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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -2-

『Filigrana 金細工の心』の11回目「『Canto de Amor』」の後半をお送りします。

アントニアが17歳(つまり23は16歳ですね)の頃の回想の続きですね。23のギターラ、『愛の歌』という有名な曲を聴いて、「恋をしたこと、ある?」と訊いたのが前回の更新でした。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -2-

 アントニアの問いに、弟は黙り込んだ。彼女ははっとして、瞼を上げた。自分のことにばかり意識がいっていたが、いつもひとりでいる23には、酷な質問をしてしまったのかと思ったのだ。

 だが、弟は、彼女をしばらく見つめた後で、意外な返事を返してきた。

「恋なのか、わからない」
「わからないって、どういうこと?」
「友だちのことを、とても大切に想っているだけなのかもしれない。よく夢にも出てくる」

「夢? 普段見かけるんじゃなくて?」
「この屋敷の中にはいない」
「いない? 想像の女の子? それとも雑誌や映像で見ただれか?」
「そんなんじゃない。それに、どうでもいいだろう? 俺は、ドラガォンが命じたままにここにいるし、何もしていない。そんなことを聞き出すために、わざわざ入ってきたのか?」

「そうじゃないわ。でも、ギターラの響きが、とても優しいだけでなくとても悲しく響いたから。私の心を代弁してくれるみたいで、もっと聴きたくて」
「……。恋に悩んでいるのは、お前なのか?」

 23にストレートに訊かれて、アントニアは戸惑った。ほとんど口もきいたことのない弟と、こんな話をするとは思ってもいなかったから。けれど、今、抱えきれないほどにまで膨れ上がっている彼女の重荷を分かち合ってもらえるのは、この弟しかいないとどこかで直感が告げていた。それで、ため息をつくと頷いた。

「あなたと違って、私はもっと自由なのに、どうしてこんなことになってしまったのかしら……」
「こんなこと? 《星のある子供たち》じゃない男?」
23が訊いた。アントニアは、彼が何を言っているのか一瞬わからなかった。けれど、すぐに彼の推測が至極まともだと氣がついた。

「だったら、まだよかったんだけれど」
「なぜ? 《星のある子供たち》なら、ドラガォンがいくらでも後押ししてくれるだろう? お前は、この館でも外でも好きな所に行けるんだし。それとも父上や母上が反対するような男なのか?」

 アントニアは、顔を手で覆い、震えだした。反対どころの次元ではない。彼は、近親者であるだけではない。母親のかつての恋人であり、憎みながらも今でも一途に想っている男なのだ。両親どころか、誰に打ち明ける事もできない。誰かに助力を求める事もできない。

「すまなかった。立ち入りすぎた」
23の謝罪を聞いて、彼女ははっと顔を上げた。弟は、恥じ入るように顔を背けていた。

 アントニアは、彼を混乱させてしまったのだと思った。こんな所に入り込んできて恋の話などをすれば、彼は話を聴いてもらいたいのかと思った事だろう。それなのに、何も言おうとしなくて、かえって彼に罪悪感を植え付けてしまったと。彼は、家族に頼られて、打ち明け話をされた事などなかっただろうから。

「そうじゃないの。ごめんなさい。私にもわからない。でも、わかってもらえるのはあなただけだと思ったの」
「24ではなくて? あんなに仲がいいのに」

 アントニアは、首を振った。
「あの子は、とても明るくていい子だけれど……」
「?」
「時々思うの。あの子は、私の事には興味がないんじゃないかって」
「なぜ?」

「あの子自身の幸福と楽しみに直結していない事には、すぐ興味を失ってしまうのね。話していても、急に話がそれてしまったり、そんなことよりって言われてしまったりするの。だから、深い事、哲学的な事、どうしようもない事などは、あの子に話しても、何の答えも返ってこないの」

 23は、肯定も否定もしなかったが、そのことで彼もそう思っているのだとわかった。
「アルフォンソは?」
「彼はダメよ。いつどんな形で、お母様やお父様、それにメネゼスたちに伝わってしまうかわからないし。それに、彼には話を聴く時間なんてないもの」

 彼は、自嘲するように笑った。確かに23は、いつも1人だから秘密が漏れる心配もないし、時間もたくさんあった。

「でも、だからここに来たわけじゃないわ。同じ音だと思ったから」
「何と?」
「叔父さまの出す音と」

 23は、瞳を閉じた。そして、記憶をたどっていた。
「よく階段に隠れて聴いた。すごい音だった。胸がかきむしられるみたいだった。近くに寄って、もっと聴かせてほしかった」
「そうなの?」

 アントニアを上目遣いに見ながら、彼は言った。
「お前が羨ましかった。彼にピアノを教えてもらっていたことが」

「どうして自分にも教えてほしいって言わなかったの?」
「もっと聴かせてほしいと言って断られた。だから、それ以上近づけなかった」

「私も、ものすごく邪険にされて、断られたわよ。でも、めげずにしつこく押し掛けたの。彼は根負けしたんだと思うわ」
「そうか。俺もそういう図々しさを持てばよかったんだな。もう、遅いけれど」

 23の言っている意味が、アントニアにはわかった。彼女は、『ボアヴィスタ通りの館』に押し掛けて行って、またピアノを習う事ができる。けれど、23はここからは出られないのだ。新しい世代のインファンテが同じように閉じこめられる日まで。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -1-

『Filigrana 金細工の心』の11回目「『Canto de Amor』」をお送りします。

自分でも反省しているんですが、この作品、時系列が前後に動きすぎ。起点は1つなんですけれど、多くのエピソードが過去の回想でなり立っているせいで、読者の方を振り回すことになってしまいました。で、今回発表する部分もそうで、アントニアがまだ少女だった頃の話です。彼女が頑固にピアノを弾き続けて泣いたエピソードと、成人となりちゃっかり22との同居を決定した時期の間の話です。

長めなので2回に切りました。



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あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(11)『Canto de Amor』 -1-

 11年前のことだった。24が閉じ込められた年の初め。彼女は、その時17歳だった。まだ『ドラガォンの館』に住んでいた若きアントニアは、ギターラの響きに誘われて、しばらく23の居住区の前に立っていた。

 彼が、かつての叔父のように、格子の向こうに閉じこめられてから2年近くが経っていた。もともと家族にも使用人にも打ち解けなかった23は、閉じこめられその抵抗を封じられた事でさらに自分の殻に閉じこもるようになっていた。アントニアは、出してほしいと必死に訴えていた彼への助けになろうとしなかった事への後ろめたさもあって、晩餐で見かける時もほとんど目を合わさないようにしていた。

 ただ、愛すべき弟24が彼を茶化した発言をした時だけは、隣で静かに嗜めた。24は、天使のように笑って「ごめん、もうしないよ」と言うので、彼女はその愛らしさにすぐに許してしまった。それに彼女は、24も第2次性徴期がきたら23と同じ運命になる事を知っていたので秘かに心を痛めていたのだ。

 23が家族の中で1人だけ隔離されている事への心の痛みは、その時には緩和されるだろうと考えていた。けれどその数年間が、心を開く相手もいない23にとってどれほど過酷な地獄だったのか思い至るには、当時のアントニアはまだ若すぎた。23が表現しているのは、彼女が心惹かれていた叔父の言葉にしない叫びと同じものだという事にようやく氣がついたばかり、そんな時期だったのだ。

 家族の中で、22に近づけるのは、アントニア1人だった。それも、彼が望んだからではなく、彼女の強引な好意の押し付けに屈する形で、彼女が側にいる事を許可した、それだけだった。叔父が館にいた時に無理にピアノのレッスンを受けさせた延長線で、アントニアは週に2度か3度、『ボアヴィスタ通りの館』へ通っていた。

 『ドラガォンの館』から出たにも関わらず、彼女から解放されなかった事を彼が嘆息したのか、それとも使用人以外の家族との縁が切れなかった事にホッとしたのか、叔父の乏しい表情から読みとる事はできなかった。だが、アントニアが2つの館を行き来して、その消息を伝える事は、叔父に会う事を拒否されている両親たちを安堵させた。22のわずかな変化、健康状態、それにどのような暮らしをしているのか、彼らは《監視人たち》や召使いからの報告以外でも知る事ができたから。

 だが、アントニアは、自分の行動があやふやであった己の心を、引き返せないところまで押し進めてしまった事を感じていた。ある種の同情、弟を救えなかった事に対する贖罪、両親と叔父との確執への好奇心、それら全てを超越する感情に彼女が堕ちていったのは、正にこの時期だったのだ。

 思えば、子供の頃から惹き付けられていたのはやはり、格子の向こうから響いてくる楽の音だった。いま、弟が響かせている、強く心に訴える叫びのような音色だった。この子はいつからこれほどの音を出すようになったのだろう。アントニアは訝った。ギターラを習いはじめてまだ1年と少ししか経っていないはずだ。

「ドンナ・アントニア?」
振り向くと、そこに立っていたのはジョアナだった。
「お入りになりますか?」

 彼女は、1度首を振った。けれど、思い返したように、ジョアナを見つめて言った。
「ええ。お願いするわ」
ジョアナは、黙って鍵を取りに行くと解錠してアントニアを入れた。それから再び鍵を閉めて頷いた。彼女は小さく礼をすると、階下へと降りて行った。

 ギターラの響きは、近づくことでずっと大きく華やかになった。けれど、そのどこかに隠しようのない痛みが溢れている。インファンテだから。もちろん、それだけではないだろう。だが、特殊な境遇は彼の想いを研ぎすました。1人で世界と折り合いを付けることを、彼に強要した。それがこの響きをもたらすのだと感じた。

 彼女は、まるで初めて見た知らない人のような心持ちで弟を見た。子供の頃は、それでも一緒に遊んだことがあったように思う。ただ、彼女はいつも愛らしく甘えてくる24と一緒に居て、ほとんど会話もしようとしないもう1人の弟のことは、考えることすらまれだった。

 音が止まった。23はアントニアを見ていた。訝っているのだろう。彼女自身にもよくわからなかった。どうしてここに来ようと思ったのか。
「続けて……」

 彼は黙って続きを弾きだした。それは、シューベルトの『エレンの歌第三番』、『シューベルトのアヴェ・マリア』として知られる曲だった。叔父のヴァイオリンと合わせるために、アントニアが『ボアヴィスタ通りの館』でのレッスンに通いだして直に習った曲だ。難しくない伴奏にも関わらず、叔父は簡単には満足してくれず、彼女は悔しさに何度も泣いた。だが、最終的にお互いに満足のいく演奏をした時、彼が初めてアントニアに笑いかけてくれた思い出の曲でもあった。口元をほころばす程度と言った方が正しいわずかなものであったけれど。

 弾き終わっても、彼女がものも言わずに瞳を閉じていたので、しばらく間をあけてから彼は最近よく練習していた『Canto de Amor(愛の歌)』を弾きはじめた。アントニアが自分に用があるのではないらしいと判断したのだ。

 けれど、短いその曲が終わると彼女は、目を瞑ったまま言った。
「恋をしたこと、ある?」

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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23が弾いていた曲はこちら。

Carlos Paredes - Canto de Amor

こちらは、ギターラバージョンが見つからなかったのでクラッシックギターバージョンで。

Ave Maria - Schubert (Michael Lucarelli, Classical guitar)
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Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 約定

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第9弾、ラストの作品です。TOM-Fさんは、「天文部シリーズ」シリーズの掌編でご参加いただきました。ありがとうございます!


 TOM−Fさんの書いてくださった「この星空の向こうに Sign04.ライラ・アークライト オブ ザ  スカイ

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』は、無事完結、現在は次の長編に向けて、準備中とのこと楽しみですね。

「scriviamo!」には皆勤してくださり、毎回趣向を凝らした名作でご参加くださっています。そして、毎回めちゃくちゃ難しいのですけれど、今年の難しさは例年と違うところにありまして……。最愛のキャラの渾身のエピソードでご参加なのですよ。いや、他にも大切なキャラでご参加くださったことは多々あるのですけれど、今回の作品は最愛のキャラをここまで痛めつけるかという、TOM−FさんのドSぶりを遺憾なく発揮されていて、いや、これに適当なキャラでお茶を濁すお返しはナシでしょう……みたいな。

それで、こちらも最愛キャラ(の前世だけど)を持ってくることにしました。しかも、同じくらい虐めている……ええと、いや、そうでもないか。しかし、TOM−Fさんがご自分の作品について「イタい」とおっしゃっている以上に、めっちゃイタい仕上がりになっています。あと、男が病で死んじゃうのと、男が死んだ女に囚われているのもあちらの作品と同じ。

いや、合わせてそう書いたのではなく、もともとそういう構想でして。今回のこれ、バリバリの本編で、しかも終わりから2番目くらいのところにあるべき話をいきなり書いてしまいました。ええ、TOM−Fさんのお話を読んでから「いきなり(ほぼ)最終回」を書くことにしたんです。

最終回の手前ですから、主要キャラたちの行く末が全バレです。ここまでとんでもないネタバレはさすがに普段はしませんが、この話に限ってははじめから主人公が野垂れ死にすることを公表しているので、これでいいかなと。この話、いずれ途中を書いたら、記事の順番を調整してこれがちゃんとおしまいの方に来るようにしたいと思っています。でも、ほら、もう書かないかも知れませんしね〜。(根の国のシーンが大変そうで筆が進まないという説も)


「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む 「樋水龍神縁起 東国放浪記」

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樋水龍神縁起 東国放浪記
約定
——Special thanks to TOM−F-san


 開け放たれた鳥居障子の向こうに垂れ込めた雲が見えた。萱は、平伏する次郎から眼をそらし、その雲間より逃れた一条の光が、若狭の海に差して煌めくのを眺めた。
 
 安達春昌の忠実な従者である次郎が、ひとりでこの若狭を訪れるということが意味することは一つだった。久しぶりに次郎の顔を見て喜んだ三根もまた、その意を解して泣きながら萱に伝えに来た。

 訊けば、春昌はここ数年東国を彷徨い、伊勢の近くで流行り病で亡くなったという。廃寺の境内に主人を埋め、次郎は生まれ故郷の奥出雲へ戻る途上であった。

 かつて春昌は、いま次郎が座る位置のすぐ後ろの廂板間に座っていた。あれは何年前のことだろう。昨日のことのように鮮やかに脳裏をよぎるが、昔語りになってしまった。

「わざわざ報せにきてくれたこと、礼を申します。春昌様は、何かおっしゃられたのか」
萱は、頭を上げるように言ってから問うた。次郎は、わざわざ人払いを願い出た。何か伝えることがあるのだろう。

「お隠れになる二日ほど前のことでございました。こちらでお世話になったことを語られたとき、こうおっしゃいました。『誓いは果たしたと、萱どのに伝えてほしい』と」

 萱は、こみ上げるものを押さえつけた。神罰に全てを捨てて彷徨うかつての陰陽師を、それまで以上に苦しめることになった約定を、萱もまた忘れたことはなかった。これからも生き続ける限り忘れないだろう。

* * *


 それは、あの月夜のことだった。春昌は廂の板間に座り、若狭の海に揺れる月影を眺めていた。次郎は三根のもとに行き、佐代や岩次も下がり、萱はひとり春昌の杯を満たしていた。

 献上品となる濱醤醢を造る『室菱』の元締めとして、女だてらに重責を担う萱は、長らくふさわしき婿取りを期待され続けてきた。父に婿になることを所望された若衆が海難に遭い、間もなく父も急死したため、図らずも若くして元締めになった萱には、これまで婿探しをしている時間などなかった。

 何年か前より子細ありげな貧しい公達、安達春昌とその従者次郎が滞在するようになって以来、古くからの使用人たちはこの公達と萱との縁組みを期待するようになった。特に、萱の従妹である夏姫を巻き込んだ怪異を、春昌がみごとに祓い、かつて殿上すら許されていた陰陽師であったことが知れると、彼らの期待はさらに強くなった。それどころか若狭小浜の商い人たちも、もはやそれが決まったことのように噂するようになっていた。

 ところが、当人同士が話を進める兆しを全く見せないので、業を煮やした使用人たちがあえて場を離れ、次郎を主人から引き離して、春昌と萱がふたりきりになるよう骨を折っていたのである。

 萱は、彼らの願いは十分に承知していたものの、そのようなことは到底あるまいと心を定めていた。他の者らは、春昌と樋水龍王神社の御巫瑠璃媛の死にまつわる因果を知らなかったし、萱と播州屋惣太との深い因縁を春昌が承知していることも氣づいていなかったのである。

 萱と春昌はもはや、釣り合う似合いの男女、もしくは惚れた腫れたの始まりを探り合うがごとき浅い仲ではなかった。影患いの果てに生成りとなった惣太の妻に萱代わりに祟られた夏を救うため、萱は春昌と共に、根の国を訪れることとなった。ふたりはそこでこの世ならぬものと対峙した。そして、そこで不本意ながら、もっとも知られたくない心の一番奥にある悼みを晒すことになってしまった。

 十六夜の月は穏やかに輝き、若狭の海はいつになく凪いでいた。微かな風が、春昌の鬢からこぼれた髪をそよがせている。根の国で亡者に囲まれ二度と現し世に戻れぬことを覚悟したとき、彼は萱を守らんと全霊を尽くし半ば鬼と化した。その彼の姿は夢のように遠く想われた。

 彼は、萱が生涯をかけて愛し求めた男ではない。そして、彼にとってたったひとりの宿命の女は萱などではない。彼が奥出雲の地で禁忌を犯し、そのために名聞はなれ彷徨い生きていることも知っている。けれども、そうした全ての情状は現し世にのみ存り、根の国の在り様とは何ひとつ関わりなきことであった。萱は、神意も天罰も愛欲も恩讐も全て手放し、ただ彼と共に、かの黄金に輝く七色の光の中に溶け込んで消えていきたかった。

 こうして現し世に舞い戻り、またそれぞれの情状を抱えた者に分かれて座っていることに、違和感が拭えない。夢の続きのごとく、合うさきるよそ事に思える。春昌様も、同じように感じておられるのであろうか。萱は、穏やかな彼の横顔を見ながら考えた。それとも、この方にとって、あのような神事象の見聞は、明暮のことなのやもしれぬ。

 誰よりも近く、誰よりも頼りになると感じられた男が、現し世ではこれほどに遠く感じられる。身分と立場が、そして、お互いの持つ深い業と過去が、ふたりの間に大きな楔を打ち込んでいる『室菱』の者らにも、おそらく春昌を知り尽くした次郎にも見えてはいない、まがう事なき隔たりを萱は感じている。この男とひとつになれるのは、あの七色の光の中でだけなのだと。

 ふたりとも、言葉にしてその様な語りは何もしない。ただ、周りの期待には応えられないことを、お互いが誰よりもわかっていた。怖ろしいほどに穏やかな月夜だった。

「そういえば、弥栄丸から便りがございました。来月、夏と共にこちらに参るそうでございます。ふたりとも一日も早く春昌様にお目にかかって御礼を申し上げたいと、心はやっている様子でした」
萱は、丹後の屋敷に戻っている夏の様子を知らせた。あのふたりが夫婦になることを夏の父親もついに許したらしい。

 春昌は、夏の話をするときにいつも見せる幼子を愛おしむような微笑みを見せて答えた。
「夏どのがこちらに戻られる頃には、私はもう居りませぬ。よろしくお伝えください」
「どうしてですか」
「月が明ける前に、出立する心づもりでおります」

 これから冬になるというのに、なぜいま苦しい旅に出ようとするのだろう。
「春昌様。春をお待ちください。これからの山越えはおつらいでしょう」

 彼は、顔を向けて萱に冷たい一瞥を与えた。ひどい冷氣が下りたかと思うほど空氣が変わった。春昌の全身が例の青紫の氣焰に覆われていた。
「だから行くのだ。ここで心地よい冬を過ごしたりせぬように」

 はじめてその氣焰を感じたとき、萱は何か禍々しきものに触れたのかと、ひどく怖れたものだ。だが、彼女はもうそれに恐れを感じることはなかった。それは、癒やされることのない痛みと彼自身すらを許さない己の怒りが生み出す彼の業そのものだからだ。彼女は、彼の心の痛みに耐えかねて、思わずその掌を彼に向けた。

 すると、不思議なことが起こった。あの根の国で見たのと同じ、彼女自身の黄色い氣焰が掌で暖かい色に輝きぶつかった彼の氣焰の色を変えたのだ。

 萱は長いこと、自らの氣焰も含めて、この世ではないものを見ることをやめていた。自分にはその様なことはできないのだと思っていた。かつて媛巫女瑠璃に、樋水龍王神の御前に連れて行かれたときも、偉大なる巫女の権能が彼女に特別なものを見せたのだと思い込んでいた。

 だが、それは、萱自身の『見える者』としての力だった。春昌と共に訪れた根の国で、彼女は再び樋水龍王神の御姿を拝し、禍つ神を浄める媛巫女に比肩する伎倆を手にしたのだ。

 全ては収まるべきところに収まった。萱は現し世に戻り、商いには不要なその特別な力はもう使うこともないと思っていた。

 それなのに、なんということであろう。かつて己をあれほど怖れおののかせたあの氣焰を、自ら触れるだけで消している。

 掌はまだ服の上にも達していないが、萱の掌から溢れる暖黄色の光は、春昌の外側に纏いつく青紫の氣焰を、触れたところから次々と春の若萌え草のような明るく心地よい氣に変えていった。

 だが春昌は、萱がしようとしていることを見て取ると、身を引き、苦しそうに顔をゆがめて言った。
「やめてくれ、浄めるな。頼む」

 萱は、動きを止め、わずかに後方へ下がった。青紫の氣の焰はまだ春昌の周りに燃えていた。若緑に変わりだしていた氣も、やがて再びその青紫に打ち消されて消えていった。

「すまぬ」
春昌は、絞り出すように言った。
「無駄なのだ。一刻、すべてを浄めても、またこの業が勝る。奥田の秘め蓮の池も、権現の瀧も、若狭姫大神の神水も、どうすることもできなかった。私が生き続ける限り、これは消えはせぬ」

「春昌様」
「夏どのを救うためには、そなたの力を借りる他はなかった。だが、そなたの眠れる力をあのような形で目覚めさせたのは、忌むべき咎だ。ましてや、そなたをこの呪われた業に巻き込むわけにはいかぬ。呪われ黄泉へ引きずり込まれるべきはこの身だったのだ。媛巫女ではない。憐れな次郎でもない。そして、そなたでもないのだ」

「想ってはならぬ方を想うことが呪われた業ならば、この身はとうに奈落に落ちております」
萱は、わずかに震えながらも、はっきりと口にした。

 惣太の妻を恨みの鬼にし、影患いに追い込んでしまったのは、他でもない自らの業だ。たとえ全てが終わった今となっても、神罰を受けることはなくとも、その事実を変えることはできない。

 春昌は、わずかに顔の険しさを緩めた。否定しないことが、彼が萱の言い分を認めていることを示している。

「春昌様。苦しまれるあなた様を、同じ浄めの力を持つ私の元へと導かれたのは、媛巫女様だとお思いになりませぬか」

 夏のように、三根のように、すべてを投げ打ち想いのままに慕う相手の胸に飛び込むことは、萱にはできない。自らが媛巫女に立ち替わる存在だとうぬぼれているわけでもない。だが、せめて一刻でもかまわない。私にできることをさせてくださいませ。萱は祈るように春昌を見つめた。

「媛巫女の真似事はそなたの本分ではない。その様なことを度々すれば、すぐに周りにこの世ならぬものが集い、身動きが取れなくなる。心を煩わさずに、そなたの定めを生きよ」
「そして、あなた様おひとりで、全ての苦しみを背負われるおつもりですか。せめて、ここにおられる間だけでも、重荷を下ろして楽におなりくださいませ」

 春昌は、月から視線を移し萱を見た。
「楽になどならなくていいのだ。ここで安らぎを得るのも過ちだ。私は赦しの道を探しているわけではないのだから」

 揺るぎのない強い光を放つ瞳を見て、彼女はこの男が彷徨いながら探しているものが何かを理解してしまった。嘆きせめぐその魂は、もはやなんの希望をも持っていなかった。

 萱は彼を救うことができない。彼の願いはひとつだけなのだ。呪われた身を横たえ二度と目覚めぬこと。罪に穢れた屍を受け入れてくれる土地神を探すこと。

「そのようなことを、おっしゃらないでくださいませ」
絶望に打ちひしがれて、萱は伏した。

 彼は女の涙には揺るがなかった。一刻も早くここを去ろうとするのは、大きくなりすぎた萱との縁を断ち切るためなのだ。

「萱どの。そなたは、私と次郎に善く尽くしてくれた。その恩に報いることのできるものを私は何ひとつ持たぬ。だが、もし、私の力でそなたの恩に報いることができるのならば、どんなことでも願い出てほしい」

 萱はたったひとつの願い事をした。それが、春昌が果たしたという約定だった。

* * *


 萱は、紙に包まれた一房の髪を手に取った。別れ際に見た彼の髪にこれほど白いものは目立っていなかった。伊勢にたどり着くまでに、どれほどの新たな苦しみを抱いたのであろう。目の前の次郎もまた、少し歳をとった。だが、故郷へ戻る彼の氣焔には、以前よりも朗らかで暖かいものがにじみ出ている。

「次郎どの。春昌様のお言葉をお伝えくださり、誠にありがとう存じます。また、大切なご遺髪をお譲りいただき、謝するにふさわしき言葉もございません」

 次郎は、声を詰まらせながら、萱の心を慮った言葉を綴った。この春昌と媛巫女に忠実な侍者が、わざわざ伝えに来たのだから、春昌が我が身を忘れなかったのもまことであろうと思った。次郎や、他の者が思っているのとは違うとはいえ、確かに彼と萱は特別な縁で結ばれていた。

 そして、次郎もまた、この若狭で、長く苦しい旅に値する縁を見いだしたのだろう。
「次郎どの。あなた様と三根のこと、私に一切遠慮をなさらぬように。三根の恩義はもう十分に返してもらいました。どこへ行こうとあの者の心のままです」

 次郎は、萱に許しを願い出る時機を迷っていたのであろう。顔を真っ赤にして、また畳に何度も頭をこすりつけた。

 遠からず、次郎は新しい旅の道連れと、奥出雲への旅路に出るであろう。たち止まり根を張ることも、赦され安らかに生きることもない、終わりの見えなかった旅は終わろうとしている。誤って大切な媛巫女を死なせた苦しみは、彼の主人が全て背負い、伊勢の弔うものもない廃寺で朽ちていこうとしている。

 次郎が下がった後、萱はかの板間に座り、春昌の遺髪を今ひとたび見つめた。それはすでに魂なき物であった。青紫の氣焔も、若緑のそれも、もはや感じることはなかった。彼の願い、せめぎ苦しんでいた魂の渇望は、ようやく成就したのだ。萱が言霊で縛り付けた、長い苦しみの果てに。

 萱が彼に願ったのはたった一つだった。
「生き続けてくださいませ。決して自尽はなさらないでくださいませ」

 彼は、萱の残酷な願いを了承した。流行り病で命を落とすまで、彷徨い生き続けた。そして、いま萱は、彼のいない現し世に虚しくひとり立っている。

 忙しく働く使用人たちの声が耳に入る。萱は、遺髪の包まれた紙をそっと胸元にしまうと、立ち上がり表へと向かう。もう一度若狭の海を振り仰いでから襖戸を閉めた。

(初出:2021年3月 書き下ろし)

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月夜の語らいのイメージ曲は、萱のキャラクター紹介でも貼り付けたのですけれど、せっかくなのでもう一度。

上妻宏光 風林火山~月冴ゆ夜~

おまけです。次郎の帰りの旅のイメージソングを。「君」の意味がいくつかあったりして。

あの頃へ / 安全地帯
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Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 約定

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第9弾、ラストの作品です。TOM-Fさんは、「天文部シリーズ」シリーズの掌編でご参加いただきました。ありがとうございます!


 TOM−Fさんの書いてくださった「この星空の向こうに Sign04.ライラ・アークライト オブ ザ  スカイ

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』は、無事完結、現在は次の長編に向けて、準備中とのこと楽しみですね。

「scriviamo!」には皆勤してくださり、毎回趣向を凝らした名作でご参加くださっています。そして、毎回めちゃくちゃ難しいのですけれど、今年の難しさは例年と違うところにありまして……。最愛のキャラの渾身のエピソードでご参加なのですよ。いや、他にも大切なキャラでご参加くださったことは多々あるのですけれど、今回の作品は最愛のキャラをここまで痛めつけるかという、TOM−FさんのドSぶりを遺憾なく発揮されていて、いや、これに適当なキャラでお茶を濁すお返しはナシでしょう……みたいな。

それで、こちらも最愛キャラ(の前世だけど)を持ってくることにしました。しかも、同じくらい虐めている……ええと、いや、そうでもないか。しかし、TOM−Fさんがご自分の作品について「イタい」とおっしゃっている以上に、めっちゃイタい仕上がりになっています。あと、男が病で死んじゃうのと、男が死んだ女に囚われているのもあちらの作品と同じ。

いや、合わせてそう書いたのではなく、もともとそういう構想でして。今回のこれ、バリバリの本編で、しかも終わりから2番目くらいのところにあるべき話をいきなり書いてしまいました。ええ、TOM−Fさんのお話を読んでから「いきなり(ほぼ)最終回」を書くことにしたんです。

最終回の手前ですから、主要キャラたちの行く末が全バレです。ここまでとんでもないネタバレはさすがに普段はしませんが、この話に限ってははじめから主人公が野垂れ死にすることを公表しているので、これでいいかなと。この話、いずれ途中を書いたら、記事の順番を調整してこれがちゃんとおしまいの方に来るようにしたいと思っています。でも、ほら、もう書かないかも知れませんしね〜。(根の国のシーンが大変そうで筆が進まないという説も)


「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む 「樋水龍神縁起 東国放浪記」

「scriviamo! 2021」について
「scriviamo! 2021」の作品を全部読む
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樋水龍神縁起 東国放浪記
約定
——Special thanks to TOM−F-san


 開け放たれた鳥居障子の向こうに垂れ込めた雲が見えた。萱は、平伏する次郎から眼をそらし、その雲間より逃れた一条の光が、若狭の海に差して煌めくのを眺めた。
 
 安達春昌の忠実な従者である次郎が、ひとりでこの若狭を訪れるということが意味することは一つだった。久しぶりに次郎の顔を見て喜んだ三根もまた、その意を解して泣きながら萱に伝えに来た。

 訊けば、春昌はここ数年東国を彷徨い、伊勢の近くで流行り病で亡くなったという。廃寺の境内に主人を埋め、次郎は生まれ故郷の奥出雲へ戻る途上であった。

 かつて春昌は、いま次郎が座る位置のすぐ後ろの廂板間に座っていた。あれは何年前のことだろう。昨日のことのように鮮やかに脳裏をよぎるが、昔語りになってしまった。

「わざわざ報せにきてくれたこと、礼を申します。春昌様は、何かおっしゃられたのか」
萱は、頭を上げるように言ってから問うた。次郎は、わざわざ人払いを願い出た。何か伝えることがあるのだろう。

「お隠れになる二日ほど前のことでございました。こちらでお世話になったことを語られたとき、こうおっしゃいました。『誓いは果たしたと、萱どのに伝えてほしい』と」

 萱は、こみ上げるものを押さえつけた。神罰に全てを捨てて彷徨うかつての陰陽師を、それまで以上に苦しめることになった約定を、萱もまた忘れたことはなかった。これからも生き続ける限り忘れないだろう。

* * *


 それは、あの月夜のことだった。春昌は廂の板間に座り、若狭の海に揺れる月影を眺めていた。次郎は三根のもとに行き、佐代や岩次も下がり、萱はひとり春昌の杯を満たしていた。

 献上品となる濱醤醢を造る『室菱』の元締めとして、女だてらに重責を担う萱は、長らくふさわしき婿取りを期待され続けてきた。父に婿になることを所望された若衆が海難に遭い、間もなく父も急死したため、図らずも若くして元締めになった萱には、これまで婿探しをしている時間などなかった。

 何年か前より子細ありげな貧しい公達、安達春昌とその従者次郎が滞在するようになって以来、古くからの使用人たちはこの公達と萱との縁組みを期待するようになった。特に、萱の従妹である夏姫を巻き込んだ怪異を、春昌がみごとに祓い、かつて殿上すら許されていた陰陽師であったことが知れると、彼らの期待はさらに強くなった。それどころか若狭小浜の商い人たちも、もはやそれが決まったことのように噂するようになっていた。

 ところが、当人同士が話を進める兆しを全く見せないので、業を煮やした使用人たちがあえて場を離れ、次郎を主人から引き離して、春昌と萱がふたりきりになるよう骨を折っていたのである。

 萱は、彼らの願いは十分に承知していたものの、そのようなことは到底あるまいと心を定めていた。他の者らは、春昌と樋水龍王神社の御巫瑠璃媛の死にまつわる因果を知らなかったし、萱と播州屋惣太との深い因縁を春昌が承知していることも氣づいていなかったのである。

 萱と春昌はもはや、釣り合う似合いの男女、もしくは惚れた腫れたの始まりを探り合うがごとき浅い仲ではなかった。影患いの果てに生成りとなった惣太の妻に萱代わりに祟られた夏を救うため、萱は春昌と共に、根の国を訪れることとなった。ふたりはそこでこの世ならぬものと対峙した。そして、そこで不本意ながら、もっとも知られたくない心の一番奥にある悼みを晒すことになってしまった。

 十六夜の月は穏やかに輝き、若狭の海はいつになく凪いでいた。微かな風が、春昌の鬢からこぼれた髪をそよがせている。根の国で亡者に囲まれ二度と現し世に戻れぬことを覚悟したとき、彼は萱を守らんと全霊を尽くし半ば鬼と化した。その彼の姿は夢のように遠く想われた。

 彼は、萱が生涯をかけて愛し求めた男ではない。そして、彼にとってたったひとりの宿命の女は萱などではない。彼が奥出雲の地で禁忌を犯し、そのために名聞はなれ彷徨い生きていることも知っている。けれども、そうした全ての情状は現し世にのみ存り、根の国の在り様とは何ひとつ関わりなきことであった。萱は、神意も天罰も愛欲も恩讐も全て手放し、ただ彼と共に、かの黄金に輝く七色の光の中に溶け込んで消えていきたかった。

 こうして現し世に舞い戻り、またそれぞれの情状を抱えた者に分かれて座っていることに、違和感が拭えない。夢の続きのごとく、合うさきるよそ事に思える。春昌様も、同じように感じておられるのであろうか。萱は、穏やかな彼の横顔を見ながら考えた。それとも、この方にとって、あのような神事象の見聞は、明暮のことなのやもしれぬ。

 誰よりも近く、誰よりも頼りになると感じられた男が、現し世ではこれほどに遠く感じられる。身分と立場が、そして、お互いの持つ深い業と過去が、ふたりの間に大きな楔を打ち込んでいる『室菱』の者らにも、おそらく春昌を知り尽くした次郎にも見えてはいない、まがう事なき隔たりを萱は感じている。この男とひとつになれるのは、あの七色の光の中でだけなのだと。

 ふたりとも、言葉にしてその様な語りは何もしない。ただ、周りの期待には応えられないことを、お互いが誰よりもわかっていた。怖ろしいほどに穏やかな月夜だった。

「そういえば、弥栄丸から便りがございました。来月、夏と共にこちらに参るそうでございます。ふたりとも一日も早く春昌様にお目にかかって御礼を申し上げたいと、心はやっている様子でした」
萱は、丹後の屋敷に戻っている夏の様子を知らせた。あのふたりが夫婦になることを夏の父親もついに許したらしい。

 春昌は、夏の話をするときにいつも見せる幼子を愛おしむような微笑みを見せて答えた。
「夏どのがこちらに戻られる頃には、私はもう居りませぬ。よろしくお伝えください」
「どうしてですか」
「月が明ける前に、出立する心づもりでおります」

 これから冬になるというのに、なぜいま苦しい旅に出ようとするのだろう。
「春昌様。春をお待ちください。これからの山越えはおつらいでしょう」

 彼は、顔を向けて萱に冷たい一瞥を与えた。ひどい冷氣が下りたかと思うほど空氣が変わった。春昌の全身が例の青紫の氣焰に覆われていた。
「だから行くのだ。ここで心地よい冬を過ごしたりせぬように」

 はじめてその氣焰を感じたとき、萱は何か禍々しきものに触れたのかと、ひどく怖れたものだ。だが、彼女はもうそれに恐れを感じることはなかった。それは、癒やされることのない痛みと彼自身すらを許さない己の怒りが生み出す彼の業そのものだからだ。彼女は、彼の心の痛みに耐えかねて、思わずその掌を彼に向けた。

 すると、不思議なことが起こった。あの根の国で見たのと同じ、彼女自身の黄色い氣焰が掌で暖かい色に輝きぶつかった彼の氣焰の色を変えたのだ。

 萱は長いこと、自らの氣焰も含めて、この世ではないものを見ることをやめていた。自分にはその様なことはできないのだと思っていた。かつて媛巫女瑠璃に、樋水龍王神の御前に連れて行かれたときも、偉大なる巫女の権能が彼女に特別なものを見せたのだと思い込んでいた。

 だが、それは、萱自身の『見える者』としての力だった。春昌と共に訪れた根の国で、彼女は再び樋水龍王神の御姿を拝し、禍つ神を浄める媛巫女に比肩する伎倆を手にしたのだ。

 全ては収まるべきところに収まった。萱は現し世に戻り、商いには不要なその特別な力はもう使うこともないと思っていた。

 それなのに、なんということであろう。かつて己をあれほど怖れおののかせたあの氣焰を、自ら触れるだけで消している。

 掌はまだ服の上にも達していないが、萱の掌から溢れる暖黄色の光は、春昌の外側に纏いつく青紫の氣焰を、触れたところから次々と春の若萌え草のような明るく心地よい氣に変えていった。

 だが春昌は、萱がしようとしていることを見て取ると、身を引き、苦しそうに顔をゆがめて言った。
「やめてくれ、浄めるな。頼む」

 萱は、動きを止め、わずかに後方へ下がった。青紫の氣の焰はまだ春昌の周りに燃えていた。若緑に変わりだしていた氣も、やがて再びその青紫に打ち消されて消えていった。

「すまぬ」
春昌は、絞り出すように言った。
「無駄なのだ。一刻、すべてを浄めても、またこの業が勝る。奥田の秘め蓮の池も、権現の瀧も、若狭姫大神の神水も、どうすることもできなかった。私が生き続ける限り、これは消えはせぬ」

「春昌様」
「夏どのを救うためには、そなたの力を借りる他はなかった。だが、そなたの眠れる力をあのような形で目覚めさせたのは、忌むべき咎だ。ましてや、そなたをこの呪われた業に巻き込むわけにはいかぬ。呪われ黄泉へ引きずり込まれるべきはこの身だったのだ。媛巫女ではない。憐れな次郎でもない。そして、そなたでもないのだ」

「想ってはならぬ方を想うことが呪われた業ならば、この身はとうに奈落に落ちております」
萱は、わずかに震えながらも、はっきりと口にした。

 惣太の妻を恨みの鬼にし、影患いに追い込んでしまったのは、他でもない自らの業だ。たとえ全てが終わった今となっても、神罰を受けることはなくとも、その事実を変えることはできない。

 春昌は、わずかに顔の険しさを緩めた。否定しないことが、彼が萱の言い分を認めていることを示している。

「春昌様。苦しまれるあなた様を、同じ浄めの力を持つ私の元へと導かれたのは、媛巫女様だとお思いになりませぬか」

 夏のように、三根のように、すべてを投げ打ち想いのままに慕う相手の胸に飛び込むことは、萱にはできない。自らが媛巫女に立ち替わる存在だとうぬぼれているわけでもない。だが、せめて一刻でもかまわない。私にできることをさせてくださいませ。萱は祈るように春昌を見つめた。

「媛巫女の真似事はそなたの本分ではない。その様なことを度々すれば、すぐに周りにこの世ならぬものが集い、身動きが取れなくなる。心を煩わさずに、そなたの定めを生きよ」
「そして、あなた様おひとりで、全ての苦しみを背負われるおつもりですか。せめて、ここにおられる間だけでも、重荷を下ろして楽におなりくださいませ」

 春昌は、月から視線を移し萱を見た。
「楽になどならなくていいのだ。ここで安らぎを得るのも過ちだ。私は赦しの道を探しているわけではないのだから」

 揺るぎのない強い光を放つ瞳を見て、彼女はこの男が彷徨いながら探しているものが何かを理解してしまった。嘆きせめぐその魂は、もはやなんの希望をも持っていなかった。

 萱は彼を救うことができない。彼の願いはひとつだけなのだ。呪われた身を横たえ二度と目覚めぬこと。罪に穢れた屍を受け入れてくれる土地神を探すこと。

「そのようなことを、おっしゃらないでくださいませ」
絶望に打ちひしがれて、萱は伏した。

 彼は女の涙には揺るがなかった。一刻も早くここを去ろうとするのは、大きくなりすぎた萱との縁を断ち切るためなのだ。

「萱どの。そなたは、私と次郎に善く尽くしてくれた。その恩に報いることのできるものを私は何ひとつ持たぬ。だが、もし、私の力でそなたの恩に報いることができるのならば、どんなことでも願い出てほしい」

 萱はたったひとつの願い事をした。それが、春昌が果たしたという約定だった。

* * *


 萱は、紙に包まれた一房の髪を手に取った。別れ際に見た彼の髪にこれほど白いものは目立っていなかった。伊勢にたどり着くまでに、どれほどの新たな苦しみを抱いたのであろう。目の前の次郎もまた、少し歳をとった。だが、故郷へ戻る彼の氣焔には、以前よりも朗らかで暖かいものがにじみ出ている。

「次郎どの。春昌様のお言葉をお伝えくださり、誠にありがとう存じます。また、大切なご遺髪をお譲りいただき、謝するにふさわしき言葉もございません」

 次郎は、声を詰まらせながら、萱の心を慮った言葉を綴った。この春昌と媛巫女に忠実な侍者が、わざわざ伝えに来たのだから、春昌が我が身を忘れなかったのもまことであろうと思った。次郎や、他の者が思っているのとは違うとはいえ、確かに彼と萱は特別な縁で結ばれていた。

 そして、次郎もまた、この若狭で、長く苦しい旅に値する縁を見いだしたのだろう。
「次郎どの。あなた様と三根のこと、私に一切遠慮をなさらぬように。三根の恩義はもう十分に返してもらいました。どこへ行こうとあの者の心のままです」

 次郎は、萱に許しを願い出る時機を迷っていたのであろう。顔を真っ赤にして、また畳に何度も頭をこすりつけた。

 遠からず、次郎は新しい旅の道連れと、奥出雲への旅路に出るであろう。たち止まり根を張ることも、赦され安らかに生きることもない、終わりの見えなかった旅は終わろうとしている。誤って大切な媛巫女を死なせた苦しみは、彼の主人が全て背負い、伊勢の弔うものもない廃寺で朽ちていこうとしている。

 次郎が下がった後、萱はかの板間に座り、春昌の遺髪を今ひとたび見つめた。それはすでに魂なき物であった。青紫の氣焔も、若緑のそれも、もはや感じることはなかった。彼の願い、せめぎ苦しんでいた魂の渇望は、ようやく成就したのだ。萱が言霊で縛り付けた、長い苦しみの果てに。

 萱が彼に願ったのはたった一つだった。
「生き続けてくださいませ。決して自尽はなさらないでくださいませ」

 彼は、萱の残酷な願いを了承した。流行り病で命を落とすまで、彷徨い生き続けた。そして、いま萱は、彼のいない現し世に虚しくひとり立っている。

 忙しく働く使用人たちの声が耳に入る。萱は、遺髪の包まれた紙をそっと胸元にしまうと、立ち上がり表へと向かう。もう一度若狭の海を振り仰いでから襖戸を閉めた。

(初出:2021年3月 書き下ろし)

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月夜の語らいのイメージ曲は、萱のキャラクター紹介でも貼り付けたのですけれど、せっかくなのでもう一度。

上妻宏光 風林火山~月冴ゆ夜~

おまけです。次郎の帰りの旅のイメージソングを。「君」の意味がいくつかあったりして。

あの頃へ / 安全地帯
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -3-

『Filigrana 金細工の心』の9回目「哭くアルペジオ」の最後です。

このエピソード、最初はハノンの音階だけを使って書いたのですけれど、後にツェルニー50番の最終曲が一番イメージに合ったので、変更しました。ピアノ曲としての難易度はものすごく難しいというわけではないようですが、それでも簡単じゃなさそうですよね。あ、音大受験レベルだそうです。ということは、アントニアのレベルもそのくらいってことかな?

さて、今年の小説更新は、これが最後です。今年も最後まで読んでくださり、どうもありがとうございました!



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -3-

 頭が重い。最後の記憶をたぐり寄せ、暗くなるまで眠り続けていたことを理解した。彼は、ゆっくりと身を起こし、服装を整えた。なんてことだ。もう9時過ぎだ。そんなに寝てしまったのか。だが、あのツェルニーは?

 部屋を出ると、すぐにモラエスが上がってきた。
「メウ・セニョール。お目覚めですか」

「アントニアはまだいるのか」
「はい」
「まさか、あれからずっと弾き続けているのか」
「はい」
「なぜ止めなかった」
「お止めいたしました。それに、あなた様がお休みになっていらっしゃることも申し上げましたが……」

 頑としてやめなかった。そういうことか。
「食事はどうしたんだ」
「いらないとおっしゃいました。ドロレスはまだおりますので、すぐに用意させますが」

 彼は、立ち止まり、この屋敷のすべての使用人が振り回されていたことに思い至った。
「すまない。アントニアに何か簡単なものを頼む」

 それから、彼はサロンに向かい、扉を開けた。アルペジオは、一瞬やんだが、すぐに続けられた。長時間弾き続けたせいで、彼女の姿勢は崩れ、震えていた。しかし、それはもう彼女が「たかが練習曲」と名付けていたものとはかけ離れ、苦しみや慟哭を表現する音色になっていた。彼女の顔は泣いていなかったが、音色は哭き叫んでいた。囚われ決して出て行くことのできない絶望を載せて弾いた彼自身の音色に負けないほど強く想いを訴えかけていた。

「もういい。アントニア。十分だ」
彼女は、ゆっくりと手を動かすのをやめた。彼はピアノに近づいた。青ざめた少女の顔を見た。頬に涙の筋が見える。先ほどまでの我の強さは引き、表情には哀しみだけが強く表れていた。

 彼は、初めてきちんとこの少女の顔を見たと思った。カルルシュとマヌエラからそれぞれ受け継いだ形質ではなく。彼らへの怒りと憎しみゆえに目を背け続けてきた、2人とは同一ではない1人の人間の顔を初めて見つめた。もう4年も近くで見てきたのに、まったく氣がついていなかったのだが、この娘はとても美しいのだと初めて認識した。

「……よくなった。次回から『月光』をはじめよう。今日は、もう十分だ」
「はい」
予想に反して素直に返事をしたので、彼は内心ほっとした。

「もうこんな時間だ。ドロレスが、簡単なものを用意してくれるから食べなさい。その間に『ドラガォンの館』から運転手に迎えに来てもらうように手配しよう」
彼がそう言うと、アントニアは困ったように言った。

「今晩は、カヴァコは非番なの。明日早朝になんとかって司教を空港へ迎えに行くから」
入ってきたモラエスは、食堂の準備が整ったことを告げ、アントニアの言葉を引き継いだ。
「至急、他の者を手配させます。この時間ですから、非番の者はもう酒を飲んでしまっているかもしれません。少々お時間をいただきます」

「別に、地下鉄に乗って帰ってもいいのよ」
「とんでもありません。そういうわけには」
 
 彼は、モラエスとアントニアのやり取りを聴いて嘆息した。この館や『ドラガォンの館』の敷地内に入る許可のある者は限られている。現在ここにいる者で運転免許証を取得できるのは《監視人たち》の黒服であるモラエス1人だ。しかし、モラエスにはインファンテである彼を監視する義務がありすぐにここから離れることはできない。インファンタであるアントニアを1人地下鉄で帰すわけにもいかないので、使用人の誰かが同行し、またここに戻ることになるのだろう。彼の午睡のせいで、どんどん話が複雑になっている。

「アントニア。お前は、今晩帰宅しなくては困るのか」
彼は訊いた。

「いいえ。明日の午後に戻れば十分だけれど……」
アントニアは意外そうに答えた。

「では、モラエス。今夜はこの館に泊める手配をしてくれ。部屋ならいくらでも余っているのだから」
彼がそう告げると、モラエスは安堵の表情を見せ、アントニアは先ほどの様子が嘘のように喜びを見せた。

 食堂には、2人分の食事が用意された。2人は向かい合って座った。モラエスがヴィーニョ・ヴェルデの瓶を持って近づいてきたとき、彼はいつものように頷き、グラスに注いでもらうのを待った。それから、自分1人ではないことを思いだし戸惑ったように訊いた。
「酒はもう許されているのか」

 アントニアは、首を振った。
麦酒セルベッサ は許されたけれど、ワインは16歳になるまでダメなの。あと半年待たなくちゃ」

 彼は、モラエスに顔で指図した。モラエスは、彼女に好みの飲み物を訊いた。

 すべてのやり取りが、彼にとっては初めての経験だった。カルルシュがマヌエラに宣告してから、彼はずっと1人で食事をしてきた。召使いたちの形式的な質問に答えることはあっても、共に食事をしたり館に滞在したりする者のために、彼が判断をする必要は1度もなかった。

 詳細はすべて使用人たちがよくわかっている。どのような料理を出すか、どの部屋を準備しどう必要なものを揃えるか、彼が考える必要はない。アントニアの滞在を『ドラガォンの館』に報告することも言うまでもなくモラエスがやってくれる。だが、それでも、現在この館の主人に当たる存在が自分なのだと、彼は初めて認識した。それは、囚われ人でしかなかった2週間前とどれほど違った立場だろうか。

 アントニアの全身から喜びがあふれていた。先ほどの絶望的な音色との強烈な対比だった。どれほど冷たくあしらわれても、彼女は諦めなかった。『ドラガォンの館』では居住区に押しかけ、この館にも押しかけた。しかし、彼女に入り込めるのは、ピアノの前に座るときだけで、レッスンやスケジュール以外の話題をしたこともなかった。

 また、両親やなくなった祖父がどれほど辛抱強く待ち、正餐に出てくるように頼んでも決して同席することのなかった叔父が、はじめて一緒に食事をした相手が自分なのだという誇りも感じ取れた。

 それからアントニアは、時おり『ボアヴィスタ通りの館』に泊まるようになった。たとえば、近くのカーサ・デ・ムジカで演奏会があったのでという理由で、今日は泊まるというような連絡があった。『ドラガォンの館』も遠くないのだからそんな必要は全くないのだが、この館は彼の持ち物ではないので、とくに異は唱えなかった。

 そのような時には、当然のように一緒に食事をするようになった。当主夫妻は、彼らと完全な断絶状態にある彼とごく普通の関係を保てる存在に娘がなったことを歓迎し、彼女の『ボアヴィスタ通りの館』滞在を決して止めなかった。

 18歳になり、Pの街にある6つの屋敷のうちのどこに住むか選択の自由を与えられたインファンタ・アントニアが、この屋敷に住むことを選んだときも、誰1人として驚かなかったし反対もしなかった。それは、彼自身も同じだった。

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そういえば、紹介していなかったですね。下の動画がツェルニー50番作品740です。
一応、最終曲から再生するようにしてありますが、興味のある方ははじめから聞くことも可能。


Czerny Carl - The Art of Finger Dexterity 50 Studies for Piano op. 740 complete
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -2-

『Filigrana 金細工の心』の9回目「哭くアルペジオ」の2回目です。

22は12年前、彼が新しい住まい『ボアヴィスタ通りの館』に遷されて半月ほど経ったある日のことを思い返しています。

しつこさに根負けして、それまで4年ほど、彼がピアノを教えていた、カルルシュとマヌエラの娘アントニア。ようやく逃れられたとホッとしていたのに、彼女は諦めていなかったようです。



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あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -2-

 2週間前に、この役割は終わったはずだった。彼はこの『ボアヴィスタ通りの館』に移されたのだ。

 24年間も居住区に閉じ込められたあげくに、用済みとばかりに追いやられることには腹が立った。だが、自由に外には出られなくとも鉄格子の嵌まっていない住まいはありがたく、彼は心穏やかに暮らすつもりだった。少なくともあの一家にもう会わずに済むことが何よりも嬉しかった。

 それなのに、この午後、アントニアはこの館にまでやって来て、レッスンを続けると宣言した。彼は苛立った。

「私はもう、お前たちとは関わりたくない。これまでは、同じ屋根の下にいたのでしかたなく見てやったが、これからは違う。ピアノを続けたければ、他の教師を呼ぶようにお前の両親に頼め」

「他の先生なんてまっぴらよ。私は叔父様に習いたいの。叔父様より上手な《星のある子供たち》なんていないもの」

「教師なんて誰でもいいだろう。その程度で」
彼は、生意氣なアントニアのプライドを壊すためにあえて見下した態度をとった。

 彼女は、めげなかった。持ってきた楽譜を取り出すと、厚かましくも彼のピアノの譜面台にそれを置いた。
「ベートーヴェンの『月光』を弾きたいの」

「弾けるか。まずはまともに音階が弾けるようになってからいえ」
「ハノンの音階も、ツェルニーも、十分やったでしょう。そろそろ、ちゃんとした曲を教えてください」

 その言い方が、彼の癇に障った。
「音階や練習曲と馬鹿にしているが、お前のは、聞くに堪えない」
「そんなはずないわ。つっかえたことはないし、ちゃんと練習しているもの」

「つっかえないだけでは、音楽とは言えない。お前は片手でも完璧に弾けていない。両手では言うに及ばずだ。5分も弾かないうちに、もう手首が揺れてくるし、速さを変えるとどんどん崩れる。調を自在に変えることもできない。生意氣なことを言って好き勝手に弾きたいなら、ペコペコしてくれる他の教師に頼めばいいだろう」

「やるわ。ちゃんと練習しますから、これからも教えて。毎週、ここに来て習ってもいいでしょう? ハノンの40番、次までに完璧になるように、練習してきますから」

 彼は、怒りで震えた。強情な娘だ。私はお前たちになんか、関わりたくないといっているのに。
「無駄だ。ハノンだけじゃない。ツェルニー50番がまともになるまでは、絶対に教えない。帰れ」
「帰らないわ。今ここで弾きます。聴いていて教えてください」

「ふざけるな。お前の氣まぐれになんか付き合えるか。お前は、才能も心もないあの2人の娘だ。いくら教えたって、お前がまともに弾ける日など来ない。弾きたければ、勝手に弾け。満足したら帰れ」

 腹立ち紛れに言い放ち、彼は部屋を出た。

 彼女がハノンの40番の音階練習を順番に始めたのが聞こえたが、背を向けて自室に向かった。数十分でなんとかなるような課題ではない。自分でも意地の悪いことをいっていると思った。

 アントニアの弾く音階は、2階の彼の自室にも響き続けた。彼は、不正確で乱れのある指使いを聴き取り、鼻で笑った。完璧どころか、我慢ができる程度の演奏すらできないだろう。

 あの2人のただひとりの娘として、そして、ドラガォンのインファンタとして甘やかされてきた娘だ。完全に無視されることなど1度もなかったに違いない。20分も弾けば、モラエスあたりがやめるように提案し、すごすごと帰って行くだろう。

 彼は、手に入れたばかりの小説を読み始めた。午後の間に読み終えるだろう。文字を追うが、内容がいつものように頭には入ってこない。4分の1ほど進んだところで、彼は小説を読み続けるのを諦めて、栞を挟み本棚に戻した。

 アントニアは、まだしつこく弾き続けている。指使いがずいぶんと安定してきている。だが、まだまだ、到底満足できる状態ではない。彼は立ち上がり、本棚から画集を選び、またアームチェアに戻った。

 時おり、聞こえてくる音が途切れた。モラエスと話しているのだろう。彼は、階下で動きがあるのではないかと期待するが、やがて再び新しい練習曲が聞こえてくる。

 なんてしつこい女だ。彼は、自分がそうではないようなことを考えたことに対して自嘲する。

 彼もまた、頑固だった。音をあくまでも無視し続けた。

 夕方になれば、諦めてドラガォンに帰るだろう。これ以上、こうしてただ音階を聴いているのは耐えがたい。ひどい苛立ちと頭痛を抑えるため、バスルームにある戸棚へ向かい、めったに使わない鎮静剤を取りだした。これを飲んで寝てしまえば、もうあの音階に悩まされることもなくなる。私が寝ている間にあの娘は帰り、もう2度と煩わされることはなくなるだろう。

 彼は、薬を水で流し込み、ベッドに横たわった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -1-

『Filigrana 金細工の心』の9回目です。少し長いので3回にわけますが、その1回目。

カルルシュとマヌエラ夫妻をはじめ、家族に無視を決め込んでいた22がなぜその娘アントニアと同居することになったか、その過程が語られる章です。

前半は、現在の話ですが、その後は12年前の、彼が『ボアヴィスタ通りの館』に遷されて半月ほど経った頃の話になります。実は、第1作で主人公23とヒロインのマイアが初めて出会ったのも、ほぼ同じ頃でした。『ドラガォンの館』で人々が抵抗を続ける23への対応に頭を悩ませている頃、アントニアもまたこんなことをやっていたというわけです。



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あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(9)哭くアルペジオ -1-

 彼の1日は、規則正しく紡がれる。この館に遷されてから、召使いに起こされたことは1度もない。彼はひとりでに目を覚ます。部屋に併設されたバスルームで身支度をする。そして、自室の窓辺でヴァイオリンを奏でるか、サロンのピアノの前に座り朝の演奏を楽しむ。そして、召使いが朝食の用意ができたと呼びに来るときには、ほぼ必ず窓から外を眺めていた。

 朝食には、コーヒーと半トーストマイア・トラーダ の他に、日替わりで菓子が置かれる。これは、10年前よりアントニアの指示で用意されるようになったものだ。彼を喜ばせようと、彼女や使用人が心を砕いていることを知っていたが、彼は改めて礼を言ったり、嬉しそうに食べたりはしない。もちろん残したことは1度もなかった。

 午前中に『バルセロスの雄鶏』の彩色作業をし、午後はピアノかヴァイオリンを練習する。『ドラガォンの館』にいたティーンエイジャーの頃には、週に1度教師が呼ばれていたが、現在は1人で練習するだけだ。はじめは必ず音階や指運びの練習曲から始める。それもゆっくりと丁寧に弾く。引っかかったり、おかしな音色のするときは、いつもに増して練習を繰り返す。完璧に弾けないうちは、決して取りかかっている曲に移ったりしない。それは少年の頃から変わらぬ彼の練習スタイルだった。

 その練習中には、よく12年前のことが頭をよぎる。わずかな痛みが心を刺す。そんな必要はないのだと思っても、それは変わらない。同じ館に住み、彼に笑顔と信頼を向けている娘を憎むことができなくなった、彼にとっての転換期のことを、彼は忘れたことがない。現在、自分がたどる音階に、あの日の哭き叫ぶ響きが重なる。

* * *


 目が覚めたとき、ツェルニー740の50番が聞こえていた。哭きながら走りまわる右手と、暗い音で突き上げるように訴えかける左手。越えられない壁の前で、それでも諦めずに登ろうとする者の悲痛な叫びだ。

 彼は起き上がり、辺りがすっかり暗くなっていることに驚いた。重い頭。思考が未だはっきりしない。電灯を探り当て、明かりをつける。時計を見た。21時。

 午後に起こったことを思い出した。アントニアの口答えに彼が癇癪を起こしたことも。

 そもそも、アントニアは厚かましい押しかけ弟子だった。2週間前まで『ドラガォンの館』の居住区に住んでいた彼は、既に4年もの間、嫌々ながら彼女にピアノを教えていた。

 当主カルルシュとマヌエラ、その4人の子供たちは、同じ屋根の下に住んでいた。だが、彼らとの関わりを一切拒否した彼は、ただの1度も正餐に同席しなかった。年に3度、クリスマス、復活祭、聖ジョアンの祝日の礼拝だけは、ほぼ強要されるような形で礼拝堂に行き、2階のギャラリーに座った。

 4人の子供たちは、見る度に大きくなっていた。アントニアはことさら目立った。たった1人の女子だったから。遠目でしか見なかったが、カルルシュそっくりの漆黒の髪が忌々しく、関わりたくなかった。

 子供たちのうち、長子のアルフォンソと24は、ただの1度も近寄ってこなかった。23は、1度だけヴァイオリンを聴くために居住区の外で立っていたことがあるが、彼が冷たくあしらったので、2度とは近づいてこなかった。

 だが、アントニアだけは違った。彼がピアノを弾いているときに、ジョアナに鍵を開けさせて居住区に入り、1階にまでやって来たのだ。もちろん彼は追い返そうとした。だが、彼女は「聴きたいの」一点張りで出て行こうとしなかった。

 それが何度か繰り返され、彼は無視を決め込むことにした。下手に騒ぎ立てて、カルルシュやマヌエラまで居住区に入ってこられては迷惑だったから。

 ところが、1か月ほど経った頃、メネゼスが彼に新たな問題を持ち込んできた。アントニアが彼からピアノを習いたいと希望しているというのだ。他の教師を雇えと断ったが、アントニアはしつこかった。それで、彼は引き受けた。必要以上に厳しく当たれば、甘やかされた娘などすぐに音を上げてやめるだろうと思ったからだ。それが4年も続いてしまった。

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【小説】Filigrana 金細工の心(8)扉

『Filigrana 金細工の心』の8回目です。

このブログで発表している他の小説(例えば『大道芸人たち Artistas callejeros』など)でも、時おり語られますが、ヨーロッパのお菓子は、大きくて異様に甘いものが多いです。その中では、ポルトガルのお菓子は、大きさも甘さもわりと私好みのものが多いのですけれど、たまに「うわ。またこんなのに当たってしまった」というくらい激甘ものもあります。ただ、「蓼食う虫も好き好き」で歯がきしむほど甘いのが好きな人もいますから。

さて、以前ライサ視点の記述で、22が甘党であることがぼんやりと示されていましたが、ここでついにはっきりと出てきます。めっちゃ甘党。でも、素直ではないんです、この人。



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Filigrana 金細工の心(8)扉

 レイテ・クレームが彼の前に置かれた。濃厚なカスタードクリームの上をパリッとカラメル化した砂糖で覆ったこのデザートを彼は好んだ。

 目の前のアントニアが微笑むと、彼は「そんなに喜んでいるわけではない」という顔をわざと作った。

 アントニアが共に暮らしだすまで、代々の料理人たちは、彼の嗜好がわからなくて氣を揉んだものだ。彼は、食事に文句を付けるようなことは1度もなかった。実のところ、そんなことが許されていると思ったこともなかったのだ。

 20歳の時から、20年近く彼は1人で食事をしてきた。『ドラガォンの館』で格子の向こうに閉じこめられていた頃、そこから出られるのは、食堂で家族と共にする正餐の時だけだったが、あの日から彼はその場に同席するのを拒み通した。……カルルシュがマヌエラに宣告し、彼の幸福の蕾をむしり取ってしまったあの日。絶望に嘆いていたはずの、彼と人生を共にすると誓った女が、あっさり抵抗をやめてカルルシュの愛を受け入れてしまったあの日から。当主としての務めとはいえ、その全てを当然のごとく許した実父への失望と恨みが彼を蝕んだのもあの日からだった。

 カルルシュとマヌエラ、そして当主として父親が上品に食事をする場になど、何があろうとも同席したくなかった。彼の椅子の空虚さが、彼の抗議の証だった。だが、彼がその場に現れずとも、ドラガォンは何1つ滞りなく動いた。

 正餐には、やがてカルルシュとマヌエラの子供たちが加わるようになり、召使いたちもその場に彼がいないことに慣れてしまった。口に出さぬ彼の怒りと憤りが、絶望と憎しみに変わり、ただ時が流れた。

 毎回、召使いたちに呼ばれ出て行かずにいると、しばらくしてから召使いたちがやってきて、居住区の中にテーブルを整えた。彼はその召使いたちが持ってきた食事を食べた。1人で。

 機械的に「ありがとう」とは言ったが、味を好んだかどうかは1度も伝えたことがなかった。子供の頃も、厳格な父親に躾けられて、出されたものを残さないように、よけいな口はきかず静かに食べるようにしていたので、それが当然になっていた。

 『ボアヴィスタ通りの館』に遷ってからも、室内ではなく食堂で食べるようになったこと以外は何も変わらなかった。アントニアが食卓に同席するようになってからも、彼女が使用人たちと料理について話すのを他人ごとのように聞いているだけだった。

 だが、アントニアと暮らすようになってから数ヶ月経った頃、料理人のドロレス・トラードが失敗を繰り返したことがあった。後から聞けば彼女は人間関係で悩みを抱えていたらしいのだが、塩や砂糖の量を間違えた料理が週に何度も出された。

 その日、アントニアはレイテ・クレームをひと匙だけ口に入れると、給仕をしていた召使いに下げるように言った。
「さっきの鴨肉のソースが塩辛すぎたのは野菜で中和できたけれど、これは我慢できないわ」
砂糖が通常の倍は入っている。こんな甘いものを食べられるわけないじゃない。彼女の表情が語っている。

 召使いが恐縮して、彼が食べている器をも下げようとした。彼は、思わず皿を引いて、持っていかれないように器を守った。
「叔父さま。無理して召し上がる必要はないのよ。こんな甘いものを」
アントニアが言った。

 その時に、彼は初めて意識したのだ。彼はいつものレイテ・クレームよりもこの極甘味の方が好きであることを。

「私は、これでいい」
召使いとアントニアは顔を見合わせた。それから、彼女が恐る恐る訊いた。
「叔父さま、その味がお好きなの?」

 彼は、答えなかった。子供の頃、彼は食事について好みを口にすることを許されなかった。自分好みの味にわざわざ調理してくれることがあるなど、考えたこともなかった。自分の運命を呪い、食堂へ出て行かなくなってから、運ばれる食事は命を長らえるために供給される餌のような存在になった。彼は食事に喜びも怒りも何も感じなかった。そのことに、誰かが関心を持つとも思えなかった。

 だが、いま口にしているクリームを取り下げられるのは残念だった。甘くて濃厚な味。

 そのわずかな意思表示は、アントニアと使用人達に初めての希望の光を灯したらしかった。一切問題は起こさない代わりに、決して心を開かないインファンテ。何をすることで彼を喜ばせていいのか途方に暮れていた彼らは、ようやく彼の表情を変えさせることができたのだ。

 アントニアは、それから彼を喜ばせるために様々な菓子を買ってくるようになった。そして、彼はその誘惑に抵抗できなかった。こんなことで飼い慣らされてたまるかと思いながらも、手に取ってしまう。彼女は菓子に合うコーヒーや茶、それにヴィーニョ・ド・ポルトを絶妙に選んで微笑んだ。

 彼女は直に、虚勢を張っている彼のわずかな喜びの表情を、正確に見分けられるようになってしまった。そして、菓子だけではなく、食事で何を彼が好むのか、身につける物で何を心地よいと思っているのかを、彼に代わって館の使用人達に告げる役割を果たすようになった。

 それだけではなかった。ずっと1人で奏でるしかなかった彼の慰め、音楽においても彼女はますます彼の期待していなかった位置にたどり着きあった。

「お前がまともに弾ける日など来ない」
12年前に彼女のレッスンに苛立って冷たく言い放った彼自身の言葉を、彼が撤回しなくてはならないと思いだしてどのくらい経ったであろう。彼は、未だに謝罪と賞賛の言葉を口にしていなかった。「悪くない」程度の言葉を口にするのが精一杯だ。だが、彼女はその言葉に満足して微笑む。彼のヴァイオリンの伴奏をすることをこの上なく喜ぶ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(7)薔薇色

『Filigrana 金細工の心』の7回目です。ようやく本題って感じです。時系列も、もともとの「いま」に戻ってきました。プロローグの直後ですね。

いつもは大体2000字前後で切るんですが、うまく切れなかったのでこの章はそのままアップしました。



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Filigrana 金細工の心(7)薔薇色

 彼は、外の光景をひと通り眺めてから窓辺を離れると、戸棚から段ボール箱を取り出した。中には、雄鶏の形をした小さな木製の板がぎっしりと入っていた。2階の陽のあたる角部屋を、彼は仕事部屋として使っていた。

 仕事。それが厳密には義務でないことを彼はよく知っている。彼に納期を告げる者はいなかった。1日に、週に、またはひと月に、どれだけの作業をこなすべきかを指示するものもいなかった。現在『ドラガォンの館』に住むインファンテがそうしているように、手を付けないままに放置できることもわかっていた。

 朝食の後に、定量の『バルセロスの雄鶏』を彩色するのは、35年近く欠かした事のない習慣だった。『バルセロスの雄鶏』は、カラフルに模様が塗られた雄鶏で、この国の最もポピュラーな土産物のひとつだ。大小様々の陶製の置物の他に、キーホールダー、マグネット、ワインのコルク栓の飾り、爪楊枝入れ、栓抜きなどにもなっている。この柄をモチーフにしたエプロンやテーブルセンター、布巾なども国中の土産物屋で売られている。

 多くは安価で、買って帰る旅人たちは、これを誰が彩色しているかなど意にも介さない。外国で低賃金の人びとの手で彩色されているか、どこかの村で内職されているか、そんなところだろうとぼんやりと思っているだろう。そして実際にもそうなのだが、少なくともそのうちのわずかは、この街で最も裕福な人びとが住むボアヴィス通りの、とりわけ立派な館の2階で作られているのだった。

 特に意味はないのだが、いつもの習慣で、本日の作業で作り上げようとする個数の未彩色の雄鶏を1つひとつ並べる。机の端から端まで、等間隔できっちりと。今日は木片だが、時にそれは陶器であることもある。だが、作家ものとなる大きい陶器の作業をすることはない。サインをすることも、「この職人のことを知りたい」と思わせるような作品を作ることも許されていないから。

 どのような色を塗るかの指示はない。彼が作るもので一番多いのは、典型的な黒地のものだが、今日は薔薇色の絵の具を取り出してきた。赤いとさかと区別がつかなくなるほど濃い色にしてはならない。彼は慎重に白を混ぜて色を作っていった。黄色いくちばし、足元はセルリアンブルーにしてみようと思った。赤いハートの模様、囲む白い点線、『バルセロスの雄鶏』には多くのパターンはない。その中でも彼は、自分の好みの色で様々な商品を生み出すのが好きだった。模様の一つひとつを機械のように、誰も検品をしたりはしないと知っていても、完璧に塗っていく。

 35年の月日は、正確な時間管理を可能にしていた。彼はいま予め並べた木片が『バルセロスの雄鶏』のキーホールダーとなるまでの時間を正確に予想する事ができた。午前中に全ての作業を終えると、着替えて昼食に向かうだろう。街から戻ってきたアントニアが、今日のニュースを告げてくれるに違いない。

 手は休まずに作業を続けるが、彼の心は時にその場を離れて自由に泳いだ。今日は、数ヶ月前までは同じように職人としての仕事をしていた甥の1人に意識が向かった。その男、インファンテ323は、実際には彼の甥ではなかった。兄カルルシュは、正確には彼の従兄であったから、甥とされている23も、正確には従甥じゅうせい だった。彼はこの青年に特別な親しみを持っていた。

 それはとても奇妙な事だった。この青年の弟インファンテ324の方がずっと彼自身に似ていて、23はむしろ彼が憎み続けたその父親によく似ていた。実際に、カルルシュの子供たちが幼かった頃は、23にひときわ厳しい視線を向けていた。だが、皮肉なもので、時とともに、3兄弟の中でこの青年がおそらく誰よりも彼の事を理解し、魂同士の共感を持つ事ができる存在だと感じるようになった。

「ギターラを習うって言っていたわ」
この館に勝手に足繁く通っていたティーンエイジャーの頃のアントニアが、23もまた音楽を奏でる同志になったと伝えた時に、彼は驚かなかった。むしろ今まで習いたいと言えなかったのかと驚いたくらいだ。

「あの子は、どこかあなたに似ているのかもしれないわね、叔父さま」
アントニアの言葉に、彼は皮肉っぽく笑ったが、どこかで彼女言葉は正しいのだと心が告げていた。

 23は靴職人だった。

 ある時、アントニアが1足の靴を持ってきた。彼の衣類や靴は、ふだん使用人が用意しておくので、新しいものが納品された時に意識する事はない。ましてやドラガォンの使用人がアントニアに預けて持ってこさせる事など考えられなかった。
「どうしたんだ」

 アントニアは、満面の笑顔でその靴を彼の前に置き「叔父さま、ぜひ履いてみて」と言った。履いてみて驚いた。いつもの靴に較べて革が柔らかく、もう1ヶ月以上も履いている靴のようにぴったりとフィットした。これまで履いていた靴も、熟練した親方が彼の足型に合わせて丁寧に作っていたのだから、それ以上と即座に感じられる靴があるなど考えた事もなかった。

「ビエラさんの所に行って、あなたの足型を受け取ってきたの。そして、トレースに作ってもらったの。どう? 履き心地よくない?」
「23だって?」
その時に彼は、甥が仕事に関しても彼と同じ姿勢でいる事を知ったのだ。そして、彼には才能があった。

 だが、彼は今、靴を作ることはほとんどないであろう。当主でもないアントニアが、あれだけの多く代わりを務めなくてはならないほど、ドラガォンの当主のこなすべき仕事は多い。亡くなった兄に代わって《ドン・アルフォンソ》となった青年には、靴を作る時間はほとんど残されていないはずだ。さらに言えば、ギターラを爪弾く時間はさらにないであろう。残念な事だ。彼は思った。

 不思議だった。彼の心にある青年への嫉妬、痛みは彼が想像したほど大きくは育たなかった。もっと羨んでもおかしくないはずだ。同じインファンテとしてこの世に生を受けたにも関わらず、23は彼がどれほど望んでも手にする事ができず、これからもできないであろう全てを手に入れた。名前と、自身の意志で館の外に出る自由と、愛する女と。だが、その事実は、彼の心をさほど波立たせなかった。あれほど兄を憎んだのと同じ自分とは思えぬ程、彼の心は静かになっていた。

 アントニア。彼は、心の中でつぶやいた。彼女がいなかったら、私は今でも悶え苦しんでいただろう。カルルシュへの憎しみと、マヌエラへの愛憎と、己の運命の厭わしさに。独りで音を奏でる事への怒りと、心を込めて仕事をしても報われないことの虚しさに焼かれていた事だろう。1人で食事をし、使用人たちに冷淡に接し、誰からも好かれない己のことを乾いた心で嘲笑っていただろう。

 アントニア。お前が私の心を解放したのだ。だが、私はお前の望むものを与えてやる事ができない。

 彼は薔薇色の木片を眺めながら、心の中で呟いた。そして、不意に、その色が昨日のアントニアの口紅の色であった事に思い当たった。新しく付けていたそれにいち早く氣づいていながら、彼女の期待している讃辞をわざとかけてやらなかったことが、彼の心をわずかに締め付けた。
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【小説】Filigrana 金細工の心(6)インファンテ -2-

『Filigrana 金細工の心』の6回目の後半です。主人公22が「できすぎ坊ちゃん」として生きることをやめ、引きこもりになってしまった日々のことを書いた章です。『Infante 323 黄金の枷 』の主人公23の視点で書かれた外伝『格子の向こうの響き』で、メチャクチャ感じ悪い態度で出てきた当時、彼はこんな状態でした。



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Filigrana 金細工の心(6)インファンテ -2-

 だが、理想と現実は同じではなかった。彼と入れ違いに居住区を出て、『ガレリア・ド・パリ通りの館』に遷されたインファンテ321とは、その後2度ほどしか会わなかったが、12歳のあの日に告げられたことは、何度も心をよぎった。自らの存在意義について。カルルシュとの立場の違いについて。

 彼は、高潔に、雄々しく生きようと努力した。何が起ころうと、カルルシュに当たったりするものかと。たとえ、やっていることが何の役に立たなくても、自暴自棄になったり、苛立ちを見せたりすることはすまいと。

 彼は、20歳になるまで、表向きはその態度を貫き、父親からも、カルルシュからも、召使いからも、尊敬と愛情を勝ち得たと信じ、心の中の虚しさを押し殺してしっかりと立っていた。その誇りと矜恃は、彼の表面に少しずつ漆喰のように層を作り、鎧となり彼自身を支えていた。

 音楽は、彼の心に翼を与えた。音色は、ドラガォンの宿命とは一切無縁なものとして彼の心を解放した。ピアノとヴァイオリンの音色は、彼の心の悩みや苦しみの細やかな襞までをも隠さずに、館の中を自由に駆け巡った。彼は、そうやって存在しない者として生きることを受け入れようとした。

 そして、彼はマヌエラに出会った。

 栗色に近い落ち着きのある金髪、明るい灰色の瞳、利発で優しい印象の微笑み。彼がそれまで夢想した、いかなる空想上の女神よりも美しい女性だった。そして、彼女は聡かった。その柔らかい印象に反して、自らの足で立ち人生の舵をとり、前進していくことを望む強い人だった。彼の魂に触れ、その高潔さをたたえ、さらに押さえつけている虚しさを理解し、彼の心の叫びである音色を聴き取る感性も持っていた。

 初めての恋に彼は夢中になった。そして、彼女と生きることが、理不尽な運命への埋め合わせとして天から与えられた人生の最後のピースなのだと思った。

 暖かい愛と知的な語らいのある生活、これまでに手にしたことのない満足があれば、彼は名もなく、名声も得られず、自らは何の決定も下すことのできない人生であっても、カルルシュのもとにあるドラガォンを支える存在しない1人として捧げることができると思った。もしかしたら、2人の愛の中で生まれてくる子供が、やがてドラガォンを率いていく存在になるのならば、その未来のために尽くすことも悪くないと思えた。それは、私情を滅しシステムのためにひたすら尽くす当主として生きる厳格な父親の意にも沿うのだと。

 だが、例の宣告が、全てを変えてしまった。彼を支え続けてきた理想のインファンテの石膏をも崩壊させてしまった。

 母親の体から出てくるまでの数日の違いで、彼の願う全てを手にしたカルルシュが、マヌエラをも横取りした。ドラガォンの掟を盾に、システムの厳格な運用を悪用して、彼女の心を得る努力もしないで。そのずるいやり方を、父親やシステムだけでなく、マヌエラ自身までが肯定した。

 憤りと嫉妬と憎しみに支配され、彼ではなくカルルシュに味方した全ての人間を恨み拒絶した。それは例外なく、彼の周りの全ての人間だった。『ドラガォンの館』には、システムよりも彼を優先してくれる、肉親も恋人も友人も、ただの一人もいなかったのだ。

 彼のそれまでの蓄積した想い、自分の中にあった不満と怒りは、溶岩のように流れ出て留まるところを知らなかった。

 彼は、それまで進んで被っていた全ての仮面を脱ぎ去った。彼はもう、理想のインファンテを演じることができなかった。システムへの復讐のため、システムにとって好ましくない態度をとり続けた。

 正餐には顔を出さず、父親やカルルシュ、そして《監視人たち》中枢部の黒服たちを無視し、誰かを選んで《星のある子供たち》の父親となることも拒んだ。文句を言われないよう、『バルセロスの雄鶏』を彩色する作業だけはこなし、居住区内に用意される食事を食べ、音楽を奏で、本を読み、ひとり日々を過ごした。

 そうやって月日が流れ、彼は結局思い知ることになった。彼が背を向けても、ドラガォンのシステムには何の影響もなかった。彼が支えなくても、父親ドン・ペドロの当主時代は当然のこと、その死後、カルルシュが当主になった後も、何ひとつ不都合がなかったのだ。

 カルルシュが当主になった時に、大きな混乱が起こるだろうと思っていた。無能で、優柔不断、虚弱なカルルシュに当主の役目がまともに務まるはずはないと、彼は思っていた。カルルシュを見下す母親ドンナ・ルシアに嫌悪感を持っていたはずなのに、彼自身が同じことを感じていたのだ。

 だが、ドラガォンは、ドン・ペドロがいた時と変わらずに存在した。以前から誰も彼には中枢で何が起こっているかを知らせてはくれなかったが、代替わりしてからもそれは同じだった。ひときわ優秀なマヌエラとアントニオ・メネゼスがカルルシュを助けていることは予想できた。それがわかっていても、何の問題も起こらないこと、「もし当主が彼でなければ」という反応が全く感じられないことに、密かに傷ついていた。

 時は過ぎた。もう誰も彼に何ひとつ期待をしなくなった。正餐のテーブルにつかなくなった彼の存在は、やがて忘れ去られた。ドン・ペドロの空いた席にはカルルシュが座り、やがて当主夫妻の4人の子供たちがそのテーブルを埋めた。新しく勤め始めた召使いたちは、かつての『理想的なインファンテ』を知らない。無表情に彼の居住区の掃除をし、1人で食べるテーブルの用意と給仕だけをする存在になった。

 彼は、自分で閉じこもったとはいえ、ひどい疎外感に苦しんだ。父親も、他の誰もが、背を向けた彼を責めもしなければ、困った様子もなく、何ひとつ彼に願ってこなかった。虚弱体質のはずのカルルシュが、当主としての務めを果たしただけでなく、4人もの子供をこの世に送り出したからだ。彼は、インファンテ321が言った「たった1つの存在意義」すら放棄した。それが、彼自身を蝕むとも思い至らずに。

 彼は、彼自身の行為で、当主のスペアから、生まれてくる必要すらなかった者に成り下がってしまった。

 瞳を閉じて、彼はひとり言をつぶやいた。カルルシュに全てを奪われたわけではない。初めから、彼など存在してもしなくても同じだったのだと。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(6)インファンテ -1-

『Filigrana 金細工の心』の6回目の前半です。前回まで、第1作『Infante 323 黄金の枷 』ヒロイン視点のプロローグ、長いライサ・モタの回想シーンと、主人公以外の人間の視点で綴られてきましたが、ようやく本人視点が登場します。

第2作『Usurpador 簒奪者』では、22視点の話は出てこなかったと思うのですが、外から見た彼の「できすぎ」っぷりに胡散臭いと感じられた読者が多かったように思います。この章では、「できすぎの坊ちゃん」として振る舞っていた彼が、激怒の末に引きこもりになってしまった過程が、綴られています。この章は、実はもっと後に置いてあったのですが、別に秘密にするようなことでもないので、先に持ってくることにしました。次週との2回にわけています。



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Filigrana 金細工の心(6)インファンテ -1-

 彼が初めて自らの進む道、つまりインファンテであることについてはっきりと意識したのは、12歳のある午後だった。まだ、彼と同い年の兄であるカルルシュとの間には大きな待遇の差はなかった。学ぶ時も食事をする時も、いつも一緒であり、彼にとってそれは当然のことだった。彼はドイスと呼ばれ、それが個人名とは違う番号の一部でしかないことを意識することはなかった。

 午餐や晩餐できちんと身支度して、両親、カルルシュと共に、食堂の立派なテーブルの前に座る時、わざわざ呼び出されてから現れて着席する者たちの存在も、特に自分の運命と関連付けて考えることはなかった。

 屋敷の中には、鉄格子で締め切られた居住区があり、そこにある男と、そして多くの場合、女が1人ともに住んでいた。女は1年経つといなくなり、またしばらく経つと別の女が同じ立場になる。会話をすることもなく、その場で食事をし、食後には召使いたちに付き添われて、また鉄格子の向こうへと戻っていった。

 その男は、たいてい席に着く前からもう酔っており、だらしない姿勢で椅子にもたれかかりながら杯を掲げて満たすように要求した。厳格な彼の両親は、男をほぼ無視して食事を進めた。その異質な男こそが、インファンテ321、つまり、当主ドン・ペドロのスペアとしてこの世に生を受けた男だった。

 その男と、選ばれてしかたなく居住区で暮らすことになった女とは、正餐に呼び出されても出てこないことがあった。2階の格子戸を開けて、召使いたちが正餐の時間だと呼び出すと、男は3階の寝室からろれつの回らない大声で「いま、いいところだからよ」と叫び、下品な笑い声を響かせた。その報告を耳にすると、ドン・ペドロは顔色も変えずに、ソアレスに目で指示を与え、執事は2人抜きで給仕をはじめた。正餐を食べ損ねた2人には、後ほど食事が運ばれることになっていた。

 その男こそが、カルルシュの本当の父親だと、いつだったか彼の母親ドンナ・ルシアが口走ったことがある。するとドン・ペドロは、厳しい目つきだけで妻をたしなめた。

 彼は、だらしなく粗暴なその男に、嫌悪感を持っていた。そして、男からも好意を持たれていないことを肌で感じていた。
「お高くとまってやがらあ。てめえは、立派な当主の跡継ぎだと思い込んでいるってわけだ」

 男は、彼のことをよくあざ笑った。何がそんなに彼を面白がらせているのか、幼かった頃の彼にはよく理解できなかった。

 だが、12歳のあの日、21は格子の向こうから彼を呼び止めて、彼の運命を告げたのだ。

 彼は、いつもよりもさらにひどく酔っていた。母親はこの男のことを「わがままな酔っ払い」としてあからさまな嫌悪感を示していた。だが、彼はそれをあからさまに態度に表すことは紳士的でないと自分を律していた。単純に関わらないようにしていただけだ。

「おい。おいったら。まだ、お高くとまってんのかよ。俺を見下しているみたいだが、お前、わかってねえな。お前は、俺と同じなんだぞ」

 彼は、はじめて足を止めて、まともに格子の向こうの男を見た。彼には純粋に理解できなかったのた。彼のどこがこの男と同じだというのだろう。だけが本当の父親かどうかは、彼にとってはそれまで重要なトピックではなかった。そうであっても、関係なく、彼はこの館で召使いたちに傅かれる者としての責任と誇りを持った者として、父親ドン・ペドロからの教えに従ってきたし、厳格な父親や執事のソアレス、そして、幾人かの教師たちを満足させる振る舞いと成果を常に出していた。眉をひそめられ、ため息をつかれるばかりの存在のこの男と、どこが同じなのか、全くわからなかった。

「興味が出たか」
「おっしゃる意味がわかりません」

 21は、大きくのけぞって笑った。杯を持つ手と反対の手で格子にしがみつかなければ、まっすぐ立っていられないほどにふらつき、頬と鼻の先は異様なほどに赤い。そして、濁った白目の細い瞳を細めて、彼の方をじっと見た。
「なんだ。やっぱり教えてもらってねえのか」
「何をですか」

「次に、この檻の中に閉じ込められるのは、お前さんだってことだよ」
21の言葉に、彼は深く息を飲み込み、意味をよく理解しようとした。それがどのくらいの時間だったのか、彼は憶えていない。だが、時間は、酔っ払った男には大した問題ではなかったらしい。

 彼は、その間にさまざまなことを考えた。21という男の呼び名に、彼の22という呼び名。父親とカルルシュの填めている腕輪に1つ多い青い石。何度か耳にした「あれだけの才能がおありなのに、なんてもったいない」という囁き。

 男は、その彼の思考を追うかのように、また、時には前を行きながら、彼はやがて格子の中に閉じ込められるインファンテだということを、杯の中の琥珀色の液体を喉に流し込む合間に語った。彼は、館の中にいる大人たちに確かめるまでもなく、この男が語っていることは真実なのだということを悟った。

 全てに合点がいった。なぜ母親がカルルシュを目の敵にするのか、カルルシュのできが悪い時になぜ他の人たちがそれと比較して彼を憐れむのか。それまでどう考えても理解できなかったことに、彼は答えを見いだした。わずか数日の誕生日の差で、才覚や適性などは関係なく、彼とカルルシュの運命は決まったのだ。

「……で、どうだ。そろそろ夢精でも始まるんじゃねえのか」

 彼は、ある種の嫌悪感を抱いて、21を見つめた。酔った男は、また高笑いをして、だらしなく緩んだ口元から臭い息を漏らしながら顔を近づけてきた。
「高尚なお坊ちゃんよ。俺を見下すのは勝手だがよ。お得意らしい法学も、ラテン語も、お前には必要ないんだよ。お前に求められているのは、俺がやっていることだけだ。女をベッドに引きずり込み、本能の赴くままにやりまくること。それだけさ、俺やお前の存在意義は」

 そんなはずはない。自らの生まれてきた意味が、そんなことだけにあるなんて。彼は心の中で叫んだ。僕は、たとえ同じ運命だとしても、あの人のようになるものか。

 彼は、自分が閉じ込められる運命に、雄々しく立ち向かおうとした。彼が、生まれてきた日に対して責任がないように、カルルシュにもその責任はない。彼を心から慕い信頼を寄せるカルルシュを、格子の向こうからでも支えられるように、きちんと勉強を続け、召使いたちに仕えてもらうに足る尊敬を勝ち得る『メウ・セニョール』になろうと決心した。

 だから、1年後に第2次性徴があらわれて、2週間後に居住区に遷るのだとドン・ペドロに告げられた時も、冷静に受け止めた。その時に、ショックを受けたのは、何も知らなかったカルルシュだった。
「まさか! なぜ、ドイスが閉じ込められるのですか?!」

 そのナイーヴな問いかけに、ドンナ・ルシアはもう我慢ができなかった。女主人としての誇りも務めも忘れ、憎しみを露わにしてカルルシュを罵倒した。ドン・ペドロは、珍しく声歩荒げて妻を叱った。母親のヒステリーは、閉じ込められる当事者である彼をむしろ冷静にした。彼の心の準備はできていた。実の母親でありながら、ドンナ・ルシアの感情的な態度を、彼は好きではなかった。カルルシュに対する理不尽な叱咤にも、彼への身びいきが原因だと感じて、かえって嫌悪感を持っていた。

 彼は、母親を反面教師にし、父親のように冷静で有能な、人の上に立つのにふさわしい人間になろうと固く決意していた。何が起ころうと、紳士的にきちんと振る舞い、このようなことに声を荒げたりすまいと。

 だから、母親が、深夜にカルルシュを殺害するためにその寝室に忍び込んだこと、すぐに露見して遠ざけられた時にも、ショックを受けこそすれ、父親の決定に納得していた。それどころか、今後、たとえ格子の向こうで生きることになっても、これまで以上にカルルシュを支えて生きていこうと決心したぐらいなのだ。
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【小説】Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』-2-

『Filigrana 金細工の心』の5回目『グラン・パルティータ』の2回目です。ライサの回想シーンは、まだ続いています。

これまで22の演奏を聴くだけだったのが、この日を境にCD鑑賞などにも同席するようになりました。今回出てきたモーツァルトの『グラン・パルティータ』は、後々再び出てくる曲です。私は、この曲を数年前まで知らなかったのですが、このストーリーの構想を立てていた頃に『クラシック100曲オムニバス』的なアルバムで聴き、使うことを思いつきました。

さて、少し長かったのですが、次回でライサの回想シーンは終了です。



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Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』 -2-

 普段の彼は、昼食の後はいつも1人でヴァイオリンかピアノの練習をする。ライサは部屋に戻って本を読みながらその音に浸った。午後も遅くなると、それまで部分的に練習していた曲を通しで弾き、その後に完成している曲をいくつも弾く。ライサはその頃にそっとサロンに近づくのが常だった。ドアの近くで立っているのを察した彼に呼ばれて、彼女はピアノの正面にあるソファに腰掛ける。

 だが、その日は昼食後にすぐにサロンに行くことになった。モラエスとルシアがアームチェアの前のローテーブルにコーヒーの準備を始めた。勧められて彼女はそこに座った。彼は、ガラス棚からCDを1枚取りだしてモラエスに渡し、それから、ライサの斜め横のアームチェアに腰掛けた。

 ライサの体に強い緊張が走った。彼とここまで接近したことはまだなかった。初めて会った深夜に24と取り違えたのは、月光ではっきりと見えなかったからでもあったが、明らかに他人だと分かっていても思い出さずにいられないほど、彼は彼女にトラウマを与えた男に似ている。今のライサには、加齢による変化、感情の表し方、周りの人との関わり方の違いをはっきりと見て取れる。それでも、彼女は体は意思に反してこわばった。

 彼は、ライサの反応を見て取ったが、何も言わなかった。モラエスがかけたCDが音を立てだした。

 ピアノかヴァイオリンの曲を聴くのだと思っていたが、それは管楽器の音で始まった。ライサは、目を見開いて彼を見た。彼は、その反応の変化に満足したようで、また以前と同じような口元だけの微笑を見せた。
「セレナード第10番 変ロ長調『グラン・パルティータ』というんだ。管楽合奏曲だよ。第6版のケッヘル目録では370aだが、初版のK361で表されることの方が多い作品だ」

 彼は、目を瞑り聴いていた。彼女が『ドラガォンの館』で働いていた頃、24は甘い言葉を囁きながらいつも彼女との距離を縮めようとした。それがあの恐怖の始まりだった。けれど、いま傍らにいるもう1人の、とてもよく似たインファンテは、彼女の存在を無視しているのではないが、何かを意図して近づいてくるという印象を一切与えなかった。自分の事も、ライサのことも何も語らず、ただ『グラン・パルティータ』に没頭している彼の様子に、ライサの緊張は少しずつほぐれていった。
 
 その日から、時おりサロンで同じように彼と食後の時間を過ごすようになった。夕方に彼自身の演奏を聴かせてもらう時には、黙って聴くのみだった。演奏後に彼と交わす会話も短く、曲目や作曲者の意図以外のことを話すことはなかった。だが、食後の時間は、性質が違う。彼が選ぶ曲は、ヴァイオリンやピアノが主役となる曲ばかりではなかった。たとえば管弦楽曲のように。

「ピアノやヴァイオリンの曲よりも、管弦楽の曲がお好きなんですか?」
ライサが聴くと、彼は「どちらも好きさ」と言ってからわずかに自嘲的な笑みを見せた。
「ただ、こちらは破れし夢へのノスタルジーというところかな」
「破れし夢?」

 彼は、CDのジャケットを見ながら言った。
「聴くだけでなく、演奏してみたい。その想いはピアノとヴァイオリンに留まらなかった。だが、1人で弾ける曲には限りがある。20代のはじめに、シューベルトの『ます』の5重奏に挑戦したことがある。ヴィオラとチェロまでは、なんとかそれらしく弾けるようになったので、パートごとに録音して合わせてみた。だが、上手くいかなかったんだ」

「どうしてですか?」
「演奏というのは、メトロノームのように、正確に速さを刻んでするものではないんだ。何人かが同時に息を合わせてこそ合奏が成り立つ。だが、私は5人に別れることはできないんだ」

 彼は、インファンテだった。Pの街の中で演奏家たちと合奏することも、不特定多数の人間と知り合いになることも許されていなかった。金銭的には、どんな贅沢でも要求できたが、それでも、世間的には『存在しない者』として生きる他はなかった。

「今は、だいぶマシになった。ピアノの2重奏も可能になり、ヴァイオリン・ソナタで伴奏をしてもらうこともできるようになった」 
ドンナ・アントニアのことだろうと、ライサは思った。

 かつて彼には、伴奏者も、観客もいなかったのだろう。心を揺さぶる美しいメロディーも、情熱ほとばしる弓遣いも、虚空に消えていただけだと思うと、ライサの心は痛んだ。彼女にとって苦しみしかなかったあの鉄格子で閉ざされた空間に、彼もまた閉じ込められていたのだ。

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K. 361 Mozart Serenade No. 10 in B-flat major, III Adagio
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【小説】Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』-1-

『Filigrana 金細工の心』の5回目です。

まだ「(2)悪夢」で始まったライサの回想シーン、まだ続いています。最初の構想では、このライサの回想は、もっと後に出すつもりだったのですが、むしろこの方が事情がはっきりするのと、前作とのつながりが強いのでこうなりました。長いので切ったんですけれど、サブタイトルの曲、モーツァルトの『グラン・パルティータ』は、まだ出てきませんね。



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Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』 -1-

 1ヶ月ほどの間に、彼女は、ドアを離れて彼が奨めるソファに座ることができるようになった。食事の時にも、怯えてカトラリーを取り落とすこともなくなった。彼は彼女が1つひとつの段階を経ていくのに満足し、まずは皮肉に満ちた微笑を、それから少しずつ優しい笑顔を見せるようになった。その表情の変化は、ライサの彼に対する忠誠と思慕に拍車をかけた。

 逃げ惑いながら、ピアノの音を目指して走る目覚め以外に、まるで夢を見ていなかったかのように心地よく目覚めることもあった。そんな時でも、音色は常に彼女を光に導いてくれた。彼は、朝食前には練習中の曲ではなく完成し弾き慣れた曲だけを演奏する習慣があった。数日前に耳にして、彼女が特に好きだと口にした曲を、改めて弾いてくれることもあった。

 そんな時に、彼女は急いで起き上がり、シンチアたちの助けを借りずに洗面所へ向かい、急いで身支度をした。朝食の席に行き、彼とドンナ・アントニアのいる、明るい窓辺の席に座ることを思うと心が躍るのだ。

 まだ、うまく自分を表現することができず、俯きがちながらも、ライサの表情から怯えや恐怖が薄れ、信頼と安堵が戻ってきていることをアントニアは喜んだ。彼女は、ライサを刺激しないように、『ドラガォンの館』の話は一切しなかった。聞きたくない男のこと、思い出させるあの場所のことを、ライサは聞かずに済んだ。

 過去にあったすべてと、ライサは切り離されていた。それ以外の人生などなかったかのように、『ボアヴィスタ通りの館』の暮らしだけが、彼女を包んでいた。

 アントニアは、朝食が終わるとどこかに行くことが多かった。そんな時は、彼女は快活に言った。
「また後で会いましょう、ライサ」

 同じ言葉と笑顔が、彼女を安心させた。午前中は、シンチアやルシアの仕事を見ながら過ごしたり、アントニアが用意してくれた本などを読んで過ごすことが多かった。アントニアが戻らないときは、彼と2人で昼食を取る。彼は口数が少なく、アントニアのようにライサの答えやすい話題を振るような努力はしなかった。けれど、ワインの好みを訊いたり、アントニアの渡した本の内容に触れたり、ごく自然に会話をするようになった。

「メウ・セニョール。今朝の曲について教えてくださいませんか」
ライサの問いに、彼はわずかに笑って答えた。
「あれはモーツァルトだよ。ピアノソナタ ハ長調K545 だ。おそらくクラッシック音楽に全く興味がなくても1度はどこかできいたことがあるだろうな」

 その通りで、コンサートなどに行ったことがないライサでも、珍しくよく知っている曲だった。
「K545って、何を表す番号ですか?」

「ああ、ケッヘル番号といってね。モーツァルトの作品を、作曲された順に整理してつけた認識番号だ。19世紀のオーストリア生まれの音楽学者ケッヘルが作品の散逸を防ぐために整理したんだ。当時は、作曲者が自分で通し番号をつけるという概念そのものがなくてね。寡作な作曲者なら演奏記録などで後からでも調べられるだろうが、モーツァルトは多作だったから、後少しでも遅ければ、目録作りは不可能だったろうね」

「じゃあ、あの曲は545曲目なんですね」
「いや、そうではないだろうな。後の研究によってケッヘル番号は何度か改訂されていてね。たとえば最初のK1とした作品の前に後ほど4曲ほどみつかったので、K1a,、K1b、という具合に補助アルファベットをつけて表示することになった。それに、後から偽作だったことが分かった曲もみつかったので、ケッヘル番号だけで何曲目と判断することは難しいだろうな」

 それから、口の端だけで微かに笑うと言った。
「同じことを訊くんだな」

「え?」
ライサは、彼がどこか遠くを見るような目つきをしていることに氣がついた。だが、それは一瞬のことで、すぐに彼はそばに控えているモラエスに合図をした。

「はい。メウ・セニョール」
「今日のコーヒーは、サロンの方に運んでくれ」
「かしこまりました。デザートもそちらにお持ちしますか」
「いや。それはここでいい」

 モラエスは、ルシアに合図をし、彼女は2つのナタス・ド・セウを運んできた。
「ええと、確かこちらが……」
そういいながら、自信なさげにルシアは1つのグラスをライサの前に置いた。もう1つのグラスを前に、彼はルシアにいつものように礼を言った。同じデザートなのに、なぜルシアはあんなことを言ったのだろう。ライサは不思議に思った。

 ひと口スプーンを口に入れて、ライサは驚いた。この館で出されるデザートはいつもとても美味しいのだが、今日のデザートは衝撃的に甘かった。砂糖の量を間違えたのかと思うほどだ。思わず、彼の方を見ると、若干不思議そうにグラスを眺めていたが、何も言わずにそのままデザートを食べていた。

 ライサは、ルシアが置くべきデザートをとり違えたのだと思った。おそらく彼が食べるデザートだけが、通常のものより甘いのだ。彼女は、なんとか最後までそのデザートを食べ終えた。普段よりもずっとコーヒーが恋しかった。

「サロンに来なさい。コーヒーを飲みながら、モーツァルトを聴こう」
彼は立ち上がった。ライサは、コーヒーと聞いて迷わずそれに従った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(4)時間

『Filigrana 金細工の心』の4回目です。

まだ「(2)悪夢」で始まったライサの回想シーンが続いています。前回の更新へいただいたコメントで氣がついたのですが、このストーリー時間軸がやたらと前後するので混乱しますよね。これは、前作『Infante 323 黄金の枷 』でマイアが《ドラガォンの館》にやってくるよりもわずかに前くらいの時点です。妹マリアは1年近く連絡の取れないライサを心配し、代わりにマイアが勤めて素人探偵をしようとしたのが、あの話の導入でした。こんなことになっていたというわけです。



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Filigrana 金細工の心(4)時間

 理性と心は、同じ車につけられた両輪であったが、時にちぐはぐな動きをする。彼女を悪夢から救い出す、光であり命綱である響きを生み出す、彼女にとっては神からの使いにも等しい存在である人は、彼女の悪夢の源に似た姿形を持っていた。彼女は響きに近づきたかったが、全身がそれを拒んだ。すらりとした長身、明るい茶色の髪、森の奥の泉を思わせる青い瞳を、ライサは心底怖れた。

 彼は、容姿が似ているだけで、24とは明らかに違う人間だった。ずっと歳をとっていることだけではなかった。24のように自らの容姿のことに頓着しなかった。品のいいものを身につけていたが、最新流行の服を無制限に買わせることはなかったし、鏡の前で長時間過ごすこともなかった。芝居がかった動きも見せなかったし、何が言いたいのかさっぱりわからぬ詩を延々と朗読することもなかった。

 ムラのある性格の24と違って、几帳面で毎日のスケジュールは機械仕掛けのように正確だった。ライサは彼のピアノかヴァイオリンの響きで目を覚ました。朝食の後、彼は作業室と呼ばれる南の部屋で民芸品『バルセロスの雄鶏』に彩色する。昼食後は、音楽を聴くか、読書をするか、もしくはピアノかヴァイオリンを練習していた。

 24のように、甘い言葉で話しかけてくることもなかった。それどころか、ライサに近づこうともしなかった。初めて彼の姿を見た、あの深夜の翌朝、アントニアが彼女の手をとって、はじめて朝食の席に伴ったその時だけ、彼は大きな感情の変化を見せた。息を飲み、それからわずかに震えたように思った。けれど、それから彼は、大きく息をしてから何でもなかったかのように押し黙り、食事に集中した。

 近づこうとしたのは、ライサの方だった。アントニアが外出し、使用人たちも忙しく側にいない時、居間から聴こえてくるピアノの音色に惹かれて、何度も階段を降りた。それから、半分開かれているドアにもたれて、音色に耳を傾けた。音色は心に染み入ってきた。皮膚を通して、彼女の中へと入り込み、内側から光で満たした。彼女の中に巣食う穢れてただれた赤黒い細胞は、その光を注がれて透き通っていった。

 彼女は、ここにいて、この音に満たされていれば安心なのだと感じた。生まれたばかりの雛が、最初に目にした存在を親と信じて無条件についていくように、ライサの心は、光を求めて彼の奏でる音色を追った。その音に導かれてライサは目覚め、午後は希望に満ちて空を飛び、そして夕べの憩いを得た。

 それなのに、食事のたびに、彼の前に出ると身がすくむようだった。彼女を苦しめた男とは明らかに違う人なのに、その姿を見ると体中が凍り付く。青い瞳が向けられると、手が震えてカトラリーを何度も取り落とした。

「心配しないで。あなたは、こちらに戻ってきつつあるのよ」
アントニアが、そんなライサに優しく言った。

「あなたは、叔父さまのことを怖れないようになるわ。もう頭では理解しているでしょう、叔父さまは信用のできる素晴らしい人だと。あなたの意志とは無関係に反応してしまう体が、あなたのその考えに同意できるようになるまで、もう少しかかるかもしれない。でも、きっと時間の問題よ。あなたもそう思うでしょう?」

「ミニャ・セニョーラ。セニョールは、私の態度を不快に思っていらっしゃるんじゃないでしょうか。私、別室で食事しても……」
「だめよ。ライサ。これは、あなたの治療の一環なの。あなたを夢の世界に戻すわけには行かないの。わかるでしょう。叔父さまにはちゃんと伝えてあるから大丈夫よ」

 ライサは混乱していた。彼女にとって何よりも大切な存在、彼女の安全を約束してくれるその人には、どうしても嫌われたくなかった。不快にもさせたくなかった。尊敬し、感謝していることを伝えたかった。けれど、恐怖はいまだに彼女を支配していて、悪夢もまだ彼女を襲い続けていた。彼女が1度は愛し、共に幸せになれると信じた男が、豹変して彼女を襲った時の、それから、幾度となく恐怖に悶えて助けを求め続けた苦しみは彼女を縛り続けていた。

 彼女は、居間に続くドアにもたれかかり、ピアノの音色に耳を傾けながら、もっとこの音に近づきたいという強い願いと、恐ろしい悪魔の側からすぐにでも逃げだしたい衝動に引き裂かれながら震えていた。

 ゆっくりと両手を止めて、最後の和音の響きが消えるまでたっぷり5秒は使った後で、彼ははじめてライサに話しかけた。
「聴きたいのならば、入ってきなさい」

 その声は、不思議な力に満ちていた。美辞麗句を重ねに重ねた、24の空虚な言葉遣いと違い、装飾も何もないまっすぐな言葉だった。そして、それは命令形だった。ライサは『セニョール』の、彼女の主人であるインファンテの権能ある言葉に、逆らうことはできなかった。震えながらドアを押して中に入り、背を向けたドアにへばりつくように立って、彼を見た。

 青い瞳が、静かに怯えているライサを捉えた。彼はため息を1つつくと、鍵盤に目を戻し、ゆっくりとショパンを弾いた。

 それが、何度も繰り返されるうちに、彼女は、居間に入っていけるようになった。ライサの体を支配している頑固な恐怖もまた、この居間で音楽を奏でる男は、近づいても来なければ、彼女に危害を加えたりもしないことを渋々と認めて、彼女を自由にしだした。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(3)出逢い

『Filigrana 金細工の心』の3回目です。

追記に動画を貼り付けておきましたが、今回主人公が弾いているベートーヴェンのピアノ曲『ロンド・ア・カプリッチョ ト長調』は奇妙な俗称がついています。『失われた小銭への怒り』と。これはベートーヴェン自身が付けたわけではないのですが、本来の題名よりもずっと有名になっています。そして、とても難曲なのだそうです。

少なくとも今回のシチュエーションで弾くような曲とは思えませんが、当の奏者はかなり皮肉っぽい性格。アントニアは「なぜこれをいま弾く」と心の中で突っ込んでいたに違いありません。



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Filigrana 金細工の心(3)出逢い

 ライサは追われ、必死で逃げていた。いつもの悪夢、血まみれの赤ん坊、そして、笑いながら彼女を犯す狂った金髪の男から。目が醒めて、暗闇の中に放り出された。彼女は、光と音を探した。それは夜で、彼女の求めるものはどこにもなかった。

 ピアノが聞こえなければ、彼女は安心できなかった。シンチアやルシアなど使用人たちもいなかった。ピアノの聞こえるところ、光の見えるところまで、彼女は逃げなくてはならなかった。彼女は、パニックに襲われ、ベッドから抜け出した。1度も出た事のない部屋から出て、階段を転げるようにして降りた。

 いくつかのドアを開けて周り、ようやく探しているものを見つけた。サロンの真ん中に、グランドピアノがあり、月光に浮かび上がっていた。彼女はそれに近づき蓋を開けて、めちゃくちゃに鍵盤を押した。みじめな不協和音が響くだけで、彼女を悪夢から救い出す、あの響きは創り出せなかった。

「こんな時間に、何をしている」
男の声がした。ライサが振り向くと、月の光の中に男が立っていた。明るい月の光に照らされて、柔らかく光沢のある髪が見えた。背の高いすっきりとした体格も。

 ライサは悲鳴を上げた。彼女が怖れている悪夢の男がここまで追いかけてきた。陽の光で見てもよく似ている2人を、暗闇の中で錯乱したライサが見分けられるはずはなかった。

「いや! やめて! 助けて!」
「私は、何もしない。落ち着きなさい」

 混乱したライサは、部屋の隅へと向かい泣き叫んだ。男の後ろから何人かの人々と共に飛び込んできた女性が側に駆け寄った。
「ライサ!」

 アントニアだった。現実の世界にいるはずの、彼女に安全を約束してくれる女性。ライサは、彼女に抱きついて泣き叫んだ。
「いや! 助けて! ピアノが聞こえない! ピアノが!」

 アントニアは、男に向かって叫んだ。
「叔父さま、何かを弾いてちょうだい」
「なんだって?」
「何でもいいから、弾いて! お願い!」

 彼は憮然とすると、ライサが倒した椅子を起こして座り、月の光の中で弾きだした。ベートーヴェンのピアノ曲『ロンド・ア・カプリッチョ ト長調』だ。このシチュエーションには唐突な、明るく軽快な曲だが、俗に『失われた小銭への怒り』と呼ばれているので、夜中にたたき起された上に野獣扱いをされた事への抗議も含まれているのかもしれないとアントニアは思った。

 アントニアの腕の中で、ライサは自分の耳を疑った。流れるようなトリル。力強く自信に満ちた連打。目の前で演奏されているのは、まさに彼女の望んでいた響きだった。ピアノの弾き手、ライサをいつも安全な現実の世界へ連れて行ってくれていた人物は、アントニアではなかった。この男だったのだ。

 やがて、それが誰だかわかった。彼女にトラウマを与えたインファンテ324ではなく、その叔父のインファンテ322、アントニアとともにこの館に住んでいる、もう一人の「メウ・セニョール」なのだと。

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Beethoven - Rondo 'Die wut  über den verlorenen groschen'
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(2)悪夢

『Filigrana 金細工の心』の2回目です。

ええと。この回はR18指定すべきかなと思う内容なので、読みたくないという方はお氣を付けください。とはいえ、この記述をしないで書くのは、ぼんやりした話になってしまうので、あえてこうなりました。前作では、23がマイアにソフトに語るという形で説明した24のやっていたことが、少し具体的に記述されます。

ここまで具体的な描写は、今後ほとんどないと思いますので、ご安心を。



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Filigrana 金細工の心(2)悪夢

「……ママ。ママ。かわいそうなママ……。あいつがあなたを苦しめているんだね」
その声はすぐ近くで聴こえた。終わりのない悪夢は彼女を休ませなかった。疼痛よりも針が近づいてくるその瞬間が怖かった。ベッドに縛り付けている手錠に電流を近づけてくる時の、狂った笑顔が恐ろしかった。どれほど懇願しても、絶対に逆らわないと誓っても彼は信用しなかった。声が出ないようにかまされた猿ぐつわに手をやり「このなめらかな肌に食い込む枷が美しい」と囁いた。

 乳房をねじ上げられ、苦痛に歪む顔を見て、青い瞳は輝いた。それから彼は欲望のままに、抵抗できない彼女に覆い被さり激しく腰を動かして囁いた。
「ああ、ママ。かわいそうな、ママ。あなたは、あいつに犯されて、苦しんでいる。いますぐに、僕があなたを救ってあげる。こうして、あなたの中からあいつの穢れた体液を搔き出してあげる……僕の存在で満たしてあげる……」

 その声が、次第に大きくなると、彼女の膨れ上がった腹がめきめきと割けて、中から血まみれの赤ん坊が顔を出した。口が裂けて、尖ったギザギザの歯を見せて奇声を発した。彼女は声にならない悲鳴をあげた。

 いつの間にか彼女は自由になっていて、必死で逃げた。暗闇の中、足が縺れ、何度も怪物につかまりそうになり、滑る足元によろけながら、彼女は走った。どこからか、ピアノの音色が響いてきた。彼女は、音のする方へと走る。そこへ辿りつければ、彼女は怪物から逃れられるのだと、そう信じて走った。

 彼女はベッドから起き上がった。体中が強張り、震えていた。喘息の発作のように激しく呼吸をしていた。ピアノの音色はしていなかった。

 汗でネグリジェは、ぐっしょりと濡れていた。ドアがノックされて、妹マリアの声が聞こえた。
「ライサ? どうかした? うなされていたみたいだけれど……」

 ライサは、息を継ぐと答えた。
「……夢を見たの。ごめんなさい、大丈夫」
「そう。わかったわ。おやすみなさい」

 マリアの足音が去り、隣の部屋のドアが閉められたのとを聞くと、ライサは首の付け根に手をやり、汗を拭った。夢……。夢だとわかるようになるまでにどれほどの時間が流れたか、彼女の記憶は欠けていた。ピアノの音色が彼女の救いとなったのもいつだったか憶えていない。

 あの悪夢は、かつては現実だった。彼女が愛し、自身で望んで一緒になった男が、もう1つの顔を見せたとき、その悪夢が始まったのだ。それがあまりにも長く続き、救いが見えなかったので、彼女の精神は現実と夢の境界を失った。肉体の痛みと精神の痛みは交錯してねじれた。胎内の奥深くに挿入された電動の器具が、彼女に快楽を強要しても、彼女には苦痛との違いを感じ取れなくなった。薬品が彼女の現実を壊した。昼と夜は逆転し、愛と憎しみも入れ替わった。

 悪夢は、常に彼女を襲い続け、それが終わる希望など持っていなかった。けれど、そのピアノの音が聴こえるようになって以来、明らかに何かが変わっていた。悪夢にインターバルが訪れるようになっていた。誰かが、優しく彼女の肌や髪を洗っていた。女性の明るい笑い声が近くですることもあった。食事に味がする。時には熱く、ライサは吐き出した。それを誰かが片付け、優しく口元を拭いてくれていた。それが悪夢の男とあまりにも違うのでライサは混乱した。

 やがて、彼女はベッドに座り、誰かが彼女に食事をさせてくれていることに氣がついた。そこはとても居心地がよかった。誰もが優しく、彼女を傷つけたりしなかった。どこからか、ピアノやヴァイオリンの音色がしていた。それを耳にしながら、ライサはここは安全な世界だとゆっくりと理解したのだ。

 それから、ある女性がよくベッドの側に座るようになった。その女性の落ち着いた声は、ライサには心地よく響いた。言葉の意味が分かるまでにはやはり長くかかった。長い心地のいい夢を見ているようだった。ゆっくりと、ぼやけていた画像のピントが合っていくように、ライサはその女性のいる心地いい夢が現実なのだとようやく信じられるようになった。その頃から、その女性にどこかで逢った事があるように思いだした。

「ライサ。今朝の氣分はどう?」
女性は、穏やかに訊く。親しげで優しい。それが自分の名前だと、ある朝、突然わかった。この人は、私に問いかけているのだ。そう思って、ライサは女性の顔を見た。彼女の表情が、つかの間、驚きに変わり、それから笑顔になった。
「ライサ?」

「あなたは……誰?」
ライサは、声を絞り出した。かすれていた。自分の声なのだと、後からわかるほど現実味がなかった。いや、しようと思った事が、できる事、声を出し質問したら、その通りに聞こえた事が驚きだった。

 女性は、微笑んだまま答えた。
「アントニアよ」

 アントニア? 知っている誰かの名前。どこで聞いたのだろう。アントニア。……ドンナ・アントニア……。

 突然、世界が回りだした。石造りの重厚な建物、どっしりとした家具、輝くシャンデリア。『ドラガォンの館』に集う、高貴なる一族。そして、恐ろしい悪夢。震えて泣き出しそうになるライサに、女性ははっとして、それから首を振った。
「心配しないで。あなたは、もう安全な所にいるの」

 その言葉が、ライサを現実に戻した。「安全な場所にいる」心で確認したがっていた言葉を、彼女が口にした。
「ここは……ここはどこ?」

 ライサが、『ドラガォンの館』から連れ出されて、アントニアの住む『ボアヴィスタ通りの館』で療養していることを理解するまでにはまだしばらくかかった。彼女の精神の混乱は、それほどに根深かった。だが、やがて彼女は、朝になり目が醒めると、必ず同じ場所にいて、悪夢が襲いかかってこなくなるという事を信じられるようになった。怖いのは夜眠っているときだけだった。そして、彼女を朝の安全な世界に導いてくれるピアノの音は、『ボアヴィスタ通りの館』で実際に奏でられているのを知る事となった。

 ライサは、ずっと同じ部屋にいた。彼女を世話してくれる使用人が、シンチアという名前で、ライサ自身と同じくドラガォンに雇われている存在である事も理解できるようになった。時々もっと若いルシアという女性が代わる事もあった。ライサは、自分でスプーンやフォークを持って食事をしたり、タオルで顔や手を拭く事もできるようになった。1人で浴室を使えるようになるまでは、もう少しかかったが、やがて、密室に1人でいても、眠らない限り悪夢は襲ってこない事が理解できるようになった。

 階下から聞こえてくるヴァイオリンとピアノの2重奏についてシンチアに質問した。
「ああ、あれはメウ・セニョールのヴァイオリンにドンナ・アントニアが伴奏なさっているのですよ」

「メウ・セニョール?」
その響きに彼女が怯えているのを見て、シンチアは、急いで言った。
「ドンナ・アントニアの叔父上です。亡くなられたドン・カルルシュの弟の Infante322です」

 それが24ではないとわかって、彼女は安堵した。それから、あのピアノを弾いていたのは、ドンナ・アントニアだったのねとひとり言をつぶやいた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(1)新しい腕輪

今日から『Filigrana 金細工の心』の連載を開始します。本当は、123456Hitのリクエストをすべて発表してからと思っていたのですが、大人の事情で(単に書き終わらなかっただけ)こちらを先に上げます。

第2作『Usurpador 簒奪者』は主に30年ほど前の事情を取りあげていましたが、この作品は、第1作『Infante 323 黄金の枷 』の直接の続編という位置づけです。ただし、前作のヒロインだったマイアは、今回の記述を最後にヒロインの座を明け渡し、表舞台から引っ込みます。最後なので、サービス(誰への?)で、沐浴シーンです(笑)



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Filigrana 金細工の心(1)新しい腕輪

 その夜、23の髪を洗っている時にマイアがふざけて突然腕を出した。23はとっさにそれをよけて脇にどいた。バスタブに落ちそうになったマイアを支えようとして、結果として23は大量の湯を跳ねさせてしまい、服を着たままのマイアはびしょ濡れになった。2人は顔を合わせて愉快に笑った。
「着替えてくるね」

 23は泡だらけの髪を指して「このまま?」と訊いた。
「だって、このままじゃ風邪引いちゃう」
マイアが重くまとわりつく服を見せると、23はマイアの腕を引っ張った。
「お前も一緒に入ればいいじゃないか」

 マイアは顔を真っ赤にして「えっ」と言った。彼にはマイアが今さら恥ずかしがる理由が全くわからないようだった。最終的に彼女も23のいう事に理を見出して、「後ろを向いていてね」と念を押してから、濡れた服を脱いで広いバスタブの23の横にそっと滑り込んだ。

「お風呂、2人で入るの、はじめてだね」
マイアがいうと、彼は彼女の肩に腕をまわしてそっと顔を近づけてきた。
「そういえばそうか」

 いつもよりずっと長くなってしまった入浴を終えて、その後、びしょびしょになっていた浴槽の周りを2人で笑いながらピカピカにしてから、ベッドに横になったのは11時近かった。

 23の胸にもたれかかるように眠っていたマイアは、彼が身を起こすのを感じて目を覚ました。
「どうしたの。私、重かった?」と目をこすりながら訊いた。

 23はマイアの唇に人差し指を置いて、それから部屋のずっと先にあるドアに向けて声を掛けた。
「何があった」

 するとドアの向こうからメネゼスの声がした。
「このような時間に誠に申しわけございません、メウ・セニョール。大変恐れ入りますが、至急お越しいただきたいのです」

「すぐに支度するので、待ってくれ」
そう言うと、23はベッドから出ると服を着て、ドアの方に向かった。途中で引き返してくるとマイアに言った。
「待たずに寝ていていい。遅くなるかもしれないから」

 それから耳に口を近づけてメネゼスに聞こえないように言った。
「寝間着は着ておいた方がいいぞ」

 マイアは真っ赤になって頷いた。23が出て行き、2人の足跡が階下へと消えていってから、マイアは急いで寝間着を着た。それからシーツをかぶりながら考えた。こんな時間にどうしたんだろう。今までこんなこと1度もなかったのに。窓の鉄格子から月の光が射し込んでいた。寝ていいと言われたけれど氣になるな。彼女は寝返りを打った。

 それでも、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目が覚めたのは、階段を上がってくる2人の足音を聞いたからだ。
「朝、またお迎えに参ります」
「お前は何時に起きるんだ?」
「いつも通り5時に」
「では、6時に起こしにきてくれ」
「かしこまりました、メウ・セニョール」

「それから、朝一番で24とアントニアに知らせるように」
「かしこまりました」
「クリスティーナはしばらく業務から外してやってくれ。必要ならマイアに手伝いを」
「かしこまりました。朝、ミゲルに連絡をしてマティルダにも手伝いにきてもらうように手配いたします」
「そうしてくれ」
「おやすみなさいませ、メウ・セニョール」

 ドアが開き、23がしっかりした足取りで入ってきた。マイアは23の側のサイドテーブルの電灯をつけた。時計の文字盤が見えた。針は2時半を指していた。
「どうしたの」

 23は口を一文字に閉じたまま、サイドテーブルに鍵の束を置いた。マイアはびっくりした。彼が鍵を持つことを許されたことはなかったから。このような鍵の束をメネゼスがいつも使っていた。

 不安そうに見上げるマイアをじっと見つめると、23は服を着たまま突然ベッドに載ってきてマイアの胸に顔を埋めた。マイアは、えっ、こんな時間にするの、寝間着を着ろと自分で言ったのに、と思ったが、彼はそのまま肩をふるわせていた。やがて絞り出すような声が漏れてきた。
「アルフォンソ……アルフォンソ……」

 寝間着に涙が沁みた。マイアにも何があったのかわかった。ドン・アルフォンソが亡くなったのだ。とっさに彼女の右肩をつかんでいる23の左手首を見た。黄金の腕輪の手の甲の側、これまで何の飾りもなかった所に1つ青い石が増えていた。

 マイアは鍵の束の意味を理解した。23は、たった今ドン・アルフォンソになったのだと。
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Posted by 八少女 夕

Filigrana 金細工の心 あらすじと登場人物

この作品は、ポルトガルのポルトをモデルにした街のとある館を舞台に進む小説群『黄金の枷』シリーズの第3作です。

【あらすじ】
 黄金の腕輪をはめた一族ドラガォン。当主の娘インファンタとして生まれたアントニアは、別宅に共に住む叔父との平穏な暮らしに波風が立ちはじめていることを感じる。

【登場人物】(年齢と説明は第1話時点でのもの)
◆ドンナ・アントニア(28歳)
 本作品のヒロイン。『ボアヴィスタ通りの館』に住む美貌の貴婦人。漆黒のまっすぐな長髪で印象的な水色の瞳を持つ。

◆Infante 322 [22][ドイス](50歳)
 本作品の主人公。『ドラガォンの館』の先代当主ドン・カルルシュの弟(実は従弟)でアントニアの叔父。『ボアヴィスタ通りの館』に軟禁状態となっている。雄鶏の形をした民芸品に彩色をする職人でもある。明るい茶色の髪に白髪が交じりだしている。海のような青い瞳。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを弾くことができる。

◆ライサ・モタ(26歳)
 『ドラガォンの館』に少なくとも2年ほど前まで召使いとして勤めていたが、現在は腕輪を外されて実家に戻されている。長い金髪と緑の瞳。優しく氣が弱い。かなり目立つ美人。若いころのドンナ・マヌエラと酷似している。

◆フランシスコ・ピニェイロ[チコ] (31歳)
 豪華客船で働くクラリネット奏者。縮れた短い黒髪と黒い瞳。

◆ドンナ・マヌエラ(51歳)
 『ドラガォンの館』の女主人。前当主ドン・カルルシュの妻で、ドン・アルフォンソやアントニアたちの母親。ブルネットに近い金髪にグレーの瞳が美しい貴婦人。

◆ドン・アルフォンソ = Infante 323 [23][トレース] (27歳)
 『ドラガォンの館』で格子の中に閉じこめられていたが、兄のアルフォンソの死に伴い、彼に代わって『ドラガォンの館』の当主となった。靴職人でもある。黒髪の巻き毛と濃茶の瞳を持つ。幼少期の脊椎港湾症により背が丸い。

◆マイア・フェレイラ(23歳)
 ドン・アルフォンソ(もと23)の婚約者。茶色くカールした長い髪。

◆ドン・アルフォンソ(享年29歳)
 重い心臓病で亡くなった『ドラガォンの館』のもと当主。アントニアたちの兄。

◆Infante 324 [24][クワトロ](25歳)
 金髪碧眼で背が高い美青年。『ドラガォンの館』で「ご主人様(meu senhor)」という呼びかけも含め、当主ドン・アルフォンソと全てにおいて同じ扱いを受けているが、常時鉄格子の向こうに閉じこめられている。口数が多くキザで芝居がかった言動をする。非常な洒落者。

◆アントニオ・メネゼス(55歳)
 『ドラガォンの館』の執事で、使用人を管理する。厳しく『ドラガォンの館』の掟に忠実。

◆ジョアナ・ダ・シルヴァ(50歳)
 『ドラガォンの館』の召使いの中で最年長であり、召使いの長でもある女性。厳しいが暖かい目で若い召使いたちをまとめる。

◆ペドロ・ソアレス
 《監視人たち》の中枢組織に属する青年。メネゼスの従兄弟。

◆マリア・モタ(25歳)
 ライサの血のつながらない妹。ブルネットが所々混じる金髪。茶色い瞳。

◆『ボアヴィスタ通りの館』の使用人
 ディニス・モラエス(34歳) - 《監視人たち》の一族出身
 チアゴ・マトス(24歳)
 シンチア・ロドリゲス(31歳)
 ルシア・ゴンサルヴィス(25歳)
 ドロレス・トラード(38歳) - 料理人

◆『ドラガォンの館』の使用人
アマリア・コスタ(35歳)
マティルダ・コエロ=メンデス(26歳)
ミゲル・メンデス=コエロ(29歳)
ジョアン・マルチェネイロ(25歳)
ホセ・ルイス・ペレイラ(28歳)
フィリペ・バプティスタ(32歳)
クラウディオ・ダ・ガマ(46歳) - 料理人
アンドレ・ブラス(37歳) - 料理人
マリオ・カヴァコ(39歳) - 運転手

【外伝の登場人物】
◆コンスタンサ・ヴィエイラ (本名クリスティーナ・アルヴェス)(30歳)
亡くなった前ドン・アルフォンソの恋人だった女性。1度腕輪を外されたが、事情があり腕輪をとりもどし、コンスタンサの名前で生活する。現在は中枢部として『ドラガォンの館』内外で働いている。

◆マヌエル・ロドリゲス(29歳)
《監視人たち》出身の修道士見習い。ヴァチカンでエルカーノ枢機卿の秘書を務めたこともある。現在はGの街の小さな教会に勤めつつ、ドラガォンの中枢部の仕事にも関わっている。クリスティーナを崇拝しているお調子者。

◆ジョゼ
マイアの幼なじみの青年。

◆エレクトラ・フェレイラ
マイアの妹のひとり。もうひとりの妹の名前はセレーノ。

◆ヴィーコ・トニオーラ
3世代前のストーリーに登場するスイス人。ヴァチカン市国でスイス衛兵として働く伍長。


【用語解説】
◆Filigrana(フィリグラーナ)
 ポルトガルの伝統工芸品で、非常に細い金銀の針金や小玉を使用して細工された貴金属品。様々な形状があるが純金製でハートの形をしたものが有名。聖遺物箱の装飾に用いられたり、民族衣装の装飾にもされる。ポルトガルでは娘の嫁入り道具として時間をかけてフィリグラーナを買い集めるという。

◆Infante
 スペイン語やポルトガル語で国王の長子(Príncipe)以外の男子をさす言葉。日本語では「王子」または「親王」と訳される。この作品では『ドラガォンの館』に幽閉状態になっている(または、幽閉状態になっていた)男性のこと。命名されることなく通番で呼ばれる。

◆黄金の腕輪
 この作品に出てくる登場人物の多くが左手首に嵌めている腕輪。本人には外すことができない。男性の付けている腕輪には青い石が、女性のものには赤い石がついている。その石の数は持ち主によって違う。ドン・アルフォンソは五つ、22と24及びアントニアは4つ、マイアは1つ。腕輪を付けている人間は《星のある子供たち》(Os Portadores da Estrela)と総称される。

◆《監視人たち》(Os Observadores)
 Pの街で普通に暮らしているが、《星のある子供たち》を監視して報告いる人たち。中枢組織があり、《星のある子供たち》が起こした問題があれば解決し修正している。

◆モデルとなった場所について
 作品のモデルはポルトガルのポルトとその対岸のガイア、ドウロ河である。それぞれ作品上ではPの街、Gの街、D河というように表記されている。また「ドラガォン(Dragãon)」はポルトガル語で竜の意味だが、ポルト市の象徴である。この作品は私によるフィクションで、現実のポルト市には『ドラガォンの館』も黄金の腕輪を付けられた一族も存在しないため、あえて頭文字で表記することにした。

この作品はフィクションです。実在の街、人物などとは関係ありません。

【プロモーション動画】

使用環境によって、何回か再生ボタンを押すか、全画面にしないと再生できない場合があるようです。その場合はこちら




【関連作品】
「Infante 323 黄金の枷」『Infante 323 黄金の枷 』をはじめから読む
あらすじと登場人物
『Usurpador 簒奪者』を読む『Usurpador 簒奪者』をはじめから読む
あらすじと登場人物
『黄金の枷』外伝

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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(11)燃えて消えゆく想い

『Usurpador 簒奪者』の最終回です。

また大きく時が動いて、マヌエラは我が子アルフォンソの病床にいます。全ての目撃者であるジョアナは、マヌエラたちと自分たちの運命が変わった若かりし日々のことについて記憶をたどります。

30年前に起こったことの物語はこれでおしまいですが、この話の因縁が第1作『Infante 323 黄金の枷 』の直接の続編でもある第3作『Filigrana 金細工の心』に引き継がれます。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(11)燃えて消えゆく想い

 濃紺のゴブラン織りカーテンを締め切ってあるせいで、部屋はことさら暗く思われた。横たわる当主の具合が悪く、サントス医師は、しばらく泊まり込むことになるだろう。すぐ隣の部屋の準備を済ませた後、ジョアナは静かに戻り、控えめに報告を済ませた。

 当主ドン・アルフォンソの顔色はいつもに増して悪く、食事のために起き上がることも出来なかった。それでも、彼はジョアナに礼を言うことを忘れなかった。その声は、聞き取れないほどにわずかなものだったが、彼が生まれた時からこの館で働き見守り続けてきた彼女にはよくわかった。

 当主は、ベッドの脇に座る母親ドンナ・マヌエラに微笑みかけて、話の続きに戻った。
「父上が亡くなった日の事を思いだすのですよ」

 マヌエラは、瞳を閉じた。ジョアナも、その日のことはよく憶えている。わずか5年ほど前のことだ。現当主と同じく身体の弱かった前当主は、同じように暗くカーテンを締め切った部屋でこの世を去った。

 周りに揃った家族たち1人1人に、思いやりのこもった声をかけていた臨終のカルルシュは、しかし、意識が混濁すると、ずっと口にしなかった想いを漏らした。

「ドイス……。ドイス……。おもちゃも、絵本も……全部あげる……。だから、もう1度、笑ってよ……」

 その心の叫びは、臨終に立ち会うことを拒んだ22には伝わらなかった。

 カルルシュを支えて生きることを選び、結婚し、4人の子供の母親となったマヌエラを、22は裏切り者と罵倒し、2度と目を合わせようとしなかった。17年後、23が居住区に遷るのと入れ違いに『ボアヴィスタ通りの館』に遷されてからは、ジョアナが22と顔を合わせることはほとんどなくなった。

 5年前、臨終のカルルシュのうわごとを耳にしたマヌエラは、いつものように娘のアントニアに伝言を頼むのではなく自ら『ボアヴィスタ通りの館』へ出かけ、22にこの部屋にきてくれるように懇願した。だが、彼女は虚しく1人で戻ってきた。

 溝はあまりにも深く、時は無力だった。双子のように仲良く育った2人の少年は、もう2度とかつてように笑い合うことはなかった。

 マヌエラは、その時のことを思い出したのだろう、聞き取れないほどの微かな声で言った。
「かわいそうなドイス……。かわいそうなカルルシュ」

 それから我が子の頬にそっと手を触れて続けた。
「それに、かわいそうなアルフォンソ、かわいそうなクリスティーナ……」

 ジョアナは、はっとして心を現実に戻した。非情なドラガォンの掟に遮られ、愛し合った2人が結ばれることの出来ない例は、22とマヌエラだけではなかった。

 アルフォンソは間もなくくるであろう死を覚悟し、愛し合った娘と結婚しなかった。やがて代わりに当主アルフォンソとして生きることになる弟23に、決して触れることの出来ない妻を残さないように。新しい当主が自ら選んだ妻との間にドラガォンの《5つの青い星を持つ子》を残すこと。それはこの部屋にいる全て、ジョアナ自身を含めて、掟によって黄金の枷に囚われた《星のある子供たち》が、自らの想いを諦めてもサポートしなくてならないドラガォンの悲願だ。

「母上。私は幸せでしたよ。クリスティーナも、きっとこれから幸せをつかんでくれることでしょう」
当主は肩で苦しそうに息をしながらも、穏やかな口調で微笑みかけた。
「アルフォンソ」

 マヌエラの背中を、ジョアナは見つめた。肩が震えていたが、彼女は取り乱すようなことはしなかった。ジョアナもまた、黙ってその場に立ちすくんだ。彼女の覚悟も、目の前の間もなくこの世を去ろうとしている若い当主がこの世に生まれたあの日にもう出来たのだ。

* * *


「ジョアナ。これはなんだ」
アントニオの手には、ジョアナの日記があった。昨晩、マヌエラの出産を控室で待ちながら書いていたのを、ドタバタでつい置きっぱなしにしてしまった。氣づいて朝一番で取りに来たが、その時にはもうなかったのだ。

「読んだの?」
「ああ。誰のものだかわからなかったからね。最初の方、誰が書いたかわかるまで読ませてもらった」
「そう」

 受け取ろうと手を伸ばしたジョアナに対し、アントニオは首を振った。
「申し訳ないが、これをそのまま返すわけにはいかない」

「どうして?」
「君は誓約を忘れたのか」

 ジョアナは首を傾げた。誓約が何かぐらいはわかっている。ここで起こったことを、外の人間に話したことは1度もないし、この日記を外の人間に見せるつもりも全くなかった。
「誓約を破ったりしていないわ。これは純粋な日記よ。個人的なものだし、いけないの?」

 アントニオは頷いた。
「君が、これをよその人間に見せたりするような人でないことはよくわかっている。でも、君はたった数時間でもこれのことを忘れていたね。同じことが君の家で起こるかもしれない。それが起こってしまってからでは遅いんだ」
「持って帰ったりしないと言っても?」

「この館の中で存在を忘れることも許されないんだ。君は、この中にインファンテの存在について触れている。この記録を後世に残すことは許されない。たとえ、この館の中であっても」

 アントニオが、どこまで読んだかジョアナにはわからなかった。彼女の彼に対する想い、フェルナンドの死、マヌエラをめぐるカルルシュとドイスの葛藤、すべてを次の世代の《星のある子供たち》と《監視人たち》にも知られずに置かなくてはならないことは、ジョアナにもわかった。

 彼女は、この館の中で時間を過ごし、多くを目撃し、体験し、大切なものを得て、そして別の大切なものを失った。彼女は歳を重ねたのだ。それは記録してはならないものだった。アントニオは、いつものように落ち着いた低い声で言った。
「すべてを君の心の中に留めておくがいい。それは、誰にも禁じることはできない」

 ジョアナは頷いた。薪の燃えている暖炉に視線を移した。
「燃やしてちょうだい」

 アントニオも頷くと、彼女の手をその日記に添えさせた。彼女は力を込めて、それを火の中へと放り込む彼の手助けをした。

(初出:2020年6月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(10)決意

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

「うっかり」のせいで、自分の意思とは関係なくカルルシュの相手になってしまったマヌエラ。もともとは強制だった現実を、彼女は自分の意思で選び取ることになります。

現実に同じことがあるとして、たった2日でコロッと相手を変えるかと思う方があるかもしれませんね。私が思うに、マヌエラは始めから揺れていたのだと思います。人生には、あるものを得るために他方はどうしても捨てなくてはいけない場面があります。宣告は、どちらを選んでも後悔しただろう彼女に、一方の道に迷いなく進ませるための、大義名分を与えたのかもしれません。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(10)決意

 宣告されたマヌエラが、掟に従い居住区に閉じ込められて2晩が過ぎた。はじめの晩にカルルシュが自死を試みた。一命は取り留めたものの、常に医師や召使いたちが行き来し続けていた。マヌエラは、特別に運び込んでもらった簡易寝台で夜を明かし、医師たちの指示に従い、弱っているカルルシュの世話をしてすごした。
 
 鎮静剤によって眠りつづける彼を見て、マヌエラは複雑な想いに囚われていた。愛する男との未来を奪った彼への怒りや憎しみがないと言ったら嘘になる。けれども、彼が後悔し償いのために迷わず命を差し出したことは、彼女の怒りや悲しみの焰に大量の雨を降らせてわずかな熾り火にまで鎮火させてしまっていた。

 それに、マヌエラは心底疲れていた。宣告から自殺騒ぎが立て続けに起き、居住区には常に誰かがバタバタと出入りしていた。本来ならば、宣告で意思に反した決定を強制された彼女を、館中の人々が氣を遣うはずだろうが、緊急事態でそのことは忘れ去られていた。ここから出ることの許されない彼女のために、朝昼晩の食事が運び込まれるが、それをゆっくり食べるような状況ではなかった。そもそも食欲もほとんどなかった。

 厚い壁に遮られた隣の居住区には、22がいるはずだったが、その兆しは何も感じられなかった。彼が大きな声を出しで抵抗したのは、彼女がここに閉じ込められるまでの事だった。その後に彼女は、常に誰かが忙しく出入りしている居住区の2階の出入り口には行かなかったし、そうでもしなければやはり居住区に閉じ込められている22と話すことは不可能だった。

 3階の小さな部屋で用意された食事を終えると、彼女はカルルシュが横たわる寝室に戻り、ベッドの近くの小さな椅子に座った。その椅子は医師たちの邪魔にならないように、かなり後ろの壁際にあり、そこで彼女は痛み止めで朦朧としたカルルシュの顔を眺めていた。

 やってくる召使いたち、監視人たち、そしてサントス医師や看護師たちは、これまでと同じようにカルルシュに丁寧に言葉をかけ、世話をしていたが、誰もがぎこちなかった。

 マヌエラは、そのぎこちなさをよく知っていた。これまでも、ここまであからさまではなかったが、誰もがカルルシュに対してある種の距離を持って接していた。どこかに「ここにいるべきではない相手」に仕方なく接している風情があった。マヌエラは、カルルシュがずつと感じてきた疎外感を、この2日ほど強く身をもって感じたことはなかった。たった2日でも、直接自分とは関係がないにもかかわらずこれほどまでに居たたまれない立場に、彼は当事者として20年も立っていたのだ。

 簒奪者ウーズルパドール ……。本来の跡継ぎの座を奪った、望まれぬ星5つの存在。うつろな瞳で天井を見ているカルルシュは、これまでたった1人しかいなかった味方、すなわち彼自身にも見放されてしまった。

 そして、サントス医師の指示で、その日彼はベッドの上に起き上がり午後を過ごした。うつむきサントス医師の言葉を聞いていたが、「何かありましたら、マヌエラに伝えてください」という言葉で、はっとした。壁際に疲れた表情で座っている彼女を見つけ、申し訳なさげに項垂れた。

 彼が起き上がっていることを聞いたのだろうか、騒動以来はじめて当主ドン・ペドロが居住区に入ってきて、いつもの威圧的な佇まいでカルルシュを見下ろした。その眼差しには、いつもの厳しさだけでなく、あからさまな憎しみもこもっていた。当主が、怒りを収めていないどころか、2日前よりももっと腹を立てていることがマヌエラにも伝わってきた。

「22にお前の遺書のことを話してきた」
ドン・ペドロは、カルルシュを冷たく見つめ言い放った。マヌエラは震えながら立った。

 カルルシュが残した遺書を、彼女は読んでいなかった。首を吊ろうとした彼を支えて助けを呼び、そのまま大騒ぎの中で震えている間に、その遺書は然るべき相手の手に渡ったらしい。この2日の間に、伝え聞く情報でおおよその内容は耳に入っていた。彼は命と引き換えに、彼が望まずに奪ってしまった全てを22に返したかったのだ。

 だが、その遺書すらも、ドン・ペドロをひどく怒らせているらしい。

「22はこう言った。『全てなんてありえない。ドラガォンの掟では、私は2度とマヌエラに触れられない。あの男が死んで、私がプリンシペに代わったとしても、私が血脈を繋ぐなんて期待されては困ります。私はあなたたちドラガォンには絶対に協力しない。血脈を繋ぎたければあなたたちでなんとかするんですね』」

 カルルシュは黙っていた。苛立ちを募らせてペドロは吐き捨てた。
「いいか。お前は自分の引き起こしたことの責任をとるんだ。その女でも、他の女でもかまわん。必要なら医学の手を借りてもいい。血脈を繋げ。他に何もできなくても、そのくらいはできるだろう。それさえ済ませれば、死ぬなりなんなり、好きにするがいい」

 なんてひどい……。マヌエラは、ドン・ペドロの非情さに震えた。自分を道具扱いされたことよりも、ただひたすらカルルシュへの彼の冷たい態度にショックを受けた。

 マヌエラはカルルシュの顔を見た。青ざめて、その瞳にはいっぱいの涙がたまっていたが、育ての父親が腹立ち紛れに部屋の扉を叩き付けるように閉めて出て行っても、反論もせず、泣きわめくこともなく下唇をかみしめていた。

 ゆっくりと身を起こすと、まだ立ち竦んだまま彼を見ているマヌエラの視線から身を隠すように背を向けた。
「嘲笑ってくれ」

 彼女は、言葉を見つけられなかった。瞳を閉じて、わき上がってくる悲しみと憐憫を持て余した。

「長く生き過ぎたんだ。こんなことをひきおこす前に、出来損ないはさっさと死んでいればよかったんだ。謝罪なんか何の役にもたたないのはわかっている。だから、もし、それで君の氣が済むなら、僕が死ぬまで憎んで、罵倒して、嘲笑ってくれ」

 肩を落として震えるその姿は、マヌエラの心を締め付けた。

 カルルシュは、このシステムの被害者だ。彼は、マヌエラと22にだけはひどいことをしたかもしれないが、それ以外の全ては、彼に何の責任もない。彼を追い詰め、命を差し出そうとしても許さずに責め立てるドン・ペドロと周りの人々は、彼を苦しめるドラガォンのシステムそのものだ。マヌエラに将来の職業を諦めさせ、22の才能を腐らせる巨大で非情なシステム。いま目の前で震えているカルルシュは、権力に潰されかけている弱者だ。法の下の正義を学びたかった彼女には、それは許せることではなかった。いや、それに抵抗しないことで、自分も加害側に加担してしまうことが許せなかった。

 彼女は彼の横にそっと腰かけると、その手をとって自分の唇の所に導いた。彼は訝しげに涙に濡れた瞳を向けた。

 マヌエラは静かに語りかけた。
「そんなことはしないわ、カルルシュ。あなたは1人じゃない。私があなたの味方になるから」

「マヌエラ?」
「あなたの運命の重みも、ドイスやドン・ペドロから受ける憎しみも、私と分け合いましょう」

 彼は戸惑って、言葉を飲み込んだ。マヌエラは彼の喉に巻かれた包帯にそっと手をやり、哀れみに満ちた優しさでその溝をなぞった。

「どうして……。憎んでも憎みきれないだろう?」

「憎んでも、もう私たちは他の道には行けないのよ。憎みながらここににいても、お互いにつらいだけだわ。それに、こんなに追いつめられたあなたを、高みの見物をしながら嘲笑うなんてどうしてできるの。先に生まれてきたのも、体が弱いのも、あなたのせいじゃないのに。どうしてあなただけが全てを背負わなくてはならないの。どうしてあなただけが、皆に見捨てられなくてはならないの。そんなの悲しすぎるでしょう」
「マヌエラ……僕を哀れんでくれるのか」

 マヌエラは微笑んで彼をそっと抱きしめた。彼は堪えきれず、声を上げて泣き出した。
「負けずに生きて。つらい時は、一緒に泣きましょう。私に助けられることは、なんでもするわ。叱られる時にも、一緒にいてあげるから」

 カルルシュは、泣きながらマヌエラを抱きしめた。

 彼女は心の中でつぶやいた。ドイス、許して。私はこの人の力になりたい。
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【小説】Usurpador 簒奪者(9)宣告

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

さて、このストーリーのメインとなる事件を語る回です。「そんなアホなことで……」と呆れるかもしれませんが、カルルシュの「うっかり」で何人かの運命が変わってしまいました。

サブタイトルになっている「宣告」について、前作未読の方のために少しだけ説明しますが、この作品群に出てくる《星のある子供たち》といわれる腕輪を填めた人々には、特別な掟があり、そのうちの一つに「《星のある子供たち》である男は、まだ誰にも選ばれていない《星のある子供たち》の女に、立会人の前で正式の文言による宣告をすることで、自分と一緒になることを強制できる」というものがあるのです。

前作の主人公23がヒロインであるマイアに発動したのもその正式な宣告でした。これは非人間的なので、現代では滅多に起こらないことになっています。ところが、この親子ときたら2代続けて宣告することになってしまったのでした。23は他に方法がなかったとは言え、それをしてしまったことでめっちゃ落ち込んでいました。なんせ母親に起こったことは、ある意味で、この一族のトラウマになっていましたし……。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(9)宣告

 息苦しさに目を覚ました。暗闇の中に白い顔が浮かび上がった。眠っていた彼の上に、重みをかけてのしかかっていた。目を血走らせ、眉を吊り上げた、その凄惨な顔の女はドンナ・ルシアだった。同時に、その女の腕が自分の首にかかって締め付けているのもわかった。声は出ず、脳の周りにはち切れそうになった血管が集まり痛いほどに膨らんでいるのもどうする事も出来なかった。

 なぜ、それほどまでに、僕が憎いのですか、母上。霞んでいく瞳、苦しくて恐ろしくて、抵抗する事も出来なかった。

 カルルシュは、目を覚ました。13歳だったあの夜の夢を見た理由がわかった。首に痛みが残っている。脳の周りの痛みも、頭痛として残っている。ベッドの上にいて、サントス医師の顔が見えた。

「ご加減はいかがですか。メウ・セニョール」
「……死に損ねたのか」
「マヌエラが、すぐにあなた様を支えてくれたのですよ。そうでなければ、危ない所でした」

 サントス医師の視線を追って顔を僅かに動かすと、ソファでぐったりとして顔を覆っているマヌエラが見えた。薄れていく意識の向こうで、彼女の悲鳴を聴いたのは間違いではなかったのだと思った。

* * *


 22がマヌエラと愛し合っていることは、もはや公然の秘密だった。誰もがその日は近いと感じていた。彼らが当主ドン・ペドロに一緒になる許しを請い、インファンテ322の居住区がもはや独房ではなく、共に格子の向こうで暮らすことを望んだマヌエラとの愛の巣になる瞬間。

 そして、事実、彼は昨日の午餐が終わったときに、立ち去ろうとする父親ドン・ペドロを呼び止めたのだ。彼は、マヌエラに近づきその手を優しく取ると、当主に許しを請うために近づいた。

 カルルシュにとっては、死の宣告にも等しい瞬間だった。ドイスに、青い星を持つ男に選ばれたその瞬間から、赤い星を持つマヌエラは永久に、やはり青い星を持つカルルシュには手の届かないところへと行く。どれほど愛しても、事態が変わろうとも、絶対に覆すことの出来ない掟だ。

 もう2度と、夢を見る事も許されない。自分が求愛して受け入れてもらう夢も、それから同じように繰り返した彼女に宣告で強制する夢も。夜の暗闇の中で何度も繰り返した虚しい宣告の言葉ももう使うチャンスがなくなるのだ。

「《碧い星を5つ持つ竜の直系たる者が命ずる。紅い星2つを持つ娘、マヌエラ・サントスよ、余のもとに来たりて竜の血脈を繋げ》」

 いつものひとり言のつもりだった。だが、彼は、3人が信じられないと言う顔をしながらこちらを眺めているのを見た。いったいどうしたんだろう。いつも僕の事なんか誰も見ないのに。

「嘘だろう……?」
22の顔が激しい憎悪に歪んだ。何かを続けて言おうとしているのを、彼の父親が制止した。それから、息子に負けないくらい憎しみのこもった目をしながら、低く妙に静かな声で言った。

「《碧い星を5つ持つ竜の直系たる余は、碧い星を5つ持つドン・カルルシュ、そなたの命令を承認する。竜の一族の義務を遂行せよ。紅い星2つを持つ娘、マヌエラ・サントスよ、ドン・カルルシュに従え。そなたには1年の猶予が与えられた》」

 その時にカルルシュは、ようやく自分が本当に宣告をしてしまっていた事に氣がついた。あたりは白く遠ざかり、騒ぎが何も聞こえなくなって周りが回っているようだった。当のマヌエラの絶望に満ちた眼も、他の召使いたちの驚愕に満ちた顔も、彼に飛びかかろうとする22をアントニオが必死で止める姿も、まるで現実ではないように存在していた。

「なぜなんだ!」
22は暴れながら叫んでいた。
「まだ足りないのか! 名前も、人生も、夢まで取り上げて、それでもまだ足りないのか!」

 カルルシュは、その言葉で我に返った。ドン・ペドロの合図で、ソアレスはマヌエラの腕を取って食堂から連れ出そうとした。それを見て22は絶叫した。
「離せ、アントニオ! 父上! あなたには心というものがないのか! マヌエラ、マヌエラ!」

「ドイス……」
マヌエラも泣きながら、無理矢理に格子の向こうへ押し込められる22に向かって手を伸ばした。

「父上……。私はなんてことを……」
カルルシュは椅子に崩れ落ちるように座り込むと、テーブルに突っ伏した。

ペドロはその息子を厳しく見つめた。
「撤回はできない。お前の義務を遂行しろ」

* * *


 もっと早くに死んでいれば、あの時、彼を殺めようとした母親、いや、彼が母親だと信じていた女性が失敗していなければよかったのにと、彼は瞳を閉じた。

 我が子である22をインファンテの宿命から救い出すために、彼女は手を穢そうと決心した。だが、その行為は、彼女の夫であるドン・ペドロに氣づかれてしまい、完遂する事が出来なかった。そして、彼は自分の妻を退けなければならなかった。プリンシペであるカルルシュに手を掛けようとした、ドラガォンで考えられる限り最も重い罪を犯した女は、当主夫人でありながら許されるはずはなかった。

 僕は、ドイスからすべてを奪ったのだ。名前も、立場も、未来も、母親も、そして愛する女まで。

 ドイスが大切だった。つらい館での子供時代で、ドイスだけが僕の光だった。それなのに、僕はドイスの人生と心を殺してしまった。ほんのわずかの不注意で、するはずではなかった宣告をしてしまった。

 マヌエラは、22のとは別の居住区に閉じ込められた。そして、1年経つか、妊娠するか、それともカルルシュと正式に結婚するまでそこから出ることを許されなくなった。彼もまた、その居住区で寝泊まりすることになり、夜になるとそこへと案内された。顔を覆って泣いているマヌエラの横を通った。

 彼は、短く遺書をしたためた。自分が死ねば、ドイスは本来手にすべきだったものを全て取り戻すことが出来る。ドラガォンも相応しい跡継ぎの帰還を喜ぶだろうと。

 それから、バスルームへ向かうとタオルをシャワーヘッド掛けに結びつけ、小さな椅子の上に立つと輪に首を通した。怖かった。目をつぶって勢いをつけて椅子を倒した。苦しくて痛くて激しく後悔したが、すぐに意識がなくなった。

 そして、あの悪夢の後、目が覚めた。絶望の中にいながらも、あの音を聞いて駆けつけたマヌエラが彼の命を救ってくれたのだ。彼は、瞳を閉じた。

 マヌエラがいてくれたら、人生が変わると、1人ではなくなると、思っていた。そんな事はすべきじゃなかった。1人でいるべきだったんだ。たぶん、みんなの幸せのためには、僕はもともと生まれてくるべきではなかった。なのに、どうして死ぬ事も出来ないんだろう。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(8)太陽と影

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

ようやくタイトルになっている「簒奪者」が、本文に出てきました。カルルシュの大きなコンプレックス、彼を生涯苦しめた言葉です。才能がないのに上に立たざるを得ない者と、才能があるのに何一つすることを許されない者。たった数日の誕生の違いで道が分かれてしまったことが、本来ならばお互いを思いやって仲良く生きられた兄弟の関係を壊してしまうことになります。

マヌエラは、その目撃者であると同時に、二人が和解できなくなってしまった要因そのものになっていきます。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(8)太陽と影

 その間に、22との近さほどではないものの、マヌエラはカルルシュとも親しい言葉を交わすようになっていた。始めは、単に法学に関するヒントを話すぐらいだったのが、天候の話や、彼女の家族の話、それに好きな食事の話など他愛もない話題についての雑談もするようになった。

 よく叱責を受けて、項垂れている彼が、短い会話の後で僅かでもリラックスして笑顔を見せることを、マヌエラは嬉しく思っていた。

 その朝もドン・ペドロは、カルルシュにレポートを突き返した。
「いいか。カーネーション革命が無血に終わり素晴らしい、などという文言は、単なる感想文に過ぎない。そんなことはどうでもいいのだ。肝心なのは、40年間続いた独裁体制が終焉に至った社会的背景だ。このレポートには、植民地戦争やソビエトやキューバからの独立支援について何も触れていないではないか。書き直すように」

 項垂れて部屋に戻ったカルルシュは、いくつかの歴史書や百科事典を書斎に持ち込んだ。マヌエラが、掃除にやって来た時に、彼は書斎の机の上に何冊もの分厚い本を広げて、あちこちメモをとっていた。小さな文字で書かれたメモは散乱し、彼は、本をひっくり返しながら、書いたばかりのメモを探した。

「失礼します」
邪魔にならないように、小さな声で断ると、彼は驚いて立ち上がった。その時に一枚のメモが宙に浮き、それをとろうとした彼が反対に本にぶつかり、バタバタとあらゆるものが床に落ちた。百科事典、歴史書、レポート用紙、メモ用紙、その全てがごちゃごちゃに地面に伏せた。

 マヌエラは、彼を助けるために近くに寄り、まずは貴重な本が傷んでないか確認しながら閉じて机に置いた。その間に彼は散乱した紙類を集めた。

「ごめんなさい、私が来なければ……」
彼はあわてて首を振り、レポート用紙やメモを机の上に置き、マヌエラの邪魔にならないように書斎から出た。
「いや。違う。僕こそ、申し訳ない。こんなに散らかしてしまうなんて……ここをきれいにしなくちゃいけないんだよね。どうぞ、終わらせてくれ」

 彼女は、つとめて平静を保ち、手早く書斎の埃取りと拭き掃除を終わらせた。机の上のレポート用紙は、教師の入れたコメントで真っ赤になっており、ちらりと見えたメモ用紙の内容は、彼にドン・ペドロの叱責内容があまり頭に入っていないことを思わせる頼りない走り書きだった。

 訊かれてもいないのに、何かを言ってはいけない。マヌエラは、見なかったことにして仕事を終え、書斎から出た。
「お待たせしてごめんなさい。終わったので、どうぞ」

 彼は、もの言いたげな瞳で彼女を見た。
「革命……。かつて王国があって、独裁政治になって、それから、革命があった……。なのに、ここ竜のシステムはそのままだ。ここにも革命があればいいのに。……そうでなかったら、相応しくない者を排除してくれればいいのに」

 マヌエラは、言葉に詰まった。プリンシペである彼が、やがて当主になる立場の人が、いうべきではない言葉だ。けれども、それを指摘して何になるだろう。彼自身がそれを誰よりもよくわかっている。ドラガォンのシステムには革命どころか、引退も譲位もない。彼は教育からも叱責からも逃れられない。そして、やがては教育などという生易しいシミュレーションではなく、現実の荒波に耐えなければならない立場にいる。心身共に弱く、覚悟も定まらない、俯きがちな青年が。
 
 ため息をもらすと、彼は少し離れた所へ動き、小さな声でつぶやいた。
「僕のこと、みんながなんと呼んでいるか知っているか」
「いいえ」

簒奪者オ・ウーズルパドール
「どうして、そんな……」
少なくともマヌエラは、誰かがそんな風に呼んだのを一度も聞いたことがなかった。

「僕の本当の父親は、『ガレリア・ド・パリ通りの館』にいるInfante321だ、彼が戯れに愛し、後に憎んだ女が僕の本当の母親だ。彼女と、母上、いやドイスの母親はほとんど同時に身籠り、ドイスの出産予定日の方が一ヶ月以上早かった。それなのに、僕の方が先に生まれた。本当のプリンシぺを押しのけてずる賢くこの地位を手に入れた」
「……でも、あなたはしようと思ってしたわけじゃないでしょう」

「もちろん。でも、父上は、我が子をインファンテにしてしまった憎むべき存在の僕を、長男として引き取らなければならなかったし、この僕に責任を持って教育をしなくてはならないんだ。それだけじゃない。口にしなくても誰もが思っている。ドイスの方がずっと当主になるにふさわしいって」
「そんな……」

「君だって思うだろう? 同じ頃に、同じ血の濃さで生まれてきたのに、彼は……そう、彼はまるで太陽みたいだ。本人そのものに力があって全てを惹きつけ輝いている。その存在を誰もが待ち望み、ありがたく思う。その一方で、僕ときたら……」
「あなたは、月なの?」

 カルルシュは、首を振った。とても悲しそうに。
「いいや、僕は月じゃない。あんなに輝かしくて美しい存在じゃない。僕はきっと、月か、地球か、とにかく何かの影みたいなものだ。僕がおかしな所に立つせいで彼の姿が見えなくなる。それで、誰もがわかるんだ。ドイスは素晴らしい。『メウ・セニョール』と呼ばれて傅かれるのに相応しい、上に立つべき人間だって」

 嫌みや恨みなどの混じっていない、純粋な言い方だった。他人事にも聞こえて、マヌエラは戸惑った。カルルシュは、彼女の言外の判断を感じたのか、とってつけたように笑顔を見せた。

「わかっているんだ。彼じゃなくて、僕こそあれこれできなくちゃダメな立場だってことは。でも、他に言いようがないんだ。彼は素晴らしい。頭脳や才能、それに容姿だけじゃなくて、人格も。この館にやって来て彼のことを知れば、誰でも一週間もかからずにそれをわかる。僕は、そんな彼を20年も知っているんだ」

「双子のように一緒に育ったんですよね」
マヌエラは、慎重に言葉を選んだ。彼は、少し悲しそうに笑った。
「そう、空間と時間的にはね。いつも一緒だった。幼い頃は、おなじおもちゃで遊び、同じ絵本を読み、一緒に絵を描いた。あの頃から、失敗をするのはいつも僕で、でも、彼はいつも、叱られる時でさえ一緒にいてくれた。ピアノだって……」

「ピアノ?」
「ああ。最初にピアノを習ったのは僕の方だったんだ。22が、ヴァイオリンを習い始めていて、僕も何かやりたいって。彼が、あっという間にヴァイオリンを弾けるようになったので、楽器なんて簡単だと思ったんだろうな。でも、全然上手く弾けない。先生が苛々するくらいに。1人で練習していると、見かねた22が一緒につきあってくれた。そうしたら、あっという間に彼のピアノが上手になってしまったんだ」

 それでも、カルルシュは、努力を続ければいずれは自分にも素晴らしい演奏ができると思い、楽譜を譜面台に広げて新しい曲に挑もうとした。隣に立っていた22は、初めて見た譜面にもかかわらず、メロディを口ずさんだ。

「どうしてそんなことができるんだって訊いたんだ。五線譜の上にまばらに広がる音符は真っ黒な模様で、僕にはメロディは全然浮かばなかったから。そしたら、見ればそのまま音が浮かぶっていうんだ。僕は、右手と左手と同時にかって訊き返した。そしたらもちろんって言った。そして、持っている交響曲の譜面を見せてくれて、オーケストラの全てのパートが、譜面を見れば聴こえるって……」

 マヌエラは驚いた。指揮者や作曲者が、そういうことができるのは知っていたけれど、楽器を習い始めたばかりの少年にそんなことができるとは思いもしなかったからだ。

 カルルシュは、力なく笑った。
「それで、さすがの僕も才能の違いを痛感してね。音楽は諦めた……いや、音楽も……かな」

 こんなに何もかも差をつけられてしまうことに、彼は怒りも嫉妬もおぼえないのだろうか。マヌエラは複雑な想いでカルルシュを見た。彼は、思い出に浸るように考えていた。

「彼に、何一つ敵わないことは、悲しくなかった。それは僕にとって当然のことだったんだ。母上が……」
「お母様?」
8年ほど前に館から去ったと聞かされたかのドンナ・ルシアのことだろう。

「いつも言っていた。ドイスはお前なんかとは違うと。記憶にある最初から、いつも。僕が何か意に染まぬことをしてしまうと、母上はとてもきつく叱った。罰だと言ってたくさんの書き取りをさせられたり、おやつを禁止されたりした。でも、つらくて泣いていると、いつも慰めてくれて、おやつを分けてくれたのはドイスだった」

 ようやく彼女には、納得がいった。カルルシュにとって、22は妬むべきライバルではなくて、憧れ頼るべき唯一の存在だったのだ。

「ごめん。こんな事を言っても君を困らせるだけだよね。忘れてくれ」

 マヌエラは、悲しみでいっぱいになって、カルルシュのそばに近づいた。
「ねえ。みんなじゃないわ。少なくとも私は、あなたがどれだけ努力をして、苦しんでいるか、わかっている。努力しても結果が出なくて辛い氣持ちも、わかっているわ」

 それを聞いて、カルルシュは顔を上げた。マヌエラの同情の浮かんだ顔をじっと見つめて、それから視線を落とした。
「ありがとう。ドイス以外で、そんな風に言ってくれたのは君1人だ」

 赤みの増した彼の頬を彼女は見つめた。彼は、しばらく戸惑っていたが、やがて言いにくそうに口を開いた。
「マヌエラ……、あの、もし、僕が……君と……」

 そこまで言われて、彼女は彼が愛を告白しようとしていることを察した。彼にまで想われていることに狼狽えた。22との距離を縮めたときのような、単純な嬉しさとは全く違っていた。彼女は、視線を落とした。

 断ったら、もし自分が22と生きることを決めたこと、そして間もなくそれが現実となることを告げたら、彼はもっと傷つくだろうととっさに思った。だから、言わないでほしいと願った。

 常に貶められてきたカルルシュはそれを敏感に感じ取ったのであろう。ひどく傷ついた顔をして口ごもった。
「ごめん。なんでもない。忘れてくれ」

 マヌエラは苦しくて泣きたくなった。心が引き裂かれるようだった。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(7)選択

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

この『黄金の枷』世界観でドラガォンに関する一連の掟は、かなり厳しく決まっています。前作や外伝の発表時、何度か読者から「そうはいっても、お目こぼししてくれるんじゃない?」的な質問をいただいたことがあります。基本的には、「お目こぼし」させないための役職が《監視人たち》なのですけれど、何回か出てきている「システムの例外」は矛盾ではないかと疑問に思われている方があるかもなあ、と思っていました。(第一作で出てきたライサ・モタや、外伝で語られたクリスティーナ・アルヴェスなどです)

じつは許される「例外」にも厳格な決まりがあり、今回はその内容について語られます。ちなみに、『ドラガォンの館』に出入りできるのは、誓約に縛られた《星のある子供たち》と《監視人たち》中枢システムの人だけという決まりがあるので、腕輪を外された人は、街から自由に出て行ける代わりに館には入れなくなります。



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あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(7)選択

 簡単に決められることではなかった。彼女の前の道は2つに分かれていて、大きく離れていく。けれども、道を選べるのは彼女1人だ。彼は違う道を選ぶことはできない。

 もし、法学に進む道があったのならば、あるいは彼を忘れようと努めたかもしれない。だが、その道は既に絶たれている。そして、ドラガォンで主たる役目を果たせるかもしれないという曖昧な願いには、法学ほどの強い引力はなかった。

 一方で、ドラガォンで中心的な役割を果たすことになるとしたら、22がどんな様子であるのかは常に耳に入ってくる。彼が絶望して苦しむことも、反対に誰か他の女性と幸せを掴むことも、マヌエラは聞きたくなかった。それは彼女の決断が引き起こす不愉快な結果だ。

 いま想像できる範囲で、後悔しない選択は、1つしかない。22と同じ檻の中に自ら入り、彼を孤独と虚無から救い出すこと。

 だが、マヌエラがその覚悟を22に伝える前に、『ドラガォンの館』には緊張が走った。召使いとして働いていたフェルナンド・ゴンサーガが亡くなったのだ。

 ドン・ペドロは厳しい顔で幹部と話し合い、執事ソアレスも緊張した面持ちで同僚の死に動揺する使用人たちを励ましつつも仕事に支障が出ないように指図を出した。

 フェルナンドの死の衝撃は大きく、館には重い空氣が漂っていた。フェルナンドに選ばれた状態だったジョアナは、館でソアレスからそのいまわしいニュースを知らされた。いつも朗らかだった彼女は、ほとんど笑わなくなったが、氣丈にも仕事を休むようなことはしなかった。もう1人の当事者であるアントニオ・メネゼスも、いつも通り冷静に仕事をこなしている。

 事件があってすぐは、マヌエラは居住区で掃除の当番にならなかった。次の機会に、彼女は彼の演奏を聴くことなく立ち去ろうとした。
「もういかなくちゃ。この後、ジョアナと洗濯室でしみ抜きをすることになっているの」

 ピアノの前に座っていた22は立ち上がって側に来た。
「いつも長くここにいて、叱られたのか?」

「そうじゃないけれど……ジョアナには、あんなことがあったばかりだし、私が浮かれているのは酷じゃないかと思って」
彼女は、この事件に誰よりもショックを受けているジョアナを励まし支えたかった。

「マヌエラ。待ってくれ」
階段を上がろうとする彼女を22は呼び止めた。振り向いた彼女の近くに彼は来て、いつもよりも距離を縮めて立った。

「聴いてほしい。前回、君を急かすようなことを言ってしまったので、氣になっていたんだ。君が、親友であるジョアナの氣持ちを慮ることはよくわかる。僕とのことを考えるのは、彼女の心の整理ができてからでも全く構わない。それに、君が中枢部で働きたいというなら、思う存分力を発揮させてやりたいとも思う。なんなら、やりたいことを全てやり終えた後でも、10年や20年後になってしまっても、いいんだ。それでも僕は、いつまでも君を待ちたい」
「……ドイス」

 マヌエラは、彼を見上げた。言葉が見つからず、胸が熱くなった。見つめ合い、お互いの心を読むと、彼は顔を近づけてきて彼女は瞳を閉じた。初めての口づけは、優しくて柔らかかった。甘く切なかった。

 唇が離れた後、恥ずかしくて彼女は下を向いたけれど、自然に笑顔がこぼれた。
「10年だなんて……私自身が、そんなに待てそうもないわ」

 彼は、不安そうだった表情を変えて瞳を輝かせた。
「そういってもらえると期待していたわけではないんだが、そうだとしたらありがたいな。それだけで生きる張りがでるよ。希望に満ちていると、奏でるだけでなく、学ぶことにも、力が漲るんだ。それどころか、雄鶏に色を塗るのすら、素晴らしくてしかたないことに思えるよ」

 彼の笑顔があまりに眩しかったので、マヌエラはもう1度、そして自分からキスをした。そして、彼の手を取って見上げた。
「フェルナンドのことがあって、言いにくくなってしまったんだけれど、私ね、お許しをもらえたらいつでも、この格子のこちら側に来たいって、あなたに伝えるつもりだったの」

 それから、2人は当主であるドン・ペドロに許可を得るタイミングについて具体的に話し合うようになった。

* * *


 2人は、3ヶ月ほど待った。その間に、もちろんマヌエラは召使いとしての仕事をこなした。ジョアナが再び笑顔を見せるようになり、さらには自分からマヌエラに2人の仲がどうなっているのか質問をしてきたので、彼女は素直に22と自分の意向を知らせた。

 ジョアナは、マヌエラに抱きついて言った。
「大変な決意だと思うけれど、きっとあなたなら後悔せずにやっていくと思うわ。私、あなたを応援する。幸せになって」

 マヌエラは、涙を浮かべながら頷いた。
「あなたにそう言ってもらえるのは、本当に嬉しいわ」

「だったら、どうしてそんな大切なことを教えてくれないのよ」
ジョアナは、ほんの少し拗ねたように訊いた。

「それは……とても酷な立場に立たされたあなたに、浮かれたことを言うのが心苦しかったの」
仕方なく答えたマヌエラに、ジョアナはわずかに笑って言った。

「予想していたとおりだわ、マヌエラ。私に遠慮しているんじゃないかって、氣になっていたの。そんなことしないでね。私、アントニオにもそう言ったくらいなんだから」
「なんですって?」

 ドラガォンには、誰にも動かすことのできない掟がいくつかあった。ジョアナは、その1つにより、《星のある子供たち》だけでなく、他の誰とも永久に一緒にはなれない。ジョアナが《星のある子供たち》を産み出したらすぐに一緒になるはずだつたアントニオにも、その機会はなくなった。けれど、2人が愛し合っていることは、前と変わらないのだ。

 ジョアナは、下唇を噛みしめて僅かに黙ったが、しっかりと頭をもたげてマヌエラを見た。それからはっきりとした笑顔を見せて言った。
「彼に言ったの。責任を感じて1人で居続けたりしないでって。あなたの人生の邪魔はしたくない、私が側で見ていると奥さんを探せないなら、私がここを辞めてもいいって」

「まあ、ジョアナったら。それで?」
ジョアナは言葉を探していたが、しばらくするとゆっくりと語り出した。
「そもそもはね、彼にシステムの例外の話をされたの」

「例外って?」
「滅多に起こらないことだけれど、ドラガォンのシステムを維持するために、大きな犠牲を払わされた《星のある子供たち》がでると、例外として扱って救済してくれることがあるって」

「まあ。あなたにはその資格があるんじゃない? だって、あなたは何も悪いことをしていないのに、義務を果たすことができなくなったんですもの」
マヌエラは期待に満ちて訊いた。けれど、ジョアナ自身はさほど嬉しそうではなかった。

「でも、その救済方法は、一つしかないの」
「どんな?」
「腕輪を外してくれるんだって」

 マヌエラは押し黙った。けれど、すぐに思い直して微笑みかけた。
「もう、ここにいられなくなるのは残念だけれど、でも、《星のある子供たち》の掟の外におかれれば、腕輪をしていない誰とでも結婚できるでしょう? アントニオとだって」

 ジョアナは悲しそうに笑った。
「アントニオが、そんなことすると思う? あの人はもう《鍵を持つ者》なのよ。私の腕輪を外す決定だってできる。けれど、彼がその私と結婚したら、ドラガォンのシステムに私情で介入したことになってしまう。他の人なら、もしかしたらそういうことをするかもしれない。でも、あの人はそんなことは死んでもしない。自らが自由にした娘と結婚することなんて絶対にないわ」

 マヌエラは、頷いた。ジョアナは正しい。アントニオ・メネゼスは、絶対に私情を挟んだりはしない人だ。誰よりもシステムに忠実で自分に厳しい。

「だから、私は腕輪を外さないでって頼んだの。私はむしろここで、彼の側で働きたい。そう思った。でも、それから思ったのよ。私がここでずっと物欲しそうに見ていたら、彼にとって迷惑になるのかもしれないって。むしろいなくなってほしいのかなって。だから、あなたにとって私が出ていく方がいいなら、ここから去る、って言ったの」

「それで?」
「彼は、少しでも長く一緒に働きたいって」

 マヌエラは、アントニオらしい選択だと思った。そして、ジョアナも。夫婦にはなれなくても、仕事を通してずっと一緒に居ようとしているのだろう。そんな人生もあるのかもしれない。マヌエラもまた、22と共に格子の向こうで多くの人とは違う人生を歩もうとしている。そうなった後も、自分の人生は続き、一歩一歩進んでいくことになるのだと思った。親友ジョアナと同じように。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(6)希望

『Usurpador 簒奪者』の続きです。

前作『Infante 323 黄金の枷 』や外伝で登場したときの22が、とても感じが悪かったのと、今回のストーリー(30年前)の彼ができすぎキャラなので、前作からの読者のみなさまがかなり警戒しておられるご様子。このストーリーは、どうして彼があんな感じの悪い人になってしまったのか、そんな人を主人公に据えて第3作『Filigrana 金細工の心』はどうすんだ、ということを説明するための作品といっていいでしょう。

というわけで、今回からの3回は、少し冗長ですが、書かねばならない章でした。ええ、筆が進まず結局一番最後になったこの3つです。

今回の22の考え方ですが、前作の23とかなり似ています。もっとも、はっきりと誤解のないように口にしている22とくらべて、23の方は何も言わないので話が長くなった、という説もありますね。コミュニケーションは大事。



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あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(6)希望

 4月も終わりになると一斉に芽吹いた新緑が、街を鮮やかにする。この館から決して出て行くことのできない青年が、背筋を伸ばして立ちすくむ窓辺からも、日々変わっていく世界の様子が見てとれる。

 冬に窓から眺めた街は、陰鬱な憂いを見せた。赤茶けた瓦は僅かに黒ずみ、時おり格子の外側に停まるカモメも、膨らませた羽毛に顔を埋めて暖かい室内に入れない不条理にムスッとした顔つきで耐えていた。だが、太陽の馬車はひたすら空をめぐり、日の長さをどんどんと伸ばした。屋根瓦の合間から深緑が萌え立つようになると、世界は心地よく緩み、朗らかな笑顔を振りまくようになった。

 そんな風に、2人でいるときの22もまた、冬とは明らかに違う朗らかな笑顔を見せるようになっていた。

 視線が交わった僅かな瞬間の戸惑いが、微かな笑みに変わり、それから確信が瞳に表れた。優しいメロディと礼儀正しく親しみある言葉が、もっと情熱的な音と健康的で爽やかな語らいになった。マヌエラは、その彼に恋をしているのだと、はっきりと感じるようになっていた。それも一方的ではなく、慕う相手に想われていることを確信して有頂天になった。

 そして、それに伴い、ある種の非生産的な人生を意識するようになっていた。マヌエラの母親は家庭に入ったときに、それまでしていた歯科助手の仕事を辞めたのだという。もともと辞めたかったから悔いはなかったと聞かされたが、私なら仕事を辞めなくてはならないなら、結婚なんかしたくないなと子供心に考えた。それからも、誰かのために自分の築き上げてきたものを全て引き換えにすることなど、考えることがなかった。

 インファンテである22は、当主のスペアとしての人生を送る。ドン・ペドロとカルルシュがこの世からいなくならなければ、ドラガォンで主たる役割を果たすことはない。彼は木彫りの雄鶏を彩色する仕事をしているが、それだけだ。それ以外に求められるのは、いや、そもそも真に求められているのは、子孫を作ることだけだ。

 彼に選ばれるということは、結婚ですらない。彼は法的には存在していないのだ。彼女自身が、彼といる間、やはり存在しないも同然になる。もし子を産めば、我が子だけはドラガォンの血脈の中で意味を持つが、それは存在しない者たちの手柄とはならない。22の愛を受け入れること、それは、文字通り愛のために人生を捧げること、つまり、それ以外の全てを諦めることなのだ。

 彼と合意した赤い星を持つ娘は、最低1年間を居住区で共に暮らし、彼の子供を産むことを期待される。もしその娘が、何らかの志を持ち成し遂げたいと望むならば、たとえば、この館にやって来た時のマヌエラ自身のように、中枢システムに属して知識や能力を存分に生かした役割を果たしたいと望むのならば、自らインファンテの元を去らなくてはならない。

 少なくとも1人の子供を産むか、もしくは1年経っても妊娠しなければ、赤い星を持つ娘は青い星を持つ男の元を自由意志で出て行くことが許される。それが、関係を強制されることもある女たちへのシステム上の救済措置になっていた。

 けれど、彼女にそれができるだろうか。ありとあらゆる才能を持ちながら、生涯を黄金の枷の中に閉じ込められて過ごす孤高の青年、彼女が惹かれてやまない男を捨て、自分だけが外へと歩み去ることが。彼の、1年以上かかってようやく見せるようになった輝くばかりの笑顔と、幸福に舞い踊る音楽の翼をまとめてゴミ箱に放り込むようなことが。

 22は、事を急ごうとしなかった。彼は、自分の立場を誰よりもよくわかっていた。父親である当主の許可を得てマヌエラの手を正式に求めること、彼女のたった1人の青い星を持つ相手となることを切望していたが、彼と共にいる限り彼女もまた檻の中にいなくてはならないことを知っていた。彼女の才能と、この館に来た理由を理解しているからこそ、それを諦めさせることの残酷さを知っていた。

 彼は、それまでにいた他のインファンテ、たとえばカルルシュの父親321のように、1年ごとに新しい女と寝たいと考えるような人ではなかった。彼はマヌエラと生涯を共にしたいと口にした。それが彼女のそれまでの望みを絶つからこそ、彼は慎重にマヌエラの意思が固まるのを待つつもりだと言った。それゆえ彼は、人前でマヌエラを愛している素振りを見せなかった。たとえ、館の多くの者がそれに氣付いていても。

 彼は、居住区の掃除のために彼女がやってくる僅かな時間にだけ、その想いを伝えた。優しい語らいと情熱のメロディ、楽しい会話と、わずかな触れ合い。

* * *


 しばらく経った別の午後、彼は、乾かすために机に並べられていた木彫りの雄鶏を、1つ1つ仕切りで区切られた段ボールの箱に収めていた。伝統的にインファンテは、目立たない手仕事を持っている。いつの頃からそうなったかを誰も知らない。おそらくは、有り余る時間を過ごすために誰かが始めたことなのだろう。彼の仕事は几帳面で、ムラがなく、それでいてよく見ると遊び心のある絶妙の色使いと模様を用いていた。

 それらが詰められた箱は、夕方までに居住区の入り口近くの小さなテーブルに置かれる。あまり時を置かずして、召使いがそれをバックヤードへと持って行き、配送の準備を整える。街のいくつかの土産物屋で観光客たちがそれらを手にして購入していく。その木製の雄鶏たちが、どんな運命を辿るのか知るものはない。リビングルームの片隅で他の土産物に混じり埃を被るのかもしれない。もしくは、大して注意を払われることもなくフリーマーケットに出品されるのかもしれない。

 22は、黙々と彼の小さな作品たちをしまい込んでいく。
「氣に入って、大切にとっておく人だって、きっといると思うわ」
マヌエラの言葉に彼は「中にはね」と、肩をすくめた。

「この仕事をするよりも、読書や音楽にもっと時間を割きたいの?」
その問いを耳にすると、彼は意外そうにマヌエラを見て、それから首を振った。

「いや。この仕事を週に何時間しなくてはならないといった決まりはないんだ。実際のところ、全くやらなくても何も言われないだろうな。だが、少なくともこれは、本当に僕がやるべき数少ない義務の一つなんだ。学問や、音楽はそうじゃない」
「そんな……」

「これを彩色するとき、思うんだ。これが現実だと。僕は、誰も知らない存在すら氣に留めない彩色職人、父やカルルシュとは違うと」
「そんなことないわ。あなたは、システム上は名前を持たないけれど、私たちにとって間違いなく必要なひとよ。あなたは有能なだけでなく、人柄もよくて、皆に慕われている。私たち使用人だけじゃないわ。ドン・ペドロも、そしてドン・カルルシュも、あなたのことを誰よりも頼りにしているみたい」

 その言葉を聴くと、彼は黙ってマヌエラを見た。それから立ち上がり、格子の嵌まった大きい窓の前まで歩いた。しばらく背を向けて窓の外を眺めていた。彼女が、この話を始めるべきではなかったのかと思いだした頃、彼は背を向けたまま言った。

「僕が13歳になるまで、この隣の居住区には21が住んでいた。彼は、コルクで小物を作る職人だったらしいけれど、僕は彼が作品を作ったのを見たことは1度もない。いつもひどく酔っていて、誰かれ構わず罵倒していた。それを非難されると、笑いながら周りに迷惑をかけるのを楽しんでいると豪語するような人だった」
「楽しむ?」

 彼は、振り向いた。彼の後ろから差し込む日差しがつよく、その表情がよく見えなかったので、マヌエラは不安になった。

「そう、よくそう言っていた。でも、僕自身が居住区に住むようになってから、彼のことを少し理解できたような氣がする。本当に楽しんでいたんじゃない、彼はひどく不幸だったのだと」
「ドイス……」

「僕は、彼のようになりたくないし、なるつもりもない。でも、僕は皆に頼られるような立派な存在でもない。父も、カルルシュも、僕に好意を寄せてくれるのは知っている。僕も期待に応えたいと思う。だが、ここに入る前に周りの世界に抱いていたのと同じ感情を持ち続けることは、とても難しいんだ。どこかで、もう1人の自分が冷たく言っている。僕の何がわかるんだ、彼らは、ここで暮らしたことなんてないんだ、何を学ぼうとその知識を用いる場のない、将来に夢や希望を抱くこともできない虚しさは、彼らにはわからないってね」

 マヌエラは、彼の言葉に何かを答えようとしなかった。彼の言うとおりだ。ずっと多くのものを手にしている彼女が言えることはない。彼女がこの居住区から出ることを許されなくなるまでは。

「僕らインファンテは、その成り立ちから、どうしたって孤独に苛まされるようにできている。だが、システムを変えることができない以上、折り合いをつけて生きていくしかない。結局、どの男たちも似たような解決策を求めたみたいだ……残念ながら叔父の21に選ばれた赤い星を持つ10人以上の女性たちは、全員が彼のもとを去ることを選んだけれど、その前にいた320に選ばれた女性は彼が亡くなるまでずっと一緒に居たと聞いている。その話は、僕にとって希望の光なんだ」

 彼女は、真剣に頷いた。軽々しく、自分がそうなると言ってはいけない。でも、きっと私はそうするだろう。彼女は、心の中で呟いた。彼は、笑顔に戻って言った。

「許してくれ。君を困らせるためにこんなことを言ったんじゃない。むしろ反対だ。僕は、君と幸せになりたいと願っている。その一方で、君にもずっと幸せでいて欲しいし、後悔して欲しくないんだ。だから、この格子のこちら側が何を意味するのか、隠したくなかった。結論を急がないで、よく考えてくれ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(5)弱き者

『Usurpador 簒奪者』の続きです。今回と次回のエピソードは本来同じサブタイトルで書いていたものなのですが、あまりにも長いので、2つの章に分けました。

前作『Infante 323 黄金の枷 』で、母親のいないマイアのことを氣にかけて何かと世話をしてくれていたドラガォンの主治医、若かりし日サントス医師がちらりと登場しています。この方、実はマヌエラの又従兄弟でした。今回のエピソードとは全然関係ないのですが。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(5)弱き者

 掃除のためにカルルシュの部屋を一人訪れる時、マヌエラはどこか暗い心持ちになることが多かった。22の居住区を訪れる心地よさとは反対だった。

 朝食の席で、彼は当主に叱責されることが多かった。理由は、他愛もないことばかりだ。コーヒーをこぼしたり、服にジャムを飛ばしたりのこともあったし、家庭教師の報告に書かれた情けない試験結果のこともあった。厳格なドン・ペドロが、おそらくカルルシュのために義としている厳しい教育なのかもしれないが、萎縮したプリンシペはさらなる失敗を重ねるばかりだった。

 一週間前に叱咤されたことが、改善されないことにドン・ペドロは苛立ちを見せる。それを自覚しているのか、彼は当主の叱責に項垂れるばかりだ。加えて、身体の弱いカルルシュは無理がきかず、教師の訪問が中断されることも度々あった。

 とくに氣管支が弱く、わずかな急な天候の移りかわりや夜更かしなどが続くと、風邪を引いたり熱を出すことも多かった。ドン・ペドロは「またか」といいたげな様相で、カルルシュの喘息のような発作にも心配を見せなかった。

 彼が体調を崩すと、よほど重い症状でない限りジョアキン・サントス医師が呼ばれてきた。彼は、ドン・ペドロの主治医である老サントス医師の長男でありマヌエラの又従兄弟にあたる。ジョアキンは、手慣れた様子で吸入剤を用意し、丁寧に彼を診察していた。カルルシュは、申し訳なさそうに体を縮こめ、涙を浮かべて身を任せていた。

 学業のさらなる遅れに焦るのか、まだ完全に熱が下がっていないのに起き上がって課題に取り組んでいることもあった。

「メウ・セニョール。氣管支喘息はアレルギーやウィルス感染だけでなく、ストレスからも引き起こされると考えられているのですよ。お体をいたわることも大切ですが、ストレスをため込まないようにすることもお忘れにならないでください。お一人で抱え込まずに、親しい方とお茶でも飲んでゆったりと話される時間をお持ちください」

 ジョアキンは、彼に諭した。必要なタオルなどを持参してその場にいたマヌエラは、医師のアドバイスを聞きながら心の中で(誰と)と呟いた。カルルシュには、自由時間に楽しく語り合う友人などいない。ドン・ペドロの厳しい教育に着いていくことの難しい彼にとって、ストレスを減らすことも難しいだろう。そして、彼は脱落することも、逃げ出すことも許されない立場にいる。

 そして、起き上がり歩けるようになれば、朝食や午餐の席でドン・ペドロに厳しく叱責を受ける日々が待っている。マヌエラは、給仕をしながら、彼の苦難の再開を感じて氣を揉んだ。

 三日ぶりに床を離れた彼は、覇氣のない疲れた表情で朝食の席に座った。ソアレスとその朝の朝食当番のマヌエラは、ドン・ペドロとカルルシュ二人の給仕に当たった。

 22の居住区からは、新しいソナタを練習する音が響いていた。彼が朝食を居住区で簡単に済ませるようになった理由がそれだ。執事と召使いに給仕され、当主たちとのんびりと朝食を取れば簡単に一時間ほど経ってしまう。彼はむしろその時間をピアノの練習に充てたがった。その成果は、マヌエラが掃除にやってくる日のメロディとなるのだから。

 ドン・ペドロは、22が習慣を変えたことに、何も言わなかった。彼は、屋敷のどのような小さなこともソアレスやその他の腹心から報告を受け、若い世代の様子にも十分に目を留めていたが、22の生活態度に対して意見を言うことはほとんどなかった。22は、午餐や晩餐、または礼拝などにはきちんとした服装で、落ち着いた態度で臨席し、家庭教師や音楽教師からは絶賛されていたし、使用人たちとの関係も良好で問題を一切起こさなかったからだ。

 当主が、カルルシュに厳しくあたる様を目にするのは、あまり心地よいものではない。だが、マヌエラは認めなければならなかった。ドン・ペドロは、理に適わぬことでカルルシュを叱責したことはただの一度もなかった。語氣に苛立ちを込める前に、彼は少なくとも二度はカルルシュに同じことを冷静に指摘している。既に「ああ、次に同じ間違いをすれば、ドン・カルルシュは叱られる」とマヌエラにも予想ができるようになっていた。

 法務関係の課題に関しては、法学を学びたかったマヌエラにもわかるトピックが多かった。今朝、彼が叱られているのは、先週の初めやり直しを命じられた法務に関する課題だ。

「カルルシュ、いいか。お前が弁護士や裁判官として人前に立つことはない。だが、ドラガォンが関わる多くの重要決定事項にはお前が決裁を下さねばならないことばかりだ。契約書を作成するのもお前ではないが、裁決をするのはお前だ。法の強行規定と任意規定の差がわからぬような者に、その役割が果たせると思うのか?」

 朝食の皿を下げながら、マヌエラはカルルシュと目が合わないようにした。当主は、家庭教師から預かった彼の課題である書類をたたき付けるようにして返した。
「午餐の前に、まともな契約書らしい体裁に書き直せ。もちろん、数学の課題も遅れずに出すように。22の課題は、どちらもとっくに終わっているんだぞ」

 朝食の給仕が終わるとすぐに、彼女はカルルシュの部屋の掃除に向かった。ノックに答えはなかったので、中に入ると人影はなかった。

 あらかたの拭き掃除を終えてマヌエラが彼の書斎に続くドアを念のためにノックをして開けると、彼は中にいて先ほどの書類を見ながら真剣な面持ちで考えている所だった。
「失礼しました。また、後で伺います」

 カルルシュは赤い顔をしてパッと立ち上がり、彼の足元に書類は散らばった。
「あっ」
二人はあわてて、書類を拾うためにかがんだ。

 彼のすぐ近くで、目が合うと、彼はさらに赤くなり、その後に項垂れてだまって書類を集めた。
「すまない。一生懸命に考えていて……いや、違う、さっき叱られたのを見られたのが恥ずかしくて、君が掃除に来たのに返事もしなかったんだ」
「メウ・セニョール……」

 マヌエラは、彼をそっとしておくために去ろうかと思ったが、何か言いたそうな彼が助けを求めているように感じたので、思い切って言ってみた。

「あの……、先ほどのドン・ペドロのお話ですけれど……。強行規定とは、たとえば独占禁止法による規制や売買契約における消費者側のクーリング・オフ権など、契約がどうであろうと法律上動かせない規定のことで、任意規定は、たとえば商品引き渡しと支払いの順番のように、両者の合意や契約内容で変更してもいい規定です。だから、どの部分が強行規定に抵触しているのかだけ見つけられれば、修正すべき所もおわかりになるのでは?」

 彼は非常に驚いた様子で、彼女の顔を見た。
「申し訳ありません。出過ぎたことを……」

 彼は慌てて言った。
「いや、違うんだ。ありがとう。本当にどこをどうしていいのかわからなくて、でも、誰に訊いていいのかもわからなかったんだ」

 彼女は、頭を下げてから、ハタキかけを始めた。彼は、そのマヌエラについてきて話しかけた。
「昔は、困っていると22がこっそり教えてくれた。だから、こんな僕でもなんとかやっていけたんだ。でも、22が居住区に移ってからは、そんな風に教えてくれる人がいなくなってしまって」

「お役に立てて光栄です。でも、たまたま知っていたことですので……」
「君みたいな優秀な人は、召使いとして働いているのはもったいないな。きっと、すぐに中枢システムにいくんだろうな」

 マヌエラは、思わず足を止めた。すぐにここを離れて……?

 そうであって欲しいと、彼女はずっと願っていたはずだった。それなのに、その言葉を聴いたときに「ここから離れるのは嫌だ」という想いが頭をもたげた。心のどこかに流れているピアノの旋律と共に。

「その……。もし、またこういうことがあったら、また君に助言をお願いしてもいいだろうか」
カルルシュは、消え入りそうな声で訊いた。

「もちろんです。お手伝いできることがありましたら、いつでも」

 彼が書き直した課題は、完璧なものとはいえなかったようだが、それでも午餐の後にそれを読んだドン・ペドロは彼の努力と改善を認めてさらなる改善点を静かに口にした。向かいに座る22も微笑んで頷くのを見て、カルルシュは頬を紅潮させた。

 ちょうどマヌエラが「どうぞ」と目の前に運んできたコーヒーを置くと、彼は顔を上げて万感の思いを込めて「ありがとう」と言った。

 それから、カルルシュは、マヌエラの顔を見ると緊張を解くようになった。

(読者からのご指摘に基づき強行規定の例を訂正しました)
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(4)《鍵を持つ者》

『Usurpador 簒奪者』の続きです。このエピソードについては『Usurpador 簒奪者』に入れるか、それとも外伝として独立させるか迷ったのですけれど、外伝にするには重いし、かといって独立した話として語ると、まとめて読む方が混乱すると思うので、同時代というくくりでこの作品に埋め込むことにしました。

前作『Infante 323 黄金の枷 』で、脇役として出てきた二人の人物に関する話です。この二人の話が、メインとして語られるのは、おそらくこれが最初で最後だと思います。読者に知らせなくてもいいかなとは思ったのですけれど、システムに閉じ込められて重たいことをやっているのは、当主一家だけではないという例としてお読みいただければと思います。

少し長いですが、前回同様この「Usurpador 簒奪者」に関しては長々と連載するつもりはないので、まとめて発表しています。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(4)《鍵を持つ者》

 若葉が次々と芽吹きだした四月。大西洋からの風が道往く人々の上着やスカーフを無為に揺らした。それは、まるでギターラを戯れにかき鳴らすようだった。

 フェルナンド・ゴンザーガは、サントス医師の診療所に行くためにアリアドス大通りを渡った。思い詰めた暗い顔をし、手のひらをぎゅっと握りしめていた。

 彼が愛した娘は、彼の求婚を拒絶した。その理由を彼はよく知っていた。ジョアナ・ダ・シルヴァには愛する男がいた。そして、その男アントニオ・メネゼスもまたジョアナを愛していた。だが、彼らはすぐに一緒になる事はできなかった。《星のある子供たち》であるジョアナは同じ《星のある子供たち》である男との子供を産まない限りは《監視人たち》一族の男とは結婚できないのだ。

「だったら、まず俺と一緒になって子供を作れよ」
彼は、言い募った。一年間共に暮らし、子供も出来れば、あるいはジョアナの心が自分に向く事もあるかもしれないと思ったのだ。

――女なんて、寝てしまえば簡単になびく。お前の母さんもそうだった。
彼にそう言ったのは、フェルナンドの父親だ。もともとは子供を作るまでとの約束で一緒になった彼の両親は、結局現在に至るまで結婚生活を続けている。

 しかし、ジョアナは首を振った。
「それは無理だわ。あなたの事を私もアントニオも知っている。たとえ私が子供を産んでからあなたの元を去ったとしても、同じ職場で働く彼とあなたと私の間にはわだかまりが残ってしまう。そうでしょう? 私は、《監視人たち》中枢組織に頼んで、人工授精を望む《星のある子供たち》の男性を紹介してもらうわ」

 それは、フェルナンドにはもっとつらい言葉だった。もし彼女の人工授精の相手が決まってしまえば、彼のチャンスは永久に潰える。《星のある子供たち》である女は、たった一人の《星のある子供たち》の男としかペアになれないから。どんな事があってもジョアナを諦める事の出来ないフェルナンドにはたった一つしか道がなかった。

 彼自身が人工授精の精子提供者となり、ジョアナの相手であるたった一人の《星のある子供たち》の座を確保する事。彼は、それをジョアナに申し出た。拒否反応を示す彼女に、もし断るなら宣告をすると脅迫じみた言葉まで使って、ようやく賛同を取り付けた。だが、彼女が子供を身籠り出産するまでの時間を確保しただけで、フェルナンドにとっての苦悩は終わらなかった。

 《星のある子供たち》である男は《星のある子供たち》である女に子供を産ませる事を強制できる。けれども、女はその男の元を去る権利を持つ。ジョアナは子供を産みさえすれば自由になり、アントニオと家庭を作るだろう。アントニオ・メネゼスは、いずれバジリオ・ソアレスの跡をついで、ドラガォンの執事になり、《監視人たち》中枢組織の最重要ポストにつく。前途洋々の未来があり、彼の愛するジョアナと彼自身の子供をも奪っていく。フェルナンドの絶望は深かった。

 現在は彼のパートナーであるジョアナをアントニオに渡さないようにする方法は、一つしかなかった。人工授精を始まらせない事。もちろん《監視人たち》組織は、いくら彼がぐずぐずしても彼に精子採取を急がせるだろう。あの組織は《星のある子供たち》を作り出す事にしか興味はないのだから。

 フェルナンドの足は、サントス医師の診療所に向かわず、大聖堂の方へと進んだ。そして、その先には大きく美しいドン・ルイス一世橋が堂々たる姿を横たえていた。空は青く、カモメが悠々と飛び回り、河にはボートがゆっくりと進んでいた。人びとが街の美しさを楽しみ、幸せを謳歌していた。

* * *


 アントニオ・メネゼスは、警察での諸手続きを終わらせると、哭き叫ぶフェルナンドの母親とじっと悲しみを堪えている父親の待つ病院へと向かった。検死が終わり次第、フェルナンド・ゴンザーガの遺体は自宅に帰ることになっていた。なぜと問う両親に、執事であるバジリオ・ソアレスはどのような説明をしたのだろうと思った。

 警察では、事故と自殺どちらの可能性も捨てきれないと言われた。遺書はなく、目撃者もいなかった。人工授精の第一回目の精子採取のためにサントス医師の診療所に向かう代わりに、どのような理由で彼がドン・ルイス一世橋から河に転落したのか知る手段はなかった。

 アントニオにも、何が起こったのかはわかっていなかった。わかっているのは、少なくともフェルナンドが望んでいた事が一つだけは叶ったことだ。ジョアナ・ダ・シルヴァは、もう誰かと一緒になる事は出来ない。彼女がフェルナンドとの人工授精を一年間にわたり試行することは、永久に不可能になってしまったからだ。手続き上すでにフェルナンドに「選ばれて」しまったジョアナは、もう他の《星のある子供たち》の男に「選ばれる」ことも出来ない。

 フェルナンドが、ジョアナを彼に渡さないためだけに命を断ったとは思いたくなかった。彼とジョアナが彼を追いつめたのだと考えるのは苦しかった。だが、いずれにしても何もかも遅すぎた。

* * *


 アントニオ・メネゼスは、渡された鍵の束をじっと見つめた。

「重いだろう」
執事バジリオ・ソアレスは、口元を歪めるだけのいつもの笑い方をした。

 それは鍵の数から考えると実に重かった。十に満たない鍵が、丸い輪でまとめられている簡素な鍵束だ。見かけは古めかしいレバータンブラー錠用の鉄鋳物風棒鍵だが、実際にはスイスのメーカーに特別に作らせたディンプル錠が組み合わされており、さらに紛失や盗難に備えて内部発信機や自動溶解システムが組み込まれている最先端の鍵だ。だが、その鍵を常時持つという事実に比べれば、実際の重量など大したことではなかった。

 この鍵束と同じものを常時携帯することが許されているのは、他にはドラガォンの当主と執事だけだった。この鍵束を持つということは、緊急時にはドラガォンの運営に関する全てを独断で決定できるということであり、その権能の規模は、おそらく世界で数人のみが可能な非常に強大なものだった。

 だが、世界の他の権能者とドラガォンの支配者たちには決定的な差があった。他のものは、その力を誇示し、財力を用い、己の名声を高め、世界に広く知られる外向きの発展があるが、ドラガォンの使命は、誰からも存在を注目されぬよう、その存在を隠しながら存続を図ることにあった。

 アントニオは《監視人たち》の家系の中でも、ソアレス家同様に、多くの《鍵を持つ者》を生み出してきたメネゼス家の直系男子として、生まれた時から特殊教育を受けてきた。《監視人たち》の家系に生まれた者の中で、黒服を身に纏い特別な任務に当たる者たちは百人ほどだ。その中でもドラガォンの当主と話をしたことがある者は三十人に満たない。

 《監視人たち》が黒服を纏うようになると、ドラガォンの中枢的存在として一目置かれるようになる一方、もはや他の生き方は一切許されなくなる。黄金の腕輪をした《星のある子供たち》は、この世から隠されている存在だったが、黒服を着た《監視人たち》は、自らを滅し《星のある子供たち》を命に代えて守る役割を担っていた。

 アントニオは、黒服を着て働くべく育てられた。彼の個性は、その任務と人生に適していた。彼を知る多くの人間は「あの男が何を考えているのかわからない」と感じるだろう。彼は私的感情を滅多に表に出さない子供だった。そして、成人した今もそれは変わらない。「冷たい男」ともよく評された。そのことを、彼の家族や上司は喜んだ。《鍵を持つ者》の後継者として、これほど好ましい資質はないのだから。

 彼は、鍵束の重みを噛み締めた。
「まだ早すぎませんか」
黒服を着た《監視人たち》の中枢組織の最上位に就く証を、わずか二十五歳の若者が手にした前例は聞いたことがなかった。

 ソアレスは、いつもの口元を歪める微笑を見せた。
「検査の結果が出たのだよ」

 ソアレスが言及しているのは、先日彼が病院で受けた精密検査のことだろう。
「どれほど意志が固くても、病には勝てぬ。私はまもなくこの重要な努めを果たすことができなくなるだろう。それまでに、お前に全てを託さねばならない。今はまだいい。ドン・ペドロが適切な判断を下し、この巨大なシステムの舵取りを続けてくださる。だが……」

 ソアレスが眉を顰める原因は、己れの病にあるのではないことは確かだった。そうではなくて、次のドラガォンの当主の世代になったときのことを考えているのだ。そして、その時に自分はもはやどんな支えにもなれないことを歯噛みしたい想いで考えているのだ。

「よいか、アントニオ。私はお前に、決して外せない枷をかけた。《星のある子供たち》ですらも固辞したくなる辛い役目だ。時にお前は、安らかに眠れぬかもしれぬ。その手が白いまま墓に入ることも叶わぬかもしれぬ。だが、それでもお前はこのシステムに忠実であらねばならぬ。それがお前の宿命さだめだ」

 アントニオは、バシリオ・ソアレスがその宿命を受け入れてきたことを知っていた。当主に代わりその手を穢したであろうことも知っていた。穢したとまでは行かずとも、「心のない冷たい男」と謗られたことが幾度もあることも知っていた。たとえば、ドンナ・ルシアが、プリンシペに手をかけようとした罪でこの館から追われた時も、我が子から引き離されることを恐れて許しを乞う女主人の懇願に、彼は眉ひとつ動かさなかった。ソアレスは揺るがなかった。彼は掟に忠実に振る舞い、その役目を果たした。

 掟の前には、どの《星のある子供たち》も《監視人たち》も平等だった。たとえ、その一人に対して個人的な好意を持っていても、あるいは不快感を持っていても、それを理由に掟を曲げることは許されない。《鍵を持つ者》であるならばなおさらだ。我が子が閉じ込められるのを指示し、罪を犯した妻を遠ざけ、その怒りと悲しみと憎しみを受け止めながら、何事もなかったかのように当主としての日々の仕事を続けたドン・ペドロも、やはり《鍵を持つ者》だった。彼の前の当主たちも、ソアレスの前の執事たちも全て同じ厳格さで、このシステムを守り続けてきた。

「ところで、アントニオ。少し個人的なことに立ち入っても構わないか」
「なんでしょうか」

「先日、ドン・ペドロと話をしている時に、お前の話題になったのだ。お前は《鍵を持つ者》としては非常に若いが、メネゼス家の男子として若すぎるということはない。つまり、その……」

 アントニオは「またか」と心の中で思ったが、顔色一つ変えなかった。
「つまり結婚して跡取りをつくらないのか、ということでしょうか」
「そうだ」
ソアレスはあっさりと認めた。

「ソアレスさん。私の系統でなくとも、ジョアンとペドロの中にメネゼス家の血は流れています」
アントニオは、必要もないことをあえて口にした。バシリオ・ソアレスの妻ローザ・マリアは、アントニオの父の妹だった。バシリオの長男ジョアンはすでに《監視人たち》中枢部で幹部として働いており、歳の離れた次男のペドロも特別教育を受けいずれは兄に続くであろう。

「それは、わかっている。《星のある子供たち》と違って、我々《監視人たち》の家名が途絶えることは、さほど大きい問題ではないし、子孫を残す努力を強制されるわけではない。だが、アントニオ。ドン・ペドロは心配しておられるのだ。お前が、あの娘の件の責任を取ろうとしているのではないかと」

 アントニオは、わずかに眉をひそめた。
「責任。どうやって」

「そうだ。フェルナンド・ゴンザーガの死に、誰にも責任を取ることはできない。そして、ジョアナ・ダ・シルヴァが掟の迷宮から抜け出せなくなったことも。だから、お前がその宿命に付き合う必要はないのだ」

 アントニオは、普段決して見せない反抗心の籠もった鋭い目つきでソアレスを見た。

 彼には、世界中の他の全ての女と結婚する権利が残されていた。彼の人生がそれで終わったわけでもなかった。だが、彼は決して出る事の出来ない黄金の枷に囚われた愛する女を見捨てて、自分だけ忘れる道を選ぶことはできなかった。フェルナンドは、彼にも決して外せない枷を掛けてこの世を去ったのだ。

「《星のある子供たち》に対して、掟に従うように強制する役目を私は果たします。ジョアナが生涯一人でいなくてはならない掟も。私が彼女に別の幸福を見せつけることが、ドラガォンのためになるとは思えません」
「では、やはり彼女のためにお前は生涯独身を通すつもりなのか」

 彼は答えなかった。ただ、重い鍵束を受け取り、《鍵を持つ者》としての使命を生き始めた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Usurpador 簒奪者(3)ため息

しばらく空きましたが、『Usurpador 簒奪者』の続きです。また前回更新で記述したシーンから再び過去に戻っています。マヌエラがドラガォンの館に勤めだした二十歳前後の話です。

この『黄金の枷』シリーズの設定、とくに「ドラガォンの館」や《星のある子供たち》または《監視人たち》の説明はあまりにも長くなるので、前作『Infante 323 黄金の枷 』をお読みになっているという前提で書き進めています。この作品から読み始めた方には非常識と感じられることがたくさんあるかと思いますが、そういう設定だということでご了承ください。

今回もいつもなら二回に分ける長さなのですけれど、この「Usurpador 簒奪者」に関しては長々と連載するつもりはないので、まとめて発表しています。



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あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(3)ため息

 マヌエラがドラガォンの館に勤めるようになって一年が経った。サントス家に生まれた娘として、それは義務に近かった。この地には、一般には知られていない特別な一族が住んでいる。その左手に自ら外すことのできぬ黄金の腕輪をはめた《星のある子供たち》。己の名声や偉業を押し殺し、ひたすら過去の誰かの血脈を守るためだけの存在。

 サントス家は、ドラガォンの館に当主として君臨する《青い星を五つ持つ者》の血を色濃く受け継いだいくつかの名家の一つだ。絶対的に守らねばならぬ秘密を抱えた館に関わる多くの職務をになっている家に生まれた宿命は、彼女の意思の入り込む余地を与えなかった。マヌエラは法学を学ぶことを願っていたが、その夢を諦めてドラガォンの館で召使いの職に就くように説得された。

 反抗することはできた。けれど、彼女は知りすぎていた。いくら学問を究めても、彼女はその知識を真に社会のために役立てることは許されないのだ。名のある法律家になり、この街を出て行くことは不可能だ。そして、外部の人間になぜ他の街や海外に行ってはならないかを説明することすら許されていない。その様な存在がこの世に存在することを、知らせてはならないのだ。

 この街に生まれ、黄金の腕輪をはめ、《監視人たち》に見守れながら生きる存在であることを、そして、直接的にも間接的にも《星のある子供たち》と《監視人たち》の双方を統べる立場として、血脈を守る役割を果たしてきた先祖たちの努力を子守歌のように聴かされて育ったのだ。

 彼女は、サントス家の娘としての本分を果たすことを承諾した。召使いとして勤めるといっても、文字通りの役割だけが期待されるわけではない。それはドラガォンのシステムを維持する人材グループの一人となる事を意味した。《星のある子供たち》と《監視人たち》双方を統べる中枢システムに属する人々は、次代を担う人材を慎重に選び、教育し、そして、お互いに知り合わせる。選ばれた《星のある子供たち》と《監視人たち》は、共に働き、時に婚姻を通して絆を深めながら、システムを維持し続ける。

 この館から出ることのほとんどない当主の直系子孫たちは、館の中にいる存在の中から配偶者を選ぶ。マヌエラの曾祖母や大伯母は、当主の娘であるインファンタだったし、前々当主夫人ドンナ・カミラはサントス家の出だった。

 彼女は、しかし、結婚相手を見つけるためにこの館で働こうと思ったことはない。むしろ法学を諦めたのに値する責任ある職務を担う可能性に期待してこの館に足を踏み入れた。召使いの仕事が不満だったわけではないが、それだけで終わることは、彼女の自尊心を傷つける。

 同僚に彼女と同じような志を持って勤めている者は多くなかった。おそらく執事バジリオ・ソアレスが信頼するアントニオ・メネゼス、そしてその他の数人だけだろう。だから、インファンテ22の聡明さと自己克己が余計にマヌエラの目を引いた。

 22は「当主後継者のスペア」としての人生を送るには、無駄な優秀さを備えていた。冷静沈着で、物覚えが早い。立ち居振る舞いも洗練され、使用人や《監視人たち》中枢部からの人望も篤かった。

 同い年の兄であるカルルシュは、身体が弱く動きも鈍重だった。二人が並んで比較されるような場面は少ないが、一日に一度ある午餐か晩餐では、当主であるドン・ペドロを挟み二人が向かい合うので、使用人達にもその二人の差がよくわかる。

 ルネサンスの彫刻家達が好んだような端正な顔立ちと綺麗になびいた明るい茶色の髪をもつ22は、質のいいスーツを品良く着こなし、背筋を伸ばして完璧なマナーで食事をする。

 一方のカルルシュは、黒くもつれた髪と眉が濃く厳つい風貌を持ち、俯きがちで姿勢がよくないので、あまり背が高くないのにもっと小さく見える。落ち着きがなく、水をこぼしたり肉をうまく切れずにソースを皿の外にこぼしてしまったりするのは、いつも彼の方だった。

 ドン・ペドロは、その席で様々な話題を口にした。この国や世界の時事問題のこともあるし、先の大戦やその前後にこの国を襲ったファシズムに関する話題のこともあった。ローマ時代のカタコンベに関する話題のこともあったし、先史時代のブリテン島の遺跡で見つかった装飾品について話すこともあった。

 どんな話題になっても22は、当意即妙に話題をつないだ。父親の興味のあることについてよく知っているだけでなく、本人も興味を持ってあらかじめ多くの本を読んでいることがわかる。建築についても、医療についても、法律についても、彼は多くに興味を示し、知らないことがあるとすぐに文献を取り寄せて読み、次の午餐では父親を驚かせるような視点で話題を広げることもあった。

 一方のカルルシュは、ドン・ペドロに話題を振られても長く話題を続けることはできなかった。彼もまた真面目に話題についていこうとしているのだが、ドン・ペドロと22が熱心に討論をはじめると、もはやその流れについていくことができずに黙ってナイフとフォークを動かしていることが多かった。

 跡継ぎとして、ドン・ペドロや《監視人たち》中枢組織のメンバーから期待をかけられていることを自覚している彼は、次回は話題についていこうと22に薦められた本を読み始めるのだが、そもそも家庭教師から言い渡された課題すらもなかなか終えることができない要領の悪さで、それ以外に本を読了する時間などはほとんど残っていない。マヌエラ達が掃除に入ると、前回と置く場所が変わっていない本の山にハタキがけをしなくてはならないことが多かった。

 22の方は、課題も読書も難なく終えて、さらに彼自身の一番好きな行為に多くの時間を割くことすらできた。彼の居住区の一階には、黒く艶やかに光るグランド・ピアノが置かれ、彼はそこに腰掛けて好きな曲を心ゆくまで練習するのだった。

 マヌエラはその朝一階のはたきをかけ終えて、隅から拭き掃除を始めた。階段を降りて22が現れ、マヌエラに氣付くことなくグランドピアノの屋根を開けて譜面台を起こした。しかし、彼は譜面を置くことをせずにそのまま何か曲を弾き出した。短くて優しい曲だった。邪魔になるかと思い、マヌエラが二階の掃除に移動しようとすると、氣付いた彼は演奏を止めた。
「いたのか。すまない、もう終わって出て行ったのだと……」

「いえ、私こそ。先に上からやります」
マヌエラが言うと、彼は首を振った。
「そのまま続けていいよ。掃除機をかけるときは言ってくれ。退散するから」

 そう言うと、棚から楽譜を持ってきて、練習を始めた。右手の練習、左手の練習、同時にゆっくりとしたテンポで、それからより自然なテンポで。ピアノなど全く弾けないマヌエラにも、その曲が決して簡単ではないことだけはわかった。

 彼の元には、週に一度教師がやってくる。厳めしい顔つきをした老人で、左の手首の腕輪を持ち上げるのも大儀な様子だ。自分が弾いてみせることはほとんどなく、歌うように指示しながらレッスンをつけていた。22が格別優秀な生徒であることは、召使い同士の噂で知っていた。もし、彼が、いや、《星のある子供たち》として生まれていなければ、ピアニストとして名を成すこともできたであろうと。

 もし、ただの《星のある子供たち》であったなら、彼は有り余る才能をどう使ったのだろうか。この街を離れることも、著名な楽団と共演することもできないピアニスト。いや、それどころか、彼は裁判官にも、大学教授にも、優秀な経営者にもなれる頭脳と要領の良さを兼ね備えている。けれども、マヌエラが法学の道を諦めたように、彼もまた『市井の目立たぬ誰か』以上の存在になることは許されないであろう。ここドラガォンで何らかの役割を果たす以外には。

 けれど、彼はドラガォンで中心的な役割を果たすことも許されていなかった。存在しない者として、その頭脳と才能を、単なる趣味に費やすことしか許されていなかった。

 にもかかわらず、彼の奏でる音は、なんと美しいことだろう! トリルの一つ一つは朗らかで優しく、静かに響かせる和音からは世界の深淵が顔を覗かせる。

 手を動かさずに、聴いているマヌエラを見て、彼は微笑んだ。彼女は恥じて、慌てて仕事を続けた。

「ピアノ曲は、好きかい?」
彼は訊いた。

「ええ。クラッシック音楽には、あまり詳しくないのですが、聴くのは好きです。光景が目に浮かぶようですね」

 彼は、意外そうに彼女を見ると「そうか」と言った。先ほどの笑顔よりもずっと柔らかい、嬉しそうな表情だった。
「じゃあ、次に君が来るときは、通しで何かを弾けるように準備しておこう。今日は、そろそろ掃除機をかけたいだろうから、僕は退散するよ」
そう言って彼は二階に上がっていった。

 約束通り、次に彼の居住区を掃除するときに、彼ははじめから一階で待っていて、マヌエラに美しいメロディを聴かせてくれた。それどころか、マヌエラが掃除に来るときには、次第にそのミニコンサートが決まりのようになっていった。彼は、曲が終わると曲名を教えてくれた。ショパンだったり、ベートーヴェンだったりした。優しく可憐な曲もあれば、おどけた楽しい曲の時もあった。半年もするうちに、マヌエラは彼の演奏を聴いただけで、誰の作曲か推測ができるほどにピアノ曲に詳しくなってきた。

 ある春の日に、22が弾いて聴かせた曲をマヌエラはことのほか氣に入った。彼女は、はじめの頃のように仕事をしながらかしこまって聴くことはなくなっていた。

「リストだよ。『三つの演奏会用エチュード』という作品の中の一曲さ」
「エチュードって?」
「練習曲のことだ」

「これが? こんなにロマンティックで素敵な曲が練習曲なの?」
「リストは皮肉っぽい人だったんじゃないかな。一般には『ため息』と呼ばれている曲なんだ」

 それは、ほんとうにため息をつきたくなる美しい曲だった。仕事中である事も忘れて、ピアノの脇に進み、鍵盤に触れられるほど近くに立って彼の演奏に聴き入った。流れるような左手から生み出される細やかな音が、心の中を優しく撫でていく。右手の落ち着いた動きが、何か確かなものを語っている。それから、右と左の手は、役割を交代しながら優しく、戯れながらマヌエラの周りを踊った。その中に微かにとても真剣な想いが紛れ込む。

 この人は、本物なのだと思った。繊細な黄金の糸で出来た輝かしいハートを、この暗い石造りの牢獄にいながら、決して曇らせる事なく燃やし続けている希有な人なのだと。たとえシステムが彼の存在を否定しようとも、誰にもそんなことはできない。生まれた順番や運命も、彼の心を砕くことも錆びさせることもできない。

 格子の嵌まった窓から漏れてくる陽の光が、端正な横顔を浮かび上がらせる。明るい茶色の艶やかな髪の上で、メロディに合わせて踊りを踊る。この美しい時間を止める事が出来たらどんなにいいだろうと思った。

 余韻とともに曲が終わっても、二人ともしばらく動かなかった。マヌエラがため息とともに彼を見ると、彼もその青い瞳を向けてきた。それが、二人の秘めやかな関係の始まりだった。

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Claudio Arrau Liszt Trois Etudes de Concert S.144 III Un Sospiro
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【小説】Usurpador 簒奪者(2)囚われ人の忠告

『Usurpador 簒奪者』の続きです。とはいうものの、前回のシーンからは一度18年先の時点に飛んでいます。前作『Infante 323 黄金の枷 』の主人公だった23が16歳、その弟の24が14歳の時の話です。前作で登場したメネゼス、ジョアナ、アマリアなどの名前が出てきますが、もちろんヒロインのマイアはまだ子供で23との再会は十年後までお預けです。

後半は、前回のシーンよりもさらに過去に遡ります。普段なら二回に分ける長さなのですけれど、この「Usurpador 簒奪者」に関しては長々と連載するつもりはないので、まとめて発表してしまいます。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(2)囚われ人の忠告

 館の執事であるアントニオ・メネゼスは、珍しく厳しい表情を見せていた。それでも、共に少年を扉の向こうに押し込めたクラウディオのように乱れた服装のまま息をついていたりはしなかった。

 半月ほど前に、ドン・カルルシュとドンナ・マヌエラの三男であるインファンテ324に第二次性徴が認められた。ドラガォンの掟に従い、これまで館の三階、両親の部屋の向かいに自室を持っていた少年は、館の北西翼に位置する特殊居住区に移されることとなった。その居住区は一階から三階までの空間を持ち立派な調度を備えた贅沢な空間だが、二階にある出入り口には鉄製の頑丈な格子が備えられ、一日一度の午餐の時間以外はそこから出ることも許されない幽閉空間だった。

 全ての準備が整い、今日の午餐が終わった時、彼は自室へ戻ることは許されず居住区へと案内された。兄であるインファンテ323は、慣れた様子で自らの居住区へと戻ったが、24はおなじ事を自分も求められていることを理解できなかった。即座に拒否し、丁寧ながらもメネゼスが引かないのを見て取ると、いつもの愛らしい様子で母親に助けを求めた。母親にはどうすることも出来ないことを知ると、当主である父親に涙を流して懇願した。最後は半ば引きずられるように格子の向こうへと連れて行かれた。

 それから、数時間にわたり懇願と、それから怒りの罵声を続けたが、誰も助けに現れることはなかった。500年以上にわたるドラガォンの掟。少なくとも323人の少年たちの懇願が受け入れられたことがないのに、彼だけ例外となることなど、不可能だった。彼は、夕食の用意に入ってこようとした召使いに体当たりをしてその隙に居住区から出ようと試み、アントニオとクラウディオがかなりの力を使って留めなくてはならなかった。

 これまで両親の愛情を受け、どんな我が儘にも耳を傾けてもらえた少年が、突然檻の中に押し込められる立場となったのだ。二年ほど前に既におなじ立場になっていた兄23のことを馬鹿にしてはやし立てていた彼は、時期が来れば自らもおなじ立場になることを知らされていなかった。長兄ドン・アルフォンソが、檻の中に入ることがなかったように、自分もまた常に屋敷の中で王子のごとく扱われて生きるものだと信じ切っていた。

 アントニオは、もう一度格子の出入り口を確かめ、しっかりと鍵がかかっていることを確認した。就寝準備のために三階へと向かうジョアナが静かに通った。彼女と目が合うと、アントニオは呼び止めるように手を挙げた。
「セニョール324の居住区へ明朝の掃除に入るのは?」

「アマリアが当番です」
ジョアナは、答えた。彼は頷いた。若いが落ち着いた娘だ。セニョール324の罵声を聞きながらでも掃除は出来るだろう。

「セニョール324は、納得しておられない。一人で入れば危険を伴うかもしれない。当分クラウディオを連れ、二人で行くように」
ジョアナは黙って頷いた。

 頭を下げてその場を去る時、ジョアナは階段の端に当主ドン・カルルシュが立っているのに氣がついた。彼の顔には苦しみがにじみ出ていた。嫌がる愛しい我が子を、無理に檻の向こうに押し込めなくてはならない自らの立場、何も出来ぬ無力さに苦しんでいることは間違いなかった。

 ジョアナとその後ろに立つアントニオを見るその目は、絶対権力者としての当主のそれではなく、助けを懇願する弱々しいものだ。ここ数年、ようやく当主らしい立ち居振る舞いをするようになった彼が封印したはずの迷いがその視線に見える。ジョアナは、振り返ってアントニオを見た。彼はいつものようにほとんど表情を変えずに佇んでいた。彼女はもう一度頷くと、軽く頭を下げながら当主の横を通り過ぎた。

「セニョール324の居住区への引越は完了しました。現在は、三階でお休みです。お氣持ちを鑑み、セニョール323の時と同様にしばらくは二十四時間体制をとります」

 アントニオ・メネゼスは、感情を排した声色でドン・カルルシュに報告した。ルイスに報告に行かせたのだから、ここでおなじ事を繰り返す必要はなかった。だが、メネゼスの言葉は、当主に決して覆らぬドラガォンの掟を思い起こさせた。彼は恥じたように瞳を落し、低く「ご苦労だった。引き続き頼む」とつぶやき、踵を返した。

* * *


 取り乱してはならない。カルルシュは、自室へと戻りながら考えた。二年前と同じだ。24にも、23と同様に諦めてもらう以外の選択はないのだ。二人を救ってやりたい、あの居住区から出してやりたいという願いを口にすることは、彼には許されていなかった。当主ですらドラガォンの掟からは自由になれないのだ。

 動揺を見せてはいけない。無力な姿を晒し監視人たちと問題を起こせば、黙って全てに耐えているマヌエラをいま以上に苦しめることになる。我が子が苦しみ、歪み、怒りと恨みを募らせていく姿を、見なくてはならない立場に彼女を追い込んだのは自分だ。誰よりも彼女の幸せを願っていたはずなのに。すべての恩讐を越え味方になってくれたたった一人のひとなのに。

 当主の座など欲しくなかった。愛する妻や我が子を苦しめる立場になどなりたくなかった。……それに、ドイスを苦しめたい、出し抜きたいなどと願ったことも一度もなかった。

 彼の心は、四半世紀前に戻っていた。ドイスが、今日閉じ込められた我が子と奇妙なほどよく似た少年が閉じ込められたあの忘れられない年に。

* * *


 前の週におこった騒ぎは、カルルシュをひどく不安にした。親しみを込めてドイスと呼ばれていたインファンテ322に第二次性徴が訪れ、母親である当主夫人ドンナ・ルシアが取り乱して館に緊張が走っていた。何が起こっているのか理解できずに戸惑うカルルシュを、これまでほとんど口をきいたことのなかった男が呼び止めた。その男は、居住区に隔離されていたインファンテだった。

「おい。何をメソメソしてんだ」
インファンテ321、自分の本当の父親だと言われたことがあるが、とてもそんな風には思えなかった。その日も彼は昼間だというのに酔っていた。

「いえ。なんでも……」
彼は足早に通り過ぎようとしたが、21はそれを許さなかった。
「待て。こっちに来い」

「なんでしょうか」
「どうせあのヒステリー女に恨み言でも言われたんだろう。メソメソするな。嘲笑ってやればいいんだ」

「でも、いったい……」
21は、弱々しくみじめで覇氣のない我が子を、淀んだ目で見下ろすと、ろれつの回らない口調で言った。

「いいか。おそらくお前と話すのはこれが最後になるだろう。俺は直にここから移されるんだからな」
「移される?」

「そうだ。インファンテは代替わりし、俺はもう用なしってことさ。だが、俺にはもう一つ大事な役目が残っている。……お前に忠告をすることだ」
「忠告?」

「そうだ。俺は、ペドロとあの女を出し抜いて、俺の種であるお前をプリンシペにした。だが、これで勝負がついた訳じゃないんだ。お前みたいなメソメソしてのっそりした奴なんぞ、あいつらの子は簡単に出し抜ける。いいか。氣を抜くな」

「氣を抜くなって、何に対して?」
「閉じこめられたインファンテは、存在意義を求めてあがくものだ。そして、いずれは俺と同じ結論に辿りつく。自分の遺伝子をドラガォンの五つ星にするのが一番だってな。お前は、プリンシペだが王冠が約束されたわけではない。いいか、油断するな。あいつに王冠を渡してはならない」

「ドイスと僕は何かを奪いあったりしない。彼はいつも親切だ」
「どうかな。これからは違う。違いはどんどん出てくる。そうなったら、お前は俺の言葉を思いだすだろう。お前は愚鈍で体も弱い。だが、お前がすべきことは本来たった一つだ。お前の血脈を繋げ。一刻も早く始めるのだ。あいつが女に興味を持ち出す前に。あの坊やがスマートに求愛をしている間に。女に命令し、寝室に引きずり込め。システムがお前の行動を後押ししてくれる。迷うな。そして、躊躇するな」

 カルルシュは、実父の言葉に嫌悪感を持った。血脈をつなぐと言うことが、具体的に何を意味するのかはよくわかっていないけれど、どんなことであれ誰かに乱暴をしたり、プリンシペの立場を利用して何かを強要したりするようなことをするものかと心の中で呟いた。

* * *


 それなのに、僕は本当に彼のいう通りにしてしまったのだ。ドイスの希望と歓びを横取りし、明るくまっすぐだった彼の瞳の輝きを奪ってしまった。

 カルルシュは、重い足を引きずるように階段を昇る。

 22は閉じ込められることがわかった日に、今日の24のように抵抗したりはしなかった。賢い彼は自分に名前がないことと同じ連番の呼称を持つ21との境遇から既に覚悟していたのだろう。その現実に向き合えなかったのは、むしろ22の実母であるドンナ・ルシアの方だった。

 22に第二次性徴が認められた日から、居住区の準備が整い移されるまでの間にやはり二週間ほどあったが、彼女はヒステリーを起こしたかと思うと、それまではあからさまにしなかったひどい憎しみをカルルシュに向けてきた。カルルシュ自身は、急に口撃されることの意味がわからず戸惑っていたが、22の方は、それで自分の運命がこれまで双子のように過ごしてきたカルルシュと分かたれることを悟ったのだろう。

 ドンナ・ルシアは、ついに踏み越えてはならない線を越えてしまった。誰もが望む結末をもたらすのだという確信に基づき、彼女は彼女にとっての正義を実行しようとした。それを望まないのはインファンテ321とその愚鈍な息子の二人だけのはずだった。けれど、すでに二十四時間の監視が実行されていた館の中で、彼女は計画を成し遂げることができなかった。

 ドンナ・ルシアは、愛する我が子に別れを告げることすら許されなかった。そのまま「ドラガォンの館」から姿を消した。

 母親が急にいなくなってしまった理由を知っていたにもかかわらず、22は決してカルルシュに恨みじみたことを言わなかったし、当主の実子であるにも関わらず檻の中に押し込められることへの不満をカルルシュにぶつけることもなかった。彼は、ただ運命を受け入れ、自分の足で居住区に入り、召使いたちが施錠するのを見つめた。

 以前のようにともに学び、余暇時間を過ごすことはなくなり、午餐や礼拝の時に顔を合わせるだけになったが、22は彼に対する態度を変えなかった。それは、周りの期待に応えられずドン・ペドロの叱責に項垂れる他はないカルルシュにとって、ずっとほぼ唯一の慰めだった。当主にも、《監視人たち》にも、召使いたちにも、助けと慰めと優しさを求められなかったカルルシュにとって、22は唯一の家族であり、友であり、助け手だった。……ずっと後にやってきたマヌエラが22以外にはじめて手を差し伸べてくれるまで。

 けれど、22にとって彼はその様な存在ではなかったのだ。彼は簒奪者で、裏切り者だった。絶望の中でようやく見つけたたった一つの小さな蕾を無残に踏みにじった。誰からも愛され、才能あふれ、高潔な魂を持った一人の男の人生をめちゃくちゃにしてしまった悪魔でしかなかった。

 十三歳だったあの夜に姿を消したドンナ・ルシアの行方をカルルシュが知ったのは、彼女の夫であるドン・ペドロが亡くなり、正式にドラガォンの当主となってからだ。22に既に二十年近く会っていなかった母親と面会させてやりたいというのは、カルルシュらしい甘く感傷的なアイデアだったが、ソアレスはひと言で済ました。
「ドン・ペドロは、あの方の腕輪を外されました」

 カルルシュは項垂れた。彼女は生涯インファンテと会う機会を失っていたのだ。

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【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 護田鳥

今日の小説は、唐突ですが「樋水龍神縁起 東国放浪記」です。

実はですね。「scriviamo!」でユズキさんへのプランB作品として書き出したものなんですよ。ユズキさん、鳥がお好きなので、鳥の作品を書きたいなと。ところが、書いているうちに「ダメだ、これ、本編読んでいないと意味もわからない」「っていうか、どう考えても本編じゃん」と。で、もう一度対策を練り直し、「scriviamo!」の方は、日曜日に「お菓子天国をゆく」という「大道芸人たち・外伝」をアップしたというわけです。

でも、せっかく書いたので、もう出しちゃえと思いまして。外伝ではもう登場しているメインキャラが本編でようやく登場です。


「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む 「樋水龍神縁起 東国放浪記」




樋水龍神縁起 東国放浪記
護田鳥


 エボー、ボーという、こもったような低い鳴き声が聞こえて三根は夏だと思った。この鳴き声がするのはほんのわずかの間だけで、それが終わると蒸し暑い日々になる。

 護田鳥おずめどり (注・ミゾゴイ鳥の和名)は、巣作りを始めたようだ。

 三根が護田鳥にことさら心を掛けているのは、彼女がいただいているありがたくない呼び名のせいでもある。悍女おずめ 。船衆だけでなく、町衆までも三根をそう呼ぶ。他の女と較べてさほど氣が強いとも、強情であるとも思ったことはないが、一度ついてしまった名を返上するのはなかなか難しい。

 だが、その名と引き換えにしても、あのいまわしいガマガエル男の慰み者にならずに済んだことを三根は嬉しく思っていた。少領の息子として産まれてきたというだけで、飯炊き女から湯女まで悉く自由にできると思ったら大きな間違いだ。

 ただし、うつけ息子を張り倒して少領のお屋敷から飛び出した後の行動は、考えが足りなかったかもしれないと、今にして思う。三根は港に向かい、兄の作蔵に助けを求めた。

 鬼のように大きく力強い作蔵だが、若狭小浜の船衆に過ぎない。少領なら、難癖をつけて罰することもできる。そのまま三根を匿っていたら船どころか命すらも失ったやもしれぬ。たまたま荷揚げのためにその場にいた『室菱』の元締めが素早く三根を連れ去り自分の元に匿ってくれたので、作蔵は追っ手に知らぬ存ぜぬを通すことができた。

 かや 様には、一生かかっても返せないほどの恩ができた。三根は、身内でもないのに自分をかばい、そのまま置いてくれた女主人、『室菱』の若き元締めのことを考えた。

 献上品となる尊い濱醤醢はまひしお は、同じ大きさの壺に入った砂金ほどの価値があると言われている。鮮度のいい最上の小鯛のみを使い、家に伝わる秘伝の製法にて調整した魚醤だ。もともとこの若狭小浜で作られてきた名産品だが、『室菱』の濱醤醢は別格で、濱醤醢の元締めである萱は平民であっても少領ごときが難癖をつけられるような相手ではない。

 三根は少領の屋敷に戻らずに済んだだけでなく、そのまま萱の元に留まり働くことを許された。「悍女おずめ 」の悪名はついてしまったが、氣にしていなかった。

 大きな羽音がした。

 見ると田んぼに赤茶けた姿が暴れている。護田鳥おずめどり だ。一体どうしたというのだろう。

 護田鳥が水辺にいるのは普通のことだ。人を見ても立ち去らないので田を護る鳥だと言われている。だが、普段ならこのように暴れることはない。近づいてみると、羽ばたいているのは一方の翼だけでもう片方はだらんと垂れている。怪我をしているのか、どこかで折れたのかもしれない。

 三根が近づくと、警戒しつつも羽ばたきはやめない。キッとこちらを見る様子を見て、思わず三根は笑った。その鋭い目つきと人を怖れない態度が「おずめ」と呼ばれる所以なのだ。
「安心して。害は加えないわ。でも、こんなところに居たら直にトンビにでも襲われてしまうわよ」

 腰からしびら だつもの(注・エプロンか巻きスカートのような布)を外し、護田鳥を包んだ。護田鳥は観念したのかそれ以上暴れず、三根の腕に収まった。

 『室菱』にたどり着くと、いかがしたことか中がいつもより騒がしい。献上品は昨日に大領のお屋敷にお届けしたばかりなので、何があったのかわからない。土間で足を洗っていると、奥から萱が出てきた。

「三根か。遅かったがどうしたのか」
「申し訳ございません、萱様。怪我をしていた護田鳥をそのままにできませんでした、この通り」
そう申して褶だつものに包まった鳥の顔を見せると、女主人は笑った。
「お前も病人を連れてきたか」

「と、おっしゃいますと、他にも?」
萱の片側に下げてある長い髪が揺れた。三根や他の平民の娘たちと違い、萱の佇まいと姿はやんごとないお方のようだ。同じような小袖を身につけていても乱れなく、襟元も常に整っている。髪を長くしているが、鴉のように艶やかで美しい。

 萱は頷いて、奥を示した。
「客人が二人いる。市の近くで宿を求めていた公達と従者だ。が、従者の方が倒れてしまったので、岩次にここに運ばせた。三根、申し訳ないが佐代と交代して病人の世話をしてくれぬか」

 三根は頷くと、入ってきた岩次に護田鳥を褶だつものごと預け、奥に向かった。佐代は自分の仕事の他に、公達の世話と病人の世話でてんてこ舞いに違いない。それにしても、萱様はなんとお人好しなのか。見ず知らずの二人組を連れてきて面倒を見る義理もないだろうに。

 奥の小さな部屋に、病人は寝かされていた。三根がそっと入ると、佐代は安堵の顔を見せた。手招きされて共に台所へ向かった。佐代からたらいを受け取る。
「どうなさったの?」

「大変な熱なの。主どのを草の庵で寝かせるわけにはいかないと、無理していたみたいだけれど、歩けなくなってしまったみたいで」
「それはお氣の毒だけれど、どうして萱様が面倒を見ることになったわけ?」

 佐代は声を潜めて答えた。
「どうやら、萱様がご存じの方のようよ」
「その公達が?」
「いえ、倒れた従者の方」

 公達の世話をするために去って行った佐代と別れ、たらいに冷たい水を張って三根は小さい部屋に戻った。切灯台の焰が揺れている。

 どうやら熱は高いものの、容態は落ち着いているようだ。三根は、男の額に置かれた手ぬぐいを取り替えた。男は目を覚ましたのか、わずかに目を開き、粗く息をつきながら言った。
「かたじけのうございます……。ここは、いずこに……ございましょうか……。我が主……春昌さまは……」

 三根は答えた。
「ご安心くださいませ。ここは濱醤醢を醸造する『室菱』の屋敷。わが主、萱様があなたのご主人様を別のお部屋でおもてなししています。お心安らかにお休みくださいませ」
「なんと……それは、ありがとう存じます……」

 安堵したのか、再び寝息を立てだした。三根は静かに部屋を抜け出し、護田鳥を岩次から受け取ってきた。岩次がすでに応急処置を終えており、折れた翼は固定され、もう一つの翼もたたんだ上に布で巻かれ羽ばたけないようにして、魚採りの籠に収めてあった。

 イワシを与えると盛んに食べるが、目つきは相変わらず鋭く、「おずめ」の名は伊達ではないと三根は笑った。そのまま籠をもって、病んだ従者の寝ている部屋に戻った。

* * *


 エボー、ボー。尺八のような籠もった音が響いている。うるさいなあ。どうして森で鳴かないんだろう。三根の意識は朦朧と彷徨っている。

「護田鳥は夏を無駄にしたくはないのでしょう。かわいそうに、この翼では森へ行くことは叶いますまい」
……この声は、萱様?

「鳴くほどの力が戻ってきたのだから、あるいは、命をつなぐことができるやもしれぬ」

 聞き慣れぬ男の声にぎよっとして、三根は飛び起きた。いつの間に眠ってしまったのか、朝の光が天窓から差し込んでいる。病人は変わらずに寝息を立てているが、その向こうに萱と見知らぬ男が座っている。狩衣を身につけているので、これが病人の主人なのだろう。

 三根は頭を畳に擦り付けた。
「も、もうしわけございません!」

 萱はわずかに口角を上げた。
「よい、三根。夜通しの看病で疲れたのであろう。ご苦労でした」

 公達が頭を下げた。
「次郎の熱はすっかり下がった。そなたの献身的な看病のお陰だ。心からの礼を申し上げる」

「め、滅相もございません!」
ちらりと見ると、確かに病人は静かに寝息を立てている。明け方にはまだかなり熱があり肩で息をしていたので、朝になったら萱様に報告せねばと思っていたのだ。

 三根は公達の姿を見て首を傾げた。紺の狩衣を身につけているが、色は褪せ、袴にも汚れが見えている。堂々とした佇まいとこの服装、そして従者を連れて歩いているところを見ると、やんごとなき方なのだろうが、その日の宿にも困るような理がわからない。佐代は萱様が従者の次郎さんとやらをご存じだって言っていたけれど。

「それにしても縁とは不思議なものだ。萱どの。そなたが次郎を知っていたとは」
公達が、三根のまさに訊きたかった件を切り出してくれた。水を替えに行こうとした三根は、せっかくなので次郎の手ぬぐいをもう一度濡らして、もうしばらくその場にいることにした。

「はい。五年ほど前になりますでしょうか。まだ父が生きておりました頃、名代として奥出雲の樋水龍王神社に参りました」
萱は、静かに語り出した。

「樋水に?」
「はい。樋水龍王神社では、奴奈川比売さまの例祭に姫川の御神酒をお使いになるのです。あの年は、越国で大変な飢饉がございました。糸魚姫川流域ではほとんど米が獲れなかったのでございます。奉納予定だった御神酒を乗せた船が沈み、多くの樽が失われた後、代わりのお酒を探しても、姫川から獲れたものはもう残っていなかったそうです」

「それで?」
「私どもの所に八樽ほどございました。私どもの濱醤醢も、姫川のお酒を使うのです。もちろん神事ではございませんので、どうしてもそのお酒でなくてはならないということもございませんので、樋水にお譲りすることになりました。お届けしてそのまま帰途につく心づもりでおりましたが……」

 公達は、萱をじっと見つめて言った。
「媛巫女様が、お目にかかりたいとおっしゃられたのでしょう」

「どうしてそれを?」
萱は心底驚いたさまで頷いた。

「そなたが龍王さまの神域に現れたなら、いやでも氣付く。それほどそなたの発する氣は大きく強い。そうおっしゃったのでは」

「はい。誠に。あの……安達様はなぜそれを」
公達は、わずかに笑みを見せた。
「媛巫女にも劣らぬそなたの氣が見えているからだ。おそらく、そなたにも見えているのではないか」

 萱は、首を振った。
「いいえ。亡き父は、私が童の頃にこの世ならぬものをよく見ていたと申しておりましたが……」
「……そうか。童の頃にはぼんやりと見えていたが、やがてなにも見えなくなってしまう者も多い。が、そなたの氣を見る限り、そのような微かな力とは思えぬ。見えぬようになったのではなく、自ら封印し見ぬようにしただけやもしれぬ。いずれにせよ、媛巫女がそなたに逢いたがった理由は、よくわかる。そして、その折りに次郎とも見知ったのだな」

 三根は、不思議に思い二人の顔を見た。この病人は、樋水龍王神社の関係者なのだろうか。

 萱は頷いた。
「媛巫女様の郎党であられた次郎様と、このような形で再びお目にかかるとは、ほんに縁とは不思議でございます。安達様も、媛巫女様をご存じでいらしたのですね」

 途端に、切灯台に残っていた焰が揺れて消えた。護田鳥が鳴くのをピタリと止めた。

 安達春昌は、ほとんど表情を変えずにいたが、萱がぴくっと動き、客人の顔をまともに見た。三根には全くわからない何かを、女主人は明らかに感じたらしかった。
「安達様……」

「すまぬ。そなたを驚かせたようだ。そのつもりはなかった。さよう、私は媛巫女を知っている。樋水へ行き、媛巫女も、そして次郎も知ったが、そうするべきではなかった。私が樋水に行かなければ、この者はこのようなところで病に倒れることもなく、そなたにもこのように迷惑を掛けずに済んだのだ」

 春昌は、ほとんど表情を変えずにこれだけ言うと、口を閉ざした。萱は、しばらく考えるように間をおいてから、護田鳥の入った魚籠を手に取って、客人に見せた。

「ご覧くださいませ。護田鳥は、命を救われてもこのように私どもを睨みつけます。この濱に立ち寄らなければ、そなたたちに迷惑を掛けずに済んだなどとは申しません。それが自然の理でございます」

 安達春昌は、わずかに表情をゆるめて萱を見た。それから、眠る次郎を見つめた。

「次郎様がお倒れになったのも、安達様がこちらにおいでになったのも、全ては縁でございます。そして、おそらくは媛巫女様がお引き合わせくださいましたのでしょう。どうぞ、ゆるりとおくつろぎくださいませ。私も、そして、こちらの三根も、心を込めてお世話させていただきます」

 三根は力づよく頷いた。萱様がこのお二人をお助けしたいと思うなら、私も。

 彼女自身も萱に助けられ、その人となりに心酔しよく仕え、懸命に働きたいと常日頃考えている。

 萱に特別な氣とやらがあるかどうか、三根にはさっぱりわからない。だが護田鳥ですら、三根が世話をしていたときのように挑戦的な動きをしない。いつもそうなのだ。どのような獣も、萱の前では大人しくなる。

 同じく悍女おずめ と呼ばれる三根も、萱に対しては反抗的に振る舞ったりはしない。萱に匿ってもらった恩義はもちろんだが、ここで働きたいと願う思いはそれだけではない。ましてや迷惑をかけるのでここを去ろうなどということは考えたことすらない。

 難しいことはわからないけれど、それが縁というものなのだろう。一番の恩人である三根に、相変わらず反抗的な目つきをしてみせる護田鳥に、小鯛のエラや背びれを与えながら、三根はそんなことを考えていた。

(初出:2020年1月 書き下ろし)
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【小説】Usurpador 簒奪者(1)誰もいない海

今年最初の小説は、予告したように『Usurpador 簒奪者』の第一回です。新年には特に相応しくない、暗い始まりなのですが、この小説、ずっとこのまま暗いかも……。

前作『Infante 323 黄金の枷 』を読んでくださった方は混乱するかもしれませんが、この話はおよそ30年くらい前の話がメインです。時々時間軸が動いたりします。一応、連載として連番が打ってありますが、実際はそれぞれが別の外伝に近い書き方をしてあります。



『Usurpador 簒奪者』を読む「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Usurpador 簒奪者(1)誰もいない海

 大統領の秘書は最敬礼して帰って行った。ポサーダであるフレイショ宮殿ホテルの貸し切られた一室で、静かにコーヒーを飲み終えたマヌエラは、同席していたジョアン・ソアレスに頷いた。彼は立ち上がると携帯電話で運転手のヌエスに表に車を回すように告げた。

「お疲れさまでした。その……失礼ながら、感服いたしました」
ソアレスは、口ごもった。

「何がですか」
マヌエラは、黒服の男を見やった。彼は、つい数ヶ月前まで彼女の上司であったドラガォンの執事バジリオ・ソアレスの長男で、《監視人たち》中枢組織の中でも最高幹部にあたる存在だった。大統領の筆頭秘書と会見して、ドラガォンの当主ドン・ペドロの手紙を手渡す大役を初めて務めたマヌエラにとって、彼は補佐であると同時に目付役、文字通りの監視人でもあった。

「このような場でも、実に堂々となされて、まるで何年も前からドラガォンのスポークスマンとしてご活躍なさっておられるようです」
「ありがとう。一人だったら不安でしたけれど、あなたがそこに控えていてくださったから、安心していられました」

 ドラガォンの当主は、伝統的に外の人間に会うことはない。相手が大統領本人でも、ローマ教皇でも同じだ。代わりに応対するのは、通常はその妻またはインファンタと呼ばれる当主の娘だ。だが、当主ドン・ペドロの妻ドンナ・ルシアが館から退けられてから8年が経っており、ドン・ペドロには女子がなかったので、これまではジョアン・ソアレスなど《監視人たち》中枢組織幹部がドン・ペドロの名代となってきた。

 当主の跡継ぎドン・カルルシュと結婚しドンナ・マヌエラとなった彼女は、ドン・ペドロの名代としての役目を果たすことになった。まだ22歳と若いことや、妊娠していることは、その役割を退ける言い訳とはならなかった。彼女は、全てがこれまでの人生とは変わってしまったことを日々噛み締めていた。自分で選んだことではなかったが、動かすことは出来なかった。ドン・カルルシュと結婚し、未来の当主夫人として生きていくことを受け入れたのは彼女自身だった。

 強くならなくてはならない。これが、現実に進んでいく人生なのだと、理解しなくてはならない。「そうだったかもしれないもう一つの人生」について考えるのはもうよそう。彼女は、窓からD河の煌めく波を眺めた。彼を、カルルシュを支えて一緒に運命に立ち向かおうと決めたのだから。

「そろそろ行きましょう、ミニャ・セニョーラ」
ソアレスの言葉に我に返り、頷くと、マヌエラは開けてもらった扉の向こうへと歩き出した。

 正面玄関の前で待っていたヌエスは、後部座席の扉を開けてマヌエラを座らせた。それから助手席に座ったソアレスとマヌエラ両方に言った。
「事故がございまして渋滞しているようですので、河向こうを通り、アラビダ橋経由で戻らせていただきます」

 マヌエラは頷いた。どこから帰ろうと同じだった。ドラガォンの館に向かうしかないのだから。その同じ館に閉じこめられている男のことを考えた。彼女が車窓から眺める光景を、きっと彼は生涯目にすることはないだろう。そして、本当だったらマヌエラも、今見ている光景を見ることなどなく、格子のはまった窓からかつてみた街の記憶を辿るはずだった。当主の名代になるとこなどなく、ただ一人の男の人生に寄り添っているはずだった。

「裏切り者」
彼の憎しみに満ちた瞳が、マヌエラの心を刺し続けている。選んだのは自分ではない、逃げることも出来ない、そうであっても、マヌエラは彼の言葉が正しいのだと思った。カルルシュを憎み拒むことだけが、彼の想いに寄り添うたった一つの意思表示なのだから。カルルシュを受け入れ、結婚し、生まれてくる命を待っている自分は、たしかに彼の愛を裏切ったのだ。

 マヌエラは、彼女を得た代わりに世界で一番大切な人間の愛を失ってしまった簒奪者の苦悩に想いを馳せた。アラビダ橋から見えた大西洋は輝いていた。船もなく、観光客や漁師たちの姿も見えなかった。世界は空虚で冷たかった。
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Posted by 八少女 夕

Usurpador 簒奪者 あらすじと登場人物

この作品は、ポルトガルのポルトをモデルにした街のとある館を舞台に進む小説群『黄金の枷』シリーズの第2作です。『Infante 323 黄金の枷』とその続編『Filigrana 金細工の心』よりも30年ほど前に起こったことを主に扱っています。

【あらすじ】
 黄金の腕輪をはめた娘、後の当主夫人マヌエラは召使いとして「ドラガォンの館(Palácio do dragão)」で働き、2人の対照的な青年と関わることになった。

【登場人物】(年齢は第一話時点でのもの)

◆マヌエラ・サントス(22歳)
 「ドラガォンの館」の召使い。ブルネットに近い金髪にグレーの瞳が美しい娘。

◆ドン・カルルシュ(21歳)
 「ドラガォンの館」の世継(プリンシぺ)。黒髪と濃い焦げ茶の瞳を持つ背の低い青年。

◆Infante 322 [22] (21歳)
 同じ年に生まれたドン・カルルシュの弟。「ドラガォンの館」で「ご主人様(meu senhor)」という呼びかけも含め、ドン・カルルシュと全てにおいて同じ扱いを受けているが、常時鉄格子の向こうに閉じこめられている。雄鶏の形をしたコルク飾りに彩色をする職人でもある。明るい茶色の髪。海のような青い瞳。ピアノ、ヴァイオリンを弾くことができる。

◆アントニオ・メネゼス(26歳)
 「ドラガォンの館」の執事補佐で、《監視人たち》の一族出身。

◆ジョアナ・ダ・シルヴァ(21歳)
 「ドラガォンの館」の召使いである女性。同僚であるマヌエラの親友。

◆ドン・ペドロ
 「ドラガォンの館」の当主で22の実父。非常に厳格で、特に次期当主となるべきカルルシュには厳しくあたる。

◆Infante 321[21]
 ドン・ペドロの弟であるインファンテ。カルルシュの実父。22が閉じ込められると同時に別邸へと遷された。 

◆バジリオ・ソアレス
 「ドラガォンの館」の執事で、《監視人たち》の一族出身。厳しく「ドラガォンの館」の掟に忠実。

◆「ドラガォンの館」の使用人
 フェルナンド・ゴンザーガ(故人 享年23歳)
 バジリオ・ヌエス(36歳) - 運転手 《監視人たち》の一族出身。


【用語解説】
◆ Usurpador(ウーズルパドール)
簒奪者。本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事。ないしそれを批判的に表現した語。

◆ Príncipe
 スペイン語やポルトガル語で国王の長子(Príncipe)である男子をさす言葉。日本語では「王子」または「王太子」と訳される。この作品では「ドラガォンの館」の時期当主となる予定の男性のこと。貴族を意味する称号「ドン」が名前の前につく。

◆Infante
 スペイン語やポルトガル語で国王の長子(Príncipe)以外の男子をさす言葉。日本語では「王子」または「親王」と訳される。この作品では「ドラガォンの館」に幽閉状態になっている(または、幽閉状態になっていた)男性のこと。命名されることなく通番で呼ばれる。

◆黄金の腕輪
 この作品に出てくる登場人物の多くが左手首に嵌めている腕輪。本人には外すことができない。男性の付けている腕輪には青い石が、女性のものには赤い石がついている。その石の数は持ち主によって違う。ドン・ペドロとドン・カルルシュは5つ、21および22は4つ、マヌエラは2つ。腕輪を付けている人間は《星のある子供たち》(Os Portadores da Estrela)と総称される。

◆《監視人たち》(Os Observadores)
 Pの街で普通に暮らしているが、《星のある子供たち》を監視して報告いる人たち。中枢組織があり、《星のある子供たち》が起こした問題があれば解決し修正している。

◆モデルとなった場所について
 作品のモデルはポルトガルのポルトとその対岸のガイア、ドウロ河である。それぞれ作品上ではPの街、Gの街、D河というように表記されている。また「ドラガォン(Dragãon)」はポルトガル語で竜の意味だが、ポルト市の象徴である。この作品は私によるフィクションで、現実のポルト市には「ドラガォンの館」も黄金の腕輪を付けられた一族も存在しないため、あえて頭文字で表記することにした。

この作品はフィクションです。実在の街、人物などとは関係ありません。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(9)新しい家族 - 4 -

今回は、中編とはいえ、長く連載してきた「霧の彼方から」の最終回です。そして、「ファインダーの向こうに」「郷愁の丘」と合わせて、ジョルジア三部作もこれで完結です。

追記に後書きを記載しました。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(9)新しい家族 - 4 -

「あ。このサンドイッチ、パセリが入っている」
アンジェリカは、パセリをつまみ出したが、置き場がなくて困ったように見回した。

 グレッグは、黙ってそれを受け取り、ぱくっと食べてしまった。
「アンジェリカ、あなたったら、パセリを食べられないの?」
ジョルジアが訊くと、少女は首を傾げた。
「あれって、食べるものなの? いつもお皿の脇にどけちゃうのよ」

 ジョルジアは、ため息をついた。
「嫌いじゃないなら、食べた方がいいわよ。栄養もあるし、それにパセリを作る農家の人、みんなが残して捨てるのをわかっていても、大事に育てているのよ」
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、次から食べてみるわね」

 無邪氣なアンジェリカの様子を見ながら、ジョルジアはレベッカ・マッケンジーの庭を思い出していた。

 今日もまた、彼女はあの美しい庭と、完璧に手入れされた館を保つために、きびきびと動き回っているのだろう。そして、手を休めたときに、ほんのわずかの息子との邂逅を想っているのだろうか。

『パセリ、セージ、ローズマリー、タイム……』

 美しいチョコレートを買い求め、息子の学業に対する激励をしたレベッカ。彼が理解し合えると願いはじめての愛情を抱いたジェーン。彼に性の手ほどきをし幾晩か温かい肌で包んだマデリン。三人の彼の心に沈む女性たちは、この霧に覆われた島のどこかにいる。彼に教えと激励を授けたウォレス、そしてその他多くの関わった人々も同じように。

 彼女たちは過去の亡霊ではなく、今でもそれぞれの人生を営みながら、存在している。忙しく今日という日を過ごしていることだろう。

 ジョルジアは、食事を終えたグレッグが、アンジャリカやジョルジアの出したゴミを小さく一つにまとめてゴミ箱に捨てる様子を目で追った。自然な動き、行動様式は、誰から習い受け取ったかを考える必要がないほどに、彼の一部となっている。そして、それはいずれジョルジアやアンジェリカ、その他の彼と関わる多くの人に影響を与えていくだろう。彼女は、その考え方が氣に入って、一人微笑んだ。

「ねえ、記念写真撮らない? ママやパパと外にいる時って、できるだけ撮られないようにって行動するから、空港で家族と映った写真なんて一枚も持っていないんだもの」
アンジェリカが言うと、グレッグはすぐに申し出た。
「じゃあ、僕が撮るよ」

 アンジェリカは、首を振った。
「そしたら、グレッグが映らないじゃない」

 彼女にとって、グレッグはもうファミリーの一員なのだ。彼もそれを感じて、はにかみながら笑った。ジョルジアも笑顔になり、近くにいる人に自分のiPhoneを渡して撮影を頼んだ。アンジェリカは、少し斜めを向いて首を傾げた。おそらくこの三人の中で一番撮られ慣れているのだろう。

 写真を見て、アンジェリカは満足そうに頷いた。
「これ、ママのところに送っておいてね。それから、パパにも送って」

「すぐに送るわ。それに、結婚式のフラワーガールの写真も送らなくちゃね」
ジョルジアが言うと、アンジェリカは満面の笑顔を見せた。
「向こうでも、みんなでいっぱい写真を撮っていいでしょう?」

 ジョルジアは、そんな姪を愛しそうに見て頷いた。それから、ふいに思い出したようにグレッグに言った。
「ねえ。そういえば、結婚式の写真をウォレスにも送る約束をしたじゃない?」

「ああ。まさか彼が、そんなことに興味があるとは思わなかったな」
彼は苦笑した。

「僕たちの正装を見たいわけじゃないだろうから、出席者全員のを送るべきだろうか。もしかして、ケニアのパーティの方がいいかな。レイチェルやマディも映っているだろうから」

 ジョルジアは笑った。そこまであれこれ考えているとは思わなかったのだ。
「それもいいアイデアね。両方送ればいいじゃない。それで、思ったんだけれど、どうせならその写真、アトキンスさんにも送ったらどうかしら」

 彼は心底驚いた顔をした。
「マデリンに? どうして?」
「私の撮ったアトキンスさんの写真を現像して送る予定だけれど、せっかくだから。あなたがケニアで幸せに生きていることを知らせたら喜ぶんじゃないかと思うの」

「そうだな。きちんとお礼の手紙も書いて、それに、できたら借りも、一緒に……」
彼が、真剣な面持ちで決心を呟くと、二人を見上げていたアンジェリカが訊いた。
「アトキンスさんって誰?」

「グレッグの昔の恩人よ」
ジョルジアは笑って答えた。
「じゃあ、ウォレスって?」
「グレッグの恩師なの」

 アンジェリカは、重々しく言った。
「グレッグ、恩のある人いっぱいいるのね」

 彼は、考え深く答えた。
「そうだね。たくさんの人に興味を持ってもらい、助けてもらい、生きてきたんだ。それなのに、ずっと誰からも愛されない独りぼっちの人生だと思い込んでいた」

「そんなはずないじゃない。だって、ジョルジアと結婚するんでしょ?」
アンジェリカが、首を傾げた。婚約している二人は笑ってお互いを見た。

 青年だった彼の軌跡を巡る旅では、多くの発見があった。彼は心の整理をした。彼にとって、この国は寂しく悲しい思い出だけに心を抉られる異国ではなかった。袖触れ合うわずかな期間だとしても彼を育ててくれた優しい人たちが住む土地だった。そして、過去だけではなく、研究を共に進める新しい友が現在と未来においても彼を待つ国になった。

 ジョルジアにとっても、やはり心をみつめる旅だった。彼に対する理解を深め、彼という鏡を通して自分のコンプレックスに向き合い、誰かの影でいることをやめたのだ。

 二人は立ち止まり、考え、悩みを脱ぎ去り、そしてまた、他の人たちと同じように、人生を一歩ずつ進めていく。お互いに手を携えて、心の迷路から抜けだし、未来へと。

 『答えは、お前とともにある』長老の言葉は、正しかった。いつものように。

 ゲートへの案内が流れて歩き出した三人には、いつのまにか霧が晴れて窓から陽の光が注いでいた。新しい家族となる儀式に臨むため、彼らは足を速めて搭乗ゲートへと向かった。

(初出:2019年12月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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【後書き】
ジョルジアが最初にこのブログに登場したのは、私の記憶が間違っていなければ、最初のオリキャラのオフ会「松江旅情」でした。裏では、すでに「ファインダーの向こうに」を推敲していたので、私にとってはオフ会で出すのはとても自然だったのですが、おそらく読者の方には「?」だったと思います。みんな玉造温泉を楽しんでいるのに、意固地になってお風呂に入らず「俺様猫」にカニの身をほぐして時間を潰していました。

その後で「ファインダーの向こうに」の連載を開始、もともとはTOM−Fさんへのお詫び作品で、リア充にはならずに退場する予定だったのですが、あらあら、どういう風の吹き回しか、数年経ったら読者の方を辟易させるような甘ったるい婚約状態で話を完結させる事になってしまいました。こんな構想は、もちろん最初はなかったんですよ。

この方向転換に、大きな役割を果たしたのは、もちろんこのシリーズのもう一人主人公グレッグです。「郷愁の丘」以降は、ジョルジアだけでなく、グレッグの過去と性格と想いとが、物語の進行と運命に大きな役割を果たし出します。その傾向は今作では完全に逆転して、ほぼグレッグをめぐるストーリーになっています。

「郷愁の丘」は作品の組み立て上、限られた数回を除き、敢えてジョルジアの考えと問題を中心に物語を進めてきました。物語の構成が煩雑になるのを避けるために、敢えて設定してあるのに述べなかったグレッグの(ジョルジアに負けていない)大きな問題は、そのために大して表面には出せなかったのですが、続編である今作「霧の彼方から」を書くにあたって、私は今回はむしろ彼に焦点を当てようと思ったのです。

舞台をアフリカのまま記述してもよかったのですが、彼のこじれた性格の原点である子供時代を、一人称語りの会話だけでなく、少し客観的な視点から語り手(=目撃者)ジョルジアに理解させるためには、やはりイギリスを舞台にした方がいいと思いました。無理矢理イギリスへ連れて行き、さらにはオックスフォードへ連れて行くためにいくつかのエピソードを作り出しましたが、それが不自然でなければいいなと今さらながら思っています。

母親にようやく婚約者を紹介するというごく当たり前の展開は、まったく当たり前でない形で突如打ち切られました。そして、オックスフォードでは、ジョルジアの誤解と迷走そして好奇心を機に、彼の若き日に対する理解が深まりました。この作品では、立ち向かう大きな敵もなく、本当の意味での悪人も存在しません。ジョルジアとグレッグがお互いへの理解を深めて、家族としての未来を見据えながら歩き出す、それだけのストーリーです。

イギリスには数回訪れていますが、今回は設定上、あまり詳しくない地域を中心に記述したので、途中で不安になってロケハンに行きました。そういう意味でも印象深い作品になりました。

あいかわらず、地味なストーリー展開でしたが、最後までお付き合いくださり本当にありがとうございました。ジョルジアとグレッグを中心に据えた連載小説はこれでおしまいですが、この「ニューヨークの異邦人たち」の世界観には多くの個性的な面々が蠢いているので、また短編などで彼らを登場させることもあるかと思います。

まずは長い間のご愛読に心からの感謝をこめて、このストーリーの結びとさせていただきます。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(9)新しい家族 - 3 -

「霧の彼方から」の最終章『新しい家族』、四回に分けた三回目です。本当は五回に分けたかったところを無理矢理四回に分けたので、今回更新分はいつもよりも少し長くなっています。前半は、前回の続きでオックスフォード、後半はヒースロー空港です。

お読みになればわかると思いますが、この小説、ロンドン市内の描写が皆無です。書いてもよかったのですけれど、観光名所を安易に描写するとガイドブックから抜き出したみたいな文章になりますし、そうならないように書くには丁寧な描写が必要で2千字程度では難しいのです。無駄に長くするとでテーマがぼけるので、敢えて行きも帰りもロンドン滞在分をごっそりと飛ばしました。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(9)新しい家族 - 3 -

 部屋の灯を落とし、窓の外の街灯が雨粒に反射してにじむのを、彼の肩に頭をもたせかけながら見つめた。彼は、彼女の肩に腕を回した。

「私があなたを必要としているって、信じられるようになった?」
ジョルジアが訊くと、彼は少し戸惑ってから小さく頷いた。

「たぶん。その……今まで、誰からも必要とされたことがなかったから、それに、追いかけてもらったこともなかったから、まだ勝手がわからないんだ。でも、これまでとは何もかも違っているのは感じている。君のいる世界に僕は居続けていいらしい。君の家族も、友達も、僕の存在を歓迎してくれている。これまで起こらなかったことが、当たり前のように起こり始めている。きっと、本当に君が僕の探し続けていた問いへの答えなんだ」
「そして、あなたが私の問いへの答えなんだわ」

「君の問い?」
グレッグは首を傾げた。ここ数週間のジョルジアの迷走に、本当に氣がついていなかったようだと、彼女はおかしくなった。

「そう、私の問題。あなたがこれまでの人生でずっと答えを探していたように、私もあちこちで躓きながら、答えを探していたように思うの。答えがあなただと思ったら、ようやく問いがなんだかわかったように思うの」
「それは? あ、その、訊いても構わないなら……」

 彼といてこんなにほっとするのは、多分彼が高みから話をしないからだと思った。礼儀正しさと臆病さが同居している。その臆病さはジョルジアの持つそれと似ている。だから彼女は安心して自らの弱みを彼にさらけ出すことができる。

「もちろん。あのね。私は、これまでの人生でいつも同じことに怯えていたの。誰か他の人と比較されて、劣った存在だと思われること。主に妹や、それから兄と比較されて、それで私の方が劣っているのは事実だったから、次第に何も言われる前からそうだと決めつけて卑屈になってしまったんだわ」
「そんな……。君は、本当に素晴らしいのに」

 彼の茶色の瞳は柔らかい光をともし、誠実に彼女を肯定していた。彼女は笑った。
「あなたにこんなに大事にしてもらっていることを知りながらも、他の誰か、かつて付き合っていた女性と比較されて失望されているんじゃないかと心配していたの。でも、いろいろなことが勘違いだったとわかって、それで自分のコンプレックスがはっきりしたのね。それに、たとえ劣っているとしても、努力してそれを乗り越えていこうと思えるようになったのも、あなたのおかげだわ」

 彼は、ほっと息をつき、それから笑った。
「僕も、君のお陰で信じられないほど変わったんだ。それに、どれほど多くのどうしようもないと思っていた部分を君に肯定してもらったことだろう。僕が君を必要としているだけでなく、君もまた僕を必要としていてくれる。そのことが、どれほどの喜びをもたらしてくれているか。こんなに口下手ではなくて、君に効果的に伝えることができたらどんなにいいだろう」

* * *


 ヒースロー空港の構内を歩きながら、アンジェリカはガラスの向こうをつまらなそうに一瞥した。霞んで何も見えなかったのだ。

 出発便が遅れてゲートが表示されないので、グレッグはどこかで軽く食事でもしようかと提案した。すると、アンジェリカがキオスクで買いたいとねだった。
「あそこに、組み合わせ自由のミールセットを売っているの。でも、ママやパパと一緒だといつもファーストクラスのラウンジに行って、ああいうのを食べるのは無理なんだもの」

 アンジェリカは目を輝かせて、サンドイッチと小袋入りポテトチップス、それに安物のオレンジジュースを選んだ。ジョルジアとグレッグは、彼らにとっては大して珍しくもない安価なサンドイッチやミネラルウォーターを一緒に買い物籠に放り込み顔を見合わせて苦笑した。

 ベンチに座り、三角サンドイッチを頬張るアンジェリカは満足そうだった。この調子では、エコノミークラスに乗ることも新体験として喜ぶかもしれない。

 防犯にかかわるホテルはともかく、飛行機まで勝手にクラス替えをされてしまうことに、ジョルジアは猛反対したのだ。
「どっちに乗っても安全性には関係ないし、アンジェリカがどうしてもいやというなら、彼女だけビジネスかファーストクラスに座らせてちょうだい」

 アンジェリカは、もちろん二人と一緒のエコノミークラスを熱望し、アレッサンドラも「それならどうぞ」と譲ったのだ。

 ポテトチップスをかじりながら、少女は横なぐりの雨が伝い落ちる窓を眺めた。
「サン・モリッツは、晴れている日は毎日真っ青な空だし、雪が降る時はどっさり降るのよ。ずっと寒いけれど。ねえ、グレッグ。どうしてここでは毎日雨が降ったり止んだりするの?」

 彼は、一瞬ひるんだが、口を開いた。
「簡単に言うと、ブリテン島の位置のせいなんだ」
「位置?」

「うん。赤道近くのアフリカ沖で暖められた南大西洋の暖流は北上して、ヨーロッパ大陸の西岸を流れ、ブリテン島付近でUターンするんだ。そして偏西風が常に海流上の暖氣を運んでくる。この二つの要素のせいで、例えばロンドン辺りの西岸に近い場所の冬はいつも比較的暖かいのだけれど、同時に天候や氣温が不安定で変わりやすくなってしまうんだ」

「だからスイスよりもずっと北にあっても全然寒くないのね」
アンジェリカがわかったように頷く。

「それにサン・モリッツは標高1500メートルだから寒いんじゃない?」
ジョルジアは付け加えた。

「もちろんそれもあるね。とはいえ、君のお父さんのいるマンチェスターにしろ、ロンドンにしろ、あれだけの緯度にしては温暖なのは確かなんだ。それに雨ばかり降っている印象があるだろうけれど、すぐに止んでしまうので年間降水量はそれほど多くないんだ」
グレッグが付け加えると、アンジェリカは頷いた。

「グレッグの説明は、わかりやすいわね。これから、わからないことがあったらグレッグに訊くわ。パパの説明は『そういうもんなんだよ』だけでちっとも納得できないんだもの」

 彼は、少し慌てて言った。
「たまたま君のお父さんの知らないことを僕が知っていただけだよ。別のこと、例えば、スポーツのことや人間工学なんかについては、僕よりも君のお父さんの方がよく知っていると思うよ」

「そうね。私、スポーツの授業で上手くいかなかったことを、次に会う時にパパに話すと、いつも理論からとても丁寧に説明してくれて、トレーニングにも付き合ってくれるの。だから、私、スポーツの成績もすごくいいのよ」

 グレッグは、満面の笑顔を見せる少女を眩しそうに見つめた。ジョルジアは、姪に言った。
「そうね。あなたのことはとても誇らしいわ、アンジェリカ。それに、誰に何を質問するのがいいか、わかっているのはとても大切なことね。グレッグは、動物行動学の先生だし、学び方のメソッドもよくわかっているから、あなたの心強い味方になるわよ。私もいつも彼に新しいことを教えてもらっているもの」

 グレッグは、はにかんで言った。
「僕も君からいつもたくさんのことを学んでいるよ。きっと君も僕にたくさんのことを教えてくれるだろうね、アンジェリカ」
少女は嬉しそうに頷いた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(9)新しい家族 - 2 -

「霧の彼方から」の最終章『新しい家族』、四回に分けた二回目です。本当は五回に分けたかったところを無理矢理四回に分けているので、シーンとしては途切れています。まあ、でも、内容から考えれば妥当なところで切ったかな。

登場したパブは、オックスフォードでご飯を食べにいった「Turf Tavern」をモデルにしています。美味しかったなあ。

今回、はじめてアンジェリカの養父となるルイス=ヴィルヘルムの性格の話が登場しています。別に無理して書くことなかったのですけれど、彼女の境遇を理解するには、あった方がいいかなと。本題とはまったく関係ありませんし、フラグでも何でもありません。あしからず。

アンジェリカは「できる子」なので、後半は邪魔せずに大人しく寝てますね(笑)


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(9)新しい家族 - 2 -

「この店、素敵ね」
ジョルジアは、古いパブを見回した。

 ニスの黒変した木のカウンターや傷のついた椅子。ビールマシンのピカピカに磨かれた真鍮の取っ手。それは、ニューヨークで時折みる、古いパプ風にあえて古い木材やアンティークの家具をそろえて作った「それらしい」インテリアではなく、本当に何百年もの間に多くの学生たちが学び巣立っていくのを見つめていた年老いた店なのだ。

 若かりしグレッグや、リチャード、それにアウレリオたちも、ここでビールを飲み、将来の夢について語り合ったのかもしれない。

「この店についての思い出を聞かせて」
微笑みながら訊く彼女に、グレッグは小さく笑った。

「大した思い出はないんだ。リチャードが、誘ってくれたのでやってきて座るんだけれど、彼はほとんど全ての客と友達で、挨拶しに別のテーブルへ行き話し込む。僕は、その間、ずっと黙って座っていたな。やることがなかったから、メニューを開いていて、暗記してしまったっけ」

「それと同じメニュー?」
アンジェリカがメニューを開いて訊いた。

「いや、新しくしたみたいだね。もっとも、書いてある内容はほとんど変わらないな。このソーセージ&マッシュは、オックスフォードのパブの定番料理だけれど、ここのは秘伝のグレービーソースを使っていて美味しいよ」

 豚肉と牛肉の合い挽きで作った粗挽きソーセージが、クリーム仕立てのマッシュポテトにどっかりと載り、上からグレービーソースがかかっている。グレッグはチキンとマッシュルームのパイ包みも頼み、三人でシェアすることを勧めた。アンジェリカは、嬉しそうに両方の味を楽しんだ。

「明日は屋台のフィッシュ&チップスを食べてもいい?」
アンジェリカは、ジョルジアの反応を見た。伯母は笑って頷いた。
「パパやママに禁止されているものを、ことごとく試そうって思っているでしょう」

「そういうわけじゃないけれど、ママはそんなものは食べないし、今はなおさらよ。貴族って、屋台で買ったものを立ち食いしたりしないんですって。そんなのつまらなくない? グレッグは貴族なんかじゃないわよね」

 彼は答えた。
「僕の知っている限り全部遡っても、貴族は一人もいないな。もっともサバンナには屋台はないから、立ち食いしたくても出来ないよ」
「じゃあ、明日はなんとしてでもフィッシュ&チップスを食べなくちゃね」
アンジェリカは嬉しそうだ。

「ルイス=ヴィルヘルムは、とてもいい人だけれど、ハンバーガーが食べたいとか、コークが飲みたいとか、言い出せないところがあるの」
「どうして? たしなめられるの?」

 ジョルジアは、意外に思って訊いた。二年前の妹の結婚式を含めてまだ数回しか逢っていないが、ヴァルテンアドラー候家当主ルイス=ヴィルヘルムは、アレッサンドラだけにではなく、連れ子のアンジェリカにもかなり甘く接しているように見えたのだ。

 アンジェリカは首を振った。
「そうじゃないの。その反対。何でも叶えようと、大騒ぎしちゃうの。通りすがりのファーストフードに寄ってくれればいいだけなのに、夕食のフルコースのメニューを変えてなんだかすごいハンバーガーを用意させようとしたりして、コックさんを困らせたみたいなの。それで、ママが慌てて、用意してあるご飯でいい、いちいち私の我が儘に耳を傾けるなって」

「まあ」
「私のはまだいい方よ。結婚してわりとすぐの頃だったけれど、ママと一緒に別の貴族のお城に招待されたんですって。それでママがお世辞でそのお城を褒めて、こういうところに住んだら素敵でしょうねって言ったら、そのお城を購入して喜ばせようと、本氣で交渉し始めかけたんだって。ママは、それに懲りて、慎重に発言するようになったって」


* * *


 続き部屋の扉をそっと閉めて、ジョルジアはもうベッドに入っているグレッグに微笑みかけた。

「アンジェリカは、今夜一人で寝られるのかい? 寂しがっていないかい?」
小さい声でグレッグは訊いた。

「いいえ、大丈夫よ。あの子、両親の間を行き来して、時にこうやってどちらもいないところで寝るのに慣れているのね。あっさりと寝息を立てだしたわ。彼女のませた口調にびっくりした?」
「いや。とてもいい子だね。君とやり取りしている様子、微笑ましいよ。君の家族、とても仲がよくて信頼し合っているのがよくわかる」

 彼の言葉にはほんの少し哀しみが混じっている。ジョルジアは言った。
「グレッグ。もうすぐあなたが私の家族になり、私の家族はあなたの家族になるのよ」

 彼は、瞳をあげて言った。
「そうだろうか。そうだとしたら……いや、そうなんだ。ずっと望んでいた、暖かい家庭を、君とすぐに僕は持つことができる。夢ではなくて、本当に。そして、君の素晴らしい家族は、もうすぐ僕の姻戚になるんだ。とても嬉しいよ」

 窓の外ではずっと風が木の枝をしならせている音がしていたが、いつの間にか雨音に変わっていた。心地のいい寝室で、その雨音を聴きながらどれほどロンドンやバースで聞いた雨音と違っていることだろうと、ジョルジアは思った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(9)新しい家族 - 1 -

「霧の彼方から」の最終章『新しい家族』です。本当は五回に分けたかったのですが、そうすると年内に「十二ヶ月の歌」を発表できなくなってしまうので、無理矢理四回に分けました。

今年どういうわけか妙にたくさん出してしまったキャラクターであるアンジェリカが登場します。別にラスボスではないです(笑)

前作を読んでいない方のために簡単に説明すると、アンジェリカは元スーパーモデルであるジョルジアの妹アレッサンドラ・ダンジェロと、ブラジル人サッカー選手レアンドロ・ダ・シウバの間の娘です。両親が離婚しているので、二人の間を行ったり来たりしています。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(9)新しい家族 - 1 -

 レアンドロ・ダ・シウバは、愛娘に何度もキスをして、抱きしめた。
「じゃあな、アンジェリカ。五月には会いにいくから、それまでのさよならだ。ああ、明日の試合がなかったら、あと三日は一緒にいられたのに。なあ、もう少し、こっちに居たくないか。パパと、またマンチェスターに戻ってもいいんだぞ」

「パパったら。そんな訳にはいかないのはわかっているでしょう。どっちにしても、来週には学校が始まるのよ。大丈夫よ、パパ。一ヶ月半なんてあっという間ですもの。ロサンゼルスで待っているわ」

 イースター休暇を利用して、マンチェスターの父親の元に滞在していたアンジェリカは、ジョルジアたちと共にアメリカへ帰ることになっていた。アレッサンドラからの連絡を受けたレアンドロは、愛娘を愛車に乗せてオックスフォードまで届けに来た。

 永遠に思われる「さようなら」の儀式を、ジョルジアとグレッグは顔を見合わせてから、何も言わずに辛抱強く待っていた。レアンドロの車は目立つし、そのオーナーはサッカーに興味がない人ですら記憶に残るほどの有名人だ。彼の娘がそこら辺にいるとわからないように、わざわざ五つ星ホテルのロビーで待ち合わせたのだ。

 それなのに、車寄せに見送りに行き、ドアマンだけでなくその場を通る一般人にも丸見えのところで二人は別れを惜しんでいる。

 やがて、レアンドロは、ジョルジアたちに簡単に別れを告げると、名残惜しそうに去って行った。

「三時間も乗っていたんですもの。車はもうたくさん」
車が見えなくなると、アンジェリカはぽつりと言った。レアンドロ自慢のスパイダー・ベローチェも彼女にとってはただの車にすぎない。娘が自分のようにドライブ好きだと疑わずに思っているレアンドロには氣の毒だが、マンチェスターからオックスフォードまでのドライブは、アンジェリカには退屈だったようだ。

 彼女は、くるりと振り向くと、父親と別れる寂しさで、真っ赤になった目元を伏せた。手元のビーズつきのハンドバッグからレースに縁取りされた薄桃色のハンカチを取り出して、目をぬぐい鼻をかみ、またバッグに投げ込んでパチンと閉じた。それから、にっこりと笑うと、グレッグに手を差し出した。
「初めまして。私、アンジェリカ・ダ・シウバよ」

「初めまして。僕は、ヘンリー・グレゴリー・スコットだよ。ああ、君はたしかにジョルジアの家族だね。とてもよく似ているよ」

 それを聞いて、ジョルジアは目を丸くした。アンジェリカも一瞬驚いたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「そう言ったのは、あなたが初めてよ。みんなアレッサンドラ・ダンジェロそっくりっていうのに」

「ってことは……」
グレッグが自信無さそうに二人の顔を代わる代わる見た。ジョルジアが答える前に、アンジェリカは言った。
「もちろん知っていると思うけれど、私のママよ」

「僕は、君のママにはまだ会ったことがないんだ」
グレッグの言葉はアンジェリカには新鮮な驚きだった。
「ママを見たことないの? 雑誌でも?」

「アンジェリカ。グレッグは、ケニアの動物学者なの。アメリカの芸能雑誌は読まないし、スーパーモデルにはそんなに興味ないと思うわよ」
ジョルジアは少し慌てて言った。グレッグは、困ったように笑った。

 アンジェリカは、可笑しそうに笑った。ママの顔を知らないなんて人、はじめて。
「うふふ。そういう人もいるのね。最高。姻戚になる人の中で、絶対に仲良くなれそうと初日に思ったのはあなたが初めてよ。ねえ、私もグレッグって呼んでもいい?」

 それを聞いて、グレッグはほっとしたように笑った。
「もちろん」

「アンジェリカ、お腹は空いている?」
「そうね。そんなに空いてはいないけれど、何か美味しいものが食べたいなあ。ソニアの料理って、あまり美味しくないんだもの。パパのウェイトコントロールのためだと思うけれど」

 ジョルジアは、小さいアンジェリカが父親の新しい妻にあまり歓迎されていないことを知りながらも、角が立たないように騒がず、氣丈に振る舞ったのを感じてそっとその手を握った。彼女は、伯母の愛情を感じて嬉しそうに笑った。

「だから、今日からジョルジアと一緒だって聞いた時、実をいうと、ほっとしたの。ねえ、グレッグ、あなたはものすごくラッキーだって知っている? ジョルジアみたいに美味しいご飯を作れる奥さんって、そんなにいないわよ」

 彼は大きく頷いた。
「知っているよ。ご飯づくりだけじゃなくて、君のジョルジア伯母さんは、何もかも素晴らしい人だ。僕は本当にラッキーな男だよ」

 ジョルジアは、彼がそんなことを言うとは思いもしなかったので驚いた。

「でも、今晩は、ジョルジアのご飯は食べられないのよね。どこか美味しいお店、知っている?」
ませた口調でアンジェリカが訊いた。

 グレッグは、少し考えてからジョルジアに言った。
「僕は、学生時代にはあまり外食をしなかったから、そんなに詳しくないんだけれど、とても美味しい料理を出すパプがあったんだ。もし君が反対でなければ……」

 ジョルジアは肩をすくめた。十歳の子供を連れて行ってもいいのだろうか。アンジェリカは、急いで言った。
「ジョルジア、お願い。私一度でいいからパブに入ってみたいの。でも、ソニアがいつも反対するんだもの。子供がお酒を出す店に行くものじゃないって」

 アンジェリカの言葉に、ジョルジアは少し困ってグレッグに訊いた。
「子供が入っちゃだめなの?」
「いや。キッズメニューがあるパブもあるよ。そこにはないかもしれないけれど」

 彼が行こうと考えるからには、酔っ払いがひどく騒ぐような店ではないのだろう。
「じゃあ、あなたのお薦めのそのパブに行きましょうよ。アンジェリカ、パパにどんなお店に行ったか訊かれたら、パブじゃなくてレストランに行ったと言っておいてね。教育方針に反しているかもしれないから」
「もちろん、黙っているわ。やった!」
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 6 -

「霧の彼方から」の続きです。『もう一人のマデリン』六回に分けた最後です。ようやくこの章も最後、長かったですね。

この連載の開始前に公開したPR動画での台詞、氣になさっていらした方もあるようですが、たぶんこの回のアレじゃないかしら。予想通りの意味合いでの台詞か、それとも全然違う意味合いを想像なさっていらしたのか、ちょっと興味があったりします。

さて、少しだけ別小説を挟んだ後、この小説もついに最終章に入ります。今年ももうすぐ終わり。妙に早いなあ。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 6 -

 グレッグは、瞳を閉じてうなだれた。
「僕のために……僕はなにも知らずに、誰にも受け入れてもらえないといじけていたのか」

 ジョルジアは、彼の髪を梳き、そのまま顎髭に指を絡めて優しく撫でた。
「でも、あなたは、彼女の期待に応えたわ。ちゃんと卒業して、立派な学者になった。そして《郷愁の丘》で、望む仕事ができるようになった。アトキンスさんは、それを知ったらとても喜ぶと思うわ」

「そして、ケニアでシマウマの研究をすることができたから、君と出会うこともできたんだ」
瞳を上げて、彼はジョルジアを見つめた。

「僕は、こんな歳だけれど、今までこんな密接な関係を誰かと持ったことがない。愛想を尽かされて去られることを怖れて、ちゃんとした関係を築く努力をしてこなかったんだ。君と上手くやっていきたいし、不快な思いはさせたくないけれど、おそらく僕はまた失敗をたくさんすると思う。嫌だと思ったことは言って欲しい。そして、僕に自分を変えるチャンスをくれないか」

「グレッグ。それはそのまま、私の言葉よ。私たち、お互いにそうやって一緒に歩いて行ける、そう思わない?」

「ありがとう。ジョルジア」
「それに……」

「それに?」
彼女は、彼を愛おしいと思うと同時に、心からの憐憫を感じた。この旅で知ったのは、彼女が想像していたようなノスタルジックで甘い過去ではなく、彼のあまりにも寂しい半生だった。

「あなたはもう一人じゃないわ。私では代わりにはならないのはわかっているけれど、でも、これからは、私があなたを抱きしめて暖めるから。お祖父さまやご両親の代わりに。ジェーンの代わりに。アトキンスさんの代わりに……」

 彼は雷に打たれたように、ビクッと震えた。そして、彼女の言葉を遮った。
「君は誰かの代わりなんかじゃない」
彼の少し強い調子に、ジョルジアは驚いた。彼は、じっと彼女を見つめて言った。

「そうじゃない。君を、誰かの代わりに仕方なく抱きしめるなんてことはない。絶対に」
「グレッグ」

「そうじゃないよ。反対なんだ。僕はこれまでの人生、ずっと君を探し続けていたんだ。まだ君を知らなかったから、その代わりにあちこちで、違う人に間違った期待をかけて、断られて、困惑していたんだ」

 ジョルジアは、再びそっと彼の頬に触れた。彼はその手を暖かい手のひらで包んだ。
「長老の言葉を、僕は間違って解釈していたみたいだ」

 彼女は首を傾げた。彼は笑って続けた。
「『答えはお前とともにある』と言われたのを、僕は答えを自分で知っていると言われたと思っていた。でも、そうじゃなかった」
「そうじゃなくて……?」

「僕が人生をかけてずっと探していた問いの答えが君なんだ。そして、君は本当に今、僕の側にいてくれる。ここまで来る必要なんかなかったんだ。僕の求めていた愛情も、探していた温もりも、見続けていた夢も、理想の女神の形をとってここにいるんだから。愛されなかった過去に苦しむ必要なんかもうないんだ。君が愛してくれたから」

 ジョルジアは、彼の胸に顔を埋めて呟いた。
「私は、ここに来て良かったと思っているわ。あなたのことを知りたかったの。知り合うまでのあなたの人生を理解したかったの」

「僕は、知られることに不安を持っていた。いつも、何か上手く行きかけると、後からやはりダメだったと落胆することばかりで、今度もそうなるんじゃないかと怖れていた」

 ジョルジアは、彼の瞳を見上げた。
「私も怖れていたわ。あなたが、私が理想の女神じゃないと知ったら、きっと離れていってしまうって。でも、あなたは、私の肉体や精神の欠点を知っても変わらずに愛してくれた」

 グレッグは、ジョルジアの頬に優しく触れて答えた。
「それは君の欠点なんかじゃないよ。確かに君は他の人とは違う外見を持ち、別の行動をするだろうけれど、それは単なる違いなんだ。僕は模様のないロバの毛皮もいいと思うけれど、シマウマの縞模様のことをとても美しいと思う。君の服の下に隠れている肌も、僕にできないことを瞬時にやってみせる好奇心も、君が君である全てを僕は愛しく思う。そして、君が情けない僕のことも、こんな風に愛してくれるのも同じ理由なんじゃないかと思うんだ」

 ジョルジアは、彼の言葉をその通りだと感じた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】豪華客船やりたい放題 - 5 -

大海彩洋さんと、ちゃとら猫マコト幹事で開催中の「【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅」の参加作品の第五回目です。

お目付役の京極に見つかってしまったので、仕方なく一緒に船内を回ることにした山内拓也。現在は『不思議の国のアリス』コスチュームをしたアンジェリカの外見です。ただし、中身と声は拓也そのものです。

今回は、中途半端な『旅の思い出』と参加者のみなさまとのコラボ系を少し書いてみました。それとレストラン名などは、数学パラドックス系で遊んでみただけです。次回、最終回にできるかなあ、頑張ります。


オリキャラのオフ会


【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
私のところのチームの詳細設定/この話をはじめから読む



目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 5 -


「すげーな、豪華客船って。プールもある、カジノもある、レストランやバーもいっぱいある、船室だっていくつあるんだか」
アメリカ人少女、アンジェリカの外見に成り代わった俺は、執事コス、もといタキシードをビシッと着こなした京極に付き添われて船内を歩いた。

「客船に乗るのは初めてか?」
京極が訊いた。

「もちろん。お前は、初めてじゃないのかよ」
「子供の頃に、何回か乗ったことがある。もっとも世界一周するような客船ではなくて、三日くらいの国内クルーズだったけれど」

「へえ? 海外のクルーズだっていくらでも行けるだろうに、なんで?」
「父は仕事人間でね。三日以上の休みを取ったことがないんだ。家族旅行そのものも滅多に行かなかったけれど、行くとしても最長三日。それも、お盆や年末などの会社の閉まる時期だけだから。どこへ行っても混むのがわかりきっている。だから、定員以上にはならないし、渋滞もないクルーズ旅行をしたんじゃないかな」

 そうなんだ。
「で、この船と較べてどうだった?」
「僕は子供だったからね。何もかもが大きくて、夢のように見えた。もっとも、実際には、この船の方がずっと大きいし、豪華だし、スケールも桁違いなんだけれどね。オーナーはもちろん、招待客にしろ、用意されている食事やアトラクション、エンターテーメントにしろ」

 そうなんだっけ? エビフライやスパゲッテイは、けっこう馴染みっぽい味だったけどな。

「どこがそんなにすごいんだ?」
俺が首を傾げると、京極は壁に掛かっているポスターを示した。

「例えば、ほら。メインダイニングでは、今夜は相川慎一とテオドール・ニーチェがベートーヴェンのソナタを聴かせてくれる。明日は、新星ディーヴァとの呼び名も高いミク・エストレーラによるディナーコンサートだ」

「俺、そういう高尚なのは、よくわかんないからな。こっちのほうが面白そうじゃね? 高級クラブ『サンクトペテルブルク』でワンドリンク付きショウってだってさ。おい、見ろよ、このシスカって歌手の姉ちゃん、銀髪にオッドアイだぜ。戦闘服系のコスプレさせたら、メチャクチャ似合いそう」

 京極がため息をついた。なんだよ、思うのは自由だろ。
「お。こっちも、いいじゃん」
俺の指したポスターを見て、京極は「ほう」という顔をした。

「君もスクランプシャスのファンなのか」
俺はムッとした。俺だってアニソンの専門じゃないんだよ。スクランプシャスは若者の思いを代弁してくれる名バンド。ま、俺も若者っていっていいのか、若干怪しい年齢にさしかかっているけどさ。

 しかし、まさか生スクランプシャスがここに来るとは。ライブはいつなんだろう。お願いだから『魔法少女♡ワルキューレ』放映時間とだけは重ならないでくれよ。

 そんな話題を花咲かせながら、俺たちは豪華客船の中を歩いて行った。

 目立つメインダイニングに行くことを京極が渋るので、俺たちはカジノを横切り、わりと目立たないカフェテリア『アキレスと亀』を目指した。

 カジノでは、アラブの王族みたいな服を着た男と、小柄の中年のおっさん、それに胡散臭いオヤジが、目も醒めるようなタイコーズブルーのドレスを着た女と勝負をしていた。はじめはけっこう余裕をかましていた男たちだが、みるみるうちにチップが女の方に移動していく。へえ。すげえ。

「なあ、京極、俺も少し賭けていい? あの赤い髪のねーちゃんみたく賭ければ、少し儲かるかも。そしたらコスプレも、自分の金で買えるようになるし」
そういうと、京極は首を振った。
「君は今、十歳のアンジェリカ嬢なんだ。カジノで賭け事するなんて言語道断だ。行くぞ」

 ちぇっ。本当にお堅いんだから。少しぐらいいいじゃん。

 カジノを横切って再び廊下に出ると、小脇に二頭のハスキー犬ぬいぐるみを抱えたとても幼い少女とぶつかりそうになった。おっと。

 少女はぽかんとしているだけだが、抱えたぬいぐるみ達が眉間を釣り上げて吠えかけたような氣がした。
「なんだよ、怖えな。わざとじゃないって」

 少女を氣遣っていた京極が振り向いて「なんだって?」と訊いた。
「いや、そのぬいぐるみが、怒ってしかもちょっと火を噴いたような……」
俺が言うと、京極は今日何度目になるかわからないため息を漏らした。

「ハスキー犬が怒っているように見えるのは普通だろう。模様だよ」
ま、そうだよな。よく見てもやはりぬいぐるみだし。京極の女に対する神通力は、幼児から老婆まで変わらないらしく、小さな女の子は俺なんか見もせずにヤツににっこりと笑いかけて手を振った。

 まあいいや、とにかくメシ食おう。カフェテリア『アキレスと亀』は、その廊下の突き当たりにあった。黒をメインにしたインテリアに、ギリシャ風の壺などがあちこち置いてある。

 俺は、メニューを開いて「うーん」と唸った。なんだよ、ここ、ギリシャ料理の店じゃん。俺は、普通の洋食が……。あれ、このムサカってのは美味そうだな。茄子のグラタンみたいなもんじゃん? それにほうれん草のパイか。それももらおう。それにえっと、飲み物は、おおっ。ウゾか、結構強そうだな。

「それはダメだ。君は十歳なんだから」
京極がすぐにダメだしする。ちっ。ま、いいか、このヨーグルトドリンクみたいなヤツで。

 選んでいると、奥の方のステージに灯がついた。ミュージシャン登場かな? でも、この店、まだ開店休業状態じゃん。俺たちの他にいる客といったら……、あ、白っぽいキャミソールドレスを着た女が一人か。お、すげー美人だ。それにあのスタイル。ポン、キュッ、ポンてな具合だよな。今のドレスもいいけど、コミケで着せるとしたらやっぱりピッタリとした戦闘スーツかなあ。別に戦闘系にだけ萌えるわけじゃなんいだけどさ。

 ともかく、客より従業員の方が多そうな状態だけれど、何かショーが始まるらしい。

 見ると、奥にわずかに他の床よりも高い場所があり、大広間にあったのとは比べものにならない古ぼけた感じのするピアノが置いてある。そこに着崩した麻のジャケットを着た金髪の男が座った。フルートを持った女や、ギターを抱えた男もステージに上がってきた。この二人はアジア人だ。それから、ひょろひょろとしたもじゃもじゃ頭の眼鏡男がピアノの前に立った。

 最初に弾きだしたのは、ギターを持った日本人。流れてきたメロディは、ギリシャ風の曲だ。あ、これ聴いたことがあるような。ギリシャ観光局って感じ? 別にどうということのない曲なので、メシを食うのに邪魔になることはなさそう。もじゃもじゃ頭の眼鏡男はなぜかトランプ手品を繰り広げている。

 俺は目の前に置かれたムサカに取りかかることにした。あっちっち。茄子と挽肉のグラタンみたいなもん? 美味っ。
「上品に食べてくれよ」
京極がささやく。うるせえな。お前は食わないのかよ。

 ヤツは、舞台の方に集中している。金髪男がピアノで先ほどより上品そうな曲を弾き出して、手品男もトランプをしまって歌い出した。意外にも上手いのでびっくり。

「モーリス・ラヴェルの『五つのギリシャ民謡』だな」
京極が頷く。
「なんだよ、お前、知ってんのか」
「ああ。ギリシャの民謡に素晴らしい和声のアレンジを加えて作った作品だ。この店に合わせてこの曲目を用意するなんて、洒落たアイデアだと思わないか?」

 俺は「うん」とは答えてみたものの、いまいちピンときていない。飯が美味ければ、何でもいいんだけど。京極はレチーナワインを飲んでいるだけで、全然食わないので俺がどんどん片付ける。舞台の曲は、アジア女のフルートや、ギター男が演奏に加わり、なかなか華やかな演奏になってきた。

 その『五つのなんとやら』が終わったらしく、客席から拍手が起こった。京極、白いドレスの綺麗な姉ちゃんや、いつの間に入ってきたのか他の観客も拍手を送っている。

 舞台のギター男がさっと立ち上がり手を伸ばした。その先にいたペパーミントグリーンのドレスを着たショートカットの女が、舞台に上がった。あ、この顔は知っている。さっき京極がポスター見ながら褒めてた歌手じゃん。初音ミクみたいな名前の、ええと、なんだっけ。

 一層大きな拍手に迎えられ、彼女は優雅にお辞儀をした。もじゃもじゃ男は舞台から降りて、アジアの二人と金髪男が伴奏をはじめた。

 おお、この曲はよく知っているぞ。なんて曲か知らないけれど。
「映画『日曜日はダメよ』のテーマ曲『Ta Pedia Tou Pirea』だな」
京極が解説してくれる。

「何それ?」
「ギリシャを舞台にした名作映画だよ。曲名は『ピレアの男たち』って意味じゃないかな。アカデミー音楽賞も取ったはずだ」

 澄んだ歌声は心地よい。さすがメインダイニングで歌う予定のディーヴァ。見るとキャミソールドレスの別嬪姉ちゃんも、さっきのもじゃもじゃ眼鏡男の時とは全く違う熱心さで舞台に見入っていた。

 俺は、とりあえずほうれん草のパイを片付けるのにメチャクチャ忙しい。京極、悪いけど全部片付けちゃうぞ。美味いし。

「ところで、君はいつまでアンジェリカ嬢の身体を乗っ取っているつもりなんだ」
京極は声を潜めて訊いた。

「ほんのちょっとだよ。うまいもん食って満足すればそれでいいんだ。最長で明日の『魔法少女♡ワルキューレ』放映時間までには戻してくれって頼んである。あの子が、船のあちこちを見るのに飽きちゃったら、すぐにでも終わりだろ。ほら、そこにも四角い額縁があるしさ」
俺は、ガツガツとフェタチーズとオリーブ入りのサラダをかき込んだ。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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忘れてた……。ミク嬢が歌ったのをイメージしたのはこちらです。

Ta Pedia Tou Pirea - NANA MOUSKOURI


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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 4 -

「霧の彼方から」の続きです。『もう一人のマデリン』六回に分けた四回目です。

もと娼婦マデリン・アトキンスの家に行ったことをグレッグに話したジョルジア、彼の固まった様子に「マズいことをしたかしら」とようやく思い至った様子です。そりゃ、そんなことしちゃ波風立ちますとも。まあ、相手はヘタレなグレッグだからよかったものの、もっと強氣な人なら口論になるかもしれませんね。

ようやくグレッグの口から、ジョルジアが興味を持っていた若かりし日の一連の出来事が語られます。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 4 -

「あの……。プレゼントを探している時に寄った……」
「あそこに、行った?」

 彼の許可も得ずに、マデリン・アトキンスを探して話を聞き出したことが大きなプライバシーの侵害だと、この時点になってようやくジョルジアは思い当たった。

「ええ。あの……たまたま、アトキンスさんに逢ったの。それで、お茶をご馳走してくださったの。いろいろな話をして、写真を撮らせていただいて……」

 彼の表情は強ばり、息を呑んだ。
「彼女と話をした? 君が?」
「ええ。あの……私……」

 彼は立ち上がって、後ずさった。まるで、四年前に戻ってしまったかのようなぎこちない動きだ。
「僕は、もう一つの部屋で寝た方がいいだろうか。それとも、そのソファで……」

「グレッグ」
彼女は震えを抑えられなかった。

「ごめんなさい。私のやったことを許せないかもしれないけれど、申し訳なかったと思っていることは知って欲しいの」
ジョルジアが絞り出すようにそう告げると、彼は驚いて首を振った。

「僕は、君の方が不快に思っているのだと……」
「どうして? そのつもりはなかったけれど、結果的にあなたの過去のことを嗅ぎ回ったのは、私でしょう?」

 彼は、ほうっと息をついた。
「また、同じことになると思ったんだ」
「同じこと?」

 彼は、戻ってくると、またベッドの横に腰掛けてうなだれた。
「ジェーンは、言った。『穢らわしい。近づかないで』って。言い訳もさせてもらえなかった」

「ジェーンっていうのは、お母さまのところで話題になっていた人?」
「そうだ。彼女はマッケンジー氏の遠縁の女性で、オックスフォードで学ぶことになったので面倒を見て欲しいと頼まれた。僕は、女性と親しく話をしたこともなかったし、しばらく一緒に時間を過ごすうちに好きになって、うまく行くことを夢見るようになったんだ」

 ほとんどバースに帰っていなかったグレッグの恋愛事情があの感じの悪いマッケンジー兄妹にも知れ渡ってしまったのは、ジェーンがそもそもマッケンジー家の親戚だったからだ。彼らは、グレッグが手酷い失恋をしたと面白おかしく口にした。

 その失恋の事情はどうやらマデリン・アトキンスと関係しているらしい。マデリンが「ガールフレンドと手も握れない晩熟な学生」と言っていたのがグレッグのことだとしたら、いや、文脈からおそらく間違いなくグレッグのことだと思うが、彼はジェーンとの関係を慎重に真摯に進めようとしていたに違いない。彼が自分との関係を四年もかけて紳士的に育んだように。

「マデリンのもとに行くことにしたのも、彼女の件があったからだ。僕は、生物学や動物行動学の知識はあっても、いわゆるガールフレンドがいたことがなくて、女性と付き合うのはどうしたらいいのかもわからなかった。だから、恥を忍んでリチャードに相談したんだ。そうしたら、口で説明するよりも実習をしろと言われたんだ」
「実習っていうのは、言い得て妙ね。それがアトキンスさんのところへ行くことだったのね」

 彼は頷いた。
「ああ、彼は僕がどうしようか悩む間もなくすぐに話をつけてきてくれて、僕は彼の言葉にも理があると思ってマデリンの所に行ったんだ。それがとんでもない間違いだったとわかったのは、噂でそれがジェーンの耳に届いてしまったことを知った後だった」

 十代の終わりの若い娘がそれをおぞましく思ったことをジョルジアも当然だと思った。彼女は、彼の瞳を見つめた。
「おせっかいな人が告げ口をしてしまったのね」
「男が娼婦のところにいくということを、女性はそう感じるものだと、あの時僕は初めて学んだ」

 ジョルジアは、彼のうなだれた表情を優しく見つめた。いたずらを見つかって縮こまっている子供のような瞳だ。
「彼女も若かったのよ、きっと」

「そうなのかな。おそらく彼女なら僕を理解して受け入れてくれると、僕は勝手な期待していたんだと思う。だから、あんな形で関係が終わって、全世界にまた拒否されたと感じた。それから、やはり僕が誰かに愛されることはないんだと思うようになった。でも、それだけじゃなかったんだ」

「というのは?」
ジョルジアは、言うかどうかをためらっている彼の硬い表情を見つめた。彼は、口に出すことを怖れるように時間をかけていたが、やがて諦めたように口を開いた。

「僕は、それからまたマデリンのところに行った。軽蔑するかもしれないけれど、たとえ仕事だとしても、彼女の肌は温かかったし、僕は性的高揚を知ったばかりだった。彼女はのろのろとした客を嗤ったり冷たくあしらったりしなかったから、僕は甘えたかったんだと思う。失恋の苦しみを薄れさせるために、彼女の優しさに逃げ込めると期待したんだ。少なくとも一度は彼女は優しくしてくれた。でも、彼女にとっても僕は迷惑な存在でしかなかったんだ」

「迷惑?」
「リチャードが取り決めてくれた金額は、一回限りの特別料金だったんだろうね。なのに、世間知らずの僕はその値段で彼女のところに通おうとしていたんだ。それっぽっちしか払えないならもう来ないでほしいとはっきり言われてしまった。でも、僕には急いで差額を払えるだけの余裕もなくて、謝って退散するしかなかったんだ」

 彼は、自虐的な笑みを漏らした。
「今回、マデリンがまだ居るか知ろうとしたのは、彼女とまた関係を持ちたかったからじゃない。今更だけれど、差額を払ったほうがいいのかと思ったんだ。でも……」
「でも?」

「君に知られたらおしまいだと思った。ジェーンに拒絶された時みたいになるって」
彼は、肩を落とした。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 3 -

「霧の彼方から」の続きです。『もう一人のマデリン』六回に分けた三回目です。

もと娼婦マデリン・アトキンスの家に招かれたジョルジア、本来の好奇心はどこへやら、フォトグラファー・モードに入ってしまいました。人生のパートナーと「関係」のあった女性を前にして、個人的な感慨をどこかへ置き去り瞬時に客観視してしまう姿勢は、本人がそうと意識していないだけで、重度の職業病なのかもしれません。それに、後先考えずに夢中になってしまうところ、もしかしたらかなり似た者夫婦なのかもしれませんね。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 3 -

 マデリンは、ジョルジアのカップに紅茶を入れた。
「あんたは、ケニアで何をしているんだい? 旅行関係?」

「私は写真家なんです。マサイ族の写真を撮る時にリチャードにアテンドしてもらいました」
「ああ、それでか」
「それでって?」

 マデリンは笑った。
「あんたは、自分では氣付いていないだろうが、いろいろな物をじっと見るんだよ。あたしの顔や、服装や、この部屋の様相、それにこの紅茶もね。最初は警官なのかと思ったくらいさ。それで、何かこの部屋に撮りたい被写体があるのかい? 娼婦の部屋らしい様子はもうないと思うけれどね」

 ジョルジアはチャンスだと思って頼んだ。
「私は、人生の陰影を感じるポートレートを撮りたいんです。あなたのお話を聴いていて、先ほどからずっと思っていました。沢山の人生を受け止めていらした深さや重みを感じるんです。フィルムに収めても構わないでしょうか」

「あたしをかい?」
「はい。あなたをです。もし、お嫌でなかったらですけれど」
「構わないさ。こんな婆さんを撮りたいっていうのはわからないけれど」

 ジョルジアは、当初の目的も忘れてマデリンを撮った。マデリンは面白がりながら、撮られている間もいろいろな昔話を続けた。

 とある著名な教授が部屋を出る時に、その学生と鉢合わせしてしまった話。三年も通ってくれた青年に恋をしてしまった話。ある客と事に及んでいる時に、スコットランドから出てきたという妻が乗り込んできたこと。いつも空腹でお腹を鳴らしながらも、貯めたわずかなお金で通おうとした貧しい青年を追い返した話。

「どうして追い返したんですか?」
「娼婦に通うなんて事は、精神的にも経済的にも余裕のない時にするべきではないんだよ。さもないと、取り返しのつかないところに堕落してしまうからね。学業がおろそかになり落伍しても、本人に別の道を見いだせる器用さがあったり、親が面倒を見てくれるような坊やならあたしも氣にしないさ。でも、その学生は学者にでもなるしか将来の可能性はなさそうだったしね」

 ジョルジアは、微笑んだ。この人は、暖かい心を持った素敵な人だ。はじめから娼婦だと聞かされていたら偏見を持ったかもしれない。そうでなかったことを、嬉しく思った。グレッグに写真を見せたらなんて言うだろうと考えた。

 マデリンのフラットを出ると、また雨が降っていた。ジョルジアは、折りたたみの傘を広げて路地を出た。石畳がしっとりと濡れている。雨は直に小降りになってきたが、先が霞んで昨日や先ほどとは全く違った光景に見えた。

 ジョルジアは、iPhoneを取りだして時間を確認した。約束の時間まであと十五分ほどだ。

 観光客たちが行き過ぎるバス乗り場を越えて、ホテルの近くまで来た時に、霧の向こうから見慣れたコートの後ろ姿が見えてきた。ゆったりとした歩きが停まり、彼は振り向いた。ジョルジアの足音に氣が付いたのだろう。

 彼女はいつもと変わりない彼に笑いかけた。
「ウォレスとは、心ゆくまで話せた?」
「ああ。学生時代から思っていたけれど、彼の頭の回転は、信じられないくらい早いんだ。昨日から今日の間に、もう三つも新しいアイデアをシミュレートしていて、それがまた僕の研究を新しい次元に導いてくれたんだ。ホテルに戻ったらレイチェルにメールをして、彼女の意見も聞こうと思うんだ」

* * *


 夕食までの時間、彼は真剣な面持ちでメールを打っていた。ジョルジアは、生き生きとしている彼の様子が嬉しくて、邪魔をしないようにカメラの手入れをしていた。

 夕食中やその後も、彼は普通に話をしながらも、時おり思い出したように内ポケットに入れた手帳に思いついたことを書き込んだり、ウォレスに電話をしたりしていた。その様な状態では、バーやティールームにいても仕方ないので、二人はすぐに部屋に戻った。彼は、研究の話に夢中になりすぎたことを謝り、ジョルジアは笑った。

 明日からニューヨークに着くまでは、姪のアンジェリカが隣の部屋にいるので、あまり甘い夜は過ごせないだろう。だから、今夜は彼に甘えてみようと、ジョルジアはシャワーを浴びるとさっさとベッドに向かって彼を待った。

 彼は、そのジョルジアの意図を理解したのかしないのか、背広を箪笥にしまい部屋のあちこちを適度に片付けてから、シャワーを浴びてバスローブ姿でベッドの近くまでやってきて、ベッドの端に腰掛けた。

「そういえば、僕のことばかり話して訊きそびれてしまったけれど、君はどんな一日だった?」
そう訊かれて、ジョルジアは微笑んだ。

「そうね。まず、セント・メアリー・チャーチの塔に登ったの。地理を理解する時に、いつも一番高いところに登るの。それから、カバード・マーケットに行ったの」

 グレッグは笑った。
「意外だな。君でも、いかにも観光客って周り方をするんだね」

 それを聞いて、ジョルジアはおどけて言った。
「その後は、さほど観光客って感じじゃなかったわ。あのね、昨日あなたと行ったあの小路に行ったのよ」

「あの小路って?」
彼の動きが止まった。不安そうな顔つきで彼女を見ている。その顔を見て、ジョルジアは不意に自分は何をしたんだろうと思った。
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Posted by 八少女 夕

【小説】豪華客船やりたい放題 - 3 -

台風の被害に遭われたみなさまに心からのお見舞い申し上げます。こんな時にのんきにどうでもいい小説をアップしている場合ではないのかもしませんが、とはいえ数日自粛しても同じ事ですし、不快に思われる方は読まないと思いますので、予約投稿通り本日公開します。以下、予約投稿の文章です。

大海彩洋さんと、ちゃとら猫マコト幹事で開催中の「【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅」の参加作品の第三回目です。

サラッと書いて終わらせるはずだったのに、なんか思いのほか文字数が……。はじめに謝っておきますが、真面目に豪華客船の謎に挑んだりはしません。能力も興味も皆無なキャラクターで出かけてきてしまったので。さらにいうと、妖狐の問題も全く解決する予定はありませんので、ストーリーに期待はなさらないでくださいね。

さて、今回の語り手は、京極髙志の方です。


オリキャラのオフ会


【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
私のところのチームの詳細設定/この話をはじめから読む



目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 3 -


 僕は、ウェルカムパーティで何組かの知り合いと遇った。父が後援していた指揮者の令嬢で、かなり有名なヴィオリストである園城真耶。そして、彼女の又従兄弟で日本ではかなり有名なピアニストである結城拓人。この二人が乗船していたのは、嬉しい驚きだった。

「まあ、京極君じゃない! 久しぶりね。十年以上逢っていなかったんじゃないかしら」
彼女は、あいかわらず華やかだ。淡いオレンジのカクテルドレスがとてもよく似合っている。

「僕は、五年くらい前に舞台で演奏している君たちを見たけれどね。君たちもこの船に招待されたのか?」
シャンペングラスで乾杯をした。結城拓人はウィンクしながら答えた。
「いや、僕たちは君たち招待客を退屈させないために雇われたクチさ。変わらないな、京極。あいかわらず、あの会社に勤めているのかい? 先日、お父さんに遇ったけれど、そろそろ跡を継いで欲しいってぼやいていらしたぞ」

 僕は肩をすくめた。ぼんくらの二代目になるのが嫌で、自分の力を試すために父の仕事とは全く関係のないところに就職した。父はさっさとやめて自分を手伝えとうるさいが、責任のある仕事を任されるのが楽しくなってきたところだ。それに、何人もの社内若手の身体を乗っ取ったあげくに、山内の身体とパスポートを使い海外に逃げ出した妖狐捜索の件がある。自分も巻き込まれた立場とはいえ、いま放り出して会社去るのは、無責任にも程があるだろう。

「父は誰にでもそんなことを言うが、そこまで真剣に思っているわけじゃないんだ。ところで、君たちはこの船のオーナーと知り合いかい? もしそうなら、紹介してもらいたいんだが」
《ニセ山内》の件を相談するにも、まずはオーナーと知り合わないと話にならない。

「いや、僕たちはヴォルテラ氏と面識はないんだ。でも、あそこにいる二人なら確実に知り合いだと思う。ほら、イタリア系アメリカ人のマッテオ・ダンジェロ氏とヤマトタケル氏だ」
拓人は、二人の外国人を指さした。

 一人は海外のゴシップ誌でおなじみの顔だ。スーパーモデルである妹アレッサンドラと一緒にしょっちゅうパーティに顔を出すので有名になったアメリカの富豪で、たしか妹の芸名に合わせてダンジェロと名乗っているとか。

 もう一人の金髪の男も見たことがある。雑誌だっただろうか。端整な顔立ちと優雅な立ち居振る舞いの青年だ。変わっているといえば、茶トラの子猫を肩に載せているとこだろうか。もちろんパーティで猫の籠を持ち歩くわけにはいかないし、この人混みでは足下にじゃれつかせていたらいつ誰かに踏まれるかわからないので、そうするしかなかったのかもしれない。

 僕は首を傾げた。
「ということは、彼があの有名なヤマト氏なのか? でも、噂では、彼の父親は……」

 園城真耶は謎めいた笑みで答えた。
「だから拓人が、確実に知り合いって言ったのよ。もっとも、紹介してくれるかはわからないけれどね。でも、マッテオは、この船のオーナーとも財界やイタリアの有力者とのパイプで繋がっているに違いないわよ。とにかく挨拶に行きましょうよ」

 僕は、二人に連れられて、ひときわ目立つ二人のところへと向かった。驚いたことに、日本に永く住み音楽への造詣も深いと噂のヤマト氏だけでなく、ダンジェロ氏までが結城や園城をよく知っている様子で、親しく挨拶を交わしていた。特に園城に対しては最高に嬉しそうに笑顔を向ける。

「ああ、真耶、東洋の大輪の薔薇、あなたに再会するこの日を、僕がどれほど待ち焦がれていたか想像できますか? 今日もまた誇り高く麗しい、あなたにぴったりの装いだ。先日ようやく手に入れた薔薇アンバー・クイーンの香り高く芯の強い氣高さそのままです」

 僕は、ダンジェロ氏が息もつかずに褒め称えるのを呆然と聞いていた。彼女は、この程度の褒め言葉なら毎週のように聞いているとでも言わんばかりに微笑んで受け流した。
「あいかわらずお上手ね。ところで、私たちの古くからの友達とそこで再会したの。ぜひ紹介させてくださいな。京極髙志さん、あなたもよくご存じ日本橋の京極高靖さんのご長男なの。ご近所だからタケルさんはご存じかもしれないわね」

「おお、あの京極氏の……。はじめまして、マッテオ・ダンジェロです。どうぞお見知りおきを」
「はじめまして。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」

 ヤマト氏もどうやら父のことをよく知っているらしい、ニコニコして握手を交わしてくれた。
「お噂はよく伺っています。お近づきになれて嬉しいです。今、マッテオと話をしていたのですが、あちらのバーにとてもいい出來のルイ・ロデレールがあるそうなんです。それで乾杯しませんか」

 それで、僕たちは広間の中央から、バーの方へと移動することにした。が、園城と結城は一緒に移動する氣配がない。
「失礼、私たち、これからリハーサルがあるのでここで失礼するわ」

「リハーサル? ああ、君たちが出演する、明日の演奏会のかい?」
ダンジェロ氏が訊くと結城は首を振った。

「いや、それとは別さ。実は、普段ヨーロッパにいる友達四人組も来ているんだ。それで急遽一緒に演奏することになってね。たぶん、夜にバーで軽く演奏すると思うから、時間があったら来てくれ」
「じゃあ、また、後で逢いましょう」
そう言って二人は、去って行った。それで、僕はダンジェロ氏とヤマト氏に連れられてバーの方へ行った。

 移動中に、ヤマト氏の愛猫が何か珍しいものを目にしたらしく、彼の肩から飛び降りてバーと反対の方に駈けていってしまった。ヤマト氏はこう言いながら後を急いで追った。
「失礼、マコトを掴まえて、そちらに行きます!」

 結局、僕はダンジェロ氏と二人で、笑いながらバーに向かった。

 がっしりとした樫の木材で作られたバーは後ろが大きな四角い鏡張りになっていた。そして、そこに目をやって僕はギョッとした。映った僕たちの他に、白い見慣れた顔が見えたのだ。思わず叫んでしまった。
「山内!」

 その声に驚き、ダンジェロ氏も鏡の中の妖狐に氣付いた。しまった……。

 よく見ると山内の様子がいつもと違う。立ち方がエレガントだし、それにいつも好んで選ぶ変な服と違い、上等のワンピースを着ている。サーモンピンクの光沢のある絹の上を白いレースで覆った趣味のいいカクテルドレスだ。そして、僕の横を見て嬉しそうに口を開き、鈴の鳴るような可愛らしい声で英語を口にした。
「マッテオ! 私よ」

「おや、その声は僕の愛しい天使さんだね。どういう仕掛けになっているのかな? アンジェリカ」
ダンジェロ氏が、その声に反応した。

 僕は、自分でも血の氣が引いていくのをはっきりと感じた。山内のヤツ、なんてことをしてくれたんだ!
「まさか、妖狐に身体を乗っ取られてしまったのかい、お嬢さん!」

 妖狐の姿をしたダンジェロ氏の連れと思われる少女は、首を振った。
「いいえ。違うの。さっきタクヤとしばらくのあいだ身体を交換する契約を結んだだけ。マッテオが社交で忙しい間、この船内のなかなか行けないところを冒険するつもりなの。明後日の十時までに戻るから心配しないで。マッテオに心配かけないように、あらかじめちゃんと説明しておこうと思って。でも、会場の真ん中には行けなくて困っていたの。この広間で四角い枠はこの鏡の他にはあまりないでしょう。この側に来てくれて本当に助かったわ」

「ダンジェロさん、この方は……」
僕が恐縮して訊くと、ダンジェロ氏は、大して困惑した様子もなく答えた。
「ああ、紹介するよ。僕の姪、アンジェリカだよ。普段は十歳の少女なんだ。アンジェリカ、こちらは京極髙志氏だ」

 ってことは、山内のヤツは十歳のアメリカ人少女のなりでこの船内を歩き回っているっていうわけか……。

「ああ、タクヤが言ってたタカシっていうのはあなたね。どうぞよろしく。マッテオ、詳しくはこの人に説明してもらってね」
妖狐の中の少女は朗らかに笑った。

 ダンジェロ氏は、鷹揚に笑った。
「オーケー、僕の愛しい雌狐ヴォルピーナ ちゃん。世界で一番賢いお前のことだ、何をするにしても僕は信用しているよ。危険なことだけはしないでおくれよ。それに、困ったことが起こりそうだったら、すぐに僕たちに相談すると約束してくれるね」

「サンクス、マッテオ。もちろんそうするわ。タカシも、心配しないでね」
妖狐姿のアンジェリカはウィンクした。

「ところで、アンジェリカ。そのカクテルドレスだけれど」
ダンジェロ氏が、鏡の奥へと去って行こうとする彼女を呼び止めた。彼女は振り返って「叱られるかな」という顔をした。

「私の服だと小さくて入らないから家に戻って、ママのワードローブから借りてきたの。だって、変な安っぽい服着ているのいやだったんだもの。ダメだった?」
ダンジェロ氏は、「仕方ないな」と愛情のこもった表情をして答えた。

「エレガントでとても素敵だよ。アレッサンドラに内緒にしておくが、汚さないないように頼むよ。来月ヴァルテンアドラー候国八百年式典の庭園パーティーで着る予定のはずだ。とくにそのレース、熟練職人の手編みで1ヤードあたり六千ドルする一点ものだから、引っかけたりしないようにしてくれよ、小さなおしゃれ上手さん」

 僕の常識を越えた世界だ。姪に甘いにも程がある。だが、よその家庭の話はどうでもいい、僕はアンジェリカ嬢の身体を借りて、何かを企んでいる山内を探して監視しなくては。まったく、どうしてことごとく邪魔ばかりするんだろう、あの男は。誰のために僕がこの船のオーナーと話をしたがっているのか、わかっているんだろうか。
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Posted by 八少女 夕

【小説】豪華客船やりたい放題 - 2 -

大海彩洋さんと、ちゃとら猫マコト幹事で開催中の「【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅」の参加作品の第二回目です。

ようやく本題に入った。こんな感じでストーリーが進みます。というわけで、うちのキャラを書こうとしているみなさま、中身が入れ替わっておりますので、ご注意ください。


オリキャラのオフ会


【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
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目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 2 -


 俺がお茶会に紛れ込んで美味いものを食うにはどうしたらいいかを考えていると、ドアの前に来ていたブルネットの少女が「ところで」と唐突に話しかけた。げっ。いつの間に。

「あなたは一体だれ? その耳と尻尾は仮装なの?」
どっかで見たような顔の少女だった。俺は、アイドルや二次元の方が好みだったのでガイジンには詳しくないが、この顔にそっくりな女は何度も見たことがある。スーパーモデルってやつ? 名前までは知らないけれど。が、この子は大人びてはいるけれど、絶対に本人じゃないだろう、若すぎる。

 俺がこの妖狐スタイルになって実にラッキーだと思うことの一つに、語学問題がある。学校に通っていたときから、勉強は苦手で英語なんて平均点以上採ったことがない俺だが、この狐耳から聞こえてくる言葉は、全部日本語と同様にわかるのだ。テレビの会話を理解していただけだから、俺が話す言葉もガイジンに通じるかどうかはわからないけれど。

「仮装じゃないさ。本当の耳と尻尾」
言ってみたら、少女は目を丸くした。
「触ってみてもいい?」

 ってことは、俺の言葉も通じているって事だ。へえ、びっくり。
「触ってもいいけどさ、あんた、怖くないのか? 俺が妖怪だったらどうするんだよ」

 少女は首を振った。
「全然怖くないわよ。だって、カーニバルで仮装の子供たちが着るみたいな、ペラペラの服着ているお化けなんているわけないもの。なぜセーラー服にミニスカートを合わせているの? 狐の世界での流行?」

 俺はがっかりした。日本でも放映が始まったばかりの『魔法少女♡ワルキューレ』をガイジンが知っているとは思わないけれど、アニメコスプレについては、海外でももっと市民権を得ていると思ったのにな。でも、確かにこの子が着ている服、めちゃくちゃ高価そうだもんな、化繊の安物コスチュームに憧れるわけないか。

「狐の流行じゃなくて『魔法少女♡ワルキューレ』のコスチュームだよ。あんた、ジャパニーズ・アニメは観ないのか。どこの国から来たんだ? 俺は、日本人で山内拓也って言うんだけどさ」
俺が訊くと、少女はにっこりと笑って握手の手を差し出した。

「はじめまして。私、アンジェリカ・ダ・シウバ。アメリカ人よ。マッテオ伯父さんと一緒に来たの。タクヤは、日本の狐なの? 招待されて一人で来たの?」
「いや。京極髙志っていうヤツが招待状をもらったんだ。俺は面白そうだから来ただけ。俺、どこにでも行けるんだぜ。四角い枠からは出られないんだけどさ」
「ふーん。便利なんだか不便なんだかわからないわね。ところで、どうして男の人みたいな声なの?」
「俺、もともとは男だったんだもの。身体をだれかに取られちゃってさ。まあ、この身体のままでも、そんなに悪くないけどね。お茶会に行けないのが、目下の悩み」

 アンジェリカは、少し思案をしていた。
「お茶会に行けなくて悩んでいるのって、みんなとお茶が飲みたいの?」

「いや、美味いものさえ食えれば、それでいいんだけどさ。でも、ビュッフェのところにいって好きなものを取りに行くとか、そういうことはできないんだ。京極の野郎は、社交で忙しくて、エビピラフとグラタンを取ってきてくれとか、言っても聞いていないと思うし」

 アンジェリカは、頷いた。
「せっかくどこにでも行けるのに、簡単じゃないのね。私はエビピラフなんか食べられなくてもいいから、ちょっとだけでもどこにでも行ける能力が欲しいな。この船の地下に、いろいろと秘密があるんですって。でも、どこにも通路がないんだもの」

 で、俺はひらめいた。
「まじか? だったら、しばらく身体を交換しないか?」
「交換? そんなことできるの?」
「ああ。俺がこの服を脱いで、あんたと目を合わせれば、入れ替わる」

「でも、それで元に戻れなくなったら困るもの」
「この身体になったら四角いところのどこへでも行けるんだぜ。つまり好きなときに俺の前に出てきて目を合わせれば戻れるんだ。もっとも俺、明後日の朝十時までにはどうしてもこの身体に戻って『魔法少女♡ワルキューレ』の第二回放送を観たいんだ。遅くともそれまでにしてくれよ」

 アンジェリカは、少し考えていたが頷いた。
「わかったわ。そうしましょう。でも、私の格好をして、品位の下がるようなことしないでよ」

 俺は、情けなくなった。京極にもいつも叱られっぱなしだけど、こんなガキにまで信用ないなんて。まあ、無理ないけど。

 そういうわけで、俺とアンジェリカは、身体を交換した。アンジェリカに教えてもらった彼女の船室に戻り、お茶会に相応しい服を選ぶことにする。いま着ているクリーム色のワンピースを見るだけで、大金持ちの娘なのは丸わかり。俺、ロリコン趣味はないけど、これだけの美少女の身体でコスプレ、もといファッションショーごっこをするのは悪くない。明後日の十時までの四十時間、楽しく遊ばせてもらうぜ。ついでに好きな食い物たらふく食べるぞ!
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Posted by 八少女 夕

【小説】豪華客船やりたい放題 - 1 -

大海彩洋さんと、ちゃとら猫マコト幹事で開催中の「【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅」の参加作品の第一回目です。

すみません、まだウゾさんのところのキャラしか出てきていませんし、宿題の『旅の思い出』も出てきていません。次回以降にぼちぼち書きますので、今日は導入部のみで失礼します。


オリキャラのオフ会


【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
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目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 1 -


 ほう。さすがは、お坊ちゃま。

 京極は、ウェルカムパーティに遅れないように身支度をした。タキシード、俺には執事コスプレにしか思えない服装をしてもちゃんと絵になる。鏡を覗いて、俺がちゃっかり来ているのを知り、露骨に嫌な顔をした。

「来るなといったのに、どうしてここにいるんだ、山内」

 山内拓也、それが俺の名前だ。見かけは全然それっぽくない。かつては普通の男だったけれど、あれこれあって、今は狐の耳と尻尾を持つ美少女の姿をしている。四角い枠の中にしかいられないのはもどかしいが、反対に四角い枠の中であればどんなところにでも自由にいけるという、非常に便利な能力を持った異形なのだ。

 京極髙志は、俺が勤めていた会社の総務課長代理だ。イケメンで、お育ちもいい上に、仕事も出来るので女たちが群がるけっこうなご身分。ずっとムカついていたけれど、俺が本来の身体を乗っ取られてこの姿になってしまって以来、自宅にかくまってくれて面倒を看てくれている。そう、こいつは性格もいいヤツなんだ、腹立たしいことに。

「世界から金持ちがワラワラ集まる豪華客船パーティ、美味いものも、綺麗どころもたっぷりと聞いたら、そりゃ行きたくなるさ。お前だけ楽しむなんてずるいぞ」

 京極は、ますます嫌な顔をしてため息をついた。
「僕は、遊びに来たわけじゃない。乗っ取られた君の身体とパスポートで、イタリアに入ったという《ニセ山内》の情報をもらうために、この船のオーナーと話をする必要があるから来たんだ。君だって、早く身体を取り戻したいだろう」

 そう言われて、俺は少し考えた。まあ、確かに身体を取り返したいって思いはあるけれど……。
「そんなに急がなくても、いいかな。ほら、先週『魔法少女♡ワルキューレ』の放映が始まったばかりだし、その他にリアルタイムで追いたいシリーズがいくつかあるんだよな。ゲームもまだシリーズ3に着手しだしたところだし、コスプレの方も……」

 俺ののんびりライフのプランを聴いてイラッときたのか、京極はそれを遮った。
「そういえば、先週も着払いで何かを頼んだだろう」

「悪い。けど、しょうがないだろう。俺は休職中で収入ないしさ。お前のクレジットカードの家族カード作ってくれたら、着払いはやめるよ」
「冗談じゃない。カードなんか作ったら、とんでもないサイトで課金するに決まっている」

 よくおわかりで。
「まあね。でも、服は仕方ないよ、必要経費だろ? お前にとっても」

 これは京極にとっても痛いところをついたようだ。服の着用が、俺の持つもう一つの迷惑な能力を封印するからだ。

 俺は、誰かと目を合わせると、そいつと身体を交換することが出来る。まあ、そういうわけで俺自身の身体を誰かに持って行かれてしまったわけだ。で、もう一度目を合わせると再び元に戻る。同じ相手とは一度しか交換できない。つまり、俺は俺自身と目を合わせて身体を取り戻さなくちゃいけないわけだけれど、そいつがどこにいるのかわからない限り、話は簡単じゃない。

 で、事情をよく知っている京極ん家の露天風呂をメインの根城にさせてもらっているのだが、一応美少女の姿をしているので、独身の京極には目の毒らしく「服を着ろ」と言われた。で、着てみたらなんと誰と目を合わせても問題は起こらないということがわかったのだ。おかげで、京極は俺が服を脱いで人前に出ないようにますます心を砕く羽目になったというわけだ。

 俺にとっても悪い話ではなかった。もともと俺は猫耳のギャルが大好きなのだ。で、鏡に映せば自分の姿にはいくらでも萌えられる。コスプレもし放題。アニメとゲームの合間にコスプレ、こんな天国がどこにあるだろうか。身体が戻ってしまったら、またドヤされながら営業に回らなくっちゃいけない。だったら今のうちに存分楽しまなくちゃ。

 払わされる京極には悪いけど、俺の軍資金はとっくに底をついてしまったから……。ま、いいだろ、お坊ちゃまには働かなくても構わないくらい財産があるんだから、月に数着の服くらい。いや、数着じゃないな、小物も入れたらギリ二桁ってとこ?

 今日、選んでみたのはさっき届いたばかりの『魔法少女♡ワルキューレ』のシリーズもの。まずは『ファイヤー戦士ブリュンヒルド」を着てみた。白い肌に赤いミニスカって、滅茶苦茶合うよね。髪型もちゃんと高めのポニーテールにして再現したけど、京極のヤツ、わかってんのかな。

 京極はため息をつくと、袖口をカフスで留めた。
「しかたないな。観て歩くのは仕方ないが、あまりあちこちで迷惑をかけるなよ。大人しくそこでアニメでも観ていてくれ」

 そう言って京極のヤツは出て行った。ふふん、この船のテレビはオンデマンドだから、かじりついていなくても再放送を観られるんだよ。もちろん『魔法少女♡ワルキューレ』の放映は外せないけどさ。

 さ。せっかくたくさんの服を用意してきたし、あちこちで見せびらかしてこなくっちゃ。どこから行こうかな。

 テレビやスマホ、ドア、窓や鏡だけじゃない。プール、ビリヤード台、調理場の流し、ワゴンの下、段ボール箱、ポスター。四角いところならこの船のどこにでもある。

 試しに一つのドアへ行ってみたら、ちょうど二人の少女が挨拶をしているところだった。一人はクリーム色のボレロ付きワンピースを着たブルネットの少女で、もう一人は全身真っ白のビスクドールのように美しい少女。ブルネットの少女が一人であれこれ話しかけながら、もう一人の少女にガラスの煌めく髪飾りをプレゼントして去って行った。白い少女は、髪飾りを陽に透かし、それから少し離れたところで立っていた全身黒づくめの男にそれを見せた。

 俺は、もう一人の少女が語っていたことをちゃんと聞き取っていた。「甲板長主催の船に纏わる伝説とお茶会」そんなものがあるなら、顔を出してみようかな。いや、茶菓子を食べるのは、枠の中にいたらダメだよな。さて、どうしよう。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(7)恩師 - 2 -

「霧の彼方から」の続き「恩師」の二回目です。

前回、サザートン教授へのプレゼントを探して街を歩いているうちに、グレッグはどうやら思い出のある場所にたどり着いたようです。考え事をすると他のことに思いがいかなくなってしまう、若干ツメの甘い彼らしい行動がここでも見られます。

一方、ようやくタイトルの恩師登場。ケニアのレイチェルとほぼ年がおなじで仲良くしている模様。有能かつ社交的で順調に出世している教授が、グレッグによくしてくれる理由は……あ、次週更新分ですね。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(7)恩師 - 2 -

 彼は、一度過ぎたところを、少し戻って奥の道を眺めた。ジョルジアも戻ってきた。
「確か、この角を……」
「何を探しているの?」

 すると彼ははっとして、ジョルジアを見た。
「あ、いや、その……知り合いがこの通りに住んでいたので、まだいるかなと思っただけなんだ」

 その通りの建物は、どれも古い時代の石造りだった。表通りのような華やかな煉瓦色ではなく、手入れが行き届いていない暗い佇まいだ。
「建物は憶えているの?」

「ああ、そうだ、その角を曲がった奥の……」
「じゃあ、行ってみましょうよ」

 細い路地だった。暗い色をした煉瓦には落書きが至る所にあり、足下にはスナックの残骸や濡れて丸まったプラスチック製の袋などが散逸している。ジョルジアは、ニューヨークのスラム街を思い出したが、そこにはスラム街のような危険な匂いはなかった。単純に貧しく手入れの行き届かない地域のようだ。

 彼は、ある家の階段の前に立った。郵便受けが八つ並んでいるのを見ていた。その表情に変化が表れ、ジョルジアは彼の知り合いがまだここにいることを知った。郵便受けには五軒分しか名前がついておらず、その中で明らかに古いものは一つだけだった。

 マデリン・アトキンス。女性だ。ジョルジアの胸が騒いだ。同時に、彼の母親の家で聞いた名前と違う女性であることに少しほっとしていた。彼がかつて愛した女性のファーストネームはジェーンというはずだった。そして、まさか、昔の恋人の家にジョルジアを連れて行ったりするはずはないだろうと、彼女は考えた。

「探しているのは、この方のお家?」
ジョルジアが訊くと、彼は頷いた。

「突然だけれど、訪問してみる? それとも、ホテルからアポイントメントを入れる?」
そういうと、彼はギョッとしたようにジョルジアを見て、それから慌てて首を振った。

「あ、別に訪問しなくても、いいんだ。きっと僕のことなど憶えてはいないだろうから。行こう、教授は時間にうるさいから、遅れないようにしないと」

* * *


 あらかじめ伝えられていたように、二人はサザートン教授の部屋に案内された。歴史を感じる部屋はまるで図書館の書庫の一角のようだった。作り付けの棚が全て本で埋まり、重厚なデスクの上にもたくさんの書類と本が載っていた。

 サザートン教授は、一見グレッグより歳下に見える。髭をしっかりと剃り、茶色い巻き毛はきれいに撫でつけてあるが、後ろに一つだけ寝癖のように立っている部分があった。べっ甲眼鏡の奥から悪戯っ子のような瞳が笑っている。実際にはグレッグよりも十歳以上年長で、現在は動物行動学を教える教授の中では重鎮だった。

 教員と学生たちが正装で晩餐に臨む有名なホールのすぐ脇に、喫茶とバーが一緒となった『バッテリー』があり、二人はそこで教授とお茶を飲むのだと思っていたが、彼は「とんでもない」と言って、格式高いシニア・コモン・ルームへ案内してくれると言った。普段は在籍生でも入ることを許されない部屋だ。

「でも、その前に少しここでおしゃべりをしよう。君ももう立派な学者になったことだし、今度こそファーストネームで呼び合っていいよね、ヘンリー。私はウォレスだ」
彼と握手をしながら、グレッグは「はい」とはにかんだ。

「そして、こちらが君の噂の婚約者だね。レイチェルから聞いているよ。本当におめでとう、ええと、ジョルジア・カペッリさんだったね」

 名乗る前に知られていたので、ジョルジアは仰天した。
「初めまして。ジョルジア・カペッリです。サザートン教授。お目にかかれて光栄です」

「いや、ヘンリーの奥さんになるんだから、もう少しラフに付き合ってくれないかな。君だけ敬語だと、ヘンリーが元の敬語に戻っちゃうだろう?」
そう言って彼はウィンクをした。

 ジョルジアは笑って言った。
「わかりました。どうぞジョルジアと呼んでください」

 チョコレートとポートワインの瓶を渡しながら、写真集はレベッカ・マッケンジーではなくこの人に渡したら喜んでもらえたかもしれないと考えた。そう思った途端、視界の端に見慣れたグレーの本が見えて、思わず凝視した。

 教授のデスクの上に、彼女の写真集『陰影』が載っていたのだ。見間違えようがない。真ん中に兄であるマッテオ、そのすぐ下にグレッグの横顔が見えている表紙だ。
「まさか!」

「ああ、これかい? 驚くには値しないよ。私は必要な本はインターネットですぐに注文するんだ。だから、どこもかしこも、この部屋みたいになっちゃうんだけれどね。とにかく、レイチェルに訊いてすぐに、調べてこれを見つけたよ」
そう言ってウォレスは、グレッグの姿を映した作品のある最後の数ページを開いた。

「本当にいい写真だね。彼らしさが、この数枚に詰まっているし、それを見つめる君の愛情を感じるよ。これを見て、これはいいパートナーを見つけたなと確信したんだ」

 真剣な面持ちで文献に向かうグレッグの姿、ルーシーにブラッシングをしている時に反対に顔をなめられて破顔しているシーン、あえて彼よりも手前のワイングラスを持つ手にピントを合わせた一枚、そして、最終ページに置いた食べられたシマウマを前に悲しみながらその死を受け入れているサバンナでのショット。

 ジョルジアにとっては、当たり前に目の前で繰り広げられた彼の自然な日常光景だったし、グレッグも自分自身もこの写真を撮った時には後に結婚することになるとは夢にも思っていなかったのだが、言われてみればあの時と今と、彼に対する根本的な感情、言葉にならない深い絆に対する実感は、全く変わっていないのだと思う。撮るとしたらやはり同じシーンを切り取ろうとするに違いない。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(7)恩師 - 1 -

「霧の彼方から」の続きです。

母親レベッカ・マッケンジーと短く言葉を交わしたのみで、グレッグは母親との関係改善をすることもなく、バースを後にしました。大学時代の恩師から「イギリスにいるのならぜひ会いたい」との連絡を受け、ジョルジアを連れて学生時代を過ごしたオックスフォードへと向かいます。

この作品を書き出した時点で、私はオックスフォードに足を踏み入れたことがなかったので、かなり「これでいいのか」と首を傾げながら書いていました。三月に縁あって無事ロケハンにいけたので、その頃よりは「まあ、こんな感じかな」と思いながらの発表です。でも、とんでもないこと書いているかも……。

この章も三回に分けます。恩師、出てきていないじゃん orz


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(7)恩師 - 1 -

 バースから乗り換えを含めて一時間半ほど電車に揺られ、オックスフォードについたのは昼に近い時間だった。駅を出たところは、ごく普通のビルが建ち並んでいたが、橋を渡った辺りからは赤茶色と白の煉瓦で覆われた、歴史ある町並みが現れた。マグノリアが咲き乱れ、街をさらに華やかにしている。

 まずは、ホテルに向かい荷物を預けることにした。ホテルの名前を告げたところ、グレッグは困惑した表情を見せた。かなり有名な五つ星ホテルだったからだ。
「その……部屋の料金は確認したのかい?」

 ジョルジアは肩をすくめた。
「昨日、私が予約したホテルはもっとリーズナブルだったんだけれど、それじゃダメだって、アレッサンドラが、このホテルを指定してきたの」

 ニューヨーク到着を遅らせて、イギリスに滞在することを兄マッテオから聞いた妹アレッサンドラから懇願の電話がかかって来たのは、ケニアを発つ二日前だった。

 イースター休暇を利用して、マンチェスターの父親の元に滞在する娘アンジェリカを当初はアレッサンドラが迎えにくる予定だったが、夫の生家で不幸があり彼女はドイツで伝統に基づく葬儀に参列しなくてはいけなくなったのだ。レアンドロは、試合があってアメリカまで娘に付き添うことは不可能だった。そんな時に、ジョルジアが偶然イギリスに行くというのは神からの救いの手に思えたのだろう。

 予定では二日後に、バースにレアンドロが連れてくることになっていたが、もしかしたらマッケンジー家に滞在することになるかもしれないと考えていたジョルジアは、滞在先を着いてから連絡する取り決めをしていた。オックスフォードに移動することになったので、同時に予約したホテルを知らせたところ、アレッサンドラがあっという間に予約変更をして連絡してきたのだ。

「だったらアンジェリカの来る前の二日間だけ、安いホテルに泊まるって言ったんだけれど、有無を言わさずにホテルを変えられちゃったわ。前のホテルのキャンセルも終わっているって。また全額払われてしまったわ、困っちゃうわね」
「そうか、姪御さんの安全問題かな……。そのくらい自分で払うと言えないのは歯がゆいけれど、そういうことなら贅沢させてもらうか」

 金モールのついた外套を着用したドアマンに丁重に迎えられるような経験は、二人とも滅多にしたことがなかった。そのホテルは灰緑のどっしりとした石造りの外観で、中心地に位置するにもかかわらず、中に入ると静かで落ち着いていた。

 早い時間だったにもかかわらず、すぐに部屋に案内された。天蓋のついたベッドのある広い部屋で、二人は思わず顔を見合わせた。
「こちらのドアで、続いているお隣の部屋へと直接入ることができます」

 どうやらアンジェリカが泊まる予定の部屋は、二日も到着しないにもかかわらずすでに押さえられているらしかった。

 サザートン教授にはお茶の時間に招かれていた。ジョルジアは、グレッグの母親を訪問したときと同じスーツに着替えた。ホテルのレストランで食べるほどはお腹がすいていなかったので、二人は街を歩いて、書店に入り、その二階のティールームで軽食を食べた。

 それから、サザートン教授に花かチョコレートを買うために少し街を歩いた。

「ワインか何かの方がいいのかしら?」
ジョルジアが訊くと、グレッグは首を傾げた。
「ワインを飲んでいる姿は見たことがないな。もっとも、僕がカレッジのバーにも寄りつかなかったからでもあるけれど」

「カレッジにもバーがあるの?」
ジョルジアは驚いた。

 オックスフォード大学では、学生は街に散らばる38のカレッジのどれかに所属し、大学の学部とカレッジの両方で指導を受けるというシステムを取っている。

 カレッジが、それぞれの講堂や教室、図書館などの他に、礼拝堂や食堂などを持っていることはグレッグの説明でジョルジアも知っていたが、酒を出すところまで揃っているとは思ってもみなかった。

「ああ、C.S.キャロルとJ.R.R.トールキンが一緒に通っていたことで有名な『The Eagle and Child』みたいに、普通のパブを大学が経営している場合もあるんだけれど、それとは別に大学の学生食堂のような感じで校内にバーがあることもあるんだ。普通は、外のパブよりも安く酒を飲めるので、通う学生は多いよ」

 結局、二人はチョコレートとポートワインを買った。彼の母校であるベリオール・カレッジのある街の中心部に戻ろうとしている時、不意に彼が「ここは……」と言って立ち止まった。

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【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 4 -

「霧の彼方から」の続き、「蜂蜜色の街」の四回に切ったラストです。

バースの「観光案内」的描写、ローマンバスでもなく、バルトニー橋やロイヤルクレセントでもなく、ましてや「サリー・ラン」でもなく、一番さりげないここを選びました。このくらいなら「いかにも観光名所を入れてみました」的な記述にはならないかなと思って……。

さして、こんな形で二人はバースを去ることになります。


霧の彼方から「霧の彼方から」を読む
あらすじと登場人物




霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 4 -

 表に出ると石畳が濡れていたが、柔らかい陽の光が射していた。
「あら、いつの間にか雨が降っていたみたいね」
ジョルジアは、空を見上げた。噂に聞く英国の天候、一日の間に全ての天氣を体験できるというのは、冗談でも大袈裟でもなく、普段傘を持ち歩かないジョルジアでも今回は毎日折りたたみ傘をバッグに入れることを覚えた。

「傘を広げずに済んでラッキーだったわね。ホテルに帰る前に、また少し散策しない?」
そういうと、グレッグは頷いた。

 彼は、しばらく歩いて向かいの道を指さした。
「あそこに女性の人形があるだろう?」

 オブジェが眼に入った。昔のファッションをしたマネキン人形のように見えるが、全身チョコレート色で艶やかな仕上がりと相まってまるで巨大なチョコレートのように見える。
「ええ。あれ、チョコレート屋かしら?」
「そうだ。バースでは一番有名なチョコレート専門店だろうな。十八世紀にシャ―ロッテ・ブランズウィックという女性が始めた伝統のある店なんだ」

 彼は、店に歩み寄ると、窓から色とりどりのパッケージの並ぶ店内をのぞき込んだ。
「思い出があるの?」

 彼は頷いた。
「ケニアからここにつき、母とマッケンジー氏が正式に結婚するまでの間、僕たちは市内の小さなアパートメントに住んだんだ。僕は、こんな風にショーウィンドウにいろいろな物が並べられている街に住むのは初めてだったし、驚きと憧れでいつもキョロキョロしていた。母は、いつも叱りながら僕を引っ張っていたよ。でも、一度だけ、ここでチョコレートを買ってくれたことがあったんだ」

 それは、彼の誕生日の一ヶ月ほど前だった。二週間後に寄宿学校に入る彼のために、必要な買い物をしながら、二人はバースの街を歩いていた。当日やその直後の週末に、自宅に戻り彼の誕生日を祝うという計画はなかった。母親はマッケンジー氏と結婚し、マッケンジー氏の二人の子供や使用人たちの面倒を見る主婦としての新しい仕事に全力を傾けるつもりだった。

 彼自身は、誕生日を祝ってもらった記憶もなかったので、特別に悲しいとは思っていなかった。歩きながらチョコレート店のウィンドウをのぞき込んだのも、買ってもらえるという期待があったわけではない。彼は、アフリカにいた時から、生存に必要な物か、もしくは教育に役立つ物以外は頼んでも絶対に買ってもらえないことに慣れていたので、物欲しそうな顔すらしなかった。ただ、ひたすらに眩しかったのだ。華やかで楽しそうな箱に詰められた、宝石のようなチョコレートの数々が。

 また歩みが遅れている息子を振り返り、いつものように小言を言おうとしたレベッカは、留まり息子を見た。母親に叱られると悟ったのだろう、少年は黙ってウィンドウから離れて、彼女の元にやってきた。レベッカは、「欲しいの?」と訊いた。

「きれいだと思ったんだ。前におじいちゃんがくれた、キスチョコみたいに美味しいのかな」
そう言うと、母親は呆れた顔をした。

「アメリカの大量生産チョコレートとは全く違うのよ。ずっと美味しいに決まっています。いらっしゃい、入りましょう」
彼女の息子は、目を丸くした。

 中にいた感じのいい店員は、少年に試食用のチョコレートの欠片を二つ三つくれた。高級チョコレートを始めて口にした少年にはどう表現していいのかわからなかったが、その滑らかで香り高い口溶けは彼を天にも昇る心地にした。彼は、その経験だけでも十分に幸せだったが、母親はプラリネが四つ入った小さな箱を買い求めた。

 誰かへのプレゼントにするのだろうと彼は思っていたが、料金を払って受け取ったそれを、彼女は息子に手渡した。
「少し早いけれど、誕生日祝いです。しばらく帰って来られないけれど、しっかり勉強しなさい」

 彼は衝撃を受けた。まさか自分がそのリボンのかかった美しい箱の持ち主になるなんて。嬉しくて嬉しくて仕方なかった。

「そうだったの。それはお母様との美しい思い出ね」
ジョルジアは、窓の向こうのプラリネの山を見ながら語るグレッグに微笑みかけた。

「この話にはまだ続きがあるんだ。僕はそのチョコレートを大切にしすぎて、クリスマスの前まで開けなかったんだ。愚かなことに、暖房ラジエーターの近くに飾っておいたせいで、溶けてしまってね。食べられなくはないけれど、大して美味しくなってしまっていた。それを母に手紙で書いて叱られた。今にして思えば、母にしてみたらせっかくのプレゼントを粗末にされて悲しかったのかもしれないな」

 ジョルジアは、初めてもらった美しいチョコレートをいつまでも取っておこうとした寂しいグレッグ少年を抱きしめたかった。もし彼が喜ぶのならば、この店中のチョコレートを買い占めて、彼の寄宿舎の部屋に飛んでいきたかった。けれど、彼が待っていたのはチョコレートではなく、きっと暖かな楽しい家庭だったのだ。

 レベッカが、息子に普段は買い与えないチョコレートを贈ったのは、もしかしたら厄介払いをするように寄宿学校に送ることへの後ろめたさだったのかもしれない。でも、そのことを口にしたら、彼にとって数少ない母親との美しい思い出にケチをつけることになる。同様にここで彼にこの店のチョコレートを贈ることも、やはり彼の母親に対するノスタルジーを傷つけることになる。

 テレビでのドキュメンタリーのように、母と子が愛を確かめ合う感動の再会にならなかったことは、しかたがない。けれど、そうであっても、グレッグにとってレベッカは母親で、彼女に対する子供としての想いはこれからも続いていくのだろう。そして、レベッカにとってもそれは同じなのだろう。

 振り返ると、彼はもうチョコレート店を覗いてはいなかった。ジョルジアは、彼に近づいた。彼は、スマートフォンを見ながら何かを思案していた。
「何かあったの?」
ジョルジアが訊くと、彼はメールの画面を見せた。

「いま例の恩師、サザートン教授からメールが来た。教授は、レイチェルとも親しいんだ。僕がイギリスにいるって彼女から聞いたんだろうね、会いに来いと言っている」

 ジョルジアは言った。
「まあ、素敵じゃない。あなたは逢いたくないの?」
「いや、久しぶりだし、可能なら逢いたい。母のところの用事は終わったから、バースに長居をする必要はなくなったんだし。その……また予定を変更してオックスフォードへ行ってもいいだろうか」
「もちろんよ。あなたが学んだ街を見てみたいわ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 3 -

「霧の彼方から」の続き、「蜂蜜色の街」の四回に切った三回目です。

先週アップした分と同じく、二人は昼食代わりに入ったティールームで話をしています。

どこかで読んだようなエピソードが、と思われる方もあるかもしれません。前作「郷愁の丘」の連載中、クリスマスに合わせて発表した外伝「クリスマスの贈り物」という作品です。あの作品も今回と同じ、グレッグと実母レベッカの、実の親子なのに上手くいかない様子を描写していました。


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あらすじと登場人物




霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 3 -

「もっと応援してもらいたかったと思うのは、当然だと思うわ。あなたは自分の道を行くことを選び、それでお母様との関係を壊してしまったと苦しんだのね」
「たぶんね。それに、僕は今日まで母のことを冷静に分析するのを避けていたんだと思う」

「分析?」
「母親は子供ために存在するわけではなくて、一人の別個の人間だ。でも、僕は自分のことで頭がいっぱいで、その視点で考えていなかった」

「お母様の視点……」
「離婚して、イギリスに戻ってきた母は、今の僕よりずっと若かった。一度結婚に失敗して、今度こそ自分に合う相手と巡りあい、新しい人生の舵取りをするのに精一杯だったのだと思う。なのに、我慢して面倒を見続けている息子が氣にいらない進路を選んだりするものだから、嫌みの一つも言いたくなったのかもしれない」

「でも、子供が母親は女や人間であると認識するのって難しいことじゃない?」
「小さい子供ならね。でも、僕はもう四十歳を超えているんだし」

 ジョルジアは、ふと初めて会ったときと今では、彼の印象がずいぶんと変わっていることを思った。彼の穏やかで感情を露わにしない態度は、口髭を生やしている彼の外見の影響もあり、初対面の人には実際の年齢よりも年上の印象を与える。少なくとも両親との関係で悩んでいるようには見えない。おそらく今から十年前でも、いや、二十年前でも同じ印象を与え続けてきただろう。

 けれども、今のジョルジアには、時折彼が小さな子供のように感じられるときがある。叱られて泣きながら、理由もわからずに両親の許しを請う幼い少年が彼の中に住んでいるのを感じる。まだ甘えたかった年頃に、寄宿学校の小さな部屋で孤独に耐えていた彼の話は、ジョルジアの心を締め付けた。

 漁師として働いていたジョルジアの両親も滅多に家に居なかったが、寂しいときには歳の離れた兄マッテオがいつもあふれんばかりの愛情で抱きしめてくれた。そして、しばらくぶりに会う両親も、ジョルジアと妹のアレッサンドラに十分すぎる愛を注いでくれた。その愛は、やがて確認しなくても信じられるようになり、今こうして離れていても家族の絆を感じることができる。

 けれど、グレッグは愛に飢えたまま独りで立ち続けてきたのだ。
 
 やがて、彼は少しやわらかい調子で話した。
「今日の彼女は、僕の記憶にある母そのものだった。それなのに、僕は違う母と会えるつもりでここに来たんだ」
「違うお母様?」

 彼は自分を嘲るような笑い方をした。
「僕が憶えている母の姿は、歪んだ記憶なんじゃないかと、会ってみたらもっとずっと快い歓待をしてもらえるんじゃないかと、期待していたのだろうね。でも、それは彼女に対しても失礼なことだった」
「どういうこと?」

「母を正しく理解するためにならともかく、僕はただ自分の心の安定のために、それにこだわっていたんだ。誰一人として僕のことを愛してくれる人がいないと認めたくなかったからだろう。自分が両親にすら愛されることのない存在であるということに、向き合うのが辛すぎたから。でも、やっとわかった」

「何が?」
「彼女は、彼女なりに母親として僕を愛しているのかもしれない。それが僕の望む形ではないことを彼女は知らないし、今後も知ろうとはしないだろう。そして、僕も、彼女が望むような息子には永久になれないだろうし、なりたいとも思わない。それは、彼女が悪いわけではなく、そして、僕がずっと思っていたように、僕が悪いからでもない。ただ、どうしようもないことなんだ」

「あなたは、それでいいの? つらくはないの?」
「ああ。それでいいと感じたし、今、少し驚いているんだが……母と上手くいかないことに、以前ほど傷ついてもいないんだ。不思議なくらいに」

 それから、彼はジョルジアの方をじっと見つめて言った。
「こんなに平常心でいられて、母との関係を冷静に分析できるのは、君と出会ったからだと思う」
「それは少し大袈裟じゃない?」

「いや、全く大袈裟じゃないよ。今から思うと、クリスマスにも、これまでと違うのを感じたんだ」
「クリスマス?」
突然話題が飛んだので、ジョルジアは戸惑った。

「ああ。君と親しくなって初めてのクリスマスに、プレゼントとカードを送ってくれただろう?」
「ええ。憶えているわ、あれが?」

 ジョルジアがニューヨークのデパートメントストアで見つけた、サバンナの動物たちを象ったクリスマスツリーのオーナメント。

「ずっと苦手だったクリスマスシーズンだが、あれから、待降節を他の人と同じように少し浮かれて過ごすようになったんだ。あのオーナメントと、君たちからのカードを眺めながらね」
彼は、思い出しながら微笑みを漏らした。

 ジョルジアは、その温かい想いに覚えがあった。彼女自身、それまでクリスマスシーズンは嫌いではなかったが、どこか場違いさを感じていた。兄のペントハウスの三メートルもあるクリスマスツリーの豪華な飾りや、妹の豪邸で姪を喜ばせるために飾られたオーナメントの数々には圧倒されたが、それは自分とはほど遠い祭りに感じていたのだ。

 けれど、彼へのプレゼントとしてサバンナの動物たちのオーナメントを買い込んだ後、わざわざ小さなニューヨークの小さな住まいでも同じオーナメントを飾るようになった。七千マイル離れた《郷愁の丘》で、同じオーナメントを飾ったツリーを眺める彼と、一緒にクリスマスを待つことが出来るように感じたから。

「君からの、それに君のお兄さんや、キャシーたちからのカードは、僕にとって初めてもらった義務ではなくて心のこもったクリスマスカードだったんだ。僕は、あれからクリスマスの期間を悲しく辛い想いで過ごすことがなくなった。たとえ独りでいても。世界中の人間に嫌われているから独りでいなくてはいけないわけじゃないんだと、思えるようになったんだね」

 彼女は、彼を見つめ返した。彼のいう意味が、彼の感じ方が、よくわかった。
「あなたは誰にも愛されない人なんかじゃないことを知ったのよね」
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 2 -

「霧の彼方から」の続き、「蜂蜜色の街」の四回に切った二回目です。

一つ前の記事でも書きましたけれど、この章は三月にイギリスに行き、バースを歩いてから書き足したところです。そんなわけで、ロケハンの成果がいろいろと顔を出すのですけれど、今回切ったところにはあまりないか。

「郷愁の丘」を書いていたときに私の脳内にすら存在しなかったこの世界の重要キャラクターが一人だけいて、それが今回名前の出てくる人です。そもそも私の小説はそんなキャラクターばかりですけどね。


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あらすじと登場人物




霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 2 -

「プラウマンズランチをいつも食べていたわけではないの?」
訊くと、彼は首を振った。
「パブなどで外食することはほとんどなかったから」

「主に自炊していたってこと?」
「いや、君も知っているように、僕の料理の腕は初心者以下だ。寄宿学校時代は学食以外で温かいものは食べなかった。オックスフォードでは二回ほど引っ越したけれど、住んでいたところのどこにも、ちゃんとした自炊の設備はなかったし。共有スペースのオーブントースターくらいは使ったけれど。リチャードたちやサザートン先生が残り物をくれたこともあったので、それを温めたりしてね」

「サザートン先生?」
「ああ、そうか、言っていなかったね。オックスフォードでの指導教員チューター だった人なんだ。今は教授になっている。議論が苦手だった僕は、グループでの指導チュートリアル で、はじめは意見も言えないでいたけれど、彼は他の指導教員よりも熱心に面倒を見てくれたんだ。いろいろな意味で彼には世話になったな」

「今は、交流はないの?」
「アフリカに戻る前に、挨拶に行ったのが最後だった。形式的なことが嫌いな人で、別れの挨拶になんか来るなって怒られたよ」

「今回、会いに行くつもりはないの?」
「お忙しいだろうし、それに、僕のことをよく憶えていないかもしれないし……」

 しばらく黙ってサンドイッチを食べていた彼は、紙ナフキンで口を拭うと言った。
「いや、憶えてはいるだろうな。どんなことにも抜群の記憶力を持つ人なんだ。でも、僕は彼の貴重な時間を奪っても歓迎されるような存在じゃないから」

 それから、ためらいがちに続けた。
「それは、母にとっても同じだったのかもしれないな。わざわざ来る必要なんてなかったのに、君にまで無駄足をさせてしまった」
彼は、彼の心を沈ませいてるトピックに戻り、先ほどと同じ言葉を繰り返した。

「私のことは氣にしないで。お母様と知り合って、ご挨拶はしたかったから、来てよかったと思うわ」
ジョルジアは、言葉を選びながら、ようやくそれだけ言った。「母親にとって息子が特別じゃないなんてことはありえない」と明確に否定したくても、先ほどレベッカとグレッグ親子が決裂に近い形で別れたのは事実なのだ。

「不愉快にさせたのは本当に申し訳なかった。ただ、君に母と僕との関係を見てもらえたことは、今後のためにはよかったかもしれないな」

「どうして?」
「僕はこれまで通りに、母とは最低限の関わりしか持たないだろうが、そのことを理解してもらえるだろうから。僕と母は、無理して付き合ってもお互いに愉快なことにはならないんだ」

 グレッグは、サンドイッチを食べ終えると紙ナフキンで口を拭い、皿の上にきちんと並べたフォークとナイフの下に置いた。テーブルに散らばったパンの粉を集めて、それも皿に置いた。ジョルジアはすっかり見慣れた、とても自然な動きだった。

「子供の頃の僕は、母に振る舞いや考えを否定される度に、どんな悪いことをしてしまったのだろうと悩んだ。反省して、できることなら自分を彼女の希望に合わせようとした」

 ジョルジアは慣れていたが、グレッグの几帳面で紳士的な振る舞いは、もしかするとレベッカ・マッケンジーの厳しい躾の結果なのかもしれないと思った。彼は、茶色い瞳をあげて少し強く言った。

「でも、途中から、僕はどうしても彼女の願うとおりには生きられないことを悟ったんだ」
「あなたにも、譲れないことがあったのね」

「ああ。動物行動学研究の道に進むことを決めたときも、アフリカへ戻ると決めたときも、彼女には愚かでくだらない決断だと言われた。思いとどまるように説得された」

「そんな……野生動物の研究やアフリカは、お母様には嫌な思い出でしかないみたいだけれど……」

「ああ。そして、それは理解できるし、僕は彼女にアフリカや僕の研究を好きになってもらおうとは思ったことはない」

 彼は、ため息をついた。
「学位を取った時に知らせに行った。博士号を取った時も手紙で知らせた。母は、『おめでとう』と言ってくれた。でも僕は、母が心から喜んでいないことを感じる。もし法科や経済学を修めて、イギリスの大学にでも職を得たら、ひどく喜んだだろう。もしくは、首席で卒業したら……。だから、辛辣なことを言われなかっただけでもマシと考えるべきかもしれない。いずれにしても、僕の心は沈んでしまう。それを避けようとして、僕は母に話すことがなくなってしまったんだ」

 ジョルジアは、学校に通っていた頃のことを思い出した。妹のアレッサンドラは、モデル養成学校でもトレーニングを積みながら、学校の試験でも優秀な成績を取った。出席日数がギリギリだと嫌みを言う教師たちを、試験の度に黙らせてきた。ジョルジアは、中の上程度の成績を取った時、家に帰るのが嫌だった。ずっと時間のある自分の努力不足を指摘されると思ったから。

 でも、兄のマッテオは、アレッサンドラを心から賞賛すると同時に、ジョルジアが美術で満点を取ったことを、言葉を尽くして褒め称えた。優秀で有能な兄妹二人に挟まれて、居たたまれない思いで生きてきたと思い込んでいたが、彼女は認められ、肯定され、愛されてきたのだ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 1 -

「霧の彼方から」の続き、二人は引き続きバースに滞在しています。

母親との関係改善のためにわざわざ予定を変更して来たはずなのに、グレッグは母親レベッカのジョルジアへの態度に我慢できずにさっさと退散してしまいました。その続きであるこの章も9000字以上あるので、四回に分けてお送りします。

さて、章のタイトル「蜂蜜色の街」、実はものすごく悩んだのです。「蜂蜜色」はイングランド中央部、数州にまたがって広がるコッツウォルズ地方で採れる「コッツウォルズ・ストーン」に対しての形容で、バースの街を彩っている「バースストーン」は、もう少し淡いクリーム色なのですよね。ただし、現地の人によると「同じものだよ」ということですし、題名として「クリーム色の街」より「蜂蜜色の街」の方がしっくりきたので、結局ここはそのままにしました。


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霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 1 -

「不快な思いをさせてしまった。本当に申し訳ない」
家を出てすぐに彼は謝った。

「いいえ。私こそ、配慮が足りなかったと思うわ。ごめんなさい。せっかく、お母様に会いに来たのに。もっと話したかったでしょう」
ジョルジアが言うと、彼は首を振った。

「話すことなんて、何もないんだ。昔からそうだった。来なくてもよかったんだ」
彼は、吐き出すように言った。いつもの穏やかな物言いとは違う、少し激しい口調だった。

「大丈夫?」
ジョルジアの不安な表情を見て、彼は黙った。それからゆっくりと道を進みながら言葉を探していた。

 二人は、ホテルに近いバース中心部に戻った。母親に会いに行くのに、どうしてホテルを予約するのだろうとジョルジアは思っていたが、今になってみればあの家に泊まらずに済んでどこかほっとしていた。

 街の中心にはたくさんの観光客がいて、蜂蜜色のジョージア調の建物を感嘆の眼差しで見つめている。中心には大聖堂と、ローマ時代の温泉施設があり、その周りに高級な商店やカフェなどが並んでいた。

 観光地特有の浮ついた雰囲氣を横目で見ながら、それらがほとんど眼に入らない様子で俯きながら歩くグレッグをどう慰めたらいいか、ジョルジアは途方に暮れた。

 イギリスに来た目的、母親との関係改善は完全な失敗に終わった。

 ジョルジアは、レベッカと実際に逢うまで、グレッグとその母親との関係を理解できなかった。喧嘩しているわけではないのというのに、彼の生活の中に実母の影がほとんど見られない。唯一の交流だというクリスマスカードには、整った美しい筆蹟ではあるが、まるで企業の印刷物のように紋切り型の短い挨拶だけが綴られていた。文字数が愛情のバロメーターとは思わないが、そのクリスマスカードからは、ほとんど何も感じ取れなかったのだ。

 そして、そのカードを書いた人物と対面して、ジョルジアは納得した。あのカードは、怒りや猜疑心などの何か表に出せない意図に基づいてわざわざ紋切り型に書かれたのではなく、レベッカ・マッケンジーという女性の嘘偽りのない感情が、あの文章に表れているのだと。彼女は、正しさにひどくこだわり、ユーモアを全く必要としない、ジョルジアの周りにはほとんどいなかったタイプの人間なのだと。

 レベッカがアフリカでの結婚生活を、ただの失敗と切り捨ててしまったことを、ジョルジアは感じた。その激しい否定は、サバンナへの強い想いを持て余していた幼かったグレッグをひどく孤独にしたに違いない。母親との溝はそんな風にして生まれていったのだろう。彼は、その修復をするためにここまで来たのだ。だが、それはおそらく無理なのだろうと、彼女は感じた。

 彼女は、黙ってグレッグの手を握った。彼は、はっとして彼女を見た。彼女の瞳を見つめ、同情と、それから、一人ではないのだと優しく肯定する光を見つけた。彼は、空を見上げ、ため息を漏らした。

 握る彼の掌に力が込められた。二人はそのまましばらく黙って歩いた。大聖堂の脇を通り過ぎ、陽の射さない細い路地を曲がる。灰色の石畳がコツコツと音を立てる。

「何か食べようか」
彼がぽつりと言った。それで、ジョルジアは遅い朝食の後、まだ何も食べてなかったことを思い出した。マッケンジー家のお茶ではいつもたくさんの茶菓子やサンドイッチが用意されるというので、あえてランチをとらなかったのだ。

「そうね。そんなにお腹はすいていないから、ティールームか何かでいいんじゃないかしら」
ジョルジアが言うと、彼も頷いた。

 辺りを見回すと、すぐ側に小さな店があった。黒板が出ていて「デリ / カフェ / 自然農法のワイン」とシンプルに書かれている。中に入ってみると、カントリー調のインテリアで古い木製の床がみしりと音を立てた。

 バーには年配の男が立っていて「いらっしゃい」と言った。カウンターの端には手作りクッキーやケーキが置かれていた。

「簡単なものを食べることができるだろうか」
グレッグが訊くと、男は頷き奥のテーブル席へ案内してくれた。

 ジョルジアはチェダーチーズとハムのサンドイッチを、グレッグは農夫風プラウマンズ サンドイッチを頼んだ。

「農夫風って、どんなサンドイッチ?」
ジョルジアは訊いた。

 パンとチーズやピクルス、ハム、サラダ、林檎、チャツネなどの冷たいものを盛り合わせた一皿をプラウマンズランチと呼び、イギリスではパブの定番料理であることは知っていた。農夫がお弁当として外で食べた伝統食らしい。ニューヨークでも、たまにプラウマンズランチを出すカフェはあるものの、サンドイッチになっているものは見たことがなかった。

 彼は前に置かれたサンドイッチの全粒粉のパンを開いて見せた。
「チーズにサラダ菜とチャツネだね。チャツネが入っていて酸っぱいと農夫風って言うのかな」
首を傾げながらかぶりつく彼の姿に、ジョルジアは微笑んだ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(5)花咲く家 - 3 -

「霧の彼方から」の続き三つに切った「花咲く家」のラストです。

今回のストーリーは日本の話ではないので、嫁と姑との関わり方を日本のそれとは違う前提で書いています。すなわち「●●家の嫁になるのだから」的な発想はないのです。けれど、「嫁と姑の関係は時に面倒くさい」は世界共通です。

レベッカには、「国際結婚などしたのが間違いだった。だから、息子は出来ることなら英国で、英国人と結婚し、まともな人生を送るのが幸せなのに」という思いが根底にあるようです。で、連れてきた嫁は、よりにもよってイタリア系アメリカ人だった……。むしろ、《Sunrise Diner》の常連であるクレアを連れてきたら大喜びしたでしょうね。継子のマッケンジー兄妹の方は、もちろん有名人の家族の方が嬉しそう。ミーハーです。

実母レベッカの登場、実はこれでおしまいです。話はまだ続きますけれど。


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あらすじと登場人物




霧の彼方から(5)花咲く家 - 3 -

 ジョンも、妹とそっくりの笑い方をした。
「おい、やめろよ。誰だって昔の失恋の話なんか触れて欲しくないさ。とりわけ婚約者の前ではね。しかし、意外だな。君がこんな洗練された人と……」

 レベッカは、先ほど受け取った二冊の写真集を義理の息子と娘に見せた。
「カペッリさんは、写真家でこのような写真集を出版しているそうです」

 二人は、珍しそうに写真集を見たが、『陰影』の表紙を見て叫んだ。
「やあ、これはマッテオ・ダンジェロじゃないか。あのアレッサンドラ・ダンジェロの兄の」
「まあ、そうよ。なんてこと、マッテオ・ダンジェロのすぐ側に、ヘンリーがレイアウトしてあるわ。こんなことって信じられる?」

「すごいな。あんな有名人を撮るって大変じゃないですか」
そう言われて、ジョルジアとグレッグは困ったように顔を見合わせた。が、隠しても仕方ないと思いジョルジアは口を開いた。
「実は、マッテオは私の兄でもあるんです」

「ええ! ってことは、ヘンリーがあのアレッサンドラ・ダンジェロの義兄になるってこと!」
ナンシーが大きな声を上げたので、レベッカは露骨に嫌な顔をした。

「僕は、スーパーモデルの姉である誰かと結婚するんじゃない。この人と結婚するんだ」
グレッグは、はっきりと言った。

 ジョルジアは、意外に思った。あまりにも長くアレッサンドラ・ダンジェロの姉というレッテルを貼られ続けてきたので、反抗心を持つことも忘れていた。ましてや、誰かがそれを強く打ち消すための言葉を言ってくれるなど期待したこともなかったのだ。

 だが、当の兄妹は、その抗議に大して反応せずに、あいかわらずマッテオの写真を見ながらあれこれ言っていた。ついにはスーパーモデルや浮ついた億万長者などには批判的な継母に軽薄だとぴしゃりと言われて、応接間から体よく追い出されてしまった。

「本当に嘆かわしい反応だこと。真っ当な生き方よりも札束を好む人たちを羨むような口ぶりで」
ダンジェロ兄妹など、ろくでもない社会の膿だとでも言い出しかねない口調で、そもそもその二人がジョルジアの愛する家族なのだと言うことは、全く意に介さない様子だった。

 それどころか、それで未来の義理の娘が嘆かわしい風情である理由が腑に落ちたと言わんばかりにため息をついた。

「アメリカという国では、スカートは流行遅れなのでしょうね。イギリスのある程度の階級で育った娘さんならば、婚約者の母親に会いに行くためのワンピースを買いに行く手間を惜しんだりすることは考えられないでしょうけれど、なんせ全然違う文化の国から来た人ですもの。マナーをあれこれいうのは無意味なことでしょう」

 ジョルジアはとまどった。普段デニムとTシャツばかり着ているのでスカートという選択肢をまったく考えなかったのだが、どうやら未来の義母にとってこの服装は常識外れだったらしい。少なくとも今日は滅多に着ないエレガントなパンツスーツを着てきた。グレーの柔らかめのドレープ生地のパンツとそれに近いストールが、パンツスーツの尖った感じを和らげている。

「母さん。失礼な上に非論理的なことをいうのはやめてくれ」
自分から非礼を詫びる前に、グレッグがそう言ったので、ジョルジアは驚いた。

「なんですって」
「女性はスカートを穿くべきだなんて、一世紀前の価値観だ。アメリカもイギリスもケニアも関係ない」

「ケニア。私はあそこに住みましたからね。どれだけ野蛮な土地なのか、身を以て知っていますとも。あそこならば、マナーなんかどうでもいいという価値観になるでしょうよ。私は少なくとも祖国に戻ってきて生き返りましたとも。それに、お前がまともな教育を受けてよりよい生活ができるように連れ帰ったのに、わざわざあんな国に戻るなんて」

 ジョルジアは思わず言った。
「彼が住んでいるのは素晴らしいところですわ」

 レベッカは優雅な動作で、ティーカップをテーブルに置いた。
「まあ。それでは、あなたは本当にヘンリーにお似合いね。それだけは安心しました。結婚したはいいものの、あの国が嫌で数日で取りやめたなんて話は聞きたくありませんもの」

 ジョルジアは、ここに来る前にもう《郷愁の丘》での同居を始めていたことは、口にしないほうがいいのかもしれないと思った。結婚前に何年も同居することは彼女にはごく普通のことだったが、レベッカ・マッケンジーにとっては恥ずべき非道徳行為なのかもしれないから。

 彼女のとげのある言い方が不快でないと言ったら嘘になる。でも、彼女は黙ってやり過ごそうと思った。口論をしたらグレッグが困るだろう。親子の団らんに水を差すようなことはしたくない。

 そう思っていたところ、グレッグは突然立ち上がった。
「そろそろ失礼するよ。母さん、もてなしをありがとう」

 ジョルジアは驚いた。十五年以上会わなかった母親との再会を、こんなにあっさりと打ち切るとは思っていなかったからだ。もしかして、自分のせいなのかと不安に思った。

 ところが、レベッカの方はさほど驚いた様子は見せなかった。
「どういたしまして。プレゼントをありがとう。私としては、お前が健康で、そして、立派にやってくれればそれでいいのよ。普通よりも遅いけれど、少なくとも家庭を持つつもりになったことは、いいことだと思いますよ。どうぞお幸せに。次はもっと繁く母親を訪れるつもりになってくれるといいわね」
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Posted by 八少女 夕

【小説】霧の彼方から(5)花咲く家 - 2 -

「霧の彼方から」の続き三つに切った「花咲く家」の二回目です。この「郷愁の丘」そのものは完結した作品で続編が必要とは思っていなかったのですが、要望を受けて前作では飛ばしたシーンを書いたときに、「むしろこっちの話の方が重要かもなあ」と頭に引っかかっていたのが、グレッグのイギリス時代の話でした。

実母レベッカとの邂逅は、ある意味では「郷愁の丘」で描いた実父ジェイムス・スコット博士との邂逅の繰り返しでしかないのですけれど、グレッグが幼少期を乗り越えて前に進むためには必要なステップでした。と、同時に、この後の流れにつなげるための「あり得る唯一のきっかけ」でもあります。

「レベッカは実母なのに我が子にこんなに冷たいはずがない」とお思いの方もあるかもしれません。でも、実はこの外から見るとものすごく変わった親子関係、ちゃんとモデルがあります。しかも、私自身の●親等の世界です。


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あらすじと登場人物




霧の彼方から(5)花咲く家 - 2 -

「ようこそ、カペッリさん。私がレベッカ・マッケンジーです」
彼女は、ジョルジアに手を差し出したが、ハグをしようとする様子は全く見せなかった。そして、ジョルジアが会釈をしてその手を握ったが、乾いた手のひらは全く力を込めてこなかった。それは、握手よりも、扉を開けるためにドアのノブに触れている時のように無機質な感触だった。

 それから、レベッカは、ようやくグレッグの方を見て言った。
「久しぶりね、ヘンリー。よく来てくれました」

 握手もなければ、ハグもキスもなかった。久しぶりに会った母と息子は、全く触れ合うことすらなかったのだ。

 レベッカはソファに座るよう勧めた。ゴールドベルベッドのチェスターフィールドソファで、座り心地は抜群だ。

 用意された銀のティーポットは磨き抜かれ、触ると壊れるのではないかと思われるほど薄い花柄のティーカップがその隣に行儀よく置かれていた。

 ジョルジアは少し硬くなり、ソファに浅く腰掛けた。目を向けると、グレッグも寛がない様子で座っていた。

「イギリスやケニアの方ではないようね」
レベッカは、紅茶を勧めながら言った。

「アメリカ人です。祖父母は北イタリアの出身ですが、両親の代からニューヨークに住んでいます」
「まあ。ニューヨークの方が、サバンナで世捨て人のように暮らすヘンリーとどうやって知り合ったの」

 ジョルジアは、鞄から二冊の写真集を取り出した。グレッグと知り合うきっかけとなった『太陽の子供たち』と、彼も被写体として入っている『陰影』だ。
「私は写真家なのですが、この作品の撮影の時にお世話になったのがきっかけです」

 二冊を受け取りながら、レベッカは驚いた表情を見せた。
「写真家ですって? まあ、驚いた。そのような仕事をする女性がいるのは知っていましたが、実際に逢うのははじめてです」

 グレッグは言った。
「母さん。彼女はとても才能のある人で、その帯にあるように、『フォトグラフ・オブ・ザ・イヤー』という権威ある賞で入賞したんだ」

「あなたのお陰でね」
ジョルジアは、付け加えて微笑んだが、レベッカはその話題には、さほど興味がないようだった。

 モノクロームで人物を撮った『陰影』は、心の中で最も重要な位置を占める存在として、グレッグの写真がラストページに入っている。表紙には彼の横顔も写っているのだが、レベッカはどちらの写真集も開こうとせず、少し離れたサイドテーブルに置いた。

 その時、玄関から大きな音がして、誰かが邸内に入ってきたのがわかった。男女が大きな声で話しながら廊下を進んできた。

「ああ、わかっているよ。客間にいるんだろう」
「あのヘンリーが、結婚相手を連れて来たって、本当かしら」

 ノックと同時に、応接室の扉が開かれ、明らかに兄妹だとわかるよく似た二人が入ってきた。

「やあ。本当にヘンリーだ。何十年ぶりだろう。僕たちのことを憶えているだろうか」
「そりゃあ、憶えているでしょうよ。ねえ、ヘンリー。結婚するって本当?」

 グレッグが立ち上がったので、ジョルジアもそれに倣った。
「ごきげんよう。ジョン、ナンシー。こちらは婚約者のジョルジア・カペッリだ。ジョルジア、ジョン・マッケンジーとナンシー・エイムズ兄妹だ」

「はじめまして」
ジョルジアが手を差し伸べると、二人は感じよく笑いながら手を握った。

「ヘンリーが、結婚するって聞いて驚いたのよ」
「全くびっくりさせるよな。独身主義者じゃなかったのか」

 グレッグは、困ったように言った。
「主義じゃない。これまで相手が居なかっただけだ」

 ナンシーが意味ありげに笑った。
「ジェーンが結婚したので世をはかなんで、サバンナに籠もったって聞いたわよ」

 ジョルジアは、心の中でジェーンとつぶやいた。その人なのかしら、彼が心の奥にしまっている特別な女性は……。グレッグを見ると、わずかに眉をひそめていた。
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