【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(23)川の氾濫
身分を隠したまま、候女エレオノーラの再教育係になった一行は、トリネア侯爵家の離宮に遷ることになりました。他の人びとに見られずに、トリネア候国の内情について知ることのできる絶好の機会ですが、もちろん身バレの危険性とも隣り合わせですね。さて、今回は、その教育が始まる前に起こってしまった、とあるハプニングの回です。
そういえば、この川流れのシーン、どこが元ネタだっけとずっと考えていたのですが、ようやく思い出しました。「信じられぬ旅」(ディズニー映画『三匹荒野を行く』の原作ですね)で、シャム猫が流されたシーンでした(笑)
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(23)川の氾濫
翌朝エレオノーラは使用人たちに滞在の準備をさせるからといって、一足先に去って行った。
午後に、5人は支度を済ませて離宮に向けて出発した。昨夜に激しい雨が降ったため、修道院周りの道はひどくぬかるんでいた。
川に向かって進んでいると、見慣れた一団が野営していた。
「やあやあ、みなさん。こんな所でお目にかかるとは奇遇ですな」
もみ手で近づいてくる南シルヴァ傭兵団の副団長レンゾの姿を認め、マックスとレオポルドは急いで視線を交わした。
「てっきり城下町の高級旅籠にでも泊まっておられるかと思いきや、あの修道院にいらっしゃったんで? 物騒じゃありませんかい? 護衛が必要なら、いくらでもお力になりますぜ」
大声で騒ぐので、他の団員たちも一行に氣がついて近づいてきた。
「いらん」
憮然としてレオポルドがいうと、レンゾは「おお、こわい」と言って、一歩下がった。本当に怖がっているようには全く見えず、むしろ面白がっている。
「で、どちらに向かわれるんで? 城下町への道は、あっちですぜ」
レンゾの問いに、一行はうんざりした。
「どこであろうと、お前の知ったことではない。いいか、我々は貴族ではないことになっているんだ。まとわりつくな」
それでも付いてこようとするレンゾたちを振り切ろうと、一行は馬の歩みを早めた。
「おい。待て、そんなに急ぐな」
少し遠くで見ていた、例の女傭兵フィリパが何かを告げようとしているのがわかった。だが、ガヤガヤさわぐ近くの男たちと馬の蹄の音、それからぬかるんで歩きにくい道にもっと氣を取られた。
渡ろうとしている川はさほど大きくはない。ただし、昨夜の雨のせいか、かなりの濁流が大きな音を立てている。ずいぶんと増水しているようだ。
目指している渡り場所は、なんと『死者の板橋』であった。
グランドロンでもかなり細い小川などによく架かっているのだが、葬儀の時に死者を載せて運んだ板に、その死者の名前を刻み小川に架けることがある。人びとがその橋を通る度に、死者の魂のために祈る習わしがあり、そうすることで死者は早く煉獄から脱出することができる。つまり、ある程度の財力のある死者の親族がこのような『死者の板橋』を架けさせるのだが、このように流れの速い時にはもう少ししっかりとした橋の方が安全だ。
マックスは、一瞬どうすべきか迷った。流れが穏やかになるのを待つ方がいいのだが、そうすればうるさい傭兵団に囲まれてしまう。
「行こう。あの候女だって、さっさと渡ったんだろうから」
レオポルドが言った。
マックスは頷いた。まず渡るのは自分だ。橋に何かあっても、レオポルドの安全は確保できる。同じ馬に乗るラウラに囁いた。
「降りて渡る方がいい」
ラウラは頷き、2人は馬から降りた。橋板に申しわけ程度につけられた欄干に、ラウラは両手で、マックスは馬の手綱を握っていない片手で掴まりながら、慎重に歩いた。轟音を立てる濁流と、頼りない板橋のきしみが恐ろしかったが、なんとか渡りきった。
それを確認した後でレオポルドが渡った。フリッツは「馬は私が」と言ったが、レオポルドは「急げ」と言って断り、マックスと同じように渡った。レオポルドが渡るときに、橋板はひどくたわみ、不快な音を立てた。
渡りきった、レオポルドは振り向いてフリッツに叫んだ。
「氣をつけろ。この橋は……」
「やめろ! その橋は!」
後ろから馳けてきたフィリパが叫んでいるが、その時にはフリッツとアニーは既に橋を渡りだしていた。
フリッツと馬が向こう岸に着くのと同時に、メリッという音がして、橋が折れた。まだ渡りきっていなかったアニーは投げ出され、フリッツは手を伸ばしたが馬を抑えていたために届かなかった。
濁流はものすごい勢いでアニーを押し流し、あっという間にその姿を見えなくした。
「アニー!」
ラウラは取り乱し、すぐに川に入ろうとしたが、マックスが必死で止めた。
「だめだ、君も流される!」
動転してもがきながら泣くラウラをマックスが止めている間に、レオポルドはフリッツに命じた。
「すぐに探しに行け」
すぐに下流に身体が向いたものの、フリッツは立ち止まって言った。
「私はお側を離れるわけには……」
「自分の面倒はみる」
「しかし……」
「いいから行け!」
本人も氣が急いているが、染みついた義務感の方にも絡め取られているフリッツは、すぐに対岸の傭兵たちを見て頭を下げた。
「どうかしばしこのお方をお守りください」
対岸にたどり着いた傭兵たちは、橋の崩壊を見て蜂の巣をつついたように騒いでいたが、フリッツ・ヘルマンが頭を下げると一様にこちらを見た。
先ほど冷たくあしらわれたレンゾは白い目をしていた。
「なんだよ、これまで散々邪険にしておきながら、ずいぶんとご都合のいいことで。さっき『まとわりつくな』って言いやがったのは、どこのどちらさんでしたっけ」
フリッツの窮状に助け船を出したのはフィリパだった。
「いいのか。流されたあの娘は、あたし達が仕事を得られるように口添えしてくれたあの馬丁マウロの妹だぞ」
後からやって来た首領のブルーノは、それを聞くと大きな声で言った。
「なんだって。……そうか、そういうことなら話は別だ。俺たちは恩知らずじゃねぇ。ヘルマンの旦那、行きな。『旦那様』の護衛は俺たちに任せろ」
フリッツは、頭を下げて馬にまたがると、急いで下流に向かって馳けて行った。
ブルーノたちは、長い縄の一方の端をレオボルドのいる方の岸に投げてよこした。マックスと協力してそれを木にくくり付けさせると、『死者の板橋』が渡してあったいくつかの大岩を足場にしつつ縄で伝いながら5人ほどが、こちらに渡ってきた。
「さて。じゃあ、行き先まで護衛して行きやしょう。あ~、ちなみに俺たちは先払いでお願いしてるんですがね」
レンゾは、悪びれもせずに要求してきた。
レオポルドが指示するまでもなく、マックスは財布を開けて砂金を渡した。レンゾは愛想よく受け取った。
「へへへ。こりゃあ、どうも」
レオポルドはフィリパに向かって言った。
「すまないが、フリッツ1人では困ることがあるやもしれぬので、様子を見にいって必要なら手助けをしてもらいたい」
「わかった」
フィリパは、マックスから別の砂金を受け取ると、下流に向かって走っていった。
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- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(22)男姫からの依頼 -2- (06.09.2023)
- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(22)男姫からの依頼 -1- (30.08.2023)
- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(21)修道院 -2- (23.08.2023)
- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(21)修道院 -1- (16.08.2023)
- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(20)人狼騒ぎ -3- (02.08.2023)
【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(22)男姫からの依頼 -3-
縁談相手であるレオポルドがそこにいることも知らず、《学友》経験者であるラウラに礼儀作法とグランドロンについて特訓してほしいと頼んだエレオノーラ。確かにここにいるメンバーは、適任です。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(22)男姫からの依頼 -3-
ラウラは、ようやく理解した。確かに今から礼儀作法を教える宮廷教師を探し、一般論から教えを請うていたら、レオポルドの来訪には間に合わないだろう。ラウラならば、そうした場で何が求められるか、効率よく判断して必要そうなものだけを集中して教えることもできるだろう。とはいえ……。
「それは、私の一存では引き受けかねます」
そう言ってラウラはレオポルドの方を見た。エレオノーラは、ラウラの視線を追って、後ろに立っているレオポルドとマックスを見た。
エレオノーラは、ラウラの主人である商人の元に大股で歩み寄り、真っ正面から見据えて訊いた。
「秘書殿の奥方を2週間ほど貸してはくれぬか。私はまだたくさんの権限は持たぬ身だが、それでもそなたの商売に最大の便宜を図ることを約束しよう」
レオポルドは、若干面食らったようにがさつな姫君を眺めていたが、急に笑い出して、ふてぶてしく答えた。
「わかりました。せっかくなので、私の秘書もお使いください。実は、このマックスは宮廷教師の資格を持っております。グランドロン語や古典の話題、歴史などについては、彼が役に立つでしょう。かくいう私も商業や政情についての知識を多少なりともお伝えできるでしょう」
今度はラウラとマックスが驚く番だった。断ると思っていたからだ。ラウラは、エレオノーラに同情していたので、数日だけでも協力できないか頼むつもりでいたが、必要なかったようだ。
エレオノーラも若干面食らったようだが、ほっとしたようで嬉しそうな顔を見せた。
「それはかたじけない。心から感謝する。報酬についてだが……」
レオポルドは、それを遮った。
「報酬などは必要ございません。ただし……」
「ただし?」
「その教育期間、静かで、他の人びとが出入りしない場を用意していただきたい。それから、これだけ我々の時間と手間をかけるからには、その国王陛下との謁見とやらで『身代わりを立てずに済む』程度の成果は出していただきたいですな」
それを聞いて、後ろに立っていたラウラは息を飲んだ。これは明らかに、例の偽王女事件に関するレオポルドの嫌みだ。ついでに言えば、マリア=フェリシア姫の教育に当たっていたマックスに対する当てつけでもある。ラウラは、そっと唇を引き締めて、わずか挑戦的にレオポルドを見た。
部屋に戻ると、マックスは小さな声でレオポルドに詰め寄った。
「いいんですか……」
「ああ、むしろ都合がいいのだ。貴族用の旅籠よりはマシとはいえ、この修道院に居続けたら、いつ我々を知っている貴族たちに出くわすかわからん。それに、トリネアや城下町の様子は見て回ることはできるが、さすがに城内には入れないから、どう情報収集しようかと思っていたんだ。あの娘の特訓に関われば、あの娘や家族のことだけでなく、トリネアの情勢も政治に対する考え方も自然に聞き出せるしな」
「私どもの本当の身分がわからぬように、話を合わせておく必要があるかと存じますが」
「ああ、そうだな。マックス、遍歴教師だった時にラウラと出会ったことにすれば自然だろう。とにかく、我々が一丸となって協力するということにしよう」
「仰せの通りに。15日間もずっと近くにいて、バレても知りませんよ」
「そこは、上手くやれ」
マーテル・アニェーゼは、この計画を聞いて喜んだ。エレオノーラの数少ない理解者として陰に日向に支えてきたものの、エレオノーラが貴婦人としての振る舞いを身につけないまま女侯爵になることを強く案じていたからだ。本人が初めて学ぶことを決意したのと、ちょうどその時にふさわしい教師役と知り合えたことを神の恩寵と感謝した。
それゆえ、彼女はすぐに必要な準備をしてくれた。まず、侯爵に手紙を書いた。誰の言うこともきかない候女が唯一敬意を持って交流する存在であるマーテル・アニェーゼは、侯爵夫妻から何度も再教育に関する相談を受けていた。
手紙には、エレオノーラがはじめて自らの意思で再教育を受けたがっていること、そのやる氣を削がないのがとても重要であることを書き、時間が無いので再教育に関しては任せてほしいこと、静かな環境を確保するため、表向き候女は伝染性の季節性疾患に罹ってしばらくトリネア城には戻れないことにしてほしいと願った。
侯爵からの返事はすぐに来た。『候女を離宮で【静養】させるように』と書いてあり『何卒よしなにお願いする』と書かれていた。
件の離宮は、修道院から見て谷の向かい側にある。かつては夏の避暑用に建てられたが、亡くなった候子フランチェスコが長らく静養に使っていたため、ここ2年ほどは使われていない。立地からいっても、トリネア城に出入りする貴族たちに見られる必要がない点からいっても理想的な場所だった。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(22)男姫からの依頼 -2-
今回、ようやく残念な姫からの依頼内容が明かされます。エレオノーラは、ラウラにあることの白羽の矢を立てていました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(22)男姫からの依頼 -2-
エルナンド・インファンテ・デ・カンタリアは、レオポルド自身とも親戚関係にある。レオポルドがまだ王位に就く前なのでかなり昔になるが、母親のところに贈られてきたカンタリア王家の肖像で見たことがあった。下唇が前方に突き出た特徴的なその顔つきで、レオポルドの母親とも似ていた。
同様に氣性が激しく残虐なことを厭わないのは母親個人の性格だと思っていたが、もしかするとカンタリア王家ではさほど珍しいことでもないのかもしれない。
同じカンタリア王家の血を継いでいるとはいえ、フリッツが指摘したとおり、エレオノーラにはそのような特徴はなかった。エルナンド王子とその騎士たちの振る舞いに我慢がならないと震えている。
「つまり、逃げ出して、嵐が過ぎるのを待つというわけですか?」
レオポルドは、挑発するように話しかけた。マックスは「あまりお楽しみになりすぎませんように」と目で制したが、レオポルドは氣にしていない。
エレオノーラは、そう言われて悔しそうな顔をしたが、それから肩を落として俯いた。
「そういうわけにはいかない。縁談はこれからもいくらでも来る。隠れて済む問題じゃない。兄様が生きていた頃なら、それで済んだけれど、今の私は未来の女侯爵だ。……そもそも縁談は、いま2つ重なっているんだ」
「2つ?」
「ああ。実は、2週間後には、グランドロンの国王も来るんだ」
エレオノーラは肩を落とした。
「なんと」
レオポルドがわざとらしい驚き方で言うと、マックスだけでなくフリッツも「いい加減にしてください」という顔で見た。
考え事に沈んでいたエレオノーラは、その3人の様相には氣がついていなかったが、意を決したように静かに座っているラウラの方に歩み寄った。
「ラウラ。あなたは、ルーヴラン人だよね」
「はい」
「その……。その左手首……」
ラウラは、はっとして左手首を見た。いまはきちんとスダリウム布で覆われて傷跡は見えていないが、一同はここに着いた日にこの布を巻き直すところをエレオノーラがじっと見つめていたのを覚えていた。
エレオノーラは、単刀直入に言った。
「もしかしてどこか貴族の《学友》だったことがあるんじゃないか?」
ラウラは、一瞬怯んだ。他にこのような傷をもつ説得力のある経歴は思いつかない。ルーヴランに平民出身の《学友》経験者はたくさんいるし、ここは肯定してしまった方がいいと思った。
「はい。ある貴族のお屋敷で勤めていたことがあります」
「やっぱり、そうか。ひどい習わしだ。」
「《学友》のことを詳しくご存じで、驚きました」
「《中海》周辺はセンヴリ王国に属していても、ルーヴランの文化をありがたがる国が多くて、実はここトリネアも同じことをしているんだ。トゥリオの左手首、見たかどうかわからないけど、やっぱりいくつかの傷があるよ。……彼は、兄様の《学友》だったんだ。幸い、兄様はとても優秀で、トゥリオが鞭打たれることは本当に稀だったけどね」
ラウラは、わずかに驚いた。《学友》の制度を取り入れる国や貴族の家庭は増えていることは知っていたが、マリア=フェリシア姫が好んだように、自分の代わりに受けさせる罰として鞭打ちを取り入れているのはごくわずかだと思っていたからだ。まさかこのトリネア候国が、そのわずかな例だったとは。
「ということは、姫様にも……」
「ああ、私にもいた。ほんの1年ほどだったけれどね。……ラウラ、そなたにたっての願いがあるんだ」
エレオノーラは、ラウラの前に座った。
「私は、子供の時に学ぶことを拒否した。私が愚かな間違いをすると、代わりに私の《学友》ペネロペがひどく鞭打たれた。私はそれに耐えられなかった」
ラウラは息を飲んだ。エレオノーラはしばらく口をつぐんだが、やがて続けて言った。
「本当は、ペネロペが鞭打たれずに済むように、私が完璧に振る舞えばよかったんだ。でも、そんなことは到底できないと思った。実際に無理だったんだ。だから、私はすべてを投げ打って、絶対に教育を受けないと決めたんだ。教育係も、乳母も、もちろん父上や母上、そして兄上、その他の誰も彼もが、説得しようとしたけれど、私は揺るがなかった」
「《学友》なしで教育を受けることは許されなかったのですか?」
ラウラが訊いた。
エレオノーラは、首を振った。
「乳母や兄上がその妥協策を提案してくれたんだ。でも、カミーロ・コレッティ、ペネロペを養女にして《学友》として差し出した廷臣なんだが、彼からの抗議が激しくて、それは受け入れられないって言われたんだ。それで、私は意固地になって一切の教育を徹底的に拒否したんだ。教師が来たら部屋にこもるか逃げ出した。日々の周りの人びとの忠告はすべて耳を閉ざして聞き入れなかった」
ラウラは、複雑な思いでエレオノーラの言葉を聞いていた。この候女の頑固な振る舞いは、子供じみていて愚かだった。そんなことをしても、トリネア候国の姫君という立場は変えられるものではなく、自分の立場が悪くなるだけだ。けれど、実際に当時のエレオノーラは子供だったのだ。ほかにどうすることができただろう。幼かった彼女は、たった1人の少女を守るために必死だったのだ。その優しさにラウラは深く心打たれていた。
静かな部屋に、エレオノーラの声が響いた。
「そして、最後には父上も、母上も諦めた。侯爵になるのは優秀な兄様がいるし、私はいずれこの修道院にでも押し込めるつもりだったんだろう。私も、トリネアの汚点として隠されて生きるんだなと氣楽に考えていた。……でも、兄様が亡くなって、すべての事情が変わってしまった」
たとえ最低な姫君であろうと、トリネア候国を背負って行かざるを得なくなったのだ。
「さっき、城を出る前に父上に宣言してきた。グランドロン王の訪問の時に表に出るって。本当は、父上は私が病氣だとか適当なことを言って、この話をうやむやにするつもりでいたんだ」
ラウラは、息を飲んだ。そっと目でレオポルドを追うと、後ろから身振りで「続けさせろ」と指示している。ラウラは、慎重に言葉を選んだ。
「それは、あなた様が、このご縁談をすすめたいとのお考えに変わったという意味ですか?」
エレオノーラは、大きく笑った。
「進められるわけはないだろう。断られるに決まっている。でも、そう宣言すれば、少なくとも、それまでの間に他の縁談を進めることはできないだろう。2週間もすればあの野蛮な王子はいなくなるだろうし」
「まあ」
ラウラは返答に困った。エレオノーラ自身は、同じ国王から2度も縁談を断られるという恥辱に対して、とくに氣にもしていないようだ。
「とはいえ、いまの作法で、私がグランドロン王の前に出ることを、父上や母上も戸惑っておられる。当然だけれど……」
ラウラは、よけいに返答に困ったが、賢明にも真剣な顔で黙って続きを待つという手法をとった。
エレオノーラは、ラウラの左手首を取って、そのスダリウム布にそっと手を当てた。
「じつは、そなたに会ってその傷に氣づいたときから、決めていたんだ。どんなことをしても助けてもらおうって。報酬はいくらでも出す、聞いてくれないか」
「私に?」
ラウラは、驚いてエレオノーラの顔をまじまじと見つめた。エレオノーラの後ろで、レオポルドとマックスが、やはり驚いて顔を見合わせている。
「そうだ。15日後に、グランドロン国王がこのトリネアにやって来る。そして、城で謁見と歓迎の会が開かれる。私がそれに出席して、取り繕うことができるぐらいまでに、行儀作法とグランドロンのことを教えてくれないか?」
エレオノーラは真剣だった。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(22)男姫からの依頼 -1-
首尾よく修道院で宿泊するチャンスを掴んだレオポルド一行。今回は、我らがヒロイン(?)のどこが残念なのか、具体的に明かされます。本当に残念なんですよ、この人。
さて、説明を忘れていましたが、修道院長マーテル・アニェーゼのマーテルとは院長に与えられる敬称です。日本でもごく普通の尼僧がシスターと呼ばれるのに対して修道院長がマザーと呼ばれますよね。この敬称を設定するときにイタリア語にしようかとも思ったのですが、中世だしラテン語風にマーテルにしておきました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(22)男姫からの依頼 -1-
レオポルドが聖キアーラ修道院に半ば強引に滞在しようとしたのは、トリネア候国の事情に明るそうなマーテル・アニェーゼと親しくなり、候国や候女についての情報を得るつもりだったからだ。ところが、一行をここに連れてきた男装の娘こそが、よりにもよって縁談の相手である候女エレオノーラだった。
夕食の時に現れた彼女は、まだ少年の服装をしたままだったし、女性らしい振る舞いや口調になることもなかった。マーテル・アニェーゼをはじめとした修道女たちや下男たちも、この姫君の変わった振る舞いに慣れているらしく、そのままにしていた。
アニーは、長らくルーヴの王宮で侍女として働いていたので、貴婦人の模範とまで謳われたラウラだけでなく、王族や貴族の奥方や姫君の立ち居振る舞いを近しく目にしてきた。
おしゃべりで会話の内容に問題があった伯爵夫人や、いろいろな香水を混ぜすぎて同席した貴人たちを戸惑わせた令嬢はいたものの、本当に貴族なのか疑うような行儀作法の侯爵令嬢が存在するとは考えたこともなかった。
語学や政治情勢、歴史、詩作などでは、宮廷教師だったマックスを悩ませるほど劣等生だったマリア=フェリシア姫ですら食卓では、そこそこの振る舞いができた。
だが、エレオノーラの振る舞いには、そのアニーですら時おり目を疑いたくなった。スープを食べるときに音を立てていたし、肉を触った指をフィンガーボールで洗う前に杯に触れてベタベタにしていた。極めつけは肉汁が口についたときに、置かれているリネンではなくテーブルクロスで口を拭いていた。
ラウラは顔色一つ変えずに、やはりまるで何も見なかったように振る舞う尼僧たちと会話をしていたが、レオポルドは時おり目を宙に泳がせていたし、マックスとフリッツは不自然なほど違う方向を見ていたので、やはり衝撃的だったのだろうとアニーは思った。
アニーは、もしかして来月を待たずにグランドロン国王は帰るかもしれないと考えた。マリア=フェリシア姫よりひどい結婚相手なんてこの世には存在しないと思っていたけれど、この姫君はあまりといえばあまりだ。
だが、アニーの予想に反して、レオポルドは翌日もトリネア城下町を去りたがる氣配を見せなかった。それどころか、港を訪れたり、市場を回ったりしながら、トリネア城下町を見て回った。確かに、候女と結婚しなくてもトリネア候国のことを近しく目で見る機会そのものは、そうそうはないのだから、急いで帰る必要もないのかもしれない。
「ずいぶん若い修道院長だと思っていたが、あの女は相当の切れ者だな」
アニーは、港から修道院に戻る道すがら、レオポルドがマックスと話しているのを聞いていた。
「そうですね。それに、薬草についても医学者なみに博学で驚きました」
グランドロン王国一の賢者であるディミトリオスの弟子だったマックスが驚くというからには、並みならぬ知識を持っているのだろうとアニーは考えた。
「有力とはいえ家臣のベルナルディ家が、あそこまでの教育をほどこせるのに、なぜ候女がああなのか、どう考えてもわからぬ」
レオポルドが小さな声でつぶやいた。
修道院に戻ると、その候女が再び来ていた。もう二度と会うこともないだろうと思っていたので、一行は驚いた。奥で治療中と聞いた、例の人狼を騙っていた男トゥリオの様子を見に来たのだろうか。
「私もしばらくここに泊めてもらうことにしたんだ」
エレオノーラは言った。
「そんなに何度もお城を抜け出してよろしいのですか?」
ラウラが訊くと、エレオノーラは「今日はあそこにいたくなかったんだ。……あんなのと縁談を推し進められるのはまっぴらだ」とつぶやいた。
「恐れながら、誰との縁談ですか?」
もしや自分との縁談の件かと好奇心に駆られてレオポルドが訊くと、エレオノーラは「カンタリアの王子だよ」と答えた。
聞き捨てならないな、カンタリアの王子がたった今トリネア候国を訪れているのか。これは詳しく話を聞き出す必要がありそうだ。
レオポルドは、エレオノーラに近づいた。
「カンタリアの王子とおっしゃいましたか?」
「ああ。私の母親は、カンタリア王の従姉妹なんだ。カンタリアの第2王子のエルナンドっていうのが、ルーヴラン王国目指して旅をしているらしいんだけれど、その途中に母上に挨拶するってことで立ち寄っているんだ」
エレオノーラは、身震いをした。
あからさまな嫌悪の表情を見せるのがおかしくて、レオポルドは訊いた。
「あなた様にとっても親戚なのに、会えて嬉しくないのですか?」
エレオノーラは口を尖らせた。
「嬉しいもんか。そなただってあの野蛮な男たちを目にしたらうんざりするに決まっている。あいつら、まともに立てないくらいに酔って、中庭に母上から贈られた豚を連れてきてその場で殺したんだ。腸を切り開いて、馬鹿笑いしていたんだぞ」
ラウラだけでなく、レオポルドとマックスも顔を見合わせて眉をひそめた。それは国によって作法が違うといって済まされる程度の無作法ではない。
「王子様がたはその作法で、ルーヴ王宮に行くつもりなのですか。それはさぞ……」
レオポルドは、ことさら取り澄ましたルーヴランの貴族たちがさぞ驚くだろうと、残りの言葉を飲み込んだ。
「なのに、母上ったら、あの王子は第2王子だから、結婚すれば婿入りしてくれる。氣に入られるように振る舞えなんて言うんだ。だから、急いで逃げ出してきたんだ」
マックスとレオポルドは、再び顔を見合わせた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(21)修道院 -2-
ジューリオと名乗り男装をしている娘の案内で聖キアーラ女子修道院についた一行は、訳ありの男トゥリオとジューリオを助けた縁で、茶菓のもてなしを受けました。
今回は、思いがけない成り行きに渡りに舟と食いつくレオポルドたちが、その語にジューリオの正体に氣がつくことになります。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(21)修道院 -2-
マーテル・アニェーゼは、さまざまな焼き菓子を一同の前に置き、薬草入りの白ワインをすすめた。
「城下町に滞在なさるご予定ですか」
「はい。安全で心地のいい宿をいくつかご存じでしょうか」
マックスが訊いた。
「そうですね。この近くにもいくつかございますが、あの森の村人たちとかち合わないようにとなると、かなり町の中心まで行く必要がございますね」
修道院長は考えながら答えた。
ジューリオは、その会話を遮るように突然言った。
「ねえ。マーテル。いっそのこと、この人たちをここに泊めてくれないか? ここなら安全だし」
「まあ。でも、よろしいのですか? その……あなた様の……」
修道院長は、困ったように口淀んだ。
「少年のフリをしている女だとわかってしまう……と?」
レオポルドが言うと、2人は驚いたように見た。一行の誰も驚いていないので、どうやらとっくにわかっていたようだと、マーテルは肩をすくめた。
「もし懸念がそれだけだというのなら、今から城下町の中心まで行き、まともな旅籠を探すのも骨が折れるので、お言葉に甘えさせていただけるだろうか」
レオポルドは、マーテル・アニェーゼともう少し話をする機会を逃すつもりはない。
「そうですね。ここは修道院でございますので、申しわけございませんが、殿方様のお部屋と、奥方様のお部屋に分けさせていただきます。また、夕刻の祈りの時間には門の錠を締めさせていただきますので、あまり遅くまでの外出はできません。それでもよろしゅうございますか」
「もちろん異存は無い」
マーテル・アニェーゼは頷いた。
「それでは、どうぞ、ゆっくりとご滞在くださいませ」
レオポルドは、頭を下げた。
「ご親切に感謝します。もちろん相応のお代は支払わせていただくので、私の秘書であるこちらのマックスに申しつけていただきたい」
「私どもは旅籠ではございませんのでお代はいただきませんが、もちろんいくばくかでも寄進をいただければ幸いです。それでは、皆様のお部屋を用意いたしましょう」
マーテル・アニェーゼが立ち上がると、ジューリオも立ちラウラとアニーの横に立った。
「わたしも、今日はここに泊まるんだ。あなたたちの部屋には私が案内しよう」
「エレオノーラ様」
マーテル・アニェーゼは咎めるような声を出した。
「いいじゃないか、マーテル。ここでの私は下人みたいなものだろう」
「冗談はおやめください、姫様。それに、今日のあなた様は、お祈りのためにここに泊まるお許しをお父様からいただいたんじゃありませんか。トゥリオ殿の看病とお客様のお世話は私どもがしますので、あなた様は大人しくなさっていてください」
一同は、黙ってジューリオ、正しくはエレオノーラというらしい男装の姫を見た。
当人は、ため息をついて答えた。
「わかった。じゃあ、この人たちの世話は任せた。何といってもこの人たちは、私の、つまりトリネアの恩人だしな」
レオポルドとフリッツは、戸惑ったように目配せをしあった。
案内された部屋に入った途端、レオポルドはフリッツに詰め寄った。
「おい。まさか、あれがトリネア候女だっていうじゃないだろうな」
マックスも、「やっぱりそうなのか」と思った。
聖キアーラ修道院長マーテル・アニェーゼは、トリネアの有力貴族ベルナルディ家の出身だ。その彼女が尊い姫のように扱っているということは、あんななりをしていてもかなりの家柄の令嬢なのは間違いない。加えて、かの男姫は自分たち一行のことを「トリネアの恩人」と言った。
フリッツは、困ったように答えた。
「残念ながら、その可能性は高そうです。姫君の正式なお名前は、エレオノーラ・ベアトリーチェ ・ダ・トリネアでしたよね。そのうえ院長は姫様と呼んでいましたし。まあ、他に姫様と呼ばれる同名の女性がいる可能性もあるわけですが」
レオポルドは頭を抱えた。
「あれはないだろう。あんな粗忽な姫なんて見たことがないぞ。勘弁してくれ」
「1つだけ、陛下の出された条件に合ったところもありますよ」
フリッツは、慰めるように言った。
「何だ」
「御母后様とはまったく似たところがございません」
マックスは思わず吹き出しそうになったのをそっぽを向いてこらえ、レオボルドに睨まれた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(21)修道院 -1-
人狼と思われていた男トゥリオを救ったため、村人たちに報復される可能性のある道を避け、一行はジューリオと名乗った少年の案内で聖キアーラ女子修道院へと向かっています。レオポルドは本来の身分と名前を隠したまま修道院長マーテル・アニェーゼと知り合えると目論んでいます。
この修道院ならびにマーテル・アニェーゼは一度外伝でも登場しましたが、モデルは中世ドイツのヒルデガルト・フォン・ビンゲンです。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(21)修道院 -1-
森の道は、半刻ほど登り坂のままだった。それからわずかに下り勾配となった。足下が崩れやすいので、1歩ごとの時間がそれまでよりもかかった。道幅が広く、歩きやすくなってしばらくしてから、かなり大きい灰色の建物が木々の合間から見えてきた。
「あれがその修道院か」
レオポルドが訊いた。
「ああ、そうだ。すぐに着く」
ジューリオはそう答えたが、実際に壁面にたどり着くまでは半刻ほどかかった。ここの道もかなりの傾斜で下り、歩みは再びゆっくりとなった。木々は広葉樹ばかりとなり、若葉の色もずっと明るい黄緑で、明るく感じられた。
ようやく森から出て、石畳にも似た石盤が土の合間に敷かれた道を修道院の壁に沿ってしばらく歩いたところでジューリオは停まった。
「ほら、そこが裏門だ」
生い茂る蔦に隠れるように裏木戸があった。ジューリオは、辺りを確かめながら裏木戸を開けて、一行を塀の内側に入れた。
「ちょっとここで待っていてくれ」
そう言って、ジューリオは建物の中へと向かった。5人とトゥリオはその場に残った。
「なんだあれは」
レオポルドが眉をひそめて言った。フリッツが肩をすくめた。
「伝説の男姫でしょうか」
「《男姫》ユーリアは絶世の美女だったって話じゃないか。こっちは単なるちんちくりんだぞ」
レオポルドは吐き出すように言った。
それを聴いて、アニーが驚いてラウラに耳打ちした。
「あの方、女性なんですか?」
「そうみたい。でも、ここで大きな声でその話はしない方がいいわ」
ラウラはトゥリオを目で示しながら答えた。
しばらくすると、ジューリオが3人の尼僧と戻ってきた。背の高い女性には明らかに他の2人とは異なる威厳があった。彼女は一行に頭を下げると、レオポルドに話しかけた。
「当修道院の院長でございます。この度はとんだ災難でございました。この2人をお助けくださったとのこと、私からも御礼申し上げます。どうぞ中でしばしお休みくださいませ」
レオポルドは、頭を下げた。
「それはご親切にありがとうございます。お言葉に甘えて、すこし休息させていただきます」
尼僧たちは、下男たちを手配しトゥリオを手当てするため奥に連れて行った。レオポルドたちは、そのまま中庭へと案内され、そこで茶菓のもてなしを受けた。院長マーテル・アニェーゼとジューリオも一緒に座った。
塀に囲まれた大きな修道院は、俗世間から隔離されていることもあり、小さな城のような様相を示している。広い庭園にはたくさんの野菜とともに薬草になる植物がたくさん植えられ、蜂が忙しく蜜を集め、鶏も歩き回っていた。
修道女たちが心を込めて作ったパンや菓子の甘い香りが漂い、夏の熱い日差しを葡萄棚が遮る庭園での休息は非常に心地よかった。
「ラウラ様……」
アニーがそっと立ち上がりラウラの左に回った。見ると左手首に巻いたスダリウムが外れかけている。馬から下りるときにずれたのだろう。赤い皮膚の傷跡が見えていた。
ラウラがルーヴランでマリア=フェリシア姫の《学友》として代わりに罰を受けていた頃は、この傷が癒える間もなく次の鞭が当てられたものだが、グランドロンに来てからそのようなことはなくなり、傷は完全に塞がっている。だが、その痛々しい跡はもう消えることがないので、王都やフルーヴルーウー城では金糸の縫い取りのついた厚手の覆いをしている。だが、それは平民に相応しいものでもなく現在の服装にも合わないので、この旅の間は白いスダリウム布で簡単に覆うようにしていた。
アニーが、スダリウムを結び直している時に、ジューリオはその様子をじっと見つめていた。
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- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(20)人狼騒ぎ -1- (19.07.2023)
【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(20)人狼騒ぎ -3-
人狼を罠にかけてリンチしようとしている村人に、無謀にも立ち向かっていく少年を放っておけずレオポルド、マックス、そしてフリッツの3人は様子を見にいきました。(あいかわらず前作の主人公たる約1名は全く役に立っていませんが……)
かつて外伝で登場させたことのあるこの少年の格好をした人物は、歴史上の
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(20)人狼騒ぎ -3-
一番威勢のいい男が棒を振り上げて少年に向かって振り下ろした。ダガ剣がそれを受け止め、意外にもあっさりと男を後ろにはね返した。
「手加減してやったのに、この野郎!」
他の男たちも次々と少年に襲いかかる。そこそこ剣の腕前はあるようだが、多勢に無勢で明らかに少年の分が悪い。
少年に跳ね返された棒が1つ、マックスたち3人の近くに飛んできた。レオポルドは徐にそれを拾うと、一番近くの男の後頭部にそれを投げつけた。
「いてっ。何すんだ!」
振り返った男は、他にも3人の男がいるのにはじめて氣がついた。
「何だお前ら。人狼の味方かよ!」
レオポルドに向かって男が突進してきたので、すぐにフリッツが剣を抜いた。
「やり過ぎるなよ」
レオポルドの言葉に答えながら、フリッツは既に応戦していた。
「わかっていますよ」
6人の村人たちは、少年ひとりならともかく、鍛え抜かれたフリッツとレオポルドに敵うわけもなく、数分以内に全員が棒を失った。
「ちくしょう。1度退散だ。応援を呼んでこようぜ」
ひとりの男の声を合図に、6人ともほうほうの体で逃げ出していった。
少年は、急いで落とし穴に向かい、魚網をどけて中の汚い男に手を差し伸べた。
「トゥリオ! 探したぞ」
「申しわけございません」
物乞いでもこんなにひどい格好をしているものは珍しいと思うほどの男だが、驚いたことにきちんとした言葉遣いをした。
マックスは、急いで落とし穴に向かい、手を差し出して少年と一緒にその男を引っ張り出した。見ると男は足をくじいたのかまともには歩けない。
「あなた様にこのような危険を冒させてしまいました。到底許されることではございません」
「何を言う。もちろん助けるとも。兄上やペネロペが生きていたら、きっと同じようにしたはずだ」
少年と男の会話を聞いていると、どうやらこの男は人狼などではないだけでなく、ある程度の身分ある屋敷の家人のようだ。レオポルドたちは目配せをしあった。
「加勢していただき助かった。礼を言う」
少年は、3人に頭を下げた。トゥリオと呼ばれた汚い男もまた頭を下げた。
「大したことはしていない。だが、あいつらが戻ってくるまでに、ここを離れた方がいいな」
レオポルドが答えた。
「迷惑をかけて申し訳ない。そなたたちは旅人か」
少年は、訊いた。
「ああ、トリネア城下町まで行く予定だが……」
マックスが答えると、少年は首を振った。
「それはよくないな。この道を行くとあいつらの村を通ってしまう。私が別の道を案内しよう」
それで、一行は急いで馬に荷物を載せた。歩けないトゥリオはフリッツの馬に乗せ、一行は少年と一緒に歩いた。
「私はジューリオという。ここにいるトゥリオは追われている知人なのだが、この森に隠れていることを知り、救出に来たのだ。1人では助けられないところだった。そなたたちの加勢に、心から礼を言う」
「私は商人で、デュランという。そなた1人で立ち向かうのは無謀だったな」
レオポルドが言うと、ジューリオは俯いた。
「わかっている。相手の人数が多すぎた。でも、あのままにしていたらこの男は殺されてしまっていただろう」
「そうかもしれんな。……もっとも、遠吠えをしたり、羊をかみ殺したりしたというなら、公に裁いてもらっても同じことになった可能性もあるな」
レオポルドが言うと、ジューリオは色をなした。
「トゥリオがそんなことをするはずはない。人狼ではないんだから。目撃者なんてあてになるものか」
トゥリオは、申し訳なさそうに口をはさんだ。
「羊をかみ殺したりはできませんが、遠吠えの真似事はしました。村の子供たちが、面白半分に近寄ってきたことがありまして……」
一同は、馬上の怪我人を見つめた。ジューリオは呆れていった。
「じゃあ、人狼の噂が広まったのは、お前自身のせいなのか?」
「はい。もうしわけございません」
「たまたま近くに本物の狼が出たのも噂を広めることになったのかもしれませんね」
マックスがつぶやいた。
ジューリオはため息をついた。
「おかげでお前の居場所の予想はついたけれど……。でも、運が悪かったら、向こうが先にお前を見つけてしまったかもしれないんだぞ」
トゥリオは頭を下げた。レオポルドと顔を見合わせてから、マックスは訊いた。
「向こう?」
ジューリオは答えた。
「このトゥリオに人殺しの罪をなすりつけて亡き者にしようとしたヤツらだ。でも、それが誰だかはっきりしないので、このまま彼を連れ帰ることはまだできないんだ」
レオポルドは訊いた。
「じゃあ、そなたはいま、どこに向かっているのだ?」
「トリネア城下町の外、聖キアーラ会修道院に行く。院長は私の知りあいなので、トゥリオのことも匿ってくれるはずだ」
聖キアーラ修道院と聞いて、レオポルドとマックスは顔を見合わせた。かつてトリネア候女との縁談を持ち込んだのは、他ならぬ聖キアーラ女子修道院長のマーテル・アニェーゼだった。
身分を隠したままマーテル・アニェーゼやその近くの尼僧たちと知りあいになれるとは、トリネア事情を知るのに望んでも得られぬ好機だ。
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村の男たちが座っている円卓というのは、私の住むスイスやその他のドイツ語圏ではいまだによく見かけます。ドイツ語ではStammtischといって、ようするに常連たちがいつも集まる席です。特殊なパーティーやクラブ的に説明されていることが多いのですが、少なくとも小さな村では、会員権が必要とか、必ず決まったことをしているというわけではなく、ただ飲んでいるだけということも多いです。ここでは、そうした村の男たちがいつも集まって飲んだくれる場所をイメージして書きました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(20)人狼騒ぎ -2-
静かに食事をするレオポルド一行や、その隣の席の少年とは対照的に、円卓の男たちはアクア・ヴィタの盃を重ねるのに忙しく、食事は遅れ氣味だった。
「それで、どうやって捕まえるって?」
「それ、昨日説明しなかったか? いいか、よく聴けよ。ヤツはいつもこの店の余り物を狙って裏手にやって来る。で、俺様が昨日のうちに落とし穴を仕掛けておいたんだ。今はジュゼッペが見張っている。もしヤツがかかったら、俺たち全員で行って、投石して、傷ついたら殴って息の根を止める」
「飛びかかってこないのか?」
「ジュゼッペが上手くやったら、魚網を上からかけて、穴から出られないようにしているはずさ」
ラウラは、カタンという音がしたので隣の席を見た。例の少年は、ゴブレットをテーブルに置いたようだ。握りしめている手がわずかに震えている。
ラウラの視線を追ってマックスも少年を観た。フリッツもその視線を追う。少年は、思うところがあるようで、円卓の男たちの騒ぎを険しい表情で見ていた。だが強い酒を重ねながら騒ぐ男たちは少年の様子には氣がついていなかった。
「人狼だ!」
裏手から男が叫んだのが聞こえた。
円卓の男たちは、一斉に立ち上がって騒いだ。
「人狼がかかったぞ! 急げ」
「よし、行くぞ!」
男たちは、脱いでいた上衣を急いで身につけ、隅に立てかけてあった棒をそれぞれが手に取り出かける支度をした。
その間に、例の少年が静かに立ち上がり、黙って戸口から出て行った。少年の腰には細いダガ剣が刺さっていた。見るとテーブルの上にいつの間に用意したのか代金が置いてある。どうやらはじめからこの捕り物に加わろうと機を待っていたらしい。
「あいつらを阻むつもりかもしれないな」
レオポルドは小声で言った。あの視線の険しさは、人狼退治の男たちに賛同しているとは考えられなかった。だが、どう考えてもあの華奢な少年が、屈強な村人たちに敵うとは思えない。
レオポルドは、マックスに視線で支払いをするように促した。それを予想していたマックスは、懐から財布を取り出し、十分だと思われる金額をテーブルに置いた。
「巻き込まれない方がいいんじゃないですか」
フリッツが制する。ちらりとラウラの方を見てレオポルドは好奇心と危険を天秤にかけていた。
それを見て取ったラウラが言った。
「あの方を助けたいのなら、急ぎませんと……」
男たちが出て行って、店は急に静かになっていた。
「奥方様たちは、ここで待っているように」
レオポルドがそういうと、ラウラは素直に頷きアニーと共にその場に残った。荷物もあるし、馬もまだつながれたままだ。
レオポルドとマックス、そしてフリッツは、男たちの後を追って店の裏手に向かった。
かなり近くまで行くと、助けを請う男の声が聞こえた。
「やめてくれ」
「いまさら命乞いしても遅いぞ、人狼め」
「満月まで生かしておいたら俺たちを襲うつもりだろう」
数人の男たちは魚網で押さえつけ、他の男たちは殴りつけるための大きめの石を探している。
「やめろ!」
声がして、先ほどの少年が飛び出してきた。
「何だ?!」
男たちは、驚いて動きを止めた。
「やめてくれと言っているじゃないか。本当に人狼かどうかもわからないのに、裁判にもかけずに殺すつもりなのか」
少年は急いで落とし穴の近くに寄った。
「ふざけるな。こいつが人狼なのは、なんども目撃されていて確かなんだよ。遠吠えだって何人もが聞いているんだ」
「先月から、俺たちの羊がこいつに裂き殺されているんだ。満月が来る前に退治しなかったら、また被害が広がるだろうが」
男たちは、手に石を持って落とし穴の方に投げようとしている。
「やるなと言っているだろう!」
少年は、ダガ剣を構えて男たちと落とし穴の間に割って入った。
「何だ、お前。邪魔するならガキだからって許さないぞ」
男たちは石を捨てて、棒を構えた。
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ボレッタなる村での民泊を経て、ついに一行は目的地トリネア城下町が見えるところまでやって来ました。今回更新分に出てくる蒸留酒のモデルはグラッパです。当時、ワインが高価だったというのはモデルとなった中世ヨーロッパでも同じで、実際にイタリア語圏の庶民は残り滓に水を加えたヴィナーチェを飲んでいたようです。めちゃくちゃ強いお酒を「命の水」などと名付けるのはヨーロッパ各地ではよくあることなので、ここではそれを真似して名付けてみました。
今回、さりげなーくずっと出てこなかったあの人が登場しています。ま、もう誰も待っていないでしょうが……。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(20)人狼騒ぎ -1-
翌朝、一行はウーゴとその妻のもてなしに感謝して、ボレッタを後にした。ここまで来ると街道と森の中の「民の道」はほぼ並行となる。
街道といっても四輪馬車がようやく1台通れる程度のものだが、それでもトリネア城下町までのわずかな距離に2度も通行料を払う必要のある砦がある。馬車に乗らない貧しい旅人たちはその街道に沿って森の中を行った。その踏み分けられた場所が非公式の道となり、「民の道」と呼ばれていた。
マックスは人目につきにくいのでこの道を選んだが、実際には強い日差しを防ぐ快適な道である上に、平坦で楽な道のりだった。
「城下町はそろそろでしょうか」
フリッツが訊く。
「そうですね。あと半刻もすれば、《中海の真珠》を一望できる丘に到達します。今日はいい天氣ですから、実に印象深い光景を目にすることができるでしょう」
マックスは振り向いて微笑んだ。
トリネア侯爵領の中心であるトリネア城下町は、《中海の真珠》と讃えられている。丸いキューポラが印象的な堂々とした大聖堂と、ほぼ同じ大きさの城を中心に、こぢんまりとした印象ながら均整のとれた美しさで有名だった。
海から訪れるトリネアも格別美しいが、陸路でトリネアを訪れる者は、街道の谷道で突然現れる「見晴らしの丘」からの眺めに一様に心打たれる。それは、「民の道」から出て、その丘に立った一行にも同じく強い印象をもたらした。
「なんてきれいなところなの!」
アニーが思わず口にして、あわてて口を押さえた。自分だけがそんなことを言ってはしたないと思ったのだ。
けれど、それを恥じる必要はなかった。言葉も出ないほどにラウラはその光景に心打たれていたし、レオポルドも、それどころかフリッツまでもその絶景に言葉を失っていた。
レオポルドがそれまで見たことのある海は、戦で見た
沖は深く濃い青で、港に近づくにつれて明るい青ととも緑ともつかぬ色となる。その水面を、陽光が燦々と降り注ぎ、波の動きとともにキラキラと輝いていた。繰り返す波のリズムに合わせて白い波頭が踊る。
温暖で陽光に満ちた土地には、色鮮やかな花々が咲き乱れ、異国を思わせる南洋の樹木の間に白レンガの壁と赤茶けた屋根の家々が立ち並ぶ。
海を見ることも初めてであったラウラとアニーは、その美しさに心打たれ顔を輝かした。マックスは一同の反応に満足したように頷くと、再び「民の道」に戻り、トリネア城下町に向けて下りだした。
城下町にほど近い麓の小さな村に、かつてマックスが入ったことのある旅籠兼居酒屋があった。なかなか美味しい料理をわずかな料金で食べられたことを思いだした彼は昼食をとろうと中をのぞいた。
まだ正午にはなっていないこともあり、5人分の席はかろうじて空いている。奥から女将が愛想よく声をかけてきた。
「ようこそ、4人ですかい?」
「いや、馬をつないでいる者がいる。全部で5人だ。昼食、いいかい?」
「もちろんです。こちらへどうぞ」
案内された奥の席は、L字型の長椅子で5人から6人座ることが可能だった。
入り口近くには円卓があり、大声で話す男たちが5人ほど座って食事をしていた。女将や給女は冗談を含む軽口で対応していたので、おそらく常連なのであろう。
奥のマックスたちが案内された席と反対側に、2人用の席に1人で座る華奢な少年がいて、何か考え事をしているような様子でワインを口に運んでいた。長めの髪を後ろで縛り、濃い紅色のトゥニカを着ている。この地域ではカミシアと呼ばれる簡素なシュミーズに、非常短く露出の多いコタルディと呼ばれる上衣を身につけている若者が多いので、太ももの近くまで隠れるトゥニカ姿は少し古風に見えた。
少年がじっと見つめている先は、大きな声で話す円卓の村人たちだ。
「今日こそ、絶対に捕まえてやる」
「満月になる前に捕まえなきゃな」
「おう。あのふてぶてしいウチのカカアが、すっかり怯えているんだ。ここでいいところを見せてやらなくちゃ」
昼間だというのに、男たちは
ワインは貧しい庶民には高価すぎる飲み物で、ワインの残り滓に水を加えたヴィナーチェが一般的であった。物珍しさからレオポルドはイゾラヴェンナに泊まった夜に1度だけ頼んだことがあったが、顔をしかめて何とか飲み干し、2度と頼もうとしなかった。
一方で、このヴィナーチェを蒸留した強い酒は、ものすごく強いのだが深い味わいのある良酒で、ワインそのものよりも美味い。だが、昼に酔い潰れるわけにはいかないし、間もなくトリネア城下町が近づいており言動には注意しなくてはならない自覚もあるのでもちろん一行はアクア・ヴィタを頼んだりはしなかった。
この店に置いている薬草を加えたワインはなかなかの味で、裕福な商人を装っているレオポルドは、ヴィナーチェではなくこのワインを飲むことが出来たことに満足していたが、目立つ事を避け何度も頼むようなことはしなかった。
料理は、マックスの記憶と違わず美味で、わずかな肉であったが一緒に煮込んだ豆や栗がしっかりと腹を満たした。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(19)荒れた村 -3-
予想と違い妙に荒れている村ボレッタで、ウーゴという男の家に泊まることになった一行ですが、ここで村から人びとがいなくなった事情が語られます。
この物語でカンタリアと呼ぶ国のモデルはスペインです。その南のタイファ諸国とは、イベリア半島のムスリム諸国を指していると考えていただいて結構です。
この物語では、主要な舞台となった地域にはすべて架空の名前(例・グランドロン王国の王都ヴェルドン)を与えていますが、それ以外の場所に関しては、できるだけ実在した名称の別名を使うようにしています。例えば『聖地ヒエロソリュマ』とありますが、これはエルサレムのラテン語読みです。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(19)荒れた村 -3-
食事の時に、マックスは村の様子の変化についてウーゴに訊ねた。
「4年前とずいぶん様相が違っているようですが、いったいどうしたのですか」
彼は、ため息をついて答えた。
「レコンキスタですよ」
サラセン人に支配されている聖地ヒエロソリュマを奪還すべく十字軍の遠征が始まったのはレオポルドの曾祖父の時代だった。当時は多くの騎士が生死をかけたものだが、やがて参加者の動機が崇高とは言いがたいものに変わった。つまり、現地での略奪が横行しただけではなく、犯罪者が刑罰から逃れるために従軍する事が一般化してしまい、一般的に罪人の集まりと認識されるまでになってしまった。
教皇庁自体が十字軍を非難するようになったこともあり、今ではグランドロンでも、ルーヴランまたはセンヴリでも国策としての十字軍遠征は進めていない。
しかし、同じ半島内にサラセン人たちのタイファ諸国があるカンタリア王国では、いまだに「憎きサラセン人から国土を取り戻せ」との号令のもと
「ここはセンヴリ王国に属していると思っていましたが……」
マックスは慎重に言った。
非常に繊細な話題だった。レオポルドが自分の目で確認したいと言っていたことの1つに、どれだけカンタリア王国の影響が強いかというトリネア政治情勢があった。
ウーゴは肩をすくめた。
「もちろん、トリネア候はセンヴリ王に忠誠を誓っていますよ。奥方様がカンタリアのご出身だからと言って、カンタリアのために領民を供出したりはしません。……そういうことではなくて、その……、つまりですね」
歯切れが悪いウーゴを、その妻がつついた。
「別にあんたが悪いんじゃないんだし、言ってしまってもいいんじゃないの?」
「そうだな、お前の言うとおりだ。……つまりですね。15年ほど前に村の若者の1人がカンタリアに出稼ぎに行ったんですが、数年前に大層な金持ちになって帰ってきたのです」
ウーゴが語り出した。
「それは、レコンキスタでひと旗あげたということですか?」
マックスが確認した。
カンタリア半島南部のタイファ諸国にはサラセン人たちの美しい宮殿があり、その壮麗なことはグランドロンにも噂が届いていた。隅々まで色鮮やかなタイルと幾何学紋様の装飾で飾られ、絹と宝石で着飾った美しい女たちが黄金の茶道具を運んでくるというのだ。
「そうです。そして、彼はファゲッタに立派な屋敷を建てましてね。それを見た村の多くの男たちが、競ってカンタリアへと行ってしまったのです」
ウーゴは言った。
「だが、老人や女子供はどうしたのだ? 彼らもまたカンタリアへと向かったのか?」
レオポルドが疑問を呈した。
「いいえ。でも、働き手がいなくなり、栗を拾うだけでは生活が成り立たなくなったので、彼らの多くは子供を連れてトリネア城下町やイゾラヴェンナ、ファゲッタなどに遷りました。村に活氣がなくなったので、カンタリアに行かなかった者たちも、村から離れるものが出てきました。今では、この村に住んでいるのは10軒ほどです」
「トリネアでは、村人たちが自由に住む場所を変えられるのですね」
ラウラが訊くと、ウーゴの妻は首を振った。
「いいえ。もちろん自由民もいましたが、カンタリアに向かった男たちの多くは自由民ではなかったのです。ただ、この一帯を管理なさっているのはパゾリーニ家の方なので、いわゆる『事務手数料』をたくさん払いさえすれば管轄内の好きなところに家を建てたり、家業を変えたりすることも可能なのです」
マックスとレオポルドは、そっと目配せをした。グランドロン王都ヴェルドンの周辺はいうに及ばず、かつて代官であったゴーシュ子爵による腐敗がかなり進んでいたフルーヴルーウー辺境伯領ですら、ここまで身分制度がなし崩しになっていることはなかった。
トリネア候国に限らず、センヴリ王国に属する国々では、こうした制度の形骸化が激しいことを、マックスはこれまでの旅の経験で、レオポルドは伝聞で訊いていたが、まさか村がひとつ荒廃するほどだとは思っていなかった。
トリネア候国は侯爵家とその親族の他に、家令を務めるベルナルディ家や、オルダーニ家あるいはパゾリーニ家などの有力貴族の力が拮抗している。また、侯爵夫人の出身地であるカンタリア王国の影響も強い。港に強い興味があるとはいえ、グランドロン王家にとって、未来の女侯爵との縁談が賢い選択なのかどうか、十分に吟味する必要がありそうだと、2人は目で語り合っていた。
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早くトリネア城下町に着きたいがために、ファゲッタという少し大きな村では泊まらずに、森を越えたところにあるはずのボレッタを目指している一行ですが、いざついてみたら若干様子が予想と違ったようです。
今回の記述で栗の話が出てきますが、これはモデルにしたブレガリア谷やキアヴェンナ谷の名産品なのです。ただし、実際のスイスイタリア国境地帯とは違い、このストーリー上の地理では、地中海をモデルにした《中海》は《ケールム・アルバ》の麓まで食い込んでいる設定なので、一行は既にトリネア城下町までは馬で1日くらいの辺りまで来ています。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(19)荒れた村 -2-
ブナの森は深かったが、かなり広くなってきている川沿いに進んでいるために迷うことはなかった。やがて、栗の木が多くなってきた。栗の木はブナの木よりも明確に管理がされる。そのため村からの出入りも多く、道として踏み分けられている部分も広い。マックスの記憶によるとボレッタ村はもう遠くない。
「おかしいな。ずいぶんと荒れている」
栗のイガがたくさん落ちているが、中身が入ったままだ。この時期に栗の実は早すぎるので、去年のものだろう。大半は動物や虫たちに食い荒らされ、中には芽を出したものもあるがうまく根付かずに枯れている。
栗は腹持ちがよく保存性も高い。貴族のように豊かな食材をふんだんに食べられない庶民にとって栗は大切な食材だ。もちろんグランドロン王国の領土の大半では栗は栽培できないが、センヴリ王国やルーヴラン王国の南部、そしてカンタリア王国では栗が非常に重宝されていた。その栗が、このように放置されることは考えにくい。
村に入ると、やはり様子がおかしかった。もう日が傾きかけているのに多くの家の煙突から煙が出ていない。そうした家々の周りには雑草が生い茂り、人が住んでいないように思われた。
5人は注意深くあたりを観察しながら、村の中心に向かった。かつては数軒の旅籠がある村だったが、広場にも煙突に煙が上がっている家は少なく、旅籠の看板を掲げている家は見つからなかった。
しかし、これからトリネア城下町に向かうには遅くなりすぎる。これまではレオポルドの安全のために避けていたことだが、民家に泊めてもらうことを考えなくてはならなかった。
いくつかの煙の出ている家の中でも、庭がきちんとしていて塀なども崩れていない大きめの家をあたると、3軒目に5人を泊めてもいい家が見つかった。
レオポルドは民家に泊まったことなどはなかったが、子供の頃から出入りしていた王都郊外の村で、靴屋のトマスの家などに入ったことがあるので、今夜どのような部屋に泊まるのかの想像はできた。
トマスの家には、家族全員で眠る大きめのベッドが1つあるのみで、それも藁の上にシーツを引いただけだった。家財といっても食卓、ベンチ、長持ちくらいしかなかった。
長持ちには衣服、薄手の陶器、パン、塩などをしまっていた。衣服も粗末な毛、麻の生地、山羊や羊の毛皮で作ったもので、今、レオポルドたちが着ているような色鮮やかに染織した織物などは持たず、粗末ながらも晴れ着にしているわずかに上等な服やベルトなども親から子供に引き継いで大切にしていた。
5人を家に上げてくれたウーゴ夫婦の服装は、そうしたレオポルドが個人的に知っている貧しい人びとのそれよりはわずかによく、生成りの肌着の上に色褪せて灰色がかった青い上衣を着ている。
家は、入ってみると2軒分であった。つまりかつては別の家族が住んでいた方の家を旅籠代わりにした旅人を泊めているらしい。調度は古いが、そこそこ清潔で心地のいい部屋が2つあてがわれた。大きい部屋の方に男性3人が、小さい部屋にラウラとアニーが泊まることにして、荷を解くと母屋の食堂に集まった。
旅籠ではないので、立派な食事は期待していなかったが、ワインやパンも出てきた。そして肉を調理する匂いもしてきたので、マックスはホッとした。遍歴教師時代には、空豆かエンドウ豆と薄い粥だけの食事でも満足しなくてはならないことが何度かあったが、その時は変装した国王の付き添いではなかった。
肉は乾燥して味の凝縮された栗とともに煮込まれたもので、旅籠で提供される食事に負けぬほど美味しかった。客たちの讃辞に機嫌をよくした主人ウーゴは、奥から再びワインを持ってきて機嫌良く一行をもてなした。
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今回の記述では、モデルにした地域の名産品を使ってみました。「子豚キノコ」とはご存じポルチーニ茸のことです。ドイツ語では「シュタインピルツェ」すなわち「石のキノコ」と呼ばれています。ミラノ風リゾットを作るときにはいつも入れます。キノコの旨味って、格別ですよね。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(19)荒れた村 -1-
イゾラヴェンナを出て、旅の目的地であるトリネアまでの道中は狭い谷の小さい村々を通りながら進む。グランドロン王国に属する北側ほどの傾斜はなく旅は比較的楽で、ほぼ常に馬に乗って進むことが出来ていた。
「トリネア城下町にはいつ着くんだ?」
レオポルドは前を進むマックスに訊いた。
「そうですね。すぐ先のファゲッタで泊まれば明後日になりますが、きょう頑張って、もう少し先まで行けば、明日の昼にはトリネア港が遠くから眺められると思います」
マックスが考えつつ言った。
「もし奥方様らが疲れていなければ、『頑張る』のはどうだ?」
レオポルドが言うと、フリッツが言いかぶせた。
「ファゲッタの先にも、まともな旅籠がありますか」
「そうですね。最後の通ったのは4年ほど前ですが、『子豚キノコの森』と呼ばれるブナの大きな森を越えた所にボレッタという比較的大きい村がありました」
マックスが言うと、フリッツは安心したように頷いた。
「まだ先まで行っても大丈夫かい?」
マックスは、小さな声でラウラに訊いた。アニーの都合をフリッツが訊くとは思えなかったので、先まで進むかどうかはラウラにかかっている。
「もちろん私は構いません」
男性陣ほど騎乗に慣れているわけではないが、これまでの道中に較べれば今日の旅は楽だった。アニーもさほど疲れていないだろうし、騎馬に耐えられなくなったら彼女はさっさと降りて歩く方を選ぶだろう。旅の間に、アニーはフリッツに対してかなりはっきりと意思表示をするようになっていた。
それで、一行はファゲッタでは短い休息をとっただけで出発し、ブナの森に入っていった。
「『子豚キノコ』とはなんだ?」
レオポルドが訊いた。
マックスは、大きなブナの木の根元に生えている茶色い暈の茸を指した。
「それですよ」
「なんだ『石のキノコ』ではないか。それとも違うのか?」
レオポルドが訊いた。
「いえ。同じです。センヴリ語では『子豚キノコ』というのです」
「もうこんなに大きくなっている! やはりこちらの方が暖かいので、ずいぶん早いですね」
アニーは、子供の頃を思い出しながら驚いて言った。彼女の出身地であるヴァレーズでは、この時期に森に入っても、まだここまで大きくなっていなかった。
「お前、キノコに詳しいな」
フリッツが言ったので、アニーははっとした。貧しい民たちは、当然のように森番の目を盗んで茸を採っていたが、それは違法だった。
「た、たまたまです」
慌てるアニーに、特に氣づいたような様子もなくフリッツは続けて訊いた。
「家では、どうやって食っていたんだ?」
「え? 普通に、焼いたり、煮たり……」
聴いていた他の3人は、思わず笑った。この答えで、日常的に茸採集していたのが確定してしまった。誘導されたのがわかったアニーはむくれ、フリッツの方は上機嫌だった。
民衆が森で密かに狩りをしたり、木の実や茸を集めたりすることは、レオポルドやマックスにとってはすでに「しかたないこと」になっていた。
違法な狩りや採集は野生動物に襲われる危険とも隣り合わせでそれに対する保護もない危険な行為だ。それでも、せざるを得ないのは年貢や賦役による負担が多く、貧しく生活が苦しいからだ。
レオポルドとマックスは、ラウラに懇願されるまでもなく、そうした民の1人であったアニーを責める氣にはまったくならなかった。
為政者としては、民が餓死し年貢や賦役が途絶えるよりは、彼らが生き延びるために目の届かないところで法を破っている方が、都合がいいのもたしかだ。
森は広大で、木の実や茸は豊富にある。茸だけでなく、ナラやブナの実も豚など家畜の飼料にするだけでなく、不作の時は平民たち自身が食糧とすることもあった。
そうした事情を、マックスは放浪の旅で、アニーは生活を通して知ったが、王太子として不自由なく育ったレオポルドはもちろん、王都で育ったラウラやフリッツも知らなかった。
正規の教育は体系的で広範にわたった知識と近視眼的ではない物事の見方を可能にするが、世界は机上の理論通りには動いていない。旅の間の小さな見聞や、会話は、この世が王城で見える整った姿だけではなく、複雑で深淵な層が重なり合ってできあがっていることを教えてくれる。
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今回の話は、阿部謹也氏の著作にあったエピソードを下敷きにしています。完全に同じではありませんが、当時は国による障害年金のような仕組みはなく、それぞれの共同体の相互扶助や教会などがそうした役目を担っていたようです。制度の悪用とまではいきませんが、グレーゾーンを上手に使って厄介払いをされてしまった男の話です。ただし、どうあるのが本当にその人のためになるのかは、なかなか結論が出しにくいことなのかもしれません。それは現代でも同じかも。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(18)身体のきかない職人 -2-
そして、職人たちやマックスらに挨拶することもなく、部屋の奥にある腰掛けを目指して歩いた。それは非常にゆっくりとした動きで、杖にすがるようにして交互に足を踏み出していた。しかも杖をしっかりと握れているのは左手だけで、右手はだらんと垂れ下がり、座る際、テーブルに躓いたときにも右手でとっさに支えることができない体であった。
話をやめて男の様子を眺めていた職人たちの1人が、声をかけた。
「お前さん、どうしたんだ? 峠越えの途中で事故にでも遭ったのか?」
痩せた男は、こちらを見て、自分が注目されていることに氣がついた。そして、虚ろな目をして首を振った。
「いや。2年前に故郷をでたときから、ずっとこうなんだ」
男の言葉には、強いノードランド訛りがある。グランドロン王国の最北に位置する領国で、先王の代までルーヴラン王国に属していたので、職人たちは今でもルーヴラン語の影響の強い方言で話す。
「なんだって? その手足でグランドロン王国を横断してきたってのかい?」
「そうだ」
マックスは、おかしいなと思った。服装から考えると指物師のようだが、これでは仕事を得ることはできないだろう。親方資格を得るのに十分な修行ができないのであれば、苦労して遍歴をする意味はない。
職人たちも同じ疑問を持ったらしい。
「そんな状態で、遍歴を? なんで療養しないんだ?」
男は、悲しげに答えた。
「3年療養したんだ。でも、まったくよくなる見込みがなくって、組合はもう療養費を払いたくなかったんだろう。資格証明を作ってきて、遍歴に出させられてしまったんだ」
意味のわからなかったラウラが、そっとマックスの顔を見た。他の3人も同じような目つきで見ていたので、彼は小さな声で説明した。
「事故や病で働けなくなった職人たちの療養にかかる費用は、居住地の同業組合が負担する決まりになっているんです。でも、遍歴中の滞在費用や路銀支給は、行く先々の同業組合持ちですからね」
「親方になるための修行をしないとわかっているのに、遍歴のための資格証明を出すのはどんなものだ」
レオポルドが小さい声で訊いた。
「それを禁じる法律がない限り、違法ではないですが……」
マックスは、今回の件は自分の領地で起きた問題ではないので、わずかに余裕がある。一方、レオポルドは困ったような顔をしていた。
違法な税の搾取や、農業改善策のように、国政や法に関わる問題であれば目くじらを立てる必要があるが、少なくとも資格証明書が本当に故郷の組合で発行されたものならば、この男がここに数日泊まり、次の街への路銀を受け取ることは違法ではない。
この男が故郷に留まる限り、同業組合にはその生活と療養費を負担する義務があり、それを知る他の救済機関は支払いを肩代わりすることはないだろう。彼が生活に必要な金を手にすることができるのは、組合の望んだとおり異国を遍歴することだけなのだ。
ラウラは、かつてルーヴの貧民街で見た、死を待つばかりの貧しい人びとのことを考えた。当時のルーヴラン宰相イグナーツ・ザッカは低い声で告げたものだ。
「仕事のないものには、手遅れになる前に仕事を与えなくてはならない。食べるものを買えなくなってからでは遅いのだ。貧しさは悲惨さを呼ぶ」
あの足で旅をさせるなんて氣の毒だ、街にそのまま住まわせてあげた方がいい、そう言うのは簡単だ。だが、収入が途絶え、食べるものを手に入れられなくなれば、この男はあの貧民街の人びとと同じような身になるだろう。
「そちらのみなさん、そんなに憐れんだ目をなさらんでください。これでも、いつかは遍歴の旅に出て、他の国々を見てみたいと思っていた、かつての夢は叶ったんですから」
痩せた男は、ラウラたちのテーブルを見て、ぎこちなく笑った。
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今回から、現代風に言うと「国境を越えて異国に入った」状態になりました。フルーヴルーウー峠の南側はセンヴリ王国の支配下になります。モデルにしたのはアルプス越えをしてイタリアに入るルートですね。ここからは、センヴリ王国の支配下であるだけでなく、直接の領主はトリネア侯爵ということになります。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(18)身体のきかない職人 -1-
その日は、昨夜の寒さが嘘のように暖かく、イゾラヴェンナに到着した頃にはむしろ暑いといってもよいほどだった。《ケールム・アルバ》を越えてトリネア侯爵領に入った途端、フルーヴルーウー辺境伯領ではほとんど感じなかった湿度を感じるようになった。イゾラヴェンナは、標高でいえばフルーヴルーウー城下町よりも高いのだが、太陽の光はずっと強く感じられ、男も女も誰ひとりとして外套などは身につけず、袖をまくり上げて歩いている。
ギンバイカやオリーブ、そしてマンネンロウなど、《ケールム・アルバ》の北側では見られない植物がそこここに見られた。また、見上げるほど大きな栗の木がたくさんあり、緑色のイガがたわわに実っている。
イゾラヴェンナは、トリネア侯爵領では3番目に大きな街だ。大聖堂の立派な塔をはるか彼方からも見ることができた。
マックスは、貴族などが好む豪奢な旅籠のある大聖堂の近くを避け、トリネアの街に向かう街道にほど近い西側の地域に向かった。そこは職人たちの住む地域で、靴屋、毛織物工、染物屋、鉄工、石工、塗装工などの工場兼住居の他、同職組合の事務方を兼ねる特殊宿泊施設もいくつかあった。
開業可能な親方資格を取得するために、どの職業であっても職人たちは少なくとも3年以上の遍歴をしなくてはならない。その遍歴の間、生まれ故郷には足を踏み入れてはならず、故郷からの経済援助も得てはならないことになっている。
その代わりグランドロン、センヴリ、ルーヴラン各王国内の各組合は、同職組合からの正式な資格証明書を提示されれば、たとえその街での修業受入れ先を用意できない場合でも、2泊の宿と飲食ならびに次の街までの路銀を提供しなくてはいけないこととなっていた。
イゾラヴェンナの職人街は、各地から集まる遍歴職人たちの宿泊先を職業組合ごとに手配するのではなく、いくつかの組合が共同で大きめの宿泊施設を経営していた。この施設が満室でない場合は、組合に所属していない旅人も有料で宿泊することが可能だった。
既知の貴族たちと鉢合わせする可能性を避けるためだけではなく、あまり接点を持つことのない手工業者の世界を見てみたいというレオポルドの希望を叶えるため、マックスはこの宿泊施設または近隣の旅籠に泊まるつもりで案内した。
幸い宿泊施設はさほど混んでいなかったため、5人の宿泊を受け入れてくれた。ただし、男女同室を許可していなかったので、男性3人、女性2人に分かれて宿泊することになった。
ラウラと同室だと知らされてアニーは傍目からもよくわかる喜びようだった。その様子を見たフリッツはムッとした様相だった。
「なんだ。さんざん不平を言っておきながら『妻』と離れるのはいやなのか」
レオポルドが意外そうに訊くと、フリッツはさらに心外だという表情をした。
「そんなわけないでしょう。まるでいままで私があの娘にちょっかいを出していたかのような言い方をしないでください」
「ちょっかいを出すくらいの面白みがあればちょっとはマシな……」
「何とおっしゃいましたか」
「いや、なんでもない」
主従のやり取りを聞いていたマックスは、顔を背けて奇妙な咳をした。見ると笑いを堪えているようだ。
食事までの時間、一同は食堂に隣接されている居間で寛いでいた。その居間にはいくつかの丸テーブルとひじ掛け椅子が置かれていて、5人ほどの職人たちが意見交換をしていた。それぞれは異なった職業のようだが、それぞれの通ってきた地域についての情報は参考になるらしく盛んに質問し合っている。
「ヴォワーズ大司教領? いや、あそこは、毛織物工だけでなくて、今いかなる遍歴職人をも受け入れていないと聞いたぞ」
「本当か? ヴァスティエラは疫病で組合自体が閉鎖されたっていうし、センヴリ王国内で受け入れ先を探すのは難しくなってきたな」
「こうなったら、グランドロンに戻った方がいいのかもしれないぞ」
「とりあえずトリネアで探してみてダメならまた北上するか」
「トリネアからなら、そのままルーヴランに入るのもありかな」
職人たちの話を聞いていたマックスは、ラウラが戸口に視線を向けていることに氣がついた。その視線の先には、1人の痩せた男がひとりで立っていた。
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睡眠と食事のために立ち寄った峠のホスピスには、一行の正体を知る南シルヴァ傭兵団が滞在していました。幸いものわかりのいい女傭兵以外はまだ寝ていて出くわさなかったので、無事に秋からの仕事とのバーターで口止めをしたマックス。
今回は、全員との再会になります。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(17)峠の宿泊施設にて -2-
一同は昼までぐっすりと眠った。アニーは、フリッツに起こされた。
「いつまで寝ているつもりだ。お前が最後だぞ」
「えっ。申しわけございません、ラウラさま!」
アニーは寝ぼけて女主人に謝り、またフリッツに叱られた。
「こら。お前のご主人様は、『デュランさま』だろう」
支度をして食堂に降りていくと、ほかの客たちは既に食卓に着席していた。
「おお。こっち、こっちへどうぞ、『旦那様』」
ことさら大きな声で呼んだのは、あの南シルヴァ傭兵団の首領ブルーノだ。フィリパがしっかりと言い含めたらしく、「陛下」だの「伯爵様」などという発言は控えてくれている。
見れば、彼らの用意した5つの席以外は埋まっているので、そこに座らざるを得ないらしい。ブルーノの隣にマックス、副首領レンゾの隣にフリッツが座り、その間にレオポルドが座った。向かいにラウラとアニーが座ったが、それでラウラはフィリパの隣になった。
それとほぼ同時に、食事が運ばれてきた。
また、リネン類は清潔なものを使うように徹底され、利用者も食事前に手洗いをするように要求されるなど可能な限り疫病の巣窟にならないような工夫がされていた。干し肉、チーズ、フルーツなどに続き、豆のスープが提供される。
「なんだよ。またこのワインかよ。普通のワインはないのか」
レンゾが大きな声を出した。アロエの果肉入りワインは抗菌作用があり、聖騎士団も健康のためによく飲んだものだが、世間一般ではあまり受け入れられていない。
「ここにはこれしかないんだ。文句を言うな」
フィリパが低い声で言った。
いずれにしても、傭兵団の男たちは、味などわからないのではないかと言うほど大量に飲んで大騒ぎをしている。昼間だというのに、売春婦相手に卑猥な冗談をいう者もいて、アニーは思わず下を見て顔を赤らめた。
そうとうな喧噪の中、ブルーノはマックスに比較的小さな声で問うた。
「で、旦那がたは何しにここに?」
「なんでもないさ。ちょっとした酔狂だ」
「そんなわけないでしょう。ここの下男に聞きましたが、トリネアまで向かわれるらしいですね」
あのおしゃべり下男め。マックスは思った。
「君たちこそ、センヴリには仕事で行くのか?」
「そうなんですよ。実は、来月トリネアに枢機卿猊下がいらっしゃるんでね。幸い秋までは時間があるんで、行ってみようかと。ご自分では身を守れない坊さんたちの周りには、いつもいい仕事が転がっているんでね。顔つなぎができないかってわけでさ」
ブルーノが上機嫌で言うと、レンゾが慌てた顔をした。
マックスは、わずかに軽蔑のこもった目をして言った。
「つまり、枢機卿が割のいい仕事をくれたら、他に決まった仕事は放り出すってことかい」
すると、ブルーノは大笑いした。
「まさか。旦那、俺たちはそんな不義理はしませんぜ。決まった仕事は、きっちりやるんだ。だがねぇ。そういう態度なのは俺たちの方だけでね」
マックスが、わからないという顔をすると、フィリパが後を継いで説明をした。
「貴族の方々は、口約束はいくらでも反故にできるとお考えの方が多いんですよ。採用されなかったり、クビにされたりして、全員路頭に迷うような危険は侵せません。ゆえに大きな仕事については二手に分かれ半分の人員でこなします。そして、残りの半分は別の小さな仕事をこなしたり、新しいコネを探して積極的に売り込みに回るというわけです」
なるほど。マックスは頷いた。騎士たちと違い、傭兵団は使い捨てにしても構わないと思う領主たちは多い。彼らは平民どころか周辺民扱いであり、名誉なども重んじられない。本人たちも、尊重されることなどは期待しておらず、それゆえ報酬にしか興味がなく、忠誠心などはない。
だが、多くの似たような傭兵団の中でも、南シルヴァ傭兵団の評判は比較的よかった。要求する報酬は高いが、実力があることも知られており、従軍した戦いではほぼ負け知らずだった。
フィリパは、もの言いたげな口調で続けた。
「幸い、つい昨日のことですが、アテにしていた仕事のうちの1つは、確実にもらえる算段がつきました。それが始まるまでに全員でトリネアへ行き教皇庁に顔の利くようにしようと今朝決めたのです」
マックスは、軽くフィリパを睨み返した。『商人デュラン一行』の正体を吹聴しないでいてくれることを盾に脅されたようなものだからだ。
「ところで、5人だけで『買い付けの旅』をするなんて物騒じゃないですかい。よかったら、俺たちが護衛しますぜ」
レンゾがこれまた意味ありげにいった。
「君らの申し出はありがたいが、我々には護衛としてこのフリッツもついているし、私自身も、それなりに鍛えているんだ。身軽に旅をしたいので、ついてこられるのは遠慮したい」
商人デュランことレオポルドはきっぱりと断った。
いい金づるになると期待していたレンゾは、少しがっかりしたようだったが、すぐに氣持ちを切り替えて大いに飲み始めた。
一方、『商人デュラン一行』は、さっさと食事を済ませると、イゾラヴェンナに向けて出発した。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(17)峠の宿泊施設にて -1-
めちゃくちゃ寒い思いをした一行は、峠のホスピスでひと休みすることにしました。
そういえば、架空世界での話を書くときに、氣にしているのが度量衡の名称です。例えばメートル法は使わないようにしています。それだけで嘘っぽくなりますから。とはいえ、完全に架空の用語を散りばめると、読む方はそのスケールが想像できなくなります。なので、「なんとなくそれっぽい」用語を作り出すようにしています。この辺はあまりこだわらずにスルーしていただくとありがたいです。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(17)峠の宿泊施設にて -1-
1時間ほど歩いて、一行はフルーヴルーウー峠にたどり着いた。グランドロン側は2本の道がこの峠の3
巨大な山嶺である《ケールム・アルバ》を越える峠は東西にいくつもあるが、通年低地から全行程にわたり2頭だての馬に牽かせた4輪馬車が通れるのはフルーヴルーウー城下町からこのフルーヴルーウー峠を越えてセンヴリ王国のイゾラヴェンナに至る俗にいう《フルーヴルーウー街道》だけである。
たとえばルーヴラン王国のタタム峠は大きく宿泊施設も立派だが、王都ルーヴと結ぶ街道の中央に非常に狭く危険な《悪道峡谷》があり、荷をロバに載せ替え2日ほどかけて通る必要があった。一方、2輪馬車であれば通れるアセスタ峠は雪深く10月末から4月末までは通れない。
《ケールム・アルバ》にあるほぼすべての峠には、公的な
昨夜ほぼ眠れなかったため、マックスの提案で半日だけ宿泊用の部屋を借りて休み、昼食を食べてからイゾラヴェンナに向けて降りていくことにしていた。
その手続きをマックスがしている間、フリッツを除く3人は食堂で暖かい茶を飲んでいた。誰が聞いているかわからないので、お互いに何も言わずにいたが、しっかりと温まった食堂は心地よく、ほっとしていた。
フリッツは馬の世話をする下人たちに心付けを渡すために馬小屋にいた。下男の1人とともに彼が宿泊施設に向かうとき、旅立ちの支度を済ませた男とすれ違った。
フリッツは、その男の顔を覚えていた。おとといの旅籠でのことだ。旅籠の女将がその客が泊まることを拒否したのだ。服装をみればかなり裕福だと思われるのに、女将は「今夜はいっぱいで」と言っていた。だが、どう考えても宿には十分な余裕があり、断る前に女将がレオポルド一行をちらりと見たことから、何か理由があるのだろうと思っていた。
下男が男を振り返り、軽蔑を意味する舌打ちをしたのでフリッツは「なんだ?」と訊いた。下男は、はっとふり返り不躾な振る舞いを詫びてから言った。
「いまの男、立派な旦那様のように振る舞っていますが、ヴォワーズで刑吏としてしこたま儲けたヤツですよ。昨夜は傭兵団は泊まるわ、刑吏が来るわで、周辺民だらけでございました。旦那様がたが今朝到着したのは、むしろ幸運だったかもしれませんよ」
それゆえ、商人や農民などの単なる平民だけでなく、刑吏・傭兵・売春婦・異教徒など周辺民として蔑まれていた人びとでも分け隔て無く宿泊することができるようになっていた。
もちろん全行程を馬車で行くような貴族たちは、はじめからこの簡易な宿泊施設で一夜を過ごすことは予定していないが、馬の世話や休憩で立ち寄るため、平民たちとは区切られた若干豪華な食堂も用意されていた。
「傭兵団といったね。彼らはもう発ったのか?」
フリッツは、嫌な予感がして下男に訊いた。
「とんでもございません。ヤツら、昨夜遅くまで飲んで騒いでいましたからね。まだグースカ眠っています。なにやら、秋からはこの近くで仕事をするかもしれないとかで、ずいぶんと態度が大きく辟易しました。売春婦なども同行しているようで、目を覆いたくなるような醜態を晒しましてね。給仕の者たちはうんざりしておりました」
下男と別れて廊下を進むと、マックスが見覚えのある女傭兵と小声で話している場を見えた。フリッツは、泊まっていたのはやはりあの南シルヴァ傭兵団だったかと思った。彼を見るとマックスは「ああ」と手を挙げた。
女はフリッツを見ると「やあ」と言い、マックスに「じゃ」と言って立ち去った。
「頼むよ」
「わかった。ちゃんと皆に口止めしておく。その代わり、頼んだよ」
フリッツは、マックスのところに歩いていき、言った。
「あの女は、たしか……」
「フィリパというんだ。そこで出くわしたときには仰天したけど、いたのが話のわかるあの女だけで助かったよ。他の男たちは酔い潰れてまだ寝ているらしい。僕たちの本当の身分について仲間たちに口止めをして欲しいと頼んだ。秋からの仕事と引き換えなので、上手くやってくれるだろう。おかげで騎士ゴッドリーを説得しなくちゃいけなくなったよ」
マックスが手配したのは、5人で1つの部屋だった。単に仮眠をするだけだし、フリッツが警護上の心配をしなくても済むだろうと考えたからだ。部屋は簡素だが清潔で、マックスは、後で管理人に領地から慰労と賞賛を伝えようと思った。
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【小説】やまとんちゅ、かーらやーに住む
今月のテーマは、沖縄県八重山地方の『かーらやー』(古民家)です。
石垣島には大学を卒業する年に1度だけ行きました。正直言って、あの美しい海と竹富島観光のことしか記憶にないのですけれど、今回の作品を書くためにあれこれ調べていたら興味深い事がたくさんあって「ずいぶんと勿体ないことをしたな」と反省しました。
当時印象に強く残っているのは、「石垣の近くに寄りすぎるな、ハブが潜んでいるかもしれないから」と言われたことです。今回、ハブに関する話が出てくるのも、その時の印象に引きずられているのかも。この話もオチはありません、あしからず。

やまとんちゅ、かーらやーに住む
赤茶の瓦に
沙織は、静かに縁側に座った。縁側からは海は見えない。外壁には門のようなものはなく、代わりに門の奥に石垣と同じ素材で作られた
沙織の前夫である亮太だったら、ここに住むことには大反対しただろう。彼は名護市内のマンション暮らしにすら耐えられなかった。
そもそも沖縄県移住を提案して沙織を連れてきたのは亮太だった。そして、離婚とともに彼が内地に戻る時に、沙織が東京に帰ろうとしないことにひどく驚いていた。
「まさか、こんな所に住み続けるつもりか?」
亮太にとって、沖縄移住はリゾート滞在の延長線だった。移住に伴う多くの問題を対処できるか、彼は考えてもいなかったらしい。
半年にわたる強烈な湿氣、次々と襲い来る台風、賃金水準は低いのに、物価は東京並みどころか場合によっては高くつく。和食を食べられる店が少なく、面白いエンターテーメントも少ない。それらは、東京で少しネット検索すればわかることだったのに、亮太は本当に行き当たりばったりで移住を決めたのだ。
だが、沙織もまた沖縄について亮太よりもわかっていたわけではない。東京を離れて美しい海のあるリゾート地で暮らせるのだと喜んでいたのだ。
子供のいない若い夫婦として共稼ぎをしているが、沙織自身は移住で職探しをする必要はなかった。必要だったのはネット環境だけで、移住先の名護市でも問題なく仕事をすることができた。問題は亮太の方で、リゾートホテルで働く事のできた1年はよかったが、そのホテルが倒産してからはいくつかの仕事を渡り歩いた。
仕事が変わる度に亮太はすさみ、沖縄に対する不満も積もっていった。
少し遠くに飲みに行きたくても電車がないので行けない、お風呂に追い炊き機能がついていない、通販でものを頼むと送料が高すぎる、塩害で車が錆びた、治安が悪くヤンキーが多いなど、最後の方は毎日不満ばかり言っていた。沙織はそんな亮太にうんざりしていた。
彼の浮氣が発覚した時に、沙織はすぐに離婚したいと言った。やり直したくなるほどの情が残っていなかった。亮太は「お前がそんなだから、他の女に安らぎを求めたくなったんだ」と言った。沙織の収入なしに賃料が払えなかったので、彼は東京に戻ることを決めた。
沙織は反対に、沖縄本島を離れ石垣島に移住した。本土と較べて不便だし、人びとは閉鎖的だと忠告してくれる人もいたが、沙織はもともと引っ込み思案でエンターテーメントや物質的な便利さはさほど必要としないタイプだったので氣にしなかった。
最初は石垣市に住んだが、1年ほど前に縁あって島の北寄り集落にある古民家を格安で借りるチャンスに恵まれた。
折からの古民家ブームで、心地よく住める家はとてつもなく高い賃料だというのが常識となっている。けれど、沙織には偶然が味方した。
亮太と離婚して戻した旧姓の宮里は、沖縄によくある姓だったので、あきらかに
そしてもう1つは、沙織が亮太のように東京の生き方に固執しないで、島の人たちのやり方を受け入れ、仲間に入れてくれないことに関しては氣にせずに放置することができたからだ。しま言葉は永久にわからないだろうし、完全に島民として扱ってもらえることもないだろう。
それで十分なのだ。
この家に住まわせてくれるのも、大家が沙織のことを格別に思ってというわけではない。この家に、仏壇があるからだ。
先祖崇拝の風習の残る沖縄では仏壇のある家は小さくても本家の扱いだ。普段は沖縄本島や、市街地のある島の南部にそれぞれ住んでいても、旧暦の正月やお盆には家族がその家に集まる。しかし、普段は誰も住まない家は傷む。湿氣の多い沖縄はことさら家が傷みやすい。
沙織は、石垣市のアパートに住んでいたときに、大家に自分の生まれた『かーらやー』に住むのはどうかと打診された。家賃はとても安い。トイレと風呂が母屋にはないがそれも氣にならない。
沖縄の他の多くの古民家と同じように、この家の南側には、床の間のある一番座と仏間のある二番座がある。北側の裏座はプライヴェートな居住空間だ。日差しが入りにくいので日中でも少し暗いのだが、夏の蒸し暑い中でも比較的快適に暮らせる。
名護のマンションや石垣市のアパートと比較して、この古民家はずっと過ごしやすい。琉球瓦は熱を反射し、断熱効果が高い。また丸い形と平たい形をした2種類の瓦を組み合わせ漆喰で固めてあるので雨漏りは一切せず台風の強風にも強い。木造家屋にこの特殊な屋根を組み合わせた平屋は、古くても頑丈で快適なのだ。
年に数回、大家の家族が集まり、一番座と二番座で宴会をする。沙織はしばらく参加してもいいし、その時だけどこかに旅行することもある。最近のお氣に入りの過ごし方は、高価なリゾートホテルに滞在し、ビーチを眺めながらカクテルを飲むことだ。
それ以外は、誰にも邪魔されることなくこの家で静かに暮らしている。近くにスーパーマーケットの類いはないので、必要に応じて10日に1度くらい南部の市街地に買い出しに行く。
仕事をするために通信だけは整っていないと困るのだが、幸い光通信が通っている地域で、初期工事費を自分で持つと申し出たら、大家はあっさりと導入を許可してくれた。それどころか工事費も持ってくれたのだ。「息子たちが大賛成だというのでね」と。
庭にはバナナの木が植わっているし、小さな畑もあって、沙織は生まれて初めて家庭菜園にも挑戦してみた。と、いっても自給自足を目指しているわけではなく、台風が続いてスーパーの棚が空になるときや、買い物に行くのが面倒なときに足しになればいいか程度の動機からだ。本土ではあまり見ない島野菜の方が手間がかからずに育つ。タマナーとも言われるシャキシャキしたキャベツ、スターフルーツみたいな変わった見た目のうりずん豆、エンツァイと呼ばれる空心菜、失敗の少ない島オクラなどの他、スーパーで買ってきて食べた豆苗やネギの残った苗部分を再生するのにも使っている。
オシャレな服を買うような店はないが、そもそもリゾートホテルに行くときでもないとしゃれた服は必要ないので、新しく服を買う必要性も感じない。映画館や美術館などもないのだが、デートをする相手もいないので、特にそうした施設が必要にはならない。こんなライフスタイルであることを見抜いたので、大家もこの家に住むことを提案してきたのかもしれない。
休みの日には、朝から散歩をするような氣軽さで海へと歩いていく。赤・黄・ピンクのハイビスカス。濃いピンクのブーゲンビリア、パパイヤやバナナの木。近所には、あたりまえのように南国の植物が植わっている。石垣やシーサーは青空に映えて、南国にいるんだなあとしみじみと幸せを感じる。
今日はいつもと違い、4月なのに夏のような日差しだったので、昼に帰ることはやめて、1日をゆっくりと海辺で過ごした。夕焼けにオレンジに染まった家々や南洋の花を楽しみながら歩く帰路は、いつもとは違う美しさだ。
「ぱんな」
声がしたので振り返ると、背の高い男が沙織に話しかけていた。
「えっと……」
沙織の口調から、方言がわからないとわかったようで、男は言い直した。
「そっちに行かないでください。ハブの目撃情報があったので確認しているんです」
沙織は驚いた。4月なのにもうハブ?
「ええっ。スプレー、まだ買っていない……」
自宅に出てきた時の対策として、噴射するタイプの駆除スプレーを去年は大家が持ってきてくれたのだが、まだ一度もでたことがない上、まだ4月なので今年は油断して自分で用意するのを忘れていたのだ。
男は、不思議そうに彼女を見てから訊いた。
「もしかして、この近くに住んでいるんですか?」
「ええ。この道の突き当たりの比嘉さんのお家を借りています。石垣は対策補修されていますが、
男は、振り返って坂の上を見た。
「あそこですよね。街灯が正面を照らしているので、まず大丈夫でしょう。でも、心配だったら、あとで駆除スプレーをお届けしましょうか」
沙織は、大きく頷いた。
「そうしていただけたら、助かります。すみません」
男は、笑った。
「氣にしないでください。じゃあ、お家まで一緒に行きましょう、私の後ろを歩いてきてください」
沙織は、頭を下げた。ハブ駆除の専門家だろうか。夕方とはいえまだけっこう暑いのに、長袖長ズボンの作業着で全身をしっかり覆っている。
手には捕獲器を持っているし、この人といるならハブが出てきてもなんとかしてくれそう。でも、もし現れても悲鳴を上げて蛇を刺激しないようにしなくちゃ。沙織の緊張がわかったのか、男は再び笑った。
「そんなに怖がらなくても道の真ん中を歩いていれば大丈夫ですよ。まだ十分明るいですし、向こうから出てくることはほとんどないでしょう」
「はい。もともと東京育ちで、それに一昨年までは市街地に住んでいたので、慣れていなくって。ハブがでることがちょっと怖いんです」
家の前に来たので、少しホッとしながらいうと、男は頷いた。
「そのぐらいの方がいいんです。サトウキビ畑に入っていこうとしたり、夜にふらふらで歩くような油断をすると、ちょっと危険ですから。じゃあ、後でスプレー、お届けします。車の中にあるので、20分くらいですね」
沙織が頭を下げて、確認をしつつ歩いていく男を見送っていると、隣家の伊良部のお婆さんが出てきた。
「
「くよなーら、伊良部さん」
まだ伊良部おばぁと呼ぶ勇氣は出ない。
伊良部おばぁは首を伸ばして、道を観察しながら去って行く男の後ろ姿を見た。
「おや。……もうハブがでたんだね。暑かったからねぇ」
「あ、ご存じの方ですか」
「向かいの平良やんの孫だよ。昇っていうんだ。他の兄弟はやまなぐーだったけど、あの子だけはまいふなーだったでなー」
沙織が「?」という顔を見せたので、彼女は「
伊良部おばぁは、慣れない標準語を探しながら、ゆっくりと話した。
「だっからよー、あの子は、やまとぅ言葉で『大人しい』だったかね。でも、肚が座っているから、ハブが襲ってきてもなんでもなく捕まえる。あの調子で嫁さんも捕まえられればいいのに、そうはいかないみたいだねぇ。わー、どうばぁ?」
沙織は、滅相もないと首を振った。離婚のことは面倒なので話していない。だから、いい歳してこんなところでグズグズしている晩熟娘だと思われているのかもしれない。
「そんな……あちらに失礼ですし……」
伊良部おばぁは、はははと笑った。この程度のことを真に受けるなとでも言いたげだ。どうもまだ会話の受け流しはうまく出来ない。
「あ、ほれ、これはたくさん作ったチャンプルーよ、
「あ。いつもありがとうございます」
今日も、いただいちゃった。島豆腐チャンプルー。沙織が作るのと格段違ったものは入っていないのに、伊良部おばぁが持ってきてくれるお惣菜は、なぜだかとっても美味しいのだ。
沙織は、ハブのこともすっかり忘れて米を洗い出した。日が暮れて辺りは暗くなった。東京では見たことがなかったほどの満天の星空が、『かーらやー』の赤瓦の上に広がっているはずだ。この家にたどり着くまでの、いくつかの住まいを思い出して、ここほど心地がいいと感じた場所はなかったなと微笑んだ。
「すみません」
一番座の方から声が聞こえる。あ。さっきの人だ。スプレー缶、持ってきてくれたんだ。
先ほどの男が、生真面目な様子で立っていた。手には駆除スプレーを持っている。
「すみません。本当に助かります。おいくらですか」
沙織が訊くと、彼は首を振った。
「お代はけっこうです。万が一、使うことがあったら、ここの名刺の代表に連絡してください」
市の環境課の名刺で先ほど伊良部おばぁが言っていたとおり平良昇という名が印刷されていた。頭を軽く下げると、昇は去って行った。
ハブ捕獲の専門家とは別に親しくならなくてもいいんだけれど、市のお役人がああいう感じで仕事熱心なのは好感が持てるなあと、沙織は考えた。
伊良部おばぁのチャンプルーは、どうしてこんなにごはんが進むんだろう。豚肉の風味だけでなく今日は島タケノコも入っていて香り豊かな上歯ごたえも楽しい。
母屋にはないトイレやお風呂、玄関も入り口の鍵もない『かーらやー』にいつの間にか故郷のようになれてしまったのと同様、八重山の味にもすっかり馴染んだ。台風と湿氣に悩まされ虫とハブに怯えることはあっても、美しい海と満天の星、南国の花や果物のあふれる島の暮らしは、とても心地よい。
きっとこのままこの島に住み続けるんだろうな。沙織はぼんやりと考えながら、チャンプルーを口に運んだ。
(初出:2023年4月 書き下ろし)
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(16)凍える宵 -4-
この旅の中間地点であるフルーヴルーウー峠まであとわずかというところで、一同は悪天候に見舞われました。雨宿りをした小屋で結局ひと晩過ごすことになり、8月とは思えぬ寒さに震えています。
前作の連載を終え、このメンバーで旅をする続編を書こうと思いついたときから、このシーンは入れようと考えていました。
スイスに住むようになって印象的だったことの1つに「アルプス山脈は、ヒマラヤ山脈などとは違い、みな氣軽にハイキングやマウンテンバイクで越えてしまうこと」がありました。その一方で、峠程度といっても標高がそれなりにあるので、夏でも寒いのです。この感覚は、初めて旅をする面々には体験してもらわねばと思っていました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(16)凍える宵 -4-
「外套も、そろそろ乾いている。必要ならこれも着るといいでしょう」
フリッツは、それぞれに外套を渡した。
ラウラに外套を羽織らせてアニーが腰掛けると、ラウラは自分の膝の上にかかっている上掛けを彼女の膝にも載せた。
「そんな、ラウラさま。私なんかに……」
「アニー。いまの私は、あなたと同じく平民なのよ。一緒に暖まりましょう」
そのさまを微笑ましく眺めてから、レオポルドたちは、この山越えについて話を始めた。
「後悔なさっておられるのでは?」
フリッツが単刀直入に訊いた。平民のフリなどをしなければ、少なくとも雨になど濡れない馬車で峠の宿泊施設にたどり着いたはずだ。
レオポルドは肩をすくめた。
「戦で野営もしたではないか」
「あのときは、陛下用の寝台をお持ちしましたよね」
「わかっているさ」
それに戦の野営とはいえ、国王が寒さに震えるようなことはなかった。それだけ、ついてきた臣下や従者たちが、彼のために心を砕いたということだ。彼のための毛皮の敷物、寝具、簡易囲炉裏などが彼の天幕に用意されていた。『裕福な商人デュラン』が持てるようなものではなく、今回の旅でレオポルドが期待していたものでもない。
レオポルドは言った。
「ふかふかの寝床に包まれて眠ることだけを望むなら、フリッツやモラたちの言うとおりに王らしい旅をしていればいいのだ」
マックスは答えた。
「わざとこのような厳しいところにお連れしたわけではありませんが、民の中には眠れないほど寒い夜を過ごしたり、薄い粥以外食べられない人たちも珍しくありません。目で見るだけではなく、実際に肌で感じることも、陛下のおっしゃっていたさまざまな階級を知る1つの手立てとなるように思います」
レオポルドも、一同も頷いた。地図上で行程を考えるのと、今日の昼に登ったような道を実際に行くのは違う。冬にまともな暖房もない小屋で凍える民の話も聞いたことはあるが、実際に自分たちが眠れぬほど寒い思いをするのは話が別だ。
同時に貴族としての煌びやかな服を着たままで市井の人びとの本音を聞くことも難しい。この数日間、レオポルドはこれまで目にし耳にしてきたこととは異なる民の生活を体感してきた。
「そなたが見てきたものを、この短い旅ですべて見られると思っているわけではない。だが、少なくともまったく想像もつかないのと、わずかでも経験するのでは違う。そうだろう?」
「そうですね。例えば、我々にとってこの夜はたった1晩の経験に過ぎませんが、この生活しか知らぬ民がいると想像できるのは、為政者たる我々にとって悪いことではないですね」
ラウラが訊いた。
「ここは、夏でもいつもこんなに寒いのですか」
マックスは頷く。
「朝晩は、常にヴェルドンの真冬くらいに寒くなる。日中、陽が射せば照り返してかなり暑くなるけれど、悪天候の時は8月でも雪が降ることもある」
これほど粗末な設備にもかかわらず、馬用にも屋根のある小屋が用意してあったのは、夏でも寒すぎる夜のせいだった。
結局、5人は少しウトウトしただけで、深く眠ることはなかった。このままここに留まるよりも、夜明けとともに出発し、峠の宿泊施設で暖を取り、きちんとした食事を摂ることをマックスは奨め、4人はそれに同意した。
雷雨は夜更けに止み、雲のなくなった空には何万という星が輝いていた。明るい白と紫、そして紺色が混じる《乳の河》が強い光を放っているようだった。
東の空は少しずつ色を変え、稜線が赤く光り出す。湿氣が霧のように溜まっている。そこにやがて橙色から黄色へと色を変えていく光が見えて、太陽が上がってきた。
その神々しい光を見てから、5人は峠への道を歩き出した。分岐点まで戻ると、辺りはすっかり明るくなり、すっかり濡れた下草が宝石のごとく輝いているのを見て、昨夜の雨の激しさを思い起こした。
朝焼けに十字架のシルエットが浮かび上がっている。下方に見える昨日通り過ぎた湖が赤と金に輝いている。ピーピーと動物の声が響いている。マックスが岩の合間を指さした。
「マルモルティーレだ」
リスに似ているが仔猫くらいに大きく丸々と太った動物が岩の中に急いで飛び込み身を隠す。その横を鷹が通り過ぎていく。
「なんて可愛いの! 初めて見たわ」
アニーがマルモルティーレをよく見ようと身をよじった。
「おい。突然そんな風に暴れると、落馬するぞ」
フリッツが強引に彼女の姿勢を正した。
「なんてことを! 私は幼児じゃないんですから、女性らしく扱ってくださらないと」
「幼児とどこが違うんだ。慎ましく座ってもいられん癖に」
レオポルドとマックスは「またじゃれ合っている」といいたげに顔を見合わせた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(16)凍える宵 -3-
この旅の中間地点であるフルーヴルーウー峠まであとわずかというところで、一同は悪天候に見舞われました。今回の記述は実際に中世ヨーロッパの山越えがこうだったというわけではなく、私の知っているいくつかの知識を組み合わせての創作が入っています。
この国に来てから、中世から前世紀までのさまざまな風物を近しく目にする機会に恵まれました。お城の豪華な調度などはネットなどでいくらでも調べられる時代になりましたが、貧しく面白そうでもない市井の人びとの暮らしの痕跡は、ネットや急いだ旅行などではなかなか見聞することが出来ないので、偶然目にしたり話を聞いたりしたときには、いつ使えるかわからなくても、できるだけ写真を撮ったり書き留めておくようにしています。今回はそんな情報が少し役に立ちました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(16)凍える宵 -3-
マックスは馬を止め、方向を転換した。
「どうするのだ」
レオポルドが訊くと、先ほどの分岐点を指さした。
「このまま峠まで行くのは無理です。雨宿りをしましょう」
分岐点の脇から岩にほぼ隠れている細い道を進んだ。そこは珍しく低木がいくつかある場所で、奥が見えていなかったが、しばらく行くと開けた平らな場所が見えてきた。滝にほど近く、粗末な小屋が3つほど並ぶ場所があった。
1つは馬小屋で、残りの2つは人用の小屋になっていた。馬をつなぐと、5人は1つの小屋に入っていった。
天井の低い小屋には誰もいなかった。寝台や腰掛けになりそうな台がいくつか並ぶ以外は、調度らしい家具もほとんどないが、火をおこす場所はある。
マックスは、木の窓覆いを開けて、とりあえず内部に光を入れた。激しい雨は、ますますひどくなっており、稲光が時おりあたりを明るくする以外は、辺りを天幕のように降水が覆っていた。このまま進まずに済んだことをラウラはホッとして辺りを見回した。でも、ここは誰かの所有なのだろうか。
マックスが言った。
「誰でもここに入ることは許可されているんだ」
「ラウラさま。このままではお風邪をひきます」
アニーが、ラウラに近づき外套を脱がせようとした。
「大丈夫よ、アニー。1人でできるわ。それよりも陛下の方を」
「外套くらい、ひとりで脱げなくてどうする。……といっても、どこで乾かすのがいいだろう」
レオポルドが、外套を手に持ち見回した。
「お待ちください」
マックスは既に火をおこす準備に入っている。フリッツは、3頭の馬にくくり付けてあった荷物を1つずつ小屋に運び入れている。
小屋の外に積んであった薪を暖炉にくべ、隅に山のようにまとめてある藁を少し置くと、マックスは火をおこした。アニーは暖炉脇の杭にそれぞれの濡れた外套を引っかけた。
「ここは簡易宿泊所のようなものか」
全員がひと息ついて火の周りに座ると、レオポルドが訊いた。
「はい。旅籠や峠の宿泊施設や修道院と違い、人はいませんが緊急の場合に旅人が寝泊まりすること、薪や藁を使うことは許可されています。ただし、追い剥ぎなどには自分で対処しなくちゃいけないんですが」
「ということは、今夜はここで寝るんですね」
フリッツが確認した。
「すぐに雨が止めば、峠の宿泊施設まで行けますが、このまま夜半までこの調子であれば、ここで1泊するしかないでしょうね」
激しい雷雨は、全く止む様子はない。大きな雷鳴のとどろきに、アニーは耳を押さえて小さな悲鳴を上げた。ラウラはそっとそんな彼女の肩を抱いて力づけた。
他の旅人がやって来てもいいように、フリッツの運び込んだ荷物は隅の1カ所にまとめ、暖炉からさほど遠くないところに、寝床を作ることになった。
入り口近くの隅に山になっている藁を何回かに分けて運び、1人眠れる程度の小山にすると、その上にやはり隅にまとめてあった布をかけた。旅籠のリネンのように使う度に清潔に洗濯することを期待することは全くできないが、少なくとも藁の上で直接眠るよりは快適になるはずだ。いずれにしてもこの寒さの中眠るとしたら、いま身につけている服装のまま横になることになるので、旅籠の寝具と比較する必要はなかった。
「今はとても冷たく感じるかもしれないが、藁は人の湿氣で温度が上がるので、眠っているうちに少しは暖かくなると思う。といっても、快適な夜は期待しないでくれ」
マックスが、アニーとラウラに説明した。
夜半を過ぎても雨は衰えることなく降り続け、一行は持参したパンに干し肉とチーズの夕食を取った。レオポルドとラウラ、そしてアニーは少し赤ワインを飲んだが、フリッツとマックスは飲まなかった。
「今夜は、2人交代で火の晩をします。ぐっすり眠るわけにはいきませんからね」
深夜、マックスがフリッツと静かに交代し、熾火を動かしていると、レオポルドが起き上がってきた。
「どうなさいましたか。お休みになれませんか。藁の積み方を少し変えましょうか」
フリッツが訊くと、レオポルドは首を振ってやはり囁き声で返した。
「いや、寝床の快適さが問題というわけではない。単に目が覚めたのでな」
ガサッと音がしたので振り向くと、ラウラとアニーが共に起き上がっていた。
「そんなにうるさくしてしまいましたか」
フリッツが申し訳なさそうに言うと、女性陣は共に首を振った。
「うるさかったわけではありません。ずっと半分起きたままでした。その……」
ラウラが言いよどむと、アニーがはっきりと言った。
「ラウラさま。お寒いのでしょう。私の上掛けを……」
マックスが暖炉の前に場所を作っていった。
「陛下、皆も、こちらに来て少し暖をとるといいでしょう」
全員が、それぞれ上掛けを羽織り、火の周りに集まった。暖炉の上に置かれた鍋には湯が沸いていた。アニーがそれぞれに暖かい湯飲みを渡した。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(16)凍える宵 -2-
今回の記述の大半は、中世に関する文献から得た知識だけではなく、現代の私がアルプス山脈を越えるときに見聞きしたものをアレンジしてあります。(完全に同じというわけではありません。《ケールム・アルバ》はあくまで中世ヨーロッパ風の架空の場所です)
4つの石のピラミッドは、中世では実際に道標の役割を果たしていたそうですが、現代では使われていません。現在はきちんと道標があるか、もしくは赤白の旗のようなマークがその代わりに見られます。
樹木が生えなくなるのは、およそ標高2000メートルです。ここまで来ると峠まであと少しですね。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(16)凍える宵 -2-
「陛下の馬の手綱も、私が」
フリッツは言ったが、レオポルドとマックスに視線で制された。道は狭く、2頭の馬に挟まりフリッツが歩くような幅ではない。
一番前をマックスが、続いてラウラとアニーが、その後ろをレオポルド、最後は背後を守りながらフリッツが歩くことになった。
マックスが言ったとおり、しばらく険しい道を歩くと、草むらと言っていい平坦な野が現れた。再び馬に乗って進んだが、半刻もしないうちに、ふたたび険しい岩道を進むことになった。
それぞれが太い枝を杖がわりにして歩いた。転んだり、躓いたりしないためにも必要だったが、蛇などに噛まれるのを避けるためにも必要だった。
「危険な蛇と、そうでない蛇の簡単な見分け方を知っているかい?」
マックスに訊かれて、ラウラは少し考えた。
「頭の形や柄でしょうか?」
レオポルドとフリッツは顔を見合わせて、肩をすくめた。蛇に噛まれる危険のあるところを長く歩くのは初めてだ。
「基本はそうだ。怖れなくてはならないのはクサリヘビの仲間のアスピ蛇、つぎに十字クサリヘビだが、実は、これらの毒蛇にそっくりな大人しい蛇もいる。正確には目の形でたいてい見分けることが出来るんだ。縦に細長い目をしていたら、それは真に危険な毒蛇だ」
マックスは、遍歴教師らしく説明した。
それはもちろん興味深いのだが、現在自分が噛まれるかもしれないという恐怖を減らしてくれる情報ではなかったので、アニーが思わず声を上げた。
「でも、目の形なんかわかるほど近くに行ったら……!」
マックスは、杖代わりの枝で、前方の草むらや岩を派手に叩きながら言った。
「その通りだよ、アニー。だからこうやって、かなり前から大きな振動を与えて、蛇が危険を感じるほどこちらに近づかないようにしているんだよ」
それから、アニーが必死になって大きな音を立てながら進むので、一同は笑った。
やがて、そうした深い草むらは少なくなり、馬に乗って進める地域が増えてきた。以前はフリッツと同じ馬に乗ることを嫌がっていたアニーが、大喜びで馬に乗ろうとしたので、一同は再び笑った。
途中で、マックスは再び砕石が多い急傾斜の道を選んだが、もっと楽そうな谷川の草むらを見て、フリッツがなぜそちらの道を選ばないのか訊いた。
「どう見ても楽そうな道に、まったく人が踏み分けた後がないのが分かりますか」
「はい。なぜでしょうか」
マックスは先に見える川の湾曲を指さしながら説明した。
「これは、危険な道だからですよ。おそらくあちらは沼になっています。旅人は、できるだけ楽な道を行こうとし、その思いをくじかれて戻ることを繰り返して、行ってはならない道を見分ける術を学ぶのです。これをご覧なさい」
険しい岩道の手前に4つの石が小さなピラミッド状に積み上げられている。
「これは、ここを通る旅人たちからの奨めです。ここには道標のようなものはありませんが、同じ旅をした先人たちからのメッセージが、次のこの道を通る者たちを正しい道に導いてくれるのですよ」
前よりもいっそう肌寒くなってきていた。見ると、広葉樹は一切なくなり、針葉樹もまばらになってきていた。風が冷たくなり、渓谷のあちこちの日陰に雪の名残が見えるようになった。
朝は晴れ渡っていたのに今はかき曇り、うっすらと霧がかっている。マックスはつぶやいた。
「ああ、これはまずいな。峠の宿泊施設にたどり着く前に、ひどく降られるかもしれない」
「あの先だろう? おそらく夕方には着くのではないか? 曇っているだけであるし」
レオポルドが訊く。
「運がよければ、さほど濡れずに宿泊施設に着くでしょうが、難しいかもしれません。途中で雨宿りできる場所もありますから、行けるだけ進んでみましょう」
マックスは答えた。
馬に乗っているとはいえ、走らせることは出来なかった。道は崩れやすい大きめの石砕で埋まっている。ついに木は1本も無くなり、非常に短い下草と崩れた岩が広がる地域に来た。川は片足を反対側に置いたまま渡れるほどの細いものが、木の根のようにあちこちに広がるだけになった。
マックスは、途中で岩の奥に進む道との分岐点で止まった。馬の足下にある小さな石ピラミッドを見ていたが、天を仰ぐとそのまま峠までの道を進んだ。曇り空はさらに重く暗くなっており、先ほどまで吹いていた風はどういうわけかピタリと止んでいた。
それからしばらくして、雨が降ってきた。再び風が吹いてきたが、先ほどのものよりも冷たく強い風だった。皆はマントを深く被ったが、雨宿りをする木陰がないので、冷たい雨がマントに染みてくるまでにはさほど時間がかからなかった。雨ははじめから非常に強く、雲の色から見て、すぐに止むようにも思えない。雷鳴がつんざくような音を上げ、ラウラは思わず首をすくめて震えた。
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お忘れの方も多いかと思いますので軽く説明をすると、国王レオポルドとフルーヴルーウー辺境伯マックス(+おまけ)の一行は、険しい山脈《ケールム・アルバ》を越えて、南側のセンヴリ王国に属するトリネア候国へとの平民のフリをしたお忍びの旅をしています。
今回は、もっとも厳しい山越えの話です。《ケールム・アルバ》のモデルはアルプス山脈。夏とはいえ時間と天候によっては、歌いながらハイキングをするような旅ではなくなります。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(16)凍える宵 -1-
幸い、その後に泊まった2軒の宿では、フルーヴルーウー辺境伯の内政に関わる問題やグランドロン王国の根幹を揺るがすような噂話をする旅人たちとの交流はなく、『裕福な商人デュランとお付きの一行』は、順調に旅をして南へと向かっていた。
既にサレア河の扇状地と呼べる低地は過ぎ、森と小さな峡谷を交互に通りながら少しずつ高度が上がっていることを、一行は肌で感じていた。視界が広がり、谷を臨めば今朝去ったばかりの村が遥か眼下に見える。日中でも外套を脱ぐことは少なくなってきた。道に石畳が敷かれていることはかなり稀になり、それどころか土の均された道は村の近くにしかなくなった。
そもそもマックスが1人旅をしていた遍歴教師時代には、フルーヴルーウー峠と城下町の間に3泊もしたことはなかった。今回は国王が生まれて初めての庶民に化けた旅をしており、更には旅慣れていない女性が2人も同行している。それで、できるだけ疲れが出ないよう、さらには道中の村やサレア河上流に多い風光明媚な渓谷や滝などを見ながらゆっくりと《ケールム・アルバ》を登っていた。
ダヴォサレアの村を過ぎて最初の辻につくと、マックスは馬から下りた。辻とはいえ、目の前には、岩で出来た階段に近いものが草むらから顔を出している道とはいいにくい光景が続いている。
「この先の山道はとても狭く、崖の傾斜が急でとても馬に乗ったままは越えられない。つらいだろうけれど、しばらくは徒歩で行くしかない」
フリッツは、眉をひそめて言った。
「まさか、峠まで徒歩なのですか」
もちろん彼自身が嫌なのではなく、レオポルドの疲労と安全を案じてのことだ。
マックスは首を振った。
「ずっとではありません。ですが、おそらく徒歩で行く距離は、馬に乗れるそれ以上になります。時間でいったら、ずっと徒歩ばかりという氣がするでしょうね。引き返し、《フルーヴルーウー街道》を行きますか」
《フルーヴルーウー街道》は、馬車に乗ったままフルーヴルーウー峠を越えられる公道だ。幾箇所もある城塞にて通行税を払う必要があるので、資金に余裕のない平民たちは大きな荷がない限り、宿場だけは通るがそれ以外は整備されていない森や谷間の自然道、一般に《野道》と呼ばれるルートを通った。
もちろんレオポルドには十分すぎる資金の余裕はあるが、数ある城塞で《フルーヴルーウー街道》を行く高貴な旅人たちに逢い、どこで正体を知る相手に出くわすかわからないため、あえてはじめから《野道》を進んでいた。
レオポルドは、フリッツを制した。
「この道が厳しいのは百も承知で、平民の行く《野道》を来たがったのはこちらだ。だが……」
レオポルドは、馬上のラウラをちらりと見て言葉を濁した。彼女がつらければ、引き返すことも考えねばならないとの想いが顔に表れている。
ラウラは、マックスの方に手を伸ばし、降りる意思を見せた。マックスは、彼女を地面に下ろしてやった。アニーも急いでフリッツと共に馬から下りた。
ラウラは、レオポルドに頭を下げた。
「身の程をわきまえず無理についてきたことで、お心を煩わせてしまい申しわけございません。女である私とアニーがいることで、旅にたくさんの不自由が生じていること、日々感じお詫びのしようもございません」
馬から下りて、レオポルドは言った。
「頭を上げなさい。謝られるような不自由はまだなにも受けておらぬ。そなたたちが絶対に耐えられぬ道だと思えば、マックスは元からこの道は選ばなかったであろう。どうだ、マックス」
マックスは頷いた。
「先日見た傭兵団に従軍している女たちを見ただろう。彼女たちも年に数回、この道を往復しているのだ。今は夏で足下の危険も少ない。多少、速度を緩めれば、君たちが越えられないはずはないと思う」
ラウラは、マックスの方を見て言った。
「より時間がかかってしまうこともお詫びしなくてはなりませんわ。私が伝聞で満足しなかったために、陛下やあなたを足止めしてしまうことになるのでしょう」
マックスは首を振った。
「謝らなくていい。それに、僕は出発前とは違う意見を持っている。君がここまでの道程で感じてきたことは、僕からの伝聞で知ったことはまったく違うものだろう。この旅で、世界のすべてを見聞きすることはできないけれど、それでも君が、世間や、それに僕という人間を理解するために、この旅は必要だったと思うよ」
「それでは行くか。我々男は馬の手綱を引くので、奥方さまたちは、自分の足下に責任を持ってついてくるように」
レオポルドが、おどけた様子で言った。
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食事の時に隣に座った農民らのヒソヒソ話を小耳にはさみ、黙っていられないレオポルドは話しかけてしまいました。
今年の『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』の更新は、これでおわり、しばらくお休みです。旅の続きは来年、お楽しみに。遅くとも3月には連載を再開すると思いますが、例年の企画「scriviamo!」への参加者が少ない場合には、早々に再開するかもしれません。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(15)タイユ徴収 -2-
農民は、こちらを見て「ああ、旅の商人か」という顔をした。
「いろいろさ。ゴーシュさまが定めた城壁修理タイユは8年前に始まった。修理なんか、もう全然していないのにさ。それに、大聖堂の鐘を修理するタイユはベッケム大司教様に払わなくちゃならねえ」
「一昨年始まった、森林管理官への御料猪の保護のためのタイユってのもわけわかんないよな」
それは、マックスも初耳だった。
「なんですか、それは?」
「密猟から猪を守るためのタイユだそうで。でも、それがなくちゃ猪の密猟を防げないというなら、その前に森林管理官はお給料もらって何してたんだって話だよな」
農民たちは、肩をすくめた。
「払えといわれたら、俺たちには払う以外の選択はないけれど、ただでさえ現金収入は少ないのに、どんどん勝手にタイユを新設されて、貴族の方々は何も払わなくてもいいなんて納得がいかないよな」
「旦那さんのお国では、ここまでタイユは求められないんですかい?」
レオポルドは、肩をすくめた。もちろん国王である彼にはタイユ支払いを求めるものなど1人もいないが、いまは旅する商人デュランとしての答えなくてはならない。
「十分払うものはあるが、すくなくとも違法な徴収は、ビタ1文たりとも払う用意は無いな」
「違法な徴収ですって?」
農民たちが驚いた顔をする。宿の女将も目を丸くしている。
「そうだ。マックス、お前はどう思う?」
話を振られて、マックスは肩をすくめた。
「一昨年始まった猪保護タイユは確実に違法ですね。森林保護官がタイユを徴収する権利は4年前からないはずですから。それに壁の修理が終わっているならば、タイユ徴収要件は完了しているので、今後の支払いをする必要はないですね。教会の鐘の修理も、そもそも10の1税の中から出すべきものでしょう」
農民たちはすっかり身を乗りだして、レオポルドたちの座る席の周りに集まってきた。
「それは、そうお偉いさんに言えば、払わなくて済むようになるものなんですかい?」
「きちんとした根拠もなくそれだけ言っても、罰せられるだけじゃないですか」
フリッツが小さな声で、騒ぎの元になったレオポルドに釘を刺した。
「この者たちに法的根拠の説明ができると思うか」
レオポルドが訊くと、マックスは首を振った。
「なにか書状でもない限り、どうしようもないでしょうね」
レオポルドは、ちらっとマックスの横に座るラウラの顔を見た。不要な課税に苦しめられている農民たちの困窮に心を痛めた様子で、訴えるような目つきで夫と国王の顔を代わる代わる眺めている。
「しかたないな。マックス、私に代わって書状を書いてやってくれ」
マックスは「はい」と言って、荷物から羊皮紙とペンを探して持ってきた。レオポルドと相談しつつ、タイユの起源、4年前の国王レオポルド2世による「徴収代行権の販売禁止令」に触れ、領主フルーヴルーウー辺境伯マクシミリアン3世が直接設定するタイユ以外の徴収は違法であること、引き続きタイユを求める場合は領主からの本年発行された日付入りタイユ継続命令書を提示する必要があることを書状にしたためた。
「と、まあ、こういう書状を作成して該当徴収者に提出すれば、それ以上取り立てに来ることはできなくなるでしょうね」
農民たち、宿屋の女将らは大いに喜び、商人デュランの一行には、それまでとは明らかに異なる良質の酒が運ばれてきた。農民たちは大きな声で歌いながら、デュランたちの席を囲み、遅くまで酒を酌み交わした。
夕食の後、一行は「主人の用事を果たすために」全員が商人デュランの客室に向かった。同じ階にまだ誰もいないことを確認してから扉を閉め、マックスは小さな声でレオポルドに文句を言った。
「まさか宿泊する度に、わが領の内政に干渉して回るおつもりじゃないでしょうね」
レオポルドは片眉を上げた。
「そなたからでは言いだしにくそうだったから、きっかけを与えてやっただけではないか。そなたが自分で判断して話の方向を決められるようにもしてやったしな」
「違法は違法ですから、あのままにはしておけませんよ。でも、いちいちこんなことをしていたら、あの商人の一行は何ものだと疑いを持たれますよ。自重してください」
レオポルドは「おお恐い」とでも言いたげな素振りをした。
「わかった、わかった。よほどのことでもなければ、口はださんさ。なんだ、そなたも、フリッツも。全く信用していないという目だぞ」
「いいですか。私がこの旅のお手伝いをしなければ、陛下はこの先、野垂れ死にですよ」
マックスが、多少強めに言った。
「そうか。それでは、そなたがグランドロン王として戴冠するというわけだな」
レオポルドは勝ち誇ったように言った。
「絶対にごめんです!」
マックスは身震いをした。見ているラウラとアニーは笑いを堪えるのに必死だ。フリッツも、あらぬ方向を見ている。
「だいたい、いくら陛下や廷臣の皆様、それにバギュ・グリ候が認めたといっても、まだ私を馬の骨と思っている、各国のグランドロン王位継承権を持つ方々は多いですよ。私なんかが戴冠するという噂が流れたら、カンタリアのご親戚あたりが横やりして王位を要求してくるんじゃないですか」
マックスが言うと、レオポルドは苦々しい顔つきになった。
「あの国には、死んでも王位を渡すものか」
フリッツは、そういうレオポルドにとどめを刺した。
「そうお思いなら、こういう酔狂はそこそこにして、さっさとお世継ぎをお作りください」
その晩、部屋に戻り商人デュランの秘書から、本来のマックスに戻って、彼はラウラに小さな声でつぶやいた。
「やれやれ。この旅の間に、自らうちの領地の収入を全て途絶えさせるようなことにしないといいが」
ラウラは笑った。
「全体としての徴税は減っても、きちんと理のある税は残り、そちらが元通り領主の金庫に入るようになれば、フルーヴルーウーやグランドロン王国にはむしろ得となる変更なのではないでしょうか」
マックスは頷いた。
「そうだな。これまで徴収代行権を買い取って私腹を肥やしていた連中は怒るだろうな。ベッケム大司教も……ひどく怒るだろうな。これはなんとしてでもトリネアで教皇庁と近しくなる必要があるな」
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城を出てはじめての旅籠にたどり着きました。この物語に出てくる各地域、は中世ヨーロッパの架空の王国として記述していますが、フルーヴルーウー辺境伯領に関しては私の住んでいる地域をモデルにして記述しています。なので、ヴェルドンを中心とする他のグランドロン王国の地名や言語がドイツ語風なのと比較して、イタリア語やロマンシュ語などのラテン語系言語の影響が強くなってきています。
今回のテーマにした「タイユ」という税については、ドイツ語での名称がわからなかったのですが、スイスではフランス語の単語をそのまま取り入れてしまうことも多く、この際、グランドロンでもルーヴラン風の単語がそのまま用いられているという設定にしてみました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(15)タイユ徴収 -1-
マックスとフリッツが選んだ旅籠は、プント・カプラという村にあった。小さな城塞の麓にあり、ヤギの彫刻を施した木の橋が村の入り口にあった。
貴族などが泊まる豪奢な宿はかなり先のボーニュという街にある。この辺りの村々では、それぞれ旅籠が1軒はあったが、泊まるのは平民だ。プント・カプラの旅籠は適度に目立たず、その一方で3頭の馬が目立たぬように馬小屋に置ける。そこそこ清潔なうえ、飢え死にしないだけの料理も出そうだ。
「裕福な商人ならこの程度の宿に泊まるのが適当でしょう。もちろんボーニュの『白鷲亭』まで行ってもいいのですが」
マックスが訊くと、レオポルドは首を振った。
「知っている顔に出くわす可能性を減らすには、こちらの方がいいのだろう。そちらの奥方さまが嫌でなければな」
話を振られたラウラはにっこりと笑った。
「商人の従者の妻ですもの、あまり立派な旅籠は氣後れしますわ」
旅籠の女将は、立派な商人の一行と見ると、丁寧に挨拶をし、3つの部屋をあてがった。一番上等の部屋はもちろん「旦那様」ことデュランが、そして従者マックス夫妻と護衛フリッツ夫妻は1つ下の階の部屋に案内された。
部屋に案内されると、フリッツはすぐに小さな声で言った。
「心配しなくても、私は陛下の部屋で護衛をする」
アニーは、口を尖らせていった。
「そんな心配はまったくしていません」
フリッツは、たとえ同じ部屋で眠ることになっても、こんな子供に誰が手を出すかという顔をして上の階の「旦那様」の部屋に向かった。
「ラウラさま。伯爵さま。お召し物などを出しましょう」
ラウラたちの泊まる部屋にやって来たアニーに、困った顔をしたマックスが小さな声で忠告した。
「ダメだよ、アニー。こういう場では、君がお世話をするのは、旦那様であるデュランの方だ。僕たちは、自分で服を着たり、着替えをたたんだりするんだ。いいね」
レオポルドは、村の旅籠に泊まるのは初めてだったので、面白がっていた。フルーヴルーウー辺境伯領に着くまでも、ヘルマン家の馬車に乗り身分を偽って来たものの、当然ながら貴族の泊まるきちんとした旅籠をフリッツが選んで泊まったのだ。当然ながらその時は宿屋の女中たちが甲斐甲斐しく世話をするような扱いを受けたのだが、今回は荷物を運んでくれた以外は放置され、一番いい部屋といいながらもかなり狭いことや、用意されたリネン類も新しくないことがもの珍しく楽しそうだった。
マックスにとっては、遍歴教師時代にかつて泊まったことのあるあらゆる宿泊施設の中でも、かなりいい部類に入る旅籠だが、国王の酔狂に合わせるだけでなく2人の女性の安全も考えると、このくらいが落としどころだと判断した。フリッツも、その点は納得していた。彼にとっては国王の安全が重要で、旅籠の入り口や部屋の作りなども確認の上、マックスの判断の正しさを確認してむしろ安堵していた。
旅籠の1階は、居酒屋兼食堂になっており、まとめて出される定食を食べることになった。まず最初に出されるのはパンだ。もちろんフルーヴルーウー城で出てきたような香ばしいものではなく、今朝の、もしかしたら昨日焼いたものかもしれない固いものだ。他に食べるものもないので、それを食べながら、周りの客たちの話題に耳を傾ける。
「なあ。今年のタイユはどうなると思う?」
隣にいた農民たちが、薄いワインを口に運びながら、ヒソヒソと話し合っている。その話題が耳に入ると、マックスはレオポルドと無言で視線を合わせた。
「ゴーシュさまは、毎年、理由をつけては新しいタイユを創設してきたけれど、失脚なされた後、あれらがどうなったかは聞いていないんだよなあ」
タイユというのは、一種の軍事特殊税のことである。
農民は土地を耕し、収穫や食肉、乳製品または羊毛などの成果物で生計を立てていたが、その収入の中から支払わねばならぬ義務も多かった。土地は領主のものであったので、地代として貨幣により支払うか成果物を治めるいわゆる年貢があった。支払うべき年貢は成果物によって率が異なり、穀物や野菜は5%程度であったが、たとえば収益の大きい葡萄畑では15%もの年貢が求められた。
また、教会は収入の1割を要求するいわゆる1/10税を課した。このほかにパンを作るための粉ひきを独占する水車小屋に対する支払い、パン焼き窯の使用料など税には数えられていないが日々の生活で支払いを避けられない支出も多かった。
そうしたたくさんの支払い義務の他に、「地域社会の安全」などを理由に、個別の事情ごとに支払いを求められる、軍事特殊税があった。はじめにルーヴラン王国で始められた制度でタイユと呼ばれた。他の国も次々と導入したので、グランドロン王国でもタイユと呼ばれている。
表向きは、軍費を補うための税であったので、実際に従軍する軍を抱える貴族階級と教会関係は免除され、実質的に平民を対象とした人頭税の一種になっていた。当初は、戦争や紛争の度に一時的に定められて徴収されるものであったのだが、後に徴収を代行する貴族階級が領主から「徴収代行権」を買い取り、それから好き勝手に率を定めて徴収するという単なる貴族や教会による金儲け手段に変わった面があり、レオポルドが国王の地位に就いてから改革に乗りだした。すなわち、グランドロン王国では「徴収代行権の販売」は4年ほど前から禁止されていた。
「毎年、新しいタイユを設定? 誰になんのタイユを納めることになったんだね?」
レオポルドが、その農民に話しかけたので、マックスはぎょっとした顔をした。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(14)鉄の犂
今回のテーマは農業です。王都ヴェルドン近郊の農地と、山岳地帯のフルーヴルーウー辺境伯の農地はかなり差があるもよう。現代社会ではトラクターや電動犂などが、どんな土地でもなどがしっかりと耕してくれますが、中世は立地によって先進農具が簡単に普及できる場所とそうでないところがあったようです。また、農地の規模も地域差があったのでしょうね。今でもスイスの農地はわりとこぢんまりとしています。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(14)鉄の犂
このまま森の中だけを進んで山頂まで行くのかと思っていた一行は、突如としてごく普通の農村にたどり着いたので一様に驚いた様相だった。
「なんだ。まだこんな平地だったのか」
レオポルドは、さっそく馬にまたがりマックスに話しかけた。
「ええ。そうです。フルーヴルーウー城下町から街道をそのまま通って進んでもここにたどり着きます。ほら、あの後ろに見えている非常に狭い渓谷を通ってくる道です」
マックスは後方を指さした。
「わざわざ傾斜の激しい森の道を選んだ理由もおありになるのでしょう?」
フリッツが訊くと、マックスは肩をすくめた。
「あの道は、たいていの人が使うんですよ。『
それを聞いて、一同は納得した。このあたりまでくると旅人はそう多くない。よほどのことがない限り顔を知るものとすれ違うことはなさそうだ。
王都ヴェルドンや、フルーヴルーウーまでの道すがら馬車の窓より見学したグランドロンの農地の数々と違い、農村はかなり狭く小規模に見える。それは、フルーヴルーウー辺境伯領やその他の《ケールム・アルバ》の麓にある村々は、渓谷地のわずかな空間に広がるからだ。
丘陵地に向かって農地は緩やかに傾斜している。果樹が植えられ家畜を放牧している地域が多い。家畜は下草を食んでは、果樹の木陰の下で休んでいるが、これが土地を休ませ新たな肥料を与えることになるのだ。
穀物、豆類や野菜、そして放牧による三圃農業は傾斜した山岳地方に合っていると聞いていたが、実際にそのさまを目にしてラウラはなるほどと思った。
「規模は小さいけれど、だいたいの作物は育つのですね」
ラウラが訪ねると、同じ馬の後ろに乗っているマックスは頷いた。
「このあたりはまだ小麦も育つんだ。もう少し高度が上がると、小麦は難しくなる。そうなると放牧が中心になる。フェーンという南からの風が多い地域では葡萄が栽培できて収入も増えるが、それは限られた例外だな」
アニーも、初めての光景にキョロキョロと見回していた。同乗しているフリッツが小さく言った。
「おい。転げ落ちるなよ」
「落ちるわけないでしょう!」
「どうだか」
「アニー」
「フリッツ」
ラウラとレオポルドが、ほぼ同時にたしなめたので、2人は黙った。
ずっと上流にあるためマール・アム・サレアなどで見るほどの大河ではないが、現在一行が遡っているのは間違いなくサレア河だ。
蛇行する川はよくその進路を変え、かつて川が流れていた土地には山からの肥沃な土砂が溜まり、そこを農民たちは耕していた。
泥の多い場所らしく、農民たちは馬ではなく牛につなげた木製の犂を使っている。
「ここでは今どき木製の犂を使っているのか?」
レオポルドが少し驚いたように言った。
温暖で肥沃なセンヴリ王国では、土が軽めなのでいまだに木製の犂を使っているというが、重く湿った土質の多いグランドロン王国では先代王の奨めた政策で、既に鉄製の重量犂が普及したと老師に教わっていたからだ。
「ええ。ここではまだ鉄製の重量犂は使っていないようですね。まあ、この規模を耕すのに高価な重量犂を購入する者はいないかもしれませんね」
マックスは考え深げに言った。
「それでも、鉄製の道具を使う利点はあるのでしょうか」
ラウラがそっと訊いた。
「そうだね。深く耕し、さらに草を混ぜてひっくり返すことであの沼地のような湿った土を乾かしてふかふかの耕地に変えられるはずだ。それによって疫病も減らせるだろうね」
マックスは、答えた。
農民を氣の毒そうに見やるラウラを見て、レオポルドはマックスに言った。
「そなた鉄製農具の共同使用やら普及に努めんのか」
「領主として鉄製重量犂を安く供給しろ、ですか。そうしたいところですが、財源を確保しないとなあ……」
マックスは、困ったようにあれこれと可能な財源を口にしたが、どれも決定的とは言えない。
「わかった、わかった。じゃあ、余も協力しよう」
「お。予算をくださいますか」
「他の領地からもよこせと言われるに決まっているので金はやれんが、鉄製農具を安く供給するなら課税を軽くする勅令ってのはどうだ」
既に先王の時代に鉄製農具を導入してしまった領地は、恩恵を受けないが少なくとも税が増えるわけではないので文句は言わないだろう。
「そうですね。それによってフルーヴルーウー辺境伯領全体の生産効率が増え、年貢も増えれば、結果的に王国としても減らした分の課税も取り返すことができると」
マックスは、鍛冶屋組合への鉄製重量犂の発注や地域ごとの共同購入のしくみ作りについて長いことレオポルドと話し合っていた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(13)森の道 -1-
レオポルドの計画にマックスも乗り、結局フリッツ、ラウラ、アニーの5人でトリネアまで身分を隠して旅をすることになりました。
今回からは、具体的な旅がしばらく続きます。一体いつになったらトリネアにつくんだろうか……。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(13)森の道 -1-
マックスから旅立ちの話を聞かされたフルーヴルーウー城家令のモラは、いつもの冷静さを失うほどの驚きを見せた。ただの旅ではなく平民のなりをして馬や徒歩で《ケールム・アルバ》の険しい山道を行くというからだ。
フリッツに国王の計画を聞かされた護衛の兵士たちも、はじめは信じることができなかった。彼らは、国王がヘルマン家の馬車で身分を隠して旅してきただけでも酔狂だと思っており、よもやそれ以上のことを企んでいたとは夢にも思っていなかったのだ。
「よいか。そなたたちは、余がまだこの城にいるかのように振る舞っていればいい。誰かが訪ねてきたら、余とフルーヴルーウー伯爵夫妻は夏風邪で伏せっているとでも答えておけ」
周りの反対と心配をかわし、一行は出発の準備をした。国王、辺境伯夫妻としての豪華な衣装を脱ぎ、それぞれが用意させた平民の服を用意した。レオポルドは裕福な商人デュランとなり、その秘書マックス、護衛兼従者フリッツ、そして、それぞれの妻とともにトリネアへ買い付けに向かっているということにした。
フリッツとアニーは初めは夫婦の設定に難色を示した。
「いくら何でもこんな子供みたいな娘を妻というのは嘘っぽくありませんか」
「私は、ラウラさまの女中ってことにすればいいじゃないですか」
レオポルドは鼻で嗤った。
「自分で服も着られない高貴な奥方さまが、商人の秘書と結婚するわけないだろう。それに、お前もだフリッツ。うるさいことを言うなら、ここに残ってもいいんだぞ」
フリッツとアニーは顔を見合わせてから、仕方なくその役柄を受け入れた。
「陛下も、その口調をまず改めてください。余なんて言う商人はいませんからね」
マックスに言われて、レオポルドもしばらく商人らしい口調の練習をしていた。
そうして、ようやく商人デュランの一行は、旅に出発した。マウロは当然ながらレオポルドとマックスがいつもの愛馬を連れていくものと思っていたが、マックスは笑った。
「悪いが城下町で平民に買える手頃な馬を3頭調達してきてくれ。こんな立派な馬を連れていたら、いくら変装していても目につきすぎる。来月まで陛下の馬の世話は頼んだぞ。どっちにしても空の馬車とともにトリネアに来てもらうことになるしな」
護衛兼従者夫妻ということになっているフリッツとアニーが乗馬するのはおかしいのだが、荷物を運ばせるためにもう1頭いるといえば奇妙に思われることはないだろうとマックスは3頭で行くことを提案した。誰も見ていない行程では全員が乗っている方が速く進めるという利点もあった。
「この馬で、《ケールム・アルバ》を越えてトリネアまで行けるんですか?」
フリッツは、痩せて年老いた馬を見て首を傾げた。
「弱ってきたら、途中の村で払い下げてまた似たような馬を買って乗り継ぐんですよ」
マックスは、かつての旅でいつもそうしてきた。荷物も可能な限り少なくして、必要なものは旅の途上や目的地で買いそろえる。
ラウラが大量の服を持って行くと言い出さなかったのはさいわいだった。馬に背負わせるとはいえ、刺繍入りのビロード胴着などはひどく重いし、ヴェールやさまざまな装身具の類いも非常にかさばる。
ラウラはアニーに助言を求め、さっぱりとしたリネンの中着と汚れの目立たない長袖の上着を用意した。換えは1着のみで普段つけている左腕の覆いの代わりもスダリウム布だけにして他の用途にも使えるようにした。
マックスは、全員にしっかりとした毛織物のケープ付きの長衣も持って行くように言った。
「いまは十分暑く感じられますが、夏とはいえ山の上の朝晩はとてつもなく寒くなりますから、重ねて着られるように準備してください」
こうして、旅の準備を終えた一行は、心配そうに見送る家来たちにひとときの別れを告げて山へと足を向けた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(12)計画 -2-
さて、人払いをして自分の婚活について話し出したレオポルド。まともな政治の話をしているようで、実はまたしても何かを企んでいました。
そして、『
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(12)計画 -2-
「ルーヴランの時もそうだったが、グランドロン王が行列をなしてやってきたら、向こうは当然取り繕ってよい面しか見せないようにするだろう? トリネア港や市場なども本来の姿を見るのは難しい。ましてや候や姫と家臣の関係などはまずわからない。加えてヴェールをして取り澄ました当の姫が、蓋を開けてみたらわが母上そっくりの高慢ちきだったりしたら最悪だ」
「おっしゃる通りですね」
レオポルドは身を乗り出した。
「そこでだ。余は一足先に行って、自らの目でトリネアをとくと見聞したいのだ」
一同、思わず驚きの声を漏らした。
フルーヴルーウーに到着するまでの旅だけではなく、またしても身分を隠しての旅を画策していたとは。しかも、このことを腹心であるフリッツ・ヘルマン大尉にまで隠していたらしい。もちろん予め口にしていたら、フリッツはこれほど早くここに来ることを全力で止めただろう。
マックスは言った。
「陛下。お氣持ちはわかりますが、そういう情報集めは配下の方におまかせになった方がいいのでは」
「誰に」
「例えば、ヘルマン大尉は信頼のおける部下ではないですか」
「私は陛下のお側を離れるわけには参りません。ただでさえいつもよりも護衛が少ないのですから」
フリッツは仏頂面で口を挟んだ。
レオポルドは「ほらみろ」と言わんばかりに頷いた。
「今回は人まかせにはしたくないのだ。ところで、余が道連れとして一番適任だと思うのはそなただ。そなたは平民としての旅に慣れている。一方、遍歴の教師としての資格を示せば、ある程度の貴族の家庭にも上手く入り込むことができる。さまざまな階級を少しずつこの目で見ることは余のかねてからの願いだったのだ。それに、どうだ。そなたもまた少し旅がしたいのではないか」
マックスは、そう言われると嫌とは言えない。フルーヴルーウー辺境伯としての扱いと仕事にはようやく慣れてきたが、自由に世界を旅して回った遍歴教師時代の暮らしが懐かしくてたまらないのも事実だ。この機会を逃せば次いつ旅が出来るかわからない。
「そうですね。陛下のたっての仰せを無下にするわけにはいきませんかね」
ヘルマン大尉は、よくも簡単に寝返ったなという顔をした。
マックスは抜け目なく続けた。
「枢機卿との面会に立ち会えれば、ベッケム大司教への牽制になりますよね。そもそも聖バルバラの聖遺物について教皇庁の見解を文書としていただければ、後々の問題にもならないだろうなあ。謁見の際に、陛下の信頼篤い廷臣として同席し、そちらの話題をお許しいただけるなら、平民としての旅のご指南くらいはいくらでも」
「そなたも、かなりの狐だな」
マックスまでがこのように行くと言い出してはもはやヘルマン大尉に止めることは不可能だった。
「では、私は部下たちに支度を……」
「待て。ゾロゾロ着いてこられるのは困る。やたらと護衛のいる平民一行なんてあるわけないだろう」
レオポルドが言うと、ヘルマン大尉はムキになって答えた。
「陛下が何とおっしゃろうと、私だけでもお伴いたします。これだけは譲れません」
「では、お前だけ来い。ただし、ひと言でも『陛下』などと言ったらその場に置いていくからな」
レオポルドは、諦めたように言った。
「私も一緒に参ります」
これまでずっと黙っていたラウラが突然言った。
男たちはぎょっとして彼女を見た。
「何だって?」
「私も、皆様と一緒に参ります。トリネアまで」
ラウラは、子供に言い聞かせるようにはっきりと、しかし、有無を言わせぬトーンで言った。
レオポルドはその声色をよく知っていた。書類に署名をもらうまでは後に引かぬと決意しているときの宮廷奥取締副官たるフルーヴルーウー辺境伯爵夫人はいつもこうだ。
夫であるフルーヴルーウー辺境伯の方は、ラウラにこのように迫られたことはあまりないのか、意外そうに驚きながら反対意見を述べ始めた。
「でも、ラウラ。僕たちは身分を隠していくんだ。貴族などは一顧だにしない安宿に泊まらなくてはならないし、馬車ではなくて馬に乗らなくてはならない。そんな旅は城の中で育った君にはつらいだろう。それに、僕は君の身に危険が及ばないかとても心配だ」
「旦那様。私は、ルーヴの貧しい肉屋で子供時代を過ごしたのですよ。安宿ぐらい何でもありませんわ」
ラウラはきっぱりと首を振った。
「でも、徒歩で《ケールム・アルバ》を越えていくんだよ。とてもきつい旅だ。トリネアを見たいのならば、どちらにしても陛下の訪問の行列を装った空の馬車が行くのだから、それと一緒に来た方がいい」
「今日が何の日かお忘れになっていませんか」
「え?」
「
マックスはぎょっとした顔をし、成り行きを見守っていたレオポルドは破顔して笑い出した。
「そなたの負けだ、マックス。奥方さまは何が何でも我々と一緒に旅をしたいらしい」
ラウラは微笑んだ。
「森を越えて、いつか遠くへ旅をしてみたい。あなたと同じようにいろいろな世界を見て回りたい。ずっと夢だったんですもの。どうぞ私もお連れください。お邪魔にならないようにいたしますから」
アニーが叫んだ。
「では、私も参ります! 殿方には、ラウラさまのお世話はできませんもの」
ヘルマン大尉は、ムッとしたようにアニーを見たが、貴婦人の世話は出来ないことは間違いなかったので反論しなかった。
「これ以上、同行者が増えると困るから早く話を進めよう。準備が整い次第、ここを発つぞ」
レオポルドは、ため息をついた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(12)計画 -1-
フルーヴルーウー辺境伯領だけに伝わる奇祭『
ご機嫌な国王レオポルドは、王都から連れてきた護衛兵たちに「祭を見にいってもいいぞ」と言い出しました。ようやくこの作品の本題にたどり着きました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(12)計画 -1-
「そなたも行きたいか」
国王に訊かれてフリッツは、首を振った。
「この城の皆も祭を楽しみたいんじゃないのか」
フリッツの疑わしげな視線を避けるように、レオポルドはマックスに話を振った。マックスもヘルマン大尉と似た微妙な表情をした。
家令モラは、困ったような顔でマックスを見た。
「そうおっしゃられましても、護衛兵の皆様がこの場を離れるのならば、城の警護の騎士の方でお守りしませんと……。もし、ご用事がとくにございませんでしたら、お言葉に甘えて料理人や召使い、侍女たちは交代で場を外させていただきますが……」
「僕たちの用事は就寝時間まで氣にしないでくれ。ラウラ、いいだろう?」
「もちろんですわ」
レオポルドは、たたみかけた。
「そなたたちが心配しないで済むよう、余たちはまとめて客間にこもっているから、騎士たちも交代で十分だぞ。安心して行ってこい」
結局、レオポルドの滞在する客間に、マックス、ラウラ、フリッツ、そして給仕たちの代わりに飲み物などの要望を聞くためにアニーが残り、扉の外に2人の騎士を残しただけで、他の皆は城内の持ち場に戻るか、交代で祭のために外出していった。
モラや騎士たちの足音が聞こえなくなり、かなり静かになると、マックスはレオポルドの方を向いた。
「何を企んでいらっしゃいますか」
「なんのことだ」
「体よく人払いをしたんでしょう」
「よくわかったな。じつは、そなたたちに話があるのだ」
レオポルドは、客間の中央にある円卓を目で促した。マックス、ラウラがまずその場に座り、まだ立っていたフリッツもレオポルドが椅子を引いて座るように示すと、肩をすくめて従った。レオポルドは、トーンを落として口を開いた。
「いまトリネアで福者マリアンナの列聖審査が進んでいるのを知っているな」
「はい」
「で、余は来月トリネアに行くと伝えてあるのだ」
つながりの見えないマックスは、首をかしげた。察したヘルマン大尉が補足した。
「来月の聖母の祝日に教皇庁からアンブロージア枢機卿が列聖審査でトリネアを訪問するのです。陛下は枢機卿と謁見したいので、その予定に合わせてトリネア候を訪問したいと打診したのです。候女様との縁談だけで訪問を打診すれば断られる可能性も高かったので、苦肉の策です」
「それほど信心深かったとは知りませんでした」
「信心深いとはいえんが、それなりにはな。だが、金まみれの坊主どもに平伏すつもりはないぞ。むしろ、勝手にはさせんと、折に触れて牽制しなくてはならない相手だ」
レオポルドは、杯を傾けつつ答えた。
「その件に関しては、私もなんとかしないと……」
マックスは、ため息をつく。
「どうしたのだ?」
マックスは、先日の市場の場所代の件と、ベッケム大司教との確執が起きかけていることを語った。
「ともかく、教会だけでなくベッケム家が後ろに控えているんで、押さえつけるだけだと、後々面倒なことになりかねないんですよ」
「ベッケム家か。ルーヴランのキツネだからなあ、あの家は」
「そうなんですよ。それに、へそを曲げられると聖バルバラの聖遺物の公開を取りやめるなどの嫌がらせもしてきそうなんですよね。でも、こちらにいるうちにある程度の合意点を見つけておかないと、こちらがいないのをいいことにますます増長するだろうしなあ」
すっかり領地の問題に没頭しているマックスに、レオポルドはトーンを変えて言い放った。
「その話は、いや、他の件も、さっさとカタをつけてくれ。できれば、今週中に」
「なぜですか?」
「トリネアの件で、そなたの力を借りたいのだ」
「でも、あちらに行くのは来月ですよね?」
「その前に少し時間がほしいのだ」
「どのくらいですか?」
「うむ。時と場合によってだが、謁見までの総ての時間を借りることになるやも……なんといっても戴冠して以来初めての休暇を取ったことだしな」
「なんですって?!」
一同は身を乗り出した。いままで静観していたフリッツ・ヘルマンもぎょっとして身を乗りだした。
レオポルドは、手をひらひらとさせて、落ち着くように促した。それからにやっと笑うと、杯を飲み干した。
「今回はわが国から持ち込んだ縁談なのだが、トリネア候国というのは微妙な国でな」
「とおっしゃると」
「センヴリ王国に属しているが、何代にもわたる血縁でカンタリア王国とのつながりがとても強いのだ。候妃は現カンタリア王の従妹だし、現に4年前に候女と余の縁談は母上の取り巻きの差し金だったはずだ」
「だから、話もよく聴かずにお断りになったんじゃないですか」
ヘルマン大尉が口を挟むと、レオポルドは肩をすくめた。
「当時は、トリネアの世継ぎじゃなかっただろう。余の得るものは何もなかったではないか」
「陛下は、このお話に慎重になりたいと、そういうことなのですか?」
マックスが訊いた。
「そうだ。実を言えばトリネア港は喉から手が出るほど欲しい。冬にも流氷の煩いのない港をグランドロンは持っていないからな」
《中央海》に面したトリネア港は古くから《真珠の港》と歌われている。風光明媚なだけでなく、その港の価値が特産物の真珠にたとえられるのだ。水深が充分にあるにもかかわらず波が起きにくい穏やかな湾に抱かれている。また、背後にある《ケールム・アルバ》が天然の要塞となっており、良港を望む各国からの侵略を防いでいる。
「とはいえ、それだけで話を進めるのは早計だ。トリネアが余が思っている以上にカンタリア寄りであると、グランドロンの宮廷に災いを呼ぶことになるかもしれん。余は、話を進める前によく見極めておきたいのだ。前回みたいに騙されるのも困るのでな」
マックスは、肩をすくめただけで何も言わなかった。本人の望みではなかったとは言え、ルーヴランの奸計の中心的役割を果たしたラウラがその場にいるからだ。
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- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(11)祭 -2- (19.10.2022)
- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(11)祭 -1- (12.10.2022)
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(11)祭 -1-
「(3)辺境伯領 -1-」の回でも一度語られていますが、今回は、マックスの領地に伝わる祭の話です。
祝祭は単なる伝統やそもそもの目的に則ったものであるだけでなく、その時代を生きる人びとにとっての長くモノトーンな生活における息抜きであり、ガス抜きでもあります。いろいろな事情はあっても、こうした祝祭にケチをつけたり、廃止させたりするような圧力は短期的には目的を達成できても、長期的にはひずみを生みいい結果を呼ばないというのが、私の持論です。今回は、その想いを軽く作品に込めてみました。
ところで、このシリーズの話をはじめからご存じない方には、仰天するような型破りな姫君の話が出てきます。主人公のひとりマックスのご先祖さまです。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(11)祭 -1-
国王の滞在中に、フルーヴルーウーの城下町では『
異装をした人びとによる祭は、フルーヴルーウー辺境伯だけではなく、グランドロン王国中、いや、それ以外のさまざまな国で見られる。センヴリ王国の水の都イムメルジアでの色とりどりの仮面をつけた人びとによる謝肉祭の行列は冬の風物詩であるし、年末には牡牛の頭部の皮を被った男たちが練り歩くカンタリア王国のタロ・デル・ディアボロ祭がある。
フルーヴルーウーの『男姫祭』が奇祭と呼ばれる理由の1つは、他の多くの祭りと異なり中心的役割を果たすのが女性だということだ。
この祭の由来ともなっている
国王の座を争うことができるほど由緒あるバギュ・グリ侯爵家の姫君として生を受けながら、男装して市井に出入りしていたジュリアは、自らの馬丁であったハンス=レギナルドと恋に落ちたあげく、ジプシーに加わり出奔した。その後、ルーヴランのブランシュルーヴ王女の専用女官になって、王女のグランドロン王との婚姻の際にヴェルドンに共にやって来た。そして、既にグランドロン王レオポルド1世に取り立てられフルーヴルーウー辺境伯となっていたハンス=レギナルドと結ばれた。その数奇な人生を、ルーヴランでもグランドロンでも民衆はたいそう好み、名のある吟遊詩人たちがいくつもの歌を捧げた。
夏のフルーヴルーウー城下町で開催される『男姫祭』は、女性たちが領主夫人から賤民にいたるまでことごとく男装をすることで有名である。つまり男姫ジュリアの故事にちなむ祭であり、グランドロンの他の多くの祭と違い宗教的裏付けが全くない。それどころか代々の大司教は、この祭を嘆かわしい伝統として糾弾しており、領主に廃止の勧告を度々行っていたほどである。
教会が何よりも問題視したのは、女性たちが男装することではなく、その日に女たちが亭主にどんなわがままでも命じることが許されていて、亭主どもはそれを拒否できない習わしだ。
聖書には「あなたは夫に従い、彼はあなたを治めるであろう」と神の言葉が記されているのに、1日とはいえ女が夫に従わせるのは許しがたい、そう大司教は説いた。だが、年に1度の楽しみを取りあげられたら女房らがどのように怒り狂うかわかっているフルーヴルーウーの領主や男たちは、代々の大司教たちの言葉に耳を貸すことはなかった。
祭には初めて参加するラウラも、家令モラの助言を受けて代々のフルーヴルーウー伯爵夫人たちに倣った男装をしていた。
「おやおや。わが奥方は素晴らしく女性らしいと常々と思っていたけれど、今日はまるで男姫ジュリアもかくやという凜々しさだね」
マックスは、感心してラウラを上から下まで吟味した。男装とはいえ、品を失わないように上着には短いシュルコではなく、膝丈までしっかり隠れるペリソンを着用している。艶のある青灰色の生地は、強い主張はしないのに敬意を払わずにいられない高雅な佇まいを演出していた。
レオポルドは、男姫由来の祭があるとだけしか聞いておらず、ラウラや侍女たちが男装をしているのを見て驚いたようだった。
「『男姫祭』とは、そういう祭なのか?」
「はい。城下町すべての女たちが、それぞれ男性の衣装をまとい、行列をするんですよ」
マックスは、そう説明したが、もう1つの厄介な伝統については口にしなかった。この場にいる女性たちの中には、その伝統を忘れている者もいるかもしれない。余計なことを口にして彼女たちの夫に不利な状況をあえて作り出すこともないだろう。マックス自身もその夫たちのうちの1人に他ならない。
「奥方さま。そろそろお時間でございます」
モラが、呼びに来た。ラウラは、レオポルドとマックスに挨拶をしてから退出した。
「僕たちも、行きましょう」
マックスは、レオポルドや護衛兵と共に馬で城下町へ降りていった。
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フルーヴルーウー辺境伯に会わせろとノーアポでやって来た傭兵団たち。騎士ゴッドリーや護衛の兵たちとの間に緊張が走りますが、例の女傭兵の冷静な機転で雰囲氣が変わりました。この傭兵団たちの出番は、今回はここまでです。また後ほど登場します。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(10)傭兵団 -2-
マックスは、女兵士をじっと見た。紺に近い青のブレーズボンに黄土色の羊毛リブレー上着を着込んでいるので若干膨らんで見えるが、太っているのではなくむしろしっかりと筋肉がついているからのようだった。灰色の帽子からは白っぽい金髪が見えている。他の男たちと同様に、顔は薄汚れている。
その兵士は、武器を構えることもなくわずかに前に踏み出した。いつゴッドリーや兵士に斬りかかられてもおかしくないのに、すぐに応戦できる自信があるのか、まったく怯えた様子はない。むしろその眼光と氣迫に、門兵たちが飲まれている感があった。
「ほら。こいつらに武器をしまわせろよ」
ゴッドリーと門兵たちから目を離さずに、女兵士が言うと、団長ははっとして「おろせ」と男たちに命じた。
門兵たちの緊張が緩むのを見てから、女兵士がつついてブルーノをゴッドリーの横に来たマックスの前まで連れて行った。
「ほら。挨拶しろよ」
「わかったよ」
団長は、フードを脱ぐと粗雑な態度でマックスにお辞儀らしき動きをした。
「南シルヴァ傭兵団の首領ブルーノでやす。新しく伯爵様がおいでになると聞いて、挨拶にきやした。お見知りおきを」
ゴッドリーは、ホッとしている思いを見透かされないように、無理して偉そうに答えた。
「伯爵様と、こちらの兵の方々に武器を向けて、挨拶もへったくれもないであろう。今後は、このような失礼は許さんからな」
「へえ。それで……。おい、この後、なんて言うんだ?」
ブルーノが訊くと、女兵士が「しょうがないな」という顔をして前に進み出、片膝をついた。
「我らは、傭兵であり、平時には、主にフルーヴルーウー、サレア河流域をはじめとする南シルヴァで、商隊の護衛などをして生計を立てています」
「そうか。それで伯爵様をお呼び立てしてどういうつもりだ」
「フルーヴルーウー峠に正規軍を配置するという噂を聞きました」
「商人たちの荷を狙う追い剥ぎたちが後を絶たないからな。通行料を若干上げる代わりに、峠の安全を確保することを考えているのは確かだ」
「我々に皆が護衛を依頼してくれれば、そんな必要はないんですがね」
「なんだと」
やり取りを聞いていたマックスは、笑い出した。
「なるほど。君たちは失業の危機に瀕しているわけか。だが、フルーヴルーウー峠だけで仕事をしているわけではないんだろう?」
女はニヤリと笑った。
「いいえ。実のところ、ここ数年はずっとヴァリエラや、時にはセンヴリのヴォワーズ大司教領までも行って仕事をしておりました」
「なぜだ?」
「代官であられたゴーシュ様に我慢がならなかったからです」
「なるほど」
「あの方は、ご自身の宝物箱に入れる金勘定のことしか頭にないお方でしたからね。でも、そのゴーシュ様はいなくなり、新しく伯爵様が来られた。岩塩鉱の安全対策を変えたという噂を聞いて、この方なら我々の訴えでも聞いてもらえるかもしれないと、お待ちしていたというわけです」
マックスは、少し考えてから言った。
「実のところ、予算はあっても実際に配置する兵士そのものの数が足りているわけではないんだ。だから、すぐにその策が実現するとは限らない。君たちのような傭兵に委託する案についても検討中だ」
「本当ですか。でしたら、我々を雇っていただけないでしょうか」
「約束はできないが、少なくとも君たちの実力を見せてもらって考慮に入れることは可能だ。でも、君たちは、この金山で雇われているんだろう?」
「はい。ただ、契約が今月末までなのです。それで、こんな近くにおりながら、仕事の間はフルーヴルーウー城下町に売り込みにも行けません。その間に、正規軍配置の話を決められてしまうのではないかと、少々焦っているところに、急に陛下と伯爵様がお見えになりましたので、何がどうあってもお話しさせていただきたかったのです」
マウロは、馬小屋から感心しながら見ていた。マックスの話し方に相手をリラックスさせる氣さくな調子があることも大いに関係しているのかもしれぬが、女の身で伯爵相手に堂々と話す様子は、粗野な傭兵団の中でこの女ひとりに見られるものだった。
「なるほどね。言いたいことはわかった。ここで契約した仕事を無事に終えたら、城下町に来て、腕試しをしてもらおう。このゴッドリーが認めるだけの腕があれば、君たちの雇用を考慮することにしよう。ただし雇用開始はどんなに早くとも秋以降だ。それでいいかい?」
「おおいに結構です」
ゴッドリーとマックスは少し話し合い、空き家になっているゴーシュ邸の中庭で、翌々週の火曜日に彼らの腕試しを行うことになった。
「ところで、あのように汚いままでよろしいのですか」
ゴッドリーは眉をひそめる。かなりの悪臭もしている。
「そうだな。腕試しの前に公衆浴場に行ってもらおうか」
マックスが言う。
「我々が行けるのは早くても第一土曜日だし、そのつぎの金曜日までは、公衆浴場は無理だ。こっちは周辺民扱いなんでね」
ブルーノが憮然として言った。傭兵は、娼婦、逃亡者、旅芸人、乞食などと同様に周辺民と呼ばれ、社会的に差別排斥されている。公衆浴場は、一般民と周辺民の入れる日が分かれていた。
だが、金曜日まで待つのは都合が悪い。フルーヴルーウーではその週末に『
「公衆浴場まで行かずとも、城壁ぎわの熱泉で充分だ。お前らもそれでいいだろう」
女兵士が言うと、一団は「おお」と言った。
「じゃあ決まりだ。来月第一月曜日の午後に、武具を持って旧ゴーシュ邸に来てくれ」
マックスの言葉に、一同は頷き、安心してその場を去って行った。安心したのは、騎士ゴッドリーや、マウロも同様だった。
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さて、直轄金山を視察に来た国王レオポルドとお付きのフルーヴルーウー辺境伯マックスは、管理者と周辺村落の接待を受けています。その間、馬丁マウロは外で仕事をしていたのですが……。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(10)傭兵団 -1-
金山の精錬所管理者ゴムザーと周辺村落の代表者たちによる歓迎会が行われている最中、マウロは外で馬の世話をしていた。
大勢の歩く音と、武具のあたる金属音が聞こえたので振り向くと、先ほどの傭兵たちがこちらに向かって歩いてきた。
「なんだ。いま、管理人殿も他の方たちもお忙しいのだから、話は後にしてくれ」
精錬所の官吏たちは傭兵団を追い返そうとしている。
「いや、後にしたら国王陛下たちは帰ってしまうじゃないか。俺たちは、フルーヴルーウー伯爵のご一行に話があるんだ」
「無茶を言うな。俺が、そんな取り次ぎができるとでも思っているのか」
「そこをなんとか。お付きに来ていたお城の騎士ゴッドリー様かなんかに取り次いでくれよ」
押し問答が続き、やがて門を守っていた騎士のひとりが、中にいるゴッドリーを呼び出してみると言って中に入っていった。
マウロは、興味深くその様相を眺めていた。
よく見ると、この傭兵団には体格のいい男たちが揃っていた。中心に立っている団長と思われる男は平織りのフード付きフークを着て、布袋の他にクロスボー、大ぶりの剣、さらに鉄製の手首用盾を軽々と抱えている。多くの男たちの背丈はマウロよりも7、8インチは高い上、恰幅もいいので、本氣で向かってきたら護衛の兵士たちも無傷では済まないだろうなと思った。
しばらくすると、中から騎士ゴッドリーが出てきた。ゴッドリーは、フルーヴルーウー城にやって来た時に、マウロが最初に引き合わされたその人でもある。家令であるモラの信頼も厚いし、今回の伯爵夫妻の里帰りに際しても城内外の案内役の代表となっている。無骨だが、忠誠心に篤く熱心に勤めるので、マックスの信頼も勝ち得ていた。
「何の用か」
ゴッドリーは、武装した一団に臆することもなく訊いた。
「先ほど、国王陛下に命じられた整理整頓やっていたおかげで、ご同行の伯爵さまと話ができなかったんでね。終わったもんだから、こうしてやって来たってわけでさあ」
団長とおぼしき男が、太い声で横柄に言った。
「なぜ伯爵様が、お前と話をしなくてはならぬのだ」
「しちゃいけないのかよ」
「伯爵領に関することなら、いま、私がここにいるので、耳を傾けてやらないでもない。だが、正式な手続きも踏まず現れて、いますぐ伯爵様を呼び出せなんて無礼なことは許せん」
「なんだとぉ!」
団長は簡単に頭に血が上るらしく、もう大ぶりの剣の柄に手が行った。騎士ゴッドリーも、門番たちも即座に反応して身を硬くした。遠くから眺めているだけとはいえ、マウロもドキドキした。馬たちの手綱を引き、これからどうしようかと左右を見回した。
「慌てなくて大丈夫だ」
耳元で声がしたのでぎよっとして飛び上がり振り向くと、いつの間にかそこにマックスが立っていた。
「マックスの旦那! ……じゃなくて伯爵様。こんなとこで、なにをやっていらっしゃるんで」
マウロは声をひそめた。
「いや、子供たちの歌というのがひどく音痴でね。うんざりしていたところ、ゴッドリーだけが何か面白そうなことで呼び出されていたので、ちょっと裏から見に来たってわけさ。でも、あれはよくない雰囲氣だなあ」
なにをのんきなことを……。マウロは思ったが、とりあえず口に出すのはやめておいた。チャンバラ沙汰にならないといいけれどなあ。
「待ちな」
そのとき、一団の中から、落ち着いたよく通る声が聞こえた。後ろから男たちを搔き分けてブルーノの横に出てきたその兵士はあまり背が高くなかった。あの女兵士だ。
「何だよ」
団長は、わずかにトーンを落として訊いた。
「我らはフルーヴルーウー伯爵に話をするためにここまで来たんじゃないか! ここで騒ぎを起こしてどうすんだよ」
そういうと、団長は「あ」といって失敗したという表情を見せた。
女兵士は、マウロとマックスのいる馬小屋の方に顔を向けて、堂々とした声で言った。
「幸い、あそこにいらっしゃるお方が、伯爵様なんじゃないのか?」
ゴッドリーは驚いて、マックスに何をしていらっしゃるのですかと言いたげな表情を見せた。かつては平民として育てられたとはいえ、今のところ王位継承権第1位にあるような人物が、護衛もつけずに馬丁と一緒にコソコソしているというのは、非常によろしくない光景だ。
マックスは、肩をすくめてそちらに歩いていった。
「どうも、騒ぎが起こっているみたいだったのでね」
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新キャラである傭兵団の1人である女兵士と馬丁マウロは顔見知りでした。今回は、その出会いについてマウロがマックスに説明します。
今回はかなり短いのですが、次の話と一緒にするとおかしな長さになるので、これだけです。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(9)馬丁と女傭兵
精錬所に戻る道すがら、マックスはマウロにあの傭兵団とどこで知り合ったのかと訊いた。
「傭兵団ではなくて、あの女兵士と面識があるだけでございますよ」
マウロは言った。
「精錬所の管理の話では、《シルヴァ》南部を渡り歩いているわりと実力のある傭兵団だそうだね。フルーヴルーウーにやってくるのも不思議はないな」
そう言ってからレオポルドがマウロに先を促した。
「あれは、先月のことでございましたよ」
マウロは、正確に話そうと、考え考え言った。
「城壁の近くでの話です。荷をたくさん背負った馬を急かしている男がおりました」
マウロが世話をしているような大きく立派な乗用馬ではなく、小さく痩せて農耕にも大して役に立たないだろうと思われる栗毛の荷馬だった。背中の上にも、腹の左右にも多くの木材を括り付けられて、馬はゆっくりと進んでいた。
持ち主は「何をしているんだ。さっさと歩け」と、急かしている。マウロは、馬が持ち主から顔を背け、苛立ちを見せていることに氣がついた。懸命に荷を運んでいるのに、繰り返し急かされることに苛立っているのだ。
「この馬の後ろから、いたずら盛りの子供がひとり忍び寄ってきましたんで」
マウロは、説明した。
その子供は、馬の後ろからこっそり近づいてきて、左右に揺れている尾を面白がって掴もうとした。
「ご存じの通り、馬は背後から襲われることを何よりも嫌います。本能的に蹴って難を逃れようとします」
幸い、重荷が馬の機敏さを邪魔していたので、子供が蹴り殺されることはなかった。だが子供の叫び、持ち主の怒号などが、怯えた馬をさらに興奮させた。暴れた馬は城壁に荷の木材があたった反動で倒れ、持ち主が巻き添えになりともに倒れた。
「その男の足が、馬の荷である木材の下に嵌まりました。私は、すぐに助けに走りました。馬は、持ち主を傷つけるつもりはなくとも、立ち上がれないのと、興奮で暴れます。このままでは、持ち主の足が折れてしまう。私ひとりではどうにもなりません。その時にすぐに駆け寄ってくれたのが、あの女傭兵だったのです」
その女は、まったく怖れた様子もなく駆け寄ると、剣を木材の下に刺し、全身の力を込めて押し上げて、男の足にかかる重圧を軽減した。
マウロは、まず馬を落ち着かせるのが最優先だと、馬の耳に口を寄せて、グルグルと音を立てて囁いた。それは、母馬が仔馬を氣遣うときに出す嘶きに近い音で、馬は暴れるのをやめた。馬が落ち着いたので、マウロも女傭兵を手伝い、わずかな隙間を感じた持ち主が馬の下から抜け出した。
それから女傭兵や他の通行人の助けを得て、馬を立て起こすことができた。持ち主は、先ほどまでの傲慢さはどこへやら、すっかり恐縮してマウロと女傭兵に礼を言った。
「私は、その男に肩を貸して、家まで馬の手綱を引いて行き、その家でご馳走になったのですが、彼女は大したことはしていないと、その場で別れたので礼も受け取っていません。でも、彼女のとっさの助けがなかったら、あの男の足はとっくに折れていたでしょう。いくら傭兵といっても、女の身であの力を出すのは、本当に大変だったと思います」
「見ず知らずの男を助ける、君もとてつもなく親切な男だと思うよ、マウロ」
マックスは言った。
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遊びに来たかっただけだろうと、読者の皆様からツッコミを入れられている国王レオポルド。とはいえ、いちおう表向きの理由である金山の視察は熱心にやっているようです。
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(8)金山 -1-
従来、鉱山採掘は有力な鉱山労働者に一任するのが一般的であった。採掘に従事する者たちは鉱産物に対する1/10税を納める以上の義務はなく、移動の自由も認められていた。すなわち、鉱山の枯渇の前兆があれば有能な坑夫たちが一斉に他の地域に移動してしまう傾向が見られる。それを食い止めるために、領主たちはかつては大きな譲歩を試みてきた。
たとえばルーヴラン王国に属するサン=モーリス銀山には放牧地や屠殺・パン焼きの機能を備え、小さい市場のようなものまで有する集落が併設している。鉱山労働者とは関係のない職業に属する者までが、こうした集落で租税を免除される特権を活用していることは、周辺の村落では不公平と不評だった。それが原因で
グランドロン王室がフルーヴルーウー金山の直轄領化をしたのは、こうした採掘者たちに金山が半私有化されるのを避けるためであり、慣例にはない管理体制を敷いていた。すなわち、精錬所や鉱山集落そのものを国有化してしまい、設備投資や鉱山の維持費を負担する代わりに、下請けや孫請けの坑夫たちを雇って中間搾取する「働かない鉱山労働者たち」を排除し、黄金や収益の流出を防ぐようにしたのである。
一方で、麓の村落と同様に、パン焼きや商業などについては支払い義務は一切免除せず、治外法権なども許可していない。このことについては、他国からやって来た坑夫たちには不評だった。
「彼らの要求に応えるために、例外的に背後の森林における野鳥と野ウサギ捕獲の自由を認めてきたのですよね」
マウロは、マックスに訊いた。
馬丁マウロは、グランドロン国王レオポルド2世の金山視察にフルーヴルーウー伯であるマックスとともに同行していた。さすがに国王に面と向かって質問する勇氣はないので、かつてルーヴで遍歴教師として親しく話したことのあるマックスにこっそりと訊いたのである。
だが、それを聞きつけたレオポルドが、直接答えた。
「その通りだ。締め付けるだけでは反発を生むからな。それに、質のいい労働者を確保するためには、若干の譲歩はやむを得ないだろう。この視察では、坑道や管理事務所などだけでなく、市場や周辺の村落も見ておきたいのだ。今後のさじ加減を知るためにな」
なるほど、それでか。マックスは心の中で頷いた。金山に到着し、予定通り精錬所や坑道の視察をした。管理人ゴムザーは、自分の落ち度を見つけられないよう、念入りに準備を重ねたらしく、どこも必要以上に整っていた。それはレオポルドも感じたのであろう、金の採掘の実際などを見た後は、あまり長居はしなかった。
ゴムザーは、ひと通りの案内が済むと精錬所の奥の応接間にレオポルドを案内しようとした。だが、国王は「飲み食いの前に、周辺の村落も見たい」と言って足を運ぼうとしなかった。
ゴムザーは、「お疲れでしょうから」とか「それはまた次の機会に」とか、明らかに狼狽えた様相を見せた。
「なにか困ることでもあるのか」
レオポルドが訊くと、彼は慌てて首を振った。
「いえ。その……子供たちが陛下を歓迎する歌を歌うために応接間に待機しておりまして……」
「なんだ。それならもうしばらくその辺で遊んでいろと、伝えればいいではないか」
そう言って、かなり強引に村落の方に足を向けたのだ。
準備の済んでいないところを視察する方が、より大きな発見がある。それはマックスも常々思っていることであった。ゴムザーの慌てぶりからすると、何か見られたくないものがあるのかもしれぬ。
マックスは、教師時代には金山の鉱山集落に足を踏み入れていなかった。直轄領ということもあり、面白そうだからといって立ち入ると、余計な詮索をされて足止めを喰らうからだ。
一方で、フルーヴルーウー辺境伯領に属する岩塩鉱山には教師時代にも立ち寄っていた。その時に見た、坑夫たちの労働環境がずっと氣になっていたので、領主となってから直に新しい決まりを導入したのだった。
「そなたはいいよなあ。前にはロクでもない代官だったから、ちょっと改善すれば喜ばれるだろう。余なんて、あちらを立てれば、こちらが反発し……」
ぼやくレオポルドに、一行は忍び笑いをした。
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もうお忘れかと思いますが、今回の作品の主人公はいちおう、国王レオポルドということになっています。主人公不在のままずっと話が続いていましたが、ようやく主人公が到着しました。ヒロインは、ええと、当分出てきません、悪しからず。
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(7)国王の到着
領主夫妻の到着から遅れること1週間。慌ただしく準備に明け暮れたフルーヴルーウー辺境伯爵領に、いよいよ国王レオポルドⅡ世が到着する日となった。
家令パスカル・モラをはじめとして、城の使用人たちが玉顔を拝するのはもちろん初めてである。幸いなことに領主夫妻と王都から連れてきた使用人たちは全員国王と面識があり、「国王陛下は氣さくで、もてなしにあれこれ文句をつけたりはしないであろう」と力づけてくれた。
とはいえ、もちろん立派な王家の馬車でたくさんの護衛と共にやってくると思っていたので、先触れと思われる簡素な馬車がやって来た時に、まさか中から国王その人が出てくるとは、フルーヴルーウー辺境伯自身も予想していなかった。
幸い、兄であるマウロと話をするために外に出ていたアニーが、レオポルドとフリッツ・ヘルマン大尉の顔を見て思わず声を上げたので、モラはすぐに正しい挨拶をすることができ、主人を呼んでくることができた。
「いったいどういうことですか」
マックスは呆れて、従兄弟である国王に問いただした。
「ヘルマン家の馬車で来たのだ。うるさい奴らはみなヴェルドンに置いてきたので、普段泊まれない類いの宿にも滞在できたしな。なかなか面白い旅であったぞ」
「まさか、この人数でお越しなのですか?」
一行は、馬車1台。それに護衛の騎馬の騎士たちが4人ほどしかいない。ヘルマン派として知られている、家柄はあまり良くないが武術に秀でた若い騎士たちだ。そして、カンタリア派と呼ばれる母后の息のかかった者が1人もいないことにマックスは氣がついた。
「無名の大尉の馬車に物々しい護衛がついていたらおかしいだろう」
「危険にも程があります。お立場をわかっていらっしゃるのですか? お帰りの際は、私どもの騎士も護衛としてお連れください」
「ふむ。お前たちと一緒に帰ればいいではないか」
そんなに長くご滞在なさるおつもりですか。モラはもう少しのところで、その言葉を飲み込んだ。
「余が視察に行くとわかっていたら、金山の管理人も都合の悪いことを隠すかもしれぬではないか。下々の役人あたりが視察に来たとでも思わせるのが一番だ。ともあれ、そなたたちには世話になる」
「そんなに長くお城を空けて大丈夫なんですか?」
フリッツ・ヘルマン大尉の客室に水差しを運んできたアニーは、小さく囁いた。
そもそも、これはラウラ付きの侍女であるアニーの役目ではないのだが、事情を知りたい多くの者たちの利害が一致して、ヘルマン大尉にあけすけにものを訊けるアニーが派遣されたのだ。
「まったく大丈夫ではないが、トリネアに行く予定もあるので、金山だけを見てさっさと帰ると二度手間になるのだ」
フリッツは憮然として答えた。
「ああ、《ケールム・アルバ》の向こうの。トリネアって、センヴリ王国ですよね? こんな少人数で何しにいらっしゃるんですか?」
「表向きは別件だが、実質的には縁談のための訪問だ。おそらく、その時はフルーヴルーウー辺境伯の騎士や馬車をお借りすることになると思う」
アニーは、納得した。そういえば、マリア=ファリシア姫との縁談のときもレオポルドは使者と偽って突然公式訪問をし、どんな王女か確認しようとしたものだ。残念ながらその時は替え玉となったラウラを王太女殿下と勘違いして縁談を進め、もう少しで敵国に踏み込まれるところであった。
毎回つきあわされる部下は大変だなと思いながら、アニーはフリッツを見た。
フリッツ・ヘルマンを初めて見たのも、その国王のルーヴ訪問の時だった。それから偽物の王女としてヴェルドンに向かったラウラについてアニーもグランドロンに来たときに、この護衛隊長が位は高くないものの国王の幼なじみとして非常に信頼されていることを知った。さらに、ラウラが処刑されたと思い込んで復讐のためにレオポルド襲撃を企んだアニーは捕らえられたが、罪に問われることはなく秘密裏にラウラのもとに連れてこられてフルーヴルーウー伯爵夫人付き侍女として勤める温情を受けた。そのときにも、この無骨な大尉が大きな役目を果たしていた。
そんな事情で、国王の護衛隊長という立場のかなり年上の人にもかかわらず、アニーは氣易く口をきくようになってしまっていた。彼はそれを無礼と怒るでもなく、普通に対応している。
変わった主従なのだ。国王のレオポルドからして、幼少の頃に身分を隠して農村に出入りしては友だちを作っていたような人だ。フリッツは、さほど位の高くない貴族階級の出身だが、レオポルドの乳母の親族だったために、幼少期のレオポルドと一緒に遊んだ仲だそうで、臣下の中でもレオポルドにはっきり意見を言えるようだ。
アニーは、ルーヴの王城でさまざまなタイプの家臣を見てきた。国王の信頼が篤くなると、やがて私腹を肥やしたり、自分自身が権力者自身であるかのように振る舞う者も珍しくなかった。だから、ずっと国王レオポルドの信頼篤いフリッツが、自らの分をわきまえて役目を果たすことに揺るがないさまを当たり前のこととは思っていなかった。
フリッツ・ヘルマン大尉は、懐柔の難しい人物として知られている。国王の近くに勤める立場を利用しようと近づいてくる存在は、貴賤男女を問わず後を絶たないのだが、鼻薬を効かせることもできないし、美女の誘惑も役に立たない。弱みとなるような道楽も一切せず、休みの日も自宅で鍛錬をするような面白みのない人物と陰口をたかれても氣にする素振りすらない。
また、袖にされた女性たちは「妻からも逃げられたつまらない無骨者」と吹聴する。これはほぼ事実なのだが、国王や部下からの信頼は篤いために、一般にはむしろ振られた女性たちの負け惜しみであると、好意的に取られているのだとアニーは分析していた。
とはいえ、こうした性格ゆえ、国王に直接訊きただすには差し障りがあるような情報を、正確に手っ取り早く手にするにはフリッツに訊くのが一番早いというのが関係者の一致した見解になっているのだった。
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- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(6)市場 -2- (03.08.2022)
- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(6)市場 -1- (27.07.2022)
- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(5)ゴーシュの館 (20.07.2022)
【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(6)市場 -2-
騎士ゴッドリーの案内で市場の視察をしているマックスとラウラ。奥で露店の売り子と僧服の男が争っている場面に遭遇しました。場所代が突然2倍になったというのが大司教の右腕の僧の言い分の模様。マックスは、口を出すことに決めました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(6)市場 -2-
「これはゴッドリー様。ご機嫌よろしゅう」
ボーナムは頭を下げた。マックスとは面識がないので、ゴッドリーの案内している貴人が誰なのかうかがっている様子だ。
「いま、聞き捨てならぬ話が聞こえてきたが、場所代が2倍になったという公告が出たというのは本当か」
ボーナムは、わずかに顔をゆがめた。勝手に決めた上でわかりにくいところに公告し、領主に知られずに取り分を増やそうとしていたのだろう。
「私は署名した憶えがないが」
マックスが歩み出て言った。
「こちらはフルーヴルーウー伯爵様だ」
ゴッドリーが告げると、ボーナムも露店の男も青くなって頭を下げた。
ボーナムはしどろもどろになって言った。
「大司教さまは、さきの代官ゴーシュ様からこの件に関する裁量権を頂いております。近年の物価上昇などを鑑みまして、やむなく場所代を変更しました。伯爵様には、近日中にご報告に伺う予定でございました」
マックスは、憮然として答えた。
「ゴーシュの失脚に伴い、すべての裁量権は私に戻っている。それを知らなかったとはいわせない。今回の出店費用に関しては、前回と同じにせよ。今後の金額については詳細な提案書とともにフルーヴルーウー城に問い合わせよ」
周りでハラハラしながら見守っていた出店者たちが思わず歓声を上げた。ボーナムは、怒りで震えていたが、どうすることもできなかった。
足早に大司教館の方へと去って行ったボーナムの後ろ姿を見ながら、マックスはため息をついた。
「余計な敵を作ってしまったかもしれないな」
ゴッドリーは肩をすくめた。
「私どもとしては、ようやくという心持ちでございます」
「というのは?」
「市場の場所代は、そもそもお城の歳入となるはずですが、実質すべてがゴーシュ様の私財になっていました。聖遺物への巡礼の道を整えた時に私財を立て替えたので返却させているという建前でしたが、建て替え分などとっくに終わってもお構いなしでした。大司教様はゴーシュ様ととても仲がよく、同じように詭弁を用いては何かと領民から巻き上げようとばかりなさると、みな苦々しく思っておりました」
ラウラは、つい先ほど大聖堂で挨拶してきたベッケム大司教のことを考えた。立派な法衣を身につけ、非常によく肥えた小柄な男で、ルーヴランの言葉を思わせるアクセントで話をした。《聖バルバラの枝》を納めた黄金の聖遺物箱の前でやたらと長い時間をかけて蕩々と説明を続けていた。
「聖女バルバラ様が地下牢で水をやり、殉教の日に冬だというのに花開いた桜の枝でございます。3世紀にニコメディアにございましたこちらの聖遺物が、いくつもの鉱山を抱く《ケールム・アルバ》を守るために、フルーヴルーウー大聖堂に運ばれましたことは、まさに神のご威光でございましょう」
聖バルバラは鉱山の守護聖人である。聖遺物が大聖堂に置かれ、巡礼路が整備されてから、近隣の鉱山で働く坑夫たちがフルーヴルーウー城下町にわざわざ逗留することが増え、それがフルーヴルーウー辺境伯をさらに富ませることになっているのは間違いない。
「ベッケム家はルーヴラン寄りだと、老師が警戒されていたな。まさか自分の領地で当主不在を利用して私腹を肥やしていたとは……」
マックスは、頭を振った。
ラウラは、領主の不在がもたらす害悪について納得した。もちろん、ほとんどの主だった貴族たちはここと同じように代官を置き、王都で生活している。王城にて役職に就いていればなおさらのことだ。しかし、フルーヴルーウー辺境伯領のように、領主が20年以上も行方不明のままであることはほとんどない。
たまたま前領主夫人が先王の王妹殿下であったため、たとえ伯爵自身が行方不明でもその機に乗じて領地を簒奪したり、反対に王国直轄領に組み入れられたりすることもなく、2代にわたる国王がその領地の保護に心を砕いてきた。それでも、代官ゴーシュ子爵や、ベッケム大司教は問題にならないように充分に心を配りながらも彼らの都合のいいように動いてきたのだろう。簡単には噂も届かぬほど王都から遠いことも、彼らには幸いしたに違いない。
「下手に強く出ても、教会を敵に回すだけだしな。これはうまく立ち回らないと危険だな」
マックスは珍しく額に皺を寄せてつぶやいていた。
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初めて領地にやって来た領主として、マックスとラウラは城下町を視察しています。いろいろ新しい名前が出てきていますが、覚える必要はありません。念のため。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(6)市場 -1-
フルーヴルーウー辺境伯領は、グランドロン王国の中でも特に広い面積を占める。だが、その領地の大半が《ケールム・アルバ》の山塊に抱かれているため、大きな町、村落などはあまりなく、領民も他の地域と比較すると少ない。最も大きいフルーヴルーウー城下町ですら、日の出から日の入りまで歩き回れば、端から端まで見ることができる広さだ。
その代わりに、他の領国と比較すると、格段に多くの城塞を持っている。1つ1つは大きめの塔というような規模なのだが、それが入り組んだ谷の峠ごとに置かれ、異国からの往来を監視していた。同時にこれらの街道はフルーヴルーウー領とグランドロン王国の大きな収入源ともなっている。異国人がこれらの城塞の麓を通る度に、通行料が徴収された。通行者たちは、他の地域よりも頻繁に通行料を払うことになるが、大きな不平は出ない。
例えば、もっと西のルーヴラン王国に属するアセスタ峠を通るルートは、整備されていない道も多く、二輪馬車すらも通行できない上、秋には徒歩ですら超えることが難しくなる。さらに、物見塔が少ないことが、土砂崩れなどで道が塞がれても連絡が行き届かず、盗賊が跋扈する原因にもなっていた。
グランドロン王国は、王城などの絢爛さではルーヴラン王国にははるかに劣るが、代々の王が軍事に力を入れただけあり、街道の整備や治水・橋の建設などでは大きく先んじている。王都ヴェルドンからの立派な街道は《シルヴァ》を横切り《ケールム・アルバ》の250あると言われる谷に広がっていく。
フルーヴルーウー城は、そうした《ケールム・アルバ》の多くの谷を集めた扇子の要のような位置にあり、センヴリ王国とグランドロン王国間を旅する者は必ず通る要所に位置している。
案内されて城下町を巡るときにも、ラウラはそれを強く感じた。市場には珍しい野菜や布などが置かれ、街には活氣がある。多くの外国人が滞在するのだろう、いくつもの言語が飛び交っていた。
「言葉が……」
辺りを見回すラウラの様子に、マックスは笑って答えた。
「面白いだろう? ルーヴラン語とセンヴリ語、それにグランドロンの言葉が混じったような話し方が聞こえて」
「この話し方は、フルーヴルーウーの方言なのですか?」
「センヴリ語のまじったようなグランドロン語はそうだね。それから、センヴリのアクセントでルーヴラン語を話しているみたいに聞こえるのが、トリネアの人たちだと思うよ」
王城では、このような話し方をする人びとには会ったことがなかった。異なる言語はこのように移り変わっていくものなのだとわかり、ラウラは夢中になって耳を傾けた。
「待ってくれ。そんなにそちらに行かない方がいい」
ラウラは、マックスに引き留められた。市場の奥で誰かが言い争いをしているようだ。
「突然2倍などと言われましても、困ります」
見ると、僧服を着た男に、露店の男が抗議をしているようだ。
「困るというなら、今すぐ店をたたんで立ち去るがいい。この場所を借りたい者は、ほかにもいるだろうから」
「それは、ワシら全員におっしゃっているんで?」
「ああ、そうだ。大司教様からのお達しを読まなかったのか。昨日、公告したであろう」
「まさか!」
「伯爵様、いかがいたしましょうか」
ヴェルドンから着いてきた護衛の兵士がマックスに囁く。
マックスは案内役である騎士ゴッドリーを見た。ゴッドリーは慎重に観察していたが静かに言った。
「あの男は、ベッケム大司教の右腕のボーナムです。教会前市場の場所代を取り仕切っています。ゴーシュ様が代官をなさっていた頃から、売り子たちとの直接の取引は大司教側が行っているのですが、2倍にしたなんて話は、私も初めて耳にしました」
到着してから、ありとあらゆる書類に目を通し、裁量してきたマックスも、そんな話は聞いていない。
「行ってみよう。奥方に氣をつけてくれ」
マックスは、ヴェルドンからついてきた護衛の騎士たちにラウラに害が及ばぬように配慮しろと言った。
「何か争いごとか」
ゴッドリーが近づいて話しかけると、ボーナムと露店の男は近づいてきた一行にようやく氣がついた。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(4)新しい馬丁 -1-
登場するマウロは、『森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架』からの続投で、ラウラの侍女アニーの実兄です。基本的には、前作や他の作品を読まなくても話は通じるようには書いていますが、たくさんの人名に混乱したら、毎回リンクをつけてある「あらすじと登場人物」の記事でご確認ください。(その記事にも名前のない人物については、もう2度と出てこないレベルのどうでもいい人物です)
今回の顛末は、一度外伝で語ったことがあります。6年も前のことなので当時読んでくださった皆さんも、もうお忘れでしょうが、今作品の(いっこうに登場しない、一応の)ヒロインも先行登壇させていますので、興味のある方はそちらもどうぞ。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(4)新しい馬丁 -1-
「それから、先ほど待っていた者の中には居りませんでしたが、異国から新しい馬丁を1人雇いましたことをご報告させていただきます。この決定は、ご到着をお待ちしてもよかったのですが、このご時世に身元が確かで熟練した馬丁を見つけることは非常に難しく、お越しの際にも十分な馬の世話のできる状態が整うことを優先いたしました。事後報告で申しわけございませんが、お許しいただけるでしょうか」
家令モラの申し出に、マックスは大きく頷いた。
「もちろんだ。ところで、その紹介者とは?」
馬丁1人を紹介してくるような知りあいは思い当たらない。
「トリネア侯国の聖キアーラ女子修道院長マーテル・アニェーゼでございます。紹介状には、ルーヴラン王国のルーヴ王城にて長く務めた経歴を保証し、ルーヴラン王国紋章伝令長副官エマニュエル・ギース様の推薦を得たとございました」
「なんだって?!」
マックスが大きな声を出したので、モラはぎょっとして主人の顔を見た。だが、フルーヴルーウー辺境伯の顔には、期待や喜びといった類いの表情が浮かんでいたので、ひとまず安心して戸惑いながら主人の言葉を待った。
「すまない。大きな声を出したりして。その馬丁の名前は……」
「ルーヴランのヴァレーズ出身で名をマウロと申します」
マックスは椅子から立ち上がって、大きな歩みでモラの元に近寄りニコニコと笑いかけた。
「よくその者を雇ってくれた。実は、彼とは知りあいなだけでなく、ルーヴラン王国に滞在した折りに受けた大きな恩もあるのだ。すぐにこちらに連れてきてくれないか?」
「なんと! かしこまりました」
「それから、奥方と、奥方付きの侍女アニーもここに呼んでくれ」
「かしこまりました」
モラが、馬丁を連れて入ってくると、マックスは駆け寄った。
「ああ、本当にマウロだ! ここで会えるとは!」
「ティオフィロス先生じゃありませんか!」
マウロは、腰を抜かさんばかりに驚き、思わず昔のような口調でマックスに呼びかけてしまった。
かつてのマックスは、王宮で王女の家庭教師を務めていたとはいえ、堅苦しいことが苦手なので庶民的な旅籠『カササギの尾』に滞在していた。『カササギの尾』を紹介した本人であるマウロは、共に酒を飲んだこともあるマックスが、グランドロン王国の王位継承権1位の貴人になってそこに居ることを、もちろんよく理解していなかった。
モラが、コホンと咳をしてから厳しめの口調で言った。
「こちらは、フルーヴルーウー辺境伯爵さまだ」
「へっ? あ、いや、その、申しわけございません」
「いや、いいんだ。君には脱出の時には大変世話になったし、あの後、危険な目に遭わせてしまったんじゃないかと、心配していたんだ」
「滅相もない……。よくご無事で……。あの、ラウラ様のことは、なんとお慰めしていいか……」
マックスは、無言で笑った。マウロは、偽王女であることの露見したラウラがグランドロン王に処刑され、妹のアニーもまた処分されたと思っているのだと理解したからだ。だがその誤解も、すぐに解ける。
「お呼びと伺いました」
声がして、ドアからラウラが入って来た。
「ラウラ様!」
「まあ、マウロ!」
死んだと思っていた、妹の女主人を見て、呆然とするマウロのところに、小さな黒い影が突進してきて抱きついた。
「マウロ兄さん!」
「アニー!」
お互いに2度と会うことは叶わないと思っていた兄妹は、伯爵夫妻の御前であることもすっかり忘れて泣きながら再会を喜んだ。
「信じられない。お前が無事でいたなんて。そもそも伯爵様ご夫妻が、先生とラウラ様だったというだけで、腰を抜かすほど驚いたのに」
仕事に戻ったマウロは、生き生きとした声で妹に語りかけた。もちろん、それでも、馬の毛を梳く手は止めなかった。厩舎は、到着したばかりの一行の馬でいっぱいになり、彼は、同僚の馬丁たちと共にその世話をするのに忙しかった。アニーは、ラウラに許しをもらって厩舎に来ていた。
「王様と伯爵様が、私のしたことが罪にならないように、うまく計らってくださったの。だから、兄さんには無事だって知らせたかったけれど、いろいろと差し障りがあって、ルーヴには連絡できなかったの。でも、兄さんこそ、どうしてここに? ここが伯爵様の領地だと知らなかったんでしょう?」
アニーの疑問はもっともだった。マウロ自身も、とても偶然だとは思えなくて首を傾げた。
「もしかしたら……。ギース様は、先生がフルーヴルーウー辺境伯だとご存じだったんだろうか……」
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- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(3)辺境伯領 -2- (09.06.2022)
- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(3)辺境伯領 -1- (01.06.2022)
- 【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(2)ペレイラ嬢 -2- (18.05.2022)
【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(3)辺境伯領 -1-
予定通り、領地であるフルーヴルーウーに向かうマックスとラウラ。領主夫人ですが、ラウラがフルーヴルーウーに足を踏み入れるのは初めてです。
ちなみにあくまで架空世界ですが、フルーヴルーウー辺境伯領のモデルはいま私の住んでいるこの国です。山脈《ケールム・アルバ》のモデルは、もちろんアルプスです。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(3)辺境伯領 -1-
ラウラは、馬車の窓から白く輝く山嶺を見つめた。くっきりと驚くほどの鮮明さで迫ってくる純白の頂きは、美しいという言葉よりも厳かという方がふさわしかった。夏でも雪の消えない山があると、書物から得た知識では知っていたが、これほどに壮大なスケールだとは考えてもみなかった。
ルーヴ王城の塔にひとり登り、「いつか遠くへ行きたい」と涙ながらに願っていた頃、深く偉大なる森、《シルヴァ》の向こうに何があるのか、ラウラは知らなかった。彼女の世界はルーヴラン王国の王都のみで終わっており、まだ見ぬ世界の驚異は限られた想像力の中、平凡でありきたりの姿をしていた。
王女マリア=フェリシアの身代わりとして、グランドロン王国の都ヴェルドンへ来ることになった時、彼女は生まれて初めての長旅をしたが、今回のように窓を開けて景色を楽しむような状況にはなかったので、サレア河の流れも、可愛らしいマールの街も、ヴァリエラの大聖堂も見ることはなかった。
だから、これはラウラにとって生まれて初めての心躍る旅なのだった。目の前には、夫君であるフルーヴルーウー伯爵が、機嫌良く彼女を見つめていた。
「《ケールム・アルバ》だよ」
マックスは、やはり窓から顔を出して、美しい山脈を指差した。どれほど多くの詩に歌われたことだろう。どれほど多くの旅人たちが、決死の覚悟で越えて来たことだろう。グランドロンやルーヴランといった北の王国と、センヴリやカンタリア王国のような南の地域を分ける大きな山脈だ。あまりに高く、壮大で、神々しいために、人びとは「天国への白い階段(Scala alba ad caelum)」転じて《ケールム・アルバ》と呼んでいた。
ラウラは、今、本物の《ケールム・アルバ》を目にしているのだ。
「フルーヴルーウーは、あの山の中にあるのでしょうか」
マックスは笑った。
「いや、あの雪山の中にはない。もちろん領地はフルーヴルーウー峠まで続くのでかなり上まであるが、居城と城下町は麓の緑豊かな美しい土地にあるんだよ」
「いらしたことがあるのですね?」
ラウラの問いに、彼は頷いた。
「ただの旅人としてだけれどね。心地よい宿と美味いパンがあり、素朴だが親切な人びとが住むいい街だ。それに、変わった伝統もあるらしい」
「どんな伝統ですの?」
「辺境伯の最初の奥方である《男姫》ジュリアにちなんで、年に1度、街の女性が男装して練り歩く祭があるんだそうだ。その日は奥方は亭主にどんなわがままでも命じることが許されていて、亭主どもはそれを拒否できない。だから女房の恨みを買わないように、その祭の前のひと月は、どの亭主もめったやたらと女房に優しいということだ」
「まあ。そのお祭りはいつなんですか?」
無邪氣な妻の問いにマックスは、苦笑いしながら答えた。
「2週間後らしいよ。お願いだから、僕に不可能なことを命じたりしないでおくれよ」
「それは時と場合によりけりですわ」
ラウラはにっこりと笑った。
「ところで、金山はお城から近いのですか?」
彼女は、ふと思い出して訊いた。《ケールム・アルバ》の中腹、フルーヴルーウー辺境伯領に抱かれる島のように、グランドロン王国一、いや、世界でも有数の埋蔵量を誇る金山がある。この辺りの他の鉱山、たとえば鉄鉱石や岩塩を産出する鉱山と違い、グランドロン王国の直轄領となっている。
そして、その金山を視察するために国王レオポルド2世がフルーヴルーウー城に滞在するというのだ。城主夫人として初めて城に行くというのに、もう国王をもてなす大役をこなさなくてはならないことを思うと、ラウラは不安になった。
「そうだね。あの辺りには陛下が泊れるような立派な、しかも警備上の問題もない旅籠はないだろうから、陛下はずっとわが城におられ続けるだろうな。なに、心配しなくていい。ヴェルドンと違って面白いものもない田舎だから、すぐにお帰りになるさ」
そうならいいけれど。ラウラは天を仰いだ。
話をしている間に、馬車は石畳の敷かれた道を行くようになった。ラウラは、ほんのわずか呻くような声を出して、それから恥じるように下を向いた。マックスはわかるよと言いたげに妻を見た。これまでの自然道は、時おり車輪が石にはじかれて大きく揺れて驚かせることはあったが、石畳の道は定期的に激しく馬車を揺らし、長旅で疲れた彼女の腰をひどく打ちつけ続ける。ヴェルドンからの旅の間中、ある程度大きい街に立ち寄る度に、彼らはその打撃に耐え続けてきた。
だが、少なくとも今回の揺れは安息の前奏曲だ。一行はついにフルーヴルーウー城の城下町にたどり着いたのだ。
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【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 端午の宴
今回の選んだ楽器は、琵琶です。『樋水龍神縁起 東国放浪記』のサブキャラ、夏姫が弾いています。琵琶というのはこの当時は、あまり女性らしい楽器とは思われていなかったようです。
今回の話、外伝にした方がいいかなとも思ったのですけれど、あとから探しにくくなるので、東国放浪記本編に組み込んでしまうことにします。


樋水龍神縁起 東国放浪記
端午の宴
弥栄丸は、高い空を見上げた。緑萌え、空高く、心地よい皐月であるが、忙しく氣の抜けない時季でもある。
丹後国の大領である渡辺家にて、弥栄丸は西の対の郎党として働いている。丹後守藤原殿は、まるで殿上人のような年中行事を行うことを好む。端午の節句の競馬も数年前から必ず行われるようになった。都では六衛府の武芸に優れた官人らが草原に馬を駆り、薬草や落ちた鹿の骨など、薬となる品を拾い集める行事だ。丹後守は、領地と音が重なるこの催しが縁起がよいと真似ぶことに決められたらしい。
いつもは西の対の姫君の警護ならびに用事のみを言いつけられている弥栄丸だが、この日だけは森を駆け回り騎馬の若君の代わりに落ちている角や薬草を拾いまくらねばならぬ。
西の対は、大領渡辺家の中で微妙な立ち位置にある。夏という姫君は、二年ほど前にこの屋敷に引き取られてきたお方だ。かつて殿様が見初めた湯女を北の方に隠れて大切にしていたのだが、数年前に流行病で亡くなってしまったのだ。そのまま観音寺に預けられていた姫君は、位の低い女の娘とは到底思えぬほど美しく成長し、殿様はこの美しさなら丹後守藤原様のご子息に差し上げられるのではないかと算盤をはじき、北の方を説得して屋敷に迎え入れたのだ。
そういう事情で、夏姫は後ろ盾もなくひとりで西の対に住んでいる。弥栄丸はその日から西の対で姫の世話をするように命じられたのだ。
この夏姫、まことに美しい姿形であることは違いないのだが、止ん事無い姫方とは異なった振る舞いをすることで、西の対で働く者たちの度肝を抜いてきた。御簾や几帳の後ろでしとやかに座っていることができず、すぐに庭に降りてきてしまう。侍女のサトや童女たちだけでなく、弥栄丸や老庭師にも臆することなく話しかけてきてしまう。
北の方や、義理の妹にあたる絢子姫のことも、身寄りのいない身によくしてくださる親切な方々と慕い、せっせと作った歌などを届けさせるが、あまれにあけすけで趣の感じられない歌風に面食らうのか、返事の熱意はあまり感じられない。サトや弥栄丸は、こうした夏姫の空回りを感じてはいるが、その無邪氣な心持ちを傷つけたくなく、できる限りの後押しをすべく心を砕いていた。
だから、競馬における若君助勢の折は、西の対の代表として力の限り走らねばならぬ。
北の対からは箏の琴の音が聞こえてくる。絢子姫が、端午の競馬の宴で披露する曲を練じているのであろう。夏姫は嬉々として割り当てられた琵琶を練じている。
「あたくしは、楽器などずっと手を抜いてきたから、箏の琴などはずっと弾けはしないでしょうね」
琵琶を奏じることになったのは、皆の思いやりからであると心から感謝している。
「見てごらんなさいよ。絢子からの返し文に、十三弦もある箏を練じるのだから、四弦の琵琶ほど速く上達せずとも怒らないでくださいねとあるわ。本当にそうね、あたくしには到底弾けぬ大変な楽器を練じている絢子は、とても才能があるんでしょうね」
北の方は、決して底意地のお悪い方ではないが……。弥栄丸は考える。だが、丹後守藤原様やご子息も耳にするこんな晴れ舞台で、箏の琴を絢子姫のみが弾かれるということは、殿様のお氣持ちとは異なり、北の方は絢子姫こそを藤原様のご子息に娶せたいとお考えなのではないかと。和琴ですらなく、女子らしさの感じられぬ琵琶を夏姫に勧めるところに、その想いを感じてしまうのだ。
「きっと今ごろは、文殊さまでもお囃子を練じているのでしょうね」
夏姫は、琵琶を弾く手を休めて、ぽつりと言った。弥栄丸ははっとした。
姫の母親は、若狭国小浜の濱醤醢醸造の娘だった。離縁された母親に連れられて丹後国に来たものの、生まれ育った若狭の海を懐かしみ夏姫を産んでから殿様に頼み、与謝の海の見える小さな家に住んでいた。渡辺の殿様にしても、北の方に悟られぬ遠さにあり、籠神社や文殊堂の参詣なる口実が得られるこの小さな家は真に便益にかなっていた。
「あたくし、よくお母様や観音寺の尼さまにお願いして、海に連れて行っていただいたのよ」
姫の声音は、どこか悲しげだ。
夏姫にとって、文殊堂や籠神社の歳時記を感じることのできない渡辺の屋敷での暮らしは、弥栄丸をはじめ誰もが思っているような目出度く有難き果報ではなく、心許なく取る方なき日々なのやもしれぬ。
宴は
この角を拾ったのは、偶然ではあったが弥栄丸だった。渡辺の殿様は、姫君が藤原様ご子息の目に留まることを願っているので、この成り行きに大いに喜んだ。
「でかしたぞ、弥栄丸。屋敷に戻ったら、そなたやサトにも酒を振る舞うからな」
弥栄丸は、頭を下げて、元の仕事に戻った。宴が終わるまで酒どころかご馳走を食べることもなく、夏姫の退出を待つのだ。姫を無事に屋敷の西の対に連れ帰らなくてはならない。
その夏姫もまた、食べるものも食べずに控えているのだろう。注目を浴びる宴の演奏に心騒いでいるに違いない。
「ああ。できることなら、誰も聴いていない宴の始まりに演じて、さっさと帰りたいわ」
昨夜の姫のつぶやきが蘇る。申し訳ないことになったな。だが、藤原様のご子息に娶せることが殿様の悲願なのだから、晴れやかな場で演じることは姫様のためなのだ。弥栄丸は自分に言い聞かせた。
弥栄丸は、懐から小さな護符を取りだした。紙包みの中には梵字で書かれた護符が入っている。昨夏、弥栄丸の家に滞在した子細ありげな陰陽師が、弥栄丸の頼みにこたえて書いてくれたものだ。
西の対の庭にある柘植の木に人型のようなものが浮かび上がり、夏姫が霍乱のような病に苦しんでいたのだが、その陰陽師が人型を見事に消し去り、姫の病もそれを境にすっかりよくなった。主はもちろんのこと、姫もその陰陽師の神通力に驚き感謝した。
その陰陽師は、大きな報酬も望まず、やがてまた旅立った。それに先んじて、滞在させてくれた礼をしたいという陰陽師に弥栄丸は願ったのだ。夏姫を守る護符をいただけないかと。彼は、いくつかの違う文字を書き、呪を掛けた。弥栄丸には意味はわからないが、曼荼羅を表した悉曇文字だ。
弥栄丸は、夏姫の待つ母屋の裏口にまわり、侍女のサトを呼んでもらった。
「弥栄丸。お疲れ様でした。もう、こちらで待機できるようになったのかい」
サトは、ほっとしたような顔をした。藤原様のお屋敷は、サトにも氣が張るのだろう。いつもののんびりした仲間だけでなく、北の方や絢子姫の侍女たちの間で肩身の狭い想いをしているので、弥栄丸が戻ってきてくれたことで少しは心強く思うのかもしれない。
「こちらに控えているので、何かあったらすぐにいってくれ。あと、昨夜渡し忘れたので、これを姫様に……」
「これは?」
「例の安達様にもらった護符の一つだよ。弁財天のお守りだ」
弁財天は、楽の才を授ける女神、もらった時は、この護符を夏姫が必要とするときがあるのかと思ったが、いまほどこれが必要になるときもないであろう。サトも大きく頷き、急いで姫のもとに向かった。
控えているほかの郎等たちが噂をしている。
「麗しいと評判の姫は、箏の琴かな」
「いや。どうも琵琶らしいぞ」
「なんでまた。琵琶なんて、
「じゃあ、箏を弾くのは誰なんだ」
「北の方の姫君のようだ。そちらのほうがもののあはれを解する姫なのやもしれぬな」
「北の方が、どちらかというと、そちらの姫を売り込みたいんだろう」
「いや、噂の姫に楽の才がないのではないか」
「止ん事無き方々は、うるさいことをいうが、俺はどちらかというときれいな姫の方がいいな」
「いずれにしても、俺らはおよびじゃないさ」
弥栄丸は、男たちから離れて庭を見た。野蒜の花が風に揺れている。宴の喧噪が、風に運ばれてきた。
勝手なことを言いたいものには言わせておけばいい。私は、姫様の日々のお幸せために尽くすのみだ。
弁財天が手にしているのも琵琶だ。姫様は、心安らかに立派に演じられるだろう。弥栄丸は、深く頷いた。
(初出:2022年5月 書き下ろし)
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(2)ペレイラ嬢 -2-
これが終われば、(少なくともラウラは)、フルーヴルーウー辺境伯領での3か月の滞在に向けて旅立つことになります。そして、主人公も、もちろん来ることになりますが、第1作に続き、こちらも主人公と(一応の)ヒロインが当分会わない作品になっていますね。あはははは。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(2)ペレイラ嬢 -2-
「とにかく、報酬の引き上げはこのヘルマン大尉率いる親衛隊たちの方も必要でな。なんせ去年は据え置きだったし……」
レオポルドが、その書類を終わったつもりで横に動かすと、ハイデルベル夫人はきっとなって羊皮紙を再びレオポルドの前に戻した。
「畏れながら、ヘルマン大尉は一昨年には報酬が上がったのですよね」
その剣幕に、大尉ははっきりと頷いた。
ハイデルベル夫人は、リストの中程にある名前を指して続けた。
「ご覧ください。こちらにおりますアナマリア・ペレイラはもう3年も報酬を据え置かれているのでございますよ。お願いする度に陛下はこの件は母后さまと話し合ってなどとおっしゃって相手にしてくださいませんし」
「余は少なくとも一昨年は母上にその話をしたぞ」
「ええ、ええ。ですが、王太后さまの身の回りのお世話をする女官だけの報酬を上げてしまわれました」
「なんだって? 余は、もし上げるならリストにある全員一律にと言ったのに」
「ですから、私どもは直接陛下に署名をいただきたいのです!」
ブツブツ言いながら署名をしてから、ふとレオポルドはペレイラ嬢を見た。
「なぜそなたの報酬は据え置かれたのだ。そなたも表向きは母上付き女官ではなかったか」
「私は、今はこちらの補佐の仕事しかしておりませんので……」
アナマリアは伏し目がちに答えた。
実際のところ、彼女は王太后の取り巻きであるカンタリア派の女官たちからは、グランドロン派に寝返ったと冷たい仕打ちを受けていた。一方で、グランドロン派の女官たちからももともとカンタリア王国が派遣してきた女として音楽会や詩の催しなどで仲間から外されることが多かった。
ハイデルベル夫人は、彼女の有能さと表裏のない実直な人柄を高く評価していたので、彼女が関わる催し物にはアナマリアを招待するように差し向けたが、若い者たちの私的な集まりまでには口を出せず、アナマリアが孤立することに心を痛めていた。
新しく副官となったフルーヴルーウー伯爵夫人ラウラは、その位の高さとハイデルベル夫人だけでなく国王その人の信頼も厚い事実が宮廷の女性陣に別の効果をもたらした。同じく外国出身であるにも関わらず、ラウラはむしろ好意的すぎるほどの態度で受け入れられていた。そして、ハイデルベル夫人からの陰ながらの依頼を受けて、ラウラは自分が私的な集まりに誘われて参加する時は、必ずアナマリアにも声を掛けて彼女が孤立しないように心を配るようになっていた。
そのような女の園の事情は何も知らないレオポルドとヘルマン大尉は、特に氣を向けていなかったペレイラ嬢のことに初めて注目したようだった。
「あの女は、確かまだ独身だったのだな」
ハイデルベル夫人の執務室を退出した後、彼自身の執務室に戻る途中でレオポルドはヘルマン大尉に話しかけた。
「ええ。あの年頃で、浮いた話ひとつない娘というのも、少々珍しいことですね」
「あの堅そうな振舞いでは、男を掴まえるのは難しいだろう。だが、有能そうだし、そのうちにラウラの副官にでもなるんじゃないのか? それを見越して言い寄る先見の目のある男は、いないのか?」
ヘルマン大尉は、若干軽蔑したような目つきをした。
「陛下、フリッチュ中尉やウッカーマン子爵の件があって、それでもカンタリアの娘に言いよる家臣がいるとでも?」
かつてヘルマン大尉のライバルと言われたヨーゼフ・フォン・フリッチュは、カンタリア派のイサベル・アストリアと結婚した途端に親衛隊から外されて辺境勤務になり、ウッカーマン子爵もファナ・アルバレスと婚約した1ヶ月後に宮廷財務の仕事から外された。レオポルドが母后の影響を徹底的に避けようとしているのがこれで明らかとなった。
「だが、あの娘は母上からも煙たがられているみたいじゃないか。どうだ、そなたは。そろそろ後添えが欲しいんじゃないのか。あの娘なら芯は強そうだし、悪くないと思わぬか?」
「陛下。お言葉ですが、私はまだ結婚している身です」
ヘルマン大尉は憮然として言った。
「まだ離縁していないのか。インゲはドライス伯爵と派手につき合っているじゃないか」
「……。だからといって、私が愛人を囲う必要はないでしょう。それにあのお堅い娘が結婚している男についてくると思っているんですか」
「まあ……無理だろうなあ」
「陛下は、私ごときや、女官の結婚相手のことなど心配する必要はないのですよ。それより、本当にご自身のことを……」
「わかった、わかった。いいではないか。トリネア侯爵殿があれだけ縁談を断っている所を見ると、もしかしたら例の候女は、ラウラに勝る掘り出し物かもしれんぞ。それで決まれば万事めでたしだろう」
本当に都合のいいことばかり、次から次へと……。ヘルマン大尉は腹の底で思ったが、さすがに口に出すような無礼は思いとどまった。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(2)ペレイラ嬢 -1-
今回出てくるペレイラ嬢は、実は前作でもでてきているのですけれど、たぶん誰も憶えていないほどのチョイ役でした。今回の「トリネアの真珠」では、今後は全く出てきません。彼女が出てくるのは、(書くとしたら、ですが)第3作の『森の詩 Cantum Silvae - 柘榴の影』(仮題)ですね。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(2)ペレイラ嬢 -1-
その日、ラウラが退出前に宮廷奥総取締ハイデルベル男爵夫人ならびに補佐のペレイラ嬢と最後の打ち合わせをしていると、突如として国王レオポルドの来訪が告げられた。
「いったい、何が起こったのかしら。陛下との次の打ち合わせは明後日を予定していたのだけれど」
そう訝るハイデルベル夫人の言葉に、ラウラも一緒に首を傾げた。
レオポルドは、ヘルマン大尉と2人でやってきて、立って待っている3人に「いいから座れ」と言って自分も椅子に腰掛けた。
「誠に済まぬが、明後日の打ち合わせをしている時間がなくなったのでな。署名をしなくてはならない書類があったら今すぐ全部出してほしいのだ。この場ですべて済ませたいからな」
ラウラは、それだったら先ほどあんな恥ずかしい場面を見なくても済んだのにと心の中で呟いたが、そもそもなぜ明後日の打ち合わせが出来なくなったかについては、想像もつかなかった。
そもそもレオポルドがたまっている書類に全て署名をしてくれることなどまずなかったので、ハイデルベル夫人はペレイラ嬢に目配せをした。ペレイラ嬢は機敏に立ち上がると、しとやかな動作ではあるが流れるように書棚を動き、一度たりとも迷わずに30近い書類を見つけ出して次々とハイデルベル夫人とラウラに手渡した。それがあまりに鮮やかだったので、レオポルドとヘルマン大尉は顔を見合わせた。
ハイデルベル夫人は、渡された書類を1つ1つ開きながら、国王の前に置いた。
「こちらが、秋から宮廷の女官見習いとして出仕したいと申し出ている子女たちの名簿でございます。ヴァリエラ公のご親戚などは検討するまでもございませんが、中には例のゴーシュさまの遠縁の娘など、政治状況を把握して申請しているのか疑いたくなるようなものもございまして……」
はじめから煩雑な書類を見せられてうんざりしたレオポルドは首を振った。
「その手の問題外は、そなたたちがはじめから弾けばいいではないか。そもそも、そなたたちの仕事を見学する少女たちが誰であろうと、余の知ったことか」
ハイデルベル夫人は、眉を上げて反論した。
「そもそも宮廷奥取締の最終決定は、王妃さまか王太后さまがなさることでございます。まだ存在しない王妃さまはともかく、王太后さまのご負担が氣の毒だからと、陛下ご自身がご自分の管轄になさったのではないですか」
王太后の負担に配慮したというのは口実で、レオポルドが母后とその後ろ盾のカンタリア王国にグランドロンの実権を渡すのが嫌で、宮廷奥取締にまで口を出しているのを十分承知しているハイデルベル夫人だ。そのこと自体は、彼女にとっても好ましいのだが、国王の多忙故に決定が次々と先送りになるのには困り果てていた。それでも、フルーヴルーウー伯爵夫人ラウラが副官となって以来、どうしてもすぐに欲しい署名に関しては、彼女を使者にすればたいていすぐにもらえるようになっただけでもマシだと思っていた。
レオポルドは、痛い所を突かれて文句も言えず、黙って書類に目を通しては驚くべきスピードで決定を下していった。
「それからこれでございますが」
そう言ってハイデルベル夫人がレオポルドに渡したのは、女官たちの報酬の引き上げ要求書だった。
「これは、余が帰るまで待ってくれぬか」
それを聞いて、3人の女は目を丸くした。
「どちらに行かれるのですか。そして、お帰りはいつでございますか?」
レオポルドは天井を見上げて言った。
「なに、直轄領や金山の視察などがあってな。収穫祭までには……」
「なんとおっしゃいましたか?」
ハイデルベル夫人は叫んだ。
ラウラは、レオポルドが何を考えているのかすぐにわかって、こめかみに手を当てた。屋敷に戻ったらすぐに夫のフルーヴルーウー伯に、国王がフルーヴルーウー辺境伯爵領を訪問するはずだから準備をしなくてはならないとを告げなくてはならない。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(1)署名 -2-
どうやら自分も行きたいと思ったようです。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(1)署名 -2-
首尾よくレオポルドの署名を手にすると、ラウラは長居をせずに意氣揚々と引き上げていった。
国王はそのすぐ後に、フリッツ・ヘルマン大尉の居る詰所にズカズカと入っていった。平日ではあるが、2週ほど激務が続いたので、本日は全ての予定をとりやめて休むと言われていたので、護衛の部隊も2人の衛兵を除いて休日の代わりに詰所でワインを飲んでリラックスしていた。ところが、娼婦たちと遊んでいるはずの国王が突然やってきたので、皆はあわてて立ち上がった。
レオポルドは片手で座っていいと示すと、ヘルマン大尉に言った。
「余はフルーヴルーウー金山の視察に行くぞ。適当に小規模の護衛兵を編成しろ」
グランドロン王国の最南端に位置するフルーヴルーウー辺境伯領に囲まれるようにして金山がある。もともとは辺境伯領に属していた地域だが、金が発見されてから王国の直轄領となった。実質的には、長らくフルーヴルーウー辺境伯が金山の管理も代行していたが、辺境伯が不在となりその代官であるジロラモ・ゴーシュが権勢を誇りはじめたころから、先代伯爵夫人であったマリー=ルイーゼ王妹殿下の進言により再び完全な直轄管理に戻っている。
しかし、もちろん国王その人がわざわざ視察に行くことはめったにない。
ヘルマン大尉は、この手の国王の氣まぐれに慣れていたので、平然と言った。
「こちらはなんとでもなりますが、陛下ご自身は予定がいっぱいですので、しばらく王都ヴェルドンを離れるのは無理かと存じます」
「そこをなんとかするようにジジイたちに根回しをして来い」
ジジイたちというのは大臣や諮問機関である元老院のメンバーのことだ。親政を行っているとはいえ、亡き先王の時代から政治に関わってきた貴族たちをないがしろにすることはできない。
「無理です。私はただの護衛の責任者ですよ」
「そう言うな。マレーシャルやルーヴランに行く時には、なんとかしてくれただろう」
「あれは、ご結婚が絡んでいたからですよ。大臣の皆様や元老院は『お世継ぎのため』『王太后さまからのたってのお願いで』と言えば大抵の予定をずらしてくださいますから。金山の視察のことならご自分で皆さまと交渉してください」
レオポルドは、当年30歳になるがいまだに独身である。本来ならば10年以上前に結婚していなくてはならないのだが、あれやこれやがあり、いまだに王妃が決まっていない。「あれ」とは王太子時代の国王夫妻の意見不一致であり、「これ」とは即位後のレオポルド自身の多忙や王妃選定に対するこだわりであった。
半年ほど前には、西の大国であるルーヴラン王国の世襲王女との婚姻が決まりかけたが、よりにもよってルーヴランとセンヴリ王国の奸計であることがわかり、あわや戦争になるところであった。
そういった事情もあるので、国王が元老院や大臣たちに政治を任せきりにできずあらゆる政情を自分で判断したがることや、たんに家柄が釣り合うだけの王妃選定に慎重になっていることは理解されている。とはいえ、何もかもが思い通りになるわけではない。特に問題があるわけでもない金山視察を理由にフルーヴルーウー辺境伯爵領に遊びに行くなど言語道断だと却下されるに決まっている。
「ふむ、用事が嫁取りならいいのか。じゃあ、具体的な話を作れ」
「つ、作れって、どういうことですか!」
「あの辺りにも誰か居ただろう。そうだ、センヴリのトリネア候女はどうだ?」
ヘルマン大尉は上目遣いでレオポルドを睨みつけた。
「4年前にトリネアのキアーラ会修道院長経由でお話がきた時に、小侯国の小娘に興味はないと、即座に却下なさったではないですか」
それだけではない。国王レオポルドは「母上の縁者には近寄りたくない」と言い放ったのだ。だが、その件を口にするほどヘルマン大尉も迂闊ではない。
「そうだったか? だが、昨年、状況が変わったのはお前も知っているだろう。もう、あれもただの小娘ではなくて、トリネア候国の継承者になったんだからな。余も、トリネア港には興味がないわけではないぞ」
「フルーヴルーウー辺境伯領に近いからって、口からでまかせをおっしゃっていませんか」
「失礼な事を言うな。とにかく夏の避暑も兼ねて、近日中に出発できるように計らえ」
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(1)署名 -1-
前作をご存じない方のためのネタバレ防止策などは一切していませんので、ご了承くださいませ。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(1)署名 -1-
扉の向こうの嬌声を聞いて、彼女はノックをする手を止めた。ただの笑い声であれば、今さら躊躇などしなかったが、2人は居るらしい女たちの声は、ラウラが顔を赤らめるほど艶かしいものだった。
下で「今はおやめになられた方が」と召使いが戸惑いながら進言した理由はよくわかった。時を改めた方がいいだろうか。だが、彼女は手元の羊皮紙を見て、首を振ると無粋を承知で大きくノックをした。先触れすらを断ったのは、またしても煙に巻かれぬためなのだから。
「何の用だ。邪魔をするなと言っただろう」
彼の声が聞こえた。まあ、不機嫌そうだこと、でも今は政務時間のはずでしょう。彼女は多少ムッとしながら、それが表れないように静かに言った。
「申しわけございません、陛下。フルーヴルーウー伯爵夫人でございます」
途端にガタンという音がした。誰かが家具か何かを倒したようだ。
「きゃ~! 陛下!」
女たちの驚きの声が聞こえる。人払いのために戸口の側に立たされていた衛兵2人がぎょっとして、顔を見合わせた後「失礼!」と叫んでドアを開けた。それでラウラには図らずも中の様子が見えてしまった。
レオポルドは床に足を投げ出していて、半身を起こしていた。そこに上半身裸の2人の女がかがみ込んでいた。レオポルドの後ろには倒れた椅子がある。どうやらバランスを崩して椅子が倒れたらしい。
「ご無事であられますか!」
衛兵が駆け寄ったが、レオポルドは彼らの助けを片手で断り言った。
「なんでもない。騒ぐな」
それから戸口に立っているラウラの方を見てばつが悪そうな顔をし、何か弁解をしようとしたが、ラウラの若干冷たい視線に何を言っても無駄と悟ったのか、娼婦たちに言った。
「悪いが、今日は帰ってくれ」
「ええっ。こんなに早く帰ったら、陛下のご機嫌を損ねたのかとマダムに叱られますぅ」
「私も、もう少し陛下と遊びたいのにぃ」
衛兵たちはことさら無表情を装い、ラウラは礼儀正しく立っていた。国王はため息をついた。
「ヴェロニカには余から言っておくから……とにかく服を着てだな……」
ラウラは上目遣いで自分を見ているレオポルドに、無理矢理微笑みながら言った。
「陛下、お楽しみのところ申しわけございません。私は長くはお邪魔いたしません。お2人にはここにいらしていただいたままでも……」
レオポルドは立ち上がると、精一杯の虚勢を張りながら娼婦たちにきつい口調で言った。
「とにかく、今すぐ服を着て退出してくれ。お前たちもだ。外に出ていろ」
と、衛兵たちに、ひらひらと手を振ってみせた。
女たちは上着を着ると、ラウラの方を恨みがましく見ながら、衛兵たちに引っ立てられるようにして出て行った。彼らが再び扉を閉めたので、王の居室には、彼とラウラだけが残った。
「ラウラ、ゆっくりしてくれ、今、上着を着るので……」
女たちと違って、レオポルドは白いシュミーズと絹の下履きや長靴下は身に着けていたので、ラウラは目のやり場に困るというほどではなかった。
「陛下、上着をお召しになっていようが、いまいが、私にはどちらでも構わないのです。私としては、上着よりも羽ペンの方を手にしていただきたいのですが」
「あー、何の件だったか……」
ラウラは再び無理矢理微笑んで、声に怒りが現れないように慎重に言った。
「ペレイラ嬢が、今週この書類を持って8回も陛下の署名をお願いしたことは、憶えていらっしゃいますでしょうか」
「あー、どの書類だったかな……後宮の広間の改修の件だったか……」
「洗濯場の、改修です」
ラウラの声のトーンが一段と低くなったので、レオポルドは慌てて椅子を立ててから、ラウラに薦め、彼女の差し出している羊皮紙を手にとった。
「それで、ハイデルベル夫人がそなたを送り込んだというわけか」
それから小さな声で「まったく余計な事を」と付け加えた。ラウラは奨められた椅子に座りながら答えた。
「ハイデルベル夫人ではありません。この件は、私の担当なのです。陛下の署名を本日いただけないと、洗濯担当の者たちは夏の間中、別棟の方の洗濯場を借りて恐縮しながら仕事をする事になってしまうのです」
「なぜ今日なのだ。明日でもいいではないか。書類は今日中に読んでおくから、明日とりにくるとよい。それよりも、久しぶりだから少しここで話そうではないか。宮廷奥取締の仕事には慣れたか、外国人ゆえ苦労も多いのではないか、氣になっていたのだ」
赤い部屋着と麻のブレー履を身につけて、ようやくひと心地ついたレオポルドは、今さらながら威厳のある態度を示しながら、ラウラの前に座った。
ラウラは再び機械的な微笑みを追加した。
「おかげさまで、みなさまに大変よくしていただき、仕事にやり甲斐を感じております。お取り立てくださいました陛下のお顔に泥を塗らないように日々努力させていただいております。ところで、お忘れのようですが、私は明日は登城いたしません。明後日も、明々後日もです」
レオポルドは驚いて身を乗り出した。
「なぜだ」
「主人が明日から伯爵領に参ると申し上げたはずですが」
「なんと! マックスだけでなく、そなたも行くのか? いつ戻る、来週か?」
ラウラはこほんと咳をしてから答えた。
「収穫祭の前には」
「収穫祭? 3ヶ月も?」
「ですから、何が何でも、本日署名をお願いいたします」
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Cantum Silvae - トリネアの真珠 あらすじと登場人物

このイラストの著作権はうたかたまほろさんにあります。無断使用は固くお断りします。
【あらすじ】
一度グランドロン国との縁組みが流れた事のあるトリネア候女。状況が変わったことを理由にもう一度話が進み、当の候女は困惑していた。一方、グランドロン国王レオポルドは、金山視察を兼ねてフルーヴルーウー辺境伯に滞在していた。そして、隣接するトリネア領を自分の目で視察することを画策する。
【登場人物】(年齢は第1話時点のもの)
◆レオポルド II・フォン・グラウリンゲン(30歳)
グランドロン王国の若き国王。
◆エレオノーラ・ダ・トリネア(ジュリオ)(19歳)
センヴリ王国に属するトリネア候の長女。1年前に兄のフランチェスコが亡くなったため、トリネアの継承者となった。
◆マクシミリアンIII・フォン・フルーヴルーウー(マックス・ティオフィロス)(26歳)
グランドロン王国に属するフルーヴルーウー辺境伯。母親が前グランドロン国王の妹なので、現在は王位継承権第一位。平民として育てられ、遍歴教師として生計を立てていたので旅に詳しい。
◆ラウラ・フォン・フルーヴルーウー(20歳)
マクシミリアンの妻であるフルーヴルーウー伯爵夫人。元ルーヴランの最高級女官で王女に仕える《学友》だった。バギュ・グリ侯爵の養女。
◆アニー(17歳)
ラウラの侍女。ヴァレーズ出身。主人であるラウラを敬愛しており、殺されたと思ったときは単身仇の命を取るためにヴェルドンに乗り込んだ。密かに救われてフルーヴルーウー伯爵夫人付侍女になった。
◆フリッツ・ヘルマン(31歳)
レオポルドの護衛隊長である大尉。レオポルドの幼なじみでもある。
◆マーテル・アニェーゼ
トリネアにある聖キアーラ女子修道院の院長。
◆エマニュエル・ギース(28歳)
ヴァレーズの地方貴族ギース家の3男。王都ルーヴにて紋章伝令長官アンブローズ子爵の副官を務める。
◆トゥリオ
トリネアの有力貴族ベルナルディ家の私生児で前家令であるピエトロの義理の弟。
◆マウロ
アニーの兄である馬丁。ルーヴランでの家庭教師時代のマックスと親しかった。現在はフルーヴルーウー城に勤めている。
◆アナマリア・ペレイラ・ピニェラ (25歳)
カンタリアの王家で下級女官として働いていた。トリネア候夫人に預けられた後、カンタリア語とセンヴリ語に堪能なため、グランドロン王妃付け女官としてヴェルドンで働くこととなった。有能だが寡黙で穏やかな人柄を見込まれて、宮廷奥総取締の補佐に抜擢された。
◆パスカル・モラ
フルーヴルーウー辺境伯の家令。召使い頭のエルネストは長男。
◆ブルーノ
南シルヴァ傭兵団の首領。
◆フィリパ
南シルヴァ傭兵団に属する女。
◆ペネロペ・デ・ベルナルディ(故人)
《トリネアの黒真珠》の異名をもつ美女だった。11歳の時に親子ほども歳の違う前家令ピエトロ・デ・ベルナルディに嫁ぎ、17歳で未亡人となった。
◆フランチェスコ・デ・トリネア(故人)
エレオノーラの兄でトリネア侯爵家の跡継ぎだった。
◆ヴィダル・デ・アルボケルケ・セニョーリオ・デ・ゴディア《黒騎士》 (26歳)
カンタリア王ギジェルモ一世が愛妾ムニラに生ませた婚外子。エルナンドの従者としてルーヴランへと向かう。
◆エルナンド・インファンテ・デ・カンタリア (30歳)
カンタリア王国の第二王子。ヴィダルの奨めに従い、パギュ・グリ候女エリザベスに求婚するつもりでいる。
前作や外伝で登場した人物
◆マリア=フェリシア・ド・ストラス(19歳)
ルーヴラン王位継承者で絶世の美女。以前、グランドロン国王レオポルドとの縁談があったが、この話を利用してのルーヴラン側奸計が発覚したため流れた経緯がある。
【用語】
◆グランドロン王国
サレア河の東に位置し、北はノードランド、南はフルーヴルーウー辺境伯領までの広大な領地を持つ強国。王都はヴェルドン。グラウリンゲン家が治め、現在の国王はレオポルドII世。
◆ルーヴラン王国
サレア河の西に位置する大国。ストラス家が支配し、現在の国王はエクトールII世。王都はルーヴ。
◆トリネア侯国
《ケールム・アルバ》山脈の南にあるセンヴリ王国に属する侯国。峠でフルーヴルーウー辺境伯領と接している。《中央海》に面したほとんど時化のない広い港があり、漁業や真珠が採れる風光明媚な国。現在の侯爵はアウレリオ・デ・トリネア。
◆カンタリア王国
《中央海》にせり出したカンタリア半島にある王国。カンタリア半島の南半分はサラセン帝国に征服されていて、《再征服》の舞台となっている。サラセン人との混血が進んでいる地域が多く、ヴィダルのように肌色の濃い人間が多い土地。
◆ルシタニア
カンタリア半島の西部にあるカンタリアの属国。かつては王国であったが王家の血筋は途絶えている。
◆《シルヴァ》
ルーヴラン、グランドロン、センヴリ各王国にはさまれた地に存在する広大な森。単純に森を意味する言葉。あまりに広大なため、そのほとんどが未開の地である。
◆《学友》
ルーヴランに特有の役職。王族と同じ事を学ぶが、その罰を代わりに受ける。
この作品はフィクションです。実在の人物、歴史などとは関係ありません。
【関連作品】
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『森の詩 Cantum Silvae - 外伝』 |
【プロモーション動画】
この動画に使わせていただいたイラストは、リアルの友人であり、私の作品にたくさんのイラストを描いてくださっている創作の友でもあるうたかたまほろさんが描きおろしてくださいました。
【参考文献】
中世のヨーロッパの社会・制度・風俗・考え方などは、旅行などで知った事も入っていますが、基本的に下記の文献を参考に記述しています。
阿部 謹也 著 中世を旅する人びと―ヨーロッパ庶民生活点描 (ちくま学芸文庫)
阿部 謹也 著 中世の星の下で (ちくま学芸文庫)
J. & F. ギース 著 中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)
川原 温 著 中世ヨーロッパの都市世界 (世界史リブレット)
堀越 宏一 著 中世ヨーロッパの農村世界 (世界史リブレット)
F. ブロシャール、P. ペルラン、木村 尚三郎、 福井 芳男 著 城と騎士(カラーイラスト世界の生活史 8)
A. ラシネ 著 中世ヨーロッパの服装 (マールカラー文庫)
ゲーリー・エンブルトン (著), 濱崎 亨 (翻訳) 中世兵士の服装(マール社)
佐藤達生 (著) 図説 西洋建築の歴史: 美と空間の系譜 (ふくろうの本)
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【小説】Filigrana 金細工の心(26)スプリングソナタ -2-
サブタイトルとなっている『スプリングソナタ』は、本文中に出てくるベートーヴェンのピアノソナタのことです。後書きとともに追記でご紹介しています。
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Filigrana 金細工の心(26)スプリングソナタ -2-
窓の外を眺めると、予想していた通り、彼女が立ってこちらを眺めていた。
ライサが、きょう午後にこの街から去ることや、どこへ行こうとしているかを《監視人たち》は,もちろん把握していたが、それを彼に知らせる必要は全くなかった。だが、アントニアはそれでも、昨晩わざわざその話題を持ち出した。
傍らには小さな旅行鞄がある。その取っ手に添える左手首に金の腕輪がないことを確認して、彼の心はわずかに痛んだ。
23は、いや、当主ドン・アルフォンソは、わざわざ希望を訊きにきてくれたではないか。それだけでも十分に異例だったはずだ。自分で決めたことでもある。22は瞳を閉じた。
これで最後かと思うとひどく感傷的になった。ライサ……。お前は私の想いを決して知ることがないだろう。
それから想いを断ち切るために、大きく窓を開けた。そして窓を離れてヴァイオリンを手にとり力強く弓を引いた。明るく朗らかな響き。ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調『春』。
「珍しいのね、その曲を1人で弾きはじめるなんて」
アントニアがドアから顔を出した。外出するつもりらしい。この服装なら、私用だろう。
大きな黒い縁どりをした白いつば広の帽子を斜めに被っている。白地に大きな黒い水玉のタイトなワンピース。下手をすると下品にしか見えない柄が、これほどエレガントに見えるとは。彼はわずかに眉を上げたが、賞賛の言葉は発しなかった。いつものごとく。
「そう思うならば、外出はやめて、ここに来て伴奏しなさい」
アントニアは、この帽子を満足いく角度に傾けるために使った20分の努力のことをちらりと考えたが、引き止めてまで彼が一緒に演奏したがることは滅多にないことを思いだして、潔く帽子を脱いだ。ピアノの前に座ると、彼が時間をかけて教え込んだ、彼の信じる最高の演奏で鍵盤の上に指を滑らせた。
自由に伸びやかに弓が踊る。象牙と黒檀の上を走る指先はその音色を追い、追い越して、笑って立ち止まる。2つの楽器が軽やかに楽しく会話を広げる。
窓の外、どれほど近くても足を踏み入れられぬ、もう1つの世界に立ちすくみながら、ライサは2人の演奏を聴いていた。
メウ・セニョール。人生の時計の針を戻すことが出来たなら、私はあなたの側で静かに暮らす人生だけを目指したことでしょう。でも、そうしたとしても、あなたが私を選んでくださることはないでしょう。あなたに2人のドンナ・アントニアは必要ないのだから。
これからライサの生きていく世界はここではなく、世界中から集まったクルーが、世界各国から集まる乗客をもてなす、あの船だ。誰ひとりとしてこの街に、黄金の枷にとらわれた竜の一族が存在することを知らず、そのことが重要だとは思わないだろう。
船の上で眺めた大海原とどこまでも続く空を思いだした。どこへ行っていいのかまったくわからないほど広い空間だった。黄金の腕輪のない世界にライサは立っていた。
さようなら、メウ・セニョール。
ピアノの響きは階段を駆け上がる。ヴァイオリンはそれを追い越し、勝利を宣言する。2つの音は絡み、笑い、幸せを誇っていた。自由に、何にも制限されずに。伝統も、血縁も、許されぬ愛も、運命も、音楽だけは縛ることが出来なかった。
決して叶わぬそれぞれの愛を抱えた3つの魂が、空の彼方へと想いを羽ばたかせていく。春らしい高い空に、雲の彼方を目指して、その響きは消えていった。
(初出:2021年12月)
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【小説】Filigrana 金細工の心(26)スプリングソナタ -1-
コメントで、ライサにすっぽかされたチコのことを何人かの方が書いていらっしゃいましたが、今日はそのチコの話です。
切るほどでもなかったのですけれど、時間差があるのと、後書きも書こうと思うので、前後の2回にわけます。今日は前編です
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Filigrana 金細工の心(26)スプリングソナタ -1-
「君が来たってことは、僕は振られたんだね」
チコは落胆を隠せない声で言った。平静を装おうとしているが、荷物を握っている左の拳が揺れていた。マリアはその拳から眼を逸らして、エンリケ航海王子のアズレージョを見た。黄昏の光の中で、それは現実の世界をひと瞬もの哀しい色に染めている。
ライサは、昨夜電話でチコとここで会う約束をしていた。イギリスのサウサンプトンへ発つチコを空港で見送るという話を聞き、マリアは驚いたけれどそのライサの変化を喜んだ。それなのに、昼前にかかってきたモラエスという名前の男からの電話にでた後で、ライサは突然別の用事で出かけることになったと、マリアにチコの見送りの代わりを頼んできたのだ。
「イギリス行きの航空チケット、Pの街発にわざわざ変更してくれたんでしょう、あの子と会うために」
「そうさ。でも、彼女に頼まれてじゃなくて、僕が勝手にしたことだ」
「チコ……」
「いいんだ。わかっていたことだから。彼女の心がどこかその場にいない人の所にあることぐらい、いくら鈍感な僕だってわかる」
「でも、あなたはそれでもライサの力になってくれようとしたんでしょう」
チコはマリアを睨みつけるようにして見た。
「それが、なんになるって言うんだ。彼女が動きたくないのなら、僕のことなんて存在していないも同然だと言うなら、何も出来やしない」
「それは違うわ」
「何が違うんだ」
マリアはチコに視線を戻した。
「ライサは、あなたが知っているどの20代半ばの女性とも違うの。彼女は26歳だけれど、人との付き合いという意味では16歳みたいなものなの。そして、私の知っている限り、チコ、あなたがはじめてだったのよ、ライサが誰かのアプローチに反応して、自分の殻から出る方向に動き出したのは。そして、彼女はまだ迷っているの」
「迷っている?」
「家から離れていた2年半に何があったか、そして、いま彼女がどこにいて誰に逢いに行ったのか、私にはわからない。ライサの元雇用主が、なぜライサと私にあんなすごい旅をプレゼントしてくれたのかも、ライサが誰のことを想っているのかも。でも、彼女は知っているのよ。彼女が何をしようともその人と結ばれることは絶対にないって。その不幸を持て余しながら、彼女は道しるべを失っているの」
チコは、黙ってマリアの顔を見た。彼女は声のトーンを落とした。
「あなたがもうライサのことにうんざりで、2度と関わりたくないと言うならしかたないわ。でも、もし、そうでないならば、彼女を見捨てないでほしいの」
「見捨てる? 今日、どうするかを決めたのはライサ自身だろう……」
「違うの。あの子はどうしていいのかわからないの。あの子は池に浮かぶ小舟としてしか生きてこなかった。それなのに突然大西洋のど真ん中に置き去りにされたの。何をしてもいい、誰を愛してもいい、その代わりあの池にだけは戻ってくるなと。彼女が大海原で頼れるのは、今のところあなたしかいないの。彼女にも、それはわかっているの。でも、あの子は池に戻れないかどうか迷っているうちに、あなたを永遠に失ってしまうということがどういうことなのか、まだわかっていないの」
チコは、唇を噛んだ。それから、顔を上げて、マリアの目を見て答えた。
「もう行かなきゃ。今晩の飛行機に乗り遅れるわけにはいかないんだ」
マリアは、視線を落とした。
「そうよね……。都合の良すぎるお願いよね……」
チコは首を振った。
「金曜日にサンミゲル島のポンタデルガダに寄港するんだ。着いたら彼女に電話するよ。少なくとも、友達として話を聴いてくれる相手がいるのはいいことだろう。それから……」
チコは鞄から少し大きめの封筒を取りだした。
「僕たちの客船で、パーサーの職が次の航海の後に空くんだ。採用担当は、僕たちとUNOを一緒にしたあのニックで、もしライサがこの仕事に本当に興味があるならぜひ連絡してほしいって言っていた。これが応募用紙と必要な書類一覧だよ。彼女に渡してほしい」
マリアはチコに抱きついて「ありがとう」と言った。チコは笑って、マリアと握手をして別れ、空港に向かうため地下鉄駅へと降りていった。
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【小説】Filigrana 金細工の心(25)望まれた言葉
前回は、当主『ドン・アルフォンソ』として23がライサと話をしましたが、今回の舞台は『ボアヴィスタ通りの館』に戻ってきました。屋敷を離れていたアントニアも戻ってきました。
この話も、本当にもうじき終わりですね。12月、小説どうしようかなあ……。『scriviamo!』もあるし、新連載を始めるのもなんですよね……。
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Filigrana 金細工の心(25)望まれた言葉
窓から差し込む光はずいぶんと赤みを増した。大西洋に沈んでいくその前に、太陽は氣づかれないほどわずかな苛立ちの焰を燃え立たせ、そのほんのわずかがこの館のサロンにも入り込んでいた。
きめ細やかに掃除され、きちんと整えられたこの館に、どうしようもなく不安でもの悲しい想いがよぎる黄昏刻だ。彼の変わらぬ端正な横顔にいかなる苦悶も表れていないにもかかわらず、アントニアはたまらなくなり両手で顔を覆った。
今朝からこの午後いっぱいを、彼女は『ドラガォンの館』で打ち合わせをして過ごした。23が当主として彼と話す場に居てはならないと思った。そして、彼とライサの新しい生活の邪魔をしないように、『ドラガォンの館』でも、『ガレリア・ド・パリ通りの館』にでも、そのまま遷り住むことすら考えていたのだ。
けれど、23は『ドラガォンの館』に戻ってくると、彼女とメネゼスに書斎に来るように命じ、ライサ・モタより返却されたクレジットカードの破棄の手続きと、ライサ・モタに元《星のある子供たち》としての可能な限りの支援を手配するように告げた。
アントニアは、それで知ったのだ。彼が提案を拒否したことを。彼が望むものを差し出されても、受け取らなかったことを。愛する女から愛と信頼を寄せられながら暮らす可能性を絶ってしまったことを。
マリオに『ボアヴィスタ通りの館』へ送り届けてもらった時には、我が家へ帰ってこれたという安堵感があったというのに、黄昏刻に窓の外を見る彼の横顔は、いつもと何1つ変わっていないにもかかわらず、苦しく悲壮に満ちて感じられ、彼女をひどく責め立てた。
どうしていいのかわからない悲しみと後悔に襲われ、涙を止めることができなかった。泣きたいのは自分ではないはずなのになぜこんな騒ぎを起こしてしまうのか、自分でも不甲斐なかった。その場をそのまま立ち去ろうとしたが、その時に彼は窓辺を離れて歩み寄り、彼女を抱きしめた。
優しく、我が子をなだめるように。
子供の頃、彼に憧れて追い回した時、彼は決してそんなことはしてくれなかった。纏わり付く彼女に根負けしてピアノを教えてくれることになってからも、彼は厳しく他人行儀な態度を崩さなかった。共に暮らすようになり、時に笑顔を見せ、時に皮肉に満ちた軽口を叩いてくれるようになってからも、彼は彼女に身内としての愛情を向けることはなかった。
彼に恋い焦がれるようになってから、どれほど彼女はその抱擁を欲したことだろう。
けれど、アントニアは、抱擁を与えてくれる他の誰かではなく、たとえ冷たく他人行儀であっても彼と共にありたかった。父親を亡くした時、兄を失ったとき、彼女の悲しみは大きかったが、それでも彼の側に居られることで全てが帳消しになっていたのだ。
「ごめんなさい」
アントニアはくぐもった声を出した。
「なんだ」
「前におっしゃったわ。顔も見たくない、私となんか関わりたくないって」
彼は笑った。
「そんなことを言ったこともあったな。お前の意図がわからなかった。何を好き好んで両親を憎み、一族中に持て余されている不要な人間につきまとうのか。追い返せば、すぐに『ドラガォンの館』に逃げ帰るかと思ったが、お前は私に負けずに頑固だった」
アントニアは、彼を見上げた。
「大人しく尻尾を巻いて逃げ出すべきだったんだわ。……叔父様が本当に一緒に居たいのは、私ではないのでしょう」
22はわずかに間をとったが、優しい抱擁に変わりはなかった。
「アントニア」
彼は囁いた。なんと優しい響きだろう。
彼女は続けた。
「私がここにいなければ、アルフォンソはお父様の死後、お母様と叔父様が逢えるように取りはからったはずだわ。それが許されないとしても、ライサぐらいはずっとここに居続けられるようにしてくれたはず。私のせいで叔父さまはいつも幸せから遠ざけられている、そうでしょう?」
22は瞳を閉じた。言ってやらなくてはならない。そうでなければこの娘は永久に苦しみ続けるだろう。彼はアントニアを強く抱きしめた。
「ここはおまえの、おまえだけの場所だ、アントニア」
彼女は涙に濡れた瞳を向けた。22は微笑んで、彼女の額の乱れた黒髪をその長い指で優しく梳いた。
「私はお前を愛している。私のアントニア」
不安に怯えた瞳は悲しげに潤んだ。
「小さな可愛い姪として?」
「小さな可愛い姪として」
彼の言葉に、アントニアは睫毛を伏せた。彼は続けた。
「私のたった1人の友として。かけがえのない音楽のパートナーとして。そして夜に夢みる永遠の女神として」
アントニアは弾かれたように、顔を上げた。怯えと期待にうち震えて、彼の言葉を待った。
「そうだ。お前を愛している。だから、ここは過去も、現在も、そして未来もお前だけの場所だ。誰に遠慮して苦しむ必要もない」
「叔父さま」
「だが、私の愛しいアントニア。お前は自由でいていいのだ。ここに居たいだけ居て、もしお前がいずれ誰か真実の伴侶となる相手に出会ったならば、私の愛に遠慮することなく自由に飛び立っていきなさい。お前にはその資格がある。これまでにお前が私の人生のためにしてくれたことは、私が残りの生涯で返せるすべての愛より大きいのだから」
アントニアは、激しく泣きながら、22の胸にしがみついた。
「私はどこにも行かないわ。それが迷惑でないというならば、叔父さまの側にずっといるわ」
彼はアントニアの暖かい涙がシャツにしみ込んでいくのを感じつつ、もう1度彼女を抱きしめた。
そっと窓の方に目をやった。それから、すべての祈りと憧れ、己の人生に対する希望に終止符を打つかのように、その瞳を閉じた。
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【小説】Filigrana 金細工の心(24)会見 -2-
ライサと23もといドン・アルフォンソの会見です。この流れは、ここまで読んでくださった方にはもうすべて予想できているでしょうけれど、それでも書かないわけにはいきませんよね。そういう話ですから。
そういえば、クレジットカードのことを氣にしていらっしゃる読者の方も複数いたんですよね。今回その話も出てきます。
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Filigrana 金細工の心(24)会見 -2-
「久しぶりだね、ライサ。元氣そうで、なによりだ」
彼は、手を差し伸べたが、思い出したかのように躊躇した。ライサが、男性を怖れて触れられるとパニックを起こすという報告は届いていただろうから。
ライサは手を伸ばして、彼の右手を握った。彼が再び笑顔となり、優しく力が込められるのがわかったが、不安も恐怖も感じなかった。チコ、あなたのおかげね。ライサは、心の中でつぶやいた。
「遅くなりましたが、ご結婚、おめでとうございます」
ライサがそう言うと、彼は意外そうに眉を動かした後に、頷いて「ありがとう」と言った。必要最小限の言葉しか使わないところは変わっていないなと思った。
この人が当主になるということも、結婚して家族を作るということも、まったく想像していなかった。動いていなかったのは、自分の時間だけで、世界はゆっくりと動いているのだと感じた。
彼は、マネジャーに慣れた様子で、魚料理と白ワインを注文した。ライサの好みを訊く様子もスマートで、彼女を驚かせた。テーブルが整えられ、ワインが注がれると、彼はグラスを持ち上げた。グラスを合わせている時に、彼女は彼は本当に当主になってしまった、そして彼女はドラガォンの使用人ではなくなってしまったのだと感じた。
ウェイターたちが部屋からいなくなると、ライサは、鞄の中から白い封筒を取り出して、彼の前に置いた。
「これをお返しします」
彼は、それを開けると中に黒いクレジットカードが入っているのを見た。
「船旅以来、全く使っていないと報告を受けていたが、生活は問題ないのか」
「お給料がずっと振り込まれていましたし、そんなに使うこともなかったので。これから、また働こうと思います」
「そうか。アントニアから、君の希望については直接判断してほしいと言われたんだが」
彼は、単刀直入に本題に入った。
「君が再び『ドラガォンの館』では働きたくない事は理解している。『ドラガォンの館』に戻れば、君は最後に住んでいた場所に戻らざるを得なくなる。当主として私は同じ事を繰り返させないために、それは許可しない。だが、アントニアの報告では、君は我々との縁を切りたがっていないというが、本当か」
ライサは、俯いた。それから、意を決して顔を上げると、口を開いた。
「『ボアヴィスタ通りの館』で、ルシアの代わりになる使用人を探していると聞きました。セニョール322やドンナ・アントニアのお世話をする人が足りていないのなら……」
彼は、伏し目がちのライサをじっと見つめた。こういう表情は、本当に彼の母親によく似ていると思った。マヌエラに恋い焦がれ、憎しみながらも忘れられなかった叔父が、この娘の思慕に抗えないのはよくわかる。
彼は、彼自身が妻となった女を待ち、恋い焦がれた永遠にも想われた時間の事を考えた。心を得ることはできなくても、見ていられるだけでもいいと願った日々の事を。幸福を手にする事のできなかった叔父の、絶望の日々、彼よりもずっと長く、これからも続くであろう苦悩を考えた。
彼が、迷い、叔父に逢って、彼自身の希望を聞いたときの事も考えた。叔父の答えは、彼の本心からのものだっただろう。だが、叔父が若き日から彼を縛り付けてきた女神の呪縛を逃れ、この娘を愛し自分のものにしたいと願っているのもまた事実なのだ。
だが、彼にできる事はなかった。ライサが24の求愛を受け入れて、格子の向こうへと入っていった時に、すでに22の希望は潰えたのだ。それを覆すことは、当主となった彼にもできなかった。彼は、全てを背負おうと思った。
「ライサ。君の処遇を私『当主アルフォンソ』は一度決定した。その決定を覆すにはそれなりの理由が必要なのだ。君に生活するに困らない金銭的援助、または解雇される心配のないドラガォンに関連する仕事を用意する事は全く問題はない。だが、『腕輪はもうつけられない』わかるね」
ライサは、当主の顔を見た。悲しく同情に満ちた瞳が、非情な言葉に対して詫びている。彼女は、2度とあの館の中には入れないのだ。一緒に『グラン・パルティータ』を聴く事もできない。お茶を淹れてあげる事も、皮肉の混じった笑顔に接する事もできない。それは、冷たい決定だった。
「今朝、叔父上に逢ってきた」
彼は、言った。ライサは、はっとした。
「『新しい世界での君の幸福を心から祈っている』……彼からの伝言だ」
ライサは、涙ぐんで頷いた。
これは、あの方の意志なのだ。彼女は、言葉を心の中で噛み締めた。私の想いをわかった上での、あの方の答えなのだ。ここにいる当主や《監視人たち》の決定ではなくて。
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23もといドン・アルフォンソは、22のもとを訪れて彼の意思を訊きました。そして、今度はライサと逢おうとしています。そして、ライサは、予定がバッティングしておりました……。間が悪いですね。
舞台に使ったホテルは同名のホテルをモデルにしています。
今回も2回に分けています。
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Filigrana 金細工の心(24)会見 -1-
どうしてここを選んだのだろう。ライサは、周りを見回した。指定されたホテルは、カステル・サン・ジョアン・バティスタの裏手にあった。旧市街の中心にある『ドラガォンの館』からも、『ボアヴィスタ通りの館』からも歩くには遠い。これが既に答えなのかと思い心は沈むが、大きなヤシの木やクリーム色の外壁は暖かく、ライサを否定しているようには見えなかった。19世紀に建てられたこのホテルには、古き良き時代に人びとが避暑に来て賑わったはずだ。何よりも名前が彼女には親しみ深かった。『ホテル ボアヴィスタ』。
木目調の床、明るい茶色で統一されたロビーには黒いソファが置かれていて、到着を告げると彼女はしばらくそこで待つようにいわれた。2分もしないうちに、彼女はレストランの一番奥の席へ案内された。
チコは、どうしているだろう。マリアは彼女を待っている彼を見つけただろうか。約束を反故にしたことを、彼は腹立たしく思うだろう。昨夜、彼から電話がかかってきた時には、もちろん彼と会うつもりだったのだ。もし、先ほどのモラエスからの電話があと10分遅ければ、彼女はチコに逢うためにサン・ベント駅に向かっていたはずだ。これで彼との友情や交流は途絶えてしまうかもしれない。でも、モラエスの声を聞き、ドン・アルフォンソから面会を打診されたその瞬間に、ライサの心はこちらに飛んでいた。ボアヴィスタ通りに住む人たちの側に。
「何かお飲物は」
黒服の男が恭しく訊いた。ホテルのマネジャーのようだが、その服装が彼女に《監視人たち》中枢組織幹部を連想させて、縮こまりながら水を注文した。
白い服を着たウェイターが、瓶詰めのミネラルウォーターとグラスを運んできた。ライサに興味を持ったのか、肝心の水を注ぐ時に彼女を見ていて、グラスから少しこぼれてしまった。平謝りする青年に「大丈夫です」と答えながら、彼女は、かつて『ドラガォンの館』で給仕をしていた時に、何度もワインを注ぐのに失敗したときの事を思い出した。2度と失敗するなときつく叱られた後に、それが呪縛のようになって、またしてもこぼしてしまったが、口もきいたことのなかったインファンテ323がかばってくれた。「すまない。俺が急に動いた」と言って。
とても昔の事のように感じた。ライサが、厳格で冷たく思えるドラガォンの中で、人びとが優しくしようとしてくれる事を感じた最初の出来事だった。それから、彼女を教育していたジョアナや、感情などを持たないように思える執事メネゼス、美しく品のあるドンナ・マヌエラ、紫かがった顔をした当主ドン・アルフォンソ、彼らがやはりシステムに抵触しない限り示してくれる暖かさや優しさを少しずつ感じだしたのだ。
けれど、ライサの瞳は濁っていて、明るく優しい美青年の虚像が放つ光に目をくらまされてしまった。地獄の日々の中で、ドラガォンの他の全ての僅かな優しさは掻き消え、彼女には思い出される事もなかった。彼女の救いと想いは、その地獄の中から再び光の中へと導いてくれた『ボアヴィスタ通りの館』に住む人へと流れ込み、『ドラガォンの館』の日々はただの悪夢としてだけ彼女の中に残った。
グラスの下のテーブルクロスが濡れているのを眺めながら、彼女は、本当にこちらに戻ってきたのだと感じた。歪んで霞んでしまった精神がかつてのような状態に近づき、ようやく物事を単純な記憶として把握できるようになったのだと。それでも、『ドラガォンの館』に近づく事はまだできないと思った。
左の手首を見る。かつてはあった黄金の腕輪がなくなっている。これは、絶対的な安全の保証のはずだった。2度と、あの館には入れない。だから、あそこへと連れて行かれずに済む、彼女の目に見える安心のはずだった。それなのに、彼女は、当主ドン・アルフォンソに逢って、もう1度腕輪を付けてほしいと頼もうとしているのだ。
「お見えになりました」
その声にはっとして顔を上げる。扉の向こうから、先ほどのマネジャーに案内されて、黒い服を来た男性が入ってきた。
ライサは、自分の目を疑った。それは、彼女が逢うつもりでいたドン・アルフォンソ、紫の顔をして辛そうに歩く太った当主ではなかった。かつては長くて後ろで縛っていた巻き毛は短くなり、館にいた時は1度も見たことのない黒いジャケットを着ていたが、それ以外はあの頃と全く変わらない青年。あの館からは絶対に出られないインファンテ、ライサたちが23と呼んでいた男がそこにいた。
「メウ・セニョール……」
意味する事は1つだった。彼女の知っていたドン・アルフォンソは亡くなったのだ。そして、妹マリアの友達と結婚したのは、新しく当主となったこの青年だったのだ。
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【小説】Filigrana 金細工の心(23)決断 -2-
23もといドン・アルフォンソが、異例ながら自分の決断の前に当事者である22を訪問しています。普段は、今回のようにストーリーの根幹となるシーンはだいたい最初に執筆に取りかかるのですが、どういうわけかこのシーンはかなりギリギリまで書きませんでした。どういう書き方がいいのか、結構悩んだ部分でもあります。
そういえば、今日も予約投稿に失敗しましたね。最近多いなあ、疲れているのかしら。
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Filigrana 金細工の心(23)決断 -2-
「先日、アントニアがライサ自身に彼女の近況と意向を訊きました。家に戻って以来、問題がないか、彼女がなぜここに戻ってきているのか」
「会ったことは、アントニアがその日のうちに告げてくれた。家族との問題はなさそうだ。生活もお前たちが保証するなら困窮することはないだろう」
「ライサは、就職を希望していますが、一番働きたい場所は、ここだと口にしました。それについて、アントニアはあなたに報告しましたか」
「いや。その話はしなかった。当然だろう、腕輪を外された以上、ここで働くことは不可能だ」
かつて目の前の男の兄である当主が、回復途上のライサの腕輪を外し、早々に家に戻した理由を彼は理解していた。
「外した腕輪を本人の希望で再びつけることには問題はありません。ルシアの代わりにここで働くことも問題はありません。もちろん、その場合にはかつてのように24時間体制の監視になりますが、それについてさえご理解いただければ……」
彼は頭を振って遮った。
「お前は、もうドラガォンの運営の要であり、蚊帳の外のインファンテではない。《好ましくない兆し》について報告を受けているはずだが」
「はい。受けています。けれど、この屋敷では、まだ1度もレベル2以上の行動が見られたことがないことも知っています」
「そして、お前はそれを起こさせて、私が再び格子の中に押し込められるのを見たいのか?」
「まさか。私は、あなたがどんな方か存じています。あなたは、信じられぬほどの克己心でご自身を律し、私自身のインファンテとしての生き方の指針となってくださった。私は、ライサが再びあなたの側に来たとしても、何か憂慮すべき事態が起こるとは全く思っていません」
彼は従甥の顔を見て口をつぐんだ。23が皮肉でも牽制でもなく、むしろナイーヴすぎるほどの信頼を込めて彼を見つめているのをしばらく観察した。彼は、崩れ落ちそうになる鎧を改めて着重ねなければならなかった。
「私は新しい世界でのライサの幸福を心から祈っている」
「叔父上。私は、あなたを自由にすることも、名前を差し上げることも、結婚を許可することもできません。だが、少なくとも、愛する人と同じ空間で年月を重ねるための手助けはできます。あなたが幸福になるためにできる限りのことをしたいと真剣に願っています」
「お前は、それが何を意味するのか、わかっているのか」
大きく表情を変えることもなかった。彼は、当主となったかつてのインファンテである青年を一瞥した。
「わかっているつもりです」
「だったら、私にそれは不可能であることがわかるだろう」
口を一文字に結んでこちらを見る23の表情を見ながら、彼はこの男は似ていてもカルルシュとは違うなと改めて思った。それとも憎み続けたことで、彼はカルルシュの彼に向けた真摯な想いをなきものにしてしまったのかと思い返した。
マヌエラ、お前は正しかったのかもしれない。お前はカルルシュを選び、次の世代を生み出した。この青年は、この澄んだ魂を持つ当主は、おそらくドラガォンにふさわしいのだろう。彼は瞳を閉じた。
ライサの可憐で弱々しい笑顔がよぎった。共にソファに腰掛けて『グラン・パルティータ』を聴いたときの、暖かくくすぐったい想いが甦った。リストの『ため息』を微笑んで聴くマヌエラの姿が浮かび、その笑顔はライサとなってから消えていった。
その向こうに、ずっと遠くに1人の女が立っている。肩をふるわせ、死刑宣告を待つように、憂いに満ちた瞳を見開いて、それでも目を背けずに彼を見ている。
「お前の姉は……」
彼は、再び瞼を開き、はっきりと口にした。
「私の大切なアントニアは……私を底のない孤独から救い出してくれた。ここに来て、私に寄り添い、共に奏で、わがままを言うことを教え、語り合う歓びを与えてくれた。私を絶望の檻から解放してくれたんだ」
「叔父上」
「お前は私に、そのアントニアの魂を私がかつていた地獄につきおとせというのか。あれほど長い時間を過ごさざるを得なかった、妬みと憎しみと孤独しかない檻の中に、私のこの手で押し込めろというのか。否、絶対に!」
彼は、従甥が大きく息をして視線をそらすのを見つめた。これで終わりだ、ライサ。私はお前に至る綱を断ち切ってしまった。
「では……本当にそれでいいのですね」
黒い巻き毛が揺れた。彼はまだ苦しんでいるようだった。当主というのも辛い立場だなと、彼は心の中で笑った。
「23、いや、『ドン・アルフォンソ』」
彼は、毅然と語りかけた。
「はい」
「当主『ドン・アルフォンソ』は、すでにこの件について決断を下した。ライサ・モタの腕輪を外し、この館から遠ざけた。既に1度青い星を持つ男に選ばれた赤い星を持つ女が、間違いを犯すことがないように。決定はもう下したんだ。2度同じことに迷う必要はない、わかるか」
亡くなった兄は、インファンテであった弟がこの決定で悩み苦しむことを知っていたに違いない。だから、はっきりとした決定を下してから逝ったのだ。新しい当主『ドン・アルフォンソ』となった青年は、22の言葉に青ざめて頷いた。
「あなたの人生を、苦しめてばかりの私たち親子について、心から陳謝します」
立ち上がった青年は、苦しげに呟いた。彼は、いつもの冷ややかな笑いを取り戻して答えた。
「ふん。そうとは限らないぞ。お前の祖父の言葉を借りるなら『勝負はまだついていない。油断するな』というところだな」
「叔父上?」
「お前の妻は身籠ったそうだが、男子が生まれるとは限らないし、《碧い星を5つ持つ者》を生ませることができるのはお前と24だけではないからな」
「……」
当主は、太い眉をわずかに歪ませて、黒い瞳で彼を見つめた。驚きと感謝、それに同情と悲しみも混じっている複雑な表情だった。
固い握手を交わして、若い青年は居間を出た。彼は、扉が閉められ、モラエスが当主を送って玄関へと向かうのを耳にした。会話が耳に入った。
「急ですまないが、この館の監視体制を再び24時間に変えなくてはならない」
「とおっしゃいますと、ライサ・モタが戻ってくることになったのですか?」
それ以上の会話は聴こえなかったが、彼には会話の続きが想像できた。
「いいや。ライサ・モタが戻ってくることはない。監視対象は、インファンテ322とインファンタ・アントニアだ」
それを耳にするモラエスは、さぞ驚くに違いないが、喜ぶのだろう。とどのつまり、あの男も《監視人たち》中枢組織に属しているのだから。
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【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 夕餉
今回の舞台は、さらにイレギュラーで、そもそもレストランではありません。若狭小浜にて従者次郎が病に倒れてしまい、たまたま面識のあった萱に救われ長期滞在することになりましたが、今回の舞台はその濱醤醢醸造元『室菱』です。平安時代の食生活をいろいろと調べて盛り込んでエピソードにしてみました。だからなんだというわけではないのですけれど。
というわけで、『樋水龍神縁起 東国放浪記』とはいえ、今回、主人公の春昌は出てきません。次郎回です。

【参考】

樋水龍神縁起 東国放浪記
夕餉
庇の向こうに桜の赤く染まった葉が風に舞っていった。まだ早すぎると思ってから、そうでもないと思い直した。暦の上ではとうに秋だが、陽の高いうちはわずかに動き回っても汗ばむ日が続いている。三根は盆に夕餉を載せて、次郎の小部屋に向かった。
夏の始まりにこの地に足を向けた貴人とその従者は、これほど長く逗留するつもりではなかったらしい。だが、従者である次郎が
奥出雲で生まれ育った次郎は、瘧疾に罹るのは初めてだという。数日おきに高熱が出るこの病は、若狭国ではありふれたもので、子供の頃から幾度も罹っている三根はひと月半も寝込むようなことはもうない。次郎の主である安達春昌も、摂津国で生まれ育ったといい、瘧疾にはやはり子供の頃に幾度か罹っていたそうだ。なかなか治らぬ己の病で主を足止めしているだけでなく、見ず知らずの主従を客としてもてなすことになった『室菱』の若き女主人萱の迷惑を思い、次郎は事あるごとに床に頭を擦りつけて詫びた。
「そんなに、平伏しなくてもいいのよ、次郎さん」
三根は、次郎の看病役を務めてきたので、すっかり次郎と心やすくなっている。はじめは「次郎様」と呼んでいたのが、最近はふたりの時には敬語も忘れがちだ。
「萱様、樋水で媛巫女様にお目通りしたときに、なんだかすごい物をいただいたんですって。だから、媛巫女様のご縁の方の面倒を看るのは当たり前だっておっしゃっていたわよ」
「あれは、こちらが例祭で必要な姫川の御神酒をお譲りくださったお礼で……」
そういいながら、次郎はかつての主人であった媛巫女瑠璃と萱の不可思議な邂逅について思いを巡らせ口ごもった。
都からの使者や大社の神職とも滅多に会おうとしない媛巫女が、若狭からの平民である娘の来訪に心騒がせ、打診もされなかったのに神域の奥深く龍王神の住まう池前まで呼び寄せたのだ。そして、しばらく几帳の向こうで語らい、その時に神酒献上への返礼とは別に内々に玻璃珠を下賜をしたことを知っていた。
媛巫女付の従者となってよりそのようなことはただの一度もなかったので、次郎は若狭『室菱』の女のことは忘れていなかった。
次郎は、亡き媛巫女の最期の命に従い、安達春昌に命の終わるときまで付き従うこととなった。まさか自らが病に倒れるとは思いもしなかったが、その時に手を差し伸べてくれたのが他ならぬ萱だったことは亡き媛巫女の導きだろう。この間に萱は父の後を継ぎ元締めとなっていた。
彷徨の間、貧しい家に露しのぎを請うことも多く、主人と同じ部屋の片隅にうずくまるを常としてきたので、小さいとはいえ自分だけに与えられた部屋でゆっくりと休むことが、許されざる贅沢に感じられる。一方で、客として遇される主人が彷徨の疲れを癒やす刻を持てたことを、次郎は媛巫女の采配と感じ、ありがたく受け止めてもいた。
三根は、日に三度膳を運んでくれる。熱の出ない日には、次郎は起き上がり、春昌や馬の世話をしようとしたが、弱った体が言うことをきかない上、諸々の用事は『室菱』の家人たちが万事済ませてくれたので、諦めて熱はなくとも褥に横たわり、何かと世話を受けるままでいた。
旅の間はまともな食事にありつけぬ事も多く、腹一杯食べられることは多くなかった。だが、三根の運んでくる膳の上には、病のために食が細っているのが無念なほど、十分な量が載っていた。ようやく起き上がり、余すことなく食べられるようになった。粥ではなく歯ごたえのある姫飯、根菜汁、小魚が二尾ほど、山菜などが並ぶ。それどころか、三根が酒の酌までしてくれるのだ。
「この姫飯には、
次郎は、氣になっていたことを口にした。故郷の樋水龍王神社では、宮司とそのほか数人の上位神官のみが丁寧に杵つきした白米を食することができ、郎党だった次郎はヒエと粟、または固い玄米以外は口にしたことがなかった。献上品となる
「特別よ。なんてね、私たち使用人も病に伏せるときやお正月に食べさせてもらうの。萱様ご自身も、お正月以外は召し上がらないのに。萱様って、そういうお方なの」
次郎は頷いた。萱は仕事には厳しいが、三根たちにとって優しい心根のいい主人であることをすでに感じていた。
小皿に載った塩と醤醢を山菜に混ぜて姫飯に載せた。小さな茸がコリッと音を立て、そのあとに口の中になんとも言えぬ華やかな味わいが残る。なぜこのように美味なのだろう。無心に味わう次郎を見て、三根は誇らしげに笑いかけた。
「美味しいでしょう」
「ああ。これって何という名の山菜なのか? 格別な味がするんだが」
「蕨と
次郎は腰を抜かすかと思った。同じ大きさの壺に入った砂金ほどの価値があると言われている献上品だ。
「なんだって? それ程貴重な醢を私なんかに?!」
「心配しないで。献上品ではなくて、樽の底に残った滓をためて作ったものだから。でも、捨てるなんてもったいない味でしょう? 山菜や茸と組み合わせるとさらに美味しくなると見いだしたのは岩次爺さんなんですって」
「ワケ茸も、蟒蛇草もいくらでも食べたことがあるが、醤醢と組み合わせると上手くなるなんて不思議だな。こんなに美味くなるのならば、殿上人が欲しがるのも無理はないな」
三根は不思議そうに次郎を見つめた。
「樋水の媛巫女様は、天子様の覚えめでたいお方だったんでしょ? 殿上人みたいなものを召し上がっていたんだと思ってたわ」
次郎は首を振った。
「宮司様たちは、都の貴族と同じような立派な御膳を召し上がっていたけれどね。媛巫女様は、それをお断りになったんだ」
「まあ。わざと?」
次郎は、好奇心丸出しな三根の問いに少し笑いつつ答えた。
「ああ。下賤のお生まれで舌が受け付けぬのでは、などと口さがなきことを言う者もあったけれど、媛巫女様は召し上がるものに、私どもとは違う何かを感じていらしたようだ。強飯に使われる
「氣?」
「やんごとなきお方たちの召し上がる
三根は、目を見開いた。
「それって、もしかして、私たちの食べているものの方が、尊いかもしれないって事?」
より尊いと言えるだろうか。宮司たちのために用意された御膳を見て、垂涎の思いをしたことは幾度もあった。貴重な濱醤醢を日々惜しげなく使っているだろうやんごとなきお方たちの食はさらに豊かで尊いだろう。
「まあ、そう一概には言えないけれどね。でも、例えば、媛巫女様は冬に
三根は、考え深そうに頷いた。次郎は、面白い娘だと思った。
かなり膨よかだ。食べることが好きなのであろう。だが、こまめに立ち回り仕事に骨を惜しまぬので、たくさん食べる必要もあるだろう。少領の屋敷から逃げ出してきたところを匿ってくれた萱に深い恩義を感じているとはいえ、普段の仕事にも加えて見ず知らずの病人の世話をするのは、骨の折れることに違いない。それでも迷惑さなどみじんも見せぬのは、決して当たり前のことではない。
「ねえ、次郎さん。あなたのご主人の安達様って何者なの?」
三根は、そろそろ訊いてもいいでしょう、という風情を醸し出した。
「萱様からの問いかい?」
次郎は用心深く問い返した。普段なら、旅先では常に春昌が宿主と話すときに同席するが、今滞在では、ほぼ常にここでひとり寝ているため、春昌が萱に何を話しているかを知らなかったのだ。
「いいえ。萱様は安達様の夕餉のお相手をしていらっしゃるから、知りたければご自分でお伺いすると思うわ。でも、そういうことを私たち使用人に話したりなさらない方だもの。でも、私だって知りたいのよ。あの方、絶対にやんごとない方でしょう、なぜ次郎さんと彷徨っていらっしゃるのかしら」
次郎は、あけすけな好奇心に半ば呆れ、半ばその正直さに感心して三根を見つめた。
「やんごとないとも。殿上も許されたお方なんだ。でも、ここで言うことはできないけれど、ある事情で全てを捨てられたんだ」
「それって、樋水の媛巫女様と関係のあること?」
三根の核心に迫った問いに、主はもしや自分が病に伏している間にほぼ全てを語ってしまわれたのかと、次郎は訝った。これまでどのような旅先でも、主はそのような話はしなかったというのに。
「君は知りたがりだなあ。いつもそうなのかい?」
次郎が用心深くいうので、三根は口をとがらせた。
「そういうわけじゃないけれど……。ほら、安達様って素敵な方だし、萱様ととてもお似合いだと思うのよね。でも、ほら、どんな方かわからないを婿殿としてどうですかって、お薦めできないし」
「春昌様は……!」
媛巫女様の背の君だから、そんな不遜なことを言うな。そう言いかけて次郎は口をつぐんだ。
その定めを選ばれたお二人を、宮司様の命令に従い引き裂こうとし、結果として命よりも大切に思っていた媛巫女様を殺めてしまった身の上だ。春昌様は、その己れの罪科を代わりに背負いながら彷徨い生きておられる。改めてそれを思い至り、大きくも苦しき悔の念が身を締め付ける。
「ちょいと、次郎さん、どうしたの? 大丈夫? ねえ、そんなにつらいこと訊いてしまったの? もう訊かないから、しっかりしてよ」
氣がつくと、頭を抱えてうずくまる次郎の背を、三根が当惑してさすっていた。
「す、すまない。つい動転してしまって……」
「何か、つらい事情があるのね。ごめんなさいね。私、すぐに思ったことを口にしてしまうの。それで、萱様にもよく叱られるの。でも、悪氣はまったくないのよ」
「ああ、わかっている。君はとても親切だし、主人の萱様のことをとても大切に思っているのもわかっているよ」
「次郎さん、ほら、もう少し食べて飲みなさいよ。早く元気になって、安達様に元通りお仕えするんでしょ」
濱醤醢が醸し出す旨味は、全ての幸いを捨てたはずの次郎にも、舌から悦びを思い出させ、小さい杯に注がれる酒は五臓六腑に染みていくようだった。そして、目の前に座り酒を勧める三根は、朗らかだった。生まれ育った奥出雲の神域を出て初めて、次郎は居心地がいいと感じた。
(初出:2021年10月 書き下ろし)
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