【断片小説】「腕輪をした子供たち」より

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。
ユズキさんの記事 「桜とパンジー絵フリー配布 」
三色すみれの話をどこで使おうかと悩んで、最終的に現在私がひたすら書いている「Infante 323 黄金の枷」の本編に入れることにしたのです。もちろんここに出てくるエピソードを使って別の読み切り掌編にしてもよかったのですが、現在私の頭の中は、こっちの小説でいっぱいで、どうやってもそちらに引き戻されてしまうのです。同じようなエピソードを使って話がかぶるのもなんだなと思いましたので。
そういうわけで、本編を発表してからお見せしてもよかったのですが、そうすると春が終わってしまう(泣)イメージを膨らませるのを助けてくださった、ユズキさんへのお礼の氣もちをこめて、まず、該当シーンだけを断片小説でご紹介してみることにしました。本文中では三色すみれは理不尽な目に遭っていますが、今回は発表していないこの章の終わりでは少しだけ救済される予定です。
もし、これを読んでこの小説にも興味を持ってくださった方がありましたら、近いうちにStella参加作品として連載をはじめますので、読んでくださると嬉しいです。
ユズキさん、素敵なイラストを貸してくださいまして、ありがとうございました!
Infante 323 黄金の枷 - 「(2)腕輪をした子供たち」より
マイアは坂道を上りきった。車や人びとが行き交い、華やかなショウウィンドウが賑わう歴史地区の裏手に、D河とその岸辺の街並に夕陽のあたる素晴らしい光景が広がっている。ここは貧民街の側でもあるが、どういうわけか街でも一二を争う素晴らしい館が建っていて、その裏庭に紛れ込むと夕景を独り占めできるのだった。
その館が誰のものであるのか、幼いマイアはよく知らなかった。父親は「ドラガォンの館」と言っていた。門の所に大きな竜の紋章がついているからだ。竜はこの街の古い紋章でもあるので、マイアはこの館は昔の王族の誰かが住んでいるのだろうなと思っていた。テレビで観るようにまだ王様が治めている国もあるが、この国は共和制でもう王様はいない。だから大きな「ドラガォンの館」が何のためにあるのか、マイアにはよくわからなかった。
彼女は四つん這いになって、生け垣の間の小さな穴を通って、館の裏庭に侵入した。生け垣のレンギョウは本来なら子供が入れるほど間を空けずに植えられているのだが、ここだけは二本の木が下の方で腐り、それを覆い隠すように隣の木の枝が繁っていて大人の目線からは死角になった入口になっていた。ここを見つけたのは秋だった。自分だけの秘密。見つかれば二度とあの光景を独り占めできないことはわかっていた。
緑と黄色のトンネルを通って下草のある所に出た。手のすぐ近くに草が花ひらいていた。三色すみれだ。マイアはまた少し悲しい顔をした。
花弁の一番上だけ、他の花びらと異なっている。父親の出稼ぎ先であるスイスで生まれ育ったジョゼが言った。
「この花ってさ。ドイツ語だと継母ちゃんっていうんだぜ」
「どうして?」
「ほら、みろよ。同じ花の中に、三つは華やかで上だけ地味な花びらだろ。この派手なのがいい服を来た継母とその実の娘たちで、地味でみんなと違っているのが継子なんだってさ」
ジョゼはマイアのことを当てつけて言ったわけではない。彼は転校してきたばかりで、マイアの家庭の事情には疎かった。それに彼女は継母にいじめられている継子ではなかった。妹たちとは同じ母親から生まれたし、実子でないからと言って父親に差別されたりいじめられたりしたこともなかった。単純に母親が死んでから、マイアの周りには腕輪をしている人間が一人もいなくて、それがマイアを苦しめていただけだった。
マイアは三色すみれを引き抜いてレンギョウの繁みに投げ込んだ。花に罪はないのはわかっていたが、理不尽に憤るまさにこの夕方に彼女の前に生えていたのがその花の不運だった。
彼女は涙を拭うと、忍び足で裏手の方へと向かった。空はオレンジ色に暮れだしている。カモメたちの鳴き声も騒がしくなってきた。きっと今日はとても綺麗な夕陽が観られるに違いない。明日の船旅には行けないのだ。明日だけではない。きっとマイアはずっと船に乗せてもらえないだろう。どこまでも続く悠々たるD河を遡って、それとも、大きな汽船に乗って、いつかどこか遠くに行きたい。一人で夕闇に輝くPの街を眺めるとき、マイアはいつもそう願った。
大きく豪華な館の側を通る時は、見つからないように慎重に通り抜けた。けれどしばらく行くと、ほとんど手入れもされていない一角があり、みっともない石造りの小屋が立っていた。きっと昔は使用人の住居だったのだろう。けれど今は廃屋になっているようだった。その石の壁に沿って進み、小屋の裏側に出ると、思った通り空は真っ赤だった。そしてD河も腕輪の黄金のようにキラキラと輝いていた。
「わあ……」
マイアは自分の特等席と決めている放置されている大理石の一つに腰掛けると、足をぶらぶらさせた。
「お前、誰だ?」
突然声がしたので、マイアは飛び上がった。
【断片小説】森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走より

このイラストの著作権はユズキさんにあります。ユズキさんの許可のない使用は固くお断りします。
ユズキさんの記事 「ジュリア姫」
先日開示した時は、さらにその一部だったので、もうちょっとお見せしたら驚かれました。ええ、とんでもないお姫様なんですよ、この人。そして、ユズキさんはわざわざ描き直してくださったのです。おわかりでしょうか、人物のタッチも違いますが、森も前とは違っているのです。ええ、現代の森ではなくて中世のもっと深くてミステリアスで時には残酷な世界にしてくださっているのです。(ぜひ大きくして細部をご覧になってくださいね)
このまま、皆さまにお見せしないで私一人だけのお宝にしておくのはもったいなさすぎる! そういうわけでユズキさんのイラストに大いに助けていただいて、「森の詩 Cantum Silvae」の世界にもう少しみなさまをお連れしたいと思います。
森の詩 Cantum Silvae I - 姫君遁走より
教皇ペテロ=ウルバヌス二世の御代、跡継のないクラウディオ三世の崩御によりルーヴラン王国には後継者争いが起こった。一人は姪のイザベラ王女の夫バギュ・グリ侯爵ハインリヒで、もう一人はクラウディオ三世の従兄弟にあたるストラス公オイゲンだった。二ヶ月に亘るいくつかの戦の後、ルーヴランはストラス公の支配する所となり、公はオイゲン一世として戴冠した。バギュ・グリ侯爵が憤死したために侯爵領を継ぐことになったのは、ハインリヒの腹違い弟のテオドールであった。「ひょうたんから駒」で侯爵の座が転がり込んで来たテオドールは、その豪胆で奇天烈な振舞から《型破り候》と呼ばれることとなった。
さて、この《型破り候》には跡継ぎのマクシミリアンの他に、その姉にあたる娘が居た。粗野な父親が若い日にストラス公オイゲンの従姉妹にあたるマリア姫に懸想して産ませた姫君だった。バギュ・グリの厄介者テオドールの妻などに成り下がったと両親に嘆かれたが、マリアは氣丈にテオドールに従い、従兄弟が国王となるにあたって上手く立ち回って侯爵夫人の座を手に入れた。娘のジュリアはこの母親から美貌、そして父親からは粗野で型破りな性格を受け継いでいた。
ジュリアは父親のバギュ・グリ侯爵が大嫌いだった。母親の侯爵夫人のことはもっと嫌いだった。うるさい乳母のメルヒルダは少しはマシだったが、これも好きとは言いがたかった。庭師や家庭教師は大して重要な輩ではなかったのでどうでもよかった。夕食の給仕をするアルベルトは巻き毛がかわいらしく氣にいらない訳ではなかった。もっとも十歳も年上の男をかわいらいしいという言い方があたっているかどうかは微妙だったが。
誰よりも嫌いなのは彼女の馬丁、ハンス=レギナルドだった。父侯爵のことは女の尻ばかり追い回しているから嫌いで、母侯爵夫人のことは冷たく高慢だから嫌いだった。メルヒルダにはやかましく小言ばかり言うという、これまたれっきとした理由があったが、この馬丁に対しては嫌う理由になんらかの説得力があるわけではなかった。
「馬丁のくせに名前を二つも持っているんだ」
「あたしよりも高い柵を越えてみせたんだ」
ジュリアはいかにも氣にいらないというように顔をしかめる。
以前、馬丁長が侯爵に伺いを立てたことがある。
「姫の馬丁をお変えになりますか」
侯爵はつまらなさそうに言った。
「あれは誰にも満足せんのだ。これ以上、わがままの相手を増やせというのか」
それからは誰も同じ提案をしなかった。
「ハンス=レギナルド!」
ジュリアは、つかつかと厩舎に踏み入ると怒鳴った。藁の影からハンス=レギナルドと召使いのクリスティーンが身を起こした。姫は冷たく一瞥すると
「ばからしい」
と、言った。
おろおろするクリスティーンを無視してジュリアは愛馬にまたがり、馬丁に言った。
「城下に行くわよ。供をおし」
「ですが、ジュリア様。母君のお許しが出ないでしょう」
「母上のお許しはもう永遠に出ないわよ。亡くなられたんだから」
クリスティーンはわっと泣き出した。看病の枕元を抜け出してハンス=レギナルドにキスをもらっている間に奥方様は亡くなられたのだ。
ジュリアはうんざりして召使い女を見ると、馬に鞭をくれて厩舎から飛び出した。馬丁は慌てて彼の馬に飛び乗り、わがままな姫君を追った。
「お待ちください」
ジュリアは待たず、柵を越え、森に入りどんどん走らせていく。ハンス=レギナルドの馬は次第に追いつき、やがて二頭の馬は並んだ。
「お前には負けないわよ」
「ジュリア様。私は競争をしたいのではありません」
「いつもそうなんだ」
「何故そういうお言葉をお遣いになるのです。何故そのような恰好をなさるのです」
ジュリアの男物の出立ちは城下にも知れ渡っていた。
「馬にドレスで乗ってどうするのよ」
「乗る姫君もおられるではないですか」
「あたしは散歩をしたいんじゃない」
「ジュリア様。どこまで行かれるのですか。奥方様のお側にいてさしあげなくてはならないとはお思いにならないのですか」
「いてどうするのさ。誰ももう側には居られないんだよ。母上は亡くなられた。マクシミリアンの名を呼んでね……」
ジュリアは急に馬を停めると方向を変えて走り出した。ハンス=レギナルドは後を追う。しばらくは無言のまま馬を走らせ、馬丁が追いつくと方向を変え、しばらくは追いかけっこが続いた。ついに、綱さばきのミスからジュリアは草むらに落ちた。
「ジュリア様!」
ハンス=レギナルドは馬から飛び降りて、姫君を助け起こした。痛みでしばらく動けなかった彼女は、それが薄らいでくると顔を上げ、じろりと馬丁を見た。
「本当に頭に来るわね。うちの女中と料理人の全てに愛を語ったその口で、偽りの心配の言葉を述べるんだから」
「偽りの心配などどうしてできましょう。それに、私はあなた様のお家の全ての使用人と恋をした訳ではありませんよ」
「この食わせ者。その整った顔と声で、君だけだとかなんとか迫るんだね。マリアの里帰りもお前が原因に違いないよ」
「とんでもない。私じゃありません。侯爵様です」
「ええ、父上だって。あの恥知らず。お前といい勝負だよ。誰をも本氣で愛したことなんかないんだ」
ハンス=レギナルドはジュリアの足や腕が折れていないか調べていたが、その言葉を聞くと顔を上げて主人の目を見た。
「では、あなた様はどうなのです。誰かを本氣で愛されたことがおありなのですか」
「反撃にでたわけ。いいえ、ないわ。あたしは愛なんか信じていない。父上は滑稽だし、クリスティーンたちも愚かにしか見えない。お前、その顔は何?」
「私に何を言わせたいのです」
「ええい、そうやるんだね、いつも。騙されないよ。他の女と一緒にするんでないよ」
風が森を通り抜け、木漏れ日はキラキラと輝いていた。ひんやりとした草むらに腰掛けてジュリアは馬丁が腕を自分の体に回して支えていることに氣づいた。ハンス=レギナルドの顔はすぐ近くにあった。
「もちろん、あなた様は違います」
「女中と一緒におしでないよ」
「いえ。身分に関係なく、そう、どこの姫君とだってあなた様は違います」
ジュリアはキラキラと光る若葉を見ながらうっすらと微笑んだが、すぐに厳しい顔をして馬丁に言いつけた。
「馬を探しておいで」
ハンス=レギナルドは木の幹にジュリアの背をもたれかけさせながら言った。
「私はかつて一人の女に恋をしました。日も夜もなくその女を愛しました。眠れぬ夜が続き、氣が狂うかと思いました。皮肉なことに、想いを遂げたどの女たちをも、あれほどに恋いこがれることはなかったですね」
そう言うと、二頭の馬の去った方向へと歩き出した。
ジュリアはきつい調子のまま問いかけた。
「お待ち。それはあたしの知っている娘なの?」
「あなた様ですよ」
ハンス=レギナルドは木の間に消えた。
ジュリアは少しの間ハンス=レギナルドの消えた方向を見ていたが、立ち上がるとその場を離れた。馬丁が二頭の馬と戻って来た時には探しようもなかった。
ジュリアは森を歩いていった。侯爵夫人の訃報が届けば、今日の祭りは中止になるだろうが、酒場一軒くらいは開いているだろう。
(やっと母上から自由になったのよ、これを祝わなくてどうするのよ)
侯爵夫人がジュリアを束縛するようになったのは、父親が候爵位を継いだ六年前のことだった。ジュリアはそのとき十二歳だった。ジュリアには父親が侯爵家の厄介者であろうと、侯爵様であろうとまったく関係なかったのだが、母は娘を以前のような野放図にしておくつもりはなかった。
加えてアルベルトのことがあった。ジュリアはアルベルトにキスをさせ、かわいそうな給仕は姫君に夢中になってしまった。無理もない。ジュリアは美しい。漆黒のまっすぐな髪。挑みかける瞳。血のように紅い唇。何ひとつ知らない故に、何ひとつ恐れなかった。ジュリアはキスをしてみたかったし、アルベルトならいいと思ったのだ。
侯爵夫人はちっともいいと思わず、父親の淫らな血がと騒ぎ立てた。そして、男の汚さや恋の愚かしさを説き続けた。ジュリアの美しさを懸念して、常に見張り、女らしく装うことを許さなかった。ジュリアはそれを受け入れ、母親の望む通りに育ったがその束縛を憎んでもいた。
ジュリアは行く手の樹木の間から煙を見た。ジプシー。聖アグネスの祭りだ。彼らは侯爵夫人の喪になんか服さないだろう。
森の空き地に数台の幌馬車が停まり、炎の周りでジプシーたちは踊っていた。ジュリアには誰も氣に留めずに、めいめいで歌ったり踊ったりしているので、少しずつ中に入っていった。やがて一人の老女がじっと見つめているのに氣がついた。
「バギュ・グリの姫さんが何の用かね?」
老女は言った。
「あたし、お前に会ったことないけれど」
「私らは何でも知っているよ」
「嘘ばっかり。私がなぜここに来たかわからないくせに」
「知っているともさ。お前は別れに来たんだよ」
「誰とさ」
「全てとね。まず、その男物の服をなんとかしよう。それでは踊っても楽しくないだろう」
「そうね。でも、こうしていないと男どもが寄ってくるのよ」
「悪いことじゃあるまい。寄ってくる男どもをあしらうのは、女の楽しい仕事さ。それともダンスもできない方がいいのかね」
「わかったわ。この服とはお別れしよう。私を変身させて」
老婆はジュリアを幌馬車に連れて行った。再びジュリアが出て来た時ジプシーたちはもはや彼女に無関心ではいられなかった。薄物を纏い、しなやかに歩み出る彼女は深夜の月のようだった。彼女は踊り始めた。その悩ましさは例えようもない。ジュリアにとってもこの夜は麻薬だった。踊りの恍惚。自分が誰かも忘れ、夢の中にいるように狂った。
深夜に老婆は緑色に透き通る液体を差し出した。
「これをお飲み。聖アグネス祭の今宵、お前さんは愛する男を夢に見るだろう」
ジュリアは口の端をゆがめて言った。
「あたしは誰も愛していないわよ。嫌いな男ばっかり」
「だからこそ、この薬が必要なんじゃ」
ジュリアは受け取って一息で飲んだ。強い酒だった。
翌朝、ジュリアは幌馬車から出て老婆を見つけるとひっぱたいた。
「何よ、あれ。あたしの体が動かないのをいいことに」
老婆はにやりと笑った。
「孫はお前さんに一目惚れしたのさ。だが、お前さんのためにもなっただろう。お前さんを抱いた男は孫じゃなかったはずだよ。愛している男は誰だったかね?」
「想像していた通りの男だったよ」
ジュリアは冷たく言い放った。
「よかったじゃないか」
「あんたの孫に言っておいて。二度とあんな真似はできないって」
「わかっているとも。昨晩、お前さんを抱きたかったのはあの子だけじゃないからね。あの子は幸運な方さね」
「ふん」
ジュリアは空き地から離れて森に入り、昨日ハンス=レギナルドと別れた所に行った。馬丁はジュリアをもたれかけさせたあの木の根元で眠っていた。彼女はハンス=レギナルドを叩いた。彼は目を醒ますと信じられないという顔で、薄物をまとい輝くように美しい主人を見つめた。
「お前、あたしを捜してたの?」
「ご無事だったんですね」
「お前だけなの、捜していたのは」
「私も命が惜しいので、お館には帰っていませんから」
馬が二頭近くの木に繋がれていた。
「そう。お前、あたしを好きだったと言ったね」
「はい」
「今はどうなの」
「今でも。誰と愛を語っても、いつも最後にその女はあなた様になってしまいます」
「ふうん。あたし、昨晩、ジプシーに抱かれたの」
「ジュリア様!」
ジュリアは楽しそうにハンス=レギナルドを見た。まったく見たことのない表情を彼はしていた。いや、かつて一度見たことがあったかもしれない。
「アルベルトとキスをした時にも、お前、あたしを好きだったのかい」
「あなた様にお会いした日からずっとです」
「そう。じゃあ、アルベルトの時から始めよう。私にキスをおし」
ジュリアは命令した。ハンス=レギナルドはぽかんとその主人を見ていた。
「ハンス=レギナルド。聞こえないの?」
ジュリアは自分からキスをした。
捜索の疲れと幸せな安堵でハンス=レギナルドが眠ってしまうと、ジュリアはそっと恋人の側を離れた。そして、愛馬を連れてジプシーの集団のもとに戻り、そのまま、国を出てしまった。
【断片小説】樋水の媛巫女
本日発表するのは、官能的な表現が一部含まれているためにこのブログでは公開していない「樋水龍神縁起 第一部 夏、朱雀」の中から、「樋水の媛巫女」の章です。先日のエントリーでも書いたように、このシリーズの舞台は基本的に現代なのですが、この章だけが千年前の平安時代の話です。「樋水龍神縁起」本編、それから三月からこのブログで公開予定の「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」のストーリー上、かなり重要なエピソードです。そして、実は本編を読んでくださったブログのお友だちTOM-Fさんが、この章の登場人物を使って「scriviamo!」参加の作品を書いてくださる事になりましたので、その前にこちらでこの章を公開する事にしました。(この章はR18ではありませんので、ご安心ください)
この章は、「千年前に何かがあった」というだけのストーリーです。私の他の短編小説のように、何かを伝えようというようなテーマなどはありません。ただ「樋水龍神縁起」本編や「樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero」の中で重要なモチーフである樋水龍王神社の、それどころか「大道芸人たち Artistas callejeros」にすら出てくる伝説の話ですので、当ブログの常連の皆様には、ぜひご紹介したい部分なのです。
fc2小説「樋水龍神縁起 -第一部 夏、朱雀」
fc2小説「樋水龍神縁起 -第二部 冬、玄武」
fc2小説「樋水龍神縁起 -第三部 秋、白虎」
fc2小説「樋水龍神縁起 - 第四部 春、青龍」

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「樋水龍神縁起 第一部 夏、朱雀」より「樋水の媛巫女」
「九条様について来られた陰陽師とはあなた様でございますね」
振り向くといつの間にか、女がそこに立っていた。緋袴に白い単衣姿、今羽化したばかりの蝉の羽のように白とも薄緑ともつかない紗の被衣から見えるのは紅色の口元だけであった。
奥出雲は考えた以上に原初の森の姿を留め、緑滴り蝉が激しく鳴く。樋水龍王神社という特別の神域を囲み、この森は不思議な清らかさに満ちていた。その神々しい氣に圧倒されていたとはいえ、安達春昌は今まで氣配なく背後に人に立たれたことなどなかったので、ひと時氣色ばんだ。
だが氣を沈め冷静に観察してみることにした。その女の身につけている衣は全て上等の絹だった。身分は低くないらしい。しかし、どこかしっくりこないところがあった。理由はすぐにわかった。それは口元だった。深紅の形のいい唇から見えている歯が童女の如く白かったのだ。それから、身丈の倍ほどにも広がる清冽な薄桃色の氣を感じて、それではこれが噂の媛巫女かと納得した。安達春昌は、下男を通して媛巫女に力を貸してほしいと願い出たところだった。
「樋水の媛巫女様とお見受けいたします。安達春昌と申します。ご挨拶が遅れまして申し訳ございません」
「九条様はこの奥出雲に何をお持ち込みになられたのか。ただいま『やすみ』のはずの龍王様が穏やかならず解せませぬ」
「山越えの際、北の方にキツネが憑きました。旅路故、私一人の
「キツネごときに龍王様の眠りが妨げられるとは思えませぬ。誠にキツネなのでございましょうか」
女の声音は凊やかで心地よかったが、その言葉は力に満ち明快であった。女は被衣をわずかにあげて、訝しそうに春昌をみた。その時に、媛巫女の顔が見え春昌は思わず息を飲んだ。
黒耀石ほどに黒く艶のある双眸がこちらを見ていた。白い肌に黒い瞳と描いていないのに均整のとれた眉と紅の形のよい唇が映えている。春昌は美しいと評判の幾人かの姫君のもとに忍んだこともあったが、未だかつて手を入れていない生まれたままの顔でこれほど美しい女に遭ったことはなかった。
媛巫女は龍王に捧げられた特別な女で、それゆえ人間の男のための化粧は必要ではなかった。眉を剃ることも、お歯黒をすることもなかった。だが、それ故にその生まれながらの浄らかさが極限までに高められ、本来の美しさを神々しさにまで高めていた。京で位が低い高い、呪に長けているいないと、人の世の迷いごとに日々を費やしている春昌には、この媛巫女が手の届かぬ神の域に属する特別な女であることがすぐにわかった。
媛巫女は、その間安達春昌を見つめていたが、やがて言った。
「陽の氣に長けておられる。神の域のこともお見えになるとお見受けします。蟇目神事も形だけではなく誠におできになられるのですね」
「媛巫女様のお力には遥かに及びませぬが、多少の心得がございます」
「私に蟇目神事はできませぬ」
媛巫女ははっきりと言った。安達春昌は、意外な心持ちで媛巫女の次の言葉を待った。
「私は浄め、鎮め、そして龍王様にお任せするのみでございます。キツネを鎮めることはできますが、消すことはできませぬ」
「私はいたしますが、困っているのは北の方様に蟇目の矢を放つことはできないことでございます。もとより私には御簾の中に入ることも叶いませぬ。媛巫女様のお力でキツネのみを御簾の外に連れ出すことはできませんでしょうか」
「出来ます。が、その祓いは為さねばなりませぬのか。いま、この樋水にて」
「九条様は近く二の姫が東宮妃としてご入内される大切なとき、方違えでこの出雲に参られましたが、キツネをつれて帰ったとあっては主上さまもお怒りになられましょう。なんとしてでもこの一両日中に祓わねばなりませぬ」
媛巫女は、主上と聞き、ふと胸元の勾玉に手を当てた。ああ、それではこれが下賜されたという奴奈川比売の勾玉か、春昌は聡く考えた。
「そうとあれば致し方ありませぬ。しかし、ただいま龍王様の『やすみ』ゆえに神域での祓いは禁じられております。従って北の方が神社にお越しになるのはお断りいたします。私の方から戌の刻に九条様のもとに伺いましょう。蟇目神事のご用意をなさりお待ちくださいませ」
そういうと媛は来たときと同じように氣配なく森に姿を消した。安達春昌は蟇目神事の前だというのに、媛に心奪われてしばらくその場に放心して立ちすくんでいた。
九条実頼は、媛巫女の来訪にことのほか満足の意を表した。氣に入っているとはいえ、位の低く家柄もとるに足りぬ安達春昌は陰陽師として完全には信用しきれなかった。特に入内前のこの大切な時期に北の方が狐憑きで京には戻れない。だが、龍王の媛巫女が来てくれたたとあれば、もう祓いは済んだも同然だった。この媛巫女は昨年、親王の病を癒やすように主上の命を受け、奥出雲から身を離れて内裏に現れ親王を浄め、その礼に神宝である奴奈川比売の勾玉を下賜されたのである。
「樋水龍王神社の瑠璃と申します。右大臣さまには、ご挨拶が遅れまして、まことに申し訳ございません。ただいま龍王様の『やすみ』の時ゆえ、神域では通常の神事が禁じられております。それゆえ、ご挨拶は控えさせていただいておりました。『やすみ』はあと二ヶ月続くはずでございましたが、昨日、龍王様がお出ましになり、本来神域にあるべきでないよどみの存在が明らかになりました。それ故、安達様のお導きで、こうして私が蟇目神事のお手伝いにまかり越しました」
「それは、それは。どうかなにとぞお力添えを」
瑠璃媛は供の次郎とやらを一人を連れて、神域の外にある九条の滞在先にやってきたのであった。春昌は遥か後方に控えていたが、瑠璃媛が側を通るときの衣擦れの音、わずかな沈香の漂い、そして灯台の炎に浮かび上がる媛の白い横顔に心をときめかせていた。長く黒い髪が媛の目と同じ黒耀石の輝きを放っていた。
毎夜亥の刻に現れるキツネを祓うために、媛は北の方の寝室にて待ち、春昌は次郎とともに御簾の外で待つ。右大臣は自分の寝室に下がり、朝に報告をすることとなった。
静かな夜であった。蝉が合唱をやめて風が樹々をならすだけになると、奥出雲の清冽さがさらにひしひしと感じられた。北の方の寝息と灯台の炎の音だけが暗闇に響くが、媛巫女の氣配はどこにも感じられなかった。春昌は長い待ちの時間にわずかでもいいから美しい媛巫女を感じたいと思ったが、それは叶わぬ願いであった。
やがて剣呑な目つきで春昌を見ていたはずの次郎が突然意識を失った。それでキツネの到来がわかった春昌は急いで自らの氣配を消した。そうせねば自分もキツネに眠らされてしまうであろう。北の方が不氣味なうなり声をあげだすと紗の衣擦れがして、瑠璃媛が動いたのがわかった。
御簾の向こうだったにもかかわらず、目ではない目で観察を始めた春昌には瑠璃媛とキツネの対決がはっきりと見えた。キツネは恐るべき
北の方が布団の上に崩れ落ちる音がしたと同時に、御簾の中から瑠璃媛がでて来た。水晶を春昌の先の庭の方に向けて差し出し、頷いた。鏑矢を引き絞り水晶の方向、瑠璃媛を傷つけないように慎重に狙った。そして納得がいくと「いまぞ!」と合図を出した。水晶からキツネが躍り出てきたが、その時には鏑矢に刺し抜かれて、庭の老木にあたり、キツネの霊は霧散した。
その衝撃で、瑠璃媛は倒れた。目を覚ました次郎が駆け寄るよりも速く、春昌はすでに瑠璃媛を抱き起こしていた。その時、三人ともまったく予想していなかったことが起こった。
春昌と瑠璃媛が触れた部分が乳白色に輝き、二人ともそれまで感じたことのない不思議な感覚が走ったのだ。瑠璃媛は驚いて身を引くのも忘れ、春昌に抱きかかえられたままになっていた。春昌の方は、完全に瑠璃媛に魅せられてしまい、しばらくはやはり離すこともできないでいた。次郎が最初に我に返った。
「この無礼者め! 媛巫女様から離れぬか!」
その声に、瑠璃媛が我に返り、身を引いた。
「およし、次郎。私は大丈夫です。春昌様に失礼なことをしてはなりませぬ」
それから、おびえた目つきで春昌を見た。春昌は、混乱したまま無礼を詫びた。瑠璃媛も動揺を隠せないまま、北の方のご様子を見なくてはならないと、御簾の中へと入っていた。
春昌は熱にうなされた目で、瑠璃媛の後ろ姿を追いかけ、御簾の中の媛をもう一つの目で見た。媛の氣が大きく広がり、やはり広がった自分の氣と触れ合っているのを見ることができた。その二つの氣はねじれあい一つになった。
右大臣と北の方は大喜びで京に帰っていった。本来は安達春昌も一緒に帰る予定だったが、穢れを落としてから帰ると口実を作り、数日の猶予を願い出てひとり奥出雲に残った。穢れなどどこにもついていなかった。あの夜、瑠璃媛を送り届けて、神域の外で別れた後、瑠璃媛の幻影に心うなされながら森を通っている時、不意に今でかつてないほどに完璧に浄められていることに氣がついた。全ての穢れが消え失せていた。龍王の御覡に触れて、あの不思議な白い光を浴びたからだ、春昌はそう思った。京にこのまま戻るわけにはいかない。このまま、あの媛と離れるなどできぬ相談だった。
安達春昌は、右大臣が貧しい貴族の娘に生ませた四の君を狙っていた。上手く右大臣に取り入れば、陰陽寮で賀茂家に劣らぬ地位に就けてもらえるやも知れぬ、そう考えていた。そして自分はそうあってしかるべき力を持っていると自負していた。
陰陽寮には自分より上位にもかかわらず、下等な霊すらも見ることのできない者たちがたくさんいた。これだけの力をもち努力をしている自分の家柄が低いというだけで取り立ててもらえないのは不公平だと感じていた。この奥出雲の方違えで右大臣に取り入れば、四の君との結婚が許されるかもしれない、危険を冒してものキツネ祓いももちろん打算があってのことだった。だが、もはや四の君のことは考えなくなっていた。春昌は生まれて初めて計算なしに女に惚れた。もちろん計算が完全になくなったわけではなかった。自分の価値を高めるのには落ちぶれた四の君なんかよりも、主上の覚えのめでたい特別な媛の方がいい。春昌は、森の奥の神社の神域を目指してうろうろと歩き出した。
その頃、瑠璃媛は、混乱の極みに陥っていた。次郎と神社に戻ってから、瑠璃媛の心には一瞬たりとも平穏な時がなかった。龍王の『やすみ』の時にはしないことではあったが、龍王が起きていることを知っていたので、瀧壺のある池に入り龍王を探した。龍王は眠っておらず、瑠璃媛が水の中に入るときはいつもそうするように、近くへと寄ってきたが、いつものように共に泳いだりはせずそのまま瀧壺へと姿を消した。
瑠璃媛は、水から上がり、拝殿で意識を神域に同調させようとした。普段なら媛と森は直に一体となり、そこに龍王が喚び憑るはずだった。だが瑠璃媛は森に同調できなかった。瑠璃媛の心には別の存在が住んでいた。瑠璃媛は『やすみ』の龍王が即座に起きたほどの神域における異物とはあのキツネではなかったことを知った。それは安達春昌その人だった。あの晩の、あのときを境に、龍王はその御覡を失った。瑠璃媛は恐ろしさにおののいた。恋は、龍王の巫女として生まれた瑠璃媛にとっては破滅でしかなかった。
神域には入れなかった安達春昌は、奥出雲を離れる前にせめて一目でもと想い詰めて、旅支度をしたままはじめて瑠璃媛と出会った森の外れに向かった。逢いたくて、逢いたくて、意識を集中して瑠璃媛を呼んだが、森はその入り口を深く閉ざし春昌を拒むように立ちふさがった。どうしても出なくてはならない時間を半時も過ぎてから、ようやく春昌は京へ向かうべく道を折り返した。
森を振り返り振り返り、丘まで来るとそこに見覚えのある紗の被衣の女がひとりでひっそりと立っていた。
「瑠璃媛……」
「お別れに参りました」
わずかに見えている口元の横を涙が伝わったのを見た春昌は、我を忘れて媛を抱き寄せた。
「なりませぬ」
泣きながら抗議する瑠璃媛は、しかし、自ら離れようとはしなかった。媛はやがてはっきりとした声で言った。
「私を殺めてくださいませ。あのキツネにしたように、私を消してくださいませ」
「なぜ、私がそなたを殺めねばならぬのか」
「私は、人をお慕いしてはならぬ身でございます。春昌様にもご迷惑がかかりましょう」
「迷惑などかからぬ。二人で京へ登ろう。陰陽師の妻として京で暮らせばよいではないか」
「私は、ここを離れては十日と生きられませぬ。春昌様。せめて一目お会いしてお別れを申し上げたくて参りましたのに」
「愚かなことを言うな。そなたは私とともに来るのだ。嫌だと言っても盗んで連れていく。それでたとえ主上の怒りを買ったとしても構わない」
春昌は瑠璃媛を馬に乗せて、自分も跨がるとそのまま奥出雲を離れ、京を目指す道へとひた走った。樋水龍王神社の御覡を盗みだしてしまったことの重大さに氣づいたのはずっと後だった。そのときは他のことは何も考えていなかった。瑠璃媛は自分のしていることをはっきりと自覚していた。人からならば運がよければ逃げおおせることができる。だが、運命からは何人も逃げられはしない。瑠璃媛は自分に課せられた運命を受け入れていた。そして、その残りの時間のすべてを春昌と共にいることを選んだのだった。
空は燃えていた。丘の上に立ち、初めてみるこの広大な朝焼けに立ちすくむ。樋水の東にはいつも山が控えていた。瑠璃媛は朝焼けを見た事がなかった。これほど広い地平線も見た事がなかった。向こうに遠く村が見える。今まで一度も行ったことのない村。一度も会ったことのない人たち。そしてもっと遠くには春昌の帰りたがる京がある。
瑠璃媛にとって京とは極楽や涅槃と同じくらいに遠いところだった。そこに誰かが住んでいることは聞いた事があっても自分とは縁のないところであった。瑠璃媛にとって世界とは樋水の神域の内と外、奥出雲の森林の中だけであった。そこは瑠璃媛にとって安全で幸福に満ちた場所だった。
安達春昌に遭い、瑠璃媛はまず心の神域を失った。龍王とのつながりを失った。場としての神域と奥出雲を出ることで、氣の神域を失った。そして、安達春昌にすべてを与えたことで肉体の神域も失った。
瑠璃媛は今、あらゆる意味での神域から無力にさまよい出た一人の女に過ぎなかった。その類い稀なる能力をすべて持ったまま、それをまったく使うことのできない裸の女に変貌していた。
その心もちで、朱、茜、蘇芳、ゆるし色、深緋、ざくろ色、紫紺、浅縹、鈍色と色を変えて広がる鮮やかな空と雲を眺めて立ち尽くした。
春昌には媛の心もとなさがわかっていなかった。媛は京と素晴らしい未来に思いを馳せているのだと思っていた。春昌の人生は常に戦いだった。どんな小さなものも、全て勝ち取ってきた。貧しくつまらない家柄に生まれた、大きな能力と野心のある若者は、そうすることで人生を切り開いてきた。欲しいものは全て勝ち取れると信じていたし、今、較べようもなく尊いものを手にしたと誇りに思っていた。
春昌は自分のしていることを正しく理解していなかった。勝利に酔いしれ、昨夜の媛との情熱的な夜に満足の笑顔を浮かべて馬の手入れをしていた。
突然、森からひづめの音が聞こえた。
「神を畏れぬ盗人め、覚悟しろ!」
次郎が矢を引きつがえて春昌に向かっていった。春昌は無防備な状態だった。考えもしなかった攻撃にあわてて身を翻そうとした途端、放たれた矢と春昌の間に何かが割って入ったのを感じた。白い単衣と黒い髪が見えた。鈍い音がしてそれに矢が刺さったのがわかった。何があったのか理解できなかった。
必死で媛を抱きかかえた。安達春昌は矢を用いたりする武士ではなかった。だが、瑠璃媛がどのような状態にあるのかはすぐにわかった。蘇芳色の染みが白絹の亀甲紋を浮き上がらせていく。媛が息をするたびに、その染みは広がっていく。瞳孔が開かれ、額に汗がにじみ出る。白い顔は更に白くなり、唇はみるみる色を失っていく。
「媛、瑠璃媛……」
「ひ、媛巫女様……」
よりにもよって命よりも大切な媛巫女を射てしまった忠実な次郎も、媛に劣らぬ青い顔になって、泣きながら寄ってくる。
「次郎……」
聴き取れぬほどのかすかな声で瑠璃媛は次郎を呼んだ。泣きながら次郎は駆け寄った。
「媛巫女様……、私はなんということを……」
「龍王様が、お定めになったこと……。お前のせいでは、ありません……」
「媛巫女様…」
「……私の最後の命を……きいておくれ」
「媛巫女様」
「お前の……命が終わるまで……春昌様を……わが背の君を……お守りして……」
「何を! もうよい、媛、口をきくな!」
春昌は泣きながら媛を抱きしめた。
瑠璃媛は最後の力を振り絞って、勾玉を握りしめ、春昌を見た。
「幸せで……ございました……。許されて……再び……お目にかかる日まで、これを……」
それが最後だった。瑠璃媛は動かなくなり、苦しそうな息づかいも果てた。二人の触れた時に起こる、既に当然となっていたあの白い乳白色の光と、不思議な感覚が、少しずつ消えていった。完全に何も感じなくなっても、まだ春昌は呆然と瑠璃媛を抱いていた。次郎の号泣も、馬の嘶きも耳に入らなかった。
昼前までに、次郎の涙は枯れ、春昌も起こったことを理解するまでになっていた。
「どうか、私めをお手打ちにしてくださいませ。私めが、媛巫女様を……この手で……」
次郎は春昌の前にひれ伏して涙声で言った。
春昌は、言葉もなく次郎を見ていたが、やがてぽつりと言った。
「媛巫女を、樋水までお届けしてくれぬか」
「………」
「こうなったのは、私のせいだ。瑠璃媛を龍王様のもとで弔わねばならぬが、穢れた私は神域に入りお届けすることができぬ。つらい役目だが果たしてくれぬか」
「春昌様は、そのまま行ってしまわれるのですか。私は春昌様のお側に居ねばなりませぬ。媛巫女様とのお約束を果たさねばなりませぬ」
「では、媛巫女の弔いが終わり、そなたが樋水に暇乞いをしてくるまでここで待とう。戻ってこずとも、他の刺客とともに戻ってきても構わぬ。瑠璃媛なくして一人で生きのびたいとは思わぬ」
次郎は、馬に媛巫女の亡がらを乗せ、樋水へと戻っていった。安達春昌は翡翠の勾玉を抱きしめたまま、七日七晩その場で次郎を待った。眠りもせず、食事もとらなかった。意識を失っていたが、次郎に世話をされ息を吹き返した。
それから二人は京には登らず東を目指した。村と村の間を歩き、半ば物乞いのごとく、半ば呪医のごとく過ごした。安達春昌は、その後二十年ほど生き、伊勢の近くの小さな村で、はやり病により死んだ。
最後まで手厚く看病をした次郎は、言われた通り亡くなった廃堂の裏手に主人と翡翠の勾玉を目立たぬように埋め、そのあと樋水龍王神社に戻りそこで生涯を全うした。
瑠璃媛が亡くなった後、樋水では安達春昌を逆賊として呪詛する動きがあったが、夜な夜な神として祀った媛の霊が現れ泣くので、次郎が戻った後、安達春昌を媛巫女神の背の神として合祀することとなった。それ以来、樋水龍王神社の主神は、樋水そのものである龍王神と媛巫女神瑠璃比売命、背神安達春昌命の三柱となった。
【断片小説】「青龍時鐘」より
この小説は扱っているテーマを完遂するために、当初予定していたラストを変更した唯一の作品です。設定がありがちだったり、現実離れした、私にとっては冒険の作品でしたが、扱っているテーマ、その結末については、いまだに「これしかなかった」と思っています。2012年の十月にこの小説を完全公開するプランをずっと温めてきました。無事に公開出来てほっとしています。ちょっとだけ断片小説として紹介しますね。
fc2小説「樋水龍神縁起 -第一部 夏、朱雀」
fc2小説「樋水龍神縁起 -第二部 冬、玄武」
fc2小説「樋水龍神縁起 -第三部 秋、白虎」
fc2小説「樋水龍神縁起 - 第四部 春、青龍」
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「樋水龍神縁起 第四部 春、青龍」--「青龍時鐘」より抜粋
激しく降りしきる雨の中、石や砂利や木の枝などの上を引きずられて、ゆりの体は傷だらけになりあちらこちらから血がでていたが、陣痛の痛みの方がずっと大きく、ゆりは体がぼろぼろになるのも氣にしなかった。愚鈍で醜く価値もない肉体などどうでもよかった。やがてゆりは池に引き込まれた。溺れる恐怖に、岩に必死でしがみつき抵抗した。
そして、そこが夫婦桜のすぐ下であることに氣がついた。雷雨に叩かれて花が無惨に散っていた。多くの葩は幹にまとわりついていた。根元からねじれて重なった二本の幹が、白く光りながら雨の中固く抱き合っているように見えた。
ゆりははじめてこの樋水で泳いだ晩に濡れたまま朗に抱きしめられたことを思い出した。ゆりは突然悟った。私は、あのとき愛されていた。いつも私たちにはあの白い光があり、抱き合うと心が一つになった。
Kawasakiで風を共に感じたこと、闇の中から引き上げてもらい疲れきった朗に強く抱きしめられたこと、キャンドルのゆらめくテーブルで「君を幸せにしたい」と言ってくれたこと、蝉時雨の降る丘の上ではじめて口づけされた時のこと、万感の想いを込めて翡翠の勾玉をつけてくれた時のこと、全てが一時に甦ってきた。
一緒に馬に乗っていたのも、翡翠を渡したのも朗だった。子供の頃から深く愛し合っていた『夢のひと』は朗だった。この二本の桜のように、切り離せない強い絆で結ばれていた二人だった。春昌と朗は別の肉体を持っていたが、心は一つだった。そしてその一つの心が愛したのは、瑠璃媛やゆりという個別の肉体ではなく、たった一つの心だった。
【断片小説】「詩曲」より
「樋水龍神縁起 Dum spiro, spero」--「詩曲」より抜粋
「面白くなってきた」
休憩が終わって、オーケストラは舞台に揃った。そして、吉野隆の代わりに、ストラディヴァリウスを持った園城真耶が舞台に出てきたとき、オケと客席の両方からどよめきが起こった。ヴィオリストの園城真耶がどうして、というざわめきだった。だが、全てを制するような自信に満ちた態度で、真耶は舞台の中央に立ち動きを止めた。指揮者が頷き沈黙が起きた。
不安な顔で舞台を見つめる瑠水に拓人は言った。
「大丈夫だ。聴いていてごらん」
オーケストラが、暗闇の中から這い出るように、悲観的な旋律で動き出す。管楽器、弦楽器も否定的な悲しみに満ちた音で舞台に広がる。そして、突然、全オーケストラが動きを止め、弓を構えた真耶に挑むように静寂が訪れる。
真耶は雄々しく最初の旋律と和音を響かせる。その音には悲しくも力強い生命が込められている。これほどの力がこの細い体のどこに隠れていたのだろうか。
オーケストラには生命が吹き込まれ真耶に従う。真耶のビブラートはさらに力強く響く。ヴァイオリンという楽器には魔力が潜んでいる。小さくとも、それは大量の楽器を引き連れ、遠慮なく聴衆の心に踏み込んでゆく。荒々しく、官能的に、悲しみをたたえて。
もう誰も真耶がヴィオリストだということを意識していなかった。このストラディヴァリウスが誰に属するかも問題ではなかった。楽器は真耶に支配されている道具だった。音の魔法に引き込まれ、オーケストラですら彼女の音楽の世界に飲まれていた。
真耶はただの容姿端麗な音楽家ではなかった。人びとの心を存在しない世界に引き込む魔女だった。
瑠水は、自分がどこにいるかを忘れていた。ここは樋水ではなかった。しかし、瑠水を怖れさせる東京でもなかった。真耶がオーケストラを連れていくその先には、池の中で龍王が見せた虹色に光る黄金の王国があった。真耶の音楽には神域があったのである。
悲しみの旋律は、狂おしく激しくなり、燃え立つ。それは、目に見えぬ敵に戦いを挑む。焦燥感、苛立ち、そして絶望。しかし、その情念は全てを制し、狂ったように燃え上がり、自らに打ち勝つ。それでも消えぬ強い悲しみがビブラートとなって、むせび泣く。
オーケストラが慰めるように長いリフレインを残して音を消し、真耶の弓が弦から離れると、しばしの静寂がホールを襲った。たった13分だった。そして割れんばかりの喝采、スタンディングオベーション。
瑠水は涙を流して、呆然と真耶を見ていた。拓人は笑った。
「やられたな。吉野のおっさんの顔を見ろよ。当分口を慎むだろうな」