーニョスなどもいなかった。ただ、教会で厳かなミサが行われただけで、教会の出口でお米のシャワーで迎えることすらなかったのだ。父親とセレーノとエレクトラだけが招ばれ、ミサが終わると迎えに来たのと同じ車に乗せられた。宴会場にでも行くのかと思ったら、そのまま自宅に送り届けられてしまったので、驚いた。

 今回の結婚式は、そんな妙な式ではなかった。式はPの町にあるサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われる。ここは、マイアがあの謎のドラガォンの当主と結婚した教会で、それが偶然なのかどうかはわからなかった。

 でも、エレクトラは直接教会にはいかない。介添人は花嫁の自宅に集合するのだ。花嫁であるミク・エストレーラには両親がいなくて、ティーンの頃にGの町に住む祖母に引き取られたのだそうだ。現在、歌手である彼女は主にドイツで活躍しているので、この国に帰ってくるときは祖母の家に滞在している。集まるのはその祖母の家なのだ。

「遅かったわね! どうしたの」
セレーノとジョゼの二人の女友だちはもう着いていて、エレクトラに手を振った。花嫁の三人の女友達ともすっかり仲良くなって一緒にカクテルを飲んでいた。

「美容院で思ったよりも時間がかかっちゃったの。私が最後?」
皆が頷いた。落ち着いた赤紫のツインピースを着たアジアの顔をした婦人が笑顔で出迎えてくれた。この人がお祖母さんなの? お母さんでもおかしくないくらい若く見える!

「はじめまして、フェレイラさんね。今日はどうぞよろしく。軽くビュッフェを用意しているからぜひ召し上がってね」

 中に入ると真っ白な花嫁衣装に身を包んだ今日の主役が座っていた。長く裾の広がったプリンセスラインのドレスは、わりと小さめの家の中で動き回るとあちこちの物とぶつかる危険がある。それで、彼女は動かない様に厳命されていた。

 それでも、はにかみながら笑顔を見せて立ち上がると、自分のために来てくれたことへの礼を述べた。
「エレクトラ・フェレイラさんよね。初めまして。今日はどうぞよろしくお願いします」

 エレクトラは、にっこり笑って挨拶した。
「はじめまして。介添人に選んでくれて、どうもありがとう。まあ、なんて綺麗なのかしら。ジョゼはきっと惚れ直すと思うわ」

 ミクはぽっと頬を染めた。初々しいなあ。たしかジョゼよりもけっこう年上だって聞いていたけれど、そんな風に見えないし、お似合いだなあ。エレクトラは感心した。っていうか、こんなところで感心しているから、負けちゃうんだよね。

 遅くなったので、あまりたくさん食べている暇もなく教会に向かうことになったが、ミクの祖母の作ったタパスはどれもとても美味しかった。あとでたくさん食べることになるから、ここでお腹いっぱいになっちゃマズいし、遅れてきて正解だったかな。エレクトラは舌を出した。

 教会には、参列者がたくさん待っていた。それに白いスーツを着せられて所在なく待っているジョゼも。花婿の友人パドリーニョスを務める七人たちに囲まれてかなり緊張しているようだ。ミクのドレスを本番まで内緒にするために、今日はまだ花嫁に会っていない。でも、これからずっと一緒なんだからいいのかな? エレクトラは参列者の方に目を移した。

 代わる代わるジョゼと花婿の友人パドリーニョスのところに行って大げさに喜んでいる友達たちは、エレクトラたちのよく知っているメンバーだった。祭りの度に待ち合わせて大騒ぎしているし、子供の頃からいつも一緒にいるメンバーなのでほぼ全員の顔と名前が一致している。

 つまり、エレクトラのよく知らない顔は、花嫁の招待した人たちなのだろう。ドイツ語で話している数名の男女がいた。おそらくミクが出演しているオペラ関係の人たちだろう。それに、ミクの祖母が急いで挨拶に向かった先にいる日本人女性。綺麗な人だけれどだれかな。

「あ、あの人、知っている?」
セレーノが話しかけてきた。
「ううん。お姉ちゃん、あの人知っているの?」
「ええ。偶然ね。日本のヴィンデミアトリックスって大財閥のお嬢さんだよ。ジョゼとミクが知り合うきっかけになった人なんだって」

「へえ。すごい人と知り合いなんだね。あっちのドイツ人は、オペラの人でしょ」
「そうだよ。ミュンヘンの劇団の演出家だって、ガイテルさんって言ったっけ。憮然としているでしょ?」
「え。そうだね。なんかあまり嬉しそうでもないよね」
「そうだよ。あなたと同じ、失恋組だからね」
「セレーノ。私はもう……」
「まあまあ。強がらなくてもいいってば」

 ミクを乗せた車がやってきた。あれ。ジョゼが迎えに行っちゃった。教会の中で、お父さんが花嫁を連れてくるのを待つわけじゃないんだ。エレクトラの疑問を見透かしたようにセレーノが囁いた。
「ミクのお父さんは亡くなっているの。身内に父親役を頼めるような人は叔父さんしかいないらしいけれど、なんか事情があって頼みたくないみたいだよ。だから、二人で入口から一緒に祭壇まで歩いて行くんだって。あなた、遅刻したからそういう事情を聞きそびれたのよ」

 ジョゼは、ミクの花嫁姿に見とれているようだった。確かに綺麗な花嫁だよね。ドレスはとろんとしたシルクサテン、華やかな上に高級感もある。ジョゼと研修で訪れた日本で見たけれど、日本のシルクって長い伝統があるんだよね。大きく広がった裾、後ろが少し長くなっていて楕円形に広がるようになっている。

 ヴェールはそれほど長くなくて、あっさりしているから、ミクの笑顔がはっきりと見える。そして、百人以上集まっている参列者たちを見て目を丸くした。これからは、これだけのジョゼの友達たちと付き合っていくことになることを、実感しているってところかしら。

 さあ、私たちは花嫁介添人マドリーニャスのお仕事。二人に続いて教会に入り、それにミサが終わったら入口でライスシャワー。

 そして、これからのひたすら食べる宴会の戦略も立てなくちゃ。宴会場でアペリティフがあり、揚げ物やフルーツ、それにチーズやハムなどがでるけれど、そこでたくさん食べすぎるとフルコースが入らなくなってしまう。二時からの着席宴会は五時ぐらいまでだけれど、一度帰ってからまた集まって、ビュッフェ。ダンスをして真夜中にケーキカットをするまでずっと飲んで食べてが続くのだ。

 大人たちはそれで帰るけれど、私たち若者は朝まで騒ぐのが通例。

 しかも、明日もある。普通は二日目は親戚だけだけれど、ミクのところに親戚が少ないので私たちも招待されている。つまり明日もフルコース。たぶん、明後日からダイエットしないと大変なことになっちゃう。明日はGの町にある日本料理店でやるっていうから、とても楽しみ。

* * *


 サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会の向かいは緑滴る憩いの公園になっている。その前に一台の黒塗りの車が入ってきたが、道往く人々や参列者たちは、ちょうど花嫁と花婿が現れた教会のファサードに注目していて、その車がゆっくりと停車したことに氣付くものは少なかった。

 挙式で司祭の手伝いをしていた、神学生マヌエル・ロドリゲスは、目立たぬように通りを横切り、黒塗りの車のところへやってきた。待っていた運転手が扉を開けた。6ドアのグランド・リムジンには向かい合った四つの席があり、彼は素早く中に入り既に座っている二人の女性の向かいに座った。

「ご足労でした、マヌエル。式は無事に終わったようね」
向かって右側に座っていた黒髪の貴婦人がにっこりと微笑んだ。

「はい、ドンナ・アントニア、そして、ドンナ・マイア」
ドンナ・アントニアと呼ばれた黒髪の貴婦人の右隣に、少し背の低い女性が座っていた。そして、嬉しそうに窓から幸せそうなカップルの姿を眺めた。

「あの人が、ジョゼの言っていた人ね。うまくいって、本当によかった。ああ、セレーノとエレクトラもいるわ」
マイアは、妹たちが花嫁介添人マドリーニャスを務めることを知らなかった。

「ドンナ・アントニア、本当にありがとうございます。あなたが言ってくださらなかったら、こうして二人の結婚式を見ることはできなかったでしょうから」
マイアが言うと、アントニアは首を振った。

「アントニアでいいって、言ったでしょう。あなたはもう私の義妹なのよ。あなたの友達が結婚するたびに出てくるわけにはいかないけれど、今回はたまたまこんな近くで結婚したし、マヌエルが教えてくれたんですもの。あの青年にはライサの件で助けてもらったし、私もトレースももう一度お礼がしたかったの」

 マヌエルは、アントニアの視線の先に眼を移した。彼の座っている隣の席に大きな包みが二つ置いてある。
「では、こちらが……」

 その言葉に、二人の女性は頷いた。アントニアが続ける。
「これがマイアとトレースからのプレゼントで、こちらが私から。あの花嫁さんにトレースが作ったのは、とても上品な桜色のパンプスよ。妬ましくなるくらい素敵だったわよね、マイア」
「うふふ。あなたがそういえば、23は作ってくれると思いますけれど……」
「そんな時間は、全然ないじゃない。あの忙しい合間にあの青年の靴も作ったのよね」
「ジョゼは、23の靴の大ファンだから、きっと大事にすると思うわ」

 マヌエルは、なるほどと思った。この大きい箱には、靴が二足入っているのだ。知る人ぞ知る幻の靴職人の作った、究極のオーダーメード。まさか、ドラガォンの当主その人が作ったとは二人共思いもしないだろう。

「もう一つの箱にはボトルが入っているので、扱いに注意するように言って渡してくださいね」
アントニアは言った。

 マヌエルは「かしこまりました」と言った。運転手が再びドアを開けた。彼はプレゼントを大切に抱えてベントレーから降りた。

「なんのボトルにしたのですか」
「1960年のクラッシック・ヴィンテージのポートワインよ」

 そう聞こえた時に、ドアが閉まり二人の会話は聞こえなくなった。

 何と幸運な二人だ、今日華燭の宴を迎えたカップルは。マヌエルは密かに笑った。

 百人以上の友人たちの暖かい祝福、家族の愛情、仕事仲間も駆けつけ、イタリアのとある名家からも特別な祝いが届いている。それだけでなく、ドラガォンの当主たちからもこの祝福だ。こんな婚礼は、滅多にないな。

 二人は教会の入口で参列者たちの拍手と歓声の中、笑顔でスパークリングワインを飲み干していた。そして、これから続く幸せな日々、ひとまずは、これから二日間続く食べて飲んで踊ってのハードな披露宴に手を携えて立ち向かいはじめた。

(初出:2018年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】未来の弾き手のために


scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十五弾、最後の作品です。大海彩洋さんは、『ピアニスト慎一』シリーズ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

彩洋さんの書いてくださった短編 『【ピアニスト・慎一シリーズ】 What a Wonderful World』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。とてもお忙しくて、特に今年は予期せぬ事態があったにもかかわらず、睡眠時間を削っても、妥協しないすばらしい作品を書いてくださいました。

ピアニスト相川慎一のでてくるお話は、彩洋さんの書いていらっしゃる壮大な大河ドラマの一つなのですけれど、ブログを通してのお付き合いで発表のきっかけというのか、そう言ったご縁が多いせいか、私が特に注目しているシリーズでもあるのです。クラッシック音楽の素人一ファンとして、このシリーズに書かれる音楽の話は本当に興味が尽きませんし、私にはこんなに書けないけれどその分音楽を読む楽しみをいつも与えてくれる物語です。

今回は、その慎一の人生のターニングポイントとも言える一シーンをバルセロナを舞台に書いてくださったのですが、その背景にうちのチャラチャラした面々がちゃっかりと注目を浴びていて、申し訳ないやら、何やってんだあんたたち、という状態でした。ま、みんな仕事しているからいいのか。

お返しは、舞台をウィーンに移して書いてみました。ほら、リアルの私が先週そこから帰って来たばかりだし、それにお借りするあるキャラクターの本拠地ですから。そして、ご指名なので、うちの六人全員を無理やり登場させました。今回は、仕事しているのは一人だけです。最もチャラい奴だけが働いているのって(笑)

今日どうしても発表したかったのは、本日が彩洋さんのお誕生日だから。Happy Birthday, 彩洋さん。創作にも、リアルライフにも実り多くて幸せな一年になりますように!


【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物


「scriviamo! 2018」について
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大道芸人たち・外伝
未来の弾き手のために
——Special thanks to Oomi Sayo san


 あまり高い席は用意しないでくれと釘を刺されていたので、どんな服装でくるのかと思ったが、杞憂だったな。結城拓人はドイツ人のスーツ姿を見て思った。蝶ネクタイではないが、紺のスーツの生地は一目でわかる上質さで、仕立て具合を見れば明らかにオーダーメードだとわかる。

 拓人が招聘されてウィーンのコンツェルトハウスで演奏することになったのは、ヨーゼフ・マルクスの『ロマンティックピアノ協奏曲』だった。ウィーンで何世紀にも渡り内外の名だたる大作曲家たちが活躍したためか、祖国ですら存在をあまり知られなくなったオーストリアの作曲家の作品だ。客を集めにくい作曲家の作品であるだけではなく、ピアニストに驚異的なテクニックを要求するために、この作品が演奏されることは滅多にない。拓人にとっても初めての挑戦だった。

 かなり図太い神経を持つと自他共に認める彼ですら、この数カ月は胃が痛くなる様な思いをしたが、その甲斐あってまずまずと言っていい演奏をすることができた。普段、日本で当然のように受ける取り巻きたちからの熱烈な喝采と違い、下手な演奏には容赦ないウィーンっ子たちからアンコールを要求されたのだ。彼にとっては枕を高くして眠ることのできる成功だった。

 彼の親しい友人であるドイツ人、エッシェンドルフ男爵が今日この場に来て聴いてくれたのは、彼の精神状態を心配して力付けようとしたわけではない。そうしようとしてくれたのは、彼の再従妹はとこである園城真耶とドイツ人の三人の仲間たちで、彼らはもうホールを出て後で落ち合う予定のワインケラーへと向かっている。三人はドレスコードに悩まされるのが嫌なので、カテゴリー6の席を希望した。

 真耶と共にカテゴリー2の席に座り、さらにわざわざ終演後に拓人とともにロビーで待ち合わせたのはヴィルだけだったが、それはどうしても紹介して欲しい人がいたからだ。

「すまないな、拓人。無理を言って」
「別に無理でもないさ。僕にできるのは引き合わせることだけ。引き受けてもらえるかどうかはわからないんだから。でも、噂で聞いたほど難しい男ではないと思うけれどな。まあ、氣軽に頼めるとはいえないけれど。今回の調律をしてくれたのは、僕の音楽をお氣に召したわけではないと思うから」

「というと?」
「忘れられたオーストリアの作曲家の名作に再びスポットを当てる手伝いをしたいという男氣がひとつだろうな。そして、もう一つの幸運は僕が日本人ピアニストだったってことかな。彼はある日本人ピアニストの才能に惚れ込んでいて、その縁でハードルを一つ低くしてもらえたってわけだ。おかげで、こちらは『あのシュナイダー氏に調律してもらえる幸運』をお守りに本番に臨めたってわけだ」

「なんの慰めにもならないな。俺はドイツ人だ。しかもまともなピアニストですらない」
そうヴィルが言うと、拓人は魅力的に笑いながら言った。
「だが、お前には父上の遺言という切り札があるじゃないか。ダメ元で頼んでみろよ」

 そう話している間に、への字口をした老人が姿を見せた。かろうじて背広といってもいい上着を身に付けているが、シャンデリアの輝くホールでは多少場違いに見えた。だが、そんなことはおそらく誰も氣にしないだろう。その険しい顔を見ると、すれ違うものは自分が悪いことをしている心持ちになり、目をそらしてしまう。

 拓人はヴィルの腕を取り、急いで彼の方に歩いて行った。
「シュナイダーさん! 今日の演奏を素晴らしいものにしてくださった喜びは、言いつくせません。なんとお礼を言っていいのか」

 拓人の謝辞を遮るように老人は手を眼の前にあげた。「お世辞なぞたくさん、さっさと用を言え」とでもいいたげに。拓人は肩をすくめて、ヴィルを示した。
「ご紹介します。友人のアーデルベルト・フォン・エッシェンドルフ男爵です。先日亡くなったミュンヘンのエッシェンドルフ教授の子息です」

 老人はじっとヴィルを眺めた。ドイツ人は、愛想のいい拓人と違いほとんど無表情だった。まっすぐに老人を見て、敬意のこもった声で「はじめまして」と言った。シュナイダー老人は十分に観察をすると口を開いた。
「父上の若い頃に似ているな。ピアノを弾く息子のことは聴いていたよ。だが、音楽はやめたんだろう。もう俺の調律は必要なくなったと父上は連絡してきたが」

 それでは、父親があのベーゼンドルファーの調律をもうこの男には頼まなくなったのは、彼が音楽をやめてあの館に足を踏み入れなくなってからなのか。父親は、彼を抱きしめることもなく、共に夢を語ることもなかった。だが、彼のために可能な全ての手を尽くしてバックアップしようとしていたのだ。

 急死した父親に代り、先祖代々の領地と館と爵位を引き継いだヴィルは、かつて彼が知っていた音とは違う音を出すベーゼンドルファーを元の状態にしたかった。父親が秘書であるマイヤーホフに残していた指示の一つが、長らく連絡の取れない状態になっている著名な調律師を探し出すことだった。

 ウィーンのコンツェルトハウスで演奏することになった拓人と電話で話していた時に、無理だと諦めていた調律師が仕事を引き受けてくれたという話題になった。それが件のシュナイダー氏だと知ったヴィルはすぐにここにくることを決めていた。

「その通りです。私は父の元を離れて生きるつもりでした。そして実際に何年もあのピアノに触れませんでした。今、私が触れるあのピアノは、もはや私が何よりも愛したエッシェンドルフのピアノとは違う存在になってしまっている。亡くなる直前まで父もずっとあなたを探していた。あなたが今日の調律をすると聞き、飛んで来ました。もう一度あのピアノを蘇らせていただけないだろうか」

 老人は首を振った。
「諦めてくれ。こっちはこの歳だ。残された時間はさほどない。その時間の全てを捧げたいと思う弾き手のためにしか調律はしない。ましてや弾かないピアノのためにミュンヘンまで行くような時間はない」

 拓人は思わず口を挟んだ。
「シュナイダーさん、彼はピアノをやめてはいません。コンサートピアニストではありませんが……」

 ヴィルは、その拓人を制した。
「いや、拓人。シュナイダーさんは正しい。あのベーゼンドルファーは、ふさわしい弾き手を持っていない。かつてこの方に調律してもらっていたこと自体がおこがましかったんだ」

 老人は、拓人に訊いた。
「お前さんは、この男の腕をどう思う」
「彼は、僕の音楽の同志です。表現する世界と方法は違いますが、同じものを目指していると断言できる数少ない音楽家の一人だと思っています」
拓人は迷わずに答えた。ヴィルは少し驚いた。拓人がそこまで認めてくれているとは知らなかったから。

 老人は「ふん」と言った。それからもう一つの問いを発した。
「この男の耳はどうだ」

 拓人は怪訝な顔をした。
「耳ですか? 確かだと思っていますが、なぜですか」

 老人は、ヴィルをじっと見つめて口を開いた。
「この世には、最高の腕を持つ弾き手がいる。そして、最高傑作である楽器がある。残念ながらその二つが同時に存在することは稀だ。あのベーゼンドルファーは、金持のサロンの飾りであるべきではない。あんたは父上の跡を継いで、あの楽器と有り余る金を手にした。もし、あんたの手に余っているのなら、俺はあんたに聞いて欲しいことがある」

* * *
 

 拓人と真耶が滞在しているホテルから五十メートルほど先に、そのワインケラーはある。どっしりとした表構えの店は十七世紀の創業で、地下へ降りて行く階段の手すりなどにも時代を感じる。暖かい照明とガヤガヤとした混み方は、天井が高くて豪華絢爛なコンツェルトハウスの堅苦しい様式美とは打って変わり、落ち着き楽しい。

「ようやく来たのね。もう結構飲んじゃったわよ」
蝶子が、奥の席から手を振った。隣に座る真耶はあっさりとしたワンピースに着替えていた。そうすることでめずらしくブレザーと開襟のシャツを着ている稔やレネとほぼ同じレベルの服装になっていた。拓人はホテルで急いで着替えて来たので、やはり砕けている。ヴィルは上着を椅子にかけてネクタイを外した。

「まず乾杯しなくちゃ。大成功、おめでとう!」
拓人は、仲間と次々とグラスを重ね、ビールを一口飲むとようやく緊張が解けて笑顔になった。

「海外でのコンチェルト、初めてじゃないんだろう? いつもと違うのか?」
稔が不思議そうに訊いた。

「確かにすごい曲だけど、結城さんは普段リストもラフマニノフも楽々と弾いているから、そんなにピリピリすることがあるなんて意外よね。例の後援会のおばさま方が付いてくるのはいつものことだろうけれど、真耶まで応援に来るのって珍しくない?」
蝶子も続けた。

「だって、こんなに青くなって練習している拓人、もう何年も見たことなかったんだもの。マルクスのコンチェルトは日本ではまずやらないし、どうしても本番を聴きたくなって。どちらにしてもミュンヘンでの休暇は決まっていたし、ちょうどいいじゃない?」
真耶はニッコリと笑った。

「う。確かに余裕はなかったな。準備は十分にしてきたのに、先週の始めに通しで弾いた時に途中で真っ白になって、死ぬかと思った」
拓人は、ビールをぐいっと飲んだ。

「デートも全部断ったって、本当?」
蝶子が面白そうに訊いたので、拓人は真耶を睨んだ。

「本当のことでしょう」
「デートどころじゃなかったからね。あんなに大変な曲なのに、問題はそうは聴こえないってことなんだ」

 レネは不思議そうに言った。
「どうしてですか。僕はピアノのことは素人ですけれど、見ているだけでわかりましたよ。ものすごくテクニックを必要とされるんだろうなって。そう思わない人がいるんでしょうか」

 稔がハーブ塩のかかったフライドポテトをつつきながら言った。
「あの豪華絢爛なオーケストレーションがわかり易すぎるのかなあ」
「どういうこと?」

「ベートーヴェンやチャイコフスキーだといかにもクラッシックって感じがするけれど、今日のはなんだか映画音楽みたいに軽やかに思えるメロディでさ」
「ああ、そうか。たしかに聴いていて心地いいメロディが多かったですね」

「弾いている方は、難関の連続で、心地いいどころじゃないか」
ヴィルは二杯目のビールを飲んでいる。

 拓人は大きく頷いた。
「しかも、作曲家が知られていないとなると、演奏会をしても客が入るか心配だろう。ますます誰も弾きたがらなくなって、ほとんど演奏されることがいない。いい曲なのに残念だよな」

「じゃあ、敢えてそのとんでもない挑戦をした拓人に、もう一度乾杯!」
六人はグラスを合わせて笑いながら立ち上がった。
「『ロマンティックピアノ協奏曲』を世に広める、拓人と未来の弾き手たちのために!」

 座って飲みながら蝶子がヴィルに訊いた。
「そういえば、もう一つのトライはどうなったの?」

「断られたよ」
ヴィルは肩をすくめた。
「ダメだったんですか?」
レネが驚きの声を出した。

「完全に断られたわけじゃないだろう」
拓人が言った。
「どういうこと?」
四人は拓人とヴィルを代わる代わる見た。

「一度エッシェンドルフに来てくれるそうだ」
「じゃあ、断られていないんじゃない」
真耶は首をかしげる。

「彼の下で学んだことのある若い調律師を連れてくるそうだ。そして、俺が納得したら、今後彼に頼んで欲しいと言われた」
「本人じゃなくて?」

「一度だけの調律ではなくて、しょっちゅうすることになるだろうから。その調律師はバーゼルに住んでいるので、ウィーンよりは近い。シュナイダー氏のように有名ではないから定期的に来てもらうことができる」
「シュナイダーさんと正反対で、若くてチャラチャラした性格らしいけれど、腕は彼が保証するというくらいだから確かなんだろうと思うよ」

「でも、どうして定期的に調律が必要だなんていうの? そりゃ、一度っきりというわけにはいかないけれど……」
蝶子は首を傾げた。

 ヴィルと拓人は顔を見合わせて頷いた。それからヴィルが口を開いた。
「あのサロンとベーゼンドルファーを、才能があるけれど機会の少ない音楽家たちに解放していこうと思うんだ」

「へえ……」
四人は、グラスを置いて二人の顔を見た。拓人が肩をすくめた。

「シュナイダーさんは、ヴィルに弾き手としてだけでなく、後援者としての役割を期待していると言っていた。今は、以前ほどクラッシック音楽に理解のある後援者がたくさんいるわけではないし、各種奨学金制度もサロン的な役割まではしてくれないからな」

 拓人の言葉にヴィルは頷いた。

「俺が、エッシェンドルフを継ごうと思った理由の一つが、あんたたちの音楽を道端の小遣い稼ぎだけで終わらせたくないことだと言っただろう。あの館を中心にこれまでとは違う活動をするなら、少し範囲を広げていろいろな音楽家たちをバックアップすることも悪くないんじゃないかと思ったんだ。あんたたちはどう思う?」

「賛成よ。あのサロンなら、室内楽の演奏会も問題なくできるわ」
蝶子が言った。

「そういうのの手伝いをするっていうことなら、穀潰しの俺らも、あそこにいる間になんかの役に立つかもしれないよな」
稔の言葉にレネも大きく頷いた。

 真耶がすかさず続けた。
「機会があったら、私たちも混ぜてもらいましょうよ、拓人」
「そうだな。悪くない。休暇がてらに滞在して、何か一緒に弾いたりしてさ」

「休暇といえば、今回、結城さんもエッシェンドルフに来ればいいのに」
蝶子が言うと、拓人は残念そうに答えた。
「そうしたいのは山々だけれど、来週の頭から大阪公演なんだ。ちくしょう、いいなあ、真耶。マネージメントに文句いってやる。なんで僕だけこんなに働かされるんだ」

 一同は楽しく笑った。ウィーンの古いワインケラーで旧交を温める若い仲間たちは、自らとまだ見ぬ未来の若い音楽家のために、熱い夢を語りつつ何度もグラスを重ねた。

(初出:2018年3月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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拓人が弾いたという設定のマルクスのロマンティックピアノ協奏曲は、こんな曲です。
この曲を見つけた時には驚愕しました。華やかで、なんだか少し浮ついていて、さらに実は超難解だというあたり、こんなに結城拓人のイメージに近い曲が偶然見つかるなんて超ラッキー。そんな事を考えている私はそうとうイタい作者だという自覚くらいはありますよ。

Joseph Marx - Romantic Piano Concerto in E-major (1920)


そして、聴きまくるために私がiTunesストアにて購入したのはこちらです。マルカンドレ・アムランの名演ですよ。これが家にいて14フランで買える世の中っていいですねー。お店で探したらどんなに大変か……。本当はヨーゼフ・マルクスの『ロマンティックピアノ協奏曲』だけ買いたかったのですが、敵もさる者で、この三曲はアルバムごとじゃないと買えませんでした(笑)
Korngold & Marx: Piano Concertos
Korngold & Marx: Piano Concertos
Marc-André Hamelin, BBC Scottish Symphony Orchestra
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】晩白柚のマーマレード

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十四弾です。かじぺたさんは、写真と文章を使った記事で参加してくださいました。ありがとうございます!

かじぺたさんの書いてくださった記事 『晩白柚のマーマレード!(scriviamo!2018参加作品)』

かじぺたさんは、旅のこと、日々のご飯のこと、ご家族のことなどを、楽しいエピソードを綴るブロガーさんで、その好奇心のおう盛な上、そして何事にも全力投球で望まれる方です。愛犬のエドくんが虹の橋を渡ってしまったばかりで、今年は「scriviamo!」どころじゃないだろうなあと思っていたのですが、その悲しみや、お孫さんやご主人のお誕生日などのたくさんの大事な行事の間にご参加くださいました。

さて、今年はグルメ系の記事でご参加くださいました。そうなんですよ、scriviamo!は創作でなくてもOKなんです。

晩白柚はザボンの仲間で大きな柑橘類です。九州の方はよくご存知ですが、東京などではご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんね。子供の頃に祖父母が好きで食べさせてくれたので、私にとってはとても懐かしい果物です。ああ、もう何十年食べていないかなあ。皮の部分でマーマレードができることは知りませんでした。勉強になりますね。

お返しは、今年も記事に関連した掌編小説にしました。先にかじぺたさんの記事を読まれることを推奨いたします。


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晩白柚のマーマレード
——Special thanks to Kajipeta san


 そうか。前にもらってから、もう一年経ったんだ。由夏はニコニコと笑う川元佐奈江の抱えている包みを見た。

 佐奈江の故郷である熊本県に、由夏は中学卒業まで住んでいた。佐奈江は実家から送られてくる名産品を毎年おすそ分けしてくれるのだ。
「いつもありがとう。重かったでしょう?」

「大丈夫よ。かさばるだけ。楽しんでね」
紙包みの中には直径25センチもある黄色い果物が入っている。世界最大の柑橘類である晩白柚だ。東京では、探せば大きな果物店にはあるだろうが、全ての街角にあるほどありふれた存在ではない。

 由夏は、包みを開けてそっと香りを吸い込んだ。ふんわりと漂う爽やかな甘さ。たぶん佐奈江にとってはひたすら懐かしくて嬉しい香りなんだろうなぁ。

 由夏にとっても、それは懐かしく嬉しい香りだ。けれど、そこにはいつも苦さが伴う。まっすぐな瞳をしていたスポーツ刈りの少年の、困ったような表情。彼氏というにはあっさりしすぎていた関係だったけれど、少なくとも由夏は当時、西尾亮汰と付き合っていたつもりだった。

 どうして、それを作ろうと思ったのか、由夏はもう憶えていない。彼の誕生日は三月の始めで、何かを普通に買って渡すほうが無難だったのに、彼女は晩白柚のマーマレードを手作りして彼に渡そうと思ったのだ。おそらくバレンタインのチョコレートを買ったばかりで、芸がないと考えたのだろう。

 晩白柚はとても大きな果物だが、皮の部分もとても多い。果肉はグレープフルーツくらいの大きさに収まり、残りのほとんどは白いワタの部分だ。とてもいい香りがするし、捨てるのは勿体無い。皮をお風呂に浮かべたり、砂糖漬けにしたり、再利用する。おそらく中学生だった由夏は、この再利用を考えていて亮汰にマーマレードをプレゼントしようと思い立ったのだろう。

 晩白柚のマーマレードは、普通に果肉も含めて作ることもできるが、由夏はネットで見つけた皮とオレンジジュースで作るレシピを選んだ。つまり、果肉は自分で美味しく食べて、残りで作ることにしたのだ。

「うーん。アク取りに二十四時間もかかるのか。そんなことしていたら誕生日に間に合わなくなっちゃうよ。ずっと台所を占領したらお母さんに怒られるし」
熱湯に晒して、絞ってを繰り返すことでアクが取れるのだが、要するに由夏はその作業が面倒臭かったのだ。一度だけ簡単に晒して絞って終わりにしてしまった。

 オレンジジュースと皮を煮て、ペクチンとレモンジュースも加えて綺麗な黄色のマーマレードが出来上がった。消毒した瓶に詰めて急いで蓋をして、出来上がり。可愛いチェック柄の布で蓋を覆ったら、いい感じになった。寝不足で遅刻しそうになったけれど、忘れずに持って行ったし、部活に行く直前の亮汰に急いで渡すこともできた。

 亮汰の誕生日は金曜日だったので、月曜日に学校で会った時に由夏は訊いた。
「美味しかった?」

 亮汰は、頭を掻きながら「うん。まあ」と言った。由夏は少しムッとした。もっとちゃんと褒めてよ。あんなに時間をかけて、せっかく作ってあげたのに。

「どうやって食べたの?」
「え。普通にトーストにつけて」
「そう。ヨーグルトに入れるのも美味しいらしいわよ」

「君も、そうやって食べたの?」
そう訊かれて、由夏は首を振った。瓶に入る分は熱いうちに密封してしまった。残ったら、それだけ食べようと思っていたのに残らなかったのだ。だから、試しにも食べなかった。蓋を閉めるまではとても熱かったし。

 彼の妙な表情の意味がわかったのは、由夏が東京に引っ越してきてからだった。

 亮汰には中学卒業の時に「さようなら」と言った。その後のことを約束するようなことがなかった。その時には、二人の関係はかなり微妙になっていて、どちらも引越しという形でフェイドアウトに持ち込めるのをほっとしていたようなところがあった。

 東京行きの荷物に、他の缶詰などと一緒に晩白柚のマーマレードの瓶も入れて封をした。引越しのコンテナはそれらすべてのダンボールを積み込んで、ガシャンと音を立てて閉まった。それはもう二度と戻れない世界との境界の扉に鍵をかけた音に聞こえた。

 東京での生活が始まり、慌ただしく過ぎて行った。母親は「そろそろ自分の朝食ぐらい自分で用意しなさい」と宣言したので、由夏はトーストとコーヒーを自分で用意して食べるようになった。いくつかのジャムが空になってから、晩白柚のマーマレードもあったことを思い出した。

 蓋を開けた時、晩白柚の爽やかな香りが漂った。「おお、おいしいそう!」

 でも、一口食べてみて、ぎょっとした。に、苦い。なんだこれ。

 ネットで再度調べてみたら、あく抜きを省略してはいけないと書いてあった。由夏が調べたレシピほどかからずにアク抜きする方法はあるらしい。でも、十分程度のアク抜きでなんとかなるようなものはなかった。できた時に食べてみなかったのが悔やまれた。一口でも舐めたならこの苦さがわかったのに。

 まだ、同じ学校に通っているなら、謝まって挽回することもできたかもしれない。でも、亮汰とはとっくにそれっきりになってしまっていた。

 十五年があっという間に過ぎ去った。

 由夏は、佐奈江にもらった晩白柚を切った。中身を取り出すと皮を切って、湯を沸騰させて酢を入れアク抜きを始める。一年に一度しか作らないけれど、毎年作るので何も見ずに作ることができる。丁寧に揉んで絞って、さらに時間をかけてアクを抜く。一夜明けてから、ジュースやペクチンとともに煮込んでマーマレードを完成させる。

 熱湯消毒した瓶に詰める。必ずひと匙食べて失敗していないかを確かめることも怠らない。今年も美味しくできた。固すぎるか、それともゆるすぎるかは、冷えないとわからないけれど、少なくとも食べられないということはない。

「あー、密かに期待していたのよ、由夏ちゃんのマーマレード! 今年ももらえて嬉しい。ありがとう」
翌日に会社で渡すと、佐奈江は嬉しそうに受け取った。

「どういたしまして。でも、お家からももらうんじゃない?」
「ううん。砂糖漬けはよく作ってくれるけれど、マーマレードは由夏ちゃんがくれたのを食べたのが初めてだったよ。これ、ヨーグルトによく合うのよね。大ファンになっちゃった」

 喜んでもらえるのは嬉しい。あの時の失敗を、やり直したくて毎年作るけれど、それが亮汰の口に入ることはない。彼は、由夏があのマーマレードを悔やんで、毎年作り続けていることを知ることはないだろう。もう由夏からではなくて、きっと他の素敵な人に誕生日を祝ってもらっているに違いない。

 彼をいまだに好きだというわけではない。彼にはもはや記憶の底に沈んでしまっているであろう存在であることを悲しく思うこともない。ただ、悔いだけが残っている。毎年作り、丁寧にラッピングする透明な瓶は、行き場がなくて半年もすると由夏自身が開封して食べることになる。

 そのマーマレードは苦かった。まずいと言わなかった優しい彼の、微妙な表情とともに、その苦い思い出だけが、いつまでも残っている。

(初出:2018年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】In Zeit und Ewigkeit!

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十三弾です。ユズキさんは、『大道芸人たち Artistas callejeros』のイラストで参加してくださいました。ありがとうございます!

蝶子&ヴィル by ユズキさん

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない二次使用は固くお断りします。


 ユズキさんのブログの記事『イラスト:scriviamo! 2018参加作 』

ユズキさんは、小説の一次創作や、オリジナルまたは二次創作としてのイラストも描かれるブロガーさんです。現在代表作であるファンタジー長編『ALCHERA-片翼の召喚士-』の、リライト版『片翼の召喚士-ReWork-』を集中連載中です。

そしてご自身の作品、その他の活動、そしてもちろんご自分の生活もあって大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストを描いてくださっています。中でも、『大道芸人たち Artistas callejeros』は主役四人を全員描いてくださり、さらには動画にもご協力いただいていて、本当に頭が上がりません。

今回描いてくださったのは、蝶子とヴィルの結婚記念のイラストです。ヴィルは、感情表現に大きな問題のあるやつで、プロポーズですら喧嘩ごしというしょーもない男ですが、ユズキさんはこんなに素敵な一シーンを作り出してくださいました。というわけで、今回は、このイラストにインスピレーションを受けた外伝を書かせていただきました。第二部の第一章、結婚祭りのドタバタの途中の一シーンです。


【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物


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大道芸人たち・外伝
In Zeit und Ewigkeit!
——Special thanks to Yuzuki san


 いつの間にか、ここも秋らしくなったな。ヴィルは、バルセロナ近郊にあるコルタドの館で、アラベスク風の柵の使われたテラスから外を見やった。ドイツほどではないが、広葉樹の葉の色が変わりだしている。

 九月の終わりにエッシェンドルフの館を抜け出してから、慌ただしく時は過ぎた。主に、彼と蝶子の結婚の件で。先週、ドイツのアウグスブルグで役所での結婚式を済ませたので、社会的身分として彼はすでに蝶子の夫だった。が、彼にその実感はなかった。

 一年前に想いが通じた時、彼と蝶子との関係は大きく変わり、その絆は離れ離れになった七ヶ月を挟んでも変わらずに続いている。一方で、社会的な名称、ましてや結婚式などという儀式は、彼にとってはどうでもいいことだった。彼が急いで結婚を進めたのは、未だに彼女を諦めていない彼自身の父親の策略への対抗手段でしかなかった。

 しかし、当の蝶子と外野は、彼と同じ意見ではなく、終えたばかりの役所での結婚で済ませてはもらえない。今も、花婿が窓の外を眺めてやる氣なく参加しているのは、三週間後に予定されている大聖堂での結婚式とその後のパーティの準備に関するミーティングだった。

「おい、テデスコ。聞いてんのかよ」
見ると、稔とレネが若干非難めいた眼差しでこちらをみていた。招待客からの返事や、当日の席順、それにパーティに準備に関する希望など、ある程度の内容を固めてカルロスや秘書のサンチェスに依頼しなくてはならない。

 カルロスは大司教に面会に行ってしまったし、蝶子はドレスの仮縫いに行っている。この地域では滅多にない大掛かりな結婚式になりそうだというのに、まったくやる氣のみられない新郎に、証人の二人は呆れていた。

「すまない。もう一度言ってくれ」
それぞれのワイングラスにリオハのティントを注ぐと、ヴィルは自分のグラスにも注いで飲んだ。

「パーティの話だよ。トカゲ女やギョロ目の話を総合すると、着席の会食のあとに、真夜中までダンスパーティをすることになりそうなんだが……ケーキカットとか、手紙朗読とか、スライド上映とか、そういうのはないんだっけ?」
稔は、海外の結婚式には出席したことがないので、いまひとつ勝手がわからない。

「なんですか、手紙朗読って」
レネは首を傾げた。
「ああ、両親に読み聞かせるんだ。これまで育ててくれてありがとうとか。大抵、どっちかが泣くんだな」

 今度は稔が二人の白い眼を受ける事になった。そりゃそうだよな。あのカイザー髭の親父にテデスコがそんな手紙を読むわけないよな。

「日本って、結婚式も特殊そうですよね」
レネが言った。うん、まあ、そうかな。稔は少し悪ノリをした。
「うん、ほら白鳥に乗って登場ってのもあるぞ」

「なんですって?」
「え、新郎と新婦が、でっかい白鳥に乗ってさ、運河みたいな感じに仕立てた舞台の奥から入場するんだ」
「なんだそれは。ローエングリンか」
ヴィルは呆れて呟く。

「それはともかく、少し派手に登場するのは悪くないですよね。一生に一度のことですし。スポットライトを浴びて華やかに……ほら、パピヨンを抱き上げて登場するのはどうですか?」
「おお。そうだよな。金銀の花吹雪でも散らしながらってのはどう?」

「いい加減にしてくれ」
一言の元にヴィルは却下した。

 やっぱりダメか。そんな顔をしながら、稔とレネは顔を見合わせると、日本から来てくれる友人拓人と真耶とオーケストラとの練習準備について真面目に語り出した。

 その間にも、ヴィルの脳内には日本の結婚式に対する想像が展開されていた。紫色の明るいホールに金銀の紙吹雪が舞っている。輝く青い水が流れているその様は、生まれ育ったアウグスブルグの旧市街に縦横に張り巡らされた運河を思わせた。橋の上には白いスーツを身につけた彼がいて、美しいウェディングドレスを纏った蝶子を抱きかかえている。

 ……いや、いったい何を考えているんだ、俺は。

「おい。今度こそちゃんと聴いているんだろうな」
稔の声で我に返った。
「ああ、すまない」
ヴィルはワインを飲み干した。

「なんの話?」
戸口を見ると、蝶子が帰ってきていた。両手に何やら沢山の紙包みを抱えている。また何か買ってきたのか。

「今度は洋服や靴じゃないわよ、安心して。ほら、今夜も話し込むと思って、少しボトルを仕入れてきたの」
蝶子はウィンクした。レネはさっと立ち上がって荷物を受け取り、稔とヴィルもグラスや栓抜きを用意するために立った。

「話し合いは進んだ?」
蝶子が訊くと、稔は「まあね」といいながら肩をすくめた。相変わらずのヴィルの様子を想像できた彼女は笑った。

「とにかく、どうしても真耶たちに演奏して欲しい曲だけ、連絡すれば、あとはなんとかなるわよ。考えてみるとものすごく贅沢な演奏会とグルメ堪能会が同時に開催されるようなものじゃない? 結婚するのも悪くないわよね」

 稔とレネは大きく頷いた。ヴィルも僅かに口角をあげた。嫌々同意するとき彼はこういう表情をするのだ。蝶子は勝ち誇ったように彼のそばに来るとワイングラスを重ねた。

「ねえ。そういえば、結婚記念のプレゼント、まだもらっていないわよ」
「俺もあんたから、何ももらっていないぞ」

 憮然とするヴィルに怯むような蝶子ではない。
「あら。あなたは、生涯この私と一緒にいる権利を獲得したのよ。これ以上何が欲しいっていうの」

 ヴィルは、ちらりと蝶子を見た。稔とレネは、ここから舌戦が始まるのかと興味津々で二人を眺めた。ヴィルは、蝶子の言葉に何か言いたそうにしたが、言わなかった。その代わりに立ち上がると「じゃあ、記念に」と言ってピアノに向かった。稔はひどく拍子抜けした。

 ヴィルは、ゆっくりと構えるととても短い曲を弾いた。静かで、ちょうど秋がやってきている今のこの季節に合っていた。優しくて静かな曲だった。

 稔は、微笑んで満足そうに耳を傾けている蝶子を不思議そうに見た。それまでの挑発的な様相はすっかり引っ込んでしまった。なんだなんだ? そりゃ、いい曲だけれど、なんでこれだけでトカゲ女を大人しくさせることができたんだ?

 横を見ると、レネまでが眼を輝かせてうっとりと聴いている。稔は、そっと肘で小突いた。レネは小さくウィンクをして小声で囁いた。

「グリーグが自ら作曲した歌曲をピアノ用に書き直した作品の一つです。もともとの歌曲は童話で有名なアンデルセンの詩に曲をつけたんですよ。僕、歌ったことがあるんです。『四つのデンマーク語の歌 心のメロディ』の三曲目です。あとでネットで検索するといいですよ」

 なんだよ、そのもったいぶりは。稔は首を傾げた。氣になったので、夕食の前に言われた作品をネットで探した。すぐに出てきた。三曲目ってことは……これか。デンマーク語で「Jeg elsker dig」、ドイツ語では「Ich liebe dich」、日本語では「君を愛す」。

 E.グリーグが妻となったニーナと婚約した時に捧げた曲で、デンマーク語やドイツ語の歌詞もすぐに見つかった。テデスコはドイツ人だから、このドイツ語の歌詞を念頭に置いて弾いているのかな。どれどれ。

Du mein Gedanke, du mein Sein und Werden!
君は僕の心、僕の現在、僕の未来
Du meines Herzens erste Seligkeit!
僕の心のはじめての至福
Ich liebe dich wie nichts auf dieser Erden,
地上の何よりも君を愛す
Ich liebe dich in Zeit und Ewigkeit!
いま、そして永遠に君を愛す

Ich denke dein, kann stets nur deine denken,
君のことだけをひたすら想う
Nur deinem Glück ist dieses Herz geweiht,
君の幸福のみを祈り、心を捧げる
Wie Gott auch mag des Lebens Schicksal lenken,
どのように神が人生に試練を課そうとも
Ich liebe dich in Zeit und Ewigkeit!
いま、そして永遠に君を愛す


 ……ひえっ。なんだよ、このコテコテな歌詞は。これを知っていたら、そりゃあのトカゲ女も黙るはずだ。

 稔は、普段はぶっきらぼうなヴィルもやはりガイジンで、ヤマト民族である自分とは違う表現方法を使うことを理解して茫然とディスプレイを眺めた。


(初出:2018年2月 書き下ろし)


註・引用した歌詞は下記のドイツ語版、意訳は八少女 夕
Ich liebe dich (Jeg elsker dig)
Music by Edvard Grieg
Original Lyrics by Hans Christian Andersen
German lyrics by F. von Holstein

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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弾いていたのは、歌詞なしのピアノ曲バージョンという設定でした。これですね。


E. Grieg - Jeg elsker dig Op. 41 no. 3
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Posted by 八少女 夕

【小説】恋のゆくえは大混戦

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十一弾です。ダメ子さんは、昨年の「scriviamo!」で展開させていただい「後輩ちゃん」の話の続き作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

ダメ子さんのマンガ 『バレンタイン翌日』

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

昨年、キャラの一人チャラくんに片想いを続けているのに相変わらず想いの伝わらない「後輩ちゃん」の話を、名前をつけたりして勝手に膨らませていただいたところ、その話を掘り下げてくださいました。そして、今年はその翌日の話でを描いてくださいました。

今年はついに「後輩ちゃん」(アーちゃん)の顔が明らかになり、可愛いことも判明しました。なのにチャラくんは誤解したまま別の女の子(つーちゃん)にちょっかい出したりしています。

というわけでさらにその続き。今年メインでお借りしたのは、チャラくんではありません。見かけによらず(失礼!)情報通だしリア充なあの方ですよ。


【参考】
昨年私が書いた「今年こそは〜バレンタイン大作戦」
昨年ダメ子さんの描いてくださった「チョコレート」

「scriviamo! 2018」について
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恋のゆくえは大混戦 - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 まったく、どういうこと?! あんなにけなげなアーちゃんの前で、よりにもよって付き添いの私に迫るなんて。だからチャラチャラした男の人って!

 何年も思いつめてようやくチョコを手渡せたバレンタインデーの翌日、アーちゃんは恥ずかしいからと部活に行くのを嫌がった。仕方ないので再び付き添って体育館の近くまで一緒に行ったところ、チャラ先輩がやってきた。ちゃんとお礼を言ってくれたから「めでたしめでたし」かと思いきや、モテ先輩にもっと積極的に迫れなどと言い出した。それだけでなく、この私に「モテのやつに興味が無いなら、俺なんてどうよ」なんて囁いたのだ。

「はあ。モテ先輩との仲を取り持とうとするなんて、遠回しの断わりだよね。彼女にしてもらえるなんて、そんな大それた事は思っていなかったけれど、ショックだなあ。つーちゃん、私、帰るね」
アーちゃんは、ポイントのずれたことを言いながら帰ってしまった。

 ってことは、モテ先輩の話が出た時点で泣きながら自分の世界に入ってしまって、あの問題発言は耳にしなかったってことかな。だったら、よかった。だって、こんな事で友情にヒビが入ったら嫌だもの。

 どうもチャラ先輩とアーちゃんは、お互いに話が噛み合っていないような氣がする。もちろん私の知った事じゃないけれど、またアーちゃんの前でチャラ先輩が変なことを言い出さないように、ここでちゃんと釘を刺しておくべきかもしれない。

 私は、一度離れた体育館の方へまた戻ることにした。バスケ部の練習時間にはまだ早いのか、練習している人影はない。あれ、どこに行っちゃったんだろう。

「あれ。君は、昨日の」
その声に振り向くと、別の先輩が立っていた。モテ先輩やチャラ先輩と同じクラスで、わりと仲のいい人だ。昨日も、アーちゃんがチョコをチャラ先輩に渡した時に一緒にいた。

「あ。こんにちは。さっき、チャラ先輩がここにいたんですけれど、えーと……」
「チャラのやつは、今すれ違ったけれど、今日の練習はなくなったからって帰っちゃったよ。急用なら連絡しようか」

 いや、そこまでしてもらうほどの用じゃないし、呼び出したりしたらさらに変な誤解されそう。困ったな。
「そういうわけじゃないんですけれど……。あの、昨日のアーちゃんのチョコレートの件、チャラ先輩、なんか誤解していませんでした?」

 先輩は、無言で少し考えてから言った。
「モテにあげるつもりのチョコだと思っていたようだね。あいつ、あの子がしょっちゅう見ていたのに氣がついていないみたいだし」

 知ってんなら、ちゃんと指摘してよ! 私は心の中で叫んだが、まあ、仕方ないだろう。アーちゃんのグダグダした告白方法がまずいんだし。

「あの子、カードにチャラ先輩へって書かなかったんですね」
「書いていなかったね。やっぱりチャラへのチョコだったんだ」

「先輩は、アーちゃんがチャラ先輩に憧れている事をご存知だったんですね」
「俺? まあね、なんとなく。確証はなかったけど」
「まったく、中学も同じだというのにチャラ先輩ったらどうして氣づいてあげないのかしら」
「あー、なんでかね」

 暖簾に腕押しな人だな。この人づてに、チャラ先輩に余計なちょっかいを出して私たちの友情に水をささないで的なお願いしたらと思ったけど……う~ん、なんかもっとやっかいなことになるかも?

「君は、バスケ部じゃないよね。あの子のためにまた来たの?」
先輩は訊いた。いや、一人で来たわけじゃないんですけれど!
「さっき、アーちゃんと来たんですけれど、チャラ先輩が思い切り誤解した発言をして、彼女泣いて帰っちゃいました」

 先輩は、「へえ」と言ってから、じゃあ何の用でお前はここにいるんだと訊きたそうな目をした。
「俺ももう帰るんだけど、よかったらその辺まで一緒に行く?」

 私は、このまま黙って帰ると更に誤解の連鎖が広がるような嫌な感じがしたので、もうこの先輩にちゃんと話をしちゃえと思った。
「じゃあ、そこまで」

 それから、私はその先輩としばらく歩きながら、お互いに名乗った。その人はムツリ先輩ということがわかった。

 駅までの道は商店街になっていて、ワゴンではチョコレートが半額になって売られていた。あ、あれは美味しいんだよなー。
「すみません、ちょっと待っていただけますか。あれ、ちょっと見過ごせないです」
「あ、あれはうまいよね。半額かあ。俺も買おっかな」

 ムツリ先輩もあのチョコが好きだったらしい。チョコなら昨日たくさんもらったんじゃないですかって訊くべきなのかもしれないけれど、地雷だったらまずいからその話題はやめておこう。

「バレンタインデーは、私には関係ないんですけれど、この祭りが終わった後の特典は見逃せないんですよね。でも、こういうのって傍から見たらイタいのかしら」

 そういいながらレジに向かおうとすると、まったく同じものを買おうとしていたムツリ先輩が言った。
「だったら、俺がこれを君にプレゼントするから、君がそっちを俺にくれるってのはどう?」

 私は、思わず笑った。確かに虚しくはないけれど、自分で買っているのと同じじゃない。
「じゃあ、これをどうぞ。一日遅れでしかも半額セールですけれど」
「で、これが一ヶ月早いホワイトデー? おなじもので、しかも半額だけど」

 バレンタインデーも、この程度のノリなら楽なのに。私は、アーちゃんの毎年の大騒ぎのことを思ってため息が出た。あ、チャラ先輩の話もしておかなくちゃ。

 私がチャラ先輩にはまったく興味が無いだけでなく、アーちゃんとの友情が大事なので変な方向に話が行くと困るということもそれとなく話した。ムツリ先輩は「あはは」と笑った。あはは、じゃなくて!

「まあ、じゃ、チャラにはあのチョコの事は、それとなく言っておく。その、君の事も……適当に彼氏がいるとか言っておけばいい?」
ムツリ先輩は、ちらっとこちらを見ながら訊いた。

 私は必死に手を振った。
「やめてください。私に彼氏だなんて! 私は逸般人いっぱんじんですから」
「え? 一般人?」

「あー、わかりませんよね。腐女子って言えばわかりますか? それも、生もの、つまり実在する人物を題材にした作品を愛好しているんです」
「ええっ。じゃ、モテとか?」

「やめてください。そういう身近なところでは萌えません。M・ウォルシュとかA・ベッカーとか知っていますか。ドイツやロシアのモデルなんですけれど。実在するのが信じられないほど美しい人たちなんですよ」
ムツリ先輩は思いっきり首を振った。やっぱり。まあ、知らなくて当然よね。

「というわけで、チャラ先輩にはうまくいっておいてくださいいね。あ、チョコ買ってくださってありがとうございました」

 私はそう言って、角を曲がるときにおじぎをしてムツリ先輩を振り返った。

 先輩は手を振って去って行った。ちょっと、恥を忍んでカミングアウトしたのに、なんで無反応なの?! ムツリ先輩って、あっさりしすぎていない? っていうか、私、今までそんなこと氣にした事なかったのにな。

 私は、ムツリ先輩と交換した半額セールのチョコを、大切に鞄にしまって家路を急いだ。

(初出:2018年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】君と過ごす素敵な朝

今日は「十二ヶ月の情景」二月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月以降は、みなさまからのリクエストに基づき作品を書いていきます。まだリクエスト枠が三つ残っていますので、まだの方でご希望があればこちらからぞうぞ。


月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、ユズキさんの30000Hit記念キリ番リクエストに応募して描いていただいたイラストに合わせて書いてみました。

レネ&ヤスミン by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。無断転用は固くお断りします。

お願いしたのは「大道芸人たち Artistas callejeros」の主人公の一人レネとその恋人のヤスミンです。せっかくなので、この幸せな情景は幸せな日に合わせて発表したくなりました。

短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は当ブログで連載している長編小説です。第一部は完結済みで、第二部のチャプター1を公開しています。興味のある方は下のリンクからどうぞ


「大道芸人たち 第一部」をはじめから読む「大道芸人たち 第一部」をはじめから読む
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち・外伝
君と過ごす素敵な朝


 柔らかい光が窓から差し込むようになった。外を歩くにはまだ分厚いコートが必要だけれど、昼の長さは日に日に増えてきて、春が近づいていることを知らせてくれる。

 昨夜の狂騒が嘘のように静かな朝、いつもよりもゆったりとした時間を過ごすことができてヤスミンは嬉しかった。

 昨夜は、『肥えた火曜日マルディ・グラ』だった。ヤスミンはフランス語にはあまり造詣が深くないけれど、この言葉だけはフランス語でいうほうがしっくりくる。ましてや、彼女と一緒にその騒がしい宵を共に過ごしたレネはフランス人だ。

 今日は『灰の水曜日』。ヤスミンが子供の頃に行った教会の礼拝では、灰を信者の額につけて「人は灰から生まれて灰に帰る」と聖職者に言われた。この儀式はカトリックはどこでも、プロテスタントでもルター派などではやるらしいが、ティーンになってからは教会に全然通わなくなったヤスミンは、あまり儀式に興味はなかった。わかっていることは、キリスト教では本来、この日から復活祭前の四十日間の潔斎が始まることだ。「本来」というのは、今どき四十日間、肉をまったく口にしないドイツ人には滅多に会えないからだ。

 でも、「それだけ長い間、節制をしいられるならその前に飲んで食べて騒ごう」という趣旨で生まれた祝祭『謝肉祭ファスナハト』は、未だにしっかりと根付いていて、その最終日である昨夜は、街のあちこちでとんでもないどんちゃん騒ぎが繰り広げられたのだ。
 
 『謝肉祭ファスナハト』は、十一月に始まる。つまり、クリスマス前からだ。仮装をして社会風刺のコントや歌やバンド演奏の繰り広げられる舞台を観に行く人達がいる。ここ数週間は、あちこちで仮装したパレードがあった。沿道にはビールやグリューワインやカリーヴルストの屋台が立った。

 石畳を音を立てて歩き回り、飲んで食べて騒ぐ宵。冬の憂鬱を吹き飛ばすいつもの楽しみだけれど、今年は格別楽しかった。レネが来ていたから。

 レネは、以前よりはミュンヘンにいることが多くなったとはいえ、この時期にドイツにいることは少なかった。なんといってもドイツの冬は大道芸には厳しすぎるのだ。彼は、南フランスのブドウ農家の息子で、家業を手伝う時期以外は、仲間とヨーロッパ中を旅する生活をしている。

 レネと出会ったのは、一年ほど前だ。彼女は美容師として働く傍ら、劇団『カーター・マレーシュ』のボランティアをしていて、元団員のヴィルを父親の元から逃す協力を依頼してきた彼らと意氣投合したのだ。

 そのヴィルは結局亡くなった父親の跡を継いだので、大道芸人の仲間たち《Artistas callejeros》はミュンヘンの館に滞在することが多くなった。そういう時には、レネは必ずヤスミンの住むアウグスブルグに寄って一緒に時間を過ごしてくれる。二人が会える機会はたくさんないけれど、その分、密度の濃い実りある時間を過ごしていた。
 
 ヤスミンが目を覚ましたのは、よく通る犬の鳴き声が響いたからだ。夢の中で、彼女はそれをレネの歌声に似ていると思った。彼は大道芸やステージの時以外は、恥ずかしがって滅多に歌わないのだが、子供の時から教会の聖歌隊に加わっていたとかで、とても明るい素敵なテノールなのだ。

 起き上がって、ぼんやりと「ああ、あれはハチだ」と思った。この一週間、旅行に出かけた友人から預かっている飼い犬だ。それから、不意に思い出した。今朝はハチだけでなく、レネも一緒にいることを。あら、彼はどこ?

「しっ。静かに。ヤスミンが起きてしまうよ」
レネは、覚えたてのドイツ語で犬に語りかけていた。キッチンに入っていこうとしていたヤスミンは、彼の優しさと尻尾をふって応えるハチの愛らしさに嬉しくなって微笑んだ。
「おはよう、レネ。おはよう、ハチ」

 ハチは思い切り尻尾を振って見せたが、レネの顔もそれに劣らず喜びに満ちていた。残念ながらフランス人には振る尻尾がなかったのだが。
「おはよう。ヤスミン。すぐに朝ごはんができるよ」

「いい匂いね。朝食を作ってもらうなんてなん年ぶりかしら」
煎りたてのコーヒーと卵料理の湯氣、それに焼きたてのパンの香ばしさ。

「君の口に合うといいな。あ、コーヒーは熱いから、氣をつけて。君はブラックだったよね」
レネは二つのマグカップを持ってきた。自分の分は砂糖とミルクがたっぷり入っている。ヤスミンが不思議に思う事の一つに、レネは甘いものに目がないのだが、全く太らないのだ。どうなっているんだろう。

「あ、フォークが出てないね。ごめん、ちょっと待ってて」
そう言うレネに彼女は言った。
「フォークなんてなくて大丈夫よ。パンに挟んじゃうもの。それより冷めないうちに食べましょう」

 レネは「うん」と言ってちらっとあと一つしかない椅子を眺めた。その視線を追ってヤスミンは思わず吹き出した。いつの間にかハチが椅子に座っているのだ。

「ダメよ、ハチ。レネがいない時は、特別にそこに座ってもいけれど、今は遠慮して。そこはレネの特等席なんだから」
ヤスミンに言われて、ハチは大人しく降りた。レネは嬉しくなった。ヤスミンのホームの特等席に座れているのだ。

「ハチって、変わった名前だね」
彼は、犬を見つめた。賢しこそうな中型犬だ。

「日本の名前みたいよ。どういう意味なのかわからないけれど。飼い主は、しばらく日本で暮らしていて、去年こちらに帰ってきたの。それで、向こうで飼っていた犬と別れたくなかったから連れてきたんですって。とっても飼い主に忠実な賢い種類らしいわ」
「へえ。そうなんだ。パピヨンに意味を訊いておくよ。僕、犬は大好きなんだ。アビニヨンの両親の家でもずっと犬を飼っていたからね」

「自分で飼いたいと思う?」
ヤスミンは訊いた。
「飼えるものならね。今の生活だと難しいけれど」
彼は肩をすくめた。

「私も犬は好きよ。でも、こんな街中のアパートメントじゃダメよね。広い庭があって、犬が走り回れるような環境のところに住んでみたいなあ」

 レネの頭の中では、実家の葡萄園の広い敷地をヤスミンとハチが駆け回っている。完全なる希望的観測による光景だ。

 その妄想のために彼がしばらく黙っていたので、彼女はその間に窓際に目を移した。置かれた花瓶にピンクのチューリップの花束が活けられている。あれ? 昨日まではなかったのに、どこから来たの?
「これ、どうしたの?」

 レネは、我に返った。そして、彼女が花のことを言っているのがわかると、嬉しそうに笑った。
「さっきパンと一緒に買ってきたんだ。今日はどうしても君に贈りたかったから」

「今日?」
彼女は首をかしげた。昨夜が『肥えた火曜日マルディ・グラ』だから今日は四旬節の始まり。『灰の水曜日』に花? あっ!
「やだ。今日は二月十四日だったわ」

 ローマの時代にまでその起源を遡る恋人たちの誓いの日なのだ。ヤスミンはすっかり忘れていたけれど。
「その通り! 『聖ヴァレンタイン・デー』、おめでとう」
「ありがとう。レネ。この日にあなたといられるのって、本当にラッキーよね」

彼は、恥ずかしそうに言った。
「君に会える時は、いつも聖ヴァレンタイン・デーみたいな氣がするけれどね」

「そういう風に言ってくれるレネ、大好きよ!」
ヤスミンは、彼の頬にキスをした。

 真っ赤になっている彼をみて、ハチは「ワン!」と日本風に吠えて、尻尾を振った。

(初出:2018年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】とりあえず末代

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第八弾です。limeさんは、今年も素敵なイラストで参加してくださいました。

limeさんの描いてくださった(scriviamo!2018参加イラスト)『リュックにゃんこ』
『リュックにゃんこ』 by limeさん『リュックにゃんこ』 by limeさん
『リュックにゃんこ』 by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。

limeさんは、このブログを定期的に訪問してくださっている方にはおなじみだと思いますが、繊細で哀しくも美しい描写の作品を発表なさっていて、各種大賞での常連受賞者でもある方です。そして、イラストもとても上手で本当に羨ましい限り。

毎年、「scriviamo!」には、イラストでご参加くださり、それも毎回、難しいんだ(笑)困っては、毎回、反則すれすれの作品でお返ししています。今年も、例に漏れず、ぱっと見には簡単そうに見えますけれど、いざ書くとなると結構難しいです。

今年は、背景を二パターンをご用意くださって、どちらも素敵で捨てがたかったので、両方使うことにしました。ちなみに、脇役は既出の人達を使っております。もちろん、知らなくてもまったく問題ありません。


【参考】
『ウィーンの森』シリーズ

「scriviamo! 2018」について
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とりあえず末代
——Special thanks to lime-san


 着替えとしてTシャツに下着、さらに洗面用具にフェイスタオルを詰めた。中学受験の季節で、僕ら在校生は金曜日が休みになったので、はじめての一人の遠出をする事にしたんだ。せっかくお小遣いも貯めたし、静岡に嫁いだ従姉妹に泊めてもらう約束もしたし、いざ二泊三日の冒険だ。問題は……。

「で。妾はどこに収めるつもりかい」
やっぱりついてくる氣、満々だったか。そうだよなあ。僕は、じっと見上げる緑の瞳を見つめた。

 一見、普通の白猫に見えるけれど、《雪のお方》は正真正銘の猫又だ。もちろん、簡単に信じてくれないのはわかる。でも、こいつは僕が生まれるどころか、とっくに死んじゃったひいじいさんが生まれる前からずっと我が家にいるし、そもそも、人間にわかる言葉でペラペラ喋る飼い猫なんていないことは、同意してくれるだろう?

 なぜこいつが我が家にいて、さらにいうと、僕にひっ付いてくるのか。証明しようがないけれど、これはどうも僕のご先祖様のせいらしい。

 幼稚園の頃、僕は同級生の家にいる普通の猫は喋れないということを知らなくて、「うちの《雪のお方》は喋れるよ」と自慢したために、しばらくありがたくない嘘つきの称号をもらった。友達の前ではただの猫のフリをしたのだ。そもそもなんで猫又が我が家にいるのか、僕は何度か質問をして、大体のことがわかるようになった。

「妾は、元禄のはじめに、この地にあった伊勢屋の伊藤源兵衛の飼い猫であったのじゃ。そして、もらわれて来たのとほぼ同じ頃に生まれた跡取りの長吉と共に育ったのじゃ。長吉は童の頃は妾をたいそう氣に入っておってな、大人になったら妾を嫁にすると申しておったのじゃ。そうこうするうちに二十年経ち、妾の尾は裂けて無事に猫又となったので、許嫁の長吉と祝言をあげるつもりでいたら、約束を反故にして松坂の商家から嫁をとるというではないか。それで妾は怒りに任せて、末代まで取り憑いてやると誓ってしまったのじゃ」
「で?」
「伊藤家はちっとも断絶しないので、妾もまだここにいるしかないのじゃ。お前の父親にも、くれぐれも嫁を取ってくれるなとあれほど頼んだのに……」

 父さんは、母さんと出会って思ったらしい。これだけ我慢したんだから、あと一代か二代くらい、我慢してもらってもいいかって。というわけで、今のところ僕は伊藤家の末代なので、《雪のお方》に取り憑かれているというわけ。

「修学旅行の時は、家で留守番していたじゃないか。どうして今回はついてくるんだよ」
「修学旅行にペットを連れて行くのは禁止であろう。わざわざ規則に違反をさせてまでついて行くほど面白そうな旅程ではなかったしな。今回はお前の初めての一人旅で面白そうではないか。お前とて困ったことがあった時に相談する相手がいる方が良いであろう」

 僕はため息をついた。まあ、いいや、話相手には事欠かないしさ。《雪のお方》は、猫ではなくて猫又なのでキャトフード等は食べない。肉や魚も本当は必要じゃない。猫又としての矜恃があるという理由で、一日に一回は油を舐める。パッキン付きで漏れないタッパーの中にプチプチで巻いた藍の染付の小皿を入れた。これは《雪のお方》の愛用品で、なんでもない醤油皿に見えるけれど一応元禄から伝わる我が家の家宝。割ったら父さんに怒られる。っていうか、《雪のお方》に祟られるんじゃないか。

 それに、小瓶にイタリア産の最高級エクストラ・ヴァージン・オリーブオイルを詰める。もし万が一、いい油がみつからなかったらうるさくいうに決まっているし。なぜこんな洋ものを舐めるのかって思うだろう? ヴァージンってのが氣に入ったんだって。ま、行灯の油と言われても困るけどさ。

 リュックサックの後ろのポケットを大きく開いて、《雪のお方》はそこに入ってもらうことにした。父さんと母さんは、少し心配そうに僕たちを見送った。
「本当に一人で大丈夫なの? 途中までお父さんに送ってもらう?」
「《雪のお方》、悠斗をよろしくお願いします」
「任せておけ。妾がしかと監視する故」

 猫又に監視されての一人旅かあ。まあ、いいや。僕は、初めての冒険に心踊った。
「駅まで歩くからね。なんか言いたいことがあったら、一応、猫っぽく呼んでよね」
「わかっておるわ。案じるな」

 って、日本語で言うんだもんなあ。郊外っていうのか、どちらかというとド田舎っていうべきなのか、とにかく我が家から駅までの半分以上は、道路沿いに空き地が広がっている。バスも来るけれど、一、二時間に一本だから歩いてしまった方が早い。二十分くらいだし。誰かとすれ違うこともあまりない。猫と会話している変な奴と思われる心配は少ないはず。もっとも、いつ誰が聴いているかわからないから氣をつけないと。

『リュックにゃんこ』 by limeさん

「さてと。そろそろ駅だ。ここからは、黙っててくれよ。それから落っこちないように、もう少しジッパー閉めるよ」
「挟んだら、化けて出るぞ」
「わかってるよ。しーっ!」

 僕は、電車を乗り継いで横浜まで行った。そこからは東海道線。リュックから覗いている子猫(本当は猫又だけど)は珍しいのか、隣に座ったおばさんがニコニコ笑って構おうとする。
「まあ、可愛い猫ちゃんねぇ。これだけ小さいということはまだ一歳になっていないかしらねぇ」

 いや、およそ三百四十歳だけど。そう答える訳にはいかないから、僕は、にっこりと笑ってごまかした。《雪のお方》は見事に子猫っぽく化けている。いつものドスの効いた物言いが信じられないくらいか弱い声で、みゃーみゃー言っている。

「本当に可愛いわね。ちょっと待って、いいものを持っているの。息子の家にもネコがいてね、行く時にはいつも玩具やおやつを持って行くのよ」
そう言いながら、ハンドバックを探って何かを取り出した。カリカリだったら激怒するんじゃないかと心配だったけれど、なんと本物タイプのおやつだった。おお、焼カツオ! すげぇ。これって猫のおやつなんだ。僕でも食べられそう。《雪のお方》は神妙な顔をしてハムハムと食べた。

「本当に可愛い猫ちゃんね。お名前は?」
「あ、えっと雪です」
《雪のお方》とは言えない。っていうか、きっと元禄時代にはただの雪だったんだと思うし。

「そう。坊やは、雪ちゃんとどこへ行くの」
「あ。静岡です。従姉妹のところに泊めてもらうことになっているんです」
「そう。この歳で一人旅ができるなんて偉いわね。氣をつけて行きなさいよ」

 おばさんは、熱海で降りて行った。僕は乗り換えて静岡へ。各駅で静岡へ行こうというひとは少ないのか、ホームはガランとしていた。《雪のお方》は小さな声で言った。
「あの鰹はなかなかであった。お前は何も食べなくていいのか。駅弁やお茶なぞも売っているではないか」
「あ、そうだね。おにぎりとお茶でも買っておこうかな」

 しゃけ入りおにぎりを一つと、お茶を買った。電車の中で食べていると、《雪のお方》が前足で催促したので、しゃけを少しだけ食べさせてあげた。

 そうこうしているうちに、僕たちは目的の小さな駅に着いた。駅からあまり離れていないところにカフェがあって、従姉妹は結婚相手とそのカフェを経営しているのだ。
「えっと。『ウィーンの森』。あれかな。こんな辺鄙な駅だとは思わなかったな」
「お前の住んでいるところと、大して変わらぬではないか」
《雪のお方》がぼそっと突っ込んだ。まあ、そうだけどさ。

 従姉妹は、僕と違って都心からここに引っ越したので、馴染めているんだとびっくりした。

『リュックにゃんこ』 by limeさん

「うん、間違いない。ここだ。入るからね、頼むよ」
《雪のお方》にまた猫のフリを頼んで、僕はカフェの入り口のドアを押した。

「いらっしゃいませ」
こげ茶のぱりっとしたエプロンをしている男性がいた。あ、この人が従姉妹の旦那さんかな。

「こんにちは。僕、伊藤悠斗です」
「ああ、君が悠斗くんか。よく来たね。はじめまして、僕が吉崎護だ。真美はご馳走を作るって張り切っているよ、ちょっと待ってて」

 感じのいい人でよかった。それに、かっこいい人だ、マミ姉、やったじゃん。僕は、護さんが二階にいる従姉妹を呼びに行く間にリックサックを下ろして、《雪のお方》を抱き上げた。

「いらっしゃい、悠ちゃん、迷ったりしなかった? あ、おユキ様も連れてきたのね」
マミ姉が、降りてきてまっすぐに《雪のお方》を抱き上げた。

 実は、マミ姉は《雪のお方》が猫じゃないことを知っている。そりゃそうだ。全然歳とらないいまま二十年以上この姿のままなのを、ウチに来る度に見ていたし、僕は子供の頃わかっていなかったから本当のことをペラペラ喋ってしまったんだもん。僕よりもずっと歳上で、これは喋ったらヤバいということをわかったマミ姉は、外には漏らさなかったけれど。

「おユキ様?」
護さんは、少し驚いた顔をした。まあ、子猫の名前っぽくはないよね。《雪のお方》はマミ姉の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らして見せた。さすが、元猫。たいした演技力だ。

「可愛いでしょう? まあ、静岡で会えるなんて思わなかったわ。悠ちゃんもゆっくりしていってね。今晩は、シチューにしたの。でも、その前におやつ食べたくない? 護さんご自慢のクーゲルホフとホットチョコレートのセット、食べない? 私がご馳走するわよ」

「真美、代金はいいよ。悠斗くん、荷物を上に置いておいで。おユキ様……には、ミルクでいいのかな?」
護さんは、猫としては変わっている呼び名にまだ慣れていないようだった。《雪のお方》は、子猫っぽく愛らしい仕草でミルクを飲んだ。あとでオリーブオイルをあげなくちゃ。

 再び降りてきた僕に、護さんは訊いた。
「今日はこれからまたどこかへ行くのかい? それとも冒険は明日からにして今日はこのままゆっくりする?」

 僕は、少し考えた。ここに来るだけで冒険は十分したし、この街はほとんど何もなさそうだから、ここで護さんのお店を見学するほうが面白そうだ。《雪のお方》も、ここが氣に入ったみたいだし。
「もし邪魔でなかったら、ここにいてもいいですか。皿洗いくらいします」
「それは嬉しいね。でも、先におやつをどうぞ」

 他のお客さんが入ってきて、護さんは忙しくなった。僕は、お手伝いをするために急いでおやつを食べ出した。うわ。美味しいよ、このケーキ。こんな洒落たカフェがなんでこんな田舎にあるんだろう。

 マミ姉が、バターやジャムを入れる小さいガラスのシャーレに、黒い油を入れて持ってきた。そして小さい声で言った。
「オーストリアの最高級パンプキンシードオイルよ。アンチエイジングにいいっていうから、私も取り入れているんだけれど、おユキ様の口に合うかしら」

 《雪のお方》は嬉しそうに舐めていた。ミルクの時と目の色が違う。やっぱり猫又なんだな。こうして見ていると、パンプキンシードオイルって、ちょっと行灯の油っぽくない?
 
 僕はその日の閉店まで、護さんのお店でウェイターのまねごとをして過ごした。ホイップクリームのたっぷり載ったコーヒーのように、運ぶのが大変なものもあったけれど、大きな失敗はしないで、ついでに女性のお客さんたちに「きゃー、かわいい」などと言われて悦に入っていた。

 もっとも、一番「かわいいー」と言ってもらっていたのは、文字通り猫をかぶっていた《雪のお方》だけれど。

 店じまいまでちゃんと手伝って、マミ姉の美味しいシチューで晩御飯にして、それから僕の寝室にしてくれた小部屋で布団にくるまった。小さなカゴにマミ姉がタオルを敷いてくれた簡易ベッドで《雪のお方》が寛いでいる。

「一人旅、ここまでバッチリ上手く行ったよね」
「さよう。ちゃんと手伝いもしていたし、見直したぞ。カツオをくれたご婦人への礼はもっとちゃんと言って欲しかったが、それ以外は概ね合格点をやってもいいだろう」
「あ。そうだね。言い忘れちゃった。あ、マミ姉の出してくれた油はどうだった?」
「あれは、なかなか美味であったぞ。香ばしいのじゃ。明日もまた出してくれるといいのだが」
「あ、ちゃんと頼んでおく」

 それから僕はほうっと息をついた。
「でも、マミ姉、いい人と結婚したね。ものすごく幸せそうだったね。ずっと仕事一筋だったから、まさか結婚して静岡に行くなんて思いもしなかったけれど、護さんみたいな人とずっと一緒にいられるなら思い切ってもいいよね。僕も、いつかさ……」

 それを聞いて、《雪のお方》はヒゲをピクリと震わせた。
「お前、もう結婚を夢見ているのか。まったく、伊藤家の奴等ときたら、どうして揃いも揃って……。妾は、跡取りが生まれるたびに、今度こそ末代と思っているのだが……」

 そう言いながら、《雪のお方》はあまり迷惑そうな顔はしていなかった。あまりにも長く伊藤家に取り憑きすぎて、もう半分うちの守護神みたいになってしまっているのかもしれない。

 僕は、明日も《雪のお方》をリュックに背負って、一緒にあちこちを見るのが楽しみだ。猫又に取り憑かれていない人生なんて、ちょっと考えられない。伊勢屋長吉、よくやってくれた! そんなことを考えながら、眠りについた。

(初出:2018年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 いただきもの

Posted by 八少女 夕

【小説】小さな家族

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第七弾です。けいさんは、毎年恒例の目撃シリーズで書いてくださいました。ありがとうございます!

けいさんの書いてくださった『サファリの一コマ (scriviamo! 2018) (「郷愁の丘」より)』

けいさんは、私と同じく海外移住者なのですが、お住まいはスイスから見て地球の反対側のオーストラリア。とてもパワフルで暖かくて前向きなけいさんには、ぴったり国だなとつくづく思います。そして、けいさんはとても努力家で、お仕事のことだけでなく小説に対してもエンジン全開で勉強に取り組まれます。スタミナが弱いというのか、それともただの怠け者なのか、ぬるま湯にどっぷりと浸かっている私とは対照的……。いつもすごいなあと思って拝見しています。

さて、この「scriviamo!」で恒例となった「目撃シリーズ」、今年は現在連載中の「郷愁の丘」のあの子とあっちの皆さんがガン見してくださいましたね。こうきたか……。で、お返しはどうしようかと悩みましたが、あの子が「家族だもん」と胸を張っていましたので、その経緯を書いてみることにしました。というわけで、外伝をお送りします。本編の開始する二年前、主人公たちにとって少し特別な日に話は始まります。


【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物



「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



郷愁の丘・外伝
小さな家族
——Special thanks to Kei-san


 撮影を終えたアメリカ人フォトグラファーと一緒にナイロビへ帰るリチャード・アシュレイと別れて、動物学者ヘンリー・グレゴリー・スコットはマサイマラを後にした。まっすぐ《郷愁の丘》にある自宅へ帰りたかったが、寄らなくてはならないところがあった。

 彼がマサイマラへ行くことは、リチャードがアウレリオに告げたのだろう。大学はイースターのために休みで、断る口実を見出せなかったので、彼は渋々出かけてきた。世界中の子供の写真を撮っているというそのアメリカ人は、女性だった。

 人付き合いの下手な彼は、特に初対面の女性が苦手だった。何を話していいのかわからなくて間が持たないし、大抵の女性はそんな彼のことを退屈でつまらない人間だと思っていることをあからさまに態度で示す。それでいつもいたたまれなくなるのだ。だから、女性が来ると知っていたらあらゆる口実を作って断っただろう。リチャードも心得ているので、到着するまで詳細を言わなかった。

 アメリカ人写真家が撮りたかったのはマサイ族の子供の写真で、どうしても長老の許可が必要だった。その交渉をスムースにするために日頃からシマウマの調査のために通い信頼関係を築いている彼の協力が必要だったのだ。そのために女性のアテンドだということを隠し通したらしい。

 幸い、今日のアメリカ人女性は、例外的に感じがよかった。ショートヘアにデニム姿とまるで少年のように飾りけのない出で立ちで、押し付けがましさのない静かな人だった。彼との会話もスムースで、興味深い話題について穏やかに話し、お互いに退屈しなかった。リチャードに引っ張り出されて、うんざりしなかったことは本当に珍しかった。こんな遠くまで日帰り往復するはめになったにもかかわらず。

 彼が帰りに寄り道をしなくてはならないことになったのは、リチャードの親友であるアウレリオ・ブラスが昨夜遅く電話してきたからだ。
「マサイマラに行くんだって。頼むよ、僕の代わりに行って欲しいところがあるんだ。帰り道だからさ」

 アウレリオは、リチャードとともにオックスフォード時代から交流のある数少ない知人の一人だ。腹違いの妹ハーフシスターであるマディの夫なので、姻戚と言えないこともない。生まれ故郷であるイタリアと家庭のあるケニアをしょっちゅう往復する実業家だ。

 予定どおりにきちんと行動するという事のできない人で、肝心な時にはいつもいなくなってしまう。そうなると周りの人間がその尻拭いのために走り回ることになる。独り者で特に予定のない彼が、妹やその母親であるレイチェルに懇願されて車を走らせることも多かった。もっとも本当の家族のように頼りにされるのは悪いことではない。父親とほとんど交流がない彼の事に心を砕き、家族の集いに招んでくれるのは、いつもレイチェルとマディだった。

 アウレリオが今日向うはずで、彼が代わりに行くことになったのは、あるバンガローだった。ローデシアン・リッジバックの仔犬が四匹いて、引き取り手を探している。マディとアウレリオは、ここ二ヶ月ほど新しい仔犬を迎えようとあちこち探していた。番犬として優秀なローデシアン・リッジバックは、欲しい人も多いので、オファーがあればすぐに引き取りに行く必要があった。

 彼自身は、ここ数年は犬を飼っていなかった。祖父が亡くなりケニアへ戻ってきた時、受け取ったわずかな遺産の中に一頭の犬が含まれていた。正確にいうと引き取り手がいなかったので、彼が移住して来るまでは父とレイチェルのところにいたが、彼が《郷愁の丘》を買い引っ越して来るとそのままトビアスの面倒を見る事になった。

 亡くなった祖父が恋しいのか、なかなか懐かず、面倒を見るのも大変だったので、トビアスが老衰で亡くなると、それきりになり、もう犬を飼いたいとは思わなかった。そもそも《郷愁の丘》は人里離れ過ぎている上に盗むに値するようなものもないので、番犬の必要もなかったのだ。

「どうぞ、お入りください」
そう言われてバンガローに入ると、やはり犬を見にきている夫婦がいて、どの仔犬がいいか真剣に話し合っていた。みると既に一匹はもらわれて行った後らしく、三匹が残っていた。

「こちらか、こっちよね。どちらも愛想が良くて賢そうだから」
夫婦は、母犬の側でじゃれあっている二匹のどちらがいいかでああだこうだと言っていた。

 家の主人は、彼にこの二人が選び終わるのを待つか、それとも残りの一匹にするかと訊いた。

 見ると残っているのは、一番体の小さいメスで、母犬からも離れて後ろを向いてうずくまっていた。彼は、夫婦に選択の対象にもしてもらえない仔犬を氣の毒に思った。それにいつまでもこの夫婦の優柔不断に付き合って帰る時間が遅くなるのも嫌だった。
「差し支えなかったら、そのメスにしたいと思います。ミスター・ブラスから一任されていますし」

 誰も欲しがらなかった犬の引き取り手が決まって、バンガローの持ち主は大いに満足したようだった。彼は小さなリードとそれまで仔犬がねぐらに使っていた小さなカゴをプレゼントしてくれた。彼は、小さな茶色い塊をそっと抱き上げた。

「近くに仔犬用の餌を簡単に買える店はありますか」
「ミスター・ブラスの住むヴォイにはある程度大きいスーパーマーケットもあるので、買えると思いますが、確証はないです」
「じゃあ、この一袋をお譲りしましょう」

 彼は頷いた。他に氣にかかることがあった。母犬は二匹の兄弟犬の方にかかりっきりで、娘との別れを惜む様子を見せなかった。雌の仔犬は、その母犬をちらりと見たけれど、特に甘えることもしなかった。こんなに小さいのに、独りでいる事に慣れているのだろうか。

 黒い瞳がじっと彼を見上げた。そして、その鼻を彼の襟元にこすりつけた。
「おや。こんなに大人しく抱かれているのは珍しい。この仔犬は少し難しくて、初対面の人をひどく警戒するのに」
バンガローの主人は驚いて言った。

 彼は、肩をすくめた。これまで特に犬に好かれた記憶はなかった。このままマディのところでも大人しくしていてくれるといいのにと思った。

 アウレリオに言われて立て替えた金額を払うと、カゴを助手席の足許に置き、そこに仔犬を寝かせた。小さく丸まると、あっという間に寝息をたて出した。警戒心が強いようには思えないな。でも、届ける間中吠えられているよりずっといい。早く届けてしまおう。一路、ヴォイまでの長い道を運転した。

 あと三十分ほどでヴォイに着くというところまで来たところで、携帯電話が鳴った。彼は、車を道の脇に停めて電話に出た。マディだった。

「ヘンリー? 今、どこなの?」
「もうすぐ着くところだ。ちゃんと引き取ってきたよ」

 マディの声が戸惑ったように小さくなった。
「まあ。そうなの。困ったわ」
「困ったって?」

「あのね。あなたに代わりに行ってもらったって、今アウレリオから聞いたのよ。実は、朝からずっと彼に電話していたんだけれど、例の通り全然捕まらなくて。あなたに頼んだって知っていたなら、もっと早く電話できたのに」
「何が問題なんだ?」

「実はね。昨日の晩に近所の方が、うちにダックスフントの仔犬を持ってきてくださったの。メグがとても氣に入ってしまって、返したくないっていうの。さすがに新しい犬を二匹は無理だから、ローデシアン・リッジバックはもう引き取りにいかなくていいと言うために、アウレリオを探していたんだけれど……アウレリオにようやく電話が通じたと思ったら、あなたに頼んだなんていうんだもの!」

「つまり、この犬はいらないってことかい?」
「そういうこと。心配しないで。私から事情を話して、アウレリオが帰ってきたら連れ帰ってもらうから。でもね……」

「でも?」
「うん。もし、その犬をメグが見ちゃって、両方欲しいと言い出されたら困っちゃうのよ。どうしようかしら。今、ヴォイなら、申し訳ないけれどマニャニまで行ってもらってママのところに届けてもらっても構わない? それとも、アウレリオが戻って来るまで、あなたのところに預けていい?」

 彼は、しばらく考えた。眼を醒ました仔犬がキョロキョロと辺りを見回してから、彼を見上げるとまた安心したように丸まった。彼は、犬と自分と両方にとって疲れる長いドライブであったことを思って、これからマニャニまで行くことにうんざりした。

「それなら《郷愁の丘》に連れて行くよ。トビアスの使っていた食器や毛布もまだあるし、数日分の餌も譲ってもらったから」
「本当に? そうしてもらえたら助かるわ。明日にはあの風来坊がケニアに戻っているはずだから、午前中には連絡できると思うわ。ごめんなさいね、ヘンリー」
「わかった。じゃあ、今日はこれで」

 彼は、そのまま《郷愁の丘》まで走った。門の中に入り助手席側のドアを開けると、仔犬はつぶらな瞳を向けて尻尾を振った。
「ここは、僕の家なんだ。今晩は僕と二人だけれど我慢してくれるね」

 小さな体を持ち上げた。柔らかくて暖かい。くすぐったそうに後ろ足をパタパタ動かす様がユーモラスで、彼は思わず微笑んだ。どういう訳か、出会ったばかりの彼を信頼して鼻先や目の当たりを擦り付けて来る。

 彼は、玄関の脇の戸棚の中をゴソゴソと探って、もう二度と使うことがないと思っていた祖父の愛犬の使った毛布やステンレスの椀などを取り出した。仔犬はクンクンと匂いを嗅いで何かを考えていたが、彼がその毛布を整えてポンと叩くと、ゆっくりとその上に載って寝心地を確かめるようにうずくまった。

 それから、また立ち上がって、台所へ行こうとする彼に着いてきた。彼は、椀に水を入れて置いてやった。喉が乾いていたのかゴクゴクと飲む。
「そうか。ごめんな。餌も四回だったな。今、用意してやるから少し待っててくれ」

 歯の発達に必要なので、固いものをちゃんと食べさせるようにと言われた。マディに渡してそれっきりだと思っていたので、あまり細かく訊いてこなかったけれど、アウレリオが引き取りに来るのはいつなんだろう。餌を食べさせてから、彼は自分用に少しのパンと冷蔵庫にあったチーズを切って皿に盛ると、サバンナを見渡す月に照らされたテラスに行った。仔犬は嬉しそうについて来た。

「今日は、お前にとって大変な日だったよな。初めてお母さんのもとを離れて、こんなところに来て。それも、また戻されるなんて……」
彼の心に、子供時代の居たたまれない思いが蘇った。仲の悪かった父親と母親が離婚して、サバンナから遠いイギリスへ引っ越したこと。けれど母親とは長く暮らすことはなく寄宿学校に入れられたこと。すぐに再婚した母親のもとには行きづらくて、居場所がないと感じた事。

 足元に蹲った仔犬は、彼の靴に頭を載せてきた。まるで彼が主人であるかのように信頼して眠っていた。

 明日か明後日には、アウレリオがやってきて、この犬を連れて行くのだろう。そして、「必要無くなったのです」と、あのバンガローの持ち主に返すのだ。「やっぱりいらないって言われたんだな」そうため息をつかれるのだろうか。

 いらない存在なんかじゃない。お前は、こんなにも柔らかい。僕をこんなに暖かいきもちにしてくれる。

 彼は、満天の星空を見上げた。今日出会ったアメリカ人フォトグラファーのことを考えた。まったく緊張せずにいられる人だったなと思った。ああいう人とだったら、友人になれるのかもしれない。もちろん、彼女とはもう二度と会うことはないだろう。でも、世界のどこかにああいう人がいるのだったら、いつかは僕の日常にも本当の意味で友人と言えるような人が現れるのかもしれない。

 足下で寝息を立てている小さな犬を見た。お前にも、その価値をわかって大切にしてくれる家族がどこかにいるはずだ。僕が、そう思うように。

 
 翌朝、夜明けの散歩をするためにテラスに出ると、小さな茶色い塊がものすごい勢いで寄ってきた。
「やあ。そうだったな。お前がいたんだった。おはよう。よく眠れたか」

 仔犬は全身で喜びを表していた。朝焼けを浴びて、艶やかな毛並が輝いている。
「素晴らしい光景だろう? 僕は、ここが世界で一番素晴らしいところだと思うけれど、お前はどうだい? みてごらん、ほら、あそこをシマウマの群れが通って行くよ」

 彼は、仔犬と一緒に散歩をし、朝食を食べた。彼が論文を書いている時間、仔犬は彼の書斎でおとなしく丸まった。彼が立ち上がると、さっと寄ってきて嬉しそうに尻尾を振った。犬に好かれていることは、心地よかった。トビアスの面倒を見ていたときは、仕方ないから一緒にいてやるという風情だったので、こんな喜びを感じたことはなかった。

 携帯電話が鳴った。マディからだった。
「ハロー、ヘンリー。犬があなたを悩ませていないか心配で。問題ない?」
「まったく問題ないよ。アウレリオは帰ってきたのかい」
彼は仔犬があちこちを駆け回るのを眺めて微笑んだ。

「ええ、今マリンディですって。夕方には戻って来るみたい。多分明日にはその犬を引き取りに行ってもらえると思うの。もう一日、頼んでも大丈夫?」

「構わないけれど……。マディ、その、先方はなんて言っていた?」
「ちょっと失望していたみたいだけれど、仕方ないから引き取るって言ってくれたわ。その犬、難しい性格なんですって?」

 彼は少しムキになった。
「そんなことないよ。聞きわけもいいし、可愛いよ」
「まあ。ヘンリー、あなたがそんなこというなんて珍しいわね」

 彼は、このまま戻したら、この犬は誰にも大切に扱ってもらえないのではないかと思った。そんなのは嫌だ。

「マディ。考えたんだけれど、この犬、このまま僕が引き取ったら、アウレリオは返しに行かなくてもいいんじゃないかい?」

「なんですって。ヘンリー、あなた、犬はもういらないって言っていなかった?」
「そのつもりだったけれど……でも、この犬、とても嬉しそうに尻尾を振っているし、あちこち探検して満足しているんだ。ここをうちだと思っているみたいに。僕のことも嫌がっていないし、ここには十分なスペースもあるから……」

「まあ。愛着が湧いてしまったのね。もちろんいいと思うわ。先方もきっと喜ぶわ。すぐに連絡しなくちゃ。ヘンリー、本当にありがとう」

 電話を切ってから、小さな犬を抱き上げた。
「さて、聴いていたかい? ここがお前の新しい家だよ」

 仔犬はとても嬉しそうに尻尾を振った。彼は、自分といるのを喜んでくれるその犬をようやく手にした家族のように感じた。
 
「まず、名前を決めなくちゃいけないな。僕は、ヘンリー……」
そう言いかけてから、口ごもった。

 誰もが彼をファーストネームのヘンリーで呼んでいるけれど、彼にはあまり親しみがなかった。子供の頃、祖父からは『小さいグレッグ』と呼ばれていた。当時、愛情を感じたのは、祖父と一緒にいる時だけだった。何と名乗ろうと、犬は僕の名前なんか呼ばないだろうけれど、それでも……。

「僕の名前は、グレッグだ。お前の名前は……そうだ、アフリカの女の子らしくルーシーはどうかな」

(初出:2018年1月 書き下ろし)

ローデシアン・リッジバックの仔犬

註・ルーシー (Lucy) は、1974年にエチオピア北東部で発見された318万年前のアウストラロピテクス・アファレンシスの通称
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】それは、たぶん……

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第四弾です。ポール・ブリッツさんは、プランBでもご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

ついでにプランBでもお願いします。最近自分でもエネルギーが抜け気味で、ショック療法のためにもきついの一発頼む(笑)


さて、他の方はあまり難しくならないように、いろいろと余地を残してご用意するのですが、ポールさんのご希望がこうなので困りました(笑)

何を用意しても「こんな簡単なの、やってられねえ」と思われると思うし、私ごときの頭脳では博識なポールさんを唸らせるお題なんか出せそうも無いので、単純にものすごく限定して自由のないお題を出させていただくことにしました。まず、私が時々やる小説の書き方をポールさんに強制します。

ここに貼り付けた動画は、スティングの「It's Probably Me」です。某映画のサントラにもなったようですが、この際映画のことは忘れてください。純粋に歌詞に沿った作品を書いてください。しかも、下に発表する作品を受ける形でお願いします。可能なら、対象読者は男性ではなく女性が「萌え〜」となる作品に仕上げてくださることを望みます。

なお、歌詞は、ここには書きません。ポールさんなら聴けばわかるでしょう。っていうか、著作権的に載せていいのかわからなかったので。まあ、ネットにいっぱい転がっていますからいいですよね。



Sting - It's Probably Me (Official Music Video)
Music video by Sting Feat. Eric Clapton performing It's Probably Me . © A&M Records. From Lethal Weapon III Soundtrack.

下にご用意した作品のアイリーンというキャラクターは、2016年の「scriviamo!」で発表した「ニューヨークの英国人」で名前だけ登場した女性です。この人は、今後もストーリー上では使う予定はありませんので、ご自由に料理してくださって結構です。申し訳ありませんが、それ以外のこのシリーズで名前のあるキャラたちは、発表していない設定がありますので重要な設定変更(くっつけたり、殺したりという意味です)をしないでいただけると有り難いです。あ、ポールの嫁に差し上げた美穂は、例外です。もうそちらのキャラですので、修羅場なり出戻りなり葬式なりどうぞご自由に。(もちろんポールと美穂は無理して使わなくていいですよ)

【1月17日 追記】
ポール・ブリッツさんが早くもお返しを書いてくださいました。

 ポールさんの作品 「パイプ椅子とビデオモニターと」

すごいですよ。あれだけむちゃを言ったのに、易々と書いていらっしゃいます。アイリーン、そうとうな波乱万丈になっていますが、これだけいい男に当たれば、文句はないでしょう。ポールさん、どうもありがとうございました!

【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」




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それは、たぶん……
——Special thanks to Paul Blitz-san


 さっき転んだ時に笑った全ての男の頭に、シャンペンボトルを叩きつけたい氣分だった。いや、それよりも裸足の時を狙ってこの10センチの尖ったヒールで容赦なく踏みつけてやりたい。そうすれば、こんな拷問具みたいなものを身につけながら優雅に歩く女の努力と克己心にもう少し敬意が芽生えるだろうから。

 絶対に泣くものかと思った。マスカラが流れちゃうもの。アイリーン・ダルトンはショー・ウィンドウに映った自分の姿をちらっと眺めた。きちんとセットした髪が更に魅力的に見える様に完璧な角度に被った鐔の広い帽子、コチニール色のスーツは実際の彼女のサイズよりも一回り小さく、彼女の豊かな胸が下品にならない程度に強調される様になっている。この難しい色のスーツに同系統のハイヒールを合わせる勇氣はないので安全な黒、しかも磨き抜かれたエナメル。

 10センチのヒールに少し窮屈なスーツの組み合わせだと、体のあちこちが悲鳴をあげるので、自然と小さなことにも苛立つことになる。なぜ体のあちこちが痛むのかすぐに理解できないと言う人は、おそらくこの手の服装をしたことがないのだろう。従って大抵の男は、セクシーな服装をした女性とその氣まぐれとも言える振る舞いの相関関係には無頓着で、それが彼女を更に激怒させることになる。

 こういう場合に、絶対に言ってはならない最悪のセリフはこうだ。
「だからいっただろう。人間、大切なのは中身だ、外見なんかじゃないよ」

 アイリーンがニューヨークに渡ってきてから一年が経つ。彼女は、ロンドンでそれなりの仕事と社交を満喫していた……と言うわけでもないけれど、冒険がしたくてアメリカに渡ってきた。ロンドン郊外に一緒に住んでいた両親がウェールズの田舎に引っ越してしまったのを風の便りに聞き、もう帰るところはないと覚悟を決めてこの街に残った。

 アイリーンの容姿は、本人が自負しているほど突出しているとは言いがたい。10人の男たちにアンケートをとったらおそらく「美人だ」と判断するのは6人がいいところだろう。いつも流行のメイクアップとヘアセットを怠らず、決して安くはない服飾費に給料の大半をつぎ込んでいるにもかかわらずだ。服装を農家の娘と取り替えたら、その内の3人は意見を変えるかもしれない。一方で「美人ではない」と判断した4人のうち2人は「少なくとも足は綺麗だ」という意見には同意するだろう。

 彼女は、少し扱いにくい性格をしていた。そこが、服と化粧を取り除くとほぼ同じ外見の双子の妹と、大きく違うところだった。つまり、妹のクレア・ダルトンはとても現実的で、たとえば「偶然すれ違ったレオナルド・ディカプリオやジョージ・クルーニーが自分に一目惚れしたようだ」というような確信は一度も持たなかった。実際にそうしたスターたちは、間違いなく一度もクレア・ダルトンに夢中になったことはなかったし、そのことでクレアが不幸だと感じたこともなかった。

 でも、アイリーンにとっては、それはどうでもいいことではなかった。彼女の魅力に一度は屈したはずの男たちが「ところで、あなたはどちらさまですか」などと言い出すことが繰り返されたら誰だって弄ばれたのではないかと悲しい心持になるだろう。しかも、セレブの横に立つのにふさわしくなるために、快適とは言えない窮屈な服装で出かけていったあとにそう言うことを言われるのは嬉しくない。

 ところで、今日「ところで、僕たちどこかでお会いしたことがありましたっけ?」というセリフを口にしたのは、有名なハリウッドスターではなかった。先日知り合ったどっかの男が「君は有名人なら誰でもいいんだろう」と言ったけれど、それは全く失礼なもの言いでしかなかった。アイリーンの(あくまで自ら認識している)美にノックアウトされるのは、有名人も一般人も関係あるはずないではないか。

 アイリーンは、うずくまりそうになる前の最後の力を振り絞って、角を曲がり、妹の勤めている骨董店《ウェリントン商会》のガラスドアを押し開けて中に入っていった。

「アイリーン! 久しぶりね、どうしたの」
クレアはヴィクトリア調の椅子から立ち上がって、双子の姉を迎えた。非常にコンサバティヴな服装を好む妹は、このままデボン州かなにかのの小さい骨董品店にテレポートした方がいいんじゃないかと思うような服装をしている。灰色の長いスカートに黒い細いリボンをあしらった白いブラウス。ニューヨークとはいえ、ここも骨董店なのだからそれでもいいのかもしれない。

 クレアは、そもそもアイリーンを探しにニューヨークにやってきたのだが、そのままこの骨董店で働くことになりアメリカに残っている。この店の三階に、広くて心地のいい部屋を借り、近くのダイナーに行きつけてはたくさんの仲間を作り、アイリーンよりもずっとここに順応していた。それに、そもそもアイリーンに夢中だったはずの、ここの店長であるクライヴ・マクミランはどういうわけか今ではクレアを崇拝しているらしい。自分以外は、誰も彼も世界とうまく折り合いをつけているようで、アイリーンはほんの少し居たたまれなく思うのだった。

「足が痛くなってしまったの。今日は、わざわざミートパッキング・ディストリクトまで出かけていったのよ。とあるDJと会う予定があったから。それなのに、彼ったら私なんて見たこともなければ話したこともないなんて見え透いた言い方で私を厄介払いしたのよ。ひどいわ」

「ミートパッキング・ディストリクトって、マンハッタンの、クラブがたくさん集中しているところね。まあ、アイリーン。あなたったらまたよく知らない人と恋に落ちてしまったの?」
「よく知っている人と、突然恋に落ちるわけないでしょう」

「そうね。あなたの言う通りだわ。でも、そろそろわかってもいい頃よ、10センチヒールを履かないと実りそうにもない恋に時間をかけるのはやめた方がいいってことに。マンハッタンからの帰りにここによらずには帰れないほどあなたの足を痛めつけちゃダメだと思うの」
クレアは言った。

 アイリーンはため息をついた。
「そうはいっても、3センチヒールは、あなたみたいなコンサバティヴな服装ならいいけれど、私の服には合わないもの。それはともかくお茶を頂戴。あなたとマクミランさんのところには、少なくともまともなティーセットとショートブレッドがあるもの。少しだけお茶の時間をとって、私の悲しくも辛い話に耳を傾けてちょうだい」

 クレアは、仕事中だからダメというつもりで厳しい顔をして見せたが、奥から店長のクライヴが「もちろんいいですよ。ちょうど僕も、クレアと一緒に一息いれたかったところなんです」と声をかけたので「まったく」といいたげに天井を見上げた。

 お茶を飲み終わる頃には、ハイヒールによる足の痛みは少し薄らいでいるに違いない。でも、それは根本的な解決ではないのに。でも、彼女に必要なのは、私のような平穏で波風の少ない人生じゃないんだわ、きっと。静かにボーンチャイナのティーセットを用意しながら、クレアはため息をついた。

(初出:2018年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】僕の少し贅沢な悩み

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第三弾です。たらこさんも、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

たらこさんは、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんで、「ひまわりシティーへようこそ!」を絶賛連載中です。

「scriviamo!」へのご参加は二回目、今年もBプランをご希望です。前回のお返しのイメージが強いのか、なんとなくこんな作品になりました。実は、私もけっこう競馬は好き。スイスでも競馬に行ってちょっとだけ当てたこともあるのですよ。

お返しは、これに絡めてもいいし、ぜんぜん関係のない作品でも構いませんよ。


【追記】
たらこさんがお返しの漫画を描いてくださいました。去年の作品にもつながるカ作ですよ!
 たらこさんの作品の記事 『scriviamo! 2018』
姫子、マリッレ、里穂 by たらこさん

「scriviamo! 2018」について
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僕の少し贅沢な悩み
——Special thanks to Tarako-san


 町は、少しだけ忙しさを取り戻したように見えた。松飾りは取り外され、電車は通勤する人たちで再び満杯になった。ごく普通の日常が町には戻って来た。

 でも、僕には、どうかな。これから向かおうとしているところは、いや、人生の向かう先は、どう考えてもこれまでの日常からはかけ離れて思える。

 僕の身に起こった非日常を説明する前に、まずは僕の日常を説明しなくてはならない。

 僕は、東京生まれの東京育ち。あ、残念ながら二十三区じゃないけれど、それはさほど重要じゃない。始発駅から座って一時間半の通勤時間を使って、読書をする。本当は日経新聞を読むべきなんだろうけれど、あれを読むとどういうわけだかすぐに寝てしまうので、最近はそれ以外の新聞や軽めの小説を読んでいる。あ、皐月賞や有馬記念などの前になると、ちょっと別の種類の新聞を読む。

 ほぼ終点に近い都心の駅で乗り換えて数駅、満員電車でボロボロになりつつ人の波に紛れて出勤。昼休みの時間は平均二十分で働く。おもに電話に向かってペコペコしながらアポを取り、出かけて行ってからもひたすら頭を下げるのが仕事だ。

 パートのおばちゃんたちに仕事を頼もうとすると押しが弱くて反対に別の仕事を押し付けられる。彼女たちがさっさと帰ってから自分の仕事をようやく形にして、また一時間半かけて帰る。少しだけ残業をすれば朝ほどの殺人的混雑にはならないが、遅くなりすぎると酔っ払いたちに挟まれて帰ることになる。まさに「なんだかなあ」という日常だ。給料は大したことはないが、簡単にやめるのはリスクが大きすぎるのでとりあえず我慢しているところだった。

 先週のことだった。母ちゃんが見合い写真を持って、僕の1Kアパートに乗り込んできた。 
「お前、彼女いないと言っていたのは、ホントだよね。この話、どう?」

 僕には、確かに彼女は数年来いないし、絶賛募集中なのも間違いないが、いきなり見合いはないだろう。しかも母ちゃん経由ってどうかと思う。

「つべこべいわないで、見てごらんなさいよ。お前にこんな可愛い女の子の話が来るのは、どう考えても最初で最後よ。ほらほら」

 そういわれて、僕は好奇心を起こして母ちゃんが振り回している写真をちらりと見た。そして眉を顰めた。可愛いっていうのが間違っているわけではない。まあ、世間的に言ったらかなり可愛い部類に入るだろう。大きな瞳はキラキラしているし、ふっくらとした唇はツヤツヤだし、鼻筋も通っていて、まあ、そこらへんの何十人ひとまとめで売っているアイドルグループだったら速攻センターを張れる容姿だ。全体写真を見たら、おやおや、出るところはちゃんと出ているし、でも足は綺麗。うむ。すごいな。

 釣り書きをみると、まだ二十代の半ば、学歴も家柄も問題ないようだし、見合い市場ではどう考えても売り手市場っていうか、高嶺の花。っていうか、見合いする必要なんかなくモテモテなんじゃないの? 怪しい。なぜこの手の子を母ちゃんが僕に薦めるんだ?

「なんで僕にこの話がきたの?」
「なんでって、誰かいい人探してくれと頼まれたんだけれど、そもそもお前にいいんじゃないかと思って」
「おい。その人が僕レベルを期待しているわけないだろう」
「なによ、俊平、お前ノリ氣じゃないの?」
「う~ん」

 僕には、非常に大きい問題があった。女のコの好みが世間一般とかけ離れているのだ。
「僕は、どっちかっていうと、もう少し平安時代の美女みたいなのが……。体型もすこし寸胴タイプが……」

 平安の絶世の美女みたいな下膨れで糸目をした母ちゃんは「おやおや」という顔をした。
「お前ね。女は子供を産んで、生活の維持に髪を振り乱して、それからしばらく歳をとれば、だいたいお前好みの方向に近づくのよ。問題は容姿じゃなくて度胸とユーモアよ。とにかく他に回す前に一度あってみなさいよ」

 僕は、まったくノリ氣ではなかった。この子が見合いだなんて、なんかの詐欺か新たな美人局かもしれないし。母ちゃんは、人を疑うってことのない人だが、僕はもう少し世間ってものを知っているからな。
「なんでこの子が見合いすんのか、訊いたのか」

「知っているわよ。なんかね、数年前にご両親を亡くされて、後を継いだ牧場の経営で困っているんですって。で、一緒にやってくれる結婚相手を探しているんですって。お前、馬は好きでしょ」

 え。馬? 僕は、改めて釣書書をもう一度眺めた。確かに真風野牧場と書いてある。聞いたことねぇ。しかもG県か。ちと田舎だな。
「マカゼノさんっていうの? 変わった名前だね」

 母ちゃんは冷たい目をして言った。
「マカゼノじゃないわよ。真風野まじのさんよ。当日間違えないようにしてよ、恥ずかしい」

 マジノ? どっかで聞いたような……。って、それより!
「当日ってなんだよ!」

「今度の日曜日に、駅前の『サクレ・クール』を予約しておいてあげたから。私が行ったりするとお前も言いにくいこともあるだろうから、若いもの同士でフルコース食べながら馬の話で盛り上がっておいで」

 ちょっ。なんでそんなことに氣を遣うんだよ。普段は繊細さのカケラもないくせに。

 ともかく、そういうわけで僕はこうしてキラキラお目目とぷっくり唇の真風野さんとフルコースを食すためにうちの近くで一番洒落ていて高いフランス料理店に向かっているのだった。

 母ちゃんからの忠告通り、五分前に店に入り案内された窓際の明るい席から入口の方を眺めていると、測ったみたいに十二時きっかりに彼女は入ってきた。あまり飾り氣のない品のいいキャメルのコートを係員に渡す仕草を見ていたが、いかにもお嬢様という感じでどう考えても僕なんかと結婚したがるはずはなさそう。まあ、いいや、飯食って馬の話だけして帰ろう。

 コートの下から現れたのは少し華やかな柔らかいワンピースだが、どこがどうというのかわからないけれど、野暮ったい、いや、違う、古風と言わなくちゃいけないのかな。これ、本人のワンピースなのか? それともお下がりかな。

 ウエイターが案内してきたので、僕は急いで立った。
「お待たせしました」
鈴のような声が響く。
「いえ。僕も来たばかりです。はじめまして木南俊平です」

「はじめまして。真風野里穂です」
目の前に座った里穂を見て、僕はぶったまげた。あの写真、修正してあったんじゃないんだ。顔だけじゃなくて目視によるスリーサイズは95・58・89ってとこ。なんでこんな子が見合いなんかするの。牧場の経営状況が悪くても、命かけてくれる男はいくらでも見つかるだろうに。

 僕はまず頭を下げた。
「はじめに謝っておきます。そちらはおそらく僕みたいなのではなく、もっとずっといい方を探していらっしゃると思うんですが、たまたま里穂さんのお話を聞きつけた母がダメ元で逢っていただきたいと勝手に……」

 すると里穂はあわてて手を振った。
「え。そんなことありません。私の方こそ、こんな条件の悪い話に無理してお時間を作っていただきましてすみません。その……仲介をしてくださった中田さんが、俊平さんなら馬のことにも興味を持ってくださるかもしれないっておっしゃってくださったので……」

 僕は、あの中田のおばちゃんめ! と、思った。僕が好きなのは、牧場経営じゃなくて、競馬だっつーの!
 
「す、すみません。確かに僕は馬は好きですけれど、その、時々競馬に行くっていうだけでして」
「そうなんですか?」
「本当に申し訳ありません」
これで見合いは打切りかな。しまった、まだ食っていない。でも、もともと僕は牛丼タイプの男だしなあ。牛丼屋には、もしかしたら好みの平安美女みたいなお多福姉ちゃんがいるかもしれないしさ。

 ところが、里穂は怒り出すどころか、ますますキラキラのお目目を輝かせて、すがるように僕の方を見つめて言った。
「なんて偶然なんでしょう。実は、私が守らなくちゃいけないのは、種牡馬なんです。お恥ずかしいことに一頭しかいないんですけれど、この馬が私の命綱なんです」

 は?

 里穂は、ゆっくりと説明を始めた。
「うちはちゃんとした厩舎ではなくて、基本的には養豚の方をメインにやっているんです。だから、私はその馬だけでなく、豚の世話をしなくちゃいけないんですけれど、その、両親が亡くなってから手が回らなくて、困ったことに……」
「つまり?」
「マジノリニエが三回も脱走しそうになったんです」

 マジノリニエだって?! 僕はたまげた。競馬場に通っていると言える程度にウマが好きな奴ならその名前はどこかでみたことがあるはずだ。

 スポーツ新聞の競馬欄には、いや、最近ではネットでもあるけれど、馬柱というのがあって、該当するレースの出場馬についてたくさんの情報が載っている。性別や年齢、それに過去のどのレースで誰が騎手で、どんな成績を残したか、それに両親の名前など。

 そして、最近やたらと目に付く謎の名前が「マジノリニエ」なのだ。例えばそれまで一度もレースで見たことがなかったのに宝塚記念で突然三位に躍り出たホープダイヤ。母親は桜花賞で連続優勝したアマゾンツウハンだとはいえ、聞いたこともない父親に僕は本氣で首をかしげた。それに、天皇賞で二位につくあの大番狂わせを演じたブラックキギョウ。あれも父親は「マジノリニエ」。

 もちろん、あまり賭ける氣にならない競走馬も生まれている。出るたびに後ろから数えるほうが早い成績しか残さないシャケチャヅケや、レースになるとロバのように動かなくなるユアアイズオンリーの父親も「マジノリニエ」だ。

「マジノリニエって、本当にあの、ホープダイヤやブラックキギョウの父親の?」
僕がそう訊くと、里穂の顔はぱっと明るくなった。

「ご存知なんですか? そうなんです。実は競走馬時代は一勝もできなかったのですが、両親と兄弟の成績が良かったせいで種牡馬として登録してもらえたんです。うちはもともと競走馬とはまったく関係なかったのですけれど、大叔父の持っていたマジノリニエとその弟のマジノアンドレと引き換えに資金繰りに協力したことがあって、その後マジノアンドレは大叔父の元に戻ったんですが、マジノリニエは父に懐いてしまった上さほど価値もないので我が家に残ることになりました。とても安いとはいえ、種付け料も手に入りますし。でも……」

「一人じゃ手が回らないと。それで急いで結婚相手を探すことに。でも、もしかして、きみに必要なのは牧場で一緒に働いてくれる人? だったら無理して結婚しなくてもいいんじゃ?」

 すると里穂は困ったように顔を上げた。
「そうなんですけれど、うちにはちゃんとしたお給料を払えるほどの余裕はないんです。バイトを雇うと、どの方も仕事はそこそこにセクハラみたいな事を始めたりするので、お断りしなくちゃいけないし、だったらちゃんと結婚してその方と牧場経営をしたほうがいいかなと」

 里穂はキラキラお目目で僕をじっと見つめた。普通のかわい子ちゃん好きな男なら即ノックダウンするだろう。僕もぐらついている。いや、もちろんこの子の容姿にではない。マジノリニエの馬主になるっていう誘惑だ。かのマジノアンドレの兄弟馬だったとは。

 この子と結婚したら、全然関係ないけれど研究とか言って競馬場に通っても許してくれそうだし。

 でも、G県の養豚場か。僕の体力でつとまるかな。それに、結婚しようと決めた途端、理想の糸目下膨れのおねえちゃんと出会ったりしたら辛いな。どうしようかな。結婚すべきか、しないべきか、それが問題だ。ま、いいか。とにかくこのフルコースを全部食べてから考えよう。

 僕は、適当に相槌を打ちつつ、リーズナブルな値段の割に美味くて食べ応えのあるフランス料理をガツガツ食べた。里穂も牧場の娘らしく、豪快な食べっぷりだ。食べながらの会話も弾み、興味対象もそんなに違わないことがわかった。おかげでますますどうすべきかわからなくなってしまった。

 僕の脳裏にはどこからともなく『人間万事塞翁が馬』という格言がぐるぐる回り始めた。そうかね。用法かなり違うかもしれないけれど。この子がOKしたら、そういう人生に踏み出すのもありかなあ。


(初出:2018年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】夜のサーカスと漆黒の地底宮殿

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第二弾です。山西 左紀さんは、今年もプランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさんで、こだわった描写にはいつも唸らされています。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

既に多くの作品でコラボさせていただいていますが、もっとも多いのが、「夜のサーカス」のキャラクターの一人であるアントネッラと、そのブログ友達になっていただいたサキさんの「物書きエスの気まぐれプロット」のエスというキャラクターとの競演です。

で、お任せということですので、去年の「ファンタジー企画で七転八倒しているアントネッラの話」の続きを書かせていただきました。まあ、相変わらずアントネッラの作中作はやけっぱちですが、お許しください(笑)


【追記】
サキさんがお返し作品を書いてくださいました! エスと友人コハクの話も、苦手とおっしゃりつつとても面白いファンタジーも二重に楽しめる作品になっています。
夜のサーカスと漆黒の地底宮殿


「夜のサーカス Circus Notte」を読む「夜のサーカス」をはじめから読む
あらすじと登場人物

「夜のサーカス」外伝


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夜のサーカスと漆黒の地底宮殿
——Special thanks to Yamanishi Saki-san



 磨かれた黒い大理石は、よく目を凝らすと細かい銀の粒で満ちていた。それはまるで永遠へと続く星空のようで、見つめ続ければ吸い込まれ二度とは戻れないのではないかと思わせる。

 ロジェスティラは、可能な限り音を立てないようにゆっくりと歩いたが、それはほとんど不可能だった。彼女の鋼の甲冑は無粋な音を立てた。これではモルガントに見つかるのは時間の問題だ。

「そのような物々しい為りで現れるとはな。お前が《天翔けるロジェスティラ》か」

 ギョッとして振り向くと、いつの間にかそこには小柄な少女が立っていた。流れるような長い金髪、輝く黄金の瞳、白い襞の多いローブ、穢れなく無邪氣な様子をしているが、この口調からすると万物への愛に満ちているとは考え難かった。

「そうよ。あなたは何者なの」
「妾か。何とでも呼ぶがよい。かつてこの地で妾を崇めていた人の子は《冬に暖める母》とも《焼き尽くす者》とも呼んだがな」

 それではここにいるのは火を吹く山の女神、ヘロサなのか! ロジェスティラは身震いした。かの天空のヘロス大聖殿で起こった突然の炎柱が皇孫オルヴィエートのローブに火を点けた時、彼女は皇孫将軍が信じていたほどの高潔な精神の持ち主でない事を知った。彼女が《光の子たち》の騎士としての役割に初めて疑問を持ったのはあの時だった。

「あなたは、モルガントに協力しているのですね、《炎の女神》よ」
わずかに膝をついて敬意を示すロジェスティラを見つめて、少女は甲高く笑った。

「協力だと、妾が? 《天翔けるロジェスティラ》よ。お前は、稀有の戦士で運にも恵まれている。だが、救いようもないほど愚かだ。まずはあの愚鈍な白いサルに忠誠を誓い、我が聖なる神殿を血で穢したかと思えば、今度はあの田舎者に懸想してこの地底宮殿まで追ってくる。お前は一体何がしたいのだ」

 ロジェスティラは、びくっと肩を震わせた。それは、彼女自身が知りたい事だった。



「なんだかどんどん混沌の極みに陥っているような氣がするわ」
アントネッラはため息をつくと、エスプレッソをこくんと飲み干した。もういい加減にコーヒーの休憩はやめなくてはならない。いくら話が行き詰まっているからと言って。

「まさかあのエセファンタジーの続きを書かなくちゃいけないことになるなんてねぇ」

 小説を書くブログを運営している仲間たちでファンタジー作品を書き、その中で二作品を選んで仲間の意見を取り入れた上で完成させる企画だった。アントネッラはやけっぱちでメチャクチャな作品の書き出しを提出した。ファンタジーは書いたことがないどころか、まともに読んだこともなかったのだ。

 そもそも一度作品が消えてしまった時点でギブアップしようと思っていたぐらいなのだ。ところが、その作品の一つ前のバージョンを読んで意見をもらっていたエスが保存しておいてくれたおかげで、少なくともギブアップだけは免れた。つまり体裁だけ整えて提出すればすぐにこの話から逃れられると思っていた。

 器用になんでも書くエスの『クリステラと暗黒の石』が満場一致で選ばれたのは当然だと思ったが、驚いたことに自分の『天空の大聖殿』までが選ばれてしまった。どうやら仲間たちは、エスの作品のように独創的できちんと考えられている作品を二つ選ぶと、どちらにも口を出しづらいが、こんな稚拙なファンタジーになら何を言っても大丈夫だと思ったらしい。

 実際に、仲間たちがワイワイと意見を言ってきて大幅な改稿を繰り返すうちに、当初のコンセプトはもはやどこかに吹っ飛んでしまった。

 正統派ヒーローのはずだった皇孫オルヴィエートは、仲間の人氣が著しく低く二章目であっけなく醜態を晒して退場した。エスの強い勧めで新たなヒーローの座に着いたのはヒロインの幼馴染、悪の象徴からレジスタンス組織に変わってしまった《闇の子たち》の首領モルガントだ。

 アントネッラは、かつてとある地方巡業サーカスの団員たちと知り合いになり、彼らの物語を小説にしようとしていたが、警察も巻き込む大きな事件と上流階級のスキャンダルに関わってしまい、その小説を闇に葬らなくなってしまったことがある。せっかくの個性的なメンバーのことを世に出せなくなったのが残念で、今回の小説では既に二人の容姿を借りてロジェスティラとモルガントを設定している。

「エスは、どうせマッダレーナやヨナタンをモデルにしたキャラクターを主役にするならステラがモデルの可憐な妖精みたいなのも出せって言うんだけれど、あの容姿で妖精にしてもそのまますぎておもしろくないし。もっとも、この活火山の擬人化みたいなキャラにしてみたけれど、これはこれでどうなのかしらね。ま、いいか。あとは光と闇の調停をする大神官としてブルーノ、最高神の化身としてあの胡散臭い団長でも配置しておこう。そこまでセオリーから外したら、きっとみんなも呆れてこれ以上この話に興味を持たなくなるだろうし」

 書けば書くほど、どんどんおかしな設定になって行くが、奇妙なことにアントネッラはこの話が以前ほど嫌いではなくなっていた。ファンタジー専門で書いていこうとは思わないけれど、きっと完結したらこの話のことが誇らしくなるだろうと感じていた。おそらくファンタジーとしてはメチャクチャになるだろうけれど。

「そういえば『クリステラと暗黒の石』の方は、どうなったんだろう」
コーヒーを飲む以外に、行き詰まった小説から逃れる理由を思い出したアントネッラは、ニコニコして古風なブラウン管式ディスプレイ画面に向かった。

「現在改訂版の執筆中……か。『ドラゴンの結石が大量に必要なら、イラつくキャラでも派遣してドラゴンにストレスをかけてやれ』って冗談で書き込んだのは、まずかったかなあ。怒ってブロックされているんじゃないといいけれど」

 エスの改訂版を読むことができなかったので、本当に自分の作品に向かうしかやることがなかった。それに時間もそれほど残っていない。

 アントネッラはブラウザを閉じると、ロジェスティラとヘロサの緊迫した対決の場面の書かれたテキストを開いて大人しくキーボードを叩き始めた。暗黒宮殿のシーンにはまったくふさわしくない、ダフネの甘い香りが漂っていた。北イタリアが少しずつ春めいてきたことを彼女は知った。

(初出:2018年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】俺様、猫集会へ行く

普段は毎週水曜日に小説を更新しているブログですが、現在「scriviamo! 2018」という企画の真っ最中で、色々と後が詰まっていますので、火曜日ですが二日からさっさと小説を更新させていただきます。今年最初の小説は「十二ヶ月の情景」一月分をお送りします。WEB月刊誌「Stella」参加作品にもなっています。締め切りが5日なので、なにはともあれ。

月刊・Stella ステルラ 12、1月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今年の「十二ヶ月の〇〇」シリーズには明快なテーマを設けていません。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っていく予定です。

最初に登場するのは、何もできないのになぜか上から目線の俺様猫こと、ニコラの登場です。この猫、捨てられていたところを救われて家族に迎えられたにもかかわらず、一家の大黒柱を「エサ係」と呼ぶ太々しい性格で、他のブログに登場するかわいい猫ちゃんたちの愛らしさのかけらもありません。


短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む

【参考】
「タンスの上の俺様」シリーズの作品群




俺様、猫集会へ行く

 念入りに毛づくろいをする俺様をみて、エサ係は不思議そうに眺めた。
「どうしたんだ、俺様ネコ。ご飯は食べないのか。この数の子、お節に入れないでとって置いたんだぞ。莉絵に見つかると叱られるからその前に食ってくれよ」

 何をいう。そんな塩辛いものをグルメなこの俺様が食すと思っているのか。お前の嫁の機嫌なぞ知ったことではない。俺様は、俺様の食べたいものを食べたい時に自由に口にするのだ。特に今日は、まずい乾燥エサの数の子トッピングなんか食うつもりはない。こちらにも都合というものがあるのだ。

 普段はこたつに横たわり、せんべいなどを食べながらテレビを観ている嫁は、友達と映画をみるとやらで外出している。かわりにエサ係が正月休みという名目で、朝から側に侍り俺様の世話をしている。

 俺様は、一応この家の飼い猫ということにはなっているが、家飼いではなく好きな時に外に行く権利を獲得している。俺様の自由を愛する心をエサ係とその嫁に理解させたからだと自負している。もっとも、できることなら外で用を足して来てほしいという嫁の思惑と一致したのが勝因かもしれぬ。エサ係は「ご近所迷惑が」とかなんとかごにょごにょ言っていたが、ヒエラルヒーの底辺にいて、その意見を誰にも尊重してもらえないということを理解して引き下がった。

 俺様は、ご近所の目のつくようなところで糞をするほどデリカシーのない猫ではない。そんなわけで、嫁に命令されたエサ係が猫用の自動開閉扉を設置し、俺様は好きな時に出かけ、好きな時にねぐらに帰ってくる権利を保持し続けているのだ。今日は、その権利を行使する予定だ。

 俺様は片眼で窓の外を見てお日さまが十分高く上がるまで待っている。

 通常エサ係は、朝早くから寒い表へ出て行き、電車にスシ詰めになって会社とやらに行き、あちこちでペコペコ頭を下げているらしい。俺様にとっては全く興味をもてない生活だ。午後の暖かい日差しがそこそこ往来を心地よくするまで、こたつでゆっくりとまどろみながら待つということがどうしてできないのか理解に苦しむが、頭の悪いニンゲンの習性を変えようとするほど俺様も暇ではないのだ。

 頭の平均して悪くない俺様の種族は、もっと幸せな日々をそれぞれに満喫している。普段はお互いに干渉せずお互いの自由を尊重した独立精神の強い生き物だが、まったく社会性がないというわけではない。その証拠の一つが猫集会だ。飼い猫、野良猫の分け隔てなく自由に集まり、まったりとくつろぐ会合だ。今日は、三丁目の空き地でその例会があるのだ。

 エサ係が時折愚痴る話によると、ニンゲンがスシ詰め電車に乗って向かう会社とやらでは、時折猫集会に似た会議というものを開催するらしい。ところが似ても似つかないことには、その会議のために何日もかけて資料を用意しなくてはならなかったり、必要はなくてもとにかく説明に数字をたくさんに混ぜなくてはならなかったりするらしい。そうかと思えば、上座とやらに座った何も知らない重役とかいう輩が「我が社の伝統では」と話の腰を折ることもあるし、その場の思いつきでこれまで話していたことをひっくりかえす事もよくあるそうだ。

 こういう話を聞くたびに、ニンゲンは愚かな生き物だとの認識を新たにするのだが、どうもエサ係は重役や嫁ほどではないが少なくとも俺様よりは賢いと真剣に考えているらしい。実に嘆かわしい。猫より賢い動物が、時間の無駄でしかない不毛な議論をするワケがないではないか。

 うつらうつらと、そのようなことを考えている間に、外は十分に暖かくなった様子なので、俺様はエサ係が呼び止めるのを無視して表へと出た。

 街の様子はいつもと少し違っている。まず人の往来が明らかに少ない。エサ係の嫁が今朝出がけに言っていたが、多くのニンゲンは、会社に向かうスシ詰め電車だけでは飽き足らずに、もっとたくさん人の乗った列車に長時間乗って田舎とやらに行くのだそうだ。なぜそんなに混んだ箱が好きなのか、まったく理解に苦しむ。

 そして、ニンゲンが妙に少なくなった街角に、代わりの様に竹や松でできたオブジェが置かれている。何時もと違った様相の街を歩くのは、俺様も好きだ。それに、この時期の繁華街を歩くと、カラスが荒らしたばかりのゴミ袋からスモークサーモンやローストビーフが顔を出していることもあるので寒くても出かける甲斐はある。

 さっそく半分ほどしか食べられていない鶏の丸焼きを発見した。カラスがついばんでいたのを追いやって、皮の取れた白い胸肉を口にする。キミの悪い味付けは大抵硬く乾いた皮についているので、カラスが食べたければ食べるがいい。この白い部分を食べるのが俺様にふさわしい。

 もちろん集会にいくのが一番の目的であるから、いつまでもニンゲンの残飯あさりをしているわけにはいかない。角を曲がると、三丁目に至る近道がある。川沿いの小さな遊歩道で、春には桜が綺麗に咲きそろうのでニンゲンが多くて困るのだが、今日は誰もいない。

 三丁目の空き地は、夏には雑草がボウボウと生えているが、この時期はどこまでも見渡せる上、枯れ草がそこそこ暖かい絨毯の役割を果たすなかなかの集会場所だ。見回すと既に築地あたりで金持ちの外国人に飼われている茶トラの子猫や、なんとかって森から来た黒トラや、かつてテレビ番組にでていたスター猫も到着していて、それぞれ離れたところで黙って座っていた。

 猫集会が人間の会議とやらと違い、かつ好ましいと思えるのは、必要もないのに満面の笑顔であいさつを交わしたり、わかりきっている天候の話などを繰り返さなくてもいいことだ。もちろん猫同士でもあいさつをすることはある。お互いの匂いを嗅いだり、毛づくろいをしたりする。だが、それはあくまで「そうしたい」と思っているからであって「しないと猫関係に支障があるから」というようなくだらない理由ではない。

 実際に、茶トラ仔猫はスター猫と毛づくろいをしあっていた。黒トラの方はメスの方がいいようで、小綺麗な年増の白猫の近くに場を移した。俺様は、黙って一番陽あたりのいい場所に座った。

 二十分もすると、集まってきた猫の数は三十ほどになった。その大半がほとんど何もせずに座っている。お互いに何もしないなら、それぞれの住処で座っていればいいじゃないかと思うだろうが、心地よい午後にのんびりと過ごす上に、お互いの安否を確認し、必要な情報交換も可能なのだ。スシ詰め電車や不毛な会議と比較したら、猫集会のほうがずっと快適かつ意義があることは明白だろう。

 おそらく二十歳ほどになると思われる《一番星老師》が登場した。飼い猫ではさほど珍しくはないだろうが、生涯の大半を野良猫として過ごしつつ、保健所の野良猫狩りの魔手から逃れ、やけに増えた往来の車の危険を避けつつ、ここまで五体満足を保ったことは尊敬に値する偉業だ。

 彼はこれまでにニンゲンから少なくとも五つの名前をもらったが、どれもまったく氣に入らなかったらしい。結局名前は自分でつけることにしたと決めたと言っていた。若い頃は《一番星》と名乗っていたが、十八歳になってから《一番星老師》と名乗っているとのことだ。彼は新しい健康法を試すことに夢中で、自ら実践している。彼がその健康法で健康に長生きをするかどうかは見ればわかるので、信奉者も懐疑的な猫も一様に色眼鏡を外して成果を確認できるというわけだ。まだ二年しか生存していない俺様は、長生きについての明確な意見を述べる立場にはないが、彼の貴重な経験は大いに参考にさせてもらう価値があると信じている。少なくともエサ係が乾いたエサのパッケージの裏を読んで聞かせる頼りない情報よりは信頼に値すると思っている。

「長生きをするには、食で得る幸せは大切にすべきだ。不味いものをイヤイヤ頬張るのは健康のためにはならん」

 《一番星老師》の教えは正しいと感じるからこそ、俺様はエサ係のくれるものは、本当に美味しいものが手に入らなかった時の緊急避難として以外は貪らないようにしている。更にいうならば雨露をしのぐ場を提供してくれているニンゲンのプライドを壊さない程度に定期的に食してやっているというわけだ。

 しばらくその場に座り、《一番星老師》への敬意を示すために毛づくろいなどをしてから再びゆったり座っていると、騒々しい足音をさせてニンゲンが通りかかるのを感じた。

「ええ~。ちょっと、ねぇ、莉絵! 見て見て!」
女どもらしい。

「何。あっ。すごい、ネコがいっぱいじゃない!」
「これ、あれだよ、ネコの集会!」

 女どもは俺様たちの都合も関係なくズカズカと空き地に入り込んできて、スマートフォンでカシャカシャと写真を取り出した。もちろん、近くにいた猫からサッと逃げて行く。俺様は、その女どもを見て、頭を抱えたくなった。後から入ってきた女が、他ならぬエサ係の嫁だったからだ。

「あれ。あそこにいるの、うちのニコラみたい」
その声を背中に、俺様もさっさと退場する。見分けたことだけは褒めてやろう。だが、集会に踏み込むなんて無礼をしておきながらすり寄ってくるとでも思ったら大きな間違いだ。

 家に戻り、こたつに潜り込んだ。
「あれ。俺様ネコ、帰ってきたのか。お腹がすいただろう。さっき全然食べないで出かけたからな」

 俺様は、エサ係をちらっと眺めた。ローストビーフとスモークサーモンを食したとは言え、本当は集会の帰りに馴染みの人間のところに寄って美味いものをもっと食べてくるはずだった。そのかわりに乾いたエサを食べるのはどうかと思う。が、待っていたと言われてはまったく手をつけないのも問題あるかもしれない。もっと正月らしい良いものを出せないのか、こやつは。

 というようなことを、考えつつ片眼を開けてエサ係を眺め、こたつから動くかどうかを思案していると、ドタドタと音がして嫁が帰って来た。この女は家ではこたつに入ってテレビドラマを見ることを日課にして、外に出ればホテルのバイキング料理を食べに行くことを趣味にしているので、それにふさわしい体型なのだ。

「ニコラ~。帰っていたのね。お利口ね、お前は。ほら、これ持ち帰って来たからお食べ!」
嫁は、エサ係に「ただいま」も言わずにまっすぐ俺様のところにやってきた。

 ほう。これはハモではないか。関東でこれを食せる機会はあまりない。淡白で俺様好みの味だ。会席料理とか、高級食材の鍋料理とかにしょっちゅういくものの、本来はジャンクフードの方が好きな味音痴の嫁は、時折こうした繊細で淡白な味を持ち帰ってくる。「小遣いが足りなくて長いこと料亭などには足を踏み入れていない」とよくこぼしているエサ係にではなく、俺様に提供するのだ。

 俺様は、ちらりとエサ係の顔を見た。よだれが出そうだ。そんなに欲しいならくれてやろうか。いや、エサ係もニンゲンだ。俺様専用の食器に一度でも置いた魚は食べられないらしい。おかしな習性だ。なんにせよ、いらないなら遠慮なくいただくぞ。

 《一番星老師》の教えは、俺様の暮らしぶりとぴったり一致する。美味しいものを食べて、したいことをして、ストレスなく暮らす。猫たるもの、こうでなくては。

 俺様は、ハモを平らげると綺麗に顔を洗い、それからのんびりと夕方を過ごすために、夕食の用意を言いつけられてエサ係があわてて出て行ったばかりのこたつふとんに向かった。

(初出:2018年1月 書き下ろし)
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Tag : 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】小さな家族

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scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第七弾です。けいさんは、毎年恒例の目撃シリーズで書いてくださいました。ありがとうございます!

けいさんの書いてくださった『サファリの一コマ (scriviamo! 2018) (「郷愁の丘」より)』

けいさんは、私と同じく海外移住者なのですが、お住まいはスイスから見て地球の反対側のオーストラリア。とてもパワフルで暖かくて前向きなけいさんには、ぴったり国だなとつくづく思います。そして、けいさんはとても努力家で、お仕事のことだけでなく小説に対してもエンジン全開で勉強に取り組まれます。スタミナが弱いというのか、それともただの怠け者なのか、ぬるま湯にどっぷりと浸かっている私とは対照的……。いつもすごいなあと思って拝見しています。

さて、この「scriviamo!」で恒例となった「目撃シリーズ」、今年は現在連載中の「郷愁の丘」のあの子とあっちの皆さんがガン見してくださいましたね。こうきたか……。で、お返しはどうしようかと悩みましたが、あの子が「家族だもん」と胸を張っていましたので、その経緯を書いてみることにしました。というわけで、外伝をお送りします。本編の開始する二年前、主人公たちにとって少し特別な日に話は始まります。


【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物



「scriviamo! 2018」について
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



郷愁の丘・外伝
小さな家族
——Special thanks to Kei-san


 撮影を終えたアメリカ人フォトグラファーと一緒にナイロビへ帰るリチャード・アシュレイと別れて、動物学者ヘンリー・グレゴリー・スコットはマサイマラを後にした。まっすぐ《郷愁の丘》にある自宅へ帰りたかったが、寄らなくてはならないところがあった。

 彼がマサイマラへ行くことは、リチャードがアウレリオに告げたのだろう。大学はイースターのために休みで、断る口実を見出せなかったので、彼は渋々出かけてきた。世界中の子供の写真を撮っているというそのアメリカ人は、女性だった。

 人付き合いの下手な彼は、特に初対面の女性が苦手だった。何を話していいのかわからなくて間が持たないし、大抵の女性はそんな彼のことを退屈でつまらない人間だと思っていることをあからさまに態度で示す。それでいつもいたたまれなくなるのだ。だから、女性が来ると知っていたらあらゆる口実を作って断っただろう。リチャードも心得ているので、到着するまで詳細を言わなかった。

 アメリカ人写真家が撮りたかったのはマサイ族の子供の写真で、どうしても長老の許可が必要だった。その交渉をスムースにするために日頃からシマウマの調査のために通い信頼関係を築いている彼の協力が必要だったのだ。そのために女性のアテンドだということを隠し通したらしい。

 幸い、今日のアメリカ人女性は、例外的に感じがよかった。ショートヘアにデニム姿とまるで少年のように飾りけのない出で立ちで、押し付けがましさのない静かな人だった。彼との会話もスムースで、興味深い話題について穏やかに話し、お互いに退屈しなかった。リチャードに引っ張り出されて、うんざりしなかったことは本当に珍しかった。こんな遠くまで日帰り往復するはめになったにもかかわらず。

 彼が帰りに寄り道をしなくてはならないことになったのは、リチャードの親友であるアウレリオ・ブラスが昨夜遅く電話してきたからだ。
「マサイマラに行くんだって。頼むよ、僕の代わりに行って欲しいところがあるんだ。帰り道だからさ」

 アウレリオは、リチャードとともにオックスフォード時代から交流のある数少ない知人の一人だ。腹違いの妹ハーフシスターであるマディの夫なので、姻戚と言えないこともない。生まれ故郷であるイタリアと家庭のあるケニアをしょっちゅう往復する実業家だ。

 予定どおりにきちんと行動するという事のできない人で、肝心な時にはいつもいなくなってしまう。そうなると周りの人間がその尻拭いのために走り回ることになる。独り者で特に予定のない彼が、妹やその母親であるレイチェルに懇願されて車を走らせることも多かった。もっとも本当の家族のように頼りにされるのは悪いことではない。父親とほとんど交流がない彼の事に心を砕き、家族の集いに招んでくれるのは、いつもレイチェルとマディだった。

 アウレリオが今日向うはずで、彼が代わりに行くことになったのは、あるバンガローだった。ローデシアン・リッジバックの仔犬が四匹いて、引き取り手を探している。マディとアウレリオは、ここ二ヶ月ほど新しい仔犬を迎えようとあちこち探していた。番犬として優秀なローデシアン・リッジバックは、欲しい人も多いので、オファーがあればすぐに引き取りに行く必要があった。

 彼自身は、ここ数年は犬を飼っていなかった。祖父が亡くなりケニアへ戻ってきた時、受け取ったわずかな遺産の中に一頭の犬が含まれていた。正確にいうと引き取り手がいなかったので、彼が移住して来るまでは父とレイチェルのところにいたが、彼が《郷愁の丘》を買い引っ越して来るとそのままトビアスの面倒を見る事になった。

 亡くなった祖父が恋しいのか、なかなか懐かず、面倒を見るのも大変だったので、トビアスが老衰で亡くなると、それきりになり、もう犬を飼いたいとは思わなかった。そもそも《郷愁の丘》は人里離れ過ぎている上に盗むに値するようなものもないので、番犬の必要もなかったのだ。

「どうぞ、お入りください」
そう言われてバンガローに入ると、やはり犬を見にきている夫婦がいて、どの仔犬がいいか真剣に話し合っていた。みると既に一匹はもらわれて行った後らしく、三匹が残っていた。

「こちらか、こっちよね。どちらも愛想が良くて賢そうだから」
夫婦は、母犬の側でじゃれあっている二匹のどちらがいいかでああだこうだと言っていた。

 家の主人は、彼にこの二人が選び終わるのを待つか、それとも残りの一匹にするかと訊いた。

 見ると残っているのは、一番体の小さいメスで、母犬からも離れて後ろを向いてうずくまっていた。彼は、夫婦に選択の対象にもしてもらえない仔犬を氣の毒に思った。それにいつまでもこの夫婦の優柔不断に付き合って帰る時間が遅くなるのも嫌だった。
「差し支えなかったら、そのメスにしたいと思います。ミスター・ブラスから一任されていますし」

 誰も欲しがらなかった犬の引き取り手が決まって、バンガローの持ち主は大いに満足したようだった。彼は小さなリードとそれまで仔犬がねぐらに使っていた小さなカゴをプレゼントしてくれた。彼は、小さな茶色い塊をそっと抱き上げた。

「近くに仔犬用の餌を簡単に買える店はありますか」
「ミスター・ブラスの住むヴォイにはある程度大きいスーパーマーケットもあるので、買えると思いますが、確証はないです」
「じゃあ、この一袋をお譲りしましょう」

 彼は頷いた。他に氣にかかることがあった。母犬は二匹の兄弟犬の方にかかりっきりで、娘との別れを惜む様子を見せなかった。雌の仔犬は、その母犬をちらりと見たけれど、特に甘えることもしなかった。こんなに小さいのに、独りでいる事に慣れているのだろうか。

 黒い瞳がじっと彼を見上げた。そして、その鼻を彼の襟元にこすりつけた。
「おや。こんなに大人しく抱かれているのは珍しい。この仔犬は少し難しくて、初対面の人をひどく警戒するのに」
バンガローの主人は驚いて言った。

 彼は、肩をすくめた。これまで特に犬に好かれた記憶はなかった。このままマディのところでも大人しくしていてくれるといいのにと思った。

 アウレリオに言われて立て替えた金額を払うと、カゴを助手席の足許に置き、そこに仔犬を寝かせた。小さく丸まると、あっという間に寝息をたて出した。警戒心が強いようには思えないな。でも、届ける間中吠えられているよりずっといい。早く届けてしまおう。一路、ヴォイまでの長い道を運転した。

 あと三十分ほどでヴォイに着くというところまで来たところで、携帯電話が鳴った。彼は、車を道の脇に停めて電話に出た。マディだった。

「ヘンリー? 今、どこなの?」
「もうすぐ着くところだ。ちゃんと引き取ってきたよ」

 マディの声が戸惑ったように小さくなった。
「まあ。そうなの。困ったわ」
「困ったって?」

「あのね。あなたに代わりに行ってもらったって、今アウレリオから聞いたのよ。実は、朝からずっと彼に電話していたんだけれど、例の通り全然捕まらなくて。あなたに頼んだって知っていたなら、もっと早く電話できたのに」
「何が問題なんだ?」

「実はね。昨日の晩に近所の方が、うちにダックスフントの仔犬を持ってきてくださったの。メグがとても氣に入ってしまって、返したくないっていうの。さすがに新しい犬を二匹は無理だから、ローデシアン・リッジバックはもう引き取りにいかなくていいと言うために、アウレリオを探していたんだけれど……アウレリオにようやく電話が通じたと思ったら、あなたに頼んだなんていうんだもの!」

「つまり、この犬はいらないってことかい?」
「そういうこと。心配しないで。私から事情を話して、アウレリオが帰ってきたら連れ帰ってもらうから。でもね……」

「でも?」
「うん。もし、その犬をメグが見ちゃって、両方欲しいと言い出されたら困っちゃうのよ。どうしようかしら。今、ヴォイなら、申し訳ないけれどマニャニまで行ってもらってママのところに届けてもらっても構わない? それとも、アウレリオが戻って来るまで、あなたのところに預けていい?」

 彼は、しばらく考えた。眼を醒ました仔犬がキョロキョロと辺りを見回してから、彼を見上げるとまた安心したように丸まった。彼は、犬と自分と両方にとって疲れる長いドライブであったことを思って、これからマニャニまで行くことにうんざりした。

「それなら《郷愁の丘》に連れて行くよ。トビアスの使っていた食器や毛布もまだあるし、数日分の餌も譲ってもらったから」
「本当に? そうしてもらえたら助かるわ。明日にはあの風来坊がケニアに戻っているはずだから、午前中には連絡できると思うわ。ごめんなさいね、ヘンリー」
「わかった。じゃあ、今日はこれで」

 彼は、そのまま《郷愁の丘》まで走った。門の中に入り助手席側のドアを開けると、仔犬はつぶらな瞳を向けて尻尾を振った。
「ここは、僕の家なんだ。今晩は僕と二人だけれど我慢してくれるね」

 小さな体を持ち上げた。柔らかくて暖かい。くすぐったそうに後ろ足をパタパタ動かす様がユーモラスで、彼は思わず微笑んだ。どういう訳か、出会ったばかりの彼を信頼して鼻先や目の当たりを擦り付けて来る。

 彼は、玄関の脇の戸棚の中をゴソゴソと探って、もう二度と使うことがないと思っていた祖父の愛犬の使った毛布やステンレスの椀などを取り出した。仔犬はクンクンと匂いを嗅いで何かを考えていたが、彼がその毛布を整えてポンと叩くと、ゆっくりとその上に載って寝心地を確かめるようにうずくまった。

 それから、また立ち上がって、台所へ行こうとする彼に着いてきた。彼は、椀に水を入れて置いてやった。喉が乾いていたのかゴクゴクと飲む。
「そうか。ごめんな。餌も四回だったな。今、用意してやるから少し待っててくれ」

 歯の発達に必要なので、固いものをちゃんと食べさせるようにと言われた。マディに渡してそれっきりだと思っていたので、あまり細かく訊いてこなかったけれど、アウレリオが引き取りに来るのはいつなんだろう。餌を食べさせてから、彼は自分用に少しのパンと冷蔵庫にあったチーズを切って皿に盛ると、サバンナを見渡す月に照らされたテラスに行った。仔犬は嬉しそうについて来た。

「今日は、お前にとって大変な日だったよな。初めてお母さんのもとを離れて、こんなところに来て。それも、また戻されるなんて……」
彼の心に、子供時代の居たたまれない思いが蘇った。仲の悪かった父親と母親が離婚して、サバンナから遠いイギリスへ引っ越したこと。けれど母親とは長く暮らすことはなく寄宿学校に入れられたこと。すぐに再婚した母親のもとには行きづらくて、居場所がないと感じた事。

 足元に蹲った仔犬は、彼の靴に頭を載せてきた。まるで彼が主人であるかのように信頼して眠っていた。

 明日か明後日には、アウレリオがやってきて、この犬を連れて行くのだろう。そして、「必要無くなったのです」と、あのバンガローの持ち主に返すのだ。「やっぱりいらないって言われたんだな」そうため息をつかれるのだろうか。

 いらない存在なんかじゃない。お前は、こんなにも柔らかい。僕をこんなに暖かいきもちにしてくれる。

 彼は、満天の星空を見上げた。今日出会ったアメリカ人フォトグラファーのことを考えた。まったく緊張せずにいられる人だったなと思った。ああいう人とだったら、友人になれるのかもしれない。もちろん、彼女とはもう二度と会うことはないだろう。でも、世界のどこかにああいう人がいるのだったら、いつかは僕の日常にも本当の意味で友人と言えるような人が現れるのかもしれない。

 足下で寝息を立てている小さな犬を見た。お前にも、その価値をわかって大切にしてくれる家族がどこかにいるはずだ。僕が、そう思うように。

 
 翌朝、夜明けの散歩をするためにテラスに出ると、小さな茶色い塊がものすごい勢いで寄ってきた。
「やあ。そうだったな。お前がいたんだった。おはよう。よく眠れたか」

 仔犬は全身で喜びを表していた。朝焼けを浴びて、艶やかな毛並が輝いている。
「素晴らしい光景だろう? 僕は、ここが世界で一番素晴らしいところだと思うけれど、お前はどうだい? みてごらん、ほら、あそこをシマウマの群れが通って行くよ」

 彼は、仔犬と一緒に散歩をし、朝食を食べた。彼が論文を書いている時間、仔犬は彼の書斎でおとなしく丸まった。彼が立ち上がると、さっと寄ってきて嬉しそうに尻尾を振った。犬に好かれていることは、心地よかった。トビアスの面倒を見ていたときは、仕方ないから一緒にいてやるという風情だったので、こんな喜びを感じたことはなかった。

 携帯電話が鳴った。マディからだった。
「ハロー、ヘンリー。犬があなたを悩ませていないか心配で。問題ない?」
「まったく問題ないよ。アウレリオは帰ってきたのかい」
彼は仔犬があちこちを駆け回るのを眺めて微笑んだ。

「ええ、今マリンディですって。夕方には戻って来るみたい。多分明日にはその犬を引き取りに行ってもらえると思うの。もう一日、頼んでも大丈夫?」

「構わないけれど……。マディ、その、先方はなんて言っていた?」
「ちょっと失望していたみたいだけれど、仕方ないから引き取るって言ってくれたわ。その犬、難しい性格なんですって?」

 彼は少しムキになった。
「そんなことないよ。聞きわけもいいし、可愛いよ」
「まあ。ヘンリー、あなたがそんなこというなんて珍しいわね」

 彼は、このまま戻したら、この犬は誰にも大切に扱ってもらえないのではないかと思った。そんなのは嫌だ。

「マディ。考えたんだけれど、この犬、このまま僕が引き取ったら、アウレリオは返しに行かなくてもいいんじゃないかい?」

「なんですって。ヘンリー、あなた、犬はもういらないって言っていなかった?」
「そのつもりだったけれど……でも、この犬、とても嬉しそうに尻尾を振っているし、あちこち探検して満足しているんだ。ここをうちだと思っているみたいに。僕のことも嫌がっていないし、ここには十分なスペースもあるから……」

「まあ。愛着が湧いてしまったのね。もちろんいいと思うわ。先方もきっと喜ぶわ。すぐに連絡しなくちゃ。ヘンリー、本当にありがとう」

 電話を切ってから、小さな犬を抱き上げた。
「さて、聴いていたかい? ここがお前の新しい家だよ」

 仔犬はとても嬉しそうに尻尾を振った。彼は、自分といるのを喜んでくれるその犬をようやく手にした家族のように感じた。
 
「まず、名前を決めなくちゃいけないな。僕は、ヘンリー……」
そう言いかけてから、口ごもった。

 誰もが彼をファーストネームのヘンリーで呼んでいるけれど、彼にはあまり親しみがなかった。子供の頃、祖父からは『小さいグレッグ』と呼ばれていた。当時、愛情を感じたのは、祖父と一緒にいる時だけだった。何と名乗ろうと、犬は僕の名前なんか呼ばないだろうけれど、それでも……。

「僕の名前は、グレッグだ。お前の名前は……そうだ、アフリカの女の子らしくルーシーはどうかな」

(初出:2018年1月 書き下ろし)

ローデシアン・リッジバックの仔犬

註・ルーシー (Lucy) は、1974年にエチオピア北東部で発見された318万年前のアウストラロピテクス・アファレンシスの通称

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Posted by 八少女 夕

【小説】彼女の望んでいることは

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scriviamo!


scriviamo!の第五弾です。canariaさんは、楽しいマンガで参加してくださいました。ありがとうございます!

canariaさんの『scriviamo! 2018 参加作品 』

可愛いクレーマーさん by canariaさん
この漫画の著作権はcanariaさんにあります。無断転用は固くお断りします。

canariaさんは、Nympheさんというもう一つのお名前で独特の世界観と研ぎすまされた美意識の結晶を小説・イラスト・動画などで総合芸術を創作なさるブロガーさんです。現在ブログでは、「千年相姦」を絶賛連載中で、同時に「侵蝕恋愛」も続々刊行していらっしゃいます。創作に対する妥協のない姿勢は、いつも見習いたいと思うんですが……思うだけで真似はできませんね。

さて、今回のマンガは、私の「ファインダーの向こうに」という作品の中の、一通の投書から膨らませてくださった楽しい作品です。現在連載中の「郷愁の丘」にも登場して、一人だけぶっ飛んだ濃いキャラクターで読者の皆さまを呆れさせている、ヒロインの兄マッテオ・ダンジェロのファンのお嬢さんが登場です。

事の起こりは、ヒロインの写真家ジョルジアが、自分の殻を打ち破るためにモノクロームの人物画に挑戦し、セレブである兄マッテオをいつもとまったく違う服装と雰囲氣で撮ったことです。セレブっぽくないマッテオの姿にお嬢さんは激怒、雑誌の発行元に乗り込んでくるそうで(笑)

というわけで、外伝として乗り込んできたお嬢さんを書かせていただきました。ちなみに、この作品は時系列でいうと「ファインダーの向こうに」の最終章と重なる時期です。「郷愁の丘」の始まる三ヶ月くらい前ですね。ジョルジアは二年前にグレッグと出会っていますが、すっかり忘れていたようです。まだTOM-Fさんのところの某キャラに秘めた恋心を抱えている時点ですね。


【参考】
ファインダーの向こうに「ファインダーの向こうに」を読む

郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


「scriviamo! 2018」について
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彼女の望んでいることは
——Special thanks to canaria-san


 ジェシーは「勘弁してくれ」と言いたいところをこらえた。普段ならこの受付に座っているのはリディアであって、売店が持ち場の彼ではないのだ。

 それなのに、娘が学校で問題を起こしたとかでリディアが早退してしまったので、今日はジェシーが売店と受付といっぺんに面倒を見ることになっていた。歳が代わったばかりで今週は大きな催しもないせいか、これまでは特に問題もなくのんびりとしていられた。

 今、目の前でヒステリックに騒いでいる女が入ってくるまでは。

 《アルファ・フォト・プレス》は、ニューヨーク、ロングアイランドにある出版社だ。現在の社長がクイーンズ州で始めた小さな写真印刷事務所が前身で、おもに芸術的な写真をメインとした出版物や定期刊行物を扱っている。固定社員も三十人前後で、契約社員や専属写真家などを含めても数がしれていて、お互いに顔と名前が一致するアットホームな社風だ。弱小出版社といってもいい。

 その分、マスコミに注目されるようなことはあまりない。昨年末に、写真集『太陽の子供たち』と専属写真家のジョルジア・カペッリが『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』の一般投票部門で六位を取ったのは例外中の例外で、その直後は『太陽の子供たち』の注文が殺到し、ジェシーもしばし誇らしい繁忙期を過ごしたものだ。

 それと前後して『クォリティ』誌で発表したマンハッタンのセレブを特集シリーズも評判になった。専属・フリーを問わず新進のフォトグラファーに印象的な写真を依頼するコンセプトが受けて部数を伸ばしている。だが、一方で、これまでジェシーがほとんど経験したことのないクレームも持ち込まれることになった。

 たとえば、オスカーをとった日本人俳優トダ・ユキヒコを特集した号が発表された時には、二日目には在庫が綺麗になくなったのだが、その後にテキサスからやってきたとかいう女がもう手に入らないなどといって暴れた。

 そして、今度はこの女だ。十二月号で発表されたのは、健康食品会社のCEOマッテオ・ダンジェロの特集だった。この男は、ヘルサンジェル社を一代で大企業にしたアメリカン・ドリームの具現者で、妹でトップモデルのアレッサンドラ・ダンジェロと共にゴシップ誌の誌面を賑わせる事の多いセレブ。独身の大金持ちなので派手な女性関係でも有名で、芸能人でもないのに熱狂的ファンがいる。ちょうどジェシーの目の前で騒いでいるこの女のように。

 特集のインタビューには満足しているようだったが、写真に激怒していた。それもそのはず、大きな反響を呼んだその写真は、いつもとはまったく違うラフな服装の彼を、色を廃しモノクロームで撮ったものだったからだ。

 でも。ジェシーは頭を振った。世間ではほとんど知られていないけれど、この写真を撮った例のジョルジア・カペッリは、マッテオ・ダンジェロの実妹なのだ。妹が兄の姿を撮ったものに「こんなの本当のダンジェロ様じゃない」と言われてもねぇ。

「とにかく、責任者を出してください! ダンジェロ様のイメージを回復するために、謝罪文の掲載を約束してくださるまで、ここを動きませんから!」

 面倒臭いなあ。まさか、こんなくだらないことで社長に取り継ぐ訳に行かないしな。編集長はいないし、編集長代理のミスター・ハドソンは、今日はいたよな。呼びだしたら怒るかな。……あ、まずい。ミズ・カペッリと打ち合わせ中だ。撮った本人がいたら、話がこじれるかも。

「そうですね。申し訳ないんですが、みな出払っていまして……」
そう言いながら、彼女の肩越しにガラス張りのドアの向こうを見た。そして、横付けされたマセラッティから出てきて社内に入ってこようとする人物を見てギョッとした。

 マッテオ・ダンジェロ! なんだ、なんだ? なぜこのタイミングで入ってくる?

「やあ、ジェシー。今日の受付は、君かい? リディアは休みかな?」
彼はこの会社を訪れることはあまりないが、毎回受付のリディアにゾワゾワするような甘い褒め言葉を浴びせる。相変わらず、ウルトラ高そうな黒いコート。被っているフェドーラ帽も黒いがリボンがコートからわずかに見えているマフラーと同じ真紅。伊達者だ。

「ええ。早退しました。ところで、今日は……?」
そう訊くと、彼はジェシーの前に立っている女性の方を見た。彼女は、夢にまで見た憧れの人物の登場で、先程までの激怒はどこへ行ったのか、ぽかんと口を開けて突っ立っていた。

 マッテオは、雑誌などでおなじみの魅力的な笑顔を彼女に向けてからジェシーに答えた。
「いや、君はこちらのかわいいお嬢さんのお相手をしているんだろう? 僕は、ちゃんと順番を待つとも」

 女は「かっ、かわ……」と戦慄き呟いた。顔は真っ赤だ。今にも卒倒しそうだぞ。ジェシーはちらっと眺めた。

「こちらは、例のあなたを特集した『クォリティ』誌の件で、わざわざ社までいらしたんですよ」
ジェシーは、言ってみた。この流れでいけば、謝罪文がどうのこうのというクレームは、取り下げてくれるかもしれないし。マッテオは、ほうという顔になって、それから更に嬉しそうに笑いかけた。

「あなたも氣に入ってくださったんですね、素敵なお嬢さん。あなたのそのサファイアのように澄んだ瞳の前には、どんなまがい物も存在を許されないでしょうが、あの写真の価値だけは認めてくださりますよね。僕は、あの素晴らしい写真のおかげで、随分と名誉挽回をしたのですよ」

 ジェシーは、彼女をちらっとみた。サファイアのように澄んだ瞳ねぇ。確かに青いけどさ。口をパクパクさせて、先程までの勢いは何処へやら、あの写真に対する不満をぶち上げるつもりはなくなったみたいだ。持ち込んだ『クォリティ』誌を握りしめている手がわなわなと震えている。

「ここに掲載された写真が、とても大きな評判を呼んで、僕はとても嬉しいんです。何よりもモノクロームによる表現が素晴らしいと思いませんか? 色を排除する事で、こんなに眩しい光を表現できるなんて、我が妹ながら、彼女の才能には眼を見張るばかりです」
「い、妹?!」
女性は、赤くなったり青くなったり忙しい。マッテオは、誇らしげに笑いかけた。
「そうです。ジョルジア・カペッリは、僕の実妹なんです」

「ええ。素晴らしいと思います! あっ、あのっ、もしお嫌でなかったら、さ、サインを……」
彼女はそう言いながら、ダンジェロ氏の映っている特集ページをなんとか広げようとしていた。

 マッテオは、ニコニコ笑いながら続けた。
「ああ、大丈夫ですとも。もうじきフォトグラファーは降りて来ますから。そうだ、写真集『太陽の子供たち』は持っていますか? 受賞作品だから、あれにサインしてもらうのがベストですよ。持っていないんだったら、僕がプレゼントしましょう。ジェシー、増刷したんだから在庫はあるんだろう?」

 ジェシーは、笑いをこらえながら頷いた。急いで売店から『太陽の子供たち』を持って来て手渡しながら付け加えた。
「ええ。でも、そのお客さんは、あなたのサインも欲しいんだと思いますよ」

 女性は、ものすごい勢いで頷いている。マッテオは太陽のように笑うと、彼女から雑誌を受け取った。
「それは嬉しいね。僕のサインは『クォリティ』にしましょう。このページがいいかな。この服装もいいと思いませんか。実をいうとね、僕がジョルジアに提案したんですよ。ここは、僕たち兄妹が育った懐かしい海岸なんです。せっかくあの海で撮るなら、ぜひラフな格好にさせてくれってね。一度、こういうスタイルの服を着てみたかったんだけれど、思ったよりも知人の受けがよくて喜んでいるところなんです。あなたも似合うと言ってくださいますか、ハニー」

 女性は、無言で大きく頷く。うそつけ。ジェシーはそっと天井を見上げた。あんな庶民臭いコーデがどうのこうのと言っていたくせに。

 マッテオは、ジェシーから受け取ったサインペンで大きくサインをすると、「青い瞳のお嬢さんへ 心からのキスを」と書き添えた。彼女が声にならない悲鳴をあげた。おいおい、こんなところで氣絶しないでくれよ。ジェシーは笑いをこらえながら考えた。

 その時、奥のリフトが到着して開き、中から噂のジョルジア・カペッリが出て来た。
「あ、ミズ・カペッリ」
ジェシーが、声をかけると同時に、マッテオはもう妹の方に大股に歩み寄っていた。

「ジョルジア! 僕の大切なジャンドゥーヤ! 逢いたくてたまらなかったよ」
「兄さん! こんな所でいったい何をしているの? 六時にアパートメントに来るって言わなかった?」
「早く着いたので迎えに来たのさ。何ヶ月ぶりかに妹の作った絶品カネロニを食べられるのだからね。仕事なんかいつまでもしていられるものか」

「まあ。そんなに早く逃げ出したりして、セレスティンが怒ったんじゃないの?」
「まあね。有能な秘書どのには、別に埋め合わせするからいいんだ。ところで、こちらのお嬢さんは、君のファンらしいよ。わざわざこここまで来てくれたんだ。サインをしてあげておくれよ」

 ジョルジアは、女性に軽く会釈をした。それからマッテオに渡された『太陽の子供たち』とサインペンを持ったまま、戸惑ったように立ちすくんだ。
「私、サイン、ほとんどしたことないの」

「ああ、僕の大事なスプモーネちゃん。なんて初々くて可愛らしいんだろう。でも、これからお前はサインをねだられて身動きできなくなるようになるんだ。慣れていかなくちゃ。なに、簡単さ。心を込めて名前を書けばいいんだ。どこがいいかな? やはり見返しかな。青い目のかわい子ちゃん、どこがいいですか?」

 本来クレームを言うためにこの会社にやって来た女性は、ポーとなったまま「どこか、写真のページに」と呟いた。

「写真のページか。じゃあ、あの一番評判になった女の子のページがいいんじゃないかい」
マッテオがページを繰る。やがて、雑誌などで何度か取り上げられた、マサイ族の少女の笑顔のページが開かれた。

 ジョルジアは、言われるままにそのページの余白部分にサインペンで名前を書き込んだ。それから、ほんのわずかの間、微笑みながら写真の少女を見つめた。

「かわいい子だよね」
マッテオが言うと、彼女ははっとして、とってつけたように「そうね」と言った。

 それから、不思議そうな顔をするマッテオを見て仕方なく呟いた。
「ちょっと、この写真を撮るときにお世話になった人のことを思い出したの」
「マサイ族かい?」
「いいえ。アテンドしてくださったイギリス系の方。とても知的な男性で話していて楽しかったなと思ったの。不思議ね、ずっと忘れていたんだけれど」
「へえ。人付き合いの苦手なお前がそんなことを言うなんて、珍しいね。恋でもしたのかな」
「なんてことをいうの。あちらに失礼でしょ。大学の先生よ」

 それから、関係のない話をしている場合では無いと思ったのか、女性に向けてはにかんだ笑顔を見せて写真集を手渡した。
「これでいいでしょうか。わざわざ来てくださってありがとう」

 女性は先程までの怒りはどこへやったのか、妙な笑顔を見せながら何度も頷いた。持ってきたときにはかなり雑に扱っていた『クォリティ』誌と一緒に、愛しのマッテオが彼女のために購入してくれてその手に持った写真集(撮影者のサインはこの際どうでもよかったが)を大切に抱きしめた。

 それから、スマートフォンを取り出すとマッテオに向かってこう頼んだ。
「あの、あの、一緒に写真を撮っていただいてもいいでしょうか」

 マッテオは大きく頷くと、ジェシーのほうを向いた。
「じゃ、ジェシー、撮ってくれよ。僕たち三人の記念写真をね」

 心得たジェシーは、スマートフォンを構え、まるで恋人と記念撮影するように女性の肩に手を回しているマッテオと、困ったように少し離れているジョルジアをフレームに収めた。

「あ、もう一枚撮りますから」
そういうと、そっとズームをしてジョルジアをフレームから外し、女性とマッテオのツーショットも撮った。彼女が望んでいるのはこれに決まっているんだしさ。

 これさえやっておけば、きっとこの女はクレームを二度としなくなるだろう。こういうのをめでたしめでたしっていうんだ。

(初出:2018年1月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】クリスマスの贈り物 (後編)

「郷愁の丘」の外伝「クリスマスの贈り物」の後編をお送りします。

前編で彼の寄宿学校時代の悲しい思い出と、現在のうら寂しい待降節の過ごし方を描写しました。後半は、彼が大学の講義の帰りに街に立ち寄るところから始まります。都会だとインフラも郵便も買い物ですらも自宅にいるまま楽に受け取ることができますが、彼の住んでいるところは水道もガスも通っていませんし、郵便すらも配達してくれません。だから自分で週に一度調達に行くのです。

なお、待降節というのはクリスマスの前の四週間のことです。四週間かけてクリスマスの準備をして行く時期で、クリスマスカードを送ったり大掃除をしたり、もしくは仕事納めに向けてラストスパートをかけたりするのですね。このストーリーも今年はここまでです。来年の再開を待っていただけると嬉しいです。


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あらすじと登場人物




クリスマスの贈り物 (後編)

 彼が大学に講義にいくと、帰り道にイクサの街に立ち寄る。スーパーマーケットで買い物をし、預金を下ろしたり、支払いをしたり、ガスボンベを交換したり、給油をするなど何かと用事があった。

 彼はATMに向かった。この時期はいつもよりも出費が多い。父やレイチェル、それにマディたちに何かプレゼントを買わなくてはいけない。それに、絶対に遅れてはならない支払いも多い。家事の手伝いをしてくれているアマンダや、調査を依頼しているレンジャーたち、それに頼み事をしたマサイの長老たちにも遅滞なく払わなくてはならない。税金や家や車の維持のためにもまとまった現金が必要になる。現