【小説】夜のサーカス あらすじと登場人物
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夜のサーカス Circus notte
【あらすじ】
イタリア。六歳の時、サーカスで皆に笑われるピエロから紅い薔薇をもらったステラ。彼は、前日におとぎ話と同じように白い花をくれた少年ヨナタンだった。運命を信じるステラは、ヨナタンを追って十年後にブランコ乗りとして「チルクス・ノッテ」に入団する。謎の多いヨナタンや個性豊かな仲間とともにステラのサーカス人生が始まる。
【登場人物】(年齢は第二話「夜のサーカスと金の星」時点のもの)
◆ヨナタン(26歳)
道化師。ジャグラー。パスポートがなく、過去が謎に包まれている。
◆ステラ(16歳)
ブランコ乗り。ピアチェンツァの近くの山村で育った少女。
◆ブルーノ(28歳)
褐色の肌を持つ逆立ち男。アフリカ出身。
◆マッダレーナ(24歳)
孔雀色の瞳とストロベリー・ブロンドの美しいライオン使い。
◆マッテオ(20歳)
大車輪芸、ブランコ乗り。ステラを子供の頃から知っている。
◆ルイージ(46歳)
バランス綱渡り男。
◆マルコ&エミーリオ(23歳)
馬の世話と団長夫妻の下僕をつとめる双子。
◆ダリオ(38歳)
チルクス・ノッテの専属料理人。
◆アントネッラ(38歳) Antonella Annamaria Haas
コモ湖のヴィラに住む女性。
◆バッシ氏(イル・ロスポ)(50歳)
大型トラック運転手。ひきがえるに酷似しているので《イル・ロスポ》と呼ばれている。
◆シュタインマイヤー氏(52歳)
もと警察幹部で、現在は政治家。
◆ヴァロローゾ(4歳)
「チルクス・ノッテ」の所有する雄ライオン。マッダレーナと相性がいい。
◆団長ロマーノ(58歳)&ジュリア(45歳)
「チルクス・ノッテ」を率いる二人。団長は馬の曲芸師で、ジュリアはもとスター・ブランコ乗り。
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「Alegria」の歌詞を訳してみた
【小説】夜のサーカスと紅い薔薇
あ、それと、キリ番小説、サーカスのピエロが主人公のものとかできますか?
なんか笑顔の裏的な
あ、でも国を追い出された旅人とかも良いなぁ……。
で、書いてみました。が、例によって全然読み切りになっていません(^_^;)
そのうちに秘密の部分を掘り下げますのでお許しを。

夜のサーカスと紅い薔薇
薄暗い灰色の洞窟のごときバルにはたくさんの客はいなかった。奥の席に少年が一人、水色のシャツに色褪せたジーンズ姿、冬の終わりの柏の葉の色をした髪で暗い茶色の瞳、目立つ所の何もない、壁に溶け込んだような様相で座っていた。
レジに近いテーブルには、村の常連達がいつものように集い、ビールを傾けて噂を交換していた。
「オオザの山火事の原因はわかったのか?」
「ああ、誰だったと思う?」
「ジプシーの小僧か?」
「くっく……、とんでもない、オオザの村長だったのさ」
「嘘だろう?」
「本当だって、消防団のルカが教えてくれたんだ。煙草の不始末だとさ。大変な罰金になるだろうな」
「あらら」
「パン屋のジャンがそのルカに女房を寝取られた話はどうなったんだっけ」
「あれはジャンが間抜けだったんだ。チルクス ・ノッテにうつつを抜かして何晩も留守にしていたんだから」
「あはは。で、ノッテにはお前も行ってきたのか?」
「ああ、久しぶりにこの町に来たサーカスだからな」
「どうだった?」
「花形は同じだったよ」
「ブランコ乗りのジュリアか」
「ああ、相変わらずきれいだったな」
「お相手のトマは落っこちて死んだって噂だが」
「ああ、一人ブランコだったな。でも新たに褐色のマッチョな逆立ち男がいた。それから面白いピエロも。きっと今はあの二人でジュリアを取り合っているに違いない」
「ピエロに勝ち目はありそうなのか?」
「ないね。ひょろひょろして泣きそうなフニャフニャ野郎だ。そんなに若くもなさそうだ。きっと逆立ち男のブルーノにジュリアに近づくなと脅されているさ」
男たちが勝手な噂をしている間、学校に入る前くらいの幼い娘に食事をさせていたバルの女将のマリはため息をついた。
「サーカスかあ。ずっと行ってないわ。明日は休みだからステラを連れて行こうかしら」
「行って来いよ。あのピエロはいいぞ。おかしいし、巨大なボールを上手く使うぜ。ステラは喜ぶだろうよ」
母親が男たちの話題に加わって一人になったステラは椅子から降りてそっとバルの中を歩いた。コーヒーを飲んでいる少年に近づくと話しかけた。
「サーカスを観に行った?」
「行かないよ」
「ふーん。あたしは明日行くのよ」
「そうか。楽しんでおいで」
「あなた、私と同じで一人なのね。なんていう名前?」
「ヨナタン」
「そう、あたしはステラよ」
「はじめまして、ステラ」
そういうとヨナタンは目の前の花瓶に差してあった少し埃をかぶった白い造花を抜いて少女に差し出した。
少女は金色の瞳を輝かせて言った。
「ありがとう。白い花なのね」
「そうだよ。どうして?」
「この地方ではね」
マリがステラを連れに来て言った。もう子供は寝る時間なのだ。
「白い花を出会いの時に渡した男が次に会った時に赤い花を持って迎えにくるっておとぎ話があるのよ」
「次に会ったら赤い花をちょうだいね」
幼いステラの言葉にヨナタンは笑って手を振って応えた。
母と娘がいなくなると、男たちはまた噂話に戻った。忘れ去られた少年は代金をテーブルの上に置くとひっそりと立ち去った。
彼は町の外れの幾つものキャラバンカーが停まっている広場へ行った。大きなけばけばしいテントの裏手だ。物悲しい色とりどりの電球が輝き、紙吹雪がはらはらと土の上を舞っている。
小さなキャラバンカーの前に来ると隣から古びた赤い、スパンコールでキラキラした衣装を着た女が出てきた。
「あら、ヨナタン。団長を見なかった?」
次期団長候補だったトマが死んでから、ジュリアは団長に色目を使うのに必死だが、十年前と違ってもはやその神通力はなくなっていた。
ヨナタンはジュリアのシワの目立ち出した目尻を見ながら答えた。
「いいえ。見ませんでした」
本当は団長はブルーノのキャラバンカーに入って行ったのだが、本番前に花形スターをヒステリー状態にすることもないだろうと思ったのだ。
ヨナタンは自分のキャラバンカーに入って鍵を掛けた。中は狭いが良く整理されていて、ドアの正面に大きな鏡があった。
彼は上半身裸になると鏡の前の小さなスツールに腰掛けて化粧を始めた。特徴のない優しい顔が白いドウランで埋まっていく。
ここには僕が誰かを問う者はいない。ブランコ乗りの女に夢中の壮年イタリア人ピエロだと誰もが思っている。僕の数奇な十六年の人生を知る者はいない。
左の目の周りに赤い大きな星が花のように開く。口の周りは大きく縁取られてニイっと笑う。右目の下には大きな線を引く。泣いているように見える。
土曜日のショウはオールスターだ。ブルーノが馬の上で逆立ちをし、片手で全身を支える。ゆっくりと両足を180度開き身体を捩じらせてもう片方の手に重心を移動すると、大きな拍手が起こった。
空中を華麗にブランコが揺れる。紅い薔薇を捧げ持ち大きなボールに追われてピエロが舞台に上がってきた。
退場しようとしていたブルーノが力強く腕を振り回し、ピエロを追い回す。逃げ回りながら、ピエロは何度もボールにつまづく。滑稽で無様な様子に観客は大喜びだ。
その間に高く空中に持ち上げられたブランコに乗ったジュリアは可憐なターンを始める。
ピエロはジュリアが落ちたら素早くネットを拡げるためにここにいる。人々がジュリアに夢中になっている間、注意深く上を観察している。今日はジュリアの調子がいい。すべての技が成功し、割れるような拍手を受けて満面の笑顔で彼女は去った。
ピエロはブランコ乗りの姫を無様な動きで追いながら舞台を一周する。人々は大笑いで惨めな失恋者に拍手を送る。こんなおかしなピエロを見た事はない。
舞台に一番近い正面の席に、母親に連れられた、学校に入る前くらいの年齢の少女が座って、じっとピエロを眺めていた。
どの観客も、彼女の母親ですら笑っているのに、彼女だけは氣の毒そうに彼が笑われているのを見ていた。
これは僕の仕事なんだよ、君が傷つくことはないのに。ピエロは少女に近づいてその前で止まった。スポットライトが二人を照らした。観客は笑うのをやめて二人に注目した。
少女が泣きそうだったので、ピエロはたまらなくなって紅い薔薇を差し出した。
「ヨナタン?」
ピエロがうなづくとステラは笑った。
「そういう事が、10年前にあったのよ」
ブランコから若くしなやかな身体を反らせてぶら下がりながら、金色の瞳の乙女が言った。
「それが君がサーカスに入った理由だというのかい?」
リハーサル中のステラが危険な技で怪我をしないように注意深く観察しながら青年は訊く。
「そうよ、ヨナタン。約束したでしょう?」
「白い花を出会いの時に渡した男が次に会った時に赤い花を持って迎えにくる 」
二人は同時に笑いながら言った。
色とりどりの電球がもの哀しく照らすテントは10年前と変わらない。同じ村の、同じ風がはらはらと紙吹雪を散らす。
ブランコ乗りの乙女に愛されない惨めなピエロを演じる為に施した哀しい化粧の下に、若い朗らかな青年の顔が隠れていることを、ステラは知っている。
ヨナタンがイタリア人ではない事もパスポートのない事も知っている。それは先月引退したジュリアに代わりチルクス・ノッテの新しいブランコ乗りになってわかった事だ。
けれど、ステラにとっては、紅い薔薇の方がずっと大切な秘密だった。10年かかったの。でも、ようやくつかまえた。ずっとあなたのそばにいるからね。
本番は二時間後に始まる。チルクス・ノッテは今日も満員御礼だった。
(2012年8月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと金の星

夜のサーカスと金の星
ゆっくりと右のかかとを持ち、そのまま前方へと伸ばす。かかとの位置を次第に挙げながら右横へと移動させる。かかとは彼女の頭よりはるかに上にきて、長い足はぴったりと彼女の右のラインに張り付く。白いレオタードをまとった若い肢体が朝の光に浮かび上がる。
ステラは、イタリア人らしくない自己克己の持ち主だった。たとえ昨晩のショーが夜中に終わろうと、今日が日曜日であろうと、常に朝の七時には一番大きいテントの円舞台の上で、バレエのレッスンを始めるのだった。
彼女は今年の秋に十七歳になる。学校の教師はステラに大学で法律を学べるよう高等学校への進学を勧めたが、きっぱりと断った。
「なんと言ったのかね?」
先生の呆けた顔を思い出して、ステラは忍び笑いをした。進学を断る時に、サーカスに入るからと伝えたら、先生は一分ほど口を開けたまま、何も言わなかったのだ。
「チルクス・ノッテです。先週、入団テストに受かったんです。狭き門だったんですよ」
先生はステラが子供の頃から熱心にバレエと体操を続けている事は知っていた。けれどブランコ乗りだって? まさか!
ステラの住む町は、北イタリアのピアチェンツァから遠くない山の中にある。かつてこの地を治めていた、あまり裕福でなかった領主が残した城は、規模がお粗末で観光客も滅多に来ないため、年間を通じてとても静かだった。かつては牛の競売がされていた大きな広場は、今では通常は街を訪れる人たち用の駐車場として解放されている。三百台くらい収容する事が可能だが、ステラは五台以上車が停まっているのを見た事はなかった。
数年に一度、イタリア中を回っているチルクス・ノッテがこの巨大で誰も使っていない駐車場にテントを張る。本来ならばサーカスが回ってくるほどの集客力のある町ではないが、近隣のどこにも、このような開けた平らな空間がなかったので、この町に例外的にやってくるのだ。お陰で近隣の町や村からも、観客が訪れ、この期間だけは町も活氣にあふれる。ステラの母親が経営している小さなバーも、そのおこぼれに与っていた。
チルクス・ノッテに入団するまで、ステラは海を見た事がなかった。海に沈む真っ赤な太陽も、それから、その後に強く光り輝く海上の金星も知らなかった。太陽がトマトのように赤く熟れていく。赤い丸い太陽は、道化師の付け鼻にそっくりになる。
「あなたの鼻みたいね、ヨナタン」
そういうと、ごく普通の目立たない服装の青年が、ほんのちょっと不満に鼻を鳴らした。
「そういう、ロマンに欠ける感想をもらすのは、どうかと思うよ」
でも、これは私にはとてもロマンティックな喩えなの。入団した時は、ヨナタンが十年前に出会った小さな少女を憶えているか、ステラには定かではなかった。十六歳になれば、彼女にもわかる。六歳の時に、舞台の前で渡された紅い薔薇が、本当に愛する人を迎えにきたサインではない事が。
「白い花を出会いの時に渡した男が次に会った時に赤い花を持って迎えにくる 」
この地方に、いにしえより伝わるおとぎ話。母親のバーで、まだ少年だったヨナタンに白い花を渡されたときから、ステラは決心していたのだ。この人が、私の王子様だから、それにふさわしくなるのだと。だから、ステラはブランコ乗りになった。
幼稚園の鉄棒でジュリアのように美しく大車輪をしようとして怪我をした。ブランコもあれ程高くは揺れなかった。ステラは、悔しくて泣いた。サーカスに入ってブランコ乗りになりたいと言ったステラを誰も本氣にはしなかった。たぶん、ステラ自身も習いはじめたバレエや体操の魅力の延長として言っているのか、子供の頃の夢物語の延長として言っているのかはっきりしていなかった。そう、十一歳のあの夜まで。
五年ぶりにやって来たチルクス・ノッテ。ステラは母親に頼んで再び連れて行ってもらい、同じピエロが人々に笑われているのを見た。転んで、自分の大きなボールに追い回されて、それでも紅い薔薇を捧げながら美しいブランコ乗りの姫を追っている。ヨナタン! ステラは六歳の時とは違って少し後ろにいたので、ピエロに声をかける事はできなかった。舞台がはねた後も忙しい母親に連れられてさっさと帰ったので、「私を憶えている?」と声をかける事も出来なかった。
ステラは、別の夕方、そっとテントの林の中を進んだ。異国の哀しい雰囲気を醸し出す色とりどりの電球。少し色あせたテントの合間。夕闇の中、ステラは人影のないキャラバンの間を、歩いていった。一番奥の、小さなキャラバンの脇に、誰かが立っていた。水色のチェックの半袖シャツに、色のほとんどなくなってしまったジーンズ。そっと背を丸めて煙草に火をつけていた。それから空を見上げてすうっと煙を吐いた。空間に溶けてしまいそうな、特徴のない立ち姿。目立たないように控えめに立つその姿は、少年の華奢な体型から立派な青年のそれに変わっていても、見間違えようがなかった。誰にも見つからないように、誰の邪魔にもならないように、ひっそりと立つその姿に、あのおかしなピエロの面影はどこにもない。夕陽に彩られた横顔にわずかな疲れが見えた。誰にも理解されずに生きる、逃亡者の虚しさが。
ステラがそっと話しかけようとしたその時、大きなテントの中から逆立ち男ブルーノの野太い怒鳴り声が聞こえた。
「ヨナタン! 来てくれ。ポールが曲がっているんだ。建て直さなきゃ」
ヨナタンは短く「ああ」と答えた。胸ポケットから小さな携帯灰皿を取り出すと、火を丁寧に消してしまい、立ち去った。ステラは、その場にしばらく立ちすくみ、夢のようなその一瞬を噛み締めていた。その夜、ステラはバレリーナになる夢と体操選手になる夢を消した。私は、あなたの側に行く。
入団してひと月目の週末、花形スタージュリアの引退興行をステラは舞台の袖からそっと眺めていた。舞台の強いスポットライトの中、光り輝くジュリアをピエロは追いかけてゆく。光の中で姫は天女のように舞う。スパンコールとラメに満ちた羽飾りがキラキラと光る。人々は拍手喝采を送る。もうじきだから。ヨナタン。来週からは、私だけを追いかけてきて。
道化師は、舞台がはねる直前、ふと、舞台の中央最前列の席をみつめる。大人が座っている事もある。楽しそうに笑っている男の子がいる事もある。ピエロはそこに、泣きそうな幼い少女がいない事を確認して、安心したかのように舞台を後にする。ステラは、舞台の袖でそれを見ている。大丈夫。きっとあなたは憶えている。
ブランコの上からゆらりゆらりと見る世界は、全く違っている。地上の観客や、威張りくさったブルーノや、馬やライオンが、小さく見える。そして、彼がじっと見つめているのがわかる。紅い薔薇を持って追いかけ回す、おかしな姿のピエロ。白地に赤い水玉のサテンのだぼたぼな服を来て、よろよろと舞台を駆け回る道化師。私に何かが起こったら、ネットと両手を拡げて受け止めてくれる人。
舞台が終わると、ピエロは化粧を落としてヨナタンに戻る。団長夫人におさまったずっと年上のジュリアを追い回す事は全くなくて、入ったばかりのステラにもただの優しい同僚以上の関心を持たなくなる。
この間のリハーサルの時に、ようやく私があの時の少女だと伝えたけれど……。ヨナタンは多分あの私の告白を冗談だと思っている。誰がおとぎ話を真に受けて、たった一度会ったピエロを10年も待っているだろうか。
それでも、ステラはロバのごとく頑固だった。連れて行ってくれないならば、私が自分で追いかけていくから。キャラバンに忍び込んで。ライオンや馬に乗って。火の輪と鞭の林をくぐり抜けて。海に眠りゆく真っ赤な太陽のすぐ側で、輝きながら子守唄を歌う宵の明星になる。
ステラは、準備体操を終えると、新しい回転技の練習をするために鉄棒にぶら下がった。
(初出:2012年9月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと孔雀色のソファ
あらすじと登場人物
「夜のサーカス」をはじめから読む

夜のサーカスと孔雀色のソファ
暗転していた舞台が次第に明るくなる。円舞台の中央に緑色の何かが見える。明るくなるに従って、それが大きなレカミエ・ソファである事がわかる。滑らかなマホガニーの枠組みで薄緑地に鮮やかな孔雀色のペイズリー柄が浮き出ている豪華なものだ。ソファの曲がり足は獅子の前足の形になっているに違いないが、それを確認しようとする観客はいない。なぜならば、その足元に、本物の雄ライオンが寝そべっているからである。
ソファの上も空ではない。なめかましい曲線を描いて女が横たわっている。光り輝く鱗のような孔雀色のドレスを身にまとい、黒い肘まであるシルク手袋をして、スリットからはみ出た長い足を組んでいる。観客からは女の顔は見えない。ただ、黒いシルクハットが見えているだけだ。
女はシルクハットで顔を隠したまま、ゆっくりと8センチヒールを履いた足を高く大げさに交差させて、ライオンの前に立ち上がった。後ろを向くと左手に持った帽子をゆっくりと頭から外した。ストロベリー・ブロンドの豊かな髪が大きく開いた背中にはらりと流れ落ちる。右手がシルクハットから黒い鞭を取り出す。女が振り向き、鞭が空氣を切り裂いて振り落とされると、舞台に壮大なオーケストラのメロディが流れる。ライオンがそれを合図に立ち上がり、ソファに飛び上がって後ろ足だけで立ち上がる。《ライオン使いのマッダレーナ》の登場だ。
ローマから始まった新しいシリーズの興行は、マッダレーナの再デビューと言ってもよかった。チルクス・ノッテがまわってくる度に来る観客の多くが、すでに《ライオン使いのマッダレーナ》の演技を目にしていた。彼女は、五年もチルクス・ノッテに属していた。だが、彼らは、かつて見たライオン使いの女と、今ここに現われた美女とが同一人物だとは簡単にはわからなかった。それほど、彼女のイメージは変わっていた。
前回までの興行には、花形スターのブランコ乗り、ジュリアがいた。チルクス・ノッテの女帝は、自分よりも若く美しい女が脚光を浴びて賞賛を受ける事を頑強に拒んだ。マッダレーナは、薄化粧に灰色のつまらないパンタロン姿、シニヨンにしたひっつめ髪で、大した工夫もなくライオンに芸をさせる事しか許されなかった。
「この演目の要はライオンでしょ? あんたが目立っちゃ意味ないじゃない」
けれど、ジュリアが引退し、チルクス・ノッテには新しい花形スターが必要だった。団長夫人となり、興行の収入が財布の厚さに直接影響するようになったジュリアもそれは認めざるを得なかった。そして、新米のブランコ乗りのステラには、新しいスターの役割をこなすのは到底無理だった。そう、どう考えても二十四歳のマッダレーナ以外に考えられなかった。彼女は、碧とも翠ともつかぬ、ガラス玉のような瞳を持っていた。柳のように細く形のいい眉、口角の上がった下唇が厚いなめかましい口元。妖艶で強烈な個性を持った女盛り。ライオンの陰に隠しておく必要などないのだ。
さあ、私を見て。これが本当の私なの。マッダレーナは、これまでは禁じられていたセクシーな歩き方で舞台を横切る。マッダレーナの美しい動きに合わせて、雄ライオンは舞台を自在に飛び回り、逆立ちをし、玉乗りをした。マッダレーナはレカミエ・ソファの艶やかなマホガニーの肘掛け枠をなめかましい手つきでなで、その後ろから黒く長いキセルを左手に持って取り出す。天上から大きな輪がゆっくりと降りて来る。マッダレーナは長い仕掛けキセルを近づける。火種が輪に乗り移り、あっという間に焔が広がる。ライオンは、彼女の大切なヴァロローゾは、マッダレーナの凛とした鞭の音に合わせて、勇猛に火の輪をくぐってみせる。男の観客はその官能的なショーに、女と子供たちはライオンの見事な動きに大喝采を送る。新たなスターの誕生だった。
マッダレーナは、ケニアで生まれ育った。彼女の父親が「アフリカの日々」に憧れて、マサイ・マラでライオン・ファームを経営する事にしたからだ。彼女は子供の頃からライオンの間で育った。まるでヨーロッパの子供たちが大きな飼い犬と仲良くするかのように、ライオンたちに囲まれて育った。一番仲が良かったのは、スワヒリ語で《勇者》を意味するジャスィリと名付けられた雄ライオンだった。彼は名前にふさわしく勇猛で美しかった。マッダレーナはジャスィリに抱きつき、背中に乗りその手から食べ物を与える事が出来た。
しかし、彼女の幸福な少女時代はある日いきなり終わった。他ならぬジャスィリが父親と母親に襲いかかり、かみ殺してしまったのだ。突然、孤児になったマッダレーナはイタリアに戻る事になった。親戚の家をたらい回しにされたあげく、孤児院に預けられた。やがて自活して生活する事を強制されたとき、マッダレーナが選んだ職業は「ライオン使い」だった。それはとても自然な選択だった。というよりは、マッダレーナに出来るまともな仕事は、他にはなかったのだ。
8年間、マッダレーナは何匹ものライオンを飼育した。しかし、ヴァロローゾほどしっくり来るパートナーははじめてだった。奇しくもジャスィリと同じく《勇者》を意味するイタリア語を名に持つライオンは、マッダレーナが遇ったどの人間の男よりも逞しく、精悍で、勇猛だった。
ヴァロローゾは鞭など怖れていなかった。その証拠に、マッダレーナ以外の誰が鞭を振るっても、前足を上げたりなどしなかった。それどころか、反抗的で冷たい目を向けて唸る。鞭を振るった人間は、あわててマッダレーナの陰に逃げ込むしかなかった。彼は、自分の意志でマッダレーナに協力しているように見えた。彼女の演技にあわせて、前足を掲げ、ソファに駆け上がり、そして火の輪をくぐる。求めるのは、マッダレーナの信頼と、日々の丁寧な毛繕いだけ。ヴァロローゾは、マッダレーナと対等の存在だった。その最良のパートナーとこの瞬間をともに過ごせて彼女は、幸福だった。
舞台がはねた後、マッダレーナは化粧を落として白いシャツとジーンズに着替え、舞台の裏に置かれたレカミエ・ソファにゆったりと腰掛けて煙草を吸った。勝利の味がする。長い髪をかきあげて顔を上げると、いつものように興行後の舞台の点検をしているヨナタンの姿が目に入った。
「あら、いやだ、いたの?」
ヨナタンは、ちらっと彼女を見たが、すぐに目を舞台に戻した。
「ああ。驚かせたなら、すまない」
マッダレーナは、くくっと笑って言った。
「別に。それはそうと、お礼を言わなくちゃね。ありがとう」
「何に対して?」
ヨナタンは大して関心がないように訊き返した。
「あなたが提案してくれた事に対してよ」
そもそも、団長やジュリアはマッダレーナを派手にセクシーにする事は考えていたが、こんな演目にする事は考えていなかった。さまざまな小道具を取り出す大道具も、単なる箱を用意するはずだった。
「もっとエレガントにした方がいい」
ふだん、演目の事には口を出さないヨナタンが、会議の時に珍しくはっきりと言ったのだ。夜会服のようなドレス。シルクハットと長い手袋、黒いキセル、そして豪華なギリシャ風のレカミエ・ソファ。その提案に団長たちは目を丸くしたが、確かに斬新で美しい演出だった。大道具小道具を用意するコストもほとんど変わらなかった。その提案は、大きな成功を収めたのだ。
ヨナタンは、そんな当たり前の事、というような顔をして笑った。マッダレーナはソファに寝そべるようにして、妖艶な笑顔をヨナタンに向けた。
「どこからこんなアイデアがわいてきたの?」
ヨナタンは短く答えた。
「人生で目にした色々なものから、ね」
「レカミエ・ソファなんて、どこで目にしたのよ」
ヨナタンは答えなかった。マッダレーナは、ふふん、とわかったような顔をして煙を吐いた。謎に満ちた過去のない男。十年くらい前に、突然団長が連れて来たっていうけれど、いったい何者なのかしらね。
「まあ、いいわ。ところで、明日のショーは、あのお嬢ちゃんの出番よね。また早朝からのリハーサルにつき合うんでしょ。早く寝なさいよ」
彼はちらっと女を眺めると、何も言わずに点検に戻った。余計なお世話だと態度が語っていた。マッダレーナは、無言の非難などにへこたれるようなタイプではなかったので、再び煙を吐いて笑った。
ロボットみたいに正確な日常を繰り返す、この謎の青年は実に興味深かった。マッダレーナは、どうやって攻略していこうかそれを考えると楽しくてならなかった。
年増女の引退以来、すべてが上手くまわるようになって来たみたい。不遇の時代が続いたけれど、チルクス・ノッテからさっさと逃げ出さなくてよかったわ。マッダレーナは、テントを出ると煙草を投げ捨てて、大事なヴァロローゾの様子を見に歩いて行った。
(初出:2012年10月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスとチョコレート色の夢
Stellaの官能禁止ルールのギリギリまで行っていますが、ご心配なく。今回も、今後も、ヤバいシーンは、(ほぼ)なく、小学生でも読んでいいはず。たぶん。え〜と。
ところで、Stellaのクリスマススペシャルは、イラスト画像+ドイツ語のソネットという形で参加させていただきます。こちらは30日にアップの予定です。
あらすじと登場人物
「夜のサーカス」をはじめから読む

夜のサーカスとチョコレート色の夢
船をみながら、海の向こうにあるというユートピアの事を考えた。どんな夢も叶うその楽園は「ヨーロッパ」というのだと、アマドゥが語った。少年はまだ小さくて、二歳年上のアマドゥの話す事はすべてが真実だと思っていた。欲しいだけ食べ物が食べられる。飲みたいだけ水が飲める。毛布には穴が開いていなくて、新しい靴を履けて、ラジオやナイフを独り占め出来る。
ラジオは「善きサマリア人の救護団」の事務所で見た。後ろに誰もいないのに、勝手に喋る魔法の箱。これはイタリア語というのだと、事務所のスタッフは言った。彼が住んでいる国には古来から話されている言葉があるが、植民地時代にはずっとイタリア語が公用語だったのだと、彼は言った。
「今は?」
「アラビア語だけれど、こういう奥地ではいまだにイタリア語しか出来ない人も多いのさ。それに、ヨーロッパではアラビア語のわかる人なんかほとんどいないからね」
彼らはイタリア語が出来るというので「善きサマリア人の救護団」に雇われていた。飢餓や戦争孤児のための援助をしている「ヨーロッパ」の非営利団体だそうだ。アマドゥに言わせれば、あの事務所にあるものは、それだけでも村一番の長老を遥かにしのぐ財宝で、あそこに勤めている奴らは、いつも美味いものを食えるらしい。
「じゃあ、大きくなったらあそこに勤めればいいじゃないか」
「無理だよ。町に住む有力者の息子だけが、あの仕事を貰えるんだ。それに、たとえあそこで働けても、海の向こうに行くような幸せは手に入らない。海を渡った本当の勇者だけが二度と心配のない楽園に辿り着けるんだ」
アマドゥがそう言うと、すべてはそれらしく響いた。
「だからよ。俺は金がいるんだ。海まで行くだけの」
アマドゥは「善きサマリア人の救護団」の事務所に金を盗みに入り、牢屋に入れられた。少年は、そんな馬鹿な事は、捕まるようなヘマはするまいと決心した。十四歳の時に、「善きサマリア人の救護団」のトラックに忍び込んで港へと辿り着く事に成功した。あとは船に乗り込めば楽園が彼を待っているはずだった。
楽園の人々は白い肌をしている。アマドゥはそう言っていた。白い肌だって? そんな馬鹿な。けれど、港には、本当に白い肌をした人間がいた。目深に白い帽子をかぶり、肩に金モールのある白い立派な服を着て、ピカピカの靴を履いていた。ああ、これがアマドゥの言っていた楽園の住人かと思った。その男は、波止場の立派な船に乗った。それは大きな船だった。長老の家の50倍近くあって、色とりどりの服を着た白い人たちが笑いながら甲板から海や港を眺めていた。
少年は、暗くなるのを待って、船艙に忍び込むことに成功した。実際は、波止場に積まれた麻袋の一つからトウモロコシの粉を海に捨てて、その中に入ったのだ。それから暗い船底で数日間を過ごした。そして、着いたのがカラブリアだった。
そこにはどんな夢も叶う楽園などなかった。「ヨーロッパ」という国もなかった。少年が辿り着いた所はイタリアだった。住人たちは、少年の故郷のようには飢えてはいなかったが、ダークチョコレートと同じ色をした少年を暖かく迎えてくれるほど余裕があるわけでもなかった。彼らも、生きるのに必死だったのだ。
盗みをして捕まれば、アフリカに連れ戻されるのはわかっていた。だから、少年は金を稼がなくてはならなかった。出来る事は限られていて、貰える金も大したものではなかった。歌はうるさいと怒られた。ダンスをしたくても音楽がなかった。だから、逆立ちをしたのだ。軽々と両手で。ゆっくりと頭だけで。時おり片手で。これが一番実入りが良かったので、彼は、少しずつ難易度のある技に挑戦していった。
カラブリアに辿り着いて、半年ほど経った頃、はじめてあの男が観客に加わった。妙に背の高い、壮年の男で、ワインカラーに濃紺の縦縞のついた、目立つ上着を羽織っていた。そして、少年を念入りに見ていた。その男は服装も目立ったが、それだけではなかった。はじめて紙幣をもらったので、少年はどぎまぎした。
翌日も男は観に来た。三日目になると、少年は確信を持った。こいつ、興味があるのは逆立ちじゃない。俺の体だ。少年は、既に故郷で村の伝令の慰み者になった事があったので、またかと思ったが、それで美味いものが食えるのなら構わないと思った。
少年の印象は間違いだった。ロマーノは逆立ちにも興味があったのだ。
「お前、宿無しだろう」
ロマーノは聴き取りやすいイタリア語で話しかけた。連れて行ってくれたレストランで出てきたパスタに、少年は覆いかぶさるようにして食べた。噂に聞いていたコーラというものもはじめて飲んだ。少年は用心深く男の事を観察した。俺を当局に引き渡すつもりかもしれない。
「心配するな。私は法なんてものに、たいして価値を見いだしてはいないのだ」
ロマーノはくるんとした髭をしごいて言った。だから、なんだっていうんだよ。お前がしたいことは、わかってんだ。だけど、こいつは全部食わせてもらうぜ。少年ははじめて食べた、パフェというものに夢中になった。冷たくて、甘くて、美味しい。かかっているこの黒いものは、チョコレート・ソースっていうんだそうだ。
「私の所に来ないか」
ほら来た。
「今晩、ってことかよ」
ロマーノはにんまりと笑ってから、もう一度髭をしごいた。
それが、チルクス・ノッテに入った経過だった。団長のロマーノは、ブルーノ・バルカという難民の書類を用意してくれた。少年はバルカなる人物が実在するのかにも、どうやってその書類を手に入れたのかにも興味はなかった。強制送還されることがなくなった、それだけで十分だった。その日から彼はブルーノになった。
ロマーノは、まかないとはいえ、毎日うまい飯を食わせてくれた。ホットチョコレートという飲み物もあった。どろりとしたほろ苦くも甘い飲み物は火傷しそうに熱かった。いくらすすってもねっとりとした液体はカップにこびりつく。苛つくが、一度飲んだら忘れられない。
それだけではない。ブルーノを曲芸師の学校に入学させ、きちんとした逆立ちの訓練もつけてくれた。華やかな逆立ち男の衣装の他に、スニーカーだの、Tシャツだの、すり切れていない自分だけの衣類を用意してくれた。穴の開いていない毛布もマットレスもある、凍えずに眠れる一人用キャラバンカーも貰えた。足りないものなどなかった。
時おり、我慢すればいいのだ。ねっとりと暗いチョコレート色の時間を。
大テントの東の入り口には、大きな姿見がある。鏡。故郷では、「善きサマリア人の救護団」の事務所で一度だけ鏡を見た事があるが、こんなにくっきりと姿が浮かび上がるものではなかった。そして、全身が映るものでもなかった。その姿見には、チョコレート色の男が映る。カジキの鱗のような青白いパンツを身につけ、頭には青と白のダチョウの羽を飾ったターバンが巻かれている。上半身は筋肉の盛り上がりごとに光が反射し、屈強な男の肉体美が強調されている。彼は、舞台の前にはこの鏡を絶対に見ない。
鏡には魔物がいて、見たものの戦意を奪う。村の長老が言った。戦の前には絶対に鏡を見てはならないと。迷信と仲間は笑う。だが、姿見の前に立った時のあの感覚は何だ。異形のものがそこにいて、吸い込まれていきそうになる。お前は誰だ、そこで何をしていると、疑問を投げかけてくる。あの逆立ちが、あの技が、お前に出来るのか? 本当に可能なのかと。
鏡を見る代わりに、ブルーノは仲間を見る。重い棒を抱えて綱を一歩また一歩と渡っていくルイージや、黒い鞭を操ってライオンを自在に動かすマッダレーナ、いくつものボールをジャグリングしながら滑稽な動きで観客を魅了するヨナタンを見る。入ったばかりのステラのブランコの演技も、最近はようやく安定してきた。舞台に輝くスポットライトと観客の熱狂。ロマーノを馬車に載せて駆けていく馬達の地響き。袖の暗黒の世界から垣間みる、白く輝く熱狂的な舞台の世界。「ヨーロッパ」という名の楽園が顕在する一瞬だ。
そして、彼はそのかりそめの楽園に、厳かに足を踏み入れる。舞台の真ん中に置かれた円卓に昇っていく。熱いスポットライトがじりじりとチョコレート色の肌を焼く。グレゴリオ聖歌を彷彿とさせる男声合唱が響く。革製の取っ手を設置した身長ほどの棒が二本立っている。その取っ手を掌で包み込むように掴むと、腕の力だけでゆっくりと体を持ち上げていき、その上に逆立ちする。体の力が、血がゆっくりと中心に向かって固まっていく。完全な垂直になり動きが停まると、最初の拍手が起こる。それから足が開いていきTの字になって停まる。そのまま右手だけに重心を移して左手を真横にする。体をねじり足を前後に開いていく。
また両手で体を支えながら、足をYの字にして観客の方を見る。驚き拍手をする大人たち、目を輝かせる子供たち、頬を紅潮させる若い娘たち。力強く、しなやかな動きは、人間の肉体がどれほど美しいものかを観客に見せつける。そこには、名前も移民も国籍も貧富の差もなくなる。輝くアダムの肉体だけがエデンに降り立つのだ。それがブルーノの逆立ち演技だっだ。
舞台がはねて、ごく普通の男女に戻った仲間達とともに、共同キャラバンカーで食卓を囲む。ポレンタとウサギのラグーをかきこみ、赤ワインを流し込む。料理人のダリオが出してくれた、チョコレートソースのかかったパンナコッタをすくいながら、ブルーノは目をつぶる。少年はかつて夢みていた。いつか、遠い楽園に行くのだと。二度と飢える事のない、いくらでも水の飲めるユートピアに。ここは、思っていた楽園とは少々様相が違う。だが、苦さと甘さを備え持つ甘露チョコレートのある「イタリア」も悪くはない。仲間の騒がしい会話に加わるべく、ブルーノは瞳をあけた。
(初出:2012年11月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと無花果のジャム
最後の方にちょっと出てくるレモンチェッロというのは、レモンのリキュールです。美味しいですよ。
ところで、Stellaの新年スペシャルは、性懲りもなくイラスト画像+日本語のソネットという形で参加させていただきます。こちらは28日にアップの予定です。
あらすじと登場人物
「夜のサーカス」をはじめから読む

夜のサーカスと無花果のジャム
朝のレッスンを終えてテントから出てきたステラは、仲間の様子がいつもと違うのに首を傾げた。団長が怒鳴っていて、ルイージがめそめそと泣いている。ヨナタンやブルーノが忙しそうに走っていた。だが、団長の説教の内容が、どうも変だ。ジャムがどうこうというように聞こえたんだけれど、まさか、この状況で、その単語は変よね?
「何故、予備を用意しておかないんだ。なくなりそうになったら、早めに言えばいいだろう?」
団長はまだくどくどと言っている。ルイージは手の甲で涙を拭った。
「まだひと瓶あると思っていたんだ。今晩は、渡れねぇ!」
「馬鹿を言うな。今から演目を変えるのが、どんなに大変かわかっているんだろう?」
「何といわれようと、ジャムなしじゃ演れねえ」
ステラはそっとマッダレーナに近づいた。
「何があったの?」
マッダレーナはかったるそうに煙をくゆらすと肩をすくめた。
「無花果のジャムが切れちゃったのよ」
ステラは、イタリア語がわからなくなったのかと思って、混乱したままライオン使いの女をじっと見つめた。マッダレーナは、ああ、と言って事情を飲み込めていない少女に説明してやる事にした。
「ルイージはね、羊のチーズに無花果のジャムをつけたものを必ず食べてから、演技に入るの。あれがないとダメなんだって」
ルイージはバランス綱渡りをする男だった。大きな長い棒でバランスをとりながら、遥か頭上の綱を渡って行くのだ。猫背の小男で、中年にさしかかっている。もの静かな、平和を愛する細いたれ目の男を、ステラは好意的に見ていたが、いかんせん、あまりにも無口で、親しくなるほど口を利いた事がなかった。
「羊のチーズと無花果のジャム? 山羊やイチゴじゃだめなの?」
マッダレーナはふふっと笑った。
「ダメダメ。この世界って、験かつぎする人、多いのよ。味がどうとか、科学的証明とか、そういう話をしても無駄よ」
「マッダレーナ、あなたもおまじないするの?」
「私? しないわね。でも、ほら。ブルーノは本番の前は鏡を見ないでしょ。それに、マルコたちは、目の前を黒猫が横切ったと大騒ぎしたりするし。ヨナタンがいまだに団長にオカマ掘られていないのも、その手の験かつぎの結果だしね」
ステラは最後の例にぎょっとして、もっと詳しく訊こうとしたが、その時、当の団長がこっちに向かってきたので口をつぐむしかなかった。
「マッダレーナ、スーパーには?」
マッダレーナは煙を吹き上げて答えた。
「ヨナタンが西のはずれの量販店を、ブルーノが中心部の小さな商店をあたっているわよ。双子とジュリアは、念のために共同キャラバンカーやテントの中を探すって」
「そうか。俺は隣町をあたってみるから、悪いがルイージが落ち着くまで見ててくれ」
「了解」
「無花果のジャムって、そんなに珍しいものだったかしら」
ステラも、近くの小さな商店に探しに行ったが、苺やアプリコット、チョコクリームに蜂蜜などはどこにでもあるのだが、無花果のものはみつからない。ルイージがそんなものを本番の前にいつも食べているなんて、全く知らなかった。それに、大の大人がジャムがないだけであんなに取り乱すなんて。
しばらく行くと、見慣れた男がいるのに氣がついた。大型トラックを運転する運送会社の男で、移動設営の時はいつも派遣されてくるので馴染みになっているのだった。ちゃんとした名前があるはずだが、誰もが《イル・ロスポ》と呼んでいた。ひきがえるという意味だ。丸くてひしゃげた顔がその両生類を連想させるのだ。
「こんにちは」
「おや、これはブランコ乗りのお嬢ちゃんだ。今日はオフかい?」
「違うんだけれど、みんなで無花果のジャムを探す事になったのよ」
「へ、ルイージのかい?」
《イル・ロスポ》にまで知られるくらい有名なのね。ステラは頷いた。
「それは困ったね。この辺では売っていないだろうな」
「どこに売っているの?」
「俺が最後に見たのはコルシカ島だな。南の方にはあるだろうけれど」
ルイージはシチリア島の出身だった。きっと彼にとっては無花果のジャムはお袋の味なのだろう。そう思ったら、それがないと演技が出来ないと泣く彼の事がかわいそうになってきた。
テントに戻ると、ヨナタンが帰ってきていた。
「あった?」
ステラが訊くと彼は首を振った。
「ブルーノもダメだと言っていた。困ったな。夕方までに見つからないと、本当に舞台に穴があくからな」
ステラはふと思った。そうだ、ママにも協力してもらおう。
「あたし、電話してくる」
「無花果のジャム?」
マリは大きな声を出した。午前中からマリのバルでたむろしている村の常連が一斉に振り向いた。
「わかったわ、こっちでも探してみる」
電話を切ったマリのまわりに、男どもはゾロゾロと寄ってきた。
「今の電話、ステラからだろう? なんだって?」
「この夕方までに無花果のジャムがどうしても必要なんですって。誰か持っていないかしら?」
「無花果の? 我が家にはないよな。けど、手分けして探すか。ステラはどこに居るんだ?」
「パルマの側らしいわ」
「ここから50キロは離れているじゃないか」
マリは肩をすくめた。
「そのくらいの距離をとりにくるのは、問題じゃないくらい重要みたいなの」
「そうか。ステラのためだ、手分けして探すか」
彼らは仕事を放り出して、知り合いをあたりだした。もともと、大して仕事に身が入っているわけではなかったが。
マリのバルは司令塔になった。情報のまとめ役はパン屋のジャンだ。
「だめだったか。お袋さんのところもあたってくれるか。ありがたい、頼むぞ」
「おい、ルカはどこにいる?」
「今日は地域消防団の会合で、ボレに行っているよ」
「ちょうどいい、電話をかけろ。ボレでも訊いてもらえるしな」
「誰か、最近シチリアかサルジニアに旅行に行ったヤツいなかったか?」
「待てよ、確か、例のいけすかない銀行家の野郎、行ったばかりだぞ」
「ちっ。仕方ないけど、訊きに行くか」
「お、ルカから電話だ。銀行家はちょっと待て。え、おい、本当か?」
ジャンの笑顔に皆、期待して電話の周りに集まってきた。
「あったのか?」
「ブラボー」
ジャンは親指を差し上げた。
「わかった。すぐにステラに連絡する」
ジャンからの電話を受けて、ステラは狂喜乱舞した。
「あった、あったわ」
ジュリアをはじめ、メンバーが興奮してステラのもとに集まってきた。
「どこに?」
「カザルマッジョーレ。ボレの消防団にいる人のお母さんが五年前の無花果のジャムを地下倉庫に置きっぱなしにしていたんですって。誰が取りに行く?」
全員が顔を見合わせた。車はない。団長は、探しに行ったまままだ帰ってきていない。
「どうしよう。このままじゃ夕方になっちゃう」
落胆したルイージは再びめそめそと泣き出した。
「あ。《イル・ロスポ》が、この街にいた!」
ステラが叫ぶと同時に、今度は全員が走って運転手を捜しに行く事になった。ほどなくして、エミーリオが《イル・ロスポ》を見つけて戻ってきた。運転手は大型トラックでジャム一瓶を運ぶなんてはじめてだと言いながらも、笑って30キロ離れた街へと向かってくれた。
夕闇が静かに降りてくる頃、広場には電球がつく。みんなが待ちわびるトラックの音が響いてくると、代わる代わるルイージに抱きついて歓声を上げた。やがて、急ブレーキをかけてトラックを止めた《イル・ロスポ》が助手席から引っ張りだしてきたのは、とてもジャムひと瓶には見えない荷物だった。
「何これ?」
大きな箱にぎっしりと詰まったジャムの瓶、瓶、また瓶。60から70個はあるだろうか。
「無花果は20くらいしかないかもしれないと言っていたが、全部持って行ってほしいそうだ。ため込みすぎて、一生分を遥かに超えてしまったが、あの世まで持って行けないからって」
ほこりを被ったジャムの瓶を見て、全員が沈黙したが、やがてマッダレーナが笑い出し、他の皆も笑いながらイチゴジャムなど、無花果ではない分を取り分けて手にした。
「《イル・ロスポ》のおじさんも、どうぞ」
ステラが言うと、彼はウィンクして助手席を示した。ステラが覗くと、そこには大量のレモンチェロの瓶が積まれていた。
「これも持って行ってくれって言うんでね」
分厚くジャムを載せた羊のチーズを口に運ぶと、ルイージは満悦してナプキンで口元を拭った。それから重たい棒を軽々と担ぐと、舞台裏に向けて歩いて行った。仲間はその嬉しそうな様子に、ニヤニヤと笑いかけた。今日のルイージは絶好調に違いない。
(初出:2012年12月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスとノンナのトマトスープ
実は、団長から新人のステラにいたるまで、チルクス・ノッテの面々は食いしん坊。また体を動かす仕事だからいつもお腹はぺこぺこです。ダリオは彼らをお腹いっぱいにして、幸せにして、さらに体調管理もする大事な役割を担っています。
ところで、「ノンナ」というのはご存知の方も多いかと思いますが、イタリア語で「おばあちゃん」のことです。イタリアの家族で一番頼りにされているのは「マンマ」と「ノンナ」。温かいご飯を作ってくれる人たちです。冷酷なマフィアですら、彼女たちに頭が上がらないといわれています。
あらすじと登場人物
「夜のサーカス」をはじめから読む

夜のサーカスとノンナのトマトスープ
「さっ。食べよう」
マルコが言うと、みな、ワインを注いだり、パンを回したりしだした。
ステラは一つ空いた席を見て戸惑いながら見回した。日替わりで団長夫妻の給仕をしているエミーリオとマルコのどちらかがいないのは別として、他のメンバーは必ず揃ってから食べるのが普通なのに。
「ブルーノがいないわよ」
ヨナタンとルイージは顔を見合わせて少し上の方を見上げた。サラダを口に運びながらマッダレーナがあっさりと言った。
「今晩は、待たなくていいの」
「どうして?」
「ポールに登っているんだ」
答えたのはマルコだった。ポールって、舞台のテントを支えている、あれのことかしら? だけど、どうして? 食事だって声を掛けてあげないのかな。
「大丈夫だよ。湯氣がポールの上まで届いたら、こらえきれずに降りてくるからさ」
そういってマルコは、ミネストローネの上で頭を揺すっていい香りを吸い込んだ。調理キャラバンでダリオが大鍋にたっぷり作るスープは、村の人間をも呼び寄せてしまうほどの香りの引力を持っていた。
しばらくすると、ものすごい音がして、ブルーノが駆け込んできた。戸口に立った彼を、全員が一瞬見た。ステラ以外はすぐに目を皿に戻して、食事を続けた。ステラの戸惑った顔に一瞬だけ氣まずそうな顔をした後、ブルーノは乱暴に自分の席に腰掛けると怒りながら食べだした。
「畜生。今度こそ、こんな所からおん出てやろうと思ったのに、何でこんなに美味いもん作るんだよ!」
共同キャラバンに隣接された調理キャラバンの対面の窓から、ダリオはじっとブルーノの様子を見ていた。うむ。今日もちゃんと食べているな、よかった。今日のデザートはレア・チーズケーキだ。ブルーノがパンナ・コッタと同じくらい好きなもので、ちょうど良かった。少しフルーツを足してやるか。
ダリオの心はペルージア郊外の小さな村の古びたキッチンに飛んでいた。柔らかい日差しが射し込む石造りの家はとても古くて、ガスなんてものは通っていなかった。しわくちゃの手が古ぼけたオーブンの扉を開けて、薪を中に入れたり、灰をかき出したりしている。オーブンの上には鉄の輪を同心円状にいくつも重ねたコンロがあって、その鉄の輪を取り退けたり、またもとのように置いたりして大まかに火力を調節するようになっていた。近くには、いつもしゅんしゅんと音を立てて黒い鉄製の窯にお湯が沸いていた。このオーブンのおかげで真冬でも台所とその背中合わせになった居間だけは暖かくて、学校から戻るとダリオは台所に直行して冷たくなった手足を温めた。
「今日ねぇ、ジャンニのやつと喧嘩したんだ」
そういうと、彼の祖母は、目を大きく見張ってどうしてと問いかけた。
「だって、あいつ、おいらのことをみなしごだって囃し立てたんだ。二度とそんなこと言えないように、徹底的に殴ってやるつもりだったんだけど」
「やめたのかい?」
「運悪く、先生が来ちゃったのさ。だけど、おいらはあいつのことを絶対に許さないんだ」
「ダリオや。そんなことで喧嘩をおしでないよ」
「そんなことじゃないやい。ノンナはあいつの方が正しいって言うの?」
「そうじゃないさね。ただ、喧嘩をするとお前も怪我をするじゃないか」
ダリオにとっては自分が怪我をするかどうかなど、大した問題ではなかった。ノンナはわかってくれないと拗ねた。けれど、ノンナは黙ってスープの鍋をかき回した。それから、顔を歪めて目の辺りをこすった。
ノンナはいつもそんな感じだった。記憶にもないほど昔、父親が出稼ぎに行った日から、ダリオはノンナと二人で暮らしてきた。ダリオはよく喧嘩をした。お前の母親は男を作って出て行ったと言われるのも、ニースで父親が死んでからみなしごだとからかわれるのも、自分だけ冷たい石造りの古ぼけた家に住んでいるのも何もかも腹立たしかった。
ジャンニの父親は町会議員で、セントラル・ヒーティングの効いた二階建ての家に住んでいた。彼の母親はダチョウの羽のついた仰々しい帽子を斜めにかぶって、フィアットで通り過ぎる。クリスマスや誕生日が過ぎると、ジャンニはピカピカの新しい靴や金のエンブレムのついたぱりっとした上着を着て学校に来る。その二日後はダリオの誕生日で、翌朝になると必ず訊くのだ。
「で、お前は何をもらったんだい?」
ダリオの誕生日には、ノンナがチョコレート・ケーキを焼いてくれた。甘いとろりとしたクリームが中からこぼれ出す特別な仕掛けになっていて、ダリオがこれを大好きだとノンナは知っているので誕生日とクリスマスには必ず用意してくれるのだ。時々焼き加減が違うと、ダリオは文句を言った。
「今日は火加減がうまくいかなかったんだね、ごめんよ、ダリオ」
ノンナは、古いオーブンをコンコンと叩いて謝った。ダリオは半日ほどふくれていた。他に何ももらえないのだ。ケーキくらい、美味しく焼いてくれてもいいのに。
ノンナは、絶対にヒステリーを起こしたり、泣きごとを言ったりしなかった。ダリオがふくれても、食事の時間になって帰ってこなかったために何度も温め直す羽目になっても、決して声を荒げたりしなかった。
「ダリオや。許しておくれ。次には上手く焼くからね」
「ダリオや。今度はもう少し早く帰ってきておくれ」
悲しそうにしわくちゃの顔を歪める。ダリオは、その時だけは、ちょっとだけ申し訳ないかなと思った。
ノンナの作るのパスタは絶品だった。いくつものスパイスを混ぜて、ことことと煮込んだソースが鼻腔をくすぐった。曲がった腰に手を当てて、小さな庭から掘り出してきたジャガイモやサラダがいつも食卓を賑わせた。トマトスープのおいしさは格別で、ダリオは何杯もおかわりをした。
「ダリオや。美味しいかい」
ノンナはしわくちゃの手で、ダリオの頭を何度も撫でた。
「かわいそうにねぇ。許しておくれよ。お前にもっと楽な暮らしをさせてあげることができなくってさ」
中等学校に入ってから、ダリオは古い石の家に寄り付かなくなった。友達の家を渡り歩いたり、まだ許されていないのにバルやディスコに行き、街のごろつきの下働きをしたりして遊ぶ金を稼いだ。たまに家に戻ると、歳を取ってさらに悲しい顔をするノンナに荒い言葉を投げかけては背を向けた。もっとも、トマト・スープが出て来れば、それだけは喜んで食べた。
ノンナが倒れたという報せをもらった時、ダリオはディスコで騒いでいた。慌てて家に戻ると、ストーブが冷えていた。子供の頃から一度だって絶えたことのない火が途絶えていた。暗くて寒い台所でダリオは呆然とした。病院に駆けつけると、白い病室の中にベッドがぽつんと見えた。真っ白いシーツの中に申しわけなさそうにノンナが横たわっていた。小さく縮んだようだった。ダリオを見ると弱々しく笑った。
「ごめんよ。ダリオ、心配かけて……」
ダリオは、はじめて自分が失おうとしているものが何であるかを知った。セントラル・ヒーティングがない、金のエンブレムのついた上着がない、顔も憶えていない両親がいないなんてことは、ダリオを本質的に不幸にしてはいなかった。それなのに彼はいつも不満をぶちまけていた。最も大切な優しい愛の前で。暖かい火の絶えないストーブの前に立って、ダリオのすべてを受け止めてくれた優しいノンナ。ダリオはまだノンナに恩返しをしていなかった。ちゃんとした仕事に就いて安心させてもいなかった。心からの感謝をを身をもって示してはいなかった。
彼女は石の家に戻ることもないまま、ゆっくりとこの世を去っていった。ダリオは二度とあの美味しいトマト・スープを食べることが出来なくなったのだ。
料理人になると言い出したダリオを悪い仲間たちも、いい学校に行ったジャンニたちも、誰もが笑った。だが、ダリオはもう笑われることで腹を立てたりしなかった。ノンナのように、おいしい料理を作るのだ。ノンナが作ってくれたような、暖かくて優しいスープを作るのだ。ノンナに伝えられなかった氣もちを一皿一皿に込めるのだ。
ダリオは、ペルージアのレストランで十年ほど修行した。そして、ローマに店を出すという金持ちに誘われて、そこの料理長にならないかと誘いを受けた。ちょうどその頃、体を壊した友人に、彼が働いていたチルクス・ノッテのまかないの仕事を引き受けてくれないかとも頼まれていた。ローマで高い給料を得て、名声を得るか、それとも仕事を続けられなくなった友人に代わって、しがないサーカスでまかないの食事を用意するか。ほかの料理人だったら迷うこともなかっただろう。けれどダリオは、世界から押し出されたようなはみ出しものの連中を空腹のまま放置して、ローマの金持ちのためにしゃれた料理を作る氣にはなれなかったのだ。
相方のトマが死んで食べられなくなったジュリアのために、リゾットをつくってやった。そのジュリアにきつくなじられて唇をかんでいた、入団したてのマッダレーナのためにとっておきのオーソ・ブッコをつくってやった。故郷の女房に間男ができて離婚することになったと泣いたルイージのために無花果を使った特製の前菜を作ってやった。そして、ロマーノと一緒の時間を過ごすことを強要されるごとにポールに登っていつまでも遠くを眺めるブルーノのために、ノンナの思い出のスープをつくってやる。
「くそっ。なんでこんなに美味いんだよっ」
ブルーノの罵り声が耳に入って、ダリオの心は調理キャラバンに戻ってきた。ダリオは冷蔵庫に手を伸ばし、用意しておいたレア・チーズケーキを型から取り出すと、人数分に手早く切り分けてデザート皿に取り分けていく。季節のフルーツをこんもりと飾ると、ラズベリーのソースを形よく掛けていく。ブルーノがポールに登った日には、仲間の誰かが自分のデザートをブルーノに譲ってやる。氣もちのいい連中だ。ローマのちょっと食べて残すような鼻持ちならない客のために働くよりずっといい。そうだろう、ノンナ? ダリオは頷くと、明日の昼食の仕込みのために野菜の皮をむき出した。
(初出:2013年1月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスとわすれな草色のジャージ
あらすじと登場人物


夜のサーカスとわすれな草色のジャージ
オリンピックの選考から漏れたと知った時、マッテオは悲しいとか、悔しいとか思う余裕はなかった。この日が来る事は、予想していてもよかったはずだ。でも、心がついていかない。子供の頃から体操界で活躍する夢しか持ってこなかったからだ。
マッテオは二十歳だった。学校に行ったり、見習いを始めたりといった、新しい人生の切り直しをするには育ちすぎていた。かといって引退して悠々自適の生活をするほど歳をとっている訳でもなかった。ずっと体操しかしてこなかったのでカーブが下を向いた時にどうしたらいいかわからなくなるのはマッテオだけではなかった。
たくさんの仲間たちとしのぎを削ってきた。選抜選手を決めるための合宿に参加していた馴染みの少年少女たちは、大会の成績に応じていつの間にか少しずつ入れ替わった。マッテオは、同期の中ではいつも一番だったので、たくさんの出会いと別れを経験した。でも、それは他の誰かが出たり入ったりするだけで、彼の居場所は常に約束されていたのだ。これまでは。急に未来がなくなって、マッテオは途方に暮れた。
「望むのは優勝、少なくともイタリア代表になる事」
そう豪語してきたマッテオにみな賛同した。
「俺も」
「私もよ」
けれど、一人だけ、にっこりと笑って何も言わなかった少女がいた。マッテオはその金色の瞳の少女の事を考えた。彼女は、もう選考会にも合宿にも参加しなくなった。他の子たちの場合とは違って成績が落ちたからではなかった。
不思議な魅力を持った少女だった。マッテオは彼女を十年ほど知っていた。彼女が合宿に連れられてきた時のことを、いまでも鮮明に思い出す事が出来る。まだ学校にも入っていな年齢の少女に彼は訊いた。
「君、小さいね。もう体操を始めたの?」
「大車輪を出来るようになりたいの」
そんなはっきりとした目標を六歳の少女が口にするとは夢にも思わなかったマッテオも、横にいた教師も驚いた。少女は、きらきらとした瞳を輝かせて言った。
「わたし、ステラよ。あなたは?」
ステラはとても優秀だった。しなやかで軽やかだった。床運動や平均台ではバレリーナのように美しく芸術的に動いた。段違い平行棒や跳馬は正確に、でもスピード感を持っていた。天性のものもあるのかもしれないが、それだけではないようだった。教師やコーチに言われたままに、得点の上がるような演技を目指す他の少女たちと、どこかが全く違っていたのだ。
金色の瞳がいつもキラキラと光っていた。女性らしい柔らかな動きでマットの上を跳躍していった時、段違い平行棒で見事な大車輪をしていた時、平均台の上で意識を集中させて回転した時、全身から生き生きとした歓びが、隠しきれない情熱が溢れ出していた。確実に得点出来るように無難なステップを選んだり、コーチに言われたから見せる硬い作り笑いをする少女たちとはあまりにも違っていた。そのために、時として彼女の成績は芳しくない事があった。
彼女は得点には興味がなかった。驚くほどの自己克己と努力をしていたが、目指しているのは大会での競技ではなかったのだ。だから、彼女はオリンピックで金メダルを穫りたいというような目標を口にする事はなかった。
彼は今、ジャージをボストンバッグに丸めて突っ込みながら、自分の行く末について想いを馳せている。世界選手権に、オリンピックにいけなくなったら、どんな人生が待っているかなんて考えてもいなかった。どこか田舎で体操の教師としての職を探すか。それともスポーツインストラクターになって都会の有閑マダムの相手をするか。ちくしょう。それはちっとも輝かしい未来には思えなかった。そう、あのステラが目を輝かしていたような、希望に満ちた未来には。
マッテオは協会の重い木の扉を押して外に出ると、木枯らしの吹くパルマの街をとぼとぼと歩いていった。風が木の葉をくるくると遊ばせて、ホコリが彼の目を襲った。くそっ。
かさかさ音を立てる枯れ葉の間に、しわくちゃになった一枚のチラシがあった。ふと足を止める。サーカス。チルクス・ノッテ。……チルクス・ノッテ?
「じゃあ、これで、さよならね」
半年前の大会が終わった日、ステラは握手を求めてきた。
「これでって、どういうこと? 来月には選抜の合宿があるよ」
「わたし、就職が決まったの。だから、もう競技には出ないの」
「嘘だろう? 君は入賞候補なのに。何か事情があるのかい? お金の問題かい?」
ステラは生き生きとした瞳で微笑んだ。
「違うの。ようやく夢が叶ったの。私ね、サーカスに入ったの」
マッテオはぽかんと口を開けてステラの顔を見つめた。サーカス?
チルクス・ノッテは、そのステラが入団したサーカスだった。マッテオはあわててチラシを拾って指で丁寧に拡げた。そんなに古くないチラシだった。パルマでの興行は終わっていなかった。明日が最終日だ。ステラは、この街にいるんだ! マッテオは、いま来た道と反対側、チルクス・ノッテのテントのある方へと走った。切符を手に入れるために。
舞台には光があふれていた。妖艶で美しい女が、ライオンを操っていた。たくましく異国情緒をたたえた屈強な黒人が、見事な逆立ちをしてみせた。赤い水玉のついた白いサテンの服を来たピエロが滑稽ながらも鮮やかなジャグリングをしていた。派手な縞の服を来た男が操る馬たちの曲芸。観客の叫びと、喝采の中で場内は熱い興奮に包まれていた。
やがて、照明は清らかな青に変わった。静かで宗教的とも思える音楽とともに、先程の道化師が紅い薔薇を手にして舞台に上がってくる。彼は憧れに満ちた様子で上を見つめている。その先に眩しい蒼い光が満ちて、ゆっくりとブランコが降りてきた。ゆったりとしたワルツに合わせて、ブランコは大きく揺れだす。神々しいほどの優雅な動き。彼女はブランコから、道化師めがけて飛び降りるかのように宙に飛び出す。けれどももちろん落ちたりなんかはしない。見事な回転のあとで、しっかりとブランコを掌でつかむのだ。
マッテオは、その回転が体操界でなんと呼ばれるものか、すべて言う事が出来た。けれど、そんなことはここでは全く意味がなかった。落ちるかと思ったのに、足だけでブランコに引っかかる。片手だけでぶら下がりながら、美しいアラベスクのポーズをとる。ステラの動きの一つひとつに、観客から大きな拍手が起こった。
喝采を浴びながら、道化師の優しい眼差しのもとで、超新星が爆発したごとき猛烈な輝きを放っている。仲間の体操選手たちの中で、一人だけ違う方向を見つめていた少女は、ここを目指していたのだ。何十人もの選手の中に埋没した一人としてではなく、何百人もの観客の視線を一身に集めていた。そして、光の中であふれる生命力と、息苦しくなるような哀しみと、狂おしい歓びを謳歌していた。
なんという美しさだろう。マッテオは強い憧れがわき起こるのを感じた。これが彼女の言っていたことなんだ。
「ようやく夢が叶ったの。私ね、サーカスに……」
カーテンコールが終わって、観客がどんどん去っていっても、マッテオはずっと席に座っていた。
抱えているボストンバックには、イタリアチームの青いジャージが入っている。どうする? もう一度体操界でトップになるために、そして、いずれは失ってしまう場所を勝ち取るために、高得点のためだけの技術を競うか? このまま、諦めて、イゾラの街に帰るか? それとも……。マッテオは暗くなった誰もいない客席で、舞台を見つめたままじっと座っていた。
舞台に小さな光が点り、薄紫のシャツにジーンズ姿の一人の青年が入ってきた。そして、膝まづいて、端から舞台のナットが弛んでいないかを点検しだした。慣れているらしく、正確で素早い動きだった。そして、よどみなく移動していく。彼が三分の一ほどの点検を終えた所に、ぱたぱたと音がして青色の何かが走り込んできた。
「あ、いたいた。ヨナタン!」
その声は、間違いなくステラだった。目を凝らすと、少女は先程の輝く美しい衣装とは打って変わり、明るい金髪をポニーテールにして、マッテオとお揃いのわすれな草色の、つまり、イタリアチームに支給されたジャージを着ていた。何を着ていても、彼女の生き生きとした様子は変わらなかった。いや、むしろ際立って見えた。
ヨナタンと呼ばれた青年は膝まづいたまま顔を上げて、すぐ側にやってきたステラを見た。
「あのね。マルコたちが街のバルに行くんだって。マッダレーナとブルーノも行くみたいだし、ヨナタンも一緒に行かない?」
ヨナタンはすっと立ち上がった。ステラよりも頭一つ分背が高い。彼女を見下ろすと、優しく静かに言った。
「この点検が終わったら行くよ。先に行っていてくれてもいいよ」
ステラは大きく首を振って答えた。
「着替える前に、どこで待ち合わせるか、みんなに訊いておくね。点検が終わるまで待っているから、一緒に行かない?」
ヨナタンは同意の印に、片手でくしゃっと彼女の前髪を乱してから、その小さな背中をやって来た方向へと押した。スキップするようにステラが去ると、青年は何事もなかったかのように点検を続けて、終わりが来るとすっと立ち上がり、舞台の電灯を消して立ち去った。
マッテオは、立ち上がった。テントの出口を手探りでみつけて月夜に躍り出ると、雄牛のような勢いで、キャラバンカーのたくさん並んでいる所に向かった。
「すみません!」
たまたますれ違った中年の男を捕まえると、つかみかからんばかりに責任者に会わせて欲しいと頼み込んだ。よく見たら、それは先程、舞台の上で綱渡りをしていた小男だった。マッテオの態度に怯えたルイージは、彼を団長ロマーノのキャラバンに案内してくれた。
馬の曲芸師がでて来た。こいつが団長だったんだ。彼はマッテオを見ると髭をしごきながら興味深そうに訊いた。
「私に何か用かね?」
「ぼ、僕、マッテオ・トーニといいます。体操をやっていて、イタリア選手権にもでた事があります。そ、その、ここの入団テストを受けたいんですが!」
ロマーノは、じっとマッテオを見つめた。服の上からでもわかる筋肉質の均整のとれた体型を上から下まで堪能した。それから再び髭をしごきながら、笑顔をみせると言った。
「明日、十時に撤収と移動が始まる。その前に、君のテストをしよう。朝の八時に舞台となったテントに来れるかね?」
マッテオは、大きく頷いた。ボストンバックをしっかりと抱きしめた。このジャージを着てテストを受けよう。待ってろ、ステラ。数日後には、僕は君の同僚になっているからな。
(初出:2013年2月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと西日色のロウソク
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夜のサーカスと西日色のロウソク
「まあ、きれいなロウソクね。西に沈む夕陽を思い出すわ」
ジュリアの声に、はっとしてロマーノは目の前に燃えるロウソクに目をやった。エミーリオがプリモ・ピアットの皿を運んでくるまでの間、つぎの興行の事を考えて意識が飛んでいたのだ。テーブルの上には、二日前にマルコに渡しておいたオレンジと黄色のグラデーションのかかったロウソクが静かに燃えていた。
「ああ、これか。近くで見つけたので買ったのだよ。あなたとの二人っきりの時間には、できるだけロマンティックにしたいからね、私の小鳥さん」
ロマーノがささやくと、ジュリアはにっこりと笑った。
「あなたはいつも私の事をとても大切にしてくれるのね。嬉しいわ」
繰り返される、お互いに心にもない甘い会話。これは必要な結婚だった。いまだに熱烈なファンを持つジュリアを連れてパーティに行く事で、ロマーノはたくさんの協賛金を集め、多くのチケットを売る事ができた。ジュリアは、肉体の衰える前に、どうしても身の保証をしてくれる存在が必要だった。
そう、私たちは人格者ではない。だが、さほど悪い事をしているわけでもない。税金も少しは払い、団員たちの面倒を見て、社会にも貢献している。キリスト教精神にのっとって。私の人生最大の失敗も、このキリスト教精神から起こしてしまったのだったな。
あれはミラノ興行のための設営の夜だった。ロマーノはくるんとした髭をしごきながら十一年前の初夏の夜の事を考えていた。
とても暑い夜だった。まだ六月だというのに湿めっぽく、どこからか湧いた蚊が耳元でうるさかった。こういう宵にはブルーノを相手にするとことさら憂鬱な顔を見せて、ことの後で妙な罪悪感に悩まされるので、むしろ外で商売男でも探すかと、彼はテント場を出て外を歩いた。
そこは、ミラノ中央駅から数駅は離れた小さな鉄道駅の側で、華やかで物価の高い中心地とは全く趣の違う、寂れてわびしい地区だった。そう、華やかなものと言ったら、チルクス・ノッテの色とりどりの電球ばかり。テントから離れれば、薄暗い道に所々悲しげなオレンジ色の街灯がようやく足元を照らした。ネオン灯の青白いバルには地元の男たちがたむろしている。もう少し明るそうな駅の方を目指せば、ほんのわずかに黄色い光を宿す窓がまばらに見え出した。
食事はもう済ませたからな。ダリオのコース料理は、今日も素晴らしかった。ロマーノはそうつぶやいて、リストランテの前を通り過ぎ、小さな駅舎の裏手へと歩いていった。男娼はこういうところで待っていることが多いというのが、長年の経験から育てた勘だった。
だが、それらしい男はどこにもいなかった。いるのは、なんだ、浮浪者のガキか。彼は子供とも若者ともつかぬ華奢な体の影が、壁にもたれかかってぐったりと座っているのを軽く無視して去ろうとした。けれど、暗闇の中で見たその姿がどこか普通でないと感じて、もう少しよく観るために踵を返して近寄った。
それは少年だった。ロマーノが近づくと瞳をあげて、黙ってその顔を見た。何も言わず、怖れた様子も、媚びた様相もなかった。ただ、まっすぐにロマーノが何をしにきたのかを訝るように見上げていた。ロマーノは奇妙に思った事が何だったか理解した。少年の服が濡れていたのだ。汗で湿ったというのではなく、一度完全にびしょぬれになったものが、時間とともにわずかに蒸発した、そのようなひどい濡れ方だった。
「しばらく雨は降っていなかったはずだが」
我ながら奇妙な挨拶だと思いながら、ロマーノは最初の言葉を口にした。少年は何も答えずに目を落とした。興味を失ったかのように。少し身をよじると、ぎゅるるという小さな音がした。少し苦しそうに息をつくと、少年はうつむいて膝を抱えた。腹の音はまた続き、ロマーノは三年前に拾ったブルーノの事を思い出した。
「来なさい。すぐそこにリストランテがある。何かの縁だ、食事をおごってやろう」
そういって少年に手を差し出した。少年は訝しそうに見上げたが、その時再び腹が鳴り、ため息をついて彼はゆっくりとロマーノの手を借りずに立ち上がった。そして小さな声で言った。
「ありがとうございます」
外国人だ。少年のイタリア語を聴いてロマーノは直感した。
小さなリストランテにはテーブルが五つほどしかなかった。焼けこげのできた赤いギンガムチェックのテーブルクロスの上には、オレンジから黄色へとグラデーションがかかった大きなロウソクが焔をくゆらせていた。目の前に座った少年の顔を、そのロウソクの光でロマーノははじめてはっきりと見た。暗い茶色の髪と瞳。意志の強そうな眉に整った鼻梁、これはこれは、なかなかの上玉だ。ロマーノは知らず知らずのうちに笑顔になっていた。
自分のためにはワインとチーズを、そして少年のためには、ミネラルウォーターにスープとサラダ、そしてパスタを注文した。スープとパンが少年の前に置かれた時、彼は目の前のびしょぬれの固まりが、どれほど長く食事を望んでいたのかを理解した。目がわずかに潤んでいた。けれど、初めて会った時にブルーノがそうしたように、ものも言わずにかぶりつくような事はしなかった。半ば震えるようにナフキンを膝の上に置き、わずかに頭を下げてロマーノに礼を言ってから、震える手でスプーンを手にした。
そのスプーンがスープをすくうのを片目で見ながら、ロマーノは単なる世間話のつもりで言った。
「ところで、どうしてそんな格好をして飢えているのか、訳を話してくれるかね? お前はどこから来たんだ?」
この少年は、ただの浮浪者などではない。こんなにきちんとした行儀を仕込まれた子供が、何故こんなところで飢え死にしかけているのか。
カチャンと音がした。ロマーノが目をやると、少年はスプーンをスープ皿に立てかけて手を膝の上に戻してうつむいた。そして、それほどまでに待っていた食事をしようとしなかった。
「おい、どうしたんだ。食べていいんだぞ」
ロマーノは言った。
少年の肩は震えていた。少し訛りのある妙にきちんとしたイタリア語がその口から漏れた。
「訳をいわなくてはいけないなら、食べるわけにはいきません」
「馬鹿な事を。そんな事を言っていたら、次に誰かが酔狂を起こす前に死んじまうぞ」
「覚悟していました。このまま、死んでもしかたありません」
ロマーノは震えた。ありえない事だった。拾ったときのブルーノとさほど変わらない年齢に見えるのに、勝手が全く違った。考えている事が手に取るようにわかった褐色の少年と違って、この年若い男は、ロマーノには全く理解できない精神構造をもっていた。完全な大人のような恐ろしい意志を体の中に秘めているのだった。いやなら適当な嘘でも言えばいいのに、食事を与えてくれたロマーノに対して欺瞞や裏切りをしようとしない、馬鹿正直でまっすぐなところも持っていた。そこが得体が知れなくて薄氣味悪かった。
「いや、そういうのは、やめてくれ。別にどうしても訊きたいってわけじゃないんだ。とにかく食えよ」
ロマーノがそう言っても、少年は潤んだ瞳をあげたまま、動かなかった。そこで仕方なく、ロマーノは続けた。
「いいか。これは純粋なキリスト教精神だ。うちは生粋のカトリックだからな。お前にはいかなる説明も、見返りももとめない。なんなら神に誓うよ。お前には、生涯、言いたくない事は言わせないし、何かの代償をもとめることは絶対にしない。父なる神と子なるキリスト、精霊の御名によって、アーメン。ほら。これで安心しただろう、食え」
そこまで言ってしまってから、ロマーノははっとした。しまった。なんて事を誓ってしまったんだ。この子があと五年も育ったらどんないい男になることか。こんなチャンスはめったにないのに!
少年はもう一度頭を下げると、ゆっくりとスプーンを持ってスープを口に運んだ。ロマーノはパンの籠を少年の近くに押してやった。再び頭を下げると、上品な手つきでそのパンを取るとちぎって口に運んだ。それからほうっと息をついた。
ロマーノはミネラルウォーターをグラスに注いでやりながら、少年に話しかけた。
「お前、今夜泊るところもないんだろう」
少年は素直に頷いた。
「こうなったら乗りかかった船だ。私のところに来て寝泊まりするといい。私はロマーノ・ペトルッチ。『チルクス・ノッテ』の団長だ。約束したから、代わりに何をしろとは言わないが、手伝いたければ手伝えばいいし、出て行きたい時には自由に出て行ってもいい。どうだ」
「いいんですか」
「神に誓うってのはそういうことだからな。言葉は守るさ。サーカスってのはだな。世の中からはみ出したような連中ばかりだ。必要なのは、自分のやるべき事をやること、それだけでいいんだ。完璧なイタリア語が話せなくても、社会のありがたがるような紙っ切れがなくても誰も氣にしない。お前みたいな訳あり小僧には悪くないところだと思うぞ」
少年は、スパゲティを食べ終えると、ナフキンで丁寧に口元を拭い、それから静かに答えた。
「僕にでもすぐにできる裏方作業などがあるでしょうか」
ロマーノは少し考えて言った。
「そうだな。例えば、興行後には毎晩舞台のナットが弛んでないか確認する作業がある。それくらいなら、お前でもできるだろう」
「はい。やらせてください」
ロマーノは笑った。
「よし。ところで、お前はなんていうんだ。あ、本名でなくてもいいんだぞ。なんと呼べばいいのか、それと年齢がいくつかぐらいは言えるだろう?」
「十五歳です。名前は……。」
少年は瞑想するような顔つきでしばらく口ごもった。それから、ロマーノを見てはっきりと答えた。
「ヨナタンと呼んでください」
(初出:2013年3月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと鬱金色の夕暮れ
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夜のサーカスと鬱金色の夕暮れ
日はずいぶんと長くなってきた。夜の興行がない日は、皆が町にでかけることができるように六時に夕食だった。そして、食べ終わった面々が次々と出て行ったあとも、まだ完全には暗くなっていなかった。
片付け当番にあたっていたマッダレーナは、立ち上がって、ヨナタンの席を見た。「舞台の下のナットのいくつかに問題があるので、先に食べていてほしい」と言われて、他のメンバーは待たなかったのだ。しかし、ヨナタンが食べ終わっていないのに、テーブルクロスまで片付けるのはためらわれたので、彼女は他のすべてのテーブルを片付けてから様子を見るために共同キャラバンの入り口に立った。
灰色と白の雲が交互に空を覆い、そこにあたる夕陽が暖かい色彩の複雑な綾織りを拡げていた。マッダレーナはケニアで過ごした少女時代を思い出してため息をついた。
「すまない」
小走りの足音に意識を元に戻すと、ヨナタンが戸口に向かっていた。
「ああ、手こずったみたいね」
そう訊くと、彼はわずかに肩をすくめた。
「相当すり減っていたみたいで、締まらなくなったのが二つあったんだ。予備がなくて、町に買いに行ったので遅くなった」
マッダレーナは、ワインを彼と自分のグラスに注ぎながら言った。
「でも、どうして、いつまでもあなただけが点検作業をやっているわけ? 最初の頃はともかく、今は道化師としてもジャグラーとしてもちゃんと働いているんだし、点検はこの片付け当番同様、みんなで持ち回りにするように団長に掛け合えばいいのに」
ヨナタンは首を振った。
「別に、掛け合うほどのことじゃないよ」
こうヨナタンが断言すると、あとは何を言っても会話が続かないことを知っていたので、マッダレーナはそれ以上言わなかった。実際にはマッダレーナも、この仕事をやれと言われても、きちんとできるとは思えない。舞台の点検は、仲間の命に関わる重大事だ。ちゃらんぽらんなマルコや、入ったばかりだけれど態度がでかく面倒なことを嫌がるマッテオが適当にやるよりは、十年以上にわたり黙々と点検を続けているヨナタンに任せておくのが安心なのは間違いなかった。
マッダレーナは、立ったままワインを口に運ぶ。食事をしながらヨナタンは言った。
「みんなは町に行ったんだろう。君も行っていいよ。終わったらちゃんと片付けておくから」
「ああ、言い忘れていたけれど、町役場からの伝達があったの。野犬に襲われる被害が続いているので、夜に一人で外出するなって。つまり今からは出かけられないの。どうせだから、このままつき合うわよ」
そういうと、マッダレーナはヨナタンの後ろの壁ぎわにおいてある古い木製のラジオのつまみを回してスイッチを入れた。
騒がしいロックに眉をひそめてチューニングをしたが、次に聞こえてきた曲で手を止めた。
「あ」
それは子供の頃に繰り返し聞かされたメロディだった。マッダレーナは、曲をそのままにして、椅子に座ってワイングラスを口に運んだ。
ヨナタンは静かに食事を済ませると、やはりワイングラスを傾けながら、クラリネットと弦楽器の静かな対話に身を置いていた。マッダレーナは、そのヨナタンの様子を見て、小さく微笑むと、ためらいがちに口を開いた。
「誰の曲だか知っている?」
ヨナタンは小さく頷いた。
「モーツァルトの『クラリネット協奏曲』だよ。これは二楽章だ」
「そう。父はいつも『愛と追憶の日々』の曲って言っていたわ」
「映画で使われたんだろう」
「そう。父がアフリカ狂いになる手助けをした映画よ。すっかりかぶれちゃって、こればかり聴いていたの。今日みたいに夕陽のたまらなく綺麗な日にはお約束みたいなものだったのよね」
少年だったヨナタンの周りには、アフリカ狂はいなかった。彼がこの曲を知っているのは、映画の挿入曲としてではなくて、純粋にモーツァルトの協奏曲としてだったが、やはり思い出に郷愁を誘われていた。
彼の思い出が連れて行った先は大きくて明るい広間だった。多くの人びとが着飾り、手にはさまざまな形のグラスを持ちざわめいていた。広間の奥には室内楽の楽団が陣取り、『クラリネット協奏曲』を奏でていた。残念ながら多くの客たちは、会話に夢中で音楽を聴いていなかった。少年だった彼は、その曲をゆっくりと聴きたかった。大切な人と何度か一緒に聴いた思い出の曲だったから。けれど、けばけばしく着飾った客がグラスや皿をがちゃがちゃ言わせてひきりなしに語りかけてくるので、彼は曲を静かに聴くことができなかった。
ヨナタンは、ワインを傾けながら、ラジオから流れてくるクラリネットの響きにしばらく耳を傾けていた。暖かい夕陽が最後の光を投げかけてから、テント村に別れを告げた。後ろにいるマッダレーナのわずかな氣配は彼の郷愁を邪魔しなかった。
マッダレーナは、何も言わないヨナタンの様子に、過去のことを訊いてみたい衝動に駆られたが、これまでも絶対に口を割らなかったので、無駄だろうなと思った。けれど、いつもよりもリラックスしている様子の彼のことを少し身近に感じた。ワインや夕陽でメランコリーな心地になったせいもあったかもしれない。ヨナタンのすぐ後ろに椅子を近づけて座ると、低い声で語り出した。
「あたしね、ライオンたちがいつも閉じ込められているのが可哀想だったの。今日みたいな夕陽の綺麗な時にはね、父さんに知られないように、ライオン舎に行ってジャスィリを連れ出してね。一緒に丘の上のガーデニアの樹のあるところまで駆けっこしたのよ。父さんは、蓄音機でこの曲をかけていて、その音が途中まで聞こえていた」
「ライオンと。綱が付いているわけじゃないんだろう? 逃げだしたりしなかったんだ」
マッダレーナは笑った。
「しないわ。だって、ジャスィリは、うちで生まれたんですもの」
共同キャラバンから漏れてくる光と、クラリネットの音色、そして二人の和やかな会話。ほんの少し離れたところに立っている少女の影は項垂れていた。ステラもみんなに誘われて町に行こうとしていた。でも、ヨナタンを待っていたのだ。もう点検が終わったか、大テントに確認に行ったら暗くなっていたので、共同キャラバンに探しにきたのだ。
ステラはこの曲を知らなかった。二人が浸っている思い出の世界に入っていくことができなかった。二人の会話のウィットや大人の機智、静かな目配せや微笑についていくことができなかった。自分だけが子供で、二人は大人に思えた。
ステラは、項垂れたまま踵を返すと、自分のキャラバンに向けて歩いていった。マッテオたちと一緒に町に行っていればよかった。そしたら、こんな光景は見ずに済んだのに。目の前がにじんできた。私、いったい、何をしているんだろう。何を泣いているんだろう。ヨナタンは何も悪いことをしていない。ただ、私が勝手に好きになって、勝手に期待して……。
その時、ガルルルといううなり声が聞こえた。ステラは、涙を拭いて振り向いた。暗闇の中、四対、いやもっと、目の光が浮かんでいる。野犬……。町役場から言われていた……。一人で外にいるなって言われていたのを忘れていた。ステラはそっと、後ずさりながら、共同キャラバンの方へと戻ろうとした。あそこには、ヨナタンとマッダレーナがいるから……。
「助けて…」
小さな叫び声だったが、共同キャラバンの扉が開いていたので、ヨナタンとマッダレーナはすぐに氣がついた。マッダレーナはすぐに立ち上がって、ラジオを消した。走るステラの叫びと、獣のうなり声が聞こえて、ヨナタンはすぐに走り出した。
「ステラ!」
ヨナタンはステラの側に駆け寄ると、少女と獣たちとの間に立ち、小石を拾って投げた。獣たちはそれに怯んで、動きを止め、一度下がった。だが、すぐに体制を整えて、再び近づいてくる。月明かりの中、獣たちの姿が浮かび上がる。野犬なんかじゃない、野生の、狼だ……。ヨナタンは心の中で呻いた。だめだ、石なんかでは追い払えない。怯えるステラをかばいながら、彼は飛びかかられるのを覚悟した。
その時、突然、恐ろしい咆哮がとどろき、二人と狼たちとの間に何かが飛び込んできた。巨大な獣の登場に狼たちは仰天した。それはヴァロローゾだった。マッダレーナはすぐにライオン舎に行って、頼りになる雄ライオンを連れてきたのだ。狼たちはライオンに脅されるなどという経験はしたことがなかったので、慌てて尻尾を後ろ足の間に隠して逃げ出した。
ステラは体の力が入らなくなり、その場に座り込むとガタガタと震えて泣き出した。ヨナタンは、そっと彼女を抱きしめると背中をさすって言った。
「大丈夫だ。もういなくなったから」
それは、温かい手だった。静かな声でそう言われると、本当にもう二度と恐ろしいことはおこらないように思われた。
ヨナタンが来てくれて、守ってくれたことが嬉しかった。この人はやっぱり私の王子様。わたし「だけ」の王子様でなくてもかまわない。願いが叶わなくてもしかたない。ただの子供と思われていてもいいから、どうしても側にいたい。ステラは気持ちの抑えがきかないまま子供のように泣きじゃくった。
ステラが落ち着くのを辛抱強く待ちながら、ヨナタンはマッダレーナに礼を言った。マッダレーナは首を振って言った。
「私は何もしていないわ。ヴァロローゾが追っ払ってくれただけ」
それからヨナタンにウィンクすると、共同キャラバンに鍵をかけて、雄ライオンと一緒にライオン舎に向かってゆっくりと歩いていった。
(初出:2013年4月 書き下ろし)
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【小説】夜のサーカスと極彩色の庭
このストーリー、半年以上前から連載しているので、最近このブログを知った方は取っ付きにくいかもしれません。が、まだ「あらすじと登場人物」だけ読めば十分付いていけます。よろしかったらどうぞ。
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夜のサーカスと極彩色の庭
レモン色のボールがくるくると宙を舞う。軽やかに弾んで、高く、低く、生きもののように整然と綺麗な放物線を描く。右の掌から飛び立って、行儀良く左の掌に戻ってくる。一つ、二つ、三つ、あまりに速いので、その数はなかなかわからないが、現在飛び立っているボールは六つだ。この辺までは熟練したジャグラーには余裕がある。ヨナタンの動きはおどけて滑稽だが、目は笑っていない。
丁寧に一つひとつの動きを鍛錬する。本番でヨナタンが失敗することは至極稀だった。彼は覚えたての八ボール投げを興行で使用することはしない。練習で百回試して、すべて成功するレベルにならないと、誰に何を言われても興行には使わない。団長ロマーノやその妻のジュリアは、そのことに文句を言わない。彼が、どれだけの時間を割いて鍛錬を続けているかよく知っているからだ。
チルクス・ノッテの出演者たちは、ジュリアのプランによって鍛錬をしていたが、基本的には本人の意思が最も尊重された。たとえば、早朝に大テントの舞台でステラがバレエのレッスンを自主的にはじめた時にも、すぐに許可がおりた。空中ブランコ、大車輪、馬の上での倒立、ライオン芸、空中綱渡りのレッスンは一人で行うことは許されない。事故が起った時に即座に応急処置ができるよう、かならず誰かが監視しなくてはならないからだ。マッテオにはエミーリオ、ルイージにはマルコが、ステラのレッスンには主にヨナタンがついた。
そういうわけで、ステラが早朝バレエのレッスンをする時には、同じテントの端の方でヨナタンがジャグリングの鍛錬をし、それから引き続き二人でブランコの訓練をするというのがここ数ヶ月のパターンになっていた。ステラはヨナタンと二人で過ごす朝のひと時を大切に思っていた。もっとも、ここしばらくはブランコの時間には、ようやく起きだしてきたマッテオがバレエレッスンを同じテントではじめるので、完全に二人きりというわけではなかったのだが。
「今日の午後、何か予定はある?」
ステラはブランコから降りてくるとヨナタンに訊いた。この日は昼の興行がないので自由時間になったのだ。ヨナタンは首を振った。
「特に何もないけれど、どうして?」
ステラはヨナタンからタオルを受け取って、汗を拭くと小さな声で言った。
「あのね。肉屋に行きたいの。でも、一人で外出しちゃダメだって……」
先日のチルクス・ノッテでの野犬騒ぎ、目撃譚によってそれが狼であったことが伝わると、町は大騒ぎになり、昼でも一人での外出は避けるようにとの通達が来たのだった。襲われかけた当のステラとしては、一人で外出するのが怖いのは当然だった。しかも、肉屋に行くというのでは。
「一緒に行こう。でも、なぜ、肉屋なんだ?」
ヨナタンが訊くと、ステラは少し顔を赤らめて答えた。
「ヴァロローゾにお礼をしたくて」
ヨナタンは笑って頷いた。狼に囲まれて絶体絶命のピンチに陥ったステラとヨナタンは、襲われる覚悟をした。あの時、マッダレーナが連れてきてくれた雄ライオン、ヴァロローゾが狼たちを追い返してくれなかったら、二人はこうして無事ではいられなかっただろう。
「なんだよ、それ」
マッテオが怪訝な顔で近づいてくる。この若い青年は、ステラとヨナタンが親しくするのを快く思っていないのだ。ましてや二人だけの秘密があるなんて聞き捨てならない。
「この間の、野犬騒ぎの件なの。マッテオには関係ないでしょ」
「ふ~ん。僕も、この後、町に行こうと思っていたんだ。ヨナタンに用事がないなら無理していかなくても、僕がステラと……」
それを聞くとステラはものすごい形相でマッテオを睨みつけた。余計なことを言わないで! ヨナタンは肩をすくめて言った。
「用事はあるよ。注文したナットを取りにいかなくちゃいけないんだ」
ステラは大急ぎで言った。
「ほらね。私たち、この後すぐに行くから、マッテオはブランコレッスンの後で、エミーリオといきなさいよ。団長の用事で町に行くって言っていたもの」
それから、ぽかんとするマッテオをそのままにして、肩をすくめるヨナタンの腕を取って大テントを出て行った。
それは大きな肉のかたまりだった。もちろんステーキ用肉などではないので、キログラムあたりは廉価なのだが、ライオンへのプレゼントに一キログラムというわけにはいかない。
「ヴァロローゾ、喜んでくれるかしら」
ステラが心配そうに言うと、ヨナタンは笑ってその重い紙袋を持った。
「間違いなく喜ぶよ。他のライオンたちが妬まないといいけれど」
キャラバン村へと戻る道すがら、ステラは紙袋が重すぎるのではないかと、心配そうにヨナタンを見た。
「心配いらないよ。そんなには重くないから」
「でも、あのね。もし、重すぎなかったら、二分ほど遠回りなんだけれど、こっちの道を行ってもいい?」
そう言って、左側の道を示した。ヨナタンは微笑んで頷くと、通ったことのない道へと向かった。
「こっちに何があるんだい?」
「あのね。とっても素敵なお庭のお屋敷があるの。この前通った時、花がいっぱいで、ヨナタンにも見せたいなって思ったの」
そうして、ステラは長い塀のしばらく先にある華奢な鉄細工の門の前にヨナタンを連れて行った。
「ほら」
それは、大きなヴィラだった。春から初夏の花がこれでもかと咲き乱れている庭が広がっていた。薔薇、飛燕草、ダリア、百日草、ナスタチウム、牡丹、かすみ草……。アーチに、華奢な東屋に、木陰にこれでもかと咲いた花が寄り添い、風に揺られて薫りを運んできた。ステラはこの庭が大好きだった。こんなに美しい庭は見たことがないと思った。
ヨナタンも好きでしょう? そう言おうとして、彼の方を振り向いた時、青年の顔に浮かんでいる表情にドキッとして、押し黙った。
彼は、眉をひそめて、むしろ泣きそうな表情でその庭を見ていた。どこか苦しげで悲しそうですらあった。
その瞳が見ていたのは、イタリアの郊外の町にあるヴィラの庭ではなかった。現在、咲き乱れている花でもなかった。
「ねえねえ、パリアッチオ、この花。一緒に球根を植えたやつだよね」
金色の髪の少年が満面の笑顔で言う。ぷっくりとした小さな手がもう一人の少年の掌をそっと包む。嬉しくて嬉しくて仕方ない、幸せな少年。遅咲きのチューリップの、艶のある赤と黄色の花びらを愛おしそうに撫でる。その中には秘密のようにおしべとめしべが見えている。二人でその花を覗き込んで微笑みあう。
「あ、そうだ。ママに花束を作ろう」
「そうだね、ピッチーノ。花の女神様になるくらいたくさんの花を贈ろう」
二人で摘んでも摘んでも、その庭の花は尽きることがなかった。白、ピンク、黄色、赤、薄紅、橙、紫、青……。花の薫りにむせ返るようだった。青空には翳りがなく、陽射しが強かった。遠く薔薇のアーチから、すらりとした影がこちらに向かってくる。
「まあ、二人ともここにいたのね」
鳶色の艶やかに輝く髪が、肩に流れている。金色の輝く瞳が微笑んでいる。あたりは薔薇の香水の薫りに包まれる。
「ママ! ほら、これ!」
「僕たち、花束を……」
「まあ、二人とも、本当にありがとう」
背の高い方の暗い鳶色の髪の少年は、金髪の少年が女性に駆け寄ってその首に抱きついたのを眩しそうに眺める。一幅の絵のような光景。完璧な美。
「まあ、ピッチーノ。あなたは本当に赤ちゃんね」
それから、彼女はたくさんの花を抱えて立っている少年の方にも顔を寄せて、その頬に優しくキスをした。
何かを口にしようとした時に、向こうから駆けてきた年配の女性が、それを遮った。
「まあ、皆さん、こんな所に。若様、イタリア語の先生が書斎でお待ちですわ」
彼は、その女性、マグダ夫人が持ってきたニュースに失望の色を見せた。
「でも、まだ時間は……」
「そうですが、先生をお待たせはできませんわ。奥様、そうでしょう?」
「パリアッチオ。マグダ夫人の言う通りだわ。さあ、お行きなさい」
そう言って、彼女はもう一度、濃い鳶色の髪の少年の頬に優しくキスをした。マグダ夫人と一緒に城の方へと向かいながら、少年はもう一度花園の方を振り返った。二人が笑いながら花を摘んでいた。青い空。眩しい陽射し。楽しげな歓声。
「さあ、若様。イタリア語の授業が終わりましたら、お母様と、それから小さい若様とお茶を召し上がれますよ」
「ヨナタン?」
その声で、彼は我に返った。
「大丈夫、ヨナタン?」
ああ、そうだった。僕はヨナタンで、ここはイタリアの……。肉の入った紙袋の重み。それからステラの心配そうな顔。金色の瞳。
「私、悪いことしてしまった? このお庭、嫌だった?」
ヨナタンはステラの方に向き直ると、優しく笑って首を振った。
「そんなことはないよ。本当に綺麗な花園だ。連れてきてくれてありがとう」
そう言うと、ステラの前髪を、その柔らかい金髪をそっと梳いた。鳥のさえずりが小さい少年の笑い声のように聞こえた。
(初出:2013年5月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスとアプリコット色のヴィラ
今回、ちょっとしたゲストに登場いただいています。山西左紀さんのところのエス(敬称略)です。イタリア語でネット小説を書いているアントネッラのブロともになっていただきました。左紀さん、快くキャラを貸し出してくださいまして、どうもありがとうございました。
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夜のサーカスとアプリコット色のヴィラ
コモ湖の西岸を走る国道はさほど広くない。そして、例によって、道には雨が穿ったひび割れや小さな穴があった。そこを巨大なトラックが走ると、ガタガタと地震が起きたかのような音がするのだった。
湖畔の美しいヴィラにすむ裕福でスノッブな隣人たちに、その騒音は当然不評であった。アントネッラも好きとは言えなかったが、少なくとも毎月の第一月曜日だけは例外だった。通販会社「Tutto Tutto」で頼む商品は、毎週月曜日に大型トラックでこの湖畔を通る。なぜ第一月曜日に届くようにアントネッラが注文するのかと言えば、運転手に理由があった。ひきがえるに酷似しているために、秘かに《イル・ロスポ》と呼んでいるバッシ氏がこの地域を担当するのは、月初だけなのだ。
隣人たちは、安物のカタログ通販「Tutto Tutto」など利用したりはしなかった。買い物はミラノでするもの。その時間も金銭的余裕もたっぷりあるのだから。そうでないものは、コモ湖畔にヴィラを持ったりはしないのだ。
隣人たちは、門の閉ざされたアントネッラの住むアプリコット色のヴィラの庭を覗き込んでは、すこし眉をしかめる。それは、まるでいつまでも買い手の付かない空き家のようだった。手入れが行き届いていないというのではなく、全く手を入れていない荒野のような庭だった。
チャンスがあって、ヴィラの中に足を踏み入れることのできた者は、さらに驚くだろう。大きな五メートルもの高さのあるエントランスも、その脇にある大広間や控えの間、キッチンやかつては使用人が控えていたと思われる小部屋も、蜘蛛の巣や埃にまみれて、石飾りは剥がれ落ち、壁紙は色あせて破れていた。つまり、廃屋同然なのだった。
二階にもかつては豪華な寝室だったと思われる部屋がいくつもあったが、そこも同様の有様だった。わずかに、洗面所と小さなレトロな浴槽のある古い浴室だけは、なんとか使えるような状態になっていた。というのは、そこは実際に使われていたからだった。
アントネッラは、しかし、普段はその階にはいなかった。小さな螺旋階段を登っていくと、その上に小さな物見塔があった。そう、まるで東屋のように、コモ湖を見渡す、かつての展望台だった。そこは階下のような木の床ではなくてタイルが敷き詰められていて、かつてはお茶が飲めるように丸テーブルと籐製の椅子がいくつか置いてあっただけだが、アントネッラは小さな彼女のアパートから運び込んできた全ての家財をここに押し込んでいた。木製のどっしりとしたデスクには年代物のコンピュータと今どき滅多に見ない奥行きのあるディスプレイ、ダイヤル式の電話などが置いてあった。小さな冷蔵庫や本棚、携帯コンロと湯沸かしを上に置いた小さい食器棚、それからビニール製の衣装収納などが場所を塞ぐので、ベッドは省略してハンモックを吊るし、デスクの上空で眠るのだった。
このヴィラの最後のまともな持ち主はアントネッラの祖母だった。彼女は二十年近く老人ホームで過ごし、ただ一人の身内であるアントネッラにこのヴィラを残してこの世を去ったのである。慎ましく暮らすだけの収入しかないアントネッラにはこのヴィラをちゃんと維持することはできないのだが、どうしても売る氣になれなかったのは、子供の頃に過ごしたヴィラのこの屋根裏部屋からの光景を失いたくなかったからだった。
アントネッラは、天涯孤独であったが、そのことを悲しく思うような精神構造は持っていなかった。父親から受け継いだドイツ的論理思考と、母親から受け継いだイタリア式楽天主義が、じつに奇妙な形で花ひらき、このコモ湖のヴィラで至極満足した生活を送っていた。
この小さな屋根裏部屋は、彼女の全ての宇宙だった。ここは彼女の住まいであり、仕事場であり、趣味の部屋でもあった。仕事はこの電話。趣味はこのコンピュータ。アントネッラはにっこりと笑った。
アントネッラは電話相談員だった。かつては大きな電話相談協会で仕事をしていたが、どうしても彼女だけに相談したいという限られた顧客がいて、このヴィラに遷る時に独立したのだ。そう、回線費用は高い。つまり相談料は安くない。けれど、なによりも「誰にも知られない」ということに重きをおくVIPたちには費用はどうでもいいことだった。
彼女の顧客のほとんどはドイツ語を話した。そして、彼らは相談をしているのではなかった。アドバイスを必要としているわけでもなかった。彼らはとにかく抱えている秘密を口に出したいだけなのだ。どれほど多くの人間が、言いたいことを言えないでいるのか、アントネッラは驚いた。
たとえば、隣の庭から勝手に伸びてくる植木をことあるごとに刈ってしまう男からは、定期的にかかってきた。自分の息子がどれほど美しくて賢くて有能かを言いたくてしかたない老婦人がいた。姪への断ち切れない恋心を長々と語る老人がいる。姪にはそろそろ孫が生まれるというのだから、いい加減幻滅してもいい頃だろうに。婚約式に初めて会った未来の花嫁の姉に一目惚れしてしまったという青年。前衛的すぎて意味がさっぱり分からない詩を朗読する男。別にこんなに高い回線で相談する必要もないだろうと思うものばかりだが、彼らは誰にも知られないということにはいくらでも払うというのだった。
それから、有名な女優からも定期的にかかってきた。主に、現在つき合っている男のことで、タブロイド紙が知ったら大変な金額を積むだろう内容を詳細に語ってくれるのだった。自然保護活動で有名なある作家は、実は昆虫の巣をみつけては破壊する趣味があった。さらに、彼は狩猟料理が大好物なのだが、もう二十年も口にできてないと、何十分も訴えてくるのだった。
アントネッラは、電話をとり、黙々と話を聞く。顧客は満足して電話を切る。その繰り返しで、彼女の中にたくさんの人生が積もる。女優や作家の話は無理だが、誰にでも起りそうなたくさんの話は、彼女の中で新たな形をとって出ていく。それが彼女の趣味である。インターネット上でイタリア語の短編小説を書いては発表するのだ。
アントネッラには親しいネット上の友人がいる。エスというペンネームのもの書きで、主にSF小説を書いている。マリアと名乗っているアントネッラは、作品の公開前に必ずエスに読んでもらう。
「こんばんは、マリア。『風の誘惑』って、素敵な題名ね。南風が吹くと、昔去った恋人のことを思い出してしまう老婦人のお話、本当にロマンティックだと思うわ」
「こんばんは。エス。ありがとう。陳腐すぎないかって、心配だったの。あなたの〝フラウンホーファー炉〟みたいな独創的な発想がうらやましいわ」
「あら、マリア。あなたの小説の醍醐味はいかにも実際にありそうなことを書くことじゃない? よく深みのある話を次から次へと思いつくなあと、とても感心しているのよ」
だって、事実なんだもの。事実は小説より奇なり。ここには書けないけれど、本当に面白い話はもっとたくさんあるのよ。
アントネッラがエスにすら口外できない話を語るのは三人のVIP顧客であった。一人目は先ほどの女優。もう一人は欺瞞に満ちた例の作家。そして、三人目はシュタインマイヤー氏だった。
シュタインマイヤー氏は、かなり有名な政治家だ。かつては警察幹部だった異色の経歴を持っている。政敵が多いのでスキャンダルは御法度だ。それなのに、妻は口から生まれたごとくにおしゃべりで、しかも当の本人も職業上で得た秘密を話したくてしかたない困った性質を持っていた。彼がアントネッラの顧客となったのは、今から十年以上も昔のことだった。まだ警察にいた頃である。
ありとあらゆる奇妙な事件があった。解決した事件もあれば、迷宮入りになった事件もあった。真実に近づいたと思われるのに、時の権力者の介入で捜査を打ち切らなくてはならなかった事件もあった。その逐一を、アントネッラは聞いていた。それと同時に政治家としての彼の人氣を失いかけないような告白も聞いていた。
「たった一目見た時から、どうしても忘れられないのだよ。真の理想の女性というのだろうか。甘酸っぱい思いに胸が締め付けられる」
日本のアニメに出てくる女の子に恋をしたと真面目に語るのだ。五十五歳のひげ面の名士が。アントネッラは、吹き出しそうになるのを必死でこらえながら、告白に耳を傾ける。これで、彼は明日からまたしばらくすっきりとして仕事に励み、アントネッラは再び安心して「Tutto Tutto」の注文サイトで氣にいった商品の注文ボタンをクリックすることができるのだ。
「ごめんください。Tutto Tuttoです。ご注文の品をお届けに来ました」
《イル・ロスポ》の低い声がエントランスから響く。
「いつも通り、上がってきて。コーヒーとお菓子も用意してあるわ」
「はい」
《イル・ロスポ》は、慣れた足取りで屋根裏部屋に入ってきた。商品の箱を入り口の戸棚の脇に置き、わずかに残された足の踏み場を上手に渡って、いつも通りに用意された籐の椅子にぎしりと腰を埋めた。アントネッラは、丸テーブルを挟んで座っている。ほっそりとした体にアプリコット色の安物のワンピースを身に着けている。もちろんTutto Tuttoの商品だ。ブロンドの髪は銀髪への道のりの半分くらいで、化粧っけの全くない白い顔に、茶色い瞳がいたずらっ子のように煌めいている。外見だけでいうならば特に心惹かれるタイプでもないが、彼にこんなに親切にもてなしをしてくれる客は多くなかった。だから、月初めの月曜日は彼も楽しみにしているのだった。
「待っていたのよ。さあ、話してちょうだい。例のおかしなサーカスで、先月おこったことをね」
アントネッラは、運転手のひきがえるそっくりの顔が動き、彼女の期待している話をはじめてくれるのを厳かに待った。チルクス・ノッテの移動の度に《イル・ロスポ》が仕入れてくる、サーカスの人間模様だった。新しい長編小説の題材にしようとしているのだ。とくに、謎の道化師ヨナタンと、彼に夢中の娘ステラのことは、何度聞いてもワクワクしてしまう。最近マッテオという青年が入団してきて、ステラを追い回していると言う。どんな面白い展開があったのか、この一ヶ月、待ちきれない想いだったのだ。
「そうさね。狼騒ぎがあったらしいですよ」
《イル・ロスポ》は、どうしてこの女性はこんな話が好きなんだろうと、半ば呆れながら、先月の移動の時に仕入れた情報を語りだした。アントネッラは、頷きながらメモを取った。
(初出:2013年6月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと黄色い幸せ
このお話を最初から読んでくださっている皆さんは「いい加減、どっちなの? ヨナタン、はっきりしろよ」と思われているんじゃないかと思います。冷たいんだか優しいんだかわからない「のらりくらり野郎」は、今回珍しくメッセージ性のあることをやっています。ま、それでも「のらりくらり」ですけれど。
ようやく半分過ぎましたね。今日の分を入れて、あと十回で完結ですよ。もう少々、おつき合いくださいませ。
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夜のサーカスと黄色い幸せ
マッテオの力強い腕が鉄棒をしっかりとつかむ。風を切るようにして、スピードを上げ、揺れるブランコの上で鮮やかな大車輪を繰り返す。スペクタクルあふれる演技は好評だった。彼の若い肢体は多くの女性ファンを作った。大胆で躍動感あふれた動きは、ロマーノはもちろん、生徒には厳しいジュリアをも満足させた。自信を持ったマッテオは演目の事についても進んで意見を言うようになった。
「え。デュエット?」
ステラはとまどった。子供の頃からずっとイメージしていたのは、一人でブランコに乗る事だった。そして、その孤高なブランコ乗りを憧れに満ちた演技で道化師が追ってきてくれる、その事ばかりだった。
「そうよ。幸いあなたとマッテオは昔からの知り合いで、体操の教室でもずっと一緒だったって言うじゃない。普通よりも早くデュエットのコツもつかめると思うのよ」
ジュリアはにっこりと笑った。彼女の愛したたった一人の男、相方であったトマがブランコから落ちる事故で亡くなってから、彼女は一人でブランコに乗ってきたが、ジュリアにとって一人ブランコはあるべき姿ではなかった。
「ねえ、ヨナタン。どう思う?」
舞台の端で黙々とジャグリングの練習をしている青年に、ジュリアはにこやかに問いかけた。大成功をおさめたマッダレーナの演目へのアドバイス以来、ジュリアは演目のアイデアについてはヨナタンの意見を尊重するようになっていた。ステラは不安な面持ちでヨナタンの答えを待った。
「そうですね。確かにデュエットはシングルより華やかでしょうね。マッテオなら投げ技も早くマスターできそうですし」
ヨナタンが反対してくれる事を願っていたステラはがっかりした顔を見られないようにうつむいた。やっぱり、薔薇を持って追いかけてきてくれるのは、仕事だからなのね……。
デュエットが決まり、ジュリアによるブランコのレッスンはマッテオとの合同になった。そして安全確認のために控えるのは、エミーリオの役割となった。その代わりに、ヨナタンはマッダレーナの新しい演目に出演する事になった。マッダレーナにちょっかいを出し彼女を守ろうとするライオンに怯えて逃げ回る役回りだ。もちろん、デュエットを公演に出せるようになるまでは、現在の一人ブランコと薔薇を持った道化師の演目は続き、マッテオは大車輪の演技を続ける。マッダレーナも人氣のレカミエソファに寝そべるセクシーな演技を続行する。でも、いつかは薔薇はなくなってしまう。ステラは泣きたくなった。
「そうじゃないでしょう。もっと勢いをつけて飛ばないと、マッテオだって受け止められないでしょう?」
ジュリアの厳しい叱咤が飛ぶ。マッテオの腕の中に飛び込むのがどうのこうの言っている場合ではないのはわかっている。命綱がついているとはいえ、落ちたら大けがをする事だってあるのだ。練習ではネットが常に広げられている。でも、本番では危険を感じたエミーリオが広げるのが少しでも遅れたら……。
「なあ、ステラ。お前はそんなに怖がりじゃなかったじゃないか。三年前のイタリア選手権での跳馬の演技を思い出せよ」
マッテオが語りかける。怖がっているわけじゃないわ。それに、あの時はチルクス・ノッテに入るって夢のために飛んでいたんだもの。ステラは涙を拭った。
ステラは首を伸ばして、ヨナタンの姿を探した。彼はちょうど舞台の反対側でロマーノの指導でマッダレーナとの演目の練習をしているところだった。
「そうだ、そこで嫌がるマッダレーナに抱きつこうとする」
ロマーノが模範演技で抱きつくと、マッダレーナは片眉を上げて腰にまわされた団長の手をはたいた。団長は笑って、ヨナタンに同じ演技をするように言った。
ヨナタンは肩をすくめて、マッダレーナに馴れ馴れしく抱きつこうとする。マッダレーナは団長にしたような嫌悪感は示さずにほんのわずか体をよじってみせた。まるで本当の恋人同士がじゃれあっているように見えたので、ステラは心臓をフォークでぎりっと傷つけられたように感じた。
「ステラ! 何をよそ見しているの」
ジュリアの声にはっとすると、マッテオが既に勢いをつけてブランコの上で逆さまになっていた。タイミングを間違えて飛び立ったステラはなんとか三回転をこなしたがマッテオの手に届かず、ネットへと落下した。
「ステラ!」
ステラはしゃくり上げながら泣き出した。ジュリアは頭を振って、今日のレッスンを打ち切ると言った。こんなに集中できないのでは、レッスンにならない。同時にロマーノも二人に今日の練習はここまでと言って、怒り狂うジュリアをなだめるために出て行った。
「なあ、ステラ。あんなにタイミングがズレてちゃ俺にだって、どうにもできないぜ。飛ぶ前にこっちを見てくれよ」
ネットを片付けながらマッテオが言う。ステラは泣きながら、つぶやいた。
「だって……」
「だってじゃないだろう」
厳しい声がするのでマッテオとステラが同時に顔を上げると、ヨナタンが近くに歩いてきていた。
「ヨナタン……」
「ステラ。サーカスはお遊びじゃない。一瞬一瞬が命に関わる危険をはらんでいる事ぐらいわかるだろう」
「ごめんなさい。ちゃんとやろうとしたの、でも、今日は……」
「何があっても演技の時は集中する事、それが出来ないヤツは、この職業に向いていない。だったら、大怪我をする前にやめたほうがいい」
その厳しい言葉にショックを受けたステラは、もっと激しく泣きながら大テントから走って出て行ってしまった。
「ステラっ」
慌てて追おうとするマッテオの襟首をはっしとマッダレーナがつかんだ。
「な、なんだよっ。離せよ。あんな状態にしておいたら、今夜の演目にも差し支えるだろっ」
マッダレーナは首を振った。
「あんたが行っても、大して役には立たないわよ」
それからヨナタンに向かって言った。
「ねえ、あんたの言った事は完膚なきまでに正論だけれど、心理学的にはあまり好ましくないわ。マッテオのいう事にも一理あるのよ。子供みたいに見えても、女心って複雑なんだから」
ヨナタンは肩をすくめてステラを探しにテントを出て行った。マッダレーナはそのヨナタンの背中をじっと見つめていたが、我に返ったマッテオが襟首にかけられた彼女の手を払って憤懣やるかたなく食って掛かったので、そちらを見た。
「なんだよっ。またあいつに曖昧な態度をされたら、ますますステラは身動きとれなくなるじゃないかっ。僕の方がずっとステラの事を……」
「それはどうかしら」
マッダレーナは、あまり勢いのない様相で答えた。いつもはきついマッダレーナらしくない態度だったので、マッテオは少しうろたえた。
「なんだよ」
「自分の方を見てほしいって、あなたをこんなに想っているって迫ることだけが愛じゃないわ。そんなのは、子供のおもちゃの争奪戦と変わらないもの。時には相手のために心を鬼にしなくちゃいけない事だってあるのよ。それに、自分の意に染まぬ決断を相手に促さなくちゃいけない事も……」
マッテオは、自分の愛情が子供っぽいと言われたのも同然だったので、腹を立ててその言葉の裏側を考えてみようともしなかったが、マッダレーナはそっと、自分の左の二の腕に触れた。ちょうど、先ほどヨナタンが、コミカルな演技でつかんでいたあたりだった。
サラサラと水音が爽やかな川縁の土手に座り込み、ニセアカシアの幹にもたれてステラはしゃくり上げていた。ヨナタンの言葉は、意地悪なんかではなかった。その通りでステラ自身がよくわかっていた事だった。
ステラは「サーカスのブランコ乗り」という職業を選んだのではなかった。ただ、ヨナタンの側に来たかっただけだった。子供っぽい憧れと思い込みに流されてきただけだった。普通と違ったのは、そのためにありえないほどの努力を重ねてきてしまった事だった。いまやステラはチルクス・ノッテから給料をもらって働くプロで、ヨナタンと一緒に出る演目以外はやりたくないなどという自由はない。ましてや彼が他の女性と同じ舞台に立っているだけでまともな演技が出来なくなるなど許される事ではなかった。
他の誰か、たとえば団長やマッテオに同じ事を指摘されたとしたら、素直に反省できただろうか。自信はなかった。マッダレーナにいわれたとしたらさらに反発したに違いない。でも、悲しかった。ヨナタンは「白い花と赤い花をくれた」。それ以来ステラにとってヨナタンは運命の人になってしまっている。馬鹿馬鹿しい子供のおとぎ話なのはわかっている。けれど、舞台の上での紅い薔薇が自分にとって大きな意味を持ってしまっている事を、どうする事も出来ない。実生活で恋人にしてもらえないのに、これまで取り上げられてしまうのは耐えられそうになかった。
誰かの走ってくる足音がして、ステラは身を固くして顔を覆った。泣いているのを見られるのは恥ずかしかった。
「ステラ……」
びくっとして振り向くと、そこにはヨナタンが立っていた。ステラはあわてて涙を拭って取り繕おうとしたが、かえってたくさん涙が出てきてしまった。
「ご、ごめんなさい。わかっているんだけれど……。でも、もう紅い薔薇がなくなっちゃうかと思うと……」
ヨナタンはため息をつくと、ステラの隣に座った。あたりは色とりどりの小さな野の花が咲き乱れていて、花の絨毯のようになっていた。
「シングルの演目が完全になくなるわけじゃない。ローテーションでデュエットが増える、マッダレーナも別の演目が増えるっていうだけの事だ。僕たちは観客を、繰り返し観に来てくれる人たちをも楽しませなくちゃいけないだろう?」
「それは、わかっているの。それに、『白い花と赤い花』のおとぎ話と現実をごっちゃにしてもいけないってことも。でも、わかっていても悲しくなってしまうの……」
ヨナタンは泣きじゃくるステラを半ば哀れむようにそして半ば愛おしそうに見ていたが、やがて言った。
「白い花と赤い花がそんなに大切なら、黄色い花にはどんな意味があるんだ?」
思ってもいなかった言葉に、ステラは顔を上げた。そして少し不安な心持ちで答えた。
「知らないわ。おとぎ話には一度も出てこなかったもの」
ヨナタンは手元の鮮やかな黄色い花を手折ると、ステラに渡して言った。
「じゃあ、自分で意味を探せ。おとぎ話ではなくて、君の人生なんだから」
ヨナタンはいつものように優しく微笑んでいた。その黄色い花は、演技でくれる紅い薔薇とは違っていた。演技中の道化師としての彼からではなくて、彼自身からステラがもらった三本目の花だった。自らの意志でステラの人生に関わってきてくれている証。ステラの心臓は早鐘のごとく高鳴った。
その晩の興行で、ステラは絶好調だった。出演者たちと、観客の何人かはステラが髪にいつもはつけていない黄色い花をさしている事に氣づいたが、それと彼女の演技の変化の関連についてはまったくわからなかった。ただ一人、その花の意味を想像する事のできたマッダレーナは、興行のあと言葉少なくライオン舎に向かうと、長いあいだ心ここにあらぬ様子で雄ライオンヴァロローゾの毛繕いをしていた。
(初出:2013年7月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスとターコイズの壷
さてさて。今回の話はほとんどが過去に属するものです。「極彩色の庭」で出てきた二人の少年の話が、もう少し詳しく開示されています。続けて読んでくださっている方にも多少わかりにくい書き方をしているこの小説、それでもサーカスの仲間たちよりも読者の方が多く知っている状態になってきています。
来年の初夏を予定している最終回までに、ステラの恋の行方、ヨナタンの謎、そしてブルーノの悩みの三つの問題を終息させていきます。
ちなみに毎月一定数あるこのブログの検索キーワードに「シルク・ド・ソレイユ アレグリア 歌詞」というのがあります。この小説の構想をする時にイメージした曲を私が訳した記事(「Alegria」の歌詞を訳してみた)なのですが、その中の「Vai Vedrai 」の歌詞がこの過去の物語の骨格になっています。ま、歌詞読んでも謎は解けませんけれど。
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夜のサーカスとターコイズの壷
「その小さなサーカスには、背の低くて鼻の真っ赤なピエロがいました」
鳶色の髪をした少年が、はっきりと絵本を朗読した。
「白いサテンのだぼたぼのつなぎ服には鼻とそっくりの赤い水玉がたくさんついていました」
金の髪、青い目をした小さな少年は、嬉しそうにその朗読に耳を傾けていた。そして、すっかりそらで憶えている続きを、もう一人の少年と一緒に唱和した。
「ピエロは、ただ
二人の笑い声が、天井の高いホールに響いた。
それは城の中でも特に美しい部屋で、白い漆喰に複雑に浮き出た飾りはすべて金で縁取りされていたし、色とりどりの牧歌的で晴れやかな絵が壁面と天井を覆っていた。ピカピカに磨かれた大理石の床には、数カ所紅い絨毯が敷かれていて、少年二人はそこに座っていたのだ。
鳶色の瞳の少年は、青い瞳の少年の求めに応じて、絵本を朗読している。大好きな絵本。小さな手が、大好きな挿絵の上をそっとたどる。それから、本を支えているもう一人の手にいき、白いシャツで覆われた腕を通り、頬に触れる。
「ほら、ここにもいる。パリアッチオ!」
金色の髪が揺れてクスクス笑いが響く。鳶色の瞳も笑ってその小さな指を捕らえる。
「やめて、ピッチーノ。くすぐったいよ」
二人の少年は頭一つ分くらい背丈の違いがあったが、実のところ歳の差は一つだった。鳶色の髪を持つ背の高い方の少年は、使用人からは若様と呼ばれ、女主人ともう一人の少年からはパリアッチオと呼ばれていた。背の低い方の少年は金髪に青い瞳で、ピッチーノと、もしくは小さい若様と呼ばれていた。本当は二人とも学校に通っている年齢だったが、城の中から一歩もでない生活をしていた。若様の方には家庭教師が何人もついていて、今日は古典、午後からは数学、明日はイタリア語と科学という具合に学校に行く以上の厳しい教育がなされていた。
けれど、ピッチーノこと小さい若様の方は、かくれんぼをしたり、美しい庭で花を摘んだり、もしくは、奥様や若様が朗読してくれる絵本に耳を傾けて、機嫌良く日々を過ごすのみだった。小さい若様はあと何年経とうともイタリア語の先生に教わることはできないだろうと診断されていた。文字を憶えることはできない。絵本以上の複雑な言葉を理解することもできない。けれど、少年はいつも幸福に満ちていた。
ルネサンスの巨匠たちが、ピッチーノの姿を見たら、きっとインスピレーションに揺り動かされて、素晴らしい天使の絵や幼きキリストの絵を描いたことだろう。白くふっくらとした肌にほんのりとピンクがかった頬。その柔らかくて滑らかな様に誰もが触れたくなる。アクアマリンのようにキラキラと輝く瞳が向けられると、その透明さに吸い込まれてしまいそうになる。明るく弾んだ笑い声。人懐っこくて、とくにパリアッチオが、そして、奥様が大好きで、ためらうこともなくぎゅっと抱きついてくる。その屈託のない天真爛漫さが、見るものの全ての顔をほころばせた。
「パリアッチオ。秘密を守れる?」
「うん。何だい、ピッチーノ?」
「あのね、あそこの壺にね」
ピッチーノが指差す先には、とても大きなターコイズ色をした壺があった。どこかの東洋の国で大切に窯から姿を現したとても高価な磁器で、耳を寄せてそっと爪で叩くと、楽器のように澄んだ音がした。けれど、奥様も執事も、ここで遊んでもいいけれどあの壺の周りで取っ組み合いをしたりして壊してはならないと何度も言っていた。
「何をしたの?」
「パリアッチオと僕の絵をね。こっそりと入れたの。僕たちが、いつまでも一緒にいられるようにって」
パリアッチオはちょっと口を尖らせてみせたが、クスクスと笑う少年につられて、笑い出してしまった。二人は、今までずっと一緒にいたわけではなかった。二人がこの城ではじめて引き合わされてから、まだ一年少ししか経っていなかった。冬の朝、雪に反射した光がとりわけ明るくこの大広間ではじめて顔を合わせて、おずおずと自己紹介をした。二人は、すぐに仲良くなった。これまで別々の場所にいたのが信じられないほど、親密な関係を築いた。対照的な見かけの二人の少年が共にいる光景は一幅の絵のように美しい光景だった。城の女主人である奥様は二人が一緒にいるのを見るのが好きだった。
「いいよ。僕たち二人の秘密だよ。見つかったら、とても怒られると思うし」
「うん。一緒に怒られてくれる?」
「うん。あげる」
パリアッチオは知っていた。たとえ悪戯が発覚しても、だれもピッチーノを本氣で怒ったりはしない。彼のやることは、本当に無害で、天使のように愛くるしいのだ。そっと、音もしないように願いを込めた絵を壺に隠した少年を、天におわします父なる神も微笑んで見ていたに違いない。地上は楽園ではないけれど、ピッチーノのいるところだけはいつも平和で愛おしかった。
パリアッチオ自身は、天使ではなかった。城で「若様」と使用人たちに持ち上げられているけれど、王子様のような楽な日々ではなかった。
「あなたはいずれアデレールブルグを背負って立つお方ですから」
そう言われ学校で義務教育を受ける同世代の子供たちの何倍もの努力を強いられていた。苦手な英語と物理にはとりわけ厳しい先生が付けられた。花を摘んで笑うピッチーノの横で、綴り帳にドイツ語をぎっしりと埋めていかなくてはならなかった。日曜日は授業がない代わりに、神父のところで宗教問答に耳を傾けなくてはならなかった。
アデレールブルグ夫人のピアノに合わせて歌いたい。一緒に花を摘んで笑いたい。ゆっくりと絵を描いて、それをプレゼントしたい。ピッチーノと一緒に、ピッチーノのように。パリアッチオにはよくわかっている。彼にそれが許されないのは、彼の方がピッチーノよりも恵まれているからだと。もう少し高い知能があるから。
「パリアッチオ」
落ち着いた美しい声がした。鳶色の髪と金色の瞳をした美しい女性、そう、この城の女主人であるアデレールブルグ夫人が静かに広間に入ってきた。
「ママ!」
ピッチーノが走って抱きつく。彼女は愛おしげにピッチーノの頬にキスをして、それから少し遅れて近寄ってきたパリアッチオの頬にも手を伸ばした。彼女の唇が頬に触れる時に微かに薔薇の香りが移ったように感じられた。
「イタリア語の時間よ。先生が書斎でお待ちよ」
「はい」
「授業が終わったら、食堂でお茶にしましょうね」
「はい」
パリアッチオは素直に戸口に向かったが、立ち去りがたい想いでアデレールブルグ夫人とピッチーノを振り返る。「ピエロとサーカス」の絵本を開き、読んでくれるように頼むピッチーノ。彼を愛しげに見つめながら絵本を受け取る夫人。二人の笑い声は、廊下を歩いているパリアッチオの背中に届く。瞳にほんのわずかに、悲しげな光が宿る。
「ヨナタン?」
マッダレーナの声に彼ははっとした。
「このペンダントが、どうかした?」
マッダレーナはその宵、水色のロングスカートを着て大振りのトルコ石のペンダントをつけていた。夕闇の中で、ふと目についたそのターコイズが、彼を記憶に引きずり込んでいた。あの壺と同じ色だ。ヨナタンは眼を逸らした。
「すまない。じっと見たりして」
「見ていなかったわよ」
マッダレーナは、ふうっと煙を吐くと、煙草を落として、サンダルのかかとで火を消した。
「見ていたのは、ここじゃない、そうでしょう?」
ヨナタンは何も答えずに、胸のポケットから携帯灰皿を取り出し、火を消した。
「そんな泣きそうな顔をしてまで、何もかも隠さなくてもいいのに。別に名前と住所を言えってわけじゃないんだから」
「泣きそうな顔をしていたのか?」
「自分でわかんないの?」
「していたかもしれないな。言ってもしかたないことなんだ。もう、手の届かない遠くの話だ」
(初出:2013年8月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと紺碧の空
今回は、褐色の逆立ち男ブルーノに関する件です。大して話が進むわけではないのですが、まあ、チルクス・ノッテの仲間同士の関わり方がわかるかもしれませんね。次回以降は、最終回まで毎回話がどんどん進むようになります。なんて、毎月言っているような……
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夜のサーカスと紺碧の空
晴天が続いていた。巷では誰一人まともに仕事をするつもりのない八月。夏休みに浮かれたイタリア上空を太陽の馬車が勤勉に移動していく。「人びとの休みは我等が繁忙期」こういうときだけはまともな経営者らしい発言をするロマーノに大きく反論する団員はいなかった。
実をいうと契約上チルクス・ノッテには一ヶ月の有給休暇があった。次の興行のプランの発表される前に申請すればいいことになっていた。実際に双子は毎年夏に二週間とクリスマスに二週間、一週間ずつずらして休んだし、ダリオは時々一週間ほどいなくなった。ちゃっかりもののマッテオに至っては、入団したてにも関わらずすでに九月の一週から休暇を申請していた。
ステラもそろそろ夏休みのことを考えようと周りを見回したが、ステラの知るかぎり絶対に有給休暇を申請しないメンバーが幾人もいた。団長ロマーノ本人、帰るあてのないブルーノとヨナタン、シチリアで離婚した妻といざこざがあって以来二度と帰らなくなったと噂のルイージ、それに家族がおらずライオンの世話を誰かに頼むのが嫌なマッダレーナだった。演目変更以来、ヨナタンとマッダレーナが親しくなっていくのが心配で、ステラは結局二週間の休暇の申請をしかねていた。
ダリオが休暇な上、移動で夕方の興行がないその日、昼の興行が終わったら街の食堂に行こうと言い出したのは確かブルーノのはずだった。ところが皆が私服に着替えて、さらに舞台点検を終えたヨナタンが出てくるまで待っても集合場所にブルーノは来なかった。
ヨナタン、マッダレーナ、マッテオ、マルコ、ルイージ、そしてステラの六人は、しばらく待っていたが、しびれを切らしたマルコがちょっと見に行った。そして、大テントを覗くとすぐに戻ってきた。
「ポールだ。待ってもしかたないよ」
すると、マッダレーナとヨナタン、そしてルイージはあっさりと動き出した。
「おい。少し待ったら」
マッテオが、ちょうどステラが言いたかったことを代弁した。マルコがその二人を追い越しながら言った。
「当分降りてこないよ。待っていたら、僕らが喰いっぱぐれてしまう」
ブルーノがなぜポールの上に登るのか、ステラはようやくわかりはじめてきたところだった。前回マッテオがその理由をマルコたちに問いただし、あけすけにステラに語ってくれたからだった。ブルーノは団長の夜伽をさせられているというのだ。そして、その後にはいつもポールの上に登ってしばらく降りてこない。高いポールの上から遠くここではないどこかをじっと見つめているというのだった。
団長が、妻であるジュリアがいるのにも関わらず、どうしてブルーノとそんなことをしなくてはいけないのか、ステラには納得がいかなかった。それにブルーノは男なのだ。
「つまり男色ってことだよ。そういえば、あいつ、最初のころ僕にも言い寄ってきたぜ。触るなセクハラ親父って一喝したら、笑っていたから冗談だと思っていたけれど」
ステラは思い出した。いつだったかマッダレーナが言っていた。
「ヨナタンがいまだに団長にオカマ掘られていないのも、その手の験かつぎの結果だしね」
ということは、ヨナタンはそういう目には遭っていないんだろうけれど。みんなはよく知っているんだ。ブルーノが、違法入国して他に行くところがないのをわかっていて、団長が嫌なことを強制しているんだって。ステラは憤慨した。
「ステラ、何か怖い顔しているけれど、ラビオリ、冷めちゃうよ」
隣に座ったマルコが指摘した。ステラが我に返ると、反対側の隣に座っているヨナタンが黙ってパルメザン・チーズの入れ物を差し出していた。
「いただきます」
そう言って、他のメンバーはラビオリを食べだした。
「何か言いたそうね」
ワインを飲みながら、マッダレーナがフォークを振り回した。
「ねぇ、談判しましょう!」
ステラはがたっと立ち上がって、仲間を見回した。
「何を?」
「ブルーノのことよ。ブルーノは立場が弱くて、嫌って言えないんでしょう。私たち仲間で団結して、団長にやめてください、かわいそうでしょうって言うのよ」
マッダレーナはクスッと笑った。マルコとルイージは何も言わずにそのままラビオリを食べ続けた。
「僕は、ステラの意見に賛成だな。なんていうのか、労働組合的な一致団結って悪いことじゃないと思うし」
そう言ったのはマッテオだった。潜在的な次のターゲットとしては他人事ではない。
ヨナタンは、ヨナタンは優しいから、賛同してくれるわよね。そう思ってステラは横を見た。ヨナタンは静かに言った。
「ステラ。ラビオリが冷めるから、早く食べなさい」
どうして? ステラは泣きたくなった。
食事が終わると、なんとなく白けたまま、全員がテントに戻っていった。ブルーノはまだポールの上にいるらしい。何もできないことに不甲斐なさを感じて、それにヨナタンが賛同してくれなかったことが悲しくて、ステラはそっと裏山を登っていった。
そこはこの興行がはじまってすぐにステラの見つけた場所で、一面に花の咲く草原の傍らに静かに涼をとれる木立があった。ステラは地面に座ってしばらく草原を眺めていた。明るくて輝かしい夏だった。真っ青な空が広がっている。世界が曇りのない明るさを見せつける。ステラは世の中の不公平について考えた。
アフリカで何があったのか知らなかったが、ブルーノは幸せを求めてここに来たはずだ。そして、一生懸命働いている。どこか外国で何があったのかわからないが、ヨナタンもここに流れ着いた。やっぱり一生懸命働いている。性格は違うけれど二人とも邪悪ではなくていい人だと思う。でも、苦しむときはそれぞれで、問題をオープンにして、協力しあっていこうとしない。ヨナタンはあんなに優しいのに人には一切関わろうとしない。大好きでも仲間以上の近さに寄って行くことができない。どうしてなんだろう。私には何もできないのかなあ。
かさっと音がして、ステラの近くに影が落ちた。ステラははっとして顔を上げた。立っていたのはルイージだった。ステラは急いで涙をぬぐった。
「ステラ。一緒していいかい」
ルイージが言った。ほとんど口を利いたことのないルイージが、わざわざ話しにきてくれたことに驚きながら、ステラはこくんと頷いた。
「さっきの話?」
「そうさな。お前さんは、納得できていないようだったし、他の連中は説明が苦手みたいだから」
「説明?」
ルイージは黙って頷くと、ステラの斜め前にある大きな岩に腰掛けた。ルイージも、人と関わるのが苦手なほうだった。だから、それぞれのことには無理して踏み入らないチルクス・ノッテの団員たちの態度をありがたく思ってきた。けれど、彼は良く知っている。その仲間たちの態度は冷たいのではない。本当に助けが必要な時、例えばルイージが何度か起こしてしまった「無花果のジャムがなくなった」事件の時に、仲間たちは一致団結して走ってくれるのだった。ルイージは忘れていなかった。最後の「無花果ジャム騒ぎ」で、入団したてのステラがどれほど骨を折ってくれたか。
「お前さんは、本当にいい子だ。ブルーノは時にお前さんに辛辣な事を言ったりするが、それを根に持ったりせずに、ひたすら彼のためを思って何かをしてあげたいと思っているんだろう?」
ルイージの静かな語りはステラの高ぶった心を落ち着かせていった。
「なあ、ステラ。お前さんはようやく17歳になったところだ。まだ、ボーイフレンドと長くつき合ったりしたこともないんだろう?」
ステラは黙って首を振った。学校にいた頃、同級生は次々とボーイフレンドができたと話をしてくれたが、ステラはヨナタン以外の人とつき合うなどということを考えたこともなかった。ルイージは笑って続けた。
「学校で習ったかもしれないけれど、全ての動物には子孫を残そうって本能がある。そして、それは時には頭で思っていることとは違う形で人間を支配してしまうことがあるんだよ。お前さんが、そしてわしが、誰かを愛している、大切にしたいっていう想いとは全く別の次元で」
ステラは少し不安になって、言っている事を理解しようと、その顔を見上げた。ルイージは彼女が理解できているか確認しながら、心配するなといいだけに頷いて続けた。
「その本能は、たぶん女よりも男のほうに強くて、その人をもっと支配してしまうじゃないかと、わしは思うんだよ」
「それは、その……」
「お前さんには好きな人がいるだろう?」
ステラは大きく頷いた。ルイージだって知っているはずなのだ。ステラがヨナタンに夢中なことは。
「もしお前さんの心から好きな人が、その本能に支配されて、お前さんがしてほしくない嫌な事をしたらどう思うかい」
ステラはとても驚いた。そして、ゆっくりと確かめるように言葉を選んだ。
「それは、つまり、ヨナタンが、変なことをしたがるってこと?」
ルイージは眼を丸くして、それから笑った。
「違う、違う。そういう話ではないんだよ。わしが言いたいのは。ヨナタンの話じゃない。ヨナタンにどんな性的嗜好があるかなんてわしにどうしてわかるかね。これは一般論だ」
ステラは少しだけ安堵したが、まだ話の主旨がつかめていなかった。
「う~ん。わからない。でも、どうしても嫌なら、嫌って言うかな。でも、それで嫌われるのはつらいな」
「そうだろう。どんなに好きな人にでも、されたくないことがあって、そのことで思い悩んでしまうことはあるんだ。そしてね、ステラ。まだ若い君にはわからないかもしれないけれど、その反対もあるんだよ。それで悩んでしまうこともあるんだ」
ステラはルイージの言っていることを理解しようとした。「好きな人に嫌なことをされる」の反対ってことは「好きじゃない人に嫌でないことをされる」ってこと? え?
「もし、ブルーノが本当に嫌だと助けを求めてきたら、ヨナタンもマッダレーナもみんな一致団結して協力するに違いないよ。だけれども、それまではわしらがどうこうすることじゃないんだ。わかるかい? どうしたいか、まずブルーノが知らなくちゃいけない。だからああやってポールの上で考えているんだ。わしらは待つしかないんだよ」
そういうと、ルイージは放心したように考えるステラをその場に残してまたテント場へと戻っていった。
ステラは大人の世界にはまだ自分の知らない秘密があるのだと思った。嬉しいことと嫌なことが同じであるかもしれない奇妙な世界。ヨナタンも、その大人の世界に属していて、ルイージと同じように考えていたから賛成しなかったんだろう。少し遠く感じた。それでも彼を好きであることは変わらないと思った。雲ひとつない青空のように明らかなことだった。
(初出:2013年9月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスとブロンズ色の仮面
この連載を始めた時から、一度やってみたかったコメディア・デラルテ風の演目をヨナタンとマッダレーナにやってもらっています。もっとも主役は雄ライオンのヴァロローゾですが。そして、いじけたステラはライオン舎へ。このくだりは、実は山西左紀さんのコメントがヒントになってできたエピソード。ブログの交流からストーリーがふくらむのって楽しいですよね。
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夜のサーカスとブロンズ色の仮面
赤、青、緑、黄色の原色が強烈な印象を与える。舞台が暗転するまでは青い厳かな光のもとで、ブルーノがストイックな逆立ち芸を見せていたので、突然カラフルな光が満ちて観客たちの多くは思わず目をこすった。
明るくて楽しくて、しかも時代かがった演出。コメディア・デラルテの恋人たち、ブロンズ色の仮面を付けたアルレッキーノとアルレッキーナが馬鹿馬鹿しい恋愛模様を広げる。もっとも、このアルレッキーナは手に鞭を持っている。恋人たちの楽しい語らいの時間に、どういうわけだかライオンが襲ってきて、本来ならば恋人を救うべく勇敢に戦うべきアルレッキーノの代わりに、アルレッキーナが鞭を振るっては特別な芸をさせているからだ。
チルクス・ノッテの新シリーズが始まった。新しい演目の目玉は、ステラとマッテオによるデュエットのブランコ、そして、マッダレーナとヨナタンによるコメディア・デラルテ風のライオン芸だった。
はじめは、鞭を使って襲ってくるライオンから恋人アルレッキーノを守っていたアルレッキーナは、何度かじゃれあっているうちに、ライオンと仲良くなってしまう。楽しく芸をする二人。それを見て慌てるアルレッキーノ。その無様な様子に観客は大喜びだった。
観客も、受けを見て大満足の団長夫妻も大いに喜んでいたが、マッダレーナとヨナタンは常に非常に緊張していた。マッダレーナ一人の時は他のライオンも舞台に乗ったがこの演目に使えるライオンはヴァロローゾだけだった。犬のように従順にマッダレーナに従っているが、そこにいるのは放された本物の雄ライオンだった。間違った動き一つで、ヨナタンの命は危険に晒される。ヨナタンはマッダレーナと一緒にヴァロローゾと同じ空間に立つ所からはじめて、腕を差し出す、急に横を向くなどの一つひとつの動きをゆっくりと着実に訓練してきた。
舞台ではみっともない動きの演技を面白おかしくしているが、そのブロンズ色の仮面の奥から二人は常に真剣にアイコンタクトを続けて、舞台をこなしていた。練習と舞台をこなすと二人はいつもくたくたになり、口数も少なかった。もっとも彼の口数はもともと多くなかったのだが。
マッダレーナとヨナタンが一緒にいる時間はずっと多くなり、ステラに対して優しい氣遣いをしたり、以前のように二人で散歩に行ったりする時間もほとんどなくなった。それどころか、食事の後にヨナタンとマッダレーナは町に出かける事が少なくなり、共同キャラバンで例の古いラジオから流れるクラッシック音楽をしばらく聴いて、それからさっさとそれぞれのキャラバンに戻って寝てしまう事が多くなったのだ。
今宵もそうだった。他のメンバーはみな町のバーに行ったのだが、二人が行かないと聞いてステラは行くつもりになれなかった。かといって、二人で静かにラジオを聴いている共同キャラバンに入っていく事も出来ず、しばらく周りをウロウロとしていた。
ステラはそっとその場を離れると、うなだれて自分のキャラバンに向かったが、そのまま寝る氣もちになれなくて、テント場の中をぶらぶらと歩いた。口を尖らせて行ったり来たりしていたが、ライオン舎から灯りが漏れていたので覗き込んだ。マッダレーナが消し忘れたのだろう。それでもライオンたちは眠っていた。ただ一頭、ヴァロローゾだけが、すっくと首を持ち上げてステラを見上げた。「何か用か」と言っているかのようだった。
「用はないの」
檻から五歩の所に近寄ってからステラは言った。ヴァロローゾは唸ったりしなかった。初夏に助けてもらったお礼でステラが大きな肉のかたまりをプレゼントした時、彼はいきなりがっついたりせずに、まずマッダレーナを見た。
「プレゼントだって。食べていいのよ」
ライオン使いが言うと、今度はステラの方を見た。
ヴァロローゾはライオンなのだが、時々人間が化けているんじゃないかと思うくらい、動物的でない所があった。右の前足で肉をポンと触り、それからステラを見た。ステラが頷くと、ゆっくりと肉を引き寄せてガシっと食いついた。周りのライオンたちがガルルと唸った。ステラは思わず後ずさったが、マッダレーナはクスクスと笑っただけだった。ヴァロローゾは鋭い牙で肉を引き裂くと小さな固まりを咥えてから大きく頭を振り、斜め前の檻めがけて投げ込んだ。そこには一番若くてまだ鬣(たてがみ)も生えていない仔ライオンのアフロンタがいて、飛んできたおこぼれを喜んで食べた。それからヴァロローゾは他のライオンたちの唸り声は完全に無視して自分の肉を悠々と食べ、丁寧に前足を舐めるとステラの方を見て、ゴロゴロと喉を鳴らした。それからヴァロローゾはステラを見ても唸らなくなったのだ。
さて、はじめてマッダレーナのいない時にライオンと対峙して、ステラは用心深く届かない程度に檻から離れてライオンに話しかけた。
「ずるいな。今の共演者は、ヴァロローゾ、あなたなんだよね。以前は、ずっと、私だったのに」
それから、ちょっと横を向いて、本当はライオンに対してではないやっかみを口にした。
「舞台も一緒。練習も一緒。それに、煙草を吸ったり、音楽を聴くのも一緒……」
ステラは下を向いて唇を噛んだ。私がヨナタンでも、マッダレーナの方がいいと思うだろうな。あんなにきれいで、大人で、煙草も吸えるし、それにラジオから流れてくる音楽のこともよく知っていて。ヴァロローゾはじっとステラを見ていたが、小さくゴロゴロと喉を鳴らした。ステラはまぶたの辺りをこすって言った。
「ごめんね。ヴァロローゾ。八つ当たりしちゃったね。また、愚痴をいいに来てもいいかな?」
ライオンは再びゴロゴロ喉をならして、交差させた前足の上に頭をのせてステラを見上げた。
共同キャラバンに鍵をかけてヨナタンとマッダレーナは自分たちのキャラバンのある方へとゆっくりと歩いていった。月が高く上がっていて、テントの赤と青の縞がくっきりと見えた。
「涼しくなってきたわね」
「そろそろ暖房を出さなくちゃいけなくなる。外で煙草を吸うのもつらくなるな」
そう言うと、ポケットを探った。切れているらしく肩をすくめたので、マッダレーナが「はい」といって自分の煙草を差し出した。一本受け取って火を差し出すマッダレーナの近くに身を屈めた時だった。
大テントから黒い影が音もなく出てきて、もう少しで二人とぶつかる所だった。
「なんだよ、こんなところで、こそこそ逢い引きかよ」
ブルーノだった。どうやら今までポールに登っていたらしい。
「こそこそでもなければ、逢い引きでもないわよ」
マッダレーナが自分の煙草を取り出してくわえながら言った。
「けっ。そりゃ残念なこった」
「何が残念なのよ」
「お前は逢い引きしたいんだろ? ガキを出し抜いてさ」
ヨナタンは煙を吐き出して言った。
「失礼なことを言うな」
「ははあ、騎士道精神か。結構な事だよな」
「僕の事は、何とでも言うがいい」
するとブルーノは、ヨナタンの前にぐいっと近づいて言った。
「そのお坊ちゃんぶった言い方、虫酸が走るぜ」
「つっかかるの、やめてよ。あんたに関係ないでしょ」
マッダレーナが間に入って、腕を組んで言った。
腹を立てたブルーノはマッダレーナに手を上げかねない勢いで言った。
「お坊ちゃんを、お坊ちゃんと言って何が悪い」
ヨナタンはマッダレーナをかばうように場所を再び変えて二人の間に立った。思わず拳を上げたブルーノは冷静に見上げるヨナタンの顔を見て怯んだ。不意にいろいろな事が脳裏に浮かんだ。
団長が拾ってきたばかりの頃、まだ少年だったブルーノが同じように腹を立ててこの白人の少年を殴ったら、どういうわけだか次のショーで必ず失敗をした。偶然かもしれない。だが、しばらくしてトマの事故があった。
ブランコ乗りトマは次期団長の座を狙っていた。それなのに、急に団長が何の芸も出来ない少年を拾ってきた。もしかして、養子にでもして跡継ぎにするつもりかもしれない。そう心配して「追い出してやろうぜ」とブルーノに持ちかけてきた。ブルーノはショーでの失敗の事があり、悪い精霊に目をつけられると嫌だからといって断った。「弱虫め」と罵ったトマはその晩のショーでブランコから落ちて命を落とした。
ブルーノは「ほらみろ」と言った。あいつにはとてつもなく強い精霊がついているんだ。アフリカの迷信だなんて笑ったお前が悪いんだ、トマ。
それは全て単なる偶然だったかもしれない。だが、アフリカの血が流れるブルーノの頭には偶然などという言葉は存在していなかった。団長がこの男には絶対に手を出さないことも、マッダレーナやステラが夢中になるのも、人智を越えた精霊の力せいだとしか思えなかった。だから、急に怖くなってその拳を収めた。
「僕はただの道化師だ」
ブルーノの想いを知ってか知らずか、ヨナタンは月の光で青白く浮き上がる顔に夜のように秘密めいた瞳を輝かせて静かに言った。
ブルーノとマッダレーナは顔を見合わせて、それから同時に肩をすくめた。全く違う意味で、二人ともその言葉を受け入れていなかった。だが、それ以上は何も言わなかった。
(初出:2013年10月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと純白の朝
山西左紀さんのところのエスに再び助っ人をお願いしています。アントネッラは実は機械音痴。苦手なことをブロとものエスに助けてもらっているという設定です。左紀さん、大事なキャラを快く貸してくださり、本当にありがとうございます。
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夜のサーカスと純白の朝
橋の欄干が湿っていた。早朝にびっしりと覆っていた霜の華が燦々と輝く陽光で溶けたのだ。ステラは白いダッフルコートの襟を合わせてふうと息を吐いた。フェイクのウサギ毛皮風の縁飾りのついたこのコートはステラのお氣に入りだった。学校に通っていた最後の年のクリスマスに母親のマリが買ってくれたのだ。通販「Tutto Tutto」ではこういう可愛い服がお手頃価格で揃う。
「あっ。《イル・ロスポ》のおじさん!」
橋の向こうから歩いてきたのは、ひきがえるに酷似しているために誰にでも《イル・ロスポ》と呼ばれてしまう大型トラック運転手バッシ氏だった。
「おや、ブランコ乗りのお嬢ちゃん。今日はオフなのかい?」
「ええ。私の出番はないの。それで講習会に参加してきたのよ」
自分から団長夫妻に提案して、エアリアル・ティシューの訓練を始める事にしたのだ。テントの上に吊るされた布にぶら下がったり、包まれたり、回転したり、一連の動きを見せる空中演技だ。
紅い薔薇とシングルのブランコにこだわってぐずぐすするのはやめようと思った。泣いていてもマッダレーナとヨナタンが親しくなっていく事は止められない。だったら少しでも自立した演技の出来るサーカスの演技者となって、マッダレーナのように自身の魅力で振り向いてもらえるようにしたい。
ジュリアとロマーノは賛成してくれた。新しい試みは新しい演目に繋がる。興行を続けていくためには、目先の事だけでなく常に新しい挑戦が必要だ。
「そうか。熱心で偉い事だね」
《イル・ロスポ》に褒められてステラはとても嬉しくなった。
「あ。そういえば、私おじさんにお願いがあるんだけれど」
「なんだい?」
「あのね。この間の設営の時にTutto Tuttoのカタログを見せてくれたでしょう。あそこにあったセーターがとっても素敵だったの。ヨナタンへのクリスマスプレゼントにしたいんだけれど……」
「けれど……?」
ステラは少し顔を赤らめた。
「ほら、私、これといった住所がないでしょう?」
《イル・ロスポ》は笑った。
「大丈夫だよ。Tutto Tuttoの商品は定期的にワシが運んでいるのさ。ちょうど今度の月曜日はこのコモ地区の担当だから、テントに運んであげよう」
月曜日に約束通りに彼はテントに商品を持ってきてくれた。ちょうどステラが食事当番で共同キャラバンで準備中だったので、マッテオが案内して連れてきた。
「まあ、素敵にラッピングまでしてくれたのね。どうもありがとう!」
ステラは大喜びだった。
「ねえ。ダリオに頼んであげるから、お昼ご飯食べていかない?」
《イル・ロスポ》は首を振った。
「とても残念だけれど今日はアントネッラに招待されているんだ」
「アントネッラって誰?」
「ヴィラに住んでいる物好きなお客さんさ。いろいろ話を聞きたがるんだ。趣味で小説を書いているらしくてね。今夢中になっているのはこのサーカスだよ」
「サーカスの何が面白いの?」
「人間関係の話さ。ブランコ乗りの乙女の恋愛話や謎の道化師の素性なんかだろう」
ステラはくすくす笑った。
「ちょっと待てよ」
横で聴いていたマッテオが口を挟んだ。《イル・ロスポ》とステラは顔を見合わせた。
「なあに?」
「それって、個人情報に関わる事じゃないか。どんな小説を書いているのか調べないと。なあ、《イル・ロスポ》。そのアントネッラのヴィラを教えてくれよ」
マッテオはその日の夕方にもうアントネッラを訪ねて行った。《イル・ロスポ》にあらかじめ言われなかったらとても人が住んでいるとは思えないほど荒れ果てたヴィラに、彼はずんずんと入っていった。中はもっと驚きで、まるで廃墟、蜘蛛の巣だらけで人が住んでいるなんて信じられなかった。《イル・ロスポ》に言われた通りに屋根裏まで辿りつくと確かにそこだけは居室になっていたが、その乱雑さは目を覆うばかりだった。どこに立っていいのやら。
「あなたがマッテオね。個人情報の心配をしているってバッシさんから聞いたわ」
アントネッラが言うと、マッテオは首を振った。
「あれはステラの前だから、そういっただけ。個人情報なんてどうでもいいよ。僕には前からあんたと共通の興味があってさ。その事について意見を交わしてみたいと思ったのさ」
「何に?」
「あの道化師の正体」
アントネッラは吹き出した。ブランコ乗りに横恋慕した青年が行動を起こしたって訳ね。ますます小説が面白くなりそう。
マッテオはアントネッラの態度なんかおかまいなしに続けた。
「まずは、僕の推理から話させてもらうよ。つまりね、ヨナタンはなんか犯罪組織に関係あるんじゃないかと思うんだよ」
アントネッラはその色眼鏡をかけた言い回しに多少警戒する。
「証拠もなしにそんな事決めつけるものじゃないわ」
マッテオはムキになった。
「何があろうと絶対に自分の事を話そうとしないんだぜ。団長に拾われた時に、絶対に何も話さないと頑張ったって話は有名なんだ。びしょ濡れで飢えてたからかわいそうだと親切に奢ってくれたって言うのにさ」
「あら。雨の日に拾ってもらったのね」
「違うよ。これも大きな謎の一つなんだぜ。雨不足で濡れる理由なんかなかった六月にびしょ濡れだったって言うんだから」
「それは……どういうことかしらね。何か……ひっかかるんだけれど」
アントネッラは、考え込んだ。何か具体的なアイデアがあるわけではないのだが、ものすごく重要な何かを忘れているような、そんなもどかしさがあった。十年くらい前、夏、びしょ濡れの少年……。
「まあいいさ。僕、もう行かなくちゃ。夜の興行があるからね。コーヒーをありがとう。おせっかいかもしれないけれど、この部屋、もうちょっと片付けた方がいいと思うよ。じゃ、また来るから」
マッテオは一人で言いたい事だけ言うと、階段を駆け下りていった。途中で「わっ」と言う声がしたので、二階あたりで土埃に滑って転んだのだろう。
アントネッラは、すっかり自分の中に入り込んで、それから五時間もあれこれ考えていたが、どうしてもどこに引っかかっているのかわからずに、あきらめてハンモックの上の寝床に横たわった。
ハンモックの上からは大きく育った樹に遮られずに、コモ湖がはるかに見渡せた。夜の水面に月が静かに映り込み、チラチラと黄金の光を揺らめかせていた。その揺らめく光を見ていたアントネッラは突然がばっと起き上がるとハンモックから飛び降りた。そうよ、湖だわ、夜の湖!
そして、電灯をつけると、「顧客情報整理ノート」の束を取り出して、デスクの上に載せた。探しているのは「シュタインマイヤー氏」の秘密に関するノート。ドイツ警察の未解決事件に関する告白だ。
「どこだったかしら、例の事件のノートは……」
半時ほどして、アントネッラはノートを見つけた。シュタインマイヤー氏の告白に興味を持って自分で切り抜いた新聞記事も一緒に挟まっていた。十二年の時を経てわずかに黄ばんでいる記事には、少々センセーショナルな題名が踊っていた。思った通り、それも六月だった。
「両親を殺害後、罪の意識に耐えかねて自殺か? ー ボーデン湖」
ドイツとスイス、オーストリアの国境に横たわるボーデン湖の遊覧船から、一人の少年が身を投げた。警察の調べによると、彼は遊覧船に知り合いの男と一緒に乗った。口論から自分の両親を殺害したと告白してきた少年を自首のために警察に連れて行く途中だったと言う。知り合いの男の制止を振り切って錯乱した少年が夜の湖へ飛び込むところを何人もの乗客が目撃していた。以上が新聞記事の内容だった。
少年の遺体は見つからなかった。元警察幹部で、現在は政治家であるシュタインマイヤー氏は、当時この事件の責任者だった。湖に飛び込んだのはイェルク・ミュラーという15歳になる少年で、新聞記事にあるようにその日、両親はナイフで刺されて殺害されていた。少年には多少変わった経歴があったが、目撃者の談から当初は警察も新聞記事で伝えられているように事件を被疑者行方不明のまま処理する方向でいた。だが、「少年は同乗していた男に拳銃で脅されていた」と匿名の情報者が電話をかけてきてから、シュタインマイヤー氏はこの事件を疑いだした。
「イェルク少年は、事件の四年ほど前から、ミュンヘン郊外のアデレールブルグ城に引き取られていた……未成年である当主のゲオルク・フォン・アデレールブルグ伯爵の遊び相手として……」
アントネッラは、殴り書きされた自分の字を読んだ。
「このボーデン湖事件の二日後に……伯爵は病死(享年16)……アデレールブルグは財団に……」
船に同乗していた知り合いの男とは、伯爵の叔父で、遺言によって設立されたアデレールブルグ財団の理事長に納まったミハエル・ツィンマーマンの腹心の部下だった。シュタインマイヤー氏は、二人の少年が突然死亡する事になったのをただの偶然とは思えなかった。本当にイェルク少年は両親を殺害したのか。彼は自殺に見せかけて殺されたのではないか。だが、名家アデレールブルグ家と、黒い噂は絶えないが政治家として活躍しているツィンマーマンを証拠もなしに疑う事はできない。事件の匂いがぷんぷんするのに、調べる事はできない不満を、彼はアントネッラに滔々と述べ立てたのだ。
アントネッラは時計を見た。二十二時半だった。顧客に電話をするような時間ではない。ましてや、アントネッラの仕事は電話を受ける事であって、顧客に電話をかける事ではない。彼女はコンピュータの電源を入れて、インターネットで十二年前のチルクス・ノッテの興行記録を検索する。彼女の常として、検索すると全く関係のないつまらない情報しか出てこない。十五分ほど頑張った後、彼女はため息をついた。そして、チャットアプリをダブルクリックした。
あ、ログインしている! ブログ上の親友、エスの名前の横に緑色のアイコンがついていた。
「エス、今、邪魔していい?」
カタカタカタ。現在、エスさんが書き込み中です。
「あら、マリア。あなたがログインしてくるなんて珍しい。どうしたの?」
「また困っているの。今から十二年前に、チルクス・ノッテというサーカスがミラノで興行していた日にちを調べられる?」
「ちょっと待ってて」
アントネッラは、ぼうっと画面を見ていた。五分ほどすると、再び画面が動き始めた。エスさんが書き込み中です。カタカタカタ。
「わかったわよ。ここをどうぞ」
書かれたURLをクリックすると、それはミラノ市エンターテーメント広報委員会の「今月の催し物一覧」のアーカイブページだった。ドンピシャ。日程表の中にチルクス・ノッテの名前も見える。イタリア語ネイティヴではないエスにこんなに早く検索できるってのはどういう事なんだろう。やっぱり、私はネット社会に向いていないのしら。
「ありがとう。それと、もしかして、その月のヨーロッパの各都市の天候なんてのも調べられるものなの?」
「待ってて」
今度は二分だった。カタカタカタ。パッ。URLをクリックしたらヨーロッパ主要都市の天候と気温、降水量が一覧になったページだった。すごい、こんな統計、どうやって検索するんだろう。
「ありがとう、エス。とても助かったわ」
「どういたしまして。作品ができたら、きっと読ませてね」
ミラノ興行は六月九日から十日間だった。そしてボーデン湖の事件があったのは六月十一日。合致する。そして、五月十九日から六月十四日まで、ドイツ、スイス、オーストリア、北イタリアは毎日晴天だった。
(初出:2013年11月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと漆黒の陶酔
それと、かつてバトンでちらっと開示したある人物のセリフが今回ついに登場です。
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夜のサーカスと漆黒の陶酔
クリスマスの喧噪が過ぎ去った後、ご馳走の食べすぎで疲れた顔をした人びとが、つまらなそうに街を行き来するようになる。石畳は冷え込み、夏の夜は遅くまで賑わう広場も中途半端に溶けた雪が出しっ放しのスチール椅子の上に汚れて光っているだけだ。カーニバルの狂騒が始まるまでのひと月間、サーカスの興行を観に隙間風の吹くテントへと向かう観客は恐ろしく減る。
とはいえ、完全に閉めてしまうと、団員や動物たちの食い扶持がかさむ一方なので、「チルクス・ノッテ」は昼の興行を中心に営業していた。ステラは開いた時間にエアリアル・ティシューの訓練に余念がなく、その横ではヨナタンが次の興行でいよいよ披露する事となった八ボール投げを根氣づよく訓練していた。
マッテオは大車輪の大技を訓練している事もあったが、時おり外出の身支度をして出て行った。
「どこに行くの?」
「ちょっと。コモまで」
ステラはマッテオの様子が少し氣になる。なんかコソコソしているのよね。企んでいる感じ。まあ、いいけれど。
「ねえ。この間からマッテオは何をしているんだと思う?」
大テントに戻ってヨナタンに問いかけようとすると、もういなかった。
「知るかよ。ガキはあっちへ行け。どうでもいい事を嗅ぎ回るんじゃない!」
野太い声が上から降ってきた。ブルーノだ。ポールに登っているらしい。虫の居所が悪い時に来ちゃった。ステラは慌ててテントから逃げだした。すると後ろからあざ笑うように言葉が落っこちてきた。
「お前の大好きな道化師は、共同キャラバンで逢い引き中だよ! 邪魔すんなよ」
ステラは走ってテントから離れた。それから、共同キャラバンの方を見た。また音楽を一緒に聴いているのかな。それとも……。見に行くつもりになれなかった。どうしてなんだろう。氣にしないようにしようって、決心したのに。頑張ろうと思ったんだけれどな……。まぶたの辺りを拭いながら、ステラは反対の方に歩いた。
ライオン舎が見えた。ヴァロローゾ、いるかな。話、聞いてもらおうかな。ステラは雄ライオンの姿を探して覗き込んだ。あ、いたけれど、寝てる……。
ヴァロローゾはステラが檻の前に立つと、ちらと瞼をあげたがすぐにまた閉じた。そして、彼女がその前に立ち続けても動こうとしなかった。当てが外れたステラは所在なくライオン舎を見回した。二匹の雄ライオンと二匹の雌ライオン、そして仔ライオンのアフロンタが目に入った。他のライオンたちは横たわって目を瞑りじっとしていたが、アフロンタだけはステラに興味を示して柵の方に向かってきた。
仔ライオンは少し大きめの猫のようだ。それでいて、犬のように人間に媚びた目つきをする。つぶらな瞳で見つめられ、小さな舌がヒュルリと動くと、思わず笑顔になってしまう。遊んでほしいとねだられたようだ。ステラはアフロンタを撫でようと柵の中に手を伸ばした。
すると、ものすごいスピードで小麦色の固まりが柵の方に向かってきた。眠っていたはずの母親ライオン、ジラソーレだった。我が子に害をなそうとしたと判断したのだろう。わずかの差でステラが手を引っ込めたので噛まれずに済んだ。けれど、ライオン舎はすごい騒ぎになった。他のライオンたちが全て目を覚まし、いくつもの咆哮が轟いた。ステラは耳を塞いでうずくまった。
二分もしないうちに、鞭の音が空氣を引き裂いた。それと同時にライオンたちは吼えるのをやめた。突然の静寂は、ステラには轟音よりも恐ろしかった。怖々、顔を上げて振り向くと、明るい外からの逆光を背負ってマッダレーナが立っていた。その後ろには、息を切らして走ってきたヨナタンのシルエットも見えた。
マッダレーナはつかつかと歩み寄ると、ステラの襟首をつかんで立たせた。
「ここは私のいないときは立ち入り禁止だって、よくわかっているはずよね。いったい何のつもりなのよ」
「ご、ごめんなさい。何もしていないの……」
「何もしていないのに、この騒ぎ? 出て行って! 二度とここに近づかないで」
ステラは泣きながら、ヨナタンの脇をすり抜けて自分のキャラバンへと帰っていった。
「ステラ!」
言い訳をしても無駄だった。近づいていけないのは知っていた。理由を訊かれても話せない。ヴァロローゾに愚痴を聞いてもらいたかったなんて。アフロンタと子猫と遊ぶみたいに遊びたかったなんて。馬鹿みたいだ、どんなに背伸びをしても、私はどうしようもなく子供だ。ヨナタンも呆れたに違いない。馬鹿だ、馬鹿だ。
ステラが走り去った後、興奮したライオンたちを順に毛繕いして落ち着かせると、マッダレーナは自分のキャラバンに戻って煙草に火をつけた。ヨナタンが近づいてきて言った。
「少し歩かないか」
彼女は煙草をくわえたまま、黙って頷くとゆっくりと大テントの方へと歩いていった。この時期は日が暮れるのが早い。四時だというのに、周りはすでに夕暮れに染まっていた。
「あの子はわかっていないのよ。あそこにいるのは大きな猫じゃないのよ。ライオンなの」
「僕は、君を諌めたいわけじゃない」
「私が十三のときだったわ。近隣に住む間抜けな男の子が、勝手にライオン舎に入り込んだのよ。そして、子供のライオンを抱こうとしたの。あたりまえだけれど、母親ライオンが飛んできてね。その子は金切り声を出したわ」
ヨナタンは、ぎょっとしてマッダレーナの横顔を見た。
「私の父さんが、ライフルを持って飛んできた。その男の子はちょっと足をかじられただけで済んだけれど、ライフルの音にライオン舎はパニックになった。そして、妻を守ろうとしたジャスィリが父さんに飛びかかったの。私の母さんもライフルでジャスィリを脅そうとしたけれど、もともとライフルなんてまともに使えない人だったから、すぐにやられてしまった」
マッダレーナは、深呼吸をして空を見上げた。両親は助からなかった。そして、ジャスィリはすぐに処分された。少女は楽園から追い出され、それからずっと楽ではない浮き世を歩き続けている。ヨナタンは、大人のたしなみとしていつもは隠しているマッダレーナの疼みを感じた。
「あの子は何もわかっていないのよ。もし、私のライオンたちが人に危害を加えたら、私は彼らを処分しなくてはならない。だから、嫌われたって、ひどいと言われたって、私は……」
「ステラは、君を嫌ったりしていない。むしろ尊敬しているよ」
「どうかしら。いいのよ、わたし世界中の人間に愛されたいなんて思っていないから」
やはりきちんと謝ろうとマッダレーナを探して歩いてきたステラは、ヨナタンの声を聞いて、あわててテントの影に身を潜めた。夕闇の中で、ステラの心には十一歳のときの、忘れられない光景が浮かび上がった。一人でそっと煙草を吸っていた、優しく孤独なヨナタン。その横顔に夕陽があたっていた。今、目にしている光景は、その絵にとてもよく似ていた。けれど、その脇に美しく憂いに満ちた大人のマッダレーナが立っている。ストロベリーブロンドに夕陽が輝く。今にも泣きそうな彼女が弱さをさらけ出している。ステラは項垂れた。松明の火がチラチラと背中に火花を届けて熱いが、つま先と心が冷えていった。
「そんな風に、投げやりになるな」
マッダレーナは、そういいながら、ヨナタンが別に意識を逸らしたのを感じた。
黙ってヨナタンの視線を追う。テントの向こうからチラチラと動く影を見つけてマッダレーナはそっと笑った。彼女は、意地悪な氣持ちになって、ことさら柔らかくヨナタンに近寄るとよく通る声を出した。
「じゃあ、私を慰めてよ。今晩、月があの山にさしかかる頃、あなたのキャラバンカーに行くから。ノック三回が合図よ。鍵はかけないでね」
走り去るステラの足音を聴きながら、ヨナタンは呆れたように言った。
「わざと嫌われるような事をしなくてもいいんじゃないか」
マッダレーナはクスクスと笑った。半分は本音なんだけれどね。言葉を飲み込む。
夜半。震える拳が月の光に浮かび上がる。トン、トン、トン。
カチャリと音がしてドアが開くと、力強い腕が彼女を中に引き入れ、すぐにドアが閉められた。完全な暗闇の中で、施錠される音が響く。そして、彼女を力の限り抱く。あきらかに、待っていたのだ。こんなに情熱的に切望して。
知らなければよかった。ヨナタンはこんなにマッダレーナの事を愛しているのだ。夢にまで見たひとの腕の中にいるのに、ステラの涙は止まらなかった。悲しくてつらくてどうしていいかわからなかった。
暗闇の中で、彼が小さくため息をつく。それから、くしゃっとステラの前髪を乱した。
「自分から男の部屋に押し掛けてきて、そんなに泣く事はないだろう? ステラ」
彼女は、仰天した。
「わかっていたの?」
「当たり前だろう。あの時うろちょろしていたから、絶対来ると思っていた」
そういってヨナタンはステラの額と、それから頬にキスをした。
彼女は慌てた。彼がマッダレーナと愛し合っていること、だから迫っても拒否される事しか予想していなかったので、キャラバンカーに入り込んだ後に何が起こるかは考えていなかったのだ。そもそも、マッダレーナのふりをして、どうするつもりだったのだろう。
どうしていいのかわからなくて硬くなっていると、わずかなため息とともに、彼が体を離すのを感じた。
「ヨナタン?」
カチャリと鍵の音がして、淡い月の光がキャラバンカーの中に入ってきた。彼の柔らかいシルエットが浮かび上がる。
「そんなに震えていちゃね……。次回は、ちゃんと覚悟をしてから忍び込んでおいで。さあ、おやすみ」
ステラは、とても幸福な氣持ちになって、泳ぐような足取りで自分のキャラバンカーに戻って行った。今までの百倍、いえ、百万倍、ヨナタンの事が好き。大好き。
ふわふわと去るステラの様子を目で追い、ヨナタンのキャラバンカーの扉の施錠の音がして静寂が戻ると、自分のキャラバンカーの前に立っていたマッダレーナは、山の上に差し掛かった十七夜の月に向かって煙を吐きかけた。今夜の星ときたら、まあ、寒々しい事。参ったわね。
ギシリと音がしたので暗闇の中に目をやると、それよりも黒く屈強な男のシルエットが浮かび上がっていた。何だって言うのよ、まったく。
「ガキをからかうのはやめろ」
「あんたに言われたくないわ。ちょっとは落ち込んでいるのよ、これでも」
「お前はブランコ乗りのために我慢するように生まれついているんだよ」
ブルーノが古傷にまで塩を塗り込んだので、マッダレーナはキッと睨んだ。
「じゃあ、あんたはオカマ掘られるように生まれついたってわけ?」
ブルーノはにやりと笑って「まあな」と答えた。マッダレーナは月の光に沈むブルーノの暗い顔色を覗き込み、星のように浮かぶ双つの眸を見つめた。
「じゃあ、今夜くらいは、お互いにその忌々しい運命に休日をあげない?」
そして、口の端を曲げて笑うブルーノを自分のキャラバンカーに押し込むと、自分も入ってカチャリと鍵をかけた。
(初出:2013年12月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと赤銅色のヴァレンタイン
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夜のサーカスと赤銅色のヴァレンタイン
聖ヴァレンタインの公演。珍しく紅い薔薇を持つ道化師とのシングルブランコだったのは、ジュリアからステラへの贈り物だったのかもしれない。
公演が終わり舞台の点検をするヨナタンを、ステラがいつものように眩しそうに嬉しそうに見ていた。それを感じたヨナタンは思わず立ち上がって、彼女を見た。
十二年前の宵の事を思い出した。ステラの母親マリの経営する小さなバルで、ひっそりと食事をとっていた彼の側に、六歳になったばかりのステラがやってきた。輝く金髪と琥珀色の瞳に、ヨナタンは思わず息を飲んだ。ピッチーノ……。出会った日に喜びを隠せずに微笑みかけてきた天使のような少年もまた、輝くような金髪をしていた。ピッチーノと二度と逢う事が出来なくなって一年が経っていた。もう忘れたはずだった。だが、ステラの無邪氣な笑顔がヨナタンを想い出に引きずり戻した。ピッチーノ。天使のようなピッチーノ……。
「次に逢ったら赤い花をちょうだいね」
白い花を受け取ったステラはヨナタンに言った。翌日の興行で、みなに嗤われている道化師が氣の毒で泣きそうになっているステラに、ヨナタンは約束通り赤い花を差し出してしまった。その時のステラの笑顔。十年後にすっかり大きくなって現れたステラの溢れるばかりの愛情。
ステラにとって赤い花と白い花のおとぎ話が特別だったように、ヨナタンにとっても彼女の金の柔らかい髪と見返りを求めずに注がれる愛情は特別だった。もう届かない遠くの過去の投影だと自分に言い聞かせていたはずが、いつの間にかなくてはならない大事な存在に変わっていた。ピッチーノよりも大切になっていた。
言葉にするのは苦手だった。何かをしてやれる立場にあるわけでもない。だが、この聖ヴァレンタインの日に、彼女が喜ぶのは何かを形にする事だと思った。この花? 舞台に使った薔薇? そんなものでいいんだろうか。ヨナタンは舞台の袖の一輪挿しから薔薇を抜くとステラに向かって声を掛けようとした。
その時、ものすごい勢いでやってきたのはブルーノだった。
「おい、それをよこせ!」
そう言って薔薇をひったくると、何も言えないでいるヨナタンとステラをその場に残して去っていった。
「あ。行っちゃった……」
ステラはくすっと笑った。ヨナタンは困惑して言った。
「薔薇……。明日買いにいくよ」
ステラはその意味を感じてぱっと顔を輝かせた。
「いいの。もう、もらったから。白いのも、赤いのも、そして黄色いのも」
その屈託のない様子にヨナタンは救われたような氣もちになった。ヨナタンは黙ってステラの額に口づけた。
ブルーノが薔薇を必要としたのはもっと切実にだった。
公演が終わるとマッダレーナはプレゼント攻めになった。そんな光景はチルクス・ノッテではただの年中行事だった。去年もスターのマッダレーナはファンからの花やチョコレートに埋もれていたし、その前の年はジュリアがプレゼントに埋もれていた。それをどうと思った事なぞなかった。それに、マッダレーナはブルーノの恋人とは言えなかった。
いや、外から見たら、二人は恋人と言ってもよかったかもしれない。というのは、あの晩以来ブルーノはいつもマッダレーナのキャラバンで眠っていたから。でも、それは愛しあっているからというわけではなくて、肌寂しい女と事情のある男の利害が一致しただけだった。
あの晩の翌日、マッダレーナは全くいつもと変わりなかった。そのことに、ブルーノはほんの少しがっかりしたが当然だと思った。この女が愛しているのはあの男だ。何かを望んだわけでもなかった。でも、その晩、ロマーノがブルーノのキャラバンにやってきて、当然のように中に入ろうとした。ブルーノは何故だかとても理不尽だと思い、小さな声で「いや、今日は……」と抵抗した。
「なんだね。他に予定でもあるのかね」
そう畳み掛けるロマーノに、ブルーノは言葉に詰まったまま、昨夜泊ったキャラバンを見た。煙草を吸っていたマッダレーナと目が合った。彼女は煙草を投げ捨てると自分のキャラバンの扉を開けた。行ってしまいそうだったが、思い直したかのようにはっきりとした口調で言った。
「団長。あんたがそこに泊るのは勝手だけれど、ブルーノは今晩もここに泊るから」
ぽかんと口を開けて目をしばたたかせるロマーノの横をすり抜けて、ブルーノは女のもとに走った。それから毎晩、ブルーノは当たり前のようにマッダレーナのもとに泊る事になったのだ。
それだけのはずだった。なのに、マッダレーナが多くの男たちからの花やプレゼントに囲まれて、麗しい笑顔で礼を言っているのを見ているうちに、ブルーノはおかしな心持ちとなってきた。そんな嬉しそうな顔をするな。俺に見せない顔をするな。俺も、何かをあの女にあげなくては。といっても今から町に行っても花なんかどこにも残っていないだろう。そうだ、いつも通り舞台に紅い薔薇があるなら……! ブルーノは考える前に行動していた。ようやくまともな思考ができたのは、真っ赤な薔薇を手にして息を切らしながらマッダレーナの前に立った時だった。俺は、いったい何をしているのか?
マッダレーナは、彼の手にある紅い薔薇を見て、笑顔を消した。いつもの余裕のあるふざけた態度が、潮が引くように消え去った。
彼は震えた。突如として悟ったのだ。この紅い薔薇はあの道化師のもの、つまり、この女が心待ちにしているものではないか。奪い取った花、かすめ取った関係。
つい数日前の宵、絹糸のごとくつややかな赤銅色の長い髪が、明かり取りの窓から射し込む満月の柔らかな光に浮かび上がっていた。彼はその髪と額にそっと触れた。どこからか、何とも形容しがたい優しくて柔らかい想いが浮かび上がってきて、それがなんだかわからなくて彼は戸惑った。そして、ふいに違和感が起きた。それに触れている自分の手が白くないこと。楽園の住人の白い肌、あの道化師の持つ、透き通るような肌ではないことに。
お互いに、ただ空間を埋めるためだけの関係のはずだった。彼女の心がどこにあろうがどうでもよかったはずた。そう、彼女があの男を愛しているのは、はじめからわかっていた。では、これは何だ。
のろのろとした彼の思考の中に、はじめて閃光のように何かが浮き上がった。情熱の時間も、ふざけた語らいのひとときも、どうして彼のことを渇かせ続けたのか。本当に欲しかったのは、全く別のものだったのだ。欲望の満たされる歓びだけではなく、肌のぬくもりの中にまどろむ安らぎでもなく。どこかもっとずっと奥から湧きだす疼きがあった。舞台にあふれる光にも似た、攫みたくてもつかめない何か。闇に渦巻く灼熱の情念。薔薇は奪えてもそこまでだったのだ。彼女は、その花が欲しかっただろう。でも、この手によってではないのだ。
マッダレーナは、紅い薔薇を手にしたまま、所在なく立ちすくむブルーノを見て戸惑っていた。それは、彼が感じたように、その薔薇の所有の移管に関してではなかった。目の前にいる、今のところ最も親しい関係を持っている、つまり、ほぼ毎晩を共に過ごしている男の、かつて見たことのない佇まいを感じたからだった。屈強な体と、粗野な言動の内側に絶対に見つからないように隠していた、おそらく彼自身も知らないでいたのであろう、傷つきやすい無防備な魂が剥き出しになっていた。それを彼女は彼の瞳の中に見た。
彼女の中につむじ風が巻き起こった。小さなかがり火だったもの、柔らかく平和に点っていたものが轟々と燃え上がった。雷鳴にあたったように唐突に、彼女もまた自分の心を悟った。
けれど、絶望して女の心の動きに感づく余裕のなかったブルーノは、紅い花を取り落とすとそのまま走り去った。マッダレーナは、プレゼントの山の中からゆっくりと立ち上がって、彼のいた所まで歩くと薔薇を拾って香りをかぐと、そっと微笑んだ。
「ブルーノは?」
ステラが訊くと、マルコが指を宙に向けた。
「また、ポールに登っているの?」
ヨナタンが頷いた。ステラはそっとマッダレーナを見た。彼女はあまり関心もない様子で頬づえをついていた。目の前に小さなコップが置かれていて、紅い薔薇が刺さっていた。わざわざヨナタンから奪ったあの花、どうなったんだろう。ステラは後ろを振り返ったが、ブルーノが戻ってくる氣配はなかった。
「食べよう」
ルイージが言った。そっとしておいた方がいいこともあるのだ。みな頷いて、手を付け出した。マッダレーナを除いて。彼女は頬づえをついたまま、黙ってその場に座っていた。誰も食べろと勧めたりはしなかった。
いつもなら我慢出来なくなって降りてくる頃になっても、ブルーノはやってこなかった。片付け当番のマッテオが戸惑いながら、いまだに食事に手を付けていないマッダレーナの前に立った。彼女はひらひらと手を振った。
「あたしが責任を持って片付けるから、このままにしておいてよ」
「OK。じゃ、よろしく」
みな、共同キャラバンを出て行った。ダリオに頼んで、調理キャラバンに特別に入る許可をもらうと、マッダレーナは何度かシチューを温めた。何とも言えない香りが鼻をくすぐる。食べてしまいたくなる誘惑を押さえて、マッダレーナは待った。
もう諦めて、これを食べたら片付けて寝ようと思っていた、五回目の時に、ギシリと足音がした。
「ダリオ。なあ、俺は本当に食欲がないんだ。こんな遅くまで、待っていてくれて悪いけれど」
ブルーノは短くなってしまったロウソクと、二人分の食器と、テーブルの中央に置かれた紅い薔薇を見た。シチューの香りのする方を見ると、マッダレーナがお玉を持って立っていた。
「さっさと座りなさいよ。こっちはお腹ぺこぺこよ」
「待っていたのか? お前が」
マッダレーナは肩をすくめた。
「聖ヴァレンタインの夜のディナーはあんたと一緒に食べたかったの」
それからちらっと壁時計を見てから付け加えた。
「あと40分しか残っていないから、早くして」
ブルーノは何がなんだかわからないまま、怯えた表情で彼女を見た。なんて言った? 聖ヴァレンタインの夜を一緒に過ごしたかったって? それは、つまり、その……。
さっきまで、全くなかった食欲が急に存在を激しく主張しだした。
「せっかく美味しそうだったのに、すっかり煮詰まっちゃったわ。あんたのせいなんだから、ダリオに文句を言ったら承知しないわよ」
マッダレーナがお玉で彼のスープ皿に注ぎ終わるのを待つまでもなく、ブルーノは皿に覆いかぶさるようにして食べだした。右手にスプーン、左手にパンを持ってほぼ同時にかぶりついた。そのとんでもない行儀に、彼女は片眉を上げたが、ふふっと笑うと自分も食べだした。暖まってきたのはシチューのお陰だけではないだろう。
食事が終わる頃になると、マッダレーナは再び調理キャラバンに行って、お盆を持って帰ってきた。いくつものデザートがその上に載っていた。ブルーノは首を傾げる。マッダレーナはにっこり笑った。
「ほら、みんながあんたのためにとっておいたのよ。なんてみんなに愛されている人かしら。これがステラの、ルイージの、それからヨナタン、マッテオ……」
一つだけ自分の前に置くと、マッダレーナは残りのすべてのパンナ・コッタをブルーノの前に並べた。彼は上目遣いに彼女を見ると訊いた。
「お前のは、くれないのか?」
彼女は呆れて言った。
「これだけもらって、まだ足りないの?」
「他の全部食べていいから、お前のをよこせ」
マッダレーナは雪だるまも溶けてしまうほどの笑顔を見せると、自分の前の器とブルーノの前の器を取り替えた。ブルーノは手の甲で目を拭いながら、デザートをすくった。
共同キャラバンの影から、ぱたぱたと走り去ると、ステラは煙草を吹かしているヨナタンの所へ駆けていった。
「マッダレーナと一緒に、ドルチェ食べてる! 大丈夫みたい」
ヨナタンは、嬉しくて仕方ない様子のステラをちらっと見ると言った。
「覗き見はよくない趣味だな」
それから、いつものようにステラの前髪をくしゃっと乱した。
(初出:2014年1月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと小麦色のグラス
で、本日は月末の定番「夜のサーカス」です。ステラと上手くいっていたはずのヨナタン。また面倒なことになってしまいました。いよいよこのストーリーも終わりに近づいています。今回ようやくドイツの政治家シュタインマイヤー氏が登場です。アントネッラとシュタインマイヤー氏のやっている謎解きに挑戦なさりたい方は、どうぞご一緒に。(謎ときってほどのことは、何もないんですけれどね〜)
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夜のサーカスと小麦色のグラス
「なんだって……」
チルクス・ノッテの団員たちは、団長ロマーノがぽかんと口を開けているのをはじめて見た。春の興行の方向性を話し合う会議で、ついでに今年の休暇のプランを知りたいと言うと、今まで休暇を申請したことのないブルーノがマッダレーナと立ち上がって宣言したのだ。
「夏に二人で一週間くらい休みたい」
「なぜ二人でなんだ。演目が限られて困るんだが」
ロマーノは多少苛ついた様相で難色を示した。するとマッダレーナは腕を組んで挑発的に微笑んだ。
「挙式とハネムーンってのは一人では出来ないのよね」
「ええ~!」
共同キャラバンの中は蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、ロマーノはショックを隠しきれずに棒立ちしていた。が、ジュリアがすばやく二人の元に来て、それぞれの頬にキスして祝福し、他の団員たちも大喜びでそれに連なった。
「やったな、やったな、ブルーノ!」
「おめでとう。本当によかったな」
普段はめったに笑顔を見せないブルーノが嬉しそうにはにかみ、マッダレーナはそのブルーノの逞しい腕にぶら下がるように腕を組み、皆の祝福を楽しんでいた。
「本当によかった! ね、ヨナタン」
会議が終わり、それぞれのキャラバンの方へと歩いている時に、ステラは道化師に話しかけた。ヨナタンは静かに微笑んで頷いた。
「ブルーノとマッダレーナ、カプリ島に行くんですって。青の洞窟でハネムーンなんて、ロマンティックでいいなあ。マッダレーナの花嫁姿、綺麗でしょうねぇ」
バージンロードをゆっくりと歩む美しい花嫁姿を想像しているうちに、ステラの想像の中ではいつの間にか花嫁がマッダレーナから自分の姿へと変わっていた。その白昼夢の続きで、ふと彼女は隣を歩いている大好きな青年の横顔を眺めた。そうよ、夢も未来も、こんなふうに……。
「ねぇ、ヨナタン。私もいつか、あんな風に幸せな発表してお嫁さんになりたいなあ」
ヨナタンはステラの方に顔を向けた。期待いっぱいに目を輝かせる少女と目が合った。彼は少し震えたように見えた。柔和で優しい表情が強ばって、微笑みが消えた。ステラは戸惑った。え? どうして?
短い沈黙の後、彼の唇がそっと動き、一度きつく一文字に結ばれた後、もう一度開いた。かすれた声がステラの耳に入ってきた。
「存在していない人間とは結婚できないよ……」
ステラはぞっとした。すっかり忘れていた。ヨナタンにはパスポートがなかった。どこから来たかや誰なのかも秘密だった。もちろん役所で結婚はできないだろう。でも、彼女にとってはそんなことはどうでもよかった。だから、考えもしなかったのだ。それで、慌てて言った。
「あ、ごめんなさい。そういうことじゃなくて……」
けれど、ヨナタンにとっては、それは別のことでもなければ、どうでもいいことでもなかった。
――僕が幸せになりたくて真実をねじ曲げようとしたから、彼らは犠牲になった……。また同じ事をするつもりか。全て諦めて死んだ人間になるつもりじゃなかったのか。何も知らない、疑う事を知らない、穢れないステラをどうするつもりだったんだ。
「僕が間違っていた。君のためにも、もう、僕には関わらない方がいい」
そういうと、すっと離れると自分のキャラバンカーに入って鍵をかけてしまった。
「ヨナタン、ヨナタン、どうしたの? そんなことで怒らないで! いやなら、もう、言わないから」
ステラが何を言おうと、彼は答えなかった。
それから、ヨナタンはステラに関わろうとしなくなってしまった。他の団員たちとはいつも通り多少距離のある普通の関係を保っていた。ステラにだけ親しくて微笑み、泣いていればそっと力づけていた優しい対応だけが完全に消えてしまった。演技上必要な時以外は口もきかず、視線を合わせることもしなくなってしまった。諦めの悪いステラが何度懇願しても同じだった。
「どうしよう。どうして? お嫁さんになんかなれなくてもいい、こんなのいや」
泣きじゃくるステラの様子がたまらなかったらしく、ダリオやルイージがそっとヨナタンに話をしようと試みたが、ヨナタンは首を振るだけだった。
「しばらくすれば、彼女も諦めて他の幸せを探すでしょう。そのほうがいいんです」
「なあ、ステラ。お前のしつこさは重々わかっているけどさ。あれから二週間も経っているじゃないか」
その晩、マッテオは食事当番だった。舞台点検が長引いて食事の遅れているヨナタンを待っているステラにいいチャンスだと話しかけた。彼は最近よく飲んでいるベルギービールの缶を傾けてとくとくとグラスに注いだ。小麦色の液体は綺麗な泡をつくってグラスを満たした。ステラはそのグラスを睨みつけた。
「うるさい。マッテオには関係ないでしょ」
「関係なくないよ。僕は、お前のことを子供の頃からよく知っている。疑うことを知らない純真なお前のことは氣にいっているけどさ。でも、時には眼を逸らさずに現実を見つめられるよう、手助けをしてやるのが本当の友情で愛情だと思うぜ」
「現実って何よ」
ステラはマッテオがいつもヨナタンに批判的なので、警戒しながら唇を尖らせた。
「パスポートがなかったのは、ブルーノも同じだろう。事情があって、正規の名前が名乗れないこと自体は、僕だってそんなに悪いことだと思わないさ。だけどさ、本当に大切な人には、その事情を話せないなんてことはないよ。あいつがそれをお前に話さないのは、一、お前を大して大切に思っていないか、二、どんな大切な人にも話せないとんでもない悪いことをしてきたか、そのどっちかしかないだろう。どっちにしてもあんなヤツやめた方がいいってことさ」
ステラは拳を振り上げてマッテオに挑みかかった。マッテオは、ビールがこぼれないようにグラスをそっとテーブルの上に置いて、それから余裕の表情でステラを見た。
「ほら、涙ぐんでいる。いくら怒っても、お前だって僕の話が正論だって分かっているんじゃないか」
「正論なんかじゃない! マッテオにだってわかっているはずよ。ヨナタンがどんなに優しい人か。悪いことなんかしてきたはずがないでしょう」
「どうかねぇ。お城の坊ちゃんで、何不自由なく暮らせる大金持ちが、こそこそ道化師のフリをして隠れているとしたら、何か犯罪が絡んでいると思っても……」
ステラはきょとんとした。
「お城の坊ちゃん……?」
マッテオはほんの少しだけしまったという表情をしたが、ちろっと舌を見せるとむしろ得意そうになって上を見上げた。
「マッテオ。ちゃんと言いなさいよ。何を隠しているの。この間からコソコソしていたでしょう」
ステラの追求に、マッテオは声を顰めた。
「まあな。実は、まだ決定的な証拠はないんだけどさ、かなりの確率で正しそうな推論を持っているのさ」
「どういうこと」
「あいつが誰かを偶然知った人がいるんだ。ほら、《イル・ロスポ》に教えてもらったコモ湖の小説を書くおばさんだけどさ。僕は、あの人の推論は間違いないと思うぜ」
「どんな推論よ」
「はっきりするまで内緒。でも全部説明がつくんだ。あいつが何者で、なぜ濡れて行き倒れかけていたかが。明日、また行くんだ。もしかしたら写真が手に入るかもしれないって言っていたからな。写真があればもう間違いないだろう?」
ステラはすくっと立ち上がって宣言した。
「私も行く」
「なんだよ。おまえ、いきなりあいつは悪者だって現実に直面するつもりになったのか? いいことだけどな」
「違うわよ。ヨナタンがああやって隠れていなくちゃいけないのには、何かちゃんとした理由があるのよ。それがはっきりしたら、助けて上げられることだってあるはずでしょう? ヨナタンにパスポートを取り戻してあげることだってできるかもしれない」
「なんだよ。まあいいや、とにかくお前がつらい現実を直視しなくちゃいけない瞬間には、この僕がちゃんと支えてやるからさ、安心しろよ。じゃ、明日、八時のバスに乗るからちゃんと用意しとけよ」
シュタインマイヤー氏はベルリン警察の資料室にいた。すでに警察を退職した彼にはこの部屋に入る権利はなかったのだが、現在の警察署長は在職中の彼の同僚だった男で、ミハエル・ツィンマーマンの尻尾をつかむチャンスがあるかもしれないと言われれば、多少の規則違反には目をつぶってくれた。
ツィンマーマンはアデレールブルグ財団の理事長だ。未解決のボーデン湖事件をはじめ、いくつものきな臭い件に関わっているとされ、バイエルンの闇社会の中心と目されている人物だが、故伯爵の母アデレールブルグ夫人の実兄であり社交界と実業界に大きな影響力を持っていて、確証なしには手が出せない。
シュタインマイヤー氏はローヴェンブロイの満たされたグラスをそっと持ち上げて口に運んだが、目はずっと報告書に釘付けになっていた。
彼が読んでいるのは、かつて自分が作成した報告書だった。ボーデン湖事件に関してアデレールブルグ城で家政取締を勤めていたマグダ夫人の証言。アントネッラからボーデン湖で自殺したとされている少年とおぼしき青年がいると連絡を受けて、彼はもう一度あの事件の要点を整理してみようと思ったのだ。あの時の自分の一番の疑問は、あそこで飛び込んだ少年は本当にイェルク・ミュラーだったのかということだった。
「はい。私は伯爵さまがなくなるまで三年ほどお屋敷でお世話になりました。はい、存じ上げております。私どもは伯爵さまを若様とおよび申し上げ、もう一人の少年を小さい若様とお呼びしていました。お二人はとても仲がよく、奥さまもお二人を同じように愛しておられましたので、私ども使用人は当時お二人は実のご兄弟だと信じておりました」
――イェルク・ミュラー少年、歳の若い方の少年が両親を殺害してボーデン湖に身を投げた件だが、実の両親を突然刺殺するような衝動的な所のある少年だったのかね。
「とんでもございません。あの小さい若様に限って、そんなことが出来るはずがございません。本当に天使のようなお方で。もちろん、その、言葉は悪いですが、知能という面で多少の問題がおありの方でしたので、刃物で刺されるとどうなるかわからなかったという可能性はないとはいいきれませんが……」
――しかし、そこまで知能の低い少年が自力で六十キロ離れた自宅に戻るという事が可能かね。
「それは不可能だと思います。小さい若様は、私の知るかぎり、お城から一歩も出たことはありませんし、電車の運賃のシステムなどもご存じなく、地図もお読みになれなかったと……」
――別の質問をしよう。伯爵は健康に問題があったのかね。
「いいえ、とても健康で、発育もおよろしく、しかも摂生にも努められておられました」
――その伯爵が突然亡くなられたと。彼が急死した時、あなたはどこにいたのか。
「私はミュンヘン市内の実家におりました。小さい若様が最初にご病氣になられたのです。若様と奥さまはとても心配なさって看病をなさっていらっしゃいました。お医者さまが伝染病の可能性があるとおっしゃって、私ども使用人のほとんどがお屋敷を離れたのです。残ったのは、ああ、かわいそうなアニタとミリアム……」
――伯爵葬儀の直後に亡くなったケラー嬢とマウエル嬢だね。
「ええ、お二人の看病をしているうちに伝染ったのだと聞きました」
――そして、無事に元氣になったミュラー少年が、自分を看病してくれた伯爵や使用人が病で倒れている隙に、城を勝手に出て、自分の両親を殺害して自殺したと……。
「私にはそのお話はとても信じられません。今でも何かの間違いだと信じております」
――最後に一つ。伝染病の疑いで城を出てから、最後にアデレールブルグ城を訪れたのは、伯爵の葬儀のときだったのか。
「いいえ。私どもはお葬式には参列していません。自宅で待機するようにと言われ、ニュースでご葬儀が行われたと知ってびっくりしたのです。でも、奥さまは自宅待機の分も含めて半年分のお給料を払ってくださった上、全ての使用人の次の勤め先を決めてくださいました。文句を言うつもりは毛頭ございません」
(初出:2014年2月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスとミモザ色のそよ風
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夜のサーカスとミモザ色のそよ風
アントネッラはステラの姿を見てにっこりと微笑んだ。想像通り! 《イル・ロスポ》の描写も的確だったってことね。後ろで金髪を束ねていた。金色の瞳はただならぬ決意に煌めいていた。氣もちは逸っているのだが、初対面のアントネッラに対してはにかんだ様子が、桃色の口元に現れている。
「ようこそ。ステラ。あなたに会えてとても嬉しいわ」
コモ湖にはそろそろ春の氣配が訪れている。あちこちでミモザが砂糖菓子のように花ひらいている。
「こんにちは。アントネッラ。あの、あの……」
どこから話をしていいかわからないでいるステラに代わってマッテオが用件を切り出した。
「なあ、あんたの調べたこと、例の警察のオッサンとやり取りしてわかったことを、ステラに見せてやってくれよ。そしたら、こいつも納得すると思うんだ。あいつが絶対に自分が誰だか言わない理由は、今の僕にはわかんないけどさ。でも、このままじゃステラは生殺しだぜ?」
「存在しない人間とは結婚できないよ」
「僕とはもう関わらない方がいい」
ヨナタンはそう言ってステラと関わろうとしなくなってしまった。マッテオは、あいつは大切な人間にも言えない悪いことをしてきたに違いないと言い、ステラは、そんなはずはない、何か事情があるなら助けてあげたいと、藁にでもすがる思いでここにやってきたのだ。
「事情はわかったわ。まずは私にわかっていることを整理して説明するわね」
アントネッラは努めて理性的に説明を進めた。ただの推論は一切入れなかった。
「まず、この新聞の切り抜きをみてちょうだい」
アントネッラは黄ばんだ新聞の切り抜きをステラの前のテーブルにそっと置いた。
「両親を殺害後、罪の意識に耐えかねて自殺か? — ボーデン湖」
十二年前の六月の新聞記事はドイツ語だったので、ステラには読めなかったがアントネッラが訳して読み聞かせた。マッテオが、ほらみろと眉を上げた。
「イェルク・ミュラーという15歳の少年の両親は刺殺された。それから一人の少年が湖に飛び込んで行方不明になった。同乗していた男の証言から、この飛び込んだ少年がイェルク・ミュラーだということになっているけれど、そうだとすると納得のいかないことがいくつかあるの。それと同時に、あなたたちと一緒にいる道化師の青年が、その飛び込んだ少年じゃないかと思われるいくつかの根拠もあるの」
アントネッラはコンピュータの脇に積まれたバベルの塔のように不安定な書類の山の下の方から、器用に書類ばさみを引き抜くと、その中に入っていたイタリア語で書かれたメモといくつかのプリントアウトされた書類を見せた。一枚は十二年前の五月末から一ヶ月間のヨーロッパの各都市の天候、一枚はミラノ市エンターテーメント広報委員会の「今月の催し物一覧」で、チルクス・ノッテの名前が見えた。
「このミラノ興行の最中にあなたたちの団長がずぶ濡れで飢えていたヨナタンと名乗る少年をサーカスに連れ帰った。ところが、この一帯には少なくとも二週間以上雨は降っていなかった。そして、ボーデン湖で少年が消息を絶ったのは六月十一日。彼の年齢とも合うでしょう?」
「当時ヤツは十五歳と言ったってことだ。本当かどうかはわかんないけどさ」
「でも、そのイェルク・ミュラー少年じゃないって話は?」
「ええ、このメモをみてちょうだい。ミュラー少年は事件の四年前から、ミュンヘン郊外の伯爵家アデレールブルグ城に引き取られてそこで暮らしていたの。伯爵はミュラー少年より一つ年上なんだけれど、ボーデン湖事件の直後に伝染病で急死しているの」
アントネッラのメモには、元ドイツ警察にいたシュタインマイヤー氏から得た情報を整理した二人の少年の特徴が書かれていた。
「ゲオルク・フォン・アデレールブルク伯爵(若様、パリアッチオ)十六歳、ブルネットで鳶色の瞳。聡明でもの静か。イェルク・ミュラー(小さい若様、ピッチーノ)十五歳、金髪で青い瞳、明るく人なつこい性格。重度の知的障害あり」
「金髪で青い瞳。ヨナタンじゃない。ヨナタンは人殺しなんかじゃない」
ステラが憤慨すると、アントネッラはまあまあという顔をした。
「実はね。ボーデン湖遊覧船には匿名の目撃者がいてね。飛び込んだ少年は同乗者に拳銃で脅されていたというの。そして、その目撃者の情報によると少年はブルネットでしっかりした様子だったというのよ」
「つまり、イェルク少年の両親を殺したのは伯爵の方だってことだろう」
マッテオが口笛を吹くとアントネッラは彼を睨んだ。
「少年がミュラー夫妻を殺したと言われているのは、同乗した男の証言からでしょう。その男が少年を拳銃で脅していたとしたら、その証言は信用できないわ」
「なぜ、その男は逮捕されないんですか?」
「拳銃で脅していたというのは匿名の電話の情報だけ、同乗していた男は伯爵の伯父ミハエル・ツィンマーマンの腹心の部下。そして、伯爵の母、つまりツィンマーマンの妹であるアデレールブルグ夫人が伯爵は病死したと証言しているので立件できなかったらしいの」
アントネッラは一冊のドイツで発行された十二年前の社交雑誌を取り出した。
「これはね、少年伯爵が生前にたった一度だけ人びとの前に姿を現したときの写真なの。とあるパーティなんだけれどね。ちょっと遠いんだけれど、伯爵があなたの知っている人かどうかわかるかしら」
「……ヨナタン」
「確かに似てると言っちゃ似てるけど、遠目だし少年だよな」
そういうマッテオを制してステラははっきりと言った。
「私、十一年前にヨナタンと逢っているの。この写真は間違いなくヨナタンよ。嘘だと思うなら、団長やジュリアにも証言してもらえばいいわ」
「やっと証人ができたわ。あれはイェルク・ミュラーではなくてアデレールブルグ伯爵だった。つまり、ボッシュの証言、ミュラー少年が両親を殺して自首のために警察に行く途中だったってのは嘘で、伯爵殺害未遂だったのよ」
そういうとアントネッラはシュタインマイヤー氏に電話を始めた。
――でも、変ね。なぜ彼はよりにもよってヨナタンと名乗ったのかしら? 船に同乗して彼を殺そうとしたのはボッシュ。ヨナタン・ボッシュ……。
テントに戻る道すがら、ステラと並んで歩きながらマッテオは首を傾げている。
「やっぱり納得できないな。お城を持っている伯爵さまで、乗っ取られたんならなぜ自分で違うって言わないんだよ。殺されそうになった、殺人の濡れ衣を着せられたって言えばいいじゃないか」
それからステラの泣きそうな様子に目を留めた。
「なんだよ。さっきまでの勢いはどうしちゃったんだよ」
「ヨナタン、伯爵さまだったんだね」
「あん? お前がそうだって断言したんだろ」
「うん。間違いなく、ヨナタンだった。そして、だからヨナタン、結婚できないって言ったんだね」
「は?」
「パスポートのないままでは、結婚できない。でも、自分が誰かをはっきりさせて、パスポートをもらっても、お城の王子様がサーカスのブランコ乗りと結婚できるわけないものね。だから、だから……」
ジュリアは金切り声をあげた。
「ステラ! いい加減にしなさい! いったい何をしているの!」
ステラはデュエットの練習中だったが、まともに演技が出来なかった。集中しようと思っても想いは先ほど見た雑誌に戻っていく。ロココ調の美しい広間に佇む少年ヨナタン。きちっとした黒い背広を身につけて背筋を伸ばして立っていた。彼の後ろにはオーケストラが奏でているようだった。ヨナタンはいつもラジオでクラッシック音楽を聴いていた。彼はあの世界に属しているのだ。ここ、大衆が喜ぶテントのサーカスではない。
ネットに落ちた。ジュリアは金切り声で罵った。ステラはもう動けなくなって、泣き出した。何もかも終わりだ。子供の頃から、ヨナタンにふさわしくなりたくてここを目指してきたのに。そして、もうここ以外のどこにも行くことはできなくなってしまったのに。ヨナタンといつか上手くいくという夢は無惨に壊れてしまった。これからの人生、何を目指していけばいいのかわからない。
マッテオはネットに飛び降りてきて、ステラを慰めようとした。ステラが激しく泣いているすぐ脇を、鍛錬を終えたヨナタンが出口に向かって通り過ぎていった。ヨナタンはステラたちの方を見ようともしなかった。烈火の如く怒っていたジュリアもその冷淡な様子にぎょっとしたようだった。
マッテオはカッとなった。誰のせいなんだよ! 結局お前はステラを弄んだだけじゃないか。自分に害が及びそうになると、トカゲが尻尾を切るみたいに捨てやがって。彼はネットから飛び降りるとヨナタンを出口の手前で捕まえて胸ぐらをつかんだ。
「てめえだけは許せない!」
「僕は君には何もしていない」
「僕にじゃねえょ! ステラがあんなになったのはてめえのせいだ。わかっているんだろう」
「君には関係ないだろう」
「関係ないだって! すかしてんじゃないぞ。アデレールブルグの坊ちゃんだかなんだか知らないけれど」
その言葉を聞いた途端にヨナタンの表情が変わった。
「……今、なんて言った?」
ステラはぎょっとして泣くのをやめた。マッテオは勝ち誇ったように口の端を歪めた。
「ふふん。クールなフリもおしまいかよ。俺たちが何も知らないとタカをくくっているんだろ。アデレールブルグの伯爵さま……」
マッテオもステラもジュリアも全く予想していなかった事に、ヨナタンはマッテオに飛びかかった。
「どこでその名前を聞いたんだ!」
「なっ、なんだよ! 暴力反対!」
ヨナタンは全く聴かずに、マッテオを押し倒しその上に馬乗りになった。マッテオは鍛え抜かれた肉体をもち、そう簡単に組み敷かれたりする体力ではないのだが、突然のことで準備ができていなかった。それに、ブルーノと違って、マッテオはこれまで一度もヨナタンと取っ組み合いの喧嘩をした事がなかったので、ヨナタンにこれほどの力がある事を知らなかったのだ。そして、ヨナタンの剣幕はただ事ではなかった。
「言え! どこでその名前を知った!」
ステラはあわててネットから飛び降りると、二人の所に走っていった。
「ごめん。ヨナタン! マッテオを責めないで。私のせいなの。私が知りたがってアントネッラに頼んだの。お城のパーティでのヨナタンの写真見たの。それで、ヨナタンが殺されそうになったことも調べてくれて、警察と協力して、助けてくれるっていうの。だから、だから……」
ヨナタンはステラの言葉を聞いて、マッテオを放して立ち上がった。あれ以来、はじめてステラにまともに話しかけた。けれども剣幕は先程と同じで切羽詰まっていた。
「ステラ。そのアントネッラのところに連れて行ってくれ」
「ヨナタン?」
「今すぐ! 行かなくちゃいけないんだ。一刻も早く行かないと」
「どうして?」
「頼む。人の命がかかっているんだ……」
三人はぞっとして口をつぐむしかなかった。
アントネッラの小さな部屋は、いつもより片付けてあったが、それでも全員が入ることは叶わなかった。シュタインマイヤー氏がドイツから来ていた。ヨナタン、ステラとマッテオはともかくジュリア、双子、ブルーノ、マッダレーナまでが《イル・ロスポ》のトラックにちゃっかり乗って来ていた。
「ち。なんでお前らまでも来るんだよ」
マッテオがぶつくさ言う。
「だって、謎解きシーンを逃すのは悔しいじゃない」
マッダレーナが好奇心丸出しで言うと、双子たちも頷いた。
ただの物見塔でも、これだけの人数が集うには狭かったが、このアントネッラの居室にはほとんど足の踏み場がなく全員が中に入るのは至難の業だった。唯一客がまともに座れるのは古びたソファだけで、そこにはシュタインマイヤー氏が座っていた。《イル・ロスポ》はちゃっかりと窓辺の空間を確保し、あとにはほとんど立てる所はなかったのだが、さすがサーカスにいるメンバーで、どんなにわずかな足場でも、たとえそれがかなり身体を傾けないと立てない場所でも、まったく問題なく立つことができた。そして、これから起きることを固唾をのんで見守っていた。
「ようこそ。あなたがヨナタン、いいえ、ゲオルグ・フォン・アデレールブルグね。ようやく会えて嬉しいわ」
アントネッラが手を伸ばす。皆が息を飲む。道化師は背筋を伸ばし、挑戦するような目つきで手を伸ばした。
「違います。それは僕の名前ではありません。僕のことはヨナタンと呼んでくださればそれでいいんです」
「ねえ。もう、本当の事を隠す必要はないのよ」
「そうだ。君の安全は、この私が責任を持って……」
「あなたがシュタインマイヤーさんですね。もと警察にいらしたという……」
「そうだ、よろしく。さあ、訊かせてくれ。君は、あのイェルク・ミュラー少年が両親を殺害後に入水自殺をしたとされる事件の真相を知っているはずだ」
ヨナタンはそれを遮って言った。
「どうかその少年を行方不明の、おそらく死んだものにしておいてください」
「そうはいかない」
シュタインマイヤー氏は首を振った。
「いいかい。君は、可哀想なイェルク少年の両親殺しの冤罪を晴らしたくないのか。あの事件を立件できなかったことは私が退職するときの一番の心残りだったのだ。あの頃からの部下が今、ミュンヘンで動いているんだよ。そこのお嬢さんの証言でいま生きている君がゲオルグ・フォン・アデレールブルグであり、あれがイェルクを装った殺人事件だと立証できることになったので、実行犯としてヨナタン・ボッシュにようやく逮捕状が出てね」
ヨナタンは驚いてステラの顔を見た。ステラは自分がヨナタンの絶対にしてほしくないことをしてしまったことを知った。ああ、どうしよう。
「彼が逮捕されたと……?」
「もちろん、我々の最終的な目標はミハエル・ツィンマーマンを主犯として逮捕することだ」
「そんな。そんなことをしたら、アデレールブルグ夫人は。あの人の立場は……」
「ドロテア・アデレールブルグ伯爵夫人は、君のお母さんは……昨年亡くなったよ。心からお悔やみ申し上げる。もっとも彼女は、あの事件以来、ずっと生きていても死んでいるのと変わらない精神状態だった」
ヨナタンは、がっくりと頭を垂れた。顔を両手で覆い、しばらく何も言わなかった。ステラの胸は締め付けられた。私は、なんてことをしてしまったんだろう。こんな風にヨナタンを苦しめるなんて。
皆は辛抱強く待った。それは永遠にも思える時間だった。一番こらえ性のないマッテオが何か言おうとした時に、鳶色の髪をした青年は再び頭を上げた。窓辺から見えているミモザがわずかに揺れた。
「では、真実をお話しましょう。もう、隠しておく意味はなくなったのですから」
(初出:2014年3月 書き下ろし)
【小説】夜のサーカスと夕陽色の大団円
永らくみなさんをヤキモキさせてきたヨナタンの謎は全て明らかになり、ステラとの恋の顛末も行方が定まり、そしてサーカスは今まで通り興行を続けていきます。これまで応援してくださったみなさまに篤く御礼申し上げます。
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夜のサーカスと夕陽色の大団円
彼は、狭いアントネッラの居住室に所狭しと立つ人びとをゆっくりと見回し、静かに言った。
「あの船に乗っていたのは、確かに僕です。けれど、アデレールブルグ伯爵ではありません。ゲオルク・フォン・アデレールブルグ、ピッチーノは城で病死しました。僕はイェルク・ミュラーです」
皆は驚きにざわめいた。
「ちょ、ちょっと待って……。どういうこと?」
「説明してくれるかね。君がイェルク・ミュラーとはどういうことかね? 披露パーティにいたのは君だろう?」
「はい。僕はピッチーノ、ゲオルクの代わりにアデレールブルグの表向きの城主になるように教育を受けたのです」
「なんてことだ」
「じゃあ、使用人の証言していた若様は確かにあなただけれど一つ歳下のイェルクで、小さい若様が実は年長のゲオルクだったというの?」
アントネッラが訪ねた。
「はい。彼の成長は、とても遅くて、たぶんもうあの姿以上には育たなかったのだと思います」
「それで、いったい何が起こったんだ?」
《イル・ロスポ》の問いはこの場の全員を代表したものだった。ヨナタン、いやイェルクと名乗った青年ははっきりと答えた。
「簡単です。ゲオルクが城で亡くなった後、僕が自分で湖に飛び込んだんです。だからヨナタン・ボッシュは冤罪です」
一同ざわめいた。
「どういうことかね」
「ツィンマーマンは、邪魔な僕をどうあっても殺すつもりだった。アデレールブルグ夫人はその兄に逆らうことができなかった。ボッシュは、死ぬしかなかった僕に生きるチャンスをくれたんです」
十二年前の六月だった。夜闇にまぎれて連行されたイェルク少年は絶望していた。アデレールブルグ夫人にも見捨てられた。車に乗せられ右にヨナタン・ボッシュ、左にもう一人のツィンマーマンの手下が拳銃を持って座っていた。扉を閉める時にツィンマーマンは言った。
「お前が下手なことをすると、両親が死ぬ。黙って、そいつらの言う通りにするんだ。助けを求めたりして大騒ぎになったら、わかっているな」
ボーデン湖・ナイトクルーズの船に乗り込んだのは、体をぴったりと寄せて目立たぬように拳銃を押し付けたヨナタン・ボッシュ一人だった。二人は予約してあった船室に入った。
「おい小僧。何を考えている」
「僕は結局のところ殺されるんだろう」
「実はボスにはそう命じられた。お前さんもよく知っているように、ボスは手下だろうと容赦はしない冷血漢だ。しくじればしっぽを切るためにこっちが殺られるんだ」
「僕の父さんと母さんはこのことを知っているのか」
「どうかね。どっちにしても、もうこの世にはいないだろうな」
「どうして……」
「お前さんの両親は欲を出したんだ。ボスをゆすった。ボスは身の安全のためならどんなことでもする。だからお前を助けてほしいと言う妹の必死の願いもはねつけた」
イェルク少年は、唇を噛んだ。金に目のくらんだ両親と、その両親から離れて聖母子のような親子とともに暮らしたがった自分とは、同じ穴の狢だった。
「ドロテアは、弱い女だ。自分の力で兄を止めることもできなければ、全てを捨てて警察に行く勇氣もない。だから賭けをしたのだ」
「賭け?」
「俺だよ。俺はドロテアと同じ学校に通っていた。ずっとドロテアに憧れていた。彼女がアデレールブルグ伯爵と結婚した後も、ずっと彼女を慕って、側にいたくて、それでボスの手下になった。その彼女が危険を冒して俺に頼んだんだ。どんなことでもする、だから、どうにかしてパリアッチオの命を助けてやってくれってね」
イェルクは、震えた。
「俺は、ただドロテアのために、バレたら確実にボスに殺られる危険を冒すことにしたんだ。いいか。これからのことは、俺とドロテアの両方の命がかかっているんだ、よく聞け」
少年はボッシュが何を言いだしたのか最初は理解できなかった。ボッシュは小さな携帯酸素ボンベを渡した。
「この後、お前はもう死にたいとか大袈裟に騒ぎながら、俺の制止を振り切ってこの湖に飛び込め。ボスのプランでは、氣を失っているところを俺が人に見られないように突き落とす手はずになっているんだが、とにかくできるだけ目につくように錯乱したフリをして飛び込め。このボンベがあればたぶん岸までは何とかなるはずだ。そして人に見られないように消えろ。どこか遠くに行くんだ。いいか。生きていることを誰にも知られるな。もし、お前が誰かに生きたまま助けられれば、俺も、ドロテアも終わりだ」
チルクス・ノッテの連中も、アントネッラとシュタインマイヤー氏も黙ってイェルク青年の話を聞いていた。
「泳ぎついたのはリンダウでした。人目につかないように隠れて電車に乗り、無賃乗車がバレないようにところどころで乗り換えて、辿りついたのがミラノの近くでした。空腹で動けなくなっているところを団長が拾ってくれたんです」
「そうだったのか。では君が人の命がかかっていると言ったのは、ドロテア・アデレールブルグ夫人とヨナタン・ボッシュのことだったのだね」
「はい」
「確かにあのツィンマーマンなら、自分に害が及びそうになったら手下や実の妹ですら手にかけるだろうな。現にボッシュの逮捕後も知らぬ存ぜぬで通している。自分の政治力を利用してボッシュ一人にミュラー一家殺害の件を押し付けるつもりだろう」
「つまり……」
アントネッラがつぶやいた。
「ツィンマーマンは叔父として当主ゲオルクの後見人となったものの、そもそも伯爵には成人になっても統治能力がないことがはっきりしていた。当主の座を狙っているアデレールブルグの分家にそれを知られる前に身代わりとしてイェルク・ミュラーを引き取り、すり替えて傀儡当主にしようとした、ってことね」
シュタインマイヤー氏が続ける。
「そうだ。ところが、肝心のゲオルクが成人となる前に病死してしまったので、計画を変更してアデレールブルグを財団にして理事長に納まることに成功した。そうなるとそれまでのペテンの全容を知っているミュラー夫妻とイェルクが邪魔になった」
「なんて勝手な……」
マッダレーナがつぶやく。
「そう。だが、もともとは手切れ金ぐらいで済ませるつもりだったんだろうね。だが、ミュラー夫妻は、イェルクが当主になって生涯困らない金が手に入るのを期待していた。はした金では納得できずに強請ってしまったんだろう。それが命取りになった……」
「それだけではありません」
青年は静かに言った。
「ゲオルクの死後、アデレールブルグ財団を設立し初代理事長をツィンマーマンとするあの遺言状にサインしたのは、僕だったんです。それまでのすべての伯爵のサインも」
「そうか。それが明らかになったら、彼はすべてを失う。ミュラー夫妻はそれを知っていた」
シュタインマイヤー氏が深く頷いた。
ヨナタンは項垂れていた。彼は天使のようなピッチーノとは違っていた。ミハエル・ツィンマーマンのペテンに自らの意志で加担した。下品で暴力的な両親の元を離れ、アデレールブルグ城で、優しいドロテアとゲオルクと一緒に幸せに暮らしたかった。それが曲がったことだとわかっていても、生涯若様のフリをしようとしていた。
「ツィンマーマンは、すべてをボッシュに押し付けて知らぬ存ぜぬを通し、好き勝手を続けるつもりだ。我々は、手をこまねいているわけにはいかない。あいつを逮捕して立件するためには、どうしても君の証言が必要だ。君も公文書偽造の罪には問われるかもしれないが、情状酌量されるようこの私が全力を尽くす。だから、協力してくれるね、ミュラーくん」
「はい。僕の存在がもうアデレールブルグ夫人を困らせることがなく、ボッシュを冤罪から救えるなら……」
「ありがとう。そして、アントネッラ、バッシさん、それにサーカスの皆さんも、未解決事件に対する大いなる協力にドイツ連邦とドイツ警察を代表して心から感謝する」
シュタインマイヤー氏は、ミュラー青年の肩をそっと叩いた。
仲間たちは彼らがずっとヨナタンと呼んでいた青年を見た。名のない道化師は、悲運の王子様ではなく、運命に翻弄されてきた一人のドイツ人だった。思いもしなかった結末に誰もが言葉少なくなっていた。サーカスの一同は、そのまま《イル・ロスポ》のトラックに乗ってテントに帰ることになった。ヨナタンはしばらくアントネッラとシュタインマイヤー氏と今後のことを話していたが、やがて塔から降りてやってきた。
「ステラ、早く乗って」
マッテオの言葉に、ステラはヨナタンを氣にしながら頷く。
「ヨナタン?」
ヨナタンはじっとステラを見ていたがやがて言った。
「僕は、コモ湖沿いに歩いて帰るよ。ステラ、よかったら君も一緒に」
ステラは黙って頷いた。ああ、さよならを言われるんだなと思うと泣きたくなった。すべて自分が引き起こしたことだった。
マッテオが不満を表明して降りようとするのをブルーノが黙って羽交い締めにし、マッダレーナはトラックの扉を閉め、《イル・ロスポ》に出発するように頼んだ。
トラックが去ると、ヨナタンはゆっくりと歩き出した。ステラは半歩遅れてその後に続いた。二人は黙ったまましばらくコモ湖の波を眺めながら進んだ。
「ヨナタン……。いいえ、あの、イェルク……さん」
ステラはぎこちなく呼びかけた。
「ヨナタンでいいよ」
彼は振り向いて言った。ステラが意外に思ったことに、彼は前と同じ柔和な暖かい表情をしていた。関わりを拒否していた頑な佇まいがほどけて消え去っていた。
「あの、怒っていないの? 私のしたこと……」
ヨナタンは首を振った。
「怒っていない。僕の方が、頑なすぎたんだ。そんな必要はなかったのに」
「でも、行ってしまうんでしょう? もう、道化師のふりをして隠れている必要はなくなったし、パスポートも……」
彼は小さく笑った。
「新しいパスポートの名前欄にヨナタンも入れて欲しいと頼んだんだ。ミドルネームでいいならと言われたよ。ドイツのパスポートがあればイタリアの滞在許可はいらないんだ」
彼女の心臓は早鐘のように鳴った。小さな希望の焔が再び胸の奥から熾るのを感じた。
「じゃあ、これからもチルクス・ノッテにいてくれるの?」
彼の頷く姿を見て、ステラの笑顔が花開いた。歓びは体中から光り輝くように溢れ出た。ヨナタンはこれほど美しいと思った事はないと心の中でつぶやいた。
ステラは夕陽に照らされている青年の横顔をじっとみつめた。彼女は今までとは全く違う彼の瞳の輝きを見つけた。ステラ自身が持つ内側から放つきらめきと同じ光だった。生き生きとして強い想いがあふれていた。彼は正面に向き直って彼女の両手を握った。
「僕はずっとただの動く屍体だった。息をして機能していても、心も魂もどこか暗い部屋に置き去ったままだった。君がその小さな手で扉を叩いてくれた。その輝きで暗闇から戻ってくる道を示してくれた。もう一度、生きて、夢を見て、愛し、愛されたいと思わせてくれた」
静かな暖かい声がステラの胸にしみ込んでいく。
「君は僕に名前までくれた。もう一度生きて存在する人間にしてくれた。お返しに僕が君にしてあげられる事はあるんだろうか」
ステラは涙をいっぱい溜めて、愛する青年を見上げた。
「そばにいて。ずっと好きでいさせて。他には何もいらないから」
彼は深く頷くと、愛おしげに彼女の前髪を梳いて、それからゆっくりとそこに口づけをした。願いは叶ったのだ。おとぎ話はようやく本当になったのだ。二つのシルエットはひとつになって、コモ湖の夕陽に紅く染まった。
ステラを探して、湖畔に行こうとするマッテオをマルコとエミーリオが必死で止めていた。
「だめだって」
「いま行くのは、嫌がらせですよっ」
「なんだと。うるさい。これから僕は堂々とステラに求愛に行くんだ。これでヤツとは五分五分だからな」
マルコは頭を振った。
「どこが、五分五分なんですかっ。もうちょっと現実ってものを把握したほうがっ」
「うるせぇっ。ステラを想う氣持ちは誰にも負けないんだっ」
そう騒ぐマッテオの肩をぽんぽんと叩くものがあった。振り向くと、それはロマーノだった。
「よくわかるよ、マッテオ。私もたった今、12年分の愛を失った所なんだ。どうだね。愛を失ったもの同士、慰めあわないかね」
マッテオは青くなって、首を振った。
「ふざけんなよ、この、セクハラ親父! 僕はヘテロだって何度言ったらわかるんだ!」
「まあまあ、そういうセリフは、一度試してから言いなさい」
「勘弁してくれっ」
マッテオは、すたこらと逃げ出した。マルコとエミーリオは楽しそうに笑った。
色とりどりの電球がもの哀しく照らすテントに、風がはらはらと紙吹雪を散らす。テントの中には光が満ちている。美しく官能的なマッダレーナの鞭に合わせてヴァロローゾはたてがみを振るわせながら勇猛に火の輪をくぐる。ブルーノのたくましい躯が観客たちの目を釘付けにする。ルイージは一歩一歩確実に天上の綱を渡ってゆき、マッテオは華麗な大車輪で喝采を浴びる。ロマーノの率いる馬たちは舞台に風を呼び起こす。
道化師が白いボールをいくつも操り、人々を爆笑の渦に巻き込む。常連の観客たちは、いつにも増して、この日のチルクス・ノッテで愉快で幸福な氣持ちになっている事に驚く。エアリアル・ティシューに躯を絡めて登場したステラは、その歓びをさらに増幅する。この一瞬を生きることの美しさを、舞台の上と観客席の垣根を越えた想いの躍動を具現する。暗闇の中に輝く、生命の営みの勝利。地上に舞い降りた楽園、それが今夜のチルクス・ノッテだった。
それが、今夜も満員のチルクス・ノッテだった。
(初出:2014年4月 書き下ろし)
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