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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

【小説】明日の故郷 - 前書き

この記事は「明日の故郷」の前書きです。



「明日の故郷」は、「生きていく村」をテーマにした短編小説で、紀元前58年に現在の南フランスで起こった第一次ガリア戦争(ビブラクテの戦い)に題材をとっています。

戦争の経緯ならびに結果、ヘルヴェティ族がどうなったかは小説の中に記述してありますので、ここでは繰り返しませんが、史実と創作の部分をはっきりさせるために一つだけ述べておきます。

この小説に出てくる固有名詞で、実在の人物は世界中の人間が知っていて、『ガリア戦記』の著者とされている人物たった一人だけです。あとの固有名詞は全て私の創作です。固有名詞は、ケルト人のものであるにもかかわらず全てラテン語化していますが、これはラ・テーヌ時代のケルト人が文字による記録を残さなかったため、どういう固有名詞だったのか、私はもちろん誰にもわからないからです。

ここに、参考にした文献を記載させていただきます。
C. IULIUS CAESAR「Commentarii de Bello Gallico
G. ヘルム著 関橘生 訳「ケルト人」河出書房新書




1. 希望の旅立ち
2. 帰還
後書きならびに感想&反省

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Category : 小説・明日の故郷
Tag : 小説

Posted by 八少女 夕

【小説】明日の故郷 - 1. 希望の旅立ち

この記事は、「明日の故郷」の前編です。



「明日の故郷 1. 希望の旅立ち」

 アレシアは住み慣れた家をもう一度見回した。全ての持ち物は荷車に載せられた。持っていけないもの、家具やアレシアが小さい頃に描いた落書きを、今は亡き母が美しく装飾してくれた壁の絵はこれで見納めだ。二度とこの家に戻ってこない。

 皆で素晴らしい国に移住するという長老の決定を聴いたあの日から二年が経過していた。葡萄の実る暖かく肥沃な土地、西のガリアへ行くのだ。暖かい日だまりでゆったりとした冬を過ごすことが出来るという。恐ろしい蛮族に怯える日々からも解放される。


 野蛮なスエービー族たちが、頻繁に襲ってくるようになったのは、アレシアがまだ幼い少女だった頃だ。日当りが悪く、作物はギリギリしか穫れないこの土地で、なんとか暮らしている村人たちは、町で頻繁に起こるというスエービーの略奪の話を聞く度に不安になった。

「怖い大きい人たちは、どこから来たの?」
「北の寒い所だそうだ」
「じゃあ、私たちの遠い親戚なの? 私たちの祖先も、ほら、北からこのヘルヴェティの地に遷ってきたんでしょう?」
「とんでもない。あいつらは俺たちの親戚なんかじゃない。戦ばかりをする野蛮な奴らで、北の果てからやってきたんだそうだ。我々の祖先は旅程にしてひと月ほどの北から来たんだよ」


 アレシアの父親ヴィンドクスも、ゲルマン人とケルト人の明確な違いなどはわかっていなかった。ヘルヴェティ人は紀元前一世紀頃、現在の西スイスに居住してきたケルト系の民族だ。ケルトと言っても、かつての獰猛な戦士やミステリアスな魔法の部族のイメージはなく、農業や商業を中心に暮らす小柄な人々だった。

 アレシアが「怖い大きい人たち」と表現したゲルマン系のスエービー族は現在のフランスにあたるガリアに住むセクアニ族と同盟を結び、肥沃で暖かい地域に勢力を伸ばそうとしていた。当然ながら、その中間の位置にあるヘルヴェティは、押し寄せるスエービー族に悩まされるようになったのである。


 アレシアが若い娘となる頃には、事態はますます深刻となっていた。その頃、ヘルヴェティ族の富豪の一人が、ガリアのハエドゥイ族の領主の一人と手を結び、彼らの住む肥沃な土地に部族ごと移住するというアイデアを持ち出してきた。

 部族はこれに賛成し、二年の入念な準備期間が設けられた。長旅の間、部族が飢えないように持ち運べる穀物を沢山用意し、沢山の駄馬と荷車を買い集め、途中で通してもらう近隣の部族と友好関係を築いた。

 そして、準備期間が過ぎ、いよいよ旅立ちの日がやってきたのだ。紀元前五八年三月二八日だとカエサルの『ガリア戦記』には記されている。


「ほら、時間がないんだ、早く村の外に出て」
伝令が戸口から顔を突っ込んだ。

「ちゃんと荷造りは終わったわ。父はもう荷車と出たのよ。掃除が終わったらすぐに追いかけます」
アレシアが答えると伝令は頭を振った。
「掃除だって? そんな必要はないんだ。早く来なさい。一人でも村に残っていると最後の仕事が始められないんだよ」

「最後の仕事?」
「焼き払うんだよ」
アレシアは戦慄した。焼き払うって、何を? 

 伝令に引っ張られるようにして外に出ると、村はずれを数人の男たちが松明をもって歩いているのが見えた。彼らは茅葺きの屋根に火をつけているのだ。

「何をするの? あれはフリディアの家じゃない」
「そうだ。だがフリディアの所だけじゃない。村全部の家に火をかけるんだ。わかるだろう。早く離れないと危険なんだ」
「嘘でしょう? だめよ。お母さんとの思い出が詰まった家なのよ」

 伝令は厳しい顔をした。
「我々はこの地から離れるんだ。どんな思い出があろうと、もう二度と戻ってこないんだよ。簡単に戻ってこようとするものが出ないように、全部焼き払うんだ。ヘルヴェティの総意なんだ」

 総意じゃないわ。私はそんなことに同意していないもの。

 だが、もう遅かった。風上から煽られた炎は、激しく燃え盛り、あっという間に村を飲み込んだ。松明を放り出して男たちが走ってくる。彼らを追うように炎の舌が次々と襲いかかってくる。まだ昼過ぎだというのに、辺りは夕暮れのごとく真っ赤になった。黒い煙が上がり、顔を向けていられないほどの熱があたりを満たした。アレシアの育った小さな家も炎に飲み込まれた。お母さん! アレシアは涙を飲み込んだ。こうしてヘルヴェティの十二の町と四百あまりの村は全て灰燼と化した。

「さあ、行こう。今日中に、川まで行くつもりなんだよ、長老は」
伝令は、振り返るアレシアを叱咤した。


 アレシアはその日の夕方にはヴィンドクスの荷車に追いついた。
「ああ、アレシア。遅かったね。心配したよ」

 父親は、二人の立派な体格の男たちと並んで荷車を引くラバを歩かせていた。お揃いのチェックの外套を羽織った戦士と思われる二人の男は馬に乗っていた。一人は白髪まじりの明るい茶色の髪を持ち見事なあご髭をたくわえた男だった。その馬には立派な鞍と蹄鉄がついていた。もう一人のトゲネズミのように硬くこわばった黒髪の若い男は簡素な鞍の上で澄ましていたが、アレシアのたおやかな姿を見ると相好を崩し、馬から下りて近づいてきた。

 一度も会ったことのない男たちだったので、アレシアは戸惑って父親の方を見た。
「こちらにおいで、紹介するから。びっくりするぞ」
 父親はさも得意そうにアレシアに壮年の男を示した。

「こちらは、コンダのアルビトリオス殿だ」
「アルビトリオスさまって、まさか、あの有名な『両手使い』の?」

それは、この戦士が右手でも左手でも自在に剣を操るのでついたあだ名だ。
「そのまさかの、本人がここにいらっしゃるのさ。さっき、荷車が溝にはまって立ち往生していた所をこのお二人がお力添えしてくださってな。お名前を聞いたら、我が一族随一の英雄だったというわけだ」

 アルビトリオスは、スエービー族の襲撃を食い止めるのに何度も貢献した著名な戦士だった。名前だけは何度も聞いたことがある。アレシアは若い方の男の方を見た。
「こちらは?」

「それは私の甥のボイオリクスです」
アルビトリオスは短く紹介をした。ボイオリクスはウィンクした。


 アルビトリオスはヴィンドクスと意氣投合した。偶然にも、子供の頃にアレシアの祖父に剣術の指導を受け、彼が推薦してくれたおかげでコンダのドゥブノクスのもとに弟子入りすることが出来たというのだ。彼は幼い頃をアレシアの父親とほぼ同じ場所で過ごした。アレシアの知らない固有名詞が飛び交い、二人は楽しそうに話をし、それは尽きることがなかった。それ故、英雄とその甥は、旅の間中ヴィンドクスたちと一緒に行動することにしてくれたのだった。

 アレシアは成り行きからボイオリクスと話をすることが多くなった。ボイオリクスは、悪い人間ではないのだが、軽薄なところがあって、偉大な戦士である叔父と比較すると、アレシアにはどうしても頼りなく思えてしまうのだった。

「あなたは、叔父さまに剣を習っているの?」
「そうさ。剣だけじゃないぞ。俺が一番得意なのは、実は槍なんだ。でも、その内に俺も『両手使い』っていわれるような剣士になりたいんだよなあ」

「利き手でない方で剣を使うのって、そんなに大変なの?」
「そうさ。文字を書くだけだって、右と左とでは違うだろ? 剣だってそうなんだ。俺はまだこの程度の剣しか使いこなせないんだけどさ」

 そう言ってボイオリクスは手のひらを広げたほどもある広さの剣を取り出してみせた。きれいに手入れされて鋭利な刃先にアレシアはおののいた。柄には黒ずんだ銀色でトネリコの文様が彫られている。

「すごい剣ね。有名な鍛治師が作ってくれたんでしょう?」
「まあな。これは叔父貴にもらったんだ。今、叔父貴が愛用している『雷鳴』も、その内に譲り受けたいな。もちろん叔父貴が引退する時にだけどさ」

 それを聞きつけてアルビトリオスは振り向いた。
「俺が死んだら、この剣はお前のものにしてもいいが、そうでなければ俺が認める腕になるまで絶対にやらん。第一、毎朝の鍛錬をことあるごとにさぼろうとするヤツがこの剣にふさわしいと思っているのか?」
ボイオリクスは、ちっと舌打をした。図星のようだった。アレシアはそっぽを向いて笑った。


 旅は楽ではなかった。住み慣れた家の屋根の下で、自分の懐かしい寝台で寝るのは違っていた。風よけにもならないテントの中で寒さに凍えながら固い地面の上で寝るので、くたくたになるほど歩き疲れていても夜中によく目が覚めた。起きると体は痛い。長い髪を解いてきっちりと結い上げる習慣も途絶えた。体が重く何もかもが億劫になっていた。

 朝も昼も歩く旅が続く。一日の終わりには、アレシアは男たちのために煮炊きをしなくてはならない。もちろん薪は父親が集めてきてくれるし、二人の戦士は小動物を捕まえてきてくれるのだから文句を言うわけにはいかなかった。帰りたいという言葉を口にすることは出来なかった。あの懐かしい我が家はもうないのだ――燃え尽きて。

 星が煌めく草原で、焚火を囲みながら男たちが昔話をするのを、アレシアは黙って聴いていた。時には、話を聴かずに、夢を見ていた――この旅が終わる時のことを。――新しく住む素晴らしい土地のことを。

 葡萄がたわわに実り、小麦が年に二度収穫できるという、西のガリア。男たちが建てる新しい快適な家のことを考えた。新しい家がどんどん建設されて地平線の彼方にまで広がっていく。アレシアの想像は果てしなく続いていく。

 村じゃなくて町になればいいのに、そうアレシアは考えた。毎週活氣のある市場が立っていたというコンダのようなところは面白いに違いない。父さんの着ている外套はもう古いし、ボイオリクスが言っていたような珍しい石で出来たネックレスを見てみたい。アルビトリオスさまのような有名な方や綺麗な奥方がそこら辺を歩いている町。悪くないじゃない?

 その一方で、アレシアは素朴な村の生活をも夢見ていた。咲き乱れる香り高い花を摘みにいこう。清らかなせせらぎで女たちと談笑しながらゆったりと洗濯をしよう。

 どんなふうになるかはわからない。村かもしれないし、町かもしれない。どちらにしても素晴らしい場所が待っている。私の新しい故郷になる場所だ。あと二ヶ月もすれば、手に入る夢の生活だった。


 旅の半分以上が過ぎたある日。前を行っていた仲間たちの動きが突然止まり、それから半日以上も動かなかった。伝令たちが行ったり来たりし、男たちが厳しい顔で話し合っていた。そして、翌日、再び伝令たちが人々に何かを伝えていくと、隊列はもと来た道を戻りだした。途中の峠まで戻ってから今度は北へと向かうのだと言う。

「どうしたの? どうして予定を変更することになったの?」
アレシアは穀物のことを考えた。目的地に着くまでに食料が尽きてしまうかもしれない。

 ボイオリクスは肩をすくめて説明した。
「ローマだよ。アロブロケーズ族の領地は、ローマの支配下にあるんだ。通らせてくれないから、遠回りをしてジュラ山脈を越えなくちゃいけなくなったんだ」

「どうしてはじめから北に向かわなかったの?」
「長老は『アルプス向こうのガリア』を通らせてほしいとローマに頼んであった。だが、今になって彼らはそれを拒否し、軍隊を差し向けたのだ」
アルビトリオスが苦虫を噛み潰したような顔をした。

「恐れることがあるもんか。俺たちは何も悪いことをしていないのに、いちゃもんを付けるつもりなら、受けて立ってやればいいだろう。ローマなんて、馬に蹄鉄もつけていない奴らで、この辺りには大した数の軍もいやしないんだし、簡単に片付くだろう?」
そうボイオリクスがうそぶくと、アルビトリオスは甥に厳しい顔を向けた。
「お前は、ローマと戦ったことがあるのか? あいつらの戦い方を知らないだろう」

「スエービーの蛮族とどう違うんですか?」
アレシアは不安になって訊いた。

「我々やスエービーは戦士一人一人が剣で戦う。だがローマ軍はフォーメーションを組み、槍や投石バリスタなどで攻めてくるのだ。統率がとれた集団よる戦術で打ち破るのが難しい。特に、今、ガリアに向かっているのは、新総督ガイウス・ユリウス・カエサルだ。天才的な司令官だと聞いている」

 アルビトリオスの声は低く静かだった。彼はいくつもの戦争をくぐり抜けてきたからこそ知っていた。戦争の準備はできていない。長旅で一族はみな疲れており、武器や食料も足りていない。土地勘もない。勝てない戦いなどすべきではないのだ。

 風が吹いてきた。丘の向こうから灰色の雲がゆっくりと向かってくる。嵐になるかもしれない。人々は不安な面持ちで行く手を見つめていた。






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Posted by 八少女 夕

【小説】明日の故郷 - 2. 帰還

この記事は、「明日の故郷」の後編です。



「明日の故郷 2. 帰還」

 六月の半ばを過ぎた頃、一行がビブラクテといわれる土地にたどり着いた時、長老たちは行く手にローマの軍勢が待ち伏せしていると言う報せを受けた。わざわざ進路を変更し、セクアニ族にローマの支配下でない彼らの土地を通らせてもらいここまで来たのに。

 ユリウス・カエサルはヘルヴェティ族がハエドゥイー族の土地を襲い、財産を奪おうとしているという陳情を受けたと元老院に報告した。そして、元老院でその件が審議される前に、もう「かわいそうなハエドゥイー族」を救援するための軍隊をビブラクテに向かわせたのである。

 カエサルにとって、ケルト人が東から西へと移動することなど、本質的にはどうでもよかったし、ハエドゥイー族がその他のケルト人よりも同情すべき一族と考えていたわけでもなかった。単に、分裂し混乱する他民族の事情を利用して、ローマの勢力を伸ばし、その功績によって自分の地位が上がるチャンスを逃さなかった、それだけのことだった。

 だが、ヘルヴェティ族たちは、今度は方向を変えて逃げ出すわけにはいかなかった。彼らの約束の土地に辿り着くためには、喧嘩を売るローマ軍と戦うしかなかったからだ。


 戦闘が始まってしばらくは、不安なだけでアレシアたちは安全だった。戦士たちがローマ兵と戦っているのは、ヴィンドクスの荷車のある草原ではなく、丘を越えた更にその先だったからだ。もちろん戦うために去っていった勇者アルビトリオスとその甥のことは心配だったが、二人が強いことはわかっていたので、命に関わることはないと思っていた。

 風に乗ってわずかに届く閧の声がまだ戦闘が終わっていないと知らせるが、それは現実とは思えぬほど遠いものだった。だが、それらの音は次第に近づいてきた。

 やがて、丘の近くに荷車を置いていた仲間たち、男や女たちの悲鳴が聞こえてくるようになった。逃げ惑う人々、訓練されていない男たちまでが戦っている氣配が伝わってきた。それは多くの戦士たちがローマ兵を防げない状態になってしまったことを意味していた。

 アレシアは、泣きながら走ってくる二人の幼い少女に目を留めた。同じ村のフリディアの娘たちだ。
「どうしたの? お父さんとお母さんはどこにいるの?」

 アレシアとヴィンドクスの姿を見ると少女たちは泣き叫びながら抱きついてきた。
「わからない。みんなで逃げている間に、いなくなっちゃったの」

 すぐ後に、ローマ兵たちが丘を駆け上ってくるのが見えたので、ヴィンドクスはアレシアと少女たちを荷車の陰に押し込めて隠した。そして自分も身を隠しながら、荷物の中を探り、奥にあった布に包まれた長いものを取り出した。

「お父さん、どうするつもりなの?」
アレシアは、その中から古い一振りの剣が現われたことに驚いて、父親に問いかけた。
「心配するな。父さんだって、昔は祖父さんに少しは剣を習ったんだ。お前たちを守ることぐらいはできる。見つからないように隠れていなさい」

 そういうと、ヴィンドクスはアレシアとフリディアの娘たちを荷車の陰に押し込めて、戦場に出て行った。
「お父さん!」
アレシアは父親を止めたかったが、幼い少女たちが泣き叫ぶ声がローマ兵たちに届かないように、必死で抱いていたので追いすがることは出来なかった。

 荷車の陰から見た光景は凄惨たるものであった。父親が無事かどうかを見届けたいだけなのに、数十メートル先で、若い牛飼いの青年が槍で突かれたのを目にしてしまった。あちらにもこちらにも、敵や味方が横たわっている。しばらくは父親が剣を振り回しているのを確認することが出来た。

 だが、小一時間もしないうちに、ヴィンドクスが何人かのローマ兵に囲まれ、盾代わりにしていた樽の蓋を失ったのを見た。声にならない叫びを絞るアレシアの祈りも虚しく、父親は崩れ落ち、ローマ兵たちは他の相手を求めて去っていった。


 午後になると、突然静かになった。昆虫のように次から次へと襲ってきたローマ軍の動きが止まった。つまりもう攻めてこなくなった。

 アレシアは荷車の影から身を起こすと、父親が倒れた所に走っていった。
「お父さん……」

 一目見ただけで、もう息がないのがわかった。肩から背中をざっくりと切られて、うつぶせになっていた。
「お父さん。ごめんね。お父さん」

 やがて、必死で娘たちを探していたフリディアをみつけて、自由に出歩けるようになったので、泣きながら父親の衣服を整えてやり、一緒に葬るために彼の剣を探した。だが、それは見当たらなかった。彼女は、どこかに落ちているかと見回し、ローマ兵たちの去って行った丘を越えて歩いていった。

 少し離れた所に、ボイオリクスが呆然と膝まづいているのを見つけた。彼は真っ赤だった。返り血なのか、怪我をしているのかわからなかった。思わず近づくと側に見慣れたチェックの外套を着た男が息絶えているのも見えた。

「アルビトリオスさま……」
「俺のせいだ」
ボイオリクスが呆然とつぶやいた。

「敵に囲まれた俺を助けようと、叔父貴は……」
 彼の左肩から腕にかけて傷が見えた。彼は痛みで氣を失いそれ以上戦えなかった。薄れていく意識の中で最後に見た叔父は、傷だらけになりながらも両手に持った剣で十人以上の男たちと打ち合いながらボイオリクスの方に向かってくる勇姿だった。


 長老が戻ってきた。重い足を引きずって、生き残ったヘルヴェティ人たちに声が届く所まで来ると、手を挙げて静粛にさせた。

「諸君。ご存知の者もあるかと思うが、我々は降伏した。ローマの示した降伏の条件は次の通りだ。我々が殺したローマ兵たちの首を狩り持ち帰ることは許されない。我々が捕虜にしたローマ兵たちは全て彼らに引き渡し、死亡した我らが戦士の持ち物はローマが没収する。既に捕らえられたものは、捕虜となってローマに連行される。残りの我々は、ガリアに留まることは禁じられた」

「ということは?」
「つまり、元の土地に戻れということだ」

 大きな溜息が漏れた。元の土地。ただの焼け野原。雨露をしのぐ屋根すらないのだ。冷たい風が吹き、陽の差す時間は短く、葡萄もない谷間だ。だが、他に選択の余地はなかった。半数以上の仲間を失い、負傷した体を引きずって、もと来た道を帰るしかないのだ。来る時には希望に満ちていたのに。

 アルビトリオスの亡骸の側でうずくまっていたボイオリクスは、土に頭をこすりつけて、大声で泣き出した。
「ちくしょう! 俺たちは何のために戦ったんだよ。戦士として役に立たなかったと、生き恥をさらすためかよ。こんなんだったら、死んだ方がマシだよ。ここで叔父貴と一緒に」

 その弱音を聞いたアレシアは、怒りにかられた。アルビトリオスの亡骸に走りよると、肩のところを渾身の力で押して仰向けにした。体の下にあった巨大な剣が姿を現した。固まった指を外し、剣を両手で引き抜いた。アレシアが想像していたのよりずっと重かったが、それを引きずるようにしてボイオリクスの前に持ってきて、手を離した。ゴトッと鈍い音がして、それはうずくまるボイオリクスの額のすぐ側に落ちた。

 アレシアは面を上げた青年を睨みつけて叫んだ。
「死にたいなら、これで死になさいよ! これはもう、あなたのものなんだから。持ち主が死ねば、ローマの奴らが、喜んで戦利品として持っていくはずだわ」

 ボイオリクスは震える手で、その血にまみれた名剣をつかんだ。叔父が死しても守り、ボイオリクスとヘルヴェティ族に残してくれた形見だった。
「叔父貴……」

「父さんも、アルビトリオスさまも、私たちを救おうと命をかけてくれたのよ。その私たちが、命を粗末にしていいと思っているの?」

 ボイオリクスは大声で泣きに泣いた。アレシアは、ゆっくりと彼に近づくと、自分のスカートの端を引き裂いて、細い布をつくり、ボイオリクスの傷をぎゅっと縛った。

 誰かが、素晴らしいユートピアに連れ行ってくれるわけではない。それどころか、この悔しさや悲しさから救い出してくれるわけでもない。ただ、生きていくためだけにですら、自分たち一人一人が行動を起こさなくてはならない。アレシアは、今それを肌で感じていた。


 彼らは、亡くなった戦士たちを出来るだけ簡素に弔うと、ローマ軍に追われるようにして、もと来た道を戻りだした。旅の間、アレシアはやはりボイオリクスと一緒に居た。一日に何度も彼の傷の手当をし、その傷が塞がってくるのを自分のことのように喜んだ。アレシアが途中で熱を出した時には、今は亡き父親の代わりにボイオリクスが一晩中、側について面倒を見た。

 ボイオリクスは旅の始まりの頃とは別人のようだった。叔父のように無口になり、目つきは少し厳しくなった。さぼりがちだった鍛錬を、叔父の小言はなくなったのに一人で実行し、夕方には何匹もの小動物を捕らえてはアレシアと自分の分だけでなく、大黒柱を失った女たちにも配って歩いた。

 アレシア自身も変わっていた。西のユートピアにたどり着いたらどんなにいい暮らしが出来るのかと、夢ばかり見ていたのはほんの一ヶ月前のことだったのだ。だが、アレシアはもう誰かに与えてもらうユートピアなど信じていなかった。ラバや馬の世話、荷車の整頓、炊事、ボイオリクスと自分の衣類の洗濯など出来ることを黙々とこなし、それから星空の下で焚火にあたりながら、母親を失った幼い子供たちを子守唄で寝かせてやった。


 ヘルヴェティ族が旅立ったもとの土地にたどり着いたのは秋風が吹く頃だった。一族の数は半減していた。戦いで命を落とした者や捕虜になった者の他に、長旅による疲れと病で命を落とした者たちも多くいた。だが、彼らをもっとも落胆させたのは、わかっていたこととはいえ、戻ってきた時に目にした故郷の変わり果てた姿だった。

 アレシアは変わらぬ丘の上からかつて村のあった場所を目にした時に、思わず涙ぐんだ。かつてこの時期には金色の小麦が風になびいて輝いていた場所はただの草原になっていた。あの川の曲がったところに広がっていた集落とその境界もすべてただの草原になっていた。それが集落だったとわかるのは、アレシアが愛していたいくつもの美しい大木が、黒焦げになって佇んでいたからだった。

 ゆっくりと体を休められる我が家はもう存在しない。冬が来るのに、一粒の穀物もない。ここに戻れというのは、冬の間に死んでしまえってことなのね。アレシアは体中の力が抜けていくのを感じた。それは彼女だけではなかった。文句もいわず、黙って旅を続けていた多くの女たち、老人たちのすすり泣きがあちこちから聞こえてきた。

 だが、伝令は馬で威勢良く駆けてきて、丘の上の一族に声を張り上げた。
「皆、心配するな。ローマから冬を越すための穀物が送られてくる。村や町を建て直すのに必要な資材や援助も明日には届けられるそうだ。我々が今しなくてはならないのは、冬が来る前に住める家を建て直すことだ。ここで泣いていないで、我々の土地に入ろう。あれが我々の生きていく土地なのだ」

 ボイオリクスは不審に思って質問した。
「なぜローマの奴らが負けた俺たちにそんなに親切にしてくれるんだ?」

「スエービー族のせいだ。我々がここで死に絶えてしまったら、春にはスエービー族がここに入植してくるだろう。現に、北や東の土地にはもう奴らが入り込んでいるんだ。カエサルは、我々にここでスエービー族を食い止める役割を期待している」

 どう利用されるとしても、他に生き延びる術のない敗者ヘルヴェティ族には、断る選択はあり得なかった。


「あなたは、コンダに帰るの?」
アレシアはボイオリクスにずっと訊けなかった問いを口にした。離れがたいけれど、それを口にしてはいけないような氣がしていた。

 ボイオリクスは最近生やし始めたあご髭をしごきながら少し考えるふりをした。
「どうかな。北はもうスエービー族にやられたって言っていたよな。わざわざ行って、ダメだからって戻って『この村に俺を住ませてくれませんか』って訊いてまわるのも面倒だよな」

 アレシアが嬉しそうな顔をしたのを横目で捉えながら、彼は今までのようにアレシアの荷車につなげてあるラバの鼻面を叩いて丘を降りだした。

「お前の親父さんや、フリディアの旦那の分の力仕事をする男手が必要だろ?」
アレシアは満面の笑顔で彼を追った。


 村作りは順調に進んだ。ヘルヴェティアは秋の好天に恵まれた。アレシアは大量の葦を運んでくると、息をついて屋根を葺いているボイオリクスに声を掛けた。
「ねえ。疲れちゃったわ。少し水でも飲んで休まない?」

 村のあちらこちらに、家の形を成していく建物が次々と完成していく。ボイオリクスは降りてくるとどっかりとアレシアの隣に座った。

「ねえ。直に村は元通りになるわね」
アレシアの言葉に、彼は首を振った。

「元通りじゃないよ。もっと大きくして、立派な町にするんだ。俺たちの世代には無理かもしれないけれどさ。俺は叔父貴と『雷鳴』の名に懸けて、この村をスエービーやローマから守ることに生涯を捧げるぞ。だから、お前も、女としての使命を果たせよ」
「女としての使命って?」
「産めよ、増やせよってヤツさ。立派な町にするには、今の人口は少なすぎるもんな」

 彼女は呆れて若い男の顔を見た。
「だけど、私はまだ未婚なのよ。どうしたら子供を産みまくれるって言うのよ」

 ボイオリクスはウィンクしてみせた。
「それについては、この俺が大いに協力できると思うぜ」

 アルビトリオスさまに似てきたと思ったけれど、とんでもないわね。アレシアは図らずも顔が弛んでしまうのを見られないように、ことさら澄まして立ち上がった。白い壁が目に眩しかった。

 ここは日照時間の少ない寒い土地だ。小麦は年に一度しか収穫できない。葡萄がたわわに実る土地でもない。輝く深紅の石もなければ、市場を歩く美しい奥方もいない。でも、それが何だというのだろう。明日も、来年も、何百年も、私たちはここに根を下ろすのだ。

 ボイオリクスと一緒に、ここに居るみんなで、心地よい村を作っていこう。家の壁にはお母さんが描いてくれたような美しい絵を描いていこう。生まれてくるヘルヴェティの子供たちに素晴らしい故郷を用意してあげよう。私たちの手で、誰にでも誇れる素晴らしい国にしていこう。

 アレシアは次の葦を運ぶために、川の方へと歩いていった。

(初出:2012年5月 書き下ろし)







前書き
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後書きならびに感想&反省
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Posted by 八少女 夕

【小説】明日の故郷 - 後書き

これは「明日の故郷」の後書きならびに批評・感想・反省の記事です。



「明日の故郷」後書き

まずはつたない作品におつき合いくださいましたこと、御礼申し上げます。

この作品は、もともと『第3回目(となった)短編小説書いてみよう会』のテーマに沿って作った作品ですが、根本には私がスイスにやって来た時の一つの疑問が根底にあってできあがりました。
−−すなわち「なぜ、この人たちはこんなに寒くて、日当りが悪くて、資源の貧しい土地に居座って、勤勉に暮らしているんだろう? 少し動けばシエスタばかりして暮らせる豊かな土地があるのに」

その答えの一つが、この「ビブラクテの戦い」の史実でした。

それから、スイスに暮らして十年、私はこんな不利な場所に建国しておきながら、そしてこんなちっぽけな国土でありながら、ヨーロッパと世界に一目置かれる国家を築き上げてきたスイス人に対する尊敬の念を持つようになりました。ヘルヴェティ族の連邦を意味するラテン語(Confoederatio Helvetica)を正式名称として使うスイスは、苦難の歴史の中、勤勉と自己克己によって未来を勝ち取ってきた不屈の国民によって築かれた国家です。

この作品の中に、その思いを上手く表せたかはかなり疑問なのですが、昨年以来の苦難の中にある日本が、誰の手でもないほかならぬ日本人によって再生していってほしいという祈りも込めて、後書きに代えさせていただければと思います。

この作品を書くにあたって、随分たくさんの勉強をさせていただきました。この場を借りて、主宰の自分自身さんをはじめ、参加者のみなさまに御礼申し上げます。また、弱音を吐いていたところ励ましてくださったブロともならびに訪問者のみなさまも、本当にありがとうございました。

まだ至らぬところがたくさんあるかと思いますが、どうぞ忌憚のないご意見をお聞かせください。どんなに厳しいご意見でも糧にして更なる精進をするために、この企画に参加しました。容赦なくお書きください。




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