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Posted by 八少女 夕

【小説】雷鳴の鳥

今日の小説は『12か月の建築』9月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、アフリカのジンバブエにある『グレート・ジンバブエ遺跡』です。私は1996年に、じっさいにこの遺跡を訪れています。

登場する人物は、いまのジンバブエがまだローデシアと呼ばれていた時代に実在した研究者たちです。


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雷鳴の鳥

 その鳥の小柄な身体には見合わぬ巨大な巣は、ついに屋根で覆われた。それから、シュモクドリは、人間の男性が載っても壊れないほどの強度ある巣の機能面だけでは満足せずに、2メートル以上もある目立つ巣をありとあらゆる装飾品で覆い始めた。カラフルな鳥の羽、草食動物たちから抜け落ちた角、ヘビの抜け殻、骨、イボ猪の牙、ヤマアラシの棘などが運ばれた。

 それらは、呪術師ウイッチドクター の呪具と似通っている。これがシュモクドリが魔法を使う存在だと信じられる根拠の1つとなっている。現地の言葉で『インプンドゥル』すなわち『雷鳴の鳥』と呼ばれる霊鳥は一般的にこのシュモクドリのことだと信じられている。

 伝説上の霊鳥は、白と黒の背の高い鳥で、魅力的な男性または女性に姿を変えることもできるし、生命にとって欠かすことのできない雨と水を呼び寄せる。実際のシュモクドリ(Scopus umbretta)は、ペリカン目シュモクドリ科シュモクドリ属の茶色い鳥だ。全長56~58センチ。カラスと変わらない。その名の通り、頭の後ろの飾り羽が少し突き出ていてハンマーのようだ。オスとメスには見かけ上の違いは比較的少なく、共同で非効率の極みと思えるほどの巨大な巣を作る。

 アフリカのサハラ以南、マダガスカル、アラビア半島南西部の浅い水瀬のあるあらゆる湿地帯に生息する。ペアで保持するテリトリーに留まり、渡りのように大きく移動することは少ない。繁殖しているかどうかに関わらず、年間3個から5個の巣を作り、そのうちの1つだけで雛を育てる。

 雛たちの多くは1年以上は生きられないが、生き延びた成鳥は時には20年も生きる。

 水辺に佇み、空の彼方を見つめるとき、人びとは呪術師たる雷鳴の鳥インプンドゥルが嵐を呼んでいるのだという。

 人を怖れず、マングローブ、水田、貯水池などにも巣を作り住むが、彼らを捕まえたり巣を壊して追い払おうとする者は少ない。雷鳴の鳥インプンドゥルの祟りで家に雷が落ちるような危険は冒さない。またこの鳥は南アフリカでは雨乞い師を意味するNjakaと呼ばれている。雨の前に大きな声で鳴くからだ。

* * *


 その遺構は、はるか昔にその地に建てられた脅威だった。1800年代にこの地を「未開の地」として蹂躙しにやって来た白人たちは、アフリカ大陸の南に巨大な遺跡を見いだした。1867年にドイツの狩猟家アダム・レンダーが「発見した」と言われる遺跡群は、実際にはすでに16世紀のポルトガル人たちによって記録されている。

 現地のショナ語でそれは「Zimbabwe ジンバブエ」と呼ばれていた。ポルトガル人ベガドは「裁判所を意味する」と報告しているが、現在ではこの言葉の意味については2つの説が有力である。「石の家」を意味するというものと、「尊敬される家々」という言葉に由来しているというものだ。鉄器時代の現地の人びとは、記録する文字を用いなかったので、当事者たちによる正確な由来を書いた文献は見つかっていない。

 この遺跡は、単なる「家々」という言葉で表現できるような規模ではない。最盛期には18000人が住んでいたと推測される、その驚くべきスケールと精密さが、逆に過去の偉大な創建者たちを本来賞賛を受けるべき名誉から遠ざけた。

 キャスリーンは、彼女の上司であるガルトルード・ケイトン=トンプソンが見せてくれた手紙を読んでため息をついた。それは、彼女たちの緻密で丁寧な論証に対して単に否定的だというだけでなく、明からさまな憎悪に満ちていた。ガルトルードは、「ナンセンスな内容だわ」と投げ出した。

 ローデシアをめぐる社会の目は、三重の意味で偏見に支配されていた。白色人種は黒色人種より優れているので植民地支配が正しいのだという立ち位置。オリエントやギリシャなどの過去の優れた文明文化が、彼ら白色人種たちに受け継がれているという曲解。そして、男性の仕事が女性のそれよりも常に優れているという驕り。ケイトン=トンプソン調査団が提示した報告は、そのすべてを根幹から揺るがす内容だった。

 1928年に英国アカデミーにローデシア、ムティリクウェ湖近くの遺跡の期限を調査するために招待されたケイトン=トンプソンは、この分野ではまだ珍しかった女性考古学者だ。第1次世界大戦中に海運省に勤務し、パリ講和会議にも出席したことのある彼女は、その後ロンドン大学で学び始め、マルタ島、エジプトなどの発掘調査で経験を積んだ後に、このアフリカ南部の謎の遺跡調査を依頼されたのだ。

 すでに19世紀にジェームズ・セオドア・ベントらによって発掘調査は行われていたが、この遺跡の起源についての全く誤った仮説を証明するためだけの杜撰な調査で、考古学者の間からも疑問が出ていたのだ。

 彼らの主張は簡単にいうとこうだった。
「下等なアフリカ人に、このような偉大な建築が可能なはずはない。これは過去の偉大な中近東の遺構に違いない」

 ソロモン王を訪ねたシバの女王国はここであった、もしくは、古代フェニキア人またはユダヤ人が築いた、アラビア人たちの黄金鉱山だったというような主張だ。

 20世紀初頭にデイヴィッド・ランダル・マッキーヴァーの調査では、それまでの調査隊が「取るに足りぬゴミ」として放置していた、現地人が現在も使うのとほぼ同じタイプの土器や、石造建築物の構造の調査から遺跡はショナ人など現地住民の手によるものだと結論づけたが、当時の権威たちはそれを認めなかった。

 こうした中で再調査を依頼されたケイトン=トンプソンが編成したのは、写真撮影で協力参加したキャスリーンを含め全員が女性の調査隊だった。これは、全く前例のないことだった。ケイトン=トンプソンは現代でも村人が使用している陶器やテラス造りの壁といった構造と比較することで、マッキーヴァー説を強く支持する調査結果を発表した。

 彼女が、他の調査隊と違ったのは、『谷の遺跡ヴァレー・コンプレックス』と『大囲壁グレート・エンクロージャー』について緻密なトレンチ調査を行い、層位学的研究法の見地から最下層までの層位と遺物を対応させた実測図とデータを提示して、後の研究者がデータを検証できるような報告書を作成するように努めたことだ。

 データが語っている。これはソロモン王の時代の遺跡ではない。アラビア人たち西アジアの人びとが建設したものでもない。後の放射性炭素年代測定でも、この遺跡は12世紀から15世紀に建設されたものであることが証明されている。

 遺跡は50以上の円形または楕円形の建造物の集合体で、3つに分けて分類されている。北側の自然丘陵を利用して作られた通称『丘上遺跡ヒル・コンプレックス』、その南部に広がる『谷の遺跡ヴァレー・コンプレックス』、そして巨大な楕円形の外壁をもった『大囲壁グレート・エンクロージャー』だ。

 何よりも「原住民には作れない」と偏見の対象となったのは、『グレート・エンクロージャー』で、1万5千トン以上の花崗岩を用い、漆喰などは使わずに精巧に積み上げてある。長径は89m、外壁の周囲の長さは244m、高さは11mで、外壁の基部の厚さは6mに達する。東側には高さ9mを超える円錐形の塔がそびえ立ち、おそらく祭祀的空間であったと考えられている。

 『ヴァレー・コンプレックス』は、首長の妻子たちの住居跡地だと考えられている。円形の壁を持つ住居が通路で結ばれた構造だ。鉄製のゴング、大量の食器や燭台、ビーズ、銅、子安貝などで作られた装飾品、犂や斧、儀礼用の青銅製槍などの他、中国製の陶磁器、西アジア製のガラス瓶まで出土しており、まだヨーロッパ人たちが大航海時代を迎える前に、彼らが遠隔地交易との豊富な金属加工で大いに栄えていた証拠となっている。

 『ヒル・コンプレックス』の東エンクロージャーには石組みのテラスが敷かれ、祭祀に関連する遺物が出土した。中でも最も重要だったのは、6体の滑石製の鳥彫像だ。似たものが『ヴァレー・コンプレックス』からも出土している。ショナ族の世界観では、鳥は天の霊界と地の俗界を往き来して仲介する使者であり、呪術師はその力を借りて雨乞いなどの儀式を行うために鳥を象った彫像を作ったと考えられている。

 キャスリーンは、『ヒル・コンプレックス』で作業をしていたときに、何度も襲ってきた雷雨のことを考えた。遠くに稲妻が煌めくと、次第に灰色の雲が青空を覆い隠していく。

 雷鳴の鳥インプンドゥルたるシュモクドリが甲高く鳴いて嵐を呼んでいる。

 西エンクロージャーは自然の巨石を利用し、花崗岩ブロックのと合わせて直径30メートル、高さ7メートルの巨大な建物に仕立てている。雷雨の激しさを知るキャスリーンは、急いでこの首長の政治統治の場だったと思われる建物に入っていくが、恐ろしげに首をすくめる。

 15世紀から今まで絶対に落ちてこなかったのだから、絶対に安全だとわかっていても、屋根となっている自然巨岩の危うげなバランスに強迫観念を感じてしまうのだ。だが、痛いほどに打ちつけるアフリカの夕立に打たれるよりは、ひとときこの岩の下で息をひそめる方がマシだった。

 すぐ近くで出土したジンバブエ・バードの黒く滑らかな立ち姿を思い浮かべた。なんという鳥を模した像なのか、キャスリーンもケイトン=トンプソンもはっきりとはわからない。ショナ族にとって重要なトーテムであるチャプング(ダルマワシ)またはフングウェ(サンショクウミワシ)だと考えられているが、どれも決め手に欠ける。

 そういえば手伝いに来ていた現地人ンゴニは雷鳴の鳥インプンドゥルではないかと言っていた。なんでもない姿をした格別強くもないシュモクドリだが、「鳥の中の王」と見做されているからだ。キャスリーンも、アフリカの各地でそう見做されていることについては知っている。
 
 大変な努力を持って作り上げられたシュモクドリの巣は、彼らだけが使うわけではない。空き家の巣はチョウゲンボウやワシミミズクなどほかの鳥たちや、ネズミやなど他の動物たちも利用する。中でもクロワシミミズクは巨大で怖れられ敬われている鳥だが、シュモクドリの巣の上に陣取り1日を過ごす姿が「猛禽が宮殿を守っている」とみなされ、「雷鳴の鳥インプンドゥルこそが実は鳥の中の王だからだ」という言い伝えを強化している。

 不思議な鳥だ。雨を呼び、稲妻を司る雷鳴の鳥インプンドゥル。巨大な巣を作り上げるシュモクドリ。理由も理解も、そして、首長たちが崇めた神像のモデルとしての地位も、もしかしたら彼らには必要ではないのかもしれない

* * *


 キャスリーン・ケニオンは1950年代にパレスチナ東部エリコの発掘調査を主導し20世紀でもっとも影響力のある考古学者と呼ばれるまでになった。後にオックスフォードのセントヒューズ大学長を務め、大英帝国勲章のデイムに除された。

 一方、グレート・ジンバブエ遺跡を発掘したときの上司であったガルトルード・ケイトン=トンプソンも、1934年に女性として初めてリバーズ賞を受賞し、1944年に王立人類学研究所の副所長にも選出された。46年にはハクスリー賞を受賞した。さらには東アフリカの英国歴史考古学学校の創設メンバーとなり、評議会の委員を10年間務めた後、名誉フェローに任命された。

 ローデシア時代は、偏見と政治的圧力により覆い隠された「グレート・ジンバブエ=アフリカ人建設説」は、脱植民地化独立運動の後、ジンバブエ共和国が成立すると「未だに謎に包まれている」という公式見解は取り消され、正式に認められるようになった。

 過去の偉大な建築物は、新しい国の精神的な支えの中心となり、国名もここから取られた。そして国旗にはジンバブエ・バードの1つが国のシンボルとしてデザインされた。それと同時に、この遺構を示す言葉は、「偉大な」という意味を込めて「グレート・ジンバブエ」と呼び区別されることになった。1986年にはユネスコ世界遺産に登録された。

 ローデシア時代の偏見と悪意に満ちた発掘調査のために、多くの部分が破壊・遺棄されたグレート・ジンバブエ遺跡の発掘調査はいまだに進められ、考古学的証拠や最近の調査結果により歴史的背景などについても少しずつ解明が進められている。

 古い権威と悪意のヴェールが取り除かれ、アフリカ第2の巨大遺跡グレート・ジンバブエ、1000年前のショナ族たちの栄光は陽の目を浴びた。一方、シュモクドリが巨大な巣作りに偏執的なほどの情熱を傾ける謎は、いまだに解明されていない。

(初出:2023年9月 書き下ろし)

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Great Zimbabwe National Monument (UNESCO/NHK)


Hamerkop
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Posted by 八少女 夕

【小説】地の底から

今日の小説は『12か月の建築』8月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、トルコはカッパドキアにある古代の巨大地下都市デリンクユです。当時はそういう名前ではなかったとどこかで読んだので古い名前を使いました。

これは、実際にこういうことがあったという裏付けのある話ではありません。デリンクユのことを調べている間に、「これってどうやって暮らしていたんだろう」と想像が膨らみ、いつのまにか生まれてきてしまった話です。


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地の底から

 水面に月明かりが揺らめいている。セルマは静かに桶を浸した。痛いほどの冷たさを感じた。日中に外に出れば、怯えるほどの熱風に晒されるはずだが、この地底はアナトリア高原の厳しい夏とは無縁だ。少なくとも彼女はもう何か月も地上へは行っていない。

 セルマは、地下都市マラコペアの最下層に小さな部屋を与えられている。その役目を果たす時以外に彼女と関わろうとする者は非常に少ない。時おり、好奇心に駆られて話しかけてくる人はいる。しばらくの交流があり、やがて家族や友人たちに止められ、後ろめたそうに去って行く。いま、時おり訪れてくるファディルもいつかはそうなるのだろう。

 セルマは『水番』だ。地下都市マラコペアの最下層には地下水の泉がある。10以上ある同じような泉は、すべての階層の家族の命を支えている。この地下都市と地下通路で繋がっているほかの地下都市もまた、同じつくりになっている。この井戸は地上と地下の双方の住民のため使われており、地下都市にとっては、水汲みの井戸としてだけでなく、通氣口にもなっている。外界から空氣と光が差し込む唯一の場所だ。

 泉の周りに、入り組んだ細い通路や階段につながれた居住区が、互い違いに上下に存在する迷路のような構造になっており、セルマの暮らす最下層は地下8階にあたる。

 セルマや、他の井戸に住む『水番』は、上から降りてくる桶に水を汲み、それが引き上げられる前に少しだけ水を飲んでみせる。それが『水番』の勤めだ。外敵によって井戸に毒が投げ込まれれば、それは地下都市で生きるすべての家族の死を意味する。だから、『水番』が必要なのだ。

 地下都市マラコペアがいつ建設されたか、詳しいことは誰も知らない。主イエス・キリストが生まれる何百年も前の時代にヒッタイト人またはフリギア人が建設したという者もいるし、ペルシャ人たちは伝説のペルシャ王イマが建設した地下宮殿がここだと主張しているらしい。いずれにしても、大昔のことだ。

 キリスト教が急速に広がると同時に、それを問題視するローマ帝国では迫害も始まった。聖ステパノが最初に殉教してから120年ほど経った今、迫害を避けて移動してきた信者たちの多くがこのアナトリア高原の地下都市マラコペアにたどり着いた。

 もともとの地下都市の壁は硬くしっかりとしていたが、その奥の空氣に触れる前の火山岩層は脆く容易に掘り進められることがわかった。それで、人びとは単にここに隠れ住むだけではなく、地下都市を拡張させ、狭い通路と防御のための大人5人分ほどの重さのある引き扉を用意した。それどころか、敵が通ると背後に回り通路を閉じて行き止まりの空間に誘導する罠までも作った。

 住居だけでなく調理場、倉庫、家畜小屋、会堂、そして長らく地上へと戻ることのできないときのための墓所までが用意されている。

 祈りを捧げる信徒たちの歌声がわずかに響いてきた。ひときわ美しい声は『聖女』ペトロネッラだ。聖堂と呼ばれる十字型をした広い空間に彼らは集い、敬虔な祈りを捧げる。この地下都市に潜む数百家族のうち、明け方の礼拝で聖堂に常に集うのは司祭ヒエロニムスを中心とした数十人だけだ。

 ファディルは、その重要な人びとの1人だ。若く力強く、新しい通路を掘るための設計を任されている有能な若者で、いずれは有力な指導者の1人となるだろう。まだ独身で、青年たちの住居区画に住んでいる。

 井戸の1つ上の階層で水汲み窓に問題があったのを機に、セルマの仕事場兼居住場にやって来たが、それをきっかけにときどき話をするようになった。

 蔑まれる異教徒のセルマに対する公正な態度。朗らかで誠実な人柄、若々しく精悍な佇まい。セルマが密かに想いをよせるようになるのに時間はかからなかった。

 もちろん、願いが叶うことはないだろう。彼は『聖女』ペトロネッラの崇拝者のひとりだし、そうでなくても異教徒と関係を持つことは、彼や彼を取り立てた司祭ヒエロニムスの立場を悪くするだけだ。

 司祭ヒエロニムスは、何人かいる司祭たちの中では穏健派だ。同じ地下都市に潜む異教徒たちとの関わりを禁止しようとする厳格派たちをやんわりと抑えて、その必要性を唱えた。掘り進む通路を完成させるためには純粋な信者たちだけでは倍の時間がかかる。それに、現在『水番』となっているのは、みな異教徒たちだ。なぜなら、同じ信者の中に、理論的に犠牲者となりうる存在を出すわけにはいかないから。

 セルマの村とその周辺の地域は、ローマ帝国の税制に反対して壊滅させられた。生き延びるためには、キリスト教徒たちの力を借りて、この地下都市に住まわせてもらう他はなかった。男たちは人足となり、一部の女たちはキリスト教に帰依して共同体の一部になった。そうしなかった子供のいない女は、竈番になったり、『水番』になった。

 キリスト教徒たちは、異教徒たちを半ば奴隷化していることを信仰という名の大義名分で覆った。後ろためさを交流しないことでなかったものにしている。厳格派の司祭たちを支持する裕福な信徒たちは、『水番』や人足たちは、無料で安全と食糧を享受しているのだから彼らの奉仕を受け取るのは当然なのだと主張していた。

 久しぶりに穏健派の司祭であるヒエロニムスが、教会の中心となってからは、こうした異教徒たちへの冷たい扱いは、減ってきているかもしれない。

 ヒエロニムスを中心に……もしかすると本当の求心力を持っているのは、ペトロネッラなのかもしれない。

 セルマは、『聖女』ペトロネッラの整った清冽な横顔を思い浮かべた。聖ペトロの血を引く高貴な生まれだと、人びとがひれ伏し敬愛する若い女が、かつてエラという名で、セルマと同じ村でハシシの製造で身を立てていた少女だったと知る者はほとんどいない。

 ファディルは、セルマの言葉を信じなかった。
「言っていいことと悪いことがあるぞ。彼女は高潔で穢れなき魂そのままの顔かたちをしている。セルマ、妬みは君自身のためにならないよ」

 妬みか……。そうかもしれない。一番低い階層に、もっとも地上から遠い洞穴空間に潜み、賛美歌を聴いている。けれど、信徒たちのように、神の国の訪れを待っているわけではない。いつの日かローマ帝国の怒りを氣にせずに暮らせる日まで生き延びたい、それだけだ。

 桶に水を汲む度に、複雑な想いが渦巻く。地上を避けて地下都市マラコペアに隠るのは、教えを認めず迫害する人たちがいるからだ。毒を投げ入れるとしたら、それは教えを迫害する為政者の手の者たちであろう。だから、毒で死ぬとしたら殺害者はローマ帝国の手の者だ。

 それでも……。司祭ヒエロニムスも、『聖女』ペトロネッラも、他の信徒たち、そう、ファディルですら、毒を入れられた水で彼らの代わりに死ぬのは『水番』だとわかってその役目をさせているのだ。

 桶が降りてくる度に、数分後にも生き延びられていることを願いながら水を飲む。ここに来て以来、願いが叶わなかったことはまだない。だが、その幸運が続かなった同胞もいることを知っている。隣の泉で2か月前に起こった騒ぎの時には、しばらくセルマの泉に投げ込まれる桶の数がずっと増えた。

 あれ以来、信者たちは、食事の度に生命を賭けることを課されている『水番』たちともっと距離をとるようになった。誰が隣の泉に毒を入れたのか、本当に地上から投げ入れられたのか、それとも中に忍び込んだ敵がいるのではないかと、誰もが疑心暗鬼になった。そして、より疑われたのはやはり異教徒の住人たちだった。

 それぞれの井戸は離れており、人ひとりが身をかがめてやっと通れる狭い複雑な通路を通ってしか行き来できない。桶が投げ込まれたときにその場にいなくてはならない『水番』たちは、他の井戸へと向かうような時間的余裕はない。だから、セルマはほかの『水番』たちが、何を想っているかを確かめることはできない。全員が未だ生きているのかすら知らないのだ。

 地上には通じていない泉が1つだけある。地下都市マラコペアの中央にあり、聖堂の奥、普段は人びとが足を向けない墓所の先で、位の高い聖職者や有力者だけがその場所を知りいざという時のために守っている。すべての泉に毒が投げ入れられて飲み水が使い物にならなくなった場合のためだ。

 神とイエス・キリストを信じ、運命を共にする信仰共同体とはいえ、完全にすべての人びとを信じているわけではないのだ。2万人が暮らすことのできる巨大地下都市網、常に新しく掘り続けられる通路、信仰共同体の中の新たな上下関係が、また別の不信を呼び起こしている。

 異教徒たるセルマは、聖堂だけでなく他の人びとの部屋、ワインセラー、食堂などを訪れることは許されていない。

 共有スペースとなっている調理場を訪れることは許されている。床に埋められたタンドール竈で調理する調理場は、泉からさほど離れていない場所にそれぞれ設けられている。煙突から漏れる煙が外界から見えないように、調理は夜間だけに限られる。できたての肉やパンは、まず聖職者に、それから裕福な家族たちと順番に提供される。セルマはもう誰も訪れなくなった明け方に、そっと調理場を訪れ、黙って食事をする。

 司祭ヒエロニムスが聖書を朗読しているのを耳にしたのは、食事を終えて居住区に帰ろうとしたときだった。

 賛美歌の音色と、厳かな雰囲氣に心惹かれ、ロウソクの光を頼りに普段は向かわぬ聖堂への通路を通った。聖堂は地下都市の中でもっとも大きな空間を占めている。十字型をしており、天井や壁に壁画までが施されている。セルマはそっと聖堂脇の戸口の陰に座った。

もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。

(ローマ人への手紙 14章15-17)



 尊敬する『聖女』ペトロネッラの周りに集まる若い婦人たちや、彼女を賞賛しその手を望むファディルと若者たちは、その聖句に神妙に頷いているが、彼らは知らないのだ。

 セルマの生まれ故郷がまだローマ帝国に対して反旗を翻す前のことだ。地域には広大な麻畑が広がっていた。過酷な夏にも涼しく心地よい上質な衣服や丈夫な縄を作るのに重宝された作物だが、葉や花を燃すことで酩酊効果があることも知られていた。

 貧しい村人たちは、パイプ用の樹脂を作成して、秘密裏に売り現金収入を得ていた。セルマと同じ村の娘エラも、パイプ用樹脂を作り売っていた。美しくあまたの男性に対する影響力を自覚していた彼女は、ローマからの差配人の誘いを断らなかった。ローマでは珍味として珍重されるヤマネ肉をご馳走してやると言われて彼と何度も逢ったのだ。そして、差配は、何度かめの訪問の時に、村で麻の樹脂を作成して密売していることに氣がついた。

 差配人は、その地域の不正をローマに進言することで出世した。セルマの村だけでなく近隣の50ほどの村が争いに巻き込まれた。

 村が、ローマとの争いで荒廃し、彼女を崇拝していたたくさんの若い男たちが命を落としていたとき、エラは差配人によってとっくに安全な南部地域に逃されていた。それから、彼女の身に何があったのか、セルマも他の生き残った村人も知らない。再び彼女が姿を現したとき、そこにいたのは若い男を籠絡してほしいものを手に入れていたエラではなく、愛と慈しみに満ちたキリスト教徒の鏡のような『聖女』ペトロネッラだった。

 彼女を知る者はもうほとんどいない。そして、何を言おうと、『聖女』に狂信的な忠誠を誓う信者たちは、異教徒のセルマたちの言葉など一顧だにしない。エラは、それをよく知っている。美しい面に慈しみに満ちた微笑みをたたえて、妄言を語る異教徒すらを許す信仰深き態度を演じてみせる。

「あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない」
そう告げる聖書の言葉を、エラはどのような思いで聴いているのだろう。彼女が炙ったヤマネ肉と引き換えにして捨てた故郷の村はもうない。戦って死んでいった崇拝者たちも、人足として、あるいは『水番』として蔑まれつつ、時には命を失う不条理に耐えて生き延びるかつての同郷者たちを、偽りの特権の座から眺めるのはどんな心持ちなのだろう。

 聖堂の中心、司祭と共に会衆に向かって立っているエラは、戸口に潜むセルマに氣づき、挑戦するかのような冷たい視線を向けた。他の信者たち、司祭ヒエロニムスも氣づかぬほどのわずかな時、まったく違う立場になってしまったかつての同郷者たちは、瞳を交わした。

 司祭ヒエロニムスが、聖餐を記念する聖句を唱え出すと、『聖女』ペトロネッラは我にかえり、祭壇の脇に置かれた水差しを手に取った。その中のワインは、司祭ヒエロニムスが祝福することで聖水となったと信者たちにありがたがられている水から作られた。一方で、その水をセルマが汲んだおり、毒が入っていないか確かめた行為は考慮され感謝されることもない。

 ファディルが聖なるパンを捧げ持ち、水差しを持つ『聖女』ペトロネッラと並んで司祭の待つ祭壇へと運んでいった。ヒエロニムスの唱う聖句に合わせて信者たちが唱和する祈りの響きが聖堂に満ちた。悲しいほどに美しいハーモニーが、地底の聖域に響き渡る。

 信徒たちは、迫害にも負けぬ清らかな心と互いに対する善行という正しさを拠り所に、『聖女』と共に天国に入る鍵を手に入れようとしている。彼らが今や日々口にするすべての食物や飲み物に入る水に込められた、セルマの苦い想いは氣づかれることすらない。
 
(初出:2023年8月 書き下ろし)

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Respighi: Pini di Roma, P. 141 - II. Pini presso una catacomba

私にとっての「ローマ時代のキリスト教迫害」のイメージといったら、誰がなんといおうともこの曲なんですよ。今回の作品はこの曲のイメージから何となく生まれてきたものです。
* * *

デリンクユについて興味をお持ちの方は、こちらがわかりやすくて興味深かったです。

デリンクユ:かつて2万人が生活していた地下都市とは
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Posted by 八少女 夕

【小説】花咲く街角で

今日の小説は『12か月の建築』7月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。先週もこのシリーズでしたが、ここで発表しておかないと、また1月ずれちゃいそうなので。決してどっかの小説のヒロイン登場を勿体ぶっているわけではありません(笑)

今月のテーマは、フランスアルザス地方の家です。

実はですね。私の曾々祖母の故郷はストラスブールでして、かつて彼女の痕跡を捜しに旅をしたことがあるのです。こんな世界に住んでいたのかと感動してしまいました。それほどにこのアルザス地方は印象に残る場所でした。

今回の掌編の裏テーマは「人生の楽しみ方」です。忙しく真面目に生きているだけで、何かを忘れがちなのは私も同じ。ある人たちは、人生の楽しみ方をよく知っているように思います。


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花咲く街角で

 カスタード色のルノーからは、どこかオイルの焦げるような匂いがしている。ティボーからお香みたいな独特の香りがするのと同じで、エリカはすでに慣れてしまっていた。

 車にはほとんど興味が無くて、ポルシェとアルファロメオを間違えたことすらあるエリカはいまだにいま乗っているオンボロ車の車種が定かではない。ティボーは「カトルシュボ」と言っていたような氣はするが。少なくともティボー自身の名前は憶えたのだから、それでよしとしてほしい。

 ブリキのおもちゃのような車内装飾。赤い縞のシートは、今どきの車のように運転席と助手席が完全には独立していない。ティボーが右手を下に延ばすとき、はじめエリカは足にでも触られるのではないかと身構えたが、何のことはない、その位置にギアがあるだけだった。

 地平線まで続く葡萄畑からは、硫黄の香りが漂ってくる。昨夜の通り雨を輝かす朝の光が葡萄畑をわたる風とともにルノーの中を通り過ぎていく。泣きたくなるくらいの美しさだ。

 アルザスワイン街道をいつかは通ってみたいとは思っていたけれど、まさかこんな形で通ることになるとは思わなかった。朝からワインをがぶ飲みして、オンボロ車を運転する、首に変な入れ墨のあるちょっとジャンキーっぽい見知らぬ男に連れられて、エリカは『人生の延長試合』をはじめたところだ。

 コツコツと真面目に生きてきたつもりだった。小さな貿易会社の事務員として10年働き、慎ましく生活してきた。来年には5年同棲した男と結婚して、新婚旅行もするつもりだった。でも、なぜかその男と、職場でエリカが一番仲がよかったはずの同僚が「おめでた婚」をすることになっていた。しかも、大切に貯めた結婚資金の大半はいつの間にか消えて、エリカが彼に「貢いでいた」ことになっていた。

 それがわかってからしばらくの事は、もう思い出したくもない。半分自棄で身辺整理をして逃げ出してきた。新婚旅行に行くならと憧れていたコルマールで、人生を終えてやれと鼻息荒く飛び出してきた。その旅費ぐらいは残っていたから。

 そして、パリからTGVに乗ってコルマールまで着いた。噂に違わぬ素敵な街並みだったけれど、楽しそうな観光客たちを横に、「人生を終える場所」など見つからなかった。エリカは、華やかな町の中心部から離れ、ホテルの小さなバーでワインを飲みながらメソメソと泣いていた。

 その時に、隣でパスティスを飲んでいたのがティボーだった。
「なんで泣いているんだ?」

 エリカは、拙い英語で自分の悲劇を語ってみた。思ったほどの同情を得られた氣はしなかった。

 ティボーは、まるで「そんなことはフランスでは日常茶飯事だ」とでも言いたげな態度で頷き言った。
「せっかくこんないい時期にここに来たんだから、そんなにすぐに『おしまい』にすることはないよ。ワイン街道はみたのか? コルマール以外の村は?」

 エリカは、若干ムッとしながら「まだ」と答えた。ティボーは、にやっと笑って言った。
「じゃあ、明日からは『人生の延長試合』だ。ワイン街道で、アルザスワインをたらふく飲んで、それからもっと小さな村を見にいこう」

 これまでのエリカだったら、こんな怪しい男の誘いには乗らない。騙されてお金を巻き上げられるか、それに類したろくでもない事が待っていそうだ。でも、「死ぬに死ねない」状況で、さらにいうと帰国しても仕事も帰る場所もない現状では「その手の犯罪に巻き込まれるのもアリか」と思ってしまったのだ。

 そして、エリカはそのホテルを今朝チェックアウトして、このオンボロ車の助手席に座ることにしたのだ。小さな荷物は、後部座席にぽつんと載った。

「あなたって、何している人? 引退するって年齢じゃなさそうだけど」
エリカは、疑問に思っていたことを口にした。見かけから推察するに40代くらいに見える。もう少し上の世代に多いヒッピー的な長髪を後ろで結んでいる。入れ墨はサンスクリット語のようだけれど、どんな意味か訊くのはやめた。白人がクールだと思って入れる漢字タトゥーは、漢字文化圏の者が見ると情けないモノが多いので、サンスクリット語だけが例外ではないと思うから。

「俺? 詩人……かな。ま、他にもいろいろやっているけれどね」
うわ。やっぱり、ヤバそうな人かも。……ま、いっか。たかったり、騙したりしようにも、私にはほとんど何も残っていないし。

 なだらかな丘陵をいくつか登って、ルノーは小さな看板の出ている葡萄畑の傍らで停まった。ティボーは、懐から小さなビニール袋を取りだして、中に入っている紙で煙草の粉を巻いて火を点けた。

 ああ、この香りだ。エリカは納得した。お香のようだと思ったのは、巻き煙草か。くたびれたアロハシャツに綿の7分丈パンツ、黒いビーチサンダル。肩の力の抜けた人だ。

 葡萄農家と少し話すと、葡萄棚で日陰になった石のテーブルとベンチに案内された。白ワインといくつかのチーズにクラッカーが出てきた。

「さあ、乾杯しよう」
ティボーは笑った。

「もうお酒? まだ9時にもなっていないのに」
エリカが言うと、ティボーと農園の女将は不思議そうな顔をした。

「朝と、夜で何が違うんだい?」
言われてみると、なぜ朝だと飲まないのか、よくわからない。ましてや人生を終わらせるつもり、もしくは『人生の延長試合』を生きているエリカには、さして重要な禁忌とは思えなかった。ええい、飲んじゃえ。

 飲みやすい白だ。甘すぎず、渋さもない。いくらでもいけそう。このカマンベールみたいなのとよく合うし。しかも、このバケット、パリッパリだ。美味しいなあ。こんなにきれいな場所でワインを飲んだ事って、これまでになかったかもしれない。誰かのグラスが空じゃないかと心配する必要もないし、ただ自分だけが楽しむためのワイン。最高だわ。

「ほら。まだ先は長いから、酔っ払いすぎないように。もう行くよ」
1杯だけ飲むと、意外にもティボーはさっさと立ち上がった。

 そして、ようやくエリカは氣がついたのだが、ティボーは『アルザスワイン街道』を通り、この先のいくつもの農園でさまざまなワインを飲み比べさせてくれるつもりらしい。

 フランス北東部を、北はマーレンハイムから南はタンまでヴォージュ山脈の麓の市町村を結ぶ170キロメートルを『アルザスワイン街道』と呼んでいる。アルザスワインの1000にものぼる生産者がこの地域にあり、試飲をしたり生産者から直接買ったりすることができる。

 そして、それだけでなく途中で通る村がいちいち美しい。

 壁の骨組みを木で造り、その間に石やレンガを入れて漆喰で固める「木骨造り」という中世ドイツの影響を色濃く残した様式の家々はカラフルな壁と飾られた花と相まっておとぎの国のようにかわいい。

 世界中にも伝統的な家屋を一部だけ残した歴史地区などはあるけれども、『アルザスワイン街道』は170キロメートルにわたり、通る村のほぼすべてがこのような様式の家で建てられているのだ。

 エリカは、ずっとコルマールやいくつかの有名な村の一部だけが、このような美しい外観なのだと思っていたので、とても驚いた。

「ああ、ここでコーヒーを飲まなくちゃ」
そう言ってティボーはなんでもないパン屋の前で車を停めた。

おはようモルゲ 、ティボー」
パン屋の女将が挨拶する。

「やあ。パン・オ・ショコラはあるかい?」
ティボーの問いに、女将はショーケースを自慢げに見せた。

 店の片隅の丸テーブルで、紙ナフキンで包んだだけのパン・オ・ショコラとコーヒーを渡された。何十もの層となった生地がサクッとした歯触りで口の中に広がる。固すぎず、でも、クリームではない板チョコがたっぷり入っている。
「うわ。ちょっと待って。これ、本当に美味しい……」

 店には次々と客が入ってきて、お互いに挨拶しながら他愛のないことを話している。ティボーともみな知り合いらしく、次々と会話が弾んでいた。ドイツ語に近い不思議な言葉、アルザス方言だ。

 たった1杯のコーヒーと、1つのパンを食べている間に、世界がいきなり社交的で優しくなったかのようだ。ここに逃げ出してくる前の生活では、休憩時間とはスマホをチェックしてトイレに行くぐらいの時間だった。この国に到着してからも、パリでは観光客に対しての事務的で冷たい扱いを受けていたように思う。

「コーヒータイムも、悪くないだろ?」
ティボーは、そんなエリカの考えを見透かしたかのようにウインクした。

 また車に乗って、葡萄畑の間を走っているときに、エリカは言った。
「私ね、朝からワインなんて飲んじゃいけないって思っていたけれど、そういうばコーヒータイムもコーヒーを飲むだけでみんなでおしゃべりすることは避けていたかも」

「どうして?」
「どうしてかしら。もちろん仕事中には決まった時間以上に休んじゃいけない決まりはあると思うんだけれど、休みの日は関係ないはずよね。でも、そういうものだと思い込んでいたのかも」

「今朝の時間の過ごし方はどう? 心地よい? それとも居心地悪い?」
ティボーは助手席のエリカを見て訊いた。

「新鮮で、そうね。とても心地よい驚きだと思うわ。午前中って、人生って、こんな風に楽しんでいいのかって」
「それならよかった」

 午前中に、ティボーに連れられて3軒の農家で白ワインを楽しんだ。太陽が高く上がるにつれて氣温はぐんぐんと上がり、アルコールはどんどん蒸発していった。1杯につき50ccもないとはいえ、運転するティボーがこんなに飲んでいるのは合法なのかどうか怪しい。だが、さすがフランス人というのか全く酔った感じはない。

「さあ。昼食の時間だ」
コルマールよりも南のエギスハイムに着いたとき、ティボーは言った。

 エリカは、言った。
「お昼は、私が払うわ」

 朝からエリカは1銭も払っていない。何度か財布を取り出したが、ティボーに人さし指を振って断られてしまったのだ。

 ティボーは、片眉をあげてニヤッと笑った。
「それは無理だな。レストランじゃないからね」

 どういうこと? ティボーは、観光客たちのように車を城壁の外の駐車場には停めず中に進めて村人が停めている駐車場に停めた。

 そして勝手知ったる足取りで小さな小路を進み、クリーム色の壁の家の外階段を登って行った。茶色い木のドアを解錠して中に入っていった。
「ようこそ。我が家へ」

 エリカは目を丸くした。ティボーの住む家?!

 外壁はクリーム色だったが、内壁は白かった。外壁と同じなのは木骨が台形に張り巡らされていることで、同じ色の古い木材の柱、同じくらい古そうな丸い木のテーブルと椅子、備え付けの家具類だった。天井も同じ木材で、丸いランプは取り付けてあるが、それ以外は「中世からこのまま」と言われても信じてしまいそうな佇まいだ。

 よく見るとキッチンにはガスコンロやオーブンもあるし、冷蔵庫もあるのだが、その冷蔵庫もどこのアンティークなんだろうと思うような古い50年代風外観で、先ほどまで乗っていたルノーを彷彿とさせた。

「まあ、座って」
そう言うと、部屋の片隅に置かれたレトロなラジオのスイッチを入れた。サクソフォンが心地よいラウンジ・ジャズがわずかな雑音とともに部屋に満ちる。

 それから、レモンを入れた緑の重いガラスコップを持ってきて、そこにミネラルウォーターを注いだ。

 彼はラジオに合わせて鼻歌を歌いながら、冷蔵庫から食材を取りだして木製のキッチン台に並べた。

「えーと、何か手伝えること、ある?」
エリカが訊くと、彼は「そうだね」と言って、テーブルに洗ってあるチシャを持ってきた。
「これを、このお皿に載せて」
「こんな感じ?」
「うん。それでいい」

 彼は、何かのパテをそのチシャの上に載せて、上からバルサミコ酢をかけた。それから、テーブルに冷えたワインボトルとグラスを持ってきた。
「ゲヴュルツトラミネールだよ。ちょっと癖のある料理に合うんだ。だから、前菜は鴨のパテにした」

 ティボーはグレーのテーブルマット、布ナフキン、カトラリーレストなどを慣れた手つきでセットしていき、あっという間にレストランのようなセッティングにしてしまった。

 グラスに琥珀色のゲヴュルツトラミネールが注がれた。なんともいえないフルーティーな香りがする。
「これ、何か薬草でも入っているの?」
「いや、そういう品種の葡萄なんだ」

 引き締まった辛口で、ワイン自体に強いアロマがあり癖が強いのだが、香辛料のきいた鴨のパテに驚くほどよく合う。
「意外ね。喧嘩しそうなのに、こんなに合うなんて」

 そして、もう1つ意外だったのは、ティボーが料理上手だったことだ。パテの次に、スズキの香草焼きをあっという間に作り、茹でポテトとほうれん草まで添えてあった。切るときに幸福な香りを漂わせたパリパリのバゲットは小さな籠の中で待っている。今度のワインはリースリング。
「もしかして、料理人でもあるの?」

 ティボーは、笑った。
「若い時にセネガルやモロッコを旅して回ったんだ。その時にそういう仕事をしたこともある。でも、それとは関係なく、食べるのは好きなんだ。毎回の食事は大いに楽しまないとね」

 エリカは、前に食事を楽しんだのはいつだったかと考えた。3回きちんと食べることは心がけていたつもりだったけれど、それは楽しかっただろうか。今朝、ホテルで出てきた朝食ですら「タダなのにもったいないから」食べたような氣がする。

 ティボーは、「デザートはテラスで食べよう」と言った。石の階段を登って、裏の庭側に小さなテラスがある。そこからはどこまでも続く葡萄畑を一望することができた。すぐ近くの建物の屋根に、コウノトリが巣を作り、カタカタと音を立てている。

 ビターオレンジのシャーベットに、エスプレッソコーヒー。とても簡単なデザートだけれど、こうやってゆったりと食べると本当に美味しいなあ。

「日本で使う漢字でね、忙しいって字は心を亡くすって書くの。私、もしかしてずっと心をなくしたまま生活していたのかもしれない」

 ひとり言のようなエリカの言葉に、ティボーは微笑んだ。
「今日、心を取り戻した?」

「わからないけれど、少なくとも何もかもがきれいで、美味しくて、楽しい。久しぶりだなあ、こういう氣持ち」

 空のグラスに、リースリングが新しく注がれる。窓枠から入ってくる優しい陽の光がグラスに反射する。
「じゃあ、わかるまで、ゆっくりと探せばいいよ」

「そうできたらいいけれど、お金もほぼ使い切っちゃったし、そうもいかないわよね」
エリカは、現実的に答えた。

「中途半端にあるからお金は足りないって感じるんだよ。全くなくても、実は何とかなるものさ」
「でも、今夜泊まるホテル代すら足りないかもしれないのよ」
「ほらね。ホテルに泊まろうと考えるから足りないのさ。……この階の部屋は空いているから使うといいよ」

 エリカは目を白黒させた。
「なんで? 知り合いでもなんでもない人をただで泊めても、あなたにメリット何もないじゃない?」

 ティボーは、肩をすくめた。
「僕は、世界中で、知り合いでもなんでもない人たちにしばらく住まわせてもらったし、助けてもらったよ。誰もメリットがあるないなんて言わなかった。誰かが困っていたら手を差し伸べて、楽しく時間を過ごせれば、それでいいんじゃないかな。それじゃ君の氣が引けて困るなら、家事を手伝ってくれればいいし、この村にしばらくいれば、簡単な仕事くらいは見つかるだろうし」

 エリカは、疑い深く食い下がった。
「でも、私、フランスの滞在許可もないし」

 ティボーは、ウインクした。
「そんなことは、いま氣にしなくてもいいんだよ。お金のことも。まずは、よく寝て、食べて、飲んで楽しむ事が先だ。それ以上のことは、あとからついてくる。いまは、この1杯を全力で楽しむんだ」

 エリカは、少し考えた上で、ワイングラスを持ち上げた。確かに、昨日あれだけ悩んだけれど「人生の終わらせ方」は見つからなかった。それよりも、無茶苦茶な『人生の延長試合』を続ける方が、なんとかなりそうな予感がする。

 生き方を少し変えてみたら、強敵みたいに思っていた人生とも、うまく折り合っていけるのかもかもしれない。

(初出:2023年7月 書き下ろし)

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Die schönsten Weindörfer im Elsass - Eguisheim an der Weinstrasse - Alsace
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Posted by 八少女 夕

【小説】水の祭典

今日の小説は『12か月の建築』6月分です。7月になってしまいましたけれど……すみません。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、オーストリアはザルツブルグにある『ヘルブルン宮殿』の『水の庭園(Wasserspiele)』です。

ザルツブルグに夏に行かれる方は、滞在を1日延ばしてでも行く価値がありますよ。私はザルツブルグには2度ほど行ったのですけれど、一番印象に残っているのは今は亡き母と回ったこのヘルブルン宮殿です。

今回のストーリーの2人はこちらの作品で登場させた既存のキャラクターです。顛末はこの作品にも触れていますので、前作は読まなくても全く構いません。


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水の祭典

 暑い。昨日は爽やかな初夏らしい、結婚式にはぴったりの天候だったけれど、今日はうって変わって、強い日差しに焼かれて焦げちゃいそう。

 ケイトは、隣を歩くブライアンのポロシャツ姿をチラリと見た。スーツでない彼を見るのは、もしかして初めてかもしれない。

 ブライアン・スミスは、昨日華燭の宴をあげたダニエル・スミスの兄だ。ということは、昨日からケイトの親友であるトレイシーの義兄になったということだ。

 よりにもよって、結婚式をオーストリアのザルツブルグで挙げたのは、トレイシーがザルツブルグで生まれ育ったからだ。でも、婚約パーティーはロスでしたから、ケイトがザルツブルグに招待されるとは思っていなかった。

「ねえ、トレイシー。大切なあなたの門出だもの、もちろん喜んで駆けつけたいのよ。でも、私、この間パリに行ったときにけっこうな貯金を使ってしまったし、正直言って経済的に厳しいの」

 そう言ったケイトにトレイシーはウインクして答えた。
「心配しないでよ、ケイト。あなたの旅費は、もちろんご招待よ。忘れているかもしれないけれど、あなたが私たちの恋のキューピットなのよ。それに、あなた、ブライアンのガールフレンドとして、スミス家の一員みたいなものじゃない?」

 ケイトは、後半の誤解にあわてて、前半の提案へのリアクションをし忘れた。
「私たち、そんな関係じゃないわよ?! 聞いていないの?」

「だって、デートしているんでしょ?」
トレイシーに訊かれて、ケイトは首を傾げた。
「デートなのかな? たしかに何回か誘われて食事には行ったわ。でも、別にそれ以上の進展はないし、女友達の1人なんじゃないかしら? ニューヨークにはちゃんとした恋人がいるかも」

 トレイシーは、ため息をついた。
「まだ、そんなところなの? ダニーには、あなたの話ばかりしているみたいなのに」

 ケイトは、ますます首を傾げた。ブライアンとは、話していてとても楽しい。ヘルサンジェル社の重役というアメリカン・ドリームの頂点にいるような存在のはずなのだが、時おり、その辺の中小事務所で働く平社員ではないかと思われるような空氣を醸し出す人だ。

 いつだったか、それが不思議で訊いたときに、彼は笑って頷いた。
「もともと僕は友達の仕事を手伝っていただけの、ふつうの労働者だったんだよ。だけど、その友達の進める事業がとんでもなく成功して、会社がやたらと大きくなってしまったんだ」

 ヘルサンジェル社は、健康食品を扱う大企業だが、その最高経営責任者であるマッテオ・ダンジェロと、広告に起用されたスーパーモデルである妹アレッサンドラ・ダンジェロのイメージが強すぎる。マッテオの華やかな生活は、有名人たちとの数々の浮名を含めてセレブのゴシップ誌にしょっちゅう紹介されている。

 一方で、最高総務責任者が誰であるかは、ゴシップ誌しか見ないような人たちはまず知らない。そして、それが、いまケイトの隣を歩いているブライアンなのだ。

 かつて、トレイシーからの頼まれ後ごとが縁で、たまたまパリの空港でブライアンと知り合ったケイトだが、彼がロサンゼルスに来るときに食事に誘われるという付き合いが1年ほど続いている。つまりまだ両手で数えられるほどだ。

 彼が本当はもっとロスに来ているのか、または他の女性とも会っているのかも、ケイトは知らない。それを知る権利があるとも思っていない。まさか、トレイシーが言うように、彼が自分に夢中だなんて思うほどうぬぼれているわけではない。

「今日は、どこに行くの?」
ケイトはブライアンに訊いた。新婚夫婦の邪魔をするわけにはいかないし、トレイシーのオーストリアの友達とは親しくないので、自由時間を過ごすのはなんとなくブライアンと2人ということになった。

「トレイシーおすすめのヘルブルン宮殿だよ。今日みたいに暑い日にはぴったりだと思う」
ブライアンは言った。

 旧市街から見えている高台のホーエンザルツブルク城や、庭園のきれいなミラベル宮殿は挙式の前日にトレイシーやダニーの家族と一緒に見学したのだが、他にも宮殿があるとは知らなかった。
「たくさん宮殿があるのね」
「夏の離宮だそうだ。だから少し離れているんだね」

「誰の離宮? ハブスブルグ家の王様?」
「いや、ザルツブルグがオーストリアになったのは19世紀で、それまではドイツ支配下の大司教領だったんだ。だから、ヘルブルン宮殿を建てたのも大司教ってことになるね」
「お坊さんが、そんなにお金持っているの?」
「大司教といっても領主だし、それに、このマルクス・ジティクスって大司教はホーエンエムス伯だからもともと貴族だ。いまの宗教家のイメージとはちょっと違うんだろう」

 夏の離宮というからには、涼しい高地にでもあるのかしら。ケイトはブライアンに連れられるまま、市バスに乗った。かなり遠くなのかと思ったら、30分もかからずに目的地に着いたようだ。
「ここ?」

 なんでもないバス停かと思ったら、道の向こうに黄色い壁があり、「ヘルブルン宮殿入り口はこちら」という矢印が見えた。さすが宮殿の塀だけあって、そこから入り口まで暑い中かなり歩いたが、そこからは美しい庭園だったので、外を歩くときのような日差しの暴力は感じなかった。

「大丈夫? もう疲れてしまったかな。先に休むかい?」
ブライアンに訊かれて、ケイトは首を振った。いくら何でもそれほどヤワではない。
「いいえ。大丈夫よ。暑いけれど、もう夏ですものね。ああ、広い。こんなに大きな敷地のお城だったら、ザルツブルグの旧市街には入りきらないわよね」

 ブライアンは、目を細めて「そうだね」とケイトに笑いかけた。それから、ケイトが手にしているカメラを見て言った。
「それ、しまった方がいいかもしれないな。これを使って」

 彼が、ポケットからビニール袋を2つ3つ取りだして渡してきたので、ケイトは首を傾げた。
「これ、どうするの?」

「濡れたら困る電子機器があったら、それで保護しておいた方がいい」
ブライアンはそう言って、彼のスマートフォンもビニール袋で包んでポケットにしまい直した。

 ケイトは、これまでいくつかの噴水のある庭園を訪れたことがあるが、スマートフォンやカメラをビニール袋にしまうようなことはしなかった。ブライアンって、意外と大袈裟な人なのかしら?

 グループツアーの集合アナウンスがあり、「行こう」と言うブライアンに続いてケイトはグループに合流すべく進んだ。

 そして、案内人は宮殿の中ではなく一同を庭園へと導いた。

 さまざまな大理石の彫刻で飾られた広大な人工池が涼しげな水音をたてている。緑色の水には黒い大きな魚や鴨が泳いでいる。宮殿を向こうに見渡す池の傍らにオレンジの壁とさまざまな彫刻で飾られたローマ劇場と石テーブルや椅子のある広場があり、案内人はまずそこで止まった。

「ようこそ、ヘルブルン宮殿の水の庭園へ! 今日は、とても暑いのであなたたちはまさにぴったりの場所を訪れたというわけです。さまざまな噴水をお目にかける前に、『諸侯のテーブル』にお座りいただき、この庭園の歴史について簡単にご説明しましょう」
案内人はそう言って、参加者たちをテーブルの周りある8つの椅子にそれぞれ座らせた。

「この宮殿は、大司教マルクス・ジティクス・フォン・ホーエンエムスの依頼で、1613年から15年にかけてイタリアの建築家サンティーノ・ソラーリの設計で建設されました。後期ゴシック様式の素晴らしい建築の妙については、後の宮殿内ツアーでご説明するとして、まずは世界的に有名なこの庭園の仕掛け噴水についてお話ししましょう」

 案内人は、にっこりと笑って一同を見回した。
「実は、大司教マルクス・ジティクスは、ちょっと人の悪いところがあったようで、宮殿を訪れる客をびしょ濡れにして、驚き慌てるさまを眺める趣味があったようなのです……こんなふうに」

 そう言った途端、8人が座った席の真後ろの石畳から水が噴き出して、水のカーテンができた。
「きゃあっ」
実際には、動かなければ濡れないような絶妙の位置に水は噴き出しているのだが、びっくりして立ち上がった観光客はあっという間に濡れてしまった。

 ケイトも思わず身をひねって倒れそうになったが、さっとブライアンが腕を伸ばして庇ってくれたので、難を逃れた。

「ありがとう。あら、代わりに濡れてしまったのね、ごめんなさい」
ブライアンの腕と、ポロシャツの袖が濡れている。

「大したことはない。すぐに乾くよ。……次の仕掛けでもっと濡れるかもしれないけれど……」

 ケイトは、笑って訊いた。
「こういう風になるって、知っていたの?」
「具体的には知らなかったけれど、濡れる可能性があるとトレイシーが教えてくれたんだ」

 子供たちは喜んで、自ら水の中に飛び込んでいっている。大人たちは首をすくめて、水が止まるのを待った。無事に止まったので、席を立ち少し離れたが、とある観光客がしくみはどうなっているのかよく見ようと覗くと、今度は座っていた椅子からも噴水が噴き出して、その男はびしょ濡れになった。これらの不意打ちで、仕掛け噴水ツアーの観客たちはみな笑顔になり、一瞬で打ち解けた。

「この仕掛け噴水は、当時のシステムのままで、電動ポンプなどは一切使用されていません。世界的にももっともよく保存されたルネッサンス後期の技術の粋を、お楽しみください」

 園内に立ち並ぶ彫像たちは、よく見るとふざけた表情を持つものが多く、あかんべーをしているように見えるものもある。よく見るとその口の中には管があり、どうやらこれも噴水となっているようだ。

 続いて案内された人工鍾乳洞グロットには、水の中を動き回る龍やイルカ、舌を出し入れする悪魔像など、現代ではテーマパークでよく見られるような仕掛けがそこここにあった。

 ここでも、油断しているのをいいことに、高いところ、低いところから客たちが通り過ぎるのを狙ってピュッピュと水が吹き出してくる。

 外に出れば、先ほどは何もないと思っていた通路には水のアーチができており、ブライアンとケイトも笑いながらもはや濡れることを避けずに通り過ぎた。

 ギリシャ神話を題材にしたさまざまな仕掛けのある洞窟を通り、案内されたのは巨大なドールハウスのような機械劇場だ。3階建ての建物にオルゴール仕掛けのごとく現れる精巧な仕掛け人形たちが、圧巻だ。偉そうな男が頷き、労働者たちは樽を転がし、兵隊たちが行進し、熊は引き回されている。そして、やはり水力で自動演奏されるオルガンが楽しげな音楽を奏でる。

「見て。あそこ、踊っているわ」
「本当だ。そしてここでは、屠殺場面かな?」
ケイトとブライアンは、これらのバラエティ豊かな仕掛けのすべてが、全く電氣を使わない水力だけのカラクリだということにあらためて驚いた。

 そして、最後に案内されたのは、噴水の水圧で王冠が浮く仕掛け噴水だ。はじめはゆっくり持ち上げて、さほど高くなかったので油断していると、突然ものすごいスピードではるか頭上まで持ち上がる。水と光の相乗効果でとても幻想的で印象深い。

 洞窟の外に出ると、またしてもあちこちから水が飛んでくる。宮殿にかかっている鹿の頭部に至っては、角からも口からも四方八方に水が飛んでくる。

 ケイトは、こんな風にきゃあきゃあ言って楽しんだのは、本当に久しぶりだと思った。子供の時以来かもしれない。普段は礼儀正しくて物静かなブライアンも、大笑いして楽しんでいる。ふと氣がつくと、物理的に距離が近づいてしまった。

 バスを降りてこの宮殿まで歩いていたときには、2人の間にはもう1人が入れるくらいの距離があったのに、今はとても近くを歩いている。そして、それがとても自然に感じられた。

 これまでは、2人の仲をトレイシーに指摘されたら、いつも全否定していたけれど、もしかしたら私たちって本当にそういう仲になるのかも。

 そう思って、なんとなくブライアンの顔を見たら、彼もこちらを見て微笑んでいた。あちこち濡れて、少々情けない身だしなみになっているにもかかわらず、そんな彼がいつもよりも格好良く見えて、思わずケイトは顔を赤らめた。
 
(初出:2023年7月 書き下ろし)

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非常に興味深いシステムですので、よかったらこちらでご覧ください。直訳調ですが、日本語の字幕もつけられますよ。


Austria's 400-year-old gravity fountains still work perfectly
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Posted by 八少女 夕

【小説】心の幾何学

今日の小説は『12か月の建築』5月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、モロッコの『リアド』とそれを彩るモザイク『ゼリージュ』です。

実は、モロッコはアフリカ大陸内のスペイン領セウタに行ったときに、半日ツアーで行ったことがあるだけなのです。なので、美しいリアド滞在はまだ未体験。めちゃくちゃ憧れているんですけれどね。


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心の幾何学

 ナナはスークを急いで横切った。この市場には、これまでに5度ほどしか訪れたことがない。観光客が土産物を探すマラケシュのスークなどと違い、観光客のさほど多くないこの町は、地元民の生活に即した品物のみが置かれ、大半が屋根のない露天だ。足下の乾いた埃っぽい土が舞い上がり、そこここに放置されたゴミを踏まずに進むことと、スリに注意することで神経をすり減らす。

 ベルナールが言うように、リアドに隠っていればいいのかもしれない。何かあったら、彼に対処してもらわなくてはならない。彼はため息をつきながら「だから、言っただろう」と子供を諭すように言うのだろう。

 でも、今日は『彼』に食事を振る舞うつもりなのだ。それにザタールがないなんて、あり得ないもの。ナナは、買ったスパイスを抱えて急いで帰路についた。

 ザタールはモロッコの万能ふりかけと言うべきミックススパイスで、塩、タイムの一種、白ごま、スーマックという赤い果実を乾燥させた粉などが入っている。肉を素焼きの壺で長時間煮込んだタンジーヤの付け合わせとして添えるパンはプレーンでもいいのだが、ナナはザタールをかけてから焼いたものが一番合うと思っていた。

 埃っぽく、灰色で、異国情緒もへったくれもない街角を、なんとか迷わずに進み、ナナはくたびれたピンクの壁がつづく一画の一番奥に向かった。それから、重い扉についた手の形をした取っ手を操作しながら解錠した。

 それまでの世界と、まったく違う光景が広がる。柔らかな円やくびれたカーブが優美なアーチ。透明ガラスと装飾が幻想的な陰影を作り出すランプ。細かい紋様のモザイクタイル。そして、金銀の刺繍で彩られた鮮やかな布の襞が織りなすオリエンタルな影。

 東京で過ごした子供の頃に読んだ「アラビアンナイト」の絵本にあった王宮さながらだ。フランスで知り合ったベルナールが「モロッコで暮らさないか」と誘ってきたときに想像していた世界そのものだ。

 大きな中庭を持つ古い邸宅を改装した宿泊施設として、日本をはじめとして世界の観光客にも人氣なリアドは、もともとはアラビア語で「邸宅」を意味する言葉だった。その意味で、ここもまたリアドには違いない。

 12世紀から15世紀に、レコンキスタが進むイベリア半島から逃げてきた有力者たちが建てたアンダルスとモロッコの建築様式が融合した邸宅の多くは、21世紀には観光客向けのエキゾチックな宿泊施設として生まれ変わった。

 このリアドも、かつてはそのブームに乗ろうと、水回りをはじめとして宿泊施設らしく改修されたが、マラケシュやフェズのように観光に適した町ではなかったので経営に行き詰まったらしい。ベルナールは、二束三文で売りに出されていたのを見つけたと自慢げに語った。

「僕はね。このリアドを完璧な状態に修復して『千夜一夜物語』の世界を再現したいんだ」

 パティオには、星形の噴水が置かれ、棕櫚やバナナの木が美しい木陰を作っている。2階はバルコニーがパティオを囲むようにあり、5つのテイストの違う部屋があった。

 ナナが使っている部屋は、ターコイズ・ブルーをテーマにした部屋で、とりわけバスルームの壁とタイルが美しかった。

 ベルナールに、モロッコ移住を提案されたとき、ナナは彼とここに住むのだと思っていた。実際には、常にここに住んでいるのはナナ1人で、ベルナールは年に2か月ほど滞在する以外は、月に3日ほど訪れるだけだった。

 パリにあるモロッコのインテリアを売る店は繁盛しており、彼はこれまで通りに2国を行き来して暮らすのだろう。

 彼が、電話で話している姿を見て、彼は離婚もしていなければ、ナナを正式なパートナーにしようとも思っていないことを知ってしまった。これは、日本でいうお妾さんにマンションを買い与えるのと変わらない事なのだと氣がつき、がっかりした。

 それは、日本で母親が受けていた扱いと同じだった。私生児だから、ハーフだからと受けた仕打ちには負けたくなかった。だから、フランスに渡り自分の力で生きていこうとした。けれども、フランスではナナは今度はアジア人として扱われた。1人前の仕事をさせてもらえなかったのは、人種差別のせいだとは思いたくなかったけれど、実力が無いと認めるのも悲しかった。しかも、結局、自分もまた愛人として囲われることになってしまった。

 日本やフランスに戻って、地を這うような生活をしながら独りで生きていく決意はまだつかない。このアラビアンナイトのような美しい鳥籠と、その外に広がる厳しい現実の世界の対比はナナを億劫にする。

 細やかな刺繍の施されたフクシアピンクのバブーシュを履く。ただのスリッパと違い、足にぴったりと寄り添う滑らかな革のひんやりとした肌触りが好きだ。足下には星や千鳥のように見えるタイルが敷き詰められている。何も知らなければただの床だが、ゼリージュ細工の仕事を知るナナは、足を踏み出すごとに畏敬の思いを抱き歩く。

 コンコンという、規則正しい音がする。ナナは、音のする方へと向かった。ホールの隅で、『彼』が働いている。ゼリージュ職人であるアリーだ。

 細かくカットしたタイルを組み合わせて、幾何学模様のモザイクを作り出す装飾をゼリージュと呼ぶ。古くからイスラム圏で広く使われていたゼリージュは、その膨大な手間から現在ではほぼモロッコだけに継承されている。

 白、黒、青、緑、黄、赤、茶の釉薬を塗って焼いた伝統的なタイルを、360種ほどもあるという決められた形に割っていく。組み合わせるときに、他のタイルとのあいだに隙間が出来ないように、それぞれを完璧な形にしていかなくてはならない。それは氣の遠くなるような作業だ。

 アリーは、そうした技術を継承した職人だ。ベルナールの依頼で、この邸宅の装飾を修復するために時おり通ってくる。

 ナナが、話をすることが一番多いのが、このアリーだ。掃除を請け負うファティマや、グロッサリーを搬入してくれるハッサンとも定期的に顔を合わすのだが、この2人は英語もフランス語も話さないため話し相手にはならない。

 ナナは、パティオの奥に設けられた木陰の読書スペースで本を読んで過ごすことが多い。日本にいたときには積ん読になっていた多くのシリーズものは、この木陰で何回か読破した。

「それは、中国語?」
そう訊かれて、顔を上げたのが、アリーとの最初のコンタクトだった。訛りはあるがフランス語だ。

「いいえ。日本語よ」
「ああ、君は日本人なのか」
「半分ね。でも、東京で生まれ育ったの。読むならフランス語よりも日本語が楽なのよ」
「そう。面白いね。本当に縦に読んでいくんだ。ああ、右から左に進むんだね」
「そうよ。アラビア語もそうよね」
「まあね。横方向にだけど」

 たわいない話だが、ベルナール以外の人と、ごく普通の会話をするのは久しぶりだった。単語だけでようやく意思疎通をするだけのファティマたち。買い物の時にフランス語が達者な売り子と話すこともあるが、ぼんやりしていると高いものを売りつけられたりスリに狙われたりするので世間話に興じることはほとんどない。

 アリーは、それ以来、籠の中の鳥のように暮らすナナにとってこの世界に向けたたった一つの窓のような存在だ。何かを売りつけるためではなく、雇用主として阿るわけでもなく、ただその空間と時間を共有する相手として接してくれる。そんな彼と話す時間を、ナナは心待ちにしている。

 それは、不思議な感覚だ。

 パリにいたとき、ナナはベルナールとの逢瀬を渇望していた。彼の妻よりも、ずっと彼を愛していると思っていたし、モロッコ行きを決めたときには愛の勝利に酔いしれた。4つ星ホテルの空調の効いた部屋での情交も、このリアドで格別に選んだターコイズ・ブルーの居室での睦みごとも、ベルナールとの強い想いと絆の当然の帰結だと感じていた。

 でも、いつの間にかベルナールに1日でも多く滞在してほしいという願いはなくなっていた。嫌いになったわけではないし、離婚するつもりがないことに対して怒っているわけでもない。ただ、彼の存在が、日々どんどんと希薄になっていくだけだ。

 ベルナールがやって来て、滞在するとき、ナナは彼を精一杯もてなす。店員が上得意客をもてなすように。覚えたモロッコ風の料理は、ベルナールを満腹にした。赤い部屋、オレンジの部屋、緑の部屋で楼閣に住む娼婦のように、彼を悦ばせた。それは、『アラビアンナイト』の世界に住まわせてくれる主人に対するナナの義務だと感じていた。

 そして、彼が去ると、ナナはどこか安堵している。再びひとりに戻ったことに。そして、中庭に響く静かな水音の向こうから聞こえてくるゼリージュ・タイルを作る規則正しい音に、心が震えるのだ。

 小さなタイルが組み合わされる。それは単なる装飾やパズルあそびではなく、自然を手本とした幾何学の魔法だ。シンメトリカルに広がる多様性。シンプルと複雑さの絶妙な組み合わせ。そして水の揺らめきや木漏れ日の揺らぎまでが計算され尽くしたかのように美しさを倍増する。

 大量生産があたりまえのこの時代においても、ゼリージュのタイルはすべて手作業で作られる。粘土を乾かし、釉薬を塗って焼いたタイルを1つ1つ蚤を使って小さなパーツに切り取っていく。ごく普通のセラミックタイルの300倍もの値段がすることに驚愕する人も多いが、この手作業を目で見たら納得するだろう。

 ゼリージュのタイルを使ったインテリアは、パリでは金持ちの贅沢だが、ここモロッコでは1000年以上も受け継がれてきた伝統であり、創造主たる神への讃美と感謝でもある。イスラム世界のほとんどで失われてしまったこの伝統を、モロッコのゼリージュ職人たちは黙々と受け継いできた。

 アリーの茶色い手が、なんでもないようにタイルを組み合わせ、それを固定していく。繊細な作業をしているようには見えないのに、出来上がったタイルの組み合わせは完璧だ。それは、自然の造形と似ている。1つ1つは好き勝手に育っているように見えるのに、光景となった時にはすべてのパーツがきちんと収まるべきところに収まり、調和し、美しく、畏敬を呼び起こす。

 ナナは、彼が働いているときには黙ってそれを見つめる。息を殺し、身動ぎもせずに、世界のパーツが正しい位置に納まっていくのを待つ。

 学生の時、図書館で「千夜一夜物語」の訳文を読んだことがある。后であるシェーラザードが1001夜にわたって夫である暴君に話をすることになったきっかけは、もともとシャフリヤール王の后が奴隷と浮気をしていたからだった。王の后となったのに、浮氣なんかしなければいいのにとその時は単純に思ったけれど、いまならその后たちに少し同情することができる。

 ここのように美しい、それとも、もっと煌びやかな王宮に閉じ込められた后は、ハーレムを戯れに巡回する夫君がいつやって来るのかも知らない日々を過ごしていたのではないだろうか。ちょうどナナにとってのベルナールと同じだ。そして、王は自分は自由に複数の女性を楽しみつつ、后が他の男に抱かれているのを見たら憤り、その首をはねた。そして、女性不信から生娘と結婚しては翌日に殺すということを繰り返したのだ。

 ナナは、絶えず聞こえている水音と、棕櫚の枝を揺らす風を感じながら、ひたすら働くアリーの手元を見ていた。アリーとの間に、后と奴隷との間に起こったような展開はない。おそらくアリーはナナに対して女性としての興味は持っていないだろう。ナナにしても、この感情をどう捉えるべきなのか、はっきりとした定義はできない。

 わかっていることは、今のナナにとって、訪れに心躍るのはもうベルナールではなくなっているという事実だ。

 アリーが仕事の合間の休息をとるとき、ナナは淹れたての甘いミントティーを持っていく。銀のティーポットから金彩の施された小さなガラスの器に熱いお茶を注ぐ。このポットの取っ手は素手で持つのは難しい。最初の時に、鍋つかみを持ってきてあたふたしていたら、アリーは笑って代わりに注いでくれた。それ以来、お茶を注ぐのはアリーだ。

 そういえば、正しいモロッコ風ミントティーの淹れ方を教えてくれたのもアリーだった。初めて持っていった午後、一口飲んでから黒目がちの瞳をナナに向けた。
「これ、どうやって淹れた?」

 ナナはポットを指さして答えた。
「お茶っ葉とミントを入れて、熱湯を注いだの」

 アリーは、彼女をキッチンに連れて行った。そして、正しい手順を見せてくれた。

 まずポットに茶葉を入れる。1人用ポットなら小さじ2杯。もう少し大きいポットは3杯だ。そこにやかんの熱湯をグラス1杯分だけ注ぎ、すぐにグラスに戻す。かなり濃いお茶だ。
「これはお茶のスピリットだから、あとでまた使う」

そして、浸る程度の熱湯を再びポットに入れるけれど、そのお茶は捨ててしまう。これを2度行う。
「これで苦みを取るんだ」

 そして、そこに大量のミント、小さじ大盛り3杯の砂糖、そして、とっておいた「お茶のスピリット」を入れてからお湯を注ぎ、それを中火にかける。そうやってお茶とミントをしっかりと煮出す。

 出来上がったお茶の底に砂糖が固まっているように思われたので、スプーンでかき混ぜようとしたら再び笑われた。
「こうするんだよ」

 彼は、そのままグラスにお茶を注いだ。少しずつポットを持ち上げ、最終的にはかなり高いところからお茶を注いでいる。そして、グラスに入ったお茶を再びポットに戻す。これを何度も繰り返すことで中の砂糖は均一に混じるらしい。

 それ以来、ナナは正しいモロッコ式ミントティーアツァイ・マグリビ を作るようになった。最初は抵抗があって砂糖を少なめにしていたけれど、アリーと一緒に飲むために彼に習った量を入れるようにしてみたら、苦みとのバランスがよくその強烈な甘さにも慣れてしまった。高いところからお茶を注ぐのでミントの香りが辺りに広がる。

 添えたデーツをかじりながら、しばらくさまざまなことを話して過ごす。
「日本でもお茶を飲むんだろう?」
「ええ。でも、お砂糖は入れないのよ」
「へえ」
「それに、いいお茶は、60℃ぐらいの温度で淹れて、苦みを出さないようにするの」

 同じ植物を使っていても、ミントティーと玉露は、まったく違う飲み物だ。ナナにとって障子と畳のある部屋で居住まいを正して飲む玉露は、もうとても遠い飲み物になってしまった。色鮮やかなゼリージュと中庭の棕櫚や椰子の木、噴水の水音と木漏れ日の中で飲むミントティーこそが、いまのナナの現実そのものだ。

 ティーグラスを持つアリーの茶色い手を見ながら、ナナはこの午後が永久に続けばいいのにと願う。共にいたい相手がベルナールでないことに思い至り、心の中で自分を嗤う。

 ベルナールにとって『千夜一夜物語』の具現であるリアド。経年で崩れていた細部を修復する魔法をかけに来るアリー。甘言と欺瞞の満ちた華やかな籠の中で王への忠誠を失った后の物語。人の心もまた小さなパーツで織りなされるモザイクだ。

 金彩の輝くグラスには今日もまた、なんと名付ければいいのかわからない強烈な甘さと苦さが満ちている。

(初出:2023年5月 書き下ろし)

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せっかくなのでゼリージュの作り方を紹介した動画を貼り付けておきますね。


FROM CLAY TO MOSAICS
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Posted by 八少女 夕

【小説】漆喰が乾かぬうちに

今日の小説は『12か月の建築』3月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、スイス・エンガディン地方の典型的な壁面装飾スグラフィットです。本文でも説明がありますが、もっと詳しく知りたい方は追記をご覧ください。

あまり説明臭くなるので書きませんでしたが、スイスの若者は進路がだいたい16歳前後で別れます。大学進学を目指す限られた子供たちをのぞき、義務教育を終えた子供たちは職業訓練を始めます。週に数日働いて少なめのお給料をもらうと同時に、週の残りの日は学校に行くというスタイルを数年続けると、職業訓練終了の証書がもらえて一人前の働き手として就職できるというしくみになっています。


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漆喰が乾かぬうちに

 ウルスラは、誰と帰路についたのだろう。テオは砂と石灰をかき混ぜながら考えた。3月も終わりに近づいたとはいえ、高地エンガディンの屋外は肌寒い。

 だが、作業をするには適した日だ。数日にわたり晴れていなければならない。けれど、夏のように日差しが強すぎれば、漆喰は早く乾きすぎる。スグラフィットの外壁は、現在では高価な贅沢であり、失敗は許されない。職人見習いであるテオに、「今日は休みたい」と、申し出ることなど許されるはずはない。

 昨夜は、村の若者たちが集まって過ごした。それは、テオにとっては、楽しかった子供時代のフィナーレのようなものだった。

 3月1日には、伝統的な祭『チャランダマルツ』がある。かつての新年であった3月1日に、子供たちが首から提げたカウベルを鳴らしながら、冬の悪魔を追い払いつつ村を練り歩く。

 現在では成人とは18歳と法律で決まっているけれど、かつては堅信式を境に子供時代が終わり、長ズボンをはいて大人の仲間入りをした。その伝統は、今でも残っていて、例えば飲酒や運転免許の取得などは法律上の成人を待つけれど、祭の参加での「大人」と「子供」の境は、堅信式を行う16歳前後に置かれている。

 それは皆が一緒に通った村の学校を卒業して、それぞれの職業訓練を始める時期とも一致している。

 去年の8月からスグラフィット塗装者としての職業訓練を始めたテオにとって、今年の『チャランダマルツ』は、最年長者、すなわち「参加する子供たち」として最後の年だった。

 テオと同い年の8人が子供たちの代表として、村役場と打ち合わせを重ね、馬車を手配し、行列のルートを下見し、打ち上げ会場の準備もした。祭の最中は、小さい子供たちの面倒を見るのも上級生の役割だ。行列に遅れていないか、カウベルのベルトを上手くはめられない子供はいないか、合唱のときにきちんと並ベているか、確認して手伝ってやる。

 祭が終わった後は、小学校の講堂を使ってダンスパーティーもした。テオは、音響係として、楽しいダンスで子供たちが楽しむのを見届けた。

 昨夜は、8人の代表たちが集まって、打ち上げをした。それぞれが、はじめて夜遅くまで外出することを許され、14歳から許可されているビールで乾杯した。ハンスやチャッチェンは金曜日だからとベロベロになるまで飲んでいたが、テオは2杯ほどしか飲まなかった。今日、朝から働かなくてはならなかったからだ。

 それで、11時には1人で家に帰った。本当はウルスラを送って行きたかった。

 音響係だった3月1日のパーティーでは、ダンスに誘いたくてもできなかったから、せめて昨夜の打ち上げでは近くに座って、今より親密になりたいと思った。けれど、それも上手くいかなかった。酔っ払ったハンスとチャッチェンが大声でがなり立てるので、静かに話をすることなど不可能だったのだ。

 ウルスラのことが氣になりだしたのは、去年の春だった。それまでは、ただの幼なじみで、子供の頃からいつも同じクラスにいた1人の少女に過ぎなかった。

 テオは、1つ上の学年にいたゾエにずっと夢中だった。ゾエは華やかな少女で、タレントのクラウディア・シフによく似ていて、化粧やファッションも近かった。卒業後は村を離れて州都に行ってしまった。モデルとしてカレンダーで水着姿を披露するんだと噂が広がり、小さな村では大騒ぎになった。

 テオは、スグラフィット塗装者としての職業訓練を始めるか、それとも他のもっと一般的な手工業を修行するために、州都に行くか迷っていた。ゾエが村を離れるとわかったときに、心の天秤は大きく州都に傾いた。

 スグラフィットは16世紀ルネサンス期のイタリアで、そして後にドイツなどでも流行した壁の装飾技法で、2層の対照的な色の漆喰を塗り重ね、表面の方の層が完全に乾く前に掻き落として絵柄を浮き出す。スイスではグラウビュンデン州のエンガディン地方を中心に17世紀の半ば頃よりこの技法による壁面装飾を施した家が作られるようになった。

 アルプス山脈の狭い谷の奥、今でこそ世界中の富豪たちがこぞって別荘をもつようになった地域も、かつてはヨーロッパの中でも富の集中が起こりにくい、比較的貧しい地域だった。

 ヨーロッパの多くの都市部で建てられた石材を豪華に彫り込んだ装飾などは、この地域ではあまり見られない。それでも、素っ氣ない単色の壁ではなく、立体的に見える飾りを施したのだ。

 角に凹凸のある意思を配置したかのように見える装飾、幾何学紋様と植物を組み合わせた窓枠、または立派な紋章や神話的世界を表現した絵巻風の飾りなど、それぞれが工夫を凝らした美しい家が建てられた。

 モチーフは違っても、2層の色が共通しているので村全体のバランスが取れていて美しい。ペンキによる壁画と違い、スグラフィットで描かれた壁面装飾は、200年、時には300年も劣化することなく持つ。

 だが、この装飾はフレスコ画と同じで、現場で職人が作業することによってしか生まれない。工場での大量生産はできないし、天候や氣温にも左右される、職人たちの経験と勘が物を言う世界だ。どの業界でも同じだが手工業の世界は常に後継者問題に悩まされている。

 テオは、子供の頃から見慣れていたこの美しい技法の継承者としてこの谷で生きるか、それとも若者らしい自由を満喫できる他の仕事を探すかで揺れていた。最終的には、親方やスグラフィットの未来を案じる村の大人たちが半ば説得するような形で、彼の決意を固めさせた。州都に行ったゾエがよくない仲間と交際して学校をやめたらしいという噂もテオの心境に変化をもたらした。

 スグラフィット塗装者としての職業訓練が決まった後、同級生の間では少しずつ親密さに変化が出てきた。テオはずっと村に残る。ハンスやチャッチェンは、サンモリッツで職業訓練を受けることが決まり、アンナは州立高校に進学する。

 同級生の中で、一番目立たない地味な存在だったウルスラは、村のホテルで職業訓練をすることが決まり、週に2日の学校の日はテオと一緒に隣の村に行く。ほとんど話をすることもなかったのだが、それをきっかけに『チャランダマルツ』の準備でもよく話をするようになった。口数は少ないけれど、頼んだことは必ずしてくれるし、どんなに面倒なことを頼んでも文句を言うことがなかった。

 3月1日の『チャランダマルツ』が終わってから、1か月近くテオは奇妙な感覚を感じていた。忙しくて煩わしかったはずの『チャランダマルツ』の準備が終わり、同級生たちと会うことがなくなった。仕事と学校だけの日々。時に親方に叱られながらも、漆喰の準備や工房で引っ掻く技法の訓練をしていた。

 学校に行く日は、なんとなくウルスラの姿を探した。でも、先々週、彼女は風邪をひいて学校を休んだし、その後は学校が1週間の休暇になった。その間に、彼は落胆している自分を見つけて、驚いた。

 だから、打ち上げで彼女に会うのが楽しみだった。ウルスラは、元氣になってそこにいたけれど、アンナやバルバラと話をしていて、またはテオがほかの人に話しかけられていてほとんど話ができなかった。

 明日が早いからと、彼だけ帰るときに、ウルスラが何かを言いたそうにしていたのをテオは見たように思った。もしかしたら自分の思い過ごしかもしれないけれど……。テオは、少し落ち込んでいた。

「おい、テオ。聞いているのか」
親方が、呼んでいた。

「えっ。すみません」
テオは、親方が見ている手元を自分も見た。

「お前、配分間違えていないか。いくら何でも色が濃すぎるぞ」
確かにそれはほとんど真っ黒だった。
「すみません」

「昨夜は遅くまで飲んでいたのか」
親方は訊いた。小さい村のことだ。同級生が打ち上げをする話は、簡単に大人たちに伝わってしまう。

「いえ。11時には帰りました」
でも、このざまだ。テオはうなだれた。

「まあ、まだ塗っていないんだから、取り返しはつくさ。だがな。こういうときのやり直しには、長年の勘が必要なんだ。まだお前には無理だな。どけ」
そう言って、親方は石灰の粉を持ってテオが作っていた塗装混合物の色調整を始めた。

 石灰と砂、そして樽で保存されている秘伝の石灰クリームが適切な割合で混ざり、完璧な硬さの下地が用意されていく。

「さあ、行くぞ」
親方は、大きいバケツを持って村の中心へと向かった。泉のある広場の近くに今日の現場はある。壁面全部ではなくて、門構えの修復だ。

 不要な部分に漆喰がかからないように、プラスチックのフォイルとマスキングテープで保護をしていく。それから、バケツに入っている濃い灰色の漆喰を丁寧に塗っていく。

 午前中は瞬く間に過ぎた。幸い、漆喰は時間内にきれいに塗られた。午後の太陽が、かなり濃い灰色をゆっくりと乾かしていくだろう。今日と明日は雨が降らないだろうから、理想の色合いになるはずだ。

「さあ、少し遅くなったが飯の時間だ。帰っていいぞ」
バケツや塗装道具を工房に運び込んだところで、親方が言った。親方の自宅は工房の上で、女将さんが用意したスープの香りが漂っている。

「あ。今日は、うちには誰もいないんで……」
テオはパン屋でサンドイッチでも買うつもりで来た。

「なんだ。この時間にはもうサンドイッチは残っていないかもしれないぞ。うちで食っていくか?」
「いえ。だったらそこら辺で何かを食べます」

 テオは、頭を下げて工房から出た。もう1度村の中心部に戻ると、意を決してホテルのレストランに入っていった。

「あら。テオ!」
声に振り向くと、そうだったらいいなと想像していたとおり、ウルスラがいた。

「やあ。君も今日、出勤だったんだね」
彼が訊くと、ウルスラは頷いた。

「土日休みの仕事じゃないし……。でも、幸い今日は遅番だったの。テオは昼休み?」
ウルスラは不思議そうに訊いた。ランチタイムにテオがここに来たのは初めてだったから。

「うん。今日は、母さんが家にいないから、パン屋でサンドイッチを買うつもりだったんだけど、ちょっと遅くなっちゃったんだ。……スープかなんか、あるかな?」

 スープなら、さほど高くないだろう。そう思ってテオはテーブルに座った。ウルスラは、メニューを持ってきた。
「今日のスープは、春ネギのクリームスープよ。あと、お昼ごはん代わりなら、グラウビュンデン風大麦スープかしら?」

 テオは頷いて、メニューをウルスラに返した。
「腹持ちがいいからね。じゃあ、大麦スープを頼むよ。あと、ビールは……仕事中だからダメだな」

「じゃあ、リヴェラ?」
そう訊くウルスラに、彼は嬉しそうに頷いた。乳清から作られたノンアルコールドリンク、リヴェラはスイスではポピュラーだけれど、同級生の多くはコカコーラを好んだ。でも、テオがコーラではなくてリヴェラをいつも頼むことを彼女は憶えていたのだ。

 柔らかい春の陽光が差し込む窓辺に立つ彼女の栗色の髪の毛は艶やかに光っていた。民族衣装風のユニフォームも控えめなウルスラにはよく似合う。彼女は、リヴェラと、それからスープにつけるには少し多めのパンを運んできてくれた。

「昨夜は、遅かったのかい?」
テオが訊いた。

「12時ぐらいだったわ。みんなは、もう1軒行くって言ったけれど、私は帰ったの」
ウルスラは笑った。

「誰かに送ってもらった?」
すこしドキドキしながら訊くと、彼女は首を振った。
「まさか。男の子たち、あの調子で飲み続けて、自分面倒も見られなさそうだったわよ」

「そうか。じゃあ、僕がもう少し残って、送ってあげればよかったな」
そういうと、ウルスラは笑った。
「こんなに近いし、こんな田舎の村に危険があるわけないでしょう。……でも、そうね、次があったら送ってもらうわ。テオは、ひどく酔っ払ったりしないから安心だもの」

 ウルスラは、他の客たちの給仕があり、長居をせずに去って行った。それでもテオは幸福になって、大麦スープが運ばれてくるのを待った。

 テオは、先ほど塗ったばかりの塗装のことを考えた。下地の灰色が乾いたら、上から真っ白の漆喰を塗り重ねる。その漆喰が完全に乾く前に、金属で引っ掻くことで灰色の紋様が浮かび上がる。そうして出来上がるスグラフィットは、地味だけれども何世紀もの風雨に耐える美しい装飾になる。

 チューリヒや、ベルリンやミラノ、パリにあるような面白いことは何も起こらない村の日々は、退屈かもしれない。でも、スイスの他の州では見られない特別な風景と伝統を過去から受け継いで未来に受け渡す役目は、そうした大都会ではできないだろう。

 ウルスラが、スープを運んできた。素朴な田舎料理の湯氣が柔らかく彼女の周りを漂っている。村に残って、ここで生きていくことを選んだのは大正解みたいだ。

 テオは、今日塗った漆喰が乾く前に、彼女をデートに誘おうと決意した。

(初出:2023年3月 書き下ろし)

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スグラフィットについては、かつてこういう記事を執筆しました。

それからチャランダマルツについても記事を書いています。
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Posted by 八少女 夕

【小説】ウサギの郵便

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第10弾、ラストの作品です。大海彩洋さんは、大河ドラマの第二世代である「ピアニスト慎一」シリーズの作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『【ピアニスト慎一シリーズ】光ある方へ 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じの通りです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一のお話を別の人物の視点から語ってくださいました。私も大好きなラフマニノフのピアノ協奏曲第3番をメインモチーフに書いてくださった重厚な作品です。

お返しどうしようか悩んだのですけれど、今回は彩洋さんの作品とも、ラフマニノフはもちろんのことクラシック音楽とも関係のない作品にしてみました。いや、ラフマニノフの2番をメインモチーフに作品書いた、めちゃくちゃチャラいピアニストとか出している場合じゃないだろうと思ったんですよ。

かすっているのは「亡くなった人からの手紙」だけです。あまりにも遠いので、どこが彩洋さんの作品へのお返しなのかとお思いでしょうが、個人的に、私の今の心情的に、これがお返しです。


「scriviamo! 2023」について
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ウサギの郵便
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 家具が全てなくなり、がらんとした窓の向こうに、まだ眠っている庭が見えた。施設の中で割り振られたこの部屋は、偶然にも外に小さな薔薇園とハーブ園があって、生涯にわたって庭仕事を愛してきた母親の最後の住処としてはこれ以上望めない僥倖だと喜んだのが昨日のことのようだ。

 彼女は、この部屋に2年半住んだ。たった1週間前には、カリンはここをこんな風に片付けるとは思いもしなかった。このように空っぽの部屋を見るのは2度目で、その時は、誰か親族が一定の期間住んだ痕跡を消し去る作業をしたことを想うことはなかった。思ったよりも早く施設に空き室が出たことを単純に喜んだだけだ。

 父親が亡くなってから10年以上住んだ4部屋もあるフラットでの1人暮らしが難しくなり、2年ほど訪問看護の世話になった後、母親は自らの意思で老人施設に入ることを決めた。トイレとシャワーのついた部屋は、キッチンや冷蔵庫・洗濯機などはないものの、備え付きのベッドとテーブルや椅子・ウォークインクロゼットの他に、小さな家具や装飾品などを運び込むことが許されていて、それぞれが小さいながらも自分のプライベートな生活を楽しむことができた。

 とはいえ、それまでの暮らしで持っていたたくさんの家具や衣装、寝具、家電などの多くを処分することになった。カリンと、遠くで暮らす姉や弟が受け継いだものもあるが、亡くなった父の遺品を始め多くの品物をその時点で処分することになった。

 カリンが受け取ったのは、高価な食器や花瓶などの日用品が大半で、カリン自身が子供の頃に使っていたものなどの大半は処分してもらった。

「これは? 持っていきたいんじゃないの?」
カリンは、その記憶をたどる。その時に母親が見せてきたのは大きいウサギのぬいぐるみだった。郵便屋の制服を着てバッグを斜めがけにしているもので、子供のときの一番のお氣に入りだった。

「やだ。こんなの、まだとってあったの?」
「だって、あなたがとても大切にしていたんだもの。捨てられないわ」
「それは子供の頃だもの。心置きなく捨てちゃっていいわよ。それとも、私がセカンドハンドショップに持っていく?」

 そういうと、母親は残念そうに眺めていたがこう言った。
「喜ぶかもしれない女の子を知っているから、要るか訊いてみるわ」

 カリンは、それを覚えていたらいいけど、という言葉を飲み込んだ。足腰だけでなく、記憶力が衰え始めたために1人暮らしが困難になって施設に入ることになったのだが、それを指摘するのは残酷すぎる。それに、カリン自身の忙しい生活の中で、徒歩で10分以内の距離とはいえ常に観察し続けることは不可能だったので、ようやく施設に行くことを決意してくれてホッとしていたことへの後ろめたさもあった。

 ほぼ毎日のように様子を見にいっていた1人暮らしの頃と比較して、施設に入ってからはずっと楽になった。それでも、毎週、必ず訪問しているのは自分だけで、年に2回ほどしか訪問しない姉と弟についてズルいという想いを持つときもあったし、記憶を失って同じ言葉を繰り返す母親に苛つきぎみに返答してしまうことに落ち込むこともあった。

 たった1週間ほど前まで、それは終わりの見えない日常だった。それが突然に亡くなり、そんな風に解放されることは望んでいなかったと枕を涙で濡らす日々だ。

 思い出すのは、ここ数週間に交わした会話のあれこれだ。

「もうじき春が来るといいわ」
彼女は、訪れる度に同じことを口にした。そう言ったことを、20分後には憶えていなかった。

 昔は春が近づくと「もうじきカリンちゃんのお誕生日ね」と言っていた母親。成人してからはカリン自体が4月に楽しみにするのは復活祭の連休であって自分の誕生日には興味を示さなくなった。それでも、毎年祝っていてくれた母親が、物忘れがひどくなってからはそれも言わなくなった。

 彼女が春を待つ理由はなんだろう。私の誕生日は憶えていないし、でも復活祭は待っているのかしら。

「もうじき春が来るといいわ」
何度もそう告げる母親に、カリンはうんざりしたように答えた。
「そもそも冬なんか来なかったようなものじゃない」

 今年の冬はとても暖かかったので、1月にはヘーゼルナッツの花が咲いてしまったし、ダフネの花もクリスマスの頃からずっとダラダラと咲いていた。

 それでも母親は、窓の外を見ながら言った。
「でも、まだ外で散歩するには早いもの。春になったら……」

 カリンは、それで申しわけのない心持ちになって少し柔らかい言葉を使わなくてはと思った。

 母親がかつてのように外を出歩けないのは、寒い冬のせいではなくて、歩くのがおぼつかなくなっていたからだ。足がむくみ、それを改善するためにと、施設のケアマネージャーの指示で足には強めに圧力バンドが巻き付けられ、それの痛みと暑さで、彼女は以前にも増して室内で座って過ごすようになっていた。

 本を読み、編み物をする。施設の中で与えられた部屋の空間は十分すぎるほどに広いし、彼女はまったく不満を漏らさないけれど、だからといって彼女が幸せの絶頂にいると勝手に判断するべきではなかった。

 カリンはそれらの、たった2週間ほど前に心の中にあった逡巡を思い出して涙を流した。母親を大切に思う氣持ちと、苛立ちとを何度も行き来していたあの日々に、母親はその場に、この世界にカリンと共にいたのだ。

 今は、こんなに春めいている午後に、それをひたすら待っていた母親のいない部屋に立っている。

 家具を自宅の屋根裏へ運び、残っていた衣類や小さな電化製品などをセカンドハンドショップに引き取ってもらい、ほぼ何もなくなった部屋は、掃除をしてゴミと残りの小さな私物を運び出して、ケアマネジャーと確認するだけになっている。

 庭に通じるガラス戸を開けると、まだ眠っている庭の脇に、母親が鳥用に吊していたボール状の餌が見えた。そして、その横に小さなプラスチックの卵がつるしてあった。イースターエッグを吊すにはまだ早かったのにね。カリンは、また少し涙ぐんだ。イースターを待っていたんだね。

 ノックが聞こえたので、カリンは目許を拭って振り向いた。そこには、ケアスタッフのユニフォームを着た女性が立っていた。

「リエン……」
カリンは、その女性を知っていた。かつて母親の住んでいたフラットの隣人だったベトナム人だ。

「心からお悔やみ申し上げます。一昨日ベトナムから帰ってきて、昨日出勤したらマルグリットが亡くなったって聞いて、私ショックで」
リエンは、涙ぐんでいた。

「どうもありがとう。あなた、ここで働いていたのね。知らなかったわ」
カリンが言うと、リエンは頷いた。
「マイが学校に入ったので、去年の秋から働き始めたんです」

 カリンは頷いた。それから、不思議そうにリエンが手に抱えている袋からのぞいているものを見た。リエンは、頷いて中からウサギのぬいぐるみを取りだした。

「これ、マルグリットが、ここに入るときにマイにくれたぬいぐるみなんですけれど……」
「ええ。これ、昔は私のものだったの。母は、あのとき誰かにあげたいと言っていたけれど、マイのことだったのね」

「そうだったんですね。その、それで……」
リエンは袋からウサギのぬいぐるみを出すと、ウサギがしている郵便鞄のボタンを外して中を見せた。

「あ……」
そこには小さな封筒が入っていた。リエンは、それを取りだしてカリンに渡した。

「ごめんなさい。これに氣がついたのは、2か月前なんです。でも、ウサギをもらってから2年も経っているし、次に出勤するときにマルグリットに返せばいいかと思って、そのままベトナムに帰省しました。でも、昨日訃報を聞いて……。これはマイに宛てた手紙じゃないので、お返しした方がいいと思いました」

 カリンは震える手で封筒を開けて、手紙を読んだ。

カリンちゃん、7歳のお誕生日おめでとう。
あなたの健やかな成長と幸せを祈って、このウサギを贈ります。
ウサギのように元氣よく飛び回ってください。
好奇心いっぱいに世界を嗅ぎまわってください。
たくさん食べて、ぐっすり眠ってください。
そして、悲しいことや辛いことがあっても、次の朝にはすっかり消えてしまいますように。

パパとママより


 カリンは、リエンの前だということも忘れて泣いた。母親は、ぬいぐるみの鞄にこの手紙を入れたままにしていることを忘れて、ウサギをマイにあげたのだろう。

 カリン自身はこの手紙の存在は全く憶えていなかった。子供の頃は意味がよくわからなかっただろうし、わかっていたとしても今ほどの重みは感じなかっただろう。

 リエンは、号泣するカリンの背中をしばらく撫でていたが、やがて言った。
「このカードだけじゃなくて、もしかしたらこのウサギも、今のあなたに必要なんじゃないかと思って、持ってきました」

「だって、マイが悲しむんじゃないかしら?」
「いいえ。マイはほかにもたくさんぬいぐるみを持っていますから、大丈夫です」

 カリンは、礼を言ってウサギを受け取った。リエンが去った後、しばらく部屋の中で座っていた。

 自分の子供が成人するような年齢になって、大きなぬいぐるみを抱えることになるとは思わなかったけれど、今はたしかにこの温もりが必要だった。

 ぬいぐるみに顔を埋めると、長いこと忘れていた今はない実家の絨毯に転がったときと同じ香りがした。まだ子供で、自分も両親もこの世からいなくなるようなことが、まったく脳裏になかった幸福な時代。
 
 大切な人がいなくなり、何もなくなったがらんどうの部屋に、ウサギの郵便屋が遅くなった郵便を届けに来た。

 想いも絆も消えていない。ただ、遠く離れただけだ。これから幾度の春を、あなたなしで迎えることになるのだろう。その度に、私はこの手紙を読んではウサギを抱きしめるのだろう。

 カリンは、葬儀の日にうたった賛美歌を口ずさみながら、部屋の中に夕陽が入ってくるのを眺めていた。

また会あう日まで、
また会あう日まで、
神の守り
汝が身を離れざれ。

「賛美歌 405 かみとともにいまして」より



(初出:2023年3月 書き下ろし)

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Gott mit euch, bis wir uns wiedersehn
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Posted by 八少女 夕

【小説】藤林家の事情

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第9弾です。

山西 左紀さんは、もう1つ掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!


山西左紀さんの書いてくださった「ドットビズ  隣の天使」

今年2本目の作品は、「隣の天使」シリーズの1つです。といっても過去の作品とは直接関係がないようです。賭け事が大好きで世間的に見ると若干問題があるような行動の兄ちゃんと、世間の評価なんて全く意に介さない自分軸のはっきりした女の子の風変わりな関係が面白い作品でした。

この作品に直接絡む要素はなさそうでしたので、今回は単純に「周りが見ている関係は、本人たちにはどうでもいい」をテーマにちょっとあり得ない世界を書いてみました。


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藤林家の事情
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 暖かくなると、女たちも噂話の度に凍えなくて済む。今日のようにポカポカしているとなおさらだ。
「見てみて。山田さんのところの……」
「あ。本当だ、いい目の保養になるわねぇ」

 彼女たちが眺めているのは、半年ほど前に7階に越してきた若い男性だ。こざっぱりとした身なりで、すらりと背が高く、非常に整った顔立ちをしている。

「俳優なんですって」
「ああ、そういう感じね~。テレビには出ていなさそうだけど……」
「まあ、テレビでよく見るくらい売れていたら、ああいう方とは住まないわよね」

 意地の悪いクスクス笑い。それが半分やっかみだとわかっていても、彼女たちは山田淑子へ辛辣な評価をしてしまうのだった。彼らが引っ越してきた当初、同じマンションの住人たちの多くは2人が親子、まはた祖母と孫なのだと勘違いしていた。

 それを確認する、婉曲表現を交えた挨拶に、淑子はにこやかに答えたのだ。
「いいえ。ヒロキは私のパートナーですのよ」

 噂は瞬く間にマンション中に広まった。7階はもっとも広く日当たりのいい部屋のある階で、値段も高い。そこを建設中に2軒購入し、壁を取り去って大きな1軒にした人がいた。投資目的で買ったのか、しばらくは誰も入居しなかった。そこに入居してきたのが、そんな曰く付きカップルだったので、なおさら噂話の格好の餌食となったのだ。

 買い物の袋を持っているのは、常に「売れない俳優」ヒロキだ。淑子だけで外出する姿はあまり目撃されない。たいていヒロキが一歩下がって付き添っている。

 淑子の服装は、同年代の女性を考えると派手めだというのが、近所の女たちの評価だ。趣味が悪いというわけではない。だが、例えば紫だと薄紫などよりもはっきりとした京紫を使うし、柄も小花柄などは好まず、市松やウロコ柄、麻の葉といった幾何学紋様をアレンジしたものが多い。

「いやぁね、自分を客観視できないって。それに、あんなに若くて素敵な男性がお金目当て以外の理由で自分を選ぶとでも思っているのかしら」
「ほんっとよね。さっきも外でね、あの人、ちょっと派手めのお姉さんに因縁つけて追い返していたわよ」
「ああ、あれ、イケメンくんが連絡先きかれていたからよ。そりゃあ、真っ青になって追い払うでしょうね。おかしいわぁ」

* * *


「坊。何度申し上げたらわかるんですか。今年の減点はすでに6点ですよ。平均点がこのざまだと、来年も本家には戻れませんが、それでいいんですか」
部屋に戻ると、淑子は詰問をはじめた。

「ごめんよ、篠山。先週現れたばかりだし、またくノ一で接触してくるとは思わず油断しちゃったんだよ」

 この青年、山田ヒロキとは、世を欺く仮の名で、本名は藤林光之助という。忍法藤林家の跡取りであり、当主弦一郎の長男である。

 藤林家のしきたりとして、跡取りは都で一定期間の修行をしてはじめて認められることとなっている。修行期間中には、見聞を広め、当主にふさわしい知見を得ると同時に、仮想敵からの接触に正しく対処し、『三十三の宝』といわれる仮の宝物を1つでも多く守り抜くことが期待されている。

 つまり、やがて当主となる人物の修行と、全国の一族郎党に跡取りが当主としてふさわしい才覚の持ち主であることを明らかにするためのシステムである。『三十三の宝』を1つ1つ自力で取得した後に、それを修行期間中守り抜く事が要求される。

 一方、全国の一族郎党にとっては、修行中の跡取りが手にした『三十三の宝』を奪取することで、個人としての才能が認められ本家での要職につく絶好の機会であり、腕に覚えのある忍びが次々に跡取りの周囲に集まってくる。

 顔だけはいいものの、かなりぼんくら若様である光之助は、物理的攻撃だけでなく、すでに数回のハニートラップに引っかかっており、修行を始めて2年のうちに『三十三の宝』の9品を失っていた。

 また、年間の平均減点が10点を下回ることがなく、このままでは跡取りとして本家に戻れる可能性が限りなくゼロに近いと思われたので、急遽今年からお付きが変更となり、分家の篠山がサポートにつくことになったのだ。

 篠山を引っ張り出したということは、すなわち実権を握る前当主俊之丞が孫息子に対して絶望的な見解を持っていることを意味している。

 俊之丞は、忍び界では藤林家きっての名当主として知られていた。

 40年ほど前の跡取り修行期間は最低限の2年のみ、失点はたったの2点だった。歴代当主の総合失点がおおむね10点前後であることを鑑みると、それだけでも有能なことは証明されているが、『三十三の宝』も奪われたのはたったの1品だった。

 そして、奪ったのは他ならぬ篠山だった。

 藤林で篠山に何かを命じることできるのは、前当主俊之丞とその妻の壱子だけだと言われている。『鬼の篠山』と言われた亡き夫ですら、彼女の納得しない事を強制することは不可能だった。現当主である光之助の父親、弦一郎も篠山に連絡をするときは書状のみ、失礼だというので電話をかけることはしない。

「明日は、合羽橋に行きます。手順は、おわかりですね」
篠山は、光之助が冷蔵庫にしまおうとした薄切り肉のパックを目にも留まらぬ速さで奪った。ぼうっと顔を見てくる若者をじろりと睨むと、卵を取りだし、調理台の方に移動した。

「ええっと、なんか小刀を受け取るんだったっけ?」
光之助は、父親弦一郎から送られてきた指示の巻物を広げながら、ところで合羽橋ってどこだっけなどと情けないことを考えていた。

「韮山の雪割れ花入れ、です。なんのことだかおわかりですよね」
まず、炒り卵、それから甘辛く味をつけた薄切り肉にさっと火を入れて、絹さや、甘酢生姜とともに丼にしたものを食卓に運ぶ。

 ぼーっと座っている光之助は、首を傾げた。
「花入れってことは、陶器かな?」

 篠山が、さっと何かを投げた。頬杖をついている光之助の右手1センチのところで風を切って曲がると、それは回転して箸置きの上にきちんとおさまった。竹の箸だ。

「怖っ。怪我したらどうすんだよ」
「これっぽっちを避けられずに当主になれるとお思いですか。それに何度言ったらわかるんですか。ボーッと座っていないで、食膳を用意なさい」

 光之助は、とりあえず頭を下げた。
「すみません」

 子供の頃から甘やかされた彼は、いまだに怠惰な行動を取ってしまうが、これまでのお付きと違い篠山に楯突くと後でどれほどキツく指導されるかこの半年で十分に学習していた。

 手早く用意されたお吸い物も食卓に運び、自分も座ると篠山は冷たく光之助の無知を指摘した。
「韮山の雪割れといったら竹に決まっているんですよ。明日、行っていただくのは竹製品の専門店です」

「そんなもんまで『三十三の宝』に入っているんだ。竹の花入れなんてゴミみたいなもんじゃん」
「ゴミ……。千利休の愛用品ですが」
「えっ?」

「とにかく今回の品は小さくて奪いやすいので、十分に注意してください。受け取りに時間をかけすぎないこと。また、前回みたいに必要以上にキョロキョロしないことをおすすめします」

 光之助は、前回の失敗を反省しているようには見えなかった。篠山はため息をつきながら青年を見た。惚れ惚れするような美しい所作で吸い物の椀を手にしている。忍びとしては入門したての7歳児よりも使えない男だが、役者としての資質は十分すぎるほどにある。本人をよく知らなければ、「ものすごくできる男」「信じられないほどの切れ者」と勘違いさせるだけの立ち居振る舞いはできるのだ。

 これまでのお付きや身の回りの世話をしてきた者たちが、教育に失敗してきたのは、ひとえにこの青年の外見と中身のギャップに慣れることができず、結局は甘やかすことになったからだった。

 残念ながら、藤林家の当主たるものは、台本を覚えて堂々と振る舞えればいいというものではないので、俊之丞は篠山に頭を下げることになった。

 表向きは、跡取り修行中の光之助の世話をする老女という体裁を取っているが、実際には外で行動するときの警護ならびに任務のサポートに加えて、屋内では忍びとしての再訓練も行っていた。

* * *


 合羽橋は浅草と上野の中間に位置する問屋街の通称であり、さまざまな調理器具、食器、食品サンプルなど料理に関するものはなんでも購入できると評判で観光客にも人氣がある。専門店の数は170を超えると言われる。中には江戸時代からの老舗もあり、さらにその中の一部は藤林の系列一族が経営していた。

 竹製品専門店「林田竹製品総合店」の店主である林田もまた藤林の出身である。隣の食料サンプル店のポップな店構えに押されて、小さな竹製品専門店があることすら氣づかれないことが多いが、高齢の店主と地味な従業員ならびにパートの女性だけで回すのは難しそうなほど、店は奥に深く大量の商品を扱っている。

 光之助は指示書の通り、クレーマーを装って店主の林田と直接話すことになっていた。だが、パートの女性がやたらとにこやかに対応するので、うまく店主を呼び出すところまでたどりつかない。

 しかたなく篠山は店の影から吹き矢を使い、竹製の楊枝を光之助の尻めがけて拭いた。
「いででっ!」

 篠山の睨みに氣がついた光之助は、しかたなく再びクレーマーらしく振る舞い始めた。
「なんだよ。こんなところに楊枝が刺さったぞ。怪我するじゃないか。店主を呼んでこい」

 パートに呼ばれて奥から出てきた林田は、光之助の様子を見て、いかにも実直な老店主のように振る舞っていたが、そばに立っている篠山を見てぎょっとした。跡取り光之助が韮山の雪割れ花入れを受け取りに来ることは知っていたが、だれが付き人となっているかを知らなかったのだ。林田は、篠山の顔を知っている数少ない忍びの1人で、当然ながらすべての失態が当主に伝わることも即座に予測できた。

 急に用心深く奥に案内すると、従業員とパートにわざわざ用事を言いつけて奥に来られないようにした。篠山は、林田と光之助の入った部屋と、店の中間位置に立ち、花入れの受け渡しに邪魔が入らないように見張った。

「今後、氣をつけてくれよ!」
クレーマーの負け惜しみのような捨て台詞を言って光之助が出てきた。林田は光之助ではなく、篠山の顔を見ながらヘコヘコとお辞儀をして見送った。

 店を出る直前に、例のパート女性がにこやかに近づいてきた。
「またどうぞお越しくださいませぇ」

 その手が不自然に光之助の鞄に近づくのを察知して、篠山は再び吹き矢で楊枝を飛ばした。
「うっ」

 光之助は、もうここに奪取者が待っていたことに驚愕したようだが、篠山に目で促され、しかたなく店の外に出た。

 マンションに戻るまで、サラリーマン風の忍び2人と、女子大生を装ったくノ一を撃退せねばならなかった。光之助のあまりの警戒心のなさに呆れつつ、篠山はその夜再びこんこんと説教した。あいかわらず反省した様子は見られない。

「篠山って、若い頃からお祖父ちゃんと仲良かったの?」
光之助は前々からの疑問をぶつけた。

「俊ちゃんとは、入門以来ずっと一緒に訓練してきましたよ」
「へえ。その頃から、お祖父ちゃんは無双だったの? あれ、それとも篠山の亡くなった旦那さんの方が強かったんだっけ?」

 それを聞くと、篠山はふんっと鼻で嗤った。
「一番強かったのは、俊ちゃんでも、篠山でもありませんでしたよ。私が2番、2人はその下でした、常に」

「ええっ。そんな話、初めて聞いたよ。で、誰がもっとも強かったの?」
光之助は、身を乗りだした。

「壱ちゃんですよ」
あたりまえでしょうと言わんばかりに篠山は答えた。

「お祖母ちゃん?! まさか。だって、あの人、箸より重いものは持てないみたいな風情じゃないか」
光之助は腰を抜かさんばかりに驚いた。

「壱ちゃんは、どうしても俊ちゃんと結婚したかったので、俊ちゃんの好みに合わせた振る舞いをしているだけで、本当はわが一族で一番強いんですよ。俊ちゃんも、壱ちゃんが化けていることは重々承知で、当主として一族をまとめるのに壱ちゃんの協力がどうしても必要だったから騙されたフリをしていたんだと思いますよ」

 光之助は、少し口を尖らせていった。
「なーんだ。じゃあ、僕だってこんなに苦労して修行しなくても、できるお嫁さんをもらって、何とかしてもらう方がよくない?」

 篠山は、頭を抱えた。
「いいですか。くノ一は裏方にされることに慣れています。それは男の忍びも同じで、表だった成功は必ずしも求めません。でも、その分仕える相手に対してはシビアなんですよ。顔だけよくてもあなたみたいな無能に、壱ちゃんクラスのくノ一が惚れ込むわけないでしょう」

 光之助は、わずかに目を宙に泳がせた。周りにいくらでもいるくノ一たちは、そういえば誰も彼に惚れてくれなかった。近づいてくるのはハニートラップばかり。ま、でも、もしかしたら全国のどこかには、そういう物好きもいるかも知れないよなあ。

 坊は明らかにわかっていないようだと目の端で捉えた篠山は、今後を思って深いため息をついた。

(初出:2023年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】モンマルトルに帰りて

scriviamo!


今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第8弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった 『ソリチュード ~La Route semée d’étoiles~』 

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、古事記と日本書紀に見える衣通姫伝説を下敷きにした古代ミステリー『挿頭の花 -衣通姫伝説外伝- 』。もともとの記紀にある人物がみなさんアレなので、もちろんものすごい展開なのですが、そのシチュエーションの中で胸キュンの純愛を織り込むという離れ業に感心しながらドキドキ読ませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。

さて、『花心一会』ワールドの若い(むしろ若すぎる)家元誕生の成り行きが明かされた今回のお話、ストーリーからいったら当然のことながら華道に対する知識がとても大切なポイントになっているのですよ。お返しを書き始めて困ったのがこれでした。私、全然わかっていない……。

なのにあえて火中の栗を拾いにいってしまいました。以前ヒロインの方のお家元がたった1人のために生ける『花心一会』をなさる様子を勝手に書かせていただいたことがあるのですが、今回はお母様にも無理やりです。ああ、玉砕しそうな予感。でも、レネがメインだから、逃げ切れるかな……。うう、ごめんなさい。


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【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物

大道芸人たち・外伝




大道芸人たち・外伝
モンマルトルに帰りて
——Special thanks to TOM−F-san


「やっぱり迷惑なんじゃないかなあ……」
「いや、連絡したときにはそんな感じじゃなかったって」

 ここに来るまでに、3回は繰り返した問答を、レネと稔はもう1度した。稔は、つい1週間ほど前に訪れたアトリエの呼び鈴を鳴らした。

 中から現れた水無瀬愛里紗みなせありさは、涼しやかな微笑みで2人を中に招き入れた。

 今日の装いは落ち着いた紫の絞り小紋に、蒲公英の柄が微笑ましい濃い緑の名古屋帯。この色の組み合わせは早蕨襲、春を感じさせる。そうか。もう3月になったんだっけ。

「お忙しいのに、無理なお願いを聞き遂げてくださり感謝します。彼が、電話で話したレネ・ロウレンヴィルです」
「マダム・ミナセ、はじめまして。どうぞよろしく」
「どうぞよろしく。そんなに恐縮しないでくださいね」

 そこは、パリの真ん中にあるというのに、東京以上に日本を感じさせる空間だ。

 日本ブームがヨーロッパに広がってから、各地でそれらしい和室を目にしてきたが、畳が正方形だったり、障子の桟が白く塗られた合板だったりと、どこか「なんちゃって」感を否めない和室が多かった。そうした和室は、スーパーで売られる「SUSHI」と同じ香りがした。サーモンとアボカド、またはやけに鮮やかなトビコの安っぽさを眺める度に、「日本はそこまで近くはない」と感じ、かつ自分の方が日本を知っているのだとつまらない自負心を満足させるのだ。

 だが、このアトリエには、稔が逆立ちしても叶わない日本文化の真髄が感じられた。

 小上がりの座敷には、きちんとした炉が切られている。窓はわざわざ円窓にしてある。

 この部屋を維持するのがいかに大変か、稔はよく知っている。日本にいれば電話一本で畳屋が来てくれるし、障子が破けてもホームセンターに行けば簡単に新しい障子紙を購入できる。梅や桃、桜や椿などもさほど苦労せずに入手できるだろう。極上の茶や主菓子も同様だ。

 だが、ヨーロッパで、これだけの完璧な日本を維持するのは、並大抵のことではない。もちろんパリは大都会なので、日本人のネットワークを使えばそれは可能だろう。でも、この人は、日本人会などで同国人と固まっているタイプには見えない。まあ、俺には関係ないけれど……。

 煎茶とともに小ぶりの大福餅が出てきた。和菓子の大好きなレネの顔が喜びに輝いたのを見て、稔は「本題を忘れるなよ」の意味を込めて肘で小さくつついた。

「それで、私に作ってほしいというのは?」
本題は、彼女の方から切り出してくれた。

「先日、ここにお伺いした日に、水無瀬さんのことを特別な人のための特別な花を生けるプロだって説明したんです。そしたら、彼が花をお願いできないかって……。ただ、俺はうまく訳せなくて英語でフラワーアレンジメントって言ってしまったので、生け花との違いも説明していただけると助かります」
そう言って稔は、レネに顔で続きを促した。

「ある女性のためにブーケかアレンジメントを作っていただけませんか」
レネが頼んだとき、愛里紗の顔にはなんとも微妙な表情が浮かんだ。おそらくそれは、この異国で先入観と無知に彼女の華道がフラワーアレンジメントと混同されたときの一瞬の抵抗なのかもしれないと、稔は思った。

 愛里紗は、けれど、レネの頼みを簡単に断るようなことはしなかった。
「大切な女性への花なのかしら?」

「はい」
稔は「ふうん」という顔をした。ヤスミンはここに来ていないとはいえ、義理堅く一途なブラン・ベックがわざわざ特別な花をねぇ。

「承るかどうかを決める前に、どんな目的なのかを訊いても差し支えないかしら?」
愛里紗は、英語で話し続けている。レネとだったらフランス語で会話した方が早いだろうに、稔が同席しているのでそうしているのだろう。

「もちろんです。僕はここにいるヤスたちと出会って大道芸人として暮らし出す前は、ここパリで暮らしていました。その時に出会った女性です」
レネはゆっくりと語り出した。

 レネにとって、パリの日々にはつらい記憶が多い。手品師の専門学校を終えて希望を持って花の都に上がってきたものの、ショーの花型になるどころかまともな稼ぎを得ることすら難しかった。

 モンマルトル界隈のナイトクラブを転々として、はじめはホールスタッフと変わらぬ扱いを受けた。ようやく前座としてマジックショーを披露できるようになるまでは数年かかり、その間にもいろいろな人に利用されたり出し抜かれたりしながら、いつかは手品だけで食べていける日を夢見て暮らしていた。

 恋もした。もともとはホールスタッフとして勤めだしたジョセフィーヌが、レネのアシスタントとして一緒にショーに出演することになってからは、彼女に夢中になった。

 ええっ。その女かよ。稔は話を聞きながらぎょっとした。そいつ、ライバルに寝取られた同棲相手だろ?

「お花を贈りたいのは、その方?」
愛里紗が、口をはさむと、レネは首を振った。

「違います。彼女に、僕は夢中だったけれど、ジョセフィーヌはこの街で僕の味方になってくれた人ではなかった。それはエマだけだったと、今になって思うんです」

「エマ?」
稔は思わず訊いた。一度も聞いたことのない名前だったから。

 レネは、頷いて彼のパリでの物語を続けた。

 ムーラン・ルージュをはさんで、レネの勤めるナイトクラブとちょうど反対ぐらいの距離に小さい煙草屋があった。そこには店の染みのような小さな老婆がいて、いつもなにかに対して文句を言っていた。

「この頃の政治家ってのはなってないね。きれいな顔をして偽善的なことを口にすればまた当選するとでも思っているのかね」
「あんたの横柄な態度になぜこのあたしが我慢しなくちゃいけないのさ。嫌なら2度とこの店に足を踏み入れなければ良いだろ」
「あんたは母国がサッカーに負けたからって、周り中に当たり散らす権利なんかないんだよ」
「禁煙がトレンドだって? ひとの商売の衰退をわざわざ告げに来るとはいいご身分だね」

 それがエマだった。

 レネは煙草の類いは何も嗜まないので、この店に入るときはチョコレートを買うときだけだった。他の店にはない故郷プロヴァンスの小さな工場で作っている銘柄がこの店にはあったのだ。

 レネにとって忘れられない思い出がある。

 それは、パリを去った夏のことだ。ナイトクラブからクビを言い渡されたレネは、とぼとぼと帰り道を歩きながら、故郷の懐かしいチョコレートで心を慰めようとエマの煙草屋に入った。

 レネは、思わず涙をこぼした。今日の午後、買い物から帰ってアパルトマンのドアを開けたら、なぜか同じナイトクラブで働くラウールが、ジョセフィーヌとベッドの上にいた。それだけでもショックなのに、出勤した途端にオーナーから彼のマジックショーは、今後ラウールとジョセフィーヌがやるのでお前はもう来なくてもいいと宣告されてしまったのだ。

 自分の要領がよくないことはわかっていた。ラウールが優れた容姿で客たちから人氣があることもわかっていた。でも、真面目に精一杯生きてきたのに、こんな風に何もかも取りあげられたのかと思うと、やるせなくて涙が止まらない。

 エマは「商売の邪魔になるから泣くな」などとはいわなかった。レネが落ち着くまで待って、話を聞いてくれた。今になって思えば、この街で、レネが自分の弱さや悲しみを吐露できたのは、これが初めてだった。

「あの雌狐なら、そのくらいのことをしても不思議じゃないと思うね。だから何度もいっただろ。あの娘には温かい血が流れていないって。あんたがこのチョコを勧めたとき、小馬鹿にしてそっちの大量生産のチョコをわざわざ買ったことがあったよね。人の思い出を踏みにじるようなヤツは、どんなに見かけがよくても中身は爬虫類と一緒だ」

 レネは、それを聞いてよけい強く泣いた。ジョセフィーヌが、彼の故郷のあらゆる物を馬鹿にしていたことを思いだした。見下されていたのは彼の生まれ故郷ではなくて、彼自身でもあったのだと思うと情けなくて逃げたしたかった。

「仕事も恋人もなくなって、僕はどうしたらいいんだろう」
また1からこの街で手品をやらせてくれる場を探すかと思うと、レネは心から途方に暮れた。

 エマは冷徹にも思える調子で言い放った。
「そもそもこの街はあんたみたいな弱くて純なヤツには向いていないんだよ。ここを離れるのが一番だ」

 レネは言葉を失った。ようやくパリに慣れてきたと思ったのに。少し間を置くと、おずおずと言った。
「でも、どこにいったら……?」

 エマは、少し温かく思える調子に変えてゆっくりと言った。
「南へお行き。あんたの故郷のプロヴァンスでも、もっと南の地中海でも、どこでもいい。ただし、ニースみたいなスノッブでおかしな人間の集まるところに行っちゃダメだ。広くて、大地に足をつけて人びとが助け合いながら生きている土地に行くんだ。最初にいったところにはいなくても、どこかには必ずいる。それを探すんだね。あんたの正直で優しい心持ちを大切にしてくれる輩がね。それを見つけたら、それがあんたのいるべき土地さ」

 稔は、思わずレネの顔を見た。レネは、稔の目を見返して、はにかみながら笑った。

「その通りになったのね」
愛里紗が問う。

「はい。僕は、コルシカでこのヤスに会いました。それから、他の生涯の友達にも」

 エマの直接的でお節介なアドバイスが、あの時レネをコルシカ島に向かわせた。悲しみに押し潰れることなく、新しい人生を探すための必要な背中のひと押しをしてくれたのは、店の染みのような小さな老婆だった。

「わかったわ。その方へ捧げるお花、ぜひ私に作らせてちょうだい」
愛里紗が微笑んだ。

「ありがとうございます、マダム」
レネが前のめりで礼を言う。

「でも、1つだけ確認したいの。西洋で作るいわゆるフラワーアレンジメントは、全方向から見られることを意識して作るものだけれど、日本の生け花というのは、たった一つの方向から見ることを想定してデザインするものなの。その方がどのように受け取るかのシチュエーションは決まっていたら教えてほしいわ」
愛里紗が訊くと、レネははっとして、1度下を見てからふたたび愛里紗の目を見据えた。

「正面は……どういえばいいのか。墓石の上に載せるので……。彼女はモンマルトル墓地に眠っているそうですから」
その言葉に、稔と愛里紗が同時に息を飲んだ。

* * *


「エマ・マリー・プレボワ ここに眠る」
小さな墓石は、必死で探さないと見過ごしてしまいそうだった。エドガー・ドガ、モーリス・ユトリロ、エミール・ゾラ、アレクサンドル・デュマといった錚々たる有名人の墓は大きく立派だが、そのモンマルトル墓地には、地域の一般人も埋葬される。

 まだ、春といっても早いので、陽光は弱く柔らかい。周りの木々には膨らんだ芽はあるが若葉が現れるにはまだしばらくかかるだろう。

「お。来た来た」
稔が手を振ると、かなり向こうから蝶子とヴィルがこちらに向かってくる。

「ごめん。私たちが先につくぐらいだと思ったのに」
「探していた墓は、見つかったのか? ランパルだっけ?」
「ええ。せっかくここに来るんなら、お詣りしたくてね」

 フルートの名手であったジャン・ピエール・ランパルも、モンマルトル墓地に眠っている。そういえば、ブラン・ベックはハイネの墓の場所を探していたから、後でそこに行くんだろうな、と思った。

「それが、例の日本人に作ってもらった花か」
ヴィルが珍しく明らかに感銘を受けたとわかる顔つきで訊いたので、稔はそうだろうなと思った。

 レネは頷いた。手にしているのは半球型に盛られた、花かごだった。といっても花器として使われている籠は苔山で覆われほとんど見えない工夫がしてあり、まるで何もないところに偶然にも木や草花が育ったかのように見える。

 1度左に向かってから弓なりに右に向かう盆栽のような枝振りの木はミモザだ。黄色い花が力強く明るく咲いている。そして、根元に絶妙なバランスでいけられたのは、フランス人のこよなく愛する『田舎風シャンペトルブーケ』でよく使われるカヤ、ユーカリ、コバングサなどだ。それらとともに、薄紫と若緑の野の花を思わせる花々が絶妙なバランスで配置されている。

 レネがその籠を墓石の上に置くと、まるで彼女の墓から草花が遅い春を待てずに萌えだしたかに見えた。

「すごいわね。ここまでフランスっぽい素材だけを使っているのに、これはフラワーアレンジメントじゃなくって華道だってわかるように作れるものなのね……」
蝶子が感心してつぶやいた。

 亡き人を悼む草花は弱い風にそよいでいる。

 レネは、眼鏡を取ると涙を拭った。エマの声が蘇ってくる。
「くよくよするんじゃないよ。あんたが悪いんじゃない。今のめぐり合わせとの相性が悪いだけさ。あんたにふさわしい居場所はきっとあるからね」

(初出:2023年3月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】仙女の弟子と八宝茶

scriviamo!


今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第7弾です。津路 志士朗さんは、オリジナル掌編で参加してくださいました。ありがとうございます!

志士朗さんが書いてくださった「女神の登場はアールグレイの香りと共に。」

志士朗さんは、オリジナル小説と庭とご家族との微笑ましい日々を綴られる創作系ブロガーさんです。代表作の『エミオ神社の子獅子さん』がつい先日完結したばかりです。派生した郵便屋さんのシリーズで何度かあそばせていただいていますよね。

今回書いてくださった作品は、スーパーダーリンならぬスーパーハニーをテーマにしたハードボイルド。とても楽しい作品で一氣に読んでしまいました。

お返しですが、あちらの作品には絡めそうもないので、全く別の作品を書いてみました。テーマは志士朗さんの作品同様スーパーハニーです。ただし、中国のお話、お茶ももちろん中国のもの。下敷きにした怪談は「聊斎志異」からとってあります。


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【参考】
今回の作品とは直接関係はないのですが、今回登場した紅榴を含む空飛ぶ仙人たちの登場する話はこちらです。
秋深邂逅
水上名月




仙女の弟子と八宝茶
——Special thanks to Shishiro-san


 朱洪然は福健のある村に住む若者で、童試の準備をしているが、後ろ盾もなく、また際だった頭脳もないため受かる見込みはない。妻の陳昭花は家事、畑仕事に加えて、近所の道士の手伝いまでして朱を支えていた。

 いつものように朱が昼から酒などを飲みながら、桃の花を眺めて唸っていた。
「桃の灼灼たる其の華……」

 陳氏は部屋をきれいに拭きながらその声を耳にしたので、通り過ぎるときに訂正した。
「桃の夭夭たる 灼灼たり其の華 之の子于き帰ぐ 其の室家に宜し」

 それを聞くと、朱は顔を真っ赤にして怒り、盃を投げ捨てると「こんな邪魔の入るところで勉強はできない」と叫び、出て行ってしまった。妻の陳氏の方が優秀だという近所の噂に苛ついていたからである。

 田舎ゆえ、近所に知られずに昼から酒などを嗜める店はない。やむを得ず、どこかで茶でも飲もうと道をずんずんと進んだ。

 しばらく行くと村のはずれにこれまで見かけなかった茶屋があった。新しい幟がはためいているが、誰も入っていないようだ。朱は中を覗いた。

「おいでなさいませ」
出てきたのは、皺だらけの老婆で、あけすけなニヤニヤ笑いをしている。

「ここは茶屋か。何か飲ませろ」
横柄に朱が命じると、婆はもみ手をしてから茶を持ってきた。

 それは、水の出入りのない沼のようなドロドロの黒緑色をしており、生臭い。朱は、茶碗を投げ捨てると、つばを吐きかけて地団駄を踏んだ。
「こんなひどい茶が飲めるか。なんのつもりだ!」

 婆が、茶碗を拾ってブツブツ言っていると、奥から衣擦れがして女が出てきた。立ち去りかけていた朱は、思わず立ち止まってそちらを見た。

 それは沈魚落雁または閉月羞花とはかくやと思われる美女だった。烏の濡れ羽のような漆黒の髪を長くたなびかせ、すらりとした優雅な柳腰をくねらせて茶を運んできた。

「このお茶をお飲みになりませんか。とても喉が渇いているんでしょう? あたくしが、手ずから飲ませてさし上げましてよ」

 婆の持ってきた茶とほとんど変わらないものだったにもかかわらず、朱は女に飲ませてもらえるのが嬉しくて、座って頷いた。

「この茶は水莽草すいぼうそうのお茶なんです。お勉強に明け暮れている貴方なら、何のお茶かわかりますわよね」
女は嬉しそうに笑うと、なんのことかわからないでいる朱の口にまずくて苦い茶を流し込んだ。

 女は、代金も取らずに朱を送り出した。ぼうっとしたまま家に戻った朱は、玄関でそのまま倒れてしまった。

老公あなた、いかがなさいましたか」
妻の陳氏が、あわてて出てきた。

「なんだかわからんが、水莽茶とやらを飲んでから、具合が悪い」
そういうと、そのまま息を引き取ってしまった。

 陳氏は、朱と違い水莽草が何を意味するのか知っていたので驚いた。

 この毒草を食べて死ぬと水莽鬼という幽霊になってしまい、他の水莽鬼が現れないと成仏できない。それで、水莽鬼は生きている人に水莽草を食べさせようと手を尽くすのである。

 陳氏は、急ぎ夫の亡骸を寝かせると、鬼にならないように御札を貼り、急ぎ馴染みの道士の元に急いだ。

「どうした、小昭花」
慌てて入ってきた陳氏を見て、道士は訊いた。

 かなり赤みの強い髪をしたこの人物は、数年前からこの庵に住み修行をしていることになっている。身の回りの世話に通う陳昭花の他には付き合いもないので知られていないが、実は単なる道士ではなく天仙女である。

「紅榴師、どうぞお助けくださいませ。夫が水莽鬼にされてしまいます」

 紅榴は、片眉を上げた。
「村はずれの水莽鬼に化かされたのか。お前のような立派な妻がいるのに、全くなっていないな、あの者は。もう、見限ってもよいのではないか」

「そうおっしゃいますが、それでもわが夫でございます。なんとかお助けいただけないでしょうか」
昭花は床に額をこすりつけて願った。

「しかたない。あの男を助けてやりたいとはみじんも思わぬが、お前が氣の毒ゆえ助けてやろう」

 そう告げると紅榴は陳昭花に墨書きの札をいくつか授けた。深く抱拳揖礼をしてから札を受け取った昭花は、そのまま夫の元に戻ろうと戸口を出ようとした。

「待ちなさい。これも持っていくとよい。あちらが茶で人を取り込むのならば、こちらも茶で対抗せねばな」
紅榴は、笑うと最新の愛弟子に包みを授けた。

* * *


 陳昭花が家に戻ると、そこは瘴氣で満ちていた。見ると家の中には夫の亡骸だけではなく、老婆と若い女の幽鬼がいる。殺した男を水莽鬼に変えようと長い爪で朱の亡骸の上を引っ掻いていた。

 見れば、昭花が貼った鬼除け札はほとんど剥がされている。紫の顔をした夫も、胸をかきむしり御札を剥がそうとしていた。

「悪鬼ども。わが夫より離れよ」
昭花は剣を構え、鬼女たちに斬りかかる。

「こざかしい女め。人間の分際で我らに敵うと思うのか」
老女は、白髪を逆立て、血走った目に蛇のような舌をちらつかせて長い爪で昭花の喉を切り裂こうと飛びかかってきた。

 昭花は、紅榴元君の元で何年も修行しただけあり、軽々とそれを避けて後ろに飛び上がった。

 師が授けた封印の札を投げつけると、それは若い鬼女の口を塞ぎ、瘴氣が漏れてこなくなった。瘴氣は鬼女自身にも仇をなす毒を持つらしく、若い鬼女の動きが止まった。

 昭花は、老女にも御札を投げつけたが、こちらは長い爪でビリビリに裂いてしまった。老婆は高らかに笑うと、昭花に向かって飛びかかってきた。

「ぎぇ!」
瞬時に振り下ろされた昭花の剣が鬼婆の長い爪を切り取った。それこそがこの幽鬼の瘴氣の源であったので、瞬く間に老婆は干からびて、干し魚に変化して床に落ちた、

「おのれ、母上に何をする!」
ようやく御札を取り去って自由になった若い美女だった鬼が、姿を変えた。漆黒の髪は束になって持ち上がり、それぞれが毒蛇に変わった。口は耳まで広がり、獣のような牙がいくつも剥き出しになった。

 見るも恐ろしい鬼女だったが、昭花は臆さずに剣を構え、襲いかかってくる毒蛇を一匹ずつ切り落としていった。

 最後の蛇が落ちると、鬼女も断末魔のうめきをあげながら足下に倒れ、そのまま薄氣味悪い染みを残して消え去った。

 昭花が夫を見ると、紫色の顔をした水莽鬼として蘇った朱は、ガタガタと震えながら妻を見ていた。

老公あなた、これでもこの女の方がよろしゅうございますか」
昭花が訊くと、朱は首を横に何度も振った。

「美しい女だと思ったのに、あんなバケモノはごめんだ。助けてくれ。そんな物騒なもので、俺を斬らないでくれ」

「さようでございますか。では、私の淹れるお茶を飲んでくださいますか」
昭花は、水莽鬼としての瘴氣すら醸し出せぬ夫に詰め寄った。

「先ほどの茶みたいな、まずいものは飲みたくない」
朱はうそぶいた。

 夫の言い分には全く耳を貸さず、昭花は紅榴にもらった包みを開けて中の茶をとりだした。湯の中に入れると、それは白い菊のような花、龍眼、クコの実のほか、貴重な薬草を惜しげなく使った八宝茶だった。

 昭花に助けられて、その茶を飲んだ朱は、激しい咳をした。そして、水莽草の塊が口から飛び出してきた。蛇のように蠢くそれを、昭花は剣ですかさず斬った。

 しばらくすると、朱の顔色は普通の肌色に戻ってきて、そのまま彼は失神してしまった。直に大きないびきをかきだしたので、昭花には夫が人として息を吹き返したことがわかった。

 悪鬼どもの屍体や水莽草の残骸を片付け、部屋を浄めていると、どこからともなく紅榴が入って来た。

 大いびきをかいて寝ている朱を呆れたように眺めると、ため息をついていった。
「小昭花。そろそろこの男に愛想を尽かしてもいいのではないか。妾は間もなく泰山に戻る心づもりだ。そなたが望むなら連れて行くぞ。向こうで心ゆくまで修行して化仙するとよい」

 昭花は、師の言葉を噛みしめていたが、やがて言った。
「たいへん心惹かれるお言葉ですが、今しばらく夫に従うつもりでございます。また次にこのようなことがございましたら、その時は私も人としての契に縁がなかったと諦め、修行に励みたいと存じます」

 紅榴は頷いた。
「ならばしかたない。では、次にこの男が問題を起こしたら、潔く捨てて妾のもとに来るのだぞ。お前には見どころがあるからな」

 そのことがあってから数ヶ月は、朱が柄にもなく試験の準備に心を入れたと噂になった。だが、その後、酒に酔って村長の妻に言い寄ったためにひどく打ち据えられてから牢に入れられた。

 朱が半年後に牢から出てきたときには、家に妻の陳氏はいなかった。きれいに浄められた家には女が住んでいた痕跡は残っていなかった。朱の物を持ちだした様子はなく、金目のものも一切なくなっていなかった。

 卓の上には、いま淹れたばかりのような熱い八宝茶があった。陳氏の行方を知るものはいない。

(初出:2023年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】黒い貴婦人

今日の小説は『12か月の建築』2月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマ建築は、カンボジアのコー・ケー遺跡です。同じクメール王朝による遺跡群ではアンコール・ワットやアンコール・トムの方が有名なのですが、もう少し見捨てられた感の強いマイナーな遺跡を探してここにたどり着きました。もちろんフィクションです。お間違いのなきよう。(そんなの当然って?)

なお、後半に登場したアメリカ人傭兵は『ヴァルキュリアの恋人たち』シリーズで『ブロンクスの類人猿』よばわりされている人ですが、まあ、誰でもよかったので出しただけで意味はありません。それにこの話もまたしてもオチなしです。すみません。


短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む 短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む




黒い貴婦人

 香木の燻された煙が、湿った空氣に溶け込んでいく。ひどい頭痛のように感じられるのは、実際には痛みではなく、途絶えずに鳴り響く蝉の声だ。リュック・バルニエ博士は、ことさら神妙な顔をして老女を見つめた。

 スレイチャハと呼ばれるこの醜い女は、シヴァ寺院の神官のような役割をしている。他の村民たちの絶対的な信頼を受け、この女が頭を縦に振らなければ、リュックの計画している保護計画を進めることは不可能だ。

 村の長老と占い師の中間のような立場なのだろうが、中世フランスであれば、真っ先に薪の上に載せられて火をつけられたであろうと、リュックは表情に出さないように努めながら考えた。

 ヒンドゥー教に改宗するつもりはまったくないが、それでも村民たちとともに煙をくゆらす細い香木を捧げ、リュックは恭しくスレイチャハに寺院の内部に散乱する神像の破片を持ち出すことの許可を願い出た。

 コー・ケー遺跡は、カンボジアの一大観光地シェムリアップの北東120キロメートルに位置する遺跡群だ。80平方キロメートル以上の保護域の中に180を超える聖域が発見されている。そのうち、観光客が立ち入ることを許可されているのは20ほど、残りは深い熱帯雨林に埋もれ実態もいまだつまびらかになっていない。森には地雷の危険もあり調査は遅々として進まない。

 10世紀の終わりにたった16年ほどクメール王朝の都とされたこの地は、当時はチョック・ガルヤ、またはリンガプーラと呼ばれていた。リンガは男性器を意味する石柱でシヴァ神の象徴だ。コー・ケーはアンコール遺跡群と違い、仏教と習合していない純粋なヒンドゥー教寺院だ。アンコール王朝7代目の王ジャヤーヴァルマン4世が出身地に遷都し、息子のハルシャーヴァルマン2世と共にこの地にヒンドゥー教を中心とする王都を作った。

 アンコール王朝は、遺跡に見られる穏やかな微笑みとは相容れぬ王位簒奪と混乱の繰り返しで成り立っていた。簒奪者は実力で王位を手にすると、前国王の王妃や王女と結婚することでその正当性を主張したが、その度に己の実力を誇示し威光を確実なものとするために壮大な寺院を中心とした華麗な王都を建設した。

 コー・ケー遺跡もまた、かつてはヒンドゥー教世界の乳海を模した巨大な貯水池バライ「ラハール」周りに世界の中心である須弥山を模した巨大なピラミッドを持つプラサット・トム寺院をはじめとして、数多くの壮大な寺院を配置し、「ラハール」の水を使った灌漑農業で栄えていたという。

 だが、再び遷都されて王権が届かなくなった後は、次第に廃れて忘れられていった。盗掘や、自然の驚異による破壊だけでなく、15世紀以降にシャム王朝に併合されてからの破壊、また、西欧諸国の植民地時代の美術品の無計画な持ち出しによって、遺跡はかつての詳細な状態がわからないまでに荒廃した。

 彼らの祖先が大切に守ってきた寺院は仏教を信じる異国出身の王に破壊され、大切な神像もハイエナのような西洋人たちに持ち出され、狂信的なクメール・ルージュに打ち壊された。そして、荒廃した寺院の中を熱帯の植物たちが根や枝を蛇のようにくねらせて打ち砕いていく。

 コー・ケー遺跡に限らず、カンボジアのクメール王朝による遺跡には謎が多い。これほど壮大で精巧な遺跡を短期間で作るには高度な技術者と多くの建設に関わった人間がいるはずだ。一説によると当時は35万人もの人びとが現在のアンコール遺跡群のあったあたりに住んでいたはずだという。

 だが、そうした高度な文明の担い手たちは、どこへいってしまったのだろう。

 ここコー・ケー遺跡でも、神々を拝む人びとは、神殿を覆い尽くす熱帯雨林の浸蝕から彼らの神像や神殿を守ることができない。つい最近まで内戦があり、文化遺産の保護どころか治安維持すらままならぬ状態だったカンボジアでは、政府とともに保護活動を進めているのは「アンコール世界遺産国際管理運営委員会」を中心とした国際的な支援チームだ。

 リュックは、子供の頃にアンコール・ワットを紹介するテレビ番組でクメール王朝のことを知った。そして、残された仏像や王の肖像の微笑みに魅せられた。なんと謎めいた美しい微笑みだろう。それが今日の専門へと導いたのだ。これらの遺跡を破壊から守り、謎を解き明かしたい。若き学者として、彼は志を持ってこの地に赴任した。

 西欧の先進的な技術とメソッドは、自分の情熱とともに、きっとこの国の文化遺産をあるべき姿に戻すのに役立つ。そう考えて彼は仕事に臨んだ。だが、実際に赴任してみて、彼の尊い仕事がさほど簡単に進まないことや、ものごとがそれほど単純ではないことにも氣づきはじめた。

 クラチャップ寺院やクラハム寺院の修復のためには、一度倒壊した神像を搬出して工房で修復する必要がある。だが、世界遺産保護プロジェクトが国の許可を得て遺跡の一部を移動させることは、住民たちにとっては神を盗み出すことと見做されることもある。

 リュックは、スレイチャハや村民たちがよそ者を信頼していないことを感じていた。遺跡を守りかつての威容を再現するための修復だと説明しても、信頼できない。かつて、彼らの神は「国を支配する者」によって否定され完膚なきまでに破壊された。熱帯雨林には多くの地雷が埋められ、人びとはいまだに恐怖と背中合わせで生きている。

 スレイチャハは、平たく潰したような口調で呪文を唱え、丁寧に細い香木をリンガに備えた。それは根元から折れてしまっており、台座であった部分にもたせかけるように安置してある。

 ニエン・クマウ寺院。その名は『黒い貴婦人』を意味する。塔の表面がおそらくは山火事で焼かれて黒くなっていることに由来するといわれている。だが、もしかしたら山火事ではなくてクメール・ルージュ撲滅の焦土作戦で焰に晒された結果なのかもしれない。

 リュックが、コー・ケー遺跡の調査に初めて参加したとき、前任の調査員は「ここは奇跡的に破壊を免れた」と説明した。だが、本尊であるリンガがこのように無惨な状態になっているのを「破壊を免れた」と表現することには疑問が残る。

 このリンガを修復のために搬送することが最終目的だが、今日のところは散在する神像の破片の搬出に同意してもらい、信頼関係を築きたい。それに同意してもらうのもまた一苦労だ。

 既に政府の主導する学術保護チームがプラサット・ダムレイやその他の遺跡群から瓦礫と区別もつかずにいた女神像やヤマ神像などを搬出し見事に復元したのだが、それらは現在博物館で展示され、倒壊を待つようなコー・ケー遺跡には戻されていない。その意味を理解してくれる住民たちもいるが、少なくともスレイチャハとその信奉者たちは、西洋人たちが政府と結託して彼らの神を盗み出していると感じているようだ。

 ものすごいスピードで育つガジュマルやその他の植物、氣の遠くなるような湿氣、どこにあるかわからない地雷の数々。彼らの祖先の作った文化遺産を守るためには、早急に修復が必要だ。スレイチャハらが忌み嫌う観光客たちは、そのための費用を生み出す金の卵でもあり、修復した神像をクーラーの完備した博物館で展示することにも意味がある。そう伝えても、彼女らは決して納得しない。

「それで、次の修復ですが……」
片言のクメール語を使い、スレイチャハに話しかけようとすると、老女はそんな声などどこにもしなかったかのごとく無視した。そして、後ろの方を見て「トゥバゥン」と言った。

 すると、信奉者である男たちを搔き分けてひとりの女が寺院の中に入ってきた。リュックは息を飲んだ。この辺りの村で、今まで1度も見たことのなかった女だ。若く、漆黒の美しい髪を後ろに長く伸ばしており、金糸の多い紫の上着と黒い長いスカートをはいている。そのスリットからしなやかで長い足が歩く度にリュックの眼を射る。

 観光客に清涼飲料水を売りつけたり、村で農作業に明け暮れている類いの垢抜けない女とは明らかに一線を画している娘だ。娘から目を離せないでいるリュックを見て、スレイチャハは意地悪な微笑みを見せた。

「トゥバゥン。このフランスの学者さんはお疲れのようだ。あちらでもてなしてやっておくれ」
スレイチャハが言うと、娘はひと言も口をきかずにリュックの手を取り、その場から連れ出した。香木の香りがきつく、頭が割れるように痛い。

 寺院から出た途端、蝉の鳴き声が倍ほどの音量で降り注ぐ。蒸し暑さと、日差しの暴力にリュックは目眩を感じた。

 娘は、彼を半ば崩れた寺院の中に誘った。彼女に勧められるままに、崩れた石の1つに腰掛けて目を閉じた。彼女からは、スレイチャハが焚きしめていたのと同じ香木の強い匂いがしている。そして、その吐息が異様なほどに近くにあるのを感じて困惑した。

「その昔、『黒い貴婦人ニエン・クマウ』と呼ばれた王女が、この地に封じ込められたのです」
娘が囁いたのはフランス語だと氣づいたのはしばらくしてからだった。リュックは、それすらもわからぬほどに混乱していた。

「そこで暮らすうちに、この地の出身の高僧ケオの噂を聞き、この世の悲喜についての教えを請うために彼の庵を訪ねました。そして、師に敬意を表するためにごく近くに寄ったので、師の身体のすべてくまなく知ることになりました」

 リュックはぎょっとして女の顔を見た。具合が悪く相づちもまともに打てていなかったので、自分が何かを聞き違えたのかと思ったのだ。

 トゥバゥンの顔は、不自然なほどにリュックの近くにあった。瞳は暗闇の中で漆黒に見える。艶やかな黒髪は、『黒い貴婦人』の容貌がこうではなかったのかと思わせる。

「そう。そして、ケオ師は還俗し、ニエン・クマウ王女と塔の中でいつまでも愛し合ったのです」
そう囁くと、トゥバゥンはリュックの理性をいとも簡単に崩壊させてみせた。

 さして遠くない寺院で村民たちが祈りを捧げていることも、彼が仕事上で大切な交渉の途中であることも、リュックは半分以上忘れ去っていた。頭はまったく働かない。暑さと湿氣にやられたのか、それともまとわり付くような薫りの香木に何か仕掛けがあるのか。

* * *


「おい。バルニエ博士。おいったら」

 氣がつくと、リュックは1人、寺院の瓦礫の上に横たわっていた。懐中電灯の光が眩しくて思わず手のひらで遮った。

「大丈夫か。宿舎で騒ぎになってんだけどよ」
ゆっくりと起き上がりながら、リュックは呻いた。

 声の主がわかった。マイケル・ハーストだ。単なる宿舎の護衛としてだけでなく、地雷除去の経験もあるというので重宝されているアメリカ人傭兵だ。

 辺りはすっかり暗くなっていて、蝉の声はもう聞こえない。代わりにカンタンの鳴き声がやかましい。

 懐中電灯の灯に目が慣れてハーストの表情が見えた。いぶかしがっているようだ。視線を追うと、自分の上半身のボタンはすべて外され、胸が完全に露出している。視線をおろすと下半身はかろうじて露出を免れていた。いったい、どうなったんだ……。

「……。女は……?」
リュックは、辺りを見回した。ハーストは、目を細めて「やれやれ」という表情を見せた。

「ったく、あんたたちフランス人は、あいかわらずお盛んだな。こんなにボロいけどさ、ここは、一応あいつらの寺院なんだぜ。わかってんのか」

「いや、そういうんじゃない」
あわてて否定してみせた。

「はいはい」
ハーストは、リュックの弁解をまったく信じていないようだ。

「熱中症か、それとも、あの香木に酔ったのか。とにかく、午後から記憶がないんだ。……もしかして、大変な騒ぎになっているのか?」
リュックは、立ち上がるとシャツのボタンをはめて身支度をした。

「大変ってほどじゃないけどさ。あんたが、あの婆さんと交渉に行くと息巻いて出て行ってからちっとも帰ってこないから、何かあったんじゃないかって。女を買うなら、宿舎に戻ってから普通に村に行けよ。こんなところで夜に迷って、地雷だらけの密林に迷い込んだらバラバラになるぞ」

 女としけ込んだと断定されてしまい、心外だったがそれ以上反論するつもりにもなれなかった。本当にそういうつもりではなかったのか、自分でも定かではない。

 あの女、トゥバゥンは何者だったのだろう。あれだけのフランス語を話す女なら、本来通訳として皆に知られているはずだ。だが、見たことも聞いたこともなかった。まるで女の話していた『黒い貴婦人ニエン・クマウ』の幽霊が現れたかのようだ。

 リュックは、ふらつきながら寺院から出て宿舎に帰ろうと歩き出した。

「違う。こっちだ」
マイケル・ハーストに首元を掴まれた。

「俺が来なかったら、本当に明日になる前に死体になっていたかもな。何週間いようと、熱帯雨林に慣れたつもりにはなるな」
リュックは、ぞっとして周りを見回した。

 ガジュマルが絡みつき、今にも崩れそうな寺院が目に入った。月明かりの中で、木々は昼よりもずっと邪悪に見えた。根は蠢き、絡みつき、その力で人間の作りだした文明という名の驕りを簡単に壊していく。

 リュックは、スレイチャハとの交渉について考えた。具合が悪かったとはいえ、彼女の神事を途中で放り出して礼を尽くさなかった。また、あの女とのことを騒がれたらプロジェクト全体も止まってしまうかもしれない。いずれにしても、彼の立場は今朝までと較べてかなり危うくなっている。

 神像の微笑が浮かび上がって見えた。それは、子供の頃にテレビで見たときのような穏やかで柔和な表情ではなかった。ガジュマルの根でじわじわと締め付ける密林の笑い声がどこからか響いてくるようだった。

(初出:2023年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -18- レモンハイボール

scriviamo!


今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第6弾です。もぐらさんは、オリジナル作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

もぐらさんが書いて朗読してくださった作品「第663回 大事な壺」

もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。いつもとても長くて本当にご迷惑をおかけしています。

今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品群です。貧乏神のシリーズとはいえ、毎年、とてもハートフルなエンディングでお正月にふさわしい素敵な作品ばかりです。

今年の作品はケチな爺さんと、貧乏神さんのいろいろと考えさせられるお話。お返しは考えましたが、今回は強引に『Bacchus』に持ってきました。もぐらさんが最初にうちに来てくださり、朗読してくださるようになったのが、『Bacchus』でしたよね。

お酒はレモンハイボールですが、今回の話の主役は、大きな壺とサツマイモです。

それと、本当にどうでもいいことですが、今回登場する客のひとりは、この作品で既出です。ちゃっかり常連になっていた模様。


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「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -18- レモンハイボール
——Special thanks to Mogura san


 日本橋の得意先との商談が終わったのはかなり遅かった。直帰になったので、雅美は久しぶりに大手町に足を向けた。『Bacchus』には、しばらく行っていなかった。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 バーテンダーでもある店主田中の人柄を慕い、多くの常連が集う居心地のいい店で、雅美も田中だけでなく彼らにも忘れられない頻度で足を運んでいた。

 早い時間なので、まだ混んではない。田中と直接会話を楽しめるカウンター席は常連たちに人氣なので、かなり早く埋まってしまうのだが先客が1人だけだ。

「柴田さん、いらっしゃいませ」
いつものように田中が氣さくに歓迎してくれるのが嬉しい。雅美は、コートを脱いで一番奥のカウンター席に座った。

 反対側、つまりもっとも入り口に近い席には、初老の男が座っている。質は悪くないのだろうが、今ではほとんど見かけなくなった分厚い肩パッドのスーツはあまり身体に合っていない。金色の時計をしているのだが、服装に対して目立ちすぎる。

 雅美にとっては初めて見る顔だ。1度目にしたら忘れないだろう。人間の眉間って、こんなに深く皺を刻めるものなんだ……。雅美は、少し驚いた。

 その男は、口をへの字に結び、不機嫌そうにメニューを見ていた。仕事で時おりこういう表情の顧客がいる。すべてのことが氣に入らない。どんなに丁寧に対応しても必ずクレームになる。2度と来ないでくれていいのにと思うが、どこでも相手にされないのが寂しいのか、結局、散々文句を言ったのにまた連絡してくるのだ。

 少なくとも現在は、自分の顧客ではないことを、雅美は嬉しく思った。田中さんに難癖つけないといいけど。

「どれがいいのかわからないな。洋風のバーにはまず行かないからな」
男は、メニューをめくりつつ、ため息をついた。

「どんなお酒がお好みですか。ビール、ワインなどもございますが」
田中が訊くと、男は不機嫌そうな顔で、でも、とくに怒っているとは感じられない口調で答えた。
「せっかくバーに来たんだし、いつもと同じビールを飲んでもしかたないだろう。カクテルか……。なんだか、わからない名前が多いが……これは聞いたことがある……ハイボール」

 雅美は、ああ、ハイボールってここでは頼んだことなかったかも、そう思った。

「なんだ、ウイスキーの炭酸割りのことなのか。自分でもできそうだが、奇をてらったものを飲んでまずいよりも、味の予想がつくのがいいかもしれないな」

 男は、ブツブツと言葉を飲み込んでいる。雅美は、少し反省しながら見ていた。クレーマータイプだと決めつけていたが、いたって普通の客だ。

 田中は雅美にもおしぼりとメニューを持ってきた。既に彼女の心の8割がたはハイボールに向いている。
「田中さんが作るなら、ハイボールもありきたりじゃないように思うの。お願いしようかしら」

 そういうと、田中は微笑んだ。
「ウイスキーでお作りしますか。銘柄のご希望はございますか?」

「田中さんおすすめのウイスキーがいいわ。ちょっと爽やかな感じにできますか?」
「はい。では、レモンハイボールにしましょうか?」
「ええ。お願いするわ」

 そのやり取りを聞いていた初老の男性は言った。
「僕にも、そのレモンハイボールをお願いできるかな」

「かしこまりました」

「おつまみは何がいいかなあ。あ、さつまいものサラダがある! こういうの好きなのよねぇ。お願いするわ」
「かしこまりました」

 初老の男は「さつまいも……」と言った。

 あれ。眉間の皺がもっと濃くなった。あれ以上眉をしかめられるとは思わなかったわ……。雅美は、心の中でつぶやいた。

 田中も、そちらの方には、声をかけていいか迷っている様子だ。2つのグラス・タンブラーに、大きい氷を入れてから、すぐにはハイボールを作らずに、さつまいものサラダの方を用意し、雅美の前に置いた。

 それから、タンブラーの中で氷を回すように動かした。

「何をしているの?」
雅美が訊くと、田中は笑った。

「タンブラーを冷やしているのです」
「ええ? 氷を入れるのに?」

「アルコールと他のものが混ざるときには希釈熱という熱が発生して、温度が上がるんです。ハイボールの場合、これによって炭酸が抜け、氷もすぐに溶けてぼんやりとした味になってしまいます。それを避けるためにできるだけ温度が上がりにくくするわけです」
「なるほどねぇ」

 氷と溶けた水を1度捨ててから、あらためて氷を入れて、レモンを搾って入れ、ウイスキーを注いだ。田中は再びグラスを揺らし、ウイスキーの温度を下げた。それから、冷えたソーダ水を注ぐと、炭酸が飛ばないようにほんのわずかだけかき混ぜた。

 田中がカクテルを作る姿を見るのは楽しい。1つ1つの手順に意味があり、それが手早く魔法のごとくに実行に移されていく。そして、出来上がった見た目にも美しいドリンクが、照明の真下、自分の前に置かれるときには、いつもドキドキする。
 
 さつまいものサラダは思っていた以上に甘く、しっかりとした味が感じられた。
「美味しい。これ、特別なさつまいもですか?」

「茨城のお客様が、薦めてくださったんです。シルクスイートという甘めの品種です」

 それを聞いて、初老の男は、なんとも言えない顔をした。先ほどまでは怒っていたようだったのが、今度は泣き出しそうだ。

 ハイボールを彼の前に置いた田中は、その様子に氣づいたのか「どうなさいましたか」と訊いた。

 初老の男は、首を振ってから言った。
「いゃ、なんでもない。……シルクスイート……。これもなにかの縁なのかねぇ……。僕にも、そのサラダをくださいませんか」

 それから、田中と雅美の2人に向かっていった。
「なにか因縁めいたことなんでね、お2人に聞いてもらおうかな」

 田中と雅美は思わず顔を見合わせた。男は構わずに話し出した。
「題して『黄金の壺』ってところかな」

「壺……ですか?」
「ああ。だが、ホフマンの小説じゃないよ」
 そう言われても、雅美には何のことだかわからない。

「ホフマンにそんな題名の小説がありましたね」
田中は知っていたらしい。

「おお、知っていたのか。さすが教養があるねぇ。ともかく、そんな話じゃないけれど、まあ、黄金の詰まった壺と、それに魅入られた困った人間の成り行きというところは、まあ、違っていないかもしれないね」

 黄金の壺とさつまいもの関係はわからないけれど、面白そうなので、会話の相づちは田中に任せて、雅美は黙って頷いた。

「今から30年近く前の話なんだけどね。僕は、火事でほとんどの家財を失ってしまったんだ」
「それは大変でしたね」

「ああ。うちは、もともとカツカツだったけれど、田舎の旧家でね。蔵もあったんだよ。その奥に置いた壺に親父の代から、いや、もしかしたら、その前の代からか、当主がコソコソと貯めた金やら、貴金属やらを隠していたんだ」

「壺にですか?」
「ああ。妻には言わずにね。それで、女を買いたいときや、その他の妻には言いにくい金の使い方をするときには、そこから使っていくんだと親父に教わったものさ」

 男もへそくりするんだ。雅美は、心の中でつぶやいた。

「僕は、元来、倹約するタチでね。親父に言われたとおりに、自分もかなりの金品をその壺に隠していたんだが、自分で使ったことは1度もなかったんだよ。なんだかせっかく貯めたのに勿体ないと思ってね」

 ああ、わかった。この人、クレーマー体質なのではなくて、要するにケチなタイプだ。雅美は、納得した。

「そうですか。それならば、かなりたくさん貯まったでしょうね」
「まあね。でも、件の火事があってね」
「それで、すべて失ってしまったと?」

「そうじゃないんだ。すべて燃えてしまったとしたら、むしろよかったかもしれない。でも、火事の後、すっとんで蔵に行き、壺の安全を確かめたのを見られたのかねぇ。火事で母屋のほとんどが焼けてしまっただけでなく、その後しばらくして、その壺が忽然となくなってしまったんだ」

「壺、丸ごとですか?」
思わず雅美が言うと、彼は頷いた。
「壺と言っても、小さな物じゃない。胸のあたりまである巨大な壺だ」

「そんなに大きな壺だったんですか」
田中も驚いたようだ。

 男は頷いた。
「常滑焼っていってね。その手の大型の壺は昔から米や野菜を貯蔵するために使われてきたものなんだよ。冷蔵庫が普及してからは、ほとんど誰も使わなくなって作るところも限られているけどね。今は、無形文化財に指定される職人さん1人だけが作っているっていうなあ」

「その壺を誰かに持って行かれてしまったんですね」
田中が、氣の毒そうに言った。雅美は訊いた。
「トラックかなんかで、運び出したのかしら」

「うん……。どうだろうねぇ。あとで、あまり遠くない空き地で、たくさんの破片が見つかったので、なんとも言えないんだ。……実は、妻がなくなった後に、遺品から盗まれたはずの古い紙幣が見つかってね」

「え?」
雅美は、驚いた。田中もボトルを棚に戻す手を止めて男の顔を見た。

「それで当時の日記などを見たら、それは妻がやったことだと書いてあったんだ。ずっと金がないと、苦労を強いられてきたのに、夫がこんなに隠し持っていたことが許せないと。金がほしくてやったわけではないと書いてあった。実際に少なくとも僕がしまった現代のお札や、以前見たことのある貴金属はすべてそのままだったし、古い紙幣もまったく手をつけていなかったようだ」

 火事で家財をなくし大変だったときに、隠し持った大金をまったく使わずに、夫を責めることもなく、自分のやったことを告白することもなく、ただ、黙っていた妻の複雑な心境を考えて、雅美は手もとのハイボールのグラスを見つめた。

「妻の死後にそれらが出てきて、僕は先祖からの伝統をまた元通りにしようと、常滑焼の壺を買い求めようと思ったんだ」
「常滑って、愛知県ですよね?」
「ああ。だから電話で連絡したら……しばらく時間がかかる。岐阜県の焼き芋屋用に、たくさん注文が入っているからって言うんだ」

「焼き芋?」
「そう。それで、焼き芋屋がなぜあの壺を必要としているのか、見にいってみたんだ」

 岐阜県の大垣市では近年とあるフードプロデューサーの広めた「つぼ焼き芋」が人氣だ。石焼き芋は直火で焼くが、「つぼ焼き芋」は常滑焼の大きい壺の底に炭火を熾し、壺の首あたりに吊してある籠に芋を入れる。底から上がってきた炭火の熱が巨大な壺の中で循環し、焦げることなくじっくりと均一に熱が通る。60度から70度で1時間半から2時間かけて、さつまいものデンプンは麦芽糖に変わり、甘みが増していく。

「食べてみたんだ。そしたら、信じられないくらい甘くて、美味しかった。日によって種類を変えているらしいんだが、僕が食べたのはまさにシルクスイートでね」
「そうだったんですか。それはすごい偶然ですね」

「ああ。客がたくさん来て、みな喜んで買っていた。辺りは、かなり賑やかでね。焼き芋が地域の町おこしになっていたよ。そのフードプロデューサーはその『つぼ焼き芋』を独占もできたのに、周りの同業者にも勧めて一緒にこの焼き芋を広めたんだね。考えさせられたんだよ」
出てきたさつまいものサラダを食べながら、彼は言った。

「僕は、自分の宝物を壺に隠すことしか考えていなかった。その中身を活かすことも、妻と楽しむこともしなかった。また同じ壺を買って、見つかったお宝を再びしまっても、同じことの繰り返しだ。でも、あの焼き芋屋の芋は違う。金色に輝いて、ほくほくとして暖かい。店主が喜び、客が喜び、同業者が喜び、そして、壺焼き職人も喜ぶ。どちらが尊い宝物なのかなあとね。そう思ったら、再び大きい壺を買って、余生を倹約して暮らすよりも、誰かと一緒に使うことをしてみたいと考えて帰ってきたんだ。いま、その帰りなんだよ」

「そして、今、またここで、さつまいもと出会ったというわけですね」
雅美が言うと、彼は頷いた。

「ああ。このハイボールは、美味いな。自分で作った味とは雲泥の差だ。それに、このさつまいもによく合う」
彼は、しみじみと言った。

「恐れ入ります。さつまいもとレモンの相性はいいです。シルクスイート種が甘いので、おそらく普通のハイボールよりも、レモンハイボールの方が合うのではないかと思っています」
田中が言った。

「そうね。この組み合わせ、とても氣に入ったわ。ハイボールって、そちらの方もおっしゃったように、うちでも作れるからと頼んだことなかったけれど、こんなに違うなら、今度からちょくちょく頼むことにするわ」
雅美が言った。

 男は、言った。
「そちらの方か……。僕は竹内と言います。僕も『ちょくちょく頼む』ような客になりたいからね」

「それはありがとうございます、竹内さん。今後ともどうぞごひいきにお願いします」
田中が頭を下げた。
 
 やがて、他の客らも入ってきて、『Bacchus』はいつもの様相に戻っていった。田中は忙しく客の注文にこたえている。雅美は、カウンターをはさんだ竹内とは会話ができなくなったが、時おりグラスを持ち上げて微笑み合った。

 竹内の眉間の皺は、はじめに思ったほどは深くなくなっている。自分がそれに慣れてしまったのか、それとも彼の心にあった暗い谷がそれほどでもなくなったのか、雅美には判断できなかった。

 1つわかることがある。彼の新しい壺は常滑焼ではなくて、この『Bacchus』のように心地よく人びとの集う場所になるのだろうと。

レモンハイボール(Lemon Highball)
標準的なレシピ

ウイスキー - 45ml
炭酸水 - 105ml
1/8カットレモン - 1個

作り方
タンブラーにレモンを絞り入れ、そのまま実も入れる。氷とウイスキーを注ぎ、冷やしたソーダで満たし、軽くステアする。



(初出:2023年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】ミストラル Mistral

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第5弾です。

山西 左紀さんも、プランCでご参加くださいました。ありがとうございます! プランCは、私が指定した題に沿って書いてくださる参加方法です。


山西左紀さんの書いてくださった「モンサオ(monção)」

今年の課題は
以下の課題に沿ったものを150字から5000字の範囲で書いてください。また、イラストやマンガでの表現もOKです。
*ご自分の既出のオリキャラを一人以上登場させる
 メインキャラ or 脇役かは不問
 キャラクターであれば人どころか生命体でなくてもOK
*季節は「冬」
*建築物を1つ以上登場させる
*「大切な存在」(人・動物・趣味など何でもOK)に関する記述を1つ以上登場させる


山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

左紀さんが書いてくださったのは、私の『黄金の枷』シリーズとも縁の深いミクやジョゼの登場するお話でした。

お返しをどうしようか悩んだんですけれど、今回のサキさんのお話に直接絡むのはちょっと危険なのでやめました。だって、ミクの昔の知りあいですよ。ミクの方が何を考えているかは知らないし、勝手に過去を作るわけにもいかないし。

なので、左紀さんの書いてくださったお話を骨格にしたまったく別の話を書いてみました。あちらの飛行機は夜行列車に、そして季節風はミストラルという風に……。そしてせっかく夜行列車を描くなら、長いことイメージとして使いたかった曲があって、それも混ぜ込んであります。


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ミストラル Mistral
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 雨のパリは煙って見えた。夏であれば、天候など氣にしない。いずれにしてもオステルリッツ駅まではメトロで行くし、たとえ悪天候だろうと出張に陽光は必要ないのだ。

 だが、冬の雨は身に堪える。雪のように美しくもなければ、仕事が遅れる言い訳にすらなってくれない。

 ファビアンは、20時半に駅に着いた。出発までは20分ある。彼にしては早く着いた方だ。コンパートメントのあるワゴンを探すのに手間取るだろうと思ったからだ。

 構内は天井のガラス窓に雨が打ち付けられて、電車のモーター音に混じりとてもうるさかった。頭端式ホームの並び、色とりどりの車両が並んでいる。オレンジ色に照らされた夜の駅は、いつも必要もない悲しみに近い感傷を呼び起こす。

 探している列車は、機関車牽引のアンテルシテ・ド・ニュイ5773、ニース行きだ。

 かつてTGVの普及とともに夜行列車は次々と削減された。が、ニース路線などの場合、6時間弱の乗車時間を過ごしたがる乗客は少なく、かえって格安の航空便に客を奪われる結果となった。

 ここに来て夜行列車を復活する動きが出てきているのは、環境に優しい移動方法をSNCFが推奨したいからという建前になってきているが、おそらく他国における夜行列車ビジネスの成功を見ての動きだろう。

 実際にファビアンも、ニースで中途半端な1泊するなら、夜行列車で早朝に着く方を選んだ。一連の復活した夜行列車のうちで、最初に運行が始まったのが、このICN 5773、パリ-ニース路線だ。

 この路線は、かつてかの『青列車トラン・ブル』が走っていた区間だが、ファビアンにとっては、『ミストラル号』の印象が強い。なぜなら彼自身が子供の頃に乗車したからだ。

 それは特別な夏だった。6歳だったファビアンは両親に連れられてニースへのバカンスに行った。乗ったのは1等車のみの豪華列車『ミストラル号』。全車にエアコンが完備され、食堂車はもちろんのこと、バーや秘書室、書籍の販売スペース、美容室なども揃っている贅沢な列車だった。後から知ったのだが、1982年、それは『ミストラル号』の走った最後の夏だった。

 今から思えば、父親にとっては精一杯の背伸びだったのだろう。そんなに豪華なバカンスはその年だけで、それどころか数年後には事業に失敗した父親が破産したため、学校を卒業するまで家族バカンスの思い出はない。

 乗り合わせている他の乗客たちは、みな裕福であることが子供のファビアンでもよくわかった。着ている服が違ったし、夕食前にバーに行くか値段をひそひそと語り合っていた両親と違い、メニューすら見ずに無造作にシャンパンを注文していた。

 両親との態度の違いは、ファビアンに階級の差というものを悟らせた。バーに隣接された売店スペースでコミックや興味深い図鑑、そして、オモチャなどを目にしても、ねだることがためらわれた。

 今でも憶えているのは、バー『アルックス』で楽しそうに語る大人たちから離れて、ブティックに立っていた少女と、その母親だ。少女は、スモモ色のやたらとフリルの多いワンピースを着て、髪に同じ色のリボンをつけていた。母親の方は対照的に非常にシンプルなシルクワンピースを着ていた。目の覚めるようなマラカイトグリーンで、ピンヒールも同じ色だった。

 その少女の母親の姿を見て感じた衝撃がなんであるか理解できなかった。『ミストラルの淑女ダーメ・デュ・ミストラル』。自分の母親や同世代の女性とはまったく違って見えた。単純に美しいとは違う存在。今ならたとえば「妖艶」といった単語で表現するのかもしれない。だが、当時のファビアンは、幼すぎた。

 彼女の姿が『ミストラル号』の思い出を、特別なものにしている。ファビアンは、ICN 5773の凡庸なクシェットに腰掛けて思った。同室者が1人だけのコンパートメントはどこか息苦しかった。

 ファビアンは、廊下に出て自動販売機を探して歩いた。隣の車両はクシェットではなく、個室のようだ。廊下を足早に通り過ぎようとすると、中から出てきた男性とぶつかりそうになった。

「ファビアンじゃないか!」
その男は、驚いたことに大学の同窓生だった。
「ドミニク! 驚いたな。君もニースに?」

 同じ教授のクラスでファビアンがもっとも苦手としていたのがドミニク・バダンテールだった。裕福な銀行家の息子で、常に高価なブランドものを身につけ、ポルシェを乗り回していた。苦労して学費を捻出したファビアンは、ドミニクと取り巻きがよく行くクラブには一度も行かなかった。だから、授業以外で彼と会ったことはない。もう四半世紀も前の話だ。

「ああ。君、まさかこんな時期にバカンスじゃないだろう?」
「いや、仕事だ。君も?」

 ドミニクは笑って首を振った。その時、ドミニクの隣の寝台の扉が開いて女性が出てきた。
「ドミニク? お知り合い?」

 ファビアンは、その女性を見て、息を飲んだ。まさか! 『ミストラルの淑女ダーメ・デュ・ミストラル』。

 だが、もちろん彼女ではなかった。とてもよく似ているが、ファビアンと変わらないくらいの年齢と思われる女性だ。オールドオーキッドのシックなツーピースが艶やかな栗色の髪とよく似合っている。

 ドミニクは彼女の栗色の巻き毛に触れてから肩を抱き、言った。
「ああ、大学の時の友人だ。ファビアン・ジョフレ。たしか行政書士だったよな。ファビアン、彼女はロズリーヌ、ロズリーヌ・ラ・サール。来年にはマダム・バダンテールになるんだよな」

 ファビアンは、ということはドミニクは離婚したのかと考えた。確か大学を卒業してすぐに、学内でも有名だった美女と派手な結婚式を挙げたと友人づてに聞いたのだが……。

「ジョフレさんですか。どうぞよろしく」
「こちらこそ、どうぞよろしく」

「いまファビアンに、どうしてニースに行くのかって話をしていたんだ。いい家が売りに出されたんで、一緒に見にいくんだよな。夏のあいだ過ごすとしたら、君が女主人として切り回すことになるだろうしね」

 ドミニクが、髪にキスをしたりしながら、話しかける間、彼女はファビアンの目を氣にして、居心地悪そうにしている。

「ちゃんとした食堂車でもあれば、ちょっとワインでもといいたいところだけれど、この列車にはないんだよな」
ドミニクは言った。

 親しい友人であれば、彼のコンパートメントに誘ってくれるだろうが、そういう仲でもないので、ファビアンは自動販売機のところにいくのでと話して、2人に別れを告げた。

 ファビアンは、背中の向こうで2人が夜の挨拶をしてそれぞれの部屋に戻るのを聞いた。同じ部屋で過ごすことはないようだ。ずいぶんと他人行儀な婚約者たちだな。

 だが、そのことに彼はどこかほっとしていた。彼女が、ほかでもないあのドミニクに心酔している姿は見たくない。それが正直な想いだ。

 ファビアンは、自動販売機の前でしばらく選びもせずに立っていた。

 ニースに向かうこのなんでもない夜行列車は、すでにファビアンにとって特別な世界に変わりつつあった。彼にとって特別な『ミストラルの淑女ダーメ・デュ・ミストラル』によく似た女性が乗っている。

 ロズリーヌ・ラ・サール。小さい薔薇か。ふいに思い出した。『ミストラルの淑女ダーメ・デュ・ミストラル』は、たしか娘に「私の小さな薔薇マ・プティト・ローズ 」と呼びかけていた。

 まさか、そんなことがあるだろうか。あの時の少女なのか。

 ファビアンは、長いあいだ自動販売機の前で『ミストラル号』でのことを考えた。母親の容姿は細かく憶えているのに、少女の顔はあまりよく憶えていない。ただ、ブティックで交わした言葉は忘れていない。

「ミストラルは冷たい風よ」

 ミストラルは、ローヌ川沿いに、リヨン湾まで吹き込んでいく風を指す。低気圧がティレニア海もしくはジェノバ湾にあり、高気圧がアゾレスから中部フランスに進んでくるときに吹く。非常に乾燥した冷たい強風で、それによって湖畔などでは氷柱が横向きにできることもある。

 あの時は夏だったので、それを意識することはなかった。だが、今、冷たい冬のローヌ川に添って地中海へと進むこの列車は、痛いほどの冷たい風を呼び起こしているはずだ。

 どれほど自動販売機の前に立ちすくんでいたのか。ファビアンは結局何も買わずに、自分のコンパートメントの方へと戻りだした。個室のあるワゴンに来ると、妙に寒い。みるとラ・サール嬢が1人窓辺に立っており、窓を開けていた。

 ドミニクは寝てしまったのだろうか。どうして彼女は、窓を開けて立っているんだろうか。

「どうしたんですか」
ファビアンは小さい声で訊いた。

「見て、星よ」
ロズリーヌが指さした。

 いつの間にか雲1つない夜空が広がっていた。汚れた車窓を開けたその向こうに、冷たく瞬く星空が見える。だが、吹き込む風の冷たさに、まともに目を開けているのは難しい。
「ええ。美しいですね。でも、寒くありませんか?」

「ミストラルは冷たい風よ」
彼女は言った。

 ファビアンは、言葉を失い、ただ彼女を見つめた。その凝視が尋常ではないと感じたのか、ロズリーヌは、不思議そうに見つめ返した。

 突如として、車両はトンネルに入りひどい騒音がファビアンの思考を止めた。車内灯の作りだした写像が窓に映る。ガラスの向こうにいるのは『ミストラルの淑女ダーメ・デュ・ミストラル』だ。美しく妖艶な存在しない女。

 長いトンネルが過ぎ去るまで、奇妙な時間が流れた。お互いに窓ガラスに映る姿を黙って見つめている。どうしようもなく冷たい風が非情に強く廊下を走っていく。

 世界は再び広がり、星空と遠くに見える街の灯、ずっと控えめになった車輪の音が、2人を現実の世界に戻した。

 ファビアンは「風邪をひきますよ」と言った。頷いた彼女が腕を窓に伸ばしたので、彼はすぐに手伝い窓を閉めた。

「ありがとう」
ロズリーヌは、小さく答えた。

「82年の夏、『ミストラル号』でニースに行きませんでしたか?」
ファビアンは、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 それを知ってどうするというのだろう。『ミストラル号』は、もうない。彼は中年のくたびれた行政書士で、『ミストラルの淑女ダーメ・デュ・ミストラル』とは無縁に生きていかなくてはならない。

「おやすみなさい」
彼は、彼のクシェットに向けて歩み去った。

 振り返りたい衝動が身体を貫いた。そうすれば、世界が変わるのだと、妙に強い確信が彼にそうするように囁いた。

 しかし、彼は常識に従い、そのまま自分のワゴンに向かう扉を開けて歩み去った。

(初出:2023年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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Sting & Chris Botti La Belle Dame Sans Regrets Full HD

このMVの列車はたぶんオリエント・エクスプレスです。ま、ミストラルもワゴン・リ社の車両を使っていたとということなので、単なるイメージで。しかし、「ったく、これだからフランス人は……」というような映像ですね……。
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Posted by 八少女 夕

【小説】教祖の御札

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第4弾です。

ポール・ブリッツさんは掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!


ポール・ブリッツさんの書いてくださった 『ひたり』

ポール・ブリッツさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。毎年ポールさんのくださるお題は手加減なしで難しいんですけれど、今年もまためちゃくちゃ難しかったです。

ポールさんがくださったお題は、ホラーのショートショートです。このお話の解釈は人によって違うと思いますし、ましてやポールさんが意図なさったお話も、私のお返し掌編とはかけ離れているんではないかと思います。

とはいえ、せっかくなので私なりにつなげてみるとどうなるかにトライしました。オリジナルの記述とできるだけ違わないように考えたので設定にいろいろと無理がありますが、そこはご容赦ください。


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教祖の御札
——Special thanks to Paul Blitz-san


 部室の窓から道の向こうを見ると、落ち武者が立っていた。幽霊を見ることは珍しくないけれど、江戸時代からの筋金入りは、まず見ない。

 私は、落ち武者のそばに行くのが嫌で、裏門から帰ることを決めて、下駄箱に向かった。同じクラリネットの篠田理恵がブツブツと文句を言いつつ校門の方に向かう。
「コンクール優勝なんて、絶対に無理じゃん。ほんとうにあの顧問、頭おかしいんじゃないの」

 理恵にはあの落ち武者は見えないんだろう、そのまま横を通り過ぎた。落ち武者は、理恵に興味を持ったようで、そのまま理恵の後ろについていった。

「……なんかヤバいかも」
私は、理恵と後ろを歩く落ち武者の姿を見ながら震えていた。

「何がヤバいって?」
声がしたので振り向くと、そこには桜木東也が立っていた。

 彼は、クラスメートだ。私や理恵と同じ吹奏楽部に入ったのは最近で、しかも何の楽器も吹けない。顧問からは足手まとい扱いで、邪険にされている。なぜ入部したのか、他の部員は首を傾げている。でも、私は知っている。彼は理恵が好きなのだ。

「えっと、その……理恵に……いや、なんでもない」
ただの友人にだって、友達に落ち武者がついているとは言えない。普通の人には見えないのだから。ましてや理恵を好きな男の子に、そんなことを言うほど無神経ではない。

「篠田くんに、なにかが憑いているのかい?」
東也が訊いた。

「え。いや、その……」
「隠さないでいいよ。君が芳野教祖のお嬢さんだということは、僕知っているし」

 桜木くん、うちの信者だったんだ! 私は驚いた。

 新興宗教「御札満願教」の教祖の娘であることを百合子は高校ではひた隠しにしてきた。宗教法人は星の数ほどあるし、自慢すべきことでも恥じるべきことでもないが、たまたま弱いながらも霊能力を持って生まれてきた百合子からしてみると、自分の父親をはじめとして教団幹部はみな霊能力がゼロで、彼らのやっている教団のあれこれは単なる事業にすぎないことに氣がついていたからだ。

「なあ、君ならお父さんに頼んで、霊験あらたかな御札を用意できるんだろう?」
東也は熱心に言った。

 うわあ、この人、マジで御札のことを信じているよ。あれは、単なる墨書きの紙だよ。さっき、パパの書き損じを面白がって理恵にも1枚あげたけれど、それでも落ち武者が憑いていくぐらい霊験ゼロだよ。それを1枚20万円で売っているのはどうかと思うけどさ。私は、目を宙に浮かせた。

「あ〜、理恵なら、大したことないと思うから、心配しなくてもいいよ。もしなんかあったら、もちろん、私からパパに頼むから……、ね」

 私は、東也を宥めてから裏門から帰った。それから毎日のように、理恵の件で御札を用意しろと責め立てられることになるとも知らずに。

* * *


 急に寒くなったので、新しい防寒肌着をおろしたけれど、それでも効果がないほどの寒さだ。原田はマフラーを巻き直して雪の降り始めた通りを歩いた。

 教団にノルマとして課された御札の量が倍になったので、いつものように電話して信徒に売りつけるだけでは捌けない。飛び込みで販売する必要がある。

 教祖が交代してから半年、ノルマは厳しくなる一方だ。先代の作った御札は間違いなく悪霊退散の効力があると証言する信者が多く、連れられて入信も多かったのだが、先代が亡くなったときに指名したと言い張る今の教祖芳野泰睦は、どうやらまともな霊能力も無さそうだ。いずれにしても原田には何も見えないし感じ取れないので、糾弾するつもりもない。

 今日は定期的に御札を買ってくれる信者の家に行ってみよう。原田は、とぼとぼと歩いた。

「こんにちは。原田です」
つとめて明るく声をかけると、中から女が出てきた。

「ごめんなさい。今日は家に上げられないわ」
原田は、頷いた。この家は、まだ夫が入信していない。名簿上は既に信徒になっているが、それは本人には内緒だ。原田としては、この女が定期的に御札を購入して夫や子供たちも信徒としてカウントすることに署名してくれればそれで十分だと思っていた。

「大丈夫です。こちらも先を急ぎますので。それで、新たにありがたい御札が届きまして……」
原田が鞄から大きめの封筒を取りだしていると、女は小さい声で遮った。

「ねえ、原田さん。前に購入させていただいた御札なんだけど……」
「なんですか?」
「家内安全、交通安全、学業成就、3ついただいたけれど……」

女は、とても言いにくそうにしていたが、やがて意を決したように原田の顔を見て口を開いた。

「あれから逆のことばかりが起こるのよ。夫と姑との喧嘩は絶えないし、天井は落っこちてくるし、舅は当て逃げに遭うし、娘は留年よ」

 原田は思わず息を呑んだ。これで今週3度目だ。教祖の御札を買うと効果がないどころか真逆の災禍に見舞われると、多くの信者が思い始め、クレームが増えている。

「信心が揺らいでいることを試されているのかもしれませんよ」
こういうときに、原田はこう脅すように教育されている。巧みに責任を回避して、新たな御札を2枚ほど売りつけることに成功したが、原田の中の疑問も膨らむばかりだ。

 女の家の戸が閉まると、原田は鞄からまだ100枚ほど残っている御札入りの封筒のうち、1つを取りだして眺めた。
「交通安全……かあ。きたねえ字だな。でも、ただの和紙に書かれた墨書きだ。効力がないのは別として、少なくともこれで事故が起きるわけないだろう」

 原田は、昼頃に教団に戻って集めた金を出納係に渡した。それから、タクシー会社に出勤した。彼の本業はタクシーの運転手だ。これから深夜までタクシーで市内を巡回し、場合によっては客の悩みを聞きつけては「御札満願教」に勧誘する日々だ。

 20時頃には、市内の塾に立ち寄り、教祖の娘である百合子を届ける役目もある。

「お嬢さん。お待たせしました」
塾の前に立っていた百合子は「どうも」といって後部座席に座った。それから、変な目つきで助手席を見た。

「どうかなさいましたか?」
原田が訊くと「……うん」と言って眼をそらした。

「原田さん、今日、父さんの御札、直接、手に取った?」
しばらくして百合子が訊いた。

「え? ええ。1枚だけ。交通安全の御札でしたけれど、なぜですか?」
原田は訊いたが、百合子は答えなかった。それから、急に「止めて」と言った。

「どうなさったんですか?」
「なんでもないの。悪いけど、私、歩いて帰る。今日はありがとう」
 
* * *


 百合子は、昨日起こったことを考えながら歩いていた。父にもらった悪霊退散の札の封筒を、桜木東也に渡した。

 理恵がずっと休んでいること、誰かに後をつけられているとノイローゼになっているという級友の話を聞いて、とにかく御札を用意しろとうるさかったのだ。それが何の効力も無いことを知りつつも、信者である東也の圧力には耐えられず、百合子は父親に御札を1枚もらえないかと頼み込んだのだ。

「ありがとう。僕、届けてくるよ。これがきっかけで篠田くんと知り合えるかもしれないし」

 そう言って、東也は封筒から御札を取りだし、まじまじと眺めていた。
「でも、これ、交通安全って書いてあるよ?」

 百合子は驚いた。
「なんですって? 悪霊退散って頼んだのに、パパったら、取り違えたのね。明日、今度こそちゃんとしたのを持ってくるから。それは、桜木くんにあげるわ。持っていても悪くないでしょ?」

 東也は笑った。
「もちろん。ありがたい御札には違いないからね。」

 歩き去って行く東也の後ろを、どこからともなく現れた虚無僧姿の男が歩いて行くのが見えた。なんで?

 そして、今朝、学校に来てみたらクラスは大騒ぎだった。昨夜、桜木東也が交通事故で亡くなったと。

 一方、篠田理恵は、すっかり元気な様子で普通に登校してきていた。百合子は、その理恵の両脇に虚無僧と東也の2人が立っているのを見た。落ち武者はいなかったので不思議に思っていたが、理恵がお寺の住職にお祓いしてもらったと言っていた。そうか、ちゃんとお祓いしてもらったんだね。また、くっついているけど。

 東也は、百合子のことなど目に入っていないようだった。虚無僧に負けないように、必死で理恵にまとわり付いていた。

 それからの数時間、百合子は生きた心地もしなかった。塾でも、勉強はまったく頭に入らなかった。ようやく終わり帰って寝ようと思ったら、今度は迎えにきたタクシー運転手の原田にも異変が起こっていた。

 百合子は、原田のタクシーには座っていられなかった。助手席にはのっぺらぼうの花魁が座っていた。
 
 今までほとんど見たことのなかった江戸時代のお化けをやたらと目撃するようになったことと、父親の書いた御札とは関係ないと思いたい。でも、これだけ重なると氣分がよくない。

 桜木くんも、理恵も、パパの御札を開いて直接手に取った後から、あの幽霊たちに魅入られたし。原田さんまで、「交通安全」の御札を手に取ったなんて言うし。

 原田さん、大丈夫かなあ。うちじゃなくてちゃんとした霊能者にお祓いしてもらうように、言った方がいいかなあ。そうか、理恵に紹介してもらおう。明日忘れずに頼まなくちゃ。

 また雪が降ってきた。雪に慣れない都会の運転手たちが、ノーマルタイヤでもスピードを変えない危険な運転をしている。百合子は、家路を急いだ。

(初出:2023年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】童の家渡り

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第3弾です。

かじぺたさんは、引き続きもう1つの記事でも参加してくださいました。ありがとうございます!


かじぺたさんの書いてくださった記事 「波乱万丈の年末年始R4→R5しょの6『かじぺたは2度まろぶ』」

参加していただいた記事は、実際に起こった事件についてなのですが……。実はかじぺたさんは、この年末、大変なお怪我をなさっていたのでした。そして、そんな状態でも、まったく休まずに年末年始を働きづめで過ごされていらっしゃるんですよ! 水槽の水替えって、どういうことですか?! 私なら、全て放棄して寝ていますよ〜。とにかく引き続きお大事に。

さて、お返しですが、前回同様、かじぺたさんお宅風の『黒い折り鶴事件の家』で作ってもよかったのですが、ちょっと趣向を変えて江戸時代の宿場町を舞台に江戸ファンタジー(なのか?)を書いてみました。かじぺたさんのお怪我が「禍転じて福となる」ことを祈りながら。ブログ上のおつきあいですのでお名前などは、もちろん存じ上げませんので登場人物の名前などはかじぺたさんご本人やご家族とはもちろん関係ありませんのであしからず。

なお、今回のストーリーも、先にかじぺたさんの記事を読まれることを推奨いたします。そうしないと意味不明かも……。


「scriviamo! 2023」について
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童の家渡り
——Special thanks to Kajipeta san


 小とよは、なまこ壁が続く通りをとぼとぼと歩いていた。小さな身体ながら彼女は、八福屋に八代にわたり棲みつき、大名屋敷の御用商人になるまで吉祥をもたらしてきた。

 先月新しく当主となった虎左衛門は「座敷童ごときに供え物をするなぞ勿体ない」と言いだして、塩せんべいの代わりにネズミ捕り餅を置いたので、しばらく屋敷を出ることにした。

 座敷童が自ら玄関を出ていくと、よろしくないことが起こるのが常だ。

 小とよが、玄関を跨いで表に出た途端、季節でもないのに庭の五代松に落雷があり、そこから出火した。

 虎左衛門が心を入れ替えて小とよに塩せんべいを供えるつもりになったかどうか、今となっては知りようもない。屋敷がなくなってしまったので、小とよはもう戻れないのだ。

 年の瀬、あと二晩で年が明けるというのに、小とよは宿無し妖怪として通りを彷徨うことになったのだった。

 ここは宿場町として栄えていて、特にこの通りは大きい屋敷が多い。一つ後ろの通りは、染め屋や織り屋など職人たちが小さな家を構えている。立派な武家屋敷からさほど遠くないところに、武家の家人や奉公人たちの家が立ち並ぶ一角もある。

 小とよは、どこにいったらいいのかわからなかった。ある程度の名のある屋敷には既に別の座敷童がいるし、そうでない屋敷には恐ろしい犬や半分猫又になりかけている飼い猫などがいて、入っていく氣にさせない。

 夜も更けて、小とよは宿場を行ったり来たりしながら歩いていた。人通りは絶えて久しくなっていたが、月が真上に来た頃、1人のおなごが武家屋敷の界隈から出てきた。

 服装からみると、武家の内儀のようだ。1人で出歩いているところをみると大名の奥方といった大層な身分ではないのだろう。こんな時間に珍しい。小さな提灯を持っているが、月明かりも十分にある。晩酌でもしたのであろうか、鼻歌などを歌いながら楽しそうに歩いていた。

 と、後ろから蹄の音がして、馬が走ってきた。内儀はそれを避けようと脇に寄ったが、馬は狂ったように走ってきたので間に合いそうもなかった。

「危ない!」
小とよは力の限り、彼女をなまこ壁の方へと押した。その力で均衡を保てなくなった内儀は倒れた。その横を馬はものすごい勢いで駆け抜けていった。

 馬の上には、武家らしき男が乗っていたが、内儀の難儀に目もくれずに立ち去った。お国の一大事で一刻を争うのかもしれぬが、このような振る舞いは天が許さぬぞ。小とよは消えてゆく土ぼこりの向こうを睨んだ。

「これ、ご内儀。いかがなされました」
小とよは、内儀に話しかけたが、その声は届いていないようだった。無理はない。小とよの姿が見えて声が聞こえるのは、通常、数えで七つくらいまでなのだ。

「いたたたた。これはちょっと、ひどくひねってしまったみたいだねぇ……」
内儀は、つらそうに立ち上がると、なまこ壁に掴まりながらもと来た道を戻りはじめた。

 見ると、先ほどまで掲げていた提灯が落ちている。
「あの……、これ……」

 聞こえていないので振り返ることもない。小とよは提灯を手にすると内儀の後ろに続いた。彼女が怪我をしたのは、自分にも関係あることであるし、いずれにせよ他に行く宛てもない。

 ついた家は、大名屋敷ではないが、小さくもない。徒士あたりの武士の家であろう。小とよの考えたとおりだった。

「お梶! いかがしたか」
中から、出てきた壮年の男が、内儀の様子に慌てた。

「ご心配かけて、申しわけございません。急な早馬を避けようとしたところ、なにかに躓いたらしく転んでしまいまして」
お梶は、痛みを堪えて話した。

「いま思い出しましたが、転んだおりに手にしていた提灯を取り落としてしまったようでございます。取りに戻りませんと……火事にでもなったら大変でございますし」

 お梶がいうと、主人は小とよが戸口にそっと置いた提灯に目をやって言った。
「そこにあるそれではないのか」

「おやまあ。まことに。どうしたことかしら」
「そなた、自分で持ってきたのであろう。それも忘れるほど痛いのだな、さあ、入って。手当をせねばな」

 なかなかいい感じの夫婦ではないか。小とよは考えた。主人は偉ぶることもなく内儀をいたわり、お梶の方もあの早馬のひどい仕打ちをなじることもない。相当痛そうではあるが、優しい主人に肩を貸され、無事に奥に戻った。

 入っていいと言われたわけではないが、これまでも許可を得て入った家はなかったことであるし、小とよはそのままその家に上がった。

 玄関の両脇に小さな犬が二頭座って、小とよを眺めているが、二頭共にこの世の者ではないらしく吠えることもなく尻尾を振って小とよを歓迎した。

「このような年の暮れに、ご面倒をおかけしてしまい、もうしわけございません」
お梶の声が聞こえてくる。小とよは、奥の方を目指して歩いた。二頭の犬も、小とよに続いて歩いてきた。

 寝所に座らされたお梶は左足を主人に見せている。刻一刻と腫れがひどくなっている。見ると右の頬まで腫れている。二頭の犬はその足元に駆け寄り、一頭は頬を、一頭は女主人の腫れた足を必死でなめた。

「心配するでない。明日はお真佐が戻るではないか。家のことはあの子がやってくれるであろう」
「でも、せっかくの参勤が終わり戻ってくるのに働かせるのは氣の毒ですわ」

 なるほど。娘も女中勤めでもしているのか、大名とともに江戸から戻ってくるのだな。せっかく揃っての正月だというのに、怪我とは氣の毒に。これは何としてでもこの一家に何やら福を呼び込まねば。

 小とよは、自分にできることはないかと家の中を歩き回った。しかし、童の小とよは宵っ張りには慣れておらず、座敷であっさりと眠り込み、氣がつくと朝を迎えていた。

 目が覚めたのは、勝手口からの声が聞こえたからだ。
「おとと様、おかか様。真佐が戻りました」

 途端に、家の奥からバタバタとした音が聞こえた。
「お真佐、お帰り!」

 目をこすりながら、小とよが座敷を出て、勝手口の方へと歩いていると足を引きずりながら急いで出てきたお梶と正面衝突してしまった。小とよの方は蹲って事なきを得たものの、既に昨夜からの痛みを堪えて無理に歩いていたお梶の方は、すぐに体勢を崩し、柱に激突して倒れてしまった。

 ものすごい音を聞いて、娘のお真佐も飛んできたし、奥から主人も小走りで出てきた。
「おかか様!」
「お梶!」

 お梶は二度目の激痛にしばらく声も出せずに耐えていた。二頭の犬があわてて駆け回り、二人に介抱されてお梶がまた寝所に向かうのを、小とよは震えながら見ていた。

 一度ならず二度までも転んだのは、かなり自分のせいに近い。もちろん小とよがそれを望んだわけではないのだが、あまりといってはあまりだ。

 しかも、よく見るとお梶が派手に転んだあたりに眼鏡が落ちている。前にいた八福屋では主の虎左衛門が舶来の貴重品として嬉々として使っていたので、小とよもこれが大切なものだとわかった。ギャマンにヒビは入っていないが、額当てが曲がってしまっている。

 小とよは、その眼鏡をもってそっと寝所に行き、文机にそっと置いた。

 二人に介抱されている間も、お梶の顔は打撲のために新しく腫れてきて、昨日打ったと思われる腕には大きな青あざが広がっていた。

 小とよは、玄関口に行って、やるせなく往来を見回した。頼りになる鬼神でも歩いていれば、助けを求めようと思ったのだ。

 年末で、忙しいのは人ばかりではない。福の神たちも今年の仕事納めと、年明けの初詣の時にきちんと座にいられるように忙しなく動き回っているのだ。

 跳ねている白兎を見つけて、小とよは急いで呼んだ。
「いいところに、白兎さん、ちょっと止まってください」

 来る年の干支としていつも以上に多忙の白兎は、「それどころではない」という風情で一度は通り過ぎたが、思い直したのか「しかたないな」と振り返ってやって来た。

「おや。座敷童の小とよか。あんた八福屋にいたんじゃなかったっけ?」
「それが、八福屋に邪険にされて、ちょっと出たの。そしたら、お屋敷が燃えちゃって、昨日からここに来たんです」

「へえ。八福屋はずっと羽振りがよかったけど、あんたのおかげだと知らなかったのかねぇ。……ところで、困っている様子だけど、どうしたんだい?」

 小とよは、今とばかりに昨夜からのお梶の不運について訴えた。
「助けてあげたかったのに、かえっていっぱい怪我をさせてしまったみたいで、心苦しいの。ねえ、白兎さん、少彦名命さまにお取り次ぎしてくれない? 少しでも早く治していただきたいのよう」

 白兎も、さすがにお梶が氣の毒だと思ったのか、頷いた。
「わかったよ。この家の者は日頃の行いもいいと聞いているからね。今日、お願いしてみるよ。あと、眼鏡が壊れたといったね。そっちは玉祖命さまの管轄だから、伝えておこう」

 神様へのお願いが上手くいったので、小とよは安心して家の中に戻った。 

 少彦名命さまは、医薬と健康だけでなく、酒造りと温泉療法も司る。それらにたくさん触れれば、治りも早くなるだろう。小とよは、すぐに風呂場に向かい、心を込めて掃除をすると、温泉の水を運んできて風呂桶を満たした。

 それから、台所に向かうとお供え用に用意してあるお正月用のお酒を極上のものに移し替えた。これで、少彦名命さまをお迎えする準備は万全。ついでに、お梶がこのお風呂に浸かって、このお酒でお正月を祝えば、きっと少彦名命さまの霊験あらたかとなるだろう。

 玉祖命さまは、眼鏡の神様であるだけでなく、三種の神器である八尺瓊勾玉を作った宝玉の守り神。こちらにも、この家の者たちが見守っていただけるように、供物を用意しておこう。

 見ると、お梶はきれいな物が好きなのか、さまざまな輝石や貝殻などを飾っている。ちょうどいいので、それらをピカピカに磨いてお正月に備えた。

 二匹の人には見えない犬たちは、一生懸命働く小とよを不思議そうに眺めていたが、立派な神様たちをお迎えするためだと氣がついたのか、一緒になって準備を手伝ってくれた。

 奥では、痛みを堪え腰掛けたまま用事を果たすお梶と、その母親の代わりに帰宅後すぐに張り切って働く娘のお真佐、そして、参勤交代から戻った主たちの御用に忙しく立ち向かう主人がそれぞれに、よりよき年迎えのために動き回っていた。

 小とよは、なんとなく入ってきた家ではあるが、とても心地よい家だと思い、このままこの家に居着くことに決めた。来たる歳が、この家の皆にとって福に満ちたものとなるために、精一杯働こうと心を決めた。

(初出:2023年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】黒猫タンゴの願い

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第2弾です。

かじぺたさんは、別ブログの記事で参加してくださいました。ありがとうございます!


かじぺたさんの書いてくださった記事 『2023年1月10日の夢』

かじぺたさんは、旅のこと、日々のご飯のこと、ご家族のことなどを、楽しいエピソードを綴るブロガーさんで、その好奇心のおう盛な上、そして何事にも全力投球で望まれる方です。いつも更新していらっしゃる2つのブログはよく訪問しているのですが、美味しそうなごはん、仲良しなご家族の様子、お友だちとの交流、すてきなDIYなどなど、すごいなあと感心しています。ご自分やご家族のお怪我やご病気の時にもまったく手抜きをなさらない姿勢にいつも爪の垢を煎じて飲みたいと思うのですが、思うだけできっと真似は出来ないでしょう。

そのかじぺたさんが去年はとてもおつらそうで悲しかったのですが、5年前に愛犬のエドさまをなくされた上、去年のこの時期にアーサーくんも虹の橋を渡ってしまわれたのですよね。

じつは、今回のお返しには、このエドさまとアーサーくんをイメージした2匹のコーギー犬をお借りして登場させています。2017年の「scriviamo!」でのお返し作品に出したうちのキャラと少しだけ縁がありそうな記事を書いてくださったので、そのままその世界観を踏襲して作りました。かじぺたさん、内容に少しでもお氣を悪くなさったら書き直しますのでおっしゃってくださいね。

なお、今回のストーリーは、先にかじぺたさんの記事を読まれることを推奨いたします。そうしないと意味不明かも……。


【参考】
今回のストーリーで触れられている『黒色同盟』と『黒い折り鶴事件』については、ここで読めます。読まなくても大丈夫なように書いてはありますが……。
『黒色同盟、ついに立ち上がる』

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黒猫タンゴの願い
——Special thanks to Kajipeta san


 黒蜘蛛のブラック・ウィドー、そして黒鳥のオディールは眉間に皺を寄せてひそひそと話をしていた。といっても2人、いや2匹とも全身完膚なきまでに黒いので、寄せた皺が定着してしまうのではないかと心配する必要はない。このストーリーの本題とはまったく関係のないことだが、レディたちにとってこれ以上に重要なことはない。

 額の皺の次に2匹の心配の種となっているのが、黒猫のタンゴである。3匹とも『黒色同盟』の初期からのメンバーで、種の違いを超えた絆がある。例えばオディールはそこらへんの湖に浮かぶ白鳥には挨拶を返す程度の親しさしか持たないが、ブラック・ウィドーとは徹夜で恋バナをすることもある。

 『黒色同盟』というのは、体色が黒い動物たちの互助組合のようなもので主に「黒いからといって排除されたり嫌われたりする理不尽について」定例会議を行い、事例の共有と対策を話し合っている。

 さて、タンゴである。タンゴは誇り高き黒猫だ。真っ黒のつややかな毛並みが自慢。もちろん前足や後足などに白足袋を履いているような中途半端な黒さではなく、中世のヨーロッパにでもいたら真っ先に魔女裁判で薪の上に置かれたような完全な黒さだ。

 子供の頃に、飼い主の車の前を横切ったら、その午後に飼い主が一旦停止違反でその月に何度目かの違反切符をくらいそのまま免停になってしまったという理由で里子に出された。新しい飼い主が密かに猫虐待を趣味としていることがわかったので、人間界に見切りをつけて自立し、それ以来、野良猫としてこの街に暮らしている。

 みかんと温泉などで有名な、比較的温暖な県に暮らしているので冬の野宿も何とかなった。また、漁港も近いので干し魚などをちょろまかす機会にも恵まれた。追いかけてくる人間に追いつかれないようによく走るので運動不足とも無縁。飼い猫だった頃よりもずっと健康的に暮らしていると、淡々と語っていた。

 そのタンゴが、塞ぎ込んでいる。

 『黒色同盟』の定例会議に出てこなかったので、心配して探しにいくと、宝物であり唯一の財産ともいえるアジの干物を抱えてメソメソと泣いていたのだ。

「なに、いったいどうしたの?」
オディールが訊くと、小さな声でタンゴは答えた。
「鯛、ブリ、牡蠣、焼き肉……」

 オディールと、ブラック・ウィドーは顔を見合わせてから笑った。
「何よぅ。食い意地張って、寝ぼけているだけ?!」
「もう。起きてよ!」

 するとタンゴはキッとなっていった。
「寝ぼけてなんかいないよ。寝ていないもん」

「じゃあ、どうしたっていうのよ」
オディールが訊くと、タンゴは再びメソメソしながら言った。

「暖かいお家で、焼き肉&お刺身パーティーしていたんだよう。コタツもあるんだよう。僕も中に入れてもらって、パーティーに加わりたいって思ったんだけど、夜には僕って目立たないじゃないか。だから、氣づいてもらえなかったんだ」

 ブラック・ウィドーは「ふん」と鼻を鳴らした。
「大人しく、玄関の前で待っていたって、開けてくれる人間なんかいないのは百も承知でしょ。勝手に入り込むのよ」

 オディールは異議を唱えた。
「あんたのサイズなら、それも可能だろうけど、タンゴが入り込んだらバレて追い出されるに決まっているじゃない。そりゃ刺身のひと切れをくすねるくらいはいけるかもしれないけど、コタツで丸くなるのは無理でしょ」

 タンゴはさらにメソメソした。
「そうなんだ。あの家は動物に優しいんだけど、でも、さすがに不法侵入者にコタツを提供するわけはないよ」

「さっきから、具体的な家のことを言っているみたいだけど、どこの家なのよ」
オディールが優しく訊いた。

「あの家だよ。ほら、『黒い折り鶴事件』の家」
タンゴがしょんぼりと答えた。

「あら。あの家ねぇ」
ブラック・ウィドーも「なるほど」と頷いた。『黒い折り鶴事件』とは、以前に『黒色同盟』が抗議行動をしようと押しかけた家である。きっかけはタンゴが通りかかって、「たくさんの折り鶴から黒い鶴だけ排除しようとしている、また差別だ」と早とちりしたからなのだが、結局黒い折り鶴は「かわいい」と飾ってもらえるという厚遇を得ていることがわかり、『黒色同盟』が喜びでお祭り騒ぎになったのだ。

「あの家なら、2匹のコーギーがいたはずでしょ。彼らに手引きしてもらえないの?」
オディールが首をひねった。

「2匹とも、虹の橋の向こうに引っ越したんだ」
「ええっ、いつ?」
2匹とも知らなかったので大層驚いた。

「えーっと、5年前と去年。どっちも今ごろだったっけ……あれ?」
タンゴが顔を上げて考え込んだ。

「どうしたっていうのよ」
オディールは羽をばたつかせた。

「うん。そういえば年上の方、たしか今日が祥月命日だ。来ているかも」

 虹の橋の向こうに引っ越した動物たちは、お盆、お彼岸、キリスト教圏だと11月の死者の日、それに祥月命日には休暇をもらい、こちらに遊びに来ることが多い。残念ながらヒトには見えないことが多いのだが、動物たちは普通に会うし、会話を交わすこともある。

「あの家なら、来ているんじゃない? 行ってみたら?」
2匹に後押しされて、タンゴは『黒い折り鶴事件』の家に足を運んだ。

 見るとコーギーはしっかり来ていた。命日ではないがもう1匹も仲良く休暇を取って遊びに来たらしかった。久しぶりの我が家で楽しく寛ぎ、飼い主たちに甘えまくっているようだ。

 ガラス戸の外からタンゴがじっと眺めると、氣づいた年上のコーギーが近づいてきた。
「どうした、黒猫の坊や。ひさしぶりだな」

「ぼ、僕、相談があって……。今日なら、ここに来ているかもって思ったから」
「ほう。言ってごらん? 見ての通り、ヒトにはあまり氣づいてもらえないから、出来ることは限られているけどね」
その言葉を聴いて、もう1匹も面白そうだと近づいてきた。

 タンゴは、彼の問題を話した。年末に美味しそうなパーティーを見て、入れてもらいたいとここに座っていたこと。でも、真っ黒で氣づいてもらえなかったこと。ペットだったときに邪険にされてばかりいたので、どうやってヒトに仲良くしてもらえるか知らないことなどだ。

「そうか。君はここの家の家族になりたいのかい?」
「そこまでは望んでいないけど、格別寒い夜には、入れてもらえたらいいなとか、刺身の端っことか、まだ肉のついている骨を分けてくれたら嬉しいなとか。あと、たまには、なでなでも……」

「ああ、ああいうの、いいよねぇ」
若いコーギーはうっとりと同意した。

 年上のコーギーは、ふむと頷いた。
「なるほどねぇ。僕たちがこっちに住んでいたときなら、連れて行って紹介も出来たけれど、いまだとそれは難しいな」
「そ、そうですよね」

「僕たち、ときどきやるけどね。勝手に入り込んで食べたり、寛いだり」
若いコーギーが言うと、年上コーギーが言った。
「それは無理だろ。この坊やは、まだこっちの世界の住人だ。夢の中に自由に移動なんて……あ、まてよ!」

 年上コーギーは何か思いついたようだった。若いコーギーは尻尾を振って期待の瞳を向ける。タンゴもじっと年上コーギーの言葉を待った。

 年上コーギーは、しばらく何かをシミュレーションしていたようだったが、やがて満足げに頷くと重々しく言った。
「彼女の夢にしよう。幸いモノトーンの猫たちの思い出がたくさんあるからね」

「というと?」
タンゴは訊いた。

「僕たちや虹の橋の向こうに住んでいる仲間が、こっちに里帰りをしてもヒトには見えないことが多いんだけれど、夢の中ではお互いに見えるし、会話をすることも可能なんだよ」

 年上コーギーがそう言うと、若いコーギーが口をはさんだ。
「でも、ヒト、起きるとすぐに忘れちゃうじゃないか」

 タンゴはそうなのかと少しガッカリした。それを慰めるように年上コーギーは微笑んだ。
「だから、メインのメッセージがよく伝わるように、もしくは、多少違った風に記憶されても、後の現実世界で起こったときに氣づきやすいような印象を残すことが大切なんだよ」

「へえ。どうするの、どうするの?」
若いコーギーは尻尾を振って、年上コーギーとタンゴの周りをグルグルと周った。

「彼女の昔の友達たちに協力してもらうのさ。黒っぽい猫たちに、次々と家の中に入っていってもらう。そうすると、彼女の印象の中には『黒い猫の友達を、家に上げるのも悪くない』ってメッセージが残るだろう? そして、次に君がここに来たときに、そのメッセージがぼんやりからはっきりに切り替わるんだ」

 タンゴは、年上コーギーを尊敬の目で見上げた。若いコーギーは尻尾を振ったまま訊いた。
「その夢、僕たちも一緒に行く?」

「いや、その夢には入っていかない方がいいな。僕たちが行くと、メッセージが正しく伝わらないだろう? 『コーギーを家に上げるのが悪くない』は夢で伝えなくてもわかっているし、僕たちが加わったらそもそも『会いたいよ』って意味だと印象に残ってしまうからね。僕たちは、別の日にあらためて逢いに行こう」

 若いコーギーは頷いた。タンゴは、親切なコーギーたちにお礼を言って、またねぐらに戻っていった。

 夢でのメッセージが上手く伝わったら、いつかタンゴも魚のあらを食べさせてもらったり、コタツ布団の上で休ませてもらったりする日も来るかもしれない。

 そう考えるだけで、1月だというのに春が近づいてきたかのようにポカポカとした心地になってきた。今日はあの親切なコーギーたちのために福寿草の花と、お宝のアジの干物を供えようと思った。

(初出:2023年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】再告白計画、またはさらなるカオス

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第1弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化している『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。

最近、つーちゃん&ムツリくんの方に関心が向かいがちなので、強引にアーちゃんの恋路に話題を戻そうとしましたが、なんだかもっとカオスになってしまいました。あはははは。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私が書いた『やっかいなことになる予感』
ダメ子さんの『疑惑』

私の作品は以下のリンクからまとめ読みできます。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ

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再告白計画、またはさらなるカオス - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 びっくりした。どこかに行ったかと思ったら、帰ってきたアーちゃんが、とんでもないことを言い出すんだもの。

「ねえ、つーちゃん。もしかして、ムツリ先輩に強引に迫られちゃったの?」

 私は一瞬絶句。氣を取り直してこういうのが精一杯だった。
「何わけのわからないこといっているの? そんなわけないでしょ」

「でも、つーちゃん、ずっとため息ついているよ。何かあったのかなって」
そう言われて、ドキッとした。私、ため息なんてついていたっけ。

「そ、そうかな? それに、どこからムツリ先輩……?」
ダメだこりゃ。我ながら狼狽えすぎ。これじゃ、誤解されてもしかたないかも。アーちゃんは、ますます疑い深い顔になっている。違うってば。

 そもそも「モテ先輩の彼女になるためにチャラ先輩を使って暗躍している」という噂が広まって、アーちゃんが女の先輩たちに睨まれている件をなんとかしようとして、ムツリ先輩に相談をしたかったんじゃないのよ。すっかり忘れてた。

 だって、ムツリ先輩、あの大人っぽい女の人と特別な関係みたいだったし。いや、だから、私にはまったく関係のないことだけど。

 私のことなんか、どうでもいいのよ。それよりもアーちゃんの件を何とかしないと。好きなのはモテ先輩じゃなくて、チャラ先輩だって、女の先輩方に認識してもらわないとこれから面倒だよ。

 そう言おうとして、アーちゃんを見ると、なんか様子が違う。妙に嬉しそうだ。目が合うと、はにかんで笑った。
「さっき、チャラ先輩と普通にお話しできちゃった。名前も憶えてもらったし、嬉しいな。つーちゃんが助けてくれたから、ここまで親しくなれたんだもの。私もつーちゃんのために頑張るよ」

 私は、慌てて断った。
「私の推しは日本にはいないから、頑張るのは難しいよ。氣持ちだけで十分。ありがとう」

 こう言われたら、やっぱりアーちゃんのために頑張らなくちゃ。改めて作戦を練らなくちゃ。

「ねえ。アーちゃん。やっぱり、チャラ先輩の誤解をちゃんと解いた方がいいと思うんだ」
そういうと、アーちゃんはぱっと顔を赤らめて言った。

「それは、私もそう思うけど、どうしたらいいかわからないんだもの。来年のバレンタインデーまで待ってもいいかなあ」

 そんな悠長なことを言っていたら、モテ先輩大好きな先輩たちに袋だたきにされちゃうよ。

「1年も待つ必要なんてないよ。なんなら明日にでもまたお菓子作ってきなよ。『作ったので、お裾分けです』とかなんとか言ってさ。そこで『なぜ』って訊かれたら、『バレンタインのチョコもチャラ先輩宛だったんです』って言えるじゃない」

 アーちゃんは、きょとんとしていた。どうやら今の中途半端な仲の良さでも悪くないと思っているらしい。モテ先輩好きの皆さんからの悪評については氣づいていないみたい。とはいえ、私が強引に勧めたので、明日はクッキーを作ってくるみたい。

 というわけで、私はムツリ先輩を探して、再告白のためのお膳立ての協力を仰ぐことにした。やっぱり、教室みたいな目立つところではあがり症のアーちゃんが告白できるわけはないし、目立たないところに連れ出してもらう必要がある。

 またバスケ部にでもいるんだろうと、部室の方に歩いていったら無事にムツリ先輩を発見した。

『先輩。ちょうどいいところに。ちょっとアーちゃんのことでお願いが……」
「俺に? うん、なに?」

「このままじゃ、アーちゃん、モテ先輩のファンの先輩たちに睨まれてバスケ部でも立場が悪くなりそうですよね。だから、この辺で再告白させて、話をすっきりさせようかと」

「あー、なるほどね」
「で、明日、彼女がクッキーを焼いてくるってことにしたんですけれど、先輩を目立たないところに引っ張ってきてくれないかと……」
「あ。そういうことか。明日の放課後?」

「なになに、仲良く相談? 聞こえちゃったぞ」
その声にぎょっとして振り向くと、なんと当のチャラ先輩が後ろにいた。いつの間に。忍者か。

「えっと。つまり、その……」
慌てる私に、チャラ先輩は「みなまで言うな」という顔で続けた。

「それは、俺もいい案だと思うよ。もう1度モテの野郎にはっきりと告白するってのはさ。でも、俺たち男が告白場所まで行けと言っても、あいつ、簡単には行かなそうだろ。ちょっと策を練らないとなぁ。あ、思いついたぞ!」

 そう言うと、チャラ先輩は校門に向かって歩いている1人の先輩を呼び止めた。
「おーい。いいところに、なあ、ちょっと!」

 その人はおかっぱ頭の小柄な女性だ。たしかムツリ先輩と同じクラスだったような。

「まずい。チャラが暴走している」
ムツリ先輩が困ったように、チャラ先輩の後を追ったので、私もついていった。チャラ先輩は帰宅しようとしているその先輩と話し始めている。

「なあ。君さ。モテの隣の席じゃん、名前、なんだっけ、えーと」
「多迷さんだろ」
ムツリ先輩が小さな声で指摘する。

「そうそう。あのさ。明日の夕礼の直前にさ、モテにメモを渡してくれないかな。あいつに告白したい子がいるんだよ。俺たちが言っても素直には来てくれないと思うけど、普段、関わりの少ない多迷さんからメモをもらったら、モテもつべこべ言わずに来てくれると思うんだ」

 多迷先輩は、先ほどからなんだか慌てた様子で、ほとんどはっきりとした返答を返していない。アーちゃんとは違うタイプだけれど、コミュニケーションが上手ではなさそう。

 私とムツリ先輩は、無言でうなずき合った。こうなったら、この状況を利用させてもらおう。

 あとで、この多迷先輩に事情を説明して、そのメモはモテ先輩には渡さないようにしてもらおう。そして、ムツリ先輩には、告白を遠くで見守ると称してチャラ先輩をここに連れてきてもらい、ここでアーちゃんに告白させる。うん。それでいこう。

 多迷先輩は、チャラ先輩に押し切られて何かモゴモゴ言っている。大丈夫、その役目、やらずに済むから。

 そんなやり取りをしている時に、また別の先輩が通りかかった。わりと明るめの髪をしたこの人は、知ってる。たしか愛瀬ミエ先輩。前、モテ先輩とつきあっているって噂になっていたような……。

「ダメ子っちじゃん。楽しそうに、なにしているの? 私も混ぜて」
「お。君も協力したい? 実は、俺たちの後輩の子がさ。明日モテのやつに告白するのを多迷くんに協力してもらうことになったんだよ」

「おい、チャラ……その子さ、たしか……」
ムツリ先輩も、噂は知っていたみたいだけど、チャラ先輩は知らないのかな? あらあら、多迷先輩も焦っているし、愛瀬先輩はその多迷先輩を見て涙目になっているみたい。

 ああ、ちゃちゃっと告白し直しで話がおさまるかと思いきや、また別のカオスが起き始めているかも。明日が思いやられるよ。

(初出:2023年1月 書き下ろし)

関連記事 (Category: 小説・バレンタイン大作戦)
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Category : 小説・バレンタイン大作戦
Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】再告白計画、またはさらなるカオス

scriviamo!


今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第1弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化している『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。

最近、つーちゃん&ムツリくんの方に関心が向かいがちなので、強引にアーちゃんの恋路に話題を戻そうとしましたが、なんだかもっとカオスになってしまいました。あはははは。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』
私が書いた『やっかいなことになる予感』
ダメ子さんの『疑惑』

私の作品は以下のリンクからまとめ読みできます。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ

「scriviamo! 2023」について
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再告白計画、またはさらなるカオス - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 びっくりした。どこかに行ったかと思ったら、帰ってきたアーちゃんが、とんでもないことを言い出すんだもの。

「ねえ、つーちゃん。もしかして、ムツリ先輩に強引に迫られちゃったの?」

 私は一瞬絶句。氣を取り直してこういうのが精一杯だった。
「何わけのわからないこといっているの? そんなわけないでしょ」

「でも、つーちゃん、ずっとため息ついているよ。何かあったのかなって」
そう言われて、ドキッとした。私、ため息なんてついていたっけ。

「そ、そうかな? それに、どこからムツリ先輩……?」
ダメだこりゃ。我ながら狼狽えすぎ。これじゃ、誤解されてもしかたないかも。アーちゃんは、ますます疑い深い顔になっている。違うってば。

 そもそも「モテ先輩の彼女になるためにチャラ先輩を使って暗躍している」という噂が広まって、アーちゃんが女の先輩たちに睨まれている件をなんとかしようとして、ムツリ先輩に相談をしたかったんじゃないのよ。すっかり忘れてた。

 だって、ムツリ先輩、あの大人っぽい女の人と特別な関係みたいだったし。いや、だから、私にはまったく関係のないことだけど。

 私のことなんか、どうでもいいのよ。それよりもアーちゃんの件を何とかしないと。好きなのはモテ先輩じゃなくて、チャラ先輩だって、女の先輩方に認識してもらわないとこれから面倒だよ。

 そう言おうとして、アーちゃんを見ると、なんか様子が違う。妙に嬉しそうだ。目が合うと、はにかんで笑った。
「さっき、チャラ先輩と普通にお話しできちゃった。名前も憶えてもらったし、嬉しいな。つーちゃんが助けてくれたから、ここまで親しくなれたんだもの。私もつーちゃんのために頑張るよ」

 私は、慌てて断った。
「私の推しは日本にはいないから、頑張るのは難しいよ。氣持ちだけで十分。ありがとう」

 こう言われたら、やっぱりアーちゃんのために頑張らなくちゃ。改めて作戦を練らなくちゃ。

「ねえ。アーちゃん。やっぱり、チャラ先輩の誤解をちゃんと解いた方がいいと思うんだ」
そういうと、アーちゃんはぱっと顔を赤らめて言った。

「それは、私もそう思うけど、どうしたらいいかわからないんだもの。来年のバレンタインデーまで待ってもいいかなあ」

 そんな悠長なことを言っていたら、モテ先輩大好きな先輩たちに袋だたきにされちゃうよ。

「1年も待つ必要なんてないよ。なんなら明日にでもまたお菓子作ってきなよ。『作ったので、お裾分けです』とかなんとか言ってさ。そこで『なぜ』って訊かれたら、『バレンタインのチョコもチャラ先輩宛だったんです』って言えるじゃない」

 アーちゃんは、きょとんとしていた。どうやら今の中途半端な仲の良さでも悪くないと思っているらしい。モテ先輩好きの皆さんからの悪評については氣づいていないみたい。とはいえ、私が強引に勧めたので、明日はクッキーを作ってくるみたい。

 というわけで、私はムツリ先輩を探して、再告白のためのお膳立ての協力を仰ぐことにした。やっぱり、教室みたいな目立つところではあがり症のアーちゃんが告白できるわけはないし、目立たないところに連れ出してもらう必要がある。

 またバスケ部にでもいるんだろうと、部室の方に歩いていったら無事にムツリ先輩を発見した。

『先輩。ちょうどいいところに。ちょっとアーちゃんのことでお願いが……」
「俺に? うん、なに?」

「このままじゃ、アーちゃん、モテ先輩のファンの先輩たちに睨まれてバスケ部でも立場が悪くなりそうですよね。だから、この辺で再告白させて、話をすっきりさせようかと」

「あー、なるほどね」
「で、明日、彼女がクッキーを焼いてくるってことにしたんですけれど、先輩を目立たないところに引っ張ってきてくれないかと……」
「あ。そういうことか。明日の放課後?」

「なになに、仲良く相談? 聞こえちゃったぞ」
その声にぎょっとして振り向くと、なんと当のチャラ先輩が後ろにいた。いつの間に。忍者か。

「えっと。つまり、その……」
慌てる私に、チャラ先輩は「みなまで言うな」という顔で続けた。

「それは、俺もいい案だと思うよ。もう1度モテの野郎にはっきりと告白するってのはさ。でも、俺たち男が告白場所まで行けと言っても、あいつ、簡単には行かなそうだろ。ちょっと策を練らないとなぁ。あ、思いついたぞ!」

 そう言うと、チャラ先輩は校門に向かって歩いている1人の先輩を呼び止めた。
「おーい。いいところに、なあ、ちょっと!」

 その人はおかっぱ頭の小柄な女性だ。たしかムツリ先輩と同じクラスだったような。

「まずい。チャラが暴走している」
ムツリ先輩が困ったように、チャラ先輩の後を追ったので、私もついていった。チャラ先輩は帰宅しようとしているその先輩と話し始めている。

「なあ。君さ。モテの隣の席じゃん、名前、なんだっけ、えーと」
「多迷さんだろ」
ムツリ先輩が小さな声で指摘する。

「そうそう。あのさ。明日の夕礼の直前にさ、モテにメモを渡してくれないかな。あいつに告白したい子がいるんだよ。俺たちが言っても素直には来てくれないと思うけど、普段、関わりの少ない多迷さんからメモをもらったら、モテもつべこべ言わずに来てくれると思うんだ」

 多迷先輩は、先ほどからなんだか慌てた様子で、ほとんどはっきりとした返答を返していない。アーちゃんとは違うタイプだけれど、コミュニケーションが上手ではなさそう。

 私とムツリ先輩は、無言でうなずき合った。こうなったら、この状況を利用させてもらおう。

 あとで、この多迷先輩に事情を説明して、そのメモはモテ先輩には渡さないようにしてもらおう。そして、ムツリ先輩には、告白を遠くで見守ると称してチャラ先輩をここに連れてきてもらい、ここでアーちゃんに告白させる。うん。それでいこう。

 多迷先輩は、チャラ先輩に押し切られて何かモゴモゴ言っている。大丈夫、その役目、やらずに済むから。

 そんなやり取りをしている時に、また別の先輩が通りかかった。わりと明るめの髪をしたこの人は、知ってる。たしか愛瀬ミエ先輩。前、モテ先輩とつきあっているって噂になっていたような……。

「ダメ子っちじゃん。楽しそうに、なにしているの? 私も混ぜて」
「お。君も協力したい? 実は、俺たちの後輩の子がさ。明日モテのやつに告白するのを多迷くんに協力してもらうことになったんだよ」

「おい、チャラ……その子さ、たしか……」
ムツリ先輩も、噂は知っていたみたいだけど、チャラ先輩は知らないのかな? あらあら、多迷先輩も焦っているし、愛瀬先輩はその多迷先輩を見て涙目になっているみたい。

 ああ、ちゃちゃっと告白し直しで話がおさまるかと思いきや、また別のカオスが起き始めているかも。明日が思いやられるよ。

(初出:2023年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】そして、1000年後にも

今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の建築』1月分です。今年は、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめていくつもりです。

トップバッターは、今年もこのブログでもっとも馴染みのあるグルーブArtistas callejerosです。テーマの建築は、ポン・デュ・ガールです。南フランス、ガルドン川に架かるローマ時代の水道橋です。

このストーリーは本編とはまったく関係がないので、本編をご存じない方でも問題なく読めます。あえて説明するならヨーロッパを大道芸をしながら旅している4人組です。


短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む 短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む

【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物




大道芸人たち・外伝
そして、1000年後にも


 陽光は柔らかく暖かいものの、弱々しい。ブドウの木はまだ眠っているようだし、地面の草の色もまだ生命の喜びを主張しては来ない。何よりも浮かれたバカンスを満喫する車とすれ違うことがまったくない。南仏の田舎道は、慎ましくひっそりとしている。

 だが、国道100号線を走るこちらの車の内側がシンと静まりかえっているかといえば、そんなことはない。今日ハンドルを握るのはヴィルだ。助手席にはフランス語の標識に即座に反応できるという理由でレネが座ったが、そもそも迷うほどの分岐はほとんどなかった。

 日本人2人組は、道を間違えてはならないという緊張もないためか、時に歌い、時に笑い、そうでなければ、ひきりなしに喋り続けていた。

「そういえば、今日のお昼に食べたあの料理、なんて名前だったかしら?」
レネの母親シュザンヌが作る料理は、素朴ながらどれも大変美味しいのだが、今日の昼食はいつもよりもさらに手がかかっていた。ひき肉を薄切り肉で包み、さらにベーコンでぐるりと取り巻いてからたこ糸で縛ってブイヨンで蒸し煮にしてあった。ワインにもよくあって、蝶子は氣に入ったらしい。

「メリー・ポピンズみたいな料理名だったよな?」
稔が適当なことを口にする。蝶子は呆れて軽く睨んだ。絶対に違うでしょう。

「ポーピエットですよ」
レネが振り返って言った。
「今日のは仔牛肉で作っていましたが、白身魚で包んだり、中身を野菜にしたり、いろいろなバリエーションがあるんですよ。煮るだけじゃなくて、焼いたり揚げたりすることもありますし」

「ああ、それそれ。美味かったよな。それに、あのチョコレートプリンも絶品だったよなあ」
普段あまり甘いものに興味を示さない稔がしみじみと言った。

 バルセロナのモンテス氏の店での仕事を終えて、イタリアへと移る隙間時間に、4人はアヴィニョンのレネの両親を訪ねた。例のごとく大量のご馳走で歓待され、レネの父親のピエールとかなりのワイン瓶を空にした。それで、4人は今夜も大量に飲むであろうパスティスやその他の酒瓶、それに食糧を仕入れに行くことにした。そして、ついでに『ポン・デュ・ガール』に足を伸ばすことにしたのだ。

 『ポン・デュ・ガール』は、ローマ時代に築かれたガルドン川に架かる水道橋だ。高さ49メートル、長さ275メートルのこの橋は、ローマ帝国の高度な土木技術が結集した名橋だ。レネの両親の家から30分少し車を走らせれば着くと聞いて、蝶子が買い出しのついでに行きたがったのだ。
 
 世界遺産にも登録されたためか、駐車場と備えたビジターセンターがあり、そこで入場料を払う仕組みになっていた。ミュージアムの入館料も含んでいるので、橋を渡るだけにしては若干高いが、歴史的建造物の維持に必要なことは理解できる。

 4人は、ミュージアムを観るかどうかは保留にして、とりあえず橋を見にいくことにした。センターを越えてしばらく歩くと行く手に橋が見えてくる。深い青空をバックに堂々と横たわるシルエットは思った以上に大きかった。

 さらに近づくとその大きさはこちらを圧倒するばかりになる。黄色い石灰岩の巨石1つ1つを正確に切り出して積み上げている。これを、クレーンもない時代に作ったことに驚きを隠せない。

「こんなに高くて立派な橋を作ることになったのはどうして?」

「今のニームにあったローマの都市で水が不足して、ユゼスから水を引くことになったんです。それで、この川を渡る必要ができたんだそうです」

 アヴィニョンの東にある水源地ユゼスから、ネマウスス、現在のニームまで水を引くためにはいくつもの難関があった。ユゼスとネマウススの間には高低差が12メートルしかなかったので、1キロメートルごとに平均34センチという傾斜を正確に計算し、時に地表を走らせ、時に地中を走らせつつも、幅1.2メートル、深さ1.8メートルの水路を全行程に統一させた。越えられぬ山を通すためにセルナックのトンネルが掘られた。そして、最大の難関がこの渓谷だった。ローマ人は、この難関を奇跡ともいえる建造物を使って克服したのだ。それが、ポン・デュ・ガールだった。

 その3層のアーチ構造は、強度を保ちながら少ない材料で橋を高くする合理的な設計だ。それぞれのアーチは同じサイズに揃えられ、部分の石の大きさも統一されている。プレハブで建物を作るように、同じ大きさの部品を大量に作り一氣に建築する方法によって、ポン・デュ・ガールはわずか5年で完成したという。

 3層構造と文字で読むと大したことがなく感じられても、実際に目にするとその大きさには圧倒される。49メートルとは、14階建てのビルに匹敵する高さなのだ。1つ6トンもの石を4万個も積み上げたのは、最上階を走る幅1メートルあまりの水路のためだが、その下を歩く人びとにも大きな助けとなり、ローマの土木技術の正確さと、当時の帝国の栄光を2000年経った今も伝えるのだ。

 4人を含める観光客が自由に歩き回れるのは、19世紀にナポレオン3世が修復し加えられた最下アーチ上の拡張部分だ。ごく普通の橋であれば、ずいぶん広くて堂々としていると感じるのであろうが、古代ローマ時代の大きく太い橋脚がそびえ立つので、小さな部分のように錯覚してしまう。

 水道のある上部は、予約をしたガイド付きツアーの客のみ上がれる。1日の人数制限もあり、思いついて行けるような所でもないらしい。

「子供の時に一度登りましたが、足がガクガクしました」
「ここも、高所恐怖症の人には十分怖いかもしれないわね」

 眼下を流れるガルドン川は、紺碧というのがふさわしい深い青の水だ。周りの白っぽい岩石とのコントラストが美しい。 

 常に穏やかな流れではないガルドン川は、時には大きな濁流となって地域を脅かすこともあった。ポン・デュ・ガールが、長い歴史の中で修復・補強されながらも、現在もこのように立派に経っていることには畏怖すら感じる。それは、大きな水圧にも耐えるよう計算し尽くされた古代ローマの土木技術の賜だ。

「他の地域に大きな被害をもたらした2002年のガルドン川の増水と氾濫でも、この橋はびくともしなかったんですよ」
レネは、説明する。

「水道としての役割はとっくになくなりましたが、橋としては今でも現役ですし、それに、夏には、ここでピクニックをする人がたくさんいるんですよ。2000年前の建造物ですが、人びとの生活や楽しみからかけ離れていない存在なんです」

 もちろん、1月はピクニックには寒く、河岸でたくさんの人が寛いでいるわけではなかった。

 駐車場方向に戻る途中に、古いオリーブの木が目に入った。レネが3人をそちらに連れて行った。

「ずいぶん古い木ね」
蝶子がいうと、レネは片目を瞑った。

「単なる古い木じゃありません。樹齢1000年を越えているんです」
「ええっ?」

 傍らに石碑がおいてある。その石碑自体が古くて半ば崩れたようになっているので、言われるまでそれが石碑だと氣がつかなかった。

Je suis né en l'an 908.
Je mesure 5 m de circonférence de tronc , 15 m de circonférence souche.
J'ai vécu, mon passé , jusqu'en 1985 dans une région aride et froide d'Espagne.
Le conseil général du Gard, passionné par mon âge et mon histoire m'a adopté avec deux de mes congénères.
J'ai été planté le 23 septembre 1988.
Je suis fier de participer au décor prestigieux et naturel du Pont du Gard.


「『私は908年に生まれました。幹周りは5m、株の周りは15mです。1985年までスペインの乾燥した寒い地方に住んでいました。私の年齢と経歴に魅了されたガールの総評議会は、私を2人の同胞とともに養子として迎え入れ、1988年9月23日にここに植樹しました。ポン・デュ・ガールの格調高い自然環境の一端を担えることを誇りに思います』」
レネが、碑文を訳した。

「908年って、日本だと平安時代かしら?」
「確かそうだろ。ほら、菅原道真が遣唐使を廃止したのが894年だったよな」
「ヤスったら、よくそんな年号覚えているわね」
「平安時代だと、『鳴くよウグイス』とそれ以外は何も覚えちゃいないけどな」

 4人はオリーブの木と、向こうに見えているポン・デュ・ガールを眺めた。

「こういうのからすると、俺たちの経験してきた数十年なんてのはほんの一瞬なんだろうなあ」
稔がしみじみと言った。

「そうね。人間というのは、ずいぶんとジタバタする生き物だって思っているかもしれないわね」
蝶子は、老木の周りを歩いて風にそよぐ枝を見上げた。

「新たな技術で何かを築き上げては、戦争をして壊しまくる。豊かになったり、貧しくなったり忙しいヤツらだと思うかもな」
ヴィルはポン・デュ・ガールの方を見て言った。

「僕が子供の頃と較べても観光客や地元民の様相は変わったけれど、この樹々とポン・デュ・ガールは全く変わらない。ただひたすら存在するって、それだけですごいことだと思いますよ」

 人間がそれほど長く生きられないことはわかっている。いま、自分たちが親しんでいるほとんどの物質や文化も、1000年後には姿形もなくなっていることだろう。

 それでも、何かは過去から残り、未来へと受け継がれていく。この古木やポン・デュ・ガールのように。

「1000年後のやつらも、同じようなことを思うのかなあ」
稔はポツリと言った。

「残っていたら、きっと思うわよ」
蝶子がいうと、レネは心配そうに言った。
「残りますかねぇ」

「俺は、現代の人類がよけいなことをしなければ、残ると思うな」
ヴィルは言った。

 4人は、彼らと同じ時間ならびにその後の時間を生きる人類が、素晴らしい過去の遺産や生命を尊重し続けるように心から願いながら、再びレネの実家に戻っていった。

(初出:2023年1月 書き下ろし)

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Pont du Gard, France - World Heritage Journeys
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Posted by 八少女 夕

【小説】鐘の音

今日の小説は『12か月の楽器』のラスト12月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の選んだのは、楽器というのはちょっと無理があるのですが、教会の鐘です。ヨーロッパの生活にとって、腕時計やスマホが普及した現代ですらかなり大切な存在なのですけれど、今回の作品の舞台に選んだ中世(実はここはフルーヴルーウー城下町。でも、マックスが領主様ではないです)ではもっと重要な存在でした。

ここに出てくる2人は、まだ未発表の私の妄想にだけある作品のカップルなのですが、12月分のためにイメージしていた『Carol of the Bells 』の世界観にちょうどはまったので、出してしまいました。かなり自己満足な世界観が炸裂していますが、お氣になさらずに。そして、これが今年発表する最後の小説になります。


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鐘の音

 鐘が鳴り響いている。その音は、屋内では考えられぬほどの力強い響きで降り注いでくる。そして、世界に語りかける。教会に集え、神を褒め称えよ、強き者も、弱き者も、すべてを救う神の御子を待ち望めと。

 水飲み泉は街道に向かう門にほど近い町外れの一角にある。レーアは六角形の1つの面に背中をもたせかけて蹲っていた。

 そこは、半年ほど前に彼女が高熱で倒れ、死にかけた場所だ。あの時と同じく、今の彼女にはどこにも居場所がなかった。

 熱はないけれど、今度は真冬だった。昼でも冷たかった風が、日が暮れてからは切るように彼女を苛みはじめた。

 昨夜を過ごしたアーケードは、風から守られていた。寒くて眠ることはできなかったが、動けなくなるほどのつらさではなかった。今朝、あそこから追い出されたときに、城壁の中でもう1度見かけたら棒で打ち据えると脅された。

 昨夜、2日前に雇い入れられたばかりの屋敷で主に夜伽を強要され、逃れるためにレーアがついた嘘は功を奏した。
「私に触れない方がいいです。私は、犬の血を浴びました」

 犬を殺すこと。それは、もっとも忌み嫌われる行為で、その血に触れた者に触れることも、同じ禁忌を犯したと見做され社会から抹殺される。

 好色でも蚤のような心臓しか持たない男は、慌ててレーアを自由にしたが、すぐに屋敷から追い出された。たった2日で、彼女は仕事と住まいの両方を失った。

 それ以前、夏から彼女がいた所は、暖かかった。《周辺民》と呼ばれる、忌み嫌われる人びとが住む一角で、貧しい人びとが住む小さく狭い家々がひしめく地域に、森に面した裏口を持つ奥深い仕事場を備えた比較的広い建物だった。

 行き倒れていたレーアをその家に連れて行き、看病をして半年も住まわせてくれたジャンは、革なめし職人だった。この仕事に就く者は《周辺民》からも敬遠される。それは、もっとも禁忌とされたある種の動物の血液に直接触れるだけでなく、強い臭いを放つ溶液や糞尿で皮を煮るその工程が迷惑がられたからだ。

 しかし、レーアは数日間は高熱で朦朧としていたので、誰に助けられたか意識していなかった。縁もゆかりもない病人の世話をし、根氣よくスープを飲ませ、回復した後も家事を引き受ける以外の見返りも求めずにそのまま住まわせてくれた人に対して、嫌悪感を持つことないまま、彼と親しくなった。

 それは、本来なら教会がしてくれるはずの庇護だった。だが、それを待っていたら彼女は助からなかっただろう。たぶん、今いるこの水飲み泉の傍らで、とっくに息絶えていたはずだ。

 ジャンが彼女を抱きおこした時も、教会の鐘は鳴り響いていた。それは日曜日で人びとが夕べの祈りを捧げるために賛美歌を歌っているのが聞こえた。

「おい。どうしたんだ」
レーアは、「水を」と頼んだ。

 泉から汲んだ水を飲ませてくれた後で、彼は訊いた。
「家は、どこだ」

 レーアは、首を振った。高熱で朦朧としていたけれど、どこにも行くあてがないことは忘れていなかった。ジャンは、彼女をそのままにはせずに、抱きかかえて自分の家に連れて行った。自分の寝床に寝かせて、1週間以上も看病してくれた。

 それからの半年間は、レーアにとって幸福そのものだった。物心ついたときから義父とその後添いに奴隷のようにこき使われてきた彼女には、《周辺民》として忌み嫌われる人びとの中で生きることなどなんともなかった。

 鐘は、こんなにも大きな音で鳴るものだっただろうか。誰も通らなくなった寂しい通りに、それは雨のように降り注いだ。

 やがて、その響きは、いつの間にかこの半年間に聞いた、彼の言葉となった。
「お前、なんて名前だ」
「水、もっと飲むか?」
「腹、空いていないか?」
「こっちに来て、暖まれ」

 煌びやかな教会の装飾や神父ら、立派な日曜日の衣装に身を包んだ紳士たちは、レーアには冷たかった。そうではなくて、忌み嫌われ、すえた臭いをさせて、教会墓地に埋めることすら拒否される、社会の隅に追いやられた存在が、彼女にとっての福音だった。

 ジャンは、ぶっきらぼうだが優しかった。彼女は、生まれて初めて家事に対しての礼を言われた。作った食事は「美味い」と賛辞をもらった。冷たい泉で洗濯をすることも、大量の繕い物をすることも、ねぎらいや感謝の言葉をもらったことで、笑顔でできるようになった。対等に話をして、笑い合うことも、彼女には新鮮だった。誰かを好きになったのも初めてだった。

 鐘は、容赦なく、彼女の聞きたくなかった言葉も思い出させた。
「行くな、マリア。……戻ってこい」

 夜中に聞いた、起きているときには、決して悟らせなかった彼の願いは、レーアの儚い希望を打ち砕いた。

 出て行きたいと望んだわけではない。けれど、彼の心の奥に住み続ける女性の影に、レーアは悟ったのだ。ここも、私の居場所ではないのだと。いずれ出て行くように言い渡される前に、ひとりで生きていく手立てを見つけなくてはならないと。

 洗濯の時に逢う近所の女の1人タマラが、中央広場に店を構える商人の屋敷で洗濯女としての仕事を紹介してくれた。すぐに住み込みで来てくれと言われて、少し困った。こんなにすぐに、ジャンの元から去りたかったわけではなかったから。
 
 ジャンは、タマラからその話を聞いて、ひどく怒った。それは、まったく想像もしなかった反応だった。レーアは、弁解もこれまでの感謝も口にすることを許されないまま、ジャンの家からたたき出された。

 でも、その屋敷からもたった2日で追い出され、レーアは再び宿無しになった。

 夏に、高熱に朦朧としながらこの街にたどり着いたとき、この水飲み泉に蹲っていたのは、少なくとも水を飲むことができたからだ。でも、今はもうこの泉では水を飲むことはできない。凍るから水が抜かれている。

 なぜ、いつまでもここにいるのだろう。寒さを除けることも、水を飲むこともできない。あるのは、出会いの思い出だけだ。鐘と風の音を聴きながら、彼の声を思い出して、夜を過ごすのだろう。そして、きっと朝には目覚めることもないだろう。

 それで、弔いでもまた鐘を鳴らすことを思い出した。

 この世は、幸せに生まれついた豊かな者と、そうでない者とがいるが、誰にとっても等しく訪れるのが死だ。だから、レーアはこの音を聴くことを許されているのかもしれない。天が彼女に与えてくれる、分け隔てのない恵みがこれなのかと、彼女は聞きながら考えた。

 だとしたら、彼の言葉を思い出しながら、どんな階層に生まれようとも変わりのない世界に行くのは、悪くない。

「……おい、ってば。聞こえないのか?」
こんな言葉、言われたことはなかったような。レーアは、ぼんやりと虚ろな瞳を上げた。影が星空を遮っている。

「……ジャン?」
かすれた声で訊くと、影はかがんで、彼の瞳が見えた。

「ここで何しているんだ?」
「……何も」

 彼は、しばらく黙っていたが、拗ねたような声で言った。
「せっかくタマラが、俺のところに居たことを隠しておいてくれたのに、台無しにして追い出されたんだってな」
「ええ」

 レーアは、そのまま彼の瞳を見つめていた。彼は、かまわず続けた。
「行くところがないなら、なんで帰ってこない。革なめしの所にいるより、凍え死にたいのか」

 思いもよらない言葉にレーアは、首を振った。
「違う……。だって、2度と来るなって……」

 ジャンは、ため息をついた。
「……そういえば、そんなこと言ったっけな。真に受けるな。とにかく、うちに来い。死ぬよりはいいだろ」

 彼はそう言うと、踵を返して歩き出した。レーアがついてくるとわかりきっているように。

 彼女は、立ち上がろうとして、そのまま前に倒れた。冷え切ってこわばった足は、まったく言うことをきかなかった。

 彼は、振り向くと、戻ってきて「どうした」と訊いた。レーアが立てないのがわかると、「つかまれ」と言って彼女を抱き上げた。

「ごめんなさい」
うなだれる彼女に彼は答えた。
「せっかく助けたのに、ここで死なれたら腹が立つだろ。同じところだぞ」

 鐘はまだ鳴り響いていた。風は同じように吹いていたが、それは彼女の命を終わらせるためではなく、鐘の音を遠くに届ける天の使いのみわざと変わっていた。

 レーアは、ぐったりと頭を広い胸の中に埋めた。忘れがたい、あのどこか脳内を刺激する臭いがした。

 かつてわずかに不快だった、それこそが革なめし職人をもっとも卑しい人びととして社会の片隅に追いやる独特の臭いを、レーアはこの上なく信頼できて安堵のできる徴として嗅いだ。

「前よりもずいぶん重くなったな」
息が少し切れているが、あいかわらずの皮肉が彼女を安堵させる。真剣な顔つきで怒鳴られ追い出されたときから止まらなかった悲しみが、風に散らされて消えていく。

 鐘が鳴り響く。すべての人びとの上に。世間からも、教会からも見捨てられた、凍える2人の上にもこだまする。

すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」

ルカによる福音書 2: 13-14(新共同訳)



(初出:2022年1月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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蛇足ですが、このストーリーの中で繰り返される鐘の音イメージを作り上げた動画を張っておきます。いろいろなグループが歌っているクリスマス向けの曲なんですが、この少年合唱が一番好きかも。


Libera - Carol of the Bells (New)

鐘バージョン

Cast in Bronze - Carol of the Bells
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Posted by 八少女 夕

【小説】熾し葡萄酒

今日の小説は、クリスマス記念に書いていたものです。使おうと思っていた機会がなくなってしまったのですけれど、せっかくなので発表してしまいます。

東京神田の路地裏にひっそり佇む小さな飲み屋『でおにゅそす』を営む涼子の若かりし頃の思い出の話。ミュンヘンのクリスマス市は、1度行ったことがあります。ミュンヘンに限らず、この時期のドイツ語圏では、スイスも含めて夜の戸外でグリューワインを飲む機会がたくさんあります。こちらも人たちにとって、冷えわたる雪景色の中でグリューワインを飲むのは、特別なノスタルジーを呼び起こす行為のようです。

そして、涼子にとっても、別の意味でグリューワインは特別な飲み物のようです。皆さん、メリークリスマス!


「いつかは寄ってね」をはじめから読むいつかは寄ってね




熾し葡萄酒

 涼子は、昼のように明るい広場を眺めた。スタンドがぎっしりと並び、白熱灯のランプで他よりも少し暖かそうに見える。星形の大きなクリスマス飾りや、煌めくクリスマスツリー用のオーナメントがところ狭しと並んでいる。しっかりと防寒した人びとがマフラーの間から吐く息は、白く濁り、白熱灯に照らされて霧のようにゆらりと立ち上って見えた。

 商社に勤めて3年、涼子はずっと憧れていたドイツのクリスマス市を観るためにミュンヘンに来た。初めてのひとり旅は少し心細かったけれど、それを口にすれば誰も彼もやめろと言うので無理してなんでもないフリをして出発した。

 去年の冬に、田中佑二にグリューワインの話を聞いてから、いつかここに来たいという願いを温めていた。佑二は、姉である紀代子のパートナーだ。まだ結婚していないけれど、一緒に住んでいる。大手町にある『Bacchus』という小さなバーを経営している青年だ。

 両親がこの縁組みに大反対だったので、紀代子は駆け落ち同然で家を出た。涼子は、時おりこっそり『Bacchus』に通って、2人と連絡を取り合っていた。姉はアルバイトで家計を支えながら、佑二の夢である『Bacchus』の経営にも協力している。だから、ひとり旅が寂しいといっても同行を頼めるような状態にはなかった。

 大手銀行に勤めている涼子の彼は、年末年始にしか休めない。でも、それではクリスマスマーケットには遅い。来年は、もしかしたら涼子自身の結婚の話が出たりして、クリスマス前に休暇を取ることはできないかもしれない。だったら、1人でもいいから行ってみよう。

 それに……。涼子は、なんとなく彼と一緒にここには来たくなかった。

 グリューワインの話は田中佑二に結びついている。静かな語り口、紀代子と見つめ合う優しい時間、それに騒がしい流行に踊らされない『Bacchus』店主としての姿。

 バブルに踊る世間一般とは違う『Bacchus』という小さな世界は、涼子にとって神域のようなもので、浮かれた雑誌から引用したようなことばかりを言う交際相手を踏み入れさせたいとは1度も思わなかった。それと同じように、この旅もどちらかというとひとりで来たかったのだ。

 チェックインを済ませたら、外はもう真っ暗だった。ミュンヘンの夜の訪れは東京よりも早いようだ。涼子は、空腹を感じなかった。だから、レストランにも行かず、クリスマス市を求めてホテルを出た。

 ミュンヘンにはこの時期、市内にいくつものマーケットが建つ。ホテルのロビーで教えてもらった小さめの市までは徒歩で5分もかからなかった。歩いたのは短い時間だったのに、切るような寒さが頬を刺した。涼子はマフラーを立てて首をすくめた。

 人びとが立ち止まり、白く息を吐きながら大声で話しているスタンドがある。人びとの手元を見ると、陶製のマグカップを包み込んでいる。あれがグリューワインに違いない。

 涼子はスタンドに向かい、自分の注文していい順番を待った。ワインの香りが漂っている。

 売り子が威勢よく「こんばんは」と言った。涼子はたどたどしく「こんばんは」とカタカナのドイツ語で答えて、グリューワインを注文した。

「普通のでいいのかい?」
ドイツ語ではらちがあかないと思ったのだろう、英語で質問が飛んできた。

 普通以外のがあるとは知らなかったけれど、あれこれやり取りする自信が無かったので、頷いた。

 赤いマグカップに、夜なので黒く見える濃いワインが湯氣を立てている。手袋を通して温かさが伝わってきた。ワインの香りに加えて、香辛料とわずかな甘い香りがする。ひと口、含むと柑橘類の香りが同時に喉を通っていった。

「グリューっていうのはドイツ語で、赤々と燃えるっていう意味らしいよ。たとえば、炭が真っ赤に燃えている時にもグリューって言葉を使うんだ」
出発前に『Bacchus』に行ったとき、佑二はカウンターにグリューワインを置いてそう言った。

 グリューワインは、赤ワインにシナモンや八角、グローブなどのスパイスを加えて熱したものを漉し、はちみつやオレンジを加えて作る。『Bacchus』ではガラスのティーグラスに入って出してくれるので、ワインの深く濃い紅や輪切りのオレンジが綺麗に見えた。

「でも、本当に熱々に、つまり沸騰させるような加温をしてはいけないんだ。アルコールが飛んでしまうからね」
佑二の言葉が蘇る。手の中に収まった赤い陶器の中身は、佑二が作ってくれたグリューワインよりもスパイスが強くアルコール分もきつい尖った味だった。

 でも、心地よく温められた『Bacchus』と違い、この寒さの中では微妙な味わいよりも、強いアルコール分で身体を温めることが優先されるような氣がした。

 人びとは、他では見ないほど大きな声で話し合っている。ドイツ人でも酔ってくるとこうなるのかと、不思議な思いで眺めた。そういえば、甘くて美味しくてもグリューワインをたくさん飲むのは危険だと、ホテルの従業員に言われた。

 涼子は、黙ってマグカップを手で包み、グリューワインを飲んだ。『Bacchus』で飲んだものとは違う味なのに、思い出すのはあのティーグラスの中身と、それを作ってくれた人だ。

 お酒のことに興味を持って調べるようになったのも、料理が好きになってあれこれ試すようになったのも、見知らぬ人との会話をただ楽しめるようになったのも、『Bacchus』に通ってからの変化だ。

 旅立ってから、1度もつきあっている彼のことを考えていなかった。悪い人ではないのに、何かかみ合わないことをいつも感じていた。それが何かを涼子はきちんと考えたことがなかった。告白されてつきあうことにしたけれど、彼が涼子のことを愛しているとは思えなかった。見かけや、勤め先、服装などが彼の脳内マニュアルに合致しているだけのような印象が強かった。

 そして、そのことに涼子は傷ついたことすらなかった。彼といる時はいつも「完璧なデートマニュアル」をプログラムされたロボットと行動しているような感覚に襲われた。マニュアル通りの間隔でデートの誘いが来るので一緒に出かける。会話はそつはないけれど、特に面白くもない。彼の興味対象をもっと深く知りたいと思ったことはない。

 子供じゃないし、熱烈な恋愛をして結婚しなくちゃいけないなんて思っていないけれど、でも、きっとこれは何か間違ったことをしている。涼子は、グリューワインを飲みながら思った。

 比較する相手が姉のパートナーだというのも大いに間違っている。そう……。つまり私は、佑二さんのことを好きみたい。認めないように抵抗していただけで、本当はもうずっと前から。紀代ちゃんの彼で、義兄になる人だってわかっていたのに……。

 ため息は白く凍り、温かいワインの中に溶けていく。オレンジとシナモンのエキゾチックな香りが、涼子の想いに混じって凍てつくドイツの師走に消えていった。

* * *


「涼子ママ、何を飲んでいるの?」
常連の橋本が、不思議そうにのぞき込んだ。

 神田の目立たない路地に『でおにゅそす』はひっそりと立っている。2坪程度でカウンター席しかないこの小さな店を、涼子が持ってからまもなく7年になる。和風の飲み屋で、涼子はいつも和服で店に立っているし、普段はワインもメニューにはない。

「これ? グリューワインよ。スパイスをドイツに行かれた方からいただいたので、懐かしくて作ってみたの」
涼子は、微笑んだ。

「へえ。珍しいね。アルコールはワインよりも弱いのかな?」
橋本は興味を持ったようだ。

「これは、ワインはほんの少し、代わりに葡萄ジュースを混ぜて作ったから弱いわよ。私が酔っ払うわけにいかないもの。でも、本来はワインよりも弱くはならないの。人によっては強いお酒も入れたりするので、ワインよりもアルコールは多いこともあるんですって」

「さすが涼子ママ、詳しいねぇ。僕も飲んでみたいな。メニューにはないけど注文できるのかい?」
「ええ。もちろん。ちゃんとワインだけで作りましょうか?」

 涼子は、20年以上前のミュンヘンの夜のことを思い出していた。あの時と、今はどれほど違っていることだろう。

 両親が姉である紀代子と田中佑二との結婚に反対したのは、「普通の勤め人の方がいい」という固定観念からだったが、涼子自身も自分は一部上場企業に勤め続けやがて誰かと結婚すべきだという価値観にまだ囚われていた。

 そのこだわりを、あれから1つ1つ脱ぎ捨ててきた。今は、ひとりでこの小さな店だけを頼りに暮らすようになった。慎ましくも自分らしく生きられるようになった。

 クリスマスを意識して着ているとはいえ、黒地の小紋は実はヒイラギではなくて南天だ。合わせた名古屋帯は深緑に雪片のモチーフ。こうした遊び心も、あの頃は生み出す余裕がなかった。

 会社勤めのわずかな休みに無理してガイドブックを頼りに行ったクリスマス市。形だけつきあっていたような人に、別れを告げてこれまで続く独身としての道を歩き出したのもあの年末だった。

 田中佑二を好きなことは変わらない。想いが伝わっていないこともあの頃と同じだ。

 紀代子が理由も告げずに日本から立ち去ってしまった後、残された佑二や涼子の家族の心には大きな空白が空いた。でも、その空白と時間が、涼子の愁いをも取り去ってしまった。紀代子に対する後ろめたさも氷砂糖が熱い飲み物に溶けるように消えていった。

 誰の恋人、誰の結婚相手、共通の未来といった概念は、もう涼子の中では意味をなしていなかった。ただ、じっくりと樽の中で寝かせた良質のワインのように、そして、焰がおさまり静かに紅く熾る炭火のように、ずっと静かに存在し続ける確かな想いになったのだ。

 ミュンヘンで手渡されたマグカップの代わりに、釉薬のかかった素焼きの湯飲みに、涼子はグリューワインを注いだ。

 温もりが両手にも伝わる。味は佑二の作ってくれたグリューワインに近づけただろうか。

 冬は嫌いじゃない。涼子は、カウンターにグリューワインを置き、静かに微笑んだ。

(初出:2022年12月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】モンマルトルに帰りて

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。
scriviamo!


今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第8弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった 『ソリチュード ~La Route semée d’étoiles~』 

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、古事記と日本書紀に見える衣通姫伝説を下敷きにした古代ミステリー『挿頭の花 -衣通姫伝説外伝- 』。もともとの記紀にある人物がみなさんアレなので、もちろんものすごい展開なのですが、そのシチュエーションの中で胸キュンの純愛を織り込むという離れ業に感心しながらドキドキ読ませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。

さて、『花心一会』ワールドの若い(むしろ若すぎる)家元誕生の成り行きが明かされた今回のお話、ストーリーからいったら当然のことながら華道に対する知識がとても大切なポイントになっているのですよ。お返しを書き始めて困ったのがこれでした。私、全然わかっていない……。

なのにあえて火中の栗を拾いにいってしまいました。以前ヒロインの方のお家元がたった1人のために生ける『花心一会』をなさる様子を勝手に書かせていただいたことがあるのですが、今回はお母様にも無理やりです。ああ、玉砕しそうな予感。でも、レネがメインだから、逃げ切れるかな……。うう、ごめんなさい。


「scriviamo! 2023」について
「scriviamo! 2023」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む

【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物

大道芸人たち・外伝




大道芸人たち・外伝
モンマルトルに帰りて
——Special thanks to TOM−F-san


「やっぱり迷惑なんじゃないかなあ……」
「いや、連絡したときにはそんな感じじゃなかったって」

 ここに来るまでに、3回は繰り返した問答を、レネと稔はもう1度した。稔は、つい1週間ほど前に訪れたアトリエの呼び鈴を鳴らした。

 中から現れた水無瀬愛里紗みなせありさは、涼しやかな微笑みで2人を中に招き入れた。

 今日の装いは落ち着いた紫の絞り小紋に、蒲公英の柄が微笑ましい濃い緑の名古屋帯。この色の組み合わせは早蕨襲、春を感じさせる。そうか。もう3月になったんだっけ。

「お忙しいのに、無理なお願いを聞き遂げてくださり感謝します。彼が、電話で話したレネ・ロウレンヴィルです」
「マダム・ミナセ、はじめまして。どうぞよろしく」
「どうぞよろしく。そんなに恐縮しないでくださいね」

 そこは、パリの真ん中にあるというのに、東京以上に日本を感じさせる空間だ。

 日本ブームがヨーロッパに広がってから、各地でそれらしい和室を目にしてきたが、畳が正方形だったり、障子の桟が白く塗られた合板だったりと、どこか「なんちゃって」感を否めない和室が多かった。そうした和室は、スーパーで売られる「SUSHI」と同じ香りがした。サーモンとアボカド、またはやけに鮮やかなトビコの安っぽさを眺める度に、「日本はそこまで近くはない」と感じ、かつ自分の方が日本を知っているのだとつまらない自負心を満足させるのだ。

 だが、このアトリエには、稔が逆立ちしても叶わない日本文化の真髄が感じられた。

 小上がりの座敷には、きちんとした炉が切られている。窓はわざわざ円窓にしてある。

 この部屋を維持するのがいかに大変か、稔はよく知っている。日本にいれば電話一本で畳屋が来てくれるし、障子が破けてもホームセンターに行けば簡単に新しい障子紙を購入できる。梅や桃、桜や椿などもさほど苦労せずに入手できるだろう。極上の茶や主菓子も同様だ。

 だが、ヨーロッパで、これだけの完璧な日本を維持するのは、並大抵のことではない。もちろんパリは大都会なので、日本人のネットワークを使えばそれは可能だろう。でも、この人は、日本人会などで同国人と固まっているタイプには見えない。まあ、俺には関係ないけれど……。

 煎茶とともに小ぶりの大福餅が出てきた。和菓子の大好きなレネの顔が喜びに輝いたのを見て、稔は「本題を忘れるなよ」の意味を込めて肘で小さくつついた。

「それで、私に作ってほしいというのは?」
本題は、彼女の方から切り出してくれた。

「先日、ここにお伺いした日に、水無瀬さんのことを特別な人のための特別な花を生けるプロだって説明したんです。そしたら、彼が花をお願いできないかって……。ただ、俺はうまく訳せなくて英語でフラワーアレンジメントって言ってしまったので、生け花との違いも説明していただけると助かります」
そう言って稔は、レネに顔で続きを促した。

「ある女性のためにブーケかアレンジメントを作っていただけませんか」
レネが頼んだとき、愛里紗の顔にはなんとも微妙な表情が浮かんだ。おそらくそれは、この異国で先入観と無知に彼女の華道がフラワーアレンジメントと混同されたときの一瞬の抵抗なのかもしれないと、稔は思った。

 愛里紗は、けれど、レネの頼みを簡単に断るようなことはしなかった。
「大切な女性への花なのかしら?」

「はい」
稔は「ふうん」という顔をした。ヤスミンはここに来ていないとはいえ、義理堅く一途なブラン・ベックがわざわざ特別な花をねぇ。

「承るかどうかを決める前に、どんな目的なのかを訊いても差し支えないかしら?」
愛里紗は、英語で話し続けている。レネとだったらフランス語で会話した方が早いだろうに、稔が同席しているのでそうしているのだろう。

「もちろんです。僕はここにいるヤスたちと出会って大道芸人として暮らし出す前は、ここパリで暮らしていました。その時に出会った女性です」
レネはゆっくりと語り出した。

 レネにとって、パリの日々にはつらい記憶が多い。手品師の専門学校を終えて希望を持って花の都に上がってきたものの、ショーの花型になるどころかまともな稼ぎを得ることすら難しかった。

 モンマルトル界隈のナイトクラブを転々として、はじめはホールスタッフと変わらぬ扱いを受けた。ようやく前座としてマジックショーを披露できるようになるまでは数年かかり、その間にもいろいろな人に利用されたり出し抜かれたりしながら、いつかは手品だけで食べていける日を夢見て暮らしていた。

 恋もした。もともとはホールスタッフとして勤めだしたジョセフィーヌが、レネのアシスタントとして一緒にショーに出演することになってからは、彼女に夢中になった。

 ええっ。その女かよ。稔は話を聞きながらぎょっとした。そいつ、ライバルに寝取られた同棲相手だろ?

「お花を贈りたいのは、その方?」
愛里紗が、口をはさむと、レネは首を振った。

「違います。彼女に、僕は夢中だったけれど、ジョセフィーヌはこの街で僕の味方になってくれた人ではなかった。それはエマだけだったと、今になって思うんです」

「エマ?」
稔は思わず訊いた。一度も聞いたことのない名前だったから。

 レネは、頷いて彼のパリでの物語を続けた。

 ムーラン・ルージュをはさんで、レネの勤めるナイトクラブとちょうど反対ぐらいの距離に小さい煙草屋があった。そこには店の染みのような小さな老婆がいて、いつもなにかに対して文句を言っていた。

「この頃の政治家ってのはなってないね。きれいな顔をして偽善的なことを口にすればまた当選するとでも思っているのかね」
「あんたの横柄な態度になぜこのあたしが我慢しなくちゃいけないのさ。嫌なら2度とこの店に足を踏み入れなければ良いだろ」
「あんたは母国がサッカーに負けたからって、周り中に当たり散らす権利なんかないんだよ」
「禁煙がトレンドだって? ひとの商売の衰退をわざわざ告げに来るとはいいご身分だね」

 それがエマだった。

 レネは煙草の類いは何も嗜まないので、この店に入るときはチョコレートを買うときだけだった。他の店にはない故郷プロヴァンスの小さな工場で作っている銘柄がこの店にはあったのだ。

 レネにとって忘れられない思い出がある。

 それは、パリを去った夏のことだ。ナイトクラブからクビを言い渡されたレネは、とぼとぼと帰り道を歩きながら、故郷の懐かしいチョコレートで心を慰めようとエマの煙草屋に入った。

 レネは、思わず涙をこぼした。今日の午後、買い物から帰ってアパルトマンのドアを開けたら、なぜか同じナイトクラブで働くラウールが、ジョセフィーヌとベッドの上にいた。それだけでもショックなのに、出勤した途端にオーナーから彼のマジックショーは、今後ラウールとジョセフィーヌがやるのでお前はもう来なくてもいいと宣告されてしまったのだ。

 自分の要領がよくないことはわかっていた。ラウールが優れた容姿で客たちから人氣があることもわかっていた。でも、真面目に精一杯生きてきたのに、こんな風に何もかも取りあげられたのかと思うと、やるせなくて涙が止まらない。

 エマは「商売の邪魔になるから泣くな」などとはいわなかった。レネが落ち着くまで待って、話を聞いてくれた。今になって思えば、この街で、レネが自分の弱さや悲しみを吐露できたのは、これが初めてだった。

「あの雌狐なら、そのくらいのことをしても不思議じゃないと思うね。だから何度もいっただろ。あの娘には温かい血が流れていないって。あんたがこのチョコを勧めたとき、小馬鹿にしてそっちの大量生産のチョコをわざわざ買ったことがあったよね。人の思い出を踏みにじるようなヤツは、どんなに見かけがよくても中身は爬虫類と一緒だ」

 レネは、それを聞いてよけい強く泣いた。ジョセフィーヌが、彼の故郷のあらゆる物を馬鹿にしていたことを思いだした。見下されていたのは彼の生まれ故郷ではなくて、彼自身でもあったのだと思うと情けなくて逃げたしたかった。

「仕事も恋人もなくなって、僕はどうしたらいいんだろう」
また1からこの街で手品をやらせてくれる場を探すかと思うと、レネは心から途方に暮れた。

 エマは冷徹にも思える調子で言い放った。
「そもそもこの街はあんたみたいな弱くて純なヤツには向いていないんだよ。ここを離れるのが一番だ」

 レネは言葉を失った。ようやくパリに慣れてきたと思ったのに。少し間を置くと、おずおずと言った。
「でも、どこにいったら……?」

 エマは、少し温かく思える調子に変えてゆっくりと言った。
「南へお行き。あんたの故郷のプロヴァンスでも、もっと南の地中海でも、どこでもいい。ただし、ニースみたいなスノッブでおかしな人間の集まるところに行っちゃダメだ。広くて、大地に足をつけて人びとが助け合いながら生きている土地に行くんだ。最初にいったところにはいなくても、どこかには必ずいる。それを探すんだね。あんたの正直で優しい心持ちを大切にしてくれる輩がね。それを見つけたら、それがあんたのいるべき土地さ」

 稔は、思わずレネの顔を見た。レネは、稔の目を見返して、はにかみながら笑った。

「その通りになったのね」
愛里紗が問う。

「はい。僕は、コルシカでこのヤスに会いました。それから、他の生涯の友達にも」

 エマの直接的でお節介なアドバイスが、あの時レネをコルシカ島に向かわせた。悲しみに押し潰れることなく、新しい人生を探すための必要な背中のひと押しをしてくれたのは、店の染みのような小さな老婆だった。

「わかったわ。その方へ捧げるお花、ぜひ私に作らせてちょうだい」
愛里紗が微笑んだ。

「ありがとうございます、マダム」
レネが前のめりで礼を言う。

「でも、1つだけ確認したいの。西洋で作るいわゆるフラワーアレンジメントは、全方向から見られることを意識して作るものだけれど、日本の生け花というのは、たった一つの方向から見ることを想定してデザインするものなの。その方がどのように受け取るかのシチュエーションは決まっていたら教えてほしいわ」
愛里紗が訊くと、レネははっとして、1度下を見てからふたたび愛里紗の目を見据えた。

「正面は……どういえばいいのか。墓石の上に載せるので……。彼女はモンマルトル墓地に眠っているそうですから」
その言葉に、稔と愛里紗が同時に息を飲んだ。

* * *


「エマ・マリー・プレボワ ここに眠る」
小さな墓石は、必死で探さないと見過ごしてしまいそうだった。エドガー・ドガ、モーリス・ユトリロ、エミール・ゾラ、アレクサンドル・デュマといった錚々たる有名人の墓は大きく立派だが、そのモンマルトル墓地には、地域の一般人も埋葬される。

 まだ、春といっても早いので、陽光は弱く柔らかい。周りの木々には膨らんだ芽はあるが若葉が現れるにはまだしばらくかかるだろう。

「お。来た来た」
稔が手を振ると、かなり向こうから蝶子とヴィルがこちらに向かってくる。

「ごめん。私たちが先につくぐらいだと思ったのに」
「探していた墓は、見つかったのか? ランパルだっけ?」
「ええ。せっかくここに来るんなら、お詣りしたくてね」

 フルートの名手であったジャン・ピエール・ランパルも、モンマルトル墓地に眠っている。そういえば、ブラン・ベックはハイネの墓の場所を探していたから、後でそこに行くんだろうな、と思った。

「それが、例の日本人に作ってもらった花か」
ヴィルが珍しく明らかに感銘を受けたとわかる顔つきで訊いたので、稔はそうだろうなと思った。

 レネは頷いた。手にしているのは半球型に盛られた、花かごだった。といっても花器として使われている籠は苔山で覆われほとんど見えない工夫がしてあり、まるで何もないところに偶然にも木や草花が育ったかのように見える。

 1度左に向かってから弓なりに右に向かう盆栽のような枝振りの木はミモザだ。黄色い花が力強く明るく咲いている。そして、根元に絶妙なバランスでいけられたのは、フランス人のこよなく愛する『田舎風シャンペトルブーケ』でよく使われるカヤ、ユーカリ、コバングサなどとともに、薄紫と若緑の野の花を思わせる花々が絶妙なバランスで配置されている。

 レネがその籠を墓石の上に置くと、まるで彼女の墓から草花が遅い春を待てずに萌えだしたかに見えた。

「すごいわね。ここまでフランスっぽい素材だけを使っているのに、これはフラワーアレンジメントじゃなくって華道だってわかるように作れるものなのね……」
蝶子が感心してつぶやいた。

 亡き人を悼む草花は弱い風にそよいでいる。

 レネは、眼鏡を取ると涙を拭った。エマの声が蘇ってくる。
「くよくよするんじゃないよ。あんたが悪いんじゃない。今のめぐり合わせとの相性が悪いだけさ。あんたにふさわしい居場所はきっとあるからね」

(初出:2023年3月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -17- バラライカ

今日の小説は『12か月の楽器』の11月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の選んだのは、ロシアの弦楽器バラライカです。舞台はおなじみ大手町のバー『Bacchus』です。

白状します。ロシアの楽器を選んだのはわざとではありません。楽器の名前のカクテル、バラライカしか見つからなかったのです。でも、少なくともこの店ではどんな世界情勢であっても皆が平和にお酒を飲んでいてほしいと思い、あえて火中の栗を拾うことにしました。


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【参考】
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バッカスからの招待状 -17- バラライカ

 開店直後にその女性が入ってきたとき、いつものように「いらっしゃいませ」と口にしながら、田中は通じるだろうかと懸念した。彼女は背が高く、金髪で青い目をしている。氷の彫像のように、まったく表情筋を動かさないので、田中には日本語が通じるのかどうかの判断ができなかった。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 今夜は水曜日、バーテンダーであり店主でもある田中が1人の日だ。東京駅から遠くないので、外国人の客が来ないわけではないが、立地が立地だけに誰にもつれられずに1人で入ってくることは珍しい。田中も簡単な英語は話せるが、流暢というほどではない。他の言語であれば全く話せない。

「もう開店していますか」
イントネーションは違うものの、普通の日本語だった。そうとう話せるようだ。

「はい。お好きな席にどうぞ」
田中は、カウンター席とテーブル席を示した。彼女は、カウンター席の真ん中に座った。

「どうぞ」
「ありがとう」
田中の差し出したおしぼりを、わずかに頭をかしげながら受け取る。

 カランと音をさせて、次の客が入ってきた。
「こんばんは。近藤さん」
「やあ、マスター。あれ、1番乗りじゃなかったか」

 モデルか女優のような金髪美女を見て、彼は一瞬固まった。常にイタリアのブランドとすぐにわかるスーツに個性的な色のネクタイをしている近藤は、この店の常連の中でもとくに言動がキザだ。いつもなら、近藤がよく座る席に腰掛けている一見客に、何かいわなくても良さそうなひと言を口にするのだが、今日は調子が出ないようだ。

「僕も、今日はカウンターにしようかな」
などと言いながら、女性の右横を1つ空けた席に腰掛けた。「今日は」もなにも、常にカウンターに腰掛けているのだからおかしな発言だが、慣れない外国人客がいて調子が狂っているのか、それとも女性に話しかけるきっかけなのかわからず、田中は様子を見ることにした。

「メニューをどうぞ」
田中が日本語だけで話しかけて、彼女が「ありがとう」と受け取ったのを見て、近藤は少しホッとしたようだった。

「近藤さんも、メニューをどうぞ」
「ああ、うん。いつものをまずもらおうかな。おつまみは、今日は何がいいかな」
「サラトガ・クーラーですね。かしこまりました。まずはこちらを」

 田中は、つきだし代わりにサーモンとイクラのディル和えをそっと近藤の前に置いた。そして、女性の前に置く前に訊いた。
「お魚は召し上がれますか」

 女性は、わずかに目を細めて答えた。
「ええ。もちろん。イクラは子供の頃から食べ慣れているもの」

「どちらのお国ですか?」
近藤がすかさず訊くと、女性は顔も向けずに「ロシアよ」と答えた。

 なるほど、と田中は心の中でつぶやいた。このご時世、とくに本人に咎はなくとも、出身国を口にするだけで不快な対応をされることもあるのだろうと。

 もっとも女性も、さすがにつっけんどんすぎると思ったのか、しっかりと顔を向けて言い直した。
「ヴォルガ河のほとり、ニジニ・ノヴゴロドから来たの」

 田中は、それが広いロシアのどこにあるのか知らなかったが、近藤にはそうではなかったらしい。
「聖都キーテジからですか?」

 これには、女性も驚いたらしい。それまで能面のようだった顔面が表情豊かになった。
「どうして知っているの? もちろんキーテジではないけれど、スヴェトロヤール湖の近くの出身なのよ」

 近藤の顔に、はっきりとした余裕が表れて、いつものように少しキザっぽい口調で答えた。
「たまたま最近、リムスキー=コルサコフのオペラの評論を書いたんでね。田中マスター、キーテジってのはね、ロシアに伝わる、伝説の見えない都市なんだよ」

「そうなんですか。そのオペラは、その都市が舞台なのですね」
田中が訊くと、2人は同時に頷いた。

「キーテジに関する伝説と、別のフェヴローニヤという聖女伝説を組み合わせて1つのオペラにしたの」
女性が説明すると、近藤が続ける。
「色彩的な素晴らしいオーケストレーションに、民族楽器のバラライカを組み合わせた傑作なんだ」

「バラライカ……ですか」
田中がなるほど、というようにつぶやいた。

「あれ。マスター、バラライカを知っているんだ。すごいねぇ。けっこうマイナーな楽器だけど」
近藤が少し驚いたというように黒縁眼鏡の奥の目を細めた。女性も頷いている。

 バラライカは、ロシアの民族楽器だ。三角錐形の共鳴胴を持つ弦楽器で、子供が抱えられるくらい小さな物から、大人の身長を超えるほど大きいものもある。カエデやトウヒを使った現代の楽器は澄んだ美しい音色を出す。

「いえ。楽器に詳しいのではなくて、その名前をもらったカクテルがあるんですよ」
田中は笑った。

「ああ、そうよね」
女性が笑う。

「へえ。どんなカクテル?」
近藤が訊く。

「サイドカーのバリエーションです。ベースがウォッカになっています」
田中が答える。

「久しぶりに飲んでみたいわ。それをお願いできる?」
女性が微笑んだ。

「かしこまりました」
田中はストリチナヤ・プレミアム・ウォッカの瓶を取り出した。高品質なピュアウォッカだ。ホワイトキュラソーとレモンジュースをシェイクして作るバラライカは、さっぱりした味わいが肝なので、特に希望を言われない限りはピュアウォッカで作る。

「バラライカが、ロシアの代表的な楽器として重宝されるようになったのは、わりと最近だって知っていた?」
女性は頬杖をついて訊いた。

「いつ頃ですか」
しっかりとシェイクしながら、田中が訊く。

「19世紀。それまでは旅芸人たちが使い安価だったことから、価値のない楽器とみなされていて、喧嘩の時に殴るのに使われていることもあったらしいわ」
田中は驚きの表情を見せた。

 近藤が後を続けた。
「ペテルブルグの商人ワシーリー・アンドレーエフが楽器をもっと響くように改良して、オーケストラを編成し、その良さを知らしめることに成功したんだよね。それに、ニコライ・リムスキー=コルサコフが、『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』で用いるなどして、あの済んだ美しい音が世界に知れ渡ったと」

 女性は、田中が「どうぞ」と前に置いた白いカクテルを見ながら言った。
「それに、なんといっても映画『ドクトル・ジバコ』ね」
「『ララのテーマ』! あれ抜きには語れないな」
近藤も同意する。

「このカクテルも、あの映画のヒットともに知られるようになったといわれています」
田中は、2人に微笑んだ。

「マスター、おすすめの肴は何かな。せっかくだから今晩はロシア繋がりで行きたいんだけど」
近藤が訊く。

「そうですね。塩漬けニシンをライ麦パンに載せたカナペ、角切り野菜をマヨネーズで和えたロシアンサラダなどでしょうか。ああ、そうだ、近藤さん、ビーツは召し上がれますか」
「うん。食べるよ」
「では、ピクルスを仕込んであるので、それをクリームチーズで和えたものはいかがですか」

 近藤は頷いた。
「どれもいいね。みんなもらおう。……ええと、あなたは? 田中さんの作る肴はどれも美味しいですよ。よかったらご馳走します」

 女性は、微笑んだ。
「聞いているだけでホームシックになりそう。じゃあ、喜んでご馳走になります」

 それから、田中と近藤の顔を交互に見て言った。
「こちらのお店、お客さんを名前で呼んでいるのね。いいわねぇ」

「田中マスターは、お名前を言うとすぐに覚えてくれますよ。僕、2回目に来たのは2か月くらい経ってからだったんだけど、覚えてくれていたんで感激したんだよね」
「恐れ入ります」

 女性はチャーミングに笑って言った。
「じゃあ、私もテストしようかしら。私、オルガ・バララエーヴァっていうの。次回、忘れずに呼んでね」

 近藤が少し口をとがらした。
「それ、それほど難しくないじゃないですか」

「どうして?」
「だって、いまバラライカの話題をしたばかりで……」
「ああ、そうよね」
3人は笑った。

 そうこうしているうちに、他の客も入ってきた。近藤とオルガに感化されたのか、その晩は、ウォッカ・ベースのカクテルを頼む客や、ロシア風のおつまみを見て珍しそうに注文する客が続き、なぜか「ロシア・ナイト」のようになってしまった。

 リムスキー=コルサコフの『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』で題材にしたのは、異民族との戦いでこの世から姿を消してしまった中世の偉大な都市と、その犠牲になった人びとたちの物語だ。

 オペラは、現世での栄華や民族間の戦いの虚しさを伝えようとしている。オルガの生まれ育ったスヴェトロヤール湖畔に聖なる街キーテジは、今も存在すると伝えられている。なくなったのではなくて、ただ見えなくなったのだと。

 伝説によると、白い石の城壁、黄金の屋根を持ついくつもの教会や修道院、素晴らしい装飾を施したクニャージの宮殿、貴族たちの立派な屋敷や堅牢な丸太で作った家々もそのままに敵に襲われることができなくなるよう、罪深い人びとの目に見えなくなったという。

 戦いも悲しみも存在しなくなる最後の審判の日に、キーテジは再びその姿を現すようになるとヴォルガの人びとの間に伝えられている。

 静かな宵に湖畔に立てば水の中に見えざる街が映し出されることがあるという。そして、夜更けに愁いに満ちた鐘の音がかすかに聞こえてくるのだと。

 それは、バラライカの音色のように澄んでいるのだろうか。その幻影は、爽やかだけれども実は強いカクテルのように、すぐに人を酔わせるのだろうか。

 戦いも悲しみもまだ満ちているこの世で、少なくとも今宵この店の中では、どの客たちも平和を願いつつ楽しんで欲しいと、田中は願った。


バラライカ(Balalaika)
標準的なレシピ

ウォッカ - 30ml
ホワイト・キュラソー - 15ml
レモンジュース - 15ml

作り方
材料をシェイクしてカクテル・グラスに注ぐ。



(初出:2022年11月 書き下ろし)

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参考までに、リムスキー=コルサコフの『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』から。
全曲は3時間もあるので、組曲を貼り付けておきます。


Rimsky-Korsakov - The Legend of the Invisible City of Kitezh - Leningrad / Mravinsky
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Posted by 八少女 夕

【小説】君を呼んでいる

今日の小説は『12か月の楽器』の10月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の選んだのは、南米アンデス地方周辺で使われる弦楽器チャランゴです。最初、ケーナにしようかとも思ったのですけれど、舞台をボリビアにしたこと、それから使った曲のイメージからチャランゴの方が自然に感じたので、あえてこの小さな弦楽器にしました。

このストーリーの主題は、私がアンデスの人びとに感じるある種の「愁い」で、普段はペルーのフォルクローレなどによく感じるのですけれど、今回はあえてボリビアのポップス『Niña Camba(カンバの娘)』にスポットを当てて組み立てました。舞台に選んだのはチチカカ湖最大の島『太陽の島』です。


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君を呼んでいる

 アベルは、湖を見渡す段々畑の一角に座り、チャランゴを構えた。ギターと同じ祖先を持つであろう小さな弦楽器は、現代のギターよりはるかに小さく、南米アンデス地方の民族音楽に使われる。

 ペルーとボリビアにまたがる湖チチカカ湖は、標高3810メートルという高地に存在する巨大湖というだけでなく、300万年以上前から存在する古代湖だ。このユニークな湖は、かのインカ帝国発祥地の伝説も持つが、おそらくそれ以前から聖地として地元の人の信仰対象となってきたと考えられている。

 湖面にはトトラ葦の束を紐で縛って作ったバルサ舟が、観光客たちを乗せて滑っていく。古代から使われている伝統的な舟だが、初めて聞いた者は乗るのに若干躊躇するかもしれない。だが、同じトトラ葦で作った浮島にホテルが建ち人びとが暮らしているという情報を聞いた後は、たいてい安心して乗り込む。

 アベルの住むこの島は、トトラによる浮島ではない。チチカカ湖最大の島である『太陽の島』だ。印象的な藍色の湖のほぼ中央にある。島の東側には港があり、カラフルな家屋と段々畑、そして、インカ時代の80近くの遺跡が残されている。

 チャランゴの響きは、すぐ近くのオープンテラス・レストランに届き、観光客が首を伸ばして奏者を探している。アベルは、忙しく皿を運んでいるメルバも、この曲を耳にしたのだろうかと考えた。

 それがどうしたというのだ。『カンバの娘』は、ボリビアの国民的フォルクローレだ。ありとあらゆるアーティストがこの曲を表現してきた。

Camba, yo sé que te llevo dentro
Porque mi canto y mis versos
Siempre te quieren nombrar
Niña, me llevo todos mis sueños
Me voy esta noche lejos
Donde te pueda olvidar

カンバのお嬢さん、君を心に閉じ込め運んでる
僕の歌と詩はいつだって君の名を呼んでいるのだから
お嬢さん、すべての夢を連れて
今夜、遠くへ行こう
どこか君を忘れられる場所へ
(César Espada『Niña Camba』 より 八少女 夕意訳)


 『カンバ』は、アンデス高地に住む人びとを意味する『コージャ』に対して、低地に住む人びとを指す言葉だ。

 典型的なコージャであるアベルとメルバは、一刻も早く所帯を持つよう周囲に期待されている。メルバは、真面目で働き者のいい娘だ。両親共に子供の頃からお互いによく知っている。鮮やかな民族衣装を纏い、仕事の後は家事手伝いだけでなく、現金収入のために刺繍や織物を作る。お互いの両親が持つ段々畑は、古代からの石垣に区切られて千年以上も変わらずに存在している。簡単には壊れない石垣は、この島の静かな堅牢さを象徴するかのようだ。

 カンバの娘は、この土地で勤勉に働くことなどできはしない。彼らが怠惰だから(そうだと言い張る人もいるけれど)ではなくて、彼らは高地の暮らしには向かないのだ。

「きれいな湖ね」
緑の瞳を輝かせて、彼女はそう言った。フクシア色の都会的なワンピースを翻してチチカカ湖を振り返った。アベルは彼女が眩しかった。黒いピンヒールも、役に立たなそうに小さなハンドバッグも、彼の見慣れた島の人びと、よく来る観光客たちとも全く違って見えた。港に高そうなプライヴェートボートを乗り付けたのは、白いシャツ、白いパンツ、そして白い靴を履いたいけ好かない男で、馴れ馴れしく彼女の腰に手を回して何かを囁いていた。

 彼女は、ひらりと身を躱し、秘密めいた笑みを見せてアベルに話しかけた。
「高台になっているレストランというのは近いの?」

 それ以上の会話を交わしたわけではない。彼女は、白尽くめの男とメルバが給仕するレストランへ行った。2人が考えるレストランとは全く違ったようで、特に男の方が「キオスクかよ」と馬鹿にした発言をしたが、彼女のハイヒールで他のレストランまで行くのは無理と思ったのかとりあえずそこで食べたあげくチップも置かずに帰ったという。

 もう1か月前のことだが、アベルの脳裏からはあの緑色の瞳が消えない。

 チャランゴをかき鳴らすことが多くなった。他の曲を弾くこともあるが、氣がつくと『カンバの娘』の旋律に変わっていることが多い。農作業の合間のわずかな自由時間に何を弾こうが勝手だ。そして、それをメルバが耳にしていようがいまいが……。

 輝く湖水が遮られたので顔を上げた。薄紫のスカートを着ているのは、予想通りメルバだった。黒目がちの瞳は、特に何もなくても常に悲しげだ。

「なんだ。今日の仕事は終わったのか」
アベルは、訊いた。

「ええ」
短く答えてから、メルバはもの言いたげに口を開いてはやめた。アベルは、若干イヤな心持ちになって、チャランゴをかき鳴らした。メルバは、結局何も言わなかった。

「メルバ。送っていくよ」
「どうして? あなたはまだ仕事中なんでしょう?」
「君の父さんに、高枝ハサミを貸してもらう約束なんだ」
「そう」

 コムニダー・ユマニの村は、山へとひたすら登っていく石畳の道に沿って存在している。アベルはおそらく植民地時代とほとんど変わらない服装をしたメルバと共にやはりその時代と変わらぬ石畳を登っていった。

赤茶色の壁、乾いた道、赤道直下の太陽は照りつけるが、風は冷たい。村から眺める段々畑とチチカカ湖は広大で、揺るぎない。インカ帝国が興り、栄え、滅亡していった時間すらも変わらずにここに存在した光景だ。

 人びとの服装はかつて盟主国に強制されてスペイン風のものになっても、飾りとして身につける民俗模様の織物、ベルトなどの小物に先祖たちの伝統が残る。

 『太陽の島』はインカ帝国以前よりケチュア族ならびにアイマラ族の聖地だった。段々畑では通常この高度では到底栽培できないジャガイモやキヌア、トウモロコシが栽培可能だ。アルパカ、牛や豚、クイ(テンジクネズミの一種)も飼育されている。

 「Ama Sua(盗むな)、Ama Llulla(嘘をつくな)、Ama Quella(怠けるな)」古来の戒めを守り、精を出して働く『コージャ』の民は、観光客たちが日帰りで立ち寄り、戯れに土産物を買い、また去って行く繰り返しを横目で眺めながら、数千年変わらぬ営みを続ける。

 観光客が急いで選びやすいように、メルバやアベルたちが、仕事の合間に伝統色の濃い土産物を作成する。アルパカの毛織物やインカ柄の刺繍を施した雑貨、トトラ葦で小さなバルサ舟の模型も作る。

 メルバは、自宅の扉を開けて「お父さん、いる?」と声をかけた。

「ああ。いるぞ」
「アベルが来たわ」
「ああ。いま行く。待っててもらってくれ」

 暗い室内に目が慣れてきた。メルバは、アベルに座るように言い、台所の方へと消えた。アベルは、見るともなしに、織機にかかっている織りかけの布を見た。それから、ふと記憶をたぐり寄せた。以前、メルバが織っていたショールや、テーブルセンターなどと色合いが全く違う。

 伝統的な織物はみなカラフルだ。赤、青、黄色、緑、紫、白、オレンジ、フクシア。それらの色を縞や模様にして鮮やかに織り上げる。そのカラフルさが当然となっているので、シンプルな色の組み合わせにむしろ目がいくほどだ。

 メルバはかつて、ごく普通の鮮やかな色合いで織っていた。この家に来る度に、見慣れた色合いの布が常に織機にかかっていた。

 いま目にしているのは、紫と黄色と白。向こうに積まれている布は青と白と赤。その色合いがおかしいわけではない。その組み合わせを見たことがないわけでもない。だが、メルバの心境の変化が氣になる。何かが……。
 
 そして、氣がついた。緑とフクシアを避けているのだと。あのカンバの女を思いだすとき、彼はフクシア色のワンピースとあの印象的な緑の瞳を脳裏に描いている。そして、メルバが打ち消そうとしているのも、同じあの姿なのではないのかと。それとも、これは、カンバの娘に捉えられている僕の考えすぎなのか。そして、あの女にメルバが嫉妬を燃やしていると思いたがる僕の自意識過剰なのか……。

 メルバがチチャモラーダを運んできた。トウモロコシ発酵飲料だが、ごく普通のチチャのようにアルコール分がない。おそらくこれから仕事に戻ると言ったからわざわざこれにしたのだろう。アベルは、グラスを受け取り、ほんのわずかを大地の女神に捧げるためにこぼしてから飲んだ。
「ありがとう。これ、織りだしたばかりか?」

 できるだけ、さりげなく訊いたつもりだが、声に緊張が走っているのを上手く隠せなかった。メルバは、とくに氣にした様子もないように「ええ」とだけ言った。

「そうか。前に織っていたのと、色合いが変わったなと思って……」
なんのためにこんなことを言っているんだ、僕は。メルバは、そっと織機に触れて答えた。
「そうね。あなたが、そんなことに氣がつくとは思ってもいなかったわ」

 メルバのお下げ髪が揺れているように感じた。

 すぐに、メルバの父親が入ってきて、高枝ハサミを見せた。
「やあ、アベル。これでいいのかな」

 アンデス高原アルティプラーノは4000m近い高山なので、大きな木はほとんどない。高枝を切る必要があることは稀だ。メルバの父親もめったに使わないので探すのに手間取ったのであろう。
「ありがとうございます。明日にはお返しできると思います」

「急がなくていいさ。次に必要になる時なんて、思い浮かばないしな。それより、コイツの方は、どうだ。あまり待たせると、織りまくる嫁入り道具で我が家が埋まっちまうんだが」
そう言って、明らかに前回来たときよりも増えている布の山を見せた。

 アベルが、答えに詰まっているのを見て、メルバがイヤな顔をして答えた。
「お父さん、やめてよ。嫁入り道具にしようと織っているんじゃないわ。アベルだって土産物屋に売っているの知っているでしょう」

 アベルは、急いで立ち上がると、高枝バサミを持って戸口に向かった。それから取って付けたように、もう1つの手に持っているチャランゴを見せながら、メルバとその父親に言った。
「遠からず、まともなセレナーデでも、練習してきます」

 父親は、満足そうに笑った。メルバは、愁いを含んだ黒い瞳をそらし、なにも言わなかった。

 アベルは、1人でもと来た道を畑に戻りながら、ため息をついた。アベルは、この島で数千年前の祖先たちと同じように生きていく。そうでない人たちと人生が絡み合うことはない。黒いハイヒールとフクシア色のワンピースを身につけた緑の瞳の娘も、プライヴェートボートを所有する白尽くめの男も、生涯にたった1度面白半分に訪れて、そして、青い湖面と遠い雪山に感嘆し、それから都会生活の面白さに戻りここを忘れていくだけだ。

 アベルにもわかっている。あの緑の瞳が自分に向けられることはないことを。あの娘を想うことが何ひとつ生み出さないことを。それでも、チャランゴが奏でるのは同じメロディーで、アベルが彷徨うのは同じ幻影だ。忘れようとすれば、より想うことになる。湖に沈めようとすれば、犠牲になるのはあの娘のではなく、自らの心臓だ。

 段々畑とチチカカ湖は広大で、揺るぎない。古代から変わらずに存在する奇跡の湖は、アベルの迷いやメルバの愁いを氣にも留めぬように、冷たく穏やかに広がっていた。

(初出:2022年10月 書き下ろし)

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Niña Camba - AnnaLu & Shavez

(チャランゴのバージョンも貼り付けておきます)

Niña camba (Taquirari)
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Posted by 八少女 夕

【小説】水上名月

今日の小説は『12か月の楽器』の9月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の選んだのは、月琴です。9月といったら月見の宴かなと思って。とはいえ、平安時代と中国の仙人のコラボ作品なので、若干イレギュラーな感じかも。現在の中国楽器としては月琴Yueqin中阮Zhongruanとは別の楽器として存在しているのですけれど、この時代には現在の中阮に似た阮咸という楽器が別名で月琴と呼ばれていたようです。

とくに読む必要はありませんが、今回の話に出てきた翠玉真人という(ワイヤーで空を飛ぶイメージの)仙人は、以前『秋深邂逅』という作品で書いた人です。


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水上名月

 弾きはじめに、ためらうごとくに長い間をとった指は、ひとたび弦をかき鳴らすと、えもいわれぬ速さで走る。姉や妹が嗜みとして弾いていた箏や琴の音色は、退屈とは言わぬまでも生氣なく空に消え入るようであったが、今宵の客人の奏でる異国の旋律は、湖水に波をおこし月影を激しく揺らす。

 今宵、父の館では南の池に龍頭鷁首の舟を浮かべ月を愛でているはずだ。藤原中納言といえば、政の中心にいるとは言いがたいが、右大臣にも左大臣にも与することのない局外中立の風流人として争いに巻き込まれることを好まぬ小心の殿上人たちに慕われている。

 三郞良泰は、方違いでひとり山科の館に来ることになったが、父に請われてここに滞在する客人をもてなすことになった。父藤原中納言が、この客人を都の屋敷にではなく山科の別邸に招き入れたのには理由がある。

 この客人は青丹養者なる陰陽家であり、唐人である。陰陽家とは、官吏である陰陽師ではなく、私的需要を満たす技能者である。三郞は、父中納言より客人が異国の陰陽家と耳にして、言葉の通じぬ得体の知れぬ術士の相手などは難しいと慌てたが、実際に逢ってみて杞憂とわかった。言われなければ唐人であるとはわからぬほどこちらの言葉を話し、しかも三郞とさして代わらぬほど若い男であった。

 父中納言が、なにゆえこの男を秘密裏に厚遇して迎え入れているかを、三郞は知らなかった。だが、兄太郎良兼が左大臣の三の姫と右大臣の四の姫と同時に艶事を起こし苦境に立たされた折、奇妙なほど穏当な措置を得たのはこの男の力によるものではないかといわれていることだけは知っていた。

 今宵、客人は珍しく唐風の装いだ。幞頭ぼくとう なる被り物に、雲取文様を織り込んだ錆浅葱の盤領袍を身につけている。つま弾いているのは阮咸とも月琴ともいわれる丸い胴をもつ弦楽器だ。同じように丸い月がそろそろと天空を動き、湖上に冷たい光を投げかけている。

「青丹どの。貴殿がこのように風流なお手前をお持ちとは存じませんでした。これはなんという曲なのでしょうか」
「張九齢の『望月懐遠』につけられた曲のひとつだ。作曲者は知られていないが」
「それはどのような詩でございましょうか」

 客人は、幼子を眺めるような微笑み方をしてから、月を振り仰ぎよく通る声で吟じた。

海上生明月 天涯共此時
情人怨遙夜 竟夕起相思
滅燭憐光満 披衣覚露滋
不堪盈手贈 還寝夢佳期

張九齢『望月懐遠』

(意訳:
煌々と輝く月が海面より昇り、遠く離れた者が同じ月を共に仰ぎ見る
長き夜を恨めしく過ごし、ついには起きて互いに想う
灯を消してわずかな月光を愛でるが、着た衣は夜露に濡れている
月光を盃に満たし贈ることはできない、逢える日を夢見てまた寝よう)



 三郞は、直垂の胸のあたりを握り、水上の月が歪むのを見つめていた。その様子を見て取ると、客人は切れ長の眼をさらに細め、怜悧な表情には似合わぬほどの情感を込めて弦をかき鳴らした。三郎の心は、その音色に誘われ嵯峨の小さな寺に泳いでいた。

 黒方香で板間より天井までもが焚きしめられた小さな仏間。置かれた几帳の隙間より菊花の薫き物が漏れ出して、かの女の衣擦れが三郎を吸い寄せていた。到着するまではあれほど心急かされていたのに、その瞬、この禁を破れば取り返しのつかぬ事になるという予感におののいた。

 だが、几帳の奥にいたその女を引き寄せ、黒く底の見えぬ瞳をのぞき込んだときに、三郎の逡巡は吹き飛び、そのまま朝まで寝乱れてしまった。

 嵯峨の姫が、入内を控える身ということはわかっていた。だがあのたおやかな筆蹟と、心絞られる歌で誘われて三郎の分別は闇夜に紛れてしまった。

 まだ、事は世間には広く知られていない。だが、政争に巻き込まれることを何よりも嫌う父中納言は、今宵三郎を方違いとして寂しき山科の館に押し込めた。

 だが、父の裁決はまことに事を鎮めるのか。むしろ三郎の心に投げやりな思いと、執着の火を解き放っただけではないのか。

 胸元に忍ばせた香袋には、紙に包まれた長い髪が入っている。あの夜に二たびの逢瀬が許されないのならばとお互いに交わしたものだ。

「青丹どの」
三郞は、客人に呼びかけた。
「何か、三郎どの」

「貴殿は、ただの陰陽家ではないと聞いています。私と変わらぬほど若く見えるが、そもそも奈良の都の古より年もとらずにおられるとも。貴殿が玄宗皇帝の頃に我が国に来られたというのはまことですか」

 客人は、是とも否とも言わず、おかしそうに含み笑いをすると月琴を置いて二人の盃を満たした。
「それが貴殿の欲念と何か関わりがありましょうか」

「貴殿は、本当は青丹なる名ではないのでしょう? 唐からいらした異国びとであられることは間違いないのでしょう?」
三郎がなおも食い下がると、客人は口先だけで笑いながら盃を口に運んだ。

「さよう。本来の名は丁少秋と申します。が、かの地でもその名を知るものは少なく、往々にして翠玉と呼ばれました。その意味を知る、この地の誰かが青丹と呼び始めました。そして、晁衡大人に誘われ道を極める乾道として船に乗りこの地に降り立ったことはまことです」

 三郎は、息を呑んだ。晁衡という名が阿倍仲麻呂に唐で与えられた名だということぐらいは、かろうじて知っている。だがそれがまことだとしたら、目の前にいるこの男は少なくとも齢二百五十を越えている。もちろん奈良の都などという馬鹿げた噂に乗じて、陰陽家の経歴に箔をつけんとしているのかもしれぬ。あるいは、くだらぬ問いに益体もない答えで返しただけやもしれぬ。だが……。

「では、貴殿は仙丹を手に入れたのですか、翠玉どの」
身を乗りだして訊く三郎に翠玉は皮肉な笑みを消した。

 そして、再び盃を口に運ぶと静かに答えた。
「ひと粒、服用すれば、不老不死を得て天に昇る丸薬。それを手に入れて手早く仙境に達しようとは、秦の始皇帝以来、多くの権力者の願うところ。それがいまだに達せられておらぬのは、何故とお思いか」

「仙丹など存在しないということですか。それとも、かつての皇帝は不死には値しないということでしょうか」
三郎が問い返すと、翠玉は再び口元をほころばせた。

「さよう。丸薬ひとつでたどり着くような道ではござらぬ。また、権力を握ったままでその境地に達することはできませぬ。道は、手放すことによってのみ見つけられるのですから」

 月は、高く昇っていた。三郎は、池の上に揺らぐ月影をじっと睨んでいたが、やがて翠玉に向き直り口を開いた。
「私には、惜しい物など何もありませぬ。藤原の家は兄上が継ぐでしょうし、私には大した官位も未来の展望もありませぬ。これまで学問も武芸も一心不乱に精進して参りましたが、それが報われることもなさそうです。それどころか、父上らの足を引っ張る厄介者として、月夜の宴にも招かれぬさま。できることなら浮世を離れ、不老不死の仙境にいたりたいものです」

 翠玉は、目を細めて三郎を見た。
「道の道は、世の者がゆく道とは異なる。貴殿が期待するような好ましい状態とは限らぬぞ」

「そのようなことをおっしゃらないでください。この中秋の宵に、貴殿とこうして月を眺めながら酒を酌み交わしていることは、ただの偶然には思えません。不二の身となる機が己の生に再びあるとも思えませぬ。どうか、この私を貴殿の弟子とし、その道をお示しください」

 翠玉は、手を不思議な具合に動かし、そのまま三郎の目のあたりで動かした。

 それと同時に、空は雲で覆われ、池の上の月影は消えて暗闇が広がった。ちゃぽんと魚が飛び跳ねる音がしたと思うと、すぐ目の前を青銀色の鱗が通り過ぎた。なんだこれは。三郎が目をこすると、目の前は水の中にいるようにゆがみ、大きな銀の鯉の背に翠玉がまたがってこちらに手を差し伸べているのが見えた。

 三郎は、これは翠玉の術なのだと理解して、迷わずその手を取り、巨大な鯉の背に、つまり翠玉の後ろにまたがった。

 鯉はぐんぐんと上昇していく。上の方には明るい光が差し込んでおり、ますます上がっていくとそれは大きな丸い月であることがわかった。不思議なことには、水の中にいるというのに、全く息苦しいことはなく、その澄んだ水は遠くまでが見渡せた。下方には京の街並みが広がり、御所や止ん事無き方々の屋敷、尊い寺社や鎮守の森や川がよく見えた。

「おっ母! 見て。竜が飛んでる!」
下方からの声に三郎は驚いた。しがみついている銀の鱗の持ち主を改めて見ると、鯉にしては胴がずっと長くなっており、いつの間にか魚の顔つきが角を持つ竜に変わっている。

「違うでしょう。月にかかる雲がそう見えるのよ」
「じゃあ、あの音は何?」
「さあ。お館で月見の宴をなさっているのでしょう」

 翠玉の奏でる『望月懐遠』の音色は、冷たい銀色の鱗のように京の町に降り注いでいる。青白い竜は、まっすぐに昇り、やがて子供と母親だけでなく、御所も寺社もまとめて小さな黒い塊になり山の合間に縮こまっていった。

「翠玉どの、どちらへ行かれるのですか」
「貴殿が、道を正しく見る事のできる高みに」

 煌々と照らす月光と『望月懐遠』。遠き山の漆黒を見るだに、嵯峨の姫の黒髪を思い起こされ、胸が締め付けられる。胸元をかきむしると、香袋の氣配はしっかりと感じられた。

 竜が近づいていくと、大きく輝かしい月は、大きな山の開口部であることがわかった。黄金のどろどろとした液体がぐつぐつと沸き返っていて煙が上がっている。これまで上に登っていると思っていたのが、山の火口に降りてきていたのだ。

 見れば、その液体の際に浮かび酒盛りをしている人びとが見える。黄丹や深紫の直衣を纏った殿上人のようだ。あり得ぬほどにひどく酔い、盃を投げ合って笑い転げていた。そして、その弾みでひとりの着た深蘇芳の裾が灼熱火に触れた。

 火はあっという間に燃え上がり、叫び声を上げる男を包んだまま灼熱火の中に引きずり込んだ。酒盛りをしている仲間らは、それを見てさもおかしそうに笑いながらさらに酒を注ぎ合った。
「これはよい。残った酒と肴は我らのもの。さあ、もっと飲もうぞ」

「なんてことだ。あれほどの尊き方々が、あのように浅ましい為業を」
三郎は、震えながら言った。翠玉は笑った。

 竜は、さらに火口に近づき、あまりの熱さと明るさで三郎は思わず目を伏せて翠玉にしがみついた。
「おやめください。このままでは、私どももあの火に飲まれまする」

 だが、翠玉は動じず、竜も速度を緩めなかった。地獄の灼熱火に包まれたと思った途端、ぐつぐつと煮えかえる音も、殿上人たちの笑い声も消え去り、静かな涼しい風が三郎に触れた。

 恐る恐る顔を上げると、竜は海の上を滑っていた。真下には煌々と輝く月が映し出されている。

「ここは何処なのですか。先ほどまでいた京の都は、そして、あの火の山は……」
三郎が問うと、翠玉は答えた。
「貴殿は今ここにいる。先ほどまでどこにいたのかなどと思い悩む必要はない」

 海原は恐ろしいほどに広く、月影以外はどこまでも続く凪いだ水面だけだった。見慣れた双岡や船岡山が、御所や護国寺の堂々たる緑釉瓦を抱いた屋根が、都のざわめきが、牛車のきしみが、扇を閉じる微かな音が、焚きしめた香の薫りが、全くどこにもなかった。

 唐の盤領袍を着て、聴き慣れぬ旋律にて月琴を奏で、青白い竜にまたがる異邦人以外に頼みになる者がいないことに、三郎は戦慄した。

「道の道は、己を極めるのみ。己以外を頼みにしてはならぬ。長く生きれば、父母や友はもとより、我が子やその子すらも年老いて先に鬼籍に入ろう。身につけし衣冠は擦りきれ、屋敷田畑は狐狸の住処となる。それを怖れるならば、この道を求めることは叶わぬ」

 三郎は、おのれの直衣を見た。色褪せすり切れて朽ちかけていた。震える手で香袋を取りだし、愛しき嵯峨の姫の髪を見て心を落ち着けようとした。だが、やはりすり切れた香袋の中から現れたのは長い白髪だった。

 悲鳴を上げて香袋を取り落とした。白髪とともに破れた香袋は海へと落ちていった。振り返った道士はわずかに笑った。

 竜は首を下げて海へと突き進んだ。風に飛ばされそうになった三郎は、瞼を固く閉じて翠玉の盤領袍にしがみついた。助けてくれ。どこでもいい、いつものどこかに帰りたい。屋敷でも、詰所でも、牛車の中でも、どこでもいい。

 風がおさまったように感じたので、三郎は恐る恐る瞼を開けた。目の前に、翠玉が向かい合って座っている。彼と三郎は、龍頭鷁首の舟に乗っていた。見回すと、そこは山科の屋敷の池だった。先ほどまで座っていたはずの釣殿には、高坏と蔀が見え、灯明や肴もそのままになっている。

 翠玉は何事もなかったのごとく『望月懐遠』を奏でている。三郎は、懐に手を当てた。香袋はそこにあった。直衣も香袋もすり切れてはおらず、すべてが三郎の慣れたこの世のものであった。

「私は……」
「道の道は、貴殿の考えているようなものではなかったであろう」

 三郎は大きくため息をついた。
「不老不死の道を究めれば、殿上人も私を尊び、父も私を認め、そして姫との縁も道が開けると思っておりました」

 翠玉は、それ以上何も言わなかった。だが、三郎には彼の言いたいことがわかった。この世の栄華を求めている者の進む道ではないのだと。

 舟は静かに釣殿へと向かった。満ちた月は池の上を青白く照らしていた。

(初出:2022年9月 書き下ろし)

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曲そのものは、作品と関係ないのですが、月琴の形と唐の装束がわかる動画があったので貼り付けておきます。

【古琴Guqin笛阮鼓】《天龙八部》印象曲·段誉篇| Chinese music‘Adventure of Dali Prince’〖琴笛阮鼓〗宋代装束复原Dress in Song Dynasty
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Posted by 八少女 夕

【小説】山の高みより

今日の小説は『12か月の楽器』の8月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の選んだのは、ティバです。ご存じないですよね。少し前まで私も知りませんでしたから。ティバというのはアルプホルンの原型になったといわれる楽器の1つで、スイスで中世から牧畜のために使われていた管楽器です。現在のアルプホルンは、2m以上もあるので、とてもヤギを追いながら高山に持って行って吹くことなどできませんが、ティバはずっと実用的な楽器だったようです。

ちなみに、この楽器を8月に持ってきたのは、スイスの建国記念日(8月1日)の影響で、私にとってのアルプホルン系の音は8月と結びついているからなのです。


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山の高みより

 遠くに灰色の塊がわずかに見えてから15分も経っていなかった。雷雲は恐るべき速度で遠くの山嶺に襲いかかっている。白いヴェールが瞬く間に山肌を覆う。早苗は「これは来るかな」と小さくつぶやいた。

 先ほどすれ違ったハイカーたちは、花を摘みながらのんきに下っていったが、もしかするとずぶ濡れになるかもしれない。こちらも人ごとではない。だが、あと5分も歩けば山小屋に着くだろう。そうすれば、少なくとも雨宿りはできるだろう。運がよければ。これは、雨雲との競争だ。

 轟きはティンパニーを思い起こさせる。ああ、これだったんだろうかと早苗は思った。ヨハネス・ブラームスの交響曲第1番の第4楽章の始まり。きっとあのティンパニーはいま耳にしているのと同じ雷鳴だ。

 ブラームスがアルプに親しみを持つ日々を過ごしていたか早苗は知らない。ウィーンの社交界の中で作曲を続ける偉大な芸術家は、行ったとしても旅行者としてだろう。ハンネスはそうじゃなかった。彼は、この山を日々見上げて育った。この山にもよく登り、祖父や父親から引き継がれた、いま早苗が持っているティバを吹いていた。

 早苗は、ハンネスの願いを叶えるために、ひとりでこの山に登っている。この山の頂からティバを吹き鳴らすこと。次のティバの祭典『ティバダ』には加わることができないであろう彼と、もうじき博物館入りするかもしれない楽器に最後の栄誉を与えるために。吹くメロディは決めている。ブラームスが交響曲に書き込んだ旋律だ。

「山の高みより、谷の深きより、君に何千回も挨拶を送ろう
(Hoch auf’m Berg, tief im Tal, grüss ich dich viel tausendmal!)」

 ティバは、アルプホルンの原型と言われる楽器の1つだ。スイス、グラウビュンデン州に伝わっていて、かつては放牧中の家畜を鼓舞したり、麓の村人や他の嶺にいる仲間と意思疎通を図るために使った道具であった。

 携帯電話を誰もが持ち、麓へも車で楽に往復できるこの時代には、かつての用途で用いられることはもうない。

 現代では、アルプホルンは観光産業を象徴する国民的楽器となった。3.5メートルもある巨大な角笛ゆえ演奏することも持ち運ぶこともなかなか難しい特殊な存在になっている。一方で、その原型であったティバや、中央スイスのビューヘルなどは、存在すらも知られぬマイナーな楽器としてその地域で細々と生きながらえている。

 ティバは「牧夫の角笛ヒルテンホルン」とも呼ばれる、木や金属でできた古い管楽器で、アルプホルンとは異なり、短く、たいていまっすぐな形をしている。かつては高山の牧草地で牧夫たちが使用していた。1メートルから1.7メートルまでさまざまな長さのものがあり、地面に置いて吹くアルプホルンと違いトランペットのように持ち上げて吹く。

 かつて牧夫たちが使っていたティバは木製だったが、現在では錫製のものがほとんどで、早苗も錫製の1.2メートルの楽器を愛用している。今日持ってきたのは、さらに短い1メートルのものだ。ハンネスから預かってきた。

 ティバの音色は、外国人にとってはスイスらしさの象徴であるアルプホルンと同じに聞こえるらしいが、都会から来た同国人は「郵便バスかよ」という。郵便配達を兼ねてスイス中に路線が張り巡らされている黄色いバスでは、見通しの悪い山道などでホルンに近い4音によるクラクションを鳴らす。これは、かつてヨーロッパ中で郵便配達が角笛を使って到着を知らせていた時代の名残だ。

 山からこの楽器を吹き鳴らすと、谷では、音色がどこから聞こえてくるのかはっきりしない。が、演奏技術や事前に合意した音の並び方から、演奏者を推測することが可能だ。かつてはそうやって谷を越えた別の村に危機などを速やかに知らせることができた。

 現在では、個人の楽しみで吹くのがメインだ。もっとも10年ほど前からいくつかの村をシグナルのリレーでつなぐティバの祭典『ティバダ』が開催されており、それが愛好家たちのモチベーションの維持に繋がっている。

 かつてはその存在さえ知らなかった楽器だが、早苗は同僚だったハンネスに誘われて『ティバダ』を見にいってから、ティバをよく練習するようになった。日本では、中学も高校でも吹奏楽部に所属していたので、音を出すまでにさほど苦労はしなかった。

 ハンネス。もうずいぶん長い付き合いになるよね。ずっとただの同僚だったのが、ティバをきっかけに仕事以外でもよく会うようになって。いろいろな話も聞いてもらった。この国に来て、友達も少なかったし、本当に嬉しかったんだよ。あなたのことを話してくれるようになったのは最近だけれど。

 本名がヨハネスだということを知ったのも最近だ。ハンネスという今どき珍しい古風な通り名は、消えかけている伝統の継承をするのだという彼の意思表示なのかもしれない。そういえば、彼は恋に関しても今どきの若者にはあり得ないほど古風だ。早苗は初めて聞いたときに耳を疑った。ティーンエイジャーになれば親が避妊の心配をするようなこの国で、秘めた想いを伝えもせず10年以上も隠し通しているなんて。私も人のことは言えないけれど。

 下草を踏み分け、曲がりくねった根でできた天然の階段をいくつか登り鬱蒼とした老木の間を通ると、急に視界が開けた。すぐそこに山小屋が見えている。助かった。雨雲はもう早苗に追いついていて、ポツリ、またポツリと頭や上着を雨粒が規則正しく打ち始めた。

 走ってなんとか山小屋に駆け込む。小屋内部の屋根を打つ雨音の激しさにかえって驚く。もうこんなに降っていたのかと。

「まあ、最後の瞬間に駆け込めて幸運だったわね!」
黒いエプロンを着けた女性が言った。早苗は、頭を下げた。この山小屋で常時働いているのは夫婦と外国人スタッフだけと聞いていた。方言のなまり方からこの人はスイス人だ。つまり、この人がコリーナさんなんだろう。

「ステッターさんですか。私……」
そう言うと、彼女はみなまで言わせなかった。
「あら。あなたがサナエね。ハンネスから聞いているわ。私がコリーナよ。よく来てくれたわね。いま、ブルーノも呼んでくるわ」

 奥から現れた男性は、熊のように大きく、口の周りにしっかりと髭を蓄えていた。農家によく見るチェックのリンネルシャツを着ている。夫婦共にハンネスよりもひとまわりは上そうだ。

「ようこそ。なんでもこの山でティバを吹くんだって?」
「はい。本当はハンネス自身が来たかったと思うんですけれど」

 そういうと夫婦も沈んだ表情になった。
「病院に入っているんだって?」
「はい。今年の『ティバダ』の参加は取り下げたんです。先週、お見舞いに行ったときにそう言っていました。ものすごく残念がっていて、それで成り行きで頼まれて、ここに来ました」

 2人は頷いた。そして、早苗にテーブル席に座るように促し、何が飲みたいかと訊いた。ハンネスからの依頼でご馳走することになっていると。早苗は感謝してコーヒーを頼んだ。

 外はひどい雷雨になっていた。閉じた雨戸の隙間からも稲光のフラッシュが山小屋に入ってくる。屋根を川のように水が流れ落ちていくのを感じる。突如、激しい音が加わる。屋根を打ち付ける小石のような音。雹だ。
「おやおや。これは外にいたら大変だったな」

 雷雨に離れているのか、夫婦はさほど慌てていない。コーヒーを運ぶと、ブルーノは自分用にはビールの小瓶を持って早苗の前の席に座った。

「ハンネスはさ、小さな子供の頃から親父さんに連れられてここに来ていたよ。ティーンになってからはひとりでもよく来たなあ」

 ブルーノは、感慨深げに言った。コリーナも頷いた。
「そうね。短いティバを持ってね」

「これですか?」
早苗はリュックの後ろに下げていたティバを見せた。

「そうね、そんな色とサイズだったのは間違いないわ。もっとも私たち、違うのを見せられても、わからないけれど」

 早苗は頷いた。そうか、コリーナさんたちは、ティバには疎いんだ。それに、ハンネスの秘めた願いにもきっと氣がつくことはないのかもしれない。

 見舞いに行ったとき、ハンネスは、唐突にこう言った。
「君は、クラシック音楽を聴くんだったね。ブラームスも?」

「そうね。シンフォニー1番は大好きよ」
そういうと、彼は、ぐっと身を乗りだしてきた。

「あの曲について、言われていることも、知っている?」

 早苗は、一般的な知識を答えた。第4楽章の主題がアルプホルン由来であることや、有名なメロディーが敬愛するクララ・シューマンへの想いを込めたものと言われていることなどだ。

「山の高みより、谷の深きより、君に何千回も挨拶を送ろう」
 クララ・シューマンの誕生日に、ブラームスはそう歌詞をつけてこの主題を贈った。

 ハンネスは、考え込むように頷き、それから意を決して、早苗にこう言った。
「僕も、クララ・シューマンに挨拶したいんだ。山の高みから」

 ここまで歩いてくる道すがら、早苗は以前にハンネスが打ち明けてくれた秘密の恋について考えていた。ずっと若い時から続いている想いがあると。その女性はとっくに結婚していて、自分の願いが叶う見込みはまったくないと。

 わざわざブラームスと、クララ・シューマンに言及したのは、そういうことではないだろうか。14歳上のクララに対して、ブラームスが恋愛感情を抱いていたのではないかという話は有名だ。だが、彼はロベルト・シューマンに対しても深い尊敬を抱いており、ロベルトの死後も節度を守り続けたとされている。

「お。おさまったみたいだな」
ブルーノが言う。コリーナは立ち上がって、雨戸を開けた。強い日の光が差し込んできた。いつの間にか外は、快晴になっていた。

 山の上に清冽な風が吹いている。雨雫を受けた針葉樹が太陽の光を受けて輝いている。早苗はティバを持ち、小屋の外に出た。山小屋の建つ草原の先は崖のように切り立った急斜面で、谷底までが一望の下だ。ハンネスの入院する病院はたぶんあのあたり。早苗は地形を見ながら考えた。

 山の上からは、アルプス連峰が見渡せた。2000メートルを越すあたりから、山には樹木が生えなくなる。草原と灰色の岩石、夏でもわずかに残る雪とが稜線をくっきりと際立たせる。宇宙へと続く深い青空に大きな羊雲が悠々と渡っていく。

 鋭い鳴き声をあげながら、鷹が旋回していく。高く登っていくその姿はまるで点のように小さい。見えている町の家々も、それなりの川幅だったはずのライン河も、大きく立派な大聖堂も、この山々や大空に比べれば、とても小さい。

 ブラームスの交響曲第1番の第4楽章が、脳裏に蘇る。早苗はティバを構えて吹いた。澄み渡った空氣の中、音は谷に響き渡る。何百年もまえの牧夫たちがそうしたのと同じように、身体から漲る力が、音符やルールといった細かい決まり事から解放されて羽ばたいていく。

 ハンネスは、ここに再び登り、彼を縛り付けるすべてから解放するこの響きを吹き鳴らしたいと願っているのかもしれない。

 ブラームスがアルプホルンから着想して表現しようとしたものも、もしかするとこの開放感、この世界への讃美なのかもしれない。

 実際のブラームスとクララの関係も、それどころかヨハネス・ブラームスがクララを本当に愛していたのかも、本当のところは、誰にもわかりはしない。それを興味本位で暴くことが必要だとは思わない。そして、ハンネスの願いの本質について、あれこれ詮索することも。

 日本で交響曲を聴いていたとき、早苗はあれを楽器が作り出す芸術作品として捉えていた。それは東京で普段見かける日常生活の光景とはあまりにもかけ離れていて、コンサートホールまたはスピーカーの置かれた部屋の中で完結している抽象的な存在だった。

 でも、今、早苗が目にしている世界は、ブラームスがオーケストラに表現させ、それを耳にする者の心に沸き起こる感情と一致する。彼は、この場にいたのだ。正確にこの地点という意味ではなく、アルプスのどこかで世界を見渡し、その崇高さに頭を下げたのだ。そして、この清冽な風の中で、敬愛する人に心の中で語りかけずにはいられなかったのだ。

「山の高みより、谷の深きより、君に何千回も挨拶を送ろう」

 私たちの命は儚い。私たちの存在はとても小さい。それは、世の中の不公平な格差すら豆粒のように小さく遠いものにする。忙しい生活も、果たせぬ野望も、うまくいかぬ人間関係も、この壮大さ、崇高さの中では、取るにとりないことだと笑うことを可能にする。

 ハンネス。私は、あなたのためにここにいるよ。

 早苗は、この山から麓の病院にいる彼に聞こえることを願いながら彼女なりにティバを吹く。彼が、再び自らの足でここまで来ることができる力になることを祈りながら、彼女なりのシグナルを吹き鳴らす。

 先ほどまでの雨雲はもうどこにもなく、天の青き深みと雨雫の輝く山肌に、ティバの奏でる挨拶が風に乗って羽ばたいていくのがわかった。

(初出:2022年8月 書き下ろし)

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というわけで、ブラームスの交響曲1番、第4楽章から再生するように貼り付けてみました。書きながら聞いていたのはフルトヴェングラー指揮だったけれど、こちらはカラヤン。これもいいなあ。



Brahms - Symphony No.1 - Karajan BPO, Live Tokyo 1988 - Remastered by Fafner
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Posted by 八少女 夕

【小説】引き立て役ではなく

今日の小説は『12か月の楽器』の7月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の選んだのは、ヴィオラです。でも、出てくるキャラはあのヴィオリストではありません。ちょっとくらい出そうかと思いましたが、蛇足なのでやめました。『大道芸人たち Artistas callejeros』や『樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero』を読まれた読者の方は、この作品の登場人物(男の2人)の苗字から「あれ?」とお氣づきになるかもしれません。関係はあります。1世代上ですけれど。

そして、この作品の会話だけに出てくるM.ブルッフの『ヴィオラと管弦楽のためのロマンス』は、下に参考として掲げた作品のメインイメージとして使った作品です。ただし、エピソード間には、全く関係はありません。


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【参考】
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 ロマンスをあなたと



引き立て役ではなく

 美登里は、待ち合わせ場所に現れた蘭を見て、あらまあと思った。こんなに全力でお洒落をした彼女を見るのは久しぶりだ。従姉は、子供の頃から見慣れている美登里ですら、ときどき見惚れてしまうようなところがある。

 黒いジャケットスーツはヴェルサーチ。でも、プリントが裏地にあるから、わかる人にしかわからない。鮮やかな薔薇色のカトレア柄のプリントブラウスは、シャープな襟と柄の大きさにこだわりぬいたものだ。このブラウスを見つけるのに彼女がどのくらい時間をかけたのか知っているのは、美登里くらいだろう。

 女子高の頃の蘭は、学内一の人氣を誇っていた。ショートカットで背が高く、切れ長の目許は涼しげだ。バレンタインデーには、持ちきれないほどのチョコレートを受け取り、毎年食べきるために美登里が協力しなければいけなかった。

 本人は、自分に与えられた役割を自覚しているのか、人前では口数が少なくクールな様相だが、じつは面白くない親父ギャグをいうクセがあり、美登里に絶句される度にわずかに傷つく可愛いところもある。

 それに、実は顔には出さないが非常に緊張している時は、声がいつもにまして低くハスキーになる。例えば、今日は相当緊張しているようだ。結城くんが一緒だからだろうか、それとも園城さんの方かしら。

 美登里は、一緒に歩く蘭をすれ違う人たちがチラチラと見つめたり振り返ったりするのを見ながら考えた。おかしいのは、女性の方がより熱っぽく見つめることだ。中性的と言うよりは、むしろ宝塚の男役に近い雰囲氣を纏っているからだろう。彼女に言わせれば、高校を卒業したらその手のモテかたとは無縁になるつもりだったのらしいが、この調子では生涯こんな感じなのかもしれない。

 今夜は、同じピアノ科の結城勝仁と指揮科の園城邦夫に誘われてコンサートに行くのだ。ツィンマーマンが来日していてブルッフの『クラリネットとヴィオラのための二重協奏曲』を演奏するのだ。同じピアノ科の結城勝仁が、チケットが4枚あると美登里に声をかけてきたのだが、一緒に行きたいのは声楽家の堂島蘭だということは、初めから予想できた。

 華やかで交友関係の広い結城勝仁と真面目で物静かな園城邦夫が一緒にコンサートに行くような仲だということは、今回初めて知った。同じ高校出身らしい。性格はずいぶん違うようだが、氣が合うのだろう。

 たぶん蘭と美登里も、こんな風に「意外な組み合わせ」と思われているのかもしれない。

「結城くんが、指揮科の園城さんと行くツィンマーマン、一緒にどうかって誘ってくれたんだけれど……」
美登里がおずおずと訊くと、蘭はいつもとは違う食いつき方で「行きたい!」と即答したのだ。蘭がヴィオラがメインのコンサートにそこまで熱心なはずもないので、きっと2人のどちらかを氣になっていたのだろう。

 美登里は、そつの無い、悪い言い方をするとありきたりのワンピースを着ていた。蘭が演奏会で歌うとき、伴奏を頼まれる美登里はできるだけ目立たないワンピースを着る。どこか外出するときも、自分が素敵に見える服よりも、他の人たちがどんな服装の場合でも場違いにならないよう、目立たない服を選んでしまうのは癖になっていた。

 蘭と出かけるときは、なおさらだ。彼女は常に注目を集めるので、自分に似合う素晴らしい装いと完璧な立ち居振る舞いをするのだけれど、実はファッションそのものにはあまり詳しくないので、美登里が何を着ていても関心も持たないし話題にもならない。むしろ、美登里が蘭からの相談を受けて、彼女が求めるタイプの服装をどこで購入できるかをアドバイスしてあげることも多い。

 今回のスーツが、蘭にとっての真剣勝負の服装だということを、美登里が氣がついたのはそのせいだ。たいていの男性は蘭に対して好意的に振る舞うから、どちらであっても難しい恋ではないだろうけれど、美登里にも全くいわなかったことを思うと、蘭にとってはよほど真剣な想いのようだ。できれば傷ついたりしないでほしい。うーん、モテモテの結城くんの方だったら、要注意かなあ。

「そのブラウス、本当にヴェルサーチのスーツにぴったりね。よく似合うよ」
美登里は話しかけつつ、横を歩く従姉の顔を見上げる。身長が高い上に、今日の蘭は、いつもよりも踵の高いヒールなのだ。

「コーデネイトはこーでねぇと……」
出た。定番のしょうもない親父ギャグ……。

「蘭。忠告するまでもないと思うけれど……」
「わかっているわよ。結城くんたちの前では、慎むから」
蘭は、より一層低い声を出した。コンサートホールの前に、既に待っていた青年2人が見えてきた。

「ああ、今夜は来てくれてありがとう」
そう言って、結城勝仁がチケットを2人に渡し、さりげなく蘭の隣に立った。成り行き上、園城邦夫が反対側、つまり美登里の隣に立った。

「こちらこそ、誘っていただけてお礼をいわなくちゃ。ツィンマーマンを生で聴くの、初めてよ。チケット取るの大変だったでしょう?」
蘭は、先ほどの親父ギャグを口にしたのと同じ人物とは思えぬほど、冷静な低い声で答えた。

「邦夫のおかげだよ。今日のコンマスと親しいんだ」
勝仁は、友の方を指した。

「そうなの?」
美登里が訊くと、邦夫は頷いた。
「高校の先輩なんだ」

 チケットを切ってもらい入場したが、蘭は、ここでも注目を集めている。ロビーの華やかなシャンデリアの光の下で、ジャケットの上質な黒い照りと、ブラウスの薔薇色の艶やかさが際だった。

 非日常的で、きれいな世界だなあ。美登里はシャンデリアを見上げた。音大に進んだとはいえ、才能あふれる一部のクラスメイトを知ったことで、美登里自身の技量は大したものではないと思い知らされている。将来コンサートピアニストとしてやっていく見通しは皆無で、このホールで演奏するようなこともきっとないだろう。もしかしたら、今のように蘭が常に伴奏者に指定していてくれることで、ここの舞台に立つ可能性がないわけではないけれど。

 『クラリネットとヴィオラのための二重協奏曲』は、作曲者マックス・ブルッフの晩年1911年にクラリネット奏者として活躍していた息子マックス・フェリックス・ブルッフのために書かれた。生前はあまり評価されておらず、演奏される機会もあまりなかった曲だが、今日演奏するツィンマーマンやその他の名手たちによって取りあげられてから、しばしば演奏されるようになった。

 よくあるヴァイオリンやピアノの協奏曲と違って、楽器自体がメジャーでないためか、それとも全体を通して流れる牧歌的でしっとりした音色のせいなのか、音楽大学に通う美登里ですらも初めて耳にする曲だ。

 たとえば映画音楽などに多用されて、誰もが耳にしたことのあるような音楽とは違い、非常に心地のよいその音色はメロディーをいつでも口ずさめるような音楽とは違う。けれど、その旋律の美しさには心打たれる。それはとても心地よい。奇をてらった不協和音などたったの1つもなく、ヴィオラとクラリネットのどちらのよさも生かした作品だ。

 重厚に始まる第1楽章、優しく夢見るような第2楽章、そして、華やかに高らかに歌い上げる第3楽章の全てをヴィオラとクラリネットが縦横に活躍し、オーケストラは魅力たっぷりにそれを支えている。

 美登里は、すっかり魅了されて20分弱の曲の世界に浸った。ツィンマーマンの奏でる重厚で芯の強い音は美しいが、それはクラリネットをかすめさせることはない。ヴィオラの独奏演奏会に1度も行ったことのなかった美登里は、少し自分を恥じた。

 休憩の間、何か飲もうという話になり、4人はロビーに出た。
「素晴らしかったね」
邦夫が、熱のこもった口調で言った。
「ええ。マックス・ブルッフって、こんなロマンティックな曲を書く人だったのね。……私、初めて聴いたんだけれど、もっと聴きたいわ」
美登里は、CDでも探すつもりでそう口にした。

「じゃあ、同じブルッフとヴィオラの曲で、『ヴィオラと管弦楽のためのロマンス』の演奏会が来月あるんだ。それも行く?」
邦夫がすかさず訊いたので、美登里は驚いた。これは4人でってことかしら?

 彼女が、彼の真意を確かめようとしたときに「きゃっ」という鋭い声がして、2人は振り向いた。蘭が、変な姿勢で蹲っている。

「どうしたの、蘭?!」
美登里は慌てて駆け寄る。けれど、もっと蘭の近くにいた勝仁は、すぐに彼女を助け起こした。

「いたた……。ごめん、足をひねったみたい」
蘭は、痛みに顔をゆがめながら勝仁に助けられて、廊下のソファに腰掛けた。あっという間に、蘭の足首が腫れてきた。

「これはよくないな。救護室があるか訊いてこよう」
邦夫はすぐにロビーの係員を探しに側を離れた。美登里は、トイレに行ってハンカチを冷たい水で濡らして戻った。

 蘭は、数歩歩くのも困難な様子だった。邦夫が戻ってきたが、救護室のようなものはないという情報をもたらしただけだった。

 勝仁は、携帯電話ですぐにタクシーを呼んだ。
「このまま、医者に連れて行くよ」

 蘭は「まだ後半があるのに悪いわ」と言ったが、勝仁は半ば強引に彼女を抱き上げた。焦った蘭が軽く悲鳴を上げる。

「園城、中村さんはよろしくな」
そういって、会場から出て行った。

「私も行った方がいいかも……」
当惑して美登里が言うと、邦生は肩をすくめた。
「全員の予定を変えさせたら、堂島さんが氣にするんじゃないかな」

 言われてみればそうだ。美登里も行けば、邦夫も行かざるを得ないだろう。せっかくコンサートマスターに4枚も都合してもらったチケットなのに、無駄にさせたとなったらずっと1人でぐずぐす悩む蘭だということは、美登里がよくわかっていた。

「コンサートがはねたら、結城に電話して様子を訊こう」
休憩の終わりを告げるベルが鳴っている。美登里は頷いて、邦夫と共に客席に戻った。

 後半のプログラムはドイツの作曲家テレマンの『ヴィオラ協奏曲 ト長調』を中心に組み立てられていた。クラシック音楽分野でもっとも多くの曲を作ったと作曲家としてギネスブックに載っているテレマンだが、ヴィオラのためのコンチェルトはひとつしか残っていない。

 存命中には活躍したが、後世では時代におもね過ぎた音楽として軽んじられ、大バッハの栄光の影に沈んでしまったといわれるテレマンの作品だが、ヴィオラの落ち着いた音色がバロックの色調とよく合い、心地よい作品に仕上がっていた。とくに終曲の第4楽章はいかにもバロックという音運びなのに、かえって古さを感じさせないのはヴィオラの音色によるものなのかと思う。

 コンサートが無事終わり、アンコールまでをしっかりと楽しんでから美登里と邦夫は会場を後にした。邦夫の携帯には既にメッセージが入っていて、既に病院での処置は終わり勝仁が蘭を自宅に送るから心配するなとあった。

 美登里が蘭にかけるとすぐに出た。
「ごめんね、美登里、心配かけて。後半、楽しめた?」

「うん。大丈夫?」
「ええ。しばらく、安静にしていれば数日で歩けるようになるだろうって。慣れない高いヒールなんて履くんじゃなかったわ」
蘭の声は、あまり落ち込んでいるようには響かない。

「結城くんは?」
「ここまで送ってくれたけど、もう帰ったわ。彼には悪いことしちゃったなあ。お詫びに、今度ご馳走するって約束しちゃった。でも、痛いのとテンション上がって……つい……」
「何?」
「『ありがトウガラシ』が出ちゃったのよね。呆れているかも」

 美登里は、脱力した。親父ギャグが出るくらいなら、落ち込み具合も問題ないだろう。

「蘭、大丈夫みたいです」
そう告げると、邦夫は微笑んだ。
「それはよかった。じゃあ、せっかくだから場所を変えて軽く食べながら、今夜の演奏会について話さないか?」

 美登里は驚いた。私と? 蘭のナイト役を結城くんに取られてガッカリしているのだと思っていたのに。でも、美登里も、今夜の新たに知った音楽について語り合いたかった。

 邦夫が連れて行ったのは、ドイツ風のダイニング・バーだった。軽く飲むためのおつまみ的なメニューもあれば、かなりしっかりと食べることもできる。飲み物もビールやワイン、それにソフトドリンクも豊富で、かといって居酒屋ほど軽く雑な感じもしなければ、騒がしくもない絶妙な店選びだ。それに、ドイツ音楽を聴いた後の余韻とも合う。

「音大に通っているのに呆れるかもしれないけれど、私、ヴィオラをこんなにちゃんと聴いたの、初めてだったの。いままで、とても失礼なイメージを抱いていたみたい」
美登里は正直に言った。

「そもそもヴィオラの演奏会自体が、全体的に少ないし、弦楽の身内や友人でもいない限り、なかなか聴くチャンスはないんじゃないかな」
邦夫は答えた。呆れている様子でもないし、美登里を慰めようと言っているわけでもないようだ。

「園城さんは、よく聴くの?」
「演奏会はよくというほどには行っていないかな。でも、CDはけっこう集めたよ。指揮法の勉強のためでもあるけれど、純粋にヴィオラやチェロの音が好きなんだ」

「ヴァイオリンよりも?」
美登里は、邦夫の顔を見つめた。彼は少し笑った。
「比較して、より好きと訊かれると、答えにくいけれど、そうだね。少し低めの音色で、普段は目立たないけれど、いったん表に出るとあれだけ存在感を増す、あの感じが好きなのかもしれないな」

 低めの音。美登里は、それを聞いて少しだけ心がチクッとしたように思った。
「アルトの歌声もってこと?」

 邦夫は、その言葉に心底驚いた顔をした。それから、ああ、という顔をした。
「君は、堂島さんのことを言っているのかい?」
「ええ。そういう意味なのかなって」

 邦夫は笑った。
「全く意図していなかったけれど、ソプラノやテノールよりも、アルトやバリトンの歌声の方が、好きなのは間違いないな。でも、堂島さんは関係ないよ。それに、彼女に『普段目立たないけれど』は当てはまらないだろう?」

 確かに。この話し方だと、蘭と親しくしたいから美登里に協力をして欲しいという意図もなさそうだ。どこかホッとしていた。蘭の本命が園城さんじゃないといいけれど。
「そうね。蘭は、大輪のカトレアだものね。あ、ごめんなさいね。私、ひがみ根性を出しちゃっていたかしら」

 邦夫は不思議そうに美登里を見た。
「ひがみ根性って? 君たちは、掛け値もなしに、とても仲がいいだろう」

 美登里は頷いた。
「ええ。仲がいいの。そして、私はみんなの知らないようなお茶目な面も含めて、本当に蘭のことが大好きなのよ。でも、私、まわりからいつも主役と引き立て役という風に扱われるのに慣れすぎて、何も言われる前からそうやって先回りしてしまうの。私は大輪のカトレアを引き立てる添え物のグリーンポジションだって。よく考えるととても嫌なひがみよね」

 邦夫はなるほどという顔をした。
「わからないでもないよ。ちょうど僕と結城の関係みたいなものだから」

「園城さんでもそう思うことあるのね。なら、私では無理ないかな。ピアノでも、結城くんみたいに才能のある人とは違うし、子供の頃から蘭と比較されるのに慣れちゃったので、女性としての魅力を磨くのも嫌になってしまったし。だから、世界のその他大勢として慎ましく生きていこうと、地味な方に安心するようになってしまったの」
私ったら、なんてかわいげの無いことを口にしているんだろう。美登里は肩を落とした。こんな話、園城さんが聞きたいわけないじゃない。

 邦夫は、ビールのグラスを置くと、しっかりと美登里を見た。
「結城の才能が抜きん出ているのは否定しないよ。あいつには、学内の全員が嫉妬してもおかしくないさ。でも、君のピアノにも、聴くものの心を打つ力があるし、それに女性としても、全く引き立て役ポジションじゃないよ」

 彼女は、しばらく言葉が出なかった。何度か瞬きをしてから、ようやく言った。
「園城さん、私の、ピアノ……聴いたことあるの?」

 邦夫は頷いた。
「堂島さんの最高の歌声を聴かせたいって、結城に前期発表会に連れて行かれたんだ。で、感想を訊かれて、君の伴奏がいかに好みかってことばかり答えて呆れられた。今回、僕に4人分のチケットを都合しろと厳命したのはあいつなんだ」

 美登里は、胸が詰まったようになり、言葉もなく邦夫を見つめた。彼は、少し照れたように続けた。

「今日のヴィオラ、とてもよかっただろう? もし、嫌でなかったら、さっきも言ったブルッフの『ロマンス』一緒に聴きに行かないか」

 美登里は、大きく頷いた。

(初出:2022年7月 書き下ろし)

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蛇足ながら。おわかりになった方もあるかと思いますが、園城邦夫と美登里の娘が、ヴィオリスト園城真耶で、結城勝仁と蘭の息子がピアニスト結城拓人です。

こちらに、本文に出てきた2曲を貼っておきますね。


Max Bruch - Concerto for Clarinet & Viola, Op. 88


Telemann Viola Concerto in G major TWV 51:G9
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Posted by 八少女 夕

【小説】そして、1000年後にも

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の建築』1月分です。今年は、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめていくつもりです。

トップバッターは、今年もこのブログでもっとも馴染みのあるグルーブArtistas callejerosです。テーマの建築は、ポン・デュ・ガールです。南フランス、ガルドン川に架かるローマ時代の水道橋です。

このストーリーは本編とはまったく関係がないので、本編をご存じない方でも問題なく読めます。あえて説明するならヨーロッパを大道芸をしながら旅している4人組です。


短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む 短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む

【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物




大道芸人たち・外伝
そして、1000年後にも


 陽光は柔らかく暖かいものの、弱々しい。ブドウの木はまだ眠っているようだし、地面の草の色もまだ生命の喜びを主張しては来ない。何よりも浮かれたバカンスを満喫する車とすれ違うことがまったくない。南仏の田舎道は、慎ましくひっそりとしている。

 だが、国道100号線を走るこちらの車の内側がシンと静まりかえっているかといえば、そんなことはない。今日ハンドルを握るのはヴィルだ。助手席にはフランス語の標識に即座に反応できるという理由でレネが座ったが、そもそも迷うほどの分岐はほとんどなかった。

 日本人2人組は、道を間違えてはならないという緊張もないためか、時に歌い、時に笑い、そうでなければ、ひきりなしに喋り続けていた。

「そういえば、今日のお昼に食べたあの料理、なんて名前だったかしら?」
レネの母親シュザンヌが作る料理は、素朴ながらどれも大変美味しいのだが、今日の昼食はいつもよりもさらに手がかかっていた。ひき肉を薄切り肉で包み、さらにベーコンでぐるりと取り巻いてからたこ糸で縛ってブイヨンで蒸し煮にしてあった。ワインにもよくあって、蝶子は氣に入ったらしい。

「メリー・ポピンズみたいな料理名だったよな?」
稔が適当なことを口にする。蝶子は呆れて軽く睨んだ。絶対に違うでしょう。

「ポーピエットですよ」
レネが振り返って言った。
「今日のは仔牛肉で作っていましたが、白身魚で包んだり、中身を野菜にしたり、いろいろなバリエーションがあるんですよ。煮るだけじゃなくて、焼いたり揚げたりすることもありますし」

「ああ、それそれ。美味かったよな。それに、あのチョコレートプリンも絶品だったよなあ」
普段あまり甘いものに興味を示さない稔がしみじみと言った。

 バルセロナのモンテス氏の店での仕事を終えて、イタリアへと移る隙間時間に、4人はアヴィニョンのレネの両親を訪ねた。例のごとく大量のご馳走で歓待され、レネの父親のピエールとかなりのワイン瓶を空にした。それで、4人は今夜も大量に飲むであろうパスティスやその他の酒瓶、それに食糧を仕入れに行くことにした。そして、ついでに『ポン・デュ・ガール』に足を伸ばすことにしたのだ。

 『ポン・デュ・ガール』は、ローマ時代に築かれたガルドン川に架かる水道橋だ。高さ49メートル、長さ275メートルのこの橋は、ローマ帝国の高度な土木技術が結集した名橋だ。レネの両親の家から30分少し車を走らせれば着くと聞いて、蝶子が買い出しのついでに行きたがったのだ。
 
 世界遺産にも登録されたためか、駐車場と備えたビジターセンターがあり、そこで入場料を払う仕組みになっていた。ミュージアムの入館料も含んでいるので、橋を渡るだけにしては若干高いが、歴史的建造物の維持に必要なことは理解できる。

 4人は、ミュージアムを観るかどうかは保留にして、とりあえず橋を見にいくことにした。センターを越えてしばらく歩くと行く手に橋が見えてくる。深い青空をバックに堂々と横たわるシルエットは思った以上に大きかった。

 さらに近づくとその大きさはこちらを圧倒するばかりになる。黄色い石灰岩の巨石1つ1つを正確に切り出して積み上げている。これを、クレーンもない時代に作ったことに驚きを隠せない。

「こんなに高くて立派な橋を作ることになったのはどうして?」

「今のニームにあったローマの都市で水が不足して、ユゼスから水を引くことになったんです。それで、この川を渡る必要ができたんだそうです」

 アヴィニョンの東にある水源地ユゼスから、ネマウスス、現在のニームまで水を引くためにはいくつもの難関があった。ユゼスとネマウススの間には高低差が12キロメートルしかなかったので、1キロメートルごとに平均34センチという傾斜を正確に計算し、時に地表を走らせ、時に地中を走らせつつも、幅1.2メートル、深さ1.8メートルの水路を全行程に統一させた。越えられぬ山を通すためにセルナックのトンネルが掘られた。そして、最大の難関がこの渓谷だった。ローマ人は、この難関を奇跡ともいえる建造物を使って克服したのだ。それが、ポン・デュ・ガールだった。

 その3層のアーチ構造は、強度を保ちながら少ない材料で橋を高くする合理的な設計だ。それぞれのアーチは同じサイズに揃えられ、部分の石の大きさも統一されている。プレハブで建物を作るように、同じ大きさの部品を大量に作り一氣に建築する方法によって、ポン・デュ・ガールはわずか5年で完成したという。

 3層構造と文字で読むと大したことがなく感じられても、実際に目にするとその大きさには圧倒される。49メートルとは、14階建てのビルに匹敵する高さなのだ。1つ6トンもの石を4万個も積み上げたのは、最上階を走る幅1メートルあまりの水路のためだが、その下を歩く人びとにも大きな助けとなり、ローマの土木技術の正確さと、当時の帝国の栄光を2000年経った今も伝えるのだ。

 4人を含める観光客が自由に歩き回れるのは、19世紀にナポレオン3世が修復し加えられた最下アーチ上の拡張部分だ。ごく普通の橋であれば、ずいぶん広くて堂々としていると感じるのであろうが、古代ローマ時代の大きく太い橋脚がそびえ立つので、小さな部分のように錯覚してしまう。

 水道のある上部は、予約をしたガイド付きツアーの客のみ上がれる。1日の人数制限もあり、思いついて行けるような所でもないらしい。

「子供の時に一度登りましたが、足がガクガクしました」
「ここも、高所恐怖症の人には十分怖いかもしれないわね」

 眼下を流れるガルドン川は、紺碧というのがふさわしい深い青の水だ。周りの白っぽい岩石とのコントラストが美しい。 

 常に穏やかな流れではないガルドン川は、時には大きな濁流となって地域を脅かすこともあった。ポン・デュ・ガールが、長い歴史の中で修復・補強されながらも、現在もこのように立派に経っていることには畏怖すら感じる。それは、大きな水圧にも耐えるよう計算し尽くされた古代ローマの土木技術の賜だ。

「他の地域に大きな被害をもたらした2002年のガルドン川の増水と氾濫でも、この橋はびくともしなかったんですよ」
レネは、説明する。

「水道としての役割はとっくになくなりましたが、橋としては今でも現役ですし、それに、夏には、ここでピクニックをする人がたくさんいるんですよ。2000年前の建造物ですが、人びとの生活や楽しみからかけ離れていない存在なんです」

 もちろん、1月はピクニックには寒く、河岸でたくさんの人が寛いでいるわけではなかった。

 駐車場方向に戻る途中に、古いオリーブの木が目に入った。レネが3人をそちらに連れて行った。

「ずいぶん古い木ね」
蝶子がいうと、レネは片目を瞑った。

「単なる古い木じゃありません。樹齢1000年を越えているんです」
「ええっ?」

 傍らに石碑がおいてある。その石碑自体が古くて半ば崩れたようになっているので、言われるまでそれが石碑だと氣がつかなかった。

Je suis né en l'an 908.
Je mesure 5 m de circonférence de tronc , 15 m de circonférence souche.
J'ai vécu, mon passé , jusqu'en 1985 dans une région aride et froide d'Espagne.
Le conseil général du Gard, passionné par mon âge et mon histoire m'a adopté avec deux de mes congénères.
J'ai été planté le 23 septembre 1988.
Je suis fier de participer au décor prestigieux et naturel du Pont du Gard.


「『私は908年に生まれました。幹周りは5m、株の周りは15mです。1985年までスペインの乾燥した寒い地方に住んでいました。私の年齢と経歴に魅了されたガールの総評議会は、私を2人の同胞とともに養子として迎え入れ、1988年9月23日にここに植樹しました。ポン・デュ・ガールの格調高い自然環境の一端を担えることを誇りに思います』」
レネが、碑文を訳した。

「908年って、日本だと平安時代かしら?」
「確かそうだろ。ほら、菅原道真が遣唐使を廃止したのが894年だったよな」
「ヤスったら、よくそんな年号覚えているわね」
「平安時代だと、『鳴くよウグイス』とそれ以外は何も覚えちゃいないけどな」

 4人はオリーブの木と、向こうに見えているポン・デュ・ガールを眺めた。

「こういうのからすると、俺たちの経験してきた数十年なんてのはほんの一瞬なんだろうなあ」
稔がしみじみと言った。

「そうね。人間というのは、ずいぶんとジタバタする生き物だって思っているかもしれないわね」
蝶子は、老木の周りを歩いて風にそよぐ枝を見上げた。

「新たな技術で何かを築き上げては、戦争をして壊しまくる。豊かになったり、貧しくなったり忙しいヤツらだと思うかもな」
ヴィルはポン・デュ・ガールの方を見て言った。

「僕が子供の頃と較べても観光客や地元民の様相は変わったけれど、この樹々とポン・デュ・ガールは全く変わらない。ただひたすら存在するって、それだけですごいことだと思いますよ」

 人間がそれほど長く生きられないことはわかっている。いま、自分たちが親しんでいるほとんどの物質や文化も、1000年後には姿形もなくなっていることだろう。

 それでも、何かは過去から残り、未来へと受け継がれていく。この古木やポン・デュ・ガールのように。

「1000年後のやつらも、同じようなことを思うのかなあ」
稔はポツリと言った。

「残っていたら、きっと思うわよ」
蝶子がいうと、レネは心配そうに言った。
「残りますかねぇ」

「俺は、現代の人類がよけいなことをしなければ、残ると思うな」
ヴィルは言った。

 4人は、彼らと同じ時間ならびにその後の時間を生きる人類が、素晴らしい過去の遺産や生命を尊重し続けるように心から願いながら、再びレネの実家に戻っていった。

(初出:2023年1月 書き下ろし)

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Pont du Gard, France - World Heritage Journeys
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -17- バラライカ

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今日の小説は『12か月の楽器』の11月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の選んだのは、ロシアの弦楽器バラライカです。舞台はおなじみ大手町のバー『Bacchus』です。

白状します。ロシアの楽器を選んだのはわざとではありません。楽器の名前のカクテル、バラライカしか見つからなかったのです。でも、少なくともこの店ではどんな世界情勢であっても皆が平和にお酒を飲んでいてほしいと思い、あえて火中の栗を拾うことにしました。


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【参考】
「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む



バッカスからの招待状 -17- バラライカ

 開店直後にその女性が入ってきたとき、いつものように「いらっしゃいませ」と口にしながら、田中は通じるだろうかと懸念した。彼女は背が高く、金髪で青い目をしている。氷の彫像のように、まったく表情筋を動かさないので、田中には日本語が通じるのかどうかの判断ができなかった。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 今夜は水曜日、バーテンダーであり店主でもある田中が1人の日だ。東京駅から遠くないので、外国人の客が来ないわけではないが、立地が立地だけに誰にもつれられずに1人で入ってくることは珍しい。田中も簡単な英語は話せるが、流暢というほどではない。他の言語であれば全く話せない。

「もう開店していますか」
イントネーションは違うものの、普通の日本語だった。そうとう話せるようだ。

「はい。お好きな席にどうぞ」
田中は、カウンター席とテーブル席を示した。彼女は、カウンター席の真ん中に座った。

「どうぞ」
「ありがとう」
田中の差し出したおしぼりを、わずかに頭をかしげながら受け取る。

 カランと音をさせて、次の客が入ってきた。
「こんばんは。近藤さん」
「やあ、マスター。あれ、1番乗りじゃなかったか」

 モデルか女優のような金髪美女を見て、彼は一瞬固まった。常にイタリアのブランドとすぐにわかるスーツに個性的な色のネクタイをしている近藤は、この店の常連の中でもとくに言動がキザだ。いつもなら、近藤がよく座る席に腰掛けている一見客に、何かいわなくても良さそうなひと言を口にするのだが、今日は調子が出ないようだ。

「僕も、今日はカウンターにしようかな」
などと言いながら、女性の右横を1つ空けた席に腰掛けた。「今日は」もなにも、常にカウンターに腰掛けているのだからおかしな発言だが、慣れない外国人客がいて調子が狂っているのか、それとも女性に話しかけるきっかけなのかわからず、田中は様子を見ることにした。

「メニューをどうぞ」
田中が日本語だけで話しかけて、彼女が「ありがとう」と受け取ったのを見て、近藤は少しホッとしたようだった。

「近藤さんも、メニューをどうぞ」
「ああ、うん。いつものをまずもらおうかな。おつまみは、今日は何がいいかな」
「サラトガ・クーラーですね。かしこまりました。まずはこちらを」

 田中は、つきだし代わりにサーモンとイクラのディル和えをそっと近藤の前に置いた。そして、女性の前に置く前に訊いた。
「お魚は召し上がれますか」

 女性は、わずかに目を細めて答えた。
「ええ。もちろん。イクラは子供の頃から食べ慣れているもの」

「どちらのお国ですか?」
近藤がすかさず訊くと、女性は顔も向けずに「ロシアよ」と答えた。

 なるほど、と田中は心の中でつぶやいた。このご時世、とくに本人に咎はなくとも、出身国を口にするだけで不快な対応をされることもあるのだろうと。

 もっとも女性も、さすがにつっけんどんすぎると思ったのか、しっかりと顔を向けて言い直した。
「ヴォルガ河のほとり、ニジニ・ノヴゴロドから来たの」

 田中は、それが広いロシアのどこにあるのか知らなかったが、近藤にはそうではなかったらしい。
「聖都キーテジからですか?」

 これには、女性も驚いたらしい。それまで能面のようだった顔面が表情豊かになった。
「どうして知っているの? もちろんキーテジではないけれど、スヴェトロヤール湖の近くの出身なのよ」

 近藤の顔に、はっきりとした余裕が表れて、いつものように少しキザっぽい口調で答えた。
「たまたま最近、リムスキー=コルサコフのオペラの評論を書いたんでね。田中マスター、キーテジってのはね、ロシアに伝わる、伝説の見えない都市なんだよ」

「そうなんですか。そのオペラは、その都市が舞台なのですね」
田中が訊くと、2人は同時に頷いた。

「キーテジに関する伝説と、別のフェヴローニヤという聖女伝説を組み合わせて1つのオペラにしたの」
女性が説明すると、近藤が続ける。
「色彩的な素晴らしいオーケストレーションに、民族楽器のバラライカを組み合わせた傑作なんだ」

「バラライカ……ですか」
田中がなるほど、というようにつぶやいた。

「あれ。マスター、バラライカを知っているんだ。すごいねぇ。けっこうマイナーな楽器だけど」
近藤が少し驚いたというように黒縁眼鏡の奥の目を細めた。女性も頷いている。

 バラライカは、ロシアの民族楽器だ。三角錐形の共鳴胴を持つ弦楽器で、子供が抱えられるくらい小さな物から、大人の身長を超えるほど大きいものもある。カエデやトウヒを使った現代の楽器は澄んだ美しい音色を出す。

「いえ。楽器に詳しいのではなくて、その名前をもらったカクテルがあるんですよ」
田中は笑った。

「ああ、そうよね」
女性が笑う。

「へえ。どんなカクテル?」
近藤が訊く。

「サイドカーのバリエーションです。ベースがウォッカになっています」
田中が答える。

「久しぶりに飲んでみたいわ。それをお願いできる?」
女性が微笑んだ。

「かしこまりました」
田中はストリチナヤ・プレミアム・ウォッカの瓶を取り出した。高品質なピュアウォッカだ。ホワイトキュラソーとレモンジュースをシェイクして作るバラライカは、さっぱりした味わいが肝なので、特に希望を言われない限りはピュアウォッカで作る。

「バラライカが、ロシアの代表的な楽器として重宝されるようになったのは、わりと最近だって知っていた?」
女性は頬杖をついて訊いた。

「いつ頃ですか」
しっかりとシェイクしながら、田中が訊く。

「19世紀。それまでは旅芸人たちが使い安価だったことから、価値のない楽器とみなされていて、喧嘩の時に殴るのに使われていることもあったらしいわ」
田中は驚きの表情を見せた。

 近藤が後を続けた。
「ペテルブルグの商人ワシーリー・アンドレーエフが楽器をもっと響くように改良して、オーケストラを編成し、その良さを知らしめることに成功したんだよね。それに、ニコライ・リムスキー=コルサコフが、『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』で用いるなどして、あの済んだ美しい音が世界に知れ渡ったと」

 女性は、田中が「どうぞ」と前に置いた白いカクテルを見ながら言った。
「それに、なんといっても映画『ドクトル・ジバコ』ね」
「『ララのテーマ』! あれ抜きには語れないな」
近藤も同意する。

「このカクテルも、あの映画のヒットともに知られるようになったといわれています」
田中は、2人に微笑んだ。

「マスター、おすすめの肴は何かな。せっかくだから今晩はロシア繋がりで行きたいんだけど」
近藤が訊く。

「そうですね。塩漬けニシンをライ麦パンに載せたカナペ、角切り野菜をマヨネーズで和えたロシアンサラダなどでしょうか。ああ、そうだ、近藤さん、ビーツは召し上がれますか」
「うん。食べるよ」
「では、ピクルスを仕込んであるので、それをクリームチーズで和えたものはいかがですか」

 近藤は頷いた。
「どれもいいね。みんなもらおう。……ええと、あなたは? 田中さんの作る肴はどれも美味しいですよ。よかったらご馳走します」

 女性は、微笑んだ。
「聞いているだけでホームシックになりそう。じゃあ、喜んでご馳走になります」

 それから、田中と近藤の顔を交互に見て言った。
「こちらのお店、お客さんを名前で呼んでいるのね。いいわねぇ」

「田中マスターは、お名前を言うとすぐに覚えてくれますよ。僕、2回目に来たのは2か月くらい経ってからだったんだけど、覚えてくれていたんで感激したんだよね」
「恐れ入ります」

 女性はチャーミングに笑って言った。
「じゃあ、私もテストしようかしら。私、オルガ・バララエーヴァっていうの。次回、忘れずに呼んでね」

 近藤が少し口をとがらした。
「それ、それほど難しくないじゃないですか」

「どうして?」
「だって、いまバラライカの話題をしたばかりで……」
「ああ、そうよね」
3人は笑った。

 そうこうしているうちに、他の客も入ってきた。近藤とオルガに感化されたのか、その晩は、ウォッカ・ベースのカクテルを頼む客や、ロシア風のおつまみを見て珍しそうに注文する客が続き、なぜか「ロシア・ナイト」のようになってしまった。

 リムスキー=コルサコフの『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』で題材にしたのは、異民族との戦いでこの世から姿を消してしまった中世の偉大な都市と、その犠牲になった人びとたちの物語だ。

 オペラは、現世での栄華や民族間の戦いの虚しさを伝えようとしている。オルガの生まれ育ったスヴェトロヤール湖畔に聖なる街キーテジは、今も存在すると伝えられている。なくなったのではなくて、ただ見えなくなったのだと。

 伝説によると、白い石の城壁、黄金の屋根を持ついくつもの教会や修道院、素晴らしい装飾を施したクニャージの宮殿、貴族たちの立派な屋敷や堅牢な丸太で作った家々もそのままに敵に襲われることができなくなるよう、罪深い人びとの目に見えなくなったという。

 戦いも悲しみも存在しなくなる最後の審判の日に、キーテジは再びその姿を現すようになるとヴォルガの人びとの間に伝えられている。

 静かな宵に湖畔に立てば水の中に見えざる街が映し出されることがあるという。そして、夜更けに愁いに満ちた鐘の音がかすかに聞こえてくるのだと。

 それは、バラライカの音色のように澄んでいるのだろうか。その幻影は、爽やかだけれども実は強いカクテルのように、すぐに人を酔わせるのだろうか。

 戦いも悲しみもまだ満ちているこの世で、少なくとも今宵この店の中では、どの客たちも平和を願いつつ楽しんで欲しいと、田中は願った。


バラライカ(Balalaika)
標準的なレシピ

ウォッカ - 30ml
ホワイト・キュラソー - 15ml
レモンジュース - 15ml

作り方
材料をシェイクしてカクテル・グラスに注ぐ。



(初出:2022年11月 書き下ろし)

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参考までに、リムスキー=コルサコフの『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』から。
全曲は3時間もあるので、組曲を貼り付けておきます。


Rimsky-Korsakov - The Legend of the Invisible City of Kitezh - Leningrad / Mravinsky
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Posted by 八少女 夕

【小説】チャロナラン

今日の小説は『12か月の楽器』の4月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の選んだ楽器は、ガムランの打楽器です。具体的にはウガールやガンサといった名前があるんですけれど、そう書いてもよくわからない方が多いかと思います。私もそうですし。

今回の実際の舞台は、バリ島ウブドのグヌン・ルバ寺院をイメージして書いています。ガムランにはいくつか種類があるのですけれど、今回はバリ島のガムラン、バリ島のヒンドゥー教に特化して書いたストーリーです。主人公の暮らす村についての具体的なモデルはありません。子供の頃に知ったバロン・ダンス、魔女ランダの伝説がいつもどこかに引っかかっていて、それをテーマに書いてみました。


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チャロナラン

 川のせせらぎが絶え間なく聞こえている。それよりも大きく主張しているのは虫の音、そして、風にそよぐ樹木の葉や蔓の微かな響き。祭祀に備えてガムランの演奏の練習をしているらしい。ウガールがガンサたちを引き連れて響きの綾を織りなしていく。そのどれからも発せられているという超高周波は、人の耳には聞こえなくとも肌から受け止められて、人をリラックスさせるのだという。

 そうだとしたら、この島は平和に満ちているはずだ。悪の権化、ランダの出る幕などないはずではないか。

「君の歌声にも、特別な超高周波が含まれているに違いないよ。だから、僕の心はこれほどまでに揺さぶられるんだ」
ジャスティンの言葉を思い出し、メラニは顔をしかめた。ニームの葉のように苦い。

 雨季は終わりかけている。4月のバリ島はまだ激しい雨が降ることも多い。だが、晴れ間の続く時間には湿氣がかなり減って、過ごしやすくなってきた。鬱蒼とバンヤンの木々に覆われた寺院。メラニは、7層の茅葺き屋根を持つメル塔を一瞥した。

 さまざまな色相の緑と、石材の灰色、そして黒い茅葺きが、金箔で飾られた飾り絵や彫刻を際立たせている。

 ガムラン合奏が少しずつ大きくなる。いったいどこで奏でているのだろう。メラニは見回した。

「この島には、目に見えぬ力が満ちている。大きな厄災が起こらぬように目を配り、もし起こってしまった場合は、その怒りを鎮めなくてはならない」

 メラニは、子供の頃に故郷の村の最高司祭プダンタ が語った言葉を思い浮かべた。周りの男たちよりも背は低く、髭も生えていない男だったが、目が大きく、力強いことばを使うプダンタは、みなの尊敬を集めていた。まだ2月だというのに3度目の交通事故があったとき、チャロナラン劇を開催すると決めたのもプダンタだった。

 観光地のアトラクションとして演じられることの多い『レゴン・ダンス』などとは違い、チャロナラン劇は、本来は死者の寺ブラ・ダラムで演じられる宗教儀式だ。

 かつて王妃であった魔女チャロナランが闇の権化ランダとなり、聖なるものの化身である聖獣バロンと化した聖者と戦う。だが、それは西欧によくある勧善懲悪の物語ではない。聖獣バロンが滅ぶことがないだけでなくランダもまた幾度でも蘇り、その戦いは永久に続く。ランダの面は、バロンの面と同じように丁重に寺院に安置される。

 ランダは、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーとも同一視されている。シヴァ神の妻で、神々の怒りの光から生まれ、アスラ神族を殲滅したとされる、戦いと破壊と血の女神だ。慈愛と美の化身であるパールヴァーティの裏面、恐怖・凶暴を顕す側面シャクティ とされている。

 子供の頃、メラニはなぜランダがシヴァ神の妻と同一視されるのかわからなかった。チャロナラン劇で見るランダは長い乱れた髪、舌と乳はだらんと垂れ下がり牙を見せる怪物のように醜い老婆の姿だ。邪悪な魔法を使い、子供を喰らい、村人を苦しめる存在が、ヒンドゥー教の最重要神の1人の妃とはとても思えなかったのだ。

 でも、今のメラニは、子供の頃とは違う、もう少し多面的なものの見方ができるようになっている。

 聖者ウンプー・バラダは、魔女チャロナランのとてつもない魔力にそのままでは対抗できないことを知り、息子にチャロナランの愛娘を誘惑するように命じた。娘婿に欺されて秘技を記した古文書ロンタールを奪われたチャロナランは怒り狂い聖者に戦いを挑んだ。ランダと化したチャロナランとバロンと化した聖者ウンプー・バラダの魔力は拮抗し、終わりのない激しい戦いがおこった。

 メラニは、90%の島民がバリ・ヒンドゥー教を信じるバリ島において数少ないキリスト教徒の家庭に生まれた。オランダから移住してきた祖父の血は、すでにその容貌にはあまり痕跡を残して折らず、オランダ語もまったくわからない。キリスト教徒といっても、ヒンドゥーのカーストに属していないというだけで、キリスト教を信奉しているというわけでもない。周りの子供たちと同じ学校に通い、司祭たちの言葉を聴き、相互扶助活動ゴトンロヨンにも参加し、村社会の管理組織バンジャールの一員として暮らす普通のバリ島民だ。

 でも、ジャスティンにとっては、ヒンドゥー教徒でないということは手っ取り早い存在だったのかもしれない。
「ガムランの高周波の影響について調べているんだ。調査に協力してほしい」
彼は、アメリカから来た神経心理学者で、超高周波の刺激と受容体としての皮膚について調べているといった。

 観光客と変わらぬ程度の認識と伝手しか持たない彼は、どうしても地元の協力者が必要だった。メラニは、「恋人」の研究に協力することにはやぶさかでなかった。

 聖なるチャロナラン劇によそ者を連れて行っただけなら、あれほどの非難を受けることにはならなかっただろう。でも、彼は研究に夢中になり、守らねばならぬ神への畏怖を怠った。神事である劇はダラム寺院の外庭ジャボ で行われる。さまざまな神像や板絵にマイクを設置することなど許されるはずはなかった。

 それだけでも村でのメラニへの風当たりは強くなったけれど、それだけならば供物を捧げて神の怒りをほどくことも可能だったかもしれない。でも、彼は最高司祭プダンタ のロンタールを持ち出したのだ。

 パルミラ椰子の葉を加工して、板状にしたものに古代インドから伝わるカカウィン文字で記すロンタールは、古代より写経やラーマヤナ神話などの写本として受け継がれてきた。村のロンタールには、チャロナラン劇の演奏に関する秘技が書かれている。それをどうしても入手して論文の1次資料にしようと考えたらしい。

 チャロナラン妃が絶望して悪の権化ランダに変貌したのは、娘婿が魔術秘技のロンタールを盗み出すのに最愛の娘が協力したからだという解釈がある。プダンタはロンタール盗難をこの故事と結びつけた。メラニは、許されざる悪事に手を貸して、村の平和の均衡を破った呪われた存在になった。

 破れた均衡を取り繕うためには、大きな犠牲と祭りが伴われなくてはならなかった。それは、21世紀に生きるアメリカ人には単なる迷信であり、馬鹿げた騒動だった。写真を撮った後に、借りたロンタールを返した。それで十分だと彼は考えた。法に触れることなど何もしていないし、言いがかりをつけるなら許さないとまで言い放ったのだ。
 
 彼が立ち去った後に、耐えがたい不調和だけが残った。メラニが村の非難の的となっていることを知りながら、彼は滞在を延ばす必要すら感じなかった。ほしいものは手に入れたのだ。録音と1次資料と。

「君の協力には感謝している。もし、ロスに遊びに来ることがあったら連絡してくれよ。観光案内くらいは喜んでするからさ」

 ウガールを激しく打ち据える響きが空氣を震わせる。大地を這う悪霊レヤックたちが聖なる寺に忍び込もうとするのを、手伝うかのようにバンヤンの氣根が蠢き震えている。空は垂れ込めた雲に覆われ、間もなくやってくる雨を不穏な湿氣が先触れとして伝えている。

「お前の引き込んだ不均衡は、多くの犠牲と共に正しい儀式によって穴埋めされねばならぬ。村におこる天変地異と不作は神々の怒りが原因なのだから」

「面倒ごとに、旅行者の僕を巻き込まないでほしいな。くだらない伝統に愛想を尽かしたなら、都会に出ればいいだろう? こんな小さな島で、理不尽に耐えることはないさ」

 サルンを揺らして供物を捧げていた娘たちも、スコールの氣配を察して消えていった。生ぬるい風がメラニの頬と髪を揺らす。ウガールの青銅の鍵盤が呼び起こす共鳴は、メラニの肌を通して身体の中を巡り、森に追われ、愛するものからも見捨てられてランダに変貌していったチャロナラン妃の絶望に共鳴した。

 ぽつり、ぽつりと、水滴がメラニの髪、肩、そして、サルンを濡らす。雨が降り出した。人びとは残っていた観光客たちも慌てて去って行く。メラニは、ランダとバロンの石絵の前に立ちすくみ、ゆっくりとサンヒャン・ドゥダリの型をとり踊りだした。子供の頃に、神がかり状態となって奉納した踊り。ジャスティンたち欧米の研究者に言わせると、超高周波が肌から吸収されることによっておこるトランス状態に、彼女はもう陥ってはいかない。彼女の肌を刺しているのはスコールの雨粒矢で、彼女の心を覆うのは神への畏敬ではなく、行き場のない悲しみだ。

 カーストの中にきちんと収まっていたわけではない。けれど、この島の世界観から完全に抜け出して、神々など存在しないと宣言することもできない。それはメラニ自身の存在をまき散らすほどの無理な否定だ。

 ウガールの、ガンサの、クンダンの、レヨンの、ゴングの、ガムランの楽器のリズムと響きは、この島の生活の中にある。そして、メラニにとって、それは空氣や水や食物と同じように、生きていくことと切り離せない。生活は、食べて寝て、仕事をすることだけでは完結しない。ジャスティンの国では、人はそれでも問題なく生きられるのかもしれない。でも、ここでは、それだけではない。風と緑と祈りと響きが、生活の周りと、そして身体の内側に同時に存在しなくてはならない。

 バンヤンの氣根がカーテンのように覆い被さり、聖なる寺院を暗いジャングルに変えてゆく。激しいスコールが街を、チャロナラン妃が追いやられた森に変えていく。その森では太古からの悪鬼が蠢く。その中で、メラニは踊っている。青銅の鍵盤の響きが彼女を突き刺し、激しい雨粒が彼女を叩くからだけではなく、彼女の内なる悲しみと恨みが内なるランダを呼び寄せるから。

 バンヤンの大木の奥に、なにかが動いていた。白く大きな動物のような影。スコールの壁で実際にそれが動物なのか、それとも他の何かなのかはわからない。メラニは、聖獣バロンがそこにいるように感じた。怒りに駆られた女がランダに変わるとき、バロンが現れて世界の均衡を取り戻すのなら、ここにバロンが現れるのは理にかなっている氣がする。それで自分が浄化されてこの世から消え失せていくならそれでもいいと思った。

 雨が止み、雲間より太陽が顔を出した。メラニは、踊りをやめて周りを見た。白い影を見た大木の方を見る。ランダに戦いを挑むバロンはそこにはいなかった。ガムランの練習も止んでいる。白い服を着た司祭が、そこに立っていた。
 
 メラニは、頭を下げた。ここが故郷の村であれば、彼女は乱心しランダに変わった魔女だと断定されてもしかたなかった。ここではまだ彼女が巻き込まれた厄介ごとは、知られていないだろうと思った。

「均衡は、取り戻された。そうであろう?」
その見知らぬ司祭は、唐突に言った。メラニは面食らいながらも、言われたことに想いを向けた。

 濡れながら踊っていたときの、どうすることもできない暗い想いは、消えていた。少なくとも、彼女は普通の人間の女であり、ランダに変貌したわけではなかった。そして、先ほど見た白い影もバロンではなくて、この司祭を雨越しに見たのであろう。

 ガムランの演奏は終わっていた。バンヤンから垂れ下がる氣根のカーテンからは、まだ、雨雫がしたたり落ちていたが、先ほどの不穏な暗さではなく、陽の光に照らされて輝いていた。

 メラニは、黙って司祭に頭を下げた。

 彼女にとっては、この島で起きる全てに意味がある。生活も、地形も、寺院も、バンヤンやガジュマルの絡まる遺跡も、スコールも、伝説も、ヒンドゥーの教えや伝統祭祀も、そして、踊りやガムランの響きも、切り離してそれだけを語ることなどできない。測定し、分析し、そして論文にして、電子書架におさめる、ジャスティンたちの「研究」では解き明かすことができない「秘儀」をメラニは丹田の奥に抱えている。

 メラニを覆っていた暗い雲が、晴れていく。ジャスティンがこの島を去り、彼がメラニを島から持ち出さなかったことで、そして、彼から切り離されることで、村の、そして島の均衡は取り戻されるのだ。スコールに洗い流されたのは浄化儀式ブタ・ヤドニャだったのだろうか。

 彼女は、村に帰るために、寺院を後にした。村に帰ったら、彼女をめぐる浄化儀式ブタ・ヤドニャがあるだろう。それを罰と捉えることはやめよう。私がまた、あの場にふさわしい存在に戻るプロセスなのだから。メラニは心を込めた供物を用意しようと思った。

(初出:2022年4月 書き下ろし)

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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -16- エイプリル・レイン

scriviamo!


今日の小説は「scriviamo! 2022」の第9弾、ラストの作品です。大海彩洋さんは、大河ドラマ「真シリーズ」の第一世代と第二世代が交錯する作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『あなたの止まり木に 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じの通りです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一の凱旋コンサートにお出かけの方たちのお話を、当ブログの『バッカスからの招待状』の田中も行きつけているらしい喫茶店を舞台に語ってくださいました。

お返しどうしようか悩んだのですけれど、茜音は、『Bacchus』の常連になってくださっているということなので、素直にご来店お願いしました。たぶん、設定は壊していないはず。お酒、強いと踏んで書いちゃいました。まさか夏木たち下戸チームじゃないですよね? もしそうなら該当部分は書き直します……。(あ、『ゴッドファーザー』とかそれっぽい話が違う文脈だけれど入っているのはわざとです。私の好きな茜音の実のお父さんへのオマージュ)

そして、メインの話をどうしようか悩んだのですけれど、彩洋さんの今回のお話の大事なモチーフになっている「雨」と「借りた傘」をこちらでも使うことにしました。


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【参考】
「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -16- エイプリル・レイン
——Special thanks to Oomi Sayo-san


「高階さん、いらっしゃいませ」
田中は、意外に思いながら、心を込めて挨拶した。20時を回っていた。いつも彼女が好んで座る入り口近くのカウンター席はすでに塞がっていた。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 店主でありバーテンダーでもある田中は、奥のカウンター席に1人で座っている女性客に顔を向けた。
「井出さん、お隣、よろしいですか?」

「ええ。もちろん」
その快活な女性は、すでに彼女の鞄を隣の椅子から除いて自ら座る椅子の後ろにかけ直していた。

 高階槇子は、会釈して空けてもらった席に向かった。

「この時間にお見えになるのは珍しいですね」
田中はおしぼりを渡し、それから、メニューを手に取って槇子の反応を待った。今日は、いつもとは違う注文をするかもしれないと考えたからだ。

 槇子は、いつも開店直後にやって来て、1杯だけ『ゴッドマザー』を飲むとすぐに帰るのが常だった。よく来る客というわけでもない。年に4回も来れば多い方だ。だが、それが10年にも及んでいる。
「今日は、いかがなさいますか」

 槇子は、メニューを持つ田中に手を伸ばした。
「そうね。今日は、メニューを見せていただこうかしら。急ぐ必要もないから、おつまみも……」

 槇子の視線は、井出さんと呼ばれた若い女性の前にある生ハムとトマトの1皿に注がれた。

「あ。これ、美味しいですよ。このバルサミコ酢と絶妙にマッチして。私は次、桃モツァレラにしようかなあ」
井出茜音は、ウィンクした。

 会計を済ませて出ていったばかりの客が戻ってきた。
「悪い、もう少しいさせてもらっていいかな」

 その客のトレンチコートに雨の染みがいくつもついているのを見て、田中は訊いた。
「降ってきましたか?」
「ああ。今日降るって、予報だったっけ? まあ、でも、この調子だと、すぐに止むと思うんだ」

 茜音は、鞄の中を確認してから安心したように言った。
「今日は、ちゃんと折りたたみ傘、持ってきたのよね」

「よかったですね」
槇子が答えると、茜音は少し明るく笑った。

 ちょうど田中と目が合ったので、茜音はおどけるような口調を使った。
「たとえ持っていなくても、田中さんに置き傘を借りるのは? ほら、このあいだ会った、喫茶店でそんな話をしていたでしょう? 置き傘を貸すと、返すついでにまた来てくれるお客さんがいるって話」

 田中はわずかに微笑むような表情を見せた。
「もちろんお貸ししますけれど、そうでなくても井出さんはこうしてお越しくださっていますよね」

 向こうのカウンターで「あれぇ。よそで井出さんと会っているのかぁ?」などという茶化した声が上がるのを、田中は軽く流している。カウンターの常連たちが笑う声にはかまわずに、槇子が囁くように言った。

「傘は安易に借りない方がいいかもしれませんよ」

 その声は、茜音にしか聞こえなかった。田中と他の常連たちが他愛のない会話を繰り広げている中、茜音は、槇子の翳った表情を見てやはり囁くように訊き返した。
「どうしてですか?」
「それだけじゃ済まなくなるかもしれないから」
「え?」

 槇子は、にっこりと微笑んでから、田中に言った。
「私、この『エイプリル・レイン』をいただくわ。ちょうど今日にぴったりだもの。それから、まず、この方と同じトマトと生ハムをお願い」

 田中は「かしこまりました」と答えた。『エイプリル・レイン』もまた『ゴッドマザー』と同じくウォッカベースのカクテルだ。

「娘がね。下宿生活を始めたので、急いで帰らなくてもよくなったの」
「ああ。大学は遠方でいらっしゃるんですね。お寂しくなったでしょう」
「そうね。12年前と同じ、1人暮らしに戻っただけなんだけれど、変な感じだわ。私、前はほんとうに1人暮らしをしていたのかしらって」

 田中と話す槇子の会話をぼんやりと聞きながら、茜音は妙な顔をした。横目でそれを感じたのか、槇子は笑って話しかけた。
「勘定が合わない、でしょう?」

 茜音は、無理には訊かないという意味の微笑を浮かべていた。槇子は続けた。
「言ったでしょう? 安易に傘を借りたりするものじゃないって。代わりに女の子を育てることになってしまったの」

 茜音はますます、これ以上の事情を深く訊いていいのか戸惑った。彼女は職業上相手の話を引き出すことには長けているが、その卓越した能力をプライヴェートで使うことには慎重だ。

「あら。この曲……」
槇子は、そんな茜音をよそに店内でかかったボサノバ調の曲に耳を傾けた。

「ご存じの曲ですか?」
「ええ。アストラッド・ジルベルトの『The Gentle Rain』……。昔よく聴いたのよね。まるで、私と娘のことを歌っているようだったから」

私たちは2人ともこの世に迷い独りぼっち
優しい雨の中、一緒に歩きましょう
怖がらないで
あなたと手と手を取り合い
しばらくの間、あなたの愛する者になるから

Astrud Gilberto: Gentle Rain より
Written by: LUIZ BONFA, MATT DUBEY
意訳:八少女 夕



「傘を貸してくれた人の娘だったの。返しに行った時に出会ったの。突然、親を失って、途方に暮れて泣いていたの。行政に連絡して、そのまま忘れることもできたんだけれど、そのバタバタの時にもたまたまこの曲を聴いてしまって……」

「それで、引き取って育てたってことですか?」
目を丸くする茜音に、槇子は頷いた。

「成り行きでいきなりシングルマザーになってしまったの。でも、我が子を産んだり、イヤイヤ期を体験したりって経験をもつ友人たちに比べたら、ずいぶん楽な子育てだったのよ」

 槇子は、『エイプリル・レイン』を置いた田中にも微笑みかけた。

「いつも『ゴッドマザー』をご注文なさっていたのは、それでだったのですか?」
「そうなの。初めてここのメニューであのカクテルを知って、私のためにあるような名前だなって、氣に入ってしまったの。もちろん美味しかったからだけれど」

「『ゴッドマザー』って、どんなカクテル?」
茜音が訊く。

「ウォツカとアマレットでつくります。スコッチウイスキーとアマレットで作る『ゴッドファーザー』のバリエーションの1つなんですが、ウォツカを使うことでアマレットの優しい甘みが生きるようになります」

「甘いの?」
「いいえ。甘めの薫りはしますが、味としてはすっきりとした味わいで、甘いお酒が苦手の方もよくお飲みになります」

「ちょっとアルコールが強いので、むしろ女性で手を出す人は少ないかもしれないわね」
槇子が言うと、田中も頷いた。
「井出さんなら問題はないかと思いますが」

 茜音は、槇子の前の『エイプリル・レイン』にも興味を示した。
「それも強いんですか?」
「ええ。でも、ライムジュースも入っているから、『ゴッドマザー』ほどじゃないかもね。とても爽やかでいいわね、これ」

 槇子が氣に入ったようなので、田中は微笑んだ。
「恐れ入ります」

 茜音は、頷いた。
「じゃあ、私も次はそれをお願いします。新しい味を開拓したいし、今日にぴったりだもの」
「かしこまりました」

 槇子は微笑んで、グラスを傾けた。新しい生活リズム、新しい味、新しい知りあい、そんな風に途切れずに続いていく生活。今までと違い、仕事帰りに好きなときにこの店を訪れることもできるのだという実感が押し寄せてくる。

 12年前に突然生活が180度変わってしまったあの日から、無我夢中で走ってきた。見知らぬ少女を引き取り、シングルマザーとしての自覚や自信を見つけたり失ったりしながら、お互いになんとか心から家族と思える関係を築いてきた。

 おかげで、色恋沙汰とは無縁な人生になってしまったが、その直前にあったことで若干懲りていたので、それも悪くなかったと思う。これで人生終わったわけでもないし、自分の時間を楽しむうちに何かがあればいいし、なくてもそれはそれで構わないと達観できるようになった。

 12年前、槇子は仕事の帰りにたまたま近くを通ったので、連絡をせずに恋人のアパートを訪れた。連絡をせずに立ち寄ることをひどく嫌うことはわかっていたが、彼が傘を何本も持っていないことを知っていたので、借りた傘を早く返したかったのだ。いなければ、アパートのドアにかけておけばいいと思った。

 でも、着いたらたくさんのパトカーがいて、彼の部屋に警察官が出入りしている。慌てて事情を訊きにいったら、部屋の中から子供の泣き声がするというので大家が通報したらしかった。

 昨夜、繁華街で車に乗った男女が事故を起こし、2人とも死亡していた。運転していたのは子供の母親で、後に槇子の恋人の別居中の妻だったとわかった。助手席に乗っていたのが子供の父親である槇子の恋人だった。

 子供をアパートに置いて、2人がどういう事情で事故を起こしたのか、明らかにはなっていない。2人が口論をしていたという目撃もあるが、意図的な無理心中なのか、単なる事故なのかも不明のままだ。

 警察に何度も事情を訊かれ、ようやくわかったことに、槇子はどうやら恋人に欺されていたらしい。すくなくとも独身と嘘をつかれていた。

 ショックや悔しさに泣いた。でも、怒りをぶつける相手がもうこの世にいない。それどころか、彼の娘のことを聞いたら、そちらの方がそれどころでは無い状態だった。引き取れる身寄りが無く、独りで生きられる年齢でもない。悲しみも不安も槇子どころではないだろう。

 彼女の心配をしてやる義理も義務もないのだと言ってくるお節介もたくさんいた。それまた真実だった。でも、槇子が愛した男と時間を過ごしたあのアパートで、泣いていた少女のことが頭から離れなかった。

あなたの涙が私の頬に落ちる
まるで優しい雨のように温かい
おいで小さな子
あなたには私がいる
愛はとても甘くて悲しい
まるで優しい雨のよう

Astrud Gilberto: Gentle Rain より
Written by: LUIZ BONFA, MATT DUBEY
意訳:八少女 夕



 彼の面影ではなく、愛娘として愛するようになるまで、思ったほどはかからなかった。むしろ、大人として巣立っていくのがこれほど寂しくなるとは、全く想像もしていなかった。

 4月の雨は、優しくて悲しい。きっとそうなのだろう。槇子は微笑みながらグラスを傾けた。


エイプリル・レイン(April Rain)
標準的なレシピ

ウォッカ - 60ml
ドライベルモット - 15ml
フレッシュ・ライムジュース - 15ml
ライムの皮 (飾り用)

作り方
氷を入れたカクテルシェーカーに、ドライベルモット、ウォッカ、ライムジュースを入れる。
勢いよくシェイクする。
冷やしたカクテルグラスに氷を半分ほど入れ、濾す。
ライムの皮を飾りとして添える。



(初出:2022年4月 書き下ろし)

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Astrud Gilberto: The Gentle Rain
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Posted by 八少女 夕

【小説】鱒

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日の小説は『12か月の楽器』の3月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の主題に選んだのは、ヴァイオリンです。っていうか、ヴァイオリンを弾くあの人の登場っていうだけですけれど。

さて、シューベルトの『ます』こと『ピアノ五重奏曲 イ長調』には、個人的に強い思い入れがあります。父と共演することになったチェコのスメタナ弦楽四重奏団が、我が家に来てリハーサル演奏をしたんですよね。もう○十年前のことですけれど。自宅に飛び交うチェコ語のやり取りと、プロ中のプロの演奏。その時の印象がものすごく強く残っていて、聴く度にあの日のことを思い出すのです。


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『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物






 ドロレス・トラードは、丁寧に鱒をさばいた。彼女は『ボアヴィスタ通りの館』の料理をほぼひとりで引き受けている。17歳の時に『ドラガォンの館』で見習いをはじめたが、すぐにセンスを認められて20歳の時にはもう1人でメニューを決めることを許された。『ボアヴィスタ通りの館』の料理人が退職するにあたり、24歳という若さで異動して以来、ずっと『ボアヴィスタ通りの館』の料理人として働いている。

 この館を含むドラガォンが所有する3つの屋敷でご主人様メウ・セニョール として仕える相手は、みな特殊な背景を持つ。かつては鉄格子の向こうに閉じこめられていたが、世代交代に伴いそれぞれの屋敷に遷された存在なのだ。

 彼ら『インファンテ』と呼ばれる男性は、個人名を持たず番号で呼ばれている。彼らは、法律上は生まれることも亡くなることもない、書類上は幽霊も同然な存在だが、毎日普通に食事をする生身の人間だ。ドロレスをはじめとする使用人たちは、すべてこの男性たちがどのような存在であるかを承知している。インファンテ自身も、ドロレスたち使用人のほとんども《星のある子供たち》と呼ばれる特殊な血筋の出身で特殊事情を理解しており、しかもこの勤めを始める前に沈黙の誓約を交わしている。

 料理人として、ドロレスは幸運だった。ご主人様セニョール は、理不尽なわがままを言うタイプではなかったからだ。

 彼が、この屋敷に遷されたのは、ドロレスの異動から1年も経たない頃だった。おそらく、彼をここに遷すことを見越してドロレスを異動させたのだ。覚悟はしていたものの、はじめはとても緊張した。というのは22と呼ばれるインファンテ322は『ドラガォンの館』時代に、ドロレスが勤め始めてからただの1度すら正餐に顔を出さぬ頑なな人物として知れ渡っていたからだ。給仕や清掃で顔を合わせる使用人も必要なこと以外で言葉を交わしたことがないと言っていたし、ドラガォンを憎んでいると囁かれていた。

 彼が、屋敷そのものには軟禁状態とはいえ、鉄格子の外に出て普通の生活を始めることになり、どんな暴君になるかわからなかった。『ボアヴィスタ通りの館』で使用人たちは戦々恐々として待った。だが、彼は『ガレリア・ド・パリ通りの館』で暮らすもう1人のインファンテと違い、全く手のかからぬご主人様セニョール だった。礼儀正しく毎回礼を口にし、食事に文句をつけることも一切なく、残すことすらなかった。むしろ、氣に入ったのかどうかすらもわからなくて困惑する日々だった。

 だが、その問題も3年で解決した。やはりこの館に暮らすことになったインファンタ・アントニアが、彼の感情と好みを読み取ることができるようになり、彼の好みに合わせた食事を提案したり、2人がどの食事を格別氣に入ったかなどを告げてくれるようになったのだ、

 今日のメニューを提案してくれたのも、アントニアだった。
「叔父様は、いまシューベルトの『ます』を好んで弾いていらっしゃるでしょう? だから、鱒はどうかしら? 叔父様、バター焼きをお好みだし」

 ドロレスは、手を休めて2階から聞こえてくるヴァイオリンの音色に耳を傾けた。そういえば、この曲はずいぶん前にたくさん聴いたなと思う。ピアノのパートや、ヴァイオリンのパート、毎日変えてずいぶん長いこと練習していた記憶があるが、いつの間にか聞かなくなった。ここのところ、メウ・セニョールのご機嫌はかなりいい。機嫌がいいといっても、ドロレス自身に対する態度が変わるわけではない。だが、アントニアがリラックスして嬉しそうな表情を見せることが多いのだ。それは、ドロレスをはじめとする使用人たちには心地のいい状態だった。

 彼女は、鼻歌を歌いながら、鱒に小麦粉をはたいた。

* * *


 彼は、スピーカーから流れる曲に合わせてヴァイオリンを奏でていた。ベルリンフィルのソリストたちが、ピアノ、ヴィオラ、チェロおよびコントラバスのパートを演奏したフランツ・シューベルトの『ピアノ五重奏曲 イ長調』のCDは、数日前にアントニアが持ってきた。

 第4楽章に歌曲『ます』の旋律を変奏曲として使っているため、『ます五重奏曲』としても知られているこの曲を、彼が練習し始めたのは、この屋敷に遷されてから2年ほど経った頃だった。その頃の彼は、発売されているCDや楽譜の購入を依頼することはあっても、それ以外の特殊な願いを頼むことはなかった。

 彼は、存在しないことになっていた上、ドラガォンの中枢組織に必要以上の頼み事をしたくなかったので、常に1人で演奏をしていた。子供の頃から習ってある程度自由に弾くことのできるピアノとヴァイオリンの独奏曲を中心に弾いていたが、自ら録音することによりピアノ伴奏付きのヴァイオリン曲を練習することもあった。そして、やがて欲が出て、『ます』に挑戦しようとしたのだ。

 彼はヴィオラとチェロの練習も始めた。だが、そこまでだった。パートごとに録音して合わせてみても、上手く合わなかった。テンポを合わせるだけでは、生きた曲にはならない。誰かとアイコンタクトをし息を合わせながら共に奏でることでしか、合奏はできない。それに氣がつくと、録音で作ったそれまでの2重奏すらも、まがい物にしか感じられなくなり全て処分してしまった。

 今にして思えば、あれほど苛立ったのは、決してパートごとの録音が合わなかったからだけではない。彼が、独りであることを思い知らされることに耐えられなかったのだろう。

 いま彼がヴァイオリンを奏でたいと思うとき、ピアノの伴奏者に困ることはない。彼が望むように弾いてくれる存在がいつも側にいる。アントニアは、意固地になった彼が邪険にし、頑なに拒否したにもかかわらず、10年以上の時間をかけて彼を心の牢獄から解放してくれた。共に奏で、食の好みを伝え、皮肉な冗談を口にすることもできるかけがえのない存在として、彼に寄り添い続けてくれている。

 彼のかつての『ます』に関する挫折の話を知ったとき、アントニアは同情に満ちて受け答えをするような中途半端な態度は取らなかった。彼女は、伝手を使って彼の望む曲の『カラオケ』を準備するといいだしたのだ。

 彼は、冗談なのだろうと思っていたので、忌憚なく希望を口にした。それが、バルセロナ管弦楽団のチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』とスイスロマンド管弦楽団によるメンデルスゾーンの『バイオリン協奏曲』のCDを手にしてかなり驚いた。彼は、世界最高の演奏をバックに、ソリストとして弾く新しい歓びを知った。

 そして、数日前にアントニアは『ます』のCDも持ってきた。ピアノパートのない演奏とヴァイオリンパートのない演奏の他に、そして、両方とも入っていないバージョンもがおさめられている。アントニアめ、自分も一緒に演るつもり満々だな。彼は密かに笑った。

 だが、彼はいずれその願いを叶えてやろうと思っていることを早々に知らせてやるつもりは皆目無かった。いまは専らピアノパートの入っている演奏を使ってヴァイオリンパートを弾いている。

 1819年、22歳だったフランツ・シューベルトは、支援者であり親しい友人でもあった歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグルの故郷であるオーストリア、シュタイアーを旅した。そこで知り合った裕福な鉱山長官パウムガルトナーは、アマチュアながら自らチェロを奏でるたいそうな音楽好きであった。彼は、シューベルトに氣に入っていた歌曲『ます』の旋律を使ったピアノ五重奏の作曲を依頼した。

 パウムガルトナーが、自ら主催するコンサートで演奏するつもりだったので、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという通常と異なる編成になっており、加えて初演でパウムガルトナーが弾いたであろうチェロの見せ場がしっかりとある作品になっている。

 通常のピアノ5重奏のごとくヴァイオリン2台の編成であれば、彼も2つのヴァイオリンパートを練習する必要があっただろうが、この曲では1つで済んでいる。ピアノパートは高音域での両手ユニゾンが多く、難易度が高いが、彼はすでに10年前に自在に弾けるようになっていた。アントニアも十分な時間をとって練習すれば問題なく弾けるようになるだろう、彼は考えた。

 内氣で世渡りの上手くなかったシューベルトは、自ら作品を売り込んで歩くようなことが苦手だった。公演などで稼ぐこともあまりなかった彼は貧しく、フォーグルなどの支援者や友人たちが援助や作曲の斡旋をしてくれたことで、彼の名声は高まった。彼は、慕い、仕事を依頼してくれる人びとの願いに発奮して次々と名曲を書き上げた。アマチュア音楽家とはいえ、彼の歌曲を絶賛してくれたパウムガルトナーの依頼にも熱心に応え、素晴らしい作品を書き上げたのに、それで儲けようとは全く考えなかったのか、生前には出版もされなかった。

 パウムガルトナーの願い通りに歌曲『ます』の旋律を用いた第4楽章は、この作品の中でもっとも有名だ。4つの変奏が、川を自由に泳ぐ鱒と、それを追い詰める釣り人との駆け引きを躍動的に表現している。歌曲は言葉による表現があるが、五重奏曲ではそれぞれの楽器が掛け合い、逃げては追い越すことで表現する。

 彼は、録音されたピアノや他の弦楽器の音色を追いかけた。決して現実に顔を合わせて演奏をすることは叶わない合奏相手たちだが、顔も名前も知らされてはいないがだれかが空白のヴァイオリンパートを奏でることを期待して演奏した。独りで合わない合奏を繰り返していた頃とは、まるで違った演奏になる。

 階下の音がして、アントニアが帰ってきたのがわかった。そろそろ昼食の時間か。彼は、先ほどから漂っている香りに意識を移した。

 復活祭前の40日間は、肉断ちの習慣があるので、昼食は魚が中心だ。鱈や鮭が多いが、どうやら今日は焼き魚のようだ。バターが焦げる香ばしい薫りがする。

 彼は、鱒のバター焼きのことを考えた。はたいた小麦粉がバターでカリッと焼かれ、ジャガイモやほうれん草が添えられる。『ドラガォンの館』でも何度か食べた記憶があるが、いまドロレスが作ってくれるものよりも焦げ目が少なくよくいうと上品な味付けだった。当時から彼は出されたものを残さずに食べていた。だが格別に鱒が好きだと思ったことはなかった。

 この館で最初に鱒がでたときも、おそらく同じような焼き方だったと思う。だが、アントニアが共に暮らすようになってから、彼女がどのような焼き方を好むのかを察してドロレスと話し合い、いつの間にか今のような焼き方に変わった。

 海辺の人びとが炭火でよく焼いてカリッとさせた鰯を好んで食べるように、ドロレス自身もほんのりとした焼き色の上品な1皿よりも小麦粉とバターでしっかりと焼き色をつけた鱒が好きだったそうだ。それが主人の好物であるとわかり、彼女は俄然やる氣になったらしい。
 
 かつて、彼はたった独りだった。彼が拒否した世界に、彼を喜ばせる曲を奏でるものも、彼の好む料理に心を砕く人もいなかった。彼を取り巻く状況は、決して大きくは変化してはいない。彼はいまだに名前を持たぬインファンテで、どれだけ望もうと弦楽5重奏をすることはできない。

 だが、彼は今、そのことに苦しみ絶望することはない。彼は、『ます』の第5楽章フィナーレの掛け合いを楽しんだ。彼は独りではなかった。この録音を用意してくれたアントニアをはじめとする人たちが、彼のためにこの曲を弾いてくれた人たちが、階下で彼の生活を支えてくれる人たちがいる。

 最後の和音を勢いよく奏でると、彼は躊躇せずに階下に向かう。温かい食事を提供するタイミングを、ドロレスがやきもきしながら待っているだろうから。階下では、いつものメンバーが穏やかに彼を待ち受けていた。

(初出:2022年3月 書き下ろし)


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Franz Schubert - "Trout" Quintet - Berliner Philharmoniker Soloists/Yannick Rafalimanana
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】湖水地方紀行

scriviamo!


今日の小説は「scriviamo! 2022」の第8弾です。TOM-Fさんは、新作の紀行文風小説でご参加いただきました。ありがとうございます!


 TOM−Fさんの書いてくださった「鉄道行人~pilgrims of railway~

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。

「scriviamo!」には皆勤してくださり、毎回趣向を凝らした名作でご参加くださっています。今回書いてくださった作品は、『乗り鉄』としての知識と経験をフルに生かした紀行文的な小説だそうです。日本全国のほとんどの鉄道に1度は乗ったことがあるというものすごく情熱を持った鉄道ファンぶりは、以前から時おり記事にしてくださっていますが、小説として発表してくださるので乗り鉄としての鉄道愛とこだわった美文を同時に楽しめる作品になっています。どこまでが現実で、どこの部分が小説なのか曖昧な感じもいいのですよね。

とはいえ。私は作品を楽しむだけではダメで、お返しを書かなくちゃいけないんですよ。毎年毎年、全く違う方向から剛速球を投げていらっしゃるTOM−Fさん。今年はさすがにギブアップしたい想いに駆られましたけれど、そのせいでもう参加してくださらなくなったら困るし!

というわけで、苦肉の策でお返しすることにしました。TOM−Fさんに倣って「昔の電車の旅を使った小説」を書くことにしました。今回使っている絵梨というキャラクターですが、私が私小説を書くときに使います。私小説風の似たようなキャラは何人かいるのですが(真由美とか、ヤオトメ・ユウとか)、絵梨を使うときは(固有名詞以外は)ほぼ事実に基づいています。今回のエピソードに関しては100%事実に基づいています。なので、オチがありません。悪しからず。


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湖水地方紀行
——Special thanks to TOM−F-san


 電光掲示板の数字を見て、アドレナリンが噴出した。その表現が的確とは思えないけれど、少なくとも「分泌」などというかわいらしい量ではない。時計を見ると9時43分。電光掲示板にあるグラスゴー行きの出発時刻は『09:45』と書かれ点滅していた。

 ホームを確認し、猛ダッシュする。ふくらはぎがつりそうになるほど走ったのは何年ぶりだろう。車掌が笛を吹いていたけれど、古いタイプの車両は、手動でドアを開けるタイプだったので、なんとか乗り込むことができた。

 早春で肌寒いくらいだったのに、ぐっしょり汗をかいた。むしろ冷や汗だったかもしれない。少なくとも窓口に並んで切符を買う必要が無かったのは幸運だった。ようやく行ける、憧れの湖水地方に。絵梨は、硬い座席に身を沈めて安堵のため息をついた。

 大学4年になる前の春休み。絵梨は、ユーレイルパスを使って2か月間のヨーロッパ貧乏旅行をしていた。エジプトからトルコ、ギリシャ、イタリア、スペイン、フランスと周り、最後の目的地がイギリスだった。

 旅の道連れは、大学1年以来の友人、雅美だ。基本的には一緒に行動するけれど、どうしても見たいことや訪れたい場所がマニアックである場合は、それぞれの好きなことをするために別行動しようということのできるありがたい存在だった。

 とはいえ、2人が旅慣れて自立した大学生だったとはお世辞にも言えない。

 10年以上経ってから、異国育ちのパートナー、リュシアンに出会い海外暮らしをすることになった絵梨だが、帰国子女でもなんでもなく、この当時の英語力は現在の20歳女子の平均を大きく下回っていたと思う。これは、謙遜でもなんでもなく、今から思うとあの英語力でよくぞ2か月間を乗り切れたものだと、つくづく感心してしまう。基本的に相手が何を言っているのかはほとんどわかっておらず、自分のいいたいことを相手に察してもらって、なんとか用を足していただけなのだ。

 だから、絵梨は、日本で買ったガイドブックを頼りに行動した。日本で既に知っていたA地点からB地点に移動し、B地点の観光名所がガイドブックに書かれてあるとおりであることを確認して、ガイドブックよりもはるかに劣るアングルでカメラフィルムに収め、急いで次の地点に移動した。

 それでも、彼女にとってはそれはとても自由で自主性に富んだ旅だった。パックツアーではなかったので、自分の行きたい場所を自分で決められた。食べるものも、眠る場所も、自分たちで決めていた。

 この電車に乗ることを決めたのは昨夜だった。雅美が、趣味のSFに関する聖地巡礼をするというので、その方面に興味のない絵梨は、憧れの湖水地方に遠出をしようと思ったのだ。

 ロンドン・ユーストン駅からは毎日電車が出ていて、3時間半ほどで『ピーター・ラビット』のふるさと、ウィンダミアに行ける。それが、愛用のガイドブックの小さな囲み記事で得た情報だった。片道3時間半なら、日帰りができる。10時頃にロンドンを発てば、向こうでかなりゆっくりしても夜の9時頃には帰ってこられるだろう。

 朝から猛ダッシュをすることになったものの、無事に電車に座り、絵梨は満足だった。ペットボトルの水を飲みひと息つく。車窓には平原が見渡す限りの新緑で広がっていた。

 世界の大都会であるロンドンからさほど遠くないのに、のどかな田園地帯があるのだ。これは、フランスを旅したときにも思った。東京育ちの絵梨には、この光景は驚くべきことだった。東京から東海道線に乗って車窓を眺める時、東京都と神奈川県の境など光景だけでわかることはない。どこまでいってもビルと民家が続くから。大都会とはそういうものだと思っていたし、ロンドンともなれば2時間ほど走ってもずっとビルだけが続くのだと思っていた。車窓の向こうに広がる光景はとても平坦だった。建物がないわけではないが、とても低い。路線上は最初の駅であるワットフォード・ジャンクションですら、駅の近くにはそれなりのビルや民家はあるものの、駅を出ればすぐにのどかな田園に戻る。

 しばらくすると同じような車窓に飽きて、絵梨は持ってきた文庫本を読み出した。この暇つぶし用の小説は、この2か月で少なくとも6回は通読していたので、読まずとも内容は頭に入っていたのだが、かといって他にすることもない。もともと愛読書はボロボロになるまで何度も読むタイプなので、しばらくすると再び小説の中に没頭していた。

 しばらくして、意識が現実に戻ってきた。というよりは、行儀よく座っていた周りの乗客たちがそわそわと立ったり何かを話したりしだしたからだ。それで氣がついたが、ずいぶんと長く停車している場所は駅ではなかった。

 後ろの方から、車掌と思われる濃紺の制服を着た男性が歩いてきて、絵梨のすぐちかくの女性の呼びかけに立ち止まり答えていた。

 耳を澄ませても、絵梨の英語力では会話のほとんどが聴き取れない。だが、女性が「いつ発車するのか」と問いかけたのに対して、車掌が「わかりません」と答えたのだけはわかった。わかりません? 何があったんだろう。

 絵梨には、この状況にデジャヴがあった。つい10日ほど前のことだ。パリからTGVにのってブルターニュ地方に出かけたとき、いきなり停まった列車はうんともすんとも言わず、そのまま1時間以上待たされたのだ。1分遅れただけでも「申しわけございません」を連発する日本の鉄道に慣れていたので、高速鉄道が1時間止まったままで謝罪も振替もないことが信じられなかったが、その一方で、千載一遇の体験だと思っていた。

 再び列車の遅延が起こったと知り、絵梨は「またか」と思ったが、どこかであそこまでひどい遅延がそうそう起こるはずがないと思っていた。だが、今回の遅延はそれをはるかに上回ることになった。絵梨と乗客たちは、そのまま2時間もそこで待たされることになったのだ。

 乗り換え予定のオクセンホルム駅には13時には到着する予定だった。乗り換え予定時間までに昼食を買えないことを予想していたので、絵梨は簡単な菓子パンとオレンジジュースだけは持っていた。

 待ち時間が30分を超えてから、乗客たちはいら立って騒ぎ出したが、1時間を超えると反対にみな大人しくなった。そして、その頃になると、社内販売のようなワゴンがどこからともなく現れて、スチロールカップ入りの紅茶を配りはじめた。

 その当時、絵梨は学生で大したグルメを食べ歩いていたわけではなかったが、ロンドンの物価の高さとそれを払って得られる食事のまずさには、驚愕していた。そもそもトルコやスペイン、南フランスで安くてとても美味しいものをいくらでも食べられたので、イギリスにも同じレベルを期待していたのも間違いだった。そんなイギリスだが、紅茶だけはどこでどんな安物を飲んでもやたらと美味しいことにも注目していた。

 絵梨は、子供の頃からミルクティーがあまり好きではなかった。薄くて甘ったるくて氣持ちの悪い味がする。それがミルクティーに関する絵梨の偏見だった。だが、2年前にパキスタンのイスラマバードで飲んだミルクティーがあまりにも美味しかったので、紅茶に対する認識を改めていた。

 それから、イギリスでは必ずミルクティーを注文するようになった。ヨーロッパ大陸の他の国では、日本で飲む紅茶よりもさらに不味い紅茶しか飲めなかったので、コーヒーだけを飲んでいたが、イギリスではどこに行っても、どんな状況で飲む紅茶でも圧倒的に美味しい。後に、同じイギリスのティーバッグを持ち帰り日本やスイスで飲むことになったが、やはりイギリスやパキスタンで飲む紅茶ほどの美味しさは実現できない。これはもう、茶葉の種類や淹れ方以前に、水質が違うのではないかと思う。

 ようやく動き出した電車が、オクセンホルム駅に着いたのは15時15分頃だった。上手い具合に、隣のホームにはウィンダミア駅行きが停まっていたので、ラッキーと喜びながら飛び乗った。だが、一向に出発する氣配がない。窓から乗りだして出発時刻を確認すると15時55分らしい。絵梨は落胆した。

 車窓はすっかり湖水地方らしいのどかな風景になっていた。なだらかな緑の丘に羊の群れが見える。小さな林、そしてまた牧草地。白いっぽい壁に黒っぽい屋根の石造りの家、空積みと呼ばれるセメントを使わない壁も。ようやく、湖水地方に来られたと実感がこみ上げてきた。

 少なくとも今度の列車は、不必要に停車することはなく、30分ほどでウィンダミアに到着した。当初の予定では、このウィンダミアから湖畔のボウネス、ベアトリクス・ポターの住んでいたニア・ソーリーなどを歩くつもりだったけれど、日帰りの身としては、帰りの電車に間に合うということが最優先だ。まずは何よりも駅のインフォメーションに行く。

 21時に宿に戻れるような列車は、もう発車してしまった。ロンドンに22時20分につく電車が18時15分にある。ということは、湖水地方に滞在できるのは1時間ちょっと。ついでに、帰りの食糧を調達して電車に乗り込まなくては……。そう思って、駅に1つだけある小さなキオスク兼スーパーマーケットという風情の店の前を覗くと、閉店が17時と書いてある。つまり、今すぐ夕食を確保しないと、帰宅まで何も食べられなくなるかもしれないのだ。

 絵梨は、急いでその店に入った。棚には興ざめなサンドイッチやスナックなどしかみあたらない。湖水地方の素敵なティールームで素朴な食事をしようと思っていたのに。そう思った絵梨は、それならとデリコーナーに行ってみた。小さなパイのようなものが見える。うーん、ミートパイかな。

 それはステーキ&キドニーパイだった。コールスローサラダも購入する。

 店の外に出たら、17時になっていた。他の村までのハイキングは不可能だとわかった。それどころかウィンダミアの町そのものをゆっくり散策する時間さえ無いだろう。湖まで行けても、時間までに帰ってこられなければ、大変なことになる。だったら、この駅の近くにいる方がいいだろう。

 絵梨は、駅を出て町や湖方面には向かわず、近くの丘に登った。ハイキング道でもないのに、いつピーターラビットが横切ってもおかしくない美しさで、林を抜けて丘の上にでるとそこからウィンダミア湖がはるかに見えた。

 少し早めに駅に戻り、トイレを利用してから家にハガキを送ろうかとポストを探した。ふと氣になってホームを覗いたら、なんと電車がいる。遅れては大変と再びダッシュして乗り込んだ。その電車は、時間よりも早く発車したのだ。またしても冷や汗をかくことになった。

 帰りの車窓から、再び羊の群れを眺めた。夕闇のオレンジの光は、旅人をメランコリーにする。ピーターラビット博物館やそれに類するものは全く見られなかったけれど、少なくともこの美しい光景を満喫したのだから、来てよかったのよね。絵梨はつぶやいた。

 オクセンホルム駅につき、乗り換えの電車を探した。そして、そこで再びガッカリする掲示を発見した。50分の遅延。だったら、もう少しウィンダミアにいたかったよ! 絵梨は、泣きそうになるのを堪えた。

 21時頃に戻る予定といって出てきたのに、これは午前様になってしまうかも……。今度はそちらの心配をする羽目になった。いまならば、メッセージを送れば済むし、それどころか予定を変更して湖水地方に泊まると連絡することもできる。でも、当時は海外で使える携帯電話など、ただの大学生が持てる時代ではなかった。宿はB&Bで朝以外は宿泊者しかいない。つまり電話をしても雅美に連絡がつくのは明日になる可能性がある。

 絵梨にできることは、遅れないように電車に乗り込むことと、夕食の時に一緒に飲む紅茶を買うことぐらいだった。ようやくやって来たロンドン行きに乗り込むと、時間のせいか行きよりもかなり空いていた。

 とにかく、夕飯を食べることにした。ステーキ&キドニーパイを、つけてもらったプラスチック製フォークとナイフで苦労しながら切り、恐る恐る口に運んだ。控えめに言っても微妙な味だった。本来は温めて食べるものなのだろう。だから不味く感じるのか、それとも温めなかったから少しはマシだったのかは、現在に至るまで謎だ。とにかく、2度とステーキ&キドニーパイなるものを注文しようという氣にはならない味だった。

 紅茶の蓋を開けて、流し込んだ。この国で紅茶が美味しいのは救いだ。絵梨は、それから紅茶とコールスローで食事を済ませた。

 ユーストン駅についてホッとする間もなく、地下鉄駅に走る。地下鉄で宿屋の最寄り駅にたどり着けなければ、タクシーを使わなくてはならない。タクシーで宿までの行き先を説明するなんて無理! 幸い地下鉄はまだ走っていて、無事に最寄り駅までたどり着けたものの、終電だったらしく道に出た途端に後ろでシャッターを閉められた。

 宿に戻ると、雅美は半分泣きそうな、そして、半分怒ったような顔で待っていた。それはそうだろう。相当心配させたに違いない。平謝りしながら、長い1日に起こったことを説明する羽目になった。

 いわれているほどロンドンの治安は悪くないなんていうつもりはない。たまたま何も起こらなかっただけで、もしなにかの事件に巻き込まれていれば「そんな時間に外にいたなんてのが悪い」そういわれてしまう案件だと自分でも思った。

 何らかの事件に巻き込まれた人も必ずしも治安をなめていたとは限らない。絵梨だって、よくわかっていなかっただけなのだ。

 電車が時刻表とほぼ同じに走るということが、日本以外では決して当然ではないこと。だから、丸1日かけてとんぼ返りしなければならないような予定を立てるのが無謀だということを。

 散々な1日だったけれど、それでもこの日見た湖水地方の美しい光景は、いまだに絵梨の脳裏に焼き付いている。簡単にはたどり着けなかった敗北の記憶が、他にもたくさん訪れた有名観光地とは違う、神聖で特別な地位を与えているのかもしれない。

(初出:2022年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】もち太とすあま。ー喫茶店に行くー

scriviamo!


今日の小説は「scriviamo! 2022」の第7弾です。津路 志士朗さんはイラストと掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!

 志士朗さんの書いてくださった「もち太とすあま。ー喫茶店に行くー

志士朗さんは、オリジナル小説と庭とご家族との微笑ましい日々を綴られる創作系ブロガーさんです。

書いてくださった作品は、去年に引き続き可愛らしい2匹のハスキー犬のイラストと、一緒に発表してくださった掌編。志士朗さんがメインで執筆なさっていらっしゃる「子獅子さん」シリーズの賑やかなストーリー。話に出てくる作中作が2匹のハスキー犬、もち太とすあまを題材にした絵本です。メインキャラの郵便屋である加賀見さん作です。

さて、去年のお返しは、作中作『もち太とすあま。』の第2作が書かれたとしたらどんな感じかな〜、と思って書きましたが、今回もそのイメージで書かせていただきました。志士朗さんの作品では、リードだけという形で出てきた『もち太とすあま。ー喫茶店に行くー』という作品を妄想した掌編です。


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もち太とすあま。ー喫茶店に行くー
——Special thanks to Shishiro-san


 はじめてウグイスが、じょうずにさえずった日のことでした。2匹のハスキー犬が野原を横切っていました。

 1匹は少し大きく、青い首輪をしています。もう1匹は少し小さく、赤い首輪をしています。2匹ともふわふわな真っ白い毛に覆われていて、やわらかく美味しそうなお餅のようです。そして、だからなのか、もち太とすあまという名前なのでした。

「もち兄! 聞いた? 鳥が鳴いたよ、ホーホケキョって!」
すあまは、大きな声で言いました。

「うん。聞こえたよ。ついに春だねぇ」
もち太は、青く澄んだ空を見上げました。

「どうして春がかんけいあるのさ。鳥は冬にも夏にも鳴くよ」
すあまが唇を尖らせています。

「ウグイスは、春にだけああやってきれいにさえずるんだよ。だから『春告鳥』っていうんだ。おまえも来年からは、あのさえずりを聞くと、春が来たなって思うようになるさ」

「そんなこと、来年まで、おぼえていられないよ!」
小さいすあまには、世界にはふしぎでおもしろいことがいっぱいなのです。

 今日も、2人はあたらしい冒険をする予定でした。いつも2匹に優しくしてくれる郵便屋さんが、喫茶店に連れて行ってくれるというのです。

 喫茶店というのは、人間がときどき行くお店です。テーブルやいすが並んでいて、人間はそこでコーヒーや、オレンジジュースや、それにサンドイッチなどを食べるというのです。

 いつだったか、近所の老犬ボジャーが喫茶店のことを話してくれました。ボジャーは、若かった頃に盲導犬という仕事をしていたので、バスや、駅や、スーパーマーケットなどにしょっちゅう出入りしていたそうなのです。そして、ご主人様と一緒に、喫茶店にも入ったことがあるのでした。

「そのコーヒーや、サンドイッチは、犬でも飲んだり食べたりできるの?」
すあまは、興味津々でボジャーに質問しました。おうちで、もち太とすあまは、ニンゲンと同じごはんは食べません。銀色のピカピカの器に入った水を飲み、こんもりと置かれたドッグフードを美味しく食べます。以前、すあまがニンゲンのごはんをすこし食べてしまったことがあるのですが、「しょっぱくてまずい!」と泣いてしまいました。

「いや、食べられんよ、喫茶店の食べ物と飲み物は人間用じゃからな。でも、ワシのためにいつも新しい水を出してくれたものさ。うちでは聞いたこともないような優しい音楽が流れていて、落ち着くところだったよ」
ボジャーは、遠い目をして言いました。

 だから、昨日、郵便屋さんがもち太たちを喫茶店に誘ってくれたときも、どうしてなのかわかりませんでした。でも、好奇心いっぱいの2匹は、大喜びで「行きたい!」と言いました。野原は、いつでも好きなだけ駆け回ることができますが、町のお店には2匹だけでは入ることができないからです。

 野原を横切って、丘の上の辻につくと、約束通りに郵便屋さんが来ていました。
「やあ、きたね。じゃあ、さっそく行こう」

 それから郵便屋さんは、ポケットから細くてキラキラ光る2本の紐を取り出しました。
「申し訳ないけれど、喫茶店の入り口をくぐるときだけ、この紐を首輪につけさせてもらうよ。それがきまりなんでね」

 もち太は、自由に跳ね回ることに慣れているので、びっくりしました。
「僕たち、紐で縛られて、外国に売りとばされちゃうの?!」
もち太が心配そうに訊くと、すあまは、いつだったか教わった童謡を歌いながら叫びました。
「がいこくだ、いじんさんにつれられて、どんぶらこだ!」

 郵便屋さんは、おかしそうに笑いました。
「君たち、いろいろなことを知っているねぇ。でも、そんなおおげさなことじゃないんだ。中に入って、オーナーに紹介したらすぐに外すよ」

 もち太は、少し考えました。郵便屋さんは、もち太たちの飼い主ともなかよしだし、前から知っているとても親切な人です。それに、もち太たちが病院に行かなくてはいけないとき、飼い主はもち太たちを籠に閉じ込めるのですが、うちに帰るとすぐに出してくれます。ニンゲンは、ときどきへんなことをしますが、きっとこんどもなにか理由があるのでしょう。せっかく喫茶店に連れて行ってくれるというのですから、ほんの少しの間は我慢しようと思いました。
「わかりました」

 そうして、もち太はとすあまは、ふだんはしないのですが、紐につながれて郵便屋さんと町に入っていきました。

 町には、人がたくさんいて、車もたくさん走っていました。ものすごい勢いで自転車が通り過ぎていったり、角を曲がったところでとてもうるさい音のする派手なお店が見えてきたりするたびに、すあまがそちらに走り出しそうになりました。

「あぶない! すあま!」
もち太が、いつものように叫びましたが、見ると郵便屋さんがじょうずに紐を引いて、すあまを止めていました。もち太はホッとして郵便屋さんの顔を見ると、郵便屋さんは優しくにっこりと笑いました。

「さあ、ついたよ」
角を曲がると、郵便屋さんは茶色い枠のドアをぎぃと押しました。

「いらっしゃいませ。ああ、加賀見さん、お待ちしていました。ワンちゃんたちも、ようこそ!」
眼鏡をかけてやせた男性が、嬉しそうに出迎えました。どうやら、もち太たちが来ることも、知っていたようです。

「こんにちは、もち太です」
「こんにちは、すあまだよ」
勝手がわからないので、とりあえず礼儀ただしくあいさつをしました。郵便屋さんがニコニコして、言いました。

「おお、自己紹介をしていますね。こちらがもち太くんで、こちらが弟のすあまくんです。君たち、このひとがこの喫茶店のオーナーだよ」
「ああ、そうですか。どうぞよろしく。さあ、加賀見さん、どうぞおかけください」
そう言うと、オーナーは郵便屋さんに水とメニューを持ってきました。

 紐を外してもらった、もち太とすあまは、郵便屋さんとテーブルの間にちょこんと顔を出して、一緒にメニューをながめました。おいしそうな食べ物と飲み物の写真がたくさん並んでいます。色とりどりのサンドイッチや、パンケーキ、それにカレーライスのようなごはんものも見えます。

「何になさいますか」
「そうですね。私は簡単に。この美味しそうなパンと、チャイをいただきましょう」
「かしこまりました。では、ワンちゃんたちのと一緒にお出ししますね」

 それを聞いてもち太は、首を傾げました。
「僕たちにも、何かでるの? あ、水? ボジャーが言っていたみたいに」

 郵便屋さんは「ボジャーだって?」と訊き返しました。

「ボジャーだよ! ごしゅじんさまと喫茶店に行ったことのあるおじいちゃん犬だよ!」
すあまが元気よく説明しました。

「ボジャーは、盲導犬だったんです。それで、喫茶店では、ときどき犬用に水を出してくれると言っていました」
もち太は、補足しました。

「ほう。なるほどね。でも、今日は、水だけじゃなくてもっとたくさん出るよ。君たちに試食をして欲しいんだ」
「ししょく?」

「うん。オーナーは、犬といっしょに来られるお店を目指しているんだ。それで、人間用メニューだけでなく、犬用メニューを研究しているんだ。塩辛くなくて、犬には毒になる食品も入っていない特別メニューだよ。でも、それが美味しいかどうか、オーナーの犬だけでは判断しにくいので、食べてくれる犬を探していたんだ」
「でも、犬ならたくさんいるのに」

 郵便屋さんは笑いました。
「そうだね。でも、僕のように君たちの言葉がわかる人間と知りあいの犬はあまりたくさんはいないんだ」

 もち太は、なるほどと頷いた。ここのオーナーは、僕たちの言葉がわからないのか。

 すぐにオーナーが、郵便屋さんにチャイとパンが2つ載ったお皿を運んできました。
どちらからも湯氣がでていていい匂いがしています。

「もっちもちのパンだよ! ぼくたちみたいだね!」
すあまは、青い目を輝かせて歌いました。

モッフモッフ モッフモッフ
モッフモッフのもち太だよ
フックフック フックフック
フックフックのすあまだよ


 すあまは、椅子に飛び乗ると、短い前足を郵便屋さんのパンに伸ばしました。もち太は、慌てて叫びました。
「すあま、ダメだよ! それにさわっちゃダメ!」

 その声に驚いたすあまは、ぐらりとバランスを崩して椅子から落ちました。ちゃんと床に着地しようとしたのですが、いつもの野原と違って、せまい喫茶店にはいくつも椅子があり、調子がくるいます。なんとか着地したものの、オーナーがピカピカに磨いた床の上をすーっと滑って入り口ちかくの雑誌が置いてある棚にぶつかりました。バサバサと音がして、すあまの上にたくさんの雑誌が落ちてきました。
「もち兄〜っ!!」

「すあま!」
まずは、もち太が駆けつけ、すぐに郵便屋さん、そして、奥で物音を聞いて何事かとオーナーも飛び出してきました。

 郵便屋さんが、そっといくつかの雑誌をどけると、ひょこっとすあまが顔を出しました。
「だいじょうぶかい」
「えへへ。びっくりしちゃった」

 笑っているすあまに代わり、もち太が困ったようにあたりを歩き回り、言いました。
「ごめんなさい。こんなメチャクチャにしてしまって」

 郵便屋さんは、一緒に雑誌を手早くかたづけるオーナーに言いました。
「お兄ちゃん犬が弟に代わって謝っていますね」
「おや。そうですか。こんなのどうってことありませんよ。雑誌は壊れませんし。ほら、もう片付いた!」

「美味しそうなパンで、思わず前足がでてしまったんですかね。きもちはわかりますよ、とてもいい匂いですしね」
そう言われて、オーナーは嬉しそうに笑いました。

「おやおや。それでは、ワンちゃんのご飯を急いでだしましょう。いま、持ってきますよ」
厨房に入ったオーナーは、お盆にいくつかのお皿と、お椀を載せてすぐに戻ってきました。

「ほう。見た目には人間のメニューとあまり変わらないようですね」
郵便屋さんは、のぞき込んで言いました。

「そうですね。でも、ワンちゃん用ですから、口にしたら、加賀見さんには物足りないかもしれませんね」

「じゃあ、さっそくもち太くんとすあまくんに食べてもらいましょう。これはな普通の牛乳ですか?」
「いいえ。これは犬用のミルクです。乳糖をカットして、それぞれの年齢に必要な栄養を強化してあるんですよ」

「どうだい飲んでみるかい?」
郵便屋さんが2匹を見ると、もち太とすあまは喜んで尻尾を振りました。たくさん歩いたので、喉が渇いていたのです。すあまは、一氣にごくごくと飲んで、それから美味しそうな料理が並ぶお盆に鼻を伸ばしました。

「すあま!」
もち太が注意する前に、すあまの鼻は、もう人間が食べるハンバーグのようなひき肉だんごにタッチしていました。

「ああ、まずこれに惹かれましたか。これは、豆腐と合い挽き肉に野菜を混ぜたハンバーグです」
オーナーは、嬉しそうにメモをとっています。

「食べていいんだよ。もち太くんはどれがいいのかな?」
すあまが豆腐ハンバーグのお皿に覆い被さっているので、もち太は、氣になっていたオムライスのように見えるものに鼻を伸ばしました。

「ほう。これはなんですか?」
郵便屋さんの問いに、オーナーは嬉しそうに頷きます。
「合い挽きのミンチと野菜チャーハンを包んだワンちゃん用オムライスです。じつは、飼い主さんも当店の普通のオムライスを注文できる『ワンちゃんとお揃いセット』も企画しているんですよ。ただ、ワンちゃんがオムライスを好きかどうかがわからないので、ぜひ感想が知りたいですね」

 食べてみて、もち太はとてもおいしいと思いました。
「ドッグフードも嫌いじゃないけれど、これ、とっても美味しいよ。僕、こういうのを食べられるなら、ここにまた来たいな」

 もち太がハキハキと意見を言うと、お豆腐ハンバーグを食べ終えたすあまは、兄の絶賛するオムライスが食べたくなりました。
「ぼくも食べるよ! すあまも、オムライス!」

 次々と出てくる試食品がどれもとてもおいしいので、2匹はとても幸せでした。たくさんの種類が出てくるので、ちょっとずつ食べた方がいいという郵便屋さんのアドバイスに、年上のもち太はしたがいましたが、すあまにはむずかしすぎたようです。どちらにしても2匹はお腹いっぱい、おいしい試作品を食べました。

 いつも、ふっくらしたお餅のような2匹ですが、その日はいつもに増してまん丸になってしまい、郵便屋さんは、2匹のふくれたお腹が地面に触れてしまうのではないかと心配しなくてはなりませんでした。

 でも、もち太とすあまは、とても幸せで、この喫茶店が大好きになりました。きっと他の犬たちも、この店がすきになるでしょう。

(初出:2022年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】天使の歌う俺たちの島で

今日の小説は『12か月の楽器』の2月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の主題に選んだのは、カリブ海の小さな島トリニダード・トバゴで生まれた楽器、俗に言う『スティール・ドラム』です。もともとがドラム缶だとは思えないような、澄んだ音を出すドラム。この音を聴くと、心は実際には行ったこともないカリブの海に飛んでいくようです。

ストーリーに伝説的なカリプソニアン、ロード・プリテンダーの『Human Race』の歌詞の一部をはさみました。陽氣なリズムと歌い方の中で政治問題を皮肉たっぷりにはさむ彼らの音楽は、誰かの都合で連れてこられて、厳しい労働に耐えながらこの島に根付いた人びとの抵抗であり、かつ誇りでもあるアイデンティティーの発露です。そして、スティール・ドラム『パン』もまた、おなじ誇りが詰まっている楽器です。「天使の歌声」と称される音色の奥に、そんなあれこれが潜むことを、この作品を書くにあたっていろいろと知りました。


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天使の歌う俺たちの島で

 エメラルドブルーの海。浜辺に遊ぶ波頭は真っ白だ。椰子の木は穏やかにそよぐ。遠くを観光客たちを乗せたボートが矢のようにラグーンを横切っていく。ビーチや船着き場からは離れているが、喧噪と全く無縁でいられるほどの距離ではない。振り向くとマングローブの林の向こうに背の高い椰子の林と鬱蒼たる木々に覆われた島の中央部が見える。

 小さな島の北東、空港や島の首都であるスカボローからもっとも離れた街。ジョージは、スペイサイドで生まれ、他の土地で暮らしたこともない。海の見える裏庭に座り、ドラム缶を楽器へと加工していく。

 マングローブに止まっていたソライロフウキンチョウが、その音に驚いて飛び立った。グレーと淡い青の羽を持つ15センチほどのこの鳥はカリブ海ではありふれているが、この島に居る固有種は地元ではブルージーンと呼ばれ、より深い青の羽色をしている。

 島に居て、他の仲間と交わることが少ないと、世代を経るうちに何かが固定していくのだろう。

 タニア。お前は、だから、ここから出ていきたいのか。
「あたしは、ちりちり頭で、こき使われるだけの人生を歩む子供は産みたくないの。あの国で産まれるだろうあたしの子供は、エキゾチックで美しい肌を持つと尊重されて、立派な教育も受けて、銀行家や弁護士やプロジェクトマネジャーとして成功するんだわ。そして、あの海辺のホテルで優雅にバカンスを楽しむのよ」

 それは、お前の肉体に夢中になった、あのヒョロヒョロ男が吹き込んだんだお伽噺だろう。コンピューターのキーボードを叩くだけで、タロイモの袋を持ち上げることもできやしない頭でっかちな男。

 朝から晩まで同じ仕事が繰り返される。ジョージも、地元の仲間たちも、ラグーンでのシュノーケルや、テラスでの朝食に縁はない。あるとしてもサービスを供給する側であって、バカンスを楽しむことはない。

 ジョージは、ひたすら鉄球を打ち付けていた。ただのドラム缶は、正しく計測した上で半球形にたわませて、決まったところをくぼませることで、一般的に『スティール・ドラム』、トリニダード・トバゴでは『パン』と呼ばれる楽器となる。

 すり鉢状に成形されたドラム缶の底面に音盤が配置されており、この音盤を先端にゴムを巻いたバチで叩くことにより音が発生する。

 かつて労働力にするためにアフリカから奴隷が連れてこられた。彼らは厳しい労働の合間に故郷を懐かしみドラムを叩いて故郷の歌を歌った。19世紀半ばに宗主国イギリスは、反乱を怖れて太鼓など楽器の演奏を禁止した。それでも、歌や音楽を諦めなかった人びとは竹の棒を叩いていた。1937年にこの竹の棒も治安上の理由から禁止されると、人びとは代わりにドラム缶を叩くようになった。1939年にウインストン・サイモンが、その簡易打楽器を修理中に、叩く場所によって音が違っていることに偶然氣づき、『パン』のもととなる楽器が生まれた。現在では『20 世紀最後にして最大のアコースティック楽器発明』といわれ、トリニダード・トバゴの誇りとなっている。

 ジョージは、『パン』制作職人として生計を立てている。骨の折れる力仕事であると同時に繊細さも必要とされる職人技だ。石油運搬の廃材であるドラム缶から「天使の歌声」にたとえられるほどの透明感のある倍音を出す楽器にするのだ。カリプソ音楽とともにカリブの風を世界に広げた立役者。ここトリニダード・トバゴで『パン』は1つ1つ手作りされている。

 なあ、タニア。観光客であふれるバーの勤めをはじめたのも、お前の野心のためか。だが、ヨーロッパとやらがそんなにいいところならば、どうして奴らはここに押しかけるんだ。どうしてここを地上の天国だとため息を漏らすんだ。

 ドラム缶は、45分ほど鉄球で叩きつけるとゆっくりとたわみはじめる。ここからが長い。ハンマーで叩くのだ。中華鍋のように深く滑らかな球面にする必要がある。どの部分も均等に叩き続けねばならない。時には反対側から叩く。経験に裏打ちされた氣の長い仕事だ。

 視界に赤いものが目に入り、彼が目を上げると、先ほどブルージーンが止まっていたマングローブの枝に、黒い翼と尾を持つ真っ赤な鳥がいた。
「アカフウキンチョウ……。またか」

 ソライロフウキンチョウと違い、この赤い鳥は本来ここにいるべきではない。アメリカ合衆国からメキシコ、アンデスのある南米の北西部へと渡る放浪者だ。名前もかつて分類されていたフウキンチョウ科のものを名乗っているが、現在ではショウジョウコウ科に分類し直されたと教えてくれたのは、タニアだ。つまり、あの女が結婚しようとしている金髪男の知識なのだろう。

 赤い鳥というのは、旅を好むものなのか。トリニダード島でたくさんの観光客を惹きつけるスカーレット・アイビス。海を越えるオオグンカンドリ。アカフウキンチョウに似た見た目を持つベニタイランチョウ。

 俺たちは、奴隷としてカリブに連れてこられた者たちの子孫だ。広大なアフリカの各地から集められて連れてこられた人びとは、お互いの言葉もわからず、その文化も尊重されなかった。混ざってしまった今では、どこに帰るべきなのかもわからない。お互いに意思疎通をし、苦しみと悲しみの中でも愉しみと笑いを分かち合うために、音楽と踊りがあった。それが、カリプソと『パン』の魂だ。

 タニア。お前が産もうとしている、あの金髪男の子供は、もしかしたら俺たちほど黒い肌の色じゃないかもしれない。でも、お前自身が白人になるわけじゃないんだぜ。

 俺は、『人権教育』とやらには詳しくないから、お前が主張する誰からも蔑まれない生活とやらを否定するつもりはない。でも、ここにバカンスに来るたくさんのイギリス人、ドイツ人、フランス人、その他のたくさんのヨーロッパの奴らが、アメリカ人観光客よりも俺たちを同じ『人類』に見做していると感じたことはない。お前の行きたがる「あの国」は存在しないユートピアだと思うぞ。

Take for instance in the animal creation
There is no such thing as pigmentation
We got black and white in horse, goat, and hog
And very often you could bounce up a brown-skin dog
How the hell you eating pork from the black-skin sow?
You don't ask for white meat from the white-skin cow?
Well if the animals have equality
What the heck is the difference in you and me?
(From “Human Race” Lord Pretender)

例えば、動物について考えてみろよ。
色の違いによる差別なんてないだろう。
馬、山羊、豚にも黒と白がある。
褐色の肌の犬もよくいる。
あんたが黒皮の雌豚の肉を食べるとはどういう了見かい?
白い肌をした牛の白い肉は頼まないのか?
ふうん、もしどの動物も同じだっていうのなら
あんたと俺の一体どこが違うっていうんだ?
(ロード・プリテンダー ”人種”より 八少女 夕訳)



 ジョージは、アカフウキンチョウから目を離すと、再びハンマーを振り上げ仕事を続けた。迷い鳥もその音に慌てて去って行っただろう。

 午後はあっという間に過ぎていく。ドラム缶はようやく『パン』らしい形になってきた。ジョージは汗を拭いた。

「ジョージ」
顔を上げると、真っ赤なワンピースが目に飛び込んでくる。
「タニア」

 子供の頃、この庭で一緒に駆け回っていた時には、こんな風に姿を見て息を呑んだり、目が離せなくなったりすることはなかった。大人になったら、もう一緒に遊ぶことも、オレンジジュースの速飲み競争をすることもなくなるなんてな。だが、そんなことを考えているのは俺だけか。ジョージは眼をそらす。

 タニアは、近づいてくると「もうランチタイムよ」といって、持っていたバスケットから紙包みを取りだした。

「へえ。ダブルスか」
「揚げたてよ」
ダブルスは、トリニダード・トバゴでよく食べられているファーストフードだ。バッラと呼ばれる揚げパンにひよこ豆のカレーやピクルスを挟んだ物で、かつては朝食時にしかなかったものだが今では1日中屋台が見られるようになった。近くの海岸に屋台を出しているサム爺さんのダブルスは絶品だ。

 ジョージは、小さな冷蔵庫からオレンジジュースを取りだして、2つのガラスのタンブラーに注いだ。タニアは、黙って戸棚を探りアンゴスチュラビターズの瓶を見つけると、それを両方のタンブラーに入れた。トリニダディアンの好むハーブ類の抽出液で、これを入れるとただのオレンジジュースも苦みが増してグレープフルーツのような複雑な味わいになる。この飲み方を、ティーンの頃から2人はしてきた。

 ジョージは、まだ熱いダブルスにかぶりついた。複雑な香辛料の味わいが舌から喉の奥にまで広がる。それからひよこ豆の旨味とバッラの油分が朝からの労働で疲れた身体に新しいエネルギーを流し込んでくるようだ。
「美味いな」
「シャーロットヴィルに絶対的に足りないのは、なんといってもサムおじさんの屋台だわ」

 そう言うと、タニアは油で汚れた指をなめてからオレンジジュースを飲んだ。ジョージは、その様相を横目で眺めながら、言うべきではないと思いつつも嫌みを口にした。
「ヨーロッパに行ったら、ますますサム爺さんの屋台からは遠ざかるだけだろう」

 タニアは、ジョージの方を見ようともせず、むしろオレンジジュースのほとんどなくなったタンブラーを睨みつけたまま答えた。
「遠くなんかならないわ。当面は行かないもの」

 ジョージは、おや、と思った。
「延期かよ。なんで」

「あの男、独身じゃなかったのよ。1週間遅れで妻がやって来たの。時間とエネルギーの無駄だったわ。本当に腹が立つ」
「3日前の話とはずいぶん違うじゃないか。もう婚約したみたいな言い方だったぞ」
「あんなに熱心に口説くんだもの。時間の問題だと思ったのよ。それに、カラルーを作ってあげたいって言ったら、『ぜひ、食べてみたい』って言ったのよ。結婚する意思があると思うじゃない」

 カラルーは、タロイモの葉とオクラを唐辛子入りのココナツミルクでとろとろになるまで煮た料理で、トリニダディアン男性にとって「君のカラルーを食べたい」は求愛サインだ。
「カラルーにそんな意味があるなんて、ヨーロッパからの観光客にわかるかよ」

「そうかもね。でも、そんなことをいちいち口で説明するなんて、ロマンティックじゃないし、疲れるわ」
「島の男以外と結婚するってことは、そういうことだぜ。カラルーも、ダブルスも、アンゴスチュラビターズもないし、『パン』の鳴り響くカリプソも流れていない世界に住むんだろ」

 タニアは、少し怯んでから挑むようにジョージを見て「そうよ」と言った。その勢いは、前ほど確信には満ちていなかった。

「カラルーなら、俺がいくらでも食うぜ」
ジョージは、庭の木を見ながらなんでもないように言った。ちょうどブルージーンが再び飛んできて停まったところだ。

 タニアは、変な勢いで立ち上がり、真っ赤なスカートを翻して言った。
「モリーおばさんのカラルーに敵うわけないでしょ!」

 ジョージは、肩をすくめた。
「母さんのカラルーはもう何年も食べていないよ」

 タニアは、疑い深い目つきでジョージを見た。

 もちろん、何年食べなくたって、母さんのカラルーの味を忘れるわけではない。でも、それとこれとは別の話だ。不味いカラルーだって、お前が不実な男に食わせるのは嫌だ。イライラする。ジョージは、ブルージーンの羽ばたきをみつめた。

「いつか、こんなちっぽけな島、出ていくんだから」
タニアは、飛び去るブルージーンの後ろ姿を見送った。

「いつまでも、そう言っているといいさ。思うのは自由だからな。でも、それはそれとして、俺にカラルーを食わせる予定も考えておけよ」

 ジョージがたたみかけると、タニアは「まっぴらよ!」と叫びながら身を翻して立ち去った。顔が赤く見えるのは、ワンピースのせいだろうか。その後ろ姿は、迷い込んだアカフウキンチョウのようだ。

 だけど、タニア。俺たちは、鳥のようには自由に飛んではいけない。国境だの、人種だの、金だの、その他たくさんの俺たちを阻むものが、そんなことはさせないというんだ。だから、命の危険を冒して、海の彼方のどこにあるのかわからぬ国を目指す代わりに、ここで『天使の歌』を響かせ、陽氣に歌い踊る方がいいことに氣づけよ。

 熱いカーニバルがあり、魂を沸かせるカリプソのあるこの地で。年中心地よい風を運んでくる輝く海辺で。

(初出:2022年2月 書き下ろし)

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Lord Pretender - Human Race

『パン』の音色や作り方が説明されている動画です。

Steel drums in Trinidad & Tobago
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Posted by 八少女 夕

【小説】お茶漬けを食べながら

scriviamo!


今日の小説は「scriviamo! 2022」の第6弾です。ポール・ブリッツさんは掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!

ポール・ブリッツさんの書いてくださった 『水飯』

ポール・ブリッツさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。毎年ポールさんのくださるお題は手加減なしで難しいんですけれど、今年も例に漏れず。「今年はダメかも」などとおっしゃりながら超剛速球。

ポールさんがくださったお題は、ホラーのショートショートです。結末というか、このお話をどう読むかは、読者の手に委ねられていると思うのです。私はこの作品に直接絡む勇氣はなく、かといってホラーを書く技術もなかったので、お返しには悩みました。

そして、決めたのが、ポールさんの作品の中で、氣になった台詞と題材を組み合わせて、全く別の関係のない話を書いてしまおうということでした。ですから、この話は、ポールさんのお話の解釈などではありませんよ。


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お茶漬けを食べながら
——Special thanks to Paul Blitz-san


 目的の店は、既に閉店していた。鉄板の上でジュージューと音を立てるハンバーグステーキ、結局思い出だけになっちゃったか。

 由香は、早起きしたのになと唇を噛みしめた。

 休職してでも時間を作って、美味しいものを食べ尽くそうと決めたのは、例の布告が出てから2日後だった。公告から実施までたったの2か月しかないのはひどいと思ったが、文句を言ったり、抗議行動したりに費やす時間は無かった。

 それは本当に寝耳に水だった。国際連合環境保護計画ならびに国際連合食糧保護機構の指導で、全世界で同時に100年間、人類の食生活を制限し地球環境の保全と回復を実施することになったというのだ。

 来月1日より、世界中の人類が個人的な調理と食事を禁止される。生存に必要な栄養は、支給されるパックから摂ることとなる。サンプルを見たところ、小さめのレトルトパックに入った肌色のクリームで、エネルギー、タンパク質、油脂、ビタミン類、食物繊維、必須アミノ酸、ミネラルなどが、効率よく収まっているそうだ。

 従来のような食事は厳禁といっても例外はある。環境保護基金に、100万米ドル相当の環境回復準備金を納めることで、同一家計内の家族は60日分の「調理または外食産業による従来形式の食事」が許可されることになっている。つまり、年間600万米ドル払う財力のある者たちは、これまでのように好きな物を食べて飲むことが可能だ。

 もちろん、その様な大金を用意することのできない一般市民からは、反発と批判が湧き起こったが、各国の政府は申し合わせたかのように民衆を黙殺し、実施日が決定した。来月より由香のような一般市民は、死ぬまで合法的にまともな食事を楽しむことは許されなくなる。

 先月は毎日のように起きていたデモも、今月に入ってからはまばらになった。デモに参加するなど、環境保全に非協力的な者には、数日分の栄養パック支給を停止するという政令が出されたからだ。来月になれば、全てが過去のことになるだろう。

 由香のように、休職や退職をしてまで食べ歩きに精を出す者は多数派ではないが、少なくとも人びとの関心は「今日は何を食べるか」に集中した。

 それは、外食産業に携わる人びとにとっても同じで、どうせ今月いっぱいで店を閉めることになるならと、既に店をたたみ新たな生業を始める準備をしたり、引退して食べ歩きに専心したりする経営者も多かった。由香が食べたかったハンバーグの店も、そうした理由で店を閉めてしまったらしかった。

 ガッカリしている時間など無い。どんなに食べたくても、1日に食べられる量は限られている。食べておきたいものは無限にあった。

 スーパーマーケットはいつも混んでいる。今までは1度だって買おうとしなかった和牛や、大きな鰻の蒲焼き、皮が軽くて絶妙なサイズと評判のクロワッサン、大ぶり車エビの天ぷら、宝石のようにフルーツが収まったゼリー、贈答用でしか買ったことのないマスクメロン。今月のエンゲル係数はどの家庭でも恐ろしく高くなっているに違いない。少なくとも由香は定期預金を解約して食べ納めの軍資金にした。

 中には、今のうちにいろいろな食材を買ってどこかに隠し、後々裏取引で大きく儲けようとしている輩もいると聞いた。だが、そうした取引は厳しく罰せられるので、由香は売ることはもちろん、買うことにも批判的だ。少なくとも彼女は法律に背くようなことはしないつもりだ。合法な今のうちに食べ尽くして、あとは大人しく法に従う予定。

 食べたいけれど、食べられない。由香はその苦悩をよく知っている。もちろんこれからのような深刻な制限ではないが。子供の頃、由香は自然派の母親にさまざまな食品を禁止されていた。

 子供の頃は、友だちのお弁当を彩る赤いソーセージ、冷凍食品の唐揚げやコロッケを羨ましく眺めていた。キャラクター玩具のついたお菓子、きれいな色をしたゼリー、真っ赤な缶の清涼飲料水。欲しがる度に母は頭を振った。

「これに入っている合成着色料は発がん性があるの」
「増粘剤や安定剤の入っているような食品は、体によくないわ」
「香料や化学調味料でごまかされた味のものを食べていると、本物の味がわからなくなるわよ」
「こんな物を飲んだら、骨が溶けます」

 それでも、まだ由香が小学生の頃はよかった。母親は、普通に肉や魚を調理していたから。だが、それから数年して母親は玄米菜食主義に凝りだした。

 由香が忘れられないのは、母がそれまで持っていた料理本を全て捨てて、新しくいくつもの料理本を買ってきたことだ。それまでの料理本は、見ているだけでお腹がすいてくる美味しそうな写真が載っていたけれど、新しい本は地味な緑か茶色っぽい料理ばかりで、とてもおいしそうに見えなかった。実際に母親が作る料理は、その写真よりもさらに見栄えがいまいちで、味も薄いものばかりだった。

「なんか物足りないよ。たまにはお肉やお魚食べたいな」
由香がいうと、母はむきになっていった。
「動物性タンパク質は、分解されにくくて身体に負担がかかるの。このお豆腐の方が、良質のタンパク質だからこれを食べるのよ」

「でも、味が薄いよ。もう少し油で焼いてお醤油で焦がしたりとか……」
「そういう調理は身体に刺激が強すぎるのでダメです」

 父親は、もともと仕事が忙しいといってあまり自宅で夕食を食べない人だったが、玄米菜食しか出なくなってからは、夕食にはほとんど帰宅しなくなった。昼食も夕食も好きなものを外で食べていたのだろう。たまに休みの日に、自宅で一緒に食卓を囲むこともあったが、それが口論のもとになることも多々あった。

「こんなものばかり食べて、力が出るわけないだろう」
「私は、あなたたちのためにやっているのよ」

 おそらくそうだったのだろう。母親はいつも善意と生真面目さから、朝から晩まで家族のために心を砕いて丁寧な家事をしていた。

 でも、由香は高校生になると母親に黙ってほしいものを買い食いするようになった。ちょうど父親がそうやっていたように。修学旅行で出てきた海の幸と山の幸を大いに楽しんだし、自動販売機でありとあらゆる砂糖と着色料まみれの清涼飲料水を買った。

 家族のためにあれほど心を砕いた母親は、なにか必要な栄養素が足りなかったのか、数年で痩せ衰えて、身体を壊し、若くして亡くなった。

 亡くなる前の数年間は、玄米菜食主義は返上し、体調のいいときは、由香と一緒に外食することもあった。由香の初任給で、一緒にしゃぶしゃぶを食べにいったのが最後の外食になった。奮発した和牛を「由香ちゃん、もっと食べなさい」と譲りつつも、美味しそうに食べていた姿が今でも脳裏に浮かぶ。

 母が生きていたら、『食生活の制限』をどう思ったことだろう。彼女の繊細な心は、工場でパック詰めされた肌色のクリームを摂取するだけのディストピアに耐えられただろうか。

 由香は、この際、母親のことは横に置いておこうと思った。食べ納めの日々を決意してから、由香が食べているのは、ほぼ全て母親が禁止したことのある食品ばかりだった。

 大人になって、由香にもよくわかっている。精製された食品に問題があること、焼きすぎた食品に発がん性の恐れがあること、コンビニエンスストアで売っている食品に大量の食品添加物が使われていること、おもちゃやキャラクターが包装に描かれているからといって食品の味がよくなるわけではないこと。

 母親のいっていたことの大半が正しく、彼女の「家族のためを思って」の信念が決して間違ってはいなかったことも理解しつつ、由香はそれを無視したひと月を過ごそうとしている。

 身体に悪いことがなんだというのだろう。「そんな食べ方をしていたら身体を壊すわよ」という母親の言葉ももう意味をなさない。だってこの食べ方は、このひと月でおしまい、2度とはできないのだから。

 ハンバーグステーキがダメだったので、豚骨ラーメンの店を目指したが遅かった。美味しい店は、同じように食べ納めに奔走している客たちが押しかけている。由香は、予定にはなかったが一番好きなファーストフード店に入ろうと思った。

* * *


 ひと月はあっという間に過ぎ去った。この間に由香は3度の国内旅行もした。讃岐うどんを食べに高松へ行き、帰りに神戸でステーキと明石焼きを堪能した。北海道で海鮮丼と味噌ラーメンを食べた。九州では宮崎の地鶏や福岡の水炊き、そして鹿児島で黒豚とカンパチに加えて文旦も食べてきた。

 望んだものを全て食べ尽くしたわけではないが、全ての食事を「後悔の無いように」という選択基準で選んだだけあり、バラエティに富んで好物ばかりの食卓だった。

 残りはあと3日だが、由香は外食をやめて自炊をすることにした。2度と使うことのなくなる調理器具をこのまま錆びさせるのもどうかと思ったのだ。

 今まで買ったこともない高い米を買ってきた。比内地鶏、鹿児島黒豚、それに鰻の蒲焼きも何とか入手できた。放し飼いで育てられた烏骨鶏の卵、有機農法の野菜も買ってみた。有機大豆を使った味噌、最高級品の本枯かつお節、国産丸大豆の天然醸造濃口醤油など、これまで買うことすら考えなかった高級調味料も揃えた。

 最高の味を実現しようと思って大枚を叩いたものばかりだが、よく考えたら母親が口を酸っぱくして言っていた「いい食材」が揃っている。母には、夫の稼いでくる給料を食材ばかりに裂く自由もなかったし、今のように「2度と食べられないのだから」という大義名分もなかったので、こんな高級食材ばかりが揃うことはなかったけれど。

 仕事をしていた頃は、丁寧に米をとぐことはあまりなかった。丁寧な暮らしなど半分バカにしていたし、調理して食べることは永遠に続く惰性の一部でしかなかった。

 そういえば高校生の時、友だちと「最後の晩餐は何がいいか」って話題をしたことがあったな、米をとぎながら由香は思う。

 雑誌に「アメリカの死刑囚の最後の食事は希望を通せる」という記事があり、多くの死刑囚がハンバーガーやピザ、フライドチキンなどを要望したことが書かれていた。それは、由香や友人の「最後に食べたい食事」とは違っていたので、自分なら何がいいかと話しあったのだ。

 その時に、由香が選んだのは和牛のすき焼きだった。当時はちょうど母親が玄米菜食主義を貫いていた時期で、無性に美味しい肉が食べたかった。すき焼きならお肉も、しらたきも、白菜もお豆腐も入っているし、生卵やご飯も好きだし。

 一方、友人が選んだのは、お茶漬けだった。

「なんでお茶漬け?」
由香が訊くと、友人は笑った。

「カレーにしようかとも思ったけれど、カレーなら刑務所で普通に出てくるかなと思って。でも、お茶漬けは出てこなさそうでしょ? 私、カレーとお茶漬けが好きなんだよ。ずっとそれだけでもいいってくらい」

 由香は、米をとぐ手を止めて、冷蔵庫に向かった。先日見かけて買った紫蘇の実漬けのパックが入っている。1人暮らしをしてから初めて買ったその漬物は、母の大好物だった。

 茶色い煮物ばかり作っていた時期も、玄米菜食主義に凝り固まっていた時期も、そして、身体を壊して病人食を食べるようになってからも、変わらずに母が好んでいたのはお茶漬けだった。主義を守るために意固地になっているときも、疲れたときも、うまく行かないときも、お茶漬けは常に母親の喉を通っていった。

 由香自身も、仕事が忙しくて帰ってきて料理などしたくない日に、とりあえず冷やご飯に漬物や梅干しと海苔を載せてお茶漬けにすることをよくやっていた。

 ふかふかのご飯が炊けて、由香はそっと茶碗によそうと、紫蘇の実漬けを載せた。新しいパリパリの海苔は湯氣に踊った。わずかに醤油をかけてから、煎茶を入れた。

 サラサラと喉を通っていく白米とお茶は、由香を子供の頃の台所に連れて行った。母親の笑顔と優しい言葉が蘇る。

 家族のためによい食事を作りながらうまく行かずに悩んだ母が泣きながら食べていた姿も。そうだ、あの頃の母親は、今の私と10歳も違わない年齢だったな。由香はぼんやりと思った。世界が私の手に余るように、あの時はお母さんの手にも余っていたのだろう。

 悲しくてしかたない。試行錯誤を繰り返して、身体によいものを自分と家族のために食べさせようとしていた母親は、その努力の甲斐なくこの世を去った。由香もまた、精一杯の真面目さで暮らしてきたけれど、あと3日でささやかな楽しみすら永久に取りあげられる。

 このひと月を狂ったように好きなものを食べることに費やしてきた。でも、不安と悲しみ、怒りはいつも胃の底に蹲っていた。

 日本全国の美味で五感をしびれさすグルメの数々を暴食してもおさめることのできなかったなにかが、身体の中からあふれていく。由香は涙を流しながらお茶漬けを流し込んだ。紫蘇の実の香りとみじん切り大根の歯触りが、懐かしい。

 人は、栄養素だけでは生きてはいけない。ファーストフードや、黒毛和牛、それに高級フレンチを食べなくても生きていけるかもしれないけれど、大金持ちでなければ、普通の食事がまったく許されないなんて、とことんフェアじゃない。

 由香は、法を破る決意をした。買えるだけの米を隠し持とう。バレないように漬物にできるような野菜を栽培しよう。そして、月に1回はこっそりとお茶漬けを流し込んで生きていることを確認しよう。

 それを決めた途端、急に晴れ晴れとした心持ちになった。腹の底から笑うと、買いためた他の食材をこの3日で食べ尽くすために、鍋の準備を始めた。

(初出:2022年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】鯉の椀

scriviamo!


今日の小説は「scriviamo! 2022」の第5弾です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!

もぐらさんの小説と朗読 『第613回 鯉のお椀』

もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。お一人、もしくはお二人で作品を朗読なさり、当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。いつもとても長くて本当にご迷惑をおかけしています。

今年は完全オリジナル作品でご参加くださいました。日本の民話風の作品で、とても優しい結末の作品です。毎年のように貧乏神様が登場しています。今年はやめようかとも思ったとおっしゃいましたが、いらっしゃらないと寂しいなあと思うようになりましたよ!

お返しですが、去年までは平安時代の「樋水龍神縁起 東国放浪記」または『バッカスからの招待状』シリーズの話を書いてきましたが、今年は趣向を変えました。『ニューヨークの異邦人たち』シリーズから脇役たちが出てきました。もぐらさんは、ご存じないシリーズだと思いますが、単にニューヨークのアンティークショップが舞台だというだけですので、シリーズをわざわざチェックする必要はありませんよ!


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【参考】 (クレアとクライヴの出てくる話)
ニューヨークの英国人
それは、たぶん……
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」




ニューヨークの異邦人たち・外伝
鯉の椀
——Special thanks to Mogura-san


 灰色の空を見上げ、クレアはコートの襟とストールの位置を直して、再び歩き出した。ニューヨークの冬の厳しさには慣れない。北緯40度のニューヨークは北緯51度である故郷イギリスの首都のロンドンよりもずっと南に位置しているのに、冬の平均温度が7℃も低いのだ。

 今日はまだマシだ。でも、冷え切らないうちに早く職場に戻ろうと思った。郵便局との往復はいい氣分転換になるが、この季節はあまり嬉しくない。

 クレア・ダルトンが働くのはロンドンに本店を置く骨董店《ウェリントン商会》のニューヨーク支店だ。支店長であるクライヴ・マクミランに非常に『英国的』であることを見込まれてこの店で働き出してから1年が経ったところだ。本当は双子の姉の消息を確認したら英国に戻るつもりでいたのだが、クライヴの示した破格の待遇と、失業保険事務所の長い列に並ぶ憂鬱さとを秤にかけて、結局は異国に住むことを決めた。

 その決定は特に間違ったとは思っていない。ニューヨークは、ぞっとするくらい寒いことを除けば、すぐに逃げ出したいと思うほどにひどい都会ではない。柔軟性のそこそこあるクレアにとってはなおさらだ。

 歩き出そうと足を踏み出したところ、誰かが手を振っていることを視線の端で捉えて、クレアは横を見た。キャシーだ。

 ダイナー《Sunrise Diner》は、クレアとクライヴのよく訪れる店だ。実のところ好みにうるさいクライヴが行きたがるとは到底思えないタイプの店だ。けばけばしい看板に、赤い合皮のソファーと黒いテーブルを基調としたフィフティーズのインテリアは、まったく『英国的』ではない。

 だが、少々クセのあるクライヴをあるがままに受け入れてくれる懐の広いスタッフと常連客の存在は、彼にとっても心地よいのだろう。クレア自身はニューヨークらしいこの店がとても好きだ。とくに若いのに店で一番の古株として働くキャシーと話をするのが好きだった。

 ガラスドアを開けて店に入り、クレアはキャシーに話しかけた。
「ハロー、キャシー。どうかしたの?」

 カウンターで忙しく働くキャシーは、クレアに笑いかけた。
「ハロー。あのね、クライヴに頼まれていた件、ミホからの返信が来たの。帰りに届けようかと思っていたけれど、店が忙しくなってしまってそっちの閉店に間に合わないかもと思っていたのよ」

 ああ、茶碗の件ね。クレアは頷いた。クライヴが先週、キャシーの元同僚の日本人女性に、入荷した磁器のことで手紙を送ってもらったのだ。

 クレアは、返信を受け取ると「また来るわね」と挨拶して店の外に出た。クライヴはこの手紙を、今か今かと待っていたのだ。

 5分ほど歩いて、クレアは《ウェリントン商会》に着いた。一見、狭くてどうということのない古道具屋に見えるが、実は店はL字型になっていて、表からは見えていない場所に立派なアンティーク家具や、ヴィクトリア朝時代の陶磁器などが品良く並んでいる。地下倉庫の他、クライヴの住居のある2階にも値の張る品をしまう部屋があり、クレアは3階の心地のいい部屋を格安で借りていた。

「ああ、お帰り、クレア。ご苦労様でした」
ドアを開けると、クライヴがすかさず礼を言った。この彼女の上司は変わったところは多々あるけれど、フェアさと礼儀正しさは評価すべき美点だと、クレアは常々思っていた。

「ただいま。帰りにキャシーに頼まれて、ミホからの手紙、預かってきたわ」
「おや。それはありがたいね。せっかくだから、お茶でもしながら一緒に返信を検討しましょう」

 クライヴは、奥からスポードのブルー・ウィローのティーセットを持ってきて置いた。実は、2階には、貴重なジョージ4世時代のブルー・ウィローのティーセットが完璧な形で揃っているのだが、本物志向のクライヴでもさすがにそれで日々のお茶はしない。今ここにあるのは90年代に作られた復刻版だ。

 クレアがお茶の用意をしている間に、クライヴは2階に行って、木箱を持ってきた。サイドテーブルの上で慎重に蓋を開けた。紫の縮緬ちりめん をゆっくりとほどくと、中からボウルともカップとも呼べる椀が現れた。一見して東洋の物とわかる薄い白地の磁器だ。

「これがそのジャパニーズ・イマリなのね」
クレアはサイドテーブルに置かれた椀を眺めた。

 外側は底がブルー・ウィローと同じような薄い藍の鎖文様、上部は柿右衛門によくある赤と濃い藍色そして金彩による唐草文様で彩られている。内部は非常に細かな絵付けで、底面以外は藍と萌黄と赤の複雑な唐草文様で彩られている。底面中心は赤い波紋に囲まれた白い円形で、その内部は藍で波涛に大きな魚が1匹跳ね上がっている。

 唐草文様のある上部にも魚の左右にあたる位置に円形に囲まれた部分があって、それぞれに人物が描かれている。向かって右側に太りたくさんの髭を蓄え立派な服を着た人物、左側は痩せて裸足に見える人物だ。

 この茶碗は裕福なコレクターの遺品から見つかったのだが、17世紀末から18世紀初頭の古伊万里だということ以外わからず、入手のいきさつ示す書類も無かった。木箱に日本語で書かれたメモが入っていただけだ。遺産相続人は、皿や壺などには全く興味が無いだけでなく場所をとるし破損に留意するのが面倒なので、早々に他の出自のわかっているたくさんの陶磁器と一緒にまとめて《ウェリントン商会》に売った。

 クライヴは、この茶碗を店頭に出す前に、日本語のメモや描かれているモチーフについてはっきりさせておきたいと思った。メモとモチーフについて、まず利害関係のない日本人に情報をもらってから、古伊万里の専門家に依頼するつもりだった。サンフランシスコ在住の美穂とは面識もあり、親切で正直であることがわかっているので、うってつけだった。それで、数日前にこの椀の写真とメモのコピーを添えて美穂に手紙を書いたのだ。

 クライヴは、美穂からの返信を開き、クレアに読みきかせた。

「器の年代や、どのくらいの価値がある物なのかは、私にはわかりません。器に描かれている魚は鯉です。髭があるので鯉とわかります。そして、中国や日本では、鯉は立身出世につながるめでたい魚なのです。鯉が滝を遡って龍になったという伝説があります。中国や日本では龍は神獣です」

 クレアは、そういえば日本人は鯉が好きで、とても高い色鮮やかな鯉を庭の池で飼うんだったわね、と考えた。
「メモについては?」

「ああ、書いてありますよ。それについては……少し奇妙だと書いてありますね」

 美穂は、メモはこの茶碗が作られた由来を書いたものだと伝えた。通常こうした由来書は作られた当時の物が和紙と墨書きで用意されているのだが、メモは普通の紙にボールペンで書いたものだったので、少なくとも20世紀以降に用意されたのだろう。

「メモに書かれた内容を要約すると、鯉の左右の人物は、昔、小さな村にやって来て、幸運をもたらしてくれた神様たちだそうです。そこでは、神様たちに感謝して鯉モチーフの椀を作りつづけていたとか。その村の出身者が、九州の有田に移住して大成し、村の神様への感謝をこめてこの茶碗を作ったそうです」
「それのどこが奇妙なの? むしろありがちな由来じゃないかしら」
「うん。ミホによると、その神様の1人は幸運をもたらす神様だけれど、もう1人は貧乏をもたらす神様だと書いてあるんだそうです。貧乏をもたらす神様を祀るのは珍しいそうです」

「まあ、確かに少し変わっているわね。でも世界には、本来の姿とは違う様相で現れて、相手の外見で態度変える人間を試す民話がよくあるから……」
「ああ、クレア。君は実に聡明な人ですね。立派な聖人と、みすぼらしい存在が一緒に人びとの前に現れる話は、ヨーロッパにもよくありますからね」

* * *


「あれからどうなったの?」
キャシーが、朝食のパンケーキをカウンター越しに置いて、クレアに訊いた。

 キャシーから美穂の手紙を受け取ってから、3日ほど経った。いつもは毎日のように《Sunrise Diner》で朝食をとるクレアだが、クライヴが出張だったので店から離れられず、このダイナーに座るのはあれ以来だ。

「クライヴが出張のついでに古伊万里の専門家に逢いにいったの。美穂からの返信が役に立ったみたいよ」

「どういう風に?」
「専門家は、あの茶碗が本当に18世紀初頭以前の古伊万里であるか、疑問だって見解だったんですって。中国あたりで適当に作ったコピーや、19世紀ぐらいに日本に憧れてヨーロッパで焼いた作品もいろいろとあるから」

「偽物扱い? だったら、クライヴは大損しちゃうってことよね」
「ええ。専門家が疑った理由の1つが、あの茶碗が当時の物よりも薄いのに、全く欠けない完璧な状態であること。それに、銘柄からわかった同じ作者に、同じ鯉のモチーフが見つかっていないことだったの」

「へえ。それで?」
「美穂が書いてくれた貧乏をもたらす神様の話をしたら、そこから専門家が調べてくれたの。そして、本当にその作家の故郷の村では、日本でも珍しい風習が残っているんですって。福をもたらす神様と、貧乏をもたらす神様を一緒に祀って、鯉モチーフの茶碗を作る伝統があるそうよ。その事実は業界では全く知られていないので、却って信憑性があるってことになったみたい。クライヴは、思っていた以上の価値があることが確定してとても嬉しそうよ」

 キャシーは、「それはよかったわね」と言って、クレアにコーヒーのお代わりを入れた。クライヴとこの店に来るときは、つきあって彼の持ち込んだ立派なティーポットでミルクティーを飲むクレアだが、実はアメリカ式のコーヒーも好きで、1人の時は《Sunrise Diner》の定番の朝食を楽しんでいる。

「ところで、鯉の話だけれど」
キャシーは、言った。
「なあに?」
「本当に滝を遡ったりするのかなあ」
キャシーは、古代中国の伝説とやらに懐疑的だ。

「ああ、その伝説ね。専門家がいうには、本来中国の文献には、その魚が鯉だとはどこにも書いていなくって、たんに『竜門』という名前の激流のある場所を通り過ぎた魚は勢いがいいからラッキーだという記述が、あるだけなんですって。その話が遠く日本で変節したってことみたい。そもそも滝を登る魚なんていないんじゃないかしら」
クレアは薄いコーヒーを飲みながら、キャシーと笑い合った。

「いますよ」
声のする方を振り向くと、カウンターの端に座る茶色い肌をした青年が微笑んでいた。

 キャシーとクレアは、同時に「本当に?」と口にして、笑った。

「ええ。私の故郷、ハワイにいるハゼの仲間、ノピリ・ロッククライミング・ゴビーっていうんですが、急な岩場の斜面をよじ登って行くんです」

「滝も登ってしまうの?」
キャシーの問いに、青年は頷いた。
「ええ。口の中と、腹部に吸盤があって、滝でも岩を噛むようにして登ってしまいます。そうすることで上流に向かい、下流で多い嵐の影響を避けることができるんです」

「まあ。すごいのね」
クレアは感心した。

「鯉のように大きい魚だと、難しいかもしれません。ノピリ・ロッククライミング・ゴビーは体長2.5センチくらいなので、滝の水量に逆らいながらもよじ登ることができるのかもしれませんね。それでも、よじ登る姿は、とても大変そうです」
 
 そうよね。クレアは考えた。どこかで目撃された不思議は、こうして驚きを持って語り継がれるのだろう。ハワイの話が、ここニューヨークのダイナーで語られるように、中国の話は日本に伝わり、変わった神様たちの話とともに、数百年もの間、人びとの中で語られたのだろう。

 そして、大切に作られただけでなく、何百年も割れないように人びとに大切に扱われた。はるばる世界を旅して、ニューヨーク《ウェリントン商会》のショーウインドーを飾ることになった運命も、この茶碗の幸運な歴史だ。

 あの茶碗の未来の持ち主に、その不思議な巡り合わせを話してあげたいと、クレアは思った。

(初出:2022年2月 書き下ろし)
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Category : scriviamo! 2022
Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】動画配信!

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今日の小説は「scriviamo! 2022」の第4弾です。ユズキさんは、サウンドノベルでご参加くださいました。ありがとうございます!

ユズキさんのサウンドノベル 「scriviamo! 2022 参加作品」
ユズキさんの記事「初サウンドノベル」

ユズキさんは、小説の一次創作やオリジナルのコミックを発表、それにイラストライターとしても活躍なさっているブロガーさんです。代表作であるファンタジー長編『片翼の召喚士-ReWork-』と、その続編『片翼の召喚士-sequel-』、そして、同じくアルファポリスで公開をはじめたばかりのパロディ漫画『片翼の召喚士if』などもとても素敵です。そして大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストも描いてくださっています。

今回作ってくださったサウンドノベルも、既にたくさんイラストを描いてくださりコラボも幾度もしていただいた当ブログの『大道芸人たち Artistas callejeros』ものです。なんと、4人がコロナ禍でロックダウンにあい、外で稼げない代わりに動画配信をはじめるというもの。タイムリーな話題で面白く乗らせていただきました。動画配信、はじめるそうです。


「scriviamo! 2022」について
「scriviamo! 2022」の作品を全部読む
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
「scriviamo! 2020」の作品を全部読む
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む

【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物




大道芸人たち・外伝
動画配信!
——Special thanks to Yuzuki-san


「さて。やるとは決めたものの、どうやるかな」
稔は、チベッカ・ビールの瓶を傾けた。チベッカはバルセロナが本拠地Damm社のセルベッサ銘柄でお手頃価格な上、爽やかで飲みやすいのでここのところ稔が愛飲している。

「まあ、とりあえず配信用のチャンネルの登録はしましたよ。『La fiesta de los artistas callejeros』事務局名義で」
レネが、ブラウザの画面を指さした。

 すでに何度目になるかわからないロックダウンで、大道芸も商売あがったり状態の4人は、暇を持て余していた。本来ならば、今ごろはカデラス氏の店で恒例のディナーショーで稼いでいるはずだったのだが、バルセロナ入りした途端に理不尽なロックダウンにあってしまったのだ。

「何度同じことすりゃ、氣が済むんだよ、まったく」
「ついこの間までは二酸化炭素排出を抑えて、氣候変動を止めるためのロックダウンでしたよね」
「その前は、例の疫病だろ? もういい加減にしてくれ」

「なんだかわからないけれど、人びともうんざりでしょうね。ロックダウンと、反ロックダウンデモの繰り返しって不毛だと思うんだけれど」
サロンに入って来た蝶子がため息交じりに言った。

「半年後のフィエスタだって開催できるか赤信号だし、こっちも本当にいい迷惑だよ」
稔が事務局長をつとめている『La fiesta de los artistas callejeros』、通称フィエスタは、世界中からの大道芸人たちが一堂に会する大道芸人たちの祭典だ。だが、国境が封鎖されたり、飛行機が突然飛ばなくなったり、入国する度にやたらと高額な検査を要求されるようになったりすると、大道芸人たちも簡単には来られない。観客ともなるとなおさらだ。

 ロックダウンで仕事もなくなり、当面は滞在中のカルロスの屋敷で酒飲みに明け暮れるしかない4人は、とりあえず暇な時間を利用してフィエスタが現地で開催できない場合の代替案としてネット空間上でのフィエスタ開催を模索することにした。だが、それ以前に彼ら自身が動画配信サービスを利用したことすらない状態はまずいだろうということになり、動画配信にトライすることになったのだ。

 チャンネル登録はしたものの、何を配信するかという話になるとまとまらない。
「1億回再生って、ホンキの目標かよ」
「あれはヴィルの渾身のジョークでしょ?」
「あれでジョーク?!」

 蝶子は、片手に持っているグラスからシェリーを飲んだ。
「いきなり儲けようとしても、そうは問屋が卸さないでしょ。まずは私たちらしい映像で、他の動画配信とは違う部分をアピールする方がいいんじゃない?」

 稔は、腕組みをしながら答える。
「俺たちらしいか。大道芸パフォーマンスや演奏はもちろん入れるとして、それだけでない売りになる映像もほしいよな」

「大道芸だけで勝負しないと、またテデスコが邪道だと怒るんじゃないですか?」
レネは心配そうに言った。

「いや、俺たちの大道芸だけでなく、フィエスタの魅力を伝える目的もあるからさ。ロックダウンがこのまま続けば、この動画チャンネル上でフィエスタを開催することになるだろうし、反対にその時期にはアンロックされていたら、このチャンネルが参加者や観客に来場を促進するような内容でもあるべきだろう? だったら、俺たちの大道芸だけのアピールじゃ困るんだよ」

 レネは「なるほど」と頷いた。
「じゃあ、バルセロナの魅力を混ぜますか?」
「いいわね。私たちの現状を伝えるだけじゃなくて、アンロックされた場合は開催地のアピールにもなるしね」

「だけど、基本外出禁止なのに、どうすんだよ」
稔が口を尖らせた。

「買い出しがチャンスだ」
3人が顔を向けると、戸口にヴィルが立っている。手にはやはりチベッカの瓶を持っている。

 ロックダウン中は、外出許可無く住居を離れることは許されていないが、週に2度ほどめぐってくる「買い出し外出許可」の時だけは別だ。基本的には、住居と買い出しをする店との往復しか許されていないが、外に出られることは間違いない。
「買い出し先をできるだけ遠い店にして、途中の光景を動画に収める」

「なるほど。できるだけ絵になる地域を通って買い出しに行くわけだ。スマホを掲げていると目立つし、警察に難癖つけられる可能性もあるので、機材をどうにかしたいな」

「だったら、これよ。こんなに小さいのに手ぶれ補正までついたアクションカメラ」
なにやら検索をしていた蝶子が示しているWEBサイトには、親指ほどの大きさの白いカメラを胸元につけて動いているモデルが映っている。アクションカメラの商品説明のようだ。

「へえ。小さくて軽い。ハンズフリーでも、手で持っても使える。軽く走ってもぶれない補正。いろいろな場所に固定してさまざまな角度から撮影可能か。この最後の機能は、パフォーマンスを撮るときにも上手く使えそうだな」
「しかも、この充実した機能なのにさほど高くないんですね」
「どう、ヴィル?」
「いいんじゃないか? ある程度の映像を貯めて、それを編集だな」

 飲みながら4人はある程度のプランをまとめた。ロックダウンで街頭にはほとんど人がいないが、プロモーション的な観光地の映像を撮るにはかえって好都合だ。そして、同時進行でメインとなるパフォーマンスをこのカルロスの屋敷の敷地内で撮影し、最終的に別に録音した彼らの演奏と組み合わせる。

「よし、じゃあ、行動開始だ。お蝶、お前はギョロ目に穴場的な映りのいい場所を訊いてこい。ガウディだけじゃ芸が無いからな。ブラン・ベックはイネスさん情報をもらってきてくれ。ヴィルは、動画編集のコツやどうやって映える映像を撮るのかを少し研究しくれ。他にも必要な機材があったらまとめておいてくれよな。俺は、ここのでかい敷地内でどこを上手にパフォーマンスの背景に使えるか、ロケーション選定する。そして、行動中にどのパフォーマンスがいいか、曲はどれが映えるか各自考えておくこと。OK?」

 稔は、何度も滞在してすっかり慣れたコルタドの館の中を散策した。改めてみると豪華だよな、ここ。

 エントランスホールの白い大理石の床の真ん中に置かれた大理石の丸テーブルの上には赤い大きな花瓶が置かれ、いつもトロピカル調の艶やかな花が生けられている。白い天井には黒檀の柱が並行に張り巡らされて、同じ色の階段の手すりやドアがどっしりとした印象を強めている。

 パブリック・エリアは天井が高く、大広間は外壁と同じ白と灰色の石の壁に黒檀の重厚な天井。壁面の多くが大理石アーチで修飾されており、下がるシャンデリアは真鍮製だ。普段使う食堂ですら、一般的日本家屋で育った稔には広すぎるくらいだ。

 プライヴェート・エリアになっている2階と3階には大小合わせて20以上の部屋がある。稔が滞在の度に自室として使わせてもらっている部屋には、天蓋付きのダブルサイズのベッド、彫刻を施した木製のライティングビューローと椅子、ソファとローテーブル、それにワードローブの他に、とても高いのだろうなと思うアラベスク文様の陶製の壺を使ったランプが置かれている。

 アラブ風のタイルで装飾された中庭には、六角形の噴水を中心にオレンジや椰子の木が植えられていて、初めて見たときはアルハンブラ宮殿かよとツッコんだものだ。

 玄関と門の間は、内部が見えないようにちょっとした林のようになっていて歩くとけっこうな散歩になる。また裏庭の方はさらに広くて、数カ所の東屋やちょっとした植物園となっているエリアの他に、馬小屋や豚小屋などがあって、庭は稔の散歩コースになっていた。

 どこを背景にしても絵になることは間違いない。だが、自分の家ではないし、場所が特定されないように細心の注意をしなくてはならないし、よからぬことを考える人に盗む価値のあるものがあると教えるようなことも避けなくてはならない。

 東屋や中庭、それに階段の踊り場でのパフォーマンスは問題ないだろう。それに大広間ではかなり背景をぼかしたり、人物やピアノに寄ったりして、高そうな家財が映らないようなアングルにするか。

 それに街を歩きながらの手品や演奏なども少し試してみるか。それだけじゃなくて、他に何かないかな……。

 稔はいったん邸内に戻り、自分用と、書斎でPCに向かっているヴィル用に新しいチベッカの瓶を持っていった。

「撮影中に左右にカメラを動かすパンや、ズームをやたらとすると素人っぽいブレやおかしな動きになるので、多用しないほうがいいらしい。それに、何かを撮るときは1カット10秒くらいはとっておき後から編集する方がいいようだ」
「へえ。なるほど。他には?」
「1つの素材に対して、全体像のわかる『引き』と細部のわかる『寄り』の絵を撮っておき、編集でバランスよく出す。それから、自分たちの目線だけでなく、上から、斜めから、下からなどアングルを意識して素材を撮っておく必要があるな」

「なるほどね。平時と違ってなんども撮り直しにいけない分、こうした視点で準備しておくのは大切だな」
「購入したアクションカメラ1つだけでなく、同時にスマホやズームのあるコンデジカメラで撮るようにするか」

 ビール瓶を渡すと、ヴィルは礼を言って受け取って飲んだ。彼は赤いラベルの『Xibeca』の字をじっと見つめた。
「これは、どういう意味なんだ?」

「カタルーニャ語でフクロウだってさ。前回の滞在の時、バルで知り合ったカタルーニャ人に奨められた。飲みやすい上に財布にも優しい値段ってのは嬉しいよな」

「これだけ何度もスペインに来ていたのに、それまで知らなかったんだから、探したら他にもこういう掘り出し物があるかもしれないな」

 ヴィルの言葉に、稔ははたと思った。
「もしかして、これもいいアイデアじゃないか?」
「何がだ?」

 その時、レネが息を切らして入って来た。
「僕、いまイネスさんと話していて思ったんですけれど……」

「なんだ、ブラン・ベック」
「僕と話しながら、イネスさん、ものすごい手際の良さでタパスを作っていたんです。それを見ていたらこういうのが映ったら、みんなスペインやバルセロナに来たくなるんじゃないかなって」

 稔は、笑って立ち上がった。
「ちょうど俺もいま、このビールみたいに知られていない美味いものを映すのはどうかなって思っていた所なんだよ」

 蝶子が入って来た。
「ねえ。市街地しか歩けないかと思っていたけれど、シウタデヤ公園を横切るように通れば、かなり絵になる映像が撮れそうよ。それに、そのあたりボルン地区のサンタ・カタリナ市場が閉鎖されていなければ、そこを目的地ににするといいかもって。カタルーニャ音楽堂のファサードなども上手く撮れるんじゃないかって」

「よし。じゃあ、次の買い出しの日にボルン地区に行こう。そこで撮影してくるバルセロナの風景。それに、このビールやワインやシェリー酒、それにイネスさんが作っているスペインらしい料理の数々などの映像と、この館のあちこちで撮る俺たちのパフォーマンスを組み合わせようぜ」

「ヤスの好きなイベリコの生ハムもな」
「甘いものも忘れないでくださいよ」

「いいわね。フィエスタに興味を持ってもらえるだけでなく、ロックダウンの鬱屈を忘れられて、これが終わったらバルセロナに絶対に行こうって思ってもらえる映像になりそう」

 旅に対する憧れと、自由への讃美を映像に込める。それは、そもそも4人がこの長い旅をはじめた理由に繋がる。計画が楽しくなって、4人は改めて盃を重ねた。今夜もまたたくさん飲むことになりそうだ。

(初出:2022年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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作品を読んで、細かいことに引っかかられた方がいるかも知れません。「ロックダウンの理由がなんか変だぞ」と。そうなんです。コロナ禍でロックダウンした2020年-2021年現在の話ではないような書き方をしています。

じつは『大道芸人たち Artistas callejeros』は、厳密には近未来小説であるという裏事情がありまして(これは『大道芸人たち Artistas callejeros』の設定ではなくて別の作品『樋水龍神縁起』の設定で、両方に出てくる真耶と拓人の年齢からそうなってしまうだけなんですけれど)2022年の現在稔も蝶子も小学生なのです。これは2011年にこの小説を書いていたときの私の読みが浅かったというミスです。2011年も2030年もヨーロッパはそんなに変わっていないだろうとタカをくくっておりました。まさか、こんなことが起こるとはorz

でも、このブログのいろいろな方とのコラボにおいては、実は昭和の方とも会っていますし、これまで書いてきた『大道芸人たち Artistas callejeros』の話で私が記述してきたあれこれは全て2011年から現在の内容を素にしていますし、そもそも小説だし、これでいいことにしておきます。
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Posted by 八少女 夕

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今日の小説は「scriviamo! 2022」の第4弾です。ユズキさんは、サウンドノベルでご参加くださいました。ありがとうございます!

ユズキさんのサウンドノベル 「scriviamo! 2022 参加作品」
ユズキさんの記事「初サウンドノベル」

ユズキさんは、小説の一次創作やオリジナルのコミックを発表、それにイラストライターとしても活躍なさっているブロガーさんです。代表作であるファンタジー長編『片翼の召喚士-ReWork-』と、その続編『片翼の召喚士-sequel-』、そして、同じくアルファポリスで公開をはじめたばかりのパロディ漫画『片翼の召喚士if』などもとても素敵です。そして大変お忙しい中、私の小説にたくさんの素晴らしいイラストも描いてくださっています。

今回作ってくださったサウンドノベルも、既にたくさんイラストを描いてくださりコラボも幾度もしていただいた当ブログの『大道芸人たち Artistas callejeros』ものです。なんと、4人がコロナ禍でロックダウンにあい、外で稼げない代わりに動画配信をはじめるというもの。タイムリーな話題で面白く乗らせていただきました。動画配信、はじめるそうです。


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「さて。やるとは決めたものの、どうやるかな」
稔は、チベッカ・ビールの瓶を傾けた。チベッカはバルセロナが本拠地Damm社のセルベッサ銘柄でお手頃価格な上、爽やかで飲みやすいのでここのところ稔が愛飲している。

「まあ、とりあえず配信用のチャンネルの登録はしましたよ。『La fiesta de los artistas callejeros』事務局名義で」
レネが、ブラウザの画面を指さした。

 すでに何度目になるかわからないロックダウンで、大道芸も商売あがったり状態の4人は、暇を持て余していた。本来ならば、今ごろはカデラス氏の店で恒例のディナーショーで稼いでいるはずだったのだが、バルセロナ入りした途端に理不尽なロックダウンにあってしまったのだ。

「何度同じことすりゃ、氣が済むんだよ、まったく」
「ついこの間までは二酸化炭素排出を抑えて、氣候変動を止めるためのロックダウンでしたよね」
「その前は、例の疫病だろ? もういい加減にしてくれ」

「なんだかわからないけれど、人びともうんざりでしょうね。ロックダウンと、反ロックダウンデモの繰り返しって不毛だと思うんだけれど」
サロンに入って来た蝶子がため息交じりに言った。

「半年後のフィエスタだって開催できるか赤信号だし、こっちも本当にいい迷惑だよ」
稔が事務局長をつとめている『La fiesta de los artistas callejeros』、通称フィエスタは、世界中からの大道芸人たちが一堂に会する大道芸人たちの祭典だ。だが、国境が封鎖されたり、飛行機が突然飛ばなくなったり、入国する度にやたらと高額な検査を要求されるようになったりすると、大道芸人たちも簡単には来られない。観客ともなるとなおさらだ。

 ロックダウンで仕事もなくなり、当面は滞在中のカルロスの屋敷で酒飲みに明け暮れるしかない4人は、とりあえず暇な時間を利用してフィエスタが現地で開催できない場合の代替案としてネット空間上でのフィエスタ開催を模索することにした。だが、それ以前に彼ら自身が動画配信サービスを利用したことすらない状態はまずいだろうということになり、動画配信にトライすることになったのだ。

 チャンネル登録はしたものの、何を配信するかという話になるとまとまらない。
「1億回再生って、ホンキの目標かよ」
「あれはヴィルの渾身のジョークでしょ?」
「あれでジョーク?!」

 蝶子は、片手に持っているグラスからシェリーを飲んだ。
「いきなり儲けようとしても、そうは問屋が卸さないでしょ。まずは私たちらしい映像で、他の動画配信とは違う部分をアピールする方がいいんじゃない?」

 稔は、腕組みをしながら答える。
「俺たちらしいか。大道芸パフォーマンスや演奏はもちろん入れるとして、それだけでない売りになる映像もほしいよな」

「大道芸だけで勝負しないと、またテデスコが邪道だと怒るんじゃないですか?」
レネは心配そうに言った。

「いや、俺たちの大道芸だけでなく、フィエスタの魅力を伝える目的もあるからさ。ロックダウンがこのまま続けば、この動画チャンネル上でフィエスタを開催することになるだろうし、反対にその時期にはアンロックされていたら、このチャンネルが参加者や観客に来場を促進するような内容でもあるべきだろう? だったら、俺たちの大道芸だけのアピールじゃ困るんだよ」

 レネは「なるほど」と頷いた。
「じゃあ、バルセロナの魅力を混ぜますか?」
「いいわね。私たちの現状を伝えるだけじゃなくて、アンロックされた場合は開催地のアピールにもなるしね」

「だけど、基本外出禁止なのに、どうすんだよ」
稔が口を尖らせた。

「買い出しがチャンスだ」
3人が顔を向けると、戸口にヴィルが立っている。手にはやはりチベッカの瓶を持っている。

 ロックダウン中は、外出許可無く住居を離れることは許されていないが、週に2度ほどめぐってくる「買い出し外出許可」の時だけは別だ。基本的には、住居と買い出しをする店との往復しか許されていないが、外に出られることは間違いない。
「買い出し先をできるだけ遠い店にして、途中の光景を動画に収める」

「なるほど。できるだけ絵になる地域を通って買い出しに行くわけだ。スマホを掲げていると目立つし、警察に難癖つけられる可能性もあるので、機材をどうにかしたいな」

「だったら、これよ。こんなに小さいのに手ぶれ補正までついたアクションカメラ」
なにやら検索をしていた蝶子が示しているWEBサイトには、親指ほどの大きさの白いカメラを胸元につけて動いているモデルが映っている。アクションカメラの商品説明のようだ。

「へえ。小さくて軽い。ハンズフリーでも、手で持っても使える。軽く走ってもぶれない補正。いろいろな場所に固定してさまざまな角度から撮影可能か。この最後の機能は、パフォーマンスを撮るときにも上手く使えそうだな」
「しかも、この充実した機能なのにさほど高くないんですね」
「どう、ヴィル?」
「いいんじゃないか? ある程度の映像を貯めて、それを編集だな」

 飲みながら4人はある程度のプランをまとめた。ロックダウンで街頭にはほとんど人がいないが、プロモーション的な観光地の映像を撮るにはかえって好都合だ。そして、同時進行でメインとなるパフォーマンスをこのカルロスの屋敷の敷地内で撮影し、最終的に別に録音した彼らの演奏と組み合わせる。

「よし、じゃあ、行動開始だ。お蝶、お前はギョロ目に穴場的な映りのいい場所を訊いてこい。ガウディだけじゃ芸が無いからな。ブラン・ベックはイネスさん情報をもらってきてくれ。ヴィルは、動画編集のコツやどうやって映える映像を撮るのかを少し研究しくれ。他にも必要な機材があったらまとめておいてくれよな。俺は、ここのでかい敷地内でどこを上手にパフォーマンスの背景に使えるか、ロケーション選定する。そして、行動中にどのパフォーマンスがいいか、曲はどれが映えるか各自考えておくこと。OK?」

 稔は、何度も滞在してすっかり慣れたコルタドの館の中を散策した。改めてみると豪華だよな、ここ。

 エントランスホールの白い大理石の床の真ん中に置かれた大理石の丸テーブルの上には赤い大きな花瓶が置かれ、いつもトロピカル調の艶やかな花が生けられている。白い天井には黒檀の柱が並行に張り巡らされて、同じ色の階段の手すりやドアがどっしりとした印象を強めている。

 パブリック・エリアは天井が高く、大広間は外壁と同じ白と灰色の石の壁に黒檀の重厚な天井。壁面の多くが大理石アーチで修飾されており、下がるシャンデリアは真鍮製だ。普段使う食堂ですら、一般的日本家屋で育った稔には広すぎるくらいだ。

 プライヴェート・エリアになっている2階と3階には大小合わせて20以上の部屋がある。稔が滞在の度に自室として使わせてもらっている部屋には、天蓋付きのダブルサイズのベッド、彫刻を施した木製のライティングビューローと椅子、ソファとローテーブル、それにワードローブの他に、とても高いのだろうなと思うアラベスク文様の陶製の壺を使ったランプが置かれている。

 アラブ風のタイルで装飾された中庭には、六角形の噴水を中心にオレンジや椰子の木が植えられていて、初めて見たときはアルハンブラ宮殿かよとツッコんだものだ。

 玄関と門の間は、内部が見えないようにちょっとした林のようになっていて歩くとけっこうな散歩になる。また裏庭の方はさらに広くて、数カ所の東屋やちょっとした植物園となっているエリアの他に、馬小屋や豚小屋などがあって、庭は稔の散歩コースになっていた。

 どこを背景にしても絵になることは間違いない。だが、自分の家ではないし、場所が特定されないように細心の注意をしなくてはならないし、よからぬことを考える人に盗む価値のあるものがあると教えるようなことも避けなくてはならない。

 東屋や中庭、それに階段の踊り場でのパフォーマンスは問題ないだろう。それに大広間ではかなり背景をぼかしたり、人物やピアノに寄ったりして、高そうな家財が映らないようなアングルにするか。

 それに街を歩きながらの手品や演奏なども少し試してみるか。それだけじゃなくて、他に何かないかな……。

 稔はいったん邸内に戻り、自分用と、書斎でPCに向かっているヴィル用に新しいチベッカの瓶を持っていった。

「撮影中に左右にカメラを動かすパンや、ズームをやたらとすると素人っぽいブレやおかしな動きになるので、多用しないほうがいいらしい。それに、何かを撮るときは1カット10秒くらいはとっておき後から編集する方がいいようだ」
「へえ。なるほど。他には?」
「1つの素材に対して、全体像のわかる『引き』と細部のわかる『寄り』の絵を撮っておき、編集でバランスよく出す。それから、自分たちの目線だけでなく、上から、斜めから、下からなどアングルを意識して素材を撮っておく必要があるな」

「なるほどね。平時と違ってなんども撮り直しにいけない分、こうした視点で準備しておくのは大切だな」
「購入したアクションカメラ1つだけでなく、同時にスマホやズームのあるコンデジカメラで撮るようにするか」

 ビール瓶を渡すと、ヴィルは礼を言って受け取って飲んだ。彼は赤いラベルの『Xibeca』の字をじっと見つめた。
「これは、どういう意味なんだ?」

「カタルーニャ語でフクロウだってさ。前回の滞在の時、バルで知り合ったカタルーニャ人に奨められた。飲みやすい上に財布にも優しい値段ってのは嬉しいよな」

「これだけ何度もスペインに来ていたのに、それまで知らなかったんだから、探したら他にもこういう掘り出し物があるかもしれないな」

 ヴィルの言葉に、稔ははたと思った。
「もしかして、これもいいアイデアじゃないか?」
「何がだ?」

 その時、レネが息を切らして入って来た。
「僕、いまイネスさんと話していて思ったんですけれど……」

「なんだ、ブラン・ベック」
「僕と話しながら、イネスさん、ものすごい手際の良さでタパスを作っていたんです。それを見ていたらこういうのが映ったら、みんなスペインやバルセロナに来たくなるんじゃないかなって」

 稔は、笑って立ち上がった。
「ちょうど俺もいま、このビールみたいに知られていない美味いものを映すのはどうかなって思っていた所なんだよ」

 蝶子が入って来た。
「ねえ。市街地しか歩けないかと思っていたけれど、シウタデヤ公園を横切るように通れば、かなり絵になる映像が撮れそうよ。それに、そのあたりボルン地区のサンタ・カタリナ市場が閉鎖されていなければ、そこを目的地ににするといいかもって。カタルーニャ音楽堂のファサードなども上手く撮れるんじゃないかって」

「よし。じゃあ、次の買い出しの日にボルン地区に行こう。そこで撮影してくるバルセロナの風景。それに、このビールやワインやシェリー酒、それにイネスさんが作っているスペインらしい料理の数々などの映像と、この館のあちこちで撮る俺たちのパフォーマンスを組み合わせようぜ」

「ヤスの好きなイベリコの生ハムもな」
「甘いものも忘れないでくださいよ」

「いいわね。フィエスタに興味を持ってもらえるだけでなく、ロックダウンの鬱屈を忘れられて、これが終わったらバルセロナに絶対に行こうって思ってもらえる映像になりそう」

 旅に対する憧れと、自由への讃美を映像に込める。それは、そもそも4人がこの長い旅をはじめた理由に繋がる。計画が楽しくなって、4人は改めて盃を重ねた。今夜もまたたくさん飲むことになりそうだ。

(初出:2022年2月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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作品を読んで、細かいことに引っかかられた方がいるかも知れません。「ロックダウンの理由がなんか変だぞ」と。そうなんです。コロナ禍でロックダウンした2020年-2021年現在の話ではないような書き方をしています。

じつは『大道芸人たち Artistas callejeros』は、厳密には近未来小説であるという裏事情がありまして(これは『大道芸人たち Artistas callejeros』の設定ではなくて別の作品『樋水龍神縁起』の設定で、両方に出てくる真耶と拓人の年齢からそうなってしまうだけなんですけれど)2022年の現在稔も蝶子も小学生なのです。これは2011年にこの小説を書いていたときの私の読みが浅かったというミスです。2011年も2030年もヨーロッパはそんなに変わっていないだろうとタカをくくっておりました。まさか、こんなことが起こるとはorz

でも、このブログのいろいろな方とのコラボにおいては、実は昭和の方とも会っていますし、これまで書いてきた『大道芸人たち Artistas callejeros』の話で私が記述してきたあれこれは全て2011年から現在の内容を素にしていますし、そもそも小説だし、これでいいことにしておきます。
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】魔法少女、はじめることになりました

scriviamo!


今日の小説「scriviamo! 2022」の第3弾です。あんこさんは今年も、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

あんこさん(たらこさん)は、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんで、「ひまわりシティーへようこそ!」を改稿連載中です。「scriviamo!」にもよくご参加くださり、素敵なイラストなども描いてくださっています。

さて、今回もB、しかも先週のお申し出だったので、少々慌てて用意しました。なんせ締め切りまであと1か月ですからね。突貫工事でしたが、こんな感じの話になりました。主人公の兄には既視感があるかもしれません。『アプリコット色の猫』で登場したあの人です。でも、この話とは関係ないので別に読まなくてもいいです。


「scriviamo! 2022」について
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魔法少女、はじめることになりました
——Special thanks to Anko-san


 広香は、若干いら立った様相で狭い会議室を見回した。いったい、いつまで待たせるのよ。今日はタイムセールの時間にはミツバスーパーに入りたいんだけれどなあ。和牛の切り落としが40%オフになるのは、次はいつだかわからないもの。

 広香は、小さな会社で経理を担当する、ギリギリ20代の事務員だ。地味で上等。堅実に生きていると言ってほしい。流行にはさほど左右されないタイプの黒っぽいスーツを愛用し、低めのヒールで商店街を闊歩している。要は、オシャレとも都会とも無縁。

 こんな都心のテレビ局に来るのは初めてだし、今後もきっと来ないだろう。今日だって、兄さんに押しつけられなかったら来たくなかった。

 広香の兄は、しょうもない男だ。仕事はすぐに辞めるし、その割にキャバクラ通いはやめないし、子供の頃から約束を守ったためしがないのに、競馬の予定だけは忘れることなく出かけていく。

 広香が中学生だった頃、もらったお年玉をせっせと貯金していたのだが、勝手に解約して有馬記念につぎ込んだことがあった。見事にすべてをハズレ馬券にしてしまい、親戚中の非難を浴びた。一念発起して皐月賞で万馬券を当てたのだが、「他にも返すところがあるから」などと言って、7割ほどしか返してくれなかった。それでも「ちゃんと取り返した」と思い出をすり替えて吹聴している。

 細かい性格の広香の方はまだ忘れていないが、兄はその後もあれこれ迷惑をかけすぎていて、いちいち詳細は記憶していないらしい。

 今日、テレビ局にやって来たのも、その兄が勝手にエキストラに応募したからだ。ギャラが破格だったので応募したが、よく見たら女性限定だという。しかたなく広香の写真と適当なプロフィールで応募したら、なんと書類審査に合格してしまったんだそうな。頼み倒されて、しかたなく面接にだけは行くことにした。

 待合室にされている会議室には、何人もの若い女性がいた。女性というよりは女の子といった方がいい。成人と思える年齢の子は見なかった。もしかして応募要項にティーンって書いてあったんじゃないの? どうして書類で落としてくれなかったんだろう。

 少女たちは1人ずつ呼ばれて、面接室に入っていったが、皆出てくるとそのまま帰って行った。最後に残ったのは広香だけで、呼ばれてしかたなく面接官の待つ部屋に入っていった。

 一礼して見ると、3人の男たちが顔を見合わせている。こっちが年増で場違いなのは書類の段階で知っていたでしょう。なんなのよ。

「ほう」
真ん中のえらそうな男が、まじまじと見つめた。

「これは、決まりですかね」
「大手プロから、横やりが入りませんかね」
「いや、これだけ似ていれば、誰も文句は言われないだろう」

 広香は、何の話だろうと訝った。

「君、会社勤めということだけれど、来月からの撮影は大丈夫かね?」
「撮影ですか。1日くらいなら有休で何とかしますけれど、でも、さっきの子たちの方が適任なのでは? エキストラといっても、私は未経験ですよ」
広香は、落としてくれる方がありがたいと思って口にした。

「エキストラ? いやいや、レギュラーだよ。準主役みたいなもんだ」
「なんですって?」
「履歴書を見てすぐに君のマネジャーにも連絡しただろう? エキストラじゃなくて、メインキャストとしてオーディションを受けてほしいって」

 マネジャーというのは、兄さんのことかしら。メインキャストって、なんの?
「すみません。その話は、初耳です。そもそも何の番組なんですか?」

 3人は、顔を見合わせた。まさかここまでやる氣の無い応募者だとは思わなかったのだろう。でも、怒られたって構わない。別に芸能界デビューしたいわけじゃないし。

 右側のへなへなした感じの男が口を開いた。
「そうか。じゃ、説明しますよ。君は、ほしの美亞を知っていますよね」

 広香は天井を見上げて、必死に記憶をたどった。ああ、確かあれ。アイドルグループの……。
「なんでしたっけ。ラクシュミー8とかいうグループのセンターの人?」

 3人は、露骨に嫌な顔をした。左のぞんざいな感じの男が口をとがらす。
「サラスヴァーティ8だよ。それに去年いっぱいで卒業して、いまは女優だ」
「はあ。すみません」

「『2650年に1人の美少女』って呼ばれているんだ」
なんでそんな半端な数なんだろう?

「『マカリトオル以来はじめての国民的アイドル』とも呼ばれているんだぞ」
じゃあ、2650年に1人じゃないじゃない。

「とにかく、ほしの美亞のソロデビュー後はじめての主演番組なんだ。これが台本。ま、少し直しはあると思うけれど」
そういっていきなり手渡された分厚い冊子には、『らりるれ♡マジカルフェアリーズ』と書いてあった。

「あ~、これは、どういう……」
「まあ、魔法少女ものだね。5人の女の子がマジカルフェアリーズに変身して、悪の組織と戦うわけ。美亞が『愛のフェアリー♡ピンキーラブ』だ。2番手の『海のフェアリー♡オーシャンパール』には声優界のアイドル新城あやが出演して話題性も抜群。他にも『ひまわり69』出身の町田エミリが『森のフェアリー♡フォレスティ』、お笑い担当として太めの子役の山口小丸が『ミカンのフェアリー♡マンダリーノ』として出演することも決まっている」

 そのメンバーで魔法少女の実写版ですか。まあ、好きに作ってくれていいんだけれど、それと私とどういう関係が……。広香は戸惑いながら3人の顔を眺めた。

「そしてだね。君には『雪のフェアリー♡ブラマンジェ』をやってもらいたいんだよ」
「は?」

 広香は、思わず立ち上がった。冗談にしては手が込んでいる。でも、それはないだろう。
「話に上がっていたアイドルの子たち、みなティーンでしょ? 私はそんなに若くないし、そもそも芸能人じゃありませんし、なぜそんなおかしな発想になるんですか?」

 真ん中のえらそうな小太り眼鏡が、両手を顎の下で組んで広香をじっと見て言った。
「スポンサーの要望でね。まあ、君が要望そのものってわけではないんだけれど、我々としては、他に選択肢がなくてねぇ」

「どういうことですか?」
「吉原澄乃を知っているね」

 もちろん。私がリアルタイムで知っているのは、任侠ものの姐さん役で再ブレイクした後だけれど、私の両親の世代には清純派正統女優として絶大な人氣を誇った昭和の大女優だ。実は、小学生の頃の私のあだ名は「姐さん」だった。顔立ちや雰囲氣が吉原澄乃に似ているという理由でだ。

「一番の大口スポンサーの会長が、吉原澄乃の大ファンでね。どうしてもメインキャストとして出せといってきかないんだ。だが、いくら美人女優でも80歳に魔法少女はやらせられない。だが、ヒロインの祖母役などは絶対に受け入れられないと言うんだ」

「はあ」
「それで、無理に設定を作った。吉原澄乃が正義のマジカルフェアリーズの女王で、自分の後継者を探している。そして自らも魔法少女に変身して候補者たちの近くで選考に関わろうってわけだ。もちろん最終的に次期女王は美亞になるわけだが、吉原澄乃が化けている設定の魔法少女が必要になってね。会長お望みのミニスカ・シーンも作らなくちゃいけないし」

 へなへなした男が続ける。
「君の、その昭和の教育ママ風の黒縁眼鏡姿の写真を見たときに、天の救いだと思ったンですよ。『二十四の瞳』を演じたときの吉原澄乃に瓜二つ! よく言われません?」

「まあ、それは言われることありますけれど」
この眼鏡は、女優に似せることを狙ったわけではなく、キャンペーンでこれだけ5割引になっていたから買ったんだけど。

「もしかして、エキストラ募集に、吉原澄乃似は優遇とかなんとか書きました?」
「募集では書かなかったけれど、君の履歴書見てからマネジャーさんに事情を話して、オーディション受けて出演に持ち込んでくれるならと、前金振り込んだよね? 」

 あのクソ兄貴め〜。広香は、怒りでその場に倒れそうだった。よくも妹を売ったな。

 ともかく返事を保留して会場の外に出て、すぐに兄に電話した。
「どういうことよ! いくら受け取ったのよ、さっさと返却しなさいよ」

「ああ、大丈夫。桜花賞にモチが出るんだ。あれと、ブラックキギョウ、まあ、かなりの大穴だけれど、当たれば各方面への借金完済だからさ。その賞金からお前にもきれいに返せるよ」
「全然大丈夫じゃないわよ! またするだけでしょ。キャバクラと競馬に、妹を売ったお金で通ってんじゃないわよ」

 あまりのパワーワードに、道行く人たちがぎょっとしてこちらを見ている。広香は、少し声をひそめた。

「いい? もうじき三十路のいい歳して魔法少女になってミニスカ履いていたら、我が家の恥さらしは兄さんじゃなくって私になっちゃうでしょ! とにかく今すぐ帰るから、お金は耳を揃えて用意しておくこと!」

 だが、広香は現金が残っていることはあまり期待していなかった。少なくとも間もなくあの兄とは30年の付き合いになるのだ。まとまった万札が手に入ったら、定期預金にしておくようなタイプではない。

 でも、これからどうしよう。20代の終わりに魔法少女としてミニスカを履くようなトホホ案件にぶち当たるなんて、なんの罰ゲームだろう。

 それが、年増の魔法少女『雪のフェアリー♡ブラマンジェ』誕生日だった。

(初出:2022年1月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】存在しないはずの緑

scriviamo!


今日の小説「scriviamo! 2022」の第2弾です。山西 左紀さんも、プランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

今年は、私が先行ということで、何を書こうか悩んだのですが、サキさんに敬意を表して何かメカ系、またはSFっぽい作品が書けないかなと熟考しました。で、昨年書いた作品、慣れないのに頑張ってパイロットものを書いたので、その人物を再登場させることにしました。

とはいえ、昨年のストーリーとは、全く関係ないので、わざわざ読み返す必要はありません。今回の話、トンデモSFのように書いてありますが、一応すべて現実にあったとされている(真偽のほどは別として)話を元に書いています。その後の構想などはまるでない、書きっぱなしですけれど……


【参考】
私が書いた『忘れられた運び屋』

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存在しないはずの緑
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 まったく。ロベルト・クレイのやつ、とんでもない仕事を紹介してくれたわね。ティーネはムカムカする思いを押さえ込みながら、計器をチェックした。

 普段の仕事、セスナ172Bでリューデリッツから国内の地方農場へ堆積グアノを輸送するのは、大した緊張感も必要としない。かつて空軍で初の白人女性パイロットとして飛んでいたときと違い、半分寝ていても墜落はしないだろう。

 だが、今日のフライトは、それとはわけが違う。キングエア300の航続仕様時の航続距離は3672 km。ニュージーランドのインバーカーギルから、南極のマクマード基地までの飛行距離は3499kmだ。そして、リューデリッツでポンコツ車を運転するときと違い、途中にも近隣にも「ガソリンスタンド」はない。

 磁極に近すぎる飛行経路では磁気コンパスは使用できないので、計器飛行方式をとるしかない。一匹狼として自由に飛ぶことを好むティーネでも、背に腹は代えられない。長時間にわたる計器と目視、さらには運航情報官との絶え間ない通信で神経をすり減らしている。

 それなのに、2人の乗客が次から次へと要求を振りかざし、無視するティーネとの板挟みになった乗務員がしつこく話しかけてくるのだった。

「観光は、現地に着いてからにするんですね」
「でも、航路の変更じゃなくて少し高度を下げるだけですよ。ここは鯨の群れが見える海域だと、お客様のご要望なんです」
「下げたら燃費が悪くなるんですよ。目的地に着く前にガス欠になってもいいの? あの客だけじゃなくて、あなたも海の藻屑だけど」

 乗務員は、ムッとして大富豪とその愛人に説明するために後ろに戻っていった。

「聞いた通り愛想がないねえ。エルネスティーネ・クラインベック」
横に座る【グリーンマン】がせせら笑った。

 ティーネは、ふんと鼻を鳴らした。どういうわけか【グリーンマン】と呼ばれているこの男は、ロベルト・クレイが紹介してきた自称冒険家だ。

 海外における傷害未遂事件を起こして軍をクビになったティーネは、生活のためにペンギンの糞を輸送する仕事に甘んじている。その彼女に、復讐を兼ねた情報供与の話を持ち込んだのが、フリージャーナリストのクレイだ。彼女は、結局その話に乗った。すぐにも生活が変わるかと思っていたのに、クレイはのらりくらりと話をかわし、どういうわけか先にこのフライトを受けてくれないかと言ってきた。

 後ろに乗せているのはウィリアムズなる初老の大富豪と、その娘といってもおかしくない年齢の愛人。ありきたりの旅には飽きたので、南極に行きたいが、のんびりと観光船なんかには乗りたくない。それで、このキングエアをチャーターして、直接マクマード基地まで飛べというわけだ。

 伝書鳩みたいな役割しか果たさない客室乗務員の他に、乗務員はティーネとこの【グリーンマン】だけだ。ロベルト・クレイの説明と書類上では、操縦士並びに整備士の資格を備えているのだが、先ほどから隣で話しているのを聞くと、どうも怪しい。もしかすると書類はねつ造なのかもしれない。

「あなたも鯨の観察をしたいっていうんじゃないでしょうね」
ティーネは皮肉で応戦した。

「いや。鯨になんか興味は無いさ」
「興味があるのは、支払い請求書ってこと? いくらピンハネしたのかしらないけれど」

 男は、ちらりとティーネをみた。
「いや、君がいくらでこの仕事を受けたのか知らないけれど、ピンハネしたとしたら、ロベルト・クレイだろう。俺は、現金にはさほど興味が無くてね。どこでも使えるってもんではないからね。この飛行機に乗り込むまでに必要なだけしか受け取らなかったぜ」

 ティーネは、何時間も計器と前方だけを見つめていた顔をまともに向けて【グリーンマン】を見つめた。この男、本当にイカれているのかしら。

「冒険にもお金は必要でしょう?」
「ああ、もちろん。だから、いつもそれなりに稼いださ。目的地に到達して、探しているものが見つからなければ、またゼロから稼ぐ、その繰り返しだ。君はちがうのか、エルネスティーネ・クラインベック」

「都会の遊覧飛行ならまだしも、こんな仕事をタダ同然で引き受けるなんてよほどの事情がなければね。それとも南極にどうしても行きたかったとか?」
ティーネは、半分冗談のつもりで言ったが、【グリーンマン】は驚いたように、彼女を見た。

「鋭いね。その通りだよ。それも、ロス島に行きたかったんだ。個人チャーター機でね。千載一遇のチャンスだ」
「なんですって?」

 その時、後ろからウィリアムズの若い愛人がひょっこりと顔を出した。
「へえ。本当に女操縦士だわぁ。カッコいいわねぇ」

「客席に戻ってシートベルトをお締めください」
ティーネは、氷のように冷たい声音を使ったが、女は肉感的な唇をわずかにすぼめただけで、怯える様子も、指示に従うつもりも全くないらしかった。

「だってぇ。鯨も見られないなら、操縦を見るくらいしかやることないでしょ? あと2時間も海と空だけ見ているなんて退屈だもん」
「退屈でも、生きて帰れることの方が嬉しいでしょう。あなたも、あなたの大切な方も」
「帰る? ああ、そうか。まあ、彼はそうでしょうね」

 ティーネは、計器から目を離して女の顔を見た。氣味が悪いほど整った顔立ちに過剰なほどの化粧をしている。口調や行動は軽薄な尻軽女のそれだが、赤みかがったグレーブラウンの瞳に得体の知れない強い輝きがある。

「長旅がいやなら、チリからフレイ基地に飛べばよかったのよ。あっちなら同じ南極でも2時間でつくのに」
ティーネは、計器に顔を戻して言った。
「そんな簡単な問題じゃないのよ。ロス島近辺を飛んでもらわなくちゃ困るんだもの」
彼女の言葉に、ティーネは片眉を上げた。おかしい。【グリーンマン】といい、この女といい。

「おっさんを放って置いていいのか? ジャシンタ」
【グリーンマン】が女に話しかけた。

 ファーストネームで呼ばれても特別氣を悪くした様子もなく、女は笑った。
「いいのよ。いま、あのフライトアテンダントが必死で品を作っている最中。いいんじゃない? あの退屈なエビのDNAの話を笑って聞いていれば、高級レストランも、ダイヤの指輪も、毛皮のコートも手に入るんだし」

「エビのDNAですって?」
ティーネには話の行方が見えない。

「うふふ。ウィリアムズはね。博士号がほしいのよ。本人は金持ちの道楽じ