佐崎らいむさんの『凍える星』

ブログでお友だちになっていただいたlimeさんが、6月1日に出版なさいました。あちこちで大賞を受賞していらっしゃるし、きっとそのうちだろうなとは思っていたのですが、やはりプロデビューは嬉しいです。
5月の終わりに出版のことを知り、すぐに予約をと思ったのですけれど、「もしかして、オフ会で遊んでいただいたよしみで、自筆サインをお願いできたりしちゃう?」という欲望がムクムクで、ご本人に連絡しちゃいました。お忙しいときにご迷惑だったと思いますが、私の我が儘を叶えてくださいました。自筆サインだけでなく、メッセージカードも! それに、布施月子さんの表紙も素敵なのですが、著者ご本人のイラストを知っている私としては、見たいなあと思っていたところ、そのメッセージカードは大好きな水色ネコちゃんなんですよ。これまた嬉しくなってしまいました。

さて、個人的な『特別扱い、いいでしょ』自慢はほどほどにして、作品の感想です。
ミステリーなので、詳しい内容には一切触れないようにします(これが難しい!)とある2卵双生児である少年たちのお互いに対する分かちがたい、でも、切ない想いが根底に流れています。そして、新米探偵も登場して彼の仕事を進めていきます。双子と探偵のストーリーは、交互に登場し、やがて驚きのどんでん返しが提示されます。
この構成もみごとなんですが、2つの局面を忘れさせずに引き戻してくれる書き分け術も素晴らしいです。そして、それぞれに的確で美しい表現が散りばめられています。
実は、大賞にお出しになる際の改稿前にも読ませていただいていたので、構成の素晴らしさや結末については読む前から知っていました。ですから、今回は「2度目」として読んだのです。
ブログ掲載アマチュアもの書きという肩書きが現在の私と同じ頃から、limeさんは構成とストーリー、それに表現のどれをとっても素晴らしい方でしたが、今回、ご出版にあたってさらに推敲を重ねられたそうで、その全く無駄のない、でも、凄みすら感じさせる表現の数々に圧倒されました。まさに表題作の題名のごとく、冬の満天の星空のようなキラキラする言葉たちで構成されています。かといって、わざとらしい言葉遣いは1つもないのです。
拙いながらも自分で小説を書くから、このことはよくわかります。このさりげない的確な表現が、どれほど難しいことかって。そして、これはミステリーでもあるので、読者に対してのフェアさも満たさなくてはなりません。つまり、正しい場所に適切な情報を散りばめなくてはならないのですよ。
作者limeさんは、とてもストイックかつ勉強熱心な方で、お仕事やご家庭をも全くおろそかになさらないで、執筆とこうした改稿作業を粛々と進められる姿を何年も拝見してきました。
アマチュア作家はみな同じで、生活のために仕事はしなくてはいけないし、他に楽しいこともたくさんあるし、「執筆とか推敲ばかりしていられないよ」と思うことばかりです。そして、私も含めてその言い訳を自分に許してしまいつつ「なんでもっとみんなに読んでもらえないのかなあ」と好き勝手なことを考えたりするのです。けれど、たぶん、そこで自分を甘やかさずにコツコツと歩み続けことのできる熱心な方だけが、本来の文才があることも絶対条件でしょうけれど、その熱心さと文才とのかけ算で、真の作家さんという存在になっていくのだなあと思います。
以前は、ブログにあっていつでも読めたいくつかの小説が、もう読めなくなってしまったことを残念に思っていましたが、それがこれほど美しい形で、スイスの私の手元にやって来てくれたことがとても嬉しいです。
佐崎らいむさんの次の作品も楽しみです。まずは初出版を心からお祝い申し上げます!
6月1日。書籍『凍える星』を発売させていただきます。優秀な編集者さんの元、時間をかけて隅々まで推敲し新たに生まれ変わった本作、是非とも手に取っていただきたいです。
— 佐崎らいむ (@atorikurumu) May 26, 2022
美麗な表紙絵は日本画家の布施月子さんにお願いしました!↓詳しくは #とりのこ制作室 さんのツイにて。#凍える星#佐崎らいむ https://t.co/NCZLECPofX
雑多なあれこれ

まずは、「scriviamo!」ですが、「プランB」で参加してくださった方のうち、ポール・ブリッツさんとたらこさんが、それぞれお返し作品を発表してくださっています。ありがとうございます。(「プランB」は、私が先に書いて、参加者の方がお返事(の作品。または記事など)を書く方式のことです)
ポール・ブリッツさんの「竜崎巧の朝」
たらこさんの「scriviamo! 2019」
私の無茶なサーブに、それぞれ素晴らしい作品で打ち返してくださっています。ブログでの企画の醍醐味は、こういうところにあるんだろうなとニマニマしています。ありがとうございました。
思えば、「scriviamo!」も締め切りまで一ヶ月を切ったということで、折り返し地点まで来たんですよね。また明日から、お返し作品の発表が続きます。また皆さんが読んでくださると嬉しいです。現在、最後にいただいたサキさんへのお返しを執筆中です。次の週末くらいのお返しになるでしょうかね。
この記事の最初に載せた写真は、昨日の朝食です。「日曜日の朝はゆっくりと」という小説ではキャラクターに「ゆったりスローライフのすすめ」みたいなことを語らせていますが、実際の朝ご飯ともなると、なかなかそこまで「丁寧な暮らし」風にはいきません。特に一人だと、なおさら。この朝も、どうしても卵サンドが食べたかったのですが、ゆで卵を作るのが面倒だったので、「しゃらくせえ」と江戸っ子に変貌し、炒り卵でごまかしました。マヨネーズで味をつけてしまうとあまり変わらないと思うのは私だけでしょうか?
しかし、自分の書いたこととのあまりの落差が恥ずかしく、一応はヒマラヤの岩塩と胡椒はミルで挽き、さらにマヨネーズにガランガーの粉を混ぜてみました。それと、パセリやトマトを飾ると、ちょっと「おしゃれ〜」に見えませんか? あ、ダメですか。
ガランガーは、ドイツ中世の尼僧ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが愛用したショウガの仲間なのですが、タイ料理では今でも普通に使うようです。生だとショウガに似た味ですが、乾燥した粉末は、すこしだけ入れるとスイスのマヨネーズが、キュー●ーマヨネーズに近い味わいになるのですよ。皆さん、ご存じないかもしれませんが、キ●ーピーマヨネーズの美味しさは、伊達ではないのですぞ。
さて、もう一つここで書いておこうかなと思ったことなんですけれど。
皆さんのブログを訪問していると、前向きで素敵な内容のところもある一方で、いろいろと辛くて光が見えないような方もいらっしゃるようです。これは、どこの誰、という意味での発言ではないので、パーソナルに受け止めないでいただけると嬉しいです。
私のブログもそうですけれど、あまりマイナスなことは書かないので、まるで人生が順風満帆で悩みもなく、祝福されているかのように見えると思うんですよ。中には本当にそういう方かもいるかもしれませんが、少なくとも私はそうではありません。社交性もいまいちで誰かと会うための最初のメールを出すのに半月もうじうじ悩んでいるタイプで、実際に友人も少ないです。
勝ち組とか負け組というような分け方はあまり好きではないのですけれど、たぶん、いや、絶対的に勝ち組ではないし、これから勝ち組になりたくてもそうは問屋が卸さないし、小市民としてやれる範囲のことをちょこちょことやるしかないんだろうなあと思っています。
そういう私だからこそ、光が見えなくてつらいことを吐き出しているブログ記事を見かけると、お氣の毒だなあと思いつつ折れないで欲しいなと思うんですよね。ただ、場合によっては「頑張れ」と言われること自体がつらい場合もあると思うし、上手く直接声はかけられないのですけれど。というわけで、ここで小さく書いてみました。まあ、お読みにならないと思いますけれど……。
少しずつ片付いてきた
日本に暮らしていた最後の頃に一度熱心に信奉していたシンプルライフ。スイスに越してきたはじめの頃は、なんせたくさんのものを持ってこれなかったおかげで、何もしなくてもかなり「かっこいいシンプルライフ」を実現できていたのですが、同じところに二十年近く暮らしていると、いくらシンプルを目指していてもどんどんモノが増えていきます。
私はファッションにはほとんど興味がないので、ワードローブがパンパンになるということはほとんどないんですが、家事関係の便利品や、コンピュータ関係、それ日本などが色々とたまり、作業机の上や棚が「片付いているとは言えなくもないけれど、なんか掃除がしにくい」状態になっていました。完璧な汚部屋とちがって「まあ、これならいいか」程度だったのですが、それを少し改めたのです。
きっかけとなったのは、たまたまヘンナ染の情報を探していてたどり着いたこちらのブログでした。
筆子ジャーナル
この筆子さん、私と同じく海外移住組のようです。私と違って徹底したミニマリストで、それに関する本なども出していらっしゃる専門家です。
片付け、ミニマリスト生活の他に、資源や健康に関する基本的な考え方も、私の実践しているものと近いものが多く、興味をもって足を運ぶようになりました。
片付けに関する記事はたくさんあるのですが、目に入った中で、アメリカのフライレディというお片付け指南サイトの情報をまとめたものがとてもわかりやすかったので、そこから読み始めました。
筆子ジャーナル - アメリカのお片づけ指南サイト、フライレディに関する記事のまとめ
その第一歩が、ものすごくわかりやすくって「とにかく台所のシンクをピカピカにしなさい」というものなんです。本当にそれだけ。「そんなんで片付くわけないじゃん」と思うでしょう? 私も半信半疑だったのですが、それくらいなら別になんでもなくできるので実践してみました。
あ、それまでもシンクに汚れ物があったわけじゃないんですよ。基本は、シンクにはなにもない状態でした。ただ、べつにいちいちシンクの水分を拭き取ってピカピカにするところまでしていなかったのです。シンクは週に一度、クレンザーで磨いてピカピカにしていましたが、それ以外は流しっぱなしでした。これを、食事が終わる度にピカピカにするだけです。
これをやると、変化が出てくるんですよ。一度ピカピカにしたシンクに、また水滴をつけるのが嫌になるので、それまで食後の後片付けが何段階にもなっていて洗っては流し、片付けては流しとやっていたのが、すぐに完璧に終わらせるようになりました。
シンクがピカピカだと、どうもコンロ周りやテーブルも氣になるもので、それも食後すぐに片付けることに。そのうちに、食後の片付けに手間がかかるのは、余分なものがテーブルの上にあることだとわかり、不要なものをしまうことに。しまう場所のちゃんとしていなかったものがあることがわかり、収納場所に入っていたいらないものを処分することに。
という連鎖が起きて、なぜか台所もリビングも寝室もどんどん連鎖的に片付いてしまったのです。この間は、結局読んでいない日本語の本をかなり処分しましたし、同時に全然つかっていない増え過ぎの料理レシピ本も三割ほど退けました。これで、本を収納するスペースに余裕ができて、使ったらすぐしまうのも苦にならなくなったのです。
ああ、そうか、シンプルライフが理想なんていいながら、結局ずっと停滞していたのか、そんなふうに思いました。
そうやって物理的に片付け出したら、それ以外のいろいろなことも進むようにもなりました。デスクの上に積んでおいて処理を忘れた書類が数カ月後に出てくることもなくなりましたし、物事の優先順位もはっきりしてきました。イライラも減りました。
その一環で、ずっと買い換えたいと思っていたけれど、今のものがまだ使えるから勿体無いと無理して使いストレスになってたものがあることにも氣づきました。主に家電です。これらも少しずつ買い換えることにしました。不要なものをたくさん溜め込むのをやめて、その浮いたお金で欲しかったのに我慢していたものを買うほうがいいと思うようになったのです。その手始めが、新しいMacです。
筆子さんのミニマリスト生活には、まったく及びませんが、自分らしく快適な生活を送れるようになったので、とても嬉しいです。
生活を彩ってみよう
「美活祭り」というのはYUKAさんが9月1日から9月30日の間に、他のブログの皆さんとそれぞれ「美活」をする期間なんですって。
「9.1 稲荷弁当&美活祭り2015・はじめます!」
「美活って何?」と私も思いました。YUKAさんのご説明によると
祭りといっても
そんなに仰々しいことではありません。
毎日忙しく過ごしていると
ついルーチンワークになる毎日。
それは決して悪いことではないんですが
何となく過ごすと何となく1日は終わってしまう。
だからといって、
仰々しいことを起こすのはちょっと大変。
だからちょっとだけ意識して、
自分の気持ちを、身体を、生活を意識してみる、
というのがテーマです^^
合言葉は
「身体に、心に、生活に潤いを」
というわけで、難しく考えないで、意識して生活を楽しもう、と勝手に楽な解釈をしてみました。
最近、お弁当や普段の食事で心がけているのは、先日もご紹介したYUKAさんのご本で学んだ、色遣いのテクニック。
このお弁当は先週の金曜日に持っていったものなんですけれど、もちろんYUKAさんのすごいお弁当と較べるまでもなく、未だに「みっともないから、公開すんなよ」レベルです。でも、色は頑張ったんですよ。って、カールしたサラダ菜を挟んだだけですけれど。でも、それだけで、すごく素敵になったように錯覚したんです。

そして、写真ではわかりませんが、実は具が特別。骨つきチキンを茹でた残りの肉をサンドイッチにしたんですけれど、パンチが欲しくて頭をひねり、自家製のトマトペーストも挟んでみたんです。このトマトペーストが、実は、今年の私のマイブームなんですよ。
作り方は簡単なんですけれど、少し時間がかかります。(ただし、放置時間なので手間はない)有機農家で買ってきた無農薬のプチトマトを半分に切って自家製ドライトマトを作るんですけれど、これがいい感じに乾くまでに数日かかるんです。
できたドライトマトとニンニクとオリーブオイル、それに塩こしょうをフードプロセッサーにかけます。で、こんなにシンプルなのに、どうしてこんなに美味しいんだというトマトペーストができるんですよ。連れ合いの友人連中に大好評で、「こんな美味いトマトペーストはじめて食べた」と何人にも言われました。
クラッカーやバゲットに付けて、夏の戸外のランチで食べるのが定番の使い方ですけれど、サンドイッチのバターを塗った片方の面に付けて、それでチキンサンドを作るととっても美味しかったです。色も赤と、サラダ菜の緑と、チキンの白と綺麗でしたし。
確定申告のプレッシャーや、休暇前の仕事のストレス、それに様々なプライヴェートの予定で慌ただしく、それでも小説を書く時間も捻出したい。こんな生活を送っていると、どうしても家事は楽な方へ楽な方へと行ってしまいます。それはそうなんですけれど、それでも荒れないように、小さな幸せを噛み締められるように生活したいなあと、改めて思いました。
そういうわけで、自分の心に喝を入れるつもりで「美活」宣言しました。残りの期間の半分以上旅行していますが、それでもなんらかの形で「美活」継続してみようと思います。
「YUKA's レシピ 作りおきで時短弁当」入手しました
YUKAさんとは元々は小説を書く創作系ブロガーさんとしてこちらのブログを訪問していたのです。憶えていらっしゃる方もあるかと思いますが、YUKAさんからのリクエストにお応えして、人氣小説「誓約の地」の主要登場人物四名様をお借りして、うちの「大道芸人たち Artistas callejeros」の四人組と一人ずつ組み合わせたフィレンツェ四部作を書きました。そのYUKAさんです。
お忙しい仕事の合間に小説を書かれるだけでなく、YUKAさんはお弁当をテーマにした別ブログでも活躍なさっています。
YUKA’sレシピ♪
そのお弁当というのが、ブログをご覧いただければ一目瞭然ですが、「こ、これ、プロがつくっているんじゃじゃないの?」というすごいクオリティ。たまになら、そりゃお料理の上手な方なら出来るかなと思いますけれど、なんと毎日なんですよ! 毎日更新されているブログに証拠写真が載っていますから間違いないんです。ええ〜! どうやって?!
という疑問に答えてくださるのが2015年の2月に出版された「YUKA's レシピ 作りおきで時短弁当」です。
私はお知らせを聞いてすぐに予約しましたが、日本の母が届けてくれるまでにしばらくかかり、それからこちらも記事がいろいろと立て込んでいたので今になってしまいましたが、読んで感動しましたので今さらですがご紹介させてください。
この本、フルカラーの100頁近くあるお料理本なんですが、びっくりするほどお買い得なお値段です。しかも、YUKAさんはこの本の中に、彼女のお弁当を「私でも出来るかも」と錯覚できるほど詳細に説明してくださっていて、出し惜しみが全くありません。
朝の出勤前は、誰でも忙しいもの。可愛いお弁当に憧れていても、時間がかかると毎日は続けられません。YUKAさんのテクニックは、万端の準備でいかにスピーディに朝お弁当を作れるかを極めてあります。週末の計画的なお買い物、カラフルな常備菜の準備、前日の準備など「なるほど!」と頷く事しきり。
またいろいろな形のお弁当箱がありますが、その形ごとにどうやると見栄えが良くなるかまでが丁寧に解説してあるのです。いわれれば正にその通りですが、考えた事もなかった内容です。
お弁当を持っていかなくてはならない、もしくは作ってあげなくてはならない立場の方、特にその見た目を氣にしなくてはならない方には、本当におすすめの一冊です。
で、実をいうと、私はYUKAさん形式のお弁当は必要ではないのです。ここは日本ではないから。こちらではお弁当に見た目を求めるという文化がないのです。例えば丸パンにハムが一枚挟まっているものとリンゴ一つ。もしくは昨日のリゾットの残り。お弁当として人びとが持って来るのはそういうものです。
でも、YUKAさんの本には学ぶ事がたくさんあって、別の形で愛用させていただく本になりました。
その一つがかわいいデコレーションの極意。我が家では、お客を招いての食事が多いし、時々立食パーティもするのです。そういう時に同じ食品でも簡単に可愛くデコレーションが出来ると、お客さま受けが違うのですよ。
それから、たくさんの常備菜レシピ。どうしてもマンネリになりがちな食卓に、色とりどりでバラエティ豊かな常備菜を用意していくと、ちょうどいいおつまみみたいになって、日常の食卓が楽しくなります。
それに、今まで知らなかった食品の保存方法もたくさん書いてありました。勉強になりますよ。
それに、YUKAさんの料理に対する姿勢が、とても共感できるのです。素材を大切にすること。買ってきた食品をきちんと使い切ること、見かけだけでなく栄養や環境にも留意すること、綺麗で健康的だけれど省ける手間はどんどん省いて楽しく作ること、などなど。
これだけの濃い内容で、900円しないんですよ。あまりにもお得すぎて目を白黒してしまいました。
お弁当や持ち寄り料理のアイデアの欲しい方には、猛烈おすすめの一冊です。
腐るほどの金の使い道
cumbrousさんが、別のブログ(KU2さんの「話’ ―てんではなしにならない―」)から、こんな面白い話題を引き継いで展開なさっていらっしゃいました。使い切れないほどのお金があったらどうするかという話題です。
腐るほどの金があって、それを使う。ただし、モノとして残してはいけない。だから土地買って家建てて… ってのはダメ。 …さあ、ゲームの始まり! 何に使うかな?
(「KU2さんの記事「腐るほどの金の使い道 その1」」より抜粋)
cumbrousさんのアンサー
腐るほどの金の使い道(cambrouse編)
腐るほどの金の使い道 その2(まとめ?)
で、私も考えてみました。で、残しちゃダメなら、きっと旅するでしょうね。
(1)まだ行っていない行きたい有名観光地
アンコールワット、マチュ・ピチュ、桂林、カッパドキア
(2)リゾート
ニュー・カレドニア、モーリシャス、タヒチ
(3)いつかは行きたい秘境
ギアナ高地、マダガスカル、アマゾン、峨眉山
(4)ちょっと興味アリ
カーボ・ヴェルデ、キューバ、マデイラ島
(5)普通はそんな時期に行けない所で五つ星ホテル滞在
クリスマスのヴァチカン市国、ヴェネチアのカルナヴァル、神在祭の出雲
(6)豪華列車の旅 〜 全行程の盛装や宝石も必要
ロボスレイル(南アフリカのケープタウンからタンザニアのダル・エル・サラームまで)
オリエント急行
(7)うちからサン・ティアゴ・デ・コンポステラ(スペインの端)まで歩く。
泊るのは高級ホテルかパラドール。
(8)日本全国の桜の名所めぐりと紅葉めぐり
高級温泉旅館がいいな。
(9)ヒマとお金がないとできない、テーマを決めての旅
「アーサー王伝説ゆかりの地」「ベートーヴェンが引越した場所を全部探す」など
(10)ウィーンのシェーンブルン宮殿内(の賃貸フラットがあるらしい)に一年住む
(11)ひとつの美術館に一ヶ月毎日通う
ルーブル、ウフィッツィ、パラティーナ宮殿、ドレスデン、プラド、ヴァチカン、エルミタージュなど
(12)秋の南仏のワイン農場に二ヶ月滞在。あ、ドウロ河沿いでもいいな
もちろん飲んで食べて寝る生活。
書いていて思ったんですが、cumbrousさんの世のため人のためモードの奥ゆかしさと比較して、この私の煩悩垂れ流し状態はいったいなんなんでしょう! で、自分では所有しないということなので、せめて、行く先々ではチップを弾み、人助けなんかもしちゃったりして、罪悪感を誤摩化すことにしましょう。
ま、妄想しているだけですから……
コメントで悩む
私は人付き合いが下手です。そうは見えないようで、実生活でも、ブログでも、わりと氣軽にお声を掛けていただけるのですが、本人は毎回あたふたしています。
人が嫌いなわけではありません。面倒くさいと思っているわけでもないのです。ただ、どうしていいのかわからないのです。
実生活のことは、ここでは置いておきます。
ブログをはじめて二年になりますが、はじめの頃の閑古鳥が信じられないほどたくさんの方にお越しいただき、毎週のように新しい方がいらしてくださっています。私自身はお友だちのブログで紹介されていた場合を除き、新しいブログを発見することはほとんどないので、みなさんどうやってここを発見してくださるのだろうと常々不思議に思っています。
毎日のようにいらしてくださる新しい方(中でも既にコメントをいただいている方)のブログは、私もできるだけ伺い最新記事を読み、それが小説系のブログの場合は短いものを読ませていただいたりしているのですが、コメントをしようとすると悩んでしまうのです。
読ませていただく小説の中には、自分が普段感じていることとのシンクロを感じて、ものすごく深く揺り動かされることもあります。その時ですら、自分の感じていることを的確に数分で書き表すのはとても困難です。一方、まったく揺り動かされないこともあります。でも、だからといってその作品が劣っていると思っているわけでありません。私が一度も泣かなかった別の方の小説で「号泣した」という感想を残されている方もよく見かけます。感動や涙腺の弛むツボというのは、もしくは笑いのツボというのは、人によって違うのです。
普段は素直に「いいな」と思う所を短めのコメントとして書くのですが、「馴れ合いはイヤだ」とか「社交的に褒めてくれるだけの感想ならいらない」というようなことを書かれていらっしゃるところだと、どうやって書けばいいのか悩んで結局書けないのですよ。何度も書こうとして、結局やめてしまっています。
「ここはいいけれど、こういうところは好みじゃない」や「私はこうは書かないけれどな」というところはあります。それは、私が愛読している仲のいいブロガーさんの作品にも、それどころかプロの作品にもあります。日本語としての文法の問題、どのようなテンプレートで読ませているかを含めた技術的な問題、テーマの選び方、そもそもテーマがあるのかという話、登場人物の性格付けなど、「どうしていますか」と訊かれればお話しできることもありますが、ほとんどが好みの問題であって人に押し付けたいとは思いませんし、自分の技量や作品の質を棚に上げて偉そうに語るのも本意ではありません。私は日本語の教師でもなければ、評論家でもないし、「小説の書き方教室」の教師でもありません。私の書いているものはすべて我流で、私の感じていることも一般論ではないからです。どうしても書かなくてはならないとき(たとえば「小説書いてみよう会」の参加者は他の参加者の作品を読んで、いい点だけでなくよくない点をも書くのが義務でした)、書くことが皆無というわけではありません。でも、義務でもないのに書くのは抵抗があります。
忌憚のない意見を初対面の方にズバズバ言える方もいらっしゃいます。実生活だとそれがきっかけで生涯の親友になったというようなこともあるでしょう。でも、それは顔が見える状態ですることで、いきなりそんなコメントが来たら、私ならショックです。「それはあなただけで、私は平氣なの」といわれても、私の行動基準は「自分がやられたらどう思うか」なので、どうしてもできないのです。とくに小説は、人にとってはただの文章でも、書いている方にとっては我が子も同然の存在だと思っています。(もちろん記事やイラストや、その他のどんな創作物でも同じです。たとえペットの写真でも)背景も知らず、何回も読み込んだわけでもないただの通りすがりの私が、どんな深い感想を書けるというのでしょう。
その一方で「こんにちは。面白かったです」だけのような、読まなくても書けるようなこと、コメント返しに困るような感想を書くつもりもありません。だから、拍手ボタンがあればそれだけで帰ってくることもあれば、何もせずに戻ってくることもあります。
「私、なぜこんなに長く逡巡しているのだろう」と落ち込むことすらあります。よそのブログにお邪魔するとき、また私自身のコメント欄にも、コメント名人というのか毎回心を込めた素晴らしい言葉を残される方が何人もいらっしゃいます。私もそんなコメントが書きたいと思いつつも、書けないのです。
「この人、私が書いたコメントに比較して、書いてくれる量がすごく少ない」もしくは「一度も書いてくれない」と思っていらっしゃる方が多いと思います。自分でも申し訳ないと思っています。でも、書きたくなくてスルーしているわけではありません。書けなくて申し訳ないと思っています。
ブログの広告のこと
ものすごくどうでもいいことですが。
ブログのお友だちの所を訪問していると、広告が出ていることがあります。FC2ブログを一ヶ月以上更新しないと出るあれです。あのジャンルって誰が選んでいるんだろうと。ブログ主は選べませんよね。どのブログでも大体同じなのが出ているし、決まっているのかもしれないんですが、「なんでこんな広告を見せられなきゃいけないんだ」って広告の方が多いような……。
例えばコミックの広告。私は聖人君子じゃないし、過激なアダルト系コミックが立派なマーケットであることだってわかっています。でも、なんで毎日あんなもんばっかり見せられているんだろうって思うんですよね。他に広告ないのかしら。未成年のブロガーさんだって多いじゃないですか。あんなの見せるのもいかがなものかと思うし。
時々、自分が購入するために調べたものに近い広告が続けて出ることもあるので、もしかして私だけああいう広告ばかり見せられているのかと思ったこともあるけれど、それにしては興味もないジャンルのものばかり。私のクリック履歴などから選んでいるにしては、例えばBLにはまったく興味ないし検索したことすらないのになあ。しばらく前には大っ嫌いなホラー映画の広告が出まくりで怖かったし。
普通に洋服やら靴やら、通販っぽい広告出してくれればいいのに。「記事を保存しました」って所に出る広告はかなり普通なだけに、余計そう思います。
変わっていること
自分の正直なきもちを綴っている友人が書いていたのですが、ずっとその友人には自己否定があって、「普通ではない事」イコール「悪い事」だったと。その具体例の中に恋愛の方向性などの話の他に「大和民族でない血が混じっていること」も入っていて、びっくりしてしまいました。
いや、その事実についてではないですよ。そうじゃなくてそのことが「自己否定に繋がる」ということ。というのは、私はまったく反対に感じてしまう人間だとそこで認識したからです。
私にも16分の一、外国人の血が混じっています。曾々祖母は当時の国籍ではドイツ人でしたが、ストラスブールの人でしたからドイツ人でもフランス人でもないアルザス人です。他の16分の15の血は日本人で、日本に生まれた日本人であることを誇りに思うと同時に、私はこのわずかなアルザスの血を誇りに思っています。明治の初期に二度と帰れないとわかっていて日本にまでノコノコと嫁いでいった変わり者の血だからです。
私にとって「変わっていること」「皆と同じでないこと」は常に自己肯定に繋がっていました。「偉い」「よりよい」ではなくて単純に「個性があるのはいいこと」という概念を鵜呑みにしていたみたいなんですよね。
もちろん日本には「出る杭は打たれる」「まわりの空氣を読む」というような概念があることはわかっています。それでも、人と違えば違うほど、それは私の利点だと勝手に思い込んでいたのです。私には世間一般的な物差しでは他の人より秀でている点は余りありません。だから少しでも自分のプラスポイントにしてしまえという、かなり自己中心的な思い込みですね。たぶんそうすることでしか、子供の頃の弱くて情けなくて力のない自分とその状況に耐えられなかったからなのかもしれません。
中学生のとき、グループの女の子たちが休み時間に一緒にトイレに行く習慣がありました。ある時から、私はそれを断りました。休み時間の度に用もないのにトイレに行きたくなかったからです。冗談みたいな話ですが、そんなことに勇氣がいたのです。それ以来、私は「あの子は少し変わっている」という評価を得るようになりました。それが今の明らかに平均的日本人とは違う人生に繋がっているように思います。
連れ合いは私に輪をかけた変わり者です。そして、彼もまた、変わっていることを全く根拠もなく誇っています。まさに「割れ鍋に綴じ蓋」です。二人とも世間一般的には「ああはなりたくない」なのかもしれません。
職人さんのブログをのぞいて
とある職人さんのブログは、その端正なプロフィール写真も含めてけっこう目が釘付けだったりします。いや、単なる眼の保養ですから。別に良からぬことを考えているわけではないですから(笑)
私は職人というジャンルを尊敬しているのです。職人というか技術取得者の方をです。一朝一夕では身に付かない技術を頼りに生きているその姿がすごいなあといつも思うのです。どんなお仕事をする方も尊重していますが、職人さん(技術取得者の方々)にはそれより一段上の敬意を持っているのですよ。
そういうわけで、職人系のブログをのぞく時だけは、ちょっぴり背筋を伸ばして厳かにクリックする妙な私なのでした。
夏休みがない
日本に帰るとなるとやっぱり二週間ではキツいのです。行き帰りだけで三日使ってしまいます。
三週間の休暇をもらうとなると、有休めいっぱいになりますので、夏休みには残っていません。だから、じっと我慢の子です。(そんな理由で、日本に帰るのは三年に一度かそれ以下でいいやと思ってしまう私でした。遠いし)
日本帰国は11月ですが、日本から帰ると今度はもう年末モードです。今年はなんだかいろいろとリズムが狂うんだろうなあ。ま、いいや。
方言の話
大海彩洋さんが取り上げていらっしゃった、「小説における方言」の記事、既に読まれた方も多いのでは。あ、ご心配なく、彩洋さんのブログに書いたコメントと同じことを書くわけじゃないですから。今日取り上げるのは、ヨーロッパ、ドイツ語圏における方言の話。そう、すでに話は明後日の方向に飛んでおります。
私の住む地域はドイツ語圏のスイス(他にフランス語、イタリア語、ロマンシュ語があります)です。そしてですね、わずかでもドイツ語を学んだことのある方が、このスイス方言のドイツ語に耳を傾けると、たぶん自信をなくされると思います。知り合いのドイツ人も言いました。「全然わからない」実をいうと、文法すら違いますしね。
で、このスイス方言には書き言葉がないので、新聞は正規ドイツ語で書かれています。でも、テレビのニュースはそれぞれのキャスターが自分の方言で話しているのですよ。連れ合いに訊きます。「え? いまなんて言った?」答え「わかんない」おいっ。ニュースなのにそれでいいわけ?
ドイツにもたくさん方言があります。たとえば「プラット・ドイチュ」といわれる北部の方言はスイス方言に負けないくらいなまっています。しかしですね。ドイツではどこの出身のキャスターであろうと完璧な正規ドイツ語で話すのですよ。これには訳があるのです。
ドイツの長い伝統として、(子供が大学に行くような)上流階級の家庭は、外でだけでなく家庭でも正規ドイツ語しか話さないのだそうです。つまり方言を話しているのは「シモジモ」の証なんですね。日本ではそんなことはありませんよね。お国言葉は上流下流とは関係がない、むしろ個性だとみなされています。スイスも日本と同じです。だから、大臣が方言丸出しで話しているのが普通な訳です。もっとも、ドイツのテレビでは、その発言の時、「翻訳されたドイツ語」がテロップでつきます。
「アルプスの少女ハイジ」でロッテンマイヤーさんがハイジに「正規ドイツ語でお話しなさい!」と言っているのはこのことなんです。「地方から来た田舎者め」と蔑んでいじめていたわけでなくて、クララの家のような上流階級で方言なんてドイツではありえないわけです。
たまに、私の携帯にスイス人からの間違いメッセージが届きます。私信なので方言を音表記したものです。みごとにわからない。私はこの地方の方言は聴き取れるようになっていますが、このメッセージはわけがわからない。たったの140字でもこの苦悩ですから、スイス方言ドイツ語で書かれた小説など死んでも読む氣になりません。やっぱり、標準書き言葉ってのは、どの言語でも必要だと思いますね。
梅雨がないから

紫陽花は日本人にとっては梅雨のイメージと切り離せない存在だと思います。どこかはかなげで傘を持った女性が泣いていたり、お寺に和服を来てしっとりと立っていたり、蛙が雨宿りしていたり。また、梅雨の間に次第に色が変わるので移り氣の象徴みたいにとらえられたりもしますよね。
その全てのイメージは、こちらスイスでは皆無なのですよ。
日本で「庭に薔薇を植えました」と言うのと同じように「(園芸品種として)オルタンシアを植えました」という扱いなのですね。そしてですね。この花、薔薇と同じように春の終わりから秋まで、ず〜っと咲きっぱなしなのです。自動的に色が変わるなんて事もありません。梅雨の時期に雨によって土壌のPH値が変わることがないからなんですね。
さらにいうと、いまの私には「紫陽花革命」のイメージが強くなっています。紫陽花を持って、片道三時間かかるベルンへ行ってデモに参加してから、もう一年経つんですよね。(しかし、なんであの記事のスポンサーが民主党になっているの?!)
ブログのスタイルって
ようやく夏っぽい写真が撮れるようになってきたので、嬉しくてアップしちゃいます。って、これも今日の話と全く関係ないわけじゃないからいいか。

小説のブログと言っても、うちの場合は全体の記事数に占める小説記事の割合は少ない方です。本人としてはあくまで小説ブログだと言い張っていますが。
潔く小説だけで勝負なさっていらっしゃる方も多いし、その方が小説ブログの真の形なんだろうなと思うのですが、そうするとはじめての方が入りにくいんじゃないかなと思ってしまうんですよ。
小説テンプレートってありますよね。小説ごとにあらすじが整理されていて、小説にだけ興味のある方には読みやすくてとても便利だと思うのですが、私のような更新のしかたをするブロガーには全く向いていないテンプレートなんですよね。だいたい、うちは小説以外のカテゴリーが多すぎる。
それと、「このヒトの小説好き!」と足繁く通うようになってからは問題ないんですが、そうなるまでの敷居が高い氣がしちゃうのですよ。つまり、小説の本文に辿りつくまでに三回くらいクリックしないといけないじゃないですか。そうすると、忙しい一見さんはもう帰っちゃうだろうなと。
というのは私の小説がジャンル分けがとても難しいところに原因があるのです。「本格時代劇です」とか「心の痛くなるような純愛小説です」とか「魔法少女ストーリー」というようなはっきりしたジャンルがあると、そういう小説を求めている方が「おっ」とすんなり三クリックをして、読んでファンになってくれるかもしれませんが、そういう小説じゃないんですもの。最初のすっきりしたページで「なんだこりゃ」と回れ右で帰られてしまう、そう思うんですよね。
一方で、私のような通常ブログ画面だけで小説を読ませようと無理する場合には、それなりの工夫をしないとすごくわかりにくいだろうなと。
一年数ヶ月の試行錯誤を重ねて、現在の形になっているわけですが、一番重要だと思っているのは、短いお報せ、代表作まとめ読みへのリンク、そして本日の記事の題名くらいまでがスクロールしないで目に入る事。それから右のメニューのプロフィール画像の側に、はじめて来た人への情報がやはりスクロールしないで目に入る事。完結した長編はPDF化してまとめ読みしたい方の手間を省く事などでしょうか。
それと、文字だけの記事もあるのですが、三日以上文字オンリーにならないように氣をつけています。真っ黒いブログだと、読みたくないって人もいるだろうし。一方で、写真の数が多すぎると重くなるのかなとも思うので、基本はサムネイル表示にして、多くなる時は畳むようにもしています。写真ブログだったら、重いかどうかよりも魅力的な写真かだけが重要だと思うのですが、私のブログは「軽いのだけが取り柄なのに」と思われている可能性もあるので。
小説の更新頻度も悩みどころです。ある小説を読んでくださる方がいるとして、その方も忙しいし、うちの小説だけを読んでいるわけじゃないからついて行けないほどの大量の更新はしない方がいいでしょう。でも、連載であまり間があくと、前の話を忘れてしまう。で、結局読んでくださらなくなってしまう。だから、連載の基本は週一回と決めました。チャプターが変わる時などは、二週くらいあける事もありますが。同じ週に別の作品を発表する時には読み切りかそれに近い形のものにします。読み切りだと、忙しさや興味対象に応じて読むか読まないかをその都度決められますし、長編を読むかどうか決めかねている方にも「試しに読んでみようかな」と思ってもらえるし。
長編連載小説には「あらすじと登場人物」をつけます。たとえ毎週いらっしゃってくださる奇特な読者だって、あちこちの小説を読んでいれば、私の小説の人物を忘れても当然だと思うので。「ええと、これは誰だっけ」と思ったその記事の中に「あらすじと登場人物」のリンクがついていれば少しでも助けになるかなと思いまして。
と、いう具合に、試行錯誤の末のブログスタイルなのですが、本人が思ってやればやるほど、反対にごちゃごちゃしてくるような氣もします。
情報を伝える一番有効な手段は、すっきりしたところに大切なものだけを置くことです。簡単に言うと真っ白い画面に「小説一覧」というリンクがぽつんとあるだけの方が、いまの私のブログよりも効果的である可能性があります。その一方で、日本人として、その素っ氣なさはいかがなものかと思ってもしまい。結局、あれもこれもリンクを貼ってしまいたくなり、(以下、繰り返しなので略)
う〜ん、なんとかならないものか。
ありがとう、canariaさん
ブログの世界は意外と狭いのでご存知の方も多いと思いますが、ブログのお友だちの一人であるcanariaさんがブログをおやめになる事になりました。
ここを以前から訪れてくださっている方はご存知のように、ブログをおやめになる方の話ははじめてではありません。最初の時はものすごく慌てました。ある大切なお友だちがやめると宣言なさった時には、大騒ぎして引き止めました。でも、その引き止めるという行為が、おやめになりたいと思っていらっしゃる方にとってストレスになるのだという事を理解するようになってから、引き止めるという事はやめました。どんなにやめてほしくないと思っていても。
canariaさんはイラストと絵画と詩と小説の総合芸術である「侵蝕恋愛」を発表し続けてこられた方です。ブログの内容や更新スタイルというのは、人によって千差万別で、肩の力を抜いてひたすら楽しむ方、生活の合間に思い出したように更新なさる方、コンスタントに黙々と更新する方と、いろいろなスタイルがあり、どれが正解という事はまったくないのですが、canariaさんの場合は「魂を削るように」更新なさっていらっしゃいました。これは比喩ではありません。私にとっては断じて。
canariaさんにとっての「侵蝕恋愛」と創作は、寝食よりも大切なものだと想像しています。散文的で手間のかかる生活を泳いでいく中で、この創作のための時間を確保するのはとても大変な事でしょう。同じブログ上の創作と言っても、私が鼻歌まじりに適当なものを書き散らしているのとは、重みが全く違います。
芸能人やプロの作家は別として、ブログ運営は自分の記事を更新するだけにはとどまりません。コメントに答えたり、応援してくださる方の作品を読んで回ったり、そこにコメントを入れたりと思った以上の時間と手間がかかります。その行為をまったくせずに、ご自分の作品にだけ時間をかけている方もいらっしゃいます。コメントに返事をしない方もあれば、他の方の作品もほとんど読まない方も。ブログが人氣で、訪問者が多くなればなるほど、そういう方向を選ぶのは必至でしょう。私だって、いらしてくださる方全員のブログに、同じだけの情熱を持って訪問する事などできはしません。そう、私はそれを「しかたのないこと」と心のどこかで処理するちゃらんぽらんさを持っています。
でも、canariaさんはそういう方ではありません。どんなに体調が悪くても、どんなに創作に時間をかけたくても、私のブログにまでいらしていただき、長編小説を読み、丁寧な感想をくださいました。たぶん自由に使える時間が100だとしたら200ぐらいかけていらしたのではないかと思います。かなり前のことになりますが、canariaさんがご自身のコメント欄を閉じたいとおっしゃった時に「私は交流したい」と軽々しく書いたことがありました。そのことがcanariaさんを苦しめたのではないかと、ずっと申し訳なく思ってきました。
なぜブログをおやめになるのか、具体的な理由は訊いていません。それを問いただしたところで、canariaさんを助けて差し上げる事も出来ないのです。決意なさるまでに、どれだけたくさんの葛藤がおありになったか、訊くまでもありません。
私は「侵蝕恋愛」の続きを読みたいです。canariaさんにこれまでのようにお付き合いしていただきたいと心から願っています。でも今は、「たまにはうちに遊びにきて」や「これまでのブログを残しておいて」といったわがままを言わずに、手を離す事がcanariaさんに私がしてあげられるたった一つのことだようやく悟りました。canariaさんが地球のどこかで「侵蝕恋愛」を完成させるその日を待っています。たとえ、目にすることが出来ないとしても。大事だから手を離さなくてはいけないなんて、この歳になってもあまりしたことがないつらい体験です。まるで、「侵蝕恋愛」に出てくる 主役の一人ファーン先生の心持ちそのままです。
canariaさんが読んでくださった私の小説の中にも、ある女が愛する男に別れを告げるシーンがあります。「そして、あなたは、自由になって」と。その女と同じくらい強い想いを秘めてcanariaさんを送り出して差し上げたいと思っています。
大好きな、大好きなcanariaさん、どうか心のままに自由になってください。これまで本当にありがとうございました。
コメントの代りに
また、どうやら22222Hitは今日にあたってしまいそうです。この重い記事に記念リクエストは入れにくいでしょうから、その場合は、こちら(リクエスト置き場)にコメントで入れていただければ……。

人間社会の中で生きていると、かならずどこかに「勝者」と「敗者」ようなものが出来てしまい、「強いもの」と「弱いもの」にも別れてしまうような氣がするのです。
勝者云々については、目に見える簡単な形で言えば、どんな仕事をしているとか貯金がどのくらいあるのかというようなものもあるし、ネットの皆さんの大好きな「リア充」かどうかなんて基準もある。実際には、お金があっても不幸な人はいっぱいいるし、愛だって明確に計れる基準なんかないから、いりゃあいいってものでもないのですが、それはまた別の問題。
「強い、弱い」に関して言えば、筋肉体力の問題だけではなく精神的なものや、運のようなものもありますよね。ここまでが前提の話。
で、私が考え込んでしまったのは、その敗者なり弱い立場の人の心の中のことです。勝者や強い人に対する憧れや羨む感情もあるでしょうが、それ以外に、自分の心の中で前向きになることのできない、自分で自分を苦しめてしまう負の感情のこと。
「前向きになりなよ」そういってしまうことは簡単です。そして、それ以外に負のスパイラルから抜け出す道がないこともまた事実です。でも、それでも、前向きになれない人の苦しみを土足で踏みつけることの罪に、怯えてしまうのです。
私は社会的に言えば、勝者でもあるし敗者でもあります。強いものでもあるし弱いものでもある。その違いは基準をどこに置くかだけで、たとえば「結婚しているか」もしくは「一生をこの人と過ごそうと思える人間にめぐりり逢えたか」ということを基準におけばいわゆる「リア充」に組み込んでもらえる立場でしょう。別の基準に照らせば「どう考えても敗者」なこともたくさんあります。けれど、私が私についてラッキーだと思えるのは、どんなことであれ、自分の人生にあったこと、現在の状態を全肯定してしまえる「おめでたい」思考回路を持って生まれてきたことでしょう。
私は自分の人生をよりよくしていくために踏み出すことは出来ます。けれど、そうなれない人、もっと深い暗闇を抱え、希望も見出せず、全く必要のないことにまで怯えている人にどうしろという、上から目線のアドバイスの出来るような立場だとは思っていません。
私が今日この記事を書くきっかけとなった、あるブログの記事に対してはアドバイスもコメントもできません。でも、もし、誰か愛している人があなたに刃を向けて襲ってきたとしても、私はあなたの盾になるために飛んでいってあげたいと思っているから。物理的にも、それ以外のことでもそれが不可能だと知っていても、それが私のあなたへの想いだから。
広告が出たブログ
で、なんらかの事情でお別れの記事とともにブログをおやめになる方もいるのだけれど、中には普通に更新していたのが何の前触れもなくぴたりと更新が止まってしまう方もあるんです。
私のように毎日更新しているブログだと、一週間更新がなかったら「どういうこと?」と思うだろうけれど、多くの方は毎日は更新しないので、「お忙しいのかな」と何も考えずに毎日訪問していたりするのだけれど……。
そして、広告が出るんですよね。こちらはびっくりする。「えっ、もうひと月、経ったわけ?」
毎日、忙しく生きていると、一ヶ月なんて本当にすぐ。だから、そんなに経ったなんて意識はないのです。
広告でちゃって、数ヶ月になる方々、どうしていらっしゃるんだろう。ブログなんてどうでもいいような楽しくて充実した日常を送っていらっしゃるといいなと願ってみもしますが。つい最近お二人ほど、そういう方々が復帰なさったのですよ。二度あることは三度あると言うし、また、ひょっこり戻ってらっしゃるかもしれないから、もうしばらくはリンクも訪問も続けてみようかなとは思っています。
ポルトの風景
山西左紀さんの小説「絵夢の素敵な日常(10)Promenade」
さて、近年の日本でも(もちろんスイスでも)西洋風の建物を意識的に建てているのですが、その光景がどうも私の馴染んでいる「美しいヨーロッパの街」の建物と違う。別にそれでもいいのですが、人間の目というのは実に良くできていて、その違いを一瞬でとらえてしまうのだなと思いました。
で、何が違うのかというと、装飾です。壁の装飾、アーチの複雑さ、彫刻、タイル、窓枠飾り、そう、非経済的であるという理由でだれもつけない不要な飾りの数々が街の景観の美しさを創り出しているのです。下の写真、マグノリアに隠れている建物、時計の周りの装飾がありますよね。東京で言うと、国会議事堂や日銀、三越本店など大正時代までの石材建築物にはこうした美しい装飾があります。こうした陰影のある、自然素材を生かした美しい建物は、時を経て、雨風や生活によって朽ちていく時にも、えも言われぬ雰囲氣をもたらすものです。そう、古くなればなるほど円熟して味が出るのです。

今の建築物には、まずありません。第一に何の役にも立たない、それに、メンテナンスに手がかかる、こんなところに手をかけるぐらいなら、高層にして中に近代的なエレベータを設置することでしょう。しかし、こういう無駄な装飾が街を美しくしているのです。それもバラバラにではなくて、街全体の多くの建物がこうであることが。(日本の木造建築もとても美しいものです。複雑な梁や扉がシンプルでいながら単調にならない、眼を楽しませる作りになっています。年を経るに連れて色が変わりしっとりとしてくるのも美しい。ただ色あせていく廉価な素材とは明らかな違いが出ます)
さて、この下にもポルトの街を興味深くしている写真をたくさん並べました。写真が多くて困る方もいらっしゃると思うので、一応閉じてあります。
他の写真も表示する クリックで開閉します
交流は楽しい

最近、あちこちのブログで自分の名前を見るようになりました。すごく嬉しい。いや、有名になりたいとか、そういう意味ではなくて、単純に「名前出しても大丈夫」と思っていただけるほど、みなさんに仲良くしてもらえているんだなあと実感できることが。
それと、ブログのお友達同士が、交流しているのをみかけるのも、とても楽しいです。たぶん、以前は知らなかった方同士が、うちのブログや、もちろん、うち以外のお友だちのブログのコメント欄やら紹介記事を通して、新たに友達になって交流している。コメ欄で「はじめまして」とやっているのを見かけたりすると「あ、ここもお友だちになった」と嬉しくなってしまうのです。
お友だちのお友だちって、パターンは、私もよくあって、ご紹介いただいた記事から飛んできてくださった方と最近とても仲良くしていただいています。「scriviamo!」の予期せぬ効果がこんなところにも。
「scriviamo!」といえば、この企画で私が狂ったようにやっていた二次創作が、秘かに流行りつつあるのも嬉しい。こんなことで「ぐふふ」と楽しんでいるのは、もしかして私だけかしらと思っていたので。あ、うちには、山ほど妙なキャラがおりますので、よかったらどんどん遊んでくださいませ。
不穏な話

近頃、氣になっていることを。
お友だちのブログで、なりすましのヒトが付き合いのあるブロガーさんのふりをして悪意のあるコメントを残したって話題がありました。そういう話、時おり聞くので、なんだか怖くなりましてね。
うちには、まだ来ていません。でも、よく考えるとトライしたのかもしれません。でも、うちのブログ、FC2のおまかせNGキーワードを設定してあるので、ブロックされちゃったのかもしれません。先日、お友だちのコメに返信を書いていて、「(小説の)処女作、楽しみにしていますね」と書いたら、自分のブログのコメ欄なのに「禁止ワードが含まれています」とブロックされてしまいました。そういうわけで、悪意のあるヒトもコメができないのかもと思ったり。
でも、なんかいや〜な予感がするのですよ。周りの親しくしていたブロガーさんが、まったく予告も何もなく広告が出るようになってしまったり、ブロとも以外のヒトは見られない記事を書いてぴったりと更新をやめてしまわれたり、なんか普通じゃない感じがあちらこちらに。
で、毎日のようにいらしていたのに、訪問がぴったりと止まってしまったりとか。いや、お忙しいとか、当ブログよりも大事なことが他にたくさんあるというような、当たり前の事情なら、それでいいのですよ。問題ありません、本当に。定期的に更新すべきなんてことや、毎日来るべきだなんてこれっぽっちも思っていませんし、ブログはそういうものだろうと思います。
でも、何よりも嫌なのは、悪意のあるヒトが私のフリをして他の方のブログにコメントをしていて、それを私本人だと思って私に対して怒っているなんて状況です。
はっきり申し上げます。私は、悪意のあるコメントはいたしません。聖人君子ではありませんから、何かにムッとすることはあるでしょうが、悪意コメは私ではないです。他の方のブログの内容が氣にいらなかった場合は、全くコメントをしないだけです。ケンカを売るほど暇じゃないですから。一度売られたケンカを買ってひどい目に遭いましたので、それ以来親しくない方のところには冗談も書き込みませんし。
それとですね。これは私の信条なのですが、人に対して負のエネルギーを送ると倍返しで負が戻ってくると思っていて、そういうものを浴びたくないのですよ。基本的に嫌なものには関わらないようにします。だから、訪問しなければ関わらないで済む、見ず知らずの方のブログに行って、怒りを買うようなことをするはずはないのです。
ブログをやっているのは、みなさんと楽しく交流したいからです。ほとんどの方もそういうスタンスで訪問されたりコメントを残されたりしていると思います。何が問題でなりすましのヒトが邪悪な行為に出るのかよくわかりませんが、本当にやめてほしいと思います。こういう話は、シェアして、迷惑なヒトをうまくブロックできるようにしたいですよね。
ちなみに、私のブログはブロともとなっている方以外は承認制です。本当はリンクをしている方は即公開をしたいのですが、変なコメントが来た場合に対処できないので、この状態を続けています。日本と時差があるために、コメントをいただいてから承認までに時間がかかることがありますが、単純に寝ているときと仕事中は承認できないだけですので。ただし、悪意のあるコメをいただいた場合は、私も無慈悲に削除しますので、ご了承ください。(小説への批判のことではありません。ご批判は真摯に受け止めますとも)
晩冬さんに、カチッ、カチッ
一年間弱のブログ人生の中で、こういうことははじめてじゃないけれど、やっぱりとても寂しい。
晩冬さんは、サッカージャーナリストを目指している若者だ。文章の鍛錬のために、小説や書評を定期的に発表、最近はビールの「飲んで書いて」批評記事も発表されていて、最近とみにそのプロ志向が特にはっきりしてきたなあと思っていた所だった。
私のやっているような「お遊び」に時間をかけている場合じゃない、とにかく夢を叶えるために真剣に進む時間を確保したいと思われる晩冬さんの思いは、とてもよく理解できる。ブログって、他の人との交流が醍醐味であるけれど、やはり執筆時間はそれに削られてしまうから。
もの書きだけで食べていけるようになるっていうのが、どれだけ大変な事かは、実際にはトライしていない私でもよくわかる。
だから、「行っちゃ嫌だ、せっかく仲良くなれたのに」と子供みたいに引き止める事はできない。晩冬さんの未来の成功を祈って、笑顔で送り出してあげたいと思う。そう、心は、火消しの後ろで、火打石をならすおかみさんの心持ち。カチッ、カチッと威勢良く鳴らしてあげたい。
夢をかなえて、雑誌に名前が出るようになったら、「実は、これが私です」とコメしてほしいものである。って、その頃までには、私が閉鎖していたりする可能性もけっこうあるのだけれど。そうならないうちに、是非、夢を実現していただきたい。
それに、時々は遊びにきてくれると嬉しいなあ……。
P.S. 最後の掌編を、「scriviamo!」に出してくださったので、これから、返掌編にとりかかります。
幸せを願って
この方は、いろいろな根拠があって、たぶん私と同年代だと踏んでいる。私のブログのお友だちの半分くらいはもっと若い世代で、私もそのくらいの年齢の時には思っていたように、このくらいの年齢になると、なんというのだろうかもっと落ち着いてしかるべきという勝手なイメージがあると思う。別のいい方をすると「いい歳をして」である。
けれど、この歳になった私が宣言する。人間の肉体にはあっても、情念に「いい歳」なんてものはない。恋愛は、たぶん90歳になっても現役でいていいのだと思う。だから、今の二人の状態には、当然ながら「Go! Go!」と旗ふり状態である。
でも、それだけならわざわざ記事にしたりはしない。別に、私が願おうと願うまいと、二人はハッピーだし。記事にしているのはもっと別の願いを持っているからだ。私は、この方の未来の幸せを祈っている。もちろんお相手の幸せも願っている。でも、お相手の方は、知ってそんなに長くないし、先ほども書いたように、この方には同世代としての共感やある種の記憶の共有があるもので(それにいろいろと恩のある方でもあるし)、ますます思い入れがあるのだ。
男と女の関係(同性同士でもいいのだけれど)は薪ストーブに火をくべるのに似ている。最初の方に、引火がある。ここで燃え上がらなかったらおしまい。強烈に焔が燃え上がってくれば、温度が上がる。けれどその狂おしい焔の時期はそんなに長くない。焔がおさまり、薪が赤く静かに熾っている安定した状態、それが続くと火が長続きする。
私はその方が、燃え上がる灼熱のカリブの夜だけではなくて、その先に続く冬の暖炉の前の静かな夜のように、愛が赤々と静かに燃え続ける、そういう状態の幸福を手にされる事を心から祈っている。長い冬の寒さに一人で耐え、ひたすら暖かさを求めていたその方の、永い平和な幸せを心から願っている。
ブログのトーンについて
色にたとえると、ほんわりとピンクなものから、漆黒のものまでさまざまだ。そのことはそれでいいのだと思う。訪問者に媚びる必要はないのだし、反対に自分の意志に反してまで全てをさらけ出す必要もないと思うから。ブログの訪問者というのは、とてもシビアだと思う。だから、そのトーンが合わないと思えば自然と来なくなる。寂しかろうと、悲しかろうと、結局は自分の書きたいことを犠牲にしてまで引き止める存在でもないはずだ。
で、本題。私のブログにも当然トーンがある。どちらかというと前向き系だ。これは私の人生と関係がある。私は後ろを向いていられない性格なのだ。諦めも早い。十五年前に鬼籍にはいった父とは対照的だ。粘りがないために私はひとかどの人物にはなれない。日本の、世界のトップになるような野心やそれを可能にする日々の努力などかけらもない。けれど、そのちゃらんぽらんさが私を幸福にしている。そう、私は自分の人生に満足している。もちろん市井レベルのたんなる自己満足だ。
私は確かに恵まれている。かといって何もかも努力をせずに手に入れてきたのではないし、諦めてきたものも多い。連れ合いと熱愛状態のように思われるかもしれないが、家族なんだから当たり前のように喧嘩だってするし、本当に大丈夫かと思うことだってある(そもそも言葉の通じないガイジン同士だし、みんなが驚く変わり者同士なんだから、平穏そのものの訳はない)。仕事でもそうだし、日常生活のなかでもいろいろな浮き沈みがある。
私のブログにその負のカラーが薄いのは、意識して「ラッキー」色を出そうとしているからではない。単純に負のときはそれを冷静に書く自信がなく、時が経って冷静になると負の感情がどこかへ消え去っていってしまっているからだ。まるで鶏である。三歩歩くと忘れるのだ。
ここが私を幸福たらしめている一番の財産なのだと思う。一時的に固執したもの、心に去来したつらく悲しい感情を、あっさりと捨て去ることができる。私は自分の欲しいものがわかっている。そうでないものを完全に捨てることができる。後ろではなくて、現在と未来に向けてだけを見つめながら、他でもない自分とその生み出す作品を愛することができる。このブログに能天氣なトーンが強いとしたら、それはまさに私そのもの、私の利点であり欠点でもある生来の能天氣さが現われているのだと思う。
クリスマスと正月と
ヨーロッパでのクリスマスは「日本でいう正月」でございます。とにかく、この前日までに掃除をすませる。ヨメとしては親戚付き合いに氣を遣う。ティーンエイジャーや、婚約または同棲していない恋人同士の場合は、その日はいちゃいちゃは置いておいて、自分の両親や祖父母も含めた家族で過ごすのが普通。つまりラブラブカップルが一緒にいない確率がかなり高い日なのです。
その分、若い者たちが帰ってこなくても許されるのは大晦日です。この日は仲間内で集まって、ハッピーニューイヤーの瞬間を馬鹿騒ぎして待つのです。もちろん、馬鹿騒ぎせずに、寝ちゃう家庭もあります。我が家なんか、かなりその確率が高いです。
個人的には、あまり夜更かしをして体調を壊したくないんですよね。なんせ二日から出勤なのです。三が日くらいゆっくりさせて欲しいと思うのも、日本人的感覚みたいです。
女子と女性は違うと思う
今回取り上げさせていただくのは、「女子力」について書かれたウゾさんの記事です。
「女子力」「女子会」。日本の流行言葉で、どうしても好きになれないのがこの「女子」という言い方。あ、「弁当男子」「草食男子」の「男子」も同じく。学生ぐらいならいいですが、三十歳や四十歳となった人間が嬉しそうに自称しているのは、 ちょっと。
近年の欧米では、礼儀として女性を大人に扱います。具体的に言うと以前は未婚女性につけていた「ミス」や「マドモワゼル」、「フロイライン」という敬称は、最近では避ける傾向があります。「マドモワゼル」や「フロイライン」は「小さな女性」つまり「女子」と同じですが「一人前でない」という意味合いが含まれています。要するに子供扱いする事は失礼という流れなのです。その分、「ミズ」「マダム」「フラウ(ダーメ)」と呼ばれるからには大人としての自覚と責任も要求されるわけです。18歳くらいから。ちょっとくらい失敗しても若くてかわいいから許されるのは十代のうちくらいでしょう。実際に。
一方、日本では反対に、若作りや子供っぽさを容認する年齢がどんどん上がってきていて、それが目を覆うような事になっていると思うのは私だけでしょうか。先日も「女子会をしたんだ」と言われて、そのメンバーの年齢が一番下で三十代、上は五十歳だったと知り、おもわず「それを女子会というのってどうかしら」と言ったら、「今の日本ではそれは普通なのだ」と言われてしまいました。
オバさんになれとはいいません。欧米の真似をしろと言いたいわけでもありません。しかしねぇ。実年齢とそこまで乖離した存在を装って、何がしたいのかという事を考えるべきだと思うのですよ。男を捕まえたい? それとも一人前でないと卑下する事で、本来の年齢では許されないことを許して欲しい? 四十歳の人間が「私って、実年齢より若く見えるっていうかあ」などと言って十代と同じつもりになっているのは恥ずかしいを超えて痛々しいと思うのです。
「そういう意味ではない、女子というのは単純に女と同じ意味だ」とおっしゃる方もいます。お言葉ですが「女子」と「女性」は同じではありません。「女性だけの食事会」と「女子会」も違います。違うからわざわざ言い換えているわけでしょう。もしそれが同じと言い張るなら「メスのエサ会」だって同じではないですか。
「女子力」という言葉はさらに意味不明です。なんの力? 「女性としての魅力」ではないですよね。実体がなくて、流行だけで動いている言葉。こういう言葉を多用する事には抵抗があります。
そして 最近よく見かける言葉 女子力って何?????
初め見た時は 女子の力???? 筋肉質の スポーツ大好きの女性のことかと 思った…
其の後 どうも 気遣いの出来る 女性らしいとされる事柄が そつなく出来る女性の事らしいと
見当をつけているのだが…
西と東、昔と今
今回取り上げさせていただくのは、山西左紀さんの記事です。
この記事がとてもツボにはまってしまいました。実はつい先日、東ドイツ時代の映像がテレビで流れていて(ドイツのテレビ局はヒトラー時代の話や東ドイツの話をほぼ毎週のように流すので珍しい事ではありません)、その鬱屈した重苦しい空氣をテレビを通して感じていたばかりだったのです。それは終わった事のようなのですが……。
ベルリンの壁はもうないんですけれど、そして、かつてのDDRだった所も、大きく変わっているわけなのですが、それでもどこかにまだ「ベルリンの壁」がある。これが私の印象です。
人々はいまだに「あいつは東だよ」といういい方をします。東ドイツ人と西ドイツ人は確かにどこかが違うのです。たった40年で、民族の氣質が変わるというのは驚くべき事ですが、共産主義時代に培われた人々の考え方、行動基準が十年経った今でも確かに残っているのです。
経済格差は今でもあります。それに、ある種の差別、ある種の懐古主義もあります。恐るべき速さでやってくる変化にまぎれて、時としてそれは見えたり見えなくなったりするのですが、やはりどこかに壁があるのです。ドイツ語を話して、ドイツ人と個人的に知り合って話す、そこまでいかないとなかなか感じられないほどの微妙な壁です。
そこは世界と世界、国と国の勝手な都合で生まれた不幸な都市、「東ベルリンと西ベルリン」です。
東ベルリンについては山西なんかは映画から得た暗い抑圧されたイメージしかないんですけど、そこで人々はどんな生活を送っていたのか実際に見てみたかったです。実際に機能するベルリンの壁も見て体験したかったです。
その当時、自由を謳歌していたように見えた西ベルリン、この孤島のように取り残された都市はどんな雰囲気だったんだろう。
Debris circus - トラックバックテーマ 第1549回「いつか行ってみたい【秘境の地】はどこですか?」 -
リンクのみなさんについて - 4 -
今日も今日とて自宅警備 ぴゃす〜さんのブログ
ご自身の好きな文学・音楽・小説などの紹介のほか、かつての愛犬シロちゃんの思い出、思わずマウスを持つ手が固まるすごい失敗談、人柄のしのばれるほのぼの話などが淡々と更新されていくブログです。つい最近、実は私と同じく青春の多くの時間を合唱して過ごしていた事が発覚! すっかり盛り上がりました。
なんとなく そうへいさんのブログ
きっちりとした視点でなさる本や映画のご紹介も見逃せませんが、なんといっても日本の伝統芸能である能のことを書かれる記事がすごい。何がすごいかと言うと、興味はあっても素人すぎてついていけない私のようなダメなやつにでもわかるように、とってもわかりやすく書いてくださるのです。今さら恥ずかしくて人に訊けないと思っていらっしゃる方はここでお勉強しちゃいましょう。
無限光線―歌うゆえに我はあり― Witmanさんの詩のブログ
もう一つ、写真のブログもお持ちですが、こちらで先に知り合ったので。郊外で無農薬のお野菜を作りながら、心の奥に染み入る詩を作っていらっしゃります。その晴耕雨読の地に足がついた生活にちょっと憧れている私です。
その子に惚れたかも
まあ、こうやって毎日、色々な方のブログを訪問しているとですね。大抵の方はご自身の写真をもちろん載せられていない訳ですが、反対にご自慢のペットは沢山写真が載っている訳ですよ。
私は、もともと犬でも猫でも、いや、熊でも馬でもいいんですが、とにかくほ乳類は好きなのです。だから、どちらのブログに載っている子でも可愛いと思うんですよ。
でも、その中に、特別心惹かれる子がいましてね。他の飼い主さんに失礼なので、どこの何ちゃんかは申しませんが、いやはや、写真でこんなに可愛いなんて。実際に動いたら、飼い主だったら、そりゃとろけちゃうだろうなと思う訳です。そのブログ主さんは、ほぼ毎日いらしてくださる方なのですが、たとえいらっしゃらなくても、自分で観にいっちゃうくらい、氣になる存在なのです。
とはいえ、私自身はペットを飼う事はないでしょうね。動物が好きだからこそ、無責任な事をしたくないのです。私は旅が好きで、しょっちゅう出かけるので、その度に寂しい思いをさせる事も嫌だし、世話をいちいち誰かに頼むのも煩雑です。だから、隣人の飼い犬や飼い猫が、親しげに挨拶してくれるので満足しているつもりです。
輝いていたあの頃
今回取り上げさせていただくのは、尊敬してやまないゆささんの記事です。
今年もNコンこと、NHK全国学校音楽コンクールが無事に終わりましたねぇ♪
中学校の部の中継は毎年リアルタイムで観ております。ゆさは中学の頃に合唱部に所属していたので。
ゆさな日々 - 「友よ、もっと快い、歓喜に満ちた歌を歌おう。」 -
ゆささん、Nコンの出身者なんですって。といっても、ご存じない方は「なんだそりゃ、生コンクリートの略?」とかお思いになるんじゃないかしら。Nコンと私が呼んでいるのは「NHK全国学校音楽コンクール」の事でございます。つまり合唱コンクールです。実は、私は中学と高校で合唱部に所属していたのです。不器用で楽器の演奏が出来ない私が唯一奏でられたのは、自分の声帯だけでございました。かつてはソプラノだったんですけれどね〜、今は高音部があまりでなくなってきちゃいましたね。ま、毎年、クリスマスのミサで声を張り上げるのが唯一の名残でございます。
高校一年の時に、我が高校の音楽部は歴代二番目の快挙を成し遂げました。(昭和○○年には優勝もしているのです)全国大会進出です。結果は四位でしたが、でも、テレビに映って、実は私は一年生なのにアップにもなってしまったのです。最初で最後のNHK出演。くすくす。
音楽部はかなり根性のいる部活でした。朝練、昼練(故に三時間目が終わると早弁)、放課後練と続き、もちろん夏休みも通い詰め。厳しい合宿もありましたね。歌っているだけでなくて腹筋体操など、今思えばけっこうスポ根も入っていました。まあ、部活にありがちないろいろもありましたが、とてもいい思い出です。
ゆささんが、この話題を取り上げていらっしゃって、狂喜乱舞ですよ。ゆささんは、歴史、古典、旅行と取り上げてくださる記事は、私のツボにはまるものばかり。その造詣ときたらもう深くて深くて、いつも楽しみに訪問しているのですが、こんなところに共通点が! 親しみがぐっと増してしまいます。
ありがとう、しげちゃんさん
ご存知の方も多いでしょうが、しげちゃんさんは、難病に苦しみながらも心を打つヒューマン映画の紹介記事をずっと更新し続けていらっしゃいました。映画を解説したブログやサイトはたくさんあります。でも、しげちゃんさんの文章は、ただのあらすじの紹介でもなければ、技術や背景といった知識の開示でもありませんでした。人間とは何か、人は人をどう愛する事ができるのか、人は何に苦しみ、何をもって慰めを得るのか、よく生きるとはどういうことか、切々と訴えかけてきました。
彼の文章は、その人柄そのものでした。
なぜその視線がそれほど暖かいのか、私は不思議に思ってきました。その秘密が、ここ一、二ヶ月のご自身の事を語られた記事で明らかになったように思います。しげちゃんさんは、ご自身の健康問題、大切な友人との別れ、暖かい本当の友人の励ましなどをたくさん経験なさっている方です。その人生経験が、地獄にも思えるつらい時間が、支えあった友情が、あの暖かく優しい文となって、たくさんの読者の心を打ったのだと思います。
しげちゃんさんは、ブログをお辞めになるそうです。かつて療養のために、一度中止なさるとおっしゃった時に、私は「残してほしい」とお願いしました。他の多くの人の期待に応えて、無理して戻ってきてくださったのを、とても嬉しく思っていました。でも、今回は、懇願するのは控えました。健康で問題のない私が、片手間にブログ更新するのと一緒にしてはいけません。今までどれほどの大変な思いで続けてこられたのか考えれば、これ以上のわがままは言えません。
だから、今は、ただひとこと、「ありがとう」と。
これからのしげちゃんさんの幸福とご快癒を心よりお祈りいたしております。もし、ネットサーフィンをする心身の余裕とお時間がありましたら、時おりいらしていただけると嬉しいです。
月刊・ステルラ、参加宣言
自作の小説およびイラスト・マンガをアップする会なのです。特にお題はないという事なので、スカイさんのために作った「夜のサーカスと紅い薔薇」の世界の作品を書こうかなあと思っています。
夜のサーカスってカテゴリを作んなきゃな〜。楽しくなってきました。「リナ姉ちゃん」の続きも書きたいし、「大道芸人たち」の番外編もあるし(うふふ。初コラボ作品です。お楽しみに)、この秋はやる事が目白押しですね。
リンクのみなさんについて - 3 -

そんな事はさておき。
リンクしていただいているブログのお友達の紹介の第三弾です。
多分この順番でリンクをさせていただいたと記憶していますが、順番が前後してしまったらごめんなさいね。
また 吐いちゃった HIZAKIさんの詩のブログ
GID(性同一性障害)の少年涼くんと優しいお姉ちゃん、そして猫のふうちゃんが登場する、切なくも美しい詩の世界。主に三人の絵師様による優しい絵も魅力です。作品も素敵なのですが、書いていらっしゃるHIZAKIさんのお人柄がまたとてもよくって。時々ご紹介なさるお酒のおつまみを見るところ、正に私の好みの感じで、一緒に飲むのもさぞ楽しいんだろうなと。
"minimum"な日々 BMCたかさんの日常を書くブログ
薔薇に関するお仕事をしていられるようです。時おりお仕事関係で出てくるお花の写真がとても素敵です。日常的な思う事もアップされているのですが、とてもソフトで心地よい文章を書かれる方です。ダーツもやっていらっしゃるよう。ダーツってどこで習うものなんだろう?
エデンの東微北 十二月一日晩冬さんの小説ブログ
晩冬さんは、ご自身を主人公になさったミステリーを連載なさっています。また、ちょっと落語風味の怪談や、ハードボイルドな事件ものもあって、守備範囲の広さに驚きます。スポーツライターを目指している学生さん。さらに三国志の事への造詣も深い。なんてマルチな方なんでしょうね。どういうわけか、当ブログを一番上にリンクしてくださっている超奇特なブログのお友達です。
Debris circus 山西 左紀さんの小説ブログ
「第三回目となった短編小説書いてみよう会」で同じ組になったのがご縁で、と~っても仲良くしてくださっている左紀さんとは、なんと誕生日が一日違いだと判明しました。この方の書かれる小説は、一文字一文字が星空のように輝くのですが、たぶん緻密な計算と想像を絶する努力の上にこの華麗な天の川を作り出しているんだろうなといつも感心しています。出てくるものを書き留めているだけの私とは多分対照的な書き方をしていると思われる人です。
踏んじゃった!
ぴったり。
↓証拠写真

ひゃっほう! まさか旅行中にiPhoneからのアクセスで踏むなんて‼
左紀さんの小説、大好きなのです。中でも、バイクの出てくる「254」はとっても氣になってまた書いてほしいと熱望していたのですが、書いていただけることになりました。
実は、雨でホテルから一歩も出られなくって、wifiのあるホテルなのをいいことにブログ訪問とかしていたのですよ。
何というラッキー\(^o^)/
来週から仕事だけど、これでしばらくは幸せでいられます。
左紀さん、3000Hitおめでとうございます‼
夏休みのあった頃
一年間に休みは四週間。お盆や年末年始の一斉休暇などというものはないので、有休を三つに分けて、夏に二週間、クリスマスに一週間、春先に一週間という具合にとっています。そして、仕事が追ってこないように、海外に逃げます(笑)
学生の頃は、思えばとても長いお休みがありました。まあ、ありがたみがわかっていなかったので、だらだらと過ごしましたよ。大学三年生の時には、55日間かけてエジプトからロンドンまでいく、ユーレイルパスを使ったヨーロッパ貧乏周遊旅行もしました。お金はなかったけれど、時間はたっぷりあって楽しかったですね。「大道芸人たち」の旅のイメージは、あの旅行から来ているのかもしれません。
挿絵の話
ご覧のように、私のブログの小説には挿絵がありません。文字だけです。これは私が「私の小説は文字だけで堪能すべき完成品なのよ」と思っているわけではなく、単に私に世間に公開するだけの絵心が欠けているだけなのです。そりゃ、あったらいいですよ、挿絵!
ブログお友達の花舞小枝の春 さんの小説「アルファベットの旅人」は、もちろん小説自体が切なくて面白くて大好きなのですが、それに加えて、もう雰囲気から色調からすべて好みの本当に素敵なイラストがついていて、それを見て「いいな〜、いいなあ〜」と指をくわえておりました。
で、時々、ブログ自体に「絵師様募集」というような記述を見かける事もありますし、小説書いている人とイラストレーターを結びつけるコミュニティがあるのも知っています。知っているけれど、またしても後ろ向きですみませんが、躊躇しているんですよね。
なんていうんでしょうか、無理矢理時間をとってもらうのって氣が引ける。お金を払ってなら、氣は引けませんが、そこまでして描いてもらうという事も、今は考えていません。だったらなおさら、無理矢理描かせる事になってしまうかな、と。
私は小説を書く頻度が多いし、書くものも、世界がバラバラだし、いちいち長いし、こんなのにノーギャラでつき合ってくださる奇特な方はまずいないだろうなと。
それに、もっと勝手な言い草ですが自分の文章の描写力が足りないのに「いや、この人物は、そういう外見じゃなくて……」みたいに注文を付けたくなったりしたら、それも言えなくて、それこそ悶々と悩みそうだなと思いまして。
自分で絵が描ければ、悩みはないんですけれどね〜。
リンクのみなさんについて - 2 -
多分この順番でリンクをさせていただいたと記憶していますが、なんせ歳なので……。順番が前後してしまったらごめんなさいね。まだまだご紹介は続きます。
Duty リンスさんの小説ブログ
現役高校生で生徒会長をしているリンスさんは、高校生が美形のアンドロイドと暮らすSF小説「Duty」を書いています。ご自分が実際に交通事故でお姉さんを亡くされた経験をもとに書かれた肉親を亡くした喪失感に対する文章は心を打ちます。イラストもご自分で描かれています。彼女のオリキャラへの濃い愛は同じく書く者として共感たっぷりなのです。
玩具箱を引っくり返したッ!! 自分 自身さんのゲームと日常+「何か」のブログ
「短編小説書いてみよう会の主宰者さんです。小説「明日の故郷」が出来たのは、「第三回目となった短編小説書いてみよう会」に参加したからです。おかげでたくさんのブログともだちも出来ました。しばらく更新が止まっていらっしゃいますが、再びの登場をお待ちしています。
私の映画鑑賞 しげちゃんさんの映画鑑賞ブログ
難病と闘いながらも、ヒューマン映画の紹介記事を書いていらっしゃる大人氣のブログ。紹介なさっている映画の選択もいいのですが、解説なさり、ご自分の意見を書かれるしげちゃんさんの文章がなんとも素晴らしい。お人柄を尊敬してやまない私です。しばらくお休みになっていらっしゃいましたが、嬉しい事に復帰なさいました。リンクもしていただいてとても嬉しく思っています。
百鬼夜行に遅刻しました ウゾさんの小説や写真と日常のブログ
なんどもコラボしていただいているウゾさん。美しい独特の光を放つ写真、その奥深い文章と視点から勝手にずっと壮年だと思っていたのですが、少年でございました。いや〜、人間は年齢じゃありませんね。本当に。同年代から歳上に対するような敬意を持っておつき合いさせていただいてます。生まれてはじめて作品をいただいたのもこの方です。(無理矢理奪い取ったという説もあり)よく登場する三匹の猫、それにとってもいい味出しているご家族の記事も魅力です。
うちのオリキャラ
っていうか、もしかして、人の企画をパクっているだけかもと思いつつ、めげずに本日もいただいてきました! 今回は、シュナイダーさんのやっていたオリキャラ紹介。
シュナイダーさんはヒロインでまとめていらっしゃったのですが、私の小説のヒロイン、ちと面白みが……。というわけで、勝手にバリエーション! ヒーローにもしないで、「楽しんで書いたサブキャラ」でまとめさせていただきます。あらかじめ申し上げておきますが、全員いまのところ未発表です。近いうちに出てくるのもいれば、半年ほどお待たせするのもいます。公開するか迷っている作品も混じってます。
では、いきますよ。
・エステバン・ペドロ・モントーヤ
→ペルー人とアメリカ人のハーフ
明るい元氣な若者で、感じのいい女の子とみると口説くお調子者。
近いうちに発表予定の「夜想曲(ノクターン)」に出てくるサブキャラだが
何となく氣にいったので、その内に主人公として別の作品に出そうかなと考え中。
・ヤスミン・レーマン
→劇団の広報も勤めるメイクアップ・アーティスト。フットワークの良さ抜群で明るく積極的。
「大道芸人たち」のチャプター5に登場するサブキャラ。チャプター5のキーパーソンの一人。
イメージはケイティ・メルア。
・ディミトリオス
→グランドロン王国一番の賢者。いい歳だが主人公たちがめちゃくちゃやってくれるので苦労が絶えず。
ただいま執筆中の小説「Cantum silvae - 貴婦人の十字架(仮題)」のサブキャラ。
・結城拓人
→天才少年ピアニストとして有名だったが、今は女たらしピアニストとして有名。
「樋水龍神縁起 DUM SPIRO, SPERO」では、ヒロインに恋をする。
「大道芸人たち」にも出演するけれど、こっちの役割の方が「いい人」
・シャンタル
→プロヴァンス地方に住むアンモナイト狂のマダム
臆病になり逃げている地質学者のヒロインにフランス式の人生の機微と愛について指南する。
まだ構想段階の「Leçon de géologie」という作品のサブキャラ。実在のモデルあり。
・広瀬(のちに高橋)摩利子
→高飛車で綺麗な女。「カマキリ女」と異名を取るほど確実に男を落とす。が、純粋で人のいい高橋一に落とされてしまう。
誰かが強い感情を持つと、それを「ヴィジョン」として見ることのできる特殊能力を持つ。
予想外に、ド田舎の奥出雲の樋水村に嫁いできて、主人公たちの数奇な運命を目撃する事になる。
「樋水龍神縁起」(本編)のメインサブキャラだが、「大道芸人たち」にもちょっとだけ登場。
いかがだったでしょうか。書いている本人は楽しかったな。オリジナル小説を書かれていらっしゃる方は、(いらっしゃらない方もバリエーションでご自由に)参加なさってみませんか?
色んな小説書いてきた俺ですが、色んなオリキャラが生まれてきました。
そんな中でヒロインを色々と紹介してみよー(誰得
・マリア
→吸血鬼ハンターです。
武器は日本刀とリボルバー銃という和洋折衷って感じの子。
小説は黒歴史なんで言えないんすけど、前半はほとんど喋らないヒロイン兼主人公。
・エルナ
→あたためてあるバトルファンタジーのヒロイン。
序盤から死亡してまうんやけど、その代わりに主人公の守護霊として魔剣になります。
健気な子です(` ・ω・´)
・エレクトラ
→Identity Crisisの主人公兼ヒロイン。主人公格のキャラの中では最年少の14歳。
二丁のマチェットと拳銃を使う警察組織の女の子。
義理の父想いな純粋な子です(´∀`)
・リエナ
→某バトルファンタジーのヒロイン。一国のお姫様です。
母親を早くに亡くし、国王だった父が死んだために後継者となるものの、
魔物の出現に直面してしまったり。
そんな中で出会った召使いのアッシュ(実はある人物)のおかげで
色々と何か変わってきます。
・シャルロット
→俺が初めて創作した女の子。年齢は高校生ぐらい。
とあるバトルファンタジーに出てくる子やけど、初登場シーンは
十字架に括り付けられ、血まみれ状態というw
実は生まれ持ったある能力を人々に忌み嫌われていたからという理由。
それに加え、言葉も片言しか喋れないし、市井にメチャクチャ疎いという設定。
でも、主人公に心を開くという典型的なヒロイン。
いやぁ、もう俺の嗜好出まくりんぐw
だって、ヒロインにするからにはカワイイ子にしたいやん?
何かと負の要素を持ち合わせてるのが共通な点かな?
皆さんならどういうヒロインを描きますかな?
オリキャラー 一浪人生のしゃかりき日記
いつか……
結婚記念日の記事にたくさんのコメントをいただいた事を、とても嬉しく思っていました。それだけでも十分に嬉しかったのですが、ウゾさんのところでこんな素敵なお祝いの掌編をいただいてしまいました。嬉しい、嬉しい、生まれてはじめての献辞つきです!
何時か 一緒に 言葉になろう。
scribo ergo sum の 主催者 八少女 夕 さん へ 捧ぐ
わたし達って 七夕の様だねと 笑いあった事がある。
確固たる 自身を持ち 曲げることが出来ない 遠く離れ 偶に 折を見つけては会う。
自身も そして 自身の仕事も大切 其の上で 貴方に会いたいと思う。
其れは 貴方も 同じだろう 我侭なのだろうか。
御互いに 遠く離れている為に 会う場所は 何時も中間地点の小都市。
何かあるわけではない 寧ろ 何も無い 小都市。
何かを 求める頃は 過ぎ去り 蒼い柔らかな頬は 既に失くした。
唯 小さな 静かな時に 身を委ねる。
駅前の 何の変哲も無い喫茶店で 唯 お茶を嗜む。
観光や 買い物 その様なモノを求める様な 幼い 感覚は 遠く過ぎ去った。
唯 沈黙が 緩やかに流れ…
… 元気にしていたか。
… ええ 少し 風邪をひいてしまった。
… そうか。
沈黙に 身を委ねる 心地よさ。
… 人の死は 終わりではない 人は 最後は言葉になる。
其の人の表面的な 顔立ちや 声音は やがて 掠れ ぼやけ…
やがて 思い出せなくなるだろう。
でも その人は 優しかった 厳しかったと 言葉になり 思いとなる。
緩やかに 穏やかに 何時か 何時か 言葉になるまで 共に時を刻まないか。
そして わたしは 其の手を握り締める けっして 離さないと。
何時か 一緒に 言葉になろう。 - 百鬼夜行に遅刻しました
私はかつて鳥になりたかったのです。オペラシティの14階、新宿のビル街を見通すガラス張りの休憩室で、遠くに住むその人のことを想っていました。自由に飛んでいく鳥を眺めながら、もし、仕事や国境やその他の自分を縛り付ける因習を振り払えるなら、力の限りに西を目指すのにと思っていました。
ようやく休みをとって、七日でスイスとの往復をして翌日から出勤して働いたので、体が悲鳴を上げて高熱を出しました。もうだめなのかな、と諦めかけました。距離と社会的な壁と銀行預金とに負けるのかと思いました。
さよならを決意したその時に軽やかに飛んできたその人が、あっさりと引き取ってくれて私は今ここにいます。
鳥になりたかった私をあのビルの中に残したまま、バイクの後ろで感じた風をアフリカに置き去ったまま、たくさんの想いをこの谷にこぼしながら。
彼はこんな風に言葉にします。
「お前は最初の女じゃないけど、多分これで打ち止めだから」
いつかは言葉だけになる日が来るでしょう。私か、彼か、そしてその両方がどこにもいなくなって。でも、ウゾさんがくださった美しい掌編が予言だった事がわかるその時まで、私の想いはずっと空を舞っているのです。
リンクのみなさんについて - 1 -
さて、いままでリンクをお願いしながらも、全く紹介などをしてこなかったのですが、これから何回かに分けてリンク先様のご紹介などをしていきたいと思います。私のところにはブロとも専用記事などは今のところありませんし、個人的にはブロともさんとリンクさんは同じだと思っています。そういうわけで、順番については基本的にメッセージを交わすようになった時期が早い方からになっています。多少の前後はあるかもしれません。失礼があったらお許しくださいね。
我と我が身と彼のものと。 仙石童半さんのオンライン小説ブログ
かなりお世話になっている最古参のブログのお友達です。勝手に質問しては小説のお勉強もさせてもらっているし、ダイエット指南の小説では現実的にお世話になっちゃっています。アニメの感想もありますよ。プロのシナリオライターを目指していらして、九月末まではそれに集中なさるとのこと。ご健闘をお祈りしています!
Poem Spice-久遠の詩- Mamuさんの詩のブログ
ここでも何度か取り上げていますが、魂に響く素晴らしい詩を書かれるMamuさん。詩もいいですが、Mamuさんが17歳の時に「現代の社会問題と心」をテーマに書かれた論文『17歳の提言「心を耕す」』も素晴らしい。
練習小説掲載ブログ 海野ゆーひさんの小説ブログ
『マーセナリーガール』 というファンタジー小説を連載していて、現在110話を超えています。継続は力なり。週末更新。
夜桜書物庫 浅葱まさよしさんの小説サイト
こちらは和風の作品が主ですが、古代ローマを思わせる「アルメニア」もけっこう好きです。最近更新が止まっていらっしゃるようですが、連載の再開を待ちたい所です。
過去~現在のキャラたちにステータスつけました
今回取り上げさせていただくのは、花舞小枝の春さんのブログで紹介されていた、オリジナルキャラにステータスつける、お遊び。TOM-Fさんを含め春さんのブロともの皆さんが次々となさっていて、とても楽しそうだったんですよね。で、うちの子もやってみたくなっちゃいました。うずうず。
以前、ツイッターの診断で
RPG風にステータスつける~みたいのがありまして。
ふと思い出して、
歴代のウチの子たちにそれっぽいのつけてみました・v・
黒歴史もつけてみたけど、
コ レ が 一 番 楽 し か っ た ・v・♪
過去~現在のキャラたちにステータスつけてみったー 旅の空でいつか
どの作品のキャラでやろうか考えたけれど、まあ、無難に「大道芸人たち」の主役四人と、「夢から醒めるための子守唄」の四人にしてみました。
そういうわけで、はじめます。(ステータスは10点満点)
「大道芸人たち」
●蝶子
攻撃力 ; 9
打たれ強さ ; 9
運 ; 5
大胆さ ; 8
優しさ ; 3
器用さ ; 6
※黒歴史 ;
共同シャワーを使い始めてから、バスタオルを忘れたことに氣づき、通りかかった稔に持ってきてもらった。
※黒歴史を暴かれた時の反応 ;
稔にからかわれたのに腹を立て、シャワーの中から本人に借りた洗面器を投げつけた。
●稔
攻撃力 ; 5
打たれ強さ ; 9
運 ; 4
大胆さ ; 5
優しさ ; 7
器用さ ; 7
※黒歴史 ;
(イタリア時代)割り勘の釣り銭で得をしようと、まとめ役を引き受けたはいいものの、計算違いで自分が一番多く払うことになった。
※黒歴史を暴かれた時の反応 ;
せこくも三人に追加請求した。
●レネ
攻撃力 ; 1
打たれ強さ ; 2
運 ; 2
大胆さ ; 1
優しさ ; 9
器用さ ; 3
※黒歴史 ;
両思い継続半年以上の成績が67敗0勝。記録更新中。
※黒歴史を暴かれた時の反応 ;
「そういう家系なんです」が口癖。
●ヴィル
攻撃力 ; 9
打たれ強さ ; 9
運 ; 8
大胆さ ; 3
優しさ ; 7
器用さ ; 1
※黒歴史 ;
朝食付きホテルでお昼ご飯用にサンドイッチを作成した。
※黒歴史を暴かれた時の反応 ;
ナチス特別親衛隊風の冷たい一瞥で対抗
「夢から醒めるための子守唄(ララバイ)」
●レーナ
攻撃力 ; 6
打たれ強さ ; 8
運 ; 5
大胆さ ;4
優しさ ; 6
器用さ ; 3
※黒歴史 ;
ネットの出会いサイトやらショッピングでスイスで稼いだお金の六割くらいを失った。
※黒歴史を暴かれた時の反応 ;
「幸せを求めているだけよ」と力説するが、皆に呆れられて相手にされない。
●ホルヘ
攻撃力 ; 7
打たれ強さ ; 9
運 ; 3
大胆さ ; 3
優しさ ; 7
器用さ ; 1
※黒歴史 ;
彫りがいのある素晴らしい古木をみつけて夢中になって椅子を作ったが、実はオーナーの高価な芸術作品だった。
※黒歴史を暴かれた時の反応 ;
黙って三ヶ月ほど水とパンで暮らした。
●トミー
攻撃力 ; 8
打たれ強さ ; 9
運 ; 7
大胆さ ; 7
優しさ ; 6
器用さ ; 4
※黒歴史 ;
中学生の頃、自分がホモセクシャルであることを知らずに女とつき合ってしまった
※黒歴史を暴かれた時の反応 ;
逆上。一週間、暴露した人間を冷遇。
●ステッフィ
攻撃力 ; 1
打たれ強さ ; ?(不明)
運 ; 6
大胆さ ; 1
優しさ ; 8
器用さ ; 1
※黒歴史 ;
プリンスは整形したマイケル・ジャクソンだと信じていた。
※黒歴史を暴かれた時の反応 ;
本物の写真を見せてもらい、びっくりして人前ではじめてサングラスを外した。
意外とスラスラ出てくるもんだなあ。確かに、楽しい。
まだの皆様、ぜひやってみて下さいませ。
※追記あります! (日本時間29日丑三つ時に追加)
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
read more
嘘つきなもうひとりの……
三ヶ月前に始めたばかりのブログ上で知り合った人だけれど、無謀にも勝手に「心の友」を宣言してしまった魂の詩人Mamuさん。彼女のブログは、ある意味で私と対極にあります。私は小説を一本上げる度に「これはこう言いたかったんだけれど」だの、自分の描写力を棚に上げて写真で補足してみたり、まあ、かなり言い訳めいているのです。彼女のそれは清々しいほどに、言い訳めいたものが一切ないのです。詩の解説もありません。そこにあるのは純粋に作品と、それに対峙する読者だけです。
で、この詩。ドキッとしました。
その場しのぎの
便利な言葉だけで
毎日を過ごさないで
嘘つきな もうひとりの自分に
惑わされないで
うわべ - Poem Spice-久遠の詩-
ドキッとしたのは、Mamuさんが私を責めているからではありません。断じて。彼女の詩によく出てくるように、全ては私の心の中にあるのです。同じ詩を読みながら、「ああ、Mamuさんが誰かに話しかけているのね」ととる方もいるでしょうし、「何でそんなこと言われなきゃいけないの」とショックを受ける人もあるでしょう。でも、それも全て読む方の心の中にあるのです。
つい先日ね。とある方のブログで「ブログでは一般に人はいい人格を作っている、いい人ぶっている」という記事をちょっと見かけました。まあ、そういう人もいることでしょう。私の記事なんか、そう見えるかもなあとその時思ったんですけれどね。でも、本質的には、「実際の自分よりも素敵なワタシ」を演じようと思ったことはありません。そりゃ、私の中にだって醜い部分はありますよ。でも、ブログであろうと私信であろうと、私はマイナスの言葉を出来る限り書いたりしないようにしているのです。
これは私のこだわりと言うか、半ば信仰に近いもので、自分を「もの書き」と定義して以来、書く言葉は言霊として扱わなくてはならないと思っているのです。そういう言い方が嫌いな人は「心理学」と言っちゃってもいいです。マイナスの言葉を書くことで、書く時に、それから読み直す時に、更にオンラインで公開する時に、いちいちマイナスの擦り込みをすることになってしまう、そんなことをすべきではないと信じているわけです。
Mamuさんの詩は、二つのことを私に想起させました。
一つは、「安易な言葉遣いの危険性」。私の書く言葉は自分ではプラスの言霊のつもりでいるけれど、本当にそうなのかってこと。単に心地いいだけじゃないのって。いたずらに長くなるので、この話はこれ以上掘り下げません。
そして、もう一つは「わかっている真実から目をそらすための都合のいい言葉」。これは幸い私は使わずに済んでいるけれど、とある友人の現在の状態が頭に浮かびました。私が先日ブルーになっていた短編小説のモデルになった人です。
明らかに幸福とは反対への道を歩んでいるその人に、私は嫌われるのも覚悟でダイレクトに助言しました。柔らかくオブラートに包んでも言ってみました。自分は幸福だからこれでいいんだと言っているのに、精神不安定で自暴自棄な行動に走っているとしか思えない危うさもあるその人に、友人として出来ることはもうありません。その人の中には明らかに「嘘つきなもうひとりの自分」がいて、「これが幸せなんだから他の意見は聞いちゃダメ」とありとあらゆる問題を見ないようにさせている……。
私は、その人のことを高みの見物をしているつもりはありません。その人を救うのが使命だとか、そういう宗教的な思想を持っているわけでもありません。ただ、後悔したくないから、言っても無駄だと半分思いつつ、しつこくメッセージを送り続けているのだと思います。きいてくれないけど。小説はとても残酷なことを書きました。たぶん読まないと思うけれど、読んだらショックで私を嫌いになるかもしれないけれど、それでも小説の中から何かを読み取ってくれたらいいと思っています。書き終わったばかりで、公開には早いと思うけれど、もしかしたら今月中にアップするかもしれません。
と、一つの詩から、徒然とこんな事までを考えていたわけです。詩は五行。私が書いたのは……。恐るべし 、Mamuさん(^_^;)
米を洗わない国に住み……
リアルの友だちのアメブロでの記事に反応してみました。このヒト「みんなに見てもらいたいのに〜」と騒いでいますので、興味があったら、覗いてみて下さい。なかなか面白い記事を書いていますよ。ただし、このブログは、突然音が鳴りますんで、仕事中の方など、氣をつけて下さい。
エコをテーマ(のひとつ)にしたブログで、今回は米研ぎのエコ問題。
無洗米ねえ。
米を研ぐ手間が要らないとか、水道代が減るとか、米の研ぎ汁を排水溝で流さない分環境に優しいとか、いろいろな利点があると言われているけれど、少なくとも今の私は買ってない。無洗米を製造する過程で何らかの電力が使われている以上、研ぎ汁の排水が環境に与える負荷といい勝負なんじゃないかという気がするから。
というか、より正確には私の場合、「無洗米じゃないお米でも、どのみちロクに研がないからいいの」というのが本音の本音だったりする。一、二回、簡単に水洗いする程度でおしまい。
米を買う - First Chance to See... -
いやはや。「おいしい和食は米が研げてこそ!」と、真冬でも手を真っ赤にして冷水で研いでいらっしゃる皆様、すみません。私も、上記と同じスタンスで生きております。
そうなったのは、こんなことがあってからでした。
はじめてスイスに来て、人の台所で米を用意することになり、私が米に水を入れてジャリシャリやっている時に、その場にいた全員(もちろんスイス人)が言いました。
「なにやってんの?」
「何って……。米研いでんですけど」
そのあとのチンプンカンプンな会話の後に、私はようやく理解しました。この人たち、米を研がないんだ! 省略してるんじゃなくって、そもそも「米を研ぐ」という概念も、動詞もないんだ。
研がなくても、あまり味変わらないし、もともと苦手な米研ぎが簡易化されるなら、こりゃいいや、ということで、それ以来私は以下のスタンスになりました。
(1)西洋料理(リゾットなど)は一切研がない
(2)和食用のご飯は申しわけ程度に研ぐ。しかもぬるま湯で。10回グルグルするのを、三回くらい水を換えるだけ
で、それでもいちおう良心の呵責はあったんです。でも、上記の記事を読んだら、「な〜んだ。私のやっていることはエコ活動なのね」と。
どうして、こういうことだけ都合良くエコとか言うかな。自分で自分にツッコんでおります。
女が羽化してしまうワケ
よくお邪魔しているウゾさんのところに素敵な作品がありました。
断片 その一
幼馴染の少年達は うぉーーー と雄叫びを上げて 何処かへ走り去った。
では 少女の アタシは 何処へ向かえば いいのだろうか。
アタシは 何時も取り残された 少年達に
あの馬鹿で 単純で 底抜けに明るい笑顔を見せた
あの背中は 何処か遠くへ 少女のアタシを 置いてけぼりにして。
そして 取り残された少女達は 何時しか 甘い香を放ち
フワフワとした会話 フワフワとした身体で
少女達だけに通じる 少女達だけの言葉で話す。
やがて 少女は 羽化する 其の羽で飛び立つ為に
少女は 年と共に自由になる 年と共に夢を語るのか
暑いです 本気で暑いです そして 金星通過 - 百鬼夜行に遅刻しました
ここに引用させていただいた作品の後に、コメントでこう書かれているんです。
高校とか大学生ぐらいの女性の方は悩みが多く
其れが ある程度の年齢になると 明るく…
別に悩みが無くなった訳ではなく 悩みとの付き合い方が上手くなるのか
悩みを隠すのが上手くなるのか…
これって、いい所をついているなあと思います。
そう、「いい歳した」女は悩みを表に出さなくなります。とくに結婚した後には、その状況が如実になりますね。人間だから悩みがなくなるわけじゃないんですが。
理由の一つには、継続に悩んでいられない状況もあると思います。考えてみて下さい。ドロドロに悩んでいる途中で、「あ、旦那が帰ってくる。早くご飯炊かなきゃ」これだけで耽美な悩みも全て吹き飛びます。
「私の人生って……」とため息をついた横で、赤ん坊が泣き出し、あわててお尻に付いたウ○チを拭き取る光景。人生の儚さは、糞尿の持つ破壊力には到底勝てないのです。
男性や独身女性に日常生活がないというわけではありません。でも、自分のためだけの家事なら、ため息とともに押しのけることが出来ます。それが出来ない「他人のための」炊事洗濯をする女は、「悩みはとりあえず脇に置いておいて」がその内に常時化してしまうのではないでしょうか。その図太さは「オバさん化」ともとれますが、私はどちらかというと前向きにとらえています。「泣き崩れている暇があったら、閉店間際の食品売場で美味しい安売りの和牛でもゲットしよう」っていうのも、一種のしなやかな強さですよね?
思えば、私の母親やその他のお母さんたちは、自分の苦しみをどうにか封印して、毎日おいしいご飯を炊いてくれた。もちろん、黙って仕事に行ってくれていたお父さんたちもですけど。大人になるっていうのは、そういう辛さを飲み込めるようになることなのかもなあと思います。(だから、実を言うと、私は最近日本で流行っている「美魔女」だの「女子力」だのが嫌いなんです。外見上の若さや、かわいらしさに留まろうとするあまり、そういう真の美しい大人になれない女性を大量生産しているような氣がして。ま、これは話が飛び過ぎですね)
私はどうかな。年齢的にはもう「オバさん」ですが、真の大人にはまだほど遠いですね。子供がいないので、どこかにまだ自分の想いに完全に没頭する瞬間を残しても許されています。でも、ある程度「大人の女」をめざして振る舞っているから、その「想い」の部分は自分の奥深くにひっそりとしまって置きたくなるんですよね。そう。お酒飲んで、人前で泣くなんてことは、もう出来なくなっています。ブログでもね〜。もっと人生が大変な方のブログ読んでると、こんなに恵まれた環境にいるし、文句言えなくなりますよね。