【小説】辛の崎
今日の小説は、ダメ子さんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト内容
テーマ: 成長
私のオリキャラ、もしくは作品世界: 高橋瑠水
コラボ希望キャラクター: ダメ子さんのオリキャラ
時代: 現代
使わなくてはならないキーワード、小物など: 大人の女性
ダメ子さんのところからは、定番でダメ家3姉妹をお借りしました。特に、今回はダメ奈お姉さまに女子大生らしい知識を披露していただくことにしました。
さて、リクエスト内容から考えると、たぶんちょっと違ったイメージの作品を期待なさっていらっしゃるんじゃないかと思うんですよね。でも、あえてこんな感じにしてみました。それと、今回は大阪から離れてみました(笑)
【参考】
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樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero・外伝
辛の崎
澄んだ深い青だった。どこまでも続く日本海は息を呑むほど美しい。
「こんな見晴らしのいいところがあったのね」
瑠水は、真樹を振り返った。
「登った甲斐があっただろう?」
彼は、笑いかけた。
駐車場にYAMAHAを停めて、10分ほど登ったところに石見大崎鼻灯台はあった。坂道や階段が続いたので、瑠水は少し息切れしている。真樹は2人分のヘルメットとバイクスーツの上着を持って来たにもかかわらず、息が上がった様子もないので、瑠水は少しだけ悔しかった。
瑠水は、真樹とタンデムで出かけるようになってから、いろいろなところに連れて行ってもらっている。かつては、住む奥出雲樋水村と、出雲にある高校をバスで往復するだけだった。道草をしているときにたまたま知り合った生馬真樹は、誰もいないところでクラシック音楽鑑賞をする瑠水の周りにはいなかったタイプの友だちだ。バイクに乗せてもらい、クラシック音楽を聴くのが大好きになった瑠水は、よく週末に一緒に出かけるようになった。
「次はどこへ行くの?」
先々週、瑠水はまた連れて行ってもらえると期待して訊いた。すると彼は、少し困ったように答えた。
「少し遠くへ行こうと思っているんだ。お前も来たいなら、ご両親の許可がいるな」
「泊まり?」
彼はギョッとした顔をしてから言った。
「まさか! 100キロちょっとだから、日帰りだよ。でも、朝はいつもより早く迎えに来るよ」
暗くなる前に帰ってくる約束をして、瑠水は今日のドライブについてくることができた。江津市に足を踏み入れるのは初めてだった。
「すみませ〜ん」
後ろからの声に振り向くと、3人の女性たちが登ってきていた。
「灯台、今日登れますか?」
「いや。灯台の中は、灯台記念日にしか公開しないから」
真樹が答えると、どうやら都会からわざわざやって来た3人はがっかりしたようだった。
「もう、リサーチ不足だよ。ここまで来たのに」
3人は姉妹のようだ。顔がとてもよく似ている。一番年上に見える女性が言った。
「でも、灯台に登らなくても、ここからの眺めもなかなかだよ」
灯台の足下のテラスからは、絶景が広がっている。真樹と瑠水は、3人が景色を堪能できるように少し脇にのいた。3人は礼を言って景色を見ながら写真を撮った。
「ここ、バイカーには有名なの?」
瑠水は、真樹に訊いた。
「どうだろうな。ものすごく有名ってわけではないかもしれないな」
「こんなに絶景なのに? じゃあ、どうやって知ったの?」
彼は笑った。
「去年の12月に、その先の
「こんな遠くにお詣りにきたの?」
「そうだね。歳によって違うけれど、ときどき高津柿本神社にも行くよ」
全国に存在する柿本人麿命を祀る柿本神社の本社とされる高津柿本神社は、ここよりさらに100キロほど西に行った益田市にある。
「わざわざ柿本神社にお詣りするのね」
「うん。人丸さんには火防の御利益もあるから、ときどき仲間でお詣りするんだ」
真樹は消防士だ。
「防火の神様なの?」
「うん。『
「柿本人麻呂って、益田市にいたの? それともここ?」
瑠水は、そもそもいつの人だったかしら、などと考えながら訊いた。
「さあ。俺はあまり古典には詳しくないからな」
すると、先ほどから2人の会話が氣になっていた風情の、3人姉妹の次女と思われる女性が、ためらいがちにこちらを見た。
「えっと……石見の国府があったのは浜田市だそうです。7世紀のことだから、はっきりとわかっているわけではないんですが」
「お姉ちゃん! 知っているの!」
瑠水と同い年くらいのおかっぱの女性が小さな声で言った。
「ええ。大学の古典の授業で、わりと最近、柿本人麻呂についてやったんだもの。それで、ここに来てみたくなって……」
「そうなんですか」
「さっきお話に出ていた都野津柿本神社は、人麻呂と奥さんの
「辛の崎?」
首を傾げる瑠水に、真樹は笑った。島根県人なのに、都会の女子大生に何もかも教えてもらっているのがおかしかった。
高官としてその名が史書に残っていない柿本人麻呂は、政治犯として死罪になったのではないかという説もある謎の人物である。しかし、史書に名前はなくとも、その歌が後世に与えた影響は無視できず、歌聖と呼ばれ『万葉集』には、80首も採用されている。後には、正一位が贈位され「歌の神」となった。
その人麻呂が残した多くの万葉歌の中で、ひときわ叙情的で格調高い石見相聞歌は、石見の地で最後の妻になったといわれる
「駐車場に歌碑があっただろう? あれは、ここがその辛の崎だという説を発表した万葉学者の
角障經 石見之海乃 言佐敝久 辛乃埼有 伊久里尓曽
つのさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる 海石にぞ
深海松生流 荒礒尓曽 玉藻者生流
深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふる
(石見の海の辛の崎にある海の岩には、海草が生い茂り、荒磯にも藻が生い茂っている)
「そうなの。ってことは、柿本人麻呂とその奥さんも、この光景を見たかもしれないわね」
3人の女性たちが、礼儀正しくあいさつをして去って行った後、瑠水は、もう1度テラスの先に進み、柿本人麻呂が見たと思われる光景を堪能した。
「屋上山こと宝神山。高角山こと鳥の星山。そして、角の浦に、角の里」
柵にかけられた案内板と実際の光景を見比べていブツブツ言っている様子を、真樹は楽しそうに見守った。
「ああ、本当にきれいね。あんな遠くまで真っ青な海が続いているのね」
「そうだな。あの時代には、旅をするのは大変だったろうし、その度に今生の別れかもしれないって思ったんだろうね」
「え。そういう歌なの?」
「そうだよ。上京するときに、奥さんとの別れを惜しんだ歌、それに、逢えずに亡くなった人麻呂を思う彼女の歌も『万葉集』にはおさめられているんだってさ」
「そうなの。昔は、大変だったのね。100キロくらい、バイクで簡単に日帰りできる時代に生まれてよかったわね」
そう言って無邪氣に笑う瑠水に、真樹は本当にその通りだと思って頷いた。
また灯台までの坂道を登るのは、思いのほか骨が折れた。あの日はなんともなかった10分程度の登り坂を、真樹は30分ほどかけた。事故で上手く動かなくなった左足を引きずりながら歩いたせいでもあるが、おそらくそれだけではなかった。あの日の眩しい思い出を噛みしめていたからだろう。
いい陽氣で、空は高い。海は凪ぎ、優しい風が吹いている。
あの日、俺は瑠水といつまでも側に居ると、心のどこかで思っていた。成長するのは瑠水で、自分はそれを待っているだけだと思っていた。たとえ日常生活で、いくらかの物理的な距離が間に置かれても、愛車 XT500で飛ばせば、簡単にその距離を縮めることができると思っていた。
彼は、もう消防士ではなく、「火止まる」御利益を求めて柿本神社にお詣りすることはなくなった。そして、瑠水は遠い東京にいる。遠出をするのに親の許可が必要だった高校生ではなく、自立した大人の女性としてひとり立ち、自身の人生を進めていることだろう。
事故が起きたとき、彼の人生は終わったと思った。瑠水が彼を拒否して東京に去ったショックが、事故を引き起こした不注意の要因だったことは否めない。だが、それで彼女の人生を縛り付けることはしたくなかった。だから、彼は瑠水にはなにも知らせなかった。
そして、本当にそれっきりになってしまった。彼女にとっては、もう終わったことなのだろう。たぶん、俺にとっても……。なのに、まだ忘れられないとは不甲斐なさ過ぎる。あの3年間に捕らえられ、失ったものを思い続ける、成長しないのは自分の方だったらしい。そう思いつつも、ここに来て思い出すのは、やはりあの日のことだ。
直 の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ(万2-225)
(直接お逢いすることはかなわないでしょう。せめて石川のあたりに雲が立ち渡っておくれ。それを見ながらあの人を偲びましょう)
都に着いていくことのできなかった依羅娘子が人麻呂を想い嘆く歌を読んだとき、人麻呂とは違い自分には逢いに行ってやる手段も氣概もあると思っていた。まさか、自分の方が、遠く東京にいる瑠水を想い、その山が退けば彼女のいる地を望めるのではないかと願うとは考えもしなかった。しかも、相聞歌にもなりはしない、ただの未練だ。
時代や科学技術だけでは、越えられないものがある。それは、万葉の時代も今も同じなのだ。そして、人の心もまた、千年ほどでは簡単には変わらない。
柿本人麻呂の詠んだ石見の海を眺めながら、彼は間もなくやってくるまたしても1人の冬を思い立ち尽くした。
この道の
八十隈 ごとに 万 たび かへり見すれど いや 遠 に 里は 離 りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ 萎 えて 偲ふらむ 妹が 門 見む なびけこの山(「万葉集」巻2 131 より)
この道の曲がり角、曲がり角ごとに幾度も振り返って見るけれど、いよいよ遠く、妻のいる里は離れてしまった。 いよいよ高く、山も越えて来てしまった。 妻は今頃は夏草が日差しを受けて萎(しお)れるように思い嘆いて、私を慕っているだろう。 その妻のいる家の門を遥かに見たい、なびき去れ、この山よ。
(初出:2020年10月 書き下ろし)
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とりあえず末代 2 馬とおじさん
今日の小説は、limeさんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト内容
テーマ: ときめき
私のオリキャラ、もしくは作品世界: 誰か
コラボ希望キャラクター: limeさんのオリキャラ
時代: 現代
使わなくてはならないキーワード、小物など: 馬
limeさんのところには魅力的なオリキャラがたくさんいるのですけれど、迷ったあげくにこちらの作品から(よりにもよってその人を!)お借りすることにしました。この方、大好きなんですもの。
『凍える星』おまけ漫画『NAGI』−『寒い夜だから』
で、私の方のキャラも、limeさんにご縁のある子たちを連れてきました。「scriviamo! 2018」で、limeさんのお題から生み出した「とりあえず末代」という作品から中学生悠斗と猫又の《雪のお方》です。
とりあえず末代 2 馬とおじさん

このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。
この夏休み、僕の最大のイベントは、もちろんはじめての大阪ひとり旅だ。ひとり旅……のつもりだったけれど、例によってお目付役が同行している。静岡の従姉を訪ねるのと違って、頼れる人もいないところに行くのだから心配なのは分かるけれど、クラスメートたちの中には、ひとりで飛行機に乗った子だっているのにな。ともあれ、猫又は人じゃないし、ひとり旅だということにしておこう。
僕は、伊藤悠斗。旧家というほどではないけれど、少なくとも元禄時代から続いている伊藤家の長男だ。家系図もないのになぜそんなことが分かるかというと、伊藤家の跡取りには猫又が取り憑いているからだ。
一見、白い仔猫にみえる《雪のお方》は、元禄の初めにご先祖の伊勢屋で飼われていたそうだ。20歳まで生きて無事に猫又になったんだけれど、跡取り長吉に祝言をあげるという口約束を反故にされて、怒りのあまり「末代まで取り憑いてやる」って誓いを立てちゃったんだって。で、僕は当面、伊藤家の末代なので《雪のお方》にロックオンされているってわけ。
「妾はそろそろお役御免になりたいのじゃが、伊藤家断絶まではなんともならぬ」
そういいながら、僕たちが絶対に切らさないように用意させられているイタリア産の最高級エクストラ・ヴァージン・オリーブオイルをなめるのだ。
僕が大阪に行くことになったきっかけはこうだ。夏休みの宿題の1つに「したことのない戸外活動」がある。アルバイトやボランティア、それに旅行などをして、その経験をリポートするのだ。「ひとり旅」そのものは、もうやってしまっていたので、何かいい夏休み限定の経験がないかなとインターネットで探していたら、目に入ってきたのが乗馬スクールを運営しているとある財団のサイトだった。体験乗馬プランというのがあって、覗いてみたら「1日1名さま限定、体験乗馬ご招待」と書いてある。当たると思わずに申し込んだのだけれど、まんまと当選してしまったというわけ。
事後報告で父さんと母さんに、大阪行きを懇願したら、許可して旅費を出してくれる条件として、《雪のお方》に監督してもらうことと言い渡されてしまった。僕も《雪のお方》との旅行は好きだからいいけれど。
「そろそろ着くかな」
僕は、車窓を見た。東海道新幹線のぞみ号にひとりで乗っているのって、まるで夢みたいだ。残念なのは、あっという間だったこと。だって、《雪のお方》が周りの人の注目を集めすぎて、話しかけられてばかりいたんだもの。
新横浜で新幹線に乗り込んで以来、《雪のお方》ったら、しょっちゅう駅弁の箱に前足をかけて、指示をする。
自宅だったら「その唐揚げを妾が毒味して進ぜよう」とかはっきりと口にするんだけれど、今は仔猫のフリをしているので「みゃーみゃー」とかわいらしくいうだけだ。
「えっと、この佃煮? 卵焼き? それとも、唐揚げ?」
なんて質問を、僕が反応を確かめつつしていると、隣や前後の人が満面の笑みで話しかけてくる。
「まあ、かわいい猫ちゃんねえ」
その人たちからちゃっかり魚やシウマイをせしめた上に、名古屋で入れ替わった隣の人からは、天むすと松阪牛まで手に入れた《雪のお方》の人誑しっぷりには感心する。おかげで、僕、越すに越されぬ大井川も、うなぎの浜名湖も、木曽義仲ゆかりの木曽川も、ついうっかり見そびれちゃったじゃないか。
もうじき着くと分かったのはその2人目のお隣さんが慌ただしく支度をして降りていったからだ。
「おお、あっという間に着いたね。じゃあね、悠斗くんと雪ちゃん」
人好きのするおじさんで、まん丸の顔にちょんとついた鼻がちょっぴり赤い。僕が、今回のひとり旅についてする説明をずっと優しく聞いてくれた。体験コースのパンフレットを見せたら、どうやって行けば新大阪駅から馬場に楽にたどり着けるかの説明までしてくれた。
おじさんの去った駅の表示板を見ると、なんと京都だった。ええっ! 僕まだお弁当食べ終えていないのに。そのお弁当は、すっかりベジタリアンモードになっていた。《雪のお方》が動物系タンパク質をことごとく食べてしまったからだ。ねえ、猫又は何も食べなくてもいいって、普段は油しかなめないのに、なんで? 首を傾げながら、食べ終えると、降りるために荷物をまとめた。
泊まるホテルは、新大阪駅のすぐそば。父さんがいうには、大阪の中心の梅田は迷路みたいになっていて絶対に迷うから、子供が荷物を持ってウロウロするのは無理らしい。それに、明日の体験乗馬をさせてくれる馬場は豊中市にあって、梅田とは反対側なんだって。僕は、わりとすぐにホテルにたどり着きチェックインをした。荷物を置いたらすぐに遊びに行きたい。
「明日の準備をしてから遊びに行く方がいいのではないか」
《雪のお方》は、荷物を置いてすぐに出ようとした僕に釘を刺した。
「大丈夫だよ。手袋はこのリュックに入っているし、後は何もいらないもの。それよりも早く行かないと暗くなっちゃうよ」
両親との約束で、出歩くのは日暮れまでと決まっているのだ。
《雪のお方》は慣れたものでリュックの外側のポケットに自分からおさまった。僕はカードキーをポケットにしまい、颯爽と市内に向かう。大阪メトロ御堂筋線。大変って言うけれど、普通に乗れるじゃん。僕は余裕で新大阪駅を後にした。
梅田には5分くらいでついた。道頓堀に行きたいのだからなんばに直接行けばいいのだけれど、スマホのケーブルを買いたくて家電量販店が駅前にあるという梅田で途中下車したのだ。持ってきたケーブルは、新幹線の中で《雪のお方》のお方がじゃれついて傷つけてしまった。
どの改札から出ればいいのかわからなかったけれど、とにかく一番近いところを出たら、『ホワイティうめだ』というところに行き着いた。家電量販店の場所を訊いたら「ここからだと難しいねぇ。北出口から出ればよかったのに」と言われてしまった。いったん百貨店を経由手して大阪駅にでて、連絡橋口というのを目指すのがいいかもしれないとアドバイスを受けた。
それにしても、商店街には美味しそうな店がたくさん並んでいる。駅弁を食べ終えたばかりだから我慢しようと思ったら、《雪のお方》が「みゃーみゃー」と騒ぎ出した。やっぱり食べたいのか。無視して百貨店の中に入った。
なんだかメチャクチャいい匂いがしてきたと思ったら、あの『552』ってナンバーのついているお店だった。新幹線で持ち帰るのは難しそうだし、ホテルに持ち込むには勇気のいる匂いだし、食べたくてもずっと我慢していたのだ。ところが、そこは販売しているだけでなくイートインコーナーまである。そういうわけで、《雪のお方》だけでなく僕も我慢ができなくなってしまった。
晩ご飯は、ここに決定だ。焼きそばに、豚まんとしゅうまいをつけて食べることにする。あれ、《雪のお方》は、昼もシウマイ食べたっけ、まあ、いいか。猫がカウンターでさらに手を伸ばしていたら、もちろん注目の的になる。
「おや、猫ちゃんかいな」
飲食店にペットを連れ込んじゃだめって怒られるかな。そう身構えたけれど、お店のお兄さんは、笑って言った。
「ほんまはアカンのやけど、カワイイ猫は正義っていうしな。見なかったことにするわ」
《雪のお方》は小さな声で「なかなか見どころのある若人じゃ」と呟いた。
そんな風に寄り道をしていたので、家電量販店に行くべく連絡橋に出たら、なんともう暮れかかっていた。しまった。約束の夕暮れになってしまったので、道頓堀に行くのは無理だ。夕ご飯も食べちゃったから、いいけれど。結局、ケーブルだけを購入してすごすごとホテルに戻ることになった。
そして、朝が来た。スマホに保存しておいた地図を頼りに、昨日乗った御堂筋線を反対方向にちゃんと乗り、僕は体験乗馬に間に合うように馬場にたどり着いた。
入園の窓口で名前を言うと、お姉さんがこう言った。
「はい。では、お送りした確認書をお願いします」
ああ、そうだった。それは、チラシと一緒にリュックのこのポケットに入れたはず……あれ?
昨日、新幹線の中でも見たし、絶対にあるはずなのに、どうしてないんだろう。まさか、ホテルに置いてきたってこと? でも、スーツケースに移したりしていないのに、どうして?
「明日の準備をした方がいいのではと、言ったであろう」
そう言いたげな目で、《雪のお方》はじっと見つめ、係員の女の人も怪訝な顔で見つめている。僕は真っ赤になって、リュックの中身を1つ1つ取り出しながら確認書を探した。
「ああ、いた、いた。伊藤悠斗くん!」
後ろから、声がして僕たちは全員そちらを見た。
そこにいたのは、昨日、京都で降りていったまん丸顔のおじさんだ。あれ、なんでここに?
おじさんは、白いハンカチで額をふくと、背広の内ポケットから、4つに折りたたんだ白い紙を取りだして、僕に渡した。
「これが、昨日持っていた紙袋に入っていたんだ。きっと、ここのチラシを見せてくれたときにでも落ちて紛れちゃったんじゃないかな」
それは、いま必死で探していた『体験乗馬ご招待当選確認書』だった。そういえば、このおじさんと話したり、チラシを見せたり、《雪のお方》が唐揚げに手を出しているのを止めたり、あれこれ同時にやっていたような。
「ありがとうございます。届けに、わざわざここまで来てくれたんですか?!」
おじさんは、にこにこ笑いながら頷いた。
「昨日のうちに届けに行けたらよかったんだけれど、京都から帰ったのが遅くてね。それも、ちょっと部長に誘われて飲んでから帰ったもんだから、入っていたこと知らないまま寝ちゃったらしい。母さん……いや、うちの奥さんが名古屋みやげの袋に入っていた、これ今日だけれど大丈夫なのかって、見せてくれたのでびっくりして持ってきたんだ。どっちにしても今日は午後からの出勤だし」
「わあ、ありがとうございます。僕、もうちょっとで体験乗馬できなくなるところでした」
「時間もあるし、せっかくだから、迷惑でなかったら、悠斗くんと雪ちゃんの乗馬、見ていこうかな」
おじさんは、にこにこして売り場でお財布を取り出した。やり取りを見ていた売り場のお姉さんは手を振った。
「あ、保護者等の方、1名までは見学無料なので、そのままどうぞ」
おじさんと一緒に園内に入ると、早速貸してくれる装具を合わせるところに連れて行かれた。ヘルメット、ブーツ、それにエアバッグベストを身につけて、これから乗馬するんだって氣分が盛り上がってくる。僕のリュックと《雪のお方》は、おじさんが一緒にベンチで見ていてくれることに。そういえば、《雪のお方》をどうするか考えないでここまで来ちゃった。
それから馬にご対面。
「今日、悠斗くんが乗るのは、アキノコスモス号です。あいさつしてください」
茶色い馬はとても優しい目をしている。馬が突然お辞儀をしたので僕も深くお辞儀をした。そうしたら、歯を出してはっきりと笑った。それから鼻先を前方に出してきて、あっという間に僕の鼻にタッチしてしまった。
「あらあら、ご機嫌ね。いきなり首やお腹を触ったりすると、嫌がられるので、まずはゆっくり手の甲でさっき触れた鼻先を撫でてみて」
僕は、しばらくアキノコスモス号を撫でて、それから助けてもらって背中に乗せてもらった。わ、高い! アキノコスモス号は急に頭を低く下げた。見ると目の前に《雪のお方》が来ている。
「え。来ちゃったの!」
《雪のお方》はすまして、小さな声で「みゃー」と馬に話しかけた。馬はすっと頭をもっと低く下げ、その瞬間に《雪のお方》は馬の頭に飛び乗った。係員のお姉さんはびっくりして「まあ」と言った。そして、結局《雪のお方》ったら、僕の体験レッスンの間中、ずっとそこに居続けたんだ。
レッスンは楽しくてあっという間だった。係員のお姉さんがついていてくれてだけれど、僕はアキノコスモス号と一緒に歩いたり、停まったりできるようになった。それどころか、ベンチのおじさんに手を振る余裕もできた。
昼前にレッスンが終わり、降りておじさんのところに向かうと、おじさんはニコニコ笑って僕のスマートフォンで撮ってくれた写真をあれこれ見せた。
「この写真、おじさんももらってもいいかな。悠斗くんも、雪ちゃんも、馬さんもみなこっちを向いていてかわいいんだ。母さんに見せたいし」
「もちろん。おじさん、LINEかメール教えてくれる?」
おじさんは、LINEのアドレス交換のやり方を知らなかったけれど、アプリは入っていた(奥さんからのメッセージだけがたくさん入っていた)ので、奥さん以外で初めてのLINE友達になり、写真を送った。ついでにおじさんが《雪のお方》を抱っこしているところの写真も撮って送ってみた。
「やあ、うれしいね。これね、おじさんの初めてのスマホなんだ。せっかくだから、いい写真でいっぱいにしたくてね。魂の非常食のつもりで」
「なんですか、それ?」
おじさんは、はっとして、それから恥ずかしそうに頭をかいた。
「そうだよね、わけがわからないよね。請け売りなんだ。母さんは、よく宝塚歌劇団に行くんだけれど、『贔屓に逢うトキメキは、魂のご飯』っていって、贔屓の写真をたくさんスマホに保存しているんだ。で、魂の非常食っていって見せてくれるんだ」
へ、へえ……。
「そういうものなのかなって思ってたけれど、昨日、悠斗くんに雪ちゃんと遊ばせてもらったら、そのことがようやくわかったよ。ちょっとの時間だったけれど、疲れも取れてすっかり癒やされてね」
その後、おじさんと一緒にお昼ご飯を食べることになった。昨夜は何を食べたのかという話になったので、『552』のイートインコーナーの話をしたら、嬉しそうに目を細めた。
「それはいいところを見つけたね。その場で食べられる店はほとんどないんだ。おじさんは、いつも持ち帰りだな」
翌日、僕はおじさんに教えてもらった『552』のチルドパックをお土産に買って、帰りの新幹線に乗り込んだ。
「それでは、帰路に食せないではないか」
《雪のお方》は少し不満げだけれど、おじさんが教えてくれたように、ホカホカのヤツを持ち込むと、車両いっぱいに匂いが広がってめっちゃ恥ずかしかったはず。それに、家に帰ったら冷め切っちゃうだろうし。
僕は、車窓を流れて後ろに去って行く関西地方を見ながら、おじさんの言っていたことを考えた。『贔屓に逢うトキメキは、魂のご飯』かあ。アキノコスモス号の優しい茶色い目を思い出す。うん。あれもトキメキだな。学校や塾の勉強や、将来のこと、それに日々のあれこれを考えるとため息が出ちゃうこともあるけれど、あの茶色い瞳や背中で感じた爽やかな風を思い出すと、2年間くらい頑張れそうな氣がする。それに……どのクラスメートの家にだって、猫又が住んでいて話を聞いてくれるなんてことはないんだ。それを思うと、《雪のお方》がいてくれるのも、きっと僕には絶大な魂のご飯だよなあ。
「少しはわかったか」
《雪のお方》ったら、エスパーかよ!
「あのおじさんも、僕たちのレッスン見ていて癒やされたって言っていたよね。ストレスたまっているのかなあ」
「どうじゃろうな。贔屓にしょっちゅう逢っているのだから、魂は腹一杯なのではあるまいか」
僕は、《雪のお方》が何のことを言っているのかわからない。
「奥方のことを話すときに、もともと細い目がなくなるほどに目尻を下げていたではないか。あれは、昨日も『552』を手土産に買って帰ったに相違ない」
そうか。そういうことか。僕も、いつか魂のご飯っていうくらい大事な奥さんに会えるのかなあ。そう考えていると、《雪のお方》は少しだけ嫌な顔をした。
「お前、またいずれ結婚をしようなどど考えておるな。腰を据えて伊藤家の末代になろうという考えはないのか、まったく」
(初出:2020年9月 書き下ろし)
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【小説】バッカスからの招待状 -14- ジュピター
今日の小説は、TOM−Fさんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト内容
テーマ: 絆
私のオリキャラ、もしくは作品世界: 『樋水龍神縁起』シリーズの女性キャラ
コラボ希望キャラクター: 『天文部シリーズ』から智之ちゃん
使わなくてはならないキーワード、小物など: 木星往還船
ええと。わかっています。『樋水龍神縁起』だって言ってんのに、なんで『Bacchus』なんだよって。ええ。でも、『Bacchus』はそもそも『樋水龍神縁起』のスピンオフなのですよ。というわけで、「木星往還船」を使わなくちゃいけなかったので、紆余曲折の末こうなりました。あ、ちゃんと一番大物の女性キャラ出しているので、お許しください。(あの作品も、ヒロインはサブキャラに食われていたんだよなあ……いつものことだけど)
智之ちゃん、名前は出てきていませんが、ご本人のつもりです。三鷹にいるのは詩織ちゃんのつもりです。TOM−Fさん、なんか設定おかしかったらごめんなさい!
![]() | 「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む |
バッカスからの招待状 -14- ジュピター
「いらっしゃいませ。……広瀬さん、いえ、今は高橋さん! ようこそ」
全く変わらない心地よい歓迎に、摩利子は思わず満面の笑みを浮かべた。
「お久しぶり、田中さん。早すぎたかしら?」
「いいえ。どうぞ、いつものお席へ」
いつも座っていたカウンター席をなつかしく見やった。一番奥に1人だけ若い青年が座っていた。やはり、いま来たばかりのようで、おしぼりで手を拭きながら渡されたメニューを検討していた。
久しぶりに東京を訪れた摩利子は、新幹線で帰り日中の6時間以上を車窓を眺めているよりも、サンライズ出雲で寝ている間に島根県に帰ることを選んだ。そこでできた時間を利用して午後いっぱいをブティック巡りに費やした。そして、大手町まで移動して出発までの時間を懐かしいなじみの店で過ごすことにした。
そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。
かつて彼女は、今は夫になり奥出雲で彼女の帰りを待っている高橋一と、この店をよく訪れた。仕事が早く終わる摩利子が一の仕事が終わるのを待つ間、いつもこの席に座りマティーニを注文した。
「ジンを少し多めに。でも、ドライ・マティーニにならないくらいで」
店主であり、バーテンダーでもある田中佑二は、にっこりと微笑みながら摩利子が満足する完璧な「ややドライ・マティーニ」を作ってくれた。結婚して東京を離れてから、飲食店を開業、さらに母親となり、なかなか東京には出てこられない日々が続き、この店を訪れるのは実に10年ぶりだったが、田中は全く変わらずに歓迎してくれた。それがとても嬉しい。
「今日は、お里帰りですか」
「うふふ。用事のついでにね。これから寝台で島根に帰るの」
「高橋さんは、お元氣でいらっしゃいますか」
「ええ。さっき電話して『Bacchus』に行くっていったら、田中さんにくれぐれもよろしくって言われたわ」
「それはありがたいことです。どうぞよろしくお伝えください」
「ええ」
カウンター席の青年は、常連然とした摩利子と田中の会話を興味深そうに聞いている。
「今日は、何になさいますか。マティーニでしょうか」
メニューを開こうともしない摩利子に、田中は訊いた。彼女は、少し考えてから答えた。
「そうね。懐かしい田中さんのマティーニ、大好きだけれど、今日はほんの少しだけ甘くロマンティックな味にして欲しい氣分なの。夜行電車の向こうに星空が広がるイメージで」
田中は、おや、という顔をしたがすぐに微笑んで、いった。
「それでは、メニューには書いてありませんが、ジュピターはいかがですか。マティーニと同じくドライジンとドライヴェルモットを基調としていますが、スミレのリキュール、パルフェ・タムールとオレンジジュースをスプーン1杯分加えてつくるのです」
摩利子は、へえ、と嬉しそうに頷いた。
「ジュピター!」
カウンターの端に腰掛けている例の青年が大きな声を出した。
摩利子と田中は、同時に青年のほうを見た。彼は、話に割り込んだことを恥じたように、戸惑っている。摩利子はかつて職場の同期の男の9割に告白をさせたと有名になった、自信に満ちた笑顔をその青年に向けた。
「ジュピターって、カクテル、初めて聞いたわ。あなたも?」
それは「会話に加わっても構わない」というサインで、それを受け取った青年は、ほっとしたように2人に向けて言葉を発した。
「はい。僕も……その、すみません、大きな声を出してしまって。今日1日、高校時代の天文部のことを考えていたので、ジュピターって言葉に反応してしまって……」
「まあ。天文部。私はまた、なんとかっていう女性歌手のファンなのかと……。ほら、『ジュピター』って曲があったじゃない? もしくは、なんとかってマンガもあったわよね」
「マンガですか?」
田中が、シェーカーに酒を入れながら訊いた。
「ええ。なんだっけ、プラなんとかっていう、木星に行く宇宙船の話」
「『プラネテス』木星往還船を描いたSFですね。NHKでアニメにもなりました。2070年代、宇宙開発が進み、人類が火星に実験居住施設を建設していて、木星や土星に有人探査を計画している、そういう設定の話でした」
青年が言った。
「さすがによく知っているのね。木星って、現実にも探査が進んでいるはずよね、確か。人間は乗っていたかしら?」
「いえ、無人探査です。現在は何度も周回して木星を詳細に観測するジュノーのミッションが進行中です」
「どうして降り立たないの?」
「木星の表面は固体じゃないし、常時台風が吹き荒れているようなものなんです。そもそも、ジュノーあそこまで近づくことも、長時間にならないように緻密に計算されているんです。強い放射線の影響で機器に影響が出ないように」
「放射線?」
「ええ。木星からはものすごく強い放射線がでているんです」
「そうなの?」
「では、木星の近くまで旅行するのも難しそうですか?」
田中に訊かれて、青年は笑った。
「今の技術では難しいですね。木星には衛星もあるし、たとえばエウロパには表面の分厚い氷の下に豊かな液体の海があって間欠泉と思われるものも観測されているんですが、木星に近すぎて放射線問題をクリアできないでしょう。一方、カリストくらい離れればマシのように思いますが、こちらには液体の水はないようです」
「そうなんですか。技術が進化すれば宇宙進出もできるというような単純な話ではないのですね」
「それに、たとえ、寒さや放射線の問題がなかったとしても、ちょっと遠いんですよ。僕たちが海外旅行を楽しむような氣軽さでは行けないと思います」
「どのくらい遠いの?」
「太陽から地球までを1天文単位っていうんですけれど、太陽から木星まではだいたいその5倍くらいあります。なので単純に一番近いときでも、太陽までの4倍ちょっとあります。以前計算したことがありますが、時速300キロの新幹線で行くとすると230年以上。時速2000キロのコンコルドで35年、時速2万キロのスペースシャトルで3年半ぐらいです。もっともその間も木星は動いているので、この通りというわけにはいきませんけれど」
「片道でそんな距離なのね」
「燃料、ずいぶんと必要なんでしょうね」
「そうですね。僕にチケットが払えないのは、間違いなさそうです」
シェークを終えた田中が、カクテルグラスを摩利子の前に置いた。ほんのりとスミレの香りがする紫のカクテル。
「まあ、きれいね。それに……オレンジジュースのお陰なのかしら、爽やかな味になるのね」
「パルフェ・タムールは、柑橘系の果実をベースにしたリキュールですから、その味も感じられるのではないですか」
「それ、アルコールは強いですか?」
青年が訊いた。
「そうですね。マティーニのバリエーションなので、マティーニがお飲みになれれば……」
田中は言った。
摩利子は、ということはこの客は初めてここに来たのだなと思った。何度かやって来た客がどのくらいの酒を飲めるのかを、田中はすぐに憶えてしまうのだ。
「せっかくですから、僕もその『ジュピター』をお願いします」
田中は微笑んで、再び同じボトルをカウンターに置いた。
摩利子は、話を木星に戻した。
「じゃあ、スペースシャトルが格安航空券なみにダンピングされたら、木星往復ツアーなんてできちゃうかしらね。7年間、ほとんど車窓が変わらなそうでなんだけど」
青年は、首を傾げた。
「どうだろう。7年で往復できるとしても、その時間、地球では、他の人たちが別の時間を過ごしていて、帰ってきたら浦島太郎みたいな想いを味わうんじゃないかな」
摩利子は、にっこりと微笑んだ。
「7年なんて、あっという間よ。待っている人たちは、待っているわ」
田中が、そっと『ジュピター』を青年の前に置いた。青年は軽く会釈をして、紫のドリンクを見ながら続けた。
「『去る者日々に疎し』っていいますよね」
「そうねぇ。側に居て同じ経験を続けていないだけで疎くなってしまうのって、それだけの関係なんじゃないかしら。ほら、私、そんなにしょっちゅうは来られないけれど、『Bacchus』と田中さんは、私たち夫婦にとってとても大切なままだもの」
「恐れ入ります」
「それは……そうだけれど。星空だけを観ながら時間を止めたような旅をしている人と、その間もたくさんの他の経験をしている人との間に、認識の差が生まれてくることはないのかなって。離れている間に、どんどんお互いの知らない時間と経験が積み重なって、なんていうんだろう、他の誰かたちとは絶対的に違うと僕は感じている『何か』が、相手たちの中では薄れていくのかもしれない、なんて考えることがあるんですよ」
「それは木星旅行の話じゃなくて、現実の話?」
「まあ、そうです。高校の時に、いつも一緒だった仲間たちのことを考えています」
摩利子は、なるほど、という顔をした。それからわずかに間をとってから言った。
「私たちね。私たち夫婦も、それに、ここにいる田中さんも……たぶん、もう帰ってこないだろう人を待っているの」
「え?」
田中は、何も言わずに頷き、後ろにある棚を一瞥した。キープされたボトルのうち、定期的に埃がつかないようにとりだしているが、2度と飲まれないものがあった。彼は一番端にある山崎のボトルを見ていた。
青年は、具体的にはわからないが、2人が示唆している人物の身に何かが起こったのだろうなと考えながら聞いていた。摩利子は、それ以上具体的なことは言わずに続けた。
「絆って、ほら、一時やたらと軽く使われたでしょう? だから、手垢がついた言い回しになってしまったけれど、でも、きっと、そういう時間や空間の違いがどれだけ大きくなっても変わらない、口にすることもはばかられる強いつながりのことをいうんだと思うわ」
青年は「そうかもしれませんね」と、カクテルグラスを傾けた。わずかに頷きながら、確かに自分の中にある『絆』を確認しているようだった。
「僕は、高校まで兵庫県にいたんですけれど、それから京都に出てそれからずっとです。高校の時の仲間も、アメリカに行ったり、東京に出たり、みなバラバラになったけれど……確かにまだ消えていないな」
「あら。じゃあ、こちらに住んでいるわけじゃないのね」
「ええ。昨日から泊まりがけで研修があり東京に来ました。今日夕方の新幹線で帰るはずだったんですけれど、こちらには滅多に来ないし、明日は日曜日なので、先ほど思い立ってステーションホテルに部屋を取ったんです」
「そう。じゃあ、この店に来たのは、もしかして偶然?」
「はい」
「あなた、とてもラッキーな人ね。知らずにここを見つけるなんて」
青年は、顔を上げて2人を見た。それから、頷いた。
「本当だ。ここに来て、話をして、そして『ジュピター』を飲んで。すごくラッキーだったな」
それから、何かを思いついたように晴れやかに訊いた。
「あの、三鷹って、ここから近いんでしょうか」
「三鷹? 多摩のほうでしょう。山の中じゃなかった? 子供の頃、遠足に行った記憶があるわ」
摩利子の言葉を田中が引き継いだ。
「確かに多摩ですけれど、山の中ってことはありませんよ。東京駅で中央線の快速に乗れば30分少しで着くのではないでしょうか」
2人は、この青年が明日、『絆』を確かめ合う相手に連絡することを脳裏に浮かべながら微笑んだ。
ジュピター(Jupiter)
標準的なレシピ
ドライジン : 45ml
ドライヴェルモット: 20ml
パルフェ・タムール: 小さじ1
オレンジジュース: 小さじ1
作成方法: アイスカクテルシェーカーでシェイクし、カクテルグラスに注ぐ。
(初出:2020年8月 書き下ろし)
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【小説】賢者の石
今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト内容
テーマ: 旅
私のオリキャラ、もしくは作品世界: レオポルドⅡ・フォン・グラウリンゲン
コラボ希望キャラクター: マコト
使わなくてはならないキーワード、小物など: 賢者の石
中世ヨーロッパをモデルにした架空世界を舞台にしているレオポルドと、彩洋さんのメイン大河小説の主役……から派生した別キャラのコラボということで、舞台も時代ももちろん被っていません。オリキャラのオフ会でメチャクチャやらせたので、そのくらいどうって事ない……といってはそれまでですが、一応(?)オフ会ではないということで、どちらが動くかということを考えたのですよ。
しかし、「賢者の石」と言われたら、現代(または昭和)日本ではないかな、と思ってこちらの世界にいらしていただきました。しかし、あくまでこちらの世界観から見たマコトですので、彩洋さんの所でのようにしゃべったりしません。しゃべっているあれこれは、ファンのみなさんが各自アテレコしていただければよいかなと(笑)
さて、設定したのは、本編の2年くらい前ですね。マックスが旅に出たちょっと後です。ま、全然関係ありませんけれど。
そして、もうしわけないのですが、またしてもオチなしです。
【参考】
![]() | 「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む あらすじと登場人物 |
森の詩 Cantum Silvae 外伝
森の詩 Cantum Silvae・外伝
賢者の石
ことが済むと、彼は長らく横たわっていたりはしなかった。高級娼館《青き鱗粉》を経営するヴェロニカは彼の好みを知り尽くしているので、送り込む女の容貌に遜色はない。この女も唇が厚く、肌は柔らかく、肉づきのいいタイプだが、ほかに氣にかかることのある彼にとっては、今のところどうでもいいことだった。
「ヴェロニカには、また連絡すると伝えてくれ」
それだけ言うと、彼はさっさと上着を羽織り、政務室に向かった。
私室の警護をしていた者から連絡が入ったのか、政務室で召使いに軽い飲み物を持ってくるように言いつけたのと入れ違いに、ヘルマン大尉が入ってきた。
「フリッツ。きたか」
「それはこちらのセリフです、陛下。午後はずっとあの女とお過ごしになるはずでは?」
フリッツ・ヘルマンは、グランドロン王である彼の警護責任者である。乳母の一番歳下の弟であるため、子供の頃から彼の剣術の相手として身近に育った。腹の底のわからぬ貴族の子弟などと違い、彼にとっては数少ない信頼を置く人物だ。人には言えぬ話題も、彼には安心して相談できた。
「午後はずっと、と言ったのは、ジジイどもに他の予定を入れられぬためだ。悪いが、老師のところに行くんでな。うるさい連中に見つからないように付いてきてくれ」
ヘルマン大尉は首を傾げた。国王であるレオポルドが護衛なしに城の外に出ることは、彼としてはもちろん許しがたい。とはいえ、この君主は、いくらヘルマン大尉が口を酸っぱくして説いても、全く意に介さず、勝手に城を抜け出す常習犯だ。わざわざ自分についてこいという理由がわからない。
「着替えた方がいいのでしょうか」
戸惑うヘルマン大尉に、レオポルドは首を振った。
「いや。そのままでいい。お前の用事だというフリをして、馬車を出してくれ」
「ははあ。なるほど」
若き国王は、彼の教育を担当していた老ディミトリオスに、何か内密の頼み事があるのだ。それも、周りの人間にどうしても知られたくない。何だろう?
彼は、宮廷の裏口に馬車の用意をさせると、政務室の扉の外に部下を配置し、午後いっぱいは誰が来ても取り次がぬようにと言いつけてから出かけた。政務室の奥の隠し扉から抜け出してきたレオポルドは、裏口にもう来ており、ヘルマン大尉と馬車に乗った。外套のフードを目深に被っているので、御者はまさか国王その人を乗せているとは氣がついていない。
「賢者どのは、ご存じなのですか?」
「こちらから行くとは言っていないが、おそらく待ち構えているだろう。ヴェロニカを通じて、連絡をよこすくらいだからな」
「なんですと?!」
ヘルマン大尉は仰天した。堅物で有名な賢者ディミトリオスが、《青き鱗粉》のマダム・ベフロアを通じて連絡をよこしたことなど、これまで1度もなかったからだ。
「あの女が、わざわざ言ったんだからな。老賢者ディミトリオスさまが、猫を飼いだしたと」
「猫? それが何か」
レオポルドは、ふふんと、鼻を鳴らした。
「わからぬか。《ヘルメス・トリスメギストスの叡智》とでも言えば、わかるか」
「皆目わかりません」
ヘルマン大尉は憮然として、主君の顔を見た。
「まあ、いい。話をするのはいずれにせよ余だからな」
レオポルドは至極上機嫌だ。
老賢者テオ・ディミトリオスの屋敷は、王城からさほど離れていない城下町のはずれにある。王太子時代から彼の教えを受けていたレオポルドは、表向きはまだその屋敷を訪れたことはないことになっている。だが、彼は時おり貴族の子息デュランと名乗って王城を抜け出しており、そのついでに何度か老師の屋敷を訪問したことがあった。
ディミトリオスは、非常に白く長い髪とひげを持つ老人で、何歳になるのかよく知られていない。市井では、不老不死になる薬を飲んで生き続けているとうわさするものもあるが、もしそれが本当ならばこれほど年老いた姿のはずはないだろうと、ヘルマン大尉は密かに思った。背は曲がり、近年はよく手先が震えるようになっているが、鷲のような眼光は健在で、頭脳の働きも一向に衰えていないようだ。
先王の病死に伴い、王位を継承したばかりのレオポルドは、相談役としてかつての師を厚遇していた。屋敷には、常時数名の弟子が生活を共にしている。弟子といっても、ヘルマン大尉の父親の世代の男たちばかりだ。
ヘルマン大尉は玄関先で突然の訪問を詫び、出てきた召使いに取り次いでもらった。国王のもっとも信頼する腹心の部下として、彼はすぐに丁重に迎え入れられ、応接室に案内された。飲み物が用意され、召使いと入れ違いに老賢者が入ってきた。扉がきっちりと閉められるのを確認してから、老師はフードの男に非難めいた言葉をかけた。
「いったい、どういうお戯れですかな、陛下」
レオポルドは、笑って外套を脱ぐと老師に軽くあいさつをした。
「ヴェロニカの送ってきた女が言ったのだ。猫を入手したとか。『アレ』を試すのではないかと思ってな」
「はて。妙ですな。我が屋敷のどの者が娼館にいったのやら。時に『アレ』とは何のことでございましょう」
「しらばっくれずともよい。《賢者の石》だ。硫黄や水銀が足りないのなら、余が用意させるぞ」
老賢者は、露骨に嫌な顔をした。
「突然お見えになったかと思えば、また酔狂なことを」
その時、扉の向こうでかすかにカリカリと音がした。
「おや、ちょうどいい。向こうから来たみたいですな」
老賢者は、わずかに扉を開けると、「みゃー」という声と共に、なにやら小さな毛玉が飛び込んできた。
それは、赤っぽい茶トラの仔猫で、老賢者の足下に直進してきて、その長いローブにじゃれついた。ヘルマン大尉は、笑いそうになるのを堪えるために、横を向き暖炉の上にある醜いしゃれこうべを眺めた。
「なんだ。こんなに小さな猫か。これじゃ、指輪ほどの金しかできないではないか」
レオポルドがいぶかしげに言った。
「あなた様は、どうしても錬金術から離れられないようですな。私めは、この猫をその様な理由でここに置いているわけではありませぬ。それは単なる迷い猫でございます」
「錬金術?!」
ヘルマン大尉は、仰天して思わず口に出してしまった。
「そうだ。フリッツ、そなたはそもそも錬金術について何を知っている?」
「えー、魔術で金を作ることですか?」
国王と賢者は2人とも非難の目つきを向けた。老賢者はため息をついた。
「ヘルマン大尉。学問は、魔術ではございませんぞ」
ヘルマン大尉は恥じ入った。彼にとって、老師の行っている学問と、魔術の境目は今ひとつ曖昧なのだが、その様なことを口にできる雰囲氣ではない。
「まあまあ、少しわかるように説明してやってくれ」
「かしこまりました。そもそも、錬金術は、この世の仕組みを解き明かそうとする試みです。古人の知恵によれば、世界のすべては火、氣、水、土の四つの元素より成り立っていますが、これらもまた唯一の物質《プリマ・マテリア》に、湿もしくは乾、熱もしくは冷の4つの性質が与えらてできていると、考えられています。すなわち、《プリマ・マテリア》に正しい性質を与えることさえできれば、どのような物質でも作り出すことができるのです。我々が追い求めているのは、その真実、純粋なる《プリマ・マテリア》を見つけ出し、自在にどのような物質をも作り出すことのできる手法です」
「はあ」
よくわからない。ヘルマン大尉はちらりと考えた。
「こういうことだ。そこの土塊から、土塊たらしめている性質を取り除き、鋼の性質を与えてやるだけで、鉱山にも行かずに名剣ができるとしたら、便利ではないか」
なるほど。でも、やはり魔術そのものではないか。
「で、老師は、それがおできになるのですか」
「まさか」
「なんだ。いいところまでいっているのではないのか?」
レオポルドは、自分の足下に寄ってきた仔猫を拾い上げて、どかっと椅子に腰掛けた。仔猫は国王の上着の袖の装飾が面白いようで、揺らしながらパンチを繰り返している。
「物質を《プリマ・マテリア》に戻し、そして別の性質を与える《賢者の石》は、その辺に転がっているものではありませんでしてな。残念ながら」
老師は、にっこりと微笑んだ。それは全く残念そうに響かない言い方だったので、レオポルドはもちろんヘルマン大尉ですら信じられなかった。
「そなたが口にしたのだぞ。生きた猫に水と硫黄と水銀と塩を適正量飲み込ませ、その体の中で黄金を精製させる方法を試した錬金術師がいたと」
仔猫と戯れながら、レオポルドが言った。
「事実を申したまでです。私めが同じことをするとは申し上げておりませんぞ。それでは、陛下。その仔猫に硫黄と水銀を飲ませたいとお思いで?」
老賢者が問うと、国王はピタリと動きを止めた。仔猫は愛らしい2色の瞳を向けて、遊んでくれる長髪のおじさんを見上げている。
「ううむ。この仔猫か。それは……」
レオポルドは、愛らしい仔猫にすっかり骨抜きにされたようだ。
「なぜ猫にその様な物質を飲ませるのでございますか?」
ヘルマン大尉は、恐る恐る訊いた。
「《賢者の石》といわれる物質にはいくつかの説がございましてな。言葉の通り石の形状をしているという者もあれば、赤い粉だと言う者もあります。また
「あ。溶けてしまいますね」
「さよう。たとえそれを見つけても保管するどころか、捨てることすらできないのですよ。地面も、海も、すべて溶けてしまいますから」
「それで?」
「それで、この世で万物融化液に一番近いが、外界に危険のない存在として注目されたのが猫だったというわけです」
「は?」
「猫は、地を這い、空を飛び、森にも山にも人家にも自在に棲む。愛らしさを持つと同時に、魔女の手先ともなる。ごく普通の動物でありつつ、液体のようにどこにでも入り込むことができる。誰がいい始めたことかはわかりませぬが、猫を《賢者の石》そのものとみなし、その体内で精の製を試す錬金術師が現れたというわけです」
「では、賢者殿は、その様な説は信じていらっしゃらないわけですね」
「今のところ、敢えて猫を死なせる物質を飲ませるつもりはございません」
レオポルドは「ふん」と鼻を鳴らした。
「この余や、そなたの弟子に毒を飲ませることは躊躇しなかったのにな」
「それは、あなた様の御身のためですよ。その証に、あなた様はそこでピンピンして猫を撫でておられる。sola dosis facit venenum…服用量が異なれば毒とは申せませぬ」
賢者も負けていない。
「そういえば、余とともに毒になるギリギリの物質をあれこれと飲まされた、そなたの弟子はどこに行ったのだ。まさか飲ませすぎて死なせたのではあるまいな」
「とんでもございません。少なくともここを発った時は、あなた様以上に健康でしたよ」
「ほう。出て行ったのか」
「はい、半年ほど前のことでございます。陛下にお仕えする前に、世を見て見聞を深めたいと申しまして」
「まったく、羨ましいことだ。余も政務や軍務などに煩わされずに、自由に旅をしてみたい」
老賢者は、ムッとして言った。
「お言葉ですが、陛下。他国の諸王は、あなた様のように勝手に領内を出歩いたりなさりませんぞ。あなた様の自由な『領内視察』を可能にするために、ここらおいでの大尉ほか一部の臣下がどれほど手を尽くしているか、よくお考えくださいませ」
「わかった、わかった」
ヘルマン大尉も黙ってはいなかった。
「それに、他の方よりも自由に旅もなさっているではありませんか。先日、使者で済ませることもできたのに、わざわざマレーシャル公国まで姫君に会いに行かれましたし……」
「ふふん、あそこには、行っておいてよかっただろう。母上の強引な勧めに従って結婚していたら、今ごろお前たちは贅沢にしか興味のないあの氣まぐれ女に振り回されていたぞ。絵姿と家格の釣り合いだけで決めるのは余の性分に合わない。父上が不幸な結婚生活を強いられたのも、そんな横着をしたからだしな」
ヘルマン大尉は、主君の発した他国の姫や実母である王太后への失礼な発言は聞かなかったことにした。
国王レオポルドの花嫁選びは難航している。彼が好みにうるさく、ことごとく断るからだ。だが、花嫁候補への挨拶という口実で彼が隣国に足を運び、その土地の特産や富み具合、地形の強みや弱み、住民の気質、国境警備の状況などを予め伝えられている情報とすりあわせていることも知っていたので、王太后や城の老家臣たちのように、国王の判断を責めるような愚行もしなかった。
息抜きに城下に遊びに行き、また、暗君のごとく娼館の女たちとふざけているようで、彼は貴族たちとつきあうだけでは得られない市井の人々の生きた言葉に触れている。ヘルマン大尉をはじめとする腹心の臣下たちも、表向きの仕事だけでなく主君の手足となるように陰に日向に動き回り、レオポルドがつきあっている妙な連中をむやみに追い払ったりしないようにしていた。
しかし、この猫は、どうなんだろう。黄金を作り出す《賢者の石》でないのは確かなようだが。
「陛下、この仔猫、お氣に召されたのであれば、王城に召し出しましょうか」
レオポルドは、驚いて大尉を見た。
「いや、そんなことは考えてもいなかったぞ。そもそも、老師、そなたが猫を飼うのははじめてではないか?」
「私が望んで連れてきたわけではございませぬ。召使いが家の前で保護したのでございます」
「そうか。ネズミ捕りくらいには役立つかもしれんな」
「それはちと疑問が残りますな。なんせ、ネズミとの戦いで負けて、助けを求めてきたのが、拾うきっかけになったとのことでございますし……」
自らの不名誉な戦歴が話題になっていると認識しているのか、仔猫はなにやら勇ましい様子で机の上に登ったが、暖炉の上に置いてある髑髏をみつけると、あわてて飛び降り、レオポルドの上着に頭をこすりつけた。
「なんだ、ネズミに負けた上に、動きもしない髑髏に怯えているのか。その調子では、魔女のお付きなどにはなれんぞ」
そう言うと、国王は椅子から立ち上がった。
「陛下、本当にこの猫をお連れになりますか?」
賢者の問いに、彼は首を振った。
「いや、その猫と四六時中遊んでいるようだと、このヘルマン大尉らやジジイどもが氣を揉むからな。仔猫よ、次に来るとき、また遊んでやるから、それまでにネズミくらい狩れるようになっておけ」
彼は、小さな頭をもう一度撫でた。
「そんなにしょっちゅう王城を抜け出されるのは困ります。それに、この猫も、ネズミ捕りの練習をするほどヒマではないかもしれませんぞ」
「ふん。そうか。では、もう少し遊んでから帰るか」
陛下。そろそろお城に帰っていただかないと、空の政務室を守っている私の部下たちが困るのですが……。ヘルマン大尉は、仔猫と戯れる国王を見ながらため息をついた。確かに水銀やら硫黄やらを飲ませるには、残念なほど愛らしい仔猫だった。おかしな錬金術が流行ることがないように祈りつつ、彼は午後いっぱい猫と遊ぶ君主を辛抱強く待ち続けた。
(初出:2020年7月 書き下ろし)
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今日の小説は、山西サキさんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト内容
テーマ: 愛
私のオリキャラ、もしくは作品世界: サキさんの知っているキャラ
コラボ希望キャラクター: サキさんの作品のキャラクターを最低1人
時代: アフターコロナ。近未来(2~5年先?)
使わなくてはならないキーワード、小物など: 道頓堀
今だってわからないのに、アフターコロナの道頓堀なんて、皆目、予想がつかないのですけれど、書けとおっしゃるので仕方なく書いてみました。これ、いまから1年後にこうだったら困るかもしれません。笑い話になることを期待しつつ。
さて、登場人物です。実は、こちらで使うキャラクターはすぐに決まったのです。アフターコロナだと、近未来キャラのうち、もう生まれているのがぼちぼちいますので。使ったのは、いつもコンビで登場している2人組です。で、この2人と共演させるためにお借りするのはどなたがいいかなと迷ったあげく、この方にしました。
というのは、メインキャラの方の年齢設定が今ひとつわからなかったので。この方は3代くらいずっとストーリーの中にいらっしゃるので、どこかはかするだろうなと思ったんです。
大道芸人たち・外伝
禍のあとで – 大切な人たちのために
やっぱり赤い街だ。拓人は、思った。青空を額縁のように彩る看板に赤やオレンジの利用率が高い。昨日のホールや泊まったホテルのある周辺はそうでもなかったので、彼は印象を間違って記憶していたのかと訝っていた。
拓人が大阪を訪れるのは2度目だ。2年前は、父親のリサイタルだったので純粋にピアノを聴くために連れてこられたが、今年はどちらかというとシッターが見つからなかったので連れてこられた感がある。母親が従姉妹と一緒にジョイントコンサートをするのだ。その娘で拓人とは再従兄妹の関係にある真耶も、同じように連れて来られていたが、彼女の方は大阪が生まれて初めてだった。
とはいえ真耶は、まだ6才だというのに妙に落ち着いていて、コンサートは当然のこと、新幹線でも街並みでもはしゃいだりしなかった。
2人の母親たちは、今日はワークショップがあり観光につきあってくれる時間はない。ホテルで大人しく待たせるつもりだったのだが、夕方訪れる予定にしていたヴィンデミアトリックス家が観光をさせてから先に邸宅へと連れて行ってくれると申し出てくれたので、安心して仕事に専念しているというわけだ。
「私、歩くのが速すぎやしませんか、お2人とも」
香澄は、訊いた。黒磯香澄は、ヴィンデミアトリックス家で働いている。今日は、東京から来ているお客様の子供たちを観光させてから、邸宅につれていくいわばベビーシッターの役目を任されていた。
「大丈夫です。……だよな、真耶」
拓人は、香澄を挟んで反対側にいる真耶に訊いた。大きなマスクの下から彼女は「ええ」と、くぐもった声を出した。外出時に誰も彼もがマスクをするエチケットは、ようやく薄れてきたが、今日はかつての繁華街に行くのだから、預かる方としては徹底したいと、香澄が2人につけさせたのだ。もちろん彼女自身もしている。
真耶は、道頓堀の繁華街を眺めながら、言った。
「……ここは、なんだか、テーマパークみたいなところね」
真耶は、戸惑っていた。それはそうだろう。大きなタコや、ふぐや、カニがあちこちにあり、騒がしい音がしている。東京の繁華街で見るよりも看板が派手だ。
平日の昼とはいえ、人通りは少ない。これではマスクも必要なさそうだ。かつての賑やかな道頓堀を知る香澄には不思議な光景だった。
「ここ、開店時間、遅いの?」
拓人は、香澄に訊いた。
香澄は首を振った。
「いいえ。もう11時ですもの。例のロックダウンで閉店してしまったお店がたくさんあって、まだ次のテナントが決まっていないところが大半なのね」
未知のウイルスのために、世界中で都市のロックダウンがされてから1年以上が経った。拓人の通っていた小学校も、しばらく登校禁止になった。現在はロックダウンをしている都市はないけれど、社会的距離を保ち感染を防ぐための政策は続いていて、2年前のような賑わいは世界中のどこにも戻っていない。
拓人や真耶の住む東京も、かつては日本でももっとも賑わったと言われる繁華街の1つであるここも、押し合いへし合いといった混み方はもうしないらしい。見れば、シャッターを閉め切ったままの店がいくつもある。
「2年前は、人がいっぱいで、まっすぐ歩けなかったよ」
「そう。そういえば、ずっと外国人観光客が押し寄せていたのよね。それはまた、私には少し不思議な光景だったのだけれど」
香澄は、2人に優しく話しかけた。
「お昼はどこにしましょうか。スイスホテルのラウンジがいいかしら」
拓人は、露骨に不満を表明した。
「えー。せっかく道頓堀にいるのに、そんな洒落たとこに行くの? 東京と同じじゃないか」
「でも……」
香澄は少し困ったように、フリルのたくさんついた可愛らしい洋服を着た真耶を見た。大人しく文句も言わずに付いてきているけれど、この上品な少女は、B級グルメの店には行き慣れていないだろうし、嫌がるのではないかと思ったのだ。
視線を感じた真耶は、香澄を見上げて言った。
「わたしのことなら、大丈夫。拓人、たこ焼きとお好み焼きを食べるって、新幹線からずっと言ってました。ね、拓人」
「うん。ママたち、うちで食べるのとおんなじようなものばっかり食べたがるんだもん。今を逃したら食べられないよ」
香澄は笑いを堪えた。白いシャツに蝶ネクタイとグレーの半ズボン、上品そうな格好はさせられていても、彼はやんちゃ盛りの少年だ。マダムたちの好きそうな小洒落たカフェよりも、目の前の鉄板で繰り広げられるエンターテーメントが楽しいに決まっている。インパクトの強いコクと旨味たっぷりの庶民の味も、子供の舌には合うだろう。
ヴィンデミアトリックス家に勤めて長いので、良家の食事がどんなものであるか香澄はよく知っている。それらは栄養に富み、美しく、繊細で、多くの文化と技術が凝縮されている。子女たちはそれらを日々口にすることで、外見だけでなく内面までも、一両日では真似のできない真の上流階級に育っていくのだろう。
そうであっても、庶民の味の美味しさをよく知る香澄は、B級グルメを心ゆくまで楽しむ幸福もまた人生を豊かにすると思うのだ。せっかくだから、めったにない機会を2人にプレゼントしてあげたいと思った。
普段なら決して許してもらえないだろう、たこ焼きの買い食いからはじめた。かつては長々と行列ができていた有名店もほんのわずか待つだけで購入することができる。たこ焼きだけでお腹いっぱいになっては本末転倒なので、香澄は一舟だけを買い、堀沿いの遊歩道にあるベンチに腰掛けた。
真耶は、小さなハンドバッグにマスクをしまうと、レースのハンカチを取りだして、おしゃまに膝の上に置いた。その間にたこ焼きの1つはすでに拓人の口に放り込まれていた。香澄は慌てた。
「氣をつけて! 中はとても熱いから!」
あまりの熱さに目を白黒する拓人を見て、女2人は思わず笑ってしまった。わずかに火傷をしたらしいけれど、それでも拓人の食欲は衰えなかったようで、嬉しそうに大きな3つを平らげた。香澄と真耶は2つずつを楽しんで食べた。香澄は、ここのたこ焼きが大好きだ。大きなタコのほどよい弾力。生地の外側はカリッとしているのに、中側の柔らかな味わい。ネギや鰹がソースと上手に混じって、ひと口ごとに幸福が口の中に広がる。子供の頃から、たこ焼きは彼女にとって「ハレの日」の食べ物だった。真耶もたこ焼きを氣に入ったようなので、香澄はほっとした。
「こんどはお好み焼きだね」
拓人の言葉に笑いながら、香澄は以前夫に連れて行ってもらった美味しいお好み焼き屋に2人を案内するため、法善寺横町の方へ向かう。
橋を渡り、少し歩いていると、ギターと笛の音が響いてきて、真耶は足を止めた。異国風のメロディーがここらしくないと香澄は思った。見ると南米風の衣装をまとった2人の男と拓人たちと同年代の少女がいた。ギターとケーナを演奏する2人の大人は、背の高さが少し違うものの明らかに兄弟なのだろう、そっくりの見かけだ。傍らの少女は鈴で拍子を取っている。
彼らは東洋人のようでもあるが、肌が浅黒くどこか悲しげな印象を与える。拓人と真耶は、少女の前に歩み寄った。
2人の他に、その演奏に足を止めるものはほとんどいなかった。その空虚さと、ケーナの独特の息漏れと音色のせいで、曲調は決して悲しくないのだが、香澄はなんだか居たたまれない心持ちになった。
真耶と拓人が熱心に聴いてくれるので、鈴を振っている少女は嬉しそうに笑った。その曲が終わると、子供たちは大きく拍手をした。ケーナとギターの大人たちは帽子をとって大きくお辞儀をした。
「すてきでした。南米のどちらからですか」
香澄が訊くとケーナの男がにっと笑った。
「ペルーのクスコですわ」
「あら。こちらにお長いんですか?」
香澄は驚いた。男の返事が、大阪弁のアクセントだったからだ。
「せや。ぼちぼち30年になんねん」
なんとも不思議な心地がする。民族衣装を着た外国人が外国なまりの大阪弁で話しているのを、東京から来た子供たちが不思議そうに見上げているシュールな絵柄だ。大道芸人だろうか。
「音楽家なの?」
拓人がストーレートに訊いた。ギターの方の男が、首を振って答えた。
「いや、その裏でペルー料理屋をやっているんだ」
「まあ。ここにペルー料理のお店が?」
香澄は思わず声を上げた。
「ええ。小さい店です。よかったら、どうぞ」
男は、ギターケースの中に入っていた紙を香澄に渡した。
「なあに?」
真耶がのぞき込む。
「チラシだ」
拓人が受け取って真耶に見せた。ランチタイムセットの案内だ。
香澄は、どうしようかと思った。楽しみにしている拓人はお好み焼きを食べたいだろう。一方、真耶は同じ年頃の少女やいま聴いた音色、ひいてはペルーに興味を示している。ここで意見が分かれたら……。
拓人は、真耶の方を見た。
「行きたい?」
真耶は「お好み焼きはいいの?」と訊き返した。拓人は、にっと笑うとチラシを香澄に渡して、言った。
「ここに行っちゃダメ?」
香澄は、ほっとして微笑んだ。
「行きましょうか。……子供たちの食べられる、辛くない料理もありますか?」
ギターの男が頷いた。
「今日のランチセットは、ロモ・サルタードといって、醤油も入った日本人向けの味ですし、唐辛子は使っていません」
「よかったな。来てくれはる、いうとるよ」
ケーナの男が、少女に言い、彼女はうれしそうに微笑んだ。
その店は、路地裏の地下にあり、狭かった。外から見ると、こんな所に店があるとはわからないぐらいだ。ランチタイムなのにここまで閑散としているのは、どんなものだろう。味はわからないが、店の感じは決して悪くない。店内は暗くならないように木目の壁で覆われ、机の上には刺繍された黄色いテーブルクロスがかかっていた。
奥から女性がひょいと顔を出した。
「ママー!」
女の子がその女性に向かって飛んでいった。
2人はスペイン語で何かを話し、女の子の母親が3人ににっこりと笑った。
「マイド。ドーゾ」
演奏していた2人とくらべると、日本語は片言ではあるが、彼女も優しい笑顔で歓迎してくれた。ギターの男が、3人に水を運んできた。
「注文はどうしますか。ランチセットですか?」
チラシの写真では、肉野菜炒めのように見えたので、3人ともランチセットを注文した。わりとすぐにでできたのは、牛肉の細切りとタマネギやピーマン、フライドポテトを炒めて、醤油やバルサミコ酢で味付けした料理だった。
「おいしいわね」
真耶は、あいかわらず上品に食べている。
少女の母親が調理したのだろうか、家庭料理のような見かけだが、肉は軟らかいし、フライドポテトははサクッっとしていて、パプリカも上手に甘みが引き出されている。醤油とバルサミコ酢もしっかりからんでいて、舌の上でジュワッと旨味が広がる。これだけおいしい料理を出し、感じのいい店主たちの経営する店なのだからもっと繁盛してもいいはずだと香澄は思った。
拓人は、四角錐に盛られたご飯を崩すのがもったいないようだ。
「ご飯が、ピラミッドみたいになってる」
「お、わかったかい。これは僕たちの故郷にあるピラミッドをイメージして盛っているんだよ」
ギターの男が、テーブルの近くにやって来た。真耶の近くに立っている少女を膝にのせると、子供たちにもわかるように答えた。
「エジプトと関係あるの?」
「いや、ないと思うね。僕たちの言葉ではワカっていうんだ。神聖な場所って意味だよ」
「ペルーって遠いの?」
そう拓人が訊くと、女の子は「地球の反対側っていうけど、よく知らない」と言った。
「この子は、まだペルーに行ったことがないんだよ。ここで生まれたから」
父親が説明した。
「コロナが流行ったときに、帰らなかったの? 同じクラスのナンシーの家は、急いでアメリカに帰っちゃったよ」
拓人が訊いた。
彼は首を振った。
「そう簡単にはいかなくてね。向こうには住むところもないし、この店をたたむのも簡単じゃない。それにこの子はここで生まれたから、向こうの学校にはついていけない。ここで踏ん張るしかなかったんだ」
香澄は、この店をめぐる状況を理解した。国の仲間や観光客が来なくなり、外出の自粛の影響も大きく客足が途絶えたのだ。店内で待っているだけでは食べていけないほどに経営が苦しいのだろう。
ケーナの男が出てきて、少女の父親に声をかけた。
「せっかくやから、何か演奏しよか、フアン。坊ちゃんと嬢ちゃん、何がええ? 『コンドルは飛んでいく』?」
奥のわずかに高くなって舞台のようにしてある所に座った。
真耶が訊ねた。
「さっきの曲は、なんていうの?」
「ん? あれは、『Virgenes del Sol 太陽の処女たち』っていうんや。好きなんか?」
真耶は、頷いて訊き返した。
「たいようのおとめたちって、誰?」
ファンが答える。
「昔、ペルーには僕たちの先祖の築いたインカという帝国があったんだ。そして、皇帝のいる都クスコには、全国から集められたきれいで賢い女の子たちが、織物を作ったり、お供えのお酒をつくったりしながら、神殿で太陽の神様に仕えたんだ。あの曲は、その女の子たちのための曲なんだよ」
膝の上の少女は、大きな瞳を父親に向けた。祖先のインカの乙女たちを思わせる優しく澄んだ黒目がちの瞳。フアンは、娘をぎゅっと抱きしめて「頑張らなくちゃな……」と呟いた。
香澄は、ひと気のない街並みのことを思った。興味を持って立ち寄った日本人、観光や出稼ぎで日本を訪れた外国人、それらの人々で賑やかだっただろう、かつてのこの店の様子を想像した。国に帰ることと、ここに残ることのどちらも楽ではない。苦渋に満ちた決断だったに違いない。客引きのため大道芸人のような真似をしてでも、この街のこの店で営業を続けるのは、守るべき大切な家族がいるからだ。
みな頑張っているのだ。愛する家族や仲間たちを守るために。
「フアン~。来てや、弾くで~」
ケーナの男がしびれを切らしたらしい。
「わかったよ」
「ホセのおっちゃん、パパの従兄弟なの。一緒にクスコから来たんだって」
少女が、小さな声で説明してくれた。それから棚から鈴を3つ盛ってきて、2つをテーブルに置き、自分で1つ持った。
拓人と真耶は、同時に鈴に手を伸ばして、駆けていく少女の後を追った。香澄は、2人のよく似たペルー人と、仲良く鈴を鳴らす子供たちが、仲良く演奏する姿を眺めながら、微笑んだ。
(初出:2020年6月 書き下ろし)
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